信仰の行方 高倉徳太郎の高弟福元利之助の場合

 2016年8月21日発表 於・日本イエス・キリスト教団 塩尻教会
福元利之助の信仰の行方
はじめに
今回、わたしが取り上げようとするのは、静岡県の下田出身の福元利之助という人物で
す。1901年(明治34年)の生まれですから、今年で生誕115年ということになり
ます。福元利之助は、高倉徳太郎の『恩寵の王国』という本を読み、自分の先生は、この
人以外にはいないと思い、高倉を訪ねて東京神学社を訪ねるのですが、そのとき、高倉は
既に留学の途にあり、植村正久より、神学社入学の許可を得て、入学します。それが19
23年(大正12年)のことでした。恐らく、としか言えないのですが、恐らく、植村正
久から洗礼を受けたのではないかと思われます。
高倉徳太郎が帰国すると同時に、徳太郎が開拓伝道を始めた戸山教会に勇んで出席する
た
せ
ようになります。福元は、神学校卒業の年に、平澤 多世と結婚しました。最初の任地は長
野県の日本基督教会飯田伝道所でした。幸いなことに、彼等が残した文書は相当な量にの
ぼります。それらの文書を手掛かりにして、二人の歩みを辿ることにします。
Ⅰ 前史
日本のプロテスタント史上、内村鑑三(1861年3月23日〜1930年3月28日)
が1900年に刊行した月刊誌『聖書之研究』 (最終号は357号 )が30年の間発行され
続けたことは注目に値します。彼の門下、藤井 武は『旧約と新約』 (最終号は122号 )、
か しん
黒崎幸吉は『永遠の生命』 (最終号は423号)、矢内原忠雄は『嘉信』(最終号は288号)
といった具合にそれぞれ長年に亘り発信を続けました。
このような無教会の人々の宣教の働きを既成教会の人々は傍観していたわけではなく、
ます とみやす ざ え も ん
日本基督教会の指導者であった植村正久が高倉徳太郎と共に、実業家・ 桝冨安左衛門の協
力を得て『聖書之講義』の第一号を創刊したのは、1917年3月でした。発刊の辞のあ
とに、「聖書を読むこと」という文章が続きます。こうです。一部を紹介します。
聖書を讀むこと
日本に於ける基督教の最も憂ふ可き短所は聖書の教育不充分なることなり。其修養に聖
書少く、其説教に聖書少く、其祈に聖書少く、其談話に聖書少し。聖書がより多く讀まれ 、
より多く記憶せられ、より屡々話頭に上り、祈禱の詞としてより容易く活用せらるゝに至
らざれば、信仰生活の熟達得て望む可からざるなり。
なかなか鋭い指摘です。100年経った今日に於いても事情は何も変わっていません。
1
次は、信州の七つの教会が協力して発行した『基督者』というタブロイド判の新聞です 。
創刊号は1919年の1月25日の発行です。この号に、信州特別伝道準備修養会での植
村正久の講演の断片が載っています。一部を紹介します。
信州伝道に最も大切なのは 植村正久
▲信州傳道に最も大切なのは、普通信者たちが活動して到る處で傳道する事である。各々
其傳道方法を反省し信州人の特性に根ざし、備へられた魂を理解し、信仰を深く鮮かに持
つて平信徒が各自傳道者となつて大いに教勢を張るやうにしたい。
『基督者』は信州の上田、佐久、諏訪、飯田、伊那、長野、松本の七つの教会の教勢など
と共に個人消息を載せていますが、極めて限定的です。この『基督者』の手塚縫蔵の
へんしゅうご
編輯語を讀むために購読していた人達が多かったと言われています。
Ⅱ キリスト教との出会いから平澤多世との結婚まで
利之助の幼少期を『みくに』の第1巻第2号の「松陰先生雑感 (一)」中に、散見するこ
とができます。『みくに』誌については、後ほど説明します。「もうかれこれ二十数年前
も昔の事である。故郷の伊豆を後にして其頃は未だ元気だつた父母に従つて同じ国の江尻
に出た、私は尋常科の二年生で九ツの時であつた。文字通り山出しの少年であつた私は町
の学校の気風に染み難く言葉から習慣から何彼につけて心細いさむしい思をした。」
多世は、『わたしの履歴書』という小冊子を出しています。平澤多世は、長野県下伊
那郡神稲村で1908年2月6日に産声を上げました。
多世は、長兄の平澤章一郎が神奈川県の茅ケ崎にあった結核療養所・南湖院で亡くなっ
たとき、小学校 6 年生でした。多世は章一郎の入院によりキリスト教を知りました。彼女
は10歳の時、入院生活を經驗、病名は左足の急性骨膜炎でした。そのことで忘れられな
い思い出を『みくに』第1巻の第10号に記しています。彼女の性格がよく表れています。
めあてを指して
新任の校長先生の方針はその秋の運動会にもあらはれた。今迄女子には過重であるとさ
れて居た千米競争が加へられたのもその一つであつた。足の自由をそがれてから短距離に
望みのない私は、持久力と要領とが利く長距離なら一つやつて見様と思いきつて各級の精
鋭の中に参加した。女学校三年の秋のことである。
七回も大丈夫だ、八回目も先頭だ、九回!もうあと一まわり。最後の一回を三分の二以
上リードして来た。しつかり!といふ聲に大丈夫か、といふ聲がまじつて聞えて来た。そ
2
の時「疲れては居ない、余裕がある」といふことを示し度くてたまらなくなつてしまつた。
私は振返つた。それから全力をあげてゴールを目指した。テープを切つたのは私ではなか
つた。あの時二米後方に居た脚の長い二年生であつた。
胸についた二等のリボンは私には恥辱のしるしであつた。闘の精神の欠如を意味してゐ
た。先生や級友の必死の応援を踏みつけた不真実のしるしであつた。そのしるしをつけて
居なければならない時間中が苦しかつた。少女時代を回想して今だに恥しい苦々しい思ひ
出である。(後略)
平澤多世は飯田ルーテル教会で1924年10月5日 森山達二牧師より受洗し、翌年
東京女子大学高等学部に入学するものの、感ずるところあり、同大学を中途退学し、帰郷
後しばらく神稲小学校の補欠代用教員として働きました。
1年9カ月前に『高倉徳太郎日記』が発行されました。その日記に初めて福元の名前が
記されるのは1924年(大正13年)10月17日のことです。
10月17日、「秋晴 なかなかによし。午後福元君来らる。いろいろと語り得たるは
感謝なり。されど如何、考うるところある可きなり。」12月12日、「福元君来訪、同
君には同情して考えざる可からざるなり。」1925年に入って間もなく植村正久が1月
8日に亡くなり、時を経ずして3月6日には中渋谷教会の森 明牧師が天に召されました。
中渋谷教会は、5月4日の臨時総会にて今泉源吉を牧会主担者と決議しました。
高倉徳太郎が開拓伝道を始めた戸山教会には多くの青年男女が集まって来ました。そ
の時代を振り返って、その様子を福元利之助は詩に詠みました。
戸山時代は余程楽しい時代だったのでしょう。『恵のあと 戸山時代の思ひ出』が19
31年3月に出版されました。その中で、小塩れいは「戸山教会の思ひ出」を寄稿し、大
そ
や
の
岡山の四百荘に遠足に出掛けたときを振り返り、「あの芝生の広つぱで征矢野先生は中村
やのねじりパンかなんかを盛んにパクついて私達を羨ましがらせ、福元さんがもつともら
しい顔をして、峠の上で花嫁が馬に乗つてどうとかすると鈴がシヤンと鳴つて桜が散ると
つむ
か、目を瞑つてやをら自慢のゝどを披露しかけたところ、並みゐる人達、一度にドツと笑
なみだ
ひくづれて、流石の先生も歌ひ切れず 泪 ふきふき笑ひこけて座つてしまつた。あの笑ひ聲
にはたしかに前澤さんの聲もひびいてゐたのに」と感慨深い調子です。文中の「征矢野先
3
てる お
生」は征矢野晃雄(1929年4月26日召天)であり、「前澤さん」は、福元利之助と小
塩力の同級生であった前澤辰雄(1927年7月24日召天)のことです。
福元利之助は東京神学社を1928年(昭和3年)に卒業後、4月に長野県の飯田伝道所
に赴任しました。同年の10月30日、利之助と多世は、東京の柏木にあった戸山教会で
高倉徳太郎の司式により結婚式を挙げました。
Ⅲ 飯田伝道所時代 1928年4月〜1933年9月末
この時期は、『基督者』と『福音と現代』に積極的に寄稿していた時代であり、また、
『高倉徳太郎日記』に、しばしば福元夫妻の名前が登場する時期でもあります。
『基督者』に利之助が最初に出したのは、1929年7月15日発行の126号で、
「宗教改革史の一節」と題してツウィグリー、ルター、カルヴァンを取り上げています。
『基督者』は1933年の5月30日の165号で終刊となります。同号には、植村の
「福音」、高倉の「聖霊論」そして福元の「復活の希望」が載っているだけです。
この時代、『福音と現代』に寄稿したものの中から多世の文章を紹介します。
信仰短文 「悲しみある處聖地あり」 第17号 1932年(昭和7年)8月1日 福元多世
うずたか
曾て私は、神田の 堆 い屑本の中から拾ひ出した『深處より』を貪り読んだ事がある。
之は或る事情のため入獄した文人オスカー・ワイルドの獄中記である。今又此の書から読
みとつた印象深い言葉を憶ひ起してゐる。…
「悲しみがある處には聖地がある。いつの日か人々はそれが何を意味するかを知るであ
らう。それを知る迄は彼らは人生の何物をも知らないであらう。」
若し悲哀が悲哀に終るならば影を歩むものではなからうか。孤独が若し孤独のためであ
るならば、それは享楽である。「悲しみのある處には聖地あり。」悲しみはより多く私共
たから
を裸にするものである。後生大事の此の世の 寶 が何一つ慰めを語らぬ愁傷の衷から、私共
は人生と、人生を支配し給ふ神に上被なくして向ひ得るのではなからうか。(後略)
多世が信仰短文 「悲しみある處聖地あり」を寄稿したとき、つまり、1932年の8
月1日の時点で彼女は24歳です。ここからも非常に利発な女性だったことが覗い知れま
す。利之助は、この時代のことを振り返り、後日、『みくに』誌に、「訪問」と題した文
章(第2巻第4号 )中で、「昔、信州の山の中にゐた時は、往復七里に近い道を、冬だと雪
の道を殆んど一日がかりで、一人の求道者をたづねに毎月二度でかけたことがある。夜十
二時近くの山路をサクサクと雪を踏んで、時には月と語り乍らかへつたものだ。その時の
4
よろこびは忘れられない。恐らく生涯のたのしい思ひ出の一つであらう。」と記していま
す。
この飯田時代の最後の年に、福元利之助は、白上元一、妻みちえに洗礼を施しました。
飯田教会は、松島八郎が在籍していた教会です。実は、後年、弓折れ矢尽きた福元一家が
山梨から、多世の郷里である飯田に居を移したとき、新しい職場を推してくれたのは松島
八郎校長であり、続く白上元一校長でした。
この時期、高倉徳太郎は福元夫妻を何度も訪問しています。
高倉徳太郎は若い人達と1930年の7月18日に福音同志会を事実上結成し12月に
発足させ、日本基督教会の刷新に取り組もうとしました。しかし、33年の10月の『福
音と現代』誌31号廃刊をもって、同志会は解散し、浅野順一、伊藤恭治、小川治郎、上
田丈夫、福元利之助らは、『信仰と生活』誌 (創刊号は1934年1月 )の発行に力を注ぐ
ようになります。1933年9月末 福元利之助は飯田を去り、山梨教会着任は10月で
した。
Ⅳ 山梨教会時代 1933年10月〜34年8月
『福音と現代』誌廃刊に到るまでの徳太郎の苦渋は『高倉徳太郎日記』に生々しく出てい
ます。
『信仰と生活』創刊号巻頭言 吾等の志
1934年(昭和 9 年)1月
(前略)本誌の発刊は、罪を悔いる涙の中に感謝のしるしとして聖前に献ぐるレプタ二つに
過ぎないのである。吾等は決して之を私せんとするものではない。凡ての教会、凡ての兄
弟に仕へんためである。パウロは心を一にして福音の信仰のために戦へと教へた。基督者
の聖霊による一致こそ信仰の勝利の兆である。吾等は本誌が卑き自己を主張せんとする罪
から潔められて、全く基督のものとなり、諸教会の公同の使命のために幾分にも用ひられ
んことを心から希ふものである。
この後に浅野順一 福元利之助 伊藤恭治 今泉源吉 小川治郎 上田丈夫の6人の名
が列挙されています。彼等は、日本基督教会に強引に新しい空気を吹き込もうとしました 。
こうした中にあっても、高倉徳太郎は、福元利之助に「久しく御音信に接しません。其後
いかゞです、御目に是非かかりたし。此度上京せられた節どうか是非御立寄り下さい。
こゝはまことに淋しくて友をまつ心切です」 (1933年10月25日 )と涙ぐましいほど
の書面を送っています。利之助は『信仰と生活』誌に、ヨハネの黙示録を取り上げ、黙示
録の大意を記しています。ヨハネの黙示録は難解な書であり、30代前半の福元利之助の
意欲は評価できるものの、未だ十分に咀嚼されているとは言えません。
『信仰と生活』が船出をしたばかりの3月13日、上田丈夫が亡くなり、第4号は「上
田丈夫追悼号」となり、福元は「何故死んだ」と題して自らの胸中を綴り、多世がそれに
続けました。
5
こせき
福元夫妻の長女・ 小石の死は辛い思い出です。後年、利之助は、『みくに』誌の第4巻
第5号に、以下の如く述懐しています。
「四月の月は私にとつては何としても思ひ出の深い月である。私共の小石と名つけた女の
児が突然死去したのが此の月の二十八日であつた。その日は雨が細々と降ってゐた。棺に
納める時、家のまはりに咲いてゐた梨の花を沢山とつて、可愛い小さいからだを一ぱいに
埋めてやつた。死んだものとはどうしても思はれなかつた。高倉先生からみぢかいがしか
し真情のこもつた御手紙をいたヾいたのも此の時である。そしてその先生も今は亡き人の
数に入つてしまはれた。
子供は死んでも、すくなくともその親にとつては死なない。その親が生きてゐる間は、
決して死んだものとはならないものらしい。現に私共の中には今は確かに八ツになつて学
校へも通つてゐる小石が生きてゐる。
上田丈夫没後、翌月の3日には高倉徳太郎が亡くなり、『信仰と生活』誌は6月号を
「高倉徳太郎氏記念号」とし、福元利之助は、「片影」と題して、故人を偲んでいます。
上田丈夫という先輩を失い、高倉徳太郎という大きな師を喪った者たちは、或る意味で
は明確な指標を持たずに荒れる大海に乗り出したと言っても過言ではないでしょう。彼等
は公同教会を目指しましたが、各人が思い描く公同教会の姿は異なっていました。
「公同教会への道」という文章を草しながら、福元利之助は明らかに岐路に立っていま
した。公同教会を目指すならば、既成の教会からの脱却を図らなくてはなりません。その
ような思いが募り、8月5日をもって109名(含・子ども)が日本基督教会山梨教会を
脱会し、間髪を入れずに同日、山梨公会を設立することとなりました。発会式には今泉源
吉、横山栄二らも顔を見せています。この動きに『福音新報』の2007号が、批判的に
記事にしています。これに対する福元利之助の側から『山梨教会脱会事情』が出ました。
Ⅴ 山梨公会の時代 1934年8月5日〜38年11月6日
この時代、大きな出来事と言えば、何と言っても、1935年1月に今泉源吉をはじめ
とするグループが「みくに」誌を発行したことでしょう。
『みくに』発刊の辞 今泉源吉
「みくに」と題したのは、皇國を意味すると同時に、神國を含めたのである。神國實現の
ための皇國とか神州日本とか謂ふ意である。日本の中に永遠の生命が脈打つのを感じる。
天地の正氣が皇國に宿つてゐることを信ずるからである。
世は更けて日は近づいた。星影は西に沈んで東の光が世界の精神界を照らす時が來た。
秘められた基督の半面が顯はるゝ歡びの日が待たれる。私達はあまりに日本を忘れてゐた。
殊に世界に負ふ宗教的使命を自覺しなかつた。大膽に卒直に日本人此處にありと叫べと命
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じ給ふ神の御聲を聽く心地がする。日本の眞の姿は基督と偕に神の中に隠れてゐた。基督
が顯はるることは皇國の明かになることである。十字架の上から射し來る靈光に照らされ
て、過去を顧み現在を識り未來を豫見する時、皇國は驚くべき光輝を發するであらう。永
遠の基督に在りて生きる創造的生命こそ日本精神であり、その聖靈による發動こそ日本歴
史であらう。(後略)
ここに福元利之助は積極的に関わることとなります。発足当時の同人は、横山栄二(横浜
ち とし
公会)、月野振吾(鷲山公会)、福元利之助 (山梨公会)、池田千壽でした。利之助は第1巻第
2号から第5巻第2号まで殆ど毎号、寄稿しています。
い ち じ く
山梨公会時代を特徴づけるものの一つとして1937年5月に創刊した『無花果』誌を
挙げることができるでしょう。創刊号に「無花果の樹の下にて」という文が載っています。
第1号 1937年(昭和12年)5月20日 発行所 山梨公会
無花果の樹の下にて ヨハネ傳一ノ四八 福元利之助
ユダヤの国では、昔は家毎に此の樹を植ゑてあつて季節には家族一同が此の葉陰に律法の
書をよみ会つたり祈り合つたり、又心の友と聖い世界のことを語つたり、何か特別の祈り
ごとに生活を集中する時には必ずここをえらんだそうである。なるほどそう言うはれて眺
めかへしてみれば如何にも無花果の樹蔭はそうしたことごとに相応しいところである。そ
れに聖書のしるすところに従へば、葡萄の樹と無花果の樹の下は神の祝福とまもりの下に
ある平安を意味してゐる。
『みくに』誌は、確かにこれまでのキリスト教の機関誌と異なりますが、福元夫妻の文章、
特に多世のものなどは意外なほど日常的な題材を取り上げています。母親の多世は子ども
たちを大変温かく見ており、子どもたちの姿を描いた秀作が多くありますが、わたしがド
キドキしながら読んだのは、「ひかる銭」です。これは全文を紹介します。
生活断想 『みくに』誌第4巻第8号 福元多世
ひかる銭
「お団子屋さん今日はおやすみだ」と二人の子供が言ひながら帰つて来た。「あゝそう、
折角よつ子ちやんに御馳走しようと思つたのにねえ」と言つた儘、話の続きをしてゐた。
お客様は徇がまだ小さい時にお子守に来てくれて担が生れてからも八九ケ月手伝つてくれ
た娘で、私共の家庭から看護婦の養成所に通つてゐた。その後醫院に入つて実地の勉強を
7
し看護婦養成の過程を終へると更に産婆の方へ進んで、今度の検定試験まで学説實地共に
通つたので、そのお福頒けと今後の相談とを兼ねて来てくれたのであつた。暫らくすると
又外から帰つた子供たちが手に手に飴玉をもつて居る。「それどうしたの」「雨宮さんで
買つたのよ」「おかへしは」徇が立つていつた。
客が帰つてもまだ徇が戻つて来ない。どうしたのかしら、さつきお使ひにゆく時徇に十
銭渡したのが気に入らないと言つて、担が自分にもたせろといふ。徇も自分が買つて御馳
走するのだといふし、きりがないので担にもとつておきの十銭を渡して、二人で御馳走し
てあげて下さいと言つて、めいめいに風呂敷をもたせてやつたのである。十銭みな買つて
立食ひをしてしまつたのではあるまいか。それとも十銭出して一銭の買物をしたのであら
うか。担をつれて角の雨宮さんへ行つた。担にきけば「光るぜにで買つた」といふ。仕方
がない。きくより外ない。「此の子供たちはどういふ買物したでせう」「一銭づつもつて
きて此の飴を買ひましたよ。どうかしましたか」「ひかるお銭で買つたといふものですか
ら」と十銭の由来を話した。「今朝から三銭買つたヾけです。これが銭箱です」と見せて
くれる。「よくおしらべなさいよ。きもちの惡い」。あゝ人の感情を害する事を思へばと
てもたまらないのであるけれども、子供の今後のことを考へるとそのまゝしておくわけに
ゆかない。お父さんは桂子さんのお葬儀で旅に居る。祈つてとるべき態度を示さねばなら
ぬ。
まづ徇を探した。家のまわり、二階も尋ねた。ご不浄も風呂場も探した。やうやう見付
け出したのは押入の中であつた。逃げようとする徇を膝の上にのせて静かに言つた。「徇
ちやん、お母さんはこれから一人で山へお祈りにゆきます。ほんとうのことを知らないで
よそのおばさんを咎めたりする曲つた心を直していたヾくやうに。」「いつちやいけな
い」としがみつく。そうして「はやくにお母さんがお銭をよこせといはんからだよ」と言
つて咽び泣いた。じつと、じつと私は抱きしめた。二滴、三滴涙が徇の頭をぬらした。
「さあ徇ちやんたちが行つたとほり母さんをつれてつて下さい」徇はにつこり笑つた。い
としい子供。
お団子屋さんは今日は留守でおやすみ。帰つて来た二人はお母さんが求めぬのを幸ひに
滅多に持つた事のないひかる銭をもつて手をつないで出かけた。お団子屋さんの帰りに、
うちと丁度中頃に一軒の新しい一銭店に目をつけて来た。そこへ行つた。塩せんべいを二
枚づゝ買つた。おばさんは紙に九銭づゝ包んで下さつた。途中紙をあけて見ると沢山の銭
お菓子を買つた上にこんなに銭を貰つて確かに面喰つた。それと同時に「お銭をもつと手
がくさる」と言はれてゐるのを思ひ出した。どうしようかと相談した。とに角三年坂を下
りていつた。坂の途中に蓋のあいた塵箱がある。その中へ件の銭を一銭づゝ残してあと全
部投げこんで坂を上つた。そして帰りに角の雨宮さんで飴玉を買つたのである。「おぜヾ
はこゝだよ」と担が言ふのでのぞいて見ると、底まで掃き出してきれいになつてゐる塵箱
の底に二枚の紙も共にぱらりと散つてゐた。一つ二つ三つ。十六の一銭を拾つてもと来た
道を引返した。「ねえ、たくさんやねまでたくさんぜにがあつつら」と担が得意げに言ふ 。
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此の人はまだ何もしらないのだ。徇は黙つてつかまへてゐた私の手をしつかり握つた。背
中では愿が手と足をばたばたさせて大空をゆく雀の群をよろこんでゐた。私は子供ととも
に一銭店のおばさんと雨宮さんにしかじかと述べて晴々した心で昼餉をした。
『みくに』誌は同人誌ですが、主筆の指導は厳しく、恐らくその指導を受けたためで
しょうか、福元利之助の文章にこれまでにない固さが見られるのが、『みくに』第4巻第
9号です。当時、多くの日本人が「畏れ多くも」という言葉が発せられるやいなや直立不
動の姿勢をとったように、文中に「皇国」「皇民」などといった言葉が入ると、文章全体
が硬直し、生気を失ってしまいます。その典型例と言ってよいでしょう。
次の詩の作者である夏心先生は間違いなく福元利之助その人です。
詩一篇 (たわむれに作る) 夏心先生
君たちはいいね
君たちはいいね
責任といふものがないから
出放題をしたり話したりして
其時々をかるくすごせるから
君たちはいいね
全くいいね (以下略)
かなりなげやりな詩です。公会から出て行く人達が多かったのでしょう。次第に少なく
なっていく「同志」達、その責任者である福元利之助の焦る心が、このような詩を生んだ
と言えるでしょう。ただし、これは詩という形でありながら、精彩を欠き、以前のような
詩情を見ることはできません。
山梨公会を実際に解散するのは1938年 (昭和13年 )11月6日です。『みくに』誌
の中からときどき大きな慰めを受けるものがあります。その一つが福元利之助が書いた
「忘却の河」です。これも一部分を紹介するにとどめます。
忘却の河 第4巻第2号 福元利之助
過去の重荷を
信仰者にとつて忘却は恩寵の一面である。若し私達が自分の古傷、罪の痛手を忘れるこ
とが出来ればそれはたしかに祝福である。
過去の善行を
人に施をして何時までも忘れずに何彼につけてあゝしてやつた斯うしてやつたと思返し
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て自ら満足する者がある。或は又その報いのないのを何となく心に足らぬ事に思ふ人があ
る。勿論恩を受けた方で他よりの真情を無にし是れを忘れるのは人心ではないのであるか
ら其の不可なるは言をまたぬ次第であるが、施をしてそれが結局は自分の心情を毒するよ
うになるのは些くとも基督教信仰の世界に住む者とは云へない。
過去の繁栄を
次に私達は又、過去の繁栄の記憶、成功の記憶を忘却することを要する。
人は自分の古びた過去の繁栄の冠をいつ迄も部屋の内に懸けて、それが最早ほこりだら
けになつてゐるにも拘らずしきりと他にも自慢し自らも慰めようとするものだ。人は屡々
過去の繁栄といふ鎖に縛られて全く身動きできぬものとなり易い。過去の勝利とか成功と
かの下に坐り込んで少しも進歩しようとも奮起しようともしない。だから繁栄せる過去へ
の誇りは真人生の探求者の敵である。よろしく忘却の河に流してしまはねばならない。
これだけの所謂「説教」を書き得る福元が、教会を離れて行くのは、教会の側からすれ
ば大いなる損失と思われますが、もはや彼を思いとどまらせる人間はいなかったのでしょ
うか。多世は「『徒党のためにするな』との御いましめの鞭を受けて信州に帰って来たの
が1938年(昭和13年)晩秋のことでした」と記しています。
Ⅵ 飯田へ
福元利之助は、山梨から妻の故郷である飯田に居を移すのですが、どういうわけか『無
花果』誌の題もそのまま、第20号をもって活動を再開します。幾ら個人誌であるとは言
え、11月6日に山梨に於いて最後の礼拝を守り、総勢7人となった家族を飯田まで連れ
帰るだけでも難事業なのに、体裁の整った雑誌を翌月から毎月発行することは通常では考
えられません。なお、1938年12月発行の『無花果』誌第20号の「11月日記抄」
の6日の箇所を見ると次のように記されています。
六日 最後の日なり 朝は礼拝を家族一同にてなす 皇居を遥拝して後しばらく五ケ年の
恩寵を偲ぶ 何も彼も主基督のめぐみと同信の愛と協力によらぬものはない 公同教会運
動の当初より皇国への道を発見するに到つた今日迄、よく労苦に耐え難き道を一つにして
来たものだ 人の力ではない 神のさゝえがあつたからである しかし、友を感謝する心
を忘れまい 夜は礼拝後別れの会を催す 利之助は、翌年の3月の日記抄 6日の項に「私も五十になつたら伝道者としての心構
ができるかも知れない」と記しており、自らが「伝道者」であるという意識を決して捨て
てはいません。極寒の中でペンを取る様子を記しているのは第21号です。「気がついて
みると吹雪は止んだらしいが、寒気の加はつたことは一入だ。ペン先をインク壺に入れる
とザクザクしたインキがついてくる。それがすぐ堅く凍つて字が書けないので火であぶり
あぶりする。」
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Ⅶ 伊賀良へ
公会を離れた利之助に、すぐさま生活の問題が浮上してきました。一家の窮状を察した
松島八郎は、早速、教職に就くよう勧めました。長野県の学事関係職員録を見ます。
昭和 15 年 5 月 1 日現在 伊賀良 校長 松島八郎 代用 福元利之助
(中略)
昭和 25 年 5 月 1 日現在 伊賀良中(村)校長 久保田利男 諭 福元利之助
昭和 25 年度の福元の俸給は 9 級 3 号 8,796 圓 校長は 10,419 圓
昭和 26 年 5 月 1 日現在 伊賀良中(村)校長 羽生三男 休 福元利之助
伊賀良時代は太平洋戦争が始まる前から、戦中、敗戦、そして戦後の動乱期を含む激動
の時代でした。戦後の1950年6月1日発行の「いがら村の新聞」に福元利之助は傘山
の号を用いて、「中学校にかけたもの」という文章を寄せ、音楽室にピアノが必要なこと
を強調し、募金を呼び掛けています。
熱い思いを抱いていた利之助でしたが、1951年の4月1日 長野県教育委員会は彼
に、「休職」の辞令を交付しました。白上元一は、前年の6月に、福元入院の報を聞き、
見舞いに駆けつけたものの、進行の早い結核だと知らされました。せっかく教師として身
分が保証され、51年の春には、休職も認められたのですが、その甲斐もなく7月14日
川島醫院で息を引き取りました。50歳でした。
福元利之助は多くの生徒に慕われる教師でした。教え子たちの心温まる「福元利之助先
生墓碑建設趣意書」は、伊賀良小学校昭和十五年度卒業生有志が呼びかけ文を作成し、代
表は木下順一です。 飯田市上郷黒田の墓地に、「福元先生之碑」があり、この碑が建立されたのは昭和36
年3月のことです。揮毫は小原福治。小原の同年2月20日の日記には、「昨夜白上君来
泊、福元氏の墓碑のことについて話す」との文字が見えます。墓碑除幕式では讃美歌の2
88番(やまべにむかひて)と550番(うき世の嘆きも)が歌われ、詩篇121篇が朗読され
ました。
もう一つ別の場所に墓碑が立てられました。飯田市北方にある「福元先生の碑」です。
裏に「平成十五年十二月仐山会有志」の文字が刻まれ、木下順一、松沢啓二、宮下耕一ら
十一人の名を見ることができます。恩師の誕生後百余年を経て記念碑が建てられるという
のは実に稀有なことだと言わざるを得ません。
教え子の一人の追悼文を見ることにします。書き手の宮下よ志子は、『伊賀良小学校百
年史』によれば、1938年(昭和13年度)の入学生です。
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福元先生と私達の思い出 宮下よ志子
人間は誰でも働いて食べてゆくということでは何時の世にも同じことをくりかえしてゐ
る、そういう生活の中に本当の人間らしい生き方があるのではない。人間それぞれ思想が
なくてはならない。人間の価値はその思想にあるのだ、人は出来るだけ本当の生活を志さ
なければならない、歌を作るということも生活なのだというようなことを何度も話してく
れました。…
ちょうど此の頃、私は夜学の高等学校で、国語を先生に教えていただいておりましたが 、
二年間学んだ人々と別れる時でもありました。その送別会に先生も呼んで、学校生活の四
方山話をしたことがありました。その時にはお酒もあって心ゆくまで話し合い、先生から
青年に対するいろいろなお話をききました。このグループを何かの形で残したまえ、この
会がこのまま別れたら何も残らない。何かの形で持続したらどんなに楽しいか…というよ
うなことをお酒で赤くなった顔をますます赤くして話して下さったのでした。それから後
はさも嬉しそうに詩吟をうなり、唄をうたい、はてはりんごの踊り、愛染かつらの踊りま
でして非常に元気で私たちを喜ばせて下さいました。…
暮の十二月三十日のこと、私は近所の人と三人で先生の家を訪ねました。それは炬燵の
布団をつぐためでもあり今年最後を惜しむためでもありました。先生は居ないものとばか
り思って入るとうす暗い部屋の中から「お入り」という先生の声をきいた。それから電燈
のつくまで多くを語った。顔も見えない闇ではあったがその時の先生ほど淋しく思えたこ
とはありませんでした。…私達はあの部屋で会合する度どんなに先生の全快を祈ったこと
か、帰っておいでになるのを待ったことか。だがそれは空しかった。
先生は偉大な愛の持主でした。先生から受けたものは真実の愛よりほか何ものでもない
と云えます。先生がなかったらどんな私になって居たかを考え思わず戦慄する。今もなお
私の心の中に先生は生きてます。 1952年2月
宮下よ志子は、福元利之助の言動の端々に孤独の影が深くあるのを看破しています。利
之助は学校の近くに家を借り、そこを傘山荘と名付け、妻子のいる上郷村の黒田には月に
一度くらいの頻度で帰っていたようです。
おわりに
利之助が残した日記の1948年 (昭和23年 )の4月2日のところを見ますと「独りで
ぢっとしてゐる時が一番たのしい。ひとりでいたい。ひとりでいたい。ひとりにしておい
てくれ。ひとりにして置いてくれ。ひとりでいたい。……」という言葉が並んでいます。
妻と子ども5人を家に置いて、何というわがままなのだろうか、そういう思いを抱かざる
を得ません。利之助は、骨董や書画に親しみ、時には人情にほだされて買わなくてもよい
ものを買ってしまうこともありました。樹々や自然に魅了されることも屡々でした。趣味
を持つことが悪いというわけではありませんが、妻子たちの生活を優先させて、自分の趣
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味は後回しにするという配慮はなかったのだろうか、と悔やまれます。
利之助没後、多世は生活の為に、それまでに培ってきた知恵と力とを駆使して精一杯、
働き続けました。幸いにも、彼女の並々ならぬ苦労を知っている子どもたちは協力して家
を守りました。
一方、福元利之助と多世夫妻の信仰の行方となると、何とも言えないものが残ります。
教え子たちが利之助から受け取ったものは、確かに、一般的な教育によっては入手できな
いたぐいのものでしたが、それをただちに「福音」と呼ぶには躊躇を覚えます。
確かに「みくに」運動は日本のキリスト教史において特異な運動でした。『みくに』誌
の主筆の今泉源吉との出会いがなかったならば、という思いは消えません。
わたしたちは、いつの時代にあっても、目を醒ましていることが求められています。高
倉徳太郎が開拓伝道を始めた「家の教会」が次第に大きくなるにつれ、キリスト教が本来
持っていた自由闊達な空気が、いつのまにか窒息しそう空気になっていきました。高倉も
それに気づいたからこそ、『福音と現代』を発行する決断をしたのでしょう。平均寿命が
今日ほど長くなかった時代に、若い有能な人たちが次々に亡くなっていきました。その点
も残念です。
福元利之助の歩みを振り返りながら、わたしたちは、時代の波に呑み込まれないで、キ
リスト教信仰を維持し続けていくにはどうすればよいのか。手遅れにならない前に、どこ
で「否」という声を上げればよいのか。もう遅すぎるのか。わたしは、そのようなことを
考え続けながら、彼等二人と向き合って来ました。一応、このあたりで筆を擱くことにし
ます。
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