各論Ⅱ 人類とエネルギーの歴史 ―どうしたら人類は地球温暖化を防ぐことができるか― 本田幸雄 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 各論Ⅱ。人類とエネルギーの歴史(どうしたら人類は原発なしで地球温暖化を防ぐことが できるか) 目次 はじめに 第1章 地質時代に埋蔵された化石エネルギー 【1-1】古生代石炭紀に埋蔵された石炭 【1-2】中生代に埋蔵された石油・天然ガス 第2章 人類の歩みとエネルギーの歴史 第3章 産業革命と石炭エネルギーの利用 【3-1】産業革命の展開 【3-2】産業革命の影響 【3-3】石炭エネルギーの利用 第4章 第二次産業革命と電気と石油の時代 【4-1】第二次産業革命の展開 【4-2】電気の基礎研究と電気通信産業、電力事業の成立 【4-3】石油産業の創成期 第5章 第三次産業革命と原子力エネルギーの利用 【5-1】第三次産業革命の展開 【5-2】原子力エネルギーの利用 第6章 第二次世界大戦後の石油産業の発展 【6-1】第 2 次世界大戦後から石油危機までの石油産業 【6-2】石油危機後の世界の石油産業 【6-3】グローバル時代の石油産業 【6-4】世界の石油・天然ガス産業の現状 第7章 地球温暖化問題と太陽光発電 【7-1】地球温暖化問題 【7-2】太陽光発電の開発 第8章 第四次産業革命と 21 世紀のエネルギー 【8-1】第四次産業革命 【8-2】持続可能な人類社会へのエネルギー選択 おわりに 1 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― はじめに 本書は、137 億年前のビッグバンまでさかのぼって、この宇宙と地球と人類の歴史を述べ ている『自然の叡智 人類の叡智(地球・人類の歴史)』の中から、エネルギーの歴史を抜 粋・加筆して『人類とエネルギーの歴史』としてまとめたものである( 『自然の叡智 人類 の叡智(地球・人類の歴史) 』は、約 6600 ページになるが、http://21nssr.institute で(無 料)閲覧できる) 。 図1(図 18-59)に概念的に人類の歴史と利用エネルギーの増大傾向を表している。この ように本書では、『自然の叡智 人類の叡智(地球・人類の歴史) 』から引用した図表はす べて通し番号をつけ、 ( )の中には、引用元の『自然の叡智 人類の叡智(地球・人類の 歴史) 』の中での番号を記している。 40 億年前ごろに、この地球の深海で単細胞の生物が発生したが、そのころの地球には遊 離酸素はなく、生物はすべて嫌気性細菌(単細胞原生生物)だった(深海底から発する硫 化水素などからエネルギーを得ていた) 。 その中から突然変異で光合成細菌シアノバクテリアが生まれたのが 27 億年前であった。 このときからシアノバクテリアは直接太陽のエネルギーを利用して水中の二酸化炭素と水 から有機物をつくるようになり(光合成という) 、その有機物を食料として生きるという生 物も生まれ、それが現在まで続いている食物連鎖システムである。そのような意味で 27 億 年前から地球生物の太陽エネルギー利用が始まったといえよう。 図1(図 18-59) 人類の歴史とエネルギーの推移 前述したように、図1(図 18-59)に概念的に人類の歴史と利用エネルギーの増大傾向を 示しているが、生物の進化のはてに人類も生まれてきたのであるから、人類も地球上に降 り注ぐ太陽エネルギーで育った動植物を食料とし現在まで生きてきている。そのような意 味で、図の下層部の黄色の部分は太陽エネルギーの利用を示している。このように人類を 2 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 含む生物は発生以来の大部分の期間、太陽エネルギーだけを利用して、生態系の中で生命 活動に必要な物質を無限の回数リサイクルしながら使用してきたのである。 27 億年前のシアノバクテリアの発生以来、光合成の副産物の酸素が発生するようになっ たが、10 億年間ぐらいはもっぱら海中に溶けている物質の酸化につかわれ、その後、大気 中の酸素濃度もだんだん増えて、オゾン層が厚くなり 4 億年前ごろから植物や動物たちの 陸上生活がはじまった。上陸した植物は森林化し古生代の石炭紀には地中に大量の石炭を 蓄積した(3.5 億年前以降) 。2.5 億年から 6500 万年前まで続いた中生代の海洋生物たちは 大量の石油となって地中に蓄積された。 一方、脊椎動物も両生類が上陸し、爬虫類、恐竜、哺乳類、鳥類などが次々と誕生して いった。哺乳類の中から霊長類が生まれ、類人猿が生まれ、その中から 2 足歩行をする人 類が生まれたのは 500~700 万年前であった。このころの猿人は自然から食糧を得る採集生 活をしていた。 以後、人類の歴史がはじまるのであるが、図1(図 18-59)に示したように人類のエネ ルギー使用量が急増しはじめるのは、18 世紀の産業革命以降である。古生代、中生代に蓄 積された地中の石炭、石油、天然ガスなどをエネルギー源にして工業を興してからである。 それとともに人口も急増し、多くなった人口はより多くのエネルギーを必要とし、進歩し た科学技術によって、より深い地中や海底の化石エネルギーを掘削するだけでなく、原子 核分裂による原子力エネルギーも使うようになった。 20 世紀末には化石エネルギーの大量使用によって発生した地球温暖化現象が明らかにな った。このままでは地球をとりまく大気中の二酸化炭素などの地球温暖化ガスの濃度が急 増し、その温暖化効果によって地球生態系、天候(異常気象) 、海面上昇、食料生産、その 他あらゆる社会生活に大きな影響を与えるようになることが危惧されるようになった。 一方、21 世紀になるとグローバリゼーションとともに、従来の先進国だけでなく、人口 的にはその数倍になる途上国も工業を興し、モータリゼーションを進めている。ますます 増大する人口、ますます増大する経済成長への要求、つまり、ますます増大するエネルギ ーへの要求と地球温暖化問題をどうやって人類は解決するか。それが問題である。 イギリスの歴史家エドワード・ハレット・カー(1892~1982 年)は、 『歴史とは何か』で 「歴史とは現在と過去との対話である」と述べている。 「地球と人類の未来は、現在と過去 との対話によって導き出された道、その道は選択の余地があまりない狭い道であるが、そ れに沿って生きること」が必要になってきている。人類は、その道を誤りなく進むしか 22 世紀の平和な地球世界にたどり着けないのではないかと思われる。 「地球と人類 21 世紀に人類が当面する未曾有の困難を回避し、乗り切っていくためには、 の過去」と「地球と人類の現在」と対話し、その解決策が示す道に沿って世界人類は一体 3 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― となって生きていかなければならないところに至っているのではないか。 つまり、いままでの歴史は「成り行き任せ」でも、自然(地球環境)や人口や資源エネ ルギー・食料や戦争などについても、かなりの修正がきく余地があったが、21 世紀の数十 年(世紀末には 100 億人に達する)は、地球環境的にも(地球温暖化問題など)、戦争と平 和の問題にしても(核戦争、世界中のテロ戦争の問題など) 、ほとんどやり直しがきかない 段階に入っていると考えられる。 本書では、「地球と人類の過去」と「地球と人類の現在」と対話して、人類の「選択の余 地があまりない狭い道」を探り出し、その道を誤りなく進んで 22 世紀の平和な地球世界に たどり着こうとするものである。 4 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第 1 章 地質時代に埋蔵された化石エネルギー 【1-1】古生代石炭紀に埋蔵された石炭 ○すべては光合成細菌からはじまった 地球上に約 40 億年前に単細胞の生物が誕生したが、それから 12~13 億年たった 27 億年 前ごろに光エネルギーを利用して水と二酸化炭素から有機物を合成し酸素を発生させる、 つまり、我々が普通に光合成といっている作用を行うようになったシアノバクテリア(光 合成細菌)という単細胞が突然変異で生まれてきた。このシアノバクテリアは光合成で食 料が豊富になったので、地球上(といってもすべて海中であるが)あらゆるところで大繁 殖していった。 このシアノバクテリア(光合成細菌)出現の生物進化史上の意義は、まず、第 1 に、安 定的に降り注ぐ(地球上どこにでもある)太陽エネルギーを利用し、地球にほとんど無尽 蔵に存在する水と二酸化炭素を材料にして有機物の合成を行うことができるようになり、 その後の(光合成による有機物が食料となったので)生物圏の発展に大いに貢献すること になったことである。 シアノバクテリアの出現の第 2 の意義としては、このときから光合成の副産物(廃棄物) である分子状酸素(遊離酸素)が排出されるようになったことである。1~5 ミクロンのシ アノバクテリアの一個一個は目に見えないような生物であるが、それがどっとわいて、光 合成によって地球上の二酸化炭素を少しずつ酸素に変えていったのである。それをこまめ に海中で 10 億年も 20 億年も続けていくと地球はどうなるか。10 億年、20 億年の間に地球 大気の酸素が増加して、地球環境もそこに住む生物も酸素濃度の増加に従って、変化(進 化)していったのである。 シアノバクテリアの大繁殖は、この地球に縞状鉄鉱層の形成という証拠を刻みつけてい ることからわかる。海中にシアノバクテリアが大繁殖することによって、酸素が大量に放 出され、溶けていた鉄(二価の鉄)は酸素と結びついて酸化され、鉄サビ(三価の鉄)と なって海底に沈殿し始めたのである。それが数億年の単位で続くと、どうなるか。なんと 深さ 1000 メートル単位の縞状鉄鉱層ができるということである。時間の重みを感じさせら れる。 現在の鉄鉱石の大規模な産地は世界の 5 大陸に分布するが、いずれも、(かつての海底 が隆起した) 大陸内の太古代から原生代の 26 億年前から 18 億年前にかけての地層である。 たとえば、現在の西オーストラリアのハマスリー地域は世界最大の鉄鉱石の産地の一つで あるが、南北 200 キロメートル、東西 500 キロメートルにわたる広大な地域に深さ 1500 メ ートルにも達する鉄鉱石の堆積は、今からおよそ 25 億年前の海に鉄が堆積してできたもの 5 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― と考えられている。地球の各地の海でこうした鉄の沈殿が起き、その総量は数兆トンにも のぼるといわれている。 しかし、原始の海に大量に溶け込んでいた鉄がすべて沈殿しても、シアノバクテリアは ますます繁殖を続けていった。すると、海中の鉄分がなくなってしまい、海中で酸素が吸 収されなくなると、やがて、酸素は大気中にもれるようにして放出されていって、大気中 の酸素濃度は徐々に増えていった。地球大気中に酸素が増加するに連れてオゾンも増え、 オゾン層が徐々に形成されていった。4 億年前後にオゾン層が紫外線をシャットダウンする ようになると、陸上にも生物がすめるようになった。。 海中に棲む生物はその後も進化していって、21 億年前ごろに原核生物の突然変異によっ て生じた真核生物が生まれ、10 億年前ごろには多細胞生物になって大きくなっていった。 27 億年前に発生した光合成を行なうシアノバクテリアも、その後、シアノバクテリア(ラ ン藻類ともいう。単細胞)→原核藻類(単細胞。20 億年前出現)→真核藻類(多細胞。10 億年前出現)→植物(陸上。多細胞。4 億年前出現)と進化していった。 これらの広義の植物を系列的に見ると、その細胞 1 個の光合成機能は、みんな共通であ るが、矢印のところでそれぞれ生物学的に大きな飛躍・進化があり、形態的には大きく異 なって発展していった。 4 億値前に最初に上陸したのはその光合成機能をもった植物とそれをエサにする昆虫だ った。このとき上陸した植物は、5000 万年後の石炭紀(3.6~2.9 億年前)には、大森林と なって、現在の石炭のもととなっている。3 億 6000 万年ぐらい前になると脊椎動物も上陸 した。魚類が進化した両生類であるが、それから 2000 万年たった 3 億 4000 万年前ぐらい に両生類から爬虫類が進化した。哺乳類の祖先となる単弓類も 3 億 1000 万年前には出現し た。 以上、27 億年前に発生したシアノバクテリアとその後の地球環境の変化のことを述べた が、このシアノバクテリアの光合成技術の発明(進化)は、多分、地球史上最大の発明で あろう(細菌が叡智を発揮したとは言いにくいので、自然の叡智としておこう) 。ダーウィ ンの進化論にのっとって、最初に現れた光合成機能をもった突然変異のシアノバクテリア が環境に適して生きのび、次々と子孫を増やして(といっても単細胞であるから、細胞分 裂によって)増大していって、地球上をおおったことであろう。 まさに、自然(環境)が自然につくりだした自然の叡智とはこのことであろう(この光 合成の仕組みの主要部はカルビン・ベンソン回路というが、すでに 1950 年にアメリカの化 学者メルヴィン・カルヴィンとアンドリュー・ベンソンによって解明され(これは人類の 叡智である) 、それによって 2 人は 1961 年にノーベル化学賞を受賞した)。 この 21 世紀の世界でこれから述べることであるが、我々人類もシアノバクテリアを見習 6 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― って安定的に降り注ぐ太陽エネルギーと(現在ありあまって困っている)二酸化炭素と水 とを使って、食料とエネルギー(当面は電気、水素などを取り出して使う中間段階の方法 でもよい)をつくり出すシステムで、この地球をおおいつくしたいものである。しかも、 シアノバクテリアのように何億年をかけるのではなく、 (地球温暖化対策のためには)せい ぜい 50 年ぐらいで、やらなければならない。 我々はその具体的な技術は獲得している。太陽電池の方法、水素をとる方法、人工光合 成の方法、 ・・・アプローチはいろいろある。海水淡水化、気体・液体をこしわける高度な 膜技術、ナノレベルの計測・加工技術、驚異の叡智を生み出す AI 技術、多種多様なセンサ ー技術、続々生まれる新材料、生体細胞のもつ驚異の再生力、 ・・・我々はそれらをすでに マスターしている。年間 3000 万台もの車を生産できる大量生産管理技術もマスターしてい る。あとは、これらをまとめるシステム技術である。意志力である。未来への確信である。 人類の叡智である。残された 50 年!Yes, we can! 。 《森林の形成》 古生代シルル紀(4.4 億年前~4.1 億年前)に出現した最初の陸上植物は胞子で増える植 物で、シダ植物やコケ植物であった。デボン紀(4.1 ~3.6 億年前)に入ると、シダ植物 は小葉系と大葉系に分かれ、進化していった。また、シダ植物(胞子)→前裸子植物(胞 子)→シダ種子植物→裸子植物(種子植物)と進化の方向は胞子から種子へであった。 また、時間の経過ともに植物の大型化が著しく進んだ。小葉類、トクサ類、前裸子植物、 シダ種子植物などは異なる系統であったが、デボン紀中期に、ほぼ同時に二次肥大成長(直 径の成長)が始まって、大木化が進んでいった(大気中の二酸化炭素の濃度が現在より高 く、光合成がさかんであった) 。 これらの植物の大型化によって、デボン紀はじめにわずか数センチメートル程度だった ものが、約 3000 万年後のデボン紀後期には 20 メートルを超える巨木にまで進化し、森林 という景観が地球上にはじめて形成された。 上陸した最古の動物の化石は 4 億 1500 万年前の 10 分の 1 ミリほどの昆虫の足の化石で あった。昆虫などの節足動物は、植物が陸上に広がり始めた後を追うように上陸したよう である。オゾン層によって紫外線の危険性が減り、植物の上陸によって食料やすみかが陸 上にできたことも昆虫たちの上陸を助けた。その昆虫などを追って、魚類の中から両生類 も上陸していった。 ○石炭紀(3.6~2.9 億年前)の地球環境 石炭期後半には、ほぼ全ての陸地が一つの超大陸パンゲアにまとまった。パンゲアの西 側にはパンサラッサ、北側には古テチス海と呼ばれる海が広がり、その南には新テチス海 もあり、シベリア大陸からゴンドワナ大陸に、小大陸や島が点々と連なっていた。 7 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この超大陸パンゲアには植物が上陸し繁茂したため、二酸化炭素は急激に減りはじめ、 石炭紀中頃には現在の数倍までに下がった(しかし、現在より数倍の二酸化炭素濃度だっ た) 。すなわち、大気中に豊富だった二酸化炭素が、光合成で植物に固定され、さらにサン ゴなどの海生生物により石灰岩として海中の二酸化炭素が固定されると、それまで地球を おおっていた二酸化炭素による温室効果が薄れて、放射冷却現象を起こした(温暖化の反 対の現象) 。このため、石炭紀中期から後期には、氷河時代のように冷え、極地には氷冠が できた。ゴンドワナ大陸が南極を通過した時期に対応する 3 億 3000 万年前から 2 億 7000 万年前にかけて氷河期がおとずれた。 ○石炭層を形成した巨木森林 4 億 1000 万年前に陸上に進出した植物は、わずか 5000~6000 万年ほどの間に、根、茎、 そして葉を発達させ、あるものは堅い木質組織を持つようになり、今からおよそ 3 億 5000 万年前には大森林と呼べるものを形成するほどに進化を遂げた。 石炭が地球上で初めてできたのは、この地球ではじめての湿地帯の大森林が形成された 時であった(石炭紀という名前の由来はこの時代の地層から多くの石炭を産することによ る) 。 これらの植物は完全に分解される前に地中に埋没してしまった。植物の遺体が分解され ずに湿原や湿地帯で堆積してしまったか、大規模な洪水で大量の樹木が湖底等の低地に流 れ込んで土砂に埋まってしまったと考えられている。植物の遺体は酸素の少ない水中に沈 むことによって生物による分解が十分進まず、分解されずに残った組織が泥炭となって堆 積した。地中に埋まった植物は年代を経るに従って 泥炭→褐炭→瀝青炭→無煙炭 に変わ っていった。 うろこ 現在の石炭層から、当時の石炭の原料となった植物の化石が出てくる。鱗 のような樹皮 を持つレピドデンドロンは、日本名でも、その名のとおりリンボク(鱗木)といわれてい る。シダ植物の小葉系のヒカゲノカズラ類から進化してきた。幹の直径 2 メートル、高さ 30 メートルに達する巨木だが、シダ植物であった。 ロボク(カラミテスともいう)は、シダ植物のトクサ類から進化して、高さ 5 メートル から 10 メートルという巨大なものとなり、リンボクと同じように石炭紀の沼沢地に群生し 石炭となった。幹や茎はトクサ類と同じように中空でタケのように節があり、そこに茎と 細長い葉が輪生し、茎の先端の胞子穂に胞子をつくって繁殖した。シダ種子類(のちの裸 子植物になり現在は絶滅している)のメドウローサも石炭紀からペルム紀にかけて繁栄し、 3~8 メートルに達し、石炭になった植物の中に大量に含まれている。 8 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― これらのリンボク、ロボク、メドウローサなどの巨大植物が石炭の材料になった。当時は 気候が温暖で、空気中には植物が光合成できる二酸化炭素が十分にあった。これらの陸上 植物は、石炭紀からペルム紀まで引き続き繁茂していた。 その頃にできた石炭が、アメリカ中西部に広く分布している(図 2(図 5-41)参照) 。 イリノイ州南部にある炭田の例を上げると、広さ 10 キロメートル四方、石炭層の厚さは、 およそ 5 メートル、表土を十数メートルもはげば、その下に石炭の層が横たわっている。 アメリカの炭田は大部分露天掘りである。それは、かつてそれだけの広い範囲にわたって 森林があったことを示している。 図 2(図 5-41) 世界の主な炭田 このころは、北半球にはローレンシア(北アメリカ・ヨーロッパ)やアジア(シベリア) の小大陸があったので、そこには前述の巨木の植物林ができ、欧米古植物区やアンガラ古 植物区などが存在し、これらが図 2(図 5-41)のように現在の欧米の石炭層となっている。 また、このころ、南半球に超大陸ゴンドワナがあり、この大陸にはゴンドワナ古植物群 を形成していた。この大陸は現在では、図 2(図 5-41)のように分裂したので、この石炭 紀の炭田は、南アメリカ、アフリカ、インド、南極、オーストラリアといった主に南半球 の別々の大陸の石炭紀、ペルム紀の地層に石炭とともにこの植物群の化石が出る。 《高酸素の時代》 この石炭紀には、高い二酸化炭素濃度と温室効果による高温化によって、植物の成長は 速かったが、植物の遺体は分解されずに大量の炭化物が地下に蓄積されていったため、光 合成で生産された酸素に比べ有機炭素の分解に使われる酸素が相対的に少なかったため、 9 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 3(図 5-32)のように、大気中の酸素濃度は急上昇して(いかに光合成が激しかったか がわかる) 、3 億年前にはついに 30%に達した(現在は 21%) 。 大気の酸素濃度は、一方的に増大するかというと、そうではない。酸素濃度が大気中で 約 23%をこえると、大気中の植物は自然発火、つまり山火事がおきて、酸素が消費される。 これを酸素濃度の緩衝作用という。それが 30%(一説には 35%)に達したのであるから、 きわめて異常な状態であったと考えられる。 図 3(図 5-32) 大気中の酸素の割合 日本放送出版協会『地球大進化4』 この 3 億年前後の高酸素時代には、巨大昆虫が生息していた事実とも一致する。一般に、 昆虫の呼吸システムは酸素利用能力が低い。しかし、この高酸素時代には、翅(はね)の さしわたしが 70 センチもあった巨大トンボ(メガネウラ) 、全長 2 メートルの巨大ムカデ (アースロプレウラ) 、翅開長は 40 センチもあるカゲロウの仲間パレオディクティオプテ ラ、体長 12 センチの肉食性昆虫プロトファスマ(ゴキブリ・カマキリの共通の祖先)など、 巨大節足動物がこの時代の高酸素濃度に支えられ、出現した。 昆虫は史上初めて空へ進出した生物であった。森林の出現によって、昆虫は巨大な空間 を歩き回るのは、効率が悪かったので、翅を持つようになったのである。 【1-2】中生代(2.5 億年前~6500 万年前)に埋蔵された石油・天然ガス ○中生代は温暖で恐竜が闊歩した時代 2.5 億年前の P-T 境界事件(古生代と中生代の境で起きた大噴火)によって生物史上最大 の大量絶滅が起き、海にすんでいた無脊椎動物の種レベルでの絶滅率は、最大見積もりで 96%であった。 10 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この大量絶滅によって、それまで順調に進化をとげてきた地球の生命システムの活動は 完全に中断し、白亜紀初期までの 1 億年以上にわたって回復しなかった。ペリム紀に 30% あった大気中の酸素濃度も、10%程度まで低下し、中世代中ごろまでの約 1 億年もの間、 低酸素状態が続いた。これがその後の生物の進化に大きな影響を与えることになった。 中生代(2.5 億年前~6500 万年前)は、そのような不幸のなかにはじまったが、この低 酸素時代の 2 億 3000 万年前に(爬虫類から)生まれたのが恐竜で、やがて酸素濃度が現在 と同じように 20%近くになると、酸素の余裕がでて 1 億 6500 万年近くも大恐竜の時代を築 いた。 この 1 億 6500 万年という期間は、P-T 境界の生物大量絶滅後から現在までの 2 億 5000 万 年間のうちの 66%にもなり、恐竜の時代がいかに長かったかがわかる。この酸素を有効活 用して、この恐竜から派生した鳥類は空にまで飛び上がった(始祖鳥。1 億 4600 万年~1 億 4100 万年前) 。 中生代の地球は(二酸化炭素が多くその温室効果で)全般的に温暖で、陸には針葉樹の 巨木が繁茂し、巨大恐竜が闊歩し(二酸化炭素が多いので植物が巨木化し、それを食べる 恐竜も巨大化した) 、赤道帯にあったテチス海には豊かな海洋プランクトンや多様な海洋生 物が 2 億年近く繁栄していた。それはやがて、海底に埋もれて地殻変動を受けて豊かな石 油資源に変わっていったのである(テチス海の帯域が現在の中東の石油地帯となっている) 。 地球全般が温暖であったので両極にも氷はなく、海水面が高くなって海浸が進み現在の アメリカ大陸、中国大陸なども浅い海となっていたので、 (当時の海中生物が埋まって)現 在、地層深いシェール層からシェールガスやシェールオイルが出てくるのである。 P-T 境界事件を何とか生き残った単弓類の一部も、この低炭素時代に哺乳類に進化してい たが(2 億 2500 万年前) 、恐竜の出現より少し遅れたため、昼間はとても生きられず、夜行 性のちょろちょろ走り回るネズミのような動物だった。 この状態が 6500 万年前まで続いた。 この中生代は 2 億 5000 万年前の「P-T 境界」事件ではじまり、6500 万年前の巨大隕石の 衝突で終わり、いずれも生物の大量絶滅が起こった。 ○中生代白亜紀は地球資源の形成の時代 地殻変動が激しく複雑な地質構造をもつところを造山帯という。幅 100 キロメートル以 上、長さ 1000 キロメートル以上の帯状の分布をもち、現在高い山脈をなすところが多い。 地球史には図 4(図 6-25)のように造山運動が集中的に展開された時代がいくつかあっ た。 4 億年前の古生代のシルル紀に起きたカレドニア造山運動(図 4(図 6-25)の黄色部)、 3 億年前の古生代ペルム紀に起きたバリスカン造山運動(図 4(図 6-25)の紫色部)、 11 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― そして、この中生代の末から始まったアルプス・ヒマラヤ造山運動(図 4(図 6-25)の 茶色部)などが知られている。 図 4(図 6-25) 世界の造山帯と安定地塊 浜島書店『ニューステージ地学図表』 中生代の後半から始まったのがアルプス・ヒマラヤ造山運動である。テチス海は 2 億年 前から 1 億年前までの長きにわたり、アフリカとユーラシアの間に横たわっていた。やが てプレート運動が始まり、海底では火山活動が起きて、後述するように地殻の大変動が起 きて、結論的にいえば、8000 万年前にはテチスの海底は大陸の下にもぐり込んでしまった が、その一部は大陸の上にのし上がり、アルプスの地層の一部となってしまった。 ジュラ紀(2.1 億年前~1.4 億年前)から白亜紀(1.4 億年前~6500 万年前)は地球の大 地殻変動の時代であったが、それにともなう長期の地球温暖化により(火山活動にともな う二酸化炭素濃度の増加による温暖化) 、地球生物は大繁盛し、それが結果的に地球の地下 に多くの資源を蓄積することになった。中生代は地球資源の形成の時代でもあった。 ○石油層の形成 古生代の石炭紀(3.6~2.9 億年)には、大陸の各地に大森林が形成され、それが後の大 炭田になっていることは述べたが、それと同じように、中生代にも、温暖化による大海進 で大陸に食い込むようにしてあった浅い海や大陸棚には生物起原の膨大な堆積物が残され、 それが石油層を形成した(最近、発見されるようになったシェールガス、シェールオイル も、長いこの時代の大陸への海進による海生生物がもとになっているようである)。 12 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 5(図 6-34)の図において、超大陸パンゲアは上下に分裂し、テチス海は北のローラ シア大陸と南のゴンドワナ大陸の間に横たわり、赤道付近の暖かな海流にのせて、ジュラ 紀と白亜紀(2 億 1000 万年前~6500 万年前。1 億 4500 万年間)の多様な海洋生物を育み世 界中の海へ送出した。その中で、ここでの主役は海水に浮遊するマリン・フィトプランク トン(海洋性浮遊性微植物)であった。 図 5(図 6-34) 激動のテチス海 トールマンほか、1982 プランクトンの一例として珪藻を取り上げると、光合成を行う葉緑体をもつ単細胞の藻 類であり、細胞分裂によって繁殖する。形態は図 6(図 6-31)に示すように美しくいろい ろあるが、体長は 80 ミクロン(0.08 ミリ)ほどで、小さなものである。死後にガラス状の 殻が沈んで海底に散らばる。この死骸は一つ一つは小さいが、なにしろプランクトンの数 が多いので、「積もり積もれば山となる」の言葉通り、珪藻やその他の単細胞生物の小さ な殻は、魚類の骨や歯とともに、海底に沈殿し、泥と混ざり、ドロドロの炭酸塩となる。 13 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 6(図 6-31) ヘッケルによる珪藻のスケッチ プランクトンの残骸などの沈殿物は、海底を年間およそ 0.1 ミリメートルの有機物で埋 めるとすると、1000 万年で 1 キロメートル、テチス海のように 1 億年もあったら、10 キロ メートルになるが(そのように深い海はない)、実際にはプランクトンの多くは浮遊して いる間に、減ってしまうが、ある時期のある場所で集中的に、有機堆積物がそのまま埋蔵 されることがある。その量だけでも膨大な量になることがわかってきている。 微生物が数百万年、数千万年、億年のオーダーでコツコツやることはすごいことである ことがわかる(最近、掘削技術の進歩で深地下からシェールガス、シェールオイルが発掘 できるようになったが、それをみてもいかに長年月の微生物の蓄積量が豊かであったかが と わかる。ただし、一般の場所は蓄積量が薄く、後述する地殻変動で 溶 けて特殊な地殻構造 になったところが大規模な油田やガス田になった)。 《海洋プランクトンは炭化水素分子のかたまり》 海底に沈んだプランクトンの残骸は海底の堆積物の中に山積していく。プランクトンに は、防水バリアだけが周りを取り囲む海水と細胞内の生きた水分を隔てる壁であり、その ため、炭化水素分子が連なってプランクトンの細胞膜組織をつくっている。つまり、プラ ンクトンは水分を除けば炭化水素のかたまりである。 14 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 炭化水素化合物は、炭素原子 1 個の水素化合物はメタンガス、2 個の場合はエタンガス、 3 個がプロパンガス、4 個がブタン、8 個がオクタン、等々であり、炭素原子の鎖や輪が伸 びるにつれ、互いに結合が強まり、炭化水素の密度が増す。炭素原子が 1~4 個のとき常温 で気体(ブタンまで)、もっと炭素原子が多くなる高分子では液体、固体となり、30 個も の炭素原子の連鎖は蝋(ろう)状になっている。後で述べる石油成分のほとんどは炭素数 が 15 個以下の分子である。 プランクトンの細胞膜は炭素の数が 15~17 の炭化水素でつくられている。その堆積がか さなり海底の地下数キロに達する頃には、圧縮を受けて水分はほとんど絞り出されている。 後に残るのは水を寄せ付けない炭化水素が層を構成している。これが石油の原料となるの である。 《石油の生成過程》 この地下で石油ができる過程は、図7(図 6-32)のようなケロジェン根源説で説明され ている。プランクトンなどの生物体を構成している炭化水素・リグニン・タンパク質・脂 質などの高分子有機化合物は堆積物中で重縮合・環化・脱アミノ・脱炭酸・還元などの作 用を受けて、より複雑な構造の高分子化合物へと変化する。こうして形成されたのがケロ ジェンである。堆積物の温度は上昇し、このケロジェンから発生した炭化水素が熱分解(ク ラッキング)されるなどして、石油が生成される。このようにして、できた石油やガスは 地下で高圧力にさらされて、逃げ道を求めて、小さな裂け目や穴を縫って石油は移動する。 図7(図 6-32) ケロジェン根源説による有機物の変化 図 8(図 6-33)のように、石油は気孔が多い砂岩や石灰岩などの貯留岩に溜まる。しか し、上に蓋、つまり貫通不可能な何かが、砂岩の上にかぶさり、移動する石油に対して一 15 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 種の栓をするトラップ(わなの意味)の機構がない場合は、炭化水素はよそに逃げ出して しまって石油鉱床の形成にはならない。そのようなトラップの構造は、図 8(図 6-33)の ような湾曲した背斜構造である。このような構造が、数百万年を経て下の砂岩などの層に 石油を保存する(逆に油田探査はこのような背斜構造の地形を探すことからはじまる)。 図 8(図 6-33) 石油のたまり方 より深い層にある石油は地熱で高温になり、メタンガスや天然ガスといった最も軽い分 子になって上昇してくるが、これも石油と一緒に背斜構造のトラップに封じ込められる(こ のようなトラップ構造があるのが大規模な油田となって現在まで開発されてきたが、より 深い頁岩層(シェール層)では、トラップ構造でなくても、シェールそのものに、広く炭 化水素分が閉じ込められている。それが深度掘削技術の進歩でシェールガス、シェールオ イルとして最近掘削されるようになった。しかし、シェールガスやシェールオイルは、前 述した大規模な背斜構造のトラップがないため、従来の油田からの石油や天然ガスとちが って、広く薄く分布しているため、掘削坑当りの生産量には限界があると思われる)。 さて、そこでテチス海であるが、テチス海には、獰猛(どうもう)な魚竜や首長竜もい たが、それより、はるかに多くの前述したような微細な生物がすんでいた。1 億年以上もの 間、プランクトンや貝殻などの有機物の屑が降り注いだテチスの海底には、肥沃な沈殿物 が溜(た)まりに溜まった。これらの古代の有機堆積物は石油にかわっていった。 《アルプス・ヒマラヤ造山運動とテチス海の消滅》 このままいけば、テチス海の跡地は豊かな油田地帯になっていたであろう。ところが、 中生代の地球地殻は激動の時代であったことは述べた。地球の地質学史でも、きわだって いる。図 4(図 6-25)のアルプス・ヒマラヤ造山運動がアルプス、ザグロス、ヒマラヤ、 東南アジアまで結ぶ線で起き、ちょうどそれはテチスの海と重なっていた。図 5(図 6-34) 16 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― のように、南のゴンドワナが分裂し、北に押し寄せ、テチス海を押しつぶしてできたのが アルプス・ヒマラヤ造山帯であった。 アフリカ大陸とヨーロッパ大陸の間のテチス海の幅は、おそらく 1000 キロメートルから 2000 キロメートルあった。それが 8000 万年前に衝突し、その圧力で、およそ 10 分の 1 の 100 キロメートルから 200 キロメートルの幅まで圧縮されてしまった。テチスの海底は大陸 の下にもぐり込んでしまったが、その一部は大陸の上にのし上がり、この幅はちょうど今 のアルプス山脈の幅に相当する。 図 5(図 6-34)にテチス海に堆積した地層が分布する地域を示したが、テチス海の西の 部分の海底は、ヨーロッパ大陸の下にもぐり込んでしまったか、大陸の上にのし上がりア ルプスの地層の一部となってしまったかして、テチス海の西の部分は消えてしまった。 一方、インド洋を北上していたインド亜大陸は、4500 万年前にユーラシア大陸に衝突し たが、インド大陸を押し付けるプレートの力は強大で、インド大陸はユーラシア大陸の中 にめり込むように進んでいった。海の生物の死骸でできた石灰岩の地層は、高く押し上げ られ、ヒマラヤ山脈となり、その後もインド大陸自身がユーラシア大陸の下にもぐりこみ、 チベット高原全体を押し上げてしまった。図 5(図 6-34)において、ここでもテチス海の 現在の西アジアや南アジアの部分は跡かたもなく消え去ってしまった。 そして 1500 万年前に、アフリカの端のアラビアとアジアの大陸が衝突し、現在の南西イ ランに連なるザグロス山脈が形成された。テチス海の海底は陸に取り込まれ、堆積物が地 上へ流出した。この南西部に広がるのが、メソポタミア盆地と呼ばれる巨大な窪地である。 アラビアとアジアの大陸の衝突は岩々を揺らし、へし曲げ、断層を生じさせた。この過 程で深層部の石油は絞り出され移動して、ある地域では背斜構造に閉じ込められ、ある地 域では硬い岩塩のドームに閉じ込められ、ある地域ではテチス海の砂浜や岩礁で雲散霧消 した。メソポタミア盆地だけが今はなきテチス海の豊富な有機堆積物を比較的、昔のまま で残しているようで、現在は世界有数の肥沃な堆積盆地(油田地帯)になっている。 《中東油田地帯》 図 9(表 6-1)のように、地球上の各種堆積物に含まれる炭素の量が推定されているが、 この中で貯留岩以外の岩石(非貯留岩)に含まれる石油と貯留岩に含まれる石油の比は、 240 対1(=265 対 1.1)である。つまり、石油の有機炭素は 1.1 兆トンと推定されている (これは半世紀前の推定。石油の埋蔵量は探査技術や掘削技術の進歩によって変ってくる。 後述するように現在では 3 兆トンになっている)。これからもわかるように、集積して石 油鉱床となるのは、堆積有機物のごく一部であり、石油がいかに希少な存在であるかがわ かる。 17 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 10(図 6-35)は、石油とガスの究極埋蔵量を貯留岩の地質時代別に比較したものであ る。石油は古生代、中生代、新生代それぞれの地層から発見されているが、中生代のジュ ラ紀、白亜紀から新生代にかけての地層の埋蔵量が多いことがわかる。なかでも白亜紀の 石油埋蔵量が群をぬいている。 現在、世界には図 11(図 6-36)のように、約 700 の堆積盆地が認められているが、その うち約 150 の堆積盆地から、石油や天然ガスが産出されていて、全産出量の 99%以上を占 めている。主要な油田はすべて堆積盆地に入っていることが分かる。 なお、図 9(表 6-1)、図 10(図 6-35)、図 11(図 6-36)はいずれも、最近のシェー ルガス、シェールオイルが発見される前のもので、広くシェールガス、シェールオイルが 開発可能となれば、これらの図表は改訂されなければならないだろう。最近の概算ではシ ェールガスの発見で天然ガスなどは倍増するだろうと言われている。このように技術進歩 と共に開発できる資源の範囲は広がり、埋蔵量も変わってくる(最新のデータは後述する)。 図 9(表 6-1) 堆積物中の炭素の分布 18 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 10(図 6-35) 地質時代別にみた巨大石油の埋蔵量 Tissot&Welte,1984 図 11(図 6-36) 世界の堆積盆地と主な油田の分布 Fernow、1970 いずれにしても、中東地域などの現在の油田地帯は、かつて、長い間、豊かなテチス海 として多様な海生生物がすんでいたところである。このテチス海の 1 億年とか 2 億年とか の期間で生物が貯め込んだ炭素エネルギーをたった 100 年とか 200 年で使い尽くして、地 球上に放出してしまえば、地球上に大異変(地球温暖化)が起きるのは当然であろう。い まや人類の叡智が試されるときに至っていることはご存じのとおりである。これについて は、後で論じよう。 19 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第2章 人類の誕生とエネルギーの歴史 【2-1】人類の歩みとエネルギー 【1】人類と火の利用 哺乳類の中から霊長類が生まれ、類人猿が生まれ、その中から 2 足歩行をする人類が生 まれたのは 500~700 万年前であった。このころの猿人は自然から食糧を得る採集生活をし ていた。 この猿人以降の進化の過程は、図 12(図 8-4)のように考えられているが、250 万年前 のホモ・ハビリスの時から、石器を使い狩りをはじめ、肉食をはじめ、狩猟採集の生活が はじまった。肉食とは他の動植物で育った動物などの肉を食べるのであるから、これも間 接的に太陽エネルギーの恩恵を受けていることになる。 図 12(図 8-4) 人類の進化(推定を含む) この時期は数万年ごとに年平均気温が3~4度下がる氷河期が訪れていたが、ホモ族が棲 れき んでいたアフリカには氷河はなく、あらい礫石器を使って過酷な生態系の食物連鎖の中で 他の動物と同じように懸命に生き延びていた。森林や洞窟に住んで、木の実、草の根、小 動物や魚の生肉を食べ、山野を駆け巡り、川を泳ぐ行為は、まさに自然の中での自然エネ ルギーの範囲での生活だった。 ○火の使用の開始 人類が火を使ったという最古の証拠は、アフリカ・ケニアのツルカナ湖畔コービフォラ の炉床であり、160 万年前のホモ・エレクトスのときであった(図 12(図 8-4)参照)。 南アフリカの「人類のゆりかご」といわれるスワートクランズ洞窟からは、石器とともに 燃えた骨など、120 万年前の火の利用跡が残されている。北京原人の火の使用は、これらと 比べるとずっと後の時代である。 20 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 北京原人の遺跡は 1929 年に発見されたが、その後の研究で北京原人は約 78 万年前にま でさかのぼることができるという(北京原人は、180 万年前ごろにアフリカを出たホモ・エ レクトスの子孫であると考えられ、最近の古人類学ではホモ・エレクトスの亜種として分 類されている)。発掘された洞穴からは、石器ばかりではなく、食物としたであろう多く の小動物の骨、洞穴の中に数メートルにも達する灰の層が発掘された。これは、北京原人 が長期間にわたって火を燃やしていた炉跡であると考えられている。 火の使用は、人類がチンパンジー、オランウータン、ゴリラなどのいわば同僚ともいえ る類人猿の生活ぶりを変え、他の生物とも歩む道を大きく分かつ要因になったもので、第 一次エネルギー革命とも言われている。 彼らは落雷や樹木の摩擦で燃える恐ろしい山火事を体験し、植物や動物を焼きつくす強 力な熱と光の正体不明のパワーに恐れをなしたであろう。幾日も燃え続ける原始林の火事 は生活を脅かす恐ろしい事件で、本能で行動していたホモ・エレクトスは逃げ惑ったであ ろう。 彼らが初めて火を手にしたのはこの燃える火を恐る恐る他の木に移したときで、樹木の 発火を知ってお互いに伝達し合い、火に接近しているうちに慣れ、保存する手立てをする ようになったのであろう。 ソ連の作家ミハイル・イリーン(1896~1953 年)はこの頃の人類を『人間の歴史』で、 「北京原人は、自分で火を起こすことはできなかったが、・・・山火事のあとなどでくす ぶる燃えさしを拾い、大事に持って帰った。・・・たき火のそばには、石の武器や、狩猟 で殺されたけものの骨のかけらなどがある。火と狩猟、人類はこのふたつのもので、氷河 の襲来にも耐えられるようになった。・・・夜は明るく照らし、冬は暖かくしてくれる太 陽を燃やした。・・・石の小刀や石べら、火打ち石のかけら、動物の割れた骨、炉の炭や 灰などが、砂や粘土に混じって残っている」と書いている。 かんぼく やがて人類の先祖たちは 2 つの木片をこすり合わせて火をおこし、潅木 、小枝、枝草な どに移す発火法を会得し、さらに長い時間を経て火打ち石を見つけた。こうして火をあや どうもう つるようになった人類は、獰猛 な動物から身を守り逆に攻撃できるようになって、生態系 の食物連鎖からひとり離脱し、他の生きものと異なる道に入ったのである。 火の利用は、夜行性の肉食獣が活動する危険に満ちた夜に敵を遠ざけ、ホモ属を解放し た。焚き火で料理するようになったのは、ライオンやトラを追い払うために火を使用して いるうちに起こった偶発的な出来事だっただろう。そして火を使って食物を料理すること が始まったのであろう。 木々を燃やし、暖を取り、調理を行うようになると、ホモ・エレクトスを取り巻く世界 は一変したはずである。木(薪)も太陽エネルギーの利用であることに変わりはなかった。 21 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 食物が少ない時期にどう対処するかが、生き残るために最重要のことであった。肉の獲 得は安定性に欠けるので、食物欠乏時には乾燥地帯に生えている地下根茎に依存したであ ろう。火の使用によって、この根茎類も食べていけば、食事内容は豊かになったことだろ う。根茎は非力な女性でも集めることができるので、食べ物を用意するという女性の役割 がますます重要になったことだろう。ホモ・エレクトスの体格の性差が小さくなったこと が示しているように、男女の共同パターンも発達していったにいがいない(家族の成立を 示唆する)。 様々な道具(石器)の発明、狩りの学習、火の利用、我々の祖先は、サバンナで生き残 っていくためにさまざまな技術を獲得していった。これらの道具はみんなに模倣された。 それらは代々引き継がれていった。いつのまにか、ホモ・エレクトス全体に広がっていっ た。 ホモ属は生き残るために、その脳をいやおうなく、全力で使わなければならなかった。 それが、このころホモ・エレクトスの脳容量を急速に増大させたのである。火を通した食 物は安全性、保存性が高まっただけではなく、加熱によって柔らかくなった肉などは消化 しやすいため、人間の大脳新皮質も発達が促されたと考えられている。 図 12(図 8-4)において、ヒトの脳容量は 300~250 万年前のアウストラロピテクス・ア ファレンシス(400 立方センチメートル)のときはチンパンジーとほとんど変らなかったが、 250~180 万年前のホモ・ハビリスのときに 600~700 立方センチメートルになり、180~60 万年前のホモ・エレクトスのときに 950~1100 立方センチメートルで現代人類(1450 立方セ ンチメートル)の 75%程度になっていた(アファレンシスのときと比べると 3 倍になって いた)。 しゃくねつ たきぎ 脳がさらに発達するにつれ、予熱した石、灼熱 のおき( 薪 が燃えて炭になったもの)を う ちわ ふいご 使い、泥を塗り固めた炉を作り、火鉢を考案し、火を早く起こすための団扇、鞴 も作った。 火を使って調理すれば細菌が死滅し、食べられる動物や植物の数は著しく増え、摂取する エネルギーも高まった。火を利用することで雲に覆われて月明かりのない暗黒の怖い夜も 明るくなり、寒い季節も暖房の役割をしてくれた。こうして人類の行動範囲は一挙に拡大 し、人口も増加の道に入った。人類史にとって革命的な発見と発明で、第1次エネルギー革 命といえる大変革をもたらした。 《ホモ・サピエンスの世界への分散》 人類は、図 12(図 8-4)のように現在、わかっているだけでも 20 種ぐらいの種がいた が、現代人に直接つながるホモ・サピエンスは遺伝子研究によると 20 万年前に現れた。現 在のところ、最古のホモ・サピエンスとして化石が発見されたのは、16 万年前のホモ・サ ピエンス・イダルツである。アフリカのホモ・ハイデルベルゲンシスから進化したホモ・ 22 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― サピエンスの最古のものと考えられている。 ホモ・サピエンスが獲得した最大のものは言語であったといわれている(脳容量は 1450 立方センチメートルで止まったままである) 。この言語が生み出したさまざまな能力は、石 器をはじめとする道具の製作や使用、共同作業などの新たなハードやソフトを生み出した が、たとえば、文化、知性、相互理解、洞察力、助けあう心、慈しむ心などを急速に発展 させるようにもなった。人類は言語能力の獲得によって明らかに他の動物と一線を画しは じめた。 ホモ・サピエンスは石器製作の面でも能力を発揮し、すでにアフリカにいる段階で、そ の後、 (出アフリカをして世界へ分散する過程で)ヨーロッパやその他の地域で発見される 高度な石器や骨角器などを発明していたことがわかっている。たとえば、尖頭器は両面を はくへん 二次加工した 剥片 で、槍の先端部になるように尖頭にされていた。 その他の貝採集、長距離の交換、漁労、骨角器、採鉱、表示のある(彫った)物品など はホモ・サピエンスによって 14~10 万年前に発明されていた。また、細石器、ビーズ、壁 画などもホモ・サピエンスによって、ヨーロッパへ入る前に試みられていた。 このホモ・サピエンスは、8 万 5000 年前ごろに、一つの集団が故郷のアフリカを離れ、 アフリカ北東部のバベル・マンデブ海峡を越えて、対岸のアラビア半島に渡り、その子孫 が次々と図 13(図 9-4)のように全世界へ移動・拡大していった。 図 13(図 9-4) 出アフリカ後の世界分布状況 草思社『人類の足跡10万年全史』 23 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― シベリア方面に向かったものはベーリング海峡(当時は凍っていた)を渡ってアメリカ 大陸に入った。南北アメリカ大陸を縦断して、南アメリカの最南端フェゴ諸島には1万500 年前には到達していた(日本列島に最初のホモ・サピエンスが到着したのは4~5万年前と 推定される) 。 この世界への分散の過程でホモ・サピエンスはそれぞれの地域で火と道具を使って洞窟 生活を営み、寒さをしのぎ、狩猟漁労・採集の生活をおくるようになった。 ホモ・サピエンスが世界中に分散している時期は最終氷河期(もっとも最近の氷河期) であったが、ホモ・サピエンスがシベリア南部へ進出したのは、4 万年前であった。アフリ カ出身の身でマイナス 70 度にもなる地で生きるには動物と同じように毛皮で身をくるむ必 じんたい 要があった。4 万年前の洞窟から骨でできた針が見つかった。糸もトナカイの足の 靱帯 か ら作っていた。 シベリアのイルクーツク市(冬には零下 60 度、夏には 40 度にもなる)の郊外に位置す る 2 万 3000 年前のマリタ遺跡から出土した象牙製女性像(ビーナス像)の中には、全身を 包む防寒具を着用した姿を描いたものが含まれていた。トナカイの毛皮のテントもフード 付防寒具もそのような骨製の針によって縫い合わされたのであろう。 この地に住みついた人々はさかんにマンモスを狩り、肉を蓄え、骨は建材、燃料として、 毛皮は住居のおおいや防寒用の材料というように、そのすべてを無駄なく使用する技術を 編み出し、極寒の地に定着することに成功したようである。長く暗い冬を乗り切るための 明かり、石炭や骨を燃料とした痕跡も見つかっている。 南フランスやスペインの洞窟は北の寒さから逃れてきた人々の避難場所となったが、6~ 7 メートルの高さの洞窟は単なる避難場所ではなかった。最も美しい壁画で彩られた。スペ イン北部のアルタミラ洞窟壁画は 1 万 8500~14000 年前頃に、フランス西南部のラスコー 洞窟壁画は、1 万 5000 年前頃に描かれていた。動物脂のランプのもとで、鉱物などの顔料 で、洞窟の側面と天井面に当時のバイソン、イノシシ、ウマ、トナカイなどの動物が生き 生きと描かれている。これらは何世代にもわたって描かれていったと思われ、ホモ・サピ エンスがそのもてる芸術的才能を遺憾なく発揮した芸術作品である。 土器の制作も、熱によって自然の素材を固くして器をつくるということで、うまい方法で あるが、これは東アジアで早く実用化された。中国では 1 万 8000 年前に、日本では約 1 万 6000 年前に、西南アジアの肥沃な三日月地帯では 6000 年前に登場している。さらに、これ らの地域に続いて、アマゾン川流域、アフリカ大陸のサヘル地域(サハラ砂漠の南縁)、ア メリカ合衆国南東部、そしてメキシコでそれぞれ登場している。 土器の主要な用途は煮沸具であり、食物と関係があり、一般に農業開始後に実用化され ている。しかし、日本では農業開始の前の縄文時代から、クリなどの堅果類のアク抜きの 24 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ために煮炊きする必要から開発されたと考えられている。中国の農業開始は後述するよう に 1 万年前であるがそのはるか前に、動物食が主であった段階から植物食や魚貝類が主要 な食料源となった段階に至って、一斉に煮沸具としての土器が出現してきたようである。 8 万 5000 年前にアフリカを発ったホモ・サピエンスの世界分散の長い旅は、南アメリカ の南端到達で終わり、それぞれの地域でそれぞれの人類の歴史がはじまったのである。現 在、72 億人をこえた世界中の人々はすべて 8 万 5000 年前に出アフリカをした一グループの 子孫である(正確にいうと、そのときアフリカに残った数万、あるいは数十万の子孫は別 であるが) 。 そう考えると、人間みな兄弟という思いと、たとえばインドの歴史は 7 万 4000 年、中国 の歴史は 6 万 8000 年、オーストリア(アボリジニ)の歴史は 6 万年、日本の歴史は 5~4 万年、ヨーロッパの歴史は 4 万年、アメリカ(インディアン)の歴史は 3~1 万年の歴史し かない。人類はまだ、ほんとうに若いという思いが強くしてくる(最近、原発の放射性廃 棄物を 10 万年も管理する議論があるが、誰も責任をもって管理することなどできない相談 だろう) 。 【2】農業と畜産業の開始 最終(最近)の氷河期は 1 万 5000 年前ぐらいまでで、その後は徐々に温暖化していって、 1 万 1500 年前頃には、世界は現在へと続く温暖な時代を迎え、世界は氷河期の後の時代す なわち後氷期に入った。 温暖化によって野生の穀草が豊かに実るようになったが、中東のレバント地方(現在の イスラエル、シリアの地域)ではムギ類がよく育った。やがて人々は、現在のイスラエル からレバノン、シリアそしてトルコ南部を通りイラクのザグロス山脈のふもとに沿ってペ ルシア湾沿岸まで弧を描くように広がる肥沃な三日月地帯で農業を開始した。シリア北部 のアブ・フレイラ遺跡では、1 万 1050 年前(紀元前 9050 年)の栽培化されたアインコルン (一粒コムギ)が育っていて、最古の農業遺跡と考えられている。 この肥沃な三日月地帯には、役に立つ作物ばかりではなく、家畜化可能な哺乳類も豊富 に生息していて、牧畜もこの地で開始された。 ヤギは 1 万年前、西南アジアの東部高地(イランのザグロス山脈)か南西部(レバント 地方)に生息していたパサン(ノヤギ)が家畜化された。ヒツジも 1 万年前、肥沃な三日 月地帯の中央部でムーフロンから家畜化されたと思われる。ブタは 1 万年前、西南アジア の中央部北方と中国でイノシシから家畜化された。ウシは 8000 年前、西南アジアのアナト リア(現在のトルコ)を含む西部とインドで現在では絶滅してしまったオーロックスから 25 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 家畜化された(世界の主要家畜 5 種のうちのもう一つのウマは、6000 年前、南ロシアのス テップで今では絶滅してしまった野生馬から家畜化された)。 大型哺乳類の家畜は、人間社会でいろいろと重要な役割を果たして来た。家畜は、食肉、 乳製品といった食料を提供してくれるし、農業に必要な肥料や、陸上での輸送運搬手段、 物作りに使える皮類、軍事的な動力なども提供するようになった。また、農耕動物として 働き、鋤をひいてくれるし、織物のための毛も提供してくれる。このように人類は家畜の 輸送運搬利用や農耕利用によって、畜力というエネルギーを得ることになった。 西南アジア(肥沃な三日月地域)で起源した農業・牧畜システムは、しばらくは西南ア ジア内に伝播・普及するのに時間がかかったが、図 14(図 10-2)のように、紀元前 8500 年 ごろから旧世界の広大な地域に拡散していった。 人類が西アジアで農業を開始したのとほぼ同じ時期、図 14(図 10-2)のように東アジア (長江流域)でも農業が開始された。西アジアの農業開始がコムギであったのに対し、東 アジアの農業開始はイネ(コメ)であった(その他にも南北アメリカをいれて、4~5 ヶ所 の農業起源地があるが、ここでは省略する)。 図 14(図 10-2) 旧世界の農業の起源と伝播 26 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― どうけん ぎょくせんがん 1995 年に長江中流域の湖南省 道県 の 玉蟾岩 遺跡の洞窟から、人骨、土器、石器などの AE AE EA いなもみ 遺物とともに、紀元前 1 万年の地層から 稲 籾 が出てきた。野生のイネの場合、稲籾の先端 AE AE AE とげ に「ノギ(のぎ)」と呼ばれる長い 棘 がついているが、玉蟾岩遺跡の稲籾はノギが退化し AE AE て小さくなっていたので、この稲籾は栽培種であることが確認された(植物は栽培化され ると人間には不必要な部分が失われていく。人間にとってできるだけ有効なものだけを選 別していくのである)。 最も早い時期に栽培されていた農作物の遺物が出土した遺跡からは、豚、犬、鶏といっ た家畜の骨も出土し、時代の経過とともに、水牛や、蚕や、アヒルやガチョウといった動 物も飼育されるようになった(水牛は、鋤を引かせる使役動物として最も重要な家畜であ った)。 中国での農業のその後の伝播は、図 14 (図 10-2)のように長江流域の上流、下流へと伝 播して、やがて、朝鮮、日本へ、中国南部から東南アジア、インドのガンジス川流域まで 稲作が伝播していった(中国の黄河流域ではアワ・キビが紀元前 7000~6500 年に栽培され るようになり、黄河以北に伝播していった)。 人類にとって(もちろん、他の動物にとっても)食料は不可欠のものである。自然の動 植物を狩猟採集するのではなく、自分たちで自然の環境や動植物に働きかけて食料を生産 するということは、人類にとって大きな飛躍であった。狩猟採集と農業を比較した場合、 農業が潜在的にもっている大きな人口を支える力は、あらためて強調するまでもない。 一般に狩猟採集民の人口扶養力は 1 平方キロメートルあたり 1 人であるといわれている。 農業の生産形態あるいは発展段階によっても異なるが、狩猟採集よりも農業は 100 倍以上 の人口扶養力を持っていることは確かである。人類が農業を開始しないで狩猟採集の生活 を続けていたとしたら、現在の地球人口は 1 億人ぐらいが限度だっただろう(世界の総陸 地面積(148,940,000 km2)から南極大陸(14,400,000 km2)を差し引くと、134,460,000 km2 になる。仮に 1km2 に 1 人の狩猟採集民が住めるとすると、1 億 3446 万人しか住めないこ とになる) 。しかし、現在では 72 億人が生活している。太陽エネルギーの利用という点で の格段の進歩があったといえよう。 【3】金属精錬の開始 たくさんの木材エネルギーを使って、鉱物から金属を取り出す金属精錬は小アジア(現 在のトルコ)で紀元前 6000 年頃からはじまった。その最初の金属は融点が一番低い鉛であ り、鉛ビーズの首飾りとしてチャタル・ヒュユク遺跡で発見された。 このチャタル・ヒュユク遺跡は 1958 年に発見されたが、1000 戸におよぶ住居の遺跡で紀 元前 6000 年頃のものだった(最古の都市のひとつといわれている)。ここの肥沃な土壌で 27 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― は農業が発展し、専門の銅細工職人が天然鉱石の火入れから精錬や鋳造へと技術を高める ことに専念することができ、その中で鉛精錬や銅の冶金技術を世界に先んじて成功させる ことになった。 精錬銅は、紀元前 4500 年のブルガリアのカラノヴォ遺跡で発見されたが、精錬炉もカル ノヴォから歩いて数日の距離のスタラザゴラで発見され、ここから数キロメートルのとこ ろにアイブナール銅山があり、カラノヴォの銅もここから運ばれていたと思われる。銅の 採掘は火起こし法、すなわち高温の火を起こして岩を熱し、水を浴びせて冷やす方法でな された。 紀元前 3500 年頃にメソポタミアでスズの使用が始まると、まもなく銅とスズを混ぜあわ せて青銅をつくる技術が発明された。青銅は比較的低温で鋳造(金属を溶かして鋳型に流 し込むこと)することができ、しかも変形しにくく硬化力があり、刀身を長くできる。こ れによってそれまでよりはるかに多様な道具や武器が作られるようになった。青銅器づく りには、石の鋳型が用いられた。メソポタミア、エジプトでは紀元前 3500 年ごろから、ヒ ッタイトの現れる紀元前 1500 年前後までが青銅器時代と考えられる。 このメソポタミア、エジプトの青銅技術が伝播して、2000 年遅れて中国では、殷(紀元 前 1600 年~紀元前 1046 年)から春秋時代(戦国時代は鉄への移行期と考えられている) までが青銅器時代に相当すると考えられている。 インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト民族が住んでいたと考えられていたアナトリア地 方(現在のトルコ)のカマン・カレホユック遺跡の紀元前 1800 年頃の地層から鉄製品が出 土した。この製鉄技術は、ヒッタイト帝国によって秘密とされたが、紀元前 1190 年のヒッ タイト帝国の崩壊によって周辺民族に知れわたることになり、メソポタミア地方やエジプ トで鉄器時代が始まった。その後、この製鉄技術は図 15(図 10-27)のように、メソポタ ミア地方、エジプトから伝播し、伝播した地域から鉄器時代が始まることになった。 東方への鉄の伝播については、ユーラシア大陸の中央シベリアなど「草原の道」を通っ て中国へ伝わったとする説が強かったが、現在では、中国独自に発展したと唱える説や南 の海上ルートから伝わった説もある。 28 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 15(図 10-27) 鉄器と製造法の伝播 鉄器時代に入ると、さらに大きな変化が起った。鉄製の武器が普及し戦争が一変し、政 治的統合が早まった。また、鉄は農具としても大変重要な役割を果たすことになった。か なりあとになってからのことであるが、鉄製の農具のおかげで地球上の耕地面積は大変拡 大した。新石器時代にはどれほどきれいに森林や潅木の茂みを焼きはらったところで、石 器の鍬では、固い土の表面を引っかく程度のことしかできなかった。それが鉄製の農具が すき 普及し、動物に 鋤 を引かせるようになってから、本格的に土地を耕すことができるように なったのである。 ○都市国家の出現 西アジアは世界最初の農業の起源地の一つとなったと述べたが、その後の社会発展のテ ンポも速く、また、前述した金属製の武器による戦争も激しく起こり、国家形成も最も早 く進んだ。メソポタミア地方は灌漑農業が発展し、人口が増えて多くの都市ができていっ たが、ウルクが中心的役割をはたしていた(イラクという国名の由来ともいわれている)。 やがて、初期王朝時代(紀元前 2800 年~紀元前 2350 年)に入り、多くのシュメ-ル都 市国家が成立した。初期王朝時代の後期になると、シュメ-ル地方の覇権をめぐって都市 国家間の合従連衡、争いが活発になり、ウルクの王が「国土の王」を初めて名乗り、シュ メ-ル地方を統一した。この人類最初期の国家であるシュメ-ル都市国家の特徴は、神権 (神政)政治であり、君主は神の代理者とされ、宗教的な権威をもって土地・人民を専制 的に支配した。 29 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ウルクを建国したシュメール人は創造性を発揮して、人類に多くの新しい社会システム を生み出してくれた。シュメール語のアルコールが残っていることからもわかるように、 せき ビールもつくられていた。農業の灌漑は、羽根つるべ・運河・水路・堤防・堰 を使って行 われた。運河には、たびたびの修復作業と沈泥の除去作業が必要だったが、革製のボート、 帆掛け舟、 木製オールの付いた船の 3 つのタイプを発明していた。早くも風力を利用した 帆掛け舟も発明していたのである。舟は瀝青(コールタール)で防水をしていた。 粘土細工からロクロが発明され、 ロクロが発明されてから間もない紀元前 3000 年頃には、 運搬のための車輪も使われるようになった。ロクロから車輪を思いつき発明した人も人類 の大功労者であろう。しかし、人類の知恵はそれに留まらなかった。 ロクロの発明、それから車輪の発明、主要な荷役用の家畜として雄牛を、主要な輸送用 動物としてロバを使役した。その後、ウマによる輸送システム(ウマを家畜化し馬車が発 明されたのは後述するようにウクライナ)、回転する機械へと発展したことを考えると、 その意義ははかりしれない。それぞれのところで、知恵の飛躍があったことがわかる。 シュメール人はガラスも発明したし、紀元前 3000 年紀のはじめには銅の鋳造も行ってい た。その他にも、シュメール人の技術には、のこぎり・革・のみ・ハンマー(つち)・留 め金・刃・釘・留針・宝石の指輪・鍬・斧・ナイフ・槍・矢・剣・にかわ・短剣・水袋・ バッグ・馬具・ボート・甲冑・矢筒・さや・ブーツ・サンダル・もりなどがあった。これ らの物品はシュメールで作られ、周辺地域に輸出された。 このようにはじめて工業(工芸)都市が生まれ、遠隔地との交易がはじまった。チグリ ス・ユーフラテス両河の平原には、原材料、鉱物、樹木がほとんどなかったので、それら の原材料物資は輸入された。このようにシュメールは、原材料が輸入され、工芸製品が輸出 されるという世界最初の加工貿易国家にもなった。シュメール人はなんと多くのものを発 明し、人類社会に供給してきたことか。その後、延々と我々はすべてこの恩恵を受けてい る。 ○「ころ」 「てこ」の原理の利用 メソポタミアとほぼ同じ時期に、エジプトでも統一国家が生まれた。紀元前 3100 年頃に 上エジプトのナルメル王(あるいはメネス王)が下エジプトを征服し、エジプト第 1 王朝 を発足させた。 エジプト王国はピラミッドで有名であるが、歴代王朝の王が、王になるとすぐに、自分 の死後のためのピラミッド建設に国家の資産と国民(農閑期の農民)を大量に動員して建 設した。 最初のピラミッドはあまり大きくはなかったが、その後だんだん大きくなって、カイロ 近郊のギザ地区にある第 4 王朝のクフ王のピラミッドは一辺約 230 メートル、高さ 147 メ 30 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ートル、平均 2.5 トンの石を約 300 万個も積み上げており、最大のものである。クフ王は 紀元前 2560 年頃に 20 年前後かけて 10 万人を動員して完成させたと考えられている。 問題は巻き上げ機や滑車もない時代に、巨大なピラミッドや巨大な神殿(たとえばルク ソール神殿)をどうやって建造したか。 材料となる巨大な石を運ぶ時には、ナイル川上流の石切場からピラミッドのそばまでは ナイル川を舟運で運び、陸揚げ後は長い棒を「てこ」にしたり、石の下に丸棒を敷き詰めて 「ころ」にすることで、 (摩擦エネルギーを減らして)負担を軽くし、有り余る砂をうまく使 って斜面をつくり、建造したと考えられている。高度な技術ではなく、膨大な人員を動員 した人海戦術で押し上げていくことによって作られたのである。「ころ」「てこ」の原理で巨 大ピラミッドは造れたが個人の家は昔ながらの日乾しレンガづくりの粗末なものだった。 【4】畜力の利用 1 万年前に西アジアで起源した農業は、畜産を伴っていたことは述べたが、牛の畜力を農 耕に使用することは、メソポタミアや古代エジプトでは早くから行なわれていた。 この農耕は、図 14(図 10-2)のように伝播していったと述べたが、西部ステップ地帯は、 ドナウ川の河口からはじまり、黒海とカスピ海の北岸周辺に広がっており、黒海付近では エンマーコムギ、コムギ、オオムギ、キビ、アワなどの穀物が栽培され、ヒツジ、ヤギ、 ときにはウシが飼われていた。初期には主に牧畜に重きがおかれていたようだ。 この牧畜は、西部ステップ地帯から、タクラマカン砂漠、ゴビ砂漠などの砂漠地帯の北 にある草原ステップ地帯、およびさらに北の森林ステップ地帯まで延びていって、紀元前 5000 年以降、ある程度の穀物を伴ったヤギやヒツジの牧畜民の拡散がみられた。 ここに人類社会の歴史の中でも、また、現在の社会においても、大きな役割を果たして きた牧畜社会が形成されはじめた。牧畜という生業は、生態学的に見れば、人間が口にす ることのできない植物でも、動物を介してそのエネルギーを吸収することができる生産様 式である。したがって、農耕に適さない乾燥した土地においても(地球の 3 分の 1 を占め る地域で)、牧畜という生業は成立するのである(人類史上、ユーラシア大陸の内陸部と アフリカの大部分において、牧畜は農業以上に大きな役割を果たしてきたのは事実である)。 そのような牧畜ステップの交通手段としてウマが使用されるようになった。ウマは太陽 エネルギーで育った植物を食べて生きるが、馬力がエネルギーの単位になるぐらいである から(ワットが定量化した。後述)、人間の 10 倍以上のエネルギー(馬力)をもっている。 ここに人類は畜力という強力な助っ人を得ることになった。 31 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 西南アジア起源の農業・牧畜は、紀元前 5000~4000 年頃に黒海北岸からウラル山脈あた りにまで広まり、この草原地帯西部にまで進出した農耕民が野生のウマに出会い、西アジ アでのウシなどの家畜化を真似て、ウマの家畜化に成功したと考えられている。 ウクライナ中部のドニエプル川西岸に位置するデレイフカ遺跡は紀元前 4000~3500 年頃 いけにえ のものと考えられるが、そこで 生贄 に捧げられたと思われる雄馬が発見され骨製・鹿角製 のハミ(留め具)らしきものが出土した。 ハミとは、馬具の一種であり、ウマの口に含ませる(現在では)金属製の棒状の道具で くつわ しそうかんえん あり、轡 ともいう。ウマは、前歯と奥歯(臼歯)の間に 歯槽間 縁 と呼ばれる歯の生えな い部分を持っている。人間はここに目をつけて、ハミをウマの口の中に含ませても歯槽間 縁に収まるように正しく支持されていれば、ハミを噛むことはないことを発見し、このハ ミと手綱を使って人間が与えた信号がウマの敏感な口という器官を通して伝えられるよう になり、ウマを思いのままにコントロールできるようになったのである。 このハミの発明によって、ウマは乗用動物として 19 世紀に乗用車が発明されるまで人類 社会のなかで大きな役割をはたすことになった。やがて紀元前 2 千年紀(4000~3000 年前) に乗馬が発明され、また、西アジアで車輪が発明されると、それにより移動性が非常に増 して集団の大移動が可能となった。いずれにしてもウマは運搬・耕作用、食用に供され、 人類にとってきわめて有用な動物となったが、3800 年前から戦争にも使用されるようにな った。 《奴隷制時代には機械を必要としなかった》 古代ギリシャのアルキメデスは、アルキメデスの原理の発見で有名であるが、彼は数学、 物理学、天文学など多方面にすぐれた業績を残している。工学の分野でも革新的な機械設 計にも秀でていて、たとえば、彼の名を冠したアルキメディアン・スクリューは円筒の内 部にらせん状の板を設け、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上 げることができるというもので、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている が、実用にはならなかった(現在では流体物移動に利用されている)。 古代ローマ時代に属州エジプトのアレクサンドリアで活動した工学者のヘロンは、蒸気 の圧力を利用した蒸気タービンや、蒸気を使って自動で開く扉などさまざまな仕掛けを考 案したが、蒸気機関などには発展しなかった。その他にも世界初の自動販売機、世界初の 風力機械といわれる風力オルガンなどさまざまな自動仕掛けの機器を作ったが実用にはな らなかった。 この古代ギリシャ、ローマの時代は奴隷制の時代で、奴隷という人力を使うことを前提 とした社会であって、すぐれた学者が出て風水力学もかなり進んでいたが、これらを実用 32 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 化しようというニーズがなかったといわれている(2000 年後の産業革命まで待たねばなら なかった)。 【5】薪炭エネルギー時代にも森林枯渇が起きた 火のエネルギーの材料としては、ワラなどの植物や森林の薪、牧畜地帯では乾燥させた しんたん 家畜糞などで薪炭エネルギーと言われている。人口が増え過ぎない限り、森林というエネ ルギー源は不足することはなかった。しかし、紀元前3000年頃に都市が造られ、メソポタ ミア、エジプト、インダス、黄河の4大文明が発生する頃には森林は過剰伐採され、火のエ ネルギー源も有限な資源になってきた。 紀元前4000年頃の人類史上最古の文学とされるメソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』 れ んが (ギルガメシュは都市国家ウルクの実在の王)には、シュメール人が煉瓦を作るためのエ ネルギーとして森林を乱伐して山が荒廃し、チグリス川、ユーフラティス川が氾濫し、森 れ んが 林枯渇を反省して焼き煉瓦でなく日乾し煉瓦で作った城で生活しようとする記述がある。 紀元前2000年頃に鉄器が作られるようになると、森林伐採の勢いはさらに大きくなった。 インダス文明は、紀元前2300年頃に登場し500年後に衰亡したが、中心都市のひとつモヘン ジョ・ダロでは焼き煉瓦で要塞や城壁がつくられていた。インダス川の洪水の度に、都市 を再興するため森林が消失したと推測されている。 ヨーロッパでは、紀元前2500年頃には薪によるエネルギーを使って銅の精練が行われ、 紀元前2000年頃には青銅が普及し、地中海沿岸の森林は乱伐の様相を呈し始め、荒廃した 地域も出てきた。 薪炭エネルギーを多用することで森林の衰退という自然環境の悪化を引き起こすことに なったが、当時の人口はまだ少なかったため影響は地域内にとどまっていた。 紀元前2000年頃のミノア文明時代のギリシャ・クレタ島はナラ、カシ、マツのうっそう とした森におおわれていたが、青銅器などをつくるため森が切り払われ、土壌の劣化が起 こり、穀物の生産力は低下して飢餓が生じ、食人まで起こって、ミノア文明は滅亡したと いわれている。 現在、レバノンと呼ばれている地域が初めて歴史の表舞台に登場したのは、紀元前 3000 うっそう 年ごろである。そのころのレバノンは、内陸部には 鬱蒼 としたレバノン杉の森が茂り、海 岸線にはビブロス、ティルス、シドンなど一連の都市国家が成立していた。 この地域に棲んでいたフェニキア人は高度な航海術をもっており、すぐれた商人であり 植民者であり、その後のギリシャ、ローマなどの地中海時代を切り開いた先駆者であった。 また、フェニキア人がアルファベットを発明し広めたことと貨幣をはじめて実用的に使用 しだしたことでも歴史的意義は大きい。 33 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― レバノン杉は高さ 40 メートルもある良質の木材であったが、フェニキア人はこれを伐っ て大型のガレー船を造って全地中海へと進出し、 カルタゴをはじめ 25 の植民地を建設した。 このため、古代においては中近東一帯に広く自生していたレバノン杉の伐採利用が大規模 に進められた結果、レバノン杉の森は消滅し現在においてはレバノン等のごく一部の地域 に小規模に保護されて残っているだけである(レバノン杉が残存する森は世界遺産に登録 されている)。 ギリシャ・ローマ文明も森林を枯渇させた。紀元前300年頃のイタリアやシシリーでも急 速な森林伐採で荒地が目立ち、イタリア南部の港では上流の森林破壊で土砂が河川に流れ こみ、港街は衰退したといわれている。 人々は、調理や明かりや暖房のために薪炭エネルギーを使うので、森林の伐採を毎日続 けざるを得ず、森林破壊で文明が衰亡することは、中国の殷王朝、マヤ、エチオピア、イ ースター島などでも起きた。 現在のヨーロッパに原生林はない。中世のヨーロッパは大開墾時代と呼ばれ、6世紀のベ ルギーでは森林を木炭の生産拠点にしたため9世紀初には原生林は消滅し、今のヨーロッパ の森林は乱伐された後に再生された森林で、原生林はない。 11世紀のイギリス南東部の森林も切り払われ、13世紀初頭のヨーロッパ西部に広がって いた肥沃な森林も一掃された。 【6】風力(風車)エネルギーの利用 風力(風車)エネルギーの起源ははっきりしないが、古代エジプトで紀元前 36 世紀頃、 灌漑に使われたという記録がある。すでに 5000 年前頃のメソポタミアでは、船の帆をふく らまして、人間の漕ぎ手の労働を補い、水上を移動したことは述べた。 前述したように、紀元 1 世紀にエジプトのアレクサンドリアで活躍したヘロンは、いろ いろはものを考案したが、その中には世界初の風力機械といわれる風力オルガン(風車を 動力として風を送るオルガン)などがあった。 製粉用風車のウィンドミルは、10 世紀頃に中央アジアのシースターン(イランとアフガ ニスタンの国境地域)で建造されたものが最古である。その後、十字軍やモンゴル帝国の 遠征により、ヨーロッパや中国に伝えられた。初期の風車は、方位制御機構が不要な垂直 軸風車だった。 ひ この頃、風車はおもにふたつの作業用―穀物を 挽 くことと、水の汲みあげや灌漑や排水 などの治水―の機械エネルギーを供給するために開発された。穀物を挽くのも水を運ぶの も、時間がかかるつらい肉体労働で、それが風車によってかなり軽減された。 34 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― このイスラムから伝わった垂直軸風車とは別に、12 世紀末、北西ヨーロッパに、方位制 御機構を備えた水平軸風車が現れた。風車の動力は水車と同じように、石臼を回して粉を 引いたり、水をくみ上げたりするのに使われた。 中世のイギリスでは、貴族や教会は、川岸の使用を独占的な権利として油断なく護って いた。穀物を挽く水車を独占するためだった。その独占権が富と権力の源だった。水車で 挽いた粉を手に入れれば、主婦は家族のために穀物を挽く単純でつらい毎日の作業から逃 れられたからである。 こうしてイギリス中、さらにヨーロッパ中に、風車がにょきにょきと立ちはじめた。そ の数は数千におよんだ。サンチョ・パンサがいさめたにもかかわらず、30 以上もの奇怪な 巨人に槍でドン・キホーテが突進した話をセルバンテスが書いたのもこのころのことだっ た。 オランダでは粉挽きだけでなく、沼地や湖を干拓し、堤防を建設して、耕地を増やすの にも用いられた。このオランダの干拓地の排水用動力として多用された風車は、産業革命 後には蒸気機関に、さらに 20 世紀になると電動ポンプにとってかわられた。現在も観光資 源として、少数の風車が残っていて干拓地の排水に使われている(キンデルダイク・エル スハウトの風車網として世界遺産に登録されている)。 つぶ ヨーロッパでは、風車はさまざまな工業目的にも使用された。オリーブを 潰 し、火薬を 製造し、熔鉱炉のふいごを動かした。それまで人力や畜力に頼っていた時代から、14 世紀 以降、19 世紀に蒸気と石炭が登場するまで、風車と(後述する)水車が普及して、かなり の役割を果たしていった。ヨーロッパの産業エネルギーの 4 分の 1 が風力だったと思われ る。 一方、帆船は時代とともに大型化していったが、中国・明の永楽帝の時代に皇帝が明の て い わ 権威を認め朝貢に来るように送り出した 鄭和 の海外遠征隊は、その最たるものであった。 『明史』によれば長さ 137 メートル、幅 56 メートルという巨艦の帆船であり、船団は 62 隻、総乗組員は 2 万 7800 人に上った。これは 1405 年の第 1 次から、1433 年の第 7 次まで 7 回行われ、蘇州から出発して東南アジア、インドから第 5 次(1517 年)にはアフリカ東 岸のマリンディにまで到達した。 て い わ この 鄭和 の大航海はヨーロッパの大航海時代に 70 年ほど先んじての大航海であったが、 その後中国は海禁令のもとにあり、帆船や航海の高い技術力や多くの成果は、民間貿易な どに生かされることはなく、消し去られてしまった。 これに対し、中国の技術を取り入れて伸びたのはヨーロッパであった。羅針盤が中国で 航海に利用されたのは、11 世紀から 12 世紀にかけてであり、この方位磁石も、中国からイ スラム世界を経由して、ヨーロッパに伝わった。 35 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 大航海時代をもたらした要因は、羅針盤だけではなく、その前に新しい航海術や船の発 明があったが、それは中世の地中海をめぐる激しい交易競争のなかで進められた。少しさ かのぼることになるが、地中海の商戦ではヴェネツィアとジェノヴァがライバルで、2 つの シー・パワーの熾烈な競争が、1270 年から 30 年間ほどの間に、航海技術の大変革を起こさ せた。 13 世紀頃から船舶の経済性が重視され、どうやって、こぎ手なしの帆船に改良できるか 模索され、新型の帆船が登場した。船の中央部には、これまでの方形の大帆、それに加え て船尾には三角形の帆が付けられた。三角帆は、ままならぬ風を受けながら船の進行方向 を修正するために用いられるもので、これの採用と習熟によって、逆風のもとでも航海で きるようになっていった。 そして、13 世紀中頃から世紀末になって、羅針盤が船上に現れ、羅針盤と三角帆との組 み合わせで、地中海の航海ははるかに容易になってきた。さらに 1300 年の直前ごろ、新式 の地図(海図)が生まれた。 つまり、風力エネルギーを利用した大型帆船による大航海時代の航海技術は、コロンブ スが出る 200 年前には完成していたのである。こうした技術革新と船体の構造的な革新の あとは、産業革命後の 19 世紀の蒸気船の時代が訪れるまで、船の改良と航海術の進歩にあ まり大きな変化は起きなかった。 【7】水力エネルギー(水車)の利用 水力エネルギーを利用する水車は、紀元前 100 年ごろ、西アジアで発明され、やがて古 代ローマへ伝わったようである。大農場の穀物の粉挽きに使われたこともあった。しかし、 古代ローマの技術者ウィトルウィウスは著作で水車のことを滅多に使われない機械と書い ており、奴隷労働の豊富な古代ローマ社会においては一般に余り普及しなかったようであ る。中世の中ごろまでは、粉挽きには人や家畜を使って臼を回すことが多かった。 むしろ文明の中心が地中海沿岸を離れ中・西ヨーロッパに移行した中世以降に、安定し た水量が得られる土地柄も相まって、急激にその台数を増やした。1086 年のイングランド の古文書では、推定人口 140 万人の同地に 5642 機の水車があったことが記録されている。 また、動力水車の使用法としては、それまではもっぱら製粉に限られていたが、10 世紀ご ろから工業用動力としても使われるようになった。 中世の水車は金属加工(冶金)の分野にも大きな変化をもたらした。つまり 13 世紀以降、 ふいご 水車によって 鞴 を動かすようになり、それがのちの銃や大砲の製造に大きく貢献すること になった。 36 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 中世のヨーロッパでは、水車はまた製紙業にも利用された。製紙技術は中国、イスラム 圏を介してヨーロッパにもたらされたが、印刷術の発展とともに製紙業は、ドイツやフラ ンドルの重要な産業になっていった。そこでつくられた紙や印刷物は社会に大変革をもた らす可能性をひめていた。というのも本が印刷されるようになると職人や技術者の間に、 非常に早く技術が広まるようになったからである。 このように、ヨーロッパでは、産業革命によって蒸気機関や電動機が普及するまでは、 水車は揚水・脱穀・製粉・製糸などに広く使用されていた。 ヨーロッパ以外の地域においても水車は普及したが、その発達はヨーロッパに比べかな り見劣りすることは否めない。 中国において水力原動機らしきものは漢にみられ、中世宋の時代には水車力を用いて紡 績工場さえ作られたようであるが、その後の発展は見られなかった。 日本へは中国から朝鮮を経由して水車が伝わってきた。『日本書紀』に、610 年、高句麗 ど ん しちょう から来た僧 曇 徴 が、水車で動く臼を造ったと記されている。灌漑用水車は、平安時代の よ し み ねのやすよ 829 年に皇族の 良 峯 安世 が諸国にを作らせたといわれている。江戸時代には、白米を食す る習慣の広がりとともに、精米・穀物製粉のために使用された。 イスラム圏においても水車の記録はあるが、その用途はおおむね製粉にとどまり、ヨー ロッパにおけるような産業の原動力としての広範な使用はついに見られなかった。なお、 シリアのハマーには大規模な 17 機の農地灌漑用水車群が現在でも残っており観光名所とな っている。 【8】ヨーロッパではじまった石炭利用 16世紀初頭のフランスの森林面積は国土の35%あったが、16世紀末に460ヵ所もの製鉄所 ができたため、17世紀半ばに大幅に減少し、木材価格は上昇し続け、17世紀後半にルイ14 世は森林の伐採制限の勅令を出した。しかし冶金業は成長したため乱伐は続き、フランス 革命の起こった18世紀末の森林面積はさらに減少した。 18世紀初のロシア地方には海水を煮詰める製塩工場が1200ヵ所もあったため、周辺の林 は伐り尽くされ、300kmも離れた森を伐採する事態になった。 薪炭エネルギー不足が最も深刻だったのは、森林の少なかったイギリスであった。イギ リスでは、木材価格が上昇し始めたため、他国よりも真剣に他のエネルギーを探さざるを 得なくなった。そこで、注目されたのは、黒い固まりの石炭であった。 石炭については、すでに3000年前のギリシャや中国、1900年前のロ-マ帝国、8世紀に書 かれた日本書紀にも記述があり、人々は石炭を知っていた。しかし、この黒い固まりの火 力は強過ぎて臭いも強く、制御が難しいので、木炭の方が好まれていた。 37 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― しかし、ヨーロッパ大陸に先駆けてエネルギー危機になったイギリスでは、石炭へ向か わざるを得なかった。イギリスでは、まず、1540年代から100年間は大量のエネルギーを必 要とする産業分野で石炭利用が進んだ。煉瓦、製塩、醸造、造船、精糖、石けん製造工場 で薪炭エネルギーから石炭エネルギーへのエネルギー転換が起こり、経済活動は飛躍的に 発展し「初期産業革命」とも呼ばれた。 しかし、大量の薪炭エネルギーを必要とする製鉄業において、石炭を使うと出来た鉄に 硫黄分が含まれ、鉄がもろくなるため、製鉄業は石炭が利用できなかった。ヨーロッパ大 陸よりも森の少なかったイギリスの製鉄業は、薪や炭を求めて移動し、16世紀には全国的 にエネルギー不足となった。政府は森林伐採を禁止し、植林計画を始めたが成果は出なか った。 人類はその危機的状況を突破するために新しい技術を開発するものである。それが次章 で述べる産業革命であるが、それは石炭エネルギーへの転換―第2次エネルギー革命でもあ った。 ○産業革命までの人類のエネルギー使用量 以上述べたように、人類とエネルギーの関係は、火を利用し始めたときから始まったが、 人類は生活スタイルの発展段階に応じて、エネルギー利用の用途を徐々に多様化させてき た。 約1万年前に農耕や牧畜を始めた人類は、暖房や料理のために主として薪を利用し、移動 や輸送に家畜や風力(帆船)を利用したり、穀物を製粉するために水力や風力を利用した りしたが、そのエネルギー消費量及びエネルギーの利用用途は、非常に限られたものであ った。 その歴史的推移を図16に示すが、人類が火を利用するようになって以来、大部分の期間 は、薪を燃やし照明や暖房や料理に使うという、薪炭エネルギーが主要なエネルギーであ った。 38 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図16 一人当りエネルギー使用量 1 日の 1 人当りエネルギー使用量は、人類がチンパンジーとの共通の祖先から分れて 300 万年ほどの間(図 16 の猿人の段階)、人類が使用できるエネルギーは食料による 2,000kcal (Cal)ほどのものだけだった。進化したホモ属は肉を焼くため、あるいは他の肉食動物か ら身を守るため火を使うようになったが(図 16 の狩猟採取の段階)、新しいエネルギーは 食料から得られるのと同じくらいの量だった。 1 万年前に農耕が始まり人類は家畜を使役に使うようになり(図 16 の初期農業の段階)、 使用エネルギーは 12,000kcal、遠い祖先に比べて 6 倍ほどに増加した。 人類は文明を発展させ、水車や風車など自然エネルギーの一部を使用するようになった が(図 16 の高度農業の段階)、1000 年前に豊かな暮らしをしていた人は 23,000kcal のエ ネルギーを消費していたと推定される。 人類の使用するエネルギーが急激に増加するのは、これから第 3 章で述べる 18 世紀後半 の産業革命以降で、19 世紀のイギリス産業人の使用エネルギーは 77,000kcal に達していた。 第 4 章で述べる 20 世紀に入り石油の時代が到来し、人類の使用エネルギーはとどまるとこ ろを知らずに増加し、現在の日本人一人当たりの消費エネルギーは、510,000 kcal、石油 に換算して毎年 4.5 トンにもなる。 産業革命までの人類は、人間の営みを支えるためのエネルギーとして、家屋の暖房用に 木炭、照明用に植物油といった植物のエネルギー、農作業や物資の輸送用に馬や牛等の動 物の力を利用してきた。また、時代を下れば農産物の潅漑や生産加工には水車や風車など の自然エネルギーも使われてきた。これらのエネルギーは全て自然界の再生可能なエネル ギーであり、人類の消費するエネルギーは自然界のもつエネルギーのごく一部を利用して いるにすぎなかった。 わが国においても、明治維新後に機械化等による近代化を遂げた工業分野を除き、一般 39 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 国民のくらしは、わずか 70 年程前の第二次世界大戦までは、殆どこのようなエネルギーで 賄われていた。 人類とエネルギーの歴史にとって一つの大きな転換点になったのが産業革命(蒸気機関 の発明等)である。これにより石炭を利用したエネルギーの大量使用が可能となり、急速 に使用エネルギーが増大するようになったが、それは次章に記す。 40 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第3章 産業革命と石炭エネルギーの利用 【3-1】産業革命の展開 ○産業革命とは 産業革命とは、18 世紀の後半からイギリスの特定の地域で「工業化」が進んでいって、 明らかにその産業的、社会的影響があらわれるようになった 19 世紀になって、あとから名 づけられた現象であった。一般的には、1760 年代から 1830 年代にかけてイギリスで起こっ た産業革命、つまり、工業化の現象であったが、そこに至る長い間の要因、あるいはその 後の結果や社会変化などを含めて広く産業革命と言っている。 前述したようにヨーロッパでは、とくに島国であるイギリスにおいては、17 世紀あたり から産業や都市で必要とするエネルギーが増大し、森林伐採が進んで環境破壊が現われて いたが、この問題の解決のために本格的に石炭エネルギーの利用が模索され、その結果、 石炭利用システムとしての蒸気機関が開発され、急速に従来の薪炭エネルギーから石炭エ ネルギーへの転換が進んだという観点からみると、産業革命は第二次エネルギー革命でも あった(第一次エネルギー革命は、第 2 章で述べたように人類が火の使用をはじめたとき である) 。 イギリスで産業革命が始まった要因として、ヨーロッパでもっとも薪炭エネルギー不足 になり森林破壊が進んでいたこと、原料供給地および市場として最大の海外植民地をもっ ていたこと、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、プロト工業化といわれるほど 集約的な企業体制と企業家が育っていたこと、および農業革命によってもたらされた労働 力の供給、などが挙げられている。 【1】コークスに転換した製鉄業 製鉄業に石炭を使用できるようにして、エネルギー問題を解決して近代的製鉄業を興し たのが、ダービー父子であった。 1709 年、シュロップシャーの製鉄業者エイブラハム・ダービー(ダービー1 世。1677~ 1717 年)が、コールブルックデール工場でコークスに木炭くずと泥炭をまぜて高炉による 最初の溶融に成功した。そこで石炭からコークスをつくり、これを木炭に代えて製銑工程 に用いるコークス製鉄法を開発した。 か ん りゅう む や コークスとは、石炭を 乾 留 (蒸 し 焼 き)した燃料のことで、蒸し焼きにすることで、 石炭から硫黄、コールタール、ピッチなどの成分が抜け、残ったコークスは燃焼時の発熱 量が高くなり、鉄鉱石を溶かすことができたのである。こうすることによって、外見は石 炭に似ているが、多孔質で、乾留(1,300 度以上)の際に石炭中の揮発分が抜けているので、 結果的に炭素の純度が高まり高温度の燃焼を可能とするのである。高温を得ることができ 41 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― るので鉄鋼業などには好都合な燃料となった。 アイデア自身は簡単でコロンブスの卵みたいなところがあったが、これを産業に仕上げ るには大変な努力が必要だった。彼のあとを継いだ同名の息子ダービー2 世(1711~63 年) は、1735 年に完全にコークスだけによる溶融に成功した。 イギリスには石炭が豊富に存在していたので、このコークス製鉄法の開発によって、安 価で大量の鉄が生産されるようになった。 製銑工程の生産能率が上がると、今度はそれに応じた精錬工程の革新が要請されてきた。 この要請に応えたたのがヘンリー・コート(1740~1800 年)で、1783 年に発明したパドル (攪乱)法という反射炉による方法でこれを解決した。この方法は、炉内を流れる空気の 脱炭作用を利用して、銑鉄が鍛鉄になるまで(とけている炭素分が減少する)、これを人力 でかきまわすのである。コートはまた、熱い鉄塊を直ちに溝型ロールによって圧延する方 法も発明した(1783 年) 。その動力には蒸気機関を導入した。パドル法と圧延法を結合する ことによって、製鉄工程が単純化され、効率が高まった。 このようにイギリスの製鉄業はダービー父子やコートという救世主を得てヨーロッパの 森林乱伐の危機も救われ、エネルギー危機も緩和されることになった。 これ以後、イギリスの製鉄業は急速に発達し、今までかなりの量の鉄をスウェーデンや ロシアからの輸入に依存していたが、19 世紀の初頭からは、鉄の輸出国に転じた。銑鉄生 産高は 1770 年代には年 4000 トンほどであったが、1820 年代には 33 万トンとなり、40 年 代には 130 万トンを超えた。 【2】綿織物産業の機械化 ○飛び杼の発明、ジョン・ケイ おさ 1733 年、織工だったジョン・ケイ(1704~80 年)は 杼 に小さな車をつけ、一種のすべ AE ひも り溝の上を走るようにして、織布工が片手で 紐 を引くと杼が杼箱(両端にある)の中のバ AE AE ネで叩かれて織物の一端から他端へとタテ糸の間を走るようにした。この左右の往復運動 と ひ をするような仕組みを考案し特許を得た。これが 飛 び 杼 の発明であった。 AE AE AE これによって織幅の広い反物を織ることができるようになったばかりでなく、飛び杼の 発明で織機が高速化され、織布速度が以前より遙かに高くなった。飛び杼は織物の生産性 を 3 倍に高め、産業革命を引き起こすきっかけとなったといわれている。ケイは毛織物業 で飛び杼を発明したが、この飛び杼は 1760 年代になって綿織物業にも普及していった。 飛び杼の普及によって、綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使った紡績で は綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった。今度は糸の生産部門、つまり、紡績(繊維・ 織物産業において、原料の繊維から糸の状態にするまでの工程)の分野での生産性の向上 42 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― が必要であった。紡糸の価格が高騰しただけでなく、必要量を確保することもしばしば困 難になってきたので、この不均衡を直すことは緊急に必要となってきた。 ○ジェニー紡績機の発明、ハーグリーブス そこで 1761 年、イギリス技術工業奨励協会は一度に一人の人間が(羊毛、麻、綿、絹を 問わず) 、6 本の糸を紡ぐことができる機械を発明したものに賞を与えることにした。 ランカシャー出身で、織布工と水車大工をかねていたハーグリーブス(1720~1778 年) は密かにこれに挑戦した。1762 年から試作に取りかかり、1764 年に完成させることができ てひきぐるま た。従来の 手挽車 が 1 本ずつ糸を取る代わりに、8 本(のちに 16 本に改良)の糸を同時に 紡ぐことのできる多軸紡績機を発明し、ジェニー紡績機と命名した(娘の名前から名付け られといわれている) 。彼が最初に作った手動試作機は、8 本(錘)しか備えていなかった が、動力さえ増加させれば、いくらでもその数は増加させることができた(ハーグリーブ スの生存中でさえ 80 錘あるいはそれ以上の錘数のジェニー機が製造された) 。 ジェニー機は、一番小さいものでも、労働者の 6 人から 8 人分の作業をすることができ た。機械も簡単で値段もあまり高くなく、あまり場所もとらず、特別の作業場の設置も必 要としなかった。手工業の親方の小作業場でも農場でも、ジェニー機はどこにでも見られ た。昔からの家内工業を破壊するのではなく、むしろ、そのような工業を強化していた。 そこで、ハーグリーブの死後 10 年で(1790 年代に)、イギリスには 2 万台以上のジェニ ー機が普及していた。 このような機械の大衆的普及は、生産費の低減を招き、その結果、綿織物の価格が下が り、綿織物の需要が増大した。そして、最初のうちは紡績工の賃金を高いものにした。こう して、農作業に従事する職工は、農業を捨てて労働賃金にのみ頼って生活する労働者(プ ロレタリアート)になっていった。 しかしながら、ジェニーの紡ぐ糸は細く軟らかく、横糸にしか適さなかったので、アー クライトの発明まで、縦糸は亜麻糸が手紡車で紡がれていた。 ○水力紡績機の発明、アークライト リチャード・アークライト(1732~1792 年)は、理髪店のかたわら、農村の娘から買っ た頭髪を自分で調製した染料で処理し、かつら師に売る商売をしていた。 1763 年、彼は 36 歳にして突然、大発明家として登場してきた。画期的な紡績機を発明し、 と ひ 1769 年に、14 年間有効な特許をとったのである(実際は、飛 び 杼 を発明したジョン・ケ AE AE AE イとは別人の時計師のジョン・ケイが発明したが、資金的に援助したアークライトが自分 の名で特許を取ったようで、のちに訴訟を起こされアークライトは敗れている) 。 この機械の詳細は省くが、馬を使った大規模な紡績機であった。すぐに水力によって運 転する方法に変更した(1771 年) 。水力さえ得られれば、いくらでも大きくできること、ま 43 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― た、非常に強い糸をつむぐことができるという特徴を持っていた。今まで糸が弱かったの で、麻、綿の交織物しかできなかったものが、この糸を使えば、正真正銘の綿織物をつく ることができるようになった。つまり、輸入品のインド綿布に劣らないものが出来るよう になったのである。 アークライトは、さっそくノッティンガムに最初の水力を利用した工場を建設し、機械 を据えつけて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。これは本 格的な工場制機械工業のはじまりとなった。当初は水力を使ったので水力が得られるとこ ろという制約はあったが、紡糸作業に熟練した労働者を必要としなくなったため、アーク ライトは次々に工場を作り、品質の優れた綿糸を大量に生産していった。 アークライトは大富豪の 1 人になり、1786 年、国王ジョージ 3 世よりナイトの称号を受 けた(のちに特許訴訟に敗れ、アークライトの特許は無効となったが、すでに出来上がっ ていた彼の社会的地位は不動で、アークライト 1 人の功績と称えられた) 。 ○ミュール紡績機の発明、クロンプトン アークライト紡績機でつくられるのは太糸であった。細くて丈夫な糸に挑戦したのが織 工のクロンプトン(1753~1827 年)であった。彼はジェニー紡績機を使っていて、その欠 点をみつけ、1774 年頃から紡績機の改良にとり組むようになり、1779 年にはミュール紡績 機を発明した。ミュールとはラバ(馬とロバの雑種)のことで、要するにウマとロバの長 所(ジェニーと水力紡績機の長所)を採ったという意味であった。 このミュール紡績機は、その名のとおりハーグリーブスの発明したジェニー紡績機とア ークライトの開発した水紡機の両方の長所を取り入れて、細い良質糸の大量生産を可能に した。これにより、インド産に匹敵する品質の綿織物が大量生産されるようになった。 クロンプトンは特許を取っていなかったので、1827 年、貧困のうちにこの世を去った。 発明者が不幸になっても、いったんこの世に生み出された機械はどんどん改良されていく ものである。ミュールの最初の型のものは、動力運転に向かなかったが、1825 年には熟練 工がついていなくても動力で運転できる型のものが現れた。また、1820~1830 年にミュー ル機は 900 個の紡錘をもつようになった。 以上述べたジェニー、アークライト、ミュールといった紡績機の動力源は 18 世紀の末頃 まで、馬力車輪や水力によっており、繊維産業の盛んな州の川岸のいい場所には、水力を 求めて工場がすぐ建てられた。しかし、1790 年に後述するワットの蒸気機関がミュール紡 績機に適用される頃から、大工場を都市に設立することが可能になった。こうして、その 生産性はますます高くなっていったのである。 ○力織機の発明、カートライト 紡績部門の発明が相次ぎ、良質で大量の糸が供給されるようになったので、今度はその 44 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 糸を織る織布部門が追いつかなくなった。この紡績、織布 2 部門間の不均衡は頂点に達し、 早急に対策を打たなければならなかった。 そのような時に登場してきたのが、エドモンド・カートライト(1743~1823 年)であっ た。彼の最初の試作機は、ぎこちない機械であったが、1785 年に特許を取ることが出来た。 その後も次々と改良を重ね、操作しやすい力織機に仕上げていった。1787 年にドンカスタ ー(イングランド中北部の都市)に工場を建て、踏み車で動く力織機を 20 台設置した。 1789 年、彼は自分の機械にワットの蒸気機関を応用した。このように、ちょうどワット の蒸気機関が実用化されたので、この力織機は、はじめから蒸気機関を動力にでき、生産 速度は非常に高く普及も速かった。力織機の普及台数は 1813 年 2400 台、1820 年 1 万 4000 台、1829 年 5 万 5000 台、1833 年 10 万台であった。 イギリス産業革命の初期の発明家はむくいられることが少ないものが多かったが、発明 された機械は偉大でイギリスに、そして世界に綿工業ひいては工場制機械工業を生み出し ていった。 ○綿工業の繁栄 このように産業革命期の工業化を主導したのは綿工業であった。この工業部門では前述 したように 18 世紀の後半に、次々と発明が行われ、生産の機械化と能率化の技術革新があ った。 そして、この間に後で述べるようにジェームズ・ワットが蒸気機関の往復運動を回転運 動に転換する技術をつくり出し(1781 年) 、それがミュール紡績機や力織機に取りつけられ るようになると、綿工業は渓流沿いの山間部から立地条件のよい平野部へと進出し、マン チェスターを中心とするイングランド北東部のランカシャー地方が綿工業王国に成長した (図 17(13-39)参照) 。 1833 年のランカシャーには 151 の綿工場があり、その大半は雇用者 200 人以下の規模で あったが、1000 人を超えるものも 7 つあった。 結果的に 19 世紀がはじまるころには、産業革命によって、イギリスの綿製品が遙かにコ ストが安くなり(機械生産は人の数百倍の効率だったので勝負にならなくなった) 、インド は製品としてのキャラコではなく、原料の棉花をプランテーションで栽培してマンチャス ターに供給する立場に変えられたのである。 45 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 17(13-39)産業革命時代のイギリス 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 かつて世界最大の綿業地帯であったインドは、 (イギリスの産業革命後には)ただ綿花を 輸出し、イギリス製綿布を輸入する国になってしまった。機械化が綿業でできたなら、毛 織物でできないはずなない、毛織物でできれば…以下、右ならえとなって機械化・低コスト 化が次々と連鎖反応的に広がっていったのが産業革命であった。 綿製品の最大の輸出国であったインドへイギリス綿製品が逆襲をかけ、綿製品の「東か ら西へ」の流れに逆流する時期は 1823 年頃であるといわれている。この逆転の過程は、ち ょうどイギリスによるインド植民地化の時期に合致しているため、単純な自由競争の結果 では必ずしもなかった。 インドは単なる綿花の輸出国になったが、それもアメリカ産の黒人奴隷がつくる綿花に とってかわられるようになった。こうしてインドは自立した経済を維持しえず、いまやイ ギリスの覇権が確立しはじめた近代世界システムの「周辺」として位置づけられるように なった。 ところで、このように工場制機械工業によってつくられるようになった綿製品は、その 当初からすぐれて輸出志向的な商品であり、綿製品は、奴隷貿易の対貨としても利用され た(アフリカから奴隷を輸入する見返りとして綿製品をアフリカに輸出した)。 図 17(13-39)のように、最大の奴隷貿易港はリヴァプールであり、その後背地がラン カシャーであったことも、ランカシャーが綿業王国になった理由であるといわれている。 貿易の対貨としての綿製品を必要とする奴隷貿易商人にとって便利だったからである。 さて、新興の綿工業は、国内産の羊毛という供給に限度のある毛織物工業とはちがって、 46 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 18 世紀の後半には西インド諸島の、19 世紀にはアメリカ合衆国南部のプランテーションか ら奴隷制生産による安い綿花の供給を、ほとんど無制限に輸入することができた。18 世紀 の末葉にすでに世界最大の商業帝国であったイギリスの海運が、一手にこの綿花をランカ シャーにもたらした。 また、綿製品はその軽さと通気性に優れていたので寒帯から熱帯にいたるすべての地域 に、その商品のコストを工場制の大量生産によって切り下げることができたので、イギリ スは世界全体に対し、広大な需要を見込むことができた。イギリスの綿工業は、すぐれて 輸出産業の性格を与えられ、1840 年代にはその全生産額の半分以上を海外に輸出した。こ うして綿工業は、以後、産業革命の主導部門として工業化の牽引車となったのである。 【3】蒸気機関の開発 前述したように、イギリスでは産業革命が起きる前から、いろいろな分野で石炭が使わ れ始め、石炭に対する需要は増えていた。石炭は炭砿から採るのだが、採る際に地下水が 出てきてしまい、その水を汲み出さないと炭砿が水浸しになって、石炭が採れなくなって しまう。そのため、水を汲み出す作業が必要になる。炭砿の深さが深くなるほどその作業 が大変になり、炭砿を放棄せざるを得なくなるところも出てきた。 ○ニューコメンの大気圧機関(蒸気機関)の開発 当時鍛冶屋で鉄器商だったニューコメン(1664~1729)は、自身も石炭が必要だったた め、その作業を代わりにやってくれる機械ができないかと取り組んだ。そこで彼が開発し たのが、大気圧機関(蒸気機関。図 18(図 13-40)参照)で、気体を熱すれば強い力で膨 らみ、それを冷やせば再び強い力で収縮するという性質を利用したもので、人や馬がやっ ていた作業を機械が代わりにやってくれるというもので、当時では画期的な機械だった。 このニューコメン機関は、 1712 年にはじめて炭砿に設置されたが、 毎分 12 工程で動作し、 1 工程あたり 10 ガロン(45.5 リットル)の水を 51 ヤード(46.6m)の深さの坑道から汲 み上げることができた(約 5.5 馬力) 。このニューコメン機関は鉱山主たちの間で評判を呼 び、1733 年までに 104 台売れた。後述するワットが 1769 年にもっと効率のよい蒸気機関の 特許をとったのちも、ニューコメン機関はワット機関より安価で、さほど複雑ではなかっ たので、18 世紀の間でイギリスおよびヨーロッパの各地で 1500~2000 台建造された。 47 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 18(図 13-40)ニューコメンの蒸気機関 ○画期的なワットの蒸気機関の登場 ジェームズ・ワット(1736 年~1819 年)は、スコットランドの造船町グノーリックに生 まれ、14 歳の時にロンドンに出て、化学器具製造会社で修行に励んだ。 1757 年に当時、スコットランドのグラスゴー大学教授をしていたアダム・スミス(1723 ~1790 年)のはからいで、大学構内で実験器具製造・修理店を開業することができた。ジ ェームズ・ワットは大学の器具管理人として任命され、大学構内に彼が自由に働ける仕事場 を与えてくれた(アダム・スミスが『諸国民の富(国富論)』 (1776 年)を著したのはこの 時だった) 。 ワットは大学を出ていなかったが、大学の学者たちとの交流で経験・知識も豊かな人物に なっていった。とくに物理学教授のジョゼフ・ブラック(潜熱の発見で有名)の知遇を得 て、ブッラクが熱力学理論を講義したときには、ワットも聴講させてもらった。 そのような中で、彼の好奇心は以前から提起されていた蒸気機関の問題に引きつけられ ていった。そして、1763 年から 1764 年にかけて、グラスゴー大学で物理学講義の実験用に 使われていたニューコメンの蒸気機関の模型を修理するという機会があった。このとき彼 はこれまでの蒸気機関における問題点、改良点を見抜いた。 ニューコメンの蒸気機関は、シリンダーに集めた蒸気を、その同じシリンダーで冷却し ていた。そこでワットは、冷却の工程をべつのところでやればいいのではないかと考え、 「復 水器」を考案した。それでニューコメンの蒸気機関より、4 倍も効率がよくなった(現代の 48 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 火力発電所も、基本的な部分は、彼の発明と同じ原理で動いている) 。 こうして、ワットは、1769 年に支援者のローバックと「火力機関において蒸気と燃料の 消費を減少させるためにあらたに発明された方法」で特許を取得した。 《上下運動から回転運動へ》 この特許をとるのは比較的やさしかった。しかし、これを実用化するとなると、大変な 困難が予想された。とても中世以来のような機械技師、時計師、ブリキ工、水車大工など の手におえるようなものではなかった。精密な円筒形シリンダー(それがなければ、蒸気 がもれてしまう。それをつくるには工作機械の精密な中ぐり盤が必要だったが、そのよう なものは、まだ、この世に存在していなかった) 、過度の摩擦を生じないシリンダーに密着 して動くピストン、時計のように正確な歯車伝道装置などをつくらなければならない。 まさに、非常に多くの部品や機構部品(モジュール)で成り立つ機械産業すべてを作り 上げるようなものであった。とてもワット一人で手におえるものではなかった。幸い彼に は、ローバックという企業家がついていて、資金的にも生活面でも精神面でも支えてくれ た。しかしワットの最初の支援者である鉱山主ローバックは鉱山浸水のためにほどなく破 産し、ワットは他の援助者を探さなければならなかった。 ワットは別の工業中心地のバーミンガムのマシュー・ボールトン(1728~1809 年)と手 をくむことになった。両者は、ワットの発明の才とボールトンの企業的センスが補完しあ うことに気づいたのである。この協力者ボールトンと 1774 年にボールトン・ワット社を作 り、ワット式蒸気機関の製造を開始した。 ワットとボールトンが実用機関をつくるのに最大の問題となったのは、円筒シリンダー の製作であった。これを解決してくれたのはジョン・ウィルキンソンであった。彼は 1775 年に中ぐり盤を開発し、これにより、ワットはシリンダーの内径の難問を解決できた。ま た、1779 年にヘンリー・モーズレーが旋盤に大きな改良を加えた。このように機械をつくる 機械―工作機械もワットの蒸気機関の開発にあわせて実用化されていって、産業革命と共 に精密な金属製の機械が作られるようになった。 また、1775 年から 1790 年までかかって、ワットは自分の蒸気機関をさらに改良するとと もに、1781 年に遊星歯車装置の特許を取得し、翌 1782 年に複動機関、1789 年に遠心調速 器、1791 年にボール調速器などを開発した。 この過程で、シリンダーで押された力をクランクやカム、はずみ車等といった機械部品 (あるいはモジュール)を利用して軸の回転運動に変換し、 「熱から回転運動を生み出し」 、 これで機械装置を駆動させる動力などに利用する仕組み、これは機械工業の核心ともいう べきもので、ワットはそれを緻密に作り出していったのである。 とくにニューコメンまでの機関が上下(前後)運動(ピストン運動)に限られていたも 49 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― のを回転運動にしたことは、もはや揚水に使われるだけではない万能蒸気機関の出現であ った。この回転運動への転換は 1785 年で、このときから様々な機械に蒸気機関が応用され るようになっていったのである。こうして蒸気機関の利用範囲を大幅に拡大し、産業に多 大な影響を与えることになった。 《ワット式蒸気機関と特許紛争》 1775 年、ボールトン・ワット商会が設立され、蒸気機関の製造が始まった。石炭消費量 はニューコメン機関に比べ 4 分の 1 程度まで下がり(それでも熱効率7%程度だった。ニュ ーコメン機関は1%程度だった) 。この低コストは各分野の工場で注目され、注文が殺到し た。 当時の動力としては馬を用いることが多かった。そこでワットは馬の力を(実験を通し て) 「1 頭の馬は 1 分間に 3 万 3000 ポンドを 1 インチ上げることができる」と定義し、蒸気 機関の料金を算出した。ちなみに 1 馬力は 746W であり、初期の蒸気機関は 50 馬力程度で あった(なお、蒸気機関の出力を表わす単位として「馬力」 (ワット)という単位が設けら れたのは、ワットに対する特許料支払い基準を作る必要があったからである) 。 ボールトン・ワット社は、このワット式蒸気機関(初期には、まだ回転運動型ではなか った)の製造・販売にあたり、会社が提示する契約条件はきわめて合理的で明解であった。 つまり、ワット式蒸気機関の制作費、設置費と同等の仕事をする機関(ニューコメン機関) と比較して、燃料費の面で実際に節約された額の 3 分の1を支払うことを機関の購入者に 要求していたのである。しかし、当時は特許の使用料を支払おうとしない者が多数あらわ れた。この後、ボールトン・ワット社とワットは厳しい特許紛争に巻き込まれるが、それ は省略する。 1799 年になって,ボールトン・ワット社は訴訟に勝ち、未払いの使用料 3 万ポンド余を 一括して受け取ることができた。こうして、ワットとボールトンは最後までがんばること ができ、蒸気機関と機械産業の確立という偉業を成し遂げることができた。それには 1775 年から 30 年近くがかかっていた。 《蒸気機関開発の意義》 ワットの蒸気機関の改良の意義はきわめて大きい。紡績機械・織布機械と結びついて、 イギリスの綿工業を著しく発達させただけでなく、その他の多くの機械工業の動力源とな り、産業革命は綿工業から重工業部門へと発展していった。それまでは水力をおもな動力 としたから、工場の建設は河川の流域に限られていたが、蒸気機関の普及によって工場立 地の制限が少なくなり、石炭・鉄の産地の近くに工場が建てられ(図 17(図 13-39)参照) 、 新興工業都市に人口が集中するようになった。蒸気機関は、また、後述するように交通機 関に革命的な変革をもたらした。 50 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 石炭が生み出す蒸気エネルギーは、今日まで約300年にわたって、現代文明の主要なエネ ルギー媒体になったから、蒸気機関が完成した1781年はエネルギー史の記念すべき年にな った。このエネルギー革命で新産業を興したイギリスには創業者の富が蓄積され、大英帝 国が築かれた。 木炭から石炭・蒸気へ移行したこの第二次エネルギー革命は、イギリスからヨーロッパ 大陸へ波及し、約50年後の19世紀半ばには大西洋を越えてアメリカに渡り、日本にはペリ ー来航後の1867年(明治初年)以降に伝わってきた。 【5】輸送産業での技術革新 産業革命期の輸送業の革新は、蒸気機関を応用した蒸気機関車や汽船の発明と普及によ って本格化するが、それは 19 世紀に入ってからであった。 ○トレビシックの蒸気機関車 軌道を走る蒸気機関車の最初の開拓者はリチャード・トレビシック(1771~1833 年)で あった。一般にはジョージ・スチーブンソン( 1781 年~1848 年)が発明者と思われてい るが、後述するようスチーブンソンは蒸気機関車を改良し実用化したのである。 トレビシックは、ペナダレン製鉄所に雇われ、はじめは製鉄所の蒸気機関の製作にたず さわっていたが、馬の代わりに蒸気機関を用いた車をレール上に走らせて運搬に使用でき ないかと考えた。1804 年には鉄製レール上を走る蒸気機関車ペナダレン号を製作し、約 14.5 キロメートルの距離を、鉄 10 トンと 70 人の乗客を乗せた 5 両の車両を牽引して走行する ことに成功した。速度は時速約 8 キロメートルほどだったようである。 しかし、当時のレールは馬車鉄道用のもろい鋳鉄製レールであったので、機関車の重量 に耐えられず、ほどなくして破損した。この時代には、まだレールや蒸気機関車の開発で 多くの課題を抱えており、トレビシックの機関車は実用化までには至らなかった。 ○スチーブンソンの蒸気機関車の実用化 その後、多くの技術者が蒸気機関車の改良に従事したが、この頃、馬の飼料が高騰して いて、鉱山主は軌道の上を走る蒸気機関車を考えざるをえなくなっていた。 キングワースの炭鉱で機械の責任者になっていたジョージ・スチーブンソン(1781~1843 年)も雇用主に蒸気機関車をつくることを委任された。彼はジェームズ・ワットの蒸気機 関を改良し、1814 年に最初の炭坑用蒸気機関車「ブリュヘル号」を完成させた。ブリュヘ ル号の車輪には、フチがついており、軌道にはツバがついていた。この技術革新のために、 脱線しにくくなり、スチーブンソンが近代的な軌道用蒸気機関車を最初に走らせたことに なる。距離は 4.6 キロメートル、450 分の 1 の勾配を時速 4 マイルで 8 つの貨車に 30 トン の荷物を積んでいた。 51 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― イギリスでは 1820 年までに国家的な軌道網としての公共鉄道という考えが登場し、スト ックトン~ダーリントン間の鉄道建設のための法案が出され、1822 年には建設が始まった。 スチーブンソンは前述のように初めてフランジが 1 方向のみである車輪を用いた機関車を 開発し、この実績が認められて、1821 年、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の技 術者に任命された。彼は錬鉄製のレールを使用することにした。 スチーブンソンは鉄道会社の技師長として、 「ロコモーション号」を製作した。この鉄道 は 1825 年、総延長 40 キロのストックトン~ダーリントン間の営業を開始し、蒸気機関車 で営業運転を行う世界初の鉄道となった。 1824 年~26 年はイギリスでは鉄道建設がブームとなり、約 60 のプロジェクトが提案さ れ、そのうち 17 が法案として通過した。この時、マンチェスター~リバプール間でも、綿 工業の発展で水運では間に合わなくなり鉄道建設の機運が高まった。1826 年にその建設が 決定されたが、このリバプール・アンド・マンチェスター鉄道に使用する機関車はコンテ スト(レインヒル・トライアル)で決定されることになった。 レインヒル・トライアルは、1829 年 10 月にリヴァプール~マンチェスター 間のレイン ヒルで開催されたが、ジョージ・スチーブンソンは、息子のロバート・スチーブンソン(1803 年~59 年)と共同で設計・製作した「ロケット号」で参加した。結局、ロケット号は、こ のレインヒル・トライアル競争の条件を満たし最後まで残った唯一の機関車となった。 ロケット号は 13 トンの負荷を牽引して平均 12 マイル毎時、最高 30 マイル毎時で走行し、 500 ポンドの賞金を獲得した。これによりスチーブンソンはリバプール・アンド・マンチェ スター鉄道と蒸気機関車製作の契約を交わすことになった。同機はその後 150 年にわたっ て製造された蒸気機関車の基本設計をほぼ確立しており、スチーブンソンはその功績から 今でも「蒸気機関車の父」として尊敬されている。 このレインヒル・トライアルで旅客の長距離輸送にも蒸気機関車が、他の馬車や蒸気船 より優れていることが明らかになった。 ロバートは 1823 年には、父親やエドワード・ピース(裕福な羊毛商人)と共に、蒸気機 関車を製造する会社である「ロバート・スチーブンソン会社」を設立していたが、 「ロバー ト・スチーブンソン会社」は、さらにリバプール・アンド・マンチェスター鉄道やレスター・ スワニントン鉄道などの新設路線に向けて蒸気機関車を製造した(のちに同社は初期の蒸 気機関車の大半を製造し、20 世紀中盤まで活動を続けた)。 ロバートは 1833 年には最初にロンドン市内まで敷設された鉄道であるロンドン・バーミ ンガム鉄道の主任技術者となり、キルスビートンネルなど土木上の難工事が多かったが、 1838 年には開通させた。ロバートは有名な橋をいくつも建造した。ニューカッスルアポン タインにあるハイレベル橋、メナイ海峡を横切る鍛鉄でできた箱型断面構造を採るブリタ 52 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ニア橋、コンウェイにある同様の橋、ベリックアポントウィードにあるロイヤルボーダー 橋などが彼の製作である。 ○鉄道時代の到来 1840年代はとくに鉄道が発展し、この10年間で、主要都市を結ぶ鉄道網が形成された。 投機的な資金が集まり、一種のバブルともいえる熱狂的な投資がなされたことから、鉄道 狂時代(レールウェイ・マニアと言われた。日本の鉄道ファンと意味が異なる)とも称さ れた。 そのピーク時である 1846 年には、新たな鉄道会社の設立に関する 272 もの法案が可決さ れた。これによりイギリスでは、同じ区間に重複して鉄道路線が敷設されたり、およそ採 算の取れる見込みのない地方にも敷設されたりすることになった。 一介の布地商人の徒弟であったジョージ・ハドソンは投機で成功して鉄道王となり、こ のバブルの象徴的存在となった(しかし、後にはバブルがはじけて没落した)。この鉄道バ ブルは間もなくはじけて、イギリスの鉄道会社は次第に集約されていった。 ブリテン島の営業線の総延長は急速に延び、1843 年までに 200 マイル(約 320 キロ) 、1850 年までには 6000 マイル(約 9600 キロ)を超え、世紀の中葉までには、全国の主要都市は すべて鉄道で結ばれた。 ○蒸気船の発明 蒸気船の発明はアメリカ人のフルトン(1765~1815 年)であったが、彼はこの産業革命 の真っ最中にイギリスに絵の勉強で来ていた。そのうち、彼の興味は絵から産業技術へと 移り、結局、イギリスの運河建設を学んでいた。 この頃、スコットランドのウィリアム・サイミントン(1763~1831 年)は、自分のつく った蒸気機関を据えつけた「シャルロット・ダンダス号」を完成し、1803 年 3 月、風にさか らって 2 隻の帆船を引いて、フォースークライド運河をグラスゴーまで 19.5 マイルを 6 時 間で航行した。こうして船の動力として蒸気機関の実用性が示された。そして彼はフォー スークライド運河ではしけの運搬に使っていたが、運河の堤防を壊す恐れが出てきてやめ てしまった。 これを見たフルトンは、蒸気船の将来性を確信し、フランスで知り合った駐仏アメリカ 公使ロバート・R・リビングストンの援助を得て、ボールトン・ワット社の蒸気機関を買い、 これを携えて 19 年ぶりにアメリカに帰国した(1806 年) 。 フルトンは、この蒸気機関と 2 つの外輪を 2 本のマストも備えた新造蒸気船「クラーモン ト号」に据え付け、平均時速 8km で走行させた。この船は 1807 年 4 月ハドソン川をニュー ヨークからアルバニーまで 240 キロメートルを、32 時間かけて処女航行した。 32 時間は驚くほど速いわけではなかったが、向かい風でも無風でも蒸気機関さえ動けば 53 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 確実に汽走出来ることが示された点で大成功であった。 公開実験の成功後、直ちに船内の宿泊設備などを整えて、土曜にニューヨーク発、水曜 にアルバニー発の週 1 往復のスケジュールで営業運行を開始した。1814 年にはクラーモン 号が引退し、より大きなリッチモンド号が登場した。その後はさらにカー・オブ・ネプチ ューン号、パラゴン号、ファイアフライ号の 3 隻も加わり、蒸気船時代になっていった。 蒸気船の速度は時速 10km程度で、4 頭立て馬車の 16kmより遅いけれども、運賃は安 く、天気がよければ水上の旅は快適で、馬車はあまり利用されなくなった。 最初に大西洋を横断した蒸気船は(といっても部分的には蒸気機関が使われ、帆が主に 使われたが) 、サバナ号であった。1819 年にアメリカ東岸のサバンナからイギリスのリヴァ プールへ、27 日と 11 時間で航海した。しかし、初期の蒸気船による長距離航海には、石炭 を大量に積んでいかなければならず、スペース効率が悪く不利と考えられていた。 この当時、エンジン(蒸気機関)の効率アップと鋼製の船体とスクリュー式推進機の 3 つの問題を解決する必要があった。1843 年、これらの 3 技術がイギリスのブルネル(1806 ~59 年)が設計したグレート・ブリテン号に結実した。この船は 1100 馬力、長さ約 107 メ ートル、幅 17 メートル、3443 トンで、252 人の乗客、130 人の乗組員、荷物 1200 トンの容 量があった。 蒸気船の出現は世界の海を半分か 3 分の 2 ぐらいに縮めた。当時、東インド会社はイギ リスからインドのブンバイ(ボンベイ)までの往復は最低 1 年、普通は 1 年半ぐらいかか っていた。グレート・ブリテン号の平均速度 9.3 ノットならば、途中で 3 回の石炭積み寄 港を入れ、向かい風であっても、1 年半で 3 航海はできた。 もちろん、これは大型汽船時代の競争の始まりに過ぎず、その後、この記録はもっとも っと縮められていった。その後も汽船の進歩発展は著しく、大西洋で華々しい速度競争の 幕が切って落とされた。 19世紀後半には鋼鉄製の2000トンを超える帆船と鉄製の軍艦が登場し、帆船に比べて蒸 気船の輸送効率はドンドン向上した。船体が木材から鋼鉄に変わり、船舶が使うエネルギ ーも薪炭から石炭に代替され、石炭を使う蒸気船は、1936年に石油によるディーゼル機関 が登場するまで、約130年余り続いた(ただし、軍艦は第一次世界大戦前に石油に切り替っ た)。近代船時代は、このあとタービンとディーゼル機関の発明をまって始まった。 【3-2】産業革命の影響 【1】都市化の進展 産業革命によって、物資が豊かになり、人々の生活が便利になったこと、資本の蓄積に よって産業資本主義が確立したこと、資本家と労働者の階級対立という新たな社会問題が 54 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 生じたこと、など、産業革命はその後の歴史の新しい展開の出発点となり、近代史上もっ とも重要なできごととなった。 産業革命は 18 世紀の後半から、まず、イギリスで最初にはじまったが、その規模が大き くなり、社会的な影響があらわれるようになったのは 19 世紀になってからといえよう。 図 19(図 13-43)のように、石炭や鉄の生産も 1790 年代から急増していることが見てとれ る。工場制度の発達により人口の都市集中がおこり、図 17(図 13-39)のように、マンチ ェスター、バーミンガムなどの工業都市、リヴァプールのような商港都市が新しく発展し こくごう た。とくに、綿織物工業地帯や石炭の豊富なイギリス中部の 黒郷 地帯(ブラック・カント リー)や製鉄業地に工業都市の発展がみられた。 図 19(図 13-43)石炭と鉄の生産 1830~50 年という時期は、工業化と都市化が進んでイギリスが農業国から工業国に転換 しはじめたとき、といわれている。この時期の工業化と都市化との関連でみると、鉄道の 発達があった。イギリスの産業革命は鉄道によって完成された。鉄道はレール、駅舎、鉄 橋、機関車、車両などに大量の鉄材を必要としただけでなく、建設にあたっては他にも大 量の資材と膨大な労力を必要とした。鉄と石炭にもとづくイギリス重工業の発展は、鉄道 建設事業によって本格化したと言っても過言ではない(その後の先進国はすべて、この鉄 道の敷設の時期に第一次の高度成長期をむかえている。第二次は高速道路網の建設時期で ある)。 鉄道網の発達によって、人口 200 万人の首都ロンドンを追って商工業都市のリヴァプー ル、マンチャスター、バーミンガム、グラスゴーが 20 万人ないし 30 万人都市に、またブ リストル、ブラッドフォード、リーズ、シェフィールドなどの商工業都市とスコットラン ドの首都エジンバラが 10 万人都市へとそれぞれ躍進し(図 17(図 13-39)、図 20(図 14 -10)参照)、1851 年の国勢調査において初めて都市人口が農村人口を凌駕した。 55 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 20(図 14-10)ヨーロッパの産業革命(1870 年ごろ) 【2】第二次エネルギー革命 1820年頃の鉄道の競争相手だった駅馬車は、ほこりだらけのでこぼこ道を時速16kmで 走りながら最盛期を迎えていた。イギリスの鉄道は反対運動を経ながらも、馬車に比べて 値段も安く快適で、運河に比べても目的地の近くまで行けたから、鉄道を利用する人は徐々 に増えた。 イギリスの産業革命の変革は、近隣のヨーロッパ諸国やアメリカにも伝播し、1855年の パリとマルセーユ間の鉄道は時速96kmで走り、時速60km程の現代の競争馬からみても、 蒸気(石炭)は馬力を追い抜いたのである。 アメリカでは南北戦争終了後の1869年に大陸横断鉄道が完成し、1905年にはヨーロッパ とアジアを結ぶシベリア鉄道が開通し、その後の60年間は蒸気鉄道が陸上交通の主役であ った。石炭で走る蒸気機関車という「鉄の馬」は、馬力を超え、馬とヒトの食料の奪い合 い問題も解決し、この効用から世界に広く普及し始めた。 前述した蒸気船を含めて、人類が多大なエネルギーを費やしてきた輸送の分野が石炭エ ネルギーに転換しただけでなく、製鉄業にしても機械産業にしても工業の分野は石炭で動 く蒸気機関を前提にして新たに創り出されていった。 ヨーロッパでは、石炭は11世紀末から露天掘りが行なわれ、木炭の補助的燃料として使 われ、17世紀ごろから木材不足が深刻になったことから本格的に使われ出したが、産業革 56 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 命後の19世紀初頭、世界規模で(主としてヨーロッパ)約1500万トン、19世紀末には7億ト ンにも増大した。 アメリカでは、まだ広大な森林があったから、石炭が本当に使われ出したのは、イギリ スの産業革命が伝播した19世紀後半からだった。その後の石炭化のスピードは速く、半世 紀で石炭使用は30倍、1910年にはアメリカの全エネルギー使用量の4分の3にも達した。 蒸気と石炭へのエネルギー転換が革命的だった理由は、①熱エネルギーを蒸気エネルギ ーに転換することで、②機械施設が導入されミル(家内作業場)がファクトリー(機械工 場)へ変わり、③上下運動が回転運動に換わる熱力学が応用され、④人力エネルギーを使 う奴隷・下僕・貧しい労働者たちの肉体酷使の労働が減って人の公平・平等性が向上し、 ⑤水力や風力エネルギーの立地制約が無くなって工場の立地場所を自由にし、⑥森林枯渇 を救い、⑦多くの分野で機械による生産を増やし、鉄道を興し、海上の船舶交通を拡大し、 電気を登場させる土壌を創ったからである。人類史において画期的な新エネルギー文明が 興り、第二次エネルギー革命と言われる由縁である(第一次は人類が火を使用したとき)。 しかし、人類はこの第二次エネルギー革命に乗りだしたということは、①それまでの再 生可能な自然エネルギーへの依存から、長くても数百年で使いきる有限な化石エネルギー 資源を活用し始め、②強力なパワーを発揮するエネルギーのため、そのまま使うと亜硫酸 ガス(SOX)や炭酸ガス(CO2)が排出され、人体や気象にマイナスの作用を及ぼすことにも なった。当時の人々が自然の奥深さを科学的に理解したうえで対応したわけではなく、科 学技術を含めた人類の知恵の限度を示しているとも言える。人類は、自然環境と共存する 「自然人」からは変容し、人工構造物に囲まれて人工的な思考を高める「人工人」への一 歩を踏み出したのである。 この第二次エネルギー革命以後、人類は、従来の農林漁業という産業規模に数倍、ある いは数十倍もする工業を取り込んで経済活動を活発にし、生活の快適性を向上させるため に、多くの化石燃料を使用するようになった。化石燃料とはいうまでもなく、第 1 章で述 べたように地質時代の生物が地中で圧力や熱を受け、長い年月をかけて変成してできた有 機物のうち、人間の経済活動のために使われる燃料でのことであり、量的には限界のある ものであったが、当時の人々にとっては、大型機械や蒸気機関車を動かす石炭は夢のエネ ルギー源であった。 【3】圧倒的な工業力を誇るイギリス この蒸気機関に代表される産業革命は、旧石器時代の狩猟民から新石器時代の定住農耕 民への変化にまさるとも劣らないほどの大きな意味をもつものであったが、その本質は「生 物に頼っていた動力を無生物によって代替」したことにあった。つまり、人類は「仕事が速 57 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― く、むらがなく、正確で、疲れを知らない」機械を使って石炭の熱を力に変えることを覚え、 莫大なエネルギー源を手に入れたのである。 この新しい機械が出現したことは、驚異的な結果をもたらした。1820 年代には、1 人が 数台の動力織機を操作して、手織機の 20 倍の織物を生産できたし、動力紡績機(ミュール) を使えば、糸車の 200 倍も能率があがった。1 台の機関車があれば、駄馬数百頭分の荷をず っと早く運べる。 産業革命には工場制度や分業など多くの重要な面があるが、なによりも重要なことは生 産力の飛躍的な増大で、とりわけ繊維産業の生産性が向上し、それが刺激となって機械や 原材料(綿花など)、鉄、船舶への需要が増え、運輸通信手段が発達したことであった。 多くの関連産業が生み出され、それに必要な多くの雇用が生み出されたことであった。 このたびの産業革命では投資さえすれば「飛躍的」な、つまり、人口増加(人口も増えた が)を超える生産性、富が生み出されるようになったのである。 イギリスの人口は、すでに 18 世紀の中葉以来、顕著な増加傾向を示していたが(主とし て 18 世紀の農業革命による食糧の増産がもたらしたと考えられている)、この傾向は 19 世紀になるとさらに加速され、1801 年の 1050 万人から 1911 年には 4180 万人(年率 1.26% で)と約 4 倍増加しているが、国民総生産の伸びはもっと大きく、19 世紀のあいだに 14 倍 に達していた。国民総生産の伸び率は年率 2~2.5%であったと思われる。ヴィクトリア女 王時代(1837~1901 年)だけで、1 人当り国民総生産は 2.5 倍に増えていた。 人口が増えても、機械によって生産性がさらに高く持続的に向上したので、人口増に食 いつぶされることなく、イギリスの平均実質賃金は 1815 年から 50 年までに 15 ないし 25% 上昇した。そして次の 19 世紀後半の 50 年間になんと 80%も上がったのである。 図 21(図 14-11)に世界の工業生産に占める相対的なシェア、図 22(図 14-12)に 1 人 当りの工業化水準を示す。1750 年の時点ではイギリスもヨーロッパもアジアも大きな違い はなかったが、1750 年から 1830 年にかけてイギリスの世界の工業生産高に占める割合は、 1.9%から 9.5%に上昇し、次の 30 年間には、19.9%に達した。このころになると、産業革 命の新技術がヨーロッパの他の諸国に広がっていったが、イギリスの優位はゆるがなかっ た。 58 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 21(図 14-11)世界の工業生産に占める相対的シュア(1750~1900 年) これが図 22(図 14-12)のように 1 人当りの工業化水準になるとさらに大きな差となっ て現れるようになった。それは、たとえばイギリスの紡績業をとれば、1750 年から 1830 年 代までの間に、生産性は 300 倍から 400 倍というオーダーで向上していたからである。 そして、工業では一つがよくなると関連する他の部門(たとえば鉄工業、輸送の鉄道、 機械をつくる工作機械や機械部品など)にも波及効果があり、連鎖的によくなるので、イ ギリスの工業はますます上昇していった。 図 22(図 14-12)1 人当たりの工業化水準(1750~1900 年) (1900年のイギリスを100とする) 図 23(図 14-13)は当時の工業経済力を測る三つの指標、すなわち石炭採掘高、銑鉄生 産高、綿花消費高について 19 世紀後半の主要列国を比較したものであるが、この時期のイ ギリスは、そのいずれにおいても他の諸列強を圧倒していた。 59 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 23(図 14-13)おもな国の産業の成長 1860 年は、イギリスの相対的な意味での絶頂期にあった年で、世界の鉄の 53%、石炭と 亜炭の 50%を産出し、全世界の原綿のほぼ 50%を消費していた。また、1860 年には近代的 なエネルギー源(石炭、亜炭、石油)から生まれるエネルギーの消費量は、アメリカやプロ イセン(ドイツ)の 5 倍、フランスの 6 倍、そしてロシアの 155 倍に達していた。 イギリスだけで世界の貿易の 5 分の 1 を占め、工業製品の貿易に限ればイギリスが 5 分 の 2 を扱っていた。世界の商船の 3 分の 1 はイギリスのものであり、しかもイギリス船籍 をもつ船の数はますます増えていた。イギリスは世界の貿易の中心だったのである。 そして、世界の人口の 2%、ヨーロッパの人口の 10%を占めるに過ぎないイギリスが、 近代産業において世界の生産能力の 40~45%、ヨーロッパのそれの 55~60%を所有してい たとみられる。まさに、イギリスこそが「世界の工場」となったのである。 イギリス自体は、国内の就業構造を大きく第二次産業、すなわち、工業に移した。1851 年でその比率は、42.9%であった。逆に、かつて人口の大半を占めた農業や漁業などの第 一次産業の従事者は,1851 年には 21.7%、更に 1871 年には 15.1%にまで低下した。その 後も下がり続け、一時は 3%程度まで低下した。 イギリスの古典派経済学者リカードによる「比較生産費説」と呼ばれる学説が自由貿易 主義を広めて、世界の周辺諸国から基本的な食糧を輸入し、イギリスは工業生産に専門特 化するほうが世界全体の生産性を高め、万人が幸せになる方法であると説いていた。 【4】産業革命の欧米諸国への伝播 産業革命によるイギリスの威力が飛躍的に高まったことは述べたが、やがてイギリスの 成長は緩やかになったということは、周辺の国々が産業革命(工業化)を取り入れ、工業 化を進めていったということである。もともと他の国々も絶対王政のもとに重商主義的に 産業の振興をはかってきており、マニュファクチュア(工場制手工業)のレベルまでに達 していた。あとは機械工業を取り入れればよかったので、伝播は比較的速かった。 60 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 他のヨーロッパの諸国やアメリカ(合衆国)は、イギリスの技術を取入れて、そのあと を追って工業化(産業革命)の道を歩み始め、これらの国々の工業生産が全体に占める割 合も着実に上昇し、1 人当りの工業化水準も上がり、国富も増えていった。その様子は 図 21(図 14-11)、図 22(図 14-12)みればわかる。 《壊滅状態になったインド、中国の産業》 ところが、アジアやアフリカやイスラム国家はそうはいかなかった。インドや中国は図 21(図 14-11)や図 22(図 14-12)のように工業生産に占めるシェアも 1 人当りの工業化 水準も縮小してしまった(中国、インドの 1 人当りの工業化水準はあまり低くて明示でき ない)。その原因はこうした国の昔ながらの市場にイギリス・ランカシャーの工場の安く て上等な繊維製品がなだれこんだことにあった。 1813 年(貿易面で東インド会社の独占が崩れた年)以降、インドの綿製品輸入量は 100 万ヤード(1814 年)から 5100 万ヤード(1830 年)、そして 9 億 9500 万ヤード(1870 年) と大幅に増加し、この過程でインドの伝統的な国内製造業の多くは駆逐されていった。中 国も同じで 1900 年ごろには見る影もなく衰退してしまった。 インドや中国およびその他の途上国では、人口ばかりは増加して、1 人当りの所得が時代 とともに限りなくゼロに近く低下していった。そこには恐るべき貧困が待ち受けていた。 つまり、1750 年にはヨーロッパと第 3 世界(途上国)では 1 人当り工業化水準にほとんど 差がなかったが、1900 年には第 3 世界の工業化水準はヨーロッパの 18 分の 1 に過ぎず、イ ギリスだけをとれば 50 分の 1 になってしまった。 ○恐るべき植民地化 16 世紀にヨーロッパが新大陸、アジア、アフリカに進出したときから、たとえば、コル テスの昔から、ヨーロッパは植民地支配をしてきた。しかし、それは 1800 年にヨーロッパ が占領し、あるいは支配していた地域は世界の陸地の 35%であったが、1878 年にはそれが 67%に増え、第一次世界大戦の直前の 1914 年には 84%を超えてしまった。産業革命以前の 世界の植民地は特産品を対象にした点と線の植民地であったが、産業革命後の植民地支配 は全面的な面支配に変ったのである。 それがなぜ可能であったか。産業革命には下記のように 2 つの面があった。 産業革命→機械化→大量生産→大量輸出→発展途上国の産業衰退→植民地化 ” ” →高度兵器の量産化→軍事力による威嚇・戦争→植民地化 つまり、産業革命技術による武器の「飛躍的」な進歩であった。再三述べるように、技術 はよくも悪くも使われる。高度な工作機械や繊維機械が安く速く作れるようになるならば、 武器のほうも当然安く速く大量に作れるようになる。産業革命は武器革命でもあったのだ。 61 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ヨーロッパは経済的にも軍事的にもアジア・アフリカに対して圧倒的な優位をかちえたの である。 先込め式の銃を改善した元込め式の銃(撃発雷管、銃身の旋条など)が出現して発射速 度が大幅に高まった。そして、ガトリング機関銃、マキシム機関銃、軽量の野砲などの「火 器革命」が完成し、旧式の兵器に頼っている原住民は抵抗しようにも、まったくそのすべが なくなってしまった。そのうえ、風があってもなくても動き、川をさかのぼって進む蒸気 機関を搭載した砲艦が登場し、すでに公海を支配していたヨーロッパの海軍は、アフリカ のニジェール川やインドのインダス川、ガンジス川や中国の長江などを内陸部の奥深くま で上ってくるようになった。 こうして、移動性と火力にすぐれたイギリスの甲鉄艦「ネメシス」は 1841~42 年のアヘン 戦争で、清国防衛軍の艦船を完膚無きほどに撃破してしまった。1898 年 9 月 2 日、イギリ スのキッチナー将軍はスーダン征服戦のオムダーマンの戦いにおいて、マキシム機関銃と ライフル銃で、夜が明けてわずか数時間のうちに 1 万 1000 人の死体の山を築いてマフディ ー軍を撃滅し、味方はわずか 48 人の損害しか出さなかった。このような実戦の例は少なく ても、その威圧によって、アジア・アフリカ諸国は沈黙させられた(現代でいえば、核兵 器所有国と非核兵器国が対峙するようなものであった) 。 この戦力の差と産業の生産性の格差とがあいまって(このように必ず産業力と軍事力は あい携えて進んだ。それは工業技術の根っこは同じであるから) 、ヨーロッパ先進国は最も 遅れた国々にくらべて 50 倍から 100 倍の力を手に入れたことになる。西洋諸国の世界支配 は、ヴァスコ・ダ・ガマの時代以来の趨勢ではあったが、産業革命を経ることによって、 その前に立ちふさがるものはほとんどなくなったのである。世界の 84%を征服したのも、 その圧倒的な武力(の威圧)であった。ヨーロッパ列強は先物勝ちでアジア・アフリカ征 服に乗り出したのである。その先陣をきったのがイギリスだった。 【3-3】石炭エネルギーの利用 【1】イギリス産業革命後の石炭エネルギー 18 世紀になってジェームズ・ワットによって蒸気機関が実用化され、燃料として石炭が 大量に使用されるようになった。また同じ頃に石炭を乾留したコークスによる製鉄法が確 立され、良質な鉄が安価に大量に生産できるようになり、産業革命を大きく推進させたこ とは述べた。ここでは、その後の石炭エネルギーがどうなったかを述べる。 19 世紀末になるとコークスを製造する際の副産物として出てきたドロドロの液体コール タールを原料として石炭化学工業が始まり、染料のインディゴ、薬品のアスピリン、ナフ タリンなどが作られるようになった。石炭と石灰岩を高温(2,000℃)で反応させてできた 62 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 炭化カルシウムからアセチレンが作られ、有機化学工業の主原料となった(現在この地位 は石油起源のナフサ/エチレンに替わっている)。 燃料としての石炭は工場の動力のほか、鉄道や船の蒸気機関の燃料として使われた。都 市の照明や暖房・調理用に石炭由来の合成ガスが使われた。これは石炭の熱分解から得ら れたガスで、最初はコークスを作る際に発生するメタンや水素を主成分とするコークス炉 ガスがロンドンのガス灯などに使われた。 次にもっと大量に生産できる都市ガスが開発された。灼熱したコークスに水をかけて得 られる一酸化炭素と水素からなるガスで、大都市で 1970 年代まで使用されたが、便利では あるが毒性が強いものであったため現在では毒性の少ない天然ガスに切り替わりつつある。 19 世紀末から 20 世紀中旬にかけて、先進各国の都市では工場や家庭で使用する石炭から出 る煤煙による公害問題が大きくなっていった。 後述するように、20 世紀にはいると石油の採掘技術が発展し、アメリカ国内、中東、イ ンドネシアで大規模な油田が開発されて、大量に安価に入手できるようになった。石油は 液体なので貯蔵・移送が便利な上、発熱量が大きく、煤煙が少ないので石炭に代わる燃料 として使われるようになった。 1910 年まで世界の海軍の主要艦艇の燃料は石炭であったが、イギリスでは 1914 年に竣工 した軽巡洋艦アリシューザ級と 1915 年竣工の戦艦クイーン・エリザベス級以後の艦は、燃 料を重油に切り替えた。日本などの国々でも 1920 年代以後に建造された艦の燃料はほとん ど全て石油に切り替わった。 他の分野では石油への切り替えは少し遅れた。鉄道分野では当初動力車として蒸気機関 車のみしかなかったが、1940 年代にはアメリカで高出力ディーゼル機関車の本格運用が始 まった。ドイツは第二次世界大戦中に、輸入が途絶した石油の代替として石炭液化技術を 実用化した。これは高温(500℃以上)高圧(数十気圧以上)の条件下で石炭と水素を反応 させて炭化水素を合成する方法であった。 第二次世界大戦後、中東で大量の石油が採掘され 1 バレル 1 ドルの時代を迎えると、産 業分野でも石油の導入が進み(流体革命といわれた)、西側先進国で採掘条件の悪い坑内 掘り炭鉱は廃れた。 第二次世界大戦で敗戦した日本は疲弊した国内産業の建て直しのために国策として石炭 の増産を実施し(傾斜生産方式)、戦後の復興を遂げた。当時火力発電はほとんど石炭を 燃料としていた。しかし 1960 年から発電用燃料として石油の使用量が増大し、1970 年代に は石炭のみを使う火力発電所は新設されなくなった時期があった。また既設の石炭火力発 電所も石油使用に改造された。 しかし 1970 年代に二度の石油危機で石油がバレル 12 ドルになると、重油ボイラーを比 63 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 較的簡単に微粉炭ボイラー(石炭を粉にして吹き込む)に改造できたため、第二次石油危 機後の 1980 年代にほとんどの発電燃料・産業燃料が値段の安い石炭に回帰するか天然ガス に切り替わった。発電燃料・産業燃料においても微粉炭ボイラーが開発され手作業給炭は 過去のものとなった。 しかし、石炭生産そのものは日本では復活しなかった。オーストラリアの露天掘りなど、 採掘条件の良い海外鉱山で機械化採炭された、安価な海外炭に切り替わっていたからであ る。海上荷動きも原油に次いで石炭と鉄鉱石が多く、30 万トンの大型石炭船も就役してい る。 石炭は蒸気ボイラー用燃料として発電・製鉄所・各種工場燃料に使われるほか、途上国 では鉄道・船舶暖房や煮炊きに使われる場合もある。また日本のセメント工業の燃料とし ては石油よりも多く使われている。製鉄所では瀝青炭を乾留したコークスが大量に使用さ れている。 ただし化学工業の原料としては、現在も石油が使われている。現在の化学工業の基本と なっているのは、石油の低沸点部分ナフサを原料としたエチレンである。 一方で石油代替燃料のライバルとして天然ガスが登場した。しかしながら石炭の価格が 最も安価なため、1980 年代以降アメリカや中国では石炭火力発電が発電の最大の柱となっ ている。 日本では、東京電力・中部電力・関西電力のような大都市圏の電力会社では比較的天然 ガスの比率が高いものの、地方の電力会社では、沖縄電力が 2010 年の統計で発送電電力量 構成比で石炭火力発電が 77%をしめるのを筆頭に、中国電力でも 58%、北陸電力でも 44%を しめるなど石炭火力発電が発電の柱となっている会社も多い。 2005 年以降で中国での自動車普及による需要急拡大などを背景として原油価格がバレル 50~100 ドルに暴騰し、メタノールや天然ガスなどの石油代替自動車燃料が広がりつつある が、メタノールの合成原料は石炭と天然ガスである。 以上のように、石炭もいろいろ使い方に工夫が加えられ、現在も多方面に使用されてい る。 【2】石炭の利点、欠点 石炭の利点は、まず、安価なコストにある。自動車の普及した先進国では石油の占める 割合が高いが、エネルギー消費の過半数を占める発電燃料・産業燃料では、コスト優位に よって石炭が首位を奪還した国も多い。北海油田を抱えるイギリスは産業燃料も天然ガス の比率が高く、フランスは原子力発電が 8 割を占めるが、ドイツは国内石炭が首位でシベ リア天然ガスがそれに次ぎ、アメリカも発電燃料は石炭が圧倒的首位である。中国は自動 64 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 車の普及で石油輸入量が急増し日本を追い抜いたが、依然として全エネルギーのうち 7 割 以上を石炭が占めている。 石炭の第 2 の利点は、豊富な埋蔵量である。石炭は他の燃料に比べて埋蔵量が多く、か つ石油のような一地域への偏在が少なく、全世界で幅広く採掘が可能なエネルギー資源で ある。 後述するように、経済的に採掘できる可採埋蔵量(2008 年)は 8,609 億トンであり、石 炭の炭種別には、瀝青炭と無煙炭が 4,048 億トン、亜瀝青炭と褐炭で 4,562 億トンである。 比較的埋蔵量の多い国は、アメリカ合衆国・ロシア連邦・中国である。これらの国では、 炭層が厚く、広範囲に分布することから、露天掘りが多い。輸出向けの実績はオーストラ リア、インドネシアが堅調に推移している。 また石油が世界の埋蔵量のうち中東地区に 70 %以上が偏在したり(1999 年のデータ)、 天然ガスが旧ソ連と中東で 70 %以上の埋蔵量を占有したりする状況であるのに比べて 石 炭はアメリカ、ロシア、中国、オーストラリア、インド、ドイツと政情の安定している国 の埋蔵量が大きいことが特徴(1999 年のデータ)である。 また、製鉄業においては、現在のところ石炭が有利である。鉄鉱石とは錆びた鉄・酸化 鉄と脈石の塊であり、製鉄とは還元反応である。現在の高炉法は粘結炭(瀝青炭)を蒸し 焼きにしたコークスと塊状鉄鉱石を円筒形の高炉に積み上げ、下から空気を吹き込んで発 生する一酸化炭素で銑鉄を作るので、石炭(特に粘結炭)が不可欠である。 石炭は上記のような利点がある一方で下記のような欠点がある。 他の化石燃料である石油や天然ガスに比べて、燃焼した際の二酸化炭素 (CO2) 排出量が 多く、地球温暖化の主な原因の一つとなっている。1990 年代以降、地球温暖化問題がクロ ーズアップされるようになると石炭使用に対する風当たりが厳しくなっている。石炭は高 品位になるほど炭素含有量が増えて水素・酸素が減ってゆき、無煙炭の炭素含有量は 90 % 以上に達する。他の燃料を燃焼すると二酸化炭素と水ができるが、高品位の石炭を燃やす と燃焼生成物の大部分が二酸化炭素となる。 硫黄酸化物除去は実用化されており、二酸化炭素も燃焼放出の前後で分離・回収して地 中に貯留する二酸化炭素回収・貯留技術(CCS)が研究されているが、はたして経済的に可 能かどうかの見通しは立っていない。 第 2 に、固体のため、採掘・運搬・貯蔵に際してコストがかかる。液体はポンプと配管 で輸送できるが、石炭の輸送にはパワーショベルまたは人手による投炭、ホッパー、ベル トコンベアなどが必要である。貯蔵の際には屋内屋外の貯炭場などに積み上げられること になる。坑内掘りの場合は、粉塵やガスの爆発事故や、ガスによる酸欠事故、粉塵による 塵肺、落盤事故などの危険が伴う。 65 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第 3 に、天然ガスより熱効率を上げにくい。石炭も微粉炭にして酸素吹き込みで燃やせ ば高温の一酸化炭素・二酸化炭素が発生するので、ガスタービンを回したあとの数百℃の 熱排気でボイラーを熱して蒸気タービンを回すコンバインドサイクルは可能で研究も進ん ではいる。ただし石炭に含まれる灰分が溶けてタービン翼に障害を与えるのを(低コスト で)処理するのが難しい。 そのためカロリーあたりでは石炭のほうが安くても、天然ガスコンバインドサイクル発 電所のほうが石炭火力発電より燃料消費が少ないので、ドイツのような隣国から天然ガス をパイプラインで購入している国の場合は天然ガス発電所が増えている。日本やイタリア のように液化天然ガスで輸入している国は天然ガスを-160 ℃で液化するコストが掛かっ ているので、どちらが有利か試算者によって結論が異なる。いずれにしても、先進国では 地球温暖化対策もあって、石炭火力発電から天然ガス発電に転換しつつあるが、途上国で は CO2 排出量が多い石炭火力発電が増加している。 第 4 に、石炭には、特に硫黄は原油同様 0.数 %含まれているが、これは燃やすと酸性雨 の主要因となる硫黄酸化物になる。窒素成分も他のエネルギー源より多く、これは燃やす と窒素酸化物となるため、酸性雨の原因となる。また石炭は灰分を含んでいるため、他の 燃料に比べて煤塵発生が多く大気汚染の原因となる。 これらの環境汚染物質については、硫黄酸化物については湿式石灰石-石膏法による脱硫 装置、窒素酸化物については燃焼方法の改善や排煙脱硝装置、排煙中の煤塵は集塵機によ り除去され、国や地方自治体が設定した排出基準以下に抑えられるようになった。しかし、 途上国の石炭火力発電所ではこのような公害防止装置が付いていない場合が多く、周辺環 境に公害をまき散らしている。 【3】世界の石炭産業の現状 ○世界の石炭埋蔵量 石炭の地質学的な賦存量は約 11 兆トンで、このうち無煙炭と瀝青炭が 5.3 兆トン、亜瀝 青炭と褐炭が 5.7 兆トンと推定されている。しかし、技術的、経済的に採掘できる可採埋 蔵量はその 10 分の 1 以下の 8,609 億トンであり、石炭の炭種別には、瀝青炭と無煙炭が 4,048 億トン、亜瀝青炭と褐炭で 4,562 億トンである。 比較的埋蔵量の多い国は、図 24 のように、アメリカ合衆国・ロシア連邦・中国である。 これらの国では、炭層が厚く、広範囲に分布することから、露天掘りが多い。輸出向けの 実績はオーストラリア、インドネシアが堅調に推移している。 中国は石炭需給が逼迫している中、2007 年にはついに石炭輸出国から輸入国へ転じた。 日本では、石油代替エネルギーとして石炭の利用が増加してきており、オーストラリア、 66 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― インドネシア、中国、ロシアなどから年間約 1 億 8000 万トンもの石炭を輸入している。 2008 年の石炭の主要消費国上位 5 ヶ国は中国(70.2)、アメリカ合衆国(24.6)、イン ド(53.3)、日本(25.4)、南アフリカ(77.7)である(( )内は各国の 1 次エネルギ ー消費に占める石炭の割合(%))。 石炭の持つメリットとしては、石油、天然ガスに比べ地域的な偏りが少なく、世界に広 く賦存していることを挙げることができる。また、可採年数(可採埋蔵量/年産量)が 109 年(BP 統計 2013 年版)と石油等のエネルギーより長いのも特徴である。 図 24 主要国の石炭埋蔵量 ○石炭の生産量 2012 年の世界の石炭生産量(褐炭を含む)は 78 億 3,100 万トンと推計されており(対前 年比 2.9%増)、このうち褐炭を除いた原料炭、一般炭及び無煙炭の生産量は 69 億 2,600 万トン(対前年比 3.4%増)と全体の 88%を占めた。 2012 年の石炭生産量を国別シェアでみると、図 25(第 222-1-19)ように、中国(45%) とアメリカ(12%)の 2 ヶ国で世界の生産量の半数以上となる 57%を占めた。さらに、イ ンド、インドネシア、オーストラリア、ロシアまでの上位 6 ヶ国の生産量を合計するとそ 67 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― のシェアは 80%であった。 図 25(第 222-1-19)世界の石炭生産量の推移 (出典)OECD/IEA「Coal Information 2013」を基に作成 中国は、2001 年以降、電力分野を中心に急拡大する国内消費に応えるため、生産量を大 幅に伸ばしている。第 2 位のアメリカは石炭を石油に次ぐ重要なエネルギーと位置付けて きており、2000 年代前半までは石炭火力発電が発電電力量の 50%以上を担ってきた。しか し、環境問題、天然ガス火力発電所の増加等により発電電力量に占める石炭火力発電の比 率は次第に下がり、さらにはシェールガスの生産増加により天然ガス価格が低下し、その 結果、電力分野での石炭消費が減少した。 《石炭の消費量》 図 26(第 222-1-20)に世界の石炭消費量の推移を示す。2012 年の世界の石炭消費量(褐 炭を含む)は 76 億 9,700 万トンと推計されている(対前年比 2.3%増)。2012 年の石炭消 費の国別シェアは、中国(48%)、アメリカ(11%)の 2 ヶ国で世界の石炭消費量の半数 以上(59%)を占めた。中国は 1990 年代後半から 2000 年台初頭にかけて石炭消費量の伸 びが停滞したが、それ以後、石炭消費量を急激に増加させ、2012 年の消費量は 36 億 6,600 万トンまで増加した。 日本の 2012 年の石炭消費量は 1 億 8,400 万トンで、インド、ロシア、ドイツ、南アフリ カに続き世界第 7 位だった。 68 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 26(第 222-1-20)世界の石炭消費量の推移 (出典)OECD/IEA「Coal Information 2013」を基に作成 ○石炭貿易の動向 2012 年の世界の石炭輸出量(褐炭を含む)は 12 億 5,500 万トンと推計された。図 27(第 222-1-21)のように、インドネシアは 2011 年にオーストラリアを抜き世界最大の輸出国に なり、2012 年は世界の輸出量の 30.5%を占めた。第 2 位のオーストラリアは世界の輸出量 の 24.0%を占め、次いでロシアが 10.7%と続き、以下、アメリカ、コロンビア、南アフリ カの順となった。この上位 6 ヶ国で世界の石炭輸出量の 86%を占めた。 中国は 2003 年には世界第 2 位の輸出国だったが、国内消費の急拡大により需給がひっ迫 したことから 2004 年以降に輸出量が急減し、2012 年の輸出量は 1,050 万トン(世界第 12 位)まで減少した。 一方、輸入国としては、2011 年には中国が日本を抜いて最大の輸入国になった。図 28(第 222-1-22)のように、2012 年の中国の輸入量は 2 億 8,880 万トン(褐炭を含む世界の総石 炭輸入量の 22.6%)、日本の輸入量は 1 億 8,380 万トン(14.4%)、以下、インドが 1 億 5,960 万トン(12.5%)、韓国が 1 億 2,550 万トン(9.8%)、台湾 6,450 万トン(5.1%) と続いた。 69 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 27(第 222-1-21)世界の石炭輸出量(2012 年見込み) (出典)OECD/IEA「Coal Information 2013」を基に作成 近年、中国、インド等アジア諸国では電力消費の増加に伴い石炭火力発電所での石炭消 費が増加し、2012 年には日本、中国、韓国、インド、台湾のアジアの合計で 8 億 2,220 万 トン(褐炭を含む世界の総石炭輸入量の 64.4%)が輸入された。とくに、石炭消費の拡大 が著しい中国では、2009 年に輸入量が 1 億トンを超え、輸入量が輸出量を上回る純輸入国 に転じた。 70 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 28(第 222-1-22)主要輸入国における石炭輸入量(2012 年見込み) (出典)OECD/IEA「Coal Information 2013」を基に作成 ○石炭価格の推移 図 29(第 222-1-24)に日本の輸入炭 FOB 価格の推移を示す。 2003 年夏以降の世界的な石炭需給ひっ迫を受け 2003 年末から一般炭スポット価格が急騰 し、その後も高止まりしたことから、2004 年度、2005 年度と上昇した。さらに 2007 年夏 に世界最大の石炭輸出国であるオーストラリアニューサウスウェールズ州の石炭積出港を 嵐が襲い、供給が滞ったことを発端に、スポット価格が上昇を続け、2008 年度の価格は前 年度を大幅に上回った。 2009 年度の価格は一転して世界同時不況の影響を受け、前年度を大幅に下回ったが、2010 年度は経済情勢の回復を反映して、一般炭の価格は上昇に転じ、中国やインドが輸入を増 やす中、2011 年度には 130 ドルに迫る高値を記録した。2012 年度の価格は輸出国の供給力 が増加しているのに対して、欧州の経済不安等から世界的に需要の伸びが鈍化し、値を戻 した。その後も石炭供給力が需要を上回る状況が続き、2013 年度の価格は引き続き下落し 71 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― た。 図 29(第 222-1-24)日本の輸入炭 FOB 価格の推移 (出典)2005 年度までは Barlow Jonker(現 Energy Publishing Inc)「Coal 2005」、2006 年度以降は各種情報を基に作成 一方、原料炭価格も世界的な石炭需給のひっ迫、豪州を襲った豪雨による影響を受け、 2005 年度、2008 年度、2010 年度、2011 年度に急上昇した。2008 年度においては、2008 年 1 月から 2 月にかけて原料炭の輸出地であるオーストラリアのクィーンズランド州を襲った 記録的な集中豪雨による炭鉱の冠水等のために生産や出荷が滞り、前年度比で 3 倍以上と なる 300 ドルまで急上昇した。 一般炭と同様に、2009 年度は世界同時不況の影響を受けて大幅に下落したが、2010 年度 は経済情勢の回復を反映し、原料炭価格も上昇に転じた。2011 年度はクィーンズランド州 を再度記録的な集中豪雨が襲い生産や出荷が滞ったことと輸入需要の高まりを背景に 300 ドルを超える最高値を更新した。しかし、欧州の経済不安、さらに中国、インドでの経済 成長の減速等から世界的に原料炭需要が停滞したため、2012 年度の価格は 2010 年度のレベ ルまで戻り、2013 年度も引き続き下落した。 石炭の価格と他の化石エネルギーの価格を同一の発熱量(1,000kcal)当たりの CIF 価格 で比較すると、図 30(第 222-1-26)のように石炭の価格が原油、LNG、LP ガスの価格より も低廉かつ安定的に推移していることが分かる。 72 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 30(第 222-1-26) 化石エネルギーのカロリー当たり CIF 価格 (出典)日本エネルギー経済研究所「エネルギー・経済統計要覧 2013」を基に作成 1980 年代前半では石炭(一般炭)の価格優位性は非常に高いものだったが、1986 年度以 降その価格差が縮小した。しかし、1999 年度以降再び価格差は増大し、石炭の優位性が増 してきた。また、2004 年度以降、原油価格の上昇に合わせて他の化石エネルギーの価格も 上昇しているが、発熱量当たりの CIF 価格で比較すると、石炭の上昇幅は他の化石エネル ギーよりも小さくなった。2012 年度は前述したように石炭価格が下落したことから発熱量 当たりの CIF 価格は低下した。 73 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第 4 章 第二次産業革命と電気と石油の時代 【4-1】第二次産業革命の展開 【1】第二次産業革命とは ○19 世紀の科学―当時の先端科学 イギリスで起きた産業革命は、フランス、ドイツ(プロイセン)などヨーロッパ諸国に 波及し、アメリカ合衆国が 19 世紀中葉から後半にかけて、日本はもっと遅れて 19 世紀末 から 20 世紀初めにかけて、ロシアは 20 世紀初めに、それぞれ産業革命を経験して工業化 の段階へと移行した。 そのイギリスの産業革命は、主として経験に基づく発明から生み出されていたが、19 世 紀になると、科学のすべての分野に大きな発展がみられた。そして、科学の実用的な成果 が日常生活で明らかになるにつれ、科学は比較的大衆的なものになっていった。 19 世紀の科学の業績としては、化学での原子説、有機化学の興隆、静電気から始まった 動電気利用の技術、物理学でのエネルギー保存と電磁気学の理論といった普遍的な自然法 則の発見、熱力学の成立を促した蒸気機関の研究、生物学での細胞説、実験生物学の確立、 世界観にまで影響を及ばした進化論などがあげられる。 また、18 世紀までの科学を色どった「自然哲学者」は消滅して、19 世紀中頃には「科学 者」という語がつくられたように、専門家としての科学者が興隆し、実際、19 世紀も半ば 過ぎるとアマチュアとして科学の世界に籍をおくことは少数の例外は別としてむずかしく なってきた。 ○第二次産業革命 このように、19 世紀後半から、専門化した高度(先端的)の科学的学問を基礎に化学・ 鉄鋼・電気・自動車・石油などの新しい産業が興ってきた。その中心はドイツであったが、 急速に伸びてきたアメリカ合衆国でも、トマス・エジソン、ニコラ・テスラおよびジョー ジ・ウェスティングハウスを先駆けとする電気の利用は世界に先行するものであった。石 油産業の発展もアメリカが著しく、その豊富な石油燃料を動力源とする自動車や航空機も 開発され、輸送の分野が大きく発展することになった。 したがって、科学的な発見とその産業的応用(産業化)の期間がきわめて短縮され、同 一人物による科学的発見(発明)即産業化ということもあった。これを「第二次産業革命」 と名づけ、当初のイギリスで起きた産業革命を「第一次産業革命」と呼ぶことがある(また、 20 世紀後半になると、主として第二次世界大戦中にアメリカが開発していた軍事技術がス ピンオフ(波及)して電子・情報・航空宇宙・原子力などの新規産業を生み出すことにな った。これを「第三次産業革命」と呼ぶことがある。これについては第 5 章で述べる)。 74 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― このように、その後にも、次々と「画期的な科学的な革命」が起きると、従来はイギリス 以外の国々で起きた産業革命も含めて産業革命と言っていたが、現在では産業の変化とそ れに伴う社会の変化については、「革命」というほど急激な変化ではないという観点から、 「工業化」という言葉で表されることが多くなった。ただし、イギリスの事例については 依然として「産業革命」という言葉が使われている。 その時期を特定すると、いわゆる産業革命(第一次産業革命)はイギリスを中心に 1760 年頃から 1830 年頃までであり、ここで述べる第二次産業革命は、通常、年代は 1860 年頃 から 1930 年頃までと考えられている。しかし第二次産業革命は、技術や社会的な見地から みてイギリスに始まった産業革命とここで区切られると言うようなはっきりしたものがあ る訳ではない。 この第二次産業革命の特徴は、電気や化学など新しい科学をもとに産業がつくられたと いうことである。科学の基礎研究を中心にして発展する産業においては、基礎研究の成果 が即産業化される傾向が生まれてきた。具体的に述べると、ドイツでは大学での基礎研究 から新原理の発見・応用・企業化が行われ、その過程での新科学による教科書の作成、そ れによる高度な科学技術人材の育成、中堅技術者の大量育成が組織的に行われるようにな り、科学技術による新産業の拡大育成手法が確立されていった。 この時代には、鉄鋼、化学、電気、内燃機関による機械(自動車など) 、石油の分野で技 術革新が進んだ。消費財の大量生産という仕組みの発展もあり、食料や飲料、衣類などの 製造の機械化、輸送手段の革新、さらに娯楽の面では映画、ラジオおよび蓄音機が開発さ れ、大衆のニーズに反応しただけでなく、雇用の面でも大きく貢献した。 ○第三次エネルギー革命 1860~1930 年ごろにかけて、ドイツ、アメリカを中心に第二次産業革命が起こったと述 べた。ちょうどこの時期に、1859 年にアメリカで(ドレークによって)新しい石油採掘方 式が開発され、石油の大量生産が可能になると、その利用方法も急速に発展した。新しい エネルギーは新しい利用法を生み出し、新しい産業を育てることになった。 ドイツで、 (オットーによって)直接的に熱エネルギーを力学的エネルギーへ変換する手 法として、内燃機関が発明された。それを利用する(ダイムラーやベンツによって)自動 車も発明された。アメリカでは、 (ライト兄弟によって)飛行機が発明された。拡大する石 油需要に対応するために、 (ロックフェラーによって)石油産業が発達した。 また、蒸気機関や内燃機関によって得られる力学的エネルギーを、電気エネルギーへ変 換する手法が確立され、社会の電化も進むこととなった。電気が発明されて照明に使われ ると、夜の明かりを手にし、動力に応用されて工場作業は一変し、電気鉄道の登場で新た な交通手段を得ることになった。加えて石油による自動車や航空機、ガスによるパワフル 75 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― なエネルギーが登場し、人々の生活はさらに高度化した。 電気と石油・ガスを組み合せた新エネルギー・システムは、人類史において第三次エネ ルギー革命と云える全く新しい文明を登場させ、生活や行動範囲を劇的に変貌させること になった。そのような意味で第二次産業革命は、エネルギーの面からみると、第三次エネ ルギー革命でもあった(すでに述べた人類の火の利用が第一次エネルギー革命、石炭の利 用が第二次エネルギー革命であり、これから述べる石油と電気の利用が第三次エネルギー 革命といわれている) 。 初期の蒸気機関では、熱源として石炭が用いられていたが、石油の発見および精製技術 の発達とともに徐々に石油や天然ガスへ移行していった。第二次世界大戦後には 1950 年代 に中東で相次いで大油田が発見され、石油の値段が急速に下がったので、石油は、さまざ まな交通機関、暖房用、火力発電などの燃料として、また石油製品の原料として、その消 費量は飛躍的に増加した。この石炭から石油への急速な移行を流体革命と呼んでいる。 このようにエネルギーは大量に安く供給されるようになると(しかも石炭より石油が扱 いやすかったので) 、爆発的にエネルギー転換が進み、エネルギー革命といわれる現象が起 きたのである。しかし、現在でも発電部門を中心として石炭蒸気ボイラーは相当数利用さ れている(これが地球温暖化の大きな原因となっている)。 以上のようなことから、この第 4 章では、まず、【4-2】で第三次産業革命の展開を 述べる。 次いで【4-3】で電気の基礎研究からどのようにして電気産業が生まれ発展していっ たかを述べる。1800 年頃から電気の研究が開始され、新発見や発明が次々に重ねられ、電 気の革命的な利用への基礎が作られた時代だった。やがて、照明エネルギーとして地歩を 固めた電気は、1900 年のパリの万国博覧会は「光とエネルギー」がテーマで、光と動力と しての電気の利用が広がる世紀の始まりだった。1900 年のアメリカの動力エネルギーに占 める電気は 4%で、蒸気、石炭、石油が主力エネルギーだった。しかし電気製品、市街電車、 地下鉄などが増えるにつれて電気の販売価格が安くなり、40 年後の 1940 年には 70%に普 及した。 電気によって、身近なコンセントから明かりも動力も簡単に取り出せ、①工場や事務所 が街なかにも設置でき、②通勤・通学時間は短縮され、作業時間が増え、家事労働が軽減 だんらん し余暇・団欒時間が増え、③薪炭、石油、ガスなどは代替され、④新しい電気製品が医療、 福祉、産業、輸送など多様な部門に応用され、⑤福祉や衛生環境がよくなって長寿命化に 貢献し始めた。こうして、火、蒸気に次ぐ人類史における第三次のエネルギー革命になっ たのである。 【4-4】でどのようにして石油の利用法が開発され、石炭などの既存のエネルギーに 76 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 代替していったかを述べる。 20世紀の文明は電気と並んで石油エネルギーで支えられ、いわば石油の世紀でもあった。 1970年代の2つの石油危機で石油シェアは減ったとはいえ、2000年では世界エネルギーの 38%、日本では50%を占め、次の石炭(それぞれ26%、18%)を大きく引き離している。 石油製品は、自動車のガソリンや軽油、航空機のジェット燃料油、発電所や工場や漁船 の重油、郊外住宅やタクシーのプロパンやブタンガス、道路舗装のアスファルト、機械の 潤滑油など身近に使われている。とくにナフサは、ナイロン、テトロン、ポリエチレン、 塩化ビニルなどに姿を変え、おびただしい身の回り品になり現代文明を形づくった。その 石油文明の150年をたどり、21世紀の人類が当面することになった問題について述べる。 【2】化学の基礎研究と化学工業の成立 まず、化学の基礎研究が進み、その蓄積がある段階をすぎたところでその研究の成果か ら化学工業が興ってきた過程を述べる。 ○化学の基礎研究 偉大な化学者ラボアジエ(1743~1794 年)はフランス革命中の 1794 年に断頭台の露と消 えたが、19 世紀の化学もラボアジエの研究の続きからはじまった。その主要な流れをみる と、以下のようになる。 ◇プルーストが定比例の法則を発見(1799 年)―「ある化合物を構成している成分元素の質 量比は、つねに一定である」という定比例の法則を発見。 ◇ドルトンの原子説(1803 年)―『化学理論の新体系』(1808 年)で原子論を説き近代化 学の古典的基礎を樹立。 ◇ゲイ・リュサックの気体反応の法則(1808 年)―「ある反応に 2 種以上の気体が関与す る場合、反応で消費あるいは生成した各気体の体積には同じ圧力、同じ温度のもとで簡単 な整数比が成り立つ」という気体反応の法則の発見。 ◇アボガドロの法則(1811 年)―「同温同圧のもとでは、すべての気体は同じ体積中に同 数の分子を含む」というアボガドロの法則を発表。 ◇リービッヒの化学教育法(1825 年から)―ドイツのギーセン大学のリービッヒは世界で 最初となる学生実験室を大学内に設立し、初学生向けの練習実験室と経験を積んだ学生向 けの研究実験室に分け、大勢の学生に一度に実験させて薬学や化学を教えるという新しい 教育方式を始めた。ここでは学生は定性分析と定量分析、化学理論を系統立てて教えられ、 最後に自ら研究論文を書くことを求められた。 また、リービッヒは、リービッヒの炭水素定量法の創始、リービッヒ冷却器の発明など、 新しい化学の実験方法、新しい実験器具の開発にも力を入れた(実験の方法、道具を開発 77 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― することが重要である) 。さらに 1832 年に化学の論文誌である『薬学年報』を創刊し、自 ら編集を行った。これはその後 1840 年に『薬学および化学年報』と名を変え、さらにリー ビッヒの死後には彼を記念して名を『ユストゥス・リービッヒ化学年報』と改められた。 この雑誌は現在も『ヨーロッパ有機化学ジャーナル』の名で発行が続けられている(科学 では研究成果は公共財であると考え、情報交流することが重要である)。 このようにリービッヒは化学研究の方法論を確立し、体系だったカリキュラムに基づい た化学教育法を作り上げ、従来の徒弟的段階から、一桁も二桁も多い化学者を育成した。 実験から化学を学びたい学生がイギリス、フランス、ベルギー、ロシアなど各国から集ま り、ギーセン大学は化学教育のメッカとなった。ホフマン、ケクレ、ヴュルツ、ジェラー ル、フランクランド、ウィリアムソンといった著名な有機化学者もここで学び、リービッ ヒの教育手法が「創造と模倣・伝播の原理」によって、ヨーロッパ各国に広がっていった。 これはドイツが有機化学の中心地となる礎となった。このように大学などの基礎研究から 新しい産業が誕生する道がはじめて開かれた。 ◇異性体の発見(1826 年、リービッヒ、ヴェーラー) ◇尿素の合成(1828 年、ヴェーラー) ◇基の説(1832 年、リービッヒ、ヴェーラー) ◇リービッヒの応用化学―リービッヒの最小律(1841 年) 、化学肥料の開発、「農芸化学の 父」 ◇置換の説(1838 年、アンドレ・デュマ) ◇分子構造(「炭素原子は互いに結合して炭素鎖をつくることができる」)の理論(1858 クーパー、ケクレ) ◇周期律―1869 年、マイヤーとメンデレエフとは独立に、周期系に関する論文を完成し、 1870 年ドイツの化学雑誌に発表した。マイヤーやメンデレエフが論文を発表した当時は、 化学学会からあまり注目されなかったが、メンデレエフが予言していた元素が発見された ことで、メンデレエフの周期系への信頼性は高まった。これが元素を分類し、体系化する のに有効なものとして広く認められるようになった。ここではじめて周期系の基礎が確立 されたのである。 それまでに発見されていた元素はアトランダムではなく、自然には規則があることがわ かった。多数の元素、自然の仕組みを解き明かす周期律表という自然の扉の鍵の発見は、 まさに人類の叡智であった(それから 100 年後の 20 世紀後半には遺伝子が読みとかれ、自 然のなかの生物界の扉の鍵が発見された)。 1894 年から 1898 年にかけて化学的に不活発な元素(ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリ プトン、キセノン)が発見され、これらの元素の原子価がゼロであることから、周期表の 78 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ハロゲン元素とアルカリ金属の間に、新たなゼロ族をおくことが提案され認められた。こ れにより周期表はより完全なものとなった。 このようにして 20 世紀のはじめまでには元素の周期系の地位は確固たるものになったが、 なぜ、そうなるか、なぜ、原子量の順に配列すると周期性があらわれるのか、それは、誰 にもわからなかった。これについては原子そのものの構造の解明を待たなければならなっ た。それが 20 世紀のはじめにまったく新しい世界(量子の世界)を開くことになるのだが、 自然はアトランダム(でたらめ)ではなく、あるルールがあることがわかったことの意義 は大きかった。 ○化学工業の成立 19 世紀の前半にはドイツでリービッヒ、ヴェーラー、ブンゼンといった化学者たちが化 学工業の基礎を固め、多数の学生を育成するようになったことは述べたが、これが 19 世紀 後半に合成有機化学工学がドイツを中心に発展することにつながった。まず、有機化学工 業の染料工業が勃興することになった。 ◇パーキンと染料合成工業の成立 多くの染料はアニリンから始まった。コールタール蒸留のときにアニリンが出現するこ とを 1834 年に発見したのは、タール工業の創始者F・ルンゲであった(イギリスの産業革 命で大量に使用されるようになった石炭産業のいわば副産物あるいは廃棄物ともいうべき コールタールが、次の産業である染料合成工業とその後の化学工業の原材料となったので ある)。 一方、1840 年ドイツの薬学者フリッチェが、インジゴ(青藍を呈する染料)をカセイカ リとともに蒸留分解して生じた塩基について調べ、これをアニリン(アニルはアラビア語 の藍の意)と呼んだ。 当時まだギーセンのリービッヒの学生であったオーガスト・ホフマン(1818~92 年)が、 ニトロベンゼンを還元して得られる物質がフリッチェのいうアニリンと同じものであるこ とを確認した(1843 年)。ホフマンは,1845 年ロンドンに創設された王立化学専門学校の 校長として招かれ、多くのすぐれた化学者を教育したが新しい染料の発見にいたる指示を 与えたことからも、「染料工業の父」といわれている。 1853 年、ウィリアム・パーキン(1838~1907 年)は、15 歳にして早くも、ロンドンの王 立化学専門学校(今日のインペリアル・カレッジ・ロンドンの一部)に入り、高名なホフ マンの下で学んだ。1856 年のイースター休暇で、ホフマンが故郷のドイツに帰郷している 間にも、パーキンはロンドンのアパート最上階の自宅にある粗末な実験室でさらなる実験 を試みていた(シリコンバレーの IT ベンチャーがガレージでパソコンをつくったのと時代 は変われども同じことである)。 79 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ここで彼は混合物中のアニリン(ベンゼンの水素原子の一つをアミノ基で置換した構造 を持つ芳香族化合物の一つ)の一部が化学変換されてアルコールが濃い紫色を呈したのを 発見した。そして、彼の友人とともに更なる実験を試みた。この実験はホフマンには秘密 にされた。パーキンは 1856 年 8 月に特許を取得したが、そのときはまだ 18 歳であった。 パーキンはこれにモーブと名づけた(フランス語のアオイを意味する語) 。パーキンとチャ ーチ兄弟はこの発見は商業的成功をもたらすと見抜いて、翌年これを工業的に生産し始め た。これが、染料合成工業の開始であった。 人工染料の発見は、染料を大量かつ安価に製造することを可能とし、綿織物に適用され、 商業染色会社に歓迎され、何よりも大衆の需要を創出した。パーキンは多方面において活 動的であった。彼は木綿の媒染剤を発明し、その技術・サービスを操作できる第一人者と なり、それを市場に公開した。無数のアニリン染料が生まれ、数多くの色調の染料が生ま れた(それらのうちのいくつかがパーキン自身によるものであった)。一連の活動のさな かで、彼は大量の資本を得、チャーチ兄弟は工場を建てた。彼らに関連のある工場は、広 くヨーロッパ中に広がった。 ここに述べたモーブは一例だった。これから織物と染料による国家間の商業競争が勃発 した。パーキンは 1869 年には赤色の染料アリザリンの商業生産方法を確立したが、それは アントラセンから得られるもので植物のアカネ染料よりも鮮やかな赤の染料で、やはり、 コールタールから得られた。しかし、1868 年にドイツの化学会社 BASF 社の化学者カール・ グラーベとカール・リーバーマンがアリザニンをアントラセンから合成する方法を開発し、 パーキンよりもわずか 1 日早く同じ製法の特許を取得していた。 2~3 年後パーキンは彼の研究と開発の成果が、ドイツの化学産業に侵食されるのを目の 当たりにした。そして、1874 年、すでに大富豪になっていた彼は工場を売却してビジネス より手を引いた。合成染料化学の主導権はドイツに移っていった。 ◇合成染料からはじまったドイツ化学工業 パーキンはいきなり化学的に安価で大量に染料を生み出した。この染料工業の成功が刺 激となって、いっせいに化学者、製造業者により化学染料研究が進められ、マゼンタ(1856 年)、アニリンブルー(1861 年)、ホフマン・バイオレット(1862 年)等が発見された。 これまでの発見は、もちろん化学的な知識がなければできないが、偶然によるところも あった。しかし、1870 年頃から、半経験的な方法による新染料の発見から科学的研究に基 づく染料合成への転換がみられた。この時期に、色素と分子の構造との関係を探求する研 究が行われたからである。ウィットの法則は、発色因、助色因という因子の必要性を述べ ていた(1876 年)。キノイド型が発色の原因として重要なことが、アームストロングによ って示された(1887 年)。 80 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 最初に合成された天然染料は(天然染料を人工的につくったのは)、アカネの色素・ア リザリンであったが、前述のように、1 日ちがいで、これの工業化はドイツの BASF 社のカ ロ(1834~1910 年)のもとで実施され、軌道に乗ったのは 1872 年以降のことであり、その 後、天然アリザリンの原料アカネ草は工業製品にとってかえられ、姿を消した。 藍の青色色素インジゴはアドルフ・フォン・バイヤー(1835~1917 年)によって、1865 年頃から純化学的研究が始められ、BASF 社で工業化され、ドイツは巨大な富を築くことに なった。こうして染料の化学工業の中心はドイツに移ってしまった。 合成染料工業の成功はドイツ特有の科学と技術の相互作用による勝利であった。第 1 次 世界大戦前にドイツ染料は世界市場を独占することになった。このように合成染料が工業 化されると天然色素は値段が高いので駆逐されて、現在利用されている染料のほとんどは 合成染料である。 BASF、バイエル、ヘキストのドイツ 3 大化学メーカー(いずれも初期には合成染料から 発足)は世界の化学工業で圧倒的な強さをほこるようになった。そして 1925 年 、BASF は バイエルやヘキストなどの化学工業会社とともに合同し、IG・ファルベン が成立した。 1952 年、連合国はナチス・ドイツによるいくつかの戦争犯罪に関係した IG・ファルベン を解体し、もとの 3 社で再発足させた。現在の BASF 社は、プラスチック、合成繊維、染料、 仕上剤、化学品(農薬を含む) 、栄養食品材料、石油製品、ガスと多岐にわたっており、2007 年度の売上高は 580 億ユーロ(約 9.2 兆円)で世界最大の化学メーカーであり、合成染料 工業で世界の化学工業のトップを占めたドイツの強さの伝統は続いている。 このように現代の巨大企業や巨大産業も、150 年前の化学という当時の「先端」学問に基づ いた発見・発明から起こされたベンチャー企業が種となっているのである(最初はみんな 小さいところから出発するのである)。 【3】熱力学研究と鉄鋼業・内燃機関産業の成立 ○熱力学の基礎研究 18 世紀後半から 19 世紀にかけて蒸気機関が発明・改良されたが、これらは学問的成果を 応用したものでなく専ら経験的に進められたものであった。19 世紀になると、熱力学の基 礎研究が行なわれるようになった。 ◇カルノーの定理―カルノーが熱機関の科学的研究を目的として仮想熱機関(カルノーサ イクル)による研究を行い、ここに本格的な熱力学の研究(1820 年代)が開始された。 ◇ジュールの法則―ジュールは 1840 年、ジュールの法則 (電流によって発生する熱量 Q は、 流した電流 I の 2 乗と、導体の電気抵抗 R に比例する)を発見。熱の仕事当量を測定した。 81 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ◇「ジェール・トムソン効果」の実験―トムソンとジュールは、共同で研究を行い、1852 年、 2 人は細いノズルから気体を噴出させる実験を行い、ジュール=トムソン効果を発見した。 ヘイケ・カメルリング・オネスは、この効果を使いヘリウムを液化して、低温物理学を切 り開いた。 ◇絶対温度の概念(ケルビン(K) )の導入―ウィリアム・トムソンは、1848 年に、 「温度が 物体中のエネルギー総量を表す」という絶対温度の概念(ケルビン(K))を導入した。 ◇エネルギー保存則の発見―マイヤー(1842 年) 、ジュール、ウィリアム・トムソン(ケル ビン卿) 、ルドルフ・クラウジウス、ヘルムホルツなどによって、それぞれエネルギー保存 則が確立されていった。 ◇熱力学第 1 法則(エネルギー保存則)と「熱力学第 2 法則」の定式化―クラウジウスも 熱力学第 1 法則(1850 年) ・第 2 法則の定式化(1854 年)など、熱力学の重要な基礎を築 いた。1854 年クラウジウスにより、第 1 の「エネルギー保存則」は熱力学第 1 法則、第 2 の法則は熱力学第 2 法則と呼ばれることになった。クラウジウスは、第 2 法則を「熱はつ ねに温度差をなくする傾向を示し、したがってつねに高温物体から低温物体へと移動する」 と表現している。第 2 の法則は、 「エントロピー増大則」とも呼ばれるが、クラウジウスが エントロピーと命名したのは 1865 年のことであった。 クラウジウスは 1885 年の論文『自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類の利益のために利 用すること』で、蒸気機関が発明されて以降の人類のエネルギー利用の歴史に触れた後で、 論文執筆当時の主なエネルギー資源であった石炭はいずれ枯渇すると述べている。そして、 将来的には滝の落下による水力発電など、太陽によって得られる自然エネルギーに移行し なければならないと、クラウジウスのエネルギー問題に対する先見性を示している。 ◇トムソンと熱力学第 2 法則―トムソンは、1851 年独立に「周囲の中で最も低い温度より さらに低温に熱源を冷やすことによって仕事をなしうる自動機械は不可能である」という 原理を提起した。これは後にトムソンにより「エネルギー散逸の普遍的傾向」と名づけら れるが、クラウジウスの第 2 の法則と本質的に同じものであった。こうして、トムソンと クラウジウスを中心にして熱力学体系の土台がつり上げられた。 ◇統計力学の祖ボルツマン―ジェームズ・マクスウェルらに続いて気体分子運動論を研究 し、さらに分子の力学的解析から熱力学的な性質を説明する統計力学を創始した。 ○鉄鋼業の成立 産業革命期にイギリスで、コークス製鉄―パドル炉―圧延という製鉄技術システムが確 立され、産業革命の展開を支えた。しかし、鉄道や造船によって急速に増大した鋼鉄の需 要に応えるには、人間労働に頼る鋼鉄生産法のパドル法では、生産性が低く根本的な変革 82 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― が必要であった(錬鉄は、人手で炉をかき混ぜて炭素分を燃焼させるパドル法でつくられ た炭素分の少ない鉄であり、鋳鉄よりも信頼性が高いが値段が高かった) 。 たとえば、このころは多くの鉄橋は鋼鉄不足のために、鋳鉄製の桁が突然壊れる事故が 多く発生した。1847 年 5 月のディー橋事故の場合、鋳鉄の桁で建設され、各桁は錬鉄の棒 により全長にわたり補強されていたが(ロバート・スチーブンソンの設計であった)、橋 を通行していた普通列車が落下した(5 人死亡と多数の怪我人がでた)。 鉄道検査会の報告では、繰り返す曲げにより桁が実質的に弱体化し、下縁のつばの角か ら疲労により破壊したと考えられた。ディー橋事故は、鋼鉄を用いるように技術者を促し た(この金属疲労事故のように、新システム採用の初期にはどうしても、従来の発想では 思いもつかないような事故が起きるものである。ジェット旅客機のときにもコメット機の 低周波金属疲労事故が数機連続して起こった。これらは学問的・原理的な原因の究明が行 なわれ、それが解明されて、それを防ぐ設計・新材料の開発・採用などが行なわれて、は じめて安心・安全の機械システムが実用化されるようになった) 。 その後も 1860 年のブル橋事故、1861 年のウートン橋崩壊、1879 年にもテイ橋崩壊とい う悲劇が繰り返され、全ての鋳鉄製鉄橋が鋼鉄製に置き換わるまで類似の事故は続いた。 このようなことで安価で大量の鋼鉄の製造方法が強く求められていた。 そこでベッセマー製鋼法(1858 年) 、ジーメンス・マルタン法(1866 年)、トーマス法 (1879 年)のような高効率な製鋼法が開発された。 一般的なベッセマー転炉は、 25 トンの銑鉄をたったの 30 分で鋼鉄に転換できた。これは、 それまでの何十倍の効率で鋼鉄が生産できることを意味していた。ベッセマー転炉によっ て安価な鋼鉄が大量生産できるようになり、鋼鉄の橋(それは 1890 年完成のフォース鉄道 橋で実現した) 、鋼鉄の建築物(高層ビル)、高性能の鉄道レール、大型船、大規模工場な どが現実的なものとなっていき、世界は「鉄の時代」から「鋼の時代」へと変わっていっ たのである(都市も高層ビル時代になっていった) 。 しかし、ベッセマー転炉には欠点があった。炉壁の耐火煉瓦は、酸性酸化物である珪石 でできていたため不純物であるリンがどうしても除去できなかった。そのため、ベッセマ ー転炉はリンを含む鉄鉱石(燐鉱石)が使えなかった。ヨーロッパで得られる鉄鉱石のう ち、燐鉱石が 9 割だったため、ベッセマー転炉が使用できる鉄鉱石は 1 割だけだった。ア メリカで産出される鉄鉱石はリンをあまり含まない鉄鉱石だったため、アメリカではベッ セマー法が積極的に採用されて他に先行して鉄鋼業が飛躍的に発展していった。 それにイギリスではパドル法へ巨額の固定資本がすでに行われていたことがあって、ベ ッセマー転炉は普及しなかった。そして、イギリスより冶金の遅れていた国、ドイツやア メリカでベッセマー転炉は急テンポで普及していった。 83 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ジーメンス・マルタン法は、脱リンが容易であり、良質な鋼を得ることができたことか ら、長い間製鋼法の主流であったが、転炉や電気炉の発展により、現在では東欧などで生 産が見られるだけである。 ベッセマー転炉の欠点をおぎなうものとして、1879 年に開発されたのがトーマス法だっ た。燐鉱石も使用できるトーマス転炉が発明されたことにより、世界中でトーマス転炉が 広まった。トーマス転炉の発明は、鉄鉱石の産出地図を塗り替えるほど影響があった。特 に、独仏国境地帯にあるロレーヌやルクセンブルクに大量に埋蔵されていたミネット鉱の 高燐鉱石が使用可能になったことより、フランスのロレーヌ地域やドイツのルール地域の 製鉄業は発展した。そして、燐鉱石も使用できるトーマス転炉により、完全に時代遅れと なったパドル法は消滅した。1889 年に完成した有名なエッフェル塔の主材料として鋼鉄を 採用できたのも、これら新しい製鋼法の発明に大きく依っている。 ベッセマー法、ジーメンス・マルタン法、トーマス法の 3 大発明により、交通輸送設備 とくに鉄道を中心とした鉄鋼の生産量は着実に増大して行った。製鋼の主要な革新はすべ てイギリスで生まれたが、イギリスではそれらの新しい方法の採用は緩慢で、1890 年代の 初めイギリスの鉄鋼生産量はドイツやアメリカに遅れをとるようになり、1910 年までにア メリカの塩基性鋼だけでもイギリスの鋼全生産量の 2 倍を生産した。 アメリカでは、19 世紀末頃から急速に鉄鋼業が発展し、最大の実業家にのし上がったの が、アンドルー・カーネギー(1835~1919 年)であった。カーネギーは、スペリオル湖の 西、メサビ鉱山を買収し、鉄鉱石をピッツバーグまで運ぶ船舶、さらには鉄道まで買収し、 1892 年、すべての事業部門をひとつに統合したカーネギー製鋼株式会社をつくりあげた。 1900 年、カーネギー製鋼会社が上げた年間利益、約 4000 万ドルは、その年の合衆国政府 歳入額の 7%にもおよんだ。1901 年にカーネギーはこの会社の全財産をモルガン商会に 4 億 8000 万ドルで売却し、彼は、以後は慈善活動に専念した。モルガン商会は他の小鉄鋼会 社も買収して資本金 14 億ドルの US スティール社を設立したが、これは当時、世界最大の 企業であった。 戦後の日本は、世界に先駆けて LD 転炉(純酸素上吹転炉)を全面的に採用し、これを発 展させることによって、US スティールを凌駕し、 世界一の製鋼技術の座を占めるようにな った(このころには US スティールもイギリスの製鉄業と同じように既存施設のために新規 投資を怠り、日本の後塵を拝するようになった) 。 初期の LD 転炉は約 30 トン程度の溶銑を入れたが、 現在の純酸素上底吹転炉は約 200~300 トンの溶銑処理能力を持っている。これらの転炉の 1 プロセスに要する時間は約 30 分であ る。原理は基本的に同じである。このように原理が同じで(技術革新がなくなり)、ただ、 84 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 規模だけを大きくするプロセス革新の段階にはいると、のちほど参入するものが有利にな るのである。 ○内燃機関を動力とする産業の成立 自力で路上を走る車は人類の夢であった。蒸気機関の進歩によって、これが可能と思わ れるようになった。はじめは蒸気自動車(1769 年)、電気機関車(1835 年)、電気自動車 (1830 年代)、ルノアールの内燃機関(ガスエンジン。1860 年)などが発明されたが、こ こでは省略する。本格的な自動車の発明は、オットーの内燃機関が実用化されてからであ った。 これまでの蒸気機関で動かしていた自動車は、外燃機関と呼ばれるもので、ピストンを 動かすシリンダーに送る蒸気を作るために、いつも湯沸器を背負って走らなければならな かった。その上燃料の消費量が多く、とても重く、運転が難しいものであった。そこでオ ットーは、燃料のムダが少なく、しかも軽く、運転が簡単にできる内燃機関を開発しよう とした。内燃機関とは、機関の内部で燃料を燃やすことによって動力を生み出す形式をい う。これは、定置式のものとしては、各種の産業機械の動力源として、また、移動式のも のとしては、自動車だけでなく航空機など、現代の多くの乗り物の仕組みにも使われてい る。 ◇オットー・エンジンの発明 ニコラウス・アウグスト・オットー(1832~1891 年)は、ナッサウ公国の小都市ホルツ ハウゼン(現在のドイツのラインラント=プファルツ州)で生まれ、そこで初等教育を受 け、1848 年、家が貧しく 16 歳の時に学校を離れて食料品店で働き始め、食料品の配達をし ながら、いつか自動車を手に入れたいと夢見ていた。1859 年に初めてルノワールの石炭ガ ス燃焼機関を見た後で内燃機関の実験を始めた。 1861 年、オットーはルノワールの設計を基にした 2 ストロークの内燃機関を初めて試作 した。そして、1864 年にケルンで内燃機関製造会社 N.A.オットーを共同経営者のオイゲン・ ランゲンと共に立ち上げた(この会社は今日でもドイツ AG として存続しており、150 年以 上の歴史を誇る世界でも最古の内燃機関製造会社となっている)。 1867 年、オットーの会社は当初 2 サイクルの内燃機関を生産した。この機械はパリ万国 博覧会で、小企業による経済的な推進機械として金賞を受賞した。しかし、オットーは自 分が開発した内燃機関が、ルノアール機関と同じように効率の悪さと、衝撃の強さに悩ん でいた。彼はもともとセールスマンで、機械工としの基礎はなにもなく、独学だけでやって きた。機関がなめらかに効率よく動くためには、ガスと空気の混合比を制御することが重 要であると考えたが、どうしたらよいかと悩んでいた。 85 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 彼は寝ても覚めてもそのことだけを何日も考えていた。そして 1875 年のある日、オット ーは研究で疲れて帰るとき、玄関を出て、ふと向かいの工場の煙突から(毎日、毎日なに げなく見ていたものであったが)、もくもくと出る煙が目にとまり、その拡散の様子を眺 めていた。まず濃い煙が出て、それから徐々に空中に拡散する様子から彼の頭に閃きがは しった。 彼は同じようにすれば、点火時には濃い混合ガスを与えながら、不活性な空気が広がっ た希薄な層によってピストンの衝撃をやわらげられると考えた。当時はもちろん原動機の 中の燃焼の様子を見る手段はなかったが、彼は工場の煙が空に拡散する状況からヒントを 得たのであった。まさに 1%のひらめきだった。彼は研究所にとって返した。 それを製作するために、オットーは吸入、圧縮、燃焼・膨張、排気の 4 工程サイクル(以 後「オットー・サイクル」と呼ばれる)を発明し、1876 年に「靜かなオットー」が実現した (図 31(図 14-32)参照)。 図 31(図 14-32) 4 サイクル機関(吸入、圧縮、燃焼・膨張、排気) 1877 年、オットーは「オットー・サイクル」で特許を取得した。このオットー・サイク ルの内燃機関は当初固定式で設計されており、①吸気ストローク、石炭ガスと空気がピス トン室に入る、②圧縮ストローク、ピストンが混合気を圧縮する、③出力ストローク、燃 料混合気を電気点火器で発火させる、④排気ストローク、排気ガスをピストン室から輩出 86 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― する、の 4 サイクルから成っていた。これはすばらしい成功をおさめ、毎分 180 回転 3 馬 力を出した。 しかし、まだ危険な火(ルノアールはスパークを使った)と灯用ガスを使っていた。こ れでは、まだ、安全な内燃機関とはいえなかった。彼は、オーストリアの発明家ジークフ リート・マルクスが、1867 年に液体の石油を可燃性ガスに変換する気化器を発明しているこ とをまだ知らなかったのである。 ◇世界初の自動車「第 1 マルクスカー」 ジークフリート・サミュエル・マルクス(1831~1898 年)はドイツ生まれのオーストリ ア人発明家で、1856 年から 1898 年まで、ウィーンで科学装置を製作する独立製造業者とし て働いていた。電気に興味を持ち、照明技師としても成功した。主なイノベーションとし ては、電信システムと点火装置の改良があった。 マルクスは、自動車の分野では、1870 年ごろ、内燃機関を単純な荷車に搭載した。液体 の燃料を使うよう設計されており、ガソリンを使って駆動する世界初の自動車を作った人 物とされている。この最初の自動車を「第 1 マルクスカー」と呼んでいる。 さらにマルクスは、1883 年、ドイツでマグネト型の低電圧点火装置の特許を取得した。 これを 1888 年の「第 2 マルクスカー」やその後のエンジンに使った。第 2 マルクスカーは、 この点火装置と「回転ブラシキャブレータ(気化器)」の組み合わせが斬新だった。 結局、マルクスは 16 ヶ国で 131 の特許を取得したが、自動車に関して特許を申請したこ とはないし、取得もしていない。また、自動車を自分が発明したと主張したこともない。 しかし、まちがいなく彼が実質的な自動車の発明者だった。マルクスはユダヤ人の血を引 いていたため、その後ナチスによってその記録が全て抹消された。それでも 1870 年に世界 初のガソリンを使った乗り物を製作したことは間違いない。 ◇オットー内燃機関の完成 いずれにしても、1877 年に 4 サイクルの「オットー・サイクル」で特許をとったオット ーは、1884 年、このマルクスの成果を取り入れて、低圧電磁点火装置を導入し、液体燃料 が使える内燃機関に設計を革新させた。 この時点まで、内燃機関(ルノアールの内燃機関)は燃料に石炭ガスを使っていたため、 建物内に固定してしか使えなかった。また、ガスを点火し、始動するためには種火を必要 とした。これが低圧電磁点火装置の導入で、液体燃料が使えるようになり、移動する物体 に搭載することが可能になった。これで自動車実現の基本技術は出そろった。このように 技術は多くの知恵(人)の積み重ねである。 87 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― オットーの会社には、ゴットリープ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハがいた。 ダイムラー(1834~1900 年)と彼の生涯のパートナー、マイバッハの夢はあらゆる種類の 移動機関に内蔵することができる小さな内燃機関を作り上げることであった。 彼らは 1885 年に二輪車に取り付けたガソリンエンジンの特許を取得し、それは現代の内 燃機関の先駆けと言えるものであった。その二輪車は世界初のオートバイと見なされ、翌 年の 1886 年(ベンツが三輪自動車の特許ととった年)には駅馬車とボートにそのエンジン が取り付けられた。このうち駅馬車にエンジンをつけたものは世界初の四輪自動車とされ、 この車はダイムラー・モトールキャリッジと呼ばれた。 しかしオットーは成功したばかりの定置内燃機関を軌道に乗せることに固執したので、 たもと ダイムラーとマイバッハはオットーと 袂 を分かつことにした。彼らは 1890 年にオットー のドイツ AG を退社し、ダイムラー自動車会社(DMG)を設立した。その会社の目的は、オ ットーの会社で発明したのと同じ技術を使って、小型で高速の内燃機関を作ることであっ た。 ここから先は自動車の開発になるので、項をあらためて、【4】で述べることにする。も ちろん、オットーが開発した定置内燃機関は各種産業用機械の動力源として世界中に普及 していった。 【4】石油利用の自動車産業の成立 ○ベンツ自動車の開発 カール・フリードリヒ・ベンツ(1844~1929 年)は、ドイツのカールスルーエ工科大学 で機械工学や内燃機関について学び、大学卒業後は、様々な機械工場を転々としてエンジ ンの開発を目指していた。1879 年、ベンツは、高信頼の 2 ストロークガスエンジンの特許 を取得した。これはオットーの 4 ストローク機関の設計に着想を得たものであったが、オ ットーの特許をさけるために、2 ストロークにしていた。 1883 年、ベンツはマンハイムで、のちのダイムラー・ベンツの母体となるガス動力車両 製作会社を設立した。 後にベンツは独自の 4 ストローク機関を製作し、自動車に搭載した。その開発は 1885 年 に行われ、1886 年には、4 サイクルのガソリンエンジンを搭載した三輪の自動車の開発に 成功した。この三輪車はパテント・モトールヴァーゲンと名付けられ、1886 年 1 月 29 日、 この発明に対してドイツ帝国特許局から特許登録証が交付された。これは世界で最初の「ガ ソリンを動力とする車両」に対する特許であり、この日ははじめて乗用車が誕生した記念 日とも言われている。奇しくも同じ年、前述したようにオットー社のダイムラーもガソリ ン動力車両を発明していた。 88 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ベンツ社は、当初は三輪自動車を中心に開発していたが、しばらくして四輪車の研究に 着手し、1890 年代には実用的な四輪自動車を生産するようになった。 ○ダイムラー・ベンツ社の誕生 一方、ダイムラーとマイバッハ(1846~1929 年)の方であるが、1890 年にオットーのドイ ツ AG を退社し、ダイムラー自動車会社(DMG)を設立し、オットーの会社で発明したのと 同じ技術を使って、小型で高速の内燃機関を作ることに専念した。 ダイムラー自動車会社(DMG)が初めて自動車を販売したのは 1892 年のことであった。 1890 年代にベンツ社とダイムラー社はライバル関係となって、激しくあらそった。ダイム ラーは 1900 年に死去し、マイバッハは 1907 年にダイムラー自動車会社を退職した(その 後、ツェッペリン飛行船のためのエンジンを製造するための会社を設立した)。 1924 年にダイムラー自動車会社(DMG)の経営陣はカール・ベンツの会社との長期協力協 定に署名し、1926 年に両者は合併しダイムラー・ベンツ社となった。カール・ベンツは、 合併成立のしばらく後、1929 年に死去したが、ダイムラー・ベンツ社はヨーロッパを代表 する自動車会社となった。 ○ディーゼル・エンジンの開発 ルドルフ・クリスチアン・カール・ディーゼル(1858~1913 年)は、1878 年ミュンヘン 工科大学の学生の時、教授が「蒸気機関は燃料潜熱のわずか 6~12%しか動力に変換しない 低熱効率である。カルノーによって 1830 年頃、ほぼすべての潜在エネルギーを動力に変換 できる理想的な熱機関の理論像が描かれ、燃料がシリンダー内で燃焼する内燃機関のみが、 その理想機関に近づきうるものである」と述べたことが焼き付き、寝ても覚めても「あの ヒントが私から離れなかった」 。彼は「熱力学の知識を活用するため、あらんかぎりの時間 を使った」 。 1893 年『合理的熱機関の理論および構造』という論文でディーゼル機関の原理を発表、 1893 年、特許を取得した。その理論は、ピストンによって空気を圧縮し、シリンダー内の 高温空気に燃料を噴射することで自然着火させるしくみであった。実用的な内燃機関の中 ではもっとも熱効率の優れたエンジンであり、また軽油・重油などの一般的燃料の他にも、 様々な種類の液体燃料が使用可能であった。 ただし圧縮によって吸気を高温にする必要があり、高い圧縮比が要求され、高い圧縮比 は機械的強度を要求し、丈夫な部品は重くかさばりコストもかかり、可動部重量による機 械的損失も大きくなるという問題点もあった。 1893 年、クルップ社などの助けを得て、彼の最初のモデルが製作された。こうして当時 の内燃機関の最高熱効率 28%に対して、ディーゼル機関は燃料の潜在エネルギーの 35%を 89 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 動力に変換することができた。その欠点は、機関が重くやかましいことと、重油の排気ガ スが迷惑を与えることであった。 その後、ディーゼルは実用的プロトタイプの開発に取り組み、1897 年、オースバーグの マン社(MAN AG)の工場で働いているときにディーゼルエンジンを完成させた(現在も MAN AG は、ドイツの自動車・機械メーカーであり、現在のドイツのトラック市場ではダイムラ ーに次いで 2 位の 24%のシェアを誇っている)。この安価な石油や重油を燃料とした効率の よいこのディーゼル機関は、たちまち世界中で利用されるところとなった。 今日、ディーゼル機関はトラック、バス、小船舶、発電所、機関車等に利用され、彼が 生み出した技術は人類に多大の貢献をしている。 ○初期の自動車産業 このように 19 世紀末の自動車産業は、ドイツが先行し次いでフランスで、小規模ではあ ったが確立されており、アメリカとイギリスではちょうど始まったばかりであった。自動 車産業の急激な発展は路上交通の技術的先行者である自転車のおかげを多く受けていた。 自転車のアイデアと試作は 17 世紀末からあったが、自転車用のチェーンと空気入りタイ ヤが出て本当に使える自転車が出現するには時間がかかった。1885 年(ベンツの自動車発 明の前年) 、イギリス、コンベントリーの J・K・スターリーが発明した「安全」自転車(初 期の高い車輪の足踏式自転車に代わって、低い車輪と歯車とを持った現代的自転車)は、 二つの車輪をつないで、強くて、操縦性や機械効率がよかった。さらに 1888 年にはイギリ ス医師ジョン・B ・ダンロップが空気入りタイヤを発明したので、乗り心地は格段によく なった。 この自転車は簡便で評判がよく、早く普及したので、まず、自転車製造用の部品が量産 された。この量産によって安くなった部品を生まれたての自動車産業は利用することがで きた(このように自転車も自動車も誕生したのはほとんど同じ時期だった) 。自転車の鋼管 製車体、ボール・ベアリングやローラー・ベアリング、差動歯車、空気タイヤ等は自動車に そのまま役立った。 そのうえ、初期の自動車企業の多くは自転車企業の中から出発した。ドイツのオペル、 イギリスのハンパー、ライリー、ローバー(スターリーの会社)、モーリス、アメリカのウ ィントン、ウィリーズ、ポープ、ピアレス、ランブラー等はその例である(自転車も自動 たけのこ 車も最初は雨後の 筍 のように何十、何百も芽を出した。産業の最初はみな同じである)。 自転車部品を使って、自動車産業はその発足後急速に生長した。自動車は他の会社によ ってつくられた部品が小さな工場で組み立てられた。ここに部品メーカーと組み立て工場 という生産形態が出現した。製造業者は自分自身で資金を調達するか、または信用借りで 90 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 部品を購入し現金で販売店に売り渡すことによって、とにかく自動車を作ろうとした。ア メリカだけでも約 1500 の独立会社が 3000 種類以上の車をつくったという記録がある。 そのような世界を一変させることになったのが、1908 年のフォード社の T 型フォードの 発売だった。これをきっかけに 20 世紀の前半に自動車産業はアメリカで新たな発展をたど ることになった。 ○大量生産方式のアメリカ自動車産業の誕生 20 世紀の産業の特徴を一言でいいあらわすと大量生産ということになるであろう。そし てそれを生み出したのは、アメリカの自動車産業である。イギリスの産業革命は産業の機 械化、つまり工業を導入した。ドイツの第 2 次産業革命は科学の成果を取りいれて、イギ リスの産業革命でできた工業をさらに深化させ、鉄鋼業・内燃機関・化学工業を付加させ た。それらの成果を取り入れた 20 世紀のアメリカ産業は大量生産方式を生み出し、高価だ った工業製品を庶民誰にでも手に入るようにした。 アメリカの自動車産業が大量生産方式を生み出したといっても、その源はすでにヨーロ ッパにすべてあった。シーズ(種)が、「創造と模倣・伝播の原理」でアメリカにもたらさ れ、それをアメリカで統合・システム化したときに大量生産方式(アメリカン・システム) が生まれたのである。 エジソン電気会社で主任技師をしていたヘンリー・フォード(1863~1947 年)も 1890 年 代のなかばに、自宅の裏庭の道具小屋で、ごみ捨て場から集めてきた自転車の車輪なども 使い、1896 年 7 月、はじめての自作 4 輪自動車の製作に成功し、試運転を行った。この自 作 4 輪自動車の成功の後、フォードはエジソン照明会社を退社し、2 回の会社設立に失敗し たのち、1903 年 6 月、フォード・モーター・カンパニーを創設した。 彼が自動車について多くの経験をして会社を設立したのは、「大衆のための自動車」を実 現することであった。そしてその開発は 2 段構えであるということを認識していた。まず、 第一に、耐久性に富み、機構的に単純で、かつ操縦と維持に費用のかからない適当な自動 車を設計すること、第二に、そうした自動車を大量かつ低廉な原価でもって製造する手段 を発見すること、であった。 まず、外国車を購入して、徹底的なリバース・エンジニアリング(分解して技術を真似 る(盗む)こと)を数台行なって、フォード・モーターは「A 型」と名付けた車から製造販 売をおこない、1908 年から製造販売した「T 型フォード」によって、第 1 段階は達成され た。 この T 型フォードは「ブリキ自動車」とか「安物」とか呼ばれたものの大量生産時代の自動 車製造スタイルおよびそれに付随する全米規模でのアフターサービス体制にかなうもので あった。 91 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 問題は第二の段階であり、この方がより長い時間がかかった。フォードは、自分の自動 車が 600 ドルを超えない価格となれば(最初の T 型フォードは 850 ドルだった)大量市場 を達成できると確信していた。フォード開業当時のモデルは、部品を自動車へ組み上げる 作業を 1 台当たり 2~3 人の工員が数日かけて行っていたが、フォードではそれまでバラツ キのあった部品をマイクロゲージを基準とした規格化によって均質化し、部品互換性を確 保することに成功していた。T 型フォードは 1909 年には 1 年間で 1 万 8000 台もの台数を生 産した。廉価な T 型への需要が急増すると、工場を次々と建設して 1911 年の稼働時には年 7 万台の生産を可能とした。 そして 1 台 600 ドルの数字は 1912 年に達成したものの、その生産は需要に追いつけなか った。フォード自身はまだ何がなされなければならないかを知っていた。問題はそれをど のように行うかの方法だった。 ○ベルト・コンベアによる移動式組立ライン方式の採用 自動車産業は部品組立産業である。その部品は互換性を持ち、かつ標準規格部品でなけ ればならない。このような互換標準部品技術は、フランスを経てアメリカに伝播し、武器 から繊維機械、ミシン、自転車へと波及していった。 これらの部品を組み立てる段階になると、アメリカのこれまでのやり方は非効率であっ た。その組立方式を変えるヒントになる前例はいろいろあった。農業分野で、1787 年に、 フィラデルフィアの発明家オリバー・エバンス(1755~1819 年)がベルト・コンベアなど を利用した昇降式製粉工場を発明し、上から小麦を入れると、下から粉になった加工品が 出てくる装置を実現していた。 このあと、19 世紀の後半に、シンシナティの食肉業者が、解体した肉を移動式ハンガー に吊して運び、ベルトコンベヤの上を更に細かく解体して流す方式を開発していた(現在 もこの方式が続いている) 。このシンシナティ方式を真似たのが、ウェスティングハウス社 で(フォードもそこに勤めていた)1880 年に、すでにエンドレス・チェーンで鋳物の型砂 を落とす鋳物工場を建設した(現在もこの方式が使われている) 。 一方、テーラーが鉄鋼工場での流れ作業方式を研究し、「科学的管理方式」といって方々 で講演していた。デトロイトにも 1909 年から 2 回訪れ、自動車会社の役員に流れ作業方式 を説いていた。したがって、どの会社も流れ作業方式について知らなかったわけではなか った。ただ、実施についてもう一つ踏ん切りがつかなかっただけである。 しかし、1913 年の初め、フォードは果敢にこの流れ作業方式を大々的に採用した。まず、 実験的にマグネット部門にベルト・コンベアによる移動式組立ライン方式を採用した。そ れ以前マグネットは完全に 1 人の作業員によって組み立てられており、最高の操業でもっ て 18 分あたり 1 個の組立であった。この新しいラインは 29 人の作業員を持ち、各個の作 92 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 業員は単一の作業にあたった。そして採用直後の結果で 13 分に 1 個のマグネットが組み立 てられた。その後の改善によってこの時間は何と 5 分にまで短縮された(約 4 分の 1) 。 この成功は人々を納得させるものであり、1 年足らずして、このシステムは自動車全体の 組立に拡張されていった。これによってシャシーは固定式組立方式での 20 時間 30 分に対 して、1 時間 33 分で完成することが可能となった(約 13 分の 1)。同様に、エンジンの組 立時間は 20 時間から 6 時間へ短縮されたのである(約 3 分の 1) 。この過程でエンジン、シ ャシーおよびその他の部品の組立に必要とされる時間がすべて違っていたことから、いく つかの組み立て工程が調整され、かつ時間的に同調されなければならないなど、多くの困 難があったが(まさにこれはシステム設計の問題だった)、ともかく、1914 年の初め T 型が 組立ラインから流れ出るようになり、フォード自動車会社は、世界で初めての完全な大量 生産システムを誇示したのである。 結果は驚くべきものであった。T 型乗用自動車の生産は、1912 年の 17 万台から 1914 年 には 30 万台、さらに 1 年後には 50 万台を超え、1923 年および 1924 年にはそれぞれ年産 200 万台の大台に達した。そして、そのころまでに、世界全体の自動車のうちの半分は T 型 フォードとなったのである。 一方、価格は時々変動したものの、着実に低下していって、1924 年にはフォード・ツー リング車は 290 ドルで買えたのである(この自動車産業の大量生産方式が民間企業で確立 していたアメリカは、第一次、第二次世界大戦の車両はもちろん、武器、戦車、戦闘機な どの生産にも適用したのである。他国より数倍から数十倍の生産効率だった。大量生産方 式を持たなかった日本などは工業力ではアメリカの足もとにも及ばなかった。日本が家電 や自動車でこれを導入したのは戦後 1960 年代からであった) 。 流れ作業方式自体は新しくないが、それを廉価車の生産方式に利用したフォードの卓越 した判断力は偉大であった。これによって当時もっとも複雑で高価な工業製品の自動車の 製造において大量生産の方式を開発して、自動車を大衆に普及させるのに多大な貢献をな した。カール・ベンツやダイムラーが自動車の産みの親であるなら、自動車の育ての親は ヘンリー・フォードとなる。 ○高賃金・8 時間・週 5 日労働を実現 T 型フォードは、世界で累計 1,500 万台以上も生産された。この生産台数を可能にしたの は流れ作業による大量生産技術であり、これにより、販売価格を低く抑えながらも販売数 量を拡大することにより、企業利益を確保するという考え方を実現できるシステムであっ た。1908 年の発売当時、富裕層相手の手作りの自動車が 3,000 ドルから 4,000 ドル、同ク ラスの他メーカーの自動車でも 1000 ドル近い価格であったのに対し、T 型フォードはのち には 300 ドル前後を実現したのである。 93 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― なお、 フォードは労働力確保を迫られ、 1914 年には 1 日当たりの給料を 2 倍の 5 ドル (2006 年の価値では 103 ドルに相当する)へと引き上げ、勤務シフトを 1 日 9 時間から 1 日 8 時 間・週 5 日労働へと短縮する宣言を発し、その結果、応募者が退職者を上回り続けること になった。アメリカ政府が最低賃金や週 40 時間労働の基準を決める以前にこれを達成して いた。一方でヘンリー・フォードは労働組合の結成には反対し続けた。 このフォード生産方式は、「創造と模倣・伝播の原理」で、他の工業生産にも応用され、 20 世紀の工業社会を出現させた。 【5】石油利用の航空機産業の成立 20 世紀の初頭にアメリカが生み出したもう一つの産業があった。それが航空機産業であ るが、これは空を飛ぶことから、その安全性一つとっても自動車とは異なり、自動車より も部品点数がはるかに多く複雑で、その製品である航空機は自動車よりはるかに高価であ る(もっとも、20 世紀の初期の飛行機は自動車の部品を使っていたようにそんなに大きな 違いはなかった) 。自動車産業が大量生産(年間数万~数十万のオーダー)を特徴としてい るとしたら、航空機産業は中量ないし少量生産(年間数十~数百のオーダー)ということ になり、自動車とはまったく異なる産業形態をとることになった。 ○暗中模索の飛行機開発 19 世紀末、既に陸には車が走り、海や川では蒸気船が幅を利かせ、そして最初の有人飛 行をしたモンゴルフィエ兄弟に始まる熱気球から派生した飛行船が既に実用化されていた が、空を飛ぶ飛行機は、まだなかった。唯一の手掛かりとしてジョージ・ケイリーのグラ イダーを基にオットー・リリエンタール(1848~1896 年)によって研究が進められていた。 しかし、当時はまだハイラム・マキシム(1840~1916 年)等、多くの研究家は飛行のた めの理論を確立するに至らず依然として暗中模索が続いていた時代だった。マキシムは、 世界初の全自動式機関銃を発明していたが(マキシム機関銃は第一次世界大戦において両 陣営で実用・運用された) 、航空にも興味を持ち、1894 年に蒸気エンジンによる飛行機械を 製作し飛行実験をしたが失敗した。 リリエンタールはハンググライダーを作り、小高い丘から飛行する実験を 7 年間もやっ ていたが、1896 年 8 月、試験飛行中に風にあおられ墜落 48 歳の若さで死去した。彼の最期 の言葉は「犠牲は払われなければならない」だった。 サミュエル・ラングレー(1834~1906 年)は、天文学者、発明家で航空のパイオニアの 一人であり、スミソニアン博物館の館長でもあった。軍から 5 万ドルの予算を得て有人飛 行機エアロドロームの製作を試み、1903 年 10 月 7 日と 12 月 8 日に有人飛行実験をポトマ 94 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ック川の水上で行ったが、2 回とも失敗した。2 回目は後述するライト兄弟の初飛行の 9 日 前だった。 ○科学的に取り組んだライト兄弟 1896 年のリリエンタールの死後、これを皮切りにライト兄弟は飛行機を完成させること を考えはじめた。ライト兄弟は、牧師の息子として生まれ、兄がウィルバー・ライト(1867 ~1912 年)で、弟がオーヴィル・ライト(1871~1948 年)であった。一家には他に 3 人の 兄妹(長兄ルクラン、次兄ローリン、妹・キャサリン)がいたが、母は結核により早世し ていた。 兄弟は生涯の大部分をオハイオ州・デイトンで過ごした。兄弟は自転車店を経営するこ とで研究に必要な資金を工面した。自転車の技術を活用することも可能であった。それま で多くの研究者の飛行への挑戦がことごとく失敗を重ねて来たのに対し、ライト兄弟は当 時としては極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明した。当時としてはほと んどなかった自作の風洞を使って、多くの翼型を試験して最適な翼型を採用した。何機か のグライダー試作機を作成し一歩一歩堅実に飛行機の製作と実験を重ねていった。 ピストン・エンジンは充分な動力を持っており、人の乗る大きさのグライダーを飛行させ うるものだった。そして次に「操縦できる」飛行の問題に向かった。1896 年から 1903 年まで の間に、多くの分析、紙の上の仕事、技術文献の調査、模型を使った初歩的な実験等がな された後、複葉機が設計された。 彼らは飛行姿勢の制御を徹底的につきとめようとした。右と左の主翼を逆方向にねじる ことにより左右の揚力バランスを変え機体を傾ける(バンクさせる)機構を備えつけた。 現在では、飛行中に方向転換する際バンクするのが当然であるが、当時そのことを理解し 実際の機体に応用したのはライト兄弟のみだった(この「翼ねじり」は後にエルロン(補 助翼)に取って代わられた)。操縦できるようにしたこれらの修正動作や、安定上、付け 加えられた方向舵の修正によって、ライトの動力グライダーは、兄弟の思い通りに空中で 位置を変えることができるはずだった(つまり、ライト兄弟は飛行機に必要な最低限の機 能をすでに把握していたのである)。 グライダーによる実験の回数もリリエンタールらに比べてはるかに上回り、多くの実験 データを収集すると共に飛行技術を徹底的に身につけていた。グライダーを基礎にまず操 縦を研究して、自らそのパイロットになってから動力を追加するのが彼らの戦略であった (動力機体の製作しか眼中になかった他の飛行機屋とは異なっていた)。兄弟は実験回数を 増やすために「常に強風が吹いている場所」を気象台に問い合わせ、故郷から遠く離れた ノースカロライナ州のキティホークをその場所に選んだ。 95 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○ライト兄弟の初飛行 ライト兄弟は、1903 年 12 月 17 日にキティホーク(町)の南 6.4 キロメートルにあるキ ルデビルヒルズにて 12 馬力のエンジンを搭載した「フライヤー号」をもちこんで有人飛行 実験を行った。その日、合計 4 回の飛行が試みられ、飛行に成功した(1 回目: 12 秒、120 フィート 、2 回目: 12 秒、175 フィート 、3 回目: 15 秒、200 フィート 、4 回目: 59 秒、 852 フィート(259 メートル) ) 。4 回目のウィルバーによる最長の飛行すらも 59 秒間に 852 フィート(約 259 メートル)を飛んだにすぎなかったが、彼らは空気を征服したことを確 信した。人類初の有人動力飛行だった。この時これを見ていた観客はわずか 5 人しかいな かった。 現在、このフライヤー号は、ワシントンのスミソニアン博物館に「最初の動力付きで、 パイロットが搭乗して継続的に飛行し、機体を操縦することに成功した、空気より重い空 飛ぶ機械」として展示されている。主翼は複葉で、ライト兄弟自製の馬力 / 重量比率の高 いガソリンエンジン 1 基(既に機械式燃料噴射装置を備えていた)を動力に、直径 2.6 メ ートルのプロペラ 2 つを推進式に配置し、駆動したエンジンの回転のままでは速過ぎるの で、プロペラが効率良く推力を発揮できる回転数までローラーチェーンによって減速され た(しかし減速機構にローラーチェーンを使ったのは不適切であり、その後に採用された 減速機は歯車式が主体であった)。プロペラ相互のトルクを打ち消すために、2 つのプロペ ラはそれぞれ逆回転で駆動された。 フライヤー号は単純に浮揚するだけでなく、製作当時から、操縦系を既に備えていたこ とでも画期的な飛行機だった。機体前方に昇降舵、機体後部に方向舵を備え、ワイヤーに より、動翼を制御できた。エルロンとして(補助翼として)主翼をたわませていた。パイ ロットは機体に対して腹ばいに搭乗して、左右の手を使う操縦システムであり、当時とし ては技術的にきわめてすぐれたものであった。右の操縦桿でバンク(ロール。横転運動) と旋回を、左手の操縦桿で機首の上げ下げを行った。操縦桿の動きは金属製の操縦索によ って各翼面や舵面に伝えられた。 ライト兄弟は実験に成功したが、人々は当初はこれを信用しないばかりか、こぞって反 発した。サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍、ジョン・ホプキンス大学の数学と天文学の教授サイモン・ ニューカムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞等でライト兄弟の試みに(た った 9 日前にその時代の権威が試みて失敗したものをいなかの無名の兄弟に) 「機械が飛ぶ ことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。 一般の人は、1905 年 10 月 5 日にデイトン(オハイオ州)の郊外でウィルバーによってな された飛行により強い印象を受けたであろう。その時、彼は 38 分間に 24 マイル(約 38 キ 96 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ロメートル)を飛んだ。横傾斜、回転、上昇、降下を思うままに行い、2 年間で長足の進歩 を示していた。 ○各種飛行機の開発 この時代の航空機の発明は民間人によってなされ軍人ではなかった(軍も開発しようと していたが) 。2 人の輝かしい技術者ライト兄弟は大学の訓練を受けておらず(しかし、前 述したように兄弟はきわめて科学的に飛行実験を続けた)、また政府や私的な援助を受けず に彼らの仕事を続け、困難を突破した。一度成功すると追随するものには容易になる。い わばコロンブスの卵だった。 1906 年 10 月 22 日、サントス・デュモン(1873~1932 年)がヨーロッパでは初となる動 力機の飛行に成功した (しかし高さ 3 メートル、 距離約 60 メートルの飛行にすぎなかった。 11 月 12 日の飛行も高さ 6 メートル、距離 220 メートルだった)。サントス・デュモンはブ ラジルの飛行船の造船主であり、飛行機の製作にも成功し、このため暫くの間、デュモン が世界初と思われていた時代があった。 1908 年 7 月 4 日にはグレン・カーチス(1878~1930 年)が製作した飛行機「ジューン・ バグ」がニューヨークのハモンズポートで飛行に成功した。こうしてカーチスは動力つき 航空機で空を飛んだ 2 人目のアメリカ人となった。しかし、ライトの飛行よりも注意を引 き付けた(カーチスはすでにオートバイの世界で有名人であった)。 しかし 8 月のフランスにおけるウィルバーの飛行は、兄弟が空気より重い航空機の並ぶ 者なきすぐれた製作者であり、また、パイロットであることをフランスの大群衆に確信さ せた。9 月にオーヴィルが陸軍の見学者の前で公開飛行を行ったことをきっかけに、アメリ カ政府はその後航空機に興味を持つようになった。 この時以来、人々は自由な飛行の実現を熱狂的に歓迎するようになった。1909 年 7 月 25 日、フランスのブレリオ XI 機(製作者はルイ・ブレリオ)が世界で初めて英仏海峡を横断 飛行した。 1909 年、アンリ・ファルマン III(アンリ・ファルマンが設計・製作)が初飛行した(最 大速度 60 km/時)。世界で初めて 2 人の乗客を乗せて飛んだフランスの複葉機であった。 これは 1910 年 12 月 19 日、徳川好敏大尉が日本で初めての動力飛行を行った際に使用した 機体でもあった。 アメリカに返って、グレン・カーチスのゴールデンフライヤーは少し小型の複葉機であ ったが、運動性が良く 1910 年、停泊中のアメリカ巡洋艦バーミンガムの艦首特設甲板から 世界最初の離発艦を行い、翌年装甲巡洋艦ペンシルベニアの後甲板に仮設された飛行甲板 に世界で初めての着艦を行った。この後海軍は軍艦からの航空機の運用に注力し航空母艦 へと発展していくことになった。 97 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 1911 年に、リンカーン・ビーチェイは 1 万 1642 フィート(約 3548 メートル)の高度記 録をつくった。同じ年、カルブレイス・ロジャーズはニューヨークからカリフォルニアの ロングビーチまでアメリカ大陸を横断飛行した。 1913 年、ベノイスト XIV(トーマス・ベノイストが製作)は、世界初の飛行艇であり、 1914 年 1 月 1 日から、アメリカ・フロリダ州セントピーターズバーグとタンパの間の約 35 キロメートルを 20 分でタンパ湾を横断する日 2 便の定期航空路となった。 航空機の歴史の中で「ロマンチックな時代」だった。それはナイヤガラの滝の橋の下を飛 ぶような向こうみずの難事業や北極の上を飛ぶような英雄的な離れわざを遂行するなど、 はでな冒険家たちによってリードされていた。 ○戦争で長足の進歩をみせた航空機産業 「空気よりも重い機械を用いた飛行の実用技術の開発者」と裁判所にも認められたライ ト兄弟を待ち構えていたものは、必ずしも栄光ではなかった。腕のよい飛行家だったグレ ン・カーチス(1878~1930 年)は、航空会社を設立し、何かとライト兄弟と特許に関して 係争したが、その詳細は省略する。 1917 年の第一次世界大戦への参戦を契機に、アメリカ政府の主導により航空機製造業協 会が設立され、同協会による航空機関連特許の集中管理が実施されたことで特許問題は終 止符が打たれた。その背景には軍事用として航空機が注目されていたことがあった。 1929 年、カーチス設立の航空会社(当時の社名は、カーチス・エアロプレーン&モーター 社)とライト兄弟設立の会社(同、ライト・マーチン社)は合併し、カーチス・ライト・コー ポレーションが設立された。このカーチス・ライト社は、第二次世界大戦直後まで航空機 を製造し第二次世界大戦中には全米製造業者中、第二位を誇った(この会社は、航空機の 部品会社として残っている) 。 戦争は航空機の進化を驚異的に進めた。第一次世界大戦では、航空機は最初偵察機とし て使用された。当初敵の偵察機と遭遇しても「同じパイロット仲間同志」としてハンカチ を振り合ったという逸話があるが、すぐにピストルを撃ち合うようになり、武器自体も機 関銃へと進化して戦闘機が生まれた。また敵地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機 も誕生した。イギリスは世界最初の雷撃機(航空魚雷による対水上艦攻撃)を製造した。 ふたつの世界大戦の合間 (1919~1939 年)にも、航空機の進歩は著しかった。民間輸送 機のボーイング 247 がダグラス DC-3 に敗れた後、1938 年、ボーイング 307B ストラトライ ナーを初飛行させ、巡行速度 357 km/時、乗客 33 人で巻き返した。ボーイング社の軍から 受注した 4 発重爆撃機 B-17 の主翼と尾翼を流用して(これによって開発費が低減でき)新 たに太い胴体を設定した機体で、客室を与圧(室内全体を加圧して酸素濃度を通常状態に 保つ)して快適な高空の旅を提供できた最初の機体であった。 98 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第二次世界大戦がはじまると、航空機は戦争の主役となり、陸上・海上を問わず制空権 を握った側が戦いに勝利した。そこで、各国は戦闘機、戦闘爆撃機の開発にしのぎを削っ た。 ボーイング社は第 2 次世界大戦中に、B-17 で大型爆撃機メーカーとして名を馳せた。B-17 がヨーロッパ戦線における米軍の主力爆撃機として大量に生産・運用され、戦略爆撃機の 確固たる地位を築いた。続いて当時の「超」大型爆撃機である B-29 スーパーフォートレ スは、他企業の工場まで稼動させるほどの大量生産を行い、長距離侵攻能力を生かして日 本本土への戦略爆撃に使用された。 第二次世界大戦末期に実用化されたジェットエンジンは直ちに軍用機に採用され、ジェ ット戦闘機が出現したが、本格的な大型ジェット機の時代は戦後に始まった。 【6】石油利用の合成化学産業の成立 染料からはじまった合成化学産業は、20 世紀になると、徐々に化学合成物質が増え始め 1910 年以後には合成(人工)化学物質の発達は指数的な比率で進んでいった。合成化学物 質においてはドイツがまさっており合成染料の 80%以上がドイツで製造されていた。 ○化学工業における電気および触媒 (電気の歴史は次の【4-2】で述べるが)化学工業における電気の利用、および触媒 の開発は、20 世紀になるとますますその重要性を増してきた。 電気は新しい軽金属製造に欠くべからざるものであった。アメリカ人の化学者チャール ズ・ホール(1863~1910 年)により 1886 年に開発されたプロセス、あるいは、フランス人 の化学者ポール・エルーにより設計された窯を使用することによってボーキサイト(酸化 アルミニウムを含んだ粘土鉱物)は電気還元されアルミニウムとなった。1900 年には 3000 トンの軽金属が生産された。このおよそ半分が、安い電力を用いることのできるナイヤガ ラ瀑布の付近で生産された。 その他の戦略用軽金属であるマグネシウムもまた電気的に高温下で生産された。1915 年 にはアメリカで 44 トン生産されたにすぎないが、1943 年には 17 万 267 トンにのぼった。 イギリスとドイツでは腐食に強く、また硬度を増すためにニッケルとクロムを含んだ鉄 の合金が開発された。1914 年のクルップによるステンレス・スチール、すなわち 8%のニ ッケルと 18%のクロムを含んだ鉄合金は、とくにすばらしい成功であった。ほとんどの稀 金属は特殊合金の中に使われるようになった。たとえば銅に 2.5%のベリリウムを加え 350 度で 1 時間再加熱すれば、2 倍の強度を持った合金が得られることがわかった。 電気炉によって、1050~1100 度の温度で、カルシウムとカーボンの化合物をつくること が可能となった。その化合物は炭化カルシウムと呼ばれ、無機化学から有機化学への変換 99 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の道を開いた。炭化カルシウムと窒素を高温で反応させると、窒化カルシウムが得られ、 これは最初、窒素肥料として用いられ、のちに合成樹脂の基礎材料としてメラミンのため に用いられた(メラミン樹脂) 。メラミン樹脂は耐熱、耐水、機械強度などの点で優れ、工 業的に大量に製造されるようになった。 いろいろな意味で電気的エネルギーは化学工業において重要になった。水溶液の電気分 解、とくに塩化ナトリウム水溶液の電気分解により苛性ソーダと塩素が得られた。 窒素と水素からアンモニアを合成する方法は、触媒としてオスミウムを用いることによ って、ドイツ人のエルンストおよびハーバーにより発明された。1916 年 6 月には新しい方 法により、1 日 200 トンのアンモニアが生産できるようになった。合成アンモニアの大部分 は、プラチナ触媒のもとで酸化され硝酸になり、この硝酸から爆薬がつくられた。 このようにドイツは、チリの硝酸塩をストップされても、1914 年にはじまった第一次世 界大戦を継続するために必要な爆薬を製造することができた。もちろん、アンモニア、硝 酸塩の合成は爆薬だけでなく、農業の肥料にも役立ち、また、爆薬ですら鉱山や道路の建 設には必要不可欠なものとなっている。化学技術に戦争も平和もない、それはそれを使う 人間しだいである。 ○有機合成 新しい触媒のために研究された技術やアイデアは、すぐに他のプロセスに応用された。 このように、一酸化炭素と水素の触媒反応は、反応が起こる条件によりメタノールあるい は炭化水素をもたらした。さらに触媒存在下にメタノールを空気酸化するとホルムアルデ ヒドが得られる(さらに酸化が進むとギ酸となる) 。 ベルギー生まれでアメリカに移住した発明家レオ・ベークランド(1863~1944 年)は、 1907 年にフェノールとホルムアルデヒドの反応時の圧力と温度を制御することで、完全な 人工合成樹脂「ベークライト」の合成に成功し、その特許を取得した。 これはプラスチックス史上における大成功のはじまりであり、フリッツ・ポラックによ るポロバーゼ(尿素樹脂)は 1914 年より製造が開始されたが、多彩な着色を施した家庭用 品を製造する成型材料、電気製品や玩具、建材分野、1934 年には大型圧縮成型機を使用し て大きなテーブル上板が製造されるなど、合成樹脂の可能性を大きく広げた。 なお、ベークランドは 1916 年にジェネラル・ベークライト社を立ち上げ、ベークライト を販売することで億万長者のひとりとなった。プラスチック時代を切り開いたベークラン ドは「プラスチックの父」とよばれている。 これらの合成樹脂は非常に多量の需要があるために大量の尿素が必要となった。この尿 素の需要に合わせるため、アンモニア合成と関連した新しい合成法が工夫された。この方 法のために、純粋の水素が必要となり水蒸気が一酸化炭素により還元された。この反応で 100 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 大量の二酸化炭素ができ、そしてそれはアンモニアと濃縮され尿素となる。 もし中間体を考えなければ、合成の尿素―ホルムアルデヒド樹脂は、水と空気と石炭か らできているといえる。この合成樹脂の工業的な開発は、1918 年以降から盛んになった。 ○医薬品 染料の他にも医薬品の合成ができるようになった。自然の乾燥した草が医術に用いられ る最大の原料であった時代を思い出して薬種と呼ばれた。薬種もまた 19 世紀後半に、化学 合成によりつくられるようになった。アンチフェブリン(アニリンのアセチル誘導体)は 新しい薬品アセトフェネチジン(解熱鎮痛剤)に変えられた。同様にサリチル酸はアセチ ル化によりアセチルサリチル酸となり、これがアスピリンで、その鎮痛効果はいまなお広 く使用されている。 アドレナリンは副腎髄質より分泌されるホルモンであるが、1901 年に高峰譲吉らによっ て、アドレナリンの化学組成が決定され、1904 年にヘキスト染料会社がその完全な合成を 発表した。これと同じ時期にドイツの化学者・細菌学者エールリッヒ(1854~1915 年。1908 年に免疫の研究でノーベル生理・医学賞授賞)は、化学薬品と有機分子の特別な原子集団の 間にはある親和力が働くというアイデアから、それが病原菌にくっつき、ホストを殺すこ となく有毒なヒ素によりそれらを征服することを発見した。これにより梅毒治療剤サルバ ルサンを発見した(日本の医学者・秦佐八郎が実験した)。この発見は後のサルファ剤・ペ ニシリンなどの抗生物質の発見をうながしたという点で功績が大きい。 この頃、化学肥料の開発のために、化学会社は農業研究所をつくり、動物から血清やホ ルモンの製造を始めた。生物学者および獣医たちが化学者、技術者、そして物理学者と協 力して化学実験室や工場で働いた。1927 年にはセント・ジェルジがウシの副腎から強い還 元力のある物質を単離し、 「ヘキスロ酸」として発表したが、1932 年にこれがビタミン C で あることが判明した。1933 年にハースによってビタミン C の構造式が決定されてアスコル ビン酸と命名され、1933 年にはライヒシュタインが有機合成によるビタミン C の合成に成 功した。 また、ドイツのゲッティンゲン大学のアドルフ・ヴィンダウス(1876~1959 年)は、1928 年にステロイドとビタミンの研究の業績に対し、ノーベル化学賞を受賞した。彼は胆汁酸 とステロイドの研究に加えて、ビタミン B 群とビタミン D の構造を解明してその化学合成 を可能にした。この成果は製薬会社(バイエルとメルク)によって製品化されることで結 実した。 ○ペニシリンの発見と大量生産 1928 年、イギリスの細菌学者アレキサンダー・フレミング(1881~1955 年)の実験室は いつものように雑然としていた。彼が実験室に散乱していた片手間の実験結果を整理して 101 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― いた時のことであった。廃棄する前に培地を観察した彼は、黄色ブドウ球菌が一面に生え た培地にカビのコロニーがあるのに気付いた。ペトリ皿上の細菌のコロニーがカビの周囲 だけが透明で、細菌の生育が阻止されていることを見つけ出した。このことにヒントを得 て、彼はアオカビを液体培地に培養し、その培養液をろ過したろ液に、この抗菌物質が含 まれていることを見出し、アオカビの属名でであるペニシリウムにちなんで、"ペニシリン "と名付けた。 引き続いてフレミングは、ペニシリンを実用化するため、アオカビの培養液から活性本 体だけを取り出す、すなわちペニシリンを精製する研究にとりかかったが、思うようには はかどらなかった。 結局フレミング自身はペニシリンの精製には成功しなかった。しかし、ペニシリンが発 見されてから既に 10 年が経った 1940 年、彼の報告文を読んだ 2 人の科学者、ハワード・ フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンがペニシリンを精製し効果的な製剤にする方 法の開発に成功した。彼らの研究により、第二次世界大戦中には、ペニシリンは薬剤とし て大量生産できるようになり、ペニシリン発見の真の価値が改めて再認識されることにな った。1945 年にはフレミング、フローリーおよびチェーンはノーベル医学生理学賞を共同 受賞した。 これらの開発の結果、1960 年にアメリカで 1100 万ポンドのビタミンと 300 万ポンドの抗 生物質が製造され、その金額は 4 億ドルとなった。 ○プラスチックスの時代 1930 年以後の時代はプラスチックスの時代と呼ばれた。これはいわゆる石器時代、青銅 器時代、鉄器時代と同じ種類のものである。この新時代は、自然の材料から合成される材 料への変化を見たが、また植物や動物によってつくられた高度の複雑な物質を化学的につ り出すという特徴を持った時代でもあった。 このような合成樹脂はその融点や機械的強度において優れた性質を持っていた。強度、 熱安定性、電気抵抗、透明性、フィルム化・繊維化、そして、塑造性がプラスチックスの 価値ある特徴である。 プラスチックスにおける技術進歩の一面は、生産と原料コストの低下と、品質と性能の 向上がはかれることである。ポリエチレン・プラスチックスの製造は、1941 年にイギリス ではじまり、アメリカで 2 年後に始まった。もっとも驚くべきことは、生産の増加である。 1958 年にはアメリカの生産高は約 40 万トンであったが、1960 年には 50%増加した。エチ レン誘導体のスチレン(ベンゼンに 1 個のビニル基の結合したもの)が、1940 年に実験室 を離れた時は、1000 トンが高分子に変えられていた。4 年後のポリスチレンは 146 倍とな り、1960 年には 47 万 8000 トンにも達した。そのうえ、54 万 1000 トンのビニル重合物お 102 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― よび共重合体が生産された。 やがて、まったく新しいプラスチックスの一族が出現した。エチレン分子のいろいろな 変形の一つのフッ素と化合したものが新しい樹脂のグループをつくった。もっとも反応的 な元素の一つであるフッ素との結合は、もっとも不活性な重合物となった。この新しい樹 脂は特別な性質を有するため、いままでの樹脂で満たすことの出来なかった新しい市場を 開拓した。 さらに第二次世界大戦中およびその直後に 3 つの新しいプラスチックスのグループが開 発された。すなわち、アミノ基が炭素原子の長い鎖に結合したナイロンと、その連結のき ずなが珪素であるシリコンと、イソシアン酸塩からできるウレタンとであった。ウレタン 樹脂は部分的にガスを内部発生させ分解させることができ、それによりソフトな、あるい はハードな泡を樹脂の中につくることができた。 合成樹脂はそれぞれの特性に応じて利用されようになったが、強化プラスチックのよう にガラス繊維と複合的に用いられるとか、含浸剤および接着剤として木材の利用を助ける ような使い方もされるようになった。 このように人類は天然物質・生物などを参考にして、化学操作によって新しい材料や化 学製品を安価に大量に合成することができるようになった。 【4-2】電気の基礎研究と電気通信産業、電力事業の成立 電気に関する現象は古くから研究されてきたが、科学としての進歩が見られるのは17世 紀および18世紀になってからである。しかし電気を実用化できたのはさらに後のことで、 産業や日常生活で使われるようになったのは19世紀後半だった。 【1】18世紀までの電気研究 こ はく 古代の地中海周辺地域では、琥珀の棒を猫の毛皮でこすると羽根のような軽い物を引き 付けるという性質が知られていた。古代ギリシャ人も、琥珀のボタンが髪の毛のような小 さい物を引きつけることや、十分に長い間琥珀をこすれば火花をとばせることも知ってい た。 紀元前600年ごろミレトスの自然哲学者ターレスは一連の静電気についての記述を残し ているが、彼は琥珀をこすって生じる力は磁力だと信じており、磁鉄鉱のような鉱物がこ すらなくても発揮する力と同じものだと考えた。ターレスがそれを磁力だと考えたことは 間違っていたが、後に電気と磁気には密接な関連があることが判明している(電気を表す 英単語 electricity はギリシャ語の エレクトロン(琥珀)に由来する。古代ギリシャ人 が琥珀をこすることにより静電気が発生することを発見し、そこからラテン語で 103 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ēlectricus(琥珀のような)という言葉が生まれ、そこから electricity が派生した)。 近世になると、イギリスのウィリアム・ギルバートは、医師としての仕事のかたわら、 静電気、磁石の研究を行ない、著書『De Magnete』(1600年)で、電気(electricity)と いう言葉を作った一人とされている。琥珀を帯電させて静電気の研究を行った。電気と磁 気は異なるものだと主張した。回転する針のような検電器を発明しており、電気計測機器 の祖とされる。ギルバートの研究は、実験を用いた近代的な科学の先駆けとして、多くの 科学者に多大な影響を及ぼした。 1660年にドイツのゲーリケは静電発電機を発明した。イギリスのロバート・ボイルは1675 年に、電気による牽引と反発は真空中で作用し得ると述べた。イギリスのスティーヴン・ グレイは1729年に、物質を導体と絶縁体とに分類した。フランスのデュ・フェは、のちに positive(陽)、negative(陰)と称ばれることになる、電気の2つの型を最初に同定した。 大量の電気エネルギーの蓄電器の一種であるライデン瓶は、1745年ライデン大学で、オ ランダのミュッセンブルークによって発明された。イギリスのウィリアム・ワトソン はラ イデン瓶で実験し、1747年に静電気の放電は電流に等しいことを発見した。平賀源内は、 1776年にエレキテル(摩擦起電器で内部にライデン瓶がある)を開発した。 18世紀中ごろ、アメリカのベンジャミン・フランクリンは私財を投じて電気の研究を行 い、1752年6月、雷を伴う嵐のなか凧を揚げるという実験を行った。この実験で雷が電気で あることを示し、それに基づいて避雷針を発明した。フランクリンは陽電気および陰電気 の発見の確立者と見なされることが多い。 1773年、イギリスのヘンリー・キャヴェンディッシュは荷電粒子間に働く力が電荷の積 に比例し、距離の2乗に反比例することを実験で確認した。これを、1785年にフランスのシ ャルル・ド・クーロンがクーロンの法則として定式化した。 1791年、イタリアのルイージ・ガルヴァーニは生体電気を発見し、神経細胞から筋肉に 信号を伝える媒体が電気であることを示した。 【2】19 世紀の電気(電磁気学)の研究 1800年、イタリアのアレッサンドロ・ボルタは、2種類の金属板をつなぐと電気が起こる ことを発見し、亜鉛と銅を交互に重ねたボルタの電池を発明した。それまでの静電発電機 よりも安定的に動作する電源となった。 17、18 世紀までは電気といえば、摩擦で起こる静電気は知られていたが、ボルタの電池 から出る電気は、金属板をつなぐ針金のなかで電子が流れることによって起きる動電気で あった。18 世紀の最後の年にボルタが電流をとり出して以来、動電気の時代が始まり、化 学反応への電気の利用の研究が開始され、電気の研究の発展は加速し、現在の電気時代の 104 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 幕開けとなった。 ボルタの電池の報告はロンドンの王立協会に届き、1800 年に公刊された。 1800 年にはイギリスのアンソニー・カーライルとウィリアム・ニコルソンが初めて水の 電気分解に成功した。同じくイギリスのハンフリー・デービーが電気分解でカリウム(1807 年) 、ナトリウム、カルシウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムを次々と発見し た。 1801 年にハンフリー・デービーによって、電気分解の逆の発想から(水素と酸素から電 力を取り出す) 、燃料電池の原理が考案された(後述するように、現在の燃料電池に通じる 燃料電池の原型は 1839 年にイギリスのウィリアム・グローブによって作製された)。 1820 年、デンマークの物理学者エルステッドが電流を流すと磁力が生まれるということ を発見した。フランスのアンペールは、現象を再現してさらに詳細な研究を行い、アンペ ールの法則を発見した(1820 年) 。アンペールは、電流を流すと、電流の方向を右ネジの進 む方向として、右ネジの回る向きに磁場が生じることを発見した。これは、右手の親指を 立てて手を握ると、電流の方向を親指の向きとした時、残りの指の向きが磁界の向きと一 致するため右手の法則と呼ばれる。 さらに、フランスのジャン=バティスト・ビオとフェリックス・サバールは 1820 年、電 流とその周囲に形成される磁場の関係をビオ・サバールの法則として定式化した。この法 則によって、磁場は距離、方向、およびその電流の大きさなどに依存することが論じられ るようになった。 1821 年、イギリスのマイケル・ファラデーはその現象を応用して、電流によって生じた 磁場が磁石の磁場と反発して針金が磁石の周囲を回転するという電動機を発明した(この 10 年後の 1831 年、ファラデーは電流を流すと磁力が生まれるのなら、磁力から電気を作る つつ ことができるのではないかと考えた。そして、コイルといって導線を 筒 の形にぐるぐる巻 AE いたものに、磁石を近づけたり遠ざけたりすると電気が作れることを発見した。これが有 名な電磁誘導である。今日でも、モーターや発電機には、この原理が使われている) 。 1826 年、ドイツのオームが、 「オームの法則」を発表した。オームの法則とは、電気回路 の 2 点間の電位差が、その 2 点間に流れる電流に比例するというもので、クーロンの法則 とともに電気工学で最も重要な関係式の一つである(1781 年にイギリスのヘンリー・キャ ヴェンディッシュがすでに発見していたが、未公表だったので、オームによって再発見・ 公表された)。 1830 年、イギリスのファラデーとアメリカのジョセフ・ヘンリーが別々に電磁誘導現象 を発見した(のちに電気と磁気(と光)の関係を定式化したのはジェームズ・クラーク・ マクスウェルで、1861 年から 1862 年の論文 On Physical Lines of Force で発表した)。 105 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ファラデーは、電磁誘導の現象を発見し、1832 年にさらに電磁誘導の法則、1833 年に電 気分解の法則を発見するなど、超人的な科学者として活躍した。 ファラデーは電磁誘導の現象をコイルが磁力線を切るときに起電力が誘起されるという、 力線の概念を使って説明した。クーロンや彼と同時代の人々たち(アンペール等)が電磁 気現象をニュートン力学における遠隔力と考えていたのに対してファラデーは空間におけ る電気力線・磁力線という近接作用的概念から研究していた。さらにこの理論は場の概念 への第一歩ともなった。 電気と力線の概念を検討してファラデーは、空間はそのような力線で満ちているかもし れない、そして光や放射熱はたぶん力線に沿って振動しているのだろうと考えていた。こ れは重要な考え方であり、これに挑戦したのが後述するマクスウェルであった。 ファラデーはさらに 1833 年に電気分解の法則を発見した。ファラデーの電気分解の法則 は電気分解において、流れた電気量と生成物質の質量に関する法則で、第 1 法則と第 2 法 則がある。第 1 法則は、析出(電気分解)された物質の量は、流れた電気量に比例する。 第 2 法則は、電気化学当量(1 モル当量の酸化もしくは還元反応を引き起こす電子の移動量 を電荷量であらわしたものである)は化学当量に等しく、同じものである。これは、1 グラ ム当りの等量の物質を析出させるのに必要な電気量は、物質の種類によらず一定であるこ とを示している。この一定の値は、ファラデー定数(9.65×104 [C/mol])と呼ばれる。電 気分解の法則の発見は、原子説からの推論により、電気の基本粒子(電子)の存在を強く 示唆することとなった。 1840 年、イギリスのグローブ卿が燃料電池の発電原理を発見した。ファラデーによって、 水にプラスとマイナスの電極を入れて電気を流すと水素と酸素に分解されるという、 「水の 電気分解」が発見されたが、その逆はできないだろうかと、イギリスの物理学者ウィリア ム・グローブ卿は考えた。そして、硫酸に浸した 2 つの白金電極に水素と酸素を与えて、 電流を作り出す実験に成功した。しかし、グローブ卿が実験に成功した燃料電池は発生す る電流が小さく、また蒸気機関や内燃機関の実用化が進んだこともあって、燃料電池の実 用化に向けた研究は、長い間放置されていた。実はグローブ卿は法律家で、ファラデーと 親しいこともあり、このような新しい化学の実験を楽しんでいたようである。 《マクスウェルの電磁理論》 イギリスの理論物理学者マクスウェルは、ファラデーによる電磁場理論をもとに 1864 年 にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立した。 ジェームズ・クラーク・マクスウェルに重大な示唆を与えたものは、ファラデーの場の 理論とウィリアム・トムソンの 1845 年の論文であった。トムソンは、熱の分布と静電気力 の分布の比較研究によって、電磁場と非圧縮性弾性体の間の類似点を指摘していた。そこ 106 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― で、マクスウェルは、電磁誘導を何らかの媒体(現在「場」と呼ばれているもの)による というファラデーの考えに数学的な表現を与えようとて、マクスウェルの方程式を導いた のである。 マクスウェルは、1865 年の『電磁場の動力学的理論』の中で、電場の変化によって磁場 の生ずる仕方と、逆に磁場の変化によって電場が生ずる仕方とを規定する方程式を示し、 電磁場の存在すべきことを理論的に明らかにした。それらの方程式は、電磁気学の基本法 則を数学的に表現しており、電流の磁気作用から電磁誘導まで、一つの統一した理論での 表現がここに確立された。そして、また電磁波の存在が予言され、電磁波の速度は光速に 等しいことが示された。このことは、光は電磁波にちがいないという明白な演繹につなが り、光学と電磁気学の統一をもたらした。 こうして、多くの学者がたずさわってきた電気(電磁気)に関する研究は、マクスウェ ルによって、古典電磁気学として確立され、マクスウェルは電磁気学の最も偉大な学者の 一人とされるようになった(この人類の叡智は、次の人類の叡智を生み出すことになる。 50 年後のアインシュタインの相対性理論(1915 年)にもっとも大きな示唆を与えたのは、 マクスウェルの電磁方程式だった。ファラデー~ウィリアム・トムソン~マクスウェル~ アインシュタインを見ても科学は積み重ねであることがわかる) 。 《電磁波の発見》 1888 年、ドイツのハインリヒ・ルドルフ・ヘルツは、電磁波を生成する機械を構築し実 験室内で長い電磁波を発生させ、実証した。この実験を通して、マクスウェルとファラデ ーが予言した通り、信号が空間を伝播することが証明され、無線の発明の基礎となった。 これにより、ラジオ放送の基礎も準備されたのである。また、1887 年、陰極に紫外線を照 射することにより、電極間の放電現象が起こって電圧が下がる現象として、光電効果を発 見した。 【3】電気通信の実用化 前述したように、電気技術は、19 世紀になって初めて登場してくる「先端」技術であっ た。そしてとくに、この分野では科学者と発明家の間の区別はほとんど不鮮明になってき た。 ボルタ、エルステッド、ファラデー、ケルビンといった科学者の発見を基礎に、電気を 実用化することにかかわった発明家たちは、電気通信産業や電力産業や電気機器産業を興 すことになった。この電気の分野でも化学の分野と同じように、150 年前の当時の「最先端」 科学技術からベンチャー企業が生み出され、それがもととなって現代の電気通信・電力・ 電機産業が出現したのである。 107 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○電信機の発明 1830 年、ファラデーとは別に電磁誘導現象を発表したアメリカの物理学者ジョセフ・ヘン リーは、1829 年、強力な電磁石を開発、1830 年、ファラデーより先に電磁誘導を発見した が、発表が遅れたため、発見の功はファラデーに譲ることとなった。電磁石を組みこんだ 電信機を考案して、1.6 キロメートルの距離に符号信号を送った(1831 年) 。 ヘンリーは更に実験を推し進め、1832 年に自己誘導を発見した。さらにこれらの研究を 基に、電磁石を用いたモーターを発明した。ヘンリーは多くの発明をしたが、一切特許化 はせず、これらの成果をもとに他の人間が製品化することを大いに援助した。1835 年には ヘンリーが継電器(リレー)を発明し、長導線上の弱電流でも強力な電磁石を制御できる ようになり、電信機の発明(1837 年)の基礎となった。このように電磁気学も基礎的研究 から即新しい産業を生み出すことになった。モールスの電信機の発明(1837 年)もその一 つであった。 《電信の最初の商業化》 イギリスのウィリアム・クックは、ヘンリーの考案を利用してチャールズ・ホイートス トンとともに磁針式電信機をつくり(1837 年) 、警報機としての電信機の特許を取得した。 そのシステムは 1839 年 4 月 9 日にイギリスのパディントン駅からウェスト・ドレイトンま での間、約 21 キロメートルにわたってグレート・ウェスタン鉄道の線路を利用して敷設さ れた。このように電気通信システムは、当時、急速に発展する鉄道網に設置され、鉄道網 と通信網の複合システムとして普及していった。 《モールス信号の完成》 アメリカのサミュエル・モールス(1791~1872 年)はヘンリーの技術指導を得て、1837 年に電磁石応用の電信機を発明し、電信機及び電信符号のアイデア(信号方式としてトン・ ツー(・-)式のモールス信号)を特許出願した。 1844 年、モールスはワシントン~ボルチモア間の電信通信に成功し、巨大な大陸である アメリカを結びつける力となった。モールスの発明には特許権が設定されたが、1851 年ま での間に全米で 32,000 キロメートル以上もの長さに電報網が広がった。 1856 年にウェスタン・ユニオン社を創設した実業家のシブレーはモールスを招聘し、1861 年にニューヨーク~サンフランシスコ間の大陸横断電信線を完成させ、アメリカ中に電信 網がはりめぐらされることになった(鉄道とともにその沿線に設置されていった)。 一方、ヘンリーは、その後もいろいろな研究を行ったが、晩年は、スミソニアン協会の 初代会長、全米科学アカデミー初代会長となったので、ヘンリーのもとには多くの科学者 や発明家が助言を求めて集まってきた。彼はそれに親切に応え、アメリカの科学技術の振 108 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 興と後進の育成に尽くした。このようなこともあって、電気通信の分野はヨーロッパより もアメリカが先んじるようになった。 《大西洋横断電信ケーブルの敷設》 1851 年にはイギリス海峡で海底ケーブルが敷設された。最初の大西洋横断海底ケーブル は 1857 年と 1858 年にそれぞれ敷設されたけれども、数日又は数週間、ブキャナン第 15 代 米大統領とヴィクトリア英女王との挨拶文のやり取りに運用されただけで失敗に終わった。 新しい大西洋横断海底ケーブルを敷設する計画は南北戦争が原因で 5 年間先延ばしにされ 続けたが、1866 年 7 月 27 日における大西洋横断電信ケーブルの開設に結実した。こうして 大西洋を越える遠隔通信が現実のものとなった。 ○電話の発明 しょう こ う ね つ アメリカのアレクサンダー・グラハム・ベル(1847~1922 年)は、当時、猩 紅熱 の後遺 ろうしゃ 症で深刻な問題であった 聾者 教育のためにアメリカ東海岸の複数の学校で視話法を教え、 1873 年、ボストン大学で発声生理学を教えていた。マサチューセッツ工科大学で音声自動 記録装置をみてヒントを得、音波の波動が電流の強さを変え得ることに気づき、考案した 装置が電話であった(1876 年) 。 1876 年 3 月、ベルは、ワシントン特許局に「電信の改良」の特許を出願し、特許を取得 した。1876 年 3 月 10 日、2 階で実験していたベルが 1 階のワトソンに「ワトソン君、用事 がある、ちょっと来てくれたまえ」これが完成した試作電話で話した最初の言葉だった。 この年のフィラデルフィアの万国博覧会に出展し、金賞を受賞した。ベルは個人的な教え ろうしゃ 子の 聾者 マーベル・ハバートと結婚していたが、彼女の父はベルの発明活動を支え、1877 AE 年に、ベルのボストンの友人とこの義父によって、ベル電話会社の設立をみた。 このベルの特許申請より少し遅れて(同日の 2、3 時間遅れといわれている) 、イライシ ャ・グレイ(1835~1901 年)がベルのとほぼ同じ電話の特許申請をしたが、ベルに特許を 取得されてしまった。しかし、このグレイという男も大変なもので、1890 年にファクシミ リの原型であるテレオートグラフを発明し、文字を遠くに電送することに成功した。グレ イはウェスタン・エレクトリック社を興し、タイプライター、警報器、照明といった電気 機器を製造し、モールスのところで述べた電信事業会社ウェスタン・ユニオンとは密接な 関係を持ち、継電器などの機器を供給していった。 1875 年、グレイは持ち株を電信会社のウェスタン・ユニオンに売却し、同時にグレハム・ ベルの電話に関する特許に対する差し止め請求権も売却した。これによって、ウェスタン・ ユニオンとベル電話会社の特許紛争が起きた。 さらにトーマス・エジソン(1847~1931 年)はベルの発明に刺激されて、その改良に手 を広げ、1877 年 4 月 27 日、研究員に開発させた炭素式マイクロフォンを特許申請した。ま 109 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― た、ベルの会社はエジソンの炭素式のマイクロフォンに似たものの特許を 2 週間前に取得 していた技術者のエミール・ベルリナーを雇い入れた。 こうしてダウド裁判と呼ばれる非常に込み入った特許紛争が起こり、その詳細は省くが、 結果は、①ウェスタン・ユニオンが所有するエジソンの炭素式マイクロフォン、グレイの 液体抵抗型マイクロフォンのアメリカ特許と電話事業とをベル電話会社(現在の AT&T)に 譲渡し、ウェスタン・ユニオンは電話事業に進出しないこと、②ベル電話会社は電信事業 に進出しないことと、③ベル電話会社は電話事業の利益の 20%を 17 年間ウェスタン・ユニ オンに支払うこと、ということで和解が成立した。つまり、新しく起こった通信産業と電 話産業を別々の会社で行なうことにしたのである。 《巨大化した電信・電話産業》 1879 年に特許紛争が決着すると、ウェスタン・ユニオンは電話市場から撤退し、子会社 の電気器具製造会社のウェスタン・エレクトリックを、1881 年にベルに売却した。その後、 ウェスタン・ユニオンはアメリカにおける電報通信会社として有名になったが、現在では、 個人間の国際送金、為替、貿易などの各種事業を行っており、世界 200 ヶ国以上に約 27 万 の代理店を有している。 アメリカの電話事業はベル電話会社、俗にいう「ベル・システム」の独占時代が始まっ た。世界初の商業化された電話サービスは 1878 年から 1879 年に、大西洋を挟んだニュー ヘイブンとロンドンでほぼ同時に開始された。日本では 1890 年東京・横浜で電話サービス が開始された。 ベルが興したベル電話会社を前身として、アメリカン・テレフォン・アンド・テレグラ フ(AT&T)が 1885 年に世界初の長距離電話会社として発足し、社長となったセエドア・ニ ュートン・ヴェイルは「垂直統合」と「水平統合」と呼ばれる研究開発(ベル研究所)か ら機材製造(ウェスタン・エレクトリック)、市内交換から長距離交換までの独占を展開し、 20 世紀初頭には政府との折衝の結果キングズベリー協定により事業の独占権「規制下の独 占」を認められるようになった。 1870 年代末の商業サービス開始時点から、電話に関する技術は急速に進歩し、1880 年代 中頃にはアメリカの主要な都市で市内通話用の電線が次々に建ち、電話交換機も次々に設 置された。ヨーロッパ大陸と北アメリカ大陸をつないだ音声通話は、1915 年 1 月 25 日には じめて行われたが、通常の顧客がそれを利用できるようになったのは、無線を使った接続 が確立された 1927 年 1 月 7 日であった。有線海底ケーブルによる接続は 1956 年 9 月 25 日 に、36 本の電話回線を提供する TAT-1 が開通してはじめて実現した。 110 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 最初の大西洋横断電話回線は、何百個もの電流増幅器を組み込んだものであって、はじ めて開業した年の 1956 年は、最初の商業的遠距離通信衛星テルスターが宇宙空間に打ち上 げられるわずか 6 年前にすぎなかった。 AT&T 発足時から、独立系電話会社は 1,300 ほど存在したが、AT&T は 1881 年から 1984 年 のグループ分割までアメリカにおける長距離電話サービスをほぼ 100 年間、独占していた し、アメリカにおける多くの地域でも地域電話会社によって市場を独占していた。AT&T は、 20 世紀初めにはアメリカのほとんどの都市部を抑えていた。独立系電話会社はあまり利益 の望めない地域や田舎で生き残った。AT&T の収入の大部分は地域ベル電話会社によるもの であった。 ベル研究所からは半導体技術の開発など多くのノーベル賞学者が輩出した。傘下の機器 製造会社ウェスタン・エレクトリックは、海外資本として日本で初の合弁事業を立ち上げ た会社でもあった。1899 年、日本電気の設立当時、ウェスタン・エレクトリックは NEC の 株式の 54%を保有していた。この規制された独占の状態は 1970 年代に始まる反独占訴訟の 結果解体されることになるまで続いた(1982 年) 。 いずれにしても現代では電話産業は(その後の携帯電話も含めると) 、はかりしれない利 便と雇用を人類にもたらしているが、それもこれも、130 年ばかり前の 1876 年 3 月 10 日の ベルの「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」からはじまったのである。 発明がいかに偉大なことであるかがわかる。 ○無線通信、ラジオ放送の開始 1888 年のハインリヒ・ルドルフ・ヘルツの実験は、マクスウェル理論の予言する電磁波 の存在を実験的に確認し、空気を伝送媒体とする電磁波の応用への道を開いた。 イタリアの発明家、グリエルモ・マルコーニは、ヘルツの亡くなった 1894 年 1 月に、ヘ ルツの研究の解説本を読んで感銘を受け、直ちに自宅で実験に着手した。試行錯誤の末、 さお ヘルツ発振器の一方の 棹 を地中に埋めることによってアンテナの輻射エネルギーを従来の 数百倍にし、受信感度の著しい向上にも成功した。 1901 年 12 月、マルコーニはニューファウンドランドのセントジョンズとコーンウォール のポルドゥーという場所とをつなぐ無線通信を成功させた。この業績が認められて彼は 1909 年にノーベル物理学賞を受賞した(後述するフェルディナント・ブラウンも同時授賞 した)。 無線での音声放送(ラジオ)を世界で初めて実現したのは元エジソンの会社の技師だっ たカナダ生まれの電気技術者レジナルド・フェッセンデンで、1900 年に歪みはひどいもの の最初の通信テストに成功した。彼は引き続き、ヘテロダイン検波方式や、電動式の高周 波発振器を開発してラジオの改良に取り組み、1906 年 12 月 24 日には、アメリカ・マサチ 111 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ューセッツ州の自己の無線局から、自身のバイオリンと歌を流し、聖書を朗読するという ラジオ放送した。 フェッセンデン以後、実験・試験的なラジオ放送が世界各地で行われるようになったが、 正式な公共放送(かつ商業放送)の最初は、1920 年 11 月 2 日に、アメリカのウェスティン グハウス社がペンシルベニア州ビッツバーグに KDKA 局を建てたのがはじまりだった。最初 のニュースは大統領選挙の情報で、ハーディングの当選を伝えた。 1924 年には同じくアメリカのゼネラル・エレクトリック社がカリフォルニア州オークラ ンドに建てた KGY 局からの放送電波が太平洋をひとまたぎして日本の茨城県平磯にまで届 いた。日本でも、1925 年 3 月 12 日、東京放送局(NHK の前身)芝浦仮放送所から JOKA の 第一声が流された(この日は「放送記念日」に指定されている)。 ○テレビの開発 次はテレビの発明であるが、現在のようなテレビが開発されるようになるまでには、い ろいろな国の研究者が競い合って、改良を続けてきたので、誰がテレビを発明したと特定 することはなかなか困難である。 1897 年、ドイツのフェルディナント・ブラウンが、テレビの受像管に用いる陰極線管で あるブラウン管を発明した。この年、ブラウン管(陰極線管)とそれを使ったオシロスコ ープを製作したが、それは、約 100 年後の 2000 年代になって液晶ディスプレイ、発光ダイ オード、プラズマディスプレイといったディスプレイ装置に取って代わるようになるまで、 ブラウン管はテレビやコンピュータの表示装置として使われ続けた(1909 年に、ブラウン は、マルコーニと共に、無線電信の開発に寄与した功績を認められて、ノーベル物理学賞 を受賞した)。 1908 年、イギリスのキャンベル・スウィントンが、撮像側にも陰極線管を使った電子式 走査法の概念を科学雑誌 Nature に発表し、全電子式テレビジョンを示唆した。20 世紀の大 部分の期間で使用されていたテレビジョン装置は、図像表示機構にブラウンの発明したカ ソード・レイ・チューブ方式(CRT 方式。陰極線管/ブラウン管)を採用したものであった。 ウラジミル・ツヴォルキンは、ロシアでテレビの開発にたずさわっていたが、1923 年、 アメリカへ亡命し、ウェスティングハウス・エレクトリックのピッツバーグにある研究所 で再びテレビの実験に関わる機会を得た。彼はそこで、1923 年 12 月 23 日に "Television Systems" と題する特許を出願した。1925 年末から 1926 年初めにかけてのいずれかの時期 に、ツヴォルキンは公開実験を行ってブラウン管による送受信が本質的に可能であること を示したが、ウェスティングハウス経営陣から見ればそれは成功には程遠いものだった。 112 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 1930 年、ツヴォルキンは、RCA が新たにカムデンに建設した研究所でテレビ開発の責任 者として働くことになった。1930 年中ごろには研究所内の実験で走査線 80 本のキネスコー プが動作していたが、送信機構は機械式だった。打開策としてツヴォルキンのチームは、 ハンガリーの発明家 カルマン・ティハニーが 1928 年にフランスとイギリスで特許出願し た方式を採用した。RCA は彼の特許がフランスとイギリスで公開された後、 1930 年 7 月に テ ィハニー に接触し、共同研究により、新しい撮像菅を開発した。その実験は 1931 年 4 月 に開始され、1931 年 10 月 23 日に実験が成功すると、この新型撮影装置をアイコノスコー プと呼ぶことが決まった。 1934 年末には製品化可能となり、カルマン・ティハニーの特許権は当然ながら買い取ら れた。1935 年初め、この撮像管がドイツにもたらされた。そこでさらなる改良が加えられ、 1936 年のベルリンオリンピックでカメラに使われ、成功を収めた。オリンピックの放送は 約 200 ヶ所の劇場で行われたという。 1939 年 4 月のニューヨーク万国博覧会で電子式テレビ受像機が展示され、間もなく RCA が一般に発売を開始した。 いずれにしても、本格的なテレビの時代は,第二次世界大戦後になった。 【4】電力生産の事業化 ○発電機の開発 発電機の原理の起点は、1831 年のファラデーの電磁誘導にあった。 ファラデーの法則に基づく最初の発電機は 1832 年、フランス人技師ヒポライト・ピクシ ーが製作した。永久磁石をクランクで回す構成になっている。回転する磁石の N 極と S 極 が鉄芯に巻きつけた導線のそばを通るよう配置している。ピクシーは回転磁石の極がコイ ルのそばを通過するとき、導線に脈動する電流が生じることを発見した。しかし、N 極と S 極では誘導電流の向きが逆だった。交流を直流に変換するため、ピクシーは整流子を発明 した。 しかし、この発電機でも出力する電流には脈動があり、供給する電力を平均すると低出 力になるという問題があった。イタリアの物理学教授アントニオ・パチノッティは 1860 年 ごろ、2 極の回転コイルを多極のトーラス形コイルに置き換えることで問題を解決した。こ れは、ドーナツ形の鉄の輪に連続的に導線を巻きつけ、その周囲の各所に整流子との接点 を設けたものである。整流子の接点は多数存在することになり、コイルの各部分が連続的 に磁石のそばを通ることで平滑な電流を生じさせることができるようになった。 最初の実用的発電機としては、ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスとイギリスの チャールズ・ホイートストンがほぼ同時期にかつそれぞれ独自に発表した。1867 年 1 月 17 113 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 日、ジーメンスはベルリンアカデミーで "dynamo-electric machine"(発電機をダイナモ と言ったのはこの時がはじめて)を発表した。これは、自励式電磁電機子を使っていた。 この発明が王立協会に伝えられた日に、チャールズ・ホイートストンは同様の設計の発 電機についての論文を発表した。両者の違いは、ジーメンスの設計では電機子と回転子が 直列に接続されていたのに対して、ホイートストンの設計では並列接続になっていたとい う点である。永久磁石ではなく電磁石を使うことでダイナモの発生する電力は大幅に増大 し、これによって史上初の大電力発電が可能となった。 ベルギーのゼノブ・グラムは 1871 年、パリで世界初の商用発電所を設置し 1870 年代に 運用した。グラムは磁束の経路を改良するため、静止部品と回転部品の間の隙間をなるべ く狭くし、隙間を鉄芯で埋めるという改良を行った。グラムのダイナモは産業向けに販売 できる量の電力を生成した世界初の発電機であった。その後も改良は行われたが、ダイナ モの基本的な構造(回転する無限ループの導線)はその後も変わっていない。 これらの発明によって電力が実際の生活に使われるようになってきた。たとえば、これ らの発電機はアーク灯(炭素棒の 2 つの電極を向かい合わせて電流を流すと青白く輝く照 明灯)へ電流を送ることができるようになった。 アーク灯は、1808 年にイギリスのハンフリー・デービーが公開実験に成功していたが、 非常に高価で実用にはならなかった(これが、電気を使用した人工の光による照明の始ま りだった)。また、点灯中、電極(2 つの炭素棒)は少しずつ消耗し電極の間隔が広くなり、 次第に輝きが弱くなって寿命は 100 時間程度だった。 1876 年、ロシアのポール・ジャブロコフは、2 本の炭素棒を石膏版を挟んで平行に設置 することで、電極の間隔を調整する機構が必要でないアーク灯(エレクトリック・キャン ドル)を発明した。1878 年ロンドンのテームズ川沿いに街路灯が設置され、その年の 10 月 14 日にはこのアーク灯を使用してサッカーのナイトゲームが行われた。 産業用に使うようになった例として、1870 年代、ジーメンスはダイナモを電力源として 電気炉を運用し、金属精製などに使った。このように、ジーメンス(ヴェルナー・フォン・ ジーメンス)は、先端技術の発明家であると同時に企業家でもあった。 1847 年に、ヴェルナー・フォン・ジーメンスは J・G・ハルスケとともにベルリンに電信 機製造会社ジーメンス・ハルスケ電機会社を創立し、後にジーメンス・ハルスケ電車会社 に発展し、世界で最初の電車を製造し、1881 年に営業運転を開始した。このドイツのミュ ンヘンに本社をおく会社は、電車、電信、重電機、電子機器の製造会社から発展し、1966 年に現在のジーメンス社に改名した。現在では情報通信、電力関連、交通、医療、防衛、 生産設備、家電製品等の分野で製造、およびシステム・ソリューション事業を幅広く手が ける多国籍企業になっている。 114 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○電動機の開発 ダイナモは本来は発電機だが、電池や別のダイナモから直流を供給してやると電動機と しても機能することが発見された。1873 年のウィーン万博で、グラムは彼のダイナモに偶 然別のダイナモを接続して発電したところ、そのダイナモの軸が回転し始めたのに気づい た。さらにダイナモの効率を向上させるよう設計すると、電動機としての効率も向上する ことがわかった。隙間をなるべくなくし、多数のコイルと多数の整流子を使うグラムの設 計は、実用的な直流電動機の設計の基本にもなった。 ○直流か交流か、電力事業化の「電流戦争」 発電機にその源となる動力を与える原動機は、最初は蒸気機関であった。ここで発明王 といわれたトーマス・エジソン(1847~1931 年)が登場してくる。エジソンは、生涯にお よそ 1,300 もの発明を行ったといわれている。その中には、人々の生活を一変させるよう な重要な発明、たとえば、蓄音器、白熱電球、活動写真などもある。ここでは電気エネル ギーに関係する電球と、発電から送電までを含む電力(電力システム)の事業化について 述べよう。 また、エジソンは Edison General Electric Company エジソン・ゼネラル・エレクトリ ック会社の設立者で、J・P モルガンから巨額の出資・援助をしてもらい、その指揮下で電 力システムの開発・普及に努力したわけであるが、この会社は、現ゼネラル・エレクトリ ック社 (GE 社、世界有数の巨大企業) の前身となった会社であった。 1877 年に蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得したエジソンは、ニュージャージー州 にメンロパーク研究所を設立し、集まった人材を発明集団として、電話、蓄音器(つまり 録音・再生装置)、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを矢継ぎ早に商品化した。 なかでも注力したのは白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に改良した。エ ジソンは、数々の失敗を繰り返した末に、真空状態のガラス球の中にフィラメントを入れ て電気を流すことによって、白い光を発する電球を発明した。フィラメントには、京都の 竹が最適なことも発見した。細くて長くて、柔軟性をもつ竹の繊維を炭化(炭にする)し たものが、当時では最適なフィラメントの材料だった。さらに彼は電流のソケット、使っ た電力量を調べるメーター、安全のためのヒューズなどを次々と発明した。 ニュージャージー州の研究所の場所の名からメンロパークの魔術師といわれたエジソン は、炭素フィラメントを用いて、白熱電球(電灯)を発明し(1878 年)、その企業化のた めに、1881 年にはニューヨーク 5 番街に「エジソン電灯会社」をつくった。電灯の普及と ともに中央発電所計画も構想し、1882 年にニューヨークパーク街にアメリカ最初の中央火 力発電所を建設した。 115 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この発電所のスイッチは 1882 年 9 月 4 日の午後 3 時、エジソンによって入れられた。100 個の電灯がぱっと明るくなった。それとともに電気時代の幕があけた。これらの電球用の 電気は、地下の配管と電線を通って数ブロック離れた石炭火力発電所から流れてきていた。 これはアメリカ初の集中的な発電所で、27 トンもある巨大なダイナモ(発電機)が 6 台も 必要だった。 しかし、これらの電流は直流が使われ、送電中に弱ってしまうものだった。もし、直流 でやるとしたら、1 マイル四方ごとに発電機を置かなければならず、規模の経済が成り立た なくなってしまう。交流であれば、変圧器で電圧をあげれば、送電線で経済的に長距離を 送れる。その後、電圧を下げて、分配し、個々の家に届けることができる。これなら、大 型発電施設でより広い地域に電気を供給できる。本格的な規模の経済が可能となり、コス トが下がる。 ここで発明王エジソンもテスラの件では大失敗をすることになった。エジソンはご存じ のように正規の電気理論を学ばず、彼の天才的な感と昼夜をわかたぬ努力(実験)ですべ てを押し通す手法をとっていた。ところが、とくに先端技術の分野では原理・理論の究明 が重要であった。テスラとの紛争はそれを示していた。エジソンはあくまで発明家でテス ラのライバルとなってしまった。彼には発明の才(それも器用貧乏という)はあったが、 発明家を使いこなす経営者の才(度量)はなかったようである。 ニコラ・テスラ(1856~1943 年)は、ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)の村に セルビア正教会司祭を父として生まれ、とくに数学において突出した才能を発揮したとい われている。1880 年、オーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクール在学中に交 流電磁誘導の原理を発見した。1881 年に同校を中退し、ハンガリー王国ブダペストの国営 電信局に就職した。 テスラは 1884 年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用された。当時、 直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業 を提案した。 エジソンは工場の(エジソン好みの直流用に設計された)システムをテスラの交流電源 ほうしょう で動かすことが出来たなら、褒賞 5 万ドルを払うと提案した。直流の優位性・安全性また 交流の難しさなどを考慮したうえでの発言だったが、テスラは直ちにシステム全体の交流 化に成功し、交流の効率の良さを見せつけた。しかし、エジソンは 5 万ドルが惜しかった のか、交流を認めたくなかったのか、とにかくエジソンは褒賞の件を「冗談」で済ませた ため、テスラは激怒し、その後退社することになった。 116 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 《テスラとウェスティングハウス》 1887 年 4 月、独立したテスラは、テスラ電灯社を設立し、独自に交流電流による電力事 業を推進し、同年 10 月には交流電源の特許をとった。1888 年 5 月 16 日、アメリカ電子工 学学会でデモンストレーションを行った。それに感銘を受けたジョージ・ウェスティング ハウスから 100 万ドルの研究費と、特許の使用料を提供されることになった(契約には、 特許の将来の買取権が含まれていた)。 ジョージ・ウェスティングハウス(1846~1914 年)は、機械工場所有者の息子に生まれ、 機械関連のビジネスに関して才能があった。1869 年、彼が 22 歳の時に、圧縮空気を用いた 鉄道のブレーキシステムを発明し、特許をとった。その後ウェスティングハウスの発明品 を製造・販売するため、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ・カンパニーを設立した。 間もなく彼の発明はほとんどの鉄道車両で採用された(この時代はアメリカの産業革命期 で大鉄道時代であった) 。現代の車両でも、この設計を基本とする様々な形のブレーキが用 いられている。 また、ウェスティングハウスは、その当時オイルランプを用いていた鉄道信号機の改善 を追求し、1881 年に彼の信号システムに関する発明品を製造するためにユニオン・スイッ チ・アンド・シグナルを設立し、電気分野へ進出した。 ウェスティングハウスはガスの供給や電話の回線交換への関心を持っており(電力・ガ スのエネルギー供給システム、電話などの通信システムは社会の基礎システムとなる、つ まり、社会システムとなると考えていた) 、そこから必然的に電力供給システムへの関心を 持つに至ったのである。 けんでん 彼は当時、喧伝 されていたエジソンの直流電力システムを検討したが(当時、エジソン は白熱電球を発明し、前述したように 1881 年にはニューヨーク 5 番街にエジソン電灯会社 をつくり、ロウワー・マンハッタンにある 59 の利用者に対して直流 110 V の電気を供給す る世界初の送配電システムの運用を開始していた) 、このまま大規模に発展させていくには あまりに非効率であると結論づけた(ウェスティングハウスには社会システムの本質がわ かっていた。社会システムは将来それが普及すればするほど、コスト低減になる技術でな ければならない。規模が大きくなれば割高になるようなシステムには未来はない) 。そのエ ジソンの電力供給システムは低い電圧の直流を用いており、大きな電流が流れて多大な損 失を引き起こしていることをウェスティングハウスは見抜いていたのである。 ウェスティングハウスは、多数のヨーロッパの変圧器とシーメンス製交流発電機を輸入 し、技師のウィリアム・スタンリーの助けを得ながら、変圧器などの設計を改良すること に取り組み、実用的な交流送電システムの研究を続けていた。 117 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 彼は、自宅のあるマサチューセッツ州グレート・バーリントンの目抜き通りで、オフィ スや商店に電灯を点けるためにこのシステムを設置した。スタンリーの変圧器の設計がこ の後の全ての変圧器の原形となり、また彼の交流送電システムが現代の電力伝送システム の基礎となったが、しかし効果的な交流発電機が欠けているという弱みがあった。 そのようなとき、幸運にも前述のテスラとの出会いがあったのである。エジソンと手を 切ったテスラが、1888 年 5 月 16 日、 アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、 それを見たウェスティングハウスはいたく感銘を受けたのである。ニコラ・テスラが多極 式交流発電機の原理を既に考案していたのである。そこで前述のようテスラとウェスティ ングハウスの提携となった。 テスラは、さらに同年には循環磁界を発見し、超高周波発生器も開発した。だがウェス ティングハウス社技術陣の中でも孤立し、ここも 1 年で離れることになった。しかし、前 述したように、契約には、特許の将来の買取権が含まれていたので、特許権はウェスティ ングハウス社(WH)のものとなった。 その後、エジソン(直流。GE)とウェスティングハウス(交流。WH)の、壮絶な戦いが くりひろげられた。電力はネットワークのシステムなので、勝者はただひとり。勝負がつ けば、勝者がすべてを得る。 《GE と WH の戦い》 1893 年の重要な業績として、ウェスティングハウスはシカゴ万国博覧会に対してテスラ の発明した交流発電機を含む交流送電システムを建設する契約を交わし、ウェスティング ハウス・エレクトリック社(WH)の交流送電技術に対する大きな宣伝となった。このシカ ゴ万博は、6 ヶ月間の入場者ののべ人数が、アメリカの人口の 3 分の 1 以上に及ぶほどの大 賑わいだった。万博会場は電気の光りが夜空を明るく染めたので、シカゴは「ホワイト・シ ティ」と言われた。ウェスティングハウスの交流がエジソン(直流)に勝ったことを示して いた。 ウェスティングハウスはまた、ナイヤガラの滝に交流発電機を設置して発電した電力を 40 キロメートル離れたニューヨーク州バッファローへ送電する最初の長距離送電網を建 設する契約を引き受けた。 もう、勝負はあった。交流発電―交流送電の時代になったのである。このときはもうエ ジソン・ゼネラル・エレクトリックを 1892 年に吸収合併したゼネラル・エレクトリック社 (GE)でさえ、交流用の設備の生産を開始することを決定していた。 なお、エジソンは 1878 年にエジソン電気照明会社を設立し、1889 年にこれを吸収してエ ジソン総合電気を設立したが、1892 年にトムソン・ヒューストン・カンパニーと合併し、ゼ ネラル・エレクトリック・カンパニー(GE)となった(エジソンはあくまで発明家であり、 118 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 企業経営者ではなかった) 。GE は、ウェスティングハウス・エレクトリック(WH)とともに アメリカの 2 大総合電機メーカーとして発展していった。 ○水力発電所の建設 世界で最初の水力発電は、1878 年にイギリスのウィリアム・アームストロングが自身の 屋敷の照明(1 個のアーク灯)を点灯させるために設置したものである。アームストロング は水力発電機の発明者と見なされている。 1878 年にはエジソンが白熱電球を発明し電力需要が生まれ、発電機の動力として水力を 利用した水力発電の建設がはじまった。 アメリカでは 1881 年にナイヤガラの滝の近くに水力発電所が竣工し、1882 年には当時の 電流戦争(交流方式と直流方式の争い)の最中にあったエジソンによる最初の水力発電所 (直流、出力 12.5kW)がアップルトン (ウィスコンシン州)に竣工した。1886 年にはアメ リカおよびカナダに 45 の水力発電所、1889 年にはアメリカだけで 200 の水力発電所が稼働 していた。 1890 年にはウェスティングハウスが交流長距離送電を開始し、短期間に急速に水力発電 所の建設が進んでいった。 日本の最初の発電所は 1887 年に竣工した東京の火力発電所であった。水力発電では 1888 年(明治 21 年)7 月に宮城紡績が設置した三居沢発電所(5kW)で自家用発電を開始し、そ の後紡績会社や鉱山会社により発電所の設置が続いた。1891 年(明治 24 年)に琵琶湖疏水 の落差を利用したアメリカのアスペン (コロラド州)の水力発電所を参考にした蹴上水力 発電所(水路式、直流、160kW)が、運用を開始した。これが日本で最初の一般営業用の水 力発電所であった。 日本でも初期の電力の需要は電灯により始まったが、1913 年(大正 2 年)に電力の動力 需要が照明用の需要を超え、1914 年(大正 3 年)には工業用の動力で電力が蒸気力を越え た。1915 年(大正 4 年)には猪苗代水力発電所から日本初の長距離送電(228Km)が始まっ た。大正から昭和初期にかけて大規模な水力発電所が多く作られ、1950 年代までは電力の 大半は水力発電によるものであった。 ○タービンの発明 発電機に動力を与える原動機は、最初は蒸気機関であったが、そのうちに水力を利用し た水力発電所が実用化されていった。 近代的な電力技術で重要なのは、蒸気タービンであり、1884 年にイギリスのチャールズ・ パーソンズ(1854~1931 年)が蒸気の反動を利用したタービンを発明した。チャールズ・パ ーソンズは、また、蒸気タービンを動力にした最初の船「タービニア号」を建造し、1897 年 119 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の観艦式で 34 ノットで供覧航行し、提督を初めとして見物人を驚かせた。この後、蒸気タ ービンは軍艦や商船に急速に導入されていくことになった。 陸上でのレシプロ式蒸気エンジンと水上での蒸気タービンは、それぞれが動力機関とし ての主要な位置を占めるに至った。一方では、電力消費の増大に応じて水力発電所に加え て火力発電所の建設が進むと、コストが安く入手の容易な石炭を燃料とする蒸気ボイラー と蒸気タービンの組合せによる発電が主流となった。 以上、電気技術は、 「発電―送電―配電」という体系で発展した一連の中央集中的技術で あり、19 世紀末には大工場や都市・社会を支える技術として根づくことになった。 ○電力事業という新ビジネスモデルの確立 サミュエル・インサル(1859~1938)は、1881 年にイギリスからアメリカへ渡り、発明 王エジソンの秘書を務めていた。1892 年にエジソンが会社の経営権を失うと(エジソン・ ゼネラル・エレクトリックからゼネラル・エレクトリック社(GE)になったとき)、インサ ルはシカゴに移り、競合する発電会社 20 数社のうちの 1 社を買収し、コモンウエルス電気 会社の社長になった。 インサルは、1894 年にイギリスに旅行した時にブライトンで夜になると町全体で明かり がともるのを見て感心した。どうしてこれができるか聞いてみると、地元の発電所の所長 が、商店や住宅が使う電気の量を測るメーターを発明したのだという。電球の数ではなく、 使用電気量を払うようにして、そのプロジェクトに投資する資本を料金に上乗せする、イ ンサルに電力事業のビジネスモデルが閃いた。インサルはそのメーターをシカゴに輸入し た。 電気は、電球の数ではなく、消費量で値段を決める、それで規模拡大が可能となり、ビ ジネスが大きく成長する。規模を拡大できれば、さらに安価に電気を供給できる。こうし て、インサルは交流電流の巨大な中央発電所を建設し広域の送電線網を構築し、従量課金 や基本料金の考え方を作り、加入者が増えれば増えるほど電力は安くなるという電力事業 の新しいビジネスモデルを確立した。彼は、世界最大の発電機を設置するための積極的な 宣伝や、急激に拡大していた路面電車のような新手の顧客獲得など、規模拡大のためにあ らゆる手を尽くした。 インサルは規模拡大のために、持ち株会社の仕組み、すなわち、他の会社の株式を握る ことによって、他の会社あるいは複数の会社の一部かすべてを支配する仕組みを利用した。 こうして、インサルは持ち株会社を通じて、比較的小規模な資本支出で、莫大な資産を支 配できるようになった。 インサルはミッドウエスト・ユーティリティ・カンパニーを運営し、この電力会社を使 って、地方の多数の電力会社を買収して、非効率的な小規模発電所を閉鎖し、もっと大型 120 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の中央発電所と送電線を建設して、合理化を推進していった。電力は格段に手にはいりや すくなり、価格も下がった。この手法で、インサルの会社はアメリカ国民数百万人に供給 する電力業者になった。 電力会社は通常、地方自治体から免許を得なければならなかった。自治体は多数の会社 に免許をあたえることもあった。1882 年から 1905 年までのあいだに、シカゴ市は 47 件の 認可をしていた。これには地域の政治もからみ、インサルの目指す方向―電力産業は、拡 大して、大幅な効率向上と規模の経済による低コストを実現するために、巨額の資本投下 が必要である―には簡単に進みそうもなった。 そこで、インサルは、監督機関による価格統制を持ち出した。2 社がおなじ路地に電線を 引き、発電施設を建設して、おなじ顧客を奪い合ってまっこうから競争するのは無駄だ。 顧客が払うコストは下がらず、増大する結果になる。逆に、投資効率からして、自然な独 占のほうが顧客により低い価格で提供できる。電力ビジネスには大規模な投資が必要であ るから、電力産業の経済はどうしても独占的になる、というのがインサルの意見だった。 そこで価格統制が登場した。「電力ビジネスが自然な独占だとするなら、政府の監督機関 がなんらかの形で規制する必要がある」とインサルは説明した。具体的には州の公益事業委 員会が、価格が適正であるかどうかを判断する。なぜなら、電力ビジネスにおいては「競争 は不健全な経済規制要素である」から。結局、これが電力ビジネスの機能する仕組みになっ た。やがてこの価格統制が公共政策に根付くようになった。自然な独占である電力ビジネ スは、料金と利益を公益事業委員会によって定められる統制産業として扱われるようにな った。 ウィスコンシン州とニューヨーク州が、1907 年に最初にそういう委員会を設置した。1920 年代には、全州の半分がそれにならい、やがてすべての州がおなじ仕組みになった。この あらたな価格統制は、自然な独占企業に、公益事業は“奉仕する”義務、つまり、電力会 社は、地域内のすべての人間に電気を届け、使用できるようにし、相応のコストで信頼で きるサービスを提供しなければならない義務を担わせた。さもないと事業免許を取り消さ れることになった。 1920 年代、シカゴの電力システムは世界最大となり、そして、電気料金はどの都市より も格安だった。200 万人のシカゴの家庭の 95%に電気が届いていた。そして、使用量に応 じて料金を支払っていた。シカゴは、「全家庭、全工場、全輸送網が、ひとつの共通した源 からエネルギーを得る。それが電気を製造して配分するもっとも安価な方法であるからだ」 というインサルの理想像の手本となった。 インサルが創出した電力事業のビジネスモデルは、その後、世界に普及することになっ たが、当時、シカゴとともに世界的な電気のショウーケース(陳列棚)となったのはベル 121 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― リンであった。ドイツにおいて、発電機などを発明するとともに企業家としても活躍した ヴェルナー・フォン・ジーメンスのことは述べたが、ここにもうひとりやはりエジソンに かかわるエミール・ラーテナウという技師が、ベルリン(とドイツ)を卓越した電気の国 にした。 ラーテナウは、エジソンの電気関係の特許のドイツでの使用権を獲得した。1884 年に、 ベルリン最大の大道りであるウンター・デン・リンデンにある有名なカファ・バウアーの 照明設置に成功して、ラーテナウの会社は一躍有名になった。ラーテナウは、後に AEG(ア ルゲマイネ・エレクトリツィテーツ・ゲゼルシャフト〔総合電気会社〕 )と呼ばれるように なる会社を設立した。 1912 年のベルリンは、ヨーロッパで電気的にもっとも重要な街といわれていた。300 万 人のベルリンは、シカゴと同じように中央発電所のシステムであり、シーメンスと AEG が 無敵の 2 社で、ベルリンだけでなく、ドイツ中の市や町で契約を取ろうと正面切って競争 していた。 AEG は、電力事業(傘下のベルリン電力会社)のほかに、掃除機、洗濯機、冷蔵庫といっ た家電のほか、発電機や自動車製造、航空機開発、鉄道の電化など、その後、ジーメンス とともに世界的な電機メーカーとなった(1994 年から、スウェーデンの世界的電機メーカ ーであるエレクトロラックスの傘下にある) 。 インサルのその後も述べる。1920 年代の好景気の時期、インサルは世界でもっとも有名 なビジネスマンであり、資本主義の象徴であった。その絶頂ともいえる 1929 年、持ち株会 社と事業会社から成るインサル帝国の時価総額は数十億ドルで、32 州の電力会社を傘下に 収めていた。インサルは、さらに新たな会社を買収するために、1928 年 12 月、インサル公 益事業投資という新会社を設立し、1 株 12 ドルで新規公開した。1929 年夏前には、株価は 150 ドルに達した。 ところが、1929 年 10 月 24 日(木曜日)に、ニューヨーク株式市場の株価は大暴落し、 大恐慌が始まった(のちに世界恐慌になった)。大恐慌が深刻化して、株式市場が下落をつ づけるなかで、銀行はインサルの債券を回収しはじめた。1932 年、インサルの帝国全体が、 負債と錯綜した複雑な会社構造のため崩壊した。 世界大恐慌後、インサルはアメリカ政府から証券詐欺の容疑で裁判にかけられた。しか し、政府側はその主張を立証することができなかった。そして陪審員の出した判決は無罪 だった。政府は大恐慌で誰か非難を受ける悪者がいなければならないと考え、インサルは そのスケープゴート (犠牲の羊) にされたという見方が一般的なようである。 インサルの頂点からの墜落は、アメリカ史上でもまれな悲惨な出来事だった。裁判で無 罪になったが、アメリカにいたたまれなくなったインサルはフランスに移住した。1938 年、 122 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― パリのコンコルド広場駅で倒れ、地下鉄の切符と小銭しか持っていないような極貧のなか で彼はこの世を去った。しかし、インサルは現代の電力産業という偉大なビジネスモデル を遺産として人類に残していた。 【4-3】石油産業の創成期 【1】アメリカ石油産業の誕生 ○19 世紀まで 地下から湧く燃える水の存在は、古代から各地で知られていた。古代オリエントの頃か れきせい ら、石油の残さ物の 瀝青(アスファルト)が薬や接着剤や舟の防水材として使われていた。 紀元前3000年頃のバビロン(現在のイラク・バグダッド南方)には膨大な瀝青(天然ア スファルト)があったと記録され、エリコ(現在のヨルダン川西岸の街)の城壁にも使わ れた。 『旧約聖書』の創世記(7章ノアの洪水)の箱舟を作る際に「箱舟の内側と外側にチャ ン(瀝青)を塗れ」と書かれている。エジプト、パレスチナ、イスラエル、イラクなど産 油地帯近くには古代から石油がにじみ出ていたようである。 それぞれの産地で燃料や照明に用いた例も多い。たとえば、天然ガスは、紀元前1500年 頃からカスピ海のアゼルバイジャンの街バクーのゾロアスター教寺院で燃えていた記録が ある。4世紀には中国で石油の採掘が行われたという記録がある。900年代のイスラム社会 の『千夜一夜物語』に銅製の石油ランプがアラジンの魔法のランプとして登場した。 か みよ 日本では、古事記に書かれた神代の頃から、植物や動物の油を小皿に入れて燃やして光 エネルギーにした。石油は、天智天皇が即位した668年に「越の国の燃ゆる土と水を献上」 と伝えられ、ガスについては1700年頃に、越後地方で地中から出る「風くそうず」(石油 くそう ず の呼び名の 臭 水に対して気体の特徴が出ている)、つまり天然ガスが出るとされた。 また1691年には現在も石油の生産が行われているルーマニアのモレニ油田から石油が採 掘され、産出された石油は品質の点で他の油より良いとされていた。しかし、大量生産は ずっと後のことであった。 じゅうし ろうそく 1710年代のアメリカでは動物の油が使われ、獣脂からは照明用の蝋燭だけでなく洗濯用 AE AE AE の石けんも作られ、室内用の照明エネルギーは蝋燭が主流だった。 1718年にパリで初めて石油を使った街灯用の照明ランプが使われ、パリ警察は夜9時から 一晩中、家の窓にランプを出しておくようお触れを出したので、商店、酒場、たばこ屋な どは夜11時頃まで営業できた。1765年になると、パリのかなり広い地区に街灯用の石油ラ ンプが普及し、フランス革命のときも街を照らしていた。 123 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― たいまつ かがり び なたねあぶら あんどん ちょうちん 日本の江戸時代には、室外では松明、 篝 火、菜種油等を利用した行灯、提灯 、室内では ろうそく あんどん い ろ り 蝋燭、行灯、囲炉裏などが使われ、ヨーロッパやアメリカ人に比べて、ずっときめ細かな 工夫をこらした照明器具を創りだした。太陽が沈んであたりが暗くなれば寝てしまうのが 人々の通常の生活で、太陽エネルギーの明かりを有効利用するサマー・タイムを、役人の お仕着せではなく江戸の人々が独自に行なって、早寝早起きの生活をしていた。 イギリスの産業革命の時代になると、蒸気機関を開発したジェームズ・ワット、マシュ ー・ボルトンの会社の従業員だったスコットランド人のウィリアム・マードックは、1792 年にガス灯を発明し、石炭ガスからえられるガスを使って、1797年にイギリスのマンチェ スターにガス灯を設置した(マードックは「ガス灯の父」と呼ばれている)。 1850年になると石炭を乾留して作ったパラフィン油が石炭油として売られ、1859年に後 りゅうぶん 述するようにドレーク大佐が新しい原油掘削方法を開発してからは、ケロシン(灯油)溜分 E A とうしん を平織り灯心にしみ込ませ、ガラスのホヤ(覆い)をかぶせた灯油ランプが売り出され、 AE AE げ いゆ 石油ランプは鯨油ランプを代替していった。 AE AE 日本でも、1872年(明治5年)に横浜で初のガス灯がついたが、エネルギー源は石炭を乾 留したガスだった。1874年には東京に石油灯、12月にはガス灯がついた。1878年に現在の ひ ろう 霞が関ビルの北側にあった東京大学・工学部構内でアーク灯が披露された。アーク灯は、 炭素棒の両端が白熱状態になってアーク(電気の弧)状の白熱したまばゆい光を出す電灯 であった。 この頃から石油、ガス、アーク灯の3つの灯りが競争関係になった。明治期(1868~1911 年)を通じて石油の街灯がもっとも多かったが、明治期の後半(1890年~1911年)になる と、ガスと電気が増えた。 1879年に、エジソンが京都の竹を炭化したフィラメント電球をつくり、アーク灯よりも まばゆくなく800時間も長く点灯できた。大正時代(1912年以降)に入ると、3390度まで溶 けないタングステン電球が出現し、電気による照明の優位性が固まった。 1923年(大正12年)の関東大震災はマグニチュード7.9の巨大な揺れとなり、石油ランプ やガス・パイプの破損による火災が多発したため、震災後の東京の明かりは、安全度が評 価されて電気が主流になった。 ○石油産業の勃興 機械掘りの油井の出現が、石油生産の一大画期をなした。鉄道員だったエドウィン・ド レークが 1859 年 8 月にアメリカ・ペンシルベニア州の製材の町イタスビル近くのオイル・ クリーク川岸で、世界で初めて機械掘りで石油を採掘し、これが近代石油産業の始まりと なった。それまでの石油は地上ににじみ出たものが手作業で採集されていただけだった。 それをドレークは岩塩の開発で利用されているような採掘機械(道具)を使って 21 メート 124 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ルまで掘り下げたところで中断し、翌朝行ってみたら石油が出ていた。その石油をくみ取 ったら、いくつかの小さな木製の樽(バレル)が満たされた。 タイタスビル一帯はこの事件で沸き立ち、あちこちで掘削工事が始まった。たちまち、 タイタスビルを囲む丘や谷一帯が石油地帯となった。1861 年 4 月、日量 3000 バレルの生産 が可能な史上初の自噴油井が出現した。石油の生産は急激に増加した。1860 年に年間 10 万 トン未満だったのが、2 年後には約 50 万トンに達した。価格は急速に暴落し、1 バレル当り 20 ドルだったのが半分に下落し、さらに下げ足を速めて、1861 年末には数十セントになっ た。 この頃の石油は照明用の灯油ランプぐらいしか使い道はなく、精製された灯油を木の樽 (バレル)に入れ馬車に積んで運んでいた。ペンシルベニアで原油が発見されたとなると、 人々はアメリカ中を掘削したため、原油は過剰生産になって価格は崩落し、このために生 産が減少すると逆にすぐに高騰した。 その後も、石油価格は目まぐるしく変り、1862年初には10セントに下落し、生産制限す ると12月には4ドルに上がり、1863年9月には7ドル台に急騰した。原油生産者は歓喜の絶頂 から奈落のどん底へ瞬時に一変することは日常茶飯事で、ドレーク大佐も10年たらずで乞 食の生活になるという激しい価格変動をした。この産業は生まれた当初から需要と供給を 調整することが難しく、価格の不安定性という宿命を背負っていた。 それを緩和するために、市場が少しずつ形成されてきた。「掘削中」の時点で運任せに購 入していたのが、取引のための特別な場が設けられ、即納あるいは後日の引渡しとなり、 支払方法も現金または期日払い、という習慣が急速に広まっていった。 石油の探鉱とその発見は、その後、アメリカでは、オハイオ、ケンタッキー、カナダと いう地域へと広まっていった。このアメリカのペンシルベニア州ではじまった石油生産は、 たちまち、他の国にも波及して、19世紀末には、ほかにもいくつかの生産拠点が誕生した。 ロシア帝国ではコーカサスのカスピ海沿岸に位置するバクー周辺、オランダ領東インド(現 在のインドネシア) 、オーストリア・ハンガリー帝国のガルシアなどがあった。 しかし、ペンシルベニア州の石油生産量は大きく、アメリカだけでなく、ヨーロッパや アジアにも輸出するようになった。というのは、最初の 40 年間は、石油の主な市場は照明 用で、それまでのランプに使われていた鯨油などの油脂類に取って代わるぐらいしか需要 先はなかった(前述した第二次産業革命による自動車、飛行機が登場するのは 20 世紀には いってからだった) 。 それでも石油はたちまち世界的なビジネスになり、この時代に後述するようにジョン・ デイヴィソン・ロックフェラーが石油産業の新ビジネスモデルを生み出して、世界一の金 125 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 持ちになったのは、自動車などの交通手段の燃料ではなく、ただ照明用の燃料のおかげだ った。 【2】石油産業のビジネスモデルを生み出したロックフェラー ○スタンダード石油社の設立 ジョン・D・ロックフェラー(1839~1937 年)は、1855 年、16 歳のときからオハイオ州 クリーブランドで記帳係として働き始めたが、1858 年から彼はモーリス・B・クラークと共 にクラーク・アンド・ロックフェラー社を設立し、小麦、豚肉、塩、石油などを売買しは じめた。 ロックフェラーの会社は、石油の将来性に目をつけて、1863 年、当時クリーブランドに 建設された製油所に投資した。この時期は、ドレークが石油の機械掘りに成功して 4 年目 ようらんき で、石油産業は 揺籃期 だった。照明に使われていた鯨油が高価すぎるものとなり、安価な 燃料が必要とされていた時代であった。 ロックフェラーは、1865 年、事業のやり方でクラークと対立し、持ち株をクラークに売 りはらってパートナーシップを解消し、精油所(処理能力が 1 日に原油 500 バレルであっ た)を 72,500 ドルで買収した。その買い取った権利を基に、化学者のアンドリュースとロ ックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立し、オハイオ州クリーブランドで石油精 製業に乗り出した。これは彼にとって、決定的なことであって、彼自身も後に「その日、 私の経歴が決定した」と述べている。 ロックフェラーは事業の拡大を行い、フラグラーが所有していた石油精製所を含む 5 つ の精製所を所有する会社(パートナーシップ)、ロックフェラー・アンドリュース・アンド・ フラグラー社を経営し、1868 年までに世界最大の製油所を所有することになった。 さらに規模を拡大するために、1870 年に、ロックフェラー兄弟とフラグラー、アンドリ ュース、スティーヴン・ハークネスが、クリーブランドに資本金 100 万ドルのスタンダー ド石油社(オハイオ)を創設し、ロックフェラーが社長に就任した。 ロックフェラーは競合する製油所の買収、自社の経営効率の改善、石油輸送の運賃値引 き強要、ライバルの切り崩し、秘密の取引、投資資金のプール、ライバルの買収などの手 段を駆使して事業を強化していった。1872 年にはわずか 4 ヵ月でクリーブランドの競合企 業 26 社のうち 22 社をスタンダード石油に吸収合併した。 ロックフェラーは競争相手にまず自社の帳簿を見せてどんな敵と戦っているのかをわか らせ、それから正式な申し出をした。それでも抵抗する相手は倒産に追い込み、資産を競 売で安く買い叩いた。本人は産業界の救助者「慈悲の天使」を自認しており、弱者を吸収 することで産業全体を強化・効率化し競争力を高めていると考えていた。 126 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― スタンダード石油は水平方向にも垂直方向にも成長していった。自前のパイプライン、 タンク車、宅配網を備えるようになっていった。製品が平均的家庭で入手可能となるよう 原油価格を抑え、必要とあれば競合他社を締め出すために原価割れの価格で製品を販売し た。タール、塗料、ワセリン、チューインガムの原料など、300 以上の石油製品を開発した。 1870 年代末にはアメリカの石油の 90%を精製するようになっていた。 1877 年、スタンダード石油は、新たな輸送手段としてパイプライン輸送を採用すること にしたため、主要輸送業者だったペンシルバニア鉄道と激しく対立することになった。し かし、この争いも、結局、スタンダード石油の勝利となり、ペンシルバニア鉄道は石油関 連の子会社をスタンダード石油に売却して鉾をおさめた。しかしその戦いの余波として 1879 年、ペンシルベニア州政府はロックフェラーを石油業界を独占したとして訴え、他の 州も次々と同様の訴えを起こし、スタンダード石油の商慣行が全国的な問題となった。 スタンダード石油は、各州に個別に経営される会社を所有しており、全体の管理がやり にくい状態だった。そこで、1882 年、ロックフェラーの顧問弁護士だったサミュエル・ド ッドは、彼らの資産を集中化する革新的な企業形態を考案し、スタンダード石油トラスト を誕生させた。 「トラスト」は、会社群の株式を受託者に預託し、株式を共通化、その預託者による理 事会を創設して巨大なグループにまとめたものである。このトラストではロックフェラー を含む 9 人の理事が 41 の企業を経営した。さらに、グループ経営を円滑にするために経営 委員会を設置した。この経営委員会が理事会に代って、グループの実際の経営を行った。 この委員会の下には、輸送やパイプラインなどを担当する専門委員会があった。 こうして、アメリカ国内に 2 万の油井、4000 マイルのパイプライン、5000 台のタンク車、 10 万人以上の従業員を抱える巨大トラストが出現した。石油精製の世界シェアは絶頂期に 90%に達したが、その後徐々に 80%にまで低下していった。トラストを結成し国内に敵がい なくなったにも関わらず、1880 年代のスタンダード石油は世界の石油市場のシェアを徐々 に落とし始めていた。 1880 年代、世界の原油の 85%はペンシルベニア産だったが、後述するように、ロシアや アジアの油田からの石油が世界市場に出回り始めたのである。ロベルト・ノーベルは埋蔵 量の豊富なロシアの油田に石油精製会社を作り、パイプラインやタンカーも備えるように なっていた。パリのロスチャイルド家も石油事業への投資に乗り出した。さらにビルマや ジャワでも油田が発見された。スタンダード石油はそれでも状況に適応すべくヨーロッパ に進出していった。 127 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○シャーマン反トラスト法違反で分割されたスタンダード石油 世界的にみると、スタンダード石油の比重が落ち始めたとはいえ、あまりに巨大化した スタンダード石油に対し、世論と多くの政治家からスタンダード石油はトラストによって 市場の有利な立場を濫用しているという批判を浴びるようになった。アメリカ連邦議会は、 1890 年にトラスト制度の利用を厳しく規制するシャーマン反トラスト法を制定した(アメ リカで最初に制定された独占禁止法)。そして、スタンダード石油に対して反トラスト訴 訟が起こされ、1892 年にオハイオ最高裁判所からトラスト協定を破棄すべしとの判決を受 けた。 ところが、このときまで禁じられていた持ち株会社の制度が多くの州で認められるよう になり、スタンダード石油はグループの連携を確実にするため、この制度を取り入れた。 つまり、トラストを解体し、ニュージャージー・スタンダード石油社に全米にある系列会 社の株式の全部又は大部分を所有させ、合法的な持ち株会社にしたのである。 こうして、1899 年に、当時の約 70 社(生産関係 3 社、精製関係 9 社、パイプライン関係 12 社、鉄道輸送関係 1 社、流通関係 6 社、天然ガス関係 10 社、海外会社 15 社およびさま ざまな出資者)をすべて傘下に集約した「ニュージャージー・スタンダード石油会社」グル ープが設立された。 このグループは、アメリカの原油取扱量の 84%と灯油生産の 86%を支配していた。流通 分野のシェアも非常に大きなものであり、1880 年には 85%から 95%の石油製品を取り扱っ ていた。1900 年、ジョン・D・ロックフェラーがスタンダード石油の株式の 42.9%、同じ グループの 15 の株主が 39.53%を所有していた。1893 年から 1901 年の配当金の総額は 25 億ドルに達した。つまり、形態が変ってもグループの独占状態にあまり変化はなかった。 ジョン・D・ロックフェラーは 1897 年にまだ、60 歳になっていなかったが、ビジネスか ら手を引き、グループの経営を役員のひとりだったジョン・D・アーチボルドに託した。し かし、その後もスタンダード石油に対する批判は依然として多く、行政側でも綿密な調査 を開始し、取引制限や価格差別などさまざまな理由で訴訟を起こした。1909 年、セントル イス連邦裁判所は行政側に有利な判決を下し、スタンダード石油の解散を命じた。 スタンダード石油はただちに最高裁判所へと控訴したが、最終的に 1911 年 5 月、最高裁 判所はセントルイス連邦裁判所の判断を支持する判決を下した。グループ解散命令が確定 し、スタンダード石油は 33 の直結子会社の支配を断念し、これまで所有していた子会社の 株式を自社株主に配分せざるをえなくなった。 ロックフェラー・グループの分割の結果生まれた 34 社の大部分(21 社)は、再度グルー プの形を取るようになり、その多くは他の石油会社を支配下に置くことで今日でも世界的 規模で市場を支配している。現在あるエクソンモービル、シェブロンなどの旧 7 大メジャ 128 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ーのうち 5 つは、スタンダード石油が前身になっている。なお、ジョン・D・ロックフェラ ーは、1911 年以降は事業から引退し慈善活動に没頭した(ロックフェラー自身の資産は解 散の 1 年後には時価で約 10 億ドル、現在の価値に換算すれば 100 億ドルと見積もられてい る)。 最高裁の判決は、スタンダード石油の独占的な支配力を縮小させたため、独立した組織 は大きな推進力を得て、石油産業はより活発になり、競争は激化した。また、最高裁の判 決は、これまでスタンダード石油限定で用いられていた技術を解放することになった。と りわけ、原油から取り出すガソリンの生産量を著しく増加できる熱分解法によって大発展 がもたらされ、自動車の普及に起因して目覚ましく上昇していくガソリンの需要に応える ことができるようになった。 ○スタンダード石油以外のアメリカ石油企業 スタンダード石油が分割される前から、ペンシルベニアの独立生産業者と精製業者は結 束し、持てる資産を持ち寄って「石油生産精油会社」という会社を作った。この会社は発展 し、1895 年には「ピュア石油会社」という名でトラストを形成し、14 の製油所、50 万トンの 原油と全長 3000 キロメートル弱のパイプライン、そして外国市場に製品を運ぶためのタン カーなど、強大な手段を有することになった。このピュア石油会社は、20 世紀に入ってか らも重要な独立業者として残った。 しかし、この他にも何社も石油会社は誕生したが、ユナイテッド石油会社(1899 年)、 アソシエイティッド石油会社(1910 年)、インディアン石油精製会社(1904 年)、アメリ カン・オイルフィールド社(1910 年)などはやがて終焉を迎えてしまった。スタンダード 石油グループの圧倒的な強さの前に生き残ることは容易なことではなかった。 1889 年、ペンシルベニア州西部の石油地帯にガルフ石油の中核となるものが生まれた。 この会社はウィリアム・L・メロンが出資し、一族名を冠した家族経営の銀行を経営する二 人の叔父、アンドルー・W・メロンとリチャード・B・メロンから財政的な支援を受けた。3 ~4 年のうちにメロンは約 2100 万ドルの投資を行い、アメリカの石油輸出取引の 10%を占 める規模の総合的な石油事業を築きあげた。しかし、当時は経済状況全般が悪く石油産業 はとくに打撃を受けて、結局、メロンは彼の石油の全権益をスタンダード石油に売却して この時は撤退した。 1894 年、テキサス州で最初の経済的価値のある油田が、コーシカナ近くで開発された。 1898 年、この油田に州内では最初の近代的製油所が建設された。コーシカナ油田の成功と、 世界中の石油需要の増加により、州全体で探査が行われるようになった。 これに刺激されたパティロ・ヒンギスは、テキサス州南部の小さな集落ボーモント近郊 のスピンドルトップと呼ばれる丘で採掘を始めることにした。彼は採掘のためにグラディ 129 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― スシティ石油ガス製造会社という登記をしていた。彼は資金がなかったので、雑誌の広告 で、財力があり、作業を監督できるパートナーを募った。それに応じたのは、岩塩ドーム の専門家でクロアチア系オーストリア人機械技師のアンソニー・F・ルーカスただ一人だっ た。 ルーカスとその仲間はスピンドルトップで奮闘したが、乏しい財源はすぐに底をついて しまい、 人を介して、 メロンからの 30 万ドルを限度とする財政支援を受けて掘削を続けた。 掘削を開始して 2 年たった 1901 年 1 月に削岩機が約 300 メートルに達したとき、ガスと石 油が噴出して採掘管や円柱が吹き飛ばされた。この新しい油井(ルーカス油井)からは 1 日約 10 万バレル (16,000 kl) の石油を生産できたが、当時としては前例の無いような量 だった。 この発見によって、ボーマント近郊は、40 年前のペンシルベニア州での事態が再現され た。油井やぐらがお互い触れるほど立ち並び、ボーマントの人口は 5 倍に膨れあがった。 1902 年の年間産出量は 1,700 万バレル (270 万 kl) になった。1900 年のテキサス州におけ る石油総生産高が 836,000 バレル (13.3 万 kl) に過ぎなかった時代だった。供給量が過剰 になったために、国内の石油価格は 1 バレル (159 リットル)当たり 3 セントと記録的な 安さになり、場所によっては水よりも安価になった。石油業者は大打撃を受けた。 最初の掘削作業に 30 万ドル、そして開発のために数百万ドルを投資したメロン一族が、 この事態で最も大きな打撃を受けていた。ウィリアム・メロンは、当地に急行して出した 結論は、豊富な資金投入によって、メキシコ湾岸のポートアーサーに大製油工場を建設し、 全長 700 キロメートルに及ぶ大口径のパイプで工場とオクラホマの油田地帯、とくにグレ ンプール油田とを結び、強固な商業基盤を構築するというものだった。そして、全体を効 果的に連携させるため、資本金 1500 万ドルの「ガルフ石油」を新たに設立してニュージャー ジー州に登記し、その後は国際的に大きな事業を押し進めることとなった。 コーシカナでの最初の石油精製所は、ペンシルベニア州のスタンダード石油社の元マネ ジャーだったジョセフ・S・カリナンが建設した。スピンドルトップで石油が発見された後、 カリナンは、ニューヨークの銀行家アーノルド・シュレートと組んでボーモントにテキサ ス燃料会社を設立し、元テキサス州知事ジェイムズ・S・ホッグなど投資家が運営する投資 集団に資金を仰いだ。 1905 年、この新会社が操業を急速に拡大したので、本社をヒューストンに移した。石油 産業におけるこの会社の強さが貢献して、ヒューストンはテキサス州の産業の中心となっ た。この会社は後に資本金 300 万ドルのテキサス会社に吸収され、テキサコと名前を変え た。テキサコは、次第にガルフ石油に隣接するポートアーサーの製油工場、原油備蓄や製 品流通のためのパイプライン建設を行っていった。その販売網は当初から「テキサコ」の商 130 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 標とテキサスの赤い星を用いていた。このグループは、アメリカ国内全域を押さえたあと で、海外市場にも進出していった。 その他にも I・E・ブレークが設立したコンチネンタル石油、ピュー家の勧めによって作 られたサン石油など、いくつかは大会社となった。これらの新規参入企業はすべてアメリ カで発展し、スタンダード石油の圧倒的な権力に対抗して戦っていた。 【3】アメリカ以外での石油産業 ペンシルベニア州ではじまった石油生産は、19 世紀末には、アメリカ以外の国、ロシア 帝国のバクー周辺、オランダ領東インド(現在のインドネシア)、オーストリア・ハンガリ ー帝国のガルシアなどではじまった。 ○ノーベル一族とロスチャイルド まず、ロシア帝国のバクー(現在はアゼルバイジャンの首都である)周辺であるが、こ のあたりでは 8 世紀頃から油が出ることが知られていた。この地域は歴史的には長いあい だペルシアとロシアの角逐の地域であったが、1813 年のゴレスターン条約で、バクーやカ フカスはロシア帝国に併合された。バクーで大掛かりな油井が掘削されたのは 1846 年であ り、アメリカより早かった。1872 年にロシアが石油の国家独占を廃止し、油井を売却する と欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げた。 スウェーデン人のロバート・ノーベルは、木材を購入するためにやってきたが、この地 域全体にわき起こっていた石油フィーバーに影響されて、木材購入の資金 2 万 5000 ルーブ ルで小さな石油精製所を手に入れた。こうして、ロバート、アルフレッド、ルドヴィッヒ のノーベル兄弟は、1878 年にノーベル兄弟石油会社を設立して、油田開発、ナフサ精製、 輸送などを行って巨万の富を築くことになった(アルフレッド・ノーベルがダイナマイト の発明者でノーベル賞の創設者である) 。 ノーベルや後発の業者の活発な事業のおかげでバクーの石油生産は急激に増大し、1885 年頃にはアメリカでの原油生産量の 3 分の 2 に相当する年間 20 万トンにまで達した。そし て、ノーベルの生産量はその半分を占めていた。 バクー石油の主要な需要先はヨーロッパであり、そのためには黒海沿岸のバトウーミ(現 在はグルジアの一都市)からバクーへの鉄道建設が必要であった。ヨーロッパの大資本家 であったアルフォンス・ロスチャイルドはこの事業への協力を要請され、彼のおかげで完 成した鉄道は 1883 年に開業の運びとなった。この過程でロスチャイルドは石油の将来性に 気づき、彼自身が石油産業に乗り出すことになった。1886 年にロスチャイルドは原油と石 油製品を生産、輸出するためにカスピ海・黒海石油会社を設立した。 131 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― アメリカのスタンダード石油はヨーロッパへの輸出のためにイギリスに販売会社を作っ ていたが、ロスチャイルドもノーベルとほぼ同時期にイギリスに販売会社を設立した。こ うして、ロシア製品とアメリカ製品のヨーロッパ市場における競争は激化していった。ロ スチャイルドやノーベルによるロシア製品は、1880 年代のうちにヨーロッパ市場の 20%か ら 30%を占めるに至ったが、それでもなおロックフェラーを中心とするアメリカ製品が優 位を保っていた。ロシア国内市場ではノーベルが優勢で、ロスチャイルドは輸出販売に依 存せざるをえず、輸出の拡大、とくにアジアへの拡大を指向するようになった。 ○シェルとロイヤル・ダッチ ロスチャイルドは、知人に、アジアに詳しいシティのユダヤ商人マーカス・サムエルを 紹介された。サムエルの父は来日した際に横浜近郊の三浦海岸で見つけた貝があまりにも 美しく、拾い集めた貝殻を持って帰国、その貝殻細工の製造販売で財をなした。それを引 き継いだサムエルは、家業の小間物や極東の貝殻装飾品の輸入業をやっていた。極東には 彼の人脈があり、とくに 1869 年のスエズ運河の開通と電信設備の設置によって、短時間で の情報交換が可能となったことが有利に作用していた。 サムエルは、ロシア産石油の販路をアジアに広げるためにロスチャイルドと手を組んだ ことで、彼の事業はまったく新しい分野(石油)に進出できるチャンスを得ることが出来 た。サムエルのタンカー第 1 船、ミュレックス(ホネ貝)号は、1892 年 7 月にイギリスを 出発し、バトウーミで灯油を積み込んでスエズ運河を通過し、その数週間後に最終目的地の バンコクに到着した。シンガポール、バンコクに大規模な油槽所を建設したこの企業は大 成功を収め、サムエルとロスチャイルドに大金が転がり込んできた。 1880 年頃、オランダ領東インド(現在のインドネシア)のスマトラ島でのことであるが、 オランダ人のタバコ栽培業者だった A・J・ジルケルは粘りのある強い臭いを放つ液体が近 た 所のあちことに 溜 まっているのを見かけた。彼は地元のランカットの君主から採掘権を獲 得して石油探鉱に乗りだした。 しかし、ジルケルの限られた資産では過酷な自然環境に立ち向かっての石油探鉱は無理 であった。だが、ここに有力な協力者が現われた。オランダ領東インドの元総督、中央銀 行、そしてオランダ国王ギィヨーム三世までもが、この計画を検討し、1890 年に設立する 会社の後ろ盾となってくれた。これが資本金約 10 万ポンドで設立されたロイヤル・ダッチ 会社であった。 ところが、1892 年に創業者のジンケルは急死してしまい、株主たちは会社の後継者とし て、オランダ領東インドの退役軍人ジャン・バチスト・オーギュスト・ケスラーに会社を 託すこととした。ケスラーは、不屈のエネルギーで、過酷な気候や風土病に悩まされなが らも、ロイヤル・ダッチを無秩序、欠乏、資金不足、断続的な損失から救い出し、スマト 132 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ラの沼地から原油を輸送、精製、流通させて、東洋のかなりの地域で販売することに成功 した。その間に 5~6 年かかった。 これを成し遂げた組織は、世界を牛耳るスタンダード石油の経営陣も賞賛するほどだっ た。極東全域で事業を展開しようと努めていたマーカス・サムエルは、ロイヤル・ダッチ の誕生と成長を目の当りにして不安を感じないわけではなかった。それでも彼はケスラー との個人的な友好関係を保ち、彼らが結束して努力すれば、互いをつぶし合うような競争 はおそらく避けられるだろうとケスラーに理解させた。 マーカス・サムエルは、市場に送り込む商品としてはロスチャイルドのロシア産石油し か持っていなかった。彼はオランダ東インドで数年前に採掘権を得ておいた土地で運を試 そうと考え、カリマンタン島というボルネオ島の東部で探鉱を開始した。1897 年に石油が 発見され、生産可能な新しい油井が数年のうちに完成した。ボルネオ島南東部のバリクパ パン近郊には、小さな精製工場も建てられた。 マーカス・サムエルは、東アジアで石油事業が進展したこの時期、ライバル会社、とく にスタンダード・オイルに対する地位と、ロスチャイルドをはじめとする原油と石油製品 の納入業者に対する地位を強化するため、石油取引に関係する手段と事業を包括的な組織 として一つの会社にまとめあげることにした。これが、1897 年に設立されたシェル・トラ ンスポート&トレーディング・カンパニーであった。社名は、貝殻を販売していたことと、 出資者の家紋がヨーロッパホタテであったことにちなんでいる。 一方、ケスラーが経営するロイヤル・ダッチはスマトラ島での事業を進めていたが、1899 年 12 月にケスラーが急死してしまった。重役会は彼の後任として 35 歳のヘンリー・W・デ ターディングを任命した。彼は以後 40 年間にわたってロイヤル・ダッチの偉大な中心人物 として君臨することになる。 20 世紀初頭、ロイヤル・ダッチとシェルはアジアで激しい競争関係にあった。しかし、 世界各地でアメリカのロックフェラー系のスタンダード石油との競争が熾烈になったため、 1907 年に事業提携して「ロイヤル・ダッチ/シェルグループ」を形成することになった。 このグループは、ロイヤル・ダッチ会社とシェル・トランスポート・トレーディング会 社という 2 つの会社を存続させたまま、ロイヤル・ダッチが 60%、シェルが 40%出資した 持ち株会社となった。イギリスとオランダの利益が密接に結びついたこの会社は、両国に 本社を設置し、世界中のグループの全拠点に両国の旗を並べて掲げた。サムエルはグルー プの初代会長に就任し、デターディングが社長になった。サムエルは 10 年間会長職に留ま り、デターディングは 30 年近くにわたってそのグループを実質的に経営した。 133 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― マーカス・サムエルとロスチャイルド家の利益と同時にロイヤル・ダッチの利益をも統 合した新しい会社は、いまだに圧倒的な強さで石油業界を支配しているスタンダード石油 と渡りあえる力をようやく得ることができた。 ○アメリカに進出したロイヤル・ダッチ・シェル デターディングは、スタンダード石油と対抗するためには、アメリカに切り込んでいか ねばならないと考えた。アメリカ市場への参入は 2 段階で行われた。まずカルフォルニア 州にオランダ領東インドからの輸入ガソリンの流通網を構築し、石油の採掘権と生産権を 取得した。ついでオクラホマ州に数社の独立生産者を傘下に置いて、新会社のロクサス石 油へと集約させた。こうしてロイヤル・ダッチはアメリカでの事業拡張を支える確固たる 拠点を持つに至った。 その一方で、ロシアにおける活動はロシアの社会情勢と政治的状況が次第に悪化してい って(社会主義革命に向かっていた)、大きな困難に直面することになった。暴動、反乱、 暴力的なストライキは 20 世紀初頭から激増し、石油関連施設は大きな損害を受けた。これ まで生産コストが安かったロシア産石油は安い原価という利点を徐々に失い、潤沢だった 外国からの石油事業に対する投資も減少していった。 投資家たちはむしろルーマニアに投資するようになり、スタンダード石油やロイヤル・ ダッチのみならず、ノーベルやロスチャイルドと手を組んでヨーロッパ石油連盟を設立し たドイツ銀行までが参入した。しかし、黒海北部のマイコープ(現ロシア連邦のアディゲ 共和国の首都)、グロズヌイ(現ロシア連邦のチェチェン共和国の首都)という重要な石 油鉱床が新たに発見され、石油業者にとってはロシアにおける事業はいまだ終わってはい なかった。 ロイヤル・ダッチ・シェルは、1911 年から 12 年にかけて、ロイヤル・ダッチあるいはシ ャルの株式と引き替えにロスチャイルド家が有するロシアにおけるすべての石油事業関連 の利権を獲得した。そしてロスチャイルド家は両社にとって重要な株主となった。その代 わり、この取引でロシアの石油は今まで以上に支配できるようになったロイヤル・ダッチ・ シェルは、石油資源をオランダ領東インドが 53%、ルーマニアが 17%、ロシアが 29%と、 かなり釣り合いが取れた形で配分することが可能となった。 しかし、1917 年のロシア革命によって、ロシアの石油状況は激変した。当時、ロイヤル・ ダッチ・シェル、ニュージャージー・スタンダード石油、そしてノーベルの 3 グループが ロシアできわめて重要な石油利権を保有していたが、石油施設を接収したソ連政府とのあ らゆる交渉は失敗し、結局、この 3 グループはソ連から手を引いた。 ロシアでの石油生産量は、 第一次世界大戦直後には年間 1000 万トンを超えていたが、 1920 年には約 300 万トンにまで減少した。生産量は徐々に回復したが、戦前の水準に回復した 134 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― のは 1926 年から 27 年のことだった。ソ連政府は、差し迫った外貨獲得の必要性から石油 輸出を促進したが、ソ連産原油や製品の一般的な輸出価格は国際水準よりも 10%から 15% 低いものだった。 ○アングロ・ペルシア石油の誕生 しんしゅつ ペルシア(現在のイラン)国内のいくつかの場所では、昔から石油の 滲出 やガスの噴出 見られたことから、石油鉱床が存在すると推測されていた。1890 年代に地質学者による綿 密な研究によってそのことが裏付けられると、ペルシア国王はロンドンに広い人脈を持つ 人物を通して、オーストラリアの金鉱で富を築いて帰国していたウィリアム・ノックス・ ダーシーというイギリス人に石油開発してくれるよう頼んだ。 1901 年 5 月、ペルシア国王とダーシーは、ペルシアの南半分に位置するいくつかの土地 での石油採鉱に合意した。ダーシーは、スマトラ島での採鉱経験のあるジョージ・レイノ ルズを現場責任者にして、開発を開始したが、何度か場所をかえて採掘して、1908 年 5 月 に、油井から石油が噴出し開発に成功した。4 ヶ所の汲み上げ拠点から 200 キロメートルに 及ぶパイプラインが敷設され、ユーフラテス川とチグリス川が合流するシャット・アル・ アラブ川の河口にあるアバダン島に年間 40 万トンを処理する精油所が建設された。 これらすべてに数年間の時間と、多額の費用がかかった。プロジェクト継続に必要な資 金を集めるために、新たな組織を設立しなければならなかった。こうして 1909 年 4 月に設 立されたのがアングロ・ペルシア石油会社であった。この会社はダーシーから採掘権を譲 り受けたが、アングロ・ペルシア石油が集めた資金はあっという間に使い尽くされ、再び 新たな協力者を見つけねばならなくなった。 このとき 2 人のイギリス人が決定的な影響を与えた。1904 年から 10 年に海軍大臣を務め たジョン・フィッシャー提督と、1911 年に海軍大臣となったウィンストン・チャーチルで ある。彼らは 1914 年にアングロ・ペルシア石油と 2 つの重要な契約をした。一つは海軍提 督と長期間に及ぶ特別価格による石油供給契約であった。もう一つは 220 万ドルの増資に 際して、資本金の 51%をイギリス政府が引き受けるというものであった。 アングロ・ペルシア石油はその後も民間企業のような経営が続くことになるが、イギリ ス政府はとくに重要な事項に関する拒否権を有した 2 人の役員を取締役会に送りこんでい た。こうしてイギリス政府は同社が部外者の手に落ちないように手を打っていた。 その数ヶ月後に第一次世界大戦が始まった。フィッシャーとチャーチルは、海軍による 制海権を確保するためには、柔軟性と巡航の速さの鍵となる確実かつ多量の石油供給手段 を手中に置くことが重要であるという先見の明を持っていたのである。石油はこうして各 国の国際政治に関わりを持つ、戦略的物資になった。 135 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― その後のアングロ・ペルシア石油会社は、1935 年 、アングロ・イラニアン石油会社 に 改称したが、1930 年代末には年間 1000 万トンを生産するようになった。第二次世界大戦後 の 1955 年にイラン首相モハンマド・モサッデクが、アングロ・イラニアン石油会社が所有 するイラン国内の権益の国有化を宣言し、アバダン危機が発生するが、それは第二次世界 大戦後の歴史に記す。アングロ・イラニアン石油会社は持ち株会社を経て分割され、翌年 に設立された後継会社のイギリス石油(The British Petroleum Co Ltd.) にコンソーシア ムで最大の 40%が割り当てられた。 ○照明用燃料から自動車燃料に替わった石油の需要先 アメリカでロックフェラーが活躍したころには、石油の需要先は照明用燃料ぐらいしか なかったと述べたが、石油という安い良質なエネルギーが大量に存在するとなれば、人間 はそれを有効利用しようと考えるものである。19 世紀末から 20 世紀はじめにかけて、石油 エネルギーでしか実用化できない自動車と飛行機が開発されたのである。 電気の歴史で述べたように、1879 年に、エジソンが白熱電球を発明し、どのみち、照明 は電気に取って代わられることになった。ところが、ちょうどこの 19 世紀後半は、まった く新規の需要源が開発途上にあった。自動車である。 初期の自動車は、イギリス製蒸気自動車(石炭だき)が登場した後、灯油バーナーの蒸 気自動車が売り出された。同じ頃、最初の電気自動車(電動 3 輪車)が作られ、電池 40 個 で 80 キロメートルまで行ける電気乗り合い自動車も定期運転が始められていた。そのよう なことで、19 世紀末のロンドン、パリ、ニューヨークなど主要都市の陸上輸送は、馬車、 運河の船、鉄道列車、蒸気自動車、電気自動車など多彩な交通手段が競合していた。 その中で、1876 年にドイツのオットーがガソリンで動作する内燃機関(ガソリンエンジ ン)を発明し、1886 年、ドイツのカール・ベンツとダイムラーは自動車を開発したことは 述べた。このガソリンエンジンの自動車は、蒸気自動車や電気自動車などより、はるかに 優れていた。自動車の登場により、石油は明かりではなく移動用の燃料になった。 1904 年にライト兄弟によって初飛行した飛行機も、ガソリンエンジンと切り離しては考 えられない。船舶も重油を汽缶(ボイラー)の燃料にするようになった。 また、このころ、アメリカの農場では農業の機械化が進んでいて(この分野も初期の段 階では蒸気機関で動く大型のトラクターであった)、灯油や軽油を使うトラクターが登場 こううん して、大量耕耘・大量収穫が可能になり、人力と畜力による伝統農業は石油を使う現代農 業に移行し始めていた。 とくに1908年からヘンリー・フォードがT型フォードのガソリン車の大量生産を開始し、 一般大衆に急速に普及し始めると、アメリカの自動車の登録台数は、1916年に340万台、1929 年に2310万台となった。アメリカの広大な大地の戸口から戸口をつなぐ自動車が普及し、 136 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 鉄道などの公共鉄道は衰退した。アメリカは自動車の時代に突入し、石油の需要はうなぎ のぼりに増大していった。また、石油からは、多くの化学材料や薬品類が生み出されるよ うになり、石油は化学原料としての需要も増大していった。 ○第一次世界大戦と戦略的物資となった石油 ざんごうせん 1914年からヨーロッパは、第一次世界大戦に突入した。長く苦しい血みどろの塹壕戦が AE AE 繰り返された。また、機械化された戦争でもあった。実用化されたばかりの新技術(自動 車、トラック、飛行機)が大規模に軍隊に投入された。1916年のソンムの戦いで戦車(タ ンク)も登場した。そして、ディーゼル機関で潜水艦が目覚ましく発展し、恐るべき海軍 力となった。これらはすべて石油なしでは動かないものだった。 ところで、この石油はほぼ全部がアメリカ産だった(アングロ・ペルシアによる生産量 は依然100万トンに達していなかった)。アメリカは連合軍の機動性を支えるために石油を ヨーロッパに送ったが、1917年以降、石油の供給はドイツの潜水艦作戦によって麻痺して しまった。しかし、連合国のおもな3ヶ国(イギリス、フランス、アメリカ)がそれぞれ設 置した連絡機関と密接な協力関係にあった石油軍需委員会のもとに編成された石油会社が 石油供給に尽力して、軍需も満たされ、戦争にも勝利した。 戦争が終わるころには、石油は戦車、軍用機、軍艦などの燃料でもある現実を知って、 石油は死活的な戦略資源であることをだれもが認識していた。世界の石油は枯渇するので はないかという恐怖が(内燃機関の需要急増にも煽られて)再燃した。1914年から20年に かけて、アメリカ国内で登録された自動車の台数は5倍に増えていた。原油価格は上がり気 味になり、1920年は前年比50%も上がって3ドルになり、1913年に比べて7年で3倍に高騰 した(1970年代の石油危機並みの上昇)。 アメリカ地質研究所所長は、「消費を減らすか海外供給源に頼らざるを得ない」と警告 した。ある上院議員は、「アメリカ海軍の燃料を石油から石炭に戻すように要求した」と される。 追い詰められた石油会社は、石油探査を進めた結果、テキサス、ルイジアナ、オクラホ マなどの他、カリフォルニア、ワイオミングでも新原油を発見し、1922年からはアメリカ は再び石油大国に戻った。 イギリスも第一次世界大戦後、石油の供給源を確保することが、戦略目標となった。そ れが、衰退したオスマン帝国の最東端にあった石油採鉱に有望な3ヶ所の地域(クルド人、 スンニ派アラブ人、シーア派アラブ人の国)がひとまとめにされ、イラクという新しい国 が作られた大きな理由のひとつだった。 いずれにしても、石油産業は 20 世紀最大の産業となった。このように第二次産業革命は 自動車産業や航空機産業など多くの産業を生み出し、社会に多くの雇用の場を生み出した 137 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― が、それは石油産業というものがエネルギー面で支えるという社会構造をつくりだした。 石油は戦略資源とみなされ、それが欧米列強の植民地獲得競争、資源獲得競争、帝国主義 的争いに拍車をかけるようになった。 【4】アメリカ石油産業の中東進出 ○フランス石油の設立 ひっぱく 大戦中、石油の 逼迫 状態にひどく悩まされたフランスは、戦争が終わるとすぐにフラン ス系企業を介して、自国の需要を適切に満たせる原油源を直接掌握することに専心した。 そのとっかかりとなったのが、第一次世界大戦中の 1916 年にイギリスと結んだ密約サイク ス・ピコ協定だった。それには、戦後はモスル地域(現在のイラク北部)をフランスの勢 力圏に置くことを定めていた。しかし、第一次世界大戦が終わって 3 週間後にフランスの クレマンソー首相はロンドンを訪問してイギリスのロイド・ジョージ首相と会談し、フラ ンスがモスル地域の政治的影響力を放棄するという条件でメソポタミアでの石油権益の確 約を取りつけた。 その 18 ヶ月後の 1920 年 4 月に英仏でサン・レモ協定が調印され、メソポタミアの石油 地帯で民間企業が事業展開していく際には、イギリス政府はこの民間企業への出資枠 25% をフランス政府に委ねることが規定された。 その後、レモン・ポアンカレ内閣は国有企業的な性格を持つ石油企業の設立を推進する ことを決定し、会社設立をエルネスト・メルシエ(海洋工学技師。ルーマニアの石油事業 に携わった)に委任した。このフランス石油は民間企業で国家から独立しており、主とし てフランス資本により 1924 年 3 月に資本金 2500 万フランで設立された。1924 年と 1930 年 との 2 回にわたり、このフランス石油とフランス政府の関係を定める協定が結ばれ、これ らの協定は最終的に 1931 年 7 月の法律で承認された。国家の資本参加は最大 35%であり、 40%の議決権を持つこととなった。 そこでメソポタミア地域の具体的な石油開発であるが、これは第一次世界大戦前にこの 地域を支配していたオスマン帝国の時代に返って説明しなければならない。 カルースト・サルキス・グルベンキアン(1869~1955 年)は、1907 年のロイヤル・ダッ チ/シェルグループの合併に尽力し、同社の 5%の株式を取得した。彼はさらに、1912 年に イラクでトルコ石油会社(TPC、のちのイラク石油会社)を立ち上げた。このトルコ石油会 社にはアングロ・ペルシア石油会社(現在の BP)、ロイヤル・ダッチ・シェル、ドイツ銀 行が出資し、グルベンキアン自身も 5%出資した。 第一次世界大戦終結後のオスマン帝国崩壊に伴い、イラクはイギリスの委任統治領とな ったが、グルベンキアンは粘り強い交渉の末にトルコ石油会社のイラクでの石油採掘権を 138 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 認めさせることに成功した。そして 1927 年 10 月 14 日、キルクーク付近のババ・ガーガー で、石油が 45 メートルの高さまで噴き上げ、石油鉱床発見(キルクーク油田)に成功した。 トルコ石油会社が増資して石油生産を行うことになった。 ここでイギリスは、かねてから合意していた通りフランス枠として、フランス石油にト ルコ石油株(1928 年 10 月からイラク石油会社に改称)を 4 万株取得させたのである。この 時、アメリカも入ってきたのは、アメリカ政府は連合国、とりわけイギリスを介して門戸 開放の原則を承認させた。アメリカ資本の参入により、イラク石油会社の株主構成は以下 のようになった。 23.75% ダーシー開発会社(アングロ・ペルシア系) 23.75% アングロ・サクソン系(ロイヤル・ダッチ・シェル系) 23.75% 近東開発会社(うち 50%ニュージャージー・スタンダード、50%ニューヨー ク・スタンダード) 23.75% フランス石油会社 5% 出資・投資会社(グルベンキアン) ところが、フランス石油とアングロ・サクソン系株主が、合同出資会社の運営方法の決 定をめぐって激しく対立した。アングロ・サクソン会社は石油界の盟主であろうとし、フ ランス石油の排斥を望んでいた。フランス政府の社長は提訴に踏み切り、3 年にわたる審議 ののちに結論が出る前に、 当時のイラク石油会社の出資者が 1928 年 7 月 31 日に集まって、 のちにパートナーシップ憲章として定められた業務協定の調印が行われた。 この協定は、旧オスマン帝国領内の各地で同社に付与される採掘権を行使するため、こ の企業グループが設立するすべての企業においては、主要株主である 4 者は対等であるこ とを確認したものである(図 32(図 16-41)のように、旧オスマン帝国領は地図上の赤線 で示されたことから、「赤線協定」と呼ばれた)。こうして規定された域内での株主間の非 競争条項が含まれ、各株主グループは生産された原油を出資率に応じて「原価」で買い取り、 同じ比率でグルベンキアンの取り分を(専門家の評価により定められた「販売価格」で)下 取りすることが協定で明確にされた。 伝えられるところによれば、その会合で(5%の男と言われた)グルベンキアンが、図 32 (図 16-41)のように、中東の地図に赤線を引き、「自粛条項」が効力をもつべき範囲を示 したのだという。その上でグルベンキアンは、この範囲が自分の知る 1914 年時点でのオス マン帝国の領域だと述べた。グルベンキアンはさらに言葉を継いで、自分は帝国に生まれ 育ったのだから、当然それを知っているのだと言った。 139 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 他の出資者たちは、その線を注意深く見た上で、これに異を唱えなかった。グルベンキ アン以外の出資者は、今日のスーパーメジャー の前身企業であった。 「赤線」の内側には、 オスマン帝国の中東における領土が、アラビア半島やトルコも含めて入れられていたが、 クウェートは除外されていた。クウェートが除外されたのは、この地域をイギリスのため に残しておくことを意味していた。 図 32(図 16-41) 赤線協定(1928 年)と主要石油会社の利権地域 山川出版社『西アジア史Ⅰアラブ』 この協定の目的は、イラク石油会社の企業体制を整えることにあり、すべての出資者に 対して、旧オスマン帝国領において独自に石油権益を求めることを禁じた「自粛条項」を 含んでいた。この協定によって、石油の独占ないしカルテル体制が築かれ、広い領域にわ たって極めて大きな影響力が及ぶことになった。 アラビアン・アメリカン・オイル(アラムコ)やバーレーン石油会社 がそれぞれ支配的 地位を占めたサウジアラビアとバーレーンを別にすれば、イラク石油会社はこの時期の赤 線内における石油開発事業を独占していた。 イラク石油会社は、800 キロメートル以上離れた地中海に石油を運ぶための口径 30 セン チメートルのパイプラインを 2 本建設した。 1934 年末には完成したパイプラインは年間 400 万トンの送油能力を擁した。 140 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― その後のフランス石油会社 (CFP) は、第二次世界大戦後から 1970 年代まで、世界の石 油の生産をほぼ独占状態にしていたセブン・シスターズ(後述)に次ぐ 8 番目のメジャー として、とくにフランス語圏で大きな力を発揮した。1985 年 6 月 21 日にトタルフランス石 油に改名、さらに 1991 年 6 月 26 日にトタル(Total)に社名変更した。 ○アメリカ石油資本の中東進出 このように石油が戦略物資になると、フランスは、フランス石油会社を作って、サン・ レモ協定の約束によって、イギリスを介して何とか中東の一角に食い込んだが、アメリカ も第一次世界大戦後、中東に進出して、やがて、イギリスに代わって中東石油の主導権を 握ることになる。 アメリカの歴史ですでに述べたように、ロックフェラーが創設したスタンダード石油が、 1911 年、史上初めてシャーマン反トラスト法(独占禁止法)により 34 社に分割され、それ らから、エクソン、モービル、シェブロンなどの石油巨大企業が育っていった。これらの 石油企業は資本力と政治力で石油の探鉱(採掘)、生産、輸送、精製、販売までの全段階を 垂直統合で行うようになり、海外にまで進出するようになり、やがて国際石油資本または 石油メジャーと呼ばれるようになった。 イギリスの中東石油の支配に対するアメリカの挑戦は、イギリスの委任統治領イラクで 始まった。前述したように、1927 年にキルクークで石油が発見され、トルコ石油会社(イ ラク石油会社に改称)が増資して石油生産を行うことになると、イギリスはフランスとグ ルベンキアンはよいとしても、アメリカの石油資本の対等の参入を認めざるを得なかった。 アメリカ政府は連合国、とりわけイギリスを介して門戸開放の原則を承認させたのである。 その後、1928 年 7 月 31 日にアメリカなどのメジャー(多国籍石油会社)各社の要求によ って、赤線協定と呼ばれる石油利権のコンソーシアム(カルテル)が結成された。この協 定は、スタンダード石油ニュージャージーなどのアメリカ系石油会社が、アングロ・ペル シア石油会社、ロイヤル・ダッチ・シェル、フランス石油会社(CFP)の 3 社で構成される トルコ石油(イラク石油)に資本参加する際に定められた協定で、これは、図 32(図 16- 41)のように、赤線で囲まれた旧オスマン帝国領内について、協定に参加した各社による 油田権益の独占と、油田の単独開発の禁止を取り決めたカルテルであった。 その後、同じ年の 9 月 17 日に、スタンダード石油ニュージャージー、アングロ・ペルシ ア石油会社、ロイヤル・ダッチ・シェルなどの石油メジャーは、スコットランドのアクナ キャリー城で、アクナキャリー協定を結び、前記の独占禁止法による規制が厳しいアメリ カと、油田が国有化されトラブルが生じたソ連以外の、世界の石油市場で各社の販売シェ アを固定化した。 141 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― アメリカ資本によるアラブの石油支配は、石油メジャーの一つソーカル社(カリフォルニ ア・スタンダード石油の頭文字を取ってソーカル)が、1931 年にアラビア半島ではじめて バーレーンでの石油採掘に成功したことからはじまった。 ○バーレーン石油の誕生 新たな地域での石油の探鉱は、メソポタミアとイラン以外の、ペルシア湾と紅海のあい だのアラビア半島にも及んできた。クウェートからイエメンにかけてのアラビア半島の周 縁地域は、独立した首長が分割統治しており、その多くは保護条約を交わしたイギリスと の関係が深かった。 第一次世界大戦中イギリス軍で戦ったニュージーランド出身のホームズ少佐は、カター ル半島の北に位置するバーレーン島に落ち着き、長老の求めに応じて水脈の探索に従事し た。長老は、そのお礼としてホームズに、1925 年に石油の兆候が認められ、良好な背斜地 である領地全域での石油探鉱を許可した。ホームズ自身に資金力がなかったので、アメリ カのガルフ石油、カリフォルニア・スタンダード石油を引き入れた。 カリフォルニア石油が設立したバーレーン石油(カナダの会社)を介して掘削権を獲得 し、1931 年に掘削を開始し、1932 年 5 月に生産可能な水準に達した。その生産量は年間 400 万トンに達した。まもなくして製油所も建設された。 ○アラビア・アメリカ石油会社(アラムコ)の誕生 アラビア半島の大部分を 30 年にわたる武力闘争で征服し統一し、サウジアラビアを建国 したイブン・サウード王も石油会社を自国に招き寄せて国庫を満たそうと考え、イスラム 教徒のイギリス人ハリー・フィルビーに打ち明けた。フィルビーを介してソーカル(カリ フォルニア・スタンダード石油)の代表と国王の腹心アブドル・スレイマン蔵相の交渉が 始まった。1933 年 5 月、協定が成立し、ソーカルは向こう 60 年間にわたる 8 万 5000 平方 キロメートルの土地の掘削権を獲得した。 何度かの掘削ののち、ダンマンの背斜地で深さ 1400 メートルの地点にある「アラブ・ゾ ーン」(ジュラ紀後期)から石油が発見され、サウジアラビア東部全域の産出量がきわめて 多量であることが明らかになった。しかし、石油開発の作業は戦争によって中断し、商業 生産は第二次世界大戦後まで持ち越された。 テキサス会社(現テキサコ)は 1938 年にアラビア半島とバーレーンのソーカルに合流し た。このとき両社が均等な資本参加による共有会社として設立したカリフォルニア・アラ ビア・スタンダード石油は、1944 年にアラビア・アメリカ石油会社(アラムコ)となった。 これら二つの石油グループは、まず製油所とアメリカ国外での販売網を共同管理すること を決定した。その間にサウジアラビア政府とのあいだで新たな協定が調印され、掘削認可 区域は当初よりも拡大し、半島内部へと進出することになった。 142 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― こうして、アメリカの石油メジャーは勢いにのって、赤線協定の規制をかいくぐり、1933 年にサウジアラビアと利権協定を結び、1938 年に始まる同国の石油生産は、アメリカ系メジ ャーが結成したアラムコ社によって、つぎつぎに大油田が発見されるようになった。中東 地域の当時の推定埋蔵量はきわめて多量だった。 アメリカ合衆国の石油会社であったスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージとソ コニー・バキューム社はイラク石油に出資しており、赤線協定に縛られていた。両社に対 して、サウジアラビアの石油開発に絡んで、アラムコから提携話が持ちかけられた際、他 のイラク石油出資企業は協定を盾にして提携を認めなかった。 やがて、アメリカ資本の各社は、第二次世界大戦の勃発によって赤線協定は無効になっ たと主張したが、グルベンキアンとの法的交渉はその後も延々と続けられた。結局、この 一件は法廷外で和解が成立し、アメリカ資本各社はアラムコにも資本参加した。以降、赤 線協定は死文書化したが、イラク石油会社は事業を継続した。 ○クウェートでの石油開発 クウェートのアハマド首長も自分の領地で石油生産が始まることを望んだ。クウェート は伝統的にトルコの侵略に抵抗した際に支援を受けたイギリスの庇護下にあったにもかか わらず、アメリカ系のガルフ石油、イギリス系のアングロ・ペルシア石油、そして多国籍 企業のイラク石油を天秤にかけた。バーレーンで失敗したガルフ石油は(ソーカルにとら れた) 、クウェートで出直しを図りたかった。アングロ・ペルシア石油は、当時の世界市場 ちゅうちょ が買い手市場だったことから 躊躇 していた。イラク石油の事情も同様だった。 結局、アングロ・ペルシア石油のカドマン会長は、ガルフ石油との提携が唯一成功する 方法だと理解し、ガルフ石油に対し、アハマド首長に採掘権を嘆願する窓口となるべき会 社を同額の出資により設立することを申しでた。 こうして 1934 年 12 月、6000 平方キロメートルに及ぶクウェート全土での採掘権が獲得 された。北部での失敗のあと、物理探鉱法によって発見されたブルガン層の試掘が 1937 年 から開始され、1938 年 2 月に白亜紀の砂岩の中から石油が発見された。この油田は世界最 大級と判明したが、その開発は第二次世界大戦後を待たなければならなかった。 ○イラク石油グループの権益拡大 アラビア半島の石油開発の 4 つ目の局面として、同時期にイラク石油グループがカター ルからイエメンにかけてのペルシア湾沿岸のみならず、アラビア半島北部から紅海沿岸の すべての首長国から石油探鉱権の獲得について交渉し、成功していた。そして石油権益を 獲得し、その後開発を行うためにそれぞれ専門の会社が設立された。いずれの会社も内部 構成はほぼ同じで、フランス石油の出資は 23.75%だった。 143 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― イラク石油の他の出資会社よりも石油に恵まれなかったフランス石油は、採掘権を得た 土地での石油探鉱が迅速に進められることを望んでいた。そのためにフランス石油は 1939 年 7 月にキルクーク・トリポリ間とキルクーク・ハイファ間のパイプライン網の送油能力 を年間 400 万トンから 800 万トンに倍増する許可を得た。ところが、第二次世界大戦が勃 発し、この決定の実行を中断された。 1940 年の独仏休戦協定(フランスは実質、降伏した)を機に、フランス石油はイギリス の対敵取引禁止法に抵触することとなり、同法によりイラク石油とその出資会社もイギリ スの手に落ちている。その出資会社に対する統制は 1945 年の終戦によって解除された。 以上のように、1920 年代から 1930 年代のアメリカ石油資本の中東進出はめざましくかっ た(実際の生産は第二次世界大戦後に本格化するが)。 アメリカのルーズベルト大統領は、中東ではイギリスより歴史の浅いアメリカ企業の活 動を支援する必要性があると考え、第二次世界大戦中であったが、ヤルタから戻るときス エズ運河の南入口に停泊していた戦艦クインシー号の艦上でサウジアラビアのイブン・サ ウード王と会談した。戦後の中東における石油開発をどのように、またどういう政治的な 状況下で推し進めればよいかなどが話し合われ、戦後の中東政治において一つの中軸を形 成するアメリカとサウジアラビアの同盟関係の確立を示すものだった。 ○メキシコとベネズエラ 世界の石油消費量は 1910 年から 20 年に倍増し、1920 年から 40 年には 3 倍の 3 億トン超 に達した。この消費の急増に対応するため、他の地域にも手を広げねばならなかった。 メキシコでは最初の油井は 1904 年 4 月にメキシコ湾沿岸の平原に建設されたが、石油の 生産量は日量 500 バレルに過ぎなかった。イギリス系のピアソン・グループは、1908 年 7 月 4 日にドス・ボカス油井において華々しい石油噴出をみた。ピアソン・グループは大成 功を収めながら探鉱を続けたが、1912 年にラ・コロナ開発会社を設立してすでに探鉱を開 始していたロイヤル・ダッチ・シェルに 1919 年に買収された。 一方、ニュージャージー・スタンダード石油は、独立企業のトランスコンチネンタル会 社を買収して、シェルとほぼ同時期にメキシコでの石油探鉱に乗りだした。これにはガル フ石油も参入した。 これらすべての企業の努力によって、メキシコの石油生産は急激に増加し、1920 年には 2300 万トンに達した。メキシコは革命中のロシアを抜き、アメリカに次ぐ世界 2 番目の石 油生産国となった。 しかし、1920 年代初めの社会と政情の混乱が石油産業の安定に影を落とし、ついに 1938 メキシコのカルデナス大統領は石油産業の接収と国有化に関する政令に署名した。 年 3 月、 メキシコのすべての石油関連資産は、その目的のために設立された国有企業、メキシコ石 144 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 油公社(ペメックス)に移譲された。この措置をとっても、当時、600 万トンにまで減少し ていたメキシコの石油生産が 1921 年の水準に戻ったのは 35 年後のことだった。 一方、ベネズエラでの石油探鉱は、1908 年に政権を掌握し、27 年にわたってその地位に あったゴメス将軍の政権下で促進された。主要な企業はすべてベネズエラに参入していた。 ニュージャージー・スタンダード石油はインディアナ・スタンダード石油から買い取った クレオール石油を通じて、ガルフ石油は子会社のメネ・グランデ社を介して活動していた。 ロイヤル・ダッチ・シェルは 1922 年にラ・ロサ地域の大規模な油田、そして多数の産油地 域で複数の石油貯留層を発見した。 こうしてベネズエラでは 1920 年に生産が開始され、1930 年には生産量が 2000 万トンを 超え、1940 年には 3000 万トンに達した。1928 年に世界第二の石油生産国となり、3 年間ソ 連より上位にあった。ソ連は 1931 年以降、アメリカについで世界第二位に返り咲いた(そ の後世界一になるのは 1974 年だった)。 【5】その後のアメリカ国内の石油産業 アメリカで生まれた石油産業が、その後、19 世紀後半から 20 世紀前半にかけて、世界に 波及していった状況をみてきたが、石油探鉱が最も盛んで生産量の伸びが最も増大したの はやはりアメリカだった。 1921 年にロサンゼルス近郊でシグナル・ヒル油田が発見されたのち、カリフォルニア州 では多数の油田が発見され、アメリカ国内最大の石油生産を誇る州となった。カリフォル ニア以外でも、1926 年にオクラホマのグレーター・セミノール油田、2、3 年後に西テキサ スのペルム盆地、1931 年には東テキサスで埋蔵量 8 億トンの油田が発見されるなど、アメ リカにおける石油探鉱は大きな成功を収めた。 成功をもたらした大きな要因として、航空写真を用いた地質観察とその解析方法、また 掘った穴の地層から年代を特定できる微古生物学など技術の進歩が挙げられるが、とくに 重量分析法、地磁気測定法、地震探鉱法といった多様な技術を生み出した地球物理学の発 展が貢献した。また採掘技術も進歩し、採掘速度と安全性が高まり、これまで以上に深い 部分まで掘り進むことが可能になった。 このようなことがあって、アメリカの石油生産量は 25 年間で 4500 万トンから 1 億 9000 万トンへと増加していた。しかし、石油需要も増加していたが、生産能力はつねに需要を 上まわっており、価格も下落傾向にあった。 たとえば、 アメリカ中部産原油が 1916 年には 1 バレル当り 1 ドル 20 セントだったが、 (第 一次世界大戦の)戦需の影響とその余波を受けて 1920 年には 8 ドル強に達した。価格はそ 145 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の後急速に低下し、1931 年に東テキサス油田が発見されたのち、1 バレル当り 10 セントに まで下落した。 このように石油生産は、あいかわらず、大油田が発見されると石油市場はだぶつき、こ れが価格の全般的な低下と利益幅の消滅という結果を招いた。大規模企業グループの経営 陣はこの状況を非常に懸念しはじめた。 そこで、前述したように、1928 年の夏のあいだ、デターディングはスコットランドのア クナキャリーの城を借り受け、ここにスタンダード石油会長のウォルター・ティーグル、 そのドイツ支社長ハインリッヒ・リードマン、ガルフ石油のウィリアム・メロン、インデ ィアナ石油のロバート・スチュワート大佐、アングロ・ペルシア石油会長のジョン・カド マン卿といった大グループのトップを一同に招待した。 ここで釣りや狩猟ではなく、石油の過当競争による障害を検分した 17 ページからなる覚 書に基づく協定を仕上げた。協定を交わした各グループに対して、1928 年には各グループ が達成した販売状況を反映した市場配分が取決められた。この協定は後年「現状維持協定」 と称する生産の安定化が付け加えられた。 しかし、このカルテル協定は長期間存続することはなかった。署名した各グループは、 えてして規定に従わず、市場価格を「破壊」しつづけるソ連の企業トラストをはじめとする 大多数の独立グループが参加していなかったからである。それ以降、この種の試みに踏み 切る民間企業は現われなかった。 ○第二次世界大戦 第二次世界大戦の勃発が、供給過多の石油を、膨大な量のきわめて貴重な戦略備蓄品へ と変えた。連合軍が使用した70億バレルのうち、アメリカが60億バレルを供給した。そも そも、石油不足は日本やドイツが戦争をはじめたり、拡大したりした理由ともなった。 1940年の日本のエネルギー供給量は6340万トン(2000年の11%)で、うち石炭66%、水 力発電16%、薪炭10%、石油はわずか7%だった。この石油の450万トンは照明用の灯油、 民間用の自動車ガソリンにも使われたが、大部分は戦闘機、戦艦、戦車、輸送用トラック など軍事用だった。石油の輸入先は80%がアメリカ、10%がオランダ領東インド諸島(現 在のインドネシアのスマトラ島,ボルネオ島など)からで、国産原油は数%だった。 そのような状況のなかで、日中戦争を戦っていた日本は石油をもとめて仏印(南部イン ドシナ=現在のベトナム)へ進駐したため、1941年(昭和16年)5月、アメリカは国家非常 事態を宣言して日本資産を凍結したが、仏印への進駐が続行されたので、8月から日本向け 石油製品輸出は全面禁止され、日米関係は断絶した。石油が途絶した日本は備蓄石油を使 ってもあと1年半しかもたない、それであれば、南方に電撃的に侵攻し、インドネシアの石 油資源を獲得しようと、12月に日米(英蘭)開戦に踏み切ることとなった。 146 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 確かに1942年の半年間で、日本軍はインドネシアの石油を獲得したが、アメリカ軍の太 平洋での反攻が本格化すると、物資の輸送はままならなくなり、戦争末期にはほぼ尽きた 状態になっていた。 ドイツは1939年8月に独ソ不可侵条約を締結した直後の9月から、ポーランドに侵攻し、 第二次世界大戦がはじまった。1941年6月に、ヒトラーが、ソ連に侵攻するという決断を下 した理由には、共産主義やスラブ民族に対する憎悪だけではなく、コーカサスの石油資源 を手に入れたかったからでもあった。1942年のスターリングラードの戦いでドイツ軍は敗 北し、目的を達成することはできなかった。 ドイツは、ドイツ産業が築きあげた大工場で石炭や褐炭を原料にして作られた合成品(人 造石油)を使用せざるをえなかった。生産能力は1940年から43年のあいだに倍増し、1944 年の前半には年間600万トンに達するペースで増大を続け、枢軸国全体における需要の約3 分の2、とくに航空機燃料の90%がまかなえた。 だが、ソ連戦線と北アフリカ戦線は地理的に輸送が困難な状況に陥り、ドイツが誇る機 動部隊が燃料不足で動かなくなり、敗北を重ねるようになっていった。1944年になると連 合軍の空襲により、合成品工場が破壊されて供給物資の欠乏が深刻になり、ドイツの国防 は全面的に麻痺していった。 それに反して、連合国軍が石油に関して真に危機的な状況に陥ることはけっしてなかっ た。フランスとイギリスは開戦以前にかなりの量を備蓄していた。フランスではドイツに よる接収を避けるため、備えてあった備蓄の大部分を1940年6月に焼き払った。イギリスの 状況は潜水艦による海中戦によって1941年に悪化したが、アメリカはイギリスの防衛、そ して真珠湾攻撃以降はアメリカの国防における需要を満たすため、アメリカの石油会社の 努力をよりよく調整するための措置を早急に整えた。 戦争の激化にともない石油需要は顕著に増加したが、アメリカの内務長官が「国防のため の石油コーディネーター」となり、アメリカの石油産業は輸送(テキサスと東海岸を結ぶパ イプライン)、石油精製、爆発物や合成ゴムなどの中間製品生産などを総動員する体制を 整え、戦時の石油需要の急増に応えることができたのである。 147 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第 5 章 第三次産業革命と原子力エネルギーの利用 第二次世界大戦の終了とともに、戦時中にアメリカ軍の研究所などで開発された原子力、 航空宇宙、電子計算機などの技術が民間にスピン・オフ(移転)され、アメリカを中心に 原子力産業(原子力発電) 、宇宙産業、情報産業などの第三次産業革命が起こった。 原子力(核分裂)エネルギーは、第二次世界大戦後に現れたエネルギー源である。蒸気 機関や内燃機関が基本的には化学物質の燃焼であるのに対して、原子核分裂では核分裂反 応を利用しているために、莫大なエネルギーを取り出すことが可能である。核分裂エネル ギーは、当初原子爆弾などの軍事用途に用いられていたが、戦後は発電用途(原子力発電) でも用いられるようになった。しかし、核分裂反応では放射性廃棄物が発生するために、 放射性廃棄物の処分と原発の安全性が問題となっている。 ここでは、まず、第二次世界大戦後に起きた第三次産業革命について記し、項をあらた めて原子力エネルギーの展開を記す。 【5-1】第三次産業革命 【1】第三次産業革命とは 人類はすでに第一次産業革命、第二次産業革命を経験してきていたが、第二次世界大戦 後、アメリカを中心に第二次世界大戦中の軍事技術のスピンオフをもとにコンピュータ産 業(情報通信産業)、航空宇宙産業、原子力産業など多くの新規産業をこの地球社会に追 加することになった。これが 20 世紀後半の世界の産業界に大きな活力をもたらすことにな った。 ○科学と(産業)技術の接近 19 世紀後半から 20 世紀初めには、基礎科学での発見(とくに量子力学)は、その後、実 り多い応用を生みだすことがわかり、科学技術の重要性が改めて認識されるようになった。 近代産業はすでに全面的に科学の力に頼り始めていた。加えて今日では、基礎科学での発 見から産業利用までのスピードがきわめて速くなった。かつては内燃機関の原理がわかっ てから、それが自動車に使われて普及するまでには約半世紀を要したが、ペニシリンが発 見されてから大量生産されるまでには、わずか 10 数年しかかからなかった。 それは、具体的な目的を定めた研究に、多くの資金が投入されるようになったからであ る。19 世紀にはまだ、科学の実用的な成果といえば、純粋な研究の副産物として生まれる ものがほとんどであった(つまり実用的な発見の多くが、偶然の産物であった)。 しかし、1900 年には変化の兆しが見え始めた。科学者たちのなかに、具体的な目的にし ぼった研究に集中するほうが賢明だと考える人々が現れるようになったのである。20 年後 には、大手企業が科学研究への投資を開始し、しだいにそれが大規模な研究施設へと成長 148 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― して、のちに石油化学製品、プラスチック、エレクトロニクス、生化学薬品などの開発で、 大きな成功を収めることになった。 そうした科学技術に巨額な資金を投入することは、大手民間企業より、国家が先におこ なうようになった。国家がもっとも重視する科学的成果のひとつは、いつの時代も高性能 の兵器の開発である。たとえば、イギリスのケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研 究所では、1914 年以前から原子物理学の基礎実験が行われていたが、大学からの予算はわ ずかなものであった。ところが、第二次世界大戦中にアメリカが核兵器の製造を決定する と、「マンハッタン計画」のように原子爆弾の製造計画に、有史以来、人類が行ってきたす べての科学研究の総額に匹敵するほどの資金が投入されることになった(戦後においても 月に人間を送り込むアポロ計画で同じことが行われた。その裏には核ミサイル技術の開発 がからんでいた)。 ○軍事技術のスピンオフと第三次産業革命 アメリカは第二次世界大戦中に軍事技術の研究を進めるために大学や研究所に多額の研 究費を出した。これは科学と技術の接近という現象をさらに推し進めることになった。軍 事技術は金にいとめをかけず研究される性格があるので、思わぬ知見が得られ、あるいは 考えられない技術が可能となり、それが高性能な兵器となったが、同時にその技術は民間 分野に応用すれば飛躍的な製品が生まれることがあった。この特定の軍事分野で開発され た技術を民間の需要に転用することをスピンオフという。 アメリカでは、第二次世界大戦中にマンハッタン計画(原爆開発計画)や電子計算機な ど、国家的研究開発機関や大学で多くの研究を行い、科学技術の分野でも世界のトップに 躍り出た。この戦時中にアメリカの国家的研究開発機関や大学で行われた開発技術(電算 機、通信機、航空宇宙開発、原子力技術、新材料、自然科学研究など)は、戦後、スピン オフして民間へ転用され、多くの新規産業を興すことになった。 戦後も米ソの冷戦によって、ますます危機があおられ、より高度の軍事技術が開発され、 それが引き続き民間へスピンオフして民間産業もますます発展するという状況が生まれた。 このアメリカを中心に起きた新規産業革命を第三次産業革命ということがある(やがて、 電子技術などが家電などの民間技術に応用されるとこの民間需要は軍事産業の需要より一 桁大きいために、コスト低減効果が大きく、コストが低くかつ信頼性の高い民間技術が軍 事技術に逆利用されるという現象が起きるようになった。この民間の技術(民生技術)を 軍事技術に転用することをスピンオンということがある)。 戦後もアメリカとソ連が科学に莫大な投資を行った理由の大半は軍事目的にあったこと がわかっている。しかし、科学に国境はなく、科学上の発見・発明は、「創造と模倣・伝播 の原理」により、いずれは公知の事実となる。それは、世界中の科学者が頻繁に情報を交換 149 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― しあうという習慣からであり、17 世紀の科学革命以来、科学の世界が受けついできた良き 伝統である。それは戦後の米ソの科学分野も例外ではなかった。 ねつぞう 科学の方法論は、一つ一つの積み上げであり、虚偽の報告、捏造 はいずれわかるし、秘 密にしても関連科学から、いずれわかってしまうものである。科学技術が国境を越えるの は避けられないことであり、「創造と模倣・伝播の原理」(これは人類の特性である)は現 代でも生きているのである(特許権などの年限を限った独占権を否定しているわけではな い)。 この時期になると、どこまでが科学であり、どこまでが技術であり、産業であるかの区 別がしにくい科学と技術の接近現象が現れてきたので、以下の記述も科学と産業の区別を しないで行うことにする。 【2】コンピュータ科学と情報通信産業 ○コンピュータの理論 イギリスのチャールズ・バベッジ(1791~1871 年)は、世界で初めて「プログラム可能」 な計算機を考案した。しかしバベッジが構想したこの解析機関は、リレー(継電器)のな かった時代に、純機械的な方法で実現することは困難であった。 1888 年、アメリカ国勢調査局は統計作業を効率化するための発明コンテストを行い、ハ ーマン・ホレリス(1860~1929 年)のタビュレーティングマシン(パンチカードシステム) が大々的に使われ、満足すべき結果が得られた(国勢調査のデータ処理が 9 年かかってい たものが 2 年で終了した)。 1896 年、ホレリスはタビュレーティングマシン社(TMC)を設立し、世界各国の国勢調査 局や大手保険会社などにマシンを貸し出し、パンチカードを販売した。1911 年、彼の会社 を含む 3 社が合併して コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング社(CTR) が結成され、1924 年に同社はインターナショナル・ビジネス・マシンズ社(IBM)に名前を 変更した(1924 年)。 1936 年、イギリスの数学者アラン・チューリング(1912~1954 年)が、万能計算機械(チ ューリングマシン)の論文を発表した。 クロード・シャノン(1916~2001 年)は、1937 年のマサチューセッツ工科大学での修士 論文「継電器とスイッチ回路の記号論的解析」において、スイッチのオン・オフを記号論 理の真・偽に対応させると、スイッチの直列接続は AND に、並列接続は OR に対応すること を示し、あらゆる論理演算がスイッチ回路で実行できることを証明した。これによって、 ただの計算機械(コンピュータ=computer)が、現在のような高速の論理演算機として活 150 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 躍することが可能となった。ハーバード大学教授のハワード・ガードナーは、この論文に ついて「たぶん今世紀で最も重要で、かつ最も有名な修士論文」と評した。 以上のような計算機に関する理論や技術を集大成したのが、ハーバード大学のアイケン で、パンチカード機械の原理や電話の自動交換で使われているリレー(継電器)などを用 いて、バベッジが構想したような計算機械をつくることを考えはじめた。アイケンと IBM 社の技術陣は、のちにハーバード・マークⅠと呼ばれるようになった自動逐次制御計算機 を 7 年の歳月をかけて、1944 年 8 月に完成し、ハーバード大学に納入した。 マークⅠの原理はバベッジの構想した計算機械と基本的な考え方は同じであり、電気で 制御される歯車式の計算機構をもっていて、リレー(継電器)、ギア、カム、スイッチな どが 76 万個にもおよび、配線の長さは 500 マイル、重さは 5 トンもある巨大な機械であっ た。 ○真空管式の第 1 世代のコンピュータ ペンシルバニア大学のエッカートとモークリーは、アメリカ陸軍の大砲の弾道計算を行 うことを目的に、可動部品を使わずに電子管(真空管)を用いて自動高速の計数型電子計 算機 ENIAC(エニアック)の開発に着手し、1946 年に完成した。ENIAC が完成する前に第二 次世界大戦が終結したため当初の目的は達成できなかったが、世界最初のコンピュータと いう場合には、このエニアックを指すのが一般的である。 エニアックは全長 33 メートル、重量が 30 トン、消費電力が 150 キロワット、10 進法採 用の電子計算機であった。また、これには真空管 1 万 8000 本が使用されていた。エニアッ クは当時の最新の卓上計算機を用いては、1 人の人間が 1 年間かかる仕事を 1 日ですますこ とのできる性能をもっていて、1946 年から約 10 年間も使用された。 このように真空管を使った電子計算機は IBM 社の分類によれば、第 1 世代のコンピュー タとよばれるものである。 ○プログラム内蔵方式のノイマン型コンピュータの開発 1945 年、ジョン・フォン・ノイマン(1903~1957 年)がプログラム内蔵方式を提唱した。 ノイマンはマンハッタン計画(原爆開発計画)において、爆縮レンズの開発を担当した後、 1946 年、エッカートやモークリーとプロジェクトチームをつくり、EDVAC(エドバック)プ ロジェクトに着手した。このプロジェクトは、エニアックの次のプロジェクトで、はじめ て二進法、プログラム内蔵方式のコンピュータであったが、完成したのが 1950 年になり、 最初に製作されたプログラム内蔵方式のコンピュータとはならなかった(イギリスのプロ ジェクト EDSAC(エドサック)が先に完成した) 。 彼のプログラム内蔵方式は「ノイマン型コンピュータ」とも言われ現在のほとんどのコ ンピュータの動作原理となっている。ノイマンはチューリング、シャノンとともに、現在 151 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― のコンピュータの基礎を築いた功績者とされているが、実際には EDVAC 開発チームのエッ カートとモークリーが発想した方式をまとめ数学的基礎を与えたと言われている。 ○コンピュータ産業の誕生 ユニバックⅠ(UNIVAC I)は、世界初の商用コンピュータで、Universal Automatic Computer (万能自動計算機)の略である。ENIAC を開発したモークリーとエッカートが設立したエッ カート・モークリ社で開発が開始されたが、資金不足に陥り、1950 年にレミントンランド 社(のちにスペリーランド社、ユニシス社となった)が買収し、発売にこぎつけた。1 号機 ユニバックⅠは国勢調査局に納入された。 一方、IBM 社は 1953 年に初の商用のプログラム内蔵式コンピュータ IBM 701 を市販し、1 号機は 1953 年にアメリカ原子力委員会に納入され、国防計算機とも呼ばれた。その後の 3 年間で計 19 台を売り上げた。政府や軍を主要顧客とし、ソフトウェアの豊富さや月 2 万 4,000 ドルという高額でのリースで、IBM が巨大企業に成長する一つの要因となった。 ○半導体の発明 コンピュータ技術に転機をもたらしたのは、半導体技術の開発であった。以後、コンピ ュータをはじめ、ほとんどすべての電子機器システムの進歩は半導体技術の革新に歩調を 合わせて革新されることになった。 1948 年 6 月 30 日、AT&T ベル研究所のウィリアム・ショックレー、ウォルター・ブラッ テン、ジョン・バーディーンの 3 人は、トランジスタの発明を発表した。その功績により、 3 人は 1956 年にノーベル物理学賞を受賞した。 トランジスタ (transistor) は transfer(伝達)と resistor(抵抗)を組み合わせた造 語で、電流の増幅、またはスイッチ動作をする機能があり、大きかった真空管にかわって 極めて小さい半導体素子で同じ機能をはたすことができることがわかり、近代の電子工学 における主力素子となっていった。 これは人類にとって真空管から半導体への質的に変る飛躍的な発明だった。しかもその 半導体の製造技術の高度化によって、半導体の性能は飛躍的に進歩発展する可能性を秘め ていた。その後も現在まで続く半導体の能力拡大は続いている。 シリコンを使った最初のトランジスタは、1954 年にテキサス・インスツルメンツが開発 した。これを成し遂げたのは、高純度の結晶成長の専門家 ゴールドンテールで、彼は以前 ベル研究所に勤務していた。 ○トランジスタ式の第 2 世代のコンピュータ このような半導体素子の発明はコンピュータを一変させることになった。真空管式のコ ンピュータは、真空管を何千本も使用したり、膨大な部品を使用したりするため故障が多 く(もちろん、電力も多くかかるし発熱も多い) 、長時間の稼働が難しかった。 152 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― それに対してトランジスタなどの半導体素子は小型で、発熱も少なく、高速で高能率な 働きをするので、1955 年ごろからトランジスタを用いたコンピュータがつくられるように なり、コンピュータの信頼性は向上し、大型機がつくられるようになった。 大型になるに伴ってソフトウェアも整備しないとコンピュータを使いこなせなくなって、 科学技術計算用汎用言語としてフォートラン(FORTRANF)が 1954 年に、共通事務処理用 言語として、コボル(COBOL)が 1959 年に開発された。フォートランやコボルによって自 然語に近い言葉でプログラムが書けるようになった。これが第 2 世代のコンピュータであ った。 ○集積回路(IC)の第 3 世代のコンピュータ 1958 年、アメリカのテキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーが集積回路(IC) を発明した。トランジスタ、抵抗、コンデンサなどを一つの独立した素子としてあつかわ ず、一つの基板上にそれらを組み合わせた回路をつくり、超小型に組み上げたものが集積 回路(IC)である。 一方、フェアチャイルドセミコンダクターのロバート・ノイスはシリコンでできたより 複雑な「unitary circuit」に関する特許を 1961 年 4 月 25 日に与えられた。テキサス・イ ンスツルメンツとフェアチャイルドセミコンダクターの 2 社は特許優先権委員会において どちらの特許が有効であるかを争った。その詳細は省略するが、いずれにしても、集積回 路(IC)の時代になり、この IC を用いた第 3 世代のコンピュータには、1964 年 IBM 社から 発表された IBM360 シリーズなどがある。このときコンピュータにおけるソフトウェアの比 率はさらに高まり、コンピュータはハードウェア、基本ソフトウェアの OS 、アプリケーシ ョンソフトウェアという構成になっていった。 ○マイクロプロセッサとパソコンの登場 1971 年 インテルが世界最初のシングルチップのマイクロプロセッサ i4004 を開発した。 1974 年 4 月、インテルの 8 ビットのマイクロプロセッサ i8080 が発売されると、個人でも 購入可能な小型で低価格なパーソナルコンピュータ(パソコン)が登場した。最初の個人 向けコンピュータは Altair 8800 で、その後はアップルコンピュータ、タンディ・ラジオ シャック、コモドール、アタリなどから 8 ビットのマイクロプロセッサを搭載した製品が 発売され、パソコンブームとなった。 このパソコンは、1977 年にアップルⅡ(8 ビット機)、1981 年に IBM-PC(16 ビット機) と OS として MS-DOS が誕生、1982 年に NEC の PC-98(16 ビット機)と発展し、そして、32 ビット機になったのは 80 年代後半で、2003 年に Athlon64、64 ビット CPU となっていった。 アップルⅡは大成功を収め、自宅のガレージからスタートしたアップル社はシリコンバ レーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。 153 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○超LSIと第 4 世代のコンピュータ コンピュータの歴史も半導体の進歩とともに進行し、回路素子として超高密度集積回路 (超 LSI。VLSI)を使用した第 4 世代のコンピュータは 1980 年代以降出現した。しかし、 その動作原理は本質的に変っていない。この VLSI を論理素子に使用したコンピュータは、 450 平方メートルの面積を占めた最初のエニアックの性能が電卓の大きさで実現できるよ うになったということである。 IC,LSI,超 LSI と素子の発展と共にコンピュータの性能はハードウェア面で高性能化して いったが、ソフトウェア面での進歩がそれにおとらず重要となり、ソフトで発展したのが マイクロソフトであった。 このマイクロソフトから 1995 年に発売された Windows95 は、コンピュータの世界を一変 させる画期的なものだったが、それを説明するには少し前に返って、コンピュータ・ネッ トワーク技術の開発の歴史を述べる必要がある。 ○ARPANET(アーパネット)の開発 現在のインターネットの原型となる ARPANET(アーパネット)について述べる。ARPANET は、1969 年にアメリカ国防総省国防高等研究計画局(ARPA)の行動科学研究部門 IPTO(情 報処理技術室)による指揮の下に構築されたコンピュータ・ネットワークであった。 ARPANET に直接影響を及ぼしたコンピュータ・ネットワークの概念は、ARPA の情報処理 技術室部長リックライダーのタイムシェアリングシステムの考えから生まれた。リックラ イダーは、1960 年の論文『人間とコンピュータの共生』の中で早くもリソースを共有する ためのタイムシェアリングシステムのネットワークの可能性について言及していた。 1966 年に情報処理技術室部長に就任したテイラーは、本格的なコンピュータ・ネットワ ークを構築しようと試み、マサチューセッツ工科大学のリンカーン研究所から情報処理技 術室にリクルートしたのがローレンス・ロバーツであった。 ロバーツは、1967 年に国防高等研究計画局の ARPANET の基本的な「仕様」として、①負 荷共有、②メッセージサービス、③情報の共有、④プログラム共有、⑤遠隔ログインを固 め、コミュニケーション方式として、MIT 教授レオナルド・クラインロックが考案したパケ ット交換(通信)方式を採用することにした。 パケット交換(通信)とは、端末からのデータを PAD(Packet Assembly Disassembly)で パケットに変換して伝送し、交換設備の記憶装置に蓄積し、中継伝送路の空いている時間 に送り出し、受信側の交換機の記憶装置に蓄積されたのち送出され、PAD で元のデータに変 換され相手先の端末に届く通信方式である。蓄積交換 (通信方式) とも呼ばれる。 これによって、1969 年 10 月 29 日にカルフォニア大学・ロサンジェルス校(UCLA)とス タンフォード研究所(SRI)間で接続され、同年 12 月 5 日までにカルフォニア大学・サン 154 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― タバーバラ校、ユタ大学が接続され 4 つのノード(結節点)となった。その後も、いくつ かの大学、研究所などを結んで TCP/IP(通信規約)の通信試験が実施された。 基本的に国防省の研究プロジェクトの受託先だけを接続するネットワークであった ARPANET は 1980 年代に再編され、セキュリティ上の理由から一部は国防関連の専用ネット ワークとなり、残りは NSF ネット(全米科学財団ネットワーク)などに受け継がれ、後の インターネットになった。 1985 年、インターネットアーキテクチャ委員会は、250 の業者代表が参加して、コンピ ュータ産業のために 3 日間の TCP/IP(通信規約)ワークショップを挙行した。1988 年にア メリカで商用インターネットが始まり、商用ネットワークと NSF ネット(全米科学財団ネ ットワーク)との接続が開始された。 ○World Wide Web(WWW)システムの開発 そのようなとき、ティム・バーナーズ=リー(1955 年~)によって、画期的な World Wide Web(WWW)システムが開発された。 この WWW システムの開発は、それより 10 年前にさかのぼる。バーナーズ=リーは、1980 年、スイス・ジュネーヴの欧州原子核研究機構・ CERN で働いているとき、彼は数千人に上 る研究者や参加者に効率よく情報を行き渡らせるためのシステム開発を命じられた。研究 者はみな研究論文の膨大な蓄積のため、目的の文書を探すのに苦労していた。そこで、彼 は文書から文書へ飛べる仕組みを開発した。これがハイパーリンクである。バーナーズ= リーは個人的開発作業の一環として、ランダムに他の文書と連結できる仕組みを持った ENQUIRE を開発していた。これは公表はされなかったものの、World Wide Web の概念の基 礎となるものであった。 バーナーズ=リーは 1981 年から 4 年間、他社で働いた後、1984 年に CERN へ復帰すると 科学データ閲覧のための分散リアルタイムシステムに関する業績でフェローシップを贈呈 された。 こうして、1989 年 3 月、後に WWW へ発展することになる、CERN 内の情報にアクセスする ためのグローバルハイパーテキストプロジェクトが始動した。1990 年 12 月に世界初の Web サーバである World Wide Web を構築した。 1991 年 8 月 6 日には『World Wide Web プロジェクトに関する簡単な要約』を投稿し、こ の日、WWW はインターネット上で利用可能なサービスとしてデビューした。同日、世界最初 のウェブサイト http://info.cern.ch/ が設立された。 開発当初、WWW は文字情報を扱うだけの比較的単純なものであった。しかし 1992 年、イ リノイ大学のアメリカ国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA)の学生であったマー ク・アンドリーセンらは文字だけでなく画像なども扱える革新的なブラウザ Mosaic を開発 155 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― した。そして、このソフトに改良を加えるために無料でソースコードを公開したため、 Mosaic はたちまち普及した。 1993 年 4 月 30 日、CERN は、 World Wide Web について、社会全体への貢献を第一に考 え、特許を一切取得せず、使用料も徴収しない(無料)で開放すると発表した。 1993 年に Mosaic が開発されると、それがどんどん売れていった。それから、ブラウザ開 発者たちが次々と新しいタグを導入していき、Web ページ開発者は苦労し始めた。そのため、 タグを標準化する必要性があると感じ、World Wide Web Consortium(W3C)の設立へとな った。 World Wide Consortium (W3C) は、欧州原子核研究機構 (CERN) を離れれ MIT コンピュ ータ科学研究所に移ったティム・バーナーズ=リーが 1994 年 10 月 1 日に創設した。 W3C は、 業界の会員が新たな標準に合意し、互換性を確保することを目的として生まれた。WWW の仕 様や指針、標準技術を策定・開発することで、WWW の可能性を最大限に導くことを目的とし ている。 もともと、W3C のヨーロッパ支部は CERN が担うことが期待されていたが、CERN は本来の 量子物理学に注力したいということで辞退した。そこで場所はバーナーズ=リーのいる MIT コンピュータ科学研究所 (MIT/LCS) の中で、欧州委員会とインターネットの生みの親でも ある国防高等研究計画局 (DARPA) が資金援助した。 現在のコンソーシアムの運営は、アメリカの MIT コンピュータ科学・人工知能研究所 (CSAIL)、フランスの欧州情報処理数学研究コンソーシアム (ERCIM)、日本の慶應義塾大学 が共同で行っている。また、世界中の 18 の地域に支部がある。各支部はその地域の Web コ ミュニティと協力し、W3C の技術をその地域の言語に対応させ、W3C への参加を奨励するな どの活動を行っている。 以上が ARPANET から WWW が生まれるまでの経緯であるが、ここからマイクロソフトとビ ル・ゲイツの出番となる。1980 年代のマイクロソフトはまだパソコンソフトの一会社にす ぎなかった。そのマイクロソフトが 1995 年に出した Windows 95 は、コンピュータの世界 を一変させる画期的なものだった。 前年の 1994 年ごろよりインターネットで WWW の普及に弾みがつき始めたのに対応して、 インターネットに必要な通信プロトコルの TCP/IP を組み込んでいたので、Windows 95 を使 えばインターネットに接続できるというイメージ戦略も成功し人気に拍車をかけることに なった。 マイクロソフトの開発したオペレーティングシステムの Microsoft Windows は 1990 年代 後半よりデファクトスタンダード(事実上の標準)の地位を得て、95%前後の市場シェアを 持つようになった。 156 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○70 億人の情報交換システム 今日の WWW は人類の歴史上かつてないスケールで個人間の情報交換を可能とした。時間 的空間的な隔たりを越えて、本質的かつ広大な思想や逆にちょっとした個人の姿勢や心情 を WWW を通して交換したり発信したりすることができるようになったのである。 感情的な経験、政治的考え方、文化習慣、音楽の風習、ビジネスについての助言、芸術、 写真、文学などが、人類史上最も安価にデジタル化されて共有・拡散される。 WWW はそれを支える技術と設備の上に成り立っているが、図書館や活字による印刷と違っ て物理的な形を持たない。そのため WWW(あるいはインターネット)を通した情報伝播は物 理的な量に制限されないし、情報をコピーする手間もかからない。またデジタルの利点と して、WWW 上の情報は簡単かつ効率的に検索でき、他のどんな通信手段(郵便、電話など) や実地の旅行よりも早く情報を集めることができる。 すなわち WWW は地球上に現れた個人の情報交換媒体としては最も広範囲で遠くまで伝 達可能なものである。多くのユーザーが世界各地の人々と情報交換し、他の手段では不可 能だったことを可能としつつある。人類の歴史でも、このような画期的な情報システムが 出現するとはあまり考えられたこともなかった。まさに人類の叡智である。 アメリカに画期的なコンピュータメーカーが現れると、画期的なパソコンメーカーが現 れる。画期的なコンピュータネットワーク・ソフトが現れると、そのインターネット上で の検索エンジンを運営する画期的なソフトウェア会社グーグルが彗星のごとく現れた。そ の後も次々とインターネットを利用した企業が世界中に現われている。 ○地球世界に新局面を開いたアメリカ情報通信産業 1945 年の時点では、計算をする機械・電子計算機にすぎなかったコンピュータは現在で は、情報通信産業、あるいはもっと広い概念の産業になって、現代社会のあらゆるところ で利用されている(コンピュータや半導体などのハードウェアは情報通信産業の一部門(一 部品)になってしまった)。というよりは、戦後のあらゆる産業や社会がコンピュータお よび情報通信技術によってもたらされることになった。変革の波がこれほどまでに速く進 んだ分野は、ほかになかった。 その技術の起源は、第二次世界大戦中に考えだされ、戦後の 20 年間にサービスと産業の 各分野に幅広く浸透していったコンピュータだった。コンピュータは半導体技術の進歩で 小型化する一方で、急速にその能力と処理速度を増していき、ディスプレーの能力が向上 したこともあって飛躍的に多くの情報を処理できるようになった。 コンピュータの容量と能力が急激に拡大したことから、その技術を利用して、コンピュ ータ自体もさらに急激に小型化した。その結果、およそ 30 年のうちに、クレジットカード ほどの大きさのマイクロチップが、以前はビル一室と同じ機械でなければできなかった作 157 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 業をこなせるようになった。こうしたコンピュータを中心とする情報通信産業は、個人、 家庭から国家まで、医療・教育・文化・ビジネスから戦争までの人間のあらゆる活動分野 において、巨大な影響を与えるようになった。 【3】宇宙産業の誕生 ○核ミサイル開発競争からのスピンオフ 米ソは第二次世界大戦後、原水爆を多数保有して対立したが、その原水爆の運搬手段と してミサイル開発を競った。この技術も第二次世界大戦中のドイツの軍事技術(V-1、V-2) に端を発している。米ソの宇宙軍事技術開発競争はほぼ戦後の全期間にわたって続けられ たが、そこから宇宙開発技術がスピンオフした。 米ソの大陸間弾道弾 ICBM 開発競争の副産物として、 宇宙時代の幕開けとなったのは、1957 年 10 月に行われたソ連の無人衛星スプートニク 1 号の打ち上げだった。このとき、世界中 のほとんどの人が宇宙時代のはじまりを予感した(同時に核ミサイルの恐怖の時代の幕開 けであったが、これは余り強調されなかった)。宇宙時代のはじまりは、人類の歴史におい ては、アメリカ大陸の(再)発見や産業革命と同じくらい大きな重要性をもっていたとい えるであろう。 ○人類にとっては大きな躍進 1960 年にケネディ大統領は 1960 年代が終わるまでに人類を月に着陸させ、無事に地球に 帰還させると宣言した。1969 年 7 月 16 日に、3 人の宇宙飛行士がアポロ 11 号で月に飛び 立ち、4 日後にそのなかの 2 人が月着陸船で月面に着陸することに成功した。7 月 20 日、 人類史上はじめて月面に降り立ったのは、このミッションの指揮官であったニール・アー ムストロング船長だった。 そのときアームストロングは「これは 1 人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっ ては大きな躍進(ジャイアント・リープ)である」と発し、人類に感動をあたえた。こうし て(故)ケネディ大統領の野心的な国家目標は、見事に期限内に達成されることになった。 こうしてアメリカは有人月探査計画の成功によって自国と資本主義社会がもつ無限の可能 性を世界に証明することができた。 ○宇宙探査 人類の宇宙開発の利点の第 1 は、まず、宇宙を知ることができたことだった。宇宙開発 の初期、月ほど華やかではなかったが、アメリカとソ連は無人惑星探査でも競争を繰り広 げ、月の探査、太陽系内の探査、太陽系外の探査、彗星探査、小惑星探査などを着実に進 め、人類の宇宙に対する科学的知見を深めた(もちろん、現在も多くの探査機や探査衛星 が宇宙に飛びたち、日夜、膨大な宇宙の情報を収集し、人類の宇宙科学の知見を広めてい 158 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― る)。その成果はここでは省略する。 ○宇宙の利用 いまや宇宙開発は人類に実り多い収穫を与えてくれつつある。広大な宇宙には宇宙技術 システムでしかできないことがある。人類にその宇宙システム技術を与えてくれるところ に宇宙開発の意義がある。 人類初の人工衛星は、前述した 1957 年にソ連が打ち上げたスプートニク 1 号であったが、 1958 年の終わりにはアメリカは人類初の通信衛星を打ち上げたのをはじめ、気象衛星、放 送衛星、地球観測衛星など、軍事以外の実用的な衛星も打ち上げ、宇宙が軍事以外の面で も人類に大いに役立つことを示していった。 21 世紀初頭までに、数千もの人工衛星が地球周回軌道に打ち上げられた。いまや衛星自 体は 50 ヶ国以上が保有しているが、衛星の打ち上げ能力は 10 ヶ国しか保有していない。 人工衛星の用途は多岐にわたり、一般的なものは、軍事衛星以外には、通信衛星、気象 衛星、地球観測衛星、科学衛星、航行衛星などである。 通信衛星とはマイクロ波帯の電波を用いた無線通信を目的として宇宙空間に打ち上げら れた人工衛星である。その出力が大きく、使用目的が衛星からの直接放送であるものを特 に放送衛星(BS)という。 気象衛星とは、気象観測を行う人工衛星で、衛星軌道上から観測を行うことにより、広 域の気象状況を短時間に把握することができる。地球全体の気象観測は世界気象機関(WMO) の地球大気観測計画の一環に基づいた 5 つの静止軌道衛星とその他の独自に打ち上げられ た静止衛星によって行われている。日本のひまわりもその一環としての役割を果たしてい る。得られた気象情報は日本国内だけでなく、東アジア・太平洋地域の多数の国に提供さ れている。 地球観測衛星とは電波、赤外線、可視光などを用いて地球を観測する人工衛星で、リモ ートセンシング衛星ともいう。用途によって各種の観測衛星が運用されている。たとえば、 地球環境変動観測ミッション(GCOM 、ジーコム)は、全地球上の降水積雪量や水蒸気量、 雲、エアロゾル、植生などの物理データを観測し、そのデータを気候変動予測や気象予測、 水や食料資源管理などに利用し、その有効性を実証することを目的としている。いぶき (GOSAT : ゴーサット)は、温室効果ガス観測技術衛星で、地球温暖化の原因とされてい る二酸化炭素やメタンガスなどの温室効果ガスの濃度分布を宇宙から観測するものである。 陸域観測技術衛星だいち(ALOS、エイロス)は、地図作成、地域観測、災害状況把握、資 源調査などへの貢献を目的とした地球観測衛星である。 科学衛星は、宇宙空間を観測するために打ち上げられた人工衛星で、主に宇宙望遠鏡と 惑星探査機に大別される。1960 年代末から 70 年代にかけて、多くの X 線源が衛星搭載の X 159 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 線検出器と望遠鏡によって発見された(X 線天文学)。天体が放出する紫外線の観測と、ガ ンマ線の検出も可能になった。1983 年にアメリカがうちあげた赤外線天文観測衛星 IRAS に よって、銀河の中心部がはじめてくわしく観測された(赤外線天文学) 。現在では、チャン ドラ X 線観測衛星やハッブル宇宙望遠鏡などが大きな成果をあげている。 航行衛星とは、衛星航法を行う衛星のことで、衛星航法システムの一環であり、システ ムは航法衛星群とそれらを管制する幾つかの地上局から構成される。衛星航法とは、複数 の航法衛星が航法信号を不特定多数に向けて電波送信(放送)し、それを受信した受信機 によって航法(自己の位置や進路を知る仕組み・方法)を行うことを指す。 GPS(Global Positioning System、全地球測位システム)は現在世界中で最も普及して いる衛星航法システムである。アメリカ空軍のブラッドフォード・パーキンソン博士(宇 宙航空学)が 1973 年に常時、3 つ以上の衛星からの信号で地上の位置が決定できるシステ ムを発案し、研究開発に移った。 現在のシステムは、軍事用に打ち上げた約 30 個の GPS 衛星のうち、上空にある数個の衛 星からの信号を GPS 受信機で受け取り、受信者が自身の現在位置を知るシステムである。 元来は軍事用のシステムであったが、現在では非軍事的な用途(民生的用途)にも開放さ れて利用されるようになった(アメリカ空軍第 50 宇宙航空団で運用されている。信号に軍 用と民間商業用がある) 。 GPS 衛星からの信号には、衛星に搭載された原子時計からの時刻のデータ、衛星の天体暦 (軌道)の情報などが含まれている。GPS 受信機にも正確な時刻を知ることができる時計が 搭載されているならば、GPS 衛星からの電波を受信し、発信-受信の時刻差に電波の伝播速 度(光の速度と同じ 30 万 km/秒)を掛けることによって、その衛星からの距離がわかる。 そして 3 個の GPS 衛星からの距離がわかれば、空間上の一点は決定できる。 このシステムの最初の衛星ナブスター1 は、1978 年 2 月 22 日に打上げられた。 GPS 衛星 は約 2 万キロメートルの高度を 1 周約 12 時間で動く準同期衛星である (静止衛星ではない)。 アメリカの GPS は最大 32 機の 6 種類の異なる軌道平面の中地球軌道衛星によって構成され、 地球上の全域をカバーできる。1978 年から運用され 1994 年に全地球上で常時使用できるよ うになった。 GPS の身近な用途はカーナビゲーションであるが、GPS は 21 世紀の社会インフラとも呼 ばれており、自動運転トラクター、自動走行自動車、自動発着航空機など多くの応用分野 が考えられていて、国民生活の利便性向上や個別の人々の安全という分野できわめて重要 になってくると考えられている。 その他にも宇宙滞在実験を行なっている国際宇宙ステーションがある。この国際宇宙ス テーション(International Space Station、略称 ISS)は、高度約 350 キロメートルの地 160 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 球周回軌道(低軌道)上を 1 周約 90 分、時速約 28,000 キロメートルで周回しながら、地 球及び宇宙の観測、宇宙環境を利用したさまざまな研究や実験を行うための巨大な有人施 設である。 この国際宇宙ステーションの開発は、1988 年 9 月に締結された日米欧の政府間協定によ り着手された。1998 年にはロシア、スウェーデン、スイスを加えた国際宇宙ステーション 協定が署名され、これにより ISS 計画の参加国は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本、ESA (欧州宇宙機関)加盟の各国などの 15 ヶ国となっている。 宇宙は広大である。その宇宙を利用する通信・放送・観測・航法など、いまや地球社会 になくてはならないインフラとなっている。これからも新しい宇宙システム技術によって、 地球上の交通、通信、放送、教育、食料、医療など、ほとんど人類のあらゆるシステムを (情報を通して)補完してくれるようになるだろう。多くの雇用も生み出してくれるだろ う。宇宙開発は実り多き宇宙産業時代のはじまりだった。 【3】生命科学と生物産業 ○生命科学(ライフサイエンス)の誕生 第二次世界大戦以降、科学研究の中心は物理学から生命科学へと移っていったといって よい。そのきっかけとなったのが、1953 年の遺伝子 DNA(デオキシリボ核酸)の物理的構 造(二重らせん構造)の解明であった。1953 年にアメリカのジェームズ・ワトソンとフラ ンシス・クリックが DNA の二重らせん構造を発見したことにより、遺伝が DNA の複製によ って起こることや塩基配列が遺伝情報であることが見事に説明できるようになった(2 人と ウィルキンスは、1962 年、DNA 二重らせん構造に関する研究により、ノーベル生理学・医 学賞を受賞した)。 DNA のもっとも重要な点は、生命の基礎となるタンパク質分子の合成を決定する遺伝情報 を運んでいることである。こうして多様な生物界にひそむ化学的なメカニズムが、ついに 解き明かされることになった。その結果、人類の自己認識は、19 世紀にダーウィンの進化 論が一般に受け入れられて以来の大きな変化を経験することになり、その後の分子生物学 の発展にも大きな影響を与えるパラダイムシフト(革命的あるいは劇的変化)となった。 これにより分子生物学が本格的に始まった。1960 年代になると DNA とタンパク質の情報 を仲介する伝令 RNA(mRNA)が発見され、さらに DNA 情報とタンパク質構造との関係すなわ ち遺伝暗号が明らかにされた。 ○サンガー法とポリメラーゼ連鎖反応(PCR) イギリスのフレデリック・サンガー(1918 年~)は、1958 年、タンパク質のアミノ酸配 列を決定する方法を確立した(これをサンガー法という)功績でノーベル化学賞を受賞し 161 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― た。そして、1977 年には、ジデオキシヌクレオチドを用いた DNA の塩基配列の決定法(ジ デオキシ法、こちらもサンガー法と呼ばれることが多い)の発明により、1980 年に再びノ ーベル化学賞を受賞した。なおサンガーは RNA の配列決定法も開発しており、これもノー ベル賞級の実績とされていたが、2013 年に 95 歳で亡くなった。 1983 年にシータス社のキャリー・マリスは DNA の試験管内増幅法を創案した。これはポ リメラーゼ連鎖反応(PCR)と呼ばれ、実験室でこれを操作する際に使う化学反応に革命が 起こった。この PCR 法は、DNA を増幅するための原理またはそれを用いた手法で、たとえば、 ヒトのゲノム(30 億塩基対)のような非常に長大な DNA 分子の中から、自分の望んだ特定 の DNA 断片(数百から数千塩基対)だけを選択的に増幅させることができる、しかも極め て微量な DNA 溶液で目的を達成できる、 増幅に要する時間が 2 時間程度と短い、プロセス が単純で、全自動の卓上用装置で増幅できるという特徴をもっている。 今では PCR 法そのものや派生した様々な技術は、分子遺伝学の研究のみならず、生理学・ 分類学などの研究にも広く応用されている。また、医療や犯罪捜査にも大きな役割を果た している。PCR 法の応用、発展にはシータス社グループのはたした役割が大きいが、最初に この方法を着想し、方向性を示したという業績により、1993 年にシータス社のキャリー・ マリスがノーベル化学賞を受賞した。 この PCR 法は DNA の特定の部分を合成するために使われ、また生物の DNA の塩基配列決 定を可能にして、大規模なヒトゲノム解析計画をも当初より早期に完結させることができ るようになった。 ○ヒトゲノム計画 1980 年の終わりには、国際的な共同研究であるヒトゲノム計画がはじまった。これはヒ トの全ゲノム解読を目指していた。ゲノム genome という語は遺伝子 gene と、総体を表 す接尾語 -ome の合成語であり、ゲノムという概念は、ある生物種における遺伝情報の総 和という意味になる。 このヒトゲノム計画は 1990 年にアメリカのエネルギー省と厚生省によって 30 億ドルの 予算が組まれて発足し、15 年間での完了が計画されていたが、発足後、プロジェクトは国 際協力の拡大と、ゲノム科学の進歩(特に DNA 配列解析技術)、及びコンピュータ関連技術 の大幅な進歩により、ゲノムの下書き版(ドラフトとも呼ばれる)が、2003 年 4 月 14 日に は公開された。そこにはヒトの全遺伝子の 99%の配列が 99.99%の正確さで含まれるとされ ていた。 プロジェクトが加速したもう一つの理由としてセレラ・ジェノミクス社による商業的な ヒトゲノムプロジェクトの存在があった。この企業はショットガン・シークエンシング法 という新しい方式でシークエンシング(DNA 配列解析)を行い、新たに発見された遺伝子を 162 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 特許化しようとした。しかしこれは公的資金によって進められているヒトゲノムプロジェ クトであるので、調整をはかるためにバミューダ会議が開かれ、作成されたデータについ ては作成から 24 時間を基本として全て公開して全ての研究者が自由に利用できるようにす るという、バミューダ原則(1996 年 2 月)という形で合意された。 ヒトゲノム計画の目標は 30 億塩基対の高品質な配列を決定するだけでなく、この巨大な データに含まれる遺伝子を見つけることも重要である。プロジェクトの予備調査では約 2 万 2,000 遺伝子が存在するとされているが、この数は多くの研究者の予測よりも遥かに少 ないこともあり、現在でもこの調査は進行中である。ヒトゲノム計画のもう一つのゴール はより高速かつ効率的な DNA 配列解析技術を開発し、それを産業化に向けて技術移転する ことにある。 今日、ヒトの DNA 配列情報はデータベースに蓄積され、インターネットを介して誰でも 利用することができる。ただし、これらのデータは何らかの解釈を加えなければほとんど 利用価値がないことから、これらのデータを解析するコンピュータ・プログラムが数多く 開発されている。 ○多様な発展の可能性を秘める生物産業(バイオ産業) 生物学の知見と技術を応用する分野は、バイオテクノロジーまたは生物工学と呼ばれる。 遺伝子操作に重点が置かれる場合は遺伝子工学、発生過程に重点が置かれる場合は発生工 学ともいう。生物学の成果を実業に活用する産業はバイオ産業、生物産業と呼ばれ、IT と ならんで勢いのある市場であり、ベンチャー企業が次々と誕生している。 アメリカでは大学の研究者が起業することも多い。遺伝子治療、幹細胞を用いた再生医 学、一塩基多型 (SNPs) を用いたオーダメイド医療やゲノム創薬などが注目されている。 農業や畜産関連でもバイオテクノロジーが生かされており、これらを支える基礎研究は重 要である。政府や企業は多大な資金を提供し、その発展を促している。 応用分野に輝かしい貢献をすると同時に、現代生物学はさまざまな倫理的問題を抱えて いる。それらはゲノム情報、遺伝子操作、クローン技術など、生命の根幹に関わる技術や 情報によりもたらされた。これらは、臨床医療においては恩恵をもたらす一方で、差別や 生命の軽視など深刻な社会問題を引き起こしつつある。このような課題は生命倫理学によ って扱われる。 また、遺伝子操作によって作られた遺伝子組み換え作物(GM 作物)の環境への影響(遺 伝子汚染)という問題提起がなされており、議論が行われている。近代から現代にかけて、 人間の活動によって環境破壊が起こり、生物多様性が急速に失われている。生物学は観測 を行い、科学的裏付けのあるデータに基づいた提唱をしたり、生態系や生物多様性につい て正しい情報を発信するなどの取り組みも必要である。現代生物学およびそれに携わる 163 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 人々は、純粋な科学的研究成果のみならず、このような倫理的側面に対しても熟考し議論 を深め、社会的責任を果たすことが求められている。 【5-2】原子力エネルギーの利用 【1】人類と核(核分裂、放射能)の 100 年の歴史 原子力発電は、第二次世界大戦中にアメリカが開発した原子爆弾の技術からスピンオフ した技術であることは明らかである。その原子爆弾を生み出した量子論や原子力工学の成 立から考えてみても、20 世紀のはじめであり、人類が 20 世紀の科学で生み出したまさに純 粋な科学の産物であり、それが我々人類を含む 40 億年の歴史をもつ地球生物と共存できる かという問題をはらんでいる。 純粋に人類が生み出したものであれば、取り返しがつかなくなる前に、純粋に人類の理 性で、原水爆、原発を取りやめることができるはずである。そのような意味で、人類と核 (核分裂、放射能)の 100 年の歴史を表したのが、図 33(図 18-65)である。 164 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 33(図 18-65) 人類と核(原水爆、原発)の 100 年史 これは『自然の叡智 人類の叡智』で記した原子力の 100 年の歴史の図であるが、本書 はエネルギーの歴史を述べているので、原子力発電を中心に述べることにする。つまり、 図 33(図 18-65)は、左右に核兵器と原子力発電に分け、第 1 段目から第 7 段目まで分割 165 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― して記しているが、核兵器技術がスピンオフして、第 5 段目から原子力産業(原子力発電 産業)が派生してくるのである。したがって、ここでは原爆開発については、以下のよう に概要を述べるにとどめる。 第 1 段階目―『自然の叡智 人類の叡智』の【15-1】20 世紀前半の科学と思想の【1 5-1-1】自然科学に記している。ここでは量子力学、相対性理論など 20 世紀の新しい 科学から、新しい物理学、原子物理学が成立し、そのアインシュタインの式 E=mc²から、オ ットー・ハーンが核分裂反応(1938 年)を導き出してしまうところまでを記した。 図 33 (図 18-65) の左の側に記したように、この 20 世紀に成立した量子論や相対論から、 1930 年頃から、現代宇宙論、量子力学、量子化学などの新しい学問が生まれ、第二次世界 大戦後、電子機器、電子材料、情報産業など、現代社会を支える産業なっていることはご 存じの通りである。 第 2 段階―同じく【15-6-28】原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)に記した き ゆ う ことであるが、レオ・シラードの 杞憂 (ヒトラーが原爆を開発したら大変なことになる) がアインシュタインを動かし、アインシュタインの手紙がルーズベルト大統領を動かし、 ついにマンハッタン計画となって原爆が開発され始めた。そのドイツでは原爆開発でもっ とも期待されていた物理学者ハイゼンベルグがムニャムニャとお茶を濁し、結局、原子炉 は基礎研究で終わってしまった。 1944 年後半になると、ドイツの敗色が濃厚になり、また、ドイツは原爆を開発していな いことも明らかになると、アメリカはマンハッタン計画で開発の目途がついた原爆を日本 に投下する準備部隊を発足させた。 第 3 段階―同じく【15-6-29】太平洋戦争と日本の降伏のところに記した。 1945 年 4 月 12 日、ルーズベルトは病気で亡くなり、副大統領のトルーマンが大統領にな り、原爆投下のカギを握る男となった。トルーマンは慎重にかつてのルーズベルト側近や 周囲のものから、原爆開発の経緯などを聞いていった。 1945 年 7 月 16 日の原爆実験が成功したとの報が、スターリン、チャーチルとの会談のた めにドイツ・ポツダムに移っていたトルーマン大統領に入ってきた。ここでトルーマンが 日本に原爆を落とすことを決めた経緯を記している(実際にはすでに落とす準備をしてい た米軍にトルーマンが中止命令を出さなかった経緯を記している)。 第 4 段階―同じく【16-2-4】米ソの原水爆対立に記したように、アメリカの原爆 独占は、ソ連の原爆開発成功によって破られ、アメリカは水爆開発に成功、その 1 年後に ソ連も水爆開発に成功し、米ソの核開発競争がはじまった。イギリスも原爆・水爆実験に 成功し、フランス、中国も追随する気配を示した。 166 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第 5 段階―この間に、同じく【16-4】20 世紀後半の科学と第三次産業革命の【16 -4-3】原子力産業に記した原子力産業が登場してくる。これは 1953 年 12 月 8 日のア イゼンハワー大統領が国連総会の場で行った原子力平和利用に関する提案演説から始まっ た。ここでアイゼンハワーは、核分裂物質を国際原子力機関に供出し、国際機関の管理下 で原子力の平和利用に提供することを提唱したのである。 その意図をアイゼンハワー自身は、核兵器に対する恐怖心を和らげ、原子力の平和利用 を目的とすることで、ソ連を原子力の国際管理体制に参加させることにあったと語ってい る。つまり、アイゼンハワー政権が原子力の平和利用を提唱した背景には、際限のない核 軍拡競争を展開していたソ連をも組み込めるような原子力の国際管理体制の構築や、ソ連 に続きイギリスも原爆実験に成功したため(その他の国、フランス、中国なども核開発の 動きを示していたので) 、核兵器の拡散をどう防ぐかという意図が込められていたのであり、 平和利用と核兵器の国際管理の実現という二重の目的が秘められていた。 これは、第二次世界大戦末期から戦後にかけて、最初から科学者たちが提案していた核 兵器の国連管理をけって、核の独占を図ろうとしたアメリカの試みが数年にしてほころび をみせたので、それを打開するために「平和利用」を表看板にして他国をそちらに導いて(原 子力発電の技術は提供する、その代わり核兵器開発はするな) 、核兵器に手を出さないよう にしようというものだった。 いずれにしても、ここから今度は原子力発電の一番乗り競争が米ソ英で繰り広げられた が、それは図 33(図 18-65)の右端の方に記している。 図 33(図 18-65)でもわかるように、民事利用(原発)は歴史上一貫して、軍事利用の 「分家」のような存在であった。商業発電用原子炉は、軍事利用のスピンオフ(技術移転)の 形で普及を始めたものである。たとえば世界の原発の大半を占める軽水炉は、原子力艦艇 (潜水艦、航空母艦)用原子炉を発電用に転換したものである。核燃料サイクル関連技術 (ウラン濃縮、核燃料再処理、高速増殖炉など)も、やはり軍事利用のスピンオフの形で 派生したものである。 第三次産業革命で記した産業はいずれも、アメリカの第二次世界大戦中に開発された技 術が戦後、スピンオフして発展したと述べた。砲弾軌道を計算する電子計算機から発展し た【16-4-2】のコンピュータ科学と情報通信産業やミサイルから発展した【16- 4-4】の宇宙産業などでは、本家(軍事)を越えて発展し、人類社会の主要な産業とな っている。今では電子部品など軍事開発品より、民需開発品が安くなり、逆に民需品が軍需 品に利用されるようになっている(これをスピンオンという)。 「分家」といえどもビッグ・ビジネスに成長するようなことがあれば、「本家」をしのぐ存 在感を発揮することができた可能性があるが(当初はそのように期待されたが) 、原子力産 167 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 業ではそれが実現されていないのは、これが出生時から持つ宿命的な限界(核兵器に転用 できる、致命的な事故の可能性、万年単位の高濃度核廃棄物の管理の問題)を人類は解決 できないからであろう。 第 6 段階―同じく【16-3】米ソ冷戦の深刻化の【16-3-2】米ソの宇宙開発競 争(核ミサイル開発競争)と【16-3-5】核軍拡競争に記した。米ソの冷戦はエスカ レートし、ついに朝鮮戦争やベトナム戦争に発展した。キューバ危機はあわや米ソの核戦 争一歩手前までいった。 冷戦は米ソの政治的・軍事的競争が、熱い戦争に転化せず、いわば潜伏した形の競争と対 立に終始したことを意味していた。この政治的・軍事的競争の背後には、同様に激しい経済 的・技術的競争が存在していた。その技術競争の第 1 ステージでの結果が出たのが宇宙開発 の分野、いや、そうではなく軍事分野の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の成功であった。宇 宙開発というのは,その後の単なるつけたしにすぎなかった。つまり、1957 年 8 月、ソ連 は密かに ICBM の実験に成功した。この技術力を誇示するために、急遽、10 月に人工衛星を 打ち上げることを思いついた。 第7段階―同じく【17-1-3】核兵器とテロの混在する世界に記した。米ソ(のち にはロシア)の核ミサイル網は地球表面を覆うようになった。英仏中へと拡散した核兵器 は、その後もインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮に拡散し、現在、イランが焦点にな っている(イランが本当に核兵器開発を放棄するかどうかは、今後の中東の情勢しだいで あろう)。 以上が核 100 年の歴史であるが、図 33(図 18-65)のように、この分野は核分裂の世界 であり、放射能が支配する世界である。人類はこのまま、核の世界を拡大させて、はたし て世界がコントロールできるだろうか。 現在の発展途上国がやがて(21 世紀末までに)、世界人口の 9 割を占める時代になる。 つまり、現在の先進国人口が 10 億人で、90 億人が現在の途上国という世界になるが(もと ろん、現在のような先進国、途上国の分類範疇が変っているだろうが)、そこで核ミサイ ル数千~数万基、核兵器保有国十数ヶ国(いまのやり方では核保有国はさらに増えると思 われる)、原発、たとえば数千基(現在、約 500 基)という世界がコントロールできるで あろうか。 地球温暖化対策は結局できず、台風やハリケーンが荒れ狂う世界、人類は放射能から安 全に生きていけるであろうか。人類は核分裂、つまり、放射能と同居して、この地球で生 きていけるだろうか。 ここでは、第 5 段階目の原子力発電の開始からはじめることにする(核兵器については、 各論1の『人類と戦争の歴史』に記している)。 168 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 【2】アメリカの原子力発電開発 マンハッタン計画は、陸軍の管理下におかれたものの、22 億ドルもの巨費と 12 万人もの 人員を投入した産学官協同のビッグ・プロジェクトであった。日本への原爆投下後、アメ リカの政治指導者は戦後も原爆の独占を図るべく努力を集中することになった。これらは 軍事目的だったので、放射能の影響、安全性のことなどは一切おかまえなしで研究された。 ○原爆独占を図ろうとしたトルーマン民主党政権 戦後の原子力開発は、1946 年 7 月に成立した原子力法に基づいて、軍人ではなく、文民 が委員長となる原子力委員会が管理することになった。この 5 人の委員で構成される原子 力委員会は、大統領に直属する独立の行政機関と位置づけられ、原子力の軍民両用の開発 に従事する強力な機関となった。この委員会は、すべての原料、核分裂性物質、これらの 物質の利用方法(兵器や原子炉を含む) 、そして関連するあらゆる技術情報に対して絶対的 な権限を持っていた。 トルーマン民主党政権では、原爆独占を維持することに主要な関心が向けられ、1946 年 6 月の国連原子力委員会にアメリカ代表のバーナード・バルークが、原子力の原料から開 発・使用にいたるまでを国際機関によって管理し、違反国に対する査察や処罰には拒否権 を認めないとする案を提案した。これに対して、 (すでに 1943 年から原発開発に着手して いた)ソ連はこの案が米英による原爆独占を狙うものと反発し、米ソ冷戦が激化する中で 原爆の国際管理は実現しなかった。 しかも、1949 年 8 月にはソ連が原爆実験に成功したため、トルーマン政権は対抗して翌 50 年 1 月に原爆より一層強力な水爆の開発を決定した。その後、6 月に朝鮮戦争が勃発し たこともあって、米ソ間では激しい核軍拡競争が展開されることとなった。アメリカは 52 年 11 月に水爆実験に成功し、ソ連は 53 年 8 月に成功した(これは強化原爆で、本当の水 爆は 55 年に成功したともいわれている) 。 このように米ソ間で際限のない核軍拡競争が展開される中で、世界各国では核戦争の勃 発を憂慮する世論が高まり、1950 年 3 月には核兵器の禁止を求めるストックホルム・アピ ールが発せられた。 ○原子力潜水艦の開発 原子力の分野で原爆の次に実用化されたのは潜水艦の動力炉であった。 戦後、アメリカ海軍のハイマン・G・リッコーヴァー大佐は、ナチス・ドイツの核エネル ギーを利用した潜水艦の構想を知って、その革新性に着目し、原潜開発を上層部に訴えた。 当時の軍事的な核利用は爆弾が中心であり、巨大な原子力発電プラントを潜水艦に搭載す ることなど夢のまた夢と考えられていたため、リッコーヴァー大佐の提案はまともに取り 上げられなかった。 169 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― しかし、リッコーヴァー大佐がチェスター・ニミッツ提督に直訴までして実現を訴え続 けた結果、最終的にはその熱意が認められ、合衆国海軍原子力部が設立され、リッコーヴ ァーはその長に就任し、熱心に原潜開発を推進した。軍事産業各社に潜水艦に搭載する小 型原子炉の開発を競わせたが、名乗りを上げたのは GE(ゼネラルエレクトリック社)と WH (ウエスティングハウス社)で、結局、WH が開発した加圧水型原子炉が採用され、沸騰水 型原子炉の GE は敗退した。 こうして、リッコーヴァーの指揮の下、世界最初の原子力潜水艦「ノーチラス」 (1954 年 竣工)が開発された。このことからリッコーヴァーは「原潜の父」と呼ばれている。ノー チラスは世界ではじめて北極の下を潜航して横断したことでも知られる。 また、世界初の戦略ミサイル原潜は同じくアメリカが開発した「ジョージ・ワシントン」 で 1959 年に竣工した。 「ジョージ・ワシントン」は、アメリカ海軍のラボーン少将指揮の 下で、搭載するポラリス・ミサイルを含めてわずか 4 年という短期間で開発された。 原子力潜水艦の原子炉の形式は、現在までのところ加圧水型原子炉(PWR)のみである。 加圧水型は、冷却水は放射能を含む一次系と含まない二次系に分れている。二次系は蒸気 発生器で蒸気ができ、これがタービンを回し、発電機を回して電気を作る。 原子力発電のもう一つの代表的な原子炉形式である沸騰水型原子炉(BWR)が原子力潜水 艦に採用されたことはない。沸騰水型は、加圧水型と違い、一次冷却水、二次冷却水の区 別はなく、原子炉の中で直接、蒸気を作り、その蒸気がそのまま格納器の外に出ているの で、とくに原子炉からの放射能が直接環境中に放出されないような注意が必要である。 また、潜水艦においては海洋状態や気象、艦の機動によって船体が揺れたり傾いたりす る可能性があり、沸騰水型では冷却水が炉心を十分に冷やせない事態が懸念されるため、 潜水艦では沸騰水型原子炉は採用されないのである。 原子力潜水艦中における原子炉は、鉛等が組み込まれた専用の耐圧隔壁で仕切られた原 子炉区画の内部に設置されている。これは、人体に有害な放射線を遮蔽して船内の他の領 域を安全に保つためである。原子炉区画は艦の後ろ寄りに設けられていることが多く、艦 の主要な部分を占める前部とタービンや操舵機などのある後部を結ぶために、鉛などで防 護された狭い通路が原子炉区画の上部や側面を貫いている。 ○史上初の原子力発電 前述のように、 原爆の開発からわずか 9 年後の 1954 年に最初の原子力潜水艦が進水した。 これと同じように、軍事用に開発された原子炉を民間に転用するところから原子力発電は 始まった。 原子力委員会のもとで、史上初の原子力発電は、1951 年、アメリカ合衆国の高速増殖炉 EBR-I で行われた。この原子炉は、アルゴンヌ国立研究所のウォルター・ジンのチームによ 170 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― って設計され、アメリカの国立原子炉研究所(現在のアイダホ国立研究所)の施設として、 1949 年遅くに建設が始められたものだった。この時に発電された量は 1kW 弱、200W の電球 を 4 個灯しただけであった。BR-I は、世界初の原子力発電を行った原子炉というだけでは なく、世界初の高速増殖炉でもあり、世界初のプルトニウムを燃料とした原子炉でもあっ た。その後、1964 年に閉鎖されるまで、様々な実験的用途に用いられた。 ○太陽エネルギー開発より原子力発電 トルーマンが任命したアメリカの天然資源を調査する委員会が 1952 年に提出した『自由 のための資源』という報告書では 1975 年までにアメリカとその同盟国が化石燃料の不足に 直面すると予想し、代わって太陽エネルギー開発を推奨していた(1973 年に第 1 次石油危 機が起きたが、その 20 年も前に太陽エネルギー開発を推奨していたとは先見性がある)。 しかし、1950 年 7 月に初代リリエンソールに代わって原子力委員長に就任したゴードン・ ディーンは、太陽エネルギーよりも原子力発電の可能性を重視し、5 年から 10 年後の実用 化をめざして開発に乗りだした。それに対して、マンハッタン計画で原爆開発を推進した エンリコ・フェルミやロバート・オッペンハイマーなどの科学者は、原子力発電がまだ「手 の届く所にはない」として慎重な姿勢を示したが、ディーン委員長は、翌 1951 年半ばにな ると、電力会社や化学会社に原子炉開発のための補助金を与えはじめた。これは民営電力 路線の助長につながるとして、民主党の一部や労組から強い反発を招くことになった。 また、ソ連に続きイギリスも 1952 年 10 月に原爆実験を成功させたため、核兵器の拡散 をどう防ぐかという問題が現実のものとなってきた。 このようなとき、1952 年 11 月の大統領選挙で朝鮮戦争の早期休戦を訴えた共和党のアイ ゼンハワーが大統領になった。 ○アイゼンハワー大統領の原子力平和利用に関する提案 アイゼンハワー政権発足後の 1953 年 3 月に開催された国家安全保障会議(NSC)では、 民主党政権時代の政府主導の原子力発電の開発路線を転換し、政府援助による民間主導の 原子力発電の開発の方向を採用することが承認された。 そして、アイゼンハワー大統領は、 (日本の真珠湾攻撃から 12 周年記念日の)1953 年 12 月 8 日には国連総会の場で、 「Atoms for Peace」という演説を行い、核分裂物質を新しく 設立される国際原子力機関に供出し、国際機関の管理下で原子力の平和利用を行おうと提 唱した。その意図をアイゼンハワー自身は、核兵器に対する恐怖心を和らげ、原子力の平 和利用を行うことで、ソ連を原子力の国際管理体制に参加させることにあったと語ってい る。 アイゼンハワー政権が原子力の平和利用を提唱した背景には、際限のない核軍拡競争を 展開していたソ連をも組み込めるような原子力の国際管理体制の構築や、ソ連に続きイギ 171 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― リスも原爆実験に成功したため、核兵器の拡散をどう防ぐかという問題意識から、平和利 用と核兵器の国際管理の実現という二重の目的が秘められていた。 つまり、原爆開発の目途がついたころから、そして広島、長崎に原爆が投下されてから、 科学者たちが提案していた核兵器の国連管理をけって、核の独占を図ろうとしたアメリカ 政府の試みが数年にしてほころびをみせたので、それを打開するために「平和利用」を表看 板にして、アメリカの息のかかった原子力管理をする国際機関をつくり、原発技術を提供 する、そのかわり、核兵器の開発には手を出すな、それを国際機関が査察するというもの で、これによって、これ以上の国が、核兵器の分野に進出しないようにしようという仕組 みだった。 この提案を受けて、アメリカでは、原子力法が改正されて、原子力開発の国際協力を可 能にする条項が付け加えられ、また、はじめて民間企業が自分の原子炉を所有することが 認められ、原子力委員会に民間の原子炉計画に対する財政的および技術的援助を与える権 限が付与された。 アメリカではこの政策転換を受け、1954 年 8 月に原子力エネルギー法が修正され、アメ リカ原子力委員会が原子力開発の推進と規制の両方を担当することとなった。 アメリカのダレス国務長官は 1954 年 9 月の国連総会で原子力の平和利用を促進するため 国際原子力機関の設立と専門家による国際会議の開催を提案した。この提案に対してソ連 は、設立される国際機関が加盟国の安全を脅かさないなどの条件を付した上で、交渉に意 欲を示した。それは、前年 3 月にスターリンが死去して以降、ソ連が核実験の停止などを 求める「平和攻勢」を開始していたからであった(スターリン後のソ連の新首脳部は原水爆 に大きな危惧を持っていた) 。その後、国際原子力機関(IAEA)は 1957 年に 81 ヶ国が参加 して発足することになった。 ○原子力発電所の稼働(第 1 世代の原子炉) 1954 年 3 月に太平洋上のビキニ環礁で行われた水爆実験で日本の第 5 福竜丸が被爆した 事件は、日本のみならず、アイゼンハワー政権にも大きな衝撃を与えた。この水爆実験に よる放射性降下物で 236 人のマーシャル諸島民と第 5 福竜丸の 23 人の船員が被爆し、船員 1 人の死者が出た(ヒロシマ、ナガサキに続く第 3 の被爆といわれた。)。 アイゼンハワー政権としては、ビキニ事件などで高まった原水爆禁止の国際世論を原子 力の平和利用の「夢」を広めることで鎮静化させようとしていたが、原子力発電の一番乗り はアメリカではなかった(前述したように 1951 年に国立原子炉研究所(現在のアイダホ国 立研究所)の高速増殖炉 EBR-I で発電された 1kW 弱、200W の電球を 4 個灯したのはアメリカ だったが) 。 172 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 1954 年 6 月 27 日、ソ連は世界初の原子力発電所を完成したと発表した。モスクワ郊外オ ブニンスクにあるオブニンスク原子力発電所が、実用としては世界初の原子力発電所とし て稼働し、5000KW の発電を行ったが、発電量より多くの電力を必要とするものだった。 ソ連に先を越されたこともあり、原子力法改正が実現した翌月、つまり、1954 年 9 月、 アイゼンハワーはペンシルベニア州・ピッツバーグ近郊のオハイオ川沿岸にシッピングポ ート原子力発電所の建設を政府主導で開始することを全米に向けてテレビ放送で発表した。 それは、商業用原子力発電の開始を意味したが、この計画の最高責任者はアメリカ原子 力委員会(AEC)のリッコーヴァーであった(前述したように、海軍において初めての原子力 潜水艦ノーチラス号を 1954 年 1 月に完成させていた)。原潜ノーチラス号が搭載したのと 同じ加圧水型原子炉を採用したのは、早期の民間転用が可能とみられたからであった。出 力は原潜と同じ 6 万 KW であった。 こうしてアメリカはソ連に遅れること 3 年、後述するイギリスにも遅れること 1 年で、 原潜ノーチラス号の技術を受け継いだシッピングポート原発の原子炉が 1957 年 12 月に稼 働開始した。このシッピングポート原子力発電所(加圧水型)はアメリカ最初の商業用原 子力発電所であった(これでわかることはイギリスもアメリカも最初につくった原発はい ずれも 5 万とか 6 万 KW のいわば原潜なみの発電能力しかなかった)。 このシッピングポート原子力発電所は、 加圧水型原子炉を採用した 6 万 KW の発電所だが、 原子炉全体を動かす設備などの配置は今日とは違い大掛かりなものとなっていた。タービ ン建屋、蒸気を作る建屋、その他建屋に分かれており、それぞれ原子炉建屋に独立した形 でくっ付いた形状となっていた。1 つの箱に 4 つほどくっ付いていると想像すればわかりや すい。つまり、安全性を考えて、原子炉建屋だけでなく、タービン建屋、蒸気を作る建屋 なども独立した頑丈な建屋で保護されていた。 原子力発電システムは、大きくわけて、基礎(地盤)があり、その上に原子炉とその他 の設備がのっている。基礎の上に原子炉とその他の設備が一体につながっていて、どこが やられても、このシステムがダウンする(原発の場合はダウンするということは原子炉が 暴走をはじめるということである) 。たとえば、外部電源が切れたときには、その他の設備 の中の非常用電源が稼働して原子炉へ電力を供給しなければならない。そのような意味で はその他の設備が置かれる周辺建屋も原子炉と同じように厳重な保護が必要である。それ がシステムであり、原発システムはシステム的発想がもっとも重要である。 よく原子炉はジェット機が墜ちても壊れないといわれるが、原子炉でなく、その他設備に ジェット機が墜ちたらどうなるか。今度の福島第 1 原発事故でもわかったように、その他 設備は外部にむき出しにあり、津波に簡単にのまれてしまった。この度の事故では地震で はあまり被害を受けなかったようだが(外部の送電線などは倒れたが) 、原発は原子炉建屋、 173 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― その他設備、基礎地盤(これは地震との関連が重要である)とあくまで 3 つとも安全でな ければならない(もちろん、それをつなぐところも)。それがシステムというものである。 どうも過去に聞いているところでは原子炉建屋の堅固さだけが強調されて、その他がお ろそかになっていたようだ。 これをシステム設計者はどう説明するのか。こんな大きな津波が来るとは思ってもいま せんでした。OO以上のことは考えていませんでした。 ・・・の連続である。正常な状態で 動かすことだけを考えていた運転者(電力会社)にそれ以上のことを要求するのは酷であ るような気もするが(原発以外の通常の運転者ならスイッチを切って、避難すればよい)、 システム設計者(つまり、製造者)はそれではすまないはずである。 このたびの福島原発事故で日本やアメリカのメーカーの責任が問われないのか、不思議 である。この度の原発事故は原発そのものの安全性、安全設計に問題がある。それを電力 会社に問うても答えられるはずがない。メディアもいくら電力会社をつるし上げても問題 は解決しない(電力会社にも問題はあったが)。 原子力損害の賠償に関する原賠法は「原子力損害ついては…製造物責任法の規定は、適 用しない」 (第四条3項)となっているところに問題がある。では、原発については誰が責 任をとるのか、電力会社か。国か。つまり、国民か(金の面ではそうなるようだが) 。この ような技術上(設計上)の責任をムニャムニャにする体制では決して立派な産業は育たな い。 余談になったが、いずれにしても、この商業用原子力発電所のシッピングポート原子力 発電所は、システムの安全性確保という点に忠実に基づいて設計されていたようである。し かも、これが一番重要な点であるが、6 万 KW という原子力潜水艦で安全性が確かめられて いる範囲の出力であったということである。 しかし、これでは果たして経済的に採算がとれるものであるかどうかは疑問である(第 1 号機(試作機)は採算がとれなくても、それをいろいろ改良して何基、何十基と生産して 採算がとれるようにしていくものであると思う。そこで筆者は原子力発電システムは、自 動車、家電などの大量生産型ではなく、多分、大型航空機などと同じく数十、数百の少量 生産型であると考える。 つまり、最初の開発の段階でいろいろな試験をして、最終的には破壊試験までやって、 (航 空機の場合は)国の検査に合格して、それから何十機、何百機と生産され、そこで最初に かかった膨大な開発費が回収されるのである。この開発の段階でシステムとして全体が安 全であるか、事故が起きた場合の安全対策をどうするかなども答えを出しておかなければ ならない。電力会社は(航空会社も)その安全マニュアルに従って、運用をするのであり、 174 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 事故の場合も添えられた安全マニュアルにしたがって、対処するのである。航空会社など はそうやっているはずである。 その航空機が事故を起こせば、航空会社の操縦士のミスの場合もあれば、もともとの機 体の問題の場合もあり、それは国家の検査官が入って調査し、原因を究明して、そもそも の機体に問題があれば、メーカーの責任となる。それの問題を改善し、国の検査で OK とな れば、再び運行を開始する。原発の場合も同じであると思っているが、メーカーがどこに も姿を現わさないのは不思議なことである。このような体制で 50 年もやってきたのが不思 議である。多分、出生の秘密(軍事機密、後述)がそうさせたのであろう。 また、余談になったが、いずれにしても、これ以降、アメリカの原発は軽水炉型が主流 となっていった。しかし、採算性の問題があり、商業用発電の実用化にはなお長期の時間 を要した。 このアメリカ最初のシッピングポート発電所の建設には 725 万ドル(日本円で 8.7 億円) かかった。すでに 1982 年 10 月に操業を終了し、廃炉になっている(原子炉圧力容器の重 量は約 821 トン。解体の際、切断せずに直接運び出し、そのまま直接埋設処理された)。 アメリカ原子力委員会は、シッピングポートの他に、2 基の大規模原子炉と 3 基の小規模 原子炉の実験を民間企業に求め、研究開発資金を助成したが、それらはナトリウム黒鉛炉 や高速増殖炉など様々であった。しかし原子力発電の開発には巨額の資金が必要であった し、参入した民間企業は事故の場合の損害賠償が巨額になることを恐れ、免責条項の法定 を望んだりしたため(まさに、このときアメリカでは製造物責任の議論をしていた) 、アメ リカでの商業用原子力発電の実用化は大幅に遅れることになった。 1955 年 8 月、国連が主催する形で原子力平和利用のための専門家による国際会議がジュ ネーブで開催された。アメリカはシッピングポート原子力発電所で進行中の成果などを原 子炉の模型などによって展示し、アメリカの技術的優位を示す場にしようとした。 イギリスは、当初から軍民両用の開発を進め、かなりの原発技術の進展を見せていた。 つまり、原子力平和利用の国際的主導権を握ろうとしたアメリカであったが、核兵器開発 を優先したり、電力の公営か民営かをめぐる民主・共和党間の路線対立の影響などから、 アメリカは商業用原子炉開発の面ではむしろ遅れをとっていた。日本が最初に導入する商 業用原子炉がイギリスのコールダーホール型となったのもそのためだった。 それでも、アメリカは 2 国間協定でアメリカの優れた核技術の提供を進めていった。ア イゼンハワーは、1955 年 6 月に締結国に対して実験用原子炉を、その半額をアメリカが負 担する形で供与する意向を表明した。そうした結果、2 国間協定はトルコから始まり、日本 を含めて 1961 年までに 37 ヶ国と締結させることに成功した。 175 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― しかし、 アメリカはイギリスにも商業用原子力発電所では先を越された。1956 年 10 月に、 「ここにイギリス初の原子力発電所の運転を開始します」とエリザベス女王がスイッチを押 して、世界最初の(実質的な)商業用原子力発電所としてイギリス・セラフィールドのコ ールダーホール発電所(黒鉛減速型)が完成した。出力は 6 万 KW であった。 ビクトリア時代のイギリスの繁栄は、世界より 80 年早く蒸気動力(イギリス産業革命の こと)を利用したことによるが、ここに来世紀の繁栄はウランからエネルギーを引き出す 技術にかかっているとして、イギリス政府は、1965 年までに(たった 10 年で)電力の半分 までを原子力でまかなうと発表した。そして、この発電所運転を開始したことで、わが国 (イギリス)はアメリカとソ連を追い越したとも述べた。 ○バラ色の夢をふりまいた原子力PR 1957 年には EEC 諸国によりユーラトム (欧州原子力共同体)が発足した。同年に前述し た国際原子力機関 (IAEA) も発足した。 原子力発電初期のキャッチフレーズは、 「Too cheap To meter」であった。これは、「原 子力発電で作った電気はあまりに安すぎるので、計量する必要がないほどだ」という意味 であった。原子力発電はそれだけ安く大量に電気を供給できるものと期待されていた。 「アトムが街にやってくる」(当時のアメリカ原子力委員会 PR 映画。当時は原発の規制官 庁が原発の PR もしていた) では、 原子力が限りなく大きな未来をもたらすと宣伝していて、 その問題点、危険性にはいっさい触れていなかった。原子力で動く自動車や航空機、ロケ ット、原子力をエネルギー源とする新しい都市、原子力を利用したものならよいものにち がいないというイメージをふりまいていた。 水爆の父といわれるエドワード・テラーは、核爆発を使って広大な土地を作り替える計 画まで提唱していた(日本では『鉄腕アトム』がはやっていた。アトムは 10 万馬力の原子 力で動くロボットという設定だった)。放射能のことは全く触れていなかった。 ○建設費にコストがかかりすぎる しかし、現実はそうではなかった。やがて科学者たちは原子力発電が当初考えていたよ り、むずかしいことに気づきはじめた。問題は原子力建設に費用がかかり過ぎることだっ た。バックアップ装置の増設等により、建設費が高騰したのである。原子力発電は他の発 電に比べて設備費の割合が非常に大きいため、建設費が高騰するとその影響がより大きく なってしまった。 そのため、ソ連では建設作業をいそいでやるように圧力が高まり、放射線の防護対策が おろそかにされるようになった。そして 1957 年 2 月、原発建設の総責任者が放射性物質が 漏れる事故で死亡した。ウラジーミル・メルキン(ソ連初の商業用原子炉の設計者)は「私 たちは、コストを削減するように圧力を受けました。原子力を広く安く利用するためです。 176 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 安全性のことは分かっていましたが、コスト削減を最優先にしなければなりませんでした」 といっている。 1957 年 10 月 10 日、イギリスでもウィンズケール原子炉火災事故が起こった(前述した 世界最初の商業用原子力発電所のコルダーホール発電所と同じ敷地にある)。この事故は 世界初の原子炉重大事故となったが、秘密にされてしまった(最大でレベル 7 まである国 際原子力事象評価尺度(INES)でレベル 5 の事故と評価される) 。 このウィンズケール原子炉火災事故は、軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール 原子力工場(現セラフィールド核燃料再処理工場)の原子炉 2 基の炉心で黒鉛(炭素製) 減速材の過熱により火災が発生、16 時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出したた め、イングランド北西部に高濃度の放射性物質が拡散されてしまった。避難命令が出なか ったため、地元住民は一生許容線量の 10 倍の放射線を受け、数十人がその後、白血病で死 亡した。現在のところ、白血病発生率は全国平均の 3 倍である(現在もこの地域は高放射 能である) 。 当時の労働党のマクミラン政権が極秘にしていたが、30 年後に公開された(原子力初期 のこの事故を極秘にしたイギリス政府の責任は問われなければならない。この事故が公表 されていれば世界の原発開発の流れは変わっていたかもしれない) 。なお、現在でもセラフ ィールドは危険な状態にあり、原子炉 2 基のうち 1 基は煙突の解体が遅れている状態にあ る。 このような事故で、当時からも科学者の中には原子力は急ぎすぎたのではないかと疑問 をいだくものもいた。しかし、イギリスの政治家たちは完全に原子力にのめりこんでいて、 1960 年の労働党の PR 映像は原子力を賛美するもので、労働党党首ウィルソンも「最先端科 学を計画的に利用することで想像も出来なかった水準のゆとりを提供できます」と述べて いた。当時の科学者たちは原子力に熱狂する政治家に後押しされていた。しかし、どの国 の科学者もほとんどは原子力を安全にコントロールする方法がわかっていなかった。 ○第 2 世代、第 3 世代の原子力発電所 アメリカの WH と GE は、すでに膨大な資金を原子力に投入して引き返すことはできず、 1961 年、核エネルギーを断固進めると宣言した。このときから、核エネルギーの開発は科 学者から産業資本家の手に移っていった。彼らは原子力を大きな産業にしようと大きな賭 に打って出た。WH と GE は原子力潜水艦用に設計されたもっとも単純な原子炉をひな型にし て、とにかく大型の原子炉をつくれば、低価格で電力を提供できるはずだと、電力会社に 働きかけた。そして経費の一部を自己負担して原子力ビジネスは儲かるという時流をつく ろうとしたのである。 177 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 1962 年の末、アメリカ原子力委員会は、ケネディ大統領への報告書で、過去 10 年間の実 用的原子力開発の努力の成果を報告している。これによると連邦政府は 10 億ドル以上、民 間企業は 5 億ドルも費やしていた。そして原子力委員会は「原子力発電はいまや経済競争の 段階に来ている。国家の電力のかなりの部分を消費する分野ではまもなく競争可能となろ う」と結論を下していた。 1964 年 8 月の第 3 回原子力平和利用会議では、アメリカだけでなくイギリス、フランス、 ソ連、カナダなどの先進工業国の代表者たちは、原子炉技術の進歩や 1958 年以来原子力発 電所が建設された際の進歩について発表した。イタリアや日本でも、アメリカ、イギリス の会社により建設された商業用の原子力発電所が運転中であった。この会議の議長は、こ の会議は原子力時代のはじまりを示したと結論づけた。彼は、今世紀の終わりまでに世界 のほとんどの地域で原子力発電は指導的エネルギー源になるであろうと予言した。 現在、世界で稼働中の原子炉は、第 2、第 3 世代の原子炉と呼ばれるものであるが、福島 第一原子力発電所(1 号機、46 万 KW、着工 1967 年。2 号機、78.5 万 KW、着工 1969 年)の ものは第 2 世代の初期型に当る。第 1 世代の出力は前述したようにシッピングポートで 6 万 KW、コールダーホールで 6 万 KW だった。そこから、本格的な商業利用をめざして大型化 がはかられたのが、第 2 世代だった。 第 3 世代では、さらに大型化がはかられ出力 110 万 KW 以上がスタンダードになった。日 本の柏崎刈羽原発 6、7 号機など、世界各国で導入が進み、日本で建設・計画中の炉も、ほ とんどがこの第 3 世代型だった。 ○メルトダウン対策はどうするか しかし、(以下、「“原子力は地球の未来”は本当か?」BBC,1992 年制作によると)原子 力潜水艦を設計したアルビン・ワインバーグ(オークリッジ国立研究所所長 1955~73 年) によると「潜水艦の原子炉のように出力が 6 万 KW と小型のものであれば、格納容器は絶対 的であった(安全であった)が、しかし、60 万 KW とか 100 万 KW とかという規模の原子炉 となると安全性は保証できない」となった。 そこで 1964 年、アメリカ原子力委員会は、原発事故が起きたらどうなるか調査を行なっ た。その結果は「大規模な事故は決して起こらないとは言い切れない。また、安全装置が故 障しないと保証することはできないことが判明した。そして、事故が起きたらきわめて重 大な被害が生じる危険がある」というものであった。アルビン・ワインバーグは「あれを境 に核の夢はこわれはじめた」と述べている。 1965 年、アメリカ原子力委員会に勧告する立場にある科学者たちは、メーカー側に原子 炉の安全性を高めるように求めた。ちょうど、WH がニューヨーク、GE がシカゴの近くに大 型の原発をつくる計画があったときだった。諮問委員会は原子力委員会委員長のグレン・ 178 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― シーボーグ(在職:1961~71 年)に「万一、メルトダウンが起きても、放射性物質が漏れ出 さないように原子炉の設計をあらためなければ建設に同意はできない」という書簡を送っ た。これに対しシーボーグは、一般市民が誤解する恐れがあるから、その書簡を公表しな いように要請した。シーボーグはメーカー側と会合をもって話し合ったが、「我々は原子力 システム全体を変えるよう迫ることはしなかった。なぜなら、当時はそれが現実的なやり 方とは思えなかったからである」と述べている。 ディヴィッド・オクレント(アメリカ原子炉安全諮問委員会委員長 1966 年)はメーカー 側に、この問題にどう対処するのか話し合いたいと申し込んだ。これに対してメーカー側 は「格納容器で生じうる問題を示した上で、メルトダウン対策を講じなければならないのな ら、原子炉を販売したくない」と言ったという。「メーカー側はおどしたのですね」という質 問に、ディヴィッド・オクレントは「一種の脅迫ですね」と答えている。 結局、原子力委員会は諮問委員会が求めた設計変更は命じないで、そのかわり、メルト ダウンを防ぐための非常用冷却装置の大幅な性能向上を命じた。こうしてメーカー側の思 い通りになった(つまり、アメリカ原子炉安全諮問委員会は、それほど大型にするなら、 設計変更などをしてメルトダウン対策をしろと言ったのに対し、メーカー側はそれなら原 発生産をやめると言ったので、不問に付したということである。非常用冷却装置は取り付 けられることになったが、それで十分であるかどうかわからないという。これが原子力発 電の決定的に重要な点である。システムとして、細々とした冷却装置が付いているが、後 でくっつけたもので、システム全体がシステム的でない。全体実験をしたかどうかもわか らない)。 このような事情で原発は大型化し、 1960 年代の終わりには 10 基単位で売れるようになり、 本格的なビジネスになっていった。原子炉は大きいほどランニングコストが安くなるとい うメーカー側の主張を電力会社は受け入れ、商談が次々とまとまっていく過程でさらに原 子炉はドンドン巨大化していった。アメリカの内外で何十もの原子炉が売れたがイギリス だけは購入しなかった(セラフィールド核燃料事故をかかえて、原発の安全性に疑問をも っていたから)。 ○そのままになったメルトダウン対策 アメリカ原子力委員会は、メルトダウンを防ぐための非常用冷却装置の大幅な性能向上 を命じたが、その後もこの問題は尾を引いた。 (以下、「“原子力は地球の未来”は本当か?」 BBC,1992 年制作によると)ロバート・ポラード(アメリカ原子力委員会原子炉技術者 1969 ~76 年)は、「法規によってポンプや弁など非常用冷却装置を設置することが義務づけられ ていたが、こうした装置が実際にメルトダウンを防ぐことができるのか、我々にもわから なかった。仕組みがあまりにも複雑なため、炉心の内部で何が起こるのか予測することは 179 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― できなかった。判断材料がなかった」と述べている(実機による実験が行なわれていないよ うである。多分、危険でできないのだろう)。 そこで、1971 年、非常用冷却装置のシミュレーションが小型の原子炉で行なわれた。非 常用装置は作動したが、圧力によって水が原子炉の外に押し出されてしまい、炉心を水で 満たすことはできなかった(テレビの映像で見たことだが、この度の福島第 1 事故でも同 じ現象が起きたようである。この辺のことは、本格的な専門家が入って厳密に調査しなけ れば、原発の安全性向上が図られない)。 それにもかかわらず、実際の原子炉は安全であると結論づけられた。連邦政府と原子力 業界は、巨大な原子炉が危険だとは証明されなかった、ということは、安全性が証明され たともいえると解釈したのである(機械システムの開発の基本は最終的には実機によって 使用状態と同じ条件で破壊実験まで行なってみることが鉄則である。実使用の原子炉の破 壊は無理であるが。ということは安全性の確認は不可能ということになる。とにかく、事 故をいいかげんにして幕引きすると必ず同じ事故が大きくしっぺ返しをするというのが歴 史である)。 ロバート・ポラードは「もし、事故が起きた場合、システムが作動しないかもしれないと いう不安はあったものの、一応は安全対策はとられていたわけで、非常用安全装置を改善 していけば、事故は起きないかもしれないと楽観していたのである。それに原発は安全だ と一般市民に説明して来ていた建前、我々は間違っていた、安全装置は役に立たないかも しれないと公表することはできなかった。そんなことをしていたら我々は全員首をき切ら れていたでしょう。自分たちが間違っていたと認めることはどうしてもできなかった」と述 べている。 1973 年に石油危機が発生すると、アメリカは当時、輸入原油の 30%を中東に依存してい たため、中東原油の一時的途絶やその後の大幅値上げを受け、石油に代わり、原発を推進 する声が高まった。ニクソン政権は、2000 年までに電力の 50%を原発で供給するため、100 基の原発建設を目標とすることを表明していた。その結果、新規の原発建設数は、70 年に 16 基、71 年に 21 基、72 年に 38 基、73 年に 41 基となった。 しかし、アメリカでも事故が続出し始め、原発批判は高まっていって、原発の新規建設 は 73 年の 41 基をピークに減少し始め、74 年には 27 基、75 年には 5 基、76 年には 3 基を 記録するだけとなった。 また、原子力委員会(AEC)があまりにも原発関連の企業寄りだという批判が各地の住民 から各州の選出議員などに集中した結果、1974 年についに世論に押される形で合衆国議会 は AEC の廃止を決定し、原子力の規制と推進はそれぞれ異なる機関に移されることになっ た。AEC の担っていた原子力規制に関する役割は、新設されたアメリカ合衆国原子力規制委 180 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 員会(NRC)に、原子力推進に関する役割の方は、アメリカ合衆国エネルギー研究開発管理 局(のちにエネルギー省に吸収合併された)の傘下に置かれた。 また、ニクソン政権は、マサチューセッツ工科大学の原子物理学者ノーマン・ラスムッ センを委員長とする調査委員会を 1972 年に発足させ、原子力委員会の協力のもとに原発の 安全性について調査を進めさせた。75 年に発表されたその最終報告書は数千ページにもな る大部のものとなったが、 1000 人以上の死者を出す深刻な原発事故の可能性は 1 年当り 100 万分の 1 で、隕石がアメリカの人口集中地域に落下する確率と同程度であり、大規模事故 の確率は、原子炉 1 基あたり 10 億年に 1 回で、それはヤンキースタジアムに隕石が落ちる のを心配するようなものであるとされていた。 この報告書に対しては、アメリカの物理学会やシエラ・クラブ(環境保護団体)などか ら批判が出たが(この確率論は専門家からは、しろうとだましの理論と否定された) 、原子 力委員会は満足を表明した。この内容は、原子力発電の安全性を示すデータとして、原子 力推進の立場から広く語られるようになった。 1977 年、アメリカでは民主党のジミー・カーター政権が誕生した。カーター政権は 1977 年 4 月に核拡散防止を目的としてプルトニウムの利用を凍結する政策を発表した。これに よりアメリカでは高速増殖炉の開発と核燃料サイクルが中止された。これ以降アメリカで は核燃料は再処理されず、基本的にワンススルー利用されるものとなった。 また、1979 年 1 月 19 日にアメリカ原子力委員会(AEC)の業務を引き継いだアメリカ合 衆国原子力規制委員会(NRC)は、このラスムッセン報告の支持撤回を発表した。ラスムッセ ン報告には基本的な誤りがあることがわかった。この報告書では、事故が起きる確率を、 NASA で用いられた障害樹(fault tree)分析によって計算していた。例えば、2 つの安全 装置が同時に故障しなければ起きないタイプの事故の発生確率は、それぞれの装置が故障 する確率の積で与えられるとしていた(たとえば、A1%、B1%の確率であれば、AB が起 きる確率は 0.01×0.01=0.0001) 。こうした計算法によると、大規模事故の確率は、原子炉 1 基あたり 10 億年に1回となり、ほとんど無視できることになるというのである。 しかし、原発のような大事故は、 「ドミノ倒し」のように一連の出来事の連鎖として起き るものであり、2 つの出来事が重なる確率がそれぞれの発生確率の積になるような独立事象 の集まりではない。このような場合は発生確率の和になる(前述の例では、AB が起きる確 率は 0.01+0.01=0.02 と非常に高くなる) 。 そして、同年 3 月 28 日スリーマイル島原子力発電所事故が起き、これが何より具体的で 誰にも解りやすいラスムッセン報告への強力な反論となった。 181 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○スリーマイル島原子力発電所のメルトダウン事故 (以下、「“原子力は地球の未来”は本当か?」BBC,1992 年制作から)グレッグ・マイナ ー(核技術者、1970 年代)は、「原発が導入されたころは、あらゆることが予測可能で、信 頼性があり、技術的に解決できると思っていました。でもそれが間違っていたと気づいた ときは、まったく想像もしなかった事故が起きたからです。発端はロウソクの火でした。 アラバマ州の原発で、作業員が点検中にロウソクで照らしたところ、その火が燃え移った のです。それがケーブルやワイヤーを伝わって安全装置の多くが火につつまれました。そ して安全装置が遮断されました。安全装置が働かないと思ってもみませんでした。ワイヤ ー同士がショートし、ほとんどすべて使えなくなったのです。これは全く想定外でした」と 述べていた。 また、ロバート・ポラード(アメリカ原子力委員会原子炉技術者、1969~76 年)は、「(イ ンタビューアーの原子炉が安全でないと言っていたら、どうなっていたでしょうという質 問に対して)私はアメリカ原子力委員会の中では、ずーっとそう言っていましたが、委員 会の中では問題になりませんでした。そのようなときに事故が起きたら私の責任はどうな るか、弁護士に相談したら、私個人の責任にならないと聞いて、私は 6 年間そう言って(原 子炉は安全でないと)評価書に書いて思い悩むということはやめにしました」と述べていた。 《スリーマイル島原子力発電所の原発事故》 そして、前述したように、1979 年 3 月 28 日、ペンシルベニア州スリーマイル島原子力発 電所でメルトダウン事故が発生した。この事故は、世界の原子力業界に大きな打撃を与え た。これは人為的な事故であったが、原子炉内部で何が起きているかを示す表示がないま ま次々と点灯するアラーム信号に動転した運転員が、コンピュータによって自動的に起動 された安全装置のスイッチを手動で切ってしまい、事故の拡大を招いてしまった。 原子炉は自動的にスクラムし(緊急時に制御棒を炉心に全部入れ、核反応を停止させる)、 非常用炉心冷却装置(ECCS)が動作したが、すでに原子炉内の圧力が低下していて冷却水 が沸騰しておりボイド(蒸気泡)が水位計に流入して水位を押し上げたため加圧器水位計 が正しい水位を示さなかった。このため運転員が冷却水過剰と勘違いし、非常用炉心冷却 装置は手動で停止されてしまった。 このあと一次系の給水ポンプも停止されてしまったため、結局 2 時間 20 分も開きっぱな しになっていた安全弁から 500 トンの冷却水が流出し、16 時間以上も炉心が冷却されず、 炉心上部 3 分の 2 が蒸気中にむき出しとなり、崩壊熱によって燃料棒がメルトダウンした。 この事故当時の現場はどうだったかを伝えている映像が残っている(まさかのときに冷 静に行動できる人は少ない。ましてや原発事故という未知の世界では。以下、再び「“原子 力は地球の未来‘は本当か?」BBC,1992 年制作の画面に返る) 182 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 「・・・メルトダウンのような状況だ・・・あと数時間で放射性物質が漏れ出す・・・最 高のメンバーがいるが対応策を思いつかない・・・知事に電話を・・・すぐに連絡をとろ う・・・ほとんど手探り状態で作業をしている・・・状況をつかめないまま決定を下して いる・・・」というような声が聞こえ、(画面が消えて)制御室との通信が完全に途絶えた。 (ナレーターの声で)4 日間原発の技術者たちはなすすべもなく、破壊された原発内で水素 のアワが増えるのを見つめていました。彼らがもっとも恐れていたのは、大規模な水素爆 発です。アワを無理に押し出そうとすれば、炉心が完全に露出する危険があることがわか っていました。そんなことになればメルトダウンにつながります。誰も予想もしなかった ことが次々と起こりました。「想定したこともない状態で全く機能不全だった」と技術者た ちは窮地に追い込まれました(この 1992 年制作の画面は多くのことを示唆する。なすすべ がない技術者、水素爆発の恐れ、アワによって計測器がダメになるとか、福島原発事故で 再現されたことばかりだ(フェールセイフの発想で、一つの計測器がダメになっても別の 原理の計測器を用意しておくのが機械設計の原則)。東電かメーカーか、このような貴重 な映像を見て、これから学ぶということを誰もしなかったのだろうか。いやしくも原発で めしを食っていたものは、この映像に(暗くて声しか聞こえないが)戦慄し、これを起こ さないために何をすべきかと考えたものは誰もいなかったのか)。 ビクター・ジリンスキー(アメリカ原子力規制委員会委員長 1975~84 年)は、「あの時 は、ほとんど状況を把握できていませんでした。一体何が起きているのか理解するのが、 非常にむずかしかったのです。どうすればいいのか誰にもわかりませんでした。企業も政 府も関係者はみなパニック状態でした。この事故で一般市民の信頼を失ったと思います。 専門知識を持っているはずの白衣の人たちが首をひねっているのをテレビで見て多くの人 が原子力発電所の安全性は保たれていないのではないか疑いを持ったのです。」(あなたも 疑問を持ちましたかという質問に「もちろんです」とジリンスキーは答えている。 今回の福島原発事故で日本人ははじめて、同じような場面をテレビ(事後の現場映像、 再現映像で)で見たが、すでに 30 年前にスリーマイル島原発の映像があったのである。本 来はこれでもっと勉強すべきだった。やはり、歴史は大切だ。 (以下、ナレーターの言葉)大統領の事故調査特別委員会は、スリーマイル島で起きた事 故処理のコストが 18 億ドルに達すると発表しました。再稼働の見込みも立たない原子炉を 閉じるには、莫大過ぎる金額です。1979 年だけでも、20 件の事故が起きています。メルト ダウンという大惨事を招く恐れもありました。原子力は容認できません。事故の代償はあ まりにも高くつきます。 183 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 世界中で原子力に対する抗議運動が起きました。人々にとって原子力はよいものから悪 いものに変わっていました。怒りの矛先は核物理学者に向けられました。原子力のすばら しさばかりを宣伝し、安全性に問題があることを意図的に隠していたからです。 (1966 年当時のオークリッジ国立研究所所長のワインバーグの演説の姿)「我々は事実上、 エネルギー問題を解決しました。利用可能な究極のエネルギーを手に入れるということは 人類史上画期的なことです」と述べていた本人が、インタビューに応じて、アルビン・ワイ ンバーグ(オークリッジ国立研究所所長 1955~73 年)は、「我々はリスクはあることは認 識していましたが、許容範囲だと考えていました。でも私はおとなになり、年をとってき て、原子力を推進するかどうかの判断は、我々技術者ではなく一般の人たちにゆだねるべ きだったと、今は思います。」(なぜ当時は自分たちが決めてよいと思ったのですかという 質問に対して、ワインバーグはしばらく考えて)「当時は一般の市民がどう思うかなぞ、考 えたこともありませんでした。原子力事業というのは、秘密裡にはじまったものです。原 子力は非常に複雑な技術ですから、一般の人が理解することはむずかしいのです。ですか ら、一般市民が技術的な問題に深くかかわることが正しいこととは思えなかったんです。 そもそも民主主義社会でリスクのある技術など実現できるでしょうか」と述べている。 《スリーマイル島原発事故の反響》 スリーマイル島原発事故では、2 日後、大量の放射性ガスが周辺に飛散し、20 万人もの 住民が避難を余儀なくされるという、アメリカの商業用原発史上最悪の事故に発展した。 運転員による給水回復措置が取られ、事故は終息した。 結局、炉心溶融(メルトダウン)で、燃料の 45%、62 トンが原子炉圧力容器の底に溜ま った(当時、炉心溶融はないとされていた)。給水回復の急激な冷却によって、炉心溶解 が予想より大きかったとされている。1989 年の調査で圧力容器に亀裂が入っていることが 判明し、異常事態が更に長引いていたならば、チェルノブイリ原子力発電所事故と同様の 規模になっていたと言われている。 国際原子力事象評価尺度(INES)においてレベル 5 の事例であった(チェルノブイリ原子 力発電所事故はレベル7。福島原発事故ものちにレベル 7 とされた)。周辺住民の被曝は 0.01~1mSv(ミリシーベルト)程度であり、住民や環境への影響はほとんど無かった(CT スキャン~6.9mSv/回。胃の X 集団検診~0.6mSv/回)。 《機敏だったカーター政権》 カーター大統領は、事故の 4 日後の 4 月 1 日に現地を視察した上で、事故原因の調査を 行うため特別委員会を設置した。その報告書では、原子炉設計上の明白な欠陥、監視体制 の不備、運転員の訓練不足、その他の日常運転面での深刻な諸問題が存在していたことを 指摘した上で、「組織、規則、慣行の各面において―そしてなかんずく―われわれが調査し 184 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― た諸機関のなかでは最も典型的である原子力規制委員会(NRC)と原子力産業の態度の面に おいて、根本的な変革が必要であろう」と提言していた。 しかし、アメリカの電力会社や原子力機器メーカーの側では、事故は人為的ミスで起こ ったとし、原発機器自体の安全性に変わりがない点を強調する宣伝を強化するため、事故 後、半年間だけで 160 万ドルもの宣伝費を投入して、大学での原子力関連の講座などを支 援していった。それにもかかわらず、スリーマイル島原発で発生した深刻な事故はアメリ カにおける原発熱を急速に冷めさせることになり、アメリカはこれによって、実質、以後 20 数年間、現在に至るまで新規原発は 1 基もない(安全基準が厳しくなり、それを満たそ うとするとコスト的に合わなくなり、新設がなくなった)。 このスリーマイル島原発事故は国際的にも大きな反響を呼び、核廃棄物貯蔵施設と再処 理施設の建設が予定されていた北ドイツの小村に、ヨーロッパ中から 10 万人が集まり、反 対を表明した。また、5 月 6 日には首都ワシントンで原発と核兵器開発に反対する 10 万人 ものデモンストレーションが展開され、秋にニューヨークで 1 週間にわたって反原発の行 事が開催され、延べ 30 万人が参加した。そうした結果、原発を支持する世論は、77 年 7 月 では 69%であったのが、スリーマイル島原発事故後には 46%に低下した。 その他、スウェーデンがスリーマイル島原発事故の結果、「脱原発」に転換するなど、ヨ ーロッパ諸国の原発政策にも大きな反響を与えたのに、世界でまったくこれに影響されな かった国があった。それが日本だった。事故 2 日後に原子力安全委員会の吹田徳雄委員長 は「事故の原因となった 2 次系給水ポンプ 1 台停止、タービン停止がわが国の原発で起きて もスリーマイル島のような大事故に発展することはほとんどありえない」とするコメント を発表した。原子力行政や産業関係者は極力過小評価し、日本の原発には関係ないことで あるとまったく無視して、これから学ぼうとも調べようともしなかった。 (これは福島原発 事故後にわかったことであるが、このスリーマイル島事故後、アメリカ原子力規制委員会 が決めた変更規定も通産省資源エネルギー庁は入手しながら無視してしまっていた) 。 日本においても、当時から原発事故は頻発していたが、多くは報告されていなかった(最 近になってわかった) 。たとえ、わかったとしても、たとえば、二次冷却の給水系の故障が 73 年 7 月に関西電力の福井県美浜原発で発生していたことが判明しても、電気事業連合会 の平岩外四会長(東電社長)は、「日本の原発は、炉型、機械、操作員などの面からアメリ カのような事故が発生する恐れはないと信じる」といえばよかったのである。「安全神話」が 徹底していたから。 1979 年にはイラン革命に連動して第二次石油危機が発生し、一層石油に代わるエネルギ ーとして原子力発電を重視する議論が強まり、80 年には石油代替エネルギー法が制定され、 原子力発電に大きな比重を置くようになった。事実、9 電力会社の発電量のシェアをみると、 185 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 1980 年度では原子力 17.6%であったのに対して 1995 年には 37%とこの 15 年間に原子力が 倍以上に増加していることがわかる。 つまり、スリーマイル島原発での深刻な事故は、アメリカでは「原発暗黒時代」をもたら したが、日本ではこの事故の教訓が原発に関係する行政や産業にはまったく活かされず、 むしろ、「原発増設時代」となったのである(1986 年にはさらに大きなチェルノブイリ原発 事故が起きているが、これも「ああ、あれはソ連の黒鉛型という原子炉で、日本とはまった く異なる、あれは原発事故というより、ソ連型事故ですよ。日本ではまったく起きません」 ですんだ。日本の「安全神話」はびくともしなかったのである) 。 【3】ソ連の原発開発 アメリカのスリーマイル島原発のメルトダウン事故に続いて、1986 年には、最悪の原子 力事故であるソ連のチェルノブイリ原子力発電所の爆発・メルトダウン事故が発生した。 30 年以上たった現在も事故現場の状態はまったく不明でコンクリートの石棺に封じ込めら れたままになっている。 その前に、第二次世界大戦後のソ連の原発開発の概要を述べて、チェルノブイリ原子力 発電所事故について述べよう。 ○原爆開発から始まったソ連の原発開発 1945 年 7 月、ポツダムでトルーマン大統領はスターリンに超威力爆弾(原爆)実験成功 を示唆したとき、スターリンは素知らぬ様子をよそおっていたが、ソ連ではスパイ網によ って、マンハッタン計画をつかんでいて、すでに 1942 年から原爆開発に着手していた(マ ンハッタン計画始動から 3 ヶ月遅れにすぎなかった。しかし、ソ連のこの分野での基礎研 究レベルは米英に大きく差をつけられていた)。 1949 年 8 月 29 日にカザフスタン・セミパラチンスク市西方 170kmの平原で、高さ 30 メートルの鉄塔上でプルトニウム爆薬型の原子爆弾実験が行われた。規模は TNT 火薬 1 万 トン相当であった。これは 1945 年 7 月のアメリカ原爆実験と同じ段階であった(したがっ て、4 年遅れであった) 。 開発にサハロフが大きく関わった水爆の実験は 53 年 8 月に行われた(アメリカは前年に 水爆実験に成功していた) 。 原爆備蓄は、1950 年に 9 発、51 年に 25 発を加え 51 年末に 34 発となった。原発の輸送 手段としてツポレフ 4 が製造され、乗員訓練が行われ、高空 1 万メートルの原爆投下が可 能となった(これでソ連は一方的なアメリカからの核の恐怖から解放された)。 原水爆の開発は、スターリンの命令で、ベリヤが行っていたが、スターリンは、1953 年 3 月に死亡し、ベリヤは同年 6 月に逮捕された。ベリヤ逮捕と同日、ソ連原子力研究・生産 186 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 体制は大きな変更を受け、中規模機械製作省が設置され、「核エネルギー、ロケット制御、 航空機爆弾、遠距離ロケット分野など」はこの省の所管となった。 中規模機械製作省は、特殊技術、知識を独占するソ連版「原子力ムラ」を形成する一方で、 軍事、対外関係分野へも影響力を持つ一大国家機関となり、国家内国家「原子力帝国」とい われる存在となるのである。施設とその周辺に特別パスポート制度を維持し、「閉鎖都市」 を設置することとした。 『地球核汚染 ヒロシマからの警告』 (NHK『原爆』プロジェクト。NHK 出版)によると、 核軍拡競争の時代、旧ソ連の工業地帯、中部ロシア、ウラル、シベリアの工業都市の近く に、地図にはない核秘密都市が建設された。核兵器は総合的な工業製品であるため、それ ひ らは、 工業都市に近く、 シベリア鉄道などの幹線から 曳 かれた支線の終着駅に建設された。 そして、町全体が鉄条網で囲われ、厳重に警備され、管理された。 その 10 の核秘密都市の町の名前と数字の番号をつけた暗号名は、クレムリョフスク(ア ルザマス 16。核兵器の設計、研究、解体)、スネジェンスク(チェリャビンスク 70。核兵 器の設計、研究、解体) 、オジョルスク(チェリャビンスク 40 、後に 65 。プルトニウム 生産) 、セベルスク(トムスク 7 。プルトニウム製造、ウラン濃縮工場。ここは後に事故を 起こした) 、ジェレズノゴルスク(クラスノヤルスク 26。プルトニウム生産)、ゼリョナゴ ルスク(クラスノヤルスク 45 。ウラン濃縮工場) 、ザレチノイ(ベンザ 19。核弾頭組立)、 レースノイ(スベルドロフスク 45。ウラン濃縮工場)、ノボウラリスク(スベルドロフスク 44。核弾頭組立) 、トリョフゴルスク(ズラトウスト 36。潜水艦用戦略ロケット)であった。 ちなみに、アメリカでも同じようなマンハッタン計画の核秘密都市があった。サイト X という暗号名のオークリッジ国立研究所やサイト Y のロスアラモス国立研究所、そして、 広大な敷地にプルトニウム生産炉や再処理工場など核兵器製造工場が点在するハンフォー ドは、サイト W とのことである。こうした核秘密都市周辺には、被曝による健康被害に気 づかなかったり、訴えることができなかったりした住民が存在したこと、また、今なお苦 しんでいる人たちが存在することを、忘れてはならない。 いずれにしても、米英ソあるいはその後のフランス、中国等々も核開発および原発開発 は極秘ではじめていたので、全体がわかるもの、核技術の真の姿を把握するものがいなか ったのではないか。つまり、真実をわからないようにしたことが、本当に人類に、この技 術の真の姿がわからないようにしてしまったのではないかというような気がする(太平洋 戦争の時、大本営がウソの数字ばかりを発表するものだから、その数字を信じた日本海軍 はレイテ沖海戦で大失態をした。騙し騙しをやるとやがて自分も信じ込んでしまう。ソ連 ではしょっちゅうあった。ソ連もコンピュータをもっていたが、共産党の下部機構がウソ 187 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の報告ばかりするので、コンピュータでいくら正確に分析しても、国家の統計はウソばか りであった。それをもとに計画をつくっても意味はない。ソ連は崩壊した) 。 この核秘密都市は、外国人の訪問はもちろん、住民の移動も制限されることとなった。 こうして政府に直属する原子力産業が形成され、ソ連各地の原発の建設、原潜、原子力砕 氷船、ロケットの建造が進められることとなった。この下で 1954 年、オブニンスクに出力 は小さいが、人類初の発電用原子炉が稼働したのである。 こうしてソ連の原発開発は進められたが、政府からは建設作業をいそいでやるように圧 力が高まり、放射線の防護対策がおろそかにされるようになった。そして 1957 年 2 月、原 発建設の総責任者は放射性物質が漏れる事故で死亡した。これはウラジーミル・メルキン (ソヴィエト初の商業用原子炉の設計者)が、ソ連崩壊後に語ったことであるが、「私たち は、コストを削減するように圧力を受けました。原子力を広く安く利用するためです。安 全性のことは分かっていましたが、コスト削減を最優先にしなければなりませんでした」と 言っている。 ○チェリャビンスクの核爆発事故(マヤク事故、キシュテム事故ともいう) 1957 年 9 月 29 日夕刻、コンビナート 817「マヤク」で核爆発が起こった(その直後の 1957 年 10 月 10 日にイギリスのセラフィールド原発事故が起きている。後述する)。原爆開発 を急ぐ中で建設され、プルトニウム生産の中心であったこの施設は、49 年以来、実験・生 産過程で出る放射性廃棄物を近くのオビ川支流のテチャ川に放棄し、51 年の川の氾濫では 広範な地域の核汚染を引き起こした(マヤクの核関連事故は 2000 年代までに 14 回あった ようである)。 オジョルスク市にある「マヤク」は、原子爆弾用プルトニウムを生産するための原子炉 5 基および再処理施設を持つプラントであった。1950 年代当初のソ連では、一般には放射能 の危険性が認知されていない、もしくは影響を低く考えられていたため、放射性廃棄物の 扱いはぞんざいであり、液体の廃棄物(廃液)は付近のテチャ川(オビ川の支流)や湖に 放流されていた。やがて付近の住民に健康被害が生じるようになると、液体の高レベルの 放射性廃棄物に関しては濃縮してタンクに貯蔵する方法に改められた。 放射性廃棄物のタンクは、絶えず生じる崩壊熱により高温となるため、冷却装置を稼働 させ安全性を保つ必要があるが、1957 年 9 月 29 日、肝心の冷却装置が故障し、タンク内の 温度は急上昇し、内部の調整器具の火花が、容積が 300 立方メートルのタンクにあった結 晶化した硝酸塩と再利用の際出て来た残留物も一緒に爆発を起こし、大量の放射性物質が 大気中に放出される事態となった。 188 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― このチェリャビンスクの核事故は、原爆製造を至上課題とし、つくりあげたソ連原子力 かんこうれい 産業の破綻であった。しかし、関係者には事故についての厳しい 箝口令 が敷かれ、除染作 業に従事した者もその内容について一切語ることを制限された。そして当時様々なソース で事故を把握していた英米政府も公表しなかった。これはちょうど同じ時期にイギリス・ セラフィールドで原発事故が起こったためといわれている(これも英米政府は秘密にした)。 こうして人々の記憶からチェリャビンスク事故は抹殺されたが、20 年後にソ連から亡命 した科学者ジョレス・メドヴェーデェフが、1976 年 11 月に英科学誌「ニュー・サイエンテ ィスト」に掲載した論文で暴露して大きな反響を呼ぶことになった(彼はその後『ウラル の核事故』を出版した) 。この告発をソ連は真っ向から否定した。原子力を推進する立場の 人々からは、このような事故はあり得ず、これは単なる作り話であるとされていた。これ は、当初流布された噂では、核爆発に達する臨界事故が起きたとされていたためである。 この 1957 年の事故は、国際原子力事象評価尺度でカテゴリー6 であり(1986 年のチェル ノブイリ事故と 2011 年の福島原発事故はこれに対してカテゴリー7)、この事故は歴史の中 で第 3 番目に重大な原子力事故にあたる。ミュンヘンのヘルムホルツ・センターによれば チェリャビンスク(キシュテム)事故はこれまで過小評価されていたという。 ○安全性をないがしろにしたソ連 ソ連でも、当初いわれていたような壮大な原子力発電所構想は、1950 年代には実現して いなかった。そうした原発を低コストで建設することはできなかったからである。1960 年 代半ばに政権を握ったブレジネフは共産主義の成功には大規模な原子力プロジェクトが必 要だと信じ、原子力計画を再開した。その中心となったのは、著名な物理学者アナトリー・ アレクサンドルフで、ソ連各地に原発を立てる計画をつくった。 ブレジネフ政権で 100 万 KW の巨大な原子炉建設が決定された。最初の原子炉は 1973 年 に完成し、その後、次々と完成した。原発はコストを削減するために、猛スピードで建設 された。蒸気が高圧であるにもかかわらず、格納容器がないものもあった。また、放射性 物質で汚染された水が池に流されていた。 ユーリー・コルヤキン(ソ連エネルギー研究所主任研究員)は、原発の安全性について、 いろいろ努力したが、うまくいかなかったので、同僚とともに新聞に記事を寄稿して告発 し、原子力計画を推進していたアレクサンドルフに異議を申し立てた。原子炉設計におけ る安全性の欠如と核廃棄物の問題だった。アレクサンドルフは記者会見で、この記事は嘘 のかたまりと言って終わりにしたが、一般市民はその告発が正しいことを知っていた。 ○チェルノブイリ原子力発電所事故の発生 こうしたなか、1986 年 4 月末には事実上人類史上最悪の原子力事故であるチェルノブイ リ原子力発電所事故が発生した。それまで事故についての情報を公開したことはなかった 189 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― が、ゴルバチョフは抵抗を排して直ちに情報公開を進めた。この事故でもわかるようにソ 連社会の官僚化、硬直化はどうにもならないところまで進んでいたことがわかる(もっと も、2011 年 3 月 11 日の福島原発事故の状況がだんだんわかってきたら、ソ連社会だけが官 僚化・硬直化していたのではないこともわかってきたが)。 チェルノブイリ原発は、キエフの北 110 キロメートルのプリピャチ市(当時、原発関係 者が住む機密都市)に立地していて、チェルノブイリ市の北西 18 キロメートル、ウクライ ナとベラルーシの国境から 16 キロメートルにある。 発電所の建設は 1970 年代に始まり、1977 年に 1 号炉が竣工し、翌 1978 年に 2 号炉、1981 年に 3 号炉、そして 1983 年に 4 号炉が竣工した(したがって、完成後、3 年しかたってい なかった)。原子炉の炉型は、黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉の RBMK-1000 型(ソヴィ エト型)であった。4 つの炉は、それぞれ電気出力 1 ギガワット(100 万キロワット)を発 電でき、合計で当時のソ連の原子力発電量の 15%、ハンガリーへのエネルギー輸出の 80%を 占めていた。4 号炉は、ウクライナの電力のおよそ 10%を生産していた。 さらに、5 号炉と 6 号炉の 2 つの原子炉が、その事故の時に建設中で、4 号炉の事故が起こらなければ、世界 一になる予定であった。 さて、チェルノブイリ原発事故は、1986 年 4 月 26 日 1 時 23 分(モスクワ時間)に、こ の発電所の 4 号炉で起こった。事故当時、爆発した 4 号炉は操業休止中であり、原子炉が 止まった際に備えた実験を行っていた(つまり、事故などで原子炉が止まったときに、ど うするかの実験をやっていたら実際に事故になってしまったのである)。 その後の調査から事故当日、つまり、1986 年 4 月 26 日を再現すると以下のようになる。 事故発生時、4 号炉では動作試験が行われていた。これは、原子炉停止によって電源が停 止してから非常用電源に切り替えるまでの短い時間の間、システムが動作不能にならない ように、原子炉内の蒸気タービンの余力で最小限の発電を行うというものであった。 動作試験は、原子炉熱出力を定格熱出力の 20%~30%程度に下げて行う予定であったが、 炉心内部のキセノンオーバーライドによって、熱出力が定格の 1%にまで下がってしまった。 このキセノンオーバーライドとは、原子炉においてキセノン 135 の蓄積により出力低下を 招く現象である。キセノン 135 は、原子炉での核分裂反応によって生成される気体性放射 性物質の一種で、中性子の吸収効果があるため、これが炉心に蓄積すると核分裂の進行が 抑えられ、原子炉の熱出力が低下するのである。 運転員は熱出力を回復するために、炉心内の制御棒を引き抜く操作を行った。これによ り、熱出力は 7%前後まで回復したが、反応度操作余裕(炉心の制御棒の数)が著しく少な い不安定な運転状態となった。この不安定な運転により実験に支障が出ることを危惧した 運転員らは、非常用炉心冷却装置を含む重要な安全装置を全て解除し(これが重大な問題)、 190 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 実験を開始した。実験開始直後、原子炉の熱出力が急激に上昇しはじめたため、運転員は 直ちに緊急停止操作(制御棒の挿入)を行ったが、この原子炉は、特性上制御棒を挿入す る際に一時的に出力が上がる設計だったため、原子炉内の蒸気圧が上昇し、緊急停止ボタ ンを押した 6 秒後に爆発した。緊急停止ボタンを押したために原子炉が暴走したとする説 もある。 この爆発事故は、①運転員への教育が不十分だったこと、②特殊な運転を行ったために 事態を予測できなかったこと、③低出力では不安定な炉で低出力運転を続けたこと、④実 験が予定通りに行われなかったにもかかわらず強行したこと、⑤実験のために安全装置を バイパスしたことなど、多くの複合的な要素が原因として挙げられている。 後の事故検証では、これらのいずれかがひとつでも守られていれば、爆発事故、或いは 事故の波及を最小限に抑えることができた可能性が極めて高いとされている。 (全体としていえることは、人間はミスを犯すものであり、事故をひとつでも犯したら 安全サイドに、自動的に返る、つまり、振り出しに返る、人間がどうしようと、自動的に 安全サイドで中止されてしまうような発想で設計されていなかったようである。システム 設計ではそうするのが原則) 。 ここで確率論のウソを説明すると(まさにアメリカのラスムッセン報告で述べたことだ が)、起きる原因として、たとえば①、②、③、④、⑤が考えられ、それぞれが起きる確 率が 0.1 であるとすれば、①~⑤が起きて大事故になる確率は、0.1×0.1×0.1×0.1×0.1 =0.00001 となる。ところが、実際には、前記のように(番号を①から⑤までふったように)、 この男は(グループだったかもしれないが)怠慢でいいかげんで、途中を省いたり、いろ いろやった。つまり、実際の原因は独立に起きるのではなく、関連して起きる場合が多い。 その時の確率は 0.1+0.1+0.1+0.1+0.1=0.5 で極めて高い確率になる。 福島原発事故も、東日本大震災が起きた、地震動で鉄塔などが倒れ外部電源が断たれた、 津波がやってきた、内部電源が浸水してダメになった、非常用電源装置が・・・と関連し て起きており、結局、高い確率になってしまう。これを防ぐためには、それぞれの原因毎 に安全サイドに返ることしかない。 原発はそれができないのではないかということである。原子炉が暴走すれば止めようが ない。ソ連の膨大な核ミサイルシステムがこのような発想で設計されているならば、それ こそ大問題である(人類は、自分で設定した基準によるなれあいの査察ではダメである。 絶対的な権威による核ミサイルシステムの査察が不可欠であろう)。 1 時 23 分 47 秒までに、原子炉出力は標準的な運転出力の 10 倍であるおよそ 3000 万 KW 191 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― まで跳ね上がった。燃料棒は融け始め、蒸気圧力は急速に増大して蒸気爆発を起こし、原 子炉の蓋を変形させ破壊し、冷却材配管を破裂させ、ついに屋根に穴を空けた。推測では 爆発は 2 度あり、2 度目の爆発によりおよそ 1,000 トンあった蓋を破壊したとされている。 ソ連の事故報告書によれば、この 2 度目の爆発は、燃料棒被覆や原子炉の構造材に使用 されていたジルカロイと水が高温で反応したことによって発生した水素による水素爆発で あった(福島の場合と同じだった。日本ではチェルノブイリも勉強していなかったとみえ まだらめ て、水素爆発が起きることを知らなかった。当時、菅 直人首相が聞いたときに 斑目 原子 力委員長は水素爆発は起きないと答えたという) 。一方、冷却水を完全に喪失したことによ って即発臨界に至り、一種の核爆発が起こったとする説もある。 経費を減らすためとその大きさのために、原子炉は部分的な封じ込めだけで建設されて いた。このため、蒸気爆発が一次圧力容器を破裂させたあと、放射性の汚染物質が大気中 に漏れることになった。その屋根の一部が吹き飛んだ後、急速に流れ込んだ酸素と原子炉 燃料の非常に高い温度が合わさって、黒鉛減速材が黒鉛火災を起こした。この火災は、放 射性物質の拡散と周辺地域の汚染の大きな一因になった。 事故を調査するために政府委員会が招集され、副首相が 4 月 26 日夜チェルノブイリに到 着した。 4 月 26 日の夜(その爆発の 24 時間以上後)に、非常に高いレベルの放射能と多 人数のものが放射線被曝していることに直面した委員会は原子炉の破損を認めなければな らなくなり、プリピャチ(ウクライナ)の近くの都市からの退避を命令した。 大惨事の拡大を止めるために、ソヴィエト政府は、陸軍兵士とその他の労働者で構成さ れた多くの「解体作業者」が清掃スタッフとして送り込まれたが、大部分がその危険につ いて何も知らされておらず、効果的な保護具も使用していなかった。 放射性の残骸のうち最悪のものは原子炉の残骸であった。原子炉それ自身はヘリコプタ さ のう ーから投下された 砂 嚢 (事故の翌週間におよそ 5,000 トン)で覆われていた。大きい鉄の AE AE 石棺が原子炉とその中身を封じ込めるために早急に建てられた。 203 人が即座に入院し、内 31 人が死亡、28 人が急性放射線障害となった。彼らは事故を 収束させるべく集まった消防と救急の労働者だったが、煙等からの放射線被曝がどれくら い危険であるかには気づいてはいなかった。 当初、ソ連政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を公表しなかった。また、 付近住民の避難措置等も取られなかったため、彼らは甚大な量の放射線をまともに浴びる ことになった。 しかし、翌 4 月 27 日にチェルノブイリ原子力発電所からおよそ 1,100 キロメートルにあ るスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にて、この事故が原因の放射性物質が検出 192 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― され、4 月 28 日、ソ連も事故の公表に踏み切らざるを得なくなった。日本でも、5 月 3 日 に雨水中から放射性物質が確認された。 その後も爆発後の火災は続き、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、赤く燃 える原子炉中心部の様子が観察されたといわれている。ソ連当局は応急措置として、①減 速材として炉心内へ鉛の大量投入、②液体窒素を投入して周囲から冷却、炉心温度を低下 させることを実行した。この策が功を奏したのか、一時制御不能に陥っていた炉心内の核 燃料の活動も次第に落ち着き、5 月 6 日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見 解をソ連政府は発表した。 この事故で、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定 10 トン前後)放出され、放 射性降下物がウクライナ、ベラルーシ、ロシアなどを汚染した。その量は広島に投下され た原子爆弾(リトルボーイ)による放出量の 500 倍とも言われている。事故後のソ連政府 の対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化し、後に決められた国際原子力事象評価 尺度 (INES) において最悪のレベル 7(深刻な事故)とされた。 事故から最初の 1 年で、この区域のクリーンアップ労働者は約 21 万 1,000 人と推定され る。これら労働者は推定平均線量 165 ミリシーベルトを受けた。30 万から 60 万人が炉から 30 キロメートルの退避区域のクリーンアップに従事したのだが、その多くは事故から 2 年 後にその区域に入っている(世界保健機関 (WHO) は約 80 万人としている) 。 事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は、居住が不可能にな り、移住を余儀なくされた。避難は 4 月 27 日から 5 月 6 日にかけて行われ、ソ連の発表に よれば、 事故発生から 1 ヶ月後までに原発から 30 キロメートル以内に居住する約 11 万 6000 人全てが移住したといわれている。しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人な どの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。 現在は、この事故原発の処理義務は分離独立したウクライナにある。現在もなお、原発 から半径 30 キロメートル以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向か って約 350 キロメートルの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域 が約 100 ヶ所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業が全面的に禁 止されている。 チェルノブイリ事故による汚染は周辺の地方全体に平等に広がったわけではなく、天候 に依存して不規則に散らばった。ソ連および西側の科学者からの報告書は、ベラルーシが 旧ソ連全体に降りかかった汚染の約 60%を受けたと述べている。しかし、北西ウクライナの 一部でもあった、ブリャンスクの南にあるロシア連邦の広い地域も汚染された。 この事故による死者数であるが、ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わ せて 33 人だが、その後、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭 193 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 鉱労働者に多数の死者が確認されている。長期的な死者数は数百人とも数十万人とも言わ れるが、事故の放射線被曝とガンや白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、 科学的根拠のある数字としては議論の余地があり、現在のところ不明である。事故後、こ の地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果は ある。 1986 年 8 月のウィーンでの IAEA 非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者ヴァシリー・レ ガソフは、広島原爆での結果から、チェルノブイリ事故では 4 万人が癌で死亡するという 推計を発表した。しかし、会議では 4,000 人と結論され、IAEA の公式見解となっており、 2005 年にも同じ数字が公式発表された。これはあくまで推計である。 周辺地域の家畜に放射性物質が蓄積され、肉、ミルク等も汚染された。事故直後の社会 現象としては、例えば、日本では欧州産スパゲッティの販売量が一時的に急減した。日本 では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。こ のため、政府は、日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソヴィエト型とは構造が 異なり、同様の事故は起きないという説明を行った(今度の福島原発事故でわかったこと であるが、日本はその他には何もしなかったことがわかった)。 【4】イギリスにおける原発開発 ○マンハッタン計画に参加したイギリス 第二次世界大戦終了時、イギリス政府はマンハッタン計画に協力したのでアメリカが原 爆技術を共有させてくれると信じていた。それらの技術は、イギリスも一緒に開発を行な ったものであると考えていたからである。しかし、1946 年 8 月のトルーマン政権によるマ クマホン法(原子力エネルギー法)の通過は、イギリスがもはやアメリカの原子力研究にア クセスすることを許さないことを明確にしていた。 チャーチルにかわった労働党のアトリー首相は世界的な外交関係の中で、イギリスの地 位を維持するためにはイギリスは原爆が必要であると結論つけた。そのため、マンハッタ ン計画に参加していたウィリアム・ジョージ・ペニー博士をイギリスに戻し、イギリスの 原爆開発を指揮させることにした。ペニー博士は衝撃波のエキスパートで、1944 年 6 月、 マンハッタン計画にイギリスの代表者の一人として参加し、アメリカのロスアラモスで計 画の方向づけにおいてキーを握る科学者の中心グループに加わっていた。 核兵器開発のため、1946 年には原子力研究所が設立され、47 年にはイングランド西部の カンブリア州の海岸地域に原爆のためのプルトニウム生産用原子炉(ウランをプルトニウ ムに変えるための炉)を建設した。そのサイトはウィンズケールと呼ばれることになった (1981 年に「セラフィールド」と改称された)。 194 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― イギリスの計画は「高性能爆薬研究」のコードネームで 1947 年 5 月、ペニー博士が計画 を率いるように任命された。1950 年 4 月、バークシャーの放棄された第二次大戦中の飛行 場がイギリスの核兵器開発計画の本拠地となり、核兵器研究所となった。 1952 年 10 月 3 日、ハリケーン作戦のコードネームのもと、最初のイギリスの核兵器がオ ーストラリアの西海岸のモンテベロ島で爆発に成功した。この核兵器はほとんど長崎に落 とされた核爆弾ファットマンのコピーであった。 1954 年 4 月、ビッカース・ヴァリアント爆撃機を装備した第 1321 飛行小隊がウィタリン グ基地に編成され、核兵器ブルーダニューブが実戦配備された(58 発生産された)。 また、水爆の開発も行われ、1957 年 5 月 15 日、太平洋のクリスマス島で水爆実験が行わ れ、成功した。 ここに米ソについで、イギリスも核保有国となった。この原水爆開発から、派生して原 子力発電開発が行われるようになったのは、米ソと同じであった。 ○世界最初の商業用原子炉の開発 1953 年 10 月、原爆実験に成功し、核兵器がある程度形をとってきたところで、1953 年、 民生用の核エネルギー開発が本格的に追求されることになり、セラフィールドの軍事用原 子炉に隣接する所で、そのための原子炉建設が開始された。これは、世界最初の商業用原 子炉として、1956 年に完成した。 マグノックス炉(マグノックスという合金を使っていた)と呼ばれたこの型の原子炉は、 軍事用プルトニウム生産炉の延長上にあり、減速材に黒鉛が、冷却材に炭酸ガスが用いら れた。この土地を流れる川の名前(コールダー川)からコールダーホール型とも言われた。 これは商業用原子炉であったが、軍事用の役割も持つ、いわゆる二重目的炉であった。原 発の使用済み核燃料が再処理工場に運ばれ、原爆用のプルトニウムが分離・抽出されたの である。 イギリスではこの型の原子炉が、1950 年代に 7 基、60 年代に 17 基、71 年に 2 基、建設 されていく。これらの原子炉が現在(2013 年)までに 1 基(2014 年まで稼働予定)を残し てすべて稼働をやめている。イギリスにおける当時の原子炉建設のペースはめざましいも のがあり、1972 年まで、イギリスは原発による発電量では世界のトップを走ることになっ た。 1954 年春、日本においては、改進党議員中曽根康弘によって提案された 2 億円強の原子 炉築造費が修正予算として国会で認められ、日本でも原子力発電をめざそうとする動きが 強まり、結局、イギリスのコールダーホール型原子炉に決まったが、その経緯は日本の原 発開発で述べる。 195 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○セラフィールドの原子炉火災事故 世界最初の商業用原子炉が完成して 1 年もしない 1957 年 10 月 10 日にセラフィールド原 子炉火災事故が起きた。国際原子力事象評価尺度(INES)ではレベル 5(事業所外へのリス クを伴う事故)という大事故であったが、その内容は秘密にされ、日本ではほとんど知ら れていなかった(その 2 週間前にはソ連の核事故が起きていることは述べたが、これも秘 密にされた)。それが起こった 1957 年には、日本がイギリスからの原子炉導入に動き出し ていた時であったが、その実態が詳細にわかっていたら日本の原発開発もかわっていたか もしれない。 このセラフィールド原子炉火災事故(ウィンズケールは改称されたのでセラフィールド に統一する)は、軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール原子力工場(現セラフィ ールド核燃料再処理工場)の原子炉 2 基の炉心で黒鉛(炭素製)減速材の過熱により火災 が発生、16 時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出したため、イングランド北西部 に高濃度の放射性物質が拡散されてしまった。この事故の結果、セラフィールドのプルト ニウム生産炉は永久閉鎖されることになった。 周辺の牧草地が汚染されたため付近からの牛乳が 10 月から 11 月にかけて出荷停止にな るなど、大事故であったが、最も大きな被害をこうむることになった周辺住民に十分な情 報は伝えられなかったばかりか、影響は小さいとされた。 事故直後のイギリス原子力公社のスポークスマンは「爆発はありませんでしたし、普通の 意味で言う火災も起こりませんでした。大量の放射能が放出されたわけでもありません。 放出された放射能は危険なほどの量ではなく、風によって海に運ばれていってしまいまし た」と述べていた。 避難命令が出なかったため、地元住民は一生許容線量の 10 倍の放射線を受け、数十人が その後、白血病で死亡した。現在のところ、白血病発生率は全国平均の 3 倍である。当時 のマクミラン政権が極秘にしていたが、30 年後に公開された。現在でもセラフィールドは 危険な状態にあり、原子炉 2 基のうち 1 基は煙突の解体が遅れている状態にある。 1957 年のこの事故は、イギリスの原子炉事故として最大のものであったが、その他にも 例えば、73 年にセラフィールドの古い再処理工場での再処理試験中にガスが逆流し、建物 が汚染されるといった事故が起こるなど、いくつもの事故が起きていた。また、セラフィ ールドの核燃料再処理工場からは、再処理に伴ってでる放射性物質を含む廃液が海に流さ れるという事態も生じていた。それは、とくに 70 年代に激しかった。近年になっても 2005 年に、レベル 3(重大な異常事象)とされる事故が起こっている。 196 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○その後のイギリスの原発開発 その後、イギリスの原子力発電は、次の段階に入っていった。1964 年には「第 2 原子力プ ログラム」という白書が出され、次世代の原子炉として、マグノックス型の改良炉、すなわ ちガス冷却型の原子炉を採用するか、それともアメリカ型の軽水炉(減速材に軽水、すな わち普通の水を使用)を採用するかの選択肢が提起されたが、原発開発にかけたイギリス の威信という要因が強く働いて、第二段階でもガス冷却炉が採用された。 結局、1970 年代、80 年代に 14 基のガス冷却炉が稼働を開始した。この第 2 世代原子炉 は、2013 年現在も稼働中であるが、2014 年から 22 年の間に稼働をやめることになってい る。 さらに次の段階に移ったのは 1978 年であり、性能が疑問視されてきたイギリス型への固 執をやめ、軽水炉を建設する方針が採択された。その結果、95 年に 1 基の軽水炉が稼働を 始めた。この原子炉は、2035 年まで稼働する予定である。 1986 年のチェルノブイリ原発事故による衝撃は大きく、初の軽水炉が 87 年から建設され たものの、それ以降原発の建設は続かず、90 年代半ばには原発建設計画が放棄される方向 に向かった。 しかし、その姿勢は、労働党のブレアが政権を握っていた 2006 年に再び変化した。化石 燃料への依存を減らすという地球温暖化対策の理由と、エネルギー安全保障上の理由から、 イギリスは新たな原発を建設する方向に舵をきった。その方針のもとで、新たな原発予定 地 8 ヶ所が選ばれ、さらに原子炉の型が検討されている時点で、福島原発事故が起こった。 しかし、今のところ、原発建設方針を撤回したドイツなどと対照的に、イギリスはフラン ス同様、原発建設を推進していく姿勢を変えていない。 現在イギリスで稼働中の原発は 16 基となっており、うち 1 基を除いて 2023 年までに廃 炉となる予定である。その状況は、新たな原発建設によって変ってくることになるが、こ れから新たに取り組まれる原発建設に関して、2012 年 10 月(福島原発事故のあとである)、 日立製作所は、イギリス政府の原発建設候補地 8 ヶ所のうち、2 ヶ所を所有する原子力発電 事業会社ホライズン・ニュークリア・パワーの買収を発表した。それを受けて 2013 年 1 月 には、原子炉建設にあたる日立 GE ニュークリア・エナジー(日立と GE の合弁会社)への 建設認可に向けた評価手続き開始の指示が、ヘイズ英エネルギー相によって出されている。 また、イギリス・サマセット州ヒンクリーポイント原発における新規の原発の建設と運 営については、原発の運営を受託する主体はフランス電力公社(EDF)であり、そのプロジ ェクトの中に中国企業が参加するという形を取っている(中国広核集団(CGN)が建設費用 の 3 分の 1 を出資することになっている)。 197 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 今回、認可されたプロジェクトは、総工費は 160 億ポンド(約 2 兆 5000 億円)が見込ま れており、仏アレバ社の加圧水型原子炉 2 基を設置し、稼働は 2023 年の予定である。フラ ンスはヒンクリーポイント原発の建設・運営を、原子力技術を世界に輸出するためのショ ーケースとして期待しているという。 この原発については、イギリスとフランス電力公社(EDF)の間で 2013 年に大筋合意し たものの、資金面で難航していたが、ヨーロッパへの足掛かりを得たい中国は、2 年前に中 国広核集団(CGN)を通じ計画への関与を表明し、総コストの 3 分の 1 を出資すると決めて いた。このプロジェクトを積極的に進めた前政権のキャメロン首相は、両国の「黄金時代」 を固めるために習主席を国賓として迎えた。 ここでも述べたように、イギリスは商業用原発では一番乗りをし、その後もイギリスは フランスや日本と同様、積極的に原子力開発を行い、核燃料サイクルの実現も目指してい た時期もあった。だが最近は、原発の開発はもちろん、発電所の運営についても、純粋に 電力需要を賄うためのものと位置付けており、建設費用すら自前で出費するつもりはない ようである。 今回のプロジェクトもフランスを中心とした海外企業に建設費のすべてを負担させる代 わりに、発電した電気を 1,000 キロワット時当たり 92.5 ポンドで買い取ることを保証して いる。これは通常の電力仕入れの 2 倍といわれており、確実に利益が上がることを政府が 保証する代わりに、利益以外の事業リスクをすべて事業者に転嫁している。 イギリスはれっきとした核保有国だが、現在では核技術の蓄積という文脈で原子力を捉 えているわけではないということで、あくまで安定的なエネルギー供給とコストを勘案し た結果が、原発運営の丸投げという選択であったようだが、はたして、安全保障(核戦略)、 エネルギー自給、コスト(核廃棄物コストも含めて)、危険性の 4 ファクターから逃れら れない原発でそのようなことができるのか、議論のあるところである(とくに原発の運営 という国家の重要インフラに中国企業を参加させることの是非についての関心が高い)。 【5】フランスの原発開発 ○フランスの核開発 フランスも核開発と原発開発が並行して行われたが、イギリスとは異なった道をあゆん だ。 フランスは第二次世界大戦の勃発まではマリ・キュリーとピエール・キュリー夫妻の物 理研究、アンリ・ベクレル博士らのウラニウム放射能の研究など、核物理研究で世界先端 を行く国であった。核兵器開発は当時、第二次世界大戦の勃発直後から進められていたが、 ナチス・ドイツのフランス侵攻によりフランス本土はドイツの占領下におかれ、亡命した 198 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 多数のフランス人科学者がイギリス、カナダの原子爆弾開発計画やアメリカのマンハッタ ン計画に参加した。 戦後、計画は再始動し商業利用を念頭に基礎研究から再開した。1954 年の第一次インド シナ戦争や 1956 年のスエズ動乱で、自国の軍事力と外交力の致命的貧弱さに気付いた政治 及び軍事指導者層は、他国頼みではなく自らの政府が自由に使える核兵器の重要性に注目 した。 1956 年、西ドイツの再軍備とスエズ動乱の失敗をうけて、ギー・モレ首相は原爆実験と 核融合研究の実施を決定した。これにより同年 11 月 30 日に原子力庁、国防省、財政経済 省間で協定を結び、核兵器開発の推進、核センターの創設、アイソトープ分離工場の建設 が決定された。 1956 年 12 月 5 日、ポール・エリー参謀総長を長とする原子力軍事応用委員会が発足し、 核兵器研究開発群が創設された。同年中には、イスラエルとの間で原子力開発の秘密協定 が結ばれ、イスラエル・ディモナに原子炉を建設することが合意された(ディモナは、イ スラエルの死海の西 35 キロメートルの都市で、ネゲヴ砂漠の只中に位置する。原子爆弾製 造の疑いがあるネゲヴ原子力研究センターが近くにある)。 スプートニク・ショックで生じたミサイルギャップを埋めるため、アメリカのダレス国 務長官は、1958 年 7 月に第 5 共和政大統領に就任したばかりのドゴールと会談して、 「ミサ イル基地(IRBM 基地)と核弾頭貯蔵庫をフランス国内に設置することを求め、引き換えに 原子力潜水艦用原子炉と濃縮ウランを提供する」ことを申し入れた。しかし、核の使用命 令者について交渉は難航し挫折した。その後、一連のフランスによる核兵器開発計画が明 らかになったために、1959 年 9 月にアメリカは、フランス企業向けの商業利用目的の原子 力技術とロケット研究及びフランス軍備計画への協力を禁止し、企業間契約は総て破棄さ れた(ほぼ同じ時期に中ソ対立が起き、ソ連は中国から核を含む軍事技術協力をすべて引 上げさせたため、中国は独自に核開発をはじめた) 。 フランス初の核実験は 1960 年 2 月 13 日、サハラ砂漠のマリ共和国国境に近いレッガヌ にあるサハラ軍実験センターで実施され、プルトニウム型実験弾頭の爆発は成功した。イ スラエルの科学者が同席し、事実上イスラエルとの共同実験であった。この第 1 回実験に まで要した経費は総額 3 億 6000 万ドルとされる。 フランスは、 1960 年から 1996 年までの間に核実験を 210 回実施した(1968 年 8 月 24 日、 初の水爆実験を行った) 。このうち 17 回はアルジェリアのサハラ砂漠で実施、1966 年から 1996 年 1 月までの 193 回は仏領ポリネシア(南太平洋のムルロア環礁)で実施された。 199 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○フランスの原発開発 1952 年からの第 1 次原子エネルギー5 ヶ年計画で建設が始まったプルトニウム生産用の 天然ウラン黒鉛ガス炉は、フランスの独自技術によるもので、UNGG 炉(黒鉛減速炭酸ガス 冷却炉)と呼ばれた。57 年からの第 2 次 5 ヶ年計画のもとで建設が続けられ、軍事利用と 民生利用を共に目的とすると位置づけられた。 しかし、1960 年代には、アメリカに燃料面でも技術面でも依存しなくてすむ UNGG 炉が重 視されたが、採算性に優れるアメリカ型の軽水炉を推す声も強まり、両者の優劣をめぐる 論争が展開された。 この論争は、ドゴールの時代の終った後の 1970 年、発電用原子炉を軽水炉とすることで 決着をみた。そして 1973 年、メスメール首相のもとでの「メスメール計画」によって、原発 の大量建設をめざす方針が採択され、「原子力大国」へと進んで行った。「メスメール計画」 は計画通りには進まなかったものの、電力供給の中心に原発が坐る体制は確立した。 2013 年現在、フランスには 58 基の原発があり、新たに 1 基(第 3 世代軽水炉と呼ばれる もの)が建設中である。 フランスでも原子力関係の事故はしばしば起こっている。これまで最大の原発事故は、 1980 年に起こった国際原子力事象評価尺度でレベル 4(事業所外部への大きなリスクを伴 わない事故)である。 ○福島原発事故の原発大国フランスへの影響 原発大国であるフランスは、原発推進を国策としてきたが、福島原発事故後の世論は脱 原発に傾きつつある。2011 年 6 月に行われた世論調査では、全原発の「即時停止」または 「25~30 年かけた段階的停止」に賛成する国民は 77%に上っている。 2012 年 5 月の大統領選挙では、 「2025 年までに原発依存度を 50%に減らす」と「縮原発」 を表明し、フランス最古のフッセンハイム原発の「速やかな閉鎖」を公約に掲げた社会党 のフランソワ・オランドが当選した。 オランドは大統領就任後外交政策として積極的な原子力発電所の輸出を表明しだし、欧 州債務危機からの打開策の一環として 2012 年 12 月アルジェリアを訪れ、同国政府と原子 力発電所の建設促進で合意している。 その一方、オランド大統領は、選挙公約通り、現状 75%の原発依存度を 2025 年までに 50%に削減することを目標に、フェッセンハイム原発(1977 年稼働、出力 92 万 kW が 2 基) など老朽原発を中心に 20 基以上の閉鎖が必要と言っていたが、原発推進派のサルコジ前政 権の指名で 2009 年にフランス電力公社(EDF)の CEO に就任したプログリオは、その「縮 原発」に公然と反発し、電力業界や労組を味方につけ、原発閉鎖に対して巨額の補償金を 政府に要求する構えを見せていた。 200 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― このフランス電力公社(EDF)は、フランス国内で稼働する原発 58 基をすべて保有・操 業しているばかりではなく、1990 年代末から EU(欧州連合)が進めた電力自由化に合わせ、 ヨーロッパ全域に事業を拡大している。イギリスで稼働中の 16 基の原発のうち、子会社の EDF エナジーが 15 基を保有し、さらにドイツ電力大手・EnBW を傘下に収めるなど、ヨーロ ッパ最大の電力会社に成長した。2004 年にパリ・ユーロネクスト市場に株式を上場したも のの、いまだに仏政府が約 85%の株式を持つ「国有企業」でもある。大統領の方針は絶対 的であろう。 2014 年 10 月 10 日にフランス国民議会(下院)が原子力設備容量の現状(6320 万 kW)凍 結や 2030 年までに再生エネの発電シェアを 32%に引き上げることなどを盛り込んだ「エネ ルギー移行法案」を可決すると、オランド大統領は「縮原発」路線が議会の信任を得たと して、直後に、政策遂行に立ちはだかっていた国有電力会社のプログリオの更迭を決断し、 仏航空・鉄道システム大手・タレスの CEO だったジャン・ベルナール・レヴィを後任に送 り込んだ。 仏原発大手・アレバでも経営危機が深刻化している。フランス政府が 87%の株式を保有 し、EDF と同様に「国有企業」であるアレバは、福島原発事故をきっかけに世界各地の原発 新設計画凍結や安全対策強化に伴うコスト増、さらに日本をはじめ取引先の原発稼働停止 に伴う燃料販売の急減などで収益が悪化し、純損益は 2011 年 12 月期(通期)に 24 億 2400 万ユーロ(約 3540 億円)、2012 年 12 月期に 9900 万ユーロ(約 140 億円)、2013 年 12 月 期に 4 億 9400 万ユーロ(約 720 億円)と 3 期連続の赤字を出した。さらに 14 年 1~6 月期 も 6 億 9400 万ユーロ(約 1010 億円)の赤字だった。 中でもアレバにとって最大の懸案は、フィンランドで建設中のオルキルオト原発 3 号機 の問題である。アレバと独シーメンスの共同受注(比率はアレバ 73%、シーメンス 27%) で、安全性を高めた最新鋭の EPR(欧州加圧水炉)第 1 号案件として 2005 年に着工し、当 初は 2009 年に稼働開始予定だったが、設計の不具合や現地下請け業者とのトラブルなどが 頻発し、工期は再三の見直しの結果、現在は 9 年遅れの 2018 年とされている。おかげで、 2005 年の着工時点では 30 億ユーロ(約 4380 億円)だった総工費も、現在では 85 億ユーロ (約 1 兆 2410 億円)近くに膨れ上がり、完成時には 39 億ユーロ(約 5690 億円)の損失が 見込まれている。 電源喪失時の冷却機能維持や航空機の衝突にも耐えられる構造など、あらゆるリスクに しろもの 対応できる強靱さが売り物だったが、「商業ベースには乗らない 代物 だった」と大手重電 メーカー関係者は解説する。発注元であるフィンランド産業電力(TVO)とアレバ=シーメ ンス連合は工費予算超過をめぐって激しい法廷闘争を繰り広げており、国際商業会議所 201 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― (ICC)が仲裁手続きを進めているが、最近ではオルキルオト 3 号機の完成を危ぶむ声すら 広がっているという。 EPR(欧州加圧水炉)の工事の遅れは、フランスのフラマンビル原発 3 号機も同様で、2007 年の着工当初は 2012 年の運転開始を予定していたが、現在は 2017 年の完成を目指してい る。 発注者である EDF は原子炉の上蓋や圧力容器の内部構造に必要な部品供給の遅れなど、 スケジュール遅延の原因はすべてアレバにあると非難している。 アレバの経営危機は、世界の電力市場に大きなインパクトを及ぼしている。イギリスで は、南西部のヒンクリーポイントで 20 年ぶりの原発新設計画が進められており、EDF が中 国企業 2 社と組んでアレバ製 EPR2 基を建設する予定だが、前述したフィンランドやフラン スでの EPR 建設の難航で、この計画を危ぶむ声が広がっている。日本勢では、三菱重工業 がアレバと共同開発した中型の新型加圧水型軽水炉(PWR)・アトメア 1 の売り込みに力を 入れ、トルコの黒海沿岸都市シノップに 4 基を建設する計画だが、パートナーであるアレ バの動向次第では、プロジェクトが大幅に見直される可能性も否定できない。 アレバは 2014 年 1 月にスペインの風力発電大手・ガメサと洋上風力発電の合弁会社を設 立したのに続き、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)と独シーメンスが争奪戦を 繰り広げフランス重電大手・アルストムの買収騒動では、実現はしなかったものの、アル ストムの風力発電部門を買収する意向を明らかにしていた。つまり、原発ビジネスの先行 きの危うさを、アレバ経営陣も実感しているようだ。オランド政権に近い EDF の CEO レヴ ィとアレバ取締役会会長のバランが、今後、フランスの電力ビジネスの流れをどう変える のか、変えないのか、注目されている。 【6】中国の原発開発 ○核ミサイル開発優先 中国は 1960 年代になると中ソ対立でソ連との対立が深まり、独自の核開発路線へと向か った。 1960 年代初頭に設立した第 9 学会(北西核兵器研究設計学会)により、核兵器の開発が 進められた。新疆ウイグル自治区のロプノール湖の核実験場で 1964 年 10 月 16 日に初の原 爆実験、1967 年 6 月 17 日に初の水爆実験が行われた。1996 年までに核実験が 45 回にわた り実施された。それらのうち 1980 年までに行なわれた核実験は、地下核実験ではなく地上 で爆発させた。 そのため、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)の広い範囲の土地が放射能で汚染さ れ、現地に住む人間も被害を受けたといわれている。ウイグル人医師のアニワル・トフテ ィは、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が他の地域に住む漢民族と比べて 35%も高く、漢民 202 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 族であっても新疆ウイグル自治区に 30 年以上住んでいるものは、悪性腫瘍の発生率がウイ グル人と同じであるとことを明らかにしている。 核運搬技術については、中国はソ連から提供された R-2(SS-2)をもとに弾道ミサイルの開 発を進め、1964 年に核実験に成功すると核弾頭装備の東風 2 号が 1966 年から配備され、大 韓民国や日本を攻撃する能力を得た。続く東風 3 号でグアム、東風 4 号でハワイ、東風 5 号でついに中国西部から北米を攻撃する能力を得た。東風 3 号は 1988 年に通常弾頭に変更 されてサウジアラビアに売却されている。 東風 5 号(DF-5)は、中国が開発した核弾頭搭載可能な大陸間弾道ミサイル(ICBM)で中 国人民解放軍の第 2 砲兵部隊で運用されている。アメリカ国防総省の推測では射程は 1 万 3000 キロメートル以上で北アメリカ全域を射程に収める能力を持つとされている。MIRV 化 技術の開発が推測されている。 DF-5 の技術は人工衛星打ち上げロケットの開発に繋がって いる。 というように核ミサイル技術が一応、形をなした 1972 年頃から原子力エネルギー分野に も目がむけられるようになったようである。 中国の原子力政策を概観する。 ○第 1 期(1955~71 年) この時期は、軍事利用(核兵器関連)中心の自主開発期である。ソ連の核を含めた技術 協力が中ソ間の亀裂で破棄され、自主開発に移った。1964 年の原爆実験、66 年の核ミサイ ル実験、67 年の水爆実験、69 年の地下核実験、さらには 71 年の原子力潜水艦の運行開始 になっていった。また、58 年頃から、一連の核燃料サイクル関連の鉱山開発や施設の建設 に着手している。 ○第 2 期(1972~93 年) 軍事だけでなく原子力の「平和利用」も開始された時期である。72 年の米中の関係改善は、 東アジアの冷戦が次第に解体して行く契機となった。78 年に改革開放政策が打ち出され、 80 年代にはソ連との関係も改善に向かう。こうしたなかで、中国自身もそれまでの戦争不 可避論を放棄し、防衛戦略を転換し、兵員を削減しつつ軍の近代化を図った。このような 情勢の転換を背景に、原子力に対しても軍事利用とともに、経済発展にも大きな役割が与 えられることになったのである。 中国最初の秦山原発(浙江省)の設計が着手されたのは 73 年であったが、本格的に動き 始めるのは改革開放に転じた 80 年代であった。81 年に原子力発電開発計画(秦山Ⅰ期)が 承認され、翌年の全人代で「エネルギー長期戦略・原子力発電計画」が発表され、2000 年ま でに 1000 万 KW の原子力発電所を建設するという具体的な数値目標が初めて示された。こ の計画はスリーマイル島原発事故の影響などで遅れ、国産炉の秦山Ⅰ期原子力発電所はよ 203 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― うやく 85 年に着工した。この間にフランスからの導入炉による大亜湾原子力発電所(広東 省)の建設が承認され(82 年)、87 年から着工された。 ○第 3 期(1994~2006 年) この期は原発の基盤の確立期で、前記の 2 つの原発が営業運転を開始した 1994 年から始 まる。89 年の天安門事件で停滞していた改革開放政策が、鄧小平の南巡講話(92 年)を契 機に再開され、中国は年率 10%を超える高度経済成長に突入していった。これが沿岸地域 の深刻な電力不足を引き起こし、秦山原発の原子炉を増やすとともに、広東省の嶺澳原発、 江蘇省の田湾原発の建設を導いたのである。 ○第 4 期(2007 年~現在) この時期は原発開発が加速された時期である。高度経済成長がさらに進行すると、第 11 次 5 ヶ年計画(2006~10 年)では、原発の「積極的な推進」へと転換した。その具体化とし て 2007 年に「原子力発電長中期発展計画(2005~20 年)」が公表され、2006 年末段階で 859 万 KW の発電量を、2020 年までに 4000 万 KW に拡大し、総発電設備容量の 4%にするととも に、その時点で建設段階にある発電容量も 1800 万 KW にするという、数値目標が掲げられ た。 2009 年には「積極的な推進」から「強力な開発」に方針転換し、翌 2010 年には 2020 年まで の目標を 8000 万 KW、総発電設備容量の 7~8%に引き上げた。2011 年の福島原発事故以後 も、この目標は変えていない。 こうして 2012 年 3 月段階で、 図 34(図 18-64)のように、15 基の原発が稼働(発電 能力は 1252.8 万 KW)しているほか、26 基が建設中である。これは世界の建設中 62 基の 4 割以上であり、2020 年までにさらに約 40 基が新規に建設される予定である。 18 基がフランスのアレバ社製を改良した CPR1000 で、国産化率は 80%、4 基がアメリカ のウェスティングハウス社の AP1000 で、これも国産化を進めているという。しかし、中国 では高性能な工業製品の品質保証システムがまだ十分ではない面があるうえに、工期を急 ぐため、品質に問題が発生している(最近も事故を起こした高速列車体を原因究明もしな いで土に埋めてしまった) 。 人材不足も大きな問題である。「先進諸国においては、原発 1 基ごとに安全監督のスタッ フが約 40 人必要だとされているが、中国原発における安全監督のスタッフはすべて合わせ ても 300 人にすぎない。ユニットごとに平均 7.3 人ということになり、世界の平均をはる かに下回っている」という。 中国はすでに原発プラントの輸出もしている。現段階では 1993 年からパキスタンに 4 基 輸出しているだけだが、今後は東南アジアや CIS(独立国家共同体) ・中南米などの諸国へ の輸出をはかっている。 204 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○原発銀座となる中国大陸 中国の稼働中(15 基) 、建設中(26 基)、新規建設(40 基)であり、さらには、2035 年 までに 230 基、2 億 3000 万 KW にまで拡大する構想もあるといわれている。原発超大国への 道を、ひたすら突き進んでいるのである。 2008 年の四川大地震でも示されたように、中国は世界有数の地震国でもあり、図 34(図 18-64)のように、稼働中あるいは建設中の原発のいくつかが、地震帯に近いことがわか る。 図 34(図 18-64) 中国の原子力発電所 また、内陸部に計画中の 10 数ヶ所の原発基地には、水資源が大きな問題となる。原発は 大量の冷却水を必要とするため、内陸では大きな河川や湖の傍(そば)に建設しなければ か ならない。すでに黄河が 涸 れたりするなど、中国全土で近年深刻な水不足がたびたび起こ っていることを考えると、いざという時の冷却水の確保が危うくなる心配がある。 そして何より心配なのは、中国では「原発の立地・建設をめぐって、周辺住民との交渉に おける摩擦・対立はない」「日本のような地元の抵抗はない」という状況であり、そこには「中 国の原発は安全だ」という政府の原発安全神話が徹底していること、1 党独裁による言論統 制が徹底していることである(2013 年 7 月、広東省の鶴山市で計画中の核燃料製造工場が 住民の反対デモで中止になったという報道があった) 。 中国の状況は、多くの原発を計画中の発展途上国に共通した問題をなげかけている。「中 国、韓国、日本は原発が 100 基以上も集積する地域になる(前述の 2035 年までに中国が 230 、そのどこかでひどい事故が起こった 基つくることになれば、300 基を越すことになる) ら・・・これだけ多ければ、確率論的にも、何年に一度は大事故が起きうる。人為的ミス 205 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― も巨大地震や津波も起きうる。そうなると、PM2.5(大気汚染)どころの騒ぎではなくなる (PM2.5 も中国では深刻化しているが) 。半島や島国では人は住めなくなるかもしれない。 【7】日本の原発開発 日本は第二次世界大戦末期に広島、長崎で多大な原爆犠牲者を出し、戦後、核兵器開発 はもちろん、原子力の基礎研究もほとんどやってこなかったから、原発の開発はアメリカ からの技術導入からはじまり、前述した核大国、核保有国とは異なった原発開発の道をた どった。 ○第 1 期―戦時研究から禁止・休眠の時代(1939~53 年) 日本でも戦時中、陸軍と海軍が 2 つの原爆研究プロジェクトをやっていたが、連合軍の マンハッタン計画はもとより、ドイツの原爆研究と比べてもまったく劣ったものだった。 プルトニウム抽出路線は全く作業を進めていなかったし、ウラン濃縮路線も、実験的成果 は皆無であった。 敗戦後、GHQ の発した原子力研究禁止令により、原子力研究は全面的に禁止された(注: 理研の仁科研究室が持っていた初歩的な原子炉が終戦直後、東京湾に投棄された記事を読 んだことがある) 。ただし、アメリカ主導で進められた原爆効果(被害)調査には、多数の 日本人医学者が動員された。しかし、その成果はアメリカが持ち帰って、秘密にされてし まった。 1952 年の日本の独立回復と同時に原子力研究は解禁となったが、科学界の慎重論により、 研究活動は事実上の休眠状態に置かれた。 ○第 2 期―原発推進体制の整備と試行錯誤の時代(1954~65 年) 1953 年 12 月、アイゼンハワー米大統領は国連で「原子力の平和利用(Atoms for Peace)」 演説を行い、核エネルギーの平和利用と核兵器拡散阻止のため、国連のもとに国際機関(57 年 7 月、IAEA 活動開始)を設立し、また天然ウランと核分裂物質の所有諸国は一部を平和 利用のため国際的に供出すべきであり、アメリカは濃縮ウラン 100kgを提供しようと提案 した。この時期、米ソの核兵器競争は進行しており、これ以上(米ソ英)、核保有国が増え ないように、原発技術の供与と引き換えに核兵器開発を断念させる狙いも、この提案には こめられていた。 このアメリカの提案を素早くつかみ、国家主導で原子力研究を推進すべく、動いたのは 当時の改進党議員だった中曽根康弘だった。日本における原子力発電は、1954 年 3 月に中 曽根康弘らにより原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされる。この 時の予算 2 億 3500 万円は、ウラン 235 にちなんだものであった(中曽根は「原子力は 20 世 206 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 紀最大の発見。平和利用できなければ日本は永久に 4 等国に甘んじると思った」と著作やイ ンタビューで繰り返している) 。 原子力予算成立を契機として、政府と産業界は学界の協力を得て、海外の原子力研究の 動向に関する調査研究を進めるとともに、原子力研究の推進体制の整備を進めた。 1955 年 11 月に日本政府は、日米原子力協定を調印し、アメリカから提供される濃縮ウラ ンを使用する実験用原子炉を運用する日本原子力研究所を東海村に設置した。この過程で 問題となるのは、日米の原子力協力が軽水炉の段階に進めば、必ず、アメリカ原子力法が 要求する機密保全の義務が発生することになるので、当時、日本学術会議が要請していた 原子力の「公開・民主」の原則とも矛盾することになる。 これを承知で、当時の日本政府が機密条項を伴う可能性の高い日米間の原子力協力の方 向を選択したことは、原子力行政における秘密主義の始まりとなり、他からの批判を許さ ない後の「原子力ムラ」的体質の出発点となった。それはもともと原子力(核兵器、原発と も)をアメリカのもとに置こうとするアメリカの意図そのものにあったといえよう。 1955 年 12 月半ばに原子力基本法が中曽根ほか 421 人の超党派の議員立法の形で提案され、 わずか 1 日の審議で可決された。また、原子力委員会設置や総理府に原子力局を設置する 法律も可決され(原子力三法) 、日米原子力協定も批准された。 アメリカ政府の原子力平和利用キャンペーンに日本で積極的に呼応したのは、正力松太 郎率いる「読売」グループであった。読売新聞社は、55 年 11 月から原子力平和利用博覧会を 全国の主要都市で開催し、総計 260 万人の入場者に原子炉の模型や将来の原子力飛行機、 原子力船など原子力の「夢」を持たせた。 そして原子力基本法の成立を受けて 1956 年 1 月 1 日に原子力委員会が設置され、初代の 委員長は読売新聞社社主であった正力松太郎であった。また、1956 年 3 月から 4 月には、 科学技術庁設置法、日本原子力研究所法、原子燃料公社法(のちに動力炉・核燃料開発事 業団に発展的改組)なども成立し、日本における原子力開発の体制が整備された。さらに 経済界でも 3 月に日本原子力産業会議が発足し、会長には東京電力会長が就任した。 正力は翌 1957 年 4 月 29 日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年 5 月 19 日に 発足した科学技術庁の初代長官となった。 1957 年末までに通産・電力連合と、科学技術庁グループの 2 つの勢力が並び立つ「二元体 制」が形成され、それぞれのグループにおける事業が本格的に動き出した。それ以後の原子 力開発利用は、各グループ内部での事業方針の見直しがあったとはいえ、この制度的枠組 みの中で進めれれるようになった(片方は電力業界と結び、とにかく、すぐに海外から技 術を導入することに走り、片方は自省の権限拡大のため自主技術を強調し、実力をわきま えず過大な自主技術開発をするという(昔の陸軍、海軍のような)二元体制になってしま 207 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― った。日本の将来のため、ここはあくまで自主開発し、ここは今は無理だから外国技術に 頼るという話し合いはなかった) 。 まず、通産・電力連合は商業用原子炉としてイギリスのコールダーホール改良型炉(黒 鉛減速炭酸ガス冷却炉)の導入準備を始めた。アメリカから濃縮ウランを燃料とする実験 炉の導入が決定されていたが(アメリカが手間取った理由はアメリカの原発開発の歴史で 述べた)、実験炉の開発ではイギリスが先行していた。 原子力関連の企業側ではアメリカの軽水炉の実用化を待つべきとの意見もあったが、商 業用原発の導入を急いでいた正力委員長はイギリスからの導入を決断した。それは、イギ リスの原子炉が入手が容易な天然ウランを燃料としていた上、原子炉の運転の結果発生す るプルトニウムの返還をイギリスは、アメリカのように要求しなかった点も利点と考えら れた。 また、コールダーホール型原子炉の受け皿となる組織をめぐっては、自由民主党の河野 一郎が国営を主張したが、正力委員長は民営論を展開、結局、政府も出資した民間会社と して、日本原子力発電会社の設立が 57 年 9 月の閣議で決定された。 しかし、57 年 10 月、前述したようにイギリスのセルフィールドのコールダーホール型原 子炉で重大事故が起き、日本側ではコールダーホール型の安全性に疑問が発生し、調査団 を派遣して設計変更を求めた。このため、着工が 61 年 6 月と遅れた上、運転開始はさらに 遅れ、65 年 11 月となった。その間、いろいろなトラブルがあり、その修理のため建設費用 も当初の 350 億円から 450 億円にも膨れ上がり、結局、日本におけるコールダーホール型 原子炉はこの 1 基で終わり、性急な導入が大きなツケをもたらす結果となった。 つぎに科学技術庁グループについて述べると、1956 年 6 月に日本原子力研究所(現、独 立行政法人日本原子力研究開発機構)が特殊法人として設立され、研究所が茨城県東海村 に設置された。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていった。アメリカか ら導入した研究用の原子炉は、日本原子力研究所に設置され、1963 年 10 月 26 日に初発電 を行った。これを記念して毎年 10 月 26 日は原子力の日となっている。 しかし、こうした導入期の熱狂の裏で、事故発生時の損害分析も秘密裏になされていた。 60 年、日本原子力産業会議は科学技術庁からの委託を受け、原発事故の損害額を試算した 報告書を作成していた。そこでは大事故発生時には 3 万人が永久の立ち退きを求められ、 損害額は少なく見積もっても 1 兆円に上ると算定されていた。当時の国家予算は 1.7 兆円 程度であった。まさに国家破綻の危機に直面する事態であるが、この報告書は 1999 年の国 会質問で存在が明らかにされるまで公表されなかった(国家は都合の悪い情報は公表しな いのはいつも同じである) 。 208 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― このように、通産・電力連合が最初の導入炉に選んだコールダーホール改良型炉は経済 的に見て失敗作であり、また科学技術庁グループでも、日本原子力研究所の動力炉自主開 発計画は混迷を重ね、原子力燃料公社の国内ウラン鉱開発も失望的な結果におわった。 ○第 3 期―アメリカ型軽水炉の導入と原発のテイクオフ(1966~79 年) 1950 年代末になると、短期間で大規模化が可能という原子力発電の「夢」はしぼみ、英米 でも原発への関心が低下したことは述べた。それは、原発の実用化には様々な困難がある ことが判明する一方で、中東で大油田があいついで発見され、安価な原油の流入で火力発 電が主要なエネルギー源となったためであった。 この安くなった火力電力に対応するためには、アメリカの原発の歴史で述べたように、 企業はただ原発の大規模化によるコストダウンしかなかった。1960 年代半ばになってアメ リカでの軽水炉の実用化の見通しがつくと、1964 年 8 月にジュネーブで開催された第 3 回 の原子力平和利用国際会議でアメリカの GE 社は沸騰水型軽水炉(BWR)を、ウェスチング ハウス社は加圧水型軽水炉(PWR)を宣伝して、採算のとれる商業発電時代の到来を大々的 に宣伝した。 また、同じ月にアメリカで核燃料民有化法が成立し、核燃料の売却が容易になったこと も原発への関心再燃を促進した。アメリカでもシーボーグ原子力委員長が 62 年から 65 年 に原発が「成年期」に達したと語ったように、軽水炉の発注が急増し始め、66 年には 20 基、 67 年には 29 基を記録した。このアメリカにおける軽水炉の発注急増は、製造コストの低下 を実現し、低価格での輸出を可能にした。 こうして 1963 年から 64 年にかけての世界的な軽水炉ブームが勃発した。このブームを 受けて日本の電力各社は、軽水炉導入に積極姿勢を示し、電機メーカーもまたアメリカ電機 メーカーとの技術導入契約など、軽水炉導入のための体制を整えた。また通産省も電力会 社とメーカーを支援した。こうして通産・電力連合は、アメリカ製軽水炉の導入習得路線 を精力的に推し進めるようになった。 そこでは、沸騰水型 BWR を採用する東京電力/日立・東芝/GE の企業系列と、加圧水型を 採用する関西電力/三菱重工/WH(ウェスチングハウス社)の企業系列の 2 つが、並び立つ こととなった。東京電力と関西電力以外の 7 つの電力会社のうち、東北・中部・北陸・中 国の 4 社が BWR 系列に、残りの九州・北海道・四国の 3 社が PWR 系列に入ることとなった。 なお、核燃料事業でも、核物質の民有化により、購入委託路線をとる通産・電力連合が直 接、海外との契約を結ぶようになった。 アメリカの GE 社から、魅力的な価格の軽水炉と「ターンキー契約」が日本に提示された。 このターンキー契約とは、最初に固定された売却金額が提示されて、その金額で建造と臨 界までを GE が請負い、その後事業者はマニュアルに従って運用するだけでいいという契約 209 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 方式であった。それは先のコールダーホール型原発のトラブルを避けるためだったが、同 時に、地震や津波など日本の立地条件に見合った設計変更の余地を難しくさせるものでも あった。 これについて、2011 年の福島原発事故のあとに、次のようなことが問題にされていた (2011 年 6 月 11 日の朝日新聞) 。 東電福島第一原発が 40 年前、竜巻やハリケーンに備えて非常用発電機を地下に置く「米 国式設計」をそのまま採用したため、事故の被害が大きくなったことが関係者の証言でわか った。原発は 10 メートル以上の津波に襲われて水につかり、あっけなく全電源を失った。 1960 年代初頭、米国では、風速 100 メートルに達する暴風が原発に襲いかかり、周辺の 大木が根こそぎ吹き飛ばされ、ミサイルのように建屋の壁を突き破り、非常電源を破壊す る、こんな悪夢のシナリオを想定して原発の災害対策が練られた。つまり、「木のミサイル」 から守るために、非常用発電機はタービン建屋の地下に置かれた。 東電の原発だった福島第一の 1 号機は、GE など米国企業が工事を仕切った。「東電は運転 開始のキーをひねるだけ」という「フル・ターン・キー」と呼ばれる契約で、技術的課題は丸 投げだったという。東芝や日立など国産メーカーの役割が増した 2 号機以降の設計も、ほ ぼ 1 号機を踏襲したという。津波など日米の自然災害の違いを踏まえて見直す余裕はなか ったという。旧通産省の元幹部は「米側の仕様書通りに造らないと安全を保証しないと言わ れ、言われるままに造った」と振り返る。 1 号機の運転開始から 40 年。「非常用発電機は重く、振動も生じる。移すなら建物全体の 抜本的な工事になる」(東電関係者)と、設計が見直されることはなかった。経済評論家の 内橋克人氏は「戦後日本の技術開発は、他国に学んで自主開発を目指すケースと、他国にお んぶにだっこで技術を導入するパターンがあった。福島第一原発は後者の典型で自然条件 の違いを考えずに米国の設計を丸呑みした。日本の技術の宿命的な落とし穴である。技術 を「もらってくる」発想は、宇宙開発や半導体などにも共通する問題だ」と述べている。 この結果、福島第一原発 1~6 号機の非常用発電機計 13 台のうち、主要 10 台が地下 1 階 に集中している。津波の直撃を受けて水損を免れたのは、6 号機の 1 階にあった 1 台だけだ った。原子炉を冷却するための電源が失われ、運転中だった 1~3 号機は炉心溶融(メルト ダウン)を起こした。 アメリカ式は国内の他の原発に踏襲されている。菅直人首相が運転停止を要請した中部 電力浜岡原発も非常用発電機が原子炉建屋の 1 階にあるため、緊急対策として建屋の屋上 に発電機を増設した。―朝日新聞からの引用終わり。 原電は第 2 号炉として、1961 年に福井県敦賀市を選んで、建造は東芝・日立・GE のグル ープが請け負う契約を結んだ。敦賀発電所は 70 年 3 月から営業運転に入った。第 1 号のコ 210 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ールダーホール改良型よりも、コスト的には単位出力あたり 2.7 倍優位だったとされてい る。 関西電力は 1966 年 4 月福井県美浜町に三菱重工とウェスチングハウス(WH)社のグループ の加圧水型軽水炉(PWR)が、東京電力は 1966 年 5 月、福島県大熊町に東芝・日立・GE 社の グループの沸騰水型軽水炉(BWR)がそれぞれ採用され、 「ターンキー契約」方式で建設され、 東京電力のように試行錯誤の中で運転開始に漕ぎ着けた。 日本原子力産業会議が毎年刊行していた『原子力年鑑』1966 年版では、軽水炉の安全性 について、「米国の軽水炉は、その経験の程度から見て、ある程度安全設計と耐震設計に考 慮を払えば、日本に導入して安全に運転しうる段階に来ていると見てよい」と記述していた。 しかし、日本に軽水炉の導入が始まった 1960 年代にアメリカの原子炉の安全性は確認済、 との説は疑問であった。アメリカでは、61 年 1 月にアイダホの実験炉で制御棒を引き抜い た際に、炉心の臨界が発生し、3 人が死亡していたし、66 年 10 月にはフェルミ原発で部分 的な炉心溶融事故が発生し、発電所が閉鎖されていた。このように、アメリカの原発の安 全性は「実証済」とはとても言えない状況であったが、日本では軽水炉の導入を急ぐあまり、 安全性の確認が後回しにされたような感じであった。 商業用原発として原電は、1970 年 3 月に敦賀に第 2 機目を、78 年 11 月東海に第 3 機目 を営業運転させ、続いて九電力のうち、関電の若狭美浜第 1 号機が 70 年 11 月、東電福島 第一の第 1 号機が 71 年に活動を始めた。1972 年当時の日本の原子力発電の状況は、5 基 182 万 3000kW、全体の発電量の 3%以下であったが、まだまだ小規模な運転停止が多かった。 他方の科学技術庁グループもまた、1967 年 10 月に動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が 発足し、3 つの基幹的なプロジェクト(新型転換炉 ART、高速増殖炉 FBR、核燃料再処理) の開発が始まり、さらに 70 年代初頭からは、第 4 のプロジェクトとして、ウラン濃縮開発 に取り組むようになった。そうした基幹的プロジェクト以外にも、核融合や原子力船など 多くの開発プロジェクトが推進されるようになった(科学技術庁グループは、日本の実力 をわきまえず多角化し、結局、 (2010 年の時点で何一つ成功していない) 。 1973 年 11 月、第四次中東戦争が勃発してアラブ石油輸出国機構(OPEC)が原油価格を 70%も引き上げたことから日本にも深刻な石油危機が到来し、国際的にも国内的にも代替エ ネルギーとして原子力発電の重要性が高まった。日本の政策として原子力が優先されたた めに、1975 年には原子力の発電量は 10 基 530 万 kW に拡大し、日本は(ソ連を除いて)ア メリカ、イギリスに次ぐ 3 番目の原発大国に成長した。 この第一次石油危機は、原発にとって、その重要性を主張する上で絶好の機会となった はずであったが、原子力に対する不信を助長するような事故が相次いだ。原発推進派に特 に深刻な打撃を与えたのは 1974 年 9 月 1 日の原子力船の放射能漏れ事故だった。電力会社 211 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― が運営する原発にも、いろいろな事故・故障が続発し、頻繁に停止したため、稼働率は 40% に留まった。このようなことから、原子力発電への反対世論が広がり、地元民の不同意に より新しい原発立地地点の確保がきわめて困難になってきた。 1973 年に原産会議は「原子力開発地域整備促進法」を制定するよう政府に要望し、74 年 6 月、電源三法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整 備法)が成立し、原発をつくるごとに交付金が出てくる仕組みができた。 通産省の資源エネルギー庁では、1974 年度初頭には既に導入した軽水炉の問題点を抽出 してその対策についての基本構想をまとめ、実施したのが原発の改良標準化研究であった。 また、地震国日本の原発にとって、地震をどう考えるかは極めて重要なことであった。当 時から議論の対象となっていた原発プラントの耐震性についても実物を用いて実証するた め、財団法人原子力試験工学センターが 1976 年に設立され、1982 年には香川県に多度津工 学試験所を開所、各種原子炉機器、構造物の振動試験が開始された。振動試験の成果は改 良標準化プラントの設計の問題点を洗い出し、更なる反映を図ることも意図された。 このような政府や電力業界の努力はあったが、国民の原発に対する不信は根強く、電力 業界も、このような国民意識と各地の反対運動の中で、60 年代までに原発立地を受け入れ た土地以外に新規立地を電力会社は確保できず、結果的に同じ立地に原子炉を次々と増設 していくようになった(福島原発事故からもわかるように、同じところに並んで設置する ことは極めて危険なことである) 。 原発が立地する市町村には前述した電源三法によるカネと共に電力会社からの寄付金、 その他名目の種々のカネ、電力会社社員が議員となっての地域世論作り、地元企業の原発 下請け営業といった様々な要素による企業城下町化が進行していった。 原発不信感を払しょくするため、電力会社も広報、世論作りに全力を尽くしたが、成功 したとはいえなかった。伊方原発訴訟は 78 年 4 月、松山地裁で敗訴となったが、これは、 「エネルギー政策に関わるもので司法審査の対象に馴染まない」という国側の主張を追認し、 「安全審査に問題なし」とするものであった。 ○第 4 期―安定成長と民営化進展の時代(1980~94 年) 1979 年 3 月 28 日に勃発したアメリカ・スリーマイル島原発の人為的ミスによる炉心メル トダウン大事故からはじまり、アメリカでは原子力規制委員会の権限が強化され、以降 1 基の原発も増設不可能となった。しかし、日本の原子力行政も電力業界も、この事故から の教訓を真剣にくみ取ろうとしなかった。事故直後、電事連会長で東電社長の平岩外四は 「(日本では)米国のような事故が発生する恐れはない」と頭から否定した。 アメリカの原発開発の歴史のところでも述べたように、カーター大統領は、1979 年 4 月 1 日に現地を視察した上で、事故原因の調査を行うため特別委員会を設置した。その報告書 212 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― では、原子炉設計上の明白な欠陥、監視体制の不備、運転員の訓練不足、その他の日常運 転面での深刻な諸問題が存在していたことを指摘した上で、「組織、規則、慣行の各面にお いて―そしてなかんずく―われわれが調査した諸機関のなかでは最も典型的である原子力 規制委員会(NRC)と原子力産業の態度の面において、根本的な変革が必要であろう」と提 言していた。 しかし、アメリカの電力会社や原子力機器メーカーの側では、事故は人為的ミスで起こ ったとし、原発機器自体の安全性に変わりがない点を強調する宣伝を強化するため、事故 後半年間だけで 160 万ドルもの宣伝費を投入して、大学での原子力関連の講座などを支援 していった。それにもかかわらず、スリーマイル島原発で発生した深刻な事故はアメリカ における原発熱を急速に冷めさせることになり、新規の原発建設が凍結され、以後、現在 に至るまで新規原発は 1 基もない(2016 年に新規原発が 1 基稼働し始めたことは後述する) 。 スリーマイル島原発事故は国際的にも大きな反響を呼び、核廃棄物貯蔵施設と再処理施 設の建設が予定されていた北ドイツの小村に、ヨーロッパ中から 10 万人が集まり、反対を 表明した。また、1979 年 5 月 6 日には首都ワシントンで原発と核兵器開発に反対する 10 万 人ものデモンストレーションが展開され、秋にニューヨークで 1 週間にわたって反原発の 行事が開催され、延べ 30 万人が参加した。そうした結果、原発を支持する世論は、77 年 7 月では 69%であったのが、スリーマイル島原発事故後には 46%に低下した。 その他、スウェーデンがスリーマイル島原発事故の結果、「脱原発」に転換するなど、ヨ ーロッパ諸国の原発政策にも大きな反響を与えたのに、世界でまったくこれに影響されな かった国は日本だけだった。事故 2 日後に原子力安全委員会の吹田徳雄委員長も「事故の原 因となった 2 次系給水ポンプ 1 台停止、タービン停止がわが国の原発で起きてもスリーマ イル島のような大事故に発展することはほとんどありえない」とするコメントを発表した。 原子力行政や産業関係者は極力過小評価し、日本の原発には関係ないことであるとまった く無視して、これから学ぼうとも調べようともしなかった。 (これは福島原発事故後にわか ったことであるが、このスリーマイル島事故後、アメリカ原子力規制委員会が決めた変更 規定も入手しながら無視してしまっていた) 。 日本では、むしろスリーマイル島事故があった 1979 年にイラン革命に連動して起った第 二次石油危機に、より国民の注目が集まった。すでに第一次石油危機で苦労した日本では、 この第二次石油危機で一層石油に代わるエネルギーとして原子力発電を重視する議論が強 まり、80 年には石油代替エネルギー法が制定され、原子力発電に大きな比重を置くように なった。国民も独自のエネルギー資源をほとんど持たない日本の現状をよく認識し、原子 力エネルギーに対する期待を大きくしていったことは確かであった。 213 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― それに、日本においても、当時から原発事故は頻発していたが、多くは報告されていな かった(最近になってわかった) 。たとえ、わかっとしても、たとえば、二次冷却の給水系 の故障が 73 年 7 月に関西電力の福井県美浜原発で発生していたことが判明しても、電気事 業連合会の平岩外四会長は、「日本の原発は、炉型、機械、操作員などの面からアメリカの ような事故が発生する恐れはないと信じる」といえばよかったのである。 このような政府、政界、電力業界、原子力研究機関など一枚岩となって、日本の原発は 安全であると言い続けていたら、国民もそれを信じるようになり、「安全神話」となってい った。安全神話が広く国民の間に浸透したので、日本の原子力共同体(原子力ムラといわ れるようになった)は、1970 年代に噴出したさまざまの困難を克服し、80 年代には安定期 を迎えたように見えた。 まず、通産・電力連合は、軽水炉の設備利用率低迷を克服し(1970 年代に全国平均で 40% ~60%に過ぎなかった原発の稼働率は 1980 年代から 2000 年代初頭にかけては 70%~80%の高 率に達した) 、毎年 2 基という原発建設のペースを維持することができ、1980 年代に運転を 開始した発電用原子炉は 16 基を数えた。さらに 1990 年代に入ってからも 15 基が新たに運 転を開始し、1997 年末の段階で、日本の発電用原子炉の総数は 52 基、総発電設備容量は 4508 万キロワットに達した。事実、9 電力会社の発電量のシェアをみると、1980 年度では 原子力 17.6%であったのに対して 1995 年には 37%とこの 15 年間に原子力が倍以上に増加 していることがわかる。 このように 1980~90 年代に原子力発電が順調に伸びたのは、「安全神話」が支配した日本 だけで、世界の原子力発電事業は、それまで急速に事業を拡大してきたフランスも含めて、 軒並み停滞状態に陥っていた。 つまり、スリーマイル島原発での深刻な事故は、アメリカでは「原発暗黒時代」をもたら したが、むしろ、日本ではこの事故の教訓が原発に関係する行政や産業にはまったく活か されず、むしろ、「原発増設時代」となったのである。 1986 年にはさらに大きなチェルノブイリ原発事故が起きているが、中曽根首相は「日本は ソ連とは原子炉の型が異なり安全性が確保されている。あれは原発の事故というよりもソ 連の事故である。日本ではまったく起きません。」と答弁して国民の懸念を一蹴した。日本 かがみ の「安全神話」はびくともしなかった。2 つの人類史的大惨事に日本だけが何ら 鑑 みること EA なく、その後 22 基から 54 基にまで原発を増設する異常な国家となっていった。 ○第 5 期―事故・事件続発と開発利用低迷の時代(1995 年~2010 年) それまで年平均 2 基程度ずつ行われてきた原発の建設が 1997 年で一旦途切れ、次の原発 の完成予定時期まで 5 年間のブランクが空くこととなった。それは 1990 年代に入り、日本 のバブル経済が崩壊し、長期不況によってエネルギー需要が頭打ちとなり、原子力発電の 214 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 安定成長時代も終わったのである。この時期には、戦後、原子力発電が持つ本質的な問題 点にまったく手をつけずに先送りにして、「安全神話」で塗りかためて維持してきた日本の 原子力政策が実質的に破綻し始めた時期だった。 《実質的に破綻した国産化路線》 「安全神話」とカネでつくられた原子力行政は、(原子力の基礎研究不足と人材不足から) 実力がともなわないものであることは、まず、科学技術庁グループのプロジェクトからわ かってきた。科学技術庁グループが、自らが育ててきた 4 大基幹プロジェクト全てが、存 亡の危機に立たされるようになったからである。 まず、新型転換炉 ATR については、1970 年に福井県敦賀市に原型炉「ふげん」が建設され た。続いて実証炉は青森県下北郡大間町に建設される予定であったが、高コストを理由に 電力事業者から採用を拒否されたため(実証炉の建設費は 1984 年には 3960 億円と想定さ れていたが、1995 年には 5800 億円に増加していた) 、実証炉以降の開発計画はすべて取り やめとなり、1995 年 8 月、電源開発株式会社による実証炉建設計画が正式に中止された。 これにともない動燃の ATR 原型炉「ふげん」も、2003 年に閉鎖された(現在、日本原子力研 究開発機構・原子炉廃止措置研究開発センターによる廃炉作業が行われていて、平成 40 年 度に解体、撤去の 26 年間の工程を終了させる予定になっている) 。 追い打ちをかけるように 1995 年 12 月、動燃の高速増殖原型炉「もんじゅ」がナトリウム ろうえい 漏洩 火災事故を起こし、核燃料サイクルは実態をともなわないものであることがすぐわか った。回収プルトニウムを燃料とする「もんじゅ」は臨界からわずか 20 ヶ月後で、冷却材ナ トリウムが漏れて鉄床に穴をあけ炉心崩壊に結びつきかねない火災事故を起こして運転中 止となり、無期限の停止状態に突入した。その次のステップとして構想されていた高速増 殖炉実証炉の建設計画も白紙となった。 その後のもんじゅのことも述べると、技術的困難を顧慮せず、2004 年原子力委員会は核 燃料サイクルの維持を再度確認、2010 年に「もんじゅ」は運転を再開したが、再度事故を起 こして運転を中断した。 この結果 MOX 燃料を通常の原発で燃やすプルサーマル計画が浮上、プルトニウムが混入 されているため、事故が発生すれば災害が倍化される MOX が、2009 年より玄海、2010 年よ り伊方、福島第一の各原発で使用が開始された。 さらに 1997 年 3 月、動燃の東海再処理工場で廃棄物を詰めたドラム缶が爆発し、火災事 故を起こし、再処理技術自体も未確立のままであることがわかった。続いて 99 年 9 月、民 間ウラン加工会社 JCO 東海事務所で国内初の、国際評価尺度でレベル 4 に達する臨界事故 が勃発、作業員 2 人が被爆で死亡、被爆者 660 余人を出した。作業は裏マニュアルに従っ 215 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― て行われ、監督官庁の科学技術庁は 7 年間も JCO に立ち入り調査を行わなかったズサンナ 実態も明らかになった。 また科学技術庁から引く継ぐ形で、日本原燃株式会社が 1990 年代から青森県六ヶ所村に おいて、ウラン濃縮工場と核燃料再処理工場の建設を開始したが、そのペースは遅延に遅 延を重ねることとなった。今や核燃料サイクル施設は、六ヶ所村に集中しているが、2006 年 3 月、六ヶ所再処理工場はようやく試運転にこぎ着け、プルトニウムの初抽出に成功し た。しかし、今度は国産技術を唯一導入したガラス固化体(高レベル放射性廃棄物)の製 造設備が機能せず、竣工は 18 回も延期された。仮に竣工できたとしても、ガラス固化体の 最終処分場が決まらないことは大きな不安材料である。 竣工が大幅に遅れている六ヶ所再処理工場では、全国の原発から受け入れる使用済み核 燃料を受け入れることができず、電力各社の原発サイトの貯蔵プールに溜まり続け、満杯 になれば原発が止まることを意味する。ところが、2011 年 3 月 11 日の福島第一原発事故に よってエネルギー計画の新増設の 14 基どころか、既存の原発も長期停止に追い込まれる事 態となった。現在は福島原発事故以来、ほとんどの原発が止まっていて使用済み核燃料は 増えないが、運転すればするほど貯蔵プールの満杯が近づくジレンマを抱えている。この ように原発政策は福島原発事故が起きる前から、にっちもさっちも行かなくなってきてい たのである。 《行き詰まってしまった高放射性廃棄物の最終処理場》 使用済み核燃料など放射性廃棄物の問題は、原発にともなう最初からの本質的な問題で あったが、通産・電力グループは、原発システムのバックエンド関連施設(図 35(図 18- 67)参照)については先延ばしを繰り返してきていた。しかし、1990 年代に入ると、それ を放置すれば発電事業の継続にも支障を来す可能性が高いことへの懸念が関係者の間で強 まってきた。 そこで、2000 年 10 月、原子力発電環境整備機構(NUMO)を発足させ、全国の自治体など から高放射性廃棄物の最終処理場の候補地を公募などしたが、まったく応募するものがな く、作業は進展せず、前述のように電力各社の原発サイトの貯蔵プールに溜まり続け、満 杯状態になりつつある。まさに、「トイレなきマンション」の解決の見通しはない。 1990 年代、米英仏は相次いで高速増殖炉の開発を断念し、多くの国がワン・スルー路線 へ転換する中、日本だけが曲がりなりにも核燃料サイクルを国策としてこられたのは、「原 発神話」により原発建設が続いていて、まだ、原発に末広がりの印象を与えていたからであ る(すでに先進国では原発は減少傾向に移っていた)。当時のエネルギー計画では 2030 年 までに 14 基の原発新増設を掲げていた(しかし、今度の福島原発事故によって、このよう 216 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― な日本のあいまいな核燃料リサイクルどころか原発そのものの存在が問われる事態となり つつある) 。 図 35(図 18-67) 原子力発電所のバックエンド 科学技術庁グループは戦後、原子力の自主開発と言って 4 大基幹プロジェクトの実用化 計画に膨大な国家予算を注ぎ込んできたが、全てが物にならず、赤信号または黄信号がと もったままである(官僚の現状維持本能で本質的な議論をさけ、形式的に維持されている だけである) 。もともと、原発の基礎研究をまったく欠いたままで、米英仏ですら断念した ようなプロジェクトをやってきていたが、いよいよ、技術力不足(人材不足)とモラルの 低下で日本の自主技術開発力のなさが浮き彫りになってきている。 このようなことが続き、動燃は 98 年 10 月核燃料サイクル開発機構に改組され、続いて 2005 年、原研と統合再編され日本原子力開発機構となった。更に民間会社日本原燃が経営 し、2006 年より運転を開始した世界最大級の六ヶ所村再処理工場でもトラブルが続発し、 正常運転が出来ないまま、現在に至っている。 《「安全神話」と原子力官僚の不作為》 「安全神話」で塗り固めることに成功した日本の原子力官僚は、1990 年代以降、数々の不 作為をやっていることがわかった。以下のことは、2011 年の福島原発事故以降の各種調査 でわかったことで、これらのことをまじめにやっておけば、福島原発事故は防げたかもし れない。 前述したように 1979 年スリーマイル島事故後、アメリカが原子力安全基準を変更したも のを手に入れながら握りつぶし、1986 年のチェルノブイリ事故も無視したことは述べた。 それ以降も、津波堆積物調査、安全設計審査指針、米原子力規制委員会(NRC)の SBO(全 217 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 交流電源喪失)規則との比較検討会議、安全設計審査検討会、定期安全レビュー、スマト ラ沖地震での原子炉停止、耐震設計審査指針検討会、アメリカでの「B・5・b」視察(2006 年、 2008 年)などがあったが、要するに原子力官僚はすべてを無視したのである。 その中で「B・5・b」について記すが、これをやっておけば、福島原発の爆発事故は防げた かもしれない(図 36(表 18-5)参照)。これはアメリカ原発のテロ対策であり、2001 年 9 月 11 日に航空機を使った同時多発テロで枢要な施設を攻撃されたことを受けて、アメリカ 政府の原子力規制委員会(NRC)は翌 2002 年、 「原子力施設に対する攻撃の可能性」に備え た特別の対策を各原発に義務づける命令を出した。それはのちに「B・5・b」と呼ばれるよう になり、アメリカでは原子力業界の知恵を取り込みながら進化していった。日本の原発は そうした動きから取り残され、それが福島第一原発事故の拡大の原因となったといわれて いる。 「B・5・b」を含む NRC の命令は「暫定的な防護・保安代替措置」と題され、2002 年 2 月 25 日、「当委員会(NRC)は、あなたがた(原子力事業者)が 2001 年 9 月 11 日の出来事 を受けて、自主的に、かつ、責任をもって、追加の保安措置を実施しているものと認識し ていますが、ハイレベルの脅威が引き続いている現状に照らして、この保安措置は、すで にある規制の枠組みと整合するように命令に取り込まれるべきだと判断しました。」として 既存原発を運営する事業者にあてて、その設置・運営の許可条件を修正する形で出された。 その具体的内容の多くは福島第一原発事故の前は「保安関連情報」として非公表 (Official Use Only)とされていたが、日本政府の原子力安全・保安院には秘密裏に提供さ れていた(これを読むと「なーんだ。試験の虎の巻のようではないか」と思いたくなるほど、 よくできている。東電の技術者は福島原発事故で地獄の苦しみを味わったが、その 5 年も 前に保安院は手に入れながら、ほっておいたのだろう。東電の技術者がこの虎の巻で勉強 していたら、あの地獄の苦しみと東電の技術者は原発のことを何も知らないという屈辱を 味わうこともなかっただろうに) 。 福島第一原発事故の後に公開された NRC の文書によれば、「B・5・b」の対策は、3 つの段 階(Phase)に分けられ、段階的に整備・充実を図っていく手法が採られている。 第 1 段階(Phase 1)は、事前に準備しておく資機材や人員についてで、2005 年 2 月 25 日 に NRC のスタッフが指導文書を出した。第 2 段階は使用済燃料プールについて、第 3 段階 は炉心冷却と閉じ込めについて、それぞれ取り上げており、2006 年 12 月、原子力業界が 指導文書をまとめ、NRC は同月 22 日にこれを承認した。 これら「B・5・b」が想定する事態の一つが全電源喪失だった。「B・5・b」の指導文書では これを「LIPD(a loss of internal power distribution)」という略称で呼び、それへの対 策は、発電所内外の直流電源も交流電源も使えない状態で実施可能なものでなければなら 218 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ないとされている。こうした備えが実際になされているかどうか、NRC は各原発での実地検 査でチェックしている。 図 36(表 18-5) 福島原発事故と「B・5・b」対策との対比 その検査結果報告書には、たとえば、次のように書かれる。検査官は、被害緩和戦略の 219 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 実施のために準備されている可搬の装備が十分かを評価した。評価対象の装備には、屋外 の消火栓、ホース置き場、屋内の水供給パイプ、ホース置き場、可搬のディーゼルポンプ と吸引・発射ホースなどが含まれている。検査官はまた、「B・5・b」関連装備が非常時に使 えるかどうかという観点から、その保管場所を評価した(たとえば、100 ヤード以上、プラ ントから離れているかなど) 。 発電所のスタッフとの議論や、文書の閲覧、プラントの踏査によって、検査官は、原子 炉隔離時冷却系(RCIC)が交流電源や直流電源がない状態で手動で制御できるかを評価し た。検査官は、 『直流電源なしの RCIC 手動制御』という発電所の手順書にその方法が示さ れていることを確認した。 発電所のスタッフとの議論や、文書の閲覧、プラントの踏査 によって、検査官は、可搬の 125 ボルト直流電源でソレノイドを励磁することで逃し安全 弁を開ける戦略を評価した。 検査官は、原子炉圧力容器の減圧と可搬ポンプによる注水を可能にする方法が『外部直 流電源による SR 弁操作』などの発電所の手順書に示されていることを確認した。発電所の スタッフとの議論や、文書の閲覧、プラントの踏査によって、検査官は、交流電源や直流 電源、プラント供給の圧縮空気のない状態でベント弁を手動で開ける事業者の戦略を評価 した。検査官は、ベント弁を開ける方法が『交流電源なしのベント』という発電所の手順 書に示されていることを確認した。また、発電所のスタッフがそのための訓練を受けてい ることも確認した。 「B・5・b」の想定内容と福島第一原発事故を比較してみると、図 36(表 18-5)のようで、 さすがは現実的なアメリカだと思う。米国内の原発(104 基)を対象に全電源喪失事故に対 応するため、持ち運びできるバッテリーや圧縮空気のボルトなどの配備、ベント弁や炉心 冷却装置を手動で操作する手法の準備、これらの手順書の整備や運転員の訓練などを義務 づけている。 資源エネルギー庁の原子力安全保安院元幹部によると、保安院は 2006 年と 2008 年にア メリカに職員を派遣し、NRC 側から「B・5・b」に関する詳細な説明を受けた。その後、保安 院は「B・5・b」の対策を、国内の原発の事故対策や安全規制にどう活用するか検討を続けた。 だが、原発での全電源喪失やテロは「想定外」として緊急性の高い課題とは考えず(これほ ど緊急性の高いことが他にあろうか) 、電力会社や内閣府原子力委員会などに伝えていなか ったという。 内閣府原子力委員会の幹部は、福島原発事故後に来日した NRC の元委員長から、非公開 の「B・5・b」の情報を原子力安全保安院に伝えていたことを聞かされて、はじめてわかった。 「情報は保安院が抱え込み、内部でも共有されていなかった」と。 (何か戦前の陸軍と海軍を 思い出す。日本国のためより、自分たちの面子が重要であった。あのころの日本国(軍人) 220 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 官僚と同じである。天皇の前で「日本は負けます」と言う勇気があるものがいなかった。「全 電源喪失もありえます」と言えるものがいなかった) 。 あの東電幹部も「(「B・5・b」が義務づける機器などを)保安院から示されていれば、対 応する余地はあった。備えができていれば、今回の事故の初動で、どうやってベント弁を 開けようか議論する必要もなかった」と嘆いたという(日本の企業だって、(普段に)本気 で全電源喪失のサバイバルゲームを考えればこのような準備ができたはずで、今もってア メリカ頼りはほめられたことではないが)。 結局、日本、つまり、福島第一原発にはこうした備えはいっさいなかったし、東電技術 者はその訓練も受けていなかった。日本で原発が稼働してから 50 年近くたったある日、東 電の技術者は突然、ぶっつけ本番の舞台に立たされたのであるから、まさに暗闇で設計図 を開き、ガイガーカウンターの音を聞きながら、見たことも触ったこともない弁を探して 地獄の苦しみを味わうことになった。 東日本大震災発生の 10 日後にあたる 2011 年 3 月 21 日、NRC は、日本で発生した原発事 故への NRC の対応を話し合うため、アメリカで公開会議を開いた。その議事録によれば、 NRC のビル・ボーチャード運営部長は次のように述べ、「B・5・b」などアメリカの対策が福 島第一原発事故への対応にすべて適用可能だったとの認識を示した。 (議事録 15 ページ)「2001 年 9 月 11 日(世界貿易センターへの連続テロ事件)の出来事の 結果、私たちは、すべての機器や手順が機能しなかったらどうするか(what if)という観点 から評価し、重要な備えを特定しました。大きな火災や爆発があったとしても、我々は、 それへの対応に資する装備、手順、手法を事前に準備していました。これらすべては直接、 日本で起きた非常に重大な事態に適用できます」と述べている。 当時の日本の首相はアメリカからの援助申出を断ったと聞いているが、やはり、これは 大失敗だった。2011 年 3 月 17 日、オバマ大統領は菅直人首相に電話して支援を約束、米太 平洋軍がその日のうちに防衛省を通じて、首相官邸に提出した「支援リスト」の全容が、2011 年 5 月 22 日の朝日新聞に出ていた(図 36(表 18-9-②)参照) 。 これをみると、原発はテロを含めて、実戦さながらの危機管理が必要であることがわか る。あらためて原発が核兵器と同根であることを認識させられる。日本では本当の原発が わかるものが首相のまわりに(東電にも)一人もいなかったが、アメリカでは「B・5・b」を 実践していたものがゴロゴロいたのだ。したがって、リストにある工兵大隊の派遣でなく ても、「what if」がわかる人間を一人でも首相や吉田所長に派遣してもらっておれば、水素 爆発やあのような混乱は防げたであろう。 まあ、これでは日本では原子力をやる資格はないようだ。韓国のフェリー遭難を見て誰 しもあきれたが、アメリカの原子力関係者から見たら、日本の保安院や東電の話は聞くに 221 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 堪えないことばかりであろう。だから彼らは日本の状況を不思議がっている(政府は 2 ヶ 月間もメルトダウンを否定し通した。アメリカは一時は全アメリカ人の東京撤退命令も出 そうとした。それほど東京は危険だった。日本人はそれにも気づかなかった)。 ボーチャード部長は続ける。「過去 15 年あるいは 20 年、日本(で起きた事故)に直接関 係する新ルールの制定が(米国内では)たくさんありました。つまり、アメリカは過去 15、 20 年の間に起こったことに対して、そのつど新ルールを制定して対応していました。その 都度、日本にも知らせていました」(しかし、日本の原発関係者は事故隠しをやるし、新ル ールもつくらず、アメリカのルールも握りつぶしていたのである。要するに何にもしなか ったのである) 。この会議の途中、委員の一人は「日本では「B・5・b」のような対策がとら れていなかったのか」と事務当局に質問し、ボーチャード部長は「分からない」と答弁し た(議事録 26 ページ)。 《寝た子を起こすな》 柳田邦男氏は『文芸春秋』 (2013 年 6 月号)の『原発事故失敗の本質―保安院の「消せな い罪」』で以下のように述べている。 事の起こりは、国際原子力機関(IAEA)が原発などの事故発生時に周辺住民の避難態勢 などに関する防災対策の基準を変更する方針を示してきたため、日本も原子力防災指針の 見直しを迫られたことにあった。原子力防災指針は、内閣府の原子力安全委員会が策定す ることになっている。IAEA が防災基準を変更すれば、加盟国である日本としても、見直し を迫られることになる。そこで安全委では、2006 年 3 月 14 日にその検討のための作業班を 設け、班員(オブザーバ)には経産省原子力安全・保安院からも課長クラスが入っていた。 焦点は、原発事故が発生した時、どれだけの範囲の人々を避難(あるいは屋内退避)さ せなければならないかという点だった。日本では「防災対策を重点的に充実すべき地域の範 囲(EPZ)」を原発から半径 8~10 キロ以内とし、その地域では住民への情報連絡、放射線 モニタリング、屋内退避・避難の方法、避難経路・場所の明示などがしっかりと実施され るように準備しておくという対策が決められていた。しかし、実際に住民に周知され、避 難訓練が行われていたのは、原発立地の自治体の半径 3 キロ以内とか 1 キロ以内という狭 い範囲でしかなかった。 これに対し、IAEA が新しく打ち出した国際基準では、原発から放射能が放出されてから 数時間以内に避難などの緊急防護措置を実施できるようにしておくべき範囲を、半径 5~30 キロに広げ、「緊急防護措置計画範囲(UPZ)」と呼ぶことにするという。さらに、とくに半 径 5 キロ以内については「予防的措置範囲(PAZ)」と称して、原子炉の異常な圧力上昇を回 避するために放射能を帯びた蒸気を放出するいわゆるベントなどをする場合には、その放 出前に、また、事故によって放射能が放出されてしまった場合には、即時、地域住民の屋 222 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 内退避または地域外への避難を実施できるように態勢を整備しておくことが求められてい る。 しかし、前述のように,日本では行政も電力会社も、「原発は安全」ということを大前提 にしていたので、住民の避難対策を真剣に考えるという取り組みをしていなかった。作業 班の第 1 回会合は、3 月 29 日に開かれ、安全委側が日本でも IAEA の新基準に沿って原子力 防災指針を見直す必要があるという基本的な考え方を示した。 その後のやり取りは省略するが、次のような理由で保安院は検討を凍結してほしいと言 ってきたのである。 ・原子力災害対策特別措置法の改正が必要となるのではないか。緊急事態宣言を発令する 要件にかかわる。 ・近辺の PAZ に該当する地域の住民は、何か事があったら即時避難を指示されるとなった ら、ここに住めない、移住を考えようといった誤解を生みかねない。原発の近辺に設けら れたオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)まで移転させなければならなくな るほど、多大な社会的な混乱を起こす。 ・従来から原子炉の格納容器は安全だと説明してきたなかでは、 (即時避難とか避難地域を 半径 30 キロもの広さに設定するなどという)大変な事態の発生はないことにしてきた。そ の説明ぶりを変更したら、原子力安全に対する国民的不安を増大する。 ・避難地域を半径 30 キロにも広げるとなると、防災資機材などの整備をしなければならな い地域が拡大し、財政負担が増大する。 5 月 24 日、国際的基準を重視する安全委員会は、保安院の協調を取り付けようと、幹部 同士の懇談会をもった。安全委側からは、鈴木篤之委員長(当時)を含む 5 人の委員全員、 保安院側からは、広瀬研吉院長や寺坂信昭次長らの幹部が出席した。そこで広瀬院長は 1999 年茨城県東海村で起きた JOC 臨界事故(死者 2 人)以後、懸命に作ってきた防災体制が根 を下ろし、国民の不安も解消しつつあるこの時期に、せっかく構築した防災対策を大きく 揺るがすような見直しをするのは受け入れ難いとして、「なぜ寝た子を起こすのか」とまで 言って、IAEA 新基準の導入検討は中止してほしいと求めたという。 安全委の久住静代委員は,放射線による人体や環境への影響に関する研究が進み、IAEA の国際基準の見直しも進んでいるのだから、日本でもこれに合わせて、住民を守るには避 難の必要な重要区域の拡大を検討する必要があると反論した。その後も安全委と保安院の それぞれの主張は平行線を辿ったままだった。結局、7 月 4 日に安全委が保安院に大幅に歩 み寄り、IAEA 新基準に関する日本としての評価文書をまとめることで決着した。避難地域 の拡大はしないし、現行の指針で十分に同じ対応ができるし、該当する避難訓練は行われ ているというものだった。お役人お得意の作文行政ですましたのである。原子力官僚は、 223 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 「what if」が起きたら住民をどうするなど、ちっとも本気で考えたことなどなかったのだ。 従来の形だけの避難訓練にどれほどの意味があったかは、このたびの福島第一原発事故 後の住民の避難の大混乱を振り返るなら歴然としているが、それも事故 5 年前の原子力官 僚が、IAEA の基準を握り潰した不作為にあったのである。 《電力会社も同じだった》 原子力官僚だけが不作為をしていたのではなく、電力会社も同じだった。 もともと、福島第一原発 1 号機~4 号機は、標高 35 メートルの丘陵を岩盤に近づけ標高 10 メートルまで削って整地し、非常用電源も地下や 1 階に設置していた。標高は 5 号機・6 号機は 13 メートル、福島第二原発は 12 メートルだった。この落差がそのまま、津波被害 の軽重へ直結した。現地では、やや高い 5 号機付近の敷地から、施設周辺が次第に津波に 覆われる様子を撮影している。 1990 年代から 2000 年代はじめにかけて、続発する大地震にさすがに原子力行政も無視で きなくなり(阪神淡路大震災などから)、学界、研究機関、審議会などが報告書を出して警 告していた。原子力安全委員会も 2006 年 9 月、原発耐震指針を 28 年ぶりに改定した(耐 震設計審査指針改訂版 2006 年 9 月 19 日) 。 じょう が ん そこで、東京電力は、この原発耐震指針の改定を受けて、また、「貞 観 津波」の実態など 有識者の意見を踏まえた国の地震調査研究推進本部の見解をもとに津波を試算しなおした。 この試算では明治三陸地震と同規模の地震が起こると仮定し、海水取水口付近で津波の そじょう 高さ 8.4 ~10.2 メートル、津波 遡上 高さは 1~4 号機で 15.7 メートル(今度来た津波と 同じ高さだった) 、5 号機・6 号機で 13.7 メートルとなった。 その対策のための防潮堤の設置には東電は、約 800 億円の費用(国会事故調査委員会報 告書による)と約 4 年の時間が必要だと見積もっていたという。このとき検討に携わった、 当時の武藤栄原子力・立地副本部長と吉田昌郞設備管理部長(この度の原発事故の技術面 の当事者となった)は、これは仮の試算であって実際には来ないと考えたという(いやし くも自分たちがよって立つ合理的な科学技術が結果を出したなら、それを尊重してどうす るかを考えなければならない、それを「そんなことはない(来ない)」としてしまったら、 いったい、科学技術は何のためにあるか、技術者とは何のためにいるのか。単なる技術の 説明員か) 。 国への最終報告期限は 2009 年 6 月であり、2007 年 4 月の電力側と保安院の津波対策の打 ち合わせでは、「想定津波を絶対に超えないとはいえない」「上昇側はあるレベルを超えると 炉心損傷に至ることを気にしている」といったやり取りがあったが、報告期限を 16 年 1 月 に先送りすることを決定し、1~3 号機は全く工事を実施しなかったという(保安院も、あ くまでも事業者の自主的な取り組みとして黙認したという。何のための安全指針か) 。 224 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この試算後、産業技術総合研究所の貞観地震の津波被害も評価し、取水口付近に 8.7 ~ 9.2 メートルの津波が襲来するものの陸上への遡上は無いとした報告を 2009 年 9 月に原子 力安全・保安院へ行っている。このとき、津波の想定を従来の試算 5.7 メートルから 10 メ ートル以上に引き上げていたが、対策はとらなかった。 これらの試算(本当の試算結果)は東北大震災の 4 日前の 2011 年 3 月 7 日に原子力安全・ 保安院に報告されたが、このときも東京電力は速やかな改修を保安院から指示されていな かった。いずれにしても、東京電力はこれらの試算を基にした具体的な津波対策をとって いなかったが、15 メートルを超える津波の遡上も予測され想定されていたのである。 以上、中央官庁も東電も、そろいもそろって、事実を事実として見ようとせず、いつも のように大過なくまとめて、いつものような予算と人でことをすましていたのである。そ して、すべてが、「あれほど大きな津波は想定外だった」と言っている。いずれも官僚や会 社の官僚的人間の不作為から起きたことであった。 まだらめ 原子力安全委員会の 斑目 春樹委員長は、福島原発事故の国会事故調で「(日本は)国際 的な安全基準にまったく追いついていない。ある意味では 30 年前の技術か何かで安全審査 が行われている」と述べていた(まるで人ごとのようで、何のための委員会で委員長か。こ れが日本の安全審査であり、原子力安全委員会の実態である。官僚は形式だけ整えて、も ったいぶって権威付しているだけである。これで通るのが今の日本である。「what if」と考 えるものがいない) 。 《原子力行政の権限を握った経産省》 「安全神話」で塗り固められた 1990 年代、2000 年代の原発行政において、2001 年 1 月の 中央省庁再編により誕生した経済産業省は、かつての通産省よりも大幅に強い権限を原子 こうえい 力行政において獲得した。それに対して科学技術庁の 後裔 の文部科学省の原子力に関する 主たる業務は、日本原子力研究開発機構(核燃料サイクル開発機構および日本原子力研究 所を統合して 2005 年 10 月発足)における研究開発事業だけとなってしまった(つまり、 国産化技術の後処理だけ) 。そして原子力委員会と原子力安全委員会は、科学技術庁という 実働部隊を持たない内閣直属(内閣府所轄)の審議会となり、原子力委員会委員長は民間 人が勤めることになった。 そして安全規制行政の実務を一元的に担当する組織として、経済産業省の外局として原 子力安全・保安院が発足した。つまり経済産業省が商業原子力発電の推進と規制の双方を 担うこととなった。原子力行政は従来の「二元体制」から、2001 年以降は経済産業省の力が圧 倒的に優位となり国策共同体になったといわれた。 この時期における最重要の政策課題は電力自由化問題であったが、これも経産省、電力 内の「原子力ムラ」が封印してしまったといわれている(電力自由化問題は後述する) 。 225 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 自由化論を封じ込めて、原子力共同体は一体性を取り戻した。それが政策文書における 表現上の変化として現れたのは、内閣府原子力委員会の新しい原子力政策大綱(2005 年 10 月)においてであった。 その 1 年後には経産省総合資源エネルギー調査会電気事業分科会原子力部会の原子力立 国計画(2006 年 8 月)が策定された。そこには原子力開発利用を従来にも増して政府主導 で強力に推進する方針が満載されていた。その骨子がエネルギー基本計画(2007 年)にそ のまま取り入れられた。 この自信は原発の輸出にも現れていた。2000 年に原子力委員会の長期計画に原発設備の 海外への売り込みが明言され、それは 2005 年の閣議決定「原子力政策大綱」に引き継がれ、 経産省資源エネルギー庁の「原子力立国計画」の中で具体化されていた。 こうして日本の国策が原子力立国、原発大国に定まった自信の上に、2006 年、電機産業 界でも原発メーカー東芝はアメリカの原子力企業ウェスチングハウス社の商業用原子力部 門を買収、2007 年、原発メーカー日立はアメリカの原子力企業 GE 社と合弁会社を設立し、 ここに原発多国籍企業が成立した。同じく 2007 年原発メーカー三菱重工業はフランスのア レバ社と合弁会社を設立した。 《原発の老朽化問題》 経産省は、かねてから電力業界が最も望んでいた既存原発をできるだけ長期間運転させ ることにも着手した。すでに 1990 年代末から、1970 年代に運転を開始した老朽化しつつあ る原子炉の廃炉問題が緊急の課題となってきていた。かつて科学技術庁の原子力委員会の 廃炉対策専門部会は運転開始より 30 年程度としていたが、もはや科学技術庁はなくなり、 経産省がすべての権限を握った。 政府は 1999 年、福島第一原発 1 号機など 3 基の寿命延長計画を認め、2005 年には原発の 運転を 60 年間とすることを想定した対策をまとめた(30 年を 60 年にしてよい科学技術的 な根拠は薄弱であったが) 。老朽化で運転を終える原子力発電所の廃炉処置の困難さに加え て、二酸化炭素排出削減策としてであった。 2010 年 3 月に営業運転期間が 40 年以上に達した敦賀発電所 1 号機をはじめとして、長期 運転を行う原子炉が増加する見込みであることから、これらの長期稼働原子炉の安全性が 議論となっていたが、まさに福島第一原子力発電所事故(2011 年 3 月 11 日)の約 1 ヶ月前 に、既存の原子力発電所の延命方針が打ち出された(その後の原発の延命問題は後述する)。 この「原発大国」意識と諸問題を封じ込めた複雑な原子力政策はは自民党政府のみならず 民主党政府にも、そのまま引き継がれ、2010 年 6 月、菅首相下の閣議は 20 年後の電力の まかな 50%以上を原発で 賄 うため、最低でも原子力発電所 14 基を増設すると決定していた。 226 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― しかし、いかにせん原子力官僚のペーパー的許認可行政に実態がついてこなかった。原 発の老朽化が安全性にどのような影響を与えるかは、現場が事故という形で示してくる(そ れでは何のための安全性かということになるが) 。 《あいつぐ原発事故》 1995 年 1 月 17 日の阪神淡路大震災によって巨大地震の活断層の恐ろしさをあらためて知 らされた。この第 5 期(1995 年~2010 年)は最初から巨大地震の切迫問題が重くのしかか っていたはずである。 地震の問題は、1950 年代、商業用原子炉発電の可否をめぐっての激しい論争の時点から の最大のポイントであったはずである(地震国日本では当然のことである) 。阪神淡路大震 災後は、原発の老朽化=地震による過酷事故発生の可能性を身近に感じたはずであるが、 原発関係者がこれで何を感じ、どう動いたのか、はっきりしない(スリーマイルでもチェ ルノブイリでも動かなかったのだから、多分、何もしなかったのだろう) 。 しかし、現実は動いていた。2004 年 8 月、関西電力美浜原発第 3 号機(76 年 12 月運転 開始。40 年後の 2016 年 11 月 16 日に 20 年延長して 60 年間運転の認可を受けた)の配管が 破裂、蒸気が噴出し、作業者 5 人が死亡、6 人が重傷を負った。この原発事故は老朽化原子 炉事故の典型的なものとなった。老朽化による配管の減肉をこれまで点検せずに放置し、 しかも点検作業には発電を停止すべきところを、営業を優先させて運転稼働のまま点検さ せていたのである。 こ そ く 監督官庁の政府も 姑息 な手段をとっていた。政府は廃炉措置を電力会社にとらせるので はなく、原子炉の運転が 30 年を越えた場合、道県に共生交付金を、そしてプルサーマルを 実施する道県には核燃料サイクル交付金を支給する危険かつ非科学的な手段をとったので ある(補助金をやるから、原発を継続しろということになる)。 2004 年 10 月の新潟中越地震で柏崎刈羽原発は停止し、2005 年 8 月の宮城県沖地震は宮 城県女川原発の耐震設計想定震度を 200 ガルも上回る数値を示した。2007 年 7 月の新潟中 越沖地震は想定の 2 倍以上の揺れを示し、原発敷地内に 160 センチもの段差をつくり出し、 その結果、耐震補強工事で 2 年近く刈羽原発は運転を停止した。 また、核燃料サイクル関連事業でも、高速増殖炉「もんじゅ」、六ヶ所再処理工場、六ヶ 所ウラン濃縮工場などでトラブルが頻発し、これらの施設はほとんど停止状態を続けるこ ととなったのである。 電力会社も、「安全神話」は、万一にも事故があってはならないとしたので、起きてしま いんぺい ねつぞう った事故は社内で 隠蔽 されたり、捏造 されたりした。そのような電力会社の隠蔽、捏造の 事実は、最近になって(福島原発事故以降) 、何年、何十年前のものまで次々とわかってき ているが、ここではいちいち述べることはしない。 227 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 地震の問題は原発訴訟でも議論されたことであった。伊方第 2 号機訴訟では、伊方原発 沖の活断層の存在が争点となった。松山地裁は 2000 年、設置時には活断層を看過していた が、その想定震度に対する耐震性を有しているとの理由で住民敗訴を宣言した。 2006 年 3 月、志賀原発 2 号機訴訟では、金沢地裁は原告勝訴、運転差止め判決を下した が、それは原発近くの活断層に北陸電力が配慮せず、原告の立証に反証していないことが 理由の一つとなった(この訴訟は、2009 年名古屋高等裁判所原告逆転敗訴、2010 年最高裁 上告棄却されてしまった)。 しかし、裁判に勝てば(負けなければ)よいというものではなかろう。原発関係者には、 少なくとも原発設計の中心人物には何が問題であるかはわかっていたであろう。そのため に何をすべきかもわかっていただろう。しかし、何もしなかった(福島原発事故のあとも、 原発の開発体制がまったく見えない。電力会社に原発設計のすべてがわかるはずがない)。 避難訓練についても、日本国民の原発への不安と危惧に対し、その安全性なるものを「安 全神話」にまで高めてしまったので、逆に、いまさら周辺住民と自治体に対し、万一を考え て避難訓練をしてくださいとも言えなくなってしまったのである。まあ、規則だから、形 だけでもやったことにしてくださいと頼み込むしまつであった(このことは福島原発事故 時に明らかとなった) 。 そうした実態であるにもかかわらず、日本政府は原子力発電を、経済性に優れ、エネル ギー安全保障に貢献し、地球温暖化対策に役立つクリーンなエネルギーとして称揚してき た。要するに、経産省では科学技術立国とか、原子力立国とか、いさましいことを言って いたが、現場の技術がついてこなかったのである。現場の本当の姿、技術レベル、モラル、 人間を知ろうとしなかったからである(口先(作文)だけいさましいことを言っていた戦 前の新官僚と軍部官僚の時代を思い起こさせる) 。 2009 年 9 月に誕生した民主党政権のもとで、そうした自民党政権時代の原子力政策は少 なからず変化すると思われたが(期待されたが) 、実際には自民党に勝るとも劣らぬ原子力 推進政策が展開された(自民党政権以上に民主党政権は政策音痴であることがわかるのに あまり時間はかからなかった) 。とくに社会民主党が連立政権から離脱した 2010 年 6 月、 菅政権のもとでフルパッケージ型の官民一体インフラ輸出戦略の目玉として原子力発電が 位置づけられた。それは政府系金融機関のリスク引受けによる公共事業の国際展開計画で あり、製造業へのカンフル剤となることが期待されていた。 このような虚勢を張った原発推進・輸出政策と、原子力発電・核燃料サイクルなどの低 迷する技術実態とのコントラストは、著しいものがあった。2011 年 3 月 11 日が来る前に日 本の原子力政策はにっちもさっちもいかないほど、矛盾に満ちたものになっていた(誰も 本音で語らなかっただけである) 。 228 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○第 6 期―福島原発事故とそれ以後(2011 年~) 《そして福島原発事故は起った》 2011 年(平成 23 年)3 月 11 日 14 時 46 分に日本の三陸沖(牡鹿半島の東南東約 130 キ ロメートル付近)の深さ約 24 キロメートルでマグニチュード(Mw)9.0 の東日本大震災が 発生した。これは西北西-東南東方向に圧力軸をもつ逆断層型、太平洋プレートと北米プレ ート境界域における海溝型地震であった。気象庁発表による M9.0 は地震の規模としては 1923 年の関東大震災(大正関東地震)の M7.9 を上回る日本国内観測史上最大、アメリカ地 質調査所(USGS)の情報によれば 1900 年以降、世界でも 4 番目のものとなった。 福島原子力発電所において、 この地震によって稼働中だった 1 号機 (46 万 kW) 、 2 号機 (78.4 万 kW) 、3 号機(78.4 万 kW)が自動停止した。同日、同発電所の 4 号機から 6 号機は定期 点検のため停止中であった。この地震の影響で外部からの電源を失ったことにより 13 基の 非常用ディーゼル発電機が起動する予定であったが大津波で 1 基残っただけで 15 時 41 分 に故障停止した。 これにより 1、2、3 号機は共に全交流電源喪失状態に陥り、原子炉内の燃料棒に対する 継続的な注水冷却機能を喪失する恐れが発生したことから、東京電力は第一次緊急時態勢 を発令、原子力災害対策特別措置法第 10 条に基づく特定事象発生の通報を経済産業大臣、 福島県知事、大熊町長、双葉町長と関係各機関へ行った。さらに 15 時 45 分にオイルタン クが大津波によって流出し、16 時 36 分に 1 号機と 2 号機は非常用炉心冷却装置による注水 が不可能になったため、同 45 分に東京電力は同法第 15 条に基づく通報を行った。 これにより 19 時 3 分に枝野幸男官房長官が原子力緊急事態宣言の発令を記者会見により 発表し、20 時 50 分に福島県対策本部から 1 号機の半径 2 キロメートルの住民 1,864 人に避 難指示が出された。21 時 23 分には、菅直人内閣総理大臣から 1 号機の半径 3 キロメートル 以内の住民に避難命令、半径 3 キロメートルから 10 キロメートル圏内の住民に対し屋内待 機の指示が出た。 その後、事故は水素爆発、炉心溶融などに発展し、一連の放射性物質の放出をともなっ た国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル 7(深刻な事故)に分類される原 子力事故となった。 《福島原発事故の総括》 ◇1~3 号機とも、核燃料収納被覆管の溶融によって核燃料ペレットが原子炉圧力容器の底 に落ちる炉心溶融(メルトダウン)が起き、溶融した燃料集合体の高熱で、圧力容器の底 に穴が開くこと、または制御棒挿入部の穴およびシールが溶解損傷して隙間ができたこと で、溶融燃料の一部が原子炉格納容器(格納容器)に漏れ出し(メルトスルー)、燃料の高 229 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 熱そのものや、格納容器内の水蒸気や水素などによる圧力の急上昇などが原因となり、一 部の原子炉では格納容器の一部が損傷に至ったとみられ、うち 1 号機は圧力容器の配管部 が損傷したとみられている。 ◇1~3 号機ともメルトダウンの影響で水素が大量発生し、側壁のブローアウトパネルを開 放した 2 号機以外は原子炉建屋、タービン建屋各内部に水素が充満(4 号機は分解点検中だ ったが 3 号機からタービン建屋を通じて充満したとみられている)、ガス爆発を起こして原 子炉、タービン各建屋及び周辺施設が大破した。 ◇原子力安全・保安院は、6 月の発表で、事故後 4 月 12 日時点までに放出された放射性物 質の総量は 77 万 TBq(テラベクレル。テラ=1012)と発表している。これにより広範囲に、 高い線量の、大気土壌及び海洋の放射能汚染が発生した。 《のどもと過ぎれば熱さを忘れる》 福島原発事故で塗炭の苦しみを味わった民主党政権は「原発ゼロ」をかかげたが、これに 代わった自民党安倍政権は、のどもと過ぎれば熱さを忘れて、「原発ゼロ」からの転換を明 確に打ち出した。2013 年 12 月 6 日、経産省は「エネルギー基本計画」の原案を示した(これ は 2014 年 4 月 11 日閣議決定された)。原子力発電を「重要なベース電源」として位置づけて いる。 原発だけをベース(基盤)と強調することで、原発事故以前の「原発は基幹産業」との位 置づけに近づけた。また、「必要とされる規模を十分に見極め、その規模を確保する」と、 積極的に活用する姿勢を示した。原子力規制委員会の審査を経て「安全性が確認された原発 は再稼働を進める」ことも明記した。 太陽光や風力など再生可能エネルギーの「最大限の加速」も掲げたが、高コストの問題も 併せて指摘し、全体として原発の「必要性」を色濃く示す内容である。使用済み核燃料から 取り出したプルトニウムを再利用する「核燃料サイクル」も、続ける考えを明確にした。青 森県六ヶ所村の再処理工場について民主党政権はあいまいな姿勢だったが、「引き続き着実 に推進」と明記した。 使用済み核燃料から出る「高レベル放射性廃棄物」の最終処分地が見つからない問題は、 自治体の立候補を待つやり方を改め、国が科学的な適地を示して選定を進める方針を盛り 込んだ。 《電気代と住民の安全を同列で考えるべきでない(明快な判決) 》 2014 年 5 月 21 日、福井地裁は、関西電力大飯原発 3、4 号機をめぐり、住民らが関電に 運転差し止めを求めた訴訟において、「大飯原発の安全技術と設備は脆弱なものと認めざる を得ない」として差し止めを命じた。関電は控訴する方針を明らかにした。 樋口英明裁判長は「生存を基礎とする人格権は法分野において最高の価値をもつ」と述べ 230 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 差し止めの判断基準として「新規制基準への適否ではなく、福島事故のような事態を招く具 体的な危険性があるか」を挙げた。そのうえで大地震が来た時に原発の冷却機能が維持でき るかどうかについて検討した。2005 年以降、安全対策の基準となる「基準地震動」を超える 大きさの地震が福島第一原発事故を含めて 5 回原発を襲ったことを指摘し、大飯原発の基 準地震動を 700 ガル(ガルは揺れの勢いを示す加速度の単位)とした関電の想定を「信頼に 値する根拠はない」とした。 関電は、基準地震動の 1.8 倍にあたる 1260 ガルに達しない限りメルトダウンには至らな いと主張したが、判決は「その規模の内陸地殻内地震は大飯原発で起きる危険がある」と斥 けた。 次に、使用済み核燃料を貯蔵するプールについても、樋口裁判長は福島第一原発事故で 建屋の壁が吹き飛ぶなどして、周辺住民の避難が計画されたことを指摘し、「使用済み核燃 料も原子炉格納容器と同様に堅固な施設によって囲われてこそ初めて万全の措置と言え る」と、関電の対応の不十分さを批判した。現在の原発はそれぞれプールに、多数の使用済 み核燃料をかかえこんでいて、六ヶ所が動かない限り、この危険な状態が続くことになる。 樋口裁判長は、原発は発電の一手段、「生存にかかわる人格権」の下に置かれるべきであ る。「原発の稼働がコストの低減につながる」といった、電気代と住民の安全を同列で考え るべきではないと指摘した。何と明快な判決であろう。日本は電気代と人間の生存権の見 境もわからなくなるほど、経済的動物に成り下がっていたのである(原発がなくなれば、 原始時代とまったく同じ暗闇になるならいざ知らず、いまや他にも代替エネルギーがある。 それを電気代と人間の生存権を同列に扱うのは) 。 《原発廃炉廃棄物は国が 10 万年管理する》 2016 年 8 月 31 日、原子力規制委員会は原発の廃炉で出る放射性廃棄物のうち原子炉の制 御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)の処分の基本方針を了承した。地震や 火山の影響を受けにくい場所で 70 メートルより深い地中に埋め、電力会社に 300~400 年 間管理させる。その後は国が引き継ぎ、10 万年間、掘削を制限するというものである。 原発の廃炉で出る放射性廃棄物は、使用済み核燃料から出る放射能レベルが極めて高い 高レベル放射性廃棄物と、前述のL1と、原子炉圧力容器の一部などレベルが比較的低い 廃棄物L2と、周辺の配管などレベルが極めて低い廃棄物L3に大きく分けられる。 使用済み核燃料から出る高レベル放射性廃棄物の処分方法はすでに決まっており、300 メ ートルより深い地下で同じように電力会社で管理したのち、国が 10 万年間管理することに なっている。地方自治体から候補地を募ったが、1 件もなく、国は 2016 年中にも候補とな る「科学的有望地」を示す方針である。 この度の廃炉の廃棄物の処理方法が示されたことによって、放射性廃棄物の処分方針が 231 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 出そろったことになる。埋められる深さは放射能レベルによって変る。高レベル放射性廃 棄物は地下 300 メートルより深くに 10 万年、L1は地下 70 メートルより深くに 10 万年、 L2は地下十数メートル、L3は地下数メートルとなった。 電気事業連合会は、国内の原発 57 基が廃炉になれば、L1だけで 8000 トンの廃棄物が 出ると試算している。規制委員会はL1について、コンクリートなどで覆って 70 メートル より深い岩盤内に少なくとも 10 万年間は埋める必要があると結論づけた。 処分地はL1~L3とも、電力会社が確保する必要があるが、候補地選びは難航しそう である。すでに廃炉作業が始まっている日本原子力発電東海原発(茨城県)では、最も放 射能レベルの低いL3に限って原発の敷地内に埋めることを 2016 年 1 月、 地元が容認した。 しかし、これが受け入れが決まった全国で唯一の例で、L2やL1の受け入れを容認した 自治体はない。 300~400 年間といえば、江戸時代のはじまりから現在までの期間と同じである。その間、 電力会社が存続するであろうか。10 万年間といえば、ホモサピエンス(現代人)が世界に 分散する前、すべてアフリカで狩猟漁労の生活をしていた時代である。10 万年先まで日本 国が存続しているだろうか。 日本学術会議は、 「現在の科学では、数十万年の安全を証明できない。従って、現段階で 地層処分すべきではない」と提言している。再び原子力発電の本質が問われる問題である。 《ついに行き詰まった核燃料サイクル》 2015 年 11 月の原子力規制委員会は、高速増殖炉「もんじゅ」の運営主体の日本原子力研究 開発機構を「もんじゅを運転する能力がない」と断じ、文部科学相に新たな運営主体を示す ように勧告した。そして、別の組織が見つからなければ、「もんじゅ」の原子炉から核燃料 やナトリウムを抜くといった抜本的なリスク低減策を求めた。 文科省は、原子力機構の職員を残しつつ運営に外部から人を招いた新組織を編成し直し 再運転を目指す案をまとめたが、10 年間でさらに 5000 億円以上の追加投資が必要になる案 は同意が得られず、2016 年 9 月に経産相を中心に今後の高速炉開発を検討する「高速炉開発 会議」が設けられ、「もんじゅ」は「廃炉を含めて見直す」ことになった。 高速増殖炉「もんじゅ」をふくめて、日本の「核燃料サイクル」の開発については(科技庁 グループの国産化路線として)述べてきたが、ここでもう一度、まとめて述べることにす る。というのは、この問題は日本の原子力発電の将来にきわめて密接に関連しているから である。 核燃料サイクルとは、原子力発電を維持するための核燃料の流れ(サイクル)であり、 その一連の流れ及びそれらから出てくる各種放射性廃棄物が処理・処分されるまでの全て の過程を統合した上でのウラン資源等を有効に利用するための体系を指している。 232 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 核燃料サイクルは、鉱山からの鉱石(天然ウラン)の採鉱、精錬、同位体の分離濃縮、 燃料集合体への加工(ここまでをフロントエンドという)、原子力発電所での発電、原子 炉から出た使用済み核燃料を、再処理して、核燃料として再使用できるようにすること、 および放射性廃棄物の処理処分を含む、一連の流れのことである(再処理以降をバックエ ンドという。図 35(図 18-67)に示したもので、日本は長年、バックエンド問題を先送り してきていたことは述べた)。核燃料サイクルとは、多くの場合、ウラン 235 を巡る後者 (バックエンド以降)の意味で用いられる。 原発の軽水炉から取り出された使用済み核燃料には、「燃えないウラン」である非核分 裂性のウラン 238、ウランから生成されたプルトニウム、僅かながら「燃えるウラン」であ る核分裂性核種のウラン 235、各種の核分裂生成物が含まれる。 このプルトニウムやウラン 235 を抽出し核燃料として再利用すれば、単に廃棄処分する ことに比べ多くのエネルギーを産出できる(核燃料サイクルで核燃料の有効活用と長期使 用が出来ればウラン資源をより長期にもたせることができる)、また、使用済み核燃料の ウランやプルトニウムを取り出すことになるため、放射性物質が減少し、廃棄物の量が減 ることにもなる、という考えで開発が進められてきた。 しかし、一方、核関連施設や運搬が増えるため、とくにプルトニウムを扱うために高い セキュリティが要求される、そのため原発のコストが高まるという指摘もある。プルトニ ウムは核兵器の原料になるのでこれを貯め込むことは核不拡散上問題であることも指摘さ れている。 その核燃料サイクルのバックエンドサイクルは再処理事業、濃縮事業、廃棄物管理事業、 埋設事業に分けられ、日本では以下のように取り組まれていた。 (使用済み核燃料中間貯蔵)日本国内で発生した使用済み核燃料は、各原子力発電所内等 で保管されている。原子力発電所外の中間貯蔵施設として、リサイクル燃料貯蔵株式会社 の中間貯蔵施設(青森県むつ市)が建設中である。 (再処理)日本国内で発生した使用済燃料は、これまでに東海再処理施設及びフランス・ イギリスの再処理工場への委託で処理していた。日本原燃六ヶ所再処理工場で、2016 年 3 月の竣工に向け試験中である(遅れている)。 (高速増殖炉) プルトニウムの核燃料としての使用法は現在のところ 2 種類に大別出来る。 一つは、高速増殖炉を使ってプルトニウムを燃焼させる方法である(当初からの「夢の原 子炉」といわれるものである)。 (MOX 燃料加工)もう一つは、1990 年代に追加された方法であるが、MOX 燃料の形で軽水炉 で燃やす方法であり、この方法は日本ではプルサーマルという造語で呼ばれている。再処 理施設で回収されるウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX 燃料)は、プルサーマル発電等 233 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― に使用される MOX 燃料に加工される。MOX 加工工場が青森県六ヶ所村で建設中である(遅れ ている)。 (放射性廃棄物の処理処分)高レベル放射性廃棄物、低レベル放射性廃棄物はそれぞれの 物性に応じて段階的処分が適用される。ウラン濃縮施設やウラン燃料成型加工施設から出 るウラン廃棄物は、2009 年 3 月末時点で 200ℓドラム缶に換算して約 10 万本が保管中であ る。また核燃料サイクルからは外れるが、原子炉の廃炉解体に伴う廃棄物にも放射性廃棄 物が含まれる。最終処分地の目途は立っていないし、各原発で保管されている高レベル放 射性廃棄物は満杯に近くなっていることは述べた。 さて、そこで日本の核燃料サイクル政策については、2005 年に「原子力の研究、開発及 び利用に関する長期計画」の見直しが行われ、以下の四つのシナリオが検討された。 ◇シナリオ 1 全量再処理―使用済み核燃料は六ヶ所再処理施設で再処理を行う。(六ヶ所 再処理施設には限界があるので)処理能力を超えた分は中間貯蔵を経た上で同じように再 処理を行う(つまり、さらに第二処理施設を追加して再処理を行う)。結局、このシナリ オ 1 を選び現行路線となっている。 ◇シナリオ 2 部分再処理―使用済み核燃料は六ヶ所再処理施設で再処理を行う。処理能力 を超えた分は中間貯蔵を経た上でそのまま埋設して直接処分する。 ◇シナリオ 3 全量直接処分(ワンススルー)―使用済み核燃料はすべて中間貯蔵を経た上 でそのまま埋設して直接処分する。アメリカ、ドイツ等で採用している(アメリカはワン ススルーがコストが安いこと、安全上の問題の理由で早々に核燃料サイクルを放棄したこ とは述べた)。 ◇シナリオ 4 当面貯蔵―使用済み核燃料はすべて当面の間中間貯蔵する。問題を先送りす る案。 前記のシナリオ 1 から 4 までについて、10 項目の視点から評価を行った結果、当時の原 子力委員会では、原子力政策大綱(2005 年 10 月 11 日原子力委員会決定)において、「使 用済燃料を再処理し、回収されるプルトニウム、ウラン等を有効利用することを基本方針 とする。」ことを決定しており、原子力政策大綱は、2005 年 10 月 14 日、原子力政策に関 する基本方針として閣議決定された。 現行路線(前記シナリオ 1)に基づき、2011 年までの 45 年間に核燃料サイクルに投じら れた金額は少なくとも 10 兆円に上っており、その原資は税金と電気料金からなる。 しかし六ヶ所村の再処理工場の稼動は延期が重ねられており、高速増殖炉「もんじゅ」も 複数回の事故により 1994 年の稼動開始以来わずか数ヶ月しか運転できていない状況である。 また、前述の六ヶ所村の核燃料サイクル基地が稼働しても年間再処理能力は 800 トンで あり国内の原子力発電所から発生する使用済み燃料は年間 1000 トンを超えており、「全量 234 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 再処理」路線を掲げる長期計画に沿えば、第二再処理工場を建設する必要がある。また電 気事業連合会は 2003 年 12 月の時点でバックエンド費用が総額 18 兆 8000 億円かかると試 算している。 なお、フロントエンドであるが、日本ではウラン鉱の採鉱・精錬等は行われていない。 フロントエンドではウラン濃縮事業と燃料加工事業、バックエンドでは使用済み燃料再処 理および放射性廃棄物の保管と低レベル放射性廃棄物の埋設処理が行われている。濃縮、 燃料加工、使用済み燃料再処理に関しては国内の能力で需要を満たせておらず、大半を海 外に依存している。 さて、そこで「もんじゅ」に返るが、「もんじゅ」と日本の核燃料サイクルとの関係を要約 すると、図 37 のようになる。 図 37 もんじゅと核燃料サイクル 原発から出た使用済み核燃料を再処理して、それを高速増殖炉「もんじゅ」で発電しなが ら燃やせば、燃やした以上のプルトニウムをつくれるというものである。そこで「夢の原子 炉」と呼ばれ、天然資源に乏しい日本にとって、輸入に頼らない国産エネルギーであると言 われてきたのである。 ところが、技術がついてこない。1994 年 4 月に初臨界に成功したが、95 年 12 月、ナト 235 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― リウム漏れ事故を起こした。組織そのものを一新して再出発を図ろうとしたが、2010 年に 燃料交換器の落下事故が起きた。12 年以降も点検漏れや警報放置などトラブルは続いた(結 局、「夢の原子炉」は計画の最初から数えると 60 年近い年月と 1 兆円超の国費をかけたこと になる)。 原子力国家フランスも、1998 年、実用化直前の実証炉「スーパーフェニックス」を閉鎖、 原型炉「フェニックス」も 2010 年に運転を終えた。イギリスは 1994 年、原型炉「PFR」の運転 終了とともに高速増殖炉開発から撤退した。 ドイツも 1991 年に操業直前の原型炉を放棄し、 1994 年に法改正で使用済み核燃料の全量再処理義務を撤廃し、核燃料サイクル開発から離 れ、脱原発へと向かった。アメリカは 93 年、当時のクリントン政権がプルトニウム民生利 用の研究開発の中止を決定し、94 年、すべての実験炉で運転が終了した。日本で高速増殖 炉「もんじゅ」が初臨界を迎えた 94 年、世界の高速増殖炉はすでにほとんどが中止されてい たのである。理由は、プルトニウム利用の「経済性」のなさと「核拡散」への懸念であった。 日本でも前述した 2005 年の 4 つのシナリオのように何度も核燃料サイクルの見直しの議 論はあったが、その都度、現状維持で通してきていたのである。 その結果、いまや図 37 のように、日本は国内・海外に計 48 トンのプルトニウムを持つ。 原爆 6000 発分の量で、国際的な批判にさらされかねない状況である。使用済み核燃料再処 理と高速増殖炉(高速炉)開発を自国で進めるのは現在、日本、フランス、ロシア、イン ド、中国の 5 ヶ国であるという。 日本以外はいずれも核兵器保有国である(これらの国は基本的に核兵器技術と原発技術 は共用できるのである)。いずれも国主導で開発を推進する。ロシアは原型炉「BN600」が 稼働中。実証炉「BN800」も 2015 年 12 月に発電を始め、年内にも商業運転に入るという。 インドは原型炉「PFBR」の建設を終え、2017 年にも臨界予定という。中国は 2010 年から実 験炉を運転している。 一方、原発大国フランスも 1998 年に実証炉「スーパーフェニックス」を閉鎖したが、その 後も実証炉「ASTRID(アストリッド)」計画を進めているが、まだ、机上の計画に過ぎない。 日本は今回、「もんじゅ」を廃炉にしても、アストリッド計画に参加することで、高速炉 (高速増殖炉ではない)開発の旗を降ろさない方針であるといわれている。旗を降ろせな い事情があるからだ。 日本は原発開発の最初で述べたように、日米原子力協定を結んで核兵器を製造しないこ とを条件に濃縮ウランの 7 割をアメリカから輸入しており、日米協定が日本の原子力施設 全体を実質的に規制している。その日本はプルトニウムを消費する高速増殖炉を実用化す るということで今までプルトニウムを貯め込んできていたので簡単に核燃料サイクルを放 棄するわけにはいかないという事情がある。 236 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 日本は「利用目的のないプルトニウムは持たない」と言い続けているが、その保有量は 約 48 トンにも達すると、いつまでその論理が通用するか疑問である(日米協定は、2018 年 7 月 16 日に起源切れを迎えるという)。 日本の核燃料サイクルは、図 37 のように、「もんじゅ」のような高速増殖炉で使用済み核 燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、再利用することを中核としていた。「もんじゅ」 に廃炉の方向性が示されても、プルトニウムとウランを混合した MOX 燃料を原発で使うプ ルサーマル発電が残っていると、政府は高速炉開発会議を設けて検討するという(前述し たアストリッド計画に参加することことも検討する)。 2016 年 9 月、 経産相は「プルサーマルをしっかり推進していくという方針に変わりはない」 と述べた。政府は当面、ブルサーマルでサイクルをまわし、プルトニウムを消費する方針 のようであるが、MOX 燃料は今はイギリスなどに使用済み核燃料を輸送し、再処理してもら っている。 六ヶ所村に建設中の再処理工場と MOX 燃料加工工場は、完成時期の延期を繰り返してい る。再処理工場は 1997 年の完成予定だったが、今 18 年度上期になっている。建設費も、当 初見積もりの 7600 億円から、現時点で 2 兆 2000 億円まで膨らんでいる。 高速増殖炉のメドが立たず、今はウランと混合した MOX 燃料を一般の原発で使うプルサ ーマル発電に用いているが、その消費はごく少量である(現在プルサーマルが稼働してい るのは四国電力の伊方 3 号炉だけである)。 世界的にみて、プルサーマルを試験的にやった国はあるが、ほとんどやめている。経済 性と核不拡散の観点から、使用済み核燃料をそのまま廃棄物として埋設する直接処分を選 ぶ国が増えている。使用済み核燃料を再処理する方針を現在も掲げているのは、日本とフ ランス、ロシア、中国の 4 ヶ国である。そもそもプルサーマルは、高速増殖炉に比べ、ウ ラン資源の節約につながらない上、燃料加工費は一般のウラン燃料の 5~10 倍で、経済的 なメリットはない。これは保有する約 48 トンのプルトニウムを軍事転用しない意思を内外 に示す言い訳に近いと言われている。 といって大手電力各社も、プルサーマル導入は、会計上、使用済み核燃料を使用できる 「資産」として計上しており、再利用の旗を降ろしたら資産価値がゼロ(最終処理しなけ ればならないのでゼロどころか膨大な負の資産となってしまう)になって財務が一気に悪 化しかねないという事情もある。 燃料保管の問題もある。六ヶ所村などが保管を受入れているのは、再利用までの「一時 的なもの」という建前である。電力各社が引き取るよう求められたら、各原発にある燃料 プールがたちまち満杯になり、新たな使用燃料済みが出る原発の稼働ができなくなる。 いずれにしても、原子力官民複合体が数十年にわたってやってきた核燃料サイクル政策 237 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― も八方ふさがりで、ついに行き詰まってきたようである。 《「原則 40 年」を骨抜きにする原発延長》 原発の運転期間は、古い原発を減らす目的で民主党政権時の 2012 年に、自民党、公明党 も賛成して法改正で定められた。一方、廃炉が進みすぎると電力不足に陥りかねないとい う懸念から、原子力規制委員会が 1 回だけ「極めて例外的に」最長 20 年延長できるとした。 2015 年春以降、美浜 1 号、2 号機など初期の出力の小さい 6 基の廃炉がきまった。一方、 関電は出力が比較的大きい美浜 3 号機と高浜 1 号機、2 号機の運転延長を目指して規制委に 審査を申請した。その結果、2016 年 6 月に関電高浜原発 1、2 号機に続いて、2016 年 11 月 16 日に関電美浜原発 3 号機について、20 年間の運転延長が認可された。 運転開始から 35 年を超えた原発はさらに 4 基あり、近く運転延期の申請が出される見通 しである。今後は原発 60 年が原則のようになるかもしれない。 《福島原発事故後の原子力機器メーカー》 福島原発事故は当然、原発機器メーカーにも大きな影響を与えている。2006 年、原発メ ーカー東芝はアメリカの原子力企業ウェスチングハウス社の商業用原子力部門を買収、 2007 年、原発メーカー日立はアメリカの原子力企業 GE 社と合弁会社を設立し、ここに原発 多国籍企業が成立した。同じく 2007 年原発メーカー三菱重工業はフランスのアレバ社と合 弁会社を設立したことを述べたが、福島原発事故後はこの状況は一変した。 原発大国フランスの原発メーカーアレバ社も、福島原発事故後は内外で受注していた原 発が安全性の面から建設費が数倍に膨れ上がり、建設期間が延びて、トラブルが起きてい ることは述べたが、これは日本の原発メーカーについても言えることである。 福島原発事故以降、日本の原発のほとんどが長期停止になった。核燃料の需要が落ち込 み、日立、東芝、三菱重工の主要原発メーカーは、原発再稼働の遅れで採算が厳しい核燃 料事業の統合に向けて調整に入っている(2016 年) 。これが将来、原子炉事業にまで及ぶこ とになるかは不明である。 日本国内での原発の新増設は見通せないものの、世界的には新興国などで原発の新設な どで原発の設備容量が 2040 年までに 2013 年の 1.6 倍に増えるとの試算がある。輸出で中 韓などの海外メーカーに対抗するにも国内 3 社の再編、統合が必要になるという声も出て いる。 その期待されていた原発の輸出であるが、ベトナム国会は 2016 年 11 月 22 日、日本とロ シアの企業が建設を担う南東部ニントアン省の原発計画撤回を可決した。国会の科学技術 環境副委員長は、福島原発事故後に安全性を強化したところ、建設費が約 40 兆ドン(約 1 兆 9600 億円)と当初見込みから倍増したと指摘している。廃棄物の懸念もあると説明して いた。 238 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― このベトナムの原発計画は日本の民主党政権下の 2010 年に合意していた。第 1 原発(2 基)をロシア、第 2 原発(2 基)を日本が担う計画で、当初は 1 基目を 2014 年に着工する 予定だった。 福島原発事故後も、日本政府は「原発輸出」の旗は降ろさず、 「成長著しいアジアでの原 発輸出市場の扉を開く」として力を入れていた。やはり、福島原発事故を総括しないで輸 出戦略を進めるという政府のやり方には無理があるようだ。 《廃炉・賠償など際限のない国民の負担増》 2016 年 7 月、東京電力の数土文夫会長が福島原発事故の廃炉や賠償費の増加について、 「どれだけになるか、いまのところ見えていない」と国に助けを求めた。そこで経産省は 「電力システム改革貫徹のための政策小委員会」と「東京電力改革・1F(福島第一原発) 問題委員会」の二つの有識者会議を立ち上げた。 東電はこれまで、福島事故の廃炉に 2 兆円、賠償や除染に 9 兆円かかるとしてきた。上 限なく賠償などにあたることにはなっているが、従来の業界の備えが不十分だったため、 費用は東電に加えて全国から電気代の一部として集めたり、東電の利益の一部を充てたり する仕組みができた(国が出資する「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」が一時的に建て 替え、東電を通じて被害者に支払われている。あとで東電と大手電力が、利用者から集め た電気代などから返す仕組みになっている) 。 ところが、廃炉作業や賠償が進み、それでは足りないことが見えてきた。福島事故の廃 炉に今まで 2 兆円、今の段階での追加で 4 兆円、計 6 兆円になる見込み。賠償や徐染に今 までに 9 兆円、今の段階での追加が 3 兆円、計 12 兆円になる見込みである。福島事故関係 合計で 18 兆円になる。 他方、福島事故後に原発の安全規則などが強化された。全国の原発で、対策費の高さが見 合わずに予定より早い廃炉を決める例が出てきた。通常の廃炉費は運転中に電気代で集め て積み立てるルールであるが、短縮すると集めきれない。解体費が従来の想定を上回るこ ともわかった。経産省の内部資料は、その不足分が計 1.3 兆円になるとしている(福島事 故関係に加えると 19.3 兆円になる) 。 1.3 兆円を足すと、追加分は現在のところ、8.3 兆円になる。この計 8.3 兆円をどう賄う かが、問題となっている。 2016 年 11 月 18 日の「朝日新聞」によれば、経産省は電力自由化による「託送料金」に これを上乗せして、この追加分を賄うつもりのようであると報道している。それによれば、 2016 年 4 月から電力小売り全面自由化で新電力が参入し、家庭もどの会社から電気を買う か選べるようになった(電力自由化の詳細については後述する) 。いまの仕組みでは、新電 239 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 力に乗り換えた人は負担しなくて済む。そこで経産省が着目したのが、電気を使う人は例 外なく負担する「託送料金」であるという。 託送料金とは発電所と家などをつなぐ「送電線の使用料」である。一般家庭の電気代の 3 割ほどを占める。 (電力自由化で送電会社は完全分離されることになっているが)安定供給 のため、自由化後も送電は大手電力の独占が認められた。そこで託送料金は経産省が認可 する。廃炉費はもともと発電関連のコストだが、経産省はこれを送配電部門にも混ぜ込む つもりである。そこに新たな原発費用を上乗せすれば、 (原発とは縁を切ろうとして入った) 新電力の利用者も含めて回収できる。 前述の貫徹委員会で「なぜ新電力の利用者も払うのか」との疑問が出たが、経産省は「昔 は原発の電気を使っていたから」と説明したという。今後も困ったら「すべて託送料金に 押し付ければいいや」となっては、電力自由化の意味がなくなってしまう。40 年も 50 年も 続きそうな福島原発事故の処理費用は、今後一体どれだけになるのか、まだ、誰もわから ない。50 数基の原発も、あるいは新設を続けていけば、その廃炉費用や数百年単位、万年 単位の高放射能レベルの廃棄物の管理費がいくらになるか、まだ、誰にもわからない。わ からないが誰かが払わなければならないことだけは確かである。 国や大手電力会社は、原発普及期からずっと「原発の発電コストは圧倒的に安い」と言 い続けてきた。だが、福島原発事故はこの隠れた巨大コストを現実にしている(それをま じめに予測しようとしていないようだが)。ここでもまた、官僚的に、さりげなく(額は不 明にしながら) 、国民にツケをまわす道を模索しているようである。 【8】世界の原子力発電の現状 ○原子力発電の推移 1951 年、世界初の原子力発電がアメリカで開始されて以来、図 38(第 222-2-1)のよう に、二度の石油危機を追い風として世界各国で原子力発電の開発が積極的に進められてき たが、1980 年代後半からは世界的に原子力発電設備容量の伸びが低くなった。 240 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 38(第 222-2-1)原子力発電設備容量(運転中)の推移 (出典)日本原子力産業協会「世界の原子力発電開発の動向 2013 年版」を基に作成 しかし、化石燃料資源の獲得を巡る国際競争の緩和や地球温暖化対策のため、原子力見 直しの気運が高まっており、アジア地域では、着実に原子力発電設備容量が増加してきた。 2011 年 3 月に発生した福島原発事故を受けて日本の原子力発電電力量が減ったため、図 39 (第 222-2-2)のように、アジア地域の原子力発電電力量は減少しているが、他の地域の発 電電力量は前年と大きな変化はない。 241 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 39(第 222-2-2)世界の原子力発電電力量の推移(地域別) (出典)IEA「Energy Balance 2013」を基に作成 アジア地域だけでなく、原子力発電所の新規建設が少ない欧米地域においても、出力増 強や設備利用率の向上によって、発電電力量は増加傾向となってきた。設備利用率でみる と、例えば、アメリカではスリーマイル島事故後の自主的な安全性向上の取組によって官 民による稼働率向上・出力向上の取組を進めた結果、図 40(第 222-2-3)のように、近年 では設備利用率 9 割前後で推移している。逆に、東日本大震災後長期稼働停止している日 本では設備利用率が下落している 。 また原子力発電所建設計画に進展がみられ、とくに、フィンランドでは 5 基目の原子力 発電所を建設中、フランスでも 11 年ぶりに 1 基を着工、アメリカでは約 30 年ぶりとなる 新規原子力発電所の建設が進んでいる。 242 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 40(第 222-2-3)世界主要原子力発電国における設備利用率の推移 (出典)IAEA,「Power Reactor Information System(PRIS)」を基に作成 ○各国の現状 2014 年の時点で、世界 31 の国・地域で 426 基の原子力動力炉が運転されており、同時点 での発電容量は 3 億 8,635 万 6,000 kW である。31 ヶ国中上位 15 ヶ国を掲載すると以下の ようになる(2014 年のデータ)。 国名 アメリカ合衆国 原子炉数 発電量 100 基 10,328 万 kW フランス 58 基 6,588 万 kW 日本 48 基 4,426 万 kW ロシア 29 基 2,519 万 kW 韓国 23 基 2,072 万 kW 中国 17 基 1,479 万 kW カナダ 19 基 1,424 万 kW ウクライナ 15 基 1,382 万 kW ドイツ 9 基 1,270 万 kW 243 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― イギリス 16 基 1,086 万 kW スウェーデン 10 基 943 万 kW スペイン 7基 740 万 kW ベルギー 7基 619 万 kW 中華民国 6基 525 万 kW 20 基 478 万 kW インド 世界合計 426 基 38,636 万 kW ◇アメリカ 1979 年のスリーマイル島原子力発電所事故以来、アメリカでは原発新設は 1 基も実現し ていないが、運転中の原子力発電所の基数が 100 基(合計出力 1 億 328 万 kW)あり、その 規模は世界一で、原子力発電により発電電力量の約 19%を賄っている(2014 年。2016 年に 1 基新設されたが、それは含まれていない)。また、平均設備利用率が 86%(2012 年)と 順調な運転を続けてきた。近年では電力の自由化により競争が激化したことや、シェール ガスの産出により天然ガス価格が下落したことなどから、経済性が重視されるようになっ てきた。 運転の効率化が進められた既存の原子力発電所は大量の電力を経済的に生産できること から、電力会社にとって貴重な資産と評価されるようになっており、2014 年 3 月時点で 7 割程度の原発について、運転期間(認可)を 60 年とする延長が認められており、さらに 1 割程度の原発について延長の申請が提出されている。 さらに、エンタジー社、エクセロン社等が、小規模な原子力発電所所有会社のプラント を買収する等、原子力発電所所有会社の再編が急速に進んできた。 2005 年 8 月に成立した、原子力発電所の新規建設を支援するプログラムを含む「2005 年 エネルギー政策法」に基づいて、建設遅延に対する政府保険、発電税の減税、政府による 債務保証制度が整備された。これを受け、原子力発電所の新規建設に向けて、2007 年から 2013 年現在に至るまで 18 件の建設・運転一体認可(COL)申請がアメリカ原子力規制委員 会(NRC)に提出された。 福島原発事故直後の 2011 年 3 月 14 日、エネルギー省高官は、前月に発表した 2012 会計 年度のエネルギー省予算のうち、原子力発電所新設支援のための融資保証枠 360 億ドルは 変更しない、と発言し、原子力政策の維持を表明した。さらに 3 月 30 日にオバマ大統領は エネルギー政策に関する演説を行い、そこで原子力の重要性に言及した。 244 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この方針に沿って 2012 年 2 月 9 日に NRC はサザン社等によるジョージア州ボーグル発電 所における新規原子炉建設計画の承認を決定し、同月 13 日にはエネルギー省が同計画への 83 億ドルの融資保証実施を決定した。また、同年 3 月 30 日には、サウスカロライナ電力・ ガス社等によるサウスカロライナ州 V.C.サマー発電所に 2 基の原子炉を建設する計画が NRC により承認された。2012 年 8 月に使用済み核燃料の最終処分方針が決まるまでの間、 新規建設および運転延長許可が凍結されていたものの、その 2 年後の 2014 年 8 月には規制 委員会が処分方針を認め、この凍結を解除している。 また、アメリカ国内でシェールガス開発が進み天然ガス価格が下落していることから、 原子力発電の経済的競争力が低下しつつあり、経済性の観点から原子力発電所の閉鎖も発 表されている。2012 年 10 月にはドミニオン社のキウォーニー原子力発電所、2013 年 2 月 にはデュークエナジー社のクリスタルリバー3 号機、2013 年 8 月にはエンタジー社のバー モントヤンキー原子力発電所の閉鎖が発表された。なお、サザンカリフォルニアエジソン 社のサンオノフレ原子力発電所も、停止中の原子炉の再稼働が見込めないことから、2013 年 6 月に閉鎖を決定した。 近年の「シェールガス革命」の結果、天然ガス発電のコストが下がり(天然ガス発電所 は原発の半分以下の期間と 5 分の 1 以下の建設費) 、原発がコスト面での優位性を失いつつ あるとされる。福島第 1 原発 1 号機を造ったゼネラル・エレクトリック(GE)のジェフリ ー・イメルト最高経営責任者(CEO)も、原子力発電が他のエネルギーと比較して相対的に コスト高になっており、大半の国は天然ガスと風力か太陽光の組み合わせに移行している と指摘し、 「 (原発を経済的に)正当化するのが非常に難しい」と語った。 さらに世論でも、日本の福島原発事故後、原発反対が賛成を上回るようになっている。 2012 年 3 月 7 日に米シンクタンク「市民社会研究所」が発表した世論調査結果では、アメ リカで原発が増えることを支持しない人は 49%に上り、支持する人の 46%を上回った。また 福島原発事故を機にアメリカ人の約 6 割が以前に比べて原発を支持できなくなったと考え ている。 ◇フランス フランスは、原子力発電所の基数が 58 基とアメリカに次ぐ世界第 2 位の原子力発電規模 を有しており、発電電力量の約 77%を賄っている(2012 年)。 発電設備が国内需要を上回っているという状況から、新規原子力発電所の建設は行われ ていない。しかし、2005 年 7 月に制定された「エネルギー政策指針法」において、2015 年 頃までに既存原子力発電所の代替となる新規原子力発電所を利用可能とするため原子力発 電オプションの維持が明記されたこともあり、フランス電力公社(EDF)は 2006 年 5 月、 245 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 新規原子力発電所としてフラマンビル 3 号機(EPR)を建設することを決定し、2007 年 12 月に着工した。 福島原発事故後の 2011 年 3 月には、サルコジ大統領やジュペ外務大臣がフランスの原子 力放棄はあり得ないなどと発言し、原子力政策堅持の姿勢を崩さなかった。 しかし、福島原発事故後の 2011 年 6 月に行われた世論調査では、全原発の「即時停止」 または「25~30 年かけた段階的停止」に賛成する国民は 77%に上っている。 2012 年 5 月の大統領選挙で新たに就任したオランド大統領は、2025 年には原子力比率を 現状の 75%から 50%まで低減するといった公約を掲げていたものの、40 年以上経つフェッ センハイム原子力発電所の閉鎖以外の長期の閉鎖スケジュールや建設・研究開発計画につ いては明確な考えを示していない。また、オランド大統領の政権公約に従い、原子力への 依存を低減し、再生可能エネルギーで代替するための具体的な方策に関する議論が 2012 年 11 月より開始された。 その一方、オランドは大統領就任後、外交政策として積極的な原子力発電所の輸出を表 明しだした。欧州債務危機からの打開策の一環として 2012 年 12 月アルジェリアを訪れ、 同国政府と原子力発電所の建設促進で合意している。 ◇日本 2010 年現在、日本においては 54 基の原発が運転されていて、電力量の約 29 %を原子力 が担っていた。福島原発事故後、福井県の関西電力の大飯発電所 3 号機・4 号機の 2 基のみ が稼動していたがその後停止し、長らくゼロ稼働状態が続いていた。しかし 2015 年 8 月 11 日、九州電力・川内原子力発電所 1 号機が震災後初めて原子力規制委員会の安全審査を経 て再び起動し、9 月 10 日に通常運転に復帰した。 ◇ロシア ロシアで運転している原子炉は計 29 基 2,519 万 kW、2013 年の発電量に占める原子力発 電の割合は 17.5 %であった。ロシアでの問題は老朽化である。運転中の原子炉の内、6 割 が老朽化していると言われている。 ロシアでは 1986 年のチェルノブイリ原子力発電所 (現在のウクライナに所在) 事故以降、 新規建設が途絶えていたが、その後、積極的に推進するようになり、2001 年に新たな原子 力発電所が運転を開始し、2013 年 1 月現在 29 基を運転中であるとともに、11 基を建設中 であり、更なる新設計画も立てられている。 ロシア政府は、2007 年に連邦原子力庁「ロスアトム」を国営公社ロスアトム社へ再編し、 同社がロシアの原子力の平和利用と軍事利用及び安全保障を一体的に運営することになっ た。この結果、ウラン探鉱・採掘、燃料加工、発電、国内外での原子炉建設等民生原子力 246 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 利用に関して国が経営権を完全に握っていたアトムエネルゴプロムも、ロスアトム社の傘 下に入ることとなった。 また、2006 年 1 月、プーチン大統領は、核燃料サイクルサービスを提供する「核燃料国 際センター」設立構想を発表したが、これはウラン濃縮及び再処理に関する機微技術及び 施設を自前で保有することを断念した国に対し、国際センターが IAEA の管理下で、無差別 かつ合理的な商業条件で、濃縮及び再処理のサービスを提供するものである。2010 年 3 月、 IAEA との間で、この核燃料国際センター計画が正式に承認された。 2009 年 11 月に政府により承認された「2030 年までを対象期間とする長期エネルギー戦 略(2030 年戦略)」では、原子力が総発電量に占めるシェアが 2008 年の 16%弱から 2030 年には 20%近くまで引き上げられ、 発電量は 2.2~2.7 倍に増大することが想定されている。 (福島原発事故後の)2011 年 3 月、ロスアトム社キリエンコ総裁及びシュマトコ エネル ギー大臣は、福島原発事故の如何に関わらず、原発開発をスローダウンする意向はないと 表明している。 一方、世論は脱原発に傾きつつある。日本の福島原発事故後に全ロシア世論研究センタ ー(WCIOM)の社会学者が実施した世論調査によると、脱原発への動きを支持するロシア人 の割合は 57%に上る一方、反対と答えたのはわずか 20%だった。脱原発支持の主な理由は、 「生命の安全と環境改善」 (68%) 、 「代替エネルギーがより安全で経済的」(24%)などとな っている。 ◇韓国 韓国では、23 基の原子力発電所が運転中であり、発電電力量の約 29%を原子力発電で賄 っている(2013 年)。また 4 基が建設中である。 2014 年 1 月、韓国政府は官民を交えた議論を経て、第二次国家エネルギー基本計画を閣 議決定し、2035 年の原子力発電比率を 29%とすることが決定された。同計画では、電力需 要が年平均 2.5%拡大すると想定されており、現在の原子力発電比率を維持するだけでも 2000 万 KW 以上の新規建設が必要とされている。また、2014 年 1 月には、新設 2 基の建設 計画が承認された。 韓国は原子力発電所の設置場所を 4 ヶ所に絞り込み、集中的に複数の炉を運用すること により、メンテナンスの効率化・コストの低減、周辺住民への対策費の手厚い配分と総額 の抑制の両立を実現している。これらの選択と集中により設備利用率は現在 93.4%を達成し、 日本の約 3 分の 1 の価格で消費者への電力供給を実現し、基幹産業を底支えし経済成長を 後押ししている。 247 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 今後 2010 年から 2021 年の間に 12 基の原子炉が増設される計画で、完成すれば合計 1520 万 KW の発電容量が加わる。政府として原子力技術の推進を積極的に後押しし外国へのプラ ントの輸出を図っている。 一方、日本の福島原発事故をきっかけに、韓国でも原発に対する不安や不信が広まって いる。2012 年 2 月には、釜山市の古里原発 1 号機で、非常用電源を含む全ての電源が作動 せず、原子炉の温度が急上昇するという重大事故が起きた。しかし事故の発生は約 1 ヶ月 間、隠されていたことにより、住民が集団移転を求めて立ち上がり、決起集会を原発前で 開く事態に至った。 ◇中国 中国における原子力発電は 1994 年に開始されたばかりで、後発国といえる。中国では、 17 基の原子力発電所が運転中であり、発電電力量の約 2.1%を原子力発電で賄っている (2013 年)。2007 年の原子力発電中長期発展規則では、2020 年までに 4000 万 KW まで拡大 する計画である。 また、2011 年 3 月に安全確保を前提条件としてより効率的な原子力開発を行う方針を示 した「国民経済と社会発展第十二次 5 ヶ年計画」を採択した。この全体計画に基づき、2013 年 1 月には「エネルギー5 ヶ年計画」が公表され、2020 年の原子力発電所設備容量を 5800 万 KW (2013 年時点では 1500 万 KW)とするとの目標が示された。 中国は、(福島原発事故後の)2011 年 3 月 17 日に新規の原発計画の審査や認可を一時的 ひっぱく に凍結する方針を打ち出したが、その後凍結を解除した。中国政府は 逼迫 する電力不足に 対処するために今後、年に 2 基の割合で原発の設置を予定している。 しかし、現実的には、計画を上回るスピードで原発の建設が進んでいることが指摘され ているため、国内の人口増の影響もあって中国の原発建設計画がさらに拡大することは間 違いない情勢となっている。また、過熱気味の開発と人材不足に警鐘がならされており、 原子力発電所の安全管理上、ハイスピードでの原発建設が新たな原発事故を招きかねない とする懸念がある。 ◇カナダ カナダではカナダ原子力公社(AECL)の分割民営化の一環で原子炉部門の売却を行い、 民活で効率的な原発の運営を目指し、同時に全土で新規原子力発電所の建設を促進してい る。カナダ政府は地球温暖化防止の一環として原子力発電所の建設を推し進め、国民の過 半数が今後も原発建設賛成を表明している。 ◇ウクライナ ウクライナでは、北部ベラルーシ国境近くに位置するチェルノブイリ 1 号機を 1978 年に 運転開始して以来、2013 年 12 月末時点で 4 サイト・15 基、総発電設備容量 1,381.8 万 KW 248 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の原子炉が運転中である。なお、旧ソ連製 RBMK-1000 型炉であるチェルノブイリ原子力発 電所は、4 号機が 1986 年 4 月 26 日、国際原子力評価尺度(INES)レベル 7 の深刻な事故を 起こしたことで、同型の 1 号機から 3 号機の全てが 2000 年までに国際的圧力を受けること により、閉鎖された。 一方、エネルギー消費量が高いウクライナでは、原子力発電が総発電電力量の約 43~48% を供給している。近年、ロシアとのトラブルから生じた天然ガス供給の停止は、エネルギ ーの安全保障への関心と原子力活用の必要性を認識させている。チェルノブイリ発電所の 閉鎖と引換に建設を再開したフメルニツキ 2 号機とロブノ 4 号機(VVER-1000)はそれぞれ 2005 年 9 月と 2006 年 1 月に営業運転を開始している。 なお、ウクライナの原子炉は 2010 年から 2020 年までに、12 基が設計寿命 30 年を迎える ため、寿命延長プログラムが実施されている。まず、2009 年にロブノ 1・2 号機(VVER-440) の改修作業が集中的に行われ、2010 年 12 月に国家原子力規制監督局(SNRIU)より、10 年 間隔で安全性評価を実施することを条件に、20 年の運転期間延長が認可された。また、2013 年 12 月には南ウクライナ 1 号機(VVER-1000)が寿命延長の認可を受けた。 ◇ドイツ ドイツでは、2002 年 2 月に成立した改正原子力法に基づき、当時運転中であった国内 19 基の原子炉を、2020 年頃までに全廃する予定としていたが、2005 年 9 月 18 日に行われた ドイツ総選挙で、それまで政権を取っていたドイツ社会民主党(SPD)に代わり、原子力推進 または堅持の傾向があるドイツキリスト教民主同盟(CDU)が第一党になったため、ドイツで の原子力政策が変わるのではないかと考えられた。しかしその後、CDU は SPD と大連立を組 んだため、ゲアハルト・シュレーダー前政権の「脱原子力(=原子力撤廃)政策」が継承さ れた。 2009 年 9 月 27 日に行われたドイツ総選挙では、今まで連立政権を構成していた SPD が連 立から外れ、中道政党の自由民主党が政権に入る見通しとなった。脱原子力政策を主導し てきた SPD が政権から離脱したことから、ドイツの脱原子力政策の行方が注目されていた が、2009 年 10 月 24 日に連立政権の政策合意として、脱原子力政策を見直すことで一致し た。 しかし、CDU のメルケル首相は福島原発事故が起きると、国内 17 基の原発のうち 7 基を 暫定的に停止させた。2011 年 3 月 27 日に行われた州議会選挙で、脱原発を公約とした緑の 党が躍進したことや、大都市で原子力発電所の運転停止を求めるデモが相次いだこと等に より、連立政権も 2011 年 4 月には脱原子力を推進する立場へと転換した。 その後、国内 17 基の原子炉を 2022 年までに段階的に廃止し、再生可能エネルギーとエ ネルギー効率改善により代替していくための法案が、6 月 30 日に下院で、7 月 8 日に上院 249 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― で可決、7 月 31 日の大統領署名を経て、8 月 1 日から施行となった。この政策変更により、 8 基の原子炉が即時閉鎖となった(2011 年においては、原子力発電所の基数が 9 基で発電 電力量の約 18%を賄っていた)。また、残り 9 基の原子炉については、2022 年までに順次 閉鎖されることになった。 このように、ドイツは原子力撤廃に最も積極的な姿勢を示しているが、再生可能エネル ギー普及に伴う電気料金の値上げなどの問題にも直面し、与野党の対立が激化している。 しかし、「ドイツでは脱原発への国民の支持は根強く、与野党とも原発回帰の動きはない」 と言われている。 ◇イギリス イギリスでは、16 基の原子力発電所が運転中で、発電電力量の約 20%を賄っている(2012 年)。2008 年 1 月には、原子力発電所新規建設に向けた体制整備やスケジュール等を盛り 込んだ原子力白書を発表した。 (福島原発事故後の)2011 年 7 月には、イギリス下院において 8 ヶ所の原子炉新設候補 サイトが示された原子力に関する国家政策声明書が承認された。 2013 年 12 月に成立したエネルギー法では、原子力発電への適用を含んだ差額決済方式を 用いた低炭素発電電力の固定価格買取制度を実施することが規定されている。 2014 年 1 月現在、イギリス国内には EDF エナジー社のヒンクリーポイント C 発電所計画 とサイズウェル C 発電所計画、(株)日立製作所が 100%出資するホライズン・ニュークリ ア・パワー社のウィルファ・ニューウィッド発電所計画とオールドベリーB 発電所計画、 (株) 東芝が 60%出資することで合意したニュージェネレーション社のムーアサイド発電所計画 といった新設計画が進められている。 このうち、ヒンクリーポイント C 発電所計画では、2013 年 10 月にイギリス政府と事業者 の間で、具体的な固定買取価格、中国資本を受け入れること等について合意に至ったこと が発表された。 ◇スウェーデン スウェーデンでは、10 基の原子力発電所が運転中で、発電電力量の約 38%を賄っている (2012 年)。 スウェーデンでは、1980 年の国民投票において、稼働中の原発 12 基の全廃を決定した。 この国民投票の結果を踏まえて、1997 年には新設禁止を定めた原子力法が制定され、1999 年 12 月にバーセベック 1 号機を、2005 年 5 月に同 2 号機を閉鎖した。 しかしその後、原発廃止見直しの機運が高まり、2010 年 6 月、新設禁止を定めた原子力 法を改正し、国内 10 基の既設原子炉のリプレースを可能とする法案が議会で可決された。 これにより新規建設は法律上可能となった。これまでは、電気事業者は既設発電所の出力 250 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 向上に優先的に注力しており、正式な建設計画は提出されていなかったが、2012 年 7 月、 電気事業者よりリプレースのための調査を行うとの発表があり、規制当局に対してリプレ ース計画が申請された。 ◇スペイン スペインでは、7 基の原子力発電所が運転中で、発電電力量の約 21%を賄っている(2012 年)。1979 年のアメリカ・スリーマイル島原発事故を受け、1982 年に発足した社会労働党 は建設中だった 4 基と計画中の 1 基の建設凍結を決定した。さらに 1986 年の旧ソ連のチェ ルノブイリ原発事故の影響から、今日に至るまで新規建設凍結が続いている。 ◇ベルギー ベルギーでは、7 基の原子力発電所が運転中で、発電電力量の約 52%を賄っている(2012 年)。 ベルギーでは、2003 年 1 月、脱原発法案が成立し、これに基づき、国内 7 基の原子炉は、 建設から 40 年を経たものから順次閉鎖することとなった。一方 2008 年 3 月に発足した前・ 連立政権時には、専門家による検討を踏まえ、2009 年 10 月に原子炉 3 基の運転期間を 10 年延長することを決定する等の動きもみられたが、(福島原発事故後の)2011 年 10 月末、 新政権設立を目指す政党間で、2003 年の脱原発法の基本方針を踏襲すること、運転期間の 10 年延長は撤回することで合意した。 2012 年 7 月 4 日、ベルギー政府は建設から 40 年を経たものから順次閉鎖との基本方針を 踏襲し、ドール 1 号機、2 号機を 2015 年に廃炉にすることを決定する一方で、国内最古の 原子力発電所の一つであるチアンジュ 1 号機については 10 年延長(2025 年まで運転)する ことを決定した。 ◇中華民国(台湾) 台湾では、6 基の原子力発電所が運転中であり、発電電力量の約 17%を原子力発電で賄 っている(2013 年)。2005 年の「全国エネルギー会議」では、既存の三つのサイトでの原 子力発電の運転と現在の建設プロジェクトの継続が確認されたが、それ以降は原子力発電 所の新規建設は行わず、既存炉が 40 年間運転した後、2018~2024 年に廃炉にするとの方針 が示された。福島原発事故後も、その方針に変更はない。 ◇インド インドでは、20 基の原子力発電所が運転中で、原子力発電の比率は発電電力量の約 3% になる(2013 年)。 電力需要が増大するなか、原子力に対する期待は高まってきた。2005 年 7 月、米印両国 政府は民生用原子力協力に関する合意に至り、2007 年 7 月には両国間の民生用原子力協力 に関する二国間協定交渉が実質合意に至った。同協定は、原子力供給国グループ( NSG) 251 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― におけるインドへの原子力協力の例外化(インドによる核実験モラトリアム等の「約束と 行動」を前提に、核不拡散条約未加盟のインドと例外的に原子力協力を行うこと)の決定 や国際原子力機関(IAEA)による保障措置協定の承認、米印両国議会による承認等を経て、 2008 年 10 月に発効した。 この原子力供給国グループによる例外化の決定以来、インドは、アメリカの他、ロシア、 フランス、カザフスタン、ナミビア、アルゼンチン、カナダ、イギリス、韓国といった国々 と民生分野で原子力協力協定を締結している。2016 年、日本もインドと原子力協力協定を 結んだ。また、福島原発事故以降も、電力需給のひっ迫が続くインドでは、原子力発電の 利用を拡大するとの方針に変化は見られない。 以上、原発保有国である 31 ヶ国中の上位 15 ヶ国の状況であるが、その他の国の状況を 以下に記す。 ◇スイス スイスでは 4 基の原子力発電所が運転中である。スイスで 2003 年に行われた国民投票で は、脱原発政策は賛成 34%、反対 66%と大差で否決されていたが、 2011 年 5 月、スイス政 府は、福島原発事故を受けて、2034 年までに、 「脱原発」を実現することを決定した。稼働 開始後 50 年をめどに、既存の原発をすべて停止していく方針である。 ◇フィンランド フィンランドでは、4 基の原子力発電所が運転中で、発電電力量の約 33%を賄っている (2012 年)。 フィンランドでは、2003 年 12 月、TVO 社が同国 5 基目の原子炉としてフランスのアレバ 社の EPR(160 万 kW 級 PWR)を選定し、オルキルオト 3 号機として 2005 年 12 月に着工した (計画遅延により 2016 年以降運転開始の見込み)。 2010 年 7 月には、議会が TVO 社とフェンノボイマ社の新規建設(各 1 基)を承認した。 それを受け、フェンノボイマ社は 2012 年 1 月にピュハヨキ 1 号機建設の入札を行い、2013 年 12 月、ロシアのロスアトム社が選ばれた。TVO 社は、2012 年 3 月にオルキルオト 4 号機 建設の入札手続が開始され、2013 年 1 月末に TVO 社は 5 社(アレバ、GE 日立、韓国水力原 子力、三菱重工、東芝)から入札を受けた。 ◇イスラエル 国防・安全保障上の観点から脱原発を決めたのが、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤ フ右派政権である。同国のハアレツ紙の報道によると、2011 年 3 月 12 日の福島原発の建屋 爆発の劇的映像を見たネタニヤフ首相が、即決で 3 月 16 日に国内の原発建設計画を放棄し た。狭い国土に 1 基でも原発を置いて、大事故が起きたら、イスラエル人にとって逃げて 252 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― いく場所がなく、国土も国民も守れないと洞察したためであるという。 ◇シンガポール イスラエルと同様、国防・安全保障上の観点から脱原発を決めたのが、シンガポールで ある。リー・シェンロン首相が 2010 年に「原発は選択肢」と明言し、建設の可能性を探る 事前調査を進めたものの、福島原発事故後は、国内で強まっていた慎重論に配慮し、原子 力発電の導入を当面は見送る方針を決めた。とりわけ東京 23 区ほどの国土に 530 万人が集 中している点を挙げ、事故が起きても避難できないことを示唆し、 「シンガポールでは、リ スクが利益を上回る」と断念の理由を語っている。 ◇エジプト チェルノブイリ原発事故により、原子力発電計画を中断していたが、2007 年にホスニー・ ムバラク大統領(当時)が 2025 年までに 4 つの原子力発電所を建設する計画を発表した。 「アラブの春」とよばれる市民革命によりムバラク政権は倒れたが、同時に権利意識の高 まりと、 「フクシマ」の衝撃から建設反対運動が活発化した。その中で、2012 年 9 月 3 日発 『アル=アハラーム』紙の報道によると、新政権のバルバア電力・エネルギー相は、電力の 枯渇と生産の限界に対処するために、原発建設計画の継続を発表した。 ◇イタリア イタリアでは原子力発電所を設置していない。 イタリアでは、原子力発電の導入を主張していたベルルスコーニ政権が 2008 年に発足し たことにより、再び原子力発電が計画されることとなり、2009 年 7 月、上院で原子力エネ ルギー導入に関する法案が承認され、2009 年 2 月、フランスの協力で 4 ヶ所の原発を新設 すると決定していた。しかし、2011 年に発生した福島原発事故を受けて国民投票を行い、 これまで通り原発に依存しない方向に回帰した。 ◇ヨーロッパ ヨーロッパ全体での発電量に占める原子力発電の割合は 2009 年の時点で 28 %であった。 欧州連合 (EU) での原子力政策は加盟各国によってまちまちであり、ノルウェー、アイス ランド、ポーランド、イタリア等の国では原子力発電は行われていない。 フランス、イギリス、ドイツ、スペイン等の大国やスウェーデン、フィンランド、ハン ガリーといった北欧・東欧諸国で原子力発電を利用中である。ただしドイツでは福島原発 事故の後、今後国内の原子力発電を順次廃止してゆく方針を決めている。ベルギーでは 2014 年の時点で 7 基の原発を使用しているが、既に 2003 年 1 月に脱原子力法が議会で可決・成 立しており、2025 年までに原発を廃止するとしている。 ◇中南米 2014 年の時点で中南米で原発を運転している国はメキシコ、アルゼンチン、ブラジルの 253 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 3 ヶ国である。なお、キューバは 1983 年に原子力発電所の建設を開始したことがあったが、 資金面の影響により 1992 年に工事を中断し、現在に至っている。 ◇アフリカ アフリカ地域の 1 人あたりの電力使用量は先進国と比べるとまだまだ低い水準であり、 原子力発電を実施している国は南アフリカ共和国ただ 1 国である。実施は 1984 年で、発電 量に占める原子力発電の割合は 2014 年の実績では 5.7 %であった。また、2014 年現在でエ ジプト、ケニア、ナイジェリア、ウガンダ、ナミビアその他の国々が原子力発電の導入を 検討している。 ◇中東 中東地域ではイランのブーシェフル原子力発電所が唯一の稼動中の原子力発電所である。 しかし、トルコ、アラブ首長国連邦 (UAE)で原子力発電所の新規建設が決定されている。 以上のように、従来の先進国では原発から脱原発への動きが強いようにみえるが、途上 国はこれから原発に着手しようとする動きが見られる。 現在、(とくに福島原発事故後)世界的には 2 つの流れがある。すなわちエネルギー源 としての原子力の利用を削減、廃止していこうとする流れと、(とくに地球温暖化対策と して)エネルギー源としての原発の利用を推進していこうとする流れである。 ○福島原発事故後の原発撤廃国、原発推進国 前項の各国の現状とダブルところもあるが、福島原発事故後、原発撤廃を目指す国と原 発推進の国について述べる。 ◇原発撤廃を目指す国 ベルギーでは 2003 年 1 月に脱原子力法が成立し、2004 年に 7 基あった原子炉を 2025 年 までに全廃すると決めた。2011 年 3 月の福島原発事故後、ドイツ、スイスが脱原発に踏み 出した。イタリアも国民投票の結果、投票の 9 割を超える反対で原発再開は凍結された。 ◇原発推進の国 福島原発事故後、原発の維持・拡大を目指している国は以下の通り。 ・ アメリカ―アメリカでは、シェールガスの増産に伴うガス価格の低下の影響で、100 基 の原子炉のうちいくつかが稼働を停止した。一方、2013 年には 30 年ぶり以上となる新 規原子炉建設に着工し、2014 年現在 5 基を建設中である。エネルギー省の見通し(2014 年)によれば、2012 年現在の原子力発電設備容量 102GW(1 億 200 万 KW)に対して、今 後 2040 年までの間に 4.8GW(480 万 KW)の発電設備が廃棄される一方で、新規の建設も なされ、結局 2040 年まで現状と同じ 102GW(1 億 200 万 KW)の原子力発電設備を維持す る見通しとなっている。原子力の利用を継続するためにアメリカでは当初 40 年であっ た運転認可が 60 年まで延長されており、既に 100 基中、半数以上の原子炉で認可が下 254 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― りている。さらに、60 年を超えた運転延長も検討中である。 ・ フランス―フランスは発電電力量のうち 70~80%が原子力であり、アレヴァ社を中心と する巨大な原子力産業をもち、海外への原子力事業展開を積極的に進めていることでも 知られる原子力大国である。しかし 2012 年に大統領となったフランソワ・オランドは 原子力への依存度低減を公約として掲げており、2014 年には 2025 年までに原子力発電 比率 70%を 50%までに低減させる法案が可決された。一方で、現在建設中であるフラマ ンヴィル原子力発電所 3 号機は予定通り建設・運転開始を進める方針とされており、今 後の動向が注目される。 ・ ロシア―ロシアでは、国内の原子力発電所の新設を進めるとともに、国外への原子力プ ラントの輸出を含めた原子力推進方針を明確にしている。2011 年 12 月には、トヴェリ 州のカリーニン原子力発電所 4 号機が建設を終え、新規運転を開始した。その操業式典 において国営原子力企業ロスアトムのセルゲイ・キリエンコ総裁は、今後 20 年間で国 内 38 基、海外 28 基の新規原発建設を含む 3,000 億ドル相当の投資を行うと発表してい る。ロスアトムはロシア国内や旧ソ連圏のみならず、ベトナム、トルコやインドなど海 外諸国への原子力売り込みを活発化させている。 ・ イギリス―イギリスは西側世界で最初に商用の原子力発電を開始した国であり、1990 年代後半には発電電力量の 1/4 を原子力がまかなっていた。 チェルノブイリ原発事故後、 原子力開発は停滞し、プラントの老朽化・閉鎖に伴い発電シェアは低下を続けていた。 2000 年代に入って北海油田の枯渇や地球環境問題への対処から原子力を見直す機運が 高まり、温室効果ガスの削減目標(2050 年に 1990 年比で 80%削減)に合わせて、2008 年の原子力白書において原子力を積極的に推進する方針が明確に打ち出された。 低炭素エネルギーの導入促進のための差額補填契約(CfD)による補助の対象に原子 力も入れることで、新規建設を進めようとしている。2013 年にはイギリス国内で原 子力発電所の建設を目指すフランス電力とイギリス政府の間で CfD の合意・契約がな され、欧州委員会の承認のもと、新規建設が進められようとしている。 ・中国―中国では福島原発事故の直後に原子力発電所の新規建設許認可を一時停止 していたが、翌 2012 年には安全基準の充足を確認できたとして許認可停止を解除、多 数の原子力発電所建設を開始した。 中国は 2014 年現在、31 基 34GW と、世界で最も多数の原子力発電所を建設中の国で ある。2014 年現在の発電設備容量 15GW(1500 万 KW)に対し、2020 年には 58GW(5800 万 KW)の発電所を運転、さらに 2030 年までに 200GW(2 億万 KW)まで建設を進める計 画である。発電用原子炉の建設のみならず、高温ガス炉や高速増殖炉、小型炉などの 新技術を積極的に開発し、海外への原子力輸出も進めて、原子力発電強国を樹立する 255 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ことを目指している。 ・韓国―韓国でも福島原発事故後、依然として原子力新設の動きが進んでいる。2013 年 に大統領に就任した朴槿恵政権は 2014 年、現在の原子力発電所 23 基に対して今後建 設中・計画中の 11 基を稼働させ、更に 5 ~7 基を 2035 年までに運転開始させるとい う長期エネルギー基本計画を決定した。また、海外への原子力プラント輸出戦略も進 めており、2030 年までに計 80 基の発電所を輸出することを目指している。既にアラブ 首長国連邦に最初の原子力発電所輸出を行っているが、今後も東南アジアやアフリカ に輸出を進める方針とされる。 ・インド―インドでは、欧米で利用が拡大してきた軽水炉の技術ではなく、トリウム燃 料サイクルの技術開発を進めてきた。しかし核拡散防止条約に未加盟であることから 諸外国との原子力協力が進まず、原子力発電設備の拡大は限定的であった。その後 2007 年に締結された米印原子力協定以降、海外諸国との協力関係が進み、大量の軽水炉建 設計画が急速に進展した。2032 年までに、現在の日本の設備容量を超える 63GW(6300 万 KW)まで原子力発電設備を拡大する目標を持っている。 ・ 新規開発国―既に原子力発電所を有している国での原子力推進計画に加えて、新たに原 子力を導入しようとしている国もある。前述のアラブ首長国連邦 (UAE)、トルコの他、 サウジアラビア、ヨルダン、ポーランド、カザフスタン、ベトナムなどが挙げられる。 UAE は既に 2012 年に原子力発電所の建設に着工しており、原子力公社は 2017 年から 2020 年の間に 4 基の原子力発電所の運転開始を目指している。ベトナムは 2030 年までに原 子炉 14 基を稼働させる計画を明らかにした。 ・ 世界の原子力発電所新規建設計画―2014 年 10 月時点で、運転可能な原子力発電所を所 有する 30 ヶ国に対し、新たに建設する計画のある国(提案段階含む)は 17 ヶ国である。 既に所有している国での増設含め、世界全体で新規建設中・計画中の原子力発電所は以 下の通りである。 基数 発電設備容量 状況 現在運転中、もしくは運転可能 (Operable) 436 基 現在建設中 (Under construction) 376,302MWe 72 基 74,614MWe 新規建設予定 (On order or planned) 174 基 191,270MWe 新規提案段階 (Proposed) 301 基 331,370MWe 合計 983 基 256 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 【9】原子力発電の問題点 ○原子力発電の利点 現行の原子力発電の利点として、以下の諸点が主張されている。 ①火力発電と比べて二酸化炭素排出量が少ない(地球温暖化対策として優れている)。 火力発電に対する原子力・再生可能エネルギー共通のメリットとして、発電過程におい ては、温室効果ガスである二酸化炭素を排出しない。また全工程(両者、プラントの建設 や燃料の採掘・濃縮・輸送などを含める)で火力発電と比較した場合、二酸化炭素の排出 量が十分の一以下である。 ②窒素酸化物と硫黄酸化物を排出しない。 火力発電に対する原子力・再生可能エネルギー共通のメリットとして、酸性雨や光化学 スモッグなど大気汚染の原因とされる窒素酸化物や硫黄酸化物を排出しない。 ③発電コストが安い。 発電量当りの単価が安く、優れた経済性をもつ。立地や研究開発、高レベル放射性廃棄 物処分、再処理、廃炉などのコストを全て含んだとしても、火力発電に比べてコスト競争 力をもち、とくに化石燃料価格の上昇時にはコスト優位性が高まる。これについては、福 島原発事故以後、各種の試算が行われていて、異論があるので、後でより定量的に比較し てみる。 発電コストに占める燃料費の割合が他の燃料系の発電方法に比べ極めて低いため、燃料 価格が上昇してもトータルの発電コストが上昇しにくい。火力発電に比べた場合、燃料の エネルギー密度が高く、備蓄及び輸送が容易な面もある。火力発電に比べた場合、燃料を 一度装填すると 1 年程度は交換する必要がない。 ④以下は、火力発電(特に石油)に比べてのメリットである(燃料の安定供給性)。 中東に大きく依存する石油と違い、ウラン供給国はオーストラリアやカナダなど、政情 の安定した国が多い。可採年数(確認可採埋蔵量÷年間生産量)は石油や天然ガスに比べ て大きい(石油 42 年、天然ガス 60 年、ウラン 100 年、石炭 122 年。ウラン埋蔵量につい ても異論がある。資源埋蔵量について後述)。核燃料物質の国際的な入手ルート・価格が ほぼ確立し安定しているために、化石燃料型の発電に比べて相対的に安定した電力供給が 期待できる。 ⑤技術進歩によるメリット向上の可能性 比較的少量の核燃料を繰り返し使用する核燃料サイクルが確立できれば、燃料資源の乏 しい国でも核燃料物質の入手に関わる制約を緩和できる。使用済み燃料の中からプルトニ ウムを抽出し、再度利用するプルサーマルについては、欧州先進諸国において既に数十年 以前から継続的に実施されている。また、日本では高速増殖炉「もんじゅ」の研究開発が 257 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 停滞しているが、世界ではロシア、中国、インドやフランスなどの諸国が高速炉の研究開 発を継続しており、それぞれ新たに実証炉や商用炉の運転が目指されている(核燃料サイ クル技術が確立されたらという仮定での話であるが、日本の核燃料サイクルは前述したと おりきわめて悲観的な状況になっている)。 ○原子力発電の不利な点 現行の原子力発電には以下の不利な点が主張されている。 ①危険性 重大事故が発生すると環境に甚大な被害を与え、その影響は数千キロメートルを超え広 範囲に及ぶ。軽水炉の場合、万が一、水が止まってしまうと、大量に発生し続ける崩壊熱 を除去できなくなり、30 分後には核燃料が溶けはじめてばらばら(炉心溶融)になり、2 時 間ほどで原子炉が損傷、破壊されるという構造上の不安定性をかかえている。このような 事態は、放射性降下物(一般的に死の灰と呼ばれる)の大量放出、社会的な非常事態に直 結している。重大事故が発生し、高レベルの放射線や放射性物質が大量に漏洩した場合、 人間が接近することが困難となり、修復が著しく困難になる。 日本では、冷却水を利用するために立地場所を海岸線沿いにしている。この場合津波の 被害を受ける可能性がある。後進国や発展途上国で原発が建設された場合、安全性が懸念 される。発電施設および核廃棄物処理施設へのテロリズムの危険や軍事目標としての脆弱 性もある。 ②放射性廃棄物の処分の困難性 使用済み核燃料など、数万年という長い半減期を持つ高レベル放射性廃棄物に対しては、 地下深くに埋設して処分する深地層処分が検討されているが、放射性物質の漏洩のリスク への恐れなどから、地域住民の中には近隣での処分に反対する人も多い。現在、スウェー デンとフィンランドを除く多くの国で地下埋設の処分地が確保できていない。日本でも、 その安全性については更に評価を進める必要があるとされ、高レベル放射性廃棄物の最終 処分地は未だ決まっていない(この件についても後述)。 ③有限な資源量 地殻中の天然ウラン資源量は有限であり、将来枯渇する。たとえばウランは一般に 100 年の可採年数とされるが、70 年とする試算もある。プルトニウムは天然にはほとんど存在 せず、ウラン燃焼後の使用済燃料の中に生成される。高速増殖炉でこれを大量に利用する ことが検討されているが、日本では「もんじゅ」のトラブルが相次いだ。原発先進国もほ とんどが高速増殖炉開発を断念している。MOX 燃料として利用することも可能であるが、高 速増殖炉を利用したときのような量は確保できない(ウラン埋蔵量など後述)。 ④原子力発電のコストが高い 258 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 使用済み核燃料の管理、廃炉、事故時の賠償等、周辺的な事項に多大なコストがかかる。 福島原発事故後は安全性強化の観点から原発建設費が増大していると言われている。フィ ンランドやフランスでは、アレヴァ社による初めての第 3 世代原子炉建設であるという理 由や、建設遅延等のため、新規原子炉建設の費用が高騰していると言われる。 バックエンド費用は莫大な額になると推定されている(バックエンド費用については、 まだ、正確な費用試算ができない)。再処理費用についても、電気料金を財源とする費用 は六ヶ所再処理工場での再処理に充てられる分だけであり、全ての核燃料の再処理にはさ らなる費用負担が必要だと推定されている。原子炉の運転に伴い中性子線やガンマ線が発 生するため、発電施設で働く作業者が過度に被曝しないよう、遮蔽を考慮した設計にする、 管理区域を設けるなど特別の対応をする必要がある(原発のコストについては後述)。 ⑤その他 平時における温排水の放出による環境負荷、使用済み核燃料に含まれるプルトニウムの 軍事転用の危険(核兵器の材料となり得る)なども指摘されている。 ○核燃料サイクルの現状 ◇ウラン鉱石から燃料ペレットができるまで 天然ウランには質量数 238 と 235 の同位体があり、採掘されたウランにはウラン 238 が 約 99.3%、ウラン 235 が約 0.7%含まれている。このうち、ウラン 235 は核分裂する放射性 同位体であり、原発で核燃料として用いられるほか、核兵器の主要な材料として用いられ る。世界の原発の主流は軽水炉であり、採掘されたウランは軽水炉で使用するために濃縮 工場でウラン 235 の比率を高めて濃縮ウランにされる。 ウラン鉱山でウラン鉱石が発掘されて、商取引に供されるようになるまでには以下のよ うな工程を経る。 《ウランの粗精錬工場》―採掘されたウラン鉱石は、細かく砕かれた後、硫酸で溶解して 六価のウランの浸出液とする。浸出液は溶媒抽出、イオン交換、または沈殿法のような化 学的手法(湿式精錬)で不純物を取り除いた(選鉱)後、ウラン含有率を 60%位まで高めた ウラン精鉱になる。粗製錬工場の最終製品がこのウラン精鉱でありイエローケーキとも呼 ばれる。 イエローケーキはドラム缶に詰められて転換工場へ出荷される。ウラン鉱石はイエロー ケーキの状態で取引される。国際取引ではイエローケーキに含まれるウランを八酸化三ウ ラン (U3O8) に換算して、1 ポンド当りの価格で売買が行われる。 世界の粗製錬工場のほとんどは鉱山に併設されており、日本国内には工場が無い。 259 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 《転換工場》―イエローケーキから六フッ化ウランを製造する過程を転換と呼び、転換を 行う工場を転換工場と呼ぶ。実際にはウラン精鉱の精製錬も行われる。イエローケーキを 硝酸で溶解し、TBP(燐酸トリブチル)等を用いて不純物を取り除いた後、脱硝により三酸 化ウランを生成する。三酸化ウランは水素を用いて還元して二酸化ウランにした後、流動 床等の装置でフッ化水素と反応させて四フッ化ウランにして、フレームタワー等を用いて フッ素と反応させて六フッ化ウランが製造される。 転換工場の最終製品である純度を高めた六フッ化ウランガスは、48Y シリンダー(直径約 1.4m、長さ約 3.8m の鋼製円筒容器)と呼ばれる輸送容器に封入されて濃縮工場に出荷され る。転換工場も日本にはない。 《ウランの濃縮》―転換工場で転換された純度を高められたウランは、濃縮工場に送られ て、ガス拡散法または遠心分離法でウラン 238 に対するウラン 235 の比率(濃縮度)を高 める。この過程を濃縮と呼ぶ。日本では六ヶ所村に濃縮工場がある。なお、日本からウラ ンを買いつける場合は、転換工場から六フッ化ウランを購入する、日本国外の濃縮工場で 濃縮された六フッ化ウランを購入する、もしくは海外の再転換工場で二酸化ウランにした ものを購入することになる。 《燃料加工》―軽水炉で使用する場合は、濃縮工場で濃縮ウランに加工され、30B シリンダ ー(直径 30 インチ(約 76cm)、長さ約 2m の鋼製二重円筒容器)と呼ばれる輸送容器に封 入されて再転換工場へ出荷される。 再転換工場(ADU 法)では、上述の 30B シリンダーの弁を開けて加熱することにより、UF6 を取り出し、水と反応させて UO2F2 を生成する。この UO2F2 にアンモニアを加えて重ウラン 酸アンモン (ADU。 (NH4)2U2O7) を作る。この ADU を水素で還元することにより二酸化ウラ ン粉末を生成する。二酸化ウラン粉末は、燃料加工工場に渡されて燃料ペレットに加工さ れて、ジルカロイ等の合金で作られた燃料被覆管に封入される。この被覆管を束ねて燃料 集合体が作成される。 《イエローケーキの保障措置》―従来、イエローケーキは IAEA の査察対象ではなく、イエ ローケーキを加工して純度を高めた六フッ化ウラン以降からが査察の対象であった。しか しながらイラクの核兵器開発疑惑を発端として包括的保障措置協定に追加される議定書が 発効した結果、イエローケーキについても取扱量が 10 トンを超える場合は査察の対象とな った。 以上のような工程で核燃料ができてくるが、ウラン鉱石は、この途中のイエローケーキ の状態で取引される。国際取引ではイエローケーキに含まれるウランを八酸化三ウラン (U3O8) に換算して、1 ポンド当りの価格で売買が行われる。 260 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ◇ウラン濃縮 世界のウラン濃縮事業は、2011 年時点で、ロシアの TENEX、フランスのアネヴァ(AREVA)、 イギリス・オランダ・ドイツの共同事業体 URENCO、アメリカの USEC の 4 社で 90%以上の シェアを占めている。日本のウラン濃縮事業は遠心分離法を採用しており、その許可上の 設備規模は、2013 年時点で、年間 1,050 トンである。 ◇再処理 フランス及びイギリスでは、自国内で発生する使用済燃料の再処理を実施するとともに、 海外からの委託再処理も実施してきた。フランスのアネヴァ社は、海外からの委託再処理 を行うための UP3(処理能力:1,000 トン・ウラン/年、操業開始:1989 年)及びフランス 国内の使用済燃料の再処理を受け持つ UP2-800(処理能力:1,000 トン・ウラン/年、操業 開始:1994 年)の再処理工場をラ・アーグに有している(ただし、UP3 及び UP2-800 にお ける処理能力の合計は、1,700 トン HM/年に制限されている)。 イギリス原子力廃止措置機関(NDA)はセラフィールド施設及び海外からの委託再処理を 行うため THORP(処理能力:900 トン・ウラン/年、操業開始:1994 年)の再処理工場をセ ラフィールドに有している。 ◇プルサーマル 1970 年代からフランス、ドイツ、アメリカ、スイスなどの 9 ヶ国で、58 基の発電プラン トにおいて、MOX 燃料の装荷体数で 7,112 体が使用された。例えばフランスでは 3,738 体、 ドイツでは 2,494 体の MOX 燃料が軽水炉で利用された(2011 年末現在)。また、MOX 燃料 加工施設は、フランス、ベルギー、イギリスで既に稼働している。 ○ウラン埋蔵量、生産量、可採年数 まず、図 41(第 222-2-5)に、2010 年時点の世界のウランの確認可採埋蔵量を示す。世 界のウラン確認可採埋蔵量は約 710 万トンである。これは(注 1)にあるように、260 米ド ル/kgU 以下のコストで回収可能な確認埋蔵量である。このように回収コストによって、確 認可採埋蔵量も変ってくる。資源エネルギー庁試算によると、2007 年時点でイエローケー キ(U3O8)キロあたり 130 米ドルの採掘コストでの確認可採埋蔵量は 547 万トンと推定され ている。 261 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 41(第 222-2-5)世界のウラン確認可採埋蔵量(2010 年) (注 1)ウラン確認埋蔵量とは 260 米ドル/kgU 以下のコストで回収可能な確認埋蔵量。 (注 2)世界のウラン需要量は約 6.4 万トン U(2010 年)。 (出典)OECD/NEA-IAEA,「URANIUM2011」を基に作成 主要なウラン資源国は、埋蔵量の多い順にオーストラリア、カザフスタン、ロシア、カ ナダ、ナミビア、アメリカ合衆国などである。日本国内の原子力発電所で用いるウランは 全量が日本国外から輸入されている。また日本の資本による海外のウラン鉱山開発も行わ れている。その中で最も埋蔵量があるオーストラリアの試掘権がエネルギー需要の高まり で激しい争奪戦になっている。図 42(第 222-2-6)に 2012 年の世界のウラン生産量を示す。 2012 年の生産量は 58,394 トンであった。したがって、ウランのウランの可採年数は約 121 年になる(可採年数=世界のウラン確認可採埋蔵量/世界のウラン生産量。2 年時点が異な っているが)。したがって、可採年数は(世界のウラン確認可採埋蔵量/世界のウラン生 産量)は、イエローケーキ(U3O8)キロあたり 260 米ドル/kgU 以下のコストで回収可能な 確認埋蔵量の場合は、121 年であり、イエローケーキ(U3O8)キロあたり 130 米ドルの採掘 262 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― コストでの確認可採埋蔵量の場合は、94 年となる(もっと採掘コストをかければ、もっと 長い可採年数となるが、ウランそのものの価格が高くなるだろう)。 図 42(第 222-2-6)世界のウラン生産量(2012 年) (出典)世界原子力協会(WNA)ホームページ ただし、図 41(第 222-2-5)の(注 1)ウラン確認埋蔵量とは 260 米ドル/kgU 以下のコ ストで回収可能な確認埋蔵量となっているように、このウランについても 260 米ドル/kgU 以下のコストで回収可能な可採年数は約 121 年となる(もっと採掘コストをかければ(あ るいは採掘技術の進歩があれば)、もっと長い可採年数となるが、ウランそのものの価格 が高くなるだろう)。 ○ウラン価格の推移 ウラン価格(イエローケーキ。スポット価格)は、1970 年代、とくに第一次石油危機後 の原子力発電計画の拡大を受けて上昇したが、スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故 263 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― を受けて新規原子力発電建設が低迷したことから下落し、1980 年には 32.90 米ドルであっ たが 90 年には 12.55 米ドル、2001 年には 7.92 米ドルまで下落した。 その後上昇に転じ、図 43(第 222-2-7)のように、一時 2007 年には 136 ドル/lbU3O8 ま で上昇し、2011 年 3 月時点でも 60 ドル/lbU3O8 を超える高値となった。 図 43(第 222-2-7)ウラン価格(U3O8)の推移 (出典)International Monetary Fund「Uranium price」を基に作成 これは解体核高濃縮ウランや民間在庫取り崩し等の二次供給の減少や、中国等によるウ ラン精鉱の大量購入等から需給ひっ迫が懸念され、世界的なウラン獲得競争が激化したこ とと、投機的資金の一部がウランスポット取引市場に流入したことに起因したと考えられ ている(同じような理由で石油がこの時期高騰したことは述べた)。福島原発事故後、若 干の下落傾向をみせたものの、比較的安定した価格で推移している。 264 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○高レベル放射性廃棄物の処分 海外では、各国の政策により使用済燃料を直接処分する国と、使用済燃料の再処理を実 施し、ガラス固化体とした高レベル放射性廃棄物を処分する国がある。高レベル放射性廃 棄物は海外のほとんどの国で深地層に処分する方針が採られており、処分の実施主体の設 立、処分のための資金確保等の法制度が整備されるとともに、処分地の選定、必要な研究 開発が積極的に進められてきた(図 44(第 222-2-8)参照)。 図 44(第 222-2-8)高レベル放射性廃棄物処分に関する状況 (出典)原子力環境整備促進・資金管理センター「諸外国における高レベル放射性廃棄 物の処分について」を基に作成 ◇アメリカ 1987 年の関連法の改正により、ネバダ州ユッカマウンテンが処分場の候補として選定さ れた。アメリカ・エネルギー省(DOE)によって、処分場に適しているかどうかを判断する ための調査が 1988 年から実施され、2001 年に報告書がまとめられた。2002 年には、エネ ルギー長官が大統領にユッカマウンテンを処分サイトとして推薦し、大統領はこれを承認 し、連邦議会に推薦した。 ネバダ州知事が連邦議会に不承認通知を提出したが、ユッカマウンテンを処分場に指定 する立地承認決議案が連邦議会上院・下院で可決され、大統領がこれに署名し、ユッカマ ウンテンが処分地として選定された。DOE は、2020 年の処分場操業開始を目途として、2008 年 6 月に、処分場建設のための許認可申請書を原子力規制委員会(NRC)へ提出した。 その後、2009 年 2 月にオバマ政権がユッカマウンテン計画を中止して代替案を検討する との方針に転じたため、2010 年 3 月、DOE は NRC に許認可申請の取下げを申請した。しか 265 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― し取下げは認められず、安全審査が行われることになったが、DOE は代替方策を検討するた めに特別委員会(ブルーリボン委員会)を設置(2010 年 1 月)して検討を行い、2012 年 1 月に最終報告書が発表され、8 つの勧告が示された。 2013 年 1 月に DOE は「使用済燃料及び高レベル放射性廃棄物の管理・処分戦略」を公表 し、2048 年までに地層処分場を操業開始する等の新たな処分戦略を公表した。具体的には、 2021 年までにパイロット規模の中間貯蔵施設の立地、設計と許認可、建設と操業を開始し、 2025 年までにより大規模な中間貯蔵施設を建設、2048 年までに地層処分場を実現できるよ うに処分場のサイト選定とサイト特性調査を進める、というものである。2013 年 6 月には、 「2013 年放射性廃棄物管理法案」が連邦議会上院エネルギー天然資源委員会に提出されて いる。 ◇フィンランド フィンランドでは、1983 年よりサイト選定が開始され、1994 年フィンランド原子力条例 が修正され、フィンランド国内の全ての核廃棄物をフィンランドで処分することが明示さ れた。 1999 年に処分実施主体であるポシヴァ社がオルキルオトを処分予定地として選定し、政 府に法律に基づく「原則決定」の申請書が提出された。2000 年に地元が最終処分地の受け 入れを承認し、その結果を受けて政府がオルキルオトを処分地とすることを決定し、2001 年 5 月に国会で承認された。 この設備は洞穴を意味する「オンカロ」と名づけられ、オルキルオト発電所から数マイ ルの花崗岩の岩盤に建設された。2003 年 8 月に施設の建築許可を行い、建築は 2004 年から 始められた。 建設計画は 4 つの段階に分けられた。 フェーズ 1、(2004 年から 2009 年)―地下 420 メートルに存在する設備への螺旋状に下る アクセストンネルの開削。 フェーズ 2、(2009 年から)―同工程の 520 メートルまでの継続、貯蔵所設計に反映させ るための岩盤特性の研究。 フェーズ 3―貯蔵所の建築は 2015 年に予想される。 フェーズ 4―使用済み燃料のカプセル化と埋葬は 2020 年の開始が計画される。 2012 年 12 月 28 日、ポシヴァ社は政府へ最終処分場の建設許可申請書を提出した。審査 には 3 年かかると予想される。現在、放射線・原子力安全センター(STUK)により建設許 可申請書に係る安全審査が行われているが、当初予定していた 2014 年中頃までの完了は厳 しくなっている。 266 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 処分場の建設許可が発給された場合、次の段階として政府による操業許可発給が必要と なる。オンカロ処分場は 100 年分程度のキャニスターを受け入れる大きさがあると予想さ れている。処分場が満杯になった後は最終的にトンネルごと埋め立てられて密封される。 ◇スウェーデン スウェーデン核燃料・廃棄物管理会社(SKB 社)が、1993 年から公募または申し入れに より 8 自治体を対象にフィージビリティ調査を行い、2000 年 11 月にサイト調査の対象とし て 3 自治体(エストハンマル、オスカーシャム、ティーエルプ)を選定した。このうち、 サイト調査の実施について自治体議会の承認が得られたエストハンマル自治体とオスカー シャム自治体でボーリング調査を含むサイト調査が行われた。その結果から、2009 年 6 月 に SKB 社は、地質条件を主たる理由としてエストハンマル自治体のフォルスマルクを最終 処分場予定地として選定し、2011 年 3 月に使用済燃料処分場の立地・建設の許可申請を行 った。 この許可申請の際に提出された安全評価書「SR-Site」について、スウェーデン政府の要 請に基づいて経済協力開発機構/原子力機関(OECD/NEA)が行った国際ピアレビューの報 告書が 2012 年 6 月に公表されており、SKB 社による処分場閉鎖後の安全評価は十分かつ信 頼ができるとの結果が示された。処分場の立地・建設の許可申請については、安全規制当 局である放射線安全機関(SSM)が安全審査を行っているところであり、2015 年には許可発 給権をもつ政府に審査意見書を提出する予定である。 SKB 社が 2013 年 9 月に取りまとめた「放射性廃棄物の管理及び処分方法に関する研究開 発実証プログラム 2013」 において提示した処分事業計画では、 処分場の建設開始を 2019 年、 操業開始を 2029 年としている。また、SKB 社が操業している使用済燃料の集中中間貯蔵施 設「CLAB」について、貯蔵容量の拡大に係る許可申請を 2018 年頃に行うことを検討してい る。 ◇フランス フランスでは、1991 年に「放射性廃棄物管理研究法」が制定され、地層処分、核種分離・ 変換、長期地上貯蔵の 3 つの管理方法の研究が 15 年間を期限として実施された。地層処分 については、放射性廃棄物管理機関(ANDRA)によって、1999 年 12 月からカロボ・オック スフォーディアン粘土層においてビュール地下研究所の建設・研究が行われた。法律に基 づいて設置された国家評価委員会(CNE)は、2006 年に 3 つの管理方法に関する研究成果を 総合的に評価した。 これらをもとに 2006 年 6 月には可逆性のある地層処分の実施に向けて「放射性廃棄物等 管理計画法」が制定され、2014 年に処分場の設置許可申請、2025 年に処分場の操業を開始 することが定められた。ANDRA は、ビュール地下研究所を含む 250km2 の区域から 30km2 の候 267 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 補サイト区域を政府に提案し、2010 年 3 月の政府の了承を経て、同区域の詳細調査を実施 した。 2013 年 7 月から翌年 1 月にかけて地層処分の設置に関する公開討論会及び市民会議が実 施され、これらの総括報告書及び市民会議の見解書は、2014 年 2 月に公開された。ANDRA は、これらの結果を受けた提案を 2014 年 5 月に政府へ提出する予定である。 ◇スイス 処分場のサイト選定は、原子力令に従って策定された特別計画「地層処分場」に基づい て 3 段階で進められている(期間は 2008 年から 2019 年までを予定)。その第 1 段階とし て、2011 年 11 月末に高レベル廃棄物の処分場の「地質学的候補エリア」3 ヶ所が正式に選 定された。引き続き、第 2 段階として社会経済的影響に関する調査等を通じ、2 ヶ所以上の 候補サイトが選定される予定である。 ◇イギリス カンブリア州と同州内の 2 市がサイト選定プロセスへの関心表明を行っていたが、2013 年 1 月にカンブリア州議会がサイト選定プロセスからの撤退を議決した。2 市の議会はプロ セスへの継続参加に賛成していたが、州と市の両方のレベルでの合意が必要としていたた め、1 州 2 市はプロセスから撤退することとなった。 2013 年 9 月、イギリス政府は地層処分施設のサイト選定プロセスの改善に向けた協議文 書を公表し、2014 年に改善されたサイト選定プロセスによりサイト選定を開始する予定で ある。 ◇日本 2000 年 6 月に「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」(最終処分法)が公布され たのを受けて、同年 10 月に原子力発電環境整備機構が設立され、原子力発電により発生す る使用済燃料をリサイクル(再処理)する過程で発生する、高レベル放射性廃棄物(ガラ ス固化体)等の最終処分(深層地下処分)事業を行なうことになった。 具体的には、最終処分地域の選定を行い、最終処分施設の建設及び改良、維持その他の 管理を行い、最終処分を行うこととなっている。最終処分法に規定されている、原環機構 が行う最終処分の対象は、高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)と地層処分相当の TRU 廃棄物(低レベル放射性廃棄物に分類されるが、放射能レベルは様々であり、地層処分が 必要となるもの)である。 原環機構は 2002 年から、最終処分の候補地選定のために、全国の市町村を対象に、文献 調査を行う地区の公募を行い、コマーシャル等各種の広報を通じて、原子力発電や最終処 分場の概要、最終処分場の経済効果や原環機構からの地元発注等などを提示していたが、 候補に上がった地域でも自治体内外で反対運動が起こり、応募はまったくなかった。 268 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― そこで、2016 年、政府は方針を変更して、国主導で適地を「科学的な観点から」選定し て自治体に理解を求めることにして、現在、科学的に適地選定をしているという。しかし、 前述したように日本の科学者の集まりである日本学術会議は「現在の科学では、数十万年 の安全を証明できない。したがって、現段階で地層処分すべきでない」と言っている。は たして、国民は政府を信じるか、日本学術会議を信じるか。 ○原子力発電とその他の発電コスト試算 ◇経済産業省による試算 1 1999 年に通商産業省(現経済産業省)資源エネルギー庁の発表によれば、1kWh あたりの 発電コストは次のように試算された。 ・原子力 5.9 円 ・LNG 火力 6.4 円 ・石炭火力 6.5 円 ・石油火力 10.2 円 ・水力 13.6 円 ◇原子力資料情報室による試算 2005 年 6 月に特定非営利活動法人原子力資料情報室が発表した試算によれば、運転年数 40 年の場合、1 kWh あたりの発電コストは以下の通りである。 ・原子力 5.73 円 ・LNG 火力 4.88 円 ・石炭火力 4.93 円 ・石油火力 8.76 円 ・水力 7.20 円 ◇経済産業省による試算 2 2010 年に経済産業省資源エネルギー庁は、各エネルギーにおける 1kWh あたりの発電コス トを再試算した(ただしこれは福島原発事故以前のデータを用いたものである。なお、こ の内原子力発電コストの見積もりについては、原子炉建設の際の漁業補償金、原子力に特 有な再処理費用、1kWh あたり 1 ~ 2 円の燃料費等のバックエンドコストは含んでいるが、 電源三法による地元への交付金 (税金)、電力企業からの地元対策寄付金、原子炉廃炉解体 費用、原発事故の際の賠償金等は含んでいないため、これらを算入すると原子力発電コス トはさらに高くなる。(注)2008 年における日本のエネルギー別の発電電力量割合は、原 子力 26.0%、石油火力 10.3%、石炭火力 25.2%、LNG 火力 28.3%、水力 7.8%、その他 2.4% であった。 ・太陽光 49 円 ・風力 (大規模) 10~14 円 ・水力 (小規模除く)8~13 円 ・火力 7~8 円 ・原子力 5~6 円 ・地熱 8~22 円 ◇立命館大学国際関係学部教授 大島堅一による試算 エネルギー政策が専門の大学教授である大島堅一(著作『原発のコスト』)は、2010 年 に各エネルギーにおける 1 kWh あたりの発電コストを次のように試算した。 ・原子力 10.68 円 ・火力 9.90 円 ・水力 (揚水発電を除いた一般水力) 3.98 円 269 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ◇米国エネルギー省エネルギー情報局による試算 2010 年に米国エネルギー省アメリカ合衆国エネルギー情報局 (DOE/EIA) が公表した、 2016 年にアメリカで運用を開始する新規発電所の百万 kWh あたりの発電コストは以下の通 り(なお、1 ドル=90 円として kWh あたりコストも表示)。 発電方法 発電コスト 発電コス (米ドル/百万 ト kWh) (円/kWh) 従来型石炭火力 $94.8 \8.5 改良型石炭火力 $109.4 \9.8 改良型二酸化炭素貯留石炭火力 $136.2 \12.2 コンバインドサイクル $66.1 \5.9 改良型コンバインドサイクル $63.1 \5.7 改良型二酸化炭素貯留コンバインドサイ 天然ガス(LNG 発電) クル $89.3 \8.0 従来型燃焼タービン $124.5 \11.2 改良型燃焼タービン $103.5 \9.3 $113.9 \10.3 $97.0 \8.7 洋上風力 $243.2 \21.9 太陽光発電 $210.7 \19.0 太陽熱発電 $311.8 \28.1 地熱発電 $101.7 \9.2 バイオマス $112.5 \10.1 $86.4 \7.8 石炭火力 改良型原子力発電 風力 水力発電 ◇政府機関による福島原発事故後の発電コスト試算 2011 年 11 月 8 日に内閣府の原子力安全委員会では、深刻な原発事故は 1 基あたり 500 年 間稼働すると 1 回発生し、その際 5 兆円の損害賠償が必要になると仮定し、従来コストに 1.6 円積み増して原発コストが最大 7.6 円/kWh と試算する中間報告を出した(2016 年 11 月 270 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の時点で福島原発事故の最終処理費は不明であるが、前述したように約 20 兆円は超える見 通しが出ている)。 ◇さらに上記とは別に、2011 年 12 月 13 日、内閣府国家戦略室のコスト等検証委員会が発 表した各発電コスト(円/kWh) の 2010 年時点価格と 2030 年予測は下記の通り。 発電方法 2010 年 2030 年 原子力発電 8.9 円/kWh 以上 8.9 円/kWh 以上 石炭火力発電 9.5 10.8 LNG 火力発電 10.7 10.9 石油火力発電 38.9 36.0 陸上風力発電 9.9~17.3 8.8~17.3 洋上風力発電 9.4~23.1 8.6~23.1 地熱発電 8.3~10.4 8.3~10.4 太陽光発電 33.4~38.3 9.9~20.0 ガスコジェネ 10.6~19.7 11.5~20.1 これによると、既に 2010 年段階で、原子力と石炭・LNG 火力発電コストは約 10 円/kWh でほぼ等しい。日本の火力発電のうちでも石油火力発電コストは特に高く、太陽光発電と 同等の約 37 円/kWh のコストがかかっている。また、原子力は廃炉費用・再処理費用・高レ ベル放射性廃棄物処分費用・立地費用・研究開発費用・事故リスク対応費用などを全て含 んで 8.9 円/kWh 以上となっており、この試算段階で 5.8 兆円と想定された福島原発事故の 被害額が追加的に 1 兆円上昇すると、原子力発電単価は 0.09 円/kWh 上昇する、とされた。 事故の総費用が正確にわからない現状を反映しているので流動的である。 (ここでも、2016 年 11 月の時点で福島原発事故の最終処理費は不明であるが、前述したよ うに約 20 兆円は超える見通しが出ているので、原子力発電単価はかなり上昇する) ◇さらに 2015 年 5 月 26 日、経済産業大臣の諮問機関である総合資源エネルギー調査会の 元に設置された専門家会合(発電コスト検証ワーキンググループ)は、2030 年エネルギー ミックス策定のための電源別発電コストの再検証試算を発表した。その結果は以下の表の 通り(表中のカッコ内は政策経費を含まない発電単価、すなわち国からの補助等を除外し て算出した発電単価)。 271 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2014 年モデルプラント 円 2030 年モデルプラント 円 /kWh /kWh 原子力発電 10.1 以上 (8.8 以上) 10.3 以上 (8.8 以上) 石炭火力発電 12.3 (12.2) 12.9 (12.9) LNG 火力発電 13.7 (13.7) 13.4 (13.4) 石油火力発電 30.6~43.4 (30.6~43.3) 28.9~41.7 (28.9~41.6) 陸上風力発電 21.6 (15.6) 13.6~21.5 (9.8~15.6) 洋上風力発電 ---- 30.3~34.7 (20.2~23.2) 地熱発電 16.9 (10.9) 16.8 (10.9) 太陽光発電(メガソーラー) 24.2 (21.0) 12.7~15.6 (11.0~13.4) 太陽光発電(住宅用) 29.4 (27.3) 12.5~16.4 (12.3~16.2) 一般水力発電 11.0 (10.8) 11.0 (10.8) 小水力発電 23.3~27.1 (20.4 - 23.6) 23.3~27.1 (20.4~23.6) 発電方法 原子力発電については、追加的安全対策費などでコストアップし、かつ福島第一原発事 故の被害額が 9.1 兆円に上方修正された一方で、追加的安全対策により事故発生頻度が 1/2 に引き下げて評価され、2030 年モデルプラントで 10.3 円/kWh~とされた。なお 9.1 兆円の 事故被害額が仮に 1 兆円増加すると、原子力発電単価は 0.04 円/kWh 上昇する。この試算に おいても廃炉費用・再処理費用・高レベル放射性廃棄物処分費用・事故リスク対応費用等 が含まれており、また立地費用や研究開発費用は政策経費の一部とされている。 太陽光は将来大幅コストダウンが見込まれており、2030 年において 12.5~16.4 円/kWh と評価された。またベースロード電源に指定されている石炭火力発電コストは、発電コス ト計では LNG 火力発電をわずかに下回っただけであった。地熱発電は政策経費を含んだ場 合、前回よりも大幅コスト高の 16.8 円/kWh となった。結果として今回の発電コスト試算で は、割引率 3%(建設資金融資の利息に相当)の下限値でみると、電源別で原子力発電が一 番安価になった。 ◇日本エネルギー経済研究所による試算 エネルギー政策分析や需給見通しなどのレポートを数多く発表する日本エネルギー経済 研究所の研究者である松尾雄司らは、2011 年から 2014 年にかけて、1970 年以降の一般電 気事業者の有価証券報告書を分析し、原子力発電のコストは他の発電方法と比較して安価 272 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― であったとして、1970 年~2011 年平均の日本の発電コスト実績値を以下の通り算出した(原 子力については廃炉費用・再処理費用・放射性廃棄物処分費用等を含んでいる)。 発電方式 発電単価(円/kWh) 水力発電(既設発電所の利用を含む) 6.2 水力発電 15.3 火力発電 9.3 原子力発電(政策コスト・事故リスクコストを含まない) 7.0 原子力発電(政策コスト・事故リスクコストを含む) 7.6~8.1 以上 地熱発電等 9.3 さらに、類似の方法として有価証券報告書を用いた上述の大島堅一による評価例との相 違を分析し、大島による発電コストの計算方法は事業報酬の考え方や物価・利子率等の扱 いについて問題があると述べている。 ◇米国シンクタンクの 2014 年における発電コスト試算 エネルギー問題の米国企業系シンクタンク「ブルームバーグ・ニュー・エナジー・ファ イナンス」は、2014 年 9 月 16 日に「原子力発電コストは世界平均で 1 キロワット時当たり 平均 14 セント(約 15 円)で、太陽光発電とほぼ同レベルであり、陸上風力発電や高効率 天然ガス発電の 8.2 セント(約 9 円)よりもかなり高コスト」と発表した。東京電力福島 第 1 原発事故後の安全規制強化もあって建設費や維持管理にかかる人件費などが世界的に 高騰している一方で、太陽光発電はコスト低下が進んでいることが主な理由としている。 このことは原子力の経済優位性が薄れていることを印象付ける結果となった。 ◇電力会社が原発建設申請時に経済産業省に提出した発電コストの試算 電力企業が原子力発電所建設申請時に経済産業省電源開発調整審議会に提出した発電原 価の試算の一部は以下のとおりである(塩谷喜雄「本当の原発発電原価を公表しない経産 省・電力業界の詐術」新潮社ニュースマガジン、2011 年 7 月 7 日付より)。 ・柏崎刈羽 5 号機 19.7 円/kWh ・浜岡 3 号機 18.7 円/kWh ・泊原発 1 号機 17.9 円/kWh ・女川 1 号機 17.0 円/kWh ・大飯 4 号機 8.9 円/kWh ・玄海 3 号機 14.7 円/kWh ・大飯 3 号機 14.2 円/kWh ・玄海 2 号機 6.9 円/kWh なお、これらの原子炉設置許可申請書に示されている発電原価は、運転年数として、例 えば税制上の法定耐用年数に該当する 16 年を使用している。原子力発電所を実際に 40 年 間運転することを想定した場合には、発電原価はより安価になる、と述べられている。 273 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○二酸化炭素排出量 温室効果の原因となる二酸化炭素の排出量が少ないことは、原子力発電の利点の一つと されている。電力中央研究所が 2000 年 (平成 12 年) に発表した試算によれば、原子力を はじめとする各種発電方式について、発電所の建設から廃止までの発電量と二酸化炭素排 出量を考慮した、1kWh あたりの二酸化炭素排出量は以下のように試算した。 ・原子力 22 グラム ・水力 11 グラム ・LNG 火力 608 グラム ・石油火力 742 グラム ・石炭火力 975 グラム 原子力発電では核分裂反応に起因する二酸化炭素の排出は全くないが、発電所の建設、 運用、廃止や燃料の生産、輸送、廃棄物の処分等に起因する二酸化炭素の排出も上記の試 算には含まれているため、若干の排出が見られる。この点は水力発電も同様である。 発電所建設費の例 ・原子力 北海道電力泊発電所 3 号機 約 2,926 億円 91.2 万 kW (32 億円/万 kW) 2009 年 12 月営業運転開始 ・揚水型水力 東京電力葛野川発電所 約 3,800 億円 160 万 kW (24 億円/万 kW) 1999 年 12 月営業運転開始 ・天然ガス 電源開発市原発電所 約 100 億円 11 万 kW (9 億円/万 kW) 2004 年 10 月営業 運転開始 ・石炭 北陸電力敦賀火力発電所 2 号機 1,275 億円程度 70 万 kW (18 億円/万 kW) 2000 年 9 月営業運転開始 ・風力 電源開発郡山布引高原風力発電所 約 120 億円 6.6 万 kW (18 億円/万 kW) 2007 年 2 月 営業運転開始 ○原子力発電の問題点 原発も原爆も同じであるが、扱っている対象が放射能を持つ放射性物質であるという事 実である(原発は表の顔で、原水爆は裏の顔である。原水爆の開発と実験、それを運搬す る核ミサイルの開発、そして、現在も人類は膨大な原水爆というものを持っている) 。 原理的に放射能は半減期にしたがってしか減少しない。自然界にこれを消し去ってくれ る仕組みが組み込まれていない。20 世紀の科学の歴史(量子論、原子の研究)で述べたよ うに、いわゆる(地球の)自然界の仕組みは化学反応の範囲ですべて行われていて、原子 核を分裂(融合)させる反応はない(ただし、宇宙からの微量な宇宙線や地球の自然の核 崩壊は起きているので自然界にも一定の放射能はあることは述べた。人類を含めて地球上 のあらゆる生物は長い時間をかけて、それに適応するようにできている。しかし、急激に それを超える放射能に安全であるという保証はない)。 274 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― つまり、放射能については、これを原理的に打ち消す方法がなく、半減期にしたがって 減少するのを待つしか方法がないということである(原理的にないわけではないが、原子 炉の中で核種変換をやると膨大なコストがかかり、原発の意味はない)。 《人類に半永久的な放射性物質管理が可能か》 ウラン等の原子番号の大きい物質は、崩壊後の物質も放射性物質(娘核種)になるため、 含まれる全ての放射性元素が崩壊を終え、鉛などの安定同位体に落ち着くまでは、非常に 長い期間(10 万年のオーダー)を要するものもある。 放射性物質の量は半減期を経過すると元の半分になるが、残った放射性物質がさらに半 分(つまり元の 1/4)になるのにも、同じだけの期間が掛かる。たとえば、半減期が約 34 年であるセシウムの場合、34 年後に崩壊が終わり消失するわけではない。セシウムは、34 年後に元の量の 50%、68 年後に 25%、102 年後に 12.5%…と量が減っていく。放射性物質に よっては、半減期が 10 万年というものもあり、これは人間の歴史からみると半永久的であ るということになる。 つまり、人類の歴史の時間と地球の歴史の時間には本書で述べてきたような時間のギャ ップがあることを認識しなければならない。人類が農業をはじめ、その後、興ったすべて の文明を含んでも、1 万年にしかなっていない。それを超える年月、人類は核廃棄物を安全 に保管できると誰が言えるであろうか。 ということは、原子力発電所では事故が絶対に許されないこと(放射能がもれないこと) と放射性廃棄物を半永久的に保管管理しなければならないという 2 点が問題となる。 原子力発電所から出る放射性廃棄物の場合、原子炉で燃焼した燃料棒(使用済燃料)や、 作業員が使用した衣服(放射線防護服)やこれの除染に用いた水など多岐にわたる。使用 済燃料は一時保管した後、再処理工場に運ばれる。再処理工場からは、燃料棒の部品、ま た燃料棒のペレットに含まれる核分裂反応による生成物(核分裂生成物)や、湿式による ウラン・プルトニウムの分離抽出の過程で発生した廃液などの放射性廃棄物が発生する。 さらに運用終了した原子力発電所の解体時には、放射化により放射能を持った原子炉そ のものが放射性廃棄物となってしまう(軍事分野では、同様の廃棄物として、核兵器製造 過程で生じた廃棄物や、耐用年数を過ぎ廃棄処分となった核兵器、耐用年数を過ぎ廃艦処 分となった原子力潜水艦、原子力艦船などがある) 。 原子力施設や核兵器関連施設以外にも、原子力の研究施設や大学、医療分野や民間産業 分野、農業分野などでも放射性物質を使用する場合があるので、放射性廃棄物は発生する (こちらの方は量的には原発などと比べれば、ずっと少ない)。 過去に放射性廃棄物の処分については様々な方法が検討された。海洋投棄(禁止) 、氷床 処分(禁止) 、宇宙処分(米が検討、コストと不確実性から不採用)、地中直接注入(米、 275 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ソが実施)などが検討され、このうち海洋投棄(各国で実施され 1993 年に全面禁止)と地 中直接注入処分(汚染の危険から断念)は実施されたが、現在はいずれも不可となってい る。 放射性廃棄物( 「高レベル放射性廃棄物」 )の最終処分に関して残る方法は、世界的に深 地層への「地層処分」が計画あるいは検討されている。 一般的には、高レベル放射性廃棄物は使用済み燃料であり、日本では使用済み核燃料を 再処理した際の廃液およびそれを固化したガラス固化体のことを指す。核分裂生成物(FP) と超ウラン核種(TRU/MA)が主なもので、前者は強い放射線を放ち、後者も長期間放射線を 放出する。 これらの廃棄物は、半減期の長い長寿命核種(特に、マイナーアクチニド (MA) のネプ ツニウム、アメリシウム、キュリウムには、半減期が数万年に及ぶものもある)が含まれ ており、時間経過による減衰は考慮できないため、短寿命で放射線量の多い放射性物質の 減衰を目的として、一定期間の管理を行ったうえで、人間界から隔絶するために地下深く に埋設して処分する地層処分が、主に関係する諸国で検討されている。 ドイツでは既に地下の岩塩層や廃鉱跡地に埋設処理することで具体的な対策を検討中で ある。 フィンランド・ユーラヨキのオルキルオト島のオンロカ(Onkalo)廃棄物貯蔵施設 が 2020 年から 100 年間稼働予定で建設中である。原子力発電施設を持つ各国では建設地の 設定が急がれている。 日本は、再処理してウラン 235 とウラン 238 とプルトニウムを取ったあとの高レベル放 射性廃棄物をガラス固化して地上管理施設で冷却・保管し(30 年~50 年) 、その後、地層 処分して数万年以上にわたり隔離・保管する方法を検討中である。1 トンの使用済み核燃料 から、高レベル放射性廃棄物は最終的に 30~50 キログラム+α まで減らせるが、大量の低 レベル放射性廃棄物が出てしまう。また、高レベル放射性廃棄物はガラス固化するものの、 半減期数万年のマイナーアクチニド (MA) と高発熱量の核分裂生成物(FP)が混入している ため、冷却しながら 30~50 年、その後数万年の保管が必要になるのである。 その後(2016 年 8 月 31 日) 、具体的に原子力規制委員会は以下のように高レベル放射性 廃棄物は最終的処分(管理)の方法を決定したことは述べた。 原発の廃炉で出る放射性廃棄物は、使用済み核燃料から出る放射能レベルが極めて高い 高レベル放射性廃棄物と、原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1) と、原子炉圧力容器の一部などレベルが比較的低い廃棄物L2と、周辺の配管などレベル が極めて低い廃棄物L3に大きく分けられる。 使用済み核燃料から出る高レベル放射性廃棄物の処分方法は、地震や火山の影響を受け にくい場所で 300 メートルより深い地下に埋め、電力会社に 300~400 年間管理させる。そ 276 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の後は国が引き継ぎ、国が 10 万年間管理することになる。 原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)の処分方法は、地震や火 山の影響を受けにくい場所で 70 メートルより深い地中に埋め、電力会社に 300~400 年間 管理させる。その後は国が引き継ぎ、10 万年間管理することになる。 以下同様に埋められる深さは放射能レベルによって変る。高レベル放射性廃棄物は地下 300 メートルより深くに 10 万年、L1は地下 70 メートルより深くに 10 万年、L2は地下 十数メートル、L3は地下数メートルとなる。 電気事業連合会は、国内の原発 57 基が廃炉になれば、L1だけで 8000 トンの廃棄物が 出ると試算している。今後も新規原発を建設していけばその廃炉がこれに加わってくる。 使用済み核燃料から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分地は国が科学的見地から選定 して自治体等の同意を得るとしている。L1~L3の処分地は、電力会社が確保する必要 があるが、候補地選びは難航しそうである。 すでに廃炉作業が始まっている日本原子力発電東海原発(茨城県)では、最も放射能レ ベルの低いL3に限って原発の敷地内に埋めることを 2016 年 1 月、地元が容認した。しか し、これが受け入れが決まった全国で唯一の例で、L2やL1の受け入れを容認した自治 体はない。 《核種変換(消滅処理)はコスト的に可能か》 また、核分裂生成物(FP)の 30 年減衰保管管理はコストがかかり、半減期の長い長寿命核 種を数万年も管理はできないので、高速増殖炉/加速器駆動未臨界炉で中性子を当てて核分 裂させ半減期の短い物質に変えて燃やしてしまう処理方法も研究されている。 特に加速器駆動未臨界炉の場合、例えば 80 万 KW の加速器駆動未臨界炉ではマイナーア まと クチニド (MA) を 60%以上含む燃料を装荷して、軽水炉 10 基分の MA を 纏 めて焼いて短半 減期に変えてしまうことができるため、有望視されて研究が急速に進んでいる。これを核 種変換(消滅処理)という。核種変換ができたとしても、その原理からしてコストが高く なってしまうことが予想され、原発で発電する意味がなくなってしまう。 《すでに満杯状態の放射性廃棄物》 このように原子力発電の最大の問題点は、放射性廃棄物の処理方法がないままに実用に 供してしまったことである(その経緯はアメリアの原発開発で述べた)。たとえば、これを 日本においてみると、原発が稼働してから、まだ、40 数年であるが(徐々に基数を増やし て 54 基(現在 50 基)になっているが)、すでに様々な放射性廃棄物の保管・処理が問題と なっている。そのうち比較的低レベルの放射性廃棄物の一部は処分に付されているが、大 半は最終処分待ちの状態で各原発、核燃料施設、研究施設などで保管されている。 《原子炉は原理的にコントロール不能》 277 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 原発の歴史で述べたように、放射性物質は原子炉の中で制御されているときだけ安全 で一旦、電源喪失、冷却不能、その他の原因で制御できなくなると暴走をはじめ,原子炉 のメルトダウンがはじまって、それが終了するまで止める方法がない(チェルノブイリの ようにコンクリートや鉛で石棺にして何千年、何万年も置いておくしかない)。 普通の機械・プラントは電源が切れたり、故障したりしたら、そこで止まるが(爆発し てもそれで止まるが)、原子炉はそれから暴走がおこり、メルトダウンがはじまり、それ はいかなる方法でも止めようがない、しかも、膨大な放射能をまき散らし、その影響がな くなるまでには万年のオーダーとなり、その周辺はまったくの不毛の地となってしまう。 このような機械システムについては、人類はまだ、原理的に取り扱いの方法論をつかん でいない。人類が機械らしい機械をつくりはじめて、つまり、イギリスの産業革命以来、 250 年になるが、新しい機械システムの導入には事故がつきもので、鉄道の鉄橋事故やジェ ット旅客機事故の例でも述べたように、根本的にその原因を調査して(その結果、それま での人類が知らなかった新しい知見を得て)、新しい設計法を生み出し、それで試作・実 験・破壊試験をして、事故時の対策などのソフト面もマスターして、この世の中に一つ一 つ新しい機械システムを導入してきている(それでも、また、事故は起きている。その原 因を究明して・・・その繰り返しでこの世の機械システムは存在している)。 つまり、機械設計をするときには、最初に理論的な強度計算をして、その計算より何倍 かの安全係数をかけて設計をして、全機試作して、それを破壊(爆発させて)して、予定 どうりの強度なり性能がでるかを確かめてから実用に供されている。その過程でフェイル セイフ(fail Safe。誤操作・誤動作による障害が発生した場合、常に安全側に制御する設 計手法)の思想で、必要なところには 2 重、3 重の安全装置を組み込んでおくようにしてい る。 ところが、この原子力発電システムでは、原子炉が冷却できなくなったら、お手上げに なる機械システムである(原理的にいかんともしがたい。原子炉が爆発しないようにバブ ルを開けて放射能を放出し続けるしか、あるいはメルトダウンにまかせるしかない) 。これ では安全な機械システムとはいえない。人類は、まだ、基本的に安全な原子力発電システ ムを開発していなかったのである。ある条件下においては安全であるが、ある条件下では 手が付けられない。これでは開発したことにはならない。 全機破壊試験もしていないようである(アメリカは初期の段階でやっているかもしれな いが、情報公開していないから、他の国はわからないだろう。セラフィールドでも、スリ ーマイル島でもチェルノブイリでも福島原発でもメルトダウンしているかどうか(実際に はこの 4 件はすべてメルトダウンしていた)、わからないだろうし、わかったとしてもどう しようもなかっただろう。もともと対処のしかたなぞ、どこにもないのだから。 278 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ある科学技術者が事故の確率論で、原発事故は隕石が落ちる確率より少ないとか、原発 事故での死者は航空機事故の死者より、はるかに少ないとか言っているが、事故の影響が 広範囲で万年も続くものがあるかといいたい。タンカー事故も海洋を汚染してよくないが、 それでもあの石油を食べてくれる微生物がいて、数年後には海も自然をとりかえす。陸上 の汚染も何らかの生物がやがて自然を回復してくれる。放射能を食べてくれる微生物はい ないのである。 20 世紀前半の科学で述べたように、この地球上は、10 のマイナス 9 乗の世界の化学反応 の世界である。核分裂(核融合も同じ)は 10 のマイナス 10 乗以上の世界のことであって (普通は太陽や宇宙の世界で起きていることで) 、我々人類が人工的につくりだしたもので, 地球の自然はそれを(経済的、安全に)処理できないのである。それを我々人類が原発を 500 基、1000 基、2000 基と増やしていったら、100 年後、500 年後、・・・の子孫がどうな るか考えてみてほしい(個々には微量の放出であっても、最後はすべて地球の環境(海な ど)が受け皿となり、放射能は徐々に高まる)。 いずれにしても、以上ように放射性廃棄物の最終的な処分対策・技術は未確立の状況で あり、これは「トイレ無きマンション」などと表現されている(人類の未来がかかってお り、 「トイレ無きマンション」よりはるかに深刻であるが)。 これは前述した原爆開発、原発開発の歴史で述べたように、放射性廃棄物がどうなるな どあまり考えず、とにかくマンハッタン計画で原爆を開発した経緯、それから原爆を日本 に使用した経緯、戦後アメリカが核の国際管理を拒否した経緯、核の平和利用をアピール するためアイゼンハワー大統領の時、安全性を厳密に検討せず、つまり、メルトダウンを 不問にして原発を大型化したこと、放射性廃棄物の最終処分方法の技術が未確立のまま(検 討すれば原理的に経済的な範囲でそのような技術はありえないことがわかったはずである。 数万年も保管すればその管理費は天文学的な数字になる)、やっているうちに何とかなるだ ろうという甘い考えから、みぎり発車した経緯などから生じてきたことである。 とても資本主義の長期的、合理的、科学的精神とは相容れないものであると言えよう。 279 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第6章 第二次世界大戦後の石油産業の発展 【6-1】第二次世界大戦後から石油危機までの石油産業 【1】国際石油資本(メジャー)の中東進出 《国際石油資本(メジャー)とは》 ロックフェラーが創設したスタンダード石油が、1911 年、史上初めてシャーマン法(独 占禁止法)により 34 社に分割され、それらから、エクソン、モービル、シェブロンなどの 石油巨大企業が育っていった。これらの石油企業は資本力と政治力で石油の探鉱(採掘)、 生産、輸送、精製、販売までの全段階を垂直統合で行うようになり、国際石油資本または 石油メジャーと呼ばれるようになった。石油メジャーのうち、とくに、第二次世界大戦後 から 1970 年代まで、 石油の生産をほぼ独占していた 7 社はセブン・シスターズと呼ばれた。 7 社のうち 5 社がアメリカ資本、残りの 2 社が、イギリス資本系のブリティッシュ・ペト ロリアム(BP)と、イギリスとオランダ資本系のロイヤル・ダッチ・シェルであった。フ ランス石油(CFP、現 TOTAL)を加え、エイト・メジャーズとも言った。資源ナショナリズ ムにより石油輸出国機構(OPEC)が主導権を握るまで、世界の石油のほぼ全てを支配して いた。 もともと、中東の石油を握っていたのは中東に多くの植民地を持っていたイギリスであ ったが、それにとってかわったのがアメリカである。そもそもアメリカの中東への進出は その石油支配にあった。アメリカ資本によるアラブの石油支配は、メジャーの一つソーカル 社が、1931 年にアラビア半島ではじめてバーレーンでの石油採掘に成功した勢いにのって、 1933 年にサウジアラビアと利権協定を結んだことに始まった。1938 年に始まるサウジアラ ビアの石油生産は、アメリカ系メジャーが結成したアラムコ社によって、つぎつぎに大油田 が発見され、第二次世界大戦後に急増した。 その後も、サウジアラビアやクウェート、リビアなどで大規模な油田が開発されたが、 セブン・シスターズなどのメジャーの独占状態は続いた。 第二次世界大戦後、石油の需要は急拡大したが、1950 年代、大規模な油田開発が続き、 原油の供給過剰が慢性化し、それに伴いメジャーは公定価格を段階的に引き下げた。メジ ャーの石油需要の予測と生産割当てが功を奏し、1960 年代末までは、国際カルテルによっ てほぼ安定した価格で原油が取引された。この鉄壁のような国際石油資本の国際カルテル に風穴を開けたのが OPEC の石油戦略だったのである。 ○本格的に稼働し始めた中東石油開発 第二次世界大戦中、英米の連合軍は主としてアメリカ産原油を原料とする石油製品を使 っており、中東産原油の利用は限定的なものだった。だが、中東地域の推定埋蔵量はきわ めて多量であって、戦後の状況はまったく変ってしまった。第二次世界大戦後、アメリカ 280 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― での生産量はその需要に追いつかず、中東がヨーロッパだけでなく、急激に石油の供給不 足に陥ったアメリカへの重要な輸出基地としての地位を確立したのである。 中東の石油開発は、前述したように戦前から 4 つの企業グループ、イラク石油、アラム コ、クウェート石油、そして最古参のアングロ・イラニアン石油が行っていた。 戦後も、イランとクウェートの油田開発は、当時は政治的には困難な状況でもなく、進 められた。 イラク石油では、キルクーク油田からのパイプライン建設、モスル油田の開発とパイプ ライン建設などがあり、バスラ油田、ルメイラ大油田など多くの油田が発見された。シャ ット・アル・アラブ川河口のファオに港が建設されて、北部の産油地域とパイプラインで 結ばれたことで、1949 年初頭から石油の輸出が可能となった。 カタール半島では,ドウーハン油田がすぐに生産を開始し、ウム・サイドに建設された 備蓄と積載のための石油ターミナルは 1952 年から業務を開始した。 ソーカル、テキサコが折半で出資したアラムコについては、サウジアラビアの生産地と 地中海東岸の石油ターミナルを結ぶパイプラインを敷設する費用は 2 億ドルと見積もられ、 このときまでに両社の支出額は 1 億 6000 万ドルに達していた。そこで、ニュージャージー・ スタンダード石油とモービルの 2 社が、アラムコへ加入することとなった。ここで 1928 年 に交わした赤線協定が問題となった。詳細は省くが、最終的には 1928 年当初の協定を緩和 して、全署名企業が満足できるような合意がなされた。 この合意によると、赤線協定は廃止され、これを望んでいたアメリカ企業グループはア ラムコの参入が可能となったほか、各グループから示される需要を考慮して生産開発計画 には柔軟性が取り入れられた。将来の需要に対処するため、各社はキルクークと海上輸送 の積載港として整備されるシリアのバニアス間に口径 75~80 センチメートルの巨大なパイ プラインを早急に建設することを決定した。年間 2000 万トンの送油能力を有するこのパイ プラインの建設は 1951 年 1 月に開始され、1952 年 8 月にその利用が始まった。 こうしてアラムコがカルフォルニア・スタンダード石油、テキサコ、ニュージャージー・ スタンダード石油、モービルの 4 社によって最終的に設立された。その出資比率はモービ ルを除く 3 社がそれぞれ 30%、モービルは 10%であった。 ○利益折半協定の制定 石油産業の発祥地であり、戦後も最大の生産国であったアメリカ(1945 年当時、ベネズ エラの 5 倍、中東の 8 倍、ソ連の 11 倍)では、石油業者が土地所有者に支払う油田使用料 は、一般的には油井に掲示された原油価格の 12.5%だった。 ベネズエラはロイヤリティの金額と計算方法の見直しを、終戦前から求めていた。ベネ ズエラ政府には利益全体を採掘業者、つまり石油業者(シェルとスタンダード石油が主要 281 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 企業だった)と受け入れ国(ベネズエラ)が折半することがより公平であると思われた。 この原則は 1943 年の石油法に反映された。 こうして始まったフィフティ・フィフティ(50/50)と呼ばれるこの折半方式は、1950 年 の協議でアラムコが採用し、それ以後いたるところに広まっていった。このフィフティ・ フィフティの折半方式は、イラクでは 1951 年から、カタールでは 1952 年 9 月から適用さ れることになった。ところが、イランでは採掘権に関する条項の再交渉がより困難な政治 状況下で行われ、交渉は重大な危機を迎えた。 ○イラン石油国有化問題 イランでの石油生産は戦後 5 年間で倍増し、1950 年には年間 3300 万トンのペースまで達 した(イランはこうして世界第 3 の産油国となった) 。イランには会社の総利益の 20%がロ イヤリティとして支払われていた。 第二次世界大戦中の 1941 年、国王モハメド・レザー・パーレビは、ナチスに賛同したこ とを理由に退任させられた父親に代わり、イラン国王に即位していたが、内気で優柔不断 で、実際の政治は首相にまかせていた。戦後のイランはイギリスの影響力の強い首相が続 き、アバダンのイギリス系アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)はイギリスによって石油 利権を支配されていた。行政と政治に携わるエリートたちの汚職と無能が国民の不満を増 大させ、ひいてはイギリスに関するすべてのもの、とくに石油企業に対する憎悪と反感が 増大していた。 そのようなかで、1949 年、石油企業とイラン政府のあいだで関係を見直すための予備交 渉が始まった。採掘料の 50%の増額とさらに過去の埋め合わせという名目で莫大な金額が ただちに支払われることが決まった。 イランでは 1940 年代末から石油利権回収の要求が高揚していたが、国民は、この結果は 引き続きイランにとって不利な状況が押しつけられると考えた。石油会社との協定破棄を 求める国民戦線が結成され、同戦線の指導者のモハメド・モサデグ(1882~1967 年)は国 民議会(国会)の石油委員会委員長になった。 モサデクは「アングロ・イラニアン石油会社の利益をイギリスとイランが半々ずつ受け 取る」という石油協定の改正案には、イギリスのイラン支配継続の意図あるとして、断固 として反対した。石油国有化はイランの完全な主権回復を主張する運動のシンボルとして 盛り上がりを増した。 アリ・ラズマラ首相は 1950 年 3 月に国会で、政府は石油企業の国有化を考えておらず、 交渉でつめた新しい協定の採択を求めていると表明した。その 4 日後に彼は暗殺された。 新首相にモサデグが任命された。彼の提案により、国会が国有化法を採択し、1950 年 5 月 282 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 1 日に国王(シャー)によって承認された。こうしてアングロ・イラニアン石油会社から石 油利権を取り戻し、石油産業は国有化された。 これによってモサデグらは、石油の収益を国民経済の向上に活用しようと構想していた が、イギリスは、イラン石油を積んだタンカーの航行を封鎖し、国際石油資本(メジャー) もイラン石油の取引を拒否したために、現実には、イランは石油が売れなくなり石油収入 を失うことになってしまった。もっとも、国際司法裁判所は、イラン政府の措置を不当と するイギリス政府の訴えをしりぞけ、1952 年には、この問題は同裁判所の管轄外であると いう判断を示して、事実上、イランの「資源主権」の主張を認めた。 イギリスの経済制裁やメジャーによるイラン石油の国際市場からの締め出しのためにイ ラン政府は財政難に瀕したが(この危機以前には、石油収入が国家収入の 50%、外貨収入 の 90%を占めていた) 、国有化政策は続行された。しかし国民戦線の内部では離反者が出る などしてモサデグの支持が失われていった。 しだいに国王とモサデグとの間で、国政の権限をめぐる対立が深まり、1952 年 7 月に、国 王が親米派のカワームを首相にすると、国民戦線や左翼のトウーデ党は強力な抗議行動を組 織した。モサデグは辞任を強制されたが、その後の選挙で圧勝し再選された。この世論の 圧力を背景にモサデクは首相の地位を回復し、国王との対決姿勢をより強めるようになっ た。また、石油の販路を求めて 1953 年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、ソ連との関 係を深めていった。このことは西側諸国の反感を買うことになった。ここに至ってアメリ カは、モサデグのもとで左翼のトウーデ党が勢力を拡大していることを危惧し、モサデグ政 権打倒に加担するようになった。 モサデグはシャーに亡命を余儀なくさせ、共和国を宣言したが、数日後の 1953 年 8 月 19 日、アジャックス作戦として知られるアメリカの CIA とアメリカ合衆国政府の策謀によっ てシャーは帰国して復位、モサデグは逮捕され、新任の首相がシャーによって任命された。 この出来事を通じて、アメリカはイランに対する支配的な立場を確立した。1954 年 9 月に は、イラン石油に関して 8 大石油資本(メジャー)によるコンソーシアム(国際借款団)と の協定が成立し、コンソーシアムがイラン国営石油会社の代理をすることになり、ここに、 中東石油に対するアメリカの優位が決定的になった。 具体的には、イラン国営石油会社が設立され、アングロ・イラニアン石油のすべての石 油鉱脈と石油関連施設の所有権を引き継いだが(アングロ・イラニアン石油は石油関連施 設の 60%を放棄したが 6 億ドルの補償金を受けとった) 、それらの開発はコンソーシアムに 加盟する西側企業に独占的に委ねられた。その内訳は、アングロ・イラニアン石油が 40%、 ニュージャージー・スタンダード石油、モービル、カリフォルニア・スタンダード石油、 283 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ガルフ石油、テキサコが各 7%、アメリカの独立系企業グループが 5%(つまり、アメリカ 系が 40%) 、シェルが 14%、フランス石油が 6%となっていた。 コンソーシアムが生産する石油は、イラン国営石油に対して原価で引き渡される。イラ ン国営石油は公示価格で販売すると得られたはずの利益の 50%を受け取れるよう設定され た価格で、 (加盟各社がそのためにわざわざ設立した)さまざまな販売会社に対して引き渡 すという仕組みができた。 こうして、1952 年から 53 年には年間 100 万トンにまで下落していた生産量は、1955 年 には 1600 万トンにまで回復し、その後も増加を続けて 1973 年には約 3 億トンに達した。 ○中東への新たな参入 中東のあちこちで石油が発見されるようになると、新たに参入しようという動きがでて きた。第一次世界大戦後の 1922 年に始まった国境画定作業において、イギリスは サウジアラビアとクウェート、サウジアラビアとイラクの間に中立地帯と呼ぶ 2 つの緩衝 地帯を設定していた。この中立地帯では、国境を接する両国が同等の権利を持って管理し、 石油の権益も折半される。 第二次世界大戦後、アメリカ(国務省)は独立系企業が中東に参入してメジャーと競争 する願望を持っていた。まず、1947 年、アメリカン・インディペンデント石油、通称アミ ノイルと呼ばれる独立系石油企業コンソーシアムはクウェート・サウジアラビア間の中立 地帯の採掘権をクウェートから獲得したが、その条件はこれまでに適用されてきたものよ りも非常に厳しかった。 同じ中立地帯のサウジアラビア側の権利はパシフィック・ウェスタン石油に付与された が、その条件はアミノイルに課せられたものより、さらに費用のかかるものだった。 アラビア石油の日本子会社である日本輸出石油株式会社の創始者である山下太郎は、サ ウジアラビアとクウェートの中立地帯沖合の採掘権を交渉した。資本金の供出を求めず、 さらに有利な利益分割(サウジアラビアに対しては 56%、クウェートには 57%)を申し出 て、採掘権を得ることに成功した。運良く最初の試掘で石油を発見し、1960 年 1 月から生 産が開始され、その 4 年後に生産量は 1200 万トンに達した。 イタリア国営石油株式会社は、イラン国営石油と同額ずつの資本金を出して設立する子 会社によって、ペルシア湾北部の 1 万 1300 平方メートルと海上の 6000 平方メートルの探 鉱を行う権利を得たが、石油発見までの探鉱にかかる費用は全額イタリアが負担し、その 後の開発と営業にかかる費用は両社が折半して負担し、そして利益は平等に分配するとい うものであった。 これらの協定の新方式は、中東での石油開発について、 「受け入れ国」の政府がこれまで 以上の要求をするようになっていったことを示していた。そして、こうした要求事項は政 284 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 治的激変が起きた際、イランで起きたように露骨に表面化する可能性があった。1956 年か ら 57 年にかけてのスエズ危機、1958 年のイラクがまさにそうであった。 ○1956 年のスエズ危機 エジプトでは、1952 年 7 月、ナギーブやナセルを中心とする自由将校団の軍人によるク ーデターが発生し、ファールーク国王は追放され、共和制がしかれた。このエジプト革命 の実質的指導者は 34 歳のナセルであり、1956 年 6 月 25 日、ナセルは正式に大統領に就任 した。 この革命政権の国内政策は、土地改革と基幹産業と外国企業の国有化であり、また、ア スワン・ハイダムに象徴される重工業化であった。ナセルはスエズ運河地帯に駐留してい たイギリス軍を撤退させる協定を結ばせる一方で、米ソ二大国のどちらにも関わらない非 きゅうごう 同盟主義にたつなどアラブ世界の 糾合 に努めた。 折から、パレスチナ・アラブのゲリラ基地になっていたガザ地区に対するイスラエルの攻 撃により、エジプトは軍事力増強の必要にせまられていたが、バグダード条約機構(アメ リカ中心の中東の軍事同盟)に接近して武器を獲得することは、武器供給者としてのイギ リスやアメリカに対する従属を生み出すことになり、自立をめざしたエジプト革命の指導 者としては、選択しえない道だった。ナセル政権は、ソ連に接近して、チェコスロバキア を通じて武器を入手することに成功した。 あわ このエジプトのソ連接近に 慌 てたイギリスは、アスワン・ハイダム建設に対して、アメ リカと協同で援助を与えることを提案していたが、1956 年 7 月には、アスワン・ハイダム 建設計画への援助提案を撤回してしまった。 これに対して、1956 年に大統領に就任したナセルがとった対抗措置が、1956 年年 7 月 26 日のスエズ運河の国有化宣言だった。1869 年に開通したスエズ運河は、1875 年以降イギリ スが運河会社の経営を支配し、1956 年当時、年間 1 億ドルあまりの運河会社の通航料収入 のうち、エジプトのものになったのはわずか 300 万ドルで、エジプトに対する外国支配のシ ンボルになっていた。当時のスエズ運河は、ペルシア湾地域からの原油の輸出の伸びに伴 って、毎月 100 隻の船舶が通過していた。ナセルは、このスエズ運河を国有化し、その通 航料収入をアスワン・ハイダムの建設にまわそうとしたのである。 い ら だ この措置は、エジプト国民の熱狂的支持を受けたが、植民地権益の喪失に 苛立 つイギリ スとフランスは強く反発した。このナセルのやり方に憤慨したイギリス首相イーデンは運 河の国際管理を回復するために数ヶ月間にわたりエジプトとの交渉を続けたが、らちがあ かずフランスと協力してエジプトへの軍事行動を構想し始めた。 スエズ運河の利権を手放したくない英仏と、チラン海峡における自国船舶の自由航行権 を確実なものとするためにエジプト軍をシナイ半島から追い払いたいイスラエルは利害が 285 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 一致したため、3 ヶ国は事前に調整を重ね、10 月末の決行を決定した。英仏の海軍艦隊が 地中海エジプト沿岸に派遣され、侵攻を待った。 1956 年 10 月 29 日午後 5 時、イスラエル国防軍ラファエル・エイタン中佐指揮の落下傘 兵 395 人が国境を越えて、シナイ半島のスエズ運河から 72 キロメートルの地点のミトラ峠 に降下し、侵攻を開始した。第一次中東戦争のときとは違い、英仏の兵器で重武装したイ スラエル軍に対してエジプト軍は防戦一方となり、撤退を繰り返した。1956 年 10 月 30 日 午後、ロンドンでイギリス政府により、スエズ運河から少なくとも 16 キロメートル内陸に 入った地点まで兵力を撤収するようにという最終通告がイスラエル、エジプト両国代表に 手渡された。 ナセルは苦しい立場におかれたが、結局通告を拒否して徹底抗戦の意思を表し、エジプ ト軍は、スエズ運河を物理的に通航不能にさせる実力行使に出た。すなわち、艦船を運河 に沈めてバリケードを築いたのである。 英仏軍は 11 月 5 日、シナイ半島への侵攻を命じた。さらに英軍は落下傘部隊を以て、ス エズ運河西岸ポートサイドのエジプト軍を急襲した。ここまでは、3 ヶ国にとって予定通り であったが、ここで番狂わせのことが起こった。 エジプトの降伏は目前かと考えられたが、アメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領が、 冷戦で対立していたソ連のブルガーニン首相とも手を組み、停戦と英仏イスラエル軍の即 時全面撤退を通告した。連合国として賛成すると考えていたアメリカがエジプト側に回っ たことは、侵攻 3 ヶ国にとって大きな誤算であった。 アメリカは、スエズ運河会社がもともとエジプトのものであったことから、エジプトが運 河の自由通航を保障するのであれば、軍事行動をとるのは得策でないと判断していた。さ らに、イギリスとフランスがアメリカに通告することなく戦争を開始したことは、アイゼ ンハワー大統領の怒りをかっていた。それにアメリカは、ナセルをこれ以上追い詰めて、 ソ連が介入してくることを恐れたのである。ソ連は、もちろん、対エジプト軍事行動を激 しく非難していた。 米ソに共闘されて、イギリスとフランスは、国際社会でまったく孤立してしまった。1960 年 10 月 30 日の国連安保理の即時停戦と撤兵を要求する決議は、イギリスとフランスの拒否 権で成立しなかったが、国連は、1950 年の総会で決議されていた、安保理が平和の維持に関 する一次的責務を果たせないとき、総会がそれにかわって行動することを認めるという「平 和のための結集」措置を発動して、緊急総会を招集し、圧倒的多数で停戦と撤兵を求める決 議を採択した。 アメリカ合衆国・国連による圧力を受け、11 月 6 日に英仏が停戦を受諾し、11 月 8 日に はイスラエルも受諾し、全軍の停戦に至った。 286 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この間、エジプト軍が、このスエズ運河を通航不能にさせる実力行使に出て、艦船を運 河に沈めてバリケードを築いたので、ペルシア湾の石油はもはやスエズ運河を経由するこ とができず、アフリカ大陸の南端を運送せざるをえなくなった。すぐに船舶不足が起り、 石油の運送料は急速に上昇した。スエズ運河に沈んだままの船を取り除くために世界各国 が尽力し、イラク石油は数ヶ月のうちに損害を受けたパイプラインを修繕した。 6 ヶ月間でスエズ危機の悪影響を弱めることができたが、この出来事は、目立たない形で ぜいじゃく はあるが実際にソ連の支持を受けていたアラブ民族主義の波に直面した西側勢力の 脆弱 EA さを明らかにしてしまった。 ○1958 年のイラク危機 イラク王国では、エジプトのナセル大統領に感化され、アブド・アル=カリーム・カー シム准将とアブド・アッサラーム・アーリフ大佐が率いる自由将校団がクーデターを起こ し、1958 年 7 月 14 日、君主ファイサル 2 世と摂政アブドゥル=イラーフは処刑された。 このクーデターを指揮したカーシム准将は人民共和国の樹立を宣言し、ここにイラク王 国は滅亡した。イラク王国滅亡後、ソ連など東側諸国と関係を結んだカーシム政権のイラ クは「イラク共和国」となり、中央条約機構(アメリカ中心の軍事同盟)から脱退した。 イラク石油はこのような困難な状況にあっても、1955 年から 60 年の間に 41%も生産量 を増やし、その後の 5 年間では 36%増加させた。イラクの収入はもちろん、この増産で潤 っていた。だがカーシム首相はそれで満足せず、1961 年 12 月 10 日、 「法令第 80 号」を発 布して、生産性の高い油井のある 1937 平方キロメートルを除いた 42 万 8000 平方キロメー トルに及ぶ鉱区すべてをイラク石油から取り上げた。 そして現行の取引と生産はそのままに継続させるが、新しい地域はイラク石油が継続し て探鉱するのではなく、新規採掘会社だけに許可されることになった。こうして、1962 年 9 月に新規採掘会社として、国有のイラク国営石油会社が創設された。 1961 年、イギリスはクウェートを独立させた。 イラクはクウェートの支配権を主張した が、イギリスはこれに反発してクウェートに軍を派遣した。 1963 年 2 月、クウェート支配 を主張するカーシム首相は暗殺され、代わりにバース党が軍事政権を作った。 1963 年 10 月になって、イラクはクウェートの自治を承認した。さらにバース党のバクル 政権下で 1967 年にメジャー系のイラク石油会社からルメイラ油田(イラク南部とクウェー トにまたがって存在するイラク最大の油田。湾岸戦争勃発の要因となった)の利権を取り 上げるなど、石油国有化の動きの先駆けとなった。 イラク石油グループはイラクで困難な状況に陥っていたものの、ペルシア湾地域では新 たな石油生産に成功していた。まず、バーレーン島の南、アラビア半島から突きでた小さ な半島であるカタールは石油輸出を 1952 年に開始した。石油生産量は 1960 年には 800 万 287 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― トンを超えていた。次にアブダビで 1954 年にマーバン油田を発見し、生産を開始した。1964 年にはさらに南にあるブハラで、翌年にはアサブでも油田を発見した。こうして、この地 域の産油能力は 1970 年には 2600 万トンにまで達した。 アブダビとドバイの両首長国の沖合については、もともとイラク石油グループには採掘 が認可されておらず、のちにフランス石油が 3 分の 1、ブリティッシュ・ペトロリアムが 3 分の 2 の割合で設立した子会社に採掘権が与えられた。この子会社のまた子会社であるア ブダビ海上操業会社が 2 つの油田を発見し、その生産量は 1970 年には年間 2000 万トンに 達した。 ドバイ首長国沿岸の大陸棚は、良い結果が得られなかったので、フランス石油とブリテ ィッシュ・ペトロリアムは、まだ、中東に参入していないアメリカ企業に門戸を開いた。 こうして、コンチネンタル石油が株式の 50%を買い取って石油探鉱を引き継いだが、最初 の試掘でファテー油田を発見した。この油田の生産量はすぐに年間 600 万トンに達した。 しかし、ブリティッシュ・ペトロリアムはアラスカで発見した巨大油田を開発するため、 ペルシア湾から撤退した。その出資分はフランス石油が引き継いだ。 【2】石油輸出国機構(OPEC)の結成 世界の石油需要は 10 年前から年間 7%の割合で増えていたが、中東、アフリカ、ベネズ エラで大きな油田発見があり、生産国側がかける圧力のため、市場には豊富な石油供給量 が維持された。とりわけ企業間の競争は 1950 年代後半に激化した。それはソ連産の製品が 大量に市場に流れこんできたからでもある。当時、ソ連の生産量は世界第 2 位で、ベネズ エラの生産量を上まわっていた。20%から 25%に及ぶ値引きが行われるようになり、公示 価格から乖離した原油価格は必然的に下落した。 この格差をなくすために、1 社が音頭を取って、1959 年 2 月に公式な「公示価格」を 1 バレルあたり 18 セント値下げし、1960 年 8 月にさらに 10 セント引き下げた。この値下げ は自動的に産油国に支払われるロイヤリティ(公示価格の 12.5%)と利益幅の相関的な値 下げをもたらした。 このことで産油国は強い不満を抱き、1959 年 4 月、サウジアラビアのターリキー石油相 はカイロで第 1 回アラブ石油会議を開いた。石油を寡占していた国際石油資本(メジャー) が、産油国の了承なしに原油公示価格の引き下げを発表したので、これに強い不満を抱い た産油国は国際石油資本に対して、原油価格改定時の事前通告を要求したが受け入れられ なかった。 2 回目の会議は、1960 年 9 月にイラクのバグダッドで開催され、サウジアラビア、ベネ ズエラ、クウェート、イラン、イラクの 5 ヶ国は石油輸出国機構(OPEC)を創設し、その 288 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 主な目的は、 「加盟国の石油政策の調整と統一、そして個別もしくは集団的に各国の利権を 保護する最善の方法を決定する」こととした。 この OPEC は本部をオーストリアのウィーンに置き、創設国である 5 ヶ国に加えて、 1961 年から 75 年の間に、カタール、リビア、インドネシア、アラブ首長国連邦のアブダビ、 ドバイ、シャルジャの各首長国、アルジェリア、ナイジェリア、エクワドル、ガボンが加 盟して 12 ヶ国となった。 しかし、最初の 10 年間、OPEC は、石油市場や各社の動向を監視し、対立する勢力を探り, 活動準備をするだけだった。1973 年 10 月まで OPEC が一つの機関として介入することはな く、石油企業各社と生産国間の話し合いが直接もたれていただけだった。 ○6 日戦争(第三次中東戦争) 1967 年 5 月、エジプトのナセル大統領はシナイ半島の兵力を増強し、国連監視軍を退去 させ、イスラエルへの石油供給を中断させるため、イスラエル艦船に対するチラン海峡(シ ナイ半島先端部とアラビア半島北西部との間にある海峡で海峡の幅は 8 キロメートル)の 封鎖を宣言した。 この脅威を前にして、6 月、イスラエルはすべての国境でエジプトを奇襲攻撃し、宣戦布 告をした。ナセル側のヨルダン、イラク、エジプトの連合軍は 6 日間で崩壊し、戦争は終 結した(6 日戦争、あるいは第三次中東戦争と言われた) 。イスラエルをアメリカが支援し、 アラブをソ連が支援した。イスラエルはエルサレム、ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川 西岸、ゴラン高原を占領し、国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。11 月に国連 安保理でイスラエルの占領地からの撤退、中東地域の航海自由の保障、避難民問題の解決 などを決議した。 この短期間の軍事行動は石油産業に重大な影響を与えた。すべてのアラブ諸国はアメリ カ、イギリス、西ドイツに対する石油の輸出禁止を布告した。しかし、多量の原油と石油 製品が予防的に備蓄されており、その備蓄がおおいに利用された。最終的には、2 ヶ月も経 たないうちに石油禁輸下にあった国々への供給はほぼ平常に戻った。アラブ諸国は石油に よる収入が途絶え続けることになるとすぐに理解し、9 月以降は禁輸措置を解除すると決定 したのである。 ○石油産業国有化の動き 石油産業国有化の動きは、各国の個別の事情で進められていた。 イランでは 1951 年から 54 年の危機が鎮静化すると、積極的な石油探鉱が行われ、多数 の油田が発見されたので、国王(シャー)は自分が望むペースでの経済成長を実現するた めの石油生産量の急増を要求するようになった。コンソーシアムの加盟企業は少なくとも 289 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 中東での一般的な生産量の伸びと同じスピードで増産することを請負っていたが、2 倍の伸 びを保証することはできなかった。 コンソーシアムはイラン国営石油が新規参入者を引きつけられるように、割り当てられ た鉱区の 25%の返還を了承した。ついにコンソーシアムは、1970 年に 2 億 5000 万トンの 産油量とイランへの 10 億ドルの石油収入という、シャーの望む最低目標を達成するために 年間 105%以上のペースで増産することを約束した。 イラクでは、前述したように、カーシム首相は、1961 年に公布した「法令第 80 号」で 42 万 8000 平方キロメートルに及ぶ鉱区が接収された。イラク石油はそれらの回復のための 交渉をイラク石油相との間で始めたが、イラク政府の不安定な政治情勢で成功はしなかっ た。 それでもイラク石油は増産のために多大な努力をし(1963 年から 66 年のあいだ 25%増 産した) 、イラク南部の油田からの輸出を容易にするため、ペルシア湾の一番奥まった場所 にあるコール・アル・アマヤで積み出しプラットフォームの建設に着手したが、これも無 駄になってしまった。いまや交渉の時代は過ぎ去り、軍人が表舞台に立つ時代となった。 アフリカのリビアでの最初の油田は、ニュージャージー・スタンダード石油が、1959 年 春に海岸から 150 キロメートル離れているゼルテンで発見した。この後、続々と新しい油 田が発見され、ニュージャージー・スタンダード石油、モービル、ガルフ石油、ブリティ ッシュ・ペトロリアム、シェルといった大グループが大量生産を展開しただけでなく、ハ ント石油、コンチネンタル石油、オキシデンタル石油といった数多くのアメリカの独立企 業も進出した。 リビアの産油量は 1965 年には約 6000 万トンだったが、 1970 年には 1 億 6000 万トンに達した。こうしてリビアは 10 年のうちに世界第 5 位の石油輸出国に成長した。 ちょうどそのころ、リビアのイドリス国王は追放され、カダフィ大佐が最高権力者の地 位に就いた。カダフィは、減産を求める形で石油生産計画に介入した。1970 年 9 月、石油 資源の大部分をリビアから得ていたオキシデンタル石油は公示価格の顕著な高騰と利益税 率 50%から 55%への増額を受入れなければならなかった。 1970 年代に入ると、反アメリカ・反ヨーロッパの風潮が産油国に広まった。メジャー支 配脱却を狙っていた産油国は、次々と石油開発への経営参加、国有化を推進した。1972 年 には、アルジェリアの油田がフランス資本から国有化された。リビアも BP が所有していた 油田を国有化した。 このころになると、石油輸出国機構(OPEC)も新規則の普及のために動いた。5 年の期限 で二つの協定が調印された。一つは 1971 年 2 月にテヘランにおいてペルシア湾岸諸国間で 締結されたものであり、もう一つは 1971 年 4 月にトリポリにおいて地中海沿岸諸国間で締 290 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 結された。これら二つの協定はいずれも公示価格の即時引上げと、毎年一定額ずつ増額す ることを定めていた。 1971 年 8 月、アメリカのニクソン大統領が米ドル紙幣と金の兌換を停止すると宣言し、 このニクソンショックでドル切り下げが起きると、アメリカ通貨の購買力低下を補うため の「公示価格」の引き上げを定める協定が締結された。さらに 1972 年のリヤド協定により、 石油採掘事業そのものも国際石油資本から産油国への権利委譲を促すことが合意された。 これらの決定により原油価格の決定権が徐々に、国際石油資本から石油輸出国機構加盟の 産油国側へと移ることになった。 【6-2】石油危機後の世界の石油産業 【1】第一次石油危機(オイルショック) ○第四次中東戦争と OPEC の石油戦略 そのような時に 1973 年 10 月 6 日、第四次中東戦争が起こった。エジプトとシリアがイ スラエルに奇襲攻撃を仕掛けたのである。ソ連から供与された豊富な軍備を擁するエジプ ト・シリア軍により 10 月 9 日になるとイスラエル軍はきわめて危険な局面を迎えていた。 イスラエルの崩壊を容認できなかったアメリカ政府は、アメリカ空軍を使って、イスラエ ル軍に物資を輸送した。 第四次中東戦争の最中に、サウジアラビアのヤマニ石油相による指導のもと、10 月 16 日 なら にペルシア湾岸 6 ヶ国は公示価格の大幅値上げを決定し、他の輸出国もすぐそれに 倣 った。 これは歴史的な転換点となった。というのも、1960 年以前は石油企業国側で決定された公 示価格は、その後石油企業と産油国間で決められるようになり、いまや生産国側で決定す ることになったからである。 さらに、OPEC に結集したアラブ産油国は、先進工業国にイスラエルへの支援を断念させ るために「石油の圧力」を行使しはじめた。10 月 17 日、イラクを除く OPEC の全加盟国は イスラエルが 1967 年に占領したパレスチナ地域から撤退するまで、段階的に(月間 5%減) 石油輸出を削減することを決定した。また、10 月 21 日に、これらの国々は、アメリカ、オ ランダ、ポルトガル(アゾレス諸島で米空軍機の発着を許していた) 、南アフリカ共和国、 ローデシア(現ジンバブエ)への石油禁輸を決定した。 第四次中東戦争の方は、アメリカ軍の介入もあってイスラエル軍の状況はただちに回復 し、戦争は 10 月 26 日に終結したが、石油問題は解決しなかった。 11 月 4 日には月間 5%の輸出減が 25%に引き上げられ、さらに 12 月 23 日にテヘランで 新しい、非常に高値の公示価格が設定された。数週間後には石油の禁輸は解除され、市場 は新たな価格水準での量的均衡を急速に回復した。 291 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― このいわゆる石油武器の発動によって、石油価格は最初の 2 ヶ月間で 3 倍の約 12 ドル/ バレルに高騰し、世界を石油危機のパニックに陥らせた(図 45(図 16-42)参照) 。 図 45(図 16-42) 石油価格の変動(1972~91 年) 山川出版社『西アジア史Ⅰアラブ』 この原油の供給逼迫および価格高騰とそれに伴う経済混乱のことを石油危機(オイルシ ョックまたは石油ショックとも称される)という。石油危機は、後述するように 1970 年代 に 2 度あったので、このときは第一次石油危機という。 このときは、石油輸出国機構は、結局、原油価格を約 4 倍にする値上げを断行し、石油 危機の引き金を引き、その存在感を世界中に示した。それまでも長期にわたる先進諸国の 高度成長による石油需給の引き締まりを背景に徐々に上昇していた原油価格は、これを契 機に一気に高騰した。さらに OPEC 加盟国内の油田、石油パイプライン、製油設備の国有化 をすすめ、国際石油資本の影響力をさらに排除していった。 アラブ産油国は、アメリカの圧力によって 1974 年 3 月に石油禁輸措置を解除したが、石 油武器の発動は、パレスチナ民族運動の国際的地位を引き上げ、また莫大な石油の富の流入 によってアラブ世界の社会変動を引き起こすきっかけをつくった。 その後、OPEC は加盟国の原油価格(公式販売価格)を総会で決定するという方式を定着 させ、国家間カルテルに転じた。高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が 停止した後も、図 45(図 16-42)のように高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与える こととなった。各国にアラブ寄りの外交政策への転換を迫ると同時に、先進資本主義国の 高度成長は終わり、「世界同時不況」となった。 292 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○石油企業の国有化 すでに述べたように、産油国は、採掘権を与えた企業が建設し、拡張した施設を手に入 れようとつねに企てていた。メキシコやロシア、そしてルーマニアで国有化され、1970 年 代以降、国有化の動きが広がったことは述べた。 1971 年にアルジェリアの権益が国有化され、1972 年にはイラク石油(イラク北部地域) が国有化された。同じく 1972 年には、ペルシア湾岸各国(サウジアラビア、クウェート、 アラブ首長国連邦、カタール)が全権益の 25%を接収し、1982 年に国有化率が 51%に達す るように国有分を増やしていくことが定められた(ニューヨーク協定) 。リビアではオキシ デンタル石油、コンチネンタル石油やその他メジャーの子会社が国有化された。 そして、この石油危機は、自国の資源を自国で管理したいという資源ナショナリズムの 高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、国有化は加速され、原油価 格と原油生産の管理権はメジャーから OPEC へ移ることになった。 1973 年にバスラ石油に対するエクソン、モービル、シェルの各社出資分が国有化された (イラク南部地域) 。ペルシア湾岸各国の権益保有率が 25%から 60%に引き上げられた。 1975 年には、クウェートの権益が国有化された。バスラ石油のトタル・フランス石油、ブ リティッシュ・ペトロリアムの保有分が国有化された。 1976 年にはカタールの全権益が国有化された。また、1976 年、サウジアラビアでの原油 採掘を独占してきたアラムコが国有化され、アラムコの大株主であった、エクソン、モー ビル、テキサコ、シェブロンの 4 社はサウジアラビア政府に株式を譲渡し、ここに、セブ ン・シスターズによる石油支配は終わりを告げることになった。 第一次石油危機以降、北海油田の開発、アラスカの石油パイプラインの操業開始、メキ シコの石油生産量の急増(カンペチェとレフォルマの大油田の発見)などがあり、西側諸 国への石油供給における OPEC の役割は低下したにもかかわらず、OPEC は市場のコントロー ルを手放さなかった。そのために価格が下がらないだけでなく、インフレ率に応じて値上 げさえした。 第一次石油危機以降、石油の慢性的欠乏に対する不安は、石油業界のみならず各国の政 府にも根づいていった。一般の人々も、1972 年に発表されたローマクラブの報告書『成長 の限界』の影響もあって、限りある地球の資源について強く関心を持つようになった。 ○開発ブームとなった産油国 膨大な石油収入の流入によってアラブ世界には空前の経済開発ブームがおとずれた。と くにアラブ首長国連邦、カタール、バーレーンなどの湾岸の産油国は、いずれも 1971 年に イギリスの保護領から独立したばかりの新興の首長国であり、国家建設と石油の富による 開発ブームとが重なった。またオマーンでは、これまでの鎖国策を転換して国家体制の近 293 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 代化につとめた。これらの国では、港湾施設や空港、道路などの運輸・交通のインフラ整 備にはじまり、教育・医療制度の確立にいたるまで、ありとあらゆる開発事業が同時期に 進行した。 さて、石油収入の一部は、産油国が設立した開発基金や政府間の直接援助によって、周辺 のアラブ諸国にも配分され、地域経済全体の開発にも貢献した。だが、石油の富の配分に おいて、アラブ世界全体の社会変動により大きな影響を与えたのは、産油国で働く出稼ぎ 労働者の送金であった。突然の開発ブームがおとずれた産油国は、単純労働から技能労働、 技師や医師などあらゆる業種のマンパワーが不足していたために、周辺諸国から多種で大 量の労働力が流入し、その結果、巨額の出稼ぎ送金が出身国の経済を潤した。 ○石油危機の世界的影響 世界の一次エネルギー消費に占める石油のシェアは、図 46(表 16-10)のように 1973 年時点で西側先進国平均では 53%、日本では 77%強であったから、価格が 4 倍になるとい うことの影響力は決定的であった。 石油危機は、アメリカ・日本・ヨーロッパの先進国経済に根本的な打撃を与えた。それは 単にエネルギー価格が上昇したことが、すでに進行していたインフレをさらに促進させた ということだけではなく、労働市場自体をも変質させるようなショックを与えたのである。 1973~74 年を機に、図 47(図 16-43)のように、多くの国々で失業率が急激に上昇した。 図 46(表 16-10) 世界の 1 次エネルギー消費における石油依存度(%) IEA,Energy Balances of OECD Countries,EnergyStatistics and Balances of Non-OECD Countries 294 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 47(図 16-43) 主要国の失業率の変動(1955~90 年、%) 石油価格の急激な上昇というショックは、それまでの「経済は限りなく成長するものだ」 という「ケインズ的福祉国家観」を一変させた。日本においても、「日本経済にとって資源の 制約がいかに強いものかを再認識させられた」という点で、石油危機はやはり第二次世界大 戦後の経済で最大の事件であったといえよう。この危機によって、現代の経済社会が予想 以上のもろさ・不確実性をもつことが、はからずも露呈されたからである。 この石油危機は単に中東とアメリカ・ヨーロッパ・日本という西側先進国だけに対してシ ョックを与えたわけではなかった。共産圏のコメコン(経済相互援助会議)諸国へも大き な経済的波及効果を与えることになった。 コメコンは、元来、ソ連と他のメンバー諸国(ブルガリア、チェコスロバキア、ハンガ リー、ポーランド、ルーマニア、東ドイツ、モンゴル、キューバ、ユーゴスラビア(65 年 から準加盟国) 、ベトナム(76 年から)、アルバニア(62 年事実上脱退))との間の双務的 貿易システムとして機能していた。基本的には、ソ連が一次産品・原油・ガスを他のメンバ ー諸国に供給し、その対価として最終生産物を受け取るという放射線状の貿易構造をもっ ていた。 ソ連の原油価格は世界市場から隔離されていたわけではなかったので、5 年ごとに「世界 相場をにらみながら」改定されていた。しかしソ連の輸入する西側諸国からの工業製品の価 格も次第に高くなり始めたいた。とくにアジアと西欧から輸入していた機械類は高額なも のが多かったため、限られたハード・カレンシー(金または米ドルと容易に交換しうる通貨) の外貨準備のなかで、これらの高技術の生産設備を購入することは困難をきわめ始めた。 そこへ石油危機が追いうちをかけるように、すでにあらゆる側面からほころびをみせ始 めていたコメコン諸国の経済に決定的な打撃を与えることになった。その点で石油危機 295 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― (1979 年に起きる第二次石油危機を含めて)は、80 年代の社会主義経済の破綻が顕在化す るまでの、一つの伏線をなす出来事であった。 ○石油消費国の対応 1973 年の石油危機は、多くの石油消費国の石油供給に深刻な混乱をもたらし、各国は石 油需要を減らすために緊急措置を採らねばならなかった。また、新たな石油危機による経 済的な影響を軽減するため、独自の措置も適用しなければならなかった。そのため、経済 協力開発機構(OECD)が 1974 年 11 月にアメリカ、カナダ、日本、フランスを除くヨーロ ッパ経済共同体(EEC)など 18 ヶ国で構成される国際エネルギー機関(IEA)を創設した(フ ランスは 1992 年に加盟した) 。 そして、消費国において、エネルギーの新しい状況に適応して、石油の輸入量を減らす という共通目標を目指す行動計画を実施することになった。そのためには、エネルギーを 合理的に利用することでエネルギー消費、とくに石油消費を縮小し、石油の代替エネルギ ー(ガス、石炭、原子力)の利用を促進し、万一の場合には既存の油田やガス田の開発を 加速させることになった。 【2】第二次石油危機 ○イラン革命と第二次石油危機 イランについては、1950 年代のアングロ・イラニアン石油問題のところで述べた。その 後、増大する石油収入で財政が豊かになったモハンマド・レザー・シャー(パーレビ国王) は、上からの近代改革を推し進めたが、その実態は軍事独裁のアメリカの傀儡政権であっ た。このシャーの体制を支えたのが、ソ連とアラブ急進派に対抗する最前線として、巨額 の軍事・経済援助を行ったアメリカであった。皇帝は反対派の弾圧にかかり、検閲の導入、 政治活動の禁止など政治的抑圧も強化していった。 このシャーの「白色革命」が宣言された 1963 年、西欧化とアメリカへの従属に反対する大 規模な反対運動が起こり流血の騒ぎになったが、そのときの指導者が、シーア派イスラム の聖職者ホメイニーであり、このときホメイニーは弾圧されフランスへ亡命を余儀なくさ れた。 それから 15 年、1978 年 1 月、ホメイニーを中傷する記事を巡り、イラン国内の十二イマ ーム派の聖地ゴム(シーア派の聖地の一つ)で暴動が発生したのをきっかけに、国内各地 で反政府デモと暴動が多発する事態となった。国王側は宗教界と事態の収拾をはかったが、 1978 年 9 月 8 日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出した事件をきっかけにデモは激し さを増し、1978 年 9 月、戒厳令が全国主要都市に布告された。さらに石油労働者もストに 入り、石油価格の高騰が起きた。これが第二次石油危機の勃発であった。 296 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ストライキはとくに石油業界で頻発した。石油の輸出は徐々に減少し、12 月 25 日に完全 に停止した。孤立無援のシャーは 1979 年 1 月 16 日、政府専用機でエジプトへ亡命し帝政 は崩壊した。革命は成功した。2 月 1 日、ホメイニーの帰国により革命熱がさらに高まり、 2 月 11 日、バフティヤール首相は辞任、反体制勢力が政権を掌握するに至った。 石油の面では、1978年10月、石油労働者もストに入り、石油価格の高騰が起きた。当時、 イランはサウジアラビアに次ぐ大産油国で日量570万バレルを生産し、うち500万バレルを 輸出していた。これは世界の石油供給の10%に相当したが、それがストで減少を続け12月26 日から翌年3月5日までは全面輸出停止となって石油供給への不安を引き起こした。 イランの原油輸出減少分はサウジやイラク、クウェ- トのほか、イギリス、メキシコな どの非OPEC産油国の増産でカバーされた。しかし需要期の最中だったため、供給不安を背 景に、図45(図16-42)のように原油価格を再び急騰させることになった。供給不足は1979 年の第二4半期には解消された。イランの石油輸出も1979年3月には再開された。 こうしたなかでOPECは1979年6月に総会を開き、基準原油価格を20ドルに引き上げるべき とするイランを押し切ってサウジが18ドルヘの値上げにとどめ、またプレミアムを2ドルま で認めることなどを決めた。この結果、OPEC原油の加重平均価格は20.6ドルとなり、20ド ル原油時代が出現した。 しかし、1979年12月の総会を前に、サウジは原油価格を低めに抑えてきたにもかかわら ず、その恩恵をメジャーが吸収したとの不満から、 突然6ドルの値上げを発表した。 他の 産油国も追随し、総会は基準原油価格を6ドル値上げして24ドルとすることを追認した。 その後、1980年1月、4月にサウジは価格体系の統一などを理由に2回値上げし、6月のOPEC 総会はさらに基準原油価格を4ドル値上げして32ドルとすることを決定し、9 月の臨時総会 では30ドルとすることも決めた。 こうして、石油価格は、図 45(図 16-42)のように、1979 年いっぱい値上がりを続け、 1980 年の第一 4 半期に入ってようやく、78 年の約 2 倍の水準で安定した。 実際の世界的な石油供給量の減少はわずかなものでしかなかったが、信頼できる情報の 欠如が危機への脅迫観念を引き起こし、それが持続したので、輸出国は危機から生まれた 価格面での優位な立場を利用できたと考えられている。それで市場価格はいったん急騰し たあと、図 45(図 16-42)のように 1981 年の第一 4 半期になると下落を始めた。それは 供給と需要が再び均衡したことを意味していた。 ○石油価格の下落時代 こうした措置で第二次石油危機も一応克服できたかに見え始めた矢先の1980年9月、今度 はイラン・イラク戦争が勃発した。1988年8月に終戦するまでの8年間にわたる不毛な戦争 だったが、これを機にOPECは再び値上げ攻勢に出た。1980年12月の総会で① 基準原油価格 297 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― を2ドル引き上げて32ドルとする、②油種間価格差を含めた上限価格を41ドルとするなどが 決まり、40ドル原油も登場する事態となった。 しかし、相次ぐ価格の上昇で石油需要は1980年後半から世界的に激減する一方、 非OPEC 産油国の増産とあいまって需給は緩和を続け、図45(図16-42)のように、石油価格は値 下がりを続けた。このため1981年5月のOPEC総会で、サウジを除く各国が10%の減産で合意 した。OPECの協調減産は初めてだった。 自由世界の石油需要は第一次石油危機後の1973年から急減したが、3年後には73年の水準 にまで回復し、その後3年間は増加を続けた。しかし第二次石油危機後は4年間大幅な減少 を続け、その後の回復テンポも緩やかだった。 世界的な不況の深刻化に原子力、 石炭、 天 然ガスなどの代替エネルギ-への転換が進んだからだった。 これに伴い、 世界の一次エネルギー需要に占める石油比率は1979~84年の間で46%から 42%に低下し、わが国では1978年度に2億3500万キロリットルだった石油需要は、1982年度 に1億8300万キロリットルにまで減少した。日本エネルギ-経済研究所によると、燃料転換 によるものが2200万キロリットル、省エネによるものが1000万キロリットルだった。 石油不足への不安感は1982年には薄れてしまい、供給過剰の状況になった。こうした変 化を受けて、石油会社は長期契約による買い付けから徐々にスポット契約(現物取引)に 切り替えていった。スポット契約はより安価で、やがて市場の取引の半分を占めるように なった。 生産者が生産割当をさらに守らなくなったので、OPECは1985年12月に加盟国が自国の市 場シェアを守ることよりも経済政策を優先してもよいとする決定を下し、その結果として、 価格交渉が顧客ごとに行われることとなった。輸出国間の競争は原油価格の崩壊を引き起 こし、4ヶ月間で4分の3にまで下落した。 その後も図45(図16-42)のように、原油価格はその中の出来事に応じて上下しつつ、 一般的には1985年の半分から4分の3の価格帯で推移していった。 ○湾岸戦争の勃発 1990年8月2日、イラクのサダム・フセイン大統領はイラク軍をクウェートに侵攻させ一 夜で占領した。さらにフセイン大統領はその圧倒的な軍事力を使ってサウジアラビアに侵 攻するのではないかと懸念された。そうすると、イラクが世界の石油埋蔵量の40%を手中 に収めることになる。このような不安材料によって原油価格は図45(図16-42)のように、 2ヶ月で2倍に跳ね上がった。 アメリカ軍の急派によってサウジアラビアの安全が保障されたことで石油市場は落ち着 き、原油価格も危機以前の水準に戻った。イラクがクウェートからの撤退を拒否したため、 国連は憲章の手続きにしたがって武力行使を容認した。アメリカ軍を中心とする多国籍軍 298 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― がイラク軍を撤退させたが、イラク軍は撤退前に約800の油井に火を放ち、その消火活動は 8ヶ月にも及んだ。 この湾岸戦争の石油に対する影響は前述した一時的な加熱を除いて、石油市場に対して ほとんど影響を与えなかった。平穏な状態が戻ってきたことで原油価格は以前と同じ水準 で緩やかな上下を続けた。 ○石油危機後の石油産業の再編成 1970年から77年にかけての国有化の影響は、すべての石油産業にとってきわめて重大な ものとなった。メジャー各社とその他の国際的企業が有した潜在的な原油埋蔵量はかなり 低下した。しかし、石油価格の高騰によって石油生産者が得る利益は激増し、一部の業者 は石油産業の国有化による損失を埋め合わせることができた。 これらの各社は1974年以降、石油以外のより将来性のある領域の開発を進めて、従来の 活動分野を補完する道を模索しはじめた。メジャー各社、アメリカの独立系企業のほぼす べて、さらにトタル(1991年にフランス石油が改名)、イタリア石油公社もウラニウムと 石炭の生産に投資した。さらに新エネルギーの開発、鉱山産業、オフィスオートメーショ ン、不動産や保険、流通などの分野に広げたところもあった。 しかし、石油産業の経営方法を他の業種に適用するのは困難だったため、その多くは芳 しい成果は得られなかった。ウラン、石炭の販売予測も急速に悪化してしまった。こうし て、石油産業の新規の活動の多くは速やかに打ち切られるか第3者に譲渡され、各社は(天 然ガスを含む)石油部門の発展に改めて経営資源を集中させていった。 石油危機によって、海運業や精製業も危機に陥った。海運業は、需要の低迷、北海での 石油生産の増加、航路を短縮させる新たなパイプラインの完成などで、不均衡が長引いた。 1985年から需要が回復しはじめ、1990年頃には均衡状態を取り戻した。 精製業については、ヨーロッパでは1974年の第4四半期以降、過剰能力は50%を超えた。 9ヶ国が加盟していたヨーロッパ経済共同体の製油所では、危機を乗り切るために全体の製 油能力の約40%が削減された。1986年からは、消費の回復によって不均衡は徐々に縮小し ていったが、完全に解消したわけではなかった。 そのため、多国籍企業の大半は、被った損失が広範にわたるため、ヨーロッパの系列会 社を切り離さざるをえなかった。大気汚染対策(無鉛ガソリンの製造、燃料の硫黄含有量 の削減)と石油需要の構造的変化(ガソリンなどの気化燃料需要が増大し、それ以外の燃 料需要は減少した)に必要な巨額の投資支出を実施しなけらばならなかったからである。 たとえば、1975年にブリティッシュ・ペトロリアムとシェルはイタリアにある子会社を それぞれイタリア石油公社に譲渡した。1983年にはガルフがヨーロッパの子会社をクウェ ート石油に売却し、85年にはシェブロンの子会社がテキサコへ、89年のアモコの子会社が 299 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― エルフ(現トタル)へそれぞれ売却されほか、88年にはテキサコ・ドイツ社がRWE社(ドイ ツの主要な電力会社)に、89年にはトタルのイタリア子会社がモンテエジソン社(イタリ アの大手化学会社)に、90年にはモービルの子会社がクウェート石油へ売却された。 アメリカでも需要縮小により1980年代に精製能力の約15%を縮減した。日本でも1980年 以降の過剰精製能力がヨーロッパと同程度の水準に達していた。そこで通産省が示した石 油製品に関する輸入量割当によって市場が再編成された。 石油危機後、石油価格の上昇によって収益性の高まった上流部門への投資(石油の探鉱 や生産)を増大させた企業もあった。この投資額の上昇は国有化の懸念がないアメリカや 北海といった地域においてとくに見られた。 ところが、やがて、新しい鉱脈を探鉱するよりも、石油生産会社を買収し、石油埋蔵量 を増やすほうが安価である場合もあることがわかってきた。1979年にカリフォルニアの大 手生産業者だったベルリッジ社が36億ドルでシェル石油に買収された。続いて1980年には テキサス・パシフィック石油がサンによって23億ドルで買収された。 1984年にはガルフ石油が131億ドルでシェブロンに買収された。また、テキサコが102億 ドルでゲティ石油を買収した。モービルが54億ドルで独立系のスペリオル石油の株式の 75%を買い取った。 そしてヨーロッパ系の二つのメジャーがアメリカの子会社の小規模株主が所有する株式 を買収することで石油保有量を増大させた。シェルは1984年に48億ドルでシェル石油の所 有権を完全に獲得し、ブリティッシュ・ペトロリアムは1989年にオハイオ・スタンダード 石油を76億ドルで買収した。 石油危機で石油産業にもたらされた最も大きな変化は、もちろん、石油輸出国(OPEC、 メキシコ、ノルウェー、ソ連、中国)の国営企業の重要性が高まったことである。これら の会社は国有化によって、こんにちでは世界の石油保有量のうち80%から90%を開発して いる。これらの国営企業のいくつかは、生産量で最大規模の国際石油企業を上まわるまで になっている。 そのうえ、多くの国営企業の国際的な活動領域は原油と石油製品の輸出に留まらず、消 費国における下流部門のさまざまな過程にも進出した。クウェート石油はヨーロッパに大 規模な下流部門の工場を有している。1983年にイタリア、デンマークとオランダでガルフ 石油の精製・販売子会社を、1990年にはイタリア・モービルを買収している。 ベネズエラ国営石油会社もアメリカの原油処理工場を買収し、またドイツのヴェバ社と 提携して同社の製油能力の半分を有して同社製品の販路を提供するなど、海外での下流部 門に大きな権益を握っている。サウジアラビアのペトロミンは1988年にテキサコからアメ リカ国内の精製および販売部門を譲渡された。ノルウェーのスタットオイルが北ヨーロッ 300 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― パで、リビアのタムオイルがイタリアとドイツの下流部門において重要な位置を占めてい る。 この20年あまりで原油輸出国の大半が、国際石油企業の保有していた採掘権を接収した ことで、これらの企業は所有していた石油資源の大部分を失った。しかし、精製済み製品 は別で、古くから存在する企業のシェアは、いまだに輸出国の国営企業を上まわっている。 ただ、輸出国が国際石油企業を国有化したのと時を同じくして、多くのヨーロッパの政 府は、国営企業をほぼ全部民営化した。イギリスのブリティッシュ・ペトロリアム、ドイ ツのヴェバ、オーストリアのOMV、スペインのレプソル、ポルトガルのペトロガル、フラン スのエルフやトタルなどがその例である。 【6-3】グローバル時代の石油産業 【1】グローバル時代の到来 ○米ソ冷戦の終結とグローバル経済の実現 1989年のマルタ会談でアメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長は米ソ冷 戦の終結を宣言し、第二次世界大戦後44年間続いた東西冷戦は終結した。1991年末、ソ連 はロシアなど15ヶ国に分裂した。ロシア連邦が成立すると、エリツィン大統領の方針に伴 い社会主義から資本主義へと国家体制の移行が進められた。ソ連から解放された東欧諸国 も市場経済に転換した。すでに1978年に中国の実権を握った鄧小平は経済の改革開放政策 を進めていた。インドでも1991年にラーオ首相は、従来の国民会議派の統制的色彩が強い 経済政策を一変し外国資本、技術の導入などの経済改革を推進し、インド経済の自由化を 推進した。 このように、米ソ冷戦終結後、資本主義経済圏と社会主義経済圏が一体化し、文字通り グローバリゼーションが実現し、グローバルな経済となった。グローバリゼーションとは、 市場経済の持つ競争機能・資源配分の効率化機能を一国の経済を超えたグローバル経済と いう広い舞台で発揮させようとするプロセスであるといわれる。 多国間のあらゆる障壁が撤廃された。ヨーロッパはもはや東西に分裂してはいなかった。 ECはより統合の進んだEUに代わり、ユーロを通貨に定めた。北米自由貿易協定などが発足 して自由貿易が促進された。発展途上国が徐々に新興市場に変身し、やがて急成長するよ うになった。そうした国で収入が増えれば、石油需要も増大した。 このグローバル化した世界では、アメリカ一強の時代ともいわれ、アメリカ合衆国流の 市場原理主義・新自由主義が世界中に広まった。それは、投資家の利益を図るため世界の 市場経済の一極化と単一化をはかり、国際通貨基金 (IMF) などの国際機関が関わって推し 進められた。その現れの一つは、財やサービスの取引とは無関係な巨額な投機的資金(ヘ 301 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ッジファンド)の存在である。瞬間的利益を求めて世界中を駆け巡り、一国の経済を左右 するまでになっている。 ○グローバリゼーションが石油産業にもたらしたもの グローバリゼーションの影響のひとつは、石油産業における機能上の制約が軽減、さら には廃止されたことである。 原油取引の自由化はアメリカで最も早かった。1979年、ジミー・カーター大統領は、原 油価格統制を2年以内に段階的に廃止すると決定し、レーガン大統領はこれを早めて、価格 統制をただちに廃止した。価格統制から市場による価格決定への移行は、アメリカのみの 現象ではなかった。イギリスでは、石油税率を定める基準が、固定価格ではなくスポット 価格に変更された。 多くの西ヨーロッパの国々では原油および石油製品の輸入に関する管理は廃止され、国 内価格の自由化が確立され、あらゆる形態の量的規制は姿を消し、既存の独占は廃止され た。かつての国営企業は民営化され、一般的にその資本の多くは民間購入者へと売却され た。OMV(オーストリア)、エルフ(フランス)、レプソル(スペイン)の3社はいずれも 1991年以前からすでに民営化が始まっており、続いてENI(イタリア)が1998年6月に民営 化開始、スタットオイル(ノルウェー)は2001年に資本の17.5%が市場で売却されて民営 化の端緒となった。 日本での規制緩和は似たような変遷をたどり、1992年4月に石油精製に関する割り当て量 が廃止され、96年4月には石油製品の輸入統制が廃止された。 すべての西ヨーロッパの国々(イギリスとノルウェーは北海で石油生産)と日本は石油 を輸入する工業国であり、これらの国の自由化が関係するのはおもに下流部門(石油精製・ 国内外での取引)である。 それに対して、産油国における自由化とは、外国企業が上流部門(探鉱・開発生産)に 外国企業が受け入れ可能な経済的条件で参入できるかどうかである。 ソ連の崩壊の直接的な影響として、カスピ海の豊富な埋蔵石油が外国企業による探鉱に 開かれたほか、特殊な事例となるロシア連邦の市場経済への移行が進んだ(ロシアについ ては後述)。続いて、1991年11月にアルジェリアが石油探査と生産のために自国領土を開 放、1992年11月にアルゼンチンの国営企業YPFの独占状態が失われ、民営化された。1993年 12月にエクアドルでの石油産業における独占が廃止され、1995年12月にブラジルでペトロ ブラス社による石油探査・生産・精製の独占状態が廃止された。1996年1月にベネズエラが 外国企業による石油採掘権の行使を認めた。 1990年代の石油関連企業は、グローバリゼーションと自由化に対処しようと、コスト削 減、経営の効率アップの合理化を進めた。たとえば、1995年3月にシェルは2大拠点で1200 302 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 人の人員削減をし、1995年5月にモービルは世界規模で4700人の人員削減をし、企業内部の 抜本的な再編成を行った。また、製油部門において余剰施設を停止したり売却したりし、 販売部門では、立地のよい給油施設網の獲得、それ以外のネットワークの第3者への譲渡な どのが行われた。1995年3月にオーストリア国内のトタルの販売網はOMV(オーストリア) へ売却され、1998年8月にはノルウェー国内のペトロフィナの販売網がシェルに売却された。 石油探査・生産部門では、とくに深海掘削技術が重要となって、国際的石油企業が石油 探査・生産部門にかける金額は増大していった。たとえば、ブラジルとメキシコ湾に挟ま れた「黄金のトライアングル」と呼ばれる海洋地域で新しい油田が発見され、2001年には 7500万トンを生産したが、このような事業の実現には膨大な資本を必要とした。このよう なことから、3年足らずのあいだに、石油業界では空前の規模での提携と企業買収が推し進 められた。 《石油業界の提携・買収》 1998年11月のBP・アモコの合併、1998年12月のエクソン・モービルの合併、1999年3月の トタル・ペトロフィナの合併、1999年4月のBP・アモコによるアルコの買収、1999年9月の トタル・エルフの合併、2000年10月のシェブロンによるテキサコの買収、2001年11月のコ ノコ・フィリップスの合併、2005年4月のシェブロン・テキサコによるユノカルの買収など である。 このような結果、国際石油企業(メジャー)も大きく様変わりをすることになった。か つてのメジャー各社として、エクソン・モービル、シェル、BP・アモコ、シェブロン・テ キサコ、トタルの5社、それに2つのアメリカ系独立企業の合併体コノコ・フィリップス、 民営化された2つの旧国営企業(ENI、レプソル)とルクオイルである。 それに対して第2のグループに分類されるのは、石油輸出国機構(OPEC)加盟国の11国営 企業とペトロチャイナ(中国の国営企業)で形成される企業群である。このグループは世 界産油量の約43%を産出し、石油埋蔵量のおよそ61%を有している。 第3のグループは、前記以外の石油関連産業の混成で、OPEC非加盟国の政府資本によるい くつかの企業やアメリカの独立系企業、国際的な展開を進めている民営化された企業(OMV、 スタットオイルなど)である。 ○情報通信技術の発達と石油産業 情報通信技術の飛躍的な進歩もグローバリゼーションを推し進めた。ITの急激な発展、 インターネットの勃興、国際通信コストの劇的な低下が、企業運営の形も変え、10年前に は考えられなかったようなやり方で、世界の人々を接続した。石油・天然ガス産業もこの 大変革の嵐に巻き込まれた。資源探査技術の新たな技術進歩によって、石油・天然ガス産 業は、いままでよりも困難な環境で資源を見つけて生産する能力を高めた。石油と天然ガ 303 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― スが安価である時代が、未来に向けて一段と延びたように思われた。 資源探査の新たな技術進歩とは、第一には、マイクロプロセッサの急速な進歩が膨大な データの分析を可能にしたことで、地球物理学者は地下構造の解析を大幅に改善させるこ とができ、探鉱の成功率が向上したことである。コンピュータの性能が高まると地震探査 による地下構造、たとえば層、断層線、キャップロック(石油・天然ガスの貯留岩がおお っている不透水性の層・岩石)、トラップ(石油・天然ガス埋蔵の地下構造)などの測量 を、二次元でなく三次元で行えるようになった。 第二は、水平掘削技術の進歩である。従来の油井は垂直に掘削していたが、数千メート ル垂直に掘ってから、角度をつけ、場合によっては真横に掘ることもできるようになった。 これにより、原油を採掘しやすくなり、したがって生産量も増えた。 第三の大躍進は、ソフトウェアとコンピュータによる可視化の発達だった。石油産業で 応用されたこのCAD/CAM(コンピュータ支援設計・コンピュータ支援製造)テクノロジーは、 建設費10億ドルの海上油田の細部に至るまでコンピュータの図面上で設計できるようにし た。さらに、最初の鋼板の溶接がはじめられる前から、その施設の弾性や効率をさまざま な角度から検証することができるようになった。 こうしたさまざまなテクノロジーの進歩により、企業は少し前までは達成できなかった こと、たとえば、あらたな有望鉱区を見つける、以前なら開発できなかったような油田に 取り組み、より複雑なプロジェクトに着手する、石油採掘量を増やす、まったく新しい油 田を切り拓くといったことができるようになった。 ○金融商品化した石油 情報技術の飛躍的な進歩は、原油取引市場の形成と金融化という現象にもつながってい る。 過去の石油市場をふりかえってみると、1970年代に至るまで、バレル単位で売り買いす るような世界石油市場は、実際にはなかった。グローバルな石油売買は、一貫操業石油会 社の内部で行われていた。ロックフェラーが石油産業を作り上げたときから、さまざまな 事業部門が社内にあり、油田、タンカー、製油所、ガソリンスタンドへと、石油が動いて いった。この長い旅のあいだ、石油はほとんど会社の枠から出なかった。これが“一貫” の意味するところで、石油会社を経営する手法だとされていた。 それが変ったのが1970年代の石油危機からで、石油輸出国は会社が所有する採掘権を, 植民地時代の遺物と見なして国有化した。国有化されると、地中の石油はもう会社のもの ではなくなった。一貫化された鎖が断ち切られた。石油の大部分は、長期契約に則って売 られた。しかし、石油はしだいに取引される商品にもなり、成長を遂げていた世界の多様 な石油市場で売られるようになった。従来の会社内に発足した取引部門と、新規の独立し 304 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― た商品取引業者多数の両方が、こうした取引を扱った。 アメリカにおける原油取引の自由化が、この原油取引という新ビジネスに拍車をかけた。 1970年代はじめ、ニクソン政権は、インフレ抑止策として原油価格の統制を行い始めた。 しかし、インフレの抑止にはあまり効果がなく、1979年、ジミー・カーター大統領は、原 油価格統制を2年以内に段階的に廃止すると決定し、レーガン大統領はこれを早めて、価格 統制をただちに廃止したことは述べた。 今では石油は“一般的な商品”になっている。OPECが今も価格を管理しようとしている が、グローバル市場という新しい市場が出現している。そこではニューヨーク・マーカン タイル取引所(NYMEX)が、売り手と買い手が価格変動のリスクを管理するのを手助けして いる。NYMEXは1872年から存在し、さまざまな商品を取り扱っている。 このNYMEXが1983年3月30日からウエスト・テキサス・インターミディエート(WTI)と呼 ばれる、硫黄分がほとんどない軽質原油の先物売買を開始した。オクラホマ州のクッシン グには石油のパイプライン網や大量のタンクがあり、しかもアメリカの中心に位置してい たので、クッシングのタンクに収まっているWTIを指標に価格が決定されるようになったの である。NYMEXの立ち会所のトレーダーと、世界中のヘッジファンドや投機家とのやりとり によって、原油価格は定められるようになった。それが“ペーパー・バレル”のはじまり だった。それから何年ものあいだにテクノロジーが進歩し、価格は日単位、時間単位でな なく、秒単位で動くことになった。 石油先物市場というものは、石油の生産者と消費者のための“リスク管理ツール”であ る。たとえば、航空会社は石油先物を契約することで、実物の燃料が値上がりした場合に 身を護れる。原油価格、そしてジェット燃料の価格は、今後1年のあいだに50%上昇するか もしれない。だが、先物取引価格も同様に上がるので、航空会社が買建てた契約を決済す れば、先物契約のコストを差し引いて、値上がり分の儲けが出る。航空会社は、こういう ふうに先物を買って身を護れるが、ヘッジ取引には金がかかる。だが、そのコストは価格 上昇に対する保険として進んで支出される。 しかし、先物売買には、だれかが逆張りをする必要がある。投機家といわれる人々が、 それを引き受ける。投機家は実体としての商品を受け取ることには興味がなく、NYMEXのい う「値動きを的確に予想する」ことで売買益を得ることだけを考えている。投機家は利益 を求めて売買に参加し、撤退し、ポジションごとに逆張りして帳尻を合わせる。投機家が いなかったら、ヘッジする側はヘッジできない。 このような先物・オプション取引は、1980年代はごく少量だったが、2004年にはNYMEXの 石油先物は、1984年の30倍に膨れあがっていた。他の大手石油先物市場でも、同様な成長 が見られた。 305 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2001年11月、ゴールドマンサックスのエコノミスト、ジム・オニールが、BRICsの概念を 生み出し、ブラジル、ロシア、インド、中国の経済が、現在主流の先進国の経済よりも速 く成長すると発表したら、投機家は、BRICsと結びついている株を買い始め、石油関連の金 融商品を買った。たしかにBRICs、とりわけ中国の成長は商品需要を加速させ、したがって 価格を上昇させていた。 しかし、今や原油市場(市場のペーパー・バレルの部分)には、多数の当事者、たとえ ば年金基金、ヘッジファンド、為替取引ファンド、政府系ファンド、個人投資家などがい た。あらゆる種類の投資家やトレーダーもいて、長期に張るものもいれば短期に張るもの もいた。原油はもはや、自動車や飛行機の燃料として必要な実体としての商品というだけ ではなくなった。まったく別の物、もっと抽象的な存在になった。このペーパー・バレル は、先物やデリバティブなどの形で、いまや金融商品、金融資産となった。 テクノロジーの支援が、金融化をさらに強めた。従来、石油はNYMEXの立会場で、フロア トレーダー(場立ち)によって取引されていた。だが、2005年ごろから、コンピュータを 通じて買い手と売り手の両方と接続する電子取引プラットフォームが導入され、フロアト レーダーの役割は急速に弱まった。ボタンひとつ押すだけで取引が瞬時に成立する。今で はボタンも必要ではなく、あるプログラミングにしたがって、100万分の1秒単位で作動し、 ペーパー・バレルは、電子バレルへと変っているのである。 【2】原油取引の変化と原油価格の動向 以上のような石油需要・生産の増減や石油取引形態の変化やグローバル化などは石油価 格の変化に表れてくる。 それでは、第二次世界大戦後までさかのぼって、具体的に原油価格の変化を見てみよう。 すでに述べたように、20世紀の前半、主に中東における原油資源を支配していた国際石 油企業(メジャー)は、少額の利権料支払いにより、排他的独占的な石油事業の操業権利 を保有できる「包括利権契約」を産油国と結んでいた。 1940年代からは、産油国側が石油操業利益の50%を政府収入とする「利益折半方式」を 実現させたが、原油公示価格の決定権はメジャーが握っていた。産油国側は1960年9月に石 油輸出国機構(OPEC)を設立し、「石油価格の安定と維持」を求めるとともに、石油資源 に関する主権回復を図っていった。1973年10月に勃発した第四次中東戦争 に端を発した第 一次石油危機を背景に、OPECは公示価格の決定権を獲得し、価格を大幅に引上げることを 宣言した。 306 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― その後の国際原油取引は、産油国が公示価格に代わり定めた公式販売価格(OSP)をベー スとして行われるようになり、図 45(図 16-42)の石油価格の変動(1972~91 年)のよう に、石油の価格は大幅に上昇することとなった。 1979年の第二次石油危機後の産油国による公式販売価格(OSP)引上げの結果生じた供給 過剰は、スポット原油市場を発達させ、その価格は公式販売価格(OSP)を下回るようにな った。 なぜそうなったかというと、第二次石油危機による原油価格高騰により、生産コスト的 にそれまで採算の取れなかった非OPEC国・地域(メキシコ、イギリス、アラスカ、ブラジ ル、オマーン、エジプト、インド、中国、マレーシア)で油田の開発・生産が活発化した。 非OPEC諸国の原油生産量は1975年から1985年の10年間に2,964万バレル/日から4,159万バ レル/日へと、約1,200万バレル/日も増加した。これには、供給分散化を図りたい消費国側 の意向も働いていた。加えて、消費国側は二度の石油危機を受けて脱石油・省エネ意識を 高め、世界の石油需要は減少傾向にあった。 このため、原油市場においては供給過剰感が生じることとなった。需給緩和により原油 価格が下落することを恐れたOPEC加盟国は、大規模な減産を実施していた。その結果、50% 近かったOPEC加盟国のシェアは1985年には30%以下にまで落ち込んだ。とくに減産の中心 となったサウジアラビアは1,000万バレル/日あった生産量を1985年8月には230万バレル/ 日まで減少させ「スウィング・プロデューサー」と呼ばれる調整役を果たした。 しかし、減産によるシェア低下に耐え切れなくなったサウジアラビアは、1985年7月に調 整役の立場を放棄することを宣言し、9月には増産を開始するとともに、公式販売価格(OSP) に代わる新しい価格決定方式(ネットバック方式:石油製品の市況から原油価格を逆算す る方式)の導入を表明した。また、OPECは同年12月の総会で、それまでの価格重視から世 界市場におけるシェア確保へと方針を転換した。 これにより、さらなる供給過剰の見通しが広がり、図45(図16-42)のように、価格は 下落を続けることになった。1985年12月以降、急落を始め、1986年3月には10ドルの水準ま で下落した。 1986年6月に行われた次のOPEC総会では減産を実施することが合意された。シェアを回復 したものの価格低下により財政を悪化させたサウジアラビアは、他のOPEC加盟国だけでな くメキシコやノルウェーといったOPEC非加盟の産油国にも協力を求めて減産を実施し、価 格は上昇に転じていった。価格は1986年後半より上昇を続け、1987年6月には20ドル台に回 復した。 307 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図48 国際原油価格(WTI)の推移(1984 ~ 2016年) 出典:NYMEX 公表の数値を基に作成(資源エネルギー庁) 1997年には20ドル前後で推移していた原油価格が、1998年12月には10ドル近辺まで下落 した。これは、図48のように、1997年7月にタイで始まったアジア通貨危機が原因だった。 アメリカと自国通貨の為替レートを固定する「ドルペッグ制」を採用していたアジア諸国 は、1995年以降のアメリカの「強いドル政策」の下、自国通貨高となり、それまでの経済 成長の原動力となっていた輸出が伸び悩む等、経常赤字が累積していった。そこに目を付 けた欧米のヘッジファンドが大規模な空売りを仕掛けたため、ドルペッグ制を維持できな くなり、変動相場制を導入したアジア諸国の通貨価格は急落した。 これにより、アジア各国の経済は大きな悪影響を受けただけでなく、世界的な経済停滞 を招き、石油需要減少への懸念が生じた。こうした動きが出ていたにもかかわらず、1997 年11月のOPEC総会では約250万バレル/日の原油増産が決定された。その結果、原油市場で は、将来的な供給過剰感が生じ、原油価格の下落要因となった。実際の需要の伸びも1998 年に低下していたが、サウジアラビアをはじめとしたOPEC加盟国に加え、メキシコ、ノル ウェー等の非OPEC産油国も減産により対応し、1999年の価格回復につながった。 308 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2000年半ばから図48のように、原油価格は上昇を続け、2001年9月のアメリカ同時多発テ ロで一時下がったが、その後、一貫して上昇した。この原油価格高騰の要因としては、1990 年代末の原油価格下落を背景としたメジャー各社の上流開発への投資停滞、その結果、OPEC 加盟国の余剰生産能力が低下していたときに、中国をはじめとする新興国(BRICs)の石油 需要が急増し、将来的な供給不安が発生したためであるが、実際の需給バランス上は、大 幅な供給不足が起こったわけではなかった。 この石油高騰は2008年7月には145ドルを突破したが、リーマンショックで急落しはじめ、 2008年後半には40ドルを割り込むまで急落し、翌年8月には70ドルを超える水準まで回復す るという乱高下を記録した。 この時期の特徴としては、原油先物市場への資金流入が挙げられる。サブプライムロー ン問題が顕在化した2007年以降、株式・債券市場での運用利益が低迷を続けた時期に、投 資家がこれらの伝統資産における運用から商品、不動産を投資対象とする投資方法を拡大 したことが背景にある。こうした中、原油価格は、2007年以降、史上最高値を次々と更新 し、サウジアラビアをはじめとする産油国側に警戒感が生まれるほどになった。 2008年9月のリーマン・ブラザーズの経営破綻を契機とする世界同時金融恐慌、いわゆる リーマンショックによる世界経済の落ち込みにより、世界的に石油需要が落ち込んだこと や、原油先物市場からの投資マネーの引き揚げなどにより、図48のように、原油価格は急 落していった。 価格急落後の2009年1月、OPEC加盟国は前月の総会で決定した420万バレル/日の大幅な減 産を速やかに実施し、短期間での価格回復を果たした。リーマンショック後に回復した原 油価格は、2011年3月には再び100ドルを超えた。その後も80~ 100ドル台で推移していた が、2014年7月以降下落に転じ、2015年1月には2014年のピーク時と比較して5割以下にまで 下落した。その後一旦は60ドル近くまで上昇したものの、2016年には20ドル台まで下落し た。 現在(2016年3月末時点)でも30 ~ 40ドル前後で推移している。現在の原油価格下落の 主な要因は、2015年に約200万バレル/日に達したとされる、世界的な原油の供給過剰感に ある。2014年は、中国をはじめとする新興国の石油需要が伸び悩んだ一方、2011年以降、 原油価格が高値安定的に推移してきたことにより、ロシア・ブラジルなどのOPEC非加盟の 産油国での原油増産が続いたこと、急拡大を続けてきたアメリカのシェールオイル(後述) の生産が堅調に推移したことなどから石油市場は供給過剰となった。 原油価格の下落が続く中でも、これまで原油供給の調整役を担ってきたOPECは原油の減 産を見送っている。サウジアラビアをはじめとするOPECがこのような姿勢を取るのは、生 産拡大を続けるOPEC非加盟の産油国に対抗して市場シェアの確保を図るとともに、比較的 309 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 生産コストが高いとされるアメリカのシェールオイルの減産を狙ったものであるとする見 方がある。 しかしながら、生産効率上昇やコスト削減などにより、アメリカのシェールオイルの生 産量は原油価格が急落した2015年も堅調に推移しており、原油価格の下落などにより石油 需要の伸びは回復したものの、世界的な原油供給過剰状態は続いている。 2016年11月30日、OPECは8年ぶりに減産に同意した。2017年1月から1日当り約120万バレル 減産して、加盟国全体の生産量を1日当り3250万バレル程度に抑えることにした。ロシアを はじめとする非加盟国も同調して計60万バレルの減産に応じる意向を示している。この減 産合意を受けてニューヨークの原油先物相場は、前日比4.21ドル高い49.44ドルの高値をつ けたという。いずれにしても、このように今や原油は金融商品になってしまっている。 【3】グローバル時代の新規参入者―ロシア、カスピ海周辺諸国、中国 ○ロシアの復帰 年間5億7000万トンを生産し、1990年には世界最大の産油国だったソ連は、翌年1991年末 に崩壊した。ソ連の解体後、ロシアはシベリアとウラルのきわめて重要な石油地域を国土 として押さえた。対照的に、カスピ海沿岸の石油地帯は複数の新興独立共和国、アゼルバ イジャン、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンに分割された。 ソ連崩壊直後の石油産業の現場は無秩序状態だった。西シベリア各地やその他の地域の 個々の生産機構が、つぎつぎと独立を宣言して、自分たちで事業に乗り出そうとした。こ の混乱と投資の枯渇のため、ロシアの石油生産は5年ほどのあいだに、50%近く低下した。 1992年11月、エリツィン大統領は、旧ソ連政府の石油ガス工業省次官のアレクペロフの 探鉱、生産、精製、市場取引を垂直に統合したひとつの企業体とした会社という案を採用 して、法令1403号で、垂直統合の3社(ルクオイル、ユコス、スルグト)の経営を規定した。 3社がそれぞれ、源の石油生産地と精油所と市場取引部門を統合し、いずれも世界最大の石 油会社と並び立つようにする。石油産業の他の会社の支配的株式持分は、国営企業ロスネ フチに3年間預けられ、各社が将来を決める時間を稼ぐことになった。 ミハイル・ホドルコフスキーはソ連崩壊の混沌とした物々交換経済でのしあがった新興 財閥(オリガルヒ)だったが、1995年、深刻な資金不足になったエリツィン大統領のロシ ア政府に3億900万ドルを貸し付け、政府が返済不能になり、担保のユコスの株式がホドル コフスキーの資産になり(この方式をロシアでは株式担保型民営化と言った)、ユコスの 大株主となった。彼は旧ソ連の技術ではなく欧米の開発技術を取り入れ、飛躍的に生産量 を増やした。こうしてホドルコフスキーの富と影響力は増大し、野望もふくらんだ。 シブネフチ、すなわちシベリア石油も株式担保型民営化で、アブラモビッチとベレゾフ 310 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― スキーが組み、ロシア政府に1億ドルを貸し付けて手に入れたものだった。ベレゾフスキー はプーチン大統領と不和になって政治亡命した。アブラモビッチは、ロシアの天然ガス大 手ガスプロムにシブネフチを売却し、イギリスに移住してしまった。 こうして、ロシアの石油産業は、ルクオイル、ユコス、スルグトがロシアの3大メジャー となり、国営のロスネフチとミニ・メジャー6社などが残っていた。ミニ・メジャーのひと つがTNKだった。TNKは西シベリアのサモトロル油田の半分を支配していた。 このようにソ連崩壊からわずか6年後の1998年には、ロシアの石油産業は、多数の政府機 関が運営して中央の計画に従うという体制から、垂直に統合された大企業の体制に変わり、 おおまかな輪郭は欧米の従来の企業とほぼ同じように組み立てられた。やがて、ロシア連 邦は、埋蔵量が欧米のメジャーの規模に匹敵する5大エネルギー企業を擁するようになった。 この間、ロシアの石油設備の状態が悪く、また過渡期にありがちな混乱から、石油生産 量の低下は1999年まで続き、1991年の5億1000万トンから1999年の3億500万トンへと低下し た。減産傾向はその後反転し、2004年には4億5900万トンにまで回復した。 いまや、ロシアにはルクオイル、ユコス、スルグト、TNKといった無数の光り輝くロゴを 帯びた新しい現代的なガソリンスタンドが、交差点や幹線道路沿いに雨後のたけのこのよ うに出現していた。コンビニや自動洗車機のような設備もあった。なにもかも、旧ソ連時 代には想像もできなかったものだった。 《欧米石油産業の進出》 ロシアでは、1992年11月、すべての石油関連企業は株式会社へ転換することが決められ、 外国企業にも15%を限度として出資権が認められた(この上限は1997年11月に廃止された ことで、それ以後外国企業は100%まで出資が行えるようになった)。 欧米企業がロシアの石油産業全体を見ると、業務の現状、装備、油田すべてにおいて、 ロシアは劣っていることがわかった。ルクオイルとのパートナーシップで、コノコは北極 圏の開発計画を引き受けた。エクソンとシェルは、サハリンに進出した。エクソンがプロ ジェクトの実行役となり、ロシアの国有企業ロスネフチ、日本企業(サハリン石油ガス開 発)、インドの国営企業ガス公社も参加した。1990年代はじめに着手して、15年を経て全 面的な生産を開始した。それには70億ドルものコストがかかった。 シェルのサハリン2もまた、1990年代はじめに着手され、世界最大の石油・天然ガス開発 計画となり、200億ドル以上のコストがかかった。全長800キロメートルのパイプライン2本、 1本は石油、1本は天然ガスの建設という難題にも取り組まなければならなかった。 西シベリアにはシダンコというロシアの2番手メジャーがあったが、同社は西シベリアで 最大のサモトロル油田の部分パートナーシップ(TNKとの)を有していた。BPがシダンコの 株の10%を1997年に5億7100万ドルで買った。 311 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この間、2003年8月にBPとロシアのチュメニ石油グループ(TNK)を所有するアルファ社、 アクセス・レバノ社とのあいだでTNK=BP社(TNK 、BPそれぞれ50%ずつ出資)が設立され た。これはロシアへの海外からの直接投資として最大のものとなった。この新しい合同体 は年間約6000万トンの産油能力を有している。2社の組み合わせによって油田が現代化され、 生産量が急激に増えた。BPの全可採埋蔵量も3分の1増加し、シェルを抜いて、エクソン・ モービルに次ぐ世界第2位の石油会社になった。 《プーチン大統領の石油産業支配》 1999年12月の大晦日、エリツィンが突然辞任し、プーチンが大統領代行になり、2000年7 月の選挙で正式に大統領になった。プーチンはサンクトペテルブルク国立鉱山大学の卒業 で、ロシアの石油・天然ガス資源が経済回復にとって重要であり、ロシアの世界経済参入 およびロシアを経済大国にする鍵を握っているという論文を書いていた。それらの資源は 直接管理をしないまでも、国家の保護下になければならないという考えの持ち主であった。 ユコスのミハイル・ホドルコフスキーは、パイプライン建設の件で中国と直接交渉し、 プーチンの意向に反していた。もうひとつの石油メジャーであるシブネフチを買収しよう としていた。吸収合併すれば、世界最大の石油会社になる可能性があった。また、シェブ ロンやエクソン・モービルを相手に、ユコスの支配的株式持分を売り渡す話し合いも進め ていた。その一方、ホドルコフスキーは、ロシアを大統領制民主主義ではなく議会制民主 主義に移行させるために資金を投入する用意があるということを、公にしていた。自分が 首相になる意図があることもほのめかしていた。 ホドルコフスキーは、2003年4月にはユコスをシブネフチ社と合併させ、年間1億1500万 トンの原油を生産する世界第4位の石油グループを作り上げることに成功した。この新会社 はユコス・シブネフチ社と命名された。その6ヶ月後の2003年10月には、ホドルコフスキー は脱税などの名目で有罪を宣告され投獄された。2011年、横領容疑の別の裁判により、刑 期が延長された。ユコスの方は、解体されて会社がなくなり、有力子会社がロスネフチに 吸収された。現在ではロスネフチがロシア最大の石油会社であり、政府が大部分の株を所 有する最強企業となった。 ロシアの“資源戦略”は、別の方面でも表面化した。エクソン・モービルのサハリン1プ ロジェクトには、ロシア側のパートナーとしてロスネフチが参加していた。しかし、シェ ルのサハリン2には、ロシア側が加わっていなかった。2006年には数ヶ月にわたって、サハ リン2プロジェクトは巨額の賠償金を要求するものを含め、さまざまな環境保護違反で告発 された。2006年12月、シェルと日本のパートナーは、ガスプロムを最大株主として受け入 れることに合意した。ロシアのガスプロムは世界最大の天然ガス会社だが、液化天然ガス (LNG)部門がなく、アジアで販売する能力もなかった。サハリン2プロジェクトはその後 312 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― も続けられて、2009年にはLNGをアジアや、はるか彼方のスペインまで輸出しはじめた。 ロシアは2010年代には産油国として復帰していた。ふたたび世界最大の産油国となった。 石油と天然ガスは今後もしばらくロシアにとって最大の富の源であり続けるであろう。し かし、1990年代に着手した事業をしのぐ大きなビジネスチャンスはどこにも見当らない。 次世代の油田・天然ガス田の開発は、北極圏にあたるロシア北岸の海上油田であろう。 こうした辺境での開発はきわめて困難で、コストもかかり、サハリンの二プロジェクトよ りさらに複雑になるであろう。またもや国際企業が重要な役割を果たす可能性が大きい。 欧米のメジャーはそれだけの規模のプロジェクトを実行する能力があるだろう。しかし、 このようなプロジェクトを行うには、双方に相当の信頼関係が必要とされるだろう。 ○カスピ海周辺の石油開発 ロシア帝国、ソ連の時代を通じてカスピ海沿岸のバクー周辺に油田が集中していていた。 この石油地帯は、1991年のソ連崩壊後に独立したアゼルバイジャン、カザフスタン、トル クメニスタンに分れたが、2010年代には、北海の既存の油田と拮抗する産油地帯として世 界市場に参入した。そこには生産量で世界第3位の油田がある。 《アゼルバイジャンの石油産業》 アゼルバイジャンは、1991年8月30日に旧ソ連から独立を宣言した。1993年以来、元アゼ ルバイジャン共産党書記長のヘイダル・アリエフが大統領として政権を掌握し、強権的な 政治を行い始めた。1994年9月、アリエフはバクーのグリスタン宮殿の間に外交官や石油会 社幹部多数を集めて、6ヶ国の石油会社10社とアゼルバイジャン国営石油会社(SOCAR)と の共同出資で、アゼルバイジャン国際操業会社(AIOC)を設立した。その後、伊藤忠商事 が加わり、7ヶ国の共同運営となった。 この新会社が対象としているのは、ソ連崩壊直前に発見された、カスピ海の120キロメー トル沖合にあるアスフェロン海底稜線のアゼリ・チラグ・グナシリ油田(ACG)だった。旧 ソ連の石油産業の技術力では歯が立たなかった、きわめて困難なプロジェクトだった。石 油をどうやって運び出すかも問題だった。 アーリー オ イ ル 結局、初期石油を運ぶパイプラインを2本建設することになった。アーリー・オイルを北 に向けて既存のロシアのパイプラインにつなぐルートとアーリー・オイルを西にむけて、 グルジアを通過させ、黒海に到達させるというルートだっだ。1999年、2本のアーリー・オ イル輸出ラインが稼働した。 アゼリ・チラグ・グナシリ油田は“当り”で、カスピ海の海底から膨大な量の石油を採 算のとれるように汲み上げることができることがわかった。開発の成功が確実になって、 もっと大量の原油を輸出できるメイン・パイプラインを建設しなければならなかった。そ のルートにはいくつかあったが、BTC案が採用された。バクー(B)から西へ進み、アルメ 313 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ニアを迂回してグルジアにはいり、首都トビリシ(T)の近くで左に折れて、トルコを抜け て南下、地中海の港ジェンハン(C)に出るというものだった。このBTCパイプラインは、 全長1768キロメートルで21世紀最初の大規模土木建築プロジェクトといわれた。4年の月日 と40億ドルを費やして、パイプラインは完成した。2006年夏最初の原油が地中海に面したト ルコの積出港ジェンハンに到着した(1日100万バレル以上)。 現在、アゼルバイジャンの海上ACG油田(220億ドルのプロジェクト)は、世界第3位の生 産量の油田となっている。その後、BTCと並行のパイプラインが敷設され、カスピ海とシャ ーデニズ海上ガス田から、トルコへ天然ガスを輸送している。それは、ここ数十年で最大 級の天然ガスの発見だった。こちらは南コーカサス・パイプラインと呼ばれ、カスピ海と グローバルなエネルギー市場を一段と強く結びつけた。 《カザフスタンの石油産業》 カザフスタンのテンギス油田はソ連時代から開発が進められていたが、1985年夏、「油 井37」で大爆発を起こし、ソ連石油省にはそれを鎮火させる能力の装備もなく、アメリカ とカナダの専門家が消火に2ヶ月かかったというものである。 カザフスタン共和国も1991年12月16日にソ連から独立した。ソ連カザフ・ソビエト社会 主義共和国共産党第一書記のナザルバエフが独立以来、カザフスタン共和国大統領に就任 し、強力なリーダーシップを発揮している。 ナザルバエフは、カザフスタンの未来にとって、テンギス油田はぜったいになくてはな らない存在と考えた。カザフスタンには、19世紀に操業をはじめた小規模な地元石油産業 があった。アゼルバイジャンの膨大な石油産業の、東の延長線上にある。前述したように カザフスタンの開発は1980年代に頓挫し、当時の探鉱や生産の機材が凍りついたまま放置 されていた。この油田の潜在的な価値を現実のものにするには、数百億ドルの投資が必要 になると考えられた。 莫大な費用を必要とする巨大油田を開発するやり方について、カザフスタンとシェブロ ンの交渉がまとまった。所有権については50%対50%だが、経済面では対等ではない。各 種のコストが回収されたあとは、収入の80%をカザフスタン政府が取るというものであっ た。カザフスタンがキャッシュフローを得て、持ち分に資金を注入できるようになるまで、 シェブロンが200億ドルの投資の大部分を出資することになった。高圧の原油を地中深くか ら採掘し、サワーガスを処理して硫化水素を取り除くには、きわめて複雑な技術が必要と された。 石油をカザフスタンから世界市場へ輸送するには地理的にも難題があった。考えられる ルートは、およそ1500キロメートルの長さのパイプラインを、カザフスタン領内で北にの ばし、カスピ海北岸を通って西へ建設し、そこから黒海北岸のロシアの港のノボロシスク 314 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― まで、720キロメートルを一直線に進む。そこでタンカーに積み込み、黒海を渡り、ボスポ ラス海峡を通って地中海に出るというものであった。 テンギス油田は40年間に渡り石油を採取してきたテンギスシェブオイルが管理を行って いて、テンギスシェブオイル (TCO)のコンソーシアムは1993年4月に設立された。テンギス シェブオイルのパートナーはシェブロン (50%)、エクソン・モービル (25%)、カザフスタ ン政府の代理であるカザフスタン石油 (20%)、ルクオイル (5%)である。 前述のパイプラインに対してパートナー企業は27億ドルを投資した。 2001年3月に開通 式が行われたパイプラインは60万バレル/日の石油を運んでおり、2010年には70万バレル/ 日、最終的な最大出力は150万バレル/日となる予定である。 テンギス油田の石油埋蔵量は約250億バレルと推定されており、世界第6位の大きさの油 田である。他の多くの油田と同じく、テンギス油田にも大量の天然ガスが埋蔵されている ことがわかっている。テンギス油田は世界有数の油田であり、メキシコのカンタレル油田 と埋蔵量がほぼ等しい。 1968年以降に発見されたなかで最大の油田も、カザフスタンにある。カスピ海北東の沖 合80キロメートルにある広大なカシャガン海上油田である。1997年、欧米企業のコンソー シアムが、カスピ海北部の探鉱と開発を行う契約を、カザフスタン政府と行った。2000年7 月、油田が発見された。その後、カシャガンの可採埋蔵量は、130億バレルと推定された。 アラスカのノーススロープに匹敵する規模だった。 カシャガンの埋蔵量は膨大だが、難題もテンギスをはるかにしのぐといわれている。冬 季はカスピ海が凍結する厳しい気候下にあり、気温は年間を通して-35°Cから40°Cまで変 化し、原油は海底の4キロメートル下に埋もれ、莫大な圧力がかかっているうえに、テンギ スとおなじ危険な硫化水素が多く含まれている。さらには運用の失敗と競争激化も相まっ て、カシャガン油田の採掘計画は世界でも有数の非常に運用の難しい大規模石油プロジェ クトとなっている。 ここでも国際的パートナー(ENI、シェル、エクソン・モービル、トタル、コノコ・フィ リップス、日本の国際石油開発帝石)とカザフスタン政府のあいだに、それまで合意して いた共同操業という形式から1つの企業が油田で操業するという形式への変更がくだされ たことにより、コンソーシアムは変化することとなった。 ENIが2001年に新しい運用者となった。2001年、BP/スタトイルは他のコンソーシアムの パートナーにプロジェクトの投資分を売却した。2003年、BGグループは投資分を中国の2つ の企業、中国海洋石油総公司(CNOOC)と中国石油化工(Sinopec)に売却しようと試みた。 しかし、パートナー企業が先取特権を行使することにより売却は失敗に終わった。その後 もコンソーシアムに変化があった。 315 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2012年11月、ONGC(インド石油天然ガス公社)はコノコ・フィリップスの8.4%の投資分 を買い取ることで合意した。 しかし、カザフスタン政府は2013年7月、先取特権を行使、コノコ・フィリップスの投資 分を中国石油天然気集団(CNPC)に売却することを決定した。この売却は既にENIにより承 認されていた。 カシャガン油田はカザフスタン=中国石油パイプラインへの石油供給の主要油田として 開発が進められている。2013年9月に中国政府が油田への投資権を取得、習近平は約50億ド ルでカザフスタンと契約を結んだ。CNNマネーは採掘計画には1160億ドルが必要であると試 算した。これは世界で最もコストの掛かるエネルギープロジェクトとなっている。一方、 他のメディアでは、500億ドル以内に収まるという見方もある。 2013年9月11日、数年遅れで、エクソン・モービルとコノコ・フィリップスによりカシャ ガン油田の採掘が開始された。続く数年間で採掘量を増やしていくと推測されている。初 期の石油採掘量は37万バレル/日、最終的な到達採掘量は150万バレル/日であると予想され ている。 以上、1990年代から2000年代はじめのアゼルバイジャンの海上油田とバクー・トビリシ・ ジェイハン・パイプライン、カザフスタンのテンギスとカスピ海パイプラインは、石油市 場に大きな供給をもたらしたという意味で、きわめて重要だった。アゼルバイジャンとカ ザフスタンの現在の生産量は合わせて280万バレルで、北海油田の生産量の8割に当り、10 年ほど前の生産量の4倍である。 ○中国石油産業の台頭 《世界最大の石油消費国となる中国》 中国は、1979年に開始された改革開放以来、中国経済は15倍以上成長し、2010年には日 本を抜いて、世界第二の経済大国になった。この大規模な経済拡大は、中国の石油情勢を 一変させた。20年前の中国は、石油を自給していたばかりか、石油輸出国でもあった。そ れがいまでは半分を輸入でまかない、需要が増えるにつれて、輸入の割合も増している。 中国は、2000年から2010年のあいだに、石油消費量は2倍以上に増えて、いまやアメリカに 次ぐ世界第二位の石油消費国になっている。 中国が成長すれば、石油消費量も増加する。2020年ごろにはアメリカを抜いて、世界最 ビルドアウト 大の石油消費国になる可能性がある。中国の 拡 充 とよばれる経済拡大現象は、今後も続く と考えられ、中国ばかりでなく世界経済にとっても、決定的な影響を与えることになるだ ろう。この成長、あらたな建設工事、新設される工場、集合住宅とそこに置かれる家電、 それらにともなう交通手段すべて、なにもかもが、エネルギーに依存している。 すべてを総計すると、とほうもないエネルギーが必要となる。もっと多くの石炭、石油、 316 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 天然ガス、原子力、再生可能エネルギー、すべてに中国は取り組んでいる。現在は、石炭 が中国のエネルギーを支えている。しかし、国際市場や世界経済との結びつきという点で は、石油がもっとも重要な要素になっている。 《中国の石油開発の歴史》 第二次世界大戦後、中国の石油開発は、ソ連の援助で西域の辺境数ヶ所で行われたが、 その成果は取るに足らないものだった。やがて、1959年、中国東北部にあたる黒竜江省の よろこ 草原で広大な新油田が発見され、大いなる 慶 びという意味で大慶油田と名づけられた。し かし、おりから起った中ソ論争からソ連は突然、人員と装備を引き揚げてしまい、中国は この大慶油田を自力で開発することになった。 1960年代の開発時には、多数の労働者を人海戦術で投入、他国の技術を用いずに施設を 完成させたとして、労働者の模範的職場として賞賛され、「工業では大慶に学べ」という スローガンが生まれた。最盛期には日本の原油輸入量の3割に相当する年間5000万トン以上 の生産量を誇った。しかし、中国の世界貿易機関(WTO)加盟により国際的な価格競争にさ らされ、1990年代以降は著しい合理化が進められた。2000年前後から原油生産は減退傾向 にあり、天然ガスの生産にシフトしつつある。 1962年に発見された勝利油田は大慶油田に次ぎ操業が開始された。山東省東営市を主要 部分として周辺地域にまたがっている。油田開発から40年が経過し、陸続きに69の油田が 発見された。2004年の原油生産量は2674万トン、天然ガス生産量は9億立方メートルであっ た。新しい地質探査技術を利用することで、今までとは違う地層を探査することが可能に なった結果、勝利油田は新たに6.46億トンの原油埋蔵量があることが判明した。鉱区は2010 年現在、渤海海域にまで拡大し、海底油田として開発が進んでいる。 1976年の毛沢東の死、急進的な4人組との戦いのあと、鄧小平は最高指導者としての地位 を固め、1978年の共産党第11期中央委員会第3回全体会議で改革開放政策を提議した。開放 の中心は石油産業だった。当時の中国はもはや、“石油不足”ではなく、生産は国内需要 を超え、外貨をかせぐため輸出を開始していた。近くに日本という格好の市場があった。 改革開放を進めてみると、中国の石油産業技術がいかに遅れているかがわかった。そこ で石油輸出の収入に支えられ、技術力を高めるために、掘削装置、地震探査機器、その他 の装備を海外から購入することができた。 1989年の天安門事件後、改革反対派が勢いづいたが、1992年の鄧小平の“南巡講話”後、 再び中国は改革路線を固めて、1990年代はグローバル経済との融合を進めていった。1995 年1月、貿易障壁を取り除き、グローバルな貿易と投資に便宜をはかるために、WTO(世界 貿易機関)が設立されると、中国のWTO正式加盟は2001年となったが、その前からずっと中 国はこの新しいシステムになじむように努力していた。 317 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 《中国の新しい石油産業体制》 中国はエネルギーに関しては、1993年に大きな分岐点を越えていた。中国は石油輸出国 から石油輸入国へと変っていたのである。このことが、石油産業の構造をさらに現代化す きっきん ることを喫緊の問題とした。すでに1980年代に政府機関から切り離された国営企業3社、 CNPC (中国石油天然気集団公司)、シノペック(中国石油化工業公司)、CNOOC(中国海 洋石油総公司)が出来ていた。 1990年代末にはじまった次の動きは、この3社をより現代的な、テクノロジーの面でも先 進的な会社に(そして独立性の強い事業体に)変えるための大幅な機構改革であった。こ の時点で、3社はIPO(株式上場)を行い、世界中の株主が会社の一部を所有できるように した。CNPCの子会社には、ペトロチャイナという新しい社名があたえられた。一方、シノ ペックとCNOOCは、それまでの社名を上場した子会社にも採用した。 ◇CNPC (中国石油天然気集団公司) ちゅうごく せ き ゆ てんねん き しゅうだん こ ん す 中国 石油天然気 集団 公司、CNPCは、中国の国有企業であり、原油・天然ガスの生産と供 E AE AE AE AE E E AE AE 給、および石油化学工業製品の生産・販売において中国最大の規模を誇る会社である。新 セブン・シスターズの一社でもある。英語名 China National Petroleum Corporation (CNPC) である。中国石油天然気(ペトロチャイナ)は主要な子会社である。 CNPCの前身は、中国政府の石油工業部(石油工業省)であり、1950年代末から1960年代 初頭にかけて前述した黒竜江省の大慶油田、山東省東営市の勝利油田などを手掛けていた。 1983年7月、精製など石油化学工業を担当する国有企業中国石油化工総公司(シノペック) が誕生し、1988年9月17日には国務院による機構改革で石油工業部が廃止され、石油探査・ 採掘を行う国有企業である中国石油天然気総公司へと生まれ変わった。 1998年3月、中小の石油関係工場の乱立を是正するため、世界で戦える産油企業・石油化 学企業への戦略的再編を目指して国務院による再度の機構改革が行われた。それまで違う 分野を手がけていた中国石油化工総公司と中国石油天然気総公司は、組織再編や事業交換 の上、石油探査から加工までを一貫して行う二つの特大企業グループとして再編され、同 年7月27日、中国石油天然気集団公司 (CNPC) と中国石油化工集団公司(シノペック)が正 式に成立したのである。 現在のCNPCは、中国国内では中国東北部や華北、新疆ウイグル自治区などに大型油田・ ガス田、および各地に大型石油化学工場を保有する。CNPCは事業再構築の過程で、中国国 内の資産や事業のほとんどをペトロチャイナに分割・民営化した。 ペトロチャイナは2000年に香港証券市場およびニューヨーク証券市場に上場したが、 CNPCはペトロチャイナの株式の90%を保有している。2007年の上海証券市場上場に伴って 時価総額で世界一となり、2011年に2位に下るも2015年にも時価総額でエクソン・モービル 318 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― を超えた。アジア最大の純利益を誇る「アジアで最も稼ぐ企業」と呼ばれたこともあり、 2015年時点で世界の売上高ランキングでは中国石油化工とともにエクソン・モービルやサ ウジアラビアのアラムコを凌いでいる。 CNPCは世界中で石油資源の獲得に全力を挙げており、アゼルバイジャン、カナダ、イン ドネシア、ミャンマー、オマーン、ペルー、スーダン、タイ、トルクメニスタン、ベネズ エラ、イラク、イラン、ロシアなどで30ヶ所以上の油田・ガス田の探査や開発にあたって いる。 2004年には中東から新疆ウイグル自治区へのパイプライン建設を開始した。また企業買 収による国際展開もはかっており、2005年8月にはCNPCはペトロカザフスタン社(カナダの カルガリーに本社を置き、主にカザフスタンでの原油・天然ガス生産を行うカナダ企業) を41.8億ドルで買収することで合意を交わしたと発表した。これは中国企業による最大級 の海外企業買収事案であった。 ◇シノペック(中国石油化工業公司) シノペック(中国石油化工業公司)は、英語名China Petroleum and Chemical Corporation (Sinopec、シノペック)であり、中国最大規模の石油会社・石油化学工業会社である。 その発足は、国営の石油化学工場群がもととなっているが、各工場の規模が小さく、生 産の非効率や競争の激化が懸念されていた。このため、各工場を巨大企業へと集約し世界 的な競争に勝つ石油事業会社とするため1998年に誕生したのが中国石油化工集団公司(シ ノペック)、および中国石油天然気集団公司(CNPC)であった。 シノペックは、2000年2月25日、国有企業である中国石油化工集団公司から現業部門を引 き継いで発足した民間企業である。2000年に香港、上海、ロンドン、ニューヨークの各証 券取引所に上場している。 その事業は、石油・天然ガスの探査・採掘、精製、運輸、販売、および石油化学製品、 化学繊維、化学肥料などの製造・販売など、石油事業の川上から川下に及んでいる。また 石油・ガスの備蓄とパイプライン輸送、石油と石油化学製品の輸出入事業も行っている。 石油化学製品の生産では中国一位、原油生産では中国二位である。 シノペックは、中国国内のガソリンスタンド事業や石油卸売・小売事業で、中国石油天 然気集団公司傘下の中国石油天然気、および川上から川下への進出を進める中国海洋石油 総公司傘下の中国海洋石油と激しい競争を繰り広げている。 ◇CNOOC(中国海洋石油総公司) ちゅうごくかいよう せ き ゆ そ う こ ん す 中国 海洋石油総公司は中国の第3位の国有石油・天然ガス企業グループで、英語名 China E AE AE AE AE National Offshore Oil Corporation(CNOOC)である。その事業内容は、中国大陸沖合に おける石油および天然ガスの探査、採掘、開発である。また子会社として民営企業である 319 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 中国海洋石油有限公司(CNOOC Ltd)がある。 CNOOC Ltd が実際の海中油田探査・採掘事業を行っており、香港証券取引所およびニュ ーヨーク証券取引所に上場しており、ハンセン指数の採用銘柄にもなっている。中国海洋 石油総公司は、CNOOC Ltd の株式の70%を保有している。その他の子会社には化学肥料など を製造する大手化学メーカー・中海石油化学がある。 CNOOCの設立の経緯をみると、中国は第二次石油危機後の原油価格高騰のため、自国領海 付近の大陸棚での海上油田開発に期待をかけていたが、当時中国にはその技術力と資金力 がなかったため、改革開放路線に則って外資に対し海上油田開発を開放した。この際、海 外企業のパートナーとして共同で開発を行い、海上石油採掘事業に関する中国側の責任を 負うために中国海洋石油総公司が設立された。 こうした経緯から、中国沖合での石油資源開発に関して独占的な地位を得てきたが、こ れまでCNOOCが独占してきた中国沖合の海上油田開発に対し、国内最大のライバルである CNPCとシノペックが参入する許可を政府から得た。さらに中国のWTO加盟により国内の石油 小売・卸売市場は2006年末までにメジャー各社など海外企業に開放されることになり、中 国国内の国有企業グループ各社による石油・ガス事業独占体制は終わり、現在のCNOOCは競 争環境下にある。 CNOOCは石油事業の上流部にあたる探査・採掘に強みを持つためここを中核事業とし、そ こから下流部も含めた総合エネルギー企業へ発展してゆく展望をもっている。中国の全国 営企業の中で営業利益は5位、総資産は12位にランクされている。資本市場でもこのパフォ ーマンスは高く評価され、中国の企業の中でも最高レベルの格付けを得ている。 中国国内の主な生産地は渤海沿岸、次いで南シナ海東部(珠江河口沖合)、南シナ海西 部(海南島周辺)と続いている。このうち渤海は華北の、南シナ海は華南のエネルギー供 給地となっている。生産高も成長を示し、2004年には石油・ガスを前年比9%増の3,648万ト ン(石油換算)生産した。これに加えてインドネシア周辺海域でも油田の権益を確保し、 生産高の大きな割合を占めている。 CNOOCは、は東シナ海中央部においても探査活動を続けており、日中中間線付近における ガス田開発を手がけていることで日中間に政治問題(東シナ海ガス田問題)を起こしてい る。日中間の話し合いがつくまで開発に着手しないことになっていたが、密かに開発生産 を開始している。 また、2011年6月4日には山東半島北岸の渤海湾でアメリカのコノコ・フィリップスと共 同開発していた海底油田・蓬莱19-3油田で石油流出事故が発生した。中国海油や中国政府 は当初1ヶ月ほど事故を公表せずにいたが、9月の漏出停止までの間に渤海湾一帯の漁業や 環境に大規模な被害を及ぼす結果となった。 320 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― CNOOCは、石油・ガス開発のほか、下流に当たるガス供給、ガス発電などにも力を入れて いる。液化天然ガス(LNG)輸入に向けた準備を進め、オーストラリア北西大陸棚やインド ネシアで獲得したLNGを受け入れる基地を広東省と福建省に建設し、2006年から受け入れて いる。その他の沿岸地域にも次々とLNG受け入れ基地が建設され、2010年前後に稼動する計 画である。また基地を作るだけでなく、ガス発電所も建設することになっている。 その他、CNPCとシノペックなどが独占してきた原油輸入に関しても、2004年にシノペッ クと合同で輸入企業を作ることについて中国政府の許可を得た。同じく2004年、石油精製 に関しても、ロイヤル・ダッチ・シェルと中国における過去最大級のジョイント・ベンチ ャーを作り広東省恵州市に精製所の建設を進めることについて政府の許可を得た。精製事 業の次は、CNPCとシノペックの独占である石油卸売・小売事業への参入を目指している。 さらに子会社の上海などへの上場、経営システムの近代化も進め、石油事業の上流から下 流に至る総合エネルギー企業への変身が続いている。 CNOOCは近年、中核事業である石油開発に関連した石油権益買収や国際的なM&Aを攻撃的 に行っている。2002年にはスペインの石油会社レプソルからインドネシア沖の5つの鉱区を 買収し、インドネシア周辺最大の採掘業者となった。2003年には広東省へのLNG輸入計画に 関連しオーストラリア北西大陸棚の権益の5.3%を買収した。同年、福建省へのLNG輸入計画 のためにインドネシア・タングー地区の12.5%の権益を、上海LNG輸入計画のためオースト ラリア・ゴーゴンの12.5%の権益を買収した。 さらに2005年6月、CNOOCはアメリカの石油会社ユノカルに対し、同社の買収を検討して いたシェブロン・テキサコ以上の額である現金185億ドルを提示し、買収合戦に名乗りを上 げた。ユノカルが保有する中央アジアの石油権益はCNOOCにとって非常に魅力的で戦略的に も合致していた。 ユノカル買収問題が出たら、アメリカ議会で、中国政府の金銭的支援を受けた国有企業 によって戦略的に重要なアメリカの産油企業が買われてしまうという反発が起った。8月2 日、CNOOCはユノカル買収から手を引くと宣言した。結局、シェブロンは買収額を171億ド ルに引き上げ、ユノカルはこれを受け入れて収まった。 一方、アメリカで失敗したCNOOCはアフリカへの投資をはじめている。2006年1月9日、 CNOOCは22.68億ドルでナイジェリアの130号海上石油開発採掘許可の権益の45%を買収した。 また2月18日、CNOOC は赤道ギニア政府や国営石油会社と、同国の鉱区の共同生産・加工に ついて合意した。 《中国の国策にそう中国の国際国営石油会社》 以上のように、中国の石油・天然ガスの3社は、2000年代にはいると、グローバルな石油・ 天然ガス産業で存在感を高めていった。これは“外征”戦略という名前がついていた。国 321 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 際産業に遅れて参加した中国には油田開発のスキルだけでなく、強い意欲や、ゲームに参 プレミアム 加する割増金を払うだけの財力がある。 それに、中国はパートナーとしての自分たちに大きな“付加価値”をつけている。つま り、政府の資金供与による開発で、鉄道、港、道路の建設を援助している(従来の欧米企 業にはできないことである)。中国の銀行は石油会社と組んで、数多くの国に数十億ドル を貸し付け、返済は長期にわたり石油かガスで支払われることになっている。 このように国家と一体になった戦略が中国企業を有利にさせている。中国の国家主席は、 サウジアラビアを皮切りに中東やアフリカの石油・第1次産品輸出国多数を、きわめて積極 的に正式訪問した。そして、中国が主宰した経済協力を議論するアフリカ首脳会議には、 48ヶ国の大統領が集まった(アフリカには54ヶ国がある)。そして、2010年、ユノカル買 収の熾烈な戦いの5年後に、シェブロンとCNOOCは、共同でメキシコ湾ではなく中国近海で 探鉱を行うと発表した。 中国の国際国営石油会社とは、何か。最大株主でありつづける政府と共産党の方針に従 って、エネルギー、経済発展、外交政策の面で、国際国営石油会社は国家の目標を果たさ なければならない。大企業のCEOは、政府の副大臣級の肩書きを持っていて、ほとんどが党 の幹部である。 しかし、中国の石油会社は、それと同時に、他の国際的石油会社同様、商業的な成功や 競争力の維持という目標も達成しなければならない。株を公開している子会社へ投資して いる投資家は、当然ながら世界経済や他の国際的石油会社を尺度に判断する。国際的な規 制や国際的な企業統治の基準にも従う必要がある。要するに、中国の石油会社はバイブリ ッドで、国際石油会社と国営石油会社を掛け合わせたような存在である。 こうした国際国営石油会社のバランスはどうなっているか?IEA(国際エネルギー機関) が最近行った調査の結論では、商業面でのインセンティブが主な原動力になっており、そ ういった企業は政府とは大幅に独立して業務を行っていると言われている。つまり、大半 の株が政府に所有されているが、国営ではない。国際化が進めば進むほど、他の国際企業 と同じような業務運営になっていく。既存のアメリカ、ヨーロッパ、中東、ロシア、アジ ア、中南米の会社と舞台を分かち合い、しばしばパートナーシップを組むことにもなる。 中国の海外での生産はスーパーメジャー1社分よりも少ない。中国が世界の供給を先買し て独占できるような立場になるとは、考えられない。中国の海外生産分の一部は中国に輸 送されているが、大部分は同等の原油と同じ価格で、世界市場で売られている。国内であ ろうと海外であろうと、輸送コストを計算に入れたもっとも適切な価格で、行き先が決ま る。合弁事業の石油はなおのことそうだし、中国が海外で生産している石油の大部分は合 弁事業による。 322 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 今のところ、市場に出る石油を増やそうとする中国の投資と努力は、グローバル市場の 安定にも寄与していると考えられている。中国のこうした投資や増産がなかったら、中国 やその他の国の膨張する需要が圧力を生んで、価格がさらに高騰していただろう。投資が 増えれば、それだけ供給が増え、エネルギーの安定性が強化されることになる。 中国は“外征”だけでなく、国内での石油生産にも力を入れていて、石油会社の生産の 約75%は中国国内での生産である。中国の国内生産の総量は世界第5位で、カナダ、メキシ コ、ベネズエラ、クウェート、ナイジェリアのような大生産国をもしのぐ。中国の石油会 社は巨大になり、さらに突出した勢力になり、競争力がつくこともまちがいない。 ○米中超大国とエネルギー 中国のGDPは2010年に日本を追い越して、世界第2位になり、第1位のアメリカを追いかけ ている。2020年代のどこかでアメリカを追い越す可能性がある。中国はあらゆる面でアメ リカを追いかけているが、石油の面でもそうである。 米中両国は、世界の2大石油消費国となっている。2ヶ国を合計すると、世界の石油消費 量の35%を占めている。アメリカも中国も必要とする石油の半分を輸入に頼っている。ア メリカは、もはや石油消費量は減少するであろうが、中国のほうは、21世紀のどこかで、 いったいどのくらいの石油を必要とするか、見通しはない。 中国は、アメリカとおなじように(そしてヨーロッパ・日本のような先進国とおなじよ うに)大衆的な、大量の石油を消費する自動車文化へ移行しつつあるが、それが前代未聞 の速度と規模で進んでいる。アメリカでは、石油はエネルギー消費の約40%を占めている。 中国では、需要の急激な増加にもかかわらず、石油は全エネルギー使用量のまだ20%にす ぎない。そのおおかたは工業用とトラックと農機のディーゼル燃料である。しかし、中国 でもどんどん変わつつあり、アメリカ型の自動車社会になりつつある。 1990年の時点で、中国の年間自動車生産台数はわずか4万2000台だった。2001年の中国の WTO加盟は、中国の自動車産業の成長に火をつけた。2004年にGMは早ければ2025年に中国が アメリカを抜いて世界第1位の自動車市場になると予測した。ところが、2009年にそれが起 きた。2010年にはアメリカで1150万台が売られ、一方、中国では1700万台が売られた。2030 年には、中国での販売台数は3000万台にのぼる可能性がある。しかも、その後も増え続け ると言われている。 中国の自動車産業の急激な拡大は、雇用を大幅に増やし、国内の消費を刺激する、それ がないと中国の膨大な国民の生活を向上させることができない。しかし、さらなる将来の 石油輸入増加に対する懸念も増大するし、エネルギー消費の急増による大気汚染も限界に 近づいている。大気汚染の主な原因は、個人が家庭で料理と暖房に使用し、発電所で使わ れ、工場で燃やされる石炭である。電力需要の石炭は、10%の割合で増加している。しか 323 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― し、自動車保有台数も急激に伸びていて、大都市の汚染をひどくしている。 十数年前の中国の発電能力は、アメリカの3分の1に満たなかった。現在はアメリカを超 えている。2005年から2010年にかけて、中国の総発電能力は倍増した。新発電能力のかな りの部分(65%)は、いまだに石炭が担っている。石炭需要の増加にともない、中国はも はやその石炭も自給自足できなくなった。いまでは世界最大の石炭輸入国になっている。 とはいえ、発電手段はかなり多様化が進められている。2003年に発電を開始した山峡ダ ムには、原子力発電所20基分の発電能力がある。原子力発電所も約80基が建設もしくは計 画されている。世界最大の公益事業である国家電網公司は、年間500億ドルを費やして、世 界でもっとも先進的ともいわれる送電網を建設している。 2011年に採択された第十二次5ヶ年計画では、新生エネルギー政策を重視し、石炭や石油 に代わるエネルギー、つまり、再生可能(水力も含む)エネルギー、原子力、天然ガス、 電気自動車、それに効率改善などを大幅に増やすとしている。 このようなことをしても、ここ当分は石油・天然ガスの開発・輸入が中国にとって最大 のエネルギー問題であることは変わりがない。これまで順調に伸びてきた中国石油産業も、 今後は、地政学的な懸念、外交政策、人権問題を巻き込んで生じてくるおそれがある。 中国主導のコンソーシアムが膨大な量の石油を生産しているスーダン、ウゴ・チャベス 大統領が故意にチャイナ・カードをちらつかせているベネズエラ、核疑惑問題のあいだに 中国がかなりの規模の権益を確保したイラン、同時に輸入のかなりの部分を依存している 湾岸全域・イラクなどが問題になる可能性がある。 中国周辺では、南シナ海をめぐって東南アジア諸国と、東シナ海においては日本と利害 が衝突するおそれがある。南シナ海をめぐっては、すでに米中のあいだに緊張を生み出す 事態となっている。 340万平方キロメートルの南シナ海は、東アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパの貿易は ほとんどその水域を通っている。中国、日本、韓国向けのエネルギー資源もそこを通って 輸送される。2002年、中国とASEAN諸国は協約(南シナ海における関係国行動宣言)に調印 し、南シナ海をめぐる主張の対立は収まったかに見えた。しかし、その後、中国軍関係者 が南シナ海に関する中国の「明白な主権」を唱えはじめ、そこを支配することは、「中国 の核心的利益」であると一方的に宣言した。その後、フィリピンがこの件で国際司法裁判 所に訴え、中国の主張には何ら歴史的根拠がないという判決が下ったが、中国はこの判決 を無視して、人工島建設や港湾・空港などの整備を続けている。 この問題は米中の世界の覇権争いのはじまりであろうが、エネルギー資源をめぐる争い の側面もあるといわれる。南シナ海周辺で、膨大な量の石油・天然ガスが生産され、とり わけインドネシア、ブルネイ、マレーシアは産出量がきわめて多い。南シナ海の未発見の 324 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 石油埋蔵量は、1500億ないし2000億バレルと推定されている。中国とベトナムは数ヶ所に ついては、合弁で生産することに同意しているが、他の探鉱地域にはついては所有権をめ ぐって争っている。 一方、東シナ海でも日本と中国とのあいだに経済水域をめぐる長期の争いが続いていて、 領有権と採掘権をめぐる問題がくりかえし再燃している。 このような南シナ海、東シナ海で中国がとっている強硬な石油・天然ガス開発政策がど のような結果をもたらすことになるか、いまのところその見通しはまったく立っていない。 【4】非在来型石油 ○非在来型石油の増大 《非在来型石油とは》 近年は、石油は探査技術や発掘技術の進歩によって、従来の油田とは異なる地層や生産 方式によって生産されるものも増えてきている。このような石油を非在来型石油といって いる。 国際エネルギー機関 (IEA) の World Energy Outlook 2001によると、非在来石油には、 シェールオイル、オイルサンド、合成石油と派生合成石油(合成重油など)、石炭液化、液 化バイオマス燃料、GTL(液化ガス)が含まれる。 同じように、在来のガス田から得られたガスではなく、新技術などによって生産された ガスのことを非在来型ガスと呼んでいる。例としては、シェールガス、タイトサンドガス、 コールベッドメタン、メタンハイドレートなどがある。 現在、世界の石油生産の約30%が、浅瀬や深海の海上油田で生産されている。2010年の 世界の深海油田生産の総計は、1日600万バレルにのぼる。サウジアラビア、ロシア、アメ リカ以外のどの国の生産量よりも多い。この深海油田の生産は、2020年には1000万バレル に達する可能性がある。この深海油田も、非在来型供給と呼ばれるもののひとつである。 非在来型石油には多くの種類があるが、共通しているのは、開発がテクノロジーの進歩 しだいだという点である。非在来型は、現在の石油供給で重要な部分を占めているし、今 後はさらに重要になるだろう。 《天然ガス液(NGL)》 もう長らくエネルギービジネスの一部となっていたが、非在来型石油の最大の源は天然 ガス生産にともなう液体、つまり天然ガス液(NGL)である。天然ガスがガス田から出てく コンデンセート るとき、そこから凝縮 液 を取り出せる。天然ガス液は、ガスをパイプラインに送り込むた めに処理するときに、分離される。どちらも高品質の軽油と似ている。 この天然ガス液の産出は、世界中の天然ガス生産と中東での新設備建設によって、きわ 325 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― めて速く増加しており、2010年には1日1000万バレルにものぼった。2030年には1日1800万 バレルを超える可能性がある。世界の石油総生産の約15%に当る。 海上石油生産は、20世紀のはじめから、テキサスやルイジアナ、ベネズエラのマラカイ ボ湖などでやっていたが、本格的な海上油田は1969年、北海でフィリップス石油がエコフ ィスク油田を掘り当てたのが始まりだった。1973年の石油危機で石油価格が4倍に上昇した こともあって、海上油田産業は驚くべき速度で発展した。 北海でのプラットフォームは、風速58メートルの風と、100年に一度の波に耐えるように 設計しなければならなかったが、小型工業都市のような巨大プラットフォームが数百キロ メートル沖に建設され、北海は非常に速く生産が軌道に乗った。1985年にはイギリス側と ノルウェー側を合わせて1日350万バレルを生産し、非OPECと呼ばれるようになった産油国 の柱石となっていた。 《深海油田開発》 北海はまだ比較的浅い海だった。その後、開発はだんだん深海に移っていった。ブラジ ルの半官半民の石油会社ペトロブラスは、1992年、水深780メートルの海にマーリム石油プ ラットフォームを建設することに成功し、深海という障壁を突破した。 一方、1994年、シェル石油のオーガー石油プラットフォーム(海面から26階建ての高さ がある)は、メキシコ湾で水深870メートルの海底からの生産を開始した。 世界各地の深海油田の進歩はめざましく、2000年には1日150万バレルだったのが、2009 年には500万バレルになった。その時点で、世界中の深海に探鉱もしくは生産のための油井 が、1万4000ヶ所、掘削されていた。深海生産は、世界の石油生産にとって偉大な新しいフ ロンティアであるといわれるようになった。もっとも有望な地域は、黄金の三角形と呼ば れるものの角―ブラジル、西アフリカ、メキシコ湾の沖合である。 ブラジルは、中南米で100年近く最大手の産油国だったベネズエラを抜いて、世界有数の 産油国になった。ブラジルの沖合のサントス海盆は、ブラジル南岸と平行に800キロメート ルのびている。その海底の下に岩塩層があり、平均すると1500メートルの厚さがある。ペ トロブラスのガブリエリ総裁は、岩塩層の下をじかに分析できるアルゴリズムを開発した と言った。最初の発見がパラチ油田だった。 ペトロブラスが手がけたなかでもっとも困難な油田であるトウピ油田は、BGやガルプと共 同で掘削している。この油田の開発には2億5000万ドルを要し、水深1800メートルの海底を、 さらに4500メートル下まで掘らなければならなかった。 本書の第1章で述べたように、1億6000万年前にアフリカ大陸と南米大陸が分裂したとき に、油層の上に岩塩を落としていったが、その油層はすでにそこにあったという意味で 326 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― プ レ ソ ル ト 岩塩層下と呼ばれる。 E AE トウピ油田は、超巨大油田であることがわかった。確認埋蔵量は、50億バレルないし80 億バレルとされた。他の油井を掘削するうちに、サントス海盆のプレソルトが莫大な石油 資源である可能性が出てきた。開発がほぼ予定どおりに進めば、ブラジルは15年以内に,1 日600万バレル近くを生産することになる。現在のベネズエラの生産の倍に当る。投資は、 5000億ドルもしくはそれ以上という莫大なものになるだろうが、ブラジルは世界の産油国 の上位に躍り出て、今後数十年、世界の供給の基盤のひとつとなるだろう。 《カナダのオイルサンド》 2003年、カナダ政府は、オイルサンドの確認埋蔵量を50億バレルから1800億バレルに引 き上げると発表した。いちやくカナダは、サウジアラビアに次ぐ世界第2位にまで上昇した。 このオイルサンド(タールサンドとも呼ばれる)は、ほとんど取るに足らないとされて、 長年、実質的にほとんど無視されていた。オイルサンドは砂岩と粘土に粘性の高いビチュ ーメンが含まれたものである。ビチューメンとは、重質重油の一形態のアスファルトに似 た物質で、かなり硬いので、通常の石油のようには流れない。だから採算がとれるような 採掘はきわめて難しかった。 ところが、1990年代末、テクノロジーの大幅な進歩によって、オイルサンドはようやく 採算のとれる大規模な資源として見直されるようになった。天然ガスを使って超高温の蒸 気を注入し、地中のビチューメンを温める。その結果生じる液体(ビチューメンと温水の 混合物)を、油井に流し込んで、地上まで送り出すことができるSAGD(サグディーと発音。 スチーム補助重力廃油)法が、もっともよく知られている。 1997年以降、合計1200億ドル以上の投資が、アルバータ州のオイルサンドに投入された。 オイルサンドはいまでは、メガ資源と言われている。その生産量は、2000年の1日60万バレ ルから、2010年には150万バレル近くに倍増した。2020年にはまたもや倍増して300万バレ ルに達する可能性がある。現在のベネズエラやクウェートの石油生産を超える量になる。 在来型の石油生産に加えると、2020年のカナダの日産量は400万バレル近くに達することも ありうる。 しかし、この生産方法にも技術的にも環境的にも多くの問題が指摘されて大規模にする ために改善が必要であるといわれている。オイルサンドは莫大な資源である。可採埋蔵量 1750億バレルは、存在する推定1兆8000億バレルの10%としてある。あとの90%の開発には、 さらなるテクノロジーの進歩を必要とするという。 《ベネズエラのオリノコ川流域》 カナダのオイルサンドに匹敵するような非在来型石油資源のもう一つの集中地域は、ベ ネズエラ内陸部のオリノコ川流域である。そこでも砂岩や粘土に含まれるビチューメンと 327 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― いう形で、石油が埋蔵されている。ここには技術的に採掘可能な埋蔵量が5130億バレル、 総埋蔵量1兆3000億バレルと予想されている。 《ロッキーのオイルシェール》 オイルシェールについては、まだ、技術的に採掘の目途がついていない。オイルシェー ルとは、第1章で石油ができた過程を述べたが、その中間体としてできたケロジェン(油母) の段階であり、オイルシェールには原油の未発達な前駆物質ケロジェンが高濃度で含まれ ている。ケロジェンも、母なる自然の圧力鍋でさらに数百万年煮られれば原油になるが、 それだけの歳月を経ていないのである。 オイルシェール資源の推定埋蔵量は、8兆バレルで、そのうち、6兆バレルがアメリカに あり、ほとんどはロッキー山脈に集中している。石油危機後、カーター政権はエネルギー 独立計画で合成燃料開発を発足されたが、そこでオイルシェールが最優先次項だった。し かし、その後、石油価格が低下し始めたのでこのプロジェクトは廃止された。 その他にも石炭や天然ガスから石油を精製する技術も開発されているが、いずれのプロ セスもコストが高いため、これまでは大きく拡大はしなかった。 ○シェールガス革命 従来のガス田から生産されるのが天然ガスであり、従来とは異なるガス田から生産され る天然ガスを非在来型ガスと呼んでいると述べたが、その非在来型ガスの典型的なものが、 近年、シェールガス革命といわれるほど脚光を浴びているアメリカのシェールガスであろ う(前述したカナダのオイルシェールとはまったく異なるので注意)。 シェール 頁岩やその他の岩のなかにガスや原油が閉じ込められていることは、だいぶ前から知ら AE AE れていた。しかし、少なくとも商業ベースに乗るような量を取り出す方法がなかった。 ヒューストンで石油と天然ガスを生産しているジョージ・P・ミッチェル(ミッチェル・ エナジー社)は、天然ガスは従来からのようなガス層だけでなく、コンクリートに似た シェールロック ソースロック 頁 岩 という固体のなかにも閉じ込められていると思っていた。頁岩は根源岩でもあり、 そこでガスがつくられ、それ自体がガス層に蓋をして、ガス(あるいは石油)が漏れるの を防いでいると考えていた。問題は頁岩からガスを取り出すのは、大変難しく、採算が合 う方法があるかだった。 ミッチェル・エナジー社は、テキサス州ダラスとフォートワースを囲む、バーネット シ ェ ー ル 頁岩層と呼ばれる広い地域で試掘を試みていた。同社は1998年末に水圧破砕技術を応用す ることによって、シェールロックからガスを取り出すことに成功した。この水圧破砕もし くは水圧フラチャリングと呼ばれる技術は、高圧をかけた水に砂と化学物質を混ぜて頁岩 層に送り込むと、地中の岩盤が割れ、閉じ込められていた天然ガス(あるいは石油)の逃 げ道ができて、坑井へと流れ出すというものである。 328 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2002年、オクラホマシティにある独立系のデボン・エナジーはミッチェル・エナジーを 35億ドルで買収した。デボンも自社独自の重要な能力を備えていた。1980年代に登場した 水平坑井掘削技術である。制御技術と測量技術の進歩により、一定の深さまで掘ってから、 つぎに斜めに、あるいは真横に掘り進むことができるようになった。それにより、これま でよりも多数の埋蔵層に坑井が届いて、ガス(あるいは石油)を従来よりもずっと多く回 収できるようになった。 デボンは、ミッチェルから得た水圧破砕のノウハウ(とチーム)を、自社の水平掘削の スキルと組み合わせて、2002年、シェールガスの掘削に成功した。ということで、シェー ルガスは商業生産が可能となり、大量に流通しはじめた。非在来型天然ガス革命と呼ばれ るものが一気に広がった。起業家精神の旺盛な独立系の石油・天然ガス会社が、そのテク ノロジーに飛びつき、急いで他の地域―ルイジアナ、アーカンソー、オクラホマ、さらに、 ニューヨーク州西部からペンシルベニアを経てウェストバージニアにいたるマーセラス頁 岩でも駆使しはじめた。 2007年から2008年にかけて、アメリカの天然ガスの国内生産が急増していることがわか った。それまでアメリカは国内生産の急減に直面していたはずで、唯一の解決策はLNGの輸 入であり、大手石油・天然ガス会社は海外の大規模なLNGプロジェクトにばかり目を向けて いた。やがて事情が明らかになった。エネルギー産業の各社は、前代未聞のことが起きて いるのにようやく気づいた。 それから数年間、“シェール旋風”が起き、シェールガスの生産は増加を続けた。供給 が増加し、スキルがさらに発展すると、コストが下がり、シェールガスは、在来型天然ガ スよりも安価だとわかった。2000年の天然ガス供給に占めるシェールガスの割合は、わず か1%だった。2011年には25%になった。20年以内に、50%に達する可能性もある。 シェールガス生産の技術は、シェールオイルの生産も可能とした。ノースダコダ州とサ ウスダコダ州から、モンタナ州を経てカナダのサスカチュワン州とマニトバ州に達するウ ィルストン盆地の下に、バッケンと呼ばれる広大な石油層がある。バッケンは、小規模な 会社が油井を掘って、1日数バレルを生産しているような石油層だった。しかし、やがてシ ェールガスを取り出すテクノロジー(水平掘削と水圧フラクチャリング)が明らかになる と、バッケンの主要石油会社ヘスでは、そのシェールガスの技術をシェールオイルに応用 したところ功を奏した。バッケンをシェールオイルのブームが席巻した。 バッケンでの生産は、2005年の1日1万バレルから2010年の40万バレルへと劇的に増加し た。今後数年のあいだに、1日80万バレルもしくはそれ以上に増える可能性がある。バッケ ンに似た石油層が、テキサス州のイーグル・フォード、ニューメキシコ州のボーン・スプ リングスにもあり、探鉱が加熱した。 329 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― このシェールガス革命は原油価格全体にも大きな波乱要因になっていると見なされてい る。1980 年代中頃にはトランス・アラスカ・パイプラインでの原油算出量増加や、イギリ スの北海油田などによって世界的原油価格は低下し、2004 年に至るまで 20 ドルから 50 ド ルで推移するようになったことは述べた。 それが 2005 年から 2014 年の間には、中国での原油需要が高まったことなどにより、再 び 50 ドルから 120 ドルで推移していた。それが 2015 年 1 月の時点で原油価格は 100 ドル から 50 ドルにまで下落している。これは北米のシェールガス生産増によって、中東諸国の 独占に制限がかかるようになってきたことが要因としてあげられている。 このシェールガス革命は、アメリカのエネルギー市場を変容させはじめた。天然ガスが、 こうしてふんだんに供給されると、電力の分野でも大きな役割を果たす見通しが高くなっ た。原発の採算性にも疑問を投げかけるし、CO2排出の多い石炭に代わって、天然ガスが発 電の主流になる可能性がある。天然ガスを使うと、比較的安い価格で電力を提供できるの で、新進の風力発電プロジェクトには競争が困難な環境になってしまった。2009年の米中 シェールガス・イニシアティブにおいてアメリカのオバマ大統領は、シェールガス開発は 温室効果ガス排出量を減らすことができるとの見解を示した。 シェールガス革命により、北米の天然ガスは現在、85兆立方メートルと推定され、現在 の消費レベルで100年以上供給できるという。2011年、オバマ大統領は、「最近のイノベー ションにより、われわれの足もとの頁岩にある埋蔵量をさらに、おそらく1世紀分、増やせ る見込みがある」と語った。このとほうもないシェールガスの潜在力は、地球温暖化問題 とエネルギー安全保障政策の議論にも影響をあたえることになった。 《シェールガスとは》 シェールガス革命を起こしたシェール層(頁岩層)は、図49のように、たいてい2000メ ートルから3000メートルの深さに水平に分布している(従来の油田・ガス田よりはるかに 深い)。従来型ガス田と異なり流動性が著しく劣るため、頁岩層に合わせて坑井を水平に 掘削する必要がある。そこで2000メートル付近まで垂直に掘削した後、少しずつドリルを 傾けて水平に掘削を続ける技術が確立された。 また、頁岩層に分布しているガスは岩の中に分散しているためそのままでは流動せず、 坑井を掘削しただけでは取り出すことができない。そこで掘削後に水などを高圧で注入し、 坑井の周りの岩を破砕することになる。しかし地下3000メートルは極めて高圧な状態であ り、岩を破砕した後もすみやかに割れ目が閉じてしまう。そこで坑井の地層の特徴に合わ せた砂などを水と共に岩の割れ目に押し込み、ひび割れを安定化させる。この一連の技術 を水圧破砕と言い、亀裂を維持する材料はプロパントと呼ばれる。 330 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図49 シェールガスの賦存状況(黒色部分) シェールガスの埋蔵エリアでは、ガスが発見されなかった場合の地理学的なリスクは低 いが、ガスが発見され商用に成功した場合の期待利益も同様に低い(つまり、従来の油田・ ガス田のように大規模ではなくガス・オイルの賦存状況は薄い)。シェールガス生産は、 在来型天然ガス生産と比較してより費用のかかる技術を必要とするが、シェールガス田の 低リスク性がコストを相殺し開発が拡大したのである。 しかし、急激な生産拡大と価格低下により開発企業の収益が悪化している。2013年4月、 独立系のGMXリソーシズ社が天然ガス価格の低迷から資金繰りに行き詰まり、連邦倒産法第 11章の適用を受けた。大手のチェサピークエナジーは資産売却に追われ、最大手のエクソ ン・モービルも利益が出ていない。 アメリカのノースダコタにあるバッケン油田では、資金投資が巨額であり 、また法規制 もあることから、原油と一緒に採取されたシェールガスの30%が無為に焼却されている。環 境団体のセリーズはその損失を年間12億ドル(約1200億円)以上と試算した。エネルギー 企業担当者からは「ガスのパイプラインを整備するなら、罰金を払った方がマシだ」との 声も挙がっており、利幅のある原油と比べシェールガス採取の経済性の低さを物語ってい る。 シェールガスの開発には環境汚染の懸念があり、環境汚染対策が必要である。水圧破砕 には、一つの坑井に多量の水(3,000~10,000m3)が必要であり、水の確保が重要となる。 また用いられる流体は水90.6%、砂(プロパント8.95%)、その他化学物質0.44%で構成され ることから、流体による地表の水源や浅部の滞水層の汚染を防ぐため、坑排水処理が課題 となる。 実際に、アメリカ東海岸の採掘現場周辺の居住地では、蛇口に火を近づけると引火し炎 が上がる、水への着色や臭いがするなどの汚染が確認されるようになり、地下水の汚染に よる人体・環境への影響が懸念されている。採掘会社はこれらの問題と採掘の関連を否定 しているが、住民への金銭補償・水の供給を行っている。こうした問題に関連したデュー 331 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ク大学などの調査では、着火しうる濃度のメタンが採掘地周辺の井戸水で検出されている ことが明らかとなっている。 《世界に分布するシェールガス》 シェールガスの開発はアメリカが先行したが、最近の調査では、以下のような国でシェ ールガスが埋蔵されていることがわかった。 図 50 主なシェールガス層の分布図 米エネルギー情報局 (EIA) シェールガスの推定埋蔵量 多い順 推定埋蔵量[15](兆 m3) 国 1位 中国 36.1 2位 アメリカ 24.4 3位 アルゼンチン 21.9 4位 メキシコ 19.3 5位 南アフリカ 13.7 6位 オーストラリア 11.2 7位 カナダ 11.0 8位 リビア 8.2 ◇アメリカ―アメリカでの天然ガス生産は2012年にロシアを超え世界最大になった。世界 の3分の1を生産している。2020年までに輸出国になると予想されている。輸出に関しては 自由貿易協定締結国を原則としているが、エネルギー省がシェールガスを含む天然ガスの 日本向け輸出申請を認可したと発表するなど、同協定の非締結国への輸出も始めている。 332 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2010年6月のマサチューセッツ工科大学の研究では、将来天然ガスはアメリカ合衆国のエネ ルギー需要の40%(現在は20%)をまかなうようになると報告された。 ◇中国―中国政府は、300億立方メートル(2008年の天然ガス国内消費量の約半分)のガス をシェールから生産するという目標を国内企業に課した。ガスを含むとされる頁岩の層は、 手つかずのまま中国全土に広く散らばって分布している。2009年11月、アメリカのオバマ 大統領は、アメリカのシェールガス開発技術を中国に供与し、中国でのシェールガス開発 へのアメリカからの投資を促進させることに同意した。 2011年4月に公表されたアメリカのエネルギー情報局の報告によると、中国におけるシェ ールガスの可採埋蔵量は36兆立方メートルであり、同報告書の調査対象国の中では2位のア メリカ(24兆立方メートル)を大きく引き離して最大のシェールガス埋蔵国である。 2013年1月、中国の国土資源省は、第二次シェールガス開発入札で探査権を落札した中国 企業16社の投資額が今後3年間で20億ドルにのぼるとの計画を明らかにした。 同省は国内 の鉱区のうち26を開発鉱区に指定し、2012年10月には上記中国企業16社を含む57社が26鉱 区のうち19鉱区の探査権を落札、これら中国16社は非石油系企業であることからシュルン ベルジェ、ハリバートンなど関連する外国企業にも収益機会が見込まれている。 ◇カナダ―ブリティッシュコロンビア州、アルバータ州、サスカチュワン州、オンタリオ 州、ケベック州、ノバスコシア州の各州で探査や開発が行われている。2011年5月9日、三 菱商事がブリティッシュコロンビア州コルドバ堆積盆地で推進するシェールガス開発計画 に、石油天然ガス・金属鉱物資源機構 (JOGMEC)、中部電力、東京ガス、大阪ガスが参画す ることが発表された。これはJOGMECとして非在来型ガス開発案件への初の資金支援であり、 日本の電力会社・ガス会社がシェールガス事業への参画するのも本件が初めてである。 ◇オーストラリア―アデレードの石油ガス会社ビーチ・エナジーは南オーストラリア州ク ーパー盆地でのシェールガス掘削計画を発表した。 ◇インド―インドではリライアンス・インダストリーズ、リアイアンス・ナチュラル・リ ソーシズ、ジェンパクトなどがシェールガス探査に関心を示している。 リライアンス・イ ンダストリーズは、アメリカ東部マーセラス・シェールガスプレイにアトラス・エナジー がもつ権益のシェア40%を確保するために17億ドル支払ったとされている。 ◇ヨーロッパ―ヨーロッパでのシェールガス生産はまだ始まっていないが、北米でのシェ ールガス開発が成功したことから、ヨーロッパ各国の地質学者は自国内の頁岩層がシェー ルガス生産可能か調査し始めている。ノルウェーの企業スタトイル社は、アメリカのシェ ールガス開発のノウハウを取得することを見込んで、アメリカ東部のマーセラス層のシェ ールガス開発に関し、米チェサピーク・エナジー社とジョイントベンチャーを組んだ。 333 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2009 年 10 月、ロシアの巨大エネルギー企業ガスプロムは、ロシアのシェールガス資源開 発に利用可能な専門技術取得のためアメリカのシェールガス生産会社を買収する可能性が あることを発表した。アメリカのテキサス州のバーネット・シェールでは、フランスの石 油メジャー企業トタルがチェサピーク・エナジーとジョイントベンチャーを設立、またイ タリアの ENI 社はクイックシルバー・リソーシーズ社の株を購入した。 ヨーロッパにおけ るシェールガス層は、主にフランスの北西部、ヨーロッパ北部のアルム・シェール及びド イツとオランダにまたがる石炭紀の地層などに分布する。 ◇ポーランド―2010 年 4 月になりアメリカ合衆国エネルギー省のエネルギー情報局がポー ランドには「少なくとも」5.3 兆立方メートルのシェールガスが埋蔵されていると結論した。 これはほかの地域で発見されたシェールガス埋蔵量と比較して桁違いの数字で、ポーラン ド国内の天然ガス使用量のじつに 300 年分に相当する途方もない量となるが、これでも「少 なく見積もって」の数値である。こうしたシェールガス資源は EU の確定埋蔵量を大幅に押 し上げ、ロシアからのガス輸入の重要性を下げるものである。 2010 年現在、ポーランドは天然ガス消費量の 3 分の 2 をロシアから輸入している。アメ リカのコノコ・フィリップス社はポーランド Lane Energy 社と共同でポーランドでのシェ ールガス探査計画について発表した。米マラソン・オイル社は、シルル紀の地層を調査す る目的でポーランド国内でのライセンスを取得した。 ◇ドイツ―米エクソン・モービル社はドイツ北西部ニーダーザクセン州の堆積盆地に 750,000 エーカー (3,000 km2)のライセンスをもち、同所では 2009 年にシェールガス坑井 10 本の掘削が計画されている。 ○大波乱の天然ガス業界 シェールガス(オイル)の出現は、世界の天然ガス業界に大波乱を巻き起こしている。 この新供給源の登場と、LNG の急増が、偶然にも重なったのである。2010 年、カタールは LNG 生産能力が 7700 万トンに達した(世界の生産の 28%に当る)。オーストラリアも LNG の大手として登場し、カタールに次ぐ第 2 位になり、さらに拡大を続けている。しかも、 アジアに供給するのにうってつけの場所にある。2004 年から 2012 年にかけて、世界の LNG 生産能力は倍増する見通しである。 LNG 開発の最初の 40 年間における成果が、この 8 年のあいだにふたたび成し遂げられる ことになる(天然ガスを液化天然ガス LNG の形にして輸出するようになったのは、1964 年 からのことである)。そのもっとも大きな市場となると期待されていたのが(アメリカ国 内の供給が減るので)アメリカであったが、それがシェール旋風に見舞われたのである。 そのため、大量の LNG が、新しい市場を探さなければならなくなった。 成長するアジアが、数年前の予想を超える量を吸収してくれたが、しかし、すべてを 334 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 飲み込むのは無理である。そこで世界一競争の激しい市場になったヨーロッパが、直接の 影響を受けることになった。ふんだんに LNG が手に入るようになるとスポットで売られる ようになり、20 年契約でもっとも高い原油を指標として売買されていたパイプライン・ガ スのシェアが奪われる事態となっている。 パイプライン・エネルギーは、単に量と価格の問題であるのではなく、エネルギーの安 全保障問題、地政学上の問題とからむ。 1980 年代、西シベリアでの大規模な発見ににより、ソ連はアメリカを抜いて世界最大の ガス生産国になった。ソ連とヨーロッパ諸国は、西シベリアの広大なウレンゴイ・ガス田 から、全長 6000 キロメートルのパイプラインを建設した。このパイプラインを通してヨー ロッパに送られるソ連産のガスは 10 年の間に倍以上に増えた。1991 年にソ連が崩壊したと きも、ガスは流れ続けた。1990 年代のエリツィン大統領時代のロシアにとっては、このガ スはなくてはならない収入源だった。 ソ連崩壊の際に、旧ガス工業省からロシアの新しい会社、ガスプロムが出現した。ガス プロムは、ロシアだけでなく世界中の民間株主を擁し、2008 年半ばには、時価総額 3000 億 ドル以上に急増し、エクソン・モービルとペトロチャイナに次ぐ世界第 3 位の会社になっ た。ガスプロムは、いまもロシア政府が株式の 80%を所有し、政府と密接に協調して、税 金その他の名目で政府予算の 15%に相当する額を支払っている。ガスプロムは、ロシアの 天然ガスの 80%以上を生産している。 2005 年、ヨーロッパのガス供給は、ヨーロッパ内の生産が 39%、ロシアが 26%、ノルウ ェーが 16%、アルジェリアが 10%、その他の国々がおもに LNG で 9%を供給していて、政 治的均衡がとれているかに見えた。その後、詳細は省くが、ロシアとウクライナの関係が 悪化し、2006 年 1 月 1 日、ウクライナ国境でパイプラインの圧力が突然落ち始めた。ガス プロムがウクライナ向けの輸送を停止しようとしていた。ガス不足はウクライナだけでは なく、中欧にも広がった。 ロシアとウクライナは、依然として天然ガスの価格について対立しているが、このとき から、単に価格の問題ではなく、ヨーロッパは、エネルギー安全保障について厳しく考え るようになった。 ロシアは新パイプライン敷設にあたっては、ウクライナとポーランドを迂回しようと決 意した。ガスプロムと ENI は、すでに黒海を通ってロシアからトルコへ向かう、世界一の 深海パイプライン、ブルーストリームを建設していた。いまでは、黒海を通ってロシアか らブルガリアを経由し、イタリアに達するサウスストリームを建設するとも言っている。 ロシアはまた、ヨーロッパの大手ガス会社と共同で、サンクトペテルブルクからバルト海 を経てドイツ北部にへ至る大規模なパイプライン建設計画ノルドストリームに着手した。 335 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― さらにロシアの南の国境を迂回して、ロシア産ではないガスをヨーロッパに輸送するこ とを目的とする第 4 回廊の計画もある。これは EU とヨーロッパ諸国の提案である。 そのようなときに世界各地の LNG 生産能力が向上し、シェールガスの登場で天然ガス市 場としてのアメリカが消滅しかかっている。供給は一段と増加している。この LNG の増加 は、現在と将来のパイプライン・ガスとの競争を引き起こし、全種のガス価格に下落の圧 力がくわわって、ひいては新パイプライン・プロジェクトの採算性に問題が生じるおそれ がある。その上に新たな大供給源が出現した。イスラエル沖のリバイアサン・ガス田は、 今世紀最大の発見といわれている。それにヨーロッパのシェールガス開発もある。ことに ポーランドとウクライナは、その必要に迫られている。 天然ガスの世界消費は、この 30 年の間に 3 倍になり、今後 20 年の間に需要はさらに 50% 増加する可能性がある。エネルギー市場における天然ガスのシェアも増大している。エネ ルギー換算でかつては石油のわずか 45%だったが、現在では約 70%である。その理由は、 天然ガスは化石燃料のなかで、同じ発熱量に対する二酸化炭素の排出量が少ない比較的低 炭素のエネルギーであるからだ(石炭 10:石油 8:天然ガス 6)。それはまた、扱いやすい 燃料として電力で大きな役割を果たしている。 豊富なガスの出現は、地球温暖化対策とも関連し、今後の世界のエネルギー問題に大き く影響するとみられている。 【6-4】世界の石油・天然ガス産業の現状 【1】21 世紀の石油産業 ○石油ピーク説 1973 年の第一次石油危機の時には多くの石油専門家がマスコミに登場して「あと 30 年で 石油は枯渇する」と言っていたが、それから 40 年たった 2012 年の段階でも「現在発見さ れている油田可採埋蔵量だけでもあと 53 年は供給できる」 と言われている。 何故だろうか。 世に「石油ピーク説」というものがある。石油ピークとは、石油の産出量が最大となる 時期・時点のことで、この時期を過ぎると、石油の産出量は減少の一途をたどるという説 である。 この概念はアメリカの M.K.ハバートが 1956 年 3 月にアメリカ石油学会で発表した論文上 の予測モデルの中に現れていた。このモデルではアメリカの石油生産量が 1966 年と 1971 ピ ー ク 年の間に 頂点 に達し、そしてそれ以降減少に転じるとされていた。ハバートの予測通りア メリカの石油生産量は 1971 年にピークを迎え、 その年の生産量を二度と達成できなかった。 一般に 1 つの油田における石油の総産出量は、石油ピークに至るまで指数関数的に増加、 ピークに達した後は石油が枯渇するまで減少する(時に急激な減少も見られる)。この概 336 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 念はハバート・カーブに由来し、上記のような油井・油田単位だけの指標ではなく、一国 の石油総生産量や全世界の石油総生産量にも同様に適用することができるとされている。 この石油ピーク説は 1973 年の第一次石油危機のときにも、また、1979 年の第二次石油危 機の時にも叫ばれた。21 世紀に入り、中国その他の新興経済の石油消費が加速し、しかも 予想需要が膨大な規模なので、またしても石油が枯渇するという恐怖が力を盛り返し、石 油ピーク説が唱えられたが、前述したように 2012 年には可採年数は 53 年に延びてしまっ た。 結局、ハバートはふたつの重要な要素、すなわち技術の進歩と価格を分析に加えていな いと指摘されている。 ○価格上昇と可採年数 図 51(第 222-1-2)に過去 45 年間の原油生産量の推移を示す。これまでに述べてきたよ うに石油・天然ガス産業の歴史全体が、工業全般と同じように、技術の進歩の歴史でもあ る。新資源を突き止めるためや、既存の油田の生産量を増やすために、新テクノロジーが 開発されている。経済では価格が上昇すれば、活動が増える。価格が下降すれば、活動は 減る。高価格はイノベーションを活気づかせ、供給を増やすために、創意工夫に富む新し いやり方を編み出す意欲を強める。 図 51(第 222-1-2)世界の原油生産動向(地域別) (出典)BP「Statistical Review of World Energy 2013」を基に作成 337 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― テクノロジーが進歩すれば(海上掘削、深海掘削、大深度のシェール層掘削と)、物理 的に回収できなかったり採算が合わなかったものも、可採埋蔵量に変るのである(掘削コ ストは上昇するが)。 可採年数(R/P)とは、ある年度において埋蔵が確認されている石油のうち、その時点で の技術で採算の合うコストで採掘可能な埋蔵量(R)を、その年度の実際の生産量(P)で 割った値である。したがって、この値は「石油は後何年でなくなる」ことを意味している わけではない。 例えば BP 統計によれば、1970 年の可採年数は約 35 年であったが、2005 年に石油が枯渇 したという事実が存在しないことは明らかである。正しくは 1970 年時点で「原油価格 1 バ レル 2 ドルで採掘できる石油は 35 年後に枯渇する」と言うべきで、実際に 1 バレル 2 ドル で採掘できる石油は 2005 年には枯渇して 原油価格は 2007 年以降 1 バレル 100 ドル前後 で推移している。例えば、将来、石油価格が高騰し、地中に多くの石油が埋蔵される場合 でも採掘コストが高く生産が成り立たなくなると可採埋蔵量なし、可採年数 0、つまり、 「枯 渇」ということになる。 したがって、可採年数は、原油価格が上がると伸びるという特性がある。それは、原油 価格が変化すると「採掘可能な埋蔵量」が変化するためである。以下に例を示す。ある油 田は 1 バレルあたり採掘コストが 30 ドルかかるとする。このとき、もし原油価格が 1 バレ ルあたり 10 ドルならば、この油田は採算に合わないため「採掘可能な埋蔵量」には含まれ ない。 しかし、もし原油価格が 1 バレル 50 ドルに上昇すれば、この油田は充分採算に合うため 「採掘可能な埋蔵量」に含まれることになる。現在の採掘技術でコストを考えずに採掘を 行えば、あと数百年分は埋蔵されているとも言われるが、石油を取り巻く事情は常に変化 を重ねる。また、埋蔵量は、各国の自己申告であり、政治的な理由のかさ上げが何度も判 明してきた。 1956 年発表のハバート・カーブは釣鐘曲線、つまり、上昇線と下降線は対称的だった。 しかし、実際の石油生産は物理的な頂点に達すると、たいがい高止まりして、ゆるやかに 下降した。それを総計した世界の生産量も生産が急減することはなく、図 51(第 222-1-2) ピ ー ク プラトー のように、高原状にまだ、上昇している。現在では、前方にあるのは 頂点 ではなく 高原 AE AE AE のほうが、適切なイメージだろうと言われている。 将来の見通しはどうか?油田 7 万ヶ所、油井 470 万本のデータベースと、現在の生産お よび 350 件の新プロジェクトをひっくるめると答になる。世界の石油はここ当分枯渇しそ うにない(非在来型を加えるとさらにその可能性は薄い)。世界の石油の総在庫(埋蔵量) は増え続けている。 338 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 19 世紀に石油産業が生まれてから、世界の石油はおよそ 1 兆バレル生産されてきた。 人類が採掘可能な石油埋蔵量を究極可採埋蔵量というが、1970 年代にはこれは 2 兆バレ ル、また、その時点での既発見の埋蔵量は 1 兆バレルと考えられていた。 現在、石油埋蔵量は 5 兆バレル以上あり、そのうち 1 兆 6,689 億バレルが技術的にも採 算面でも採掘可能な確認埋蔵量として勘定されている。 ○石油の確認埋蔵量 世界の石油確認埋蔵量は、図 52(第 222-1-1)のように、2012 年末時点で 1 兆 6,689 億 バレル(オイルサンドを除く)であり、これを 2012 年の石油生産量で除した可採年数は 52.9 年となる。 図 52(第 222-1-1)世界の原油確認埋蔵量(2012 年末) (出典)BP「Statistical Review of World Energy 2013」を基に作成 1970 年代の石油危機時には石油資源の枯渇問題も深刻に懸念されたが、回収率の向上や 追加的な石油資源の発見・確認によって、1980 年代以降、可採年数はほぼ 40 年程度の水準 339 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― を維持し続けてきた。最近では、前述したようにベネズエラやカナダにおける超重質油の 埋蔵量が拡大していることもあり、可採年数はむしろ増加傾向にある。 2012 年末時点では、世界最大の確認埋蔵量を保有しているのはベネズエラであり、長ら く 1 位の座を保っていたサウジアラビアは、2010 年以降は 2 位となっている。ベネズエラ の確認埋蔵量は 2,976 億バレルと世界全体の約 18%のシェアを占めている。サウジアラビ アの確認埋蔵量は 2,659 億バレルで世界シェアは約 16%、以下、カナダ(1,739 億バレル、 シェア約 10%)が 3 番目に大きく、その次はイラン(1,570 億バレル、シェア約 9%)、イ ラク(1,500 億バレル、約 9%)、クウェート(1,015 億バレル、約 6%)、アラブ首長国 連邦(978 億バレル、約 6%)と中東産油国が続く。中東諸国だけで、世界全体の原油確認 埋蔵量の約半分を占めている。 近年では、シェールオイルやオイルサンドなどに代表される非在来型石油と呼ばれる資 源が注目を集めている。存在自体は古くから知られていたものの、これまでは掘削技術や 採算性の面からあまり開発が行われてこなかった。シェールオイルの推定資源量(原油換 算)は、図 53(図 5)に示すように在来原油資源の数倍とされ、特にアメリカには莫大な 資源がある。 近年の掘削技術の進展や原油価格の高騰により採算が取れる見通しとなったことから、 2015 年現在では北米地域を中心に開発が進められている。シェールオイル等の資源自体は 世界中に遍在し、埋蔵資源量も在来型の石油資源を上回ると見込まれていることから、石 油のさらなる安定供給や資源の偏在の解消などが期待されているが、一方で在来型の石油 資源と比べ掘削コストが高いため、石油価格の低迷時には油田開発が低迷する傾向がある。 340 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 53(図 5) シェールオイルの推定埋蔵量 ○世界の石油生産量 世界の石油生産量は、石油消費の増大とともに増加し、図 51(第 222-1-2)のように、 1972 年の 5,362 万バレル/日から 2012 年には 8,615 万バレル/日と、この 40 年間で約 1.6 倍になった。 地域別にみると、2000 年以降では欧州での減産が進む一方で、アジア大洋州とアフリカ、 中南米の石油生産量はほぼ横ばいで、ロシア、中東の生産量が堅調に伸びてきている。今 後はシェール革命の進展で急速に生産量が増加しつつあるアメリカの動向が注目されてい る。 ○世界の石油消費量 世界の石油消費は、経済活動の活発化とともに増加傾向をたどり、図 54(第 222-1-4) のように、1973 年には 5,572 万バレル/日であった世界の石油消費は 2012 年には 8,977 万 バレル/日まで増加した(年率平均 1.2%増)。 341 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 54(第 222-1-4)世界の石油消費の推移(地域別) (出典)BP「Statistical Review of World Energy 2013」を基に作成 先進国(OECD 諸国)では、1973 年の 4,132 万バレル/日の消費から 1970 年代後半にか けて増加傾向を示したものの、二度の石油危機後の世界経済の低迷に加え、原子力、天然 ガス等の石油代替エネルギー導入促進を受けて 1980 年代には石油消費が減少した。その後、 1980 年代後半以降、経済の拡大とともに緩やかに石油消費が増加したが、近年の自動車燃 費の改善や石油価格高騰を背景に、2005 年以降は頭打ちの傾向をみせており、直近の 2012 年の需要も前年比 1.2%減の 4,559 万バレル/日となった。 一方、近年著しい石油消費の増加を示しているのが開発途上国(非 OECD 諸国)である。 開発途上国の石油消費は堅調な経済成長に伴い、1973 年の 1,440 万バレル/日から年平均 2.9%で増加し、2012 年には 4,419 万バレル/日となった。その結果、世界の石油消費に占 める開発途上国のシェアは 1973 年の 26%から 2011 年には 49%となり、逆に同期間内の先 進国(OECD 諸国)のシェアは 74%から 51%にまで低下してきた。 342 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○石油貿易の動向 世界の石油貿易は、石油消費の増加とともに着実に増大し、2012 年の世界全体の石油貿 易量は 5,531 万バレル/日となっており、そのうち日米欧 3 大市場による輸入量が合計で 2,781 万バレル/日と全体の 50%を占めた。 一方、輸出サイドでみると、中東からの輸出量が 1,970 万バレル/日と最大で、全貿易 量の 36%を占めた。以下、ロシア及びその他旧ソ連邦諸国(860 万バレル/日)、西アフ リカ(456 万バレル/日)、中南米(383 万バレル/日)等が主要石油輸出地域となってい る。 仕向地別では中東からの石油輸出のうち、11%(216 万バレル/日)がアメリカ向け、12% (226 万バレル/日)が欧州向け、74%(1,453 万バレル/日)がアジア大洋州地域向けと なっており、中東地域にとってアジア大洋州市場が最大の販路となっている。 【2】21 世紀の天然ガス産業 天然ガスの本格利用の歴史は石油に比べて浅いが、近年、主要な石油代替エネルギーと して、また、化石燃料の中では環境に優しいエネルギーとして注目され、資源開発と利用 が急速に進展しつつある。 ○天然ガスの確認埋蔵量 世界の天然ガスの確認埋蔵量は、図 55(第 222-1-6)のように、2012 年末で約 187 兆立 方メートル(m3)である。これは発熱量で原油に換算して約 1700 億トン相当であり、原油 の埋蔵量と同程度である。 中東のシェアが 43%と高く、欧州・ロシア及びその他旧ソ連邦諸国が 31%で続く。国別 にはロシアが一番多く、イラン、カタールなどがそれに続く。また、天然ガスの可採年数 は 2012 年末時点で 56 年であった。 343 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 55(第 222-1-6)地域別天然ガス埋蔵量(2012 年末) (出典)BP「Statistical Review of World Energy 2013」を基に作成 ○天然ガスの生産量の推移 2012 年の天然ガス生産量は 3.4 兆 m3 であった。2002 年から 2012 年までの間で、石油の 生産量の年平均伸び率が 1.4%であったのに比べ、天然ガスは、図 56(第 222-1-7)のよう に、2.9%の高い伸びを記録した。ただし、2009 年の生産量は需要の減少に伴って若干落ち 込んだ。 地域別には、2012 年時点では北米が世界の生産量の 27%、欧州・ロシア及び旧ソ連邦諸 国が 31%を占めた。 中東の天然ガス埋蔵量は世界の 43.0%を占めているにもかかわらず、その生産量は 16% に過ぎない。これは、天然ガス輸送に莫大な投資が必要であることに加えて、中東ではこ れまで石油開発投資が主に行われており、天然ガス開発投資は、その埋蔵量に比べ比較的 少なかったことによる。したがって、中東から大消費地へのパイプラインが、ロシアと西 欧間のように敷設されることもなかった。中東各国で生産された天然ガスの多くは中東地 域内で消費され、残りは液化して LNG として輸出されてきた。 344 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 56(第 222-1-7)地域別天然ガス生産量の推移 (出典)BP「Statistical Review of World Energy 2013」を基に作成 しかし、近年、世界的な天然ガス消費の伸びに対応するため、欧米メジャー各社や産油 国等による大規模な天然ガス資源開発が進められてきた。特に、LNG 消費の伸びを背景に、 図 57(第 222-1-8)のように、LNG の新規プロジェクトが多数計画されている。 345 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 57(第 222-1-8)世界の主要な LNG プロジェクト (出典)企業からのヒアリング等を基に作成 ○天然ガス消費の動向 天然ガス消費は、図 58(第 222-1-9)のように、北米、欧州・ロシア及びその他旧ソ連 邦諸国で世界の 60%を占めた。この理由としては、これらの地域内で豊富に天然ガスが生 産されており、天然ガスの利用が進んでいること、既にパイプライン・インフラが整備さ れており、天然ガスを気体のまま大量に輸送して利用することが可能であることが挙げら れる。 アジアでは天然ガスの消費はまだ少ないが、 近年増大してきた。 2002 年から 2012 年の間、 世界の天然ガス消費は年率 2.8%で増加してきた。 2009 年の需要は世界的な景気後退により若干減少したが、近年の消費増加の主な理由の 一つとして、発電用燃料としての消費が伸びていることが挙げらる。これは、天然ガスは 他の化石燃料に比べて環境負荷が低いこと、コンバインドサイクル発電等の技術進歩によ り、発電燃料として天然ガスの経済的優位性が高まったこと等による。 2011 年の一次エネルギー総供給量に占める天然ガスの割合は、図 59(第 222-1-10)のよ うに、アメリカ 26%、OECD 欧州 24%に対して、日本もほぼそれに近い 22%となっている。 以前は、日本の一次エネルギー供給に占める天然ガスの比率はアメリカや欧州と比較して 低いものだった。これは、欧米では自国もしくは周辺国で天然ガスが豊富に生産されるた め天然ガスの利用が進んできた一方、日本は、天然ガスの他のエネルギーに対する競争力 346 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― が十分でないためだった。しかし、東日本大震災後に停止した原子力発電の多くを天然ガ ス火力発電で代替したことが影響し、2010 年の 17%から 5 ポイント上昇した。 図 58(第 222-1-9)天然ガスの消費量の推移(地域別) (出典)BP「Statistical Review of World Energy 2013」を基に作成 347 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 59(第 222-1-10)日本・アメリカ・OECD 欧州の一次エネルギー構成(2011 年) (出典)IEA「Energy Balances of OECD Countries 2013」を基に作成 ○天然ガス貿易の動向 2012 年の世界全体の天然ガス生産量の 30.7%が生産国では消費されずに、他国へ輸出さ れた。天然ガスの貿易量は増加しているものの、その割合は、生産量の 64.2%が輸出され る石油ほどではなかった。 主な輸入国はアメリカ、欧州、北東アジアの 3 地域だった。輸送手段別には、パイプラ インによる主な輸出国はロシア、カナダ等、輸入国はアメリカ、ドイツ等だった。また、 アメリカではこれまで天然ガス消費の伸びに対して、その主たる供給源である国内生産と カナダからのパイプラインガス輸入の伸びが追いついておらず、LNG 輸入の計画が進められ ていた。しかし、探査・生産技術の進展により、これまでは開発が難しかった非在来型天 然ガス(シェールガス)の生産がアメリカ国内で急激に拡大してきた。これによって、ア メリカの輸入量は減少するのみならず、多くの LNG 輸出プロジェクトが計画されるように なっている。 348 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― LNG 貿易はアジア向け輸出を中心として拡大し、2012 年の LNG 貿易量の 36%は日本向け (アジア全体で 69%)だった。輸出国もアジア大洋州地域が中心であるが、近年、中東諸 国からの輸出も増加してきた。 日本国内では都市ガス用と火力発電用の比率は約 35:65 である。日本での天然ガス利用 は、関東では東京ガスが東京電力と共同で 1969 年 11 月に日本初の液化天然ガス(LNG)を導 入し、 1970 年より東京電力の南横浜火力発電所が世界初の LNG 専焼火力として建設された。 以降、発電用燃料として多く使用されるようになり、とくに東京電力は近年韓国ガス公社 (KOGAS)に抜かれるまで世界最大の LNG 輸入者であった。 中国では石炭火力発電への依存度を下げ、有害物質排出を抑えるための環境対策として、 天然ガスの輸入を増やし 2016 年以降に新設する大部分の発電所をガス火力に切り替える方 針である ○天然ガスの価格動向 天然ガス価格の決定方法は地域によって異なる。日本向けの天然ガス(LNG)価格の多く は JCC(Japan Crude Cocktail)と呼ばれる日本向け原油平均価格にリンクしていることに 加え、JCC 価格が急激に変動した場合でも、LNG 価格は相対的に変動が小さくなるように価 格フォーミュラ(価格決定方式)が設計されている。アメリカ、イギリス等の北西欧州に おける天然ガスの売買契約は、それぞれの市場の需給状況等により決定されている。他の 大陸欧州では多くの契約において、天然ガス価格は競合燃料である石油製品の価格、ある いは原油価格に連動している。 日本向けの天然ガス(LNG)価格は、1990 年代に、百万 Btu 当たり 3 ドル~4 ドルで推移 していた(Btu は英熱量単位。1Btu=0.293Wh)。2000~2005 年は 4 ドル~6 ドル/百万 Btu で推移したが、その後は原油価格に連動して上昇し、2012 年時点では、LNG の日本向け平 均価格は 16.8 ドル/百万 Btu となっており、アメリカ国内の天然ガス価格 2.8 ドルと比べ て割高だった。これは、日本向けの LNG 価格が原油価格の水準を参照して決められるもの が多く、原油価格の影響を大きく受けたためである。 ○非在来型ガスの可能性 天然ガスにも石油と同様に何種類かの非在来型資源がある。代表的なものとして炭層メ タン、稠密地層ガス(前述したシェールガスなど)、メタンハイドレートが挙げられる。 炭層メタン(CBM:coal-bed methane)は石炭の生成過程で生れ、地下の石炭層、または その近傍の地層中に存在するメタンである。かつては炭鉱時に坑道内に漏出し、爆発事故 を引き起こす原因の 1 つであった。しかし、近年になって一部の炭田地帯でボーリングに より資源として採掘され、すでにアメリカでは、図 60 に示すとおり、商業的な生産が行わ れている。 349 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 60 アメリカにおける天然ガス生産量の推移 稠密地層ガスは、浸透性が低い地層中に含まれている天然ガスの総称である。地層の種 類に応じて砂岩層に貯留するタイトガス、頁岩層に貯留するシェールガスがある。稠密地 層ガスの貯留層は、地質学的には在来型に類似しているが、浸透性が低いために一般に採 取速度が遅く、在来資源と比べて採掘コストが高くなる。 しかし、前述したように、地下深くのシェール層を破砕して天然ガスを回収する低コス トの生産技術が開発され、アメリカでは図 60 に示すように生産量が 2008 年以降急増しつ つある。 そこで稠密地層ガスの中でもシェールガスの推定資源量は、図 61 に示すように在来型天 然ガスの埋蔵量の 2 倍以上あると推定されており、豊富な資源を保有するアメリカでは税 制優遇措置を設けて開発を進めてきた。 これによって世界の天然ガス市場は大きな影響を受け、「シェールガス革命」とも呼ば れる状況を呈している。アメリカ・エネルギー省は長期見通しの中で将来的にはシェール ガスの比率がさらに増加すると想定しており、また、アメリカが開発した低コストの回収 法は世界の他の地域でも利用可能なことから、今後シェールガスの生産が長期にわたって 世界の天然ガス市場に影響を及ぼす可能性がある。 350 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 61 シェールガスの推定資源量 未利用の天然ガス資源としてはメタンハイドレートが注目されている。メタンハイドレ かごじょう ートは、水分子が形成する 篭状 構造にメタンが取り込まれてできた氷状の固体物質である。 一般に低温・高圧の条件で安定であり、純粋なメタンハイドレートは 1 立方メートルあた り標準状態のメタンを約 170 立方メートル含んでおり、この濃縮度合いは他の非在来型ガ スに比べて最も高い。 凍土が発達するシベリア等の極地域と大陸・島弧の縁辺海域に分布する。とくに、日本 の近海にも大量のメタンハイドレートが存在することが確認されているが、まだ経済的な 回収技術を開発する目処はたっていない(メタンが漏れると地球温暖化を促進することに なるので回収技術には困難をともなう)。 【3】日本の石油・天然ガスの問題点 石油・天然ガス資源をほとんど持たない日本には、前述のことの他に以下のような問題 点がある。 ○日本の石油事情 現在では、新潟県・秋田県の日本海沿岸、および北海道(勇払平野)などで原油が採掘 されている。生産量は年間で 98 万キロリットル程度(2008 年度)で、国内消費量全体に占 める比率は、0.3%に過ぎない。 351 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 一方で原油の輸入量は国内消費量全体の 99.7%、2 億 5,460 万キロリットルである。輸入 相手国は上位よりサウジアラビア、アラブ首長国連邦、イラン、カタール、クウェートな ど中東地域からが全体の 87%を占めている(2006 年度)。 国際石油資本(メジャー)のような海外の大手石油会社は、石油の探鉱、生産、輸送、 精製、元売りまでを一貫して手がける垂直統合を行っているため、日本の石油会社も精製、 元売り(これを下流事業という)のみから、上流事業(探鉱、開発、生産)を手がけるよ うになってきた。上流事業を専業とする日本の有力石油会社には国際石油開発帝石、石油 資源開発などがあるが、下流事業の有力会社としては 4 グループ(出光興産、エクソン・ モービル(東燃ゼネラル石油)、JX エネルギー(ENEOS)・コスモ石油、昭和シェル石油) がある。ただし JX エネルギーはベトナム・マレーシア・パプアニューギニアなどで、コス モ石油はアブダビやカタールで石油開発をおこなっている。 ○一次エネルギーの半分を占める石油 エネルギーを生み出すための資源は、原油、天然ガス、石炭などの化石資源や、原子力 発電の燃料としてのウランなどで、日本で供給されるエネルギーの約 96%を海外から輸入 している。こうしたエネルギー資源を一次エネルギーという。 一次エネルギーは石油事業者や電力・ガス事業者などによりガソリンや灯油、電気、都 市ガス等といった使い勝手の良い二次エネルギーへと転換されて消費者のもとへ届けられ、 使用されている。 日本に供給される一次エネルギーのうち、約 47%は石油が占めており、1973 年の 77%を ピークとしてその割合は低下してきているものの、他のエネルギー資源と比べ依然として 最大のシェアを有している(図 62(図 18-44)参照) 。 更に、石油の用途は他のエネルギー資源に比べ広い範囲に浸透している。つまり、石油 の用途は、図 62(図 18-44-②)のように、運輸部門 36.0%、建設業 2.6%、農林水産業 1.9%は移動動力源として使用されているが、この移動動力源はほぼ 100%石油に依存して いる。 352 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 62(図 18-44) 一次エネルギー総供給の構成 ○乱高下を繰り返す原油価格の長期的な推移 日本が輸入する代表的な油種の一つであるアラビアンライトについて、長期的な推移を みると、図 63(図 18-49)のように、かつて 2~3 ドル程度で推移していた価格は、1973 年の第一次石油危機を機に 1 バレル当たり 12 ドルまで高騰し、1979 年の第二次石油危機時 には 34 ドルまで高騰した。 しかし、価格高騰による需要の減退や非 OPEC 諸国の生産量増加等の影響により、1986 年 には 10 ドルを下回る水準まで急落し、その後は概ね 10 ドルから 20 ドルの間を推移した。 1999 年のアジア経済危機後の世界経済の回復を機に価格は上昇基調に転じ、2008 年 7 月 には 134.09 ドルと史上最高値を更新したが、その後は下降基調に転じ、2008 年 12 月には 39.51 ドルと 3 分の 1 以下にまで下落するという史上最高の乱高下をした。2009 年 6 月以 降は 60~80 ドルの間で推移している(世界の投機筋の投機対象になった石油はこれからま すます不安定になっていくであろう)。 353 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 63(図 18-49) 原油価格の推移 ○化石燃料依存度は 84%で結局、進歩なし 日本の高度経済成長をエネルギー面で支えたのは、それ以前の石炭に代わって大量に安 価で供給されるようになった石油であった。我が国は安価な石油を大量に輸入し、1973 年 度にはエネルギー供給の 77%を石油に頼っていた。 1973 年の第一次石油危機によって、原油価格の高騰と石油供給途絶の脅威を経験した日 本は、省エネルギーを推進するとともにエネルギー供給を安定化させるため、石油依存度 を低減させ、原子力や天然ガスなどを導入した。その後、再び原油価格が大幅に高騰した 1979 年の第二次石油危機後は、原子力や新エネルギーの開発・導入も加速させた(注:原 子力は加速させたが、新エネルギーは前述したようにむしろ後退している) 。 現在の石油依存度は 47%(LP ガスを含む)であるが、第一次石油危機当時の 77%と比べ ると、かなり低減しているようにみえるが、しかし、天然ガス(16%)、石炭(21%)の依 存度も高くなっており、化石燃料全体の依存度は 84%と極めて高い水準のままである。し 354 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― たがって、非化石エネルギー(太陽光等の再生可能エネルギー、原子力)の更なる導入拡 大や、化石燃料の有効利用など、エネルギー供給構造の高度化を図る必要がある。 ○低い日本のエネルギー自給率 生活や経済活動に必要な一次エネルギーのうち、自国内で確保できる比率をエネルギー 自給率という。日本はかつて国産石炭や水力などの国内天然資源エネルギーの活用により、 例えば 1960 年には約 6 割の自給率を達成していた。しかし、その後の高度経済成長の下で 安価な石油が大量に供給され、石炭から石油への燃料転換が進み、石油が大量に輸入され るとともに、石炭も輸入中心へと移行したこと等から、エネルギー自給率は大幅に低下し た。 更に石油危機以降に導入された天然ガスや原子力の燃料となるウランについてもほぼ全 量が海外から輸入されているため、2007 年のエネルギー自給率は水力等わずか 4%である (図 64(図 18-51)参照) 。これは、低いと言われる日本の食料自給率(カロリーベース) 40%と比較しても、大幅に低い水準となっており、また諸外国と比べても低くなっている。 なお、原子力の燃料となるウランは、一度輸入すると長期間使うことができることから、 原子力を準国産エネルギーと考えることもできる。この考え方によれば、エネルギー自給 率は 2007 年には約 18%となっている(注:ウランを準国産エネルギーとする考えは核燃料 サイクルが完成した場合のことで、前述したようにそのほとんどを海外企業に頼っている 現在は準国産エネルギーとはほど遠い) 。 図 64(図 18-51) 世界のエネルギー自給率 355 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○低い日本の自主開発原油の比率 石油のほぼ全量を輸入する日本では、原油の安定的な供給を図るため、日本企業の権益 下にある原油引取量の割合を拡大することを目指してきた。 その結果、日本の自主開発原油の比率は、1973 年度の約 8%から徐々に向上し、2008 年 度には約 16%まで伸びているが(図 65(図 18-52)参照)、諸外国に比べると依然として 大きく立ち遅れた状況にある。 図 65(図 18-52) 日本の原油の自主開発 ○温室効果ガスの排出問題 日本は 2006 年時点で世界の温室効果ガスの 4.6%を排出し、国別では 5 番目に多かった。 また 1 人当たりでは 38 番目に多かった。京都議定書の第一約束期間における 1990 年比-6% という削減目標については、結局、達成できなかった。 図 66(図 18-53)に二酸化炭素の国内部門別排出量の推移を示している。2008 年度の産 業部門が 90 年度比で減少したのは、工場の省エネや燃料転換が進んだほか、リーマンショ ック後の生産縮小が大きい。2008 年度の二酸化炭素排出量は 09 年度比で 13.2%の減であ ったが、これは景気低迷による生産減少が主な理由で、近年では英独仏などもエネルギー 効率を大幅に改善しており、日本の「省エネ・ナンバー1」の地位はうばわれたとの分析もあ る。 356 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 業務部門と家庭部門は大幅に増加しているが、日独の比較でもわかるように(後述) 、こ の部門は日本ではまだほとんど手がつけられていない。 いずれにしても、地球温暖化対策はこれから本格的に取り組まなければならないが(国 際的な圧力が高まっていくだろう) 、従来の化石エネルギー主体のエネルギー政策では(プ ラス原子力があっても) 、行き詰まってしまうことは明らかである。 図 66(図 18-53) 二酸化炭素の国内部門別排出量の推移(環境省まとめ) 357 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第 7 章 地球温暖化問題と太陽光発電 【7-1】地球温暖化問題 【1】地球温暖化問題の発生と対策 ○公害(環境汚染)の増大 20 世紀後半になり、科学技術の進歩発展、人口増大と産業の発展などが自然環境に大き な影響を与えることが表面化してきた。それは公害問題だった。学術面でも、公害に関連 した環境全般の研究が盛んになる中で、行政が研究を推進する動きが出始め、マスメディ アは環境問題を大きく取り上げるようになった。 1962 年、レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』は、DDT を始めとする農薬などの化学 物質の危険性を、鳥たちが鳴かなくなった春という出来事を通し訴えた作品で地球環境の 化学物質汚染に警告を発した。 1972 年、発表された『成長の限界』とは、ローマ・クラブが資源と地球の有限性に着目 してマサチューセッツ工科大学(MIT)のデニス・メドゥズを主査とする国際チームに委 託してシステムダイナミクスの手法を使用してとりまとめた研究で、地球上の 人口増加、 食糧、エネルギー、環境汚染などの趨勢を模式的に論じ、現在の傾向が続けば 100 年以内 に地球上の成長は限界に達すると警鐘を鳴らした。 たとえば、図 67(図 17-1)にその世界モデルの標準計算の結果を図示しているが、1900 年から 1970 年までは実際の数値に従っている。食料、工業生産および人口は幾何級数的に 成長し、ついには急速に減少する資源が工業の成長を低下させるに至る。 358 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 67(図 17-1) 『成長の限界』の世界モデルの標準計算結果 ローマ・クラブ『成長の限界』 システムに内在する遅れのために、人口と汚染は工業化の頂点に達したあと、しばらく 増加し続ける。人口の増加は、食料と医療サービスの減少による死亡率の上昇によって、 最終的に停止する。今後、政策的に各要素を変えていったら、どうなるかをいろいろなケ ースについて研究しているが、従来のようなやり方の延長では地球社会は 2100 年までに急 速に衰退してしまうこと(具体的には人口の急減)をイメージ的に示した。 この発表の翌年に第一次石油危機が勃発し、現実に「地球の限界」を多くの人々に認識させ ることになった。 1972 年 6 月、ストックホルムで、環境問題についての世界で初めての大規模な政府間会 合である国際連合人間環境会議が開かれ、「かけがえのない地球」という標語が掲げられた。 通称として、 「ストックホルム会議」とも呼ばれ、113 ヶ国が参加した。人間環境の保全と 向上に関し、世界の人々を励まし、導くため共通の見解と原則を定めた人間環境宣言が採 択された。 先進国は開発を抑え環境保護を優先することを主張し、途上国は貧困及び低開発である ことから開発優先、援助の増強を主張し、先進国と途上国の対立、いわゆる南北問題を発 生しつつ採択された人間環境宣言であった。 また、 「環境国際行動計画」が採択され、これを実行するため、国際連合に環境問題を専 359 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 門的に扱う国際連合環境計画 (UNEP) がケニアのナイロビに設立された。また、開催日の 6 月 5 日は、環境の日として記念日となっている。 環境保護論者たちだけでなく、すべての人々に大きな衝撃をあたえることになったのが、 1986 年にソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故であった。このとき地球上の 人々は、突然、世界中の人間の活動がもはや別々に独立して存在することはできない、同 じ地球上に生きている、ソ連で起きたことも(また、逆のことも)我々に重大な影響をあ たえうるという事実を、目の前に突きつけられることになった。 ○オゾン層破壊とフロン対策 次に人類が衝撃を受けたのはオゾンホールの発生であった。これは幸い、オゾン層破壊 という地球環境問題を事前に発見、国際的な防止条約の設定と実行によって、防止の目途 がついたということで、地球環境問題を事前に防止した成功例であるといえる。 オゾン層は、46 億年前に地球が誕生した当初から存在したわけではないことは第 1 章で 述べた。誕生当初の地球の原始大気は、主に二酸化炭素からなり、遊離酸素はほとんど存 在しなかったため、オゾンもほとんど存在しなかった。27 億年前のシアノバクテリア発生 から光合成がはじまって酸素が排出されるようになり、10 億年ばかりは海中で酸化鉄の生 成についやされ、その後、大気中に酸素が漏れ出し、大気中に酸素が増え始めると同時に オゾンも増え始めた。 大気中の酸素濃度が上がるにつれて、紫外線の到達できる限界高度が高くなり、これに 伴いオゾン層も上空へと移っていった。5 億 4,000 万~5 億 3,000 万年前のカンブリア爆発 や、4 億年前の脊椎動物の陸上進出(両生類の誕生)したころには、現在のようなオゾン層 が形成されていたと考えられている。 現在のオゾン層は、成層圏の高度 10~50 キロメートル付近に存在し、オゾン濃度が最も 高いのは高度 20 キロメートル付近で、1 立方センチメートル(1cm3)あたり約 1013 個(=10 兆個)のオゾン分子(O3)が存在する。また、高度 30 キロメートル付近で、9 ~10 ppm である。 春から初夏にかけてのオゾンの減少は、1970 年代前半には発生していたことがわかって いた。人工衛星からの南極上空の映像が、まるで穴があいたように見えることからオゾン ホールと呼ばれるようになった。1986 年にストラスキーらが人工衛星ニンバス 7 号の解析 映像を発表しオゾンホールがマスメディアを通じて一般に認知されるようになった。 オゾンは大気中では微量な存在に過ぎないが、太陽から放射される紫外線の大部分を吸 収し、地上にほとんど紫外線を到達させない役割を担っている。 オゾンが減少すると地表 へはより多くの紫外線が到達することになる。南極圏でのオゾンホールは、オーストラリ アやニュージーランドの南部にまで広がることがあり、この地域での紫外線の増大は、人 360 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 類の健康に無視できない影響を及ぼしていた。強度の紫外線は皮膚がんを誘発する要因で ひ ふ が ん あるとされ、紫外線の 10%の増大は、男性に対しては 19%、女性に対しては 16%の 皮膚癌 の増加になるという研究結果もある。 (まだ、間に合ってわかったから幸いであったが)このままいくと南極上空のオゾンホ ールだけでなく、地球を覆っていたオゾン層そのものが消滅してしまうことになって手遅 れになったであろう。もし、そうなると(数十年後であろうが) 、5 億年前と同じように地 球は紫外線に対して丸裸で、生物は地上はおろか、海中でも 10 メートル以浅にはすめなく なってしまう。皮膚癌どころではなくなるところであった。たたちに対策をとらなけらば ということになった。 まず、オゾン層破壊のメカニズムが研究された。 現在の成層圏中では、酸素分子(O2)が、太陽からの 242 ナノメートル以下の波長の紫 外線を吸収して光解離し、酸素原子(O)になる。この酸素原子(O)が酸素分子(O2)と 結びついてオゾン(O3)となる。また生成したオゾンは 320 ナノメートル以下の波長を持 つ紫外線を吸収し、酸素分子(O2)と酸素原子(O)に分解するという反応も同時に進行 する。 結局、成層圏の上部と下部の反応は平衡して起こっており、太陽から来た紫外線(hv) が吸収されることになる。こうして、オゾン層は、太陽からの有害な紫外線の多くを吸収 し、地上の生態系を保護する役割を果たしているのである。 このメカニズム、つまり、オゾン層でのこの平衡反応は、約 5 億年前にオゾン層ができて 以来、続いていて問題はなかったが(地上の生物は安泰であったが)、20 世紀後半になって 人類が発明したフロン類が(これは人工物であるので自然には消滅しない) 、20 キロメート ル上空の成層圏に上昇していき、この平衡反応に割って入ってきたことから問題が生じた のである。 オゾンはヒドロキシラジカル、一酸化窒素、塩素原子などの存在によって分解される。 これらは成層圏で自然にも発生するものであり、オゾンの生成と分解のバランスが保たれ てきた。 しかし、冷蔵庫、クーラーなどの冷媒や、プリント基板の洗浄剤として使用されてきた フロンなどの塩素を含む化学物質が大気中に排出された。フロンは非常に安定な物質であ るため、ほとんど分解されないまま成層圏に達し、太陽からの紫外線によって分解され、 オゾンを分解する働きを持つ塩素原子ができることがわかった。この塩素原子によって、 とオゾン(O3)が分解されて、ただの酸素(O2)になってしまうことになる。 しかも、この塩素原子は、たった 1 つでオゾン分子約 10 万個を連鎖的に分解していくとい 361 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― う。こうした原因からオゾンホールと呼ばれるオゾン濃度が極端に薄くなった部分ができ るのである。南極上空では、こうしてオゾンホールが毎年 9~10 月に現れることがわかっ た。 アメリカの化学者フランク・シャーウッド・ローランド(1927~2012 年)とドイツの 大気化学者パウル・ヨーゼフ・クルッツェン(1933 年~)は、クロロフルオロカーボン (CFC。 フロン類) がオゾン層を破壊する実態を発見し、世界規模の CFC 規制をもたらしたことに よって 1995 年に、ノーベル化学賞を受賞した。 結局、20 世紀後半に野放しで使っていた冷蔵庫、クーラーなどの冷媒や、プリント基板 洗浄剤などのフロンなどの塩素を含む化学物質がオゾン層破壊の真犯人であることがわか った。 この対策のため、ただちに「オゾン層の保護のためのウィーン条約」が 1985 年に締結され た。この条約は 人がオゾン層を変化させることにより生ずる悪影響から人の健康及び環境を保護するため に適当な措置をとること(第 2 条) 研究及び組織的観測を行うこと(第 3 条) 法律、科学及び技術等に関する国際的な協力を行うこと(第 4 条) などをとりあえず規定した(つまり、とりあえず真犯人を逮捕した) 。 この条約に基づき、オゾン層を破壊するおそれのある物質の規制を目的とした「オゾン層を 破壊する物質に関するモントリオール議定書」が、1987 年に採択された。 この議定書では、オゾン層破壊物質の削減・廃止への道筋が定められ、特定フロン、ハロ ン、四塩化炭素などは、先進国では 1996 年までに全廃(開発途上国は 2015 年までに)、そ の他の代替フロンも先進国は、2020 年までに全廃(開発途上国は原則的に 2030 年まで) することが決められた。この議定書は 1987 年に採択され 1989 年に発効した。毎年、議定 書の締約国会議が開かれ、1990 年(ロンドン改正) 、1992 年(コペンハーゲン改正) 、1997 年(モントリオール改正) 、1999 年(北京改正)と段階的に規制強化がはかられた。 2007 年 11 月現在、この議定書の締約国は、190 ヶ国及び EU である。日本では 1988 年に、 「オゾン層保護法」が制定され、1989 年 7 月より、フロン等の生産規制及び輸入の規制を 行っている。 近年になってフロンガスの全世界的な使用規制が功を奏したとみえ、オゾンは徐々にで はあるが再生されつつあり、ほぼ問題は解決されたと考えられている。 なお、 「これまでに放出されたフロンが成層圏に届くまでには数十年かかるので、オゾン層 破壊はこれから更に進行する」という説もあったが、そのおそれは減ったと考えられてい る。実際、対流圏でフロン濃度が最大になってから成層圏でフロン濃度が最大になるまで 362 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― に要する時間は、3~4 年程度であることがわかった。タイムラグが短く、すでに問題の山 は越したと考えられている。 オゾン層破壊は原因がはっきりしたこと、各国の関係者が機敏な行動をとったことで防 止できたといえよう。このように、オゾン層問題は、人類がその叡智を発揮して一致して 地球環境問題に取り組めば(早期診断早期治療すれば)必ず解決の道は開けるというよい 例を示してくれた。21 世紀の地球温暖化という人類の危機も、人類の叡智で乗り切らなけ ればならない。 ○地球温暖化問題 地球温暖化問題が一般に認知され始めたのは、オゾンホール問題のあとの 1980 年代の末 であった。この地球温暖化が「疑う余地がない(AR4)」問題とのコンセンサスを得て、対策 の必要性が広く認識されるまでにさらに約 20 年間の時間を要した。 しかし、1980 年代末に温暖化が広く認知される以前にも多くの先駆的研究がなされ、地 球環境問題に対する警告が発せられていた。まず、それを振り返ってみたい。 ◇フーリエとアレニウス 1827 年にフランスの数学者・物理学者のジョゼフ・フーリエが温室効果を発表、1861 年にジョン・チンダルが水蒸気・二酸化炭素・オゾン・メタンなどが主要な温室効果ガス であることを発見するとともに地球の気候を変える可能性を指摘した。 これらの研究をベースに 1896 年、スウェーデンの物理学者スヴァンテ・アレニウス(1903 年に電解質の解離の理論でノーベル化学賞を受賞)は自身の著書『宇宙の成立』の中で、 石炭などの大量消費によって今後大気中の二酸化炭素濃度が増加すること、二酸化炭素濃 度が 2 倍になれば気温が 5~6℃上昇する可能性があることなどを述べた。しかし、こうい った科学知識が一般に広く認知されるには至っていなかった。 ◇キーリング曲線 1938 年には、キャレンダーが二酸化炭素濃度と地球の平均気温の上昇を報告し、地球の 気温と二酸化炭素の関係性を実測として初めて指摘していた。1959 年、ロジャー・ルベー ルとハンス・スースは、大気と海洋の二酸化炭素濃度をさらに精密に測定する必要性を訴 えた。 その前年の 1958 年には、ルベールとチャールズ・キーリングがハワイのマウナロア山頂 と南極で二酸化炭素濃度の計測を始め(1957 年・1958 年はちょうど国際地球観測年であっ た) 、二酸化炭素濃度が長期的に増加していることを世界で初めて突き止めた。この二酸化 炭素濃度と年代の曲線はキーリング曲線(図 68(図 17-5)参照)と呼ばれ、現在では世 界で高く評価されている。 この計測データによると、二酸化炭素濃度は 1958 年には 315ppm であったものが、2005 363 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 年には 380ppm と増加している(現在では 400 ppm を超えている)。 図 68(図 17-5) キーリング曲線(縦軸は二酸化炭素の濃度 ppm) ◇寒冷化の予兆 しかし、1940 年代から 1970 年代にかけて、地球の気温は低下傾向に入っていた。地球 の気温上昇に関する議論や研究は下火になり、代わって気温低下に関する研究が盛んにな っていた。1960 年代には、地球の気温低下に関する研究結果がいくつか発表された。ミラ ンコビッチ・サイクルの変化によって氷河期になるというもの、数千年以内に次の氷河期 が到来するというものなどがあった。 ミランコビッチ(1879~1958 年)はセルビアの地球物理学者で 1920~30 年代に、地球 に入射する日射量の緯度分布と季節変化について当時得られる最高精度の公転軌道変化の 理論を用いてかなり正確な日射量長周期変化を計算し、図 69(図 8-1)のように氷河期が 周期的に訪れるというミランコビッチ・サイクルといわれるものを発見したことは、 『自然 の叡智 人類の叡智』の新生代第四紀(260 万年~1 万年前)の【8-1】氷河期の到来の ところで述べた。 364 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 69(図 8-1) 第四期の海水面の変化 今から 11 万 5000 年前、最終氷河期、つまり最新のウルム氷河期が始まり、その氷河期 のピークは 2 万年前ごろであり、その後、地球の運動の変化につれて終わりを告げ、今か ら 1 万年ほど前に、地球は再び温暖な間氷期を迎えた。氷床は、1 万 5000 年前ごろからゆ っくり後退をはじめ、氷河期が完全に終わったのは、今から 1 万年前のことであった。1 万 年前は、日本では縄文時代であった。決して遠い昔のことではない。それから、たかだか 1 万年で現在の人類社会がある。現在は間氷期であるが、図 69(図 8-1)のように、いずれ 再びきびしい氷河期になっていくであろうが、それがいつ始まるかである。 このミランコビッチ・サイクルが氷河の消長に関連すると考えられているが、氷河期が 到来する具体的な原因は、まだはっきりとは明らかにされていない。1970 年代に入って、 エアロゾル(気体の中に微粒子が多数浮かんだ物質)や二酸化炭素が気候に与える影響に ついて研究がなされたが、具体的に将来の気候がどのように寒冷化して行くかという予測 までには至らなかった。 しかし、このような研究もあり、また、当時の気候が寒冷的であったこともあり、1970 年代までは、マスメディアでは「氷河期が近づいている」という報道が先行してしまい、 一般市民も地球の寒冷化が始まっていると考えるようになった。 ◇地球温暖化説の登場 ただ、コンピュータ・シミュレーション技術が進歩して、大気の鉛直温度分布のモデル が示されるとともに(真鍋、Strickler。1964)、モデルに基づいて「二酸化炭素濃度が 2 倍 365 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― になると気温が 2.4℃上昇する」との試算が示され(真鍋、Wetherald。1967)、 (いまのとこ ろ大気汚染の冷却効果が上回っているが)二酸化炭素の急増により温室効果が増強される という研究(Paul Erhlich。1968)が発表されるなど、着実に地球の気候に関する理解は進ん でいた。 前述のように 1970 年代頃までは、 「地球寒冷化」が学会の定説となりつつあった。しか し、温暖化に関する研究結果が充実してくるにつれ、1970 年代後半から学会の方向も変わ ってきた。世界気象機関(WMO)主導で 1979 年 2 月にジュネーブで開かれた世界気候会議 では、気候変動全般について学術的な話し合いが行われるとともに、気候変動研究をさら に推進する「世界気候計画」が採択された。 1979 年、全米科学アカデミーがこれらの学術報告をまとめ、 「21 世紀半ばに二酸化炭素 濃度は 2 倍になり、気温は 3±1.5℃上昇する」とするチャーニー報告を発表した。 (この 1979 年にはイラン革命を契機に第二次石油危機が勃発し、石油価格が高騰した。) 1980 年、当時のカーター大統領が 1977 年に作成を命じ、カーター政権が総力を挙げて作 成した『西暦 2000 年の地球』がホワイト・ハウス直属の環境問題諮問委員会(CEQ)と国 務省との共同作業で完成した。2000 年の地球の人口、資源、環境が予測されていたが、き わめて厳しい見通しが示されていた。 1980 年代には、地球の気温も上昇傾向に転じ、温暖化に関する研究も進展していった。 1984 年には国連の環境と開発に関する世界委員会(WCED)が発足し、1985 年 10 月には、 フィラッハ(オーストリアの都市)で地球温暖化に関する初めての世界的な学術会議とし てフィラッハ会議が開催された。この会議は「21 世紀半ばには人類が経験したことのない 規模で気温が上昇する」との見解を発表したが、国際政治や市民の間ではまだ方向性が見 えていなかった。 地球温暖化説が浸透するにつれ、 「オゾン層の破壊(オゾンホール問題) 」と同様に、 「人 為的な原因を除いては温暖化は説明できないため、温暖化を防止する」という考えに基づ く会議の必要性が取り沙汰されるようになった。地球温暖化を含めた気候変動に関する問 題が初めて話し合われたのが、1987 年 11 月にべラジオ(イタリア)で開かれたベラジオ 会議であった。 1988 年 6 月 23 日、アメリカ上院エネルギー委員会の公聴会は地球温暖化問題において 画期的なこととなった。 この公聴会で NASA 所属の J.ハンセンが行った「最近の異常気象、 とりわけ暑い気象が地球温暖化と関係していることは 99%の確率で正しい」との発言が、 「地球温暖化による猛暑説」として報道された。これを契機として、当時の『ニューズウ ィーク』誌等の雑誌や TV 放送等のメディアを通して、地球温暖化説が一般に広まり始めた。 この日から地球温暖化問題は単に科学研究の問題ではなく、政治問題に転換した。 366 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の設立 1988 年 8 月には、世界気象機関(WMO)と国連環境計画(UNEP)の共同で気候変動に関す る政府間パネル(IPCC)が設立された。 その後、1988 年 10 月にはトロント会議において「先進国が 2005 年の二酸化炭素排出量 を 1988 年より 20%減らす」という数値目標(トロント目標)が初めて提示され、行政レベ ルでの活動のきっかけとなった。 1989 年 11 月の大気汚染と気候変動に関する環境大臣会議では温室効果ガス排出量の安 定化に初めて言及するノールトヴェイク(オランダ)宣言を採択した。アルシュサミット、 ヒューストンサミットでも地球温暖化問題が話し合われた。 1990 年 8 月、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は膨大な数の学術的報告を集約して 評価を行い、第一次評価報告書にて、21 世紀末までに地球の平均気温が約 3℃、海面が約 65 センチメートル上昇するとの具体的予測を発表した。このころには、学術的にも「地球 寒冷化説」は過去の説となりつつあり、地球温暖化説が定着しはじめた。 1990 年 11 月に開かれた第 2 回世界気候会議では地球温暖化防止に向けた条約の交渉が 開始され、翌月気候変動に関する枠組条約交渉会議が設立され、数回にわたる議論を経て 1992 年 5 月に決定された。 ○リオ・デ・ジャネイロの地球サミット 1992 年 6 月にリオ・デ・ジャネイロで開かれた国連環境開発会議は、問題に関する認識 の広がりと深化において、画期的なものであった。 この会議は国際連合の主催による環境と開発をテーマとする首脳レベルでの国際会議であ り、環境と開発に関する国際連合会議、あるいは一般には地球サミット(国連地球サミッ ト)と呼ばれた。 ただ、この国際連合の主催による環境や開発を議題とする会議は、1972 年 6 月の「国連人 間環境会議」 (ストックホルム会議)以来、1982 年の国連環境計画管理理事会特別会合(ナ イロビ会議) 、1992 年の環境と開発に関する国際連合会議、2002 年の「持続可能な開発に 関する世界首脳会議」 (環境開発サミット、ヨハネスブルグ・サミット)と、約 10 年ごと に開催されている。 このリオの環境と開発に関する国際連合会議は、1992 年 6 月 3 日から 14 日にかけて開 催され、国際連合の招集を受けた世界各国や産業団体、市民団体などの非政府組織 (NGO) が参加した。世界 172 ヶ国(ほぼすべての国際連合加盟国)の代表が参加し、のべ 4 万人 を越える人々が集う国際連合の史上最大規模の会議となり、世界的に大きな影響を与える ことになった。 環境と開発に関する国際連合会議の成果として、持続可能な開発に向けた地球規模での 367 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 新たなパートナーシップの構築に向けた「環境と開発に関するリオ・デ・ジャネイロ宣言」 (リオ宣言)と、この宣言の諸原則を実施するための行動計画である「アジェンダ 21」 、 「森 林原則声明」が合意された。また、別途協議が続けられていた「気候変動枠組条約」と「生 物多様性条約」が提起され、この会議の場で署名が開始された。さらに、環境と開発に関 する国際連合会議を受けて、国際連合の経済社会理事会の下に「持続可能な開発委員会」 (CSD) が設置された。 環境と開発に関する国際連合会議の開催後、「生物多様性」「生物圏」といった用語が、 各国の主要機関に認知され、一般にも知られるようになった。また、さまざまな地球環境 問題や生態系、絶滅危惧種等に対する一般の関心が高まる契機ともなった。また、世界各 国の多くの非政府組織 (NGO) が参加し、会議の成功のために活発な活動を展開したこと も、特筆されるべき点であった。 ◇気候変動枠組条約 気候変動枠組条約(気候変動に関する国際連合枠組条約、UNFCCC)は、地球温暖化問 題に対する国際的な枠組みを設定した条約で、気候変動枠組条約、地球温暖化防止条約と もいわれる。 、HFCs、 その内容は、温室効果ガス(二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素[亜酸化窒素:N2O] PFCs、SF6 など)の増加が地球を温暖化し、自然の生態系などに悪影響を及ぼすおそれが あることを、人類共通の関心事であると確認し、大気中の温室効果ガスの濃度を安定化さ せ、現在および将来の気候を保護することを目的とし、気候変動がもたらす様々な悪影響 を防止するための取り組みの原則、措置などを定めている。 気候変動枠組条約では、 締約国の共通だが、差異のある責任 開発途上締約国等の国別事情の勘案 速やかかつ有効な予防措置の実施 などの原則のもと、先進締約国(「条約の附属書締約国」と呼ばれる)に対し、温室効果ガ ス削減のための政策の実施などの義務が課せられている。 具体的には、附属書締約国に対して、1990 年代末までに温室効果ガスの排出量を 1990 年の水準に戻すことを目指していくこと(そのための政策措置をとり、その効果の予測な どを締約国会議に通報し、審査を受けること)、また、開発途上国に気候変動に関する資金 援助や技術移転などを実施することを求めている。 リオ会議以後、155 ヶ国が署名し、1994 年 3 月 21 日に発効した。 2003 年 12 月時点で、187 ヶ国び欧州共同体(EU)が締結している。気候変動枠組条約の 条約事務局は、ドイツのボンにある。この条約の交渉会議には、最高意思決定機関である 368 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 気候変動枠組条約締約国会議(COP)のほか、常設の補助機関(SB)に、実施に関する補 助機関(SBI)と、科学的、技術的な助言に関する補助機関(SBSTA)がある。締約国会 議は、毎年開催されている。 1995 年の第 1 回気候変動枠組条約締約国会議(COP1)の第二次気候変動に関する政府 間パネル(IPCC)報告書は、 「証拠を比較検討した結果、識別可能な人為的影響が全球気候に 表れていることが示唆される」と宣言した。また、現在の路線のままだと地球全体の気温 は 2100 年までに 2 度上昇するという推定を行った。1996 年の COP2 では、地球温暖化対 策の必要性が合意されるとともに、温室効果ガスの削減目標や削減手法について協議を行 った。ただ、意見の対立に伴う議論の停滞や先送りといった問題も続出した。 争点は発展途上国と先進国の南北対立であった。1860 年から 1990 年までの累積 CO2 排 出の 75%ほどが先進工業国によるものだった。だが、人口比では 20%にすぎない。CO2 排出制限が実施される可能性が高まるにつれて、発展途上国は炭化水素の使用制限と、そ れによる経済成長に課せられる制約に、声高に反対を唱えるようになった。 【2】京都議定書に基づく温室効果ガス削減 ○COP3 京都会議と京都議定書 1997 年 12 月に開催された第 3 回締約国会議(COP3、京都会議)においては、2000 年 以降の取り組みについての規定が不十分であるとして、気候変動枠組条約に基づき、法的 拘束力のある数値目標を定める京都議定書(気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議 定書)が採択された。 これでは、地球温暖化の原因となる、温室効果ガスの一種である二酸化炭素 (CO2)、メ タン (CH4)、亜酸化窒素 (N2O)、ハイドロフルオロカーボン類 (HFCs)、パーフルオロカ ーボン類 (PFCs)、六フッ化硫黄 (SF6) について、先進国における削減率を 1990 年を基準 として以下のように各国別に定め、共同で約束期間内に目標値を達成することが定められ た。 議定書で設定された各国の温室効果ガス 6 種の削減目標は、議定書第 3 条では、2008 年 から 2012 年までの期間中に、先進国全体の温室効果ガス 6 種の合計排出量を 1990 年に比 べて少なくとも 5%削減することを目的と定め、続く第 4 条では、各締約国が温室効果ガス 6 種の合計排出量について、以下の割当量を削減することを求めている。 ◇-8%…ヨーロッパ連合 15 ヶ国(EU 共同で削減を行うことが認められている) ◇-7%…アメリカ(後に離脱) ◇-6%…カナダ、ハンガリー、日本、ポーランド ◇-5%…クロアチア 369 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ◇±0%%…ニュージーランド、ロシア、ウクライナ ◇+1%…ノルウェー ◇+8%…オーストラリア ◇+10%…アイスランド また京都メカニズムは、国内での単なる排出量削減を除く植林活動や、国外での活動、 削減量の国家間取引など、温室効果ガスの削減をより容易にするためのメカニズムが認め られ柔軟性措置とも呼ばれた。一般に、クリーン開発、排出量取引、共同実施の 3 つのメ カニズムを指すが、これに吸収源活動を含めることもある。 ◇クリーン開発メカニズム (CDM) これは、先進国が開発途上国に技術・資金等の支援を行い温室効果ガス排出量を削減、 または吸収量を増幅する事業を実施した結果、削減できた排出量の一定量を先進国の温室 効果ガス排出量の削減分の一部に充当することができる制度である。先進国は少ないコス トで削減が可能となり、途上国は技術や資金の供与といった対価が望めるなどの効果があ る。 ◇排出量取引 (ET) これは、①AAU(Assigned Amount Unit。各国に割り当てられる排出枠 )、②RMU (Removal Unit。吸収源活動による吸収量 )、③ERU (Emission Reduction Unit。下記の JIで発行されるクレジット )、④CER (Certified Emission Reduction。クリーン開発メ カニズム CDM で発行されるクレジット )の 4 種類の炭素クレジットを取引する制度であ る。 「排出権取引」 「排出許可証取引」 「排出証取引」とも呼ばれる。これらの炭素クレジッ トを 1 トン単位(1t-CO2)で取引するものである。 排出量を排出枠内に抑えた国や事業で発生したクレジットを、排出枠を超えて排出して み な しまった国が買い取ることで、排出枠を遵守したと 見做 されるものである。 温室効果ガ ス削減が容易ではない国は少ない費用で削減が可能となり、削減が容易な国は対価を求め て大量の削減が望めるという、2 つの効果を念頭に置いている。 ◇共同実施 (JI) これは、投資先進国(出資をする国)がホスト先進国(事業を実施する国)で温室効果 ガス排出量を削減し、そこで得られた削減量 (ERU: Emission Reduction Unit) を取引す る制度。つまり、先進国全体の総排出量は変動しない。 ◇吸収源活動 これは、1990 年以降の植林などで CO2 の吸収源が増加した分を、温室効果ガス排出量 削減に換算し算入するもの。また、吸収源である森林が同年以降に都市化・農地化などで 失われた分は排出量増加として算入される。京都議定書 第 3 条で定められており、土地利 370 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 用・土地利用変化及び林業部門 (LULUCF) 活動とも呼ばれる。 具体的には京都議定書 3 条 3 項には①新規植林(過去 50 年間森林がなかった土地に植 林) 、②再植林 (1990 年より前に森林でなかった土地に植林)、③森林減少(森林を他用 途に転換) の活動が規定されている。 これらの英頭文字を取って ARD 活動 とも呼ばれる。 これに加え、マラケシュ合意では「森林管理」 「放牧地管理」 「植生の管理」を利用するこ とも許容された(京都議定書 3 条 4 項)。このため、既存の森林についても 1990 年以降に 適切な管理を行うことで、その森林を吸収分として算入できるようになった。これは、義 務達成を難しいと考え、しかも緑被率の比較的高い国である日本、カナダが主張し、採用 されたものである。なお、運用細目は、2001 年に開かれた第 7 回気候変動枠組条約締約国 会議(COP7、マラケシュ会議)において定められた。 気候変動枠組条約および京都議定書により定められた義務については、その約束が遵守 されることを担保するため、罰則規定のように機能する規定が設けられることとなった。 具体的には COP7 および COP/moP1 で決定され、疑義が唱えられた際の審議・判断を行 う遵守委員会が設けられるとともに、不遵守時には次のような措置が取られることとなっ た。 ◇報告義務不遵守…気候変動枠組条約および京都議定書による温室効果ガス排出量管理に 必要な各種排出量および森林吸収量の変化を推計するための基礎的数値については、各国 が集計し報告することとなっている(京都議定書 5 条・7 条、情報の報告義務)。この報告 に問題があった場合には京都メカニズムへの参加資格を喪失する。 ◇排出枠不遵守…京都議定書により約束した割当量を超えて排出した(削減目標を達成で きなかった)場合には、超過した排出量を 3 割増にした上で次期排出枠から差し引く(次 期削減義務値に上乗せされる) 、排出量取引において排出枠を売却できなくなる。 この京都議定書の発効の条件は、以下の両方の条件を満たす必要があるとされた(京都 議定書 25 条) 。 ◇55 ヶ国以上の国が締結 ◇締結した附属書 I 国(先進国、積極的に参加した諸国)の合計の二酸化炭素の 1990 年の 排出量が、全附属書 I 国の合計の排出量の 55%以上 経済発展をおこなう以上、多量の二酸化炭素を排出せねばならないと考えられたため発 展途上国の自発的参加が見送られ、当初は推進していたアメリカ合衆国も後に受け入れを 拒否、ロシア連邦も受け入れの判断を見送っていたため、後者の条件が満たされず、2004 年ごろまでは議定書の発効が行われていない状況であった。2004 年に、ロシア連邦が批准 したことにより、2005 年 2 月 16 日に発効した。 2007 年 12 月 3 日にオーストラリアが京都議定書に調印、批准したため、先進国で京都 371 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 議定書に批准していないのはアメリカ合衆国だけとなった。 アメリカはクリントン民主党政権のときには、地球温暖化問題には熱心に取り組んでい た。1997 年秋、京都会議が膠着状態になっていたときには、ゴア副大統領が乗り込んでき て、アメリカの本気度を示し、アメリカ、ヨーロッパ、日本がほぼ同じ拘束力のある目標 (2008 年から 2012 年のあいだに 1990 年のレベルよりも 6~8%減少させる)にたどり着 いた。 しかし、アメリカは今後、経済発展が予想される中国、インド、ブラジルなどの発展途 上国も CO2 排出に義務的な取り組みを行うべきと強く主張していた。そこで 1997 年 7 月 にアメリカ上院はバード・ヘーゲル決議を 95 対ゼロで可決した。これはアメリカは、アメ リカ経済に「深刻な打撃」をあたえるような条約は受入れないし、発展途上国を除外すれ ばアメリカの産業が競争力の面で不利になるので、それも認められないと宣言したのであ る。しかし、この時はこのバード・ヘーゲル決議は発展途上国の京都議定書への参加を促 すためのものであった。 結局、京都議定書では発展途上国を組み入れることはできなかった。バード・ヘーゲル 決議は、いかなる気候関連の合意もアメリカの競争力を維持するものでなければならない と定めていたので、京都議定書はバード・ヘーゲル決議の条件を満たさないことになって しまった。京都議定書が条約として発効するには、アメリカが上院で 67 票以上の賛成を得 なければならなかった。クリントン政権には票が読めていたので、条約の批准をまったく 提議しなった。 2001 年 3 月、ブッシュが大統領になると、クリスティン・ホイットマン環境保護庁長官 は京都議定書を支持してほしいと促した。ブッシュは、京都についてはもう腹が決まって あ いると告げ、上院議員たちに 宛 てた書簡の内容を伝えた。その書簡でブッシュは、政権は AE 「気候変動問題をきわめて重大と受け止める」が、京都議定書には断固として反対し、そ れに沿って進むことはしない、と断言していた。なぜなら、そこには世界人口の 80%が含 まれておらず、 「グローバルな気候変動問題に取り組むには、不公平かつ非効果的な手段で ある」からだと言った。また、CO2 に上限を課すと発電の燃料を石炭から天然ガスに変え る動きを助長することを、ブッシュは懸念していた。 そして、気候変動は、アメリカでは 2001 年の景気後退の前で影が薄くなり、2001 年 9 月 11 日の連続テロ事件発生で国政における課題からほとんど消えてしまった。 同様に離脱していたオーストラリアでは世論の高まりを受けて総選挙により政権交代し、 直後の 2007 年 12 月 3 日に批准した(これにより排出量は 63.7%になった)。なお、批准 を拒否しているアメリカは、219 都市が独自に京都議定書を批准した。 ○京都議定書以後 372 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― IPCC は第二次評価報告書(1995 年)、第三次評価報告書(2001 年)を順次発表し、地 球温暖化の研究や予測の精度が向上していった。 第三次評価報告書においては、下記のような結論が示された。 この半世紀の温暖化の大部分は、人間活動が原因と考えられる。 人間活動が大気中の温室効果ガスの濃度と放射強制力を増加させ、21 世紀中もそのトレ ンドを支配すると考えられる。 平均地上気温は今世紀末までに、1990 年に比べて 1.4~5.8℃上昇すると予測される。こ れに伴い、海水準の上昇や大規模な気候変化が懸念される。 この報告書では研究の不足する点についてなおも空白を埋める必要性を指摘しつつも、 それによる不確実性を考慮してもなお人為的な温暖化のリスクが大きいことを警告した。 10 年ごとに開催される地球環境問題に関する国際会議が 2002 年 8 月に南アフリカ共和 国のヨハネスブルグで国際連合により開催された。この会議には、1992 年のリオ会議と同 様に、ほぼすべての国際連合の加盟国や多くの非政府組織 (NGO) が参加し、最終的には 「持続可能な開発に関するヨハネスブルグ宣言」などが採択された。 この会議をめぐっては、先進国と開発途上国との格差をめぐる南北問題の深刻化を受けて、 問題に対する真剣な取り組みが感じられないという批判もあり、国際社会における地球温 暖化の扱いに深刻な課題が生まれてきていることを指摘する声もあった。これ以降の COP では、対策に関して途上国と先進国の南北問題による対立も濃くなっていった。 2005 年には京都議定書が発効し、法的にも削減義務が発生した。京都議定書が発効する には、55 ヶ国以上で批准されなければならなかった。グレンイーグルズサミットの 5 ヶ月 前の 2005 年 2 月、ロシアのプーチン大統領が署名して、ロシアが 55 番目の批准国になっ た。ロシアは WTO 加盟要求の交換条件と見なされた。 2007 年末の時点では、欧州などは再生可能エネルギーの普及を中心とした強力な政策に より、最も厳しい-8%の義務を達成する見込みが出てきた。その一方で義務のない中国の排 出量は激増し、アメリカ、カナダも目標達成をあきらめ、日本も排出量を増やすなど、各 国の達成状況はまちまちであった。 ◇イギリスのスターン報告 2006 年末には、イギリス政府の委託により、学術的な知見を経済学的な面から見て研究 したスターン報告が発表された。これは経済学者ニコラス・スターン卿によって発表され た地球温暖化(気候変動)に関する報告書で、正式な表題は『気候変動の経済学』である。 地球温暖化の対策による損得、その方法や行うべき時期、目標などに対して、経済学的な 評価を行っている。その内容は「早期かつ強力な対策」が経済学的にみて最終的に便益を もたらすであろうと結論づけていた。 373 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― その要点を記すと、 ・気候変動を無視すれば、経済発展が著しく阻害されるリスクがある。このリスクは、二 度の世界大戦や 20 世紀の世界恐慌に匹敵する。 ・今世紀半ばには、嵐や洪水、干ばつ、熱波などの極端な気象現象によるものだけで被害 額が GDP の 0.5~1%に達し、温暖化が続けばなおも増加する。 ・温暖化ガスの放出を 2050 年までに現在の 4 分の 3 に削減して CO2 濃度を 550ppm に抑 えた場合、その対策コストは平均で GDP の 1%程度と見積もられる。 ・このまま温暖化ガスの排出を続ければ今世紀末には GDP の 20%にも相当する大きな被害 のリスクがあり、温暖化を抑制するコストの方が遙かに小さくなる。 などを指摘している。 ◇ドイツのハイリゲンダムサミット 2007 年 6 月、ドイツのハイリゲンダムサミットにおいては、議論の末に「温室効果ガス を 2050 年までに半減する」との合意がなされた。しかし、どの温室効果ガスを、いつを基 準に半減させるのかなど、詳細は規定されなかった。 このように、地球温暖化が人為的なものであり、早急な対策が必要であることは国際的か つ学術的(科学的)なコンセンサスとなっていた。これに異議を唱える者もいたが、2007 年 7 月にアメリカ石油地質協会(AAPG)がその意見を変えて以来、近年の温暖化に対する人 為的影響を否定する国際的・公的な学術組織はなくなった。 ◇IPCC とアル・ゴアにノーベル平和賞 2007 年 10 月には、気候変動に関する活動に対して気候変動に関する政府間パネル (IPCC)が、人為的な気候変動問題の啓発に対してアル・ゴアが、それぞれノーベル平和 賞を受賞することが発表され、同年 12 月に受賞した。 ◇IPCC 第四次評価報告書 2007 年に IPCC 第四次評価報告書(AR4)が公表され、このような予測の確度がさらに向 上すると共に、人類が有効な対策を既に有していること、対策費用も含めた今後の被害を 最小に抑えるには、現状よりも大規模かつ早急な対策が必要であることを重ねて指摘した。 その内容では人類の活動が地球温暖化を進行させていることと、それにより深刻な被害が 生じる危険性が指摘されている。また人類が有効で経済的に実行可能な対策手段を有して おり、 20~30 年以内に実効性のある対策を行うことで被害を大きく減らせるであろうこと、 それには現状よりも早急かつ大規模な取り組みが必須であることが指摘されている。 3 つの作業部会による報告内容を踏まえた統合報告書(SYR)が 2007 年 11 月の IPCC 総 会(スペイン)にて採択され、同年末に公開された。その際、IPCC 議長の Pachauri 博士 は、下記のようなメッセージを世界に発信した。 374 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ・気候変化はあらゆる場所において、発展に対する深刻な脅威である。 ・もう疑っている時ではない。我々を取り巻く気候システムの温暖化は決定的に明確で あり、人類の活動が直接的に関与している。 ・現在進行している地球温暖化の動きを遅らせ、さらには逆転させることは、我々の世 代のみが可能な(defining)挑戦である。 ◇2007 年 12 月の COP13 温室効果ガスの削減策としては、当時、京都議定書による削減目標提示が最も大規模な ものであったが、スターン報告や 2007 年 2 月から公表された IPCC 第四次評価報告書 (AR4)により集約された科学的知見によれば、それよりも 1 桁多い削減量が必要とされ ている。このため京都議定書以上の削減目標(ポスト京都議定書)についての議論が行な われるようになった。 2007 年 12 月の COP13 においては、欧州やインドネシアによる数値目標導入の主張に日 本やアメリカ、カナダなどが反対し、また途上国と先進国との間での反発も顕在化した。 辛うじて合意には至ったものの、数値目標の設定は見送られ、IPCC 第四次評価報告書 (AR4)の指摘への言及がなされるに留まった。こうした日米などの動きに対しては激し い批判が見られた。 ◇中国とインドの動き 2007 年、中国の CO2 排出は、アメリカの排出量を若干上まわった。まったく抑制しなか った場合、2030 年には、中国の CO2 排出は OECD 加盟国すべての排出の合計を超えると いう推測もある。中国のこの増加について、国際社会の非難も高まっていった。 これに対し、中国は国民一人当りの数値ではアメリカやヨーロッパ諸国よりもずっと少な い、中国はまだ比較的貧しい国で、欧米・日本が数十年前に成し遂げた移行の最中にある のだから、先進国と同じ機会や生活水準の享受を否定されるべきではない、それに中国の エネルギー消費と排出の増大は、欧米・日本がエネルギー集約型生産のかなりの部分を中 国にアウトソーシングしているからだと反論していた。 しかし、非難合戦をしている場合ではない。地球はひとつである。もはや中国抜きの気 候変動の国際制度はありえないという国際世論が形成されていった。 中国の姿勢も進化しつつあった。2006 年、中国政府は気候変動国家評価報告を発表した。 2007 年の世界環境の日の前日、中国政府は初の“気候変動に関する国家戦略”を発表し、 「中国における気候変動の傾向は、今後いっそう激化するだろう」と警告した。この戦略 は、節約とエネルギー効率の重視を強化するとともに、燃料バランスの変更、生態系の保 護、陸地の 20%にまで森林を回復すること、世界水準のエネルギー・テクノロジーの開発 を重視するというものであった。大気汚染が激しい北京、上海その他の都市で暖房と調理 375 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― に使われていた石炭は、天然ガス資源と輸入 LNG に取って替えられる。 気候変動に対する中国の姿勢が変ったのは、都市部における大気汚染だけではない。干 ばつと洪水は、気候変動のリスクを現実にし始めている。中国の大河の水源であるヒマラ ヤやチベット台地の氷河や雪が中国の水供給に不安を与え初めている。東では、中国の GDP と経済成長の大きな原動力である沿岸の低地が、海面上昇に脅かされている。干ばつ、砂 漠化、異常気象、農業生産の不安定、こうしたことすべてが促進されかねないのである。 中国は、気候変動政策を受け入れることは、今後、アメリカやヨーロッパとの総合的な関 係で重要な要素だと結論を下した。胡錦濤国家主席は、2009 年秋に国連で演説し、先進国 と途上国の「双方の利益」になる気候変動対策を求めた。 インドは、発電の大部分を石炭に頼り、バイオマス燃料(薪)も大量に燃やしているが、 インドの CO2 排出は世界の 5%に過ぎない(中国は 23%である)。インド経済は中国経済の 約 4 分の 1 であるから、それが当然の数字である。インドも、従来、国際的な気候変動交 渉に対して、自分たちは発展途上国であり、かなり貧しいのだから、先進工業国が 200 年 にわたって大気に放出してきた CO2 ために、インドとその経済成長が罰を受けるのはおか はんばく しいと、激しく 反駁 してきた。 しかし、インドも以前にくらべるとずっと急速な経済成長を続けていて世界経済との結 びつきが深くなって、観点も変わりつつある。 「インドは世界でもっとも気候変動による被 害を受けやすい国だ」 「われわれはモンスーン(季節風とそれがもたらす雨季)に依存して ラ イ フ ライン いる・・・それがわが国の 生命 線 だ・・・モンスーンがうまくいかないときは落ち込み、 モンスーンが順調なときにはよろこぶ・・・気候変動によって引き起こされるモンスーン の不安定は、インドにとって他を圧倒する最優先問題だ」 「ヒマラヤの氷河の状態が、わが 国の水の安全保障を左右する」とラメシュ環境相は国会で述べている。 いまや国際的な気候変動を交渉する際の 4 大国は、アメリカ、EU 、中国、インドで、 ブラジルも対話の相手国として重要性を増しつつある。2009 年 12 月のコペンハーゲンの COP15 では、それが鮮明になった。 ◇2009 年 12 月の COP15(コペンハーゲン) COP15 のコペンハーゲン会議は、京都議定書の後継の役割を果たすことになっており、 あらたな世界的合意への期待が高まっていた。113 ヶ国の国家元首や政府首脳がコペンハー ゲンに集まり、NGO 活動家数万人も街中を動いていた。ここでも途上国が同意しなかった ら、アメリカ上院で気候法案への賛意を取りつけるのは、難しいことは同じだった。 会議終盤にバラク・オバマ大統領も乗り込んできた。混沌とした会議に出席したあと、 オバマは中国の温家宝首相と緊急に合おうとした。飛び込んだ会議室には、温家宝の他に インドのシン首相、ブラジルの首相、南アフリカの大統領が鳩首会談をしていた(BASIC 376 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― グループと呼ばれた。B はブラジル、AS は南アフリカ、I はインド、C は中国)。オバマが 書記となり草稿の手直しがはじまり、ようやく双方がかなり歩み寄って、合意ができあが った。条約にはならず、法的拘束力のある目標もない。しかし、先進国も途上国も、排出 を減らすために拘束力のない同内容の誓約を採択する。途上国の実施する「緩和行動」を 「国際的測定、報告、確認の対象」とするという、同内容の了解を付記する。この同意は、 気温が摂氏 2 度以上上昇するのを防ぐという主要目標も、明確に打ち出した。しかし、多 くの国の代表が不満を表明し、採択されることはなかった。 ◇2010 年 12 月の COP16(カンクン) その 1 年後の 2010 年 11 月から 12 月にかけて、COP16 がメキシコのカンクンで開催さ れた。カンクン合意には、193 ヶ国が調印した。苦難に満ちた 1 年間の交渉の末に提示さ れたものは、コペンハーゲンでアメリカ、EU、BASIC4 ヶ国が同意したものとほぼ同じだ った。 合意の中核をなす要素は、排出削減に向けた国別の具体的誓約の採用だった。これによ り、監視と確認のプロセスが確立された。国内の活動の透明性を高めるために、国際的な 助言と分析が 2 年ごとに行われる態勢が合意された。その一環として専門家も含めた国際 フォーラムで共用される。気温上昇を摂氏 2 度以内に抑えるという長期目標の再確認もカ ンクン合意の重要要素だった。 しかし、カンクン合意は数多くの保留事項をそのままにした。たとえば、2012 年に期限 切れになる京都議定書の期間を延長するかどうかという問題を先送りにした。 ○京都議定書の結果 温室効果ガスの排出削減に関する法的な枠組みを定めた国際的なルール・京都議定書は 2008~2012 年の第 1 約束期間はそれに基づき欧州連合は 90 年比で平均 8%減、日本は同 6%減などの義務を負って実施されたが、2010 年時点の欧州連合の排出は 1990 年の 15.4% 減、ロシアは 33%減だった(ロシアは不況の影響が大きかったが)。しかし、日本は実質的 に削減が進まなかった。 日本は京都議定書の第 1 約束期間、温室効果ガス排出量の「1990 年比 6%削減」の義務 をてこに温暖化対策を打った。しかし、日本は温室効果ガス削減の方策を誤った。2011 年 の福島原発事故で、原発がほぼ全面的に止まり、国内の二酸化炭素排出は逆に大幅に増え てしまった。1980 年代までのエネルギー政策の延長で考えれば、あくまで原発と再生可能 エネルギーの 2 本立で温室効果ガスの削減に努めるべきであったのに、 「原発に依存しすぎ ていた」と環境省の温暖化対策担当者は反省しているという。 2009 年秋に鳩山由紀夫首相(当時)が 2020 年の目標として「90 年比 25%削減」の国際 公約を打ち出した。それも原発の 9 基新増設ありきの数字だった。(福島原発事故のあと) 377 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 政府は 2011 年夏以降、原発に依存しない温暖化対策を迫られた。2011 年 9 月公表の「革 新的エネルギー・環境戦略」は「30 年代原発ゼロ」の方針のもと、2011 年末までに計画を 作るといっていたが、できなかった。そのうち、政権交代で一からやり直しになった。 しかし、実は日本は、福島原発事故前の第 1 約束期間も実質、CO2 削減が進んだとは言 い難いものであった。確かに、政府の「目標達成計画」のもとで建物の省エネ、車の燃費 向上などの施策が積み上げられ、自治体も温暖化対策計画を作成した。国民の温暖化に対 する意識も浸透した。しかし、温室効果ガス削減のほとんどは海外との排出量取引や森林 吸収でまかなうものであった。電力や交通など真水部分のエネルギー起源 CO2 削減は計画 段階で「産業競争力を損なう」との経済界の抵抗などで CO2 増加を容認していた。 日本の実際の排出量は図 70(図 18-72)のように、削減目標をすべて上回っていたが、 京都議定書のルールでは、排出量を計算する際に実際の値から、国内の森林が吸収した CO 量や政府が海外から購入した排出枠の分を差し引くことが認められていた。そこで、今回 2 の推計では森林吸収分として毎年、90 年度比約 3.8%、排出枠購入分として同 1.6%を削減 量に算入し、とくに排出量の多い電力業界が自主的に購入して 11 年度までに国に提供した 約 2 億トン分も組み入れていた。 環境省は、日本の 2012 年の温室効果ガス排出量は 13 億 4100 万トンで、京都議定書の 基準年である 1990 年(12 億 6100 万トン)比で 6.3%増となったと発表した。議定書で「90 年比 6%減」が義務づけられている 2008~2012 年度の平均は 1.4%増だが、森林による吸 収分や排出量取引などの「京都メカニズム」分を差し引くと 8.2%減で、義務は達成したと している。 このように、数字あわせのようなところもあって、実際には日本の排出量が減っていな いどころか、増えていたのである(このようなやり方では先進国は実質、減らさないで、 むしろ増加させても、途上国に少し転化すればすむということになる。先進国がみんなそ んなことをすれば、いつまでたっても地球上の温室効果ガスは減らないことになってしま う) 。 378 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 70(図 18-72) 日本の温室効果ガス排出量 【3】地球温暖化の予測-IPCC 第五次報告書 国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、2013 年 9 月に地球温暖化の科学的 根拠をまとめた作業部会の第五次評価報告書を公表したが、2014 年 3 月 27 日、ストック ホルムで総会を開き、第五次報告書を承認した。IPCC が総合的な報告書を公表するのは前 回(第四次報告書)以来 7 年ぶりであった。加盟 195 ヶ国のチェックを受けて承認された ため、今後の国際的な対策づくりの科学的なよりどころとなる。その概要は以下のとおり である。 ○気候システムの観測された変化 ・気候システムの温暖化については疑う余地がなく、1950 年代以降に観測された変化の多 379 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― くは、数十年から数千年にわたって前例がないものである。 ・大気と海洋は温暖化し、雪氷の量は減少し、海面水位が上昇し、温室効果ガス濃度は増 加している。 ・世界平均地上気温は、独立した複数のデータセットが存在する 1880~2012 年の期間に 0.85[0.65~1.06]℃上昇した。20 世紀半ば以降、世界的に対流圏が昇温していることはほぼ 確実である。 ・最近 30 年の各 10 年間の世界平均地上気温は、1850 年以降のどの 10 年間よりも高温で ある。 (図 71 参照) 。 図 71 世界の地上気温の経年変化 (注)世界の年平均地上気温の経年変化(黒:英国気象庁による解析データ(HadCRUT4) 、 黄:米国海洋大気庁国立気候データセンターによる解析データ(MLOST) 、青:米国航空 宇宙局ゴダード宇宙科学研究所による解析データ(GISS))。偏差の基準は 1961~1990 年 平均。 ・世界平均地上気温の変化は、数十年にわたる明確な温暖化に加え、かなりの大きさの 10 年規模変動や年々変動を含んでいる。自然変動のために短期間でみた気温の変化率は、ど の期間を採用するかに大きく影響され、一般には長期間での変化率を反映していない。強 いエルニーニョ現象の起きていた 1998 年から 2012 年までの 15 年間の温度の上昇率は 1951 年から 2012 年までの温度の上昇率より小さい。 ・1950 年ごろ以降、世界規模で寒い日や寒い夜の日数が減少し、暑い日や暑い夜の日数が 増加した可能性が非常に高い。また、陸域での強い降水現象の回数は、減少している地域 よりも増加している地域の方が多い可能性が高い。強い降水現象の頻度もしくは強度は北 380 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― アメリカとヨーロッパで増加している可能性が高いが、他の大陸では、強い降水現象の変 化の確信度はせいぜい中程度である。 ・1971~2010 年において、海洋の上部(0~700m)で水温が上昇していることはほぼ確実 である。1992~2005 年において、水深 3000m 以深の深層で水温が上昇している可能性が 高い。 ・海洋の上部の 0~700m の貯熱量は、2003~2010 年の期間にそれ以前の十年間と比べて よりゆっくりと増加しているが、700~2000m への熱の取り込みは衰えることなく続いて いる可能性が高い(新見解) 。 ・海洋の温暖化は、気候システムに蓄えられたエネルギーの変化の大部分を占め、1971~ 2010 年の期間ではその 90%以上を占めている(高い確信度) 。 ・過去 20 年にわたり、グリーンランド及び南極の氷床の質量は減少しており、氷河はほぼ 世界中で縮小し続けている。また、北極の海氷面積及び北半球の春季の積雪面積は減少し ている(高い確信度) 。 ・世界平均海面水位は 1901~2010 年の期間に 0.19[0.17~0.21] m 上昇した。世界平均海 面水位の上昇率は、1901~2010 年には年あたり 1.7 [1.5~1.9]mm の割合、1971~2010 年 には 2.0[1.7~2.3]mm の割合、1993~2010 年には年あたり 3.2 [2.8~3.6]mm の割合であ った可能性が非常に高い。 ・19 世紀中頃以降の海面水位の上昇率は、それ以前の 2 千年間の平均的な上昇率より大き かった(高い確信度。新見解)。 、メタン(CH4)、一酸化二窒素(N2O)濃度は、過去 80 万 ・大気中の二酸化炭素(CO2) 年間で前例のない水準まで増加している。CO2 濃度は、化石燃料による排出や正味の土地 利用の変化により、工業化以前より 40%増加した。 ・海洋は人為起源の二酸化炭素の約 30%を吸収して、海洋酸性化を引き起こしている。海 水の PH は工業化以降 0.1 低下している(高い確信度) 。 ○成り行きなら、どうなるか 報告書によると、世界の温室効果ガス排出量は人口増と経済成長を背景に 2000 年以降加 速していて、2010 年に CO2 換算で 495 億トンとなった。大気中の二酸化炭素濃度は過去 80 万年間で最も高い 400ppm まで上昇している。 将来の予測では、国際的な削減対策が取られず温暖化が進むシナリオから、産業革命以 降の世界の平均気温の上昇を 2 度以内に抑えるシナリオまで図 72(表 18-6)のように、4 つを用いて計算した。これまでの気温上昇に加え、今世紀末までに 0.3~4.8 度上昇する可 能性が高い。 381 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 72(表 18-6) 気候変動のシナリオ別影響予測 温室効果ガスがこのまま増えた場合、図 73(表 18-7)のように、今世紀末の海の水位 上昇は最大 82 センチと予測し、前回の 59 センチより高くなる。南極などの氷床が海中に 崩落している影響を計算にいれた結果という。 図 73(表 18-7) 第五次報告書と第四次報告書の違い 気温の上昇を抑えられなければ、多くの生き物が逃げ切れない。漁業資源をはじめ、生 物多様性に頼って生きている人間はひとごとで済まない。農業でも、すでにコムギやトウ モロコシなどの主要穀物で収穫量の減少傾向が表れている。4 度以上となる大きな気温上昇 を許すと、世界的な食糧安全保障に大きな影響を与える可能性があると指摘している。 59 センチ上昇した場合の水没域を推定したところ、 世界の国土面積の 0.79%から 0.80% たとえば、インドネシアは 10.33~10.43%が水没すると推定されていたので、82 センチと なれば、もっと多くの土地が水没することになる。海面上昇に伴う浸食などによって沿岸 の土地が失われ、今世紀末までに移住が必要になる人数は数億人になると予測している。 環境省などによると、東京湾、伊勢湾、大阪湾周辺のゼロメートル地帯は、水位が 60 セン チ上昇すると、ゼロメートル地帯の面積と人口は 1.5 倍になるとしている。 気温上昇が、前回の 6.4 度から 4.8 度となったのは、極端な将来像をシミュレーションか ら除外するなどしたためという。世界平均気温は、1880 年から 2012 年で 0.85 度上昇した が、1 度足らずの上昇でも、温暖化も原因とみられる高温や低温、豪雨などは世界中で多発 382 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― している。最大 4.8 度の気温上昇なら、生物や森林への被害が甚大になる恐れがある。 気温上昇に伴い高温障害などが発生して農産物の生産量は、温暖化によって毎年大きく 変動し、10 年単位でみると最大 2%減産する。一方で人口増を背景に食糧需要は 10 年当り 14%増えるため、供給不足や価格高騰を招きやすい、貧困率の高い熱帯の国々では特に深 刻な食糧難に陥るおそれがあるという。報告書では、適応策の重要性も述べているが、農 業は高温に強い品種や栽培技術の開発などに取り組めば、現在の収穫量の 15~18%相当の 増加をもたらす余地があると分析している。 水産物については、温暖化で生息域が変わる。今世紀半ばまでは、中高緯度では種の多 様性が豊かになるが、熱帯域では貧しくなる。日本周辺では日本海沿岸や太平洋では最大 漁獲量が減少し、東北沖の太平洋では増加する。温暖化がハイスピードで進むと、今世紀 末には世界的な漁獲量の減少が見込まれるとしている。 また、経済的影響では、世界の平均気温が産業革命前と比べて 2.5 度上昇すると、0.2~2% の所得が失われる可能性があるという。貧困の拡大などによって、紛争のリスクを高める とも指摘している。 ○2 度以内なら、どうなるか 人類の排出した CO2の累積量と世界の平均地上気温の上昇は、ほぼ比例関係にある。気温 の目標によって、今後許される排出量が決まってくることを意味する。地球環境の激変を さける、産業革命からの気温上昇が「2 度以内のシナリオ」を 66%の確率で実現するには、 図 72(表 18-6)のシナリオ 2 のように、累積排出量を 3 兆 6700 億トン以内に抑える必 要がある。報告書は 2011 年までにすでに約 2 兆トンが排出されたとしている。世界の温室 効果ガス排出量は人口増と経済成長を背景に 2000 年以降加速していて、2010 年に CO2 換 算で 495 億トンとなった。2010 年の 495 億トンがそのまま続けば、 (3 兆 6700 億トン-2 兆トン)÷495 億トン=約 34 年 これまで環境激変を避けるために、19 世紀半ばの産業革命前と比べて気温上昇を 2 度以 内に抑える必要があると国際交渉で合意されてきた。しかし、このままでは(「成り行き」 では) 、4 度上昇する可能性が高いとのことである。だが 2 度以内に抑えるられる可能性も 残っている(前述の式において、年間排出量は今後も 495 億トンを超えるであろうから、 残された年数は 34 年ではなく 20~30 年ということになろだろう。2050 年ぐらいまでに帰 趨が決まってしまう) 。 気温が高く上がってしまうと、たとえその後に排出量をゼロにしても、数百年とか数千 年のオーダーで気温はなかなか下がらない。現在の我々が「成り行き」か「2 度以内」か、どち らを選ぶかによって、数十年後の生活だけでなく数百年とか数千年後の人類にも影響を与 えることになる。気温上昇を止めようと思えば、カーボンニュートラル(排出ゼロ)を早 383 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 急に実現しなければならない。 報告書は 2 度を突破しないために、今世紀末の濃度を 480 ppm 以下に抑える必要生を指 摘している。また、530 ppm 以下でも 2 度以内に抑えられる可能性が 50%以上の確率で残 っている。それを達成するためには、2050 年の世界の排出量を 2010 年比で 40~70%削減 しないといけないという。つまり、「2 度以内」シナリオ達成のためには、世界の排出量を 2050 年には 2010 年比で 40~70%削減し、2100 年にほぼゼロかマイナスにしなければな らないということである。 そのためには排出量を減らすだけでなく、吸収量を増やさなければならないという。光 合成に頼る、伝統的な植林では追いつかず、人工的に二酸化炭素を大気中からこし取る地 球工学的な手法も必要になってくる。「2 度以内」シナリオ達成の可能性は残っているが、「さ さやかな希望」と、極めて厳しい道のりであることが浮き彫りになった(第 3 作業部会報告 書) 。 しかし、前述したように、京都議定書以後、現在の国際交渉では、排出量を減少に転じ させるめどすら立っていない(実態は現在、中国など途上国の石炭火力発電などが増加し ていて、猛烈に温室効果ガスが増加している) 。 大幅削減のカギを握ると報告書が挙げたのは、低炭素エネルギー。その発電割合を、現 状の 30%から 2050 年までに 80%以上に引き上げる必要があるという。再生可能エネルギ ーと原子力と、火力発電で出た CO2 を地下の固い地盤の下に閉じ込める CCS(二酸化炭素 回収・貯留)と呼ばれる技術の 3 つに期待している。 とくに CCS については、 「ないと 2 度以内は無理」というほど位置づけが高められた。 CCS なしの火力発電は全廃される必要さえあると指摘している。ただし世界的に見ても、商用 化のめどが立っている所はない(日本では北海道苫小牧市沖で大規模な実験が進められよ うとしている段階で、新しいエネルギー基本計画では 2020 年ごろを目指した研究開発を行 うことになっている) 。 当面は石炭火力発電所を天然ガス発電所に変えていきながら、太陽光や風力などの再生 可能エネルギーや原子力といった低炭素エネルギーの比率を、現在の 17%から 3~4 倍に 急拡大させる必要性を強調している。交通、建物、産業分野での省エネ技術のいっそうの 普及なども上げている。 ただ、原発については、 「成熟した低炭素技術だが、世界的なシェアは 1993 年から減少 している」と指摘している。安全性や放射性廃棄物処理など未解決の課題も上げている。7 年前の前回報告書では、原発を重点技術として将来のシェア拡大を見込んでいたが、今報 告書では変わっている。 実際、図 74(図 18-30)は、地球全体でみて単年度で増えた正味量(もしくは減った量) 384 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の発電量の推移を風力、太陽光、原子力について示したグラフである。2004 年頃を契機と して、風力発電も太陽光発電も倍々ゲームで、拡大していることがわかるが、原子力は減少 している。 図 74(図 18-30) 風力、太陽光、原子力の発電量の推移 ○日本での温暖化による影響 IPCC 第五次報告書を受けて、日本の環境省の研究プロジェクトチームが 2014 年 3 月 17 日に公表した報告書は、地球温暖化は災害や健康、農業など広い分野に影響を及ぼす恐れ を指摘し、温室効果ガスの削減と温暖化の被害を軽くする適応策の両方に真剣に取り組む ことを求める内容である。 プロジェクトチームは、IPCC の最新シナリオをもとに試算し、世界の温室効果ガスの排 出量がこのまま増え続けると、日本の平均気温は今世紀末に 3.5~6.4 度上昇するという。 今世紀末(2081~2100 年の平均値)には基準年(1981~2000 年の平均値)に比べ、降雨 量が 9~16%増え、海面は最大 63 センチ上昇、砂浜が最大 85%失われる。 温暖化による影響は、地理的な条件によっても違う。気温の上昇率は、他の地域に比べ て北海道や東北地方で大きいという。図 75(表 18-8)のように、全国で 2000 億円程度 の洪水被害は、今世紀末にはさらに約 4800 億円増える可能性があるとしている。東北、中 部、近畿、四国では、下流域に市街地が広がっているため、被害額が 2 倍を超えるおそれ が大きいとみられる。 385 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 75(表 18-8) 今世紀末に予測される温暖化の最大被害と適応策 熱中症など暑さによる死亡リスクは、最大 13 倍まで高まる。熱ストレスのリスクは、地 域や年齢にかかわらず 2 倍以上になるが、北海道など元の気温が低い地域では、低い段階 から熱ストレスのリスクが始まるという。北日本ではデング熱などの感染症リスクが新た に生まれる。 ハイマツは標高の高い東北でほぼ消滅、シラビソは四国や紀伊半島で消滅する。ブナも 本州の太平洋側や西日本で著しく減少する。森林の変化は、景観や生態系だけでなく日本 の伝統や文化にも影響を及ぼすことが懸念されている。 コメは、北海道や東北で収量増が見込めるが、関東以西では品質の低下が著しいとみられ 386 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ている。 国内 34 の機関が参加した研究プロジェクト全体のリーダーを務める茨城大学の三村信男 教授は、 「世界規模で温室効果ガス削減が進めば日本の悪影響は相当抑制できるが、現状を 上回る悪影響は避けられない。削減策と適応策の両方が不可欠である」と指摘した。世界 で厳しい削減策が採られた場合、気温上昇は 1.0~2.8 度に抑えられるという。 今回の報告書では、適応策を取った場合の効果も示された。たとえば、洪水被害では、現 状はほぼ 50 年に 1 度の洪水に対応している治水レベルを 70 年に 1 度に引き上げることで、 被害額を減らせる可能性を示している。熱中症による被害も予防策を講じることで大部分 が避けられるという。 コメでは、品種の転換や田植えの時期を遅らせるなどの適応策を取ればある程度の回復 が可能だが、日照時間などの関係で北陸地方では効果が低いとみられている。 チームは地域ごとにどんな対策を取ればいいのか自治体向けのソフト開発も行っている。 一方、政府全体の適応計画づくりも 2015 年夏の閣議決定を目指して進められている。 【5】ポスト京都議定書からパリ協定まで ポスト京都議定書の枠組みづくりを模索して ◇2011 年 12 月の COP17(ダーバン) ポスト京都議定書について、COP13 から COP16 まで議論されたが、意見がまとまらな いまま COP17 を迎えた。 2011 年 11 月 28 日から 12 月 11 日まで、南アフリカ・ダーバンで国連気候変動枠組条約 第 17 回締約国会議(COP17)が開催された。京都議定書は 2012 年末で約束期間が終了す るので、2013 年以降の新たな法的枠組みをどうするかが会議の最大の焦点であった。 最大の問題は京都議定書では、世界全体の排出量の約 24%をしめる中国を含む発展途上国 に温室効果ガス排出量削減義務がなく、また同じく約 18%を占めるアメリカが参加してい ないため、温室効果ガス排出削減に向けた取り組みとしては不十分な点があったことであ る。 しかし、この会議は紛糾し、結局、2013 年以降の新たな法的枠組みは成立しないで、将 来の枠組みに関し、法的文書を作成するための新しいプロセスである「ダーバン・プラッ トフォーム特別作業部会」が設置されて終ってしまった。 数十年にわたって(たぶん、21 世紀末まで)世界が温暖化とたたかう武器となるはずだ った京都議定書が、2013 年で終わってしまった。その後はすべての主要国が加わる「新枠 組み」の作成をめざしたが、できるかどうかは不透明となった。 387 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ◇2012 年 12 月の COP18(ドーハ) 続く COP18 では閉幕が 1 日ずれ込む難航の末、2013~2020 年の第 2 約束期間は、欧州 の一部の先進国が引き続き削減義務を負う一方、図 76(図 18-71)の右側のように、日本 やロシアなどが実質離脱し、温暖化ガス削減が後退してしまった。 図 76(図 18-71) 温室効果ガス削減の枠組みの変化 アメリカは引き続き、 「国内産業の保護」を理由に参加を見送り、急成長を遂げた中国や インドなど新興国も義務の枠外にとどまった。日本は「排出量世界 1 位の中国や 2 位のア メリカが参加しない枠組みは不公平」として離脱してしまった。日本は欧州連合とともに 京都議定書を軌道にのせて実施したという実績を放棄してしまった。 この結果、削減義務を負う国の二酸化炭素排出量は 2010 年時点で世界全体の 25%にす ぎず、しかも 2013 年から日本などが離脱したので 15%前後まで下がってしまった。図 76 (図 18-71)の右側のように、第 2 約束期間は「ポスト京都」への橋渡し役であるが、結 局、欧州連合など、ごく一部が実施するだけで温暖化ガス削減は実質、中断するような形に 388 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― なってしまった。 ◇2013 年 12 月の COP19(ワルシャワ) COP19 に向けた作業部会が 2013 年 3 月ドイツで行われたが、日本は丸腰でのぞんだ。 2009 年に鳩山由紀夫首相が表明した「2020 年に 1990 年比で 25%削減」の国際公約は東 京電力福島第 1 原発の事故で吹き飛び、安倍晋三首相は「ゼロベースで見直し」と白紙撤 回した。日本の温暖化対策は 2013 年 4 月、義務も目標もない空白期間に入った。 先進国各国が低炭素化へと努力した結果、日本の省エネの優位性も失われて、アメリカの 民間団体が 2012 年に発表した国別エネルギー効率比較で、日本は 12 の経済大国中、イギ リス、ドイツ、イタリアに次ぐ 4 位だった。欧州連合やアメリカは 2020 年の自主目標に向 けて削減を進め、達成がすでに見えているという。それに対し、今や日本は「国内対策も 数値目標もない」国となってしまい、途上国と同じと皮肉られた。 温暖化防止の国際的な枠組みは 2013 年から新局面に入った。欧州連合など一部先進国が 京都議定書の義務の延長を受け入れた一方、アメリカや中国など削減義務を負わなかった 国も、2020 年以降の「ポスト京都」体制をにらみ、自ら目標を設定して削減に取り組むこ とになった。 「カンクン合意」と呼ばれる仕組みで、すでに約 90 ヶ国が国連に目標や計画 を示した。 オバマ大統領は 2013 年 6 月、火力発電所に CO2 の排出基準を設け、再生可能エネルギ ーを 2020 年までに倍増させる行動計画を公表し、中国などの新興国とも協力して「ポスト 京都」に向けた交渉を前に進める決意を明らかにした。 欧州連合は 2020 年よりさらに先の 30 年の削減目標の検討を進めている。このままでは、 主要国では日本だけが具体的な目標を持たないことになり、環境省の幹部も「いつまでも 『見直し中』ではすまされない」という。そこでポーランドで開かれた 2013 年末の COP19 の閣僚級会合で、石原伸晃環境相は、 「90 年比 25%削減」を撤回し、新目標「2005 年比 3.8%削減」を公表した(削減という言葉を入れるため、基準を 1990 年から 2005 年に変え た) 。新目標は 90 年比 3.1%増となり、各国から批判が続出した。 2020 年以降の温暖化対策の体制となる次期枠組みの特徴は、先進国のみが温室効果ガスの 削減義務を負った京都議定書とは異なり、途上国も含めたすべての国が参加すること、各 国が自ら削減目標や貢献策を決定し、2015 年の早期に示し、2015 年末の COP21 で最終合 意を目指すことなどが、COP19 で決定された。 ◇2014 年 12 月の COP20(リマ) 2014 年 12 月のペルーのリマで開かれた COP20 では、2020 年以降にスタートさせる新 たな枠組みについて、2015 年 12 月にパリで開催される COP21 で「意味ある合意」をまと めるというリマ声明を採択した。 389 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○2015 年 12 月の COP21 でパリ協定成立 2015 年 11 月 30 日から 12 月 13 日まで、フランス・パリにおいて、国連気候変動枠組条 約第 21 回締約国会議(COP21)が行われ、2020 年以降の地球温暖化対策の新たな法的枠 組みとなる「パリ協定」が採択された。1997 年に採択された京都議定書以来、18 年ぶりと なる気候変動に関する国際的枠組みであり、気候変動枠組条約に加盟する全 196 ヶ国全て が参加する枠組みとしては世界初である。 この協定の眼目は、工業化前と比して世界の平均気温の上昇を 2℃を十分に下回る水準に 抑制し、1.5℃以内に抑えるよう努力するという長期目標である。そのために世界の温室ガ ス排出量を可能な限り早期に減少に転じさせた上、今世紀後半に海や森林による吸収分と 相殺して排出量を実質ゼロとする長期目標を盛り込んでいる。 その方法として、京都議定書は、数値目標の「達成」を先進国に義務づけていたが、パ リ協定は、自国の目標を作成・提出し、目標達成のための国内措置を実施することをすべ ての国の義務とした。そして、各国は、長期目標をめざして、5 年ごとに目標を提出しなけ ればならない。その目標は、その国の前の目標を上回るもので、その国が最大限可能な目 標でなければならないとパリ協定は定めている。5 年ごとに目標を提出し続けていくから、 パリ協定は、2030 年目標を達成したら終わりではなく、脱炭素化社会の実現をめざす持続 的な枠組みとなることが想定されている。 パリ協定では、先進国は引き続き京都議定書型の国ごとの削減目標を約束することとな っているし、途上国も時間とともにこうした先進国型の削減目標に移行していくことが奨 励されている。 COP21 に先がけて、アメリカ、中国、インドを含め国際社会のほぼすべての国が 2020 年以降の目標を提出した。しかし、これらの目標を積み上げても 2℃(ましてや 1.5℃には) 目標達成に必要な削減量には遠く及ばないという。そこで COP21 では、すでに各国が現在 提出している目標の見直しを行って、2020 年までにあらためて目標を提出することも決め た(したがって、日本が提出した 2030 年目標(2013 年比 26%削減=2005 年比 25.4% 削減)も、2020 年までに、目標の引き上げができないか、見直しをすることになる)。 また、2050 年をめどにした排出削減の中長期戦略を作成し、2020 年までに提出すること になっている。 排出枠(クレジット)を利用した市場メカニズムの活用、森林等の吸収源の保全・強化 の重要性、途上国の森林減少・劣化からの排出を抑制する仕組み、など、京都議定書の基本 的な制度の多くは、パリ協定にも盛り込まれている。 また、先進国が引き続き資金を提供すること(従前の努力を超えた前進を示すべき)と中 国などを念頭に、先進国以外の「自発的」な支援を「推奨する」とし、温暖化被害の救済 390 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 策の重要性も明記した。20 年以降の途上国への資金支援では、現行の年 1000 億ドル(約 12 兆円)を下限として、25 年までに新たな定量的な全体の目標を設定することを決定した。 技術革新を促進することは、気候変動への長期的な世界全体の効果的な対応及び経済成長、 持続可能な開発の促進のために不可欠であり、技術開発及び移転の協調行動の強化等のた めの支援が開発途上締約国に提供されるとも定めている。 締約国会議において、この協定の目的及び長期目標の達成に向けた全体的な進捗を評価 するため、協定の実施を定期的に確認する。これは衡平と最新の科学に照らし、包括的か つ促進的な方法により、緩和、適応、実施手段及び支援について検討する。その最初の世 界全体の実施状況の確認を 2023 年に、その後は 5 年ごとに行うことになっている。 パリ協定は、各国が自国の目標を設定するしくみを導入したが、“2℃目標”を達成する には、各国が 5 年ごとに目標を引き上げながら、目標を達成し、脱炭素化社会に向けて着 実に歩みを進めることが必要である。そこで、各国が着実に対策を進めているかを国際的 に監視し、同時に、途上国の対策を支援していくために、この協定の規定の実施及び遵守 促進のためのメカニズムを設けている。このメカニズムは、透明で、対決的でない、懲罰 的でない、促進的な機能を有する専門家による委員会により構成される。同委員会は各締 約国の能力及び事情に特別の注意を払うとしている。 この協定は、世界総排出量の 55%以上の排出量を占める 55 ヶ国以上の締約国がこの協 定を締結した日の後 30 日目の日に効力を生じるとしている。 以上がパリ協定の概要であるが、気候変動枠組条約が採択された 1992 年当時、人口の 20%ほどを占める先進国が世界の 70%以上の温暖化ガスを排出していたことから、先進国 がまずは削減義務を果たすしくみが採用された。しかし、 「削減義務を負う先進国」と「負 わない途上国」という枠組みは、その後の経済発展に伴う途上国の排出量の増加という現 実の変化にそぐわなくなってしまっていた。そのため、パリ協定は、各国が自国の目標を 作成・提出する方法をとることで、途上国を含む多くの国が目標を提出するしくみとなっ たのである。こうして一応、全地球的な取り組みになったことは大いに評価されることで ある。 また、京都議定書は目標の「達成」義務を先進国に義務づけていたが、パリ協定は目標 の「達成」を義務づけてはいない。これは、中国やインドといった途上国や、議会を通さ ないでパリ協定を締結したいアメリカが消極的だったからである。ただし、目標の達成が 義務づけられていないからといって目標を守らなくてもよいということではない。目標を 提出しなければ義務に違反するし、目標達成をめざして誠実に国内措置を実施しなければ 同じく義務に違反しているとみなされる可能性がある。また、各国は、提出した削減目標 の達成に向けて着実に対策を進めているか、対策の進捗状況を 2 年に 1 度報告し、国際的 391 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― な審査を受けることなる。 ○パリ協定発効 2015 年 12 月の COP21 で採択されたパリ協定は、二大排出国の中国とアメリカが 2016 年 9 月に締結、インドや EU 加盟国などが続き、10 月に発効の条件となる総排出量の 55% 以上、55 ヶ国以上の締結を満たした。そこでその 30 日後の 11 月 4 日に発効した(この時 点で 97 の国と地域が協定を締結し、世界全体の温室効果ガス排出量に占める割合は約 7 割 に達した。出遅れた日本はこの時点で締結できなかった)。 ○2016 年 11 月の COP22(マラケシュ) パリ協定の発効を受けて、2016 年 11 月 7 日からモロッコのマラケシュで国連気候変動 会議(COP22)が開催され、地球温暖化対策の枠組み「パリ協定」に実効性を持たせるため のルールを 2018 年までに決めることで合意し、18 日に「マラケシュ行動宣言」を発表し、 温暖化対策に団結して取り組むことを示した。 パリ協定は前述したように 21 世紀末の平均気温の上昇を 2℃未満に(できれば 1.5℃以 下に)抑えるため、すべての国が温室効果ガス削減目標を示して実行することを求めてい るが、各国が示した目標では足りず、詳細ルールも決まっていない。今回の会合で各国が 掲げる温室効果ガスの削減目標の達成確認方法を 2017 年 11 月の COP23 で決め、各国が 掲げる削減目標を 2018 年までに見直すことなどが決められた。 さらに、COP22 の開催中にあったアメリカ大統領選挙で(地球温暖化対策に消極的な) トランプ氏が勝利したことを受けて、温暖化対策はすべての国の緊急の責務で「温暖化と闘 うために各国は政治的な努力をすべき」であり、途上国に対しては温暖化対策のために年間 1000 億ドルの資金を供出すると改めて明言した行動宣言を参加国が共同で発表した。 ○エネルギー大転換に向かう世界 いまだ不十分と言われている各国が提出した温暖化対策目標を見ると、21 世紀の世界は エネルギー大転換に向かうことを匂わせるものである。 欧米ともに 2030~40 年には石炭火力を大きく減らし、ガスへの転換と再生可能エネルギー 拡大に政策のカジを切る。 EU は、1990 年比少なくとも 40%削減という 2030 年目標の前提として、最終エネルギ ー消費の少なくとも 27%、総発電量の少なくとも 45%を再エネにすることをめざす。 アメリカのエネルギー政策は州主導だが、約 30 の州が再エネ目標を設定する。たとえば、 2030 年に、カルフォルニア州は総小売発電量の 50%、ニューヨーク州は最終エネルギー消 費の 40%、ハワイ州は総小売電力量の 50%を再エネにする。他方、アメリカのクリーンパ ワー計画に代表される火力発電所への二酸化炭素排出規制も広がる。イギリスは 2025 年ま でに国内の石炭火力の廃止の方向を打ち出した。 392 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 中国も一次エネルギー消費の非化石燃料比率を現状の約 10%から約 20%にすること、イン ドも総電力設備容量の 40%を非化石燃料起源とすることを 30 年目標とする。中国は、2015 年に電力の約 70%を石炭火力が供給しているが、対策を進め、2011 年比では約 10%減少 した。2014 年には、初めて石炭の生産量、消費量が前年より減少し、2015 年もさらに減少 した。世界全体でも、2015 年の石炭の消費量は前年比 2.6%減少し、ここ 45 年間で例のな い大幅な減少である。 シェールガス(アメリカ) 、大気汚染問題(中国)など国の事情は様々だが、技術革新と 大量導入による再エネのコストの低下がこうしたエネルギー大転換を大きく後押ししてい る。 国際再生エネルギー機関(IRENA)によると、2010~14 年の 5 年間に世界の太陽光発 電のコストは半分になり、火力発電のコストと競争的な水準になってきた(後述)。これは、 福島原発事故後、安全対策などで発電コストが上昇する原子力発電と対照的である。 メガワットアワー 前述したイギリスで計画中のヒンクリーポイント原発 C の発電コストは、1 M W h あ たり 85~125 ポンドと想定され、卸電力市場価格より相当に高い 92.50 ポンドで政府が 35 年間の価格保証を行う予定である。2016 年 7 月のイギリス会計検査院の報告書は、原発の 運転が開始されるであろう 2025 年には陸上風力発電と大規模太陽光発電のコストは 50~ 75 ポンドと、それを大きく下回るとするイギリスエネルギー省の予測を紹介している。 再エネ、とくに大規模な送電網の建設を必要としない太陽光発電のコスト低下により、 途上国にも、経済発展に伴い拡大するエネルギー需要に応えつつ脱炭素に向かう経済合理 的な選択肢が見えてきた。インドのモディ首相とフランスのオランド大統領のイニシアテ ィブで、120 ヶ国以上が参加したソーラー・アライアンスは、インドも拠出して、2030 年 までに太陽光発電の大規模導入に必要とされる 1 兆米ドルの投資の動員をめざしている。 もはや温暖化をめぐる国家間の駆け引きは、脱炭素社会に向けたエネルギー転換をいかに 協力して促進するかという国際経済協力関係に転換しつつある。 ○地球温暖化対策に消極的な日本 世界の温室効果ガス排出量は人口増と経済成長を背景に 2000 年以降加速していて、2010 年に CO2 換算で 495 億トンとなった。日本は約 14 億トン(2013 年度)で世界 5 位の排出 国である。日本も 2030 年度に 13 年度に比べて 26%減らす目標を提出している。 しかし、近年の日本は地球温暖化対策にきわめて消極的になってきている。 2013 年以降、14 年、15 年の世界のエネルギー起源の二酸化炭素排出量は、約 3%世界 経済が成長したにもかかわらず横ばいである。IEA はその理由を再エネの普及拡大と分析 している。2015 年の新規の発電設備からの発電量の 90%以上が再エネであった。世界はす でに二酸化炭素排出を減らしながら成長する時代に入っているのである。それを可能とす 393 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― る技術がやっと(経済的に)現れて来たのである。 それを象徴的に表しているのがパリ協定である。協定によって、世界は CO2 の排出には 費用がかかり、削減の取り組みは新たなビジネスチャンスだと考えるようになったのであ る。いつでも新規市場の先行者利益は大きいものである。各国は協定の締結を急ぎ、採択 から 1 年足らずという異例の早さで発効させた。 しかし、近年の日本は別の方向に向かっている。 リーマンショックの影響を受けた 2008~10 年を除き、 日本の発電からの CO2 排出量は、 1990 年代以降増加している。とくに石炭火力からの排出量は一貫して増え続けている。産 業、家庭など他部門の省エネ努力を打ち消す形である。京都議定書の目標も達成できなか ったことは述べた。これに近年の石炭火力の新設の動きが加わる。石炭化力は最近の技術 を入れて高効率でも従来型 LNG 火力と比して約 2 倍排出するのである。いま稼働すれば数 十年、つまり、世界の地球温暖化対策の天王山となるこれからの数十年にわたり CO2 排出 源となり、将来需要者が排出(削減)のコストを支払うことになりかねない。 原子力発電比率 20~22%も、 (世界の先進国は原発を減らしつつある)世界の流れに逆 行しつつある。この数字は新規原発を見込まなければ達成出来ない数字である。安全性を 高めるための対策を施し、廃炉処理費、使用済み核燃料などの長期管理費などを厳格に見 積もっていけば、今後、原発コストはますます増大していくことになるだろう。 結局、日本は省エネと再エネ導入を積極的に進めていくしか方法はなく、それが次世代 の産業開発にもなるし、 現在エネルギー源の 9 割を輸入化石燃料に依存する日本にとって、 エネルギー安全保障(自給率向上)にも、エネルギー費負担(エネルギー輸入費)の抑制 にも貢献することになろだろう。 【7-2】太陽光発電の開発 【1】太陽光発電開発の歴史 ○太陽電池の発明 50 年待ちに待った太陽光発電の時代がついにやってきた。21 世紀人類社会のエネルギー の「起死回生」の一手があるとしたら、それはこの太陽光発電である。太陽光発電の開発は 電子技術、とくにその半導体技術の進歩と歩を一にしている。 太陽電池(太陽光発電と同じ)の原理の発見は、フランス人物理学者のアレクサンドル・ エドモン・ベクレル(1820~1891 年。放射線を発見し 1903 年にノーベル賞を受賞したア ンリ・ベクレルの父)が、1839 年、2 つの白金(Pt)電極を電解液に浸し、片方に光を照 射すると電流が生じる現象(ベクレル効果)を見出し、光起電力効果を発見したことによ る。この光が物質に当って電気を発生させる現象は光起電力効果あるいは光電効果と呼ば 394 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― れる。 そのまえに、本書では、第 4 章の【4-2】電気の基礎研究と電気通信産業、電力事業 の成立の電気の発見のところで、アレッサンドロ・ボルタ(1745~1827 年)が、塩水中に 2 種類(亜鉛と銀)の金属電極を入れて直列につなぐと、一定の電流を作り出すことができ ることを発見し、ボルタの電池を発明したことを述べた。さらにこの電池をジョン・アレ デリック・ダニエルが大幅に改良し、実用的な湿式化学電池が出現した。このベクレルの 光による起電力の発見もこのような実験の流れの中でおこなわれ、 「電解質の中での光起電 力効果」と呼ばれ、これが現在の太陽電池の発電原理の発見といえる。 しかし、なぜ、光によって電気が生ずるかは長い間、謎だった。 1887 年、ドイツの物理学者ヘルツは、陰極に紫外線を照射することにより、電極間の放 電現象が起こって電圧が下がる現象として、光電効果を見出した。翌 1888 年、金属に短波 長の(振動数の大きな)光を照射すると、電子が表面から飛び出す現象がドイツの物理学 者ヴィルヘルム・ハルヴァックスによって発見された。 その後、ドイツの物理学者レーナルトの研究によって解明が進み、 電子の放出は、ある一定以上大きな振動数の光でなければ起こらず、それ以下の振動数の 光をいくら当てても電子は飛び出してこない。 振動数の大きい光を当てると光電子の運動エネルギーは変わるが飛び出す電子の数に変化 はない。 強い光を当てるとたくさんの電子が飛び出すが、電子 1 個あたりの運動エネルギーに変 化はない。 などの事実が実験により明らかにされた。 《アインシュタインの光量子仮説》 この現象は、19 世紀の物理学では説明することのできない難題であったが、1905 年、物 理学者のアルベルト・アインシュタイン(1873~1955 年)の『光の発生と変換に関する発 見的見解について』という論文によってみごとに説明された。この論文でアインシュタイ ンは、物質と放射は独立したエネルギーの“量子”の交換のみによって相互に作用すると いう光量子仮説を提案した。 アインシュタインは、光は量子または光粒子と呼ばれる小さな粒子から成っていて、秒 速 30 万キロメートルで移動するために目にはみえない。図 77 のように、物質(たとえば 半導体)に光を照射すると、光量子が吸収される。それが物質内(たとえばシリコン)の 電子を飛び出させる。物質(シリコン)から放出された電子が細い通り道を流れ、それが 電流になる。光量子(光粒子)は、エネルギーのひとつの形であり、電子も同じである。 395 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この仮説でアインシュタインは“光電効果”などのさまざまな現象が説明できることを 証明した。そして、1916 年には、ミリカンが実験により光量子仮説を証明した。アインシ ュタインはこの業績によって、1921 年にノーベル物理学賞を受賞した。 図 77 外部光電効果:金属等に光を照射すると光電子が飛び出す 光起電力効果(光電効果)の理論がわかってから、それが実用化されるまでには、また、 半世紀を要した。本書の第 5 章の【5-1】第三次産業革命の展開のところで、コンピュ ータ科学と情報通信産業の中で、画期的な半導体の発明について述べたが、その半導体の 発明が次の飛躍へのステップだった。 《半導体の発明》 1947 年、AT&T ベル研究所のウォルター・ブラッテン、ジョン・バーディーン、ウィリ アム・ショックレーらがトランジスタを発明した。ジョン・バーディーンとウォルター・ ブラッテンは、高純度の半導体結晶の表面における電子的性質の研究の過程で、ゲルマニ ウム結晶に、きわめて近づけて立てた 2 本の針の片方に電流を流すと、もう片方に大きな 電流が流れるという現象を発見した。最初のトランジスタである点接触型トランジスタの 発見であった。 固体物理学部門のリーダーだったウィリアム・ショックレーはその可能性に気づき、そ の後、数ヶ月間に半導体について大いに研究し、3 人の連名で 1948 年 6 月 30 日にトラン ジスタの発明を発表した。 その功績により、3 人は 1956 年にノーベル物理学賞を受賞した。 《ピアソンの太陽電池の発明》 これは有名な半導体の発明のことであるが、1953 年 3 月ショックレーのトランジスタ開 発グループに所属していたピアソンが、同じベル研のフーラーの拡散法を用いて作成した シリコン整流器に光を照射したところ強い光起電力効果を見出した。シリコンp-n接合で の最初の光起電力の発見であった。これが人類が太陽から人工の機器(半導体)を用いて、 ほとんど無限の太陽光から電気を直接得た最初であった。 ここで一般的な太陽電池、すなわち大きなp-n接合型ダイオード(フォトダイオード) 396 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― の原理を説明する(図 78(図 18-13)参照) 。 発光ダイオードと逆の過程を通じて電子に 光のエネルギーを吸収させ(光励起)、半導体の性質を利用して、エネルギーを持った電子 を直接的に電力として取り出すのである。 ここで半導体の禁制帯幅よりも大きなエネルギーを持つ光をp-n接合に照射し、接合領 域において価電子帯の電子が光を吸収すると、禁制帯を越えて励起されて伝導電子(光電 子)となり、その跡には正孔が残る(内部光電効果)。この光電子の発生によってドリフト 電流が増大し、熱平衡状態が崩れる。空乏層に形成されている内部電場によって、光電子 は n 型半導体に、正孔は p 型半導体に移動し、起電力が発生する。この起電力を光起電力 と言う。 ここで n 型半導体・p 型半導体に電極を取り付けると、それぞれ負極・正極となって直流 電流を外部に取り出すことができる。 その後、ベル研で研究が重ねられて、1954 年 4 月 25 日、ピアソン、フーラー、シャピ ンは、 「実用に耐える電力を発生できる最初の太陽電池」を公表した。確かに太陽電池は、 光の持つエネルギーを、直接的に電力に変換するもので、人類にとって画期的な発明であ った。その変換過程では熱・蒸気・運動エネルギーなどへの変換を必要としない。太陽電 池内部に入射した光のエネルギーは、電子によって直接的に吸収され、あらかじめ設けら れた電界に導かれ、電力として太陽電池の外部へ出力されるのである。 ニューヨーク・タイムズは「新しい時代の始まりがやってきた。やがて人類の最も大切 な夢が実現するであろう。ほぼ無限の太陽エネルギーを活用して(つまり太陽電池を活用 し)文明に役立てる時代がやってくる」と「新しい時代の幕開け」を伝えていた。 397 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 78(図 18-13) p-n接合型ダイオード(フォトダイオード)の光励起 これは、本書の第 1 章【1-2】の光合成生物の誕生と酸素の発生で述べた 27 億年前の シアノバクテリアの光合成の発明(実際には「進化して」)以来の画期的な発明であったと いえよう。このシアノバクテリアの光合成の発明は、ノーベル賞があったなら 100 個分に該 当するといったが、ピアソンらの太陽電池の発見ではノーベル賞は出なかった。同じ原理 の半導体ですでにショックレーたちがノーベル賞を獲得していたからであろう。 (当時、石 炭・水力・石油、それに原子力発電の夢も加わって、電気を生み出す第一次エネルギー源 はきわめて豊富で、新たな方式で電気を得ることができるようになったと言っても、誰も そのありがたさがわからなかったのだろう) 。 それに対して半導体はまったく新しい機能を世に提供したのでたちまち世の中に応用さ れ(たとえば、井深大はトランジスタラジオに応用し、ソニーのもとを築いた)、現在まで の 60 年間でご存じのような情報社会をつくるのに大きく貢献してきた(第三次産業革命の メイン技術として本書でも述べた) 。 しかし、太陽電池はエネルギーの分野の技術であり、当時、中東で大油田の発見が続き、 398 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 石炭から石油への転換期で、石油は湯水のごとく安く、コストの高い太陽電池は天文学的 に価格が高くても必要だった人工衛星などの特殊な分野に限られ、一般からはあまり注目 されなくなった。 ○人工衛星の電源 当時、東西冷戦の最中で、米ソは熾烈な核ミサイル開発競争を繰り返していた。この核 ミサイル競争は裏の話で隠されていて、表にでてきた宇宙開発を我々は垣間見たのである が、 1957 年に、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク 1 号を軌道に乗せることに成功した。 この電池は化学電池で、その電池の寿命は 3 週間であったと推定され、間もなく送信は切 れた。 アメリカは 1958 年 1 月に最初の人工衛星エクスプローラー1 号を打ち上げたが、これも 太陽電池は使われていなかった。次に計画されたバンガード計画になったとき、それを担 当した海軍は従来の化学電池を使おうとしたが、軍の通信関連の仕事をしていたハンス・ ジーグラーが太陽電池を使うべきだと言い始めた。ジーグラーは、シリコンを使った太陽 電池が発明された直後に、ニュージャージーのベル研究所を訪れ、これぞ人類の究極のエ ネルギー源になると信じ、 「この発明の利益を早急に人類に与える」べきだと軍や議会に執 拗に働きかけた。 海軍は自分たちの最初の人工衛星の電源に実証もされていない太陽電池を載せる気はな かったが、 「化学バッテリーは数週間しかもたないが、人工衛星で太陽電池実験を行い、数 ヶ月以上も運用できた場合、きわめて大きな価値を生み出す」ことになるとジーグラーに 納得させられてしまった。打ち上げから、19 日後、ニューヨーク・タイムズは「バンガー ドの無線機応答せず、化学バッテリー切れる、太陽電池は機能している」と報道した。1 年 後、ジーグラーたちは乾杯した。地球を周回しているバンガード衛星の太陽電池が、その ときもまだ電気を供給していたからだった。 そのようなことで、1958 年 3 月にアメリカが打ち上げたバンガード 1 号から、太陽電池 が電源として搭載された。太陽電池を電源に用いることにより、電力供給の時間が化学電 池を用いた場合に比べて格段に長時間となり、その後の人工衛星の電力供給システムのほ とんどは太陽電池を用いるものになっていった(我々の星・地球も大きな人工衛星のよう なものであると考えればよい。化石エネルギー、原子力エネルギーで産業革命後 300 年間 はやってきたが、これから述べる太陽光エネルギー革命以後は太陽電池エネルギーでやっ ていくことになろう。それによって、電力供給の時間が化石エネルギーや原子力を用いた 場合に比べて格段に長時間となり、ほぼ無期限となろう。太陽の寿命はあと 50 億年ある) 。 ○太陽電池のニッチ市場でつなぐ 早くも日本でも、1957 年、つまり、ベル研で 1954 年に太陽電池が開発されてわずか 3 年 399 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 後、東北電力は僻地の無線中継局の電源として太陽電池を用いることにし、1958 年 11 月 に福島県信夫山無線中継局の屋上に日本初の太陽電池が稼働した(日本電気製。出力 70 ワ ット) 。その後、1959 年に海上保安庁の山口県笹筏瀬の無人灯台、1963 年にエジプトの砂 漠横断道路の無人灯台などに日本製の太陽電池が設置された。このように日本の民間企業 はいちはやく太陽電池の開発をはじめ、人工衛星の電源とはいかなかったが、孤立した地 域の特殊な電源として民需を切り開いていった。 1948 年にショックレーによってトランジスタが発明されると、多くの日本の民間企業は 真空管からトランジスタへと切り換え、半導体の研究に着手したが、ソニーのトランジス タラジオのように、家電分野に応用して製品化し、日本のお家芸としていった。コンピュ ータも第二世代から真空管から半導体となり、大いに発展していった。 これに対して太陽電池の分野は地味であったが、前述の日本電気をはじめ、日立、東芝、 シャープ、松下、京セラ、三洋などが研究に取り組み、特殊な分野から製品化していった。 アメリカでは、1973 年 8 月 1 日、ソーラーレックスという新規企業が、ワシントン DC 郊外のメリーランド州ロックビルで創業した。創業者のジョーゼフ・リンドマイヤーとピ ーター・バラディは、商用人工衛星を所有するコムサット社を退職し、地上用太陽電池の 実用化のために会社を立ち上げたのである。 創業から 2 ヶ月後に第一次石油危機が起った。ソーラーレックスは、1 年とたたないうち に利益をあげていた。初の商用太陽電池の新規企業となった。 リンドメイヤーは、ベセズダの地下室で現在、世界中で製造されている太陽電池の基盤 となっているプロセスを開発したが、それでも太陽電池は高価すぎた。高価ではあったが、 わずかなニッチ市場があった。電気を必要としているが送電網がない、僻地のひとびとが 顧客だった。人里はなれた山地の通信機器の電源、沿岸警備隊の浮標、パイプラインや海 上油田での電源、発展途上国の遠隔地や離島の電球、井戸ポンプの電源に使われた。 1970 年代半ば、アメリカ政府はポール・メイコックという物理学者を雇い、ソーラー開 発計画を運営させた。メイコックもテキサス・インスツルメンツ社に勤務していたときか ら、太陽電池に心を奪われていた。メイコックは「コスト削減のための構造化されたプロ グラム」を設定した。エネルギー省の助成金に刺激されて、大小の企業がこぞって参入し、 効率を高めるさまざまな方法を探った。 しかし、1980 年代初頭にレーガン政権が発足し、ソーラー予算の 3 分の 2 を削減してし まった。80 年代後半には石油価格が下落して太陽光発電の夢も忘れ去られてしまった。た とえば、エクソンはソーラーパワー・コーポレーションを廃業してしまった。 ○通産省も「サンシャイン計画」で民間企業をバックアップ 1980 年代初頭にアメリカのソーラー開発計画が大幅に縮小されたあとも、太陽電池の開 400 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 発を続けていた国があった。日本であった。 第一次石油危機が起こった 1973 年から、通産省工業技術院においても、新エネルギー技 術の開発「サンシャイン計画」を発足させた。1974 年 7 月に制定された基本計画によると、 (26 年後の)2000 年までに実用化が緊要な新エネルギー技術を研究開発することによって、 エネルギー需要の相当部分をクリーンエネルギーで供給することを目標にしていた。 そして太陽電池に関しては当時、1 ワット当り数万円していた価格を 1 ワット 100 円に することを目標としていた(1 キロワット 10 万円)。つまり、100 分の 1 以下にするという 目標を掲げていた。約 40 年たった現在、その目標がほぼ正しかったことが証明されたとい われている(26 年が 40 年に延びた。第一次、第二次石油危機のあと、1980 年代後半から 石油価格が大幅に低落し、世界的に石油代替エネルギー、新エネルギー開発の熱が薄れて しまい、開発予算も縮小され、それが影響したと思われる) 。 太陽電池の最も大きな需要先は住宅用、その先には現在の発電所のような業務用発電が あるが、民間企業はその前に特殊な用途(つまり、高くても必要という分野)から実用化 していった。1976 年にシャープが太陽電池を搭載した電卓を製品化した。大卒の初任給が 9 万円台であったその時代に、その電卓は 2 万 4,800 円という高価なものであった(現在で は 100 円ショップで売られている電卓にも太陽電池が搭載されていることはご存じのとお り。太陽電池は量産され普及がすすむと低価格化が進むものである) 。 その後、太陽電池搭載の腕時計、携帯電話や充電キット、非常用のラジオ、太陽光充電 式 LED ライト、太陽電池で動くおもちゃやディスプレイ製品、パソコン用のワイヤレスキ ーボードなど、太陽電池の薄型化と高性能化に伴って、さまざまな製品が開発されていっ た。また、家庭用品としては、門灯、庭園灯、床下換気扇、散水ポンプ、揚水ポンプ、誘蛾 灯(ゆうがとう)、電気柵(野生動物撃退用)、農業用の間欠式自動かん水装置などが実用 化されている(これらはすべてスタンドアロン、つまり、孤立型の用途である) 。 本命の住宅系統連携型太陽光発電システムを実現させるには大幅なコスト低減をはかる 研究開発が必要で多くの歳月がかかるが、その間、企業は前述のような製品を出すことに よって食いつなぐことが必要であった(サンシャイン計画に基づく国の助成制度もあるが、 それは研究費の一部にしかならない)。 僻地などの灯台は早くから実用化されたが(現在では日本のすべての灯台で太陽光発電 が使われ、無人化されている) 、この手の用途としては標識灯、浮標(ブイ)などがある。 このような無人の太陽光発電システムの利便性と省電力性をさらに高めたのが LED の進歩 であった。少ない電力で光を放つ LED の進歩は、太陽電池の活躍の場をいっそう広げる推 進力となった。道路では、標識やガードレール、道路鋲(びよう) 、縁石鋲、障害物表示灯、 避難場所発光サインなど。送電鉄塔における航空障害灯も太陽発電システムを用いるケー 401 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― スが増えている。 携帯電話などの通信機器の中継施設への利用も進んでいる。このように、既存電力網を 使わず、メンテナンスもほとんどいらない太陽光発電システム利用の中継施設は、都市部 にも山間部にも設置しやすく、電波の届く範囲を十分に広げる役割を果たし始めた。これ らはいずれも少ない電力の特殊な用途であるが、住宅用に代表されるように、かなり大き い電力においてもコスト的に合うようになれば、一気にその用途が広がることになる。 1990 年代に入り、地球環境問題、とくに地球温暖化の問題が顕在化して、新エネルギー、 とりわけ太陽光発電への期待が高まった。太陽光発電は、その原理からして、太陽光が原 材料(?)であるから、二酸化炭素はほとんど出さず(太陽電池の製造・設置に使うエネ ルギーだけであるが、これも太陽光エネルギーを使用するようになれば、CO2 排出量はほ ぼゼロとなる) 、地球温暖化対策としては、まさに打ってつけの最良の方法であることはわ かっていた。しかし、まだ、当時は太陽電池による電力は非常に高くつくものであった。 そこで、1990 年には民間の太陽光発電の研究開発を促進するため、太陽光発電技術研究組 合が結成され、強力な体制で取り組むこととなった。 さらに 1993 年にサンシャイン計画が改組され、ニューサンシャイン計画が作成された。 これは 1993 年から 2010 年に向けての 18 年間を見渡した新しい推進計画で、当時、まだ 高価であった太陽光発電システムの低コスト化をはかることで、その目標は、「2000 年ま でに一般家庭での電気料金に相当する発電コスト水準」の実現、また「2010 年までに電気 事業における新設の電気設備の一部に導入可能とするための発電コスト水準」の実現を達 成することであった(その後のことは後述するが、結局、この目標が 10 年ぐらい遅れたよ うである) 。 ○太陽光発電システムとは ここで太陽光発電システムについて説明しておこう。シリコン太陽電池モジュールの製 造工程は図 79(図 18-14)の①のようになっている。セルを複数直列につなぎ合わせ電気 機器に必要な電圧を得る。その直列接合されたセルを一般的には透明な基板に透明な樹脂 に閉じ込めた形で接着、封入する(d) 。さらに裏側に防湿のためバックシートと呼ばれる 耐湿性のフィルムが接着される(d) 。ガラス基板がたわみなどに耐えるためと全体のシー ルのためアルミニウムなどの金属フレームが外枠として接着形成される(e)。 図 79(図 18-14)の②の太陽電池(セル)を直列にあるいは並列に複数の太陽電池を組 み込んだものをモジュール(b)と呼ぶ。さらに大電力を得るために複数のモジュールを 組み合わせたものを太陽電池アレイ(c)と呼ぶ。システムコントローラ(パワーコンデ ィショナ)が設けられた全体システムを太陽光発電システム(d)と呼ぶ。 402 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 79(図 18-14)太陽光発電システム 403 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 79(図 18-14)の③は、太陽光発電で発電した電気を家庭で消費し、余れば電力会社の 系統に売電できるシステムである。このようなシステムを逆潮流あり太陽光発電システム という。 1994 年から政府の個人住宅への助成策ができ、また同時に新エネルギー・産業技術総合 開発機構(NEDO)の産業用太陽光発電への支援制度ができ、これらの普及策により日本 での太陽光発電の普及がはじまった。その結果、図 80(図 18-15)のように、日本の太陽 光電池の生産量は飛躍的に増大し、日本は世界一の太陽電池生産国になっていった。 図 80(図 18-15) 日本の住宅用太陽光発電への助成制度による設置数の変化 ○その後の太陽電池の開発 1954 年にベル研究所のシャピンらが、シリコンを用いた不純物拡散型の光起電力デバイ スを発明したが、これがシリコン系太陽電池であったことは述べた。その後、いろいろな タイプの太陽電池が発明され、使用されてきた。 1973 年に創業したアメリカのソーラーレックスが、現在、世界中で製造されている太陽 電池の基盤となっているプロセスを開発したが、創業者のリンドメイヤーとバラディは、 1980 年代に大手石油会社の AMOCO にソーラーレックスを売却した。ソーラーレックスは、 AMOCO と BP の合併後は、BP ソーラーの子会社となり、現在も存続している。 1990 年代には、シャープ、京セラ、三洋などの日本のメーカーは、世界の太陽電池生産 のトップに躍り出たことは述べた。2001 年末までに、日本のソーラー住宅は 7 万 7500 戸 に増えていた。しかし、それは日本の電力の約 1%にすぎなかった。そのころの日本の目標 404 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― は、2020 年までに 70%の新築住宅の屋根に太陽電池を設置するというものであった。 そのころ後述するように、ドイツの大がかりなプログラムが動き始めていた。1980 年代 末から施行されていた固定価格買取制度(FIT)だった。1999 年、ドイツの社会民主党と 緑の党の連立政権が再生可能エネルギーを促進するためにエネルギー政策の改革を行った。 その年にドイツに小さな新規太陽電池会社が発足した。 このベンチャー企業の CEO になったミルナーは、旧東ドイツの不景気にあえぐ地域に工 場を建設する見返りに、ドイツ政府の資金援助を得た。2001 年、生産が開始され、会社は 軌道に乗った。従業員は 19 人であった。高い性能と高い品質を謳って、Q セルズと名付け られた。ちょうど強化されたドイツの新固定価格買取制度(FIT)が発効し、在来型電力の コストの 5 倍に当る補助金が期待できるようになった。 それから数年かけて、Q セルズはプロセスと生産を設計しなおして、生産を自動化し、 コストを 50%も下げた。2003 年から 2004 年にかけて、Q セルズの事業は急成長した。2007 年には世界一の太陽電池メーカーになっていた。 一方、このころ日本では後述するように、固定価格買取制度(FIT)ではなく、固定枠制 度(RPS)を制定したり、国の住宅用太陽光発電への補助金が打ち切られたり、太陽電池 の普及策に失敗したため、太陽電池の日本市場は急速に縮小していった。 しかし、間もなく、ドイツの Q セルズも中国メーカーの挑戦を受けて、Q セルズの市場 シェアは低下した。時価総額も、2007 年の 150 億ドルから、2011 年の 5 億ドルへと急落 した。世界のソーラー産業の重心は、中国に移った。 オーストラリア・シドニーの大学で太陽電池の研究した施正栄は、2001 年に中国の地方 政府から 600 万ドルを調達して、サンテックという会社を起業した。施正栄は「再生可能 エネルギーでもっとも重要なことは、コストを下げることだ」と徹底的に製造コストを下 げ続けた。 わずか 4 年後にサンテックはニューヨーク証券取引所で株の新規公開を行った。 2010 年の売上高は 30 億ドルを超えた。 施正栄の成功は、再生可能エネルギー・ビジネスのグローバリゼーションのおかげでも ある。サンテックの成長は、中国の国内市場ではなく、ヨーロッパの固定価格買取制度と 日本の補助金のおかげだった。サンテックとその他の中国企業は、低コストの太陽電池を 輸出して、それらの市場をものにしたのである。現在、サンテックと、やはり中国のソー ラー企業のインリーグリーンエナジーの売上の 95%は、中国以外の市場から得られている。 それにもかかわらず、世界最大の(コストが最低の)ソーラーパネル・メーカーは、ア リゾナ州に本社を置く米企業ファーストソーラーである。ファーストソーラーがそれほど シンフイルム の低コストで太陽電池を製造できるのは、長年にわたって改善されてきた、薄 膜 テクノロ ジーという革新的な製造プロセスのおかげである。 405 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ソーラーレックス以来使われてきた結晶シリコンは、太陽電池産業全体でもっとも多用 されている製造技術である。一方、薄膜太陽電池製造は、非シリコン材を使う大量生産プ ロセスである。一般に薄膜太陽電池は、結晶シリコン太陽電池よりも効率は落ちるが、製 造コストがずっと安い。ファーストソーラーは、コストを大幅に引下げることができたの で、いまや在来型発電の一部と十分に競争ができるという。同社は、生産ラインを 3 大陸 (アメリカ・オハイオ州、ドイツ、マレーシア)で運営している。 ファーストソーラーは、2009 年に、中国内モンゴル自治区に面積 65 平方キロメートル (マンハッタンよりやや広い)発電能力 2 ギガワット(200 万キロワット)という世界最 大の太陽光発電所を建設する契約を結んでいる。2019 年完成予定のこのプロジェクトに太 陽電池を供給する工場を、ファーストソーラーは中国に建設するものと見られている。 これまでの太陽電池メーカーの激しい競争を見てくると、この産業はまだ、若く、これか ら伸びる産業であることがわかる。太陽光発電技術は、まだ、発展途上の技術であり、今 後、発電効率も発電コストももっともっと向上するし、また、設置場所も住宅の上とは限 らず、住宅の壁に塗る、柔軟な膜状のものなど、用途によって使い分けることもできるよ うになると思われる。 さらに、太陽光発電とはいわず人工光合成などと呼ぶべき分野もあり、今後、30 年間は (後述する第四次産業革命の期間) 、人類にとって、太陽光技術はもっともエキサイティン グな技術分野となるであろう。太陽光はほとんど無尽蔵の資源であり、また、地球上、比 較的もっとも公平に分配される資源であり、これを使用しても誰にも文句はいわれないし、 (今のところ)公害も発生しない。これを使わない手はないとなるだろう(発展性のある 多様な太陽電池の開発については後述する) 。 【2】太陽電池の普及策に失敗した日本 日本は 1990 年代まで太陽電池で世界の先頭を走っていたが、2000 年代になると、太陽 電池の普及策で失敗し、ドイツなどの後塵を拝するようになった。その間の事情は、飯田 哲也氏の『エネルギー進化論』 (2013 年)の第 3 章の「失われた 10 年―なぜ日本では自然 エネルギーが普及しないのか」に、次のように、日本の太陽発電技術開発の失速した理由 が書かれている。 太陽光発電に関しては、2003 年までに限定すれば、現在の拡大状況からするときわめて 小規模であったが、それでも世界最大の太陽光発電普及国は日本だった。2004 年にドイツ に第 1 位の座をあけわたしてからは、拡大する一方のドイツに反して、日本の市場は縮小 していくばかりの無残な状況になっていった。スペイン、アメリカ、韓国、イタリアにも 追い越され、2008 年時点では第 6 位にまで転落した。この転落は明らかに「政策の失敗」 406 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― によって導かれた。その事情を京都会議に遡って説明する。 ○固定価格買取制度(FIT)と固定枠制度(RPS) 1997 年に、地球温暖化防止京都会議が開催された。日本は、二酸化炭素の削減目標の数 値に関して、2000 年までにプラスマイナス 0%、つまり増やさないけれども減らすことも しないという立場で会議に望んだ。アメリカはプラス 2%という目標値をもって参加した。 ところが EU は、マイナス 15%という高い目標値を掲げて京都に乗り込んできた。 どうしてそんなに大きな目標値を掲げることが可能だったか。彼らの最大の武器は、ドイ ツではじまり各国に拡大した FIT(電力の固定価格買取制度)の政策とその実績だった。 国際政治において、政策が強力な交渉カードになる好例であろう。 EU は、京都会議の 1 週間前には、 「欧州自然エネルギー白書」を公表、 「電力以外も含め たエネルギー供給全体で、当時 6%だった自然エネルギーの割合を、2010 年までに 12%に 倍増する」という方針を表明した。そうした背景のなかで、マイナス 15%という数字を掲 げてきたのである。 日本はというと、通産省と経団連とが手を組み、省エネ先進国であり、CO2 排出につい ても技術が進んでいるため、これ以上は減らさなくてもいい、という内向きの論理でしか なかった。自然エネルギー政策も、こうした状況のなかで進んでいたのである(実際には 進んでいなかった) 。 1998 年、京都会議の翌年、通産省は「2020 年までに原発を 20 基つくる」という計画を 推進しようとしていた。これに対し、国内の環境 NGO からは当然反発があり、原発 20 基 をつくるのかつくらないのかという問題が、日本の温暖化政策の中心的な話題であった。 このころ、スウェーデンから帰国した飯田氏はドイツで大成功していた FIT(固定価格買 取制度)を日本に導入するため、政治的に働きかけた。このころ原発は 50 基・30%、自然 エネルギーはわずか 1%になっていたという(自然エネルギーは 1980 年代より低くなって いたのではないか) 。 飯田氏などの働きかけで 2000 年には議員立法で「自然エネルギー促進法」が国会にかか った。同じ時期にドイツでも FIT(固定価格買取制度)の問題点をなくすための改正法案 が国会に提出された。 (飯田氏の書から)期せずして同じ内容・同じタイミングになった日 本とドイツの法案は、2000 年の国会に両国とも持ち込まれて、日本は成立せず、ドイツは 成立という幕切れになった。この結果として、自然エネルギーの促進という目標について は、日本とドイツは完全に明暗がわかれた 10 年となった。 日本では、議員連盟と飯田氏たちの環境 NGO が連携し、成立まであと一歩までこぎつけ たが、通産省と電力業界を味方にできなかったために廃案になった。通産省はなぜ反対し たか。 (飯田氏の書によると)通産省は、エネルギー政策をつくる権限が自分たちの掌中か 407 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ら離れることを嫌い、徹底的に反発した。立法府である国会の議員がつくった法律を、官 僚組織が反対するというのは、民主主義政治の基本的な構造から考えるとおかしなことで ある。しかし当時、通産官僚が言ったとされる「国会議員に法律はつくらせない」という 言葉に象徴されるように、日本では現実にそういう本末転倒ともいえることが起きている。 一方の電力会社はなぜ反対したか。自然エネルギーで発電した電力の買取義務のような、 自分たちを縛る規制を恐れたことが理由のひとつ。もうひとつは、ドイツやヨーロッパ諸国 における自然エネルギーの爆発的な普及をみて、自分たちが構築し維持してきた既存の独 占体制(電力会社は地域独占型の体制)を、脅かされる恐れがあると直観したからであろ う(太陽光発電は地域分散型エネルギー)。 (飯田氏の書によると)通産省は、議員連盟による自然エネルギー促進法を廃案に追い 込んだ後、返す刀で、固定枠制度(RPS。電力会社に一定割合で自然エネルギーの導入を 義務づける制度。一定割合が低すぎると導入“阻止”になってしまう)を提案してきた。 この法律は資源エネルギー庁省エネルギー・新エネルギー部が中心となって進めようとし た。省エネ・新エネ部は、電力会社や省内の電力ガス部との調整、そして原子力族議員に対 して、「RPS 法を導入しないでいると、議員連盟と環境 NGO がふたたび結託して FIT 導入 への動きがはじまる。RPS ならば、自然エネルギーの拡大を調整することができる」とし て導入を説得したという。 ちなみに欧州でも、 RPS と FIT の選択をめぐっては、 相当に大きな政治的対立となった。 経済官僚の多い欧州委員会を中心に市場原理主義的な国(イギリス、オランダなど)や大 手の電力会社が欧州全域の RPS を支持する一方で、欧州議会やドイツ・スペインなど FIT の成功国、そして環境 NGO と自然エネルギー産業界が FIT を支持する構造であった。 結局、欧州連合としての統一は諦めて、各国の選択に委ねた結果、数年後に蓋を開けて みると、普及においても、また RPS のメリットとして喧伝されたコスト低下の効果におい ても圧倒的に FIT の方が優れていたことが、現実の「社会的実験」によって立証されたの である。 通産省省エネ・新エネ部は、このようにヨーロッパでは事実上終っていた RPS と FIT の 政治的な対立構図を、巧みに「外バネ」として利用して、電力会社と資源エネルギー庁の 電力ガス部を納得させることで、RPS(固定枠制度)である「電気事業者による新エネル ギー等の利用に関する特別措置法」を成立させるという「画期的」な仕事を成し遂げた。 むろん、この RPS 法成立とは、省エネ・新エネ部にとって「画期的」だっただけで、日本 のエネルギー政策にとってはプラスというよりもマイナスの影響を残したものだった。彼 らにとって重要なのは、 「法律をつくる」という形だけであって、 「なんらかの義務を課す」 という法律が成立しさえすれば、自然エネルギーが普及しようがしまいがどちらでもよか 408 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ったのである。 (飯田氏の書から)RPS 法の目標値の設定はまやかしにすぎないものだった。2002 年から 2010 年までの 8 年間で、新エネルギーの割合を 0.3%から 1.35%へと増加させる、という 目標値になっていた。これは同時代のヨーロッパなどの数値からみても桁違いに小さい数 字で、イギリスはブレア首相が元気だった初期の 1998 年に 10%増の目標値を掲げ、アメ リカのテキサス州も 15%増を目指していた。多くの国が 2 桁の数値目標を掲げていたこと と比べてみれば、日本の目標値がいかに低かったか。 では、実際にはどのように数値で移行していったのかを、図 81(図 18-16)に示す。 図 81(図 18-16) 日本版 RPS 法の実態 縦軸は増加した新エネルギーの量、横軸は年次である。2003 年の開始時で 0.3%の増加、 2004 年が 1.3%で、たった、1%しか増加していない。これでは「増やす」ためではなく、 「増やさない」ための上限設定だったといわれてもしかたがない。 (飯田氏の書では、この あとも電力会社と通産省がタッグを組んでいかに自然エネルギーを阻止したかのからくり が具体的に書かれているが中略) さらに追い打ちをかけるようにして、国の住宅用太陽光発電への補助金が 2005 年に打ち 切られた。日本の太陽光発電の市場が縮小を始めたのはこの年からだった。2004 年にはド イツに抜かれ、その後に差が一気に拡大した。 「日本の唯一のお家芸だった太陽光発電で、 ドイツに負けてどうするんだ!経済産業省(2001 年に通商産業省が名称変更)は何をやっ ているんだ!」と国会では、与野党の両方向から経産省が責め立てられていた。 2008 年 7 月には、洞爺湖で G8 サミットが行われた。当時の福田内閣は、サミット直前の 409 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 6 月に「福田ビジョン」なるものを発表した。サミットでは地球温暖化問題が最大の懸案だ ったため、開催国でもあった日本は、地球温暖化対策としての対応をアピールする必要が あった。福田首相は、 「太陽光発電を 2020 年までに 20 倍にする」という宣言を出した。 福田ビジョンが出された 2 日後、自民党による温暖化対策の中間報告が提出された。自民 党案では「固定価格買取制度も検討」という内容になっていた。当時の自民党は与党だっ たから、党の報告と国のものと、内容は同じであるべきだった。当時の経産省事務次官は、 経産省による FIT 封じ込めを無視するかのような自民党案に激怒して、即座に新エネルギ ー部会を緊急招集し、FIT は効果的でない、という緊急報告をとりまとめた。FIT で自然 エネルギーが飛躍的に普及しつつあった世界の現実に反する無意味な報告だった。 しかし、そのときすでに自民党のなかでは、経産省抜きで、粛々と固定価格買取制度の 制度設計が行われており、飯田氏も協力していた。そして、民主党も、公明党も、社民党 も、共産党も、 ・・・事ここに至って、ふと気づくと、経産省が封じ込めていたはずの自然 エネルギー推進のための議論が息を吹き返し、経産省は全方位から包囲され、「FIT」の集 中砲火を浴びる状況となっていたのである。 2 週間後の 2009 年 2 月 24 日、二階経産大臣(当時)が突如、記者会見を開き、 「経産省 は FIT を導入する」と発表した。環境省や国会議員に権益を奪われる前に、経産省内にく すぶる FIT への政治的なトラウマに目をつむり、政策決定権という省益を優先した、とい われている。 そして約半年後の 2009 年 8 月 30 日、民主党が大勝した総選挙の開票日の翌日に、二階 大臣の名前で「太陽光発電の余剰電力買取制度」の政省令が公布された。経産省にとって は、 「官僚政治からの脱却」を掲げる民主党政権が乗り込んでくる前のギリギリのタイミン グでの公布でだった。現在、家庭に届く電気料金の明細書を見ると、 「太陽光発電促進賦課 金」という項目がある。それがこの制度による電力使用者の負担である。 (飯田氏の書から)そしてもうひとつ運命的なことが起った。2009 年に政権交代に成功 した民主党のマニフェストには、 「全量買取制度方式の再生可能エネルギーに対する固定価 格買取制度」という項目が入っていた。10 年前に導入できなかった幻の自然エネルギー促 進法を基礎にした内容になっており、民主党と飯田氏たちで協力してマニフェストに書き 込んだものだった。この「再生可能エネルギー全量買取法案」が閣議決定されたのが、奇 しくも 2011 年 3 月 11 日、東日本大震災が起こったあの日の午前中だった。 ここまで太陽光発電がなぜ、日本で伸びなくなったか、その理由を飯田氏の書からさぐ ってきたが、日本の太陽光発電の普及が急速に落ち込んだ理由は政府の政策の失敗が大き く影響していたのである。 ○原発一辺倒に向かっていた日本のエネルギー計画 410 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 地球温暖化問題が浮上してからの(1990 年以降の)ドイツと日本のエネルギー政策を見 ると、大きく異なってきている。脱原発を前提としてのドイツのエネルギー戦略は、エネ ルギー効率向上と再生可能エネルギー拡大により、2030 年までに 2010 年比で 1 次エネル ギー消費を 3 分の 1 削減するとともに、電力の 3 分の 2 を再生可能エネルギーで賄うこと を目標とする。ドイツがこのようなエネルギーシフトを強力に進めるのは、 (将来の)エネ ひっぱく ルギー需給の 逼迫 、 エネルギー価格高騰や地球温暖化問題の深刻化に対する危機感である。 長期的にエネルギーをコスト的に有利かつ安定的に確保し、CO2 排出量を大幅に削減し つつドイツ産業の国際競争力を維持強化するためには、エネルギーシフトが不可欠である と認識していた。また、これにより 21 世紀最大の成長分野であるエネルギー環境分野にお いて世界のマーケットリーダーとしての地位を確立するという戦略をもっていた(ドイツ は政策を複合的に行うという視点を持っている。これに対し日本の官僚組織は縦割りで政 策はすべて単細胞的。 「官僚政治からの脱却」を叫ぶ政治家はもっと単細胞的であることが わかったが) 。 これに対して日本の政府(官僚、政治家)は、先のことは余り考えず、とにかく、現状 (電力業界の現状維持)の延長、つまり、地球温暖化問題には原子力を伸していくしかな いと決めつけてエネルギー政策を立てたようである。 それでは当時(2011.3.11 の福島原発事故が起きる前)の国のエネルギー政策はどうなって いたかを見ることにする。 当時(2014 年に新しいのが出たのでその前のもの)のエネルギー基本計画は、2010 年 6 月で、福島原発事故が起きる 9 ヶ月前に改正されていた。その一部を抜粋すると、 今次改定では以下の三点を重視している。 第一に、今後とも「エネルギー安全保障」を総合的に確保していくことが不可欠である。 第二に、地球温暖化を防止するために、エネルギーの需給構造を低炭素型のものに変革し ていく必要がある。 第三に、エネルギー・環境分野に対し、経済成長の牽引役としての役割が強く求められる。 そこで、2030 年までの今後「20 年程度」を視野に入れた具体的施策を明らかにすることと した。 そして、各論の「原子力発電の推進」のところで、以下のように記されていた。 ・・・具体的には、今後の原子力発電の推進に向け、各事業者から届出がある電力供給計 画を踏まえつつ、国と事業者等とが連携してその取組を進め、下記の目標の実現を目指す。 まず、2020 年までに、9 基の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約 85%を 目指す(現状:54 基稼働、設備利用率:2008 年度約 60%、1998 年度約 84%) 。さらに、 2030 年までに、少なくとも 14 基以上の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用 411 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 率約 90%を目指していく。これらの実現により、水力等に加え、原子力を含むゼロ・エミ ッション電源(CO2ゼロという意味だろう)比率を、2020 年までに 50%以上、2030 年ま でに約 70%とすることを目指す、とある。 つまり、地球温暖化がだんだん厳しくなり、2003 年、2007 年の改正で原子力の比率を高 めてきたが、この度の改正では、ついには 2020 年で原子力 50%以上、2030 年には 70%と いう、とほうもない数字あわせをしたようである。ゼロ・エミッション(要するに全く CO 2 をださないもの)電源比率という基準をもうけて、「水力等に加え、原子力を含む」とい かにも水力が主力のように見えるが、もう、水力は数%にすぎないから(等には太陽発電 なども入るのだろう) 、実質は原子力が主であり、2020 年で 50%、2030 年で 70%と目論 んでいたのであろう。 洞爺湖サミットで「2050 年までに少なくとも 50%削減する」、 「2050 年までに 80%又 はそれ以上削減する」というような話は、もう、電気で間に合うものはすべて①原子力に する、②すべて太陽電池にする(その他の自然エネルギーも含む)、③原子力と太陽電池を 半々にする(この時点では原発事故はまだ起きていなかった)という案が考えられるが、 この計画では 2030 年で原発 70%であるから 2050 年には 100%近くを目指していたという ことであろう。 2011 年の原発事故が起きるまで、国民も政治家も日本のエネルギー計画などに注目しな かったであろうが、官僚と産業界では原子力一辺倒のそらおそろしい計画が福島事故の 9 ヶ月前に成立してのである(民主党政権の時代である。日本の政治家に大局的にものを見 るものがいないことがわかる) 。 この計画ではコストのことを強調しているが、後述するように、太陽光発電の技術開発 ロードマップ(NEDO が作っているから、当然、資源エネルギー庁もわかっていたはず) では 2020 年ごろには(ましてや 2030 年ごろには)現在の発電所並の発電コストになる見 通しが出ているのに、2020 年にも 2030 年にも、大きな比率は与えられていない。 前文の第三にも、 「原子力、スマートグリッド、省エネ技術などの分野では各国政府の積 極的関与の下、世界規模での市場争奪戦が既に激烈なものとなっている」と書かれている が、ここに太陽光発電技術は入っていない。太陽光発電への転換や期待はなく、まったく 無視されていたようである。太陽光発電こそ純国産エネルギーで、前文の第一であるエネ ルギー安全保障、第二である地球温暖化問題の解決、第三である経済成長の牽引役のすべ てに合致するエネルギーではないか。当時の経産官僚がいかに単細胞的(地球温暖化=原 子力発電) 、電力業界的、そして原子力安全神話に凝り固まっていたかがわかる。 ○過去 20 年間のドイツと日本のエネルギー政策の差 経産省が適切に「技術」を評価しなくなっていることは、最近、筆者は感じていたこと 412 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― であったが、ここにもそれが現れているようだ。技術は政策にとって、一つのツールであ って、それがあるかないかで、国策をも左右することがある。 戦前の日本政府や軍部の技術音痴の例は山ほどあった(大艦巨砲主義でいくか、航空機 でいくか、レーダー、暗号解読技術等々。技術の見通しがあるかないかは、国策をも左右 する) 。この場合も、太陽光発電のコストが下がって 2000 年にグリッドパリティ(従来の 電力コストと同じになる)が達成されていたら(当初のように太陽光発電の技術開発を強 力に進めていれば、それは可能だった) 、このエネルギー基本計画は変っていたかもしれな い(過度に原発に頼る政策ではなく太陽光発電と組み合わせた計画になるとか) 。このよう に技術には国策をも左右する技術もある。筆者は太陽光発電技術の開発は人類の歴史を左 右する技術だと思っている。 ドイツは 1990 年代から技術の動向を長期的な観点から睨んでいて、再生可能エネルギー でいける、それはドイツにとってむしろ有利な選択であることを見抜いていたのであろう。 それがドイツと日本のその後の政策に明瞭に現れている。 図 82(図 18-17)に過去 20 年間のドイツと日本の状況を示すが、経済成長率は、日本 がドイツよりも 10%ポイント以上も低い。 413 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 82(図 18-17) GDP、一次エネルギー、温室効果ガスの推移 しかも、この間の日本の成長は巨額の財政支出(GDP の 2 倍を越す借金)によって維持 されたもので、それがなければ大幅なマイナスになっていただろう(大まかに日本は 1000 兆円の借金を積み重ねた。これをバブルがはじけてから 20~30 年で割ると年 30~50 兆円 の借金をしている。年 50 兆円の税収しかないところで、それに匹敵する借金をしながら 20 ~30 年をやってきた。その借金も減るどころか、現在も猛烈な勢いで拡大を続けている。 にもかかわらず、GDP の伸びはドイツより 10%以上低かった)。 それを考えると日独の格差は歴然としている。大事なことは、そのドイツの成長は一次 エネルギーを減らし(再生可能エネルギーの増大は一次エネルギーを減らすことになる。 後述する) 、かつ、温室効果ガスも大幅に減らして達成していることである(つまり、政策 のシステム化、複合化である) 。日本は図 82(図 18-17)のように、一次エネルギーも温 室効果ガスも減らすどころか増やしている(京都議定書も守れなかったことは前述した)。 ドイツはどうしてこれだけのパフォーマンスを発揮できたのであろうか。エネルギーの利 用形態は電力のみならず、熱、運輸燃料(ガソリンなど)があるので、一次エネルギーと 二次エネルギーの関係を知る必要がある。その関係を概略示すと、図 83(図 18-18)のよ うになる。 414 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 83(図 18-18) 一次エネルギーと二次エネルギーの関係 エネルギー消費削減には、発電の効率化と、エネルギーを利用する段階(最終需要)で の効率化とに分けられる。発電の効率化とは、電力を作るために投入するエネルギーをい かに減らすかということである。電力になるのは投入エネルギーの 3 分の 1 にすぎず、残 りの 3 分の 2 は排熱として捨てられる(日本では発電所はすべて海岸にあって海に捨てて いる) 。この発電ロスは国のエネルギーの総消費量(1 次エネルギー)の 3 割を超えるほど である(もし、太陽光発電ですべてやるとなると、この正味の電力分だけでよい。もちろ ん、電力ロスの発電はやる必要がない。つまり、太陽光発電など自前(国産)エネルギー に切り換えることができれば、それだけで大きな電力ロスがなくなるのだ) 。 このためドイツは、発電の効率化をエネルギー消費削減のための最重点項目として取り 組んでおり、過去 20 年間で発電ロスを 16%削減してきた。これに対し、日本では発電ロ スは同期間にむしろ(原発や石炭化力を増やしたので)18%も増加してしまった。 発電ロスを削減する方法は二つある。石炭からガス発電、再エネへ、原子力から再エネ へのシフトである。石炭はガスより発電効率が劣るうえ、CO2排出量も多い。原発も巨大 な熱のうち、電力になるのは 3 割にすぎない。これを発電効率の高い天然ガスや再生エネ ルギーへとシフトしていけば、その分、エネルギー投入量および CO2を削減することがで 415 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― きる。実際、ドイツは、一次エネルギーに占める石炭の比率を 90 年の 37%から 2010 年に は 23.1%へと減らしてきている。これに対し日本では、同期間に石炭の比率を 17%から 22.6%へとむしろ大幅に増やしてきた。 発電ロス削減の第二は、発電の際に出る排熱を有効利用するコージェネ(熱電併給)で ある。コージェネであれば、エネルギー効率は 8 割近くまで高めることができる。ドイツ では 2003 年にコージェネによる電力を買い取ることを義務づけるなどの制度を導入し、コ ージェネの普及拡大を体系的に進めてきた。この結果、コージェネがいまでは発電量の 14% を占めるまでになっている。 日本でもコージェネ技術の開発は早くから進められて(通産省のムーライト計画(省エ ネ技術開発)でやった)、多分、世界最高水準の技術レベルにあったと思うが、(サンシャ イン計画の太陽光発電と同じように)ここでも技術開発とエネルギー政策の乖離があって、 それが活かされていない。日本ではコージェネはあくまで発電の省エネ技術として使われ、 それが最大限の効果を発揮できないままである。 コージェネは、熱は遠くに運ぶことができないので、基本的に需給を一致させる必要が あり、再生可能エネルギーと同様、小規模分散型エネルギー・システムの時に最大の効果 があるが(効率 8 割になるが) 、日本ではそれが活かされることはなかった(せいぜい数% の発電所内での効率アップだけである。つまり、技術開発とその使い方、立地戦略がちぐ はぐであるのだ。システム思考がなく、単品主義、単細胞的、縄張り的・・・である)。 (とにかく日本では有機的に、つまり、システム的、複合的に考えることが弱いのだ。日 本では官僚は優秀であるというが、本当はそうではないのである。法律職(事務職)と技 術職とに分離しているところにも問題がある。前述したようにエネルギー問題にしても、 原子力、石油、ガス、石炭、自然エネルギーいろいろあり、コストも現状、将来、それも 技術開発によって、いろいろ変りうる。これらのことを緻密に読んで、緻密にエネルギー・ ・・・と組み上げて、毎年、状況によって組み替えて行 システムを現在、5 年後、10 年後、 く必要がある。ところが、そのような説明をしていると、上司(事務職)はいらいらして、 「もっと簡単に」「結局、こういうことか」とシステム的政策をずたずたに切り分けて、 「結局、 これをやればいいんだな」となる。つまり、話を単純化してしまう。通産省を予算案・計 画書が出ても、大蔵省(財務省)で(事務職に)単純化されて、 (大蔵省がわけがわからな い言えば、予算がつかなく終わりである)予算が付いてしまうと、今度はそのとおりにや らされる。「靴」に足を合わさせられる。もはや今の世の中、政策とはそんなに単純なもの ばかりではないのだ。複合的にやってはじめて意味があり、効果があがるものがある。と にかく、日本では頭のいいはずの官僚が政策の複合化をきらう(彼らも上司に説明しなけ ればならないから。財務省の官僚も政治家に説明しなければならないから) 。この世の中の 416 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 問題は単純なものではなくなっていることを明治以来の伝統をもつ官僚は理解しようとし ない。それができるドイツの官僚には感心する。余談であるが) 次にエネルギーを使う段階での効率化を見ることにする。最終需要段階でのエネルギー は、産業、家庭、業務(ビルなど) 、運輸の各部門で消費される。ドイツでは、東ドイツ統 一により効率の悪い工場やビルの閉鎖が相次いだことから、90 年代に産業、業務のエネル ギー消費削減が進展したが、一方で、家庭、運輸はドイツ統一による消費の急増によりエ ネルギー消費も増加した。家庭・運輸においても削減傾向が定着したのは、ドイツ統一の 影響が一段落した 90 年代末からのことであった。 このうち、産業、家庭、業務においては熱利用が 3 分の 2 を占めることから、この 3 分 野でのエネルギー消費削減における最大の課題は、熱利用の効率化である。熱消費削減の 主な手法は、産業のプロセス熱利用の効率化、熱の繰り返しての利用、家庭、業務部門で の徹底した断熱化などである。 ドイツの住宅の断熱基準は日本の北海道の省エネ規準をさらに上回る厳しい規準が規制 化されている。規制によってイノベーションが進み、コストが低下すると共に競争力が向 上するのは、自動車の排ガス規制と同じである。もちろん、断熱強化はエネルギー消費量 削減のみならず、快適な住環境・オフィス環境をつくりだす投資でもある。 ドイツでは、このような規制の強化によって、今まで使われていなかった、太陽熱や地中 熱、下水熱などの未利用熱の利用も有効で、大きな技術進歩があった。たとえば、ドイツ の太陽熱利用では、日本より日照条件が不利であるにもかかわらず、熱変換効率の高い機 器の開発や、太陽熱を冷房利用するソーラークーリングシステムなどのイノベーションも 進み、普及が加速化してきている。ドイツではすべての建築物の暖房需要の 1 割を下水熱 回収で賄うことが可能とみられるほど可能性が高く、ビルや工場での下水熱利用では比較 的短期で投資回収ができるほど、技術も成熟してきている。 図 84(図 18-19)のようなヒートポンプを使っての地中熱の利用は、日本でもとっくに 技術開発されていたが(筆者もタッチした省エネ開発のムーンライト計画で 20~30 年前に 開発されていたが) 、今度、東京スカイツリーではじめて使われ評判になったような状態で ある。東京スカイツリーでは、ガスなどを使う従来方式の空調より年間の消費エネルギー は 48%、二酸化炭素排出量は 40%減らせるとみている(やればできるのである) 。 417 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 84(図 18-19) 地中熱利用の仕組み ドイツではこのような技術を一般住宅にも取り入れて省エネを進めて行ったのである。 つまり、技術開発をすぐにエネルギー政策に反映させて、ただちに実施していったのであ る(日本では総じてこのような省エネ技術の開発はすべて第一次、第二次石油危機の後、 行ってきたことであったが、もう、30 年も前にやったことであるが、実際に生かされてい ない。住宅・建屋は建設省所管であるからという点もある。つまり、本当の意味でのシス テム開発がわかっていないのだ。省エネ・システムなどの技術は 30~50 年のスパンで見て いて、そのとき、もっとも、効率的なシステムを組み込んで住宅を建てるのである。エネ ルギーが上がった下がったで、付けたり、付かなかったりするものではない。いつでも住 宅を建てるときは、そのときの最高の省エネ・システムを組み込めるような社会システム を作っておくことが最も重要である)。 《日本では業務、家庭、運輸部門が問題》 日本では、図 85(図 18-20)のように、エネルギー消費は大幅に増加しているが、とく に業務、家庭、運輸部門で顕著である。 418 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 85(図 18-20) 部門別エネルギーの推移 産業業部門はほぼ横ばいで推移しているが、図 86(図 18-21)のように、70 年代から 見ると日本が最大限努力したのは 80 年代までで、 それ以降は何もしていないことがわかる。 つまり、官僚が省エネのために何もしなかったということである。ドイツは 90 年以降、原 単位で 35%改善してきていることと比較すると、日本の低迷ぶりは一段と際立っている。 図 86(図 18-21) 製造業のエネルギー消費原単位の推移 419 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― その結果のエネルギー消費の部門別構成比を図 87(図 18-22)に示すが、日本は産業の 最終エネルギー消費に占める比率は 37%にも達している。ドイツは日本と同じ製造業主体 の国であるが、28%であり、産業がとくに突出しているわけではない。日本の産業は(前 述したように第一次、第二次石油危機のあと) 、70 年代半ばから 80 年代半ばにかけてエネ ルギー効率を大幅に向上させてきたのは事実だが(結果、製造業の効率は世界のトップに 達していた) 、以降、時間は止まったまま今日まで来てしまったようだ(最近、官僚は電気 料が上がると産業の空洞化が起きるとよく言い出すが、産業界にさらに省エネ化の努力を させることを怠っているのではないか) 。 また、最終エネルギー消費に占める家庭、業務の比率は図 87(図 18-22)のように、日 本は 16%、21%と相対的に小さいものの、エネルギー消費は大幅に拡大し続けてきた。と くに業務部門に関しては、過去 20 年間でドイツが 2 割削減しているのに対し、日本では 4 割も増加している。ドイツでは前述した地中熱利用などを業務部門で実施したからである。 図 87(図 18-22) エネルギー消費の部門別構成比(2010 年) 図 88(図 18-23)は、運輸部門のエネルギー消費を示すが、日本は旅客、貨物ともに輸 送距離が低迷する中、エネルギー消費は増加している。 420 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 88(図 18-23) 運輸部門のエネルギー消費と総走行距離の推移 ドイツはドイツ統一や欧州統合、好景気などにより、過去 20 年間で、総輸送距離が旅客 で 5 割、貨物に至っては倍以上も伸びているが、エネルギー消費を抑制することに成功し てきた。欧州では、たとえば自動車メーカーに対する CO2の厳しい総量規制を課するなど メーカーに努力を強いてきたが、その成果が現れているといえる。 2000 年に再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT)を導入して以降、ドイツの再 エネは順調に拡大を続け、2012 年上期には発電量の 25%を占めるまでになった(日本では ずっと 1~2%に過ぎない) 。再エネはすでに原発の発電量を大幅に上回る基幹電源になって いる(再エネは不安定で基幹電源などにはできない、原発こそベース電源だというような 議論はドイツではない) 。伝統的な木質バイオマスに加え、太陽熱や地中熱などの未利用熱 利用も活発化してきている。 電気料金への影響に関しては、ドイツの家庭用電気料金は kWh 当り約 30 円、うち再エ ネの買取り負担は 2013 年に入り大幅に上昇し、6 円近くになった。2009 年の再エネ負担 は 1.5 円に過ぎなかったこと、過去 10 年間で電気料金が 15 円以上上昇したことを考える と、市民の間で電気料金の上昇に対する不満が高まってきているのも事実である。ただし、 この電気料金の上昇は他の要因もあって再エネだけによるものではない(図 89(図 18-24) の①のように税金が関係している) 。なお、再エネによる電気料金への負担が増えていると はいえ、日本の料金のと比べるとドイツの方が実質では割安であるといわれている。 また、ドイツはフランスから安い原発の電力を輸入しているとよくいわれるが、図 89(図 18-24)の②のように、ドイツの外国との電力取引は、2000 年以降一貫して輸出超過であ る。 421 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 89(図 18-24) ドイツの電力 ドイツでは、太陽光パネルメーカーが倒産したように、再エネの拡大が国内産業の育成 に貢献していないのではないかという意見があるが、太陽光パネルは、品質性能いろいろ あり、それらを総合的にみて安いところから買うことになり、国産の場合も輸入の場合も ある。ただ、インバータなど、差別化できる部品については、世界マーケットシェアの 4 割を握る SMA や第 2 位の KACO などは、ドイツの企業である。 ドイツの再エネに関わる雇用は、2011 年で 38 万人と、7 年前の 16 万人に比べ、20 万人 以上増加している。ドイツの再エネにかかわる設備投資は 3 兆円近い規模である。リーマ ンショック前の日本の自動車産業の設備投資額が関連産業も含めて 3 兆円に達しなかった ことから見ても、その規模がいかに大きいかがわかるであろう。ちなみにドイツの経済規 模は日本の 3 分の 2 である。 以上、ドイツと日本の過去 20 年間のエネルギー政策の違いを見てきたが、単に再エネの 普及策に FIT を採用したかしなかっただけでなく、エネルギー政策あるいは技術開発政策 をいかに上手く複合的に利用したかが現在の日独の経済的パフォーマンスの違いを表わし ているようである。 日本は、失われた 10 年(20 年、30 年)は、デフレのせいだと一言でかたづけないで(あ あそうかと分かった気になるが、それだけでは何も進まない。確かにデフレであることに は間違いないが、それだけでは何をすべきかもわからないではないか) 、アベノミクスとい って市場に金をばらまくだけではなく(それでは既存の非効率産業を温存するだけではな いか) 、その中身を分析して、もっと的確な経済政策、産業政策を複合的に実施する癖を早 く日本の学者(経済学者)も官僚も政治家も身につけることが必要であろう。余談である が。 ) 422 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 【3】将来が楽しみな太陽光産業 ○太陽光産業は第四次産業革命の核 第一次、第二次、第三次の産業革命でも述べたように、各産業革命ごと新エネルギーが 創造され、増大した既存産業のエネルギーも賄われるし、産業革命によって生み出された 新産業のエネルギーも賄われてきた。また、その新エネルギーそのものが新しい産業を生 み出してきた(たとえば、石油が自動車や飛行機を)。こうして、人類社会は産業革命のた びに、人口も増え、ひとまわり大きくなってきたのである。 この度の第四次産業革命は、先に世界人口が百億近くに増大することがわかっていて、 是が非でも第四次産業革命が成功しなければならないが、その総論的なことは次の第 8 章 に記す。この第四産業革命を支えるエネルギーが太陽光発電エネルギーであることは言う までもない。この 21 世紀の第四次産業革命の期間に AI、ロボット、自動運転自動車、高 度医療システム、高度食料生産システムなどが実用化され、さらに人類の生活は豊かにな るであろう(1 割の先進国は「さらに」であるが、9 割の途上国は「やっと」豊かな生活を 獲得するのである) 。世界人口が百億人近くになることを考えると、人類が 21 世紀に必要 とするエネルギーはほとんど無尽蔵の太陽光エネルギーしかないことは明らかである。 しかし、太陽光は単に電力を生み出す資源であるだけではなく、人工光合成のように食 料を生み出す資源でもある。つまり、太陽光は第四次産業革命の新エネルギーを生み出す だけではなく、電気や水素や食料をつくりだす太陽光産業を興すことでもあり、第四次産 業革命の主要な新規産業でもある。 ○多様な太陽電池の開発 いままで、太陽電池と一言で述べてきたが、実際には多様な太陽電池が開発されてきた し、これからも開発される。 現在のところ、太陽電池に使われる素材は、大きく分けて、シリコン系、化合物系、有機 系の 3 系統がある。もっとも多く使用されているのがシリコン系であり、これはさらに結 晶シリコンとアモルファス(非結晶)シリコンに分けられ、さらに結晶シリコンは単結晶 シリコン、微結晶シリコンに分けられる。 ◇単結晶シリコン系 このうち、単結晶シリコンはもっとも変換効率が高いが、価格が高くなる。ここで変換 効率とは、太陽電池の単位面積当りの最大出力を光強度で割って求められる。すなわち、 変換効率 20%であれば、入射光のエネルギーの 20%にあたるエネルギーを電力として得ら れることになる。単純なp-n接合による変換効率の理論的な限界値(理論限界効率)は、 約 30%とされている。 ◇多結晶シリコン系、アモルファスシリコン系、HIT 太陽電池 423 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 一方、多結晶シリコンは単結晶よりも安価に製造でき、現在の太陽電池の主流となって いる。微結晶とアモルファスシリコンは安価だが、変換効率が低い。しかし、膜状で加工し やすいことから、さまざまな用途での利用が期待され、また結晶シリコンをアモルファス シリコンが挟む、変換効率の高い HIT 太陽電池が開発されるなど研究が進んでいる。 ◇化合物系 化合物系太陽電池は、GaAs(ガリウムヒ素)系、銅・インジウム・ガリウム・セレンな どの化合物を用いた CIGS 系、カドミウムとテルルを使用した CdTe 太陽電池がある。 GaAs(ガリウムヒ素)系は高性能だが非常に高価である。CIGS 系と CdTe 太陽電池は、 製造時の省エネルギー性が高く、シリコン系にかわるものと期待されている。 CdTe 太陽電池は、CdTe をp型半導体に、硫化カドミウム(CdS)をn型半導体に利用 した構造で実用化されているが、薄膜層の成膜方法は、真空プロセスがないために低コス トで製造でき、大面積化も容易なスクリーン印刷法である。現在、スクリーン印刷法を用 いた CdTe 太陽電池は、小面積セルで 13%、大面積モジュールで 9%の変換効率が得られ ている(カドミウムは毒性が高いので日本ではまだほとんど使われていない)。 現在、実用化されている単結晶シリコン太陽電池セルの変換効率は図 90(表 18-2)の ように、20%を超え、研究室レベルでは 25%に達している。多結晶シリコン太陽電池セル の変換効率も 20%に近づいている。アモルファスシリコン太陽電池セルの変換効率は 5~ 10%程度である。HIT 太陽電池は 20%を超える変換効率を達成している。CIGS 系太陽電 池が、セルレベルで 20%近い変換効率を達成しており、高い変換効率をもつ薄膜太陽電池 として期待されている。GaAs(ガリウムヒ素)単結晶太陽電池セルは 25%超を達成してい るが、非常に高価で宇宙用などに用いられている。 424 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 90(表 18-2) 主な太陽電池素材別変換効率 薄膜シリコン太陽電池のシリコン層の厚みは、一般的な結晶系太陽電池の 100 分の 1 程 度で省資源性が高いが、変換効率は低いため、アモルファスシリコンと微結晶シリコンを 組み合わせたり、他の化合物半導体と組み合わせたりして、変換効率を高める工夫が行わ れている。 さらに、複数の素材を積層したり、太陽光を集光したりするなど、変換効率を上げるさ まざまな工夫がなされ、まだまだ変換効率向上の余地は大きい(本書では一般に変換効率 10%として論じている。将来、20%、あるいはそれ以上の効率になれば太陽電池面積は半 分以下になるということである) 。 ◇色素増感太陽電池 色素増感太陽電池は、1991 年、スイス連邦工科大学のミヒャエル・グレッツエル教授に より、金属酸化物の表面に色素を吸着させることで、起電力が大きく向上することが報告 され、本格的な研究がスタートしたもので、まだ、これからのものである。 有機色素を用いて光起電力を得る太陽電池で、代表的なものはグレッツエル型(または 湿式太陽電池)と呼ばれる型式のもので、2 枚の透明電極の間に微量のルテニウム錯体など の色素を吸着させた二酸化チタン層と電解質を挟み込んだ単純な構造を有している。製造 が簡単で材料も安価なことから大幅な低コスト化が見込まれ、最終的には現在主流の多結 晶シリコン太陽電池の 1~数割程度のコストで製造できると言われている。また軽量、着色 も可能、などの特長を持つ。また、フレキシブルで軽く、色素を変えることでさまざまな 色の太陽電池がつくられるため、デザイン性も高い。 425 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 現在の課題は効率と寿命であり、技術的改良が進められている。電解液の蒸発を如何に 防ぐかが重要であり、固体化またはゲル化などの技術開発が進められている。2012 年 9 月 の時点で、東大のチームが 12.5%のエネルギー変換効率を達成している。 有機薄膜型太陽電池のうち、p型とn型の有機半導体を混ぜ合わせて“塗る”という特 異なタイプの有機半導体太陽電池もある。ドイツのダイムラーと化学大手 BASF は、太陽 電池を積んだ電気自動車をフランクフルトの自動車ショーで公開した。車体に塗って使え る有機太陽電池であり、世界で初採用である。冷却装置などの電源にし、走行距離を延ば す効果を狙っている。日本でも三菱化学が自動車の動力源にすることを目指している。 直近で実現しそうな技術のうち、最も安価大量に太陽発電が可能な方式である。ロール ツーロールで高速輪転機印刷が可能になるために、コストが 1/10 に下がりうることと、軽 量ロールのために治水ダム上流の山林伐採地での施工費が格段に安価になり、太陽発電コ ストを、技術革新で大きく押し下げる効果が期待されている。前記の色素増感太陽電池よ りもさらに構造や製法が簡便になると言われており、電解液を用いないために(色素増感 と比べると)柔軟性や寿命向上の上でも有利なのが特長である。 課題は変換効率と寿命であり、現在の記録は 2012 年 5 月に三菱化学が開発した 11.0%・ 10 年が世界記録である。新素材の開発とともに、今後、何が出てくるか、わからない楽し みな分野である。 ◇量子ドット太陽電池 これぞ究極の太陽電池といわれるようなものも、研究がはじめられている(第三世代型 太陽電池とも呼ばれる) 。数個~数十個の半導体原子でできたナノサイズの極で、微細結晶 を量子ドットと呼ぶ(図 91(図 18-36)の①参照)。理論的な説明は細部になるので省く が、図 91(図 18-36)の②のように、量子ドット太陽電池の中に量子ドットを格子状に並 べた中間層を設けると、あらゆる波長の太陽光を吸収し、効率的に自由電子を放出できる ので、太陽光スペクトル全体をカバーする、高い変換効率の太陽電池をつくることが可能 になる(太陽電池の中にさらに微細な太陽電池をつくるようなもの) 。この量子ドット太陽 電池の変換効率は理論上 60%を超えるとも言われる。 426 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 91(図 18-36) 量子ドット太陽電池の構造と仕組み 現在の一般的な半導体プロセスよりもさらに微細な加工プロセスの開発が必要である。 2012 年 6 月、東北大学がシリコンを使用した量子ドット型太陽電池で 12.6%の変換効率を 達成している。 いずれにしても、量子ドット太陽電池はまだ開発が始まったばかりであり、製造技術な どの面で課題は多いが、将来有望な新型太陽電池のひとつである。 ◇透明太陽電池 光とは,本当に不思議なものだ。まさに自然の叡智だ。人類の叡智が高まれば高まるほ ど、多くの恵みを与えてくれる(発見できる) 。だから、かのニュートンもアインシュタイ ンなど歴代の人類の叡智がこれにいどんで、それぞれすばらしい恵みを引き出してくれた。 図 92(図 18-37)の①に太陽光スペクトルの図を示す。ヒトの可視領域の両側には見え ないけど多くの役割をする電磁波がある。この波長帯をうまく使いわけた透明半導体(透 明太陽電池)というものも開発されている。これは産業技術総合研究所で開発されたもの で、図 92(図 18-37)の②のように、光の波長を選んで反射することもできるため、夏場 は赤外線を反射して涼しく、冬場は赤外線を取り入れて温かくと、室温調整の機能をもた せることも可能である。 427 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 92(図 18-37) 透明太陽電池の特性 透明太陽電池で発電に利用するのは、紫外線領域の光のみであり(紫外線は人体に害が あることは述べた。これを発電に使うことは人体にもよいことだ) 、透過した可視光は灯り として、赤外線は室温制御の熱源に利用される。電気への変換効率は低いが、全体として の太陽光の活用効率は 60%を超えるということになる。建物などの生活実態を考えた発明 でうまいやりかたである。 このように半透明太陽電池は一例であるが、用途にあわせて、それに適した太陽電池が 使用可能になるであろう。窓に使う太陽電池、外壁に塗る電池、みす(幕)のようにたら す太陽電池などのように、数限りないバライティの太陽電池が創り出されるであろう。従 来、太陽電池は発電という目的のみが重視されていたが、色素増感太陽電池やこの透明太 陽電池など、太陽電池をいかにして生活空間にとけこませていくのかという課題にも目が 向けられるようになるだろう。 ◇有機太陽電池 たとえば、三菱ケミカルホールディングスは、太陽光で発電する新型の外壁材を 2013 年 に発売した。屋根などに設置場所が限られるパネル型と異なり、日当たりがよいマンショ ンなどの壁面として使える。これは有機太陽電池であり、シリコン製の半導体の代わりに、 有機物の半導体を使った太陽電池である。超高層ビルに使えば、1、2 棟程度でも大型の太 陽光発電所(メガソーラー)並みの発電能力が得られるようになる。煙突や高速道路の屋 根など丸みのある物のほか、衣服など曲がる素材に対応できる。通常の太陽パネルは厚さ は数センチ必要だが、この方式だと 1 ミリ弱で済む。重さも同じ面積なら、結晶シリコン 系の 10 分の 1 未満に抑えられるという。 フィルムなどの上に印刷するように塗布して作ることができるので、パネル型の 10 分の 1 で生産できる。現在のパネル太陽電池より薄くて軽い。光のエネルギー変換効率も 11% で、実用化できる水準に達している。結晶シリコン系の約 20%には及ばないが、薄型とし 428 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― て市販される膜状シリコン系の水準に追いついた。発電能力は 1 平方メートル当り 80 ワッ ト程度で一般的なパネル型(変換効率 14~15%)の 6~7 割程度の発電ができる。高層ビ ルやマンションなどのほか、倉庫や駐車場など、大きなパネル型が置けない小さな屋根と しても利用できるほか、地震などの揺れにも強い。将来は電気自動車のボディーやカーテ ンなどにも使うことができる。 いずれにしても、もはや電子技術者だけでなく、建築家、デザイナー、都市設計者その 他の出番となる。太陽光エネルギー革命はわれわれの生活、都市、産業すべてを見直す切 っ掛けとなるだろう。 ◇多接合型太陽電池 それぞれの波長を用途によって使うという発想があれば、それではまとめて太陽電池化 しようという発想も出てくる。それが多接合型太陽電池(スタック型、積層型、タンデム 型などとも呼ばれる)であり、図 93(図 18-38)のように、利用波長の異なる太陽電池を 複数積み重ねた太陽電池である。この特徴は、太陽光のエネルギーをより無駄なく利用す ることで変換効率の向上が図れる。材料の組み合わせによっては、温度特性や必要な資源 量を削減するなどの効果も得られる。 図 93(図 18-38) 多接合型太陽電池の概念図(各波長の光子のエネルギーを効率良く利 用) 429 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 太陽光のスペクトルは紫外線から赤外線まで幅広く分布するが、短波長(紫外、紫、青) の光になるほど光子は大きなエネルギーを持ち、より大きな禁制帯幅を超えてキャリアを 励起できる。この短波長側の光に対応した禁制帯幅を持つ単接合太陽電池を用いれば、よ り大きな電圧を得ることが出来、短波長域の光のエネルギーをより効率良く利用できる。 しかし禁制帯幅を拡げすぎれば、より長波長の光は素通りして利用されず、出力電流が 減少する。このような兼ね合いから、単接合の太陽電池では禁制帯幅 1.3~1.4 eV 付近が 最も高い変換効率が得られる。単接合の場合、変換効率の限界は約 30%とされる。 そこで、禁制帯幅の異なる複数の p-n 接合素子を積層し、光の入射側の素子から順に短 波長の光を利用して発電し、より長波長の光はより下層の素子で利用する。こうすれば各 波長域の光子のエネルギーをより無駄なく取り出すことが出来(より高い電圧が得られる) 、 かつより長波長まで含めたより多くの光子を利用できる(より多くの電流が得られる) 。変 換効率は最終的に取り出せる電力(電圧×電流)で決まるため、単接合の場合に比べてよ り高い効率が得られる。 理論的には無限に接合を増やせば約 86%の変換効率になると計算されるが、実際には上 層の素子を通過する際の光の損失や素子間の電流の整合の問題で、それより低くなる。2012 年現在の記録は 3 接合セルで得られている(図 93(図 18-38)参照)。4 接合、5 接合の セルも研究されている(その後はこの多層化を簡単にできる製造法の研究が必要になるが、 半導体の製造技術が応用できるであろう)。 いずれにしても、太陽光発電技術の研究開発には、このようにバラエティがあり、半導 体製造技術からして、効率もコストも多様化も遠からぬ時期に多くの成果がでてくること は間違いない。 ○水と太陽光から水素をつくる 「求めよ。さらば与えられん」太陽光は人類の叡智に応じて新しい面を垣間見せてくれ る。1967 年、東京大学大学院の藤嶋昭は図 94(図 18-39)の①のように、水中に二酸化 チタン(TiO2)電極と白金(Pt)電極を置き、TiO2 電極に光を当てたところ、溶液中で光 を当てた二酸化チタン電極から気泡が出ていることを発見した。この気泡が酸素であり、 もう一方の白金電極から水素が出ていることを確認した。 つまり、水が分解され、TiO2 から酸素、Pt から水素が発生するとともに両電極間に電流 が生じることがわかった(植物の葉の表面(クロロフィル)で行っている光合成反応に近 い反応で、水を原料に、太陽エネルギーを使って酸素と水素をとることができた。逆に電 気を通して水を電気分解すると酸素と水素を発生することは学校でならう) 。これは指導教 官の本多健一と藤嶋昭との名前から本多・藤嶋効果と名づけられた(光電効果の一種)。 1972 年 7 月にイギリスの科学雑誌『ネイチャー』、 (この間に 1973 年 10 月第 1 次石油危機 430 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― が起きた) 、1974 年 1 月 1 日に朝日新聞に掲載されると、 「夢のエネルギー源」として注目 を集めることとなった。しかし、当時、このシステムは大量の水素をとることができず(1 メートル四方で 1 日 7 リットルの水素をとることができた)、エネルギー源としての実用化 は容易でなく、光触媒の超親水性や酸化還元作用を生かした研究にシフトしていった。 しかし、このネイチャーにのった 40 年前の論文は、図 94(図 18-39)の②のように、 最近、うなぎ登りに引用数が増えて、この本多・藤嶋効果が注目されるようになってきて いる。 この酸化チタンは紫外光を吸収したとき、強い酸化還元作用と超親水作用を示すことが わかった(光触媒といわれている) 。この強い酸化還元作用を利用して行う殺菌などが可能 で、たとえば病院の手術室の壁・床を酸化チタンでコーティングすることで、ブラックラ イト(紫外光ランプ)を照らすだけで容易に殺菌処理が可能となる。また応用として前述 した色素増感太陽電池も作られはじめたことは述べた。 超親水性を示す作用は、ガラスの防曇加工技術(くもりを防ぐ)として既に応用されて いる。自動車のバックミラーや道路のミラー等を酸化チタンでコーティングしておけば、 水がはねついても表面で水滴とはならず、そのまま流れ落ちる。そのため雨天時の視認性 が大幅に向上する。また油性の汚れが全く定着せず、雨などで定期的にこのような水が流 れることにより、表面が洗浄され、いわゆるセルフクリーニング作用をもつ。このセルフ クリーニング作用は、既にビル外壁やテントシートおよび住宅用窓ガラスなどへ応用され ている。 図 94(図 18-39) ① 酸化チタンと白金を使った、光による水の分解実験 431 ②藤嶋・本多論文の引用件数 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 環境省の予測では、 「光触媒は 2020 年に燃料電池や太陽電池よりももっと普及する可能 性がある。4 兆円規模になるのではないだろうか」とあって、当の藤嶋氏も驚いたと言って いるが、今後もさまざまな用途で普及することは確かである。 このように光触媒は、もう、一つの産業になっているが、最近、本多・藤嶋論文の引用 回数が増えているのは、それだけではないのだ。本多・藤嶋効果の本来の目的、 「夢のエネ ルギー源」の研究がいっせいに始まっているのである。 酸化チタンに適切な助触媒を組み合わせれば、水を酸素と水素イオンに酸化、また同時 に水を水素と水酸化物イオンに還元するほどの酸化還元能を示す。つまり、水を酸素と水 素に分解できる。このため本多・藤嶋の発見以来、工学的な応用として酸化チタンを利用 した水から水素を得る研究がなされていたが、それが本格的になってきたのである。これ は、太陽の光エネルギーから水素というクリーンエネルギーが生成されることを意味し、 夢のエネルギー循環サイクルといわれている(水素が大量に安価に得られれば、それはそ れで燃料電池として使えることはすでに証明済である) 。 しかし現状では効率が低く、大規模な製品化には至っていない。純粋な酸化チタンは無 色透明な粉末であり、ルチル型二酸化チタンの場合吸収する光の波長のピークは 380 ナノ メートル(nm)以下の紫外領域にある。そのため太陽光や白熱灯・蛍光灯など通常の生活 空間における光源では、そのごく一部しか光触媒反応に寄与していない。しかしこれは酸 化チタンが可視光を吸収するようにすれば、飛躍的に性能向上が期待できることも意味し ている。可視光応答化の技法の代表的なものは、少量の不純物を加えるもので、ドープ(ド ーピング)と呼ばれる。さまざまな物質がこれまでにドープされている。その中には可視 光での光触媒活性を持つものも報告されている。しかし同じ物質のドーピングでも生成手 法によって特性が大きく変化するなど、その機構は不明な点が多い(つまり、研究途上に ある) 。 この本多・藤嶋効果によって水から経済的に水素がとれるようになれば、これまた、大 発明である。ただちに燃料電池自動車として使えるだけでなく、多くの新たな用途が考え られる。 たとえば、三井化学は、光触媒で水を水素と酸素に分解する技術も開発中であるが、こ れが実現すれば、太陽光、水、CO2 という枯渇しない資源による新しい化学を構想してい る。図 95(図 18-40)のように、化学技術者は、空気中に漂っている CO2 ですら、原料 にしてしまおうと考えている。三井化学は CO2 からメタノールを合成し、そのメタノール から化学製品を製造する「CO2 化学的固定化技術」の実証プラント建設に取りかかっている。 432 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 95(図 18-40) このプロセスを簡単に説明すると、工場などから排出される高濃度の CO2 と水素とを高 活性触媒にくぐらせると、原料と触媒が化学反応を起こして、化学製品の原料となるメタ ノールが生成される。このメタノールはレジ袋などの原料となるポリエチレンやさまざま な分野で使われるベンゼンなどの基礎化学品の原料となる。 空気中から安く大量に水素が得られるようになれば、鉄鋼などの製造工程にも革命が起 きる。酸化鉄である鉄鉱石から酸素を取り除く還元反応の際に、石炭(コークス)ではな く水素を使う。理論上、製造時に CO2 を排出しない画期的な技術で、新日鉄など各社が基 礎研究を進めている。これができれば、製造業部門の省エネ化や CO2 排出量削減が大いに 進むことになる。なにしろ現在、鉄鋼は製造部門の CO2 排出量の 4 割を占めている。ただ し、この鉄鋼の水素還元法の実用化は 20 年後の見通しである。いずれにしても、このよう に化石資源の原料利用についても、太陽や空中の二酸化炭素や窒素や水など、ほとんど無 限の資源に代替できるようになるであろう。 我々は太陽電池で電気をとり、その電気で水を分解すれば、水素がとれることは当然の ことで可能であるが、直接、水から水素をとった方が効率的であろうから、これが経済的 になれば、燃料電池のエネルギー源を現在のような化石エネルギーではなく、自然(水と 太陽光)から得ることができるようになる。太陽光からの電気、太陽光からの水素、 (それ から次に述べる太陽光から食糧)それぞれの特徴によって人類は最適な使い方ができるよ うになるだろう。 433 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ○人工光合成で(水と CO2 と太陽光で)有機物(食糧)をつくる 第 1 章の光合成生物の誕生と酸素の発生で、27 億年前に単細胞生物・シアノバクテリア が光合成の仕組みを発明した(進化して光合成の機能を持った)ことを述べた。 このシアノバクテリアの光合成技術の発明は生物進化史上、画期的な発明(進化)であっ た。太陽エネルギーを利用して水と二酸化炭素から有機物を作り上げる酸素発生型光合成 という細胞機能は、光合成細菌・シアノバクテリア(単細胞。27 億年前発生)→真核藻類 (単細胞。20 億年前出現)→真核藻類(多細胞。10 億年前出現)→植物(陸上。多細胞。 4 億年前出現)と発展し、陸上の植物となり、我々人類の食糧となり、1 万年前からは農業 も始まったことを述べた。 そこで、我々人類も 21 世紀においてシアノバクテリアに見習って(人類はすでに光合成 の原理はすべてわかっているので、シアノバクテリアに見習って) 、安定的に降り注ぐ太陽 エネルギーと(現在ありあまって困っている)二酸化炭素と水とをつかって、食料とエネ ルギーをつくり出すシステムで地球を覆い尽くしたいものである。しかも、シアノバクテ リアのように 3 億年をかけるのではなく、せいぜい 50 年ぐらいで、やらなければならない。 化学者はこれまでも、空気から資源を生み出している。ノーベル賞を受賞したドイツのフ リッツ・ハーバーとカール・ボッシュは 1910 年に空気中の窒素に水素を、触媒を使い高温 高圧で反応させてアンモニアをつくる「ハーバー・ボッシュ法」を生み出した。アンモニア は窒素肥料の原料となる。これで農作物の収量は飛躍的に増え、増加する世界人口を支え 「空気からパンを作った」と言われた。 欧米の研究機関のまとめによると、地球の全植物は、人類が現在使っている全エネルギ ーの 10 倍ぐらいの太陽エネルギーを光合成に使っているが、それでも太陽から地球に注ぐ エネルギーの 1000 分の 1 である。人工光合成で CO2 を分解して有機物を作れば、化石燃 料に頼らない社会が実現できる。 この人工光合成をどう実現するか。植物の光合成は、太陽の光をエネルギーにして、CO2 と水から、酸素とでんぷんなどの糖を作り出す。CO2 を分解して、化学製品の材料となる 一酸化炭素と酸素にする反応は、すでに開発されている。ただ、植物のように太陽光をエ ネルギー源にして反応させるのは難しい。 根岸カップリング反応の発見で 2010 年にノーベル化学賞を受賞した米パデュー大学の 根岸英一博士は、「植物がしている光合成を、まだ人工的にできないのは化学者の恥。CO2 をリサイクルできれば、空気中から減らせ、資源にもなる」と人工光合成の重要性を繰り返 し述べている。 考えられているのが 2 段階に分けた方法である。まず、太陽光で水を分解して水素を取 り出す。水素と CO2 と反応させ、メタノールなどの有用な資源を作る方法である。すでに 434 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 後段は確立されている。水素を取り出すのは前述の東京理科大学の藤嶋昭学長らが、1972 年に発表した「本多・藤嶋効果」がヒントになる。水に浸した酸化チタンに光を当てるだけ で水を水素と酸素に分解した。だが、まだ資源となるほど水素を効率的に作れていない。 解決策の一つとして東大の堂免一成教授らが取り組んでいるのが、太陽の光を効率的に 利用できる新しい触媒の開発である。タンタルなどの化合物を使い、光をエネルギーに変 えられる割合が 1990 年代に 0.03%だったのを近年は 0.2%まで高めた。これが数%になれ ば実用化も見えてくる。 2011 年には、根岸英一博士らと文部科学省とが人工光合成などの技術革新の具体化を進 めることで合意した。 2011 年 4 月、大阪市立大学の研究チームは植物での光合成の基となるタンパク質複合体 の構造を解明した。同じ構造を持つ触媒により、2020 年までに二酸化炭素と水からメタノ ール燃料の製造を行う構想を打ち出している。 2011 年 9 月には、トヨタ自動車グループの豊田中央研究所が、太陽光、水、二酸化炭素 (CO2)のみを使った人工光合成に世界で初めて成功したと発表した。今回の研究では、光 合成の作用のうち、水を分解して酸素を作り出す反応を半導体に、CO2 から有機物を取り 出す働きをもうひとつの半導体と特殊な金属に担わせることで「自然状態」での光合成に 成功した。有機物として酢酸に似たギ酸が生成されるが、アルコール成分などバイオ燃料 の生成も可能という。梶野勉・主席研究員は「CO2 を『資源』に活用できる可能性が開け る。エネルギー問題の解決につながれば」と話している。 パナソニックは 2012 年 7 月 30 日、植物並みの効率で人工光合成ができるシステムを開 発したことを明らかにした。 今回開発したシステムは、図 96(図 18-41)のように、窒化物半導体の電極と、金属錯 体による電極を用いるもので、窒化物半導体電極では光エネルギーを使って水を分解し、 水素イオン(H+)と電子(e-)が発生する。 、電子二つ(2e-) 有機物を生成する電極では二酸化炭素(CO2)と水素イオン二つ(2H+) を使って、主にギ酸(HCOOH)を発生させた(図 96(図 18-41)参照) 。2015 年度中に ギ酸を燃料としてより利用しやすいアルコールに変換する技術を確立するという。 435 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 96(図 18-41) 人工光合成 今回、太陽エネルギー変換効率で 0.2%を達成できたという。太陽エネルギー変換効率と は、分母に照射した太陽光エネルギーを取り、分子に生成された物質が持つエネルギーを 取ったもので、0.2%という効率は「バイオマスで使われる植物が持つ効率と同程度」 (パナ ソニック)である。同様のシステムは豊田中央研究所が 2011 年 9 月に発表していたが、効 率は 0.04%だった。 パナソニックによると、これまで「複数の電極材料を使わないと二酸化炭素の還元に必 要なエネルギー状態にできない」 「従来の錯体では照射光の強度を増やしても反応電流量が 追随せず、太陽光の強度を十分に利用できなかった」という問題があった。しかし、窒化 物半導体によってこうした問題を解消できたという。 パナソニックは、図 96(図 18-41)の左下図のように、2020 年までに 100 メートル四 方のプラントで、年間 10 トンの CO2 を吸収して 6000 リットルのエタノールを生産するプ ラントを建設する予定である。同じ面積で植物を植えて CO2 を削減するのと同じような効 果があるという。つまり、CO2 をリサイクルしてメタンガスやエタノールにするのである。 人工光合成にはほかにも、さまざまな手法があり、いろいろなところで研究されている。 大阪市立大学では、人工光合成研究センターを設立して、植物やラン藻の特徴を応用し、 436 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 太陽光を効率的に取り込むアンテナの開発や、触媒で効率的に水を分解させるシステムの 実証試験に向けて、産学連携を進めている。 東京大学の堂免一成教授は、太陽光のエネルギーの半分を占める可視光を利用し、高い 効率で水を酸素と水素に分解する触媒の開発を進めている。酸窒化物や酸硫化物などが優 れた触媒の候補となることを突き止めた。教授は「5~10 年のうちに実用レベルに達するだ ろう」と話している。 まだ、太陽エネルギー変換効率で 0.1~0.2%であるが、今後の研究で徐々に高まってい くであろう。科学技術振興機構の研究プロジェクトの研究総括を努める首都大学東京の井 上晴夫・人工光合成研究センター長は、分野をまたいだ研究の発表会を数多く開いている が、 「どれが実用化に一番近いかはまだわからないが、2020 年ごろまでにいろいろなブレ ークスルーが出る可能性がある」と期待している。 多くの研究が急速に進みつつあるので、多分、30 年以内(第四次産業革命期)には人工 光合成も実用化のレベルに達するであろう。そうなると太陽光からは、エネルギー(電気、 水素)も食糧も得られることになり、地球最大の資源となるであろう。しかし、これは当 然と言えば、当然である。人類は、いやその前の動物も植物も、つまり、生物すべてが太 陽光を最大の資源として生きてきていたのではないか。人類は今までも農業の開始などで、 その太陽光のめぐみを高めていっていたが、それが今度は、ここまで進化した人類がその 叡智を使って、自然の叡智の根幹の原理を解明して効率よく直接、太陽光からエネルギー と食糧を得ることができるようになるのである。残された 50 年!Yes, we can!である。 【4】太陽光発電でどこまでやれるか ○ドイツの場合 各国とも太陽光発電の開発・普及に力をいれているが、もっとも早く太陽光発電を軌道 に乗せたドイツの例を述べる。 ドイツでは、2000 年には、「再生可能エネルギー法」が制定され、再生可能エネルギー による発電量を、2020 年までに 20%にするという目標が掲げられた。再生可能エネルギー 導入拡大のための施策として、前述したようなフィード・イン・タリフ(FIT。固定価格買 取制度)が導入された。ドイツでの FIT で買取り対象となっているエネルギーは、太陽光、 風力、水力(5000KW 以下) 、地熱、バイオマス(2 万 KW 以下)である。 その結果、ドイツの電力消費に占める再生可能エネルギーの割合は、2000 年時点ではわ ずか 6%であったが、2010 年までに倍の 12%までにすると宣言し、やってみたら、ほぼ 3 倍近い 17%まで上がっていた。ドイツでは、エネルギー自給率の向上と化石燃料の節約効 果は数千億円レベルに達するといわれている。二酸化炭素の削減でも、京都議定書の目標 437 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― である 21%削減を超えるマイナス 22%の目標を達成したが、その削減の半分が自然エネル ギーによるものとされている。 そして、ドイツは、福島原発事故後の 2011 年 7 月には、2022 年までに国内 17 基ある原 子力発電所をすべて閉鎖、再生可能エネルギーを中心とした社会に転換することを閣議決 定した。 太陽光発電でも、ドイツはトップランナーとして快走を続けている。太陽光発電では、か つて日本は、今とは比較にならないほど小さな市場であったものの、世界一の規模を誇って いた。その日本をはるか後方に抜き去ったドイツは、2010 年のたった 1 年間で、740 万 kW もの太陽光発電機器が設置された。これは設備容量で原発 7 基分、発電量でも 1.5 基分に相 当する。これは 2010 年の世界全体の太陽光発電の増加分 1700 万 kW のうち、ドイツは 740 万 kW でもっとも大きい割合を占めている。2008 年末時点の太陽光発電システムの総設備 容量を比較すると、1 位のドイツが 2 位以下を大きく引き離していることがわかる。 ドイツの再生可能エネルギーは二酸化炭素の削減に寄与する一方で、雇用をあらたにつ くりだすことにも役立っている。ドイツでの環境経済効果は 5 兆円規模に達し、37 万人も の雇用を生み出し、地域活性化という面でも役立っている。ドイツでは地域の人たちがみ ずから再生可能エネルギー設備の所有者となることが多く、目立った産業がなかった地方 で再生可能エネルギー産業が花開き、地方経済が潤うことも少なくないといわれている。 《固定価格買取制度(FIT)に入札制を取り入れたドイツ》 再エネ導入を先導してきたドイツで、2016 年 7 月、新たな動きがあった。再生可能エネ ルギー法・2017 年改正法案(EEG2017 )を可決して、固定価格買取制度(FIT)による 買取価格(つまり再エネの助成金額)を政府が決めるのではなく、入札によって決定する ことにした。 入札の対象となるのは今までと同じように陸上風力、洋上風力、太陽光、バイオマスの 4 種類であり、連邦系統規制庁(BNA)が毎年入札にかける発電量を決める。たとえば、BNA は太陽光発電については、2017 年から 19 年にかけて、毎年 600 メガワット(60 万 KW。 1 メガワットは千 KW)の発電量の助成金額を入札によって決めるというふうになる。最も 低い買取価格(助成金額)を BNA に提出した発電事業者が、助成金を受けることができる。 つまり、再エネ発電事業者に対し、これまで以上に経済的な効率性が求められるようにな った。 メルケル政権が EEG (再生可能エネルギー法) の助成制度に大きなメスを入れた理由は、 電力消費者が負担する再エネ賦課金が年々増えていることにある。2016 年に消費者が負担 する賦課金の総額は、231 億ユーロ(2 兆 6565 億円)に達する。その額は、過去 10 年間 で約 4 倍に増えた。再エネの発電比率が 33%に達した背景には、ドイツの電力消費者が毎年 438 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2 兆円を超える金を注ぎ込んでいるという現実がある。一世帯あたりの再エネ賦課金の年間 負担額は、2014 年の時点で平均 266 ユーロ(3 万 590 円)に達している。 しかし、最近の世論調査によると、回答者の約 79%が脱原子力に賛成しており、回答者 の 92%が再エネの拡大を前向きに評価している。 いずれにしても、この EEG 改革はメルケル政権が再エネ拡大を断念したことを意味して はいない。EEG には、2025 年までに再エネの比率を 40~45%、35 年までに 55~60%に するという数値目標が明記されている。2050 年まで再エネの比率を 80%に高めるという目 標も変えてはいない。 ドイツ政府は EU に対して、2050 年までに二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量を 1990 年比で 80~95%減らすことを約束している。つまりドイツ人は、2050 年に「温室効果 ガスの排出量を事実上ゼロにする」ことを目標にしている。これはパリ協定の目標を 2050 年までに実現することである。ドイツでは脱原子力の次の目標は脱石炭・脱褐炭であり、 メルケル政権はエネルギー産業の非炭素化を実現するためには、再エネの拡大が不可欠と 見ている。 EEG2017 はドイツ政府が再エネ拡大をあきらめたことの表れではなく、むしろメルケル 政権は、技術的には再エネの数値目標の達成は十分可能と考えている。ドイツにできるこ とは他の国でも(日本でも)できることである。人類の脱原発、脱炭素はドイツに学べ。 ○日本の場合 日本では前述したように太陽電池の開発・生産は早かったが、個人住宅への助成制度が 2005 年に打ち切られたので、図 97(図 18-25)に示すように、太陽電池の設置件数は低 下した。 439 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 97(図 18-25) 助成制度打ち切りによる太陽電池設置数の減少と復活による増大 ドイツでは、2000 年に再生エネルギー法が制定されそれに基づいて、フィード・イン・ タリフ(FIT)制度ができたが、この制度は、現在ではヨーロッパ諸国、韓国などでも始ま って、それぞれ太陽光発電の普及に貢献している。図 98(表 18-1)に各国の制度の一覧 を示す。 図 98(表 18-1) 各国の太陽光発電の買取り制度の比較 日本でもこの状況を受け、2009 年から 1 キロワット当り 7 万円(助成金額は太陽電池の 価格低減に従い、毎年減額されている)の助成制度が復活され、さらに同年 11 月からドイ ツと同じような制度が創設され、太陽光発電で発電した余剰電力を通常の電力価格の約 2 倍程度の高い価格で電力会社が購入する制度が創設された。これにより図 99(図 18-27) に示すように日本における太陽光発電の普及も大幅に加速している。 440 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 99(図 18-27) 日本における太陽光発電の累積設置台数 また、図 100(図 18-28)に示すように急速に家庭用太陽光発電の販売価格も低下し普 及しやすくなってきている。 図 100(図 18-28) 日本における家庭用太陽光システムの価格の推移 2004 年から、2030 年に向けた太陽光発電の技術開発戦略の検討結果が、ロードマップ(工 程表) 「PV2030」として NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)から公表された。 それが 2009 年に時代の変化に合わせて改定され、図 101(図 18-29)のように、PV2030 +として公表された。 441 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 101(図 18-29) 太陽光発電ロードマップ(PV2030+) これによると、最終的には 2030 年頃までに、現在の電力会社の発電所での発電コストと して、1 キロワット時(kWh)7 円程度を実現することを目標に、次の 4 つの実現を目指し ている。 ・目標マイルストーンとして 2014 年に一般家庭の電気料金(23 円/kWh 程度)の実現 ・2017 年には業務用電力料金並み(14 円/kWh 程度)の実現 ・2025 年には電力会社の発電所で発電コスト(7 円/kWh 程度)の実現 ・太陽光発電の適用性の拡大地域、広域エネルギーネットワークの実現 当面は図 101(図 18-29)の 2017 年の目標を目指して、発電コスト 14 円/kWh、モジュ ール製造コスト 75 円/W、モジュール変換効率 20%を目指している。 2011 年には福島原発事故が起きて、政府、電力業界のなれ合いが明るみに出て、太陽光 発電も固定価格買取制度の発足によって、やっとドイツなど EU やアメリカなどと対等の 競争ができるようになり、太陽光発電システムの普及拡大が促進されるとみられている。 ○太陽光発電のグリッドパリティはいつ実現するか 図 102(図 18-26)に示すように、PV ニュースによると世界の太陽電池の生産量は、最 近、急拡大してきて 2010 年では約 24GW(1GW は百万 kW を意味する)を超えるまでに なった。 産業規模も 3 兆円を大きく越えるまでに成長した。 442 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 102(図 18-26) 世界の太陽電池生産量の推移 グリッドパリティ(Grid parity)とは、大まかには既存の電力とコスト(電力料金、発 電コスト等)が等価になる点を示す。具体的な定義(コスト)は、個々のケースにおける 設置条件や、比較対象に想定する電力料金等によって異なる。例えば設置地域により発電 量が異なり、電力料金も住宅用と産業用では異なるため、グリッドパリティの具体的な条 件も変わる。また電力の消費側にとってのグリッドパリティだけでなく、発電側にとって も利益の出る価格になる点と併せて論じられることもある。 このため定義も厳密に一意に定まるわけではなく、下記のように複数の定義(用法)が 存在する。 日本の NEDO は、家庭用電力並み(日本において 23 円/kWh)になることを第一段階グリ ッドパリティ、業務用電力並(同 14 円/kWh)になることを第二段階グリッドパリティ、汎用 電源並(同 7 円/kWh)になることを第三段階グリッドパリティと定義している(図 101(図 18-29)参照) 。 アメリカ国立再生可能エネルギー研究所は、2009 年末に「太陽光発電の発電コストが系 統電力の購入価格と等しくなる点」と定義している。太陽光発電の最大の業界団体である EPIA(ヨーロッパ太陽光発電産業協会)は、設備導入者にとって(既存の電源に比較して) 利益になる点を dynamic grid parity と定義し、住宅用・産業用等の複数の想定条件につい てコストや達成時期の目安を示している。 このように、いずれの定義でも、太陽光発電のコストは低減し続けており、2011 年には 一部地域で(第一段階の)グリッドパリティの達成が報告されているが、2010 年代の後半 443 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― には、ほとんどの地域でグリッドパリティが達成され、太陽光発電が急成長するとみられ る(太陽光発電がもっとも低コストとなれば、短期間で普及する。それは石炭から石油に 転換した「流体革命」の例からもわかる) 。 今後、既存の電力コストは、石炭、石油・天然ガス、原子力などすべての電力が長期的 にコストが高くなるが(当面、アメリカはシェールガス革命で、発電コストが下がる可能 性がある) 、太陽光発電設備産業は量産効果が大きい産業であるからコスト低減はさらに進 み、さらに普及し、さらに低減するという好循環が起きると考えられる(太陽電池セルは 量産効果が大きいが、発電設備そのものは現場施工もあるので、半導体産業ほどの飛躍的 コスト低減は起きないだろう) 。 太陽光発電のコストは、運転に燃料費は不要であるため、設備と設置工事費および長寿 命化のためのメンテナンス費用でほぼ決まる。昼間のみ発電する特性から、系統連系して 用いる場合は昼間の電力需要ピーク時のコストで論じられる。 また蓄電して独立型のシステムとして用いる場合は、蓄電池や他の電源を組み合わせた 場合のコストで論じられる。一方、途上国で送電網が未整備な場合、消費電力に比して燃 料輸送費や保守費が高い場所など(山地、離島、砂漠、宇宙等)では、現段階でも他方式 に比較して最も安価な電源として用いられる。今後もさらなるコスト低減が見込まれてお り、中長期的にはコストが最も安い発電手段になると見込まれている。 太陽光発電の増大は、経済面では投資誘発や雇用拡大、技術革新の促進等、産業として のメリットも評価の対象となる(先行しているドイツでは、すでに、そのような効果が出 ていることは述べた) 。また太陽光発電単独ではなく、様々な再生可能エネルギーを含めて 包括的に評価される例も見られる。 ○太陽光発電のコスト 太陽光発電の普及するためには、発電コストの問題と太陽光発電の電力を蓄える高性能 蓄電池の開発と発電に必要な土地面積の問題がある。 一般にアメリカでは太陽光発電モジュール 1W 当り 1 ドルになるとグリッドパリティに 達するといわれているが、2009 年にファースト・ソーラー社(アメリカ・アリゾナ州テン ピ。後述)がこれを生産コストで下回り、2010 年にはモジュールの生産コストが$0.77/W になったと表明している。2014 年にはさらに$0.52~$0.63 まで安くできると表明している。 アメリカの条件の良い地域では、2012~2014 年頃に天然ガス等の発電コストよりも安くな ってくると見られる(シェールガス革命で事情が変るかもしれない) 。 普及で先行するドイツでは 2011 年までの 5 年間で、モジュールだけでなく設備全体の導 入コストが半額以下に低減し、 2006 年に 5000 ユーロ/kW だったものが 2200 ユーロ/kW (約 24 万円/kW)程度まで安価になっている。2012 年には家庭用の電力でグリッドパリティに 444 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 達し、2017 年頃には実質的に助成が不要になると見られている。 イタリアやカリフォルニア州の一部等では、既にグリッドパリティが達成されていると の指摘もある。 日照量の多いサウジアラビアの太陽光発電のコストは 2020 年までに 9.5 セントになり、ガス火力のコストよりも安価になるとの予測もある。 欧州主要国(フランス・ドイツ・イギリス等)では、2020 年までに順次、既存の火力発電 とコストで競い始めると見られている。 日本国内においては、太陽光発電の発電コストは 2007 年時点で 46 円/kWh 前後とされ たが、このうち 1/3 近くが金利によるものである。金利を除いた正味の発電コストは 2011 年時点で 30 円/kWh 前後と見られている。また 2007 年時点で、設備導入費用のうち約半 分は流通経費や工事費が占めていたと見られる。 なお、2011 年 12 月 13 日の政府内閣府のコスト等検証委員会では、住宅用太陽光発電の 場合、2010 年時点でコストは 33~38 円/kWh との見積もりを発表し、2030 年には 10~20 円/kWh 程度にまで発電コストが下がる可能性も示した。 日本国内における住宅用の平均システム価格は 41.7 万円/kW である(2013 年 7 月~2013 年 9 月)。国内におけるメガソーラーの平均システム価格は、28 万円/kW である(2012 年 10 月~2012 年 12 月)。大手家電量販店やテレビ通販でも流通するようになり、2012 年に なると国産品でも 34 万円/kW 程度で販売される例が出現している。さらに輸入品を用いた 例では 30 万円/kW 程度で販売されており、金利 3%かつ償却 20 年の条件で計算しても 20 円/kWh を切る例が出現している。 日本では家庭用の小売り電力については実質的にグリッドパリティに近いコストに到達 していると見られ、今後もさらにコスト削減が続く見通しである。NEDO のロードマップ (PV2030+) では、図 101(図 18-29)のようになっているが、これでみると家庭用電力料 金単価と同等になるのは 2010 年代半ば、業務用電力料金と同等になるのは 2017 年、火力 発電コスト同等になるのは 2025 年となっている。 いずれにしても、日本でも家庭用の小売り電力については実質的にグリッドパリティに 近いコストに到達していると見られ、今後もさらにコスト削減が続く見通しである。 ○二次電池の高性能化(コストダウン)研究 太陽光発電の最大の特徴は、地球上、ほぼ平均的にどこでも得られるという点で(日本 でみるとその差はせいぜい 2~3 割程度)、今後、太陽光発電の技術開発がさらに進んで、 発電コストがグリッドパリティに達したら、急速に太陽光発電が普及すると思われる。そ れは太陽光発電がもっとも規模による量産効果が大きいと考えられているからである。 太陽光発電の当面のもっとも大きな需要先は、住宅であり、次が太陽光発電所、その次 が電気自動車、つまり、輸送分野である。電気自動車用の高性能な蓄電池が開発されれば、 445 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 逆に従来からの住宅・産業用電力も系統電力網から離れて使用できるようになり、太陽光 発電の電力はほとんど全てのエネルギー分野に使用されるようになるであろう。 たとえば、後述する 21 世紀の第四次産業革命によって実用化される様々な分野で使用さ れるロボットや情報機器、人工知能(AI)、高度医療福祉機器、自動運転自動車、ドローン など、人類の生活を豊かにしてくれる様々な機器も、地球温暖化とは無関係でほとんど無 尽蔵な太陽エネルギーでやっていくことができるようになるであろう。 そのような意味で、その要の技術開発となるのが、二次電池の高性能化(コストダウン) の研究である。それは電気自動車の高性能化・コストダウン化の研究であるともいえる。 この 100 年の間(石油が安く豊富であった時代)は、内燃機関を備えた自動車が輸送手段 の勝者だった。でもこれからはどうなるか。地球温暖化についての懸念が、大気中の CO2 を増やさないエンジンを探す努力を進めている。とくにこれから新興国の経済成長によっ て増える石油需要をまかなう能力が、世界にあるかどうかが不安視されている(自動車が 10 億台から 20 億台になった場合、世界はどうなるか) 。いまから 2、30 年後に世界中の人々 がどういう種類の自動車を運転しているか。 《未来の自動車はどうなる》 自動車は今後も主に、ずっとなじんできたガソリンやディーゼル燃料を使う内燃機関を (効率はさらに向上するにせよ)動力として使い続けるのか?既存もしくは新しいバイオ 燃料が(自動車そのものはたいして変化がないが)ガソリンに取って代わるか?天然ガス を使う自動車が主流になるか?それともハイブリッド(内燃機関に電気モーターを付加) なのか?壁のソケットから充電する完全な電気自動車が真の勝者になるのか?水素を使う 燃料電池車が主流になるのか?現在、世界中で開発されている AI を使った自動運転車が、 10、20 年先には実用化されることも合わせて考えると、未来の自動車はどうなるであろう か。 一番望ましい未来は、太陽光発電がグリッドパリティに達して、太陽光発電システムが 普及して、ほぼ無尽蔵の安い電力が得られ、電気自動車(しかも自動運転電気自動車)が 主流になることであろう。しかし、そのためには、電気自動車の二次電池の高性能化(コ ストダウン)をはかり、電気自動車を一般のガソリン車並みにコストダウンすることが必 要である。 逆に二次電池の高性能化(コストダウン)が進めば、太陽光発電システムも電力を二次 電池に蓄電して使用できるので、天候に左右される太陽光発電の最大の短所を克服して、 その用途を大きく広げることができることになる。いずれにしても、太陽光発電普及のた めには、高性能電池の開発が緊急に必要である。 アメリカ・カリフォルニア州の大気資源局(CARB)は過去にももっとも厳しい自動車の 446 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 排ガス規制を行い、スモッグ撲滅に成果を上げてきた。その CARB が 1990 年、1998 年ま でに、カリフォルニア州で販売される新車の 2%を ZEV(ゼロ排出ガス車)にし、2003 年 までに、10%を ZEV にしなければならないという技術強制型規制を発令した。排気管から の排出があってはならないということは、排気管がなく、内燃機関が使えないということ になる。この規制によって、電気自動車が再登場する道が開けた。 しかし、この時は、だれもが望む航続距離や運転時間をまかなえるバッテリーが存在せ ず、大衆もそっぽを向いたので、CARB もこの命令は渋々撤回せざるをえなかった。 21 世紀にはいると状況は変った。メキシコシティや北京のような都市も激しい大気汚染 に見舞われ、苦悩している姿が報道されるようになった。そこに、地球温暖化という懸念 も加わった。世界的に見て、交通は CO2 排出の約 17%を占めており、その絶対量は大きく、 さらに増える可能性が大きい。原油価格の上昇も激しくなった。電気自動車は、燃料価格 の上昇から消費者を護り、原油価格ショックの衝撃を和らげるという見通しを示した。 また、ハイブリッド車の登場は、バッテリーを使用する自動車を大衆に受け入れさせ、 電気自動車時代への橋渡し的な印象を与えることになった。現在ではバッテリーのみを使 う純然たる電気自動車のほかに、プラグイン・ハイブリッド電気自動車(PHEV。一定の距 離を電気で走ると、あとは内燃機関で走る)も出ている。 その後、プラグイン電気自動車と純粋な電気自動車の両方への政策支援が、世界中で高 まり、エネルギー関連のイノベーションの大きな波が起きた。2009 年にアメリカで設立さ ロードマップ れた自動車電化連合は、電気自動車の“行程表 ”を提案し、民主党と共和党の両方に採用 された。電化連合会長のフレデリック・スミス(フェデックス CEO)は、自動車の燃料源 の多様化が必須だし、バッテリーを改善すれば、電気がもっとも実用に適している、充電 しなければならないことは、さして大きな障害にはならないと言っている。 GM とクライスラーの経営破綻に対して連邦政府による数十億ドルの救済措置をとった オバマ政権は、電気自動車を推進する強い立場を得た。2010 年にはオバマ政権が、電気自 動車の開発を促進して、それを支えるインフラを整備するために、電池メーカー、企業家、 大手自動車メーカー、部品下請け業者に補助金と融資保証として 50 億ドルを提供した。議 会は、電気自動車の採用を促進する法案を通して、電気自動車製造に対する税額控除、買 い手への税額控除、充電ステーション(家庭とパブリックスペースの両方)への税額控除 を行うことにした。 この「電気自動車の戦い」は、国同志が競い合うゲームとなろう。なぜなら、いまや中 国や韓国のような国でも重要な成長分野で支配的な地位を奪うことができるからである。 逆に、自動車で従来、世界のトップに立ってきたアメリカ、日本、ドイツは、いまの地位 を維持するためには、電気輸送で成功を収める必要がある。バッテリー(電池)が未来の 447 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 自動車の鍵となるとしたら、バッテリーのノウハウや生産で勝利を得たものが、世界経済 で決定的な新しい役割を獲得することができるのは確かであろう。 いずれにしても、電気自動車でもっとも重要なのはバッテリー(電池)だ。 《リチウムイオン電池の開発》 近年、出力・エネルギー密度が高く、繰り返しの充放電でも劣化の少ないリチウムイオ ン二次電池(LIB)の発展により、リチウムイオン二次電池は携帯電話、ノートパソコン、 デジタルカメラ・ビデオ、携帯用音楽プレイヤーを始め幅広い電子・電気機器に搭載され、 2010 年には LIB 市場は 1 兆円規模に成長した。小型で軽量な LIB を搭載することで携帯 用 IT 機器の利便性は大いに増大し、迅速で正確な情報伝達とそれにともなう安全性の向 上・生産性の向上・生活の質的改善などに多大な貢献をしている。 また、LIB は、エコカーと呼ばれる自動車 (EV・HEV・P-HEV) などの交通機関の動力 源として実用化が進んでおり、電力の平準化やスマートグリッドのための蓄電装置として も精力的に研究されている。 東日本大震災をきっかけに、家庭でも非常用電源への関心が高まり、電機大手が相次ぎ 蓄電池事業に乗り出している。ソニーは 2011 年 10 月から、同社初の家庭用蓄電池を発売 した。リチウムイオン電池で容量は 300 ワット時、画面サイズが 40 型の液晶テレビが約 2 時間半使用でき、スマートフォンを約 30 回充電できる。大きさは縦 27 センチ、横 21 セン チ、高さ 35 センチに抑え、市販価格は 15 万円である。量販店で売られている主な蓄電池 は 1 キロワット時以上の容量で、100 万円前後する。その他にもヤマダ電機、ビッグカメ ラなどがそれぞれベンチャー企業や中国メーカーの家庭用蓄電池を販売している。 リチウムイオン二次電池の問題点は、エネルギー密度の高さの裏返しであり本質的な問 題でもあるため、電池そのものにも周辺回路にも様々な安全対策が施されている。こうし た対策にもかかわらずノートパソコンや携帯電話において異常過熱や発火などがしばしば 報告される。製造工程上の問題が疑われ、大規模な回収に繋がった例もある(最近、航空 機の電源として使用されているリチウムイオン電池でも発火事件が起き、原因が究明され ている。スマホの電池でも発火事件が起きている) 。 そこで、リチウムイオンポリマー二次電池、ナノワイヤーバッテリー(リチウムイオン 充電池の一種) 、リン酸鉄リチウムイオン電池、カルシウムイオン電池など、いろいろな電 池について精力的に研究されている。 原材料となる重金属・レアメタルや化学物質など資源の問題を指摘する向きもあったが、 この点は急速な開発によって解決されつつある。電解質に用いられるリチウムの陸上資源 は豊富にあり、全く希少元素ではなく、海水中に無尽蔵に存在するリチウムを抽出する技 術もあるため価格の高騰を防げ、安価に供給可能である。 448 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― リチウムイオン二次電池に使われる希少元素は正極材料に使われてきたコバルトであり、 現在コストの 7 割を占める。しかし、ニッケル、マンガン、リン酸鉄などを使った正極材 料が開発されつつあり、全く希少元素を使わないリチウムイオン二次電池も可能である。 ニッケルは希少元素だがコバルトよりは安い。マンガンはベースメタルでないだけでレア メタルと呼ばれているが厳密には希少元素ではなく安価である。リン、鉄は全くレアメタ ルではない。少なくとも電気自動車用に採用しようとしているリチウムイオン二次電池は コバルトを使わないものである。 また、電池の寿命が懸念材料になるが、最新の電池では 6000 サイクル以上の充放電に耐 えるものも既に発売されており、10 年 24 万 km といった耐久性基準を余裕で上回れる目処 は立っている。仮に 6000 サイクルの充放電に耐えられる電池が搭載された場合、100 万 km 走ることがある大型車でも電池の交換は必要ない。しかし現状の一般的な電気自動車向 けのものでは 1000~3000 サイクルとなっており、乗用車用途では交換の必要性はないが、 タクシーや大型貨物をはじめとした商用車などでは交換の必要性も考えられる。既に発売 されているテスラ・ロードスターでも 10 万マイルの電池耐久性を謳っている。 このようにリチウム電池技術の進展によって、近年、電気自動車が見直されるようにな り、三菱・i-MiEV や日産・リーフなどリチウムイオン電池を搭載した高性能な電気自動車 が順調に販売を伸ばしており、2011 年累計ではそれぞれ 2290 台、10310 台である。二次 電池式電気自動車の利点を活かしながら、航続距離の欠点を内燃機関で補うプラグインハ イブリッドカーなども存在する。 さらにリチウム電池の次の電池ともいうべき新しい材料と構造の金属空気電池を使い電 動機を駆動する金属燃料電池(金属空気電池)自動車も開発されている。エンドユーザー にとっては空気電池を一次電池のように電池パックごと交換して使い、バックエンドの再 生場で金属燃料と正極電解液を交換して燃料電池として再利用する。金属空気電池は燃料 密度が大きく、容量が非常に大きいので、1 回の交換あたり 1000 キロメートル以上を走行 できる。金属燃料として金属リチウム、マグネシウム、アルミニウム、鉄、亜鉛などが検 討されている。 いずれにしても、近い将来に高性能な二次電池が出現するであろう。 《全国に設置される充電ステーション》 電気自動車の充電インフラは、電力網の末端である家庭用電源を利用する家庭用充電設 備と、市街地に設けられ不特定多数の利用を前提とする公共用充電設備の 2 種類が考えら れる。後者は、一般に「充電スタンド」や「充電ステーション」と呼ばれる急速充電方式 による充電施設が計画されている。急速充電器により短時間で車載電池を充電する方法で あり、ガソリンスタンドと同様に主要な道路に面した車両の出入りに便利な場所に有料で 449 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 充電サービスを提供する施設として考えられる。 電気自動車用の急速充電器は一番高価なものでも 1 基 300 万円程度であり、大きさも家 庭用冷蔵庫程度の大きさで設置場所の制約が少なく、水素スタンド(燃料電池車用)より は設置しやすい(ガソリンスタンドの建設費用は約 1 億円、水素スタンドは約 3 億円であ る) 。 ここで将来、充電ステーションの電気自動車が主流になるか、水素スタンドの燃料電池 車が主流になるかも考えなければならない。日本全国に(他国も同じであろうが)、充電ス テーションと水素スタンドのネットワークを二重に展開することはできないであろうから。 《電気自動車か燃料電池自動車か》 自然エネルギー電力を貯めておく技術には、蓄電池(バッテリー)以外に水素がある。 水素も蓄電池も、貯められない電気エネルギーを、貯められる化学エネルギーに変換する という点で同じである。ところが、蓄電池が変換部分と貯蔵部分を切り離せないのに対し て、水素は切り離せるという、大きな違いがある。従って、貯蔵量を増やそうとしたとき、 蓄電池だとパッケージごと増やさなければならないが、水素ならタンクを大きくするだけ で、貯蔵量を自在に増やすことができる。 現在の技術で比較すると、一度の補充で何キロメートル走り続けられるかを比較すると、 電気自動車は最高航続距離が 210 キロメートル(日産・リーフ)であるが、水素を積んで 走る燃料電池自動車は 830 キロメートル(トヨタ)である。これは、水素を圧縮して入れ たタンクの方が、リチウムイオン蓄電池よりも、重さあたりのエネルギー密度が高いから である(したがって、1 個の蓄電池容量をできるだけ高める研究をしている最中である) 。 また、蓄電池は使わなくても自然放電してしまうので、夏につくった太陽光電力を冬に使 ったり、冬につくった風力電力を夏に使うというような備蓄をするというわけにはいかな い。これに対して、タンク等に貯められた水素には、寿命も自然放出もない。従って、自 然エネルギー電力を長期間ためておきたいなら、水素が有効である。 また、外出先で補充するとき、電気自動車は充電ステーションが必要になり、燃料電池 自動車は水素スタンドが必要になる。前述したように充電ステーションは 1 基 300 万円で あるのに対し、水素スタンドは 1 ヶ所 3 億円かかるといわれている。 しかし、現在の技術では、電気自動車は充電に時間がかかるので、交換用の予備の蓄電 池を用意しておく方法などもとられているが、交換の時間がかかり、作業効率が落ちると いう。そこで、アメリカの物流センターや食品配送センター、自動車工場などで1ヵ所に つき数 10 台が屋内で 24 時間使用されているフォークリフトなどは、2009 年頃から従来の 蓄電池方式から水素・燃料電池方式への切り替えが始まっている。蓄電池方式だと、8 時間 の運転で蓄電池交換のために作業が中断されるからである。 450 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― しかし、いずれにしても前述したように高性能蓄電池も充電器も研究開発されている最中 であり、早晩、このような問題は解決されるであろう。 問題は現在のところ、大量の水素は天然ガスなどの化石燃料から作られているので、化 石燃料と同じような欠点、つまり、今後、価格が上昇していく可能性が高いということで ある。前述したように太陽光から水素を直接つくる研究も行われているが、それが採算が 合うようになるまでにはかなりの時間がかかると思われる。 いずれにしても、電気自動車も燃料電池自動車も、いましばらく研究開発の動向を見て、 いずれの方向に進むか決定する時期がくるであろう。 《高性能蓄電池が開発されると》 やがて高性能な蓄電池が開発され、乗用車クラスの自動車の電気自動車化がはじまる。 それは、そう遠くない時期であろう。その次が大型トラックなどの電気自動車化が始まる。 このころには農林漁業や建設用機械の電気化も可能となるであろう。 現在、エネルギーの半分を占める石油の用途のうち、運輸部門 36.0%、建設業 2.6%、農 林水産業 1.9%は移動動力源として使用されているが(合計して 40.5%、したがって一次エ ネルギーの約 20%) 、これもいずれは太陽光発電による電気でまかなわれるようになろであ ろう。 ただし、航空用燃料は当分、無理であろう。航空用燃料についても、燃料の値上がり、 CO2 対策、環境対策として、水素エネルギー、バイオ燃料などの代替燃料の研究が行われ ているが、太陽電池航空機は大型航空機では無理のようである。小型機については、ソー ラープレーンの研究が進んでいる。 ソーラープレーンとは、翼の上面に搭載した太陽電池で発電し、モーターでプロペラを 回転させることによって飛行する航空機のことある。太陽光という永続的に利用可能なエ ネルギー源を利用して飛行するため、昼間発電した電力を蓄積しておき、夜間の動力とし て利用することができれば、半永久的に飛行し続けることができる。その性格から通常は 無人航空機として使用される。 1981 年、7 月 7 日、アストロ・フライト社製ソーラーチャレンジャー号が Steve Ptacek の操縦により、ドーバー海峡を横断した。 1990 年、三洋電機製アモルファスシリコン太陽電池(最大出力 300W)を使用したタンポポ 号がアメリカ人パイロット、エリック・レイモンドの操縦により、アメリカ大陸を横断し た。 2010 年 7 月 8 日、スイスの「ソーラー・インパルス」が世界初の本格的な夜間有人飛行 に成功した。7 日午前 7 時前に離陸、日中に充電しながら、高度約 8500 メートルまで上昇、 その後約 1500 メートルまで降下して水平飛行を続けた。電池の充電状態は良くさらに 48 451 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 時間の飛行も可能だったという。この後、大西洋横断や世界一周の有人飛行が計画されて いる。 というように、ソーラープレーンも着実に進歩しているが、航空機は、将来的には前述 したような太陽光と水から水素を得て、水素エネルギーで飛ぶのが順当だろうと思えるが、 今のところ、どうなるかわからない。 結局、一次エネルギーで電気化ができないない用途は石油の化学原料的な用途 18.7%(一 次エネルギー全体の 8.8%)と航空用燃料と一部の石炭の化学原料的な使い方であろう。 ○太陽光発電システムの面積はどれだけ必要になるか 太陽光発電の短所として(現段階の太陽光発電の短所であり、技術進歩によってかなり 克服できるが) 、①夜間は発電せず、昼間も天候等により発電量が大きく変動する、②設置 面積当たりの発電量が(従来の発電方式の)集中型発電方式に比べて低い、③発電量に関 してスケールメリットが効かず規模を拡大しても発電効率が変わらない、などが上げられ ているが、これは太陽光の性格として当然のことである。 エネルギーの歴史で述べたように、250 年前にイギリスの産業革命で石炭を使うようにな って、はじめて集中的なエネルギー利用がはじまり、その後の石油・天然ガスも原子力も 集中的なエネルギー利用形態が続いて、我々にはエネルギーとは、集中的なものでなけれ ばならないという観念ができ上げってしまったが、その前までは太陽エネルギーのように 分散的なエネルギー利用が普通だった。 これだけの人口が増え、これだけの産業や都市の時代になって、太陽エネルギーでやっ ていけるようになるのは、まさに太陽光から電気を取り出す技術ができたからである。そ の分散的なエネルギーでも我々はやっていけるということがまさに革命的で我々のエネル ギーに対する観念を変えなけらばならないところである。 太陽光発電は面積当りの発生電力が少ないため、日本のように従来、国土が狭いといわ れているところでは、無理だと頭から決めてかかるのではなく、やるとなるとどうなるか、 設置場所をどのように確保するかを検討してみることが必要である。 このような分散的エネルギーを集めるのにどの程度の面積が必要か、まず、わかりやす い家庭用電気からはじめよう( 『自宅でできるソーラー発電のすすめ』 (著・桑野幸徳、刊・ 2011 年)を参考にさせていただいた)。 まず、第 1 段階として、住宅やそれに類する家屋の屋根に設置するとどれだけの電力が 得られるか。 第 2 段階として、減反農地や未利用地などに設置するとどれだけの電力が得られるか。 第 3 段階として、現在、電力として使用されているエネルギーをすべて太陽光発電に置 き換えたとしたら、どれだけの面積が必要になるか。 452 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第 4 段階として、全電力のほかに、自動車などの移動用燃料、産業用として使われてい るエネルギー、家庭用ガスなどの民生用として使われている燃料なども、 (高性能蓄電池が 開発されて)太陽光発電による電力に置き換えられるとしたら、どれだけの面積を必要と するか(つまり、現在使用しているエネルギーのうち、原材料用として使われる化石燃料 以外をすべて、太陽光電気に置き換える場合)。 について試算してみる。 ◇太陽光発電の第 1 段階―住宅の屋根等 日本の場合、1 年間を平均して 1 平方メートル当り 1 キロワットのエネルギーを受け取れ る時間を計算すると、1 日当り 3.84 時間になる(気象データによる) 。この平均化された日 射時間を 1 日当りの平均日射時間と呼ぶ。今、10%の変換効率の太陽電池モジュール(最 大出力 100 ワット)を用いたソーラー発電システムでの、1 日当りの発電量をみてみる(将 来、20%の変換効率にはなるだろうが、ここではひかえめにみて、10%として計算する)。 この平均日射量を用いて計算すると 1 平方メートル当りの発電量は、1 日当り 0.384 キロ ワット時、1 年間では(0.384×365=)約 140 キロワット時の電力が得られることになる。 ただし、一般的にはパワーコンディショナーなどでのロスや、日照の非常に弱い早朝、 夕方は電力が取り出せない場合があることを考慮し、それらによるロスを約 3 割と見積も って、それを差し引く。すると 10%の変換効率の太陽電池モジュールを用いた場合、1 平 方メートル当りの発電量は 1 日当り、約 0.27 キロワット時、1 年間では約 100 キロワット 時の電力が得られると概算する。つまり、10%の変換効率の太陽電池モジュール 1m2当り =1 年間で約 100kW 時の電力日本の標準的な一戸建ての家庭の屋根面積は国土交通省の統 計によると約 120 平方メートルである。その南側の屋根に変換効率 10%の太陽電池を用い た 4 キロワットのソーラー発電システムを 40 平方メートル設置すれば、この家庭は 1 日当 り 0.27 キトワット時×40 平方メートル=10.8 キロワット時、の電力量がとれる。 これは日本の一般家庭で使用されている 1 日の平均電力量は約 8~13 キロワット時とほ ぼ同じ値になる。年間で計算すると,その発電量は、10.8 キロワット時×365 日=3942≒ 4000 キロワット時、となる。 電気事業連合会のデータによると,日本の家庭の消費電力は、年間にして 3600 キロワッ ト時であるので、4 キロワットのソーラーシステムを各家庭が設置すれば、年間約 4000 キ ロワット時の電力を発生するので、自分の家で消費する電力を自分で生み出すことができ る(これはあくまで平均的な家庭であるので、家庭の事情によってソーラー発電システム の面積を増減すればよい) 。 家庭の屋根に 4 キロワットのソーラー発電システムを設置すると、そこから発生する電 力の価格は 4000 kWh×23 円/kWh(家庭用電力料金単価同等のとき)=92,000 円になる 453 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― (電気料の節約となる) 。 そこから発生する電力を得るのに石油を使って発電すると仮定して計算すると、4 キロワ ットのソーラー発電システムは年間、約 840 リットルの石油に相当する電気を発生するこ とになる。 ただし、この油田はかなり大きな初期投資を必要とする。日本国内における住宅用の平 均システム価格は 41.7 万円/kW である(2013 年 7 月~2013 年 9 月)。国内におけるメガソ ーラーの平均システム価格は、28 万円/kW である(2012 年 10 月~2012 年 12 月)。これは 10 万円/kW ぐらいを目標に研究されているので、いずれそれぐらいになると思われる(す でにアメリカのメーカーでそれぐらいになったところも出ていることは述べた) 。 現在価格で計算すると 41.7 万円/kW×4 kW=166.8 万円 将来、10 万円/kW になれば 10 万円/kW×4 kW=40 万円 つまり、ソーラー発電システムを自分の家の屋根に設置すれば、自分の家の屋根に年産 840 リットルの油田ができたことになり、この油田は、当然のことであるが太陽があるかぎ り(ソーラー発電は数十年に一度、高性能なものに変えることはあっても) 、未来永劫に枯 渇することはない(我々が今投資すれば、子孫は継続して太陽光油田の利権を引き継ぎ、 我々が悩まされたエネルギー危機もなく、地球を汚染させる心配もなく、堂々と生きられ る。趣味のグリーンハウスをつくったから、もうちょっと多くのエネルギーを使いたいと 思えば、太陽光油田をひとつ増やせばよい。その夢が今実現できるのだ。日本中どこに住 んでいても。地球上、どこに住んでいても。アフリカの砂漠でも南極に住んでいても)。 これを日本全国で考えると、一戸建て住宅は約 2700 万戸あるが、その 80%が太陽電池 の設置可能な住宅とすると(ビルの陰などで設置できない家があることなどを見込んだ)、 4000 キロワット時×2700 万戸×0.8=864 億キロワット時、となる。 2009 年の国内総電力需要は、8600 億キロワット時であるので、一戸建ての住宅でのソー ラー発電で総電力需要の「約 10%」の電力がまかなえることになる。しかも、これは新た な土地を必要としない。 同様な計算をマンションなどの屋上などへ展開した場合を考える。総務省のデータによ ると、共同住宅(アパート、マンション等)は約 66 万棟ある。その 80%にそれぞれ、20 キロワット(200 平方メートル)のソーラー発電システムを設置すれば、1 年間に 100 キロワット時×200 平方メートル×66 万棟×0.8≒106 億キロワット時、の電力が得 られる。 また、事業所など 33.5 万ヶ所の 80%にそれぞれ,100 キロワット(1000 平方メートル) のソーラー発電システムを設置したら、1 年間の発電量は、 100 キロワット時×1000 平方メートル×33.5 万ヶ所×0.8≒536 億キロワット時、になる。 454 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― その他、公共施設、産業施設、空き地などにそれぞれ 45 ギガワット、50 ギガワットの ソーラー発電システムを設置すれば、桑野幸徳氏は『自宅でできるソーラー発電のすすめ』 で以下のようになるとしている。 個人住宅(2700 万戸)の 80%に 4kW 設置 864 億 kWh 86 GW 集合住宅(66 万棟)の 80%に 20 kW 設置 106 億 kWh 11 GW 事業所(33.5 万ヶ所)の 80%に 200 kW 設置 536 億 kWh 54 GW その他公共施設、産業施設に設置 450 億 kWh 45 GW 集中発電用として設置 500 億 kWh 50 GW 2456 億 kWh 246 GW 計 つまり、日本の太陽電池の利用可能量は約 2400 億 kWh(約 240 GW の太陽電池の年間 発電量に相当)になるとしている。2009 年の日本の国内総電力需要は 8600 億キロワット 時(kWh)であり、これの約 30%に相当する。現在の日本の総電力需要の約 30%を担って いる原子力発電の総発電量にほぼ匹敵する量である(つまり、2400 億 kWh を太陽光発電 で発電すれば、原発を必要としなくなるのである。それを 10 年でやるか、20 年でやるか。 国民の努力次第であるといえよう) 。 この約 2400 億キロワット時の電力を生み出すのを石油で行うとしたらいくらになるか を計算すると、年産約 5000 万キロリットル相当の油田に匹敵することになる。我々は永久 に続く自前の油田を開発しよう(三世代ソーラー住宅減税制度などをもうけて、1600 兆円 と言われる金融資産の一部を投資して、子孫のために油田を開発したいものである。これ によって石油輸入を減らして、これから(いずれ円安になって)厳しくなる貿易赤字を少 しでも減らそう) 。 ◇太陽光発電の第 2 段階―未利用地利用 ここまでは太陽光発電の第 1 段階であろう。住宅にしても、マンション等にしてもソー ラー発電システムは屋根に載せるわけであるから、たちのく必要はない。もっと電気が必 要な場合は、地上に設置するが、まず、 「休耕地とか耕作放棄地」 「工業団地(工業用水用 地)として用意したが必要なくなった土地」 「使われなくなった塩田」などの未利用地が全 国に沢山ある。 桑野氏らの調査では、以下のように全国の休耕田は約 20 万ヘクタール、それ以外の不作 付け耕地は 19 万ヘクタール、さらにその他の未利用地が 28.4 万ヘクタールあるという。 455 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ①休耕地 20 万 ha ②以外の不作付け 19 万 ha ③草刈り・耕地・抜根・整地や基盤整備により耕地可能 14.9 万 ha ④森林化・原野化 13.5 万 ha 67.4 万 ha 計 と約 70 万ヘクタール(7,000km2)の土地が出てくる。ソーラー発電システムの変換効 率を 0.05kW/ m2と仮定して、そこにソーラー発電システムを設置すると約 350 万 GW の 最大発電量のソーラー発電所が建設でき、その年間発電電力量は 3500 億キロワット時とな り、日本の総電力の約 40%近くの電力量ができることになる。 つまり、第 1 段階の住宅等と第 2 段階の未利用地を加えて、日本の総電力の約 70%の電 力量が生産できることになる。 ◇太陽光発電の第 3 段階―全電力 日本の(現在の)全電力需要をまかなうとすれば、どれだけの土地が必要になるか。 それでは 2009 年の国内総電力需要は、8600 億キロワット時であったので、これを同じ ように考えて、どれだけの土地が必要になるか考える。 3500 億キロワット時→70 万 ha(7,000 km²) 8600 億キロワット時→172 万 ha(1 万 7200 km²) これは日本の全国土が 37 万平方キロメートルであるから、 その国土の 4.6%に相当する。 しかし、前述したように、第 1 段階の住宅等と第 2 段階の未利用地を加えて、日本の総 電力の約 70%の電力量が生産できるから、残りの電力は 30%であり、その土地面積は、 172 万 ha×30%=51.6 万 ha これは国土面積の 1.4%である。つまり、現在、日本で使用している全電力を太陽光発電 だけでまかなおうとすれば、住宅等の屋根、未利用地のほかに、新たに 1.4%の土地を必要 とする(すべて効率 10%で計算をしているので、やがて 20%になることを考えれば、実際 にはこの 1.4%の土地は必要なくなるかも知れない) 。 ◇第 4 段階―原材料利用以外の全エネルギーを太陽光発電で賄う場合 つぎに第 4 段階として、輸送なども含めて、太陽光発電に最大限置き換えることができ る面積を考える。 日本は 2009 年を見ると、5,489TWh(テラ Wh)の一次エネルギーを輸入して、997 TWh の電力とその他の用途を生産したことになる。この電力量 997 TWh は 9970 億キロワット 時であり、前述した国内総電力需要に相当する。 電力以外の二次エネルギーとしての用途の主なものを拾い出すと、運輸部門 36.0%、建 設業 2.6%、農林水産業 1.9%の移動動力源として合計して 40.5%、したがって一次エネル 456 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ギーの約 20%がある。 その他に、石油の民生部門と天然ガスの民政部門は、都市ガスや灯油などであろう。両 方合わせて、一次エネルギーの約 10%になる。石油と石炭の製造業の用途が約 10%、原材 料の用途が約 10%である。 つまり、二次エネルギーは電力用 50%、輸送用 20%、都市ガス・灯油 10%、製造用 10%、 原材料 10%のようになるであろう。すると 2009 年の電力が 8600 億キロワット時であった から、2009 年の二次エネルギーの総量はその 2 倍で 1 兆 7200 億キロワット時となる。5, 489TWh の一次エネルギーを輸入して、約 3 分の 1 が電力やその他の利用に使用されたと いうことになる。太陽光エネルギーに代替するときはこの有効部分だけでいいから、原材 料用の 10%を差し引いて、1 兆 5480 億キロワット時を太陽光エネルギーに置き換えること を考える。 ところで、第 1 段階の住宅等で 2400 億キロワット時 第 2 段階の未利用地利用で 3500 億キロワット時 の目途がついていたので(考え方として)、新たに必要な土地は 1 兆 5480 億キロワット時-5,900 億キロワット時=9580 億キロワット時 これは 3500 億キロワット時→70 万 ha(7,000 km²) 9580 億キロワット時→191 万 ha(1 万 9100 km²) の土地を必要とする。全国土面積総面積 377,854.64 km² の約 5%となる。もちろん、こ れは太陽光発電の効率を 10%として計算した結果で、これが 20%になれば、 この国土の 5% というのは半分の 2.5%となる(第 4 段階に入るのはまだ、先のことであるから、効率 20% が実現している可能性が高い) 。 つまり、化石燃料の原材料的利用(一次エネルギーの約 1 割)を除いたエネルギーを太 陽光発電で賄うとすれば、第 1 段階の住宅の屋根等、第 2 段階の未利用地利用などの他に、 国土の約 5%(あるいは 2.5%)の土地を必要とすることになる。 ○どうやって国土の 5%(~2.5%)に太陽光発電装置を設置するか わが国の国土利用の現況を見ると、 図 103(図 18-54)のようになっている。 森林 : 66.4%、 農用地 : 13.2%、 、宅地 : 4.7%、道路 : 3.3%、水面・河川水路 : 3.5%、その他 : 8.9%(以上 1998 年の調査による) 。つまり、農用地の 3 分の 1(6 分の 1)ぐらいの土地ということに なる。国土の森林は 66.4%であるが、太陽光発電の実用化によって、農業や宅地としては 使えない傾斜の緩やかな山地が有効利用できることになる(古来、日本は山がちで利用で きるところが少ないといわれていたが、5%も利用できるようになると考えればよい) 。 457 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 103(図 18-54) 日本の国土利用の現況(2010 年) 一般の植物のエネルギー効率(受けた全エネルギーの何%を有効利用しているか)は 0.1 ~0.2%といわれている(もっとも効率のよい C4 植物で 1~2%である)。太陽光発電では、 10%の変換効率の太陽電池モジュール 1 m²当り=1 年間で約 100kW 時の電力であるから、 100kW 時/24×365=0.011、つまり、受けた太陽エネルギーの 1.1%を電力にしている。も っとも効率のよい植物と同じと考えればよい。つまり、あまり、利用できなかった土地に もっとも効率のよい植物を植えて電力を生産する第 2 の農業と考えることができる(バイ オマスの効率は 0.1~0.2 であるから、バイオマスからエネルギー(電力)を得るより、太 陽光発電の方が 10 倍効率がよいことになる(したがって、太陽光発電がグリッドパリティ になれば、サトウキビ、トウモロコシからのバイオマス発電はなくなると考えられる。一 部、廃棄物利用などでは残るだろうが) 。 大型太陽光発電所が吸収するエネルギーは、もっとも効率のよい植物と同じぐらい(1~ 2%)であるから、周辺環境に問題を与えるほどでもない。植物は周辺環境を少し冷やす効 果があるが、太陽光発電もそれと同じ感覚であろう。 わが国は狭い国土といわれ、古来、山まで耕して天まで昇るといわれていたが、スイス・ オランダやその他の国の土地利用を調べてみると、日本よりはるかに狭い土地を有効利用 458 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― している例があり、それにはそれを可能とするシステムが組まれていることがわかった(筆 者が 50 年前に通産省に入ったばかりのころ、産業技術を都市問題・社会問題の解決のため にどのように利用できるかの調査をやったとき) 。 当時、東京周辺でも階段状の土地造成をして、住宅団地として売り出していたが、豪雨 のとき、水分を含んだ鉄砲水が何十戸の団地を一気に流しさってしまう災害が起こってい た(長崎集中豪雨など) 。そこで、たとえば、図 104(図 18-55)の①のように、この報告 書では、このような事故を起こさないようなシステムの提案をしていた。 図 104(図 18-55)の① 国土有効利用システムの開発 この報告書では、わが国は意外と利用されていない傾斜地はたくさんあり、このような システムをつかえば、 (土地造成をしないで)森林にも使われていない、といって、農耕地 にも使われていない土地に(いわゆる里山であるが、最近は(当時よりも)ほとんど使わ れていなくて、荒れ地となっている)太陽光発電システムを設置すれば、たちまち、国土 の 5%ぐらいの土地はでてくるのではないかと思っている(当時、この報告書では緩やかな 傾斜地は国土の 10 数%といっているが) 。 たとえば、図 104(図 18-55)の②は、どこにでもある山から川が流れ、両側に家があ り、その周囲や山や田圃までの間にかなりの日当たりのよい斜面がある。このようなとこ ろは、どのように分類されているのか知らないが、ほとんど利用されていない(利用のし ようがなかった) 。このような土地を使えば、屋根の上より安く施工が出来るし、管理もし やすい。 459 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 104(図 18-55)の② 未利用地の太陽光発電利用 日本に水田稲作が伝わってきてから、日本人は自然を改造して水田を少しずつ増やして きた。田畑耕作地の造成こそ、自然の最大の改造(破壊という人もいる)であったが、日 本人はそれをうまく環境に調和させてきた。そこへ太陽光発電の青黒のパネルを設置する ことは初めのうちは少しは気になるかもしれないが、やがて、これも日本の自然になじむ のではなかろうか(多くの農業用ビニールハウスが立っている地域があるが、あのような イメージになるのであろうか) 。 具体的には、農林業や山林関係、地質学などの専門家によく検討してもらわなければな らないが(最近は地球温暖化の影響か、集中豪雨の頻度が高くなり、深層地滑りなど、山 全体が崩落することが起こっているので、従来以上の条件で考えなければならないであろ う) 。あまり、大規模にしないで、ここで 1000 m²(32m×32m) 、ここで 5000 m²(71m ×71m)というふうに間をあけて考えれば、あまり、環境に悪影響を与えずに設置できる だろう。 10%の変換効率の太陽電池モジュール 1 m²当り=1 年間で約 100kW 時の電力であるか ら(償却がすめば)1000 m²(32m×32m)=1000×100 kW 時×10 円=100 万円 (償却がすめば)5000 m²(71m×71m)=5000×100 kW 時×10 円=500 万円、となり、 経済的な動機は十分ある(農山村に太陽エネルギー生産業を起こせば、農山漁村が再生で きる) 。 図 105(図 18-56)の①は、山間部に設置されたメガソーラー発電所、図 105(図 18- 460 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 56)の②は、全国の高速道路の遮音壁などの未利用部分を太陽光発電用に貸し出すことを 検討している高速道路会社(2011 年 1 月 1 日に朝日新聞から)、図 105(図 18-56)の③ は、その他として考えられる未利用部分を描いている。図 104(図 18-55)で図示したよ うな、補助的なシステム(これを層構造モジュールといっていた)を併用することによっ て、河川堤防、山の切り割りの斜面、 ・・等々、多くのスペースが有効利用できるのではな いか。 高速道路会社の例では、これまで自前で太陽光パネルを道路脇の斜面や、サービスエリ ア、パーキングエリア、料金所の屋上などに設置してきたが、この構想では全国約 9000 キ ロメートルの高速道路網の遮音壁や道路脇の斜面を太陽光発電事業者に貸し出すことを検 討している。アメリカオレゴン州でも 2008 年から高速道路の斜面に太陽光パネルを設置す る事業が進んでいるとのことである。 図 105(図 18-56)の③のような利用方法も、環境になじむようなデザインによっては、 余り気にすることなく、自然環境に定着させることができるのではなかろうか。太陽光発 電システムも研究開発のところで述べたように、現在のような設置型だけでなく、壁に貼 り付ける方法、塗る方法、幕のように垂らす方法、テントのように張る方法なども出てく る。まさに建築士、都市計画者の出番となるのではないか。日本の山河と田園風景のなか に、うまく調和させることができるのではないか。 むしろ、第 1 段階の住宅地等や第 2 段階の未利用地より、やり方によっては、図 105(図 18-56)に描いたような土地利用システムを用いた方が早く安く進むかもしれない。しか もソーラーセルは、間違いなく実物であり(実経済であり) 、1 平方メートルは間違いなく、 それ相当の電気を生み出し、その相当の収益をもたらす(最近はやりの虚業ではない)。立 派なエネルギー産業である。わが国の宿命であったエネルギー資源不足を解決する具体的 手段である。エネルギー資源輸入の何兆円かの外貨を節約し、これから厳しくなる(やが て円安が進み)貿易赤字削減に貢献してくれ電力田であろう。 461 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 105(図 18-56) 有効土地利用システムによる太陽光発電 462 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― いずれにしても、国土が狭い日本でも、化石燃料の原材料使用以外はすべてのエネルギ ー(原発を含めて)を太陽光発電の電力で置き換えることが可能である。 ちなみに、2012 年の輸入総額は、70 兆 6700 億円であったが、そのうち化石燃料とその 製品を抜き出すと 32.6%(23 兆円)を占めている。将来、このかなりの部分が国産エネル ギーに置き換えることができるのである。 ○日本にできることは世界でもできる 太陽は地球上どこでも照っている(両極周辺を除けば)。太陽光発電については、わが国 でできることは、世界のすべての国でもできる。日本の人口密度は 337 人/ km²である。世 界の平均の人口密度は 50 人/ km²である。シンガポール(7,612 人/ km²)などの都市国家 を除けば、どの国でも太陽光エネルギーでやっていけるようになろだろう。 三洋電機で長く太陽光発電の研究をやってこられた桑野幸徳氏は、早くから(1989 年) 、 図 106(図 18-57)のように世界の各地の「砂漠」に大規模なソーラー発電システムを設 置し、その間を電気抵抗ゼロの超電導送電線で連系し、昼の世界で発電した電気を夜の世 界に電力の形でエネルギーを輸送しようという壮大なジェネシス計画(ジェネシスとは旧 約聖書の創世記という意味)を発表しておられる。太陽光発電もコストが下がり、超電導 送電線の実用化実験がはじまったので、いよいよこのような計画も具体化できる時代にな ったと思う。 桑野氏の計画によると、2010 年の全世界の一次エネルギー消費量は 140 億キロリットル (石油換算) 、これを変換効率 10%のソーラー発電システムでまかなうとすると、太陽電池 を設置するに必要な面積は約 800km×800km になる。つまり東京―広島間を正方形にした 面積になる。これは全世界の砂漠の面積の 4%にすぎないという。 463 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 106(図 18-57) ジュネシス計画 現実に、最近 EU 諸国を中心として、図 107(図 18-58)の①のように、ソーラー発電 やソーラー熱発電システムをアフリカの砂漠に設置して、その電力を長距離送電線で輸送 して自国にもってこようという構想が計画されているという。地中海版ジェネシス構想で ある。 464 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 107(図 18-58) 国際的太陽光発電ネットワークの構築 また、図 107(図 18-58)の②のように、古代のシルクロード、北緯 40 度の中国地域 からヨーロッパにかけて、存在する砂漠に大規模なソーラー発電システムを設けようとい う計画もあるという。太陽光発電システムを設置し、各地に電力を発送するとともにその 465 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 電力で地下水を汲み上げ、地域を緑化したり、農業プラントを建設したりしようとするも のである。 筆者も数年前、このシルクロードを西にたどっていったことがあるが、確かに荒涼たる がれきの砂漠で人々はわずかばかりの雪解け水とカナート(地下水道)からの水で農業を しているが、ソーラーシステムを設置して、節水型のシステム農業と情報通信システム利 用の牧畜システム、教育システムをとりいれれば、豊かな生活ができるようになるであろ う。このベルト地帯は古代からの国家や諸民族の興亡をみてきたが、現在でも「不安定な 弧」ともいわれている。それが太陽光技術の発達によって「豊かなサンベルトの弧」に変 る時代がやってきたのである。 孫正義・ソフトバンク社長は、図 107(図 18-58)の③のようなアジアスーパーグリッ ドを提唱している。アジア各国を送電線で結び、風力や太陽光など再生可能エネルギーで 発電した電力を各国間でやりとりする構想である。オーストラリアまで広げたアジア大洋 州電力網の提唱もある。モンゴルなどの無尽蔵な風力、オーストラリアの無尽蔵な太陽光 を使うことで低コストで発電できる。 このような構想は、各国の政治的な信頼関係が築けないままでは難しいとの指摘もある が、政治的にそうであるからこそ、エネルギーとか、食料とか、公害・環境問題とか、災 害援助とか、政治信条にかかわらず必要なことで近隣諸国が連携し、それを 20~30 年続け れば、真の信頼関係ができるのである。 EU についても、 (中世から近世にかけて数百年間戦争を繰り返してきた独仏が)最初は 鉄鋼と原子力の共同組織として実績を上げ、次に経済に進み、その後、通貨に進んだとい う経緯がある(最近の EU の危機は EU に問題があるのではなく、これほどの難民を生み 出した中東に問題がある) 。 これに 50 年かかった。我々は 50 年かけるわけにはいかないが、 どこかから始めなければならない。それはエネルギー・環境・災害であろう。 【5】電力自由化は太陽光発電シフトを促進する ○イギリスからはじまった電力自由化 もともと電力自由化はエネルギー選択とは関係なしに進められてきた。 1970 年代、イギリスは石油危機を契機に“イギリス病”と呼ばれる経済停滞に陥った。 イギリスに多かった国営企業の非効率な経営が、国際的競争力の低下を招き、停滞の原因 となっていると考えたマーガレット・サッチャーは、1979 年に政権につくや規制緩和と自 由化、国営企業や公共サービスの民営化、金融の自由化など、新自由主義的な改革を次々 と断行した。 その流れの中で、90 年には国営であった電力事業(発送電)が、イングランド・ウェー 466 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ルズ地域では発電会社 3 社(うち 1 社は原子力発電会社ニュークリア・エレクトリック社) と送電会社 1 社(ナショナルグリッド社)に分割・民営化、小売を行っていた配電局も 12 の地域配電会社(小売会社)に分割された。また、発電部門と小売部門への新規参入も認 められた。 ○EU の電力自由化―再生可能エネルギー導入を促進した その後、この自由化の流れはヨーロッパの他の国々にも波及した。EU は域内の電力市場 統合に向けて 1996 年に「電力指令」 (小売部門の部分自由化、送電部門の会計・機能分離) を発令、 加盟各国は自由化に取り組まなければならなくなった。 EU 電力指令はこの後、 2003 年(小売部門の全面自由化、送電部門の分離)と 2009 年(送電の所有分離)にも発令され、 域内の電力自由化と市場統合が段階的に進められた。 ドイツには、それまで発電から送配電、小売を手掛ける垂直統合型の大手電力会社が 8 社あり(日本の現在の電力業界と似ていた) 、それ以外に公営の地域電力会社などが全国に 存在していたが、1998 年にエネルギー事業法が改定され、電力市場の規制が一気に撤廃さ れた。 電力自由化と並行するように、EU 各国は再生可能エネルギーの導入を進めていった(そ の結果、地球温暖化対策の京都議定書においても、EU は CO2 削減で高い成果をあげたこ とは述べた) 。ドイツでは電力自由化後に環境税や再生可能エネルギー電気の固定価格買取 制度(FIT)が導入され、2014 年時点で発電電力量の 26.2%が風力やバイオマス、太陽光 発電、水力の再生可能エネルギーからのものになった。一方で、ドイツでは福島原発事故 直後に原子力発電(17 基ある)を 2022 年までに撤廃することを決めた。 イ ー オ ン こうした中で、2014 年にはドイツ最大手の E・ONが、火力発電部門を分社化して切り 離し、再生可能エネルギーと送配電、省エネルギービジネスに特化していくことを発表し た。同じようなことは、ヨーロッパ全体で起っている。スペインのイベルドローラは、原 子力発電所も所有する一方、発電設備容量の 3 割以上が風力発電や太陽光発電となってい る。原子力発電が中心のフランスの EDF(フランス電力公社)も再生可能エネルギーへの 投資を増加させている(オランド大統領は 2025 年までに原子力発電比率を 75%から 50% に下げる方針) 。 こうした動きは、火力発電への環境規制導入、原子力発電の安全基準厳格化や建設期間 長期化といった理由もあるが、FIT の効果で再生可能エネルギー発電の導入が進んだこと からその初期コストが低下しており、また設置までの期間が短く、かつ稼働中に燃料費が 不要(ただしバイオマスを除く)という再生可能エネルギーのメリットが注目されたから である。 このように EU の電力自由化後、FIT 導入や福島原発事故の影響などもあって、この 10 467 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 数年の間にヨーロッパの電力事情は様変わりになった。ドイツでは、電力自由化後に合併 イ ー オ ン や買収が続き、大手電力会社 8 社は、E・ON、RWE、ヴァッテンファル・ヨーロッパ、 EnBWの 4 社に集約されていった。このうち、ヴァッテンファル・ヨーロッパはスウェ ーデン政府系の多国籍エネルギー企業ヴァッテンファルの傘下にあり、EnBWはドイツ 南西部のバーデンビュルテンベルク州が保有する電力会社である。 その一方で、現在のドイツには全国で 1000 以上の発電会社があり、また自治体などが運 営する地域電力会社(発電、配電及び小売)も 900 以上存在する。自由化をきっかけに誕 生したエネルギー協同組合も多く、再生可能エネルギー電力だけを扱う事業者もある。グ リーンピース・エネルギーは、98 年の自由化を契機に、国際環境 NGO グリーンピースが ベースとなって設立された。シェーナウ電力は、シェーナウの電力供給を担うとともに、 全国に再生可能エネルギー100%の電気を販売している。 このようなことで、ドイツでは発電部門、小売部門のいずれにおいても、大手のシェア は低下する傾向にあり、先の大手 4 社が保有する発電設備の比率は 56%、販売量では 45% を占めるに過ぎなくなった(2012 年現在) 。 民営化で先行したイギリスでは、その後、発電部門と小売部門に国外資本も含む多くの 参入があり、買収や合併も盛んに行われた結果、2016 年現在、事実上大手 6 社に集約され イ ー オ ン ている。うちわけは、ドイツの E・ONとRWE系、フランスの EDF 系、スペインのイベ ルドローラ系と海外勢が 4 社を占め、イギリス系はスコテッシュ・アンド・サザン・エナ ジー(SSE)と新規参入組のブリティッシュガスの 2 社となった。ちなみに送電部門は、 イングランド・ウェールズでは国営のナショナルグリッド社が、スコットランドでは SSE とスコテッシュ・パワーが担当している。 原子力に特化したフランスは、株式会社化して株式も公開したが、実質国有の EDF1 社 体制のままである(前述したように原子力発電の比率は下げる) 。スペインはイベルドロー ラを除く 4 社は外資系となった。イタリアでは、国営企業であったエネルが電力事業を独 占的に営んでいたが、2007 年に全面自由化され、エネルの政府持ち株比率も 25%ほどまで 低下している。デンマークでは北海油田の石油・ガス事業を手掛けていた国営エネルギー 企業 DONG エナジーに集約、スウェーデンも前述のヴァッテンファルが唯一の国内系であ る。 電力自由化は電力料金の低下が期待されていたが、結果は必ずしも下がっておらず、む しろ上昇している国がほとんどである。ドイツの家庭用電気料金は自由化後に一時低下し たが、その後上昇に転じ、現在は自由化以前より高い水準にある。これには自由化後に環 境税や再生可能エネルギー電気の FIT が導入され、その賦課金や系統強化のためのコスト 468 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― かさ が 嵩 んだこと、燃料価格の上昇なども理由として挙げられる。イギリスでも自由化後の 2004 年から 14 年の間に電気料金は 2 倍以上になっている。その中で、電気とガスを組み 合わせた料金メニューで顧客を増やしたブリティッシュガスやファースト・ニューティリ ティのような企業も出てきている。 このようなことで、電気料金は複合的な要因で決まるので、電力自由化は、中長期的に 見ると料金の引き下げにつながるとは限らない。しかし、電力自由化は再生可能エネルギ ーなどの新規企業の参入や現状維持に固執しがちな既存電力業界を再生可能エネルギーな どにシフトさせるのに大きな力を発揮したとみることができる。 ○後退したアメリカの電力自由化 では、アメリカでは電力自由化はどうなっているか。1980 年代ロナルド・レーガン政権 以来の規制緩和、市場開放の流れを受けて、98 年にカリフォルニア州は州内の電力市場の 全面自由化にに踏み切った。ところが、2000 年の夏の猛暑が原因で電力不足に陥り、電気 の卸価格が高騰してしまった。これにはその後粉飾会計などのスキャンダルで破綻したエ ネルギー企業エンロンが、循環取引などで価格をつり上げたことも原因の一つとされてい るが、この影響で州内の 2 大電力会社が破綻するなど大混乱に陥った。この失敗でカリフ ォルニア州は 2002 年に自由化を一時停止して、規制市場に戻してしまった。 このカルフォルリア電力危機後に、アメリカでは自由化スケジュールを先送りしたり自 由化を撤回したりした州が出て、現在全米で自由化されている州は東部の 11 州(+ワシン トン DC)とイリノイ、テキサスの 13 州であり、これは 2003 年当時(17 州)より後退し ている。それ以外の州では、基本的に垂直統合型の電力会社が発電・送配電・小売事業を 地域ごとに一体的に行っている。 ○これから始まる日本の電力自由化 さて、それでは日本はどうか。戦後(1951 年)、日本は発電から送配電、小売までを一 貫して独占的に手掛ける垂直統合型の電力会社 10 社(北海道、東北、東京、中部、北陸、 関西、中国、四国、九州、沖縄)が、地域を分けて並存してきた。産業と生活に不可欠の 電気を安定的に供給するということで、民間企業でありながら、電力会社には事業の独占 が認められてきた。 そこには競争は存在せず、電気料金は総括原価方式と呼ばれるしくみで決められる。こ れは燃料費、減価償却費、人件費などの営業費に事業報酬を加え、そこから控除収益を差 し引いたものを総原価として、それに基づいて電力単価を算出できるという制度で、一定 の利益が最初から上乗せされている。 事業報酬は、特定固定資産(発電所、送電線など) 、建設中資産(同)、原子燃料資産、 特定投資、運転資本などの事業資産価値の合計に、決められた事業報酬率を掛けて算出さ 469 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― れる。このように事業資産に対して一定割合で報酬が保証されるから、発電設備などを持 てば持つほど報酬が大きくなる。原子力発電のような莫大な費用がかかる設備を持てば、 その分事業報酬も膨らむことになるわけである。 1980 年代のイギリス・サッチャー首相、アメリカ・レーガン大統領の新自由主義の流れ を受けて、日本でも中曽根首相のときに、国鉄や電電公社、その後、小泉首相のときに郵 政事業などが民営化された。民間企業でありながら、国の庇護を受けるかたちで営まれて きた電力事業にも、こうした動きは波及し、1995 年にはまず発電部門が自由化されて、電 気を電力会社に卸す、独立発電事業者(IPP)の参入が可能となった。 この規制緩和によって自家発電設備をもつ工場などが、余剰電力を電力会社に販売した り、風力発電の電気を電力会社に売ったりすることも可能になった。しかし、買う方はこ れまでの 10 電力会社しかないから買い手の思いのままで現実にはあまり進展しなかった。 10 電力会社の営業地域を越えて電気を販売することも可能であったが、実際にはほとんど そのような競争は起きなかった。 2000 年には、小売部門の自由化、最初は大工場などが使っている 2 万 2000 ボルト以上 の受電電圧で 2000 キロワット以上の特別高圧電力が開放された。続いて 2004 年には 6600 ボルト、500 キロワット以上の高圧電力までが自由化となり、さらに 2005 年には 50 キロ ワット以上に範囲が広げられた。この間、特定規模電気事業者(PPS)と呼ばれる発電と小 売を行う新電力会社の参入はあったが、そのシェアはなかなか伸びなかった。 め ど その後、2007 年を 目途 に家庭向けまでの全面自由化に向けた検討を行うというスケジ ュールが決められていたが、これは結局見送られてしまった。全面自由化が見送られたの は何故だったか。2005 年 12 月、資源エネルギー庁の電気事業分科会(当時)に提出され た資料には、電力需要の伸びが頭打ちになる中で完全自由化が進むと顧客を新電力に奪わ れるだけでなく、既存電力会社間も競争関係となって、初期コストが高く建設期間が長期 にわたる原子力発電のリスクが顕在化するという懸念が示されていた。このようなことで、 結局、全面自由化は政官界も含めた電力一家、そして原子力ムラを守るために先送りされ たといわれていた。 それが 2011 年 3 月の福島原発事故によって様相が一変した。硬直した電力系統の運用も あって電力不足をきたし、輪番停電、計画停電を余儀なくされ、電気料金値上げが相次い かじ だ。こうした対応から電力会社、電力業界への批判が強まり、全面自由化へと 舵 を切らざ るを得なくなった。 《発電事業と小売事業の全面自由化》 民主党政権下の 2012 年に、資源エネルギー庁に電力システム改革専門委員会が設置され、 翌 2 月に報告書がまとめられた。これに基づいて 2013 年 4 月に「電力システムに関する改 470 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 革方針」が第二次安倍内閣によって閣議決定され、発電事業と小売事業全面自由化の方向 性がようやく決定づけられた。 この全面自由化では、既存電力会社のもつ発電事業、送配電事業、小売電気事業のうち、 送配電事業を将来的に別会社として切り離す“法的分離”が義務づけられた。これによっ て中立性を確保し、既存電力会社以外の発電事業者や小売電気事業者が自由かつ公平に送 配電網を利用できるようにするためである。小売電気事業者は需要家(顧客)から電気料 金を回収し、この中から発電事業者に支払うとともに、送配電事業者に託送料金を支払う。 託送料金とは、離れたところにいる顧客に電気を販売する場合、発電所と顧客の間は現在 の電力会社(将来の送配電事業者)の送配電網を使わざるを得ない。この際に託送料金と 呼ばれる、送配電線の使用料を支払うのである。この法的分離は 2020 年までに完了するこ とになっている。 発電事業(届出制)と小売電気事業(登録制)は一定の条件を満たせば参入は自由で、 既存電力会社と同じ立場で競争できることになる。発電事業者は電気を小売電気事業者に 卸すとともに、自ら小売電気事業者となることもできる。小売事業者は発電事業者や日本 卸電力取引所から電気を調達すればよいため、発電設備をもつ必要はない。 この全面自由化によって、これまで既存電力会社が独占していた、コンビニや事業所な どの低電圧力契約と家庭向け電灯契約、約 7.5 兆円(需要家数は全国で約 8400 万)の市場 が新たに開放されることになった。 送配電事業者には送配電線網の建設・保守・電力系統(グリッド)全体での安定的運用 の義務を課し、その代わり送配電線網の投資回収を確実に行うために、地域独占と総括原 価方式は保持されることになった。つまり、これまでの全国 10 の既存電力会社営業地域内 では、原則としてこれまで通り一つの会社が送配電事業を受け持つことになる。 たとえば、小売電気事業者(たとえば東京)は、異なる送配電会社の営業地域の発電事 業者(たとえば北海道の太陽光発電の電気)からも電気を調達できるようになる。この場 合、販売する地域の送配電会社に託送料金を支払えばよい。現在の宅配業者の配送料のよ うに遠距離ほど料金が高くなるということもない。電気の場合、北海道の電気が直接東京 の需要家に届くわけではなく、量を一致させるかたちでバーチャルな取引をするのである。 小売電気事業者はつねに一定の幅で使った電力量と発電した電力量が見合うように調整し なければならない(同時等量) 。同時等量が成立していれば、遠く離れた場所で発電された 電気であろうと販売することができるのである。 全面自由化への移行を前に、2015 年 9 月、電力取引監視等委員会が発足した。同委員会 は経済産業大臣の直属で、いわば電力市場のお目付役である。発電事業者、送配電事業者、 小売電気事業者すべてを監視し、報告徴収や立ち入り検査を行い、問題があれば業務改善 471 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 勧告を出す権限を与えられている。小売料金や卸料金、託送料金が適正であるかのチェッ ク、事業者間の紛争処理にも当る。同委員会の機能の中で重要なのが、送配電部門の中立 性確保のための行為規則である。 自由化にともない、難しい系統運用を送配電会社をまたいで行うことが必要になったの で、2015 年 4 月、電力広域的運営推進機関が発足した。同機関は、送配電会社の営業地域 を越えて各事業者からの情報を一元的に管理して需給調整を行い、全国規模での系統運用 を図ることになっている(実際の運用はそれぞれの送配電会社が連携して行う) 。 《全面電力自由化を開始》 以上のようなことで、経済産業省は 2015 年 8 月から小売電気事業者の登録申請受付を開 始し、2016 年 4 月より、全面電力自由化を開始した。小売電気事業者として 210 社が登録 されている。それ以前に特定規模電気事業者(PPS)として登録した事業者(15 年 12 月現 在 802 社、小売電気事業者と重複あり)も含め、多彩な事業者が新たな市場に参入してい る。 グリッドパリティが達成されるまでは、固定価格買取制度(FIT)は維持されるであろう。 これまでは既存電力会社に FIT 電力の買取義務があったが、全面自由化後は小売電気事業 者に買取義務が課せられる。ただし、新電力会社に変えた場合でも従来の電力会社にその まま買い取ってもらってもよい。要するに、買取価格上乗せ分は賦課金(すべての電気使 用者に賦課)から支払われるので FIT 電力は誰が買い取っても同じという考えである。 《都市ガス(一般ガス)小売の全面自由化》 2017 年度から、都市ガス(一般ガス)の小売も全面自由化されることが決まった。ガス 事業には、海の近くに LNG(液化天然ガス)基地を持ち、海外から輸入された LNG を導 管(パイプライン)を通じて需要家に供給する一般ガス事業と、ガスボンベで戸別に供給 する LP ガス(液化石油ガス)事業、集合住宅・団地などで LP ガスを導管で各戸に供給す る簡易ガス事業がある。 このうち、LP ガス事業についてはすでに 1996 年に許可制から登録制に変ったことから 新規参入がしやすくなっている。都市ガスについても 95 年から段階的に自由化が進み、 2007 年以降は年間契約量 10 万立方メートル以上の需要家への供給が自由化されている。 これはガス販売量の約 6 割を占めており、ちょうど小売全面自由化前の電力の状況と似て いる。 いずれにしても、2017 年 4 月にこの一般ガス事業が全面自由化され、小口・家庭用の小 売のほか、大手 3 社(東京ガス、東邦ガス、大阪ガス)のガス導管を対象に、送配電事業 の分離と同様の、ガス導管分離が実施されることになった。さらに、22 年には導管部門の 法的分離も行われることになっている。つまり、電気と同じように、ガス導管会社に託送 472 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 料金を払うことで、新規参入事業者が需要家にガスを販売することができるようになるの である。 このように日本においても、電気、ガスの全面自由化が実現することになった。ヨーロ ッパの例にみるように、新電力を巻き込んで企業の合併や買収が起るだろうか。ドイツの ように再生可能エネルギーへのシフトが起きるであろうか。エネルギーは長期的にみて経 済性、コストに左右されるので、自由化されたエネルギー体制とは、経済性がストレート に反映される体制といえよう。 《太陽光発電網の建設は最後のインフラ投資》 太陽光発電は、グリッドパリティに達するまでは、FIT 制度に頼らざるをえないが、や がて、グリッドパリティを越えたら、加速度的に普及していくであろう。地球温暖化がひ どくなる前にその時期がくるように、今やるべきことは太陽光発電技術開発をさらに促進 することとその普及のための政策を総動員することである。 過去の歴史を見ると、大型インフラストラクチャーをつくったときに国は高度経済成長 をとげている。イギリスは(第 1 次)産業革命のときに鉄道、道路、運河などのインフラ を整えたときである。アメリカは第 1 回目が鉄道をつくったとき、第 2 回目は第二次世界 大戦後で高速道路網を全国に張り巡らしたときである。日本は戦前は鉄道敷設のとき、戦 後はやはり道路網を張り巡らしたときである。 この度の太陽光発電システムの全国展開は最後のインフラ整備となる(もう、情報通信 も道路も鉄道も終っている) 。これから人口減少の時代に経済が長期プラスになる可能性は、 この太陽光発電インフラ整備のチャンスしかない。 いずれにしても、この太陽光発電インフラ整備とこの後述べる第四次産業革命のチャン スを活かして、1000 兆円を越えた国の借金を少しでも減らした形で後世に引き渡したいも のである。 【6】再生可能エネルギーの現状 ○再生可能エネルギーとは 今までは再生可能エネルギーのうち、太陽光発電を中心に述べてきた。ここでは、再生 可能エネルギー全般について述べる。 再生可能エネルギー(renewable energy)とは、非再生エネルギー(枯渇性資源。化石 エネルギーやウラン利用の原子力発電)に対するエネルギーとして考えられるもので、本 来、 「絶えず資源が補充されて枯渇することのないエネルギー」、 「利用する以上の速度で自 然に再生するエネルギー」という意味の用語である。実際には自然エネルギー、新エネル ギーなどと似た意味で使われることが多い。 473 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 具体的には太陽光、風力、波力・潮力、流水・潮汐、地熱、バイオマス等、自然の力で 定常的(もしくは反復的)に補充されるエネルギー資源より導かれ、発電、給湯、冷暖房、 輸送、燃料等、エネルギー需要形態全般にわたって用いられている。再生可能エネルギー は、地下資源価格の高騰、枯渇性資源が持つ有限性への対策、地球温暖化への対策・緩和 策等の目的のため、近年利用が増加している。 ○すべての源は太陽 再生可能エネルギー(renewable energy)とは、 「絶えず資源が補充されて枯渇すること のないエネルギー」 、 「利用する以上の速度で自然に再生するエネルギー」であるというが、 それはどうしてか。もちろん、そのすべての源は太陽である。太陽系にある地球は 46 億年 前に誕生したときから、すべてのことが太陽の影響下にある。 太陽は地球に向けて、太陽に面した地球の表面 1 平方メートル当り 1.36 キロワットのエ ネルギーを送り出している。その総量は約 170 兆キロワットという膨大なものだ。 しかし、170 兆キロワットのエネルギーが、全部、地表に達するわけではない。その約 30%にあたる約 52 兆キロワットは大気圏上層部で反射して、ただちに圏外に去ってしまう といわれている。残りの約 70%にあたる約 121 兆キロワットが大気圏内の水滴やチリに当 って反射され、かなりの部分が圏外へ逃げ去り、地表まで到着するのは約 81 兆キロワット である。 ところが、この 81 兆キロワットも、そのうちの 29 兆キロワットは砂漠、海面、その他 で跳ね返され、輻射熱として大気圏外に去るといわれている。 こうして、結局、約 52 兆キロワットが地表に残ることになり、さまざまな自然現象を引 き起こす大仕事をすると同時に、人間をはじめとする多くの生物に利用されているわけで ある。 太陽が 1 時間当っているときのエネルギー量を 100%使用できるとしたら、170 兆キロ ワットアワーになる。 また、太陽が 1 時間当っているときの地表に残るエネルギー量を 100%使用できるとし たら、52 兆キロワットアワーとなる。 一方、人類の 2009 年のエネルギー使用量は 121.5 億石油換算トンであった。1 石油換算 トン=1.16×10 の 4 乗キロワットアワーであるから、121.5 億石油換算トン×1.16×10 の 4 乗=1.409×10 の 12 乗キロワットアワー これは、太陽が 1 時間当っているエネルギーの 0.8%である。 また、太陽が 1 時間当っている地表のエネルギーの 2.7%である。 1 年間は 365 日×24 時間=8760 時間であるから、これで、また、割ると、地表のエネルギ ーの 0.0003%、いずれにしても、我々が 1 年間に使うエネルギーは、太陽が地球に送って 474 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― くるエネルギーと比較すると、微々たるものであることがわかる。つまり、地球に当る太 陽エネルギーの利用については、ほとんど限界がないことがわかる(無尽蔵に近く使える)。 この地表に達した 52 兆キロワットの太陽エネルギーが我々の住む地表や海面にさんさん と降り注ぎ(その一部を我々は太陽光発電で電気エネルギーに変えて利用することができ るようになったし、将来は水素も採れるようになる)、この地上に達した 52 兆キロワット のおよそ 8 割にあたる 40 兆キロワットは水を気化させ、残りの 12 兆キロワットは空気の 対流を起こす(この気化・対流の中から、水力、風力の得やすいところで水力、風力エネ ルギー利用をはかる) 。 さらに地表に達した太陽エネルギーは水を媒体として地球表面を流れ、動植物を育て(農 林漁業のシステム化、バイオマスの利用を図る) 、自然を浄化する(さらに効率的水処理シ ステムの導入を図る) 。そして、再び湖や海から水を蒸発させていく。 地球では、水が大きな役割を果たしている。太陽エネルギーを源とするすべてのエネル ギーを地球上のあらゆるところへ運び、あらゆるかたちのエネルギーを供給しているのは 水である。 太陽エネルギーによって、大気、陸地、海洋と地球規模で循環する水(大気中の水蒸気は 1 年間に約 41 回循環している)と、太陽エネルギーそのものの一部を使って、植物は絶えず 光合成を行ない、炭水化物をつくりだす。 蓄えられた炭水化物は、まず、植物の生命を維持するための「食物」としてその一部が 使われる。その場合には、光合成の反対の反応が生じて酸素が取り込まれ、二酸化炭素が 排出される。植物は太陽エネルギーが得られる昼間に光合成を行ない、夜間は炭水化物の分 解によって植物自身にエネルギーを供給し、体内で新陳代謝や成長をなしとげる。 自分自身の必要以上に炭水化物やその他の有機物を蓄えた植物は、あるいは動物の食糧 になったり、あるいは人間にとっては薪のようなかたちで燃料になったりする。つまり、 動物や人間は食糧を食べることによって、生存や活動のためのエネルギーを得る。また、植 物体を乾燥させて燃やせば、これまた、エネルギーが得られる(バイオマスや薪エネルギ ー) 。 動植物は寿命が尽きると、その死骸は土壌や水系のなかに放出される。これらの有機物 は土壌中や水中の微生物などによって再び分解され無機物となるか、植物の栄養となるよ う再合成される(これらの土壌中・海中のすべてのリサイクルも太陽エネルギーによって 行われる) 。 こうして生じた無機物あるいは再合成された有機物は、再度、植物の養分となり、植物 体のなかで太陽エネルギーによってまたまた有機物に変えられ、植物体を構成していく。 こうような意味で、土壌および土壌中(海中も同じ)の微生物の役割は大きい。動物界、植 475 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 物界、微生物界の連携があってはじめて有機物の拡大生産が続けられるのである。光合成 によって出来た有機物が土壌中に少しずつ蓄積され、土壌がつくられ、再びそこに植物が育 つというメカニズムができあがったことによって、地球上の植物が増えていったのである。 こうしてみると、確かに食糧もエネルギーも、もとをただせば、太陽エネルギーからの 光合成を経て得られるものだ。 これらの自然のシステムの結節点に人類は社会システムを備え、それから食糧もエネル ギーも自然の流れの中で得るのであるが、やがて、その社会システムもすべて太陽光発電 で得られる電気で動かすことができるようになる。そういうことで、なんといっても、太 陽エネルギー利用の本命となるのは、太陽光発電であろう。我々人類はついにその段階に 到達したのである。 (再生可能エネルギーは、すべて太陽エネルギーが源と言ったが、厳密に言うと、地熱 だけが地球創成期から地球内部に蓄えられた発熱体と地球内部の放射性物質の崩壊熱など が、太陽起源の熱に加わっている) このような太陽エネルギーの循環の中から、具体的には、下記のようなエネルギー資源 が利用できる(人類の科学技術の進歩にしたがって、利用できる範囲や利用効率が向上し ていく) 。 太陽光・電磁波 ・太陽光発電(光 → 電気)―太陽電池を利用し、太陽光を直接的に電力に変換する。日 光の当たる場所ならばどこでも発電できる一方、天候に影響を受け、夜間は発電できない。 携行できるものも多く、僻地や人工衛星などでも使われる。散乱光でも利用できるほか、 温度特性上は気温が低い地域の方が有利である。 ・採光(光 → 光)―太陽光を直接窓などから入れる方法の他、反射板や光ダクト等の採 光装置で室内に取り込み、照明として利用する。 ・温室(光 → 熱)―太陽熱を取り込み逃がさないことで保温を行う。ガラスやビニール 製のものを地上に設置する場合が多いが、地面に穴を掘って採光部以外を地下に設置する ことで土の断熱効果や地中熱による保温効果を得たり、蓄熱壁 で囲うことにより保温性を 大幅に高めた太陽温室(日光温室)がある。パッシブソーラーと共通する方法である。 ・太陽熱温水器(光 → 熱)―黒いパネルで集熱し水を温める。変換効率が 6 割程度と高 い。比較的安価である。 ・太陽炉(光 → 熱)―反射板やレンズによる集光で高熱を得る。小型のものはソーラー オーブン(ソーラークッカー)と呼ばれ、数百度程度の熱を得て調理に用いる。周囲が非 まぶ 常に 眩 しくなり視力障害を防ぐためサングラスが必要である。天候に左右され、快晴でな いと十分な熱量が得にくい。 476 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ・太陽熱発電(光 → 熱)―反射板等による集光により蒸気を発生させ、タービンを回し て発電する汽力発電である。溶融塩等を用いた蓄熱により 24 時間発電が可能である。直射 日光が多く、平均気温が高く、大面積の土地が確保できる条件に向く。条件が良ければ太 陽光発電よりも安価である。 ・ソーラーアップドラフトタワー(光 → 熱)―膜の下で暖めた空気を煙突に導いて上昇 気流を起こし、煙突内部の風力発電機を回す。煙突が高いほど上空との気圧差が高まり大 きな風力を得られる。太陽熱と風力のハイブリッド型発電である。 ◇気流 ・風車(動力→動力)―農業揚水の動力(風車) ・帆(動力→動力)―船の推進力 ・風力発電(動力 → 電力)―風を羽に受け原動機で発電する。年間を通じて安定的に吹 く風のある地域で有利である。風況さえ良ければ利用でき、比較的安価である。バードス トライクや低周波といった問題があり、建設には生活環境や生態系に配慮が必要である。 自然保護区への設置が制限される場合もある。現在のところ、水力以外の再生可能エネル ギーによる発電では全体の約 75%、再生可能エネルギー全体では約 6%程度を占めている。 ◇水流 ・小規模水力発電、マイクロ水力発電(重力ポテンシャル→ 運動 → 電力)―小規模な流 水を利用する。貯水設備の設置による環境破壊が小さい。高低差の大きい地形に多い沢な どのほか上下水道や用水路など設置可能場所が多い。 ・大規模水力発電、貯水式水力、ダム式水力(重力ポテンシャル → 運動 → 電力)―ダ ムなどに貯水した水でタービンを回し発電する。再生可能エネルギー発電の中で、現在の ところ、最大で同エネルギー全体の 90%以上、発電全体でも 18%程度を占める。ダム建設 による環境への影響が大きい。 ・波力発電(動力 → 電力)―海面の上下動により装置内部に気流を起こしタービンを回 し発電するものと、効率を上げるため内部に抵抗の大きい液体を満たし水流を発生させタ ービンで発電するもののほか上下動をジャイロで回転に変換するものがある。灯浮標や海 洋気象ブイなど海上無人機器の独立電源に広く利用できる。イギリスでは大型の発電設備 が開発されつつある。 ・潮力発電(重力ポテンシャル → 動力 → 電力)―潮汐による海水の定期的な移動であ る潮流を利用して水車を回し発電する。河口にダムを設置するものと海水の潮汐流を利用 するものがある。 ・海洋温度差発電(熱→電力、熱+電力→電力)―水流ではなく、海の表層と深層の温度差 を利用して発電し、作動流体ポンプが必要な方式と不要な方式がある。コストと性能に課 477 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 題があり、研究段階である。 ◇バイオマス ・薪―木材・竹・ヤシガラなど植物を燃やし熱を得る。 ・炭―木材・竹・ヤシガラなどを不完全燃焼により炭化させた炭素の塊である。木炭が多 く、比較的軽く燃えやすい。 ・バイオコークス―植物性バイオマスを高密度に固形化したもの。炭化させないため、燃 料化の際に減量が殆ど起きない。石炭代替燃料等に利用される。 ・糞燃料―動物の糞を太陽熱で乾燥させ燃料として利用する。牛糞が多く、よく燃える。 燃料以外の用途として壁材にも利用される。 ・バイオガス―糞尿や汚泥等を発酵させ発生したメタンを燃料やしたり、化学製品の原料 として利用する。 ・バイオエタノール―穀物・果実・植物繊維等に含まれるブドウ糖や炭水化物を発酵また は化学反応させてエタノールとして利用する。 ・バイオディーゼル―軽油の代替燃料で、菜種油・パーム油・アブラギリ(ヤトロファ等)・ ミドリムシ等の油脂を精製した軽油に近い性質の燃料を利用する。 ・バイオ重油―重油の代替燃料で、オーランチオキトリウム(微生物。石油を作る藻類) ・ ボトリオコッカス(緑藻の一種)等から採れる重油に近い油脂を利用する。 ・バイオマス燃料―薪やバガスなどバイオマス燃料のみで走行可能な蒸気機関車があった。 ・木炭―不完全燃焼させて水蒸気と反応させて一酸化炭素と水素を主成分とする可燃性ガ スにより内燃機関を作動させる「木炭自動車」がある。 ◇地熱 ・温泉(熱→熱)―地熱により暖められた温水を直接間接的に利用する。入浴や治療のほ か調理や暖房にも利用できる。 ・地熱(熱→熱)―地熱を直接給湯や暖房や調理等に利用する。 ・地熱発電(熱→電力)―地熱で蒸気を発生させ発電する。 ・地中熱(熱→熱、熱+電力+気化現象→熱)―熱伝導や地中熱ヒートポンプを用いて浅い 地下と外気との温度差を利用し給湯・暖房等に用いる。 ◇空気熱 ・空気熱(熱+電力+気化現象→熱、熱+電力+化学エネルギー→熱)―空気熱ヒートポンプ を用いて空気熱を移動させ給湯や冷暖房に用いる。欧州連合では性能等の要件を満たした ものを統計に含める。 ・水熱(熱→熱)―大気と水との温度差を利用し食品の冷却や解凍に利用する。 ・雪氷熱利用(熱→熱)―冬場地下施設、コンテナや、排雪場に蓄えた雪氷を夏場のマン 478 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ションや宿泊施設、データセンターの冷房に利用する。冬場の農作物を保存する雪室は断 熱効果による保温効果も持つ。氷の保存を目的にした氷室もある。内部に氷のある天然の 風穴では周囲の気温まで下げる場合がある。 ・風窓(風力+気化現象→熱)―各部屋から屋上に伸びた煙突の上に風受け(バッド・ギア) を設置し海風を屋内に取り込み冷房効果を得る。乾燥地域の海沿いで用いられる。 ◇化学ポテンシャル ・浸透圧発電(化学エネルギー+浸透膜→重力ポテンシャル→水流→動力→電力)―実証試 験段階である。海水と真水の塩分濃度差を利用して浸透圧による水流を利用してタービン を回し発電する。 以上のような再生可能エネルギーの多くに共通する特徴としては、下記のようなことが 上げられる。 ◇長所 ・人為的な補充の必要がなく半永久的な利用が可能である。 ・運用時に二酸化炭素等の温暖化ガスの排出量が少ないものが多い。 ・設備の耐用年数内に得られるエネルギーに対する温室効果気体の排出が化石燃料を用い た場合に比べ非常に少なく済む。 ・エネルギーを需要地近辺で調達できる(エネルギー自給率の向上、燃料等の調達コスト の削減、送電・輸送にかかるエネルギー消費量の縮減) 。 ・焼却灰や放射性廃棄物等の有害物質の排出を抑制できる。 ・小規模設備は移設・転売・修理・廃棄・リサイクルなどが容易である。 ・小規模設備ほど工期が短くなり、需要量の予測のずれによるリスクを低減できる。 ・設備が比較的単純な仕組みのため、修理等が比較的安価で容易であり稼働可能率が高く なる。 多数設置する場合一部が使用不能になっても影響が小さく、全体的な信頼性が高くなる。 災害などの有事においても影響(供給停止の範囲や期間)が抑制できる。 化石燃料に代わる新たなエネルギーや製造産業になる。 ◇短所、課題 ・エネルギー資源が偏在し適地も偏在するため事前の調査が必要である(ただし、太陽光 発電は地球上、偏在がもっとも少ないエネルギーといえる) 。 ・既に利用されている用途との競合による価格高騰や紛争の発生の可能性がある(バイオ エタノールへの転用による穀物・果実の高騰、地熱発電に温泉の熱を利用することによる 観光業との競合、潮力発電・波力発電・海流発電と漁業権の競合など) ・生産規模が小さいことによる環境負荷の増大や価格競争力の弱さ(製造工場が小さいた 479 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― めに排出される二酸化炭素などの処理が不十分になりがちで量産効果が出せず石油に比べ 高価になる。バイオエタノールなど) 。 ・環境基準による設置制限―国立公園内における開発の制限(地熱発電、水力発電) 。 ・時間帯や季節、天候による出力変動や資源分布地域の偏在によるエネルギー需給ギャッ プがある(風力発電の出力変動、太陽光発電の出力変動などの例がある。蓄電技術が向上 すれば解決出来るが、現在のところ、まだ、経済的ではない)。 ・エネルギー密度が低いことによる物理的な制限がある。ただし、地熱発電や太陽熱発電 などはエネルギーの集中がかなり可能である。 ・原子力や火力と比べた際の発電コストが高い(風力発電などは条件の適したところでは コストが低くなっている。太陽光発電は技術進歩と量産化でコスト低減が急速に進んでい るので、やがて既存電力より安くなる) 。 ○世界での再生可能エネルギー導入の拡大 再生可能エネルギーはエネルギーの自給率を高めるほか、IPCC 第四次評価報告書、スタ ーン報告などでも地球温暖化への対策の一環として挙げられ、その効果は数ある緩和手段 の中でも最も大きい部類に入るとされている。また近年は関連産業そのものが急速に拡大 しており、環境対策と同時に景気の刺激を狙った政策を打ち出す国も見られる。このため 今後の市場拡大やコスト低減を見越して、世界各地で導入の動きが活発である。 再生可能エネルギーは 2008 年時点で全世界の最終エネルギー消費量の約 19%を占めて いた。発電分野では 18%を再生可能エネルギーが占め、その多くが水力で、それ以外の風 力・太陽光・地熱などは全部合わせて約 3%であった。近年は風力発電など、大規模水力発 電以外の再生可能エネルギーの利用が伸びている。 世界で新設される発電所に占める割合も近年急速に増えており、2006 年には発電量ベー スで 6%であったものが、2010 年には同 30%(設備容量ベースでは 34%)に達している(大 規模水力を除いた値) 。 特に風力発電は急速に伸び、 2010 年には世界の電力需要量の 2.3%、 2020 年には 4.5~11.5%に達すると言われる。 2010 年の再生可能エネルギーへの投資額は前年から 32%増加し、世界で 2110 億ドルに 達したと推定している。とくに途上国における新規投資額(720 億ドル)が伸びており、 2010 年は初めて先進国での新規投資額(700 億ドル)を上回った。また 2010 年は新規設 備への投資額で初めて化石燃料を抜き、1870 億ドルに達したと推定されている。 国際エネルギー機関 (IEA) が 2008 年 6 月に発表した報告書では、地球温暖化やエネル ギー資源の枯渇に対して何も手を打たなかった場合は石炭と天然ガスの利用量が増え、温 暖化ガスの排出量が倍以上に増加し、再生可能エネルギーの導入量も殆ど伸びない可能性 を指摘している。 480 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 一方、世界が積極的に対策を進めた場合は、2050 年までにエネルギー部門からの温暖化 ガスの排出量を半減すると同時に、再生可能エネルギーが発電量の 46%を占める見通しを 提示している。 ヨーロッパでは 2008 年 12 月、2020 年までに一次エネルギーに占める再生可能エネルギ ーの割合を 20%にする包括的な温暖化対策法案を可決した。中でもドイツは 2010 年の目標 を 3 年前倒しで達成するなど以前の予測を上回る勢いで導入を進めており、関連産業への 投資額は年間 100 億ユーロを超える規模に成長している。2050 年までに電力の 50%を再生 可能エネルギーで供給するという以前の目標は、2030 年頃に達成される見通しである。ま た一次エネルギー供給においても、2050 年には再生可能エネルギーが 50%以上を占める見 込みである。 アメリカにおいては、2008 年 5 月にアメリカ・エネルギー省が 2030 年までに総需要の 20%を風力発電で供給可能との見通しを示し、新規導入量が 2007 年時点で他のすべての方 式の発電所を凌駕するなど、風力発電の導入が急速に進んでいる。また続けて 2008 年 6 月 には太陽光発電と太陽熱発電で 2025 年までに電力の 10%を賄える可能性が示されている。 2010 年は太陽光発電の年間導入量が 1GW を超え、2012 年には 2GW に達する見込みであ る。 以下、主な再生可能エネルギーの普及状況を述べる。 【①太陽光発電】 太陽光発電は、世界全体(IEA 諸国)で約 8,900 万 kW(2012 年)が導入されている。 太陽光発電の導入量は、2004 年までは日本が世界最大だったが、ドイツ及びスペインで 高額、かつ長期間にわたる固定価格買取制度(FIT)が実施されたことにより、両国での導 入量が急速に拡大してきた(図 108(第 222-2-9)参照)。その経緯はすでに述べたのでこ こでは省略する。 481 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 108(第 222-2-9)世界の太陽光発電の導入状況(累積導入量の推移) (出典)IEA「PVPS 2013」を基に作成 ○各国とも太陽光発電に力を入れている 国連は、「グリーンジョブ・イニシアチブ」(国際労働機関 ILO のレポート) 、 「グリーン 経済イニシアチブ」 (国連環境計画 UNEP のレポート)などを提出している。これらのレ ポートをふまえて、パン・ギムン国連事務総長は「グローバル・グリーン・ニューディー ル」 (GGND)を、 「オバマのアメリカ」に期待する考えを表明した。 また、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)も、温室効果ガスを半減させるため に、2030 年まで自然エネルギー分野に毎年 5000 億ドルもの巨額投資が生じるというレポ ートを提出した。 こうした世界的な流れをうけて、2009 年には、エネルギー関連の国際機関としては戦後 3 つ目となる、国際再生可能エネルギー機関(IRENA)が発足した。このように欧州やア メリカをはじめとする国際社会は、環境政策に本腰を入れて取り組み、国をあげて自然エ ネルギーを支援する体制が急ピッチで整いつつある。 図 109(図 18-30 再掲)は、地球全体でみて単年度で増えた正味量(もしくは減った 量)の発電量の推移を風力、太陽光、原子力について示したグラフである。2004 年頃を契 機として、風力発電も太陽光発電も倍々ゲームで、拡大していることがわかる。 482 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 109(図 18-30。再掲)風力、太陽光、原子力の発電量の推移 風力発電については、2009 年には新規に設置された規模が 3800 万 kW であるから、原 発 38 基分の設備容量に匹敵する風力発電が、2009 年 1 年間だけで新設されたのである (2010 年は 3500 万 kW と微減) 。 太陽光発電は、2009 年に原発 10 基分の設備容量に匹敵する 1000 万 kW、2010 年は 16 基分の設備容量に匹敵する 1600 万 kW が新しくつくられた。原子力は、2000 年代をとお して低空飛行を続けて、2009 年にはついにマイナス(純減)に転じた(つまり、作るもの より、廃止するものが多くなった)。世界全体ではすでに原子力発電は退潮の傾向があらわ れている。 再生可能エネルギーの世界全体の設置総量をみると、2010 年末の実績では、風力発電は 2 億 kW、太陽光発電は 4300 万 kW、バイオマスが 1 億 4000 万 kW、合計で 3 億 8300 万 kW に到達し、原子力発電所の設置総量である 3 億 7000 万 kW を超えた。 従来型の再生可能エネルギーの中心であった大型ダム式の水力発電を除く、これらの「新 しい再生可能エネルギー御三家」の合計が、設備容量とはいえ、ついに原子力発電を追い 越したことは画期的なことである。 国ごとにみていくと、再生可能エネルギーの分野で躍進がとくに著しいのは前述したよ うに、政策的に成功したドイツである。ドイツは、政策転換を契機として 1990 年頃から風力 発電の拡大が始まり、1997 年にアメリカを抜いて、 ついに世界最大の風力発電国になった。 その後、2009 年にアメリカが巻き返しに成功し、中国にも抜かれ、ドイツは首位の座をあ けわたして第 3 位に転落したが、それでも堅調に伸び続けている。風力は中国やアメリカ 483 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― など風力に適した場所の多い大国が有利になっていくであろう。 その点、太陽光発電は地球上、まんべんなく比較的平均的にあるから、発電コストがほ ぼ通常の発電所並になってきたら、太陽光発電が本命になっていくだろう。 再生可能エネルギーの市場規模は、2000 年の時点で世界全体でも 1 兆円にすぎなかった が、2010 年には 22 兆円に成長した。わずか 10 年で 20 倍に増えたことになる。アメリカ のシンクタンクの予測によれば、これからの 10 年間で、市場規模は 10 倍の 200 兆円に届 くという。さらにその先の 10 年で数倍伸びるとすれば、2030 年の時点で、世界の GDP の 1 割を占めるという予測もある。 【②風力発電】 ○風力発電の歴史 風力発電をはじめて実現したのは、アーク灯も発明したアメリカのチャールズ・ブラッ シュ(1849~1929 年)だった。1887 年、ブラッシュは高さ 18 メートルの風車を建てて、 発電機や地下の蓄電池に接続して、この電気を屋敷の照明の電源にした。しかし、風力発 電機のコストが高く、やがてブラッシュも競争相手のエジソンが開発した(1882 年)中央 発電所方式の電気を自宅に引いて、風力発電をやめてしまった。 都市や町では、中央発電所が急速に増え、風力発電の需要はなかったが、アメリカの僻 地の農場や牧場では、電力を蓄えるバッテリー(蓄電池)付きの小規模な風力発電装置が 開発され、昔ながらの水の汲み上げだけではなく、農家の明かりを提供するようになった。 そのような風力発電機が数十万台売れたが、1930 年代になるとルーズベルト大統領のニュ ーディール政策によって僻地にも送電網が張り巡らされるようになると、風力発電はアメ リカの農場や牧場から姿を消した。 一方、現在の風力発電の基礎を築いたのは、デンマークの P・ラクールであるといわれて いる。彼は、オランダ型風車を改良して回転数を向上させ、回転数を安定させるために回 転調整器を発明し、さらに自動リレーで蓄電池を充放電する仕組みを開発して、電力供給 を安定化させるなどのアイデアで、風力発電の実用化に貢献した。 彼は、1891 年に最初の風力発電装置を作り、1897 年には、直径 23m の大型風力発電装 置を設置した。さらに、1902 年頃には Askov 町の全電力を供給した。その後、デンマーク を中心に風力による商業発電が進み、現在の風力発電技術に結びついている。 現在の風力発電機の原型にもなっているゲスル風車は、デンマークが研究開発したもの である。風力による交流発電を既存の送電網に接続する技術開発を行い、風力発電による 電力供給網の整備に貢献したのもデンマークの電気技師のJ・ユールであった。そのよう な技術的進歩とともに、同国の官民で構成するデンマーク風力委員会のもとで、風力発電 484 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 設備が建設され、1957 年から 10 年間もの長期にわたり、実用稼働を継続した。しかし、 第二次世界大戦後、風力は安価な火力発電に太刀打ちできなくなった。 ところが、1970 年代の石油危機で、風力への関心が復活した。1979 年にはデンマークの 農機メーカーのベスタス社などは風力タービンを製造し始めた。デンマークの設計は、耐 久性、信頼性、堅固さなど、農機で重視される性質を備えていた。 1973 年の石油危機後、アメリカ政府も風力エネルギーなど石油代替エネルギーの研究開 発に資金を提供し始めた。ボーイング、マクドネルダグラス、ユナイテッド・テクノロジ ーズ、GE、アルコアなど、数多くの防衛産業企業が(プロペラ技術に類似していると考え) 風力発電機にとりくんだが、たいがい性能が悪かった。その後、レーガン政権になると新 エネルギー開発予算は大幅に削られ(レーガンは防衛予算を増やした) 、政府の資金援助に よる風力研究開発プログラムは途絶えた。 アメリカ連邦政府の研究開発費は、風力エネルギー促進の効果が出はじめる前に打ち切 られたが、べつの政府の政策(規制と税制)は利用可能だった。アメリカ連邦政府は風力 発電への税優遇措置を設けて、国策としても風力発電を推進していたが、カルフォニア州 知事ジェリー・ブラウンは風力発電に熱心で、州税における優遇措置をとり、風力発電を 軌道に乗せ、変革を起こした。 カリフォルニアは、風況に恵まれた広大な未利用地があったので(牧場地を利用した) 、 風力発電には最適であった。こうした政策面と自然環境の有利性もあって、カリフォルニ ウィンド アではすさまじい 風力 ラッシュが起きた(ベンチャー投資が起きた)。カルフォルニアに は数百、数千の風車が立ち並ぶ、巨大なウィンドファームが 3 ヶ所にできた。これらのウ ィンドファームには最初はアメリカ製の風力タービンが使われたが、たいてい強風で壊れ てしまった。そこで前述したデンマーク製の風力発電機の出番となり、1987 年には、カリ フォルニアに設置された新風力発電機の 90%がデンマーク製になっていた。 こうしてカリフォルニアは、現代の風力発電の生誕地となった。1980 年代半ばには、ア メリカの風力投資の 96%がカリフォルニアで行われ、世界の風力開発の 90%がこの州で進 められていた。 しかし、ブームは長続きはしなかった。1980 年代半ばに、石油の価格がバレル 10 ドル 台にまで下落すると風力発電は太刀打ち出来なくなった。アメリカの風力企業の多くが破 綻した。 そして、2000 年代になって地球温暖化問題が重要な問題となり、CO2 排出のない風力発 電が再び注目を集めるようになった。こんどはヨーロッパでブームとなった。2000 年の段 階で、ヨーロッパの設備容量はすでにアメリカの 5 倍になっていた。主導者はドイツとス ペインで固定価格買取制度のおかげで、2005 年には 2 ヶ国でヨーロッパの風力発電能力の 485 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 70%を占めていた。 アメリカでも風力は加速し、2005 年から 2009 年にかけて、設備容量は年 40%という成 長率だった。容量そのものからすると、この増加分は原子炉を 25 基新設するにひとしい(た だし、実際の発電では原子炉 9 基分) 。 風力はアメリカや中国のような大陸が有利である。中国は、風力では後発だった。しか し、中国は容量の増設分では一躍トップに躍り出た。今後も中国は風力発電においては最 大の成長勢力になると見られている。中国はどういう形であれ新電力を莫大に増やす必要 があることに加え、クリーン・エネルギーを成長分野と見なし強力な政策を投入している。 石炭火力を減らし、大気汚染を少しでも減らしたいからである。内モンゴルを含む中国西 北部には、この取り組みにうってつけの風資源がある。 いまや風力は世界的にかなりの成長産業になっている。2009 年、全世界の風力発電装置 の販売は、合計 640 億ドルだった。風力大手のなかでは、ベスタスと GE が世界的なリー ダーである。アメリカ国内では GE が独占的で、市場シェアの半分近くを占めている。 一方、ベスタスは、それ以外の各国で主導権を握っている。欧米のその他の市場参加者 は、シーメンス、スペインのガメサ、ドイツのエネルコン、日本の三菱重工などである。 しかし、途上国でもかなり有力な会社が育っている。 ○風力発電の現状 風車により風力エネルギーを回転エネルギーに変換し、この回転エネルギーで誘導発電 機を駆動して電気エネルギーを生産する発電方式である。再生可能エネルギー発電の一種 であり、立地場所によっては火力発電に匹敵するコストで発電ができ、ライフサイクルで みても廃棄物や環境排出がきわめて少ないことから、ヨーロッパ諸国を中心に開発利用が 積極的に進められていった。 世界の風力発電設備容量は近年急速に増加し、2 億 8,259 万 kW(2012 年)に達した(図 110(第 222-2-10)参照) 。2012 年時点で導入が最も進んでいるのは中国で、世界の 26.7% を占め、次いでアメリカ(21.2%)となっている。この両国が世界に占める割合は 2011 年 の 46.0%から 48.0%に高まっている。 486 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 110(第 222-2-10)世界の風力発電の導入状況 (出典)Global Wind Energy Council(GWEC)資料を基に作成 また近年は、洋上風力発電の市場も急速に拡大している。2012 年までに世界で合計 542 万 kW が設置されている。とりわけ、洋上風力に注力しているのはイギリスで、累積導入 量の 54.4%を占めている。 2012 年の 1 年間に設置された洋上風力発電 130 万 kW のうち、 イギリスが 85.4 万 kW (65.9%) 、 ベルギーが 18.5 万 kW (14.2%)、 中国が 12.7 万 kW (9.8%) とこれら 3 ヶ国で 90%を占めている。 日本でも電源の多様化、クリーン・エネルギー利用の促進等の観点から導入が図られて いるが、風況の良好な地点が少ない、山岳地形が多く設置にコストがかかる、風況の良い 日本海側では冬季に落雷が多いなどの課題も多く、計画どおりには導入が進んでいない。 また、出力の時間変動が大きいため、小規模な系統に組み込んだ場合には電力需給バラ ンスの正確な維持が難しくなり周波数偏差(交流電力周波数の定格値からのずれ)が拡大 しやすいという課題もある。今後の一層の普及促進のためには低コストで大容量の蓄電技 術の開発による出力の平滑化も必要とされている。 【③水力発電】 世界の水力発電設備は 2010 年時点でおよそ 9 億 6,338 万 kW であり、世界の総発電設備 の約 2 割を占め、水力による発電設備が多い国は、中国、アメリカ、カナダ、日本等であ る。国内の総発電設備に対する割合は、ノルウェーで最も高く、発電設備容量の 95.5%(2009 年)にのぼる(図 111(第 222-2-12)参照) 。 487 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 111(第 222-2-12)世界の水力発電設備(2011 年) (注)2011 年はノルウェー及びインドのデータ不明。2011 年のその他は 2010 年の世界計 実績値より算定。 (出典)海外電力調査会「海外電気事業統計」2008 年版~2013 年版、日本は日本エネルギ ー経済研究所「エネルギー・経済統計要覧 2013」を基に作成 先進国においては、大規模ダム開発は頭打ちとなっている一方、中国では、水力発電の 設備容量は年々大きくなってきた(図 112(第 222-2-13)参照) 。建設が進められていた世 界最大規模の三峡ダム発電所(18.2GW)は、予定よりも一年早く 2009 年 2 月に完成し、 中国の水力発電設備容量がさらに拡大した。 488 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 112(第 222-2-13)中国の水力発電設備導入の推移 (出典)海外電力調査会「海外電気事業統計 2013 年版」を基に作成 発電用水力資源(包蔵水力)については、山間部の降水は潜在的に発電用エネルギー源 として用いることができるが、発電用として利用可能な水力資源の規模を精度良く見積も ることは困難である。水資源は発電用以外に、農業用、飲料用等にも用いられるので、資 源の規模が分かっても、他の用途との関係を踏まえて発電用に利用可能な量を推定する必 要がある。また、降水量自体が時間的に安定したものではなく、年間量でみてもかなりの 変動がある。地球温暖化は既に地域別の降水量にも影響を与えていると考えられている。 こうした中で、世界エネルギー会議(WEC)では加盟国からの情報に基づき、理論的包 蔵水力、技術的包蔵水力、経済的包蔵水力に分類して、各国の発電に利用可能な潜在的資 源量をまとめている。このうち理論的包蔵水力は現実的にはあまり意味をなさないと考え られるので、ここでは地域別の技術的包蔵水力(年間発電量換算)と、2008 年の発電量を 図 113 に示した。また、技術的包蔵水力の地域別構成比率を図 114 に示した。 489 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 113 地域別の発電用水力資源と利用量 地域別にはアジア地域の資源量が突出して大きいが、中国がその 44%を占めており、中 国一国で北米とほぼ同規模の資源量を保有している。南米、欧州、北米がこれに続いてお り、これらの 3 地域では 2008 年の資源利用率(水力発電量/技術的包蔵水力)が 20%を超 えている。なお、WEC は経済的包蔵水力の地域別集計値を報告していないが、主要国の経 済的包蔵水力は公表されており、これを技術的包蔵水力と比べると、大雑把に、北米では 約 1/3、欧州では約 1/2 強の水準である。 したがって、経済的包蔵水力を基準にして水力資源の利用率をみると、北米では 7 割以 上、欧州でも 5 割程度となり、先進地域では既に潜在資源の多くを利用していることにな る。 490 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 114 発電用包蔵水力の地域別構成比率 他方、アジア、アフリカ地域では未利用の水力資源がまだ多く残されている。ただ、水 力資源の発電利用は他の水資源利用、自然環境、人間の居住環境等に大きな影響を与える ので、開発に際しては経済性の評価だけでなく、総合的な見地からのアセスメントが不可 欠である。 【④バイオマス】 バイオマスは、世界全体では、2011 年時点で一次エネルギー総供給の約 10%と大きな割 合を占め、先進国(OECD 諸国)平均では 4.5%、開発途上国(非 OECD 諸国)平均では 13.9%と多く消費されてきた。アメリカやヨーロッパ等の先進国では、気候変動問題への対 応といった観点からバイオマス導入を政策的に推進する国が多くなってきた。なお、開発 途上国のバイオマス利用には薪や炭といったものが含まれている。 今後開発途上国では、経済の成長にともなって灯油、電気、都市ガスといった商業的に 491 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 供給されるエネルギーの利用が増え、バイオマスの比率は低下することが考えられる (図 115(第 222-2-11)参照) 。 図 115(第 222-2-11)世界各地域のバイオマス利用状況(2011 年) (注)中国の値は香港を含む。 (出典)IEA「Energy Balances 2013」を基に作成 利用拡大という面では、とくに交通部門における石油依存の軽減及び、温室効果ガス排 出の抑制を目指した政策が打ち出されている。例えば EU では、2020 年までに交通部門に おける燃料利用のうち 10%程度をバイオ燃料(及び再生可能エネルギー利用電気等)とす る目標を掲げた。しかしながら、バイオ燃料の主たる原料は、サトウキビやトウモロコシ といった食料であるため、バイオ燃料利用の急激な増大は、食料価格の高騰など、深刻な 影響を与える可能性が指摘された。さらに、バイオ燃料生産のために、森林や熱帯雨林を 伐採して耕地とする動きが拡大しかねないとの見方もあった。 このため、バイオ燃料の生産・消費による自然環境や食料市場への影響を抑えるための 持続可能性基準の策定や国際会議での検討が進められてきた。また、食料以外の原料(稲 わらや木材等のセルロース系原料、藻類等)を用いたバイオ燃料開発への取組みが進めら れてきた。近年は、世界の石油メジャーも次世代バイオ燃料の開発に力を入れており、ア メリカのシェブロン等が藻類のバイオ燃料開発に関するベンチャー企業に投資する等の活 動を行っている。 【⑤地熱】 地熱による発電は、世界で 1,122.4 万 kW が導入されてきた(2012 年) 。設備容量が最も 492 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 大きいのはアメリカで、合計 318.7 万 kW が設置された。次に高い設備容量を有するのが フィリピンで、国内の発電設備総量(2011 年)の 14.4%を占めた。インドネシア、ニュー ジーランド及びアイスランドでは、2005 年以降、設備容量が大幅に増大した(図 116(第 222-2-14)参照) 。 図 116(第 222-2-14)世界の地熱発電設備(2012 年) (出典)国際地熱協会(International Geothermal Association) また、アイスランド及びグアテマラでは、国内の発電設備に占める地熱発電の割合が 2 割以上となった。日本ではおよそ 50 万 kW が設置されたが、過去 5 年間の設備容量はほと んど変化していない。一方、ヨーロッパでは地熱を利用できる地域が少なく、イタリアや ポルトガルの一部等に限られている。 ○再生可能エネルギーの今後の見通し 再生可能エネルギーの開発普及状況は各国の政策等に大きく左右される。積極的に開発 を続けた場合、枯渇性エネルギーと同等もしくはそれより安価なエネルギー源になると見 られている。 コストが設備の価格に大きく左右されるエネルギー源(風力発電や太陽光発電・太陽熱 発電など)の場合、市場規模の拡大に従ってコストが低減することが知られており、将来 のコストの予測は比較的容易である。 また一般にこうしたエネルギー源では、原油やウランなどの枯渇性エネルギーに比べて コストの不規則な変動も緩やかであり、コストの変動による財務リスクが小さくなる。生 産規模の拡大や新技術の投入を促すため、コスト低減に当たっては市場規模の拡大が重要 493 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 視される。その一方で枯渇性エネルギーには供給安定化などを目的として直接・間接的に 多額の公金が投入され、再生可能エネルギーのコスト的な競争力を削いでいる。 導入に際してはこの障壁を越えるためのコストが追加される場合が多いが、固定価格買 取制度(FIT) を用いて市場拡大に力を入れたドイツの場合、FIT のコストを含めても、許 容範囲内のコストで 2020 年までに電力の 25%を再生可能エネルギーで賄うことが可能と 見られている。 ○助成と経済効果 再生可能エネルギーの普及にあたっては、既存エネルギーに対するコストや技術面での 不利の克服のため、国際的に何らかの助成が必要とされている。ヨーロッパ各国を対象と した分析では、この助成費用は既存産業に対してある程度の雇用減少の影響を与えると同 時に、再生可能エネルギーは運用・保守時における発電・発熱量あたりの雇用数が既存の エネルギー源に比べて大きいため、全体的には雇用を増やせると見積もられている。 また各種再生可能エネルギーの中では、特にバイオマスが雇用創出効果が大きく、地方 の雇用確保にも大きく貢献し得ると指摘されている。。ドイツにおいては 2009 年時点で EEG 法により年 53 億ユーロの費用をかける一方、204 億ユーロの投資、設備設置で 171 億ユーロの付加価値、設備の運転で 375 億ユーロの付加価値を誘発している。また 2009 年時点で、関連産業による雇用創出は 30 万人を超えていると言われている。 ○再生可能エネルギーの資源量 再生可能エネルギーとして半永久的に利用可能な膨大な資源量が存在する。技術的に利 用可能な量は少なくとも現在の世界のエネルギー需要の約 20 倍で、2100 年時点で予測さ れるエネルギー需要と比べてもなお数倍以上大きいと見積もられている。潜在的な資源量 はさらに桁違いに大きく、技術の発達次第で利用可能な量もさらに増えると見られている。 494 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 再生可能エネルギーの資源量 (エクサジュール(EJ)/年 ※1EJ=10 億 GJ) 地熱 2001 年時点での利用量 世界の技術的資源量 世界の理論的資源量 0.6 5,000 140,000,000EJ >1,575 3,900,000EJ 太陽光・太陽熱 0.1 海洋 (算出されていない) (算出されていない) 7,400EJ 風力 0.12 640 6,000EJ バイオマス 50 >276 2,900EJ 水力 9 50 147EJ 合計 60 >7,600 >144,000,000EJ 利用量は一次エネルギー換算。 2001 年時点での世界の一次エネルギー消費量は約 402EJ/年であるので、各再生可能エネル ギーの技術的資源量は下記のようになる。 地熱 5,000/402 12.4 倍 太陽光・太陽熱 >1,575/402 >3.9 倍 風力 640/402 1.6 倍 バイオマス >276/402 >0.7 倍 水力 50/402 0.4 倍 合計 >7,600/402 >18.9 倍 いずれにしても、太陽光・熱、地熱、風力などの再生可能エネルギーは技術的資源量に 限ってみても、現在、世界で使っている一次エネルギーの数倍は存在するといえよう。 495 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 第8章 第四次産業革命と 21 世紀のエネルギー 【8-1】第四次産業革命 ○21 世紀末には 100 億人になる地球人口 近年の遺伝子分析の結果、現生人類(ホモ・サピエンス)は、単一起源説が正しいこと がわかった。つまり、8 万 5000 年前ごろにある 1 グループがアフリカを出て、世界に分散 していったが、それが現在の世界の 72 億人になっているという事実は、人類の歴史観に大 きな衝撃を与えている。 アフリカにいた人類は親類縁者を単位とした狩猟採集の移動生活をしていたので、この アフリカを出た 1 グループも最大で 150 人ぐらいであったろうと推定されている。その 150 人が世界の各地に分散して、一応、世界全体に分散し終ったと考えられる紀元前 1 万年(1 万 2000 年前)には、400 万人になっていたと推計されている(図 117(図 18-5)参照国 連推計) 。 図 117(図 18-5) 世界人口の推移 ちょうど、この頃、西アジアと中国・長江中流で農業がはじまり、移動生活から農業(牧 畜も含む)定住の生活に移った。農業は人口扶養力が大きく人口増加の速度が上がった。 農業は「創造と模倣・伝播の原理」で、農業起源地から周辺に伝播していき、紀元元年頃 までには一応、農業ができるところには広まったと考えられている。 農業開始から 5000 年ぐらいで、メソポタミアやエジプトに最初の国家ができた紀元前 3000 年(5000 年前)頃には、世界人口は 1400 万人、イエス・キリストが生まれたころに は、1 億 7000 万人、中世がはじまった紀元 500 年ごろには 1 億 9000 万人、紀元 1000 年 ごろには 2 億 6500 万人、近世のはじまりの紀元 1500 年ごろには 4 億 2500 万人、近世が おわって 19 世紀のはじめの紀元 1802 年(ナポレオンが終身統領になった年)には 10 億人 を越えたと推定されている(いずれも国連推計) 。 イギリスの産業革命は 1760 年頃からはじまったが、これが「創造と模倣・伝播の原理」 でヨーロッパ中に伝播したのは 19 世紀半頃であり、それから人口増加傾向が大きくなって いった。 496 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― そして、20 世紀に人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験した。国連 の推定では 19 世紀末の 1900 年におよそ 16 億人だった世界人口は図 117(図 18-5)のよ うに、紀元 1927 年に 20 億人(125 年で 10 億人増加)、紀元 1961 年に 30 億人(34 年で 10 億人増加) 、紀元 1974 年に 40 億人(13 年で 10 億人増加) 、紀元 1987 年に 50 億人(13 年で 10 億人増加) 、紀元 1998 に 60 億人(11 年で 10 億人増加。ということはこの 1987 ~1998 年が最大の人口増加率) 、紀元 2011 年に 70 億人(13 年で 10 億人増加)をそれぞ れ越えた。そして、紀元 2013 年には 72 億人を越えている。 そこで、今後の世界の人口予測であるが、2013 年に国連が発表した「世界人口展望」 (2012 年改訂版)では、中位値として 2025 年に約 81 億人、2050 年に約 96 億人、2100 年には約 109 億人に達するとの予測がされている。一方、100 億人には達しないという予測もある。 いずれにしても、21 世紀末には地球人口は 100 億人前後に達するようである。 ○世界は新規産業を興して雇用を増やしていった 人類は 1 万 1000 年前ごろから農業(牧畜を含む)をはじめ、それが世界に伝播していっ たと述べた。その農業社会に石炭を原動力とする工業を起こしたのが 1760 年ごろからはじ まったイギリスの(第一次)産業革命だったことは、第 3 章 産業革命と石炭エネルギー の利用で述べた。 はじめは綿工業の機械化であったが、やがて石炭をエネルギー源とする蒸気機関が発明 され、コークスを使って安く鉄を大量生産する製鉄業の成立とあいまって、各種機械を生 産する機械工業、大量の石炭やヒトを輸送する汽車や汽船などの輸送産業などが興った。 この工業によってイギリスは人口が増えて、都市が発展していった。 このイギリスの産業革命(工業化)は、まず、フランス、ドイツ、オランダなどのヨー ロッパに広がり、独立したばかりのアメリカ合衆国に伝播したことは述べた。これを模式 的に描くと、図 118(図 18-7)のように、世界どこでも同じようだった農業社会に第一次 産業革命で工業が持ち込まれ、人口増加が今までより大きくなった。 497 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 118(図 18-7) 産業革命と新規産業 そして第一次産業革命の成果を取り入れて発展したドイツ、アメリカで、こんどは 19 世 紀の後半から 20 世紀の前半にかけて、科学を基礎とした第二次の産業革命が起こったこと は、第 4 章 第二次産業革命と電気と石油の時代で述べた。 鉄鋼業、人工染料などの化学、電気、内燃機関の自動車、飛行機、それらをエネルギー面 から支えた石油産業などが興った。人類社会はこれによって、また、多くの雇用機会を生 み出した。第二次産業革命の成果もたちまちヨーロッパ、アメリカに普及しただけでなく、 ロシア、日本にも取り入れられた。 同じように第二次世界大戦後、アメリカは戦時中の軍事技術の成果を民需に応用して、 コンピュータ(情報) 、原子力産業、宇宙産業、バイオ産業などを興したことを第 5 章 第 三次産業革命と原子力エネルギーの利用で述べた。この第三次産業革命のときに、原子力 発電が実用化され、人類は使用エネルギーの 1~2 割を核分裂エネルギーに頼るようになっ た。また、コンピュータによって制御されはじめたオートメーションは自動車や家電など の大量生産を可能とした。この第三次産業革命の成果も、たちまち、ヨーロッパ、ソ連、 日本などの先進国に取り入れられた。これによって、世界の GDP はまた、大きくなり、人 口も増えていった。 この第一次、第二次、第三次の産業革命で大きくなった工業はいずれも先進国に限られ、 第二次世界大戦後、独立したアジア・アフリカの国々は基本的に、農林漁業などの第一次 産業に従事するだけであった。これらの発展途上国も第二次世界大戦後、医療技術が普及 し、乳児死亡率に顕著な向上があったので人口が急増したが、工業がなかった、あるいは 工業化が遅れていたため、雇用機会が少なく 1 人当り GDP は低いままで、あるいは低下し 498 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ていった。 先進国は豊かになるにしたがって、合計特殊出生率は下がっていって人口増加は低下し ていったが、発展途上国は教育システムも十分ではなく、合計特殊出生率はあいかわらず、 4~7 と高率で、人口は爆発的に増加し、世界は先進国と発展途上国の二極分化の様相を示 していった。この状況は 1973 年の第一次石油危機、1979 年の第二次石油危機の影響でよ り顕著になった。このような状況が 1980 年の世界であって、図 117(図 18-5) 、図 118 (図 18-7)のように、世界はまさに急勾配の世界人口山を登り始めていた。このときの世 界人口は 44 億人を越えたところであった。 過去の第一次、第二次、第三次の産業革命を主導したのは、いずれも新しいエネルギー 技術であった。エネルギー技術はそれほど産業の基幹技術であって、それが変るとそれに 合わせて産業システムも社会システムも生活システムも変るという性格をもっている。 それらの産業革命をまとめると、図 119(表 18-22)のようになるであろう。 第一次の産業革命以来、人口が急増したが、人類の叡智も加速度的に増大し、科学技術、 産業技術は急速に発展するようになった。そして、第二次産業革命、第三次産業革命を経 て、2015 年以降、第四次産業革命ともいうべきものが起きるであろうと考え、図 119(表 18-22)に第四次産業革命も加えた。 この第四次産業革命は人類叡智の到達点ともいうべきもので、ものづくりにおいては、 ナノレベルの計測・製造が可能となり、AI(人工知能)の面においては、人知のおよぶ限 りの思考が可能となる。この第四次産業革命の世界においても、それを可能とする豊富な エネルギーが必要であるが、ちょうど間に合って太陽光発電が本格的に実用化されていく ことになるだろう。 499 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 119(表 18-22) 第四次産業革命の特徴 太陽光発電が、前述したように、技術革新と規模拡大によって、発電コストが急速に下 がって、グリッドパリティ(既存の発電コストと同じコストになること)が達成されるが、 その後も太陽光発電のコスト低減は続き、他の発電方式と比べて最も低価格になり、爆発 的に普及拡大していくであろう(石炭から石油の転換期にもそれが起きた) 。太陽光発電は 第四次産業革命時代を主導するエネルギーとなり、太陽光資源をもとに興る太陽光産業は 第四次産業革命の中核をなす産業分野となろう。 第四次産業革命の情報技術は第三次産業革命の情報技術革新の延長として継続して発展 し続けるであろう。当初、第三次産業革命の情報分野では、電子計算機の発明がありハー ドウェア主体であったが、やがてパソコン、ネットワークとソフトウェア中心に発展し、 1990 年代の WWW(ワールドワイドウェブ。インターネット上に構築される全世界規模の 情報システム)の出現によってまったく質的に異なった情報システムとなったといえよう。 この情報分野のネットワーク化とモバイル化(移動性・携帯性・機動性などがある小型・ 軽量化・高性能化された情報通信端末化)は現在も継続しており、第四次産業革命の情報 システムとなるであろう(まだ多くの情報技術の革新が目白押しに待っている) 。 第四次産業革命の材料分野では、第一次産業革命(このとき、ワットはシリンダーとピ ストンをつくるのに苦労したことを述べた。あのときは、まだ、ピストンとシリンダーは スカスカだった)以来、計測と加工技術は不断の進歩があったが、人類はついに究極の段 階に達し、ナノレベルに達した。このナノか、その 10 分の 1 のオングストロームが分子、 原子の段階であり、ここまでできれば、理論上、化学反応でできるすべての物質の計測・ 500 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 加工ができる、つまり、何でも作り出せることになる(その先は核分裂反応の段階で放射 能が出る世界である) 。 しかし、ここまでくると、我々の生体細胞より、小さい物が作り出せるようになり、生 体の細胞や生体膜をすりぬけることも起きてくるので、後述するように、ある段階から、 つくっていいものと、つくってはならないもののテクノロジーアセスメントや製造禁止規 準が必要になってくるであろう。そういう意味で第四次産業革命の材料分野の後半には要 注意の印をつけた。 産業というものは、図 120(図 18-134)のように、らせん状に向上していく。この産業 革命のエネルギー技術、情報技術、材料技術など基幹となる技術の革新は、 (一段と高まる と)他の産業にも波及していって、やがて全産業の底上げが起きる。たとえば、図 120(図 18-134)に示したように農業分野、輸送分野、流通分野、地域社会分野、医療分野、 ・・・ に波及していく。 図 120(図 18-134) 産業革命と技術波及 この第一、二、三次産業革命によって、人類は新しい産業を生み出し、それが世界に広ま って雇用を増やしていったことも図 118(図 18-7)で述べた。この第四次産業も図 121(図 18-135)のように、たとえば、太陽光エネルギー技術で 10 の新技術、高度情報技術の分 野で 10 の新技術、また、新材料技術の分野で 10 の新技術が出現すれば、その組み合わせ で 1000 の新技術が生み出されるというように、相乗効果によって非常に多くの新産業が誕 501 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 生し、世紀末の 100 億人の雇用の場は確保されるだろう。 図 121(図 18-135) 産業革命の新規雇用創出効果 古来、人類が創造したことは「創造と模倣・伝播の原理」で世界中に伝播していったが、 この度のこの第四次の産業革命も、地球温暖化防止をはかるためには、一刻も速く全世界 に普及させることが必要である。第四次産業革命の新技術でできるだけ早く世界中の社会 システムを省資源、低炭素、無公害のシステムに転換する必要があるからだ。 図 10-36 は世界へ工業が移転していったことを表わした図であったが(そしてイギリス からはじまった産業革命はアメリカ、日本を経由して地球を 4 分の 3 周して、あと中東・ アフリカを残しているといっていたが)、これに、第四次産業革命の波(技術移転)を重ね たものが図 122(図 18-136)である。 図 122(図 18-136) (もとは図 10-36) 第四次産業革命の波及 ヨーロッパ(ドイツ) 、アメリカ、日本が中心となって周辺諸国に第四の波(太陽光エネ ルギー革命、第四次産業革命)を波及させて、エネルギーと食糧の問題を解決し、同時に 地球温暖化を早急に防止する必要がある。 それによって、図 118(図 18-7)のように 21 世紀中に増大する世界の人口に新しい産 502 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 業を創出し、ピーク 100 億人の地球人口山の 7 合目から上の 30 億人に新しい雇用を生み出 すのである。 【8-2】持続可能な人類社会へのエネルギー選択 ○21 世紀人類が当面するエネルギーのトリレンマ 人類の歴史とエネルギーの推移を図 1(図 18-59)に示したが、それをもう少し詳しく示 すと図 123 のようになる。 500~700 万年前、サルとの共通の祖先から分かれて人類が誕生したころは、人類が使用 できるエネルギーは食料による 2000kcal ほどのものだけだった。160 万年前、進化したホ モ属は肉を焼くため、あるいは他の肉食動物から身を守るため火を使うようになった。新 しいエネルギーは食料から得られるのと同じくらいの量だった。 1 万年前、農耕が始まり人類は家畜を使役に使うようになり、使用エネルギー は 12,000kcal、遠い祖先に比べて 6 倍ほどに増加した。人類は文明を発展させ、水車や風車 など自然エネルギーの一部を使用するようになった。西暦 1400 年に豊かな暮らしをしてい た北西ヨーロッパ人は 23,000kcal のエネルギーを消費していた。 図 123 人類とエネルギーのかかわり 人類の使用するエネルギーが急激に増加するのは 18 世紀後半の産業革命に端を発する。 19 世紀のイギリス産業人の使用エネルギーは 77,000kcal に達していた。20 世紀に入り石 油の時代が到来し、人類の使用エネルギーはとどまるところを知らずに増加していった。 503 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 1970 年のアメリカ人の使用エネルギーは 23 万 kcal であった。 現在の日本人一人当たりの消費エネルギーは 510,000kcal、石油に換算して毎年 4.5 トン にもなる。日本全体では約 5.6 億トン、この巨大なエネルギーが私たちの快適な生活を実現 しているのである。 1860 年以降の使用エネルギーの構成を図示すると図 124 のようになる。産業革命以降の 石炭の利用拡大により、石炭が植物エネルギー(薪炭エネルギー)の利用量を超えたのは 19 世紀の末期である。 図 124 世界のエネルギー構成の推移 次いで、1859 年、アメリカのドレイクによるアメリカ・ペンシルバニア州西部のタイタ スビル近辺で機械掘削の石油開発が成功し石油産業が起こった。石油は、石炭よりも使い 勝手が良かったので、利用用途を拡大しやすく、工場や輸送機器(船舶、自動車、航空機) 、 発電用の燃料として、また、暖房用の燃料や化学製品の原料等として石油が消費されるよ うになった。 20 世紀後半には中東などで大油田が発見され、安い石油が大量に得られるようになると 図 124 と図 125 のように急速に石炭から石油の時代に移りつつあった(流体革命)が、あ まりに石油に依存するようになったので、1973 年と 1979 年に石油危機が起り、石油以外 のエネルギーへの転換がはじまった。 504 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 125 世界の一次エネルギー消費の変化 近年では、図 124 と図 125 のように、石炭・石油に加え、天然ガス、原子力等が増大す るエネルギー消費を支えている。それまでのエネルギーは水力や風力を除き全て酸素との 化学反応による燃焼を利用するものであったが(薪炭エネルギーも化石エネルギーも燃焼) 、 人類は原子力エネルギー(核分裂エネルギー)の利用を新たに加えることになったのであ る。 このようにに、人類の活動範囲の拡大はエネルギー消費の拡大とともにあり、人類に生 活の便利さ・快適さ・ゆとりを与えた。産業革命以後はまさに石炭・石油・天然ガス等の 化石燃料によるエネルギーの大量消費時代といえる。 図 126 に一人当りの GDP とエネルギー消費量の関係を示すが、明らかにエネルギー消費 量が多いほど GDP も多いという関係があることがわかる。 図 126 一人当りの GDP とエネルギー消費量 このように産業革命以後の世界は、エネルギー消費量及び利用用途の更なる拡大に応じ 505 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― て社会の生産力もまた大きくなり、それに伴って生活水準や公衆衛生も向上するので、図 127(第 111-1-1)のように、人口の増加ペースも一段と急速に伸び、それがまた一層のエ ネルギー消費量の増大をもたらすようになったのである。 図 127(第 111-1-1) 世界のエネルギー消費量と人口の推移 人類は 20 世紀に先進国を中心に飛躍的な経済発展を遂げたが、これによって、地球温暖 化問題が深刻なものとなった。世界的には、先進国の人口(世界人口の 1 割にすぎない) をはるかに上回る発展途上諸国の人々が未だ貧困の状態に置かれており、21 世紀にこれら の諸国が先進国と同様に豊かさを享受するためには、経済発展が不可欠であるが、それに は従来の先進国がやってきたと同じように多量のエネルギーが不可欠となり、それを求め るのは当然の権利とも言える。 今後も途上国を中心に世界人口は増加する見込みであるが(21 世紀末には 100 億人前後 に達する) 、エネルギー消費量は単に人口の増加分に比例するのではなく、その数倍になる ものと予想されている。つまり、21 世紀には 20 世紀と比べれば数倍のエネルギーが必要 になってくるであろう。 ○トリレンマ(三重苦)に陥った人類 今や人類は、図 128 のように、経済発展、エネルギー資源の確保、地球温暖化という相 互に両立が困難なトリレンマの関係に入ってしまった。 506 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 128 人類が当面する 21 世紀のトリレンマ (とくに途上国の)人口の急増を背景として、経済発展のために、エネルギー資源を大 量消費せざるを得ず、このエネルギーの大量消費によって地球温暖化ガスが大量に排出さ れ、地球温暖化が促進される、地球温暖化が促進されると、自然災害や環境破壊が進行し、 経済成長の基盤が失われるという、因果の連鎖ができ上がる。 このように密接な関係にある経済発展とエネルギー資源消費の増大と地球温暖化の 3 つ の問題があちら立てれば、こちらが立たないトリレンマ(trilemma。三つの矛盾。三重苦) とも呼ばれる状況に陥ってしまう。 ○地球温暖化防止の目標は「2℃を十分に下回る水準」 まず、トリレンマのひとつ、地球温暖化防止であるが、これについては、すでに述べて 507 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― きたように国連気候変動枠組条約の「パリ協定」 (2015 年 12 月締結、2016 年 11 月発効) によって、21 世紀末までに人類がどんなことがあっても達成しなければならない目標が定 められている。 その目標とは、工業化前と比して世界の平均気温の上昇を「2℃を十分に下回る水準」に 抑制し、できれば「1.5℃以内に抑える」ようにするというものである。そのために世界の 温室ガス排出量を可能な限り早期に減少に転じさせた上、今世紀後半に海や森林による吸 収分と相殺して排出量を実質ゼロとする目標を盛り込んでいる。 「2℃を十分に下回る水準」とは、具体的にどういうことか。 地球温暖化の科学的根拠をまとめた作業部会の第五次報告書(2014 年 3 月)によると、 産業革命からの気温上昇が「2 度以内のシナリオ」を 66%の確率で実現するには、図 72(表 18-6)のシナリオ 2 のように、累積排出量を 3 兆 6700 億トン以内に抑える必要があると いう。さらに高い確率で実現するためには、できるだけ「1.5℃以内に抑える」ということ は、これより厳しく努力するということである。 IPCC の第五次報告書は 2011 年までにすでに約 2 兆トンが排出されたとしている。世界 の温室効果ガス排出量は人口増と経済成長を背景に 2000 年以降加速していて、報告書のよ ると 2010 年に CO2 換算で 495 億トンになったという。 この排出量が続けば、 (3 兆 6700 億トン-2 兆トン)÷495 億トン=約 34 年で 3 兆 6700 億トンを越えてしまうことになる。 報告書は、また、2 度を突破しないために、今世紀末の濃度を 480 ppm 以下に抑える必 要性を指摘しているが、現在すでに 400 ppm を越えている。それを達成するためには、2050 年の世界の排出量を 2010 年比で 40~70%削減しないといけないという。つまり、「2 度以 内」シナリオ達成のためには、世界の排出量を 2050 年には 2010 年比で 40~70%削減し、 2100 年にほぼゼロかマイナスにしなければならないとしている。 地球温暖化とは、一旦、気温が高く上がってしまうと、つまり、地球温暖化ガスがある 水準を越えてしまうと(パリ協定の目標では 3 兆 6700 億トン、480 ppm) 、たとえその後 に排出量をゼロにしても、数百年とか数千年のオーダーで気温はなかなか下がらない。現 在の我々が「成り行き」か「2 度以内(できれば 1.5 度)」か、どちらを選ぶかによって、数十 年後の我々の生活だけでなく数百年とか数千年後の人類にも影響を与えることになる。 我々は、どんなことがあっても、パリ協定の目標を達成して、できるだけ早い時期にカー ボンニュートラル(排出ゼロ)を実現しなければならない。 ○人口増加と経済成長 トリレンマの二つ目、人口増加と経済成長の見通しであるが、図 129 のように、各種の 機関が見通しを出している。 508 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 2100 年までの超長期のシナリオは 3 件で、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)排 出シナリオ特別報告書(SRES)シナリオ(以下、IPCC-SRES シナリオ)、国際応用シス テム解析研究所(IIASA)及び世界エネルギー会議(WEC)によるシナリオ(以下、 IIASA-WEC シナリオ) 、日本のエネルギー総合工学研究所(IAE)によるシナリオ(以下 IAE シナリオ)である。 また、2030 年頃までのシナリオとしては、国際エネルギー機関の世界エネルギー見通し 2002 年版(WEO2002) 、欧州委員会よる 2030 年見通し(EC2003) 、米国エネルギー省に よる国際エネルギー見通し 2003 年版(IEO2003)の 3 件である。 図 129 エネルギー需給シナリオの検討 その結果だけを述べる。まず、世界人口の長期展望であるが、図 130 のように、2050 年 に 87 億~113 億人、2100 年に 71 億人~151 億人になると予測されている。発展途上国の 人口増加の程度に応じて世界全体の将来見通しにも大きな幅が生じる。将来的には現在の 先進国と発展途上国の構成国は大きく変動するとともに、 「先進」と「発展途上」の概念が 質的に変化していく可能性もあるが、ここではあくまで現在の構成国、及び発展の概念に 基づいて記述している。 今後の人口増加の大部分が発展途上国で起こると見通されており、そこで、発展途上国 の人口増加の程度に応じて世界全体の将来見通しにも大きな幅が生じる。地域別にみると、 例えば IIASA-WEC のシナリオBでは、図 130 の右側に示したように北米、欧州、日・豪 他、旧ソ連の先進国はほとんど変らず、人口増加の大部分は途上国で起きる。 世界人口が安定化するシナリオでは、基本的考え方として、発展途上国で一人当り所得 が増加し、これによって出生率が低下することが想定されている。逆に言えば、世界人口 はこれまでの数十年間概ね直線的に増加し続けてきているが、 「人口爆発」がさらに深刻化 509 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― するのを阻止するためには、発展途上国が豊かになる必要があると考えられている。 図 130 世界人口の長期展望 したがって、経済成長の展望も図 131 に示すように、大雑把にこの人口の見通しと連動 したものとなっている。この図は世界各国の国内総生産(GDP)を合計したものであるが、 2100 年には 2000 年の 8~20 倍に増加となっている。また、地域別にみると、例えば IIASA-WEC のシナリオBでは、図 131 の右側に示したように途上国の経済規模が急速に 拡大し、 2100 年には途上国の比率が全体の約 6 割となる。 510 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 131 世界の国内生産(GDP)の合計 発展途上国がこのような経済成長を遂げたとすると、所得の南北格差はどの程度縮まる のか。図 132 に一人当たりの GDP の世界平均値及び各地域の平均値の推移を示した。 地域別にみると、現在は最大で約 42 倍ある地域間格差が、例えば IIASA-WEC のシナリ オBでは今世紀末には 3~6 倍にまで縮まることとなる。あるべき未来の姿という観点から、 100 年後になお地域格差がこれだけあることがやむを得ないかどうかについては意見が分 かれるところと思われるが、2100 年には途上国人口が先進国の 6.4 倍(IIASA-WEC)で あることを考慮すると、発展途上国の将来の所得水準が世界全体の資源・環境問題に決定 的な影響力を持っていると言っても過言ではない。 511 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 132 一人当りの国内総生産(GDP) ) 以上のような、人口の推移と経済発展の下で、エネルギーの消費がどのように変化する かを図 133 に示した。 この図は各シナリオの一次エネルギー消費量を比較したものであり、 経済構造変化などによる単位 GDP 当たりエネルギー所要量の変化、エネルギー効率の向上 などの想定が反映されている。その結果、GDP の急速な伸びに比べるとかなり緩やかに増 加しているが、 それでも大きいケースでは 2100 年に現在の 5 倍以上の消費量となっている。 512 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 133 世界の一次エネルギー消費量の見通し 以上の図 129 の機関の長期エネルギー需給に関する検討事例の整理から得られる主要な 所見を以下に整理すると、 ①現在増加し続けている世界人口が安定化に向かうためには、発展途上国の人々の所得水 準、生活水準が向上する必要がある。世界各国の国内総生産(GDP)の合計は、2050 年に は 2000 年の 3 倍~7 倍、2100 年には 2000 年の 8~20 倍になる。 ②こうした発展途上国の経済発展、生活水準の向上は世界のエネルギー消費量の増大を招 く。世界の一次エネルギー消費量の見通しは、2050 年には 2 倍~3.5 倍、2100 年には 1.7 ~5.4 倍である。地球温暖化に対応しながら、どのように、このように増大するエネルギー 需要を満たしていくかが課題である。 ③(図 129 の各機関は、以下個別エネルギーごとの予測もしているが、それによると)石 油に関しては、在来資源の生産規模は今世紀の前半にピークとなり、それ以降は高コスト の非在来資源に移行していく可能性が高い。ただし、資源量の評価値にはまだ大きな不確 実性があり、楽観的な見方と悲観的な見方がある。 513 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ④天然ガスに関しては、在来資源の生産規模は今世紀の後半にピークとなる可能性が高い。 非在来資源を含めると概ね今世紀末頃まで生産規模を維持できるとの見方もあるが、需要 も大幅に増大する可能性があるので、長期展望は石油以上に不透明である。 ⑤石炭は資源量が豊富であるが二酸化炭素等の排出量が多いため、気候変動問題への対応 の観点から今後の利用規模を大幅に拡大していくことは困難であろう。 ⑥再生可能エネルギーは近未来に大きく期待することは困難であるが、世界全体では潜在 的資源規模が大きいので、長期的に気候変動問題に厳しい対応が必要となる場合には重要 性が高まる。 ⑦原子力は社会的な受容性の観点から近未来に利用規模を拡大することは困難である。し かし、長期的な地球温暖化に対応していくためには重要な選択肢となる。その場合、燃料 サイクルを構築するなどウラン資源の有効利用を図ることが必要である。 ○エネルギー資源の埋蔵量と可採年数 トリレンマの三つ目であるエネルギー資源量についてまとめる。 ◇石炭 石炭の地質学的な賦存量は約 11 兆トンであるが、技術的、経済的に採掘できる可採埋蔵 量はその 10 分の 1 以下の 8,609 億トンである。2012 年の可採年数(可採埋蔵量/年産量) は 109 年になり、石油等の可採年数の倍近くになる。 石炭価格については、一般炭は中国やインドが輸入を増やす中、2011 年度には 130 ドル /トンに迫る高値を記録した。原料炭は、2008 年に集中豪雨による炭鉱の冠水等のため前年 度比で 3 倍以上となる 300 ドル/トンまで急上昇し、2011 年度にも集中豪雨が襲い生産や出 荷が滞ったことと輸入需要の高まりを背景に 300 ドル/トンを超える最高値を更新した。 石炭価格の長期見通しをすることはむずかしいが、近年、乱高下が激しくなってきてい る。改良型コンバインドサイクルの火力発電所は、すべての発電方式のなかでコストが最 低になっている。可採年数(可採埋蔵量/年産量)は、石油、天然ガスなどの可採年数の 倍近くの 100 年ぐらいあるから、火力発電などおいては、長期的にみて化石エネルギーの なかでは最も価格は割安になるであろう(長期的にみて、太陽光発電が石炭火力より安く なるかもしれない) 。 しかし、石炭は二酸化炭素等の排出量が多いため(石炭:石油:天然ガス=10:8:6 の割 合) 、地球温暖化問題への対応の観点から、石炭火力発電などから優先的に縮小されていく だろう(アメリカでは急速に石炭火力発電からシェールガス発電に切り替えられている。 中国も石炭火力発電の転換を図り始めている)。 ◇石油 世界の石油確認埋蔵量は、2012 年末時点で 1 兆 6,689 億バレル(オイルサンドを除く) 514 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― であり、これを 2012 年の石油生産量で除した可採年数は 52.9 年となる。1980 年代以降、 可採年数はほぼ 40 年程度の水準を維持し続けてきた。最近では、ベネズエラやカナダにお ける超重質油の埋蔵量が拡大していることもあり、可採年数はむしろ増加傾向にある。 近年では、シェールオイルやオイルサンドなどに代表される非在来型石油と呼ばれる資 源が注目を集めている。シェールオイル等の資源自体は世界中に遍在し、埋蔵資源量も在 来型の石油資源を上回ると見込まれていることから、石油のさらなる安定供給や資源の偏 在の解消などが期待されているが、一方で在来型の石油資源と比べ掘削コストが高いため、 石油価格の低迷時には油田開発が低迷する傾向がある。 在来型石油の価格は、最近は金融商品になったこともあり、バレル 140 ドルから 30 ドル まで乱高下を繰り返すようになった。低迷時には前述した非在来型石油が減って、再び在 来型石油の価格が高くなるということを繰り返しながら、在来型石油は今世紀の前半にピ ークとなり(可採年数が 53 年であるから) 、それ以降は高コストの非在来資源に移行して いく可能性が高い。 現在でも石油火力発電は、もっともコストが高くなっているので、また、地球温暖化ガ スの排出量も石炭火力に次いで多いので、今後は発電には使われなくなっていくであろう (自動車などの輸送関係では石油が重要)。 ◇天然ガス 世界の天然ガスの確認埋蔵量は、2012 年末で約 187 兆立方メートル(m3)である。これ は発熱量で原油に換算して約 1700 億トン相当であり、原油の埋蔵量と同程度である。また、 天然ガスの可採年数は 2012 年末時点で 56 年であった。 日本向けの天然ガス(LNG)価格は、1990 年代に、百万 Btu 当たり 3 ドル~4 ドルで推 移していた(Btu は英熱量単位。1Btu=0.293Wh) 。2000~2005 年は 4 ドル~6 ドル/百 万 Btu で推移したが、その後は原油価格に連動して上昇し、2012 年時点では、LNG の日 本向け平均価格は 16.8 ドル/百万 Btu となっており、アメリカ国内の天然ガス価格 2.8 ド ルと比べて割高だった。これは、日本向けの LNG 価格が原油価格の水準を参照して決めら れるものが多く、原油価格の影響を大きく受けたためである。 非在来型ガスのシェールガスの推定資源量は、在来型天然ガスの埋蔵量の 2 倍以上ある と推定されており、豊富な資源を保有するアメリカでは税制優遇措置を設けて開発を進め てきた。これによって世界の天然ガス市場は大きな影響を受け、シェールガス革命とも呼 ばれる状況を呈している。アメリカ・エネルギー省は長期見通しの中で将来的にはシェー ルガスの比率がさらに増加すると想定しており、また、アメリカが開発した低コストの回 収法は世界の他の地域でも利用可能なことから、今後シェールガスの生産が長期にわたっ て世界の天然ガス市場に影響を及ぼす可能性がある。 515 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 天然ガスの可採年数は 2012 年末時点で 56 年であるが、すでに非在来型のシェールガス が本格的に生産され、コスト的に成り立っているので(アメリカでは最近の石油のバレル 30 ドルまでの暴落でシェールガス企業の倒産もあったようだが)、天然ガスの可採年数は延 びるであろう。在来型天然ガスの生産規模は今世紀の後半にピークとなる可能性が高く、 非在来資源を含めると概ね今世紀末頃まで生産規模を維持できるとの見方もある。 すでにアメリカではシェールガス発電のコストがもっとも低くなって、石炭火力や原子 力に替わりつつあるが、輸入に頼る日本などで LNG 火力がどの程度のコストになるか不明 である。シェールガス発電は地球温暖化ガスの排出量が石炭火力の 6 割であるから、石炭 火力から太陽光発電へのつなぎとして使用されるようになるのではないか(アメリカでは シェールガス発電より、太陽光発電が安くなっているところもある) 。 ◇原子力発電 世界のウラン確認可採埋蔵量は約 710 万トンである。これはイエローケーキ(U3O8)キ ロあたり 260 米ドルの採掘コストで回収可能な確認埋蔵量である。このように回収コスト によって、確認可採埋蔵量も変ってくる。2007 年時点でイエローケーキ(U3O8)キロあ たり 130 米ドルの採掘コストでの確認可採埋蔵量は 547 万トンと推定されている。 2012 年の生産量は 58,394 トンであった。したがって、ウランのウランの可採年数は約 121 年になるが、130 米ドルの採掘コストでの確認可採埋蔵量で計算した可採年数は 94 年 になる(可採年数=世界のウラン確認可採埋蔵量/世界のウラン生産量) 。 ウラン価格(イエローケーキ。スポット価格)は、1970 年代、とくに第一次石油危機後 の原子力発電計画の拡大を受けて上昇したが、スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故 を受けて新規原子力発電建設が低迷したことから下落し、1980 年には 32.90 米ドル/ lbU3O8 であったが 90 年には 12.55 米ドル/lbU3O8、2001 年には 7.92 米ドル/lbU3O8 まで下落した。 その後上昇に転じ、一時 2007 年には 136 ドル/lbU3O8 まで上昇し、2011 年 3 月時点 でも 60 ドル/lbU3O8 を超える高値となった。 原子力発電のコストは、後述するように福島原発事故以降、安全対策費、高レベル放射 能廃棄物処理費、廃炉処理費、事故処理費、補償費などを考慮して試算し直され、かなり 高くなってきたが、まだ、すべてを反映したコストは不明であるとしか言えない(2016 年 12 月 9 日、経産省は、福島原発事故の費用は、2013 年に 11 兆円と試算していたものが、 廃炉・汚染水対策 2 兆から 8 兆に、賠償 5.4 兆から 7.9 兆に、除染 2.5 兆から 4 兆に、中間 貯蔵施設 1.1 兆から 1.6 兆に、合計 21.5 兆円に膨らむとの試算を公表した。いずれにして も税金か電気代として国民負担となるから、これらは原子力発電のコストとなる。しかし、 これで終わりとはいえない。なにしろ廃炉処理に 40 年、高レベル放射能廃棄物の最終処理 516 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 管理に至っては 10 万年かかるというから、真のコストは永久に不明になろだろう)。 先進国では原子力発電はドイツなど撤廃を決めた国が出るなど(撤廃は決めなくても、 既存の原発で終了する可能性の高い国もあり) 、新規原発は後退し初めているが、中国をは じめ途上国では多数の原発建設計画がある。 ウランの可採年数は前述したように 94~121 年であるが、これは 2012 年の生産量から 算出したもので、膨大な原発計画が計画通りに進行して生産量が急増すれば、たちまち、 可採年数は減って、21 世紀の半ばにもピークを迎えてしまうかもしれない。その一方で万 年単位で管理しなければならない高レベル放射能廃棄物を子孫に押し付けることになる。 そこで、21 世紀のエネルギーの見通しをした図 129 の各機関のコメントは、⑦原子力は社 会的な受容性の観点から近未来に利用規模を拡大することは困難である。しかし、長期的 な地球温暖化に対応していくためには重要な選択肢となる。その場合、核燃料サイクルを 構築するなどウラン資源の有効利用を図ることが必要である、となっている。 確かに核燃料サイクルが成功すればの話であるが、原子力発電のところで述べたように、 アメリカをはじめ、ほとんどの先進国が核燃料サイクルの開発を断念した今となっては、 むずかしいとしか言えない。 最近の報道によると(2016 年 12 月)、日本政府は高速増殖炉「もんじゅ」の後釜として、 「高速炉」を開発する意向であるようだが、たとえ、成功しても、実用化される時期は 2050 年以降だという。それでは「地球温暖化防止」には間に合わない(そんな金があったら、 太陽光発電の開発・普及を一刻も早く進めるために使った方がよっぽど確実である) 。 ◇再生可能エネルギー 再生可能エネルギーとして半永久的に利用可能な膨大な資源量が存在する。潜在的な資 源量は桁違いに大きく、技術の発達次第で利用可能な量は増えると見られている。技術的 に利用可能な量は少なくとも現在の世界のエネルギー需要の約 20 倍で、2100 年時点で予 測されるエネルギー需要と比べてもなお数倍以上大きいと見積もられている。 517 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 再生可能エネルギーの資源量 (エクサジュール(EJ)/年 ※1EJ=10 億 GJ) 地熱 2001 年時点での利用量 世界の技術的資源量 世界の理論的資源量 0.6 5,000 140,000,000EJ >1,575 3,900,000EJ 太陽光・太陽熱 0.1 海洋 (算出されていない) (算出されていない) 7,400EJ 風力 0.12 640 6,000EJ バイオマス 50 >276 2,900EJ 水力 9 50 147EJ 合計 60 >7,600 >144,000,000EJ 利用量は一次エネルギー換算。 2001 年時点での世界の一次エネルギー消費量は約 402EJ/年であるので、各再生可能エネル ギーの技術的資源量は下記のようになる。 地熱 5,000/402 12.4 倍 太陽光・太陽熱 >1,575/402 >3.9 倍 風力 640/402 1.6 倍 バイオマス >276/402 >0.7 倍 水力 50/402 0.4 倍 合計 >7,600/402 >18.9 倍 ◇太陽光発電 太陽光発電の場合、太陽光エネルギーはほぼ無尽蔵であるから、重要なのはいつグリッ ドパリティ(既存電力と同じコストになる)に達するかということである。できるだけ早 く固定価格買取制度(FIT)などの国の普及策がなくても、やっていけるように、コストダ ウンの研究開発を急がなければならない。 ちなみに、21 世紀のエネルギーの見通しをした図 129 の各機関のコメントは、⑥再生可 能エネルギーは近未来に大きく期待することは困難であるが、世界全体では潜在的資源規 模が大きいので、長期的に気候変動問題に厳しい対応が必要となる場合には重要性が高ま る、と書いている。 地球温暖化問題が「長期的に気候変動問題に厳しい対応が必要となる」ことは確実で、 21 世紀の人類はこの問題のために最善の努力をしなければならない。その場合には再生可 能エネルギーの重要性が高まってくるというのである。そのとおりで、再生可能エネルギ 518 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― ーしか解答がないとも言えるのである。 21 世紀のエネルギーの見通しをした図 129 の各機関の見通しでは、②こうした発展途上 国の経済発展、生活水準の向上は世界のエネルギー消費量の増大を招く。世界の一次エネ ルギー消費量の見通しは、2050 年には 2 倍~3.5 倍、2100 年には 1.7~5.4 倍である。地球 温暖化に対応しながら、どのように、このように増大するエネルギー需要を満たしていく かが課題である、と述べている。 単純化して、図 134 で 20 世紀に生きた総人口と 21 世紀に生きる総人口の比を出すと、 2.1 倍になる。実際には 20 世紀に生きた人より、21 世紀に生きる人のエネルギー需要量が 多いだろうから、たとえばそれを 2 倍とすれば、21 世紀には 4.2 倍のエネルギーが必要に なる。 前述したように、石炭、石油、天然ガス、ウランで 21 世紀に 4 倍、5 倍になるものがあ るだろうか。みんな足しても 5 倍にもならないだろう。そもそも 21 世紀の人類存続の答え はここにはないのである。答えはただ一つ、人類にとってはほとんど無尽蔵とも言える再 生可能エネルギーが答えである。もはや、石炭、石油、天然ガス、ウランは、つなぎに過 ぎないのである。 それが、まだ「再生可能エネルギーは近未来に大きく期待することは困難である」とい うのであれば、最全力をつくして「期待できる」ようにしなければならない。開発を早め 普及を早めることしかないではないか。そもそも答えにならないものに、21 世紀の半ばに 息切れしたり、とほうもないコストを要求されるかも知れないものに一喜一憂するのでは なく、着実に努力すれば報いられるものに我々は残された時間と金と努力を注ぐべきでは ないか。 519 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 134 20 世紀と 21 世紀の総人口比=2.1 倍 《いつグリッドパリティに達するか》 一般にアメリカでは太陽光発電モジュール 1W 当り 1 ドルになるとグリッドパリティに 達するといわれているが、2009 年にファーストソーラー社(アメリカ・アリゾナ州)がこ れを生産コストで下回り、2010 年にはモジュールの生産コストが$0.77/W になったと表明 している。2014 年にはさらに$0.52~$0.63 まで安くできると表明している。 ファーストソーラーがそれほどの低コストで太陽電池を製造できるのは、長年にわたっ シンフイルム て改善されてきた、薄 膜 テクノロジーという革新的な製造プロセスのおかげである(薄膜 型だけでなく、他にもいろいろな方式の太陽電池が開発中であることは述べた) 。ファース トソーラーは、コストを大幅に引下げることができたので、いまや在来型発電の一部と十 分に競争ができるという。同社は、生産ラインを 3 大陸(アメリカ・オハイオ州、ドイツ、 マレーシア)で運営している。 ファーストソーラーは、2009 年に、中国内モンゴル自治区に面積 65 平方キロメートル (マンハッタンよりやや広い)発電能力 2 ギガワット(200 万キロワット)という世界最 大の太陽光発電所を建設する契約を結んでいる。2019 年完成予定のこのプロジェクトに太 陽電池を供給する工場を、ファーストソーラーは中国に建設するものと見られている。こ のプロジェクトが完成すると、コストがどれくらい低くなるか注目されている。 アメリカの条件の良い地域では、2012~2014 年頃に天然ガス等の発電コストよりも安く なってくると見られる。 520 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 普及で先行するドイツでは 2011 年までの 5 年間で、モジュールだけでなく設備全体の導入 コストが半額以下に低減し、2006 年に 5000 ユーロ/kW だったものが 2200 ユーロ/kW(約 24 万円/kW)程度まで安価になっている。2012 年には家庭用の電力でグリッドパリティに 達し、2017 年頃には実質的に助成が不要になると見られている。 イタリアやカリフォルニア州の一部等では、既にグリッドパリティが達成されていると の指摘もある。 日照量の多いサウジアラビアの太陽光発電のコストは 2020 年までに 9.5 セントになり、ガス火力のコストよりも安価になるとの予測もある。 欧州主要国(フランス・ドイツ・イギリス等)では、2020 年までに順次、既存の火力発 電とコストで競い始めると見られている。 日本では、2011 年には福島原発事故が起きて、政府、電力業界のなれ合いが明るみに出 て、太陽光発電も固定価格買取制度の発足によって、やっとドイツなど EU やアメリカな どと対等の競争ができるようになり、太陽光発電システムの普及拡大が促進されるとみら れている。 2011 年 12 月 13 日の政府内閣府のコスト等検証委員会では、 住宅用太陽光発電の場合、 2010 年時点でコストは 33~38 円/kWh との見積もりを発表し、2030 年には 10~20 円/kWh 程 度にまで発電コストが下がる可能性も示した。 日本国内における住宅用の平均システム価格は 41.7 万円/kW である(2013 年 7 月~2013 年 9 月)。国内におけるメガソーラーの平均システム価格は、28 万円/kW である(2012 年 10 月~2012 年 12 月)。大手家電量販店やテレビ通販でも流通するようになり、2012 年に なると国産品でも 34 万円/kW 程度で販売される例が出現している。さらに輸入品を用いた 例では 30 万円/kW 程度で販売されており、金利 3%かつ償却 20 年の条件で計算しても 20 円/kWh を切る例が出現している。 NEDO の太陽電池開発のロードマップ (PV2030+) でみると、目標マイルストーンとして ・2014 年に一般家庭の電気料金(23 円/kWh 程度)の実現 ・2017 年には業務用電力料金並み(14 円/kWh 程度)の実現 ・2025 年には電力会社の発電所で発電コスト(7 円/kWh 程度)の実現 ・太陽光発電の適用性の拡大地域、広域エネルギーネットワークの実現 当面は図 101(図 18-29)の 2017 年の目標を目指して、発電コスト 14 円/kWh、モジュ ール製造コスト 75 円/W、モジュール変換効率 20%を目指している。 2010 年代の後半には、ほとんどの地域でグリッドパリティが達成され、太陽光発電が急成 長するとみられる。 これまでの世界の太陽電池メーカーの激しい競争を見てくると、この産業はまだ、若く、 これから伸びる産業であることがわかる。太陽光発電技術は、まだ、発展途上の技術であ 521 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― り、今後、発電効率も発電コストももっともっと向上するし、また、設置場所も住宅の上 とは限らず、住宅の壁に塗る、柔軟な膜状のものなど、用途によって使い分けることもで きるようになると思われる。 今後、既存の電力コストは、石炭、石油、天然ガス、原子力などすべての電力が長期的 にコストが高くなるが(当面、アメリカはシェールガス革命で、発電コストが下がる可能 性がある) 、太陽光発電設備産業は量産効果が大きい産業であるからコスト低減はさらに進 み、さらに普及し、さらに低減するという好循環が起きると考えられる。 太陽光発電のコストは、運転に燃料費は不要であるため、設備と設置工事費および長寿命 化のためのメンテナンス費用でほぼ決まる。昼間のみ発電する特性から、系統連系して用 いる場合は昼間の電力需要ピーク時のコストで論じられる。 また蓄電して独立型のシステムとして用いる場合は、蓄電池や他の電源を組み合わせた 場合のコストで論じられる。一方、途上国で送電網が未整備な場合、消費電力に比して燃 料輸送費や保守費が高い場所など(山地、離島、砂漠、宇宙等)では、現段階でも他方式 に比較して最も安価な電源として用いられる。今後もさらなるコスト低減が見込まれてお り、中長期的にはコストが最も安い発電手段になると見込まれている。 太陽光発電の増大は、経済面では投資誘発や雇用拡大、技術革新の促進等、産業として のメリットも評価の対象となる(先行しているドイツでは、すでに、そのような効果が出 ていることは述べた) 。 ◇風力発電 風力発電も潜在的な資源量は膨大であるが、この場合は風力発電に適した地形かどうか がより重要になる。立地場所によっては火力発電に匹敵するコストで発電ができ、ライフ サイクルでみても廃棄物や環境排出がきわめて少ないことから、ヨーロッパ諸国を中心に 開発利用が積極的に進められていった。 しかし、その後、2012 年時点で導入が最も進んでいるのは中国で、世界の 26.7%を占め、 次いでアメリカ(21.2%)となっている。この両国が世界に占める割合は 2011 年の 46.0% から 48.0%に高まっている。また近年は、イギリスなど洋上風力発電の市場も急速に拡大 している。 日本でも電源の多様化、クリーン・エネルギー利用の促進等の観点から導入が図られて いるが、風況の良好な地点が少ない、山岳地形が多く設置にコストがかかる、台風に襲わ れる、風況の良い日本海側では冬季に落雷が多いなどの課題も多く、計画どおりには導入 が進んでいない。 ○発電コスト試算 福島原発事故後に多くの組織で発電コストの試算が行われた。そのいくつかを下記に記 522 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― す。 ◇経済産業省による試算 2010 年に経済産業省資源エネルギー庁は、各エネルギーにおける 1kWh あたりの発電コ ストを再試算した(ただしこれは福島原発事故以前のデーターを用いたものである。なお、 この内原子力発電コストの見積もりについては、原子炉建設の際の漁業補償金、原子力に 特有な再処理費用、1kWh あたり 1 ~ 2 円の燃料費等のバックエンドコストは含んでいる が、電源三法による地元への交付金 (税金)、電力企業からの地元対策寄付金、原子炉廃炉 解体費用、原発事故の際の賠償金等は含んでいないため、これらを算入すると原子力発電 コストはさらに高くなる。 (注)2008 年における日本のエネルギー別の発電電力量割合は、 原子力 26.0%、石油火力 10.3%、石炭火力 25.2%、LNG 火力 28.3%、水力 7.8%、その 他 2.4%であった。 ・太陽光 49 円 ・風力 (大規模) 10~14 円 ・水力 (小規模除く)8~13 円 ・火力 7~8 円 ・原子力 5~6 円 ・地熱 8~22 円 ◇米国エネルギー省エネルギー情報局による試算 2010 年に米国エネルギー省アメリカ合衆国エネルギー情報局 (DOE/EIA) が公表した、 2016 年にアメリカで運用を開始する新規発電所の百万 kWh あたりの発電コストは以下の 通り(なお、1 ドル=90 円として kWh あたりコストも表示) 。 523 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 発電コスト 発電コス (米ドル/百万ト 発電方法 kWh) (円/kWh) 従来型石炭火力 $94.8 ¥8.5 改良型石炭火力 $109.4 ¥9.8 改良型二酸化炭素貯留石炭火力 $136.2 ¥12.2 コンバインドサイクル $66.1 ¥5.9 改良型コンバインドサイクル $63.1 ¥5.7 改良型二酸化炭素貯留コンバインドサ 天然ガス(LNG 発電) $89.3 イクル ¥8.0 石炭火力 従来型燃焼タービン $124.5 ¥11.2 改良型燃焼タービン $103.5 ¥9.3 改良型原子力発電 $113.9 ¥10.3 風力 $97.0 ¥8.7 洋上風力 $243.2 ¥21.9 太陽光発電 $210.7 ¥19.0 太陽熱発電 $311.8 ¥28.1 地熱発電 $101.7 ¥9.2 バイオマス $112.5 ¥10.1 水力発電 $86.4 ¥7.8 ◇政府機関による福島原発事故後の発電コスト試算 2011 年 11 月 8 日に内閣府の原子力安全委員会では、深刻な原発事故は 1 基あたり 500 年間稼働すると 1 回発生し、その際 5 兆円の損害賠償が必要になると仮定し、従来コスト に 1.6 円積み増して原発コストが最大 7.6 円/kWh と試算する中間報告を出した(2016 年 11 月の時点で福島原発事故の最終処理費は不明であるが、約 20 兆円は超える見通しが出て いる) 。 ◇さらに上記とは別に、2011 年 12 月 13 日、内閣府国家戦略室のコスト等検証委員会が発 表した各発電コスト(円/kWh) の 2010 年時点価格と 2030 年予測は下記の通り。 524 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 発電方法 2010 年 2030 年 原子力発電 8.9 円/kWh 以上 8.9 円/kWh 以上 石炭火力発電 9.5 10.8 LNG 火力発電 10.7 10.9 石油火力発電 38.9 36.0 陸上風力発電 9.9~17.3 8.8~17.3 洋上風力発電 9.4~23.1 8.6~23.1 地熱発電 8.3~10.4 8.3~10.4 太陽光発電 33.4~38.3 9.9~20.0 ガスコジェネ 10.6~19.7 11.5~20.1 これによると、既に 2010 年段階で、原子力と石炭・LNG 火力発電コストは約 10 円/kWh でほぼ等しい。日本の火力発電のうちでも石油火力発電コストは特に高く、太陽光発電と 同等の約 37 円/kWh のコストがかかっている。また、原子力は廃炉費用・再処理費用・高 レベル放射性廃棄物処分費用・立地費用・研究開発費用・事故リスク対応費用などを全て 含んで 8.9 円/kWh 以上となっており、この試算段階で 5.8 兆円と想定された福島原発事故 の被害額が追加的に 1 兆円上昇すると、原子力発電単価は 0.09 円/kWh 上昇する、とされ た。事故の総費用が正確にわからない現状を反映しているので流動的である。 (ここでも、2016 年 11 月の時点で福島原発事故の最終処理費は不明であるが、前述し たように約 20 兆円は超える見通しが出ているので、原子力発電単価はかなり上昇する) ◇さらに 2015 年 5 月 26 日、経済産業大臣の諮問機関である総合資源エネルギー調査会の 元に設置された専門家会合(発電コスト検証ワーキンググループ)は、2030 年エネルギー ミックス策定のための電源別発電コストの再検証試算を発表した。その結果は以下の表の 通り(表中のカッコ内は政策経費を含まない発電単価、すなわち国からの補助等を除外し て算出した発電単価) 。 525 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 発電方法 2014 年 モ デ ル プ ラ ン ト 円 2030 年 モ デ ル プ ラ ン ト 円 /kWh /kWh 原子力発電 10.1 以上 (8.8 以上) 10.3 以上 (8.8 以上) 石炭火力発電 12.3 (12.2) 12.9 (12.9) LNG 火力発電 13.7 (13.7) 13.4 (13.4) 石油火力発電 30.6~43.4 (30.6~43.3) 28.9~41.7 (28.9~41.6) 陸上風力発電 21.6 (15.6) 13.6~21.5 (9.8~15.6) 洋上風力発電 ---- 30.3~34.7 (20.2~23.2) 地熱発電 16.9 (10.9) 16.8 (10.9) 太陽光発電(メガソーラー)24.2 (21.0) 12.7~15.6 (11.0~13.4) 太陽光発電(住宅用) 29.4 (27.3) 12.5~16.4 (12.3~16.2) 一般水力発電 11.0 (10.8) 11.0 (10.8) 小水力発電 23.3~27.1 (20.4 - 23.6) 23.3~27.1 (20.4~23.6) 原子力発電については、追加的安全対策費などでコストアップし、かつ福島第一原発事 故の被害額が 9.1 兆円に上方修正された一方で、追加的安全対策により事故発生頻度が 1/2 に引き下げて評価され、2030 年モデルプラントで 10.3 円/kWh~とされた。なお 9.1 兆円 の事故被害額が仮に 1 兆円増加すると、原子力発電単価は 0.04 円/kWh 上昇する。この試 算においても廃炉費用・再処理費用・高レベル放射性廃棄物処分費用・事故リスク対応費 用等が含まれており、また立地費用や研究開発費用は政策経費の一部とされている。 太陽光は将来大幅コストダウンが見込まれており、2030 年において 12.5~16.4 円/kWh と評価された。またベースロード電源に指定されている石炭火力発電コストは、発電コス ト計では LNG 火力発電をわずかに下回っただけであった。地熱発電は政策経費を含んだ場 合、前回よりも大幅コスト高の 16.8 円/kWh となった。 結果として今回の発電コスト試算では、割引率 3%(建設資金融資の利息に相当)の下限 値でみると、電源別で原子力発電が一番安価になった(前述した福島原発事故の費用が大 幅に増大するという 2016 年 12 月の経産省の発表前の試算である。ここでもわかるが、経 産省の試算は、2014 年モデルでも 2030 年モデルでも原子力発電のコストはほとんど同じ で一番安価になるという) 。 ◇米国シンクタンクの 2014 年における発電コスト試算 エネルギー問題の米国企業系シンクタンク「ブルームバーグ・ニュー・エナジー・ファ イナンス」は、2014 年 9 月 16 日に「原子力発電コストは世界平均で 1 キロワット時当た 526 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― り平均 14 セント(約 15 円)で、太陽光発電とほぼ同レベルであり、陸上風力発電や高効 率天然ガス発電の 8.2 セント(約 9 円)よりもかなり高コスト」と発表した。東京電力福島 第 1 原発事故後の安全規制強化もあって建設費や維持管理にかかる人件費などが世界的に 高騰している一方で、太陽光発電はコスト低下が進んでいることが主な理由としている。 このことは原子力の経済優位性が薄れていることを印象付ける結果となった。 ○二酸化炭素排出量 温室効果の原因となる二酸化炭素の排出量が少ないことは、原子力発電の利点の一つと されている。電力中央研究所が 2000 年 (平成 12 年) に発表した試算によれば、原子力を はじめとする各種発電方式について、発電所の建設から廃止までの発電量と二酸化炭素排 出量を考慮した、1kWh あたりの二酸化炭素排出量は以下のように試算した。太陽光発電 については試算されていないが、ほとんどゼロに近いと思われる。 ・原子力 22 グラム ・水力 11 グラム ・LNG 火力 608 グラム ・石油火力 742 グ ラム ・石炭火力 975 グラム 原子力発電では核分裂反応に起因する二酸化炭素の排出は全くないが、発電所の建設、 運用、廃止や燃料の生産、輸送、廃棄物の処分等に起因する二酸化炭素の排出も上記の試 算には含まれているため、若干の排出が見られる。この点は水力発電も同様である。 ○原子力発電の特殊事情 《人類に半永久的な放射性物質管理が可能か》 原発から出てくる使用済み燃料棒などの高レベル放射性廃棄物は、全ての放射性元素が 崩壊を終え、鉛などの安定同位体に落ち着くまでは、非常に長い期間を要するものもある。 放射性物質によっては、半減期が 10 万年というものもあり、これは人間の歴史からみると 半永久的であるということになる。 人類が農業をはじめ、その後、興ったすべての文明を含んでも、1 万年にしかなっていな い。それを超える年月、人類は核廃棄物を安全に保管できると誰が言えるであろうか。 ということは、原子力発電所では事故が絶対に許されないこと(放射能がもれないこと) と放射性廃棄物を半永久的に保管管理しなければならないという 2 点が問題となる。 これらの廃棄物は、短寿命で放射線量の多い放射性物質の減衰を目的として、一定期間の 管理を行ったうえで、人間界から隔絶するために地下深くに埋設して処分する地層処分が、 主に関係する諸国で検討されている。 フィンランドが唯一、具体的にユーラヨキのオルキルオト島のオンロカ(Onkalo)廃棄 物貯蔵施設を 2020 年から 100 年間稼働予定で建設中である。原子力発電施設を持つ他の諸 527 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 国も建設が急がれるが、国民的コンセンサスが得られず、最終処理施設の地点を決定でき ずにいる。 日本では、2016 年 8 月、原子力規制委員会は以下のように高レベル放射性廃棄物の最終 的処分(管理)の方法を決定したことは述べた。 原発の廃炉で出る放射性廃棄物は、使用済み核燃料から出る放射能レベルが極めて高い高 レベル放射性廃棄物と、原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)と、 原子炉圧力容器の一部などレベルが比較的低い廃棄物L2と、周辺の配管などレベルが極 めて低い廃棄物L3に大きく分けられる。 使用済み核燃料から出る高レベル放射性廃棄物の処分方法は、地震や火山の影響を受け にくい場所で 300 メートルより深い地下に埋め、電力会社に 300~400 年間管理させる。 その後は国が引き継ぎ、国が 10 万年間管理することになる。 原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)の処分方法は、地震や火 山の影響を受けにくい場所で 70 メートルより深い地中に埋め、電力会社に 300~400 年間 管理させる。その後は国が引き継ぎ、10 万年間管理することになる(L2、L3は省略)。 使用済み核燃料から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分地は国が科学的見地から選定し て自治体等の同意を得るとしている。L1~L3の処分地は、電力会社が確保する必要が あるが、候補地選びは難航しそうである。いずれにしても、10 万年間国が管理(監視)す るということはありえないことであるし、その費用は天文学的になってしまうだろう。 《原子炉は原理的にコントロール不能》 原発の歴史で述べたように、放射性物質は原子炉の中で制御されているときだけ安全 で一旦、電源喪失、冷却不能、その他の原因で制御できなくなると暴走をはじめ、原子炉 のメルトダウンがはじまって、それが終了するまで止める方法がない(チェルノブイリの ようにコンクリートや鉛で石棺にして何千年、何万年も置いておくしかない。福島原発が そうならないとも限らない) 。 普通の機械・プラントは電源が切れたり、故障したりしたら、そこで止まるが(爆発し てもそれで止まるが) 、原子炉はそれから暴走がおこり、メルトダウンがはじまり、それは いかなる方法でも止めようがない、しかも、膨大な放射能をまき散らし、その影響がなく なるまでには万年のオーダーとなり、その周辺はまったくの不毛の地となってしまう。 このような機械システムについては、人類はまだ、原理的に取り扱いの方法論をつかん でいない。人類が機械らしい機械をつくりはじめて、つまり、イギリスの産業革命以来、 250 年になるが、新しい機械システムの導入には事故がつきもので、鉄道の鉄橋事故やジェ ット旅客機事故の例でも述べたように、根本的にその原因を調査して(その結果、それま での人類が知らなかった新しい知見を得て) 、新しい設計法を生み出し、それで試作・実 528 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 験・破壊試験をして、事故時の対策などのソフト面もマスターして、この世の中に一つ一 つ新しい機械システムを導入してきている(それでも、また、事故は起きている。その原 因を究明して・・・その繰り返しでこの世の機械システムは存在している) 。 つまり、機械設計をするときには、最初に理論的な強度計算をして、その計算より何倍 かの安全係数をかけて設計をして、全機試作して、それを破壊(爆発させて)して、予定 通りの強度なり性能がでるかを確かめてから実用に供されている。その過程でフェイル セイフ(fail Safe。誤操作・誤動作による障害が発生した場合、常に安全側に制御する設 計手法)の思想で、必要なところには 2 重、3 重の安全装置を組み込んでおくようにしてい る。 ところが、この原子力発電システムでは、原子炉が冷却できなくなったら、お手上げに なる機械システムである(原理的にいかんともしがたい。原子炉が爆発しないようにバブ ルを開けて放射能を放出し続けるしか、あるいはメルトダウンにまかせるしかない) 。これ では安全な機械システムとはいえない。人類は、まだ、基本的に安全な原子力発電システ ムを開発していなかったのである。ある条件下においては安全であるが、ある条件下では 手が付けられない。これでは開発したことにはならない。 これは前述した原爆開発、原発開発の歴史で述べたように、放射性廃棄物がどうなるな どあまり考えず、とにかくマンハッタン計画で原爆を開発した経緯、それから原爆を日本 に使用した経緯、戦後アメリカが核の国際管理を拒否した経緯、核の平和利用をアピール するためアイゼンハワー大統領の時、安全性を厳密に検討せず、つまり、メルトダウンを 不問にして原発を大型化したこと、放射性廃棄物の最終処分方法の技術が未確立のまま(検 討すれば原理的に経済的な範囲でそのような技術はありえないことがわかったはずである。 数万年も保管すればその管理費は天文学的な数字になる)、やっているうちに何とかなるだ ろうという甘い考えから、みぎり発車した経緯などから生じてきたことである。 過去 70 年間解決できなかったこの核分裂エネルギーの本質的な問題点は、今後、70 年 経っても答えは出ない。人間は“絶対”安全な機械システムは開発できないのである。人 間は“絶対”安全に運転することはできないのである。人間には“絶対”という言葉は使 えないのである。しかし、核分裂と高放射性廃棄物は“絶対”に危険であり、人間は“絶 対”に同居できないのである。 原爆開発も原発開発も人類が冒した最大の間違いで、21 世紀の世界に先送りするのでは なく、核兵器も原発も一刻も早く中止し白紙に返すべきである。 ○人類の 3 つの選択肢 以上のことを勘案すると、人類の 21 世紀のエネルギーの選択肢には大きく言って 図 135(図 18-61)のように、三つある。 529 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 図 135(図 18-61) 人類の 21 世紀以降のエネルギー 図 135(図 18-61)の①は、太陽光発電がグリッドパリティに達したところから、どん どん太陽光発電に切り換えていけば、地球温暖化は阻止されるし、一旦、太陽光発電に投 資すれば(もちろん、より高性能なものに換えることはあるが) 、我々人類はそれからエネ ルギーを永続的に取り出すことができる。もともと地球にやってきて、また、宇宙に去っ ていくエネルギーをその途中で利用するだけであるから、ほとんど、公害や環境破壊など は起こさない。 この方法は、図 1(図 18-59)の太古の時代から生物がやってきたことと同じようにや って(第四次産業革命技術を使って) 、少なくともエネルギーについては(いずれは食糧も)、 530 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― この地球の循環の中から得られる(というより利用させてもらえる)ようになる。 これこそ自然と調和する生き方になる。人類はやっと地球(自然)の叡智をきわめ(太 陽光から電気を取り出すという技術) 、そこから得た叡智で、自然と一体になって生きる方 法を見つけたのである。100 億人の仲間と一緒に暮らせるエネルギーはこれしかない。 図 135(図 18-61)の②は現在のなりゆきにまかせて化石エネルギーを拡大させていく方 法である。地球温暖化も考慮して、原子力発電も増強されていくだろう。 しかし、これらのエネルギーはすべて量が限られている。最近の中国などをみていると、 従来の先進国の比ではないほどの化石エネルギーを使っているので(エネルギー多消費の 技術である) 、従来、考えられていたより、はるかに資源の枯渇が早くやってくるようであ る。 現在使っている量で掘り続けられる年数は石油が 53 年、天然ガスが 56 年である。いず れも、21 世紀末にはなくなる。今のような増え方では、もっと早くなくなるかもしれない。 石油は最近、カナダとベネズエラで利用できる量が増えた。粘り気が強く、回収が難しか った非在来型資源も技術の進歩で採掘できるようになったためである。 天然ガスも、利用できる量が増えている。アメリカは生産量が伸び悩み、2003 年にロシ アに次ぐ 2 位と退いた。だが、頁岩に閉じ込められた非在来型のシェールガスの生産が軌 道に乗り、2009 年に再び 1 位に返り咲いた。ただ、消費量も増え、世界で掘り続けられる 年数はほぼ横ばいである。 同じエネルギーを生み出す場合、石炭を燃やした際の二酸化炭素の排出量を 100 とする と、石油は 80、天然ガスは 60 と言われている。シェールガスを使っても、二酸化炭素の 増え方が 4 割減るだけで二酸化炭素が増えることには変わりがなく、温室効果ガスを増や し続けることに変わりがない。シェールガスに代わっても 100 億という地球人口からみる と、化石エネルギーの寿命を十数年、あるいは数十年延ばすにすぎない(アメリカにも多 く残っている石炭火力をシェールガスに切り換えることは温室効果ガス削減に貢献するこ とになるが) 。 いずれにしても、だんだん乏しくなって高騰する化石エネルギーを先を争って買いあさ り、温室効果ガスがどんどん増加して地球温暖化が進んでいくというのがこの選択肢の未 来である。かつて、ローマクラブが『成長の限界』の世界モデルの標準計算結果(図 67(図 17-1)参照)で描いたように、地球生態系が悪化して生物種の絶滅が急増し、最後には世 界人口の急減が起きるようになるだろう。 図 135(図 18-61)の③のように、原発をどんどん立てていった場合はどうなるか。地 球温暖化は防止できたが、高レベル放射性廃棄物の置き場に困ってしまうシナリオである。 原子力エネルギーについては、2014 年、世界 31 ヶ国に、426 基あり、建設中が 72 基、こ 531 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― れを足すと 498 基になるが、新規建設予定 174 基、新規提案段階 301 基を足すと 973 基に なる。 ウランの可採年数は前述したように 94~121 年であるが、2012 年の生産量から出したも ので、前述したように原発が稼働し始めたら、たちまち、可採年数は減って、21 世紀の半 ばにもピークを迎えてしまうかもしれない。その一方で、万年単位で管理しなければなら ない高レベル放射能廃棄物を子孫に押し付けることになる。 核燃料リサイクルができるようになれば、この可採年数が伸びると言われているが、核 燃料リサイクル技術開発についてはアメリカなど先進国のほとんどが断念してまったく開 発の目途はついていない(原発技術の安全性にも覚束ないものが、より難しいものを開発 できるという考え方そのものが不思議である)。 たとえ高速炉が開発されても、高速炉(高速増殖炉ではない)では、核サイクルの延長 にもならないし、第一、2050 年以降に実用化されても、この人類未曾有の地球温暖化には 間に合わないではないか。 最近の傾向として先進国はフランス以外は(日本は?) 、原子力を避ける傾向が出てきて いる。実際、最近は先進国では原発増加数より廃棄数が増えており、原発は縮小段階に入 っている(図 109(図 18-30)参照) 。今後、原子力を増やすと言っているのは、先進国が 競って原発を売り込んでいる発展途上国である(これはこれで心配である) 。 今計画されているように原発が増えていったら、たとえ日本が原発を減らしたり、やめた りしても、地球全体は(万年単位の放射性物質は最終的にはすべて海に流れ込む) 、土壌も、 河川も、海も放射能濃度が高くなって、ガン発生率も高まるだろう(魚も食えなくなるだ ろう) 。 ウランの価格も非常に高くなり、経済的なエネルギーとはいえなくなっていくだろう(現 段階でもバックエンド費用や万年単位の管理費を計算すれば、とっくに経済レベルを超え たコストになっているだろうが、なぜか、政府は計算しようとしない)。テロリストなどに 対する安全管理費用も大きくなっていくだろう。 つまり、化石エネルギーにしても、原子力にしても、35 年後の 2050 年ごろには、資源 量的に先が見えて、尋常な価格ではなくなり、いずれにしても 21 世紀後半には、再生可能 エネルギーにシフトしなければならなくなるということである。 そのころ図 135(図 18-61)の②の場合は地球に(大量の二酸化炭素を排出して)地球 温暖化という致命傷を与えることになっているだろう。図 135(図 18-61)の③の場合は、 この 35 年間で大量の放射性廃棄物を地球にかかえこませることになるし、そのあと、原子 力をやめることにしても、膨大な核廃棄物が出てくることになる。10 万年間管理すればい いという人間はまったく無責任限りないと言わざるをえない。原子力は 1 国でやる、やめ 532 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― るの問題ではなく、人類がこの地球で放射能と同居できるかどうかという人類全体の問題 である。その結論は早ければ早いほどよい。 現在の 65 兆ドルのグローバル経済をまかなうだけではなく、わずか 20 年後には 130 兆 ドルになろうとする経済をまかなうのに、そのまた 20 年後には 200 兆とか 300 兆という経 済をまかなうのに、資源量は充分に足りるだろうか?わかりやすくいえば、10 億台近い車 がある世界から、20 億台以上の車がある世界に、さらにそのあと、30 億台以上の世界に移 行するのに、石油資源は充分にあるのだろうか? エネルギー需要のグローバリゼーションである。現在、先進国(1 割の人口)での石油使 用は年間一人当り 14 バレルである。発展途上国(9 割の人口)では一人当り 3 バレルにす ぎない。数十億人の使用量が、一人当り 3 バレルから 6 バレルに倍増したら(それだけで 1.6 倍の石油が必要となる) 、世界はどう対処するのだろう?もはや、石炭、石油、天然ガ ス、ウランの問題(それらは単なるつなぎである)ではないのである。太陽光エネルギー によって、いかにしてスムーズに地球上の全システムを持続して稼働させるか、つまり、 これは第四次産業革命そのものであるが、それをこの地球上でこれから 20~30 年間で起こ させるかを考えなければならなくなっている。 ○2015 年から 2050 年の期間が地球の未来を決める この 2015 年から 2050 年の間は、人口的にも地球の大勢が決り、エネルギー選択が決り (それぞれのエネルギーの寿命がみえてくる) 、地球温暖化の方向(温暖化がかなり阻止で きる見通しになった、いや、まったく、どうしようもなく、温暖化が進行しているのどち らか)が決まる時期であるきわめて重要な時期である。21 世紀後半から 22 世紀、23 世紀 と安定的に地球社会を維持できるか、それともジェットコースターのような不安定な地球 社会にしてしまうかの岐路の時期である。 21 世紀中に人類はほぼ 100 億人に達する、それが必要とするエネルギーは太陽光エネル ギーしかない。たとえ、シェールガスが出ても 100 億人という地球人口からみると、化石 エネルギーの寿命を少し延ばすにすぎない。 核エネルギーと人類は本質的に同居できない。核エネルギーは宇宙では普遍的なエネル ギーであるが、人類(生物)は地球という(オゾン層などによって)保護された環境の中 に生まれた。宇宙に生まれたのではない。放射能の中には生きられない。人類は核エネル ギーと同居はできない。 人類は困難な時期を技術によって克服してきた。困難なときには団結した(第二次世界 大戦時の軍事独裁国家群との戦いと戦後のマーシャルプラン)。この度の困難も(1950 年、 25 億人から見ても 100 億人は 4 倍)、ちょうど間に合って、太陽光発電技術が実用化され たことによって乗り切れる目途がついた。あとはこれを素早く普及させるため、人類は団 533 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 結しなければならない。目標はパリ協定を完全に実行することだ。そのためには発展途上 国を巻き込んだ国連による太陽光発電マーシャルプラン(主要国が債務保証した国連債を 発行する)を実行することだ。太陽光発電を世界中にできるだけ早く普及させることによ って、我々世代も助かるが、何といっても、22 世紀も、23 世紀も半永久的に持続可能な地 球社会が存続できることがありがたい。 534 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― おわりに 筆者は第 1 次石油危機を 40 年前の 30 代のはじめに経験した。このときから地球社会に は限界があり、社会の仕組み(社会システム)を持続可能なシステムにかえて行く必要が あると『21 世紀の社会システム』を出版した。その「あとがき」でつぎのように書いた。 建築家バックミンスター・フラ―の『宇宙船“地球”号』で、おもしろいことをいって いる。 「よく人々がこういうのを耳にした。〈万一、宇宙船に乗ったならばどんな気持ちだ ろうか〉と。答えはきわめて簡単だ。つまり、 〈いまどんな気持ちがしますか〉と聞き返せ ばいい。われわれはすべてそれを体験してきたのだ。われわれはだれもがみな、宇宙船“地 球”号の飛行士なのだ」たしかに、地球は宇宙的規模からみればひとつの小さな衛星であ る。 しかし同時に、人類と全生物の生活の場でもあった。いまも生活しているし、未来永劫 に(可能であれば)生活していく場所である。 この地球はひとつのシステムである。きわめて精巧にできているシステムである。でき た当初は、まだ荒けずりのシステムであったが、46 億年の歳月で、すっかり精巧なシステ ムにでき上がった。太陽からの光エネルギーを得て、人類の短い歴史からみれば今後もほ とんど永久運動に近い運動を行っていくシステムである。そこには、40 億人(書いた当時。 現在は 72 億人)の人間と、数限りない生物と、それらがつくり出した無数のサブシステム がある。それらのサブシステムのなかでも、人間がつくり出した社会のしくみ、社会シス テムはかなり大きな比重を占めている。 人類は古来、社会システムが古くなると、新しい天地を求めて移動していった。新しい フロンティアを求めて移っていった。新しい資源を求めて移動していった。そして全地球 をおおい、月にも達した。そのうちに、火星にも到達するかもしれない。しかし、そこで 得られる結論は、やはり地球しかないということであろう。21 世紀までに当面する数々の 地球上の問題は、やはり地球上で解決しなければならない。 地球上のサブシステムを少しでもよくすることによって、自然の、太陽の恵みをより多 く利用し、エネルギーや食糧を自給し、21 世紀末の人口増加(100 億に達するであろう)、 エネルギー危機に備えなければならない。 資源エネルギーを無駄に使う社会システムを改善しなければならない。東西で、南北で、 産油国・非産油国で争っている場合ではない。いまのままでは、どっちみち早晩、やって いけなくなるのは目に見えている。なにか具体的な手を緊急に打たなければならない。 以上が『21 世紀の社会システム』の「あとがき」であったが、それから 40 年経った現在 では、明確な答えをえることができた。今後 30 年間で太陽光発電を世界中に普及させて、 535 人類とエネルギーの歴史―どうしたら人類は原発なしでやっていけるか― 太陽光産業を興し、第四次産業革命を達成することによって、地球温暖化を防止し、高レ ベル放射性廃棄物を増やさないで、やさしい地球を子孫に引き継ぐこと―それが答えであ る。 536
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