日本人の発明の軌跡 鍵尾 駆 1 前文 戦後日本は高度成長期に何もない状態から復興を遂げ るまで数々のものが生み出されました。 三種の神器と呼ばれる国民のステータスシンボルも時 代とともに変遷しました。その流れの中に日本人が発明 したものはたくさんあります。 今回はテレビからパソコンまでという映像メディアの 変遷を追ってみたいと思います。 2 目次 ブラウン管テレビ........................................004 アンテナ................................................014 液晶ディスプレイ........................................022 光ファイバー............................................026 CD....................................................035 VHS..................................................045 DVD..................................................054 ブルーレイディスク......................................062 フラッシュメモリ........................................078 インクジェットプリンタ..................................084 デジタルカメラ..........................................092 3 ブラウン管テレビ 4 20 世紀はテレビといったらブラウン管 テレビといったらブラウン管と言えたのも一昔前まで のこと。 21 世紀にはいって 10 年経ってからはテレビと言った ら薄型テレビのことを指すようになっています。 しかし高度成長期を支えたのは紛れもなくブラウン管 のテレビでした。 5 ブラウン管受像機を世界で初めて作ったのは日本 人だった! ブラウン管テレビの歴史を見てみましょう 1897 年 1907 年 1925 年 1927 年 1927 年 1934 年 1967 年 1990 年 1996 年 2008 年 - ブラウンが陰極線管を発明。 – ロシアのボリス・ロージングがブラウン管を使った受 像装置を発案。 - イギリスのベアードが円盤を使ったテレビを発明。 – 日本の高柳健次郎が撮像に円盤を使い、映像にブラウ ン管を使った受像装置までの開発を成功。 – アメリカのフィロ・ファーンズワース、電子式テレビ 撮像機の開発。 – ドイツでテレビ放送が開始。世界最初のテレビ局はパ ウル・ニップコー。 - ソニー、トリニトロンを開発。 - ソニー、ハイビジョンブラウン管テレビ (KW-3600HD) を発売。 – スーパーフラットトリニトロン管を採用したテレビ受 像機がソニーから発売された。 - ソニー、トリニトロン生産を終了。 ブラウン管という名からブラウンと言う人がは発明し たことはわかりますね。 6 1907 年にロシア人のボリス・ロージングという人がブ ラウン管を使った受像機を発案とあります。 まだ作ってませんね。 何に使っていいかわからないブラウン管を受像機にし てみたらどうだろう?というアイデアを出したわけです ね。 そして 1925 年にイギリスのベアードが円盤を使った テレビを発明とあります。 あれっ?この人がテレビの発明者かなと思ったら、こ の人が作ったのはネオン管のテレビでした。 それが 20 世紀の主流にならずにブラウン管が主流に になったのはそれが使い物にならなかったからでしょう。 そして 1927 年に日本の高柳健次郎が円盤を使い、映 像にブラウン管を使った受像装置までの開発を成功した とあります。 これが 20 世紀のテレビの代名詞となったブラウン管 テレビの初めの一歩なわけです。 7 高柳健次郎とは 高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう、1899 年 1 月 20 日 - 1990 年 7 月 23 日)は日本ビクター元副社長・技術最高顧問である。静 岡大学名誉教授。静岡県浜名郡和田村(今の静岡県浜松市東区安 新町)に生まれた。テレビの父と呼ばれる。 静岡師範学校を経て 1921 年、東京高等工業学校(現・東京工業大 学)附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校(現・ 神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭、1924 年(大正 13 年)に 浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)助教授となり「無線遠 視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始する。 1926 年 12 月 25 日、浜松高工にてブラウン管による電送・受像を世界 で初めて成功した。送像側に機械式のニプコー円板と受像側に電子式 のブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数 は 40 本だった。「イ」の字はいろは順の最初の文字として選んだ。 世界で初めてブラウン管で受像したのはカタカナのイ と言う文字。 一番のイではなくいろはのいということ。 いろはのイも一番目ですね。 なにはともあれ世界初。 8 世界初のブラウン管受像 9 幻の東京オリンピック 最初のテレビ放送は 1940 年(昭和 15 年)に予定されていた東京オ リンピックで行われる予定だった。 1937 年、NHK に出向し東京オリンピックのテレビ放送を目指して テレビ受像機の研究を本格的に開始。しかし 1938 年に日中戦争 が激化するなどで東京オリンピックは中止、テレビの研 究も中断させられレーダーなどの研究をすることになる。 日本で前回東京オリンピックが開催されたのは 1964 年です。 その 1964 年にあわせたかのように白黒テレビが大部 分の家庭に普及しています。 1960 年までほとんどの人がテレビを見ていなかったん ですね。 当時はラジオが中心で、娯楽は映画が中心でしょう。 その前に開かれるはずの東京オリンピックがあったけ れど戦争のために中止したわけですね。 戦争がなければ 1940 年にテレビ放送が開始していた わけでそれが続いたら現在がどんな社会になっていたか 考えると面白いですね。 10 11 まとめ テレビのブラウン管受像を世界初で成し遂げた日本人。 戦争がなければさまざまな発展が期待できたでしょう。 戦争は破壊と大量の死者、貧困しか残しません。 12 13 アンテナ 14 電波を受信するアンテナ テレビは東京タワーから発する電波を全国の家庭がア ンテナで受信するというのは今や昔で、地上デジタル放 送になった今スカイツリーがその役をになっています。 そのテレビの電波の受信に使われていたアンテナも日 本人が発明しました。 八木・宇田アンテナ(やぎ・うだアンテナ、英語: Yagi-Uda An tenna)とは八木秀次、宇田新太郎によって開発されたアンテナの 一種である。素子の数により調整できる指向性アンテナである。 一般には八木アンテナという名称で知られている。 主にテレビ放送、FM 放送の受信用やアマチュア無線、業務無線 の基地局用などに利用される。変わった所では、自衛隊の移動式 地対空ミサイル施設のレーダーのパラボラアンテナの輻射器に用 いられているものもある 15 八木・宇田アンテナ 16 昔は八木アンテナとよばれていた このアンテナが発明される発端は当時八木、宇田が所属した東 北帝国大学工学部電気工学科で行われていた実験にあった。 実験中に電流計の針が異常な振れ方をするので原因を探求した ところ、実験系の近くに置かれた金属棒の位置が関係しているこ とが突き止められた。ここからこのアンテナの基本となる原理が 発見され、1926 年に八木の出願により特許権を得た。 八木教授の指導の下で当時八木研究室にいた講師の宇田が実用 化のための研究に取り組み、1928 年に八木・宇田の連名で論文が 出された。 しかし国内外の特許出願が八木の単独名で出されたため、日本 国外の人々には“Yagi antenna”として知られることとなる。後述 するように日本では日本国外からの情報により八木・宇田アンテ ナが注目されるようになった経緯もあって、日本国内でも八木ア ンテナとの名称が広まった。後年、事情を知る人達が宇田の功績 も称えるべきであり「八木・宇田アンテナ」と呼ぶべきと主張し 最近の学術書などでは八木・宇田アンテナと記述されている。 宇田新太郎の功績が後になって認められたのはよいこ とですね。 17 戦争に利用されたアンテナ 欧米の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目しこ れを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦 船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備さ れた。 しかし、日本の学界や軍部では敵を前にして電波を出すなど暗 闇に提灯を燈して位置を知らせるも同然だと考えられ、重要な発 明とみなされていなかった。 このことをあらわす逸話として 1942 年に日本軍がシンガポール の戦いでイギリスの植民地であったシンガポールを占領し、イギ リス軍のレーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校 が技術書の中に頻出する“YAGI”という単語の意味を解すること ができなかったというものがある。技術文書には「送信アンテナ は YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは 4 つの YAGI よりな る」と言った具合に“YAGI”という単語が用いられていたが、そ の意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわか らなかった。ついには捕虜のイギリス兵に質問したところ「あな たは、本当にその言葉を知らないのか。YAGI とは、このアンテナ を発明した日本人の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われてい る。シンガポール占領から約 4 カ月後のミッドウェイ海戦におい て、米軍は八木アンテナを駆使して作戦を展開し、日本の連合艦 隊に大損害を与えた。さらに後にはアメリカ軍が広島と長崎に原 子爆弾を投下した際にも、最も爆発の領域の広がる場所を特定す るために八木の技術を用いた受信機能が使われた。 18 日本人が発明したアンテナを使って日本人の殺戮を繰 りかえすアメリカ人。 ここで日本国内の軍部はわざとアンテナを使わなかっ たということが考えられます。 日本人がやりたくなった戦争をしたのも、 敗戦濃厚な状況にもかかわらず特攻隊を無駄死にをさ せたり、大本営発表でウソをついてまで戦争を続け最終 的に空襲で民間人が虐殺され、原爆で大虐殺されたのも 軍部に戦争で利益を得ていた人間がいたからでしょう。 ブッシュの祖父がナチスや日本にも武器や軍需物資を 売っていたことがわかっています。 アメリカが武器を売れば儲かる。 日本の内部にアメリカから金をもらっていた人がいる ということですね。 19 まとめ 日本が発明したアンテナ。 ブラウン管のテレビではほとんどが八木・宇多のアン テナが世界中で使われていたという。 戦時中はその高性能のアンテナを日本は使わずアメリ カが使い日本人を殺戮していた。 日本の軍部の中にアメリカに協力していた人間がいた から日本にアンテナを使わせなかったのでしょう。 その協力者がアメリカから金をもらっていたというこ とでしょう。 現在も巣鴨プリズンから出た戦争犯罪者の子孫が総理 大臣をやっています。 放射能の対策もせずに国民を見殺しにしています。 20 21 液晶ディスプレイ 22 ブラウン管から液晶へ 地上デジタル放送が始まりテレビに起こった変化といえ ば分厚いブラウン管テレビから、薄型テレビに替わった ことでしょうか。 家電量販店のコーナーを見てみれば一目瞭然で今やブラ ウン管の見る影もありません。 薄型テレビも一時はプラズマと液晶が勢力争いをしてい ましたが今や液晶に軍配があがっています。 テレビを見ない人でもパソコンのディスプレイとして定 着している液晶も日本が開発しました。 23 液晶の歴史 液晶は固体と液体の中間的な状態を持った物質で、1888 年にオー ストリアのライニツァによって発見された。その後、多くの研究 者による研究を経て、1964 年に米 RCA 社のハイルマイアが、DSM (Dynamic Scattering Mode)液晶を発明した。1968 年に RCA 社か ら DSM 液晶を使ったクロックがプレス発表され、世界中が液晶 ディスプレイの開発に殺到した。 1972 年頃には DSM 液晶を腕時計に応用する試みが多くなされた が、イオン電流駆動のため消費電流が多く、初期のものは電気化 学反応で動作寿命が短く、あまり成功しなかった。 一方、シャープでは DSM 液晶にイオン添加剤を加え交流駆動す る方式を 1971 年に開発し、DSM 液晶でも実用可能なレベルになる ことを見出し、世界初の液晶表示電卓「EL-805」を 1973 年に開発 した。こうしてシャープは、液晶ディスプレイの量産に成 功した実質的に世界で初めての企業となった。 イオン電流駆動素子である DSM 液晶に代わって、電圧駆動素子 である TN 液晶が 1969 年に米ケント州立大学のファーガソンに よって発明された。この TN 液晶は、DSM 液晶に比べて電流消費が 少ないので、腕時計を始めとして急速に商品化が始まった。 24 まとめ 50 型テレビにもなると近くでみると画像が粗かっ たりします。 遠くから見ると気にならない広い家でしか使えな いシロモノでしょう。 そういった状況から4Kテレビというものが最近 販売されようとしています。 画像がよくなった分電気代もたくさんかかるよう ですからエコではないようです。 いくら鮮明な映像を売りにしても放送の内容が陳 腐なら誰も見ませんね。 25 26 光ファイバー 27 夢だった光ファイバー 今や当たり前のように普及している光ファイバー。 ADSLは電話局から離れると速度が極端に落ちるため に使い物になりません。 そうした欠点がないのが光ファイバーというものです。 ADSLよりも大容量のデータが安定した回線で送れる 事はつい 15 年くらい前までは夢でした。 その夢が現実になっています。 光ファイバーも日本人の発明です。 28 光ファイバーの歴史 17 世紀に、波動の屈折の法則が、ヴィレブロルト・スネルによっ て定式化された。 1820 年に、ガラス板の中に光が閉じ込められる条件が、オーギュ スタン・ジャン・フレネルによって定式化された。 1840 年ごろ、反射による光の誘導の公開実験が、Daniel Collado n とジャック・バビネによってパリで行われた。 1870 年、ジョン・ティンダルが光の全反射の条件を記し、水流で 光を曲げる実験をロンドンで行った。 1880 年、音声を可視光線の信号に乗せ通信を行う Photo-Phone 実 験が、アレクサンダー・グラハム・ベルによって行われた。 1888 年ごろ、初期のテレビ画像伝送の試みとして、曲がったガラ スパイプやガラスロッドに光を通す方法がウィーンやフランスで 考案された。 このころから、テレビの画像通信や潜望鏡、胃カメラなどにさま ざまな光の導波路を用いる試みがなされた。 1910 年、光の閉じ込めをガラス繊維に拡張した条件が、ホンドロ ス(D. Hondros)とピーター・デバイによって定式化された。 29 1925 年、空洞のパイプやガラス・プラスチックロッドをつなげた 光の伝導路で画像を伝送する方法の特許が、ジョン・ロジー・ベ アードによって出願された。 1930 年、ドイツのハインリッヒ・ラム (Heinrich Lamm) が、ガ ラス繊維の束に光を導く実験を行った。これが、ガラスファイ バーの束に光を通す初めての試みとなった。 1936 年、逓信省研究所の関杜夫と根岸博(清宮博)が、ガラス ロッドの湾曲部にプリズム・レンズを用いて、全反射によって光 線信号を伝送する光線導管による光通信を考案し、特許を出願し た。 1958 年になるとガラスファイバーの芯を違う種類のガラスで巻く という、コアとクアッドによって構造される石英ガラスファイ バーがイギリスのカパニー(Narinder Singh Kapany)によって考 案される。これにより、ケーブル内の屈折率の違いによって光を 全反射で誘導するという光ファイバーの基礎が確立された。また、 このとき初めて「光ファイバー」という言葉が使われた。 1961 年、Elias Snitzer によって、シングルモード光ファイバー が提案された。 光ファイバーの元となる技術が随分と古い時期から考案 されてますね。 1936 年に日本人が特許をとっていますね。 30 特許庁はスパイか? 1964 年、西澤潤一、佐々木市右衛門は、ガラスファイバーのコア 内の屈折率を中心から周辺に向かって連続的に低くなるように変 化させ、入射角の異なる光をファイバー内で収束させる自己集束 型光ファイバー(今日にいう GI 型光ファイバー)の概念を特許出願 により提案し、自己集束型光ファイバーによる光通信の可 能性について言及した。しかし特許庁は意味がわからな いと不受理にした。 同様の構造の光ファイバーは、ベル研究所のスチュワート・ミ ラーによっても提案されている。ミラーは、ガラスが効率的な長 距離伝送の媒体となることを理論的に示した。 1965 年、チャールズ・K・カオの論文により、ガラスの不純物濃 度を下げれば光の損失を低減できるので、損失率が 20dB/km であ れば通信用の光ファイバーに利用できる旨の提案がなされた。こ れまでに確立された理想的なガラスファイバーの理論から、不純 物を含む現実的なガラスファイバーでの光の減衰特性の理論を唱 えた画期的なものであった。 これにより、ガラスファイバーの不純物を下げる研究が活発に行 われるようになり、光ファイバーは実用化に向けて大きく前進し た。 31 カオは、光通信用の光ファイバーに対する先駆的な貢献により、1 996 年に日本国際賞、2009 年にノーベル物理学賞を受賞した。 1965 年、世界初の光ファイバーによるデータ転送システムのデモ ンストレーションがドイツの物理学者マンフレッド・ベルナーに よってテレフンケン研究所で行われ、このシステムの特許が 1966 年に申請された。 1966 年には、西澤の研究は日本板硝子と日本電気によってセルフ フォーカスファイバー「セルフォック」として実現される。その 時点では 60dB/km が限度であった。 1970 年、アメリカのコーニング社が通信用光ファイバーを実用化 したと発表し、光ファイバの製造法とカオ論文に示された光ファ イバの構造を始めとする基本特許(米国特許第三六五九九一五 号)を得た。コーニングの光ファイバーは非常にもろく、まだ実 用化にはほど遠いものであったが、カオの理論通りに 20dB/km の 損失を達成した。日本の特許庁はそれが西澤と類似するも のであることを知りながら口をつぐんだ。 またコーニング社の発表に続く形で、不純物のドーピングによる 多層結晶成長の技術によって、常温で連続作用可能な半導体レー ザーがベル研究所のパニッシュと林厳雄によって試作された。 同時期に、同研究所のアーサー(A. J. Arthur)とチョー(A. Y. Cho)が新たな結晶成長方法、分子線エピタキシー(MBE)を考案 した。MBE で作った新素子は寿命 100 万時間を達成した。 32 これらの技術により、光ファイバーのレーザー光源の技術が確立 された。 1974 年、ベル研究所のジョン・マクチェスニーは MCVD(内付気相 堆積)法での光ファイバーの製法を編み出した。 この結果、損失 率は 1.1dB/km に達する。 1977 年、日本電信電話公社(現在の NTT)の茨城電気通信研究所 の伊澤達夫が、VAD(気相軸付け)法による光ファイバーの製造方 法を発明した。 1980 年には、VAD 法によって、損失値は 0.20dB/km に達した。 現 在、VAD 法の製造スピードは MCVD 法の約 100 倍となっている。 1985 年、サザンプトン大学のプール(S. B. Poole)が、エルビ ウムという元素を光ファイバーのガラスに少量加えると、光だけ で動作する増幅器を作れることを発見した。この発見をもとに、 サザンプトン大学のペイン(David Payne)とミアーズ(P. J. Me ars)、ベル研究所のデサビアー(Emmanuel Desurvire)が、エル ビウム添加ファイバー増幅器(EDFA)を開発した。これにより、 レーザー中継による光信号増幅器よりも効率の良い伝送を行うこ とが可能となった。 1964 年に日本人が光ファイバーの特許を申請したにも関 わらず受理されず全く同じものが 1970 年にアメリカで 受理されたということは、日本の特許庁の中にスパイが いてアメリカに横流しをしていたということですね。 33 まとめ またしてもアメリカにやられたという感じですね。 特許庁の中にアメリカのスパイがいた。 今の政府もそのようなものですが・・・ 34 35 CD 36 コンパクトディスクの名前の由来 CD(コンパクトディスク)と言えば音楽。 一時期MDという規格もでてきたがそれは消え去り、い まだに音楽をパッケージングして売る手段として使われ ているのがCD。 この記録メディアに「コンパクト」という言葉が使用された理由 は、フィリップス社の意向によるところが大きい。 開発段階でフィリップス社が提示した試作品は、コンパクトカ セットの対角線と同じ直径 11.5cm で、名称の一貫性が図られてい た。ただしその後ソニー側の提案で収録時間を延長したため、実 際には直径 12cm となった。 また、レーザーディスクの総本山がフィリップス社であり、その ディスクサイズが 30cm だったことにも由来する。 その後の技術革新で各種記録メディアの小型化・高密度化なども 進んだ。しかし、スーパーオーディオ CD、DVD、DVD オーディオ、 次世代 DVD (Blu-ray Disc、HD DVD) などの光ディスクはいずれ も直径 12cm である。 カセットテープのコンパクトカセットが由来なんですね。 37 コンパクトディスク 38 CDの歴史 1965 年、アメリカの発明家ジェームス・ラッセルが 音楽用光学メディア・テクノロジーを発明。 1970 年代前半、フィリップスと MCA がレーザーディ スクを開発。 1975 年、ソニーが光ディスクの開発を開始。 1977 年、フィリップスが CD の開発を開始。 1979 年、フィリップスが CD プロトタイプを示し、 ソニーと共同開発を開始。 1981 年、ドイツでテスト CD が製造。 1975 年に日本のソニーが光ディスクの開発に取り掛か り遅れること 2 年後フィリップスCDの開発に着手し。 1979 年にフィリップスと日本のソニー共同開発すること になったんですね。 39 世界初のCDプレイヤー 1982 年、CD の生産が開始。10 月 1 日、日本でソニー、日立(Lo -D ブランド)、日本コロムビア(DENON ブランド、日立の OEM で 発売)から世界初の CD プレーヤーが発売。 ソニーの第 1 号機はで 168,000 円、日立の第 1 号機は DAD-1000 で 189,000 円、日本コロムビアも第 1 号機は日立製と同じ値段 だった。 同日、CBS ソニー、EPIC ソニー、日本コロムビアから世界初の CD ソフトが発売された。初回発売は CBS ソニー、EPIC ソニーが合 わせて約 50 タイトル、日本コロムビアが 10 タイトルだった。こ のうち最初に生産が行われたのはビリー・ジョエルの『ニュー ヨーク 52 番街』(CBS ソニー)。同時にレコード店で取扱いが始 まり、当初は「レコードよりも音質がよく、ノイズがないニュー メディア」として扱われた。レコードと同じ商品の CD 版として売 られ、価格もレコードよりも約 2 割ほど高かった。当初、ソフト の値段は各社共にデジタル録音の音源による物が 1 枚 3,800 円、 アナログ録音の音源による物が 1 枚 3,500 円だった。楽曲説明を 載せた印刷物は現在の様に中綴じ製本されたものではなく、LP と 同じライナーノーツを 4 つに折って CD ケースに入れる例が多かっ た。 1982 年 10 月 20 日、欧州で初めてフィリップス製の CD プレー ヤー及びポリグラム製の CD ソフトが発売された。両者共に日本で も輸入販売され前者はマランツブランドにて、後者はポリドール と日本フォノグラムから欧州と同時に発売された。 1983 年、米国およびその他の市場でもハード、ソフト共に販売 40 が開始された。 1984 年、ソニーから 5 万円を切るポータブル CD プレーヤー、D5 0(49,800 円)が発売され普及に拍車がかかった。ちなみに原価 率は 200%で、1 台売るごとに 5 万円の赤字が出た。 1982 年に日本で世界初のCDプレイヤーが発売されま した。 その頃は 15 万円以上する高級品でした。 1984 年にソニーが 5 万を切るCDプレイヤーを発売し 普及しはじめたのですね。 一台売るごとに 5 万の赤字が出たそうですから、ハー ドではなくソフトで儲ける方針だったようですね。 CDP-101 41 最大収録時間を決めたのも日本人 記録トラックの幅を狭めれば容量は増やせるが、古い音楽 CD プ レーヤーにはまれに 74 分記録された CD-R は再生できても 80 分以 上のものは再生できないという互換性の問題が存在する。 CD 初期の最大収録時間(74 分 42 秒)が決まったいきさつについ て、開発元のソニーによれば以下の通りである。開発の過程でカ セットテープの対角線と同じで DIN に適合する 11.5cm(約 60 分) を主張するフィリップスに対し、当時ソニー副社長で声楽家出身 の大賀典雄が「オペラ一幕分、あるいはベートーベンの第九が収 まる収録時間」(12cm、74 分)を主張して調査した結果クラシッ ク音楽の 95%が 75 分あれば 1 枚に収められることからそれを押し 通した。その大きな要因となったのが、指揮者のカラヤンであっ た。 開発当時、大賀典雄は、親交のあったカラヤンに、11.5cm(60 分)と 12cm(74 分)との二つの規格で二者択一の段階に来ている ことを話すと、カラヤンは「ベートーベンの交響曲第九番が 1 枚 に収まったほうがいい」と提言した。指揮者によって変わるが、 カラヤンの「第九」は約 63 分–69 分であり、ほとんどの指揮者に よる演奏時間は 60 分を超えているからだ。結果的に 74 分(最大 8 0 分も可能)という収録時間は、1951 年にライヴ録音されたフル トヴェングラー指揮のいわゆる「バイロイトの第九」(演奏時間 およそ 74 分 32 秒)や、それに匹敵する長さであるカール・ベー ムやレナード・バーンスタインの演奏も、コンパクトディスク 1 42 枚に収めることが可能になった。 この話は、大賀がフィリップスを説得するためにカラヤンの名を 引き合いに出したという見方があるが、カラヤンが音楽媒体の ディジタル化を望んでいたことは事実である。 また、8cmCD (CD SINGLE) の最大収録時間は約 22 分程度である。 これは、CD ビデオのオーディオパートとビデオパートを分けてそ れぞれ開発した際に由来している。8cm というサイズはケースに 収納したときレコードのシングル盤ケースのちょうど半分のサイ ズとなるため、小売店でレコード用の棚を使いまわせるだろうと 考えたためである。 2013 年 5 月現在の収録時間最長の音楽 CD は、DG レーベルにピア ニストのマリア・ジョアン・ピレシュが録音したシューベルト: ピアノ・ソナタ第 21 番、第 16 番 (DG 4778107)の 83 分 24 秒で ある。規格上は 97 分 26 秒まで可能である。 日本人の大賀典雄がカラヤンの名前を出してフィリッ プスを説得してCDの音楽収録時間を 74 分に決めまし た。 それが世界標準になっているわけですね。 43 まとめ CDは日本のソニーとオランダのフィリップスが共同 開発しました。 カセットテープを作ったフィリップスと、ウォークマ ンを作ったソニーはお互いの技術を信頼していたので しょう。 それは今に始まったことではなく、鎖国していた時代 でもオランダとは交流があったという歴史的な信頼関係 がもたらした賜物ともいえるでしょう。 44 45 VHS 46 ビデオテープは日本の発明 私が物心ついたときはまだビデオは高価なものでよそ の家で見る程度の認識でした。 家にビデオがやってきたときにはVHSが主流になっ てからでした。 ビデオというものはVHSのテープを使うものしかな いと思っていました。 ベータなんてシロモノ(これもソニーが開発した日本 の発明)があると知ったのは後のことです。 VHSしか売っていなかったから仕方ありません。 VHSが世界的にシェアを伸ばしたわけです。 そのVHSも日本の発明です。 VHS(ブイエイチエス、Video Home System、ビデ オホームシステム)とは、日本ビクター(現・JVC ケン ウッド)が 1976 年(昭和 51 年)に開発した家庭用ビデ オ規格で、同社の登録商標(日本第 1399408 号ほか)で ある。 47 当初は記録方式を表現した Vertical Helical Scan の 略称だったが、後に Video Home System の略称として再 定義された。 VHSは日本ビクターが開発した規格なんですね。 はじめが Vertical Helical Scan の略称だったが、後 に Video Home System の略称になったんですね。 ビデオホームシステムの方がわかりやすいですね。 DVDもデジタルヴァーサタイルディスクではなくデ ジタルビデオディスクの方がわかりやすいですね。 一般家庭に普及させるとなったらこっちの方がいいだ ろうと変えたのでしょうね。 VHS 48 ビデオといったらVHS ベータ、8 ミリ、LD、VHD などさまざまなメディアとの競争の結果、 家庭用ビデオ方式としてデファクトスタンダードとなった。特に、 DVD-Video の普及以前は単に「ビデオ」といえば VHS を指すのが 当たり前であり、関連企業も商品説明等で VHS の意でビデオとい う単語を用いていた(「ビデオ版と DVD 版の内容は同一です」と いう表記や、VHS デッキを指して「ビデオデッキ」と称するな ど)。 VHS のハードの普及台数は全世界で約 9 億台以上、テープに至っ ては推定 300 億巻以上と言われている。このことを称え、VHS 規 格発表から 30 周年の 2006 年(平成 18 年)には IEEE によって VHS の開発が「電気電子技術分野の発展に貢献した歴史的業績」とし て『IEEE マイルストーン』に認定された。 49 VHSの歴史 本格的に普及する家庭用 VTR 機器を狙い、ソニーが各社に規格統 一を呼びかけ、先行して開発・発売されたベータマックスが、U マチックの小型化を目指して開発された経緯から録画時間の延長 よりカセットの小型化を優先し、最長 60 分の録画時間で U 規格と 同等の操作性を確保すべく開発されたが、ビクターは民生用途と しての実用性を重視し、カセットが若干大きくなることを承知で 録画時間を最長 120 分として基本規格を開発。またメカ構造も U 規格にとらわれず、より量産化に適した構造を目指し、家庭用 VT R というコンセプトを明確にして開発・発売された。 先に発表・発売されたのはソニーのベータマックス(1 号機・SL6300)で 1975 年(昭和 50 年)4 月 16 日に発表、同年 5 月 10 日に 発売。 1976 年(昭和 51 年)10 月 31 日に日本ビクターが VHS 第 1 号ビデ オデッキ(品番:HR-3300)を発売、当時の金額で定価 25 万 6000 円。留守番録画のできる時計内蔵の専用取付式タイマーは別売 1 万円で、VHS の録画テープも当初は 120 分が 6000 円となっていた。 また、シャープ、三菱電機も当初は日本ビクターの第 1 号機を OE M で発売していた。 ビクターは親会社の松下電器産業に VHS 方式への参加を要請した が、1973 年(昭和 48 年)にオートビジョン方式の家庭用 VTR 機器 50 を発売したが失敗したこと、1974 年(昭和 49 年) - 1975 年(昭 和 50 年)に子会社の松下寿電子工業(現・パナソニック ヘルス ケア)が開発した VX 方式のデッキを販売していたこと、さらに ベータ方式を支持する社内意見もあるなど、いくつかの要因が重 なった社内事情により松下の態度は不鮮明であった。 そこで、のちに「VHS の父」と呼ばれる高野鎮雄が松下幸之助に 直訴。1976 年(昭和 51 年)末、松下本社で幸之助、松下、ソ ニー、ビクター各社社員ら出席し、両社のビデオデッキを見比べ る会議(直接対決)が開かれた。その席で幸之助は「ベータは 10 0 点(満点)、しかし VHS は 120 点。部品点数が少ないので(VHS は)安く造ることができ、後発組に有利」と見解を示した。通商 産業省が規格分裂に対し難色を示していたこともあり、新規格で の規格統一も提案したが両社とも自社規格を引っこめる気がない ために幻となり、松下は VHS 方式への参加を決めた。幸之助が VH S を選んだ決め手になったのは前述に挙げた理由の他に、VHS デッ キのほうが軽かったこともあった。「ベータだと販売店の配送を 待たなければならないが、VHS はギリギリ持ち帰れる重さで、購 入者が自分で自宅に持ち帰りすぐ見られる」といった幸之助らし い基準だった。 1977 年(昭和 52 年)には松下電器産業が普及型の VHS ビデオデッ キ「マックロード」を発売し、VHS ヒットのきっかけにもなった。 長時間録画のユーザーのニーズにも応えるため 1977 年(昭和 52 年)に米国市場向けの 2 倍モード(LP)が、1979 年(昭和 54 年) に 3 倍モード(EP)が開発され幅広い機種に搭載された。また規 格外ではあるが標準モードで 2 つの番組を同時に録画できる機種 も存在しており、VTR 普及期にはメーカーから様々な提案がなさ れた。その後、5 倍モードも開発され一部の機種に搭載されてい 51 る。 VHSは簡単に安く作れることから多くのメーカーが 参加することになり先行していたソニーのベーターマッ クスを抜き去りビデオといえばVHSといわれるように なりました。 52 まとめ 規格争いというものがある。 その代名詞のようなものがVHSとベータの争いだろ う。 それを制したものが莫大な利益を得るので、各社が 違った規格を出す。 それで迷惑をこうむるのが一般ユーザーだ。 こちらで使えていたものがあちらでは使えないという 事態が起きてしまう。 そういったことが起こらないために共同開発が最近増 えているのだろうか? 53 54 DVD 55 今やビデオといったらDVDのこと 近頃レンタルビデオ屋に行くとビデオが置いていない らしい。 看板に偽りあり? ビデオテープが姿を消しDVDにとって替わられた感 じがですね。 いまだにCDショップをレコード屋というようなもの ですか。 ブルーレイディスクが登場したものの、いまだに映像 の記録媒体としてはDVDが主流です。 56 DVD の名称 DVD フォーラムは、DVD は Digital Versatile Disc を意味すると しているが、ディスクの正式名称は「DVD」である。 第 1 世代光ディスクである CD に対し、DVD は動画を収録可能な第 2 世代光ディスク「Digital Video Disc」として企画された。当 初は VHS の置き換え需要などが主に想定されていたが、「用途は ビデオだけに限定されないこと」が指摘されるようになると、こ の名称には疑問の声も出てきた。そこで、video の代わりに「多 用途」の意味がある versatile(ヴァーサタイル)を用いること で「Digital Versatile Disc」へと変更になった経緯がある。 上記の理由から、DVD を「Digital Video Disc」の略称とするの は誤りだが、正式名称を「DVD」にしたことと、先の映像記憶媒体 であるビデオテープから「V」と言えば「video」を連想すること、 開発に至った経緯などから「Digital Video Disc」も俗称として 限定的に使用されている。 なるほどはじめはデジタルビデオディスクでそれがデジ タルヴァーサタイルディスクになり、俗称としてデジタ ルビデオディスクになったという経緯ですか。 57 DVD 登場までの経緯 DVD 登場以前の 1990 年代初頭、CD より高密度の第 2 世代光ディ スク媒体の規格として、当初は青色 SHG レーザーによる光ディス クを開発していたが、ハリウッド映画業界の早期に商品化してほ しいという要望により、1994 年末には東芝・タイム・ワーナー・ 松下電器産業・日立・パイオニア・トムソン・日本ビクターの連 合による赤色レーザーを使った Super Density Disc (SD) の開発 がされていた。一方で、フィリップス・ソニー陣営による MultiM edia Compact Disc (MMCD) も同時期に開発されており、1980 年 代の VHS 対ベータ戦争の再来が危惧されていた。 そこで、IBM のルー・ガースナー (Lou Gerstner) が仲介に入 り、フィリップスとソニーは MMCD 規格の採用を諦めることと引き 替えに、SD 規格のサーボトラッキング機構に関する 2 項目の修正 を認めることで、フィリップスとソニーも東芝主導の SD 規格につ き、両陣営は合意に至った。 1 つ目の項目は、フィリップス・ソニーの特許技術である 「プッシュプル式トラッキング」技術を可能とするためのピット ジオメトリーの採用だった。2 つ目は、Kees Immink の設計による フィリップスの「EFMPlus」採用だった。これは、東芝の SD コー ドよりも効率が 6%低かったため、SD 規格自体の容量は 5G バイト だったが、結果的に 4.7 ギガバイトの容量となった。EFMPlus は、 ディスク面に対するひっかき傷や指紋等に対する耐障害性に大き く優れていた。結果として DVD specification Version 1.0 が 1 58 995 年に発表され、1996 年 9 月に完成した。名称は DVD になった が、SD のロゴは SD メモリーカードのロゴに継承されている。 この統合により、規格の乱立は避けられると一旦は思われたが、 その後各家電メーカーや映画会社から多数の注文をつけられ(ラ ンダムアクセス、2 時間収録、ドルビーデジタル収録など)、後 述の「DVD-」や「DVD+」「DVD-RW」「DVD-RAM」など、多数の派生 規格が生まれた。 VHSとベータのような争いが起きないように各メー カーが共同開発したみたいですね。 その技術の中心がフィリップスとソニーの技術だった ということですね。 59 DVD-Video メディア・プレイヤーの商用化 DVD-Video メディア及びプレイヤーの初の商用化は日本では 199 6 年 11 月、米国では 1997 年 3 月、欧州では 1998 年、豪州では 199 9 年になされた。世界第1号の DVD-Video ソフトとしては、ビク ターエンタテインメントと松下電器産業(現・パナソニック)の 制作による「世界初の DVD 電脳マガジン Ya&ya 」が 1996 年 11 月 1 日に発売された。この DVD ソフトには、マルチアングルビデオ クリップやマルチストーリードラマ、隠しコマンド、動画コンテ ンツ上の透明ボタンによる別映像へのジャンプ、音声付き静止画 遷移メニュー画面など、実用化の当初から多彩な機能が盛り込ま れていた。 ちなみに、初の 2.1ch サラウンド音響は『ツイスター』、5.1ch サラウンドは『インデペンデンス・デイ』が初である。 ちなみに 世界で最初に発売された DVD は谷村新司のライブ DVD である。 世界で初めて発売したDVDが日本のライブDVD。 そのことがDVDが日本の発明ということを物語って いますね。 60 まとめ DVDの発売は単一規格としたのでユーザーが直接迷 惑をこうむることはありませんでした。 それは各社の共同開発という形で避けられました。 もう2度とあんなことは起こらないと思っていたけれ ど・・・ 61 62 ブルーレイディスク 63 ブルーレイはDVDの後継か? 地上デジタル放送がはじまり、高画質なデジタル映像 を保存するにはDVDでは容量不足という感じで次のメ ディアが作られることになります。 Blu-ray Disc(ブルーレイディスク)とは、DVD の後継となる光 ディスク。第 3 世代光ディスクの一種であり、青紫色半導体レー ザーを使用する。規格は「Blu-ray Disc Association」が策定し た。 一般的な略称は「BD(ビーディー)」 1999 年 7 月、ISOM/ODS'99 でソニー、フィリップスが DVR-Blu e 規格発表。カバー層 0.1mm、NA=0.85、変調方式 1-7pp、誤り訂 正方式 LDC/BIS など Blu-ray Disc に採用された技術が開発された。 2001 年 10 月の CEATEC JAPAN 2001 時点での DVR-Blue 方式と 2 層相変化 RAM 方式のそれぞれのメンバーは、DVR-Blue 方式がソ ニー、フィリップス、パイオニア、シャープで、2 層相変化 RAM 方式が松下電器産業(現 : パナソニック)、日立製作所、東芝、 日本ビクターである。 2001 年 10 月 15 日、松下電器産業が 2 層相変化記録方式の容 量 50GB の書き換えディスクを発表。質疑応答で「フォーマットが 64 二分されるのは好ましくない、統一するよう努力する」と述べた。 後に 2 層技術、アドレス検出方式 STW などが Blu-ray Disc に採用 された。 DVD同様CDから関係あるソニー、フィリップスが主 導する形でブルーレイが開発されたわけですね。 ブルーレイディスク 65 きな臭い流れ 2002 年 2 月 19 日、日立製作所、LG 電子、パナソニック、パイオニア、 フィリップス、サムスン電子、シャープ、ソニー、トムソンの 9 社が Blu-ray Disc(BD)の規格を策定したことが発表される。そ の中に DVD フォーラム中核企業である東芝は含まれていなかった。 5 月、上記の 9 社により Blu-ray Disc の規格策定を行う Bluray Disc Founders が設立される。 8 月 29 日、東芝と NEC が BD に対抗する形で次世代 DVD 候補の 「AOD(仮称)」を DVD フォーラムに提案、11 月 26 日に DVD フォーラムは AOD を「HD DVD」の名称で正式承認した。 また各会社が共同開発をしようとしている中でそれに 参加しない企業が現れました。 原発関連企業の東芝です。 東芝がHD DVDという規格を出してきたのです。 金に目がくらんだのでしょう。 66 世界初のブルーレイディスクレコーダー 2003 年 4 月 10 日、ソニーは世界初のブルーレイディスクレコー ダー・BDZ-S77 を発売。 5 月 28 日、三菱電機が Blu-ray Disc Founders に加盟。以後 Blu-ray Disc Association への移行(後述)までにデル、ヒュー レット・パッカード (HP)、TDK が加盟する。 録画機器と録画用書き換えメディアの製品化が始まる(後 述)。 ソニーは BD 規格をカスタマイズした容量 23.3GB(片面 1 層) の「プロフェッショナルディスク」を開発し、業務用のハイビ ジョン録画・編集機器とコンピュータ補助記憶装置に採用した。 2004 年 7 月、松下電器産業は世界初の片面 2 層ディスクの記録に対 応したブルーレイディスクレコーダー、「real」DMR-E700BD を発 売。 9 月 21 日、ソニー・コンピュータエンタテインメントが次世 代ゲーム機「プレイステーション 3」に BD-ROM を採用することを 発表。ゲーム機としての仕様がほとんど発表されていない中での 採用メディアの発表であった。 日本のソニーが世界初ですね。 67 規格争い再び 2005 年 次世代大容量光ディスク規格の行方に決定的な影響力を持つ大 手ハリウッド映画企業は、2005 年までにソニー・ピクチャーズ、 ディズニー、20 世紀フォックスの BD 陣営と HD DVD を支持するパ ラマウント映画、ユニバーサル映画、ワーナーの 2 陣営に分かれ た。両陣営の現世代 DVD でのシェアは拮抗している。 春から夏にかけ、両陣営の間で 2 規格を統合するための協議が 行われた。しかし BD の記録層が 0.1mm の浅さであること、両者の 考える光ディスクに対する根本的なビジネススタンスの差が大き いことなどで決裂。この時点で、規格の分裂が確定した。 4 月、三洋電機が Blu-ray Disc Association に加盟。HD DVD プ ロモーショングループ幹事企業の Blu-ray Disc Association 加盟 は初である。 5 月、松下電器産業が、米国ロサンゼルス近郊にスピンコート 技術を使った BD の量産工場を稼動させたことを発表。BD-ROM ディスクが DVD に近いコストで製造できることを証明した。ソ ニーはシート方式を用いて製造していたが、コストや 2 層ディス クの製造効率が悪いことなどから、2006 年までにスピンコート方 式に転換した。 10 月、BD-ROM ディスクの製造に対する懸念(コストの問題な ど)が払拭されたこと等により HD DVD 陣営のパラマウント映画、 そしてハリウッド最大手で HD DVD 陣営の中核企業であるワー ナー・ブラザーズグループが BD 陣営にも参加することを表明。こ 68 の結果、BD 陣営サポートのスタジオは Fox、ディズニー、ソニー ピクチャーズ、MGM、ワーナー、パラマウント映画のハリウッド 7 社中 6 社となり HD DVD のみを支持するハリウッド企業はユニバー サル映画だけとなった。 同時期、コンピュータ業界最大手のマイクロソフトとインテル が HD DVD 支持を表明。主な要因はパソコン等と連係できる著作権 保護の柔軟性によると主張。しかし 2 規格の実質的な差はそれほ ど大きくなく、背景にはマイクロソフトが Windows Vista や Xbox 360 など自社製品との親和性が高い HD DVD を推進する狙いがあっ た。マイクロソフトやインテルが支持したことにより、IT 業界内 に動揺する企業が現れてきた。例えば 2006 年になり、マイクロソ フト等の勧誘によりヒューレット・パッカードが HD DVD のサポー トを表明した。 2006 年 3 月 31 日、東芝は日本国内初の HD DVD 対応プレイヤーを発売。 ただし、ハリウッド映画企業の意向や AACS の遅れなどに影響され て HD DVD も 2005 年内の予定から遅れてのスタートとなった。 6 月 10 日、松下電器産業は BD ドライブ(内蔵型の記録ドライブ 単体)および片面 2 層構成、記憶容量 50GB の BD を発売。同ドラ イブを内蔵した PC も 6 月から発売した。 6 月、サムスンは BD-ROM プレーヤを米国で発売。同時期にソ ニーピクチャーズは、Lionsgate から BD-ROM 映画ディスクを発売。 日本でも米国のソフトを再生できるため(リージョンコードにつ いては後述)、BD 搭載 PC を用意すればソフトが再生できる状況 となった。 8 月 29 日、国内のソフトウェアメーカー 14 社とハードウェア メーカー 5 社が合同発表会を開催し、11 月以降に 75 タイトル以上 を発売することを発表した。国内第 1 号ソフトとして 11 月 3 日に 69 ワーナーやソニー・ピクチャーズ等から 7 タイトルが発売された。 10 月 14 日、ソニーから世界初の BD ドライブ搭載のノート PC、 VAIO type A が発売。 11 月 10 日、20 世紀 FOX は世界初の 2 層 50GB ソフト、「キン グダム・オブ・ヘブン」を日本で発売。 11 月 11 日、ソニー・コンピュータエンタテインメントは BD プレイヤーを兼ねた家庭用ゲーム機・プレイステーション 3 を日 本で発売。 11 月 15 日、松下電器産業は、民生用 BD レコーダーとして初 めて BD-Video の再生に対応した「ブルーレイ DIGA」DMR-BW200/B R100 を発売。 2007 年 1 月 17 日、2006 年末の国内市場調査で BD が 94.7%のシェア(BD と HD DVD のレコーダー及び HD DVD プレーヤー)を獲得した。こ のシェアにはプレイステーション 3 や PC 等は含まれていない。 映像ソフトのシェアでは発売が早かった HD DVD に後れを取った ものの米国では BD が急速にシェアを伸ばし、2006 年末で HD DVD に追いつき 2007 年 2 月には BD が HD DVD の 2 倍になった[8]。さら に 2007 年第 1 四半期には BD ソフトのシェアは HD DVD の倍以上と なった。 6 月 18 日(現地時間)、米 Blockbuster は同社が行っていた 25 0 店舗での BD と HD DVD のレンタル事業を BD のみ 7 月中旬から 170 0 店舗に拡大すると発表した[9]。 7 月 26 日、米小売り 2 位のターゲットはソニーなどが推進する BD 対応機種(ソニー製「BDP-S300」)だけを 2007 年秋から年末 にかけて店頭販売することを明らかにした。 8 月 20 日、ヴァイアコム傘下のパラマウント・ピクチャーズと ドリームワークスはコンテンツを HD DVD でのみ供給すると発表、 70 契約開始から 18 ヶ月間 HD DVD のみでの発売となる。ただし、ス ティーヴン・スピルバーグが監督した作品に関しては現段階では 対象外となっている。今回のヴァイアコムの決定には HD DVD 陣営 から 1 億 5000 万ドルの見返りがあったためであると複数の米メ ディアが伝え、規格争い終結後にドリームワークス CEO がそれを 公式に認める発言をしている。 8 月 30 日、中国の大手 AV 機器メーカである華録集団 (CHLG) と 台湾の PC メーカであるエイサーが BDA に加盟。華録集団は中国国 内にオーサリングセンターを設立予定。エイサーは BD ドライブ搭 載ノート PC を製品化予定。 1 月 27 日、Blu-ray Disc Association は声明文で業界の販売 データを引き合いに出し Blu-ray 映画ディスクの販売本数が 100 万本を超えたこと、欧州向けに製造された Blu-ray ゲームディス クが 2100 万本を突破したことを報告した(ロイターが報道)。 12 月 4 日、TSUTAYA 等のビデオレンタル事業者、松下電器産業 等の AV 機器メーカー、20 世紀フォックス等の映像ソフトメー カー、合計 22 社が「ブルーレイレンタル研究会」を設立。ゲオ等 のビデオレンタル店 13 社(合計 26 店舗)で 2008 年 2 月 29 日まで 試験的に Blu-ray Disc ビデオのレンタルを開始。レンタル価格は DVD ビデオの新作と同額。なお最大手の TSUTAYA はこの試験に参 加していない。 パラマウントの HD DVD 支持により規格争いは一層激化するとい う観測が支配的だったが、2007 年全体・特に年末商戦においては BD が優位を保った。Home Media Research の調査によると米国の 年間ソフト売上は BD64:HD DVD36 となり、すべての週で BD が HD D VD を上回った。NPD の調査によると、米国の 2007 年 12 月のプ レーヤー(ゲーム機除く)販売台数は BD の方が 3 倍ほど高価にも かかわらず 60%を占めた。 日本では 11 月にソニー・松下電器産業・シャープが BD レ コーダーの新機種を発表。特にソニーと松下はデジタル放送を MP 71 EG-4 AVC で再圧縮し、ハイビジョン規格で長時間録画(ただし DR モードと比べるとビットレート数の関係で画質が粗くなる)する 機能を搭載するなどした。この結果、BCN の調査によると 11・12 月の DVD レコーダー市場全体において BD の台数シェアが 2 割前後、 金額ベースでは 3 割超を占めるまでに急激に成長した。東芝も低 価格な HD DVD レコーダーで巻き返しを図ったが、HD DVD と比較 した BD のシェアは 96 - 98%と圧倒している。 10 月にはエイベックス、11 月にアスミック・エース、ジェネオ ンが BD 参入を発表している。 一応規格を統合しようという話し合いが行われましたが 決裂したみたいですね。 72 HD DVD の終焉 2008 年 1 月、BD-ROM ビデオの Profile 1.1(ピクチャーインピク チャーなどのインタラクティブ機能を実装)に準拠した初のタイ トルとして『バイオハザード』が北米で発売された。 1 月 4 日、発売まで HD DVD 支持から両フォーマット支持へと紆 余曲折のあったワーナー・ブラザーズが 6 月から BD での供給に一 本化すると発表した。また、ニュー・ライン・シネマもこれに追 随した。これによりハリウッドタイトルのシェア争いでは BD がさ らに優位となった。 1 月 8 日、米国で世界最大級の家電展示会「2008 Internationa l CES」が開催される。 米マイクロソフト Xbox グループマーケティングマネジャーの アルバート・ペネロが「消費者から要望があれば Blu-ray Disc 対 応も考える」と柔軟姿勢をコメントした。 またこの日、英 TIMES の Web 版「TIMES ONLINE」がワーナー・ ブラザーズの BD 一本化発表を受け HD DVD 陣営約 130 社のうちパ ラマウント映画を含む 20 社が離脱準備を進めており HD DVD 陣営 は「離反の洪水」に直面していると報じた。 ワーナーの BD 専売化を受け、HD DVD プロモーショングループ は CES におけるプレスカンファレスをキャンセルしていたことも あり CES のブルーレイブースは大盛況、HD DVD ブースは閑古鳥が 鳴いているという有様であった。 International CES では BD-ROM の Profile 2.0 に実装される BD 73 -Live(ネットワーク機能など)のデモが展示された。2008 年内 にソフトが発売され、対応プレーヤーの発売やプレイステーショ ン 3 の対応ファームウェアも予定されている。 1 月 28 日、イギリスで 820 店舗を展開する大手小売チェーン・W oolworth が 3 月から HD DVD の取り扱いをやめ BD に一本化すると 発表。年末商戦で BD が HD DVD の 10 倍売れたためとしている。 1 月 30 日、EMI ミュージック・ジャパンは BD 参入を発表した。 2 月 15 日、小売り世界最大手のウォルマートが BD を支持し 6 月 までに米国内の約 4000 店舗の店頭から HD DVD 製品のソフトやプ レーヤーを撤去すると発表した。 2 月 19 日、東芝は記者会見を行い「HD DVD 事業を終息する」と 正式に発表した。次世代 DVD の規格争いは BD への完全一本化が確 定し、終止符が打たれた。 2 月 20 日(日本時間)、これまで HD DVD のみを一貫して支持し てきたユニバーサル・ピクチャーズが Blu-ray Disc に参入を表明、 「規格がブルーレイに統一されるのは(映画会社など)娯楽産業 と消費者にとって喜ばしい」とコメントした。 2 月 21 日(日本時間)、HD DVD のみから両フォーマット支持、 その後再度 HD DVD のみを支持と紆余曲折のあったパラマウント映 画が Blu-ray Disc に再参入を表明、「1 つの規格に移ることは喜 ばしい」とコメントする。これによりハリウッド大手 6 映画会社 全てが Blu-ray Disc へと集結した(この件は日本ではあまり報道 されなかった)。 3 月 1 日、エディオングループが HD DVD レコーダー・プレー ヤーを購入した顧客に対し、購入金額との差額を払う(HD DVD 機 のほうが高額の場合は差額を返金)ことで BD レコーダー・プレー ヤーと交換するサービスを同年 3 月 31 日まで実施。 3 月 19 日、TSUTAYA が全国の主要都市 10 店舗で BD ソフトのレ ンタル開始。 3 月 28 日、HD DVD プロモーショングループが解散。規格争いが 74 名実共に終結した。 4 月 12 日、ゲオが全国約 800 店舗で BD ソフトのレンタル開始。 6 月 11 日、歌手の T.M.Revolution が世界初となる Blu-ray Dis c 付きの CD シングル「resonance」を発売した。内容は同曲のビ デオクリップである。 7 月 15 日、TSUTAYA が 7 月 19 日から 1,339 店舗全店(2008 年 7 月 15 日現在)で Blu-ray Disc レンタルサービスを開始すると発 表。 2011 年 11 月、大手メーカーが従来型 DVD レコーダーの生産を終了し、 開発・生産・販売が BD レコーダーに完全移行した。 規格争いはブルーレイが勝利しました。 地上デジタル放送に合わせるかのようにDVDレコー ダーからBDレコーダーに移行したようです。 75 まとめ 原発関連企業の東芝が欲をかいて独自の規格を出して 敗走しました。 ブルーレイディスクが生き残ってよかったですね。 76 77 フラッシュメモリ 78 フラッシュメモリの発明も日本人 舛岡 富士雄という人が発明しました。 舛岡 富士雄(ますおか ふじお、1943 年 5 月 8 日 - ) 現在、日本ユニサンティスエレクトロニクス株式会社最高技術責 任者(CTO)。Surrounding Gate Transistor(SGT)の開発を行って いる。東北大学名誉教授。2007 年春の褒章受章者で紫綬褒章、20 13 年に文化功労者が贈られている。 1943 年 群馬県高崎市出身。 1962 年 群馬県立高崎高等学校卒。 1966 年 東北大学工学部電子工学科卒業。研究室は西澤潤一 研究室。同大学大学院工学研究科電子工学専攻修士課程進学。 1968 年 同修士課程修了、同博士後期課程進学。 1971 年 同博士後期課程修了。工学博士(東北大学甲第 1431 号、学位論文『半導体インダクタンスに関する研究』)。株式会 社東芝に入社。 1980 年 NOR 型フラッシュメモリを発明。 1986 年 NAND 型フラッシュメモリを発明。 1994 年 同社退社、東北大学大学院情報科学研究科教授。 1996 年 東北大学電気通信研究所教授。 2004 年 日本ユニサンティスエレクトロニクス株式会社最高 技術責任者(CTO)。 2007 年 紫綬褒章。 2013 年 文化功労者。 79 フラッシュメモリ発明にまつわるエピソード 東芝に入社後、高性能なメモリを開発したが売れないことに業を 煮やした舛岡は、営業職を志願し、アメリカのコンピューター会 社を回った。結局全然売る事ができず、1 年もたたずに営業職か らは外される。しかし、この時に何度も営業先に言われた「性能 は最低限でいい。もっと安い製品はないのか」という言葉から、 性能の向上ばかり考えず、需要に見合った機能を持つ製品を低コ ストで作るべきだと悟る。結果、情報を1ビットごとではなく一 括消去するという、あえて性能を落としてコストを4分の1以下 にする方法を思いつき、フラッシュメモリが発明されるに至った。 東芝の営業は何もしなかったみたいですね。 舛岡が開発し営業したわけですから彼一人の功績でしょ う。 80 極悪企業東芝 研究を続けるため東芝を退社~その後 その後、東芝は舛岡を地位こそ研究所長に次ぐが、研究費も部 下も付かない技監(舛岡曰く窓際族)になるよう、会社 から何度も要請された。 研究を続けたかった舛岡は、 何とか研究を続けられるよう懇願したが受け入れられず、 1994 年に東芝を退社した。 その後、東北大学大学院や、退官後に就任した日本ユニサンティ スエレクトロニクス等で、フラッシュメモリの容量を 10 倍に増や す技術や、三次元構造のトランジスタ(Surrounding Gate Transi stor)など、現在も研究者として精力的に研究活動を行っている。 舛岡は自身が発明したフラッシュメモリの特許で、東芝が得た少 なくとも 200 億円の利益うち、発明者の貢献度を 20%と算定。本 来受け取るべき相当の対価を 40 億円として、その一部の 10 億円 の支払いを求めて 2004 年 3 月 2 日に東芝を相手取り、東京地裁に 訴えを起こした。2006 年 7 月 27 日に東芝との和解が成立、東芝側 は舛岡氏に対し 8700 万円を支払うこととなった。 東芝の企業としての汚さが際立ちます。 退職して大正解です。 81 まとめ 東芝は舛岡が開発した技術の恩恵を受けながら、研究 をさせなかったり研究費も部下もつかない窓際族に追い やってしまいます。 ひどい仕打ちです。 反社会的な原発企業の東芝の製品は買わないに限りま す。 東芝を退社して本当によかった。舛岡氏がこれから開 発する商品は安心して使えますね。 82 83 インクジェットプリンタ 84 世界初の小型軽量プリンター インクジェットプリンター(inkjet printer)とは、インクを微 滴化し、被印字媒体に対し直接に吹き付ける方式を用いた印刷機 である。 EPSON EP-101 1968 年 9 月 「EPSON」の由来となった、世界初小型軽量デジタルプリンター MJ-500 1993 年 3 月 初めて MACH 技術を搭載した、インクジェットプリンター 1994 年 6 月 世界初 720dpi を実現した、カラーインクジェットプリンター エプソンは日本企業ですから日本の発明ですね。 85 インクジェットプリンタとは インクジェットプリンターは、機構が単純であるという特長をも つ。オフセット印刷のように版下を作製する必要がなく、複写機 やレーザープリンターなどで使用されている電子写真方式のよう な加熱定着処理も不要である。 インクを直接吐出する方式であるため他の方式の印刷機のように 印刷媒体が平坦であることは求められず、媒体搬送手段に依存す るが例えば紙以外にも印刷を可能としたものもある。一方で同一 原稿を大量に印刷する用途には適していない。また色当たりのコ ストも他の印刷方法と比べて低く抑えることができる。このため 6 色や 7 色、さらに 10 色を超える多色刷りの実現も比較的容易で ある。 オンデマンド方式の小型プリンターが登場した 1980 年代から 199 0 年代は、熱転写プリンターなどと競合状態にあった。近年は画 素の高密度化や印刷速度の向上が急速に進み家庭用の写真プリン ターやオフィス用プリンター、大型ポスター用のプリンターとし ても広く応用されている。またイメージスキャナやファクシミリ 等の機能を併せ持つインクジェット複合機(Multi Function Prin ter、MFP)も 2001 年ころから急速に普及が進んでいる。さらに、 インクジェットプリンターの特長を生かした応用技術の開発も広 がっている。 86 インクジェットプリンタ 87 開発史 1990 年のキヤノンノート型 BJ-10v の後 1993 年に発表された BJ-1 0v Lite(仕様は BJ-10v とほぼ同じ)、セントロニクス方式のパ ラレルインタフェース。(内部のカバーを外し手前に置いてい る)当時のノートパソコンとほぼ同じ大きさで持ち運びが容易。 インクジェットプリンターの歴史は、ケルヴィンが 1867 年にイン ク滴に対する荷電実験を行ったことが起源とされる。1879 年に レーリーがコンティニュアス型の基本となる液滴生成理論を発表。 本格的な研究の取り組みは 1950 年代からで当時西ドイツのシーメ ンスが液圧搬送、ノズル吐出のコンティニュアス型のプリンター の特許が公開された。 1960 年代より実用的なオンデマンド型のインクジェットの研究が 進められた。ピエゾ素子(圧電素子)を用いたピエゾ方式がはじ めに考案され、セイコーエプソン社よりピエゾ方式のプリンター が商品化された。また 1970 年代にはサーマル方式も考案され ヒューレット・パッカード(HP)社が 1984 年に ThinkJet として 商品化、キヤノン社も 1985 年に BJ-80 として商品化した。 1990 年 10 月にはキヤノンが普及タイプのノート型 BJ-10v を発売 し、一般個人ユーザーにも浸透し始めた。1996 年 11 月には、初 めて写真画質を売りにした PM-700C をセイコーエプソンが発売し、 インクジェットの普及に拍車をかけた。 88 それ以降、インクジェットは小型プリンターとしてシェアを拡大 し 2008 年現在ではパソコン用のプリンター出荷台数の 3 分の 2 以 上がインクジェット方式となっている。 89 まとめ プリンタといえばキャノン、エプソン、ヒューレット パッカードしか最近見当たりませんね。 一社が独占するよりは健全で、価格もかつて高かった 頃よりは下がってきています。 90 91 デジタルカメラ 92 これが世界初のデジタルカメラ? 1975 年(昭和 50 年)12 月、イーストマン・コダックの開発担当 者 Steve Sasson が世界初のデジタルカメラを発明する。画像サイ ズは 100×100 の 10,000 ピクセルで、撮影した映像をテレビに映 すこともできた。 カセットテープで記録するみたいですね。 われわれはこんなでかいカメラを持ち歩きませんよ ね? カセットテープくらいの大きさではないと世界初とは 認められません。誰も持ち歩けません。 93 電子スチルカメラ 静止画をデジタルで記録する「デジタルカメラ」の前に、アナロ グ記録を行う「電子スチルビデオカメラ」という製品群が存在し た。これは、アナログ FM 記録する電子カメラで、ソニーが 1981 年(昭和 56 年)に試作し後に製品化した「マビカ」を代表とする。 初の販売製品としてはキヤノンの RC-701(1986 年(昭和 61 年) 発売)があり、この時に 2 インチのビデオフロッピーディスクを 記録媒体として記録する共通規格 SV 規格が正式に決められた。こ れに追随して、カシオは VS-101(1987 年(昭和 62 年)6 月)を発 売したものの、10 万円台の高価格(ちょうど同じ頃普及が進んだ 8 ミリビデオカメラと同額程度)のため人気が出ず、大量の不良 在庫を出した。この SV 規格方式を中心に、1990 年代初頭に至る までいくつかのメーカーから電子スチルカメラが発売されるも、 ビデオカメラの人気の前に、全く普及しなかった。なおこれらの カメラは、当時はメーカーごとに様々な名で呼ばれており、「電 子スチルビデオカメラ」は、デジタルカメラ登場以降に、それと 区別するために付けられた名称である。 アナログで記録するからデジタルカメラではないです ね。 電子スチルカメラと呼ぶようですね。 94 マビカ 95 画像をデジタル方式で記録する初めての一般向け カメラ 画像をデジタル方式で記録する初めての一般向けカメラは 1988 年 (昭和 63 年)に富士写真フイルムから発表された「FUJIX DS-1 P」であり、当時のノートパソコンでも使われた SRAM-IC カードに 画像を記録した。しかしこれは発売されることはなく、実際に店 頭に現れた世界初のデジタルカメラは Dycam 社が 1990 年(平成 2 年)に発売した「Dycam Model 1」である。電源がなくても記録保 持ができるフラッシュメモリを初採用したのは 1993 年(平成 5 年)富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-200F」である。 カシオの QV-10 1994 年(平成 6 年)発表・1995 年(平成 7 年)3 月発売のカシオ 計算機のデジタルカメラ「QV-10」は、デジタルカメラの存在と利 便性を広く一般に認知させた製品である。外部記録装置なしで 96 枚撮影ができ、本体定価 6 万 5,000 円を実現して好評だった。一 番のメリットは、液晶パネルを搭載し、撮影画像をその場で確認 できることである。また当時は Windows95 ブームで一般家庭にパ ソコンが普及し始めた時期であったため、パソコンに画像を取り 込むことが広く認知された。この機種は NHK の番組「プロジェク ト X〜挑戦者たち〜」090 回「男たちの復活戦 デジタルカメラに 賭ける」において、あたかも世界初のデジタルカメラのように紹 介された。 QV-10 の成功を皮切りに多くの電機企業が一般消費者向けデジタ 96 ルカメラの開発・製造を始めた。QV-10 発売の 2 か月後にリコー から発売された DC-1 にはカメラとしては初めての動画記録機能が ある。その記録方法として JPEG の連続画像(後に Motion JPEG と 呼ばれる方式)を採用した。 この頃の製品はまだ画質も電池寿命もそれほど良くなく、存在が 認知されたとは言え購入層もその使われ方も限定的で、性能もし ばらくフィルムカメラを追い越すことはないと思われていた。199 9 年(平成 11 年)末から始まった高画素数化競争や小型化競争な ど、市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇、価格も下が り利便性も受けて、2005 年(平成 17 年)にはフィルムカメラと デジタルカメラの販売台数が逆転、フィルムカメラからデジタル カメラへと市場が置き換わった。 店頭に現れた世界初のデジカメは Dycam Model 1 ですが その 2 年前に富士写真フィルムが開発していますね。 店頭で売らなかったのは、従来のアナログのカメラの フィルムが売れなくなるからでしょうね。 97 FUJIX 98 DS-1P まとめ 新しい技術が開発されるとそれで職を失ってしまう人 が出てきます。 デジタルカメラが出てくると写真を現像する人が困る わけですね。 町の写真屋はデジタルプリントをしたりフォトブック を作ったりして時代の流れに対応しているようです。 プリンターがインクで儲けていることもあり、インク が高いのでそういったところでプリントしてもらった方 が手軽ということもあるでしょう。 99 100 あとがき 現代の革新的な発明はほとんど日本が関わって出来た ものが多いので驚きましたね。 革新的なものが出てくると写真屋さんのように職を失 う人が出てきます。 わざわざ家でプリントできるものを店に行ってプリン トするということは客に負担を強いていることになるで しょう。 技術革新して自分で出来るのにお金を払って人にやっ てもらう意味とはなんでしょうか? 職がなくなるから食べていけなくなるという状況を解 消すればいいわけですね。 なんでも自分で出来るのだから食べ物も自分で作れば いいのではないでしょうか。 便利なものがあるのに不便にしている状況は変わらな くてはいけないと思うのです。 101
© Copyright 2026 Paperzz