私たちは路上で牛になる デモ論のために 動物蜂起委員会 a.k.a.AIC

私たちは路上で牛になる デモ論のために
動物蜂起委員会 a.k.a.AIC
移動式の見世物小屋ではない。あなたたちがかざす携帯やカメラ、その白い目はどこ
に向けられ、何を問うているのか。
私たちが目にすることになる横断的な伝達。チンドンが鳴り始まる。性と道化に扮し
路上を練り歩くこのもの言わぬ伝達者たちは、しなやかで艶やかな手ぶりによって広場
へ襞を描いた。襞をぬけ、押し合う群衆のあいだすら吹きぬけていくその音は、一元的な
情報に集約するメディアや広告を翻そうと意気込む群衆を脱臼させる。彼(女)らが奏
で踊る陽気さのうちに潜む哀しみに鎮魂を聴いた者もいた。私たちは肩をいからせるこ
とを止め、代わりに路上芸がもつ狂気をその身に内在させて歩きはじめた。
私たちを見つけることはできない。私たちは名前を捨てた。始終抱えていたそれを。経
歴や学歴、職業倫理やよき市民であること、そこから離脱した。一方で私たちには名前な
どはじめからなかった。有象無象、跡かたも残らない。ひとは私たちをマイナーと呼ぶの
かもしれない。すでに私たちは「安心です」「健康に影響はありません」と発せられること
の意味が理解出来ない。電車やバスのなかで時おり目が合う赤子から発せられる言葉の
方がまだ明晰だ。ファシストの都知事が再選を果たしたこの日この東京で、高円寺の路
上に集った私たちは被爆に怯えながらも日常の閾とその外に広がる新しい倫理のなか
を歩んでいた。この世界について、あなたたちは見解と言う。解らないし、知りたくもな
い。歩いていれば始終耳にするそれを聞きたくもない。それは日常ですらない。なおもそ
れが日本語であり倫理であるならばそこからも離脱した。私たちはミクロ政治学に訴え
かける。いまはここ路上を歩いている。
しかしそれは一方で夢を語ることでもあった。出身も文化も様々に異なる私たちが
日々してきたこと。ただそれだけであった。 私たちの非倫理的なあってなき「日常」。私
たちはそこで出会った。ともにそれをただ捨て去ることを歩む。私たちが選んだのは、酒
を飲み、歌を歌うように意見を交わし会い、音楽に身を委ねて踊ることだった。
マスクを着け、雨を避け、水を飲まず、それでも埃の舞う校庭で遊んで帰ってくる子ど
もたちには「おかえり」と言って迎える。私たちの生きるすがたを通して彼(女)らもま
た生きる日々を選んでいく。「利権を逆にして私たちの生きる権利」と女性ラッパーがフ
ロウしたとき、私たちは領土を奪う。
メディアが追うことができるのは足跡だけに過ぎない。残響音に過ぎない。それすら
もないかもしれない。空になったビールの缶が転がる姿、交通法規しか知らない車達が
道路で右往左往している姿、足音も聴かず靴の数だけ数えているカメラ。プラカードやT
シャツに書かれた言葉ですら、彼らにとっては記号的な文字列でありすぐに情報へと集
約化する。
はっきり言う必要があるだろう。私たちの姿をメディアが報じないのではない。違う
世界を生きているのだから仕方がない、彼らの嫉妬、これ以上ないぐらいの嫉妬の感情
からできる最大限の反応は無視することだけであり、無視すること以外身動きができな
いでいるのにすぎない。そもそも、私たちは写らない。
1万5千の群衆が蜂起した。ここでもう一度確認する。私たちは名前を捨てた。一方で
私たちには名前などはじめからなかった。彼らの認識がどうかは知らない。だが群衆と
は塊ではない。
私たちは立ち止り、蛇行し、後退する。道行く車を停め、歩道橋を埋め、バスを後退させ
る。沿道に建つ住居の住民から応答を受ける。いまここ路上を占拠しているのは私たち
だ。――ピープル、労働者、市民といった名前さえも捨て去りたいと願う私たちにとって、
ここは出会いの空間だった。向き合うこと、表現することの差異を認め、でたらめに交配
していくその姿は、彼らの眼に奇異に写ったことだろう。もちろん、祝祭的な抗議行動な
んて言うつもりはない。「政治は存在に先立つ」とガタリが言ったことをもっと真剣に考
えるべきである。私たちが路上に れ、交配していくその瞬間は紛れもない政治であり
そこで生きているのだ。私たちは待っていた、長いあいだこの瞬間を。
私たちは持続する。一つの状態に甘んじるたけでは不足なのだ。くねくねと踊りつづ
け、戸惑い歩くひとびとのあいだをすりぬけ歩道に姿をくらます。時には警官のあいだ
に紛れこむこともある。私たちは誘惑する。手をまねき、誘いこむ。即興で歌った支援金
ソングに触発されて、募金をした警官もいた。私たちのまえに例外的な集団など存在し
ない。だが、あなたは一例だ。私たちは無数となる。
ひとつの類縁性。私たちは都市に住む。だがこの路上を都市と限定したものはいなか
った。車やバス、マンションやビル群はしかり、環七や青梅街道すらも目のまえに迫りく
るものでしかなかった。なぜなら、私たちの目のまえに迫りくる状況や問題も、出身や出
自同様に、それぞれ異なっていた。そこで「モテたい」というプラカードを掲げようが、私
たちは決して後戻りはしないだろう。仕事や日々流れていく時間に疲れて乗る電車の中
での不機嫌なやり取り、諍いの結論にナイフを突きつける世界。子供も大人も変化はな
い。カテゴリが変わるだけだ。親を殺す大人びた子供、子を殺す幼児化した大人。彼らが
言う安心安全にはよそよそしさが付きまとう。新しい流行を誰よりも先につかむことで
成り立つ孤独なオフィス。そのとなりの部屋では老人が孤独死しているかもしれない。
生きる為に嘘をつき、嘘をつくことで生きていく。私たちが向きあい、交配していくあい
だにも嘘はもちろん生まれてくる。だが名前を捨てた私たちは、向きあったうえで、嘘や
裏切りも情動とする。嘘を背後に忍ばせたこの耐えがたき世界からは離脱する。
私たちは群れとなる。群れを断ち切ろうとする規定や制度にはよりかからない。考え
てみてほしい。不可視の、言語化されていない制度を。男と女が付き合う、そこに潜在す
る断ち切りを。彼や彼女に親しみをおぼえる人々がいる。彼(女)らとの出会いは伝播
する。だが別れるとまたそれを放棄してはいないか。私たちはひとりで無数だ。内在する
群生を既定の制度に合わせることはしない。
またもや男/女の差。不可視の制度のなかに女の役割/男の役割が散見する。しかし
ここで踏みとどまり彼は、彼女は、ひとつの群れに貫かれる。彼は、彼女は女になる。彼
(女)の胎盤で待機している。彼(女)はひとつの位置を占める。私たちはひとりで無
数だ。はたして私は女になれるだろうか。性とは、私たちが所有する何かではなく、その
差異により私たちを支える。私を作り、私を解体する。私を構成するとともに、私から個
人という位格を剥奪する。群れる倫理にこだわって孤立した私たちは、再び、三度、この
路上で出会いを遂げた。
そして私たちは私たちの倫理を共有する者達と出会い続ける。
路上は出会いの空間だった。しかしこの先も私たちは気づいていかなければならない
待機していた時間と同じ長さ、それ以上に長いあいだ、この瞬間を続けなければならな
いことを。この身が消滅しようとも、まさにいまも、政治は続いていく――。私たちは気
づいていた。南相馬から来ていた。浪江から来ていた。ともにあいさつを交わし、ともに
時間を過ごし、見守った。いいや、見送った。このさき、この瞬間を見送らずにいかように
成るか。いかようにも成れる。私たちはひとつではない。出会いとは一つになることでは
ない。わたしたちは再び、三度、出会う。長いあいだともに踊り、酒を飲み、近しい親しさ
のなかで待機していた私たちは、まさにこの路上で出会い直した。この路上のあと、四つ
打ちのビート、スピーカーを通したリズムや低音にやみくもに乗ることはないだろう。
ブレイクに易々と手を挙げることなどしないだろう。私たちは好きなときにスピーカー
と自らの奏でるリズムを交配し、それぞれのビートをつくりだす。音を呼びこみたけれ
ば、皮膚のざわめきが接続と破局を繰り返しボーダーの上を秘密裏に伝播していく。酒
の場でさえ慣れ合いを捨て出会い直す空間に。路上を呼びだすのだ。路上で交歓するも
のがいれば、その都度交配しあらたな瞬間をつくりだす。方法は私たち各々が知ってい
る。
友情は彼(女)への信頼や共感の情を抱き合って互いを肯定しあう人間関係だとい
う御用教科書が教える言葉にはなんの内実もない。私たちのあいだには。南三陸や浪江
から来ていた、彼(女)らに同意を求め、「反」や「脱」をともに叫ぼうと呼びかけること
すら、真の意味では連帯ではないのかもしれない。彼(女)らにとって長い戦いはすで
にはじまっていた。それを看過してきたのは私たちだ。お互いに嘘を忍ばせた馴れ合い
で生まれるのではない。お互いの関係がお金を生み出すからではない。高い金を払って
参加する交流会で生まれるのではない。関係をそこからしか引き出せないような「生活」
しか存在しないかのように私たちは追い込まれている。そこに新しい価値や新しい変化、
期待や希望を見いだせる人間はパラノイアでしかないだろう。
フクシマで牛や犬が逃げだした。東電前に無数の牛たちが現れた。彼(女)らとて、荷
台に揺られてやってきたことは不本意であり、東電の場所さえ知っていれば、歩いてき
たに違いない。その歩行のさなか、彼(女)らの鳴き声に哀切をこえた切迫感を聴き取
ることができるか、私たちは牛や犬になる。それが連帯だろう。
私たちは知っていた。近しく、親しい時間のなかにいることができた。牛や犬や猫、そ
の時間を生きていたことを。その親しみや近しさは家族や国家しいては制度に飼い慣ら
された時間だ、という声もあろう。大きな声がこう言うだろう。
「人であれ」と。
「出会いと
はその先を示されたものである」と。だが見過ごしてはならない。私たちと彼(女)の関
係を照らし合わせることではないのだ。牛に情動を揺さぶられ、恥辱を感じた私たちは
牛になる。フクシマで逃げだした自衛官は、その恥辱のもとで牛になり、恥部を露出した。
彼は私たちだ。いま男であること、彼はそれを恥じたのではなかったか。ひしゃげた瓦礫
のまわりを行く、埃で舌の乾いた猫になる。波音だけが響く砂浜で海水をすする犬にな
る。変わらぬ味の不穏さを敏感に察知しながらも草を食む牛になる。ひとつひとつの恥
辱に情動を揺すられる私たちは牛や犬や猫になり、そして群れるのだ。けっして断ち切
られない無数の情動の群れに。右往左往する大人に恥辱をおぼえた暴走族と呼ばれる一
団が、横浜や
城でバイクとの親しい速度のなかから轟音とともに声をあげた。彼
(女)らは情動を示し、名づけられた名前を自らの手で捨て去った。南相馬の女子高生
が「じわじわと死を感じるんです」と言ったとき、彼女は女性になった。女性ですら女性
に<なる>のだ。現実的なこと、可能なこと、代替エネルギー案とはそもそもなにか。そ
こに馴れすぎてはいけない。なぜなら私たちは名前を捨てたのだ。
3月11日。数時間かけて歩いた帰路のなかで気がついた。フクシマの爆発を介し、停電
時の暗闇のなか確信した。私たちはこれからどうなるのかといった漠然とした大きな不
安や恐怖を抱えていた。しかし恐怖の先にある何とも奇妙な解放感としか言い表わせな
いものを知った。私たちを縛ってきたのは「放射能/原子力」的なものであった。生まれ
てこの方「人であれ」と命令され続けている。これも同じことだ。コネクションを作れと
左派的なグループまでが言っている。これも同じことだ。フクシマから離脱した自衛官
は感じていた。子どもを連れて西へ逃げる若い夫婦は感じていた。倫理の共有がないも
のからは離脱する。原子力が用意した未来は崩壊した。無数のアフィニティを形成し、見
えない放射能に恐怖しつつも、私たちは不思議と解放感としか言い表せないものととも
にある。
路上での蜂起以外に見えたモノはない。
そこでどんな対案やオルタナティブな生活や新しい徒党が生まれたのかと問うことは
愚問である。
路上では、路上を経由した者たちの間では、無数の共謀が生まれる。
誰も全体像を把握できない多数の共謀が。
私たちはまた路上で蜂起する。
しかしそれは以前のものとは全くの別物だ。
そのつど出会い直し、恥辱に揺さぶられた情動のもとで
無数の線が形を変えながら群れとなり蜂起する。
恥辱のもとに各地の原発が自ら崩れ落ちてしまうまえに。