第 7 章 政府 機 能 の 民 営 化とビジネスの 国 外 流 出 効率性の名目 政治家や政府高官そして実業界の指導者達は、社会問題に市場原理を導入することが最良である、とほぼ例外なく 信じており、民営化、つまり政府機能の民間部門への委譲に好意的である。 政策をめぐる公開議論で、この見解に 反対する者を見つけることは難しい。 市場主義はどこでも優勢であり、この仮定が議論の中で挑戦を受けることは ない。 現代社会の政府機能について政治家は常に弁解がましくなるものである。 米国議会の公聴会で、FRB(連 邦準備委員会)議長は、都市部地域の経済成長促進を企図する政府プログラムを臆面もなく毒づいた。 スローガン は「民間に任せなさい」である。 経費節減、規制緩和、民営化、プログラム売却、アウトソーシング、権限委譲、市場 安定のための主権明け渡し(例えば、国内業務のいくつかの管理権限を超国家組織に譲渡するなど)、そしてこれら に関連する政策を先導することが現体制なのである。 「民営化の魅力の原点は、政府が太りすぎており、民営化こそがサービスの質の低下を招くことなく経費を削 減する、と世に広く浸透した意識にある。 民営化議論は、民間企業は公共セクターに比べコスト効率の良い方式で サービスを提供しているという基本前提を出発点とする」(UAW-全米自動車労働組合、1999年)。 注意しなければな らないのは、当のUAW自身はそのような見解を受け入れているわけではないということで、民営化は自分たちの雇用 確保に対する脅威と考えている。 民間企業での前例のない大成功は、計画経済の壮観とまでも言える破綻と相俟って、競争主義的ビジネス モデルをもはや難攻不落の文化的聖像に祭り上げてしまった。 商業組織は単なる選択肢のひとつではなく、物事の やり方である。 我々の繁栄のよりどころとなる金の卵を産むガチョウの寓話のように、ビジネスは、あらゆる可能な 手段を使い、支え、養育すべきものと信じられており、その成功や威信に影響をうけた政府はビジネスを模倣しようと している。 政府が自らビジネスの世界に身を置き、本業を廃業しようとしている点、特に驚くには当たらない。 政府機能の譲渡の理念は、競争市場で活動する民間企業のほうがより効率的に、低コストでサービスを提 供でき、したがって政府本部は人員と予算を削減し、公共部門の支出を押さえ、最終的に税金を引き下げることがで きるという信念による。 公衆へのサービスの質に劣化はないということがこの理念に暗示されており、極めて疑わし い仮定である。 税負担が軽減されることで、ビジネスはより世界市場で競合できよう。 端的には、民営化は面倒な 規制がもたらす重荷を解くことでビジネス・コストを低下させ、公共部門の費用を削減し、結果としてビジネスへの税 賦課を軽減する手段として望ましいと考えられている。 政府機能の変革途上で、市場のグローバル化とそれがビジネスに与える結果は根底に流れるテーマである。 世界中の異なる地域からやってきた商人たちの間での商品の取引は古代からずっと行われてきた。 工業製品を含 むより複雑な形態の取引もその後しばらく行われた。 18世紀には英国の綿工業にみられる産業企業が勃興し、そ こではインドの原材料を輸入し、英国で紡績し、そしてそれらを最終製品として販売するためインドへと戻された。 こ のような活動は、複雑なサプライチェーンと輸送手段の調整を行う巧みなロジスティック・システムで支えられていた。 しかし、そのサプライチェーンやロジスティック・システムは関係者の堅固な連結により構築されており、スィッチングを ビジネス戦略として使うことは、コンピューター・ネットワークの出現までまったく実用味のないことであった。 政治家や官僚をして政府機能の民営化に駆り立てるものはビジネス競争という背景であり、グローバリゼー ションよりも、むしろ仮想組織の存在を指摘する方がより正確であろう。 世界市場で活動する企業の間では、仮想事 業でのスウィッチングが柔軟性と感応度を強化するために見られること、そしてグローバリゼーションがより一般的に 使われる言葉であることから、ここではグローバル企業と仮想企業についてあまり区別せず語ることにする。 グローバリゼーションの重要な側面は、我々が「国外流出」と呼んでいるもの、つまり国籍の放棄である。 ビ ジネスの主要目的は儲けることであり、もし世界市場での競争が企業に対し、活動するそれぞれの国の旗への結び つきを要請するならば、企業は直ちにそれに応じるであろうことに疑いの余地はない。 民営化と国外流出という二つの流れは、社会の封建化をもたらす直接の起因となる。 政府がかつての公共 機能から離脱し企業が自ら国外に流出することにより、社会プログラム遂行の責任は市場という、いわば不確実な状 態で宙吊りになる。 明日の権力と権限を握る者は、代行業者となる民間の関係者達であろう。 救 急 医 療に進 出するビジネス 民間部門の経済活動を刺激すれば全体的な繁栄をもたらす、というのが長年にわたる市場の知恵である。 税収入と雇用機会はGDPの上昇に伴い増加する。 政府支出が抑えられるとインフレーションが抑制され、ビジネス は適切な金利で必要資金を調達できる。 雇用機会の増加は労働力の成長を上回り、家計収入が増える。 経済拡 大は、時折避けられない景気の浮き沈みに翻弄されるが、永続的に続く。 政府の規模縮小と民間部門切り離しの問題は、主要政党全てにわたり「必須条件」となっている。 この二つ 一組の目的を実現することは、費用を削減し、面倒な手続きや規制を減らし、そして企業や個人に課された納税義務 を緩和することを意味する。 この望みを達成するには、ダウンサイジング(人員と予算の削減)、政府サービスのア ウトソーシング、公共施設の売却、政府下位レベルへの施行責任の委譲、商品の民間委託、効率性の向上、提供サ ービスの削減、そして、税率の引き下げもしくは控除や免税枠の拡大などがあげられる。 米国や他の先進国の様々 な中央・地方政府でこのような方向に踏み出していることが顕著に見られる。 アウトソーシングは米国政府で実施されている民営化主要手段のひとつである。 「元々内部職員と資源で 処理されていた活動の遂行に外部資源を使う」という今日的発想は、30年前に承認された行政管理予算局文書(A76、商業活動の成果)で正当性を認められた。 当該文書は1983年改定版に対する1996年の補則で再び姿をあらわ す。 米国政府の公の方針は1950年代半ば頃からアウトソーシングを奨励しており、各代理店は必要な物資やサー ビスを商店から購入することを促されていた。 政府機能の民間企業への譲渡促進は、単一政権や政党の気まぐれ によって起こされるのではなく、長い期間をかけて決められた慎重かつ一貫した政策の結果である。 現連邦政府でのアウトソーシングは、主にインフォメーションテクノロジー関連の経費削減を狙う。 今や連邦 政府はアウトソーシングを利用し、コンピューターシステムやソフトウェア、ネットワークのオペレーションや維持にかか る高いコストの削減管理を目指し、大手の民間部門機関と匹敵する。 アウトソース化やアウトソーシング検討の対象 となっている活動や施設には、アプリケーション開発、アプリケーション管理、メインフレームデータセンター、クライア ントサーバーシステム、トレーニングプログラム、そしてローカルエリアネットワークなどが含まれる。 アウトソーシングは、これまで常に連邦政府により実施されてきた単純な下請けとは違い、「政府機関の中核 任務遂行能力と外部との関係についての総合的な再構築を含んでいる」のである(連邦行政管理予算局、1999年)。 しかも、どの機能がアウトソーシングにふさわしい対象かという考えは時とともに変化し、ほんの2,3年前まで本来政 府のものであると考えられていた仕事が今日ではアウトソーシングの対象候補となっている。 アウトソーシングされ る機能のリストは日々増え続ける。 公共部門での経費削減の圧力が政府の施設売却や公共サービスの分離を引き起こしている。連合鉄道公 社Conrail(貨物鉄道システム)やランドサット(地球観測衛星)は売却され、航空管制塔、セキュリティ・サービス、政府 ローン・給付金および政府契約申請者のスクリーニング、そして外国人拘留施設は民間部門の管轄に移された。 NASAのような政府機関は、自らの機能を積極的にアウトソーシングし可能な限り切り売りしている。1998年の宇宙商 業利用法は、大陸間弾道ミサイル余剰分を低コスト使い捨て宇宙発射装置としての使用を認め、スペースシャトルの 民間利用の計画策定をNASAに要請した。 情報市場の成長が政府活動の民営化に新しい機会を創出してきた。統計や報告書等、膨大な情報が連邦政 府機関により作り出され、それらの多くは連邦政府印刷局(GPO)作成の低コストで公開される公文書に見出すことが できる。一般社会の関心事項に関する幅広い出版物を供給するGPOの活動が著しく減ってきている(シラー、1981)。 情報配布については政府よりも民間企業のほうがよい仕事ができるという信念がこの動きを支えているが、ここで見 落とされていることは、シラーが指摘するよう、GROが売却した資料の殆ど(例えば、政府機関によって資金調達され たプロジェクトの報告など)は、公費により集められたものであり、民営化は情報の利用者ではなく供給者のための政 府助成金の調達ということを意味する。 商業用データベース・サービスの利用件数が増えれば、平均的な人でもサービスの購入が可能なぐらいコス トが下がるという意見があるが、もしそれが起こるならば、かつて利用可能であった膨大な多様性との引き換えとして であり、このような多様性の低下は、19世紀末に始まった農業機械化の結果として起きた事柄を想起させずにはいら れない(Giedion, 1948)。農業が巨大ビジネスと化す前、数え切れないくらい多くの種類のりんごが小さな生産者から もたらされていた。しかし今では、スーパーマーケットの棚には、大量生産されたほんの一握りの種類しか見ることは できない。効率性の向上は無料の選択肢とはならない。 ワールド・ワイド・ウェブ上の電子出版については、不可避となった多様性の減少を緩和すると思われる。とい うのも多くの情報が無料で得られ続けるためで、情報を求める人は、広告を見たり広告やマーケティングに使用され る個人情報を提供するだけでよい。検索エンジン会社や電子出版者は、それらの無料サービスを有料化することで 貧しい人たちをひどく差別し、また情報提供に際して最大の利益をもたらすようなものに偏れば、入手できる情報の 多様性の低下を招く。いずれにしても、アクセスと多様性の問題は、市場において解決されるであろう。 民営化への誘惑には際限がない。リーズン公共政策機構の民営化センターが発行している「ガイドブック」の リストには、州および市政府機能、通行サービス、有料道路建設、水道や汚水処理施設事業、土壌汚染管理の統括 的再構築や、政府資産、政府所有企業、空港、救急医療サービスなどの譲渡が記載されている(リーズン公共政策 機構、1999年)。 民 間による公務遂 行 民間企業のほうが低いコストでより効率的に仕事ができることが、政府資産やプログラムの売却実施および その計画に賛同する主な根拠であるが、この大雑把な主張については根拠を固めねばならない(Sclar, 1997年)。政 府機関と顧客の間で発生する取引コストを測れない点、民営化の議論でいつも無視される。政府機関により提供され る物品やサービスは複雑であり、現金市場で取引される商品とはなはだ異なる傾向がある。宣伝のみでは潜在顧客 の競争入札の食指を動かすには至らない。広告と顧客支援にかなりの規模の出費が求められ、少なくともいくつかの ケースでは、民間会社が公的機関の提供する物品やサービスを肩代わりし、収益を生みながら営業していくことはで きない。 コストと効率性は民営化の成果が問われる唯一の争点とは限らない。一例として民間経営の刑務所は、厳 正な手続きの確保のために直接的な公的管理が必要であるという信念と拮抗する。米国では劇的な監獄収容者数 の増加と、それに伴う飛躍的な管理コストの上昇から、民間部門の手助けを求めるようになってきた。民営化賛成派 は民間の方が効率的に刑務所と囚人を管理できると主張する一方、反対派は、儲けを求める動機が正義の目的に そぐわないのではないかと論じる。民間運営の刑務所の管理者は、増収のため時間や費用を切り詰めようという誘惑 に駈られるものである。適切な監督がない状態でのそのような経費削減は、収容者に深刻な迫害をもたらす。もし歴 史に学ぶとしたならばもっと考慮する余地がある。民営化は19世紀にも試みられたことがあったが、迫害に対する社 会の大きな批判を受けてから、結局のところその実験も頓挫した。いくつかの民営収容所においては、「明らかに、囚 人たちは、栄養不足、度重なる鞭打ち、過労、そして過密などに苦しめられていた」のである。(スミス、1993年) 公的に運営される収容所でも迫害やスキャンダルが見られ、ここでの主要な論点は、どこが最良のマネジメン トを行いうるかということではない。両当事者のうちの一方が他方に答を出さねばならないという状況が続く限り、刑務 所の運営に関して民間か公的機関かという適切な比較はできない。刑務所運営の民間進出が、既にWackenhutおよ びCorrections Corporations of Americaや他の小規模な参入企業によりなされていることが、民間と公的機関の役割 領域の間に線を引きなおす民営化トレンドの一部を成すか否かが主な議題なのである。 民営化にまっしぐらに向かうことは、特定政権の気まぐれではなく歴史的に異常な出来事でもない。それは仮 想組織の力と恵みを信じることに由来する。刑務所や退役軍人の治療施設などは障害なく民営化できる、というのも 官僚の目から見ればそれらはサービス提供システムの抽象的な要素に過ぎず、その運営構想を実現するための技 術的な手段も手の内にある。仮想組織により、究極のサービスは必要なところへの資源配分に関する最適化問題に 変換される。機会均等、公正さ、そして厳正な手続きという原則事項は、公的と民間との間の線引きを見直すところま で再定義されよう。 人間社会では職場での監視をめぐる対立という問題で、この再定義のプロセスがよく見られる。経営側は、 職場コントロールの手段や仕事の効率性向上のために監視技術を使う。官と民の活動領域の境界線が調整される に従い、合意のもと同様なコントロールが使われる(ズレイク、2001年)。 今日、あたかも19世紀後半の(ドイツ宰相)ビスマルクによる改革前の時代に時計の針を戻すべく、最も進ん だ技術が使用されている。ビスマルク改革の証である公的年金制度が、今やある種の民営化対象となっている。社 会保障制度がさほど遠くない将来破綻するのではないかという米国の危惧は、社会保障基金を株式市場に投資する ことを認めるよう幾人かの公人たちに提案させている。これを率先し他の案(例えば、倒産法改正)を推し進めている のは、個人が自身の運命を自らコントロールできるような政策として持てはやされても、単に公共福祉の責任を政府 から民間に移譲しようとしているに過ぎない。 公的支援による教育システムは米国民主主義の防波堤のひとつである。大多数の米国民は幾世代にもわた り公立校で教育を受けてきた。学校は地方税、州補助金、幾ばくかの連邦政府資金で賄われながら地域の委員会に より運営されてきた。州当局は、財政力や場合により特定教科における基準制定やテスト教材提供で、学校システム に影響を持つ。 教育水準の低下や基礎学力テストでの生徒の貧弱な成績を伝える報告書が、学校に対するメディアの関心 を集めている。文盲率の高さの発覚などは、たぶんメディアの注目を惹きつけるには十分であろうが、もっと強い動機 は、高水準の教育が今日のような高度技術社会で経済的に生き残るため必須ということで、民間企業が教育分野に 役割を拡大していく背景となっている。 教育分野、特に高等教育、における企業の関与は特別目新しいことではない。企業は積極的に卒業生を採 用し、大学の研究開発活動を支援し、研究や講義に携わる人材に資金を融通し、そして他にも様々な形で貢献して いるが、この交流の風向きが変化している。激化する競争市場社会での優勢を確保するために、熟練したスタッフは 主要な要素の一部と見做されている。企業は学力貧弱な者を許容できる状態ではなく、教育システムの成果に満足 しなくなったのである。 企業の教育分野への直接介入はカレッジや総合大学で久しい。数多くの大手企業(例えば、IBM、GM、アテ ナ生命保険、AT&T,など)は、自前で大学レベルの教育機関を有す。通常それらの企業は、工学、科学、経営学な どの専門プログラムを提供する一方、大学に酷似した運営で、アカデミックなスタッフ、カリキュラム、テスト、クラスル ームなどを擁する。これら自前のプログラムに加え、企業はカレッジや総合大学との伝統化した関係を拡張し始めた。 最近ではフェニックス大学のように収益を挙げるための私立機関も誕生している。 民間の教育分野への進出はあらゆるレベルで拡張している。企業は初等・中等学校の抱える問題に取り組む 前に、高等教育レベルでの堅固な足掛かりを築いた。実業界は1980年代から個人指導のようなサービスを提供する べく学区や個別校と協働してきたが、学校組織では賄うことのできないコンピューター設備の援助が主なものであった。 今では(例えば、エジソン学校のように)、小学校や中学校の運営を事業とするような民間会社さえ存在する。 地域を基盤とする行政機関がそのサービス提供機能を民間企業に譲り渡したもうひとつの例としてヘルスケ アが挙げられる。病院経営に携わるいくつかの企業が存在する。最も知名度の高い会社のひとつは、Humana社であ る。ルイスヴィルにあるその病院は、人工心臓移植手術の先駆者でもある。ヘルスケア民営化は、刑務所運営と同様、 サービス提供の公平さの問題を引き起こす。長い間支払い能力がヘルスケアの品質を左右する要因であったが、民 営化はその基準を際立たせる。心臓移植のように非常に高額でドラマチックな手術が問題をドラマ仕立てにしている。 人工心臓活用での潜在的不平等性が懸念される中で、Humana社は、いくつかの移植コストを自身で引き受けること を述べている。しかし基金が枯渇した後にどうなるのかは明らかでない。 コミュニティの名目で行われる活動は、特別な利害に左右され、公平性という点で優良以下の評点が付され が、社会のあらゆる分野でのビジネス上の決定にくらべ、より公平といえよう。企業経営者は、ヘルスケアを提供する 上で、ひとりの患者の生殺与奪を握り、儲けの動機に基づく引き立てには曖昧でない。米国文化において、金銭は多 くの物事の究極の調停者であるが、人間の生命に明白な値札をつけることには躊躇する。コミュニティは、ヘルスケ ア企業に対し、医療行為のアクセスを監視するポリシーや監督委員会の設置を義務付ける法律の制定によりシステ ムに公平性を確立することが適格と考えるかも知れない。しかしながら、そのような委員会の実効性は、争いを調停 し人々の意思を強制できる国家権威の継続的な存在に依存する。民営化はコミュニティの目標をうまく変えてしまい (スター、1988年)、最終的に国家権威を侵食してしまうかもしれない。 権 限 委 譲と地 域 競 争 政府のあらゆるレベルで民間ビジネスモデルを取り入れたと機能で向こうを張ろうと奮闘している。中央およ び地方政府は重要でない業務を分離し、自身の「コアビジネス」まで贅肉をそぎ落とそうとしている。この傾向は「権限 委譲」という名目で進行している。資金面で縛られ、法律で義務付けられたプログラム運営の責務を負わされた地方 政府は民間企業にその運営を任せている。税源拡大の望みを抱き、管轄地域内にビジネスをひきつけようと、政府 の様々なレベルで互いに競争している。 連邦支出の削減は、社会サービス責務の州政府への移譲を意味する。連邦政府予算が削減されてもニー ズは余分でない限り減少することはなく、州政府は該当サービスの提供を迫られることになる。したがって州政府は 民間投資競争に明け暮れ、新しい税収入の流れを求める。 地域内競争の利害は明白で、民間投資は経済活動を創出し税収入と雇用をもたらす。米国内のいくつかの 州は、州内の経済成長を刺激すべく、高度な技術を持つ企業の誘致のためのインフラ構築プログラムに取り組んで いる。一般にハイテク企業というのは、明確な定義はないが、研究開発に重点投資を行い、高度に熟練した労働力を 有し、その商品やサービスに最先端の技術を含む企業と考えられる。コンピューター製造、ソフトウェア・ハウス、半 導体製造、そしてバイオテクノロジー産業などが良く知られた例である。 ハイテク企業にインフラ支援する産業やリサーチパークのための公的資金活用が、各州共通で、かつ典型的 に率先されている。法的・実務的なサービスとともに事務所スペースを提供し、新興企業を支援するプログラムも一 般的である。これらのプログラムは、農家に技術支援を提供する前世紀に確立された農業実験ステーションの精神に 共通する。 政府は、経済成長を誘発するインフラを提供することで伝統的な責任を果たしているように見えるが、それは 疑わしい。過去の類似した政策の目的は(結果としてではなく)公共の利益を促進するものであり、一部の少数の利 益のためでなかった。しかし今、政府は多数を犠牲し、少数に恩恵をもたらす開発を推し進めている。 ハイテク産業はどこよりも多くの注目を集めてはいるが、地域は太い煙突の立ち並ぶ工場なども含め、あら ゆる業種の産業を誘致しようと競い合っている。かつて30ほどの州が、サターン・プロジェクトとして有名な小型車生 産工場を自分たちの地域内に設置しようと、GMの説得を試みたことがある。これを端とする競争は新設備のみなら ず既存事業にまで及んでいる。 経済開発促進のため、州は他州と、地域は他地域と相互に戦っている。州政府のみならず、いくつかの大都 市政府でさえ、米国内の他地域や外国からビジネスを誘致するという恒久的な商業使命を持つ。シリコンバレーのク ローン育成をもくろんだインフラの創設に加え、様々な財政刺激策が新しい産業を惹きつける餌として使われている。 経済が世界貿易とより固く結びつくにしたがい、国際市場での競争が波及し、米国内における地域間競合を 激化させている。このことで州は、憲法上の禁止条項の制限(第1条項、セクション10)に抵触しつつも、議会に対し 他州や外国との間で貿易協定や協約を締結するよう迫らざるをえない。 情報技術は州グループが協同して行動を起こす数多くの機会を与える。かつて州には法律の強制執行や環 境の汚染制御でお互いに協定を結ぶ権限が付与されていた(ブラック、1963年)。インターネット上での情報共有が容 易になり、このような領域での州間協力の拡大、新分野の開発も期待できる。州間での農業、資源、環境問題、また 多分交易での情報共有は事実上の協定を生み、連邦政府の権威に深刻な挑戦となる。 産業開発での州間・地域間の競争は目新しくない。そこでの利害もなじみのもので、税収入と雇用を引き起こ すような経済活動である。しかしながら、情報技術に支えられた仮想組織による世界市場が現実みをおびて身近に 迫っている昨今、競争はこれまでにもまして激しさを増している。 州間交易の規制は、州境を跨ぐ商品の販売や出荷などの商業取引に適用されてきたが、人々の移動、とり わけ熟練技術者の移動や、資本移動に直接的な規制干渉はない。もしある会社が、ミシガン州の工場を閉鎖してア ラバマ州に新設しようと決定した場合、州間通商委員会の許可を得る必要はない。 仮想組織のさらなる地固めが進むと、このような人や資本の移動が州の経済的繁栄に決定的な要因として 明るみに出る。 工場閉鎖はしばしば地域全体にとっての災いとみなされ、場合により州政府の経済状態を損なう。州官僚に とって高失業率は政治的な弱みでもあるが、新設できる工場や企業の数には限りがあり、それを巡る争いはますます 激化する。これが株式市場にも似たビジネス情勢を醸し出す。つまり企業の幹部は、ちょうどポートフォリオマネジャ ーが保有する株の構成を変更するごとく、生産拠点を移動する。 人材と資本の移動で引き起こされる地域間格差が深刻化し、州間通商委員会の規制権限の拡張方策を議 会に審議させるほどである。中央と地方当局間の競争の激化も封建化の進行を早めているが、この点は次章にて取 り上げる。 ビジネスと市場 のグローバリ ゼーション 第二次世界大戦後、多数の経済学者、政治家、科学者、その他が増大しつつある多国籍企業の影響を指摘 してきた。世界規模ビジネスの政府制御からの独立に向けた動きと、それに伴う政府の実効主権の低減を意味する。 近代グローバリゼーションの起源は19世紀の産業革命に発する。経済成長は領土拡張と分業を生み、組織 的な発明と開発のニーズを創出した。幅広く分散された生産工程や分配操作を統轄し、多数の熟練労働者たちの仕 事を調整すべく、官僚的階層構造が生み出された。この成長は技術革新と手を携え進行した。つまり、鋤、水揚げ車、 ふいご、機織機、羅針盤、等、製品製造のための道具や装置の発明や、経済活動を調整するための通信技術の開 発である。 交易、商業、産業は古代より通信・調整手段の発達を促してきた。文字はまず商売で発明され使用された (バーナル、1971年)。ギリシャ時代の商人や職人たちは、貴族の主人たちが読み書きできるようになる以前から文字 を使っていた(ハブロック、1982年)。幾何学の発展は土地取引で正確な計測を行う必要性からである。近代に入り、 ヨーロッパで貿易や商業が復活するにつれ、今日でも使われているアラビア記数法の導入により数学的計算方法が 簡素化された。中等学校教育を受けた者であれば誰でも使える画期的な計算方法である。この時代の貿易と商売の 工夫は、近代ビジネスで必要不可欠な会計手法である複式簿記の開発も引き起こした。 通信と組織の革新は19世紀工業化時代に入り加速した。複雑な生産作業は単純作業の組み合わせに分解 され、高給の熟練労働者の代わりに低賃金の未熟練労働者を割り当てた。動力機械の活用が経済拡大を図り、効率 を促進した。これら全てを統轄したのは、合理的官僚制といった理想を抱く行政階層構造であり、一人一人の役人の 義務や責任が明記され、必要なスキルを持つ者誰でも仕事ができるという組織である。 経営者のコントロールはタイムリーでなければならない。命令を下す者は、命令が時間内にきちんと遂行され たかについてフィードバックを必要とし、うまくいっていない場合調整できるよう心がける。空間的に幅広く拡散した組 織で、長距離を迅速に結ぶ通信手段を欠くならば、そのようなタイムリーな行政管理は不可能である。しかし、組織は 技術の助けにより空間がもたらすタイムリーな対応の制限を克服できる。 電報に続き、電話、ラジオなど効率的な長距離通信手段の発明により、はるかに遠隔でもしっかりと管理監督 を維持できた。これら殆どは20世紀に入り起きたことで、きちんとしたコントロールを可能にするに十分ではなかった。 これはある面で、1930年代半ばから1950年代後半にかけて、大企業の組織がかさばりすぎて扱いにくくなるのを 防ぐため起こした自己分権化の試みに起因する。全てを中央に集めるのではなく、それぞれの活動所在地に管理監 督権限を移譲し、多くの分散拠点がそれぞれ内部的統制を強化し、より柔軟に対応した。指示を下す側と受ける側 の距離を短縮することにより、顧客サービスが改善され、リーダーシップの発達する機会が増し、モラルが向上した。 1950年代後半、まずビジネスでの使用に適応されたコンピューターは、再び経営側にコントロールを集中さ せることを可能にした。初期のコンピューターアプリケーションは、大きくて高価なメインフレーム・システムとして導入 され、大抵は企業の本社に設置されたので、財務や経営判断が、記録を保存し統合する部署の置かれている中央に 集約されたのは自然であった。1970年代には、分散データ処理機能の進展が、分散組織の試みに道をつけること になった。昨今の通信・コンピューター技術は非常に強力で柔軟性に富み、経営管理を支える通信技術に何がよい のかという点で、中央集権対分散という議論自体あまり意味をなさない。技術は全ての組織にどのようなコントロール 形態をも可能にしており、今や決め手は組織のスタイルと哲学である。 分散データ処理は、例えば、地域ごとに生産手段を設計し管理するなどの分散活動を許容する一方、例え ば、生産量、時期、場所、価格決定などのトップのコントロール把握を容易にする。一例として、我々は世界中から集 められた部品や半製品によって製造された「ワールドカー」を保有している。主に複合一貫コンテナ輸送による今日の 輸送技術は、世界中からの部品の輸送を経済的に可能とする。通信・コンピューター技術により、このように分散さ れた活動でも経営管理を維持できる。製品の性質、価格、市場など基本的な決断は中央でなされ、実際の生産は世 界中に分散する。実生産に関するコントロールは各現場に委ねつつも、一つの生産拠点から別の拠点への部品や 原材料の輸送についても中央での管理監督が可能となる。 従って、合理的な経営管理はコンピューター通信を用いたグローバルな視野を持つ。ビジネス拠点はどこに でも配置でき、経済優位性をうまく活用しながら場所の選定ができる。労働賃金の高い工業国に最大規模の工業製 品市場が存在するが、生産工程の殆どは労働力の安価な第三世界に設置される。輸送経費は労働賃金の浮きを相 殺するほどに高くなく、コンピューター通信が分散された経営管理の維持を容易にする。例えば、鉄やいくつかの消 費者用電気製品などは第三世界市場でも成長しており、市場の近くから安価な労働力を集め、市場の近くでそれら製 品を生産することに何ら問題はない。生産施設の場所選定の判断基準を、経済面を考慮して安価な労働力と市場へ の近接具合におくことは経営的に適切である。今日の情報技術により、企業の本部から遠く離れていても、そのような 活動を効率的に管理できる。 天然資源への近接にも類似した議論ができる。希少な鉱物など多くの重要資源は、それらを原料とする商品 の究極的な市場から遠く離れたところに存在する。通信技術が不十分で遠隔地からの経営管理が難しい場合、原材 料を企業の本部近くの製造工場まではるばると輸送しなければならないが、今日では、原材料の産出地近くにある安 価な労働力を利用し、産出地で本格加工を行うことが可能である。産出量の大半が初期加工の段階で廃棄されるよ うな鉱物のケースでは特に重要な点である。以前は産出量全てが輸送されていたがもはやその必要はない。 衛星技術もグローバリゼーションでは重要な役割を果たす。衛星は、世界的通信網の補助に加え、リモート センシングアプリケーションを用い、地球物理学データと諜報データの収集に活用されている。衛星により、例えば地 球全体の穀物成長に関する情報が収集、加工、配布される。例えば世界の諸地域での大豆、麦、米の作柄を知れ ば、それら穀物の各市場への移動にどのくらい輸送力を要するか推定できる。リモートセンシングはそのような穀物 情報を簡単に収集し伝達でき、食物加工会社、穀物取引業者、等々がその情報を活用できる。食物加工会社は、不 作が見込まれたら、将来の価格高騰に備えられるよう、できるだけ現時点での作物を購買しておこうと考える。穀物 取引業者は自らの投資戦略を策定するために同じ情報を活用する。さらに、リモートセンシングによる資源探索情報 は資源開発管理の集中化を助け、探索、掘削、採鉱に関する判断に役立つ。 グローバリゼーションに関連する他の要素にインフラストラクチャーと政治の安定性がある。経営者は、商業 活動が受け入れ国の政治的な不安定要因により脅かされる場合、活動を他の地域に移動すれば費用効率が高いと 考える。中央は電話番号と住所のみの変更で済むし、輸送の手配は一万マイル離れた場所でも容易である。道路、 鉄道網、電線、電話網など、より優れたインフラ享受に国を移動することも比較的容易である。 このように、近代輸送システムと可動性資本に相まって、今日の情報技術は分散された生産管理を可能とす る。生産や経営の複雑な職務はより単純なものに分解され、それらの職務は、地域での労働、資源などでの優位性 を生かし、生産と管理単位に組織化される。世界的な経済競争はこのような分散形態を必須としている。 分散活動のマクロ的意味合いは、交易、商業、工業の地理パターンの変化、市場への感応度の増加、そし て重要度を増す多国籍企業などに見られる。地の利の嘱望は、経済活動の地理的パターンの変化を引き起こし、多 国籍企業の増加は、そのような変遷への組織の対応で、グローバルに分散された生産とマーケティング活動はグロ ーバルな経営を要す。 世界的な生産と分配システムを特徴とするグローバルな市場が現れ始めた。製品と部品は異なった国に所 在するたくさんの工場で製造され組み立てられているので、製品がアメリカ製なのか日本製あるいはドイツ製なのか 特定が難しい。 米国を本拠とする多国籍企業(米国外に支店、子会社、合弁会社のある企業)は、米国製造業の付加価値 の70%を生み出す。同様の統計は、日本、西独、スウェーデン、そし英国でも見られる。間もなく(もはやであろうが)、 二・三百の巨大企業が世界中の商品やサービスの半分以上を創出するようになる。そのような企業の生産は世界中 に散らばり、特別な部品が数十の拠点で製造・組み立てられ分散される(レイチ、1983)。 多国籍企業は強力な経済立役者でも、その利益はしばしば設立された国の利益やその関連事業を有する国 の利益とは異なる(カートン、1995年)。米国の経営陣は、米国内の工場を閉鎖し、例えばメキシコでの生産を増加す ることで生産経費の削減と収益増が見込めれば、米国人の解雇を躊躇わない。事業を移した第三世界の国での政 治の安定確保を狙う多国籍企業の行動が、利益の合流の欠如を実証する。多国籍企業の利益が受け入れ国の 人々の利益に反することがしばしばある。多国籍企業は前述のごとく世界的な輸送手段と通信機能により、比較的 容易にその活動を安定性の低い国からより高い国に移すことができる。世界的な生産システムを運営する多国籍企 業の利益は、活動元となる国々の利益と異なる。 多国籍企業は、純粋タイプと国粋タイプに区別される(レイチ、1983年)。純粋タイプは特定の国家に対し忠 誠を尽くさない。経営者、役員、債権者、株主、そして従業員は、多くの国から引っ張りだされる。純粋型多国籍企業 は米国や英国での国際企業から発展したが、今ではどこにでも例がある。国粋タイプは、活動的には純粋型多国籍 企業と似ているが、ひとつの国を中心に据える。それは、母国の繁栄増進を目指し、国民経済の代理人であるかの ように行動する。このタイプは国際的な日系企業や中央ヨーロッパの何社(例えば、ボルボやエアバス社)に顕著に 見られる。 多国籍企業の純粋型と国粋型の区別は、必然として高度に分化した世界的ビジネスタイプの集まりに置き換 わる(大前研一、1990年)。企業が仮想組織の機能利用に熟練するにつれ、ビジネス運営で、地域や国家の権威を 利用もしくは回避する新しい手法を作り出す。仮想組織は業務と活動に適用されるので、典型的な企業は多国籍で あってもなくても仮想性を示す部分と示さない部分がある。従って、多国籍企業は国家内あるいは国家間で行われる ますます捕え難い活動の混合物を表すようになる。 地域・国際貿易協定(例えば世界貿易機構、北米自由傍系協定、欧州共同体の経済条項など)は、グローバ リゼーションの現実を反映し一層の進展を狙う。先進国、開発途上国ともに、開かれた市場での自由な取引が貿易と 産業の成長に必要不可欠で、経済繁栄の基礎であるという信念を持つ。 北米、欧州、アジア等のブロック内での貿易はブロック間のものよりもはるかに大きいが、世界貿易でのブロ ック間の部分は顕著で伸びている。ビジネスのグローバリゼーションの例は今ではごく普通で、経済誌などでは日常 的に報道されている。自動車メーカーのような製造業は世界市場の最古の参加者で、例えばアメリカ車は名前だけア メリカンで、その部品は多くの異なった国々で製造されている。提携関係、合弁事業、そしてクロスオーナー協定で、 さらに透明度が濁り、アメリカからの輸出であってもアメリカ企業で生れたものでないであろう。現在、日本の自動車メ ーカーは、GM、フォード、そしてクライスラー(今では、ドイツのダイムラー・クライスラー)を含むアメリカ企業よりも多く の自動車を、北米から輸出している。 シティグループやユニオンバンク・オブ・スイッツランドのような金融サービス企業も世界市場で古手である。 これらは世界的な製品の開発というより、合併や買収により規模を拡大しグローバルになった組織であるが、金融市 場が国内外を問わず全ての参加者に開かれているため、世界的サービスの提供がますます重要な役割を果たして いる。アメリカ生まれのウォルマート、ホームデポやステイプルのような小売業も、大量購買、顧客サービス、在庫管 理、混合商品揃え、による競争優位を保ちつつ、多くの国での成功店舗を有する。アングロ・ダッチ・ユニレーバーや アメリカベースのワールプールのような日用品企業も世界中に製品を売り出そうとしている。 主権の譲渡 超国家体は国家の誕生以来存在する。二国間や他国間同盟、および様々な国際・地域機関(国際連合、世 界貿易機構、NATO、OECD、EU、OASなど)は、長い間世界の舞台で役割を果たしているし、活動が一国の領域に縛 られない多国籍企業や国際企業も存在する。グローバルビジネスは国民国家内から結束として誕生し、且つそこで の法律に準拠するので、国際連合のような超国家組織ではないが、仮想企業に代表される多国籍企業は、国際域で 行政機能や政治力をまとう超国家組織以上に超国家的である。仮想組織は、国際レベルでも地域レベルでも国民国 家の行政の全ての衣をかぶるかのようである。 社会政治組織の基本変化は段階的にのみ起こり、これらの考察が正しくとも、国民国家がまだ消滅していな いことは驚くに当たらない。国民国家の権力統合は何世紀もかかり完遂するが、世界舞台の上ではいまだにその途 上にある。グローバル企業が国民国家の至上の主権に挑戦していると確信を持って主張できるのは、この但し書き があるからである。商業活動のように政府が効果的に制御できない活動を、世界的な情報インフラストラクチャーがど の程度うまく扱えるかが焦点となる。多国籍企業の内部構造や活動状態、そして経済のセクターシフトに政府による 制御効果の変化を見ることができる。 仮想組織は資本主義の「枢軸となる部分」を決定と活動のすべてに拡張し、特に個人もしくは企業への忠誠 心という主観的概念をそぎとる。グローバル企業の国民国家への挑戦が先頭に立つからであるが、多国籍企業は反 国家的というわけでなく単に企業中心なだけで、必要とあればためらいなくカメレオンのように受け入れ国の国旗を振 る。 グローバル経済での情報の重要度は仮想組織の活動で倍増する。マチラップ(1980)とポラット(1977)は 情報経済の出現に関し系統だった論拠を示した。20世紀初頭、農業は工業に道を譲り、さらに工業はサービス業に 置き換わることになるが、他と決定的に違うことは、情報を経済の支配的な領域として示した点である。第三章で述 べたように、情報は仮想組織の機能変革を助けながら商品に変換されてきた。情報に関連する活動は重要な税収入 源で、経済の主要な要素であるが、情報商品は電子伝達媒体により国境を越えて流通するため、課税が容易でなく 政府にとっては問題となる。 情報技術は経済活動のグローバリゼーションを促すが、容易に国政府の統治下にならない。主権は財源が なければ行使できないからで、これが今日の議論の核心である。主国に対する純粋な忠誠心を欠き、識別できる主国 を持たない世界企業と、事実上課税のできないビジネス活動が、政府に効果的な主権を行使するに必要な財源を継 続的に確保する能力があるのか疑問を投げかけている。 米国憲法の商業条項・一か条・八節は、議会に「他国との商業を規制する」権限を与えているが、ウォーラー ステインの考察のごとく、「国家は、外部諸勢力からの完全自治権を言葉上で主張するが、実際、その主張どおりに 行動できるような効果的な権力を有する国などひとつもない」のである(バーステーカー、1982)。 バーステーカー(1982)は、1960年代後半から1970年代初めにかけて国際関係を学ぶ学生の殆どが、「国 家の実質的な権威が消失した」と信じるようになったと述べ、さらにこの正統説も早晩挑戦を受けることになり、国家 権威の概念はしかるべく初期の栄光を回復することになったと指摘した。彼は、このように主張が変化したことについ て周到に分析し、「国家は国際企業を掌握できるものの、それらの活動の重要な側面はコントロールしきれず、たとえ 関係を絶とうとしても、国家が既存の国際的な分業体制から抜け出すことは不可能であろう」と結論した(バーステー カー、1982、170頁)。 国家と世界企業の関係の間違った見方が主権者と多国籍企業についての見解の変化を生み出している。関 係は決して敵対的でなく、この点は象徴的である。世界的なビジネス企業は究極として国家権威のいくつかを引き継 ぐことになろうが、これは暴力的対峙の結果ではない。今日的な意味でのグローバリゼーションは、仮想組織構築の 結果であり、国家からも奨励され支援された展開である。 主権の実施には財源が必要である。政府に与えられた権威と権力は実践する手段がなければ意味がなく、 例えば政府に法律執行の人材と設備のゆとりがなければ、政府はその主権を行使できない。 現代政治システムへの発展に興味深い皮肉がある。フランスのルイ14世(1643‐1715)の時代は専制君主が 絶対的な主権を主張していた。太陽王たる彼自身がその有名な言葉「朕は国家なり」でこれを簡潔に伝えている。し かし後を継いだルイ15世は、フランス共和国大統領の持つ実質権力の断片すら持ち得なかった。 学校の授業で教わる近世ヨーロッパと米国の政治史は、代議政治の発展を過度に強調し誤解を与える。君 主の大権が弱体化し、議会が形成され、そして憲法政治が誕生することを学ぶが、この光景の外に置かれているこ とは、中世時代以来着実化した中央国家権力の途方もない伸張である。民主化の矛盾は、中央権力が社会階層す べてにわたり、ほぼ等しく手を伸ばしていることである。 18世紀王政の絶対君主制主権が近代民主主義の無制限でない共和権力に取って替わり、実質主権の増長 も伴った。実主権の増長の証は(1)普遍的な徴兵制度、(2)恒常的な平和時の軍隊、(3)効果的な警察力の創設、 (4)国家的インフラストラクチャー(運河、道路、橋など)の構築、という幾つかの今日的発展にみられる。 技術はこれらの変革に少なからず役割を果たしてきた。航海術の進歩は貿易や商業の復興と歩調を共にし、 より専門化された経済の発展を促し国税収入を増加させた。輸送と通信の進歩は軍事活動を拡張させ、より効果的 な警察力をもたらした。蒸気機関、内燃機関エンジン、電力モーターなどの新しい主動力の発明は、工場生産システ ムの急速な拡張を促し、国家の経済基盤の強化を助けた。 技術のもたらす歴史的影響を考察すると、特に情報技術が実質主権に衝撃を与えたことは驚くにあたらない。 新しいことは、技術が実質的な政府主権の「弱体化」に拍車をかけているという点で、技術は与え、奪いもする。 共和国家誕生に伴った実質主権成長の重要な例は戦争遂行能力である。中世の戦争行為は徴兵制度と納 税制度のみに特徴付けられる。「最高権力者を除くすべての自由人は、武装した直属の上級者に仕えるという宣誓に 縛られていた」(ニッカーソン、1945)、しかも自前で。彼らの義務は、地域防衛を除き一年間にわずか40日間だけで、 その時間を越えると上級者は彼らに支払わなければならなかったが、それは法律や時代の慣習に反したことだった。 政府の通常経費は代々にわたる支配者の所有地の借地代や税金で賄わなければならなかった。固定制が 慣行となっていたため、支配者は自由に借地代や税金を増やせなかった。緊急時の課税は、通常、王と家臣との間 のように封建上位者への下位者からの無料供出であった。下位者の意思により拒否もできたので、中世の軍隊の殆 どはどちらかというと小規模であった。 貴族が指揮する封建時代の軍隊は、高度な訓練と規律に欠く様態で限度があり、結局「西欧的な主権国家 は、その乏しい収入を使って、少なくとも賃金が支払われている間は留まっている専門的な技術を身に着けた傭兵を 雇う」ようになった(ニッカーソン、1945)。 14世紀から15世紀に入ってまでも傭兵雇用の慣行がまかり通り、中世における戦争状況は次第に解消され、 より多くの繁栄とより洗練された経済の兆候を見た。15世紀末になるとフランスとトルコ政府は、小規模であるが恒 常的な常備軍を設置した。 近代初期(1500-1648)、軍隊は人口に比べ小規模にとどまった、というのも課税への中世時代からの反感が 残っていたからである。典型的な兵士は、「臨時雇用の凶暴な国際色の傭兵で、社会的にはその悪さにおいて中世後 期の先輩たちに似る」(ニッカーソン、1945)。賃金支払いが不規則なため規律維持は困難で、不安定な雇用のため 指揮官による部隊の掌握力は損なわれ、そして定期的な供給システムの欠如が効率的な軍隊行動を妨げた。 1648年に30年戦争が終結して以来、普遍兵役制度を推し進めようとした革命フランス共和制の1793年の試 みに至るまで、戦争は厳しく抑えられていた。17世紀後半に入り、軍隊は国家の指導者でもある君主に忠誠を尽くす 恒久的な常備軍に変り、18世紀の主要な改革事項には軍服と定期的な兵站補給を含む。 それにも拘らず軍人は比較的少なかった。例えば、ルイ14世は普遍的兵役制度の下で最大動員を図れば、 二百万人召集できたとされているが、彼の軍隊の実際規模は、百五十万人を超えることはなかった。18世紀の政府 は、近代初期や中世より強大であったが、依然として統治民への権威や増税能力に限界があった。 1793年から現在に至る大規模で破壊的な戦争は、政府権威の統治民への広範囲な拡張という特徴を持つ が、これは徴兵による恒久人民軍の成立で、当然の帰結として、ほぼ無制限とも言える課税と市民生活の厳しい統 制を伴う(ニッカーソン、1945)。 人民軍は革命フランスの先駆的成果である。史上初の普遍的徴兵法は、1793年8月フランス革命政権により 成立し、市民奉仕の支配と強制を図った。ナポレオンは1798年に法律を拡張し、後にオーストリアとプロシアはフラン スの人民軍を模倣した。人民軍はナポレオン後も存続し、プロシアはそれに恒久的な平時訓練を加えることで、普遍 的な徴兵制度というフランスの革新的なアイデアをさらに押し進めることになる。南北戦争は普遍徴兵制度の考えを 米国にも持ち込んだ。 19世紀の終わりにかけて、欧州大陸の各国および日本は、プロシアのレベルに引き上げるべく人民軍の組織 化を急いだ。20世紀の戦争の歴史は、国家権力の前例のない傲慢さ、すなわち社会の全資源をまとめて徴用できる 力を露呈した。 このように、主権の行使は、耳障りであるが、強制に必要な資力の裏づけがなければ、単なるポーズに過ぎ ないということを歴史はあますことなく示す。現在の進展は中央政府の運命を変えつつあるように見える。ビジネスの グローバリゼーションは国民国家の歳入能力を制限し、国家権力をいわゆる過去の絶対君主の位置にまで引き戻し てしまう。 仮想組織が非常にうまく帳尻を合わせる。最適戦略のゴールを定義する目的関数に組み込まれない全ての 制約は消滅する。実質主権の低迷に関する議論の焦点は、個人、地域、国家を含むどのような対象であろうと主観 的な忠誠心が管理プロセスから除外されることで、プロセスの構造自体がそうなのである。つまり、意思決定過程か ら主観的な要素が「構造的に除外」されている。 当然のことながら、まだいかなる多国籍企業も完全に仮想化していない。分析によると、企業や昨今のインタ ーネット企業は最もさかんに例示される組織のモデルや理想タイプで、そのような組織の行動を説明し、それら組織 変革の予想に役立つ。 例えば、米国を本拠とするいくつかの多国籍企業は、より好条件な第三世界の労働市場活用のため、生産 工場を海外に移転している。それら企業は、受入国で彼らに政治的安定をもたらす人気のない政権を支援する。仮 想経営活動はこのような例に見られる。古き良き時代の愛国心など国家への忠誠は、本国での仕事を確保するため の主張であり、米国民主主義の精神に身を託すことは抑圧的な政権を支持しないという言い逃れである。しかしこれ らは主観的な(表現の好みにより個人的、観念的な)問題であり、仮想組織にとって何ら意味を持たない。工場移動場 所を選定する割り当て機能は、その移動が人間コミュニティに与える衝撃の配慮などに左右されず、コンピューター のオペレーティングシステムが主記憶からディスクに情報の転送を選択するようなものである。 グローバル企業は仮想経営により世界市場での競争力を保持できるという議論がある。労働力、工場と設備、 政治的リスク等、全てビジネス上のコストであり、そのようなコストを削減することで、企業は価格を引き下げ、市場シ ェアを拡大し、財務内容の改善を望める。さらに、よりよいビジネス成果が当該企業の母国の繁栄に結びつくという意 見もある。 最後の仮定は希望的思惑に過ぎず、四半世紀前、バーネットとミューラー(1974)は、多国籍企業がその収入 を税吏の手の届かないところに置く方法について著したことがある。彼らの結論は、 「米国企業のグローバリゼーションは、政府がその多種多様な活動に着いてゆくことを難しくしているだけでなく、 役人の認識を遅らせる働きもしている。規制当局には、適切に企業を取り締まる予算と人材が不足しているのみなら ず、多分もっと重要であろうが、自分たちの問題の本質を理解する時間と視点が欠如している。今世界経済に起きて いる変化が真に組織全体にわたっているという事実さえ把握できていない」(バーネットとミューラー、262‐263頁)。 バーネットとミューラー以降に起きた事象は彼らの結論を裏付けるのみである。国際条約、世界貿易を促進 する国家政策、国家の規制よりも条約上の責任を優先させる判決などは、世界経済の組織変化をさらに先に進める ものである。 これらの変化は経済と政治機構の基本的な再統合を意味する。仮想組織のモデルは多国籍企業が政府に とっては仲間でも敵でもないことを暗示する。時には、シティグループ、マイクロソフト、GE、IBM、GMなどのような企業 の利害が連邦政府のそれと合致することもあり、またそうでない時もある。要は、多国籍企業は仮想経営の活用で独 自の方向を追及できるし、またそうしているのであり、政府がその事実を変えるには力不足であるばかりか、反対に手 ひどいしっぺ返しを受ける。さらに、グローバル企業は政府の敵ではなく、今後も敵と見られていないため、成功する チャンスがあるにも拘らず、規制政策の抜本的再構築に乗り出す気構えもない。 多国籍企業は次々と収入を政府の手の届かない所に置いているため、実質的な国家権力が低下し始めてい る。この状況が一般に認識されるまでには多くの年数がかかる。米国では国内変化については真っ先に発言される が、米国軍の国際情勢における存在からそれらは覆い隠される。かつては冒険家たちが主権国家を代表し新しい領 土を拡張してきたが、今では主権国家が多国籍冒険家の軍事的な道具になりつつある。米国を本拠とする多国籍企 業の利害を守るのに必要な軍事力維持の資金はこれからも十分に用意されているようであるが、独立した外交政策 を遂行するには十分ではない。国内計画への支出は釣り合って減少していく。公的機能の民営化は、国内・社会プロ グラムへの政府支出の長期的な縮小の黎明を示す。 要約 公務を民間に委譲する政府の行動と、母国から距離を置こうとするビジネスの動きは、共に勢いがついてお り、最終的には、何が公共で何が民間なのかその定義を見直すことになろう。全ての政府機能は混乱状態で、ビジネ スは最終的な利益以外に忠誠を示さない。今日の国民国家は、最高権力者として奉仕し市民の情況を定義する上で 古代ギリシャのポリス(都市国家)と競い合ってきたものだが、今や絶滅に瀕している。
© Copyright 2024 Paperzz