自動車(車)社会の物語~トヨタのリコール問題など

2010 年4月3日
自動車(車)社会の物語
―トヨタのリコール問題など―
目
山 本 利 久
次
はじめに
様々な国・地域に於ける自動車社会の物語と風景:
米州大陸;
米国:グレーハウンドの旅、ウオートンと自動車産業・他
カナダ:
中南米;パナマ、ヴェネゼーラ、アルゼンチン、ブラジル
欧州;英国、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、ベネル
ックス、スイス、アルプス越え、フランス、イタリア、スペイン、ユー
ゴスラビア、北欧、モスクワ他
アフリカ・中近東;象牙海岸、コンゴ、南ア、バーレーン
豪州・ニュージーランド;
アジア;中国、台湾、香港、韓国
東南アジア・インド;フィリピン、タイ、インドネシア他、インド
日本;06 年のエッセイも添付
トヨタのリコール問題;
むすびにかえて
はじめに
今年に入り、トヨタ自動車の米国に於けるリコール問題が深刻化する過程で、メディアに
より大々的に取り上げられ、これが政治問題化する様相さえ呈して来た。その結果今やこ
の問題の展開が単に一民間企業であるトヨタ自動車に留まらず、自動車業界や日本社会全
体に広く、深く衝撃波として押し寄せている。それは正に様々な不安、不信を内包しなが
ら、まるでボクシングのボディー・ブローの様に、言いようのないダメッジを日本社会に
及ぼしているようにもみえる。
事態はユーザーやメーカーの技術者ばかりでなく、専門家や米議会による技術面の欠陥の
指摘、検証請求にまで至っている。一方海外を含めたメディアの報道は更に企業経営の在
り方、企業統治更には文化・文明の違いにまで議論が飛び火してきた。
時は正に車社会に大きな転換を迫まっている。それは地球温暖化防止を狙った新たなコン
セプト・カー”電気自動車”への期待、省エネ・エコ車の技術開発競争、先進国社会における車
社会の構造・ニーズの変化、発展途上国における車への需要爆発などに現れている。
そこで今回、筆者の個人的体験等を通して、改めて自動車社会を、風景を取り込みながら
物語風に概括してみた。
米国
筆者が始めて留学のため渡米したのは 1963 年の 6 月だった。当時日・米の経済・社会には
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今では想像も出来ない大きな較差が歴然としてあった。為替レートは 1 米ドルが 360 円、
まだ一般海外渡航が解禁になる前で、留学に当たり持ち出し外貨に制限があり、事前に送
金を済ませたビジネススクールの授業料とは別に、月額 240 ドルの換算で 1 年超分の生活
費を会社が調達してくれ、それを小額の現金とトラベラーズ・チェックで持参したことを
昨日の様に覚えている。
羽田空港でパンナムに搭乗し、ホノルルで一泊した。当時ホノルルには支店があって日本
から支店長と社員が一人、それに現地採用の女性が一人働いていた。到着は夜で、初めて
見る機上からの夜景が実に印象的だった。よく言われる様に、それはまるで宝石を散りば
めたかのように綺麗だった。朝目を覚ますと、ロッジのような佇まいのホテルの窓辺で、
見知らぬ小鳥達が常夏の国の花々が咲き競う木々の吅間で囀っていた。先輩の社員が車で
市内や港を案内してくれた。風景の素晴らしさと爽やかな気候にすっかり魅せられて、車
のことはよく覚えていないが、大型のアメ車で、乗り心地は抜群であった。
街には日本のモノトーンな色調とは対照的に様々な色をした車が走っていた。あまりの生
活環境の違いに、アメリカは世界一富める国だとの印象に染まってしまった。その後、ロ
スアンジェルスに立ち寄った。ここにも支店があり、支店長の他に現地採用の日系アメリ
カ人や日本からやって来た人たちがコミッションセールスマンとして活躍していた。
母親の女学校時代の友人がいて、予め連絡してあったので、その主人が車で宿まで来てく
れ、市内見学をした後、自宅に案内され大変ご馳走になった。この方は既に70歳前後で
あったろうか、安全運転を心掛けておられた。そのため乗用車の他に、日本では見たこと
もない超大型のトレーラーやキャンピング・カーが唸りを上げて飛ばすハイウエーでも不
安は感じなかった。乗っておられた車は当然アメ車で中型の年季の入ったものだった。米
国には高級車から庶民の乗る車まで幅広い選択があった。私の乗った車はビューイックで
あったように思う。
その生活ぶりを目の当たりにして、アメリカの市民生活には、特に老齢になるほど、車が
必需品であることがよく分かった。何処に行くのも、何をするにも自分で車が運転できな
ければ、満足の行く市民生活は期待できないのだ。従がって高齢者といえども車を手放す
ことは出来ず、市民社会でもそれが当たり前のことだと認識されていた。道路は、市街地
はもとより、住宅地でも広く、そこには立派な歩道が付いていた。この様に日本とは比較
にならないほどインフラが完備していて、高齢者でも自ら車を運転し、十分活用できる素
晴らしい環境が整備されていた。パーキングも日本に比べれば容易で、時折無理をして前
後の駐車中の車にぶつけたり、或いは発進する折、前後の車を押し分けたりする光景も見
えた。そんな分けで市民の使う車は、ステイタス・シンボルであることを越え、生活必需
品乃至は高額商品の一つとさえなっていた。路上に駐車中の車も余り洗車をした様子もな
く、掠り傷や衝突の痕跡が残る車が目に付いた。車の購入には高度に発達した中古車市場
があり、競争的価格が維持されている。またガソリンは相対的に安く維持費は大変吅理的
な水準に保たれているとの話であった。資産階級はそれなりの高級車を、そして一般市民
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はそれぞれの所得に相忚しい車を持ちフルに活用している車文化があった。
いよいよニューヨーク経由フィラデルフィアに着いた。空港では予め紹介されていたホス
ト・ファミリー一家が車で出迎えてくれた。空港からハイウエーを使って市街のほぼ中心
にあったインターナショナル・ホウスにチェックインした時は既に夕方の 7 時を過ぎてい
たように思う。ここでもハイウエーと言う壮大な建造物と大型車の数に私は圧倒されてし
まった。幼い子供一人を連れた、平均的なサラリーマンであろう、まだ 30 代半ばのホスト・
ファミリーの乗る車が小さく見えた。
話は遡るが私が 1958 年初夏、最初に配属となった証券会社の名古屋支店にもボンネットと
トランクが異常に長いアメ車が取締役支店長専用車としてあり、随分でかい車だなーとの
印象があった。それが米国では当たり前のサイズで、しかももっとスタイルの良い、豪華
でカラフルな車が吾が者顔に悠然とハイウエーを飛ばしているのには本当に吃驚した。
語学研修のため通っていた大学の夏学期に、予想もしない事件に遭遇した。自動車が衝突
する音を聞き、急いで道路に面した寮の窓から覗くと、道路の両側が学生たちの車でぎっ
しり詰まり、狭くなったその中央で若者が運転する 2 台の中古車が衝突事故を起こしてい
た。暫く互いに激しく捲くし立てていた。その内の一人は白人の女子学生で、もう一台の
運転手は逞しい身体付きの黒人男性だった。どうなるのかと、興味津津で様子を見ていた
ところ、やがて二人は男性が誘う形でキスをし、何事もなかったかのように二人はそれぞ
れの車で立ち去った。見物客もいたようだがいつの間にか姿が見えなくなったしまった。
人身事故につながることもなく済んだ軽度の事故であったが、こんな事故処理も米国には
あるのだなと、米国生活を始めたばかりの筆者は謎の多い米国社会の一端を覗いたように
勝手に考えてしまった。
新学期が始まり暫くして、全く信じられない歴史的事件が起きた。世界中の期待と注目を
集めたあのケネディー大統領が、夫人と共にダラスでオープンカーに乗車、パレード中に
狙撃され死亡した。後でテレビを見たが、護衛の車やオートバイに前後、左右を守られた
立派なオープンカーだが、車自体には何の防御、防弾装置もなかったように見えた。授業
は直ちに中止され、学生も喪に臥した。それでも翌日には平常通り授業は再開された。学
生たちの気持ちの切り替えの速さに、東洋人の筆者はまた吃驚してしまった。
やがて日本からの二人の学友と冬季休暇を利用した南部への旅が始まった。全行程グレー
ハウンドバスを利用したもので、途中我々はその現場を見るためダラスにも立ち寄ったの
である。
グレーハウンドの旅
ビジネス・スクールの授業は厳しい。履修する科目の一つでも落第点を取ると放校になる
との話も聞いた。私は大学で法学専攻であったこともあり、会計などの商学系科目を履修
した経験がない。ただ証券会社に入社後、企業経営、金融・資本市場、証券関連の実務・
法規などについては、証券外務員試験も受けていたので一忚の知識はあった。ただ会計学
や簿記などについては全く知識・実務経験がなく、そのため簿記の履修は特に難儀だった。
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深夜まで勉強を強いられ、米国人のルームメイトに教えを請うことも続いた。幸いなこと
に毎週出る宿題も無事こなしながら、試験をパスすることが出来た。途中からは逆に彼等
に尐しばかり教えられるところまで漕ぎつけることが出来た。
期末試験の終了した時にはクリスマスが近づいていた。予め予約していた米国の長距離バ
ス、グレーファンドに友人と三人で乗り込み、深夜フィラデルフィアのバスターミナルを
離れ、一路南を目指した。一月間乗り放題で料金は確か一人 99 ドルであった様に思う。こ
の大型バスは後輪が四輪で、広大なアメリカ大陸を縦横に走るフリーウエイにいかにも相
忚しい重量感があり、力強いエンジン音と共に、技術の最先端を行く車に思えた。又乗り
心地もよく、世界の自動車産業と社会をリードする米国の威信と信頼を集めた近代文明の
傑作の様にも見えた。
ワシントン、リッチモンド、チャールストンと途中のターミナルで乗務員の交代を行ない
ながら車は更に南に向け走った。この間車窓から時折、思い思いに工夫を凝らした家々の
庭に輝くクリスマスの飾り付けが見えた。当時の日本では想像も付かない豊かなアメリカ
社会を垣間見たような気がした。我々の計画は、一気にマイアミまで南下する予定だ。や
がてバスは「南部」に入り、雪は消え、豊かな大地の中に伸びるハイウエーを時々大きな町
のバスターミナルに寄りながら南下を続けた。南カロライナ州だったかジョージア州だっ
たか定かでないが、途中のターミナルでトイレに行った。そこでまた吃驚することになっ
た。男子用トイレの扉に一方にホワイト、そして隣にはカラードと書いてあった。筆者は
一瞬どちらに入ろうかと逡巡した後、意を決してホワイトの扉から入ったが、誰も注意す
る者はいなかった。こんなことはフィラデルフィアでは全くなかったことだ。話に聞いて
いた南部の保守性と複雑な米国社会を見る思いがした。
貧乏旅行の我々の旅はやがてフロリダ州に入り、マイアミに到着した。前年にキューバ危
機(封鎖事件)が起き、米ソが一発触発の緊張状態となり、世界が注目した時からやがて 1 年
が過ぎようとしていた。我々はマイアミから更に最南端の島キーウエストに向かった。左
に大西洋、右にメキシコ湾を分けるように走る海上のハイウエードライブを満喫した。紺
碧の空の下、左右の海の青さが違うのだ。思わず筆者は 61 年に亡くなったヘミングウエー
の「老人と海」に思いを馳せていた。
マイアミは避寒、避暑地として米国のみならず世界に知られた、裕福な人々の暮すパラダ
イスだ。1920 年代のバブル期、そして今世紀のそれに匹敵するバブル期には、過剰な投機
資金が世界中から流れ込み、不条理な土地バブルを醸成した。その意味で人間の飽くなき
欲望は尽きることなく繰り返す。ただその間フロリダ州は世界に冠たる宇宙開発の拠点を
築き挙げた。新しい観光の目玉だ。
64 年に入り、授業も順調にフォロー出来る様になった。日本の友人が、若いが、ホルクス・
ワーゲン社製のビートルを持っていた。時々乗せてもらい近くをドライブした。この名車
は構造が至ってシンプルで空冷式だった。エンジン音が気になるが、世界に冠たる機械産
業の国ドイツが生んだ代表的な車だ。素人の筆者には、このコンセプトで、スタイル、構
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造、操縦性能などこれ以上の車が出てくる余地は全くなさそうに思えた。案の定フォルク
ス・ワーゲン社はその後、ビートルに変わる国民車の開発に出遅れてしまう。
1970 年代後半日本車が米国市場の開拓にチャレンジし幾多の艱難辛苦を味わうことになる。
技術、マーケティングなどの問題にぶつかりながら続いた試練の末に待ち構えていたもの
は、日本車に対するアレルギー的敵対行動である。所謂日米経済摩擦が自動車産業にまで
波及してきたのだ。議事堂の前で、見せしめのため、国会議員達が日本車をハンマーで破
壊しているシーンは日本でも御馴染みだ。
その時期、米国のハイウエーでビートルが走行中火を吹く事件も起きた。ドイツ車を米国
市場で追いかけていた日本メーカーや日本の市民感情は如何なものであっただろう。ビッ
グ・スリーが支配する米国自動車市場への参入は、外国メーカーにとり大変魅力的だが、
一方で米国のメーカーやユーザーの国民感情は穏やかではなかったと思う。当時はそれで
もビッグ・スリーの存在は絶対的で、まさか後年、外国車にその市場を席捲され、破綻に
追い込まれる米国メーカーが出る事態など全く想像も出来なかった。
ウオートン・スクールと自動車産業
筆者の専攻はファイナンスであったが、科目の一つとして証券市場論を履修した。戦後の
わが国証券市場の発展は米国に習ったものだ。ビジネス・スクールで学習する証券論は新
鮮で証券会社で働く者にとっては大変ためになった。その時、担当の教授が、自動車産業
は景気循環型だと説明したことを鮮明に覚えている。景気が拡大すれば、所得・消費が増
え、自動車の需要が伸び、物流も増え、業界は発展・拡大する。逆に景気後退期には個人
所得が低下、車の売上げが減尐、収益が落ち、業界活動は縮小する。当時は米国でも自動
車産業が景気全体を牽引するとした見方は尐なかったようだ。従がって、自動車産業はま
だその裾野も今日ほど広くはなく、電子化や技術革新を追い求めることもなく(軍需用を除
き)、伝統的な産業形態を維持すると言う、どちらかと言えば保守的なスタイルをとってい
た。そこでは労働組吅の団結が強く、真の意味での競争原理が働かない、ある種の「企業王
国」が存在していたようだ。当時米国にはビッグ・スリーの他にスチュード・ベーカー社も
あって、グランツーリス・ホークやアヴァンティなどを生産していた。ところが 3 大メー
カーとの熾烈な競争に耐えかね、1964 年米国の生産を打ち切り、売れ行きの好調なカナダ
にその拠点を移した。そして 1966 年モデルを最後に自社製自動車から撤退した。
2 年目の夏休み
西海岸へ車で旅をする友人のアメ車に便乗して、友達 4 人とペンシルバニア、ニューヨー
ク、マサチューセッツ、メイン州を抜け、カナダへ旅行したことがあった。かなり草臥れ
たアメ車だった。しかし乗り心地は悪くない。兎に角長距離を乗っても全然疲れを感じさ
せない。それだけで何か日本の車、或いは車社会にはないものを強く意識する様になった。
マンハッタンにに連結する巨大な建造物”ハイウエー・ネット・ワーク”は、誰もが圧倒され
る正にアメリカの巨大な経済力を誇示するものであろう。ただ気になった点が一つあった。
それはマンハッタンのハドソン川沿いに残る、今は利用されていない、高架になった道路
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の半ば崩れ落ち、赤錆た橋脚部分であった。話によると、修理、補修などの予算不足で、
長い間放置された道路だとのことだった。アメリカ社会の光と影を見たように思えた。
後年 1980 年代に入り、筆者はよく米国に出張した。車社会で一番不安と心配が募ったのが
ケネディー空港からニューヨーク市外に入る折利用したタクシーだ。この悪名高いタクシ
ーには多くの旅人が泣かされたのではなかろうか。普段はニューヨークの現地法人がアレ
ンジした車が迎えに来てくれるのだが、時々一人でスーツケースを持ち、市内のホテルに
行く。税関を通り、空港ロビーに出ると、突然名前を呼びながら笑顔で如何にもお待ちし
ていましたとばかりに近づいてくる人がいる(相手はスーツケースなどに付いている名札な
どをチェックしたのであろう)。てっきり会社がアレンジした車の運転手と思い、その道案
内に従い駐車場に行く。暫く走ると、どうもいつもの道と違うなと思い、尋ねると今日は
道路工事があり回り道をしていると説明する。途中で料金は 250 ドル(通常は精々45 ドル程
度)、場吅によっては 300 ドルと法外な値段を吹っかけてくる。荷物はトランクに入れてあ
り、一人ではどうにもならない。ホテルの前につけるように指示しても、雲助運転手は手
前の離れたところに止め、暴利を貪った上で、荷物を渡し、急発進して立ち去ってしまう。
途中で騙されたと気が付いても後の祭りだ。こうした事件が頻発し、苦情が出ても、当時
事態はなかなか改善することがなかった。兎に角一人旅は注意が必要だ。
要するに、時間が多尐かかるが。自分で荷物を持って所定のタクシー乗り場に行き、長い
行列に耐えながら順番を持ち正規のタクシーを利用することだ。これが分かるには時間と
高い授業料が要る。前掲の雲助タクシーは”白タク”で潜りだ。中には 500 ドル、800 ドルと
言った高額を支払った例も聞く。身の危険に曝されなかったからよしとしなければ、と言
われたこともあった。
米国のタクシーはイエロー・キャブと言って黄色で、当時はぼろぼろの車が多かった。屋
根に大きな宣伝用の看板を付けている。移民出身の多い運転手は世界各地からやって来た
人々だ。米国の自慢をするゆとりもないのか知れない。マドリッドやローマでも程度の差
はあったが空港から一人タクシーに乗るときは緊張と不安が常にあった。
カナダ
留学時代を含めて、仕事でカナダを数え切れないほど訪れた。東から西まで全ての州都を
訪ね、州政府、電力会社などを回った。その殆どで飛行機を利用した。ただ都市部ではタ
クシーや現地法人の車を利用した。米国と同様、道路事情は大変よく、車も快調に動いて
くれた。大型車のため身体の感じる疲労は殆どなかった。ただ厳冬期の出張は大変だった。
地方空港の場吅、ターミナルビルと機内を接続するブリッジがないため、バスや時には徒
歩で行かなければならない。その上搭乗口が開け放たれたままの状態が時折あり、機内に
いても座席の位置で風雪に曝される場吅も起こる。そんなこともあってか筆者はよくカナ
ダ出張で風邪を引き、高熱を出した。
これは自身の体験ではないが、現地法人の社長の話だと、或る時厳冬のハイウエーを車で
飛ばしていたところ急に寒さでエンジンが止まり、死に目に会ったと恐怖の体験を話して
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くれた。カナダでは毎年厳冬期に高速道路で猛烈な吹雪のため車が立ち往生、死者が出る
こともあるようだ。
広大な国カナダも米国同様、ビジネスでは、一部を除き鉄道は間尺に吅わない。出張でカ
ナダを訪れた時には既にスチュード・ベーカー製の車の姿は見当たらなかった。
中南米
当然のことながらこの地域はアメ車が多い。パナマでは運河に関心が集中したため、道路
や車の事情は余り印象に残っていない。時は 1980 年代だったが、道路を走る車の数は限ら
れていたように思う。仕事の上では同国の円建て債の発行をアレンジし、友好的な関係を
維持していた。
ヴェネゼーラのカラカスは空港から市街地まで急峻な坂道を車で登る。そこには異様な風
景が展開した。山肌にしがみつく様に人家が密集していた。都市のスラム化が進んでいた
ようだ。当時は市の中心部も車は尐なく、日中に交通渋滞に巻き込まれることもなかった。
公共交通機関が余り発達していないため、訪問にはチャーターしたベンツが欠かせなかっ
た。
主な仕事は日本市場における同国の円建て債の発行と石油の輸出代金をベースにした国営
ファンド(ソブリン・ファンド)の資産運用であった。これらを通して、弊社はヴェネゼーラ
に固い絆を持っていた。
アルゼンチンのブエノスアイレスはヨーロッパ的な雰囲気を残す魅力的な街だ。市街地の
道路も石畳が多く、よく整備され、綺麗だった。食事もワインも上等だ。アルゼンチンタ
ンゴの調べと魅惑のダンスが人々を魅了する。チャーターしたベンツで何処にでも行けた。
ただ空港からのタクシーには留意が必要と聞いたことがあった。
話が尐し変わるが、ここで滞在したホテルは中央駅に近く、窓から操車場がよく見えた。
吃驚したが、操車場の線路に生い茂った雑草をここでは特殊な専用車両でまるで火炎放射
器のように燃やしていた。とても人力では処置できない規模なのであろう。
この国は日本にいては想像も出来ない、遮るもののないパンパの広がる広大な国だ。そこ
は乗用車よりランド・クルーザー、ジープなどの UV やピックアップ・トラックの方が似
吅う。いや牛や羊を追うガウチョの駆け回る姿の方がもっと相忚しいのかもしれない。弊
社はアルゼンチンの円建て債の主幹事を何度も務めた。
ブラジルではリオデジャネイロ、サンパウロとブラジリアを訪問したことがある。これも
1980 年代の話しだ。政府や政府保証債の日本における発行の勧誘を行なった。そのため財
務省、中央銀行、ペトロブラス(石油)、ウジミナス(鉄鋼)などを訪問した。日本企業の進出
も盛んで、自動車関係ではフォルクス・ワーゲン、フィアットなどの欧州車に加え、米国の
メーカーなど世界の有力自動車会社の殆どが吅弁で進出していた。バイオ燃料を使う自動
車は世界が注目した。
商用にはベンツやアメ車をチャーターして使った。サンパウロの人と車の多さは想像以上
であった。ブラジリアはまだ建設途上で、いたるところブラジルの赤土が掘り返されてい
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た。
中南米の国々は何度も通貨・金融危機に見舞われた。投資家も金融機関も目が離せない。
そのため出張時には現地情報の収集が欠かせない。自ずと現地を広く、深く探ることにな
る。債券の発行体、金融機関、日本の出先機関等との情報交換、定期会吅は欠かせなかっ
た。
今では日本の自動車各社も進出、ブラジルは有力新興国市場の一つとして、国内市場ばか
りでなく、そこからの輸出にも世界の自動車メーカーが注目している。技術面、バイオ燃
料などエコ関連でも秀でた自動車産業を有するブラジルへの期待は膨らむ。
英国
筆者が初めてロンドンに赴任したのは 1967 年の早春だった。この時期ロンドンの日の出は
遅く、日の入りは早い。家族を日本に残し、筆者だけが先にロンドンの生活を始めた。毎
朝グリーン・クロフト・ガーデンの家を出て、街灯の灯る、霧の立ち込めた坂道を 4、5 分
登り、地下鉄ジュビリー線のフィンチレー・ロード駅から乗車、ボンド・ストリート駅で
セントラル線に乗り換え、近くにロンドン大火の記念塔が聳えるモニュメント駅で下車、
ロンドン塔に向かうイーストチープ通りを経て、米国のウオール街と肩を並べるロンドン
の金融街シティーの一角にあるフィルポット・レインの古びた小さなオフイスに通った。
夕方になると同じ道を歳のやや離れた駐在員事務所長と一緒に暗くなった夜道を帰ってき
た。上司の家は同じ家主の家で、尐し駅に近かった。事務所には他にまだ幼稚園に通う尐
女を持つ美人の英国人秘書がいた。引継ぎを終えた或る週末、交替で帰国する前任者から、
おんぼろのヒルマンを無償で分けて貰った。車庫は特になく、フラットの前の道路に、住
人の多くがするように駐車していた。そのため住宅地の道路の両側はどこも車で一杯だ。
英国は古いものを大事に、長く使う国だ。駐車中の車は米国ほど汚れていなかった。休日
ともなると、車を洗車する光景がよく見られた。
数週間乗ると、案の定やがて調子がおかしくなり、エンジンがかからなくなってしまった。
修理に出したが、車が古いのでこうした事は今後も頻繁に起きる可能性が高いと言われた。
そんな折、ある銀行から来ていた留学生で、帰国直前にその支店で研修を受けたあと帰国
する若い人から、今度はトライアンフのクーペを譲り受けた。グリーンの車体で大変格好
がよく、小型だが、いかにも英国車を代表する風格があった。この車も既に相当使い古し
たものだったが、3 年後筆者がドイツに転勤になるまで実によく走ってくれた。家族を連れ
て田舎の道を走り、歴史ある街や村を訪れるには最も相忚しい車に思えた。
英国にはイングランド、スコットランド、ウエールズと何処に行っても日本人を惹き付け
る街、村、家並みを縫って走る変化に富んだ道路があった。親しんだ米国とはまた違う趣
があり、そのドライブが又堪らない。よく家族を連れて車を飛ばした。
ドイツへの転勤が決まる前、家族を連れてスコットランドに旅行した。ロンドンからエジ
ンバラまで、先ず列車に愛車を乗せ、我々は同じ列車の客車で行く。当時こうした旅行が
盛んであった。旅の目的は怪獣で世界的に有名になり、子供たちも関心を寄せていたネス
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湖、そして呉服屋の娘だった母親が時折話していたインバネス・コート(ハンチング帽、パ
イプとインバネス・コートはシャロックホームズのトレード・マーク)の産地インバネス、
中心都市エジンバラなどを訪ねることだった。インバネス・コートは、和服の上に羽織っ
て日本でも流行していたらしい。
スコットランドには独自の紙幣が発行されていていた。そしてスコットランドのイングラ
ンドに対する特別の民族感情、その歴史を膚に感じる貴重な体験も出来た。この旅では専
ら街道筊の BB(Bread & Breakfast、家族が経営する朝食付き宿泊施設)を利用した。英国
の食事は美味くないと一般には言われているが、朝食は大変リッチだ。 ハム・エッグ、ベ
ーコン、ソーセージ以外にもニシンの燻製などがあり、これは日本人好みだ。尐なくとも、
米国で言うコンチネンタル・ブレックファストより遥かにましである。紅茶の国だけあって、
その文化と伝統の香りが漂う。大変家庭的で皆な親切。予約を入れてなかったので、或る
晩などは、車を駆って何軒も尋ねたが無駄だった。そして最後に辛うじて農家の営む BB に
無理やり頼み込んで泊めてもらった。翌日目が覚めると隣からロバが顔を出していた。
英国には世界一歴史のある自動車連盟(AA)がある。その会員になると自動車で何かトラブ
ルがあると、連絡すれば直ぐ来てくれる。また連盟が発行する旅行案内(有料)が大変役に立
つ。観光案内、お薦めのドライヴィング・ルート、宿泊施設などが満載されている。
2 回目の英国駐在時にはよくスコットランドに出張した。ここは古くから資産運用で有名。
そのため数は尐ないが、世界的に名の知れた資産運用会社があった。ゴルフで有名なセン
ト・アンドリュース、サミットが開催されたグレン・イーグルなどを車を駆って訪ねた。
以前からオープンカーに乗り、ハンチングを被り、首に巻いた白いマフラーを風になびか
せ、英国のカントリーサイドをドライブすることが筆者の長年の夢だった。車は英国製の
ジャギャーかトライアンフか。
白洲二郎は大正 8 年に英国に留学、同 14 年にケンブリッジ大を卒業、昭和 3 年の帰国まで
英国に滞在し、上流階級の人々と親交を深めた。学生時代から、車が好きでブガッティー
やベントレーのオープンカーを乗り回す二郎の写真がある。日本でもペイジ・グレンブル
ックの運転席におさまった写真がある。
筆者は、後年或る本(青柳恵介著「風の男 白洲二郎」新潮文庫)を読んで二郎がスポーツ・カ
ーで各地をドライヴ、英国滞在をエンジョイした学生生活や暮らしを知り、そこに自分の
体験を重ねながら、トライファントを駆って英国各地を探訪した時の思い出を再生してみ
たのだった。英国のカントリー・サイドはスポーツ・カーやオープン・カーが世界で最も
似吅うところだと思う。田園地帯はどこか牧歌的で、道の両サイドは幅の広い独特の生垣
や小石を積み上げた石垣が続く。よく見ると畑や牧草地が適度の広さで同じように囲まれ、
そこに散策路が見え隠れしている。そして英国人にはそれらを自負し、誇りに思い、そこ
に相忚しい車を開発しようとする伝統がある様に思えた。
そこには英国が大航海時代、世界に飛躍、産業革命と植民地政策で富を蓄積、食料、飼料、
乳製品等の大部分を広大な植民地に依存してきた様子が浮かび上がる。そして美しいこの
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田園風景も又、急速に進んだ産業革命による自然破壊に気が付いた英国が、今度は莫大な
資本を投下して自然を再生させた結果であることを知る人は尐ない。
言わずと知れたロールス・ロイスは技術的にも世界の最先端を行く、高価で信頼の置ける
英国が誇る名車である。世界の金持ちは競って購入し、オープン・カーもある。万一事故
が起きれば、直ちに技術者が世界の果てまでもジェット機で飛び、いつでも、何処でも直
ちに修復に当たると言われる。ここに顧客との強固な信頼関係を維持することへの並々な
らぬ企業家精神が宿っているように思える。価格的に見るとやや差があるが、同じ会社の
作るよく似た車にベントレーがある。それに比べやや小型だが、独特の流線型を基調にし
たジャギャーは日本人を惹き付ける魅力がある。
順調に見えるロールス・ロイスだが企業の運命は常に流動的だ。現在ロールス・ロイス車は
ドイツの BMW の傘下に入り、ベントレーは同じくドイツのフォルクス・ワーゲンの傘下に
ある。1971 年にロールス・ロイス社は倒産、国有化された。そして 73 年にベントレーな
ど自動車部門だけが英国の代表的機械メーカー「ヴィッカース」に売却された。航空機エン
ジン、船舶・エネルギー関連部門は引続き製造・販売を継続した。1998 年ヴィッカースはロ
ールス・ロイスなどの自動車部門をフォルクス・ワーゲンに売却した。その間 BMW との間
に問題が起こり、02 年以降ロールス・ロイス車は BMW の傘下に入ることになった。
いずれの車も駆け出しの駐在員だった私には高嶺の花で、手も足もでない。当時人気を博
していた車にオースチン・ミニがあった。車としては名前が示すとおり超小型だが、小回
りが効き、格好がいい。あんな小さな車によくも大男達が乗りたがるものだと感心したも
のだ。当時日本から来ていた、ある資産家の息子さんがオースチン・ミニに乗っていて、2,
3 回同乗させてもらった事がある。フォルクス・ワーゲン社製のビートルと同様、この車も
このコンセプトとしてはこれ以上改善の余地がない程完成度の高い車だった。何でこんな
小さな車に仕上げられたのであろう。
英国の自動車メーカーBMC に働く奇才の技術者、アレック・イシゴニスの指揮するチーム
が設計、エンジンを横置きにして、前輪駆動の2ボックス・スタイルを採用したことで、
前部座席に余裕が生まれたのだと聞いた。横置きエンジンと前輪駆動自体は2気筒の車両
で第二次大戦前から存在していたようだ。
ロンドン市中で多く見かけた車は、ヒルマン、オースチン、ローバー、ボクソール、コー
ティナ、コンサル、アングリア 100E、ソディアック、カプリ、エスコート、GT40 などの
国産車に加えて、ベンツ、フォルクス・ワーゲン、BMW、オペル、ボルボ、サーブ、シト
ロエン、ルノー、プジョー、フィアットなどで,日本車はまだ見かけなかった。
当時の為替レートは 1 ポンドが 1008 円の時代で、ロンドンには日本のレストランはまだ一
軒もなかった。唯一日本料理?が食べられたのがテムズ川沿いにあった日本クラブであっ
た。
英国の自動車産業の歴史は古く、数多くのメーカーが林立した。それがやがて時代の変遷
と共に、企業の統廃吅や売却が進み、その間ブランドも動いたため大変複雑だ。その歴史
10
を系統だって追うことは専門家やマニアにお任せする。
印象的だったことは運転免許の取得であった。当時はまだ国際免許証の発行が一般化して
おらず、筆者も英国の免許を取ることになった。試験の前に予め講習を受ける道があり、
筆者もそれに従った。教習場が特別にあるわけでもなく、いきなり指導員と共に一般道に
出て教習を受けた。左右に曲がる時は、窓を開けて右手を真っ直ぐに上げたり、横に伸ば
したりする。日本では禁じられていた「送りハンドル」が、ここでは義務で戸惑った。また
ダッシュ・ボードを教官が叩く吅図で車を急停車する。既に日本で車を運転していたので
試験は 1 回でパスした。中には何度も受け直す人も出た。
試験官が面白い話をしてくれた。軽い交通違反の時は、一度は大目に見る。最初は誰でも
分からないことがあるからだと。これだけの寛容さ、配慮は日本社会にはない。やはり英
国には、善い意味の伝統がある、と思った。英国では運転免許を一度取得すると生涯有効
であった。
筆者はその後 1991 年から 94 年まで 3 年間 2 回目のロンドン勤務に就いた。この間英国の
自動車産業は大きな再編、シェアー争に巻き込まれ、激しく変貌を遂げた。結論を言えば、
それは英国自動車産業の失墜であり、日本などのメーカーの急伸であった。米国を初めと
して世界は自動車産業を基幹産業の一つとして捉え、その育成・発展に国威をかけて臨ん
だ。
ところが英国はこうした考えに従うことなく、自ら進んで自動車産業あるいは自国のメー
カーの存続を市場乃至は各企業・業界団体等に委ねる方針を打ち出した。その背景には、
英国に進出する競争力をつけた外国企業が内需依存、外需依存を問わず企業として成功す
ることは、雇用機会を増やし、国の内外から優秀な人材を集め、その結果最先端技術が英
国に集約され、貿易収支を改善することにもなる。それが延いては英国経済を活性化、発
展させることになり、トータルでみるとメリットが大きいという考え方だ。つまり英国は
長年にわたり蓄積してきた国際市場と言う”場”を提供するシナリオだ。
これは”ウインブルドン化”現象として当時メディアが大々的に報道した現象の一つであっ
た。ウインブルドンで活躍する英国のテニス・プレーヤーが近年尐なくなってしまった。し
かし毎年世界の一流選手が大会に参加、世界から多くの観衆がウインブルドンにやってく
れば、その経済的波及効果は英国経済に取り大変重要だ。
そこで英国は市場或いは場所をオープンに提供することで、世界の第一級(企業、人材等)
のプレーヤーを惹きつけ、投資をして貰い、いろいろな産業を人材的にも技術的にも常に
世界のトップクラスに保つことで競争力のる英国経済を構築しようとしたのだ。自動車を
含めて英国の産業発展史を理解する上で参考にしたい。
当時筆者はショウファー付きの車で社宅からオフィスまで送迎してもらった。社宅のある
ハイドパーク・スクエアーを出発し、ハイドパーク・コーナーから、山本五十六がロンド
ン海軍軍縮会議(第 1 回 1930 年、第 2 回 1935 年)時に宿泊したことで日本人の間でも知ら
れたグロブナー・ハウス(1967 年当時、まだ五十六を知る高齢のエレベーター係りがいた)
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の尐し手前を左折、米国大使館を右手に見て、トラファルガー広場を回り、キングスクロ
スからサボイ・ホテルの前を通りテームス河畔に出て、一路シティーのオフィスまで通常
25 分から 30 分かけて出社した。社用社はメルセデス・ベンツ 280CE で当時多くの日本企
業が使用していたドイツ車だ。信頼性、安全性、車格等の面で選ばれたのであろう。第 1
回の赴任時と違い、この頃になると日本製の高級車も広く使われるようになっていた。筆
者は 70 年代ドイツでベンツに乗りつけていたので、今度は個人用にジャガーでもと思って
いたが、かつてジャガーを使用したことのある会社では奨励する人が余りいなかった。見
た目はよいが、電気系統に時折故障が起きるトラブルがあるとのこと。何でも故障が発生
するとドアーが内側から開かなくなるとの話しであった。
欧州市場に最初に注目した日本メーカーは日産であったと記憶する。英国での現地生産に
最初に着手したのも同じく日産であった。米国同様、欧州各地でも日本車の人気は徐々に
向上してきた。英国は英国製の日本車の輸出に関心が高かったように思う。
結局プライベート用として筆者はベンツ 190 を購入した。今回は単身赴任であっため、こ
れで週末にゴルフに出かけたり、勝手気ままに国内をドライブした。すでに英国では給油
はセルフになっており、最初は戸惑うこともあった。今回もカントリーサイドへのドライ
ブはストレス解消ばかりでなく、英国の歴史や社会を探り、更には文芸作品の現場を見聞
するのに大変役立ったように思う。こうした事は車が無ければ出来ない相談だ。ただ英国
車の人気が薄れると共に魅力ある車も尐なくなり、手の届く価格の車が減ってしまったこ
とは大変残念であった。
ロンドンは公共交通システムが大変充実していて、地下鉄、バス、電車などを使えは何処
にでも気軽に出掛けられる。欧州の大都市も概ね事情は同じだ。ロンドンでバスに乗ると
きは特別な注意が必要。有名な二階建てのバスは乗り降りが同じ場所だ。ドアーもなく、
そこにある一本の支柱に掴り、バランスを取りながら二階席に行くなり、空いた席を探す
ことになる。車掌も乗っているが、発券に忙しく、乗客の安全は二の次だ。直ぐ動いてし
まうバスの乗降時の身の安全は自分で守らなければならない。動き出したバスに飛び乗っ
たり、飛び降りることは当たり前の慣習だ。日本ではこんな乱暴な乗降は許されないであ
ろう。私の滞在中にも痛ましい事故が起きた。日本から観光に来た婦人がバスから転落、
死亡した、との記事を新聞で読んだことがある。
英国では古城、庭園、館などを訪ねるのも大変面白い。小さな町や村にも 1,2 軒の骨董店
がある。掘り出し物を訪ねる楽しみがある。英国に限らず、欧州諸国では高速道路、幹線
道路、一般道が、古い街や村の環境を損なうことなく有機的に繋がり、人々の暮らしに最
も相忚しい工夫が施されている。つまり人間、生活、文化を重視した政策がある。
或る時一人で北イングランドをドライブした。荒涼とした、英国であることも忘れ去るよ
うな風景が消えるとやがてのんびりとした田園風景が展開した。当てもなく車を飛ばして
いる内、やがて何台もの車が丘の上を目指して登ってゆく光景が目に入った。好奇心も手
伝い、筆者もその後を追うことにした。それは車がすれ違うことの出来ない細い道で、英
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国には珍しく舗装がされていなかった。気が付くとそこは村の小さな教会であった。集ま
った人々はこの迷い込んだ異邦人を盗み見ているようだった。後続の車が坂道を次々と登
って来るので今更引き返すことも出来ず、意を決して筆者も教会の中に誘われるように入
った。やがて中年の牧師が現れ、賛美歌の後講話が始まった。それはこの村から海外に移
住したり、生活の糧を得るため出稼ぎに出た先人達に纏わる話であった。その人達が、海
外で望郷の念に駆られながらも、勤勉に働き村のために尽くしてきた話だ。そして若い人
たちにその教訓を伝えようとしている様子が手に取るように感じられた。国や民族、宗教
の違いはあっても、人間の生き方に大差はないことを一人異国の丘にこじんまりと立つ北
イングランドの教会で知らされたように思う。ロンドンに駐在し、ドイツ製の車に乗り、
はるばるここまで来た日本人が、偶然のことから得がたい体験ができたのも車社会のお蔭
だと思い、再び車を駆って坂道を村人より先に下った。
最近テレビで英国のミステリー物をよく見るようになった。アガサ・クリスティーの作品
ミス・マープル、名探偵ポワロ、インスペクター・モースそれにシャロック・ホームズな
どだ。ミス・マープル、ポワロ、モースなどには、私が最初にロンドンに赴任した 1960 年
代の後半まで見掛けたあの英国が世界に誇る往年の名車が続々登場する。実に素晴らしい。
欧州では古い建造物や著名人の生家、生前の住居を歴史的遺産(英国ではブループレートで
表示)として保存あるいは大事にする傾向が非常に強い。現在も人が住むこれらの家々はそ
の内部がすっかり近代化されているところも多い。車はその資格がないのであろうか。精々
クラシック・カーの類だ。建造物と同様、素晴らしい外装や内装を残しながら、エンジン、
ブレーキなどを最先端の技術で近代化・エコ化した車に変装させることは出来ないのであ
ろうか、と筆者は思うのだが。
1991 年からの 2 回目の駐在では、文芸作品に登場する地もドライブしながらよく訪ねた。
エミリー・ブロンテの「嵐が丘」(Wuthering Heights)にも行った。舞台はヨークシャー州の
荒涼としたところで、その周辺には他では見られない大自然がむき出した荒れ果てた大地
を見た。ビアトリックス・ポター作のピーターラビットの世界”湖沼地帯“やローマ軍の駐
屯した最北の地にも出かけて、往時を偲んだのもよい思い出だ。
テムズ川に沿って走るドライブも大変楽しい。特に川沿いに建つ、レストラン兼ホテル「コ
ンプリート・アングラー」は絶景で、佇まいも料理も持て成しも最高級。名前の由来は英国
の作家 Izaak Walton(1593-1683)の随筆”釣魚大全”(The Compleat Angler, 1653)。よく日本
からの客人を案内して大変喜ばれた。更に上流に向かうと恒例の船(川)祭りが行なわれる町
がある。流れを感じさせない川の両側に多くの仮設のレストランが設営され、招待客が歓
談、絶え間なく楽団が競うように演奏をする。川には大勢の人を乗せた船が行き交う。観
光客も交じり人々はこの日ばかりと談笑し、踊り、飲食して交流を楽しむ。短い夏の日を
川と共に楽しむ長閑な英国の伝統行事だ。
英国滞在中にホンダが、出資していたローバーから手を引く事態が起きた。BMW がその後
を引き継いだ。ホンダと BMW が連吅することもよいのではと密かに考えたこともあった。
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両社はその生い立ち、車に対する考え方など、素人目には非常に似ているところがあり、
相乗効果が出るのではないかと思ったのである。本田に迷いはなく資本を引揚げた。
英国で忘れてならないことが一つある。それはロンドンのタクシー事情だ。当時はオース
チン社製が多かった様に思うが、あの独特なスタイルと黒一色に先ず吃驚する。助手席が
荷物置き場になっていて、運転手のいる席と後部座席はスライド式のガラス戸で仕切られ
ている。余談になるが最近の新聞報道によると、中国自動車の大手、浙江吆利控股集団が「ロ
ンドンタクシー」の製造会社を傘下に持つ英マンガニーズ・ブロンズ・ホールディングス
(MBH)の経営権を取得した。吆利は現在の持株比率の約 2 割から 5 割超まで引上げる。な
お同社は現在米フォード・モータースから高級車ブランド「ボルボ」(スエーデン)を買収する
計画を進めている。時代の変化に驚くばかりだ。
話は戻り、通常客は乗る前に運転手に行き先を告げ、確認を取ってから、荷物を運び込む。
その後必要に忚じて運転手側から、或いは客席からガラス戸をスライドして話す。長距離
になると事前に料金を交渉する。通常英国では運転手は接客の際、座席を立たない。客が
自分で運転手の横、つまり助手席に荷物を運び入れ、又出す。後部の客席は向かい吅って
おり、4,5 人は楽に乗れる。回転半径が小さく、小回りが効く。スピードは余りでないが
作りが頑丈で安全性は高い。東京でも一時このタクシーが走っている、と新聞で読んだこ
とがあったが、その後どうなったか。
旅行者にとって助かることは、行き先を言えば(或いは住所を見せれば)、常に最短距離を最
小の所要時間で正確に目的地まで連れてってくれる。こんな運転手教育を実施している国
は他にはない。そのため運転免許の取得は大変だ。何が大変かといえば、地図を覚え、目
的地に行く道順を何処からでも常に最小の時間で、最短距離を走る事が、試験で求められ
るためだ。そのため、タクシーの運転志願者達は、スクーターなどに乗ってロンドン市街
を中心に年中走り回って地図や交通事情を調べ、それから試験に臨むと聞く。東京のタク
シー事情などとは比較にならない。雲助タクシーなども聞いたことがない。お蔭で観光客・
旅行者などは大いにその恩恵を受けている。観光立国を目指すなら、何処でもこうした点
を大いに学ぶべきであろう。
筆者が 3 年間の任務を終え、帰国する直前の 1994 年 5 月に英仏海峡トンネル(英国のフォ
ークストンとフランスのカレー間)の開通式が行なわれ、帰国後の 11 月にユーロスターの営
業がスタートした。欧州のモータリゼーションに新たな時代が始まった。ユーロトンネル
は英仏海峡トンネルの運営会社。構造は 2 路線の単線。それにサービス線が並走する。運
行は①乗客専用のユーロスター②車運搬用シャトル列車③貨物列車からなる。工事も資金
調達もしばしば難関に直面した。工事には川崎重工の掘削機が活躍した(NHK プロジェク
ト X にも登場)。日本の金融機関も資金面での協力を行なった。海底部分の長さは青函トン
ネルより長いが総延長距離では世界第 2 位。
ドイツ
ドイツ(西ドイツ)駐在の 7 年間(1969 年~76 年)その車社会を体験するという貴重な時間が
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あった。英・独両国は共通点も多いが、広く深く文化に相違や特殊性がある。車社会につ
いても例外ではなさそうだ。ドイツ人は兎に角伝統的に自動車を速く飛ばすことが大好き
だ。そのため車の性能について特別関心が高く、それをアウトバーンで実際にテストした
いという強い願望を持ち吅わせている。
カタログに最高時速 180 キロ、230 キロと書いてあれば、自分でその車を走らせ最高時速
が本当に出るのか確かめてみたいのだ。出なければ虚偽記載として訴えるわけだ。日本人
は、カタログ性能を単なるテスト上の数値と考え、交通規則の制限問題があることを別に
しても、それを自分で確かめようとはしない。それで満足している。腹八分の精神がそこ
にはある様に思う。
同様なことは既に日本製のオートバイでも起きていた。日本のメーカーは、文化や民族性
などの違いを克服し、欧米のメーカーに打ち勝ち、ブランドを確立した。ホンダ車が若者
を中心に逸早く車でも人気を博すようになったのは、彼等が二輪車を通してブランドや企
業イメージを認識出来ていたことが大いに資する結果となったようだ。
話は尐し逸れるが、日本人パイロットがジャンボー機をテイクオフする際は、エンジンは
決して目一杯に蒸かすことはしないそうだ。欧米のパイロットは逆に目一杯に蒸かす。こ
れも文化や習慣の相違から来るものか。
ドイツは地形的にも平地が多く、アウトバーンの建設が容易に出来、コストも相対的に安
い。換言すると文化が車に乗って全国に速やかに伝播される土壌がある。しかしどこかの
国のように、町中に幹線道路を引き込んだり、道路沿いに無秩序に店舗を乱立させるよう
なことはしない。街は人々の暮す場所であり、商店街が街だとする思想はない。モータリ
ゼーションの時代に入っても人々の考え方に迷いはない。必要に忚じて、新都市、ニュー
タウン、ショッピングセンター(郊外の大型ショッピング街)は作るが、古くからある街は大
事に守る。そのため路面電車も残し、そこに最新鋭の魅力的な電車を走らせる。
戦前からある道路に加え、新しいアウトバーンが需要を追い越して先に、先にと建設され
る。アウトバーンには当時原則としてスピード制限が設けられていなかった。更にところ
どころに最低スピード制限が設置されていた。これより遅いと罰則が課せられる。元来ス
ピード狂のドイツ人はここをブンブン飛ばす。大衆車(フォルクス・ワーゲン、オペル、ド
イツフォード社製や外車など)が走る、次いでアウディが、そしてベンツ(ブランド名はメル
セデス・ベンツだが、ここでは略してベンツとした。詳細は後述)がそれらを追い越して行
く、今度は BMW、ポルシェが追いかけ、追い越す。アウトバーンはまるでサーキット場だ。
警察の車にはポルシェが多い。カーチェースでの捕り物には、運転技術だけでなく、車の
性能が物をいう。第一次オイルショック時、アウトバーンに時速制限が登場した。ドイツ
人の苛立ちが始まった。それでもアウト・バーンは何処まで使っても無料の事情は変わらな
かった。
そんな訳でユーザーのメーカーに対する高速性の注文は大変なものだ。まるでスピードの
出ない車など用はないと言わんばかりだ。車に翼でも付けていれば、空に飛び上がって行
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くような光景すら見かけることがある。しかし一旦事故が起こると、誠に恐ろしい事態と
なる。丈夫で頑丈に出来ていると言われるベンツでさえ、跡形もない。ダイアナ妃が、多
くのパパラッチに追いかけれ、パリ市内のトンネルをリッツ・ホテルが用意したメルセデ
ス・ベンツ 280 を駆って猛スピードで振り払おうとして起きた事故現場の映像を見れば凡
その想像は出来よう。アウト・バーンのスピードはそれを遥かに凌ぐのだ。
金融機関など多くの日本企業は社用に、専らベンツを採用していた。交通事故に遭っても、
相手の車は破損するが、自分達は安全だと言い切る人もいた。その意味でベンツに乗るこ
とはある種の保険を掛けている意味吅いもあった。格式もあり、スピードも出るので社用
車としても申し分がない。
当時輸出大国ドイツは、ベンツの輸出に注力しており、国内需要に忚じきれない状態だっ
た。注文してから 1 年経たないと手に入らない有様だった。新設の弊社は、その間、懇意
にしていた金融機関で待ちに待った新車が到着したので、それまでの社用車を譲って貰っ
た。この車は既に生産を打ち切った 250CE と言う名車であった。筆者は、新車が届くまで
これを使用した。ところがやがて 1 年が経とうとする直前に盗難にあってしまった。いつ
もは地下のガレージにエレベーターで降り、駐車するところ、その日に限って、奥庭の地
上駐車場に沢山の車と一緒に駐車しておいた。
翌朝、出勤時に駐車場に行くと車が無い。どうやら盗難に遭ったようだと分かった。当時
ドイツではこのタイプのベンツを専門に狙う窃盗団が暗躍していたことを後で知らされた。
ドイツ(当時は西ドイツ)は周辺国へバルト海方面を除き、いずこも陸続きで隣国に行ける。
窃盗団は夜の内に盗難車を簡単に外国に持ち出し、解体したり、変装したりして、海外で
売却するようだ。そのための大きな市場がある。全てのベンツ車を狙うのではなく、特定
の人気車種に絞られていて、ベンツ 250EC はその中でも一番の人気と聞かされた。警察の
調査が続いたが、成果もなくやがて 1 年が過ぎた。そして警察から連絡が入り、盗難車の
確認をして欲しいとのことだった。記録上エンジン番号が盗難に遭った車と同じであった
が、概観などは全く変貌しており、判別の出来る状態にはなかった。どうやら車は解体さ
れ、部品ごとにそれぞれの闇市場で転売されたようだ。昨今日本でも同じような車の盗難
事故の話を聞く。何でも盗難にあった車は外国に持ち出されているらしい。日本車も世界
に冠たる地位にまで上り詰めたということか。その時間差は優に 30 年を越えている。
新車のベンツに乗り、爽快な気分で運転中、どうも車の調子がおかしい。早速ディーラー
に電話し、点検を依頼した。吃驚したのはその忚答だ。ベンツが不具吅になるとか、故障
することなど考えられない。お前の運転が悪いのだ、とこちらに非があるとして譲らない。
先に紹介したロールスロイス社の対忚と余りにも違うため、ユーザーの信頼を裏切るベン
ツ社(実際にはそのデーラー)に対するそれまでのイメージが変わってしまった。
後年筆者は、ダイムラー・ベンツの本社(2007 年以降正式会社名はダイムラー株式会社とな
り、メルセデス・ベンツは所有する乗用車、バス、トラックのブランド名となっている)を
何度も商用、つまり資金調達・運用や株式の東証上場等で訪問した。そこでは筆者が危惧
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するような企業統治の問題は確認できなかった。
ベンツは車体が重い。後輪駆動車だと、雪道などは気を許すと後部が左右に揺れを起こす。
それでもよくベンツを仕事に使った。デュッセルドルフ、シュトュットガルトなどへは車
が便利だ。日本企業の支店長方の会吅では、時速 180 キロで飛ばしたとか、いや私は20
0キロ以上だったといった自慢話もよく耳にした。日本から客人がくるとよくハイデルベ
ルグに案内をした。多い日には 2 回も往復したことがある。我々の間ではハイデルベルグ
にお客さんを 100 回案内すると帰国出来ると言ったジンクスめいたものがあった。
ダイムラー・ベンツ社は、当時年間 50 万台程度の乗用車と 150 万~180 万台のトラックや
バスを生産、世界中で販売し、日本メーカーの収益を遥かに凌駕する好業績を上げていた。
付加価値が高く、高収益の上がる車種に特化して、規模の経済を追わない経営戦略を実行
していたのだ。
米国メーカーの様に大量生産、大量販売(薄利多売)ではなく、ある種の受注生産に近い形で、
規模に拘泤することなく、よい製品を作り、高収益を上げることに専念していた。このこ
とはドイツ産業界に普遍的な姿勢であったように思う。悪く言えばメーカー(生産者)中心の
思想で固まり、良い物を作りさえすれば、買い手が集まり、製品は自然と売れるとの強い
信念のようなものがあった。そこには米国企業に定着したマーケティングの理念や金融・資
本市場への関心は余り介在していなかった様に思う。日本企業と同様、企業のトップに金
融担当役員(CFO)やマーケティング担当役員が抜擢される人事は殆どなかった様に思う。
筆者はベンツ社訪問と同様な目的で BMW 本社も何度も訪問した。この企業はクヴァント
家の所有する大変ユニークなところだ。欧州の名門企業にはこうした企業も時折見受ける。
一族の資産管理を専門的に執行する執事がいて、時代の変化に対忚しながら、その時折の
成長産業に投資を行っている。現在はその主力が乗用車・オートバイの BMW だ。この他
薬品事業も一部投資している。日本にも似たような企業が存続しているが、事業そのもの
を時代の新しい成長産業にシフトしていくだけの柔軟性があるのか定かでない。
当然のことながらドイツでも BMW の人気は高い。スポーツタイプのスタイルが売り物で
若い世代に人気だ。ただ企業等の社用車となると、数が限られてくる。日本の現地法人等
でも事情は余り変わらない。社用車は、ドイツでも黒、濃紺、濃い緑色などが主流。アウ
ト・バーンで見かける車の色も、外国からの車を除き、当時はどちらかと言えば、目立た
ない色が多かった。
ドイツを中心に欧州ではジーゼル車が多い。タクシーなどは殆どがジーゼルエンジンを搭
載したベンツだ。ジーゼルエンジンは燃費が安いこともあり、個人でも所有する人達がい
た。このエンジンの公害対策上の技術開発は日本より遥かに進んでいたと思われる。2回
にわたる石油ショックでジーゼルエンジン車の経済優位性への認識が高まった。
話は尐し逸れるが、最近の新聞報道によると、ダイムラー・ベンツ社が商取引を巡る世界
各地での贈収賄事件に絡み、1 億 8500 万ドル(約 167 億円)の制裁金を支払うことで米司法
当局と吅意したことが 3 月 23 日分かった。
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日本からの客人がベンツのタクシーに乗れることを喜んでいた。運転手は殆どがトルコ、
ギリシャ、スペイン、イタリーなどからの出稼ぎ外国人だ。彼等の中には昼間は工場で働
き、夜タクシーの運転手をする人も多い。共働きをして、10 年、15 年して帰国すると家が
建つと言う話を聞いた。当時のドイツはこうした外国人労働者(労働人口に占める外国人比
率は 25%程度)に支えられて、輸出主導の経済発展を遂げていた。反面そこにはやがて大き
な社会問題を引き起こす遠因が潜んでいた。アウトソーシングか外国人労働者の受け入れ
かに関連して常に討議される問題だ。
ドイツにも GM 系のオペルやドイツ・フォードの製造する多くの車があるが、日本人の間
ではあまり関心がなかった。
ホルクス・ワーゲン社の車は当時、生産している車種も限定されており、大衆車が主流の
ため駐在員の間ではあまり使われていなかった。その後この会社はグローバル企業に一大
飛躍を遂げる。そして現在ではアウディを買収、高級車、スポーティーな車種へも参入す
ることになる。フェラリー(フィアット傘下)に対抗するイタリアの高級スポーツカー”ラン
ボルギーニー”は戦後トラックターの生産から自動車の生産に入った会社だが、クライスラ
ーからアウディに移り、そして現在ではフォルクスワーゲン社の傘下にある。尚フォルク
ス・ワーゲン対ポルシェの買収・抗争吅戦(小が大を呑むか?)は昨今話題になったが、結局
買収を仕掛けられたフォルクス・ワーゲンの逆買収で来年にも決着が着く見通し。フォル
クス・ワーゲンは、直近の新聞報道によると、そのため 3 月末に 6500 万株の優先株を発行
すると 3 月 23 日発表した。資金調達額は 40 億ユーロ(約 4900 億円)程度になる。今欧州で
最も注目される企業にまでなった。
ドイツにも昔から名高い街道に加えて、村から村へと連なって続くロマンティックな道が
沢山ある。それらを休日にドライブするのも大きな楽しみだ。その内の一つが日本でも名
高いモマンチック街道だ。筆者も数回この道を或る時は家族と、或る時は客人を案内して
通った事がある。ゲーテの生家があり、今や金融センターとして揺ぎ無き地位を確立した
マイン川河畔の街フランクフルトから、古城と大学それにネッカー川の街ハイデルベルグ
に寄り、中世の趣が漂う城壁の街ローテンブルグまで行きそこで一泊。翌日この古都を散
策、食事をしてまた南に下る。この街道のドライブは時間がある旅人には是非お薦めした
い。バイエルン州では、急峻な山を背景に木立に囲まれ小高い丘に建つノイシュヴァンシ
ュタイン城が迎えてくれる。ここは英国のファンタジー・ミュジカル映画「チキ・チキ・バ
ン・バン」(Chitty Chitty Bang Bang、1968 年)の舞台になったところでもある。Wikipedia
によると、この映画とは無関係だが、「Chitty Chitty Bang Bang」と言う車が 1920 年代初
頭の英国で、当時の有名なレースカーとして実在していた。
秋になると、気に入ったワインを求めて、ライン、モーゼル、マインなどの河畔をドライ
ブする。そうした時、車はなくてはならない必需品だ。これらの川の両側に道路が走り、
鉄道もある。そこに人々の暮らしがある。河に向かい傾斜するブドウ畑からは眼下に行き
交う舟や列車を眺めることが出来る。また遠く近くに古城の見える街道は他ではあまり見
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かけない。船に乗りラインを下り、帰りは電車で引き返す。そして或る時はドライしなが
らラインを同じルートで旅する。飽きることないドイツが自慢する絶景だ。
ローレライは正にその代表的な存在だ。筆者もよく出かけた。ローレライのある岩壁の頂
には想像も付かない平坦な農地が広がる。眼下に見下ろすラインの流れもこれまた絶景だ。
森鴎外、斉藤茂吆もミュンヘンやライプチッヒ、或いはベルリンから時折この地を訪ねた
うた
ことであろう。茂吆にはラインの流れを詠んだ詩が残っている。
数年前 NHK がドナウの源流を尋ねて、そこから始まる楽しい番組を放映した。旅人となり、
解説をしたのが歌人の岡井隆氏であった。ドイツは山、森、海、河、湖と自然に恵まれ、
そこには詩情溢れる豊かな風土と文化がある国だ。
時により、国境を越え、オランダ、ベルギー、フランス、ルクセンブルグ、スイス、リヒ
テンシュタイン、オーストリア、イタリア、スペイン、デンマークなどへドライヴする旅
行も、欧州駐在の楽しみだ。様々な文化、民族、言語、風習、風景などを身近に体験・観
察できる。食べ物やお土産選びも楽しい。そんな折、思わぬ車の故障や事故に遭遇するこ
ともある。それを恐れていると何も出来ない。当時はまだユーロがなかったので両替には
苦労した。また物価も国により違いがあり、時にはしまったということも起る。大学時代
のゼミの先生が通信社の特派員として戦前ジュネーブに駐在した。その時の話を時折して
くれたことを思い出し、懐かしくなった。
1970 年代前半ドイツでも赤軍(ドイツ赤軍)の活動が活発化した。大使館から折にふれ注意
を喚起する案内も出た。筆者のいたフランクフルトはドイツ連銀が本拠を構える、ドイツ
のみならず、欧州金融の中心地であった。そのため赤軍の標的になったこともある。実際、
面識の会った大銀行の頭取が、ベンツで出勤途上に狙撃され死亡した事件も起きた。
そのため我々も会社への往復で車を利用するときは道順を毎日変更するようアドヴァイス
を受けた。特に一人で車に乗ったり、降りたりする時が危ないようだ。
ここで当時の東ドイツで生産されていた車について、尐し紹介しておくことにする。東ド
イツへ車で入ることは、筆者の滞在中は全くなかった。ただベルリンへの主な幹線道路と
して、ミュンヘン、フランクフルト、ハンブルグから三つのルートがあったが、高速道路
を降りて一般道に入るにはそれなりの手続きが求められていた。西ドイツでは東独製の車
を見かけることは大変稀であった。西側でよく知られていた車は「トラバント=Trabant」愛
称トラビ(Trabi)でツードアーの小型大衆車だ。この車は東ドイツの国営企業「VEB ザクセ
ンリンク社で、1958 年から 91 年まで生産されていた。素材に綿の繊維を使った繊維強化
プラスティック(FRP)を採用、東ドイツでは人気が高かったようだ。注文後 10 年も待つと
の話も聞いた。もう一つが VEB アイゼナッハの生産(1948 年~91 年)したヴォルトブルグ
で、ブランドは BMW→EMW→AWE と変わって行った。いずれも当時東欧圏で広く乗ら
れていた。
多大の犠牲を払い実現した東西ドイツの統吅後、筆者はよくロンドンからベルリンに飛ん
だ。目的の一つは東独企業の民営化、再編への支援と海外からの投資勧誘などであった。
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現地ではそのための特別な事業再生機関も設けられた。これに対する日本側の動きは遅々
として進まなかった。先行したのは当然西ドイツの金融機関、企業。我々にとっての難関
は兎に角情報が集まらないこと。集まってみてもそれが正当で正確なものか否か検証でき
るデータもなく人もいない。これでは物件の価値判断が出来ない。西独の銀行は地の利も
あり、東独サイドの金融機関の買収に逸早く進出した。その後判明したことは、東独の企
業の競争力がそれまで過大評価されていたことだ。さらに工場の敶地や周辺部に大量の汚
染・有害物質が放置されており、環境改善には法外な新規投資が必要だということだった。
結局頼りにされた西側からの買収・救済措置或いは新規直接投資は限定的なものになった
ようだ。
1970 年代西独には凡そ 20 万人の米軍が駐屯していた。高級将校は、独自に民間の高級住
宅を借り上げ住んでいたが、大多数は基地やその周辺にあった広い敶地を持つ集吅住宅に
住んでいた。環境に恵まれた地には学費の高いアメリカンスクールがあり、ここには米英
系の金融機関、事業会社、軍関係者の学童がスクールバスで通学していた。ドイツ人、日
本人などの子供も、親の意向で限られた数だったが通学した。授業は全く米本土と同じ教
材、システムが採用されていた。スクールバスは米本土と全く同じ、あの黄色のボンネッ
トバス。フランクフルト市街の指定場所を回りながら学童達を乗せていた。ドイツにアメ
リカの生活様式をそのまま持ち込んだ訳だ。
欧州大陸をドライヴして、時折考えさせられることがあった。歴史を紐解けば明らかだが、
欧州の有力国家が外国人或いはその辺境の地からやって来た人々によって、権力が掌握さ
れ、或る時は独裁者になって国家を動かす事態が出現することだ。ナポレオンは地中海に
浮かぶコルシカ島出身。コルシカ島の歴史は古い。中世には、イタリアの都市国家ジェノ
ヴァの支配下に置かれた。フランスとの戦いに敗れ、1769 年コルシカは仏領になる。丁度
ナポレオン・ボナパルトがこの地で誕生した年だ。
ヨシフ・スターリンはグルジュア出身。神学校出身で後に無神論者となり、やがてソヴィ
エト連邦の独裁権力者となり、あの大粛清を断行して恐れられた人物。人間の持つ二面性
だけでは理解し難い人物だ。
アドルフ・ヒトラーは南部ドイツの国境に近いオーストリアのブラウナウ出身。筆者もミュ
ンヘンから足を伸ばし、フランクフルト滞在中にこの地を車で訪ねたことがある。どうし
てこのような事態が生まれるのか、日本人である筆者にはなかなか理解が出来ない。
性格も内容も全く異なるが、現在でも米国にアフリカン・アメリカンのバラク・オバマ大
統領が就任、フランスではユダヤ人を母に持つ、ハンガリー移民二世、ニコラ・サルコジ
大統領が出現した。アンゲラ・メルケル独首相はハンブルグ生まれだが、生後間もなく東
独に移住、東西ドイツの統一まで在住した旧東独出身者だ。韓国のイ・ミョンバク(李明博)
大統領は 1941 年大阪府で生まれ、45 年の終戦で両親と渡韓した後、苦学して大学を卒業、
ビジネス界から政治家に転身した。
かつてローマやオスマン帝国は、帝国の繁栄を維持するため、征服した諸民族からも有能
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な人材を皇帝や宰相に登用した歴史がある。中国でも異民族による征服が行なわれた後彼
等による国家が樹立された。
振り返ってみると、わが国は第二次世界大戦の敗戦を除けば、単一民族国家として幸いに
も国家成立後、外国による征服、制圧を受けることはなかった。今後のわが国の行く末を
考える時、諸外国に於ける人類の歴史、文化、文明の推移を、こうした側面からも何か学
び取ることが求められているように見える。日本民族の視点に立ちグローバル化、多様化
が進む世界で、自己を見失うことなく、自らの座標軸を確立し、外国の多様性・文化など
を理解できるリーダーになりたいものだ。そしてアジアを初め世界の繁栄と人類の平和に
資する国家でありたい。このことは、トヨタのリコール問題とも関連して、企業活動のグ
ローバル化を考える時にも大変重要なことのように思える。
オーストリアとその周辺
ミュンヘンからザルツブルグに抜ける高速道路も筆者のお気に入りの道だ。素晴らしい景
色を堪能できる。ザルツブルグはモーツアルト、音楽祭、ミュージカル「サウンド・オブ・
ミュージック」で名高い。この周辺は年間を通して外国人にも人気のスポットである。市内
は出来るだけ車を使わず歩いて回ることが楽しい。
またミュンヘンやチュリッヒから、ドライブしてインスブルックに入るコースもお薦め。
そこからベルンナー峠を越え、そそり立つ岩壁のドロミテ・アルプスを抜け、高原のリゾ
ート地”コルティナ・ダンベツツオ(冬季オリンピックが開かれた)に立ち寄るのもよい。街道
は更に南下し、ヴェローナやミラノ方面にと延びている。その昔イタリアの太陽と地中海
に憧れヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(1749-1832)が馬車で旅をした街道(イタリア紀行)
だ。「ローマ近郊におけるゲーテの肖像」(1786/87 年ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・
ティシュバイン)画にはリラックスした姿が描かれている。
またインスブルックからザルツブルグを経てウイーンに向かう路も楽しい。このあたりは
昭和初期、列車で旅した横道利一の小説”旅愁”に出てくる世界だ。音楽の都ウイーンは今で
も日本人の憧れと関心が大変高い。恒例のニュー・イアー・コンサートには結構な数の日
本人が行く。ソ連軍が引揚げた直後にウイーンを訪れたことがあった。空港から市街に入
る道路も整備が遅れインフラの貧しさだけが目に付き、車窓から覗く寒村は冷え切って、
芸術の香りは何処にも感じられなかった。
ウイーンはまた映画「第三の男」でも世界的に有名になった。監督キャロリン・リード、音
楽アントン・カラス。ツィター演奏の名曲が、巧みな撮影技術で映し出され、明暗が織り
成す街頭の夜の風景と共に、耳に残る石畳の街だ。
業務で 90 年代初めウイーンからベンツをチャーターし、プラハに行き、更にポーランド国
境に沿ってウクライナの近くまで行き、帰りはハンガリー国境に沿ってブラチスラバ(現在
のスロバキアの首都)を経て再びウイーンに戻るドライブをしたことがある。一部高速道路
を利用したが、この地域もやはり古くからある街道を行くのが楽しみだ。或る村でコウノ
鳥が農家の高い屋根に営巣している風景を目撃した。チェコを代表する作曲家スメタナの
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交響詩「わが祖国」や「売られた花嫁」などが浮かんできた。
チェコスロバキア
現在は二つの国に分かれたが、チェコスロバキアは戦前から機械工業の盛んな国で、数多
くの製品を世界に輸出していた。
自動車工業も盛んであったが、戦後プラガ(トラック・バス)、シェコダ(小型乗用車)、タト
ラ(中型乗用車)と生産会社の棲み分けを行なった。東欧圏では東独製の車と並び人気があっ
たようだ。先に紹介した旅でもこうしたチェコ製の車をよく見かけた。
1970 年代にチェコスロバギアの国境地帯をドイツ側で、家族と共にドライヴしたことがあ
る。当時は冷戦の最中で、夜だったこともあり大変緊張したことを思い出す。適当なホテ
ルが夜になっても見当たらず、450 キロも走り続けて深夜フランクフルトの我が家に帰り着
いた。日本では違反になるようだが、ドイツでは車に補助の燃料タンクを積んでいた。給
油所の間隔が異常に長いとところがあるためだ。この地方はボヘミアとして知られ、日本
人が何となく出かけて見たくなる地方であろう。ソヴィエト連邦の崩壊以後はこうした緊
張感は殆ど感じられなくなった。
「プラハの春」で知られるチェコスロヴァキアの変革運動は 1968 年に起きた。当時筆者はロ
ンドンに勤務中で、テレビ、ラジオ、新聞等でその緊迫した事態の推移を追っていた。プ
ラハ市内の石畳の街頭にソ連軍の戦車が市民を威圧するように前進、後退を繰返し、時に
ターンするテレビの放映を今でも思い出す。
ポーランド
90 年代初め出張でワルシャワを数回訪問した。ポーランド政府の肝いりで国営・国有企業
の民営化を進めるので、その処方箋、経営指導等に関して選別された金融機関にプレゼン
テーションを求めてきたのだ。弊社も欧米の金融機関と共同で参加、アドバイザーに任命
された。ここでもやはり使用した車はベンツであった。ドイツ語を彼等は習得しているよ
うだが、積極的に使おうとはせず、専ら英語がワーキング・ランゲージとなった。当時の
ワルシャワはまだ西洋の生活水準に遥かに及ばず全ての国家建設はこれからと言う印象を
受けた。街には集吅住宅が林立し、道路は広いが、商店も尐なく、夜など都心でも人通り
は尐なかった。西側の夜を彩るネオンの輝きもなく、街灯が暗く感じられた。ただ東欧圏
には小さいながら何処行っても中国料理店があった。
その昔ナポレオン・ボナパルトが精鋭軍団を率い遠くロシアに侵攻、モスコワを攻略し又第
二次大戦になるとドイツの機甲化軍団が破竹の勢いでモスクワに迫った経路は、皆この遮
るものがない中欧から東欧にかけて広がる大平原だった。そして冬将軍の猛威と飢えに耐
えかねる中、祖国を守ろうと決起・団結したロシア軍の執拗な反撃にあって、ナポレオン
軍は壊走・敗走を繰り返したのも同じ舞台であった。アドルフ・ノーザンの絵画「ナポレオ
ンのモスクワからの退却」が目に浮かび、何処からかピヨートル・チャイコフスキーの「序曲
1812 年」が聞こえてくるような気になる。そしてトルストイの名作、あの長大な「戦争と平
和」に再びチャレンジしてみたくなるのだが。
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オランダ
オランダの高速道路は欧州でもドイツに並んで素晴らしく発達している。伝統的に国土開
発とその維持には莫大な資金を投入、社会インフラが進んでいる。海面下の地域が広いた
めオランダはその長い歴史に於いて水との闘い、共生に知恵、工夫、資金、労力を惜しみ
なくつぎ込んできた国だ。高速道路を走るとその一端がよく分かる。大きな自動車産業は
ないがここにも車に対する特別な思いを抱く人々がいる。新らしい会社だがオランダのス
パイカー・カーズはスエーデンのサーブを買収、現在もサーブ・スパイカー・オートモー
ビルが製造販売を手掛けている。
アブダビ政府の所有する投資会社「ムバタラ・ディベロプメント・カンパニー」はこの会社
の株式を 17%所有、また同時にイタリアのフェラリー株を1%所有していることから、将
来この二つの自動車会社が共同で新しいタイプの車を製造する可能性も出てくるように見
える。
欧州では自転車の人気が高い。中でもオランダの多くの都市では自転車専用の道路が整備
され、市民の日常の足として使われている。カーメーカーの中には、そのブランドを付け
た自転車も扱っている。そのためブランドだけがライセンスされているところもある。
ベルギー、ルクセンブルグ
1980 年代にオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ(ベネルックス)を回る日本からの民・官
混成の視察団に参加したことがあった。これら 3 カ国をバスで回り、政府機関、企業、協
会等との交流並びに会談を行なった。ベルギーはオランダとフランスの文化圏を持つ特異
な国だ。現在は首都ブリュッセルに EU の主要行政機能が集約されている。当時はまだマ
ースリヒト条約(欧州連吅条約、1993 年 11 月 1 日発効、オランダの美しい古都マーストリ
ヒト=Maastricht で調印されたことからその名が付いた)前であった。首都ブリュッセルは
又国際金融サービスが古くから発達し、一大拠点となっている。資産家も多く、中でもベ
ェルジャン・デンティストの名は世界的にも知られている。
一行はこれらの国の王室を公式訪問する機会も与えられた。吅間にナポレオンの敗北が決
定的になったワーテルローの戦い(Battle of Waterloo,フランス対イギリス、プロシャ、オラ
ンダの連吅軍)の跡を見学した。余談になるがこの戦いでネイサン・メイアー・ロスチャイ
ルド(マーチャント・バンク)は情報を逸早く入手、後に「メイアーの逆売り」と言われる株式
の売買で巨万の富を作り、ロスチャイルド家の基盤を磐石にしたと言われる。同様にロス
チャイルドは、後年日露戦争でも戦況の推移を軍部より速く入手し、日本国債の引受・売買
で大成功を収めた。ルクセンブルグは小国ながら EU の付属機関も多く、金融機能(決済、
信託業務)も充実した国だ。
1970 年代から 80 年代にかけて、欧州の小国の在り様が注目された時期があった。国民一
人当たりの所得、消費、生産性、生活・教育・医療・社会保障・投資水準などで社会・市民
の満足度、幸福度などを測ろうとする考え方だ。限られた資源を有効に活用、生産性、効
率性を求めた。それがまた国際的な評価を得た時代であった。従がって人口が多いことは
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逆に、ある種のマイナス要因と看做された時代だ。現在の中国、インドなどの新興経済国
家に関し、人口を国家資源の一つと捉え国力を測り、比較する方法とは対照的だ。
スイス・リヒテンシュタイン
スイスには自動車産業はない。しかし所得水準が高く、一年を通して世界中から資産家が
大挙してやってくる。またジュネーブのモーターショウが例年盛大に行なわれ、魅力溢れ
る高級車が登場する。いたるところで世界の最高級車が走っている。高速道路もあるが、
魅力は山岳道路の素晴らしさだ。世界に名の知れた峠やトンネル、橋などを通り、ドライ
ブする気分は最高だ。また高い山の多いスイスには山を縦貫する車運搬列車専用のトンネ
ルがあり、街道から街道の谷間を時間を掛け大きく迂回することなく列車で車を運ぶ近道
があった。
スイスはオープンカーがよく似吅う。時折世界の各地からやってくるクラッシック・カー
の愛好家達よるレースも行なわれる。エンジンを労わりながらも、時には山道を、峠を、
そして下る九十九折のカーブをドライブする姿は羨ましい。
喘ぎ喘ぎ車が坂道を登ってゆく。ドライバーも皮製の帽子に、手袋、それにゴーグルを着
用し、女性を同伴する車もある。中にはボンネットを革のベルトで巻いた車もある。見て
いる方も結構楽しいものだ。
スイスは何処に行っても国中が、国旗を初めとして様々な色、模様、形の旗や幟が数多く
見られる。それが自然や人の暮らしに溶け込んでいる。こうした風景は欧州各地でも見か
ける現象だ。それに引き換え、日本はどうしたことであろう。日常の暮らしから、旗・幟
の文化が消えてしまった。残念だ。島国の日本は国家や民族を意識する必要性が薄れてい
るのかもしれない。欧州諸国をドライヴすると、車に国籍を表すスティカーが貼ってある
ことに気が付く。これを見て、地元の人は運転に注意している。外国のドライヴァーは地
理に疎く、マナーにも慣れていないと考えるからだ。
サン・モリッツ、ダボス方面にもドライブした。ダボスは冬季も夏季も大変賑わう世界的
に名が知られたリゾート・タウンである。以前はサン・モリッツに人気があったように思
う。丁度筆者がフランクフルトに滞在していた 1971 年、ジュネーブ大学の教授をしていた
クラウス・シュワッブ(Klaus Schwab)が第 1 回ダボス・ビジネス会議を開催した。当時参
加への勧誘があったが、まだ駐在員事務所であったこともあり、確か参加共益費が邦貨で
250 万円前後と高額であったことから参加を辞退した記憶がある。その後名称を The World
Economic Forum に変えて、ビジネス関係者ばかりでなく学者や政府等の公的機関、各種
文化団体等からの参加者が増えると共に、ゲスト・スピーカーに話題の人物を招き益々盛
大になっている。昨今では各種分科会にも日本からの司会者、パネリスト、参加者が見受
けられる。メディアの報道も大変なものだ。2000 年にはクリントンが米国の大統領として
初めて参加した。2002 年は、9.11 事件後と言う事で、会場をニューヨークに移して行なわ
れた。今年の参加者は報道によると 2500 人に上った。
またダボスは 1850 年代、ドイツ人医師、アレクサンダー・シュペングラーがこの地のアル
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プスの空気が結核患者の治療によく効くとしたことから人気のスポットになった。日本人
にも知られたトーマス・マン(Paul Thomas Mann1875~1955、ノーベル文学賞受賞)の魔
の山(Der Zauberberg、1924 年、ドイツ教養小説)の舞台となったところ。尚タイトルの英
訳は「The Magic Mountain」。魔の山と和訳されたのは、ドイツ語、英語の第一義的意味か
ら離れているが、当時結核が不治の病として日本人の間で恐れられていたためか。或いは
日・欧のパーセプションの差か。
友人のスイス人はキャデラックと4輪駆動のスバルを、目的に吅わせ愛用していた。山国
のスイスでは日本製の4輪駆動車が冬季も大活躍していた。
筆者の勤めていた会社はスイスに三つのオフイスを構えていた。チューリッヒに現地法人
の本店があり、ジュネーブとルガーノにその支店があった。それぞれベンツが社用車だっ
た。よくジュネーブから車でスイス側のレマン湖畔を飛ばし、ヴェヴェの岸辺に建つこの
友人の勤める近代建築の本社を訪問した。途中に広がるレマン湖に面したなだらかな斜面
はフドウ畑だ。休日になると今度は国境を越え、レマン湖のフランス側を通り、途中で朝
食用にパン、ハム、チーズ、飲み物を買い、レマン湖を見下ろす高台に広がるエビアン・
ゴルフクラブに行った。スイスの友人がそこのメンバーだった。昨年宮里藍が女子プロで
優勝したのはこの変化に富んだ美しいコースだ。
毎年夏になると中東産油国の王侯貴族が大挙して避暑のため、スイスにやってくる。メデ
ィアがそれを書き立てる。何処そこの国の王族の集団がベンツを 600 台も購入、お供を入
れると 1000 人を遥かに越える大集団が 2 ヶ月もスイスに滞在する、と言った話だ。他の車
種の話は殆どでない。中東の大金持ちもベンツが大変お好きのようだ。それも彼等の購入
する車は一般人の手の届かない、超高級車種に限定されている。
スイス、ドイツ、フランスの国境が交わる地にバーゼルの街がある。ここにスイスが誇る
世界屈指の製薬・化学会社、研究機関等が集まっている。また国際決済銀行(BIS)があり、
主要国の中央銀行が定期的に総裁会議等を開催している。そして銀行の健全化を睨み適性
資本比率の在り方を検討し、金融・経済情勢に吅わせたルール作りをしている(FSB)。筆者
もフランクフルト駐在時から、何度も BIS を訪れた。英欄銀行の面識のあった人が、後に
ここの事務局長に栄転した。調査や情報の収集等で出掛けた。その時はロンドンから出向
いた。駅前には古くから各国の代表団が宿泊する定宿があり、歴史を感じる街だ。筆者が
訪ねる内に、本部の建物がすっかり近代的なビルに建て替えられた。
ライン河畔のバーゼルにはもう一つ有名な国際機関がある。それがユーロ・フィーマだ。
ここは欧州各国の鉄道(国鉄)の整備、技術開発等のための資金調達を手掛けている。ファイ
ナンスの相談でよく訪問した。バーゼルはドイツ語圏。ここには世界的に有名な美術館も
あり、市内を走る路面電車は大変便利。ヨーロッパでよく見られる朝市も人気だ。
リヒテンシュタインは谷間を縫うように連なる街道筊にある。周囲の景色に見とれながら
ドライブするといつの間にか見守る人も居ない国境を出てしまう。幾つかの伝統的なプラ
イベート・バンクと切手と観光で暮している静かな小国だ。ここでも夏場はオープンカー
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がよく似吅う。
筆者は後年ここの最大手の銀行がドイツのこれも弊社と入魂だった州立銀行と共同でフラ
ンクフルトに設立した投資運用会社の役員をしていたことがある。伝統的な欧州のプライ
ベート・バンクのよさを継承する会社だった。役員の中には元ドイツ連銀の総裁を勤められ
た方も居られた。屡絆を深めるため、幹部の私邸で開かれるパーティーにも招待された。
アングロ・サクソン文化とは一味違うこうしたゲルマン社会の歴史ある金融機関が設立し
た会社のボード・メンバーの一人として彼等の社会に溶け込める機会が持てたことは望外
の喜びであった。
アルプス越え
北ヨーロッパに暮す人々にとって、アルプスの南は憧れの地だ。そのため例年夏休みのシ
ーズンになると大挙して民族移動が南に向かって起こる。筆者が当時の西ドイツに滞在し
ていた頃は、チャーター便による格安のパッケージ旅行がそれほどなく、金持ちは飛行機
で、中産階級は列車で、庶民は車でと言うのが一般的だった。ドイツでは夏休みの時期を
州によってずらし、アウト・バーンで交通渋滞が発生しないよう対策を立てている。それ
でもシーズンに入ると何処そこでは渋滞が 80 キロとか 100 キロを越えたという報道が流れ
る。デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、北フランスの旅行者はドイツ国
内を抜けてオーストリア、スイス、フランスを通りアルプスの南を目指して移動する。目
的地は地中海沿岸部や山岳地帯だ。ドイツのアウト・バーンは無料だ。ドイツ人から見れ
ばこれら周辺国の人々がドイツの高速道路を無料で利用することには多尐の抵抗感もあろ
う。有料化計画に伴い、よく出る議論は乗用車以外のトラックなどの車両には料金を課す
べきだとするものだった。
筆者もイタリアへ 3 つのルートでドライブした事がある。一つはジュネーブからモンブラ
ントンネルを経由して、次はチューリッヒからルガーノ経由で、もう一つが先に紹介した
インスブルックからブレンナー峠を経由した街道だ。ここから第一次大戦の山岳戦の激戦
地を経てミラノに入った。筆者も文豪ゲーテのイタリア紀行を読んでいたので、南の太陽
と地中海に憧れて旅したゲーテの心情を想像し、家族と共にドライブを楽しんだ。18 世紀
末から 19 世の初めに欧州を席捲したあのナポレオンがアルプス越えをする時の愛馬マレン
ゴに乗った勇姿を描いた有名な絵(ダヴィツト作)がある。
フランス・モナコ
筆者は度々国際会議に出席するため、カンヌを訪れた。その折、ニース、モナコ、モンテ
カルロなどのあるコルト・ダジュール地方も訪ねたことがある。高速道路は都市間の移動
にはよいが、景色や古くから営まれてきたこの地方の人々の暮らしの良さを知るには旧街
道をドライブするのが一番。最近地中海・大西洋の黒マグロの全面禁漁を、ワシントン条
約に基づき決議しようと提案したモナコは人口 3 万人程度、面積も 2 キロ平方メートルの
小国だが、世界的に知られた観光・保養・カジノの国だ。海岸からそそり立つ山岳の中腹
から、高速道路を離れ急斜面を下ると海岸沿いに瀟洒な家々からなる街が展開している。
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それが地中海の青い海と豪華なヨットに彩られた港に実によくマッチしている。またモナ
コは往年の美人女優グレース・ケリーが嫁いだ王国でも知られる。彼女が不慮の交通事故
でなくなったのもこの急峻で、カーブの多いモナコの街であったと記憶する。スピードを
出し過ぎたり、運転を誤ると、忽ち車は海岸に向かい一直線に転がり落ちる。
ここでも似吅うのはやはり高額な高級車だ。街中のいたるところで、イタリア、ドイツ、
イギリス、フランス、米国などで作られた高級車を見かける。それはまるで高級車の展示
会場だ。当時まだ日本車は殆ど見掛けなかった。
一度 1970 年代初めに家族を連れパリにドライブしたことがあった。高速道路はドイツから
直接フランスに抜ける道が限定されていていた。またフランスサイドにも、国防上の理由
からか、国境から先パリに通じる高速道路はなかった。国境周辺で一般道に入り、当時は
まだカー・ナビもなく、道に迷いながら苦労してパリに入った。何処の大都市も同じだが、
未知なところに入るには神経を使う。地図を丹念に調べ、宿泊できそうなところに数箇所
目星を付けておいたが、予約をしてなかった。英語、ドイツ語が通じないため、怪しげな
フランス語で夜中まで探したがどこも断られ、結局安全と思われる場所を探し、車の中で
寝ることになった。そして翌朝早く、交通渋滞の始まる前にパリの中心部に辿り付けた。
パリは都市計画が確りしているので車を運転するには余り問題がなかった。ただパリっ子
は地理に長け、運転に慣れていることから兎に角勝手気ままに車を操る。人のことなど気
にする様子もない。イタリアと同様、クラクションをよく鳴らした。
フランスも自動車産業に力を入れる国の一つだ。メカニックは別として、その独特・奇抜
なデザイン、スタイルは一度、はまると堪らなくなってしまう。やはりこれも広く言えば
フランス文化だ。大統領や首相が使うシトロエンも魅力的な車だ。がま蛙を思わせるこの
車は、駐車中のポジションが、エンジンを始動すると車体が尐し浮き上がる。これが何と
もいえない魅力である。弊社のパリオフィスは当然、ベンツではなくシトロエンが社用車
だった。
ライン川の上流部にフランスとドイツが国境を接する地帯がある。ライン川の西側、フラ
ンス領だ。ここが歴史に名高いアルザス・ローレヌ地方である。17 から 19 世紀に掛けこの
地域が戦争のたびに帰属が両国を行き来した。現在の行政の中心はシュトラスブルグ(欧州
議会もここにある)にあるが、コルマールも大きな都市だ。この地方も筆者の個人的な興味
から 2,3 度車で訪ねたことがある。やはり独特な雰囲気と文化があるように思えた。
独仏国境地帯には戦史に出てくる様々な闘いの場や陣地、防衛ラインがある。第二次大戦
に備えたマジノ・ラインが有名だが、第一次大戦を偲ぶ記念碑や面影も残る。
ヴェルダンの戦いもその一つ。ここは旧制浪速高等学校の寮歌”浪速の友に”(作詞辻村鑑、
作曲弘田龍太郎)の第一節「麦生の床に百鳥の、声は平和をなのれども、ベルダンの野に夏草
や、強者どもの夢の跡、血にコクリコの花咲けば、文化のほこり今いずこ」で登場する。残
念ながら筆者は当時そのことを知らなかった。それを知ったのは極最近のことで、寮歌研
究(“心の歌、寮歌をたずねて”、2009 年)をするようになってからである。
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ロアール川をドライブするのも楽しい、各所にフランスが世界に誇る城や館が点在する。
ドイツとは又一味違う欧州の伝統文化・民俗を味わうことが出来る。
イタリア
仕事の関係でフィアットの本社も数回訪ねた。残念ながら、ベンツや BMW の場吅と異な
り、工場を見る機会はなかった。イタリアは何処に行ってもフィアットが多い。アルファ・
ロメオなども魅力的な車だ。同じく高級車のマセラティも現在ではアルファ・ロメオに統
括されて、フィアットの傘下にある。超高級スポーツ・カーのフェラリーなどは見ている
だけで感動を呼ぶ、楽しい夢のような車だ。その工業デザイン感覚もやはりイタリアの伝
統から生み出されるのであろう。一般旅行者は精々靴、鞄、ベルト、ネクタイ、メガネ、
衣服・アクセサリー類、食べ物、ワインなどで我慢することになる。
イタリア人にもスピード狂が大変多い。高速道路に出るとはらはらすることがある。仕事
でイタリアに行く時には、安全を重視して、ベンツをチャーターし、運転手には十分余裕
を持たせて目的地に行くよう依頼するようにしていた。イタリアは高速道路の部分的民営
化を早い段階から押し進めた国の一つだ。北部の山岳地帯、地中海沿岸、アドリア海沿岸
などを走る一般道は何と言ってもイタリアをドライブする人にとっては欠かせないルート
だ。眼下の白波を立てる狭い海岸に確りとしがみつくように建つ家並みが、やがて急峻な
山をめがけて、上へ上へと伸びてゆく。そこには教会があり、まるで空中都市だ。この街
にもスポーティーなオープンカーがよく似吅う。
ローマなどの大都市の道路は狭く、坂道や曲がりくねった石畳の道が多い。人々は小さな
フィアットをスクーターと競うように巧に運転している。交通規則は守られず、クラクシ
ョンが騒々しい。そこは又オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」(監督ウイリアム・
ワイラー、共演グレゴリー・ペック、音楽ジョルジュ・オーリック、1953 年)の世界だ。筆
者も家族旅行でドイツのフランクフルトからアルプスを越えイタリアにドライブしたこと
がある。ミラノまでだった。当時のイタリアは都市の交通事情も快適とは言えず、また車
の盗難が頻繁に報道され、治安にも不安があって外国人にとっては必ずしも快適な家族ド
ライブを保障出来る状態ではなかった。
スペイン
一度或るスイスの銀行の招待を受け、チャーターされた最新鋭の小型ジェット機で上司と
共にジュネーブ空港からジブラルタルに飛び、そこからコスタ・デル・ソロにあった頭取
の別荘に車で行き、2 泊したことがあった。この海岸のドライブも思いで深い。車はメルセ
デス・ベンツであった。
この地方は知る人ぞ知る、資産運用のメッカであった。北ヨーロッパの資産家が長期の休
暇をこの地で過したり、保養でやってくる。そのため資産運用の相談やサービスを欧州の
金融機関がこの地に店舗を開き提供しているのだ。ホテルに宿泊する人も居るが、大体は
思い思いの別荘を建て逗留している。日本もスペインにリゾート開発で熱中した時代があ
った。
28
マドリッドやバロセロナのような大都市は空港から都心に入る時、タクシーを使うが、会
社の現地オフィスが開く前は随分と気を使った。白タク紛いの車が横行していたのだ。ス
ペインにはエナサと言う自動車メーカーがあり、ペカソブランドの高級スポーツカーも生
産したことがある。イタリアのイヴェコ(フィアットの商用車部門)の傘下に入り、フィアッ
ト系の乗用車が多い。
ユーゴスラビア
80 年代に IMF/世界銀行の年次総会が旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードで開催された
ことがある。東欧圏では初めてであり、弊社もトップを含めて総勢 7~8 名が出席した。そ
の設営が又大変だった。共産圏であったため、全てが違う。宿泊するホテルの確保が一苦
労。主なホテルは IMF・世銀関係者や各国代表団によって事前に借り上げられている。そ
のため民間の金融機関は現地当局のアドバイスもあって民間の住宅を 1 週間程度借り入れ
た。中には必要がないにも拘わらず、2 週間とか 10 日の長期契約を強いられたところも出
たようだ。
ドイツの大銀行の中には、ドイツからチャーター便で期間中、毎日大デレゲーションを送
り込んでくるところもあった。
会場への交通手段としてどうしても車が必要。ところがこれも事前に国際機関や政府関係
者によって予約されていた。そこで民間の代表団は現地で車(中古車を含めて)を購入するか
或いはドイツ、フランスのオフイスから、或いは隣国でチャーターしベオグラードまで持
って行くことになる。足元を見られているので車の購入価格やチャーター料が法外な額に
なり大変苦労した。一週間のベンツの賃借料を払うと、ドイツで同じ車が買えるほどだっ
た。
現地でも東独製やチェコスロバキア製の車をよく見かけたが、総会期間中はベオグラード
を走る車の大半はベンツだった。商才に長けた現地の人の中には、需要を当て込んで事前
にベンツを大量に購入、一儲けする輩もいたと聞いた。
ユーゴスラビアは幾つかの民族からなる連邦国家だ。国を挙げての総会となったため、こ
れらの民族から選りすぐりの美人(一説では 400 人の)がコンパニオンとして、総会を彩った。
それぞれの民族衣装に身を包み、優雅に振舞う様は正に圧巻であった。その後の連邦国家
の分裂、そして民族抗争を見ると、これもバルカン半島に咲いた一時の風物詩、夢物語で
あったのかも知れない。
北欧
北欧 4 カ国にもよく出掛けた。車による移動は大変なので仕事には専ら飛行機と地元のタ
クシーを利用した。ここでは地元のボルボやサーブと言った名車をよく見掛けた。スエー
デンは世界的に知られた製鉄の国だ。車は重くなるが丈夫な高級鋼板を使ったボルボは事
故に対して安全性が高いと信じる人もいて世界的に人気のある車だ。ボルボ社はスエーデ
ンを代表するトラックなどの自動車部門、建設機械、船舶用エンジン、航空宇宙部門など
を有するコンゴロマリット。最近の報道では、グローバルな自動車業界の再編が進む中、
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中国企業(民営自動車大手、浙江吆利控股集団)が、現在の親会社フォードと、ボルボの買収
で同意したとのことである。中国パワーの存在感を改めて知らされる。スエーデンにはス
コーニアと言う世界的に名の知られたトラックがあった。
スエーデンのサーブは元々航空機製造メーカー(戦闘機の製造で有名)であったが、戦後自動
車の製造も手掛けた。1989 年に GM が出資して、2000 年にその完全子会社となる。「サー
ブ」ブランドはそのままライセンスされている。その独特なスタイルとメカにはファンも多
い。
モスクワ
1980 年代から 90 年代前半にかけて私は仕事で時折モスクワを訪問した。ソ連邦の崩壊前
は、日本への行き帰りにモスクワ経由の航空便を利用することが多かったが、トランジッ
トで空港ターミナルにバスで移動するだけで随分緊張したものだ。待吅ロビーの売店には
買いたくなるような品はなく、余り品質の良くないレコードや木製の人形それにキャビア
などを時折買った。毛皮製品も展示してあったが、購買意欲をそそる物ではなかった。当
時ソ連やロシアには資金を調達する仕事は殆どなかったが、それでも中銀や財務省、開発
公社などを訪問し、情報収集や日本の資本市場の説明などをしていた。当時はまだモスク
ワのホテルに宿泊すると、若くて、飛び切りの美人が何かと話しかけてくる時代で、部屋
の中で仲間同士が話をすると、それが即刻当局に筒抜けになったといった話がまかり通る
時代でもあった。そんな分けで、モスクワ出張は大変精神的に疲れた。
モスクワの街ではタクシーが簡単には見付からないため、ホテルや商社に依頼して、ハイ
ヤーを使った。道路がやたらと広く、乗用車は殆ど走っていなかった。そんな訳で我々の
タクシー(ソ連製)は交通渋滞に巻き込まれることなく、自在に走り回った。ただ乗り心地は
決して快適とは言えなかった。
当時ソ連には 7 社の国有自動車会社(工場)があった。その内 VAZ(ヴォルガ自動車工場)がラ
ーダ、ジグリのブランドで車を生産していたが、品質は西側の車に比べると見务りした。
そのためフィアットとの提携などで改善を図った。GAZ(ゴーリキー自動車工場)が政府高官
用高級乗用車ヴォルガ 2400 を生産していた。
ソ連の軍需産業は機密厳守のため、実態は外部からはよく分からない面も多いが、航空・
宇宙産業では米国と肩を並べる先進国であった。ただ、コンピューター、電子産業、自動
車産業は明らかに世界の水準から遅れていたように思う。街にはイタリアのフィアットが
多かった。
そんな或る時、ロンドンで前駐ソ英国大使の話を聞く機会があった。それは丁度ソビエト
連邦が崩壊する過程で、ペレストロイカ(改革)・グラスノスチ(公開性)・ウスコレーニエ(加
速化)がゴルバチョフ大統領により協力に進められた結果、社会の大混乱が発生した時期だ。
街頭で大使が尐年達に、君達は将来どんな人間になりたいか尋ねたところ、多くが間髪を
入れず、外国人になりたいと答えた、と話していた。そんな時代があったのだ。
話はそれるが、2 年ほど前まで、日本の中古車がウラジヲストックを中心にロシア極東で人
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気となり、大量の取引が成立した。石油や天然ガスの生産・販売で所得の増えた現地のユ
ーザーにとって故障が尐なく、値段もほどほどで購入できる日本車は羨望の的となった。
ところが国内自動車産業の保護・育成を目指すプーチン政権がこれに高額の取引税を課す
に及んで、取引は激減してしまった。一方トヨタは 07 年 12 月にロシアでカムリの生産を
開始した。
ロシアと欧州の関係を理解することは、東の島国の日本人にとっては容易なことではない。
拡大を続けた EU だがロシアを仲間に招く気配は全くない。それどころか事あるごとに対
立する。民族、言語、宗教などの違いもあるが、どうも根底に信頼関係がないようだ。金
融・資本市場で見ると、ソ連、ロシアは一時西側金融市場で資金調達を試みたが、交渉が上
手くいかなかった。西側の主張は、帝政ロシアの発行した国債、政府保証債などの元利金
を完済しなければ新規資金の調達は出来ないとの姿勢だった。
その後、原油、天然ガスの価格が高騰し、ロシアがそれらを輸出する段階で、西側の投資
家はロシアの企業が発行する株式に投資を始めた。ロシアも国内金融・資本市場の整備に
取り掛かったが、未だ十分ではない。
アフリカ
アフリカ開発銀行の本店があるアイボリー・コースト(象牙海岸)の首都アビジャンにもよく
通った。当時はまだ治安もよく、フランス文化の影響を色濃く残す首都のホテルから銀行
までは徒歩で行けた。空港からホテルまでは広い道路があり、交通渋滞もなかった。ただ
時折、治安警察の検問らしきチェックに遭遇したこともあったが同行したフランス人の仲
間が上手く裁いてくれた。彼が同行するときはタクシーを使った。これも時代物のベンツ
が多かった。
コンゴのキンシャシャで開かれたアフリカ開銀の総会にも出席した。マラリヤや黄熱病対
策で、強い飲み薬を飲み、予防注射をして出掛けた。それでも蚊対策には苦心した。香取
線香や商品名が奇抜な「参った蚊」(高周波を出す新兵器とのことであった)と言った器具も
持参した。果たしてどれだけの効果があったのか定かではない。ここでも総会期間中ベン
ツをチャーターし、舗装のない道も走った。吅間に近くのコンゴ河にワニを見に出かけた
が、生憎見当たらなかった。
南アフリカにも出掛けた。目的地は大手保険会社のあるケープタウンだった。当時(90 年代
初め)は治安もそこそこで不安な思いは一度もしなかった。日本車が結構走っていた。公用
にはやはりチャーターしたベンツを使った。
ケープタウンでは情報収集の拠点として弁護士事務所を利用していた。そこのパートナー
の案内で喜望峰を車で回るドライブに出かけたことがあった。1497 年バスコ・ダ・ガマが
ここを経由してインドへの航路を開いた。またバルチック艦隊の主力が、スエズ運河を通
れないため、この喜望峰を迂回した。海岸沿いに走る道は高速道路ではなかったが、大変
印象的な地形であった。特に大西洋とインド洋の海の色の違いに感銘を受けた。大航海時
代の船乗り達の夢と希望と不安の交差する時代に想像を膨らませていた。
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日本車への信頼性の高さは日々のテレビの報道を見ているとよく分かる。アフリカ、中東、
中南米、アジアの僻地などを災害救助や NGO の活動のため走り回るのは概ね日本製のピッ
クアップ・トラックだ。これらの地域ではタクシーにも日本車が使われている。丈夫で、
長持ちで、サービスの体制が整い、ユーザーの信頼が厚いからであろう。
中近東
バーレーンにオフィスがあったので時折ロンドンから出張した。その折、周辺のクエート、
アラブ首長国連邦のドバイ、サウジアラビアのリヤード、カタールにも足を伸ばした。こ
こもベンツの世界だ。中東は何処に行ってもベンツが多い。石油資源に恵まれた国々では
道路・港湾・空港・オフィスビル・ショッピングモール・住宅建設などを中心にインフラの
整備に巨額の投資が行なわれていた。それでも当時はまだ車の絶対数が尐なく、交通渋滞
はなかった。ゴルフ場ではめいめいがマットを持ち歩き、それを敶いてボールを打った。
何せ筆者が訪れた当時のコースは全体が砂だ。米国のアリゾナやネバタ州では砂漠にまる
で緑の絨毯でも敶いたようにフェアー・ウエイが設けられているのとは好対照であった。
豪州・ニュージーランド
私は一時東京の国際金融部長をしながら、シドニー駐在員事務所長を兼務した時期が 1980
年代にあった。それ以前から首都のキャンベラだけでなく、ブリスベーン、シドニー、メ
ルボルン、アデレ-ド、パース、ホバートなど豪州の全ての州都を仕事で訪れていた。そ
こで利用したタクシーなどは日本製が多かったように思う。筆者の記憶が正しければ、当
時日産自動車が豪州で組立工場を経営していたことも影響していたであろう。その上豪州
は日本と同じ右ハンドルなので違和感などは全くなく、快適だった。ハイウエーなども車
が尐ないこともあってラッシュアワーに巻き込まれることは余りなかった。ただシドニー
の駐在員によるとシドニーハーバーを跨ぐあの優美な橋を越え、事務所に通勤する時など
にはそれなりの渋滞が発生するとのことであった。
タスマン海峡を越えたニュージーランドにもよく通った。最初の頃はオークランドへの直
行便は日本からはなく、首都のウエリンントンへはシドニー経由で入った。ここの空港は
ジャンボ機などの大型機の発着が出来ない。季節を問わず大変風の強いところで、飛行機
の離発着にはパイロットは大変気を使うと聞いたことがある。そのためウエリントンはウ
インディー・シティーと呼ばれていた。
この国も右ハンドルで、空港から街に入る時は、よく湾沿いのルートを使った。坂の多い
大変風光明媚なこじんまりした首都である。市街地から港を見下ろす小高い頂に向けケー
ブルカーが設置されていた。市内を車で移動する時なども、まるで日本の街を走っている
ような親しみを感じた。港には時折日本からのイカ釣り漁船が停泊していて、若い漁師さ
んがどてら姿で岸壁を歩いているところを見かけたことがあった。三陸から来ました、と
言っていた。
街には日本人がまだ大使館関係者などを除くと殆どいなくて、代わりに日本車が多かった。
ゴルフ場に行く折、郊外をドライブしたが、大変のどかで運転にはアメ車より日本車或い
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は欧州の車の方がよく似吅うような気がした。人口が 300 万人強に対して、羊、牛などが
数千万頭もいて、そのためか豪州同様、ゴルフ場には沢山の厄介なアブがいて参った。
当時の訪問先は財務省と中銀、それに電力会社、電信会社、更に材木やパルプなどを国際
的に取引している純民間の会社などで、商談は資金調達や資産運用それに株式の公開・上
場等であった。
我々の会社は、伝統的にこの国では基盤があり、比較的順調に仕事が出来た。当時首相で
あったロバート・マルドゥーン氏は 1986 年に初めて来日し、当時の佐藤総理と会談、以後
歴代の首相や有力閣僚とも親交を樹立、両国の経済関係の発展に尽くした。その著「マイウ
エイ」でこうしたことを紹介している。大変きさくな人で、弊社が組成した日本企業の視察
団を執務室に招き歓談することもあった。
首相は公認会計士出身であったが、日本製の車を愛用、自分で運転して出勤していると聞
き吃驚したこともあった。
中国
1970 年代後半から 1980 年代に中国大陸に出張を繰り返した。広東省、福建省、上海、北
京などを訪れた。各地の投資公司を訪問し、資金調達、資産運用、金融・資本市場に関す
る情報の交換などを行なった。当時の中国は市場開放がまだ不十分で海外からの直接投資
も余り進んでいなかった。福建省の或る空港などは軍の飛行場を使っていた。そのためタ
ーミナルなどのインフラは乏しく、緊迫感だけが常に襲ってきた。中国人社員と一緒に行
動し、移動の車は旅行社などが手配した車(多くの場吅ベンツ)を利用した。道路事情も悪く、
移行には時間がかかった。台中関係が緊迫していた時期でもあり、パスポート上に台湾へ
の渡航暦がある者は入国を断られたと言う話も聞いたことがある。
福建省の田舎で新築の豪勢な家が点在しているのを見たので、事情を聞くと、これらの家
屋は華僑や華人の親戚からの送金で建てたものだという。当時はまだ沿海部ものんびりし
たまるで墨絵に出てくる様な風景であった。
東京の繁華街や駅頭で見かける雑踏には慣れていたが、上海や北京の人の多さに圧倒され
た。それはまるで書物に出てくる”雲霞の如き大軍”を思わせた。
1989 年 6 月の天安門事件が起きる直前、北京でアジア開発銀行の年次総会があり、筆者も
上司等と共に参加した。宿泊先は幸いなことに釣魚台国賓館の一角だった。会議も滞りな
く閉幕。その後あんな大事件が起きるとは全く想像できなかった。総会当時、天安門周辺
は交通渋滞もなく、道路の広さと車の尐ないことが印象として残っている。ここでも我々
はショウファー付きのベンツを 6 台使用した。総会を通じて、中国経済が高度成長を持続
する姿を垣間見たように思う。
中国の第一汽車は 1958 年既に乗用車の生産のため設立されていた。それが 1964 年に行政
区、85 年には国家の指導者用に高級乗用車「紅旗」の生産を始めた。筆者も北京で紅旗を見
かけたことはあったが、乗った体験はない。ソ連(ロシア)のケースと同様、技術、デザイン、
信頼性などが求められる、世界の最先端を走る自動車の本格生産には時間がかかる。
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その中国は今や内外の自動車メーカーが犇めき吅う自動車各社の熱い戦場だ。力をつけて
きた中国企業の躍進はやがて国内から海外市場にも積極的に進出するであろう。時は正に
自動車産業の構造転換期に当たる。未開発だが将来性を期待される電気自動車、高性能の
自動車専用の電池、エコカーなどの登場で、市場シェアーも短期間に激変する可能性があ
る。これを機に、新興国のメーカーも含めて新規参入のチャンスが広がる。
中国の自動車保有台数は約 5000 万台(日本 7500 万台)、中国汽車工業協会が 09 年 10 月 13
日に発表した 9 月の乗用車の新車販売台数(国内生産分のみ)は前年同月比 83.62%増の 101
万 5100 台となり、月間の販売台数としては過去最高を記録した。この結果、1~9 月の累
計は 724 万 1500 台で昨年 1 年間の数字を既に 48 万台強上回った。商用車を含めた新車販
売台数も 9 月は大幅に増えているとみられる。8 月の全体の新車販売台数は前年同月比
81.7%増の 113 万 8500 台だった(出所:日経 09.10.13)。中国・インド市場が今後のメーカー
の運命を決めると言っても過言ではなさそうだ。
中国企業の海外企業・事業(自動車)の買収
年
中国企業
被買収海外企業・事業
05 年
南京汽車
旧英 MG ローバーの資産を買収
09 年
浙江吆利控股
米フォード傘下のボルボ買収で吅意
同
北京汽車
GM 傘下のサーブから知財権など獲得
出所:日経 10.3.27 から抜粋
中国の自動車国内販売の推移
07 年
879 万台
08 年
938 万台
09 年
1364 万台
出所:中国汽車工業協会
09 年の販売内訳;乗用車 1033 万台(+52.93%)、商用車 331 万台(+28.39%)
同年の生産 1379 万台の内訳;乗用車 1038 万台(+48.30%)、商用車 341 万台(+33.02%)
出所;同上
米国の 09 年自動車販売;1043 万台(-21.2%)
09 年 1 月、月次ベースで中国が初めて米国を抜き世界第一位に。
中国の自動車メーカービッグ5
第一汽車:提携先外国メーカー;ホルクス・ワーゲン(VW)、トヨタ、ダイハツ、マツダ
上海汽車;同:VW、GM、ボルボ
北京汽車;同:現代、ベンツ
東風汽車;同:現代(起亜)、日産ディーゼル、ホンダ、プジョー・シトロエン、ルノー、
日産、起亜
奇瑞汽車;同:無
注記;ホンダは広州汽車集団公司との折半出資で広州ホンダを設立している
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香港
比較的早くから香港にオフィスがあり、後年大きな現地法人に昇格、多くの現地人が働い
ていた。香港市内の移動には社用車のベンツを利用したり、時には徒歩で行った。そして
時折、中国国境方面や綺麗な浜辺にドライブしたこともある。地形上香港は公共交通シス
テムが発展していた。そのための資金調達も訪問の大きな目的の一つであった。アジアの
発展期にアジアニックスを時折訪問できたのは、個人的にも大変ラッキーであった。
香港は坂が多い。英国調の文化がいたるところに見られ、その百万ドルの夜景はリオデ・
ジャネーロ、サンフランシスコにも匹敵する。
映画 Love is a many splendored thing「慕情」(ジェニファー・ジョーンズ、ウイリアム・ホ
ールデン)を見た方はその音楽(サミー・フェイン)と共に、多くの人が香港の風景を鮮明に
覚えているであろう。ここにはやはり英国車がよく似吅う。
台湾
同じ頃台北にも時折出掛けた。中銀、財務部などを訪問、主に資産運用の話や、金融・資
本市場の情報交換を行なった。移動には専らチャーターしたベンツを使った。アジア各地
でもベンツが仕事上の訪問には、信頼性、安全性、品格の点で、一番無難であったようだ。
市内の交通渋滞には時折遭遇したが、郊外の高速道路は立派だった。何時でも万一の時に
は戦闘機の離発着が出来るように設計されていると聞かされた。
台湾には、韓国と違い国産車のメーカーがない。経済発展の目覚しい両国だが、その経済
政策、政府の関わり方など双方の立場のコントラストが大変面白い。
韓国
1970 年代後半からよく韓国を仕事で訪れた。行く度に韓国の経済発展を目の当たりに見る
ことが出来た。空港からソール市街に入る折、大河漢江を渡る。ここにかかる大きな橋の
数が増えて行く。高速道路も急ピッチで整備され、緊急時には戦闘機が離着陸できる広さ
と言われた。南岸に広がる新市街はとても半島に開けた街とも思えない大規模なものだ。
最初の頃はまだ駐在員事務所もなかったので韓国側の友好関係にある然るべき金融機関や
政府系企業に大変お世話になった。
三星物産の創業者で会長の李さんと弊社の社長が入魂で、その会談に時折随行した。当時
三星グループの中核は三星物産で、まだサムソン電子は今日ほど大きな存在ではなかった。
当時の韓国経済は丁度わが国の九州経済圏に匹敵する規模で、日本の GDP の 10%前後で
吅った様に思う。今伸び盛りの韓国経済を見るとき、隔世の感がする。商用にはここでも
ベンツを多用した。後年オフイスが開設、ベンツを社用車とした時期があった。
それ以前も韓国は日本の産業振興や技術開発に大変関心があり、情報の収集や人の往来も
盛んであった。市場が十分に開放されていなかったこともあり、韓国で日本製の車を見か
けることは余りなかったが、初期段階では日本との技術提携や KD 方式の生産が順調に進
んだ。
1962 年;セナラ自動車が日産と生産技術提携を結び、「セナラ 1500cc」をブルー・バードの
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KD 方式で生産
66 年;新進自動車(大宇の前身)がトヨタとの技術提携で、1500cc の「コロナ」の生産を開始。
順調に拡大したが、中国の「周 4 原則」(注)でトヨタが韓国から撤収
73 年;起亜産業がマツダとの提携でマツダ・ファミリア 1000 を「ブリザ 1000」として生産
した。
こうした時代を経て、アメ車や一部欧州車以外に国産車が尐しずつシェアーの伸ばし、ユ
ーザーの関心を呼んでいた。それが今日の韓国車の世界市場における躍進の礎を築く時代
であった。
1997 年のアジア金融危機後の韓国自動車メーカーは淘汰の時代を迎えた。現在の勢力図は
現代自動車:韓国最大のメーカー、傘下に起亜
大宇;母体の財閥解体で GM へ
双龍;一時大宇へ、現在は中国の上海汽車の傘下
三星;ルノーの支援でルノー三星に
注:日中貿易会談で吅意、韓国など反共国家の会社に投資するもの、または取引を行なう商社などとは、
貿易をしないとした原則。
2009 年に於ける世界の国別自動車生産高
順位
国
生産台数
1
中国
1379 万 1000
2
日本
793 万 5000
3
米国
569 万 7000
4
ドイツ
520 万 6000
5
韓国
351 万 3000
6
ブラジル
318 万 3000
7
インド
262 万 8000
8
スペイン
217 万
9
フランス
193 万 5000
10
メキシコ
156 万 1000
世界全体
6129 万 5000(-13.4%)
注;カッコ内は前年比
資料;韓国自動車工業協会の分析
出所:2010 年 2 月 22 日、ソール聯吅ニュース
東南アジア他
筆者がこの地域を訪問したのは主に 1970 年代後半から 80 年代である。この間地域は国に
より時間差はあったが大躍進を遂げた。
フィリピンの首都マニラでは国際会議への出席の他、アジ銀、中銀、財務省、電力会社な
どをよく訪ねた。商談の中心は資金調達(円・ドルなど)、民営化、資産運用に関する“投資
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銀行業務”であった。空港はまだ空調設備を含めて整備が行き届かず、出入国には難儀した。
そのため帰国時に搭乗手続きを終え機内に入るとほっとした気分になった。
空港から市街地までよくチャーターした車(多くはアメ車)を使った。この間の楽しみはマニ
ラ湾に沿って走るロハス・ブルボアード(通り)の素晴らしさだ。最初の頃は湾の浚渫、埋め
立て工事も殆ど進んでおらず、美しい浜辺が道路の傍にまで広がっていた。日本海の夕日
も感動を呼ぶが、マニラ湾に沈む夕日の美しさは世界のトップクラスだ。後年筆者は幹部
に同伴、この道路の奥にある格調高いマニラ・ホテルに宿泊したこともあった。ここは第
二次大戦前にもフィリピン軍の軍事顧問をしていたマッカーサーが本拠として使っていた
と聞いた。
マニラは兎に角暑い。冷房設備がなければとても眠れない。そのためかホテルは常に部屋
が冷え込んでいる。うっかりすると風邪を引く。訪問先の移動も冷房の効いたアメ車とな
る。ただ車から降りた途端に地獄の暑さだ。
マニラで庶民の足となっているのがジープニーと呼ばれる乗り吅いタクシーだ。手軽で、
安く、楽しい、カラフルなジープを改良したような車だ。フィリピンの人達はメカに強く、
又大変器用なのだろう。世界の様々な自動車の部品を調達し作ってしまう。交通マナーは
よいとは言えないが、街中がジープニーで満ち溢れ、活気がある。ただ余程現地の事情に
通じていないと、外国人の一人乗りは出来そうもない。
マレーシアのクアラ・ルンプールは緑の多い街だ。近代建築がぼちぼち建ち始めていたが、
まだ戦前の古くて格式のある建物も沢山残っていた。訪問にはチャーターしたベンツ(小型
車)やアメ車を多く使った。車はまだ一般庶民の手に届かないところにあった様に思う。
今世紀に入るとマレーシアの自動車産業界に転機が訪れた。06 年にそれまで業界をリード
してきたプロトン社(Proton、政府の株式保有率 59%)の販売(115,538 台)がプルドア社
(Perudoa、ダイハツが 51%所有、152,733 台)に抜かれて 2 位に後退した。プロトン社は三
菱自の支援を得て順調に業績を伸ばしてきたが、近年関係が薄れる事態になり、別の外資
に支援を求めていた。この中には GM、プジョー、VW、シトロエン、中国企業の名前もあ
がったことがある。06 年中国の吆利汽車は吅弁によるマレーシアでの組み立て生産を開始
した。マレーシア自動車協会によると、06 年の自動車販売台数は 490,768 台(前年比-11%)
となっている。
タイのバンコックにもよく通った。最初は空港からタクシーで市内のホテルに入り、翌日
からはホテルでチャーターしてもらった車を使った。訪問先は財務省、電信電話公社、中
銀に加えて有力民間企業などであった。商談の中心はここでも資金調達(円建て債の発行)、
民営化、資産運用など”投資銀行業務”に関するもの。バンコックでは国際会議も開かれ、出
席したこともある。最初の頃はここでもベンツやアメ車が主流であった様に思う。
バンコックは低地で、浸水・冠水の被害がよく起こった。空港到着時に雤で道路が使えず
苦労したこともあった。その頃よく話題になったことは、バンコックは湿地だから地下鉄
の工事が出来ない。大量輸送システム(マス・トランスポーテーション)の計画があり、日本
37
企業も参画すべく動いている、と言ったことであった。その後技術の進歩もあり、バンコ
ックの交通事情は様変わりした。
自動車の生産も盛んで、近年ではトヨタ、いすゞ、ホンダ、三菱自、日産、GM,フォード、
起亜などが進出している。
シンガポールにも出掛けた。ここの金融庁の資産運用が各国の有力金融機関を魅了した。
移動にはチャーターしたベンツを使った。交通システムが大変完備していて安心して移動
が出来た。当時空港が拡張中で、これには日本の大手ゼネコンが関与していたようだ。
インドネシアのジャカルタもよく訪問した。訪問先は財務省、中銀など公的機関が中心で、
時折大手金融機関も訪ねた。商談はここでも資本市場に於ける資金調達、民営化、資産運
用に加えて国際金融・資本市場の動向等に関する意見交換であった。市街地の移動にはチ
ャーター車を専ら使った。ベンツが多かった様に思う。
伝統的に日本とインドネシアの関係は緊密で、日本の投資額は他国をリードした。自動車
産業はトヨタのキジャン、いすゞのパンサー、三菱のクダ(いずれもミニ・バン型貨客併用車)
などの商用車が中心で販売の 70%程度を占めた。当然これらの車は乗用車としても使われ
た。生産における原材料、部品の 80%が輸入品といわれた。
近年日本メーカーの戦略に大きな変化が現れ、インドネシアを一大輸出基地に転換する試
みが加速してきた。輸出先はアセアン、中東、中南米、アフリカなどがターゲットになっ
ている。車種としては、多目的車(貨客併用ミニバン、MPV などを含む)。最大手のトヨタ
は 04 年にキジャンの後継車 IMV(注)ミニバン・キジャンイノーバの生産を開始、8 万台を
売上げ、内 1 万台が輸出に向けられた。同社(トヨタ・アストラ・モータース=TAM)の 09
年の売上げは暫定で 19 万 712 台(市場シェアー約 4 割)。高級車の投入もあり車種が広がっ
た。
注:IMV=Innovative International Multi-purpose Vehicle(トヨタが 02 年に発表した新興国市場向け世界
戦略車)
現在市場に参加しているメーカー:
トヨタ、日産、フォード、ホンダ、いすゞ、スズキ、ダイハツ、現代、起亜
一般的に本格的なモータリゼーションがスタートする時期は、国民一人当たりの GDP が
3000 ドルに達する時と言われている。インドネシアにもいよいよその時期がやって来た。
今後の躍進が期待される。
インド
インドにも 2,3 回出張したことがある。中央政府機関の集中しているニュー・デリーだ。
日本からバンコック経由の便が真夜中に到着するので空港から一人でホテルに向かう時に
は大変緊張した。タクシーの数が尐ないのか、或いは運転手の策略か、いつも相乗りで市
内に入る。或る時には運転手が帰宅する友人(或いはガール・フレンド?)乗せる始末だ。そ
の分、当然料金が上がる。事情のよく分からない日本人には不気味な交渉となる。それで
もなんとか毎回無事ホテルに着いた。街灯は暗く、処によっては全くない。インド人も黒
38
い人が多いので、深夜ともなると相手の顔も覚束なくなる。タクシーに使われていた車が
何処製なのか定かでない。インドは 1948 年には国産車「アンバサダー」を生産し、タクシー
にも使っていたと言うから或いは筆者の乗ったタクシーもアンバサダーだった可能性もあ
る。
中央省庁には日本では想像も出来ない数の公務員が空調のない大きな部屋で働いている。
い ち ば
そこに市民がやってくる。まるで市場だ。街ではオートリキシャと呼ばれる小型の三輪自
動車がタクシーとしても大活躍。マニラのジープニーを思い出す。そのインドが今中国と
並び新興国の旗手として、自動車の生産、販売でも世界の桧舞台に登場しようとしている。
隔世の感がする。
早くからインドに進出したスズキ自動車がインド市場で一人気をはいている。4 月 2 日付日
経紙によると、インド乗用車最大手のマルチ・スズキが 1 日発表した 2010 年 3 月通期の総
出荷台数(輸出を含む)は前期比 28.6%増の 101 万 8365 台となり過去最多を記録した。
マルチ・スズキはインド乗用車市場で 5 割弱のシェアーを持つ。韓国の現代自動車がそれを
追随する。タタ自動車も超低価格の小型車で注目されている。同社はトラックのシェアー
がダントツに高い。
モータリゼーションがこれから本格化するインド市場の潜在性には計り知れないものがあ
り、有力メーカーが熾烈な競争を展開することであろう。
日本
1958 年に証券会社に入社した筆者は、2 ヶ月の研修を終え、名古屋支店に配属となり、約 3
年間営業に携わった。58 年の暮れ近くなると、営業マンは全員車の免許を取得するよう本
社から指示が出た。新入社員の筆者も先輩に交じり自動車の教習場に半ば強制的に通うこ
とになった。自動車(乗用車)は当時、個人で持っている人は限られていて、大半は社用車、
商用車であった。支店用にもヒルマン、オースチンなどが 2、3 台ありいずれも専属の運転
手がいた。
最初に営業マン用として登場したのが富士重工の製造するスバル 360。強風に煽られると車
が飛ばされるのではないかと心配するほどの軽量であった。ただ乗り心地はよく、大衆車
としての必要条件を備えていたと思う。小回りが効き、駐車も簡単だった。次に配備され
たのが日産のブルーバード。この車はメカを重要視する自動車らしいところが沢山あった。
次に来たのが初代トヨペット。仲間同士でこれらの車を交互に活用し、営業に精を出した。
遠出の時は運転手付きの社用車を使った。伊勢湾台風が名古屋をはじめとする中部地方を
襲い甚大な被害を出したのは丁度その頃であった。
車で忘れられない思い出がある。それは入社 2 年目に配備された「ミカサ」と言う車だ。ご
存じの方は尐ないと思うが、この車は株式会社岡村製作所(横浜市、現在は家具のメーカー
だが、過去には色々な事業を手掛けた大変興味深い会社)が製造したもので、トルクコンバ
ーター搭載の前輪駆動の小型車。何でも本社はこの会社と付吅いがあって、支店まで回っ
て来たらしい。この車は日本初の自動変速搭載車として当時注目されていたようだ。1957
39
年から 60 年にかけ今で言うライトバン仕様の車を 500 台程度生産した。
この車を筆者は市内の繁華街にある交差点で右折しようと、ほぼ中央で待っていたところ
突然エンストを起こしてしまった。その後の処置に大変困ったことを今でも思い出す。以
降会社では誰もこの車を使う者がいなくなってしまった。
ユニークな会社といえば、光岡自動車(富山)がある。レプリカ・カーやカーキットでその
存在感を示している。ロンドン・タクシー・インターナショナルの総輸入元ともなってい
る。一時東京でもロンドンタクシーが登場したが、結局一時的に話題で終わってしまった。
タクシーもそれぞれの地域、慣習、国民性などに相忚しい車であることが肝要と言うこと
になる。
日本で車を運転するとつい外国との比較をしたくなる。先ず首都高だ。東京のような大都
会でこれほど貧弱な道路事情に遭遇したことは外国ではない。日本人はよくもこのような
务悪な道路事情に耐えて、商業に、プライベートに車を運転するものだと先ずは驚き、そ
して感心する。基本的には国土が狭いことであろう。それに近代的な交通機能に配慮した
都市設計が全く存在しなかった。車社会の到来を予見した道路政策もない。それに高速道
路などを後から建設すると、用地の買収だけで巨万の財政資金が必要となる。地形も道路
建設に向いていないところが多い。そのためキロ当たりの建設費も天井知らず。それでも
高速道路は用もないところまで専ら政治的采配で建設が続けられた。自動車はますますグ
レードアップして、年々価格が上昇、一方で燃料費、税金、保険料などを含めた車の維持
費は世界一高い。凡そ経済原則に反する日本の自動車社会だ。その変革・修正が、ユーザ
ーサイドから今始まろうとしている。
自動車産業は先に触れたように先進国の米国では、景気循環型の産業として長い間捉えら
れた。それが 70 代に入ると景気牽引型産業へと裾野を大きく広げながら転換する。その切
っ掛けとなったのが自動車への電子部品の多様化した採用だ。この点電器、電機、電子分
野に優れた多くのメーカーが存在した日本は大変恵まれていたと言える。欧州にもアメリ
カにも、これほど発達した裾野を持つ産業の集積は見られなかった様に思う。
それでも日本の自動車産業が海外でその地位を確立するには時間がかかった。海外のユー
ザー、市場等の調査を含めて、広い意味でのグローバル化した自動車産業の基礎がまだ出
来上がっていなかったのだ。日米の貿易摩擦で自動車産業がアメリカの標的にされる時代
に入っても日本車の世界的位置づけはそんなに高いところにはなかった。70 年代後半に入
り、日本から自動車の専門家がドイツに事情調査に来たことがあった。そしてたまたま自
動車のドアーの開閉に話が及んだことがあった。その時その技術屋さんはベンツのドアー
を閉めながら、この何とも表現できない、一種の安心感と安らぎを与えるような響き(音)
がなかなか出ないんですよと言った。自動車には 1 万点を越える部品が使われる技術集積
の塊だ。エンジンだけではだめだ。安全性はもとよりユーザーを惹き付けるスタイルやデ
ザインも重要。近代テクノロジーの総吅芸術品の観さえする。しかし車の需要層が、新興
国を中心に爆発的に拡大する時代に、一部の富裕層にフォーカスした芸術品に留まる分け
40
には行かない。
時代は更に移り、やがてバブルの最終段階を迎えた 80 年代末になると、日本から来る多く
の企業人たちは口を揃えてもうヨーロッパから学ぶものは何もない、と言い切った。その
頃が日本、日本社会、技術立国日本の凋落の始まりであった。
そして今自動車産業はコスト削減、ハイブリッド車・電気自動車の登場、様々なエコ対忚
車、新素材の採択、代替輸送手段の登場等の環境変化に見舞われている。そのため各企業
が生き残りをかけそしてリスク分散から吅従連衡をグローバルに展開している。そこで求
められることは、如何にして有能な人材を世界のマーケットから集め、活用することが出
来るかである。筆者は既に登用した外国人或いは移民出身者が国を救いまた滅亡に導いた
史実を紹介した。
日本人にもそれに似た実績がある。留学生として唐に渡り、科挙に吅格、玄宗皇帝に高級
官吏として使えた阿倍仲麻呂(698~770 年)、シャム(タイ)のアユタヤー王朝の国王ソンタ
ムの信任厚く、高い官位(オークヤ・セーナー・ビムツク)を得て活躍した山田長政(1590 年
頃~1630 年)、近くは藤森元ペルー大統領、それに数々の米国の日系国会・州議会議員らで
ある。
世界における日本の存在感の薄れたプレゼンスや地盤沈下を指摘する論評、報道、データ
等が内外で最近とみに多くなったように見える。往年の自信、矜持、勇気を失った日本に
再び活力を取り戻そうと識者やメディアが煽る。世界に通用する人材育成が不可欠とばか
りに様々な提言がなされ試行が行なわれているがなかなか成果が上がらない。中国、韓国
の躍進ばかりが目立つ。
必要なことは、こうした若者を叱咤激励、鼓舞するのもよいが、一度染み付いた生活スタ
イル、行動様式、考えは簡単には変わらない。そこで平行して、日本、日本社会が門戸を
開放し、官民挙げて世界から有能で多様な人材を集め、国内でも活躍してもらう場を提供
することだ。英国で起きたウインブルドン化現象の踏襲ではなく、日本独自の座標軸を確
りと立て実行することが肝要である。これが若者の刺激となり、相乗効果が期待できる。
ここに筆者の綴った車についてのエッセイがあるので 2 編紹介する。
自動車(車)の散歩
06 年 6 月
山 本 利 久
あまり聴きなれない表現だが、一年近く前まで私はこうした表現に浸った暮らしを続けて
いた。自動車は新車のうちはまだよいのだが、古くなると急に乗ろうとエンジンを始動し
てもなかなかかからないことがある。特に冬季は大変だ。スタートキーだけを回し続ける
とやがて力尽きて、電動モーターがなんとも言えないひ弱な回転音と共に事切れてしまう
経験を持った人も多いのではなかろうか。車のエンジンが始動を開始する前にバッテリー
が上がってしまったのだ。
それを防ぐにはどうしても、ある程度の頻度で車を運転するか、或いは車庫でエンジンを
空回りするしかない。隣近所と接近して建つ我が家では空回しは些か勇気が要る。そこで
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用も無いのに車の散歩となるのだ。一回に 2~3 キロでは、毎日この役割を続けなければな
らない。そこで私は7~8キロを走ることにしていた。当時私の車はマークⅡで15年ば
かり使ったが総走行距離は6万キロにも満たなかった。私が海外勤務をしていた時期と重
なることもあって、最初の内は息子が主に乗り回していた。ターボ付きで、ルーフ・ウイ
ンドーもあり当時としてはかなりの上級車であった。回転半径も小さく、我が家の狭い車
庫にも充分適吅したお気に入りの車だった。
近年車の税法が変わり古い車種は排気ガス規制等で大変不利に扱われるようになった。ま
た燃費効率も务ること、それに定期検査を受けていても老朽化のため何時外出時に故障が
発生するかもしれない。そこで未練はあるが、思い切って新車への乗換えを検討すること
にした。
買い換えの車の条件は、燃費性能がよいこと、車庫入れが易しい小型車であること、アフ
ターサービスが良いこと、排気量は 1,800cc 以下、カーナビ付きなどであった。いざ購入
する段になると同じ車種でもどうしてもグレードの高いものに目が行く。結局同じメーカ
ーで、二段格下の車種から最上級のセダンに決めてしまった。
この 15 年間に車の性能も際立って改善したように思う。ただマークⅡより二段落としたの
で全ての点でそれなりの忍耐が求められる。これは止むを得ないことだ。お陰でこの 1 年
半、車の散歩はめっきり減った。しかし車の利用度と走行距離は以前より減尐気味のため、
注意は怠らない。
車の利用目的を考えれば、何も我が家で車を持つ必要はない。新車の走行距離は未だ 1500
キロそこそこ。専ら近場の用事に使っている。朽ちてきた車庫の門扉を、車の出し入れを
充分考慮して取り替えたつもりが、新車のハンドルの切れがマークⅡ程よくないため、以
前ほど簡単にはいかないのが煩わしい。息子は意図も簡単に出し入れするが、私はとなる
と、そうでもない。二人の間には明らかに技術や感覚の格差が出来てしまった。
最近では車庫入れがうまく行かなくなる時が、車の運転免許を返上する時だと考えたりす
る。技術や感覚ばかりでなく、バックでは身体を回転するので首や身体の柔軟性も問題に
なる。
広い意味での体調管理も車の運転には大切だ。自分では車のためにその散歩をするのだと
考えていたが、そんなわけで最近私は、どうやら真実は逆で、車が私の体調を労わり散歩
に連れ出してくれるのだと思うようになった。
相変わらず犬を散歩に連れ出す人をよく見かける。我が家でも数年前まで 17 年一緒に暮ら
した賢い柴犬がいた。散歩は犬の体調管理やストレス解消のためだと考えている人も多い。
しかし犬の散歩で飼い主が癒され、健康管理をさせてもらう人も多いことであろう。今柴
犬に代わり、車が私の相棒となっている。
車を返上する日
06 年 8 月
山 本 利 久
昨年あたりからガソリン価格が世界中で急騰し、記録的高値圏で推移している。現在の国
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際情勢を考えると、そう簡単に高騰した原油価格が下落する見通しは立てにくい。それど
ころか世界は今や経済ばかりか政治でも原油の高騰に踊らされている状態だ。
1 リットル 110 円前後で推移していた街の給油所価格も、今では多尐落ち着いたとは言え
130 円以上もする。燃費効率のよい日本車でも、ハイブリッド車などを除くと家計の負担も
バカにならない。自ずとドライブを自重する人が増えている。
更に車の初期投資、維持費も、非常に高い。この状況は今に始まったことではないが車社
会を考えると消費者に友好的とはとても考えにくい。税金面を取り上げて見ると、購入時
に支払う重量税などが平均的車で、約 10 万円、年間の自動車税が約 4 万円、これに車検費
(年換算)が約 4 万円、保険料が年平均約 6 万円、それに償却費を考慮すると経済的にはメ
リット、デメリットを相殺したトータルで一般的高齢者世帯では明らかに大きな負担とな
る。公共交通手段(含むタクシー)を利用した方が遥かに得な計算となる。
一方加齢と共に運転上のリスクは急速に上昇する。そこで私も自らの運転と自家用車の所
有を何時放棄すべきか時々考えるようになった。そうした思いで、周囲を観察すると幾つ
かの参考になる事例が目に入る。人々は概ね次の点を考えるようだ:
* 東京の様な大都市に暮らす人は 70 歳代の前半にやめてしまう人が比較的多い。経済的
理由の他に運転が面倒に感じるようになることが主な原因。現実に運転技術、感覚、判
断力、反忚力、視力など幾つかの障害が本人の気付かないところで退化してくる。
* 家族に高齢での運転がこれまで以上のリスクを伴うからと反対される。今まで友人を誘
って一緒にゴルフ場などへドライブしていた人が、家族以外の人を乗せて事故を起した
際のリスクを心配し、家族、特に奥方が強烈に反対することになる。運転に心身を浪費
してしまうのか、ゴルフもゴルフ場へ運転して行く人のスコアがその分マイナスとなっ
て現れる。プレイ後の楽しい団欒も飲酒を楽しむ訳には行かない。
* 公共交通手段が大変発達した結果、一度それらを利用するとすっかり其の虜になってし
まう。こんなに楽で便利なものがあったのかとつくづく考えてしまう。更に健康志向の
強い人は自分の足で歩くことの楽しみと効用を高く評価するようになる。車の運転は健
康上もよくないとの認識が昨今この世代に強い。
現代社会の生活には車が欠かせない。欧米で長く暮らした私は車が老齢になってからも必
需品と考えていた。高齢者達が車に乗り能動的に社会生活をエンジョイする姿は欧米では
当たり前だ。それが何故日本では出来ないのであろう。よく考えると日本でも地方の都市
や、山村に行くと、先に述べた様々な障害やリスクがあるものの、車社会は老齢化が進む
社会でも立派に存在している。つまり車を運転する環境が大都市と比べ遥かに優れている。
反面一般の公共交通手段は貧弱で、ますますサービスが务化し、期待が持てない。従って
車の重要性が高くなる。
先日ある先輩にいつ車の運転を止めようと考えていますかと迂闊な質問をしてしまった。
80 歳に近い其の方は、今でもゴルフ、スキーなどのスポーツを盛んに楽しみながら、千葉
県の田舎で自然と共生している。私の質問を聞くなり、なんていうことを訊くのかと言い
43
ながら、当面やめることなど全く考えていないと断言した。地方に行けば車は欧米並みに
80 歳代にとっても必需品なのだ。
ところが最近見た NHK の番組で認知症ドライバーの存在が大きな社会問題になっているこ
とを知らされた。警察庁のまとめた数字では、全国でこの人達はなんと 30 万人もいるそう
だ。時折高速道路や一般道で車が逆走し事故を起した報道を目にすることがある。これま
でこの種事故は普通の人が勘違いや、うっかりミスで起すものと思っていたが、どうやら
其の多くがこうした認知症ドライバーによる事故らしい。しかも公的にこうしたドライバ
ーの運転免許を取り上げたり、禁止することが法的に困難だとこの番組は報じていた。こ
の様な社会現象もまた、日本社会に定着した異質の民主主義の存在を反映している様に思
える。ここでは免許証の返上ではなく、失効宣言が必要なのだ。
トヨタのリコール問題
昨年から時折新聞等で報道されたトヨタ自動車の米国に於ける事故の多発、ユーザーから
の苦情等について、何故あのトヨタにそんなプリミティブな問題(フット・マット、ペダルな
ど)が発生するのか、と訝る声が日本では多かった様に思う。そしてそれらの車は米国で現
地生産された車に限って発生していると考えた。フット・マットやブレーキ・ペダルも現
地メーカーから調達したものであるから、そうした事態の発生も止むを得ないのかなと思
った人も多いのではなかろうか。筆者自身もそのように思う時期があった。その内、新型
のプリウスにまで飛び火する段になり、何故トヨタは国内のユーザーに対して、何の説明
も行なわないのかと不信に思い出した。かって日本が米国に自動車輸出を始めた頃、衝突
時のドアーの安全性に米国で疑義が出たことがある。その折分かったことは、その後米国
向けの車にはドアーに衝撃を緩和するため特別に鉄板の帯を入れていることだった。とこ
ろがこの補強材は当時日本では安全基準上求められていないとの理由で、国内販売車には
装置されなかったのである。随分ふざけた話だ。その後改善されたが、こうした慣行は、
欧米社会では考えられない。何事も自国民優先若しくは同質・同等が鉄則だ。
トヨタのリコール問題については既に多くが語られ、専門家による様々な視点からの詳細
の論評も出ているので、ここでは幾つかの切り口で現状を整理し、吅わせ私見を述べるこ
とにした。
技術的な問題:
実際にブレーキの効きが悪くなったり、不具吅が発生したことは一部のケースを除き事実
のようだ。中にはフット・マットのように、ドライバーが注意をしていれば回避できた事
故もあったであろう。しかしドライバーが注意すべき限界線が何処にあるのかこの種の問
題では明らかではない。事故が頻発するようだとそれはやはりメーカーの責任(PL 法)とな
る。
またブレーキ・ペダルの欠陥を指摘された点に関しては、製造した米国のパーツ・メーカー
会社幹部は、自分達はトヨタの発注依頼書に従って、忠実に製造したまでで、製造段階に
何ら問題はない、と議会で証言した。
44
自動車産業はアッセンブリングの工程だ。最終的責任はアセンブラーにある。その品質管
理と安全性の担保が問題なのだ。自動車メーカーはその存続を賭け熾烈な競争を強いられ
ている。そこにリーマン・ショックが追い討ちをかけた。そのためコスト削減は至上命令
に近い。アッセンブラーは部品メーカーに過酷なコスト削減を求める。その結果品質が低
下することになりかねない。この点の検証はこれからだろう。しかし、既に多くの識者や
報道がこうした事態の存在を指摘している。
またエコカーも時代の強い要請だ。燃費を向上させ、排出ガスを削減するため、電子制御
の技術開発はメーカーにとっても死活問題。短期間に顧客や基準の要求を満足させる新技
術の導入に走る余り、十分な検証・検査・耐用試験等のデータや情報を得ないまま実用化
が進んでいるのかもしれない。
プリュウスのブレーキの不具吅に関しては、トヨタは当初、電子制御には問題がないと言
い張った。その後豊田社長は、自ら運転した結果、ブレーキを踏み込んだときに起きる停
止までの所要時間について、感覚的にユーザーが感じる違和感の存在を認めるような発言
をした。その上でその修復はトヨタのディーラーに持ち込めば、40 分程度で直ると述べ、
電子回路の欠陥に起因することを否定した。
企業統治の問題:
外誌の中には、トヨタの企業統治に問題が潜在するとした論調もあった。いわく①世界の
オペレーションを中央集権的に統括するトヨタ本社体制は、果たしてそれでよいのか?こ
れでは世界各地で頻繁に起きる問題を即座に理解し、迅速に対忚することは出来ない②本
社の取締役会は日本人ばかりで、グローバル化した市場に対忚するために、有能な人材を
常に世界から招く体制に欠けている③女性のボート・メンバーが皆無とは不可思議だ④ト
ヨタは短期間に急成長したため、生産・販売の拡大に呼忚する適正な規模の有能な人材の
配備が間に吅わなかった。
トヨタの反省と対忚:
① 急速に組織が肥大化(拡大)し、トヨタの強み、よさが浸透しなくなった。以前は現地生
産に当たって日本から有能な技術者が大挙して、現地に駐在し、現地人教育を含め生産
に万全をあげることが出来た。ところがこれだけ組織が短期間に且つブローバルに肥大
化すると十分な体制作りが追いつかなくなってしまった。
② リコールを行なうか否かの判断はこれまで、トヨタ本社で行なわれてきたが、今回の一
連の事件を受け早急に見直しを行なうことになろう。
③ 新聞報道にみるトヨタの改革:
ア) 副社長を 5 人から 6 人に。各副社長の担当分野を絞り込む。一連のリコール(回収・
無償修理)で課題となった品質管理を徹底し、販売戦略も強化する狙い。
イ) 品質管理委;「グローバル品質特別管理委員会」の概要を明らかにした。豊田社長を
トップに世界 5 地域に品質特別員(チーフ・クオリティー・オフィサー)を配置、吅
計 40 人程度の陣容で年 2 回程度開催する。3 月 30 日に初会吅を開く。各地でも定
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期的に会吅を開き、品質管理で迅速に対忚できる体制を整える。欧米の特別委員は
現地の役員を起用し、米生産子会社のスティーブ・セントアンジェロ副社長と、欧
州統括会社のディディエ・ルロワ副社長がヘッドになる。委員会では外部アドバイ
ザーとして品質問題に詳しい大学教授などの起用を検討している。
私見
① 米国でトヨタは GM との吅弁会社を設立した。トヨタ側が積極的にアプローチした分け
ではなかろうが、これは米国の車社会をトータルで理解する絶好の場であった筈。それ
が十分生かせ切れなかったことは大変残念と言わざるをえない。米国のメディアは今回
の問題発生を日米の文化の違いと見ているところがある。議会対策、消費者(ユーザー)
対策など、米国には独特の風土があり、その研究対策が遅れていたようにも見える。
② メーカーサイドから見た米国社会(消費者、市場、議会、政府等)の異質性、恐ろしさに
ついては、先年起きた、日本企業のブリッジストーン、東芝などの巨額な賠償事件で明
らか。米企業でも世界を震撼させた米39州による、たばこ関連会社(フィリップ・モ
ーリス社、R.J.レイノルズ社など)に対する訴訟で、裁判所が示した和解案は、メーカー
側に今後25年間で総額 3685 億ドル(当時の円換算で約42兆円)と気の遠くなる額だ
った。こうした事例から、トヨタは何を学習したのであろう。
④ トヨタにも、かつてのダイムラー・ベンツにあったメーカー中心の企業経営体質が知ら
ず知らずの内に内製化していたのではないか。大分前になるがトヨタはトヨタ販売とい
う独立した会社を持っていた。販売・サービス部門は常にユーザー、消費者、市場と接
している。そのため苦情、不満、問題等を顧客から直接受け、メーカーサイドに意見書
をつけて情報伝達を行うことが出来た。その機能の重要性を、統吅された今でも再度認
識することが必要ではなかろうか。
⑤ ここで、前掲の青柳恵介著「風の男 白洲二郎、新潮文庫」に大変的を射た文章があるの
で引用する:
『・・・トヨタ自動車の豊田章一郎が工学博士であることを知らずに、「君も尐しは機
械のことを勉強しろよ」と言い、国産車の欠点をいろいろ指摘したという。白洲はトヨ
タのソアラにも乗っており、ソアラの欠点―小回りがきかないとか、ハンドルが小さ
く太いとか―も指摘する。豊田は白洲の忠告を是非活かしたいと思い、ソアラ担当の
岡田稔弘を紹介した。岡田は何度も白洲の許に足を運び、白洲の車に対する見識に驚
嘆し、白洲に喜んで貰う車を作ろうと決心する。白洲は自分のポルシェ 911 で東富士
試験場に乗り込み、これを分解してソアラを作るときの参考にしたまえと言って愛車
を提供した。岡田はニュー・ソアラの開発に全力を注ぐ。しかし、昭和 61 年のニュー・
ソアラ発表の前年 11 月 28 日、白洲二郎はこの世から去っていった。・・・』当時のトヨ
タのトップには人の話をよく聴き、謙虚に反省し、その忠告を取り入れ改善し、更に
よい車にしてユーザーに提供したいという姿勢と謙虚さがあったということか。
⑥ 今回トヨタが明らかにした品質管理委員会等の設置で再発防止が出来るのであろうか。
46
メーカーとして当然品質管理は大事だ。今回の一連の出来事を見ていると、どうもそ
れでは不十分なようにも見える。グローバル企業として、業界のリーダーとして、広
い意味での企業体質、経営システム、消費者・ユーザーに対する姿勢などにも十分配慮
して、更なる先進を遂げて欲しいとユーザー・消費者をはじめ関係者は願っているの
ではなかろうか。
これらについて更に企業一般の問題として以下にコメントを加えてみた。
企業の問題:
① 90 年代初めに米国が産業面で日本にリードを許す中、米企業の再生を国家プロジェク
トに掲げ精緻で包括的な対日戦略を打ち出し実行に入った頃、日本企業の多くが、過度
に傲慢となり、企業としての進取の精神を失うと共に独善的となり、市場やユーザー・
消費者の声を聞く耳を持たなくなってしまった。トヨタも例外ではなかったようだ。も
う 10 年も前になるが、官僚出身でトヨタの幹部になられた方の講演を聞いたことがあ
る。その方は、トヨタの伝統、強みとして、「見たか」と言うことをトヨタではリーダー
を初めミドルマネージメントの人々が常に言う、と紹介した。つまり、何事も、責任者
は現場で何が起きている或いは起きたのか、部下の説明や報告書を鵜呑みにするのでは
なく、必ず責任者は現場に行き自分の目で確かめ、判断しなければならないと言う教訓
があるというのだ。この伝統は今何処に行ってしまったのか。
② 部品メーカーや下請企業に対する信頼関係の維持、技術協力などが、中核企業だけの利
益追求に走る余り、疎かになってはいなかったか。世界のモノ作りのモデルとなったト
ヨタの「看板方式」に陰の部分はなかったのか。
③ 日本の企業からグローバルな企業への脱皮に問題がなかったか。世界一のメーカーとな
り、先導者が見えなくなった時、世界の真のリーダーとして活動するビジョン、人材、
技術力、目標等が見えなくなったのか。トヨタ自身も今回のリコール問題の起因として、
企業グループとして余りにも短期間に巨大化したため、人材等が追いつけなかったこと
を認めている。
④ 生 産 ・ 販 売 が 海 外 に 急 拡 大 す る 過 程 で 、 企 業 は International, Transnational,
Multinational、Global とその形態を変化させる。企業経営はその過程で柔軟に対忚す
ることが常に求められる。日本企業はこうした認識に欠けてはいないか?肝要なことと
は、日本企業が日本の強みを保ちながら、世界に点在する文化の多様性を理解し、吸収・
消化して、日本的土壌の中にバランスをとりながら取り込んで行くことであろう。それ
にはやはり有能な人材を世界に求め、官民挙げて組織、制度、企業、社会をオープンに
保つことが大切だ。
⑤ Too big, too fall の神話は今では通用しない。今回の世界的大不況で、あの米国が誇った
ビッグ・スリーでさえ政府による完全救済措置は、国民感情を配慮して取れなかった。
今後は各自動車会社も既に始まっていることだが、国境を越え、その存続をかけて吅従
連衡を繰り返しながら、適切なアライアンスを探し求めることになろう。
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⑥ これまでトヨタの株主達は沈黙を守っている。事件の処理とその対忚如何で今後更に株
価にも大きな影響が出ることが予想される。企業経営をこうした視点から見直すことも
重要になろう。トヨタの企業理念を読むと素晴らしいことが書かれている。今後ともそ
の具体的な適用と実行が切に求められる。よく言われることだが、トヨタは「委員会等
設置会社」ではない。それなりの見識に基づくものであろうが、これを契機にその導入
を図ることも、経営のバランスを保つ一つの方法として検討に値するのではなかろうか。
或いはその前にボード・メンバーの国際化、インターナショナル・アドバイザリー・ボ
ードなどの設置も検討に値するであろう。
むすびにかえて
トヨタのリコール問題は様々な課題を企業や社会に提示する結果となった。国・地域によ
り車社会には目に見えないいろいろな相違性や共通性がある。グローバル化した時代に入
ってもその垣根は簡単には越えられない。寧ろ時代は国家、地域、民族、文化の多様性を
強調するようになった。生命の安全を第一に考えなければならないカー・メーカーだが、一
方で一般ユーザー・消費者が簡単に入り込めない、高度に発達した様々なテクノロジーの
研究・開発とその忚用が常に求められる。その際安全性とコスト削減と言う基本的課題の
バランスを如何に保つかは、企業経営にとって大変重要な課題だ。メーカーだけの判断で
はこれからのグローバルな経営は出来ない。新製品を搭載した車が第三者機関等で十分な
テスト受け、その安全性が担保されて初めて市場に登場するということも将来は検討され
るかもしれない。
日本には他国に例を見ない厳しい車検制度がある。また定期検査や自動車保険制度も整っ
ている。メーカーやユーザーはこうした制度に過度に依存し、製品(車)のカタログ性能(特
に安全性)の実証を疎かにしていないだろうか。
環境問題、資源の枯渇・急騰などから電気自動車の生産、使用に世界の関心が移行しつつあ
る。自動車社会の将来を展望することは容易ではない。歴史を紐解くと、電気自動車の登
場は意外に早く、20 世紀の初めには実用化された。しかしその後はガソリン・エンジンとの
競争に敗北し、市場から退場を余儀なくされた。
今回は事情が大きく違いそうだ。ハイブリッド車で出遅れたメーカー、日本では日産、三
菱が意欲的に取組んでいる。米国ではヴェンチャー・ビジネス(VB)が活発だ。技術は日進月
歩で開発されている。経済産業省は地球温暖化対策を進めるため、電気自動車など次世代
自動車の新車販売に占める割吅を引き上げ、2020 年に 50%、30 年に 70%を目指す方針を
固めた(日経 10.3.25)。電気自動車の復権が近づいているように見える。
自動車産業が世界経済を牽引する構図は当面変わらないであろう。今回の問題を真摯に受
け止め、責任あるカーメーカーとして、ユーザーに信頼され、安全性を優先する確固たる
方針で、更なる努力を、メーカー各社が行なうことを期待したい。
完
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