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解読
ジェフリー・バワの建築
スリランカの「アニミズム・モダン」
岩本弘光
彰国社
著
まえがき
思い起こしてみれば、いつ巡り合ったかわからない 1 枚の建築写真が、記
憶の底に潜んでいる。雑誌の行間に埋もれてしまいそうな小さなその写真を
見た時、美しい内部空間に目を奪われた。ル・コルビュジエの「サラバイ邸」
を想起したが、見覚えのないプールのある居間や、ヴォールト天井の微妙な
プロポーションの違いが心の隅に引っかかったまま写真の存在は忘れ去り、
いつしか時が流れた。
10 年ほど前、ある雑誌の記事に目が留まった。スリランカ人建築家ジェ
フリー・バワ(Geoffrey Bawa)。インド洋に浮かぶ小さな島で、見たことの
ない美しい建築をデザインする初めて目にした建築家の名前だった。世界中
の建築情報がほぼ洩れなく伝わる日本で、何故に今まで知らなかったのか。
日本の建築ジャーナリズムは何をしていたのだろうか、知らないのは筆者だ
けだったのだろうか、との思いをかき消すようにすぐさま彼の作品集を探し
たが、驚いたことにバワに関するまとまった作品集や刊行物は日本ではただ
の 1 冊も出版されていなかった。海外の出版状況を調べてみると 2 冊のバワ
1 冊は B.B. テーラー(Brian Brace Taylor)による
作品集が見つかり、
『GEOFFREY
BAWA』で、バワの名声の火付け役を果たした通称「ホワイトブック」と呼
ばれる絶版本だと後に知った。いま 1 冊は、D. ロブソン(David Robson)に
よる『ジェフリー・バワ ザ・コンプリート・ワークス(geoffrey bawa:the
complete works)』で、海を越えて届いた大部の本はバワ建築を網羅した内
容で、見慣れない島の地図を片手に、すぐさまバワ建築巡りの計画を立て始
めた。ほどなくして、無造作に開いたページの写真に目が吸い寄せられて、
ふいに言いようのない既視感に打たれた。ああ、あれだ。それは居間にプー
ルのある不思議な建築の写真だった。遠くおぼろげな記憶とバワが結びつい
た瞬間だった。
2009 年 8 月に初めてスリランカに降り立って以後、渡航を重ねて彼が設計
したホテルに泊まりながら作品を訪ね歩いて、更にはバリ島や南インドまで
足をのばした。作品を巡るにつれて、『ジェフリー・バワ ザ・コンプリート・
ワークス』の翻訳をどうしても手掛けたくなり、ロンドンの出版元トーマス・
アンド・ハドソン社(Thomas & Hudson)から版権を取得したが、肝心の日
本の出版社からは何度となく断られた。それなら自分で書いてみようか、と
無謀にも思い立ったのがこの本を刊行する直接のきっかけであった。
ここで、本書の立ち位置を正確にプロットするために、筆者の立場を明ら
0 03
かにしておかなければならない。筆者は建築家の端くれであり、大学で建築
0
設計と計画系講義の教鞭をとっている。建築の研究分野では特定の建築家の
10 20 30 40 50km
作品を論ずるのはいわゆる「作家論」に属する。一般にこの分野は建築史家
や建築批評家が得手としており、筆者はこの分野の専門家とはいえないが、
バワについてはどうしても書きたい欲望が背中を後押ししたのである。従っ
N
インド
て本書の視点は、アジア、モンスーン気候、米、仏教、伝統建築、木造文化
などスリランカと同じ属性を持つ、
「日本の建築家から見たバワ建築の解
ジャフナ
Jaffna
読」
、に据えることにした。
バワ建築に限らず、実体験なくして建築空間を理解することは叶わず、ま
して語ることは決してできない。写真はといえば、建築空間が湛える空気感
を印画紙に焼き付けることは極めて困難であり、
解説文もまた補足にすぎず、
マンナール
Mannar
その傾向はバワ作品に特に顕著であるといってもよい。そして、この実体験
バブニア
Vavunia
と写真の乖離にこそ、バワ作品を解き明かす糸口が潜んでいたことを後に知
トリンコマリー
Trincomalee
るのである。
ミヒンタレー
Mihintale
残念なことに遅れて列車に乗った筆者はバワと面識がなく、残された建築
アヌラーダプラ
Anuradhapura
と資料だけが頼りの一人旅である。もっとも、偶然にも途中で心強い味方が
リティガラ
Ritigala
現れるという幸運に恵まれたのであるが、それは後述することにする。
1950 年代以降に設計されたバワ建築は、大切に受け継がれてきたものばか
アウカナ
Aukana
プッタラマ
Puttalam
ヤーパフワ
Yapahuwa
りではなく、時間の経過とともに持ち主が変わって醜く改修され、歴史にそ
パンドゥワスヌワラ
Panduwasnuwara
の名を刻んだ名作は解体の憂き目に会い、または熱帯の強い湿気と白アリに
侵されて、自然に朽ちて無残な骸を晒しているものもあって、現存する作品
ダンブッラ
Dambulla
って記述することにする。
ナーランダ
Nalanda
マータレー
Matale
キャンディ
Kandy ヌワラ・エリヤ
Nuwara Eliya
ニゴンボ
Negombo
バワが生涯に手掛けたプロジェクト約 200 案のうち、実現した作品は約
シギリア
Sigiriya
アルビハーラ
Aluvihara
クルネーガラ
Kurunegala
は一様ではないが、本書では原則として筆者が実際に体験したバワ建築に限
ハバラナ
Habarana
ポロンナルワ
Polonnaruwa
バドゥッラ
Badulla
150 案で、そのなかから重要だと思われる 25 作品を選定して本書に掲載し
バワ作品を捉えたのかを正確に伝えるためである。但し、既に解体済みのも
アルガム・ベイ
Arugam Bay
コロンボ
Colombo
た。本書には全て筆者が撮影した写真を掲載する。筆者がどのような視点で
ピドゥルタラガーラ山
Pidurutalagala
スリ・ジャヤワルダナプラ
(コーッテ)
Sri Jayawardenepura(Kotte)
の、撮影不許可のもの、偶然にも手に入った竣工当時の貴重な様子を写した
スリーパーダ山
Sri pada
ワッドゥワ
Wadduwa
写真は例外とする。加えて、ロンドンの A.A. スクール留学中に、イタリア
カタラガマ
Kataragama
ベントータ
Bentota
アフンガッラ
Ahungalla
古典建築に大きな影響を受けたバワの体験は、少なからず筆者のイタリア留
ティッサマハーラーマ
Tissamaharama
ヒッカドゥワ
Hikkaduwa
学と重なるところがあり、この点も本書の特徴になるかもしれない。
ブドゥルワーガラ
Buduruvagala
ゴール
Galle
バワ建築は深淵である。知るごとに深まりを増す作品の奥行きと深さの広
ハンバントタ
Hambantota
ミリッサ
Mirissa
マータラ
Matara
タンガッラ
Tangalla
がりは、増幅を繰り返して留まるところを知らない。とどのつまり、バワ建
築の解読とはスリランカの複雑な歴史や風土を紐解くことに他ならないので
あって、筆者の力量を超えた試みであるが、少しずつ歩みを進めることとし
たい。さあ、インド洋を渡ってきたモンスーンの洗礼を浴びながら、熱帯の
島スリランカの未知なるジャングルに分け入ってみよう。
0 04
鉄道
主な河川
空港
山岳地帯
主要道路
主要都市
遺跡
主要な山
0 05
3章
まえがき 0 0 3
吹きわたる風 バワ作品 25 題 087
1章
01 光のラビリンス No.11 088
スリランカと建築家ジェフリー・バワ
02 南スリランカの散居 ドクター・シルバ邸 10 0
01. スリランカの風土 010
03 軽やかなスクリーン ビショップズ・カレッジ 104
02. スリランカの歴史と建築 016
04 市中の山居 イナ邸 108
03. バワはどのようにしてバワになったか 04 2
05 沈黙なる饒舌 チャペル・フォー・グッドシェファード・コンベント 116
0 09
エッセイ 1 ウルリックへのインタビュー 050
07 巨岩の原始小屋 ポロンタラワ・エステート・バンガロー 130
08 インド洋に君臨するランドマーク ベントータ・ビーチ・ホテル 140
2章
バワ建築を理解するための 10の視点 055
01. スリランカ的なるもの 056
02. アニミズム 060
03. バワの建築思想 063
04. 場の解読 066
05. シンハラ建築とモダニズム建築の接点 069
06. 隠れた秩序 072
07.
06 愛され続けるバワデザイン ギャラリー・カフェ 12 4
形のない形 075
08. 境界の喪失 07 7
09. 建築語法 079
10. 美の源泉 082
エッセイ 2 イスメスとの出会い 084
09 追い出されたリビング セレンディブ・ホテル 148
10 石柱の木造建築 マドゥライ・クラブ 152
11 ハイエンド・リゾートの原形 バトゥジンバール No.5 、No.11 160
12 ケララの落胤 シーマ・マラカ 170
13 穿たれた壁 クラブ・ヴィッラ 174
14 記憶の庭園 No.87 178
15 谷間の協奏曲 インスティチュート・フォー・インテグラル・エデュケーション 184
16 水へのオマージュ トリトン・ホテル 190
17 国家のデザイン:シンハラ的なるもの 新国会議事堂 198
18 丘陵のシンフォニー ルフヌ大学 202
19 インド洋に浮かぶヴィッラ・ロトンダ コースト・ハウス 2 10
20 風景のプロセニアム カンダラマ・ホテル 2 14
21 海辺の中庭 ライトハウス・ホテル 2 26
22 水に浮かぶ回廊 ブルーウォーター・ホテル 234
23 形のないカタチ 赤い崖の家 2 4 4
24 バワの遺言 ラスト・ハウス 252
25 夢想の庭園 ルヌガンガ 260
エッセイ 3 “4 姉妹 ” は誰が設計したか 270
原図集 272
巻末資料 バワ年表、作品案内地図、文献リスト、索引 325
デザイン=水野哲也(Watermark)
あとがき 336
目次
03. バワはどのようにしてバワになったか
ウルリックはバワ幼少期の様子を「ジェフ
リーはミゲルのような使用人に囲まれて、子
供のころから何不自由なく育ち、欲しいもの
大航海時代の子、バワ
イルの大邸宅(図 60)に行き、多くの使用人に
習う前に覚えた
は何でも手に入った。自分がすべきことは使
バワが歩んだ建築家への道のりは尋常では
用人たちに命令することだけだった。」と筆
ない。建築家に憧れて学校で建築を学び、設
者とのインタヴューで述べている。
計事務所でトレーニングを積んで独立した
囲まれて育った。バワが 7 歳になった時、南
長じて、バワは兄ベイビスに背丈では及ば
後、ひとかどの建築家として世に名を残す、
バワの出自とその生涯は、1 冊の小説さな
インドから連れてきた彼と同じ歳のミゲル
ないものの身長は 6 フィート(約 180cm)をゆ
としたお決まりのルートとは全く異った破天
がらに歯切れのいい起伏に富んでいる。実の
(Miguel)をバワ個人の召使いとして与えら
うに超す、スノビッシュな匂いを漂わせた痩
荒なものであった。
ところ、彼の生まれと育ちは彼の作品に負け
れていた。彼は貧富の差が激しいスリランカ
身長躯の人目を引く美男子となり、外見から
ず劣らず、あるいはそれ以上に、絵巻物のよ
社会で、特権階級に生まれ育ったのである。
は西洋人にしか見えなかったそうである。
うな物語性に富んでおり、その生涯はことの
余談ではあるが、面白いことにミゲルはど
迂遠な話になるが、建築家としてのバワの
同じ道を歩ませることを決めた。彼はコロン
こで覚えたとも知れない素晴らしいフランス
出自に想いを巡らすと、知らず、伝統的数寄
ボの王立カレッジに入学した後、1938 年にイ
先にも触れたが、ジェフリー・バワ(Geoffrey
料理を作る腕前を持っていたが、本人は終生
屋建築の近代化に尽力した日本の建築家吉田
ギリスに送られ、ケンブリッジで英語を、次
Manning Bawa)は裕福なムスリムの弁護士ベ
カレーしか口にしなかったそうである。ミゲ
五十八が想起される。「太田胃酸」を創薬し
いでロンドンで法律を学び、1946 年に正式な
ンジャミン・バワ(Benjamin Bawa)と、バー
ルは 56 歳で亡くなるまでバワに仕えたが、
た日本橋の裕福な薬屋に生まれ、艶やかな芸
弁護士としてコロンボに帰着した。この時、
ガーの妻ベルタ・マリソン・カンベル・シュ
彼を見舞ったバワの初期のパートナーである
妓衆に可愛がられて育った吉田は、建築家に
バワは 27 歳になっていた。
レダー(Bertha Marison Campbell Schrader)
ウルリック・プレスナー(Ulrik Plesner 1930
なるためは「氏と育ち」が必要だと説いたが、
弁護士としてキャリアをスタートしたもの
の次男として、1919 年、セイロンの首都コロ
年 -)に対して、「本当に申し訳ございませ
バワの生涯はまさに吉田の金言に当てはま
の、法律が自分に合わないと知るや否や、バ
ンボに生まれた。東洋人の血筋を引くムスリ
ん。私はもうすぐ死にます。もうお世話係が
る。繰り返すが、「氏より育ち」でなく、「氏
ワは約束されたあり余る富と名誉を捨てて、
ムの父親と、西洋オランダ人の家系に連なる
いなくなってしまいます(So sorry, soon I’ll
と育ち」である。言うまでもなく、氏とは生
東回りの世界旅行に旅立ったのである。途
母親との混血である。
die, soon no boy )
。
」と述べたそうである。
まれや血筋でその家系が連綿と営んできた系
中、日本にも立ち寄ったようであるが、主だ
言うまでもなく、父親の家系はいつのころ
譜であり、育ちは人格形成期の教育や環境で
った記録を筆者は掌中しておらず詳細はわか
か木造帆船ダウを操舵してスリランカ島に商
あるが、貧しかったセイロンにあって、バワ
らない。ニューヨークに永らく滞在した後、
取引にやってきたであろうムスリム男性とス
は掌から零れ落ちるほどの財力と豊かな環境
旅の最後にはイタリアのガルーダ湖畔へたど
リランカ人女性による混血の末裔であり、バ
に育まれ、氏と育ち双方の恵みを享受して成
り着き、別荘を購入して永住しようと決意し
ーガーだった母親もまた大航海時代に来島し
長したのである。その意味でバワは、吉田を
たが、イタリアの法律上の問題と資金不足に
たオランダ人男性とスリランカ人女性の混血
して建築家になるべくしてこの世に生を受け
より頓挫してしまう。バワとガルーダ湖との
の血を引いている。バワの身体には数百年前
た者とみることもできる。
縁は、1945 年晩夏にケンブリッジ時代の友人
ほか興味深い。
父ベンジャミンはバワが幼少の 1923 年に
亡くなり、残された妻ベルタは息子に父親と
の大航海時代を起源として、東洋と西洋が融
彼を特徴づけた混血かつ非アジア的風貌
ガイ・ストルット(Guy Strutt)に連れられて
合した血脈が流れており、文字通り東西文化
は、同時にスリランカの置かれた歴史的、文
ガイの叔母が住むガルーダ湖に臨む別荘に滞
の合流地点となったスリランカの嫡子として
化的な脈絡の刻印でもあり、何よりもバワ自
在しており、この時バワは初めて、ルネサン
生を受けたということに他ならない。
身、己が何者であるのか悩んだ時期もあった
ス建築の巨人アンドレア・パラディオとイタ
ようであるが、晩年、あなたは何人かと問わ
リア・ルネサンスの庭園に触れたのである。
れて「自分はセイロネーゼ(ceylonese)であ
彼が永住しようと思うほど気に入ったガル
週末になるとバワ兄弟は母に連れられて、
る」と答えている。スリランカ人でなく「セ
ーダ湖とは、古代ローマ時代からアルプス越
ネゴンボにある母方の祖父の広大な庭が広が
イロン人」、しかもイタリア語読み、である。
えの要所である古都ベローナの西側に位置し
バワ作品を理解するキーワードであろうこと
ており、周囲は急峻な山々に囲まれた穏やか
氏と育ち
る広いベランダ付きアングロ・ダッチ・スタ
04 2
が予兆される。
図 60 祖父の邸宅
043
02. アニミズム
060
である天台密教の根本教義は「草木国土悉皆
こうしたアニミズムの清廉な泉を内在し
成仏」として知られており、この教えは、「草
た、バワの建築思想を育んだ島の風土や自然
木国土」つまり森羅万象に宿るとする仏性の
は、彼に格好の建築素材を提供している。そ
在り処の記述ではあるが、その根底は草木国
れが、「水」、「巨岩」、「緑」である。バワ作
土を通したコスモロジーの表象であり、人間
品は押しなべて、特に晩年にその傾向が顕著
スリランカ島には定期的にモンスーンが訪
共感、つまり一種の「アニミズム」ともいう
との調和が容易な穏やかな風土や気候が育ん
であるが、これら自然の造形物である水、巨
れ、実りをもたらす天水は農耕社会を支えて
べき、島の民が共有している自然観の表象に
だ思想であることは明らかである。もとよ
岩、緑などに強く関係付けられている。島の
人々に生活と富を約束し、そこから必然的に
他ならないのである。島には移住者が順に連
り、宗教をはじめとする社会の規範や秩序
風土が生んだこれら天恵とも呼ぶに相応しい
「自然」への親和と畏敬が同時に発生する。
れてきた多くの宗教が共存しているが、
「ア
は、「風土」を中心軸に据えた世界観の表出
自然の造形物はバワ作品がよって立つ空間イ
自然は時として驚異や畏れとなるが、島の自
ニミズム」とはそうした成立宗教が存在する
ともみなすことができるのであり、歴史的に
メージの源泉となって、建築との親和性ある
然はむしろ人間にとって味方であり、大きく
以前の、人間に内在する始源的な自然に対す
見て、建築はこれを空間に翻訳する役目を負
いは擬態といってもいいような一体的な関係
包み込んでくれる存在なのである。バワ作品
る愛着や、畏れ、慰撫する本性であり、自然
ってきたのである。従って、
「アニミズム」
を形成しているのである。
はこの「自然」を中心とした島のコスモロジ
を同心円とした世界観なのである。
は自らを顕現する表現形式として、混じりけ
水
ーと寸分の狂いもなく符合している。柔らか
もとより、アニミズムは人類が暮らす世界
のない始原の姿である「ミニマリズム」を要
な木漏れ日にあふれる「No.11」
(p.088)、吹
のいかなる場所にでも存在する人類共通の普
求するのであり、ミニマリズムはその生成理
バワが生涯を通じて執着したのが「水」で
き抜ける風が心地よい「カンダラマ・ホテル」
遍的な本能でもあるが、農業を背景とするア
由からして、メタ・フィジカル、品位、崇高、
あったように思えてならない。もとより、島
(p.214)、圧倒的にして大らかな巨岩の「ポ
ニミズムの根底には、実りをもたらす水、大
精神性、簡潔、清楚、モノトーンを原理とす
には前 3 世紀にシンハラ人により仏教が渡来
ロ ン タ ラ ワ・ エ ス テ ー ト・ バ ン ガ ロ ー」
地、太陽、樹木、奇岩など、人知を超越した
るのである。それ故に、バワ作品に特徴的な
してくる以前から「水」信仰が存在したので
(p.130)、水に浮かぶ「ブルー・ウォーター・
自然の造形物への「憧憬」や「畏敬」が潜ん
ミニマルなデザイン、例えば、「カンダラマ・
あるから(
『大旅行記 6』* )、水の文化は島の
ホテル」
(p.234)など、どの作品も自然を大
でおり、一般にこれが磐座、ご神木などとし
ホテル」の簡素なフォルム、
「赤い崖の家」
古い伝統であり、また稲作を基本とするスリ
いなる恵みの源泉として捉えており、苛酷な
て原始宗教の信仰対象に昇華していった。近
(p.244)の原始的なシェルターなどの建築表
ランカの根源であるから、彼が水を創作の原
自然に対峙し支配しようとする一神教的自然
代文明の恩恵を受けて生活する現代人はこう
現は、アニミズムが建築言語化した姿と読み
点としたことは自然な成り行きでもある。
観とは明らかに異なっている。
した直感力が萎えて久しいが、島の自然は否
解いて差し支えないであろう。
「ベントータ・ビーチ・ホテル」
(p.140)の
1
ギリシアで生まれ育ち数学的調和理論を美
応なく原始の感覚を呼び覚ましてくれるので
一方、ミニマリズムはシンプリシティーと
中庭の水盤、「トリトン・ホテル」
(p.190)や
学体系とした「古典主義建築」や、近代社会
あり、バワはこれに鋭く呼応して、アニマを
は異質な概念である。シンプリシティーが形
「ブルー・ウォーター・ホテル」にヴェネツ
が生んだ「モダニズム建築」を見慣れた目に
建築に化身させた。彼の自然観は人間とアニ
態上の単純化を概念とするのに対して、アニ
ィア運河の如く張り巡らされた水盤、
「カン
は、バワ作品は中心軸としての建築思想や方
マとの応答を誰よりも鋭敏に感知し、生涯を
ミズムが要求するミニマリズムは、自然が育
ダラマ・ホテル」の断崖にあるインフィニテ
法論がおぼろげで、存在感の危うさを漂わせ
かけて徐々に純化し、建築に移し替えたので
んだ人間の高貴な精神性世界や思想を純化し
ィ・プールなどは、いずれも水が連れてきた
る茫洋とした側面がある一方、これまでの建
ある。バワは人間生来の本能とも呼ぶに相応
た姿なのである。加えて、建築におけるアニ
どこか遠く甘やかな何物かが建築と融合し
築に対する既成概念や理解の仕方に変更を迫
しい、緩やかな自然への敬愛を呼び覚ますア
ミズムは、建築を自然から切り離した理論か
て、バワ作品の空間を決定付けているのであ
るところがあるが、その原因は恐らく
「自然」
ニミズムを、現代の快適な生活、新素材によ
ら弁証法的に秩序正しく構築しようとするの
る。
の捉え方にあるのではないだろうか。彼の建
る未経験の造形、近代的建築技術などを体系
ではなく、自然や風土との呼応から湧き上が
築は自然を圧倒して君臨する存在ではなく、
化したモダニズム建築と融合させて、
「アニ
る、耽美的建築精神や直感的インスピレーシ
自然の中にそっと置き去られて自然の背景や
ミズム・モダン建築」を誕生させた。
ョンを水先案内役にしているのであり、それ
巨岩もまたバワを特徴づける建築言語の 1
巨岩
一部となり、自然との境界を消去しシンクロ
この、建築を「自然秩序との融合」と捉え
が故に、硬直化した建築理論やメッセージ性
つである。巨岩は人間の能力を超えた何物か
ナイズする存在なのである。これは島の自然
たバワの思想あるいは姿勢は、スリランカと
の強いアイコニックな建築形態とは無縁なの
の力や霊力を内在した信仰の対象として扱わ
の「憑依」であって、建築家バワの根底にあ
日本に通底する世界観に照らして容易に理解
である。かくして、バワ建築の思想背景が形
れ、日本の霊山信仰や古代ローマのゲニウス・
る自然美への驚嘆や慈しみとそれらへの強い
ができるであろう。日本に根付いた初期仏教
成されたのではないだろうか。
ロキ(地霊)と呼び慣わした習慣がこれに連
061
10. 美の源泉
彼の鋭い美的感性と鋼鉄の意志を伴った瞬発
葉で生きようとした人間が言葉を捨てたので
力により、建築は大いなる自然の一部分とし
ある。
て新たな役割を与えられたのである。そし
初期のバワ作品はウルリックの影響を受け
て、これが建築家、むしろランドスケープデ
て、明快な架構形式を秩序とする独創的で洗
ザイナーとも呼んだ方が正しいかもしれな
バワ建築は共通してある種の美しさを湛え
の自邸は、地球を半周した離れた地にあって
練された建築であり、明らかに建築を「構築」
い、バワの傑出した才能の証ともなったので
ている。どのような美しさかと問われれば、
もその空間の本質は、やはりバワ作品と何ら
する対象と捉えてデザインしていた。しかし
ある。
それは建築の表層や建築形態にあるのではな
相違するところがない。あるいは、12 世紀
その後、彼は次第に建築から形態を「消去」
バワは恣意的に建築をデザインすることを
い。形の深層に漂う気品ある佇まいから、ど
クレルヴォー修道院長のベルナールが重んじ
して、風景と融和した連続体に変遷させてい
やめて、静かに聴き入る研ぎ澄ました耳と、
こか遠くを見据えたような、
「沈黙なる饒舌」
た清貧と沈黙の美意識が生成した、一切の装
く。建築形態を自己否定するかのように「構
的確に峻別する厳しい審美眼を、島の風土と
とでも呼ぶに相応しいような、穏やかだが雄
飾を排除したル・トロネなどシトー派修道院
築」することをやめて「消去」することを選
自然美を確かに掬い上げる「美の受皿」と呼
弁に語りかけてくる静謐な空間の「匂ひ」に
の透徹した空間はバワ作品の代弁者であろ
択し、代わりに取り込んだのは島の風土と自
んでもいいような媒体に変容させて、作品に
あるといってもいい。こうしたバワ作品の空
う。厳しい戒律で知られる修道院の硬質で抑
然美であった。こうしてバワの建築観の成熟
翻訳していったのである。そのようにバワを
間特性の記述は困難な作業であるが、彼の建
制のきいた空間は、バワ作品の中に見出すこ
とスリランカ島の風土と自然美が結びつき、
突き動かしていったのは、とりも直さずスリ
築空間に身を浸していると、
既視感のような、
とのできる美の空間特性であるといってよい。
いわゆる
「バワらしい建築」
に結実していった。
ランカの風土と自然美なのであり、バワ作品
どこかで近似の空間体験をした記憶がにわか
いずれの建築も、簡潔な表現、抑制された
形ある固い建築を解体して最小限の建築要
デザイン、素材への優れた直観力と構法、合
素にまで還元して、建築を風景に溶かし込ん
バワ作品が湛える美しさは、しかしどこか
熱帯ジャングルに埋もれたスリランカの古
理的な架講形式、洗練されたテクスチャー、
でいくバワの手法は、思い起こせば、「セイ
で見た記憶を呼び覚ます。それがどの場所で
都ポロンナルワの遺構は、強い太陽の日差し
簡潔な色使いなどに建築の共通点を見出すこ
ロン」が紡いできた建築の伝統でもある。
どのような建築や庭であったかはすぐさま思
を受けた繁茂する木々が乾いた大地を潤すよ
とができるが、これらは、美の表象、理性、
北部乾燥地帯にある古代仏教の建築群は、
い起こすことはできないのだが、ある種の既
うにくっきりとした葉影を映し込み、光と陰
客観、抑制、適切な物質、最小限の材料など
かつて南インドのドラヴィダ様式による重く
視感がつきまとって離れない。放蕩の限りを
が織りなすコントラストを背景にして、長い
を重視した建築思想であり、自然に対峙した
鈍重な石塊の建築であったが、時代が下がる
尽くして体験したイスラム建築の珠玉アルハ
眠りから覚醒している。時折、葉擦れのざわ
人間が実直に抱く、畏れ、驚き、感動、歓び
につれて煉瓦積みとなり、やがては木造を取
ンブラ、古代ローマ絶頂期に世界を旅した学
めきや鳥の鳴き声が静寂な空気を破って、訪
など、ある種の信仰心や心象風景をバックグ
り込んだ軽快な吹き放ち空間に置き換えられ
者肌で普請道楽のハドリアヌス帝のおもちゃ
れる人々を現実の世界に連れ戻してくれる。
ラウンドにして成立していると見ることがで
ていった。そうした変遷の原因は様々であろ
箱として名高いヴィッラ・アドリアーナ、訪
木造であったに違いない遺跡の屋根は、強い
きる。新しい建築形態を追いかけることより
うが、強烈な湿気と刺すような日射の風土が
れる者を魅了してやまない石造のイタリア中
湿気と白アリにやられて既に跡形もなく朽ち
も、自然の原理や宇宙の秩序に誠実であろう
選んだ、島の建築がたどり着くべき合理的な
世山岳都市など、世界の優れた建築は、何よ
果て、基壇の上には石の掘立柱が乱杭歯のよ
とする姿勢を淵源とする、建築美の表象に他
帰結点であったかも知れない。いずれにして
りも彼の美意識を満足させ、そこから多くを
うに斜めに林立しているばかりである。神聖
ならないのである。
もバワ作品が示した変遷と帰結は、スリラン
学んだに違いないが、こうした「美の断片」
カ建築史の反芻と見ることも許されよう。
が彼の記憶の底に何重にも折り重なった澱と
に蘇ってくることがある。
082
土に立脚点を置くようになった。いわば、言
はその憑依の姿なのである。
さをも憶える何物かの気配が、静かにそして
そうしてみると、バワ建築の「匂ひ」は何
確実に漂っているのだが、それが何かは知る
に由来しているのだろうか。バワは銀のスプ
バワが自作品の変化をどのように意識して
由もなく、言葉少なにただ徘徊するのが心地
ーンを口に咥えて生を受け、誰よりも恵まれ
いたのかは知る由もないが、「ルヌガンガ」
そして一旦バワの中に建築が孕み胎動を始
よい。こうした気品と清涼感を湛えた空気感
た環境で育ち、若い時より優れた感性と確か
の庭園造りに生きる歓びを見出した彼は、次
めると、美の断片を呼び起こし暗喩となって
は、驚くほどバワ建築の本質を代弁して余す
な審美眼を持った人物として知られていた。
第に島の自然に魅了され、驚異の美しさに耽
作品に表出し、建築美のイメージを形成して
ところがない。
弁護士資格を投げ打って世界へ旅立ち、放蕩
溺していったのではないだろうか。すると、
いくのである。従って、バワ作品は美の深遠
記憶をたどれば、抑揚のある空間ボリュー
の限りをつくして建築巡礼した後に正式な建
「アプリオリな建築と後続する庭園」といっ
な読み解きを要求するのであり、読み解いた
ムの連なりや、光と陰の交錯が静謐な内部空
築教育を受けたが、いわゆる建築理論の虚構
た一般的なヒエラルキーが逆転して、土地の
ものが美を耽溺できるのである。バワ建築の
間に封印されたメキシコにある L. バラガン
には背を向けて、場所性、自然美や歴史、風
アニマの声を聴き届け、地勢を呼び覚ました
美とはそうしたものなのではないだろうか。
なって沈殿しているのである。
083
解体前の貴重な写真。ダイニングからの眺め。イ
ナが持ち込んだ円形の伽藍石が中庭の四隅に見え
る。美しいコントラストの光と影にそよぐ風の気
配。山野を想う都暮らし「市中の山居」
。
※3
居間から妻側への眺め。圧倒的な巨岩の存在が比類のない空間を構成している
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門から続くアプローチ。階段の奥に垣間見せる屋根が、建物の予感を感じさせる絶妙な寄せ
たたきたくなるような空間構成となっており、こ
を架けて内部空間としているが、奥壁の巨岩をそ
北部乾燥地帯には不思議な光景が点在している。
で瞑想や起居の場とし、後にこれが寺院に発展し
れまで見たことのない類いのダイナミックな空間
のまま壁として使用している。
この地域はほぼ平坦で山らしい山はあまり見当た
た。原始小屋の誕生である。
に圧倒される。中央のリビングルームは約 10m
ウルリックは巨岩を利用したバンガローを造る
らないが、平原に突如として巨大な岩が出現して
ウルリックとバワはバンガローを、こうした岩
スパンの巨岩の間に、鉄筋コンクリート製の大梁
べくこの場所を選んだ。正に確信犯である。何故
周辺環境を支配しており、巨岩が土中に埋まって
や自然と一体になったアニミズム的な、
「原始の
1 本を架け渡してメインフレームとし、建物桁側
なら、バンガロー周囲のココナツ農園は見渡す限
おらず、
ほぼ全体が地表に表出しているので、
「大
岩屋」の延長線上に見据えていたであろうが、こ
の木造架構との間に木製垂木を架けて、切妻型の
り平原であって、建物が建つ一角だけが巨岩がゴ
地が隆起した」というよりも「天から巨岩が降っ
れに鉄筋コンクリート造などの現代技術を取り入
シェルターにより内部空間を形成している。建物
ロゴロと積み重なった奇観をなしており、施主が
てきた」かのような印象を受けるのである。有名
れて、スリランカのスピリチュアルな精神性を現
外側の列柱には建具が嵌められておらず、内部が
当初予定していた道路脇の平らな土地でなく、手
なシギリア・ロックはその典型例であるが、古代
代に蘇生することに成功したといえる。巨岩が建
外部に吹き放たれていて内外空間の別がない。モ
間もコストもかかり、敷地測量すらできない困難
よりこうした巨岩はスリランカ人の精神的な拠り
築なのか、
建築が巨岩なのかの問いに答えはなく、
ンスーン時には列柱の桁に吊り下げられた「すだ
なこの場所をあえて選択しているからである。前
所や生活の場となってきた。紀元前 3 世紀に初め
また問いかける意味もない。バンガローは内部な
れ」が下され、風雨の浸入を申し訳程度に避ける
述したように、アヌラーダプラ、ミヒンタレー、
てインド国外に伝わったとされるスリランカ上座
のか外部なのか、これもまた問いかけそのものが
のみである。主寝室は粗石積みの壁上部間に木梁
ポロンナルワなどの古都が位置する、スリランカ
部仏教の修行僧たちは、巨岩の下で雨露をしのい
虚しいのである。
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