ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏逝去 先駆者的仕事を成し遂げた花卉栽培家

ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏逝去
先駆者的仕事を成し遂げた花卉栽培家
ジェノバの優れた花卉栽培家ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏が2008年7月15日、73歳で、惜しまれ
つつ世を去った。数多くの家族、大勢の友人たち、同僚、その素晴らしい才能を賞賛していた人々は悲しみの中
に取り残された。ジェノバで生まれ、セストリ・ポネンテにある家族が営む生花店で花卉栽培家、フローリスト
としての最初の経験を積んだ。それ以来、客の好みが変わりやすい花卉業界で自分の仕事を続け磨きをかけるこ
とを -先見の明を持って-
学び続けた。
最初はカラブリア(ヴィボ・ヴァレンティア)、シチリア(シラクサ)、ピエモンテ(クネオ)そしてリグーリ
アのマソーネ、カンポ・リグーレ、セストリ・ポネンテで数多くの専門的な花卉栽培を発展させた。続いて50
年代半ばには、ジョバンニ・ソンマリーヴァ氏はレヴァンテのリヴィエラ、サン・コロンバーノ・チェルテノー
ニ、フィエスキ(コゴルノ)のカラスコとサン・サルバトーレで、いくつかの実験的な栽培を始めている。同時
期に、市場の品質に対する要求の高まりに応えるため、また地元で生産される花卉の質を向上させるために、ジ
ョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏は南イタリアからは撤退し、結婚直後(1960)にセストリ・ポネンテの店を
離れ、フィエスキのサン・サルバトーレに移った。セストリ・ポネンテの店は現在も氏の兄弟と息子たちが続け
ている。サン・サルバトーレではそれまでの切り花栽培に替わってバラの栽培を専門とする会社を設立した。バ
ラの栽培はピエーヴェ・リグーレに在住していた曽祖父のダヴィデ・ソンマリーヴァの代からおよそ100年も
温め続けてきた昔からの夢だったのである。
バラの品質を向上させ一定に保つために、ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏は最初の温室を建てることを決め、
一方で外国の花卉生産の変化に対応するために新しい栽培技術を試みる試験栽培に専念する準備もしていた。こ
うした信念は1962年の初めての旅の後いっそう強まった。最初の旅行先はオランダだったが、飽くなき知識
への渇望を満たすために、その後アジア、オーストラリア、アメリカ諸国など、はるかに遠い国々にまで足を伸
ばしている。
このような旅の成果の一つにアルストロエメリア(ユリズイセン)の栽培がある。最初の新製品の栽培は70
年代の初め、他の4人の栽培家と一緒に始めた。イタリアでは顧みられていなかったこの植物に思い切って投資
したのである。アメリカ合衆国に行った旅の結果としては、最初のランに手を付け始めたことが挙げられる。経
営していた園芸会社にとって大変重要な決断の一つであった。
ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏は自分の専門分野において、ユーロ・フローラの国際審査委員会(Giurie
Internazionali di Euroflora)の会員であったのみならず、他にもいくつかの外国の園芸協会の会員になってい
た。また、ジェノバ自営栽培家連盟(Coltivatori Diretti di Genova)の花卉部門の会長、ジェノバ地方苗木生
産者協会(Associazione Provinciale florovivaisti Genovese)の会長代行も務めた。一方で私的生活においても、
コゴルノ市のコンサルタント、モンターナ・フォンタナブオーナ地域のコンサルタント、キアーヴァリ-ティグ
ーリオ・ロータリークラブの設立会員であり、ポール・ハリス・イエロー賞を2回受賞している。
ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏について言われているたくさんの「経歴」は、全生涯に渡って、彼が恐るべ
き好奇心の持ち主であり、絶えず学びたいという意欲に燃えていたことを示している。古いものや伝統的なこと
を大切にしていたが、同時に技術革新も受け入れていた。
「花卉栽培家の子孫に相応しく土を愛し、海もまた愛
した。晩年、小船で海に出ることを禁止されたときには、若い頃抱いた昔の愛情に立ち戻った。つまり、飛行機
の操縦許可証を取り、超軽量小型機で飛行したのだ。」
イル・フローリクルトーレの今月号をジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏追悼号とするために、残りのページは
愛娘のルチャーナさんと友人のチェーザレ・セラフィーノ氏に譲りたい。ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏は1
964年、当誌に定期購読申込をしてくれた最初の花卉栽培家の一人であり、発行に必要な仕事をやり通すため
に、なくてはならない励ましを与えてくれた。我々から、そして読者からの心からの哀悼の意をご家族に捧げる。
ブルーノ・ヌンツィアータ
ジョヴァンニ・ソンマリーヴァは空の彼方に飛び去った
しかし、娘の思い出の中に生きている
サン・サルバトーレ、2008年9月25日。今日、父が書いたメモを見つけた。メモは黄色いポスト・イッ
トで、アルバムの内側に張ってあった。「10月4日:68歳、自動車免許取得から50年
超軽量小型機操縦
免許取得」
写真は在りし日の父の誕生日を思い出させる。親友と一緒にメッツァナビーリの航空学校で写っている写真は、
父の最終的な大いなる到達点を示している。つまり超軽量小型飛行機の操縦許可証取得を。
父はこういう男だった。決して、絶対に屈するということのない人だった。父にとって困難というものは、ど
んな場合でも目の前に立ちはだかる障害を克服するための単なる刺激に過ぎなかった。
腫瘍専門医が小船に乗って一人で夜釣りに行くのはもう無理だと言ったとき、父は犬を連れて行った。小言を
言われたので夜釣りは止めたものの、航空学校に入学し試験を受けてパイロットの免許を取得したのだ。
父は信仰の篤い人だった。母に恋し、というより母に夢中で、4人の孫が増えてにぎやかになった家族を愛し
た。
ティグーリオの疾病協会の設立会員、キアーヴァリ-ティグーリオ・ロータリークラブ設立会員、そして温室
クラブとカトリック勤労協会の会員でもあった。
少年時代は恐らく戦争の辛い時代であり、父と弟のジョルジョが直面していたのは花卉栽培の厳しい世界だっ
たであろう。しかし同時に快活で頑固な性格の少年でもあったはずである。父は好奇心に富んだ人間であり変革
者だった。レオナルド・ダ・ヴィンチの天賦の才の熱烈な崇拝者でもあった。
病を得ていたにも関わらず、あるいはむしろそのお陰で、父は人生を、家族、友人、仕事を十分に生ききるこ
とができた。
2006年にあった最後のユーロ・フローラの際に、父は一冊の本(「ジェノバの花卉栽培家の仕事」-R.
ファンチェッラ編
ジェノバのリベロディスクリーヴェレ・スタジオ 64 社刊)を出版した。その本の中には多
くの家族の歴史に混じって、私たちの歴史のあらましも書かれている。私たちの家族が5世代に渡り花卉栽培を
家業としてきたということを父が直接語っており、60年代に初期の実験的な栽培をシチリア、カラブリア、ピ
エモンテでも行ったという父の思い出も語られている。
チェーザレ・セラフィーノ氏の追悼文は、忘れがたきジュリオ・ジョルジ氏のことも思い出させてくれた。父
の人生には、また別な大切な章がある。つまり、地域社会全体が素晴らしい証言をしてくれているように、父は
私たちになみなみならぬ熱意と愛情を示した。
“老境にさしかかった”見知らぬ人々が私に近づいてきて言った
ものである。
「いいえ、気にしないで下さい。私のことは覚えてないでしょう。私がここで働いていたころは、
あなたはこんなに小さかったから・・・。あの頃まだここに家はなくて、グラジオラスを植えていたんですよ。」
父について今書くことはなんと難しいのだろう。娘としての私的な思い出は園芸業界や社会的な義務に関わる
世界の公的な思い出と絡み合い、重なっている。でも、これは長女である私の責務だと思う。私の前に男の子が
生まれていたが、滅多にかからない背骨の病気で一歳のときに亡くなっている。他には3人の弟妹(エンリーカ、
アレッサンドラ、セルジョ)がいるが、私が今進んでいる花卉栽培の道は、弟妹たちとは多かれ少なかれ違って
いる。私たちの会社は他の企業と同様に地球の危機を強く意識していて、今はランを生産している。
父と過ごした人生全体の、走馬灯のように流れている写真とその瞬間の光景を見てみたい。1961年、父が
祖父マリオと一緒にトリノの展覧会から帰ってきたとき。幼い私が嬉しそうに写っている、1966年のジェノ
バで行われた最初のユーロ・フローラのために準備された花壇の写真。それから1981年にモントリオールで
あった世界園芸博覧会の花壇の中にいる怒り心頭の若い女性。父はふざけて、私のことを「ソンマリーヴァ夫人」
だと周囲に思い込ませたのだ。
小さな女の子だった頃の記憶。バラを売るために「生産者」であるパパについて来ていた。場所はジェノバの
古い生花市場(現在ここにはコルテ・ランブルスキーニの超高層ビルがそびえ立っている)のどしゃぶりの屋外
(屋内は卸売業者に押さえられていた)。それから、大人になってからのたくさんの旅の思い出。さまざまな新
製品や革新的な技術を探すために、ヨーロッパ中、そして世界中を、父と一緒に2003年まで回り続けた。そ
の年、私は初めての日本に、一人で旅立った。父は航空券を予約済みだったのに、病気で痛みがひどくなったた
めに旅を諦めなければならなかったのだ。
世界中の花卉栽培に興味を持っていた父にとって、日本はただひとつの心残りだったのではないかと思う。
父はイタリアに視察に来た同業の方たちを尊敬していた。そして私は決して忘れない。この数ヶ月にいただい
た父への追悼の言葉はもちろんのこと、2003年にイラクのナーシリーヤで起こったイタリア軍虐殺のニュー
スに私が打ちのめされていたときに、イタリアから大変遠く離れた地からいただいた哀悼の温かい言葉を。
父と日本へ、何か方法を考えて、来年一緒に行こうと思う。数年来、数え切れないほど再訪するようにとの招
待を受けているし、父にとっては最後の花壇だから・・・。
ルチャーナ・ソンマリーヴァ
Spiegazioni delle foto:
写真の説明:
Sopra:
上:ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏、妻のブルーナ夫人、娘のエンリーカさん(左)、ルチャーナさん。この
写真は氏が公的な場へ最後に出席した機会に撮影された。2007年7月7日、キアーヴァリのカステッロで行
われたキアーヴァリ-ティグーリオ・ロータリークラブの会長交代のための夕べにて。
A destra:
右:1990年12月、ジョヴァンニ・ソンマリーヴァ氏、配偶者のブルーナ夫人。ローマ教皇ヨハネ・パウロ
二世に挨拶している。バチカンのネルヴィ・ホールにて拝謁した後。
ナンニ、ナンニ・ソンマリーヴァ、空の彼方へ飛び立った!
チェーザレ・セラフィーノ
トリノ農業総同盟名誉会長
情熱的なパイロット。空を、植物を愛したのと同じ情熱で愛していた。それでもやはり、彼の人生の中心にい
たのは家族だった。
同僚の一人が私たちを残してこの世から去っていったら、君の心は痛むだろう。それが同僚であり友人でもあ
ったら、君は悲しみを感じるだろう。そしてもし、その友人と一緒に経験を、時を、仕事を分かち合ってきたの
なら、悲しみはより深くなる。
花卉栽培の家系の出身である
-父ダヴィデ氏の姿勢のよい端正な紳士らしい姿を覚えている人は多い-
ナンニは、妻ブルーナ夫人の協力に支えられながら、自分自身の確固とした経営的独立を目指した。
ナンニは進取の気性に大いに富んでいて、ブルーナ夫人とともにコゴルノのサン・サルバトーレにある温室と
家族を拡大して行った。客観的にみて、そのどちらの成果も相当なものである。耕作地以外に1万5千平方メー
トルの温室、それに4人の子どもたち。
ソンマリーヴァ園芸社は、少なくともイタリアにおいては、グローバリゼーションに一歩先駆けていた。市場
に常に優れた生産物を出荷するために、リグーリアだけではなくピエモンテやイタリア南部でも栽培を行った。
優秀な才能を持つ園芸家が、大量の花卉を生産している。バラ、アストロエメリア(ユリズイセン)、デルフィ
ニウム(ヒエンソウ)、切り花用の君子蘭、シンビジウム・・・。最近は、花器に活けるためのランの栽培に専念し
ている。
ナンニは心底からのリグーリア人だった。同時代のジェノバ人の同業者たちの中でもすぐにわかるほど際立っ
ていた。その彼の、上述したこと以外の特徴として、市場に生産物を出荷するけれども、客は眼中になかったこ
とが挙げられる。サン・レモやペシーア、ジェノバやミラノに行くために早起きすることは、生きていく上での
日常的な苦労だった。
彼はティグーリオの同業者たちとともにサルザーナで会社を設立するのに尽力している。興味がある花卉栽培
の分野でよりよい結果を得るために、あらゆる機会によいシステムを作り出すよう協力した。
イタリアで、ヨーロッパで、重要な展覧会にソンマリーヴァ社の出品がないことなどあり得なかった。ユーロ・
フローラでは審査の上位入賞の常連だった。
精力的な実業家であり、園芸業界で起こることに関心をもっていた彼は、知識を得るために、いつでもすぐに
あらゆる大陸へ旅立っていった。視察したことを注意深く観察し
–私は何回もそれを目撃している-、自分の
会社で活用するために栽培方法の把握に努め、同時に顧客に薦めるための新しい品種や変種を捜し求めていた。
ナンニの活力の原動力は利益ではなく、仕事への情熱であり、よりよくなりたいという望みであり、新しいこ
とを一番にしたいという願いであった。
よく起こることではあるが、ナンニは人生の途上で発病し、個人的な恐ろしい試練に直面した。しかしこの未
知の現実においても日常の枠に留まることをよしとせず、限界という枠を破るために戦っている。ナンニ自身や
周囲の人々の楽観主義と平静さ、それから新しい趣味に没頭したお陰で、病の進行を喰い止めることに成功した。
今、ナンニはもう私たちとともにはいない。
しかし彼と付き合いがあった同業者たちには、ナンニの言葉と花卉栽培を拡大するための企画が残されている。
ナンニは気前がよく、競争できる分野を持つために全員が増産しなければならないという意識を持っていた。
家族にには、豊かな生活とナンニの教え、ナンニの愛が残された。
ナンニ、安らかに飛び立ってほしい。今はもう乱気流のない空の彼方へ。