大勢の料理人で粥を炊いた - ヨーロッパ音楽史における

DAAD
Deutscher Akademischer Austausch Dienst
ドイツ学術交流会
ドイツ学術交流会
Arbeitsgruppe /分科会 3
Samstag, 30.05.2008
2008 年 5 月 30 日(土)
大勢の
大勢の料理人で
料理人で粥を炊く
—ヨーロッパ音楽史
ヨーロッパ音楽史における
音楽史における相互関係
における相互関係—
相互関係—
エルンスト・ヘルトリヒ
(訳・伊藤 綾)
本稿のタイトル「大勢の料理人で粥を炊く Viele Köche bereiten den Brei」は、ドイツの諺「大勢の料理人で粥を
台無しにする Viele Köche verderben den Brei1」の一部を書き換えたもので、本来の諺は「多くの人が一度に関わ
った物事からは何も生まれない」という意味をもちます。しかしヨーロッパ文化に限ってみるならば、大勢の料理人
で粥を炊くことによって、まったく逆の結果が生まれたと言えましょう。なぜならヨーロッパ文化は、その多様性や全
てのヨーロッパ諸国の貢献により、その価値を形成しているからです。その貢献のしかたは多様多種で、その総体
の中でようやく我々が今日のヨーロッパ芸術あるいはヨーロッパ文化としてとらえているものが生み出されました。
1945 年以降のヨーロッパにおいて、ようやく各国の共通点が再認識されだしてからというもの、お互いに相手よ
り優位に立とうとしながらも、同じ方向を指し示す二つの相反する流れが存在しています。一方は共同の経済的、
文明的、法律的、政治的、文化的広域としてのヨーロッパを強調し、もう一方は個々の国や地域間の違いを前面
に押し出しています。双方の流れは常に、共通と相違、文化間交流とその制限からもたらされるヨーロッパ文化と
文明の発展に本質的に必要なものです。本講演では、最初と終わりにそれぞれ J.S.バッハとベートーヴェンの名
前が書かれている音楽史の小さな一片を通して、この観点に近づいてみたいと思います。
言語の壁が無いという観点から、音楽が文化的国境を開くのに適切だということはよく言われます。しかしそれは
器楽曲について言及する場合に限ります。ヨーロッパにおいては長年にわたり、少なくとも書き記された高度な文
化的音楽の多くは声楽曲でした。そのほとんどは、言うまでもなく 16 世紀に至るまで当時のリングワ・フランカ(ラ
テン語)が統一的な使用言語であった教会音楽であり、そのお陰で言葉の壁が共通の様式の形態を妨げることは
1
日本の諺に置き換えると「船頭多くして船山に登る」
ありませんでした。その結果、ヨーロッパ全体にまたがって、小さなフランス語の中枢のみなもとを拠り所とした、比
較的統一のある発展を見ることが出来るのです。そこでは当然、繰り返し新たな中枢が形成され続け、そして指導
を引き受けていきましたーオランダとフランドルの政治的な問題から、アキテーヌの聖マルシャル修道院や、パリ
のノートル・ダム寺院、そしてブルゴーニュの僧院は、その中枢に由来します。また、イギリスとドイツの小さな貢献
も忘れることは出来ません。もちろん、イタリアもまた一つの大きな役割を果たしています。イタリアはとくに、世俗
声楽曲の分野において常に先駆的な役割を担っていました。したがって 16 世紀末頃、そこでは必然的に、今日に
至るまで教会音楽と共に声楽曲の中心的なジャンルに数えられるオペラが生まれたのでした。もちろんその際、と
りわけ世俗歌曲の分野でみられるように、急激に種々多様な形式が発生しました。その理由は、数百年来、明確
に袂を分かった各言語領域が、文学的な領域で頻繁に、まったく異なった形式のジャンルを発展させたという事実
にあります。
ヨーロッパ文化の中で興味深く、また典型的なのが、各地方と国々が指導的役割を繰り返し交互に引き受けてい
る点です。それは決してそのつどすべての文化の領域を含んでいるわけではありません。たとえば 19 世紀を見た
場合、唯一オペラの分野においてイタリア人が抵抗したのを除き、音楽の分野におけるドイツ人の優勢を語ること
が出来ます。しかし、絵画の分野においては少なくとも 19 世紀後半に、フランス人画家が音頭(正確に言うならば
.
色頭)をとり、説話体の文学や小説といった分野においては、イギリス人やフランス人らが先頭に立っていました。
この時代のドイツ文学の中心領域は叙情詩でしたーそれゆえ、この時期に全盛期をむかえていた歌曲というジ
ャンルは、のちに他の国々から模倣されたものの、実は典型的なドイツのジャンルなのです。
19 世紀とは、我々が今日一般にヨーロッパ音楽史において、ドイツの時代として見る時期の後半であり、J.S.バッ
ハやヘンデルから、ヴァーグナー、マーラー、シュトラウスに至るまでの 250 年間を指します。しかしながら、それ
はもちろん史実に基づく再構成であり、その時代の人々に既にそのようにとらえられていたわけではありません。
そしてもちろん各国の優勢が問題なのではなく、それどころか、どの国が決まった芸術の領域においてより優勢で、
どの国がそれほど重要ではなかったのか、ということも問題ではないのです。
ドイツは、比較的遅くこの文化の相互作用に参加しました。それまでドイツは、ほかのヨーロッパ人から長きにわ
たり“文化のない”国としてとらえられており、中世とルネサンスにはヨーロッパにおける重要な音楽の発展に、ほと
んど創造的には関与していませんでした—ヨーロッパ芸術および文化発展の全体像には、影響、受容と順応、制
限といった、実に多様な方向性が存在します。様々な理由から、間違いなくドイツ・イタリア間の芸術上の相互関係
は、とくに強いものだったといえましょう。それは古い理念「ドイツ国家の神聖ローマ帝国」の一つの名残であるの
かもしれません—1600 年以降、プロテスタント派となった北ドイツ地方を約 200 年の間切り離していた間に、少な
くとも南ドイツとオーストリアをイタリアと強く結び付けていたカトリック派を通し、その理念はさらに強まったと考えら
れます。意外なのは、なぜこの時代のドイツとフランスの関係は少なくとも音楽の領域において、近しくならなかっ
たのか、ということです。一般的な文化領域、すなわち言語、流行、調度品などにおいては、ドイツにおける様式形
成に影響したフランス文化が存在し、それははるか 19 世紀まで続きました。
イタリアとドイツの関係に戻りましょう。ドイツにおいてイタリア芸術は、長きにわたりはるかに優れたものとしてと
らえられてきました。たとえば、ドイツ人画家のアルプレヒト・デューラーや、のちのアンジェリカ・カウフマン、ドイツ
人作曲家のハインリッヒ・シュッツやヘンデル等は、同業者から学ぶためにイタリアへ渡りました。それに対し、イタ
リアの芸術家たちはー大勢の中から二名だけを挙げるとするならばーヴュルツブルグの城の壁画を描いた画
家のジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロや、ウィーンの副楽長であったアントニオ・カルダラのように、彼らのイタ
リアの芸術をドイツへ持ち込むために招聘されていました。ただしそれよりあと、すなわち 18 世紀の終わり、そして
とくに 19 世紀に入り、ゲーテやアイヒェンドルフといった詩人、ティッシュバインやヘンケルといった画家、メンデル
スゾーンやブラームスといった作曲家たちがイタリアを旅行した時、そこにはもはや学ぶものは無く、彼らは古代の
軌跡の上をさまよい、そしてかつての「カナンの地(=理想の地)」の現状に驚愕させられたのでした。
たとえば当時 21 歳だったメンデルスゾーンは、1830 年 12 月 7 日、彼のはじめてのイタリア旅行で、旅先から家
族に向けて次のように書き送っています。
彼(ジュゼッペ・バイニ)の作品は言うほどのものではありません、ここの音楽も全て大したことあ
りません・・・オーケストラは想像以下、ピアニストもピアノ弾きもいません。教皇の歌手たちは年をとり、
ほぼまったく音楽性がないうえ、慣習的に歌う作品さえもまともに歌うことが出来ません。しかも 32 人で
構成される合唱は一度も全員がそろったためしがないのです(メンデルスゾーンは、その前年に彼
自身のバッハの《マタイ受難曲》の上演において、数百人もの歌手による大合唱団を持ってい
ました)。音楽会は、いわゆる音楽愛好団体によって開かれますが、ピアノのみで管弦楽はありませ
ん。先日、彼らが新しくハイドンの《天地創造》の演奏会を企画したのですが、ピアノでその曲を演奏す
ることは不可能であると判断したのでした 2
時代は変わるのです!メンデルスゾーンの批評は驚くのにすでに十分です。なぜなら、同じ時期に一方では有
名なイタリアオペラの全作品、すなわちドニゼッティの《愛の媚薬》や《ランメルモールのルチア》またはベッリーニ
の《夢遊病の女》や《ノルマ》が作曲されていたからです。しかしながら、これらのオペラと若いヴェルディのオペラ
に耳を澄ませてみると、オーケストラの中では大したことは行われておらず、その音楽的な作りと構成を分析する
と、実に内容に乏しいことが分かります。イタリアのオペラに実に批判的な態度をとっていたヴァーグナーは、当然
ベッリーニのオペラの中に「真の情熱と感性の乏しさ」(コジマ・ヴァーグナーの日記における 1878 年の記録より)
(Reisebriefe von Felix Mendelssohn Bartholdy aus den Jahren 1830 bus 1832, hrsg. Von Paul Mendelssohn
Bartholdy. Versehen mit einem Vorwort von Beatrix Borchard, Verlag für Berlin-Brandenburg, Potsdam 1997, pp.
68.)
2
を感じていました。しかしこの作曲家たちにとっては、作品における歌手の極めて効果的な超絶技巧を考慮すると
ともに、彼らの表現力と旋律的な美しさによって得られる作品への相乗効果を信用することがー今日に至るまで
ー重要だったのです。
メンデルスゾーンによるイタリアの音楽情勢に関する批評は、彼の立場から見ると理解出来るものです。し
かしこの時代、イタリアにおいては別の独自の価値基準があったのです。先に引用したメンデルスゾーンのイ
タリア旅行における同じ手紙の中で、彼はナポリで上演された、バロック時代のドイツ人作曲家カール・ハイ
ンリッヒ・グラウンの大受難曲カンタータ《イエスの死》の上演を通じ、1830 年頃にドイツからイタリアへという
方向で、今日の我々は残念ながらほとんど知らない文化の転移がおこったことを明らかに証明しています。し
かし、イタリアの音楽界が全て悪い状態にあったとは言えないでしょう。他ならぬグラウンの大受難曲が上演
されたということは驚くべきことではありません。このカンタータは当時とても有名で、たとえばベルリンにおい
ては 1884 年まで毎年受難週に演奏されており、以後ようやく J.S.バッハの受難曲にその席を譲ったのでした。
ここでようやく私は J.S.バッハというキーワードにたどり着きました。約 65 年前、ベルリン国立図書館において、
これまで注目されていなかった J.S.バッハの手稿譜が見つかりました。3その手稿譜は J.S.バッハの後期のもので、
おそらく 1741 年から 1746 年の間に書き記されたものであることが分かりました。その中から J.S.バッハが自らドイ
ツ語に編曲したイタリア人作曲家ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの《スタバート・マーテル》が問題となりま
した。ここで我々のテーマと関連して興味深いのは、ペルゴレージの作品が、J.S.バッハが編曲する 5 年から 10
年前に、遠くナポリで作曲された事実です。この短期間に、この作品は非常に遠くへと伝えられ、そして J.S.バッハ
が自らの目的のためにこの作品を編曲した、という知名度を獲得しました。もちろんペルゴレージの 26 歳での若
い死も、彼の死後の名声に貢献しています。しかしながら、ここでは《奥様女中》のように、1739 年にグラーツにお
いてアルプス山脈よりも北では初めて演奏されるまで 7 年もかかったオペラではなく、ペルゴレージが個人的に
「パラッツォのおける聖ルイジの騎士信徒会」における任務の中で作曲した教会音楽が問題なのです。教会音楽と
いうものは、通常オペラのような大成功を収めることはありません。それにもかかわらず、その作品は短期間の間
に遠くまで知れ渡ったのです。イタリア以外での初演は 1740 年フィンランドのトゥルクと、1749 年スウェーデンのス
トックホルムで行われたことが証明されています。しかしイタリア以外の国における受容に関する研究の欠落がま
だあると私は考えます。確かなことは—この点が私には何よりも重要なのですが—今日と比較すると、非常に多
くの通信工学的な制約があったにもかかわらず、その時代にいかに早く傑出した芸術作品の評判が広まっていた
かということ、そして異国間の文化交流はいかに集中的であったかということです。
音楽芸術作品の普及の際、ともかくまずその質が優先的な役割を担ってきましたし、現在も担っています。粗悪
な作品は長きにわたり演目の中に留まることはなく、それよりはむしろ—滅多にないこととはいえ—卓越した作品
以下の説明に関しては Emil Platen, Studien zu Bach und Beethoven, hrsg. Von Rainer Cadenbach の Eine
Pergolesi-Bearbeitung Bachs の項を参照されたい。
3
が無名のままでいることの方が起り得たかもしれません。後者は、各上演の背後に潜む莫大な支出をかんがみた
結果、例外が適用されていたオペラにとくに当てはまります。音楽芸術作品の知名度というものは 18 世紀におい
てはまだ、今日の意味での大衆性を指しているのではなく、音楽家たちの間で有名になることでした。その道程は
種々様々で、初めの頃は偶然だったこともあるかもしれません。もちろん旅をするヴィルトゥオーゾたちは、音楽作
品を広めるのに一つの大きな役割を果たしていました。少なくとも楽譜印刷はまだ発展途上の段階で、音楽芸術
作品は頻繁に複写を通じて教会から教会へ、宮廷から宮廷へ、手から手へと渡っていきました。
J.S.バッハがどの程度ドイツ以外の国の同時代の音楽を知っていたのかを、彼の少なくないイタリア人やフランス
人作曲家の作品の編曲、ならびにチェンバロのための作品—輝かしい《イタリア協奏曲》BWV971 や《フランス風
序曲》BWV831、いわゆる《フランス組曲》BWV806-811 や《イギリス組曲》BWV812-817 が示しています。J.S.バッハ
は 1700 年頃、彼が 15 歳から 17 歳までリューネブルグのミヒャエリス学校へ通っていた時からすでに外国の音楽
と接触をはじめています。なぜならその学校は、当時にしてはよく整備された音楽図書館を所有していたからです。
そこではとくにフランス人作曲家の作品が代表的でした。それに加え、J.S.バッハはリューネブルグの近くで、ブラ
ウンシュヴァイグ・リューネブルグ公爵がフランスの宮廷楽団を養っていたツェレを何度も尋ねました。不思議なこ
とに、フランスの影響はプロテスタントの北ドイツにおいてカトリックの南ドイツよりのも強かったのです。—おそらく、
その地方において多くのユグノー教徒の逃避地が見つかったことが、その理由と考えられます。それは、政治的・
歴史的な出来事によって引き起こされた、多くの文化的な現象の一つかもしれません—それにもかかわらず J.S.
バッハにとってもまた、イタリア人作曲家の影響はフランス人作曲家からのそれよりも強かったのです。
J.S.バッハの音楽は、近隣諸国においても間もなく知られるようになり賞賛されました。フランスと同様イギリスに
おいても評価を受けていました。少なくとも J.S.バッハの音楽が、すでに言及したメンデルスゾーンによる《マタイ受
難曲》の再演によって 1829 年にようやく復活した、という説を信じるのは誤りでしょう。もちろん、この出来事が再
演のほぼ一年後に出版されたこの作品の初版とともに、信じられないほど強い象徴的影響力を持ったことは確か
です。それは、もう一方の《ヨハネ受難曲》が全くもって不利な状況に陥り、今日に至るまでそこから完全には立ち
直ってはいないほどに強烈でした。J.S.バッハの鍵盤作品、とくに《平均律クラヴィーア集》BWV846-869 および
BWV870-893 は、少なくとも彼の存命中にすでに広く知れ渡っていました—ただしそれは写本の中に限ったことで
した。モーツァルトはその中からいくつものフーガを編曲し、ベートーヴェンにとっては、それはピアノの演奏と作曲
のレッスンの基礎でした。1800 年からこの作品はライプツィッヒ、ボン、チューリッヒそしてパリの複数の出版社から
突然出版されます。ロンドンにおいては少し遅れて 1810 年から出版されましたが、それはピアノ作品全集として出
版したためでした。彼の歌曲全集も 1800 年よりわずかに遅れて出版されました。
さて、1800 年と J.S.バッハの没年との間にはいずれにせよ比較的長い 50 年という時間の隔たりがあります。そ
れに関して二通りのことを考察することが可能です。
1 点目:J.S.バッハの時代、すなわち彼の死まで、J.S.バッハは有名で信望の厚い作曲家でした。しかし死後の名
声は 19 世紀後半の歴史主義運動の動きの中で、ようやく生じたものでした。現在の我々の文化運営とは反対に、
18 世紀および 19 世紀初頭の観客たちは、ある意味その日暮らしでした。古典のウィーンにおいては、人々は多
かれ少なかれ同時代の「新しい」音楽のみを聴いていたのです。
2 点目:J.S.バッハの時代、フランス、イタリアおよびイギリスの作曲家たちは、彼らの作品が母国の出版者に加え、
オランダの出版業者の版本においても広められたという利点を持っていました。しかし、その時代のドイツの音楽
出版制度は先に挙げた国々と比べると、明らかに立ち後れていました。J.S.バッハの存命中に出版された彼の作
品はわずかで、1000 曲をゆうに超える作品の中から、わずか 7 つの器楽作品が出版されたのみでした。ケッヘル
番号でいうと全部で 626 番まであるモーツァルトの作品も、彼の生前にはわずか 122 曲が出版されたのみでした。
ヘンデル(もし彼をドイツ人作曲家ととらえても良いのであれば)とともに、ある意味ではヨーロッパ音楽史におけ
るドイツの時代の到来を告げた J.S.バッハの音楽は、なによりもまずーとくに声楽曲がー難解でした。そこではも
ちろん、言語の壁が原因の一端を担っています。たとえばイギリスでは《マタイ受難曲》の初演は 1854 年にようや
く行われました。もちろん英語訳のもとでです。ドイツのカトリック圏、そしてもちろんイタリアやフランスにおいて、ラ
テン語ではない宗教曲は、いずれにせよ難しい立場におかれていました(ちなみに、はるか 20 世紀に至るまでそ
れらは同じ立場におかれていました)。たとえばミュンヘンにおいて《マタイ受難曲》は 1842 年に初演されたにもか
かわらず、《ヨハネ受難曲》は 1885 年にようやく初演されました。しかもそれは、オルガン奏者であり教会音楽家で
もあるシャルル・ヴィドールによるフランスでの《マタイ受難曲》の初演の 3 年前でした。
J.S.バッハは、はえぬきの「ドイツ人気質」をもった作曲家であると言っても過言ではないでしょう。彼は、よく旅に
出ていたにもかかわらず、ドイツの中部および北部より外へは一度も出たことがありませんでした。それにもかか
わらず、彼が当時のヨーロッパ音楽に精通していたことは既に指摘されています。彼はライプツィッヒのコレギウ
ム・ムジクムの指導者として、毎週2回開かれていたコンサートにおいて、ドイツ、イタリア、フランスの作曲家によ
る器楽曲を頻繁に演奏会プログラムに組み込むなど、幅広い観客にそれらの作品を広める立場にありました。
ここで器楽曲について少しお話ししましょう。バロック後期すなわち 17 世紀中頃以降、純粋な器楽曲としての重
要性が次第に増大しました。古典派の時代に入り、最終的にそのジャンルがとりわけベートーヴェンの交響曲と共
にその成功を踏み出すまで、その価値はさらに強まりました。その受容の流れの中では、言葉の壁や宗教上の制
約は何の役割も果たさず、国境を越えた音楽の広がりに、もはや立ちふさがるものはありませんでした。J.S.バッ
ハの器楽曲が声楽曲よりもかなり早く近隣諸国に広まったのは、理由があってのことだったのです。こうして、とて
も集中的な音楽の情報交換をすることが可能となり、そして実行されたのでした。
当時は、たとえば文化を知るためにヨーロッパを横断し、オペラを知るためにイタリアへ旅行し、音楽の中心であ
るパリへ旅行し、そしてロンドンへ旅行しました。たとえばモーツァルトは幼少の頃に、すでに上記の3カ国を訪れ、
22歳で再び数ヶ月間、パリへ赴いています。彼がそこで最終的に成功を収めることが出来なかったために、パリ
を再びあとにしなくてはならなかったという話はおそらく真実でしょう。その理由として、彼がフランスやフランス人、
フランスの文化、フランス音楽をあまり好きではなかったことがあげられます。1778 年 5 月 1 日、彼はパリから父
親に宛てて次のように書いています:
ここの人々がせめて耳を持っていたなら、感動するための心を持っていたなら、少しでも音楽を理解出来た
なら、そして興味を持っていたのなら・・・。音楽に関して言うならば、私はうるさい家畜や野獣以下の扱いを
受けています。しかし、それはしょうがないことなのです。彼らは彼らのやり方をしているだけなのですから。
情熱や熱狂も同じことです。彼らは、世界の中でパリのような場所が他にも存在すると思っていないので
す。・・・私は、すべては神の偉大な栄光と名声のもとに、神が私に恩寵を与えるように、私がこの状況に毅
然と耐えられるように、私が私自身の、そして全てのドイツ国民の名声を高められるように、と毎日神に祈っ
ています・・・ 4
だからこそモーツァルトは常に偉大なコスモポリタンと呼ばれるのです!確かに彼は―音楽においては―コ
スモポリタンでした。しかし、作曲家と作品が常に一体化しているのは幼児期または厳密には思春期の頃に限ら
れると考えられます。当時ドイツにおいて「ロマンス風の」イタリアやフランスの音楽をとかく見下し、ドイツの音楽を
とにかく思慮深いと見なしたドイツの自己評価のトポスは、20世紀に至るまでなくなりませんでした。ただし、ドイツ
音楽はドイツ国外からも評価されていました。たとえばアーサー・コナン・ドイル卿は、かの有名なシャーロック・ホ
ームズに次のように言わせています:私は演奏会のプログラムの中でイタリアやフランスの音楽よりも、私の趣向
にあっているドイツ音楽を優遇しているのに気づいている。なぜならドイツ音楽は、より内省的だからだ 5
フランス音楽とフランス文化に対するモーツァルトの消極的な態度にもかかわらず、それは一般的にモーツァルト
の作品においてひとつの重要な役割を果たしています。彼はフランス民謡やフランスオペラのアリアのテーマを用
いた様々なピアノ曲の変奏曲を書いていますし、いくつかの歌曲はフランス語で書かれています。とくにカロン・ド・
ボーマルシェの舞台作品《素晴らしい日あるいはフィガロの結婚》からとった《フィガロの結婚》と、《ドン・ジュアン》と
いう二つの偉大な有名なオペラは、この中に含まれます。《ドン・ジュアン》のテーマはスペインに由来しますが、モ
ーツァルトへの伝承過程は同じタイトルのモリエレの舞台作品でした。1846 年 12 月 30 日、作家であるジョルジュ・
サンドは、ナントにある彼女の自宅の舞台における目前に迫った公演に関して、出版社のピエール・ユーレス・ヘッ
ツェルに次のように書き送っています:
4
5
Mozart, Briefe und Aufzeichnungen, Band II, p. 346.
Strand Magazin 1891, The red-headed league, The adventures of Sherlock Holmes, Nr. 3
明日、私たちは《ドン・ジュアン》(モーツァルトのオペラを指す)を演じます。それ以上もそれ以下
でもありません。私たちはモリエレの作品をドラマティックで生き生きとしたオペラのシナリオ(パリの
イタリア座で上演されたモーツァルトのオペラを指す)と混ぜ合わせました。もし、誰かが努力さ
えしていれば、その二つの版から、これまでになかったような一つの文学的な名作を作り上げることが
出来たでしょうに 6
1849 年 6 月 18 日に有名な歌手パウリーネ・ヴィアルドット・ガルシアに宛てた手紙の中で、ジョルジュ・サンドは、
彼女にとって「《ドン・ジュアン》は常に、完璧の権化」であったといっています。その一方で、彼女は《フィガロ》のこ
とは知りませんでした。おそらく、その存在すら知らなかったと思われます。もし、彼女が《フィガロ》について語って
いたなら、モーツァルトのオペラではなく、ボーマルシェの舞台を思い浮かべたことでしょう。エクトール・ベルリオー
ズは、《フィガロの結婚》を退屈だと感じました。それは、19 世紀における典型的なモーツァルト評そのものでもあり
ます。モーツァルトは偉大な作曲家のうちの一人としてとらえられおり、とくに彼の器楽曲、中でもピアノソナタ、トリ
オ、カルテットといった家庭音楽として上演可能だった作品たちは、彼の存命中に比較的素早くヨーロッパ中に広
められていました。それに対してオペラは、彼の死後、ようやくヨーロッパ諸国へ認められました。北イタリアとトス
カーナはオーストリアの影響下にあったため、唯一イタリアにおいてのみモーツァルトの存命中に彼のオペラを聞く
ことが出来ました。それがモンツァとフロレンツにて上演された《フィガロ》です。その後、1807 年には《コシ・ファン・
トゥッテ》がミラノで、1811 年には《ドン・ジョヴァンニ》がベルガモで、1816 年には《魔笛》がミラノで、それぞれイタリ
ア語に訳された形で上演されました。ただし《後宮からの逃走》は 1935 年にようやくイタリアで初演されました。
フランスでは、早くも 1793 年に《フィガロ》が上演されましたが、それはまったくゆがめられた形でした。1801 年に
は《魔笛》が《イジスの謎 Les Mysteres d’Isis》の題名で続き、1809 年には《コシ・ファン・トゥッテ》が、そして 1811
年にようやく偉大なオペラ作品の最後として《ドン・ジョヴァンニ》が上演されました。音楽文筆家のチャールズ・バ
ーニーによると、イギリスでは 1803 年の時点ではまだ「モーツァルトの作品は、ピアノ作品以外は無名、声楽曲は
まったく知られていない」状態でした。3 年後の 1806 年、モーツァルトのオペラシリーズの上演が《ティート帝の慈
悲》を皮切りに始まります。1811 年には《コシ・ファン・トゥッテ》と《魔笛》が続き、1812 年には《フィガロ》が、そして
1817 年にまたもや一連の締めくくりとして《ドン・ジョヴァンニ》が上演されました。おそらく、《ドン・ジョヴァンニ》が
最後に上演される背景には、このオペラの内包する音楽的な難しさが原因となっていると考えられます。たとえば、
1798 年にフィレンツェで開かれた《ドン・ジョヴァンニ》の演奏会は、その音楽的な難しさゆえに失敗しています。し
かし、のちに 19 世紀のヨーロッパにおける演目の中では、他のモーツァルトの作品よりも遥かに頻繁に上演され、
またロマン派のモーツァルト理解のうえでほぼ同義語とされたのが、この《ドン・ジョヴァンニ》でした。詩人の E.T.A.
ホフマンは、1813 年に書かれた彼の短編小説《ドン・ジュアン Don Juan》の中で、《ドン・ジョヴァンニ》の「悪魔的な
もの」を説明しています。ホフマンの継承者の中では、1851 年にジュール・バルビエとミシェル・カレによって演劇
《ホフマン物語》が創られ、28 年後にジャック・オッフェンバッハによってもう一度同名のオペラが創られました。そ
6
George Sand, Lettres d’une vie, Choix et présentation de Theierry Bodin, Éditions Gallimard 2004, p. 497.
の中では、《ドン・ジョヴァンニ》の前奏と後奏の演奏、もしくは、ドンナ・アンナの歌い手が決定的な役を演じていま
した。《ドン・ジョヴァンニ》をえこひいきしていたのはジョルジュ・サンドだけではありませんでした。ドイツ同様、他の
ヨーロッパ諸国においても、モーツァルトの作品は 19 世紀のコンサートプログラムに実に頻繁に姿を現しました。
20 世紀初頭においてようやく没後 200 年祭とともにモーツァルト復興が始まったのでした。上演プログラム上に生
き残った作品たちは、問題なくロマン派として解釈することが出来る作品たち、すなわち、どちらかと言えば陰鬱で
情熱的な雰囲気を持つ作品でした。ローベルト・シューマンの妻としてだけではなく、最も有名な、演奏スタイルを
作り出した 19 世紀の女流ピアニストの一人に数えられるクララ・シューマンは、たとえば、モーツァルトの 27 曲あ
るピアノ協奏曲のうち、唯一短調で書かれている KV466 と KV491 しか彼女のレパートリーに加えていませんでし
た。
他のウィーン古典派であるヨーゼフ・ハイドンの扱いに関してもモーツァルトよりましだったとは言えません。作曲
家であると同時に音楽文筆家としても有名であったローベルト・シューマンは、彼を「教皇ハイドン」に格下げし、
1841 年にライプツィッヒにおいて開かれたハイドンに献呈されたコンサートについて次のように書いています:
ハイドンの音楽は、ここでは常に演奏されています。彼の目新しいものを聞き知ることはもはや出来ま
せん。彼はまるで、常に喜んでうやうやしく接待を受ける、ありきたりな、家族ぐるみの友人のようです。
しかしながら彼は、現代に対する深い興味をもはや持ってはいないのです 7
ハイドンは存命中、少なくともモーツァルトと同じくらい有名でした。それどころか、モーツァルトより有名だったか
もしれません。そのことは、商業的な成功を収めることが出来ると考えられたために、途方もなく多くの作品が、彼
の名前で誤って広められたことからもみてとることが出来ます。それはウィーンやドイツにおいてのみでなく、他の
ヨーロッパ諸国においても同様でした。1785 年、つまりまだモーツァルトが生きていた頃、ハイドンはパリのフリーメ
ーソンの支部「オリンピック Olympique」から、その集会のオーケストラのために、別名《パリ交響曲》と呼ばれる 6
つの交響曲を作曲する依頼を受けました。その支部のオーケストラはその当時、50 を超える弦楽と大きな木管楽
器のグループを持つ、全ヨーロッパにおいて最も大きなオーケストラの一つでした。ハイドンが 1791 年と翌 92 年、
そして 62 歳間近の 1794 年と翌 95 年の二回にわたりイギリスを旅行したことは有名であり、またそれは彼が有名
であったことの証拠でもあります。そこで我々は、歴史上繰り返し現れる特別な偶然に出くわします:ハイドンは、イ
ギリスでキャリアを積み、ロンドンでコンサート主催者として活動していたヨハン・ペーター・サロモンというドイツ人
ヴァイオリニストから、イギリスへ招待されました。サロモンはボンの裕福な家庭出身でした。我々が今日、彼の両
親の当時の家の前に立つと、ベートーヴェン・ハウスの前に立つことになります。なぜなら、ベートーヴェン一家は、
サロモンの家の裏に住んでいたからです。サロモンは若かりし頃、裏の家において小さなルードヴィヒ・ヴァン・ベ
ートーヴェンの誕生に居合わせたのでした。そして、ハイドンが最初のイギリス旅行をボン駅から出発した時、二十
歳のベートーヴェンはハイドンに紹介され、最初の作曲作品を見せることが出来たのです。
これをもって、我々はクラシック派と呼ばれる三人の作曲家の最後の人物、その後の 150 年の音楽史に陰を投
げかけたとも言える作曲家に行き着いたのです。ベートーヴェンは、彼の前にもあとにも例がないくらい、存命中に
すでに有名でした。音楽のほとんど全ての領域にわたる彼の新しさは「前代未聞」という言葉をまさに体現していま
した。ピアニストであり作曲家でもあるカール・チェルニーは、ベートーヴェンについてのちに次のように書き記して
います:
彼はいつも特別な眼差しで見られ観察されていました。そして、彼を理解しないものたちも彼の偉大さ
を予感したのです
ベートーヴェンはオーケストラの響きの幅を広げ、彼のピアノソナタの構成は、ピアノという楽器の製作に革新を
もたらしました。フランスのピアノ製作会社エラールは 1803 年、贈り物として彼らのピアノの一台をベートーヴェン
に自由に使わせました。—1803 年はベートーヴェンのキャリアはまだ始まったばかりで、作品番号は全 138 番中
ようやく 30 番に届いた頃でしたーそのピアノは当然、彼を十分に満足させるには至りませんでした。しかし、とり
わけピアニストとしての彼の評判は、彼がパリからそのようなプレゼントをもらったということをヨーロッパのほぼ全
域に広めたのでした。ベートーヴェンはのちにイギリスからも一台のピアノを贈られています。ロンドンのピアノ職
人ブロードウッドは、のちに明らかにベートーヴェンのお気に入りの楽器となったピアノを 1818 年に贈っています。
ベートーヴェンのイギリスとの関係は実に強いものでした。とくに彼の二人の弟子たち、すなわちのちにロンドンで
活躍したフェルディナンド・リースと、イギリス人のチャールズ・ニートは、ベートーヴェンと頻繁にやりとりをしていま
した。ベートーヴェンは何度もイギリスに招待されましたが、彼の難聴の進行に伴い渡英は実現しませんでした。
1817 年、ロンドン交響楽団は彼に大きな交響曲を一曲依頼し、その作品は 1824 年にようやく《第九交響曲》として
完成しました。ところがベートーヴェンがその巨大な作品をようやく完成させた時、それはロンドンではなくウィーン
において初演されました。その少し前に書き終わった《ミサ・ソレムニス》は、センクト・ペテルブルグで初演されまし
た。ピョートル大帝がロシアの扉を豪華なコンサートや舞台とともに「西」ヨーロッパへ解放して以来、ベートーヴェ
ンのこの作品の他には、ヴェルディのオペラ《運命の力》などもサンクト・ペテルブルグで初演されました。
ヨーロッパのコンサートにおけるロシアの役割を軽視することは出来ません。サンクト・ペテルブルクやモスクワに
も、優れた出版社がありました。そして音楽家のクオリティーは実に高いレベルであったに違いありません。それゆ
え、ベート−ヴェンはたとえばロシアのガリツィン公爵に依頼されて、後期の弦楽四重奏を書いています。この公爵
は、依頼した作品を問題なく演奏出来るプライベートの弦楽四重奏団を所有していました。それに対し、スコットラ
ンドの音楽愛好家ジョージ・トムソンは 1818 年、ベートーヴェンに自分が彼の弦楽四重奏曲(作品 59)を聴くことが
出来ないと嘆いています。というのも、スコットランドの教授たちは、その作品は「厳しすぎる勉強と多すぎる努力」
を必要としたため、その作品を演奏しなかったからでした。また、イタリア人のゴティフレード・フェラーリは 1786 年、
7
Robert Schumann, Gesammelte Schrifeten über Musik und Musiker, Band II, Leipzig 1871, p. 251.
次のように書き記しています。「私は、モーツァルトの 6 つの《ハイドン四重奏》を様々な愛人たちや音楽教師たちと
共に演奏しようとしましたが、緩徐楽章以外、弾くことが出来ませんでした。そしてその緩徐楽章さえも我々には難
しかったのです。」8したがって音楽的なレベルは、少なくともイギリスやイタリアに比べ、ロシアは実に高かったと言
わざるを得ないでしょう。
《第九》に話を戻しましょう。この曲は本来、躍進中のベルリンで初演される予定でした。しかし、ベートーヴェンは
「彼の」ウィーン市民に対して不機嫌でした。なぜなら彼らはしばらくの間に陣営を変え、ロッシーニ狂になっていた
からです。ロッシーニが 1823 年にウィーンへ来て、いくつかの彼自身のオペラの演奏会に立ち会った時、すでに
長いこと高まっていたロッシーニのオペラに対する熱狂は、真の熱狂へと急変しました。ロッシーニはベートーヴェ
ンを訪ねましたが、彼の難聴と言語上の問題により有意義な交流は実現しませんでした。それに加え、ベートーヴ
ェンはロッシーニの成功に対して嫉妬していました。しかしウィーンの音楽家と数人の貴族たちの嘆願書がようやく、
ベートーヴェンを《第九》を最初にウィーンで演奏させる気にしたのでした。その嘆願書から、以下にいくらか長めの
抜粋を引用します。
ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン様
あなたの第二の故郷において、あなたの天賦の才を崇拝するグループから何名かが、今日参上致しま
した・・・長いこと秘めてきた願いをあなたの前で口にするために・・・
私たちがここで申し述べる故郷の芸術崇拝者たちの望みは、ベートーヴェンの名前と作品が、全人類
とと全国家に帰属するにもかかわらず・・・ベートーヴェンは我々の作曲家である、とオーストリアに最初
に言わせてもらえないかということです。オーストリアの市民にとって、モーツァルトとハイドンが、彼ら
の故郷の母胎の中で次の時代へ向けての偉大で不滅の作品を生み出した、という考えは未だに消え
去っていません。そして彼らは喜ばしい誇りをもって、音楽の神の棲む場所でその名前と作品が神の
象徴として光り輝いている、聖なる三人の作曲家がオーストリアの地から現れたことを知っていまし
た・・・
音楽の分野において最高の地位にあるその人物が、なぜ外国の芸術がドイツの地、ドイツのミューズ
の主賓席に居座り、ドイツの作品が人気のある旋律の残響の中に属するようになってしまったのかを
沈黙とともに見守っていることに、全ての嘆き悲しむ者たちが気づいたということの確証を必要とします
か・・・? 9
この文章は、様々な観点から興味深いものです:
1.
既にベートーヴェンの存命中に古典派の“三巨頭”という概念が形成されています。つまりそれは、後の音楽
史の中で出来た概念ではないということです。
8
9
H.C. Robbins Landon, Das Mozart-Kompendium, München 1991, p. 229 より引用
Beethoven-Briefwechsel, a.a.O. Band 5, pp. 273.
2.
ベートーヴェンの音楽は全人類に帰属しています。
3.
しかしながら、すでにモーツァルトの時もそうであったように、民族主義的な声が大きくなったとき、外国の芸
術とーより優れているー自国の芸術の間の対比が示されます。それは、残念ながら全ヨーロッパにおける 19
世紀の流れの中で、ますます激増することになる「大衆の意見」です。
《第九》の初演は最終的にウィーンで開かれました。しかしオペラはそれから丸1世紀の間、交響楽的な音楽の
大きなライバルとして残りました。その二つのジャンルの統一を最終的に成し遂げたのがヴァーグナーであるとい
えましょう。
ヨーロッパはベートーヴェンの誕生以来、混乱期を迎えてきました。1789 年のフランス革命は、ヨーロッパの社会
的・政治的な基礎を揺さぶりました。数年後、ヨーロッパは戦争に覆われ、ナポレオンが全ヨーロッパを奪取し、
1814 年と 1815 年のウィーン会議では国境が新しく引き直されました。ベートーヴェンが彼の共和主義的な理想を
一度も隠し立てしなかったことは、ウィーンの秘密警察に見張られる結果となりました。彼の《交響曲第3番 エロイ
カ》の手書きの表題紙にはもともと、ナポレオンへの献辞が含まれていたものの、彼が皇帝宣言をしたことを聞い
たベートーヴェンはその紙を破り裂き次のように言ったとされています:
彼もやはり一人の凡人にすぎなかったのだ!彼は今や、全ての人の上に君臨し、暴君となるだろう!
10
ベートーヴェンのフランス国家、フランスの政治および文化、フランスの音楽との関係はとても密接していました。
《交響曲第5番》の戦勝ファンファーレ的な最終楽章のために、ベートーヴェンはフランスの革命音楽を起用しまし
た。彼のオペラ《フィデリオ》は、フランス革命なしではまったく考えることは出来ないでしょう。このオペラは 1798 年
に《レオノーレあるいは夫婦の愛 Leonore ou l’amour conjugal》としてパリで初演された作品(テクスト:ジャン・ニ
コラ・ブイイ、音楽:ピエール・ガヴォー)を基礎としています。ベートーヴェンが彼の唯一となるオペラの仕事に取り
かかった時、彼にはフランス語のテクストしかありませんでした。初版の題名はフランス語の原題を文字通りの訳
したものでした。すなわち《フィデリオ Fidelio》ではなく《レオノーレあるいは夫婦間の愛 Leonore oder die eheliche
Liebe》だったのです。
ベートーヴェンの音楽が、彼の存命中に既にヨーロッパ全土において知られていたことは既に述べました。彼自
身、第一級の作曲家として彼の作品をその都度、多くの国々へ同時に宣伝するように努力していました。とくにドイ
ツとイギリスを中心に宣伝していましたが、フランスにも売り込んでいました。というのも、彼の古い知人である出版
者のニコラウス・ジムロックがボンにいたからです。ボンは革命の時代のあとフランス領となっていました。それら
多くのフランスとの繋がりにもかかわらず、ベートーヴェンの音楽はフランスでは当初は強い風当たりを受けました。
とくに、老齢の作曲家ルイジ・ケルビーニと、影響力が強く保守的な音楽文筆家フェティがベートーヴェンの執拗な
敵対者でした。その状況は、エクトール・ベルリオーズがベートーヴェンに肩入れしてからようやく変化しました。そ
れは 1828 年からのことであり、ベートーヴェンの死後でした。とくに彼の交響曲はフランスにおいて圧倒的な成功
を収めました。既に言及したように、パリはヨーロッパにおける音楽の都であり、そこのオーケストラは伝説となりま
した。リヒャルト・ヴァーグナーはのちに、1839 年のパリ国立音楽院オーケストラによるベートーヴェンの《交響曲第
9 番》の上演について次のように書いています。
《交響曲第 9 番》の演奏の美しさは、まだ私の中に言葉では書き表せないものとして留まっています。
私が当時その交響曲をパリ国立音楽院のオーケストラから聴いたように、しかるべき一節がこれほど
完成し仕上げて演奏することは、のちに優秀なオーケストラをもってしても二度と実現することは出来ま
せんでした・・・のちにドレースデンやロンドンにおいてこの交響曲を演奏した際も、そのレベルへ到達
することは出来なかったのです 11
しかしながら、フランスのベートーヴェン受容における特別な点は、彼の作品がこの国ではまったく独自の解釈で
とらえられているということです。それはドイツやイギリスにおける解釈とは異なっていました。以下に三つの例を
挙げます(以下の例は Beate Angelika Kraus,の Beethove-Rezeption in Frankreich から引用したものです)。
1.
交響曲第5番
ドイツではこの交響曲は今日に至るまで「運命の交響曲」と呼ばれています。この通称はベートーヴェンの伝記
作家アントン・シンドラーに起因します。彼は、ベートーヴェン自身が曲の冒頭の4つの音による動機「♩♩♩♩」は門を
叩く運命の象徴であると言った、と主張していました。それはおそらく作り話ですが、この作品の演奏に今日まで影
響を与えています。しかしフランスにおいてはこの発言は有名ではありません。そのため、まったく独自の解釈を打
ち立てることが出来たのでした。ドイツの見解においては長い間、この交響曲は第1楽章とそこでの運命の叩門か
ら解釈され、最終楽章はいわば「障害を越えて星へたどり着いた per aspera ad astra」最終結果であるとされて来
たのに対し、フランスでは最終楽章だけが注目されました。最終楽章では、曲の始まりから革命音楽的な様式を見
ることが出来ます。そして、原作においてはただ単にアレグロと表示されているだけにもかかわらず、この楽章は
「巨大行進曲」、「凱旋行進曲」または「軍隊行進曲」としてのスタイルをとっています。最初の3つの楽章は、演奏
家の批評においてまったく触れられていません。ある記録には、初演に関して以下のように記されています。
《凱旋行進曲》の爆発は、会場全体を高揚させ、熱狂的な叫び声を噴出した。
10
11
Franz Gerhard Wegeler / Ferdinand Ries, Biographiesche Notizen, Koblenz 1838, p. 78.
Richard Wagner, Über das Dirigieren in: Gesannelte Schriften und Dichtungen, Band 8, Leipzig 1907, pp. 271.
ある逸話によると、一人のナポレオンの退役軍人は、この楽章の冒頭を聴いたとき、「これぞ皇帝だ!皇帝は生き
ている!」と叫んだといいます。この楽章は頻繁に単独で演奏され、ラ・マルセイエーズと結び付けられることも珍
しくはありませんでした。
2.
交響曲第 7 番
この交響曲はリヒャルト・ヴァーグナーにとっては、力強くリズミカルな両端楽章のために、舞曲のフィナーレその
ものでした。しかしフランス人はまったく違う解釈を示しました。この作品においても、彼らにとっては一つの楽章だ
けが、ある役割を演じていました。この第 2 楽章は、原作では簡単にアレグレットという表示に加え、2/4 拍子、イ
短調で実に単純なテーマの変奏形式で書かれています。この拍子と短調の調性は、フランスの聴衆にすぐに葬送
行進曲を想起させ、頻繁に交響曲的なつながりから離し、葬送行進曲的な作品として、キリストの受難の日を記念
する聖金曜日や、1869 年のエクトール・ベルリオーズの葬儀の場で繰り返し演奏されました。このドイツの解釈で
いうところの舞曲風の両端楽章は、フランス人にとっては「その他大勢」でしかありませんでした。
3.
交響曲第 9 番
《第九》がウィーンにおける初演で熱狂の嵐をかき立て、それ以来、ドイツ人が常に彼ら自身と自らの憧れを投影
して見てきた作品が残った一方で、《第九》はパリにおいて 1831 年のパリ初演以来、長いこと議論の的になってい
ました。とくにー当然のことながらーフランス語に訳したテクストで歌われた、最終楽章の合唱部分が問題とな
りました。同様の問題は、ベートーヴェンがまだ生きていた 1825 年に《第九》を初めて演奏したものの、合唱部分
に対してはお手上げだったイギリスにおいても当てはまります。ロンドンにおいて、最終楽章はイタリア語に訳され
た歌詞で歌われました。両国において《第九》における、器楽曲と合唱曲の混同に関する、白熱した理論的な議論
が起りました。イギリスの雑誌 THE HARMONICON の批評家は、その議論を次のように書き表しています:最終楽
章は他の 3 つの楽章と関連性が見られない、すなわち何かしらの関連性があるであろうと認識することは出来な
いし、聴き手に伝わりやすい構想が喪失していることはきわめて明白である。
最終的にフランスにおいては《第九》の最初の三楽章だけが演奏されるまでに至りました。時折《交響曲第5番》
の最終楽章がそこに追加のフィナーレとして付け足されました。その責任は(ベートーヴェンはもちろん原文がその
まま歌われることを意図していた)シラーの原文とはまったく関係なくなってしまったフランス語のひどい訳文にもあ
るでしょう。何人かの聴衆は演奏会後、そのテクストはシラーの「鐘」という作品からの抜粋であるととらえているほ
どでした。もちろんその問題は、フランス語とドイツの言語に朗読術上の大きな違いがあることにも起因します。ま
た、言い回しの好みの違いも見過ごすことは出来ません。フランス語による初演の訳文は次のように始まります。
<バス・レチタティーヴォによる始まり>
・ドイツ語:友よ、このような調べではなく、より心地よく歓びに満ちた歌を歌おう!
・フランス語:友よ、嵐が荒れ狂う岸辺から離れ、花を守る場所を探そう、我々の指導者を呼ぶために。永遠の友
に対し、純粋な彼らを讃える讃歌を歌おう。
<第1連>
・ドイツ語:歓喜よ、神々の美しきひらめきよ、至福の園の娘よ、我々は炎を胸に、天上の貴方の聖域に踏み入る。
・フランス語:兄弟たちよ、わが高貴な心の中で、甘き愛が息づいている。わが声は既に、陶酔と歓喜に満ちてた
め息をつくのだ!
フランスがこの作品を受け入れるまでには、その世紀の終わりまでかかったに違いありません。
もし皆さんがこの最後の例を、私が 19 世紀フランスにおけるベートーヴェン解釈をからかうために挙げたと感じ
たのでしたら、それはまったくの誤解です。私はまったく逆に、この例をとても興味深く受け取っています。そして
我々が忘れてはならないのは、先に引用したパリにおける《第九》の演奏に対するリヒャルト・ヴァーグナーの熱狂
的な一文です。彼はフランス語版の《第九》を明らかに受け入れていました。
ベートーヴェンの音楽がフランスにおいてどのように同化吸収されたのか、以下の珍しい歴史が物語っていま
す:1846 年、フランスの外相フランソワ・ピエール・ギョーム・ギゾーがチュニジアのベイのフランス訪問にあたり、
外交団を外務省の音楽の夕べに招待しました。雑誌 LE MONDE MUSICAL 上でその時の様子を読むことが出来
ます:「ギゾー氏は招待客に対しフランスの音楽によって敬意を表したかった。」しかし、そこで演奏されたのはフラ
ンス人作曲家の音楽ではなく、ベートーヴェンの音楽、すなわち《アテネの廃墟》より〈マーチと合唱〉と《七重奏曲》
(作品 20)の一部でした。
たとえギゾー氏がまったくそのような意図を持っていなかったとしても、今日の我々にとっては、この出来事は、ヨ
ーロッパ文化圏の共同作業の一例として好ましいことです。フランスは、一人の北アフリカ人にドイツの作曲家の
音楽を彼らの文化的財産として紹介しました。しかし、なぜヨーロッパの文化的財産としてではなかったのでしょう
か。そして、いずれにしてもベートーヴェンの音楽なのでしょうか。ヨーロッパ文化は一つの国から発生し、存在し
続けているわけではありません。この文化圏において有益な多様な力の共同作業から、お互いに影響を与え、お
互いに反発し、順応し支配し、しかし最終的には常にかけがえのないヨーロッパ的特徴を持った一つのイメージを
創りあげてきたのです。