(法政大学社会学部): 善悪の映像認知

24G-01
善悪の映像認知
-西部劇の決闘における人物像大友一紀 金井明人
法政大学社会学部
1. はじめに
映像の受け手は,ストーリーに基づく認知をする場合が多い(金井, 2010).だが,そのストーリーの
認知の背後にある感情的な要素の詳細や,ストーリー以外の要素との関係は不明な部分が多い.ストー
リーの認知における感情が関わる要素は,小川(2011)が中心的に論じている「享楽」や,interestingness,
「共感」など様々である.この「共感」と近いが,それに関連する概念に「善悪」があり,登場人物の
ストーリー上の道徳性を基に Ranny(2005)などで扱われている.本論文では,この「善悪」の映像認知
を論じる.そして,
「善悪」はストーリーを超えた修辞としても映像中に存在することを,実験を通して
示す.
本論文はまた,善悪の映像認知を西部劇の決闘シーン 3 種類を用いて考察する.映画史の初期から登
場した西部劇という映画ジャンルは,善悪を,ストーリー上の対立構造の進展を「善と悪の決闘」とい
う形で決着をつけることで明確に描いてきた.その一方で,60 年代から台頭したマカロニウエスタンや
アメリカンニューシネマ以降のクリント・イーストウッド監督の西部劇では,決闘を用いて善と悪の曖
昧さを描いている.そこに見受けられる決闘の描かれ方の変化は「正義の裁き」として行われていた決
闘という「暴力行為」に対する,ストーリーそして映像の修辞による,ある種の問いかけであり,長ら
く西部劇という映画ジャンルで正義として語られてきた物事に対し異議を訴えている.この西部劇とい
う映画ジャンルの推移は,映画における善と悪の形の変化の過程であると言える.
本論文では西部劇の決闘シーンを用いて,
「西部劇の決闘は受け手の認知する善と悪を明確化させ,ま
た,その明確化のプロセスが 3 種類の西部劇の類型によって異なる」という仮説の下,
「アメリカ古典西
部劇」「マカロニウエスタン」「イーストウッド西部劇」の 3 種類の映像を用い,決闘の修辞と認知の差
異を考察する.
2. 善悪と西部劇の決闘
2.1 善悪の判断
善と悪に関しては古来より多くの議論がなされてきた.そして多くの場合善と悪の存在は主観主義と
プラトン主義を組み合わせた切り口で語られてきた(河野,2007).しかしこの考え方では「善と悪の判
断は人によってそれぞれ異なる」という論点でしか善と悪について語る事が出来ず,善と悪という存在
が抽象的な物になる.それに対し,価値も道徳も人間の心の中ではなく独立に環境中に存在するとし,
「ア
フォーダンス」とそれに基づく「共感」に注目する考え方がある.河野(2007)は Gibson(1979)の概
念を拡張し,人々に善をあるいは悪の認知を促す刺激としてのアフォーダンスが存在し,それを人々が
知覚し,判断しているとした.さらにこのアフォーダンスにはある一定の行為を誘引する特性があると
し,このアフォーダンスこそが人々に価値や意味を認知させているとしている.これは映像の認知をス
トーリーではなく,修辞から論じる金井(2001a,2001b)などの立場にもつながる.
またこの場合の「共感」とは,人や物を人間関係的ないし社会状況的におかれた断片的な存在ではな
く,統合的な存在として理解することであるとしている.ニーチェ(1954)が行為の価値は結果ではな
くその起源にあるとしたように,出来事の断片的な理解では善悪の判断はできない.
映画では,物事の前後にはその物事と関係するストーリーが存在する場合が多い.そのため受け手は
その物事がどのような特性を持っているのかを,ストーリーが描く物事と物事の関係性や因果性などを
基に認知することが可能になる.つまり出来事の起因とその結果に関する受け手の認知が,作中の人物
への「共感」につながる.
2.2 西部劇の決闘と善悪
西部劇という映画ジャンルにとって善と悪という存在は深い関係があるため,映画の作り手が善と悪
の二項対立を意識して生み出している場合が多い.井上(1998)は西部劇という映画ジャンルは長年に
渡り「ヒーロー対悪人」という構図を取っており,時が経つにつれそこに副次的な葛藤が盛り込まれも
したが,基本的な構図は変化しなかったとしている.そしてその善と悪を受け手が認知するのが決闘シ
ーンなのである.内田(2003)が指摘するように,人は事物を二項対立で捉える傾向がある.特に結果
と行動が視覚的に明確な決闘の場合,二項対立を生み出しやすい.また西部劇が古典的パラダイムに則
ったストーリー構成で描かれた作品が多い事も,西部劇において善と悪の二項対立が見出せる理由の 1
つとして考えられる.ハリウッドの古典的パラダイムは,アクションを主導する主役とそれに抵抗する
敵役との間の対立が基本となっている.そしてクライマックスには終結性の高いアクションが用意され,
それにより 2 者間の対立関係が解消する.西部劇の場合そのアクションとして決闘が用いられ,受け手
はそこに善と悪の対立と決着を認知する.本論文では,3 種類の具体的な作品に基づき,次章で更に詳細
な分析を行い,受け手の善悪の映像認知に関する仮説を導く.
3. 決闘シーンの 3 類型
3.1 アメリカ古典西部劇
アメリカ古典西部劇は主として 1910 年~50 年代までのアメリカで制作された西部劇のことを指す.西
部開拓時代に生きる人々の姿を描くことで理想のアメリカ像を描く.この背景にはその当時多民族国家
となりつつあったアメリカのルーツを描く事で,アメリカの思想分裂を防ぐ狙いがあった(小藤田,1982).
この時からアメリカ古典西部劇は開拓者精神を賛美し,その自由を求め勇敢に大自然やインディアン
に立ち向かい,西部に文明をもたらしたアメリカ人の正義を描いており,ストーリーの面においても多
くの作品で分かりやすいほどに正義が決闘で勝ち,悪は決闘で負ける.この場合の正義は自由と文明を
尊重するアメリカ人であり,悪は開拓を阻む先住民族や,開拓者の自由と法の支配という文明を阻む無
法者である.
これらの西部劇では決闘内での登場人物の行動が正義と悪とで明確に異なる.西部劇に多くの制約が
存在するのもこの正義の味方像と悪人像を区別するためであり,正義はその正義の味方が守る約束事に
則り徹底的に正義の味方として,悪は悪なりに存在する約束事に則って徹底的に悪として描かれている
作品が多い.つまり決闘に至るまでのストーリーで浮かび上がってきたヒーロー像や悪役像を決闘でよ
り具体的な物として体現するために多くの決まりごとが存在し,作り手が受け手の認知を一定の方向に
誘導している.そのためこの頃の西部劇の決闘は,受け手が登場人物の善悪を判断するための情報を多
く含み,受け手の認知を一定方向に固定させるような演出が多くなされている.
アフォーダンスと共感の概念を用いて考察すると,アメリカ古典西部劇は決闘前のストーリー部分と
決闘内での行動を受け手が見た場合に,ストーリーと決闘内での行動を照らし合わせ受け手がその行動
に共感するような演出がなされている.つまり受け手が決闘シーンでの登場人物と行動の因果関係がは
っきりと分かり,その決闘内での行動や結果に対する統合的な理解に基づく判断がなせる修辞になって
いる.
2
例えば,ジョージ・スティーヴンス監督の『シェーン』
(1953)では,その原作に「西部開拓時代のア
メリカ人はこんなにも美しい心を持っていた」ということを多くの人に伝えるという意図が含まれてい
たため,本作品の決闘シーンではこのような人物像を作り手側が受け手側に認知させる演出が多々なさ
れている(小藤田,1982).そのため大牧場主という大きな権力によって自由を阻まれた開拓民たちが,
シェーンという男と接することで団結力を取り戻し,明るい未来を切り開いてゆくという古典的パラダ
イムで語られるストーリー全体の流れは,自助精神とある種のロマンティシズムに溢れており,その中
心に位置する主人公シェーンはそういった理想のアメリカ像の権化とも言える.モナコ(1983)によれ
ば特にこの時期のアメリカ西部劇はフィルム・ノワールの影響を受け,厭世感が人物像に反映されてい
る.一方でこの映画では自らの手で自由と未来を勝ち取る開拓民とシェーンが正義であり,自分たちの
利益のために他人の自由を奪い,巨大な権力と暴力を振りかざす大牧場主側と殺し屋ウィルソンが悪と
してはっきり描かれており,キャラクターの外見と決闘内での行動が明らかに異なる.すなわち主役と
敵役がストーリー上ではっきりと分かれており,その対立関係が決闘へと繋がりクライマックスを迎え,
形式的な結末を迎えるという典型的な古典的パラダイムに則ったストーリー展開である.
またストーリー中でも開拓民と共に切り株を切り倒し,酒場にたむろするゴロツキと共に闘い,子供
に銃の手解きをするシェーンと,本作における鬼札のような存在である「殺し」を遂行するウィルソン
という人物が善と悪とで非常に明確に描かれている.このように決闘前のストーリー上においても 2 人
の語られ方は善と悪とではっきりと分かれている.
つまり決闘に至るまでのシェーンとウィルソンに関するストーリーは,受け手に対し決闘内での行為
に共感するための情報を与える役割を果たしている.その情報を基に受け手が善悪の判断をアフォード
する決闘シーンを見た場合,その行為に共感できるか否かで善悪が決まる.すなわち西部劇の決闘が受
け手に善悪の判断を促している.『シェーン』においては,シェーンとウィルソンの決闘内での行動が,
シェーンの「善」としての人物像とウィルソンの「悪」としての人物像を裏付けしている,と仮定する
ことができる.
3.2 マカロニウエスタン
アメリカ古典西部劇では決闘で善と悪の対立がストーリー内で丁寧に語られ,決闘へと発展する.こ
れとは逆にサム・ペキンパーは『荒野のガンマン』
(1962)で主人公が西部劇的な決闘を回避する事で「ア
ンチヒーロー像」をより濃く演出している(シモンズ,1998).すなわちストーリーの各所に決闘を配置
し,ストーリーで受け手が想起した人物像と決闘内の行為を真逆にし(つまり西部劇的な慣例をことご
とく回避する),非西部劇ヒーロー的人物像を明確にさせている.アメリカ古典西部劇の決闘が対立した
善と悪が対決し,善が悪に勝つという結末によって決闘シーン以外で認知した人物像をより明確にする
という過程を逆手に取った演出と言える.
その一方でマカロニウエスタンはアメリカ古典西部劇とは対照的な決闘の描き方をしている.決闘が
ストーリーと関連することが少なく,決闘前のストーリーで語られた人物像と決闘内の行動の結びつき
が希薄で,むしろ決闘単体で人物像を受け手に認知させている.またマカロニウエスタンでは善と悪が
非常に曖昧である.むしろ遠山(2005)でイーストウッドが指摘するように,全員が悪人でその悪人度
によってストーリー内の善と悪が判断されるとも言える.つまり決闘以外でのストーリーでは人物に関
する語りを少なくし,決闘内の行動で受け手に人物像を認知させる.このような手法がマカロニウエス
タンでは多く見受けられる.受け手は善悪という明確な二項対立を見出す事のできないストーリーより
も,様式化されストーリーとは切断された二階堂(2009)の指摘する「原始的闘争の粗暴さ」を楽しむ
ために,決闘シーンでの勝ち負けで受け手は人物像を認知する.そして決闘全体はネオレアリズモの流
れを組んだ暴力描写で装飾されている(石原,2005).
例えば,セルジオ・コルブッチ監督の『続・荒野の用心棒』
(1966)の決闘前のストーリーでは主人公
ジャンゴと街を支配するジャクソンが対立し,決闘へと発展してゆく過程が典型的な古典的パラダイム
3
で描かれている.だが,この『続・荒野の用心棒』が前述した『シェーン』と異なるのは,登場人物に
関する情報の少なさである.ジャンゴ,ジャクソン共に彼らの人物像を物語っているのは拳銃を用いた
凄惨な暴力行為である.このジャンゴ初登場からジャクソン一味の決闘まで,一切両者の関係は語られ
ない.決闘の起因も偶発的な敵対関係が直接的な火種となっており,さらにどちらもアメリカ古典西部
劇の約束事に照らし合わせれば悪とされる行動を決闘前のストーリー部分で行っている.つまり本作品
は決闘前までに受け手が認知する善悪が非常に曖昧である.何故ならば受け手が善悪を判断するための
共感材料が非常に乏しいためである.そのため受け手は本作品の決闘シーンで善悪の判断を強いられる
ことになる.つまり前後のストーリーの情報を基に善悪の判断をするのではなく,決闘内の行為で受け
手は善悪の判断する,と仮定することができる.
3.3 クリント・イーストウッド西部劇
クリント・イーストウッド西部劇の特徴は,アメリカ古典西部劇の流れを組みつつ,マカロニウエス
タンの要素も取り入れた作風にある.それは作品内で描かれる決闘にも色濃く影響している.イースト
ウッドの西部劇作品においては非常に善悪が曖昧であり,元来アメリカ古典西部劇で正義とされてきた
要素が悪として描かれる.だがその一方で,その悪と対峙する要素も完全なる善とは言い難い.何故な
らその悪と対立する主人公は徹底してアウトロー,つまり社会的秩序とは無縁の存在として描かれてい
るからである.
イーストウッドが監督した『ペイルライダー』
(1985)はアメリカ古典西部劇のプロットに則っており,
善と悪が一見はっきりしているように見える.イーストウッド演じる牧師は大資本主ラフッドが行う環
境破壊的な金の採掘作業に苦しむ開拓者たちを励まし,団結させ,自分たちで生きる術を身につけさせ
る.そして最後には開拓者に代わってラフッドに雇われたストックバーンを倒し,牧師に鍛えられた開
拓者も自身の手でラフッドを撃ち倒す.『シェーン』を彷彿とさせるシーンも数多く挿入されている.
だが,
『シェーン』と『ペイルライダー』というプロットの似た話から受け手が同じように善と悪を認
知するとは言えない.何故なら『ペイルライダー』にはイーストウッド西部劇特有のマカロニウエスタ
ン譲りの容赦ない暴力描写を含む決闘シーンがあるためである.またプロットは似ているが,決闘の起
因は『シェーン』と『ペイルライダー』では異なる.
『シェーン』と似たようなストーリー展開を持つにも関わらず『ペイルライダー』の牧師の人物像が,
アメリカの理想的な側面を持つ一方で,復讐の達成のために凄惨な暴力を辞さない側面を持った牧師と
して認知される要因は決闘内の行動である.
『シェーン』の場合は決闘内の行動が決闘前に語られた人物
像に「強さ」という要素を加え,より理想的な人物像に仕立て上げる一方で,
『ペイルライダー』の場合
は前述したように決闘内での行動が決闘前にはあまり語られなかった過去の人物像を浮き彫りにし,
「復
讐心」と「暴力性」という要素が人物像に加わる.つまり『ペイルライダー』の場合は自助精神や開拓
者精神を尊重する一方で,これまでのストーリーでは語られなかった目標の達成のためなら圧倒的な暴
力を辞さない側面が決闘により露呈する.ここに決闘の起因と結末にズレが生じる.すなわち受け手が
決闘前のストーリーから得られる情報から乖離した行為が決闘内で行われているのである.これにより
決闘シーンに善悪の認知をアフォードされた受け手は,主人公である牧師の行動に共感を得る事ができ
ず,結果決闘前では善良なる正義の味方として語られたこの牧師を悪であると認知する,と仮定するこ
とができる.
4. 善悪の映像認知実験
4.1 実験方法
西部劇の決闘は受け手の認知する善と悪を明確化させ,また,その明確化のプロセスが 3 種類の西部
劇の類型によって異なる,という仮説が,受け手の認知行為の中で実際に成り立っているのかを実証す
4
るため,3 章で作品分析を行った 3 作品を実験映像として用い,調査を行う.そしてこれら 3 つの西部劇
の決闘が異なる善悪の認知プロセスを生じさせることを検証する.具体的には,次の 3 点を検証する.
アメリカ西部劇の決闘は決闘前のストーリーで受け手が認知した善と悪を補強し,受け手の認知する善
悪を明確にさせる.マカロニウエスタンの決闘は決闘前のストーリーで善と悪に関する情報が少ないた
め決闘前に明確な善と悪を認知できず,受け手は決闘後に善悪を認知する.そしてイーストウッド西部
劇は,決闘が決闘前では語られなかった側面を決闘内の行動で露わにし,その善悪を受け手に認知させ
ているので決闘前に受け手が認知した善と悪と決闘後に受け手が認知した善と悪に大きな差異が生じる.
実験では決闘前のストーリーを 179 人の被験者に決闘前までのストーリーを要約した映像をまず見せ,
その後登場人物の「善人度」と「悪人度」を 7 段階(1 が低く,7 が高い)評定させ,さらに評定理由を
自由記述させた.そしてその後決闘シーンを視聴させ,再度「善人度」と「悪人度」を 7 段階評定させ,
評定理由を自由記述させた.また,この手順を『シェーン』『続・荒野の用心棒』『ペイルライダー』の
順で繰り返した.
なお,決闘前のストーリー部分の要約映像では登場人物の関係や決闘に至るまでの経緯を被験者に提
示している.状況説明をこの決闘前の要約したストーリー部分で行い,クライマックスである決闘の前
に善悪の判断材料を被験者に認知させることが目的である.それぞれの実験映像の時間数やカット数を
表 1 にまとめた.『シェーン』と『ペイルライダー』はストーリー展開が非常に似ており,『ペイルライ
ダー』の本編にも『シェーン』を彷彿とさせるシーンが盛り込まれているため,実験映像ではそのシー
ンを使用し,被験者に『シェーン』と『ペイルライダー』の共通点を明示している.
『続・荒野の用心棒』
の決闘前のストーリーの要約部分に関しては,主人公ジャンゴと決闘相手であるジャクソンがどのよう
な人物であるのかと 2 人の対立関係を中心に映像を盛り込んだ.
また,
『シェーン』と『ペイルライダー』に関しては使用する決闘シーンには編集を施さず,映画本編
の決闘シーン部分をそのまま切り取った映像を使用した.
『続・荒野の用心棒』ではジャクソン一派がジ
ャンゴに近寄るシーンの一部をカットしている.決闘シーンの時間数やショット数は表 2 にまとめた.
4.2 実験結果
実験結果は表 3 と図 1 にまとめた.全てのデータにおいて,分散分析の結果,有意水準 0.1%以下で,
決闘前から決闘後で有意に善人度が下がり,悪人度が上昇していた.つまり決闘によって善悪が明確に
なったと言える.また,善人度と悪人度の間で有意差がみられないのは,決闘前の『続・荒野の用心棒』
のみであり,他は全て有意水準 0.1%以下で,有意に差があった.
また『ペイルライダー』が,最も数値の変動幅が大きかった.そして,図 1 からもわかるように,
『ペ
イルライダー』の牧師の善悪値は,決闘前は『シェーン』の人物像と近かったのにもかかわらず,決闘
後は『続・荒野の用心棒』の値に近づいている.
映像間の善人度および悪人度の決闘前後の増減値の分散分析では,善人度についても悪人度について
も『シェーン』と『続・荒野の用心棒』の間には有意差が見受けられなかったのに対し,
『ペイルライダ
ー』はいずれの映像に対しても善人度も悪人度も有意水準 0.1%以下で有意差のある結果が出た.これか
らも,『ペイルライダー』の決闘シーンが,『シェーン』および『続・荒野の用心棒』よりも善悪を明確
にしていることが実証された.
表 1 決闘前部分の映像
表 2 決闘シーン部分の映像
時間
ショット数
時間
ショット数
シェーン
2:47
44
シェーン
2:13
36
続・荒野の用心棒
2:44
51
続・荒野の用心棒
2:30
45
ペイルライダー
2:00
49
ペイルライダー
2:36
39
5
表 3 3 作品における決闘前と決闘後の善人・悪人度の平均値(分散)
シェーン
続・荒野の用心棒
ペイルライダー
決闘前・善人度
5.98 (1.34)
3.96 (2.85)
5.49 (1.99)
決闘後・善人度
4.61 (2.25)
2.89 (2.63)
3.18 (2.64)
決闘前・悪人度
2.10 (1.91)
3.89 (2.61)
2.45 (2.23)
決闘後・悪人度
3.46 (2.45)
4.94 (3.14)
4.84 (2.54)
7
6
評定値
5
4
3
シェーン
2
続・荒野の用心棒
1
ペイルライダー
0
図 1 3 作品における決闘前と決闘後の善人・悪人度の変化
4.3. 実験結果からの考察
作品分析ではシェーンの人物像は決闘前も決闘後も善であるとした.その理由は決闘前に受け手が認
知した人物像や因果性と決闘内の行為を結びつけた場合,受け手はその行為に共感することができ,シ
ェーンを善人であると判断すると予想したためである.つまり数値に関しては善人度,悪人度共に決闘
前と決闘後では数値に大きな変化はないという予想を立てた.だが結果としては決闘後,シェーンの善
人度が減少し悪人度が増加した.その原因として考えられるのは決闘内の「銃撃」という行為であろう.
作品分析の段階においては,この「銃撃」という暴力行為が受け手に与える認知的影響に関しては全く
考慮に入れていなかったため―むしろ今回の作品分析では受け手が決闘から人物像の認知をアフォード
された場合,決闘前のストーリーと決闘内の行為を照らし合わせ,それに共感できるか否かでどのよう
な人物像を認知するかは決まるとし,銃撃という暴力行為自体が持ち合わせる意味を無視してしまった
ため仮定した結果とは異なる結果が出たと言える.そもそもこの「銃撃」という暴力行為は暴力表象の
宝庫(加藤,2010)である西部劇の決闘には無くてはならない物である.そしてこの映像内の暴力行為が
受け手にもたらす影響は Geen(2005)の実験からも分かるように,受け手がその暴力行為に正当性を見
出すか否か,つまりその暴力行為の文脈(暴力行為の前のストーリー)を読み取り,それが正当な物か
不当な物かを判断する,言うなればそれに共感できるか否かを判断するかによって大きく変化する.ニ
ーチェ(1954)の指摘する物事の価値は結び付ける物により異なるという観点からも決闘内の暴力行為
に対し受け手が共感できるような決闘前のストーリーが無い限り,受け手はその暴力行為を不当な物で
あると認知し,決闘内の行動に共感をすることができない.つまり行為の当事者を悪であると認知して
しまう.今回の場合決闘における行為により,決闘前のストーリーで受け手が善として認知したシェー
ンの人物像は,悪としての人物像として明確化され認知された.受け手にとっては「力を伴う正義」と
6
いったキリスト教的な正義感や自助精神に裏付けされたシェーンの行動は正義としては認知されにくか
ったと言える.また決闘に明確な因果性があったにも関わらず,決闘における「銃撃」という行為が影
響し,シェーンの悪の面を明確化する結果となった.
『続・荒野の用心棒』では,作品分析の段階で想定した,決闘前のストーリーでは明確にならなかっ
た人物像を決闘が明確化するといった結果が得られた.この映像の狙いとしては黒ずくめの恰好に棺桶
を引きずる凄腕ガンマンのジャンゴとメキシコ人を凄惨な方法で虐殺するジャクソンを決闘前のストー
リー部分で見せる事により,受け手の決闘前における善と悪の判断を混乱させるという目的があった.
つまり遠山(2005)でイーストウッドが指摘する「どちらが悪人かで善と悪が判断される状態」を創出
する意図がある.また決闘前のストーリーから得られる情報も非常に少ないため,受け手は善悪の判断
材料が不足し,人物像の認知に支障をきたす.つまり決闘前の善人度と悪人度の数値としてはどちらも 3
~4 に近い数値を回答し,善人度と悪人度の数値の差もほとんど見受けられない状態が想定された.実際
の回答では『続・荒野の用心棒』における決闘前の善人度と悪人度はどちらも 3.96 と 3.89 と,多くの
被験者が想定していた数値を回答し,他の映像と異なり,有意差もみられなかった.また評定の主な理
由としても「視聴した映像からは善悪の判断ができない」という回答が多かった.前述したようにこの
映像では決闘前のストーリー部分で受け手に与えられる情報は少ない.というのも実際の作品において
も主人公であるジャンゴは謎の人物であり,それに対峙するジャクソンに関してもジャンゴとの関係は
何も語られない.まさに善と悪の判断がつかない状態がこの決闘前のストーリーを視聴後の受け手の状
態であり,この時受け手の中には明確な人物像の認知がなされていないのである.そして人物像の数値
に変化が現れるのが決闘後である.本映像の決闘は決闘前の人物像に関する情報が少ない状態での,ス
トーリーとは切断された決闘となっていて,モネスティエ(1999)の言う本来の決闘に近いものである.
そのため決闘自体が受け手に明確な人物像を与える.その結果善人度が減少し,悪人度が増加し,ジャ
ンゴの人物像が悪として明確化された.人物像が悪人の方向に明確化された原因は,機関銃を用いた決
闘という過度な暴力行為であろう.現に回答者の理由で最も多く寄せられたのが機関銃を用いたことに
対する過剰防衛に関する意見であり,この行為が多くの被験者の共感を得られなかったため,悪人度が
増加した.決闘前のストーリーから切り離され,人物像に関する情報が少ない本作の決闘の特徴からも
それは言える.つまりストーリーにおける人物像に関する語りが少ないため,決闘の行為がそのまま人
物像に直結している.この決闘内で用いられた様々な技法はジャンゴの悪人像を助長していると言える.
そして黒ずくめの容姿もマカロニウエスタンが描く開拓者精神とは無縁のアンチヒーロー像を明確化す
る要因となっている.
最後に『ペイルライダー』であるが,この映像は最も数値の変動幅が大きく,特に予想した結果に近
い回答が得られた.つまり『ペイルライダー』の決闘は,決闘前のストーリーで受け手が認知した人物
像や因果性とは乖離した決闘内での行為を描く事により,決闘前に受け手が認知した人物像と決闘後に
受け手が認知した人物像に差異を生じさせる役割を果たしている.そしてその差異こそ善悪が明確化さ
れた部分であり,その明確化した部分が牧師の悪としての一面なのである.ここで注目したいのは決闘
前のストーリーで語られた牧師の決闘の目的,つまり決闘の因果性と決闘シーンでの行動の乖離である.
ここでいう決闘の因果性とは「何故この決闘が起きたか」と「何の為の決闘であるか」という決闘とス
トーリーの関係性である.決闘前のストーリーで受け手に語られた決闘の因果性は,
「開拓者の自由を守
るための決闘」や「力を持たない開拓者の身代わりとして決闘をする」といったものであった.これは
『シェーン』にも見受けられ,この点においても『ペイルライダー』と『シェーン』には大きな共通点
がある.だが実際の決闘となると,受け手が認知した因果性とこの決闘での行為に乖離が生じる.つま
りここから読み取れるのは,決闘前のストーリーでは語られなかった牧師によるストックバーンに対す
る復讐という因果性であり,今までは物語の表側に出てくる事の無かった牧師とストックバーンを結ぶ
復讐という関係がこの決闘の牧師の行動を通じて明らかになる.だが,この因果性の転換は決して映像
中でストーリーとして明確に表象されるわけではない.牧師の顔を見て驚くストックバーンの表情であ
7
ったり,ストックバーンの背中に空く牧師の銃創と同じような穴であったり,牧師の執拗で冷徹な銃撃
であったりといった修辞として提示される.これこそ他の映像と異なり,
『ペイルライダー』の決闘と決
闘前で人物像が大きく変化する原因である.
『ペイルライダー』の決闘シーンは決闘が決闘前のストーリ
ーでは語られなかった人物の悪の側面を描く事で,決闘前に受け手が認知した人物像と決闘後に受け手
が認知した善悪に差異を生じさせ,善悪を明確化させている.
4.4 西部劇の決闘による善悪の認知
3 つの西部劇の決闘を振り返り,それぞれの決闘における人物像の認知をまとめると,どれも決闘が決
闘前に受け手が認知した善と悪を明確化していた.だが,その認知の仕方は異なり,それは西部劇の推
移と深い関係がある.
『シェーン』の場合は決闘前のストーリーで受け手が認知した善悪を,決闘が,より補完する.つま
り理想の西部の男としての善人像が受け手の中でより明確になる.この場合では決闘の起因となるスト
ーリーが「弱き者を守るために戦いに行く」という典型的な古典西部劇のヒーロー像であるため,この
決闘内でのシェーンは受け手にとって善人として認知される.そしてこのような決闘は非常に善と悪が
はっきりしており,善と悪の二項対立によってストーリーが展開するアメリカ古典西部劇の典型的な決
闘の例であると言えよう.
同じ善悪の明確化でも『続・荒野の用心棒』の場合は,決闘前までに人物像に関する情報が少ないた
め,受け手は決闘によってジャンゴの善悪を知ることになる.この決闘では,決闘前のストーリーでは
人物像に関する情報よりも登場人物間の対立関係に関する情報の方が多く盛り込まれており,ジャンゴ
という人物は受け手にとって謎多き人物であり続ける.言うなれば受け手はこの決闘から得られる情報
を基に善悪を認知しており,善悪に関してストーリーから切断された決闘となっている.そのため受け
手は決闘内の行為を見て,そこから善悪を見出そうとする.つまり決闘が善悪を明確化する.そしてこ
れはマカロニウエスタンという映画ジャンルの持ち合わせる荒唐無稽さが色濃く出ている決闘であり,
「西部開拓時代の精神」や「自由の信条」といったアメリカ古典西部劇の要素に縛られない決闘が,マ
カロニウエスタンの善人とも悪人とも言いにくい人物像を受け手に認知させている.
最後にイーストウッド西部劇『ペイルライダー』であるが,これは前述した『シェーン』とは全く逆
の手順で善悪を受け手が認知している.つまり決闘前のストーリーで受け手が認知した人物像とは真逆
の人物像を決闘で受け手が認知している.本作の場合,決闘前では『シェーン』と似たアメリカ古典西
部劇の流れを組んだストーリーが展開する.だが,決闘においてはアメリカ古典西部劇というよりもマ
カロニウエスタンに類似した,暴力的な決闘を展開する.そのため決闘前のストーリーから導き出した
因果性と決闘内での行動を結びつけた受け手は,決闘前の人物像と決闘内での人物像に決定的な違いを
見出し,善悪が明確化する.これはイーストウッド西部劇で徹底して描かれている人物像であり,法律
に縛られず特定のコミュニティに加わることなく,徹底したアウトローという立場を取り,法律やコミ
ュニティの抱える矛盾を暴きだす.
『ペイルライダー』においては西部劇が美化してきた,開拓によって
できた街と法の支配という要素が抱える矛盾をイーストウッド扮する牧師が徹底的に破壊している.つ
まりこの西部劇という映画ジャンルそのものの破壊こそイーストウッド西部劇の特徴であり,決闘にお
ける容赦ない暴力行為により描かれた人物像こそイーストウッド西部劇が描く特徴的な人物像といえる.
5. おわりに
受け手に,どの様な善悪像を決闘によって明確化し,認知させるかは,映画の送り手が意図して行っ
ている場合が多い.西部劇で描かれる登場人物の善悪像の推移には,決闘の描かれ方の推移が深く関係
している.アメリカ古典西部劇の決闘ではそれまでのストーリーで対立した善と悪が決着をつけ正しき
者が勝ち開拓者精神と自由の美しさを描く物として,マカロニウエスタンでは善も悪も関係なく暴力性
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に満ちた原始的闘争を楽しむ物として,イーストウッド西部劇では善とされている物に潜む悪を浮き彫
りにする物として,決闘は描かれている.
そして,西部劇の決闘の修辞が,ストーリーに留まらず,受け手の認知する善と悪を明確化している.
銃撃という,暴力行為であり,悪としての性質を内包した決闘があってこそ,決闘前のストーリーの人
物像が善であるか悪であるかが正しく認知できる.善と悪というテーマを長年扱ってきた西部劇では,
善と悪が決闘内の行為によって描かれているのである.その決闘において『ペイルライダー』における
過剰な暴力のように,決闘前のストーリーによって受け手が認知した因果性から乖離した行為が決闘に
見受けられた場合,受け手は決闘前に認知した善悪像とは真逆の善悪像を認知する.決闘が無ければ西
部劇において善と悪の判断はできない.西部劇にストーリーが存在しても,そこに決闘が無ければスト
ーリーによって受け手が認知した善悪を明確化できないのである.つまり,西部劇の決闘は受け手に決
闘前のストーリーでは行えない善悪の映像認知を促進させ,受け手の中の人物像を明確化させる.
特に,マカロニウエスタンを経た,イーストウッドの西部劇では,ストーリーを語りつつも,善悪の
映像認知自体が全面に出ているのであり,そこでは,ストーリーの認知の背後にある感情的な要素が固
定化されずに切断され,再構築される.西部劇に限らず,イーストウッドの作品では世間的に善と認識
している物を根底から否定し,破壊している(加藤,2010).正義や権力の正当性と矛盾の問題を浮き彫り
にし,それを映像認知として受け手に体験させているのである.とはいえ,『許されざる者』(1992)以
降では西部劇を離れ,『グラントリノ』(2008)以降,近年の『インビクタス/負けざる者たち』(2009)
や『ヒア アフター』(2010)のような作品では善悪に囚われないストーリーに基づく映画を発表してい
るイーストウッド作品は,その当初から,善悪の再構築を超えた彼岸に達していたのかもしれない.
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