名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) 第 56巻第 2 号 (2009年度) 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 一一明治日本とグラスゴウ一一 加藤詔士 III.グラスゴウにおける日本人留学生 I.スコットランドと明治日本 1.グラスゴウ大学 1 . 日本工業化におけるスコットランドの指導性 2. グ ラ ス ゴ ウ と 明 治 日 本 1)自然科学諸科目の受講 3 英国における日本関心の高まり 2)学外における実修体験 3)日本語資格試験の開始 II.お雇い教師 H ダイアーの日英交流推進活動 1 . 日 本 工 学 教 育 の 組 織 化 2. 2. 3 . 日 本 研 究 の 進 展 4 . 日 本 関 係 コ レ ク シ ョ ン の 形 成 5. グ ラ ス ゴ ウ に お け る 技 術 教 育 改 革 6. ダ イ ア ー へ の 関 心 の 高 ま り IV. まとめ一日英教育連鎖の拠点グラスゴウ 名(森有干し,五代友厚ら)が,慶応元 (1865) 年に密 1 . ス コ ッ ト ラ ン ド と 明 治 日 本 1. 航したさいは,長崎のク。ラパー商会 (Glover 日 本 工 業 化 に お け る ス コ ッ ト ラ ン ド の 指 導 性 &Co.) が 斡旋し,官学生は同じくウィリアムソン教授の尽力で (1) 安 政 5 (1858) ストラスクライド大学 1)夜間課程の開設と実学教育の伝統 2)実学人材の育成 帝 国 財 務 及 工 業 通 信 員 の 嘱 託 ユニヴァシティ・カレッジに学んだ。西洋の科学・技 年 に 日 英 修 好 通 商 条 約 が 締 結 さ れ , 上 術の習得をめざして英屈に留学した上記の留学生のう 海 ・ 香 港 か ら 長 崎 ・ 神 戸 ・ 横 浜 に 至 る 航 路 が 開 か れ る ち,山尾庸三ならびに伊藤博文は,帰国後,明治政府 と , 多 数 の ス コ ッ ト ラ ン ド 人 商 人 が 日 本 の 市 場 に 到 来 に出仕し政府の工業化政策を先導することになるが, Lた 。 か れ ら は 英 国 の 対 日 政 策 に 沿 っ て , フ ラ ン ス を そのさいもスコットランドが関与している。 牽 制 す る た め に も , 討 幕 を は か る 西 南 雄 藩 に 接 近 し , (2) ま だ 学 術 ・ 商 業 の た め の 海 外 渡 航 が 禁 止 さ れ て い る な 明治政府の工業化政策は,工部省による官営工業政 か , 自 分 た ち の ネ ッ ト ワ ー ク を 使 っ て 日 本 人 青 年 の i度 策,内務省および農商務省による民業育成政策,兵部 英を支援した。 省および陸軍省・海軍省による軍事工業政策に大別さ ス コ ッ ト ラ ン ド 人 商 人 の な か で も , い ち 早 く 来 日 し れるが,明治前期に工業化政策の中核となったのは工 て 横 浜 を 拠 点 に 交 易 を は じ め た ジ ャ ー デ イ ン ・ マ セ ソ ン商会(J ardine , 年 5 月 , 山 尾 庸 三 1909) Matheson& Co.) は,文久 3 ( 1 8 6 3 ) (1837-1917) ら 長 州 藩 士 を 助 け た 。 英 国 に 部省であった。工部省は,西洋の工業技術の導入なら や 伊 藤 博 文 (Hugh 喫緊の課題とした。 5名 を 横 浜 か ら 密 出 国 さ せ , 英 国 留 学 そのなか,山尾庸三は工部省に出仕し工学人材の i度 っ て か ら も , 留 学 生 た ち は ジ ャ ー 養成機関の設置に尽力した。「工学ヲ開明スルハ厚生 デ イ ン ・ マ セ ソ ン 商 会 の 兄 弟 会 社 マ セ ソ ン 会 社 社 長 M. マ セ ソ ン (1841 びに工学専門教育機関の設立による実学人材の育成を 利用ノ道ヲ立ル恭礎」であるとの認識から,明治 4 H. M .Matheson, 1821-1898) のはか (I 8n)年 4 月には「実学知識ノ徒」を養成する工学校 らいで,ロンドン大学ユニヴァシティ・カレッジの化 計画を立案している。 学教授 W. A.ウィリアムソン (William A .Williamson, 1824-1904) の指導を受け, この工学校の教師の人選は,伊藤博文に託された。 しかもウィリアムソンの紹 かれは明治 5 (1872) 年 8 月,岩倉使節団の副使として 介で阿カレッジに入学することができた。薩摩務士 19 英国に赴いたとき,ロンドンにおいてマセソン会社社 -1 ー 日本・スコットランド教育文化交流の諸柑 長 H M.マセソンに協力を求めた。このとき,伊藤は た W. K.バルトン マセソンに,教師の人選に加えて「教育計画から図書 1899) (William や用具の調達まで,学校作りの一切の権限を委ねてい だ け で な く , 灯 台 守 , 電 信 技 手 , 鉄 道 員 , 造 船 職 人 と KinninmondBurton , 1 8 5 6 ュ が 知 ら れ て い る が , 専 門 的 技 術 者 と し て の か れ ら し て 基 礎 的 な 工 業 技 術 を 伝 え た ス コ ッ ト ラ ン ド 人 も 少 るん なくない(1)。 マセソンはグラスゴウ大学の工学教授 W.]. M.ラン キン (William J ohnMacquornRankine , 1 8 2 0 1 8 7 2 ) 2. に 相 談 し た と こ ろ , 複 数 の 候 補 者 の な か か ら 教 え 子 の H ダ イ ア ー (Henry グ ラ ス ゴ ウ と 明 治 日 本 ス コ ッ ト ラ ン ド の な か で も グ ラ ス ゴ ウ は , 近 代 日 本 Dyer, 1848-1918) が推薦され,か が 形 成 さ れ る と き 日 本 と 緊 密 な 関 係 に あ っ た 。 れを中心に教師陣が編成された。 1873年夏には,ダイ ま ず 第 ー に , 工 業 技 術 の 近 代 化 を 先 導 し た 工 部 省 アーを含む英国人教師の第一陣 9 名が来着した。 は , 工 学 人 材 の 専 門 教 育 機 関 と し て 設 霞 し た 工 学 寮 な 教師陣のなかにはスコットランド関係者が少なから ず含まれた。エデインパラ大学出身の数学教授 D. マ ー シ ャ ル (David H巴nry ら び に 工 部 大 学 校 の 編 制 な ら び に 教 育 の 組 織 化 と い う H . 任 務 を , グ ラ ス ゴ ウ 大 学 出 身 で お 雇 い 教 師 と し て 招 稗 Marshall, 1848-1932) ,ア バディーン大学出身の英語・英文学教授 W.G. クレイ し た Hダ イ ア ー に 託 し た 。 ダ イ ア ー は , 英 国 人 教 師 陣 ギー (William G .Craigi を 率 い て 工 学 専 門 教 育 を 推 進 し た 。 巴 ) 。 自 然 哲 学 教 授 W.E. エ ア ト EdwardAyrton, 1847-1908) ならびに工 ン (William ダ イ ア ー ら 教 師 障 が 選 ば れ る に つ い て も , 既 述 の よ う に , ス コ ッ ト ラ ン ド 系 の ジ ャ ー デ イ ン ・ マ セ ソ ン 商 学教授].ペリー (JohnPerry, 1850-1920) は,スコッ トランド人ではないが,グラスゴウ大学で W. 会 の マ セ ソ ン が 仲 介 役 と な っ て , グ ラ ス ゴ ウ 大 学 の ラ トムソ ン キ ン 教 授 に 依 頼 し , ラ ン キ ン が 介 在 し て い る 。 ン (William Thomson, 1824-1907) 教授の講義に出席 し, そ の 夕 、 イ ア ー は , グ ラ ス ゴ ウ 大 学 に 学 ぶ 前 , 徒 弟 修 トムソンの実験室で働いたことがある。 (3) 業 中 に ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 の 前 身 校 で あ る ア ン ダ ソ ダイアーは工学の実務的な人材養成のための専門教 ン ・ カ レ ッ ジ の 夜 間 課 程 に 学 ん だ が , 向 じ こ ろ , 山 尾 育機関を構想しこれを提出すると,同構想、は工部省の 庸 三 も 向 カ レ ッ ジ に 学 ん で 、 い た と い う 機 縁 か ら , ダ イ 上記の工学校計聞に代わって採用され,明治 7 ( 1 8 7 4 ) ア ー の 日 本 に お け る 活 動 は 工 部 省 に 出 仕 し た 山 尾 の 支 年8月 , 工 学 専 門 教 育 機 関 が 開 校 し た 。 は じ め 工 学 寮 援 を 受 け て 兵 体 化 さ れ 促 進 さ れ る こ と に な る 。 と い い , 明 治 第 二 に , グ ラ ス ゴ ウ に は 日 本 の 殖 産 興 業 な ら び に 工 10 年 1 月 に 工 部 大 学 校 と 名 を 変 え た 。 学 人 材 の 養 成 に 直 結 す る よ う な 大 学 が あ っ た 。 そ れ も す で に 幕 末 に は , 横 須 賀 に 造 船 学 校 が , 箱 館 に 鉱 山 グ ラ ス ゴ ウ 大 学 と ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 の 二 校 あ っ 学 校 が 設 け ら れ , そ れ ぞ し て 工 業 技 術 の 教 育 が お こ な わ れ て い た け れ ど も , こ た。 グ ラ ス ゴ ウ は れ ら は 明 治 維 新 後 に よ み が え る こ 之 は な か っ た 。 工 部 18 世 紀 に 工 業 都 市 に 変 身 し て 以 来 , ま 省 は ま っ た く 新 し い 構 想 の も と で 工 学 寮 な ら び に 工 部 ち に は 木 綿 紡 績 工 場 や 鉄 工 所 が 建 ち , ク ラ イ ド 河 流 域 大 学 校 を 創 設 し た 。 そ の と き 関 与 し た の は , フ ラ ン ス に は 造 船 所 が 林 立 し て い た 。 こ う し た 社 会 の 需 要 に 応 で も ア メ リ カ で も な く 英 国 で あ っ た 。 英 国 の な か で も え て , グ ラ ス ゴ ウ 大 学 は , 他 の 英 国 の 諸 大 学 に 先 駆 け ス コ ッ ト ラ ン ド が 深 く 関 わ っ て い る 。 て 1840 年 に は 工 学 講 座 を , 設 す る な ど , 科 学 技 術 の 研 究 と 教 育 が 進 展 し て い た 。 そ の 後 も , ス コ ッ ト ラ ン ド の 教 師 や 教 育 専 門 家 は い ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 の 方 は 実 学 中 心 の 教 育 機 関 で ろ い ろ な 立 場 で 近 代 日 本 の 形 成 に か か わ っ た 。 と く に 酋 洋 の 工 業 技 術 の 導 入 に お い て は , ス コ ッ ト ラ ン ド 人 あり, が 大 い に 関 与 し た 。 ス コ ッ ト ラ ン ド 人 技 術 者 は , 工 場 ・ 生 は グ ラ ス ゴ ウ 大 学 に 在 学 し な が ら , 夜 間 に ス ト ラ ス し か も 夜 間 課 程 を 開 設 し て い た こ と か ら , 留 学 造 船 所 ・ 製 造 会 社 に 雇 わ れ た 機 械 技 師 , 鉄 道 ・ 橋 梁 ・ ク ラ イ ド 大 学 に も 修 学 す る こ と が で き た 。 し か も , 両 道 路 ・ 上 水 道 ・ 下 水 道 に か か わ っ た 土 木 技 師 , 霞 信 の 大 学 と も , 大 学 に 籍 を 置 き な が ら , 学 外 の 造 船 所 や 鉄 架 設 に 従 事 し た 霞 気 技 師 , 造 船 会 社 に 雇 わ れ た 造 船 技 師 に 大 別 さ れ る 。 灯 台 建 設 に た ず さ わ っ た R . ン ト ン (Richard 1883 年 に は 造 船 学 講 座 を 創 工 所 な ど に 出 向 い て 実 地 研 修 を 体 験 す る こ と が 奨 励 さ H目 プ ラ れ て い た 。 HenryBrunton, 1841-1901) ,北海 両 大 学 の な か で も , グ ラ ス グ ウ 大 学 は お 雇 い 教 師 が 道の港湾の築港・整備設計にあたった港湾土木技師c. 仲 を と り も つ 形 で 多 数 の 日 本 人 留 学 生 が 集 ま り , と く S. メーク (Charles S c o t tMeik1853-1923) に 自 然 科 学 を 専 攻 す る 留 学 生 の メ ッ カ と な っ た 感 が あ ,上下水道 る 。 資 格 試 験 の計画・施設を指導し日本最初の衛生工学教授となっ 2 一 (Preliminary Examination) に お け る 外 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) 第 56 巻 第 S p i 1 ' i t )j,それに 2 号 (2009 国語選択科目の一つに日本語を認定したことに象徴さ 神 (η 'w J,α'!p αη ese れるように, 本 (Dω Nippon)J などが含まれている。 日本人の留学を支援したこともあって, H. ダイアー『大日 英国の定評ある書評誌『タイムズ・リテラリ」・サ 多くの日本人が留学し,日本と英国の教育交流の一大 プリメント (Tlw 拠点校となった。 は, 第三に,グラスゴウは美術工芸の面でも明治臼本と ン『日本 ている。 T i mesLite 1904 年 12 月 9 日号で, 集を組み, の交流が促進された。そのさいもお雇い教師が介在し r.ωyS1 ψ,plmnent)j I 日本関係図書 (J, α'!p an: αnAttempt αt I n t e l p r e t a t i o n )j,農 スコットランド人教師R.H.スミス (Robert H巴my o ft h eT w e n t i e t hC e n t u 1 Y )j など,新干日書 し て い る 。 い づ れ も クス卿 (Sir H arrySmithParkes, 1828-1885) の仲介 ある。 英国における日本に対する関心はすでに徳川幕府の 転覆と日本開国のころから始まっていたが,その後の 日本社会の急速な変化に触発され, 1150 点 に の ぼ る 日 本 関 係 コ レ ク シ ョ ン で あ る 。 「 日 本 政 府 交 換 品 Exchang ,巴 Call 巴 ction) andMuseum) Government (Japanese ArtG a l l e r y (Kelvingrove とくに「日本の経 済的・軍事的発展に刺激されてイギリスの日本解釈に 大きな変化がみられJ た。 Jと 名 づ け ら れ , 同 市 の ケ ル ヴ イ ン グ ロ ー ブ 美 術 館 ・ 博 物 館 6冊 を 紹 介 年 に 英 国 で 出 版 さ れ た 著 書 で (2) i奈 器 , 楽 器 , 陶 磁 器 , 金 工 品 , 織 物 ・ 衣 装 , 紙 工 品 な ど か ら な る 1904 年 11 月 25 日 に , 明 治 政 府 か ら 大 量 の 美 術 工 芸 品 が グ ラ ス ゴ ウ 市 に 贈 呈 さ れ た 。 家 具, J と題する特 H. ダイアー『大日本.J.ラフカデイオ・ハー Smith, 1852-1916) が発案し,駐日英国公使H. S. パー 11) の 場 合 商務省編 W20世紀初頭の日本 (J,叩 αn 伽 tlwBeg伽ning たとえば,開成学校ならびに東京大学のお雇い でもって, 1 8 7 8 (明治 年 度 ) 日本の方でも,政府が良好な日本イメージの形成の ために,西欧の知識人やメディアに影響を与えるよう に 収 蔵 さ れ た 。 グ ラ ス ゴ ウ 市 は , そ の 返 礼 と し て 西 洋 絵 画 や 工 業 標 本 な ど を 日 本 に 寄 贈 し た 。 な周到な措置を講じた。たとえば,日本海軍の軍艦を こ れ ら の 諸 品 は , 東 京 の 帝 国 博 物 館 ( 東 京 国 立 博 物 館 設計した英国人を日本に招月号して歓待したし,英国人 の 前 身 ) に 収 蔵 さ れ た 。 作家(たとえば女性旅行家I.1.バード, I s a b e l l aLucy 工 部 大 学 校 の お 雇 い 教 師 H. ダイアーもまた, 自身 Bird, 1831-1904) の日本旅行に格別の便宜をはかった の 持 ち 帰 り 品 お よ び 帰 国 後 に 日 本 か ら 贈 呈 さ れ た 誇 品 り, な ど で 日 本 コ レ ク シ ョ ン ( 図 書 , 美 術 工 芸 品 , 楽 器 , 表するという野心的な計画」を進めたことなどである。 これらが功を奏したことで, 写 真 ・ 絵 葉 書 類 ) を 形 成 し た 。 そ れ ら は , 死 後 , グ ラ ス ゴ ウ の ミ ッ チ ェ ル 図 書 館 さらには「日本政府が官庁報告や統計・を英語で発 (Mitch 巴II Li brary) あ る い 日本への関心の高まりに 結ぴついた。 19世紀末ならびに 20世紀はじめになると,別の要因 は ケ ル ヴ イ ン グ ロ ー ブ 美 術 館 ・ 博 物 館 な ど に 寄 贈 さ れ た (2) 。 がからんでくる。そのーは, I ロシアの膨張政策 J と いう国際情勢の変化である。このロシアに対抗する点 3. 英 国 に お け る 日 本 関 心 の 高 ま り で,英国と日本は利害を共にすることになり, 1902年 (1) 日本と英国, に日英同盟を結ぶ。英国における日本への関心は,こ 日 本 と ス コ ッ ト ラ ン ド の 交 流 は , 明 治 のようななか一段と高まることになる。日英同盟の調 後 期 に な る と あ ら た な 展 開 を み せ る 。 日 本 は 西 洋 を モ 印ののち, デ ル に し て 工 業 化 を 進 め て き た が , 日 清 戦 争 と 日 露 戦 I 日本の公的機関から出る英語資料の量が 増大 J したし,既述のように, I新渡戸稲造のような日 争 を 契 機 に ア ジ ア の 強 固 に 成 長 す る と , 西 洋 で は 日 本 本人著者が,英国の読者の好意的な反応を期待して日 へ の 関 心 が 高 ま り を み せ る よ う に な る 。 英 語 で 書 か れ 本に関する書物を書いた」。 その二は,このころ,英国社会は停滞し内政改革 た 日 本 研 究 書 が 増 大 し た の は , そ の あ ら わ れ と 思 わ れ を求める世論が高まっていたという事情があった。 る。 たとえば, 「二 O 世紀のはじめころ,イギリスの海外政策と国内 20 世 紀 初 期 ア メ リ カ の 有 力 な 一 般 誌 『 ザ ・ リテラリー・ダイジ、エスト 1905 年 8 月 28 日号で, (η wLitem1 ν Digest の諸制度は,広汎な批判と再評価の対象になって j い )j は, た。「ドイツ,フランス,アメリカとの貿易競争に対す I現 代 の 注 目 図 書 , 日 本 理 解 に 役 立つ本」という欄を特設し, I日 本 理 解 に 役 立 つ J 注目 る恐れから,教育改革に関する議論がさかんに行われ 図 書 13 冊 を 選 定 し こ れ を 書 評 な い し 紹 介 し て い る 。 新 i度戸稲造『武士道 松 謙 澄 『 旭 日 (Bushido: (η wRisenSun)j ていた J 。そのようななか, T l wS o u lo fJap 側).1,末 , I 日本が改革の物差しにな るかもしれないという考え方」が広まったことは注目 岡 倉 由 三 郎 『 日 本 精 される。 -3 一 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 二 年 間 は , 土 木 学 ・ 機 械 学 ・ 電 信 学 ・ 建 築 学 ・ 応 用 化 改革論議が盛んななか出版された一書が,R.ダイ (1904) である。「東洋の英国.、大日 学 ・ 冶 金 学 ・ 鉱 山 学 と い う 専 門 科 目 が 用 意 さ れ , 学 生 本,国家革新の研究j という象徴的な題名をもっ同書 は こ の う ち 一 科 目 を 選 択 し て 学 ぶ 。 最 後 の 二 年 間 は 全 は. 1904年 10月に 1000部出版されたが,年内にすべて 国 各 地 の 工 場 ・ 造 船 所 ・ 鉱 山 な ど に 出 向 き , 学 習 し て 捌かれたので翌年に 250部が増刷された。日本はいま き た 理 論 を 実 際 に 応 用 す る こ と に 携 わ る と い う 構 想 で 停滞している英毘を改革するさいの教訓になる,とり あ る 。 アー著『大日本.1 こ の よ う な 学 謀 課 程 構 想 、 は , す で に 指 摘 さ れ て い る わけ日本の成長における教育の役割には注目すべきも のがある。英国はその日本の教育制度にならうとい よ う に , 注 目 す べ き 特 色 が あ る 。 そ の ー は . 学 課 編 成 い,などという指摘が含まれているけ)。 を 七 科 と じ た こ と で あ る 。 当 時 , 工 学 の 専 門 領 域 を 「 こ 明治時代の日本と英国,とりわけスコットランドの れ だ け 細 分 化 し た の は , イ ギ リ ス に は も ち ろ ん 世 界 に グラスゴウとの聞には,以上のような諸種の関係と交 も 先 例 が な い 流がみられた。本稿は,このうち,お雇い教師且ダ 交 代 j と い う 教 育 方 法 が 構 想 さ れ た こ と で あ る 。 「 イ イアーならびにグラスゴウに学んだ日本人留学生を介 ギ リ ス の 教 育 伝 統 を 重 ん じ つ つ , ヨ ー ロ ッ パ 大 陸 の 教 した交流をめぐって,具体的に考察する。 育 方 法 を 入 れ 込 ん だ , 新 し い 実 験 的 教 育 モ デ ル の 創 出 J と い わ れ る 。 そ の 二 は , I学 理 と 実 地 の で あ る 」 と 評 さ れ て い る 。 そ の 三 は . II. お雇い教師 H. 進活動 ダイアーの日英交流推 室 , 化 学 実 験 室 , 作 業 場 , 技 術 博 物 館 を 付 設 す る こ と の 教 育 効 果 が 自 覚 さ れ て い た 。 1.日本工学教育の組織化 ダ イ ア ー 構 想 、 を 大 幅 に 取 り い れ て 作 成 さ れ た で あ ろ う こ の 英 文 カ レ ン ダ ー は , 工 部 省 が そ れ ま で に 作 成 し (1) て い た 工 学 校 計 画 に 代 わ っ て 採 用 さ れ , 明 治 ダ イ ア ー は 工 部 省 の お 履 い 教 師 と し て 招 勝 さ れ , 明 治 6 (1 873) 年 6 月から I施 設 や 設 備 に 特 段 の 配 慮 : を し た 」 こ と で あ る 。 図 書 室 , 物 理 学 実 験 7年2 月 , 邦 文 の 『 工 学 寮 学 課 並 諸 規 則 』 が 印 刷 ・ 刊 行 さ れ 15 年 6 月まで工学寮ならびに工 た 。 「 そ の 内 容 は 英 文 カ レ ン ダ ー と 悉 く 符 合 す る 」 。 し 部 大 学 校 に 勤 務 し た 。 こ の 間 の 職 務 は 二 つ あ っ た 。 そ の ー は , 教 師 と し て 土 木 学 ・ 機 械 学 の 講 義 と 実 習 の 指 か も , 同 『 規 則 導を担当することであり,そのこは,都検(教頭)と 本 に お い て 変 更 は な く , 工 部 大 学 校 の 性 格 を 決 定 づ け し て 教 師 の 筆 頭 に 位 置 し て 学 校 の 編 制 , 学 科 課 程 の 作 る こ と に な る 」 点 で 重 要 で あ る 。 商 業 教 育 と 違 っ て , 日 本 で は 未 曾 有 の こ と で あ っ た だ 度 版 と け に , 学 校 の 編 制 と 学 科 課 程 の 策 定 と い う 期 待 に 応 え 年 年 度 , て , 工 学 教 育 の 組 織 化 に 寄 与 し た こ と は 特 筆 さ れ る 。 1884 年度. 1876 1878 い て 変 更 は な 日 本 へ の 赴 任 に あ た り , 工 年 度 版 , 1875 年度. 1885 1879 に 関 し て 受 け 入 れ ら れ た 」 と い う 。 か れ が 作 成 し た と い う カ レ 優 秀 生 に 対 す る 褒 章 規 定 ( 明 治 7 ) , 鋳 鋳 試 検 局 お よ び ン ダ ー の 原 本 は 発 見 さ れ て い な い け れ ど も , そ の 内 容 工 学 試 検 局 と い う 付 属 施 設 の 新 設 ( 明 治 7 ) , 官 費 生 に は 明 治 加 え て 私 費 生 の 入 学 許 可 ( 明 治 ( 明 治 1880 8 8) 年 1877 年度. 1883 年 度 の 英 文 版 を 調 査 し た が . 修 学 し 文 カ レ ン ダ ー に 反 映 さ れ て い る と 推 定 さ れ て い る 。 年度, j ぃ 。 明 治 これを提出すると「いかなる変更もなしに日本政府に 年 に 工 学 寮 が 印 刷 ・ 刊 行 し た 下 記 の 英 ( 明 治 w工 部 大 学 校 学 課 並 諸 規 郎 』 の 学 教 育 機 関 の た め の カ レ ン ダ ー ( 学 校 要 覧 ) を 作 成 し 6 (1873) I基 筆 者 は 『 工 学 寮 学 課 並 諸 規 則 』 の 成 に 関 与 す る こ と で あ っ た 。 工 学 教 育 は , 農 業 教 育 や ダイアー自身によるど, j は こ れ 以 後 何 回 か 改 正 さ れ る が , 年度, I基 本 に お (1875) 年6月 に 修 学 順 序 3 ・ 4年 次 の 二 年 間 は 毎 年 6 カ 月 間 は 学 校 で 6 カ 月 は 実 地 修 業 す る と 修 正 さ れ た ほ か , 成 績 9) , 身 体 運 動 の 規 定 10) , 造 船 学 の 増 設 ( 明 治 15) な ど が 加 わ る け れ ど も , 大 筋 の 変 更 は 認 め ら れ な い 。 11 叫:p eri α l C o l l e g eo fEngineering ,T o k e i . Calend S e s s i o nMDCCCLXXIII-LXX Tok 巴i. 実 学 重 視 と い う 工 学 教 育 理 念 , な ら び に 工 学 部 を 草 αれ 創 期 か ら 大 学 の な か に 位 置 づ け る と い う 日 本 の 工 学 教 刀f 育 制 度 は , ダ イ ア ー の 創 案 に 成 る , 上 記 の P r i n t e da tt h eCollege , 1 8 7 3 . 1873 文 カ レ ン ダ ー に 始 ま る と 考 え ら れ る 同 英 文 カ レ ン ダ ー に よ る と , 修 業 年 限 は そ れ を 一 般 科 学 , 専 門 学 , 実 地 学 に 年 の 英 (4) 。 (2) 6年 と し , 2年 づ つ あ て る 。 ダイアーの工学教育構想は,学理と実地の交代,理 最 初 の 二 年 間 は 英 語 ・ 地 理 学 ・ 初 級 数 学 ・ 初 級 機 械 論と実践の結合を重視した構想であった。これが成っ 学 ・ 初 級 物 理 学 ・ 化 学 ・ 工 学 製 図 か ら 成 る 。 そ の 後 の たのも,若いころジェイムス・エイトキン(James -4 ー 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) 第 56 巻 第 2 号 (2009 Aitken) 社という鋳物工場で徒弟修業をした体験とグ 有 力 科 学 技 術 雑 誌 が , ラスゴウ大学における工学の学習,ならびにヨーロッ き に 注 目 し て い た こ と に な る 。 パ諸国の工業教育制度についての調査研究をもとに, 日 本 に お け る 工 科 大 学 設 立 の 動 以 後 も , い く つ か の 新 聞 ・ 雑 誌 が 何 回 も 取 り あ げ た 。 工学寮ならびに工部大学校という工学の実務的な人材 そ の 内 容 は , 建 物 ・ 敷 地 の 配 置 , 卒 業 式 , ダ イ ア ー の 育成のための専門教育機関の教育課程を構想したと考 歓 送 会 , 記 念 講 演 , 入 学 試 験 ・ 定 期 試 験 な ど 細 事 に ま えられる。 で 及 ん で い る 。 と り わ け 学 課 課 程 の 内 容 編 成 な ら び に 後年,自著のなかでもこのような工学教育構想の意 教 育 体 制 に 強 い 関 心 が 示 さ れ た 。 入 手 し た 『 カ レ ン 義を主張し, r大日本j (1904) や『大局的にみたエンジ ダ ー 』 を も と に し た 詳 細 な 解 説 記 事 を 載 せ そ こ か ら ニアの教育と実務に関する提言 (IntI吋uctory A d d l ' e s s 英 国 の 工 学 教 育 に 対 す る 批 判 を 引 き 出 し , 同 時 に 工 部 ont h eTn αining A s p e c t s ) j (1905) ωld Worko fE n g i n e e r si nT h e i l '~ 号 では, de l' rエ ン ジ ニ ア の 教 育 に お け る 大 学 校 に お け る 工 学 教 育 の 特 質 と そ の 先 進 性 に 論 及 し て い る 理 論 と 実 践 の 結 合 の 方 法 は 夜 、 が 日 本 に 導 入 し た 」 と 自 17 日, 負 し て い る 。 日, 工 学 の 実 務 的 な 人 材 育 成 を め ざ し た 教 育 活 動 の 成 果 J 誌 1874 年 3 月 12 日, J 誌1877 年 5 月 18 日, rエ ン ジ ニ ア リ ン グ 』 誌 6年 に 工 学 寮 と し て 開 校 工 学 教 育 体 制 の 変 容 , 19 年 に 帝 国 大 学 に 併 合 さ れ る ま で に , 493 名 の 18 年 末 ま で に 1877 年 7 月 27 日 な ど ) 。 工 日 本 工 学 教 育 史 に お け る 工 部 大 学 校 の 位 置 な ど を め ぐ っ て , 報 じ て い る 。 211 名 の 卒 業 生 を 工 部 大 学 校 が 英 毘 の 新 聞 ・ 雑 誌 上 で 注 目 さ れ て い た 送 り だ し た 。 追 跡 調 査 に よ る と , か れ ら は 研 究 活 動 , こ ろ と い え ば , 欧 米 で は 総 合 的 な 高 等 技 術 教 育 機 関 は 教 育 活 動 , 実 業 活 動 と い う 三 つ の 側 面 に お い て , ダ イ ま だ 設 立 途 上 に あ っ た 。 英 国 で は , ア ー が 期 待 し た 実 践 的 な 力 量 を 発 揮 し て , 明 治 日 本 の た つ の 万 国 博 覧 会 を 機 に , 学 校 教 育 形 態 で の 科 学 技 術 形 成 に 寄 与 し て い る 。 教 育 の 組 織 化 が 国 家 的 課 題 で あ る と の 認 識 が 高 ま り , 以 上 の よ う な 工 学 教 育 の 組 織 化 な ら び に 実 務 的 人 材 1851 年 と 67 年 の ふ 他 国 の 実 状 調 査 が 精 力 的 に 始 め ら れ て い た 。 そ の よ う の 育 成 と い う 功 労 に 対 し , 明 治 15 ·(1882) 年 10 月 24 な な か , 工 部 大 学 校 へ の 関 心 は 高 ま り を み せ て い る 。 日 , ダ イ ア ー は 勲 三 等 に 叙 せ ら れ 旭 日 中 綬 章 が 授 与 さ も っ と も , そ の 論 調 に は 者 干 の 変 化 が う か が わ れ れ た 。 そ の き い の 「 ヘ ン リ ー , ダ イ エ ル 氏 奉 職 履 歴 概 る 。 当 初 は 日 本 政 府 の 要 議 を 受 け た の で 産 業 発 展 の 基 略J に は , 工 学 人 材 養 成 の た め の 「 学 課 並 諸 規 則 ヲ 選 礎 と 考 え ら れ う る 「 西 欧 文 明 の 特 徴 的 な も の を 伝 え て 定 」 し , r校 舎 ノ 構 造 教 場 ノ 位 置 等 ヲ 計 画 J し, 二 関 ス ル 一 切 ノ 器 械 書 籍 等 ヲ 装 置 ス ル ノ 功 績 が 称 え ら れ て い る 1877 年 5 月 1878 年 6 月 28 ら 文 部 省 に 移 っ て か ら も , 移 行 ・ 移 管 を 含 め た 日 本 の と な る 。 工 部 大 学 校 は , 明 治 学 生 を 入 学 さ せ , 明 治 cr ネ イ チ ャ ー rエ ン ジ ニ ア 部 大 学 校 が 帝 国 大 学 工 科 大 学 に な り , 所 管 が 工 部 省 か は , そ の 卒 業 生 の 活 躍 状 況 を 追 跡 す こ と に よ っ て 可 能 し 明 治 r工 学 準 備 」 を し た や ろ う J 左 い う 姿 勢 で あ っ た 。 そ れ が 工 学 寮 な い し 工 部 大 学 校 が 開 校 し た 後 は そ の 教 育 方 式 を 称 讃 し , そ れ (5) 。 は 英 国 が 模 範 と す る に 値 す る と 考 え ら れ た 。 「 エ ン ジ (3) ニ ア の 体 系 的 教 育 に お け る 著 し い 遅 れ 」 が 国 家 的 な 重 工 学 寮 な ら び に 工 部 大 学 校 の 誕 生 は , 英 国 で 関 心 を 要 問 題 に な っ て い た 英 国 に と っ て , 工 部 大 学 校 は 「 作 も っ て 受 け と め ら れ て い た 。 英 国 は ダ イ ア ー ら 同 校 の 業 場 に お け る 生 の 実 際 的 経 験 」 と 「 高 度 な 科 学 的 訓 練 」 お 雇 い 教 師 を 送 り 出 し た だ け に , 当 時 の 新 聞 ・ 雑 誌 は , と を 賢 明 に 結 合 さ せ た 点 に お い て , 理 想 的 な 教 育 機 関 極 東 の 日 本 に 誕 生 し た 世 界 的 に あ た ら し い 総 合 的 工 科 で あ る と 理 解 さ れ て い た の で あ る (6) 。 大 学 と 認 識 し , 驚 き と 賛 辞 を も っ て 繰 り 返 し 取 り あ げ 2. て い る 。 1 8 7 3 (明治 管 見 に よ る と , チ ャ ー 』 誌 が 「 日 本 の 工 科 大 学 た の を 皮 切 り に , 6) 年 4 月 3 日, 8 日 後 の 4 月 11 日には, 帝 国 財 務 及 工 業 通 信 員 の 嘱 託 rネ イ (1) J と い う 記 事 を 掲 載 し ア 』 誌 が 『 ネ イ チ ャ ー 』 誌 の 向 記 事 を 再 録 し た し , ダ イ ア ー は , 明 治 政 府 の 帝 国 財 務 及 工 業 通 信 員 に 任 rエ ン ジ ニ 命 さ れ , 英 国 へ の 日 本 紹 介 を 主 務 と す る 業 務 を 委 託 さ rエ れ た 。 明 治 35 (1902) 年3 月 の こ と で あ っ て , お 雇 い ン ジ ニ ア リ ン グ 』 誌 も ま た 「 日 本 の 工 学 の 進 展 , 江 戸 解 除 後 も 日 本 と 親 密 な 関 係 を 保 ち 日 英 交 流 の 推 進 に 寄 に 工 科 大 学 誕 生 与 し て い た と い う 実 績 に か ん が み , 推 薦 さ れ た も の で j と い う 記 事 を 載 せ , 設 立 計 画 案 に つ い て 詳 し く 報 じ て い る 。 ダ イ ア ー ら お 雇 い 教 師 の 第 一 あ る 。 他 の お 雇 い 教 師 に は み ら れ な い 特 異 な 経 歴 で あ 陣 が 林 董 る。 し た の が 年度) (1850-1913) に 伴 わ れ て サ ザ ン プ ト ン を 出 港 1873 年 4 月 初 旬 の こ と だ か ら , 早 く も 英 国 の そ も そ も 帝 国 財 務 及 主 業 通 信 員 の 委 嘱 は , 駐 英 ロ ン -5- 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 ドン領事館一等領事荒川巳次 (1857 -1949) の発案に 知 ラ シ メ 及 ヒ 外 国 ニ 於 ケ ル 情 況 ヲ 時 々 報 道 ス ル コ ト 」 はじまる。荒川は工部大学校を卒業(明治 13年,鉱山 を 期 待 す る , と 伝 え ら れ た 。 具 体 的 に は , 毎 年 の 予 算 科第二等及第)後,工部省鉱山局,日本鉄道会社をへ 計 画 な い し 半 期 ご と の 輸 出 入 の 状 況 に つ い て , 定 期 的 に 簡 単 な 論 評 を 草 す る こ と , あ る い は 大 蔵 省 そ の 他 が て外交官に転身,ロンドンに赴任していた。 赴任中の明治 34 (1901) 年 11 月 26 日, 1元工部大学教 頭へンリ」・ダイエル博士 Dr. 及 工 業 通 信 員 ニ 任 命 ノ 義 菓 請 (1855-1911) H e n r yDyer 欧 文 で 刊 行 し た 財 政 ・ 経 済 に 関 連 の あ る 統 計 報 告 類 , な ら び に 重 要 な 財 政 計 画 , 鉄 道 ・ 航 海 ・ 銀 行 ・ 保 険 ・ ヲ 帝 国 財 務 J を 外 務 大 臣 小 村 寿 太 郎 あ て に 送 付 し て 申 し で た 。 そ の 内 容 は , 鉱 業 ・ 各 種 工 業 ・ 農 業 な ど の 沿 撃 と 現 状 に つ い て の 論 評 を 英 国 で 発 表 な い し 講 演 す る こ と , な ど で あ る 。 (2) 主 に 3点 か ら な る 。 第 ー は 発 議 の 事 由 で あ っ て , 日 本 の 財 政 な ら び に 経 済 社 会 の 現 況 を ロ ン ド ン 市 場 に 知 ら 帝国財務及工業通信員どしての活動に対して毎月 10 せ る と と も に , 英 国 民 へ も 詳 し く 報 ず る こ と は , 日 本 ポンド(年間 120 ポンド)が支給されつづけたというか の 経 済 社 会 の 趨 勢 上 す こ ぶ る 必 要 で あ る と 恩 わ れ る 。 ら,どのような成果があらわれ, と く に こ れ ま で に 新 聞 紙 上 に あ ら わ れ た 日 本 の 財 政 お かなる寄与をなしたのか。探究すべき課題であるけれ 日英関係の増進にい よ び 商 工 業 の 実 情 に つ い て の 記 事 は , 英 国 の 実 業 家 を ども,具体的にこれを測定することはむつかしい。 本件は機密扱いとされただけに,外務省外交史料館 覚 醒 し た 観 が あ る 。 こ の よ う な 任 務 を , ダ イ ア ー に 委 にある基本文書 (I ヘンリー・ダイエル博士ヲ帝国財政 嘱 し よ う と い う の で あ る 。 及工業通信員ニ任命方在倫敦領事裏請一件」なめに 第 二 は , 推 薦 す る 理 由 で あ る 。 ダ イ ア ー は お 雇 い 教 師 を 解 約 後 , 郷 塁 の グ ラ ス ゴ ウ に 戻 っ て か ら も , 日 本 も,成果にかかわる記述は認められない。同文書には, の 利 益 に 留 意 し つ づ け て き た 。 日 本 経 済 の 現 況 に か か 「官房秘」あるいは[機密送」というスタンプや書きこ わ る 報 告 や 論 説 を 新 聞 ・ 雑 誌 に 発 表 す る こ と を と お し みがあちこちに認められる。 ただし, て , 日 本 の た め に 尽 力 し て い る 。 英 国 の 商 工 業 者 の 、 注 1本邦財政経済ニ関スル事項ヲ新聞雑誌ニ 掲載j するという任務についてなら,ダイアーは下記 意 を す こ ぶ る 喚 起 す る と こ ろ が あ っ た 。 のような論稿を発表している。 当 時 , 大 蔵 省 は 財 務 通 信 員 を ロ ン ド ン ほ か 世 界 の 主 01 日本における教育と国家的効率j 要 都 市 に 派 遣 し , 当 該 国 の 財 務 を 調 査 さ せ て い た 。 農 『ネイチャー j 商 務 省 も ま た , 毎 年 , 相 当 な 金 額 を 投 じ て 商 工 業 視 察 (1904年 12 月 15 日) 01 日本産業と外国投資j 員 を 各 留 に 派 出 し , 日 本 と 当 該 国 の 資 本 家 な ら び に 商 『財政評論誌j (1906年 2 月) 工 業 者 間 の 疎 通 を は か ろ う と し て い た し , 商 品 陳 列 館 01 日本の商業道徳」 を 海 外 各 地 に 設 け て 日 本 の 貿 易 の 伸 長 を 企 て つ つ あ っ た 。 そ れ だ け に , ダ イ ア ー の よ う に , 『財政評論誌j (1906年 3 月) 1能 ク 当 国 ト 帝 屈 o1 日本における外国投資の法的側面J ノ 事 情 ニ 精 通 シ 旦 ツ 熱 心 ニ 我 カ 帝 国 ノ 隆 運 ヲ 希 望 ス ル 『財政評論誌 j (1906年 8 月) 者 」 を 活 用 し な い 手 は な い で あ ろ う 。 日 本 の 国 情 を 英 01 日本の借款更改一政府全権公使高橋是清とのイ 国 民 に 頻 繁 に 知 ら せ る と と も に , グ ラ ス ゴ ウ ほ か 各 都 市 の 産 業 の 活 動 状 況 を 報 告 さ せ る こ と は , 日 本 に と っ ンタピュー」 て き わ め て 有 効 で 、 あ る と 考 え ら れ る 。 つ い て は , 第 三 f財政評論誌j (1906年 11 月) o1 日本からの教訓IJ に , 大 蔵 省 ま た は 農 商 務 省 よ り 「 帝 国 経 済 又 ハ 工 業 特 『協同組合年報j 別 通 信 員 ノ 如 キ 名 義 ヲ 以 テ 相 当 ノ 手 当 金 ヲ 下 付 セ ラ ル 、 様 街 『タイムズ j (1908年 3 月 18 日) 当 金 は 「 当 国 一 般 ノ 実 況 上 , 年 約 千 二 , 三 百 円 ( 英 貨 百 弐 拾 傍 ) 内 外 ノ ト コ ロ ニ テ 可 然 」 と 提 案 し て い る 。 01 日本の商業教育 j 『グラスゴウ・ヘラルド j 荒 川 領 事 の 構 想 と 提 案 は , 日 本 政 府 の 了 承 を と り つ け る こ と が で き た 。 明 治 長 官 阪 谷 芳 郎 ( 1 8 5 7-1929) -1941) あ て に 送 付 し た 文 書 に は , (1910年 11 月 26 日) 01東洋貿易,日本と中国の工学j 35 年 2 月 日 臼 付 で , 大 蔵 総 務 (1863 (1908月 3 月) 01 日本の工学」 l詮 議 ヲ 仰 キ 度 候 」 と 申 し 出 , ダ イ ア ー へ の 手 f グラスゴウ・ヘラルドj (1912年 12 月 31 日) が 外 務 総 務 長 官 弥 回 捨 巳 このうち, r財政評論誌j という月刊誌に. 1906年の 1右 ハ 頗 ル 有 1 年間に日本の財政と商業道徳をめぐる 4 本の論説を 益j だ か ら 「 帝 国 財 務 通 信 員 タ ル コ ト ヲ 嘱 託 致 度 」 と あ る 。 ダ イ ア ー に は 「 本 邦 財 政 経 済 ニ 関 ス ル 事 項 ヲ 新 寄せたことが注目される。第一作「日本産業と外国投 聞 雑 誌 ニ 掲 載 シ 又 ハ 其 他 ノ 方 法 ヲ 以 テ 一 般 外 国 市 場 ニ 資J では,日本の教育制度ならびに憲法制度などの整 -6 一 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) 第 56巻第 2 号 (2009年度) 備が進んでいることを指摘し「日本への投資の安全 グラスゴウ大学に新設される造船学教授職につくこと 性を保証し」ょうとした。第二作「日本の商業道徳 j を念願するなかで進められたが. 1 8 8 3 (明治 では,日本における商人の地位の改善ならびに商業道 続 い て 徳の水準の向上を紹介した。第三作「日本における外 向 に 転 換 し た 。 ま ず 教 育 改 革 の 研 究 に む か い , さ ら に 国投資の法的側面J では, 日本への投資は政府の権威 幅 を 広 げ て 社 会 改 革 に つ い て も 考 察 し た 。 教 育 改 革 研 にもとづいているがゆえに大いに安全で、あることに言 究 と し て は , 技 術 者 教 育 の 改 革 , グ ラ ス ゴ ウ の 技 術 教 及している。第四作「日本の借款更改J は, 育 改 革 , グ ラ ス ゴ ウ 大 学 の 改 革 , グ ラ ス ゴ ウ 市 初 等 ・ 日本が英 貨公債を募集する正当性と安全性を指摘している。 一連の論説が発表された 1906年ころといえば. 年 に 中 等 教 育 改 革 を め ぐ る 考 察 の 四 種 あ る 。 社 会 改 革 研 究 と し て は , キ リ ス ト 教 会 の 改 革 な ら び に 協 同 組 合 運 動 I日 本は,日露戦争に伴う臨時費を支弁したり,各種産業 の 推 進 に か か わ る 考 察 が み ら れ る 。 に外資を導入したりするため,さかんに英貨公債を募 集していた j 。そのようななか, 16) 1886 年 に も 選 考 に 漏 れ る と , こ れ を 境 に 別 の 方 19 世 紀 末 か ら 世 界 に お け る 日 本 関 心 が 高 ま り , 日本の財政事情を論 し か も 日 英 関 の 協 調 が 一 段 と 進 展 す る よ う に な る と , 日 本 じ,それを通して日本の進展および日本人の特性に言 研 究 を 意 欲 的 に お し す す め た 。 ダ イ ア ー の 日 本 研 究 に 及したものである。日本の財政事情にとどまらず,日 は, 本の商業道徳の向上,外匿と対等になることを熱望す と い う 個 別 主 題 に つ い て の 研 究 , な ら び に 『 大 日 本 る日本の国民性, 『 世 界 政 治 の な か の 日 本 ( J i 叩 日露戦争における日本の立場などに ついても,紹介ないし擁護している。このような著作, 日 本 の 経 済 社 会 , 工 業 教 育 , 商 業 教 育 . {I 多 身 教 育 j αη 仰 W01"ld Politi ω H と い う 総 合 的 な 日 本 研 究 が あ る 。 後 者 の 著 書 は , そ れ ぞ とくに日本の借款あるいは外国の投資をめぐる著作は れ 本 文 多くのデータを集めて展開されており,世界への日本 の 歴 史 や 現 状 や 課 題 を 実 証 性 の 高 い 研 究 と し て 集 大 成 450 頁 な ら び に 418 頁 と い う 大 作 で あ り . 紹介ならびに日英関係の促進に寄与したであろうと思 し た 」 と 評 さ れ て い る 。 「 当 時 の 外 国 人 に よ る 日 本 研 われる。 究 書 と し て は 最 高 水 準 の も の で あ る 」 と も 位 置 づ け ら なお,帝国財務及工業通信員の嘱託制度はいつま I日 本 れ て い る 。 『 大 日 本 でも続いたわけではなかった。ロンドンのほかに j r世 界 政 治 の な か の 日 本 』 と い う 著 書 の ニューヨーク,上海,ボンベイにおいても,当該地の ほかに. 財政経済状況についての調査報告を嘱託し調査手当が Nα tion 日t 互 加 cien C1J iηJα 'P an) 支給されてきたのだけれども,日本政府の行政整理な 教 訓 I らびに経費節減策が進むなか,大正 2 論稿も含めて,著作の題名に「日本(Japan , Japan巴se. (1913) 年度か I日 本 の 教 育 と 国 家 的 効 率 (Educ ら嘱託は解かれることになった。ただしダイアーに DaiN i p p o n )J を冠したものだけでも 対する財務通信事務の委託および手当の支給について 年 , そ の 業 績 が 見 直 さ れ , 西 洋 ジ ャ パ ノ ロ ジ ス ト 著 作 は. 集 シ リ ー ズ の ー っ と し て . I 当分従前ノ通継続j とされたことが注目される。 死去 (1918年)まで嘱託が継続されたと推定される (7) 。 集 成 (2006) 3 . (The rへ ン リ ー ・ ダ イ ア ー 著 作 が 編 集 ・ 刊 行 さ れ る に 至 っ て い る 汁 全 5巻 O (2) (1) ダ イ ア ー の 日 本 研 究 に は , 分 析 の 方 法 と 視 角 , な ら びに研究素材の点で特筆すべきところがある。 さ れ た 『 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 英 国 伝 記 事 典 ηaryojNatio αnd 17 点 を 数 え る 。 近 C o l l e c t e dW r i t i n g so jHem 、yDyel 日 本 研 究 の 進 展 ダ イ ア ー は 多 数 の 著 作 を 残 し て い る 。 先 般 刊 行 Dictio 日tion J(1904). I 日本からの (SomeL e s s o n sfromJ,αpαη) J(1908) などという 叩 lBiogr< (Oxj01"d α:phy) 第 一 に , 母 毘 英 国 と の 比 較 と い う 方 法 が 随 所 で 駆 使 j (2004) では. I多 されている。しかも, 産な著述家」であることが特筆されている。 日 本 を モ デ ル 固 と 位 置 づ け , 日 本 か ら 学 ん だ 教 訓 を 英 国 の 改 革 に 役 立 て よ う と し て い 筆者が収集しただけでも,図書・冊子は 42点,論文・ た こ と が 注 目 さ れ る 。 論説は 70点を数える。その数が多いだけでなくその幅 比 較 の 視 座 は , ダ イ ア ー の 教 育 活 動 や 著 作 に 早 く か も広い。著作の主題は,工学教育,工学研究,教育改 ら あ ら わ れ て い る 。 お 雇 い 教 師 と し て 来 日 し , 工 部 大 革,社会改革,そして日本研究に大別することができ 学 校 の 教 育 な ら び に 経 営 を 託 さ れ た と き , す で に 世 界 る。 の 「 有 力 な 教 育 機 関 の 組 織 を 研 究 し て 最初,お雇い教師のころは工学教育と技術者教育を ロ ッ パ 諸 国 に お け る 工 学 人 材 養 成 制 度 と 英 国 流 の 実 地 めぐって考察した。帰国後は,まず工学の学術研究が 重 視 の 教 育 と を 組 み 合 わ せ た 方 式 を 取 り い れ よ う と し 緒についたけれども長くは続かなかった。工学研究は た 。 帰 国 後 , 英 国 , と く に グ ラ ス ゴ ウ の 技 術 教 育 の 改 7 j お り , ヨ ー 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 あ る J と ま で 主 張 さ れ て い る 。 革を押し進めるときも,工部大学校で試みた実践なら 教 育 の な か で も と く に 工 業 教 育 が , そ れ も 政 府 主 導 びに日本を含めた世界の状況についての視察と考察の 成果が,視野に入れられた。日本が驚異的な成長をし の 工 業 教 育 制 度 が 英 国 へ の 教 訓 ! と し て 役 立 つ こ と が 論 19世・紀末に国際社会の一員として台頭すると,その原 述 さ れ て い る 。 工 業 教 育 だ け で は な く , 日 本 の 商 業 教 動力の分析をとおして,停滞する英国社会への教訓|を 育 な ら び に 修 身 教 育 に つ い て も , 英 国 の 教 訓 に せ よ と ダ イ ア ー は 説 く 。 『 世 界 政 治 の な か の 日 本 指し示そうとした。 「制度改革の発想 i原として,英国が日本に関心、を抱 いた歴史は驚くほど長い j が,ダイアーは 20世紀初 j 民 生 活 j I日 本 の 商 業 教 育 Jα pan) J(1910) (Cormnercial r教 育 と 国 Educ α tio η in ではそのような主張が認められる。 I英国の海外政策と国内の諸制度は,広汎な批判 ダイアーの日本研究における第三の注目点は,多数 と再評価の対象になっていた」なかで. I積極的に発言 の日本関係資料を活用したことである。『大日本』で した」一人であった。たとえば. r大日本j (1904) の あれ『世界政治のなかの日本』であれ,数多くの文献 なかでは,英淘の「国民生活の進化は,比較的遅々と 史料や情報が含みこまれている。お雇い教師として同 期. I 産業の発展は,その じような日本体験をもった外国人はほかにも少なくな 多くがいまや急速に消滅しつつある状況に依存してい かったのに,ダイア}がこのような文献史料や情報に る j のに対して. 恵まれた理由は二点考えられる。 した歩みをたどっている J し. I どこにもまして日本はそれぞれ教 そのーは, 育上の措置を充実させてその成果を国家の事業に反映 日本の友人たち, とりわけ工部大学校関 させ,国内の経済と社会の状況および海外における通 係者からの協力が考えられる。「日本にいる私の友人 商の拡大に大きな成果を及ぼしている」こと. I 日本人 たちは,引き続いてかなり重要な新聞雑誌や公式報告 は,図の進歩を目指して教育制度にしっかりした基礎 などを私の許に送り届けてくれている。またイギリス を築いた。この教育制度はあらゆる分野にわたって非 を訪問した場合には,私のところに立ち寄って最近の 常に行き届いたもので,いくつかの点でイギリスに教 日本事情を話題に, 訓を提供した J ことなどを,指摘している。 している。」とダイアーは言日している。そのなかでも 日本研究において特筆すべき第二点は, 日本の成長 「日本各地のさまざまな分野で活躍している私の教え における教育の役割を重要視したことである。英国と 子J の協力にとくに感謝し. r大日本』では謝辞を記し の比較をとおして「日本の国家的教育制度」を高く評 ている。 その二に, 価した。 じっくり時間をかけて意見を交換 日本政府を通じて資料を入手したことが 日本の急速な成長は「それまでに日本で確立されて 注目される。前記のように,明治35 (1902) 年に帝国 きたきわめて完墜な教育制度」の基盤の上で展開され 財務及工業通信員に任ぜられたことで,日本政府を介 I 日本の近年の歴史は,教育に責任を負 して多くの日本情報を自在に活用することができるよ う者が高い国家的理想、に鼓舞された場合,賢明に方向 うになり,本格的な日本研究が進展し特色ある成果を づけられた教育制度が留事に対して影響を与えるとい 著したのである。 たとみなし. そのさい,ダイアーは「英語で書かれた資料に依拠 うことを示すもっとも顕著な実例である j と指摘して いる。そのさい,自生的に工業化が進んだ母毘英国と し J たのだが. の比較をとおして,日本の国家的教育制度に注目し, 最良の西洋人のために準備したものだった J というこ 日本の経験は f英国への教訓!となる j と説いた。 とに留意しなければならない。日本は英国が学ぶべき で も 「 日 本 か ら の 教 訓 特 設 さ れ て い る 。 既 述 の よ う に . 的 効 率 J (1904) とと関連があるように思われる (8) 。 と い う 項 目 が 4. I日 本 の 教 育 と 国 家 あ る い は 「 日 本 か ら の 教 訓 と 題 す る 論 稿 も あ る 。 そ の 論 稿 「 日 本 か ら の 教 訓 冒 頭 に は . IJ 日本の政府役人が日本 モデルになると評価して,好意的な日本像を描いたこ 『大日本j では「英国が学ぶべき教訪IIJ という項目が, また冊子『教育と国民生活 (Education ωldN,α tional L i f e ) j (1 912) I その多くは, IJ 日本関係コレクションの形成 ( 1 9 0 8 ) (1) ダイアーには. IJ の 「ダイアー遺贈品 I国 際 社 会 の 一 員 と し て 日 本 が 台 頭 し た こ Iダ イ ア ー ・ コ レ ク シ ョ ン 」 あ る い は (Dyer B e q u e s t )J と呼ばれる在英日 本 関 係 資 料 が あ る 。 お 雇 い 教 師 と し て 日 本 に 滞 在 し て と が 19 世 紀 後 半 の 政 治 的 驚 異 で あ る こ と は 広 く 認 め ら れ て い る が , そ れ を も た ら し た 原 因 を 考 究 し そ の 教 訓 | 以来, を で き る だ け 生 か し て 成 果 が え ら れ る よ う 学 ぶ こ と 流 を 重 ね る な か で 形 成 さ れ た 資 料 群 で あ る 。 日 本 か ら は , 世 界 の す べ て の 国 の 義 務 で あ り 同 時 に 関 心 事 で も 大 量 の 日 本 事 物 を 持 ち 帰 っ た が , そ れ だ け で な く , 帰 8 一 日 本 へ の 関 心 を 持 ち つ づ け , 日 本 と の 関 係 と 交 第 56巻第 2 号 (2009年度) 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) 国後に加わった諸品も含まれている。 の来日外国人による著作,あるいは森有ネL ,新渡戸稲 ダイアー・コレクションといっても一括しであるの 造,菊池大麓,野日米,益田孝,岡倉覚三,松方正義 ではなく,いくつかに分割されて保管されている。筆 ら国際的に活動した日本人による英書など,あわせて 者の調査によれば,五つの資料群がある。グラスゴウ 215点を数える。日本の案内書や地図帳の類い(東海道 のミッチェル図書館ならびにケルヴイングローブ美術 箱根関の地図 2 帖,江戸の地図 11防など)も 85点ある。 館・博物館,エデインパラ市中央図書館には大型のコ これら日本関係の英書以, レクションが所蔵されている。ダイア}が学んだグラ 政治のなかの日本j r大日本』ならびに『世界 スゴウ大学ならびにストラスクライド大学には,大型 かされたであろうと考えられる。ちなみに, ではないがダイアー関係史料がある。工部大学校の都 の巻末に掲出された参考書目一覧,ならびに本文中に というダイア{の大著の執筆に生 r大日本』 検職に選ばれるさいにダイアーみずから編集した『推 指摘・引用された書目は総数92 点にのぼるが,筆者の 薦書・成績証明書一覧 (Selections j r 0 1 nT e s t i m o n i a l s 確認では,そのうち少なくとも 51 点がダイアー遺贈図 n1YD ym;C .E. , ont h eDcc P r e s e n t e db yHe 書のなかに含まれている。 日sionofHis Appointmenta sP r i n c i p a lo ft h eI m p e r i a lC o l l e g eo f Engineel 加g, Tokio , Jap側).J (1873) ,工部大学校の 第三に,ダイアー帰国後に日本から贈呈された資料 ダイアー著 ηw E v o l n t i o no fI n d n s t 1 Y( 1 8 9 5 ) として, 教師館ならびにダイアー夫婦の写真などである。ダイ の 邦 訳 書 ( 坪 谷 善 四 郎 訳 『 工 業 進 化 論 アーの持ち帰り品ないし遺贈品はみられない。 わが国の造船協会の機関誌『造船協会年報』の創刊号 (2) j博 文 館 , 1896) , (1897年 12 月)などがある。後者では,造船総監・佐繁 左f中 (1852 -1905) による英語論文が収録され,アー ダイア}・コレクションの主たる内容は図書・冊子, 美術工芸品,楽器,写真・絵葉書類から構成されてい ムストロング・ミッチェルネ土において建造された日本 る。 帝国海軍の戦総 f八島」の試験運航の記録がとりあげ まず, ミッチェル図書館には,ダイアーの死後に寄 られている。 贈された大量の図書・冊子等が収蔵されている。 (大正 11) 年から 1924 第四に,図書・冊子類のほかに,巻物ならび、に軸物 1922 (大正 13) 年にかけて「日本,極 も遺贈されていることが特筆される。巻物としては, 東 , ス コ ッ ト ラ ン ド , グ ラ ス ゴ ウ な ど に 関 す る 広 範 か 「義経記」にもとづく長大な巻軸 3 巻がある。制作年 っ 貴 重 な 印 刷 物 を 含 ん だ は 1710 (宝永7)年ころと推定されている。日本人の j 図 書 3,700 冊 な ら び に 冊 子 1 9 2 7 (昭和 2,000 冊が, 東 に 関 す る 図 書 手とは思われない筆跡で, I 義経記絵巻 Pictur巴 Scrolls , 2 ) 年 10 月 10 日 に は さ ら に 「 極 800 冊 , 日 本 の 家 庭 生 活 や 産 業 活 動 を bas巴 d 示 す 楽 曲 集 お よ び 水 彩 蘭 」 が , そ れ ぞ れ 寄 贈 さ れ た 。 ont h eh i s t o r yo f“ Gikei-ki" ( H i s t o r yo fP r i n c e Yoshitsune )J, I っちみかどなかなお J 作という添え書 図 書 ・ 冊 子 類 に つ い て は , 集 書 の 範 囲 が 広 く 種 類 も きがあり, 多 岐 に わ た っ て い る 。 ダ イ ア ー の 専 攻 領 域 で あ る 科 I貴重品」と記されている。 掛軸にはつぎの 7 幅ある。①本表装に仕立てられ 学 ・ 技 術 の 関 係 書 に と ど ま ら ず , 政 治 ・ 教 育 ・ 宗 教 ・ た「雪中の常盤御前 美 術 ・ 地 理 な ど に つ い て も 相 当 数 含 ま れ る 。 ス コ ッ ト Snow)J ラ ン ド の ほ か に , 雪 の な か , わ ら 王 手 き 屋 根 の 軒 下 で 牛 若 ら を あ や す 常 盤 日 本 な ら び 、 に 極 東 に か か わ る 図 書 も た あ か る い 朱 と 緑 の 模 様 が 映 え , 落 ち 着 い た 色 合 い で 日 本 関 係 書 の な か に は , 第 一 に 和 装 本 が あ る 。 田 中 菊 雄 編 『 以 呂 波 引 紋 帳 J (求古堂, 『 楳 嶺 百 鳥 画 諮 J J 『 省 亭 花 鳥 画 諮 『 前 賢 故 実 (郁文堂, 188 1 ) , 幸 野 楳 嶺 画 1 8 8 1-1 8 8 7 ),滝沢清編『唐 (錦栄堂, (求古堂, 1881 J ( 大 倉 孫 兵 衛 , J 1903) お よ び 1887) 1890-9 族 , 小 鼓 を 打 つ 僧 , 纂 築 を 鳴 ら す 烏 帽 子 姿 の 男 性 , 笠 1 ) , 菊 池 武 保 を 弾 く 赤 装 束 の 僧 , 火 焔 太 鼓 を た た く 烏 帽 子 の 男 と い な ど の 貴 重 本 で あ る 。 (David 作 円 土 日 祭 悪 神 除 寓 民 守 護 之 尊 像 描いた淡彩画で, Murray, 1830-1905) ,初代駐日 R u t h e r f o r dAlcock, 1 8 0 9 1 8 9 7 ), お 雇 い 教 師 W . E グ リ フ イ ス E l l i o tGriffis, 1843-1928) ,女性旅行家I. 6人 の 奏 者 を 描 い た 色 鮮 や か な ひ ち り き う , 多 種 類 の 楽 器 と 奏 者 が 描 か れ て い る 。 ③ 藤 原 安 学 日 本 関 係 の 英 書 が 少 な か ら ず 含 ま れ て い る 。 文 部 省 学 英国公使R.オールコック卿 (Sir あ る 。 ② 楽 器 に 興 じ る 掛 絵 ( 鶴 仙 作 ) 。 等 を 演 奏 す る 女 性 , 能 管 を 奏 す る 貴 , 渡 辺 省 亭 画 第 二 に , 図 書 の 大 半 は 英 書 で あ る が , そ の な か に は 監 D. マ レ ー o fTokiwagozeni nth 巴 御 前 が 描 か れ て い る 。 白 い 雪 の な か , 長 い 裾 に 描 か れ 少 な か ら ず 含 ま れ て い る 。 草 模 様 雛 形 (Picture 。 追 っ 手 か ら 逃 れ る 途 次 で 、 あ ろ う か , 一 面 の (William L バードほか J 0 28体の神を墨で 19世紀後半の作と思われる。④五月 節句の臓の大和絵。臓のまねきについた鯉,鍾燈,五 月峨を描いた掛絵である。「文久元年辛酉盛夏端午日 際康瀬節子雅君需六十翁主岳」という筆書きがある。 ⑤竜の墨絵。養川法眼という印記がそなわっている。 9- 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 ⑥万工政宗の石碑文の掛字。 19世紀後半の作で,石碑 『 北 斎 函 富 獄 三 十 六 景 は東京の芝に建っとある。⑦永真法眼(狩野安信)作 社. の日本風景を描いた暴絵。これは軸装されていない。 れ て い る 。 さ れ る 。 数 々 の 絵 葉 書 や 写 真 を 集 め て 厚 紙 に 貼 り つ 11600 年前主要戦乱上の大将た ち(J a p a n e s egen 巴rals 1600)J と題する画帖は j 全 四 巻 と そ の 解 説 書 ( 歴 史 画 報 な ど , ダ イ ア 一 死 後 に 加 わ っ た 諸 品 も 含 ま 第 二 に , 絵 葉 書 な ら び に 写 真 の コ レ ク シ ョ ン が 注 目 第五に,巻物・軸物のほかにも,興味ある絵画類 がある。その一つ. 1936) け , 書 冊 の 形 式 に 仕 立 て ら れ て い る 。 外 国 人 む け の 土 i nn o t a b l ec i v i lwarsb巴for 巴 産 用 に 作 ら れ た の を 手 に い れ た も の で あ ろ う 。 100 点 の 絵 か ら な り , 蛇 腹 の よ 写 真 帖 は う に 折 り 畳 ま れ て い る 。 縦 長 の 画 面 の 上 部 の 余 白 に 経 A3 サ イ ズ と い う 大 判 で , 蒔 絵 箱 に 収 め ら 歴 な ど に つ い て の 詞 書 き が , 下 部 に は 人 物 画 が 配 さ れ れ て い る 。 義 に は 竹 林 に 鶏 二 ; j ; j と 雀 一 羽 が 遊 ぶ 図 柄 が ている。武士だけでなく貴族,僧侶も描かれており, 識 か れ て い る 。 「 中 国 と 日 本 の 風 景 ・ 風 俗 そ れ ぞ れ の 装 束 が 色 あ ざ や か で あ る 。 こ れ ら の 人 物 画 Costumeso fC h i n a& J a p a n )J という箱書きがあり, 像のうち. 1足 利 頼 之 1 8 8 0 (明治 13) J な ら び に 「 北 条 泰 時 」 を 描 い た 年 こ ろ 横 浜 で 制 作 さ れ て い る 。 人 物 写 の 娘 , 僧 侶 と 入 れ 暴 を し た 若 者 , 旅 芸 人 の 子 ど も , 軽 O (3) 業 と 太 鼓 た た き な ど ) . な ら び に 観 光 名 所 写 真 ( 箱 根 , 同じグラスゴウにあるケルヴイングローブ美術館・ 鎌 倉 大 仏 , 上 野 の 森 , 愛 宕 山 の 社 , 富 士 吉 田 , 京 都 の 清 水 寺 な ど ) か ら 成 っ て い る 。 博物館には,別の特色あるコレクションがある。 絵 葉 書 帖 は 約 第ーは,楽器類のコレクションである。五弦琴,二 200 枚 か ら 成 る 。 風 俗 ・ 祭 り 絵 葉 書 と か 弦琴,月琴,小鼓,太鼓(大胴) .小太鼓,尺八,能 浮 世 絵 ・ 木 版 絵 葉 書 と か で な く , 風 景 絵 葉 書 が 中 心 で 管,草笛(七孔ある横笛).竜笛,主主,平家琵琶,琴 あ る 。 こ れ も 日 本 , 中 間 , 香 港 の 名 所 や 風 景 の 絵 葉 書 2 張り,それに名称不明の弦楽器の. 13種 14点を数え で あ る 。 日 光 東 照 宮 , 東 京 逓 信 省 , 江 戸 川 の 桜 , 東 京 る。このうち,平家琵琶(長さ 78.8 センチ,幅31. 7 セ 堀 切 菖 蒲 , 上 野 不 忍 池 蓮 花 , 箱 根 底 倉 の 仙 石 屋 旅 館 , ンチ)は黒い漆絡に入っている。琴(長さ 186 センチ, 鎌 倉 大 仏 , 富 士 JII の 富 士 , 京 都 の 保 津 川 下 り , 神 戸 の 幅26 センチ)は絹の飾り房がつき,綿布で包装され木 オ リ エ ン タ ル ホ テ ル 正 面 や 波 止 場 , 神 戸 海 岸 通 り の 夕 製の漆箱に収められているけれども,金糸の刺繍など 景 , 須 磨 の 海 浜 , 明 石 人 丸 神 社 , 岡 山 後 楽 園 な ど , 多 見あたらない。 彩 な 絵 柄 が み ら れ る 。 モ ノ ク ロ だ け で な く , 手 彩 色 を また,五弦琴,小鼓,太鼓,小太鼓,尺八,能管の 施 さ れ た カ ラ フ ル な 絵 葉 書 も 少 な く な い 。 第 三 に , 巻 物 が 6 点は,和織を着た等身大の男女(男性はグラスゴウ 大学留学生・志田林太郎と伝えられている)の日本人 山 に 住 む 盗 賊 を 退 治 し た 入って展覧に供されており,これには虚無僧の写真も で あ る 。 掛 物 も 添えられている。 1927( 昭和 2 )年にダイアーの遺産管 財人により同館へ貸与され. 1 9 3 8 (昭和 13) 年 6 月 30 i原 頼 光 伝 説 を 題 材 に し た 巻 物 9点 あ る 。 掛 軸 の ミ ニ チ ユ ア 版 を 教 本 の よ う 6幅 あ る 。 豊 国 作 『 清 書 七 伊 呂 波 』 な ら び に 『 八 津 波 源 氏 五 拾 四 第 二 に , 江 戸 中 期 の 浮 世 絵 師 ・ 西 川 祐 信 (1671 l陥』 1 8 9 8 (明治 31) が 含 ま れ て い る ほ か . 年 制 作 の 作 品 や 戦 後 の 北 京 で 制 作 さ れ た 作 品 も 含 ま れ る 。 104 点 あ る 。 扉 風 の よ う に 横 に つ 第 四 に , 木 版 闘 が な が る 連 作 の 絵 が 多 い 。 風 俗 や 美 人 を 描 い た 典 雅 な 絵 49 枚 ( 縦 36.5 セ ン チ , 横 25.5 セ ン チ ) あ り 圧 巻 で あ る 。 お も に 江 戸 後 期 浮 世 絵 の 一 派 で で あ る 。 ( 4) あ る 歌 川 派 の 作 品 で あ る が , す べ て が オ リ ジ ナ ル と い エデインパラ市中央図書館 (Edinburgh Library) 1大 江 山 J と い う 上 書 き が あ る 。 丹 波 国 大 江 に つ な ぎ , 蛇 腹 形 式 に 仕 立 て た も の が 日 に な っ て 遺 族 か ら 寄 贈 さ れ た , と い う 記 録 が あ る 。 の 作 品 が , 総 数 3幅 あ る 。 木 箱 に 収 め ら れ . 酒 呑 童 子 之 図 三 巻 f象とともに,エントランス・ホ}ルのガラスケースに 1750) & 真 ( 青 年 貴 族 , ス イ カ 売 り , 琴 を つ ま び く 芸 者 , 庶 民 人 物 画 二 点 は , そ れ ぞ て い る (Views C e n t r a l の 美 術 図 書 室 の 場 合 は , 第 一 に 和 装 本 が 特 筆 さ れ る 。 ① 『 害 在 日 朗 心 l ② 奈 良 絵 本 10 巻 か ら 構 成 さ れ う 訳 で は な い 。 国 貞 ( 豊 図 と 署 名 ) が 一 番 多 く . め ・ 久 松 J 1男 達 本 町 綱 五 郎 相 系 道 寅 J 1幡 随 意 長 兵 衛 」 な ど る 『 保 元 物 語 』 六 帖 , お よ び ③ 『 平 治 物 語 』 六 l陥 , ④ は 「 東 海 道 五 拾 三 次 之 内 藤 枝 」 と 「 五 拾 三 次 名 所 図 会 『富 j訣 苔 景 』 初 編 ・ 二 編 ・ 三 編 , ⑤ 『 北 斎 閣 議 j 上 編 草 津 J の 2枚 。 図 芳 は ( 尾 州 永 楽 屋 東 四 郎 ) . ⑥ 『 花 鳥 画 傍 』 二 編 で あ る 。 こ の ほ か に , 胡 正 言 編 f十 竹 斎 築 譜 J (国際書店. 武 蔵 坊 弁 慶 . 1 9 5 2 ) . 1 0 i原 義 経 J 1菅 19 枚 を 数 え る 。 広 重 f菅 原 伝 授 寺 子 屋 H艶 姿 女 十 六 女 仙 な ど 11 枚 あ る 。 貞 秀 は 「 菅 原 伝 授 道 明 寺 の 段 一 1を そ J 1景 清 岩 窟 立 去 図 J 1富樫蛮勇, H賢 女 烈 婦 伝 」 J 1菅 原 伝 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) 第 56 巻 第 2 号 (2009 授寺子屋の段j など 9 枚。芝泉は「仮名手本忠臣蔵九 グ ラ ス ゴ ウ の ミ ッ チ ェ ル 図 書 館 で 「 へ ン リ ー ・ ダ イ 段目」など 3 枚。ほかに芳員,芳艶,英山,国周,閏 ア ー ・ コ レ ク シ ョ ン 展 」 が 開 か れ た 。 輝がそれぞれ 1 枚含まれる。上記のうち,国貞作「景 市 民 交 流 年 (2005 i青岩窟立去図」および「菅棺系道賓」はグリーテイン Exchange)J の 一 環 と し て 企 画 さ れ た も の で あ る 。 同 グカードに仕立てられ,市販されている。 展 の ポ ス タ ー の 見 出 し に は , 英 語 と 日 本 語 で 「 ヘ ン 同館には,ダイアーが日本政府から贈られた勲章 12005 と あ る 。 薄 黄 色 と 朱 色 を 基 調 と し た 品 格 の 保 た れ た ポ 師として滞日中の工部大学校の経営ならびに教育指導 ス タ ー で あ っ て , こ れ に 三 世 歌 川 ! 豊 田 の 芝 居 役 者 絵 における功績だけでなく,帰国してからも,教育文化 ( 香 蝶 楼 豊 国 画 「 六 玉 川 景 事 および経済面における日英交流を促進した功績に対し る か ら , 観 覧 者 の 関 心 を 引 き つ け た に ち が い な い 。 2 0 0 9(平成 グ ラ ス ゴ ウ 美 術 学 校 41) 年 2 月 21 日付で,それぞれ叙勲されている。 21) 'EU h e n r ydy 巴r coll 巴 ctionJ リ ー ・ ダ イ ア ー ・ コ レ ク シ ョ ン , られている。 1882 (明治 15) 年 10 月 24 日と 1908 (明治 年 日 EU-JapanYearo fP e o p l e t o P e o p l e (勲三等旭日中綬賞と勲二等瑞宝章)がある。お雇い教 て授与されたもので,黒い漆塗り桐紋入りの箱に収め 年度) J) 年 に も , が 大 き く 配 置 さ れ て い 8 月 21 日 か ら 10 月 10 日まで, S c h o o lo fArt) (Glasgow に お い て 「 大 日 本 : へ ン リ ー ・ ダ イ ア ー ・ コ レ ク シ ョ ン の 歌 (5) 舞 伎 絵 (Dai N i p p o n :KabukiP r i n t sf r o mth 巴 Henry DyerC o l l e c t i o n )J と 題 す る 展 覧 会 が 開 か れ , 歌 舞 伎 以上のような大量かっ多彩なコレクションは,ダイ アーの長年にわたる日本関心ならびに日英交流を裏づ 関 連 の 版 画 が 重 点 的 に 選 ば れ た 。 日 英 修 好 ける点で注目される。 Japan-UK150) ただし,日本研究を意図して,これら日本関係の諸 で あ る 150 年 (The 記 念 事 業 の 一 環 と し て 開 催 さ れ た も の (9) 。 品を言十画的に収集し活用したとは思われない。かれの 本格的な日本研究が始まるのは,帰国後,とりわけ母 5. グ ラ ス ゴ ウ に お け る 技 術 教 育 改 革 ダ イ ア ー は 日 本 に お け る 教 育 体 験 と そ の 成 果 を 持 ち 校グラスゴウ大学の教授就任の希望が叶えられなかっ た以後のことである。しかも,おそらく贈られるまま 帰 り , 郷 里 の グ ラ ス ゴ ウ に お け る 教 育 実 践 に 移 し 入 れ 受領したり,機縁があるごとに買い求めたようで,あ た 。 グ ラ ス ゴ ウ 技 術 教 育 改 革 , グ ラ ス ゴ ウ 大 学 の 改 革 , れもこれもというのが本当の収集姿勢であったと思わ グ ラ ス ゴ ウ 市 初 等 ・ 中 等 教 育 改 革 な ど に 関 与 し た が , れる。 な か で も グ ラ ス ゴ ウ ・ 西 部 ス コ ッ ト ラ ン ド 技 術 大 学 ( ス しかしこうした大量かっ多彩なコレクションに は,ダイアーの日本に対する強い関心が確かにうかが ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 の 前 身 校 ) の 理 事 あ る い は 大 学 要 1 8 8 7 (明治 20) 覧 検 討 委 員 会 委 員 長 と し て , われる点で重要である。その関心が本格的な日本研究 時 か ら 同 校 の 改 革 に 関 与 し た こ と が 注 目 さ れ る 。 工 部 につながり結実したであろうということは,とうぜん 大 学 校 に お け る 体 験 に も と づ い た 改 革 を 導 入 し , 予想される。『大日本』や『世界政治のなかの日本』 技 術 大 学 の 諸 制 度 を 形 づ く る さ い に 相 当 顕 著 な 影 響 力 といった大著にどのような影響力をもっていたかとい を 及 ぼ す こ と が で き た 」 。 うことは興味ある検討課題となるしこれほどの大著 ら び に 専 門 学 の 授 業 科 目 の 編 成 に お い て , ので、はなかったであろう。 重 要 な 役 割 を 果 た し た ダイアー・コレクションのうち, 近年, 1き わ め て J。 工 部 大 学 校 で は 当 初 は 七 つ , 明 治 15 年 か ら 八 つ の 専 門 学 科 ( 土 木 学 , 機 械 学 , 電 信 学 , 建 築 学 , 応 用 化 学 , 冶 金 学 , 鉱 山 学 , 造 船 学 ) よ 日本美術工芸品は, 日英交流の歴史的所産, 1岡 ま ず 第 一 に , 昼 間 部 に お け る 専 門 学 科 の 課 程 編 成 な は,そうした日本事物への親近感なしに打ちこめるも (6) とりわけ日本・グラス り 編 成 さ れ た が , グ ラ ス ゴ ウ ・ 西 部 ス コ ッ ト ラ ン ド 技 ゴウ間の歴史的関係を示す諸品として関心を集めてい 術 大 学 で は 「 今 は 農 学 が か な り の 程 度 ま で 応 用 科 学 , る。 と く に エ ン ジ ニ ア リ ン グ の 問 題 と な っ て い る の で ・ ・ も 1 9 9 1 (平成 Society) 3) 年 に , 英 国 の 日 本 協 会 (The J a p a n の 設 立 百 周 年 を 祝 う 「 ジ ャ パ ン ・ フ ェ ス テ イ う 一 つ の 分 野 と し て 農 学 を つ け 加 え る を 加 え て 九 つ の 専 門 学 科 を 編 成 し た 。 し か も , そ の さ バ ル 」 が 英 国 全 土 で 展 開 さ れ た さ い , ス コ ッ ト ラ ン ド い , 夕 、 イ ア ー が 考 え た 学 科 名 な ら び に 配 列 ! I I 買 が そ の ま で も , ダ イ ア ー ・ コ レ ク シ ョ ン の な か か ら 日 本 美 術 工 ま 採 用 さ れ て い る 。 専 門 学 の 授 業 科 目 に お い て も , 工 部 大 学 校 の 編 成 を 芸 品 が 選 ば れ , 日 英 交 流 の 足 跡 を し の ぶ 格 好 の 品 と し 大 限 に 取 り 入 れ た 。 た と え ば , 土 木 学 の 場 合 で い う て 展 覧 に 供 さ れ た 。 2 0 0 5(平成17)年には, 年 の 開 校 5 月 11 日 か ら 6 月 30 日まで, と , 工 部 大 学 校 に お け る 七 つ の 授 業 科 目 ( 高 等 数 学 . -11- J と し て , 農 学 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 高等理学,土木学,機械学,地質学, lP,ij 量学,図学) る 1996 (平成 8) 年の 4 月,同大学において「産業の が名称ごとそのまま採用され,さらにこれに 3 授業科 国際化,問題点・戦略・事例研究」というテーマで関 包 かれた。その翌 1997年は工部大学校が明治 10 (Building Construction, Laboratory, On巴 General Subject) を追加して編成された。グラスゴウ・西部ス 年 に 開 校 し て か ら コットランド技術大学は「グラスゴーにあった科学教 3 月, 育関係の四つの学校を併合再編したものだが,私はそ 割 の 評 価 の際, れ た 日本の工部大学校の教科課程をこの新しい大学 第二に,学科課程以外にも工部大学校の成果が移し 入れられた。実験室の整備,学理と実地を結合する教 まず,ダイアーは実験室教育の意義を自覚し,工部 j と い う テ ー マ で , 東 京 大 学 に お い て 開 催 さ (11) 。 機 と な り , ま た 日 本 全 国 で 展 開 さ れ た 「 英 国 祭 UK98J の 一 環 と し て , ダ イ ア ー の 胸 像 が 二 体 制 作 さ れ , 東 京 大 学 と ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 に 贈 呈 さ れ た 。 英 国 祭 育方式,資格証明書 (diploma) の新設がとくに注目さ れる。 r工 学 お よ び 工 学 教 育 の 現 代 と 未 来 に お け る 役 第 二 に , こ の ダ イ ア ー 記 念 シ ン ポ ジ ウ ム の 開 催 が 契 に取り入れることができた」と,ダイアーは述べてい る。 UK98 画 さ れ , 1998 は 日 英 友 好 関 係 の 促 進 を 目 的 ど し て 企 年 の 一 年 間 , 日 本 各 地 で 八 百 近 く の 交 流 イ ベ ン ト が 開 か れ た 。 そ の 一 環 と し て , ダ イ ア ー の 胸 大学校では工学実験室を重要な施設として位置づけて 像 が 英 国 大 使 館 お よ び ICL ジ ャ パ ン か ら 両 大 学 に 寄 贈 いた。問実験室は世界で「最初の教育機関 j と認めら さ れ た 。 東 京 大 学 で は 1998 年 7 月 29 日 に 贈 呈 式 が お こ れているが,グラスゴウ・西部スコットランド技術大 な わ れ , 東 京 大 学 工 学 部 列 品 館 の 学 部 長 応 接 室 に 安 置 学においても土木学実験室,造船学実験室,電気学実 さ れ て い る 。 ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 で は 験室を設置することに尽力した。 工学教育における理論と実践,学理と実地の結合と 11 月 16 日 に 式 典 が お こ な わ れ , ダ イ ア ー を 介 し た 日 英 聞 の 歴 史 的 な 緋 の 深 ま り いう特徴ある学修方式もまた,ダイアーがこれを考案 が 祝 さ れ た 。 ] . ア ー パ ス ノ ッ ト ( J し工部大学校において具体化したのだが,その教育成 長 の 記 念 講 演 「 へ ン リ ー ・ ダ イ ア ー の 偉 業 」 で は , 主 果を実体験したことでこれも移し入れた。「エンジニ に 三 つ の 貢 献 が た た え ら れ た 。 そ の アの訓練における理論と実践の結合の方法は,今日で ohn ラ ス ク ラ イ ド 大 学 の 前 身 で あ る 「 グ ラ ス ゴ ウ ・ 西 部 ス 強く奨励され,またある程度実践に移されています。」 コ ッ ト ラ ン ド 工 科 大 学 の 教 育 プ ロ グ ラ ム の 進 展 に 影 響 とダイアーは記している。資格証明書については,理 を あ た え た 」 こ と , と り わ け , 工 部 大 学 校 で 実 施 し た , 論学習を修めた者に「工学士J 号を授与することに異 実 習 と 理 論 学 習 を 交 互 に 組 み あ わ せ る サ ン ド イ ツ チ 課 議を唱え,見習い修業を体験したエンジニアに授与す 程 は , 同 大 学 の 教 学 の 基 本 方 針 で あ る 実 学 教 育 の 重 視 ることを主張した。具体的には,機械学,電気学,化 策 の な か に 具 体 化 さ れ て い る こ と で あ る 。 そ の 学,造船学の資格証明書を新設し,徒弟制度を活用し 2 は, rr グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン ながら 3 年間学校で学習したのちの,試験の合格者に ま だ ほ ど 遠 か っ た 時 代 に , 世 界 中 の 旅 行 と コ ミ ュ ニ 対して「修了証書ならびに学位記を授与するという制 ケ ー シ ョ ン の 機 会 が 増 大 す れ ば 人 び と の 生 活 に 重 大 な 度」の創始に,尽力した(10) 。 影 響 を お よ ぼ す で あ ろ う と 予 見 し た イ ア ー は , 近年,ダイアーへの関心の高まりと再評価の動きが 段と増進させる点で注目される。 第一はダイアー記念シンポジウムの開催である。 「ダイアーの業績を評価し, 21世紀に向けて工学教育 学 j と い う 考 え が j こ と で あ る 。 ダ r工 学 と い う 学 問 こ そ が テ ク ノ ロ ジ ー , 経 済 , 社 会 の 変 化 を 進 展 さ せ る 鍵 に な る で あ ろ う と 強 く 確 イ 言 し た みられる。かれの偉業をしのぶ種々の企画は,日本・ スコットランド間の交流の成果であり,また交流を一 Arbuthnott) 1 は , ダ イ ア ー は 日 本 で の 体 験 を も と に , ス ト は徒弟制度の“サンドウイツチ"方式という呼び名で 6 ,夕、イアーへの関心の高まり ( 1 8 7 7 ) 120 年 目 に あ た る の に ち な み , 同 年 そ の J。 3 は , 帰 国 後 も , 日 英 関 の 良 好 な 関 係 の 進 展 に 寄 与 し た こ と で あ る 。 日 本 政 府 の 代 理 人 に な っ た し , グ ラ ウ ゴ ウ に や っ て く る 日 本 人 留 学 生 の 支 援 に は 顕 著 な も の が あ っ た 。 胸 像 は , ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 ヘ ン リ ー ・ ダ イ ア 一 . ピ ル デ イ ン グ に あ る 船 持 舶 自 f学学科 と技術移転を広く討議するための日英柏互交換シンポ (ωD 巴叩par 吋tm 巴n 此 1詑toぱf S h i pandMa凶 riオin配 I児巴 T巴 chno旧olog 町 y) の 玄 関 ジウム j であって,ストラスクライド大学ど東京大学 に 霞 か れ て い る ( 1 凶 lロ凶2引) ダ イ ア 一 再 評 価 を 示 す 第 三 は , 工学部の共催で 2 回開かれた。まず,ダイアーの出身 校の一つストラスクライド大学の創立 200周年にあた 英 国 伝 記 事 典 12- j rオ ッ ク ス フ ォ ー ド に ダ イ ア ー が 採 録 さ れ た こ と で あ る 。 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) これまで代表的な物故者人名事典である『英国伝記事 典但ictionary o fN州側日 IBiog ra l抑H に 登 載 さ れ 第 56 巻 第 2 号 (2009 留 学 生 は , 大 学 文 書 に 記 録 が 残 る 者 だ け で も ス フ ォ ー ド 英 霞 伝 記 事 典 』 が 50 名を 数 え る 。 入 学 手 続 き を し て , AlbllmHW る こ と は な か っ た が , 同 事 典 の 最 新 版 で あ る 『 オ ッ ク 2004 年 9 月 に 刊 行 さ れ る W登 録 証 受 講 者 一 覧 (G日 lendm·).! (Class 雇 い 教 師 と し て 来 日 す る ま で の 生 涯 , 日 本 で の お 雇 い 修 学 記 録 に は , 顕 著 な 傾 向 と 特 徴 が い く つ か 認 め ら れ る。 動 , 著 作 活 動 ( と り わ け 日 本 研 究 の 進 展 ) , 歴 史 的 評 価 第 一 に , か れ ら の 出 身 校 が 注 目 さ れ る 。 最 初 に つ い て , 相 当 詳 し く 記 述 さ れ て い る 。 お よ び 日 本 の 工 学 教 育 に 対 す る 貢 献 に つ い て は , Iラ ン キ た 。 工 部 大 学 校 出 身 者 が こ れ に 続 い た 期 卒 業 生 か ら 選 抜 さ れ た 英 国 留 学 生 o ま ず 同 校 第 一 11 名のうち, が グ ラ ス ゴ ウ 大 学 に 学 ん だ 。 Hと 信 じ 1880 て い た こ と か ら , 理 論 と 実 践 を 結 び つ け う る 人 物 と し 志 田 林 三 郎 , 高 山 直 質 , 南 て ダ イ ア } を 推 薦 し た 。 へ ン リ ー ・ ダ イ ア ー の 業 績 は , の 三 好 晋 六 郎 で あ る 。 そ の 後 も 工 部 大 学 校 出 身 者 は , 高 級 な , 実 験 に よ る 探 求 的 な 工 学 教 育 を , か つ て は 儒 内 藤 政 共 教 と 暗 記 学 習 に 傾 倒 し て い た 日 本 に 導 入 し た こ と に あ (1886) (1 泊。 (1904) の 邦 訳 が 野 藤 次 郎 (実業之日本社, 1999) 1989) の 英 語 版 (Henry o fE n g i n e e r i n gEducationi nJap αn, (1893) 1 9 0 5 ), 加 茂 正 雄 と (14) や , 三 好 信 浩 『 ダ イ ア ー の 日 (福村出版, 1 8 8 2 (明治 i育, , 渡 辺 嘉 一 (1888) (1884 , 須 田 利 信 , 1885) (1888) 4名 年 留 学 の 15) 年 留 学 , 真 野 文 二 と 続 き , 合 帝 国 大 学 に 併 合 さ れ て 以 降 は , 同 校 工 科 大 学 出 身 の 佐 企 聞 き れ , 平 野 勇 夫 訳 『 大 日 本 , 技 術 立 国 日 本 の 恩 人 本.! (1882) , 進 経 太 (明治 13) 計9名 を 数 え る 。 工 部 大 学 校 が 帝 国 大 学 な ら び に 東 京 第 四 に , ダ イ ア ー の 主 著 『 大 日 本 . ! し て 刊 行 さ れ た こ と 年 作 は 開 成 学 校 出 身 で , 文 部 省 第 二 回 派 遣 留 学 生 で 、 あ っ 考 え る べ き か で あ る 。 し か し , 実 践 科 学 で 問 題 に し な け れ ば な ら な い の は 何 を な す べ き か で あ る 』 ・ (1876 1877 年 ) の 留 学 生 で あ る 谷 口 直 貞 お よ び 増 田 礼 ン は 『 理 論 科 学 で 問 題 に し な け れ ば な ら な い の は 何 を が 描 い た 明 治 日 本 の 実 像 . ! W大 学 要 覧 な ど に 確 か な 記 録 が 認 め ら れ る 諸 氏 で あ る 。 短 期 留 学 者 も い れ ば 長 期 の 者 も い る が , か れ ら の る。 j と言己されている (M α t1 加tlation Gαt 日 10gllesH と , そ の 見 出 し 語 に 採 録 さ れ た 。 し か も , 出 生 か ら お 教 師 と し て の 活 動 と 貢 献 , 帰 国 後 の グ ラ ス ゴ ウ で の 活 年度) , 寺 野 精 一 (1907) し た 。 日 清 戦 争 後 の D y e l ;P削'we I' Kent , 2004) が上梓されたことも,特記される。 (1896 , 1897 , 与曾八 (1899 , , 松 田 清 一 (1912) (1904 , が 留 学 19 世 紀 末 に な る と , 海 軍 関 係 者 が 増 加 す る 。 大 久 保 立 G l o b a lOriental, (1898) , 小 林 俊 次 郎 (1895 , 1896 , 1897) ,藤井光五郎 1898) ,小田切延寿 (1897 , 1898) ,中島 1900) は海軍機関学校出身であった。 小島内弥 (1897) は父が海軍軍人,風間篤次郎 (1899 , 1900) は自身が海軍機関少尉で、あった。 III 圃グラスゴウにおける日本人留学生 「造船・海運業界の指導者の二世」の留学も注目され 1.グラスゴウ大学 る。近藤滋弥 (1905 , 1906, 1907, 1908。日本郵船会社 の近藤廉平の三男) ,範多龍太郎 (1889, 1890 , 1891, 1892) およびエドワ}ド・ハンター (1906 , 1907 , 1908 , 1909 , 1910, 1911 。大阪商船会社の E. ハンターの長 1)自然科学諸科目の受講 (1) グ ラ ス ゴ ウ 大 学 は であるが, 1451 年 に 創 立 さ れ た 伝 統 あ る 大 学 18 世 紀 の 後 半 か ら 科 学 教 育 が 推 進 さ れ 実 学 主 義 的 な 変 容 を と げ て い た 。 1840 男および次男)であって,いずれも長期留学し「造船 (天保 11) 年 と い う 学J で工学士号を得た。ほかに,慶応義塾出身者が 3 早 い 時 期 に , 英 国 で 最 初 の 工 学 講 座 を 創 設 し た 。 工 学 名いる。後藤牧太 (1888 , 1889) ,田中館愛橘 (1888 , は オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 や ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 が 長 い 間 1889) ,福沢三八 (1900 , 大 学 に ふ さ わ し い 科 目 と み な さ な か っ た の に , グ ラ ス ただし出身校がなお不明の者もいる。 ゴ ウ 大 学 は こ れ を 取 り 入 れ , 初 代 教 授 1 . ン (L巴wis 代 教 授 W. D, DundarBrodi 巴 Gordon , 1815-1876) J .M.R.ランキンなどを擁して工学の研究 と 教 育 の 先 進 校 に な っ た 。 1883 (明治 16) 1901 , 1902, 1903) である。 B. ゴード (2) , 第 二 第二に,履修科目は,ほほ全員が日本の殖産興業に 年 に は , 世 つながる自然諾科学を受講している。論理学および道 徳哲学の受講者(渡辺嘉一 18850 三好文太1888) がい 界 に 先 が け て 造 船 学 講 座 を 新 設 す る な ど , 英 国 の 諸 大 るけれども,その他はすべて自然科学諸科目を受講し 学 の な か で も 科 学 技 術 教 育 を 先 導 し た 。 そ れ だ け に , ている。医学を専攻した者も 2 名(モリ・イガ 1898。 英 国 を モ デ ル に 工 業 化 を め ざ し た 明 治 日 本 か ら , 数 多 竹田政盛 1899) 含まれる。 くの留学生を引きつけた。 こ の グ ラ ス ゴ ウ 大 学 に , 明 治 時 代 に 学 ん だ 日 本 人 履修者が一番多かったのは工学(エンジニアリング) ないし機械学(原動機,機械装置,土木工学,電気工 -13 ー 日本・スコットランド教脊文化交流の諸相 学などの講義および実験,現場実習を含む)で, 50名 書,建築入門などが扱われている。 中 30名がこれを選択している。ついで自然哲学あるい 「土木学・機械学J 上級は,土犠日を|徐く毎日午後 4 は物理学が25名,造船学24名,数学22名,化学16名な 時から始まる。細かな学習課程が用意され,初級コー どという内訳である。 スの復習と継続学習に加えて,主として次のような 同じ科目でも,講義だけでなく実験・実習も受講し テーマが取りあげられている。物質の弾性と強度,建 でいることが注目される。 選択した者が一番多かっ 造物の強度・安定性・堅牢さ,構造物の支柱,エネル た工学の場合でいうと, !Engine巴 ring L a b o r a t o r yJ nE n g i n e e r i n g JiEngin i O f f i c eandFi 巴Id Worki DrawingandCalculationJ ギー・機械力・馬力,摩擦と応用力学上の諮問題,水 力学原理,河川と流水の測定,熱力学の基本原理,蒸 巴 ering 気機関・水車・タービン,揚水用の遠心ポンプと送風 な ど と 称 す る 工 学 実 験 ・ 実 習 科 目 で あ る 。 自 然 哲 学 , 造 船 学 , 化 学 に つ い て も , 機,造船学原理と求積法,陸橋と高架橋,排水工事と 講 義 ロ ー ス と と も に 実 験 コ ー ス を 受 講 し た 者 が 多 い 。 上水道事業,建物内の換気装置その他の衛生設備,鉱 工 学 な い し 機 械 学 は , 明 治 期 を と お し て 数 多 く の 留 山における換気・排水・水処理,などである。 学 生 が 学 ん だ 。 造 船 学 は 当 初 は 開 設 さ れ て い な か っ たが, 1883 年 に 創 設 さ れ る と , 同 年 ( 名 称 は Archit 巴ctur 巴 and 「工学実留・実地調査」上級は火曜日および木曜日の iNaval MarineEngine 巴ringJ) 好 普 六 郎 が 受 講 し た の を 皮 切 り に , 午後 1 時から 3 時まで関かれた。画法幾何学・正射図 に ま ず 三 法・等 i則投影法・遠近法の講義と実習,工学建築学製 1887 年 ( 名 称 は r DrawingandShipCalculationJ) 図・土地測量・水準測量・土地区画・測定法一般の実 に は 岩 田 武 弥 太 , 習,工学研修旅行が用意されていた。そのほか,土曜 1888 年 に は 進 経 太 , 須 田 利 信 が そ れ ぞ れ 受 講 し た 。 翌 日などには学外で実際に就業してみることが求められ 1889 年 に 入 学 し た 範 多 龍 太 郎 な ら び に 山 本 長 方 は , 初 級 か ら 上 級 ま で の 講 義 と 実 習 な い し 1893 ていた。 (drawing) を, 以上のように,グラスゴウ大学では教室での理論学 1892 年 年 ま で ほ ぼ 毎 年 選 択 し て い る 。 大 久 保 立 習,実験室での実験実習,学外での実習体験を結びつ (1895, 1896, 1897) ,藤井光五郎 (1896 , 1897, 1898) , けた授業がおこなわれていたことになる。 (3) 鹿島龍蔵 (1901 , 1902, 1903) ,宮島可次郎 (1902 , 1903) ,近藤滋弥 (1906 , 1907) ,エドワード・ハンター (1907, 1908, 1910, 1911) 等も同様である。 第三に,学業成績が優秀であったことが特筆され る。とりわけ初期の留学生は輝かしい成績を残し, 具体的な学習内容を,南清の場合についてみると次 種々の受賞記録が残っている。たとえば, 日本人最初 のとおりである。かれは 1880度に物理学,土木学・機 の留学生である谷口直貞は,物理学 7 番(受講者 140 械学初級,土木学・機械学上級,工学実習・実地調査 名),数学上級 8 番 (38 名) ,土木・機械学初級 5 番 (Offic巴 and F i e l dWorki nEngin を 受 講 し た 。 最 初 の 「 物 理 学 巴巴 ring) J は W. ト ム ソ ン 上 級 の 4科 目 (26名) ,工学現場実務上級 2 番 (18名)であった。増 (William 田礼作は物理学 8 番 (140名),数学上級 3 番 (38名), Thomson, 1824-1907) 教授が担当し,授業は力学の概 土木・機械学初級 4 番 (26 名),土木・機械学上級 2 番 要,物質の特性,熱力学,実例・計算・実験による例 (17名),工学現場実務上級 3 番 (18名)であって,土木 解,の 4 領域から構成された。毎日 2 時間開設され, 学・機械学履修者のうち優秀な学生に贈られるウォー 第 1 限は朝 9 時に始まり,諸原理の説明,観測結果に カー賞( 2 番),ならびに工学の試験成績優秀者に贈ら ついての解説,実験による例解にあてられた。第 2 限 れるハーヴェイ賞( 2 番)を獲得している。両名とも, は,火曜日・木曜日は 11 時から数学の論証と演習なら わずか二年の修学で工学士号ならびに工学技能証明書 びに初級数学の試験が,月曜日・水畷日・金曜日は 12 ( C e r t i f i c a t eo fP r o f i c i e n c yi nEngin 時から上級数学の講義がおこなわれた。教科書として 獲 得 し た 。 トムソンの単著や共著 a 自然哲学原理 (Elements o f N a t 1 t m lP h i l o s o p h yH 188 1,など)が使用され,実験 続 い て 留 学 し た 南 清 の 場 合 は , 物 理 学 は 「土木学・機械学」初級は,毎週月・水・金曜日の 2 番 (18 名 ) , 土 15 名 , 初 級 賞 ( 3番 ) な ら び に ハ ー ヴ ェ イ 賞 11 時から 12 時まで開かれた。土地測量・水準測量の原 い る 。 同 僚 の 志 田 林 三 郎 な ら び に 高 山 直 質 も ま た 成 績 優 秀 で あ っ た 。 志 回 は , 数 学 上 級 は 法,計測(とくに線路の土木工事関連) ,鉄道線路とそ ) と い う 成 績 を 残 し て い る 。 し か も , ク 学 1 番 (194 名 の軌道の設計, リ ー ラ ン ド 金 賞 と い っ て , 1 4 一 19 名 ) で は ウ ォ ー カ ー (3 番 ) を 獲 得 し て 理と方法に始まり,経緯儀および、水準器の原理と使用 トンネルの掘削,土木工事契約の明細 S c i e n c e )を 7番 ( 受 講 者 194 名 ) , 工 学 実 習 ・ 実 地 調 査 上 級 は 木 学 ・ 機 械 学 ( 上 級 室を活用して教えられた。 巴巴 ring 2 番 (57 名) , 物 理 i物 理 学 と 神 学 の 学 生 を 対 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) 象に学長ならび、に大学教授の指定する主題についての 第 56巻第 2 号 (2009年度) わめてずば抜けていたのである。これは,話がすべて 最優秀論文に与えられる J 賞を,磁気感受率 (magnetic わかるという優れた理解力のあらわれであった。ま susceptibility) についての実験論文によって獲得した。 た,英語が彼らにとって外国語であることを考えると 高山直質の場合は,土木学・機械学上級および初級, き,英語で自分の考えをはっきりと力強く表現できる 工学実習・実地調査上級を受講し,土木学・機械学上 能力を示すものであったが,この点はトムソン教授の 級 2 番 (15 名)。ウォーカ}賞( 3 番)ならびにハー まったく思いもよらぬところであった J ヴェイ賞(l番)を獲得している。受講者の投票で選 ばれる「物理学J 優秀賞( 2 番)も獲得している。 ちなみに, かれら工部大学校留学生の活躍は, 日本にも伝え られた。『朝野新聞 J は,学位授与式のあった明治 14 日本人留学生の受賞記録をまとめると, (1881) 年の 6 月 26 日の紙面でさっそく報じた。日本 工学会の機関誌『工学会誌j (明治 19年 5 月 31 日)で 下記のとおりである。 は,真野文二 (1861 -1946) の寄稿「高山直質氏之小 1876年度増田礼作 ウォーカー賞 (2 香) 停J のなかで紹介された。真野は工部大学校を卒業後 ハーヴ、エイ賞 の 1886 (明治 19) 年にグラスゴウ大学へ留学し,かれ (2 番) 1880年度志田林三郎 クリーランド金賞 もまた自然哲学 1 番,数学上級 2 番という好成績を収 1880年度高山直質 ウォーカー賞 (3 番) め,ウオ)カー賞 (3 番)ならびにハーヴェイ賞(l ハーヴェイ賞(l番) 番)を獲得している。 1880年度南 j青 後出の福沢三八 (1881 -1962) ウォーカー賞 (3 香) ハーヴ、ェイ賞 もまた. 1904年 4 月 18 日の卒業式でその成績が称えられた。地元紙の『グ (3 番) 1882年度三好晋六郎 ロパートダンカン賞 ラスゴウ・ヘラルド j 1884年度渡辺嘉一 ウォーカー賞 (5 番) ブニング・タイムズj (1904年 4 月 18 日)は. (1904年 4 月 19 日)および『イ 1886年度真野文二 ウォーカー賞 (3 香) 壇上にあらわれると拍手喝さいで迎えられ,長く続い ハーヴェ千賞(l番) た。それは学友による称賛のしるしであり,また,か I かれが れの国籍や科学の学識に対する賛辞とも解されるであ 1880年度に学んだ,南清・志田林三郎・高山直質と ろう。 J と報じている。 いう工部大学校第一期留学生の学業成績の優秀さは, 第四に,修学期間は短期の考もいれば長期の者も少 当時大いに注目を集めた。 1881 (明治 14) 年 4 月 29 日, なくない。 グラスゴウ大学博物館ホールで閲かれた学位授与式で 修学者は 13名. は, 年間の修学者 l 名(岩田武弥太). 自然哲学教授 W. トムソンが式辞を述べ大いにた たえた。その模様は,翌 30 日付の地元紙『グラスゴウ・ 1 年間の修学者は 24名と多いが, 3 年間 4 名. 2 年間の 4 年間 6 名,さらには 5 6 年間 2 名(山本長 方,エドワード・ハンター)いう内訳である。 ヘラルド』あるいは f ノース・ブリティッシュ・デイ かれらのうち学土号を取得して卒業した者は 12名を リイ・メイルJ で紹介されている。 数える。谷口直貞,増田中L作,渡辺嘉一,岩田武弥太, トムソン教授は「日本から来た三人の学生 j の優秀 範多龍太郎,山本長方,佐藤恒二,福沢三八,岩根友 さと学習ぶりに感銘したようで,次のように報じられ 愛,近藤滋弥,エドワ}ド・ハンター,荘田泰蔵の諸 氏である。このうち最初の 3 名は, ている。 「彼らは文字どおり母国の誉れとなったのであり, 2 年間の修学での 取得者である。 ( 4 ) 彼らがいかに心から迎え入れられたかを見て,彼はと ても満足したのであった。しかし勉強しにやって来 異 色 の 日 本 人 留 学 生 が い る 。 1898( て一緒に同じ机を並べ,世界の反対側にある聞にヨー モ リ ・ イ ガ で あ る 。 モ リ は グ ラ ス ゴ ウ 大 学 日 本 人 留 学 ロッパの学聞を持ち帰ろうと一心になっているこれら 生 最 初 の 女 性 で あ り , 同 年 度 の 『 笠 録 証 』 番 号 は 「 専 の日本人学生たちを,スコットランドの若者たちが非 修 ク ラ ス 常に毅切に歓迎しとても好意的に迎え入てくれたとい な る 。 『 主 主 録 証 』 に 彼 女 は 下 記 の よ う に 届 け 出 て い る J うことは,まったく予期できなかったことである。こ が , 実 は 自 分 の 氏 名 な ら び に 父 の 氏 名 は 変 名 で あ る 。 1番 で あ る か ら 大 学 院 留 学 で あ っ た こ と に の三人の日本人学生の並外れた優秀さについて注目す 日 本 の 住 所 表 記 も , 出 身 校 で あ る べきことがあった。いずれのクラスでも彼らには仲間 の 親 友 福 島 輝 の 住 所 たちの全員一致でもって賞が与えられたのだが,彼ら は な い 。 は筆記試験に秀でていたのみならず,口頭試験にもき -15- 明 治 31) 年 留 学 の f開 拓 史 女 学 校 時 代 j を 借 用 し て い る 。 年 齢 、 も 正 確 で 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 「氏名 モリ・イガ 殺 の 履 修 は , 学 生 の 都 合 に よ っ て , 弟 子 入 り な い し 徒 サンフランシスコのクーパ}・ 弟 奉 公 の 前 後 で も 途 中 か ら で も よ い 。 こ れ に よ く 合 う カレッジ医学博士 と 思 わ れ る 履 修 の 組 み 方 は , 冬 期 を 大 学 の 勉 学 に , 夏 年齢 34歳 期 を 工 学 実 習 に あ て る こ と で あ る 。 出生地 日本の東京 ら わ れ る 。 し か も , 父の氏名 ユマ Univel 父の職業 医師 (Physician) 年 度 版 か ら , 同 制 度 に つ い て の 明 確 な 規 程 が あ ら わ れ 父の生死 生存 る。 受講希望クラス 病理学および細菌学 か 三 夏 , 土 木 工 事 か 建 築 業 の 営 業 所 , 作 業 所 , あ る い 本学の在学年数 j と い う 記 録 が あ rグ ラ ス ゴ ウ 大 学 要 覧 討ty Cal 側dα .1').1 11) f工 学 専 攻 生 は , 可 能 な ら ば , 本 学 在 籍 中 の 二 夏 は 鉄 道 や 水 道 , 港 湾 な ど 敷 設 中 の 事 業 に 勤 め る こ と が 1 年目 望 ま し い 」 と い う 内 容 で あ る 。 現住所 日本の住所 (Glasgow 1 8 7 8(明治 に 見 る か ぎ り , 1880 年 度 版 以 降 に な る と , そ れ を 強 く 「 推 奨 」 す る と い う 文 字 が 加 わ る 。 日本の東京・芝 20番地 j (2) 近年の調査研究によれば,静岡県士族広瀬秀雄の娘 日本人留学生で,この実地研修を体験した者は 10名 広瀬常 (1855 -1900 頃)が彼女の本名である。森有礼 いる。かれらの氏名と実習先は次のとおりであり,こ ( 1 8 4 7-1889) と契約結婚して評判になるが,明治 19年 のうち,志田,高山,南,三好,渡辺,真野の 6 名は 工部大学校出身者であることが注目される。 に離婚。その後,発起してまずアメリカのクーパー・ カレッジ (Cooper College) 医学部(スタンフォード 大学医学部の前身)へ留学し,ついで 1898年グラスゴ 増田札作 マクレラン鉄工所(グラスゴウ)。 ブライス・ガンピング工場(エデイ ウ大学に転じて「応用病理学」および「細菌学」を学 ンパラ) んだ。 彼女の留学は,榎本武揚 (1836 -1908) ら!日幕臣の 川!田龍吉 人たちが支援した。明治の新時代になって生活基盤が 志田林三郎 グラスゴウ郵便局 激変し,生きぬくのがとてもきびしい情況のなか, 高山直質 マザウエル鉄工所 南 マクレラン鉄工所。カレドニアン鉄道。 I日 幕臣仲間の固いネットワークに守られて海外留学に旅 j青 ロブニッツ・カルボーン造船所 リオテイント鉱山鉄道(スペイン) 立ち,姿をかえて生きぬこうとしたので、あった。明治 時代に自立を求めた日本人女性の一人として注目され 三好晋六郎 ロパート・ネイピア造船所 る (15) 。 渡辺嘉ー ジョン・ホォウラ一社。 ベンジャミン・ベーカ一社。 2) 学外における実修体験 グラスゴウの地下鉄・運河・築港 工事。 (1) 真野文二 アームストロングネ1 る。日本人留学生のなかにも,留学中に学外の造船所, 大久保立 ロブニッツ造船所 鉄 工 所 , 鉄 道 会 社 な ど に 赴 き 実 地 研 修 を 体 験 し た 者 が 寺野精一 ジョン・ホォウラ一社 グ ラ ス ゴ ウ 大 学 で は , 教 室 で の 学 習 と 関 連 し た 実 地 (グラスゴウ,ニューカッスル) 研 修 を 体 験 す る こ と が 奨 励 さ れ て い た こ と が 特 筆 さ れ 少 な か ら ず い た 。 同大学では年間を通して大学での学習課程が計闘さ れていたわけでなく, 上 記 の 実 習 体 験 者 の う ち , 南 清 は , 最 初 に マ ク レ ラ 6 ヶ月単位で編成され, 10 月か ら 3 月 ま で の 冬 学 期 に は 大 学 に 通 う が , 夏 学 期 の ン 6 ヶ (P. &A.M 'Lellan) し て 鉄 橋 の 組 み 立 て 作 業 に 従 事 し て い る 。 市 内 の ト ロ ン ゲ イ ト に あ っ て , 鉄 道 の 貨 車 製 造 , 橋 梁 や ボ イ ラ ー 月 間 は 学 外 の 会 社 や 工 場 で の 実 習 に 出 掛 け る こ と が で 製 作 の ほ か , 鉄 製 器 具 や 銅 製 品 の 卸 売 り , 金 属 細 工 , きたからである。 機 械 製 作 , ボ ル ト ・ ナ ッ ト ・ リ ベ ッ ト ・ 鎖 の 製 造 , ブ 大 学 当 局 は 早 く か ら こ の 実 地 研 修 を 奨 励 し て い た 。 大 学 と 産 業 界 と が 協 力 し て 学 習 と 実 習 と を 交 互 に お こ リ キ 製 造 , ガ ス 工 事 な ど を 扱 っ て い た 。 こ の と き の 職 な わ せ る と い う こ の 制 度 が い つ 始 ま っ た の か , 諸 説 あ 工 頭 は , 神 戸 ・ 京 都 聞 の 線 路 を 敷 設 す る さ い に 招 か るが, 1 8 6 5 (慶応元)年になると,弟子入り制度や徒 弟 奉 公 制 度 を 妨 げ な い よ う に 配 慮 し , 鉄 工 所 に 入 り , 職 工 た ち に 伍 れ , 職 工 頭 と し て 指 導 し た こ と の あ る 人 物 で あ っ た と r大 学 の 学 習 課 い う か ら , 工 部 省 お 雇 い 建 設 師 で あ っ た -16 E. G. ホ ル サ 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) ム (Edmund GregoryHortham) と 推 定 さ れ る 。 グラスゴウ大学の理事会ならびに教授会は協議のう こ の よ う な 実 地 研 修 は , 南 に と っ て 初 め て の こ と で え,福沢の願い出を認可した。 1901 年 2 月 7 日の『教 は な い 。 工 部 大 学 校 に 在 学 中 , す で に 経 験 ず み で あ っ 授会記録』には, 1 日本人学生福沢三八が,人文科学課 た 。 在 学 時 の 『 工 部 大 学 校 学 課 並 諸 規 則 j 月)によれば, 2年 間 は 学 校 内 6年 間 の 在 学 中 , 最 初 に お い て 修 学 す る が , そ の ご の (明治 10 年 3 程および自然科学課程の資格試験で,フランス誇もし くはドイツ語に代わり日本語を選択したいとの意向を 2年 聞 は 「 毎 年 六 ヶ 月 知らせてきた J とあり,また「本教授会は日本人が本 間 校 中 ニ 於 テ 修 学 シ 六 ヶ 月 間 ハ 実 地 ニ 就 キ テ 各 志 願 ノ 工 術 ヲ 修 業 セ シ メ と, 第 56巻第 2 号 (2009年度) 年の自然科学の資格試験のさいの第 4 試験科目として J る 。 そ れ か ら 最 後 の 2年 間 に な る 日本語をとることを承認した。また,大学理事会に対 1全 ク 実 地 ニ 就 テ 執 業 セ シ ム 」 こ と に な っ て い た 。 し春季試験の試験委員が遅れることなく任命される じ っ さ い 南 の 記 録 を み て み る と , た と え ば , あ た る 明 治 11 年度には, 6年 次 に よう要請した」という記録がみえる。 10 月 7 日 か ら 大 坂 に 出 む き 翌 日本語資格試験という日本人留学生に対するこの緩 年 6 月 16 日 に 帰 京 し て い る 。 出 典 は 『 工 部 省 第 四 周 年 報(工作・燈台・営繕 H ニ(明治 和策が実現するについては, H ダイアーが尽力した。 12) である (16) 。 資格試験を管理・監督する合同試験委員会への働きか けが功を奏し,問委員会は日本語試験の実施を「満場 3)日本語資格試験の開始 一致で承認した」という書簡を受け取っている。福沢 (1) 三人はこの書簡を添えて大学理事会に願い出ている。 グ ラ ス ゴ ウ 大 学 は , 資 格 試 験 の 外 国 語 選 択 科 目 に 日 日本語試験が実現した背景には,成績優秀な日本人留 本 語 を 認 定 し て い る 。 同 大 学 に 留 学 中 の 福 沢 三 八 が 申 学生の存在, し 出 を し こ れ を 且 ダ イ ア ー が 支 援 し た 。 し か も , そ 好関係という事情があったことも考えられるであろ 1 8 6 7-1916) の 最 初 の 試 験 委 員 は 夏 目 金 之 助 ( 激 石 , 日英同盟に象徴されるような日英聞の友 つ。 で 、 あ っ た だ け に 注 目 さ れ る 。 激 石 が ロ ン ド ン に 留 学 中 の 明 治 33 (1900) こ の 資 格 試 験 は (3) 年 の こ と で あ る 。 日本語資格試験の試験委員を選任するにあたり, IPreliminary ExaminationJ 大学理事会はグラスゴウ在住の日本通から情報を集 と 称 し て , 短 期 間 在 学 す る だ け な ら 必 要 な い が , 学 位 を 取 得 めた。在グラスゴウ名誉領事A.R.ブラウン (Albert し て 卒 業 し よ う と す る に は 全 科 目 に 合 格 し な け れ ば な R i c h a r dBrown, 1839-1913) もその一人であった。日 ら な か っ た 。 教 養 科 目 (medicine) (arts) , 理 学 (sci 巴nce) 本に長期間滞在し,駅逓局内で海運業務に従事したり , 医 学 に つ い て お こ な わ れ , ス コ ッ ト ラ ン ド 諸 大 日本郵船会社のゼネラル・マネージャーとして活躍し 学 合 同 試 験 委 員 会 の 管 理 ・ 監 督 の 下 , 大 学 理 事 会 が 任 たことがある。当時は,グラスゴウ市内で日本郵船会 命 す る 学 内 ・ 学 外 の 試 験 委 員 に よ っ て 実 施 さ れ た 。 社および東京海上保険会社のグラスゴウ代理店業務を (2) 委託されていた。 グラスゴウ大学日本語資格試験は,福沢三人の申し そのブラウンの会社(A. R.ブラウン・マクファーレ 出に端を発している。福沢が入学した 1900 (明治33) ン有限会社, A .R .Brown , M c f a r l a n e& C o " Lt d.) 年当時,卒業要件として,年に二度,秋季と春季にお 一 枚 の 用 筆 の 裏 面 に , 鉛 筆 で 人 選 に か か わ る な ぐ り 書 こなわれる資格試験において,①英語,②ラテン誇も き が あ り , しくはギ、リシャ語,③数学,④ラテン語もしくはギリ という シャ語(いずれかが未修であれば),フランス語, Dr .Dyer, K a t s u j i r oHirano, M r .Arakawa 3 名の氏名が読める。お雇い教師であったH.ダ ドイ イ ア ー , ブ ラ ウ ン ・ マ ク フ ァ ー レ ン 有 限 会 社 の 日 本 人 ツ語,イタリア語,力学のうちのひとつ,の四科目全 通信員ヒラノ氏,在ロンドン領事館一等領事荒川巳次 部に合格することが課せられていた。 と推定される。このうち,荒川が試験委員を委嘱され そのさい,いくつかの緩和策があり,受験に際して た。 の配慮がなされていたけれども,フランス人やドイツ ところが,荒川はグラスゴウ大学理事会書記官から 人なら,上記の第 4 受験科目に定められた科目のうち 任命通知と試験問題作成上の具体的な指示を受けとっ 母国語を選択することができるのに,日本人留学生の たものの,ほどなくして辞退してきた。 場合はこれができなかった。福沢はこの点を突いて, 記官あてに電報をうち, 3 月 27 日,同書 I S o r r yIamu n a b l et oa c c e p t 日本語試験の実施という緩和策を願い出たものであ yourappointmentt oExamin る。入学して最初の資格試験にあたる 1900年秋季試験 Pro . fmustaM (同年 9 月 10 日実施)以降のことである。 の ち に 石 激 ち わ な す 助 之 金 目 夏 そ こ れ か , が る め 読 と 授 一7 1 一 目巴 y l p e R J.nos 紅白 教 メ ツ マ 。 る い て び 詫 と Can Irecommend 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 がいない。「試験委員拝命の件,受諾しえず,遺憾。夏 は大勢の受講者を引きつけた。クライド峡谷から石炭 日教授の推薦可能なりや。返求む。」というこの電報 および鉄という天然資源が開発され,グラスゴウが産 は,関連文書のなかで夏目激石が登場する最初の史料 業革命の一大中心地となって進展するなか,数学なら びに自然哲学(物理学)についての実験を取りいれた である。 荒川の推薦は協議のうえ認められ に任命された。実際に, 1 9 0 1 (明治 試 験 お よ び 同 年 教育に対して,大きな需要が生まれてきたと考えられ i敦石が試験委員 34) 年4月 の 春 季 る。 アンダソンは,この体験をもとに,遺言書のなか 10 月 の 秋 季 試 験 の 二 度 , 学 外 試 験 委 員 で新大学の開設を含む遠大な構想を摘き遺産を残し を つ と め て い る 。 た。そのような経験と遺言書のなかで捕かれた構想を i敦 石 が 出 題 し た 日 本 語 の 資 格 試 験 を 受 験 し 合 格 し た 者 は 4名 い る 。 1901 もとに,まず,アンダソン・インステイチユ}ショ 年4月 の 春 季 試 験 に お け る 福 沢 三 八 , 鹿 島 龍 蔵 , 佐 藤 恒 二 , 同 年 ン (Anderson' sInstitution) という成人専用の学習機 10 月 の 秋 季 試 験 に お 関がグラスゴウに誕生した。 1796年のことである。ス け る 岩 根 友 愛 の 諸 氏 で あ る 。 た だ し , 溺 ; 石 が 出 題 し た 試 験 問 題 の 内 容 は , 日 下 の と こ ろ , 判 明 し て い な い 。 トラスクライド大学はこの年を創立年としている。や 試 験 委 員 に な っ た と い っ て も , 激 石 は グ ラ ス ゴ ウ に 出 がてここから,熟練職工層が中心になって組織したグ 向 い た わ け で は な い 。 ロ ン ド シ の 宿 所 ( ザ ・ チ ェ イ ス ラスゴウ・メカニックス・インスティチューション ( G l a s g o wM巴chanics' 通8番 地 ) で 問 題 を 作 成 し , 教 授 会 あ て に 郵 送 し た 。 試 験 委 員 手 当 と し て 4ポ ン ド ざ す 活 動 が 展 開 さ れ た が , こ れ は 激 石 に と っ て 「 ロ ン ド ン 留 学 中 唯 一 の 臨 時 収 入 j で あ っ た 。 当 時 学 費 は 一 カ 月 一 五 Institution) f一 ポ ン ド は 約 十 円 。 (18) 。 こ れ ら の 学 習 機 関 ・ 組 織 は , そ の 後 さ ま ざ ま な 発 展 激 石 の 留 経 路 を た ど り , 名 称 を 何 度 か 変 更 し グ ラ ス ゴ ウ に あ O 円J で あ っ た 。 「 ロ ン ド ン 留 学 日 記J (r 激 石 日 記 』 岩 波 文 庫 ) に は こ れ ら の 顛 末 が 記 さ る 諸 学 校 の 吸 収 合 併 を へ て , 現 在 の ス ト ラ ス ク ラ イ ド れ て い る 。 大 学 に 至 っ て い る 。 そ れ ら の 諸 学 校 は , グ ラ ス ゴ ウ な なお, ら び に 西 部 ス コ ッ ト ラ ン ド に お け る 商 工 業 の 発 展 と 緊 i秋 石 帰 国 後 も , 日 本 語 受 験 の 希 望 者 が あ ら わ れ る た び に 試 験 委 員 が 任 命 さ れ た 。 密 な か か わ り を も ち 続 け , エ ン ジ ニ ア , 医 者 , 科 学 者 1902 年 秋 季 試 験 に は , ロ ン ド ン に 留 学 し て い た 東 京 高 等 師 範 学 校 の 岡 倉 な ど の 志 望 者 に 対 し 理 論 学 習 と 実 務 的 な 学 習 の 場 を 提 由 三 郎 供 し た 。 (1868 -1936) が任じられている。その後, r グ 明 治 期 の 日 本 人 留 学 生 が 学 ん だ の は , こ れ ら 諸 学 校 ラスゴウ大学要覧j の 1970年度版まで関連の規定があ るから, 1 9 7 1 (昭和 46) と 称 す る 自 主 的 な 学 習 組 織 が 派 生 し , こ こ を 拠 点 に 成 人 の 自 己 実 現 を 目 4 シ リ ン グ が 支 給 さ れ た 年3 月 の 春 季 試 験 ま で , 1 8 7 7 (明治 10) の う ち , 日 本 年 に 関 学 し た ア ン ダ ソ ン ・ sCollege) ならびに 1887 (明治 語 は グ ラ ス ゴ ウ 大 学 資 格 試 験 の 外 国 語 選 択 科 目 の 認 定 カ レ ッ ジ (Anderson' 語 で あ り つ づ け た こ と に な る 問 。 20) 年開校のグラスゴウ・西部スコットランド技術 大学 (Glasgow 2. Coli 巴 gel ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 a r i dth 巴 West (2) 1 ) 夜 間 課 程 の 開 設 と 実 学 教 育 の 伝 統 ストラスクライド大学は, (1) 1 7 9 6 (寛政 第二に,実学人材の教育という点でも特色ある歴史 8) をもっていた。創立以来,実学教育の長い伝統を有し 年 の 創 立 以 来 , 英 国 の 他 の 諸 大 学 と は い く ぶ ん 異 な っ た 歴 史 を ている。 創立者アンダソン自身,科学知識の実際的応用とい も っ て い る 。 う点に強い関心をもっていたし,その後も,かれの遺 第 一 に , 成 人 の 自 主 的 な 学 習 拠 点 で あ っ た と い う 特 色 が み ら れ る 。 そ も そ も 創 立 者 の ] . ア ン ダ ソ ン ( J o fS c o t l a n dT巴 chnical で あ っ た 。 志を受けついで幾多の技術教育課程を開設し変化し ohn Anderson, 1726-1796) は,大学開放の先駆者の一人 つつある社会の要求に応えて実学を提供してきた。同 であった。グラスゴウがヱ業都市として、活況を呈しは 時代の商工業や経済生活に関 j裏づけて日々の教育研究 じめた 18世紀後半期の, 1757年から 96年までグラスゴ 活動を展開し,応用科学,工学,経営学などを重視する ウ大学自然哲学教授であったとき,同僚教師と同じよ 傾向は長く続いている。].ヤング(James うに,市民の学習要求に応えて,担当していた自然哲 -1883) , ] .1 . ベ ア ド ( J 学の実験コースを地元市民にも開放した。稜々の工夫 な と 多 数 の 技 術 者 や 科 学 者 を 輩 出 し た 。 をして市民の学習を支援したこともあって,伺コース 8) -18- 年 に 創 立 ohn Young, 1 8 1 1 L o g i eBaird, 1 8 8 8 1 9 4 6 ) 200 周 年 を 迎 え た 之 き の 標 語 は , 1996 (平成 I実 学 教 第 56 巻 第 2 号 (2009 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) 育 の 提 供 と い う 点 で \ 特 色 あ る 歴 史 を も っ て い た 。 育の2 却 ∞ O O年 (ω20ωOy 戸巴ars ぱ0.f 凶 us巴ぱ.fu ぱlie 巴a 創r‘'ill (3) 明 治 末 年 ま で に , 同 大 学 ( 当 時 の 学 校 名 は , 前 述 の よ う に , ア ン ダ ソ ン ・ カ レ ッ ジ な ら び に グ ラ ス ゴ ウ ・ 第三に,明治日本の教育と緊密な関係をもっていた ことが注目される。幕末以来, 日本から何人もの留学 西 部 ス コ ッ ト ラ ン ド 技 術 大 学 ) に 学 ん だ 日 本 人 は , 筆 者 の 調 査 で は , 総 勢 生が本学に学んだし,お雇い教師のH.ダイアーが工部 21 名 を 数 え る 。 か れ ら の 修 学 記 録 大学校において展開した実践的な工学教育の方式を, を 『 学 籍 簿 帰国後,本学に移し入れようとしたからである。 ると,顕著な{頃肉と特徴が認められる。 (Regist 学 は , 開 国 前 の 慶 応 同校の 200年史研究である『ジョン・アンダソンの 庸 三 で あ る 。 早 く も 文 久 U n i v e r s i t yo f 遺産 (JohnAηdersoη's Legαcy, ηw Stmthclyde 1 7 9 6 1 9 9 6 ) 1 .)691( α ndi ぉ Aη tecedents )napa 3 年 に 始 ま る 。 最 初 は 山 尾 (1863) 年 に , ジ ャ ー デ イ ン ・ マ セ ソ ン 商 会 の 支 援 で 英 国 に 密 出 国 し , ロ ン ド ン 2年 か ら 明 治 元 (1868) 年までの 2 年間,アンダソン・カレッジの夜間課程で自然哲学, Jあ が し 出 見 う い と 生 学 留 人 本 日 に 中 文 本 , れ わ ら 2 (1866) で 修 学 し た 後 , 慶 応 で B)') .I等の史料をもとに分析してみ 第 一 に , ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 に お け る 日 本 人 の 留 明治日本との関係というこの局面は,近年の学校 史のなかで再評価され特筆されている。たとえば, J ( 本 日 「 に か な の 引 索 , は 年度) 教 い 9 雇 お に び ら な 名 無 機 化 学 , 冶 金 学 を 履 修 し た 。 昼 間 に は ロ パ ー ト ・ ネ イ ピ ア 造 船 所 で 実 地 に 造 船 技 術 を 学 ん で 、 い る 。 , 三 庸 尾 山 は 師 と 生 学 留 人 本 日 。 る 2 い て し 場 登 が 名 1 ( 郎 五 虎 丸 石 ) 2 0 9 1 4 3 8 ?-1875) ,高 ( 郎 八 渡 馬 , つ い で 石 丸 虎 五 郎 な ら び に 馬 i度八郎の二人が,慶応、 峰譲吉 (1854-1922) ,宮島可次郎,松田清一 (1876 2年 に , こ れ も ス コ ッ ト ラ ン ド 出 身 の グ ラ パ ー 商 会 の 1 9 3 4 ), 竹 鶴 政 孝 T .B , グ ラ パ ー 鈴 木 重 初 -1 9 7 9 ), 北 川 政 (1894 (1901 (1898-1987); -1938) の諸氏であり,このうち最初 の 6 名が幕末および明治期の留学生である。お雇い教 (Thomas B l a k eGlover, 1838-1911) ら の支援で英国に密航した。アンダソン・カレッジに学 んで,理工系の知識を身につけた。 日本開国後のストラスクライド大学日本人留学生第 師とは,工部大学校の土木・機械学教師に招かれたH. ダイアー,および同校土木・測量学助教師 AW,トム 一号は,高峰譲吉である。工部大学校の一期生(化学 ソン (Arthur W atsonThomson) 専攻)であり,明治 12 (1879) 年 11 月の同校卒業時に である。 『 ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 土 木 学 Herit St γα thclyde す る 冊 子 に お い て も , Conn 100 年 史 I日 本 と の 関 係 巴ction) (The G o o d l y 政府派遣留学生 11 名のうちの一人に選抜されて,グラ スゴウにやっで来た。 1879-80年,アンダソン・カ αt レッジのヤング実験室 (Young Laboratory) に学び, と で も 題 Japanes 巴 E .J ミ ル ズ 高峰の留学以後, J 面 に つ い て 論 及 さ れ て い る 。 ダ イ ア ー は , 工 部 省 の ロ ン ド ン 代 理 人 H . M . ソ ン に 推 薦 さ れ て 来 日 し , 明 治 年 ま で の 約 (Edward JamesMills , 1840-192 1)講師 担当の無機化学を聴講生という形で学んだ。 Jと い う 節 を 特 設 し て , 上 記 二 名 の お 雇 い 教 師 を 介 し た 「 影 響 (1883) (A A Hund1・ed yiヲars o fC i v i lEngineel'ing U n i v e r s i t y1887-1987} j (1987) αge , 6 (1873) 年 か ら 1890年代, マ セ 16 とくにその末期以降,留学生が急増し明治 末年までに 17名を数える。このころの学校名は,グラ スゴウ・西部スコットランド技術大学と改称されてい 10 年 間 , 工 学 寮 な ら び に 工 部 大 学 校 の 都 検 ( 教 頭 ) の 任 に あ っ た 。 日本人留学生は途絶えていたが, If サ ン ド イ ツ チ j 課 た。 程 の 教 育 を 組 織 化 し , 立 派 な 学 校 を 設 立 し た の で , 日 第二に,留学といっても昼間課程での修学とはかぎ 本 人 が あ た ら し い 高 等 教 育 制 度 を 作 る さ い に 用 い る ア らない。同大学では夜間課程が開設されていた。富山 イ デ ア の 真 の 提 供 者 で あ っ た J。 ト ム ソ ン に つ い て は , 「 へ ン リ ー ・ ダ イ ア ー が 教 頭 で 、 あ っ た 工 部 大 学 校 で 間 (1878 アーサおよび近藤滋弥の 2 名は昼間課程を履修した 3年 (それぞれ 1899年度および1904年度)が,その他の 19名 -81 年)を送った」こと,帰国後,グラスゴ はいずれも夜間課程に学んでいる(正確にいえば,富 ウ・西部スコットランド技術大学の最初の非常勤講師 山アーサは, に任命され,土木工学デイプロマを創設したというこ も履修している)。しかも,富山アーサは 3 年間修学し 1899年度は昼間課程だけでなく夜間課程 とが,記述されている(19) 。 て 1901 年に造船学の准学士号 (Associate) を取得した 2) 実学人材の育成 修して卒業学位を取得するというのではなく,特定の けれども,かれを除く留学生 20名は,所定の課程を履 (1) 専攻科目についてのみ聴講した。 ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 は 成 人 学 習 の 拠 点 と し て の 実 績 を も ち , 夜 間 課 程 の 開 設 な ら び に 勤 労 者 へ の 実 学 教 したがって,第三に,かれらの修学期間は総じて短 い。 -19 一 3 年間の修学者 2 名(富山アーサ,岩根友愛), 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 2 年間の修学者が 3 名(山尾庸三,小田切延寿,佐藤 (講義 5 ,実習 2 ,講義・実習 2 ),造船学は 8 名,数 恒二)いるけれども,残りの 16名は 1 年間修学しただ 学 5 名,電気工学 5 名(講義 4 ,実習1),化学 5 名 けであった。短期の修学ということと連動して,かれ (一般化学 1 ,工業化学 1 ,無機化学 3) ,磁気学・電 らが履修した科目数は多くなく, 気学 4 名,機械工学製図 3 名,自然哲学 3 名,応用機 1 年間の修学者 16名 械学 2 名,原動機(講義・実習) のうち 7 名は 1 科目のみという特定科目の履修であっ た。ほかに 2 科目履修者 2 名, 4 3 科目履修者 4 名, 2 名,建築工事 2 名, 冶金学 2 名,機械製図 1 名,重金属製品製造 1 名,ガ ス機関 l 名,船舶工学製図 l 名,などという内訳であ 科目の履修者は 1 名という内訳である( 2 名は科目名 不明)。 る。昼間課程の 2 名は,数学, 第四に,ストラスクライド大学留学生 21 名のうち, 自然哲学,力学,実験 物理学,応用物理学,化学講義,応用化学,機械学, 14名がグラスゴウ大学に在籍中にストラスクライド大 応用機械学,原動機(講義) ,原動機(実習に工学製 学にも修学していたことが注目される。すなわち,山 図,機械製図などを履修した。 本長方,小田切延寿,富山アーサ,鈴木四十,中島奥 曽八,風間篤次郎,佐藤恒二,浦野喜三郎,岩根友愛, 履修科目はほとんどすべてが自然科学系科目である が,蒸気機関,原動機,建築工事,重金属製品製造, 岩崎秀弥,堤佐久間,宮島可次郎,近藤滋弥,松田清 ガス機関などという科目名にあらわれているように, ーの諸氏である。(正確には,上記のうち,近藤滋弥は 専門技術の習得に直結するような実務的な授業科目の グラスゴウ大学に入学する前年に 1 年間ストラスクラ 履修が自立っている。 ちなみに, イド大学の昼間課程に学んだが,かれ以外の留学生は グラスゴウ大学に在籍しながらストラスクライド大学 日本人留学生が一番多く履修した「蒸気 機関」の授業では, r原動機の理論・構造・応用 j をめ に学んだ)。これができたのも,ストラスクライド大学 ぐり, r幻灯画,模型,図表,実験」を大いに取り入れ の夜間課程に学んだからである。 て教えられた。 グラスゴウ大学在籍中にストラスクライド大学に学 「蒸気機関 nJ の場合,①「熱力学の法郊と原理,蒸 んだ最初は,山本長方であった。グラスゴウ大学留学 気機関・熱気機関・ガス機関・石油機関その他への応 2 年目の 1890年度にはストラスクライド大学で「童文学 用」に始まり,②「機関。弁,弁装置,弁線図,クラ I Jr数 学 n J r無 機 化 学 J r無 機 化 学 ( 実 習 い る 。 続 い て , 小 田 切 延 寿 が 1897 を 受 講 し て か ら 1904 )J を 学 ん で ンク回転力線図。はずみ車。調速機。釣合わせ。発動 年 度 に 「 建 築 工 事 」 機の試運転 J ,③「ボイラー.陸用ボイラー・ロコボイ 年 度 に 松 田 清 ー が 「 重 金 属 製 品 製 造 」 を 受 講 す る ま で の ラー(汽車用)・船用ボイラー・水管ボイラー・炎管ボ 6年 の 間 , ほ ぼ 毎 年 度 , の べ イラー 13 その設計・構造・試験・作動。過熱器・空気 名 の グ ラ ス ゴ ウ 大 学 日 本 人 留 学 生 が ス ト ラ ス ク ラ イ ド 加熱器・押込通風装置。燃料と燃料試験J ,④「エンジ 大 学 に 修 学 し て い る 。 ン: I登用機関・蒸気機関・船用機関・タービン機関 J , こ の う ち , 岩 根 友 愛 は 1901 間 , 小 田 切 延 寿 は 1897 年 度 と ( 明 治 34) 98 年 度 の 年 度 か ら 3年 ⑤「高圧蒸気,二段膨張機関・過熱・蒸気ジャケット の効用 J ,⑥「用途(工場,電灯,船・鉄道の推進等) 2年 間 そ れ ぞ れ グ ラ ス ゴ ウ 大 学 に 在 籍 し た が , 二 人 と も こ の 間 , 毎 年 に応じた原動機の型式・設計の選定。計算の方式(図 度 , ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 の 夜 間 課 程 に 学 ん だ 。 佐 藤 解入り) J, 恒 二 は 4年 間 の グ ラ ス ゴ ウ 大 学 留 学 中 の 年 度 ) と 4年 目 (1901 3年 目 二番目に履修者の多い「造船学J の第 1 コースの場 (1900 年 度 ) に ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 に 合は,順に,①「載貨容積の単位。平面図のいろいろ。 正立方体の容積。物体の密度と重量。浮力・揚力の原 学 ん で い る 。 鈴 木 四 十 , 中 島 奥 曽 八 , 風 間 篤 次 郎 , 宮 島 可 次 郎 , 松 田 清 一 の 5名 は 修 学 中 の 理 J ,②「背の船と建造法。最近の木船と木鉄船,その 2年 間 の グ ラ ス ゴ ウ 大 学 長所と短所 J ,③「造船と鉄の活用。初期の銅船および 1年 目 を ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 に 学 ん だ 。 一 方 , 富 山 ア ー サ は グ ラ ス ゴ ウ 大 学 に は 1900 木船の構造上の類似点J.④「交易用の最新の鋼船。そ 年 度 に 在 籍 し た だ け で あ る の に , ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 に は 年 度 か ら 1900 の建造システムと各部を連結する強度補強法と水密方 1898 年 度 ま で の 3年 間 在 籍 し , し か も 1899 年 1901 法J ,⑤「装甲軍艦・非装甲軍艦の建造装備J ,⑥「船 底見透し,配管,つの形クリート,フェアリング(船 度 は 昼 間 課 程 と 夜 間 課 程 の 両 方 に 学 び , 前 述 の よ う に, という ill買に講じられた。 体形状を平滑リにする修正作業)と舷弧,船台と進水 年 に は 造 船 学 の 准 学 士 号 を 取 得 し て い る 。 (2) 台の製作準備 J ,から構成された。要するに, r蒸気機 第五に,かれら日本人留学生の履修科目についてみ 関 J r造船学」のいづれにおいても,基本原理・原則 ると,夜間課程については,蒸気機関の履修者が 9 名 のほかに,実際の応用と方法について具体的に言及さ -20 一 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) れ,現場ないし実務に関連づけた内容で、あった。 第 56 巻 第 2 号 (2009 室 ・ 造 船 学 実 験 室 ・ 電 気 学 実 験 室 の 設 置 , 機 械 学 ・ 電 第六に,ストラスクライド大学においても,グラス 気 学 ・ 化 学 ・ 造 船 学 の 資 格 証 明 書 の 新 設 な ど に つ い て ゴウ大学と同様に,大学で学習しながら学外の産業現 も 推 進 し た 。 工 部 大 学 校 に お け る 実 践 が ス コ ッ ト ラ ン 場に赴き実地研修を体験した者がいた。山尾庸三なら ドに逆流したという点で、注目される。 第 二 に , 明 治 びに高峰談吉の二人である。既述のように,山尾庸三 35 (1902) 年 に は , 明 治 政 府 の 帝 国 財 はネイピア造船所で,高峰譲吉は「スコットランド 務 及 工 業 通 信 員 を 委 嘱 さ れ た 。 日 本 の 財 政 や 商 工 業 の 最大の会社であるセント・ロロックス化学工場 (St. 実況を新聞・雑誌等をとおして英国に報道することで, R o l l o xChemicalWorks) で 徒 弟 奉 公 の 口 を え た ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 留 学 生 は , 昼 間 は 造 船 所 や 工 場 で 、 年度) J。 ス 日 英 関 係 の 増 進 に 寄 与 す る こ と が 期 待 さ れ た 。 他 の お 雇 い 教 師 に は み ら れ な い 特 異 な 経 歴 で あ る 。 実 地 研 修 を 受 け た り 徒 弟 と し て 働 き , 夜 は 大 学 で 原 第 三 に , お 雇 い 教 師 と し て の 日 本 体 験 な ら び に 深 い 理・理論について学ぶことができたのである(則。 日 本 理 解 を も と に , 帰 国 後 に 日 本 研 究 を 深 め , 日 本 事 情 通 と し て 西 洋 へ の 日 本 紹 介 に 寄 与 し た 。 『 大 日 本 』 『 世 界 政 治 の な か の 日 本 』 と い う 大 著 を は じ め , 題 名 に I V . ま と め 一 日 英 教 育 連 鎖 の 拠 点 グ ラ ス ゴ ウ 「 日 本 」 を 冠 し た 著 作 だ け で も (1) ス コ ッ ト ラ ン ド の グ ラ ス ゴ ウ は 明 治 日 本 と 緊 密 な 関 係 に あ っ た 。 お 雇 い 教 師 H. ダ イ ア ー な ら び に 日 本 人 17 点を数える。 そ の 日 本 研 究 は 分 析 の 方 法 と 視 角 , 研 究 素 材 の 点 で 特 色 が あ っ た 。 ま ず , 英 国 と の 比 較 と い う 方 法 を 随 所 で 駆 使 し た 。 日 本 は モ デ ル 国 に な る と 認 識 し , 沈 滞 し 留 学 生 を 介 し た 交 流 と 関 係 だ け で も , 次 の よ う な 諸 点 て い る 英 国 の 改 革 に 役 立 て よ う と し た 。 つ ぎ に , 日 本 が 認 め ら れ る 。 の 成 長 に お け る 教 育 の 役 割 を 重 視 し た 。 と く に 日 本 の ま ず , 近 代 日 本 教 育 の 成 立 と 進 展 の さ い , グ ラ ス ゴ 国 家 的 教 育 制 度 を 高 く 評 価 し , 日 本 の 経 験 は 「 英 国 へ ウ 大 学 な ら び に ス ト ラ ス ク ラ イ ド 大 学 の 前 身 校 ア ン ダ の 教 訓 に な る 」 と 説 い た 。 し か も , 帝 国 財 務 及 工 業 通 ソ ン ・ カ レ ッ ジ に 学 ん だ 信員になり, H. ダ イ ア ー が お 雇 い 教 師 と 日 本 政 府 を 通 じ て 多 数 の 日 本 資 料 を 自 在 し て 招 か れ た 。 か れ は 技 術 導 入 と 工 業 化 政 策 の 中 核 と に 活 用 す る こ と が で き る よ う に な っ た こ と で \ そ れ ら な っ た 工 部 省 に 雇 い 入 れ ら れ , 明 治 政 府 の 匝 是 で あ っ の 資 料 を 活 用 し て 特 色 あ る 成 果 を 生 み 出 し た 。 た 国 家 富 強 な ら び に 殖 産 興 業 に 直 結 す る 工 学 専 門 教 育 第 四 に , ダ イ ア } に は 「 ダ イ ア ー コ レ ク シ ョ ン 」 あ の 組 織 化 に 寄 与 し た 。 他 の 英 国 人 教 師 を 率 い て 工 学 専 る い は 「 ダ イ ア ー 遺 贈 品 門 教 育 を 推 進 し , 工 学 人 材 の 育 成 と い う 期 待 に こ た え 係資料がある。図書・冊子,美術工芸品,楽器,写真, た。 絵 葉 書 類 な ど か ら 構 成 さ れ る 間 資 料 は 五 つ の 資 料 群 に な か で も , 大 陸 諸 国 に み ら れ る 学 理 を 重 視 す る 方 式 j と 称 さ れ る , 大 量 の 日 本 関 分 割 さ れ , 現 在 は グ ラ ス ゴ ウ お よ び エ デ イ ン パ ラ の 美 と 英 国 に み ら れ る 実 践 重 視 の 方 式 と を 結 合 し た 教 育 課 術 館 ・ 博 物 館 , 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て い る 。 大 量 か っ 多 程 を 創 案 し , こ れ を 工 学 寮 お よ び 工 部 大 学 校 に 導 入 し 彩 な 向 コ レ ク シ ョ ン は , ダ イ ア ー の 長 年 に わ た る 日 本 た こ と が 注 目 さ れ る 。 こ れ は 単 独 の モ デ ル を ど こ に も 関 心 な ら び に 日 英 交 流 を 裏 づ け る 点 で 注 目 さ れ る 。 資 も た な い 独 自 の も の で あ っ た 。 お 雇 い 教 師 を 送 り 出 し 料 の な か で も 日 本 美 術 工 芸 品 は , 近 年 , 日 英 交 流 の 歴 た英国は. 史的所産, rエ ン ジ ニ ア の 体 系 的 教 育 に お け る 著 し い 遅 れ J が 固 の 重 要 問 題 に な っ て い た だ け に , 大 き な 関 と り わ け 日 本 ・ グ ラ ス ゴ ウ 聞 の 交 流 の 足 跡 を し の ぶ 格 好 の 品 と し て , 展 覧 に 供 さ れ て い る 。 心 を も っ て そ の 動 向 を 繰 り 返 し 紹 介 し た 。 (2) グラスゴウには,お雇い教師を介して数多くの日本 ダ イ ア ー は お 雇 い 教 師 を 解 除 さ れ , 郷 里 の グ ラ ス ゴ ウ に 戻 っ て か ら も 日 本 と 関 係 を 保 ち 続 け , 晩 年 に 至 る 人留学生が集まった。グラスゴウにあるグラスゴウ大 ま で 日 英 の 交 流 の 推 進 に 寄 与 し た 。 学ならびにストラスクライド大学は実学人材の教育機 第 一 に , 日 本 の 工 学 寮 お よ び 工 部 大 学 校 に お け る 教 育 実 践 を 持 ち 帰 り , グ ラ ス ゴ ウ ・ 西 部 ス コ ッ ト ラ ン ド 関としての実績を持っており,特色ある学習機会を提 供した。 技 術 大 学 に 移 し 入 れ た 。 ま ず , 専 門 学 科 の 課 程 な ら び グラスゴウ大学には,明治時代に少なくとも 50名が に 専 門 学 の 授 業 科 目 を 編 成 す る さ い , 工 部 大 学 校 の 学 学んだ。まず,かれらの出身校についてみると,工部 科 課 程 を ほ ぼ そ の ま ま 移 植 し た 。 工 学 教 育 に お け る 学 大学校出身者は 9 名,同校が併合された帝国大学およ 理 の 学 習 と 実 地 研 修 の 結 合 と い う , 自 身 が 創 案 し 実 施 び東京帝国大学工科大学出身者は 5 名を数えた。日清 し た 学 習 方 式 も ま た 移 し 入 れ た 。 さ ら に , 土 木 学 実 験 戦争後の 19世紀末になる友 海軍関係者が増加し,海軍 -21 ー 日本・スコットランド教育文化交流の諸相 機関学校出身者 4 名を合めて合計 6 名にのぼった。造 る た び に 試 験 委 員 が 任 命 さ れ た 。 船・海運業界の指導者の二世も 3 名を数える。慶応義 は , ロ ン ド ン に 留 学 し て い た 岡 倉 由 三 郎 が 任 じ ら れ て 塾出身者も 3 名含まれる。 Uミ る 。 1902 年 秋 季 試 験 に (3) 第二に,履修科目はほぼ全員が日本の殖産興業につ ストラスクライド大学には 21名が留学した。そのう ながる自然諸科学を受講した。工学ないし機械学が一 50名中 30名がこれを選択している。ついでL 自 ち,日本開園前にすでに 3 名が学んでいた。かれらは, 然哲学ないし物理学が25名,造船学 24名,数学22名, 横浜および長崎を拠点に日英貿易に乗り出していたス 化学 16名などという内訳である。同じ科目でも,講義 コットランド系商社の斡旋で密出国し,留学地として コースとともに実験コースを受講した者が多い。同大 グラスゴウを選択した。その最初が山尾庸三である。 番多く, 学では,教室での理論学習を実験室での実験実習(さ 同大学は,成人への学習機会の開放,夜間課程の開 らには学外での実習体験)に結びつけた教育がおこな 設,実践的な教育と実学人材の養成という,英国の他 われていた。女性で医学専攻という異色の留学生も 1 の大学にはあまりみられない特色をもっていた。それ だけに,日本人留学生21名の貿学実績には特筆すべき 名いた。 諸点がみられる。 第三に,学業成績が優秀であったことが特筆され そのーは,留学といっても昼間課程に学んだ者は 2 る。とりわけ初期の留学生は輝かしい成績を残し, 名だけであり, 19名は夜間課程だけを履修した。しか 種々の受賞記録が残っている。 も, 21 名中 20名は卒業学位を取得するのではなく,特 学位授与式において日本人留学生の優秀さと学習ぶ 定の専攻科目についてのみ受講した。 りが称えられ,地元紙に報道された事例もある。工部 したがって,かれらの履修期間は総じて短い。 3 年 大学校第一期留学生で 1880年度に学んだ,南 i青・志田 林三郎・高山直質の場合がそうであって, 間の修学者 2 名(うち 1 名は准学士号を取得), r朝野新関 j 3 名, や『工学会誌』を通じて日本にも紹介された。 1 年間は 16名という内訳であった。 2 年間 1 年間の修 学者 16名のうち 7 名は 1 科目のみの履修者であった。 第四に,修学期間は区々で短期の者もいれば長期の 者も少なくない。 1 年間だけの修学者は 24名と多い ほかに 2 科目履修者は 2 名, 3 科目履修者 4 名, 4 科目 が, 2 年間の修学者は 13名, 履修者は l 名という内訳である( 2 名は科目名不明)。 5 年間 1 名, 3 年間 4 名, 4 年間 6 名, そのこは, 21 名のうち 14名がグラスゴウ大学にも修 6 年間 2 名いう内訳である。かれらのう 学していた。グラスゴウ大学の昼間課程に在籍しなが ち,学士号を取得した者は 12名を数える。 第五に,修学中に学外に出て実地研修を体験するこ ら,ストラスクライド大学(正確にはグラスゴウ・西 とが奨励されていた。同大学の学習課程は 6 ヶ月単位 部スコットランド技術大学)の夜間課程に学んだので で編成され, ある。 10 月から 3 月までの冬学期は大学に通う その三に,夜間課程における履修科目は,蒸気機関 が,夏学期の 6 ヶ月間は学外での実地研修に出かける ことができた。日本人留学生も, 10名が造船所,鉄工 の履修者 9 名,造船学 8 名,数学 5 名,電気工学 5 名, 所,鉄道会社,郵便局などでの実修を体験している。 化学 5 名,磁気学・電気学 4 名,機械学製図 3 名,自 そのうち 6 名が工部大学校出身者で、あった。工部大学 然哲学 3 名,応用機械学 2 名,原動機 2 名,建築工事 校では教室での学習と実地研修を交互に組み込むとい 2 名,冶金学 2 名,機械製図 1 名,重金属製品製造 1 う教育課程が,ダイアーの発案ですでに実施に移され 名,ガス機関 1 名,船舶工学製図 1 名,などという内 ていた。 訳であった。昼間課程では,数学,自然哲学,力学, 第六に,資格試験の外国語選択科目に日本語が認定 実験物理学,応用物理学,化学講義,応用化学,機械 されたことが注目される。留学中の福沢三八が申し出 学,応用機械学,原動機(講義) ,原動機(実習) ,工 をしダイアーがその実現を支援した。試験委員に 学製図,機械製図などを履修した。夜間課程であれ昼 は,最初,在ロンドン領事館一等領事荒川|巳次が委嘱 間課程であれ,蒸気機関,原動機,建築工事,重金属 されたが,荒川!は程なくして辞退し,ロンドンに留学 製品製造,ガス機関という科目名にあらわれているよ 中の夏目金之助(激石)を推薦した。夏目は 1901年 4 うに,専門技術の習得に直結するような実務に関連づ 月の春季試験と同年 10月の秋季試験に試験委員をつと けた科目の履修が目立っている。 めた。夏目が出題した日本語試験問題は今なお不明で その四に,実地研修を体験した者は山尾庸三および あるが,福沢三八を含め 4 名の日本人がこれを受験し 高峰譲吉の 2 名いた。そのうち,山尾は,留学から帰 た。激石の帰国後は, ると工部省の創設を推進し,また同省の要職を歴任す 日本語受験の希望者があらわれ 2 2 第 56巻第 2 号 (2009年度) 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学) るなか,グラスゴウの造船所における実地研修を含め 1)三好信浩『ダイアーの日本』福村出版, 1989 , 3 7 た留学体験をもとに実学人材の教育機関の設立を計画 53 頁 ; 北 政 巳 『 ス コ ッ ト ラ ン ド と 近 代 日 本 した。ダイアーが赴任すると,同じストラスクライド ネット, j 丸 善 プ ラ 2001 , 93-96頁: Checldand , 0. , 'Th巴 Scots 大学に学んだという間柄もあって,ダイアーを支援し i nM e i j iJapan1 8 6 8 1 9 1 2 ', i nCage, R .A.巴 た。ダイアーが提案した工学教育構想が採用される S c o t sAbm と,その具体化を促進することになる。 1914, CroomHelm, London, pp. 263-266 (0. チェッ 日 d:L α bOU1; Cα .p ital , Ente11 The d. , 日 Tise , 1 7 5 0 ュ ク ラ ン ド , 加 藤 詔 士 ・ 宮 田 学 編 訳 『 日 本 の 近 代 化 と 以上要するに,グラスゴウの両大学では,明治日本 が求めていた工学,造船学その他の諸科学を学ぶこと ス コ ッ ト ラ ン ド ができただけでなく,教室での理論学習を実験室での 収) :拙稿「グラスゴウと明治日本一ストラスクラ j 玉 川 大 学 出 版 部 , 2004 , 55~58頁所 実習ならびに現場での実地研修に結びつけて学習を深 イド大学における日英交流-J r英学史研究』第 42 めるという,特色ある教育体制が用意されていた。と 号, くに学外での実地研修が奨励されていて,意欲ある者 日本英学史学会, 2009年 11 月, 15-18頁。 2)拙稿「グラスゴウと明治日本一ストラスクライド 大学における日英交流ー」同上, であれば造船所,鉄工所,鉄道会社などで実習を体験 15-16頁。 することもできた。しかも,ストラスクライド大学で 3) 拙稿「近代日本とイギリスの教育学術交流 J r教育 は夜間課程も開設されていたので,昼間はグラスゴウ 史研究室年報j 第 13号,名古屋大学大学院教育発達 大学もしくはストラスクライド大学での学習,あるい 科学研究科教育史研究室, 2007年 12 月, 45-47頁。 は学外での実地研修を体験しながら,夜間にはストラ 4) 三好信浩『日本工業教育成立史の研究ー近代日本 スクライド大学で学習する機会も用意されていた。し の工業化と教育-.I風間書房, たがって,グラスゴウは,短期日のうちに実学人材の に 271-280頁;同『ダイアーの日本J 前出,III.と 育成をめざしていた当時の日本にとってふさわしい留 学地であったと考えられる。 くに 83 88頁参照。 5)三好信i告『日本工業教育成立史の研究ー近代日本 (4) の工業化と教育 』向上, 298-320頁;拙稿「日英 交流の推進者へンリー・ダイアーの叙勲 J r 日本古 グラスゴウはお雇い教師匠.ダイアーの人選と雇い 入れにおいて明治日本との関係が成立しただけでな 書通信』第 67巻第 10号, く,ダイアーらお雇い教師を介在して日本人留学生が 月, 20-22頁。 集まったという点で,教育連鎖の拠点であった。 1999 ,第五章,とく 日本古書通信社, 2002年 10 6)拙稿「英国からみた工部大学校 J ,江藤恭二編『比 較教育史の総合的研究 そのお雇い教師は任期が終了し契約解除になったら 近代日本教育の確立過程 母国に戻る,一時的な文化や技術の運搬者という側面 における欧米教育の受容に関する比較史的考察 をもっている。日本での教育体験の持ち帰りや日本事 No.1 (文部省科学研究費総合研究 告書), 物の持ちこみだけでなく,日本研究や日本滞在記の執 筆を通して日本紹介を推進するという点で,まさに教 37-49 J 研 究 成 果 報 貰。 7 ) 拙 稿 「 お 雇 い 英 国 人 教 師 へ ン リ ー ・ ダ イ ア ー の 日 育文化交流の推進者であった。 本 研 究 一 成 果 と 特 色 英学史学会, ダイアーの場合も,工部大学校における専門学の学 科課程の編成と授業科目の開設,工学実験室の整備,学 1980 年 3 月, (A) -J 2008 年 10 月, r英 学 史 研 究 』 第 39-44 41 号, 日 本 頁,参照。 8)三好信浩『ダイアーの日本』前出, V: 北政巳 理と実地を結合した教育方法を,グラスゴウ・西部ス 『国際日本を拓いた人々 日本とスコットランドの コットランド技術大学に移植したし,多彩で大量な日 粋 本美術工芸品の持ち帰り,ならびに日本での体験と見 ンリー・ダイアーの著作 J r教育史研究室年報』第 聞にもとづく日本研究によって,スコットランドはも 12号,名古屋大学教育学部教育史研究室, 2006年 12 ちろん世-界への日本紹介に寄与したという点でも注目 月, J 同文舘, 1984 ,第 5 章,拙稿「お雇い教師へ 1-32頁;同「お雇い英国人教師へンリー・ダ イアーの日本研究一成果と特色一」同上;同 IH目ダ される。 イアー『大日本.I (1 904) の伝来J r名古屋大学大学 注 院教育発達科学研究科紀要(教育科学).1第 55巻第 2 号, 2009年 3 月, 67-90頁;同「明治日本躍進の研 [本稿は,これまでに発表した拙稿から主題にかか わる記述を抜いて再構成したものであり,旧稿と重複 究 がある。注記すべき典拠史料ならびに引用文献は,旧 信』第 65巻第 12号, 稿に含まれるものについては基本的に省略した。] 4- 8 頁,参照。 23- H. ダイアー『大日本J の刊行一J r 日本古書通 日本古書通信社, 2000年 12 月, 日本・スコットランド教育文化交流の諸柑 号 , 日 本 英 学 史 学 会 関 西 支 部 , 9) 拙稿「日英交流の遺産ダイアー・コレクション研 究 J r英学史研究』第 38号, 年 10 月, 39-57 日本英学史学会, 2 0 0 5 モ リ ・ イ ガ に つ い て は , 森 本 貞 子 『 秋 霧 譜 , 森 有 宇 し と そ の 妻 J r東 京 大 学 史 紀 要j 第25 号 , 東 京 大 学 史 史 料 室 , 1 9 3 9 2007 年 3 月, 16) 北政巳『国際日本を拓いた人々 ウ留学j 同上;同「明治期グラスゴウ大学日本人留 学生の記録J 向上,参照。 『国際日本を拓いた人々一日本とスコットランドの 17)拙稿「明治期におけるグラスゴウ大学日本語資格試 終-j 前出,第 5 章;拙稿「グラスゴウと明治日本 験J ,江藤恭二監修,篠田弘・鈴木正幸編『教育近代 ストラスクライド大学における日英交流-J 前出, 化の諸相』名古屋大学出版会, 1992年 3 月, 27-29頁,参照。 J r福沢手帖j86 ,福沢諭吉協会, 1 9 9 5 験 の 申 し 出 動向 )J r教育社会史研究室年報』第 3 号,名古屋大 学教育学部教育社会史研究室, 1997年 11 月, 201-221 頁 ; 同 「 福 沢 三 八 の グ ラ ス ゴ ウ 留 学 一 日 本 語 資 格 試 11) 拙稿「へンリ}・ダイアー・シンポジウム(学界 51-70 年 9 月, 16-25 頁 ; 同 ・ Sos 巴 ki Natsume , Examiner i nJ a p a n e s ea tGlasgowUniversity', M日goyα Journal 頁。 拙稿「へンリー・ダイアーの胸像 号,東京大学出版会, 教育社会史研究室, o fEduc J WP ,i第 319 1999 年 5 月, 25-30 jJ HumanDevelopm 側t , No .1, J a n 研究』神戸商科大学経済研究所, 1987 ,第 l 章;拙 1-26頁。 稿「グラスゴウと明治日本一ストラスクライド大学 における日英交流J 前出;同「明治期日本人留学生 14) 拙稿「明治日本躍進の研究-H. ダイアー『大日本』 の母校 」前出。 ストラスクライド大学のニ 00 年史 J r皐 鐙j 第 94巻第 7 号,丸善, 15) 北政巳『国際日本を拓いた人々一日本とスコット 1997年 7 月, 36-39頁, 参照。 ランドの終』前出,第 6 章,拙稿「南i青のグラスゴ 19) 拙稿「グラスゴウと明治日本 ウ留学 J ,加藤詔士・吉川卓治共編『西洋世界と日本 の近代化一教育文化交流史研究 ω~d 18) 拙著『英国メカニックス・インスティチュートの 11 号,名古屋大学教育学部 2005 年 11 月, 日tion 2002 , pp.79-91 ,参照。 頁。 拙稿「辞書・事典のなかの『へンリー・ダイアー 『教育史研究室年報』第 の刊行 日本とスコット ランドの粋』同上,第 6 章;拙稿「南清のグラスこf 10) 三好信浩『ダイアーの日本J 前出, IV; 北政巳 13) 2003 , 14-15頁;富田仁編 海を越えた日本人名事典』日外アソシ エーツ, 2005 , 681 頁,参照。 fromt h eHem'yDyerCollection , Glasgow S c h o o lo fArt, Glasgow, 2009,参照。 12) j 東 京 書 籍 , 『新訂増補 GlasgowS c h o o lo fArt, ed. , Dαi Nippon , Kabuki 頁; Pバnts 年3月 刊 行 予 定 , 参 考 。 頁 ; 同 「 工 部 大 学 校 お 雇 い 教 師 へ ン リ ー ・ ダ イ ア ー ・ コ レ ク シ ョ ン 展 2010 大学における日英交流J 同上, 』大学教育出版, 2010年 3 月出版予定,所収;同「明治期グラスゴウ 20) 同上, 21-27頁。 大学日本人留学生の記録 J r関西英学史研究j 第 5 2 4 ストラスクライド 18-20頁。 B u l l e t i noft h eGraduateS c h o o lo fE d u c a t i o nandHumanDeuel 中 , ment ( E d u c a t i o n a lS c i e n c e s ) NagoyaUniuersi りう Vo l.ぅ 6 , N o.2( 2 0 0 9-2010) , p p . 1 2 9 . A s p e c t so f E d u c a t i o n a la n dC u l t u r a lE x c h a n g e sb e t w e e nJ a p a na n dS c o t l a n d : M e i j iJ a p a na n dGlasgow Sh 吋 iKATOH ( 1 ) G la sgowhadc l o s et i e sw i t hJ a p a ni nt h eMeiji 回 era. Thei n t e r a c t i o n sandr e l a t i o n s h i p smadep o s ュ oJ a p a na sano y a t o i(“hired") instructor , andt h e s i b l et h r o u g ht h ee f f o r t so fHen 可 Dyer , whocamet e x i s t e n c eo fnumerousJ a p a n e s ee x c h a n g estudents , c a nbeshownt oh a v ehadanumber・ of e f f e c t s . First , a tt h et凶 e whenJ a p a nwastry 註19 t oe s t a b l i s hamoderne d u c a t i o n a lsystem , it employed d u c a t e da tt h eU n i v e r s i t yo fG l asgowandAn d e r s o n ' sCollege , t h epre 但 HemyDyer , whohadbeene c u r s o ro ft h eU n i v e r s i t yo fStrathclyde , a l s oi nG la s g o w .Hewasr e s p o n s i b l et ot h e陥nistry o fP u b l i c Works , whichwast h eg o v e r n m e n tbodythatdir ・ected J a p a n ' se f f o r t st oi m p o r ttechnologies 企om o v e r s e a sandf a c i l i t a t e dJ a p a n ' sr a p i di n d u s t r i a l i z a t i o np o l i c i e s .I nt h i scapacity, Dyerc o n t r i b u t e d t ot h ee s t a b l i s h m e n to fane d u c a t i o ns y s t e mf o rengineer 加g , w hichwasd i r e c t l yt i e dt ot h eM吋i G o v e r n m e n t ' sc o r eg o a l so fi n c r e a s i n gJ a p a n ' sw e a l t handpower , andj u m p s t a r t i n gnewi n d u s t r y .He mett h ee x p e c t a t i o n so fh i se m p l o y e r sbyl e a d i n go t h e rB r i t i s he d u c a t o r si np r o m o t i n gandi m p r o v i n g e n g i n e e r i n geducation , andt r a i n i n gf u t u r ee n g i n e e r s . Oneo ft h e i rmostsig 凶ficant a c c o m p l i s h m e n t swasd e s i g n i n ge d u c a t i o n a lc u r r i c u l at h a tb l e n d e d 註I m anyEuropeann a t i o n sa tt h et凶e together 制th t h ef o c u sonp r a c ュ t h ee m p h a s i sonthemγseen t i c et h a tw a s キo f t e ns e e ni nB r i t i s he n g i n e e r i n gc o u r s e s .Thesec u r r i c u l awereimplementeda tt h e Kogakuryo(“ Engineer 担g I n s t i t u t e " )andi t ssuccessor , t h eI m p e r i a lC o l l e g eo fE n g i n e e r i n gi nT o k y o . Dyerwast h ep r i n c i p a landt h ep r o f e s s o ro fc i v i landm e c h a n i c a lengineer 加g o ft h eC o l l e g e .T h e r e wasnomodelf o rt h ec o l l e g e .I twasd e s i g n e dfroms c r a t c h .G r e a tBritain , whichwast h es o u r c eo f x p r e s s e dg r e a ti n t e r e s ti nando f t e nr e p o r t e dont h ed e v e l o p m e n t s t h eC o l l e g e ' sh i r e dteachers , e i nJapan , e s p e c i a l l ys i n c ea tt h et i m emanyf e l tt h a tG r e a tB r i t a i nwasf a rbeh おld o t h e rc o u n t r i e si n e s t a b l i s h i n gs y s t e m a t i ce n g i n e e r i n ge d u c a t i o n .T h i swass e e na sam a j o rp r o b l e mf o rt h ec o u n t r ya t t h et i m e . Evena f t e rDyerendedh i semploymentc o n t r a c ti nJ a p a nandr e t u r n e dt oh i sn a t i v eGlasgow, he m a i n t a i n e dt i e sw i t hJapan , andw e l li n t oh i sl a t e ry e a r shec o n t r i b u t e dt ot h ep r o m o t i o no fAn glo 目 J a p a n e s er e l a t i o n s . Second , onh i sr e t u r nt oScotland , Dyerb r o u g h tb a c kw i t hhimh i sp r a c t i c a le x p e r i e n c e sfrom t e a c h i n ga tt h eKogakuη TO a ndt h eI m p e r i a lC o l l e g eo fE n g i n e e r i n gi nJ a p a nwhichhet h e na p p l i e d t oG la -25 ー B u l l e t i no ft h eG r a d u a t eS c h o o lcグEducation Nag のJa Uniuel andHumanDeuel 古iりう Vo l.う 6 , 中 , ment ( E d u c a t i o n a lS c i e n c e s ) No.2( 2 0 0 9-2010) , p p . 1 2 9 . c h e m i c a le n g i n e e r i n gands h i p b u i l d i n g .Thesea r ee x a m p l e so fhowh i se x p e r i e n c e sa tt h eI m p e r i a l C o l l e g eo fE n g i n e e r i n gcamet obeo fb e n e f i tt oS c o t l a n d . Tl せI' d ,註 1 1902 , h ewasa p p o i n t e da sanI m p e r i a lF i n a n c i a landI n d u s t r i a lL i a i s o nOf f i c e rt ot h e J a p a n e s eGovernment , ap o s i t i o nt h a tr e q u i r e dhimt or e a dandp u b l i s ha r t i c l e sonf i n a n c i a land i n d u s t r i a ld e v e l o p m e n t si nJ a p a ni nB r i t i s hn e w s p a p e r sandmagazines , t h e r e b ys t r e n g t h e n i n gAn g l o ュ J a p a n e s er e l a t i o n s .T h i swasn o tana p p o i n t m e n to f f e r e dt oanyo f t h eo t h e rWesternt e a c h e r sh i r e d byt h eJ a p a n e s eg o v e r n m e n t . Fourth , Dyerdrewuponh i se x p e r i e n c e sa sane d u c a t o ri nJapan , a sw e l la sh i sdeepu n d e r s t a n d i n g o fJ a p a n e s es o c i e t yandc u l t u r et of u r t h e r i n t e r e s ti n" J a p a n o l o g y "a f t e rr e t u r n i n gt oS c o t l a n d .He camet oberecog 凶 zed a sana u t h o r i t yonJ a p a n e s eaffairs , andc o n t r i b u t e dt oab e t t e ru n d e r s t a n d i n g o fJ a p a namongWesternn a t i o n s .Wheno n ei n c l u d e st h em a s s i v eDaiNipponand~αpαη 伽 WOTld Politics , h ep u b l i s h e da tl e a s t1 7w o r k st h a tr e f e r e n c eJapan 註1 t h et i t l e . D y e r ' ss t u d i e s o fJ a p a na r echaracter 包ed b yh i su n i q u e n e s si na n a l y t i c a lmethodology , perspective , andt h es o u r c e shec h o s e .Tob e g i nwith , hef r e q u e n t l yusedc o m p a r i s o n sbetweenJ a p a nandG r e a t n efromwhichG r e a tBritain, whosee m p i r ewaswaning , B r i t a i n .HesawJ a p a na samodelnation , o c o u l dl e a r nfromi no r d e rt oi n s t i t u t er e f o r m s .Next , heg a v eanenormousamounto fc r e d i tf o r J a p a n ' ss u c c e s s e st oe d u c a t i o n .Heshowedap a r t i c u l a r l yh i g hl e v e lo fa d r n i r a t i o nf o rJ a p a n ' sn a t i o n a l e d u c a t i o nsystem , arg世ng t h a tJ a p a n ' se x p e r i e n c ec o u l ds e r v ea sal e s s o nt oB r i t a i n .Furthermore , a f t e rhebecameanI m p e r i a lF i n a n c i a landI n d u s t r i a lL i a i s o nOfficer , hehadu n p r e c e d e n t e da c c e s st o 註llormation onJapan , whichwass u p p l i e dbyt h eJ a p a n e s egovernment , andh i su s eo ft h e s em a t e r i ュ l lt h emorev a l u a b l e . a l smadeh i sworka 日fth , D yerc o l l e c t e dani m p r e s s i v eamounto fJ a p a n r e l a t e dmaterials , whicha r enowr e f e r r e dt o o l l e c t i o n "o r“ Dyer B e q u e s t ' ¥ T h ec o l l e c t i o nc o n t a i n sbooks , m a g a z i n e sandpamphlets , a s t h e“ Dyer C w o r k so ff i n eandf o l kart , m u s i c a linstruments , photographs , andp o s t c a r d s .Thec o l l e c t i o nh a sbeen m a i n l yd i v i d e dupi n t ot h r e es m a l l e rc o l l e c t i o n st h a ta r et o d a ys h a r e dbetweenmuseumsandl i b r a r i e s i nG lasgowandEdinbm 、gh. T h i sm a s s i v eandd i v e r s ec o l l e c t i o nshowsD y e r ' sd e p t ho fi n t e r e s ti n The J a p a nandt h ee x t e n to fh i st i e st ot h ecountrγ. ( 2 ) Witht h ee n c o u r a g e m e n to ft e a c h e r s1也、 ed i nJapan , G la sgowsawaf a i r l yh i g hnumbero fJ a p a n e s e l asgowandt h eU n i v e r s i t yo fS t r a t h c l y d e( a si tisnowknown , anda l s o s t u d e n t s .TheU n i v e r s i t yo fG l o c a t e di nG la s g o w )hadr e p u t a t i o n sa se d u c a t i o n a l i n s t i t u t i o n sc a p a b l eo fe q u i p p i n gs t u d e n t sw i t h o rau n i q u ee d u c a t i o n . h i g h l yp r a c t i c a ls k i l l sandwerea b l et oo f f e rt h e s es t u d e n t sanopportu 凶ty f Dur 凶g t h eM e i j i p e r i o d( 18 6 8 1 9 1 2 )a tl e a s t5 0J a p a n e s es t u d e n t ss t u d i e da tt h eU n i v e r s i t yo fGlas 目 g o w . First , l e tu sl o o ka tt h ee d u c a t i o n a lbackgrounds 企om w hicht h e s es t u d e n t sc a m e .Weknowt h a t n i n eg r a d u a t e dfromt h eI m p e r i a lC o l l e g eo fEngineer 加g (I CE) , a ndf i v efromt h ee n g i n e e r i n gd e p a r t ュ mentso ft h eI m p e r i a lU n i v e r s i t y( w h i c hr e p l a c e dt h eI C E )o ri t ss u c c e s s o rTokyoI m p e r i a lU n i v e r s i ュ t y .Witht h eo u t b r e a ko ft h eS i n o J a p a n e s ewara tt h eendo ft h e1 9 t hcentury, t h e r ewasani n c r e a s e 2 6 ー B u l l e t i no . ft b eG r a d u a t eS c b o o lo / E d u c a t i o nand1か man D e v e l o p m e n t( E d u c a t i o n a lS c i e n c e s ) o.2( 2 0 0 9-2010) , p p . 1 2 9 . NagoyaUniversi りう Vo l.ラ 6 , N i xs t u d e n t si nall , i n c l u d i n gf o u rg r a d u a t e so ft h eN a v a l i ns t u d e n t sa f f i l i a t e dt ot h eI m p e r i a lNavy, s E n g i n e e r i n gC o l l e g e .Therewerea l s ot h r e es e c o n d g e n e r a t i o nleaders 台om t h eJ a p a n e s es h i p b u i l d ュ i n gands h i p p i n gindustries , a sw e l la st h r e eg r a d u a t e so fK e i oU凶versity. Second , welmowt h a tn e a r l ya l lo fthemt o o kc o u r s e si nn a t u r a ls c i e n c e st h a twered i r e c t l yc o n " n e c t e dw i t ht h ep r o m o t i o no fnewindustry 釦 Japan. Engineer 旬g andmechanicsa c c o u n tf o rt h e mostf r e q u e n t l ys t u d i e dsubjects , c o m p r i s i n g30o ft h e s e50s t u d e n t s .Then e x tmostp o p u l a rwas n a t u r a lp h i l o s o p h yo rphysics , w i t h25s t u d e n t s i nt o t a l .T h i swasf o l l o w e dby24s t u d e n t so fs h i p ュ fmathematics , and1 6o fchen 吐stry , andt h e nbys t u d e n t st a k i n gana s s o r t m e n to fo t h e r building , 22o s u b j e c t s .Am ongs t u d e n t ss t u d y i n gap a r t i c u l a rsubject , i ts h o u l dbementionedt h a tmosto fthem a t t e n d e dbothl e c t u r eandl a b o r a t o r yc o m p o n e n t s .Theu n i v e r s i t y ' se d u c a t i o np o l i c ywass u c ht h a t theoreticallean 山19 i nt h ec l a s s r o o mwasaccompaniedbyp r a c t i c a lexper 恒lentation i nt h eu n i v e r s i t y f fc a m p u s ) .TherewasoneJ a p a n e s ewomanmajor 加g l a b o r a t o r i e s( a sw e l la spractical “ seminars" o i nmedicine , whichwouldhavebeenar a r i t ya tt h et i m e . Third , i ti sc l e a r l yi n d i c a t e dt h a tt h e s es t u d e n t swereo fe x c e p t i o n a lacademicc a l i b e r .T h i swas h e i rmarksc l e a r l yd i s t i n g u i s h e dthem , andt h e y e s p e c i a l l yt r u eamongt h ee a r l yexchangestudents , t werer e c i p i e n t so fnumerousacademich o n o r s .Their 、 ir1tellectual prowessanda c a d e m i ca c h i e v e ュ mentsbecamec l e a rwhenevert h e s eJ a p a n e s es t u d e n t sg r a d u a t e dandt h e i ra c c o m p l i s h m e n t swere s e e n .I tevenc a u g h tt h ea t t e n t i o no ft h emediaandwasmentionedi nal o c a ln e w s p a p e r .Suchw出 t h ec a s ew i t hK i y o s h iMinami , R i n z a b u r oShida , andNaotadaTakayama , whoi r 11 8 8 0becamet h e f i r s tJ a p a n e s es t u d e n t sfromt h eI m p e r i a lC o l l e g eo fE n g i r 1 e e r i n gt os t u d ya tG l asgowuniversity, and 加 Japanese p e r i o d i c a l ss u c ha sChoy αSI 的~bun ( n e w s p a p e r ) whosea c c o m p l i s h m e n t swerefeatured andt h e( J a p a n e s e )JournalojtheEng 伽θ甘かり Society. Fourth , whent h e s es t u d e n t s 'h i s t o r i e sa r eexaminedir1dividually , i tbecomesc l e a rt h a tsome e r i o d so ftime , w h i l eo t h e r scommittedt h e m s e l v e sf o rf a i r l yl o n gdurations. 京 市 立 e s t u d i e dfor ・ short p 24o ft h i sgroupa t t e n d e do n l yf o rayear , 1 3s t u d i e df o rtwoyears , f o u rf o rt h r e eyears , s i xf o rf o u r year 刊 one f o rf i v eyears , andtwof o rs i xy e a r s .Oft h e s e50 -27- B u l l e t i no f t b eGraduateS c b o o lザ"Education Nag の 祝 日 liversity , Vol andHumanDevelo ρ ment ( E d u c a t i o n a lS c i e n c e s ) ラ6 , NO.2( 2 0 0 9- 2010) , p p . 1 2 9 . t h es p r i n gexamh e l di nA p r i lo f1 9 0 1a sw e l la st h ef a l lexamh e l di nO c t o b e ro ft h esamey e a r .I ti s u twedolmowt h a ta tl e a s tf o u rJ a p a n e s e s t i l ln o tc l e a rt ot h i sd a yhowmanyq u e s t i o n sheWI 前 e , b s t u d e n t st o o ki tu n d e rS o s e k i 'sexarr出lership , i n c l u d i n gSampachiF u k u z a w a .Af t e rS o s e k i ' sr e t u r n t oJapan , ana p p o i n t e et ot h ee x a m i n a t i o n sb o a r dwass e l e c t e dt oo v e r s e eJ a p a n e s eexamswhenever t h e ywerer e q u i r e d .Y o s h i s a b u r oOkakurawasr e s p o n s i b l ef o rt h eautumn1 9 0 2ex 紅n. ( 3 ) TheU n i v e r s i t yo fS t r a t h c l y d ehadat o t a lo f2 1J a p a n e s es t u d e n t sd u r i n gt h i sp e r i o d .( I nt h i ss e c ュ t i o nweu s et h etermU n i v e r s i t yo fS t r a t h c l y d ef o rt h ei n s t i t u t i o nt h a twasl a t e rt obelmo Wllb yt h a t h r e eJ a p a n e s es t u d e n t shada l r e a d ys t u d i e da tS t r a t h c l y d eb e f o r ei twasl e g a lt odo n a m e ) .I nfact , t so , . ie .b e f o r eJ a p a nopenedi t s e l ft ot h eWesti n1 8 6 8 .Theywerep a r to fg r o u p st h a tweres m u g g l e d o u to fJ a p a ni l l e g a l l yw i t ht h eh e l po faS c o t t i s ht r a d i n gcompanyt h a thads e tupab u s i n e s sf o rt r a d e betweenB r i t a i nandJ a p a ni nYokohamaandNagasaki , andhadc h o s e nt os t u d yi nG l a s g o w .Y o z o Yamaowast h ef i r s to ft h e s es t u d e n t s . Att h etime , t h eu n i v e r s i t ywaskno Wllfor ・ an o p e n n e s sn o ts e e ni no t h e rB r i t i s hu n i v e r s i t i e s :i to f ュ i g h tclasses , andc o u r s e s f e r e de d u c a t i o n a lo p p o r t u n i t i e st oa d u l t sw e l lp a s tt h eu s u a ls t u d e n tage , n t h a tn o to n l yo f f e r e dap r a c t i c a leducation , b u tt h ep r o m i s eo ft r a i n i n gf o rw o r k e r st oc u l t i v a t es k i l l s t h a twouldbei m m e d i a t e l ye m p l o y a b l e .Theveη T n a t u r eo ft h eU n i v e r s i t yo fS t r a t h c l y d ea c c o u n t sf o r ne d u c a t i o n a le x p e r i e n c e so ft h e2 1J a p a n e s ee x c h a n g es t u d e n t swhos t u d i e dt h e r e t h ediffer 官Ices i comparedt ot h o s eexper 匂nced a tt h eU n i v e r s i t yo fG l a s g o w . 日rst o fall , o ft h i sf i r s tg r o u po fs t u d e n t so n l ytwoc h o s et oa t t e n d“ day s c h o o l "c o u r s e so ft h eu n i ュ i t ht h erema 註由 19 1 9a t t e n d i n gn i g h ts c h o o lcourses. 羽な lat i smore , 2 0o ft h e2 1s t u d e n t s versity , w c h o s et ot a k eo n l ys u b j e c t si nt h e i rs p e c i a l i s tarea , i n s t e a do fw o r k i n gf o rad i p l o m aa tt h eu n i v e r ュ s i t y . Accordingly , t h e i rt e r m so fs t u d yweref a i r l ys h o r . tOuto ft h i sgroup , onlyones t u d e n tc h o s et o s t a yf o u ry e a r sande a r nanA s s o c i a t e s h i p .Oft h eothers , o n er e m a i n e dt h r e eyears , t h r e er e m a i n e d twoyears , and1 6 l e f ta f t e rj u s to n ey e a r .Seveno u to f t h e1 6s t u d e n t st h a ts t u d i e df o ro n ey e a rcom 也 p l e t e do n l yonec o u r s e .Tw os t u d e n t sc o m p l e t e dtwocourses , f o u rs t u d e n t st h r e ecourses , ando n e s t u d e n tf o u rc o u r s e s . 4o ft h e s e2 1s t u d e n t swerea l s os t u d y i n ga tt h eU n i v e r s i t yo fG l a s g o w .Morespecifically, Second, 1 t h e ywered a ys t u d e n t so ft h eU n i v e r s i t yo fGlasgow, b u ta tt h esamet凶 e n i g h ts t u d e n t so ft h eU n i ュ v e r s i t yo fS t r a t h c l y d e( t h e nG l asgowandt h eWesto fS c o t l a n dT e c h n i c a lC o l l e g e ) . ft h es t u d e n t st a k i n gn i g h t classes , n i n es t u d i e ds t e a mengineering , e i g h ts t u d i e d Third , o shipb 凶lding , f i v es t u d i e dmathematics , f i v ee l e c t r i c a lengineering , f i v ec h e m i c a lengineering , f o u r s t u d i e dmagnetismandelectricity, t l -28 B u l l e t i no ft h eGI ・'aduate S c h o o lo fE d u c a t i o nandHumanDevelopment( E d u c a t i o n a lScienc NagoyaUniversi りう VoL う6 , N o.2( 2 0 0 9-2010) , p p . 1 2 9 . ω) h estudents , namelyYozoYamaoandJ o k i c h iTakamine , hade x p e r i e n c e dt r a i n ュ Fourth , twoamongt i n gont h ej o b .Uponh i sr e t u r nt oJapan , Yamaowaso n eo ft h emostv o c a la d v o c a t e sf o rt h ee s t a b ュ l i s h m e n to ft h eM i n i s t r yo fP u b l i cW o r k s .Hes u b s e q u e n t l yh e l di m p o r t a n tp o s t si nt h i sn e w l y f o r m e d ministry, andi nh i sc a r e e ri nP u b l i cWorkshec o n s i s t e n t l ya d v o c a t e dt h ee s t a b l i s h m e n to fas y s t e m o fe d u c a t i o n a li n s t i t u t i o n st h a twouldt r a i nf u t u r ee n g i n e e r si nt h ep r a c t i c a la s p e c t so ft h es u b j e c t . T h i sv i e wwasp r e s u m a b l yi n f l u e n c e dbyh i sd i r e c tandi n d i r e c te x p e r i e n c eo ft h ep r a c t i c a le d u c a t i o n her e c e i v e dw h i l ew o r k i n gi nas h i p y a r dd u r i n gh i ss t u d yi nGla s g o w .P e r h a p sb e c a u s eo ft h e i rs h a r e d alm α m川 町 of w hatl a t e rbecameS t r a t h c l y d eUniversity, whenDyercamet oJapan , Yamaobecame am a j o rsupporter. 羽 市 en D y e r ' si d e a sf o re n g i n e e r i n ge d u c a t i o nwereaccepted , Yamaoh e l p e dmake s u r et h a tt h e ywereimplementeda ss o o na sp o s s i b l e . P u tdifferently , n o to n l yd i dt h e s etwou n i v e r s i t i e si nGlasgowpr 、ovide t h ep r e c i s et y p e so fe n g i ュ h i p b u i l d i n gandp r a c t i c a ls c i e n c ee d u c a t i o n st h a tt h eM e i j igovernmentneeded , t h e yo f ュ neering , s f e r e dd i s t i n c t i v eo p p o r t u n i t i e sf o rl e a r n i n gb e c a u s ei na d d i t i o nt olean せng theory 加 the classroom , s t u d e n t swereexposedt oe x p e r i m e n t si nt h elaboratory, a sw e l la so f f c a m p u sr e a lworki nt h ef i e l d t h a td i r e c t l yr e l a t e dt ot h e i rs u b j e c t so fs t u d y .Academicc i r c l e sa r o u n dt h i st i m ebegant os t r e s st h e i m p o r t a n c eo ff i e l dexperience , ands t u d e n t sw盟主 19 t ou n d e r g ot h e s ee x p e r i e n c e si ns h i p y a r d sand r o v i d e d s t e e lm i l l swereg i v e nt h eo p p o r t u n i t yt og a i ns u c hp r a c t i c a le x p e r i e n c e .I nshort , Glasgowp t h ei d e a ld e s t i n a t i o nf o rstudy-abroad , a si to f f e r e dwhatt h eJ a p a n e s egovernmento ft h et i m ewas l o o k i n gf o r ;ap l a c et op r o v i d eap r a c t i c a ltrair 吐ng f o rf u t u r ee n g i n e e r sw i t h i nar e a s o n a b l ys h o r tp e ュ r i o do ft i m e . ( 4 ) Gl asgowwasn o to n l yt h ep l a c ewheret h eh i r e dt e a c h e rHemγDyer ・ was s e l e c t e df o remployment i nJ a p a n( t h u se s t a b l i s h i n gi n t e r n a t i o n a lr e l a t i o n sw i t ht h eM吋 i government) ,比 also s e r v e da sa c e n t e ro fe d u c a t i o n a li n t e r a c t i o nw i t hJ a p a nt l u ' o u g ht h enumbero fJ a p a n e s es t u d e n t swhowerea t ュ t r a c t e dt os t u d yi nt h ecity, l a r g e l yduet ot h ee f f o r t so fDyerando t h e rh i r e dt e a c h e r s . Af t e rt h e i rc o n t r a c t sw i t ht h eJ a p a n e s egovernmentwereover , t h eh i r e dt e a c h e r sr e t u r n e dt ot h e i r r e s p e c t i v ec o u n t r i e s .Theyr e t u r n e dhomeemichedw i t ht h ee d u c a t i o n a le x p e r i e n c e st h e yg a i n e di n J a p a nandalmowledgeo fJ a p a nandi t sc u l t u r e .Theya l s oa c t e dont h e i rr e t u r na sf a c i l i t a t o r so fe d u ュ c a t i o n a landc u l t u r a li n t e r a c t i o n sbetweenJ a p a nando t h e rc o u n t r i e st h r o u g ht h e i rc o n t r i b u t i o n st o J a p a n e s es t u d i e sandt h ep u b l i c a t i o no fmemoirso ft h e i re x p e r i e n c e si nJ a p a n .Thust h e ywerea b l e t oi n t r o d u c eJ a p a nt ot h ew o r l da tl a r g e . T h i swasc e r t a i n l yt h ec a s ef o rHemyDyer , whoi srecog 凶z e d t o d a yf o rh i smanya c c o m p l i s h ュ p e r i a lC o l l e g eo fEngineering , m e n t s :hed e s i g n e dc o u r s e sande s t a b l i s h e dt h ec u r r i c u l aa tt h eIm hee s t a b l i s h e de n g i n e e r i n gl a b o r a t o r i e sandi n t r o d u c e dane d u c a t i o n a ls y s t e mt h a tb a l a n c e dt h e o r y h eWesto fS c o t l a n dT e c h n i c a lC o l l e g e( la t e rt obecomet h eU n i v e r ュ w i t hp r a c t i c ea tGlasgowandt s i t yo fStrathclyde) , andheb r o u g h thomew i t hhiman 凶posing andd i v e r s ec o l l e c t i o no fJ a p a n e s e literature , art , f o l kc r a f te t c .Throughh i ss t u d i e so fJapan , fromwhichhedrewuponh i sowne x p e r i ュ e n c e sandu n i q u eperspective , hec o n t r i b u t e ds i g n i f i c a n t l yt oanu n d e r s t a n d i n go fJ a p a nn o to n l yi n S c o t l a n db u ti nt h ew o r l da tl a r g e . 白d nL
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