キリスト教に見る1970年以前の中絶論争

[人工妊娠中絶]
キリスト教に見る 70 年代以前の中絶論争
∼聖職者相談サービス(Clergy Consultation Service on Abortion)の意義∼
根本
目次
麻矢
序章
第 1 章 歴史背景 中絶に関する 19 世紀アメリカ社会の動向
第 2 章 聖職者相談サービス
終章
ロウ判決により現在の中絶論争へ
序章
人工妊娠中絶は産児制限の有効な手段として、古代より世界の至る所で行われてき
た。アメリカにおいても中絶は独立革命以前から行われ、物議を醸したり水面下に隠
れながら、社会の規範と個人の必要性の対立は常に存在してきた。そして今日中絶の
是非をめぐる論争は、アメリカを政治的社会的に二分する大論争としてなお解決を見
ていない。
しかしアメリカの中絶論争において「プロライフ(中絶反対派)
」と「プロチョイス
(中絶擁護派)
」という現在の対立構図ができたのは比較的新しい。両者の対立が激化
したのは 1960 年代以降、特に 1973 年連邦最高裁によるロウ判決において中絶が「女
性のプライバシー権」として認められ、プロチョイス勢力が確立してからのことであ
る。
では 1970 年代以前において中絶問題はどのような立場で論じられてきたのだろう
か。ここでアメリカのキリスト教の動向に注目すると興味深い事実が浮かび上がる。
それは中絶を神に反する行為とする考えは伝統的に存在していたにもかかわらず、19
世紀全般を通じ教会は中絶問題に関し沈黙を守ってきたことである。今日プロライフ
の中心的役割を担うカトリック教会でさえ、中絶規制のための本格的なロビー活動に
乗り出すまでにはロウ判決を待たなくてはならない。19 世紀アメリカにおいて初めて
生じた反中絶運動は医学会によるものであり、宗教界はこの問題に積極的に関わろう
とはしなかったのである。
本稿では中絶に関しことさら議論を避けてきた宗教界に生じた新しい動きとして、
聖職者相談サービス(Clergy Consultation Service on Abortion)に注目する。第 1 章
では中絶に関する 19 世紀アメリカ社会の動向に触れる。医師たちによる反堕胎キャン
ペーンと宗教界の沈黙という対照的な動きの中で、聖職者相談サービスが生まれる歴
史背景を述べたい。続く第 2 章では聖職者相談サービスの内容の詳細とその意義につ
いて論じる。終章ではこのサービスがその後のプロチョイスの動向にどのようにつな
がっていくのか述べていきたい。
第 1 章 歴史背景
<中絶に関する 19 世紀アメリカ社会の動向>
19 世紀はそれまで中絶に寛容だったアメリカに反中絶の動きが現れ、次第に規制が
厳しくなった時代である。今日でこそプロライフの主張の中心的役割を担う宗教界だ
が、アメリカにおいて初めて現れた反中絶の動きは宗教家によるものではなく、19 世
紀半ば、特に南北戦争以後に医師たちによって起こされたものだった。では医師たち
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三田祭論文集 2002
による反堕胎キャンペーンはどのような背景で生まれたのであろうか。そして医学会
の反中絶の動きに対し宗教界はいかなる態度で臨んだのだろうか。
第 1 節 医師たちによる反堕胎キャンペーン
ロウ判決において最高裁は、19 世紀において「女性は今日の大半の州の女性より、
妊娠を中断する広範な権利を享受していた」と述べ、中絶を是とする判決の根拠のひ
とつとした1。確かに 19 世紀初頭のアメリカでは、中絶に関していかなる法律も存在
していなかった。伝統的な慣習法に従い、胎児が魂を吹き込まれ生命を持ちうるのは
胎動(quickening)の瞬間からと考えられ、胎動前の中絶は犯罪ではなかった。当時
どれほどの数の中絶が実際に行われたかを知ることはできないが、医療技術が進歩し
ていなかったため、中絶後の妊婦の死亡率が非常に高かったことは事実である。ニュ
ーヨーク州では 1803 年から規制法ができる 28 年までの間に中絶をした女性の 8 人中
3 人が死亡したとされる2。こうした背景のもとで中絶が最初に規制されていく根拠は、
胎児の生命を奪う行為だからではなく、母体の生命に危険が及ぶためだったのである。
中絶規制法は 1821 年コネティカット州を皮切りに各州で制定され、19 世紀半ば以
降規制は一層厳しくなっていく。しかし中絶自体の数は増加を続け、特に 1840 年代に
急増した。ある推量によれば、1830 年代まで出産 25∼30 件に対し 1 件であった中絶
率は、50∼60 年代にはおそらく出産 5∼6 件に対し 1 件にまで増加したという3。また
1840 年代は中絶が商業化によって世間に注目されるとともに、中絶を求める女性層が
変化したことでも注目される。それまでの中絶は、誘惑され棄てられた未婚女性が社
会的不名誉から逃れるための最後の頼みの綱だった。しかし 40 年代中絶は日常的に行
われ、特に WASP の中・上流階級の既婚女性の間で、面倒な育児から逃れたり家族数
を制限するための有効な手段として、社会現象にまでなっていたのである。
この傾向に真っ先に危惧を覚えたのが WASP の医師たちであった。このまま中絶が
増え続ければ、やがて自分たちはカトリック教徒の移民や有色人種によって人口的に
も政治的にも圧倒されるのではないかと考えたのだ。このため医師たちは中絶を安易
に行う女性たちを「利己的で個人目的のために子供たちを虐殺したり毒殺する」と非
難し、女性の本来の役割としての結婚、出産、家庭の重要性を強調した。
こうした中絶の社会現象化に対する医師たちの反動が明確な形を取ったのが、19 世
紀半ばに起きた反堕胎キャンペーンである。正規の医師(regular doctor)を中心に、
商業化の波に乗り中絶市場に入りこんだ無免許の医師を追放し、正規の医師の社会的
権威を確立するとともに、中絶に走る「無知な大衆」の啓蒙を目的として始まった。
この動きは 1847 年に全米医師会(AMA)を結成するに至り、以後反中絶法の制定の
ために強力なロビー活動を推し進めていく。
この運動が母親の生命が危険な場合を除き、中絶は殺人であり道徳的に許されない
という医師たちの強い信念に基いていたことは特筆すべきである。歴史家ジェーム
ス・モアによれば「正規の医者は、聖職者を含む 19 世紀末のいかなる集団よりもおそ
らく、人間の生命をそれ自体絶対的なものとして擁護した」というのだ4。
その背景には生命は受精によって始まるという新しい科学的発見がある。これまで
胎動後はじめて存在するとされてきた胎児の生命は、1850 年代以降には受精の瞬間か
ら認められるようになった。1886 年にニューヨークの外科医 J・E・ケリーは中絶に
関し次のように述べている。
「受精が起こり卵子が生命を受けた瞬間から胎児は人間で
あり、幼児と大人は程度が異なるだけで種類が異なるわけではない。従ってそれは奪
うことのできない生存権を持った<人間>であり、その殺害は殺人である」5。これが
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当時の大方の医師たちの意見であった。
このようにアメリカにおいて 19 世紀になって初めて生じた反中絶の動きは医師会
におけるものであり、宗教界におけるものではなかった。前述にように他に様々な意
図はあったにせよ、医師たちが根ざした道徳観は初めて受精時から胎児の生命に重点
をおき中絶を生命剥奪の行為とする点でキリスト教の道徳観に一致していたが、宗教
界がこの運動に関わることはなかったのである。そしてこの医師たちによる運動が功
を奏し、胎動の有無に関係なく中絶を犯罪として禁止し中絶を求めたり自分で試みた
女性をも処罰する法律が、1860 年∼80 年までに次々と制定されていった。
第 2 節 沈黙する宗教界
中絶横行の風潮に対し本来ならば中絶手術を生業とするはず医師たちでさえ道徳的
危惧を覚えた 1840 年代、宗教界において中絶問題はどのように扱われたのだろうか。
旧訳聖書「創世記」の中では、神はアダムとイヴを創った後彼らを祝福して「産め
よ、増えよ、地に満ちよ」と言われたと記されている。このためキリスト教では中絶
は勿論、産児制限、避妊の類はすべて神の意思に反する行為という考え方が根強く存
在してきた。しかし医師たちの反中絶運動が激しくなる一方で、19 世紀後半の宗教界
はこの問題に対して概して無関心であった。プロテスタントの各宗派もカトリック教
会も南北戦争の終わる頃まで中絶に関しほとんど公的発言を行わず、反堕胎キャンペ
ーンの活動をする医師たちは聖職者のバックアップが得られないことに不満を漏らし
ていたほどである。
今日プロライフの急先鋒であるカトリック教会にしても、19 世紀を通じ中絶問題に
関してほとんど役割を果たしていない。そもそも 19 世紀のカトリック教会において中
絶が殺人であるというということは教義になっていなかった。当時のカトリックの教
義では男の胎児は妊娠後 40 日で、女の胎児は 80 日で魂が吹き込まれると信じられて
いた。カトリックが漸く生命は受精の瞬間からはじまるという立場を正式に支持し、
中絶を殺人行為としたのは、科学的に受精が確認され教皇ピウス 2 世が「無原罪の御
宿り」説を信仰箇条として宣言した後の 19 世紀末になってからである。また当時カト
リック教会の刊行物の中に中絶に関する言及はほとんど見当たらない。1869 年、ボル
ティモアのスポールテイング司教は司教書の中で中絶を「神と教会の目には大いなる
罪」として非難したが、いかなる状況下であろうと中絶を認めないとする点で母親の
生命を守るための治療用中絶を認める医学会の認識とは異なり、当時もはや中絶が広
く行われている現実を全く無視していた。
ではプロテスタントは中絶問題にどのように関わったか。人口の 10%以下を占める
に過ぎなかったカトリック教会が州議会に力を及ぼすほどの政治勢力はもっていなか
ったのに比べ、州政府や連邦政府の主要な公職を占めていたのはプロテスタント教徒
であった。加えて前述の反中絶キャンペーンの医師たちもプロテスタントであったた
め、19 世紀の中絶規正法を制定するという役割を果たした人々はプロテスタント教徒
だったと言うことはできよう。
しかしながら当時プロテスタントのいかなる宗派も中絶には関心をもっていなかっ
た点ではカトリック教会と同様であった。1860 年の末、組合教会派とプレスビテリア
ン派の聖職者たちが「出産前の子殺しの蔓延」を非難するが他の宗派はそれに続かず、
各教会は 70 年代には再び発言をしなくなり、医学会との協力関係は成立しないまま終
わった。
宗教界が中絶問題に関し公の場での議論を避けてきた理由として、モアは次の四点
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を挙げている。第一に教会は少なくとも建前上は、敬虔なキリスト教徒の女性たちの
間で中絶のように淫らで不自然な行為に関わることはないという前提に立っていたこ
と、第二に当時の宗教界の出版物は、非常に遠まわしな表現を除き、性的な話題を取
り上げることはほとんどなかったこと、第三にプロテスタントの聖職者の間でも胎動
前の胎児は人間ではないという伝統的な見解を持っていたこと、最後にもし医師たち
が主張するように中絶を求める女性の多くがプロテスタントならば、教会としては中
絶を断罪する明確な態度を取ることで信者との間に余計な波風を立てたくなかったこ
とである6。
このように 19 世紀には医師たちが反堕胎キャンペーンを行う一方で、宗教界はカト
リック、プロテスタント各宗派ともに中絶問題にはひたすら目を瞑るという医師会と
は対照をなす態度を取り続けた。胎児の生命は受精の瞬間からはじまるという科学的
新発見が即ちに反中絶の動きへと結びついていくのが科学者たる医師たちの強さであ
るならば、宗教界がその事実を受け入れ中絶に関する立場を表明するのに時間を要し
たのは現実離れした教義や理念が障害となったといえるであろう。規制が進むほどに、
非合法な医師のもとで悲惨な中絶する女性は増え続けた。しかし肉体的にも精神的に
もダメージを受けた女性たちは、教会をその拠り所とすることはできなかったのであ
る。
第2 章
聖職者相談サービス (Clergy Consultation Service on Abortion)
聖職者相談サービス(以下 CCS と略)の内容と意義について述べる前に、医学会の
キャンペーンが成功を収め中絶が規制される中で新たに生じてきた中絶問題に触れて
おく。
1870 年代から中絶規制反対運動が展開される 1970 年代まで、クリスティン・ルカ
ーが「沈黙の一世紀(the Century of Silence)
」と呼んだように中絶に関する議論はほ
とんど行われなかった7。しかし中絶が非合法となった時代においても女性の間で中絶
の必要性がなくなったわけではなく、産児制限の手段としてヤミ堕胎に頼る女性は増
え続けていた。では CCS を生みだす背景にある当時の中絶問題はいかなるものであっ
たか。
まず中絶の非合法化と不可視化は女性間の不平等をもたらした。すなわち白人の裕
福な女性は治療という名目で専門医のもとで堕胎手術を受けることができたのに対し、
低層階級や移民の貧しい女性たちは自力堕胎やヤミ堕胎に頼るほかなく、感染症など
で死亡する危険性が高かった。連邦政府の調査によれば、27 年 28 年に死亡した妊婦
のうち少なくとも14%が非合法中絶によるとされる8。
また 1939 年∼70 年に堕胎を経験した女性、その家族、医師などの証言を集めたパ
トリシア・ミラーはその著書の中で、ヤミ堕胎師を見つけることは非常に困難で選ぶ
余地など無かったことや母親が堕胎で死んだためにしばしば家族離散が起きたこと、
堕胎は女性にとって非常な不安と恐怖、苦痛や屈辱を伴ったことが明らかにされてい
る。非合法化の下で表面化されないだけに、中絶問題は女性とその家族が抱え込む苦
悩の種であり、もはや深刻な社会問題の様相を呈していたのである。
第 1 節 聖職者相談サービスとは
こうした中で現行の中絶規正法の改善を求める動きが宗教界において現れた。1967
年、ニューヨークのグリニッジビレッジにあるシャドソン・メモリアル教会のハワー
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ド・ムーディ牧師が、プロテスタントの牧師とユダヤ教のラビを集め「問題ある妊娠」
に悩む女性たちにカウンセリングと安全な中絶を行う医師を紹介するサービスを始め
たのである。1967 年 5 月 22 日のニューヨークタイムズ紙の第一面にこのサービスの
宣伝記事が掲載されると依頼者が殺到し、翌 68 年だけで 6500 人の女性が利用したと
される。同年ロサンジェルスで組合教会のヒュー・アンウィル牧師が始めた CCS はオ
ープン当日に 293 の電話がかかり、10 日で 175 人の女性がカウンセリングを受けた。
このサービスがいかに当時の女性たちの需要に適っていたかわかる。ナネット・デイ
ビスの調査によれば、サービス開始当時 10 人だった参加者も 1973 年には 300 人にま
で増加したとされる9。またシカゴでもムーディの友人であるシカゴ大学バプテスト派
のスペンサー・パーソンズ牧師が 30 人ほどの牧師やラビとともに同様のサービスを始
めるなど、その規模は15 州以上に拡大し、ワシントン D.C.とカナダにナショナルセ
ンターを持つ全国的なネットワークをもつ組織をつくりあげるに至った。
第 2 節 聖職者相談サービスの意義
前述したようにこのサービスに加わった聖職者たちは、中絶を望む女性たちにカウ
ンセリングを行うだけでなく、必要ならば合法および非合法の中絶医を紹介する「中
絶ブローカー」としての役割も担っていた。任意の寄付金を除けば基本的に無料で、
アメリカ国内に留まらずメキシコ、プエルトリコ、ロンドン、東京の医師を紹介・斡
旋した。法に触れる危険を冒してまで聖職者たちをこの運動に駆り立てたものは何だ
ったのか。
それは目の前で現実に苦しんでいる女性たちを救うのが聖職者としての使命である
という信念だった。サービスに関わった聖職者たちは現実問題に即したこのサービス
の必要性を自覚するにつれ、従来の宗教的道徳観の変更を迫られた。聖職者たちにと
って「生命」は女性の生命と精神的健康であり「善」とはカウンセリングが罪悪感な
き中絶を生み出したときの結果を意味した。そして彼らは残酷で悲惨な中絶を避ける
ため望まない妊娠の中止を求める女性を助けることこそ「道徳」であると考えたのだ。
ある聖職者は次のように述べている。
「私は他に誰も頼る者のない少女を助けたいがた
めに(この運動に)関わっている。現行の法律は金持ちを優遇し、金や身寄りのない
者を差別していると感じる。私は中絶される胎児は妊婦にとっても社会にとっても、
ことによると胎児自身にとってさえ誕生を望まれないと考える」
。そして「私は全ての
子が望まれる権利を持つと信じている。同時にすべての女性が中絶をする権利を持っ
ており、合法に医学的に安全にできる限り低費用でできるべきだと考える」10。
このように聖職者たちは従来の道徳観の下で絶対的な善悪基準により中絶を断罪す
るのではなく、状況倫理的に考えた上でサービスを始めたのだった。ここで重要なの
は現行の中絶規正法に疑問を投げかけたのが、道徳的な権威を社会的に最も認められ
ている聖職者であったことである。時代は既に中絶規制法の改正を求めて動きつつあ
った。このサービスのみならず、19 世紀には中絶禁止へと動いた医師会においても
1950 年代には規制緩和の動きが生じてくる。しかしこうした運動に正当性や権威を与
えるという意味では聖職者ほど大きな役割を果たし得る者はいなかった。レイダーが
言うように、このサービスにより「背後にいる卓越した、率直に発言する聖職者たち
の持つ道徳的重みが加わった」ことには社会的に大きな意義があったのである11。
聖職者たちにこうしたリベラルな態度の生み出したのはプロテスタント教会の性質
によるところが大きいと考えられる。様々な宗派と教義が各々集い宗教組織としては
分裂しているプロテスタントでは、牧師は自治的な状況を与えられ、教会は外の監視
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三田祭論文集 2002
のない個人の自由の場であった。拘束の緩いプロテスタント教会のシステムは、牧師
が個人的にこのようなサービスを興すのに適していたのである。第 2 章で述べたよう
に、19 世紀には中絶問題を無視し公の場で発言することすら避けてきたプロテスタン
トが、教義や道徳観から開放され初めて現実問題としての中絶に目を向けたこの動き
は、宗教界における変革といっても過言ではあるまい。中絶をせざる得ない妊婦の精
神的・肉体的苦痛を実際に軽減すること、つまり現実の苦しみから人々を救うという
宗教のあり方を、実践を通じ個々の聖職者たちが宗教界に対し提示したこともまた、
このサービスの意義のひとつといえよう。
しかしこの運動が、伝統的な教義と道徳観を重んじ中絶を断固として認めないカト
リック教会との対立を生むことは必至であった。中絶規正法の改正を求める機運に危
機感を募らせたカトリック教会は、反中絶運動を支援し組織化を開始する。1966 年に
はカトリック神父によって、ロウ判決後最大の反中絶組織としてプロライフの中心的
存在となる全米生命の権利委員会(NRLC)がつくられた。さらに 1971 年ニューヨー
クのクック大司教はカトリック教会の司祭たちに対し中絶をしたり、他の者にそれを
手伝わせたりしたカトリック教徒は直ちに破門するよう呼びかけた。実際に CCS に参
加しているカトリックの司祭はごく少数であったが存在していたのである。
これに対し CCS を提唱したムーディはカトリック教会を真っ向から非難した。
「中
絶についてのカトリックの立場は、他の社会的および道徳的問題についてと同様、以
前から知られていたし新しいものではない。新しいのは教会や枢機卿が司教を通して、
理性的な対話や神学論争を放棄し、感情的な爆発を許し、反対者に対し「ベビー・キ
ラー」とか「ふしだらな殺人者」という狂気のラベルを貼りつけると決めたことであ
る。新しいのは、中絶に関する宗教的信念を彼らと共有しない人々に対し、全面戦争
が呼びかけられたことである。この国で最高の地位にあるスポークスマンが、キリス
ト教徒にあるまじき悪意に満ちた罵詈雑言や卑しむべきスローガンを用いたり、信徒
にそれを奨励したりするとは、ショッキングなことである」12。
以上のことから聖職者相談サービスには宗教界の外と内における二つの意義があっ
たと考えられる。第一に聖職者が時に法の枠外で中絶をバックアップすることで、中
絶規制法改正への社会的な動きに対し宗教的・道徳的権威を持たせ強めたことであり、
これは社会的な文脈における意義である。もっともムーディは中絶を避けられない現
状を目のあたりにするにつれ、サービスに参加した聖職者たちの中には中絶規正法の
改正ではなく、完全な撤廃をすべきだと意見を変えた者もいたと述べている。こうし
た聖職者たちが後に撤廃運動を推進したことを考え合わせば、このサービスは権威を
付与したに留まらず、それ自体を規制撤廃運動の流れに位置付けることもできよう。
第二にこのサービスによってこれまで目を逸らしてきた中絶問題を初めて直視し、
現実にそぐわない教義や道徳観を排除し、今苦しんでいる人々を救うべく行動を起こ
したことである。これは教義や道徳観に縛られる余り現実世界と大きく隔絶してきた
宗教界に宗教のあり方を見直す機会を与えたという意味では宗教的な意義といえる。
さらに付け加えるならば、こうした体制に反する改革的な動きがやはりプロテスタン
トから生じたことに、かつてアメリカ大陸に移住したピューリタンたちのパイオニア
精神を垣間見ることもできるのである。
終章 ロウ判決より現在の中絶論争へ
これまで聖職者相談サービスが持つ意義について述べてきたが、最後にその限界に
ついても触れておきたい。実際このサービスは利用者たちにどのように捉えられてい
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たのだろうか。中絶を経験した女性たちが、多かれ少なかれ肉体的・精神的に傷を負
ったことは何も 19 世紀半ばに限ったことではあるまい。一方で当時の女性たちは中絶
を「積極的善」か「よりましな悪」と捉え、良心の呵責を感じることはほとんどなか
ったという指摘がある13。この事実を裏付ける報告は、聖職者相談サービスについて詳
細に調査したデイビスによってなされている。女性たちがこのサービスに求めたのは
中絶に必要な情報を得たり中絶医を紹介してもらうことであって、聖職者によるカウ
ンセリングそのものはむしろ歓迎されなかったというのだ。中絶医の紹介に至るまで
には、聖職者に直接会って住所や氏名を明らかにし、自分の性に関するプライバシー
を話さなくてはならなかったからである。このサービスに参加する聖職者の中絶に対
する見解がいかにリベラルだったとはいえ、基本的には中絶は将来まで背負わねばな
らないネガティブな体験として捉えられていた。女性たちにとってこのサービスは中
絶という目標に行き着くための通過点として、超えなくてはならない障害のひとつだ
ったのである14。
このようにサービスを提供する聖職者たちと実際に利用する女性たちの間には、中
絶に対する見解に隔たりがあったことは否めない。聖職者たちは後に出てくるように
中絶を「女性としての当然の権利」や「プライバシー権」という捉え方をするには至
っておらず、それを宗教家の限界という意見もある。しかしながら聖職者相談サービ
スをプロライフとプロチョイスという現在の対立の視点から見ることはあまり意味を
なさない。宗教界といういわば象牙の塔に身を置いてきた聖職者たちが、社会の動き
に目を向け女性たちの苦しみに耳を傾け実際に行動を起こしたという事実において、
このサービスは大きな変革であり意義深いことに疑いはないのである。
こうした中で中絶法の改正ではなく完全撤廃を求める動きが女性たちを中心に生じ
てくる。さらに 1960 年代半ばから高まった女性解放運動から「女性の権利としての中
絶」の主張は、1973 年のロウ判決で決定的な勝利を飾る。アメリカ中絶論争を見る上
でプロライフ対プロチョイスという対立の視点が有効になるのはこれ以後のことであ
る。
【註】
1
「19 世紀アメリカ合衆国における医師と中絶問題」
『西洋史学』1997.9、p.38
2
『文化としての妊娠中絶』p.256
3
「19 世紀アメリカ合衆国における医師と中絶問題」
『西洋史学』1997.9、p.40
4
James C Mour, Abortion in America: The Origins and Evolution of National Policy,1800−1900,
New York: Oxford University Press, 1978, pp.182~186
5
J.E.Kelly “The Ethics of Abortion,as a Method of Treatment in Legitimate Practice”
The journal of the American Methodical Association,vol.7,No19.Nov.⑥,1886, pp.505~506
6
Mour, pp.183~184
7
Luker, op. cit, pp.40~65
8
Reagan, 1997, pp.137~139
9
Davis, 1985, Ch.7, p.132
10
Ibid, p.132
11
Lader, 1793, p.43
12
Davis, p.115
13
Henslin, 1971, pp.113~135
14
Davis, 1985, pp.136~138
【参考文献】
蓮見博昭『宗教に揺れるアメリカ』日本評論社、2002 年
荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会』岩波書店、2002 年
37
三田祭論文集 2002
マルコム・ポッツ、ピーター・ディゴリィ、ジョン・ピール『文化としての妊娠中絶』剄草書房、1990 年
坪内隆彦『キリスト教原理主義のアメリカ』亜紀書房、1997 年
ロバート・T・マイケル他『セックス・イン・アメリカ』NHK 出版、1996 年
木鎌安雄『カトリックとアメリカ』南窓社、1996 年
マイケル・J・ゴーマン『初期教会と中絶』すぐ書房、1990 年
「19 世紀アメリカ合衆国における医師と中絶問題」
『西洋史学』1997.9、pp.37~51
ニューヨークタイムス紙 1967 年 5 月 27 日
Nanette J. Davis, 1985. FROM CRIME TO CHOICE, The Transformation of Abortion in America, Ch7
KAIROS Institute CCS のホームページ:http://www.kairosinstitute.org/ccs/
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