橡 Taro10-文書1

2006 年 9 月 10 日
年表
Ver.0.87
メディアの博物史―トピックスとエピソード
竹 野 萬 雪
はじめに(未定稿)
この年表は、生命の誕生から今日まで、世界の数万年にわたる情報の創造・伝達の移
り変わりを、生命とメディアの視点からとらえて、それらの事象をデータとして年代別
・地域別に並べたものである。その起点を宇宙の誕生にして、生命の発生と進化がメデ
ィア現象に果たす役割をも観察していけば興味あるものとなろうと考えた。
今日 、
「メディア」といえば、直ちに「マルチメディア」とか「ネットワーク」など
のパソコンを中心とした情報通信媒体が思い浮かぶことが多いだろう。しかし、現在の
ようなデジタル中心のメディア文化が開花するまでに、人間は、いや地上に生きとし生
けるものすべては、あらゆる手段を講じてメディア現象を演出してきたのである。
『旧約聖書』の冒頭の書『創世記(Genesis)』に、神がこの世を創ったとある。それか
ら、神は昼と夜を創り、そして生き物を創ったという。生物は発生し、数を増やし、種
を増やし続けた。有核生物は遺伝的な形質を遺伝子に書き込み、同類を増殖させつつ後
世に伝えながらも、絶えず進化の道を歩み続け、多種多様な生き物を地上にあふれさせ
てきた。彼らに遅れて登場してきたヒトは、彼らと同じ有核遺伝子の構造を持ちながら
も、生物としての進化よりもはるかに速いペースで、大脳を使って多様性を編み出す方
法で特異な進化を遂げてきた。ヒトが生み出す情報パターン、メッセージは、鳥や魚や
昆虫の生み出す形質やメッセージ多様性の進化に負けず劣らず多様性を示し、ヒトはこ
れらを保存し伝達し改造することに多くの時間を費やした。ヒトだけでなく地上のあら
ゆる存在は、絶えず多様化を遂げつつメッセージ(情報)を発し続けている。生物は、生
物自身で生体情報のメディアであると同時に、外部への発信者として多様性を生み出し
ている。特にヒトの情報の多様性は、一定の時間・空間の溜まり場の中で「文化(カル
チャー )
」として個性を持ち始めるいう点で共通したものがある。それらの「文化」を
保存し伝達することにおいて、メディアという共通した様式をとる。
従来、メディア現象は、通信システムにモデルをとり、発信系、送信系、受信系とい
う風に分けられるのが一般であった(例えば岡満男・山口功二・渡辺武達編『メディア
学の現在〔改訂版 〕
』1997)。しかし、これではメディアの創出や双方向性がよく整理で
きない。そこでここではメディアを、機能的に「コンテンツ」、
「キャリヤ」、
「エディタ
ー」および「プラットフォーム」の 4 つに大別する。これらは互いに連携して相互に関
係しながらメッセージの拡散と伝達の機能を成し遂げる。これがメディア現象である。
この際、「マルチメディア」という語は「ニューメディア」などとともに無意味であり、
如何なるメディアであるか定義できない。
◇コンテンツ(創意系)は、何らかの担体に印された一連の変異パターンである。例
えば遺伝子、足跡、姿態、信号、模様、音声、言葉、文字、画像、動画などである。
-1-
◇キャリヤ(担体系)は、可塑性の媒体にコンテンツを収容し伝達する事物や手段で
ある。例えば交接器、空気、光、音波、粘土、インキ、紙、本、木版、銅版、活字、楽
器、道路、車、船、印刷、電波、ネットワーク、飛脚、気送管、鉄道、気球、飛行機、
速記 、印画紙 、感光紙、フィルム、マイクロホン、音盤、銅線、アンテナ、光ファイバ 、
磁気テープ、CD-ROM、DVD などである。
◇エディター(編集系)は、コンテンツを媒体に形成・定着する手段である。例えば
DNA、RNA、細胞、生物体、指、足、光、火、石片、木片、鉄片、ペン、筆、鉛筆、万
年筆、カメラ、キーボード、マウスなどである。
◇プラットフォーム(送受系)は、コンテンツの受発信・表示装置である。例えば生
物体 、人間、信号機、電信機 、電話機、蓄音機 、プレヤー、映写機、ラジオ送・受信機 、
テレビ送・受像機、パソコン、ディスプレイ、ロボットなどである。
以上の観点から、生体の繁殖や遺伝、梅毒やエイズなどの伝染病も一般にメディア現
象であると言える。生命体は、遺伝子というメディアのプラットフォームであり、キャ
リアでもある。
一方、情報ビジネスマトリックスの考え方もある。(ハーバード大学情報資源政策グル
ープ。1980年。)縦軸にサービスからプロダクトまでを、横軸にコンテンツからコン
テナまでを表し、郵便、放送、紙、磁気媒体、新聞、書物などさまざまな情報ビジネス
を そ の 特 性 の 度 合 い の 多 少 に 応 じ て 二 次 元 座 標 に プ ロ ッ ト す る 。(1994年、
Cybermedia Group によって改訂される。)
◇サービス・コンテナは、郵便、電気通信、VAN、携帯電話、インターネットなど。
◇サービス・コンテンツは、聖職者、教師、コンサルタント、データベース、ゲームな
ど。
◇プロダクト・コンテナは、紙、磁気記録媒体、ワープロ、電卓など。
◇プロダクト・コンテンツは、書籍、新聞、レコード、ビデオ、ホームページなど。
コンピュータはこの二次元座標の中央に位置する。
マクルーハンは〈メディアはメッセージである〉と言った。地上の多様な生命体は、
すべてそれぞれの固有のかたちでメッセージを作り発信し続けてきている。生命の多様
性とヒトの文化の多様性とは、メディアの生産・伝達という共通の発展形態を持ってい
る。
イギリスの動物学者リチャード・ドーキンスは、ヌクレオチドの有機塩基の配列パター
ンの情報をもつ遺伝子の情報形式は、〈デジタル化したものであるから、劣化せずに永
遠に伝達されて行く。アナログの情報が何世代もつづけてコピーされると、噂話に尾鰭
がつくのと同様になる。〉(『遺伝子の川』草思社)と唱える。そして更に遺伝子に対す
る新しい見方について 、
〈われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保
存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ〉(『利己的な遺伝子』日高敏
-2-
隆ほか訳、紀伊国屋書店、1997)と唱え、世界の思想界を震撼させた。
㈱フォーバル社長大久保秀夫は 、
〈情報化社会は人間の臓器と同じで、血管が通信回
線、臓器がハードウエア、血液がコンテンツだと思う。私は、通信、ハード、コンテン
ツの 3 つの領域を押さえようとしている。
〉と語る。「
( Mainichi INTERACTIVE Mail」
No.1213 、Cover Story 『電話機販売から IT ソリューション企業へ』
、2002.6.27 ■
万物の始源は太陽だが、すべてのメディア、すべてのコンテンツの始源は生命体であ
る。
しかし、ヒトは最も遅れて登場してきた生物の一種でありながら、それまでの既存の
生物から余りにもかけ離れた道を歩み始めた。ヒトは性周期を喪失し、悪食を始め、同
種殺戮を繰り返し、言語、文字など、種々のコミュニケーションズ手段を発明してきた
などは、ほんのわずかの例である。特に産業革命以来のヒトは、エネルギー資源の消費
を増大させ、近来の情報革命時代には爆発的なメディアの生産と消費を続けている。20
世紀はあらゆる意味において「爆発の時代」であった。このままでは 21 世紀は超爆発の
時代になることも予想されるが、一体どういう時代になるのだろうか。それは 20 世紀の
爆発時代の拡大版なのか、それともまったく新しいパラダイムの適用による新たな生物
としての人類への回帰を果たすのだろうか。
この年表は、生物としてのヒトが、性への関わりと共に増殖を続けながらも、メディ
ア現象の場で他の生物とは違った道筋を選んで歩んでいる特異な姿を描き出そうと試み
て作成されたものである。いわば、ヒトの性に関わる歴史を縦糸に、メディアの歴史を
横糸に織りなして、一つのイメージの織物を作ろうと試みるものである。人間の特異な
知能は、飽きることなく次々とメディアを発明しては破壊していく。その間にあって、
これらのメディアを扱い実用化していく無数の職人たちが活動する。これらの有能な職
人は、次世代のメディアの出現によってはかなくも社会から退場を余儀なくされる。一
方、性の探究者もこれらのメディアを縦横に活用して、混沌たる性の曼陀羅を創造して
いく。これらはしばしば時の官憲から迫害され、抹殺されようとするが、ついには地下
に潜っても庶民のあいだに根強く生き続ける。その間に、デジタル情報のコンテンツを
保有する遺伝子だけは、永遠の生命を保ち続けるのだろうか。
知の考古学はメディアの考古学と軌を一つにする。アメリカでは 1997 年 4 月に、メデ
ィアの博物館「ニュージアム Newsium 」を首都に開設した。このような現実にあやかっ
て、この年表は紙上の“性とメディア”の博物館を志している。
(この稿未完)
竹 野 萬 雪
凡 例
Ⅰ. 内容と配列:メディア関連の事件・事項を年表形式に個別に取り上げ、同時代にお
ける事象として現在形で記述する。配列は、時代順、地域順による。地域の順は、日付
変更線から西方へ、かつ北から南へ配列する。同時代・同地域の項目は、メディアとし
-3-
ての登場順とするが、いずれもさほど厳密なものではない。記述は事実の記録を主体に
して、私的な論評をつけ加えることは抑制する。
古代の事件、人名などの生起年に多くの学説があるものは、その中の 1 つだけを選んで
配置し、文頭に〈この頃〉と付記する。
生起年の不詳なものや何世紀ころ、あるいは何 10 年代といった事件については、世紀
の半ばや 10 年代の半ばに「20XX」あるいは「199X」などの年号を配置し、
〈この頃〉
と付記する。したがってこれらの年代については、最大± 50 年あるいは± 5 年の誤差が
あり得る。
8.上または 8.初、8.中、8.下は、それぞれ 8 月上旬または 8 月初旬、8 月中旬、8 月下
旬であることを示す。
8.−は、日付が未確定あるいは不明などであることを示す。
季節のみを示す冬 、春 、夏、秋は、それぞれ 1 月と 2 月の間、4 月と 5 月の間 、7 月と 8
月の間、10 月と 11 月の間に配列する。
Ⅱ用語の表記:表記は原則として慣用に従うが
.
、カタカナ表記の学術的用語については、
文部省編『学術用語集』に準拠する。その著しい例は、英語の綴りの終わりの -er、-or 、-ar
などを仮名書きする場合、長音符号(ー)を付けないこと、また、-gy、 -py などは長音符
号を付けることなどである。ただし、社名や商品名など固有名詞に限り元の表記を尊重
する。
記号:
【
[
】は、地域・国を示す。
]は、将来へ向けての事象の発展、同種現象の生起例を示す。
〔 〕は、過去の経緯、事物の解説。
人名の後の( )は満年齢を表す。本人の生月日と事件日との関係が判明している場合
の他は、当年の誕生日後の年齢とし、プラス 1 歳の誤差がありうる。
以 上
◆目
次◆
MEDIA 01
MEDIA 02
(原初∼ 1699)
(1700 ∼ 1867)
MEDIA 03 明治
(1869 ∼ 1911)
MEDIA 04 大正・昭和Ⅰ(1912 ∼ 1944)
MEDIA 05 昭和Ⅱ
(1945 ∼ 1959)
MEDIA 06 昭和Ⅲ
MEDIA 07 昭和Ⅳ
MEDIA 08 昭和Ⅴ
(1960 ∼ 1969)
(1970 ∼ 1979)
(1980 ∼ 1988)
MEDIA 09 平成Ⅰ
MEDIA 10 平成Ⅱ
(1989 ∼ 1995)
(1996 ∼ 1997)
MEDIA 11 平成Ⅲ
MEDIA 12 平成Ⅳ
(1998 ∼ 1999)
(2000 ∼ 2001)
-4-
MEDIA 13 平成Ⅴ
(2002 ∼ 2002)
MEDIA 14 平成Ⅵ
MEDIA 15 平成Ⅴ
(2003 ∼ 2003)
(2004 ∼
)
MEDIA 文献
2006 年 9 月 10 日
Ver.0.87
年表 メディアの博物史―トピックスとエピソード(1∼11)
―原初∼ 1999 ―
竹 野 萬 雪 編
150億年前★
○【宇宙】宇宙が大爆発「ビッグバン」を起こし、熱い火の玉が誕生し、急激な膨張を
開始する。[10 ∼ 44 秒後、わずかな間に 10 + 100 倍に急膨張する。クォークや電子な
どの物質が発生し、これらの半物質もできる。10 ∼ 5 秒後、物質の量が半物質よりもわ
ずかに多かったため、物質だけが残される。]
[★ 1999 年 5 月 25 日、NASA 本部でカーネギー研究所のウェンディ・フリードマンらが、
ハッブル宇宙望遠鏡での観測で得られた値から計算すると、宇宙が誕生したのは約 120
億年前だった、と発表する。国立天文台は 137 億年とする。
]
149億9970万年前
○【宇宙】温度が約 4000 度 K まで下がり、水素の原子核(陽子)が電子をつかまえて水
素原子ができる。光がようやく直進できるようになる。
46億年前
○【宇宙】原始太陽が、星間雲の収縮により形づくられる。太陽の周囲には、太陽に取
りこまれなかったガスとチリが、回転する円盤を形成する。
45億9800万年前
○【地球】微惑星どうしが衝突・合体し、さらに周辺のチリや微惑星を取り込んで一体
となって、原始地球が形成され、太陽系の 3 番目の惑星なる。誕生直後から地球上に宇
宙空間から絶え間なく微惑星が降り注ぐ。衝突のたびに微惑星や地球に含まれている成
分がガスとなって蒸発し、原始大気がつくられていく。
45億9000万年前
○【宇宙】木星、土星などが形成される。
40億年前
○【地球】微惑星の衝突がようやく減少して、地表の温度が下がり、ほとんどが岩石と
-5-
して固まる。プレートテクトニクスが始まり、地球の表層に弧状列島が誕生する。大気
中に放出されていた水蒸気が雨となって地表に降下し、低地に原始海洋が形成される。
38億5000万年前
○【地球】グリーンランドのアキリア島の岩石に、炭素が含有され単純な微生物の痕跡
が残される。
(カリフォルニア大学研究グループ、
『NATUER』1996.11)
36億年前
○【地球】原始海洋の中に、最初に生命をもった細胞(始原細胞)が発生する。自己複製
機能をもったリボ核酸( RNA)とタンパク質が脂質分子の膜で囲まれていて、RNA にたく
わえられた遺伝情報をもとに、この区画内で新たなタンパク質がつくられるようになる。
[以後、細菌やラン藻のような原核細胞の時代が 20 億年続く。原核細胞の時代に、 RNA
よりも安定した二重らせん構造をもつデオキシリボ核酸(DNA )が登場し、遺伝情報の運
搬体としての機能を果たすようになる。こうして、DNA は遺伝情報をになう分子、タン
パク質は反応を触媒する分子、RNA は DNA とタンパク質をつなぐ仲介者、という役割
分担がなされる。]
34億6000万年前
○【地球】藻に近い細胞(バクテリア)の痕跡がのこされる。
26億年前
○【地球】ランソウ類の仲間である原始的なシアノバクテリア類が現れる。葉緑素(ク
ロロフィル)を体内にもち、太陽エネルギーを受けて二酸化炭素と水から栄養分をつく
り出す光合成を始める。地球の大気に酸素が蓄積し始める。
23億年前
○【地球】海で誕生した生命が地上に進出する。最初の陸上生物が登場する。〔従来は
約 12 億年前とされていたが、ペンシルベニア州立大学教授大本洋らの研究で、一気に 10
億年以上さかのぼる。(『東京新聞』(夕)1999.10.28)〕
19億年前
○【地球】超大陸ローレンシアが生まれる。[以後、大陸の分裂と合体が繰り返される。BC2
億 5000 万年に、超大陸バンゲアが誕生する。]
15億年前
○【地球】ランソウ類をはじめとする原核生物から、規則正しい核の分裂により世代を
継いでいく眞核細胞をもった生物が発生する。眞核細胞は、原核細胞よりも大きく、膜
で囲まれた核の中に大量の始原 RNA と始原 DNA をおさめており、さまざまな機能を持
った多くの細胞小器官をもっている。[以後、眞核細胞を持った生物が、RNA のはたら
きで DNA を設計し、複雑性を増した DNA のはたらきで眞核生物が地球上に増殖し、多
-6-
数の細胞が協調して 1 個体をつくる多細胞生物に進化する。]
10億年前
○【地球】機能の異なる細胞が集まって 1 つの生物をつくる多細胞生物が出現する。藻
類や海綿の多細胞化がすすむ。藻類たちは陸上にも進出して地上を覆い、光合成によっ
て酸素を放出する。地球上にますます酸素が蓄積される。酸素を利用して生きる多細胞
生物が現れて動物になる。[以後、多細胞生物では、さまざまに特殊化した細胞を統合す
る複雑なシステムが発達し、進化と多様化をすすめる。]
8億年前
○【地球】多細胞生物が、しだいに大型化する。カイメン動物のように、多数の個体が
集合体をつくる動物も現れる。
6億年前
○【地球】無脊椎動物が、誕生する。
5億8000万年前
○【中国】多細胞動物がいる。[1998 年、南京市で化石が発見され、これまで最古とさ
れてきたオーストラリアで発見された化石より 2000 万年古いと推定される。]
5億7500万年前
○【地球】カンブリア紀が始まる 。古生代の最初の地質時代とされる。[∼ BC 約 5 億 900
万年。模式地のイギリス、ウェールズ地方の古称カンブリアにちなんで、1836 年にセジ
ウィック A. Sedgwick が命名する。以後、数十種だった生物たちが爆発的な大進化をと
げて、一気に 1 万種まで増える。]
5億6000万年前
○【オーストラリア】多細胞動物がいる。[1998 年、南京市で 5 億 8000 万年前と推定さ
れる化石が発見されるまでは、この化石が最古といわれていた。]
5億4000万年前
○【地球】古生代カンブリア紀が始まる。この時代に生命は爆発的な進化を起こす。
4億年前
○【地球】この頃古生代デボン紀から BC3 億 5000 万年にかけて、酸素によってつくら
れたオゾン層の保護の下、まずは植物の陸上進出が始まる。[以後、両生類が陸上に進出
する。]
3億6000万年前
○【地球】両生類が陸上に進出する。外骨格化するもの、有翼化するもの、哺乳化する
-7-
ものなど、さまざまな分化を始める。[以後、多様なデザインで多くの種類に分化し始め
る。外骨格を持ったもので昆虫になるものは、地球上で最も多い種類を作り出し、地球
が「虫の惑星」になっていく。一説に、一地区にすむ昆虫の種類と個体の数から推算す
ると、地球上の昆虫の全種数は約 300 万、総個体数は 10 の 18 乗にも達するという。ト
ビムシ類の 1 種リニエラ・プラエクルソー( Rhyniella praecursor )の化石が発見されてい
る。]
2億5000万年前
○【地球】超大陸バンゲアが誕生する。[以後、バンゲアが分裂し、ユーラシア大陸など
が形成される。]
○【地球】シダ類が出現する。[以後、陸上に植物の森ができる。]
2億4700万年前
○【地球】中生代の三畳紀に、爬虫(はちゅう)類が誕生する。
2億年前
○【地球】恐竜( dinosaurs)が、陸上に現れる。[以後、地球上に栄える。 BC6500 万年、
白亜紀に絶滅する。]
1 億5000年前
○【地球】哺乳類が誕生する。
7000万年前
○【地球】白亜紀の後期。北アメリカで、人類の祖先である霊長類の哺乳動物〔プルガ
トリウスというリスのような原猿〕が誕生し、恐竜の陰で、樹木に寄り添ってほそぼそ
と虫を食らって生きている。
6500万年前
○【地球】中生代の三畳紀に現れた恐竜( dinosaurs)が、白亜紀に絶滅する。地球に巨大
な隕石が衝突して、環境に大変化をもたらしたことが原因となる。
3000万年前
○【地球】霊長類が猿から分化し始める。
2500万年前
○【地球】人類の祖先である哺乳動物が、体が小さくて適応能力に優れていたため、第
一次氷河期にも絶滅せずに生き残り、類人猿と人類の共通の祖先であるプロコンスルが
現れる。
1500万年前
-8-
○【地球】霊長類が進化して、直行二足歩行するラマピテクスが現れる。
1000万年前
○【地球】人類の祖先がチンパンジーやゴリラの祖先から分かれる。
500万年前
○【アフリカ】北アメリカで生まれた原猿がユーラシア大陸に渡り、紆余曲折を経て、
猿人(アウストラピテクス)がアフリカに現れる。草食で、各所に定住してオルドワイ文
化を形成する。その間に北アメリカの霊長類は絶滅してしまう。[以後、人類への進化の
道をたどる。BC240 万年頃、人類直系の祖先「ホモハビリス」が登場する。]
490万年前
○【地球】原人とチンパンジー、ボノボなどの類人猿とが分岐する。
380万年前
○【地球】火が使用される。[以後、チェソワンジャ遺跡として残る。]
300万年前
○【地球】新生代第三紀鮮新世中期、ヒト科(Hominidae)が動物から人間への移行の場に
入る。
○【アフリカ】マンモスゾウが、アフリカ大陸に起源する。[BC150 万年、第四紀更新
世前期に、ウクライナ、シベリアから北アメリカ大陸に暖帯のマンモス(メリジオナリ
スゾウ)とよばれるものが分布を拡大する。BC1 万年まで、北アメリカで、メリジオナ
リスゾウの子孫の帝王マンモスのような巨大なもの、さらにコロンビアゾウ、ジェファ
ーソンゾウなどが生存する。]
280万年前
○【地球】最初の道具製造者アウストラロピテクス〔アフリカの先人〕が現れる。
240万年前
○【地球】ホモハビリスが現れる。[人類直系の祖先となる。]
200万年前
○【地球】洪積世(氷河時代)が始まる。
○【アフリカ】ホモハビリスの痕跡が残される。
○【アメリカ】岩板に象形文字のような模様が刻まれる。[1868 年、オハイオ州ハモン
ズビル付近の炭坑で発見される。]
190万年前
○【地球】原人類ホモエレクトゥスが現れる。身長約 1.5m、体重 26kg くらいの体格を
-9-
持つ。火を使い始めて、獣類や鳥類を捕獲して肉食をする。
150万年前
○【地球】 ホモエレクトゥスが、直立二足歩行を始める。直立することで、2 本の手が
自由になるとともに、季節的に周期的に性器から出されている視覚的・触覚的・臭覚的
メッセージの大半が隠蔽される。[以後、ヒトは隠蔽された部分の喪失した視覚的・触覚
的・臭覚的メッセージを、大脳で生み出す想像的メッセージで補充する。バーチャル・セ
ックスの始まり。発情のメッセージを表情や発声、手振り、身振りで受発信するように
なる。大脳は季節を問わず想像的メッセージを補充するで、発情期のメッセージの授受
が季節的にあいまいになる。ヒトは季節を選ばず発情するようになる。また、ヒトが道
具を使用し始める。]
140万年前
○【地球】原人が火を使い始める 。
〔一説では 50 万年前。
〕
120万年前
○【地球】ジャワ原人が現れる。右脳と左脳が分離し、5 本の指が分離する。ヒトが道
具を作るようになる。
50万年前
○【地球】原人が火を使い始める。[一説では 140 万年前。]
○【中国】直立猿人の北京原人が現れる。
○【ドイツ】原人、ハイデルベルク人が現れる。
40万年前
○【中国】北京原人が現れる。火の使用を始める。
○【インドネシア】ジャワ原人が現れる。
○【ハンガリー】ヴェールテスセールレーシュなどの人類が、火の使用を始める。
20万年前
○【世界】ネアンデルタール人が現れる。脳の容量は約 1300g。
○【アフリカ】旧人、ローデシア人が現れる。
15万年前
○【世界】ネアンデルタール人が、死体埋葬の観念を持つ。死体を副葬品と共に埋葬す
る。西ヨーロッパを中心にみられる中期旧石器文化「ムスティエ( Moustier)文化」が形
成される。剥片(はくへん)につくられた尖頭(せんとう)器(ポイント)
、横形削器(ラク
ロワール、サイド・スクレーパー)が用いられる。[ 19 世紀に発掘調査が行われる。]
14万1000
- 10 -
○【世界】アフリカで進化したホモサピエンスからヨーロッパ人や日本人の祖先が分岐
する 。
(宝来聡:国立遺伝学研究所, 1995.3.20)
10万年前
○【世界】ネアンデルタール人に代表される中期旧石器文化人類が世界に分布する。西
ヨーロッパを中心に発達したムスティエ( Moustier )文化が、北アフリカおよび西アジア
のルバロワゾ・ムスティエ文化、中央および東ヨーロッパの東ムスティエ文化に拡大し
て行く。
5万年前
○【世界】オーリニャック( Aurignacian)文化が形成される。打製石器が使用される。旧
石器時代が始まる。[以後、フランス、ピレネー地方のオーリニャック遺跡を標準遺跡と
する後期旧石器時代前半の文化が形成される。]
○【中国】新人、周口店上洞人が現れる。
○【フランス】クロマニヨン人( Cro-Magnon )が現れる。脳の容積は 1600 ∼ 1700g 。子音
を発音するようになり、言葉が豊かになる。[ 1868 年,フランス南西部のクロマニヨン
岩陰遺跡で化石人骨が発見される。以後、BC4 万∼ BC1 万年にかけての同類の人骨がヨ
ーロッパ各地で発掘される。身長は高く,約 1.8m 。新人に属し,後期旧石器文化をもつ。]
(松岡正剛『情報の歴史を読む』1997)
4万年前
○【地球】最後の氷河期。
○【世界】新人類のホモサピエンスグループが旧人類に代わって登場する。この頃まで
に、最も原始的な言語形式がつくられて始め、芸術や技術の分野で複雑な行動が爆発的
に発達する。小屋を造ったり、貯蔵用の穴を造ったり、死者を花で飾るようなことを行
う。
○【オーストラリア】アボリジニーが、オーストラリア大陸に到達する。
3万5000年前
○【世界】上部更新世中期末に、ネアンデルタール人が消滅し、人類が本格的に寒冷地
に進出し始める。原始的な言語形態を使用し始め、石刃(せきじん)技法による効率のよ
い石器製作技法を身につけ、樹木の乏しい寒冷ステップ地帯で絶滅種のマンモスやトナ
カイなどの寒冷地特有の動物を狩猟対象とし、獣骨、動物の毛皮などの材料を加工して
衣類 、住居を製作する。石片 、木片、骨片などに、周期性を持った紋様などが描かれる。
声や、日、月、年などのリズムが刻まれる。
3万年前
○【日本】洪積世の人類、葛生人、三日月人、浜北人が現れる。[ 1961 ∼ 62 年、静岡県
浜北市根堅(ねがた)の石灰岩採石場にあった洞窟(どうくつ)で、浜北人が発見される。
○【ユーラシャ大陸】裸の女性小像が、石や粘土、骨、マンモスの牙などでつくられる。
- 11 -
[のちに地層から発掘されて「ヴィーナス」と呼ばれる。]
○【フランス】アルデシュの洞窟に野牛やサイの壁画約 300 点がが描かれる。[ 1994 年 12
月、発見され 、世界最古の壁画とされる 。1995 年、フランス文化省が、サイと牛は 3 万 340
年から 3 万 2410 年前に描かれ、その他、洞窟の地面には 2 万 2800 年前の絵もあったと
発表する。]〔これまでは、1940 年に発見されたフランス南西部、ドルドーニュ地方に
ある洞窟「ラスコー( Lascaux )洞窟」が、動物を描いた旧石器時代後期の壁画として世界
最古とされていた。
〕
○【アメリカ】アジアから新人が入り始める 。[ BC1 万 8000 頃、メキシコに到達する。]
2万5000年前
○【ユーラシャ大陸】裸の女性小像が多数つくられ、豊かな乳房と腰部の性的特徴がま
すます強調される。
2万年前
○【世界】原始農耕が始まる。のちのバイオテクノロジーの起源となる。
○【世界】土器を伴わない打製石器が使用される。
○【ユーラシャ大陸】裸の女性小像が多数つくられるが、頭や腕が省略され、乳房や性
器だけのものが多くつくられる。女性像の他に男性像もつくられるが、性器の誇張はな
い。
○【日本】この頃、日本列島が大陸から分離し、旧石器時代人が生活する。[のち、先土
器文化時代と呼ばれる。]
○【
】性交体位図が描かれる。この頃の正常体位は女が四つん這いになり、その後
ろから男が立って接する背向位である。食生活が不安定なため、発情期も生殖に適した
春期に 1 回だけである。[以後、最古の性交体位図として現存する。]
1万9000年前
○【世界】東北アジアに住んでいたモンゴロイドが、この頃からアメリカ大陸と日本列
島に向けて長い旅に出る。[∼ BC12000 。赤澤威「モンゴロイド・プロジェクト 」
『UP』
1995.10)
1万8000年前
○【日本】沖縄に港川(みなとがわ)人が住んでいる。[具志頭(ぐしかみ)村の港川(みな
とがわ)遺跡から港川人の完全な骨格三体からなる人骨が発見される。]
○【メキシコ】アジアからの新人がアメリカを通り、メキシコに到達する。
1万7000年前
○【フランス】後期旧石器時代最後の文化「マドレーヌ(Magdal □ nien )文化」が、フラ
ンスを中心に形成され始める。[∼ BC1 万 2000 年。スペイン、イギリス、南西ドイツ、
ポーランドにも広がる。同系統の文化があることが知られている。6 期に細分され、I
∼Ⅲ期は骨製尖頭器(せんとうき)の 、Ⅳ∼Ⅵ期は骨製銛(もり)の形態変化に特色がある 。
- 12 -
石器ではI期とⅡ期の差が大きく、I期はバドゥグール文化の名で区別されることもあ
る。美術品にも顕著なものが多く、リアリズムの様相が濃い美術様式が確立され、Ⅴ期
にはその写実性が後退し、観念による描写が始められる。トナカイが狩猟の対象になっ
たことが多く、パリ南東郊のパンスバン遺跡はことに有名である。牛の頭をかぶり、毛
皮を前身にまとって動物霊となるシャーマン「アニマル・マスター」と刈りの獲物が洞窟
一面に描かれる。]
1万5000年前
○【世界】各地に住む人類の言語の多様性が進み、その種類が約 10000 ∼ 15000 という
ピークに達する。
○【世界】生物油による油灯が現れる。
○【フランス】ラスコーの壁画が描かれる。狩りの収穫を祈って、他種類の動物を描き
分けた動物群が線で描かれる。ヒトは、輪郭で表現された画像を実在と対比して認識し、
見分けるようになる。輪郭図がコミュニケーションズの記号の役割を持つようになり、
初原的な「絵文字」の機能が現れる。
○【アメリカ】アフリカで発達した人類が、マンモスを追ってベーリング海峡を渡り、
霊長類発祥の地アメリカ大陸に戻ってくる。
1万3500年前
○【スペイン】北部、サンタンデル県のアルタミラ洞窟に旧石器時代の壁画が描かれる 。
長さ 270m の洞窟内に、入口から 30m ほど入った左方にある、長さ 18m、幅 8 ∼ 9m の
部屋の天井(高さ 1 ∼ 2m)で、25 頭の動物像が赤・黒・褐色で描かれる。とくにバイソン
が多く、鹿、猪、馬などのほか、呪術師らしい仮装人物の絵もある。色彩の対照やぼか
し、洞窟天井の凹凸などによって、立体感や現実感にあふれる表現がみられ、特に巧み
な陰影処理による明暗の効果は、旧石器時代絵画の最高水準を示している。この表現に
「動画」への衝動がすでに見られる 。
[1879 年、サウトゥオラ Marcelino de Sautuola によ
り、貝殻や動物の骨、焚火の跡とともに発見される。彼は旧石器時代のものと主張する
が、学界の承認を得るにいたらない。1902 年、フランスの考古学者カルタイヤック ⊇
mileCartailhac とブルイユの調査により、サウトゥオラ説が確認される。ミュンヘンのド
イツ博物館に、洞窟を再現した一室がつくられる。日本の志摩スペイン村のハビエル城
の中にもレプリカが作られる。
]
1万3000年前
○【日本】静岡県に三日月人が住んでいる。
1万2000年前
○【中国】レコード状の溝が刻まれた石皿が作られる。[以後、チベット自治区のコンロ
ン山脈の洞窟の中から、760 個が発見される。]
1万1500年前
- 13 -
○【ヨーロッパ】旧石器時代の後期、マグダレニアン期の洞窟人種が、その居室と見ら
れる洞窟内の石灰岩の壁面へ、マンガンの化含物と、過酸化鉄から作った粉末ようの絵
具を使って、牛に似た動物の絵を描きつける。よく見ると、この牛の脚が 8 本に描かれ 、
その 8 本に描かれた、非技巧的な、率直な表現の中に 、原始的な動的感覚が認められる 。
(1995 年 6 月 2 日にフランス文化省が確認。)
1万1000年前
○【日本】素焼きの土器の製作が始まる。これまでの石でつくった岩偶に代わって、素
焼きの人形「土偶」もつくられる。[以後、BC300 まで「縄文時代」と呼ばれる。]
1万年前
○【世界】最終氷河期を経て氷河時代が終わる。気候の温暖化が進む。人は、獣たちと
同様に後背位で交わる。
○【世界】磨製石器の使用が始まる。新石器時代が始まる。
○【東アジア】イネの栽培が、インド、中国、ビルマ、タイなどで行われる。
○【日本】縄文時代が始まる。人びとは移動生活から、深林地域での定住的生活に移行
する。九州(のち、長崎県)で、丸底の移動可能な煮沸用容器の豆粒文(とうりゅうもん)
土器が作られる。[のち、泉福寺(せんぷくじ)洞穴で出土する。日本最古の縄文草創期の
土器で、同時に世界最古の土器とされる。以後、BC100 ころまで縄文土器が作られる。]
○【イタリア】レバント地方に集落が形成され、農耕が行われる。
○【オーストリア】ヴィレンドルフのビーナスの彫刻がつくられる。肉食中心の脂肪過
多の食生活を反映した極度に肥満した女の裸像が、石灰岩を丸彫りして作られる。肥満
した女の像が神聖化され、神秘な恍惚感をもたらす性快楽を得られる生殖の神に祭りあ
げられる。[1908 年、クレームスで発掘される。]
BC 8000
BC8000. ○【日本】この頃、新石器時代に入り、縄文文化社会が展開する。縄文式土器
が作られ、打製石器、磨製石器、骨角器などが使用される。
BC8000. ○【西アジア】ザグロス山脈の麓で、コムギやオオムギの栽培をする麦作農耕
が始まる。[ BC7500 年ごろの先土器新石器時代に、麦作文化は冬雨型の地中海気候をも
つ地中海東岸の西アジア地域でおおむね完成する。]
BC8000. ○【近東】最初の新石器時代の村落ふうな集落、例えばイェリコが出現する
BC8000. ○【
】犬と山羊の飼いならしが始まる。
BC 7500
BC7500. ○【西アジア】この頃、先土器新石器時代。コムギやオオムギの栽培をする麦
作文化が、地中海東岸の西アジア地域でおおむね完成する。このころにはヒツジ、ヤギ 、
ブタも家畜化される。
BC
7000
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BC7000. ○【世界】中石器時代に入る。
BC7000. ○【西アジアメソポタミア】メソポタミアで、農耕牧畜が始まる。
BC7000. ○【西アジア】バビロニアで、石の上で平焼きした不発酵パンが作られる。
BC7000. ○【ヨーロッパ】弓矢が急速な発展を遂げる。
BC7000. ○【エジプト】オオムギ、コムギ、キビが栽培される。
BC7000. ○【北アメリカ】コロンビアゾウやジェファーソンゾウとして生きていたマン
モスが、姿を消す。
BC7000. ○【世界】人間の性生活に革命が起こる。農耕牧畜の開始により、食生活が安
定したため、発情期が消滅し、人間と動物一般との区別が決定的になる。性の目的は生
殖から快楽に移り、性交体位にも変化ができて、男女が向かい合う対向形が正常位にな
る。
BC 6800
BC6800. ○【日本】縄文人たちが丸木舟にのって、伊豆諸島に進出する。
BC 6650
BC6650. ○【アフリカ】サハラの岩に、壁画が描かれる。
BC 6500
BC6500. ○【近東】窯業が発明される。
BC6500. ○【トルコ】南アナトリアに、比較的大きな都市が構築される。
BC 6000
BC6000.○【日本】関東地方と関西の一部で、女性を象った素焼きの土偶がつくられる。
単純な形で、性器や乳房の膨らみを誇張しただけの三角型のもの、乳房のついた胸部と
腰部が膨らみ中央のウエストが細くなった糸巻き型のものがつくられる。[以後、縄文遺
跡から発見される。土偶はすべて女性像ばかりで、乳房、性器、へそがついていて、腹
の膨らんだ妊婦型も多い。]
BC6000. ○【メソポタミア】北部で、土器をともなう中期新石器文化、ハッスーナ文化
が広まる。シュメール、バビロニア、アッシリアなどの古代メソポタミアの民族が、粘
土板に楔形文字をきざみこみ、火でやきかためて粘土板文書を作る。[のちに、アッシュ
ールバニパル王(前 7 世紀)の図書館跡からは、
「ギルガメシュ叙事詩」をはじめ大量の粘
土板文書が発掘される。]
BC 5500
BC5500. ○【トルコ・イラン】初期銅器時代が始まる。
BC5500. ○【エジプト】この頃、日時計の利用が始まる。太陽の動きにつれて木や岩な
どの影が長さと方向を変えていくことに気づき、これを時計として利用する。原始以来
の環境的・生理的な体内時計に対して、客観的な時計の歴史が始まる 。[やがて日影棒(ノ
ーモン gnomon )と呼ばれる棒を地面に垂直に立てて日時計とするようになる。]
- 15 -
BC 5000
BC5000. ○【アジア】隕鉄(いんてつ)を鍛打(たんだ)した鉄製の利器が、小アジアやエ
ジプト、メソポタミアでつくられる。[以後、中国では殷(いん)代に隕鉄製の利器がみら
れるが、隕石の数は限られているため、鉄製品は普及しない。]
BC5000. ○【中国】長江の流域、河姆渡(のち、浙江省余姚県)に最古の稲作文化が開け
る。東北の遼寧省を中心に紅山文化が開ける。粟、黍を主体とする農耕が始まる。また
少数の牛、羊、豚を飼育する。牛河梁で廟が建てられ、女神像を拝む。陶器には線形の
刻印が刻まれる。[ 1980 年代、遼寧省喀左県東山嘴の石積み建築祉群から小型の妊婦土
偶の胴体部分が 2 体、牛河梁紅山女神廟遺跡から人頭大の泥製女神の頭部と、肩、手、
乳房など大きさの異なる女神像が 、猪や鳥などの粘土製動物像とともに出土する。当時、
子を産む親は母であり、男は子づくりに必要なことは知られていないと推察される。]
BC5000. ○【西アジア】バビロニアで、ナツメヤシ、干しブドウ、ワインなどから酢が
造られる。
BC5000.○【西アジア 】メソポタミアの南部にウバイド文化が生まれる。売春が始まる。
メソポタミア各地の神殿に集まる旅行者のため尼僧が歓待し、性交の相手となる。やが
て神殿は多数の売春婦をかかえ、これを目当てにする男が増大し、神殿が売春の場所に
なる。その収入は神殿維持の重要な財源となる。
BC5000. ○【エジプト】ハトが家禽(かきん)化される。
BC 4500
BC4500. ○【中国】この頃、陶器に付けられた符号,すなわち陶文(または刻符)がつく
られる。仰韶文化。西安の半坡(はんぱ)遺跡から見つかったものが最も古いとされてい
る。
BC 4000
BC4000. ○【世界】この頃、ころから車輪を発明する 。
[以後、車輪を馬や牛に引かせる
時代が 20 世紀後半まで長く続く。
]
BC4000. ○【日本】関東・東北地方で、素焼きの土偶が少しつくられる。
BC4000.○【中国】華中地区で、水稲栽培が始まる。青連崗文化が開ける。[∼ BC3000 ]
BC4000. ○【西アジア】この頃、メソポタミアで都市文明が起こる。
BC4000. ○【西アジア】バビロニア・アッシリア地方で、シュメール人が、農業の記録を
つけるため、生乾きの粘土板に絵文字を刻む。線状の表意文字で、世界最古の文字とさ
れる 。
[BC3000 頃、90 度回転して真横に変化しながら単純化して、楔形文字になる。の
ち、メソポタミアの南部ウルクで、ウルク第4層と呼ばれる地層から発見される。]
BC4000. ○【エジプト】世界最古の文字による記録、センド王の石文が、聖刻文字(ヒエ
ログリフ)で刻まれる。聞き手が話し手のそばにいなくても、文字によって書かれたもの
は、伝達が可能であり、話し手が移動しなくても遠隔地に伝達させることが可能になる。
文字によって、これまでの同期コミュニケーションから、時間空間を超えたに非同期な
かたちへの変換が始まる。[以後、人間は非同期コミュニケーションの手段を次々と拡張
- 16 -
し続ける。センド王の石文は、オクスフォードのアシュモル博物館に保管される。]
BC 3500
BC3500. ○【世界】初期青銅器時代が始まる。
BC3500.○【中国】山東省中部で、羊の骨に甲骨文字が刻まれる。[ 1998 年、発掘され、
中国最古のものと判断される。数字の「六」と、占いを示す「卜」が解読される。]
BC3500. ○【西アジア】シュメール人の都市国家が発達する。シュメール人が、楔形(く
さびがた)文字の原形である古拙(こせつ)文字を発明する。文字は、一般に粘土板上に右
から左に書かれるが、規則はない。[以後、BC50 年ごろまでほぼ 3000 年にわたって古
代オリエント全土で使用される。なかでも、アッカド人、アッシリア人、エラム人、フ
ルリ人、ヒッタイト人 、ウラルトゥ人 、カッシート人などが楔形文字を使用する。BC2000
ころ、シュメール人の書家たちが、文字を左から右へと横書きに書くようになる。]
BC3500.○【西アジア 】バビロニアで、ノアの洪水が起こったという伝説がつくられる。
[初めに『ギルガメシュ物語』に、神から洪水の予告を受けたウトナピシュティムが、箱
船に乗り込み、自分で舟の入口をふさぐという物語が記される。このモチーフが『旧約
聖書』の「創世記」6 ∼ 9 章にも言及され、アダムより数えて 10 代目のノアとノア一族
洪水に際して箱舟に乗り、最後に神が舟の戸を閉めて洪水による滅びから救ったという
「ノアの箱舟(Noah's Ark ) 」が記述される 。その大きさは、全長 135m、幅 22.5m、高さ 13.5m
で、アララテ山(アララト山)中に漂着したという。以後、箱舟探しを試みる人たちが絶
えない。]
BC3500. ○【アフリカ】ナイル川流域にノモスが分立する。
BC 3400
BC3400. ○【西アジア】この頃、メソポタミアでシュメール人が、史上初の大集落都市
「ウルク都市国家群」を形成し始める。集落のコミュニケーションのために史上初の古
拙な絵文字「ウルク原文字」約 3000 文字を発明する。粘土板上に歴史が書かれ始める。
[BC2900 ころ、絵文字に音価が付けられて楔形(くさびがた)文字に発展する。 BC2400
年ころまで粘土板にシュメール語で家畜,穀物,土地その他行政・経済・簿記に関する
文書が書かれるようになる。その中、約 40 万の粘土板文書が発見されている。BC2400
年ころから国王碑文,ついで書簡,裁判記録,契約書などが書かれる。BC50 年ごろま
でほぼ 3000 年にわたって古代オリエント全土で、アッカド人、アッシリア人、エラム人、
フルリ人、ヒッタイト人、ウラルトゥ人、カッシート人などによって使用される。]
BC 3350
BC3350. ○【エジプト】パピルスに象形文字で文書が綴られる。縦方向でも左右の横方
向でも象形の向きを変えて書かれ、象形が向く方向から読み始める。[イギリスの書誌学
者 F.マダンの説.]
BC 3100
BC3100. ○【西ヨーロッパ】巨石文化が始まる
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BC3100. ○【
】円筒形の石印(シリンダー)を粘土板にころがし、印章や文字を押印
するという方法が行われる。活字の始まり。
BC3100. ○【エジプト】メネス王が、上・下エジプトを統一する。ヒエログリフ(聖刻文
字)がつくられる。太陽暦が使用される。[BC1500 頃から、神官がヒエラティック(神官
文字)を使用する。BC800 ころ、デモティック(民衆文字)が民衆に広がる。]
BC3100.○【エジプト 】近代的化粧法のアイシャドー、マスカラ 、マニキュア 、毛染め、
かつら、香油、紅(べに)などが始まる。
BC
3000
BC3000. ○【日本】中部地方から北海道にかけて、多数の素焼きの土偶がつくられる。[こ
の頃、日本列島の総人口はほぼ 26 万人で、縄文時代最多と推定される。]
BC3000. ○【西アジア】この頃、メソポタミア地域で青銅器時代に入る。ウル第一王朝
時代の王陵に、青銅製の利器が収められる。[この斬新(ざんしん)な技術が、さまざまな
経路を通じてオリエントから諸方面へ伝播(でんぱ)し、各地の人々を青銅器時代に導入
する。BC1200 ころまで行われる。]
BC3000. ○【西アジア 】この頃、シュメール人が、絵文字から発達した楔形(くさびがた)
文字の使用を始める 。[以後、楔形文字は、言語を異にする各種の民族によって採用され、
広くオリエント世界に普及する。BC2350 頃から、アッカド王朝が楔形文字を利用して
セム語を写して以後、古バビロニア王朝のハムラビ王は楔形文字によってハムラビ法典
を残し、アッシリア帝国のアッシュール・バニパルの王宮では、大量の粘土板に楔形文
書が刻まれる。]
BC3000. ○【西アジア】この頃、バビロニアで署名の代用として、あるいは宗教的なシ
ンボルとして捺印(なついん)が使われる。捺印には、指輪などに組込んだ石の表面に紋
章や模様などを彫りこんで、顔料や泥などをつけてから、滑らかで弾力のあるものに押
しつける。[最も初期の印刷技術とされる。]
BC3000. ○【エジプト】この頃、王国が統一され、国家体制が整備され、象形文字のヒ
エログリフ(聖刻文字)が発明される 。
[以後、3000 年にわたってエジプトで使用される。
1799 年、ナポレオンのエジプト遠征の際に発見されるロゼッタ・ストーンの碑文の上段
にヒエログリフが刻まれている。
]
BC3000. ○【エジプト】この頃、すでにパピルスが書写の材料に使用されている。水辺
に生えるアシに似た水草「パピルス(ギリシア語の papyros、ラテン語の papyrus )の茎の
芯を薄くひろげ、それを適当に重ねあわせて接着したもの。[以後、初期のギリシアやロ
ーマでも用いられる。紙の英語 paper の語源になる。]
BC3000.○【エジプト】この頃、天体観測によって 1 年を 365 日とする暦がつくられる。
BC3000. ○【エジプト】この頃、中近東で飼いならされていた鳩を、漁船から漁況を知
らせる通信に利用する。
BC3000. ○【エジプト】この頃、木製の船が丸木のにとって代わる。が
BC3000.○【エクアドル】のちのキトー市の郊外に、世界最大のピラミッドが造られる。
[以後、自然の山と思われていたが、人工のピラミッドと判明する。]
- 18 -
BC
2800
BC2800. ○【イラク】この頃、シュメール文字が公用化する。
BC
2700
BC2700.○【エジプト】この頃、最初のピラミッドが建造される 。
[以後、BC1600 年ご
ろまでに建造される 。
]
BC 2600
BC2600. ○【イラク】この頃、シュメールで書記学校が整備される。その教科書(ファラ
文書)の中に神名を集めた文書があり、そこに初期楔形文字で書かれたシュメール王名表
に記載されている実在の王ギルガメシュ Gilgame ロ(シュメールの表記ではギシュ・ビル・
ガ・メス)が神格化されて登場する。[ BC2300 これをもとにしてアッカド語で『ギルガ
メシュ叙事詩(Epic of Gilgamesh)』が編集される。]
BC2600.○【エジプト】この頃、古代エジプト第四王朝の 2 代目の王クフ Khufu が、ギ
ザ(ギゼー)の大ピラミッドを建造させる。この事業は、ナイル川の氾濫(はんらん)期
に失業する農民に職を与える。クフは、ピラミッド建設資金を得るためにあらゆる方策
を講じ、自分の娘たちには、裕福な旅行者の一人ひとりに身をまかせるよう命じて、そ
の報酬を建設費の一部に充てる。[エジプト最大のピラミッドになる。]
BC
2570
BC2570.○【エジプト】この頃、カイロ郊外南西約 80km のファイユームに、約 10km 余
りの石畳の道路が造られる。
[以後、約 400 年余り改修が行われる。1999 年 5 月、アメ
リカ土木工学協会が、人間の生活に大いに貢献した歴史的建造物に指定する。エッフェ
ル塔、自由の女神、スエズ運河に続いて 4 番目の指定に当たる 。
]
BC 2500
BC2500. ○【日本】この頃、中部地方で石で陰茎を象った「石棒(せきぼう)」の制作が
始まる。石棒は、長さ約 30 ∼ 40cm、直径約 10cm で、頭の部分は亀頭状をしており、
反対側の末端は先細になっているので、土中立てることができる。石棒は主に住居外に
立てられる。[ BC2000 頃、石棒が住居内にも立てられるようになる。サイズで最大のも
のが長野県南佐久郡佐久町大字高野町で発見され 、田の中に立っているのが長さ 223cm 、
地上部分は 180cm、最大幅は 25cm に及ぶ。縄文時代中期の石棒は太くかつ長さが 2m も
及ぶ大形品がみられ、なかには陰茎をかたどったものが存在する。竪穴(たてあな)住居
址(し)の内部に設立してあったと考えられる例もある。後期以降になると小形化し、文
様も精巧になる。とくに晩期の石棒においては頭部を彫刻し、土器と共通する三叉(さん
さ)文、三角状のえぐり込み、線刻などを施すものが目だつようになり、赤色の顔料など
が塗られていたものもある。その形状からみて、呪術的、儀礼的な用途に用いられたも
のとみられるが、江戸時代以降の民間習俗で、縄文時代の石棒を性器(ファロス)として
信仰し祀(まつ)っている例も少なくない。大形のものは安山岩、小形のものは粘板岩、
緑泥片岩などの石を用いることが多い。類似の遺物として縄文時代晩期の東日本に存在
- 19 -
した石刀(せきとう)、石剣(せつけん)などがある。]
BC2500.○【インド】この頃、インダス渓谷に文明が起こる 。
[以後、BC1750 まで、文
明の中心地となり、この地の人々は文字を使用する。その文字は、未解明のままである。
]
BC2500. ○【ギリシア】この頃、エイゲ(エーゲ)文明がクレタ島に起こる。
BC2500. ○【エジプト】 この頃、巨大なピラミッドが造られる。
BC 2400
BC2400. ○【西アジア】この頃から、メソポタミアで楔形文字により国王碑文の粘土板
文書が作られる。この頃、縦書きで書かれる[以後、書簡、裁判記録、契約書などの文書
が粘土板で作られる。BC1700 年ころ横書きに変化する。]
BC
2390
BC2390.○【西アジア】サルゴンⅠ世 Sharru-kin I が、メソポタミア最初のセム系アッカ
ド人の統一王国「アッカド帝国」を興す。都市アガデ Agade(アッカド)の名が拡大され
て地域名となる。[以後、水利、交通基盤を整備し、シュメール諸都市の軍隊を 34 回に
わたって破り、
「肥沃(ひよく)な三日月地帯」周縁の交通、貿易の要衝を確保するなど、
軍事・貿易政策を推進する。その治績が、王碑文にしるされ、多数のコピーが取られて 、
後世に伝えられる。]
BC
2350
BC2350.○【西アジア】サルゴンⅠ世 Sharru-kin I が、南部メソポタミア(バビロニア)の
諸都市を征服統合して、セム系民族として最初のアッカド王国を樹立する。大都市バビ
ロンを建設する。ほぼ現在のバグダード以南の地方の北半分をアッカド、南半分をシュ
メールと呼ばれる。[以後、BC2150 ころまで、アッカド王国は 11 王が治世する。]
BC 2300
BC2300.○【西アジア】アッカド語で史上初の物語『ギルガメシュ叙事詩(Epic of
Gilgamesh)』が編集される。[ BC750 ころ、アッシリア語でニネベ版約 3600 行が書かれ
る。うち約 2000 行が現存し、これにより叙事詩の存在が知られるようになる。ほかにバ
ビロニア語版、ヒッタイト語、フルリ語などで書かれ、この当時世界に広く流布してい
く。1872 年にニネベ出土の粘土書板が、大英博物館に運びこまれ、スミス G.Smith がこ
の叙事詩を発見する。彼は表意文字で書かれた物語の主人公の名を正しく読むことはで
きない。1890 ∼ 91 年 、ピンチェス T.G.Pinches がこの名を「ギルガメシュ」と読む。1930
年にトムソン C.Thompson が、ニネベ版全文の原典を公刊し、各国語訳はますます盛ん
に行われるようになる。比較文学上からは,最古の世界文学とみなされる。]
BC2300.○【西アジア 】この頃、メソポタミアで粘土板にきざまれた地図がつくられる。
多くは徴税目的の土地測量による狭い地域のものである。[以後、現存する最古の地図
とされる。
]
BC2300. ○【エジプト】結婚指輪の風習が起こる。男は家事と財産管理をまかせるしる
しとして、妻の手に指輪をはめる。
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BC 2250
BC2250. ○【エジプト】この頃、僧用文字による写本「パピルス・ブリエ」が作られる。
[以後、最古のパピルス文書とされ、現在、ルーブル美術館に収蔵される。パピルス
(papyrus )は、パピルス草からつくられた紙の一種で、ナイル河畔に茂っているこの草か
らつくられ、各種の文書の作成に利用される。近代の考古学的発掘によって『死者の書 』
などが記された多数のパピルス文書がみいだされ、カイロ、ロンドン、パリなどの博物
館、大学などに保存されいる。書字材料としてのパピルスの使用は、このころから紀元
後数世紀に及び、使用文字もエジプトのヒエログリフ文字(各種の書体を含む)
、コプト
文字、ギリシア文字から、初期アラビア文字、ラテン文字などに及ぶ。
BC
2200
BC2200. ○【中国】この頃、河北省北部で成立した農耕文化が、山東省、河南省、安徽
省にかけて栄える。龍山文化が開ける。貧富の差が生じ、階層分化が起こる。一夫一婦
制が確立し、子は性交によって生まれることを知り、母系氏族制から父系氏族制へ転換
し、血族の生命一体感を確立する。石製または陶製の男根像(石祖、陶祖)が父系祖先崇
拝の象徴として多数製作される。
BC 2040
BC2040.○【エジプト】中王国時代が始まる。[∼ BC1800 頃。]
BC
2000
BC2000. ○【世界】この頃、磁鉄鋼が鉄片を吸い付けることが知られている。
BC2000. ○【日本】この頃、最初の稲作が伝来する。[以後、文化を形成するほどの農業
規模には発展しない。BC300 ころ、朝鮮半島南部から渡来した人々によって本格的な稲
作が行われる。]
BC2000. ○【日本】この頃、東日本の他に近畿から九州までの西日本でも土偶が制作さ
れるが、制作数が減少する。多くつくられたのは頭部が三角形の山形土偶で、大きな乳
房と膨らんだ腹部をつけている。石棒もつくられ、住居内にも立てられるが、住居内の
は小型で優美なものになる。
BC2000.○【小アジア】この頃、インド・ヨーロッパ語族の民族「ヒッタイト( Hittites )」
が、移動を始める。[ BC1750 頃、小アジアを中心として、活躍を始める。]
BC2000. ○【西アジア】この頃、シュメール人の書家たちが、文字を左から右へと横書
きに書くようになる。さらに、文字の向きも時計と逆回りに 90 度回転させる。
[以後、
メソポタミアの楔形(くさびがた)文字も、左から右へ書く様式を採用する。
]
BC2000. ○【イラク】この頃、バビロニアとアッシリア帝国の言語アカド語が使われ始
め、第 1 メソポタミア大文明の言語であったシュメール語が消滅する。
BC2000. ○【イラク】この頃、バビロニアにすんでいたカルデア人が、占星術の原型を
きずきあげている。
BC2000. ○【ギリシア】クレタ島で、ミノア文明が起こる 。
[以後、書家たちは、さまざ
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まな文字を使って記述するが、民衆はミノア文明を通じて、絵文字の一種クレタ・ヒエロ
グリフを使用する。BC1700 ファイトス宮殿で、円盤形の半乾きの粘土板の両面に、印
を押し付けて碑文が刻まれる。BC1450 ミケーネ人が入り込み、ミノア文明が消滅する。]
BC2000. ○【エジプト】この頃、横に長いパピルスつなぎ合わせて軸に巻いた「巻子本(か
んすぼん)」の形態が作られる。[のちに、巻いたものという意味のラテン語から書物の
単位を表す volume という語が使用される。]
BC2000. ○【エジプト】この頃、伝染病に関する記録が残される。
BC
1800
BC1800. ○【西アジア】メソポタミア南部のバビロンで、煉瓦のアーチによる橋がつく
られる。この頃、木の梁による橋が最も利用されている。
BC1800. ○【ギリシア】クレタ島のクノソス宮殿に初めての水洗便所がつくられる。完
璧な給排水装置と陶製便器が備えられる。
BC 1750
BC1750.○【小アジア】この頃、インド・ヨーロッパ語族の民族「ヒッタイト( Hittites )」
が、小アジアを中心として、活躍を始める。[∼ BC ごろまで。ボアズキョイ(ボガズキ
ョイ)出土の粘土板文書ではハッティ、『旧約聖書』ではヘテびとと呼ばれる。英語のヒ
ッタイトが一般化する。]
BC1750.○【西アジア】この頃、西セム系アムル人のバビロン第一王朝第 6 代の王ハム
ラビ(ハンムラビ、ハンムラピー)(在位 BC1792 ∼ BC1750 または BC1728 ∼ BC1686 )が 、
ラルサのリーム・スィーンⅠ世の打倒(治世 31 年)を皮切りに、アッシリア、マリ(ユー
フラテス川中流域)など周辺諸国を次々に征服して、約 250 年ぶりにメソポタミア全土の
統一に成功し、282 条からなる「ハムラビ法典」を制定する。楔(くさび)形(がた)文字
法典で 、
〈目には目を、歯には歯を〉の同態復讐法。[ 1901 ∼ 02 年に、西イランのスー
サで石碑が発見され、ルーブル美術館に収蔵される。そこには、神(おそらく太陽と正義
の神シャマシュ)から権力の印を受ける王の浮彫りと、楔形文字による法典とが刻まれて
いる。]
BC1750. ○【西アジア】この頃、バビロニアで最初の占星術文献『エヌマ・アヌ・エンリ
ル』が成立する。神々を天体になぞらえて、シン(月神)とシャマシュ(太陽神) 、アダド(天
候神)、イシュタル(金星神)の凶兆を記している 。
[以後、この伝統はアッシリア、ペル
シア帝国に及ぶ。BC410 年ころ、バビロニアで最初の星占いが成立する。
]
BC 1730
BC1730. ○【エジプト】ヒクソスが進入してくる。
BC 1700
BC1700. ○【西アジア】この頃、バビロニアでハムラビ法典が編纂される。閃緑岩の石
円柱に刻まれる。この頃から横書きが一般的になる。[のち、ルーブル美術館に保管され
る。]
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BC 1650
BC1650. ○【ギリシア】クレタ島のクノソスに、史上初の陶製浴槽がつくられる。
BC1650. ○【エジプト】避妊法が始まる。アカシアの木の粉を布に含ませ、子宮口にあ
てがうペッサリーが使われ始める。アカシアは弱酸性のアラビアゴムを含み、精子を殺
す効果がある。
BC 1600
BC1600. ○【ギリシア】ギリシアで初めて文化を持つミケーネ人が現れる。
BC 1570
BC1570.○【エジプト】新国王時代が始まる。[∼ BC1085 。]
BC
1550
BC1550. ○【中国】この頃、成湯(せいとう)(甲骨文では大乙)が、夏(か)の桀王(けつお
う)を滅ぼし、武王と号し、天子の位につく。ここに商王朝(殷王朝)が始まる。甲骨文字
(こうこつもじ)を発明する。甲骨文字は、占卜(せんぼく)に用いた亀甲(きっこう)・獣
骨上に小刀をもって刻みつけられた文字で、最古の漢字となる。陰茎を象った甲骨文字
は、
「祖」のつくりの且の原型となり、家系の由来するところをを意味する。[以後、し
ばしば遷都が行われ、成湯から数えて第 18 代の盤庚(ばんこう)のときまでに 5 回移る、
といわれる。BC1000 頃 、第 30 代帝辛(ていしん)(紂(ちゅう))のとき、国は大いに乱れ、
西方に興った周によって滅ぼされる。周により商は「殷(いん)」と称せられる。現代中
国でも「商」とよぶ場合が多い。史書では、これに先行する夏王朝が存在したとされる
が、その実在を証明する遺物、遺跡が未発見であるため、現在、殷王朝が中国史上、確
認される最古の王朝とされる。1899 年、河南省安陽県近くの小屯(しょうとん)という村
のわきを流れるえん河が氾濫して堤防が崩れ、そこから、文字を刻した亀甲(きっこう)
や獣骨の断片が多数発見される。偶然のきっかけから、これらを入手した劉鉄雲(りゅう
てつうん)が、この文字を解読した結果、これらのうちに、殷商王名が多数、読みとられ
る。これによって、これらが商代の遺物であること、また逆に、史書中の記述が架空の
ものではなく、商王朝が実在したことが確実になる。以後も、甲骨片は同地域で多数発
見される。1928 ∼ 37 年、中央研究院歴史語言研究所の手によって大規模な発掘が行わ
れ、大量の甲骨片とともに、巨大な王墓や宮殿跡、その他無数の遺物、遺跡が発見され
て、ここが『史記』にいういわゆる殷墟(いんきょ)であり、この地が、盤庚から末王帝
辛までの都址(とし)であろうと考えられるに至る。20 世紀、中国考古学、古代史研究に
おける最大の発見といわれる。]
BC1550. ○【ギリシア】クレタ文明が全盛期を迎える。ミケーネ文明が起こる。コルセ
ットやスカートが出現する。クレタ島の女は非常におしゃれで、コルセットによりウェ
スト、胸、腰の形を整え、ひだのある長いスカートをはき、紅玉ネックレスをつけ、髪
をカールにした。
BC1550.○【エジプト】すでに 1 年を 365 日とする暦が用いられており、この頃、日時
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計や水時計によって昼夜を各 12 等分している。
BC1550.○【エジプト 】医学全集が初めてつくられる。パピルスに書かれ、外科 、内科、
小児科、産婦人科、皮膚科に至るまで? 875 種の処方をあげ、寄生虫の駆除法、はげの
療法なども説明されている。
BC
1500
BC1500. ○【インド】この頃、インド・アーリア人が、アフガニスタンからヒンドゥー・
クシ山脈を越えてインダス川流域のパンジャーブ(五河)地方に進入する。彼らはイン
ドに進入する際、それ以前から長い間にわたって保持してきた宗教をインドにもたらす。
[以後、さらに東進して肥沃なドアープ地方を中心にバラモン文化を確立し、バラモン階
級を頂点とする四階級からなる四姓制度(バルナ(varn.a))を発達させる。BC500 年ころ
までの間に、『リグ・ベーダ』をはじめ、ブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッド
を含む膨大な根本聖典ベーダを編纂する。]
BC1500. ○【エジプト】この頃、日時計が製作される。[のち、ベルリン博物館に収蔵さ
れる。]
BC1500. ○【エジプト】ケシの乳汁(アヘン)が手術の麻酔剤、その他の痛み止め、幻覚
剤として広く使用され始める。
BC 1490
BC1490.○【エジプト】この頃、トトメス 3 世の摂政ハトシェプスト Hatshepsut が、古代
エジプト第 18 王朝第 5 代の女王としてに国政の実権を握る。男性という慣例を破って共
治王となり、伝統的な王号、王冠、王の付髭(つけひげ)をそのまま踏襲する 。
[在位 BC1490
頃∼ BC1468 年頃 。
]
BC
1482
BC1482.○【エジプト】ハトシェプスト Hatshepsut 女王が、中断していた交易関係を再再
開するために、古くからあった交易の道をあらためて切り開き、探検隊をアフリカ東海
岸の伝説のプント国に向けて送り出す。
[∼ BC1481。この間、帆船によってナイル川か
ら地中海へ 2000km を超える航海をする。その様子がテーベ付近のデイル・エル・バーリ
断崖寺院の壁面に描かれる。これらを飾る彫刻浮彫は第 18 王朝芸術の典雅な作風の原型
となり、象形文字に似た 16 行の銘文は最古の旅行報告書となる。女王の死後トトメス 3
世はただちに征服政策を再開、また浮彫・碑文から女王の姿や名前を削除し、肖像彫刻を
破壊して女王の記憶の抹殺を図る 。
]
BC 1450
BC1450. ○【ヨーロッパ】この頃、動物の皮から“紙”を作る技術が地中海沿岸諸国で
開発される。
BC1450. ○【ギリシア】クレタ島で、ミケーネ人がミノア人に取って代わり、ミノア文
明が消滅する。
BC1450. ○【エジプト】この頃、水時計が製作される。[のち、カイロ博物館に収蔵され
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る。]
BC1450. ○【エジプト】この頃、経文『死者の書』が編纂される。人間の死後の経過に
ついて抱いた信仰を、聖刻文字(ヒエログリフ)または神官文字で書いたもの。
BC1450. ○【ギリシア】 古代ギリシアの黄金時代を迎える。エーゲ海岸に港湾都市エフ
ェツス(聖書ではエペソ)が建設される。石畳のメーンストリート、25000 人収容の円
形劇場、神殿、遊郭、公衆便所などがつくられる。舗装道路の石の表面に人の足形が彫
られ、その脇に女の顔とハートの形、金銭を意味する四角の札がある。これは、足型の
つま先の方向に進むと遊郭があるという印である。世界最古の看板か?
BC 1400
BC1400.○【中国】この頃、商(殷)王第 21 代武丁(ぶてい)代で、占卜(せんぼく)に用い
た亀甲(きっこう)・獣骨上に小刀をもって刻みつけられた「甲骨文字」(亀甲獣骨文字、
殷墟(いんきょ)文字、卜辞(ぼくじ)、殷墟書契(しょけい)、契文などともいう)が書かれ
る。[以後、BC1150 頃第 30 代末王帝辛(しん)(紂(ちゅう))の頃まで用いられ、後世
に知られる最古の漢字となる。1899 年に殷の都址(とし)であった河南省安陽県小屯(し
ようとん)村を中心に出土し、出土総数 10 万片を超える。文字数は約 2200 字が知られ、
半数以上が解読される。別に 1977 年以降 、陝西(せんせい)省岐山県近くの周原において 、
殷代末期に周族によって占卜された有字甲骨が発見される。]
BC1400.○【パレスチナ】この頃、カナン地方で、文字体系が完成する。文字数は 27 ∼ 30
で、文字を書く方向は右から左、左から右、あるいは行ごとに交互に書く牛耕式(ブスト
ロフェドン)などまちまちで 、縦書きも行われる。
[以後、アルファベットのもととなる。
]
BC1400. ○【シリア】この頃、北西シリア沿岸に位置する都市国家ウガリトが最盛期を
迎える。ウガリト語を書き留めるための楔形文字によるアルファベットが発明される。
ウガリトの書記はこれまで知られていた楔形文字の中からつくられた 30 字を用いて、1
字で 1 語ないし 1 音節を表すのでなく、1 字で一つの音価を表す表音文字として用いる
という発明をする。これまでメソポタミアで使用されてきた 500 種類以上もの複雑な楔
形文字を一新し、文字革命、言語革命が起こる。
[以後、ウガリトは海上貿易で栄える。
BC1200 頃、「海の民」の襲来により、混乱の中で滅亡する。
]
BC1400. ○【エジプト】この頃、底に穴をあけた容器の内側に目盛を刻み、中に入れた
水の水面の高さから時刻を知る「水時計」が作られる。[現存している。]
BC 1300
BC1300. ○【エジプト】パピルスに描かれたヌビア地方の金山の地図が作られる。
BC 1280
BC1280.○【イスラエル】この頃、イスラエル民族が、モーセ(モーゼ、モイゼ)Moses に
率いられてエジプトから脱出し、シナイ砂漠をさまよう。[ BC1240 ころ、シナイ山にお
いて神ヤーウェとの契約関係に入り、ヤーウェの民になる。シナイ山における契約に際
して、モーセは神からイスラエルの民が守るべき「十戒」を授かる。それ以前はヘブル
人とよばれる、小家畜を飼育する諸部族の集合にすぎなかったが、ヤーウェ宗教の受容
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によって、一つの民族としての自覚をもつに至る。以後、この「エクソダス(脱出)」を
記念して、ユダヤ教で「過越(すぎこし)の祭」が行われる。]
BC
1230
BC1230. ○【イスラエル】この頃、モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエ
ル人が、まずエリコを占領し、ここを拠点としてエルサレムを占領する。
BC 1200
BC1200.○【インド】この頃、インド最古の聖典『ベーダ(ヴェーダ)Veda』の一つ『リ
グ・ベーダ』のサンヒター(本集(ほんじゆう) )が成立する。[以後、ウパニシャッド(奥
義書(おくぎしょ))などがつくられる。 BC500 年を中心として『リグ・ベーダ』、
『サー
マ・ベーダ』
、
『ヤジュル・ベーダ』
。『アタルバ・ベーダ』の 4 つがつくられる。]
BC1200.○【イラン】この頃、古代ペルシアの宗教家・思想家ゾロアスター Zoroaster(ペ
ルシア語でザラスシュトラ Zarathushtra)が、30 歳でアフラ・マズダーによる啓示を受け、
倫理性を尊ぶと同時にきわめて楽観的な新宗教(のちにゾロアスター教とよばれる)を
開く。[以後、故郷では受け入れられなかったので、40 歳で伝道の旅に出、2 年後、東北
イランのバルフ地方を支配していたウイシュタースパ王の改宗に成功して、この信仰を
広める契機をつくる。最初の結婚による娘を王の宰相ジャーマスパに嫁がせ、自らもジ
ャーマスパの姪(めい)を 3 度目の妻として迎えて地歩を固める。77 歳まで信仰の発展に
尽くすが、対立部族の手によって暗殺される。]
BC1200. ○【地中海】エーゲ海から地中海東部一帯を、大火災が襲う。ミケーネ文明が
崩壊する。
[以後、多くのギリシア人は、キプロス島をはじめ各地に移住する。
]
BC1200.○【アメリカ】この頃、現ニューハンプシャー州ノースセイラムに、22 個から
なる巨石建造物が造られる。現存するアメリカ最大の巨石建造物となる。
BC1200.○【中部アメリカ】メソアメリカでピラミッドが建造される 。
[1521 年、スペイ
ン人に征服されるまでつくられる 。
]
BC
1027
BC1027. ○【中国】周が殷を滅ぼし、封建制度を確立する。父系血族の生命一体感の思
想に基づいて、同性の男女は結婚してはならないとする「同性不婚」の結婚規範を制定
する。ここでいう「姓」とは「宗」と同様に、共通の祖先から分かれた父系血族の家系
名をいう。世継ぎの男子がいない場合は、同姓の男子を養子とし、異姓の男子を養子と
することを禁じる。娘は父の子であるから、父の姓を名のり、結婚後も姓を変えること
は許されない。[のち、
『左氏伝』(春秋左氏伝)には 、
〈男女同姓、其生不繁〉と書かれ、
同姓の男女が結婚すると、繁殖率が低下して子が産まれにくいと述べている。以後、「夫
婦別姓」の制が確立し、現代まで守られる。この制は韓国にも波及する。]
BC
1010
BC1010. ○【イスラエル】この頃、ダビデがイスラエル王になる。
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BC
1000
BC1000. ○【日本】女性像の土偶の制作が減少する。陰茎を象った大型石棒が再び住居
外に多く立てられる。特に、多数の石を円形に配置した中央部に石棒を立てることが多
くなる。[のちに「配石遺構」と呼ばれる。]
BC1000. ○【イラク】この頃、バビロニアとアッシリア帝国の言語アカド語が消滅し始
める 。
[以後、加速度的に消滅が広がる。
]
BC1000. ○【シリア】この頃まで、アラム人が、自分たちの言語である西セム語を、フ
ェニキア文字を使用する。
[BC700 ころ、独自のアラムカ文字に発展させる。
]
BC 955
BC955. ○【イスラエル】この頃、ダビデの子ソロモンがイスラエル王となる。古代イス
ラエル王国の全盛時代が到来する。壮大な宮殿を建造し、かつてダビデの設けたイスラ
エルの神の祭壇の前に神殿を造営する。町の周囲には城壁を築き、増加した住民もそこ
に居住するようになる。
BC 931
BC931.○【イスラエル】ソロモンの没後、反乱が起こり、イスラエル王国が、北の 10
部族のイスラエル王国と南の 2 部族のユダ王国に分裂する。エルサレムはユダ王国の首
都となる。
BC 900
BC900. ○【イスラエル】この頃、ヘブライ語の農業暦がつくられる。
BC 850
BC850.○【シリア】この頃、バビロン(アッシリア)の女王セミラミス Semiramis が、男
の奴隷を去勢する。
BC
820
BC820. ○【イスラエル】この頃、牡牛(おうし)を信奉する土俗的なバール神の信仰がひ
ろまり、このバール信仰にユダヤ教が融合しそうになる。予言者エリアはバール信仰と
ヤハウェ信仰の混淆に反対し、十戒の唯一神信仰を主張する。バール信仰者たちの殺害
が始まる。[のち、アメリカの神話学者ジョセフ・キャンベルは、この頃から行われた異
信仰者に対する殺害の習慣が、以後の「戦争の原型」をつくった、と唱える。]
BC 813
BC813. ○【イスラエル】ユダ王ユアシと司祭エホダヤが、バール信仰の根絶とヤハウェ
神殿の復活を図る。
BC 800
BC00.○【バビロニア】この頃、楽譜が古代バビロニアの粘土板に楔形(くさびがた)文
- 27 -
字で刻まれる。[現存する最古の楽譜とされ、東ベルリン国立美術館に収蔵される。まだ
解読されていない。]
BC
778
BC778.○【ギリシア】4 大祭典の一つ、聖地オリュンピアのゼウス神を祭るためのオリ
ンピア競技の祭典が行われる。競技がおこなわれる年の初めには、国内全土に使者がお
くられ、オリンピック休戦をふれまわり、ゼウスに貢ぎ物をおさめるよう各ポリスによ
びかける。また、ギリシアの各都市が、オリンピックの知らせを各地に運ぶためにハト
を用意して、競技の勝者の速報に利用する。ポリスは、りっぱな装具と才能にめぐまれ
た選手と、見物人を送り込む。選手は、ギリシア人の自由市民の男子にかぎられ、女性
は見物もできない。[以後、この年の開催が記録上古代オリンピック競技の最も古い開催
となる。前 5 ∼前 4 世紀にもっともさかえる。393 年、第 293 回を最後に、翌年幕をと
じる。]
BC 771
BC771. ○【中国】周の幽王が、犬戎(けんじゅう)の侵攻で殺害される。都を鎬京から洛
邑に移す。東周時代(∼ BC256)、春秋時代(∼ BC403)が始まる。この頃、同性愛が流行
する。
BC
750
BC750. ○【インド】この頃、整形手術が、刑罰で鼻をそがれた罪人のために行われる。
BC750.○【ギリシア】この頃、ホメロス Homeros が、古代ギリシアの英雄叙事詩『イリ
アス lias 』をまとめる。全編 1 万 5693 行で、10 年にわたるトロヤ攻防戦も終末に近い
ころの、約 50 日間のできごとを構成する。題名は「イリオスの歌」の意で、イリオスは
トロヤの別称である。[ BC3 世紀ころ 24 巻(ギリシア語アルファベット 24 字で順序を示
す)に分けられる。]
BC
711
BC711. 1. 1【日本】神話上の初代の天皇、神武天皇が誕生する。[BC660 (辛酉の年) 初
代天皇に即位する。BC585.3.11(神武天皇 76 年) 127 歳で没したとされる。]
BC 700
BC700. ○【シリア】この頃まで、アラム人が、アラム語を表記するための独自のアラム
カ文字を発達させる。[以後、アラム語が、ペルシャ帝国の公用語としてアナトリア、
レヴァント、エジプト、メソポタミアでも話されて、アラムカ文字が広く使用される。
アラム文字を継承して、ヘブライ語の活字体とその変種である草書体が作られる。]
BC700. ○【ギリシア】この頃、リュクルゴスが、ギリシア中部のパルナッソス山の南麓
にあるアポロンの聖地デルフォイからの「レトラ(おきて)」をもたらしてスパルタの政
治・社会体制をつくりあげる。[以後、デルフォイの神託は、単なる地方的なものでは
なく、非常に重要視されるようになり、その名声はギリシア人の範囲を越え、リュディ
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アやエジプトを含むオリエント諸国にまでひろがる。]
BC700.○【ギリシア】この頃、ホメロス Homeros が、古代ギリシアの英雄叙事詩『オデ
ュッセイア Odysseia』をまとめる。題名は「オデュッセウスの歌」の意で、全編 1 万 2000
行弱、トロヤ落城後、さらに 10 年にわたって各地を放浪した英雄オデュッセウスを主人
公とした冒険談を構成する。
〔BC3 世紀ころ 24 巻(ギリシア語アルファベット 24 字で順
序を示す)に分けられる。
『イリアス』と『オデュッセイア』の両作品が同一作者(ホメ
ロス)ではないとする見解のほうが優勢である。ただし、同一作者である可能性も残っ
ている。]
BC700. 【ローマ】この頃、エトルリア文字の象牙板文字表が作られる。22 文字から成
る初期ギリシア・アルファベットに補足文字 Y,Φ,Χ,Ψ を加えた 26 個の「原エト
ルリア文字」が書かれている。字形も初期ギリシアのものとほとんど似ている。この文
字表がエトルリア文字の現存する最古の資料となる 。
[以後、ローマ人に採用されたら
しい。BC4 世紀以後、エトルリア語の特徴に合わせて変えられる。]
BC 668
BC668.○【西アジア】アッシュールバニパル王が即位する。[在位∼ BC627。19 世紀の
半ば、アッシリアのニネベの王宮跡が発掘され、楔形文字が記された大量の粘土板文書
が出土する。いわゆるアッシュールバニパル王の図書館と呼ばれるものである。図書館
は神殿や宮殿の中に位置し、コレクションには、当時の日常生活とりわけ商取引と宗教
関係の記録や英雄物語が含まれている。粘土板は、エジプトなどが利用したパピルスと
は対照的に、持ち運びには不便だが、滅びにくい素材である。]
BC 650
BC650. ○【ギリシア】この頃、パルナッソス山の南麓にあるアポロンの聖地デルフォイ
(デルフィ)(Delphoi )が、ギリシア人の植民が盛んになって、非常に重要視されるように
なる。[以後、その名声はギリシア人の範囲を越え、リュディアやエジプトを含むオリ
エント諸国にまでひろがる。神託の方法については、この神域にあった大地の割れ目の
上に青銅の鼎(かなえ)をわたし、その上に巫女(みこ)ピュティア pythia が座って地底か
ら立ちのぼる霊気を吸い、忘我の状態になって神の言葉を発し、かたわらの神官がそれ
を韻文に直して質問者に与えたと伝えられる。392 年、テオドシウス帝が異教崇拝の禁
止令を発するにいたり、デルフォイはその歴史を閉じる。1891 年ころ、フランスの考古
学者の手により、デルフォイの本格的な発掘調査が始まる。その結果、大規模なドリス
式のアポロン神殿や大小 20 以上の宝庫をはじめ、ディオニュソスの小神殿、評議会場、
劇場、柱廊、祭壇、多数の彫像台座などの跡が明らかになる。神域の外には、走路 180m
の競技場、アテナ・プロナイアの神殿や円形堂、カスタリアの泉などの遺跡がある。
]
BC650.○【イタリア】この頃、ナポリの南方のサレルノにベネディクト派の僧院が建つ。
[以後、気候もよかったことなどから、保養地として有名になる。11 世紀ごろから医学
センタとして知られるようになる。]
BC
610
- 29 -
BC610.○【中国】この頃、唐で印仏が作られる。像高 10cm 前後で,小型のものは 1 紙
に数十体をくり返し捺している。[のち、敦煌等から遺品として発見される。]
BC610.○【インド】この頃、印仏が作られる。[以後、 7 世紀末の文献上で、印仏に関す
る記録が初見される。]
BC
600
BC600. ○【ギリシア】ミレトスの哲学者タレスが、摩擦による静電気や天然の永久磁石
について観察し、琥珀(コハク)を摩擦すると、琥珀が軽い物体を吸引する現象が知られ
る。ギリシア語で琥珀はエレクトロンと呼ばれる。[ BC300 ころ、ギリシアの哲学者テ
オプラストスは、この力が帯電しているものとは別の物質によると主張する。のちに、
ギリシア語のレクトロンが、電気( electricity)、電子( electron)の語源になる。]
BC 597
BC597. ○【イスラエル】新バビロニアの王ネブカドネザルが、エルサレムを攻撃し、王
や住民をバビロンに送る。[以後 、
「第一次バビロン捕囚」と言われる。BC586 年、ユダ
王国を滅亡させて、
「第二次捕囚」とする。]
BC 594
BC594.○【ギリシア】BC600 年ころサラミス島の領有をめぐるメガラとの争いに市民を
激励して名声を得たソロン Sol ロn( BC 前 640?∼ BC560)が、アルコン(執政官)兼調停者
に選ばれる。貧富の懸隔から危機に直面していたアテナイで、危機克服のための大改革
を断行する。貧民を少数の金持ちの隷属状態に陥れた借財の一切帳消しを断行するなど
数々の大胆な改革を行う。また、アテナイに初めて公共娼家を設ける。そこに属する売
春婦たちは、それとわかる服装を強制され、他の街区への移動や宗教儀礼への参加を禁
じられる。[以後、市民は貴族、平民双方ともそれに満足しない。ソロンは任期を終えて
から旅に出て、エジプト,キプロス島などを歴訪する。]
BC
586
BC586. ○【イスラエル】新バビロニアの王ネブカドネザルが、ユダ王国を滅亡させて、
王や住民をバビロンに送る。[以後、「第二次バビロン捕囚」と言われる。この頃、預言
者たちが「バビロンの捕囚」を迎えると、苦難に陥った民族を励まし、苦難が将来の生
活にもつ積極的な意味づけを語る 。これが『エゼキエル書 』や『イザヤ書』の第 40 ∼ 66
章となる。『イザヤ書』の第 53 章の「主のしもべのうた」では、きたるべきイエスの出
現を「預言」したことばとなる。]
BC
585
BC585. 5.28【ギリシア】タレス Thal □ s(39?)が、この日起こった日食を予言する。彼は
七賢人の筆頭にあげられる多才な人物であり、1 年を 365 日に分け、1 か月を 30 日と定
めたりしたとも伝えられる。また、万物の元のもの(アルケー)は水であり、大地は水
の上に浮かんでいると考えたという。科学的一元論の先駆けとなる。[以後、ここからデ
- 30 -
モクリトスの「原子論」などが生まれる。]
BC 582
BC582. 1.−【日本】(神武天皇 29 年)神話上の第 2 代天皇、綏靖(すいぜい)天皇が即位
する。[∼ BC549.5.10。欠史八代の 1 人で、実在しないと考えられている。一方、実在
するとする説もある。]
BC 565
BC565.○【ネパール】この頃、ブッダ Buddha (釈迦)が、非アーリア系釈迦族の国王、浄
飯王(じょうばんのう)の長子として生まれる。姓はゴータマ Gotama, Gautama(瞿曇(く
どん)と音写)、名はシッダッタ Siddhattha 、シッダールタ Siddh ■ rtha(悉達多(しっだる
た)と音写)。[以後、反バラモンを標榜する仏教を興す。別説では、BC463 ころの誕生
という。BC486 頃没。「仏陀(ぶっだ)」はサンスクリット語のブッダの音写。仏(ぶつ)、
「ほとけ」ともいう。Buddha は budh (目覚める)を語源とし 、
「目覚めた人」
「覚者」
、
すなわち「真理、本質、実相を悟った人」を表す。もとは普通名詞であり、仏教と同時
代のジャイナ教でも用いられる。ゴータマ・シッダールタはその 1 人で、のちゴータマ・
ブッダとなり、それが仏教を創始した釈迦(しやか)にほかならない。中国では「浮図(ふ
と)」などと音写し、それが日本に「ふと」として伝わり、これに「け」が加わって、や
がて「ほとけ」となる。「仏」は仏陀の略ではなく、伝来の過程で Buddha が Bud となっ
たものと推定される。唐以降は仏陀の音写が広まる。]
BC
560
BC560. ○【トルコ】リュディア王国最後の王クロイソスが即位する。世界初の金貨を造
らせる。[∼ BC546。世界初の金貨を造らせたのは、クロイソスより約 100 年前のリュ
ディア王国の王ギュゲスだったとの説もある。その金貨は金 73 %、銀 27 %だったとい
う。のちにクロイソス Croesus の名は、英語で「富豪」
「大金持」を意味するようになる。]
BC
550
BC550.○【イラン】アケメネス家のキロス大王(キュロスⅡ世、在位 BC559 ∼ BC529)が、
メディア王国の首都エクバタナを陥れ、西アジア一帯を征服してアケメネス朝ペルシャ
大帝国を建設する。[以後、その広大な領域を統治するため、全土にわたって街道を開き、
街道に沿って、1 日行程ごとに宿場( angara)を設ける。ここに継立ての要員と馬匹とを配
置して、緊急の連絡に供し、アンガレイオン(angareion)とよばれる駅伝制度を整備する。
これにより大王の命令はただちに地方の隅々に伝わり、地方の状況もいち早く大王のも
とに達するようになる。大王のための使者は、命令あるいは報告を携えて、宿場から宿
場へと継送し、普通の旅行者が 3 ヵ月を要する行程を、彼らは 7 日間で走り継いだとい
う。こうして駅伝は大王の統治のために活用される。以後、このような駅伝制度を、ロ
ーマ帝国も採用する。]
BC550.○【イスラエル】この頃、エズラ Ezra が、ネヘミヤもともに、ユダヤ民族のバビ
ロン捕囚(前 587 ∼前 538)後のユダヤ教の発展に指導的な役割を果たす。宗教改革は徹
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底的な律法の遵守を要求し、異教徒との雑婚の禁止する。[以後、ユダヤ教の律法第一主
義と民族の純血を基盤にした選民観に道を開く BC250 ころ、
「エズラ記 The Book o f Ezra」
がまとめられ、
『旧約聖書』中の一書となる。]
BC550. ○【ギリシア】この頃、風向の観察が行われる。
BC
540
BC540.○【ギリシア】この頃、アナクシマンドロス Anaximandros( BC610 ころ∼ BC547
ころ)が、大地は円筒状であって世界の中央に位置しているという、世界の成り立ちを描
き出す。万物のもとのもの(アルケー)は無限定なもの「ト・アペイロン」であり、この神
的で不滅なアペイロンから、まず暖かいものと冷たいもの、乾いたものと湿ったもの、
といった性質の対立するものが分かれ、そして、争い合うこの対立するものから地水火
風が生じ、さらに星辰(せいしん)や生物が生じるが、これらは掟(おきて)に従い、やが
て争いの罪をあがなって死滅し、アペイロンへ戻るという。
BC540.○【ギリシア】この頃、ヘラクレイトス Herakleitos が、小アジアのイオニア地方
の町エフェソスの王家に生まれる。[以後、成人になるにつれ、高邁(こうまい)であるが
傲岸(ごうがん)となり、同時代のエフェソス市民をはじめホメロス、ヘシオドス、ピタ
ゴラス、クセノファネスといった詩人や哲学者を痛罵(つうば)する。哲学的著作『ペリ・
フュセオース(自然について)』は、宇宙、政治、神を扱う 3 部に分かれていたらしいが、
散逸して断片ばかりが残る。宇宙には相反するものの争覇があって、あらゆるものはこ
うした争覇から生じる。したがって、「戦いは万物の父、万物の王」であると唱える。
しかし、こうした争覇のうちに秘められた調和 、
「反発的調和 」(パリントロポス・ハル
モニエー)をみいだすことができる。これが世界を支配するロゴス(理法)であって、こ
うしたロゴスの象徴として火が想定される。火は転化して水となり、水は土となる(下
り道)
。土は水となり、そして水は火に還(かえ)る(上り道)が、
「上り道も下り道も一つ
であって同じものである 」
。2 つの道は相反しているものの、全体としては調和が保たれ
ており、この世界は〈つねに活(い)きる火としてほどよく燃えながら 、いつもあったし 、
あるし、あるであろう〉と説く。こうした思想を、彼は短い箴言(しんげん)風の文体で
書きつづける、それは晦渋(かいじゅう)を極め、「闇の人」とか「謎をかける人」とい
ったあだ名を与えられる。]
BC 508
BC508.○【中国】孔子( 43 )が、定公の即位にもない斉から魯に帰る。このころから子路
(しろ)、閔子騫(びんしけん)らの弟子が集まり、孔子の名声が高まる。
BC 500
BC500.○【インド】インドに進入してきたインド・アーリア人が、進入時からおよそ 1000
年を経て、『リグ・ベーダ』をはじめ、ブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッドを
含む膨大な根本聖典ベーダを編纂する。
BC500.○【インド】この頃、マハービーラ Mah □ v □ ra(「偉大な英雄」を意味する尊
称。本名はバルダマーナ)が、12 年間裸体を守り、厳しい苦行を続けた結果、完全な智
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慧を体得してジナ(「勝利者」の意)となり、ジャイナ教(「ジナの教え」の意味)を確
立する。[以後、30 年間遍歴しつつ教えを説き広め、72 歳でパータリプトラ(のち、パ
トナ)市近郊のパーバー村で生涯を閉じる。その後仏教とともに、非正統バラモン教思
想を代表する宗教に成長し、現代に至るまでインド社会のなかでさまざまな形で影響を
与え続ける。]
BC500.○【ギリシア】この頃、ピタゴラス Pythagoras( BC570 ころ∼ BC496 ころ)が、ク
ロトンにおいて、オルフェウス教の流れをくむ一つの教団を組織する。その教義は、魂
の不滅、輪廻(りんね)、死後の応報にあり、魂の浄化、救済を重視し、団員はピタゴラ
スを頂点に緊密に団結し、内部にあってはさまざまな戒律の下に禁欲的、厳格な生活を
送り、外部に対してはきわめて排他的に振る舞う。また財産の共有を原則とし、それを
教団内の学問研究の結果にも適用する。この教義を追究するための補助的なものとして
音楽、数学、天文学、医学を研究する。合理性のなかにときとして神秘性が混在する。
たとえば、奇数は男性、偶数は女性とみなし、男性数 3 と女性数 2 の和である 5 は結婚
を象徴する数とする。また、ピタゴラスは。弦の長さと音の高さが比例関係にあり、弦
の長さの比が整数比のときに、それらの音は心地よい響きをつくることを発見し、こう
した響きを協和音と名付ける。[以後、ピタゴラスおよびその学派は、万物の根源を「数」
だとする 。〈直角三角形の斜辺の平方は他の二辺のそれぞれの平方の和に等しい〉とす
る「ピタゴラスの定理」は、ピタゴラス自身か、その門人によって発見されるが、その
厳密な証明は、後のユークリッドによってなされる。この定理の発見は、正方形の一辺
とその対角線との関係が 1 :√ 2 という、正数だけを数とみなすこの学派では認めがた
いものをみつけたことで、この学派に難問をもたらす。さらにこういった数は、正五角
形の作図の際に使う中外比(黄金分割)の場合にも現れるので、彼らは、こうした「口に
できない数」を無理数( alogos )とよび、この秘密を学派外に口外しないようにする。ま
た、ピタゴラス音律は中世まで音律論の基礎となる。]
BC500.○【ギリシア】この頃、ミレトスの歴史家ヘカタイオス Hekataios が、ペルシア、
エジプトなどを広く旅行する。
[以後、直接の見聞を散文(イオニア方言)で書き、地誌、
風俗・習慣の記録、奇異な物語などを数多く残す。代表的なものは『世界周航記』で、エ
ウロペ(ヨーロッパ)とアシエ(アジア)の 2 部に分け、後者にはエジプトとリビアを含ま
せる。この著作でヘカタイオスは「地理学の祖」といわれるようになるが、この書は失
われ、その約 300 の逸文がビュザンティオンのステファノスによる『エトニカ』に残さ
れているにすぎない。冒頭に〈ミレトスのヘカタイオスかく言う、ギリシア人の物語は
多いが笑うべきことがらである。私がこれから述べるのは真実である〉と記し、真実へ
の関心を示す。また著作の断片が多数残されるが、後世の偽作もあると考えられる。『世
界周航記』はまた世界地図をも意味しており、彼が世界地図を描いた可能性も大きいと
考えられる。ヘロドトスの『歴史』巻 5、49 節中にみられるミレトスの僭主がスパルタ
王に示した銅板に彫られた世界図も彼によるものと推定される 。
]
BC
497
BC497.○【中国】孔子( 54 )が、三桓の勢力を削減しようと謀るが、露顕して失敗する。
[以後、14 年間、自分の理想の政治を実施してくれる君主を探し求めて、曹(そう)(山
- 33 -
東省 )
、衛、宋(そう)、鄭(てい)、陳(ちん)、蔡(さい)(以上河南省)
、楚(そ)(湖北省 )
の諸国を流浪する。どこへ行っても採用されず、ときには人違いで殺されかけたり、飢
えたりする。BC482 年、69 歳で魯に帰り、政界に望みを絶ち、弟子の教育に専念する。
弟子の数は 3000 人にのぼる。BC479 年に死去。その後、孔子の弟子の弟子(孫弟子)た
ちが、それまでに書き留められていた師匠の語を論纂(さん)して『論語』10 巻 20 篇を
まとめる。]
BC 490
BC490. 9.12【ギリシア】ペルシアに対して勝利したという知らせを伝えるため、ギリシ
アの兵士フェイデピデスが、マラトンの町からアテネまでの約 40km 弱の道のりを走り 、
〈我が軍勝利す〉と告げ、絶命する。[以後、「マラトンの戦い」として伝説となり、長
距離走行競技を「マラソン」と呼ぶようになる。19 世紀、ドイツの学者が歴史家ヘロド
トスの詳細な月などの記録をもとに 9 月 12 日と計算し、定説となる。1896 年、この伝
説にちなみ、第 1 回アテネ・オリンピックで「マラソン」が行なわれる。1908 年、ロン
ドン・オリンピックのマラソンコースは、ウィンザー城とロンドン市内のオリンピック
競技場間の 42.195km とする。1924 年、パリ・オリンピックから 42.195km をマラソンの
正式な距離として採用する。以後、マラソン競技は、レースごとにコースが異なるため
に、男子・女子ともに世界記録としては公認されず、世界最高記録とよばれる。2004.7
テキサス州立大学の天文学者らが、これまで考えられていた 9 月 12 日より 1 カ月早い 8
月 12 日だったという新説を、天文誌 8 月号に発表する。]
BC490.○【ギリシア】この頃、カルタゴの提督、探検家、航海家ハンノ Hanno が、貿易
市場の開拓と植民地建設を目的に、50 櫂船(50 人漕ぎの船) 60 隻に約 3 万人の男女と食
糧を乗せた船団を指揮して西アフリカに向かう。[以後、カメルーンにまで達したとい
われる。もっと南のガボンにまで達したとする説もある。ハンノは植民地建設の目的を
達成すし、航海記録をカルタゴの神殿に刻む。びっしり毛が生えた野生人間「ゴリラ」
とか、カメルーンの火山の爆発で灼熱の川が海に注ぎ火柱が星まで届くように見えたな
どという記述が、人々の想像をかきたてる。以後、カルタゴ人とギリシア人は、新しい
土地を発見し入植しようと、たびたび偵察隊を送り出すが、ハンノに続く大航海家は約
2000 年後のポルトガル人航海家まで現れない。前 1 世紀、ギリシア人がそれを翻訳して
残し、このギリシア語訳だけが後世に知られる。しかし、記録中の地名の多くが比定困
難であることをはじめ、いくつかの理由をあげてこの記録に信憑(しんぴょう)性を認め
ない学者もある。
]
BC 486
BC486.11.−【イラン】アケメネス朝ペルシアの王ダリウスⅠ世 Darius I(ダレイオスⅠ世
Dareios I)( BC550 ?∼ BC486 )が死去する。BC522 年即位以来、キロスⅡ世が創設した帝
国を、版図、行政機構などほとんどすべての面で完成させた。徴税のために、全土に均
一の度量衡を定め、金銀複本位制に基づく貨幣制度を採用して金貨を鋳造し、貨幣の使
用を普及させた。広大な領土の連絡を保つために道路網を整備し、駅伝制を定めた。新
種の植物栽培を奨励し、農業経済の向上を図った。パサルガダエから移した新首都ペル
- 34 -
セポリス、スーサの宮殿、ナイル川と紅海を結ぶ運河などの土木工事を行う。アッカド
語、エラム語および従来のものを改良した楔(くさび)形文字による古代ペルシア語の碑
文を多数残す。
BC486.○【インド 】この頃 、仏教の創始者、釈迦(しゃか)ことゴータマ・ブッダ(80)が、
北インドのクシナガラで没する。生前、バラモンが神に供える生贄を殺生と非難して不
殺生を説き、階級や男女を差別する垣根を取り払って仏教教団の問をすべての人に開放
した。そして、人々がこの世において涅槃(ねはん)に入ることを仏教の最大の目標とし
た。また、生殖は男女が平等に寄与して行うもので、男の要素と女の要素が混じり合っ
て子供ができるとした。[以後、7 日目に遺骨が 8 分されて、生前に縁のあった王や貴族
たちに与えられる。BC280 ころ、仏教教団が拡大し固定していく。その過程で、上座部
と大衆部が分裂する。BC268 ころ、マウリヤ朝のアショーカ王が即位(∼ BC233)し、こ
のころ、仏教が全インドに広まる。仏教、スリランカにも伝わる。BC200 ころ、部派の
細分裂が進み、部派仏教に入る。経蔵・律蔵がほぼ確定し、論蔵も成立する。存家信者
を中心に仏塔崇拝が広まる。BC160 ころ、バクトリア王ミリンダ(メナンドロス)が、仏
教を保護する 。
『ミリンダ王の問い(那先比丘経)』が成る。 BC150 ころ、説一切有部が
確立する。BC120 ころ 、サーンチーの大塔が建立される。紀元前後、大乗仏教が始まる。
このころ、大乗仏教経典『般若経』、その後『法華経 』、『華厳経』などの原形が成立す
る。このころ、中国に仏教が伝わる。67 年、中国最初の仏寺、白馬寺が建立される。372
年、仏教が高句麗に伝わる。384 年、百済に伝わる。415 年ころ、仏音(ブッダゴーサ)が
スリランカにきて活躍し、スリランカに仏教が栄える。538(宣化 3)年、百済より日本に
伝来する(別説は 552 年(欽明 13 ))。
BC 477
BC477. ○【インド】この頃、マガダ国の都ラージャグリハラ(王舎城)の城外の七葉窟(精
舎(しようじや))で、初めて仏典結集(ぶってんけつじゅう)が行われる。もっぱらブッダ
の弟子たちの暗唱によって記憶されているブッダの教えが、戒律の緩みや自由勝手な解
釈が生まれる危険性が認識され、これを防ぎ、出家修行者(比丘(びく))の守るべき戒律
を確認するため、弟子の一人、マハーカーシャバが召集をかけ、500 人の比丘が参加す
る。た。ウパーリが、記憶をたどってブッダの教えを朗読し、それを参加者一同が確認
したのち、全員で合誦(がっしょう)する。[500 人が参加したので「500 結集 」と呼ばれ 、
のちに何回かの結集が行われたので、この結集が第 1 回仏典結集とされる。BC377 頃、
第 2 回仏典結集が行われる。
「結集(けつじゅう)」は、一般に仏教における聖典編集のた
めの集会をいい、パーリ語のサンギーティ sam.g □ ti(「合誦(ごうじゅ)」の意)または
サンガハ sam.gaha(「集成(しゅうせい)」の意)の訳語である。今 20 世紀までに前後 6 回
開催されるが、その内容は時代とともに変化し、また南方の伝承と北方の伝承とでは食
い違いがあり、かつその歴史性が学者によって問題とされる場合もある。]
BC477. ○【インド】この頃、ジャイナ教の創設者マハービーラ(本名バルダマーナ(「繁
栄をもたらす者」の意))( 72 )が、パータリプトラ(のち、パトナ)近郊のパーバー村にお
いて世を去る。30 歳で出家し、ニガンタ派とよばれる修行者の群れに身を投じて、12 年
に及ぶ厳しい苦行ののち、ケーバラ・ジュニャーナ(完全知)を体得してジナ(勝利者)とな
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り、
「ジナの教え」を意味するジャイナ教を創設する。その後 30 年間教えを説き広めな
がら 、遍歴の旅を続け、アヒンサー(生きものを傷つけないこと、不殺生(ふせつしよう))
の誓戒を柱とする厳格な禁欲主義を説いた。[以後、永く信仰される。仏典にも、この頃
の代表的な 6 人の自由思想家(六師外道(ろくしげどう))のなかに、ニガンタ・ナータプ
ッタ、すなわち「ニガンタ派のジュニャートリ族出身者」として記録される。]
BC 458
BC458.○【ギリシア】アイスキロス(アイスキュロス)の悲劇『オレステイア(Oresteia )』
が上演される。母クリタイムネストラとその情夫アイギストスに父アガメムノンを殺さ
れた王子オレステスが、アポロン神からの命令で母たちを殺して父の仇(あだ)を討つ物
語を中心にしていて 、『アガメムノン』、『コエフォロイ(供養する女たち) 』、『エウメニ
デス(慈(めぐ)みの女神たち)』の 3 部よりなる。劇中、アポロンが〈母は親にあらず〉
と語り、有名になる。裁判で〈子の親は父であり、母は宿った種を育てる者に過ぎない。
母は子の親でないから、オレステスの行為は親殺しに当たらない〉と主張し、女神アテ
ネの一票によってオレステスは有罪を免れ、救済される。[以後、ギリシア悲劇三部作と
しては唯一の残在作品となる。]
BC 445
BC445.○【ギリシア】この頃、歴史家ヘロドトス H ^ rodotos(?) が、ペリクレスの活
躍するアテナイを訪れ、ペルシア戦争史の一こまを演説して人気を博す。アテナイは多
額の金を贈って感謝したと伝えられる。
[BC443 アテナイが南イタリアのトゥリオイ市
を建設する際にそれに参加して同市の市民となる。BC430 年の少し後、没したらしい。
この間、ミレトスのヘカタイオスのように直接の見聞を求めて東方世界を広く旅行し、
古代ギリシア最大の旅行家となる。その足跡は黒海北岸からフェニキア諸市やバビロン
を経てエジプト、さらにナイル川をさかのぼってエレファンティネ、アフリカ北岸のキ
ュレネに及ぶ。そして各地の地誌、風土、風俗や歴史物語を、独自の観点からペルシア
戦争において頂点に達した東西抗争という巨大な物語の中に統一的に流しこみ 、
『歴史』
全 9 巻として残す。初めて世界の全体像を示した地誌となり、またこの時代の世界史と
もなる。また、彼は前代の世界地図でオケアノス(大洋)が大地を円形に囲繞しているこ
と,カスピ海がオケアノスから湾入していること、またエジプトがナイル川によりアジ
アとリビアに二分されるという通説等を批判するが、なお大地が平板状であると考えて
いる。 ]
BC 431
BC431. ○【ギリシア】アテネとスパルタの両陣営の間にペロポネソス戦争が始まる。こ
の頃、暗号が使用される。スパルタの将軍リュサンドロスが出先の司令官との連絡にス
キュターレ(scytale)という 1 本の棒を使用する暗号を用いたとプルタルコスの『英雄伝』
に記される。[BC404 ペロポネソス戦争が終結する。]
BC
430
- 36 -
BC430. ○【ギリシア】トゥキュディデスが、アテナイで起こった疫病流行を記録し、す
でに伝染病を耐過するとそれに再びかからないと書く。免疫についての最初の記録とな
る。[∼ BC429 ]
BC 425
BC425.○【ギリシア】この頃までに、ヘロドトスHロ rodotos( BC484?∼ BC425?)の『歴
史 Historiai』が公刊されている。イオニア方言で書かれ、冒頭には、ギリシア人とバル
バロイ(非ギリシア人)によってなしとげられた驚くべき事跡が時とともに忘れ去られる
ことがないようにこれを書き記す 、ということが著者自身の名において宣言されている。
第 1 巻 199 節によれば、バビロンの女のすべてはミュリッタ Mylitta (ギリシアのアフロ
ディテに相当する地母神)の神殿内で、一生に一度必ず見知らぬ男と交わらなければなら
ず、その金額はいくらでもよく、どんな男でも拒まれることはなかったという。同様の
風俗はキプロスにもあると記されている。[後に『歴史』はアレクサンドリアの学者によ
って 9 巻に分けられる。]
BC 427
BC427.○【ギリシア】シチリア島のレオンティノイの人ゴルギアス Gorgias(BC500 か 484
∼ BC391 か 375)が、軍事援助要請のための全権大使としてアテナイを訪れ、その雄弁
によって使命を成功させる。[以後、弁論術への大きな関心を呼び起こす。この頃からソ
フィストとして活動を始め、弁論術中心の教授法によってギリシア全土に名声を博す。
その理念と方法は、イソクラテスの弁論術学校に継承発展され、さらに後の西欧文化の
伝統にまで影響を与える。また彼の華麗な文章技巧や修辞法は、ギリシア散文の発展に
大きく貢献する 。
『パラメデス弁明』、『ヘレネ賛』、『在らぬものについて、もしくは、
自然について』などの著作からの文章が後世に伝えられる。]
BC 411
BC411. ○【ギリシア】アリストファネス作の喜劇『女の平和』が上演される。女の性的
ストライキを描いた滑稽で淫猥な作品として伝えられる。
BC
410
BC410. ○【バビロニア】この頃、最初の星占いが成立する。[以後、ヘレニズム時代に
ギリシアに入り、プトレマイオスの『テトラビブロス(四書)』に集大成される。バビロ
ニアがギリシア人によってカルデアとも呼ばれたことから、この神聖科学を「カルデア
人の術」と呼び、これを独占する司祭階級を「カルデア人」と呼ぶ。]
BC
403
BC403.○【中国】晋が分裂し、春秋時代から戦国時代(∼ BC221)へ入る。この頃、同性
愛が盛んに流行する。
BC403.○【中国】この頃、絹布に絵や文字が書かれる。[1942 年に、湖南省長沙市外の
戦国時代初期の古墳跡から、絵と文字が書かれた 30 ∼ 40cm 大の絹布(帛画、帛書)が発
- 37 -
見される。数百の文字の周囲に、植物、怪獣、2 本の角を生やし 3 つの頭を持つ奇怪な
人物などが描かれている。アメリカのニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵され
る。1973 年にも戦国時代の墳跡から 1 枚の帛画が発見される。1972 ∼ 1974 年に、長沙
郊外の前漢時代古墳、馬王堆(まおうたい)1 ∼ 3 号墓から大量の帛書、帛画、竹簡、木
簡のたぐいが発見される。帛書には『老子』、
『左伝 』
、
『戦国策』などが記されている。]
BC 400
BC400. ○【ギリシア】クセノフォンやアリストテレスに捧げた言葉が、速記で碑文に書
かれる。
BC 399
BC339. 6.−[ 4.27 ]【ギリシア】ソクラテス Socrates(70)が、告発され、裁判され、死刑
の宣告を受け、毒杯を仰いで死去する。生前に、自分自身の「魂」(ps □ ch □)をたい
せつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問う
て、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事としていたが、おそらくはこの仕
事のために嫉(そね)まれて告発される。若いころは政治に志した弟子プラトンが、ソク
ラテスの処刑を転機として、暗愚なアテネの政界を見限り、人間の存在を真に根拠づけ
うるものを求めて、愛知(フイロソフイア)(哲学)に向かう。[以後、この裁判の模様と獄
中および死去の場面を哲学的戯曲『プラトンの対話篇』、『エウチュプロン』、『ソクラ
テスの弁明』、『クリトン』、『パイドン』など諸作品に詳しく書く。そこに描かれた、
死に面するソクラテスの平静清朗な態度は、生死を越えた重大事に対面する哲学者のあ
り方を示すものとして、後世に永く伝えられ、読む人の心にせつせつとして迫るものが
ある。のち、4 月 27 日を「哲学の日」と定められる。また、ソクラテスの妻が悪妻とし
て有名であることから「悪妻の日」ともされる。]
BC 387
BC387.○【ギリシア】この頃、哲学者プラトン Plat ロn( 41)がアテナイに戻り、自分の
理想と目的にかなった人材の養成を終生の事業と見定めて、アテネの西北、英雄アカデ
モスに捧げられた神域に学園アカデメイア(Akad □ meia)を創設し、研究教育活動を進
める。この頃(?)、笛について、許されるのは素朴な牧笛などだけで、
〈転調の可能な
笛は、淫蕩な気風を助長するから、哲人の国では排除されるべきだ〉と書き残す。
BC
385
BC385.○【ギリシア】この頃、プラトン Platon( 42 )が、学園アカデメイア(Akad □ meia)
で、各地から青年を集めて、研究と教育の生活に専念し、『国家(Politeia)』全 10 巻を完
成する。
BC
377
BC377.○【インド】ブッダ没後約 100 年のこの頃、西インドの出家修行者(比丘(びく))
ヤシャスが、マガダ国のヴァイシャーリ(ベーサーリ)を訪れ、この地方の比丘が金銭の
- 38 -
寄進を受けているのを見て驚き、地元の比丘との間に戒律上の争いが起こる。この解釈
による違いを解決するために、ヤシャスが中心となり 700 人の比丘が参加して話し合い
が行われ、第 2 回の仏典結集(ぶってんけつじゅう)となる。ここで、各地に伝承されて
いるブッダの言葉 700 が集められる。
BC
370
BC370. ○【
BC
】この頃、同心天球理論。
355
BC355.○【ギリシア】この頃から、アテナイの政治家デモステネスDロ mosthen ロs(29)
が、公法および政治問題に関する演説によって法廷と議会で活躍する。[ BC351 年から、
フィリッポス 2 世の率いる新興国マケドニアがギリシア本土の内紛に乗じて勢力を伸張
してくる情勢に対抗し 、
『反フィリッポス演説』と同盟市オリュントスを支援する演説
各 3 編を発表して、反マケドニアの立場を鮮明にする。彼の弁論は,これまでのアテナ
イの弁論作者たちの優雅さ、簡潔さを備えているうえに、独自の力強さを持つとして称
賛され 、
「アッティカの十雄弁家」の一人に数えられる。近代に至っても、祖国愛に支
えられた理想とあいまって欧米の議会演説にも大きな影響を与える。]
BC 353
BC353.○【ギリシア】この頃、アテナイの弁論家イソクラテス Isokrat ロs(82)が、長編
の作品『財産交換について』を著し、法廷弁論の形式を借りてみずからの弁論家として
の立場を披瀝(ひれき)する。[以後、彼は、生来声が小さく実際演壇には立たなかったが,
自分の政治・教育理念を訴えるために多くの演説形式の評論を書き残す。書簡を含めて
約 30 編の作品が、中世以来の写本のほか、部分的ではあるが 1 ∼ 2 世紀ごろのパピルス
によっても伝わっている。彼はソフィストたちの弁論が陥る倫理的無責任を非難し、弁
論は単なる説得の技術にとどまらず人間の英知の表現手段としての役割をもつべきだと
主張する。この理想は、幾層にも分岐しながら一つのまとまりをもつ息の長いよく均衡
のとれた独自の文体とあいまって、ローマのキケロから絶賛される。さらにルネサンス
期の人文主義者エラスムスらを経て、近代の弁論に深い影響を与える。]
BC 351
BC351.○【エジプト】アレクサンドリアの有名な遊女タイス Thais が、隠修士パフヌテ
ィウスの導きで修道院に入りキリスト教徒となる。その際、これまで集めた豪華な衣装
や宝石類を惜し気もなく公然と焼き捨てる。[以後、3 年間修道院の独房で修徳生活を行
う。BC348 、修道女とされるが、わずか 14 日で没する。人々から聖女、悔悛者として尊
崇される。10 月 8 日が祝日とされる。タイスの劇的な生涯は、後世しばしば作品化され
る。中世ドイツでは女流詩人ロスウィータが戯曲を書く。1889 年に A.フランスが歴史小
説『タイス』を著す。1894 年にやマスネーのオペラ『タイス』が初演される。]
BC
350
- 39 -
BC350. ○【中国】この頃、十二律をはじめとする音楽理論があり、文字による楽譜が書
かれ始める。[以後、長い歴史を通じて表音譜と奏法譜という二つの形態がそれぞれ多様
に展開され、近隣のベトナム・朝鮮半島・日本に影響を及ぼす。表音譜は七声や十二律
の音名を漢字ないしその変形により表し、それらを縦に書き並べていくときの空白の大
小により時間やリズムの側面が表現される。近世中国では、工尺譜(こうしやくふ)のよ
うに 、拍節法が明確に表記される。さらに、縦横の線で表のように整然と表した井間譜(せ
いかんふ)ができる。これが変形されてベトナムや沖縄の古典音楽において継承される。
井間譜は朝鮮でもっとも緻密(ちみつ)にくふうされ、『李(り)朝実録』
、『世宗実録』、
『世
祖実録』などで朝鮮固有の三拍子系リズムが偶数拍群法と絡む実態を表記する方法に変
遷する。]
BC350. ○【インド】この頃、雨量の観測がなされる。
BC350.○【ギリシア】この頃、アテナイの有名な遊女フリュネ Phryn ロが、起訴されて、
法廷で胸をはだけ、その美しさで裁判官を感動させて無罪を勝ちとる 。
〔フリュネは、
当代一の美女と評判をとって財を成し、テーバイの城壁復旧の資金を寄付して〈アレク
サンドロス大王これを破壊するも遊女フリュネこれを再建す〉との銘を刻ませる。また
画家アペレス、彫刻家プラクシテレスのモデルになり、前者の『海から上がるアフロデ
ィテ 』
、後者の『クニドスのアフロディテ』は、ともにフリュネを模したものとされる。]
BC 344
BC344.○【ギリシア】哲学者アリストテレス Aristotel □ s(40 )が 、レスボス島に移る。[以
後、2 年間、テオフラストスらと生物学研究にいそしむ。動物の発生は〈父の精液に内
在する起動因と形相が、母の精液である月経の中の質量因に作用すると、胚の発生が始
まり、胎児に成長する〉という雄優位の発生説を唱える。]
BC
340
BC340. ○【ギリシア】この頃、アリストテレスが『天体論』、
『宇宙論』を著す。地上と
天体の運動を質的に異なるものとし、天体の円運動原理を確立する。
BC 335
BC335.○【ギリシア】この頃、哲学者アリストテレス Aristotel □ s(49)が、アテネに情
報センタ「Lykeion(リュケイオン)」を開設する。自ら飽きることのない自然観察家とし
て、その時代の自然知識を余すところなく収集し、詳しく検討して、自分の哲学的見地
とりわけ目的論に基づいて体系化しようと試みる。その範囲は、物質界の普遍的諸条件
や宇宙の構造などから、地球上の個々の動植物、その諸器官の記述などに至るまで、お
よそ存在するものの全体に及ぶ。また、盲人教育の可能性を説く。さらにこの時期に、
暗くした部屋の屋根や壁などに小穴をあけ、その反対側の白い壁や幕に、戸外の実像を
上下逆さまに写し出す「カメラ・オブスキュラ camera obscura」(ラテン語で暗い部屋の
意)の原理によって、戸外の景観を写して観察したといわれる。[以後、のちのカメラの
前史の一こまとなる。以後、自然科学にかかわる『自然学』
、『天体論』、
『生成消滅論』、
『気象論』、
『宇宙論 』
、『動物誌』、
『動物部分論』、
『動物運動論』、
『動物発生論』などを
- 40 -
書く。]
BC 334
BC334.○【アジア】アレクサンドロス大王( 19 )がアジア遠征を開始する。
BC
331
BC331.○【エジプト】アレクサンドロス大王(22)が、エジプト征服後、ナイル川デルタ
西端のフェニキア人の港のあったラコティスの漁村に接近し、北にファロス島を控え、
南にマレオティス湖をたたえた地を選び、彼の名にちなんだ都市「アレクサンドリア」
を建設する。復活神オシリスと繁殖神アピスを合成してつくりあげたセラピス神を信仰
する都市として発展させる。[大王の死後、エジプトに創建されたプトレマイオス朝の首
都となり、プトレマイオスⅡ世フィラデルフォスの治世に都市はほぼ完成する。地中海
世界とアラビア、インドとの貿易の商港、商工業の中心地としてヘレニズム最大の都市
として繁栄、人口約 80 万を数える。また、ヘレニズム文化の中心都市でもあり、プトレ
マイオスⅠ世ソーテルによって「ムセイオン」とその付属の大図書館が設立される 。BC280
年ころ、エジプトのアレクサンドリアの港口のファロス島に灯台が建設される。ローマ
帝政期には新プラトン哲学とユダヤ・キリスト教神学、グノーシス思想が形成される。
646
年アラブ人に攻略され、エジプトにおける政治、文化の中心はカイロに移っる。1517 年
トルコの支配下に入る。1798 年ナポレオンのエジプト遠征により、1803 年までフランス
が占領する。]
BC
324
BC324.○【イラン】アレクサンドロス大王(29)が、ペルシャ帝国を征服する。敵王ダレ
イオスⅢ世の王女スタテイラをめとる。また、首都スサで 1 万人の集団結婚が行われる。
BC 321
BC321.○【エジプト】アレクサンドロス大王( 32 )が死去し、アンティゴノスⅠ世が継ぐ。
[彼は、ペルシア駅伝の復活を試みるが、しかし数年にして死去し、この計画も立ち消え
となる。帝国は 4 分裂し、ヘレニズムの精神がユーラシア各地に拡散していく。]
BC 310
BC310. ○【フランス】この頃、マッサリア(のち、マルセイユ)のギリシア人探検家ピュ
テアス Pytheas が、カルタゴに独占されていたスズの通商路とコハクを求めて、フラン
ス西海岸からグレートブリテン島を一周、この島の大きさや住民、アイルランドの存在
について伝え、さらにその北方のトゥーレに至り、この地が北極圏下に位置していると
する。また、ゲルマニアの海岸をバシリアという大島まで航行し、大西洋や白夜、海の
凍結現象などについて、探検記『大洋について』に記載する 。
[以後、探検記の内容は
地中海世界の人々には理解を超えたものであったため、多くの人から大嘘つきとされる。
のちに、彼はマッサリアの緯度を正しく測定していたなど、優れた観測者、観察者であ
ったことが知られるが、探検記は残存せず、ポリュビオス、ストラボンらによりその事
- 41 -
績が知られるだけとなる。
]
BC 305
BC305.○【エジプト】プトレマイオスⅠ世ソーテルが、王号を称する。[ BC295 ころ、
アレクサンドリアに総合学術機関「ムセイオン( mouseion )(学問研究所=学芸神ミューズ
の神殿の意)」とその付属の大図書館を創設する。
]
BC 300
BC300. ○【日本】この頃、朝鮮半島南部から北九州に上陸した人々によって稲と鉄器が
もたらされ、本格的な稲作が行われる。また、麦、粟、黍などの栽培が始まる。渡来人
は、北九州の他に山陰、北陸の日本海沿岸にも上陸する。先住民の縄文人を征服し、西
日本一帯に定着する。女が少なかったので、縄文人との混血が急速に進む。弥生時代が
始まる。
BC300. ○【インド】マガダ国首都パータリプトラ駐在のギリシア大使メガステネスが、
「当地の婦女子は強いて貞節を強制されない限り売春して差し支えない」と『インド誌 』
に書く。
BC300.○【イスラエル】この頃 、
「ネヘミヤ記(The Book of Nehemiah )」が制作される。
ユダヤ地区総督ネヘミヤのエルサレム城壁工事と強制移住による都市国家の再建、祭司
エズラの神殿教団設立の経過を伝える。[以後、「エズラ記」と共に『旧約聖書』中の諸
書の一つとなる。]
BC300.○【ギリシア】この頃、ユークリッドが 、
『原論( Stoicheia)』を著す。
BC300.○【ギリシア】この頃、アリストテレスの後継者としてリュケイオン校の第 2 代
学頭となるテオフラストス Theophrastos(チランタス Tyrantus)( 28 ?)が、約 200 の天気
俚諺を集めた本をつくる。そのなかには〈夕焼けは晴,朝焼けは雨〉〈月や日がかさを
かぶると雨〉〈北東風は天気が悪い〉〈絹雲は雨のきざし〉などがあり、長期予報、超長
期予報に関係するものもある。
BC300.○【ギリシア】この頃、アテナイの著名な遊女フリュネ Phryn ロが、画家アペレス
や彫刻家プラクシテレスのモデルとなる。前者の『海から上がるアフロディテ』、後者
の『クニドスのアフロディテ』は、ともに彼女を模したものとされる。
BC300. ○【エジプト】この頃、アレクサンドリアに天文台が建設される。ここには、星
や惑星の位置を知るため天の緯度と経度を測定する装置、アストロラーベがそなえられ
ていたと思われる。[以後、約 500 年間存続する。]
BC 295
BC295. ○【エジプト】この頃、プトレマイオスⅠ世ソーテルが、アレクサンドリアに総
合学術機関「ムセイオン( mouseion )(学問研究所=学芸神ミューズの神殿の意)」とその
付属の大図書館を創設する。図書館の蔵書の書写作業は奴隷を使って大々的に行われ 、20
万巻にも及ぶ巻子本(かんすぼん)が所蔵されることになる。文献学と自然科学が興隆し、
ギリシア語訳『旧約聖書』もここでつくられる。
「博物館」の名称のもとである英語〈ミ
ュージアム〉の語原になるが、この呼称がヨーロッパで一般化するのは、17 世紀からと
- 42 -
いわれる。その後、図書館も消失する。1995 年、政府が伝説の図書館の再建事業に本格
着工し、1999 年 5 月完成を目指す。総工費 1 億 9000 千万ドルのうち、サウジアラビア
が 2300 万ドル、あらぶ首長国連邦が 2000 万ドル、イラクが 1990 年 8 月のクェート侵攻
前に 2100 万ドル以上を拠出するなど、中東を中心とした国債プロジェクトとなる。]
BC
280
BC280. ○【中国】晋の武帝が呉を滅ぼす。三国時代が終結し、晋が天下統一する。これ
以後、南北朝時代にかけて、同性愛は最高に盛んになる。
BC280. ○【ギリシア】この頃、ギリシア文字で書かれた現存する最古の文書『ヴィーン
パピルス』(∼ BC270) が書かれる。
「アルテミシアの呪文」とも呼ばれ、夫が亡児の埋
葬費を出さず、妻を振り捨てたのを恨み、死んだ愛児の父に悪い報いがあるように呪っ
た祈祷書。
BC280. ○【ギリシア】この頃、アリスタルコスが、地球の自転とともに公転運動を主張
する。
BC280.○【エジプト】この頃、アレクサンドリア港の沖、約 1km の岩礁「ファロス島」
に灯台が約 50 年かけて建設され、完成する。建物は 3 層に分かれ、第 1 層は四角柱で高
さ約 70m、第 2 層は八角柱で約 35m、第 3 層が円柱で約 10m、計約 110m の石積塔をな
し、屋根とその上の青銅像を合わせると約 140m の高さを誇る。円柱頂部の台で枯草や
木に樹脂を混ぜたものを毎夜燃やし、銅製の反射鏡に光を反射して地中海を照らす。[以
後、古代世界の七不思議の一つに数えられる。1998 年、ファロスの灯台の再建計画が進
められる。]
BC 268
BC268.○【インド】この頃、マウリヤ朝の第 3 代王アショカが即位して、広大な領土を
継承する。[BC259 年頃、即位 9 年目にカリンガを征服するが、10 万人が殺され、その
数倍の人々が戦禍で亡くなり、
この征服戦争の悲惨さを反省して、
仏教にいっそう帰依(き
え)する。仏教を庇護(ひご)し、各地に僧院がつくられて仏教が急速に広がっていく。普
遍的倫理(ダルマ)に基づく政治を理念として掲げて、彼自身がその実現に精力的に努
力し、官吏に命じて人民の倫理遵守の徹底を期せしめる。BC244 ころ、第 3 回仏典結集
を行う。]
BC 250
BC250.○【ギリシア】この頃、数理科学者アルキメデス Archim ロdロs(BC287 頃∼ BC212 )
が、円に内接および外接する正 96 角形の周を計算して、円周率πの小数点以下第 2 位ま
での正確な値を理論的に導く。
BC250. ○【ギリシア】この頃、幾何学者ユークリッドが、暗い部屋の壁面の小孔を通る
光線により外の風景が投影されることを認めていたと伝えられる。
BC 244
BC244.○【インド】この頃、ブッダ没後約 240 年で、マウリヤ朝の第 3 代王アショカが、
- 43 -
都のパータリプトラで第 3 回仏典結集(ぶってんけつじゅう)を行ったと伝えられる。モ
ッガリプッタ・ティッサを首座として 1000 人の比丘が参加し、このとき『論事』の成立
をみたといわれる。またダルマ(普遍的倫理)による政治を表明し、これを徹底させるた
めの詔勅を各地の言語で石柱や岩石に刻ませる。同一文字「ブラーフミー文字」による
石碑を建てる。[BC232 ころアショカが死没する。以後、この政治理念は失われ、帝国
は衰運に傾いていく。BC1 世紀のころ第 4 回の仏典結集が、スリランカのアルビハーラ
(石精舎(せきしようじや))で開催され、このとき初めて、それまで口誦で伝承されて
いた三蔵(経律論)がその注釈とともに書写される。北方の伝承では、2 世紀のカニシ
カ王治下のカシミールで『大毘婆沙論(だいびばしやろん)』が編集されるのを第四結集
とみなしている。1871 年、ビルマのマンダレーで第 5 回結集、1954 年仏誕 2500 年を記
念して同じくビルマのラングーンで第 6 回結集が開催される。そのときビルマ文字によ
るパーリ蔵経の出版がなされる。]
BC
235
BC235.○【ギリシア】この頃、地理学者・数学者エラトステネス Eratosthen ^ s(42 ?)
が、プトレマイオス 3 世に招かれ、アレクサンドリアのムセイオン( Mouseion)の館長に
就任する。
BC 230
BC230.○【ギリシア】地理学者・数学者エラトステネス(46 ?)が、世界地図をつくり、
地球の大きさを計算する。のちの数理地理学の基礎を築く。[以後、地球の大きさと形
について初めて一定の概念が生まれ、重要な交易地域であるインドへの人々の関心が再
び甦る。BC200 ころ、地中海世界の人々の地球世界についての知識は、ブリテン島、ス
カンジナビア、セイロン島にまで及び、地球陸地の約 10 %、海面の 2 ∼ 3 %をカバーす
ることになる。
]
BC 221
BC221.○【中国】秦の始皇帝 Sh ロ hu ロ ng d ロ( 38)が、天下を統一して大帝国を建設する。
太古の三皇五帝から採って皇帝の称号を定め、みずからは始皇帝と称して帝位を 2 世、3
世と無窮に伝えることを意図する。さらに、文字を統一して、朕、制、詔など皇帝専用
用語を制定し、また旧来の文や武といった諡法(しほう)を廃止する。[以後、在位中に通
信システム整備のため、駅伝が全土にくまなく設けられる。駅は主要な街道に沿って 30
里(約 12km )ごとに設けられ、馬を備える。また集落ごとに郵や亭が置かれ、治安の維
持を図るとともに、公文書の逓送にあたる。さらに都会(主として県の役所の所在地)に
は伝が設けられ、馬車が備えられて、公用の使者や官僚の往来に供する。伝は馬車を用
いるから、騎馬よりも速力が落ちる。中央の命令(詔勅)の伝達や、軍事などの緊急事態
には、駅が用いられ、駅使が馬を乗り継いで走る。そして高官の赴任や、公務による往
来、また高官が自ら使者にたつときなどに、伝を用いる。つまり駅は緊急の通信機関で
あり、伝は公用の交通機関である。この制度は次の漢帝国に受け継がれる。三国時代か
ら南北朝時代にかけては、戦乱や割拠のために、駅伝の制度も一時廃れるが、隋、さら
- 44 -
に唐の帝国が形成され、統一政治が再現すると、駅伝の制度も大いに整備される。]
BC 215
BC215.○【中国】秦の始皇帝(44)が、〈秦を滅ぼすのは胡である〉という讖緯(しんい)
を誤解して北辺に蒙恬(もうてん)を派遣する。オルドスに占住していた匈奴を漠北に追
い払うとともに、西方は甘粛の岷県付近を起点とし、黄河の北をまわって趙の長城に合
し、その東端を燕の長城につなぎ、赤峰から遼陽付近に至る約 1500km に及ぶ長城を築
き、北方民族の侵入に備える。[∼ BC214。]
BC 213
BC213.○【中国】秦の始皇帝(46)の命により「焚書坑儒」が行われる。博士淳于越(じ
ゅんうえつ)が古制に従って子弟を封建するよう建議したのに対し、丞相(じょうしょう)
の李斯(りし)は、学者たちが昔の先例を引いていまの政治を批判するのを禁止せよと上
奏する。皇帝はその主張をいれて、秦朝の政治方針に反する思想や人物を取り締まるこ
ととし、
『秦記 』
(秦国の史官の記録)および医薬書、卜筮(ぼくぜい)(占い)の書、農書
以外は 、
『詩経』、『書経』や諸子百家の書などを民間で所蔵することを禁止し、すべて
の書籍を民衆から提出させて焼き捨てる。一方、そういう思想を広め始皇帝を批判した
疑いのある方士(ほうし)、儒学者たちを多数逮捕し、 460 余人を都の咸陽(かんよう)で
「坑(あなうめ)」の刑に処する。なお、朝廷の博士はいかなる書籍の所有をも許可され
る。史実に残る旧中国第一の思想言論弾圧事件となる。[以後、10 年もたたぬうちに秦
帝国は滅亡する。]
BC 212
BC212. ○【イタリア】ローマでありとあらゆる種類の神託、預言が口伝えに広がり、あ
らぬ噂、憶測、混乱を引き起こしている。元老院は、ローマでは公認の占術によっての
み未来の予示がなされることを示威するため、法務官(プラエトル)アエミリウスに命じ
て、外国起源の予言書、占術典礼書などを回収させ廃棄を命じる。押収された神託書の
うち、占い師マルチウスの書とマルキイ兄弟の書が、カンナエの敗北を予言し、アポロ
ンの名を讃える祭典競技の開催を強く進言しているので、元老院議員たちは真に受けて、
廃棄できず保存しておくよう命じる。異国書ながら、公的に古文書として保存される最
初の神託となる。
BC
210
BC210.○【中国】秦の始皇帝(49)が、巡幸の途中で病死する。丞相の李斯と宦官の趙高
は内乱の発生を危惧してこれを秘し、詔命と偽って太子の扶蘇と蒙恬を自殺させ、棺を
咸陽に運んで初めて喪を発し、驪山(りざん)に埋葬する。
BC
202
BC202. ○【中国】この頃までに、石や銅などの金属をつかって印がつくられ、捺印に似
た印刷技術が開発されている。[のち、金印ともよばれる「漢委奴国王印(かんのわのな
- 45 -
のこくおういん)」が、福岡県で出土する。]
BC 200
BC200. ○【世界】この頃、売春の風俗が十分確立する。[のちに、俗に「最古の職業」
と呼ばれる。]
BC200. ○【中国】この頃まで、青銅器時代が続く。尊彝(そんい)を中心とする多種多様
の青銅製の儀器を遺(のこ)すなど、特異な青銅器文化を築く。
BC200. ○【中国】この頃、磁鉄鋼が鉄片を吸引することが知られ、記録に残される。
BC200.○【インド】この頃、百科全書的な宗教聖典『マヌ法典』の原型が作られ始める。
マヌとは「人類の始祖」を意味し、いっさいの「法」(ダルマ)に関する最高権威として
崇(あが)められ、本書の成立と結び付けられている神話的人物である。[以後、ヒンドゥ
ー教に強く彩られた慣習法として集大成されていく。200 年ごろ、原型ができあがる。]
BC200.○【ギリシア】アポロニオスが、太陽、月の複雑な運動を説明するために、1 つ
の円軌道しか許さない同心天球理論を捨て、複数の円を組み合わせる周転円理論をつく
る。
BC200. ○【ギリシア】この頃、地理学者エラトステネスが、既知の世界として、北西は
イギリスから東はガンガー(ガンジス川)の河口、南はリビアまでを表した世界図を作成
する。緯度をしめすために、地図を横切る平行線がこの地図ではじめてひかれる。何本
かの経線も記入されてるが、規則的な間隔をもつものではない。彼は、シエナとアレク
サンドリアの間の位置関係を、後世でいう多角測量に近い方法により求め、これより地
球の 1 象限の弧長を 1 万 1560km であると計算する。
BC 197
BC197. ○【トルコ】都市国家ペルガモン(のち、ペルガマ市)の王ユウメネウス(エウメ
ネス)Ⅱ世が王位につく。[∼ BC159。この間、彼はアレクサンドリアに大図書館をつく
ったエジプト王プトレマイオスが羨ましくて仕方がなく、互いに書物の収集を競う。そ
の挙げ句、強引にアレクサンドリア図書館館長で著名な書誌学者アリストパネスをスカ
ウトしようとする。これがエジプト側に発覚して、プトレマイオスを怒らせてしまい、
アリストパネスを内通のかどで投獄、ペルガモンへは写本の主要な書写材であるパピル
スの輸出を厳禁する。パピルスを入手できなくなったペルガモンでは、図書館に収蔵す
る本が作れなくなる。困ったユウメネウスⅡ世は、これを機に以前から使っていた動物
の皮の書写材を見直し、皮の処理方法を改善し、優れた書写材をつくるようになる。こ
れが「ペルガメーナ」「
( ペルガモンの」という意味)とよばれるようになる。のちにこ
のような羊や山羊(やぎ)の皮でつくる半透明ないしは不透明な獣皮を「パーチメント
(parchment)(羊皮紙)」と呼ぶようになるのは「ペルガモン」に由来する。パピルスは脆
くて折り曲げが困難なのに対して、パーチメントは丈夫で容易に切断したり折り曲げた
りすることができる 。パピルスの巻子本(かんすぼん)scroll に対して、パーチメントは「二
つ折り」( 4 ページ) 、
「四つ折り」(8 ページ) 、
「八つ折り」(16 ページ)などが可能とな
る。2 世紀半ばころ、キリスト教徒たちがパーチメントの冊子本(コーデックス)(odex )
スタイルを考案し、ひそかに聖書を作り始める。折りたたみができる材料と製本法から、
- 46 -
ヨーロッパの本の大きさを表すフォーリオ、クォート、オクターヴォなどの呼び名が生
まれる。]
BC
196
BC196.○【エジプト】神官団が、プトレマイオスⅤ世をたたえる布告「メンフィス法令」
を玄武岩に刻む。上段にエジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)、中段にその草書体である
民衆文字(デモチック)、下段にギリシア文字で同一文書が刻まれる。
[1799 年 7 月 19 日、
ナポレオンのエジプト遠征のおり、ナイルの一河口の町ロゼッタ(アラビア語ではラシー
ド)の近くでこれを発見する。以後、「ロゼッタ石(Rosetta Stone )」と呼ばれる。ロンド
ンの大英博物館に保管される。]
BC
195
BC195.○【ローマ】カトー(大カトー)Marcus Porcius Cato Censorius(39)が、コンスル(執
政官)に選ばれる。[ BC184 年、ケンソル(戸口総監)に選ばれる。雄弁家として知られ、
弁論,詩,歴史などの著作を残す。]
BC
153
BC153. ○【中国】淮南(わいなん)(寿春(じゅしゅん))を都とする、淮水中流域の国)の
王劉安(りゅうあん)(26 )が、この頃から知識人を招いてそのパトロン役を引き受ける。
各地から数千人の賓客(ひんきゃく)が淮南に身を寄せる。[BC141 年、漢の景帝が崩御
し、これを機に、武帝に『淮南子(えなんじ)』の編纂を求める。]
BC 141
BC141.○【中国】漢の景帝が崩御し、その子武帝(16)が即位する。淮南(わいなん)の王
劉安(りゅうあん)(38 )が、これを機に、帝国治下の諸勢力・諸思想をすべて容認しつつ
それらの緩やかな大調和による統一を実現せよと、武帝に『淮南子(えなんじ)』の編纂
を求める。[BC139 年 、
『淮南子』全 21 篇がまとめられる。]
BC 139
BC139. ○【中国】この頃、張騫(ちょうけん)が、漢の武帝の命によって中央アジアに派
遣される。匈奴(きようど)によって河西(甘粛(かんしゆく))地方からイリ川方面に追
われていた月氏(げつし)と同盟を結ぶことにより匈奴挟撃を図った武帝の策に応じ、使
者として 100 余人を伴い長安を出発する。[以後、匈奴の捕虜となり甘粛で 10 年ほど過
ごすが脱出、西域(せいいき)北道経由で大宛(だいえん)(フェルガナ)に至る。月氏は
すでにアムダリヤ北方に定住し、大月氏国として繁栄に甘んじて、東行の意志はない。
そこでバクトリア地方などを実地に見聞し、南道を通って帰国の途中、ツァイダム付近
でふたたび匈奴に捕らえられて抑留される。BC126 年内乱に乗じて脱出し、道案内の甘
父との 2 人だけになって帰国する。BC119 年、ふたたびイリの烏孫(うそん)へ使節とし
て出かける。]
BC139.○【中国】淮南(わいなん)の王劉安(りゆうあん)(40)が、諸子(思想家たち)の
- 47 -
雑家(総合学派)に属する百科全書風の思想書『淮南子(えなんじ)』を撰(せん)する。
全 21 篇で、構成は、道家の存在論を基礎に据え、世界の構成をモデルにした、道を探求
した原道篇→一の根源的真理の俶真(しゆくしん)篇→二の天文篇・地形篇→四の時則篇
→万物の覧冥(らんめい)から泰族(たいそう)に至る 15 篇、の展開よりなる。内容は、道
家の「道」と儒家・墨家(ぼくか)などの「事」とを、ともに生かして両者を高次の「玄
妙(げんみよう)」へとアウフヘーベン(止揚)し、それを永劫(えいごう)・普遍に有効
な帝王の道として示す。また戦国時代以来のすべての百家の、天文学・地理学・時令思
想・感応(かんのう)思想・君主論・兵法・説話集・修養論など、あらゆる分野の知識を
含む。[以後、本書は、若い武帝に帝王の道としての思想統一の意義を教え、董仲舒(と
うちゆうじよ)をはじめ対抗する儒家に中央集権政治思想の整備を促す。その結果、儒教
の地位が急速に高まり、BC136 年に国教化する。BC135 年実権のあった祖母竇(とう)太
后が死去し、この頃から独裁的専制君主の本領を発揮するようになる。BC122 年、つい
に劉安( 57 )を謀反の罪で自殺させるに至る。BC106 年に、全土を 13 州に分かって州に
刺史(しし)を置き 、郡県の地方行政の組織的監察を実現する 。また高官の子弟の任用(任
子)を主とした官吏登用制度を改革し、各郡国に毎年孝と廉とを推挙させ(孝廉科 )
、
あるいは儒学を公認の教学として五経博士を設置し、博士官に配属された弟子員のなか
から試験合格者を官吏として抜擢(ばつてき)するなどの方法を創始し、専制的な官僚統
治の体制を整備する。]
BC
119
BC119. ○【中国】張騫(ちようけん)が、ふたたびイリの烏孫(うそん)へ使節として出か
け、副使を西方各地に派遣する。このときも月氏(げつし)と同盟して匈奴挟撃を図った
武帝の策は成就しない。[以後、西域諸国は活発に来漢するようになる。張騫の 2 度の使
節行を契機として 、
「西域(せいいき)」と称される中央アジアや西アジア各地との国交
が開け、使節団(商人)が中国を訪れて、珍しい品々や文物をもたらすようになる。こ
れによって張騫がシルク・ロードの開通者と言われるようになる。]
BC
100
BC100. ○【日本】この頃、部落国家を形成し、単位家族が竪穴住居に生活する。
BC 81
BC81.○【ローマ】キケロ Marcus Tullius Cicero( 25 )が、『クインクティウス弁護』を皮切
りに弁論家としての道を歩み始める。[ BC80、殺人事件を扱った『ロスキウス弁護』に
おける演説によって名声を博す。BC79 年からアテナイ,ロドス島に遊学して、ストア
学派の哲学者ポセイドニオスらに師事し,弁論術,哲学を修める。ギリシアの学術、と
くにラテン語にない用語や表現の翻訳を行い、これを後世に伝える。法廷弁論,政治演
説という実践の世界に本領を発揮する。法廷弁論のかたわら、BC75 年にクアエストル
(財務官)、BC66 年にはプラエトル(法務官)に選出され、政治の道にも踏み込む。]
BC
65
- 48 -
BC65.○【ギリシア】この頃、チツス・ルクレチウス・カルス Titus Lucretius Carus が『視
覚論』を著わし、その中で残像の心理についてつぎのように述べる。〈諸君は、手や足
を動かしてみて、それが動いて見えるのを不思議に思うことはないか。それは前の影像
が消えて、その次に現われる影像が、前とは少し異なった位置を占めているからである。
ただ、動作が迅速に行われているために、人びとは気がつかないだけである。〉[後の活
動写真や映画の原理の最初の認識となる。]
BC 63
BC63.11. 8 【イタリア】キケロ(43 )が、コンスルに就任する。カティリナの陰謀を未然
に防ぐために元老院で弾劾演説を行う。この演説は初めてティロの速記によって記録さ
れる。キケロの演説第一声は〈カティリナよ、お前はどれだけ我々の忍耐を費やしたこ
とか? Quo usque tandem abutere, Catilina, Patientia nostra?〉の文句をキーワード 3 文字を
取り出して「QPN」と摘記法で速記される。
[以後、皇帝の演説などが、速記奴隷により
記録される。ティロの速記法は習得するのが非常に困難で、高度に使いこなすには 10 年
の研鑽を必要とすると言われる。皇帝ティベリウスは、速記奴隷が満足な速記ができな
かった罰として指を切らせたと伝えられる。また、他の速記奴隷は思い出せなかった速
記略字を額に焼き付けられる。速記禁止の演説を速記した者は、利き腕を切断されるな
ど、残酷な刑罰を受ける。
]
BC
59
BC59.○【フランス】この頃、ニームにポン・デュ・ガール橋が建設される。ガール川の
上に全長 260.6m、全高 47.2m におよび、アーチが 3 段重ねになっている。[以後、大規
模なローマ時代の水道橋として最良の状態で原形をとどめている。]
BC59.○【ローマ】ローマの執政官になったカエサル Gaius Julius Caesar( 41 )が、元老院
の議事録「アクタ・セナトゥス(acta senatus)」
、民会の決議、一般事件「アクタ・ポプリ(acta
populi)」とからなる政府発表事項を日報の形で毎日掲示する『アクタ・ディウルナ( acta
diurna)』を作成して、ローマの市場( forum)に公示するよう命じる。これはいわば一種の
公報であるが、記録性、現実性、公開性、定期性を備えているとみられるので、新聞の
起源とされる。[以後、
「アクタ・ポプリ」のみ、帝政時代を通じて存続する。のち、
「diurna
(日々の)」は英語の「journal(毎日つけられる記録) 」の語源となり、さらに「日刊新聞」
の意味となる。]
BC
49
BC49.○【中国 】(黄竜1)ロブ・ノールの堡塁で、この年の年紀のある木簡と1枚の紙
が、1933 年に中国の考古学者黄文弼(こうぶんひつ)によって発見される。1 枚の紙は、4cm
× 10cm の小さな粗末な紙であるが、ほぼ同時代のものと推定される。
BC
46
BC46.○【ローマ 】カエサル(54)が、ユリウス歴を制定する 。平年を 365 日とし、4 年に 1
度 366 日の閏年を設けることにする。[BC45.1.1 実施する。ユリウス歴では、1 年は 365.25
- 49 -
年となるが、実際の 1 太陽年は 365.2422 日であり、その差は 1 年で約 11 分、128 年でほ
ぼ 1 日の食い違いが生じる。1582.10.15 教皇グレゴリウス(グレゴリオ)ⅩⅢ世が、ユリ
ウス歴をグレゴリオ歴に改める。]
BC 44
BC44. 3.15 【ローマ】カエサル(56 )が、権力を一身に集中したため、元老院議場でブル
ートゥス、カッシウスら共和政護持者たちに〈ブルートゥス(ブルータス)、お前もか! 〉
と叫びながら暗殺される。[この後、カエサルの腹心でコンスル(執政官)のアントニウ
ス Marcus Antonius(38)が、追悼演説で人望を集める。この演説は語り継がれて、シェー
クスピアが『ジュリアス・シーザー』の中で、この場面を再現する。]
BC
40
BC40.○【イスラエル】この頃、ユダヤ教の一分派エッセネ派の宗団と思われるキルベ
ット・クムランの住人たちが 、
『死海文書(しかいもんじょ)Dead Sea Scrolls』を書く。[ 1947
年春、ベドウィンが、死海北西岸の古代遺跡クムラン付近の洞窟(どうくつ)群で 7 巻の
羊皮紙巻物を発見する。その後、銅板巻物を含む多くの文書が出土する。主要なものは
エルサレムのイスラエル博物館の「聖書館」に収蔵展示される。これらの巻物は元来、
蓋(ふた)付き円筒形土器に収められ 、羊皮紙やパピルスの場合はインクを使って書かれ、
銅板には字が彫り付けられている。言語はヘブライ語楷書(かいしよ)が主で、ほかにア
ラム語も用いられる。年代は紀元前 2 世紀から前 40 年にわたるが、そこには「エステル
記」を除く『旧約聖書』の最古の写本がみられ、クムラン教団の戒律、思想、聖書解釈
を記した巻もある。]
BC 30
BC30.○【中国】この頃、学者劉向(りゅうきょう)(48 ?)が、成帝に用いられ、外戚の
横暴を牽制(けんせい)し、天子の鑑戒(かんかい)ともなるよう上古から秦(しん)漢に至
る符瑞(ふずい)災異の記録を集成して『洪範(こうはん)五行伝論』11 篇を著して上奏す
る。また宮中の図書を整理する際に撰述(せんじゆつ)して、目録『別録』を編纂する。[向
の子きんが、これによって『七略』を撰(せん)し、これがやがて『漢書(かんじよ)』芸
文志(げいもんし)にほぼそのままの形で収載される。]
BC 27
BC27. 1.16【ローマ】ガイウス・オクタウィアヌス Gaius Octavius(36)が、元老院と属州
統治を分担することになり、アウグスツス( Augustus =尊厳者)の尊称を受ける。アウグ
スツス帝時代が始まる 。
[以後、ローマ領内に出回っているギリシア語とラテン語の予
言書のたぐいをすべて回収させ、2000 種以上を焚書処分にする。
]
BC27.○【ローマ】この頃、大金持ちで淫乱な奴隷ホスティウス・クアドアが、女色のみ
ならず男色もほしいままにし、物体を拡大して映し出す凸面鏡を作り、男と交わってい
るとき、相手の陰茎を大写しして喜ぶ。(セネカ『自然研究』)
- 50 -
BC
19
BC19.○【ローマ】アウグストゥス( 44 )が、コンスル命令権を与えられ、その地位を確
立する。彼は、前 3 世紀前半に完成したアッピア街道の道路上に駅伝の施設を整え、帝
国の大動脈とする。ローマの駅伝は初め、ペルシアの制度に倣って、一定の距離ごとに
飛脚を配し、命令や報告をリレー式に伝達させていた。この制度に改革が加えて、特定
の使者が宿場ごとに車や馬を乗り継いで全行程を走る、という方式を採用する。こうし
て整備された駅伝の制度は公共便 cursus publicus とよばれ、もっぱら国家の公用に供せ
られる。[しかし、駅伝は公衆が利用する施設ではなく、緊急の事態が起こると、公用の
使者は馬車を乗り継いで走る。もっとも急を要する際には騎馬によって走る。しかも施
設の維持はその地域の責任とされ、人民の負担は大きく、生活も圧迫されて、4 世紀に
は「ローマ世界の悪疫」とまで嘆かれるようになる。帝国の衰退とともにこの駅伝制度
も崩れていく。]
BC
18
BC18.○【ローマ】アウグストゥス( 45 )が、共和政時代以来の公私両面の悪習を除き、
家庭生活の健全化を図るための立法を行う。すなわち、公職を得るため贈賄した者を締
め出すことを定めた「選挙買収についてのユリウス法 」、元老院議員身分中、結婚し子
供をもつ者に特権を与え、未婚の者に不利益を課した「結婚規制についてのユリウス法」、
姦通を刑法上の犯罪とした「姦通処罰についてのユリウス法」の三法である。[紀元後 9
年「結婚規制法」はパーピウス・ポッパエウス法により強化される。]
BC
12
B12.○【ローマ】ティベリウスが、アグリッパの寡婦ユリア(27)と結婚するため、前妻
を離別する。
BC 8
BC8.○【ローマ】詩人オウィディウス(51 )が、風俗壊乱の理由で突然アウグストゥス(55 )
の命令によって、黒海西岸に追放される。彼の詩『恋の技巧』がエロチックな表現で良
俗を害したとみなされ、またアウグストゥスの娘エリアをめぐるスキャンダルに連座し
たともいわれる。
BC 1
BC1.○【ヨルダン】イエスがヘロデ王治政下のユダヤのベツレヘムで、ガラリアのナザ
レの大工ヨセフとマリアの間に生まれる。ヘロデ王は東方から来た占星術者がイエスは
ユダヤ人の王であると聞きイエス殺害を企て、ベツレヘムの 2 歳以下の男子を皆殺しに
する。このときヨセフ夫妻はエジプトに避難していて、イエスは生きのびる。
1
1.○【世界 】この頃、世界人口が約 3 億人。[ 1650 年、約 5 億になる。BC 850 年から 1650
年に至る 2500 年間の人口増加率は年率 0.07 %で、この間は 1000 年で人口が倍増すると
- 51 -
いう水準である。]
14
14. 8.19 【ローマ】初代皇帝アウグストゥス( 76 )が、ノラで病死する。ティベリウス(55 )
が皇帝に即位する。処女の死刑を禁止し、死刑宣告の場合は、公衆の面前で死刑執行人
により犯されることとする。
25
25.○【中国】後漢の光武帝が中国を統一する。
28
28.○【ヨルダン】この頃、イエス(34 ?)が、ヨルダン川で洗礼者ヨハネにより洗礼を受
ける。洗礼を受けたイエスは荒野に行き、40 日後、〈悔い改めよ、天の国は近づいた〉
と言い、伝道を始める。
30
30. 4.30【エルサレム】神の子イエス・キリスト(36 ?)がユダヤ人の祭司長、長老らに捕
らえられる。[翌日、裁判により涜神の罪と判断され、磔刑が確定する。]
37
37. 3.16 【ローマ】ティベリウスが死去し、カリグラ(本名ガイウス、25)が第 3 代皇帝に
なる。
38
38. 6.10 【ローマ】第 3 代皇帝カリグラ(26 )の妹で帝と近親相関関係にあったとうわささ
れたドルシラが死去する
41
41. 1.24 【ローマ】第 3 代皇帝カリグラ・ガイウス(29)が、ローマの自邸で暗殺される。
妻、娘も同時に殺害される。
XX
XX.○【ギリシア】アレクサンドリアのヘロン Hero() n Alexsandria (?∼?)が 、
『気体学 』
の中で、硬貨を入れるとその重みで栓が開き,数滴の水が出るという「聖水自動販売機 」
を紹介する。硬化投入式の自動販売機の初めとされる。[以後 、
「聖水自動販売機」はエ
ジプトの神殿に設置されたともいわれている。17 世紀、このアイデアがイギリスで復活、
さらに広くヨーロッパやアメリカに伝わって、タバコ,切手,書籍,菓子などの自動販
売機の考案に生かされる。]
54
- 52 -
54.10.13【ローマ】第 4 代皇帝クラウディウス( 63)が皇妃小アグリッピナ( 39)によって毒
殺され、ネロ(17 )が帝位に就く。
57
57.○【日本】百余国の部落国家の一つ、奴国の王が、後漢の光武帝に使者を送り、印綬
を授かる。[のちに、九州志賀島(しかのしま)で発見された金印「漢委奴国王(かんのわ
のなのこくおう)」がこれではないかといわれる。]
62
62. 2.−【イタリア】ポンペイが大地震に襲われ、住民が不安に陥る 。
[79 年 8 月 24 日、
ベスビオ火山が大爆発を起こす。
]
77
77.○【ローマ】この頃、軍人・行政官・歴史家・博物学者のプリニウス(大)Gaius Plinius
Secundus(53)が、
『博物誌( Historia Naturalis)』を編集し、全 37 巻 2493 章を完成させる。
現存するヨーロッパ最初の百科事典とされる。この頃の博物学の集成で、博物関係著者
ローマ人 146 人、ほか 330 人の著書 1000 余部から 2 万の動植物などを選んで記述する。
第 1 巻は総説、索引的目次、引用書目録。第 2 巻からは分類別に 2 万種の説明がある。
第 2 巻は自然宇宙、第 3 ∼ 6 巻は地理と人類学、第 7 巻は人類学・心理学、第 8 ∼ 11 巻
は動物学、第 12 ∼ 19 巻は植物学、第 20 ∼ 32 巻は薬剤学、第 33 ∼ 37 巻は鉱物学・金
属学となっている。この中に「羊皮紙(パーチメント)(parchment)」の製法についても書
かれている。また、女を裸にして陰部を露出させると害虫が落ちると記されている。[以
後、中世にかけて権威があり、1500 年近くもひろく利用される。1473 年、刊行される。
79
79. 8.24 【ローマ】ベスビオ(ウェスウィウス)山が大爆発をおこす。ポンペイ一帯には大
量の火山灰、火山礫(れき)が降り注ぎ、降灰や溶岩でポンペイの町全体が埋没する。死
者は 2000 人と推定される。[以後、ポンペイは二度と復興されることなく忘れ去られる。
当時のポンペイが都市としての盛期を過ぎていたことが、放棄された理由とされる。16
世紀なかばになって、土に埋もれた古代都市の存在が発見され、1748 年に発掘が開始さ
れる。発掘に伴って、古代ローマ時代の都市生活の実態が明らかにされる。フォルム(広
場)を囲むアポロ、ウェヌス、ユピテルの各神殿、三角広場の大小の劇場、1 万 5000 人
収容の大闘技場などの大建築に加え、車道と歩道が区別され横断歩道すらある街路、食
料雑貨の小売店、酒場などの建物がある。また裕福な商人ウェッティの家、悲劇詩人の
家など富豪の邸宅の豪奢(ごうしゃ)なようすも見られる。郊外の秘儀荘の家からは華や
かなディオニソスの密儀の壁画が発見される。そのほか、逃げ遅れた人間や犬、食事中
のテーブル、さまざまな食物、医療器具、遊具、ポスタ、その他日常品なども多数発掘
され、古代ローマ人の生活がを知られる。ほぼ 8 割が発掘され、遺跡公園として、火山
灰に埋もれる直前の街のたたずまいがそのまま再現されて、多くの見学者を集めている。
アレクサンドロス大王のモザイクなど多くの出土品は、ナポリの国立博物館に収められ
- 53 -
る。遺跡は考古学研究所の管轄下にあって発掘が続けられている。 2003 年、 BBC の
Andrew Wallace-Hadrill が、ポンペイの惨状を CG アニメーションや多くの写真資料で解
説
す
る
。 「
Pompeii:
Portents
of
D i s a s t e r」
http://www.bbc.co.uk/history/ancient/romans/pompeii_portents_01.shtml]
100
100.○【中国】この頃から 300 年代にかけて、磁針を水に浮かべて南北の方位を知るの
に用いられる。
100.○【中国】この頃、許慎(きょしん;Xロ Sh ロn)が、漢字の字形からの分析を体系
的に試みた最初の字書『説文解字(せつもんかいじ;Shu ロ wロn ji ロ zロ) 』15 編を著す。
配列の順序は〈一〉の次は〈二 〉
,その次は〈示〉というように,字形上の連鎖感を配
慮しながら,また十二支所属の文字が最後にまとめて置かれるなど,この頃中国で普通
に人のいだいていた宇宙構成に関する思考をも重ね合わせて決められる。この中に、
〈紙。
絮(じょ)〉を一苫するなり〉とあり、古真綿のくずを簀の子で抄くと紙のようなものが
できていたことを示している。[以後、単に『説文』とも呼ばれ、体系的な字形、字源字
書として千数百年間、唯一絶対の権威として漢字文化圏に通用する。1969 ∼ 1974 年に
日本の白川静が、19 世紀末から発見されるようになった亀甲や獣骨に刻まれた殷代の甲
骨文字や周代の青銅器に刻まれた金文の研究から『説文新義』16 巻を著し、
『説文解字 』
の誤りを正す。]
100.○【インド】この頃を中心に、『法華経(ほけきょう)』『華厳経(けごんきょう) 』
『無
量寿経(むりょうじゅきょう)』などが鋭意編集され、初期大乗仏教が成立する。『
〔 法華
経』は、すべての仏教テキストのうちでも、もっとも重要な経の一つ。サンスクリット
原典はサッダルマ・プンダリーカ・スートラ Saddharmapundar □ ka-s □ tra といい、ネパー
ルにその完全な写本が数種伝えられ、20 世紀初めに完本が出版される 。
『華厳経』は、
詳しくは『大方広仏華(だいほうこうぶつ )厳経 』
。紀元 1 世紀ころこの経の古い部分の
サンスクリット原典「十地品(じゆうじぼん)」と「入法界品(にゆうほつかいぼん)」が
編纂」される 。
『無量寿経』は『大無量寿経』とも呼ばれ、サンスクリット原典「スカ
ーバティー・ビューハ Sukh □ vat □-vy □ ha (極楽(ごくらく)の荘厳(しようごん)」が、
この頃、北西インドで編纂(へんさん)される。]
102
102.○【中国】(永元 14 )鄧が皇后になる。地方からの献上品が〈紙墨のみ〉になる。こ
の頃 、すでに各地で紙の製造がかなり広く行われていた。
(
『後漢書』巻十上の鄧皇后伝 )
105
105.○【中国】(元興 1)宦官の蔡倫(さいりん)が、軽く、薄く、しかも安価な「新型の
紙」を開発し、和帝( 26 )に献上する。[以後、尚方令(宮中の調度品を製作する役所の長
官)に任ぜられ、樹皮,麻,ぼろぎれ,魚網などを原料として、臼の中でたたいて繊維
をもみほぐして紙を造る。のちに竜亭侯に封ぜられ、彼の紙は「蔡侯紙」と呼ばれる。
蔡倫は紙の発明者でなく、改良者である。初期の製紙には麻が主要な原料であったが,
- 54 -
蔡倫の改良によって多くの植物繊維が使用されるようになる。蔡侯紙製法はたちまち中
国全土にひろまり、敦煌からシルクロードを経て 1000 年をかけて西域からヨーロッパに
伝わり、
「紙の千年旅行」と言われる。
(
『後漢書』巻百八宦者列伝)[ 1989.8.2『光明日報』
が、蔡倫の紙よりさらに 200 年以上も前のものと見られる紙が甘粛省の漢時代の古墳の
中で発見され、山脈、川、道路などを描いた地図であることが判明したと報道する。]
127
127.○【エジプト】この頃、天文学者プトレマイオス Ptolemaios Klaudios が、アレクサ
ンドリアで天体観測をする。
[∼ 141 年。地球中心体系に基づくもっとも精緻(せいち)な
天文理論を記述した『アルマゲスト』を著す。以後、プトレマイオスの天文理論が、コ
ペルニクス時代まで,古代,ビザンティン,イスラム,中世ヨーロッパの天文学の中心
となる。また、『地理学入門』8 巻を著し、「ゲオグラフィア(地理学)」を世界地図を描
く学問であるとし,地方図を描く「コログラフィア」と区別する。8 世紀に、イスラム
世界に導入される。1409 年あるいは 10 年、アンゲルスによりラテン語訳され『コスモ
グラフィア(宇宙誌)』の名で以後の地図学に大きな影響を与える 。
]
138
138.○【ギリシア】医師ソラヌスが、簡単な避妊法を提唱する 。
〈射精の際、女は息を止
め、身体を少し後に引く。そうすれば精子は子宮に入らない。その後、直ちに膝を曲げ
て座り、くしゃみをする〉と説く。
150
150.○【中国】この頃、中国で発明された製紙技術が、初めて国外に流出して、辺境の
トルキスタン地方までの移転が行われる。
150.○【エジプト】この頃、アレクサンドリアの天文学者プトレマイオスが、世界地図
を掲載した地理書を出版する。これらの地図は、数学的に正確な円錐図法を採用してい
る。しかし、アフリカ大陸が南方に極端に広がっていたり、インド洋が大きな内陸海に
なっていたり、多くの間違いがある。
169
169.○【ローマ】ギリシアの医学者ガレノス Claudius Gal □ nos( 40 ?)が、ローマ皇帝マ
ルクス・アウレリウス(在位 161 ∼ 180 )の遠征軍に参加してローマに帰還する。[以後 、
王子コンモドゥスの侍医となり、主として著述に努める。著作は医学に関するもののほ
かに、哲学、文法、数学にまでわたる。解剖学、生理学に関しては、人生理学上の実験
や、体解剖は禁止されているので動物解剖を頻繁に行って、人体の働きや構造について
優れた考えを示し、医学に一定の科学的基礎を与える 。
「ゴノリア(種の流出=淋病)
」
という言葉もガレノスが作る。ガレノス医学は、1400 年もの長期間、中世ヨーロッパの
医学に大きな影響を与える。ガレノスの生理学説、なかでも血液の生成・流れと精気
pneuma の問題に関する誤った学説が永く一般に信じ込まれる。17 世紀にハーベーの血
液循環説が打ち出されて、ガレノスの学説は打ち砕かれる。]
- 55 -
175
175.○【中国】[熹平 4] 霊帝( 18)が、正しい経典を広めるために、学者たちにテキスト
を書かせ、これを 46 枚の石に彫って石経とし、洛陽の大学(講堂)門外に建てさせる。古
文・篆(てん)・隷(れい)の 3 種の字体で彫られたので「三体石経」と呼ばれる。大勢の
市民が集まり、これの拓本をとる。摺拓法と呼ばれ、彫られた文字の上に湿った紙をの
せ墨をつけたタンポンでその上を叩くと、彫られた部分が白く抜かれて文字が浮かび上
がる。文字の複製法の一種で、原初的な印刷の始まりか?[653[永徽(えいき) 4]年、唐の
太宗の『温泉銘』の拓本が作られ、墨書される。]
180
180.○【ギリシア】この頃、地誌学者・著述家パウサニアス Pausanias( 65 ?)が、
『ギリ
シア案内記』10 巻を完成する。アッティカ,メガラ,コリントス,アルゴリス,ラコニ
ア,メッセニア,アカイア,アルカディア,ボイオティア,フォキス,デルフォイなど
ギリシア本土の各地の都市,聖域,名所,神殿などを歴訪する旅人のための案内書の形
をとり,各地の史跡にまつわる伝承や史実,神話などを織りまぜながら,過ぎにしギリ
シアの栄光を物語る。自然の風景について語るところは皆無に近いが,神殿や公共の建
築物や記念碑の類,また絵画,彫刻,その他の工芸美術品について詳記しているところ
が多く,古代ギリシア・ローマの芸術史の手引としても貴重な資料となる。また,ギリシ
アの諸地方に口碑として伝わる珍しい神話伝説も多く記録されている。
189
189.○【日本】この頃、邪馬台国の卑弥呼が、周辺諸国を統一して倭国の女王となり、
三十余国を支配し 、〈嫁に行かず、鬼神の道につかえ、よく妖をもって衆を惑わした〉
と中国の『魏志』倭人伝に書かれる。また、同書には、女性支配者がいる一方で男性首
長の多くが何人もの妻を抱えている、として〈国には女子多く、大人は皆、四、五婦、
下戸も或は二、三婦、婦人淫せず、妬忌せず〉と記述する。
200
200.○【日本】弥生時代。人口が約 59 万人。(国立社会保障・人口問題研究所『人口統計
資料 2004』)
200.○【中国】この頃、棒状の磁石を紐(ひも)で吊るすと、磁石が南北方向を指すこと
を発見し、磁石が方位を知る道具として使用され始める。腹に磁石を入れた木製の指南
魚などが作られる。これまで磁石は実用的に用いられることはほとんどなく、むしろ物
を動かす磁石には霊魂があると信じられたり、ニンニクによってその力は失われるとさ
れ、呪術・秘術的なものとされていた。古代中国では占いに用いられていた。[11 世紀
ごろ、アラビア人によってヨーロッパに伝わる。1310 年、羅針盤(コンパス)に応用さ
れる。]
200.○【インド】この頃、百科全書的な宗教聖典『マヌ法典』の原型ができあがり、ヒ
ンドゥー教に強く彩られた慣習法として集大成される。マヌとは「人類の始祖」を意味
- 56 -
し、いっさいの「法」(ダルマ)に関する最高権威として崇(あが)められ、本書の成立と
結び付けられている神話的人物である。12 章に分かれ、2684 条のサンスクリット語韻文
で書かれる。万物の創造から説き始め、人が一生を通じて行うべき各種の通過儀礼や日
々の行事、祖先祭祀(さいし)、学問、生命周期に関する規定、国王の義務、民法、刑法
および行政に関する規定、カースト制の厳守規則や贖罪(しよくざい)の方法、最後に輪
廻(りんね)と業(カルマ)および解脱(げだつ)に関する議論が詳細に論じられる。法律
論的条項のうちには、相続法、婚姻法、裁判手続などもみられる。生殖に関しては、〈子
は父の再生であり女は子を産む道具に過ぎない〉とする「田地種子論」を示す。]
200.○【ローマ】この頃、ペルシャを起源とする密儀宗教ミトラス教がローマ帝国の各
地に広まる。信徒は男に限られ、断固たる勇気、禁欲、純潔を理想とし、入信の儀式に
は 7 つの階梯があり、厳しい試練を克服しなければならない。ミトラス教の創造神話で
は、ミトラス神が殺した雄牛の血から生命と植物、そして最初の人間の男女が生まれた
とされる。
218
218.○【ローマ】シリアのへリオガバルス(エラガバルス)(14)が、軍隊に推薦されてロ
ーマ皇帝になり、アウレリウス・アントニヌスと称する 。
〔エメサの太陽神の神官で、セ
ウェルス帝の妻の妹の孫で、一説に、カラカラ帝の庶子ともいわれる。
〕
219
219.○【ローマ】皇帝アウレリウス・アントニウス(15)が、ローマに移る。女装を好み、
それに止まらず奴隷に恋して、彼のために下腹部に女性器をつける手術を受ける。[のち
の性転換の元祖とされる。]
222
222. 3.11【ローマ】皇帝アウレリウス・アントニウス(18)が、女装して素行おさまらず、
軍隊の暴動により殺される。
239
239.○【日本】卑弥呼が、朝鮮の帯方(たいほう)郡の太守を介して魏の明帝に朝貢し、
皇帝から「親魏倭王」の称号と金印紫綬、銅鏡 100 枚を与えられる。[以後、卑弥呼が死
に、いったん男が王になるが倭国は混乱する 。卑弥呼一族の壱与(いよ)が女王に即位し 、
再び国が治まる。266 年、壱与が晋に使者を送る 。このことが『晋書』に記述されるが、
以後約 150 年間、中国の歴史書に日本についての記述が絶える。]
269
269. 2.14 【イタリア】この年か 270 年、後顧の憂いを絶つため遠征する兵士の結婚を禁
じたローマ皇帝クラウディウスに反対した司祭バレンタイン(ウァレンティノス;バレン
ティヌス)が処刑される。[以後、聖バレンタインは、恋人たちの守護者とつたえられる 。
のち、2 月 14 日が、古代ローマのルペルカリアの祭(2 月 15 日)が、ローマの殉教者 2 人
- 57 -
(司祭バレンタイと司教テルニ)を記念した祭日(2 月 14 日)とむすびつけられるようにな
る。中世後期、2 月 14 日を「バレンタイン・デー(Saint Valentine's Day )」とされ、この
日が鳥の交配期の始まりと信じられるようになる。キリスト教の行事に加えられ、恋人
たちの愛の誓いの日になる。]
280
280.○【中国 】晋の天下統一が成る。三国時代が終結する。この頃、男色(男寵、南風、
龍陽癖、 餘桃断袖)が大いに興り、女色よりも甚だしくなる。
28 4
284.11.20【イタリア】ローマのヌメリアヌス帝が殺害され、ディオクレティアヌス( 39?)
がローマ皇帝に即位する。軍人皇帝時代が終わる。[以後、帝国組織の統治全般の抜本
的な機構改革を断行する。また、占星術の廃止をめざす。
]
300
300.○【インド】この頃、バーツヤーヤナ(マッラナーガ)作の性愛論書(カーマ・シャー
ストラ)『カーマスートラ K ´ mas 仝 tra』が成立する。古来,インドではダルマ(法),
アルタ(実利),カーマ(性愛)を人生の三大目的(トリ・バルガ)とするが,バーツヤーヤナ
は特にカーマを学ぶ意義を強調してこの書を著す。7 巻(アディカラナ),1250 詩節より
なり、第 1 巻「総論」,第 2 巻「性交」
,第 3 巻「処女との交渉と結婚」
,第 4 巻「妻に関
すること」
,第 5 巻「他人の妻」,第 6 巻「遊女について」
,第 7 巻「秘法」である。
306
306.○【イタリア】コンスタンティヌスⅠ世 Constantinus I,Flavius Valerius( 26?)が、副帝
に擁立される。副帝だったセウェルスが正帝になる。
[310 年頃、正帝になる。初めてキ
リスト教の公認と宗教自由の原則を決定する。史上最初にキリスト教に改宗した皇帝と
して,キリスト教史上刮目(かつもく)すべき位置を与えられ,ローマ帝国の劇的転換の
立役者とされる。また、すべての占星術を自分一人の独占物にしようとし、特に皇帝の
身に関する予言にだけは禁止する 。
]
348
348.○【中国】(前涼建興 36)この頃の紙には、すでにセッコウの類を紙面に塗布し、紙
質を変え吸墨性をよくする「サイズ」の方法が施されている 。
[以後、この年の紙が後
世に出土する。18 世紀、ヨーロッパでこの方法が行われるようになる。
]
350
350.○【インド】この頃、西インドで、大乗仏教とヒンドゥー教が習合して、前期密教
が興る。呪術を中心として現世利益を期待する仏教で、密教として体系化に至っていな
い「雑教」である。[ 650 年以後、インド大乗仏教の末期に、大乗仏教の『般若経』や『華
厳経』の思想や中観(ちゅうがん)派、瑜伽行(ゆがぎょう)派などの思想を基盤とし、さ
- 58 -
らにヒンドゥー教の影響を受けて、にわかに密教が興起する。]
353
353. 3. 3【中国】東晋の会稽内史に任じられ、会稽郡山陰県(のち、浙江(せっこう)省紹
興府)に赴任した能書家王羲之(46)が、山陰県の名勝蘭亭に名士謝安、孫綽(そんしゃく)
らを招き宴を催し、詩を賦す。[以後、このとき詠まれた詩で編まれた『蘭亭集』に、王
羲之は序文「蘭亭序」を揮毫する。曲水(きょくすい)の宴として後世に伝わる。]
357
357. 4.28 【イタリア】ローマの再統一を図るコンスタンティウスⅡ世(40 )が、ローマに
入城し、帝位僭称者マグネンティウスに対する勝利を祝う。占星術と腸卜を禁止する。
369
369.○【インド】ブラフマン(司祭階級)のバーツヤーヤナ(パトシャヤーナ、マッラナー
ガ)が、330 年からこの頃までに、古来インドでダルマ(法),アルタ(実利)と並んで人生
の三大目的の一つとされてきたカーマ(性愛)の意義を強調して、性愛の教典『カーマス
ートラ K ´ mas 仝 tra』をまとめる。7 巻(アディカラナ),1250 詩節よりなり、第 1 巻
〈総論〉,第 2 巻〈性交〉,第 3 巻〈処女との交渉と結婚〉
,第 4 巻〈妻に関すること〉
,
第 5 巻〈他人の妻 〉
,第 6 巻〈遊女について〉,第 7 巻〈秘法〉で構成される。[以後、現
存する古代インドの性愛論書(カーマ・シャーストラ)のうちで,最も古くかつ重要な文献
とされる。]
375
375.○【バルカン半島】遊牧民族のフン族が、黒海沿岸にあったゲルマン系の東ゴート
王国を征服する。フン族により同じく圧迫されていた西ゴート族も、ドナウ川を渡りロ
ーマ帝国領内に移住する。ゲルマン民族大移動 V □ lkerwanderung の発端になる。[以後、
西ローマ帝国の滅亡を経て帝国領内の各地にゲルマン民族が定住し、諸部族王国を建設
する。6 世紀末までの 200 年余の過程が「民族大移動」、あるいは「ゲルマン人の侵入
(German invasions) 」、
「蛮族の侵入( Barbarian invasions)」などとよばれる。]
393
393.○【ギリシア】第 293 回オリンピック競技が開催される。[394 年、ローマ皇帝テオ
ドシウスⅠ世の異教禁止の影響を受けて、1000 年以上続いてきたオリンピア競技が幕を
閉じる。]
400
400.○【アルメニア】4 世紀初頭に世界最初のキリスト教国になったアルメニアで、この
頃、独自のキリスト教文化が発達している。修道士メシュロプが、36 字からなるアルメ
ニア語を表記するアルファベットを考案し、シリア語聖書にもとづき新約聖書と箴言を
翻訳する。
- 59 -
404
404 ○【朝鮮半島】高句麗広開土王碑文に、「倭寇」の文字が初めて現れる。[ 1223 年、
文献に〈倭、高麗の慶尚道金州を寇す〉と初出する。以後、豊臣秀吉の朝鮮出兵も 20 世
紀の日中戦争もひとしく倭寇の文字であらわされる。]
406
406.○【日本】この頃から、大和政権の全国統一が進む。
406.○【日本 】王仁(わに)が、百済(くだら)王に命じられて日本に渡来し、
『論語』10 巻、
『千字文』1 巻を応神天皇に貢進する。儒教と漢字が日本に伝えられる。[以後、王仁は 、
和邇吉師(わににきし)とも呼ばれ 、
朝廷の文筆に従事した西文首(かわちのふみのおびと)
の祖、また学問の祖とされる。一族は、河内(かわち)の古市(ふるいち)(のち、大阪府羽
曳野(はびきの)市)に居住し、文字の使用、普及に貢献する。]
406.○【アルメニア】僧メスロップ(メスロープ)Mesrop が、聖サハクの協力を得て、母
音字 6 、子音字 30 のそれぞれ大文字・小文字からなる独特のアルファベットを創案して、
キリスト教徒のために聖書の訳書を作る。また、メスロップは、グルジア文字も創案し
たといわれる。グルジア文字(あるいはムケドルリ)は、母音字 5 、子音字 28 からなるア
ルファベットで、大文字・小文字の区別はなく、左から右に横書きされる。
409
409.○【イタリア】西ローマ皇帝ホノリウス(25 )と東ローマ皇帝テオドシウスⅡ世(7 )が、
占星術師らに対し、司教の立ち会いのもとで所持する書物をすべて焼却するよう命じ、
この命に背いた者は国外追放に処する、と宣告する。
411
411. 7. 1【地中海】カルタゴの会議が始まる。会議の議事は速記者ヒラリウスが監督に
なり、多数の速記者が従事する。
413
413.○【日本】大和政権が 、中国南朝の宋との交流を始める。[以後 、中国側は日本を「倭
の五王時代」と呼ぶ。五王とは、讃、珍、済、興、武で、それぞれ仁徳(または応神)、
反正、允恭、安康、雄略天皇とされる。いずれの王も宋へ朝貢する。]
414
414.○【ヨルダン】文献学者・修道士ヒエロニムス Eusebius SophroniusHieronymus(69 ?)
が、ヘブライ語の『旧約聖書』原典からのラテン語訳を完成する。[以後、
『ブルガータ
ー(ウルガーター)聖書』と呼ばれ、中世ヨーロッパに広まり、唯一の聖書として重んじ
られる。ローマの貴族層の女たちのなかに、教えに従うものが現れる。]
415
- 60 -
415.○【エジプト】ギリシア人の女性科学者ヒパチアが、学園に行く途中、アレクサン
ドリアの司教職キリロス一味の修道士のなかの暴徒たちに襲われる。ヒパチアは街路で
真っ裸にされ、教会に引きずっていかれて棍棒でなぐり殺される。その死体は寸断され、
肉は貝殻で骨から削りとられ、そのあとばらばらになった肉片や骨片は火中に投げ込ま
れる。キリロスは、聖母マリアの崇拝を広め、巧みな説教で信者から好評を博していた
が、この犯行についてはローマ教皇庁から一度も弁明を求められない。[以後、ヒパチア
の惨殺は世俗的な学問や知識を望む人々への警告と受けとめられ、アレクサンドリアで
のギリシアの学問は終わりを告げる。]
439
439.○【中国】太武帝が北涼を滅ぼし華北を統一する。南北対立の形成なり、南北朝時
代が始まる。この頃、同性愛が大流行し、一般人士もこれにならう者が続出する。夫婦
離別する者も出る。
496
496.○【
じる。
】ゲラシウス教王が、教令を発して、多数の教外典や異端の書の読書を禁
500
500.○【インド】この頃、0(零)が位取り記数法において、ある位が欠けていることを
表す記号として認識される(一説には紀元 5 ∼ 6 世紀)
。
[以後、何も存在しないことを
表す0が、整数の一つとして取り扱われるようになる。0を用いた位取り記数法は、イ
ンドからアラビアを経てヨーロッパに伝わる。そのため、「アラビア数字」と呼ばれる
ようになる。
]
512(継体天皇6)
512.[ 12.−]【日本】百済の求めに応じて、任那の 4 県 、上(口+多)(口+利) 、下(口+多)
(口+利)、婆陀、牟婁を割譲する。(『日本書紀』)
513(継体天皇7)
513.○【日本】任那(みまな)割譲によって領土を拡大した百済が、代償で、儒学者段楊
爾(だんように)を、大和朝廷に派遣する。『易経 』
『詩経』『書経 』『春秋 』『礼記』に精
通し教授した「五経博士(ごきょうはかせ)」と呼ばれる。日本への帰化ではなく年期を
定めた貢上・交代制による派遣で、百済からの文化輸入の役割を果たす。[ 516 年、彼を
帰国させ、代わって漢高安茂(あやのこうあんも)を派遣する。この頃から、日本の知識
層は、子は男女の性交によって生まれることを初めて認識する。さらに、子は父と母の
精が和合して生まれるという仏教の生殖観と、子は父の子種から生まれるという中国の
生殖観があることを知るが、現実に母が子を産む姿を見てきた日本人は、父が真の親で
あるという異国の教えを心底から信ずることはできなかった。](市川茂孝『日本人は性
をどう考えてきたか』)
- 61 -
524
524.○【イタリア】この頃、東ゴート王テオドリックの下で執政官、元老院議長、宰相
などの要職を歴任した哲学者ボエティウス Amicius Manlius Severius Boethius( 44 ?)が、
ビザンティン帝国と通じて王に陰謀を企てたとして北イタリアのパヴィアで投獄される。
獄中で『哲学の慰め De consolatione philosophiae』 5 巻本を書く。さらに獄中でアリスト
テレス、プラトン、ポルフィリオスら古代哲学者の全著作の翻訳を試みるが、完成を待
たず処刑される。[以後、
『哲学の慰め』は、哲学に導かれて神と摂理の善性を認識する
ことによる運命の肯定を主題とし、広く一般に読まれ、ヨーロッパ中世前期の思索に基
本的道具を与える。幾何、算術、天文学、音楽の 4 学科に関する著作も行ったが、『算術
教程』と『音楽教程』だけが残される。]
525
525.○【イタリア】ローマのディオニシウス・エクシグウス Dionysius Exiguus(497 ころ
∼ 550 )が、キリスト生誕の年を起点にした西暦紀元を創設する。[532 年、復活祭表に
初めて用いられる。しかし、彼はキリスト生誕の年を実際よりはすこし遅らせていると
いわれる。また、最初の年をゼロ年でなく、紀元 1 年 1 月 1 日から始めたため、世紀(セ
ンチュリー)や千年期(ミレニアム)に関して、一般の人の間に混乱を生じさせる。以後、
西暦は、各国の暦法のいかんにかかわらず、広く国際的に用いられるようになる。]
529
529.○【ギリシア】ユスチニアス皇帝が、アテネでの哲学の授業を禁止する。800 年以上
続いたプラトンのアカデメイアも幕を閉じる。
529.○【イタリア】ヌルシアのベネディクトゥス Benedictus Nursiensis(49 ?)が、少数の
弟子とともにモンテ・カッシーノに移って最初の修道院を創設する。共同の定住生活に基
づき「祈りと労働」をモットーとする組織的修行形式を規定した修道戒律を制定し、清
貧や祈祷、伝道などとともに、読書の重要性を強調する。[ 540 年、モンテ・カッシノに
図書館を持つベネディクトゥス中央修道院を設立する。この中で書写室が設けられ、聖
書や典礼書などの写本の生産が始まる。]
532
532.○【イタリア 】525 年にローマのディオニシウス・エクシグウス Dionysius Exiguus(497
ころ∼ 550 )が創設した西暦が、復活祭表に初めて用いられる。
538(宣化3)
538.○【日本】百済の聖明王が、仏像、経論を朝廷に献上し、仏教が日本に伝来する。[別
説は 552 年(欽明 13 )。]
540
540.○【イタリア】この頃、東ゴート王テオドリックに仕えた政治家カッシオドルス
- 62 -
Cassiodorus( 53 )が、ゴート戦役中に政界を退き、モンテ・カッシノのヴィヴァリウム
Vivarium (養魚池の意)に図書館を持つベネディクトゥス修道院を設立し、古代の文献の
収集・翻訳・書写を行う。[のちに「ヴィヴァリウム」がこの図書館の通称になる。以後、
この整備された図書館は、西ヨーロッパ各地の修道院図書館の手本となり、写本センタ
ー「スクリプトリウム(書写室)」が次々とできる。中世では写本作りはもっぱら書写室
で細々と行われ、書写は僧侶の義務となる。写本作りの仕事は、総監督のもと、修道士
の写字生、訂正係、装飾師、製本師らの共同作業で行われる。12 世紀に、大学の興隆と
ともに、写本作りが商売として成り立つようになり、大学町に書写を専業とする写字生
が誕生する。20 世紀に、アラン・ケイが、ヴィヴァリウムに関心を持つ。](松岡正剛『情
報の歴史を読む』1997 )
554(欽明天皇15)
554. [ 2.−]【日本】百済からの五経博士王固徳馬丁安(ことくめちようあん)が柳貴(おう
りゅうき)と交替する。また僧 9 人も交替する。
590
590.○【ヨーロッパ】この頃、英語とドイツ語が分岐し始める。(モリス・スウォディッ
シュによる仮説。
)
592
592.○【日本】最初の女帝推古天皇( 38 )が即位する。第 33 代天皇とされる。厩戸(うま
やど)皇子(聖徳太子)を摂政(せっしょう)とする。
600(推古 8 )
600.○【日本・中国】(開皇 20)倭王阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)(推古天皇)が、
随に最初の使いを送る。
604(推古12)
604.[ 4. 3]【日本】聖徳太子が、自ら作成中の憲法十七条の草案を発表する。中国大陸
の文物制度の影響を受けて作られた斬新なもので、日本最初の成文法となる。
607(推古15)
607.[ 7. 3]【日本・中国】(大業 3)聖徳太子( 33 ?)が、600 年の遣隋使派遣以来、2 度目
の遣隋使として、冠位大礼の小野妹子ら数百人を随に派遣する。小野妹子らは、国書を
携え、随が復興した仏教を本格的に摂取すること、中国の国家体制の根幹をなす儒教の
礼制を学ぶことを使命とする。
607.○【日本】推古天皇( 53 )と聖徳太子が、用明(ようめい)天皇の遺命を受けて法隆寺
と薬師像を完成する 。
〔建立年代については 、
『興福寺年代記』の推古 7 年説、
『興福寺
略年代記』の推古 21 年説など、諸説がある。〕
- 63 -
610(推古18)
610. 3.−【日本】高句麗の僧曇徴(どんちょう)が来日し、文字や一般文具の製法を伝
える。また紙の製法も伝えたかも知れない。曇徴は〈五経を知り,またよく彩色及び紙
墨を作り,そのうえ碾磑(てんがい(を造る〉という。製粉用の碾磑については,とく
に〈碾磑を造ること,ここに始まる〉と書かれている。紙などについてはこうした記載
はないので、曇徴が製紙術を最初に伝えた人物であったかどうかは疑わしく,あるいは
それ以前に製紙術は伝わっていたのかもしれない。この頃、すでに戸籍用紙など膨大な
公用紙を必要とする国家機構の整備が始まっているので,曇徴以前に製紙技術は伝来し
ていた可能性が考えられる。『
( 日本書紀』)
610.○【インド】この頃、西インドで、中期密教の体系化が進み 、
『大日(だいにち)経』
が成立する。[ 650 年頃、南インドで『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)が成立する。]
610.○【サウジアラビア】ムハンマド Muh.ammad(マホメット)( 40 ?)が、ある夜、いつ
ものようにヒラー山の洞窟に籠っているとき、突然、異常な体験をする。天使ガブリエ
ルが現れ、巻物で彼ののどくびを押さえ付けるようにして 、〈誦(よ)め〉という。これ
がアッラー(神)からの最初の啓示となる(『コーラン』96 章 1 ∼ 5 節)。混乱と苦悩のの
ち、やがて彼は預言者としての自覚を得て伝道を開始する。[以後 、イスラムが成立する。
614 年、ムハンマドが、メッカでイスラムの布教を始める。20 余年にわたってアッラー
が、天使ガブリエルを通してムハンマドに、天にある「啓典の母体」から読み聞かせた
とされる啓示を人々が記憶し、ムハンマドの死後結集(けつじゅう)して『コーラン』が
つくられる。]
622(推古30)
622. 7.16 【サウジアラビア】木曜日。イスラム教の預言者ムハンマド Muh.ammad(マホ
メット)が、信徒とともにメッカからメディナに「遷行・移住」する。これを「ヒジュラ
(ヘジラ)(Hijra )」という。[636 年、イスラム教主第Ⅱ世オマル'Umar (在位 634 ∼ 644)
が、この 622 年を太陰暦の「イスラム暦(ヒジュラ暦、マホメット暦、回教暦)
」紀元元
年とする。ヒジュラは、預言者がメッカで迫害を受けたことから、しばしば「逃亡・逃
避」と訳されるが、Hijra の動詞形 hajara は、本来、
〈だれだれとの交わりを断つ〉との
主体的意味をもつ。したがって、ヒジュラは単なる受身の逃亡ではなく、メッカに見切
りをつけ、新天地を求めてのメディナへの「移住」を意味する。ヒジュラの行われた年
がのちにヒジュラ暦の起点とされるのは、このような意義を認めてのことである。]
623(推古31)
623.○【スペイン】セビーリャのイシドルスが、
『語源論』20 巻を纂する。[以後、百科
事典的著作として中世に高く評価される。]
627(推古35)
627. 8.−【中国】(貞観 1) この頃、玄奘(げんじょう)(25)が、仏教教義主義に疑問を抱
き、原典の研究が必要と決断するが、公務以外の国外旅行が禁じられているため出国許
可がおりない。ついに意を決して国禁を破り、ひそかに長安を出発する。
(一説に 629 年
- 64 -
ころ)[以後、天山南麓(なんろく)を経由し、ヒンドゥー・クシ山脈を越えて、インド北
辺から中インドに入る。]
629(舒明1)
629.○【中国】唐の太宗の命を受けた魏徴(ぎちょう)、長孫(ちょうそん)、無忌(むき)
らが、『隋書(ずいしょ)』を編纂する。東夷伝倭国条に、日本からの使者(遣隋使)から
聞いた日本の風俗について次のように記述される。〈倭国の後宮には女が六、七百人い
る。姦通は殺人強盗と同様に死罪である。人民は物静かで訴訟は稀である。文字はなく 、
木を刻み縄を結ぶだけである。百済から仏法を得て、初めて文字を知った。女が多く、
男が少ない。婚嫁には同姓を取らない。男女は愛し合えばすぐ結婚する。女が夫の家に
入るには必ず火を跨ぎ、そこで夫と互いにまみえる。
〉(市川茂孝『日本人は性をどう考
えてきたか』)。
629.○【中国】唐の高僧玄奘(げんじよう)(三蔵(さんぞう)法師)(27 )が、インド旅行に
出発する。[645 年、帰国する。]
630(舒明2)
630. 8. 5【日本】最初の遣唐使、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(くすしえ
にち)が使節として出発する 。
国際情勢や大陸文化を学ぶための始めての公式使節となる。
[894.[9.30]菅原道真の建議により派遣が中止される。この間、十数回派遣された。以後
も、民間の貿易、通交は続けられる 。
]
630. 8.−【インド】玄奘(げんじょう)( 28)が、インドに入り、マガダ国のナーランダ僧
院に至り、シーラバドラ(戒賢(かいけん))法師と対面(一説に 634 年)する。[以後、
法師について『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』を中心に学ぶこと 5 年に及ぶ。635 年いっ
たん師のもとを去り、東インドから南インド、さらに西インドを経由してインド半島一
巡の旅を終える。638 年ナーランダ僧院に戻り、師と再会。その後は近辺の諸師につい
て学んだが、とくにジャヤセーナ(勝軍(しょうぐん))居士(こじ)について 2 年ほど唯
識(ゆいしき)の論典を中心に学んだことが注目される。640 年、東インドのクマーラ王
の招聘を受け、彼の王宮に 1 ヵ月ほど滞在、さらに中インドのシーラーディティヤ(戒日
(かいにち))王に招かれる。翌 641 年プラヤーガでの 75 日の無遮(むしゃ)大会に参列し
たのち、秋に帰国の途につく。]
631(舒明3)
631.○【中国】唐朝の太宗の勅命で魏徴(ぎちょう)ら学識ある高官たちが、
『群書治要(ぐ
んしょちよう)』50 巻を編纂する。経書をはじめ正史や諸子の書六十数種から、為政者
の参考となる箇条を抜き出してまとめたもの。[以後、散逸する。日本に伝わり、皇室や
武家に重宝される。1616 年、徳川家康の命により駿河で活字版が印行される。]
635(舒明7)
635. 6.10 【日本】百済の使節が朝貢する。
635.○【中国】オロボン(阿羅本)を団長とする伝道団が、長安に到着する。キリスト教(景
- 65 -
教)がはじめて中国に伝わる。
636(舒明8)
636.○【サウジアラビア】イスラム教主第Ⅱ世オマル'Umar(在位 634 ∼ 644)が、イス
ラム教の預言者ムハンマド(マホメット)がメッカからメディナに脱出した西暦 622 年 7
月 15 日木曜日を紀元年数の起算点と定め、その年を太陰暦の「イスラム暦(ヒジュラ暦 、
マホメット暦、回教暦)」紀元元年とする。[これをヒジュラ紀元という。この 7 月 15 日
という元期は天文学的に新月などの日付を計算するときに用い、実際はその翌日の月光
を初めて認めた 7 月 16 日金曜日から数える。閏(うるう)年は 30 年に 11 回で、ヒジュラ
紀元を 30 で割り、その残りが 2、 5、 7、10、13 、16 、18 、21 、24 、26 、29 となる年を閏
年とする。
645(大化1)
645. 1. 7【中国】玄奘(三蔵法師)(43)が、約 16 年間インドで収集した仏典・仏具類を乗
せた馬 20 頭を引き連れ、帰国する(一説に 643 年 )
。長安では高官たちが列をなしてこの
高僧の帰還を出迎える。玄奘は、仏像、仏舎利(ぶっしゃり)などのほか、サンスクリッ
ト原典、総計 520 夾(きよう)、657 部を持ち帰る 。[2 月 1 日、高句麗(こうくり)遠征準
備のため洛陽にあった太宗皇帝に拝謁。3 月、長安に戻り、弘福(ぐふく)寺に住して仏
典の翻訳準備にかかる。5 月 2 日、
『大菩薩蔵経(だいぼさつぞうきょう)』の翻訳に着手。
以後、訳場を弘福寺、弘法(ぐほう)院、慈恩(じおん)寺、玉華(ぎょくか)寺に移しなが
らも、訳経組織を整備して編集チームとともに死の直前までつねに翻訳に従事する。訳
出された仏典の総数は、『瑜伽師地論』、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』など瑜伽唯
識の論典を中心に計 75 部 1335 巻に及ぶ。この分量は中国歴代翻訳総数の 4 分の 1 弱に
相当する。質的な面でも、訳語の統一を図り、原文に忠実たらんとした跡がみられ、中
国訳経史上に一時代を画したため、彼以降の訳を「新訳」
(以前の訳を「旧訳(くやく)」
と呼ぶ。646 年ころ、帝の求めに応じてインド・西域に関する見聞録『大唐西域記(だい
とうさいいきき)』を弟子の弁機に編述させ、完成する 。664 年(麟徳 1)2 月 5 日 、63 歳(一
説に 65 歳。ほか異説あり)で示寂。]
645. 7.10 [6.12]【日本】未明に中大兄皇子が中臣鎌足らと、権勢をふるっていた蘇我入
鹿を宮中で暗殺する。大化の改新の始まり。
645. 7.17 [6.19]【日本】初めて「大化」と元号をたてる。
645. [8. 5]【日本】男女の法を定め、良・賤の区別を明らかにする。人民を良人(りょう
じん)と奴婢(ぬひ)に 2 分し、各身分間の所生子の帰属(所生の奴婢については主に所有
権)を規定する。良人男女間の子は父に配する。良男と婢の間の子は婢に配し、良女と
奴の間の子は奴に配し、奴婢間の子は婢に配し主家の所有とする(奴婢となる)。寺家
の仕丁(しちょう)(隷属民)は、奴婢とされている場合以外は良人に準じて法が適用さ
れる
646(大化2)
646.[ 1. 1]【日本】大化改新の詔(みことのり)を発布する。この詔で、公用文書の伝達
- 66 -
のため駅馬(えきば)、
伝馬(てんま)を置くことが示される 。
京都∼九州太宰府間に約 16km
間隔で駅馬を置き、緊急公用情報は使者が馬を乗り継いで 5 日間で走る。[ 701 年、大宝
令(たいほうりょう)によって制度的確立をみる。平安時代後期に、宿駅制度となり、住
民に次の宿駅までリレー輸送を義務づける。1872 年、宿駅制度が廃止され、その後の鉄
道の発達におされるかたちで宿場町は衰退する。]
646.○【中国】唐の高僧玄奘(げんじよう)(三蔵(さんぞう)法師)がインド旅行(629 ∼ 645 )
中の見聞を語ったものを、弟子の弁機(べんき)が筆録した『大唐西域記(だいとうさいい
きき) 』12 巻が成る。玄奘の歩いた順に、138 ヵ国にわたって 、地理 、風俗 、産物、言語 、
伝承、仏教事情が述べられている。[以後、この時代のこれらの地方の民族や政治、文化
などを知るうえの貴重な史料となる 。
]
650(白雉1)
650.○【インド】この頃、南インドで中期密教の体系化が進み 、
『金剛頂経(こんごうち
ょうぎょう)』が成立する。
653(白雉4)
653.○【中国】[永徽(えいき) 4] 唐の太宗の『温泉銘』の拓本が作られ、墨書される。
拓本技術の跡をとどめる。[のちに敦煌石窟(とんこうせっくつ)で発見される。この頃、
版材に木を使った最古の凸版印刷である「木版」が行われ、経典、仏像、紙幣などの印
刷に使われ始める。]
667(天智6)
667.[ 3.19 ]【日本】中大江皇子(42 )が、大王の宮を琵琶湖西岸の大津宮に移す。新羅(し
らぎ)侵攻の脅威のもと、外敵の攻めにくい内陸部に位置し、人心を一新し、東西南北に
水陸の交通網が広がる利点に着目する。[以後、人々の評判は悪く、火災など異常が頻発
する。670.[6.24]壬申の乱が起こり、都は兵火で廃虚となる。572.冬 大海人皇子(天武天
皇)が、飛鳥浄御原(きよみはら)宮(のち、奈良)に都を移す。]
668(天智7)
668.[ 1.3 ]中大江皇子(43)が即位して、天智天皇となる。
○【中国】(総章 1 )唐の高宗が、宮中で『老子化胡経(ろうしかこきょう)
』の真疑を対
決させた結果、仏教側が勝利し、いっさいの『老子化胡経』の焼棄を命じる。老子が釈
迦を教えたと説く道教の偽経『老子化胡経』に対抗して、仏教側も老子を仏弟子とする
『老子大権菩薩経』等を偽作して、隋・唐の間にあってその争論の中心となっていた書
物を消滅させる。[ 1908 年、フランスの東洋学者 P. ペリオが敦煌から残巻を発見する。]
671(天智10)
671. 6.10 [4.25]【日本】近江大津宮(のち、近江神宮)で、漏刻(水時計)で初めて鐘鼓を
打って時を知らせる 。琵琶湖岸の新しい内裏の一角に漏刻を据えて、1 日を 12 等分した 1
時(とき)ごとに鐘が打ち鳴らされる 。宮門はその音に合わせて開閉される。647 年以来、
- 67 -
午前 4 時に集合し日の出を待って参内する官人の出勤規則が、音で確認されるようにな
る。
[のち、
『日本書紀』天智(てんじ)天皇 10 年 4 月 25 日の項に〈
「漏剋(ろこく)(漏刻(ろ
うこく))を新しき台(うてな)に置く。始めて候時(とき)を打つ。鐘鼓(かねつづみ)を動
(とどろか)す〉と記述される。1920 年、東京天文台と生活改善同盟会が、〈時間をきち
んと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう〉と、この 6 月 10 日を時間を尊重、
厳守し、生活の改善、合理化を進めることを目的とする日として「時の記念日」と制定
する。天智天皇を祀(まつ)る近江神宮では、毎年この日に漏刻祭が行われる 。
]
676(天武5)
676.○【日本】下野国の百姓が、売子の許可を願い出るが、許されない。
682(天武11)
682.○【日本】記録にみえる最初の辞書『新字(にいな)』44 巻が成立する。[以後、現存
せず、内容は未詳である。]
686(朱鳥1)
686. 5.−【日本】教化僧宝林が、願経『金剛場陀羅尼(だらに)経 』
(智識経)を筆記する。
[以後、現存する最古の願経となる。]
691(持統5)
691.○【日本】詔(みことのり)により、奴婢の制を定め、貧窮の父母による売子は効力
を認める。
700(文武4)
700. [ 6.17 ]【日本】刑部(おさかべ)親王(天武皇子が、藤原不比等(ふひと)や渡来人一
世あるいは渡来系氏族出身者ら 19 人に大宝律令を撰定させ、禄を与える。
[この年、行
政法としての「令」が完成する。
]
700.○【中国】この頃、『妙法蓮華経』が印刷される。?
701(大宝1)
701. [ 3.21]【日本 】対馬が金を献上したので、大宝と建元する。大宝令(たいほうりょう)
を施行し、位階(五位以上)と官制を新令に従って改正する 。中央集権的国家体制を築く。
唐の駅伝制度が日本にも伝えられ、律令時代の駅制がつくりあげられる。この頃の日本
では、驛を「うまや」と訓じる。伝の本字は「傳」であり、宿場における継立て用の車
馬を意味する。字の中に「車」という字が含まれているように、傳は宿場の車もしくは
馬車をさす。転じて 、馬車を備えた宿場の意味に用いられるようになり、あわせて驛傳(駅
伝))という。
701. [8. 3]【日本】刑罰法としての「律」の編纂が完了し、大宝律令(たいほうりつりょ
う)が完成する。ここに律 6 巻、令 11 巻の大宝律令が揃い、律令国家が完成する。すべ
ての土地が国家の所有であることが明確にされる。
[702.[ 2.1] 諸国に頒布する。[7.30]
- 68 -
大宝律の講義が、初めて文武官人在京国司に行われる。この律令は 757 年(天平宝字 1)
まで施行され,その間に日本の律令制の骨格がかたちづくられる 。
]
702(大宝2)
702.[ 2. 1]
【日本】大宝律を諸国に頒布する。
702.[ 3. 8]
【日本】大宝律令の制定に対応して度量を定め、全国に告知する。唐の制度
にならい尺、寸、升などの量と単位が使用される。[のち『続日本紀』に〈はじめて度
量を天下諸国にわかつ〉と記述され、日本で初めて度量(度量衡)という語が現れる。]
702.[12.14]
【日本】大宝律令を諸国に頒布する。頒布に際し〈新印様を頒付〉とあり、
中国にならって印章の制度を整えようとしたもので、文献上で日本の印章に関する記述
の初めとなる。
702.○【日本】この年に日本で漉かれた紙が正倉院に伝わる。美濃、筑前、豊前の戸籍
用紙で、年代の明らかな最古の紙であり、すでにそれぞれの地域の特色があらわれてい
る。[以後、奈良時代の『正倉院文書』には紙名や加工和紙名が数多く記されており、紙
漉きの行われている国として約 20 国がわかっている。おそらく各国府には、国衙(こく
が)(政庁)の指導のもとに製紙場が設けられ、地方で使用する紙をまかない、さらに上等
の紙を中央に納めたものと思われ、紙漉きの技術はいちはやく全国に伝播したものとみ
られる。]
704(慶雲1)
704.○【日本】鋳銅印を造って国々に下付する。官印の私鋳を禁じ、宮内省の鍛冶司が
鋳造して太政官庁を経て諸国・諸省その他の役所に頒布する。
708(和銅1)
708.[ 1.11 ]【日本】武蔵国秩父郡で産出された天然の銅、すなわち和銅(にぎあかがね)が
朝廷に献じられ、慶雲の年号を和銅と改める
708. [2.11]【日本】初めて造幣を監督する役所である催鋳銭司(さいちゅうせんし)が置
かれる。
708. [ 5.11]【日本】銀銭の和銅開珎(かいちん)が鋳造され、使用が始まる。
708. [8.10]【日本】近江国で銅銭の和銅開珎が鋳造され、使用が始まる。ふほん銭に続
いて日本における本格的な貨幣が流通し始める。人々は慣れない貨幣の使用に戸惑いを
見せる。[以後、河内、山城などでも和銅開珎をつくらせる。]
711(和銅4)
711. 9.18【日本】元明(げんめい)天皇が、太安万侶(おおのやすまろ)(安麻呂)に詔して、
稗田阿礼の誦み習うところの神代から推古(すいこ)天皇に至るまでの古事を筆録し献上
せよと命ずる。[以後、安万侶は種々くふうを凝らしてこれを呉音で訓読した筆録を行い 、
序文および上・中・下の 3 巻の書物とする。709 年正月 28 日に奏上する。]
712(和銅5)
- 69 -
712. 1.28 【日本】大安万侶が『古事記』を撰上する。神代から推古(すいこ)天皇に至る
までの古事を記録し 、出雲(いずも)の国譲(くにゆず)り 、天孫降臨(てんそんこうりん) 、
日向(ひゆうが)3 代などの物語を載せ、天地・万物の生成、天皇支配の起源と正当性な
どを説明する。おおらかな性語や性表現に溢れているが、この頃は猥褻文書などとはさ
れない。[以後、現存最古の歴史書となる。]
713(和銅6)
713. 5. 2【日本】元明天皇の命により,諸国の国司・郡司を総動員して郷土誌的文書を作
成させることになる 。
[以後 、
『続日本紀』和銅 6 年 5 月 2 日条に〈畿内七道諸国は,郡
郷の名は好き字を著け、その郡内に生ずるところの銀銅、彩色、草木、禽獣、魚虫等の
物は具(つぶさ)にその品目を録し 、
及び土地の沃涯(よくせき)、
山川原野の名号の所由(い
われ) 、また古老相伝の旧聞異事は、史籍に載せて言上せよ〉と記述される。この文書は 2
通か 3 通作られ、それぞれ地元の国庁と中央の官庁に保存される。平安時代、中国の風
土記に魅せられた学者文人たちがこれを「和銅風土記」と呼ぶようになる。733 年(天平
5) 、
『出雲国(いずものくに)風土記』が成る。これは節度使が編修主体となったもので、
軍事的要素が加味されて実用性の強い地誌としてあらわれていて 、「和銅風土記」とは
やや異質のものだが、この期のもの(豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)の風土記など)を含めて
「古風土記」と呼ばれ、記紀には見ることのできない地方民衆の風俗や民間伝承が豊富
に盛られている点できわめて貴重な古典となる。
]
718(養老2年)
718.○【日本】養老令が制定される 。
「以後、この中の「職員令」の中で、陰陽寮に 2 人
の漏刻博士がおり 20 人の守辰丁を使って時刻を監視し鐘鼓(しょうこ)をうって時を知ら
せると記載される。]
720(養老4年)
720. [5.21]【日本】天武天皇第 5 皇子舎人(とねり)親王( 45)を中心に、この頃随一の文
章家紀清人(きのきよひと)、三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)らが日本最初の編年体の歴
史書『日本紀』(のち、『日本書紀』
)を完成、30 巻に系図 1 巻を添え、撰上する。神代
より持統天皇の代までの事績が、漢文で書かれる。また中国の史書にならい編年体で記
述されるなど、国際的プロトコルを考慮して作成される。読みも漢音による。内容は多
くの性表現が含まれているが、猥褻文書として取り上げられることはない。[以後、日本
最初の正史、いわゆる六国史(りっこくし)の第一とされる。添えられた系図 1 巻は散逸
する。平安初期のころから「日本書紀」と呼び、『古事記』と併せて「記紀」というよ
うになる。]
720.○【日本】この頃、ろうそくがつくられる。
724(神亀1)
724. [ 2. 4]【日本】聖武(しょうむ)天皇(在位 724 ∼ 749)が即位する。[以後、光明(こう
みょう)皇后と国分寺の建立を発願(ほつがん)し、国ごとに国分寺を建てさせ、鎮護(ち
- 70 -
んご)国家を祈らせる。大和の東大寺が総国分寺に、法華(ほつけ)寺は総国分尼寺と定め 、
全国ネットワークの中枢となる。
『続日本紀(しよくにほんぎ)』の 741 年(天平 13)1 月 15
日条に「国分寺」が記述され、ついで翌 742 年 11 月 17 日「大養徳(やまと)(大和)国城
下(しきのしも)郡司優婆塞貢進文(ぐんじうばそくこうしんもん)」(正倉院文書)に記載
される。]
725(神亀 2 )
725.○【日本】奈良時代。人口は約 451 万人。(国立社会保障・人口問題研究所『人口統
計資料 2004』)
729(天平1)
729.○【日本】この頃、官立の写経所で数多くの仏典が写経生によって書写され、写経
事業が盛んになる。[ 749 までの天平年間、写経事業が盛んに行われる。]
729.○【日本 】この頃 、朝廷が、唐の新しい情報を直輸入しようとして、従来の「呉音」
に代えて漢籍や一部の仏書には用いられていた「漢音」を「正音(せいおん)」として普
及に努める。[以後、呉音を排除するには至らず、両者併用される。]
732(天平4)
732.10.15【フランス】フランク王国にウマイヤ朝イスラム軍が大挙侵攻し、ボルドーを
占拠し、さらに北上を続けようとした際、宮宰(きゅうさい)カール・マルテル(44 ?)が、
トゥールとボアティエ間でイスラム軍を撃退し、北上を阻止する。[のちに「トゥール・
ボアティエ間の戦い」と呼ばれる。以後、マルテルのカロリング家がメロヴィング家に
代わり王国を支配し、ヨーロッパの萌芽をつくる。800 年 12 月 25 日、カロリング家の
フランク王カールⅠ世が、ローマ皇帝に戴冠され、カロリング朝を発展させる。]
733(天平5)
733.[ 2.−]【日本】『出雲国風土記(いずものくにふどき)』1 巻が成立する。出雲国 9 郡
の地理、産物、伝説、神話などを郡ごとに記す。[以後、現存する 5 風土記のうち唯一の
完本となる。]
735(天平7)
735.○【日本】釈迦一代の行歴を説いた『絵因果経』が写経生により書かれる。上段に
過去・現在、因果経の意味を絵にして入れ、下段に経文を書く。
740(天平12)
740.○【日本 】藤原広嗣の乱が起こる。この時、広嗣が国内兵士を徴発する際に、烽(と
ぶひ)が使用される。[烽は日本古代の軍事施設で、飛火の意。各地と都を結ぶ連絡網の
一つで、都の周辺には都に直結する烽がおかれ、それらが軍要地の烽と結ばれていた。
烽が実際に使用された例は、この例しかわかっていない。]
- 71 -
746(天平18)
746.○【日本】具注暦(漢字のみで書かれた暦)が作られる 。
[以後、東大寺正倉院文書と
して収められ、現存する最古の具注暦となる。
]
747(天平19)
747.○【日本】奴婢売り券が作られる。[この年と翌年の奴婢売り券 2 通が正倉院に現存
する。]
749(天平勝宝1)
749. 7.−【日本】聖武天皇の譲位によって第 46 代に数えられる女帝孝謙天皇( 31)が即位
する。実権は、紫微中台(しびちゅうだい)を設け藤原仲麻呂を紫微令に任じた母の光明
皇太后が掌握する。
751(天平勝宝3)
751.○【朝鮮 】慶州の仏国寺に、三重石塔の釈迦塔が建立される。[以後、
「開かずの塔」
として有名になる。この中から木版印刷の『無垢浄光大陀羅尼経』が発見され、751 年
以前に作られた世界最古の木版印刷物とされる。]
751.○【中央アジア】サラセン(アラビア)軍と唐軍が中央アジアで戦う。唐軍は大破し
てトルキスタンの首府サマルカンドが陥落する。捕虜の唐兵の中に製紙工がいて、製紙
技術がアラビア人に習得されて、サマルカンドに製紙工場がつくられる 。原料はボロで、
「サマルカンドの紙」と呼ばれる。[以後、製紙技術の西方への移転が始まり、サラセン
に伝えられて順次西に工場が建てられるようになる。793 年にアラビア人によってバグ
ダード製紙工場が建てられる。]
752(天平勝宝4)
752. 4. 9【日本】奈良の東大寺で、最初の廬舎那仏(るしゃなぶつ)の開眼供養(かいげん
くよう)が行われる。孝謙(こうけん)天皇、聖武太上(しょうむだいじょう)天皇、光明(こ
うみょう)皇太后らの臨席のもと、文武百官および全国の国分寺からはせ参じた僧 1 万人
が参列し、インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)によって盛大に行われる。五節(ごせち)
・久米(くめ)・楯伏(たてふし)・踏歌(とうか)などの歌舞があり、仏法東帰以来初めて
の盛大な斎会(さいえ)となる。[以後、1185 年(文治 1)8 月 27 日に後白河(ごしらかわ)
法皇によってふたたび盛大な開眼供養が営まれる。第 3 回目は、公慶上人(こうけいしょ
うにん)が大仏尊像を修理鋳造して、1692 年(元禄 5)開眼供養が営まれる。]
759(天平宝字3)
759. 8. 3 【日本】756 年に、聖武・孝謙両上皇の勅願により来朝した唐僧過海(かかい)大
師鑑真和上(がんじんわじょう)が、奈良に唐招提寺を建立する。勅額が下賜され、その
勅文に 、
〈招提是諸寺本寺十方僧依所、日域七衆根本寺、故號唐招提寺〉とあり、四方
僧坊の義をとり、諸寺の根本とする。[以後、天皇・皇后以下百官も皆ここで受戒し、帰
依(きえ)も厚くする。1900 年、独立して律宗総本山となる。1998 年、世界遺産の文化遺
- 72 -
産として登録される。]
760(天平宝字4)
760. 3.16 【日本】新銭の「万年通宝」
、銀銭の「大平元宝」
、金銭「開基勝宝」が鋳造さ
れる。開基勝宝は日本初の金貨で、型を造って溶融した金を流し込んで鋳造したもの。
762(天平宝字6)
762.○【中国】上都(長安)東市の大(?)家が、具注歴(漢字のみで書かれた暦)を刊行す
る。
764(天平宝字8)
764. 9.−【日本】恵美押勝(えみのおしかつ)の乱が起こる。女帝孝謙皇帝(46)が、追討
軍を発遣して仲麻呂一族を湖西に敗死させ、淳仁天皇を廃して淡路に配流し、代わって
称徳天皇として重祚する。[以後、称徳天皇は道鏡を重用し、太政大臣禅師に任じ、つい
で法王の位を授け、法王宮職を設置する。その結果、道鏡は宇佐八幡神の託宣と称して
皇位につこうとするが、和気清麻呂が神教を復奏して妨げ、実現しない。]
764.○【日本】この年の『正倉院文書』に、生紙(いきがみ)に対する加工紙の意で、〈熟
紙(しゅくし、じゅくし)〉という言葉が初めて登場する。故人をしのんでその生前に使
った紙を漉き返して写経に用いたことい始まるといわれるが、写経のほかにさまざまな
文書に用いられる。]
770(宝亀1)
770.[ 4.26 ]【日本】唐から伝えられた木版技術によって『陀羅尼経』の印刷が完成する。
恵美押勝(えみのおしかつ)の反乱を平定するに際して、法力の加護を祈念して、木製の
高さ約 20cm の小塔「恵美三重小塔」を 100 万基作り、その内部にこの経を入れて、全
国の十大寺に分置する。経は幅約 5cm、長さ約 40cm の巻物で、本文には 4 種の異版が
ある。[以後 、
『百万塔陀羅尼経』と呼ばれ、印刷年代の明らかな世界最古の印刷物とさ
れる。版の材料が木版か銅版かはいまもってわからない。]
770.○【日本】女帝称徳天皇( 52 )が、道鏡から進呈された「雑物」(張形)」を使用中に、
抜けなくなり大騒ぎになる。[8 月、河内由義(ゆげ)宮(西京)から還幸後、平城宮西宮で
没す。]
781(天応1)
781.[ 6.24]【日本】文人・政治家・大納言石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)( 52)没。生
前は、仏教にも帰依して自宅を阿醗寺(あしじゅくじ)という寺にし、この寺の南東に芸
亭(うんてい)を建てて、儒教の典籍など、仏書以外の図書(外典(げてん))を収蔵し,好
学の徒に開放した。学者賀陽豊年(かやのとよとし)も,宅嗣に好遇されて数年間芸亭で
諸書を閲覧したという。芸亭院とも呼ばれ、日本最初の公開図書館となる。
781.○【西ヨーロッパ】イングランド人神学者、アルクイン Alcuin (ラテン名アルクイヌ
ス Flaccus Albinus Alcuinus)(46 ?)が、カロリング家のフランク王カール 1 世に招かれて
- 73 -
大陸に渡る。[以後、イギリスの僧院に保存されていた古典文化の遺産を大陸に伝え、宮
廷学校や文庫の経営にあたり、フランク王国の教育・宗教行政の整備に尽力して、学問
復興の基を開く。のちに「カロリング・ルネサンス」と呼ばれ、古典文化、宗教、政治の
緊密かつ緊張ある結合を特色とするヨーロッパ中世文化の基礎を定めるのに貢献する。
ラテン語の正確な用法の確立を唱え 、ローマ字に大文字と小文字の使い分けを導入する。
著作は、文法、修辞学、弁証法、幾何学、算術、天文学、音楽など古代学芸における自
由 7 科の手引書をはじめ、
『魂の本質について』の哲学的著作、三位(さんみ)一体につい
ての神学的著作など多岐にわたる。804.5.19 6 9 歳(?)で没。]
782(延暦1)
782.○【日本】この頃、大伴家持が中心となって『万葉集』20 巻を集成する。
789(延暦8)
789.○【西ヨーロッパ】この頃、カロリング家のフランク王カール 1 世が、
「教育勅令」
を発布し、国内の青少年に教育的基礎を施すことを命じる。また、布教用に大量の写本
つくりを命じる。この時に当たり、神学者アルクイン Alcuin( 55 ?)は、これまでの荘重
な書体「アンシャル体」に代わる新たな筆記書体「カロリング(カロリンガ)体」を創始
する。[以後、フランス最初の軽快な筆記体が用いられて、写字生により大量の写本がつ
くられ、流布される。]
793(延暦12)
793. 6. 8【イギリス】北海を越えてやってきたデーン人(デイン人)バイキング(ヴァイキ
ング)( Viking)の一団が、ブリテン諸島北部の島々を根拠地として、イングランド北部ノ
ーサンブリアの海岸に位置するリンディスファーン島にある修道院を突如襲う 。
[795 年、
アイルランドを攻撃する。以後、イングランドをはじめ大陸各地をしばしば襲い、混乱
に陥れる。
]
793.○【イラク】アラビア人によって、バグダードに製紙工場が建てられる。[ 10 世紀、
エジプトのカイロを中心にして製紙工場が多く建てられ、アマを原料とする製紙が行わ
れる。]
794(延暦13)
794.○【日本】桓武天皇が、都を長岡京から平安京に遷す。水陸交通の便のよい山背(や
ましろ、山城)国愛宕(おたぎ)・葛野(かどの)両郡にまたがる地(のち、京都市)に平安京
が造営される。[以後、長安を模して碁盤の目状の市街が造られる。形式的には 1869 年(明
治 2)の東京奠都(てんと)まで 1275 年間続く。]
799(延暦18)
799.○【フランス】ノルウェー系バイキングが、フランス西岸,ロアール河口のノアー
ル・ムーティエ島を襲撃する 。
[814 年、セビリャ,コルドバ、860 年、ニーム,アルル,
ピサ、842 年、ルーアン、843 年、ナントなどを襲撃する。しかし、ノルウェー人のおも
- 74 -
な活動はアイルランドを中心とするブリテン諸島に向けられる 。
]
800(延暦19)
800.12.25【バチカン】聖ピエトロ寺院で、カロリング(カロリンガ)家のフランク王カー
ルⅠ世(大帝)(58)が 、教皇レオ 3 世( 55 ?)の手によって 、ローマ皇帝の冠を授けられる 。
[以後、ヨーロッパで彼に臣従していないのはイングランドとイスパニア(のち、スペイ
ン)の小国だけとなる。巨大国家の君主としてカロリング朝を発展させる。]
800.○【アラビア】この頃、アル・フワーリズミー al-Khw ロ rizm ロ(780 頃∼ 850 頃)が、
アラビア数字をインドから導入し、
『代数学』を著す。[12 世紀に、ヨーロッパでラテン
語に翻訳され、ヨーロッパに初めて代数というものの存在を教える。彼の名前が転訛し
て、アラビア記数法やそれに基づく計算を意味する「アルゴリズム」という語ができる 。
「アルジェブラ algebra =代数学」という語がこの本の書名の一部 al ‐ jabr (移項して負
の項をなくす操作)に由来する。このように西ヨーロッパ世界の数学に大きな影響を及
ぼす。]
800.○【ヨーロッパ】この頃、修道院の工房における手写本生産が増加する。
804(延暦23)
804. 5.19【フランス】イングランド人神学者で「カロリング・ルネサンス」の功労者アル
クイン Alcuin (69 ?)が、トゥールで没する。
804. 7.−【日本】空海( 31 )が、遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)の船に橘逸勢(たちば
なのはやなり)らと同乗し、唐留学に出発する。[途中、暴風雨にあい九死に一生を得て
入唐する。]
804.12. −【中国】空海が、遣唐大使藤原葛野麻呂に従って長安に到着する。[以後、唐の
長安に留学する。翌 805 年、長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵(はんにゃさんぞう)ら
に就いてサンスクリット(梵語(ぼんご))やインドの学問を学習する。同年 6 月から半年
間、青竜寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)から密教の伝授を受けて、真言密教の第 8
祖を継ぐ。12 月 15 日、恵果(60)が没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く。
長安滞在中、唐の仏者たちや文人墨客と交流し、広く文化を摂取する。男色の習俗も実
地に見る。806 年、帰国する。]
806(大同1)
806. 8.−【中国】空海( 32)が、越州に着いて内外の経典を収集し、明州を出発して帰国
の途につく。
806.10.−【日本】空海( 32 )が、唐より膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅(まんだら) 、
その他の文物をたずさえて帰国する。男色の習俗も持ち帰る。[ 12 月、月遣唐判官高階
遠成に付して『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出すが、入京は許されない。 807
年 4 月観世音寺に入り、次いで和泉国に移る。809 年 7 月に入京し、京都高雄山寺(たか
おさんじ)(神護寺)に入る。翌年、国家を鎮める修法を行う。812 年、比叡山(ひえい
ざん)の最澄(さいちよう)や弟子に灌頂(かんじょう)(水を頭に注いで仏位につかせる儀
式)を授ける。816 年 6 月、43 歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場と
- 75 -
するために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏し、7 月 8 日に勅許を得る。819 年 5 月から
伽藍(がらん)の建立に着手する。高野山は、天台宗の比叡山とともに平安初期の山岳仏
教の拠点となる。821 年 9 月 、四国讃岐の満濃池(まんのうのいけ)(のち、香川県満濃町)
を修築し、農民のために尽力する。823 年 1 月 、京都の東寺 (教王護国寺 )を給預され、
ここを京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める。828 年 12 月、東
寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開設す
る。835 年 1 月 、宮中真言院で後 7 日御修法(ごしちにちみしゅほう)を行い、同年 3 月 21
日に高野山で入滅する。没年 62。921 年醍醐(だいご)天皇から弘法大師の諡号が贈られ
る。]
807(大同2)
807.○【日本】古代の氏族である斎部(いんべ)氏の由緒を記した歴史書(のち 、
『古語拾
遺(こごしゅうい)』)が成立する。祭祀(さいし)を担当した斎部広成(いんべのひろなり)
が撰集したが、内容は同様の職掌に携わっていて勢いを強めた中臣(なかとみ)氏に対抗
して提出された愁訴(しゅうそ)状で、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神の国
生みと、神々の誕生神話から筆をおこし、757 年(天平宝字 1 )の時代までのことが記述さ
れる。
814(弘仁5)
814.○【チベット】ヒンズー教の性力崇拝(シャクティズム)の影響下に成立したインド
の在家密教(性瑜伽)が流行する。政府はこれを警戒して禁止する。また、勅令で関係経
典の訳出を禁止する。
820(弘仁11)
820.○【大西洋】この頃、ノルウェー系バイキングが、細長く両端が反り上がったバイ
キング船で帆走し、遠洋航海ののち、ブリテン北部の北にフェロー諸島を発見し、ここ
に植民する。
]
824(天長1)
824.○【中国】(長慶 4)白居易( 42 )の『白氏長慶集』50 巻を、親友の元嬢(げんしん)が
編纂する。詩を諷諭,閑適,感傷,律詩の順序に分類配列して,そのあとに賦と散文を
収める 。
[825 年、揚州、越州で刊行される。以後、白居易みずから『白氏長慶集』以後
の作品を数度にわたって収録して『白氏文集』を編集する。845 年(会昌 5)、後集全 25
巻を完成する。前巻と合わせて 75 巻を『白氏文集(はくしもんじゅう B ⊂ i sh ≒ w レ n j
∩、以上文字化け)』と総称され、中国最古の個人全集となる。1107 年[5.5] 藤原茂明
が、日本で初めて『白氏文集』を書写する。以後、単に〈文集〉といえば『白氏文集』
を指し、古代の日本文学に最大の影響を与えた書物となる。
]
828(天長5)
828.○【サウジアラビア】アラブの文学家,文献学者アスマイーロ Abd al-Malik al-A ロ ma
- 76 -
ロロ(本名イブン・カリーブ、多くの古事を語ったのでアスマイー(語り部)という名をつけ
られる)(88)が死去する。カイス族出身でバスラに生まれ,のちバグダードに出た。強い
記憶力の持主でラザズ調の古詩1万 2000 句を暗記し,18 箱の本を手もとから離さなかっ
た。[以後、40 余の著書のうち、13 種ほどが残される。詩,動植物名の由来に関するも
のが大部分をしめ、特に『アスマイーヤート詩集』が伝えられる。]
830(天長7)
830.○【アイスランド】この頃、ノルウェー人が、船でフェロー諸島へ向かったが漂流
し、無人のアイスランドを発見する。
[870 年、永住的な植民が始まる。以後 60 年間、
植民が事実上先住者のいなかった島への漸次的で平和的な移住となるり、ここに北欧社
会が雛形として再現される。のちに、アイスランド社会は、バイキング時代の北欧,ひ
いては古ゲルマン社会の研究にとって特別な重要性をもつようになる。
]
836(承和3)
836.○【日本】この頃、馳駅(しえき)(飛駅)が大宰府∼京都間を 6 ∼ 13 日で結ぶ。緊急
を要する謀反以上の大事、大瑞(たいずい)、軍機、災異、外敵来襲などの場合は馳駅を
発する。行程は 1 日 8 駅、馳駅は 10 駅以上、伝馬は 1 日 70 里(約 37km)を原則とする。
845(承和12)
845.○【中国】唐の武宗が、全国の仏寺を打ち壊すよう勅令を出す。仏教教典の印刷本
を所蔵していた河南洛陽の敬愛寺(きょうあいじ)お打ち壊される。
[869 年以降、敬愛寺
の僧恵確(えかく)が、改めて仏典の刊行を発願し、文学者司空図(しくうと)が恵確のた
めに布施を請う文章を書く。
]
847(承和14)
847.○【日本】天台宗の僧円仁(53 )が、845 年(唐の会昌 5 )武宗の仏教弾圧にあい,外国
僧追放令のため長安を去り、帰国する。経典 559 巻,曼荼羅(まんだら)・舎利・法具類 21
種などとともに鍮石(とうせき)印仏を請来する。(『僧円仁請来目録 』
)
847.○【日本】唐の商人 47 人が来着する。
860(貞観2)
860.○【ヨーロッパ】この頃、英語とオランダ語が分岐し始める。(モリス・スウォディ
ッシュによる仮説。
)
861(貞観3)
861.○【中国】長安東市の李家が、最初の印刷本医学書『新集備急灸経』を刊行する。
865(貞観7)
865.○【日本】僧宗叡(しゅえい)が、唐の西(四?)川で刊行された『玉編』(部首分類の
字書)『唐韻』(唐代の漢字を発音別に分類した字書すなわち韻書)および仏典などの書物
- 77 -
を持ち帰る。
868(貞観10)
868.[ 4.15 ]○【中国】[咸通 9] 木版印刷による巻子本(かんすぼん)(冊子本)『金剛般若
波羅蜜多経』が、王?(王+ 介)(ワンチェ)により作られる。製版により 7 枚の紙に印刷さ
れ、貼り合わされて 全巻長さ 16 尺(約 5m) 、高さ 1 尺( 31.1cm)の 1 巻の巻物としたもの。
巻頭に精緻な釈迦説法図の精細な版画が入り、巻末に〈唐咸通九年四月一五日王?(王+
介) 二親の為に敬みて造り普施す〉と印刷開版の年が明記される。文人たちは、古典を
このような方法で印刷することは冒涜行為だと考え、しかも自分たちの写字の仕事がな
くなることを恐れて、木版印刷に反対する。[ 1907 年、イギリス人探検家オーレル(アウ
レル)・スタイン率いる西域探検隊が、敦煌の石窟寺・千仏洞内の密室内に隠されている
のを、略奪同然の方法で買い取り、大英博物館に寄贈する。印刷開版の年を明記した最
古の冊子体の現存書籍とされる。]
869(貞観11)
869. 2.−【ギリシア】サロニカの伝道僧コンスタンティノス Constantinos, Konstantin( 43 )
が死去する。永眠に先だつ 50 日前に修道士となり、以後キリル(キリロス)Кирилл
と称した。生前に、兄弟のメトディオスと共に、ギリシア正教の布教のためにギリシア
語で書かれた福音書、祈祷書をスラブ語に訳した。その際、スラブ人には文字がなかっ
たので、キリロスがギリシア字母の大文字の形に基づいてつくった文字を考案して使用
した。
[以後、このスラブ・アルファベットは、彼の名をとってキリル文字と呼ばれ、の
ちのロシア文字の母体となる。この文字で書かれたスラブ最古の文献の言語は古代スラ
ブ語、あるいは教会スラブ語と呼ばれる。のち、ロシア語、ウクライナ語、ブルガリア
語、セルビア語、マケドニア語などのスラブ語派に属する言語のアルファベットへと発
展する。]
875(貞観17)
875.○【スコットランド】ジューインⅢ世が初夜権を確立し、また別途「一般庶民の妻
は貴族に開放されるべきこと、地主は所有地に住むすべての処女の処女膜を獲得できる」
という法律を定める。[以後、中世初期まで存続する。]
894(寛平6)
894.[ 10. ]【日本】菅原道真の建言により遣唐使が廃止される。
900
900.○【エジプト】カイロに製紙法が伝えられる。
905(延喜5)
905.[ 4.18]【日本】醍醐天皇の勅命によって、紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(とものり)、
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)が撰者として『古今和
- 78 -
歌集』の編集にあたる。
923(延長1)
923.○【中国】突厥(とっけつ)出身の李存勗(りそんきょく)が、後梁を滅ぼして後唐(こ
うとう)を起こし、洛陽を都とする。宰相に馮道(ひょうどう 、フウドウ)が就任する 。
[以
後、馮道は後晋・遼・後漢・後周と五朝十一帝に宰相として仕える。932 年、馮道は古
典を保存・普及する手段として木版印刷の利点を挙げ、皇帝への上奏文に木版印刷を正
式に薦める。
]
932(承平2)
932.○【中国】後唐(こうとう)の宰相馮道(ひょうどう、フウドウ)が、皇帝への上奏文
で、儒家の経典の正本を保存・普及するため版印刷すべきことを薦める。これまでの王
朝が繁栄を誇っていた時代には 、
「石碑に彫った経典」を次々に作ってきたが、その余
裕を失った今、次善の策として「九経」(『易経』
『書経』
『詩経』
『周礼(しゆらい)』
『儀
礼(ぎらい) 』『礼記(らいき) 』
『春秋左氏伝 』
『春秋公羊(くよう)伝 』
『春秋穀梁(こくり
よう)伝』
『孝経』
『論語』
『爾雅(じが)』の 12 経)の刊行を建策する。
[以後、953 年にか
けて、大学者田敏(でんびん)らが中心となり、博士、儒徒を招集し、石碑の経文にもと
づき詳細に本文を校訂し、経典のテクスト編纂を行い、書道の名手に依頼して楷書で浄
書したうえ、刻工を組織して版木に彫り、国子監(こくしかん、この頃の大学)で印刷を
行う。政府が大規模に出版を行った最初の例となる。のちにこれらの本は「五代監本九
経」と呼ばれる。この成功により、木版印刷が公認のものになり、やがてあらゆる分野
の書物が印刷されるようになる。政府が印刷業を提唱したことで、士大夫が個人的な書
物「家刻本」を出版することも多くなる。
]
934(承平4)
934.○【日本】この頃、源順(したごう)が、日本初の百科事典『倭名類聚鈔(わみょうる
いじゅしょう)』(『和名類聚抄』『和名抄』『倭名鈔』ともいう)を編纂する。分類体漢
和対照辞書で、10 巻または 20 巻。源順約 2600 の漢語を分類し、その文例・語釈を漢籍
から引用して、割注で字音と和訓を示す。従来の『楊子(ようし)漢語抄』『弁色立成(べ
んしきりゆうじよう) 』
(いずれも逸書)などの漢和対訳語彙(ごい)集を集成し、漢籍を
引用して学問的権威づけを施したもの。[以後、辞書の一つの標準として後の時代に影響
を与える。10 巻本(24 部 128 門)と 20 巻本(32 部 249 門)の 2 系統があり、いずれを
原撰とみるかで論が分かれている。20 巻本は職官、国郡、郷里、曲調、薬名など、語彙
や地名を列挙するのみの部門がある。]
950(天暦4)
950.○【ヨーロッパ】この頃、楽譜に譜線を用いることが始まる。これは譜線ネウマ staff
neume ないし隙間(音程)ネウマ(diastematic neume, interval neume )とよばれ、それ以前の
ものはカイロノミック( cheironomic neume )とよばれる。
- 79 -
970(天禄1)
970.○【エジプト】世界最初の大学の一つ、アズハル大学(Al-Azhar University )(正式名称
アル・アズハル大学)が、カイロに創立される。もともとシーア派のモスクに起源をもつ。
[以後、イスラム研究の中心的存在としてアラブ世界に君臨する。18、9 世紀に、イギリ
ス・フランスの支配下にあって大学の近代化が図られる。1936 年に、イスラム法学、イ
スラム神学、アラビア語学の 3 学部に再編される。1961 年高等教育省設立後はエジプト
のすべての大学がその管轄下に入るが、例外としてこの大学のイスラム法学部とイスラ
ム神学部は独自の自治権を維持する。学生選抜法も他大学とは異なり、イスラムの遺産
を継承、発展、普及させ、アラブ世界を再興することを目的とする。]
977(貞元2)
977.○【中国】(太平興国 2)李隈(りぼう)らが、太宗の勅命をうけて『太平類編』の編纂
を開始する。
[984 年、6 年 9 ヵ月の歳月をかけて,1000 巻の一大類書を完成させる。以
後、
『太平御覧』とも呼ばれる。]
982(天元5)
982.○【アイスランド】アイスランドに移住したノルウェー人、ヴァイキングの族長の
赤毛のエイリーク( 30?)が、殺人事件のため 3 年間の追放処分となり、西方に航海し、大
きな島を発見する。入植への期待を込め「グリーンランド(緑の島)」と名付ける 。[985
年、故郷に戻り、入植者を募って船で出発する。986 年、グリーンランドに植民を組織
する。最盛期には、2 ヵ所に計 280 の農場があったと伝えられる。13 世紀以後、気候の
悪化もあって衰退し,1500 年ころ絶滅する。1000 年ころ、赤毛のエイリークの息子レイ
ブが、カナダ北東海岸からニューファンドランドを発見する。
]
983(永観1)
983.○【中国】(太平興国 8)宗朝政府が、成都で『大蔵経』の版木を掘らせ、12 年の歳
月をかけて版木 13 万枚余にて、1076 部を収録した『大蔵経』を完成させる。太宗は同
年、版木は開封に移送させ、専門の印刷所「印経院」を設置する 。[以後、政府が直接
印刷を管理する。1071 年(神宗熙寧 4)、政府が版木を開封の顕聖寺聖寿禅院に移管し、
民間に公開し、国内いずれの寺院でも、自ら紙を整え版木を借りて印刷が行えるように
する。1108 年(徽宗大観 2)までに、大蔵経は幾度も修補改訂が行われ、少なくとも 7 回
印刷が行われる。
]
984(永観2)
984.[ 11.28]【日本】鍼博士丹波康頼(たんばのやすより)が、隋・唐の医書,方術書等百
数十巻を渉猟し約 3 年の歳月をかけて医書『医心方(いしんぽう)』撰述し、30 巻が完成
し、円融天皇に奏進する。主に随の巣元方の『病原候論』による医学全書(内科,小児
科,産婦人科,養生,房内等を含む)で、30 巻より成る。[以後、戦国時代に正親町天
皇から典薬頭半井瑞策(なからいずいさく)に下賜されるまで康頼自筆の正本は宮中に秘
蔵される。その間,丹波家の控本は増補・伝写されて宇治本,仁和寺本,延慶本,相国
- 80 -
寺本その他の伝抄本となり,民間に伝わって利用される。また,それを抜抄・改編した
『医略抄』『産生類聚抄 』
『衛生秘要抄 』
『遐年要抄』等として活用される。1854 年に幕
府の医学館で医書校刊事業の一つに取り上げられ,1860 年に刊行される。1909 年に、書
肆浅倉屋がこの板木を使って再刷すた。本書に引用された医書類は,中国も含めてその
ほとんどが今日散逸したか現存しても宋代の改修を経ているので,書誌的価値が高く,
本書をもとに数本が復元されている。]
984.○【中国】李隈(りぼう)らが、太宗の勅命をうけ、 6 年 9 ヵ月の歳月をかけて,一大
類書『太平類編』全 1000 巻を完成させる。
『易』昔辞の〈凡そ天地の数,五十有五〉に
もとづいて,全体を天,時序,地,皇王,偏覇,州郡など 55 門に分け,あらゆる事類を
網羅することを示す。各門をさらに類に分け,すべてで 4558 類になる。引用書は 1660
種にのぼり、前代につくられた『修文殿御覧 』
『芸文類聚 』
『文思博要』どの類書から転
引したものも多い。
[以後、太宗が毎日 3 巻ずつ、1 年かけて読み終え、
『太平御覧』の
名を賜る。のちに作られる『太平広記』
『文苑英華』
『冊府元亀 』と合わせて「宋四大書」
と称される。
]
985(寛和1)
992(正歴3)
992.○【中国】太宗の命により、医学薬学の書物を集大成した『太平聖恵方』が完成す
る。
[以後、各州に頒布される。1147 年、福建路転運司公庫が、再刊する。
]
1000(長保2)
1000.○【西ヨーロッパ】キリスト教世界に、紀元 1000 年に世界が消滅するという「千
年恐怖」がひろがる。この年にこの世の終わりと最後の審判が下されるという噂がしき
りになされて、人々を恐怖のどん底に陥れる。巡礼が盛んに行われ、白い石造りの教会
堂が盛んに建設され始める。
1000.○【中国】この頃、磁気コンパスがつくられる。[ 12 世紀末ごろ、ヨーロッパに伝
えられる。]
1000. ○【カナダ】グリーンランドを発見した赤毛のエイリークの息子レイブが、カナダ
北東海岸からニューファンドランドを発見し、調査する。ニューファンドランドには植
民が試みられるが、原住民との衝突などにより失敗に終わる。
[以後 、
『赤毛のエイリー
クのサガ』で伝えられる。しかし、ヨーロッパ一般には知られないままだったので、ア
メリカ大陸は 500 年後の 1492 年にコロンブスらにより再発見されることになる 。
]
1001(長保3)
1001. 4 . −【日本 】紫式部が、夫藤原宣孝(のぶたか)と死別する、[秋ごろ、創作物語『源
氏の物語』を書き始める。]
1002(長保4)
1002. ○【日本】この頃、紫式部が長編の虚構物語『源氏の物語』(のち、『源氏物語』)
- 81 -
の一部を書き終える 。[以後、
「光源氏(ひかるげんじ)の物語」
「紫の物語」
「 紫のゆかり」
などと呼ばれ、あるいは「源氏」「源語」「紫文」「紫史」などとも略称される。主人公
光源氏が華やかな貴族世界で、さまざまな女との愛を経験し、栄華に満ちた一生とその
一族たちのさまざまの人生を七十年余にわたって構成し、王朝文化の最盛期の宮廷貴族
の生活の内実を優艶(ゆうえん)かつ克明に描き尽くす。これ以前の物語作品とはまった
く異質の文学を創出する。全 54 巻の完成は、一条(いちじよう)天皇中宮彰子(しようし)
のもとに出仕した 1005 ∼ 06 年(寛弘 2 ∼ 3)までの間と推定されるが、各巻が、どの
時点でどのあたりまで書かれたのかは明らかでない。全部が完成したのちに発表された
のではなく、1 巻ないし数巻ずつ発表されたらしい。まず最初の数巻が流布することに
よって文才を評価された式部は、そのために彰子付女房として起用されたのであろう。
宮仕えののちも、しばしば里邸に下がって書き継いだようだ。1010 年 、
『紫式部日記』
にすでに書かれた巻々の加筆改修もしたらしいことがしるされる。]
1003(長保5)
1003. ○【ヨーロッパ】「千年恐怖」もようやく去り、なにごともなかったので、ヨーロ
ッパ各地に、大聖堂や修道院聖堂や、村々の小教会まで、それまでの木造りであったも
のを、感謝の気持ちを表すために、一斉に白い石造りの立派なものに改築される。
1010(寛弘7)
1010. 夏○【日本】この頃、紫式部が 、
『源氏物語』を完成される。[年末までに『紫式部
日記』をまとめたらしい。]
1010.○【朝鮮半島】契丹(遼)軍が、高麗に侵入する。[ 1011 年、首都の開京(かいけい)
を陥落させる。]
1011(寛弘8)
1011. ○【朝鮮半島】国王顕宗が、侵略してきた契丹(遼)軍の調伏を祈願して、
『大蔵経(だ
いぞうきょう)』の彫版を発願する。[1021 年に着手する。1087 年に完成する。慶尚北道
大邱の符仁寺に収められる。1232 年、モンゴル軍の兵火により焼失する。]
1024(万寿1)
1024. 1.−【中国】この頃、宋が四川の成都に益州交子務(こうしむ)を設置し、民間金融
業者の間で使われていた交子(手形)を官営化する。「官交子」と呼ばれ、世界初の政府
紙幣とされる。材料は、桑の樹の内皮を砕いてパルプにし、手漉きで造った灰色味を帯
びた緑色の紙が使用される。宋は政策上、四川ではもっぱら重い鉄銭を流通させており、
取引に不便を来たしがちであった。四川では以前から成都の富豪 16 家が共同出資して、
私的に手形を発行していたが、富豪が没落し、手形の交換ができずしばしば訴訟が起き
たため、交子務を設置する。
[以後、交子 1 枚を 1 貫として、3 年を兌換有効期限とし、
手数料をとって新しい交子に交換する。のち、期限が 2 年とされる。1126 年、宋室が江
南に移り南宋となると、数種類の紙幣を発行し、盛んに利用される。]
1024. 6.24【イタリア】僧侶ギドーが、教会の合唱隊に聖ヨハネ賛歌を訓練している時、
- 82 -
曲の音に一定の規則のあることに気付く。そこで、それぞれの音に相当する歌詞「ウト
・レ・ミ・ファ・ソレ」で発声練習をさせる。[のち、ド・レ・ミの音階の始まりとされ
る。以後、ウトがドになり、シが新規に加えられる。]
1025(万寿2)
1025. 5.−【日本】雲林院(うりんいん)の菩提講に集まった人々が、講師の登壇を待つ間
の雑談に興じる。その中にかつて宇多天皇の母后班子女王に仕え,当年 190 歳になる歴
史の語り手、大宅世継(おおやけのよつぎ)という翁があり,藤原忠平の小舎人童であ
ったというこれまた百数十歳の夏山繁樹とその妻を相手に,昔の思い出を語り始める。
『大鏡』はこの 3 人の架空の人物に若侍を加えた対話の形で歴史叙述を進めている。
1033(長元6)
1033.○【西ヨーロッパ】キリストの受難から 1000 年がたったこの頃、打ち続く長雨、
飢饉、天災などにより、キリスト教徒の間に最初の「千年王国(ミレニアム)」が終わっ
たとして、終末思想が急速に広まる。災厄は教会にも及び、多くの異端者が現れ、怒れ
る民衆によって火刑に処されるなどの事件が続発する。数知れぬ巡礼者が聖地エルサレ
ムに向かい、主の近くで世の終わりを待とうとする。
1036(長元9)
1036.○【中国】西夏国の政府が、国定文字として西夏文字を公布する。全体で 6133 字
あり ,漢字と似て約 300 種の冠(かんむり) ,偏 ,旁(つくり)などの要素を組み合わせて(44
通り)構成され,形声字,会意字が多い。たとえば,木冠に〈先端〉は梢,水偏に〈重い〉
は沈む,金冠に〈二つに切る〉は鋸(のこぎり)などの会意字を作る。[以後、西夏語の
表記に用いられる。1190 年、西夏文と漢文の対照字典『番漢合時掌中珠』が出版される。
1227 年、西夏国が滅亡する。以後も西夏文字は使用される。]
1040(長久1)
1040.○【中国】(慶暦1) この年から 1041 年の間に、宋の鍛冶屋・錬金術師畢昇(ひっ
しょう)(生没年不詳)が、膠泥(こうでい)の 1 つ 1 つに文字を彫ってそれを火に入れて焼
き固めた 1 文字 1 活字の素焼の活字を作る。[以後、科学者・政治家沈括(ちんかつ、し
んかつ)(1031 ∼ 1095)が、随筆集『夢渓筆談』巻 18「技芸」に畢昇について記述する。
それによれば、民間の人畢昇が、慶暦年間(1041 ∼ 48 )に活字を発明する。印刷は、ま
ず鉄板の上に松脂(まつやに)・臘(ろう)と紙の灰を混ぜたものを一面に塗り、その上に
鉄の枠を置いて、枠の中に素焼きの活字を植字する。ついでこれに熱を加えて松脂など
が溶けてきたら活字を板で押さえ平らに整える。冷却して活字が固定したら墨をつけ、
上から紙を置いて印刷したという。また、畢昇は木活字の製作も試みたが、木活字は水
に濡れると膨張し、版面が高低不揃いになりやすく、また鉄板上の薬物とくっついて取
り外しにくくなるなど、問題点が多かった。結局、泥で活字を製作することとし、木活
字による印刷計画は実現しない。しかし、泥活字も以後発展はしない。]
- 83 -
1041(長久2)
1041.7.18【日本】節日に美服を着ることを、公卿・侍臣らに禁止する。
1050(永承5)
1050.○【日本】平安末期、人口は約 684 万人。(国立社会保障・人口問題研究所『人口統
計資料 2004』)
1050.○【アラビア】この頃、アラビア人たちが天幕製のカメラ・オブスキュラ camera
obscura を楽しんでいる。イブン・アル・ハイサム(アルハーゼン)が、その著作に〈日食
がきれいな三日月形に投影されるのは、小穴の径がきわめて小さい場合のみである〉と
研究報告する。小穴のレンズ作用の光学的記述の初期のものとされる。[のちのカメラの
起源とされる。
「カメラ」はラテン語で〈暗い小部屋〉を意味する。その原理を基に、13
世紀には R.ベーコンが光学的利用を唱え、眼鏡がつくられ始める。イタリアのレオナル
ド・ダ・ビンチも、カメラ・オブスキュラの現象で映し出される映像をトレースして紙に描
き定着させ、遠近法の実験に利用して、正確な記述を残す。1550 年にミラノの物理学者
ジロラモ・カルダーノが、両凸面レンズを穴にはめると、より鮮明な明るい像が得られる
と解説する。レンズの材料は、当初、水晶か透明な緑柱石であるが、やがてガラスが使
われるようになる。]
1050. ○【イタリア】この頃、サレルノが、ベネディクト派の僧院を中心として、気候の
良さから保養地として有名になり医学センターができる。[以後、ヨーロッパ各地から治
療を目的とした患者が多く集まり、ギリシア、アラブ、ユダヤ、ラテンの 4 つの文化が
共存する都市になる。1080 年、医学校が設けられる。1140 年には、この地方を支配する
シチリア王ルッジェーロ 2 世 Ruggiero Ⅱ(在位 1130 ∼ 54)の名で、ヨーロッパ初の医
師の試験免許制が布告される。サレルノは重要な海港都市であり、東ローマや地中海諸
国家と密接な関係にあったので、ここで生み出された医学書『サレルノ健康法 Regimen
sanitarissalernitanum 』は全ヨーロッパで広く読まれ、大きな影響を及ぼす。]
1050. ○【イタリア】この頃、ボローニャでローマ法を講じるイルネリウスの講義を聴く
ため、学生がヨーロッパ各地から集まって来て、組合団体 Universitas (のち、ボローニャ
大学( Universita Degli Studi di Bologna ))を結成する 。
「あらゆる地域の学生が集まる学苑
(がくえん)」を意味する Studium Generale とも呼ばれる。パリ大学とともに世界最初の
大学として、世界の大学制度の原型となる。[ 1158 年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリ
ヒⅠ世バルバロッサの特許状により、組合は自治権を得て、法学研究を主とする大学と
して公認され、世界最古の大学となる]
1052(永承7)
1052.○【日本】ブッダ入滅後 1000 年を経たこの年、仏教徒の間に、末法(まっぽう)第 1
年目に入ると信じられる。
『扶桑略記(ふそうりゃくき)』に〈今年はじめて末法に入る〉
と記述される。仏教の三時思想にいう〈正法・像法・末法〉の最後の御時世とて、とく
に日本で末法思想が流行し、浄土信仰が流布する。貴族たちは先を争って観音堂や常行
三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)をつくって念仏に専念する。[ 1053.3.25 関白藤原頼
道(61)が、宇治の平等院に阿弥陀堂(鳳凰堂)を完成させる。壁と扉の部分には、阿弥陀
- 84 -
如来に迎えられて極楽往生したいという願いを込めて、九品来迎図(くほんらいごうず)
が描かれる。
「九品」とは、
『観無量寿経(かんむりようじゆきよう)』に説かれた仏教用
語で、極楽浄土(ごくらくじようど)に生まれるのに、この世で生活した仕方によって 9
種類の生まれ方があることをいう。非の打ちどころがない善人は臨終のとき、仏が迎え
にきて即座に極楽に往生(おうじよう)できるのを上品上生(じょうぼんじょうしょう)と
いう。以下、上品中(ちゅう)生、上品下(げ)生、中品上生、中品中生、中品下生、下品
上生、下品中生と続き、最後の下品下生は、極悪非道の行為を繰り返した者が、臨終の
とき、念仏を唱えたことによって往生できるという。この思想に従って、阿弥陀仏(あみ
だぶつ)にも九つの印相(いんぞう)(手に結ぶ印の形)があるという考えが一般化し、鎌
倉中期以降、とくに九品の阿弥陀仏の造像が行われる。]
1066(治歴2)
1066.○【日本】この頃、漢文学者藤原明衡(あきひら)( 77)が、中国の書儀にならった書
簡の模範文集『明衡往来(めいごうおうらい)(『雲州消息(うんしゅうしょうそく)』とも
いう)を著す。四季折々の行事や贈答に関する 209 種の手紙文例が紹介され、年始のあい
さつを含む文例が収めれれる。年賀状に関する記述の始めとされる。[以後、いわゆる
「往来物」の始めとして,後世に多大な影響を与える。
]
1069(延久1)
1069.[閏 10.11]【日本】後三条天皇( 35)が、2 月に発した延久の荘園整理令の実施を徹底
するため、太政官の外局的機関として記録荘園券契所(記録所)を設置する 。[以後、記
録荘園券契所の性格・機能が変遷するにつれて、略称の「記録所」が正式名称となり、天
皇親政の象徴的機関となる。
]
1071(延久3)
1071. ○【トルコ】セルジューク・トルコが、東イスラム圏の実権を握り、エルサレムを
はじめシリア、小アジアの要衝を相次いで占領し、マラズギルト Malazgirt(のち、トル
コ東部)でビザンティン軍を撃破する。[以後、ビザンティン帝国は強い危機感を抱き、
国土防衛と失地回復を目的とする戦略的親西欧政策を採用し、ナポリ、シチリアに進出
していたノルマン人騎士や聖地巡礼途上の西欧諸侯に傭兵(ようへい)派遣を要請したり、
1054 年の東西教会分離以来疎遠になっていたローマ教皇庁との再接近を図る。ヨーロッ
パが東方へ介入する端緒となる。]
1074(承保1)
1074.○【イラン】この頃、数学者・天文学者・詩人ウマル・アル・ハイヤーミー Abu 'l-Fath
‘Umar ibn Ibr □ h □ m al-N □ s □ b □ r □ al-Khayy □ m □(通称オマル・ハイヤム
Omar Khayyam)( 26)が、セルジューク王ジャラール・アル・ディン・マリクシャー Jal □ r
al-Din Malik-sh □ h の求めにより、イスファハンの新しい天文台でペルシア暦(1 年が 365
日)の改良に当たり、新しい暦「ジャラール暦」al-Ta'-r □ kh al-J □ lar □をつくる。[こ
れは約 5000 年に 1 日の誤差しか生じることがなく、その点では、3330 年に 1 日の誤差
- 85 -
のあるグレゴリオ暦よりも精確である。彼はまたユークリッドの『原論』Stoikheia の公
準と定義とを研究するが、愛と自由をたたえたペルシア語の四行詩『ルバイヤート』Rub
□'□ y□ t の作者として名を残す 。
「ルバイヤート」は、イラン固有の詩形で、第 1 行、
第 2 行、第 4 行の脚韻はかならず押韻し、第 3 行の脚韻は押韻してもしなくてもよい。10
世紀の詩人をはじめとして多くの詩人たちがこの詩形を作詩するが、ペルシア文学史上
とくに四行詩人として知られるのは、ウマル・アル・ハイヤーミーおよびアブー・サイード
・ビン・アビル・ハイル、アンサーリー、バーバー・ターヒルの 4 詩人である。人生の無常 、
宿命、酒の賛美、一瞬の活用などが基調となっているウマル・アル・ハイヤーミーの作品
が、19 世紀なかば、イギリスの詩人 E.フィッツジェラルドによって流麗な英語で翻訳・
刊行される。以後、世界中に名声が高まり、日本語を含めて世界の主要な言語に翻訳さ
れる。]
1079(承暦3)
1079. 4.16【日本】「いろは歌」全文が載った最初の文献『金光明最勝王経音義(こんこう
みょうさいしょうおうきょうおんぎ)』が書かれる。『金光明最勝王経』の中の難しい文
字について意味と発音をまとめたもので、発音を示すための凡例として、万葉仮名 47 字
を重複なく用いた歌〈色(いろ)は匂(にほ)へど 散(ち)りぬるを 我世誰(わがよたれ)
ぞ常(つね)ならむ 有為(うゐ)の奥山(おくやま) 今日(けふ)越(こ)えて浅(あさ)き夢
見(ゆめみ)じ 酔(ゑ)ひもせず〉が記載される。[以後、いろは歌の普及により、平安末
期の橘忠兼(たちばなのただかね)編『色葉字類抄』などの発音引き辞書の作成が可能に
なる。また、仮名遣いを統一しようという気運も生まれてくる。いろは歌は日本語の発
展に大きな役割を果たす。なお 、
「いろは歌」に先行する同類のものとして「たゐにの
歌」や、ア行のエとヤ行のヱを区別して 48 字ある「あめつち」が知られている。]
1082(永保2)
1082.○【朝鮮半島】高麗で、1011 年から 71 年の歳月を費やし、
『高麗蔵』6000 余巻が
刊行される。遼朝から贈られた『契丹蔵』などを原本として、高麗産の良質な紙と墨を
用い 、中国の製版技術にならい、刊行する。朝鮮半島における最初の大蔵経刊行となる 。
[1232 年、モンゴル軍が来襲し、大蔵経版木の大部分が焼き尽くされる 。
]
1084(応徳1)
1084. ○【バチカン】カトリック教会法で、〈セックスが不可能な結婚は成立せず、無効
である〉と規定する。
1088(寛治2)
1088.○【日本】
『成唯議論(じょうゆいしきろん)述記』 10 巻が刊行される。模工僧観増
の刊記がある。[以後、興福寺を中心に奈良の諸大寺で同様な経巻類が開版(板)され、藤
原氏の氏神である春日神社に奉献される。明治以後にこれらは「春日版」と呼ばれ、『成
唯議論述記』は正倉院に収蔵され、現存する最古の春日版となる。1行 17 字詰の楷書を
用いて版式を整備し,使用料紙の質がよく,墨色優秀をもって知られる。毎版面の右す
- 86 -
みに開版の年代,寺名,願主,施主,彫工などの名が隠刻されているが,普通は印刷の
さい刷りこまれていない。ほかに、模工僧延観の刊記のある『成唯識論』巻十(京都守
屋家蔵)、1212 年刊『瑜伽師地論』100 巻、1209 年刊『法華経普門品』3333 巻、1225 ∼ 1227
年刊の『大般若波羅蜜多経』 600 巻などがある。この頃の版木で現存するものも比較的
多く,興福寺北円堂に現存する『成唯識論述記』の版木は,1195 年の彫刻で,現存古刻版
木のうち最も古いものの一つとなる。]
1090(寛治4)
1090. ○【日本】
『源氏物語絵巻』がつくられる。主殿頭(とのものかみ)藤原隆能(たかよ
し)の絵、世尊寺権中納言伊房の詞書といわれ、俗に「隆能源氏」と呼ばれる。
1090. ○【日本】この頃、漢字字書『類聚名義抄(るいじゅうみょうぎしょう)』が編纂さ
れる。古辞書、仏書、古訓点など多数の先行文献を忠実に引用して 、
「人」「彳」等 120
の部首により漢字を分類し、発音、字義、和訓等を注記したもの。著者は法相(ほっそう)
宗の僧かともいわれるが不明。[初撰(しよせん)本は 6 帖(じよう)か。うち 1 一帖のみ伝
えられ、宮内庁書陵部に収蔵される。増補本の別があり、
「仏」「法」「僧」の篇名(へん
めい)をもつので『三宝類字集』等の別名がある。]
1095(嘉穂2)
1095.11.27 【フランス】教皇ウルバヌスⅡ世が、東西教会の再合同、東方における教会国
家の創設、西欧諸国民の大量移民などを目的とする大規模な救援軍派遣計画を構想し、
クレルモン公会議開催中に第 1 回十字軍発動の宣言を行う。その趣旨は、全キリスト教
徒の義務として聖墳墓に参詣する誓願をたて、イスラム占領下の聖都を奪回し、シリア、
パレスチナの教会を解放するための軍事行動を勧説しようというものである。教皇はま
た、即位以来の懸案であるドイツ(神聖ローマ)皇帝との「聖職叙任権闘争」を教皇側
に有利に解決する意欲と、西欧封建社会の積弊であった諸侯・騎士同士の私的闘争を「神
の平和」運動によって抑止する念願とを達成するため、十字軍運動の盛り上がりを巧み
にとらえ、教皇代理ル・ピュイ Le Puy 司教アデマール Adh □ mar を総司令官とする軍団
編成をフランス諸侯に呼びかける。
1099(康和1)
1099. 7.15【イスラエル】第 1 回十字軍がエルサレムを占領する。[直後、シリア、パレ
スチナにエルサレム王国を創設する。]
1100(康和2)
1100. ○【日本】この頃、大江匡房が『遊女記』を著す。古代の遊女のありさまを描写し
たもので、淀川河口の江口、神崎(かんざき)などに集まっていた遊女を取り上げる。
1100. ○【フランス】この頃から、南フランスで、封建大諸侯の宮廷に、貴女(きじょ)を
中心とする狭いが華やかな社会が生まれ、貴女崇拝と宮廷風とよばれる新しい恋愛の理
念が生じる。そういう環境と理念のなかで、大領主アキテーヌ公 9 世のように、領主で
ある詩人が、愛する心の貴女に永遠の思慕を寄せて、それをときには晦渋(かいじゅう)
- 87 -
なまでに凝った詩型に歌い込んで、それに自分で曲をつけて、城から城と遍歴して歌っ
て回る者が現れる。ただしその内容は一定していて、けっして報われることのない貴女
への愛の嘆願と奉仕の誓いである。その願いがいれられても、額に口づけを一つ受ける
程度であるが、詩人はその「コンソラメンテ」という口づけの栄誉をさらに保つために 、
なおいっそうの誠を捧げる。[以後、吟遊詩人(ぎんゆうしじん)(トルーバドゥール
troubadour)と呼ばれ、領主、騎士、僧侶、庶民まで多様な階層の人物が登場する。以後 、
北フランス、ドイツにまで広がり、1170 年ころ騎士階級を中心としたミンネゼンガー(ミ
ンネジンゲル)が登場する。400 余人の名が残される。]
1101(康和3)
1101.○【朝鮮半島】高麗王文宋の王子王煦(おうく)が、中国、朝鮮の各地を歴遊し 、宋 、
遼、朝鮮の仏教学者の著作を収集し、
『続蔵』4000 巻を編集刊行する。[以後、宋、遼、
日本に数部を分贈する。]
1102(康和4)
1102. ○【朝鮮半島】この頃、宋から鼓鋳法という、ふいごを使って炭火などをあおり、
高温で銅鉱石を溶かして銅を精錬し、銅銭を作る技法を学ぶ。この技法により優れた高
麗銭の鋳造を行う 。[以後、高麗銭は文字がよく出ているので、中国の貨幣研究家など
から称賛される。1227 年、金属活字の鋳造にも応用され、良質の銅活字が作られる。
]
1103(康和5)
1103.○【中国】福州の東禅寺において、1080 年以来 23 年の歳月をかけて、民間の寄付
により『福州東禅寺大蔵経』(「福蔵」)全 6434 巻、580 函が刊行される。民間の寄付で
刊行された最初の大蔵経となる。
[1112 年、福州城内の開元寺においても、民間の寄付
を募り『大蔵経』の刊行を始める。1151 年、全 6117 巻、567 函の『毘廬(びる)大蔵経』
(「毘廬蔵」)が完成する。
]
1113(永久1)
1113.○【日本 】この頃、真言密教の一流、立川流が誕生する。武蔵国立川の陰陽師某が 、
女犯によって伊豆に流された仁寛(真言宗醍醐三宝院の僧勝覚の弟子)と出会い創始する 。
男女の交合を即身成仏秘法とし、信仰の中心に位置付ける。[以後、醍醐寺の座主文観の
努力により次第に普及する。13 ∼ 14 世紀に最盛期。慶長(1596 ∼ 1615 )以後、この流は
邪教とされて、その勢力はほとんど衰微する。]
1120(保安6)
1120. ○【日本】白河法王が、公卿顕隆と〈水魚の契りを結び法王と二者合一となる〉と
『中右記』に記される。天皇の男色を記録したものとなる。
1127(大治2)
1127. ○【中国】南宋が成立する。
- 88 -
1127. ○【中国】金の軍隊が、北宋の政治・商業・文化の中心地開封を占領し、大量の書
籍や版木を戦利品として金の中都(のち、北京)へ移送する。開封の書店は相次いで臨安
へ逃れ、出版業は衰退する。
1130(大治5)
1130. ○【ヨーロッパ】この頃、イタリア語とルーマニア語が分岐し始める。(モリス・ス
ウォディッシュによる仮説。
)
1133(長承2)
1133. ○【日本】日宋貿易が始まる。[以後、砂金、水銀、硫黄、木材、蒔絵、扇子、刀
剣が、日本から宋へ輸出される。]
1133. ○【イギリス】オックスフォードに、パリから神学者ロベール・ピュランが来講す
る。これがイギリス最初の大学、オックスフォード大学の起源となる。[ 1168 年ごろ、
パリ大学を脱出したイギリス人学生が帰国してここに集まり、一方ヘンリーⅡ世の勅令
で海外留学を禁止された学生も加わって大学の基礎が固まる。12 世紀末、大学は全キリ
スト教国共通の学位の認定権を取得する。13 世紀初めに「ローマ教会の第二の学校」と
して、パリ大学に次ぐ地位を与えられる。]
1144(天養1)
1144. ○【日本】この頃、橘忠兼(たちばなのただかね)が、ことばの配列を初めていろは
順にし、その中をさらに天象・地儀・動植物などと系統立てた辞書『色葉字類抄(いろは
じるいしょう) 』(通例『伊呂波字類抄』と表記)を作る。これまでの辞書が漢字を引い
て,そのよみかたを求める体裁のものであったのに対し,ことばからこれにあてる漢字
を求めるようになっている。[1180 頃 、橘忠兼編の 3 巻本が成る。日常実用の語を主に 、
漢文訓読語をもあわせて、広く和語・漢語を採録。語の頭音によって全体を伊呂波 47 篇
に分け、さらにその各篇について、意義分類に従って天象・地儀など 21 部をたてて収録
語を類聚(るいじゅう)する。普通に使用された漢文体の文章(漢詩文、記録、文書など)
を作成するうえで心得るべき語、漢字表記を中心に、とくに漢語が豊富に集録される。
以後、後数百年にわたる辞書の組織のもととなる。2 巻本と 3 巻本と 10 巻本がある。2
巻本は 3 巻本の稿本とみられる。鎌倉時代に大増補され、10 巻本になる。10 巻本は『伊
呂波字類抄』の名で引用されて,江戸時代の初期に学界に紹介される。3 巻本は,昭和
年代にはいって初めて複製本で世に知られ,前田本(中巻を欠く)と,それを補う黒川
本との 2 つがある。]
1145(久安1)
1145. ○【イタリア】シチリア王ロジェルⅡ世が、羊皮紙に比べて破損の恐れのある未知
の素材であることを理由に、紙を用いて公文書を起草することを禁止する。前の治世に
〈綿のような紙〉で作成された免許状をことごとく羊皮紙に転写して、転写後はすべて
廃棄するよう命じる。
- 89 -
1150(久安6)
1150.○【ヨーロッパ】この頃、アル・フワーリズミー al ‐ Khw ロ rizm ロ(780 頃∼ 850 頃)
の『代数学』がラテン語に翻訳され、アラビア数字と位取り記数法が広まる。
1151(久安7)
1151.○【スペイン】11 世紀にアフリカ沿岸地方で盛んになった製紙技術が、スペインに
侵入したムーア人によってスペインのバレンシア地方に伝えられ、ザディバに製紙工場
が建設される。ヨーロッパにおける製紙工場の始まりとされる。[以後、1238 年、イタ
リアのファブリアーノ、1338 年、フランスのトロワ、1389 年、ドイツのニュルンベルク 、
1411 年、スイス 、1490 年ころイギリスへと伝えられる。(以下??)1276 年にイタリア、
1348 年にフランス、1390 年にドイツ、1494 年にイギリス、1586 年にオランダなど順次
製紙工場が建てられる。紙は羊皮紙に比べて耐久性がないとの理由で、紙製の書物は羊
皮紙のものよりも廉価で取引される。]
1154(久寿1)
1154. ○【シチリア】モロッコ生まれのイスラム世界の代表的旅行家・地理学者イドリー
シー( 54)が、地中海を中心とする詳細な世界地図をつくる。
1158(保元3)
1158.○【イタリア】神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒⅠ世バルバロッサ( 35 ?)が、ボロ
ーニャの学生を領主裁判権から保護し、学生らの組合に自治権を与える。組合は自治権
を得て、法学研究を主とする大学として公認され、パリ大学とともに世界最古の大学と
なる。[13 世紀に、ローマ法王からも認可を受ける。この頃、すでに医学、神学、哲学
の各学部が設置されており、14 世紀には数学部も加えられる。医学部は世界で最初に解
剖学の教授と実習を行った学部であり、南ヨーロッパの学術の中心となり、おびただし
い数の学生を各地から引き付ける。ダンテやペトラルカもここで教鞭をとる。1802 年、
国立大学となる。]
1162(応保2)
1162.○【日本】毘沙門天立像の印仏が作られる。1 版 1 体の像を 1 紙に 10 体ずつあらわ
し,もと 100 枚計 1000 体を毘沙門天立像に納入し、供養される。[以後、銘記のある最
古の印仏(川端氏蔵)とされる。紙面に捺印した印仏ではなく、紙を版木の上に置いて刷
る摺仏(すりぼとけ)とする説もある。]
1165(永万1)
1165.○【エジプト】スペインのコルドバ生まれのユダヤ人哲学者マイモニデス Moses
Maimonides(イブン・マイムーン Ibn Maim □ n (30)が、この頃、イスラム教徒の圧政を逃
れてエジプトのカイロに移り、定住する。[以後、宮廷の侍医、ユダヤ教神学者、哲学者
として活躍し、1177 年にカイロのユダヤ教団を主宰する。アリストテレスの哲学によっ
て神学の合理的基礎づけを試み 、
『旧約聖書』の内容が理性的に確立されたものと矛盾
- 90 -
するときには、寓意(ぐうい)的に解釈されねばならないと主張する。能動的理性の説、
意志の自由の主張、世界の永遠性を否定する学説などを説き、また、割礼法を改善し、
痔疾は便秘が原因で起こるとし、その治療には野菜を主とする軽い食事を奨める。著書
『迷える人々のための導き』などがヘブライ語、ラテン語に訳されて、13 世紀西ヨーロ
ッパの哲学に大きな影響を与える。1204 年当地で没する。遺体はモーセのたどった道を
運ばれて、ティベリアスに葬られ、以後、その墓には巡礼者があとを絶たない。]
1170(嘉応2)
1170. ○【ドイツ】この頃、南フランスのトルーバドゥール(吟遊詩人)の影響を受けて宮
廷叙情詩(ミンネザング)の歌人「ミンネゼンガー Minnes □ nger」が登場する。詩は宮
廷の宴席で発表され、作者は作詩、作曲、朗唱のすべてを行うシンガーソングライター
である。なかでも、若い騎士の、容姿・品性優れた高貴の既婚婦人にあこがれる歌が多
い。高潔な異性への官能の成就なき愛(ミンネ Minne )は騎士の精神を高め、中庸や自制
心を教える。[以後、1300 年ごろまでドイツやオーストリア各地の宮廷で、純潔無垢(む
く)な庶民の少女への現実的な愛をたたえた恋愛詩やきぬぎぬの歌のほか、多くの政治詩、
格言詩、十字軍の歌などがつくられる。]
1175
1175.○【イギリス】テムズ河畔の町ティルベリのジョン John of Tilbury が、速記記号を
考案する。[以後、英語の速記の起源ともされるが、定かではない。 1588 年、イギリス
の外科医ティモシー・ブライトが、速記文字を考案する。
1178(治承2)
1178.○【日本 】山陰道諸国司あての公家新制 12 ヵ条中に、諸人奴婢の勾引売を禁じる 。
1185(文治1)
1185.○【日本 】屋島の戦いで平氏が敗れる。壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、安徳天皇(7)
が入水により死去する。天皇に仕えていた女官たちが、生活のために春をひさぎ、遊女
になる。[以後、下関の豊前田遊郭に発展する。またこれにより、下関の赤間神宮の先帝
祭行事の女ロウ(じょろう)代表参拝が行われるようになる。]
1190(建久1)
1190. ○【中国】
〈番漢の衆を和し、二国の誼を増す〉
、すなわちタングート族と漢族が仲
良くし、西夏国と宗が友好関係を深くするために、西夏文と漢文の対照字典『番漢合時
掌中珠』が出版される。
1190. ○【ヨーロッパ】この頃、中国から磁気コンパスが伝えられてる。針を磁石でこす
って磁化させ、この針を紐(ひも)で吊るしたり、針を藁に刺して水に浮かべたりして北
を検知するといったものと思われる。
1191(建久2)
- 91 -
1191.○【日本】公家新制 36 ヵ条中に、諸人奴婢の勾引売を禁じる。
1191. ○【イギリス】イングランドのリチャード獅子心王が,十字軍遠征でマルセイユに
上陸した先頭騎士が軍資金を娼婦につぎこんでいるのを見て嘆息する。
1193(建久4)
1193.○【中国】(紹興 4)宋の宰相周必大( 67)が、畢昇の方法に習って、泥活字を用いて
自著『玉堂雑記』を刊行する。友人宛の手紙に、〈泥活字と銅板を使用して、版を崩し
ては並べ替え印刷し、今日たまたま『玉堂雑記』ができあがりました〉と書く 。
[以後、
世界最古の活字印刷本とされる。
]
1197(建久8)
1197. ○【日本】大隅・薩摩守護あて幕府下文に売買人を禁じる。
1200(正治2)
1200. ○【日本】この頃、絵巻「鳥獣人物戯画」が制作される。擬人化された動物の諸態
や、人間の遊びに興ずるさまを描き集めた戯画絵巻で、「鳥獣戯画」ともよばれる。各制
作年代と筆を異にする 4 巻が残され、甲巻は猿、兎(うさぎ)、蛙(かえる)などが人間を
まねて遊ぶ模様、乙巻は馬、牛、鶏、獅子(しし)、水犀(みずさい)、象、それに麒麟(き
りん)、竜など空想的なものを含めた各種動物の生態、丙巻は僧侶や俗人が勝負事に興ず
るありさまと、猿、兎、蛙などが遊び戯れるさま、丁巻はやはり僧俗の遊び興ずるさま
が、それぞれ描かれる。各巻とも詞書(ことばがき)を欠き、絵に説かれる内容、意味が
明らかでなく、種々の解釈がなされるが定説をみない 。筆者は鳥羽僧正(とばそうじよう)
覚猷(かくゆう)(1053 ∼ 1140 )と伝称されるが確証はない。[以後、京都・高山寺(こうざ
んじ)に所蔵され、国宝の指定を受ける。]
1200. ○【フランス】ノートルダム楽派が、多声音楽の各声部のリズムを明示する必要か
ら、モード記譜法 modal notation を考案する。リガトゥラ(連結符)の並び方のパターン
により、リズム型が示される。また、初めて声部ごとに分けて書くパート譜がつくられ
る。
1202(建仁2)
1202.○【イタリア】数学者フィボナッチ Fibonacci(1170 頃∼ 1240 以後)が、
『バクス
の書 Liberabaci 』
(別称『算術の書』を著し、インド・アラビア式数字(現在の算用数字)
による筆算法をヨーロッパ世界に伝える。最終章に、フワーリズミーやアブー・カーミ
ルの二次方程式論を取り扱っている。[ 1228 年に改訂。彼はキリスト教的ヨーロッパ世
界が生んだ最初の偉大な数学者となる。]
1205(元久2)
1205.[ 3.26]
『新古今和歌集』の部類(各部への配当・各部における配列作業)が完成し 、
竟宴(きょうえん)(撰集作業が終わった「竟」のあと開かれる宴)が催され、
『新古今和
歌集竟宴和歌』が詠まれる。
- 92 -
1206(建永1)
1206.○【中国】モンゴル高原中部以東を制圧した破竹の勢いのテムジン(39)が,オノン
河畔にクリルタイを開き,チンギス・ハーン(成吉思汗)という称号をとり,モンゴル帝国
を樹立する。
1206. ○【イギリス】カンタベリーの大主教ステファン・ランクトンが、初めて『旧約聖
書』に章節の区分をつける。[ 1551 年、パリの印刷業・出版業者ロベール・エティエンヌ
が、
『新約聖書』に章節を付けて印刷する。]
1209(承元3)
1209. ○【イギリス】オックスフォード大学から、多数の学徒が市民との騒擾(そうじょ
う)を避けてケンブリッジに移動する。[1226 年、ケンブリッジ大学総長が任命され、つ
いでヘンリーⅢ世が市長に通告を出し、国に名誉と利益をもたらす学生を歓迎するよう
に命じる。1284 年に最初の学寮(college)が設立される。1318 年教皇ヨハネス 22 世が、
全キリスト教国に通用する学位の認定をこの大学に承認する。以後、名実ともに一流の
大学に発展しする。]
1212
1212.○【フランス】全国の納税台帳に、作家 24 人、書籍商 8 人 、製本屋 17 人、写本屋 13
人の名が記載される。
1215(建保3)
1215.○【フランス】フランス最初の大学、パリ大学(Universit □ de Paris)が、パリ公教
会の付属学校などを母体として正式に創立される 。教授と学生ともに聖職者身分であり、
研究・教育を目的とする同業組合(ギルド)である。[この頃、大学の興隆とともに、写
本作りが商売として成り立つようになり、パリなどの大学町には書写を専業とする写字
生が誕生する。パリ大学では、学生に良質の教科書を大量生産するため「ペチア(ペシア)
pecia 方式」を開発して解決する。
〔ペチアは英語の piece、すなわち冊子体の帖のこと。
大学当局から認められた書籍商が、大学教科書の見本(当局がお墨付きを与えた原本
(master copy ))を多数未製本のまま帖単位で所有しており、転写を希望する学生たちに
番号のついた帖を順番に有料で貸し出す。この方法で一度に帖の数だけの写本作業がそ
れぞれ学生の手で同時に行われる。この方法は、のちにボローニャ、オクスフォードな
どいくつかの大学でも行われるようになる。大学は学年初めに、貸し出し可能なテキス
ト一覧を発行する。そこには許可済みのペチアのタイトル、各書のペチア数、貸出料な
どが記載される。1275 年にパリ大学で作られた現存最古の目録には、トマス・アクィナ
スによる聖マルコ福音書の注解書が掲載されており、ペチア数は 57、貸出料はセットで 3
ス・ドール。1304 年の目録では、同じセットの貸出料が 4 ス・ドールとなっている。14 世
紀後半に、ペチア方式は消滅する。理由は不明だが、14 世紀半ばに始まる黒死病(ペス
ト)の流行との関係が指摘されている。
〕13 世紀中に、パリ大学は数回の自治権獲得闘争
の結果、ローマ教皇、国王から自治権をかちえる。1968 年に解体され、パリ第一大学∼
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第 13 大学までの 13 の新制大学に再編される。]
1219(承久1)
1219.○【日本】この頃、社寺縁起の絵巻『北野天神縁起』8 巻本が描かれ、根本縁起と
して北野天満宮に秘蔵される。縦幅 51.5cm、全 8 巻の全長 69.89m というまれにみる大
画面に描かれ、1 巻∼ 6 巻には菅原道真の生涯と死後の怨霊による災いが描かれる。詞
書中に〈承久元年 今にいたるまで〉とある。後の 2 巻は絵のみで詞書はなく,日蔵(道
賢)上人地獄巡りと六道のありさまを収める。また第 9 巻は創立由来と利生記だが未完成
のまま一部白描の画稿だけが残る 。
[のち、国宝に指定される。国宝の絵巻の中で最長
である。]
1219.○【スペイン】アルフォンソⅨ世が、サラマンカ( Salamanca )にサラマンカ大学を
創設する。[以後、ボローニャ大学、パリ大学、オクスフォード大学と並ぶ第一級の大学
として広く知られる。16 世紀、7000 人の学生が在学する。大学の設立によって町はヨー
ロッパ有数の学術、文化の中心地となる。]
1223(貞応2)
1223. ○【日本】諸国に大田文(土地台帳)を作成させる。
1223.○【中国】道元(23 )が、栄西の高弟明全(みょうぜん)とともに入宋する。
1224(元仁1)
1224. ○【イタリア】フリードリヒⅡ世が、教皇の強い影響下にあるのボローニャ大学に
対抗して、ナポリ大学を創設する。[ 1253 年、サレルノ大学と統合。1258 年、分離。]
1225(元仁1・嘉録1)
1225.○【日本】公家新制 36 ヵ条中に、勾引人・売買人を禁止する。[翌 1226 年、幕府
は諸国御家人にその施行を命ずる。]
1227(元仁1)
1227. ○【朝鮮半島】高宗の時代、銅活字がつくられる。
1229(寛喜1)
1229. ○【ヨーロッパ】オゴタイ・ハーンが、東ヨーロッパを征服する。
1229. ○【ドイツ】本の見本市がライプチヒで開催される。ブックフェアとして最古のも
のとされる。
1231(寛喜3)
1231. ○【朝鮮半島】蒙古が高麗への侵略を始める。
1231. ○【イタリア】神聖ローマ皇帝フリードリヒⅡ世が、羊皮紙に比して破損の恐れの
ある紙を用いて公文書を作成することを禁止する。
1231. ○【イタリア】サレルノ医学校が、神聖ローマ皇帝フリードリヒⅡ世の勅令により
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サレルノ大学(Universit ■ degli studi di Salerno )大学として公的に承認される。[以後、
中世前半期における医学のセンタとして全ヨーロッパ的な名声を博す。ここで生み出さ
れた医学書『サレルノ健康法(Regimen sanitaris salernitanum)』は全ヨーロッパで広く読
まれ、大きな影響を及ぼす。1253 年、近隣のナポリ大学と統合。1258 年、ナポリ大学を
分離する。以後、衰退する。19 世紀初頭、閉学を余儀なくされる。 1970 年、再建され
る。]
1232(貞永1)
1232. ○【中国】金(きん)の軍が、タタール軍との戦争で「飛火槍(ひかそう)」という兵
器を使用する。槍の先に火薬をつめ、轟音とともに火焔を噴き出して相手を威嚇する兵
器で、記録に残っている最初のロケット式兵器であるとされる。
1234(文暦1)
1234. ○【朝鮮半島】高麗で最初の銅活字による印刷が始まり、
『古今礼文評定』(あるい
は『評定古今礼文』)が刊行されたと記される。[以後、これは消失する。1377 年、銅活
字で禅書『直指心経(ちょくししんきょう)』が印刷され、現存する世界最古の活字本と
してパリ国立図書館に収蔵される 。
20 世紀に高麗銅活字を分析して、
その金属含有率が 12
世紀に流通していた銅貨「海東通宝」とまったく同一であることが判明して、高麗活字
版は 12 世紀から開始されたのではないかととなえられる。]
1235(嘉禎1)
1235. [5.27]【日本】歌人藤原定家(ふじわらのさだいえ)(73 )が、息子為家の舅で北関東
屈指の豪族宇都宮入道蓮生(れんしょう)(頼綱)(63)の懇望に応じ、天智(てんじ)天皇以
来の代表的歌人 100 人からそれぞれの秀歌 1 首ずつ選び出し、蓮生の山荘の障子(襖)に
貼る色紙に書く。[のちに、
「小倉百人一首」の原型となる。歌道入門書として読まれ、
注釈書も刊行される。近世以後、絵入りの歌がるたの形にもなり、一般教養書や遊びの
ひとつとして普及する。5 月 27 日は「百人一首の日」とされる。
]
1235.○【ドイツ】ドイツ国王・神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒⅡ世 Friedrich II ( 41 )
が、イングランド王の妹イザベラを妻に迎える。[以後、お抱えの占星術師らが時宜を
定めるまで、妻と肉交することを拒み続ける。
](年代記作家マティウス・パリスによる)
1236(嘉禎2)
1236. ○【朝鮮半島】モンゴル軍の高麗侵入に対して、開京(かいけい、のち、開城)から
江華島(こうかとう)に遷都した崔氏の武人政権が、この国難を克服するために仏の加護
を祈願して、大蔵都監の本司を置き高麗版『大蔵経』(『高麗蔵』)の再版彫造を始める。
[1251 年、6558 巻を完成する。以後、海印寺に 8 万余枚の版木が保存される。]
1237(嘉禎3)
1237. ○【フランス】この頃、韻文物語『薔薇物語』が書かれる。宮廷風恋愛の伝統を夢
の寓意で表し、押韻二行連句が 2 万 2000 行続く。
[以後、エデンの園という、一種「無
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政府主義的コミュニズム」のテーマが代々伝えられる。写本が 300 以上も現存する。
]
1238(暦仁1)
1238. ○【イタリア】紙の製造技術がファブリアーノに伝えられる。原料の多くは動物繊
維の古着が用いられる。[1338 年、フランスのトロワに伝えられる。]
1239(延応1)
1239.[ 4.17]【日本】幕府が、寛喜飢饉以来黙認の人身売買を再び禁止し、経過措置を定
める。
1239.[ 5.23]【日本】赤木左衛門尉平忠光が六波羅飛脚として、20 日の未刻(午後 2 時)
に京を出て、この日申刻(午後 4 時)3 昼夜と 2 時間で鎌倉に駆けつけ、その速さは〈殆
んど飛鳥の如し〉と『吾妻鏡 』に記される。六波羅飛脚は、通常乗馬による飛脚であり、
この場合、馬を次々と乗り換えて東海道を疾走したと考えられる 。
(石井寛治、1994)
1244(寛元2)
1244.○【中国】モンゴル帝国が、山西省平陽の玄都観で、
『道蔵』7800 巻を刊行する。
1250(建長2)
1250. ○【朝鮮半島】この頃、金属(銅)活字により『古今礼文評定』を刊行と伝える。
1250.○【ヨーロッパ】この頃、楽譜の 4 線上に角形ネウマ nota quadrata を泳がせる方式
が広く使われるようになる。ただしゲルマン系のゴシック・ネウマ gothic neume という
鋲(びよう)形ネウマを使うところも多い。譜線ネウマは、曲全体を通じて音程関係は正
確に表せるが、音価の表記はあいまいなままにされる。
1250. ○【ヨーロッパ】この頃、楽譜の音符に長短の関係をさらに明示できる「定量記譜
法 mensural notation」が考案される。長符ロンガ longa と短符ブレビス brevis が区別され
る。[14 世紀初めに、分割と倍価による長短関係がさらに明確になる黒符定量記譜法が
現れる。]
1250. ○【ヨーロッパ】この頃以降に 、
「バージ脱進機」という時計固有の機構と歯車装
置との組合せによって、純機械時計と呼べるものが出現する。脱進機の構造は簡単で、
のこぎりのような歯をもつ冠車(かんむりぐるま)と、その歯に交互にかみ合う 2 枚の角
板のついた軸および軸の上端に取り付けられて往復回転運動をする棒てんぷとによる簡
単なものである。[以後、棒てんぷに代わって円形のはずみ車であるてん輪やひげぜんま
いが、また重錘の代りにぜんまいが使われるようになるが、バージ脱進機は提げ時計の
時代にもまだ生き残り、17 世紀半ばの時計技術革新時代が到来するまで、約 400 年にわ
たり時計の唯一の抑制機構として生き続ける。バージ脱進機時計は、400 年間ほとんど
進歩が見られないが、しだいに小型になるとともに、カレンダー装置や太陽、月、惑星
の運動を示す天文時計のような複雑な機構をもち、外装部も貴金属、宝石をちりばめた
精巧で高度に装飾的な、工芸品としてもすばらしい価値をもつ時計が作られる。これら
は王侯貴族の権威や富の象徴として珍重される。]
1250. ○【フランス】この頃、ゴチック書体が北フランスを中心に広まり始める。
- 96 -
1250.○【イギリス】神学者・哲学者・科学者ベーコン( 30 ?)が、実験科学に取組み、馬
や牛に牽かせる車を見て 、
〈いつの日か、馬あるいはその他の動物によらず、自身の力
で走る車が可能になろう〉と、自動車の出現を予言する。
1251(建長3)
1251.○【朝鮮半島】高麗で、モンゴル調伏を祈願して 15 年の歳月をかけて『高麗大蔵
経(こうらいだいぞうきょう)』の再販彫造作業が完成する。『八万大蔵経』と称され、
全蔵 6791 巻、版木 8 万 1258 枚、1 枚の版木の両面に文字が刻される。[以後、経典 1512
部、6805 巻を収めた 8 万 1000 枚余の版木が、慶尚南道陜川(きょうせん)の伽?(イ+那)
山海印寺(かいいんじ)に伝えられる。]
1252(建長4)
1252.○【スペイン】アルフォンソⅩ世 Alfonso X (41)が、カスティリャとレオンの王に
就く。[以後、中世における最大の文化人の一人として、中央集権化を念頭においた法
典の整備のほか、多くの学者・文人をあつめてアラビア語文献やギリシア古典などの翻
訳事業を推進し、ガリシア語の詩歌の集成などに貢献する。また、天文学における太陽
・月・惑星の運行推定表「アルフォンソ表」の作成を指導する。しかし、統治者として
は失敗を重ねる。
]
1253(建長5)
1253. 1.−【フランス】フランシスコ会修道士ルブルク William Ruysbroeck(リュブリュキ
Guillaume Rubruquis)(38 ?∼ 33 ?)が、ルイⅨ世の使者としてモンゴルへ向け出発出発
する 。
[12 月 27 日、カラコルム西方のモンケ・ハーンの本営に到着。1254 年 4 月初め、
カラコルムに入る。7 月 10 日、モンケの書簡を持って帰途につく。1255 年、帰国し、広
大なアジア内陸部についての情報を記録する。彼の記録はモンゴル人そのものよりも旅
行の描写に重点がおかれる。また仏教徒、イスラム教徒、ネストリウス派教徒との討論
会の場面も記述する。1948 ∼ 49 年、ソビエト・モンゴルの考古学者が、カラコルムの
発掘・調査の際に、ルブルクのカラコルムに関する詳細な記事が案内書として使われる。
]
1253. ○【日本】鎌倉執権北条氏の姻戚として勢力をもつ秋田城介(あきたのじょうのす
け)(安達泰盛)(24)が、祖父景盛以来の縁故で紀伊の高野山にはいり、武家の愛護のも
とに偉大な勢力をもって,開版事業にも力をつくし、密教の書『三教指帰(さんごうしい
き)』を開版する。[のちに、これら高野山およびその門流寺院で開版した、密教(おも
に真言宗)ならびに悉曇(しったん)に関する書物を「高野版」と総称する。用紙は厚手
の鳥の子紙を用い,表裏に印刷し,装丁はおおむね粘葉(でつちよう)形を採用している。
高野版は、1260 年から 1323 年までのあいだに刊行された 4 種の開版目録が現存する。
それには書名,開版者名,料紙,装丁の品別,価格,経師注文の規定が記載され,日本
の開版文化史上貴重な資料となる。なお江戸時代初期から木活字による開版がおこなわ
れたが,これは「高野活字版」といって「高野版」とは区別される。]
1257(正嘉1)
- 97 -
1257.10.−【フランス】聖王ルイⅨ世の聴罪司祭でパリ大学教授ソルボン Robert de Sorbon
(56 )が、教区司祭となる貧しい神学部学生に住まいを提供する目的で、
ソルボンヌ学寮(コ
レージュ)を設立する。名称は「貧乏学生のためのコミュニティ」という意味をもつ。
[14
世紀、ヨーロッパの神学教育の中心的存在となる。のち、パリ大学神学部をさすものと
なる 。
]
1260(文応1)
1260. 5 . 5【北アジア・中国】モンゴル帝国の第 4 代ハーン、モンケが合州(四川(しせん))
の陣中で病没する。次弟のフビライ(45)が、一時停戦して急いで北帰し、開平(上都、
のち 、ドロンノール)に支持者だけを集め、独断でクリルタイを開き、大ハン位につく(す
なわち、元の世祖(せいそ))。中国風に年号をつくって中統元年し、大都(のち、北京)
を国都に定め、上都を副都にしする。[以後、夏季は上都に避暑する。1271 年に国号を
大元と称し、彼は中国流の天子になる。]
1263(弘長3)
1263. ○【日本】高麗使が来航し、倭寇の禁圧を要請する。
1264(文永1)
1264. ○【中国】ヴェネチアの宝石商人ニッコロとマッテオの兄弟が、キプチャク・ハー
ン国で戦乱にまきこまれて帰路を閉ざされる。迂回路を探しているときにイル・ハーン国
の元朝への使者に出会い、誘われるまま同行し、開平(上都、のち、ドロンノール)で
フビライに謁見する。2 人は、キリスト教国の政治や教会の事情をモンゴル語で巧みに
説明する。フビライは 2 人に教王への使者の役を与えてヴェネチアに帰国させる。
1265(文永2)
1265. ○【ローマ】この頃、スコラ神学者でパリ大学哲学教授、ローマ教皇庁顧問兼講師
トマス・アクィナス Thomas Aquinas( 40)が、『神学大全(Summa Theologiae)』を執筆し始
める。太っていて、しかも悪筆の彼は、机を腹の形に削り取り、数人の秘書に代筆させ
て、あふれる思索を著述につぎ込む。著作の意図は、これまでの神学教育の経験を生か
して 、神学的観点からの中世学問を集大成し、初心者のための教科書を書くことにある。
「神・創造論」、「倫理編」、「キリスト・秘跡論(未完)」の 3 部からなる。叙述様式は 、
中世大学特有の授業形式である「討論」に由来し、構成要素である 2669 個の「項」はす
べて「……であるか?」という問いの形をとる。まず著者自身の立場に反対する最強の
異論(通常 3 個)が提示され、それら異論の間の緊張、矛盾自体が高次の総合へ導く、
という探究の構造が認められる。[1272 年、ドミニコ会の新しい神学大学を設立するた
めナポリに帰ったトマスは、他の著作と並行して『神学大全』第 3 部を書き進める。1273
年 12 月 6 日聖ニコラウスの祝日のミサののち、突然筆を置く。驚く同僚に対して〈私に
新たに啓示されたことに比べると、これまで書いたものは藁(わら)くずのようだ〉と理
由を述べる。結局第 3 部は未完に終わるが 、本書はしばしばゴシック大聖堂に例えられ、
ヨーロッパ中世文化のもっとも輝かしい傑作の一つとなる。
]
- 98 -
1269(文永6)
1269. ○【日本】蒙古の使者「黒的(ヘイド)
」が、対馬に来航し、島民を拉致する。
1269.○【 】ペトルス・ペレグリヌス Petrus Peregrinus de Maricourt が、初めて磁石に関
する実験的研究を行い、2 つの磁極の存在、両極間の引力と斥力の関係、磁石の作り方
などを述べた書を著す。
1271(文永8)
1271.12.18 【中国】フビライ(世祖)(56)が、モンゴル帝国の大ハーン位を継承し、国号を
中国風の「大元」と改め、都を大都(のち、北京)に定める。
1271. ○【イタリア・中国】ヴェネチアの宝石商人ニッコロとマッテオの兄弟が、ニッコ
ロの息子マルコ・ポーロ Marco Polo(17 )と伝道士を伴って、再び東方へ旅立つ。[以後、
小アジアのシワスからモスルを経てイラクへ入り、海路によって中国へ赴く予定で、バ
グダードからバスラへ行く。しかし、海路をトルコとをやめ陸路によることにし、キル
マン、タブリーズ、バルフ、ヤルカンド、ホータン、チェルチェンなどタクリマカン砂
漠の南辺のオアシス諸都市を通って河西地方に到着し、甘州で 1 年間滞在したのち、1274
年夏、フビライ・ハン(世祖)のいる上都(のち、ドロンノール)に到着する。]
1274(文永11)
1274.10. 5【日本】約 2 万 8000 よりなる蒙古軍と高麗軍が 、を襲う。元寇の始まり。[10.20
対馬・ 壱岐を侵し、博多に上陸する。]
1274. 夏 【中国】ヴェネチアの宝石商人ニッコロとマッテオの兄弟が、ニッコロの息子
マルコ・ポーロ Marco Polo(20)と伝道士を伴って、夏の宮殿のある上都(のち、内モンゴ
ル自治区南部ドロンノール)に戻ってきて 、大ハーン、フビライ(世祖)(59 )の拝謁を賜る 。
[以後、マルコはそのまま中国にとどまって元朝に仕え、優遇されて官職につく。その間、
中国の各地を広く旅行し、17 年間、元朝で暮らす。マルコ一行は、イランのモンゴル王
朝イル・ハン国のアルグン・ハンに降嫁する元朝の王女コカチンの旅行案内者に選ばれ、
ようやく中国を離れることになった。一行は福建省の泉州(ザイトン)を出帆、ジャワ、
マレー、セイロン(スリランカ )
、インドのマラバル海岸などを経由して、イランのホ
ルムズに着いたが、アルグン・ハンがすでに没していたので、王女をその弟ガイハトゥ
・ハンに渡し、1295 年ベネチアに帰る。その後ベネチアとジェノバとの戦争に巻き込ま
れ、捕虜になってジェノバの牢獄(ろうごく)に入れられるが、この入牢中に、物語作者
ルスティケロに東方での見聞談を筆録させる。これが現存するマルコ・ポーロ旅行記『世
界の叙述 Description of the world 』(通称『東方見聞録』)のもとになる。この書はコロン
ブスのアメリカ発見の機縁となる 。またヘディンやスタインは、その中央アジア探検に、
この書を座右から離したことがなかった。ルスティケロの原本は早く散逸したが、それ
を基にして潤色、加筆、または削除した多くのテキストができ、そののち幾多の変遷を
経て、今日の諸テキストが伝来した。これらの異本は、ムールとペリオとの共編によっ
て校合(きようごう)のうえ出版されている。]
- 99 -
1275(建治1)
1275. ○【日本】この頃、北条(金沢)実時が、武蔵国久良岐(くらき)郡六浦庄金沢郷(む
つらしょうかねさわごう)(のち、
横浜市金沢(かなざわ)区金沢町)の居館内に金沢文庫(か
ねさわぶんこ)の基を開く。[以後、南面する台地の東谷に持仏堂(じぶつどう)(のち、称
名寺)が建立され、西谷に金沢氏の住居などが構えられる。文庫は居館の後ろ山際に、独
立の家屋として建てられる。蔵書は千字文(せんじもん)によって分類される。1333 年、
鎌倉幕府の崩壊にあい、金沢氏は北条高時とともに滅ぶ。以後、金沢文庫は氏寺(うじで
ら)称名寺によって管理されるが、寺側も大檀那(だいだんな)を失い、しだいに衰微し、
文庫の蔵書はその時々の権力者によって持ち出される。なかでも徳川家康の移出は多量
に上る。その文庫本は宮内庁書陵部、国立公文書館などに分蔵される。1930 年、神奈川
県立金沢文庫が、神奈川県の昭和御大典記念事業の一環として、実業家大橋新太郎の寄
付金を受けて図書館として復興され、称名寺ならびに金沢文庫に伝来された多数の文化
財(鎌倉時代の古書、古文書、美術工芸品)が保管されることとなる。1955 年、博物館と
して運営されるようになり、中世歴史博物館として存続している。]
1275. ○【フランス】パリ大学で、ペチア(ペシア)の目録が作られる。現存最古の目録と
なる。トマス・アクィナスによる聖マルコ福音書の注解書が掲載されており、ペチア数は
57、貸出料はセットで 3 ス・ドールと記載されている。[以後、大学周辺でペチアシステ
ムによる写本生産が発展する。1304 年の目録では、同じセットの貸出料が 4 ス・ドール
となっている。14 世紀後半に、ペチア方式は消滅する。
]
1275. ○【フランス】ツールーズのアンジェラ・ド・ラバルトが、悪魔との性交の罪で女性
初の火あぶり刑に処される。罪状は、狼の頭とヘビの尾を持つ赤児を産んだことで発覚
する。
1278(弘安1)
1278.○【イギリス】哲学者・科学者で驚異博士( Doctor mirabilis)と称されるベーコン
Roger Bacon( 64 )が、錬金術および自然科学特に光学に通じ、拡大鏡を発明し、これを使
って初めて凹面鏡における光の球面収差などを研究していた。これがいかがわしい新説
を提示したというみなされ、異端の疑いで修道院に監禁される。[∼ 1292 年。以後、知
識はすべて経験に基づくという「経験学(scientia experimentalis)」を提唱する。ただし、
経験には感覚によるもののほかに 、神的照明によるものも含まれるとする。経験 (実験 )
の重視、光学における業績、工学的予見などのために、近代科学の先駆者とされる。]
1280(弘安3)
1280. ○【イタリア】フロレンス出身の科学者サルビノ・アルマトが、光の屈折の実験中
に目を悪くし、視力改善のために眼鏡作りを手掛け、厚く湾曲した視力矯正用レンズを
発明する。
1280. ○【イタリア】この頃、ファブリアーノの製紙業者が、「カム」を使った搗砕器を
導入し、技術革新を図る。
1281(弘安4)
- 100 -
1281. 5.21【日本】元の船 500 余隻が、対馬に侵攻する。弘安の役が始まる。[5.29 壱岐
へ襲来する。]
1281.[閏 7.1]【日本】北九州を襲っていた元船が、大風雨に襲われ、多数が沈没する 。[閏
7.5 肥後国鷹島に残った元の主力の船が集結し、将軍ら首脳が協議するが、日本軍の猛
攻で将軍らは兵を捨てて逃げ帰る。この頃、九州博多から鎌倉への飛脚による急便が、
約 12 日で到達するようになる。]
1281. ○【中国】元の世祖が 、
『道徳経』を除く道教の書物の版木をすべて焼却させる命
令を下す 。[以後、都の内外の道教経典の版木はほとんど灰燼に帰す。道教の勢力も衰
退する。]
1282(弘安 5 )
1282. ○【イタリア】現存する最古のウォーター・マークが作られる。
1287(弘安10)
1287.○【日本】鎌倉建長寺で、日本最初の翻刻書『禅門宝訓』が刊行される。
[1325 年 、
禅尼宗沢が、唐の寒山子の『寒山詩』を、詩文集として初めて翻刻する。
]
1288(正応1)
1288. ○【イギリス】スコットランドの女王マーガレットが、女からのプロポーズを定着
させようとして「閏(うるう)年に関する法令」を施行する。4 年間に 1 日ある 2 月 29 日
の閏日( leap day )にだけ、女から男へのプロポーズが法的に公認される。男はそれを断わ
ることはできないとされ、男が断った場合、罰則として 1 ポンドかシルクのガウンを女
にプレゼントしなければならないと規定する。
1290(正応3)
1290. ○【日本】幕府が、人商人の顔に火印を押す。
1290.○【ポルトガル】コインブラ大学( Universidade de Coimbra )が、教皇ニコラウスⅣ
世の認可のもとに、王ディニスによりリスボンで創設される。宣教師養成を目的とする。
[のち、学芸、市民法、教会法、医学を教授するようになる。1308 年、大学の自治権が
認められていたが、学生の自治権乱用により閉鎖される。以後、リスボンとコインブラ
の間を往復して設置・廃止を繰り返す。1537 年、最終的にコインブラに定着する。1772
年、再編される。1911 年、リスボン大学創設。この 400 年間、ポルトガル唯一の大学と
して発展する。]
1291(正応4)
1291. ○【中国】福建建安の虞氏務本堂が、『新全相三国志平話』を刊行する。「以後、現
存最古の封面(タイトルページ)付きテキストとなる。」
1291. ○【イラン】ペルシャを統治しているモンゴルのイル汗国が、都タブリーズにおい
て紙幣を発行する。上面に漢文とアラビア文字が印刷され、中国(元朝)の紙幣「宝鈔(し
ょう)」にならって「鈔(しょう)」字を借用してこれが貨幣であることを示す。
- 101 -
1293(永仁1)
1293.[ 2.−]【日本】この頃、肥後国の武士、竹崎季長が、文永・弘安の合戦での活躍を
描かせた『蒙古襲来絵詩』が成る 。
『竹崎季長絵詩』とも呼ばれる。
1294(永仁2)
1294.[ 8.−]【日本】1277 年からこの年にかけて『本朝書籍目録』が成る。三条実冬の
家の蔵書を中心に、本朝の書籍を 20 の編目に分類し、総計 493 の書目と巻数を記載する 。
1295(永仁3)
1295.[ 9.−]【日本】『野守鏡』が著される。一遍や京極為兼の和歌を厳しく批判すると
ともに、法華経の読経の芸能では蓮入の流れを非難し、また禅宗の修行のあり方につい
ても批判を加える。
1295.[10.中]【日本】
『親鸞上人絵伝』が成る 。
『善信聖人絵』などとも呼ばれる。
1295. ○【日本】伊勢神宮の神官らによって歌合が行われる。[以後、ほどなく絵巻『伊
勢新名所絵歌合』が制作される。]
1295. ○【中国】安虐旌徳県の官吏王禎(おうてい)が 、中国最初の総合的な農業技術書『農
書』を編纂する。
[以後、この著作を刊行するため、王禎は職人に依頼して 2 年の歳月を
費やして中国最初の木活字 3 万個余りを製作させる。製作工程は、まず 1 枚の木版を用
意し、文字を一面に書いた紙を裏返しにして貼りつけ、丁寧に彫刻する。文字が彫りあ
がると、細工用の鋸で単字を 1 個ずつ切り離し、小刀で修整を加えて、木活字の大小高
低の不揃いを調整する。王禎は、陶活字やスズ活字に比べて木活字が優れていることを
確信し,また活字収納のために転輪排字架(円テーブル状の回転式活字盤)を考案する。
1298 年、木活字を用いて彼自身が編纂の中心となった『旌徳県志』全巻 6 万余字の印刷
を試験的に行い、1 ヵ月足らずの間に 100 部印刷に成功する。以後、この本が記録に残
された中国最古の木活字印刷となる。1313 年(皇慶 2)、
『農書』22 巻(あるいは 36 巻)を
刊行する。
]
1298(永仁6)
1298.[ 8.−]【日本】蓮行(れんぎょう)が鑑真(がんじん)を描いた『東征伝絵巻』が完成
し、律宗の僧忍性(にんしょう)が唐招提寺に寄進する。
1298.○【中国】[大徳 2 ] 地方長官王禎(おうてい)が、初めて木活字で農書『旌徳県志』
を試験的に印刷する 。[以後 、これが世界最古の木製活字による印刷と考えられていたが 、
1996 年 11 月、中国西北部の寧夏回族自治区の文化部が、1991 年に山中の塔から発見さ
れた 36 冊の文献が、11 ∼ 13 世紀に栄えた西夏時代のものであり、その一部に 12 世紀
後半に作られた世界最古の木製活字による印刷物が認められたと発表する。]
1298.○【イタリア】ポーロ Marco Polo (44 )が、ベネチアとジェノバの間に戦端が開かれ
ると、従軍してガレー船艦長の指揮顧問官となる。クルゾラ沖の海戦に敗れてジェノバ
の獄につながれる。[以後、同室の囚人ピサのフランス語冒険物語作者ルスチケロ(ルス
チケルロ)が、ポーロの 1270 ∼ 95 年にわたる東方旅行でえた知識を記憶とメモによって
- 102 -
フランス語により口述する。 1299 年 、
『マルコ・ポーロ旅行記 』
『東方見聞録』のオリジ
ナル本が完成する。ポーロの旅行は、球体としての地球世界がまだ認知されていないこ
の頃の人びとの平面的東西世界を,北回りの陸路と南回りの海路で周回した最初の体験
となる。また、その東アジアについて初めて包括的に記録に残したという点で、のちに
最も重要な資料とされるが、最初はでたらめ扱いされて、多くの架空不思議旅行記の種
本となる。オリジナルは散逸するが、これに基づく多様の古写本・古版本が現存する。
]
1300(正安2)
1300.○【ウイグル 】この頃、ウイグル語の文字の木片活字が作られる。[以後、敦煌で、
ペリオによって発見される。]『
( 書物の出現』
)
1300. ○【ヨーロッパ】この頃、各国語の俗語による写本が増加する。
1300. ○【ヨーロッパ】この頃、機械時計が発明される。[以後、漸次日時計や水時計に
とってかわっていく。北部イタリアを中心にヨーロッパの主要都市が、時打ち装置をも
つ公共的な塔時計を競って設置する。]
1300.○【フランス】パリのジャンが 、
『反キリスト論』のなかで、この世の終末が 200
年以内にやってくると予見する。彼は占星術に基づいく計算により、紀元後 130 年に時
点でこの世はおよそ 5100 年を経ていたと計算し、現世は 6000 年しか続かないはずなの
に、天地創造以来、すでに 6300 年を経ており、一般に流布している意見に従えば最後の
1000 年は最終的には 6500 年まで延長され得るからだという。
1300.○【イタリア】この頃、ジョヤ Flavio Gioja が、磁針と方位を書いたカードを一体
にしたコンパスを作る。コンパスが持ち運び可能になる。[以後、イタリア人カルダーノ
Girolamo Cardano ( 1501 ∼ 1576 )がジンバルリング(遊動環)を発明し、船が揺れてもコ
ンパスは水平を保つようになり、コンパスとして完成される。]
1301(正安3)
1301. ○【ヨーロッパ】この頃、楽譜で分割と倍価による長短関係をさらに明確にした黒
符定量記譜法が行われる。[ 15 世紀に、この黒符が白抜きに変更され、白符定量記譜法
となる。]
1309(延慶2)
1309. ○【日本】奈良の春日神社に絵巻『春日権現験記絵』が奉納される。
1310(延慶3)
1310. ○【イラン】ペルシャの歴史家ラシード・アディーンが、著書『集史』の中で、中
国の製版印刷術を、転写、校正、彫刻、印刷、発行の過程について詳細に紹介する。
1310. ○【イタリア】ジォイアが、磁気コンパスを作る。羅針盤の元祖となる。
1313(正和2)
1313.○【中国】(皇慶 2)元の官吏王禎が、木活字をつくって自著の『農書』22 巻(ある
いは 36 巻)を完成させる。巻末に、活字印刷の経験をまとめた「造活字印書法」を付け
- 103 -
る。活字の配列は回転式円盤の図解を掲載する 。
[以後 、
「造活字印書法」は、系統的に
活字印刷を記述した最古の文書となり、数カ国語に翻訳され、世界的に知られるように
なる 。
]
1315(正和4)
1315.○【ベルギー】 12 世紀からのヨーロッパの重要な商業市場アントウェルペン
Antwerpen (英語名 Antwerp (アントワープ))が、ハンザ同盟に加盟する。各国商人に特権
や無税品目を認め、世界各地の産物が取引される。[1415 年以降、年 2 回の定期市が開
かれる。]
1320(元応2)
1320.○【フランス】この頃、ビトリ(ヴィトリ)Philippe de Vitry (38)が、音楽の自由なリ
ズムを表記する新しい記譜法について論じた理論書『アルス・ノバ(ars nova)』を著す。
従来の記譜法における音価の三分割法に加えて二分割法も容認したこと、イソ・リズムと
よばれる独自のリズム法やホケトゥスなどの特殊な技法の使用、世俗音楽に対するポリ
フォニーの積極的な適用と世俗音楽の定型化などを特徴とする。そして、前代の 13 世紀
フランス音楽を「アルス・アンティクア(ars antiqua ;古い芸術)」とよんで区別する。[以
後、この書の題名により、
「アルス・ノバ」は「新芸術」を意味する 14 世紀フランス音楽
の総称ともなり、次いでイタリア音楽をはじめとする 14 世紀ヨーロッパ音楽全体をさす
ようになる。]
1321(元享1)
1321.[12. 9]【日本】後醍醐天皇が、院政を停止して親政を開始し、ついで記録所を再興
する。
1322(元享2)
1322.○【中国】浙江奉化州知事馬称徳が、10 万個の木活字を刻み、宋の真徳秀が四書の
『大学』を敷衍した政治倫理の著書『大学衍義』20 冊を刊行する。また、くつかの書物
を刊行する。
1323(元享3)
1323.10.5【日本】藤原蔭子の知り合いであるという白拍子(しらびょうし)が、夜になっ
て仙洞(せんとう)御所に広義門院藤原寧子(ねいし)を訪ねたさい、退位して孤独な花園
上皇(27)が、白拍子をひそかに御所に招き、箏(そう)を弾かせて無聊(ぶりょう)をなぐ
さめる 。
〔白拍子は平安時代末期ころに登場し、水干(すいかん)・立烏帽子の男装で今
様(いまよう)など当世風の歌をうたいながら舞をまう歌舞を業とする舞女をいう。鎌倉
時代には京をはじめ各地で見られるようになり、貴族の遊宴に侍り、諸芸能を演じて大
いにもてはやされる。白拍子の名称の起源は、声明道(しようみようどう)や延年唱歌(え
んねんしようが)、神楽(かぐら)歌(うた)の白拍子という曲節にあるとか、舞楽(ぶがく)
を母胎にする舞にあるとかの諸説がある。
〕
- 104 -
1325(正中2)
1325. [7.18]【日本】幕府が、鎌倉の禅宗寺院建長寺の修造料を得るため元への貿易船派
遣を決定していたが、出港にともない沿岸各地の御家人に貿易船警固を通達する 。
[以
後、日元間の国交が回復する。1326.9.4 貿易船が唐物を満載して帰国する。
]
1327(嘉暦2)
1327. ○【フランス】ギリシア語のカタロゴス(登録する、完全に数えあげる)が、ラテン
語のカタログスを経由して、この頃フランス語のカタログ(catalogue)になる。[ 1460 年
ごろ、そのまま英語に転化する。]
1327.○【イタリア】フィレンツェで 、徴税を目的にして国勢調査が実施される。[以後、
調査の実施には経費がかさむことが分かったので、調査はまれにしか実施されない。し
かし、フィレンツェの例を他の諸地域は見習って実施する。]
1333(元弘 3 ・正慶2)
1333.[ 5.21]【日本】新田義貞が、鎌倉を攻略する。
1333.[ 5.22]【日本】北条時高(31)以下が自刃し、将軍守邦親王は出家する。鎌倉幕府が
滅亡する。
1333.[ 5.25]【日本】後醍醐天皇が、二条富小路(とものこうじ)殿に凱旋し、皇太子康仁
親王を廃す。
1333.[ 6.−]【日本】京都に、記録所が再び設置される。
1334(建武1)
1334. 8.−【日本】京都二条河原に政治批判の落書(らくしょ)が立てられる。
「二条河原
落書」と呼ばれ 、
『梁塵秘抄』にも見える〈此比都ニハヤル物〉という書出しの,八五
調・七五調とり交ぜた物尽し形式の落書で,全 88 句より成る。建武新政発足後 1 年を過
ぎ、新政の矛盾・混乱がはなはだしくなり、機構改革,政策修正の動きが出はじめたと
きに当たり,洛中治安の乱れ,おびただしい訴訟人の上洛,官庁職員の膨張や人事の不
公正,武士の退廃,成出者の下剋上,鎌倉風・田舎ぶりの風俗好尚の流入などが謡いこ
まれて,新政下の京都の混乱は〈自由狼藉ノ世界 〉として ,一々具体的に鋭く批判され,
一旦の平和も再び破れんとする予兆まで指摘されている。作者は不詳だが,新政を不満
とし冷眼視する公家か僧侶と見るのが穏当であろう。落書(らくしょ)の歴史上,比類の
ない傑作とまで評価されている。
1338(延元3・暦応1)
1338. ○【フランス】紙の製造技術がトロワに伝えられる。原料の多くは動物繊維の古着
が用いられる。[1389 年、ドイツのニュルンベルクに伝えられる。]
1338.○【フランス】この頃、ソルボンヌ学寮の蔵書は、26 脚の大机に鎖でつながれた書
物が 338 冊あり、大部分は神学書である。貸出図書は 1728 冊あり、ギリシア・ローマの
作家たちの書物など 59 に分類さているが、内 300 冊は紛失している。(『書物の出現』
- 105 -
上)
1341(興国2・暦応4)
1341. ○【中国】湖北の資福寺が、朱墨套印本『金剛経注』を刊行する。[以後、最古の
多色刷り印刷とされる。]
1348(正平3・貞和4)
1348.○【ヨーロッパ】全土に黒死病(ペスト)が大流行する 。
[1349 年末、西ヨーロッパ
のほぼ全域に広がる。以後、何度も流行し、ヨーロッパ人口の 3 分の 1 以上を死に追い
やる。ドイツでは地方によって 40 %減、イギリスでは 20 %、イタリアでは地方によっ
て 10 ∼ 50 %減少する。
]
1348.○【チェコ】プラハ大学(正称、カレル大学( Univerzita Karlova))が、ベーメン(ボヘ
ミア)王カレルⅠ世(カールⅣ世)によりパリ大学をモデルに創設される。
[以後、宗教改
革者フスも教壇に立ち、大学をチェコ民族の機関とすべく努力する。その結果、チェコ
民族とドイツ民族の対立が激化し、大学は一時的に衰退する。17 世紀、イエズス会の支
配下に入る。1773 年、ふたたびチェコ民族の機関となり、活力を取り戻す。1882 年、チ
ェコ大学とドイツ大学に分離する。1920 年、チェコ大学が、創設者の名にちなみカレル
大学と改称する。第二次世界大戦中、ナチスの支配下で閉鎖される。1945 年、ドイツ大
学は廃止され、カレル大学がふたたびチェコ民族の大学として復活する。
]
1348.○【イタリア】ボッカチオ(ボッカッチョ)Giovanni Boccaccio (36)が、トスカナ地方
を襲ったすさまじいペスト大流行を見て、長年にわたって書きためてきた、あるいは温
存してきた短編物語をもとに、
『デカメロン( Decameron;十日物語) 』の執筆に着手する。
[1353 年、10 日 100 話をまとめ上げる。1490 年、Anton Sorg が活版印刷する。
]
1349(正平4・貞和5)
1350(正平5・観応1)
1350.○【フランス】ジャン善良王が即位する。認証の署名に初めて 7 世紀以来忘れ去ら
れていた草書体を用いる 。
[∼ 1364。以後、パリ大学が、エソンヌとトロワに製紙工場
を設け、所有者は大学構成員として諸税を免除されるという権利をジャン善良王から得
る。この頃、各地の大学でも、安い紙を大量に入手できることを期待して、製紙用水車
の建設を奨励する。パリ大学は、エソンヌ、トロワの他にコルベーユ、サン= クール周
辺などの製紙水車の建設を援助する。(『書物の出現』上)]]
1350. ○【フランス】この頃、王侯貴族の宴会でバレエが行われる。この頃のバレエは、
エロチックな見世物で、遊女を選ぶ品定めのショーとして催される。
1350.○【イタリア】フィレンツェで、1338 年に 11 万人の人口が、黒死病(ペスト)のた
め 4 万 5000 ∼ 5 万人に激減する。「 1380 年、7 ∼ 8 万人に回復する。
]
1350. ○【イタリア】ユマニストたちを中心に、人文主義書体が広まり始める。
1354(正平9・文和31)
- 106 -
1354.○【イタリア】法学者バルトーロ(バルトルス Bartolus) Bartolo deSassoferrato( 40 ?)
が、マルケ州のファブリアーノで発展している製紙業の製品を評して 、
〈この地では最
高級の紙が作られている〉と述べる。ファブリアーノの製紙業者は、石臼に代えて積極
的にカム(水車の回転運動を往復運動に変換する)を使った叩解(こうかい)装置を導入し、
だんぷん糊の代わりにゼラチンや動物性の糊を使用し、艶だしには専門の職人に担当さ
せて、上質の紙を製造している。各製紙工場では、製品を識別するために、独自の模様
を紙に漉き込んでいる。[のちに、バルトーロは、国際私法の祖といわれる。]
1360(正平15・延文5)
1360.○【フランス】ジャンⅡ世(在位 1350 ∼ 64)が、ラテン語「Franco()rum Rex(フラ
ンスの王)」の文字を刻んだ適正な純金のドニエ貨を発行 、
「フラン」と命名する。量目
が純金 3.88g で、計算貨幣 1 リーブル(livre)と正確に対応させる。[以後、国内および属
領で「フラン」が通貨単位となり、フランス革命まで「リーブル」と同義語で区別なく
使われる。]
1361(正平16・康安1)
1361. ○【イタリア】パビア大学(パヴィア大学)が創設される。
1364(正平19・貞治3)
1364. ○【ロシア(??)】クラコフ大学が創設される。
1364.○【イタリア】デ・ドンディ Giovanni de' Dondi の作製した天文時計、高さ 4.6ft(1.4m )
の置き時計の詳細な記録が書かれる。この頃の時計構造は、重錘(じゅうすい)の力で歯
車を回転させ、冠形脱進機に慣性の大きな棒テンプをかみ合わせて軸の回転を抑制する
方式である。棒テンプ自身は現在の振り子やテンプのように等時性をもった振動を行わ
ないため、時計の狂いは 1 日に 30 分にも及ぶ。このため時計は時針 1 本だけで、眺める
ものではなく鐘で時刻を知らせるものである。この頃につくられた大部分の時計には文
字板がない。「クロック」の語源は「鐘」であり、一般市民は鐘の音にあわせて生活を
営むようになり、これまでの不定時法にかわって、1 日を 24 等分して時を刻む定時法が
浸透していく。[この時計は現存していない。1960 年に、その記録により正確な複製品
がつくられ、アメリカのスミソニアン博物館に所蔵される。]
1365(正平20・貞治4)
1365.○【オーストリア】ウィーン大学( Universit □ t Wien )が、ルドルフⅣ世により創設
される。ドイツ語圏最古の大学となる。パリ大学をモデルに整備され、法学、医学、文
学の 3 学部よりなる。[1384 年、神学部が加えられ、発展する。16 世紀、宗教改革期に
一時衰える。18 世紀中期、神聖ローマ女帝マリア・テレジアの教育改革により、ふたた
びヨーロッパ有数の学術機関としての地位を確立する。
]
1366(正平21・貞治5)
1366.○【イタリア】トレヴィーゾの製紙業者が、不可欠な原料であるぼろぎれを確保し、
- 107 -
ぼろ回収業者に法外な条件を吹っかけられないようにするため、ヴェネチアの元老院に
回収の独占権を請願し、特権を獲得する。(『書物の起源』)
1368(正平23・応安1)
1368. ○【中国】明王朝が成立する。朱元璋が即位し、太祖(洪武帝)となり、都を応天府
(のち、南京)に定める。[以後、洪武帝は、元代に設立された西湖書院の所蔵する宗・元
版の版木をすべて南京に運ばせ、国子監の保存させる。∼ 1398 ]
1368.○【フランス】シャルルⅤ世 Charles V(31 )が、ルーブル宮に王室文庫を開設する。
国立図書館(BN)の始めとなる。[1996.12 国立図書館新館(BNF)が設立される。これに伴
い BN は、1998 年末、
「国立芸術研究院」として再生する。]
1370(建徳1・応安3)
1370. ○【ヨーロッパ】この頃、絵画の木版印刷がはじまる。
1370. ○【ハンガリー】この頃、ハンガリー王妃エリザベトが、「ハンガリー水」を愛用
する。[のちに、広義の香水の初めといわれる。]
1370.○【フランス】ドイツ人ド・ビック Henri de Vic が、シャルルⅤ世のために機械時計
をつくる。[現存する最古の時計となる。]
1374(文中3・応安7)
1374.○【日本】
観阿弥(かんあみ)(41)が、
初めて京都に進出し、
長男世阿弥(ぜあみ)(12 ?)
とともに今熊野(いまくまの)神社で新しい芸能「猿楽」を演じて、第 3 代将軍足利義満(あ
しかがよしみつ)(16)の心をとらえる。[以後、観阿弥は義満後援のもとに世阿弥と二代
にわたって能を大成する。座の属した大和猿楽の演劇性を基礎としながら、ライバル的
芸能であった田楽(でんがく)の長所や、近江(おうみ)猿楽の唯美主義を取り入れ、長い
生命力をもつ演劇、能の基礎を打ち立てる。観阿弥はまたこの頃流行していた曲舞(くせ
まい)を能の主要部分に導入し、従来のメロディー本位の小謡節(こうたぶし)に、リズム
とテンポのおもしろさを加えた音楽上の改革を行い 、
『自然居士(じねんこじ) 』
『卒都婆
(そとば)小町 』
『四位少将(しいのしようしよう)』『
( 通(かよい)小町』の原作)などを
創作する。とくに俗語までを駆使した会話のおもしろさが好評を博す。1440 年、世阿弥
が、
『風姿花伝(ふうしかでん)』をまとめる。]
1374.○【フランス】ヤン・セレが、ズウォレの学校長となり、1200 人の生徒を集める。
生徒たちを 8 学年に分け、初めの 4 学年は上級四科(クワドリヴィウム)を含み、後の 2
学年では専門の教師を置く 。
[以後、初等教育が発展する。のちの学院(コレージュ)の
原型となる。
]
1374.○【フランス】最初の製紙水車が、イタリア商人の手でカルパントラに建造される。
1375(天授1・永和1)
1375.12.21 【イタリア】作家ボッカチオ(ボッカッチョ)Giovanni Boccaccio(62 )が、隠棲
していた城塞都市チェルタルドの家で死去する 。
[1389 年、蔵書がフィレンツェのサン
ト= スピリート修道院のアウグスティノ会に寄贈される 。
]
- 108 -
1375. ○【
】『カタルン世界地図』が作られる。
1376(天授2・永和2)
1376. ○【朝鮮半島】初めて木活字を用いて 、
『通鑑綱目(つがんこうもく)』が刊行され
る。
[1397 年、木活字で『開国原従功臣録券』が刊行され、現存する最古の木活字本と
なる 。
]
1376.○【フランス】パリ市民の 2 人の製紙業者が、パリに近いサン=クールで、町の司
教との間で 1 基の大型水車の長期賃貸契約を交わす。契約書には〈この水車で紙など利
益をもたらす製品を作ってよいが、いかなる穀物を挽くことも挽かせることもしてはな
らない〉と記される。
1377(天授3・永和3)
1377. ○【朝鮮半島】銅活字で禅書『直指心経(ちょくししんきょう)』が印刷される。こ
の銅活字は、蝋型法(ロスト・ワックス法)により鋳造したとされる。[以後、現存する最
古の活字本としてパリ国立図書館に収蔵される。]
1377.○【イギリス】ペストのため、この年までに人口の 40 %を失う。
1380(天授6・康暦2)
1380.○【イギリス】オックスフォード大学のスコラ哲学者ウィクリフ John Wycliffe
(Wyclif)(60 ?)が、ローマ教王を攻撃したために、いっさいの公職から追放される。ウ
ィクリフとその信奉者たちは、神の言葉を民衆に理解できる形で伝えるには、ラテン語
ではなく英語で聖書を読めるようにすることが大切だとして 、
『新約聖書』の翻訳に着
手する。[1382 年、全巻の英訳が完成する。]
1381(弘和1・永徳1)
1381. ○【ベルギー】聖ニコラス教会に、カリヨン自動演奏器付きの鐘楼が完成し、話題
を呼ぶ。
1382(弘和2・永徳2)
1382.○【世界】ウィクリフ(62 ?)とその信奉者たちが 1380 年以来英訳を進めてきた『新
約聖書』の全巻が完成する。この英語の『聖書』に「sex」という語が初めて登場する。
[1384 年、ウィクリフが死去する。以後、親友のジョン・パーヴェイがあとを引き継ぎ、
改訳を施す。1408 年、教会側が、聖書写本を当局の許可なしに翻訳、転写、所有するこ
とを禁止する。]
1386(元中3・至徳3)
1386. ○【ドイツ】選帝侯ルプレヒトⅠ世が、パリ大学をモデルにハイデルベルクにドイ
ツ最初の大学 Ruprecht-Karls-Universit ロ t Heidelberg を創設する。[17 世紀、三十年戦争の
影響を被り、閉鎖∼再開∼避難を繰り返す。18 世紀に一時的にカトリック教会の支配下
に入る。1803 年、バーデンの領主カール・フリードリヒによる大学再編により、近代的
- 109 -
大学への脱皮が図られる。同時に、教授用語もラテン語に代わりドイツ語が採用される。]
1388(元中5・嘉慶2)
1388.○【ドイツ】ケルン大学 Universit □ t zu K □ ln が、自由都市ケルンにウルバヌス
Ⅵ世の勅書を得て設立される。[以後、フランスのパリ大学に範をとり、神学を中心に
ハイデルベルク大学と名声を競うが、しだいに振るわなくなる。1798 年、フランスに占
領され、大学は閉鎖される。1901 年、単科の商科大学として再建される。1904 年、臨床
専門の医学アカデミーを吸収する。1919 年 プロイセン政府がケルン市と契約して総合
大学となる。第二次世界大戦後、ノルトライン・ウェストファーレン州に移管される。
]
1388.○【ドイツ 】シュトラースブルク(ストラスブール)で 、ライン河に橋が架けられる 。
[以後、地の利を得て、生産品を東方ドイツに輸出するようになり、西方へはロレーヌ
地方やフランス王国との結びつきを確保して、ニュルンベルクと並ぶ繁栄を享受する。
]
1389(元中6・康応1)
1389. ○【ドイツ】紙の製造技術が、木版印刷の中心地ニュルンベルクに伝えられる。原
料の多くは動物繊維の古着が用いられる。[1411 年、スイスに伝えられる。]
1391(元中8・明徳2)
1391. ○【ドイツ】 ニュルンベルクに、ドイツ最初の製紙所ができる。当地の富豪ウル
マン・シュトレーマーが、グライスミュールの製粉水車を製紙用に改造して、イタリアか
らフランチェスコとマルコのマルキオ兄弟、その奉公人の 3 人を招聘して、ドイツ人に
製紙法を指導させる。
[1420 年、リューベックで製紙業が起こる。1460 年、アウスブル
ク。1469 年、ウルム。1500 年代半ばにようやく紙の自給が可能な状態になる 。
]
]
1392(元中9・明徳3)
1392.[8.6 ]【朝鮮半島】高麗最後の国王恭譲王が譲位し、大将軍李成桂(57 )が推戴されて
王位に就く。[1393 年、国号を「朝鮮」と変える。李氏朝鮮が創建される。1394 年、首
都を漢陽(のち、ソウル)に定める。]
1392.○【朝鮮半島】書籍院が設置される。金属活字による活版印刷技術がさらに発展し、
李氏朝鮮時代に引き継がれる。[1403 年、国立の鋳造所で多数の活字が鋳造される。の
ちに、忠清北道の清州市に、最古金属活字を記念して、古印刷博物館が設けられる。]
1394(応永1)
1394. 6.24【ドイツ】マインツの貴族フリーレ・ゲンスフライシュ(のち 1430 年頃までに
「フリーレ・ツー・グーテンベルクと改姓する)と、1386 年に 2 度目の結婚をしたエルザ・
ヴィリッヒとの間に、次男が誕生する。「聖人ヨハネ」の日に生まれたので、ヨハンと
名づける。[のちに、ヨハ・ゴーテンベルクンは、金属活字による印刷術を発明する。印
刷界は、毎年 6 月 24 日にグーテンベルクの誕生日を祝うようになる。]
1398(応永5)
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1398. ○【フランス】パリの製紙業者が、同業組合を結成し、規約を作成する。
1400(応永7)
1400.○【日本】世阿弥(ぜあみ)(38 ?)が 、父観阿弥(かんあみ)の教えに基づいて 、ただ 1
人の真実の後継者に能の真髄を伝えようとして、能楽論『風姿花伝(ふうしかでん)』を 3
編までまとめる。[ 1418 年、2 男の元雅(もとまさ)と考えられる元次にひそかに伝えられ
る。以後、秘伝であるが、汎(はん)演劇論として、芸術論として、教育論、人生論、魅
力の美学として、後世に広く伝えられる。書名については世阿弥自身〈風姿花伝と名づ
く〉といっており、略する場合は「花伝」であるから 、「花伝書」という俗称を用いる
のは正しくない 。
「花伝書」は、室町後期からの能の伝書の全体、そして立花の教えを
さすことばになる。]
1400.○【日本】この頃、紙の増産で紙価が低落し、1 帖 48 枚 100 文していた杉原紙が産
地価 21 文になる。
1400.○【ヨーロッパ】この頃、紙が大量生産されていて、ありふれた商品になっている。
1400. ○【ヨーロッパ】この頃、木版画に手彩色がはじまる。
1401(応永8)
1401. 5.13 【日本】将軍足利義満( 44)が、明との本格的な朝貢貿易で国交正常回復の期待
をかけて、九州の商人肥福(こいずみ)と僧祖阿(そあ)を遣明使として明に派遣する。遣
明船には、金 1000 両に馬 10 疋をはじめ、薄様(うすよう、和紙)1000 帖、屏風 3 双など
多くの献上品が積まれ、明へ向け出発する。
[1402.8.3 遣明使帰国の知らせを受けた義
満が、娘を伴い兵庫浦(のち、神戸市)に赴き、明の答礼使たちを出迎える。答礼使がも
たらした明帝の国書のなかで、義満を「爾(なんじ)日本国王源道義(どうぎ)」と呼び、
義満を明帝の正式の家臣として認めたしるしに大統暦(だいとうれき)を下賜する。義満
は国書を焼香三拝、ひざまづいて受け、日本が明国の冊封(さくほう)体制に組込まれた
ことを内外に示す。1402.9.5 遣明使が無事帰国し、同行してきた明国の正使天倫道彝(て
んりんどうい)と副使一庵一如を、北山第で義満が会見する。義満の熱烈歓迎ぶりや明へ
の外交姿勢があまりに屈辱的であるとの非難が集中する。1404 年、義満が、明帝から「日
本国王」の亀紐(きちゅう)と勘合符(かんごうふ)100 通を授かる。1407 年、勘合符を持
った貿易船に限り 10 年に 1 回の朝貢貿易が認められる。以後、明から書籍や印刷術など 、
さまざまな文化が輸入される。
]
1401. ○【朝鮮半島】この頃、活版印刷の時代がはじまる。
1403(応永10)
1403. 7.−【中国】永楽帝( 43 )が、翰林(かんりん)侍読学士解しん、姚広考(ようこうこ
う)らに、経、史、子、集百家の書から天文、地志、陰陽、医卜(いぼく)、僧道、技芸に
わたる一大類書を編集することを命じる。[翌 1404 年『文献大成』として完成する。さ
らに諸書の博捜(はくそう)を続けさせ、2169 人が従事した結果 、1409 年冬に『永楽大典』
ができあがる。本文 2 万 2877 巻、凡例(はんれい)目録 60 巻、1 万 1095 冊で、中国最大
の類書となる。あまりにも大部なため、正本は 1 本しか蔵しない。1562 年徐階らが勅命
- 111 -
で副本をつくる。明末の動乱で正本が焼かれるが、副本が清(しん)朝に引き継がれる。
アロー戦争や義和団事件などでほとんど焼失し、約 60 冊だけが残される。]
1403.○(1401 年とも)【朝鮮半島】李氏朝鮮の初代国王、太祖(李成桂、イ=ソンゲ)(68 )
が、啓蒙政策を提示し、法や経典の知識を普及させるために、磨滅しやすい木版に代え
て銅活字による印刷を切望し、王立の活字鋳造所が南山の麓(ふもと)に設立される。費
用は人民からの税によらず、宮廷の財源から支出し、数十万個の銅製活字が世界で初め
て鋳造される。[以後、この年の干支にちなみ「癸未(きび)字」と呼ばれる。1420 年、
および 1434 年、歴代の王が政府事業として大々的に銅活字の鋳造や改鋳を盛んに行い、
それを用いて活発な印刷出版を行う。約 100 年間に 10 組の活字セットが作られ、王立印
刷所の倉庫に保管される。1860 年代までに、計 30 組近い金属活字が鋳造され、200 ∼ 300
万字に達する。うち、鉛活字 1 組、鉄活字 1 組以外はすべて銅活字である。]
1403. ○【イギリス】ロンドンで書籍商ギルドが発足する。
1404(応永11)
1404. ○【日本・朝鮮】足利義満が、
「日本国王」として朝鮮と対等の外交(交隣)関係を開
く。[以後、両国は明治維新にいたるまで,基本的にはその関係を維持する。この関係に
もとづいて,文禄・慶長の役まで朝鮮からは通信使(派遣の名目によって回答使とされる
こともある)が、日本からは「国王使」が頻繁に往来する。徳川家康以後の歴代将軍は,
対馬の宗氏が詐称した場合を除いて,直接使節を送らないので,朝鮮から通信使が来日
するのみとなり、鎖国状態の中でも総計 12 回派遣される。]
1405(応永12)
1405.○【中国】イスラム教徒の家系である宦官(かんがん)の鄭和(34?)が、司令官とし
て南海への大航海に出発する。主な目的は政府直営の海外貿易の促進にあり、船団は宝
船、西洋取宝船などとよばれる大型の 500 トン、4 層デッキの平底竜骨船(長さ 150m、
幅 62m)60 数隻からなり、乗員も 2 万数千人に上る。[ 1407 年 、チャンバ、パレンバン、
マラッカ、サムドラへ寄港、カリカットを最終地として第 1 次航海を終える。
「鄭和の西
洋下り」と呼ばれる。1407 ∼ 09 第 2 次。1409 ∼ 1411 第 3 次。1413 ∼ 15 ホルムズを最
終地として第 4 次航海。1417 ∼ 19、1421 ∼ 22 、1431 ∼ 33 いずれもホルムズを最終地
として第 7 次までの大航海を行う。別働隊はアフリカ東岸から紅海沿岸に進出する。随
行者が『瀛涯勝覧(えいがいしようらん) 』『星槎(せいさ)勝覧』などを著し、中国人の
東南アジア方面に関する知識を深め、華僑進出の端緒ともなる。]
1407(応永14)
1407. 7.22【日本】遣民使が明使とともに兵庫に帰着する 。
[8.5 将軍義満( 50 )が明使を引
見する。]
1408(応永15)
1408. ○【イギリス】教会当局が、聖書写本を許可なく翻訳、転写、所有することを禁止
し、これを犯す者は処刑されるとの通達を出す。ウィクリフ派が 1380 年以来英訳し普及
- 112 -
させてきた聖書も禁止される。英訳の中心的人物ヘリフォードのニコラスは破門、改訳
を施したジョン・パーヴェイは投獄、ウィクリフが主張した個人的な信仰による救済に賛
同して英訳聖書を頒布してきたロラード派伝道師の多くは処刑される。[以後、英訳聖書
は地下出版物として、写字生によって転写される。書体のくせや出身方言によって身元
が判明するのを恐れて、独特の書体(テクストゥーラ・セミクォドラータ)と共通の方言を
使用する。1416 年、ウィクリフの遺骨も掘り起こされて焼き捨てられる。19 世紀前半、
ウィクリフ訳聖書が印刷本として復活する。]
1409(応永16)
1409.○【ベルギー】ブリュッヘ( Brugge)(フランス語名ブリュージュ(Bruges ))に、情報
交換のための施設として証券取引所( bourse)が設立される。[1460 年、アントワープの設
立。1462 年、リヨンに設立。1530 年、アムステルダムに設立。1554 年、ロンドンに設
立。1558 年、ハンブルクに設立。1624 年、コペンハーゲンに設立。]
1410(応永17)
1410. ○【中国】明の成祖が、チベットに人を派遣して経典の収集につとめ、チベット文
『大蔵経』を復刻させる。
『番蔵』と呼ばれる。
1410. ○【オランダ】この頃、フランドル地方で芸術表現の手段として使える「油絵」の
技術が開発され、画家ファン・アイク(ファン・エイク)Jan van Eyck (40 ?)と兄のフーベ
ルト Hubertvan Eyck (実存不詳)が、この油絵技術を用いて最初の傑作を描く。
1410. ○【イギリス】ヨークシャのマウントグレイスにあるカルトジオ派修道院院長ニコ
ラス・ラヴが、ボナヴェントゥラ作といわれる『キリスト伝省察』を 、
『イエス・キリス
トの祝福されし生涯の鏡』と題する美しい英語散文に翻訳し、カンタベリー大司教トマ
ス・アランデルに検閲のために送る。大司教は〈異端者やロラード派の教化に役立つ〉と
して出版を許可する。[以後、ラテン語によるお墨付きをつけた手書きの写本が多く作ら
れ伝搬する。1484 年、ウィリアム・キャクストンが、この作品を印刷する。]
1411(応永18)
1411. ○【スイス】紙の製造技術が伝えられる。原料の多くは動物繊維の古着が用いられ
る。[ 1490 年頃、イギリスに伝えられる。]
1415(応永22)
1411. 3.11【フランス】トロワとパリの紙業者が、パリ周辺に多くの製紙水車ができたた
め、紙の価格が下落したとして、パリ大学に対して諸特権の確保を願い出る。
[1489 年 3
月、シャルルⅧ世の特許状を得て、パリ大学の諸特権が確認される。](『書物の出現』
上)
1411. ○【日本】興福寺金堂の新築に際して、「番付け図」という簡単な平面図が用いら
れる。[現存する最古の建築設計図の記録となる。これ以前の創建になる構造物に対して
も、同様な図面が用いられていたと想像される。以後 、番付け図はしだいに整備されて 、
立絵図や指(さ)し図なども併用されるようになる。]
- 113 -
1411. ○【中国】明の胡広らの編纂により、『論語 』
、『孟子 』
、『大学』、『中庸』を集成し
た『四書大全』36 巻が刊行される。内容は粗雑であるが、受験参考書として人気を得る。
1411.○【フランス】神学者ジェルソン Jean de Gerson (本名ジャン・シャルリエ Jean
Charlier)( 52)が、紙は羊皮紙に比べて長持ちしないとして、テキストを紙に写さないよ
う写字生に注意する。(『書物の出現』上)
1411.○【ローマ】法王ヨハネス 23 世(初代)が、近親相姦、姦通、暴行、殺人、無神論
の罪でその地位を追われる。
1411.○【ベルギー 】 アントウェルペン Antwerpen(英語名アントワープ Antwerp)で、年 2
回の定期市が開かれる。[1460 年、史上初の国際株式取引市場が開設される。]
1417(応永24)
1417.○【イタリア】この頃(あるいは 1425 年ころ)、フィレンツェの建築家ブルネレス
キ Filippo Brunelleschi(本名 Filippo di Ser Brunellesco)(40 )が、遠近法の最初の実験的な
試みによって線遠近法と消失点への科学的なアプローチを成し遂げる。[ 1425 年ころ、
フィレンツェ洗礼堂の正面に立ち鏡を使って古代の透視図法の有効性を実験し、厳密な
線的遠近法を確立する。以後、絵画での最初の実現は、マサッチョによるフィレンツェ
のサンタ・マリア・ノベッラ聖堂の壁画『三位(さんみ)一体』で果たされる。 1436 年、こ
の壁画の影響下に、建築家アルベルティが最初の遠近法の理論を述べた『絵画論』を出
版する。]
1418(応永25)
1418.○【ヨーロッパ】木版(ザイログラフィー)1 枚刷りの聖母子像「四人の聖女と聖母
子」がつくられる。年代が明示された最初の木版画となる。[のち、ブリュッセル王立
図書館に収蔵される 。
]
1419(応永26)
1419.○【ポルトガル】アビス朝創始者ジョアンⅠ世の第 5 子エンリケ Henrique( 25)(「航
海王子( Navegador )」とあだ名される)が、イベリア半島南端サン・ビセンテ岬付近のサグ
レスに航海学校(サグレス・インスチチュート)を、国の援助を受けて創設する。[以後、
造船、航海術、地図作製、その他航海関連科学技術の発展を図り、技術者たちは、大帆
船や航海システムを設計し、ポルトガルが他国に先駈けて世界的な海上貿易の時代を切
り開く基礎をつくる。1434 年,エンリケの従士ジル・エアネスが、ボジャドル岬越えに
成功してヨーロッパに未知の世界を切り開く。エンリケは、新しい世界への好奇心から
ラゴスの居館に天文学者や数学者を招き、ヌノ・トリスタン、ペロ・デ・シントラやイタリ
ア人カダ・モストらの航海者はエンリケに仕えて西アフリカ探検を進める。さらに西アフ
リカ探検航海事業を指揮して、近代の幕あけを準備する。
]
1420(応永27)
1420. ○【日本】朝鮮の宋希景が、『大蔵経』を届ける名目で、倭寇問題の交渉のため来
日する。[以後、『老松堂日本行記』を執筆する。]
- 114 -
1420.○【イタリア】建築家フォンタナ GiovanniFontana が、最初の機械要素として複雑
なギア機構を組み込んだエンドレスロープによる手動の四輪車のスケッチを描く。[15
世紀末、レオナルド・ダ・ビンチが、チェーン機構の詳細なスケッチを描く。いずれの
場合も実現することなく夢に終わる。]
1420. ○【イタリア】ベネチア生まれのジョヴァンニ・ダ・フォンタナが、光を透過できる
ほど薄くした角(つの)に「悪魔」の絵を描き、ランタンの光で大きな影を投影して見せ
る。光源と絵とスクリーンという幻灯の基本的な構造をもった装置の先駆けとなる。(た
だし、レンズは用いられなかった。)(イギリス幻灯学会(The Magic Lantern Society )『幻
灯の図像――幻灯の図像学 1420 ∼ 1880』)
1421(応永28)
1421. 2. 2 【中国】永楽帝(61 )が、正式に首都を北京に移す。これにより今までの首都応
天府(おうてんふ)を南京、新都の順天府を北京と改称する。
1421.○【イタリア】建築家・彫刻家ブルネレスキ Filippo Brunelleschi(本名 Filippo di Ser
Brunellesco )( 44 )が、船を設計し、特許が与えられる。記録に残る最初の特許とされる。
ブルネレスキは、かねてから他人の発明を自分の手柄だと言い張る人びとに対して用心
するよう同僚に警告していた。[ 1474 年、最初の特許法がベネチアで可決される。]
1423(応永30)
1423. ○【ドイツ】ヨーロッパでの年代を明記した版画「聖クリストファの図」が制作さ
れる。[以後、1418 年の「聖母子像」とともにヨーロッパでの年代を明記した現存最古
の版画となる。これ以前の 14 世紀末にも木版画はかなり成熟していたものと考えられて
いる。初期の木版画は東洋も西洋も信仰と関連して発達する。キリスト、聖母、聖者た
ちの像を表したものが、多くは修道院などでつくられ、火災、盗難、疫病などの予防の
ために庶民の家の戸口や家具などに貼られる 。「聖クリストファの図」は、イギリスの
マンチェスター大学ジョン・ライランズ図書館に収蔵される。]
1424(応永31)
1424. ○【イタリア】ファブリアーノ出身のジェノヴァの製紙業者が、原料の古綱類を確
保するため自らの手で回収したいとして元老院に請願し、独占購入権を獲得する。(『書
物の起源』)
1425(応永32)
1425. ○【ベルギー】ブルゴーニュ公国のジャンⅤ世により、ルーバン(ルーヴァン)カト
リック大学が創設される。低地地方(ネーデルラント)唯一の大学として各地より学生を
集める。[以後 、人文主義者エラスムスなども滞在する学問研究の中心となる 。1968 年 、
ワロン人とフラマン人の言語紛争の結果、大学はオランダ語部門とフランス語部門に 2
分割されることになる。1972 ∼ 79 年、フランス語部門は分離独立して、ブリュッセル
南郊のフランス語(ワロン語)地域であるブラバン・ワロン州のルーバン・ラ・ヌーブ
Louvain-la-Neuve に移転する。]
- 115 -
1426(応永33)
1426. ○【朝鮮半島】朝鮮半島に日朝貿易のため、富山浦(のち、釜山) 、薺浦(せいほ)(の
ち、熊川)、塩浦(のち、蔚山)の 3 つの港「三浦」が成立する。[以後、貿易などに従事
する日本人が三浦に多数居住する。]
1429(永享1)
1429. ○【日本】尚巴志(しょうはし)が、三山(さんざん)を平定して琉球を統一し、中山
王府(ちゅうざんおうふ)(琉球王府ともいう)を樹立する。首里を王都として整備し、対
外交易港那覇の充実を図る。[1477 ∼ 1526 年、尚真(しょうしん)が王位に就く。その 50
年間、王を頂点とする位階制度や行政機構を整備・強化し、地方統治制度や神女組織を
確立するなど王府支配システムに抜本的な改革を加える。1609 年、島津侵入事件により
王国が幕藩制国家の一環に編入される。以後、王国の経営が薩摩藩・幕府の規定を受け
るようになる。1879 年、日本政府による琉球処分によって、王国は崩壊し、王府もまた
瓦解する。]
1430(永享2)
1430.○【ドイツ】最初の彫刻銅版(engraving)が、ライン川上流域の金工家の工房で製作
され始める。[1446 年、現存最古の彫刻銅版画「キリスト笞刑図」が製作される。]
1434(永享6)
1434. ○【朝鮮半島】金属活字の改鋳が盛んに行われる。四世紀東晋の書家衛夫人(王義
之の書道の先生)の書法にならって鋳造された銅活字の字体は、精緻で美しく、最も流行
する。この年甲寅にちなみ「甲寅字(こういんじ)」と呼ばれる 。[以後、甲寅字は 、
「朝
鮮万世の宝」といわれる。
]
1434.○【ドイツ】3 月 14 日以降、グーテンベルク Johanul Henne Gutenberg ( 28 ?∼ 40 ?)
(本名は Johannes Gensfleisch zur Laden 。グーテンベルクは母方の姓による通称)が、祖父
もやっていた金貨鋳造業者としてのすぐれた技術にもかかわらず、母方の祖父だけが貴
族でなかったという理由で貨幣鋳造者ギルドに入会させてもらえなかったため、政治抗
争に巻き込まれ、マインツを離れて、シュトラースブルク(ストラスブール)に移住する。
[以後、金細工師や鏡職人として生計をたてながら、活字印刷機の作成を試みる。1436
年ころから、事業資金の提供者アンドレアス・ドリツェーン A. Dryzehn とともに、従来
の木版に代わってもっと書物をたやすく安くつくる方法、つまり 1 冊の本をつくるのと
同じ時間で数百の本をつくるという着想を企業化しようともくろむ。1439 年、ドリツェ
ーンが急死し、事業化は頓挫する。その兄弟から出資金を返すか、自分を仲間にするよ
う訴訟を起こされるが、裁判の結果、ドリツェーン側に少々の金額を払うだけで終わる。
1440 年頃までに、グーテンベルクは印刷術を完成させるが、その発明は妖術とも悪魔の
仕業とも思われている。裁判を通じて同僚やその家族から強く憎まれる存在となるが、
グーテンベルクは秘中の秘の印刷術については誰にも教えずにすむ。1444 年までシュト
ラスブルクにとどまり、文字の機械的再生について考案を重ねる 。
]
- 116 -
1435(永享7)
1435. ○【ベトナム】政府が、初めて正式に書物の刊行に手をつけ、儒家の経典『四書大
全』を初めて木版印刷により刊行する。(一説に、1427 年ともいう。)[1467 年 、
『五経』
の版木が完成する。官刻の書籍がしだいに多くなる。政府は、文廟(孔子廟)に専用の貯
蔵庫を建てる。
]
1436(永享8)
1436. ○【朝鮮半島】初めて鉛活字の丙辰字を用いて、中国の司馬光の歴史書『通鑑綱目
(つがんこうもく)』が刊行される。正文に用いられた丙辰字は、大らかな書法による書
体で、大きな活字で、見るも者の目を引く。小字には銅活字の甲寅字が用いられ、2 種
の活字の混合は印刷史上でも稀である。[以後、世界最初の鉛活字印刷本とされる。
]
1436.○【イタリア】フィレンツェの建築家アルベルティ Leon Battista Alberti( 32)が、マ
サッチョによるフィレンツェのサンタ・マリア・ノベッラ聖堂の壁画『三位(さんみ)一体』
の影響を受けて、最初の遠近法の理論を述べた『絵画論』を出版し、「視覚の円錐(えん
すい)の截断(せつだん)面」として遠近法を定義づける。この書物は遠近法の探究を試み
ていた芸術家ブルネレスキ、マサッチョ、ドナテッロ(ドナテロ)、ギベルティらの友人
に献呈され、彼らとそれに続くフィレンツェ画家の作品に応用され理論と実践が展開さ
れる。]
1438(永享10)
1438. ○【ドイツ】シュトラースブルク(ストラスブール)で、再びペストが大流行する。
[1444 年、住民は都市民 1 万 6000 人、逃げ込んできた農民 1 万人だけとなる。
]
1440(永享12)
1440.○【中国】官刻の大蔵経『永楽北蔵』が、北京で完成する。1621 種の仏教経典 6361
巻を 636 函に分装する。
[1584 年、万歴皇帝の母親が各宗派の著述 36 種、410 巻を補刻
した『続入蔵経』が『永楽北蔵』に収められる。
]
1440. ○【ドイツ】この頃、銅版が考案される。凹版法による銅版画は、金工師の領域か
らやや偶然に発明される。[ 1446 年、現存するもっとも早い年記のある銅版画がつくら
れる。アルプスの北側とイタリアなどの南側のどちらが先かはまだ確認されていない。
金工師の技術領域からは、15 世紀の初めに錫(すず)などの軟質の金属板にさまざまの鏨
(たがね)で図像や装飾模様を打ち表し、凸版法で刷るメタルカットが生まれたが、銅版
画の登場とともに廃れる。この頃、木版画師は大工のギルドに属し、銅版画師はそれよ
りも地位の高い金工師のギルドに属しており、芸術の一形態としての可能性があること
が評価されている。こうして木版画はほとんど無名の職人により作られ、銅版画は製作
者の名やイニシアルが知られている場合が多い。]
1443(嘉吉3)
1443.○【朝鮮半島】李朝第 4 代国王世宗が中心となって、朝鮮独自の文字「訓民正音(く
- 117 -
んみんせいおん)」の創案がすすめられ、完成される。この文字は、子音 17 字と母音 11
字(のち、子音 14 字と母音 10 字)とからなる音素文字であると同時に、音節単位でまと
めて表記するという音節文字的性質も備えており、この頃の朝鮮語の音韻を分析し、抽
出された音素に該当する文字を人工的につくりだした、世界の文字史上画期的なものと
なる。[1446 年 、
『訓民正音』という書物の形で公布される。以後 、
「女文字」と呼よば
れ、おもに女だけに使用されるようになる。のち、正字として使われている漢字漢文に
対して「諺文(オンモン)」という卑称でよばれるようになる。李(り)氏朝鮮王朝末期の
開化期の民族意識の高揚とともに「国文」とよばれ、さらに国語学者周時経が「ハング
ル」
(han =大いなる、g ■ r =文字)と命名する。1945 年以降、大韓民国では「ハング
ル」
、朝鮮民主主義人民共和国では「チョソンクル(朝鮮文字)」と呼ぶようになる。
]
1444(文安1)
1444. ○【日本】意味分類の日常所用の語彙の辞書『下学(かがく)集』が作られる。著者
は京都東山建仁寺の僧かといわれるが、序末に〈東麓破衲(とうろくはのう=東山の麓の
僧の意味) 〉とあるのみで不明。内容は使用度の高い漢字漢語約 3000 語を〈天地〉
〈時節 〉
〈神祇〉〈人倫〉
〈人名〉
〈家屋 〉
〈気形〉ほか 18 の門目を立てて,中世に行われた通俗
の漢語の類を標出し,多くの場合それに注を加えてある。語彙 の配列はアトランダム
であり、語の検索には不便である。[以後、
室町時代に写本が相当多数作られて伝わる 。
1617
年、初めて板本が刊本される。以後,幾版かを重ねる。室町中期にいろは順に配列した
『節用集』が登場してからは、しだいに『節用集』の勢力におされる。元和の板本は岩
波文庫に復刻される。]
1445(文安2)
1445.○【中国】(英宗正統 10 )成祖が即位した際に勅命により編集を開始した『正統道蔵
(しょうとうどうぞう)』5305 巻、480 函が完成する。勅命により、全国各地の道観に頒
賜される。
[1607 年、
『続道蔵』180 巻、32 函が刊行される。1900 年 、義和団の変による 8
ヵ国連合軍の北京入城の折りに、すべて焼失する 。
]
1445.○【ドイツ】前年かこの年、グーテンベルク(39 ?∼ 51?)が再びマインツに戻り、
活字印刷行うため、ブドウ絞りの機械を改造して、螺旋(らせん)とレバーとを組み合わ
せ、インキをつけた活版の上に紙をのせ、真上から圧力をかけるプレス方式の原始的な
印刷機を実現させる。この町の金細工師・実業家フスト Johann Fust(?∼ 1466)の出資を
得て、印刷所を設立する 。
[以後、この印刷機の方式から、印刷機をプレスと呼ぶよう
になる。]
1446(文安3)
1446.[10. 9]【朝鮮半島】朝鮮独自の文字「訓民正音(くんみんせいおん)(ハングル) 」が、
『訓民正音』という書物の形で公布される。[1946 年、南朝鮮(のち、大韓民国)で世宗
の訓民正音公布 500 年を記念し、10 月 9 日を「ハングルの日」とし、祭日に定める。]
1447(文安4)
- 118 -
1447. ○【朝鮮半島】朝鮮独自の文字「訓民正音(くんみんせいおん)」で書かれた最初の
文学作品『竜の歌』が出版される。これまではすべて中国語で書かれていた。教育を受
けたエリートの言語である中国語は、朝鮮の複雑な文法を持った多音節言語には向いて
いなかった。
1447. ○【ドイツ】この頃、グーテンベルクが、カレンダーを印刷する。
1449(宝徳1)
1447.○【中国】明の景帝(7 代、代宗、景帝、景泰帝)が即位する。美しい芸妓を宮廷
内に召し入れて享楽する。
1450(宝徳2)
1450. ○【ヨーロッパ】この頃、芸術的なエッチングとして版画の創作などに彫刻凹版の
技術が使用される。
1450. ○【ヨーロッパ】この頃、手書き新聞が出される。
1450. ○【ヨーロッパ】この頃、楽譜の記法が多様化するが、この中からフランス、イタ
リアで五線譜による記譜法が用いられる。初めて線と線間による図示的な性格と、おた
まじゃくしによる符号的な性格を兼ね備えた五線譜が採用される。[19 ∼ 20 世紀に、ヨ
ーロッパの外にも広く普及していき、現代的記譜法へと完成度を高めていく。]
1450. ○【ヨーロッパ】この頃、ヨーロッパの諸大学はコインブラ大学からクラコフ大学
まで広がるネットワークをなしており、各大学のカリキュラムは非常に均一性があるの
で、学生は比較的容易に一つの大学機関から他の大学機関へと移ることができる。この
慣習は「大学巡礼( peregrinatio academica)」と呼ばれ広く知られる。
1450. ○【ドイツ】グーテンベルクが、マインツで印刷工場を開く。当地の実業家ヨハン
・フスト Johannes Fust(?∼ 1466 )が 、グーテンベルクに〈仕事の完成〉を当てにして、800
グルテンを利息 6 %で貸す。その際、印刷機械を抵当にする。[1452 年、再び 800 グル
テンを貸す。これを羊皮紙、紙、インクなどの購入の支払いに当てられる。1455 年、フ
ストが、契約不履行でグーテンベルグを訴える。]
1450. ○【ドイツ?】この頃、ヨハンセン・フンケンが、鉱石中の銀を銅や鉛から分離す
ることに成功する。
1450.○【イタリア】この頃、ベネチアのジャンソン Nicolas Jenson( 1420 ∼ 80)らが、太
線と細線との差が少ない最初のローマン体活字「ベネチアン」を開発する。
1450. ○【イタリア】ベルガモ出身の豪族ロジャー・デ・タッソが、ドイツ皇帝フレデリッ
クⅢ世の下でベルガモ∼ウィーン間に国王の郵便の伝達を始める。[以後、家名をタキシ
ス(タクシス)と改める。タキシス家は神聖ローマ皇帝から、領内における郵便事業の独
占と、これを世襲する権利を与えられ、ヨーロッパの各地を結んで、タキシス郵便の業
務を発達させる。1506 年、フランツ・フォン・タクシスが、国王の郵便物以外に一般の郵
便物も扱うようになる。]
1451(宝徳3)
1451.○【朝鮮半島】金宗瑞(きんそうずい)、鄭麟趾(ていりんし)(55)らにより、官撰史
- 119 -
書『高麗史』全 139 巻の編纂が完了する。高麗一代に関する紀伝体史書で、世家 46 巻、
志 39 巻、年表 2 巻、別伝 50 巻、目録 2 巻、計 139 巻より成る。
1451.○【ドイツ】ブリクセンの司教クザーヌス(クサのニコラウス)Nicolaus Cusanus ;
Nikolaus von Cusa( 51 または 50)が、近視用の凹レンズの眼鏡を考案する。[以後、彼は
ブルーノ、ライプニッツに影響を与え、ガリレイにも親しまれる。]
1452(享徳1)
1452. 4.15【イタリア】レオナルド・ダ・ビンチ Leonardo da Vinci が、フィレンツェの近郊
ビンチ村に、公証人ピエロと農家の娘カテリーナとの庶子として生まれる 。[以後、画
家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者として活躍し、〈愛は知識の母であり、智恵
は経験の娘である〉という言葉を残す。ルネサンスにおいて近代科学を準備した典型的
な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)と評価される。 1986 年、全日本航空事業連
合会は、ヘリコプタが第二の空輸システムとしての普及を図ることを目的として、ヘリ
コプタの原理を考えたレオナルド・ダ・ビンチの誕生日 4 月 15 日を「ヘリコプタの日」と
定める。]
1452. ○【ドイツ】この頃、本の転写で生計を立てていたゲルンスハイム出身の法学生シ
ェーファー(シェッファー)Peter Sch ffer が、マインツにやってきて、グーテンベルク
の職工長として働く。写字生だったシェーファーは、彼独特のカリグラフィックな装飾
効果を持つ字をもとに、木や金属でつくった活字の代わりに、パンチを打ち込んで母型
をつくり、それから鋳型をつくり、それに鉛とスズの合金を溶融して流し込んで活字を
つくることに成功する。活版の印刷はもともと写字の労を省くことを目的として工夫さ
れ、初めはラテン文法書『ドナトゥス』などできるだけ手写本に似たものを刷ることを
前提とする。そのため最初のころの活字は、写字師が書いた「黒い文字(black letter)」そ
のままの字体になる。[ 1455 年、グーテンベルクの印刷所で『四十二行聖書』を完成す
るが、シェーファーのデザインによる活字かどうかは不明である。]
1453(享徳2)
1453.○【ドイツ】この頃、マインツ出身の鍛冶屋グーテンベルク( 47 ?∼ 61?)によって、
ヨーロッパで初めて活版印刷術が完成する。
(?)可動式の金属活字として、鉛、スズ、
アンチモン、少量のビスマスの合金を溶かしたものを、鋼鉄製の字母に鋳込んでつくり、
これを吟味した良質の印刷インキと紙と羊皮紙など(パーチメントあるいはベラム)と、
たくみに組み合わせた機械的印刷で、グーテンベルクは、行間の取り方、製本の仕方に
至るまで、これまでの手書きの聖書美しさに負けないように心をくだく。[以後、経済的
逼迫と闘い続けて、2 年間を費やして史上初の活字版聖書を完成させる。この頃、ヨー
ロッパ大陸全体で約 3 万冊の本が存在し、その大部分が手書きの聖書あるいは聖書の注
釈書である。]
1454(享徳3)
1454.○【ドイツ】マインツ(フランクフルト??)で 、グーテンベルク(48 ?∼ 60?)が、2
種の免罪符(贖宥状)「30 行免罪符」と「31 行免罪符」の印刷に着手する。羊皮紙に印刷
- 120 -
し、手書きで氏名、年月日を記入する。教王ニコラスⅤ世が、キプロスにおけるオスマ
ントルコとの戦いで功績のあった人物に対して免罪符を与えることとなり、キプロスを
援助するために各地で贖宥(しょくゆう)を販売することが決定されたためである。[以後、
この年から翌年にかけて印刷する。可動式活字を用いた最初の印刷物であり、また最初
の公式文書となる。]
1455(康正1)
1455.○【ヨーロッパ】
この頃、
木版本が印刷され始める。
[ 1460 年代に最盛期を迎える 。
1510
年ころまで、活版印刷と並行して木版印刷本がつくられる。]
1455.○【ドイツ】万用歴( almanac )が初めて印刷機から製作される 。
[以後、これを用い
た占星術が民衆へと浸透していく 。
]
1455.○【ドイツ】この頃 、グーテンベルク(49 ?∼ 61?)と資産家フスト Johannes Fust( 55?)
が、共同で史上初の鉛合金活字による活版印刷最初の本「ラテン語聖書」を完成させる 。
印刷が完成する以前に予約が一杯になる。当初、200 冊(158 部とも 180 部とも)出版する。
これを印刷中、グーテンベルクがフストから借りた資本金の返済期限が来る。フストは、
グーテンベルクに複利計算で元利合計 2020 グルテンの返済を迫る。グーテンベルク本人
は、各種の実験に財産全部を使いはたし、期日までに返済できず,訴訟でその提携を解
消される。11 月 6 日に裁判がおこなわれ、グーテンベルクは負債の代償に活字と 2 台の
印刷機など印刷所の権利をフストに譲渡し、破産する。[以後、グーテンベルクの印刷事
業がフストの手に移り、フストは独自に印刷所を設けて、フストはグーテンベルクの弟
子シェファー Peter Sch ffer( ?∼ 1503 )と共同で聖書の出版を続ける。活版印刷最初の
聖書は、ゴシック書体の美しい本で、いずれの点からみても非のうちどころのないとこ
ろから、人々は読む以前にもその語間から発する精神に打たれる。のちにこの活字版聖
書は「グーテンベルク聖書」あるいは『四十二行聖書』と呼ばれる。これまでは聖書は
手書きで複製されていて、修道士が筆写するのが通例だが、たいてい 1 年かけて 1 部を
複写するのが精一杯であった。活版印刷術により、書物はいったん完成すると何部でも
好きなだけ印刷することが可能になる。しかし、グーテンベルクらは革新的な方法を用
いながらも、あくまで手書き写本に似たものを作ることに専念する。用紙は従来の羊皮
紙(パーチメント)と、近年ようやく中国からもたらされていた手漉き紙が半々に用いら
れる。フストはこれをパリに売りに行き、写字生の反発を危惧して「筆写本」として売
り捌く。この年以後、1500 年までに機械的印刷の力を得て書物の総計が 900 万冊を越え、
あらゆるテーマを網羅するようになる。1804 年、カンタベリ大司教のランベス宮図書館
所蔵の写本目録が編纂され、グーテンベルクの『四十二行聖書』は誤って写本として分
類される。1992 年 、富田修二『グーテンベルク聖書の行方 』(図書出版社)に、1455 年 11
月 6 日の裁判記録の全文の邦訳が掲載される。グーテンベルクの名が活版印刷術とから
めて印刷された例がない。そこで、彼が活版印刷の発明家とするには異説も出る。1997
年 10 月、
『LIFE』誌が、過去千年間の人類文化史上、重要人物 100 選のランキング第 1
位にグーテンベルクを掲げる。](高宮利行「写本から印刷へ――グーテンベルクと印刷
文化の誕生(5)」、『図書』1997.10、同(7)1997.12 )
1455.○【フランス】この年までに、アングレームのサン=チレール聖堂参事会が、自分
- 121 -
たちの製粉水車を製紙用に改造する。
1456(康正2)
1456. ○【日本】瀬戸内海の水軍の首領村上山城守雅房が、『船行要術』を著し,天気に
関する経験則を 30 あまり掲げる。日本最初の記述された天気俚諺となる。
1456. ○【ドイツ】グーテンベルクが、マインツ市の法律顧問コンラート・フメリーの援
助で第 2 印刷工房をつくり、来年の暦を印刷する。
1457(長禄1)
1457.10.14 【ドイツ】フストとシェーファー(27 ?)が、2 人のコンビで初めて羊皮紙印刷
の聖詩篇『マインツ詩篇』を刊行する。2 色刷り木版画を入れ、史上初めて印刷業者名
と発行日付を明記した、いわゆる奥付を付ける。[ 1466 年(または 1467 年)
、シェーフ
ァーはフストの娘クリスチーナと結婚して、義父の跡を継ぐ。同年秋、フストが死去。
その時までにフストとシェーファーのコンビは、25 点ほどの印刷物を出版する。]
1457.○【ドイツ】破産したグーテンベルク( 51 ?∼ 63?)が、マインツの自宅の印刷所で
手元に残された印刷機 2 台と四二行聖書で使用したものよりわずかに劣る活字と 2 人の
職人 、ハインリッヒ・ケッファーとベヒトルフ・フォン・ハーナウを使って、
『 三六行聖書』
(
『マインツ聖詩編』?)を印刷する。[以後、9 部(のち 16 部であることが判明)が現
存する。1460 年、
『カトリコン』を印刷する。その他は、すべて小冊子や 1 枚物を印刷
する。]
1458(長禄2)
1458. ○【ドイツ】グーテンベルクの助手ヨハン・メンテリンがシュトラスブルクへ、同
僚の助手ハインリヒ・ケファー Keffer がバンベルクへ移ってそれぞれ印刷所を興す。
[1459 年、ケファーが、36 行聖書の印刷に着手し、バンベルク領主司教ゲオルク・フォン
・シャウムベルク Schaumberg がその全費用を負担する。1461 年、完成する。]
1458.○【ドイツ】アルプレヒト・プフィスター Pfister が、バンベルクで印刷業を開業す
る。
1459(長禄3)
1459.○【ドイツ】フストとシェファー( 29 ?)が、大小の活字を使って 2 色刷りの典礼書
GulielmusDuranti とラテン語賛美歌を印刷する。
1459. ○【ドイツ】ヨハン・メンテリンが、マインツ以外の地、シュトラースブルクで初
めて印刷業を営む。
[1473 年、この年の日付の入った印刷本が現存する。1476 年、ヴァ
ンサン・ド・ボーヴェの『道徳の鏡』が印行される。
1459. ○【
】『フラ・マウロ世界地図』が作られる。
1460(寛正1)
1460.○【ヨーロッパ】この頃から約 10 年間に、木版印刷本が、全盛期を迎える。難解
で高価な活版印刷に対して、活字も印刷機も不要で、絵と文字を版木に彫刻刀を用いて
- 122 -
彫り、インクをつけ、紙をあてて手で摺るだけの簡便な木版印刷が用いられ、比較的低
所得の素朴な読者層向けに安価につくられる。[ 1725 年ころ、ロシアで聖書の名場面や
聖人の暦を扱った木版本が生産されるようになる。]
1460.○【ドイツ】グーテンベルク(54 ?∼ 66? )が、大判のラテン語辞書であるヨハネス
・バルブスの『カトリコン』(文典、辞典、「万能薬」の意))を、新しい小さな活字を使
って、大型二折判(ロイヤル・フォリオ)373 葉(全 748 葉)の大冊を印刷、学校教科書に用
いられる。グーテンベルクは失明し、印刷事業を放棄する。『カトリコン』はフストと
シェファーによって安値で処分され、その活字は人手に渡される。グーテンベルクは、
マインツの大司教から恩給を与えられて、晩年を送る。
[1468 年 2 月 3 日、貧困と人々
の忘却のなかで亡くなるが、機械的印刷技術は急速に全ヨーロッパに広まり、宗教改革
や科学革命を促す。]〔西洋式活版印刷の発明については、1423 年オランダの L.J.コステ
ルとする説、イタリア説、チェコ説などがある。
]
1460. ○【ドイツ】バンベルクで最初の印刷工房が開設される。
1460.○【ベルギー】アントウェルペン(Antwerpen)(英語名アントワープ( Antwerp))で、
史上初の国際証券取引市場が開設される。[以後、名実ともに国際商業都市として繁栄す
る。1648 年、ウェストファリア条約によりスケルデ川の航行が断たれ、昔日のおもかげ
を失う。]
1461(寛正2)
1461. ○【中国】明帝国の官撰地理書『大明一統志』が刊行される。
1461.○【ドイツ】グーテンベルクが、この年までに 36 行聖書を刊行する。
1461. ○【ドイツ】メンテリンが、シュトラスブルクで聖書を印刷する。
1461.○【ドイツ】この頃、バンベルクの印刷業者アルプレヒト・プフィスター Pfister が、
木版画の版木を活字とともに組版のなかに嵌め込み、ウルリッヒ・ボーナーの『エーデル
シュタイン(宝石)』など何冊かの絵入り寓話書 Der Edelstein を印刷する。最初の絵入り
活字本の挿絵は、線画で陰影もない単純なもので、後から水彩で色付けした粗末なもの
である。読者はすでに木版本でこの種の挿絵を見ていたので、別段驚かない。[以後、
ドイツで民衆本に挿絵を入れる習慣が確立され、木版画技術の完成とともに、あらゆる
ジャンルの本に広がる。]
1462(寛正3)
1462. ○【ドイツ】マインツで司教の座をめぐる抗争が勃発し、ナッソウのアドルフⅡ世
がマインツに攻め入る。兵士らの略奪を受け、兵火によりフストの家は焼失し、シェフ
ァーの印刷所は破壊される。[以後、印刷工員たちは、仕事を求めてライン川に沿って各
地に散って印刷所を開く。ほどなくドイツの都市から、1464 年、イタリアのスビアコ 、1468
年、スイスのバーゼル、1470 年、フランスのパリ、1483 年、スウェーデンのストックホ
ルム、1487 年、ポルトガルのファロ、1493 年頃、トルコのコンスタンティノープルへと
伝播する。1500 年ころまでに 1000 軒を超える印刷所がヨーロッパ全土にできたという。
なかでも有名なのはイタリアにおけるジャンソン Nicolas Jenson (1420 ∼ 80 )で、のちに
広く使われるローマン体(立体)をデザインし、マヌティウス Aldus Manutius(1450 ?∼
- 123 -
1515)はイタリック体(斜体)をデザインする。ネーデルラント(のち、ベルギー)のプラン
タン Christopher Plantin( 1514 ∼ 89 )
、フランスのエチエンヌ Estiennes 一家、イギリスの
カクストン William Caxton( 1422 ?∼ 91)らが活字書体のデザインや活版術の基礎を築い
ていく。]
1462.○【フランス】リヨンに、証券取引所( bourse)が設立される。
1463(寛正4)
1463. ○【フランス】パリのノートルダム橋に、世界で最初の住所番号が付けられる。
1464(寛正5)
1464.○【ドイツ】ベルトルト・ルッペルが、バーゼルで印刷業を開業する。(1468 年とも?)
1464. ○【フランス】公用の文書運搬者が、個人の書信の運搬を引き受けるようになる。
郵便物はマル(malle)と呼ばれる旅行用の袋に入れて運ばれる。
[以後、
英語でメール( mail)
と呼ばれ、アメリカ英語で「郵便」の意味になる。]
1464. ○【イタリア】フィレンツェで金融家の倒産が相次ぐ。
1464.○【イタリア】(1964 年とも)マインツの兵火を逃れたドイツ人の印刷師コンラート
・シュヴァインハイム(スヴァインハイム) C.Schweynheym と A.パナーツが、ローマ近郊
スビアーコのベネディクト会修道院に印刷機を据え付けて、ローマ字活字でイタリアで
初めて印刷を開始する。[1467 年、印刷所をローマに移す。]
1465(寛正6)
1465.10.13 【イタリア】ラクタンティウス『神的訓辞』が、スビアーコのベネディクト会
修道院で印刷される。イタリア最初の刊行期日を有する印刷物となる。
1465.○【ドイツ】グーテンベルク(59 ?∼ 71 ?)が、アドルフⅡ世の宮廷の従者に任ぜ
られる。これを機に印刷活動から引退する。[ 1468.2.3(?)死去。(『集英社世界文学大事
典』1996 )]
1465. ○【イタリア】スビアコで印刷業務が開始される。
1466(文正1)
1466.○【ドイツ】この年(または 1467 年)
、シェーファー(41 ?)が、フストの娘クリス
チーナと結婚して、義父の跡を継ぐ。同年秋、フストが死去する。その時までにフスト
とシェーファーのコンビは、 25 点ほどの印刷物を出版する。[以後、独立したシェーフ
ァーは、1502 年までに書物 130 点、 1 枚物 75 点の印刷物を出す。また、国際的に活躍し
た最初の書籍印刷販売業者として、パリ、リューベック、バーゼルにまで販売拠点を設
ける。1502 年、シェーファーが死去。以後、孫の代まで印刷出版業で栄える。]
1466.○【ドイツ】シュトラスブルクのハインリヒ・エッゲシュタイン Eggestein が、ラテ
ン語聖書と印刷書籍広告を出す。[のち、現存する最古の印刷書籍広告となる。]
1466.○【フランス】オート=ソーヌ県リュクソーユの大修道院長ジャン・ド・ジュフロワ
が、2 人のピエモンテ人がブルシン川で製紙に従事することを許可する。その見返りと
して、1 年に紙 4 連( 2000 枚)を納入させる。
- 124 -
1467(応仁1)
1467. ○【フランス】パリで、活版印刷本が出版される。
1467. ○【イタリア】ローマで最初の印刷工房が開設される。ここでドイツ人の印刷技術
者モンラート・スヴァインハイムとアーノルト・パナーツが、枢機卿ファン・デ・トルケマ
ーダの『瞑想録』を出版する。これにドイツ人の手になる木版画が挿入され、イタリア
最初の絵入り本となる。
1468(応仁2)
1468. ○【ドイツ】アウスブルクで最初の印刷工房が開設される。
1468. ○【スイス】バーゼルで国内初の印刷工房が開設される。
1469(文明1)
1469. ○【日本】この頃、いろは引きの国語辞書の先駆け『節用集』が編纂され、利用さ
れ始める。各語にはカナの振り仮名が振られ、ときに意味や語源が付記される。[以後、
簡便な点が実用的な書として,一般の歓迎をうけ,江戸時代の一般民衆のあいだでは,
節用集といえば,いろは引きの辞書の代名詞とさえなる。種々の訂補や改編を経ながら,
明治時代の初期まで長い生命を保って使用される。]
1469. ○【ドイツ】シェーファーが、初めて書籍目録を出す。
1469. ○【イタリア】ヨハネス・フォン・シュパイアーが、ベネツィアで最初の印刷工房を
開設し、ローマン体の活字によりキケロの『親しき者への手紙』を印刷、刊行する。
1470(文明2)
1470. ○【ドイツ】ニュルンベルクで最初の印刷工房が開設される。
1470.○【ドイツ】ケルンのアルノルド・テル・ Hoernen が、初めて印刷書籍にページ付け
をする。[以後、1500 年代までページ付けは普及しない。]
1470.○【フランス】パリ大学学長ギョーム・フィッシュ(フィシェ)と J.ハインリンが、
大学構内に印刷工房を置く許可を得て、ドイツから印刷工 U.ゲーリング、M. フリブルガ
ー、M.グランツを招く。ソルボンヌに初めて印刷技術が導入され、パリで初めて印刷が
行われる。フランス最初の活字本として G.バルツィツァ『書簡集』が印刷される 。[1473
年、ゲーリングらドイツの印刷工たちが、庇護者を失って、パリ市内サンジャック街に
新たに印刷工房をつくる。]
1470. ○【イタリア】ナポリで最初の印刷工房が開設される。
1470. ○【イタリア】この頃、フィレンツェの印刷業界で ,
、世封建時代の遺物である「黒
い文字」に代わって、明るく読みやすい新字体が採用される。これを土台にしてベネチ
アのジェンソン Nicolas Jenson( 50)が、ローマン体の活字を完成し、イタリアで初めて活
版本を出版する。
1470. ○【イギリス】ケンブリジ大学の図書館蔵書目録が作成される。
1471(文明3)
- 125 -
1471.[ 7.17]【日本】本願寺第 7 世存如(ぞんにょ)の長子、蓮如(56 )が、越前(のち、福
井県)の吉崎(よしざき)に道場「吉崎御坊」を開く。[以後、布教手段として、消息(しょ
うそく)形式で教義を平易に説いた『御文(おふみ)』『
( 御文章(ごぶんしょう)』)とよば
れる伝道文書や、
『正信偈和讃(しょうしんげわさん)』などの独創的メディアを開板し、
教化活動を行う。1 ∼ 2 年のうちに門徒が群集し、宿泊施設や商人たちで賑わう寺内町
が形成される。]
1471. ○【ハンガリー】ブダペストで最初の印刷工房が開設される。
1471.○【ドイツ】1 年全体を扱った最初の万用歴が作製される。
1471.○【ドイツ】レギオモンタヌス Regiomontanus(本名ミュラー Johannes M ロ ller)(35)
が、ニュルンベルクにヨーロッパ最初の天文台を建設する。ここで新天文観測器を製作
し、新観測法を考案して、各種の天体位置を観測する。これまでは恐怖の的であったハ
リー彗星の出現に際して、その位置変化を追跡するなど、彗星を初めて客観的に観測し
て、それが天体であることを認定する 。[ 1474 年『天体位置推算表』を印刷 、公刊する。]
1471. ○【フランス】ガスパリーノ・バルジッザのラテン語による『正書法』が、パリで
刊行される。この中で印刷術に関して〈マインツのそばにいた、姓をグーテンベルク、
名をヨハンという男が、印刷術を考案した最初の人物である。これは我々が今日やるよ
うな葦やペンで書くという伝統的なやりかたではなく、金属活字を用いて、早く、優雅
に、そして美しく書かれた書物であった〉と書いている。グーテンベルクを印刷術の発
明者として最初に言及した本となる 。ここで、バルジッザは、グーテンベルクの名を「良
い山」というラテン語に意訳して「Bonemontanus( Bonemo(上線)tano)と綴る。
1471. ○【イタリア】ミラノ、ボローニャで印刷業務が開始される。
1472(文明4)
1472. ○【ドイツ】ウルムで最初の印刷工房が開設される。
1472. ○【イタリア】フィレンツェで最初の印刷工房が開設される。
1472.○【イタリア】ダンテ『神曲』初版が、フォリーニョで J.ノイマイスターにより刊
行される。
[この年、マントヴァとイエージでも刊行される。]
1472. ○【イタリア】イタリア最初の絵入り本、ロベルト・ヴァルトゥリオ作『軍事論』
が、ヴェローナで印刷される。
1472. ○【イタリア】古典ものを手がけるローマの大手印刷業者は、書物の生産過剰で経
営危機に直面する。(『書物の出現』)
1473(文明5)
1473. 5.21【フランス】G.モンテ= ロケリ『司教者の手引』が、パリで U.ゲーリング、M.
フライブルガー、M.クランツによって印刷される。フランス最初の日付を明記された活
字本となる。
1473. 9.17【フランス】リヨンの資本家 B.ビュイエが、リエージュ出身の G.ル=ロワに開
設させたリヨン最初の印刷工房で 、リヨン最初活字本、枢機卿ロタリウス『教義の捷径 』
を印刷する。
1473. ○【ドイツ】リューベックで最初の印刷所が開設される。
- 126 -
1473.○【ドイツ】Ulm でボッカチオの『デカメロン(十日物語)(Decameron)』が、木版
画の挿絵入りで印刷される。全部で 78 点のイラストが掲載され、世界で印刷されたもっ
とも古いポルノ・イラストの一つとなる。[1925 年、復刻版限定 250 部。](伊藤 政行氏
所蔵、2003.5.28 )
1473. ○【ベルギー】アールストで最初の印刷所が開設される。
1473.○【フランス】この頃、パリ大学総長であった神学者ジェルソン Jean de Gerson (本
名 J. Charlier)( 1363 ∼ 1429 )の生前の論文『写字生賛』が、リチャード・ド・ベリーの『フ
ィロビブロン(書物愛)』の付録として同時に印刷・出版される。ジェルソンの論文は、
祝日に書物の転写をしてよいのかというカルトジア派とセレスト派の修道会からの問い
合わせに対する回答として 50 年も前の 1423 年に書かれたもので、祝日でもキリスト教
の信心の書を転写するのに何ら問題はない、としている。また、大学。修道院、大聖堂
の当局者に向けて、図書館をつくって予算を投入するだけでなく、写字生たちに十分な
特権と賃金を与えるよう勧めている。この頃でも、修道士は、食事の他はもっぱら狭い
個室で瞑想、祈祷と転写に明け暮れる修道院もある。[一方、修道院内に印刷所を設けよ
うとする修道会も増えていて、1470 年代に 7 ヵ所の修道院で印刷機が稼働している。フ
ランス以外に、オランダ、イタリア、イギリスでも修道院が経営する印刷所の数は増え
ていく。]
1473.○【フランス】イギリス人のカクストン(キャクストン)William Caxton(51?)が、ケ
ルンの印刷業者ヨハン・フェルデナーのもとで資本参加しながら印刷技術を修得したの
ち、北のヴェネチアと謳われた文化都市ブルージュに戻り、『トロイ歴史集成』を印刷
・上梓する。
1473. ○【イタリア】ローマのコンラート・シュヴァインハイムが、銅版でプトレマイオ
ス地図を印刷する 。[この頃、ボローニャでも、プトレマイオスの地図が出版される。
以後、数百年の間、この地図がヨーロッパの地図製作者に大きな影響をあたえる。]
1474(文明6)
1474.○【ドイツ】レギオモンタヌス Regiomontanus(本名ミュラー Johannes M ロ ller)(37)
が、惑星の運動を観測して、そのデータを印刷した『天体位置推算表』を公刊する。印
刷という新技術を科学的な目的に利用した最初の人となる。[以後、これを遠洋航海者に
配布し、また恒星と月との角距離による時刻比較法を指示して、洋上経度の決定を可能
にし、大航海時代の進展に寄与する。
1474. ○【フランス】ブルージュで指折りの能書家として知られたコラール・マンシオン
(1425 ?∼ 84)が、カクストン(キャクストン)の印刷工房に就職する。[1476 年、カクス
トンはイギリスに戻るが、マンシオンはブルージュにとどまり出版を続ける。マンシオ
ンがフランス語で出版すると、その英訳本をカクストンがイギリスで出版する。]
1474. ○【イタリア】世界最初の特許法がベネチアで可決される。
1474. ○【スペイン】バレンシアで印刷業務が開始される。フランドル出身のランベルト
・パルマルトが、バレンシアでベルナルド・フェノリャールの作品をローマン体で印刷、
刊行する 。[以後、ローマン体はあまり使用されず、折衷ゴシック体のほうが用いられ
る。
]『
( 書物の出現』)
- 127 -
1475(文明7)
1475. ○【ドイツ】教皇シクストゥスⅣ世が、印刷本の検閲権をケルン大学に与える。
1475. ○【ベルギー】ブルージェで印刷が初めて行われる。
1475.○【フランス】リヨンの G.ル=ロワが、フランス語最初活字本『世界驚異物語』を
印刷する。
1475. ○【イタリア】画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ(ピエロ・デラ・フランチェスカ)
Piero della Francesca(59/55 )が、これまで『キリストの笞打ち』などの大作を描き遠近法
を画面の構図法なり明晰な視覚表現の旨としてきた経験から、
『絵画の遠近法』を著し、
遠近法の理論を集大成する。[以後、ドイツのデューラーたちによって、線遠近法の探究
がさまざまに実験される。マニエリズム、バロックの時代まで、絵画の中心的な課題と
して、作品の構図や様式にさえ関連するほどの重要性を担う。たとえば、短縮や、トロ
ンプ・ルイユ(だまし絵)の技法、あるいは 2 点透視や 3 点透視法による構図の変化など
が登場し、また遠近法を逆用した隠し絵なども現れる。]
1475. ○【スペイン】バルセロナで印刷業務が開始される。
1476(文明8)
1476. 9.−【イギリス】カクストン(キャクストン)William Caxton( 54?)が、昨年末ブルー
ジュから活字や印刷機一式を持って帰国し、イギリス最初の活版印刷所「Una Shopa」を
ウェストミンスター寺院参事会会堂の 2 つの控え壁の間の救貧所を借りて開設する。
[1477.11.18 イギリス最初の印刷物として『The Dictes or Sayinges of the Philosophres 』を
印刷・出版する。また、免罪符や、チョーサーの『カンタベリー物語』を印刷する。(『ロ
ンドン年代記』は 1476 年 9 月。『日本大百科全書で』は 1477 年となっている。)
〔カクス
トンは、印刷術を初めてケルンで学んだのち、シティーの織物商に徒弟入りして、ベル
ギーのブリュージュに織物商組合代表者として渡り、ここで最初の印刷所を開いた 。
〕[以
後、娯楽読み物、ロマンス、教科書、教訓書、祈祷書、ゲーム本、古典翻訳物など、多
種多様書物の印刷、出版、製本、写本や輸入書物販売などを営む。その総数は 1492 年に
死ぬまでに 80 冊に上り、国王や金持ち商人に人気を得る。彼のパトロンのリストには、
ヘンリーⅥ世、エドワードⅣ世、リチャードⅢ世、ヘンリーⅦ世、アンソニー・ウッドヴ
ィル、マーガレット・ボフォートらの名が並べられる。英語の書き方がまだ確立していな
いこの時代に、活版印刷によって新しい文章をつくったことが評価され、イギリスの印
刷術の父と呼ばれる。また、イングランドでは同じ語が人の好みでいろいろにつづられ
ていたのが、印刷術の導入によって〈同じ語は同じつづりで〉書かれるようになる。正
書法のきっかけとなる。](アンドルー・セイント他『ロンドン年代記』
、ほか)
11. 9【ドイツ】印刷業ヨハン・メンテリンが、ヴァンサン・ド・ボーヴェの『道徳の鏡』
を印行する。
[以後、この日の日付入りの 1 冊が慶応義塾図書館に収蔵される。
]
1476. ○【オランダ】デーヴェンダーで印刷所が開設される。
1476. ○【ベルギー】ブリュッセルで印刷が初めて行われる。
1476. ○【ドイツ】ウルリッヒ・ハーンが、音譜の印刷を考案する。
1476. ○【ドイツ】ロストックで印刷所が開設される。
- 128 -
1476. ○【フランス】マンシオンが、ブルージュでボッカチオのフランス語訳『貴族の没
落』を印刷・出版する。
1476. ○【イタリア】フィレンツェ市内外で、ホモセクシュアルが浸透する。サルタレッ
リが同性愛の罪で当局に告発され 、相手がレオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci( 24)
であるとされたが、再審ののち、レオナルドは無罪となる。
1477(文明9)
1477.11.18 【イギリス】カクストン(キャクストン)William Caxton( 55?)が、『The Dictes or
SayingesofthePhilosophres 』を印刷・出版する。イギリス最初の印刷物となる。
1477. ○【スウェーデン】北ヨーロッパ初の大学、ウプサラ大学が創設される。
1477.○【イタリア】哲学者フィチーノ Marsilio Ficino( 44 )が、コジモ・デ・メディチに見
込まれギリシア語を学んだあと、1462 年にプラトンの『対話篇』のイタリア語訳に着手
して、完成させる。[ 1486 年、その注釈のかたわら、プロティノスの『エンネアデス』
の翻訳も終える。コジモ・デ・メディチが用意した翻訳編集工房「プラトン・アカデメイア 」
の中心人物として 、「第二のプラトン」とまでよばれる。さらにプラトン的哲学の基礎
のうえに、キリスト教神学を再建しようと試み、1469 ∼ 74 年の間、『魂の不死に関する
プラトン神学』(1482 年刊)や『キリスト教について』(1474 年刊)を執筆する。こうして
神、宇宙、人間の霊魂などに関して、とくに哲学の新プラトン主義と宗教のキリスト教
を融合させるという魔術的操作により、古典古代をヨーロッパによみがえらせると同時
に、その経緯を勝手に組み替える作業を行う。]
1477. ○【ドイツ】ケルンで印刷所が開設される。
1477.○【フランス】イギリス人のカクストン(キャクストン)William Caxton(55?)が、ブ
ルージュで、チョーサー Geoffrey Chaucer( 1343?∼ 1400)の『カンタベリ物語』を十数冊
印刷する。(?? 1475 年?)[以後、9 部が現存する。1998.7.8 初版本が、ロンドンのク
リスティーで競売にかけられ、印刷された書籍として史上最高値の 460 万ポンド(約 10
億 8000 万円)で落札される。
]
1477.○【イタリア】ニュルンベルクの印刷師ペーター・レスライン L(o)slein が、ヴェネ
チアで『ローマ史』を印刷する。
1477. ○【スペイン】サラゴサで初めて印刷業務が行われる
1477. ○【イギリス】ウエストミンスターで初めて印刷業務が行われる。
1477. ○【
する 。
]
1477.○【
】マルコ・ポーロの旅行記が、初めて印刷・出版される 。
[以後、広く普及
】理論家ティンクトリス Johannes Tinctoris( 1435 頃∼ 1511 )が、ポリフォ
ニーに関して,この頃の即興対位法による歌唱法( super librum cantare)と区別して、固定
された音楽作品を「成されたもの(resfacta)」と定義し,これに「作曲する(componere)」
の語を限定的に当てる。[以後、作曲はまず,作曲者が推敲を重ねて作品として楽譜に定
着させる過程をさすようになる。
]
1478(文明10)
1478. 8.26【フランス】ドイツ人の印刷業者マルティン・フス(マルタン・ユス)が、フラン
- 129 -
ス最初の絵入り本、
『人類贖罪の鑑 』をリヨンで印刷する。挿絵に使った 256 枚の木版は、
すでに 1474 年にケルンで、1476 年にバーゼルで使用したものを流用する。
1478.○【デンマーク】コペンハーゲン大学図書館が設置される 。
[1728 年、コペンハー
ゲンの大火で灰燼に帰し、大部分の中世の文献が消滅する。
]
1478. ○【チェコ】プラハで最初の印刷工房が開設される。
1478. ○【フランス】トゥールで最初の印刷工房が開設される。
1478. ○【イギリス】エドワードⅣ世の治世下で郵便制度ができる。[以後、民間郵便と
して行われる。1516 年、郵便が王室の専売特許になる。]
1478.○【イギリス】ルッド Rudd が、ドイツのケルンから最新の印刷技術を携えてきて
オクスフォードで印刷業を開業する。[ 1487 年、オクスフォード大学の認可の下に大学
関係の書籍の生産を始める。]
1479(文明11)
1479. ○【ドイツ】ウュツブルクで最初の印刷工房が開設される。
1479. ○【フランス】ポアティエで最初の印刷工房が開設される。
1479. ○【ローマ】異端・異教の伝播を恐れてきたローマ教皇庁が、迅速、大量、安価な
出版手段である活版印刷の出現に衝撃をおぼえ、印刷所監督に関する諸規定を公布する。
1479.○【メキシコ】アステカ帝国で、
「太陽の歴石(こよみいし)」が造られる。
「13 葦の
年」に当たり、アステカ人は第 5 の太陽の時代の記念として重さ 24t の歴石をテノチテ
ィトランの神殿に奉納する。
1480(文明12)
1480. ○【ヨーロッパ】この頃、印刷された書物が増加し、日常的に用いられるようにな
る。書物市場の組織化が進む。[以後、蔵書をもつ個人も多くなり、これまで書物がも
っぱら修道院のものであった時代が終りを迎える 。
]
1480.○【ドイツ】アドルフ・ルッシュが、初の医学事典『Aggregator Paduanus de Medicinis』
を印刷する。
1480. ○【イタリア】この頃、ヴェネチアが刊本、手書き本ともにヨーロッパ最大の書籍
製作地となっている。
1480. ○【イタリア】パビーアで印刷業務が開始される。
1481(文明13)
1481.11.21 【日本】一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(87)が、酬恩庵(京都府田辺町)で風
狂の生涯を閉じる。当時すでに幕府の御用哲学と化していた五山派の禅の外にあって、
ひとり日本禅の正統を自任し、独自の漢詩文を駆使して禅の本質を芸術性豊かに歌い上
げた。自らを「狂雲子」と号し、形式や規律を否定して自由奔放な言動や奇行をなした
が、その姿は当時の形式化、世俗化した臨済の宗風に対する反抗、痛烈な皮肉であった 。
晩年には盲目の佳女森侍者(しんじしや)を愛し、その愛情を赤裸々に詩文に詠む。しか
し、その実人生と文学的虚構の間にはいまなお多くの謎(なぞ)を残す。その徹底した俗
心否定と風刺の精神は後世に共感を得 、
『一休咄(ばなし) 』
『一休頓智談(とんちだん)』
- 130 -
などが上梓され、子供にも親しまれるようになる。]
1481. ○【ベルギー】アントワープで最初の印刷所が開設される。
1481. ○【ドイツ】ライプチヒで最初の印刷工房が開設される。
1481.○【フランス】ジャン・デュ=プレが、パリで挿絵入りの『ヴェルダンのミサ典書』
を印刷する。写本から直接とられた動物やグロテスクな紋様からなる独創的な唐草模様
の「ボーダー bordure 」が初めて登場する。
1481. ○【イタリア】銅版画入り『神曲』が、フィレンツェで刊行される。
1481.○【イギリス】印刷出版業者カクストンが、13 世紀にフランスのドミニコ会の修道
士ヴァンサン・ド・ボーヴェ(バンサン・ド・ボーベ)Vincent de Beauvais(ラテン名ウィン
ケンティウス・ベロウァケンシス Vincentius Bellovacensis)( 1190 ?∼ 1264 ?)が編纂し
た百科全書『大鏡( Speculumma ■ us)』を印刷・出版する。この書物は自然、教義(理論)、
道徳、歴史の 4 鏡に分かれ、当時の広範な知識・学問が集約されている。ギリシャ・ヘ
ブライ・ローマ系の学者 450 人の著作が含まれ、古典への関心をよみがえらせる。[ 1590
年、ヴァネチアで刊行される。1624 年、題名を『世界の図書館( Bibliotheca Mundi)』と
改め、ドゥエで再版される。]
1482(文明13)
1482. ○【デンマーク】オーデンセで国内初の印刷業務が開始される。
1482. ○【オーストリア】ウィーンで最初の印刷工房が開設される。
1483(文明15)
1483.○【フランス】この頃、不定期発行冊子『オカジオネル Journal Occasionnel』が発
刊され、宮廷・外交・戦争・異変・発見・物語などをテーマにした記事を掲載し、街頭
で呼び売りされる。体裁は縦 13.5 ∼ 19.5cm、横 8.5 ∼ 13cm の用紙に、多くは木版の挿
絵を入れる。[以後、記事の多くは無署名で散文のほか韻文も用いられる。活字は不揃い
で、同一の木版画が繰り返し用いられる。]
1483. ○【スウェーデン】ストックホルムで国内初の印刷業務が開始される。
1484(文明16)
1484.○【日本】大伴広公が、初の五十音引き国語辞書『温故知新書』3 巻を著す。五十
音に分けてから、さらに乾坤(けんこん)、時候、気形、支体、態芸など 12 項目に分類す
る。
1484. ○【フランス】トゥールーズで印刷業務が開始される。
1484. ○【フランス】マンシオンが、オヴィディウスの『変身物語』のフランス語散文訳
に多くの木版の挿し絵を加えて出版する。[以後、財政的に破綻し、ブルージュを去る。]
1484. ○【ローマ】法王が、回勅「緊急の要請」を公布して魔女の存在を断定し、審問官
の活動を擁護する。[ 1487 年『魔女の鉄槌(てっつい)』が公刊される。本格的な魔女狩
りの時代が始まる。]
1484.○【イタリア】ゾルグ Anton Sorg が、ボッカチオの『デカメロン Decameron(十日
物語)』を、木版画の挿絵入りで印刷する。(世界最初のポルノ出版か??。伊藤政行に
- 131 -
よる)
1484.○【イギリス】ウィリアム・キャクストンが、1410 年にラヴが英訳した『イエス・キ
リストの祝福されし生涯の鏡』を初めて印刷する。また、若い騎士の教科書『騎士道の
鏡』を出版する。[1490 年、
『イエス・キリストの祝福されし生涯の鏡』第 2 版を出版す
る。]
1485(文明17)
1485. ○【ドイツ】この頃まで、活字印刷本が手書き写本の外見に似せて作る試みがなさ
れる。活字をデザインする写字生、朱を入れる朱書き師、大文字や欄外に装飾を施す装
飾師らの仕事が、活字印刷の場で継続される。[以後、活版印刷術の普及により、写本の
需要が徐々に減少し、写字生は転職を余儀なくされる。印刷業者になる者、少部数のみ
の需要のある書簡・業務記録・式典用原稿・法律文書などを扱う筆耕業者、豪華写本の
コレクターのための能書家(カリグラファー)、人物細密画(ミニアチュール)の絵描きな
どに転業する。世紀末には、自分の仕事を横取りしたとして写字生が印刷工を法廷に訴
える出来事まで起こる。]
1485. ○【ドイツ】マインツに司教が、ギルシア・ラテン作品のドイツ語版の印刷に先だ
って教会検閲を始める。
1485.○【フランス】この頃、パリのアントワーヌ・ヴェラール Ve()rard が、資材・機器
を貸し出して印刷製本させる資本家的印刷出版業を始める。
1485.○【イタリア】レオナルド・ダ・ビンチ( 33)が、人間が空を飛ぶための機械を草稿に
記述する。
1485. ○【イタリア】ナポリの人文主義者フランチェスコ・トゥッポの許で働いているド
イツ人印刷技術者が、イソップ『寓話集』を刊行する。紙面にはナポリ趣味に影響を受
けた芸術家のオリエント風の豊かな装飾技法による唐草模様で飾られる。
1485. ○【スペイン】ブルゴスとパルマで印刷業務が開始される。
1485. ○【イギリス】ウィリアム・キャクストンが、マロリーの『アーサー王の死』を印
刷、出版する。
1486(文明18)
1486. 1.−【スペイン】コロンブス(35)が、フェルナンド王とイサベル女王のカトリック
両王にあらためて航海計画を提案する。[以後、提案はタラベラ神父が主査する諮問委
員会に付託される。委員会は〈大西洋には果てがなく、したがって提案の航海は不可能
である。天地創造から何世紀も経っているのに、今さら未知の大陸が見つかるはずがな
い〉と、コロンブスの計画に反対する。折からカトリック両王はイスラム勢力最後の牙
城グラナダの攻略に全精力を注いでおり,最終判断が出ぬまま数年経過する。1492 年 4
月 17 日 、ついに航海実施の合意が成立する。のちに「サンタ・フェの協約」と呼ばれる。]
1486.末【ドイツ】画家を志したデューラー Albrecht D □ rer( 15 )が、ウォルゲムート
MichaelWolgemut( 52 )の工房に入る 。
[以後、ここで人文学者シェーデルの『世界年代記』
のための木版挿絵を師と共作したと推定される。
]
1486. ○【ドイツ】マインツで、大僧正ベルトルドが、出版物を取り締まるために検閲庁
- 132 -
を設ける。マインツ大学評議会の許可なくギリシアその他の書物を翻訳印刷販売するこ
とを禁じる。
1486.○【フランス】この頃、パリを中心として「時祷(示+寿)書」(book of hours)(キリ
スト教の平信徒のために書かれた個人用祈祷書。時裳(正しくは時課)とは毎日の定時の
祈祷をいう。)が続々と出版される。
[1530 年までに 1600 点近く出版される 。
]
1486.○【イタリア】人文主義者のサベリーコ Marcantonio Sabellico( 50 )が著した『ベネ
チア史』に、著作権が与えられる。記録に残る最初の本の著作権となる。
1486.○【イタリア】E.シルベルが、G.ピコ=デラ= ミラーンドラ『九百の提題』をローマ
で印刷する。
[のち、禁書になる。
]
1487(長享1)
1487. ○【ドイツ】教王が教書で、印刷物の発行には教会の許可を条件とする。
1487. ○【ドイツ】ドミニコ会士の異端審問官インスティトリスとシュプレンガーが、
『魔
女の鉄槌(てっつい)』を書き公刊する。狂信的な危機感、嗜虐(しぎゃく)的な使命感が
全編を貫き、たとえば、教会に行きたがらぬ者は魔女の疑いがある、熱心に教会に通う
者は偽装した魔女である、と断定している。一節に〈すべての妖術は女の中にある。そ
れは子宮の口である。だから彼女らは肉欲を満たすためなら悪魔とでも交合する〉と書
く。恐るべき魔女のイメージが、この本によって決定され、魔女狩りの絶対の権威とし
て教典とされる。本格的な魔女狩りの時代が始まる。[この頃、神学者や教会関係者のす
べてが論旨に同調したわけではないが、一度権威が確立されると 、『魔女の鉄槌』批判
は魔女たることの自白に等しいとみなされる。宗教改革以後は、プロテスタント諸国で
も教典として受け入れられる。魔女狩りは、とくに 1590 ∼ 1610 年 、1625 ∼ 35 年、1660
∼ 80 年の 3 度激しく行われる。]
1487. ○【ポルトガル】スペインのユダヤ人追放により脱出したユダヤ人が、ファロで、
国内初の印刷業務を開始する。[以後、一時期の間、ポルトガルがヘブライ語出版を一
手に引き受ける。1494 年、キリスト教徒が印刷に手をつける。1498 年、ユダヤ人は国を
追われるか改宗を強いられる。ユダヤ人印刷業者はイタリアに逃げ込む。
]
1487.○【イギリス】ルッド Rudd によって 1978 年にオクスフォードに最初に設けられた
印刷所が、オクスフォード大学の認可の下に書籍の生産を始める。オクスフォード大学
出版部の前史の初めとされる。[以後、十二使徒信条や基礎的な学術書、オクスフォード
大学編纂の文法書などが印刷されるが、経済的に破綻する。1584 年、大学が会議を開き、
大学出版部理事会の前身母体が結成される。1633 年、理事会( Delegate)となる。1690 年 、
大学自体が自ら運用する印刷所を設置し、印刷、出版活動を始める。]
1488(長享2)
1488.○【ドイツ】ヨハン・プリュスが、シュトラスブルクで音楽書『Flores Musicae』を
木版印刷する。[以後、最初の音楽理論書とされる。]
1488. ○【イタリア】最初のヘブライ語聖書『ソンチノ完全聖書』原典が、クレモーナ近
郊のソンチノ(ソンチーノ)で、ポルトガルから移住してきたユダヤ人印刷業者「ソンチ
ーノ一族」により印刷される。聖書本文の最初の刊本となる。
[1516 年、エラスムスの
- 133 -
校訂本が出て、最初の新約原典となる。]
1489(延徳1)
1489. 3.−【フランス】紙の価格が下落するため、製紙業者の訴えにより、パリ大学が安
価な紙を得るための諸特権に関してシャルルⅧ世の特許状を得て確認される。人文学士、
学生、正教授をはじめ、特権を享受できる者として出版業者 24 人、羊皮紙業者 4 人、パ
リの紙問屋 4 人、トロワ・コルベーユ・エソンヌの製紙業者 7 人、彩色絵師・書士(エク
リヴァン)・製本屋各 2 人を列挙したリストが作成される。こうした業者は「大学宣誓紙
業者」の肩書がつけられ、大学当局の手厚い保護のもと、租税免除など各種の特典を享
受する。(『書物の出現』上)
1489. ○【ポルトガル】リスボンで国内で、印刷業務が開始される。
1490(延徳2)
1490.○【中国】この頃、無錫の華燧(かすい)(会通館)が、大小 2 種の字体の銅活字を用
いて『宋諸臣奏議』を試験的に刊行する。華燧は、銅活字に精通している、という意味
で自ら「会通」と号した。この印刷は、金属活字自体が墨を受けつけなかったので、刷
り上がりはぼけたものになってしまう。また、組版が不揃いで、校正も精密を欠いたの
で、朝鮮銅活字版の精緻華麗さに遠く及ばない結果となる。[以後、華燧は、銅活字の
鋳造、組版、施墨、印刷など一連の技術問題を解決し、活字印刷術の発展に大いに貢献
し、少なくとも 18 種、約 1000 巻以上を印刷・刊行する。
『宋諸臣奏議』は、現存最古の
金属活字印刷本とされ、北京図書館に収蔵される 。
]
1490. ○【ドイツ】この頃、郵便飛脚が角笛を使うようになる。
1490.○【イタリア】レオナルド・ダ・ビンチが、カメラ・オブスキュラの可能性を述べる 。
1490. ○【イタリア】ヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウス(アルド・マヌツィオ;ア
ルド・マヌッツィオ)(38 ?)が、自分の作品を出版するため、ヴェネツィアで印刷所を開
設する 。
[1493 年、自著『ラテン文法書』を印刷する。1494 年、アルド書店を開き、最
初の印刷本を出版する。]
1490. ○【スペイン】セビリャで、印刷業務が開始される。
1490. ○【イギリス】紙の製造技術が伝えられる。原料の多くは動物繊維の古着が用いら
れる。紙は羊皮紙より長持ちしないという理由で、紙製の書物は羊皮紙のものより廉価
で取引される。
1491(延徳3)
1491. ○【ドイツ】ニュールンベルクの学術書の出版業者アントン・コーベルガーが、絵
入り本に進出し、『聖櫃』に挿入するため、版画家ミヒャエル・ヴォールゲムートに、聖
書の場面や寓意を表す 1 ページ大の版画 91 枚を制作させる 。
[1493 年、さらにハルトマ
ン・シェーデルの『世界年代記』(のち、
『ニュールンベルク年代記 』)の挿絵として、約 2000
枚の木版を彫らせる 。
]
1491. ○【イギリス】この頃、キャクストンが死去する。弟子のウィンキン・ド・ウォード
が印刷機一式を遺贈される 。[以後、しばらくしてロンドン市内のフリート街に工房を
- 134 -
移転する。キャクストンが常に上流階級を顧客にして小部数の出版を行っていたのに対
し、ド・ウォードはより広い購買層を対象に、小活字で組んだ廉価な小型本を、約 800 点
を印刷出版する。
]
1492(明応1)
1492.10.12【中央アメリカ 】イタリアの航海者コロンブス Christopher Columbus(46 ?)が、
シナ(のち、中国)を目指し、マルコ・ポーロの東方見聞録を携えて西方に航海し、未明午
前 2 時、ピンタ号の水夫ロドリゴ・ド・トリアナが、マストの見張台から、
〈前方に島があ
るぞ!〉と叫ぶ。コロンブスは乗組員を連れて上陸し、バハマ諸島をサン・サルバドルと
名付けてスペイン領とする。この航海中に、地磁気に偏角があることに気付く。[のちに、
アメリカ大陸の発見とされ、1492 年 10 月 12 日の出来事が最も有名になり、歴史に大き
く残される。10.28 キューバを発見する。12.6 ハイチに着き、定住拠点をつくる。のち
に緯度によって伏角が異なることも発見する。のち、10 月 12 日を「新大陸発見の日」
といわれる。中南米では「人種の日」、スペインでは「イスパニーダの日」と呼ぶ。先
住民が住んでいたことを考えると「発見」というのは適切でない、との意見もあり、「コ
ロンブス・デー」「ディスカバリーの日」「ランディングデー」と呼ぶようにもなる。国
によっては 10 月の第 2 月曜日を「コロンブス・デー」とするところもある。]
1492.○【イギリス】イギリスの印刷術の父、カクストン William Caxton ( 70?)が死去する。
(1491 年説あり)この頃、カクストン以外の国内の印刷業者はすべて大陸からの来住者
であり、カクストンの工房と住居はアルザス生まれの印刷師ウィンキン・ウォードに引き
継がれる。[1513 年ころ、カクストンに続くイギリス人の印刷業者が現れる。]
1492. ○【ヨーロッパ】コロンブスが、アメリカ大陸から梅毒をヨーロッパに持ち帰る。
〔もともとヨーロッパに古くからあったという説もある。
〕
1493(明応2)
1493.○【ドイツ】この頃 、自然現象や社会事件を報じる 1 枚刷りのフルークブラット(フ
ルークシュリフト、フリーゲンデブラット)( Flugblatt)が、国内やウィーンなどドイツ語
圏で刊行される。[以後、時には 2 枚刷り以上になり、災害、疫病、奇譚などを絵入りで
印刷され、速報媒体となる。近代新聞の先駆けとなる。]
1493.○【ドイツ】コーベルガーが、ハルトマン・シェーデル( 53)の『世界年代記』(『ニ
ュルンベルク年代記』)を刊行する。1 万 9000 点の木版を組み合わせて 1800 点あまりの
図版を収め、出版として大成功を収める。
1494(明応3)
1494. 1.25 【フランス】シャルルⅧ世(24)が、王位継承権を主張する。これによって、フ
ランス軍がイタリアに侵入、イタリア戦争が始まる。
1494.12.31 【イタリア】シャルルⅧ世の率いるフランス軍が、ローマに入城する。フラン
ス人がルネサンスに接触する契機となる。また、ヨーロッパ中に激痛と膿疱を伴う怖ろ
しい病気(梅毒)が大流行する。[以後、フランスとナポリの兵多数が梅毒にかかり、「フ
ランス病」 の名を広める。フランス人は「イタリア病」、「ナポリ病」 と呼ぶ。それを
- 135 -
うつされた国民がその直前に伝えた国の名を病名につけるのを常とするが、一般には「悪
魔の病」と呼ばれる。]
1494. ○【ドイツ】クロイツナハ付近のシュポンハイム(スポンハイム)の修道院長トリテ
ミウス Trithemius(本名 Johannes Heidenberg)( 32)が、昨今の印刷術の普及により修道士の
写字が軽視されるような風潮に反発して、『写字生賛』を著す。内容の一部は、1473 年
頃出版されたジャン・ジェルソンの論文『写字生賛』に負っている。その中で、羊皮紙に
写字することで 1 千年も長持ちするのに、紙に印刷では寿命が短く、また手で転写する
ことにより空いている手を働かせておけるし、勤勉や献身や聖書の知識が身につくとい
った利点を説く。しかし 、
『写字生賛』は紙に印刷されて刊行される。また、彼はマイ
ンツのさる印刷屋を頻繁に使うので、そこはあたかもシュポンハイム修道院出版局の様
相を呈していた。(E.L.アイゼンシュタイン 、別宮貞徳監訳『印刷革命』みすず書房、1987 )
1494.○ 【 ド イ ツ 】 ブ ラ ン ト Sebastian Brant( 36) の 風 刺 文 学 『 阿 呆 船 ( 愚 者 の 船 )
DasNarrenschiff』が、J.ベルクマンによりバーゼルで出版される 。
[以後、ブラントは、
一連の「阿呆文学 Narrenliteratur 」の祖となる。]
1494.○【ドイツ】この頃から、フルークブラット Flugblatt(ビラの意)が、戦争、天変
地異など単独のニュースを伝えるために発行される。多くは街頭で呼び売りされる。定
期的に発行される新聞の先駆形態の一つとなる。
1494.○【フランス】シャルルⅧ世の裁断により、リヨンの年 4 度の大市(おおいち)が確
立される。
[以後、1 世紀近くリヨンの「書籍大市」が繁盛する。]
1494.○【イタリア】この頃、学者アルド・マヌッツィオ(アルダス・マヌティウス)Aldus
Manutius( 42 ? 45? )が、ベネツィア総督の甥などから財政的援助を受けて、ベネツィア(ベ
ネチア)にアルド書店を開く。錨と海豚を商標として、印刷・出版を初める。この年初め
て『ギリシア詩集』を刊行する。また、自社出版物だけでなく他社の出版物も列記し、1
冊ごとに解説と定価を明記した初の「カタログ(出版案内)」を印刷して、読書愛好家に
送り届ける。[以後、1495 年∼ 1519 年の間に、130 点あまりの出版を手がける。中でも、
コンスタンティノープル(のち、イスタンブール)から亡命してきた多くのギリシア学
者たちに指導されて、異教のギリシア古典の正確な版本を刊行する。1501 年、多くの購
買者層に迎えられるように、ローマン・アルファベットの楷書体を斜めにした「イタリッ
ク体」をデザインさせて、これで手軽に持ち運べるサイズの 16 折小型版本の印刷を開始
する。古典をたやすく民衆の手に与えるための企画であり、本というものを初めて親し
みやすい個人のためのメディアに仕立てて、出版史上最初の普及廉価版となる。マヌテ
ィウスは各種のギリシャ語活字をデザインし、1502 年からはアイスキュロス、ソポクレ
ス、プラトン、デモステネス、ヘロドトス、ピンダロスなどギリシャ古典を次々と印刷
・出版する。20 年間に 120 種 250 巻の書物を印刷する。
(塩野七生「イタリア遺文」14
話、
『波』1980.4 月)(平凡社『世界世界大百科事典 』
)[ 1968 年、アメリカのアラン・ケ
イ Alan C. Kay が、マヌティウスが初めて書物を手軽なサイズに定めて以来、身近に持
ち歩けるものになったという話と、小型ディスプレイ「NLS」、教育用言語「 LOGO」
、
手書き文字認識システムの〈 3 つの画期的な技術〉に出会ったことで、本とコンピュー
タとのアナロジーから、個人用のコンピュータの原型「ダイナブック Dynabok」を初め
て発想する。
(ボブ・ライアン「アラン・ケイが再び語る Dynabook の将来像 」
『日経バイ
- 136 -
ト』1991.6 、鶴岡雄二訳『アラン・ケイ』アスキー出版局、1992)]
1494. ○【イギリス】 スコットランドで、モルトが蒸溜されて地酒として飲まれる。[以
後、スコッチウィスキーとして世界に広がる。]
1495(明応4)
1495.夏 【ドイツ】最初の梅毒患者がシュトラスブルクで報告される 。梅毒が流行する 。
これをドイツ人は「フランス病」と呼ぶ。
1495. ○【イタリア】ベネチア元老院が、イタリック文字の発明者で印刷業者のアルド・
マヌッツィオ(アルダス(アルドゥス)・マヌティウス)Aldus Manutius に、
『アリストテレ
ス著作集』などギリシャ語書物の印行に関し 25 年間の特許認可状(privilege )を与える。
[以後、記録に残る最古の出版特許認可状となる。]
1496(明応5)
1496. ○【オランダ】梅毒が流行する。
1496. ○【イギリス】梅毒が流行する。
1497(明応6)
1497. 3. 9 【ポーランド】コペルニクス Nicolaus Copernicus( 24)が、ボローニャ大学教授
ノバラに師事する。[以後、アルデバランの星食を観測し、プトレマイオスの月理論の誤
りに気づく。10 月 20 日フロムボルクのワーミアの聖堂の評議員に任命される。このこ
ろ、プールバハ、レギオモンタヌス共著『アルマゲストの概説書』を入手し、天動説の
再検討に進む。]
1498(明応7)
1498.末【ドイツ】ニュールンベルクの A.コーベルガーが、デューラー Albrecht D □ rer(27 )
の 1 枚刷り木版画の連作『ヨハネ黙示録』を完成する。
[1498 ∼ 1510 年、
『大受難伝』
、1502
∼ 1510 年、『聖母マリア伝』の 1 枚刷りを制作する。以後、ドイツ民衆芸術として出発
した木版画が、デューラーによって初めて高度の芸術的表現を得たと評価される 。
『ヨ
ハネ黙示録』は、のちにテクスト入りの書物となって売出される。デューラーは、動植
物、人体の形態学的研究および遠近法の研究を行い、この頃 、
『パウムガルトナーの祭
壇』
(ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)、
『三王礼拝 』
(フィレンツェ、ウフィツィ美
術館)を制作する。
]
1498. ○【インド】梅毒が流行する。
1498. ○【中東】梅毒が流行する。
1498. ○【スペイン】梅毒がエルザス(アンザス)にかけて流行する。
1499(明応8)
1499.○【ドイツ】ケルンの J.ケルホフが 、
『ケルン年代記』を刊行する。この中に、印
刷術に関する最初の記述があり 、
〈活字による印刷術は、ドイツのマインツという都市
で発明されたが、最初の試作はオランダで行われ、マインツに先駆けてドナトゥスの教
- 137 -
本が印刷された〉と記述される 。
[以後、この記事が契機となって、ドイツとオランダ
の学者らによって、印刷術がいずれの国で始まったかという論争が続けられる 。
]
1499.○【イタリア】ヴェネツィアのアルド・マヌッツィオ(アルダス・マヌティウス)が、
1469 年にドミニコ派修道士フランチェスコ・コロンナの著した『ポリフィーロ酔夢譚』
を印刷・刊行する。また、ニッコロ・ペロッティの『豊穣の角――ラテン語解義』でペー
ジ付けがなされ、恐らく最初のページ付刊本とされる。また、 F.コロンナ『ポリフィー
ロ酔夢譚(ポリフィルス狂恋夢)』を刊行、揺籃活字(インキュナブラ)の傑作とされる。
[以後、『ポリフィーロ酔夢譚』の内容や装飾によって、ラブレー、ダンテ・ゲイブリエ
ル・ロセッティー、ビアズリーらが影響を受ける。また、新奇さを求める無名の工芸家、
職人、装飾家などに大きな影響を及ぼす。1904 年、メシュアン社が 、
『ポリフィーロ酔
夢譚』初版の写真復刻版(ファクシミリ)を刊行する。]
1499.○【イタリア】この頃、レオナルド・ダ・ビンチ Leonardo da Vinci(47)が、螺旋(ら
せん)面回転翼機のスケッチを描く。回転翼による飛行機の最初の構想となる。ダ・ビン
チは人力で回転翼(ロータ)を回転させる計画だったが、実現はしない 。
[以後、約 400 年
間、多くの人々が試みるが、軽くて高出力のエンジンが得られずに実現しない。1986 年、
全日本航空事業連合会は、ヘリコプタが第二の空輸システムとしての普及を図ることを
目的として、ヘリコプタの原理を考えたレオナルド・ダ・ビンチの誕生日 4 月 15 日を「ヘ
リコプタの日」と定める。
]
1500(明応9)
1500. ○【ヨーロッパ】この頃までに、ヨーロッパで印刷された書物(インキュナブラ)は
約 4 万点、総部数は約 2000 万部に達する。うち、約 45 %が宗教書である。手写本は各
地の図書館から少しずつ表舞台から追いやられ、もはや学者たちによってたまに参照さ
れるだけになっている。[以後、インキュナブラは約 3 万点が保存される。]
1500.○【オランダ】人文学者エラスムス Desiderius Erasmus( 34)が、諺集『アダージア』
を、アルファベット順に編集する。[ 1596 年、話題別配列にして再版される。]
1500. ○【ドイツ】この頃、ニュルンベルクにすむ錠前師のヘンラインが、ぜんまいを使
って、持ち運びできる小さな卵形の懐中時計をつくり出す。[以後 、
「ニュルンベルクの
卵」と呼ばれて富豪の間でもてはやされる。
]
1500.○【フランス】パリに、50 軒以上の印刷業者が営業している。
1500. ○【フランス】リヨンのマチュー・ユスが、初めて印刷工房で働く植字工、インク
工、プレス工らを描いた版画『死の舞踏』を出版する。15 世紀の終末思想を反映して、
印刷所とそれに隣接する書店で働く人々に死神が襲ってくる光景が描かれる。植字工は
非常に低い活字ケースの前に座って作業をしている。(高宮利行『グーテンベルクの謎』
p.106 )[以後、印刷工房図を収める唯一の揺籃本(インキュナブラ)となる。16 世紀後半、
植字工が立ったまま作業をするようになる。]『
( 書物の出現 』
)
1500. ○【フランス】ルイⅩⅡ世が、ギョーム・ユスターシュにラテン語訳『ユダヤ教徒
に対する反論』の印行に対して特許認可状(privile()ge)を与える。書籍商の営業を保証
するためのフランス最初の出版特許認可状となる。[1507 年、
「使徒ポールのアントワー
ヌ・ベラールに宛てた書簡」
、1508 年、聖ブルーノの著作物にも与えられる。]
- 138 -
1500. ○【イタリア】この頃、ヴェネツィアのアルド・マヌッツィオ(アルダス・マヌティ
ウス)が、袖珍版の刊行を始める。
1500.○【イタリア】バレンティノ公爵、教皇軍の将軍チェザレ・ボルジア Cesare Borgia
(24?)が性器潰瘍を患う。[以後、彼はマキアベリに理想的な新君主と評価される一方,
人々からは妹の夫や弟の殺害なを平然と実行できる冷酷非道の権勢家と批判されてい
る。]
1501(文亀1)
1501. ○【ドイツ】シュトラスブルクの司祭ガイラー(ヨハン・ガイラー・カイザースベル
ク)が、同市参事会に梅毒患者のための病院建設など処遇についての嘆願書を提出する。
1501.○【ローマ】教皇アレクサンデルⅥ世が、15 世紀からのローマ教皇のカトリシズム
に対する異端取締りが展開される中で、宗教書の出版に事前検閲制度を敷く。ヨーロッ
パにおける最初の出版言論統制の事例となる。
1501.○【イタリア】印刷家アルド・マヌッツィオ(アルダス・マヌティウス )Aldus Manutius
(51 ?)が、出版物に内容をより多く収容する目的で、ヴェネツィアで教皇庁尚書院の「書
記局書体」に範をとった幅の狭い斜字体(のち、イタリック体活字)を創作し、彫り師フ
ランチェスコ・グリッフォに依頼する。イタリック体活字を使った最初の刊本として、ウ
ェルギリウスの詩篇『作品集(アエネイアス)』を刊行する。[以後、斜字体は発明者の
名をとって「アルディーノ」(アルド式)と呼ばれるが、イタリアの他の出版社もいっせ
いにこのアルド式を採用する。以後、ローマン書体に付属してつくられるようになり、
普及する。ヨーロッパではイタリック(イタリア式)の名で定着する。1502 年、マヌッツ
ィオはヴェネツィアにおけるギルシャ語書物およびイタリック体によるラテン語書物出
版の独占権を得る。以後、プラトン、アリストテレス、キケロ、カエサルなどが、アル
ドゥス社の文庫版として、イタリック体を使用して、出版される。イタリック体を使用
することで、小型本の紙面でもかなり多くの文字列を収容し印刷することが可能になる。
ヨーロッパでイタリックが流行し始める。のち、イタリック体は、あらゆる書体の斜体
を総称するようになる。]
1502(文亀2)
1502. ○【中国】華珵が、精密な銅活字を製作し、南宋の詩人陸游の『謂南詩集』と『剣
南続稿』を刊行する。
1502. ○【ドイツ】ウイッテンベルク大学が設立される。ライプツィヒやチュービンゲン
で学んだ学者によって組織され、かなり伝統色の濃い教育を行う。[1508 年、ルター Martin
Luther が一般教養科目を担当する。1512 年、ルターが神学博士となり聖書学を担当する。
1517.10.31 ルターが 、
「九十五か条の論題」を大学の掲示板でもあった城教会の扉に提示
する。宗教改革運動の発端となる。]
1502. ○【ドイツ】ウイッテンベルクで最初の印刷工房が開設される。
1502.○【ドイツ】シェファー Peter Schoeffer が、世界最初の本の広告ビラ、ポスターを
印刷する。
1502. ○【ドイツ】シュトラスブルクの奇特な市民セバスチアン・エルクが、イル河の運
- 139 -
河地区の建物を同市参事会に寄贈し、梅毒患者隔離病棟となる 。
[以後、19 世紀末に取
り壊されるまで機能し続ける。
]
1503(文亀3)
1503. ○【トルコ】オスマン帝国のコンスタンティノープル(のち、イスタンブール)で印
刷所が開設される。
(★ 1494 年とも)
1503. ○【ドイツ】ペーター・シェファーの息子ヨハンが、印刷事業を受け継ぐ。早速印
刷出版した書物の奥付に、自ら〈印刷術の発明者の子孫〉と名乗る。[ 1509 年、ヨハン
が、祖父ヨハン・フストを印刷術の発明者と明記する。1514 年、シェファーが出版した
書物のなかで、オランダの人文学者エラスムス Desiderius Erasmus が〈印刷術の発明者は
ヨハン・フストであったらしい〉と記す。以後、印刷術の発明者のグーテンベルクの名は
霞んで、フスト説が強く擁護される。1514 年、ヨハン・シェファーは、この年印刷した
リヴィウスの『ローマ史』の序文に〈印刷術を発明したのは自分の父ではなく、ヨハン・
グーテンベルクであった〉と記す。]
1503.○【イタリア】ファーノの G.ソンチーノが、ペトラルカ『イタリア語作品集』を刊
行する。序文でソンチーノは〈イタリック体発明の栄光を A.マヌッツィオ(アルダス・マ
ヌティウス)が、横取りした〉と激しく非難する。
1504(永正1)
1504. ○【ドイツ】ニュールンベルグの錠前屋の親方、ペーター・ヘンレインが、鉄製の
クロノメーターを作る。[★ 1509 年ともいわれる。現存する最古の携帯用時計となる。]
1505(永正2)
1505.○【中国】明の武宗(8 代、正徳帝)が即位する 。
[以後、在位∼ 1521 。美しい芸妓
を宮廷内に召し入れ、逸楽にふける。また、役者の蔵賢を異常に寵愛する。さらに、20
才前の高永壽を寵愛する。以後、宮廷では高小姐とよばれる。宦官の専横が甚だしくな
る。
]
1505.○【中国】梅毒が流行する。多くの官僚、士大夫も邸宅に歌い女を囲って享楽する。
1505. ○【中国】中国史上第二の同性愛流行の時期を形成する。
北京の蓮子胡同(簾子胡同)という路地に、同性愛者相手の男たちが客引きをする。
1505. ○【中国】南方の福建沿岸の一帯に、「契兄弟」、「契児」と呼ばれる風習があり、福
建人(閏?人)は男色をひどく重んじる。
1505. ○【ドイツ】ヤーコブ・ヴィンプヘリングが、印刷術はグーテンベルクがシュトラ
ースブルクで発明した、と記述する。[以後、シュトラースブルクの市民は、自分たち
の町こそ印刷術誕生の地と思うようになる。
]
1505.○【フランス】ビアトール J.P.Viator が、線的遠近法に関連した透視図の理論書を
出版する。ここで初めて距離点( distance point)の理念が明確にされ、透視図法の描法を
容易にする。[以後、透視図法は、視点と物体と画面の相対性に基づいて決定されるもの
とされる。この技法の発展は、自我(視点)が物体(自然界)を見ている世界を窓(画面)と
してとらえることを意味するようになる。]
- 140 -
1505. ○【スペイン】スペイン最初のアラビア語辞典が出版される。
1506(永正3)
1506. 2.14 【バチカン】教皇ユリウスⅡ世(63 )が、古代彫刻のコレクションを教皇庁のベ
ルベデーレの庭に展示する。[以後、これを元に、歴代のローマ教皇、教皇庁によって集
められた美術品など収集品を収蔵・展示した「バチカン美術館( Musei Vaticani)」が開設
される。美術館とよばれる部分は本館の一部と別棟の絵画館である。本館に含まれる図
書室、フレスコ画で名高いいくつかの間、さらに礼拝堂もあわせて公開される。]
1506. ○【オランダ】アムステルダムで印刷が初めて行われる。
1506. ○【ベルギー】イタリアのベルガモ出身の豪族フランツ・フォン・タキシス(タクシ
ス) Franz von Taxis( 56 )が、国王の郵便物以外に一般の郵便物の取扱いを開始する。[以
後、本拠をベルギーのブリュッセルに移し、政府の郵便物を無料で運ぶという条件で、
ハプスブルク家から領内官民の文通逓送事業を世襲制にすることを許され、域内の郵便
事業を独占する。最盛時には、ドイツ、イタリア、オランダ 、ベルギー、スペインで「タ
キシス郵便」を走らせ 、ヨーロッパ最大の郵便組織になる。タキシスでは、螺管(コイル)
をひと巻した郵便角笛(ポスト・ホーン)を紋章に定め、
郵便事業のマークにも使用する。
19
世紀初め、ドイツ国内に路線を撤退。1867 年、プロイセンに郵便権を売却し、12 代にわ
たるタキシス郵便は消滅する。以後、タキシスは単なる貴族となる]
1506. ○【イタリア】この頃、ルネサンスの極盛を迎える。
1506. ○【バチカン】教皇ユリウスⅡ世( 63 )が、サン・ピエトロ大聖堂の旧堂を全面的
に取り壊して改めて新聖堂を再建することに決め、時の建築家たちの諸提案からブラマ
ンテ(62)の立案を採用し建設に着手、定礎式を行う。ブラマンテの構想は、ギリシア十
字形のプランに、ローマのパンテオンから着想されたクーポラ(円蓋(えんがい) )をのせ 、
周柱を巡らした頂塔をその上に立てるものである。1514 年、中央のクーポラを支える 4
本の支柱の建立中にブラマンテが死去する。以後、後継者に指名されたラファエロが、
ジュリアーノ・ダ・サンガッロとフラ・ジョコンドに協力を求め、ブラマンテによるギ
リシア十字形プランは典礼に不適合であるとして 、ラテン十字形に改めて工事を進める。
1520 年、ラファエッロも没する。バルダッサーレ・ペルッツィ、ジュリアーノの甥のア
ントニオ・ダ・サンガッロと工事が引き継がれる。その間、教会の財源の逼迫や「ロー
マの略奪」のため工事の進展はみられない。1546 年、アントニオの没後、ミケランジェ
ロ(72)が独自の構想をもって工事を担当することになる。ふたたびギリシア十字形を採
用して、クーポラを支えるタンブール(円筒形部分)の外観効果を強調し、さらに堂内の
アプスや礼拝堂の設計を改める。1564 年、ミケランジェロ没。以後、ミケランジェロが
残した木製模型により、ジャコモ・デッラ・ポルタの手でクーポラが完成される。1614
年、カルロ・マデルナが、身廊を西側前方に延長させ、さらにナルテックス(前廊)を設
けてラテン十字形プランに改め、壮麗な正面(ファサード)を構築する。 1626.11.18 着工
以来 120 年の歳月を経てウルバヌスⅧ世により新大聖堂の献堂式が行われる。]
1506.○【イギリス】オランダの人文学者エラスムス Desiderius Erasmus( 37 ?)が、イタ
リアからイギリスへ旅行中に戯文(げぶん)『愚神礼賛(ぐしんらいさん)(痴愚神礼賛)』
を書くことを着想する。ロンドンの親友モア Thomas More( 29)の家に滞在して書き始め
- 141 -
る。[ 1509 年、書き終える。]
1507(永正4)
1507.○【ポーランド】この頃、フラウエンブルク聖堂参事会員コペルニクス Nicolaus
Copernicus( 34)が、1496 年北イタリア遊学以来着想した地動説に関する小冊子『概要』
を書き、知友に回覧する。地球は他の惑星と同様に、動かない太陽の周囲を回転し、見
かけ上の星の動きは地球の自転によって起こされるとする。しかし、月の運動を除いて、
太陽の歳差運動、惑星運動についてはまだ多くの課題を残す。一方、ハイスベルクで伯
父ワッツェンローデの秘書兼侍医として活動する。[1512.3.29 伯父が死去する。フロム
ボルクに転任する。1513 年、惑星の系統的な観測を始める。1530 年ごろ、本格的な著述
に入り、『天球の回転について』をまとめる。]
1507.○【ドイツ】地図学者ワルトゼーミュラー(ヴァルトゼーミュラー)Martin Waldseem
■ ller(37 )が、『世界地誌概説(Cosmographiae Introductio )』を書き、初めて地球を球体と
して描き 12 葉に分割した世界地図を発表する。縦 18cm、横 35cm で、印刷はフランス
北東部サン・ディエ(Saint-Di ■)で行われた。アメリゴ・ベスプッチの航海記にもとづい
て世界地図に初めて新大陸を書き加え、南北アメリカとアジアをはっきり区別し、太平
洋を描いたはじめての地図となる。コロンブスの発見したインディアスが実はアジア、
ヨーロッパ、アフリカ以外の第 4 の大陸であると認識し、
〈新大陸はベスプッチによって
発見された〉とし、新大陸を彼の名にちなんでアメリカと名づけることを提案する。[以
後、この手記によってこの本が広く流布され 、「アメリカ」の名称が一般に用いられる
ようになる。しかし 1 世紀以上も、アメリカとアジアの地形的関係については、さまざ
まの誤解や誤呈が尾を引く 。
「アメリカ」という名称は、16 世紀後半までにヨーロッパ
各国で一般に用いられるようになるが、スペインではインディアスという呼称が 19 世紀
初めまで好んで用いられる。1515 年、更に大きなバージョンが製作され、しばしば「ア
メリカの出生証明書」と呼ばれる。(これはアメリカの連邦議会図書館が 2003 年に 1000
万ドル( 10 億 7000 万円)で購入する。)2005.6.8 ロンドンの競売会社クリスティーズで、4
枚残っているうちの 1 枚が約 54 万 5000 ポンド(約 1 億 600 万円)で競り落とされる。]
1507. ○【フランス】写本制作工房を経営していたアントワーヌ・ヴェラールが、有力な
印刷業者の協力を得て、ラテン語の古典やフランス語の通俗作品の出版を手がけ、ルイ
ⅩⅡ世専属の書物取扱い業者に指定される。[以後、数々の特権を与えられる。]
1508(永正7)
1508.○【イタリア】印刷家アルド・マヌーツィオ(アルドゥス・マヌティウス) Aldus
Manutius( 58 ?)が、オランダの人文学者エラスム Desiderius Erasmus(42)を招いて、彼の
『格言集』をアルド書店から出版する。アルド風活字(イタリア風活字=イタリック体)
で印刷された本は芸術的印刷の典型とされ賞賛される。[以後 、
『格言集』はベストセラ
ーになる。]
1508.○【スペイン 】神学中心のアルカラ・デ・エナーレス学寮制大学が設立される。1499
年に教皇アレクサンデル 6 世の設立認可教書を得たトレド大司教ヒメネスが、設立する。
[以後、トリリンガル学寮が設立され、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の 3 言語の研
- 142 -
究を奨励する。1514 ∼ 17 年、3 カ国語対訳聖書を編集・刊行する。16 ∼ 18 世紀にかけ
て法学中心のサラマンカ大学と並び、ラテンアメリカ植民地に多くの上級聖職者、行政
官僚を送り出し、また植民地に設立された 26 大学のモデルとなる。1838 年、マドリー
ド中央大学の中心施設として、マドリードへ移転する。マドリード大学( Universidad
Complutense de Madrid)(正式校名マドリード・コンプルテンセ大学)としてスペイン最大
の国立大学となる。]
1509(永正6)
1509.○【イギリス 】ヘンリーⅧ世( 18 )が、チューダー朝 2 代目のイギリス王に即位する。
1509.○【イギリス】オランダの人文学者エラスムス Desiderius Erasmus(43)が、戯文(げ
ぶん)『愚神礼賛(ぐしんらいさん)(痴愚神礼賛)』を、ロンドンの親友モア Thomas More
(32 )の家で書き上げる。「愚(おろ)かさの女神」が世にいかに愚かごとが多いかを数え上
げ、自慢話をするという形式をとり、哲学者・神学者の空虚な論議、聖職者の偽善など
に対する鋭い風刺が語られている。[ 1911 年、パリで刊行される。]
1509. ○【イギリス】活版職人が製作した壁紙が、ケンブリッジ大学のクライスト・カレ
ジの教師寮に貼られる。現存する最古の壁紙となる。壁紙は、15 世紀後期から高価なタ
ピスリー、彩色布地や皮革製壁掛けの代用品として製造されてきた。
1510(永正7)
1510.○【ドイツ】この頃、ニュルンベルクの錠前師ヘンライン Peter Henlein が、ぜんま
い式の携帯時計をつくる。懐中時計の元祖となる。この頃のぜんまい時計は、巻き締め
状態によってぜんまい力が大きく変動して時計を狂わすことが最大の問題点となってい
る。[以後、発明者は不明であるがレオナルド・ダ・ビンチの手稿にみられる均力車 fus □ e
フランスやスタックフリード stack freed 装置が考えられ、16 ∼ 17 世紀の携帯時計には
そのいずれかが用いられる。初期の携帯時計は分厚く、首または胸にぶら下げられ、時
打ち装置を備えたものが多く、
「クロック・ウォッチ」とよばれる。]
1511(永正8)
1511. ○【ヨーロッパ】この頃、いわゆるキアロスクーロ(単彩明暗画)の素描から着想を
得た多色刷り木版画「キアロスクーロ・ウッドカット(chiaroscuro woodcut) 」が生まれる。
[以後、17 世紀初頭まで続く。イタリアのウーゴ・ダ・カルピ、ドメニコ・ベッカフーミ、
ドイツのクラナハ(父 )
、ブルクマイヤー、オランダのヘンドリック/ホルツィウスら
がこの技法により制作する。16 世紀末ごろから木版画は急速に衰退し、もっぱら民衆的
画像表現の具としてのみ存続し、美術史の表面からは姿を消す。19 世紀末にゴーギャン、
ムンクによって復活する。]
1511.○【ドイツ】エッラープが、地図上の 2 点をむすぶ直線が常に一定の方位をしめす
図法で地図を作成する 。
[のち、この図法は「メルカトル図法」と呼ばれ、1569 年に同
様の方法で航海用地図投影法を導入したフランドル(のち、ベルギー)の地図学者メルカ
トル GerardusMercator( 1512 ∼ 1594)の業績とされる。
]
1511. ○【フランス】エラスムスの『愚神礼賛(ぐしんらいさん)(痴愚神礼賛)』が、パリ
- 143 -
のグールモン書店から刊行される。大当たりとなり、初版の 1800 部がたちまち売り切れ
る。[この年に版を重ねる。1522 年までに、翻訳も含めて 2 万部を売り、宗教改革の気
運を大いに盛り上げる。しかしエラスムス自身は慎重な態度をとり、この運動には加わ
らない。]
1513(永正10)
1513. ○【ドイツ】?【スイス】か? グラーフが、エッチングを発明する。
1514
永正11
1514.○【ローマ】コペルニクス Nicolaus Copernicus( 41)が、教皇庁の改暦審議会に召請
され改暦に関して意見を求められるが、返答を差し控える。その理由として、太陽年の 1
年の長さが未解決であることなどをあげる。その実は、地動説を確信しながらも、それ
がカトリックの教義に照らし異端であることをひそかに配慮したためである。これを著
述したり公刊することには大きな勇気が必要であると感じる。]
1514. ○【スペイン】枢機卿ヒメネスの『多国語対照聖書』の印行が、ユマニスト、アン
トニオ・デ・ネブリハの尽力により着手される 。
[1517 年、完成する。1520 年、発売され
る。
]
1515(永正12)
1515. ○【中国】無錫の華燧(かすい)の甥華堅が、「蘭雪堂」の名のもとに、唐代の類書
『芸文類聚』100 巻を銅活字印刷により刊行する。
[以後、1490 年から 1516 年にかけて、
華燧、華堅ら華家は、銅活字を用いて約 24 種、1500 巻余の書物を刊行する 。
]
1515.○【フランス】パリの J.バードが、G.ピュデ『古代貨幣考』を刊行する。
1515.○【ローマ】教王レオⅩ世 Leo Ⅹ(40 )が、印刷物の事前検閲令を出す。西ヨーロッ
パ全域に、高位聖職者による検閲を命じる。
1515.○【イギリス】ウルジー(ウルシー) Wolsey が大法官となり、印刷物の取締りを強
化する。
1515.○【イギリス】ロンドンの副司政長官モア Thomas More( 37)が、通商問題でオラン
ダに渡り、外交交渉に手腕を発揮する。この旅行中に、理想的国家像を描く『ユートピ
ア』を書き起こす。[ 1516 年、帰国後完成する。外交交渉の手腕と識見をヘンリーⅧ世
に認められ、請われて宮廷に出仕し重用される。1529 年大法官に任命される。王の離婚
問題に最後まで反対し、1532 年官を退く。1534 年反逆罪のかどでロンドン塔に幽閉され、
翌年断頭台の露と消える。モアは諧謔(かいぎやく)趣味の持ち主で、辛辣(しんらつ)な
毒舌家としても知られるが、同時に敬虔(けいけん)なクリスチャン、名文家、論争家で
もあり、市民の人気も絶大で、処刑にあたり王はその影響を苦慮したといわれる。没後 400
年の 1935 年、ローマ教皇から「聖徒」の称号を与えられる。]
1516(永正13)
1516.○【ギリシア】サロニカで印刷所が開設される。
(★ 1500 年とも)
1516. ○【スイス】バーゼルのヨハネス・フローベンのフローベン書店が、エラスムス『校
- 144 -
訂新約聖書』を刊行する。
1516.○【イギリス】トーマス・モア Thomas More(39)が、ラテン語で『ユートピア』を
完稿する。これをネーデルラント(のち、オランダ)のルーヴァン(ルーバン)のディルク・
マールテンスが印刷、刊行する。[ 1551 年、英訳される。]
1516. ○【イギリス】ヘンリーⅧ世が、王の急送公文書を配達するために、これまで行わ
れていた民間郵便を王室の専売特許とし、郵便網を整備する。国璽秘書官ブライアン・チ
ュークを初代郵政長官( Master of Posts)に任命する。これは王室の専用で、民衆は利用で
きない。この間、民営の試みがなされるが、政府の弾圧によって永続できない。1635 年
に、国営の郵便が一般国民に開放される。]
1517(永正14)
1517.10.31 【ドイツ】ヴィッテンベルク大学で聖書学を担当するルター Martin Luther( 34 )
が、ラテン語で書いた『九五カ条の論題』をヴィッテンベルク大学の掲示板でもあった
城教会の扉に掲示する。彼は聖書の講義を行い、罪の赦しのために制定された悔い改め
の礼典に疑問を抱き、ドイツのザクセン地方に販売され始めていた教皇の免罪証書(免罪
符)について学問上の討論を開く目的で「九十五か条」を提示する 。
[以後、この論題は
たちまちドイツ語に訳されて全ドイツに流布する 。同時に宗教改革の小冊子があふれる。
宗教改革運動の発端となる。
]
1517. ○【スペイン】枢機卿ヒメネスの『多国語対照聖書』の印行が、ユマニスト、アン
トニオ・デ・ネブリハの尽力により完成する 。
[ 1520 年、発売される 。
]
1519(永正16)
1519. ○【オランダ】エラスムス『対話集』が、ルーヴァン(ルーバン)のディルク・マー
ルテンスにより刊行される。
1520(永正17)
1520. 9.20【スペイン】ポルトガルの航海者マジェラン Ferdinand Magellan(ポルトガル名
マガリャンイス Fern □ o de Magalh □ es、スペイン名マガジャネス Fernando de
Magallanes(またはマゼラン)( 40 ?)が、スペイン南西部の港町サンルカル・デ・バラメダ
から世界周航に出発する。
1520.11.28 【南米】マゼラン(マジェラン)の船団が、南アメリカ大陸の東岸沿いに南下を
続けたのち、南端のティエラ・デル・フエゴ島との間の通路(のち、マゼラン海峡)を通過
して 、未知の大海原に出る。無風で平穏だということで、マゼランは「Oceano Pacifico (太
平洋)」と命名する。[のち、11 月 28 日は「太平洋記念日」とされる。]
1520. ○【ヨーロッパ】書物の末尾に印刷所あるいは出版所の意匠や標章などを印刷した
「コロフォン( colophon)」と呼ばれる一種の奥付が、この頃から、巻頭に移して記載す
るようになる。[以後、欧米書の慣例となる。巻末の奥付は日本のほか、中国・韓国の一
部のみに見られる。]
1520.○【ドイツ】画家・版画家デューラー Albrecht D ‰ rer(49 )が、皇帝カール 5 世の
戴冠式を機にネーデルラント(のち、オランダ)へ旅行してアントワープに滞在する。旅
- 145 -
行にはキャビン付きの船を利用する。
[∼ 1521 。約 1 年間に、数種の写生帳や旅日記を
残す。道中と宿泊の費用についても頻繁に記録し、バンベルクからフランクフルト・アム
・マインまでの直線距離で約 179km の間に、26 回も税関と国境を通過して、繰り返し金
を払わなければならなかったこを書く。]
1521(大永1)
1521.○【中国】無錫の大地主・大商人安国( 40 )が、銅活字を用いて印刷出版を始める。
まず『東光県志』を刊行する。中国で唯一銅活字印刷された地方志となる。
[以後、1534
年まで、地方志、水利通志、文集、類書など、少なくとも 10 種の書物を刊行する。これ
らは、いずれも精緻華麗な印刷で、厳密な校勘がほどこされており、「安国活字銅版」
と呼ばれる。1534 年、安国の死後、6 人の子に銅活字が分配相続され、それぞれが不完
全揃いのため無用の長物となる。
]
1521.○【ドイツ】ルター( 38 )が、教皇レオⅩ世により破門される。
1521. ○【ドイツ】ウィッテンベルク大学聖書学教授でルターの同僚であるメランヒトン
Philipp Melanchton( 24 )が、
『神学総論(Loci Communes)』(第 1 版)を出し、宗教改革の教
義を初めて明瞭に組織する。主題を項目別に、神、創造、信仰、希望、慈悲心、罪、恩
寵、聖礼典などの「場所(loci)」もしくは「頭( capita)」に分けて論じた。[以後、その教
育上の才能によりプロテスタント神学と哲学の教師となる。1530 年、プロテスタント最
初の信仰告白である『アウクスブルク信仰告白』を執筆する。]
1521.○【フランス】フランソア(フランソワ)Ⅰ世( 27)が、初の出版統制令を出す。パリ
大学の事前検閲を王の名により確認する。
1521. ○【フランス】パリの北東の町、モーの人々により福音主義運動が始まる。
1522(大永2)
1522.○【ドイツ】ルター(39 )が、ザクセン選帝候フリードリヒの保護のもと、チューリ
ンゲンの森を望む古城ヴァルトブルグの一室で、『新約聖書』のドイツ語訳を完成させ
る。ヴィッテンベルクのメルヒオール・ロターが出版する。[以後『ルター訳聖書』とよ
ばれる。その民衆の言葉に即したわかりやすさ,語彙選択の幅の広さなどの理由により,
印刷術を応用して、短期間のうちに前例のないほどに全ドイツに広まる。ルターは聖書
翻訳の際の語形など言語の外形を,当時ウィーンの皇帝庁と並んで有力であった,自己
の出身地に近いザクセン地方のマイセンの官庁語に従わせるが,マイセンの官庁が存在
するドイツ東中部地方の東中部ドイツ語の特徴をもったルターのドイツ語は,ドイツ西
部,北ドイツの低地ドイツ語地域にも広まり,のちの統一されたドイツ文語の基礎とな
る。バイエルンを中心とするカトリック地域のドイツ東南部の通用語とルターのドイツ
語との言語的競合はしばらく続く。1522 年以降もルターは数回にわたって新・旧約聖書
の改訂版を出すが,ルターのドイツ語は、とくに語の形態と正書法においてはいまだ規
範をもたず,確固としたものではない。]
1523(大永3)
1523.○【フランス】ルフェーブル・デタープル Jacques Lef ≡ vre d ’⊇ taples(ラテン名フ
- 146 -
ァベル・スタプレンシス Faber Stapulensis)(73 ?)が、新約聖書の初のフランス語訳を完
成する。パリのシモン・ド・コリーヌにより出版される 。[以後、間もなくパリ大学神学
部により異端の嫌疑をかけられて逃亡、沈黙を続ける。
]
1523.○【 】ヘブライ語聖書の最初のコンコーダンスが刊行される。[ 1755 年、ジョン
ソンの英語辞書が初めて「コンコーダンス(The concordance)」を〈聖書の各単語が何箇
所に出てくるかを示す本〉と定義する。]
1524(大永4)
1524. ○【ドイツ】ニュルンベルク帝国議会が、検閲に関する最初の規定を作る。神聖ロ
ーマ帝国一円に検閲制度が始まる。[1548 年、カールⅤ世が勅令「警察法規」により明
白な検閲の命令を発する。]
1524. ○【イギリス】ロンドン司教による検閲が始まる。
1525(大永5)
1525. ○【中国】江蘇の王延哲が、宗朝の黄善夫の刊行したものに基づき『史記』を刊行
する。精緻な彫刻で美しく仕上がり 、
『史記』覆宗本の中で最も優れたものとされる。
1525. ○【オランダ】この頃、ネーデルランドで銅版(エッチング)が起こる。
1525. ○【フランス】パリ大学神学部が、エラスムス『結婚礼賛』などルイ・ド・ベルカン
の手になるフランス訳書を禁書とする。また、仏訳聖書の出版・販売を禁止する。
1527(大永7)
1527. ○【ドイツ】マールブルク大学が、ドイツ初のプロテスタント系大学として設立さ
れる。
1528(享禄1)
1528. ○【日本】阿佐井野宗瑞が、
『医書大全』を開版する。
1528.○【イタリア】文学者・外交官カスティリオーネ(カスティリョーネ) Baldassare
Castiglione( 50 )が、対話篇『宮廷人の書』4 巻を著す。ウルビーノの宮廷で行われた(と
想定される)教育と生活に関する対話に基づき、宮廷人の理想を論じる。ベストセラーと
なる 。[ 1529 年、カスティリオーネがトレドで死去。以後、さまざまな言語に翻訳され 、16
世紀を通じて 125 回も版を重ねる。原書は対話を羅列するだけで、章分けすらなされず、
内容を探すことが困難な構成になっているのを、一部の出版社が、章分けを施し、傍注
を充実させて、情報検索を容易にできるようにすることで、立派な参考書に仕立て上げ
る。]
1529(享禄2)
1529. ○【フランス】ガリオ・デュプレが、以前なら折衷ゴチック体で印刷するのがあた
りまえになっているフランスの文書をローマン体を使用して、
『薔薇物語』やアラン・シ
ャルチエの作品集を印刷して外見を刷新する。(『書物の出現』)[1532 年、同じくロー
マン体で『ヴィヨン全集』を刊行する。以後、ローマン体による刊本が年々増加し、ヨ
- 147 -
ーロッパのほぼ全域に普及する。
]
1529.○【フランス】印刷出版者で王室御用印刷者のトリー Geoffroy Tory ( 49 ?)が、『万
華園』を、パリのジル・ド・グールモンと共同で出版する。豊富な図版入りでアルファベ
ット大文字の美的調和的な字体デザインを論じ,ラテン語至上・国語蔑視の風潮に抗して
母なるフランス語の尊重を力説し、フランス語の純化や綴字記号などについて意見を述
べる 。
[1530 年、優れた版画・装丁の技術を認められて王室御用印刷者を拝命する。
]
1529. ○【フランス】ルイ・ド・ベルカンが、エラスムス『結婚礼賛』などの禁書を刊行し
たかどで、火刑に処せられる。
1529. ○【イギリス】ヘンリーⅧ世が、特定の書物の読書を禁止する。
1529. ○【イギリス】政府が、外国人の新規印刷出版業の開業を禁止する。
1529. ○【イギリス】イングランドの枢機卿ウォルゼイが、いつもヘンリーⅧ世に耳打ち
していたために梅毒を移したという罪を科せられる。
1530(享禄3)
1530. 3 . −【フランス】フランソアⅠ世が、人文主義者ギヨーム・ビュデの進言を入れて、
王立教授団を創設する。当初は 5 人の講師で、2 人がヘブライ、2 人がギリシア語、1 人
が数学を教える 。
[以後、大革命期に国民学院、ナポレオン時代に帝国学院と名称を変
え、第三共和政以後コレージュ・ド・フランス(Coll ≡ gedeFrance )となる。
]
1530.○【ポーランド】聖職者コペルニクス Nicolaus Copernicus( 58 )(ポーランド名 Mik □
aj Kopernik )が、20 ∼ 30 年前から地動説を執筆し、この頃『概要』をまとめる。理論的
に書かれた太陽中心説の初めての概説書となる。小部数だけ自費出版し、活動的な天文
学者・数学者・聖職者らに配布する。その一部は教皇クレメンスⅦ世およびシェーンベ
ルク僧正にも贈られ、僧正からは主著公刊の激励を受ける。
1530.○【オランダ】アムステルダムに最初の証券取引所(bourse)が開設される。ヨーロ
ッパ通商の金融的中心に位置し、通貨・為替の売買市場であるとともに各国政府が財政資
金を調達する公債発行市場としても機能する。
[1608 年、新しい取引所が設立される。
]
1530. ○【ベルギー】ルフェーブル訳『旧約および新約聖書』が、アントウェルペン(ア
ントワープ)の M.ファン=カイセレンにより出版される。
1530. ○【フランス】パリで、ジョス・バードと初代アンリ・エチエンヌが、ローマン体活
字の普及を始める。この頃、パリの G.デュ=プレが『薔薇物語』
、ヴィヨン『遺言詩集』
などをローマン体で印刷、刊行する。[以後、1540 年にかけて、一連のローマン体活字
が出現し、印刷業者に使用される 。
]
1530.○【フランス】ストラスブールのヨハン・ショットが、1527 年にニコデミズモを最
初に理論化した O.ブルンフェルスの『自然の姿の植物図鑑』を出版する。
[以後、16 世
紀絵入り本の一大傑作と称される 。
]
1531(享禄4)
1531.○【イギリス】ヘンリーⅧ世が 、聖職者を許可人として最初の出版許可制度を敷く。
[1644 年,詩人ミルトンが『アレオパジティカ』を出版して,検閲制度を激しく攻撃す
る。1695 年、議会が、出版許可制度が有効に機能していないという理由で、出版許可法
- 148 -
を廃止する。]
1532(天文1)
1532.○【フランス】ラブレー Fran □ ois Rabelais( 38 ?)が、やがて大きな連作となるべ
き物語の最初の 1 巻『第二之書 パンタグリュエル』を変名で出版する。ラテン語こそが
文化と教養の言語であり、フランス語は低次元の俗語にすぎないとする通念がようやく
揺らごうとしているこの時期に、フランス語で発表する。ラブレーは『第二之書』にお
いて民衆的な笑いと人文主義およびスコラ哲学・神学の学殖とを巧みに織り交ぜ、あら
ゆるレベルのフランス語散文を駆使している。[本書は一般には好評を得る。人文主義者
のなかにラブレーが軽率にも学者の正道を逸脱したとして厳しく批判する者があり、さ
らにパリ大学神学部の一教授は、本書を〈ふとどきな(または猥褻(わいせつ)な )
〉書
物と弾劾する。以後ラブレーが新作を世に問うたびに、神学部は発禁処分に付す。ラブ
レーは逐電・亡命を余儀なくされる。1534 年『第一之書ガルガンチュワ』、 1546 年『第
三之書パンタグリュエル 』
、1552 年『第四之書パンタグリュエル』を発表する。これら
は豊かな語彙(ごい)と多彩な技法を駆使し、あらゆるレベルの言語表現の可能性に挑戦
している。1552 年秋ラブレー投獄の噂(うわさ)がリヨンに広まり、1553 年 1 月 2 つの司
祭食禄を辞退する。その後の消息は知られていない。死後 1564 年に出された『第五之書
パンタグリュエル』を含めて全 5 巻の『ガルガンチュワ-パンタグリュエル物語(Gargantua
et Pantagruel)』と総称され、ルネサンスを代表する空前絶後の作品と評価されるが、死
後出版の最終巻には偽作の疑いがもたれる。]
1532.○【イタリア】マキアベリ(マキャベリ)が 1513 年から翌年にかけて執筆した『君
主論 Ilprincipe』が、ローマの A.ブラードにより刊行される。
1532.○【イタリア】アリオスト『狂気のオルランド』決定版が、フェラーラの F. ロッシ
によって刊行される。
1533(天文2)
1533. ○【フランス】メディチ家のウルビノ公ロレンツォの娘、カトリーヌ・ド・メディシ
ス Catherine de M ロ dicis( 14)が、フランス王フランソアⅠ世の第 2 子アンリ(のち、アン
リⅡ世)と結婚する。[以後、3 人の国王(フランソアⅡ世、シャルルⅨ世、アンリⅢ世)
と 2 人の王妃(フェリペⅡ世の王妃エリザベト、アンリⅣ世の王妃マルグリット)の母と
して、ユグノー戦争の混乱時代を、寛容を信条に、国王の尊厳の確立とバロア王家の存
続のために生き抜く。カトリーヌ・ド・メディシス非常な香料愛好家で、このためにフラ
ンスで 16 世紀の中ごろから香料植物の栽培と香料の製造が盛んになる。フランスの宮廷
をはじめ貴族や富豪が争って香料や化粧品を使うようになるが、これは彼女が政治的支
配を確実にするために、宮廷に軟弱な佞臣(ねいしん)をつくるという目的があったから
だともいわれる。]
1534(天文3)
1534.10.17 【フランス】リヨンからヌーシャーテルに亡命した印刷業者ピエール・ド・ヴァ
ングルが、ミサ聖祭を否定する張り紙を印刷する 。
[∼ 10.18。
「檄文事件」と呼ばれる。
- 149 -
フランソアⅠ世は、この事件に厳しく対処する。10.22 ∼ 25 贖罪の行列が町を練り歩く。
高等法院は裁判所の構内で〈くだんの檄文を確かにそれと示され、それを貼りつけた者
が誰かを告げることができる者に対しては、宮廷より 100 エキュを賜う。反対にその者
をかくまう所を見つけられた者は、火刑に処す〉という布告を掲示する。以後、パリの
町に密告が続けられる。]
1534.11.10 【フランス】モーベール広場で 、
「ルターの悪書」を印刷して販売した出版業
者が焼き殺される。
1534.12.24 【フランス】アントワーヌ・オジュロが、マルグリット・ド・ナヴァールの『罪
深き魂の鑑』の出版者の一人で、先に王立教授団事件の際にも牢につながれたことで、
火刑に処される。
1534. ○【イギリス】ヘンリーⅧ世法により、国内の出版業・書籍業育成のため、外国系
同業者の営業を卸売りに限定する。
1535(天文4)
1535. 1.13【フランス】フランソワⅠ世が、国内の一切の書物の発行を禁止し、違反者は
絞首刑に処すことを命じる。[以後、ビュデやデュ=ベレーが反対を唱え、結局禁令は撤
回される。
]
1535. 1.21【フランス】パリで贖罪の行列がフランソワⅠ世の臨御のもとに市中を練り歩
く。この夜、6 人の異端者が火刑に処せられ、彼らの家から発見された大袋 3 個分の書
物も火中の投げ込まれる。書物こそが、被疑者の罪状を物語る唯一の形ある証拠品とさ
れる。
1535.○【イタリア】この頃、ヴェネチアで『売春婦の価格表(Tariffadelle puttane )』が刊
行される。対話体で書かれ、 110 人の高級娼婦の名前、住所、魅力点、問題点、価格を
掲載する。[1570 年、掲載人数が 210 人に増える。]
1535. ○【スペイン】トレド宗教裁判所が、カトリック教司祭バルデラマーに、強姦、神
への冒涜、売春婦との交わりの罪、および罪障消滅と称して若い女に愛情を強要したこ
とで、10 日の謹慎とダカット金貨2枚の罰金を科す。
1535. ○【メキシコ】米州大陸で、印刷業務が開始される。
1535.○【
】英訳の新約聖書のコンコーダンスが刊行される。[ 1550 年、旧約新約両
方のコンコーダンスが刊行される。]
1536(天文5)
1536. ○【フランス】王室の活字鋳造者でパリに世界最初の活字鋳造専門の工場を開いた
ガラモン Claude Garamond(?∼ 1561 )が、従来のゴシック活字の代わりにローマン・タイ
プの活字をつくる。[ 1545 年、ガラモンはエティエンヌと協力してギリシア字母の活字
体を創出する。1615 年、ジャノン J. Jannon がこれをコピーしてデザインする 。以後、100
種以上の「ガラモン」型活字がつくられる。]
1536.○【スイス】カルヴァン『キリスト教綱要』ラテン語版が、バーゼルの T.プラッタ
ー、B.ラシウムにより出版される。
1536.○【イタリア】ヴェネチアで、ニュースを手書き複製して「ガゼット Gazette」と称
- 150 -
して売り出される。
[のちに、ローマ、ドイツのニュールンベルクでも流行する。
]
1536. ○【イタリア】ジョヴァンニ・ジョリートが、ベネツィアでジョリート書店を設立
する。[ 1541 年、息子のガブリエーレが出版を開始する。1599 年までに 1050 点の本を出
版する。]
1536. ○【イギリス】最初の修道院解散法(小修道院解散法)が議会を通過する 。
[以後、
全修道院財産の没収が行われ、修道院付設の図書館もその存在を否定される。まもなく,
北部諸州で「恩寵の巡礼」と呼ばれる農民反乱がおこり,宗教改革,修道院解散の反対
を唱えつつ,囲込み反対,農民保有地の保全を要求するが,鎮圧される。1539 年、再び
修道院解散法が成立する。
]
1537(天文6)
1537.○【ベルギー】フランドルの数学者メルカトル
Gerardus Mercator( 25 )が、はじめ
ての地図、パレスチナの地図を作成する。[1538 年、心臓形図法をつかって世界地図を
作成する。
]
1537.○【フランス】フランソアⅠ世 Fran ぅ ois I(43)が、その王室図書館の蔵書を増や
すために、法定納本制度(legal deposit)を設け、フランスで印刷されたすべての書籍を 1
部ずつ必ず王室図書館に収められるようにする。世界で初めて納本制度が始まる 。
[以
後、大革命のあともこの規則は守られる。
]
1538(天文7)
1538.○【フランス】フランソアⅠ世 Fran ぅ ois I (44)が、コンラッド・ネオパール Neopal
を王室印刷師に任じ、ガラモン Claude Garamond (?∼ 1561 )に、王室用のギリシア語活
字、ラテン語活字をつくらせる。
1538. ○【フランス】リヨンのトレクセル兄弟が 、
『絵入り聖書』を印刷し、フレロン兄
弟が出版する。リューツェルビュルガーが、ドイツの画家ホルバインの下絵を小カット
に彫った挿絵「死の舞踏 Danse macable 」が人気を呼ぶ。
1538. ○【イギリス】国王による書物の検閲が始まる。
1538. ○【イギリス】政府が、外国で印刷された英語本の輸入を禁止する。
1538.○【イタリア】ベルギー生まれのパドバ大学解剖学・外科教授ベサリウス Andreas
Vesalius( 24)が、伝統的な理髪医師任せの解剖を改め、教授自らが執刀する画期的な解剖
示説を行い、
『解剖学六図』を出版する。
[1543 年 、
『人体の構造に関する七つの本』(『フ
ァブリカ』)を出版する。
1539(天文8)
1539. 9. 3【ローマ】イグナティウス・デ・ロヨラ Ignatius de Loyola(48)とその同志が、修
道会創立の計画について「会掟草案」を教皇パウルスⅢ世に提出し,口頭で創立の承認
を受ける。イエズス会が正式発足する。
[1540.9.27 教皇パウルスⅢ世が「イエズス会創
立勅書」にてこれを正式に認可する。1541 年 4 月 8 日、イグナティウスが初代総長に選
ばれる。]
1539.○【ポーランド】コペルニクス Nicolaus Copernicus( 66 )のもとに、地動説に関心を
- 151 -
抱くドイツの若い数学者でウィッテンベルク大学の初等数学講師レティクス George
Joachim Rheticus( 25 )が訪れる。[以後、2 年間をコペルニクスの下で過ごし、自らが『地
動説序説』を著し、1540 年にコペルニクス学説の概要『ナラティオ・プリマ』
(??前者
と同じ本か???)を出版する。コペルニクスに対しては 1530 年ごろから本格的に書い
てきた『天球の回転について』の公刊を懇願し、執筆を激励する。コペルニクスは異端
のとがめをおもんぱかって、その公刊をためらうが、最後にギーゼ司教の推賞とレティ
クスの懇請を受け入れて、出版を決心する。レティクスは原稿の校正や、ニュルンベル
クのグーテンベルク印刷所への印刷の斡旋を引き受ける。1543 年、ニュルンベルクで刊
行される。]
1539.○【フランス】フランソアⅠ世 Fran ぅ ois I (45 )が、ビレル・コトレ(ヴィレール =コ
トレ)の王令で、裁判記録等公文書におけるラテン語の使用を禁じ、フランス語への統一
を規定するなど、全国統一的な行政の条件を固める。強権をもって、まだ威信の低い俗
語に絶対的優位を与えることで、特定の選良の知的支配を打破し、ラテン語の知識のな
い階層にも、国家的規模における活動への道を開く。[以後、このモデルは、大多数の近
代国家に踏襲される。]
1539. ○【フランス】 リヨンとパリで、印刷職工たちが過重労働に反対して同盟罷業を
起こす。この頃、リヨンでは印刷産業が絹織物業とともに基幹産業となっており、印刷
工は、1 日 14 時間就業、印刷の仕上げは 1 日 300 ∼ 500 紙を標準とするが、作業量はこ
れをはるかに超過する。[以後、
罷業は 4 ヵ月続くが解決せず 。
以後も罷業を繰り返す 。
1542
年、ようやくひとまずの妥協が成立する。]
1539.○【メキシコ】印刷工 J.パブロが、メキシコシティーに入り、印刷工房を開く。
1540(天文9)
1540. 3.14【フランス】ミュウ村のギョウム・ガルニエが、黒い牝犬と獣姦した容疑で逮
捕される。11 ヵ月後罪を認め、町の広場の仮設刑場で火あぶりの刑を受ける。黒犬も殺
され、町の外れの空き地に埋められる。『
( 不思議図書館』
)
1540. ○【ドイツ】ベルリンで最初の印刷工房が開設される。
1540. ○【ベルギー】アントワープで絵画取扱所が開設される。世界最初の美術展覧会と
される。[1640 ∼ 64 年、ユトレヒトのギルド主催の展覧会が開催される。1656 年、ハー
グのギルド主催の展覧会が開催される。]
1540.○【イタリア】ヴァノッチオ・ビリングッチオ Biringuccio が、活字鋳造を含む金属
工学書『De la Pirotechnia 』をヴェニスで出版する。
1541(天文10)
1541. ○【日本】鶴子銀山が開発される。佐渡銀山の始まり。[以後、各所に金山が発展
する。]
1541.○【ベルギー】フランドルの地図学者メルカトル Gerardus Mercator (29)(本名ゲル
ハルト・クレメル)が、地球儀を製作する。
[1544 年、新教徒であったため迫害を受け、
投獄される。以後、政治活動から遠ざかり、地図製作に専念する。1552 年、家族ととも
にドイツのデュースブルクに転居する。]
- 152 -
1541.○【スイス】カルヴァン『キリスト教綱要』フランス語版が、ジュネーブの J.ジェ
ラールにより刊行される。
1541.○【イタリア】ガブリエーレ・ジョリート Giolito が、ジョリート書店で出版を開
始する。[以後、1560 年まで、対話集、戯曲、書簡集、ノヴェッラ、歴史、詩、祈祷書
など、文藝のあらゆるジャンルのイタリア語著作品を上梓する。明解なイタリック体活
字を使用し、巧みな挿絵、魅力的な装幀、炎から羽ばたく不死鳥を商標として、俗語の
みによる著作品を出版する。1599 年までに計 1050 点の本を刊行する。]
1542(天文11)
1542.○【フランス】1539 年以来のパリとリヨンでの印刷工争議に王権が介入し、徒弟数
制限撤廃、労働者の団結禁止などを条件として、ひとまず終息する。[ 1572 年、余燼が
ようやく収まる。]
1542. ○【ローマ】教皇パウロⅢ世が、カトリックに反対する出版物に対して、異端審問
所の許可を取っていないものについては発行・流布を禁止する。
1542. ○【 】アンドリュー・バードが健康法の本を著し、レタスを食べると性欲が抑制
されると警告する。逆にイチジクは男を性的行為にかりたて、精子の数を増すとしてい
る。
1543(天文12)
1543. 3.−(5.23 ?)【ドイツ】ポーランドの天文学者コペルニクス(70)の著書『天球の回
転について De revolutionibus orbium coelestium』 6 巻が、神学者オシアンダーにより、ニ
ュルンベルクのグーテンベルク印刷所から出版される。近代地動説の原典となる。
[ 5 月 24
日、フロムボルクで死去する。](『記念日の本』は 、死の前日 5 月 23 日に出版とある。)
1543. 8.25 【日本】台風一過、種子島の南端の門倉崎に突然 3 本帆柱の異様な巨船が漂着
する。小舟に乗って上陸した数人の乗員が浜辺に一かたまりになっている。駆けつけた
地頭の西村織部丞(おりべのじょう)が近寄って見ると、男たちの中の 3 人は衣服も髪毛
も異様で、言葉も通じない。思案にあまった織部丞は、そのなかの明国人らしい男をま
ねいて、手にした馬の鞭の先で砂上に〈船中之客不知何国人也何某形之異哉〉(この船
に乗っているのは、いずれの国の人か。なにゆえその形が異様なのか)と書く。この字
を目で追っていた相手はにわかに明るい表情になり、鞭を借りて砂上に〈此是西南蛮種
之賈也非可怪矣 〉
(この男たちは南蛮の商人で、あやしむほどのことはない)と書き、
微笑する。この筆談によって、男は明の儒者で汪五峰と名乗る者で(実は船主の海賊商
人、王直)その船がポルトガル商人のものであることがわかる 。
(ヨーロッパ側史料で
は 1542 年のことという。
)[以後、五峰はじめ 120 人の船員、船客、ポルトガル商人の一
行を、寺の宿坊に分宿させる。領主種子島時尭(ときたか)( 16)が、宿泊中のポルトガル
商人ムラシュクシャ(牟良叔舎)(フランシスコ・ゼイモト?)とキリシタ・ダ・モッタ(喜利
志多他孟太)(アントニオ・モタ?)らを引見する。彼らは鉄砲を持参して実弾を込めて発
射して見せて、2 梃を献上する(一説に 2000 金を投じて譲り受けるとある。この頃の世
界の相場の 12 倍に当たる 。
)時尭は鉄砲の威力に驚き、
〈この物一たび発せば銀山をも砕
くべし、鉄壁をも貫くべし……これ稀世の珍宝なり〉と狂喜し、みずから日夜射撃の練
- 153 -
習に励み,百発百中の腕前になる。こうして日本に鉄砲が初めて伝えられる。のちにこ
れを「鉄砲伝来(てっぽうでんらい)」と呼ぶ。この最初に伝えられた鉄砲は、ヨーロッ
パ式の銃ではなく、東南アジアに普及した急速点火機構のマラッカ型火縄銃で、日本の
火縄銃は幕末までこの形式が踏襲される。時尭は、家臣らに命じて火薬の製法を学ばせ,
鉄砲製作を研究させ ,ついに鉄砲の国産化に成功する。その情報を知った紀州(和歌山県 )
根来杉坊(ねごろすぎのぼう)の院主津田監物(けんもつ)は部下を種子島に遣わして、2
本のうちの 1 挺を譲り受け、根来寺門前町西坂本(にしさかもと)に居住する鍛冶(かじ)
芝辻清右衛門(せいえもん)に製銃を行わせる。さらに種子島家より島津氏や室町幕府に
倣製銃が献上されるなど、比較的早く中央へ伝播(でんぱ)する。1575 年、長篠の戦いで、
多量の火縄銃を装備した織田信長の鉄砲隊が、天下無敵といわれた甲州武田氏の騎馬隊
を、密集弾幕の中に捕捉殲滅し、兵器としての効果が認められるようになる。以後、鉄
砲の登場は強者と弱者の力量差をなくし、鉄砲を多量に保有することが覇者への道とさ
れ、戦場から英雄豪傑のロマンが失われるていく。鉄砲伝来とそれを介したヨーロッパ
人との接触は、それまでの日本人がまったく知ることのなかった異質の文明との遭遇で
あり、ヨーロッパの科学技術に対する驚嘆は、日本近代化のインパクトとなる。](『鉄
炮記(てつぽうき) 』
、神坂次郎『海の稲妻』4 、
『日本経済新聞』1996.10.13)
1543.○【ポーランド】天文学者・フロムボルクに大管区長コペルニクス Nicolaus
Copernicus(ポーランド名 Mik □ aj Kopernik)(70) が死去する。その臨終の枕辺に終生の
主著『天球の回転について De revolutionibus orbium coelestium』の第 1 冊が届けられる。
コペルニクスは 1530 年ごろから本格的な執筆に入り、本書をまとめたが、異端のとがめ
をおもんぱかって、その公刊をためらった。ところがギーゼ司教の推賞とレティクスの
懇請を受け入れて、出版を決心し、レティクスの斡旋によりニュルンベルクのグーテン
ベルク印刷所で印刷製本された 。
[以後、近代地動説の原典とされる。教皇庁は、この
書を単なる天体位置の計算書とみなす。1632 年、ガリレイ裁判の際、改めて禁書目録に
登録される。
]
1543. ○【スイス】ヴェサリウス『人体の組成について』が、バーゼルのヨハネス・オポ
リンによって刊行される。
1543.○【イタリア】ベルギー生まれのパドバ大学解剖学・外科教授ベサリウス Andreas
Vesalius( 29)が、
『人体の構造に関する七つの本』(『ファブリカ』)とその要約本『梗概(こ
うがい)』(『エピトーメ』)を出版する 。[以後 、
『ファブリカ』は画期的な解剖学書と
して医学界に衝撃を与える。コペルニクスの著作『天球の回転について』と並んで、科
学革命の火付け役としての役割も果たすことになる。]
1544(天文13)
1544. ○【ロシア】プロイセン(のち、ドイツ)のケーニヒスベルク(のち、ロシアのカリ
ーニングラード)に、ケーニヒスベルク大学が設立される。
1544. ○【スイス】ドイツのヘブライ語学者、バーゼル大学ヘブライ語学教授ミュンスタ
ー Sebastian M ‰ nster ( 56 ?)の『宇宙誌(コスモグラフィア』初版が、バーゼルの H.ピ
エールによって刊行される 。
[以後、6 カ国語に翻訳され、1 世紀以上にもわたって便利
な世界地理歴史百科として利用される。]
- 154 -
1545(天文14)
1545. ○【フランス】教会が、初めて禁書目録を出す。
1545.○【フランス 】王室の活字鋳造者ガラモン(?∼ 1561)が 、出版業者エティエンヌ R.
Estienne( 42)と協力してギリシア字母の活字体「Grecs du roi」を創出する。これを最初に
カエサレアのエウセビオスの版に使用する。[ 1551 年、エティエンヌは、ギリシア語新
約聖書で、のちに広く行われる区分を初めて行う。]
1545.○【スイス】医師・博物学者・言語学者ゲスナー Konrad( Conrad) von Gesner( 29 )
が、最初の世界書誌『図書総覧( Bibliotheca universalis)』(『世界文献目録』
、『書斎』)の
編纂を行い、第 1 巻を出版する。アルファベット順に本を紹介する。[1455 年、全 4 巻
まで刊行する。3000 人の著者によるラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の文献数万冊に
言及し、書誌学の基礎を築く。1551 ∼ 71 年、
『植物大鑑( Opera botanica)』2 巻を刊行。
自ら 1500 ほどの図を描く。1551 ∼ 87 年 、
『動物誌( Historiaanimalium) 』5 巻を刊行 。4500
ページにわたり動物名を、アルファベット順を原則に配列する。]
1545.○【イタリア】教皇パウルス 3 世が、宗教改革運動に対処するため、トレント( Trento )
(ドイツ名トリエント(Trient))第 19 回公会議を開く。トレント公会議(トリエント公会議)
と呼ばれる。会議の目的は、宗教改革によって生じた信仰分裂の解消と、カトリック教
会内部の改革とにあった。[∼ 1947 年。1551 年∼ 52 年、第 2 会期。1562 年∼ 63 年、ピ
ウス 4 世より第 3 会期が行われる。]
1545.○【スペイン】摂政の王子フェリペ Felipe が、シマンカスの城に政府関係文書の保
管を命じる。[1556 年、王位に就き、フェリペⅡ世となり、歴史家ヘロニモ・スリタ Jer
(o) nimo Zurita( 1512 ∼ 80 )に公文書の収集と監督をさせ、王自身も分類と保管のため文
書を選り分ける。]
1546(天文15)
1546. 8. 3 【フランス】ユマニストの出版業者エチエンヌ・ドレ⊇ tienne Dolet(37)が、マ
ロやラブレーの出版を手がけ,異端のかどをもって、絞首された後焼かれる焚刑に処さ
れる。ドレは、執行人に強要され,おのが罪業を認め〈……わが書物はくれぐれも注意
して読まれよ〉と大声で叫ぶ。[以後、活版印刷術の普及に伴い、火焙にされる人間の
「告白」をパンフレットにつくり上げ,群衆に売りつける商売も現れる。
]
1546. ○【ギリシア】ギリシャ語聖書の最初のコンコーダンスが刊行される。
1546.○【フランス】F.コロンナ『ポリフィルス狂恋夢』フランス語訳が、パリの J.ケル
ヴェールによって刊行される。
1547(天文16)
1547.12.−【マラッカ】イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル Francisco de Xavier( 41)
が、マラッカで日本人アンジローと出会い、日本行きを決意する。[1549 年 8 月、訪日
し、1551 年 11 月まで 2 年 3 ヵ月滞在する。]
1548(天文17)
- 155 -
1548.○【スイス】書誌学者ゲスナー Conrad Gesner( 32 )が、「本の秩序(ordo librorum )」
という言い方を生み出し、総合的な文献目録を作成する。経済哲学、地理学、魔術、機
械技芸、政治学などの分類を想定する。[以後、ゲスナーの想像上の図書館が、人文学者
フーゴ・ブロティウス Hugo Blotius(1533 ∼ 1608)が司書を務めていた頃のウィーンの帝
国図書館のような、現実の図書館の蔵書カタログの基礎となる。]
1548. ○【イタリア】書籍商と印刷業者の組合が、ヴェネツィアで結成される。
1548.○【スペイン】神聖ローマ皇帝カールⅤ世(カルロス 1 世)Karl V(48 )が、神聖ロー
マ帝国警察法規に署名する。この中に事前検閲・出版地明記などを命じた出版関係法規
が含まれる。
1549(天文18)
1549. 8.−[ 7. 3]【日本】鹿児島に南蛮船が着く。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザ
ビエル Francisco de Xavier( 43 )が、マラッカで出会った日本人アンジローと、トレス、フ
ェルナンデスらと共に鹿児島に上陸する。他の船員たちも上陸し、タバコを吸いながら
町を歩く。日本人が初めてタバコを見て 、
〈腹の中で火を燃やしている〉と大騒ぎをす
る。[ 1551 年 11 月まで 2 年 3 ヵ月滞在する。この間鹿児島、平戸、山口、京都、豊後を
訪問して日本開教の目的を果たし、1000 名内外を改宗させるた。]
1549.○【ベルギー】フランス出身のプランタン( 29 ?)(オランダ名プランテイン
Christoffel Plantijn)が、パリとカンで書物の製作と販売を学んだ後,アントワープに居を
定める。[以後、出版活動を開始する。彼の経営する印刷・出版所は、最盛期に 20 台近く
のプレス式印刷機を備えて,ヨーロッパ最大の規模を誇り,出版点数も 1500 点余に及ぶ 。
活版と装丁の技能にすぐれ,経営の才に長けているだけでなく、広い学識と宗教的関心
をもち,学者や要人との交友関係も広める。1583 年、ライデン大学の印刷師となる。の
ち、この印刷・出版所はそのまま残されて,プランタンと,その女婿で後を継いだモレト
ゥス J. Moretus の名を冠した,アントワープ市立の博物館となる。
]
1549.○【フランス】J.デュ =ベレー『フランス語の擁護と顕揚』が、パリの A.ランジュ
リエによって刊行される。
1549. ○【イギリス】エドワードⅥ世が、印刷許可制を布き、ウォチェスターのジョン・
オスウェン Oswen ら各印刷師に期限付きの印刷権を与える。また、レイナー・ウォルフ
を、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の印刷物の王室印刷師に任命し、他の印刷師が
ウォルフの印刷物の複製・販売を禁じる。
1550(天文19)
1550. ○【トルコ】この頃、初のコーヒー店がオスマン朝の首都イスタンブールに登場す
る。シリアのアレッポ生まれのハケムとダマスクス生まれのシェムスの 2 人が、コーヒ
ーの飲用の習慣が広まっているのに目をつけ、開店する。市民がこぞって店につめかけ、
市民の社交場、情報の交換の場となる。
1550. ○【ヨーロッパ】価格騰貴がヨーロッパ経済を襲う。
1550. ○【ヨーロッパ】この頃、トマトが原産地の中南米からヨーロッパに入る。媚薬と
されて、禁欲を信条とするピューリタンに嫌われる。特にイギリスでは「愛のリンゴ」
- 156 -
と呼ばれて嫌われる。
1550. ○【フランス】この頃、青年貴族たちの間で「股袋」をタイツに付け股間を飾るこ
とが大流行する。男の大切なものを誇示するためで、中身は空洞であった。
1550.○【フランス】この頃、絶世の美女の条件は、白いもの 3 つ(肌、歯、手)、バラ
色のもの 3 つ(唇、頬、爪)
、しなやかなもの 3 つ(胴体、髪、手)とされる。
1550.○【スイス】フランスの印刷出版者ロベール・エチエンヌⅠ世 Robert I Estienne(47 )
が、宗教改革弾圧の激化によって、カルバン指導下のジュネーブへ亡命する。[以後、
ジュネーブで印刷出版をおこなう 。1551 年、長子,大アンリ 2 世 HenriII Estienne(120 ?)
が、イタリアその他に遊学の後,父の跡を追いジュネーブに定住して家業を継ぐ。1552
年、エチエンヌⅠ世は風刺文『パリ大学神学者の図書検閲を笑う』
、 1557 年『フランス
文法』)を著す。]
1550.○【イタリア 】ミラノの医学者ジロラモ・カルダーノ Girolamo(Geronimo )Cardano(49 )
が、
『根本的なこと De subtilitate』を著し、カメラ・オブスキュラの穴に両凸面レンズを
めると、より鮮明な明るい像が得られると解説する。これまでのカメラ・オブスキュラは
レンズなしの、いわゆる「ピンホールカメラ」であったが、ここにレンズの役割が明示
される。
[以後、ピンホールの代わりに凸レンズが用いられたカメラ・オブスキュラが、17
世紀から 19 世紀にかけての写真術発明時まで、画家のスケッチ用具として使用される。]
1550. ○【イギリス】清教徒革命により成立した議会が、迷信深い図書の破壊を命じる立
法措置をとる。不穏文書についての情報を届け出た者に賞金を出す。
1550. ○【アイルランド】ダブリンで印刷が初めて行われる。
1550. ○【
】英訳の旧約新約両方のコンコーダンスが刊行される。
1551(天文20)
1551.○【日本】スペインの宣教師ザビエル Francisco de Xavier(45)が、山口の領主大内
義隆(よしたか)に布教の許可を願い出る。このとき土産に持ち込んだいくつかの機械時
計を献上する。[以後、これが日本に渡来した最初の機械時計とされるが、この時計は焼
失して現存しない。またこれらの時計は「定時法」のものであるが、日本は日の出・日
の入を基準とする「不定時法」の時代で、この頃の日本では実用にならない。1873 年に
時刻法の改正で、日本も定時法になり、西洋式の機械時計が実用になる。]
1551.○【フランス】アンリ 2 世が、
「シャトーブリアン勅令」によって,プロテスタン
トに対する弾圧を指示する 。[以後、思想弾圧が強化され、書籍商・印刷業者などが次
々にジュネーブに亡命する。
]
1551.○【スイス】博物学者ゲスナー Konrad ( Conrad) von Gesner(35)が、アドリア海沿
岸、アルプスなどを探検、標本収集につとめ、
『植物学大全(植物大鑑)( Operabotanica) 』
第 1 巻を刊行する。みずから描いた多数の図を載せて、花と果実の精確な描写をもとに
植物の類縁関係が探られている。また、大著『動物誌(Historia animalium)』第 1 巻も刊
行する。これは、この頃知られているすべての事項を網羅的に叙述しようとする一方、
観察事実を重視する立場で動物の外部体制、所在、習性、解剖学的特徴を記述し、サイ
の図をデューラーが描くなど一流の画家の手になる写実的な図とともにまとめられる。
[1571 年 、
『植物学大全』全 2 巻がまとまる。自ら描いた図は 1500 にも及ぶ。K.von リン
- 157 -
ネに影響を与える。1587 年 、
『動物誌』全 5 巻がまとまる。4500 ページにわたり動物名
を、アルファベット順を原則に配列している。]
1551.○【スイス】フランス人の印刷業・出版業者ロベール・エティエンヌⅠ世 Robert
Estienn (48 )が、ジュネーブでギリシア語『新約聖書』の第 4 版に初めて章節の区分を付
けて印刷する。昨年、パリからリヨンへ亡命の途次に思いつき、実行する。[以後、この
区分が広まり、現在に至るまで聖書の章節は彼が始めた区分が踏襲される。]
1552(天文21)
1552. ○【ユーゴスラビア】ベオグラードで最初の印刷工房が開設される。
1552. ○【トルコ】この頃、シリアのアレッポ出身のハケムとダマスクス出身のシェムス
が、オスマン朝の首都イスタンブールで最初のコーヒー店を開く。市民はこぞってこの
店につめかけ、市民生活の社交場、情報交換の場となる。この国際都市を訪れるヨーロ
ッパ人にもコーヒーの飲用を伝える。
1553(天文22)
1553. ○【フランス】ジャン・ド・トゥルヌが、ベルナール・サロモンのカットを添えたク
ロード・バラダン『四行詩付き絵入り聖書』をリヨンで出版する 。
[1557 年、オウィディ
ウスのプロテスタンティスムの布教書『変身物語』を出版。両書とも大成功を収める。
以後、サロモンのカットは、タピスリー・絹織物・七宝細工・陶器・木工細工などに着
想を提供し、直接に、あるいは複製版画を通じて間接的に、多くの絵画にも影響を及ぼ
す。
『変身物語』のページ飾りは、レース編みのパターン・ブックにも使われる 。
](『書
物の出現』)
1553.○【スイス】スペインの医者・自由思想家ミシェル・セルベトゥス(セルヴェ)Michael
Servetus(スペイン名ミゲル・セルベト Miguel Serveto)( 42)が、異端審問を避けてカルバ
ンのいるジュネーブに行き、最後の著『キリスト教の回復』を書いたが逮捕され,ジュ
ネーブで裁判を経て焚刑に処せられる。信教の自由の論議を起こす一つの機会となる。
1554(天文23)
1554.○【ドイツ】フランドル(のち、ベルギー)生まれの地図製作者メルカトル Gerardus
Mercator (42)(ゲルハルト・クレメル)が、15 葉からなるヨーロッパ図をデュースブルク
で出版する。
1554. ○【イギリス】ロンドンに証券取引所が設立される。
1555(弘治1)
1555. 5. 4【フランス】医師・占星術師ノストラダムス Nostradamus(52 )が、予言集を刊
行する。予言は四行詩に表わされ、16 世紀中葉から紀元 3797 年にやってくるという世
界の終末に至るまでの出来事が、あいまいな表現で記述されている 。[1559 年、
『諸世紀』
に「老いたライオンが若いライオンに負かされ、むごい死に方をする」と書かれている
とおり、アンリⅡ世が死亡、一気に話題となる。ノストラダムスの名声はますます高ま
る。1560 年、フランス王シャルル 9 世の侍医に任命される。晩年に多くの人が面会に来
- 158 -
る。フランス女王カトリーヌ・ド・メディシスも、夫のアンリ 2 世や子供たちの星占い用
の天宮図の作成を依頼する。1566 年、南フランスのサロン・ド・プロバンスで死去。1568
年、
〈1999 年の 7 の月、空から恐怖の大王が来るだろう〉という文句を含んだ『諸世紀』
が刊行される。2003 年、ノストラダムスの誕生 500 年祭が、南フランスのサロン・ド・プ
ロバンスのノストラダムス記念館で行われる。]
1555. ○【オランダ】アムステルダム市政府が、手相読み、占い師、占星術師など、将来
の予言をしたり過去の秘密を暴くことができると言い張る者を禁じる布告を出す。違反
者には罰金 6 フローリンを課す。
1555.○【ベルギー】フランス生まれの製本業プランタン Christophe Plantin (オランダ名プ
ランテイン Christoffel Plantijn)(35 ?)が、アントウェルペン(アントワープ、アンベルス)
で印刷業を開く。イタリア語とフランス語を並列したジョヴァンニ・ブルートの著作を印
刷・出版する。[以後、彼の名声はヨーロッパ中に広まる。1583 年ライデン大学の印刷
師となった以外は、1589 年に没するまで同地で活動。最盛期に 20 台近くのプレス式印
刷機を備えて、ヨーロッパ最大の規模を誇り、神学、典礼、科学、文学、語学と多様な
分野にわたって出版し、出版点数 1500 点余に及ぶ。1569 ∼ 73 年、スペイン王フェリペ
Ⅱ世の後援のもとに『王の聖書 Biblia Regia』の名で知られる 8 巻本の多国語聖書(ヘブ
ライ語、ギリシア語、ラテン語など)を出版する。1876 年、アントワープの印刷・出版
所が市に買い上げられ、プランタンと、その女婿で後を継いだモレトゥス J.Moretus の名
を冠した市立の博物館となる。]
1555.○【スイス】博物学者ゲスナー Conrad von Gesner (39)が、20 以上もの異なる言語
社会に属する臣下と話ができたというポントス王国の王の名を冠して、22 の言語に翻訳
された主祷文を収めた『ミトリダテース(Mithridates )』をチューリヒで刊行する。
1555. ○【バチカン】法王パウロⅣ世が、システィナ聖堂のミケランジェロ作「最後の審
判」が猥褻であるとして、取りはずしを命令する。周囲の反対に会い、結局、絵の中の
すべての裸像に服を着せることで妥結する。この作業を行ったミケランジェロの弟子ダ
ニエレ・ダ・ヴォルテーラは、のちに〈罪作り〉と呼ばれる。
1556(弘治2)
1556.○【インド】イギリス人の印刷工がイギリスの武装商船団に乗ってゴア Goa に渡来
し、アジアで初めて印刷を始める。[1591 年、アジアで 2 番目に日本の長崎で印刷が行
われる。1674 年、ボンベイで印刷が始まる。1733 年、コロンボ。1772 年、マドラス。]
1556.○【イギリス】ロンドンに書籍業者組織(Stationers' Company)が結成され、97 人の
業者が参加する。印刷出版統制と出版権保護に乗り出す。(『書物の出現』では 1557 年)
1556. ○【ブラジル】フランスの地理学者・旅行家アンドレ・テベが、ブラジル探検に参
加する 。
[以後、珍しい鳥に関すること、捕虜を殺し調理して食べる儀式について、新
しい情報を持ち帰る。この儀式の絵が、地図の中で南アメリカ南部を「食人風習の地」
として装飾に好んで使用される。
]
1557(弘治3)
1557.○【イギリス】出版印刷業組合が、国王から特許( privilege )(許可)を得て独占権復
- 159 -
活が認められ、印刷業者の人数も制限する。
1558(永禄1)
1558.○【ドイツ】イエナ大学(正式名称フリードリヒ・シラー大学( Friedrich-Schiller
Universit ■ t Jena))が発足する。1548 年に設立されたアカデミーが、ドイツ皇帝から大
学としての認可を得て、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒにより設立される 。[以後 、
18 世紀末から 19 世紀初頭にかけてもっとも栄え、哲学部を中心にシラー、W.フンボル
ト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ゲーテらが教授陣として活躍する。]
1558.○【ドイツ】ハンブルクに証券取引所( bourse)が設立される。
1558.○【イタリア】ジョバンニ・デラ・ポルタ( 20)が 、カメラオブスキュラについて 、
〈こ
の箱よれば絵心のない人でも鉛筆かペンを用いて対象がどんなものでもスケッチするこ
とができる〉と述べる。
1558.○【ポーランド】郵便事業が始められる。[1958 年、ポーランド郵便事業 400 年展
が催される。
]
1559(永禄2)
1559.○【ドイツ】 P.スカーリヒが 、
「Encyclopedia」の語を表題に初めて使った百科事典
を出版する。体系や内容は粗雑で、知識の体系化はなされていない。
1559. ○【バチカン】法王パウロⅣ世が、「禁書目録」の編纂を開始する。アントーニオ・
ブラードが印刷し、パウロⅣ世が出版する。[以後、あまりの厳しさに、年内に「禁書目
録の緩和」が教令により出る。1966 年、廃止される。廃止までに 4000 以上の書目が掲
げられ、その中には、バルザック、デュマ、スタンダール、アルベルト・モラヴィアのす
べての著書が含まれる。]
1560(永禄3)
1560. ○【ヨーロッパ】梅毒が、史上初めて大流行する。ロシア人は「ポーランド病」と
呼び、ポーランド人は「ドイツ病」と名づける。
1560. ○【デンマーク】クヌドストラップのヘルシングボル城主の長男でコペンハーゲン
大学に学んでいるティコ・ブラーエ Tycho Brahe (14)が、部分日食を観察する。[1563 年 、
木星と土星との会合、1566 年、皆既月食を観察する。1572 年カシオペヤ座超新星(ティ
コの星)を発見する。]
1560. ○【フランス】王令により、印刷業者や書籍商が、事前に大司教あるいは司教の検
査を受けない限り、万用歴や占いの書の印刷・出版を一切禁じる。万用歴に見られる政
治的預言の一掃を目的とする。
1560.○【フランス】画家ジャン・クーザン(父)の『遠近法論』が、パリのジャン・ル=ロ
ワイエから出版される。
1560. ○【スイス】最初の絵入りの印刷聖書「ジュネーブ聖書」がジュネーブで刊行され
る。
1560. ○【スイス】ジュネーブで、最初の出版統制令が出される。
1560. ○【イタリア】フィレンツェに、メディチ家のコジモⅠ世がトスカナ大公国の主要
- 160 -
な 13 の政庁を統合する庁舎をバザーリに命じて着工させる。[1580 年、建築家・彫刻家
のブオンタレンティらが完成させる。のちのウフィツィ美術館( Galleria degli Uffizi)にな
る。]
1560.○【イタリア】解剖学者ガブリエロ・ファロピウス(ファロピオ)Gabriel Fallopius ;
Gabriello Fallopio( 37 )が、リネンで陰茎を覆って梅毒を防ぐことを考案する。[以後、こ
れによって、ファロビオがコンドームの発明者とされる。]
1560. ○【イギリス】イギリス最初の料理の本が出版される。
1561(永禄4)
1561.○【イタリア】解剖学者ファロピウス(ファロピオ)( 38)が、『Observationeanatomicae 』
を著す。卵巣、円靱帯輸卵管等発見し、論文に記載する。[以後、彼は、膣、胎盤に名を
つける。また、子供の頃にペニスをマッサージして大きくすることを勧める。]
1561.○【バチカン】P. マヌツィオが、教皇ピウスⅣ世の依頼によりローマに移り、ロー
マ印刷所を設立する。
1561.○【イギリス】ニュースを歌謡詞にした印刷紙『News out of Kent』が出る。
1563(永禄6)
1563.○【フランス】シャルルⅨ世( 13 )が、母后カトリーヌ・ド・メディシスの摂政のもと,
出版許可権は国王にある旨を定める。
1563.○【イタリア】手書き新聞『Gazetta 』が、ヴェニスで発行される。
1563.○【イタリア】トレント( Trento)(ドイツ名トリエント(Trient))で開かれた第 19 回
公会議の第 3 会期が終わり、多年の懸案であった改革上の諸問題を解決し、反宗教改革
の推進に大きな貢献をする。公会議で採択された教令は、(1)第二聖典を含む聖書正典と
聖伝との権威の承認、( 2)恩寵と自由意志の協働の必要性、(3 )七つの秘蹟の確認、(4 )ブ
ルガーター訳聖書の権威の承認、( 5)ミサにおけるラテン語の使用、(6)ミサはキリスト
の十字架上の犠牲の繰り返しを意味すること、( 7)平信徒には聖体授与に際しパンのみを
与えること、(8 )聖体における実体変化説の確認、(9 )司祭の独身制の遵守、などであり 、
これらはすべて宗教改革派の主張を全面的に否定するものである。これにより、中世に
おける教義や典礼の多様性は切り捨てられ、統一的教会を目ざす近代的カトリック主義
が樹立される。[以後、カトリック教会の教会区の司祭は、出生、婚姻、死亡の記録簿を
つけるように定められ、教会の状態、信者会の数、平信徒の道徳性などに関する厖大な
記録が集められるようになる。また、異端へのますます高まる恐怖から「魂」の人口調
査と呼ばれる調査が定期的に実施され、数的な計算力の発達と統計学の興隆に寄与する。
]
1564(永禄7)
1564. 1. 1 【フランス】国王シャルルⅨ世(14 )が、ルーション王令発し、これまで復活祭
の前日だった 1 年の始まりを、キリスト割礼の祝日にあたる 1 月 1 日に変更する。古代
ローマでは、カエサルのユリウス歴にしたがって 1 月 1 日が年の始めだった。12 世紀に
教会が復活祭の前日を年始と定め、14 世紀になると国王文書の日付にもこれが採用され
ることになった。ところが、復活祭は春分後の最初の満月の次の日曜日にあたり、年に
- 161 -
よって年始の日付が移動し、 1 年の日数も一定でなく不便をきたしていた。この改暦に
対して、高等法院は反対する。また、新年の祭りの最後の日である 4 月 1 日に贈り物を
しあう習わしがあり、これを懐かしむ人々の反対の声があがる。[以後、これに反発した
人々が 4 月 1 日を「嘘の新年」として位置づけ、馬鹿騒ぎをするようになる 。
「エイプリ
ルフール(エープリルフール)」の始まりとされる。しかし、1 月 1 日の年始はしだいに
定着する。1582 年、グレゴリオ歴の採用で新しい暦法が成立する。しかし、フランス以
外の国では年始の変更は遅れる。西洋では、4 月 1 日を「四月馬鹿の日(April foolDay) 」
、
または「万愚節(All fools' Day)」とよんで、この日の午前中は、社会の安寧秩序を乱す
ようなうそでない限り、他人を担いでむだ足を踏ませたり、いたずらをしたりしてもよ
いとされる風習が定着する。また、だまされた人を「四月馬鹿( April fool)」と呼び、し
だいに世界的に広がっていく。ただし、エイプリルフールの起源には諸説がなされて、
定説はない。]
1564.○【ベルギー】オルテリウス Abraham Ortelius(37)が、初めて 8 枚からなる世界大
地図を完成する。[1565 年に、2 枚からなるエジプトの地図、1567 年にはアジアの地図
を出版する。1570 年 5 月 、地図帳『世界の舞台(Theatrum Orbis Terrarum ) 』を出版する。]
1564.○【ドイツ 】フランドル(のち、ベルギー)生まれのメルカトル Gerardus Mercator( 52)
が、クレーヴェ侯お抱え地理学者となり、縦 1.32m、横 1.98m の 18 葉からなる世界地図
を完成する。両端に近くなるとゆがむ欠点はあるが、従来の地図に比べはるかに正確で、
方位が正しく、羅針盤航海に最適であるため大評判となる。[以後、世界地図帳の編纂
をすすめる。1569 年、正角円筒図法の世界地図を作成し出版する。
]
1564.○【ドイツ】最初の『大市展示書籍目録』が、アウクスブルクの G.ヴィラーにより
印刷される。
1564. ○【バチカン】トレント(トリエント)公会議のとき特別委員会が置かれ 、
『禁書目
録』(通称「インデックス(Index )」)の編纂に着手する。各国語訳の聖書を禁書とし、エ
ラスムスやルターの著作も目録に掲げる。[1571 年、整備された禁書目録が作成され、P.
マヌツィオが印刷し、公刊される。エラスムスやルターの著作は、カトリック権力の圏
外でプロテスタントたちにより印刷され、禁書目録に載ることがかえって宣伝となり、
ベストセラーになる。『禁書目録』は、主にプロテスタントの地域において、そこに掲
載された書物を無料で宣伝することになる。]
1564. ○【イギリス】良質の黒鉛(グラファイト)が、カンバーランド地方ボローデール渓
谷で発見される。[翌年、これを棒状に切断して糸でまいたり木ではさんで、筆記具に応
用される。]
1565(永禄8)
1565. ○【ドイツ】ケルンのナザレ修道院で大エロチック騒動が発生する。医師デ・ワイ
ヤーが調査に当たったところ、修道女たちは、仰向けになり、目をつむり、腹をエロチ
ックに突き出し、性器を突き上げていた。
1565. ○【イギリス】良質の黒鉛(グラファイト)を木片にはさんだものが筆記具に使用さ
れる。のちの鉛筆の原型となる。[以後、ボローデールの黒鉛を使用した鉛筆は好評を博
す。とくに,ルネサンスの画家たちの間に浸透していく。政府はボローデール鉱坑を保
- 162 -
護管理するが,のちにはほとんど採掘されてしまう 。1761 年 、ドイツでファーバー Kaspar
Faber が、黒鉛の粉末と硫黄を混合する方法で鉛筆の製造を始める。]
1566(永禄9)
1566.○【中国】チャイ・ホン・チュウ・ジェン(女の園の主)が、1556 年から古代の房中
術を集成して、性愛研究書『素女妙論』をまとめる。黄帝と美女の対話という形式で、
性生活について語られる。[以後 、オランダのファン・フーリックが『古代中国の性生活』
として訳す。1988 年、松平いを子による重訳でせりか書房から刊行される。]
1566. ○【スペイン】マドリッドで、印刷業務が開始される。
1567(永禄10)
1567.○【フランス】翻訳家でシャルルⅨ世の宮中司祭アミヨ Jacques Amyot( 54)が、ギ
リシアのプルタルコスの『英雄伝( Bioi parall ^ loi) 』を 1559 年にフランス語に訳した『対
比列伝』の決定版が、パリの M. ド・ヴァスコザンにより刊行される。[以後、モンテーニ
ュなどに多大の影響を与える。1579 年、ギリスでアミヨの仏訳をもとに、ノース Thomas
North が英訳を完成させる。シェークスピアはこれを大いに利用して、古代を舞台にし
た『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ 』、
『コリオレーナス』などの
戯曲を作り上げる。
]
1567.○【イタリア】ベネチアの元老院が、画家ティツィアーノ Tiziano Vecellio (1482 頃
あるいは 88/90 ∼ 1576)の作品に著作権を与える。彼の作品の複製を無断の模倣品から保
護することを目的としたもので、芸術家に与えられた最初の著作権となる。
1568(永禄11)
1568.○【ドイツ】ザックス Hans Sachs(72)の『身分尽し』が、スイスの画家アマン Jost
Amman ( 29)の挿絵入りで、フランクフルトの印刷・出版業者フォイアーアーベント
Sigmund Feuerabend (40)により刊行される。
1568.○【フランス】ノストラダムスの死後 2 年目、
〈1999 年の 7 の月、空から恐怖の大
王が来るだろう〉(訳文は『ノストラダムス大予言原典(諸世紀)』(たま出版)による)と
書かれたノストラダムスの予言集『諸世紀』が刊行される。[以後、この版はすべてがノ
ストラダムスが書いたものか疑問がもたれる。]
1568.○【イタリア】ベネチアの貴族ダニエッロ・バルバーロ(バルバロ)Daniel Barbaro( 40 )
が、著書『遠近法の実際』の中で、小さい絞りの効果を発表し、鮮明な映像を得る方法
として絞りの採用を提案する。[また、バルバーロやカルダーノは、両凸レンズを用い
て明るい映像を得る方法を述べている。]
1569(永禄12)
1569.○【ドイツ】1552 年に家族とともにデュースブルクに転居してきたフランドル(の
ち、ベルギー)の地図学者・数学者メルカトル Gerardus Mercator (本名ゲルハルト・クレ
メル)(57)が、自ら考案した航海用地図投影法(正角円筒図法)を導入した世界地図を作成
し、当地で出版する。地図上の 2 点をむすぶ直線が常に一定の方位をしめすので、羅針
- 163 -
盤航法にきわめて好都合となる 。
[のち、「メルカトル図法」と呼ばれ、永く航海図とし
て使用される。しかし、この図法は、メルカトルが生まれる前年の 1511 年に、ドイツの
エッラープがすでに地図の作成に用いていることがのちに証明される。1585 年、メルカ
トルは「地図帳」を指すのに初めて「アトラス(atlas )」という言葉をはじめて使用し、
その表紙絵に両肩に地球をにせたアトラスの絵を掲げる。1594 年、死去。1595 年、息子
のレモルトが 107 葉の地図を収めた地図帳『アトラス( Atlas)』を出版する。これらの業
績により、メルカトルは「近代地図学の祖」と呼ばれるようになる。]
1569.○【オランダ】シモン・ステビンが、2 本マストの帆走車をつくり、28 人を乗せて
海岸の固い砂上を時速 24km で走行する。しかし陸上ではジグザグの帆走はできないの
で、普及には至らない。
1569. ○【ベルギー】アントウェルペン(アントワープ、アンベルス)の印刷業者プランタ
ン Christophe Plantin(オランダ名プランテイン Christoffel Plantijn)( 49 ?)が、スペイン王
フェリペ(フィリペ)Ⅱ世の委嘱と部分的な経済的支援のもとに 、
多国語聖書(ヘブライ語、
ギリシア語、ラテン語 、カルデア語、シリア語の本文を対面ページに欄を区切って印刷 )
の印刷に着手する。[ 1573 年、
『王の聖書( Biblia Regia)』の名で知られる 8 巻本が完成す
る。1200 セットが紙に印刷され、フェリペⅡ世用に 13 セットの羊皮紙の版が製作され
る。]
1569. ○【フランス】この頃、木版に代わって銅版の使用が広まる。
1570(元亀1)
1570. 5.20【ベルギー】フランドルの地図製作者オルテリウス Abraham Ortelius(43)が、
多くの地図を収集し 、その表現を統一して、70 枚の地図を 53 ページの地図帳に編集し、
『世界の舞台(Theatrum Orbis Terrarum )』と題して出版する。ヨーロッパ最初の完備した
近代地図帳と評価される。[以後、需要が多く、2 版を重ねる。1595 年版には日本図が加
えられ、単独の日本地図としてはヨーロッパで最初のものとなる。](C.クーマン、長谷
川孝治訳『近代地図帳の誕生』臨川選書 11、1997 )
1570.10. −【フランス】ムーラン法令が発布され、書籍販売を規制する。書肆が官憲に無
断で到来した書籍の荷を開梱したり行商することを禁止し、販売書目録の作成を義務付
ける。また、印刷物に著者と印刷者の名を明示させる。[1571 年 4 月、同様な法令が発
布され、合わせて「ムーラン法令」と呼ばれる。この法令および関連法令により、ロム
が焚刑に処せられる。1590 年、ブールゴワンが四裂刑に処せられる。]
1570. ○【日本】豪族長崎甚左衛門が、領主大村純忠(すみただ)の命を受けて、イエズス
会に長崎開港を約束する。[ 1571 年、ポルトガル船が入港、長崎 6 町の地割を行う。]
1570. ○【フランス】この頃、パリとリヨンで印刷工の争議が再び起こる。
1570. ○【イタリア】この頃、フィレンツェの文化運動を推進しようとする集団「カメラ
ータ」が、音楽は詩の表現を高めるためにあるのだという考えを、オルフェ伝説など古
代ギリシア悲劇を模範として推し進めるため 、
「カメラータ・フィオレンティーナ」とい
うアカデミーをつくる。「フィレンツェ楽派」が誕生する。[以後、彼らは伴奏付きモノ
ディーによる表現様式を開発する。1600 年、その成果として現存する最古のオペラ『エ
ウリディーチェ』(リヌッチーニ台本、ヤコボ・ペーリ作曲)がつくられる。しかし、フィ
- 164 -
レンツェ楽派の作品はイタリア音楽史を通じてもっともことばに接近しており、忠実に
歌詞の抑揚に従っているため、旋律らしきものはどこにも存在していない。]
1570. ○【イタリア】この頃、印刷業者は、錫で作っ活字が長持ちしないために、新たな
書物づくりに着手する度に、新しい活字を注文しなければならないという悩みを克服で
きない。例えば、出版業者アルドゥス・マヌティウス(アルド・マヌッチ)の息子パオロ・マ
ヌツィオは、4 ヵ月ほどでようやく書物が半分できあがった頃に活字が摩滅して駄目に
なってしまう、と書く。(『書物の出現』)
1571(元亀2)
1571.○【日本】長崎開港。最初のポルトガル船が入港する。長崎 6 町の地割を行い、大
村、島原、平戸、横瀬浦、外浦、文知が町となる[以後、マカオからの大船が定期的に入
港する。]
1571. ○【バチカン 】整備された『禁書目録』(通称 「インデックス 」)が公刊される 。[以
後、この禁止は読書だけでなく、著者、出版、販売、翻訳、蔵書にも及び、重大な違反
は破門の罰を受ける。1897 年、教王レオⅩⅢ世の指示で改訂され、約 1000 点が排除さ
れ、規則も修正される。]
1572(元亀3)
1572. 8.24【フランス】サン・バルテルミーの日、早朝パリでカトリック教徒の一隊が、
ユグノー貴族らを襲い 200 人以上を虐殺する。[以後、虐殺はパリ市内に広がり、3 日間
にわたり無差別の殺戮が行われる。犠牲者は 3000 とも 5000 ともいわれる。虐殺はフラ
ンス各地にも及び、2 ヵ月間続く。新教徒が冊子を多数つくって檄を飛ばす。]
1572.○【デンマーク】ティコ・ブラーエ Tycho Brahe( 26)が、カシオペヤ座超新星(ティ
コの星)を発見する。[以後、その光度変化を継続観測しているうち、恒星は不変なもの
ではなく活動していることに感動する。1573 年、論文『新星』を著し、天文学者として
の名声を高める。1574 年、国王フリードリヒⅡ世の命でコペンハーゲン大学で講演し、
宇宙の壮美性、天文学の実用性、占星術の信頼性を強調する。]
1573(天正1)
1573. 7 . −【フランス】勅令でユグノーの自由を一時承認する。
1573.○【デンマーク】天文学者ティコ・ブラーエ Tycho Brahe(27)が、これまでの天体
運行表に重大な誤りを見つけ、この修正に着手する。[以後、恒星や惑星の観察を行い、
位置的に正確な運行表を作る。
]
1573.○【フランス】頻発する印刷工の争議に、王権が介入し、印刷機 1 基当たり徒弟数
を 2 人に制限し、賃金、見習期間、休暇などについて定める。
1573.○【フランス】職業作家ベルフォーレ Fran (c)ois de Belleforest( 43 )が、演説集『大
演説』を出版する。古代および近代の代表的な歴史家の著書から、演説の部分を抜粋し
て集めたもので、個々の演説の前に要約が付けられ、末尾に印象批評を加える。
1573. ○【ベルギー】アントウェルペン(アントワープ、アンベルス)の印刷業者プランタ
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ン Christophe Plantin(オランダ名プランテイン Christoffel Plantijn)( 53 ?)が、スペイン王
フェリペ(フィリペ)Ⅱ世の委嘱と部分的な経済的支援のもとに 、『王の聖書( Biblia
Regia )』の名で知られる多国語対訳聖書(ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、カルデア
語、シリア語の本文を対面ページに欄を区切って印刷)の 8 巻本を 1569 年から 4 年をか
けて完成させる。1200 セットが紙に印刷され、フェリペⅡ世用に 13 セットの羊皮紙の
版が製作される。この頃、プランタンの工房でも印刷工のストライキが発生する。
1575(天正3)
1575. ○【オランダ】オラニエ公ウィレムが、オランダ最初の大学であるライデン大学を
創設する。[ 1580 年、既設のイタリア諸都市やドイツのライプツィヒにあるような薬草
を栽培する薬草園を創設する。1587 年、薬草園は時代おくれと断じ、薬草栽培に限定し
ない世界初の「植物園」を設立する。歴代園長や園芸主任らの努力により、この植物園
に栽培される植物数は、1685 年の 3000 から、1729 年には 8000 に増える。1633 年、天
文台を設置。1669 年、実験室を設置。他の分野でもグロティウス Hugo Grotius らの学者
を輩出する。ヨーロッパの学術中心になり、カルバン派神学、医学、東洋学などの分野
で業績をあげる。]
1575.○【イギリス】エリザベスⅠ世が、宮廷オルガン奏者トーマス・タリス Tallis とウィ
リアム・バード Byrd に 21 年間の楽譜用紙印刷販売の権利を与える。
1576(天正4)
1576.○【デンマーク】ティコ・ブラーエ Tycho Brahe(30)が、王室費の援助により本格的
な装置を備えたウラニボル(ウラニボリ)天文台を、ベーン(フェン)島に設立する。ティ
コの天文台建設の目的は、器械の大型化による測定値の精密化、観測の常務制による変
動の継続追究にある。ティコは、測角両脚器(脚長 1.6m )、方位四分儀(経緯儀原型)、壁
面四分儀(半径 1m、子午儀原型)などを考案設置して、この頃最高水準の豪壮精微を誇
る天文台を主宰する。[以後、月の運動の不等(中心差、出差、二均差、年差)、月の視半
径、黄道傾斜、大気差の影響、彗星の視差などの数値を更新する。1596 年頃、プラハに
住んでいて、ドイツの天文学者ケプラーと文通を始める。1609 年、ケプラーが、ブラー
エの観測結果に基づき、惑星の運動についての第 1 、第 2 法則を発見し、
『新天文学』を
著す。]
1576. ○【ドイツ】ヘルムシュテット大学が設立される。
1576.○【フランス】J.ボダン『国家論』が、パリのデュ=ピュイⅠ世により刊行される。
1577(天正5)
1577.○【イギリス】ステーショナーズ社( Stationers' Co. )が、エリザベスⅠ世に一貫性を
欠いた印刷権付与に苦情を申し立てる。
1577.○【デンマーク】天文学者ティコ・ブラーエ Tycho Brahe(31)が、これまで大気現
象だと考えられていた大彗星の出現を、天体であることを証明する。
1578(天正6)
- 166 -
1578. ○【ポーランド】ワルシャワで最初の印刷工房が開設される。
1579(天正7)
1579.○【フランス】国王アンリⅢ世 Henri III ( 28)が、万用歴の作成者が世間のことや国
家の事柄について予言を行うことを禁止する。万用歴の書き手たちは、天候や三面記事
的な出来事に関する月並みな話題しか扱えなくなる。
1580(天正8)
1580.○【フランス】モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne( 47 )が、1572 年頃から書
きとめていた感想・論考を 2 巻 94 章の『エセー(随想録)』として、ボルドーの S. ミラン
ジュにより刊行される 。
[以後、このころ起こった腎臓結石の治療のため、翌年へかけ
て約 1 年半にわたり 4 人の若い貴族と一緒に馬で東フランスのプロンビエールの温泉か
ら,スイスのチューリッヒ、南ドイツを通って、イタリアのルッカ近郊の温泉地をめぐ
り旅する。またローマの教皇庁をも訪れる。この時の旅日記が詳細に生き生きとした筆
致で書かれ、没後の 1774 年、
『イタリア旅行記』として出版される。旅行の費用につい
ても細々と書かれ 、〈もしこんなに金がかからなければ、旅行はもっと快適になるだろ
うに 。旅費が高くて私の財力を超える!〉と書き留める。1588 年 6 月 、3 巻 107 章の『随
想録』第 4 版を刊行する。1592 年 9 月 13 日、自邸で没する 。
]
1580. ○【イタリア】フィレンツェに、メディチ家のコジモⅠ世が着工させたトスカナ大
公国の主要な 13 の政庁を統合する 3 階建ての庁舎が完成する。アルノ川を越えてパラッ
ツォ・ピッティに至る歩廊も加えて、建築家・彫刻家のブオンタレンティ Bernardo
Buontalenti(44)らが完成させる。[ 1581 年、フランチェスコⅠ世は、それまでにメディチ
家が収集した美術品を展示するために、最上階を美術館にする。のちにウフィツィ美術
館( Galleria degli Uffizi)になる。]
1581(天正9)
1581.○【日本】イエズス会東インド巡察師バリニャーニ(バリニャーノ)(43)が、長崎に
セミナリオ、コレジオ、修練所をつくる。
1581.○【中国】湖州の凌 、閔の両家が、套印本(多色刷印刷本)の刊行を始める。
[以後、
盛んに刊行する。1644 年までに 144 種を刊行する。
]
1581. ○【フランス】印刷物に検閲税が設けられる。
1581.○【イタリア】T.タッソー『解放されたイエルサレム』が、パルマの E.ヴィオット
により刊行される。
1581.○【スペイン】国王フェリペ二世の御用時計師ハンス・デ・エバロ Hans de Evalo
が、マドリードで置き時計をつくる。[以後、これが徳川家康に献上され、家康に愛用さ
れる 。静岡県の久能山(くのうざん)東照宮博物館に収蔵され、重要文化財に指定される。]
1582(天正10)
1582. 1.28 【日本】イエズス会東インド巡察師バリニャーニ( 44)の勧めにより、大友宗麟
・大村純忠・有馬晴信の 3 大名の名代(みょうだい)として、ローマ教王に謁見するため
- 167 -
の使節の少年一行 9 人が、バリニャーニとともにポルトガル船に乗って長崎港を出発す
る。正使は伊東マンショ( 13 )、千々石(ちぢわ)ミゲル(13)、副使は原マルチノ(15?)、中
浦ジュリアン(13)。バリニャーニがこの計画を熱心に推進した理由は、第 1 に日本を去
る前に、大名の使節をローマ教王の足下にひざまづかせることによって、自分の 30 年に
わたる布教活動の成果を教王に誇示すること、第 2 に、海外に出たことのない日本人に
ヨーロッパ諸国の繁栄と文化、ローマ教王の威厳とローマ教会の大きさを目の当たりに
させて、キリスト教に対する誤解や疑惑を一掃させることにある。また、随員の一部に 、
ポルトガルで印刷技術を習得をさせ、日本で印刷を行うことも計画する。[1585.2.22 ロ
ーマで教王グレゴリウスⅩⅢ世に謁見し、盛大な歓迎を受ける。以後、イタリア、スペ
イン、ポルトガルを歴訪し盛んな歓迎を受ける。美少年の中浦ジュリアンは、ヴェネツ
ィアで画家ティントレットにモデルになることを所望されるが、街角で出逢った妖婦人
に誘惑されて、梅毒をうつされる。ティントレットは、顔一面に暗褐色の粒々がひろが
り、ふた目と見られぬ醜悪な相を呈しているのに絶望する。(柴田錬三郎『美しい日本
の少年』)日本では梅毒は「ポルトガル病」と呼ばれる。1590 年、バリニャーニらとと
もに、一行が帰国する。同時に印刷技術習得した日本人(氏名不詳)とともに、印刷機械
がもたらされる。]
1582.10.15 【バチカン】教皇グレゴリウス(グレゴリオ)ⅩⅢ世( 80)が、ユリウス・カエサ
ルの決めたユリウス暦の矛盾を調整し、グレゴリオ歴に改め、この日から実施する。5
年前から改暦委員会を組織し、新しい暦の作製をすすめてきたが、この日、ユリウス歴
で 10 月 5 日にあたるが、これを 10 月 15 日とした。ユリウス歴では、1 年は 365.25 年と
なるが、実際の 1 太陽年は 365.2422 日であり、その差は 1 年で約 11 分、128 年でほぼ 1
日の食い違いが生じる。グレゴリオ歴でも、4 で割り切れる年を閏年するが、100 で割り
切れる年についてのみは 400 で割り切れる年だけを閏年とした。これによって、1 年の
平均日数は 365.2425 日となり、太陽年に近くなる。この改暦でこの年は 10 日間が消滅
した。[以後、イタリア、スペインなどが採用するが、カトリックに反発するイギリス、
ロシアなどは採用しない。国ごとに日付が異なるという不都合が永く続くが、徐々にヨ
ーロッパの各国が新暦に移行する。1751 年、新教国イギリスが、11 日のずれを解消する
ために初めて新暦への移行を決定する。グレゴリオ歴がヨーロッパ起源の最初の“国際
標準”となる。1873 年、日本で施行される。のち、10 月 15 日を「グレゴリオ暦制定記
念日」とされる。]
1583(天正11)
1583.○【フランス】政府が、一般市民の書籍の装幀に 4 個以上のダイアモンドの使用を
禁止する。
1583.○【イタリア】この頃、ガリレイが、振子の等時性を発見する。[ 1657 年、ホイヘ
ンスが最初の振子時計を完成させる。]
1583.○【イギリス】昨年「タウン・カレッジ」としてスコットランド王ジェームズ 6 世
の王許を得たエジンバラ大学(University of Edinburgh )が開設される。
[1584 年、図書館
が設置される。これまで横に寝かせて置かれた図書が、初めて棚のついた書架に立てて
置かれ、体系的な図書目録が作られる。]
- 168 -
1583. ○【ペルー】南米大陸で初めて印刷が行われる。
1584(天正12)
1584.12.−【日本】イエズス会士フロイス( 52 )が、イエズス会総長宛の書簡で、(目下の
ところ日本イエズス会には次の二件が緊急時と存ぜられる。その一つは印刷機を備える
ことで、それは日本に来朝した神父・神弟が各自勉強に必要な日本文典、辞書、カテキ
ズモ及びその他のものを転写せなばならぬことは余りにも過重にすぎ、筆写に生涯を空
費させないためである。印刷機はセミナリオにとってもまた大いに助けとなるであろう。
)
と記す。
1584. ○【イタリア】リアルト銀行が、都市国家ベネチア(ヴェネツィア)元老院令により
設立認可される。
[1587 年、開店。
]
1585(天正13)
1585.○【日本】豊臣秀吉(49 )が大阪城を築き、関白の地位につく。将兵慰安のため大坂
の島之内辺に色里を公認する。厳密な意味における公娼集娼を目的とした遊郭の始まり。
[以後、徳川氏がこの政策を継承して整備していく。慶長年間(1596 ∼ 1615)に道頓堀
へ移った後、17 世紀初頭の元和∼寛永初年に新町(しんまち。のち、西区新町 1 丁目付
近)へ移転して定着する。
]
1585.○【フランス】外交官 B.de ビジネルが、多表式暗号とその使用法などをも含めて
「ビジネル式暗号」を完成させる。[多表式暗号とは複数個の換字表を準備して,組立を
行う際に原文の途中で換字表を変えながら換字していく形式で、その最も代表的なもの
がビジネル式暗号である。もともとドイツの修道院長トリテミウス Trithemius が考案し
たものをイタリアの医師 G.B.ポーターが表を完成し,ビジネルが完全なものにする。1857
年、イギリスの提督 F.ボーフォートはビジネル表の内部の文字を逆順にした「逆ビジネ
ル表」を提案する。]
1585.○【スイス】リヨンの J.ド・トゥルヌⅡ世が、ジュネーブへ亡命する。
1585.○【イスラエル??】マリア・マグダレーヌ Mary Magdalene が、修道院の中を狂っ
たように走りまわり、庭の茨の中を転げまわったり、自分を鞭打ったり、他の修道女た
ちに自分を柱に縛りつけて溶けたローソクを投げさせたりした。記録上最初のマゾヒス
トとされる。
[1671 年、マリアは聖人となる。]
1586(天正14)
1586. ○【ヨーロッパ】この頃、イタリア語とフランス語が分岐し始める。(モリス・スウ
ォディッシュによる仮説。
)
1586. ○【フランス】クリストフ・プランタンが、多言語聖書『ポリグロット・バイブル』
をつくる。[以後、特権的な聖職者だけでなく、多くの人々が聖書を読むことが可能にな
る。]
1586.○【イギリス】星室庁が、印刷条令を定め、印刷出版の特許( privilege )(許可)制度
を基幹とする言論統制を行う。無断複製にみずからでは対処できないとみた出版者が、
その保護につき国王や行政機関に請願し、これが受けいれられ、出版者は特定の作品に
- 169 -
つき一定の期間、出版・販売をなす地位を与えられる。特許の申請があると,ただちに
特許が付与されるわけではなく,審査のうえ、〈有益なもの〉についてのみ特許の付与が
なされる。特許の制度は出版を規制ないし取り締まる機能をも果たすことになる。[1641
年、廃止。1643 年、議会が、出版に関する事前検閲令と出版文具組合の登録令を施行す
る。1662 年、特許検閲法を制定する。]
1586. ○【イギリス】オクスフォード大学が、大学内に印刷所を設ける。
1586. ○【イギリス】プロテスタントの聖職者や信者が現物あるいは資金を出して図書館
を設置する動きが現れ、最初の図書館がノリッジの町にできる 。
[以後、この形態の図
書館がイギリス各地に設置される 。
]
1587(天正15)
1587. 1.−【日本】フロイス( 55 )が、イエズス会総長宛の手紙で 、
〈印刷機がせつに欲し
い。印刷術をわきまえ、人にも教えられる人を希望する。あらゆる書物をヨーロッパか
ら取り寄せることは不可能である。費用がかかり過ぎその上大きな危険のために失われ
るものが多い。
〉と記す。
1587.[7.24]【日本】豊臣秀吉(51)が、キリシタン宣教師に国外退去を求める追放令を発
布する。
1587. ○【インド】日本人の天正遣欧使節団随員コンスタンチーノ・ドゥラードが、団員
原マルチノのラテン語による演説を、ゴヤで印刷する。[ 1592 年、コンスタンチーノ・ド
ゥラードらが、天草で切支丹本『伊曽保物語』などを印刷する。]
1587.○【イタリア】1584 年に設立認可されたリアルト銀行が、都市国家ベネチア(ヴェ
ネツィア)で開店する。都市国家が保証人となり 、預金の受け入れ 、為替手形の引き受け、
銀行口座間での債権の振り替えを行う。[以後、国家保証債権から多大の利益をあげる。
1609 年、ベネチア銀行に範をとり、アムステルダム振替銀行が設立される。1619 年、同
じくベネチアでも振替銀行のベネチア銀行が設立される。1797 年、フランス軍の侵攻に
より、業務停止する 。
]
1587.○【バチカン】バチカン印刷所が、B.バーザや A.マヌツィオⅡ世の協力で設立され
る。
1587.○【アメリカ】イギリス人のジョン・ホワイトが、1585 年以来 2 年間ヴァージニア
で、アメリカインディアンと新世界の植物と動物の絵を描く。
1588(天正16)
1588. 7.中【イギリス・スペイン】2 万 2000 の兵力を乗せた 130 隻のスペインの艦隊
(Armada)がラ・コルニャを出航、イギリスに接近する。この時、イギリス側は、丘から
丘へとのろしを上げて急を知らせる。まもなくイギリス艦隊が迎撃に出る。[以後、ドー
バー海峡で 9 日間砲火を交える。]〔「のろし」にあたる英語には「signal fire」
、
「signal
smoke」、
「beacon 」などがあり,ビーコンにはのろしをあげる場所としての丘、あるいは
そのための施設(塔)や見張台が設置された丘という意味もある。ウェールズのブレコン・
ビーコンズ( Brecon Beacons )(グウェント州)、エクスムアのダンケリー・ビーコン
(Dunkery Beacon )(サマセット州)など、ビーコンの語がついた地名がイギリス各地にあ
- 170 -
る。
〕
1588. ○【日本】刀狩り令、身分の固定、人売買禁止が一般化する。
1588. ○【日本】この頃、江戸城下に定まった遊女町はなく、軒を並べるのは三、四ヵ所
あるのみ。麹町八丁目、鎌倉河岸にそれぞれ十四、五軒、大橋の内柳町に二十余軒ある
だけ 。
(庄司勝富『洞房語園 』
)
1588. ○【ドイツ】ブラウンシュワイクの公爵ユリウスが、〈寝台馬車の旅はのらりくら
りで怠け者〉のようだとの理由から、そのような男らしくない乗り物の使用を禁止する。
壮健者は旅行馬車で揺られながらの旅よりも、相変わらず馬に乗るほうを選ぶ。
1588.○【ドイツ】ケルンの印刷者アイツィング Michael Freiherr von Aitzing が、フルー
クブラット(Flugblatt)(ビラの意。戦争、天変地異など単独のニュースを伝えるために発
行されるビラやパンフレット(Flugschrift )のこと)を刊行する。同時に半年単位で主要な
事件の要約を『レラティオ・ヒストリカ(Relatio Historica )』として刊行するものも現れる 。
[∼ 1593]
1588. ○【フランス】製紙業が盛んになったため、原料となる古いリンネル地などを回収
するぼろ回収業者が繁盛する。ヴォージュ地方の回収業者の場合、金銭はもとよりヘア
ピンを提供してまでぼろを回収して回る。[のちに、遠方の土地に脚を延ばして、陶皿ま
ではずんでぼろの確保に努める 。
「トランプ・厚紙製造業者」がぼろ回収業者を兼ねる
て財をなす者もある 。
](『書物の起源』上)
1588.○【イタリア】サン・マルコ図書館( Libreria di San Marco)が、ベネチアのサン・マ
ルコ広場に続くピアツェッタ(小広場)に完成する。ヤコポ・サンソビーノの設計により
1536 年に起工、彼の死後、弟子のスカモッツィに引き継がれて完成する。ベネチアの伝
統的な形式に盛期ルネサンスの古典的様式を取り入れたこの建築を、パラディオは〈古
代以来建造された建物のうちでもっとも豪華なもの〉と絶賛する。
1588.○【イギリス】外科医ティモシー・ブライト Timothy Bright(38)が、速記文字を考案
し、『キャラクタリー(記号論)』(副題「シークレットライティング」)を発表する。一
見フェニキア文字に似て、上から下への縦の線が好んで使用されている 。
[以後、女王
エリザベスに献上され、エリザベスはブライトの業績を認め、特許を与える。ブライト
式速記法が、速記ルネッサンスを起こすきっかっけになるとともに、副題に大書されて
いるように、暗号文字としても使用されるようになる。1660.1.1 サムミュエル・ピープス
が、シェルトン式速記符号を使用して、赤裸々な日記を書き始める。]
1589(天正17)
1589.○【日本】豊臣秀吉(53 )が、京都・柳の馬場に郭を公認する。柳町遊郭は,規模は
小さいながら集娼制の意図を明白にしており,遊郭制度の最初とされる。この頃、遊女
は太夫と端女郎[はしじょろう]の二階級に分けられる。
[後に移転を重ねて 1640 年に島
原遊郭が成立する。
]
1589. ○【ベルギー】アントウェルペン(アントワープ、アンベルス)の印刷業者プランタ
ン Christophe Plantin(オランダ名プランテイン Christoffel Plantijn)( 69 ?)が、死去する。
最盛期には 20 台近くのプレス式印刷機を備えて、ヨーロッパ最大の規模を誇り、神学、
典礼、科学、文学、語学と多様な分野にわたって出版し、印刷・出版した本は 1500 点余
- 171 -
に及ぶ。商人として紙や印刷関連の機材や材料も商った。アントウェルペンの工房には、
多数の亡命者や外国人が入り込み、翻訳者、編集者、校訂者、活字デザイナーとして活
動し、印刷技術の国際交流が実現していた。また、木版の挿し絵が普通だったこの頃、
銅版画を積極的に取り入れ、フランスや低地地方でこれを見習う印刷業者が多く出た。]
1589.○【イタリア】物理学者ジョバンニ・バッティスタ・デラ・ポルタ G.B.della Porta が、
著書『自然の魔術』の中でカメラ・オブスキュラを一般に広く紹介し、絵を描くときの補
助具として推奨する。[以後、この本がヨーロッパ各国で翻訳出版されて非常に売れる。
そのために、ポルタがカメラ・オブスキュラを発明したものと誤信される。]
1590(天正18)
1590. 7 .?[ 6.20] 【日本】イエズス会日本準管理区巡察師バリニアーノ(ヴァリニャーニ)
Alessandro Valignani( Valignano )( 51 )が、帰途にある天正遣欧使節と共にインド副王特使
として再度来日する。この時、バリニアーノの要請とイエズス会総長の厚意により、特
使に付き添って来たヂエ・デ・メスキタが、リスボンからグーテンベルク式活版印刷機や
欧文の活字・母型、西洋流のインクなどを運んで来る。また印刷技術を習得して帰国し
た日本人コンスタンチノ・ドゥラド、アウグスチノ(日本名不詳)らが、和文鉛活字の鋳造 、
整版、印刷などの実務に当たる 。
[以後、肥前加津佐の日本耶蘇会学林に印刷機を設置
し、ローマ字で印刷を始める。イエズス会士が、九州有馬のセミナリオで西洋印刷術、
銅版法などの伝習を始める。10 月 12 日、フロイスは、印刷機がもたらされた喜びをイ
エズス会総長宛書簡で〈今までのように多くの書写から胸をやられないように、そして
言葉を勉強する時間がさらに多く彼らに残るように印刷されて行くでしょう。(中略)日
本人はこの印刷技術を見ることを非常に楽しみにし、この仕事を尊重している。〉と記
す。1591 年に、日本ヤソ会はこれによって欧文活字と日本文字の木活字を組み合わせて、
日本初の西洋活版術を行い、いわゆる切支丹版を出版する。]
1590.[ 8. 1 」【日本】徳川家康(48)が、豊臣秀吉の命により江戸に入城する。
[以後、家
臣団の在地性を克服し、新しい領国支配体制構築の可能性を生み出し、江戸幕府の基礎
作りが始まる。
]
1590.○【日本】幕府が 、公用の通信手段として飛脚を開始する。(?東芝の広告による。
『日経情報ストラテジー』2003.4)
1590. ○【ヨーロッパ】激しい魔女狩りが行われる。魔女裁判では拷問が用いられ、自白
が強要される。拷問によっても自白しないときには、自白しないという事実が悪魔の保
護下にある証拠だとして多くの“魔女”が断罪される。[以後、1610 年まで 20 年間行わ
れる。以後、1625 ∼ 1635 年、1660 ∼ 1680 年にもとくに激しく行われる。]
1590. ○【オランダ】眼鏡職人ハンスとザカリアス・ヤンセン父子が、顕微鏡を発明あう
る。[以後、しばらくのちに望遠鏡が発明され、天文学を飛躍的に発達させる。これと
深く関連して顕微鏡も進歩し、生物学を画期的に発展させる。
]
1590. ○【ドイツ】版画家の一家デ・ブライによる銅版画の挿画をほどこした旅行記『西
インド誌』が、フランクフルトで刊行開始する 。
[以後、デ・ブライ家は、壮麗で入念に
つくられた銅版画入りの大小さまざまな旅行記の膨大な集成の刊行を 44 年にわたり試み
る。
]
- 172 -
1590.○【イタリア】13 世紀にフランスのドミニコ会の修道士ヴァンサン・ド・ボーヴェ(バ
ンサン・ド・ボーベ) Vincent de Beauvais(ラテン名ウィンケンティウス・ベロウァケンシ
ス Vincentius Bellovacensis)( 1190 ?∼ 1264 ?)が編纂した百科全書『大鏡(Speculumma ■
us)』が、ヴァネチアで刊行される。[1624 年、題名を『世界の図書館(Bibliotheca Mundi )』
と改め、ドゥエで再版される。]
1590.○【スペイン】全国国勢調査が実施される。[∼ 1591 年。]
1591(天正19)
1591.○【日本 】日本ヤソ会(日本イエズス会)が 、バリニャーノ(ヴァリニャーニ)Alessandro
Valignano (52)がリスボンからもたらした活版印刷機を用いて、島原半島南端の肥前加津
佐で 、インドのゴアに続いてアジアで 2 番目、日本で初めて活字印刷を行い、切支丹版(吉
利支丹版、キリシタン版)『サントス(註:聖使徒)の御作業の内(うち)抜書( Sanctos
Nogosagveono Vchinvqigaqi )』2 巻 700 余頁を出版する。日本語をローマ字で表したもの
で、日本で活字印刷された本の第 1 号となる。
[10.6 バリニャーノがマニラのイエズス
会院長宛書簡に 、
〈本年日本語で種々の書物が印刷された。日本語を習うヨーロッパ人
たる我々に大いに役立つローマ字本及び国字本は、印刷機がなかったので、これまでな
かったのである。かくて、信者に必要にして適切な事柄を盛り込んだ問答体の『どちり
な』(『どちりな・きりしたん』)が印刷された。〉と記す。『どちりな・きりしたん』の印
刷には変体仮名の連綿体が初めて活字化され用いられる。この年、切支丹印刷所が加津
佐から天草コレジオに移る。以後、日本イエズス会が、この西洋印刷機および同種機を
用いて、和語、ラテン語、ポルトガル語の和洋混淆体の図書・出版物を、1611 ∼ 14 年(慶
長 16 ∼ 19)ごろまでの約 20 年間にわたり、少なくとも 30 点以上( 31 点ともいう)が、お
もに九州の各地で印刷・刊行する。諫早生まれの青年で使節随員として渡欧し、印刷技
術を習得してきたコンスタンチーノ・ドウラド(日本名不詳)を中心に開版される。彼らは
不足しているローマン体やイタリック体を新たに母型を作って鋳造したり、漢字、ひら
がな(半濁音を印刷物に初めて用いる)、ふるがな(ルビ)活字を自力で鋳造し、フロイス
ら伴天連(ばてれん、パードレ、神父)たちをびっくりさせる。多くは和紙に印刷した和
式の袋綴じ製本だが、革表紙の洋式製本も数点作る。これら一連の図書・出版物を「キ
リシタン版(切支丹版、吉利支丹版)」(加津佐版、天草版、長崎版など)という。またそ
の前後に同機をもってゴア、マカオで出版した 4 種も同属とみなされる。キリシタン版
は、1980 年ベニス発見の 2 点を加え、約 31 種、75 点が世界に、1 点か数点ずつ散存す
る。内容別には、①キリスト教教義、信心録など。例、『ドチリナ・キリシタン』(キリ
スト教の教義。日本文字、ローマ字各 2 種)など。②言語関係書。例、
『ラテン文典』
(E.
アルバレス著。天草、1594 年刊)など。③教養書。例、
『伊曽保(いそほ)物語 』
(いそっ
ぷ物語。ローマ字日本文、天草、1593 年刊)、
『倭漢(わかん)朗詠集』(日本文字、1600
年刊)などの 3 種に分けられる。文字はローマ字、片仮名、平仮名、漢字で、和語やラ
テン語、ポルトガル語外国語を使用して、日本人および外国人の双方に役だて伝道の便
に供した。なかに 1 点『こんてむつすむん地』
(1610 年京都版)は日本式印刷を利用し
た木活字版である。しかし、キリシタン版はキリスト教禁制下の非合法出版で、しばし
ば弾圧を受ける。とくに島原の乱以後はきびしい血の粛清にさらされて、印刷技術も日
- 173 -
本で受け継がれることなく、ついに根絶してしまう。遺品の多くは、大英図書館、オッ
クスフォード大学、バチカン図書館、日本天理図書館、東洋文庫、北京(ペキン)北堂な
どに蔵せられる。]
1591. ○【日本 】伊勢の与一が、江戸でひと旗あげようと伊勢から出てきて、銭瓶橋際(の
ち、常盤橋と呉服橋の中間)に初の湯屋(ゆうや)(風呂屋)を開設する。地名が縁起のよい
ところから、この場所を選んだ。入浴料は永楽通宝 1 枚。男女混浴の蒸し風呂(伊勢風呂
形式)で、珍しさのため大勢が押し寄せるが、あまりの熱さと湯気で、ものも言えなくな
る。
[やがて、世間話をする社交場になる。風呂賃は永楽銭一つ(4 文相当) 。七つ(午後 4
時)になると一般の客は断り、湯女風呂の二階は男の享楽の場と化す。この頃、火災の多
い江戸では、火事を出すことを警戒して、家に風呂を持たないことが多かった。1614 年、
三浦浄心『慶長見聞集』に〈風呂銭は永楽一銭なり。みな人めずらしきものかなとて入
りたまいぬ。されどもその頃は風呂ふたんれん(不慣れ)の人あまたありて、あらあつ
(熱)の湯の雫や、息がつまりて物もいわれず、煙にて目もあかれぬなどと云て、小風
呂の口にふさがり、ぬる風呂を好みしが…… 〉、また湯女については〈今は町ごとに風
呂あり。びた拾五文廿銭にて入る也。湯女といいて、なまめける女ども廿十人、三十人
並びいて垢をかき、髪をそそぐ。さてまた、その他に容色よく類なく、心ざま優にやさ
しき女房ども、湯よ茶よと云いて持ち来りたわむれ、浮世がたりをなす。こうべを回し
一たび笑めば、百の媚びをなして男の心を迷わす……〉と書く。1657 年、幕府が湯女風
呂を禁止する。]
1591.○【イタリア】ガリレイ Galileo Galilei( 27 )が、ピサの斜塔で落下体の実験をする。
1591. ○【フランス】この頃、壁紙が初めて工場で生産される。ペルシアから輸入した紙
をまねた大理石模様が最初につくられる。[17 世紀の後半 、東インドとの交易が始まり 、
パリの木版画家パピヨン Jean Papillon(後に壁紙の父とよばれる)が新しい印刷技術を
開発すると、中国風のデザインがヨーロッパ各地の大邸宅の装飾に広く用いられるよう
になる。18 世紀の後半、フランスとイギリスで風景画風の壁紙が流行する。18 世紀には
アメリカでも壁紙が使われ、壁紙産業はアメリカで全盛期を迎える。20 世紀初期、壁紙
の人気は一時衰えるが、1930 年代後期のシルクスクリーンの技術の開発以来、急激に需
要が増大する。]
1592(文禄1)
1592.[4.13 ]【朝鮮半島】日本軍先鋒の小西行長らが 、釜山に上陸し朝鮮侵略を開始する。
文永の役が始まる。[この年(あるいは 1593 年?)、朝鮮のソウルの王城内の校書館の庫
内で銅鋳活字により書物が印刷されているのを見た者が、銅活字と活字版の道具を略奪
して日本に持ち帰る。持ち帰った銅活字のと木活字の総数は 10 万個ともいわれる。この
ときまでに朝鮮半島で作られた活字は約 300 万字と推定される。(横山和雄『印刷文化と
出版』出版ニュース社) 朝鮮側は、歴代鋳造の活字が略奪されて〈一空せり〉と記録す
る。1593 年、秀吉が、朝鮮活字を後陽成天皇に献上する。天皇は側近の者に命じ、活字
版で 、
『孝経』を印刷させる。日本における活版印刷の始めとなる。
[以後、後陽成版『古
文孝経』と呼ばれるが、現存しない。朝鮮活字の行方も不明である。]
1592 ○【日本】天正遣欧使節団随員であったコンスタンチーノ・ドゥラードらが、天草
- 174 -
で切支丹本『伊曽保物語 』などを印刷する。和紙・洋紙・羊皮紙を使用する。[以後、約 50
点を印刷刊行する。]
1592 ○【中国】元代に刊行された『元本西遊記』を集大成して『西遊記』20 巻が、南京
の世徳堂から刊行される。
1592 ○【ドイツ】フランクフルトのエゲノルフ・ベルナー活字鋳造所が、活字見本表を
出す。
1592 ○【バチカン】バチカン印刷所が、
「ウルガタ版聖書」を出版する。
1592 ○【スペイン】フェリペⅡ世 Felipe II ( 64)が、無敵艦隊の敗北に動揺し、占星術
と占術を禁止する。[以後、女預言者ルクレツィア・レオンに耳を貸す。間もなくその預
言が反君主的になると、彼女を異端審問所に告発する。
]
1593(文禄2)
1593.[6.−]【朝鮮半島】朝鮮軍が、明の援軍や義兵の決起を受け、各地で日本軍を撃破
する。日本軍は、釜山に後退し、明軍との和議に入る 。[以後、加藤清正ら朝鮮遠征軍
に諸将が、おびただしい戦利品を持ち帰る。その中に漢城(ハンソン、現ソウル)で手中
にした朝鮮銅活字、摺具などの印刷器具や、それで印刷したと想われる朝鮮刊本がある。]
1593.[9.−]【日本】秀吉が、日本軍が朝鮮からもたらした朝鮮活字(すべて漢字)と印刷
器具を後陽成天皇に献上する。本は朱子学系のものが多い。[以後、儒教中心の文教政
策に大きな影響を与える。]
1593.[閏 9.21]【日本】後陽成天皇が、朝鮮よりもたらされた銅活字で『古文孝経』を皇
居内御湯殿上の間で印刷することを、六条有廣らの側近 12 人の者に命じる。[以後、木
活字も製作される。この活字版は「文禄勅版」と呼ばれるが、1 冊も伝わっていない。
銅活字の行方も不明である。後陽成天皇は慶長と改元後も『日本書紀』以下いくつかの
「慶長勅版]を活字版で刊行する。次代の後水尾天皇もそれにならって勅版を作らせるが 、
勅版の多くは、朝鮮活字を模した木活字で印刷される。]
1593.○【日本 】日本人切支丹ファビアンが、天草本口語訳『平家物語抜書』を印刷する 。
1593.○【フィリピン】タガログ語版と漢文版の『無極天主正教真伝実録』が刊行される。
1594(文禄3)
1594.○【ドイツ】ケプラー Johannes Kepler( 23)が、チュービンゲン大学神学科を卒業し、
グラーツ高等学校の数学教師に赴任する。かたわら市長の委託で占星暦の編修を試み、
厳冬や戦乱などの世相予言が的中して評判となる。その間、宇宙構造に関する構想をめ
ぐらせる。[1596 年、最初の著作『宇宙の神秘』を刊行する。
1594. ○【イタリア】古代ギリシアの悲劇の復興を目ざしたフィレンツェの文学者・音楽
家のグループ「カメラータ」が、登場人物の台詞(せりふ)を通奏低音を伴奏として歌う
という、モノディ様式をオペラの主体とし初の試みとして、リヌッチーニの台本、ペー
リの作曲になる『ダフネ』を公演する。[以後、この作品は現存しない。1600 年の『エ
ウリディーチェ』が、現存する最古のオペラとなる。]
1595(文禄4)
- 175 -
1595. ○【日本】日本の木活字を使った『法華玄義序 』
『天台四教義集解』が、民間人に
より印刷される。[以後、現存する日本最古の活字本とされる。以後、漢字は種類が多く、
多数の活字を必要とし、また粘土や木の活字は高さが不ぞろいで印刷しにくいため、普
及しない。その後の出版は主として木版でつくられる。
]
1595. ○【日本】ヨーロッパから来日したキリスト教宣教師たちが、『拉葡日(らほにち)
辞典』を作る。
1596(文禄5・慶長1)
1596.○【日本】朝鮮半島から伝わった印刷技術により、木活字本『標題徐状元補注蒙求』
が刊行される。
1596.○【ドイツ】ケプラー Johannes Kepler( 25 )が、最初の著作『宇宙の神秘』Mysterium
cosmographicum を刊行する。ここでは、太陽を中心として 6 惑星(水星・金星・地球・
火星・木星・土星)が、5 個の正多面体に順次外接・内接することによって、その距離
が保たれるという半思弁的な設定をする。[以後、この著述によって、ティコ・ブラーエ
やガリレイの知己を得る。1599 年 、新教徒への迫害が始まり 、1600 年プラハへ移住する 。
1596.○【ドイツ】デンマークの天文学者ティコ・ブラーエ Tycho Brahe(50 )が、新王クリ
スティアンⅣ世のもとで年金差し止め、資財没収されてドイツに亡命する。ドイツの皇
帝ルードルフⅡ世はティコを宮廷数学官に任じ、プラハ郊外のペナテク城を天文観測所
として与える。[1600 年、同じ追放の身の数学教師ケプラーの請願を受け、勅許庇護(ひ
ご)のもとで師弟の共同研究を始める。]
1597(慶長2)
1597.[7.−]【日本】後陽成天皇が、朝鮮半島から伝わった印刷技術により、日本製の大
型木活字による勅版『錦繍段』を開版する。跋文の一部に〈この木活字印刷法は朝鮮に
由来して天聴に達したもので、彼のように依り工に模写させる〉と記載される。活字の
大きさは駿河版より大きく、縦 15 ∼ 16mm、横 17 ∼ 18mm 程度。[[ 8.−]木活字版『勧
学文』を開版する。
]
1597. ○【日本】日本の木活字により『勧学文』が刊行される。
1598(慶長3)
1597.4.13【フランス】国王アンリⅣ世が 、ナントで王令を発布する。ナントの王令⊇ dit de
Nantes(ナントの勅令)と呼ばれる。宗教戦争の渦中にすでに萌芽の見られた「寛容王令」
の集大成であり,この王令により,1562 年以来 30 余年に及んだ宗教戦乱に一応の終止
符が打たれる。
1597.[ 7.下]【日本】後陽成天皇の勅版『錦繍段』が、日本の木活字により刊行される。
1597.[ 8.下]【日本】後陽成天皇の勅版『勧学文』が、日本の木活字により刊行される。
1597. ○【ドイツ】フランクフルトの市参事会が、官製目録の刊行を開始する。
1597. ○【イタリア】ペーリ作曲のオペラ『ダフネ』が、謝肉祭の日フィレンツェのコル
シ邸で上演される。実際にオペラの形態をとった最初の作品とされる 。
[以後、この作
品は断片的にしか伝わらない。
](1597 年とも。要チェック!!))
- 176 -
1597.○【イギリス】ボドリー Thomas Bodley が、オックスフォード大学の図書館に関与
する 。
[以後、15 世紀に個人文庫ではじまったこの図書館の復興に尽力する。1601 年、
ジェイムズ Thomas James を図書館員に指名し、図書収集の充実強化と整備に取り組む。
のち、ボドリーを記念してボドレーアン図書館と呼ばれ、書籍商との契約で納本図書館
となる。]
1599(慶長4)
1599.[閏 3. 3]【日本】日本の木活字により勅版『日本書紀神代巻』が刊行される。
1599.[閏 3. 8]【日本】日本の木活字により勅版『大学』が刊行される。
1599.[閏 3.17]【日本】日本の木活字により勅版『中庸』が刊行される。
1599.[ 5.−]【日本】徳川家康が、足利(あしかが)学校第 9 代校主三要元佶(さんようげ
ん
きつ)(51)に命じて、京都伏見の円光寺内で木活字を用い、『孔子家語(こうしけご)』『六
韜(りくとう) 』
『三略 』など儒書・軍書を多く刊行させる。[[∼ 1606 年 。以後、
「伏見版」
あるいは「円光寺版」と呼ばれる。『貞観政要(じょうがんせいよう) 』
『三略』『周易古
注(しゅうえきこちゅう)』
『七書(しちしょ)』などが作られ、
『六韜』
『三略 』は 3 度 、
『七
書』は 2 度開版される。]
1599.○【中国】(万暦 27)清の太祖ヌルハチの命を受けて、2 人の儒臣エルデニとガカ
イが 、
モンゴル文字を満州語に応用した最初の満州文字
「無圏点老満文」を制作する。
[1632
年、太宗が改良を命じ、字母の傍らに圏と点をつけ、漢字音を表す字母を加えるなどし
て「有圏点満文」が考案される。](中嶋幹記「世界の文字 24 満州文字」
『三省堂ぶっ
くれっと』No.120、1996 )
1599. ○【フランス・イギリス】 この年までに、公衆浴場が男女混浴だったため風紀を乱
すということで廃止される。[以後、入浴の習慣がなくなり、香料の使用が盛んになって
いく。]
1599.○【イギリス】この頃(16 世紀末)
、ブライト Timothy Bright が、英語速記方式を
創始する。[のち 、
「ブライト式」と呼ばれ、近代速記方式の先駆けとなる。1837 年に、
覚えやすいピットマン式が発表される。1888 年にアメリカでグレッグ式が創案され、広
く行われるようになる。]
1600(慶長5)
1600. 1.−【イギリス】ロンドンで、独占的特許会社、イギリス東インド会社が設立され
る。[ 1602 年 3.20 オランダ東インド会社が設立される。1604 年フランス東インド会社が
設立される。「
〔 東インド」の名の由来は、コロンブスが新大陸発見のとき、これをイン
ドの一部と誤認し 、「西インド」の名称でよんだが、真相が知られてからも、便宜上従
来の東洋貿易の目的地を「東インド」とよぶ習慣ができたことによる。この東インドの
産物のうちでもとくにヨーロッパ市場で喜ばれたのは、胡椒(こしよう)、丁子(ちよう
じ)、肉豆く(にくずく)などの香辛料(香料)である。このため、香料の原産地であるモル
ッカ諸島(香料諸島)の争奪が繰り返され、数年前から東インド地域で、新教国のイギリ
スとオランダの両国もこの競争に加わるようになる。国内どうしでの過熱した競争を避
- 177 -
けるために統合して、独占的特許会社をつくるに至る。]
1600. [3.16]【日本】オランダの東方貿易会社の木造帆船リーフデ号が、臼杵湾入り口
の佐志生(さしう)に漂着する。東洋に派遣された 5 隻の商船隊の 1 隻で、乗組員 110 人
のうち漂着時の生存者は 24 人、歩くことができるのは 6 人。日本とオランダの最初の出
会いとなる。
[上陸後、6 人が死亡する。[5.12 ]家康が、航海長ウィリアム・アダムズ( 37)
と船員ヤン・ヨーステン( 44?)を大坂城内で引見する。のちに家康は、江戸に幕府を開く
とアダムズ(三浦按針)とヨーステン(耶楊子)を外交・貿易顧問として厚遇する。ヨース
テンは家康から江戸に屋敷を与えられ、八重洲という地名のもとになる。
]
1600. [ 6.−]【日本】多摩川に六郷橋が架けられる。
1600. [ 9.15 ]【日本】関ヶ原の戦い。
1600. ○【日本】この頃、来航した宣教師たちが、日本でグレゴリオ歴を用い始める。
1600. ○【日本】小判の「光次」の墨書を、極印(ごくいん)に改める。
1600. ○【ヨーロッパ】この年の前後、携帯時計が多くつくられ、十字形、頭蓋(ずがい)
骨、動物、果物、星、花などをかたどった珍奇な形の時計が相次いで登場する。
1600.○【チェコ】デンマークからプラハへ亡命してきた天文学者ティコ・ブラーエ Tycho
Brahe(54)が、同じくドイツから逃れたきた数学教師ケプラーの請願を受け、勅許庇護の
もとで師弟の共同研究を始める。[1601 年、共同研究を始めてわずか 1 年半でティコは
病没する。ティコが 1596 年に亡命の際帯出した約 20 年間にわたる火星の追跡観測記録
には、視位置と視光度が豊富に記録されており、ケプラーが整理研究し 、
「惑星公転の
三法則」発見の基礎資料となる。]
1600.○【オランダ】シモン・ステファンが、馬車に 2 枚の帆を張り最初の風力自動車を
製作する。時速 33km で走り、人々を驚かせる。
1600. ○【イタリア】フィレンツェ楽派のヤコボ・ペーリとジュリオ・カッティーニが、最
初のオペラ『エウリディーチェ』(リヌッチーニ台本)を作曲し、フィレンツェでメディ
チ家の娘マリアとフランス王アンリⅣ世の結婚式を祝う祭典に上演される。大評判にな
る。[1601 年、ペーリとカッティーニが、それぞれこのオペラを出版する。以後、楽譜
を伴う完全な形で残っている最古のオペラとなる。このオペラを見たマントヴァ公ゴン
ザーガ Vicenzo Gonzaga が 、このようなオペラを作りたくなり 、モンテヴェルディ Claudio
Monteverdi( 33 )にに新しいオペラの作曲を依頼する。1607 年に『オルフェ』が作曲され
る。]
1600.○【イギリス】医師・物理学者ギルバート William Gilbert(56)が、イギリスで書か
れた最初の科学書『磁石、磁性体、そして大きな磁石としての地球について』を公刊す
る。電気と磁気の性質を明らかにするための独自の実験を行い、地球が巨大な磁石であ
ることを実験的に示す。摩擦するともみがらなどの軽いものを引きつける物体がいろい
ろとあることを指摘し、こういう物質を磁気と区別してエレクトリック(electric )という
言葉を用いる。また 、初めて電気力、電気相互作用、磁極などという用語を使用する。[1601
年、エリザベスⅠ世の侍医となる。]
1601(慶長 6 )
1601. 1 .−【中国】中国語を学び,利瑪竇(りまとう)と名乗るイエズス会士リッチ(49)が 、
- 178 -
北京に入り,万暦帝に拝謁し,北京在住と中国全土におけるキリスト教布教の許可を得
ることに成功する。[以後、リッチは多くのイエズス会宣教師が渡来する。リッチはキリ
スト教布教にヨーロッパ科学の紹介が必須であると考え,後続の宣教師にはすぐれた科
学知識の持主が多い。これ以後イエズス会は、科学知識の紹介に重点を置くことを基本
方針とする。中国側は大臣に昇った徐光啓,イエズス会側ではリッチが中心となり,ユ
ークリッドの『ストイケイア』をはじめ,ヨーロッパの天文学,数学などの書物の漢訳
が盛んに行われるようになる。1602 年、李之藻が編集した『天学初函』にこれらの多く
が収められる。1910 年、その死にあたり万暦帝より墓地を賜る。以後、墓地は北京市内
に保存される。]
1601.[1.−]【日本】徳川家康(60)が、東海道諸宿に伝馬(てんま)の制を布き、 1 日に 36
疋までの伝馬の提供を命じ、代償に居屋敷を与える。宿はすでに既存の集落を利用する。
[1618 年、箱根宿を設置する 。1623 年、川崎宿を設置する。以後 、江戸(日本橋)・京都(三
条大橋)間に品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、
三島、沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子、岡部、藤枝、島田、金
谷、日坂、掛川、袋井、見附、浜松、舞坂、新居、白須賀、二川、吉田、御油、赤坂、
藤川、岡崎、池鯉鮒(ちりゆう)、鳴海、宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、
坂下、土山、水口、石部、草津、大津の 53 宿があるので、五十三次と呼ばれる。また大
津から伏見、淀、枚方(ひらかた)、守口の 4 宿を経て大坂に至る京街道も東海道の延長
とみなされる。2001 年、静岡県などが、
「東海道 400 年祭」のイベントを催す。]
1601. ○【日本】慶長大判・小判・一分金・丁銀・豆板銀が造られ始める。金の含有率は
86.79 %、銀の含有率は 80.0 %。
1602(慶長7)
1602. 3.20【オランダ】アムステルダムでオランダ東インド会社が設立され、史上初の株
式会社として発足する。連邦議会が、数年前から東インド地域で過熱した競争を繰り広
げて過当競争により利益が上がらなくなっていたオランダの貿易会社 14 社を統合させる
ことにより、連合東インド会社の設立を決定した。2 年前にイギリス東インド会社が設
立されていたが、その資本金はオランダの会社の 1/10 にも満たず,またその性格も航海
ごとに起債する当座企業の性格を残していたので,このオランダ東インド会社が世界最
初の株式会社と見なされる。これにより、アムステルダム,エンクハイゼン,ホールン,
ロッテルダム,デルフト,ミッデルブルフの 6 ヵ所に散在していた個々の会社が統合さ
れ,それぞれは東インド会社のカーメル(支部)と改称する。取締役会は前身会社の取締
役 72 名を引きぐ。
[以後、徐々に 60 名まで減らし,その上に 17 人会と呼ばれる重役会
を置く。]
1602.[ 6. 1]【日本】喧嘩口論・博奕(ばくち)の禁止や、日本橋馬喰町以外での馬売買の
禁止を定めた高札が、馬喰町や各所の馬市場に立てられる。
1602.[ 6.24]【日本】家康が、江戸城中に富士見亭文庫を設立して金沢文庫の書籍を移し、
足利学校の僧侶寒松に目録の作成を命じる。
1602. ○【日本】京都の柳の馬場の廓が六条に移され、三筋町となる。
1602. ○【日本】この頃、江戸を描いた最初の図「慶長江戸図」が登場する。
- 179 -
1602.○【フィリピン】
マニラで、アジアで 3 番目に印刷が行われる 。
また、ビノンド Binondo
でも始められる。
1602.○【イタリア】世界図を幾種類か描いたイエズス会士リッチ(50)が、北京で李之藻
に木刻で『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』を印刷させる。アジアで最初の世界
図となる。
1602.○【イギリス】ジョン・ウィリスが、表音的な速記理論を初めて提案し、
『速記術 Art of
Stenography 』を刊行する。初めて「ステノグラフィ」という語を用いる。基礎符号を駆
使して発言されたすべての音を漏れなく表記する「全記法」の先駆けとなる。[以後、
速記法の基礎となり、ブライトは「近代速記の父」とも呼ばれる。1620 年、シェルトン
が、ウィリス式を改良してシェルトン式符号を考案、初版を発表する。1837 年、アイザ
ック・ピットマンが、全記法を完成させる 。
]
1603(慶長8)
1603.3.24 [ 2.12]【日本】徳川家康(62)が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く 。
「江
戸時代」が始まる。
1603. [ 3. 3]【日本】家康(62 )が、江戸を天下に号令する将軍の城下町にふさわしい都市
にするため、諸大名に先ず市街地の造営を命じる。
1603. 春 【日本】江戸の道三堀と平川を延長してつくられた堀川に、長さ 37 間(約
68m)、幅 4 間 2 尺 5 寸(約 8m)の大きな橋が架けられる。橋上からは江戸城や富士山を
望むことができる。[以後、だれいうともなく「日本橋」と呼ばれる。やがて、付近一帯
も日本橋と呼ばれるようになる。1604 年、ここが一里塚の原点と定められ、東海道をは
じめとする五街道の起点となる。1618 年、改築され、長さ 28 間(約 51m)、幅 4 間 2 尺 5
寸(約 8m)の大橋になる 。1911 年 、ルネサンス様式を模したアーチ型の長さ 49m,幅 27m
の石橋が架けられる。]
1603. 4 . 3[3.24 ]
【イギリス】チューダー朝 5 代目の女王エリザベスⅠ世 Elizabeth I( 69 )(在
位 1558 ∼ 1603)が死去する。愛称は「よき女王ベス」
。チューダー朝は終わり、スコッ
トランドからメアリー・スチュアートの子ジェームズⅥ世が、ジェームズⅠ世として即位
し、スチュアート朝を開く。女王の死去を知らせる使者が、ロンドンからエディンバラ
まで 644km を 1 日平均 200km の速さで飛ばして約 3 日で到着する。[この年、ジェーム
ズⅠ世は、万用歴の出版を担っている書籍商商会への専売権を認める勅許状を出して政
府の厳しい統制下におき、その中に書かれる占星術関連の予言のあらゆる行き過ぎを禁
止し、違反者は厳しい身体刑に処すと書き加える。1641 年、禁制を廃止する。
]
1603. ○【日本】日本で初めて印刷出版,販売を専業とする本屋が出現する。新刊、古本
を扱い、貸本屋も兼ねる。(長友千代治『近世貸本屋の研究』)
1603. ○【日本】ヨーロッパから来日したイエズス会宣教師たちが、ヨーロッパ式の体裁
を整えた日欧対訳辞書『日葡(にっぽ)辞書』を作る。[のち、パジェスLロ on Pag ロsが
『日仏辞書』に改編する。]
1603. ○【日本】出雲大社の念仏踊りの歩き巫女と称する阿国(おくに)という女が、初め
て女の集団、女歌舞伎をつくり、京都の北野天満宮近くに舞台を造り、念仏踊(ねんぶつ
おどり)を興行する。『当代記』は、〈異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇差、衣装以下コト
- 180 -
ニ異相〉と、その異様さを伝える。[以後、間もなくこの踊りがこの頃の巷(ちまた)にみ
られるかぶき者(異風異装の者、したがってまた、流行の先端を行くとっぴな者)やキリ
シタンの風俗を取り入れ、その結果「かぶきおどり」とか「阿国かぶき」といわれるよ
うになり、のちの歌舞伎の歴史の発端となる。1629 年に禁止される。]
1603. ○【オランダ】マライ語、インドネシア語の辞典が、連合東インド会社で使用する
ために出版される。[ 1623 年、1640 年、1650 年にも出版される。]
1603.○【イタリア】フェデリコ・チェシが、アカデミア・デイ・リンチェイ Accademiadei
Lincei をローマに設立する。
[1630 年、彼の死とともに消滅する。18 世紀に復活し,さ
まざまに形を変えて今日に至る。
]
1604(慶長9)
1604.[ 2. 4]【日本】日本橋を五街道の基点として、東海道、越後・陸奥への諸道を整備
し、一里塚を築き、街道の両側に松を植える。
1604. ○【日本】この頃、連綿体の活字による印刷本が普及し始める。
1604. ○【日本】幕府が、諸大名に、国を単位とした国絵図や郷帳(ごうちょう)を作成さ
せ、提出させる。
1604.○【フランス】国王アンリⅣ世( 51 )が、アジア地域での貿易を独占的特許会社とし
てフランス東インド会社を設立する。[以後、先行のイギリス、オランダよりも進出が遅
れたため商業拠点を欠き、資本蓄積も遅れているため、十分な商業活動ができない 。1664
年にコルベールによって再組織され、アジア地域への本格的進出が始まる。]
1604.○【イタリア】パドバ大学の外科・解剖学教授とファブリキウス Hieronymus Fabricius
(67 )が、研究と著作に専念し始める。[以後、人や動物の血管、胚(はい)、胎児、胎盤、
臍帯(さいたい)などを詳細に研究。雄は雌が精神的に流出する精液によって受胎すると
いう仮説を発表。精緻(せいち)な銅版画を載せた『静脈弁について』『胎児の形成につ
いて 』
『卵と雛(ひな)の形成について』などの著書は好評を博す。
1605(慶長10)
1605. 1.16【スペイン】作家セルバンテス Miguel de Cervantes Saavedra( 58 )が、『ドン=キ
ホーテ』(正式の題名『智あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ( El ingenioso
hidalgo Don Quijote de laMancha)』)第 1 部を書き上げ、マドリードの J.デ =ラ =クエスタ
により初版 1200 部が刊行される。物語はラ・マンチャに住む老いた郷士が、そのころ大
流行していた騎士道物語を百冊以上買い集めて、日夜読みふけったすえ、自ら遍歴の騎
士となって世の中の不正を正し、虐げられた者を助けようと、ドン= キホーテと名のっ
て旅立ち、行く先々で悲喜劇的な事件を引き起こす話で、たちまち大好評を博す。[以後、
スペイン各地で版を重ね、ヨーロッパ各国まで伝播するが、版権を安い金で売り渡して
いたので、彼の生活も社会的地位も不安定なままである。1607 年、ベルギーで初版が復
刻される。1612 年、イギリスで翻訳刊行される。1615 年、第 2 部を刊行。1622 年、イ
タリアで翻訳刊行。『ドン=キホーテ』のめざましい重版と翻訳刊行により、ヨーロッパ
の出版業界の勃興と 、近代小説の出発点と評価される。以後、世界で『ドン=キホーテ』
以上に翻訳されたのは聖書とレーニン全集だけといわれる。2005.1.16 初版の発表 400 年
- 181 -
を記念して、刊行日と伝えられる 16 から、国内外で記念行事が行われる。]
1605.[4.16 ]【日本】家康が、征夷大将軍職を秀忠に譲る。
[1607.[ 7.3] 、駿府城が完成し、
家康が移る。
]
1605. 5.−【オランダ】アブラハム・ホーフェンが、アルベルト大公の許可を得て、新聞
『Nieuve Tijdingen 』を発刊する。近代的新聞の先駆けとなる。[1617.4 週刊となる。]
1605.[7.28]【日本】この頃、銅活字の鋳造が始められる。家康が、高麗(朝鮮)銅活字を
後陽成天皇から借り受け、それをモデルに伏見の臨済宗円光寺の僧、三要元佶( 58 )に総
監督を依頼して日本最初の銅活字を作らせる。鋳造は伏見円光寺学校(足利学校の分校)
で行われ、唐(中国)人の林五官(56 ?)が鋳造にあたる。
[1606.4.1 約 8 ヵ月をかけて約 8
万本を鋳造する。
]
1605. ○【日本】江戸城普請にともない、傾城屋二十余軒のある柳町が、幕府の御囲い地
(馬場御用地)として召し上げられる。代替地として与えられた神田元請願寺前に移る。
この機に、諸処の遊女屋が集まり傾城町をつくる希望を願い出たが、不許可となる。
1605. ○【中国】マテオリッチが、漢字表記の世界地図をつくる。
1606(慶長11)
1606.[ 4. 1 ]【日本】この頃、銅活字約 8 万個が出来上がる。
1606.[ 6. 4 ]【日本】銅活字 9 万 1261 個が出来上がる。他に摺板、罫、輪郭、活字収納
箱なども作られる。
[[6.6 ]銅活字 9 万 1261 字を後陽成天皇に献上する。家康はもう一組
の 9 万余字を自家用に鋳造させたと推定される。以後、1616 年まで 3 次にわたりに 11
万余個の銅活字(一部木活字)が作られる。これをもとに約 80 冊の本が印刷される。のち
に「伏見本」と呼ばれる。]
1606.[ 9.23]【日本】江戸城本丸の工事が終わり、秀忠が入る。
1606.○【日本】秀頼が、家康の伏見版に刺激され、挿絵入り木活字版『帝鑑図説』6 巻 6
札を印刷させる。朝鮮伝来の原本の翻刻で、精美な書体の木活字が用いられ、多数の挿
絵が挿入される 。
[以後、秀頼版とも呼ばれ、日本のごく初期の挿絵本の典型的な例と
して重要な古活字本と評価される 。
]
1606. ○【日本】京で印刷した暦が売られる。
1607(慶長12)
1607.[ 2.20]【日本】出雲阿国(おくに)が、江戸城内で徳川家康や諸大名の前で初めて歌
舞伎踊を上演する。[のち、2 月 20 日を「歌舞伎の日」と呼ぶようになる。]
1607. [閏 4.24 ]【日本】朝鮮国使が来日し、初めて江戸に入る。日本橋馬喰町本誓寺を
宿舎とする。
1607. [ 5. 6]【日本】朝鮮国使が、江戸城に登城し、将軍秀忠に拝謁、国書を幕府に提
出する。[この年、朝鮮通信使が始まる。]
1607.○【イタリア】作曲家モンテベルディ Claudio Monteverdi (40)が、マントヴァ公ゴ
ンザーガ Vicenzo Gonzaga に仕え、その以来で新しく登場したオペラにも手を染め、最
初の本格的オペラ『オルフェオ Orfeo 』を作曲する。[1608 年、
『アリアンナ Arianna』を
作曲し、一躍人気作曲家になる。本格的オペラの歴史がこれによって始まる。]
- 182 -
1608(慶長13)
1608. ○【日本】洛西(のち、京都西部)嵯峨の素封家角倉(すみのくら)素庵(光昌)が、寛
永の三筆の一人本阿弥(ほんあみ)光悦の協力と出資をうけ、光悦の字をもとに彫刻した
木活字を用いて私刊本を版行する。なかにはすぐれた挿絵を入れた「料紙装飾」、墨摺
の「挿絵」が始まる。[以後、木活字を用いたコマーシャルベースの私家版が、注文によ
り続々開版される。開版の地名により「嵯峨本(さがぼん)」と呼び、あるいは開版者の
名を冠して「角倉本」ともいい、版下が光悦の自筆またはその門流の手になるところか
ら「光悦本」とも呼ぶ。まれには木版整版刷のものもあるが、大部分はひらがな交りの
木活字本(古活字版)で、版式および装丁において、ほとんどその類を見ぬ特徴を有する。
すなわち、平安時代の彩飾書写本の料紙、表装などに施された美術的意匠を印刷本に試
み、その多くは本文用紙に雲母(きらら)を引き、または雲母で模様を刷り込み、さまざ
まな色の紙を用い、表紙にも雲母で花鳥の文様をあらわし、または染色した豪華本で一
種の美術本でもある 。嵯峨本と呼称される資料で現存するものには、
『伊勢物語』10 種 、
『伊勢物語聞書』
(肖聞抄) 2 種 2 冊 、
『源氏小鏡』1 種 2 冊、『方丈記』2 種 1 冊 、
『撰集
抄』2 種 3 冊、『徒然草』6 種 2 冊、
『観世流謡本』9 種 100 冊 、
『久世舞』( 30 曲本)1 種 1
冊、
『久世舞』( 36 曲本) 1 種 1 冊 、
『新古今和歌集抄月詠歌巻』2 種 1 冊 、
『百人一首』2
種 1 冊、
『三十六歌仙』2 種 1 冊、『二十四孝』1 種 1 冊など 13 点ある。うち『新古今和
歌集 』
、
『三十六歌仙』
、
『二十四孝』の 3 書は木版本で、光悦、素庵らの美筆を版下とし
た木活字本である。]
1608. ○【日本】遊女歌舞伎が全盛を迎える。
1608. ○【日本】昨年より、院内(のち、秋田県雄勝町)で、村山宗兵衛が夢の告げで銀山
採掘が始まり、山に数千人がむらがる。ここに遊女、白拍子が 5 人下り来る。[以後、あ
ら町には傾城、白拍子、夜発(やほつ)などが二百余人徘徊する。また 、うかれ女も 10 人、20
人と集まり徘徊する。](
『院内銀山記後編』1660)
1608. ○【オランダ】この頃、オランダで良質のレンズが生産され、レンズ研磨師で眼鏡
師のリッペルスハイ Hans Lippershey (38)が、遠くのものを近くに見えるようにする道具、
すなわち望遠鏡を発明、特許を出願する。( 1609 年とも。)[以後、これを聞いたイタリ
アのガリレイが、光学理論によってただちに倍率 3 倍の望遠鏡を製作する。1609 年、さ
らに高性能のものに改良する。]
1608.○【イギリス】イングランドの航海者ハドソン Henry Hudson( ?∼ 1611?)が、イン
グランド商社の依頼で昨年に続き 2 回目の北極探検航海を行う。バレンツ海のノバヤ・ゼ
ムリャ島を経由する北西航路をさぐるが、またも失敗に終わる。この間、地磁気の北磁
極点を発見する。
1609(慶長14)
1609. 1.15【ドイツ】世界最初の定期的新聞、週刊『レラツィオン( Relation)』が、シュ
トラスブルク(のち、ストラスブール)で発刊される。近代的印刷新聞の先駆となる。[ま
た、同じく週刊の『アビソ Aviso 』も創刊され、両紙はドイツでもっとも古い週刊新聞
とされる。 ]
- 183 -
1609. 4. 9【オランダ】スペイン王フェリペⅢ世(31)が、ハーグでネーデルラント北部 7
州と休戦条約を結ぶ。オランダが事実上独立する。[直後に、ベネチアのリアルト銀行
に範を取って北ヨーロッパで最初の公立(市立)銀行、アムステルダム銀行(Amsterdamse
Wisselbank)が設立される。内外の雑多な鋳貨の流通による混乱を克服することを目的と
する。以後、アムステルダムの通貨は安定し、ヨーロッパ各地の商人たちも、ここに口
座を開く。当座貸越しを厳禁し、国や市への貸付けもほとんど行わない。アムステルダ
ム銀行の機能はヨーロッパの主要都市で模倣され、1619 年にハンブルク、1621 年にニュ
ルンベルク、1635 年にテルダムでそれぞれ同様な銀行が設立される。1732 年ころから東
インド会社への貸付けが次第に累積し、その財務内容は悪化をたどる。1795 年、フラン
ス軍がオランダを占領すると、大量の預金がハンブルクに逃げ出し、この銀行は事実上
その生命を終える。1819 年、回復不可能に陥り、正式に廃止される。
]
1609. [ 7.25]【日本】徳川幕府が、オランダ国王の要請を受け入れてオランダに貿易の
ための来航を許可する 。
[以後、オランダは、平戸に商館を造り、日本が鎖国を続けて
いる間にもここを拠点として貿易を行う。
]
1609. 8.−【イタリア】ガリレイ( 45)が、オランダで望遠鏡が発明されたことを知り、さ
らに高性能のものに改良して、倍率 32 倍の精巧な望遠鏡を製作する。人類で初めて望遠
鏡を天体観測に用いて、月面や天の川、そして惑星などに望遠鏡を向け、月の山やクレ
ーターを発見、天の川が星の集団であることや木星の 4 大衛星(ガリレオ衛星)を発見し、
これらを忠実に記録する。[ 1610.3 『星界からの報告』(『星からの使者』)として発表
する。]
1609. ○【日本】京都の本屋新七が、中国の詩文の選集『古文真宝(こぶんしんぽう)』を
出版する。日本最初の出版人とされる。
1609. ○【スウェーデン】政府が、官職として司書を定め、最初の国家司書官にヨハン・
ブーレ Johann Bure(41)を任命する。
1609.○【ドイツ】この頃、アウスグスブルグで週刊新聞『アヴィサ(アビソ)(Avisa)』
が発行される。近代的な最初の新聞とされる。
1609.○【ドイツ】シュトラスブルグで週刊新聞『レラツィオン( Relation)』が発行され
る(創刊月は不詳)
。12cm × 17cm、1 ページ 35 ∼ 45 行で 4 ∼ 8 ページ建てで、初の新
聞らしい体裁で、近代新聞の祖である週刊の印刷新聞の初めとされる。
1610(慶長15)
1610. 3.−【イタリア】ガリレイ( 46)が、自作の望遠鏡で、月面の山脈、木星の衛星、金
星の満ち欠けなど新発見をして『星界からの報告』として次々発表する。[以後、この功
績により、ベネチアの元老院からパドバの終身教授としての地位を与えられる。望遠鏡
は天体観測に不可欠の器械となり 、ケプラー、ホイヘンス、ヘベリウス、ニュートン、W.
ハーシェルら多くの研究者によって改良が重ねられる。]
1610.○【日本】院内(のち、秋田県雄勝町)で、銀の採掘が盛んになる。遊女屋が約 40
軒集まり、遊女町を形成することが奉行により認可される。京にまさるとも劣らない煩
が繁華の地を呈する 。『
( 院内銀山記後編』1660)
1610. ○【日本】京都原田アントニヨ印刷所で、『こんてむつす・むん地』が販売用に印
- 184 -
刷される。
[のち、重要文化財となる。
]
1610. ○【レバノン】レバノンで、印刷業務が開始される。
1610.○【フランス】この頃、ランブイエ侯夫人カトリーヌ・ド・ビボンヌ Catherine de
Vivonne( 22)が、ルーブル宮殿の近くにあった自邸でサロンを開く。フランス最初のサロ
ンといわれる。リシュリュー、コンデ大公、コルネイユらが常連となる。[以後、このサ
ロンは、ルネサンス以後の我の自覚、自由検討の精神、女性の地位の向上などを背景と
して、約半世紀の間繁栄する。]
1610.○【イギリス】ボドリー Thomas Bodley( 65)と書籍出版商組合の間の紳士協定にも
とづいて、イギリス最初の納本が自発的に行われる。[以後、ボドリーは、15 世紀に個
人文庫ではじまったオックスフォード大学の図書館の復興に尽力する。これを記念して、
ボドレーアン図書館と呼ばれるようになる。1662 年、新たな出版条例により、オックス
フォード大学のボドレーアン図書館、王立図書館、ケンブリッジ大学図書館が納本制度
による特権を得る。これは図書館の蔵書を確保するという面より、済聖(とくせい)的内
容のものや治安を乱すおそれのあるものの刊行を防止することを目的とする。1709 年、
出版者側が版権保護を求めたことで ,納本受入れ図書館は計 9 館に増える。1911 年以降、
納本図書館は、大英博物館図書館,オックスフォード,ケンブリッジ両大学図書館,ス
コットランドの国立図書館,ウェールズの国立図書館,およびアイルランドのトリニテ
ィ・カレッジ図書館となる。]
1611(慶長16)
1611.○【日本】京都・六条三筋町に遊郭ができる。[1640 年、島原に移転する。]
1611.○ 【ドイツ】この頃、ゼーゲン Ludwig von Siegan が 、凹版印刷術(concave printing
press )を考案する。
1611. ○【イギリス】ジェームズⅠ世の欽定訳聖書が、英訳聖書として初めてイギリスで
印刷される。これまで、英訳聖書はすべて大陸で印刷され、ヘンリーⅧ世らの弾圧をく
ぐり抜けてイギリスにもたらされていた。カトリックは自国語聖書の使用を禁止し、一
方プロテスタントはこれを奨励し、義務づけた。[以後、プロテスタントの信者には文字
を学ぼうという動機が公式に与えられる。(アイゼンステイン 、別宮貞徳監訳『印刷革命』
1987)]
1611.○【アメリカ】ヴァージニアに到着した 2 人の未婚女性が妊娠していると分かり、
即刻本国に送還される。以後数年間、このような女たちは、植民地の風紀を乱すとして
本国に送還される。
1612(慶長17)
1612. 4. 7【日本】院内(のち、秋田県)で初めて歌舞伎が興行される。江戸、駿府ではす
でに禁令が出されていた遊女歌舞伎は、当地では税金を課すのとひきかえに歌舞伎興行
が認可される。[∼ 4.9 。]
1612. ○【日本】遊女屋の亭主ら、庄司甚右衛門(甚内)を主導者として江戸の散娼を集め
て傾城町をつくることを願い出る。出願に際し、引負横領之事(一日一夜のみ逗留)、人を
勾引(かどわ)し並に養子娘之事(悪質遊女屋の取締り)、諸浪人悪党並に欠落(かけおち)者
- 185 -
之事(悪党らを見逃さず届け出る)の三ヵ条を条件とした。
[1617 年、許され、元吉原町
開基。]
1612. ○【日本】幕府が、キリスト教を禁じ、京の教会を取り壊す。
1612. ○【日本】佐渡国で金山が繁昌して、江戸にもないほどの遊山見物、遊女等が充満
する 。『
( 慶長年録』)
1612.○【フランス】新聞発行業者 T.ルノードが、広告代理業「金の雄鶏社(El Gallo de
Oro)」をパリで創業する。世界初の広告代理業とされる。[1812 年、イギリスの広告代
理業がロンドンで創立。1841 年、アメリカではフィラデルフィアで創業する。]
1612. ○【イタリア】ガリレオが、温度計を考案する。
1613(慶長18)
1613.[2.13 ]【日本】京都の内裏(だいり)で女歌舞伎が催される。
1613.[5.5 ]【日本】イギリスの東インド会社貿易船隊司令官ジョン・セーリス John Saris
(34?)が、軍艦グローブ号で肥前の平戸に来航し、上陸する。
1613. 夏【トルコ】 オスマン朝第 14 代スルタン、アフメトⅠ世(24)が、全土に禁酒令
を発布する。
1613.[8.4 ]【日本】イギリス東インド会社司令官ジョン・セーリスが、かねてより家康に
重用されていた同国人のウィリアム・アダムズ(50)に伴われて駿府に至り、家康、秀忠に
謁見しイギリス国王ジェームスⅠ世の国書と贈物を提出する。贈物の中に長さ 1 間(約
1.8m)ほどの「靉靆(あいたい)」(遠眼鏡)があり、 6 里(約 2.7km)遠方まで見える望遠鏡
で家康の歓心を得ようとする。日本最初の望遠鏡の伝来となり、家康が初めて望遠鏡を
見る。[以後、アダムズの斡旋で返書と、オランダよりも有利な通商許可の朱印を得て、
平戸に商館を開くことを決定し、リチャード・コックスを商館長に任命する。1614 年に
帰国する。一方、靉靆のほうは、イギリス側の意図に反して、一般人はもとより諸大名
が所持するのも禁止され、外国船の監視にもっぱら使用される。]
1613.○【日本】院内の傾城が最盛期を迎える。[以後衰微し 1618 年頃には傾城は存在し
なくなり、雇女、洗濯女らの下級遊女を中心とした遊里になる。]
1613. ○【日本】佐渡国の山先町(山崎町)と柄杓町に遊女町があり 、
「山先柄杓役」とい
う傾城税が課せられ、「地子銀帳」にしるされる。[以後、山先町の遊女からの営業税が
山先役、柄杓町の比丘尼からの営業税が柄杓役と呼ばれる。]
1613. ○【オランダ】株式を対象とする証券取引所が、初めてアムステルダムに設立され
る。
株式会社制度のはしりとされるオランダ東インド会社の株式がおもに取引される。
[以
後、ドイツのフランクフルト、イギリスのロンドン(ロンドン株式取引所)などにも設立
され、しだいに一般化していく。1791 年、アメリカのニューヨーク(ニューヨーク株式
取引所)にも証券取引所が誕生する。]
1614(慶長19)
1614. 9.−【日本】幕府が、ヤソ教師や教徒を大追放する。ポルトガルからもたらされた
印刷機械や活字を海外に返送する。[以後、印刷は朝鮮方式がもっぱら用いられ、西洋活
版術は 19 世紀中期まで中絶する。]
- 186 -
1614.12.21 [11.21]【フィリピン】キリシタン大名高山右近が、追放船でマニラに到着す
る。
[12.25 盛大なクリスマスのミサに右近が参列する。
](加賀乙彦)
1614. ○【日本】中野市兵衛が、空海の『遍照発揮性霊集』を民間の古活字により出版す
る。
1615(慶長20・元和1)
1615.[3.21 ]【日本】駿府(すんぷ)(のち 、静岡市)に退隠している家康が、以心(いしん)(金
地院(こんちいん))崇伝(すうでん)(46)と林羅山(道春(どうしゅん))(33 )に仏教書『大蔵
(だいぞう)一覧集』の開版を命じる。[以後、林らは、1606 年鋳造の銅活字に加えて、
不足分を鋳造させ、1 万 368 本が新規鋳造される。唐人林五官が鋳造を担当したと推定
される。6.30 『大蔵(だいぞう)一覧集』が開版され、10 部を家康に見せる。1616 年、
第 3 次鋳造で 1 万 3000 本を鋳造。駿河版活字は、銅活字 、木活字合わせ、前後 3 回で 11
万個近く作られる。
]
1615. 5. 7【日本】大坂夏の陣の最後の決戦が茶臼山・岡山付近で行われ、豊臣方の主力
が壊滅して真田幸村らが戦死する。
1615. 6.30 【日本】林道春(羅山)(33)が、徳川家康(74)の命により銅活字を用いて仏教書
『大蔵(だいぞう)一覧集』を開版し、125 部を印行し、家康に 10 部を進呈する。
1615.○【日本】この頃 、京都・島原で太夫の揚代が銀 53 匁、祝儀等を加えると 163 匁。
1615. ○【日本】大坂夏の陣の結末を報じた『安部之合戦之図』と『大坂卯年図』が刊行
される。瓦版、辻売り絵草紙のはじまりとされる。[以後、ともに現存するが,これを当
時印刷されたものとする直接の証拠はない。]
1615. ○【オランダ】スネリウスが、三角測量による最初の測定を行う。[以後、緯度・
経度や地球の大きさ、形がより厳密に測定されるようになり、地図の精度が増す。]
1615. ○【イタリア】ヨーロッパで最初のコーヒー店が、ベネチアに初めて開かれる。
〔世
界で最初にコーヒー店ができたのは、トルコのコンスタンティノープル(のち、イスタン
ブール)といわれる。〕[1645 年にはパリ、1650 年にはオックスフォードと波及する。以
後、ヨーロッパ全土に流行していく。]
1616(元和2)
1616. 2 .−【イタリア】ガリレオ・ガリレイ(52 )が、教会から地動説の放棄を強制される。
1616.[1.19]【日本】徳川家康が、駿府で林道春( 33)、金地院崇伝(47)に、唐から伝わり
中国では失われていた魏徴らの『群書治要(ぐんしょちよう)』の開版を命じる 。
[以後、
既存の銅活字に加えて、不足分 1 万 3000 本を唐人林五官( 66 ?)と庄兵衛が新たに鋳造
する。1606 年以来 3 次にわたる鋳造で、銅活字の在庫が 10 万 182 個となる。[2.25 頃]
林五官が銅活字新鋳の鋳立料を受領する。
]
1616.[4.17]【日本】午前 10 時すぎ、病臥中だった徳川家康(74 )が、『群書治要』の完成
を見ないまま、駿府城で急逝する。
1616.4.23【スペイン】小説家、劇作家、詩人セルバンテス Miguel deCervantesSaavedra( 69 )
が、マドリードで死去する。[以後 、セルバンテスを偲んで「本の市 」が毎年開かれる。4
月 23 日は、スペインのカタルーニャ地方に伝わる守護神サン・ジョルディを讃える日で
- 187 -
あり、この日に男は愛する人に勇気のシンボルの赤いバラの花を贈り、女は男に本を贈
るのが慣わしになり、青空市で本やバラの花が売られる。ユネスコは、4 月 23 日を「国
際本の日」と定める。1986 年、日本に紹介され、書店組合連合会などが 4 月 23 日を「サ
ン・ジョルディの日」と定める。]
1616. 4.23 【イギリス】詩人、劇作家シェークスピア William Shakespeare( 52 )が、死去す
る。[以後、世界演劇史を通じて最大の劇作家とされる。4 月 23 日を「シェークスピア
記念日」とされる。]
1616.[6.初]【日本】この頃、銅活字本『群書治要(ぐんしょちよう)』50 巻 47 冊約 100
部が印行される。[以後、
『群書治要』は、皇室や武家に重宝される。これを用いて、尾
張(おわり)藩の天明(てんめい)版、紀州藩の弘化(こうか)版と相次いで刊行され、普及
する。のちにこれらの銅活字本は「駿河版」と呼ばれる。1898 年、残存銅活字が東京・
麻布の徳川頼倫(よりみち)邸内に開設された南葵文庫に保管される。1940 年、南葵文庫
の解散に際し、日本勧業銀行総裁石井光雄(積翠)と徳富蘇峰の斡旋により、凸版印刷㈱
が、およそ 3 分の 1 にあたる残存の駿河版活字(銅活字 3 万 2166 個(大字 866 個、小字 3
万 1300 個)、木活字 5813 個、計 3 万 7979 個)と銅罫線 88 個、銅輪郭 18 個、摺板 2 面と
ともに駿河版『群書治要』41 巻(原欠 3 巻の他 6 巻欠)を所蔵することとなる。1942 年、
この活字を使って『積翠華甲寿記念論纂』(限定 300 部)の巻頭に「般若心経」が凸版印
刷㈱で印刷される。1944.12 徳富蘇峰の希望により『蘇峰詩集』(前・中・後編)が印刷さ
れる。この際、木活字が新刻補充され、実用版は紙型からとった平鉛版が用いられる。
1944.7.6 駿河版活字が重要美術品にに認定される 。1962.6.21 重要文化財に指定される。]
1616.○【日本】幕府が最初の人売買禁止令を出し、年季は 3 年とする。
1616. ○【日本】佐渡国・柄杓町の比丘尼の買春が禁止され、比丘尼らは近隣の九郎左衛
門町に集団移転する。
1616. ○【オランダ】印刷された競売目録が刊行される。[世界最初の競売目録(カタログ)
とされる。競売カタログの出現によって、情報は地域的なものから、しだいに国際的な
ものになっていく。(クシシトフ・ポミアン『コレクション』吉田城・吉田典子訳、平凡
社)。]
1616.○【オランダ】科学者ベークマン Isaac Beeckman( 28 )が、音の「微粒子」理論を提
唱する。弦のように振動する物体はすべて、周囲の空気を球状の微粒子に切り取り、振
動によりあらゆる方向に微粒子を放射し、これらの微粒子が鼓膜に衝突するときに音を
知覚すると考え、理論化する。
[1618 年 、デカルトが志願将校としてオランダ軍に入り ,
ベークマンを知って,自然学の研究に数学を利用する新しい方法を教えられるなど,強
い影響を受ける。1946 ∼ 47 年、イギリスの物理学者ガボール Dennis Gabor が、量子物
理からの理論的な視点と実験により、音の粒子表現を提唱する 。
]
1616.○【イギリス】対数の発見したスコットランドの数学者ネーピア(ネピア)Laird of
Merchiston, John Napier( 66 )が、「ネーピアボーン」を考案する。[のち、計算尺に発展す
る。]
1617(元和3)
1617. ○【日本】旧北条氏城下・小田原の遊女町の首領庄司甚内(甚右衛門)が、江戸・吉
- 188 -
原(元吉原・のち、中央区人形町)に遊女屋の設立を願い出て 、幕府が 、これを公認する 。
条件は、客は一日一夜、遊女の衣服は関西のように華美でないこと、怪しい遊客は奉行
所へ訴えることを命じる。甚内は、江戸の遊女業者が各地に散在しているため取締りが
困難なこと、遊女街が反徳川浪人の居場所になっていることなどから、「専売」を幕府に
申し込んでいたもの。割り当てられたのは、江戸町一、二丁目、京町一、二丁目の 4 町
で、2 町(200m )四方の泥地で葭(よし)が茂っていたのを、縁起をかついで吉原と名付け、
工事を始める。[1918 年に完成、開業する。]
1617. ○【中国】明で小説『金瓶梅』が出版される。
1617. ○【ウクライナ】キエフで印刷業務が開始される。
1617.○【オランダ】ライデン大学数学教授スネル(ラテン語読みでスネリウス) Willebrord
Snell(26)が、地球の上の 2 点の距離測定のために三角測量法を発明する。
[17 世紀中期
にフランスで発明される望遠鏡とバーニア目盛りのついた測角器を用いることにより、
長い距離を巻尺で精度よく測るという困難な作業を減らし、かわりに多くの角を測定し
て、広い区域にわたって高い精度で位置の測量をすることが可能となる。
]
1617.○【イギリス】この頃、スコットランドの貴族で、対数計算の創始者 J.ネーピアが 、
「ネーピアの計算棒」と呼ばれる計算器具を発明する。これは,九九の表を分解記入し
た棒を並べて,乗除算を行うものであって,実用的に広く使われる。イギリスが世界の
海を支配し始め、天文学や三角関数に基づいた航海術における計算需要がその背景とな
る。[ 1623 年ころ,ドイツのシッケルト W.Schickerd が、ネーピアの計算棒による乗除算
機構と歯車による加減算機構とを組み込んだ計算機械を試作しようとする。]
1618(元和4)
1618.11. −【日本】江戸・吉原(元吉原・のち、中央区人形町)で、庄司甚内を首領とし
て画期的な遊女町が営業を始める。たちまち日本三大遊女町の一つになる。遊女は 3 階
級あり、大名や大町人を相手とする太夫、中級の格子女郎、下級の端女郎で、太夫は京
都出身が多く、美人であることはもとより、茶道、華道、歌道などの教養が深いことも
条件とされる。この頃、客は直接遊女屋に行くのではなく、揚屋という高級茶屋に行っ
て遊女を呼ぶのが原則とされる。客は、酒食を茶屋でとり、遊女とも茶屋で寝る。[16
年に吉原に所替えを命じられる。]
1618.○【日本】この頃、菱川師宣(∼ 1694 ?)が生まれる。浮世絵師の始祖で、四十八
手の考案者。作品には肉筆が「見返り美人 」
、版画「吉原の体 」
「月次遊[月並み遊び]」
などがある。
1618.○【スウェーデン】国立文書館が設立される。
[1878 年、完全な独立機関となる。
]
1618. ○【フランス】パリに書籍商・印刷業者・製本業者組合が、王権の認可を得て設立
される。[ 1644 年、地方にも書籍商組合が設立される。作家たちは、書籍商に作品を売
るか、有力な書籍商に雇われたり、国王や貴族をパトロンとして庇護を受ける。]
1619(元和5)
1619.○【日本】徳川頼宣が、紀州に転封する。駿河版銅活字も紀州に移管される。
[1846
年、紀州版『群書治要』が刊行される。]
- 189 -
1619. ○【日本】幕府が、詳細な人売買禁止規定を定める。
1620(元和6)
1620. ○【日本】幕府が、漢訳の洋書『欧羅巴人利瑪寶らが作、三拾弐種之書、ならびに
邪宗門教化の書』を禁書にする。32 種の中にはユークリッド幾何学の『幾何原本』など
もある。
1620. ○【日本】この頃、民衆向けのかな書き中心の小説,実用書,娯楽読物が出版され
るようになり,それらを売り歩く行商本屋が登場、貸本屋も兼業する。
1620. ○【ドイツ】この頃、天文学者ケプラーが、移動可能なテント型のカメラ・オブス
キュラを製作し測量に使用する。同じころウュルツブルク大学の数学教授カスパル・ショ
ットが、焦点調節のできるものを製作する。
1620.○【オランダ】この頃、ヨーロッパの「ニュース集散地」であるアムステルダムで 、
のちの新聞に類似した多くの 1 枚刷りのニュース媒体「コラントス corantos」が出され
る。[ 1621 年、イギリスのアーチャー Thomas Archer が,これらのオランダのニュース媒
体を翻訳して、初めて報道の小冊子『ニューズブック(newsbook)
』を出版する。]
1620.○【オランダ】天文学者・物理学者、ライデン大学数学教授スネル Willebrord Snell
(29)が、光の屈折の法則を実験的に発見する。[以後、公表しない。1637 年、デカルト
が理論的に屈折の法則を論じたのを機会に 、
「スネルの法則」として世に知られるよう
になる。]
1620.○【フランス】カトリック・ルネサンスにより、宗教書の出版が盛んになる。
[以後、
1650 年まで続く。
]
1620. ○【イギリス】旅行用の大きな鞄が作られるようになる。中には、銀無垢に金メッ
キした皿、洗面用具、筆記用具、ポット 、照明用具 、蓋付き缶が入るようになっている。
1620.○【イギリス】思想家ベーコン Francis Bacon( 59)が、
『学問の大革新』全 6 部とし
て予定されている書の第 2 部として『ノウム(ノヴム)・オルガヌム Novum Organum(新
機関)』を著す。第 1 巻で、活版印刷術、火薬、羅針盤を、学問・戦争・航海に大変革を
もたらした3大発明として掲げる。さらに、人間の知性の真理への接近を妨げる偏見と
して、4 つのイドラ idola (偶像または幻影)をあげる。第一は、自己の偏見にあう事例に
心が動かされる、人類に共通の種族の偶像、第二は、いわば洞窟に閉じ込められ広い世
界をみないために個人の性向、役割、偏った教育などから生じる洞窟の偶像、第三は、
舞台上の手品・虚構に迷わされるように、伝統的な権威や誤った論証、哲学説に惑わさ
れる場合の劇場の偶像、第四は、市場での不用意な言語のやりとりから生じる市場の偶
像である。
1620. ○【イギリス】トーマス・シェルトンが、ウィリス式速記法を改良して、シェルト
ン式符号を考案、初版を発表する 。
[1630 年(一説に 1625 年)改良 2 版「ショート・ライ
ティング」を発表する。]
1620.○【イギリス】天文学者エドマンド・ガンター Edmund Gunter( 39 )が、ガンター尺
とよばれる対数尺を考案し、コンパスを使って航海上の問題を解く計算に利用する。計
算尺の元祖となる[以後、イギリスのウィリアム・オートレッド William Oughtred(1574
∼ 1660)が、ガンター尺を 2 本相互に移動させることによって、コンパスを使わずに計
- 190 -
算できるようにする。また、オートレッドは、円板の周上に目盛りを施した最初の丸型
計算尺を発明する。以後、イギリスで計算尺はしだいに改良されていく。とくにジョン
・ロバートソン John Robertson (1712 ∼ 76 )は真鍮製の薄片でカーソルをつくり実用価値
を高める。]
1621(元和7)
1621.○【日本】後水尾天皇が、宋の江少虞『皇朝類苑 』を 、銅活字を用いて刊行させる。
[以後、中国にも伝わり、永く伝来を絶っていた書物が、日本の翻刻本によって復活保
存される。
]
1621.○【イギリス】アーチャー Thomas Archer が、オランダのニュース媒体『コラント
ス corantos』を翻訳して、報道の小冊子『ニューズブック(newsbook )』をロンドンで出
版する。このためにアーチャーは投獄される。現物も残されていない。[ 9 月、〈N.B.〉
なる男がこの翻訳新聞刊行・販売の公認をもらって仕事を始める 。1622 年、規模を拡張,
ほぼ週 2 回、8 ∼ 24 ページのセミ・パンフレットの形で国外ニュース(国内ニュースは
厳禁された)集録を刊行する。この頃、「コラントス」とか「ニューズブック」と呼ば
れる新聞が多数出現する。1632 年、この国外ニュース翻訳新聞も禁止される。1638 年に
は星室裁判所(Court of Star Chamber )の事前検閲など制限つきで復活、自由に新聞が発行
できるようになるピューリタン革命まで続く。公認をもらった〈N.B.〉は、ロンドンで
本屋と出版を営んでいたバター Nathaniel Butter とされるが、同業のボーン(ブアーン)
Nicholas Bourne との説もある。]
1622(元和8)
1622. 5 .−【イギリス】アーチャー ThomasArcher とボーン(ブアーン)Nicholas Bourne が、
許可を得てイギリス最初の週刊の印刷新聞『ウィークリー・ニュース Weekly News
(Newes ?)』を創刊する。[以後、
『A Courant of General News』などと題号は不定。10
月、
『Weekly News』を継続する。
1622. ○【ドイツ】製紙業が盛んになり、原料のぼろぎれが不足気味になっているため、
政府は製紙工場を中心に発生したぼろぎれの独占的回収の特権を製紙業者に与える。
(『書
物の起源』)
1622. ○【フランス 】有力なパトロンの庇護を受けている画家・彫刻家など美術家がの「特
権享受者」が、公開勅書により独立性が制限される。これまで、組合加盟による公認を
義務づけられていた美術家が、パトロンを持つことにより自由な制作活動を行うことの
できる特権享受者があいついで活躍するようになり、組合側は特権享受者により組合の
権利が侵食されることを恐れて抗議してきた。[ 1623 年、組合の主張が最終的に認めら
れる。ルイⅩⅣ世時代、組合は特権享受者の美術家の数を減らすよう要求し、これを契
機に新組合として「アカデミー・ロワヤル」が設立される。]
1622. ○【ローマ】教皇グレゴリウスⅩⅤ世が、新旧両教の対立の中で、カトリシズムの
教義の積極的な宣伝を目的として「布教聖省 Sacra Congregatio de Propaganda Fide」を創
設する。[以後、ヨーロッパにおける組織化された宣伝の最初といわれる。]
1622.○【イギリス】占星術師ウィリアム・リリー( 20)が、万用歴と助言による利益、公
- 191 -
的地位による年金収入、弟子たちの払う保証金を合わせて、年間およそ 500 ポンドの収
入を得る。
1623(元和9)
1623.○【日本】この頃、京に書肆が 14 を数え、商業出版が成立している。[以後、出版
業が京を中心とする上方で栄える。]
1623. ○【日本】この頃、古活字本の仮名草紙『きのふはけふの物語』刊。(?)
1623.○【ドイツ】ケーニヒスベルクで、週刊報道紙『Avisen oder Wo()chentliche Zeitung 』
が発刊される。
1623.○【ドイツ】この頃、シッケルト W.Schickerd が、ネーピアの計算棒による乗除算
機構と歯車による加減算機構とを組み込んだ計算機械の製作を試みる。[のちに、この機
械は復元される。]
1623.○【イギリス】シェークスピア『ファースト・ジョリオ版』が、ロンドンの W.ジャ
ガードにより刊行される。
1623. ○【イギリス】世界で初めて発明特許法が制定される、
1624(寛永1)
1624.○【日本】この頃、湯屋の料金が 8 文になる。2 階には 8 文払えば利用できる座敷
がある。もう 8 文出すと菓子が出る。碁、将棋などが置いてあり、壁には芝居の番付類
などが貼ってある。湯屋は、老若男女を問わず江戸庶民の社交場となっている。[1772
年まで料金は据え置かれる。]
1624.○【デンマーク】コペンハーゲンに証券取引所(bourse)が設立される。
1624.○【ドイツ】シッカルト Wilhelm Schickart( 1592 ∼ 1635 )が、計算機械を考案する。
1624.○【イギリス】専売条例( Statute of Monopoly)が制定される。近代特許法の先駆と
される。[以後、このような産業保護制度の整備が、他国に先んじてイギリスに産業革命
をもたらしたとも考えられる。]
1624. ○【アメリカ】リチャード・コーニッシュが、同性愛で初めて有罪となる。若い男
に不自然な性関係を強要したとして絞首刑に処せられる。
1625(寛永2)
1625.○【日本】幕府が人売買を禁止し、年季を 10 年に改める。
1625.○【日本】この頃、江戸の風呂賃が 20 文。
1625.○【ヨーロッパ】再び魔女狩りが激しく行われる。[以後、1635 年まで約 10 年間行
われる。また、1660 ∼ 1680 年にも激しく行われる。]
1626(寛永3)
1626.11.18【バチカン】新大聖堂が完成し、ウルバヌスⅧ世により献堂式が行われる。 1506
年に着工以来 120 年の歳月を経ており、この年は奇しくも旧堂が献堂されてから 1300 年
目にあたっていた。[以後、工事は続行される。1657 年、ベルニーニによって巨大な柱
廊を巡らした聖堂前広場が整備さる。1566 年、この柱廊から教皇庁に通ずる階段「スカ
- 192 -
ラ・レジア」が完成される。]
1626. ○【日本】江戸市中に時刻を知らせる最初の「時の鐘」が、日本橋本石町に設けら
れる 。江戸城の鐘撞き役人辻源七が、この土地を拝領し 、鐘楼を建てて業務を開始する 。
1626. ○【日本】常陸水戸の富商佐藤新助が、幕府および水戸藩の許可を得て寛永通宝を
鋳造する。官銭ではない 。
[1636 年、江戸と近江坂本の銭座で、官銭として鋳造を始め
る。
]
1626. ○【中国】南京の呉発祥が、(飴−台+豆)印(多色刷版画)『羅軒変古箋譜』を刊行
する。
1626.○【オランダ】A.ヴァン・デン・シュピーヘルが、『胎児形態図譜』を刊行する。
1626. ○【フランス】出版業者セバスチャン・クラモワジーが、サンタレッリ『暴君放伐
論』を受け取った咎で処罰される。
1626.○【ローマ】布教聖省( De Propaganda Fide )の印刷所が建てられる。
[以後、諸言語
の活字群が組織的に蓄積され、これによる各言語の印刷物が作られて、世界各地域へ福
音が宣べ伝えられる 。
]
1627(寛永4)
1627. ○【中国】南京の胡正言が、(飴−台+豆)印(多色刷版画)『十竹斎書画譜』を刊行
する。
1627.○【フランス】マザランの個人文庫の司書ノーデ Gabriel Naud (e)が、図書館とい
うものは書物を集めておくだけのものでなく,大いに研究に利用さるべきもので,科学
者,研究者の「実験室」の性格をもつべきものであることを主張する。[1643 年、ノー
デがマザラン図書館を創建する。
]
1628(寛永5)
1628.1.20【フランス】枢機卿・宰相リシュリュー Armand Jean du PlessisdeRichelieu( 43 )
が、万用歴の著者たちがその守るべき義務を逸脱し、占星術的予言など確かな根拠のな
い無益な事項を盛り込み、国民を困惑させていることを遺憾とし、万用歴に 1 ヵ月間の
月の様子、蝕 、および大気のさまざまな傾向や性質以外の事柄を掲載するのを禁止する、
と宣言する。
1628.○【ドイツ】イエズス会士キルヒャー Athanasius Kircher( 26)が、エジプトのオベリ
スクを写生した画集を通じて聖刻文字(ヒエログリフ)を知る。[1636 年に、コプト語
を手がかりに解読に着手する。1652 年,その成果を『エジプトのオイディプス』として
公表する。]
1628.○【イタリア】北イタリアでペストが流行し始める。[翌 1629 年までの 2 年間に死
者が 100 万人に達する。ペストの流行の際、生き残った聖職者たちが患者を介護しても、
再びペストにかかることがなかったことが、恩寵(おんちよう)として語られる。]
1628.○【イギリス】ロイヤル・カレッジ・オブ・フィジシアンのラムレー講師(教授相当 )
ハーベー(ハーヴェイ)William Harvey (50)が、多くの冷血動物や温血動物の生体解剖によ
って、心臓の動きや弁膜の機能の解剖生理学的研究を行い、大循環、小循環を明らかに
して 、
『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』Exercitatio anatomica de
- 193 -
motu cordis et sanguinis in animalibus(四つ折判 72 ページの小冊子)を、フランクフルト
・アム・マインで出版する。
1629(寛永6)
1629. ○【日本】幕府が、キリシタン摘発のために絵踏みの制度を案出し、まずは信者の
多い長崎で実施する。絵踏みに用いられる絵は「踏絵(ふみえ)」と呼ばれる。
1629. ○【日本】幕府が、女歌舞伎を風紀を乱すものとして禁止令を出す。ここに女によ
る歌舞伎の上演は終止符を打つ。[以後、ひとたび流行したこの奇抜な踊りは人々の心を
捉え、消滅消滅することなく、密かに法網をくぐって、前髪の美少年たちを女装させ踊
らせる歌舞伎、若衆歌舞伎が流行する。]
1629. ○【日本 】幕府が、吉原の夜間営業を禁止する 。[以後、銭湯の一種である「湯女(ゆ
な)風呂」が人気を集める。容色のすぐれた湯女をかかえて ,浴客の垢をかき,髪を洗い,
酒席にはべるなどさせる。このような湯女風呂が堀丹後守の邸前(のち、神田須田町付
近)に何軒かあり、江戸では丹前(たんぜん)風呂の名が喧伝され ,
〈丹前風〉と呼ぶ風俗
を生み出す。]
1629.○【オランダ】エルゼヴィール(エルゼビア) Elsevier が、袖珍版古典双書の刊行に
踏み切る。
[1880 年、創業。
]
1629. ○【フランス】ミショー法典が発布される。出版統制に関する箇条で、検閲人を選
ぶのは大法官であることが定められる。[以後、この規定にもかかわらず、パリ大学神
学部との抗争はなおも続く。1653 年、大法官セギエが、パリ大学神学部より事前検閲権
を奪取する。
]
1629.○【フランス】コンラール Valentin Conrart( 26)が、サロンを始める。ボアロベール
やシャプランの集会所となる。[1635 年に誕生するアカデミー・フランセーズの母体とな
る。]
1629.○【アメリカ】ピューリタンの一群が、マサチューセッツの植民地へ 62 冊の小コ
レクションを持参する。[1638 年、宣教師ハーバード John Harverd の遺贈になる 260 冊
の蔵書により、ハーバード大学図書館がスタートする。
]
1630(寛永7)
1630. ○【日本】幕府が 、禁書令により、キリシタン信者の国外追放とともに 、伴天連(バ
テレン)訳述のキリシタン関係書 32 点の輸入を禁じ,所持も禁じる。
『天学初函』19 点
はキリスト教義の書で、その他 13 点は数学・天文測量書。[1639 年、鎖国令とともに厳
重に取り締まる。]
1630. ○【日本】この頃から、庶民を対象にした出版物の印刷は、活版から版木に転換し
てゆく。活字は約 8 万種の鋳型を必要とし、さらに嵯峨本のように連綿体に対応するた
めの 2 字続き活字、3 字続き活字の鋳造も必要になる。出版数が増えれば、鋳型ととも
に大量の銅活字のために膨大な量の銅が必要になる。また木活字で彫るとしても、手間
は板に彫るのと大差ないことになり、活字のメリットはほとんどなくなる。さらに読者
層が庶民に及ぶにしたがって、漢字に振り仮名をつけるとか、挿絵も必要になる。[1635
年ころ、出版業界は活字の使用を断念する。以後、仮名草子をはじめ、紀行、注釈、評
- 194 -
論、俳諧集などが版木によって出版されるようになる。版木によって可能になった振り
仮名は、中国語の原文に、右側には漢字の読み、左側には翻訳をつけることを可能にし
て、中国大衆小説や詩集の翻訳書を大衆化して、日本独特の出版形態を作り出してゆく。
『唐詩選』なども、文字が篆書、隷書、楷書、草書などいくつもの字体で印刷され、絵
を中心に編集されて『唐詩選絵本』として大量に出版される。]
1630. ○【ドイツ】ハンブルクの郵便局長ハンス・クラインハウスが、ニュース紙を発行
する。[∼ 1675 年。]
1630.○【ドイツ】アルシュテット Johann H. Alsted (42)が、
『分類百科事典(Encyclop ■
diaseptem tomio distincta )』を著す。初めて「エンサイクロペディア」の語を用いて、プ
リニウス以後の分類型大著となる。[以後、ラテン語で書かれたため、一般には利用され
ない。]
1630.○【イギリス】トーマス・シェルトンが、1620 年に考案した速記符号を改良し、改
良 2 版「ショート・ライティング」を発表する。(一説に 1625 年という。)[ 1641 年、ス
ピーディー・ライティングとも呼ばれる「タキグラフィー」を発表する。
1630. ○【イギリス】この頃、演劇で両性具有的な少年俳優に代わって、初めて女優が登
場する。異性装は神への冒涜として清教徒に攻撃されていた 。
(國學院栃木短大、山崎
順子「シェイクスピアと歌舞伎」交際会議、西宮市・尼崎市、1995.8.8 )
1631(寛永8)
1631.5.30【フランス】外科医でルイⅩⅢ世の宰相だったルノード Th レ ophraste Renaudot
(45 )が、週刊の印刷新聞紙『ガゼット( La Gazette)』を創刊する 。4 ページ建て。
[11 月 、
「各地通信」4 ページがつけ足される。『ガゼット』より少し前に創刊されていた『各地
通信』を、宮廷をバックにしたルノードが吸収合併したものと言われる。しかし『ガゼ
ット 』(のち『ガゼット・ド・フランス』と改称)がフランス最初の新聞で、ルノードは〈フ
ランス新聞の祖〉だとされる。1650 年ころ、一種の旅行代理店である「アドレスとめぐ
りあいセンター」を設立する。1925 年、彼にちなんで小説を対象とする文学賞「ルノー
ド賞 」が設けられ、1926 年から授賞が開始される。授賞日はゴンクール賞と同日である。
]
1631.○【チェコ】モラビア生まれの教育思想家コメニウス Johann Amos Comenius(39)が、
百科全書的原理によるラテン語教科書『語学入門(Janua linguarum reserata ) 』を公刊する。
言語教育の領域で、ヨーロッパに一躍有名になる。[ 1633 年に『語学入門手引(Janua
linguarum reserataevestibulum )』を著す。]
1631.○【スペイン】アラオス Francisco de Ar(a) oz が、
『 図書館での配列の仕方』を著し、
書物を 15 のカテゴリーへ分割する。5 つは宗教的なもので、神学、聖書研究、教会史、
宗教詩、教父たちの業績とする。のこりの 10 は世俗的なもので、辞書、主要論題集、修
辞学、世俗史、世俗詩、数学、自然哲学、道徳哲学、政治学、法学とする。
1631.○【イギリス】この頃までに、馬車( coach)がロンドンで普通の乗り物になってい
る。のちのタクシーの前身であるハックニー乗合馬車が、非常に数が増える。ブラック
フライヤーズの住民たちは、貴族たちが劇場に馬車でやってくることで生じる迷惑につ
いて枢密院に嘆願する。[以後、クロムウエルが、免許システムを導入して馬車の数を制
限する。1634 年 、椅子付きの駕籠「セダン 」が流行して、問題を一層複雑化させる。](『ロ
- 195 -
ンドン年代記』)
1631. ○【イギリス】王室御用印刷師のロバート・バーガーとマルチン・ルーカスが、八つ
折り判欽定聖書を 1000 部印刷したが、出エジプト記第 20 章 14 節の「汝、姦淫するなか
れ」とすべきところを、否定の「なかれ(not) 」を落とし「汝 、姦淫せよ 」としてしまう。
刊行後間もなく誤りが発見され、直ちに回収、焼却を命じられる 。
『姦淫聖書(Adultery
Bible)』あるいは『邪悪聖書( Wicked Bible)』と称せられる。[ 1632 年 5 月 8 日に、高等
査問会の法廷に召喚、6 月 14 日に再審問され、300 ポンド(一説には 500 ポンド)の罰金
を課せられる。1855 年にイギリスの古書籍商ヘンリー・スティブンスが偶然に! 冊を発見
する。]
1632(寛永9)
1632. 2.−【イタリア】ガリレイ Galileo Galilei( 68 )が、6 年間をかけて 1630 年に脱稿し
ていた地動説に関する論考が『天文対話』として刊行される。コペルニクス理論と地球
上での力学理論の整合、つまり天地の同等性を述べることを主要な論点とする。[ 7 月、
発売禁止令が出る。10 月、ローマの異端審問所への出頭命令が出て第二次宗教裁判が始
まる。1633 年 6 月、判決が下り、「異端誓絶」を強制される。12 月、幽閉される。1634
年、長女ビルジニアが死去し、ほどなく両眼を失明する。]
1632. ○【日本】林羅山が、忍ヶ岡の邸内に忍岡文庫を設ける。
1632.○【中国】(天聡 6)清の第 2 代皇帝太宗(ホンタイジ Hongtaiji)(40)が、文館の儒臣
達海(ダハイ)に文字の改良を命じ、 1599 年に制作された「無圏点老満文」の字母の傍ら
に圏と点をつけ、漢字音を表す新しい字母を加えるなどして「有圏点満文」が考案され
る。満州文字は縦書きであるが,行は左から右へ追う 。[以後、清朝時代の文献の大部
分が有圏点満文で記される。現在まで満州族の子孫 、新彊シボ族が使用し続ける。シボ(錫
伯)族(シベ族ともいう)は、遠く清の西辺の防備のため,1764 年∼ 65 年にかけて満州から
新疆へ移住した兵士と家族の子孫が、新疆ウイグル自治区のチャプチャルシベ(察布査爾
錫伯)自治県などで定住し、満州語を話している。この満州語はシボ(錫伯)語(シベ語)と
もいう。](中嶋幹記「世界の文字 24 満州文字 」
『三省堂ぶっくれっと 』No.120 、1996、)
1632. ○【イラン】ペルシャのサルー・サルタキ(年とった宦官)が、アッパースⅡ世の宰
相となる。
[∼ 1945 。厳しい法律で買春行為を禁止する。
(シャルダン『ペルシャ紀行』
)
1633(寛永10)
1633. 6.22【イタリア】ローマの異端審問所が、ガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei (69)に
有罪判決を下す。ガリレイは、地動説を破棄するよう「異端誓絶」を強制され、自宅で
の謹慎を命じられるが、
〈それでも地球は動いている〉と抗議する。[12 月、ローマの自
宅に幽閉の身となる 。1634 年 、長女ビルジニアが死去し 、ほどなく両眼を失明する。1642
年 1 月 8 日死去。1983.5.9 ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世が〈かつてガリレイが教会側か
ら苦痛を被ったことを認める〉と、バチカンで開催中の国際シンポジウムで発言、350
年ぶりにガリレイの復権を認める。]
1633.12. −【ドイツ】ザクセン候が、ライプチヒのモーリッツ・ペルナーの手書き新聞を
印刷新聞にすることを許可する。
- 196 -
1633. ○【日本】長崎出島のオランダ商館長が、対日貿易を許可されている礼を述べるた
め、江戸へ赴く。[以後、毎年江戸に赴くようになる。]
1633. ○【日本】この頃、江戸で湯女風呂が流行する。湯女は入浴の世話をしたり、浴後
の接待をしていたが、多くが私娼化してひそかな人気を得て、このような女を 20 ∼ 30
人を抱える町湯が「湯女風呂」と称して急増する。[以後、幕府は、湯女の私娼化と湯
女風呂が市中の遊侠者の溜まり場になっていいることなどを理由に、度重なる取締りを
行うが、なかなか実効があがらない。1657 年、これを全廃し、新吉原へ吸収させる。
]
1633. ○【フランス】ジヤック・コサールが、フランス最初の速記法を発表する。[以後、
実用化されない。1778 年、クロン・ド・テブノがクロン式を発表、実用が始まる。
]
1633.○【イギリス】ロンドンの商人トーマス・ウィザリングスが、外国郵便局長となり 、
ロンドン∼アントワープ間の郵便を週数回に増やす。所要日数は 3 日。
1634(寛永11)
1634.[閏 7.9]
【日本】薩摩藩の征服下にあった琉球の使節団が、将軍の代替りを祝う賀
慶使として来航し、薩摩藩主島津家久に伴われ、二条城で将軍家光に謁見する。
1634. ○【フランス】宰相リシュリューが、アカデミー・フランセーズ(フランス学士院)
を創設する。40 人の終身会員から成り、“不滅の 40 人”と称せられる。会員には、正し
い国語を確立するために辞書を作り、文法書を刊行することなどの任務が課せられる。
[1694 年、最初の『アカデミー辞典』が発行される。
]
1634. ○【フランス】ルダンの修道女ジャンヌ・デザンジェが、牧師グランディエに失恋
し、エロティックな妄想、ひきつけのあげく、想像妊娠をする。このことで牧師は火あ
ぶりの刑となり、彼女は広く崇拝された。[この事件をもとに、1952 年にオルダス・ハク
スリーの小説『ルダンの悪魔』、 1970 年代にケン・ラッセルの映画『肉体の悪魔』などが
作られる。]
1634. ○【イギリス】ロンドンの交通手段の一つとして、フランス式の椅子付き駕籠「セ
ダン( sedan)」がはやりだす。在来の乗合馬車( coach)に入り交じって、交通渋滞や駐・
停車場所での混雑を引き起こし、問題化する。『
( ロンドン年代記』上巻 p.183 に図あり。)
1635(寛永12)
1635.[ 5.20]【日本】幕府が 、外国船の入港を長崎に限定する 。
[[5.28] 「第 3 次鎖国令」
により、日本人の海外渡航、海外からの帰国を禁止する。
]
1635.○【日本】朝鮮との関係が修復する 。
[1636.12 正規の通信使(朝鮮通信使)が来日す
る]
1635. ○【日本】 参勤交代が始まる。以後、全国の幹線道路が整備され、安全で清潔な
ものに整備されていく。
1635.○【フランス】宰相リシュリュー Armand Jean du Plessis de Richelieu ( 50)が、フラ
ンス語の改良や純化に寄与する目的で「アカデミー・フランセーズ(Acad レ mie fran ぅ
aise)」を創設する。1633 年ごろ、リシュリューが詩人コンラール Valentin Conrart( 1603
‐∼ 5)の家で文芸同好会のような集りがあるのを知り、これを公的機関に制定した。会
員は 40 名。終身制で「不滅の 40 人」と呼ばれ、フランス国籍所有者に限られ、例会出
- 197 -
席のためパリ在住を義務づけられる。[以後、フランス語と文化についての最高権威の組
織として、永く活動を続ける。1640 年、王立印刷所を創設する。]
1635.○【フランス】王室薬用植物園が発足する。[1640 年、民衆に公開される。1739 年、
博物学者ビュフォンが園長に就任。以後、1788 年までの間に、世界有数の植物園に発展
する。ここで解剖学、植物学、化学の講義が行われる。パリ植物園(Jardin des Plantes )と
なり、国立パリ自然史博物館の付属施設とされる。]
1635. ○【イギリス】王室の専用の国営郵便が、一般国民に開放される。ロンドン∼エジ
ンバラ間に郵便馬車が設けられる。[ 1680 年、ロンドンの商人ドクラ W. Dockwra が、ペ
ニー郵便を創設する。]
1635.○【イギリス】ジェリ・ブランドが 、地磁気の偏角が経年変化することを発見する 。
1635. ○【イギリス】初の郵便法がつくられる。王室専用だった政府直営の郵便が一般国
民に開放される。
1636(寛永13)
1636.[ 5.19]【日本】前年に続き、幕府が鎖国令を発す。日本人の海外渡航を厳禁し、ポ
ルトガル人とその家族を国外追放する。第 4 次鎖国令で、これをもって「鎖国令」の枠
組みがほぼ完成する。[以後 、
「寛永の鎖国令」と呼ばれる。
]
1636.[12.13]【日本】前年に朝鮮との関係が修復し,正規の通信使(朝鮮通信使)任絖が
来日、泰平を祝して江戸城で将軍家光に謁見する。[12.20
[
] 一行が日光東照宮に参拝
する 。
]
1636.○【日本】江戸の城下町が一応完成する。家康が着手以来 46 年目のことである。
1636. ○【日本】幕府が、正貨として銅銭「寛永通宝」の鋳造を許可し、江戸の浅草橋場
・芝縄手の 2 ヵ所、および近江坂本の銭座で鋳造が開始される。
[1637 年、陸奥仙台・常
陸水戸・越後高田・信濃松本・三河吉田・備前岡山・長門萩・豊後竹田の 8 ヵ所にも銭座が増
設される。その後全国各地に銭座が開設されて銅銭貨の大量鋳造が行われる。1869 年、
寛永銭 1 文が 1 厘となって通用する。1871 年、造幣局でつくられた貨幣が発行され,寛
永銭は流通市場から姿を消す。
]
1636.○【日本】幕府が 、キリシタン関係書の輸入取締りのため、長崎に春徳寺を建立し,
開山泰室に目利(めきき)(検閲者)を命じる。[1685 年、副目利長崎聖堂祭酒向井元成が、
清船積荷検閲で『寰有詮』等を発見し、その功で正副目利の地位が逆転する。]
1636.○【中国】金のホンタイジが、皇帝を称し、金を清と改める 。
[1644 年、明は滅亡
し、清軍が万里の長城を越えて中国に入り、順治帝が都を北京に定める。
]
1636.○【ドイツ】イエズス会士キルヒャー Athanasius Kircher( 34)が、コプト語を手がか
りに、エジプト聖刻文字(ヒエログリフ)の解読に着手する。
[1628 年、エジプトのオベ
リスクを写生した画集を通じて聖刻文字を知り、解読を試みる。その成果を『エジプト
のオイディプス』(1652 ∼ 54 )として公表する。しかし解読法がカバラの神秘的な言語
分析法に拠りすぎていたため今日では誤読とされているが,着想の方向としては正しか
った 。
]
1636.○【フランス・イタリア】メルセンヌ Marin Mersenne(48 )とガリレオ(72)が、音の
- 198 -
ピッチは波形の周波数によるものであることを実験的に調べる。
[1636 年、メルセンヌ
が大著『普遍和声学』を著す。さらに、メルセンヌとガッサンディは、音波の伝達速度
を決定する最初の実験を行う。以後 、実験に基礎を置く近代科学の確立と推進に尽くす。]
1636. ○【スペイン】セビリアで、ティルソ・デ・モリナが戯曲『セビリヤの色事師と石の
客人』を発表する。[以後、ドン・ファン伝説の起源となる。]
1636. ○【アメリカ】アメリカで最初の私立大学、ハーバード・カレッジ(のち、ハーヴァ
ード大学)が、マサチューセッツ州ケンブリッジに創設される。イギリスからニュー・イ
ングランドに移住してきたピューリタンが、上陸して 17 年目のこの年に、牧師養成のた
めの宗教教育を目的として創設する。創立に際し、イギリス生れの牧師ハーバード(ハー
ヴァード)John Harvard( 29)が最初の寄付者となり 、校名はその名を記念してつけられる。
[1638 年、ハーバードが死去し、遺言により財産と蔵書が寄付される。1643 年、このカ
レッジ創設の理念を〈「学問を進め、これを子々孫々に不朽に残し、将来教会が無学の
牧師に任せられるようなことがあってはならない〉という文書で示す。この文句は、現
在同大学校門に彫られている。]
1637(寛永14)
1637. 7.−【イギリス】チェンバー Star Chamber が、厳しく広汎な印刷物取締令を布告す
る。扇動的冊子や文書の印刷を禁じ、輸入書籍販売事前検閲、許可・登録前の図書印刷
の禁止、著者の了解なき図書の再刊の禁止、図書・バラード・地図・肖像等の印刷物に
印刷者・発行者・著者名を明示することなどを規定する。また、王立・大学の印刷所以
外の印刷業は 20 人に限定し、1 印刷師の印刷機は 2 基 、徒弟を 2 人に限定する。[以後 、
Star Chamber が、不穏文書作成の罪で冊子作者プリン、僧バートン、医師バストウィッ
クらに罰金刑、さらし刑、耳削ぎ刑に処す。また 、印刷許可不要の手書き報道紙「newsletter」
の発行が急増し、週毎の手書き郵便ポストが出現する。1638 年、チャールズⅠ世が、報
道禁令を緩める。1640 年、議会が、プリン、バートンらを釈放し、補償する。大法官フ
ィンチはオランダに逃亡する。]
1637.○【日本】幕府が、江戸中の風呂屋の湯女(ゆな)を 3 人限りに制限する。この掟を
破る者は吉原大門の外で処刑される。
1637.○【中国】(崇禎 10) 宋応星(そうおうせい)が、産業技術書『天工開物(てんこうか
いぶつ)』を書く。[以後、中国では忘れられる。日本へは江戸中期に何部かがもたらさ
れる。1771 年、大阪の菅生堂が訓点と送りがなをつけて和刻本を出す。1927 年、日本に
留学していた章鴻釗(しょうこうしょう)が日本で見つけて中国に持ち帰り、翻刻する。]
1637. ○【デンマーク】コペンハーゲン天文台が設置される。安全な航海のために星の位
置や時刻を精確に定める目的で建てられた最初の近代的な天文台となる。
1637.○【フランス】デカルト( 41)の最初の作品『方法叙説(Discours de la m レ thode)』
が、
「屈折光学」、
「気象学」、
「幾何学」の 3 つの「試論」とともに、その序文として、
ライデンのジャン・メールによって刊行される。
「屈折光学」では、オランダの V.スネル
の考えをもとに光の反射・屈折を数学的に解析した。ここから屈折率の異なる 2 つの物
質を通過する光は入射角を大きくすると、すべての光を全部反射する全反射現象が起こ
ることを発見したことを報告する。
- 199 -
1638(寛永15)
1638. 9. 5【フランス】ルイⅩⅣ世が生まれる。[以後、おっぱいが好きで、何人もの乳
母たちのおっぱいを次々に飲み干してしまう。]
1638.○【日本】幕府が、遊女を抱えた江戸の銭湯主 11 人を磔刑に処す。
1638.○【中国】(崇禎 11)明政府の公報『邸報』が、木活字を使用して印刷、刊行される。
1638. ○【イギリス】チャールズⅠ世が、報道禁令を緩め、ナタニエル・バターとニコラ
ス・ブアンに誓詞を書かせて 21 年間のニュース印刷権を与える。納付金は 10 リーブル。
[以後、期間中に印刷を禁止する。]
1638. ○【アメリカ】北アメリカで最初の印刷が始まる。イギリスのステフェン・デイ
Stephen Daye ら印刷工が、印刷機と用紙などを携えてイギリスの植民地ニューイングラ
ンドに渡航、マサチューセッツのケンブリッジで、初めて印刷を行う。[ 1640 年、最初
の書物『ザ・ベイ・サーム・ブック』が発行される。]
1638.○【アメリカ】イギリスのピューリタン牧師ジョン・ハーバード John Harverd の遺
贈による 260 冊の蔵書により、ボストンに北米初の図書館、ハーバード大学図書館が発
足する。
1639(寛永16年)
1639. 3.−【アメリカ】ステフェン・デイが、マサチューセツでスター印刷所を興す。最
初に 1 枚刷りの『Freeman's Oath 』、
『1639 年暦』
、
『聖詩篇』などを印刷する。[のち、ケ
ンブリジ・プレスと改称する。]
1639.[7.−]【日本】幕府が、阿媽港船長ドアルテ・コレアノを焚刑に処し、長崎在住のオ
ランダ人妻子じゃじゃがたらお春らを追放する。ポルトガル船の日本渡航を禁止し、鎖
国が始まる。
1639. ○【日本】宮本武蔵が、九州黒田家の預かり武士(身分不定の家来)として江戸に滞
在し、島原の乱により、吉原の中級遊女屋から出陣する。
1639. ○【スペイン】アメリカ先住民の言語であるグアラニー語の辞典が出版される。
1639. ○【アメリカ】マサツーセツ州プリマスで、メアリー・マンデームがインディアン
のティンジンと数回戯れ、不潔な行為をしたかどで、町の通りを鞭打たれながら歩かさ
れ、常に服の左袖に罪の印を付けられる。これを怠れば顔にその印の焼印を押された。
ティンジンは誘惑の罪でさらし台で鞭打ちの刑を受ける。
1640(寛永17年)
1640.[6.−]【日本】幕府が、禁を破って来航してしばしばバテレンを船底に隠していた
阿媽港船のポルトガル人ら 74 人中 61 人を斬る。
1640.○【日本】1611 年にできた六条三筋町の遊郭の周辺に民家が建ち連なり、移転の必
要に迫られる。
1640.○【フランス】宰相リシュリュー Armand Jean du Plessis de Richelieu ( 55)が、王立
印刷所(Imprimerie Royale)をルーブル宮に創設し、国王の栄光、宗教の発展および文学
の進歩に役立てる目的で、公報紙、宗教書、科学書、文芸作品などを印刷・出版させる。
- 200 -
神話画、宗教画、風景画で名声ある画家プサン(プーサン) Nicolas Poussin( 46)が、ルイⅩ
Ⅲ世に招かれてルーブル宮の装飾にあたるかたわら、王立印刷所の刊本の扉の制作に従
事する。彼は古典主義的な簡潔さを貴び、古代風に襞のある衣をまとった数人の偉人の
姿を描くにとどめ、そのようなデッサンは従来の装飾画から口絵となり、書物の巻頭を
飾るイラストとなる。[以後、巻頭の口絵の次に活字だけの扉に書誌的データのみが記
載されるようになり、実用的に不可欠なものとなる。書物の構造に革新をもたらして、
諸方面に影響を及ぼす。また、精力的に数多くの言語の活字を製作・蓄積していく。]
1640. ○【アメリカ】ロスアンジェルスで、北米で初めて印刷が行われる。
1641(寛永18年)
1641. ○【日本】この頃、日本との貿易をとくに認められたオランダ船が、長崎来航にあ
たり海外情勢に関する風説すなわちニュースを総括した書『和蘭陀風説書(オランダふう
せつがき)』を、幕府に提出するようになる。キリスト教禁制を強行し、日本人の海外渡
航禁止の政策をとった幕府が、海外情報源の確保のための重要な手段としてオランダ人
による風説書提出が案出される。海外ニュース新聞の前身となる。[当初は、かならずし
も提出が義務づけられてはいないが、やがて通商許可に対する「御忠節」の性格を帯び
るに至る。1676 年、和蘭カピタン通詞の本木庄太夫らが『和蘭陀風説書』を和解して幕
府に提出する。1859 年 7 月、最後の『和蘭陀風説書』が出る。1976 年『和蘭(オランダ)
風説書集成』上下 2 冊(吉川弘文館)刊。]
1641.○【日本 】京の遊郭を、六条三筋町から朱雀野に移され、島原遊郭となる。幕府が 、
朱雀野の島原遊郭を公許する。
1641. ○【日本】遊女町吉原の昼夜営業を禁じられ、昼だけの営業となる。この頃、吉原
の遊女は約 950 人、うち太夫は 75 人。
1641.○【日本 】三浦浄心(みうらじょうしん)(76 )の『慶長見聞集』(1614 年刊)の分冊『そ
ぞろ物語』が独立刊行される。歌舞伎,元吉原の遊女町,湯女,遊女の西国への追放な
どを記し、慶長の江戸の風俗を克明に書きしるす。
1641.○【フランス】モントージエ侯爵の注文で、カリグラフィー傑作『ジュリーの花飾』
が作られる。
1641. ○【イギリス】国王の失政が追求され、長期議会において、国王独裁を抑制する改
革立法が制定される 。
[以後、国王空位時代が続く。1660.6.8 王政復古。
]
1641.○【イギリス】占星術関連の万用歴などの出版物を取り締まる 1603 年の法律を廃
止する 。
[以後、予言が、小論、小冊子、パンフレット、とりわけ万用歴というかたち
で、爆発的に流行する 。1643 年、議会が占星術師ジョン・ブッカー(1602 ∼ 1667)を、
「数
学(占星術)、暦、占い」の書を取り締まる公認の監督官に任命するが、徒労に終わる 。
]
1641. ○【イギリス】トーマス・シェルトンが、速記符号を改良し、スピーディー・ライテ
ィングとも呼ばれる「タキグラフィー」を発表する 。
[1650 年、改良方式「ジグログラ
フィア」を発表する 。
]
1642(寛永19年)
1642. 1 . 8 【イタリア】ガリレイ Galileo Galilei(77)が死去する。
- 201 -
1642.12.25 【イギリス】ニュートン Isaac Newton が、ウールズソープの農家に生まれる。
1642.○【日本】山東京山作・歌川国芳画『朧月猫の草紙』が刊行される。この頃、随筆、
名所記、研究書、中国大衆小説の復刻本などが作られるようになる。
1642.○【フランス】パスカル Blaise Pascal( 19 )が、税務所の役人の父親が毎日大量の計
算に悩まされるのを見て、歯車を組み合わせた加減算計算器を考案する。[以後、デジタ
ルの機械式計算機の最初のではないかとされるが、実用には至らない。1971 年頃、ドイ
ツのライプニッツが、パスカルの設計を改良して、加減乗除のできる四則計算機を試作
する。]
1643(寛永20年)
1643. 6.−【イギリス】議会が、再び印刷規制を強化し、出版に関する事前検閲令と出版
文具組合の登録令を施行する。書籍商帳簿に全書籍を控え書きさせる。[以後、ロンドン
以外に規制は及ばない。]
1643. ○【日本】山田浦(岩手県)にオランダ船が漂着する。代官が港に遊女を立たせ手招
きさせたら、船の 10 人がこれにつられて上陸し、これを捕らえる。『
( 山田町郷土資料御
用書留』)
1643. ○【ノルウェー】オスロで国内初の印刷業務が開始される。
1643.○【フランス】マザランの個人文庫の司書ノーデ Gabriel Naud (e)が、マザラン図書
館を創建する。[のち、フロンドの乱により散逸する。1661 年、マザラン学院図書館と
して再建される。
]
1644(正保1年)
1644.11.23 (推定)【イギリス】ミルトンが、前年 6 月に施行された出版に関する事前検閲
令に厳しく抗議して、パンフレット『アレオパジティカ Areopagitica』を出版する。前年
にミルトンが議会の許可なく出した、妻メアリーとの別離についての『離婚の教理と規
律』が議会で問題にされたことに抗議したもので、ミルトンは〈真理と虚偽を闘わしめ
よ。自由な公開の勝負の場で真理が負けたためしを誰が知ろうか 〉〈あらゆる自由以上
に、知り、発表し、良心に従って自由に論議する自由を我に与えよ〉と主張する。国家
権力に対抗して言論の自由を訴えた先駆的著文書となる。
1644. ○【日本】山形県尾花沢町の延沢銀山に、遊女役(売春営業税)が設けられる。
1644.○【日本】佐渡国・山先町(山崎町)に遊女屋が 14 件建つ。遊女 42 人、雇女 149 人
が「遊女役銀帳」に記載される。役銀は 5 匁。
1644. ○【中国】明が滅亡し、満州族の清軍が万里の長城を越えて中国に入り、順治帝が
都を北京に定める。
1644. ○【中国】上海で、印刷業務が開始される。
1644.○【イタリア】ローマに 1638 年に移住してきたドイツのイエズス会士・万能学者
のキルヒャー Athanasius Kircher( 42)が「幻灯機」を考案する。石油ランプを使用した光
源とレンズの外に種板を置き,正立像を写しだすもので、セットされた 2 枚のガラス絵
を左右に手早くスライドさせ、大食いの人物がブタに変わるといった〈動き〉のある映
像が写し出される。光学を応用してスクリーンに投影した世界最初の映像で、幻灯の原
- 202 -
理の先駆けとなる。
[1645 ∼ 1646 年、キルヒャーは『光と影の大いなる術』をローマで
刊行し、著者が考案した幻灯機を「ラテルナ・マギカ(魔法灯)」と呼んで紹介する。1671
年、同書第 2 版が刊行され、初めて幻灯のイラストレーションが挿入される。この図で
は、太陽光を光源に使い、逆像に描かれた原図像を鏡に映して反転し、レンズを通して
暗箱としての室内に投影するようになっている。キルヒャーは、他にも拡声器などを発
明、画家プッサンには遠近法を教授する。死後ローマに「キルヒャー博物館」が設置さ
れ、彼の残したおびただしい資料と文献が保管される。
]
1644.○【イギリス】詩人ミルトン John Milton( 36)が、結婚生活の破綻を契機に一連の離
婚論を書き,それに対する弾圧に対抗して言論と出版の自由を主張する意見新聞『アレ
オパジティカ Areopagitica 』を発刊する。
1645(正保2年)
1645.12.25 【日本】江戸・富沢町から出火し、遊女町吉原も全焼する。吉原全焼の第 1 回
となる。[以後、間もなく復興し、営業続開する。]
1645. ○【日本】大目付井上政重が、日本に帰化したオランダ人沢野忠庵(クリスタボ・
フェレイラ)に、天文地理学書をローマ字綴りの日本語に翻訳することを命じる。[以後、
訳本がオランダ語通詞西吉兵衛の家に伝わり、長崎奉行が国語に書き改めさせる。1659
年、国語化が完成する。
1645.○【日本 】
『万国総図 』と初めて異国人を描いた『万国人物図』が印刷される 。
[1720
年、西川如見(じょけん)が簡単な解説を付けて『四十二国人物図説』として出版される。
]
1645.○【日本】藤本箕山(畠山箕山)(数え 20)が『色道大鏡』の執筆に着手する。関東、
中国、九州への遊郭を訪ねて巡り始める。
1645.○【イラン】カリーフェ・スルターンが宰相となる。[∼ 1655]。娼婦取締りの法律
を作る。娼婦は自分から客を取りに出歩いてはならない、呼ばれない限りどこにも商売
に行ってはならない、など、また買春の根本原因はブドー酒の飲用にあるとし、酒の販
売を禁止し、違反者は厳罰に処する。少年に買春させた者には串刺しの刑、自分の娘に
買春させた女は、塔上から突き落とし、犬に食わせることとする 。(シャルダン『ペル
シャ紀行』
)
1645. ○【ドイツ】幻灯機が発明される。
1645.○【フランス】フランス初のコーヒー店が、パリに登場する。[ 1650 年、イギリス
のオクスフォードに波及する。]
1646(正保3年)
1646. 1.13[ 12.28 ]【日本】長崎オランダ商館長レイニール・ファン・ツムが、江戸で長崎
奉行筑後守を通じて将軍に集熱凸レンズ、拡大鏡とともに、写真鏡(カメラ・オブスキュ
ラ、活動眼鏡とも言われる)を献上する。[3. 6[ 1.18] 筑後守邸に届けたこれらの品物が
返却される。通訳によると将軍の気に入る品がないため不満であったという。その代わ
り、オランダ人の中に「のろし」と砲車の製作ができるものはないかと尋ねられる。(
] 『長
崎オランダ商館長の日記 第 2 輯』岩波書店、1957)
1646. ○【イタリア】モシーニが、戯画を収集し、出版する。[以後、フランスを経てヨ
- 203 -
ーロッパ全土に広まり、新聞戯画漫画の源流となる。]
1646.○【イタリア】ドイツの万能学者・イエズス会士キルヒャー Athanasius Kircher( 44 )
が、ローマで『光と影の大いなる術』を著し、著者が考案した幻灯機「ラテルナ・マギカ
(魔法灯 )
」を紹介する。[以後、キリスト教伝道のためのアトラクションや民衆を驚愕
させる見世物に利用される。また、拡声器などを発明し、画家プッサンには遠近法を教
授する。1680 年死去。のちにローマに「キルヒャー博物館」が設置され、彼の残したお
びただしい資料と文献が保管される。これはイギリスの「アシュモリアン博物館」と並
ぶ世界最初期の公共資料施設となる。光源は、1879 年にエジソンが白熱電球を発明する
まで、石油ランプや蝋燭が用いられる。]
1646.○【イギリス】ウィリアム・リリー(1602 ∼ 1681)の万用歴『天使的なるマーリン』
が、刊行される。この年、1 万 3500 部発行される。
[1647 年、1 万 7000 部。1648 年、1
万 8500 部。1649 年、約 3 万部。予測の的中率が、他者の予測よりも高く、絶大な人気
を博す。カーリスブルック城に幽閉されているチャールスⅠ世も 、〈もしリリーを金で
買い取ることができていたなら、それは 6 連隊分の力に匹敵していたことだろう〉と述
べ、いかにすれば脱獄できるかを知ろうとしてリリーの助言を仰ぐ。この頃、占星術関
連の文書が 40 万部にも達していると推定される。3 家族に 1 冊の割合で万用歴が普及す
る。
]
1647(正保4年)
1647.○【イギリス 】占星術師ジョージ・ウォートン(1617 ∼ 1681)が 、リリーの万用歴『天
使的なるマーリン』の人気の高さに苛立ち 、
『天使的なるマーリンの誤り』を著し、
〈こ
の書は、陛下の友が彼に忠実たろうとするのを妨げるために作られた、単なるこけおど
しの案山子にすぎない〉と告発する。[1649 年、投獄される。リリーを含む同業者たち
の仲裁で釈放される 。
]
1648(慶安1年)
1648.[ 2.28]
【日本】幕府が、江戸市中に道路、下水、服装など幅広い範囲で庶民の日
常生活を細かく規制した「市中法度(はっと)」を布達する。
1648.[ 2.−]
【日本】幕府が、江戸の風呂屋に湯女(湯女か?)の禁止令を出す。(? 4 月
か)
1648.[ 4.−]
【日本】幕府が、江戸市中の湯女(ゆな)を禁止する。
1648. 5 . −【日本】幕府が、江戸の風呂屋に再び女湯の禁止令を出す。(??)
1648.○【日本】寛永寺の僧天海の発願により、11 年の歳月をかけて『大蔵経』6326 巻
が巻が刊行される。木活字を用いて刊行され、活字を用いて刊行された世界最初の大蔵
経となる。
[以後、「寛永寺版」
「天海版」と呼ばれる。
]
1648.○【日本】伊勢神宮外宮の権禰宜(ごんねぎ)度会延佳(わたらいのぶよし)ら約 70
人の籍中(同人、のちに文庫衆)が、外宮祠官の修学のために醵金によって、宮崎文庫を
外宮神域外側の豊宮崎の地に設立する。籍中は維持経費を負担し、順番に図書の整理・
閲覧・貸出しを担当する。[以後、一般にも開放され、全国から学者ら多くの利用者が訪
れる。明治末年、神宮文庫に合併。豊宮崎文庫とも呼ばれる。]
- 204 -
1648.○【ドイツ】時計職人ハンス・ハウチュが、ぜんまいで自走する 1 人乗りの車を試
作し、時速 1.5km キロで走る。しかし、ぜんまいの能力に限界があり、実用には至らな
い。
1649(慶安2年)
1649.[ 2.26 ]
【日本】幕府が、諸国郷村に 32 か条からなる「慶安の御触署」を公布する。
これまでの代官への指示を集大成し、年貢諸役の厳守から、農作物の作り方、生活のす
みずみまで農民統制を強化する。たとえば、村役人を親と思うこと、朝は草を刈り、昼
は田畑を耕作し、晩には縄をない俵を編んで、油断なく仕事にはげむこと、みめかたち
の良い女房でも、夫をおろそかにし、大茶を飲み、もの参り遊山好きの女房は離別する
こと、などと細かく規定する。
1649. ○【日本】大阪の書肆西村伝兵衛が 、
『古状揃(こじょうそろえ)』を出版する。本
文中に家康が大坂冬の陣直前に大坂方を恫喝した手紙や、〈家康表裏之侍太閤忘厚恩〉
という家康を誹謗する文句を含んだ秀頼の返書などを収録したことから、幕府がこの書
物を没収、絶版の処分にし、伝兵衛を斬首刑に処す。
1649. ○【日本】長崎に来航した清船が、幕府に「風説書」を寄せる。
1649. ○【フランス】全国各地で新聞冊子が続出し、政府は極刑で取り締まる。
1649. ○【アメリカ】プリマスで、初のレズビアン裁判が行われる。グッドワイフ・ノー
マンとメアリー・ハモンがベッドの上で淫らな会話を交わしながら、いやらしい行為をし
たというので、ノーマンは有罪、ハモンは無罪の判決を受ける。
1650(慶安3)
1650.○【世界】この頃、世界人口が約 5 億人。[ 1750 年には世界人口は 7 億、1800 年に
は 9 億へと増加し、1650 年から 1800 年に至る 150 年間の年増加率は 10.4 %である。
1650. ○【日本】この頃、遊郭の新設不許可の方針が確立する。
1650.○【フランス】この頃、フランス最初の新聞『ガゼット』の創刊者ルノード Th (e)
ophraste Renaudot( 64)が、一種の旅行代理店である「アドレスとめぐりあいセンター」を
設立し、団体旅行者のために目的地、宿泊所のアドレスを集め、馬、輿、馬車の調達、
船や宿泊の予約、その他関連業務を行う。
1650.○【フランス】パスカル Blaise Pascal( 27 )が、計算機械「パスカリーヌ」を考案す
る。
1650.○【イタリア】トリチェリ Evangelista Torricelli( 42 )が、真空ポンプの実験によって、
音は空気の振動であるということが明らかになる。
1650.○【イギリス】イギリス最初のコーヒー店が、オクスフォードに登場する。[1652
年、ロンドンのシティーにコーヒー店が開店する。以後、ヨーロッパ全土に流行してい
く。コーヒー店は人々の社交の場となり、政治家、宗教家、文学者や社会各層の人が集
まって繁栄する。そのため、一部の宗教家や政治家は、危険な思想の温床になるとして
いろいろ制約を加えたりもするが、コーヒー店の波及を止めることはできない。]
1650. ○【イギリス】トーマス・シェルトンが、速記符号を改良し 、
「ジグログラフィア」
を発表する。
- 205 -
1650. ○【イギリス】新聞『完全な日録』に、盗まれた馬捜しの懸賞広告が有料で掲載さ
れる。新聞広告料金をとった最初の新聞広告とされる。
1651(慶安4)
1651.11.−【ドイツ】ライプチヒの郵便局長クリストフ・ミュールバッハ Mu ()hlbach が、
新聞印刷発行権取得工作に成功し、同地のティモティウス・リッチと競合する。この頃、
新聞発行は郵便営業権に付属するとみなされていた。
1651. ○【ドイツ】マルティン・ツァイラーが、ドイツ語で書かれた最初の旅行案内書『主
君に忠節を尽くしてつき従ったアカーテスのような信頼のおける随伴者、すなわち正確
な旅行案内、ならびに旅行をじょうずに有益にするための配慮』を著す。よく利用され
る旅行ルートと、ルート上にあり皆が求めるような都市、宮殿、城郭、見どころ、珍し
いもの、熊や狼に出くわしたときの措置や、税関吏との対応のような旅行中の注意事項
などの情報を記載する。
1651. ○【フランス】リュート奏者ギョーム・モレルが、音楽著作物に関するフランス最
初の特許認可状をアンリⅡ世から与えられる。[ 1552.4.19 モレルは、楽譜の販売の特許
認可状を持つ出版者ミシエル・フザンダと契約する。モレルは自身で楽譜を販売できず、
書籍商の圧力に屈して、すべての権利を書籍商に与える。]
1651.○【イギリス】医師ハーベー(ハーヴェイ)William Harvey(73 )が、胎生学の研究に
没頭した結果、
『動物の発生について』を出版し 、
〈すべての動物の発生は卵から発生し 、
雄の精液は関係しない。発生は無形の種(たね)から始まる。先ず組織ができ、それらが
各器官に分化し、さらに、複雑な構造を形成して、完全な体ができあがる〉という卵由
来の「後成説」を主張する。
1652(慶安5、承応1年)
1652.[ 1.20]【日本】幕府が、2 月 2 日以降市中のかぶき者を捕らえることを諸大名に通
達し、かくまうことを禁じる。
1652. 1 . −【日本】幕府の命で、歌舞伎役者が逮捕される。
1652. 2.16【フランス】アンリⅡ世が、印刷業者アドリアン・ルロワとロベール・バラール
に声楽と器楽曲の著作物について永久的な特許認可状を与える。[以後、フランス革命に
よって特許認可状が廃止されるまで更新される。バラール家は、王家に出入りを許され、
楽譜印刷業界を牛耳る。]
1652. 3.28【イギリス】明日の日食を控え、国民の不安は最高潮に達する。数カ月前から
破局を告げる文献が国中に溢れ、3 月に入り頂点を迎えていたため、ある程度の覚悟は
できていたものの、国中を動揺の渦の中に陥れる。これらの文献は、暗黒に姿を消した
ある惑星を根拠に、突然の大量死や集団的狂気の発生、広範囲な圧制の出現などを予告
していた。ロンドンの市長と議会議員全員が、蝕に関する説教に耳を傾ける一方、多く
の市民は一部の財産を持って町から脱出する。
1652. 3.29【イギリス】日食が起きる日だが、この日に何も起こらない。ジョン・グリー
ンは、日記に〈今回の件で占星術師たちの評判が傷つけられた〉と記す。しかし、占星
術師たちは、「
〈 エラーレ・フマーヌス・エスト(誤りを犯すは人間の常なり)」という定式
- 206 -
がある〉とか 、
〈神が奇跡によって星々の感化力を逸らした〉とか、言い逃れの言葉に
事欠かない。
1652. 6 . −【日本】幕府が、江戸の風呂屋に湯女の禁止令を出す。
1652. 7 .−[ 6.20]【日本】幕府が、歌舞伎役者の前髪を剃らせる。
1652. 7.−[ 6.27]【日本】幕府が、風紀を乱すものとして前髪立の少年が舞台に立つこ
とを禁止し、実質的に若衆歌舞伎を禁止する 。[以後、成人男性のみが歌舞伎を演ずる
こととなる。翌年「野郎歌舞伎」と呼ばれるようになるが、あまり人気を呼ばず、芝居
も採り入れた演劇スタイルの現在の歌舞伎の原型が形成されるようになる。]
1652. ○【日本】この頃、江戸初期に興ったヨーロッパ流あるいは朝鮮流の活版印刷によ
る活字版ブームが、漢字・和字の複雑さからついに普及するに至らず、終焉を迎える。[以
後、明治を迎えるまで活字版は日の目をみることはない。これまでに開版された活字本
は「古活字版」と総称される。]
1652.○【イタリア】ドイツの万能学者・イエズス会士キルヒャー Athanasius Kircher( 50 )
が、エジプト聖刻文字(ヒエログリフ)の解読を試み、その成果を『エジプトのオイデ
ィプス』として公表する。[∼ 1654。しかし解読法がカバラの神秘的な言語分析法に拠
りすぎていたため、のちに誤読とされる。さらにキルヒャーは聖刻文字を,ノアの洪水
後最初に神意を記した際に用いられた文字とみなし,これを解読することは神意を直接
知ることにつながると考え,中国の漢字もまたエジプト人が東洋へ伝えた聖刻文字にほ
かならないと主張する。この先駆的な古代文化研究により,のちのサンスクリットとオ
リエント諸語との比較研究をも導き,世界の文明の起源問題を解明する端緒となる。]
1652.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens(23)が、望遠鏡と顕微鏡の改良を問題
とし、光学に関する研究を始める。最初は光学器械の改良に関連し、レンズの屈折、倍
率、球面収差を研究する。[以後、複屈折現象の理論的説明を試みる中で、しだいに光の
本性の問題を扱うようになる。ホイヘンスは、R.フックや I.G.パルディースらとは異な
り発光体の微粒子を考えながらも、彼らと同様光の波動説を主張し、光の伝搬に関する
「ホイヘンスの原理」を確立して、これに基づいて光の反射、屈折、複屈折などの現象
に説明を与える。1655 年に光学研究をもとに改良した望遠鏡を用いて、土星の衛星「タ
イタン」を発見する。1690 年、光学に関する研究の成果を『光についての論考』にまと
める。]
1652. ○【イギリス】ロンドンで最初のコーヒー店が、シティーに開店する。[以後、コ
ーヒー店の数が増える。コーヒーを飲むことがロンドン市民の流行になり、コーヒー店
は人々のたまり場になる。次第に各店の客筋が固定し、店独自の特色が出るようになる。
1688 年にロイド Edward Lloyd がロンドン塔に近いのタワー街に「ロイド・コーヒー店」
を開業する。]
1653(承応2年)
1653. ○【日本】幕府は、女や若衆でない野郎頭(やろうあたま)の成年男子がまじめな芝
居をするという条件付きで「野郎歌舞伎」を許可する。このときから女形ができる。
1653. ○【デンマーク】国王フレデリックⅢ世が、個人文庫を設ける。王立図書館の基と
なる 。
[1673 年、新館(のち、国立公文書館)に移る。1697 年、納本図書館になる。1793
- 207 -
年、一般に公開される。1849 年、立憲君主制になり、王立図書館とコペンハーゲン大学
図書館の一本化が進む。1906 年、現在の建物に移る。1989 年、王立図書館が人文・社会
系部門、コペンハーゲン大学図書館が科学・医学部門の国立図書館機能を受け持つこと
になる。]
1653. ○【フランス】パリのある民間人が、ルイⅩⅣ世の許可を得て、郵便事業を開始す
る。郵便ポストがパリ市内の要所に設置される。世界で最初の郵便ポストとなる。[以後、
事業は長続きせず失敗に終わる。]
1653.○【フランス】大法官セギエが、パリ大学神学部から事前検閲権を奪取する。1649
年出版規制令とあいまって、王権による出版統制が確立する。
1653. ○【フランス】シラノ・ド・ベルジュラックが、自作の悲劇『アグリッパ』に特許認
可状を得る。サン・タマンが、自作の詩集『救われたモーセ』に特許認可状を得る。[以
後、書籍商や印刷業者の同業組合が結束し、著作者の特許認可状は〈特定の書籍商また
は印刷業者に著作物を印刷させる権利を認めたものに過ぎない〉として、著作者自身が
自著を印刷・販売することを認めない。著作者は、特許認可状を書籍商と印刷業者の同
業組合に登録することが義務づけられるが、組合は容易には登録の受付けに応じない。]
1653.○【フランス】パリで印刷工のストライキが発生する。[∼ 1654 。
]
1654(承応3年)
1654.[ 2. 4]
【日本】幕府が、旗本に対して、少年を小草履取に抱えて男色関係を結ぶこ
とや男色を取り持つこと、また、男色のことで争論することを禁じる。この頃、旗本た
ちは、15 ∼ 16 歳の美少年の小草履取に絹の小袖、唐木綿の袷を着せ、しゃれた帯を締
めさせ、立派な脇差しを与えて、身辺に置いて客の給仕もさせるなどの行為が流行して
いる。これまで幕府はたびたび禁令を出したが、効果はなかった。
1654. ○【フランス】マルセーユに、フランス初のカフェが登場する。
1655(明暦1年)
1655.11.−【イギリス】「advertisement(広告)」という語が、ニューズブック『Mercurious
politicus』に初めて登場する。[日本では 1872 年(明治 5)ころ「広告」という語が新聞
に登場し、1887 年ころから一般に使用されるようになる。]
1655.○【日本】この頃、江戸・吉原で太夫の揚代が銀 90 匁、祝儀代を加えると 270 匁
である。
1655. ○【ヨーロッパ】
『女のための本』
(作者不詳)が出版される。セックスの楽しみ方
についての本で、避妊の方法、陰毛かつらの選び方なども書かれている。
1655.○【スウェーデン】女王クリスティーナ Kristina( 29)が、新型のフランス製金塗り
木造、内装ダマスクス絹張りの儀装馬車の大行列でヨーロッパを旅行する。女王はこの
高価な馬車を借りるしかなかった。
1655.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens(26)が、レンズの研磨法を考案し、土
星を観察して「輪」を発見する。
1655.○【フランス】この頃、帝国議会で、30 年戦争後の人口減少対策の一環として、重
婚を認める。
- 208 -
1655. ○【フランス】サロン紙を発行するジャン・ロレが、発行特許を得て他紙による偽
作盗作の防止を図る。
1656(明暦2年)
1656.10. 9【日本】町奉行石谷将監(いしがやしょうげん)が、吉原の所替えを命令する。
代替地は本所か浅草日本堤か好きな方を選べという。一旦押し返したが、如何ともしが
たく、相談の末、吉原町の年寄りたちが吉原を選ぶ。同時に、江戸町中に 2 百余軒ある
湯女風呂(湯女を置き、売色を業とした)を 、吉原の営業を脅かす存在として取り潰し、
湯女すべてを新吉原にひきとる。
1656. ○【スウェーデン】ストックホルム銀行が、国家を顧客とする初めてのステートバ
ンクとして設立される 。
[1661 年、銅貨に代わるヨーロッパ最初の銀行券「クレディテ
ィヴセドラル」が発行され、流通する。1664 年、紙幣発行の抑制がきかなくなり、実験
的紙幣発行の試みは頓挫する。
]
1656.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens( 27 )が、1583 年にガリレイが発見し
た振り子の等時性を時計に利用して、振子時計を考案する。[ 1657 年、完成する。]
1656. ○【フランス】政府が、印刷物取締令を繰り返し出して、不穏冊子の発行者、呼び
売り人に罰金刑を課す。[1659 年、重ねて冊子禁令を繰り返す。]
1656.○【フランス】J.シャプラン『乙女ジャンヌ=ダルク』が、パリの A.ヴィトレによ
り刊行される。A.ボスが図版を描く。
1656.○【イギリス】ノリッジの町に会員制図書館 subscription library が登場する。
1656.○【アメリカ】マサチューセッツ植民地の商人ケイン Captain Robert Keayne が、遺
言により、個人蔵書を含む資産をボストンの町に贈り、市場と役所と図書館の複合施設
の建設を託す。
[1711 年と 1747 年 、2 度の火災に遭遇する。以後、図書館は町が所有し、
のちの公共図書館の原型となる。
]
1656.○【アメリカ】ボストンの船長ケンブルが、3 年間の航海から帰ったばかりの日曜
日に人前で妻とキスしたことで猥褻罪に問われ、有罪判決を受け、さらし台に 2 時間さ
らされる。
1657(明暦3年)
1657. 1.18【日本】江戸本郷丸山の本妙寺から発火し、翌日にかけて江戸の大半を消失す
る。いわゆる振袖火事。吉原も焼尽するが、火事跡地に小屋掛けで営業再開する。大火
を報道する速報の呼び売りが出る。
1657. 3 . −【日本】吉原の移転先、浅草日本堤に 新吉原の工事に着手する。
1657. 6. 9【日本】幕府が江戸街地の再建に、吉原の地の明け渡しを指令する。新吉原完
成までの営業を、今戸・山谷・新鳥越の 3 ヵ所の町屋で行うよう特別許可する。これを
仮宅(かりたく)営業と称する。また、これまでの湯女風呂を全廃して、私娼化している
湯女たちを新吉原へ吸収させることとする。
1657. 8.14【日本】江戸浅草本堤に新吉原が完成し、傾城町として公認され、営業開始す
る。同時に、寛永 18 年( 1641)以来禁制の夜間営業を 16 年ぶりに免許される。
1657. ○【日本】振袖火事以後の都市復興の活況のなかで、江戸における大衆向け絵入り
- 209 -
版本の需要は、初め上方(かみがた)版の輸入によって満たされていたが 、江戸の版元(地
本問屋(じほんどんや))による版行も盛んとなり、版下絵師(はんしたえし)も数多く育
てられることとなる。仮名草子がいっきに増え、浄瑠璃本も出版される。[以後、版下絵
師の 1 人として成長した菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が、仮名草子や好色本を中心に優
れた挿絵を提供し、本のなかに占める挿絵の比重を拡大していく。]
1657. ○【日本】この頃、浄瑠璃作者岡清兵衛(おかせいべえ)が 、
『太平記』を読んで喝
采を博す。[のち、江戸舌耕師の祖と称せられる。講談の始祖とされる。]
1657.○【日本】この頃から幕府による出版規制が始まる。[1722 年に、本格的な取締条
目が発布される。]
1657.○【日本 】水戸藩主徳川光圀(みつくに)が 、江戸駒込別邸に大日本史編纂所(のち 、
彰考館)を設け、事業を開始する。[ 1672 年、小石川の本邸に移し、左伝の「彰往考来」
の句に基づいて彰考館と命名する 。1698 年以後 、江戸と水戸の両館で修史を続ける。1830
年、大部分を水戸に移す。1879 年、偕楽園内に移転し、のち彰考館文庫を新築する。1906
年、
『大日本史』が完成する。第二次大戦で 7 万冊余の蔵書の大半が焼失する。]
1657. ○【日本】幕府が、風俗上の理由で湯女風呂を禁止する。湯女たちは吉原へ送られ
る。[以後、江戸の銭湯はそれぞれの町内の共同入浴施設といった性格をもつようになる 。
狭い地域内の人々がたえず顔を合わせるところから,銭湯は町の住人たちの社交場とし
ての役割を果たすようになる。]
1657.○【チェコ】宗教改革者・教育思想家コメニウス Johann Amos Comenius( 65)(チェ
コ名コメンスキー Jan AmosKomensk ロ )が、大著『大教授学』を公刊する。これにより、
身分や階級の違いを問わず〈すべての人に〉〈すべてのことを 〉〈楽しく 〉
〈的確に〉教
えるための、学校の全面的な改革原理を提案する。[のちに、この著書は、当時の「金持
ち」のためのものであって「貧乏人」のためではない学校、
「折檻(せつかん)場」
「拷問
室」に等しい学校への批判のうえにたつ近代的学校思想の先駆として、高く評価される。]
1657.○【オランダ】科学者ホイヘンス Christiaan Huygens( 28)が、1583 年にガリレイが
発見した振り子の等時性を時計に利用して、最初の振り子時計を完成させる。[ 1675 年
に、テンプと渦巻状のひげぜんまいを組み合わせた調速機を発明する。]
1657.○【イギリス】初の全面広告週刊紙『The Publick Adviser』が発刊される。[6.16 チ
ョコレートの広告が〈…ビショップスゲート街クイーンズヘッド小路のさるフランス人
邸でチョコレートと呼ばれる西インド諸島産の美味しい飲物が召し上がれます…〉と掲
載される。]
1658(万治1年)
1658.○【チェコ】宗教改革者・教育思想家コメニウス Johann Amos Comenius( 66)(チェ
コ名コメンスキー Jan AmosKomensk ロ )が 、世界最初の絵入り語学教科書『世界図絵 Orbis
pictus 』を著し、ドイツで出版する。子供に言語を事物と結合して学習する方法を具体化
してみせる。具体的な目に見える事物や出来事の他に 、「人間の魂」のような目に見え
ないものまで、各項目ごとに 1 枚の木版画を入れ、ひとつひとつに番号をふって、説明
をラテン語とドイツ語の両方で記していく。たちまち英語版も出る。[この頃からその意
義は高く評価される。のちの視聴覚教材の先駆となる。]
- 210 -
1658. ○【アメリカ】プリマスの清教徒らが「姦通に対する法律」を通過させる。不貞を
した女は鞭打ち刑のほかに、一生胸に「A」の字をつけ、これに従わない場合は「A」を
顔に焼印される。[これに基きナサニエル・ホーソンは 1850 年に『緋文字』を書く。]
1659(万治2年)
1659. 2.16【イギリス】ニコラス・バナッカーが、デルボー宛てに世界最初の銀行小切手
を切る。[のち、国立ウエストミンスター銀行の記録保管所に保存される 。
]
1659.[12.13]【日本】江戸隅田川上に初めて橋が架かる。武蔵国と下総国の両国にまたが
るので「両国橋」と名付けられる。幕府はこれまで戦略的な観点から上流の千住大橋以
外の橋を架設しなかったが、1657 年の江戸の明暦の大火ののち、市街地の拡大のため墨
東(隅田川の東)一帯を開発に着手、翌年に橋の工事を開始し、この日完成する。
1659. ○【日本】服部紙店が創業する。
1659. ○【日本】幕府が公娼遊郭制をとり、道中筋の飯盛女など、旅宿にいる制限付きの
いわば半公認の私娼を厳禁する 。
[その後は、これを「食売女」として認め、道中奉行
の支配とし、1 旅館 2 人以内(江戸 4 宿は宿内全人数制限)
、衣服は木綿着用と定める。
しかし、人数制限は守られず、さらに飯盛の認められない所では「洗濯女」などの名で
雇うこともあった。
]
1659.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens( 30 )が、1656 年末から実用的な時計
の改良をめざし、この年にサイクロイド曲線を描く振子の等時性を発見、幾何学的に証
明し、精度のよい振子時計を設計する。また、ホイヘンスは持ち運びのできる幻灯装置
を考案する。光源を入れたランタンとレンズの間に図像を入れる構造で、のちの幻灯機
の基本的な構造を備えている。[1673 年、
『振子時計』を著し、このサイクロイド振子の
等時性をはじめ、振子の長さと周期の関係、縮閉線(エボリュート)の理論、円運動にお
ける遠心力の研究など、力学上の諸研究をまとめる。]
1659. ○【ドイツ】官立図書館(のち、ベルリン国立図書館)が、ベルリンに建てられる。
[1661 年、開館。]
1659. ○【イギリス】公式の気象観測が始められる。
1660(万治3)
1660. 1. 1 【イギリス】ピープス Samuel Pepys( 26)が、暗号としてのシェルトン式速記符
号(分速 30 語程度の個人用)と普通文字を混合使用して日記を書き始める 。
[以後、日常
生活を子細に性生活をも含めた赤裸々な記録を書き続ける。1669.5.31 約 125 万語に及ぶ
日記の最後のページを書く。この年、妻が死亡、自身も視覚障害に苦しめられる。日記
は母校ケンブリッジ大学のモードリン学寮に保管される。1825 年、同学寮長の兄、ブレ
イブルック卿が、苦学生ジョン・スミスに暗号文を初めて解読させる。1828 年、公刊さ
れる。以後、2 回にわたり新しい解読者がスミスの解読を見直す。1970 ∼ 76 年、完全無
削除版が出版される 。
]
1660. 1.19【フランス】書籍商ギョーム・ド・リュイーヌが、モリエールの『才女気取り』
を作者の意に反して出版を強行するため、国王から 5 年間の特許認可状を取得する。[以
- 211 -
後、出版される。モリエールは、書籍商の横暴に憤慨するが 、
〈せめて蝋燭の光で読ん
で欲しい〉と抗議する。]
1660. 1.−【ドイツ】リッチが、ライプチヒで『Neu-Einlauffende Nachricht von Krieg und
Welthandeln(戦争および世界通称に関する新着報)』を、発行日を付けて創刊する。[4 月 、
日曜日も発行し、世界最初の日刊紙『ライプチガー・ツァイトゥング(Leipziger Zeitung) 』
となる。以後、ドイツは絶対主義の時代が長らく続き、他国に先立つ近代新聞の歴史を
もちながらも、新聞の発達は著しく遅れる。]
1660. 6. 8 【イギリス】大陸に亡命していたチャールスⅡ世 Charles Ⅱ(30 )が正式に即位
し、イギリスの王政復古がなる。[この年、官営の郵便役所を設立し、初の郵政長官にヘ
ンリー・ビショップを任命する。以後、この年をローヤルメール(Royal Mail)元年と定め
られる。1661 年、ビショップは、郵便物の配達が遅いとの批判に応え、書状の表面に差
出された月日を押印するよう命じる 。これがイギリス最初の消印で「ビショップ・マーク 」
と呼ばれる。消印押捺により局放置郵便物が解消され、郵便の信頼度が高まる。それで
も郵便の配達は、徒歩のフットメッセンジャか、馬に乗ったポストボーイによって行わ
れる。また、チャールズ 2 世の時代には、日曜日に新聞を売る者に罰金を科した。1960
年、
「郵便役所 300 年」記念切手が発行される。]
1660.11.28 【イギリス】イギリス初の学術団体、ローヤル・ソサエティ(Royal Society;王
立協会)が発足する。正式には、自然についての知識を改善するためのロンドン・ロイヤ
ル・ソサエティ(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge )と称する。
1645 年以降に、宗教と政治に関する不毛な論争を嫌って情報交換の場としてもたれた非
公式な会合がロンドンのグレシャムカレジとオクスフォードにつくられ、これら 2 つの
サークルが合流して、物理学者 R.ボイルや経済学者 W.ペティらを含む 12 名の会員でス
タートする。
[1662.7.15 国王チャールズⅡ世の勅許状を得て、正式に設立される。]
1660.○【中国】希代の読書家・書物蒐集家であり出版業者でもあった毛晋(60)が死去す
る。生前に彼は、宋元版多数を含む 8 万数千冊の蔵書を誇り、耀古閣、目耕楼という書
庫を建ててそれらを収蔵した。彼は自分の家の門に広告を掲示し 、〈宗版の書物をお持
ちになった方には、門内で主人が葉数を調べ、毎葉 200 文をお支払いします。旧抄本は 、
毎葉 40 文です。現行の善本には、よそが千文なら当方は千二百文お支払いします〉と書
く。湖州一帯の書物商は、船に古典籍を満載して毛晋の家の門口に押し掛け、〈世間に
はさまざまな商売があるが、本を毛氏に売るのが一番もうかる〉という諺が流行した。
子の毛漁(もうえい)(1640 ∼?、字は斧季(ふき))も父を助けて古書校刊の事業に従事し
た。没するまでの四〇数年間、刊行した書物は 600 種を超える。
1660.○【ヨーロッパ】魔女狩りが激しく行われる。[以後、1680 年まで 20 年間激しく行
われる。]
1660.○【ドイツ】ゲーリケ Otto von Guericke ( Gericke)(58 )が、天体が磁気力によって相
互作用をすると考えて、それを証明するために、硫黄を含む金属球を摩擦して静電気を
発生させる。[ 1709 年ころ、ガラス球を使用するようになる。ゲーリケは起電機の発明
者とか電気学研究の先駆者にあげられることになる。以後、摩擦電気による静電気の時
代に入る。摩擦起電機で発生させた静電気による電気ショックで病気を治療する試みが
行われる。]
- 212 -
1660.○【オランダ】ライデン大学教授ヨンストン( 67)が、『ヨンストン動物図鑑』をア
ムステルダムで刊行する。哺乳類から魚類、昆虫にいたるまで世界中の動物を銅版画約
300 枚に収める。
1660.○【フランス】この頃、パリに占星術師の仕事場が約 400 ある。住民 1000 人当た
りほぼ 1 つの仕事場があり、ロンドンに勝とも劣らない熱心さで星の動きが探られてい
る。
1660. ○【フランス】政府が、中傷紙を取り締まるため街頭呼び売りを規制し、不穏ニュ
ース紙を発行した者を辻辻で笞刑に処す。
1660. ○【フランス】王立舞踊アカデミーが創立される。ボーシャンがバレエの専任教師
となり、バレエの基本である足の 5 つのポジションが定められる。
1660. ○【イギリス】フックが、時計の正確さを改良するため、テンプ(調速機)を動かす
ひげぜんまいを発明する。
1660. ○【グアテマラ】グアテマラで、印刷業務が開始される。
1661(寛文1)
1661.○【イギリス】書籍販売商カークマン Francis Kirkman が 、貸本屋(commercial lending
library)を開く。
1661.○【イギリス】ビショップ Henry Bishop が、郵便長官に任命される。郵便物の運搬
者が運搬を怠けないように、すべての郵便物にそれを受け入れた月日のスタンプを押す
ことを考えつく。4 月を「AP 」
、10 月を「OC」のようにその月の略字と日の数字を上下
に配置した円形のスタンプを押すこととする。
1662(寛文2)
1662. 4.22 【イギリス】国王チャールズⅡ世( 32 )が、新しい学問研究をめざす学術団体と
してロンドン・ローヤル・ソサエティ(Lomdon Royal Society)に勅許状を与える。[7.15 正
式に設立される。]
1662. 5.−【イギリス】特許検閲法(Licensing Act)が公布される。これにより、印刷出版
の特許( privilege)(許可)制度および事前検閲制度を基幹とする言論統制を強化する。ロ
ンドンの印刷所が約 60 人のところを 20 人に制限され、カンタベリ大主教が科学哲学に
関する検閲責任者に任命される。この法により、法学書は大法官による検査、歴史書は
国務大臣による検査、その他のほとんどの種類の本はカンタベリ大主教とロンドン主教
による検査を受けなければならなくなる。[1695 年 、特許検閲法廃止 。検閲だけでなく 、
出版業者組合による印刷の管理も終結する。1709 年、世界最初の著作権法である「アン
法」が制定される。]
1662. 7.15【イギリス】ロンドン・ローヤル・ソサエティ(The Royal Society of London;ロ
ンドン王立協会)が、国王チャールズⅡ世の勅許状により、正式に設立される。国王が設
立者となり、正式名も、1660 年の創設時の名から、「自然についての知識を促進するた
めのロンドン・ローヤル・ソサエティ(The Royal Society of London for Promoting Natural
Knowledge)」と改められる。図書館も設置される 。[以後、公式の研究機関として絶大
な権威を手にする。当初設立者に加わっていたウィリアム・リリーら占星術師たちは学者
- 213 -
たちの会合から閉め出されていく。1665 年、機関誌『フィロソフィカル・トランザクシ
ョンズ(哲学紀要)』創刊。1800 年、
『会報』創刊。
]
1662. ○【日本】幼童向けの赤表紙絵本(赤本)『ねずみのこうさく』が刊行される。[の
ち、現存する最古の赤本作品とされる。はじめ、大半紙半切の中本型、6 丁(12 ページ)1
冊を単位としたが、のちに 5 丁( 10 ページ)1 冊とする形式が定まり、これが以後の草双
紙の定型となる。題材は「桃太郎」、「舌切り雀 」、
「鉢かづき姫 」、
「頼光山入(らいこう
やまいり)」などの昔話や御伽草子、浄瑠璃本で、近藤清春、西村重長、羽川珍重らの画
工が手がける。]
1662.○【スウェーデン】宮廷文庫に始まった王立図書館が、納本図書館となる。
[以後、
国立図書館として発展する。
]
1662. ○【オランダ】興行師で数学者のラスマセン・ウオルゲンスタインが、幻灯のデモ
ンストレーションを行う。[ のちに、ロンドンの眼鏡商リチャード・リーヴスが、ウオル
ゲンスタインの装置を望遠鏡などとともに販売する。1965 年、ウオルゲンスタインが自
分の装置に「幻灯( magic lantern )」と名付ける。1666.8.19 サミュエル・ピープス宅にリー
ヴスが訪れ、ウオルゲンスタインの装置を使ってデモンストレーションする。]
1662. ○【フランス】ルイⅩⅣ世が、危険なニュース紙発行者をバスチーユに投獄する。
発行者の一部はオランダに脱出し、発行を続ける。
1662. ○【イギリス】新出版条例により、オックスフォード大学のボドレーアン図書館、
王立図書館、およびケンブリッジ大学図書館が、納本制度による特権を得る。これは図
書館の蔵書を確保するという面より、涜聖(とくせい)的内容のものや治安を乱すおそれ
のあるものの刊行を防止する狙いで行われる。[ 1709 年、版権保護を出版者側が求めた
ことで、納本受入れ図書館は計 9 館に増える。1911 年以降は、大英博物館図書館、オッ
クスフォード、ケンブリッジ両大学図書館、スコットランドの国立図書館、ウェールズ
の国立図書館、アイルランドのトリニティ・カレッジ図書館となる。]
1663(寛文3)
1663. 8.−【イギリス】ロジャー・レストレンジが新聞出版監督官に任命され、ニュース
印刷物は政治に係わり合わせる可能性があると危惧して、民間紙の発行を抑圧し、新聞
ほか印刷物の呼び売りを禁止する。[以後、レストレンジが『Mercurius Politicus』( 1653
年創刊)と『King's Intelligencer』(ヘンリー・マディマンが 1659 年に『 The Parliamentary
Intelligencer』として創刊)を廃刊させて、自ら月曜発行紙『The Intelligencer 』と木曜発行
紙『The Newes』を発刊する。4 つ折り判 1 枚、1 部 0.5 ペニー。[1666 年、廃刊]
1663.○【日本】江戸の「定飛脚問屋」
、京都の「順番飛脚問屋」、大坂の「三度飛脚問屋」
が、同時に飛脚仲間を結成する。[1664 年、月 3 度定期的に飛脚を出発させることを条
件に、幕府から宿駅伝馬を有料で利用する権限を認められる。以後、しだいに、公用通
信もこれら町飛脚を利用するようになる。この頃、上方・江戸間の送達期限を 6 日間と
していたので、飛脚便を「定六」と称する。1830 年代に、期限が守れなくなったため、
「正六」という速達便が登場する。]
1663. ○【フランス】政府が意図する国勢調査に対して、民衆が〈家族と動物とを数えあ
げることは、国民を奴隷の状態にすることである〉と主張し、反対を声高に唱える。
- 214 -
1663. ○【イギリス】占星術師ジョン・ヘイドンが、国王の出生図を計算し作製したとし
て、投獄される。
[1667 年、
〈イギリスでは狂信的信者たちは許容されるか〉、
〈次の講和
条約締結に際してイギリスは中立の立場を採るか〉の 2 つの問いに回答を与えた廉で、
再びロンドン塔に幽閉される。
]
1664(寛文4)
1664.10. −【アメリカ】イギリスが、オランダの拠点ニューアムステルダムを占領して、
ニューヨークと改称する。
1664. ○【フランス】科学者ピエール・プティが、幻灯の製作を試みる。
1664.○【
】フランチェスコ・エスキナルディが、『Centuriae Opticae』を刊行する。幻
灯に関して最初の記述をするが、挿絵はない。
1664.○【イギリス】ヘンリー・パワー Henry Power(41)が、顕微鏡観察を扱った『実験哲
学( Experimanal Philosophy)』を公刊する。ただし、観察図は稚拙で、観察の結果は主と
して言葉で記載される。[ 1665 年 1 月、フックが、最初の微少世界の詳細な観察図を豊
富に収めた『ミクログラフィア( Micrographia )』を出版する。]
1665(寛文5)
1665. 1 .−【フランス】ドゥニ・ド・サロが、週刊紙『ジュルナール・デ・サバン le Journal des
Savants』を創刊する。12 ページ建てで、ラ・フォンテーヌ、デカルト、コルネーユらの
稿を収載する。[以後、マガジン(雑誌)の始めとされる。]
1665. 1.−【イギリス】グレシャム・カレッジ幾何学教授フック Robert Hooke (30)が、顕
微鏡による自然観察の図版『ミクログラフィア(Micrographia )』を出版する。微少世界の
さまざまな姿を精密な図版によって示しており、ガリレオの『星界の報告』に匹敵する
衝撃を人々に与える 。240 ページを超える中身に 118 枚の図版が収録されている。うち、
昆虫が 23 種類、植物等が 15 種類取り上げられ、針・布などの人工物の観察図も 5 件取
り上げている。一見鋭くとがって見える針先が、拡大すると丸いことも明らかにされて
いる 。
〔印刷は 1664 年 8 月に開始されたが、王立協会で、化石は生物の遺骸が石化した
ものであるというフックの推論が問題になり、その検討に手間取る。11 月 23 日に許可
される。〕[公務員ピープス Samuel Pepys( 32)は、1 月 2 日の日記にこの書物に関して次
のように書く 。
〈それから本屋へいって、製本工がフックの顕微鏡についての本を手が
けているのを見た。たいそうきれいなものだったので、即座に注文した。そして役所へ
帰る 。
〉1 月 20 日に〈そこから本屋へゆき、フックの顕微鏡の本をもって帰る。じつに
立派な本だ。たいへん鼻が高い。
〉と書く。ところが 2 月 15 日の晩に割り勘で食事を碩
学たちと共にした中にフックやボイルもおり 、〈なかんずくボイル氏は今日会合に出席
していた。彼にもましてフック氏は、わたしがこれまでこの世で見た中で、実力一番な
がら、一番見かけの悪い人間である〉と書いている。
(臼田昭訳『サミュエル・ピープス
の日記 第六巻 1665 年』国文社、1990)1667 年、第 2 版が出版される。同年、ドイツ語
訳も現れる。]
1665. ○【日本】幕府が、僧侶の市井法談を禁止する。
1665. ○【日本】幕府が、道中筋の遊女を禁止する 。
[のち、人数制限をつけた上で半公
- 215 -
認となる。]
1665. ○【ヨーロッパ】印刷物『コンダムに関する賛辞』(伯爵ジョン・ウィルモット)の
上に、初めて「コンドーム」の文字が記される。
1665. ○【イギリス】アーリントン卿が、命により政府機関紙として、オクスフォードで
半週刊紙『オクスフォード・ガゼット(The Oxford Gazette)』を、配下のジョセフ・ウィリ
アムソン監修の下で発行する。片面 2 欄刷り、売価 1 ペニーで、植民地へも送る。イギ
リスで新聞のようなものの初めで、また官報ともいうべきものの初めとなる。[1666.2.5
第 24 号から『ロンドン・ガゼット』と改題。
]
1665. ○【イギリス】ロンドンにペストが大流行する。呼び売り紙がロンドン内外のペス
ト流行の状況を報道する。この年の死者数は 、「死亡者報告書」に記載された者だけで
も 9 万 7306 人にのぼる。[∼ 1668 年。14 世紀の黒死病の流行以来の未曾有のもので、
歴史上最後の大流行となる。](『ロンドン年代記』)
1665. ○【イギリス】ローヤル・ソサエティが、機関誌『フィロソフィカル・トランザクシ
ョンズ Philosophical Transactions 』の刊行を始める。[この頃の科学革命期において、近
代科学普及のメディアになり、後の科学雑誌のモデルになる。]
1665.○【イギリス】ニュートン Isaac Newton( 23)が、ロンドンにペストが流行している
ので、故郷に避難する。[以後約 2 年間滞在する。この間 1666 年に、万有引力の法則の
着想を得る。]
1666(寛文6)
1666. 2 . 5【イギリス】政府機関紙『オクスフォード・ガゼット(The Oxford Gazette) 』第 24
号を『ロンドン・ガゼット』と改題する。これを契機に公式の政府広報媒体となったと伝
えられる。
1666. 8.19【イギリス】サミュエル・ピープス宅に、友人の眼鏡商リチャード・リーヴスが
売り物の幻灯機を携えて訪れ、絵図の投影を実演して見せる。幻灯機はオランダのウオ
ルゲンスタインが 1662 年に考案した型のもので、直径約 3 インチ、全部ガラス製の半球
の覆いのあるランタンで、光源とガラスの間に図柄を描いたガラスを挿入して、ぞの図
像を比較的遠くの壁面に投影することができる。
1666. 9. 2【イギリス】ロンドンに大火が起こる。午前 2 時ごろ、ロンドン・ブリッジに
近いプディング・レーンのパン屋が火元になり、たちまち全市に広がる。[以後、 4 日間
燃え続け、市の中心部を焼き尽くす。]
1666. ○【日本】中村惕斎(てきさい)による図解百科『訓蒙図彙(きんもうずい)』が京都
で発刊される。[以後、『人倫訓蒙図彙』を経て、1713 年、『和漢三才図会(ずえ)』に集
大成される。]
1666. ○【イラク】ペルシャの首都イスパハンで、「顔を露出した女たちの街」「ベールを
つけない女たちの街」などと呼ばれる娼婦街がある。登録されている娼婦が 1 万 4000 人
いて、隊商宿を根城にしている。登録されている娼婦は団体があり、きちんと納税して
いる。娼婦からとる税は 10 万エキュ(フランス価換算)以上だが、役人は無理に登録させ
ようとはせず、代わりにより高い税を取り上げている 。
(シャルダン『ペルシア紀行』
)
1666. ○【スウェーデン】ストックホルム銀行が、世界最初の銀行券を発行する。偽造防
- 216 -
止対策の一つとして「BANCO」という文字の白すかしを入れる。
1666.○【ドイツ】ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz( 20 )が、イスパニアのレイモン
ド・ルルの真理を発見する自動的方法をつくろうという考えを、いくつかの計算原理で置
き換え、合理的に発展させようとする。学位論文「結合法論考( Dissertatio de Arte
Cornbinatoria )」で推論法則やその様式の整理を試み、さらに数学の組合せについても論
述する。[彼は、あらゆる数字は 2 つの数字、0 と 1 によって表現され得ること、すなわ
ち二進法を発見する。さらに人間の思考過程を記号化し、記号間の演算によって完全な
結論へと導くことを考える。のちの命題計算の思想に発展する。]
1666.○【フランス】財務総監コルベール Jean-Baptiste Colbert( 47)が、科学アカデミーに
おける年金支給の対象となる学問のリストから占星術を除外し、ソルボンヌ大学の星占
い講座を「科学ではない」として廃止させる。
1666.○【イギリス】ニュートン Isaac Newton( 24)が、万有引力の法則の着想を得る。[故
郷の農場で、リンゴの実の落下を見て重力の法則を発見したとのちに伝えられるが、こ
の話の真偽のほどはさだかでない。この話の出所はニュートンの伝記作家スチュクリー
William Stukeley (1687 ∼ 1765)にニュートンが語ったことからといわれ、また一説には『プ
リンキピア』をフランスに紹介したボルテールともいわれる。またこの頃、太陽光の白
光色をプリズムに通すと 7 色の単色光に分かれるが、この 7 色をプリズムに通すと白色
光になることを発見する。のちに、赤・緑・青の色の 3 原色にうち、人間の目の感度か
ら、赤 30 %、緑 59 %、青 11 %の混合で白色光が再現できることがわかり、カラーテレ
ビの原理に応用される。]
1667(寛文7年)
1667.○【フランス】パリの治安が再編成される。警視総監の職が置かれ、初代総監ラ=
レニーがドラマールの権力のもと、出版統制に乗り出す。
1667.○【フランス】最初の官営美術展覧会「サロン」が、J.B.コルベールの発案によっ
て王立アカデミー主催のもとルーブル宮殿の「サロン・カレ(salon carr ロ;四角の間)」で
開かれる。[以後、2 年ごとに行われる。やがて不規則になり、1737 年より再び隔年ない
しは毎年開かれるようになる。出品者は 17 ∼ 18 世紀を通じてアカデミーの会員か準会
員,あるいは美術学校の教官に限られる。1748 年より出品作の検閲が始まり、おもに道
徳面でのチェックを行う。]
1667.○【イギリス】盲目の詩人ミルトン John Milton( 59)が、口述筆記によって叙事詩『失
楽園』全 10 巻を完成させる。出版に際して初めて「著作権」が明文化され、初版 1300
部の権利を 5 ポンドで書籍商に売り、初版が全部売り切れたら改めて 5 ポンド、第 2 版
と第 3 版が売り切れたときはさらに 5 ポンドの支払いを受ける契約を結ぶ。[1674 年 、12
巻の増補第 2 版を刊行する。書籍商は『失楽園』によって莫大な収益を得る。]
1668(寛文8年)
1668.[12.−]【日本】幕府が、劇場および娼街の規制を命令する。
1668. ○【イギリス】この頃、大火後王政復興のロンドンでコーヒー店やパブが増えて、
市民の新しい社交場 、新聞閲覧の場になっている(『ロンドン年代記』上 p.256 に図あり。)
- 217 -
1668.○【フランス】ラ・フォンテーヌ Jean de La Fontaine (47)が、
『寓話』第 1 巻を著す。
[1686 年、
『寓話』を書籍商バルバンに売り渡す。以後、書籍商の特許認可状は繰返し更
新される。ラ・フォンテーヌは 1694 年まで 2 巻、3 巻を書く。1695 年 4 月 13 日、パリで
死去する。1761 年、孫娘たちが祖父の著作物を印刷する認可を取得するため、国王に請
願書を提出する。]
1668. ○【イギリス】ニュートンが、色収差の生じない反射望遠鏡を発明する。
1669(寛文9年)
1669. ○【日本】鉄眼禅師が、明の禅僧隠元禅師の援助のもと、『大蔵経』の刊行を計画
し、桜材の版木で整版に着手する 。
[1678 年、完成する。
]
1669.○【オランダ】博物学者・解剖学者スワンメルダム Jan Swammerdam( 32)が、多く
の種の昆虫を解剖し、その生殖法や生活史を研究しながら、蝶の蛹を観察して、〈母体
内の卵には完成した体の雛形が小さく折り畳まれて入っており、胎児の発生はこの雛形
が開いて発生成長するにすぎない 〉という生殖の「前成説」を唱える。[1680 年 、死去。1737
∼ 38 年、この観察記録や発生説がブールハーフェによりまとめられて『自然の聖書
(Biblia naturae)』2 巻として出版される。]
1670(寛文10年)
1670. 4.−【日本】将軍家綱が、末次平蔵建造のオランダ式大船を品川に回航させて、観
覧する。
1670. ○【日本】琉球の那覇の辻に遊郭が公娼制度として成立する。薩摩藩による大和化
政策の一環で 、
「日本琉球同祖論」を説く。尚象賢は、時の国王から下級の氏族までが
遊女遊びにふけることを嘆いて「遊治郎取締令」により取締りを強化しようとするが、
失敗する。
1670.○【オランダ】スピノザ Baruch de Spinoza( 38 )が、
『神学・政治論』を匿名で刊行
する。この著作は神学者の不寛容に対して思想の自由を擁護し、この目的のために政治
的権力の宗教的権威からの独立を要求した。たとえば「モーセ五書」がモーセ自身の手
になることを否定し、後世の編集によると主張する。[以後、涜神(とくしん)の書として
神学者たちの厳しい非難を浴びる。1674 年、オランダ議会は『神学・政治論』を発禁に
する。1675 年、主著『エチカ』を 15 年の歳月を費やして完成させる。しかし、厳しい
非難のため生前に刊行することが不可能になる。そればかりでなく、スピノザ哲学その
ものが死後 100 年もの間、
「死せる犬」のように葬り去られることになる。]
1670. ○【フランス】コルベールが、パリでの洗礼、結婚、埋葬に関して、月ごとに公表
するよう命じる。
1670. ○【フランス】思想家パスカルの断片的なノートをポール・ロアイヤルの人々が編
集し,『宗教および他の若干の問題に関するパスカル氏の断想(パンセ)』と題して、パ
リの G.デプレが出版する。
[以後、断片の配列を変えた各種の版が出され、
『パンセ(Pens
レ es) 』、『瞑想録』などと呼ばれる。1940 年代に、パスカルが著作プランを立ててそれ
に応じて断片を分類していたことが発見され,著作の構想をある程度理解することが可
能になる。
]
- 218 -
1670.○【フランス】この頃、パリの活字業者ディドー Fran □ ois Ambrois Didot(40)が、
フランスの常用尺度 1in の 72 分の 1 を 1 ポイントとする活字の大きさの単位を提案す
る。この頃のフランスの 1in はイギリスの 1.065in であるから、ディドーの 1 ポイントは
0.3759mm である。[以後、ディドー式はフランス、ドイツなどヨーロッパ大陸で使われ
る。1886 年、アメリカ全国の活字業者が、パイカの 12 分の 1 を 1 ポイントと決める。]
1670. ○【イタリア】教育者ラナが、盲人用に点字のアイデアを発表する。
1671(寛文11年)
1671.○【イラン】フランス人の旅行家シャルダン Jean Chardin( 28 )がペルシャを旅する。
そこで、国王お抱えの踊り子一座はみんな高級娼婦で、給料は年 1800 フランであり、こ
の他に、呼ばれた一夜に 50 ピストル( 1 ピストルは 10 リーヴル)以上を得ることを観察
する 。娼婦のベールは普通よりも短かく、しっかり閉ざされていないので容易に分かる。
女は値段で呼ばれ、10 トマン嬢、5 トマン嬢、2 トマン嬢などと呼ばれている[1 トマン
は 15 エキュ]
。また、雇い妻(ムタ・ダムアド)を望むだけの期間、合意した報酬で囲
う。イスパハンでは、美人で若い女を1年間「借りる」代金が 450 リーヴルである。そ
の他、衣装代・食費・住居費手当が必要。これは民事契約で、裁判官立会いで締結され
る。[1686 年、ロンドンで『サー・ジョン・シャルダンのペルシャと東インドの旅』を公
刊する。]
1671. ○【オランダ】ネーデルラント等族会議が、自国で紙を製造することの必要性を認
識し 、製紙風車を作り紙を国内生産することとし、フランスからの紙の輸入を禁止する。
[以後、従来の木槌によるぼろぎれの搗砕器の代わりにローラー式叩解機が考案される。
この改良されたぼろ処理により、良質の紙が作られるようになり、オランダの優位が 18
世紀末まで続く。
]
1671.○【ドイツ】哲学者・数学者ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz( 25 )が、加減乗
除のできる四則計算機の製作を始める。[以後、1694 年にかけて加減乗除のできる四則
計算機を試作する。
]
1671.○【フランス】パリの書籍商が発行後 60 年しか経過していないアン・フランソワ・
ド・サールの著作物が“古い著作物”であるので、特許認可状の更新を申請しなくても印
刷する権利がある、と主張したのに対して、国王顧問会議は“古い著作物”といわれる
ものは印刷術の普及する以前、すなわち 1670 年以前に死亡した作者の著作物である、と
判定し、書籍商の主張を退ける。
1671.○【アメリカ】ヴァージニア植民地長官 W.バークレイが、イギリスのチャールズ
Ⅱ世に宛てて 、
〈当地に学校も印刷所もないことを神に感謝する、知識は不服従とセク
トを生む〉と書き送る。
1672(寛文12年)
1672. ○【日本】菱川師宣が「絵師菱川吉兵衛師宣」の署名で『武家百人一首』の書の挿
絵家として登場する。以後続々と春画を発表する。
1672.○【日本 】沖縄・那覇の一角に、私娼・街娼を集めて遊郭をつくる。
「辻(チージ)」
の始まり。
- 219 -
1672.○【中国】[康煕 10]内城での遊郭開設禁止令が出る。
1672.○【オランダ】フランスのルイⅩⅣ世がオランダを侵略し、
「ルイ 14 世の侵略戦争」
(オランダ戦争)が始まる。
[1678 年、ナイメーヘンの和約が成立し、オランダは全土を保持する。この間、オラン
ダは戦争による疲弊がはなはだしく,以前の栄光は失墜する。同時に製紙風車が増設さ
れ、国内の製紙業が優位に立つ。
]
1672.○【オランダ】医師・解剖学者ド・グラーフ Regnier de Graaf(31)が、ヒトを含む多
くの哺乳(ほにゆう)類の卵巣を解剖し、詳細な図版を描く。ウシの交尾前後、ウサギの
妊娠全過程の卵巣の形態学的変化を観察し、ほ乳類の卵(卵胞)の生理機能を推論して「卵
子論 」を提唱する。
〔この頃、デンマークのコペンハーゲン大学解剖学教授ステノ Nicolaus
Steno(ステンセン Niels Stensen )(34 )も、卵巣の機能を解明している。
〕[のち、ド・グラー
フは濾胞全体を卵だと誤認はしたていたことが判明する。 1827 年、ドイツのフォン・ベ
ーアが初めてほ乳動物のうち犬の卵子を発見する。1900 年ごろ、卵巣の黄体が分泌機能
をもつということが初めて確認される。]
1672. ○【フランス】王立舞踊アカデミーと王立音楽アカデミーが合体して、王立音楽舞
踊アカデミー(パリ・オペラ座)が設立される。
1672.○【ドイツ】物理学者ゲーリケ Otto von Guericke( 70 )が、機械的に回転させた硫黄
球に手のひらを当て、摩擦電気を起こす装置を作る。最初の摩擦起電機とされる。
1672.○【ドイツ】ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz( 26 )が、加減乗除の四則演算が
可能となるように計画された「段階計算機」を考案する。
1672. ○【イギリス】ロンドンで公開コンサートが開かれる。国王に非礼を働き、主席宮
廷楽士の地位を追われた J.バニスターが、寺院裏手の居酒屋の 2 階で、連日、午後にコ
ンサートを開き、生計を立てる。演奏者たちは、人前に顔をさらすことを嫌い、カーテ
ンの背後に隠れて演奏する。公開コンサートの元祖とされる。
。
1672.○【イギリス】ニュートン Isaac Newton( 30)が「光と色の新理論」を発表する。光
は粒子によって伝わるという光の粒子説を提唱する。[これを契機に、多くの科学者が光
の本質の研究に目を向け始める。フック Robert Hooke( 37 )は、光の分散・干渉理論で光
の波動説を提唱し、ニュートンと激しい論争を展開する。ニュートンの名声が偉大なた
め、フックの波動説は影をひそめる。1690 年、オランダのホイヘンスも、光の波動説を
唱える。]
1672. ○【アメリカ】植民地の人口増大を目的に、イギリスからヴァージニアに送られた
女にたばこの値段に換算した値段がつけられる。若く美しく教養ある良家出の娘は、120
ポンド(約 20 ドル)のたばこと交換される。
1673(寛文13年・延宝1年)
1673.5. −【日本】幕府が、初めて本格的な出版取締令を出す。公儀や諸人に迷惑になる
ような書物の出版は、奉行所に届け出るようにという町触れを出す。[以後、たびたび出
版統制令が出される。1722 年、享保の改革で正式に法令化される。]
1673. ○【日本】川島紙店(のち、川島洋紙店)が創業する。
1673. ○【日本】市川団十郎が、江戸荒事歌舞伎を開く。
- 220 -
1673.○【日本】この頃、太夫の揚代が銀 74 匁、祝儀等を加えると 220 匁になる。
1673.○【ドイツ】ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)( 27)が、ロンドンで計算機を
披露する。[1675 年、微積分を着想する。]
1674(延宝2年)
1674. ○【日本】山ケ野(鹿児島県姶良郡)の金山が衰え、山ケ野遊郭(長崎・門司ととも
に九州の三大遊郭の一つ)の傾城役(営業税 )
、うどんや女役の徴収を止める。うどんや
女は飲食のかたわらで買春を行う。
1674. ○【インド】ボンベイで、印刷業務が開始される。
1674. ○【オランダ】議会が、スピノザの『神学・政治論』を発禁にする。
1674. ○【オランダ】デルフトの商人で保安官助手や酒量を検査官を兼任するレーウェン
フック Anton van Leeuwenhoek( 42)が、ガラスや水晶を研磨してレンズをつくり、倍率約
300 倍もの単式顕微鏡を組み立て、いろいろなものを観察、淡水産の繊毛虫を発見し、
虫に生えている毛の姿はまつげに似ているとして cilium(繊毛)と名づける。[ 1676 年、
細菌を発見する。]
1674.○【フランス】コルベールが、原料不足によるフランスの製紙業の不振を憂慮して、
製紙業者に対して、常に十分なぼろぎれを備蓄しておくよう命じる。(『書物の起源』)
1674.○【フランス 】僧モレリが編纂した『歴史大辞典(Grand dictionnairehistorique ) 』が、
パリの J=B. コワニャールにより出版される。フランス語で書かれ、人名と地名の項目も
多く、歓迎される 。
[以後、英語とドイツ語に訳される。1597 年、カルバン派の信者ベ
ールが 、
『歴史批評辞典』を刊行し、これはモレリの『歴史大辞典』をはじめとする従
来の歴史辞典の不正確と偏向を正した「誤呈の辞典」であると主張する。
]
1674.○【イギリス】占星術師ウィリアム・リリー( 72)の万用歴が、またもや検閲により
発禁処分を受ける。
1674.○【イギリス】フック Robert Hooke( 39)が、惑星の運動に関する逆二乗則を唱える。
[のちにニュートンと万有引力について先取権を争う。]
1675(延宝3年)
1675.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens(46)が、精度のよい時計を目指して、
「てんぷ」、「ひげぜんまい」を組み合わせた調速機を考案する。[この頃、イギリスの
フックもこの発明に成功していたといわれる。のちに腕時計の心臓といわれるようにな
る「てんぷ」、「ひげぜんまい」には、いずれもそれ自身で振動運動を繰り返す性質をも
っており、振動の周期がほぼ一定、つまり「等時性」をもっている。以後、このような
調速機が時計に組み込まれて、その精度を一変し、高精度化への道を開く。]
1675.○【ドイツ】ライプニッツ(29)が、微積分を着想する。
1675.○【イギリス】国王チャールズⅡ世( 45 )が、世界制覇にとって航海術の発展は不可
欠と考え、正確な緯度を決める研究をすめていた王室天文学者フラムスティード John
Flamsteed (29 )に天文台創設を命じる。フラムスティードは、国王の援助を得て、ロンド
ン近郊のグリニジに王立天文台を開設、初代天文台長となる。
[1676 年、天体観測を開
始する。その結果にもとづいて従来の天文学上の数字の大きな誤りを修正する。観測デ
- 221 -
ータにもとづく、近代的な天文学の始まりとなる 。
]
1675. ○【アメリカ】ボストンでで、印刷業務が開始される。
1676(延宝4年)
1676.○【日本】和蘭カピタン通詞の本木庄太夫(本木昌造の先祖)(48)が、同僚の中島、
楢林らとともに、長崎に来航するオランダ船が幕府に提出してきた『和蘭陀風説書(オラ
ンダふうせつがき)』を和解して、幕府に提出する。[ 1682 年、本木良意(りょうい、庄
太夫の号)が、通詞職のかたわら、商館員から医学知識を受け、ドイツ人ヨハネス・レム
メリンの解剖書のオランダ語訳本を重訳。没後の 1772 年、鈴木宗云(そううん)によって
『和蘭全躯(わらんぜんく)内外分合図』と題して解剖図と説明書の 2 冊が刊行される。
『解
体新書』出版の 2 年前にあたるが、影響は与えない。]
1676. ○【ドイツ】アルトドルフ大学のヨハン・シュトルムが、著書『実験的もしくは好
奇的集団』のなかで、初めてレフレックス型のカメラ・オブスキュラの図解を試みる。
1676. ○【イギリス】 ロンドンで、図書の競売が始まる。
1677(延宝5年)
1677.[5.−]【日本】井原西鶴(35)が、この頃、
「阿蘭陀(オランダ)流」と称された自由奔
放な俳諧的世界を拡大化して「矢数(やかず)俳諧(弓術の大矢数をまねて、1 日の間に
つくった句数の多さを競う俳諧興行)」を創始して世間の注目を集めていたが、この日、
1600 句を独吟する。[1680 年 5 月、4000 四千句を独吟。1681 年『西鶴大矢数』と題して
刊行する。1684 年[6 月 5 日]、1 万 3500 句を独吟し、新記録を打立てる。
]
1677. 8.−【オランダ】ダンツィヒの医師ルイス・ド・ハン(ヨハン・ハム)が、自分の精
液を顕微鏡でのぞいて「尾をカタツムリのように動かして進む無数の微生物」(精子)の
存在を発見する。[以後、ハンはデルフトに移り、顕微鏡技術者レーウェンフック Anton
van Leeuwenhoek ( 45)と出会う。11 月 、レーウェンフックは、
〈胎児の雛形は精子にある〉
という「精子論」をまとめ、ロンドンのイギリス学士院に送る。多くの者は、受精に結
びつくものとは思いつかず、寄生虫の一種とみなす。1695 年 、
『顕微鏡で明らかにされ
た自然の秘密』4 巻を著す。1780 年(1680 年?)
、肉眼でみることができない世界まで
生物界を拡大した業績が認められ、外国人として初めてロンドンの王立協会会員に推さ
れる。]
1678(延宝6年)
1678.○【日本】鉄眼禅師が、明の禅僧隠元禅師の援助のもと、1669 年から『大蔵経』の
刊行を計画し、黄檗山万福寺で桜材の版木 6 万枚を開版して、刊行する。
[以後、黄檗版
と呼ばれる。
]
1678. ○【日本】この頃、江戸で幼童向けの絵本「赤本」が流行する。
1678. ○【日本】名優坂田藤十郎が、大坂に和事(わごと)歌舞伎を確立する。傾城買(け
いせいかい)狂言、およびこれに伴う和事(わごと)の演出として発達、江戸の荒事(あら
ごと)に対し上方を象徴する特色になる。 [1679 年 、
『夕霧名残正月(ゆうぎりなごりの
しょうがつ)』の藤屋(ふじや)伊左衛門役で和事(わごと)」の芸を確立する。]
- 222 -
1678.○【日本】菱川師宣( 48 )が、枕絵本に情熱を傾注しはじめる。
1678.○【フランス】ルイⅩⅣ世が、
『中庸』などシナの古典のラテン語訳書刊行させる。
1679(延宝7年)
1679.○【日本】菱川師宣(49)が、枕絵本『表四十八手』を刊行する 。
[1990 年に日本芸
術出版社が復刻する。]
1679. ○【中国】初学者のための画法指導書『芥子園画伝(かいしえんがでん)』初集「山
水樹石譜」が完成する。山水画の描き方を豊富な白黒版画や多色刷り版画をもちいなが
ら解説し、最後に著名作品の模写を掲載する。非常な好評を得る。[1701 年、王蓍(おう
し)、王概、王 (おうげつ)の 3 兄弟の編集した 2 集「蘭竹梅菊譜」と 3 集「草虫 毛花
卉(れいもうかき)譜」が出版される。 1818 年、好評に便乗した出版業者が、他書をよせ
あつめた 4 集「人物画譜」が蘇州で刊行される。日本にもはやくから伝来し(一説には元
禄年間に荻生徂徠が入手)、文人画をはじめ江戸時代の画壇に大きな影響を与える。中国
でたびたび改版模刻される。1748 年、日本においても和刻本がつくられ、広く普及する。]
1679.○【オーストリア】ウイーンで、
『Wiener Zeitung 』紙が発刊される。[以後、第 2
次世界大戦後まで長期にわたり刊行される。]
1680(延宝8年)
1680. 4.−【イギリス】ロンドンの商人ドクラ W. Dockwra とマレー Robert Malay が、ロ
ンドン市内で大がかりな郵便事業を計画する。この頃、都市間の郵便は政府の独占だが、
同一都市内の郵便物は個々の団体間の取り決めで自由に行っている。マレーは間もなく
手を引きドクラの個人事業として民営のペニー郵便を創設する。1 ペニーという安い料
金で重さ 1 ポンド、価格 10 ポンドまでの書信と小包を書留にして引き受け、料金の収納
印を押して、戸別に配達し、郵便物の紛失には賠償金を支払うという画期的な事業であ
る。郵便料金を受け取ったしるしに手彫りのスタンプを押す。郵便物の受付所と郵便箱
を 400 ∼ 500 カ所に設け、1 時間ごとに郵便物を集め 、都心では毎日 10 回の配達を行う。
[以後、直ちに郵便長官ヨーク公が郵便法違反だとして訴訟を起こす。1682.11 ドクラの
事業は政府により営業停止を命じられ、その仕組みは国営の郵便組織の一部門に吸収さ
れる。以後、郵便業務は、受取人による料金の後納を認め、しかも料金は手紙の枚数と
距離の遠近によって異なるうえ、しだいに引き上げられてゆく。1840 年、ローランド・
ヒルが、これに根本的な改革を加える。]
1680.12. −【ヨーロッパ】巨大な彗星が出現する。この彗星の出現により、ヨーロッパ中
で、星の果たす役割についてのおびただしい数の論考が公表される。占星術師らは、こ
れによる様々な予言を行う。これに対して、占星術による予言に反駁する声も高まる。
1680.12.−【イギリス】天文学者ハリー Edmund Halley( 24 )が、フランスに渡る船上で、
大彗星を見る。彗星運動の謎を解くことを心に期す 。
[1682 年、彗星運動に関する執筆
を始める。
]
1680. ○【日本 】
『洛陽集』に〈春の夜の影人形のはつ芝居〉と記述される。この頃、厚
紙を切り抜いてつくった人形に,やはり紙製の片手を糸で結びつけた影人形がつくられ、
人形の下部につけた竹串を動かして手を上下させたりしながら,灯火を利用して障子ご
- 223 -
しにその影の動きを観賞させる。子どもの遊びのほか酒席の座興にも用いられて流行す
る。なかには歌をうたいながら切抜き絵を手影絵と併用して,複雑な形を表現するもの
もある。
1680. ○【中国】清朝政府が、清華門内の武英殿に修書処(編纂所)を設ける。校訂官と刻
工、写字工をここに集め、翰林院に所属する文学的才能を有する臣下に司らせる 。
[以
後、内府の書籍や歴代の政府刊行物のすべてを武英殿で印刷する。内府本は「武英殿本 」
と改称され、「殿本」と略称される。殿本は、精密な校勘、上質の紙墨、ゆったりと潤
いのある字体、上品な版式、端正荘重な装丁などで有名になる 。
]
1680. ○【ヨーロッパ】ドイツやヨーロッパ各地で、反乱、飢饉、黒死病(ペスト)が多発
し、経済は混乱し、人民は物価変動に苦しむ。
1680. ○【ドイツ】黒死病がまん延して、新聞出版業も停滞する。
1680. ○【オランダ】科学者ホイヘンスが、気圧の差による原動機の可能性を示唆して蒸
気機関の発明を助けた経験から、火薬を用いた内燃機関(大気圧機関)を提唱する。内
燃機関の歴史の紀元となる。
1680. ○【イギリス】物理学者・数学者ニュートンが、史上初のジェット推進車の模型を
作り、実験に成功する。ボイラーでつくった高圧蒸気を後方の細い管から噴射し、その
推力で走る。しかし、この車は、高温・高圧のガスを噴射するので、路上で使用するに
は危険が大きすぎ、現物はつくられない。
1680. ○【アメリカ】ニューヨークのウォール・ストリートの先の小さな通りで、多くの
娘が処女を捨てたので、この通りが「処女の細道」と名づけられる。
1681(天和1年)
1681. 2.28 【日本】将軍綱吉( 36 )が、長崎出島のオランダ商館長イサーク・ファン・スヒネ
を引見する。
1681. ○【フランス】パリの舞台で、バレエの踊り手に初めて女性が登場する。それまで
は女性役は少年が踊っていた。
1682(天和2年)
1682. 8.−【イギリス】グリニジ天文台で、台長フラムスティード John Flamsteed (36)の
助手ハリー Edmund Halley (26)が、彗星を発見する。彗星運動に関する研究の執筆を始
め、彗星の観測データにニュートンの万有引力の法則を適用し、彗星はケプラーの説く
ような直線運動をするのではなく、あるものは太陽の周りに楕円軌道を描いていること
を数学的に示す。
[1705 年、彗星の軌道計算に成功 、
『彗星天文学綱要』を出版して発表
する 。
〈1531 年、1607 年、1682 年に出現した彗星は同一のものである〉と考え、次の出
現を 1758 年と予言する。1758 年 12 月 25 日、この彗星が現れる。以後、
「ハリー彗星」
と名付けられる。これによって、天体の運行に関しては、天文学という科学のほうが占
星術よりも有効であるということが確認される。
]
1682.12.28 [ ]【日本】午後 1 時過ぎ、江戸・駒込大円寺から出火、市中の広範囲が焼失
し、夜になって鎮火する。焼失家屋は大名屋敷 75 、旗本屋敷 166 、寺社 95 、町屋 5 万 2000
余、焼死者 3500 人。[以後、八百屋お七の仕業とされ、大火に至った“放火犯人”お七
- 224 -
の摺りものが出て、俗に「お七火事」と呼ばれる。1683 年 3.29 お七が江戸市中引廻し
のうえ、鈴ケ森の刑場で火刑に処せられる。お七火刑に関する呼び売りが出る。]
1682.○【日本】井原西鶴『好色一代男』(大型本で 8 巻 8 冊)が出版され、ベストセラー
になる。[刊記による。実際は翌 3 年の正月ごろであろうとされる。以後、浮世草子とい
うジャンルが形成され、大都市をベースにした出版市場が確立する。]
1682. ○【日本】この頃 、
「浮世絵」という新造語が定着し始める。浮世の絵といわれた
その浮世ということばには、彼岸ならぬ現世、過去でも未来でもない現在、そして好色
の気味の濃い俗世間という多重の語義が込められており、したがって浮世絵の扱う主題
は、当世流行の最先端の社会風俗、それも幕府から悪所とされた遊里や芝居町などの風
俗が中心となる。
1682. ○【アメリカ】ジェームズタウンで、印刷業務が開始される。
1683(天和3年)
1683.○【フランス】ルイⅩⅣ世( 45 )が、フランソワⅠ世の遺品であるギリシア語活字を
国立印刷所に贈る。[以後、同所は、ヘブライ語、シナ語、アラビア語、ロシア語その他
の活字を備える。]
1683.○【フランス】ルイⅩⅣ世( 45 )が、王妃マリー・テレーズの女官モンテスパン夫人
を愛人とし、家庭教師マントノン夫人と秘密結婚をする。[以後、ルイⅩⅣ世とマントノ
ン夫人の関係を醜聞と書き立てた冊子が出廻る。1694 年、冊子の作者を追求し、印刷販
売人を捕らえて絞首刑に処す。]
1683. ○【イギリス】オクスフォード大学に、古物収集家・錬金術文献収集家アシュモー
ル Elias Ashmole( 66)の収集した自然史資料を中心にした博物館が誕生する。アシュモレ
アン博物館と呼ばれ、イギリス最初の自然史博物館であると同時に、世界で最初に一般
に公開された公共博物館となる。イギリスの旅行家・探検家であるトラデスカント John
Tradescant(1570 ∼ 1638 )と同名の息子(1608 ∼ 62)の 2 代にわたって収集された資料をア
シュモールが入手し、その後、彼自身も資料収集を続け、その全資料を大学に寄贈した
ことが契機となる。展示は、「自然科学」、
「古物 」、
「珍奇品」の 3 分野に分けられ、一
般に公開する。[以後、利用者の多くがオクスフォード大学の学生となり、大学の科学研
究において重要な位置を占めるようになる。研究・教育と博物館施設とが一体をなして
発展した注目すべき例となる。海外への学術調査がさかんに行われるにしたがい、自然
物の標本が集積されるようになり、各地に大規模な自然史博物館が建設されていく。]
1684(天和4年、貞享1年)
1684.
[ 2.27]【日本】幕府が、関東の譜代大名に半年ごと参勤交代を命じる。
1684.
[ 4.11]【日本】幕府が、寛文 13 年の出版令に続いて出版取締令を出し、官家
に関すること、新奇のことの刊行を禁じる。[ 11 月、市中に流行している卑猥な小唄な
どの版行、風説の呼び売り、新奇出版物の印刷・売買を禁じる。以後、数年ごとに禁令
を出すが、効果は一時的なものに終わる。]
1684.
[ 6.5 ]【日本】井原西鶴(42)が、大坂の住吉神社で 3 度目の大矢数俳諧(おおや
かずはいかい)を興行し、1 昼夜に 2 万 3 千 5 百句を独吟して新記録を立てる。記録者は
- 225 -
筆記はおろか数を数えるだけで精一杯の有様であった。西鶴は自ら創始した矢数俳諧に
終止符を打つ。[以後、
「オランダ西鶴」と異名されるが、この時の句は記録されていな
い。
]
1684.
[10.29]【日本】霊元天皇の改暦の宣下があり、朝廷が渋川春海(はるみ)(46 )
の手になる新暦を「貞享歴(じょうきょうれき)」と号して、今後用いるよう宣旨を下す 。
かねてより春海は、862 年以来の「宣明歴」が 2 日以上の誤差があり 、中国の 「授時歴」
の採用を上表していたが、朝廷は明の「大統歴」を採用、これも日本では誤差があり採
用されず、前年 11 月に再度改暦を申し出ていた。これを知った将軍綱吉が徳川光圀に密
かに工作させ、大統歴と春海の新暦との優劣を、京都梅小路で渾天儀を用いて観測させ
た結果、新暦に軍配が挙がり、春海の新暦が採用されることになる。日本人の手になる
初の暦となる。
[1685 ∼ 1754 年の間使用される]
1684.○【日本】井原西鶴『好色二代男』が出版される。
[1722 年、好色本禁止令により
『諸艶大鑑』と改題される。]
1684.○【オランダ】
ロッテルダムに亡命しているフランスの思想家ベール Pierre Bayle( 37 )
が、学界の消息,新刊書の抜粋と書評などを集めた月刊誌『文芸共和国便り』を、アム
ステルダムの H.デボルドにより創刊する。
[以後、すぐれたジャーナリストとしてもヨ
ーロッパ中に知られる。 1677 年、廃刊。
]
1684.○【フランス】文学者フュルティエール(フュルチエール)Antoine Fureti ≡ re( 65)が、
1672 年ころから『大辞典 Dictionnaire universel』の編纂に励んできたが、これを出版し
ようとして、辞典公刊を独占していたアカデミーと対立する。
[1685 年、激しい論戦の
末アカデミーからも除外される。1688 年、失意のうちにパリで死去する。1690 年、ピエ
ール・ベールによりオランダで刊行される。一種の百科事典の観があり、多方面のおびた
だしい術語のほか古語、新語、俗語をも収め、また語義にも詳しく、17 世紀のフランス
語を知る上で不可欠の文献となる 。
]
1684.○【ドイツ】僧ツァーン Johann Zahn (43)が、カメラ・オブスキュラに関する本を著
し、実用的なポータブル型の装置を解説する。当時、カメラ・オブスキュラはもっぱら絵
を描くときのトレース用として利用され、その小型化が課題となっていた。彼のカメラ・
オブスキュラには光路に斜めに反転可能な鏡があって、水平なピントグラス上に映像を
結ぶ一眼レフ方式になっている。
1684.○【イギリス】物理学者フック Robert Hooke(49)が、遠距離通信を可能にする視覚
信号システムを考え、学士院で発表する。[以後、フックの提案は実現されない。1789
年、フランス革命が起こり、遠距離通信の必要性が高まり、1792 年、シャップが腕木通
信を考案して実用化に持ち込む。]
1684. ○【イギリス】ロンドンで、初めて注目に値する性書『アリストテレスの傑作―世
代の秘密は体のすべての部分に現れる』が出版される。性交の前戯を数多く紹介し、特
に陰核を愛撫することを強調し 、
〈石炭を吹いて炎を燃え上がらせる〉ように女を快楽
に誘うようにと解説する。
1685(貞享2年)
1685.8.31【アメリカ】メリーランドで最初の印刷が、St. Mary's City で開始される。
- 226 -
1685. ○【日本】幕府が、中国商船の舶載した貨物の中から、耶蘇教勧法書を見つけ摘発
する。以後、洋書中に少しでも耶蘇教の文言が目につけば焼却し、それを運んだ船の貿
易を一切禁じる。[ 1720 年、吉宗により洋書が解禁される。]
1685. ○【ドイツ】ウュルツブルクの修道僧ヨハン・ツァーンが、著書『遠隔光線の屈折
光学的人工眼』で、カメラ・オブスキュラの焦点板として乳白色ガラスを用い、箱の中を
黒く塗って内面反射を防止することを初めて提案する。
1685.○【オランダ 】ルイⅩⅣ世打倒の出版キャンペーンが盛んに行われる。
[∼ 1715 年 。
]
1685. ○【フランス】ナントの王令が廃止される。プロテスタントの国外脱出が増える。
書籍商が多く脱出する。
1685.○【フランス】ルイⅩⅣ世( 47 )が、情報収集、通商、布教を目的に、イエズス会士
や旅行家を近東、東洋、アメリカ大陸などに派遣する。
1686(貞享3年)
1686. 5.14 【ポーランド】ファーレンハイト Daniel Gabriel Fahrenheit が、ダンツィヒ(の
ち、ポーランドのグダニスク)で商家の長男として生まれる。[のち、ドイツの物理学者
となる。1724 年、温度計の目盛りの標準化を図る。 健康な男性の口の中または腋(わき)
の下の温度を 90(のち、96)とし、氷と水の混合物の温度を 30(のち、 32)とする。ファー
レンハイト温度目盛「度 F 」の発端となる。中国でファーレンハイトの名に華倫海の文
字をあてたので中国や日本では「華氏」となる。以後、ファーレンハイトの誕生日を記
念して 5 月 14 日を「温度計の日」とされる。]
1686.○【日本】井原西鶴『好色五人女』が出版される。
[1722(享保 7)年、好色本禁止令
により『当世女客気』と改題される。]
1686.○【中国】(康煕 25)江蘇常熟の「吹藜閣」が、楷書体の銅活字を用いて、唐代の科
挙受験用の文体律賦の選集『文苑英華律賦選』を印刷・刊行する。清朝最初の銅活字印
刷本となる。
1686. ○【ドイツ】ブランデンブルグ選帝候が、行き過ぎた旅行を禁止する強力な勅令を
出す 。重商主義の立場からは 、旅行の増加が現金の外国への流出をもたらすというので、
重い旅行税を設けて処罰すればよい、というポーランド王室兼ザクセン選帝候宮廷商業
顧問官パウル・ヤコブ・マルペルガーの進言による 。
[以後、 30 歳以下の国民は選帝候の
許可なしにはだれも外国旅行ができなくなる。
]
1686. ○【フランス】出版に関する規則「出版規制令」が制定され、印刷業者と書籍商以
外の者が書物を販売することがあらためて禁止され、出版に対する特許認可状に関する
従来の勅令の趣旨が再確認される。外国からの出版物流入も規制される。[以後も、地方
の書籍商たちには無視されることが多く、著作者たちも特許認可状を申請して自分で販
売するようになる。17 世紀末にかけて、クラモワジーなどパリの書籍商の倒産が相次ぐ。]
1686.○【フランス】フォントネル Bernard Le Bovier de Fontenelle ( 29)が、
『世界の複数
性に関する会話』でデカルトの哲学をひきながら宇宙のしくみを文学のかたちでたくみ
に紹介する。
1686.○【イギリス】政府が、印刷業者 36 人に印刷特権を認め、鮮明な印刷と良質紙の
使用などを約束させる。
- 227 -
1686. ○【アメリカ】カロライナ行きのイギリス船の一乗客が、アメリカへの「売られた
花嫁」60 人中 12 人は娼婦であったと発表する。
1687(貞享4年)
1687.○【フランス】フォントネル Bernard Le Bovier de Fontenelle( 30 )が、
『神託の歴史』
を著し、神託とは古い時代の宗教が編み出したまやかしの結果に過ぎないとして、宗教
的な迷信に対して反駁する。
1687. ○【フランス】王立コレージュ・ド・フランスの解剖学・外科学教授ニコラ・ヴネ
ット( 55)が、
『夫婦生活のすべて』を出版する。
1687.○【イギリス】ニュートン Sir Isaac Newton ( 45)の『プリンキピア』が出版される。
1688(元禄1年)
1688.○【日本】井原西鶴『好色盛衰記』が出版される。[ 1722(享保 7)年、好色本禁止令
により『西鶴栄花話』と改題される。]
1688.○【日本】藤本箕山『色道大鏡』(全 16 巻)が成立する。
1688.○【日本 】
『諸国色里案内』が刊行される 。佐渡国・山先町では太夫 35 匁、天神(江
戸では格子と呼ばれる) 25 匁、半夜 15 匁、下ノけち 2 ∼ 3 匁、長崎・丸山では太夫 30
匁、江戸・吉原の太夫 35 匁である 。
[佐渡は江戸に比肩する遊女の格の高さを示す例で
ある。]
1688.○【日本】この頃、夜鷹(街娼)が 24 文∼ 100 文で買春する。
1688.○【イギリス】ロイド Edward Lloyd)(40 ?)が、ロンドン塔に近いのタワー街にロ
イド・コーヒー店を開店する。プール・オブ・ロンドンの船着き場に近いところから、客は
船主、船長、船員らが多く、やがて主として海運業者や海上保険引受人のたまり場とな
る。店主のロイドは客の便宜のため,海事・海運に関するニュースを集めたり,船舶の
売買や積荷取引の周旋を行う。たちまち海上保険取引の中心となる。[以後、ロイド・コ
ーヒー店は、海事に関しては信頼できる情報を提供することで有名になり、大いに栄え
る。1691 年、ロンドンの商業金融の中心ロンバード街に移る。のちに世界最大の保険市
場になる。]
1689(元禄2年)
1689.5.16[ 3.27]【日本】早朝、松尾芭蕉( 45)が、門人河合曽良(かわいそら)を伴って江
戸深川から陸奥・出羽・北陸への旅に出発する 。
[7.13 [ 5.27 ] 立石寺で〈静かさや岩に
しみいる蝉の声〉と詠む。9.3[ 8.21]ごろ]美濃の大垣に到着し、2400km に及ぶ約 150 日
間にわたる「おくのほそ道」の旅を終える。1692 年 6 月以後翌年 4 月末までの間、旅を
素材とした俳諧紀行『おくのほそ道』の草稿本が成立したと推定される。1694 年初夏、
推敲を加えた決定稿を、能書家の素龍(そりゅう)に依頼して清書本が完成する 。1988 年 、
日本旅のペンクラブが、5 月 16 日を「旅の日」と定める 。
]
1689. ○【フランス】パリに、プロコプのコーヒー店が開店する。ディドロとその友人の
会合場所となる。コーヒー店の主人は、店内に新聞・雑誌を置いて自由に読ませること
で客を惹きつける。客は新聞記事を話題にしたり議論に加わる。[以後、
「公論」とか「公
- 228 -
共圏(ハーバーマス)」と呼ばれるものが形成される。]
1690(元禄3年)
1690. 8.18 【日本】ドイツ人ケンペル(39)が、医学・博物学を修め、ヨーロッパ各地を旅
行したのちオランダ東インド会社に就職し、長崎出島のオランダ日本商館長オートホー
ルン付き医師として来日する。[1692 年 10 月まで滞在する。この間、1691 年と 92 年の 2
回、商館長の江戸参府に随行し、日本の歴史、社会、政治、宗教、動植物などを総合的
に観察し、記録する。得意な絵筆をとって挿絵も準備する。]
1690. 9. 5【アメリカ】イギリスの植民地であるアメリカで、ハリス Benjamin Harris が最
初の新聞『パブリック・オカレンシズ(Publick Occurrences Both Forreign and Domestick)』
創刊号を発行する。
[以後、発行を禁じられる。]
1690.○【オランダ】フュルティエールの『大辞典( Dictionnaire universel)』 が、ピエー
ル・ベールの序文をつけてデン=ハーグとロッテルダムで、A&R.レールスによって刊行さ
れる 。
]
1690. ○【イギリス】オクスフォード大学が、自ら運用する印刷所を設置し、印刷、出版
活動を始める。オクスフォード大学出版部( OUP)の歴史が始まる。[以後、オクスフォー
ド聖書と祈祷書について、特許状によりなかば独占的な出版権を取得、聖書の印刷所と
して大成功をおさめる。1896 年 、ニューヨークに聖書販売のための支店を設立する。1909
年、アメリカ初のスコフィールド聖書を出版する。1920 年、宗教書以外の出版に着手す
る。1989 年、印刷所を閉鎖、その歴史的役割を終える。]
1690. ○【アメリカ】ヨーロッパの製紙技術が、初めて大西洋を渡り、製紙工場がフィラ
デルフィアに建設される。
1691(元禄4年)
1691. 2.30 【日本】オランダ商館長バイテンヘム以下、医師ケンペル Engelbert K □ mpfer
(40 )と 2 人の商館書記の一行 4 人が、礼装に黒マントをまとい、馬に乗って江戸城へ登
城する。商館長だけ将軍綱吉(46)に拝謁したのち、4 人は将軍と夫人・大奥女性・諸大
名が居並ぶ第 2 謁見室へ通される 。綱吉は商館員たちに立ったり 、歩いたり 、踊ったり 、
オランダ語とドイツ語で歌ったり、怒る真似などさせる。ケンペルには癌と潰瘍の処置
法や不老長寿に関して熱心に質問する。
1691.○【イギリス】ロイド Edward Lloyd( 42 ?)ロイド・コーヒー店が、繁盛して手狭に
なったため、ロンドンの商業金融の中心、王立取引所の近くのロンバード街に移る。海
運業者や海上保険引受人のたまり場となっており、みなここを取引の場所にする。店主
のロイドは客の便宜のため,海運に関するニュースを集めて紙片に書いて閲覧に供した
り,船舶の売買や積荷取引の周旋を行ったので,その店は大いに栄える。1696 年に新聞
『ロイズ・ニュース(THE LOYDS NEWS )』を創刊する。76 号まで続く。1774 年、新ロ
イズのルームが、王立取引所のなかに置かれ、海上保険コーヒー店は終焉する。1871.5
ロイズが法人化される。]
1692(元禄5年)
- 229 -
1692.○【日本】ケンペル Engelbert K □ mpfer( 41)が、再び商館長の江戸参府に随行し、
『諸国参府旅行日記』を著す。
1692. ○【フランス】パリの薬局医師ニコラ・ド・ブルニュが、イエローページ(案内書)
の構想を基に 、
『パリ住所便利帳』を印刷し、売り出す。求人、図書館、公開講義、浴
場、音楽教師、パリ大司教の公衆相手の説教の時と場所、ロイヤルタッチ(国王が患者に
触ると治癒するという慣習)の実施などに関する情報を掲載する。
ブルニュは著者名に「ア
ブラハム・ド・プラデル」という偽名を使い、住所が掲載されたということで名士や市
民がプライバシー侵害を訴えることに備えた。
1692. ○【ドイツ】ある男が旅の先々で 、
〈モレアム行きの女志願兵の部隊が通る〉と言
いふらしたところ、百姓や市民が何時間も「巨大なオッパイ女たち」が来るのを待って
いた、と小説家ヨハン・ベーア( 37)がその様子を語る。土地の百姓たちにとって 、
「新し
いこと」を運んでくる旅行者は、外の世界との唯一のつながりとなっている。
1692.○【アメリカ】マサチューセッツ植民地のセーラム(Salem )で、牧師が所有するテ
ィツバという奴隷のことばを聞いて、少女たちが原因不明の苦痛を感じるという事件が
起こる。牧師会議によって魔女と判断されたのを受けて、植民地総督任命の委員会が数
百名を捕縛し、19 名を絞首する。[のち、「セーラムの魔女」事件と呼ばれる。]
1693(元禄6年)
1693. 6.27 【イギリス】世界初の女性向け週刊雑誌『The Ladies Mercury(ザ・レディーズ・
マーキュリー)』が、
『Athenian Mercury 』を辞めた John Dunton によりロンドンで創刊さ
れる。1 枚の紙両面に印刷したもので、記事はすべて未婚、既婚、未亡人を問わず女性
の身の上相談で埋める。創刊の辞で〈風変わりな質問にもすべてお答えします〉と宣言
する。不倫や性に関する記事も扱い、読者の好奇心をそそる。
「 mercury」は、使者、道
案内人、恋愛などの仲介者、橋渡し役など 、さらに報道者の意味がある。古くは「新聞」
という意味もあり、この頃から新聞や雑誌名に用いるようになる。[のち、イギリス国立
図書館には 1963 年 2 月 27 日付けの『The Ladies Mercury』が保存される。★日付の差は
何故か不明。???★(http://www.bl.uk/collections/brit17th.html#four )]
1693. ○【アメリカ】ニューヨークで、印刷業務が開始される。
1694(元禄7年)
1694. 1.−【日本】鹿野武左衛門の咄本『鹿の巻筆』に、舞台で馬の中にいた役者が見物
と口をきいた話をこじつけて、南天の実と梅干が流行のコロリ(コレラ)に利くと書く。
この咄にヒントを得たデマが巷(ちまた)に流れたため、幕府は、世を惑わしたとして、
出版者筑紫団右衛門を町中引き回しの上斬首、版元は流罪、武左衛門は伊豆大島に 6 年
間の流罪の刑に処する。[ 1700 年、武左衛門は 6 年の刑期を終えて江戸に帰り、その年
に病死する。
」
1694. 1.−【日本】鈴木武平筆『吉原草摺り引き』が刊行される。吉原青楼の善悪、遊女
の品定めなどを詳記する。幕府は直ちに絶版を命じる。
1694.○【ドイツ】哲学者・数学者 G.W.ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz(48)が、
加減乗除のできる四則計算機を 23 年かけて試作する。加減算を行う操作ハンドルを回転
- 230 -
することによって、乗算を加算の繰り返しで、除算を減算の繰り返しで実現するもので
ある。[以後、実用化に至らない。簡単な数値に対しては正しく計算を行えるが、桁上
げが数桁以上繰り上がるときには正しく動作しない。その原因は、機械設計上の弱点と
加工精度の不十分さにあり、当時の技術では解決困難であった。しかし、乗除算を加減
算の繰返しによって実現する機械方式は,キャッシュレジスタなどに採用され、またそ
の考えはのちのデジタルの計算機械のほとんどすべてに採用される。]
1694.○【フランス】アカデミー・フランセーズが、発足以来 60 年の歳月を費やして編集
してきた国語辞典『アカデミー辞典 Dictionnaire de l’Acad レ mie fran ぅ aise 』初版を完
成させる。パリのコワニャールにより印刷され、国王ルイⅩⅣ世に献じられる。
[以後 、18
∼ 19 世紀を通じて 1718 ,1740,1762 ,1798,1835 ,1878 年とたびたび改版される。1932
∼ 35 年、第 8 版。第 9 版が準備中。
]
1694. ○【フランス】ルイⅩⅣ世と家庭教師マントノン夫人との秘密結婚を醜聞と書き立
てた冊子の作者を追求し、印刷販売人を捕らえて絞首刑に処す。
1694.○【フランス】新発見集録紙『Recueil d'Observations』が創刊。[以後、9 号まで刊
行。]
1694.○【イギリス】イングランド銀行(正式名 The Governor and Company of the Bankof
England )という法人(株式会社)が、ウィリアム・パターソンの原案に基づいて資本金 120
万ポンドの出資を募り,その全額を国庫に貸し上げる代償として出資者たちにより設立
される。当初の株主は 1268 人で,株主総会で選出された正副総裁と 24 人の理事が重役
団を構成する。
[以後、政府から年 8 %の利子(および 4000 ポンドの管理費)を受け取る
ほか,資本金と同額まで銀行券を発行して各種の銀行業務を行い、組織的に手形割引を
始めた最初の大型銀行となる。同行の創立によってイギリス(さしあたりロンドン)の手
形割引歩合は急落し 、4 ∼ 5 %(ときに 3 %)という低い金利水準が普通になる。1709 年、
唯一の株式発券銀行としての地位を認められる。1826 年、支店設置の権限が与えられる。
1833 年、法律でイングランド銀行券は法貨とされる。また、ロンドンから 65 マイル以
遠の地方では株式発券銀行が設立できることになる。1844 年、ピール銀行法によって銀
行券はイングランド銀行に統一されることになり、発券銀行としての排他的独占権を獲
得する。初めて期間を限定せずに一定の金貨が支払われることを保証した兌換銀行券が
生まれる。
]
1694.○【イギリス 】国による新聞の特許制(licensing)と検閲制( censorship)が廃止される 。
[以後、原則的には言論の自由が確立する。1704 年、デフォー Daniel Defoe の『レビュ
ー Review』創刊。1710 年、スウィフト Jonathan Swift も論説を執筆する『エグザミナー The
Examiner』が創刊される。しかし、絶対主義時代に王の手にあった言論に対する権利は
直ちに民衆の手には渡らず,議会が握り続ける。]
1694.○【イギリス】世界初の女性誌『The Ladies Mercury』が創刊される。内容は主に身
の上相談。[以後、
『Femail Tatler』(1709 ∼ 1710)など同じような女性向け雑誌が多く創
刊される。]
1695(元禄8年)
1695. 7.19【イギリス】世界初の結婚相手募集広告が、ジョン・ホートンの『農業と商業
- 231 -
の改善のための情報集』に掲載される。〈当方 、年齢 30 位の紳士。広い土地を所有 。3000
ポンド程度の財産を有する淑女を求む。〉と記載する。[1727 年、女性が初めて求夫広告
をマンチェスターの週刊紙に掲載する。]
1695. ○【日本】水戸光圀が祝町(茨城県)に遊郭を許可する。遊女屋ははじめ洗濯屋と呼
ばれ、5 軒が営業する。[のちに 7 軒、元禄末に 12 軒になる。]
1695.○【オランダ】顕微鏡学者レーウェンフック Anton van Leeuwenhoek( 63)が 、
『顕微
鏡で明らかにされた自然の秘密』4 巻を著す。
1695.○【イギリス】出版検閲法(事前許可制法)が廃止される。1538 年に国王による書物
の検閲が始まって以来約百数十年にわたり続いた政府や教会による検閲制度が終わる。
出版物の検閲だけでなく、出版業者組合による印刷の管理も終結する。誰もが、自由に 、
好むものを出版し、その結果を引き受けることができるようになる。[以後、出版物が急
増する。]
1696(元禄9年)
1696. ○【日本】幕府が、宿継飛脚の速さを定める。江戸伝馬役からの宿継公状は、大坂
まで 130 里(511km)が通常 48 時( 96 時間)、京都まで 120 里(471km)が通常 45 時(90 時
間)、急行便が 41 時(82 時間)とされる。
(駅逓局御用掛青山秀編『大日本帝国駅逓志考
証』、『駅逓志稿・完』1881)
1696. ○【日本】京都の河内屋利兵衛(かわちやりへえ)が、『増益書籍目録大全』を刊行
する。約 7800 点に上る書籍を収録しており、民間出版が緒につく。[以後、1720 年ころ
までに出版の中心は京都から江戸へ移る。]
1696. ○【日本】宮崎如見による日本初の農書『農業全書』が成る。
1696.○【オランダ】フランスの亡命哲学者ベール Pierre Bayle( 49)が、
『歴史批評辞典(歴
史的批判的辞典)』に取り組み、ロッテルダムの出版業レールス Reynier Leers(42)が支援
のために給料を支払いながら刊行を準備する。[1997 年、完成。ディドロなどの『百科
全書』の先駆をなす 。
]
1696. ○【イギリス】ロンドンのカボット・ドークスが、
『ドークスの手紙新聞』を創刊す
る。筆記体に似たイタリック活字を使用し、読者が地方にいる友人らに送る時のための
伝言用白紙スペースを設ける。最初の夕刊紙とされる。
1699(元禄12年)
1699.○【イギリス】自然哲学者ニュートン Sir Isaac Newton( 57)が、造幣局長官となる。
[以後、贋(にせ)金作りを取り締まり、ハリーやロックらとともに、大蔵大臣を務める教
え子で友人のモンタギューの貨幣改鋳事業を助ける。1700 年に、貨幣重量に厳しい正確
さを求める。1717 年に政府に助言して、1 ギニー金貨が銀 21 シリングと決定され、これ
によってイギリスは実質的に金本位制となる。ニュートンはイギリス貨幣制度史上にも
名を残す。]
1700(元禄13)
1700. ○【ヨーロッパ】この頃、摩擦起電機で発生させた静電気による電気ショックで病
- 232 -
気を治療する試みが盛んに行われる。
1700.○【ドイツ】アウクスブルク(アウグスブルク)で、旅行セットが作られる 。中には、
お白粉入れ、爪ブラシ、薬用スプーン、インク瓶、砂撒き器など、50 個以上の小物が入
っている。
[∼ 1770 年。これらの品物を使用するのは、少数の貴族階級だけである。
]
1700.○【ドイツ】ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz(54)が、ベルリン科学協会(の
ち、ドイツ科学アカデミー)を創設、初代院長となる。[以後、ライプニッツはロシアの
ピョートル大帝の顧問となり、科学アカデミーの設置を提案する。1724 年、ベルリン科
学協会をモデルにして、サンクト・ペテルブルク科学アカデミーが設立される。]
1700. ○【イギリス】この頃、ロンドンの盛り場でコンドームが売られる。性病予防のた
め山羊の盲腸や魚の浮袋で作られ、水洗いして何度も使用される。
1700. ○【南アフリカ】ケープタウンで初めて印刷が行われる。
1700.○【アルゼンチン(?)】Am Rio dela Plata (ラプラタ川畔の意味か??)で初めて印
刷が行われる。(★要調査)
1701(元禄14)
1701. 3.14 【日本】午前 9 時ごろ、赤穂藩主浅野内匠頭長矩( 35)が、江戸城松之廊下で高
家筆頭吉良上野介義央( 61)に、突然、小刀を振るって刃傷に及ぶ。[以後、事件を国元へ
知らせる浅野の家臣 2 名が早打駕籠にそれぞれ乗って、170 里(668km)を 4 日半昼夜兼行
で、3.18 赤穂に着く。このときは、人足数名掛かりで駕籠を担いで走り、人足が宿場で
交代するとき使者も粥をすすり仮眠をとったという。(樋畑雪湖『江戸時代の交通文化』
1931、石井寛治、 1994 )]
1701.○【日本】京都の本屋、八文字屋八左衛門(筆名:八文字自笑( 2 代目))が、江島其
磧(えじまきせき)を専属作者として起用し、浮世草子『けいせい色(いろ)三味線』を刊
行する。西鶴の好色本を模倣したものだが、この頃の役者評判記に見られる横本の形式
で、仮名書きでわかりやすい文体であり、現実に取材しながら、教訓性を盛り込む。其
磧の才筆と自笑の商才により他の本屋を圧倒する。[以後、其磧や多田南嶺(ただなんれ
い)などの作者をうまく使い、庶民向けの読み物として広く読まれ 、
「八文字屋本」と呼
ばれる。八文字屋は、孫の代まで約 70 年間上方(かみがた)の出版界をリードする。]
1702(元禄15)
1702. 3.−【イギリス】印刷書籍業者エリザベス・マレット Mallet が、イギリス最初の日
刊紙『ザ・デイリー・クーラント(Daily Courant)』を創刊する。紙面はほぼフールスカッ
プ大、片面刷り 2 欄 2 ページ。1 部 1 ペニー。記事は大半がオランダ紙やフランス紙か
らの訳載と大陸戦争記で埋め、国内の政治記事は避ける。ドーバー海峡∼ロンドン間の
毎日郵便制がこの日刊紙刊行を可能にする。[4 月、サミュエル・バックリィ Buckley が
引き継ぐ。のちに北アメリカにも送る。1735 年廃刊。]
1702.○【フランス】東洋学者アントワーヌ・ガラン Antoine Galland( 65)が、アカデミー・
デ・ザンスクリプション会員とな利、膨大な「古銭学辞典」を作り始める。
1702.○【イギリス】ジャーナリスト、デフォー Daniel Defoe( 32?)が、非国教徒を徹底的
に弾圧せよと主張するふりをして 、弾圧の愚かさをかえって強く訴えるパンフレット『非
- 233 -
国教徒処理の近道 』を書く。政府ににらまれて投獄され、さらし台に立たされるが、民
衆には支持され、獄中から個人週刊新聞を出す。[1704 年、出獄後個人新聞を続刊し『レ
ビュー』を創刊する。1713 年廃刊。]
1703(元禄16)
1703.1.30[12.14]
【日本】四十七士が吉良邸に討ち入りする。
1703. ○【日本】曾根崎心中の呼び売りが出る。[以後、近松門左衛門が『曾根崎心中』
を執筆する。幕府が、町触れで、謡、小唄になぞらえた時事出版を禁じる。]
1703.○【フランス】東洋学者アントワーヌ・ガラン Antoine Galland( 67)が、ド・ギュイ
ラーグの娘のために「船乗りシンドバッド」を訳し始める。印刷の直前にこれが一大物
語群『千夜一夜物語』の一部であることを知って印刷を延期する。[以後、諸方に写本を
求め、シリアからの写本により訳業を継続する。1704 年、出版を始める。1715 年、没す
る。没後も翻訳の出版は続けられる。1717 年、全 12 巻が完結する。以後、ヨーロッパ
中で各国語に訳される。]
1703.○【イギリス 】ニュートンが、王立協会( Royal Society)総裁に就任する。
[以後、1727
年、死去するまでこの地位にある。この間、グレー(グレイ)Stephen Gray が、摩擦され
た物体の軽い物を引きつける能力が、麻糸や金属を通して他の物体に伝えられることを
発見、摩擦電気を通信に使うことを提唱するが、ニュートンはグレーに 1 度しか機関誌
に論文掲載を許さなかった。 2000 年、工学物理研究所のデビッド・クラークらが『ニュ
ートンの専制』を著し、グレーがニュートンに嫌われた天文学者フラムスティードの親
友だったため徹底的に疎まれ、先駆的なグレーの通信に関する研究成果が十分に公開さ
れなかったので、電気通信の研究が大きく遅れたという。
]
1703. ○【ブラジル】国内で初めて印刷が行われる。
1703. ○【パラグアイ】国内で初めて印刷が行われる。
1704(元禄17、宝永1)
1704. 8 .−【ドイツ】書籍印刷業ヨハン・ロレンツ Lorentz が、プロシア政府の許可を得て、
マリア・カタリナの印刷所と『Mercurius』その他ベルリン紙の発行権を 2500 ターレルで
買い取る。[以後、ヨーロッパ各地との通信網を整備してゆく。]
1704.○【フランス】各都市の印刷工房の数が制限される。パリ 36、リヨン・ルーアン 18 、
トゥールーズ・ボルドー 12 など、110 都市で計 278 工房になる。
1704. ○【フランス】国王付き検閲官が 、
『善良なる農夫の万用歴』または『日々の万用
歴』を、〈民衆の心に迷信を保たせる役にしか立っていない〉との理由で禁止する。
1704. ○【スイス・フランス】幾何学者で光学機械商のファキオ・ド・ドイリエと、フラン
スの時計製造者 P. ドボーフルが、宝石入り時計の特許を取得する。(☆次項との関係
は??)
1704.○【イギリス】ロンドンで働いているスイス人ファティオ N. Fatio が、ルビーに穴
をあける方法を発明する。これによって、時計の歯車の軸受に宝石が採用されるように
なる。[以後、前世紀のフック R. Hooke、クレマン W. Cl □ ment に続いて 18 世紀のト
ンピオン T. Tompion 、グラハム G. Graham、マッジ T. Mudge などの脱進機に関する発明、
- 234 -
グラハムの水銀補正振り子など、主要な発明によって、時計の構造が大いに改良される。]
1704.○【イギリス】ジャーナリスト、デフォー Daniel Defoe(34?)が、週 3 回刊の個人新
聞『レビュー Review』を創刊する。[1713 廃刊。この間 10 年近くにわたってデフォー
はこの新聞のため論説を書き、イギリス商業、貿易の策や商人道徳、宗教問題を論じる。]
1704.○【イギリス】ハリス John Harris( 1667 ?∼ 1719)の『技術辞典(英語学術辞典)
(Lexicon technicum)』が、10 人の書籍商や引受人の連合組織によって出版される。900
人近くの予約者を集める。予約者の中にはアイザック・ニュートン Issac Newton (62)や
古典学者リチャード・ベントレー Richard Bentley (42)をはじめ、船大工や時計製作者も
含まれる。アルファベット順に配列された英語での最初の百科事典と考えられている。
1704. ○【アメリカ】イギリスの植民地ボストンで、最初の定期的新聞『ザ・ボストン・ニ
ューズレター(The Boston News-Letter)』が創刊される。題字の下に〈官許発行(Published
by Authority)〉という文字を掲げる 。
〔1690 年にベンジャミン・ハリスが試みようとした
『Public Occurrence』を最初の新聞とする説もある 。
〕
1705(宝永2)
1705. 夏【日本】春から盛んだったお陰参りが沈静化する。
1705.○【日本】お伊勢抜け参りが爆発的に広まる。この年、公式記録で 362 万人がこれ
を行う。
1706(宝永3)
1706. ○【日本】この頃、江戸を中心に、落首や落書が増える。
1706. ○【シリア】アレッポで初めて印刷が行われる。
1706.○【イギリス】トーマス・トワイニング Thomas Twining が、ロンドンで、コーヒー
や紅茶を飲ませる「トムのコーヒーハウス」を開店する。紅茶の葉を店頭に置いて、入
れ方から販売まで行う。[ 1717 年、紅茶専門の目方売りの店「ゴールデン・ライオン」を
開店する。]
1707(宝永4)
1707. 2 . −【日本】幕府が、雑説、落首や落書、捨て文の禁令を出す。
1707. ○【インドネシア】バタビア(のち、ジャカルタ)で、初めて印刷が行われる。
1709(宝永6)
1709. ○【フランス】ナルボンヌ公会議が、占い師、魔女、占星術師、卜占を信じる者た
ち、および個人占星術師たちを破門する。
1709. ○【フランス】黙許本が現れる。
1709.○【イギリス】教区図書館維持法( the Act for Preservation of Parochial Libraries)が成
立する。イギリス最初の図書館立法となる。
1709.○【イギリス】官報編集官スティール Sir Richard Steele( 37)が、書評・戯評・随筆
などを中心に親ウィッグ党の週 3 回刊マガジン『タトラー(Tatler )』を創刊する。これを
コーヒー店にも置く。[ 1711 年 1 月、廃刊。同年 3 月 1 日、スティールがアジソンと共
- 235 -
に世界初の日刊マガジン『スペクテーター(The SPECTATOR)』を創刊する。]
1709.○【アメリカ】トーマス・ショート Thomas Short が、コネティカト州ニューロンド
ンに最初の印刷業を開業し、州政府印刷所となる。
1710(宝永7)
1710.○【フランス】外務大臣トルシー Jean-Baptiste Colbert Torcy( 45)が、外交行政に関
する文書に関心を持ち、そのための特別の集積室を設ける。[1746 年、トルシー没。こ
の頃には、どの官庁も行政の記録を所定の場所に集積するようになる。役人が家で仕事
をして、文書を私的財産として扱っていた時代から、徐々に、役所で働いて、書類を文
書庫に保管する時代へと転換していく。保管している書類を読みたいという誘惑を避け
るために、文書庫の管理係には読み書きのできない人を充てることが通例となる。]
1710.○【フランス 】この頃、ランベール夫人 marquisedeLambert( 63)が、サロンを開く。
[1713 年、
「古代人と近代人の優劣論争」(新旧論争)などが行われる。これはホメロス論
争で、ウダール・ド・ラ・モットの『イーリアス』フランス語訳が原典を傷つけるとして、
古典学者ダシエ夫人が攻撃し、再び文壇で古代派と近代派が対立する。1714 年、フェヌ
ロンがこれを『アカデミーへの書簡』によって調停する。この論争により、人文主義の
伝統につながる古典の絶対視から、文学の相対的あるいは歴史主義的評価への転換を促
し、実証的な科学研究の成果にもとづく進歩の思想を文学の領域に導入したことで、フ
ランス文芸思潮の転回点となる。1733 年までサロンは続けられる。]
1710.○【イギリス】アン王女( 44 )が、世界最初の著作権法を制定する。私権としての著
作権を初めて定める。著作者が書物を出版する権利を保有し、著作者はその権利を 4 年
間享受でき、著作者が生存していれば、さらに 14 年間その権利を更新できると定められ
る。既刊本著者に 21 年間、未刊本著者に 14 年間の出版権を与え、ともに Stationers Co.
に登録することと規定する。この頃、出版者の保護と検閲が表裏一体となった「特許検
閲法」ではいまだ著作者の保護は不十分であって、著作者自身の保護に焦点を合わせる
法律思潮が生じていた。[以後、「アン法(Statute of Anne )」と呼ばれる。著作者の待遇は
大幅に改善される。あらゆる著作権の基礎となり、多くの国々が近代的な著作権法を制
定する。](●著作権の年表「A History of Copyright in the United States」がある URL
(http://arl.cni.org/info/frn/copy/timeline.html)では「 1710 年」になっている。アン法の全ペ
ージは URL( http://www.copyrighthistory.com/anne.html )で見ることができる。これによれ
ば、1980 年までは 1709 年だったが、John Feather, The Book Trade in Politics: The Making of
the Copyright Act of 1710, ''Publishing History'', 19(8 ), 1980, p. 39 ( note 3)によって、1710
年に修正された、とある。以上 2003.2.27 伊藤政行氏指摘。
)
1710.○【イギリス】評論雑誌『ジ・エグザミナー The Examiner』が創刊される 。[以後、
スウィフトが半年間論説を担当する。1712 年、廃刊。]
1711(正徳1)
1711. 3. 1【イギリス】ロンドンで、世界初の日刊マガジン『スペクテーター(The
Spectator)』が、スティール Sir Richard Steele (38)とその協力者 J. アジソン(アディソン)
Joseph Addison( 38 )によって創刊される。仮想人物からなる会員クラブの発行という形式
- 236 -
で、架空の人物 スペクテーターを語り手として当時の風俗や文学、道徳に関する 2 人の
自由なエッセイを主として掲載する。従来のトピック主義の編集を採らず、テーマ別編
集によって、巷の噂や市場の動向なども採り上げる。2 人は「思想の自由 」について 、
〈ク
ラブの自由が必要である。互いに知りつくしている紳士や友人のあいだで必要とされる
ような自由が必要である。
〉と書く。[1712.12 、555 号でいったん終刊。この間、政治・外
交・文化の諸問題について鋭い考察を続け、一時、2 万部を発行する。1714 年、アジソン
により再刊され、同年 80 号で終刊。以後、イギリスでマガジンが続々と創刊される。]
1711.○【イギリス】シャフツベリ伯(3 世)3rd Earl of Shaftesbury,Anthony Ashley Cooper
(40 )が、情報文化論の書『人々、風習、意見、時勢の特徴』
(
『諸特徴』
)を出版する。[以
後の社会批評の先駆けとなる。]
1711.○【イギリス】トランペット奏者・リュート奏者ショア John Shore が、一定のピッ
チで振動する音叉を発明する。彼はその道具を「くま手(pitch fork )」と呼ぶ。
1712(正徳2)
1712. 8.−【イギリス】トーリー党政府が、印紙税 Stamp Tax の賦課を実施する。アン王
女の発議とされ、反逆紙の抑圧を狙う。ニュース紙は 1 部 1 ペニー、同半裁紙は 0.5 ペ
ニー、広告は 1 件 1 シリングが課せられる。[以後、印紙税のため『Observer』が廃刊を
余儀なくされる。
『The Spectator』は 2 ペンスに値上げする。廉価紙や弱小紙は部数を減
らす。]
1712. ○【日本】この頃、図入り百科事典の先駆け『和漢三才図会』(わかんさんさいず
え)が、大坂杏林堂より刊行される。105 巻 81 冊。編者は大坂の医師寺島良安。編者の
師和気仲安の〈医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり〉との言に従い著述を計画
し、30 余年の歳月をかけて完成に至る。明の王圻(おうき)の『三才図会』 106 巻の体裁
にならって編集し、和漢の事物を、天部、天文、天象、時候、暦占、暦日吉凶、人倫、
親族、官位より禽獣、草木に至るまで 96 の部類に分け、考証、図示する。必ず和漢の事
象を併記し、和事項については広く日本国内を実地調査し、種類、製法、用途、薬効な
どを客観的に記述したところに特色がある。[以後、正徳 2 年の自序のほかに、同 3 年の
大学頭林信篤、和気仲安の序、清原宣通の後序、同 5 年臥雲閣主人の跋(追加)がある。]
1712. ○【オランダ】商業都市ユトレヒトで、スペイン継承戦争後の平和条約締結のため
講和会議が開催される。講和会議にやってきた各国の外交官や政府高官たちが、ユトレ
ヒトの娼婦たちから性病をうつされる。[1713.4.11 イギリスがフランスと講和条約を締
結する。同日、オランダ、プロイセンなどもフランスと条約を結び、スペイン継承戦争
はほぼ集結する。フランスのスペイン合同阻止に成功したイギリスは、最大の受益者と
なり、ヨーロッパにおける一大強国に発展する。]
1712.○【ドイツ】ケンペル Engelbert Kaempfer ( 61 )が、旅行見聞録『廻国奇観(Amoenitatum
Exoticarum) 』
5 編を、
故郷レムゴウで印刷業を営んでいたマイヤー Heinrich Willhelm Meyer
の書店から印行する 。第 5 編は日本植物誌にあてられ 、約 250 頁にわたり「粟」
「稗 」
「粳」
「糯」「黍蜀」などと、かなりの数の植物の漢名が木活字で印刷される。ケンペルは、
本書の編纂に際し、中村惕斎『訓蒙図彙』を利用しており、木活字はこれを参照して彫
- 237 -
られたが、書体は奇妙で不完全である。(図:『本と活字の歴史事典』140 ∼ 141 頁)
1713(正徳3)
1713.○【中国】(康煕 52)清朝政府が、銅活字の武英殿活字を用いて、天文に関する書物
『星歴考源』
、数学書『数理精蘊』を刊行する。
[1724 年、音楽に関する書物『律呂正義』
を刊行する。
]
1714(正徳4)
1714. ○【ロシア】ロシア初の公共図書館が開館する。
1714.○【ドイツ】ファーレンハイト Daniel Gabriel Fahrenheit( 28)が、水銀温度計を発明
する。[ 1720 年、温度目盛を作成する。]
1714.○【イギリス】技師ミル Henry Mill が筆記機械(書記機械)を考案し、特許権を得る。
欧文タイプライターの歴史がはじまる。[以後、その詳細は伝えられない。その後、ヨー
ロッパ、アメリカでの書記機械の考案は 150 年間に 50 以上が数えられ、中でも特に盲人
用としての試作が行われる。1850 年代から、主にアメリカでの考案が増加し、70 年代ま
でに約 20 件が発表されるが、操作が複雑で印字速度も遅く、実用には至らない。エジソ
ンも書記機械を発明し、のちに通信用テーププリンタの原型となる。]
1714. ○【イギリス】政府が、長い航海中船舶が海上において標準時と地方時の差から正
確な経度(誤差 30 マイル以内)を測定する方法を考案した者に対して 2 万ポンドの賞金を
設定する。大工で発明家のハリソン John Harrison (21)が、このための正確な時計の製作
に挑戦する。[1735 年、ハリソンが「クロノメータ」第 1 号を製作する。]
1715(正徳5)
1715. ○【日本】江戸の若狭屋忠右衛門が、東海道筋の飛脚業に新規参入する。[以後、
間もなく、独自の馬継所を設けて騎馬による「通馬早飛脚」のサービスを始め、江戸・
大坂間を 3 日半∼ 4 日で手紙輸送する。1739 年 、大坂の飛脚問屋柳屋嘉兵衛も開始する。
1743 年、幕府によって禁止される。]
1715. ○【日本】神道講釈の増穂残口(ますほざんこう)が、男女陰陽和合の理を説く『艶
道通鑑(えんどうつがん)』を刊行する。[以後、これを含む残口八部書を残す。]
1715. ○【フランス】帝室印刷所で、中国語文典と辞書の印刷に備えて、漢字活字の彫刻
が、コレージュ・ド・フランスのアラビア語教授フールモン Etienne Fourmont の指導のも
とで始められる。
[1719 年、漢字を生成するための 214 の「鍵(clave ) 」(部首)が作られ 、
印刷・発表される。1737 年、40 ポイント木活字を初めて本格的に使用して、フールモン
が、中国語文典の一部として中国語学の概論書『中国の考え方 Meditationes Sinicae』を
刊行する。1742 年、『中国語文典』が刊行される。同時に、漢字活字の彫刻が中止され
る。1811 年、漢字活字の彫刻が再開される 。
]
1716(享保1)
1716. ○【日本】女子教訓書『女大学宝箱』が刊行される。末尾に貝原益軒述とあるが、
彼の 1710 年の著作『和俗童子訓』巻 5 「女子を教ゆるの法」をもとにして書かれたもの
- 238 -
と考えられる。〈女は陰性(いんしょう)なり。故に女は男に比ぶるに、愚かにして目の
前なる可然(しかるべき)ことをも知らず 〉
〈総じて婦人の道は、人に従うにあり〉とい
う女性観に立ち、婚家先での嫁のとるべき態度を説く。夫および舅姑(きゅうこ)への服
従を基本とし、
〈婦人は別に主君なし。夫を主人と思い、敬い慎みて事(つか)うべし〉
〈万
のこと舅姑に問うて、其の教えに任すべし〉と説く。[以後、同内容の「女大学」と題す
る本が、数十種類出版される。これらは江戸時代には寺子屋で読本兼習字用教科書とし
て、明治以降は女学校の修身教材として使われ、封建社会における家族制度を維持・強
化していくための女子教育の書となる。1906 年、加藤弘之・中島徳蔵『中等教科明治女
大学』が刊行され、第2次世界大戦終了時まで使用される。一方、1876 年土居光華『文
明論女大学』、1899 年、福沢諭吉『女大学評論』
『新女大学』などは、西欧思想を取り入
れて「女大学」を批判する。]
1716.○【中国】(康熙 55)康熙帝の命令で編集された字書『康熙字典』が完成する。帝の
序文では「字典」とだけ呼ばれる。張玉書(1642 ∼ 1711)らが監修して、 214 の部首が筆
画数の順に並べられ、過去最大の親字 4 万 7035 字、さらに古代の異体字 1995 字を収め
る。1 字 1 字については反切による字音、ついで字義を示し、字義ごとにその用例を列
挙する。多くの人を使役しわずか 6 年間で完成させたが、誤りも多い。[1827 年(道光 7 )、
道光帝の命を受けて王引之が『字典考証』を作り、引用上の誤り 2588 条を正す。1885
年、日本の渡部温が独自に校勘し 、
『標注訂正康熙字典』でさらに多くの誤りを指摘す
る。
]
1717(享保2)
1717.○【イギリス】トーマス・トワイニング Thomas Twinng が、コーヒーハウスが女人
禁制になっているのに目を留め 、
「トムのコーヒーハウス」に隣接して紅茶専門の目方
売りの店「ゴールデン・ライオン」を開店し、女性の間に評判を呼ぶ 。
「オレンジ・ペコ
Orange Pekoe」など“等級名”が商品名のようにして売られる。
1717.○【アメリカ】フランクリン James Franklin が、イギリスから印刷機と活字を運ん
で来て、ボストンに印刷所を開く。[1718 年、弟ベンジャミンが兄の下で徒弟として勤
める。]
1718(享保3)
1718. ○【中国】山東泰安の徐志定が、泥活字の上に磁釉(磁器の釉薬)をかけて焼き固め
た磁活字を作製する 。
[1719 年、磁活字を用いた印刷に着手する 。
]
1718. ○【日本】将軍吉宗が、天文学に関心を持ち、長崎の鏡職人に命じて日本最初の大
望遠鏡を製作させる。
1718. ○【ロシア】新たな人頭税の導入と関連して、国勢調査が実施される。
1718.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin (12)が、兄ジェームズの経営する印
刷所に年季奉公に入り、そこで発行する新聞『ニューイングランド・クーラント』に匿名
で寄稿するなど文章の練磨に努める。[1723 年、17 歳のとき、印刷工の職を求めてフィ
ラデルフィアに移る。]
- 239 -
1719(享保4)
1719. 1 0 . 9【イギリス】パークス William Parks が、Ludlow と Shroshire で最初の新聞を発
刊する。[1726.3 アメリカのメリーランドで印刷を開始する討論会を開催し、法律と討
論の議事録を印刷する。]
1719. ○【中国】泰安の徐志定が、磁活字を用いて、張爾岐『周易説略』『蒿庵閑話』を
刊行する。中国唯一の磁活字印刷本となる。
[以後、注目されることなく、散逸する。1961
年、済南の古書店で『蒿庵閑話』が発見される。同年、北京で『周易説略』が発見され
る。
]
1719. ○【フランス】製紙の原料のぼろぎれ不足の状況を打開するため、ルネ・レオミュ
ールが、木材から紙を製造する可能性について科学アカデミーで指摘する。『
( 書物の起
源』
)
1719.○【イギリス】ジャーナリスト、デフォー Daniel Defoe(49? )が、『ロビンソン・ク
ルーソー』(原題『ロビンソン・クルーソーの生涯と不思議な驚くべき冒険(The Life and
Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe )』)を発表する。[これまでのロマンス風
の散文物語と異なり、平易な文章を駆使して写実的に描くところに特色があり、苦難に
支配されずに着実に生活を築いてゆくこの頃のイギリス市民の生き方がよく出ていて、
デフォーのもっとも有名な作品となり、またイギリス小説成立期の重要作品となる。以
後、デフォーは散文による物語を次々に書くようになる。1722 年、自伝形式の小説『モ
ル・フランダーズ』は、環境のせいもあってさまざまの罪を重ね、男を遍歴する女モルを
主人公に、逆境をたくましく生きるあばずれ女モルと当時の下層階級を写実的に描く。
1724 年『ロクサナ』も自伝の形で、5 人の子をもちながら夫に捨てられ、大陸まで放浪
して生きていく女の話を語る。自ら出版業なども営み、1726 ∼ 27 年に『完全なイギリ
ス商人』を刊行し、商業を志す若者に商人道、心得などを説く。]
1720(享保5)
1720.○【日本】将軍吉宗の命により、1685 年(貞享 2)以来の漢訳洋書の輸入禁令を緩和
する。宣教師の著述でも科学書など宗教書と見なされないものは、多少の文句が禁に触
れる場合でも輸入することとし、海外の新知識の導入を図る。
1720.○【日本】大坂の狩野派の大岡春卜筆といわれる戯画集鳥羽絵本『軽筆鳥羽車』3
冊が刊行される 。
[この頃、鳥羽絵が大坂で流行し始める。略画的タッチで人物や動物
などを滑稽に描き、日本最初の漫画本とされる。『鳥獣戯画』の筆者に擬せられる鳥羽
僧正(覚旨(かくゆう))にちなんでこう呼ばれる。 ]
1720. ○【日本 】
『洞房語園(どうぼうごえん)』に、全国の遊郭として、大坂新町、京都
島原、江戸吉原のほか、伏見撞木(しゅもく)町、奈良木辻(こつじ)、大津柴屋(しばや)
町、駿府弥勒(すんぷみろく)町、敦賀(つるが)六軒町、越前三国、佐渡鮎川(相川 )
、
堺高須、同乳守(ちもり)、神戸磯ノ町、播磨室津、備後鞆(とも)、安芸宮島、同多太海
(ただのうみ、忠海 )
、石見温泉津(ゆのつ)、下関稲荷町、博多柳町、長崎丸山などで、
計 25 ヵ所を挙げる。
1720. ○【日本】幕府は、新吉原のほかの江戸府内に、遊女、私娼を置くことを禁じてい
たが、守られないので罰則を公布し、取締りを強化する。遊女屋を勝手に経営した遊女
- 240 -
抱え主、遊女を置いた家主は、家財をすべて没収のうえ、百日の手鎖の罰とする。五人
組、名主は過料に処せられ 、遊女、踊り子らは 3 年間、新吉原へ引渡しの処分をうける。
将軍吉宗は、この措置に 、
〈夫婦にて、生計も立たざる貧乏なれば、たがいに納得のう
えにて、身をひさぎし女は、罰せずともよし。納得しあわざるに、妻をむりじいに娼妓
といたせし夫は、死罪といたすべし〉と寛典を付ける。(津本陽『大わらんじの男』490
『日本経済新聞』1995.3.7 )
1720.○【ヨーロッパ】オランダを中心に、出版業の危機が訪れる。
[1740 年まで続く。
]
1720.○【ドイツ】ファーレンハイト Daniel Gabriel Fahrenheit( 34)が、水銀温度計の温度
目盛を作成する。食塩と雪の重量比 1 対 3 の混合物が日常得られる最低温度であること
に着目して、これを 0 度とする 。
またヒツジの体温(約 38 ℃)をもって 100 度とする。[1724
年、健康な男の口の中または腋(わき)の下の温度を 90(のちに 96)とし、氷と水の混合物
の温度を 30(のちに 32)とする。のち、氷と塩の混合物の到達温度は零下 22.0 ℃(共晶点)
とされる。これはファーレンハイトのスケールでは零下 8 度Fに相当する。中国では彼
の名に華倫海の文字をあてたので 、
「華氏(またはカ氏)温度」と呼ばれる。]
1720.○【イギリス】ウィリアム・カズロン(キャスロン)William Caslon(28 )が、活字鋳造
所を開き、オランダから輸入している字母や活字の国産化を試みる。[ 1722 年、ローマ
ンタイプの活字体を創作する。]
1720.○【イギリス】フランス人ジェームズ・レブロン Lebron が、3 原色メゾチント凹版
印刷を実用化する。
1721(享保6)
1721.[ 7.21]幕府が、
「新規御法度」により、新奇でぜいたくな衣服・調度・食物を禁
止する。また書籍の発行は町奉行に届け出、時事的な絵草紙の版行を禁じる。
1721.[ 8. 2]幕府が、目安箱を江戸城竜の口の評定所門前に設置する。これに先立ち幕
府は、閏 7 月 25 日、日本橋に高札を立て、8 月以降毎月 2 日、11 日、21 日の 3 度、評
定所の外に箱を出しておくので、政治改革はの提言や不平不満などを将軍に起訴したい
者は、正午までに、訴状に住所・氏名を明記したうえ固く封をして持参せよ、と触れを
出していた。箱はそのまま将軍吉宗の前に運ばれ、小姓が鍵を開けて取り出した書状は
封をしたまま将軍に手渡される。
1721.○【日本】江戸中期、人口は約 3127 万人。(国立社会保障・人口問題研究所『人口
統計資料 2004』)
1721. ○【日本】大岡越前守が、書物問屋、草紙(そうし)屋に命じて書物目録を作成させ
る。書物目録には 7446 種の書籍が掲載される。このころまでに出版の中心は京都から江
戸へ移っている。
1722(享保7)
1722.11. −【日本】南町奉行大岡越前守が、好色本や徳川家批判の書を取り締るために、
「新板書物之儀ニ付町触」という御触書を出す。内容は猥褻や異説を唱えるもの、徳川
家に事績に関する記事を禁止する 。
〈好色本ノタグイハ風俗ノタメニモヨロシカラザル
儀ニ候間、ダンダン相改メ、絶版ツカマツルベク候コト〉また、書籍の発行に際しては
- 241 -
〈何書物ニヨラス此以後新板之物、作者並板元之実名奥書(おくがき)ニ為致可申事〉と
して、巻末に開版年紀、開版地名、開版書肆または開版人などを表示した「奥付」をつ
けるように定める。出版物取締りに関しては、奉行所でやったのでは厄介なので、本屋
仲間の自主規制にゆだねる。[以後、寛永時代から非公式に結成されていた本屋仲間組織
が公認された形になる。1723 年、江戸で古くからあった通町組、中通組に新たに南組が
加わり 3 組をつくる。大坂では槙組、明組、篤組の既存 3 組に審組、博組を加えて 5 組
が結成される。京都では正徳年間からあった上組、中組、下組の 3 組が公認仲間組織と
なる 。各仲間組織には、幹事役としての「行事 」(大坂では「行司」)を数名を選出して、
草稿の段階で行事が「回り本」と呼んで回覧して検閲する。OKとなれば、添書きして
奉行所に提出して、出版許可証を下付してもらう。本屋はこの許可を得て、初めて版木
彫刻を開始することが認められる。]
1722.12.−【日本】幕府が、5 ヵ条からなる出版令を公布し、好色本や異説本の出版と呼
び売りの禁令を強化し、本屋仲間の結成とを組織的に両立させる。布令には将軍役人等
の政道と行為の記事を禁止し、伝聞浮説、新規の創作、好色物、華美な絵柄を禁じる。
その第 4 条に〈何書物によらず此後新板之物、作者並板元実名奥書為致可申候事〉とあ
り、
「奥付」の記載を法的に定める。歴史的には 11 世紀末から「刊記」として始まって
いる。[以後、これを基本法規として幕末まで取締りが行われる。1869 年、
「出版条例」
に受け継がれる。1893 年、「出版法」によって奥付は〈文書図画ノ末尾〉になり、記載
の形式も整えられて不可欠のものとなる。1949 年 5 月、同法は廃止され、奥付の法的制
約はなくなるが、以後も書誌的事項を表す重要な箇所との認識から、ほとんど変更され
ることなく慣行として存続する。巻末の奥付は日本のほかには、中国・韓国の一部のみ
に見られる独特のもので、ヨーロッパなどでは巻頭につけられるのが通例である。]
1722.○【日本】幕府が江戸の人口調査を実施する。
町奉行支配の江戸町方人口は 48 万 3355
人で、男 31 万 2884 人、女 17 万 471 人と女は 35.3 %で、江戸は女日照りの大都会とな
っている。ほかに寺社奉行支配の人口が約 5 万人、吉原に約 8000 人が居住しており、町
方総人口は約 54 ∼ 55 万人を数える。このほか武家人口とあわせると、江戸の人口は 100
万人に達する。新吉原の遊女の数は 3900 人前後である。
1722.○【中国】清朝第 4 代皇康煕帝( 61)が、大量の銅製活字の製造を命じる。[この年、
暢春園(ちようしゆんえん)離宮で病没する 。この活字は欠点があり典雅でなかったので 、
第 6 代皇帝乾隆帝(けんりゅうてい)(在位 1735 ∼ 95)が「聚珍」と名付け、銅貨が不
足した時期に溶かすことを許可する。その後、この措置を後悔して、銅活字に代わる 25
万の木活字を作らせる。] (『印刷史研究』2 号、1996.6)
1722.○【イギリス】活字彫刻家カズロン(キャスロン)William Caslon(30 )が、字形が整
一で調和があり、読みやすいローマンタイプの活字体を創作する。[以後、ヨーロッパや
アメリカで広く用いられ、オールドスタイルのほとんどの活字体がカズロンの書体を基
に発達する。アメリカ合衆国の独立宣言や憲法の印字、イギリスの作家ショー George
Bernard Shaw の全作品などにカズロン体活字が用いられる。
1723(享保8)
1723. 2.28【フランス】1686 年規制令を基礎に諸法令を集大成した「出版法典」が出さ
- 242 -
れる。国王顧問会議の裁定により、初めて著作者にも自作の著作物を自分で販売するこ
とを認める特許認可状が与えられるよう規則が制定される。作曲者も自作の楽譜を印刷
業者に印刷させ自ら販売する特許認可状を与えられるようになる。かねてから、地方の
書籍商は、パリの書籍商が保有している特許認可状の紀元満了ののちは、誰でも出版で
きるよう要求して提訴していたため、この裁定により、著作者と取引すれば地方でも印
刷できると歓迎する。[1738.2 楽譜印刷を牛耳っていたバラール家は、オペラ座で上演
された楽譜の印刷・販売に関する特許認可状の申請書を国王に提出するが、作曲者たち
が強く反対する。ルイⅩⅤ世は、作曲者が特許認可状を保持していることを宣言する。
しかし、楽譜に印刷されるオペラの台本を出版する権利はオペラ座に与えられていたの
で、作曲者には台本を出版する権利はなく、著作者には何らの支払いも行われない。ま
た、ルイⅩⅤ世は、活字の高さを統一するために、これを 10 リーニュ半(約 2.36cm )と
定める。]
1723. 4.−【中国】[雍正 2]八旗に属する官僚の遊郭・歌舞場への立ち入りを禁止する。
1723. ○【日本】幕府が、情死者の処置を定め、心中事件を絵双紙や歌舞伎で取り上げる
ことを禁止する。
1723.○【ギリシア】印刷出版者の一族ディド Ambroise Firmin Dido( 33 )が、トルコ駐在
フランス大使に従ってギリシア、中近東、エジプトに旅行、遺跡の発見などをおこなっ
て帰国後、トルコの支配から独立しようとするギリシア支援の運動を起こし、ギリシア
に最初の活字印刷機や図書を寄贈する。[1827 年、弟と共同で家業を継ぐ。
]
1723.○【フランス】アミアンの印刷業者 M.D. フェルテルが、
『印刷技術実践教本』を出
版する。この中で 、〈活字ケース内の配列法が依然として工房によりまちまちである〉
と書いて、効率的配列法としてキャピタルはアルファベット順に、その他の活字は使用
頻度に応じて大小各種の仕切りの中に収容すべきだ、と提唱する。この頃、職人たちは
工房を変わる都度、活字ケースの中の配列を新たに覚えなければならない。『
( 書物の出
現』
)
[1793 年、A.F. モモロ『印刷技術基礎論』でも効率的な配列法を示す。
]
1723.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin (17)が、兄ジェームズの印刷所を去
り、フィラデルフィアのサミュエル・ケーマー Kaymer の下で働く。
1723. ○【キューバ】ハバナで初めて印刷が行われる。
1724(享保9)
1724.○【イギリス】ロングマン Thomas Longman( 25)が、8 年間の徒弟生活を終えて、
ロンドンのパタノスタ通りのひとつの書店を譲り受け、ロングマン社を創業する 。[以後 、
教育関連書を中心としたイギリス最大の総合出版社となる。1755 年、サミュエル・ジョ
ンソンによる初の包括的な英語辞典『ADictionary of the English Language』を出版する。
また、科学技術関係書、児童書、一般書、医学書などを刊行。1966 年、ロングマン社が
ロングマン社グループ( Longman Group Ltd.)に発展、世界各地に子会社、支店、事務所
を持つ。1968 年、イギリスのメディア・グループであるピアソン( Pearson)の傘下に入る。
1995 年、
アメリカの大手教育出版社アディソン・ウェスリー(Addion Wesley )と合併して、
アディソン・ウェスリー・ロングマン(Addison Wesley Longman Inc.)に社名変更する。
現存する商業出版社としては世界最古となる。創業以来、初代トマスが掲げた「帆船マ
- 243 -
ーク」は、何度もデザインを変化させながらも、永く持続させている。]
1724.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin (18)が、印刷技術を磨くためイギリ
スに渡る。[1726 年、アメリカに帰り、印刷・出版業に従事する。]
1725(享保10)
1725. ○【中国】清朝政府が、武英殿にて銅活字を用いて、『欽定古今図書集成』の刊行
を開始する。
[1726 年、全 1 万巻を計 66 部刊行する。約 1 億 6000 万個の活字を用い 、5020
冊に分冊され、522 函に収められる。大小 2 種の銅活字が用いられ、大字は正文、小字
は注に用いられる。以後、この宮廷銅活字は二度と使用されることなく、武英殿の銅字
庫内に置かれたままになる。1744 年、北京で貨幣が不足し、銅活字はすべて鋳つぶされ
て銅銭に改鋳される 。
]
1725. ○【ロシア】この頃、聖書の名場面や聖人の暦を扱った木版本が生産されるように
なる。これらは呼売り商人(チャップマン)により販売される。
1725.○【イギリス】この頃、ロンドン市内にコーヒー店が約 2000 店あり、内外の新聞
を置いて客を集める。
1725. ○【イギリス】貸本屋が、ロンドンに姿を現す。古本屋が兼業する形で、新刊中心
ではない。
1726(享保11)
1726. 3.−【アメリカ】パークス William Parks が、メリーランドで印刷を開始する討論
会を開催し、法律と討論の議事録を印刷する。[以後、パークスは、メリーランドで印刷
ビジネスを開始する。 1727 年、ペンシルバニア最初の新聞『メリーランド・ガゼット
(Maryland Gazette)』を Annapolis で印刷して発刊する。パークスは 1737 年までメリーラ
ンドとバージニアで印刷会社を運営する。]
1726.○【日本】大坂で、
「本屋仲間届出惣人数」が 89 人と記録される。
1726. ○【オーストリア】ウィーンの高等図書館が、公に開放される。
1726.○【イギリス】ガリバー Lemuel Gulliver 著『ガリバー旅行記( Gulliver's Travels)』4
巻が刊行される。実際の作者はダブリンの聖パトリック教会の首席司祭でイギリス系ア
イルランド人のスウィフト Jonathan Swift( 59)だが、政府の糾弾を避けて匿名で出版する。
「ガリバー旅行記」は、船医のガリバーが難破により小人国、巨人国、空飛ぶ島、馬の
国などを遍歴する物語。その奇想天外さから子供の読み物としても人気をえてきたが、
実際は全編がイギリス社会と人間への痛烈な批判にみちた辛口の風刺小説となっている。
文学史上初の逆ユートピアの登場となる。たとえば空飛ぶ島の巻では、無用な実験、探
究に明け暮れる自然科学者を俎上(そじよう)にのせる。もっとも辛辣なのは馬の国の巻
で、ここでは馬が理性を備えて支配者の地位にたち、人間そっくりのヤフーという動物
は、家畜も野生種もきわめて醜悪、無恥、下劣、不潔な動物として描かれる。[以後、政
府の追及がなされるが、市民は作者の正体を知りながらも誰も告げることはない。かえ
ってスウィフトの平明な文章が、イギリス散文の模範とされる。]
1726.○【イギリス】詩人・書籍商ラムゼー Allan Ramsay( 40 )が、エジンバラの町で貸本
屋を始める。すでに 17 世紀のロンドン市中で、書籍商が自家の蔵書を貸し出していたが 、
- 244 -
折からの大衆文芸の発達の中でラムゼーが初めて専業の貸本屋を開業する。[以後、ロー
マ支配時代からの温泉場バース(文字どおり温泉の意)をはじめとする保養地には欠かせ
ないものとして栄える。]
1726.○【アメリカ】イギリスで印刷技術を修得したフランクリン Benjamin Franklin( 20 )
が、アメリカに帰国する。[ 1728 年、印刷所をつくり、印刷・出版業に従事、
『ペンシル
ベニア・ガゼット』紙の発行者となる。]
1727(享保12
1727. ○【トルコ】オスマン帝国に印刷所が設立される。
1727.○【アメリカ】パークス WilliamParks が、ペンシルバニア最初の新聞『メリーラン
ド・ガゼット(Maryland Gazette)』を Annapolis で印刷して発刊する。[1736 年、ヴァージ
ニア最初の新聞『ヴァージニア・ガゼット(Virginia Gazette )』も発刊する。さらに南ポ
トマックでも最初に新聞を発刊する。1750 年、彼の会社である Willamsburg の事務所で
死去する。]
1728(享保13)
1728.○【日本】儒学者岡島冠山( 54 )が、けん園の「訳社」
(華語講習会)を通し中国語学
(唐話学)の形成および白話(はくわ)(口語体)小説の翻訳本の刊行を始める。
1728. ○【ドイツ】ブルクマンが、昨年からこの年にかけて、木材から作った紙を用いて
『地中における神の驚異』を数冊印刷させる。(『書物の出現』)
1728.○【イギリス】チェンバーズ Ephraim Chambers(1680 ?∼ 1740 )が 、
『百科事典(サ
イクロピーディア)、また芸術科学の世界辞典(Cyclopaedia ; or an Universal Dictionary of
Arts and Sciences)』4 巻をロンドンで刊行する。全知識をアルファベット順の大項目にま
とめ、系統的に記述する。人名と地名はとっていない。売価は 4 ギニー。[以後、多いに
歓迎され、1738、1739、1741 、1746 年( 5 版)と増刷を重ねる。1748 ∼ 49 年、イタリア
のベニスで、チェンバーズ自身の協力によって翻訳、9 巻で出版される。1778 ∼ 88 年、
リース Abraham Rees(1745 ∼ 1825)が 5 巻の増訂版を出す。1819 ∼ 20 年、45 巻の同名
の事典が発行される。フランスではミルズ J. Mills とセリウズ G. Sellius らがフランス語
訳本の出版を企て、パリの出版者ル・ブルトン Le Breton に持ち込むが、契約は成立せ
ず、中止する。ル・ブルトンは企画をあきらめず、ついに英語の翻訳者として知られた
ディドロに頼み、ディドロは友人ダランベールと共同で引き受ける。ディドロ『百科全
書』出版の契機となる。]
1728.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin( 22)が、ヒュー・メレディス Meredith
と共同でペンシルベニアで印刷所をつくる。[以後、印刷・出版業に従事する 。1729 年 、
『ペンシルベニア・ガゼット(Pennsylvania Gazette) 』紙の発行者となる。フランクリンは、
印刷・出版業の成功で財をなしてからは、経営をパートナにまかせ、自らは科学・学術
の分野で活動、また政治的活動に専念する 。しかし、彼は生涯〈印刷業者フランクリン〉
と自称する。]
1729(享保14)
- 245 -
1729.○【朝鮮半島】呉道一の詩文集『西坡(土+皮)集』が、世界初の鉄活字を用いて刊
行される。
1729.○【ヨーロッパ】この頃、3 色、4 色重ね摺りが試みられる。
1729.○【イギリス】グレー(グレイ) Stephen Gray( 63)が、摩擦された物体の軽い物を引
きつける能力が、麻糸や金属を通して他の物体に伝えられることを発見する。これによ
り電気を通す導体と電気を通さない不導体に区別されることを見い出す。また、電気が
流動しうるものであるとの認識をもたらすことによって、後の電気流体説の基礎を築い
く重要な発見となる。また、摩擦電気を通信に使うことを提唱する。
1729.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin( 23 )が 、サミュエル・ケーマーから『The
Universal Instructor』を買い取り 、『ペンシルベニア(ペンシルバニア)・ガゼット(The
Pennsylvania Gazette)』と改題して発行する。[ 1730 年、独立してこの新聞の発行にあた
る。1766 年『ペンシルベニア・ガゼット』を 、デヴィッド・ホール Hall に譲る 。1815 年 、
廃刊。1821 年、『Saturday Evening Post 』となる。]
1730(享保15)
1730.○【日本】幕府が、大坂の堂島米会所に、
「正米商内 」
(現物取引)と「帳合米商内」
(先物取引)を公許する。米相場は「米飛脚」によって同地への回米を行う西日本各地
へ伝えられる。[ 1750 年頃から、手旗信号による通信が始まる。白黒大小の信号旗を地
形・天候により使い分け、夜間には提灯を振り、遠眼鏡も使用される。]
1730. ○【ドイツ】木彫の鳥が啼いて時を告げる「はと時計」がでつくられる。
1730.○【アメリカ】ヴァージニア植民地地域管理者グーチ William Gooch が、アメリカ
最初の印刷アートの本『TypographiaanODE,onPrinting 』を著し、パークス William Parks
が印刷する。アメリカン・グラフィック・デザインの最初の印刷物となる。[ 1926 年、
Stone Printing and Manufacturing 社が、American Institute of Graphic Arts の会員向けに 550
部限定で復刻する。その後、同社の社員向けとして 350 部増刷する。(注:最初の限定復
刻版の 360 番を伊藤政行氏が所蔵している。)]
1731(享保16)
1731. [ 9.−]【日本】尾張藩主徳川宗春( 36)が、藩祖以来の国禁を破って、名古屋で遊
郭の開設を許可する。武士の芝居見物禁止や祭礼の制限なども取り払う。[以後、御殿の
ような芝居小屋が常設され、これまで年に 1 ∼ 2 本だった芝居が、この年 33 本が興行さ
れる。1732.[ 1.−]遊郭が開業する。]
1731. [ 12. 3]【日本】清の画家沈銓(しんせん)(沈南蘋(しんなんぴん;ちんなんぴん))
(49 )が、長崎に来る。[以後、長崎滞在中に熊斐(ゆうひ)に画法を伝える。江戸後期の画
壇に写実主義が勃興する契機となり、伊孚九(いふきゆう)らと並ぶ来舶画人の一人とし
て日本近世画壇に大きな影響をもたらす。熊斐の門下から宋紫石、鶴亭、熊斐文、真村
挿江(まむらろこう)、諸損監(しよかつかん)、森蘭斎、建部凌岱(たけべりようたい)な
どの画家が出る。総称して南蘋派と呼ばれる。1733 年、帰国。以後も、日本側の注文に
応じて作品を送り続ける。]
1731. ○【ドイツ】鉛筆製造のギルドがつくられる。
- 246 -
1731. ○【イギリス】議会報道の禁止に抵抗する雑誌『ジェントルマンズ・マガジン
(Gentleman's Magazine )』が、ロンドンで創刊される。知識人に情報と娯楽を提供するこ
とを目的とし、議会権力に抵抗する。「倉庫」の意味の「magazine 」を転用した最初の出
版物で、雑誌(マガジン)の元祖になる。
1731. ○【アメリカ】チャールストンで初めて印刷が行われる。
1731.○【アメリカ】フランクリン( 25 )が、フィラデルフィア図書館会社(Library Company
of Philadelphia )を設立し、アメリカ最初の会員制巡回図書館を経営する。アメリカの公
共図書館のさきがけとなる 。
[1747 年、これに刺激され、コネチカット州にダーラム図
書会社( ook Company of Durham)、ロードアイランド州のニューポートにレッドウッド図
書館( Redwood Library)が設立される。
]
1732(享保17)
1732. 1 .−【日本】名古屋で、各地からの遊女が 700 人も集まり、西小路 、葛(かつら)町 、
富士見原の遊郭が開業する。三浦屋、富士見屋、日野屋などが客を集め、日々繁盛する。
[5.20 富士見原遊郭で花火が打ち上げられる。花火は古くから戦場での信号に用いられ
た流星花火で、さほどはなやかなものではないが、名古屋では最初の催しなので、何万
人もの見物が田畑を踏み荒らし押し合いへし合いし、溝川、肥溜に落ちる者も数多く出
る。5.25 将軍吉宗(49)が、尾張藩主徳川宗春( 37)の豪放な開放政策を譴責するため詰問
使(きつもんし)を派遣し、宗春の政治姿勢を詰問し、倹約令違反により譴責する。1736
年、名古屋の遊女町が縮小される。]
1732.[閏 5.−]【日本】尾張藩 7 代藩主主徳川宗春(37)の『温知政要』を京都西堀川の本
屋が出版しようとして、京都町奉行により禁止される。宗春の政治方針が世間に広がっ
て、幕政にさからう気運がたかまるのを防止するため。[以後、絶版となる。]
1732. ○【フランス】オーヴェルニュ地方で、製紙業者が必要とする原料のぼろぎれが極
度に不足し、政府は古着の供出を命じる。
[1733 年、再度命令を出す。1754 年、ぼろの
他地方への流出を防止するため、回収業社は港や他地方との境界付近に倉庫を設けるこ
とを禁止される。
]
1732.○【アメリカ】フランクリン( 26 )が、処世訓、格言を付した『貧しいリチャードの
暦』を売り出す。
[以後、大衆的な読物として好評を博し、年間 1 万部売れ、啓蒙的な思
想家としてのフランクリンの名を高める。
]
1733(享保18)
1733.[ 5.28]【日本】疫病が大流行し、隅田川の両国橋付近で水神祭りの川開きが行われ
る。慰霊を兼ねて花火を打ち上げる。[以後、川開きは庶民の楽しみとして定着する。玉
屋と鍵屋が技を競うようになる。のち、5 月 28 日を「花火の日」とされる。]
1733.[6. 1]【日本】幕府が、永代橋の渡橋銭の徴収を停止する。
1733.11. 5【アメリカ】イギリスの植民地ニューヨークで、ドイツ系移民の印刷者ゼンガ
ー John Peter Zenger が、
『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル New York Weekly
Journal』紙を創刊する。イギリス本国政府任命の総督 W.コスビーが、
『ニューヨーク・ガ
ゼット』を御用新聞として使っていたため、本国政府およびコスビーの政策に不満な住
- 247 -
民有力者たちは、ゼンガーを援助してこの新聞を出させた。ゼンガーは期待にこたえて
激烈な批判を展開する。[ 1734.11.17 、総督コスビーを批判したかどで、誹毀罪で逮捕、
投獄される。公判で、弁護士が陪審員に新聞の記述内容の真偽を判定させて無罪を勝ち
取り、本国政府に対する批判の自由を獲得する。]
1733.○【フランス】物理学者デュ・フェー(デュフェイ)Charles Fran ロ ois de Cisternay Du
Fay (35)が、電気に2種類あることを発見する。この頃、電気はすべて摩擦によって得
ていたから、ガラスを摩擦したときに生ずる電気を「ガラス電気 」、樹脂を摩擦したと
きに生ずる電気を「樹脂電気」と名付け、2 流体説を唱える。[のちにそれぞれ陽電気、
陰電気と呼ばれるものに相当する。]
1733.○【イギリス】ロンドンの活字鋳造家カスロン(カズロン 、キャスロン) William Caslon
(41 )が、最初の活字見本表の英訳を作成する。
1734(享保19)
1734.11.17 【アメリカ】イギリスの植民地ニューヨークで、ゼンガーが『ニューヨーク・
ウィークリー・ジャーナル』で、イギリス本国政府任命の総督 W.コスビーに対して激烈
な批判を展開し、誹毀罪で逮捕される。[以後、約 9 ヵ月間獄中にある。この間、ゼンガ
ー夫人が獄中から原稿を受け取って新聞を出し続ける。1735.8.4 公判が開かれ、ゼンガ
ーの弁護士ハミルトン Andrew Hamilton は、言論の自由がいかに必要かを熱烈に訴え、
記述内容の判断は裁判官のみが行い、陪審員は問題の新聞を出したかどうかだけの判断
を求められる慣行に対して、陪審員も記述が真実か否かの判定をするように求め 、
〈無
罪〉の評決を勝ちトルコとに成功する。この裁判の結果は、植民地時代のアメリカの新
聞に本国政府を批判する実質上の自由を与え、独立戦争にいたる「世論」形成にも大き
な役割を果たす里程標となる。]
1734. ○【日本】この頃、専門業者によるゴミ収集が行われるようになる。
1734.○【イギリス】ロンドンの活字鋳造家カスロン(カズロン 、キャスロン) William Caslon
(42 )が、1 枚刷りの活字見本表を作成する 。活字書体の基礎にヴォルテール『哲学書簡(イ
ギリス書簡)』を用い、官憲をあざむくためにタイトルページに〈アムステルダム、E.ル
カ〉と記す。14 種のキャスロン体ローマンとイタリック・アラビア活字、数個のオーナ
メントを示す 。
[以後、しばしば活字見本帳をつくる。カズロンの活字は全ヨーロッパ
にひろまり、さらに新大陸にも伝えられる。
]
1735(享保20)
1735.8.28【日本】幕府が、諸大名が遊里や芝居小屋に入ることを禁止する。
1735.○【イギリス】版画家著作権法が成立する。画家ホガース William Hogarth (38)が、
自分の絵を剽窃されることによって、他の芸術家よりも多くの損害を蒙っていたので、
彼の尽力により実現する。
(1697 ― 1764 )イギリスの。ロ
1735.○【イギリス】大工ハリソン John Harrison( 42 )が、
「クロノメータ」第 1 号を完成
させる。1714 年にイギリス政府が賞金 2 万ポンドで、船舶が長い航海中、海上において
- 248 -
標準時と地方時の差から正確な経度(誤差 30 マイル以内)を測定する方法を募集して以
来、そのための正確な時計の製作に挑戦し、20 年を費やして熱膨張率の異なる金属を用
いることで温度による長さの変化がない補正振子を考案し、完成に至る。重量は 33kg。
[以後、ぜんまい巻きによる時間の狂いを防いだり、小型・軽量化するなどの工夫を重ね
る。1761 年、懐中時計の大きさになる。第 4 号までを完成させる。最後のものは 1762
年および 1764 年の 2 回の試験において賞金獲得の条件を完全に満たしたが、賞金は半額
しか支給されない。1776 年、死の直前に全額を受け取る。]
1736(享保21・元文1)
1736. ○【日本】名古屋の遊女町が縮小される。
1736.○【日本】この頃、深井新蔵(一無堂栄山とも号す)(?∼ 1765 )が、修行ののち還
俗(げんぞく)し 、
「志道軒(しどうけん)」と名乗り、浅草三社権現(ごんげん)前のよし
ず張りの中で講釈を行う。手に陰茎に似た棒を持ち、男女交合のさまなどを仕方で演ず
るという猥雑(わいざつ)さで、二世市川団十郎と並ぶ江戸の名物との評判を得る 。[一方 、
大名高家に出入りし、政治批判なども行う。『元無草(もとなしぐさ)』などの書をも著
す。1763 年、平賀源内が彼をモデルとする滑稽本『風流志道軒伝』を刊行する。]
1736. ○【スウェーデン】政府が、〈豊富な貧民は国の最大の富である〉という原則に基
づいて、僧侶たちに教会区での出生と死亡との年間の数字を提出するよう命じる。[1748
年、全国国勢調査を命じる。]
1737(元文2)
1737.○【日本】岡島冠山( 1674 ∼ 1728 )訳『通俗忠義水滸伝』の刊行が始まる。[以後、
中国白話小説の翻訳が盛んとなる。∼ 1790。]
1737. ○【スリランカ】コロンボで初めて印刷工房が開設される。
1737.○【イギリス?】書籍商クルーデン Alexander Cruden( 36)が、英訳聖書のコンコー
ダンス(用語索引)を刊行する。(1739 年説あり。)従来のものに比べ最も緻密なものとな
る。[以後、英訳聖書のコンコーダンスは概ねこれをもとにする。]
1738(元文3)
1738.○【中国】(乾隆 3)北京の賢良寺の蔵経院で、『大蔵経』が完成する。1733 年、『大
蔵経 』に誤字の多いことから蔵経院を設置して、仏教学者を集めて経文の校訂に着手し、
1735 年から刊刻を始め、わずか 4 年間で総重量 4 トンにも達する 7 万 9036 枚の版木の
両面に経文を刻んだという前代未聞の突貫作業であった。仏教経典 7168 巻、724 函、総
字数約 6700 万字、経典 1669 部を収録する。100 部が印刷され、北京内外の寺院に頒賜
される。
[以後、
『乾隆大蔵経』と呼ばれ、中国における現存最大の版刻典籍となる。ま
た、この版木のみが現存する。
]
1738. ○【コロンビア】コロンビアで初めて印刷工房が開設される。
1739(元文4)
1739.○【日本】大坂の飛脚問屋柳屋嘉兵衛が、大坂・江戸間を 3 日半∼ 4 日で手紙輸送
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する「通馬早飛脚」のサービスを始める。[1743 年、幕府によって禁止される。]
1740(元文5)
1740. ○【イギリス】時計会社スウェイツ・アンド・リードが設立される。[のち、テムズ
川に臨む国会議事堂の塔上の大時計「ビッグ・ベン」の管理を担当する。2000.12.11 イン
ターネット上で売りに出される。
]
1741(元文6・寛保1)
1741.○【スウェーデン】セルシウス Anders Celsius(40)が 、氷点と水の沸点との間隔を 100
分割し、氷点を 100、沸点を 0 とする温度目盛りを考案する 。フランスのクリステン J. P.
Christen( 1683 ∼ 1755)もほぼ同時期に考案する。[1942 年、論文を提出して、温度測定
の基準の提案する。のち、スウェーデンのウプサラ大学のリンネその他の人が値を逆転
し、氷点を 0、沸点を 100 とする。のち、国際単位系(SI)の組立単位としてのセルシウ
ス度(℃)となる。]
1741.○【フランス】科学アカデミー会員ジャン=エチエンヌ・ゲタールが、棕櫚・エスパ
ルト・アロエ・いらくさ・桑・海草など、さまざまの植物を使った紙の製造実験に着手
する。
1742(寛保2)
1742. ○【日本】この頃、上方に読本が盛んになる。
1742.○【イギリス】社交場として本や新聞を備えたコーヒーハウスや新聞閲覧所(news
room )が、ロンドンに多く出現する。地方都市バース等の温泉保養地には以前から出現
していた。circulating library(貸本屋)という言葉が普及し始める。[以後、 1750 年代にか
けて地方の小さな町や村にまで普及する。1800 年代には 1000 店以上に及ぶ。]
1743(寛保3)
1743. ○【日本】江戸の若狭屋忠右衛門、大坂の飛脚問屋柳屋嘉兵衛らが行う、独自の馬
継所の騎馬による高速郵便サービス「通馬早飛脚」が、幕府によって禁止される。幕府
の宿駅制度に依存する既存の飛脚問屋たちが、この新興サービスを快く思わず、官許を
欠く、夜間通行しているなどの理由で幕府に訴え、禁止させるに至る。
1744(寛保4・延享1)
1744. ○【日本】絵暦と役者絵で、筆彩版画の代わりに、「紅摺絵(べにずりえ)」(色摺の
版画)が行われ始める。最初に紅と草(緑色)の 2 色が用いられる。
(大田南畝『一話一言』
)
〔色摺版画の試みはすでに享保年間( 1716 ∼ 36 )のころから、俳諧(はいかい)を趣味とす
る好事家たちにより、句集の表紙絵などの私的な出版物を場として行われていた。そし
てついに元文(げんぶん)年間(1736 ∼ 41 )には本格的な見当法による 1 枚絵の摺物を実現
させ(虚実馬鹿語(きよじつばかばなし) )
、その技術がただちに借用されたのであった。
遺品としては寛保 4 年(1744)の絵暦(えごよみ)(ボストン美術館蔵)と同年正月の中村座
公演に取材する役者絵(ポートランド美術館蔵)が知られ、南畝の証言を裏づけている。
- 250 -
この初期の紅と草(緑色)の 2 色を主調色とする寡色摺(かしょくずり)版画(1764 年まで
には藍(あい)や黄などさらに 2、 3 色が加わる)は「紅摺絵」とよばれ、宝暦年間( 1751
∼ 64)まで 20 年ほど盛行した。植物性染料の紅と草との清澄でさわやかな色感は筆彩の
紅絵のそれを継承し、版型もなお細判を標準として守った。紅摺絵の 2、3 度摺の色摺で
は、なお象徴的な彩色にとどまり、背景をはじめ紙地のままに残される余白の部分も多
い。1765 年 、個々の図様に応じた色面を画面の全面に充填する多色摺の版画が実現する。〕
1744. ○【日本】鱗形屋が、黒表紙本『丹波爺打栗(たんばててうちぐり)』を刊行する。
これ以前にも黒表紙本は出されたが、刊年の記載がない。
1744.○【フランス 】神父ギヨンが『東インドの歴史』を著し、これを印刷させ、販売し、
また販売させ小売りさせることのできる特許認可状を取得する。[以後、パリの書籍商組
合に登録される際、この字句が意図的に削除される。結局、ギヨンは特許認可状の権利
を書籍商に永久に譲渡する。同様なことが著作者たちと書籍商たちとの間に繰返され、
書籍商が著作者の権利を剥奪する典型的な手段となる。書籍商たちは、著作者から期限
付きの特許認可状の譲渡を受ける際に、所有権の永久譲渡を受けるように工作する。]
1744.○【イギリス】サミュエル・ベーカー(ベイカー)が、1733 年ころから古書籍の店を
開いていたが、ロンドンで定期的な書籍のオークション(競売)を始める 。[ 1780 年、創
業者の死後、甥のジョン・サザビーが経営の実権を握る。書籍類や版画がオークションの
中心となる。1957 年、ワインバークの優れた印象派絵画コレクションで初めて本格的な
絵画を扱う。1958 年、ゴールドシュミットの印象派絵画の大オークションを開く。この
時から、競争相手のクリスティーズを抜いて、美術品オークション会社としての地位を
確立する。1964 年、ニューヨークのオークション会社パーク・バーネットを買収し、サ
ザビー・パーク・バーネットとなり、アメリカ市場にも大きく進出する。1983 年、アメ
リカの実業家トーブマンにより株式が買い占められ、サザビーズに社名変更する。以後、
ロンドンとニューヨークを中心に世界各地でオークション活動を展開する。
]
1745(延享2)
1745. ○【日本】山本九左衛門が、鳥居清信画の青表紙本『風流鱗魚退治(ふうりゅうう
ろくずたいじ)』を刊行する。これ以前にも青表紙本は刊行されたが、刊年の記載がない。
1745. ○【日本】和蘭カピタンの通詞本木二世初太夫が、西善三郎、吉雄幸右衛門らと蘭
書を読む許しを得る。
1745.○【ドイツ】クライスト Edwald Georg von Kleist が、ガラス瓶の外面に金属箔をは
り、内部に導電性の液体を入れ(あるいは内面にも金属箔をはり)、この両者をコンデン
サの両極とする蓄電びんを実験する。[1746 年、蓄電びんを発明する。]
1745.○【スイス】生物学者ボネ Charles Bonnet(25)が、アリマキの雌のみを飼育しても
次世代が生じる(単為生殖)ことを発見し、前成説を主張し、とくに卵が重要であるとす
る「卵子論」を支持する。[以後、ヒドラなどの再生を研究して、これが前成説では説明
しにくいことを認め、その前成説を修正する。また子が両親の形質を遺伝することにつ
いては、精液が栄養として卵に影響を与えると述べる。晩年は眼病のために実験を断念
してもっぱら思索を行い、自然物が元素から人間に至る階段状の配列をとるという「自
然の階段説」を唱える。1762 年、著書『有機体についての考察』を著す。]
- 251 -
1745.○【フランス】ボーカンソン Jacques de Vaucanson (36)が、世界最初の力織機(りき
しょっき)のモデルを製作する。[1749 年に、紋織機を着想する。1801 年、ジャカールが
ヒントを得てジャカード織機を発明する。]
1746(延享3)
1746.○【ドイツ】クライスト Edwald Georg von Kleist が、蓄電びんを発明する。
1746. ○【オランダ】ライデン大学実験物理学教授ミュッセンブルーク(ムッセンブルッ
ク) PetrusvanMusschenbroek( 54 )が、ドイツのクライストとは独立に蓄電びんを発明する。
[以後、ミュッセンブルークの蓄電びんのほうが有名になり、蓄電びんは「ライデン瓶」
と呼ばれるようになる。これによって、多量の電荷を蓄えることができるようになり、
摩擦起電機とあいまって静電気学の研究が大いに促進される。]
1746. ○【フランス】書籍商ル・ブルトンが、イギリスで好評を博したチェンバーズ編の
百科事典『サイクロピーディア( Cyclop □ dia) 』
(初版 1728 年)の刊行を企画し、特許認
可状を得る。ル・ブルトンに雇われたディドロ Denis Diderot(33)が、親友で著名な数学者
ダランベール Jean Le Rond d'Alembert( 29 )を誘い、フランス語訳『百科全書』の刊行に
着手する。ディドロは、とくに「コピーライト( droit de copie)」の項目を設けて、書籍
商ダビットに執筆させて、書籍商の権利を積極的に擁護する。当初、ディドロとダラン
ベールは編集の下働きにすぎない。[ 1748 年、監修者の更迭と企画変更に伴い、2 人は、
フランス人によるオリジナルな『百科全書(L'Encyclop □ die )』の本格的な編集に着手す
る。ダランベールは若いながらアカデミー会員であり、ボルテール、モンテスキュー、
ビュフォン、ケネー、ルソー、コンディヤックに寄稿を引き受けさせることに成功する 。
1750 年、予約出版趣意書を 8000 部を配布する 。1751.4 予約者が 1000 人に達する 。6 月 、
『百科全書』第 1 巻 2000 部を発行する。7 月、予約者が 1400 人に達する。以後、ディ
ドロは 1772 年まで、本文 17 巻、図版 11 巻、計 28 巻の完成に心血を注ぐ。]
1747(延享4)
1747.○【イギリス】ワトソン Watson が 、グレイの発見した摩擦電気を実験に結び付け 、
シューターヒルで金属線を柱の頂部に架け渡し、ライデン瓶からの電気を伝えることに
成功する。
1747.○【イギリス】ロンドンの Reverend Creed が、鍵盤の即興演奏から自動的に楽譜を
記録する可能性を示す論文をイギリス王立協会に提出する。
[1752 年 、ドイツの J.F.Unger
らが、そのようなシステムを初めて実現させる。
]
1747.○【ブラジル】リオデジャネイロで初めて、国内で 2 番目に印刷が行われる。
1748(延享5・寛延1)
1748.○ [ 8.14]【日本】2 世竹田出雲・三好松洛・並木宗輔(千柳)作の人形浄瑠璃『仮名
手本忠臣蔵』が、大坂竹本座で初演される。
[以後、大当たりしてロングランとなる。12
月、大坂角の芝居の舞台に取り上げられる。翌 1749 年、江戸三座で競演。歌舞伎の独参
湯(どくじんとう)(起死回生の妙薬)と称され、大入りを呼ぶ人気狂言の一つに数えられ、
演技や演出にもさまざまな工夫がこらされ続ける 。
]
- 252 -
1748. ○【日本】中国清代の画譜『芥子園画伝』が翻刻される。[以後、南画の発展普及
に寄与する。]
1748. ○【スウェーデン】全国国勢調査が実施される。
1748. ○【オーストリア】自然史博物館が、ウィーンに設立される。
1748.○【フランス】ディドロ Denis Diderot( 35 )が、小説『不謹慎な宝石(Les Bijoux
indiscrets) 』を著す。あらゆる快楽に飽きたコンゴ王朝のマンゴギュル王(ルイⅩⅤ世)が 、
あるとき愛妾ミルゾーザ(ポンパドール夫人)の連れてきた仙人から魔法の指輪をもらう。
その指輪の爪を女たちに向けると、女たちの宝石(女陰)が過去の来歴を勝手にしゃべり
だす、という物語で、従来のほのめかし的な手法からより直接的なセックス描写に踏み
込んだ作品で、同時に“プッシー・トーク”物の先駆けとなる。
1748.○【イギリス】ジョン・クレランド(38)が、さし迫った借金に追われて、『ある遊女
の回想記(Memories of a Woman of Pleasure)』第 1 部を書く。価格は 1 冊 3 シリング。直
ちに内容不謹慎のかどで罪に問われるが、貧窮を理由にして刑を免れる。
1749(寛延2)
1749.○【フランス】博物学者ビュフォン Georges Louis Leclerc de Buffon( 42 )が、地球の
起源や生物界の変遷など自然界を支配する統一的な法則を明らかにするために、博物学
上の知識の集大成を意図して『博物誌(Histoire Naturelle )』をまとめ、パリ王立印刷所に
より出版を開始する。博物学者・解剖学者のドバントン Louis Daubenton( 33 )ら多くの共
同執筆者の協力を得て、地球、人類、四足獣、鳥類、爬虫類、魚類、クジラ類、鉱物な
ど広い分野を包括する。[∼ 1804 年。全 44 巻。]
1749.○【イギリス】小説家で昨年ロンドンの判事となったフィールディング Henry
Fielding( 42)が、パウ通りの事務所に 、
「イギリス初の探偵団体」と呼ばれる機関を設立
する。フィールディングは、情報は犯罪に対抗する武器だと考え、強盗についても情報
登録すべきだと主張していた。
1750(寛延3)
1750. ○【日本】この頃、世界で初めて組織的な手旗信号による通信が始まる。白黒大小
の信号旗を地形・天候により使い分け、夜間には提灯を振り、遠眼鏡も使用される。[以
後、幕府が禁止する。]
1750. ○【ヨーロッパ】この頃、人妻や夫の浮気が公認されている。複数の恋人をもって
いても非難されるどころか、かえって魅力ある人物と尊敬される。
1750. ○【ヨーロッパ】この頃、目の下に黒いアイシャドーでくまどる化粧法が流行する。
〈恋人とあまり深く愛し合ったので疲れてしまった〉という女の見栄の表現だった。
1750.○【フランス】マルゼルブ Chr レ tien Guillaume de Lamoignon de Malesherbes( 29)が、
租税法院長兼図書監督局長となる 。
[以後、出版については革新的であってもそれほど
危険でないと判断される本に対して 、より多く暗黙の許可を与え、検閲制度を緩和する。
1771 年、反動的な大法官モープーに危険視され、追放処分をうける。1794 年、死去。1809
年、生前の著書『出版業と出版の自由についての覚書』が刊行される。
]
1750. ○【スイス】ある時計メーカーが、この頃流行していた手回しオルガンを懐中時計
- 253 -
の中に仕込んで、初めてオルゴールの原型を開発する。[以後、間もなく宝石箱やアルバ
ムに仕込まれ、精巧なものに発展する。レコードが商品化されるまで、オルゴールは音
楽を機械的に複製するただ一つの機械となる。]
1750. ○【イギリス】この頃、ようやく道路網が発達してきて、高速郵便馬車が主要都市
間を結ぶようになる。[以後、従来の徒歩で輸送するフットメッセンジャや、馬に乗った
ポストボーイらの仕事は徐々に減っていく。]
1750.○【イギリス】バスカヴィル(バスカービル)John Baskerville (44)が、針金線も鎖線
も入らない上質紙「ベラン(ベラム) 」
(高級羊皮紙に似せて作った紙)の製法を初めて思
いつく。また、この頃、書体デザインと印刷事業に乗り出し、活字鋳造の試作を開始す
る。
[1752 年、バーミンガムに活字鋳造所を開設し、初めてローマン体活字を発表する 。
以後、彼が設計・鋳造した活字は「バスカヴィル」と呼ばれ、オールドローマン、とく
にカスロン・タイプからモダン・ローマンへの橋渡しの役割を果たす。1757 年、最初の本
『ウェルギリウス Virgil 』を印刷する 。1758 年、ケンブリジ大学の印刷請負業者となる。
]
1750. ○【イギリス】メーソン式速記法を学んだロンドン中央刑事裁判所の速記者トーマ
ス・ガーニーが、ガーニー式速記法を考案して公開する。メーソン式が 4800 もの省略符
号を持っていたのを数百に減らして、学習を大幅に容易にした。
[以後 、
『ザ・ミラー・オ
ブ・パーラメント』紙の国会担当記者チャールズ・ディケンズが使用し、速記のかたわら
小説を書いて成功する。]
1750.○【イギリス】ジョン・クレランド John Cleland( 41)が、大陸で働いたり旅して、フ
レンチ・ポルノに魅せられて、帰国後、ポルノ後進国のイギリスで初めてフレンチ・ポ
ルノに対抗できる内容を持った『ある遊女の回想記』を書き、
『ファニー・ヒルの手記』
と改題して秘密出版する。発行者はグリフィスで、彼の関係する雑誌『マンスリー・レビ
ュー』に賛辞とともに予告紹介されたのちに発行される。原著の大胆な描写はほとんど
削除されるが、ベストセラーになる。[以後、クレランドは、ジャーナリズムや劇作にも
手を染めたが、いずれも成功せず、ケルト語の研究にも手をつけた。1963 年、再び出版
されるが、猥褻出版物取締法によって告発され 、2 世紀を隔てて二度“問題作”となる。]
1750. ○【アメリカ】この頃、書店や婦人帽子店、コーヒーハウスなどを併せて経営する
貸本屋( circulating libraries )が各地に登場する。
1751(宝暦1年)
1751. 3.11【イギリス】
『London Advertiser』と『Literary Gazette』の 2 紙が、初めてコラ
ムを掲載する。筆者は両方ともジョン・ヒルで、ペンネームの「ザ・インスペクター」を
用いる。内容はかなり中傷的なもので、原稿料は破格の年 1500 ポンド。[以後、政治家
ディズレーリは 、
〈最後に陳腐な教訓のついた軽いスキャンダル記事だ〉と鼻であしら
う。ヒルは、街頭で杖で殴打されるという災難にも遭遇する。]
1751. 3 .−【イギリス】議会が、ユリウス歴を廃してグレゴリオ歴の採用を決める。[1752
年、旧暦 9 月 2 日の翌日を 9 月 14 日にすることで施行する。月給で生活している民衆は
〈11 日間を返せ〉と叫ぶ。]
1751. 4.−【フランス】昨年からその刊行が予告され、予約購読者の募集が始まっていた
『百科全書(Encyclop □ die, oudictionnaire raisonn □ des sciences, des arts et des m □ tiers,
- 254 -
par une soci □ t □ de gens de lettres)』の第 1 巻 2000 部が刊行される。ディドロとダラ
ンベール編集のこの進歩的啓蒙(けいもう)事典の出現に新興の商人階級や思想家は賛成
したが、貴族と僧侶の上層階級には反対が多く、また極右のイエズス会の激しい圧迫が
かかる。[ 1752 年、第 2 巻がイエズス会士の圧力等により、発売禁止となる。以後、両
勢力の対抗の間に、出版監督長官マルゼルブの尽力もあって出版は進む。これら寄稿者
たちは百科全書派(アンシクロペデイスト;encyclop □ distes)と呼ばれるようになる。と
ころが、第 7 巻にダランベールの「ジュネーブ」が出るとルソーは怒って脱退する。1759
年、出版特許を取り消されて寄稿家の大部分が脱退、政府ににらまれることを恐れたダ
ランベールも続巻の編集から手を引いてしまう。その後はドルバック Baron d'Holbach,
Paul Henri Dietrich (1723 ∼ 89 )が鉱物学、化学、博物学などの項目を執筆する。残された
ディドロと学者ジョクール Louis Chevalier de Jaucourt( 1704 ∼ 79)は、ついには地下印刷
という最悪の事情のもとに無償の働きを余儀なくされ、財産も売り払って書記らの給料
を払う。この間、ディドロは、出版の孕んでいる危うさと投機性、発売禁止との戦い、
著作権と海賊版の問題、他の商品とは異なる書籍の性格、作品と商品、読者、出版者に
よる著述の検閲と改竄、書籍市場と作者の闘争、といったすべてを体験する。1764 年、
ディドロはマルゼルブの後任のサルティーヌに宛てて『出版業についての歴史的・政治
的書簡』を書き、出版の企画は商業的な成功 1 に対して失敗 3 ∼ 4 の割合であり、良書
の再版は平均 10 年かかり、失敗すれば破産の危険がある。海賊版を伴う多数の出版と競
争は粗製濫造を招き、いかがわしい出版を横行させる、などといい、作者や著者がいか
に報われないものであるかも付言する。1772 年、種々の困難を切り抜けて、ついに『百
科全書』は本文 17 巻と図版 11 巻をもって完結する。執筆者はルソー 、モンテスキュー 、
ヴォルテールなど 184 人に及ぶ。大歓迎を受け、予約者は最終的に 4000 人となる。パン
クーク C. J. Panckoucke( 1736 ∼ 98)は続巻を計画、この時ディドロは老年のため辞し、
作家マルモンテル Jean-Fran □ ois Marmontel(1723 ∼ 99)が引き受ける。1776 ∼ 80 年、
本文 4 巻、図版 1 巻、索引 2 巻を完成する。]
1751.○【日本】この頃、太夫の揚代は銀 90 匁、祝儀等を加えると 270 匁である。これ
以後、太夫は一人もいなくなる。
1751.○【フランス】数学者・天文学者モーペルチュイ Pierre Louis Moreau de Maupertuis
(53)が、多指症患者の家系調査から、子は両親からの形質を受け継ぐと主張する。最初
の遺伝学説となる。
1751.○【フランス】ニコラス・デズモンドが、英仏間を海底トンネルで結ぶ計画を立て、
フランスの海底のチョーク層の研究を行う。アミアン・アカデミーが、海峡連絡案を募
集する。[1802 年、アベール・マチューが、ナポレオンⅠ世に海底トンネルの設計案を
提出する。
]
1752(宝暦2年)
1752. 2.−【フランス】
「プラド事件」が起こる 。
『百科全書』の執筆者の 1 人プラド(プ
ラード)神父の博士論文が、反対派のイエズス会士たちの策動によって、パリ大学神学部
で否認宣告を受けたのを機に、イエズス会やヤンセン派(ジャンセニスム)の影響下にあ
ったパリ高等法院により最初の 2 巻が発禁処分になる。[以後、
『百科全書』は地下出版
- 255 -
のかたちで印刷が続けられ、進歩的な知識人や科学者たちはこぞって『百科全書』の陣
営に参加し始める。老大家ボルテールやモンテスキューをはじめ、デュクロ、マルモン
テル、モルレ、サン・ランベールらのアカデミー会員、ラ・コンダミーヌ、ケネー、チュ
ルゴー、フォルボネなどが参加する。パリ高等法院の激しい攻撃のなかで、再三の発禁
処分を受けるが、21 年間にわたって刊行され、完結する。これについて、ディドロのい
うように 、〈各人がばらばらでありながらそれぞれ自分の部門を引き受け、ただ人類へ
の一般的関心と相互的好意の感情によってのみ結ばれた文学者、工芸家の集まり〉に支
えられていたから完結が可能になる。また国璽尚書(こくじしょうしょ)ダルジアンソン
侯爵(こうしやく)や出版監督局長官マルゼルブなど旧制度の官僚にも 、
『百科全書』の
刊行に協力を惜しまない人々の賜物でもある。]
1752. 9.−【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin( 46 )が、フィラデルフィアの自宅
に世界初の避雷針を設置する。鉄棒の先端は屋根から約 2.5m 突きだし、下端は地中に
約 1.5m 埋め込む。フランクリンは、雷雨中に凧をあげて、雷光が火花放電であること
を立証する。この頃、ヨーロッパで摩擦起電機と蓄電器とを使ったさまざまの静電気学
的実験が、初めは宮廷で、後には民間でも一種の見世物として大いに流行している。フ
ランクリンは、そのような電気実験の興行を見て電気学の研究に関心を抱くようになっ
た。[ 1753 年、フランクリンが避雷針を発明する。]
1752.○【ドイツ】音楽技術者 J.F.Unger と J.Hohlfelt が、鍵盤の即興演奏から自動的に楽
譜を記録することができるシステムを作り、ハープシコードに取り付ける。
1752.○【イギリス】バスカヴィル(バスカービル)John Baskerville (46)が、バーミンガム
に活字鋳造所を開設し、初めてローマン体活字を発表する。[以後、彼が設計・鋳造し
た活字は「バスカヴィル」と呼ばれ、オールドローマン、とくにカスロン・タイプからモ
ダン・ローマンへの橋渡しの役割を果たす。バスカヴィルは、利益を度外視して最高に美
しく良質な書体を開発して優れた印刷物を製作することを最優先とする。1757 年、最初
の本『ウェルギリウス Virgil』を印刷する。1758 年、ケンブリジ大学の印刷請負業者と
なる 。
]
1753(宝暦3年)
1753. 6. 7【イギリス】国会が、大英博物館図書館(the British Museum Library)(のち、大
英博物館(British Museum))の創設案件を承認し、初の国立博物館がロンドン、ブルーム
ズベリーのラッセル・スクエアに創設が決定される。王立学士院院長を務めた医学者で
収集家として有名であったスローン Hans Sloan (1660 ∼ 1753 )が、6 万 5352 点に上る古
美術、メダル、コイン、自然科学標本類など(ほかに手稿本約 4000 点、印刷本約 4 万点)
の大コレクションを 2 万ポンド(彼自身の見積額の 4 分の 1 )で国家に遺贈し、それを博
物館で公開するように遺言書で提案していた。これに、すでに国の所蔵になっていたロ
バート・コットン卿一族の蔵書と、初代・2 代のオクスフォード卿収集の手稿本とを加
え、収蔵・展示する。図書館を併設して、世界最大級の博物館とする。
[1759.1 開館し、
一般に公開する。]
1753. ○【日本】御手洗(広島県)で、海老屋に茶屋の免許が与えられる。
1753.○【スウェーデン】生物学者リンネ( 46)が、『植物の種』を著す 。
[以後、植物の学
- 256 -
名はこの本から採用される。
]
1753. ○【アメリカ】ロンドンで鋳造された「自由の鐘」が、フィラデルフィア州議事堂
の鐘楼に釣り下げられる 。
[以後、イギリスからの移住者は事あるごとにこの鐘の下に
集まる。1976 年 7 月 4 日、独立宣言が採択された時、人々は自由の鐘を乱打して祝う。
その後、鐘はひび割れを起こし引退し、独立記念館(旧議事堂)に展示される。
]
1753.○【アメリカ】モリソン Charls Moroson(スペル?)が 、静電気式電信を考案して『ス
コッツマガジン』で提唱する。
1754(宝暦4年)
1754.○【日本】医者山脇東洋( 49 )が、京都の西の刑場で斬刑(ざんけい)に処せられた死
体を官許を得て解剖、人体の内部構造を直接観察する。門弟浅沼佐盈(すけつね)が、解
剖図 6 枚を描く。[1759 年、このときの記録が『蔵志(ぞうし)』として刊行される。日
本で公刊された最初の人体解剖記録となる。
]
1754.○【スウェーデン】政府が、天文学者ヴァルゲンティン Per Wilhelm Wargentin( 37 )
に、これまで聖職者たちに命じて提出させていた出生と死亡の統計を分析するよう委嘱、
その結果が科学アカデミーの雑誌に発表される。[∼ 1755 年。1756 年、政府が統計表審
議会を設置し、ヴァルゲンティンもその一員となる。]
1754.○【イギリス】海水の医療効果を主張するラッセル Richard Russell が、イースト・
サセックス州西部の漁村ブライトン( Brighton)に住み、彼の提唱で世界初の海水浴場が
開かれる。
[以後 、海水浴が大人気となり、ブライトンは海水浴場として有名になる。1783
年、皇太子(のちのジョージ 4 世)の後援を受ける。1841 年、ロンドンとの鉄道開通によ
って一大保養地に発展する。
]
1754.○【イギリス】家具デザイナーのチッペンデール Thomas Chippendale( 36 ?)が、家
具のカタログ『ジェントルマンと家具メーカーのための指針(紳士と家具師のための手
引)』を作成する。家具の様式が、すでに地域や職業や階級に固有なものでなくなって、
より大量に商品化されつつあることを示すものになる。[以後、チッペンデールは国際的
な名声を博し、ヨーロッパ中に多大な影響を与える。]
1754. ○【エクアドル】国内で初めて印刷が行われる。
1755(宝暦5年)
1755. 4.15【イギリス】ジョンソン Samuel Johnson (46)が、他からの経済的援助もいっさ
いなく独力で約 8 年間を費やして『英語辞典( The Dictionary of the English Language )』を
編集・出版する。英語では最初の学問的辞書で、英語辞典編纂の出発点となる記念碑的な
出版物となる。また、つづり字統一の権威ある規範となる。この『英語辞典』の計画、
出版をめぐり、初め有力者チェスターフィールド伯に後援を求めたが断られ、独力で着
手した。完成まぎわ、伯の側からの援助の申し出があったのを蹴る。これを機にイギリ
スの出版は後援者と絶縁することになる。[以後、『ジョンソン辞書』とも呼ばれ、保守
的な編集方針により標準英語の確立に貢献する。〈からす麦=イングランドでは馬に食
わせるが、スコットランドでは人間さまの食べ物〉などといった人をくった定義があち
らこちらにみられ、辞書の欠点とされるが、のちにはかえってそういう箇所に人気を呼
- 257 -
ぶ。]
1755. 5. 8【ロシア】学者ロモノーソフがロシア人子弟のための高等教育機関の創設の必
要を元老院に建言し、これをうけた女帝エリザベータ・ペトロブナの勅令によって、モス
クワ大学が開設される。正式名称は M.V.ロモノーソフ記念国立モスクワ大学(Moskovskii
gosudarstvennyi universitet imeni M.V.Lomonosova; MGU)
。[ 1756 年、印刷局を設け、書
籍の発行を始める。1918 年、国立となり、広く勤労者階級に門戸を開放する。1927 年、
印刷局はモスクワ大学出版局に改称する。]
1755. 春 【日本】義太夫節『三国小女郎曙桜』が語られ、三国(福井県)の遊女小女郎の
名が広められる。
1755. ○【イギリス】ウィリアム・ブラックウエルが、ロンドンで初めて黒インキを発売
する。印刷インキ製造販売の始まり。
1756(宝暦6年)
1756. 1.−【日本】本居宣長が『在京日記』に、酒で書いて乾かした隠し文字に各人が銭
を賭け、火にあぶって出た文字を当てた者が賭け銭を取る遊びがあることを書く 。
[あ
ぶり出しは、江戸時代中期に、主に明礬を用いた「明礬文字」と称して大人の酒席の遊
びとして生まれた。酒も用いられ、これは日本のが案出したといわれる。やがて辻占や
神社のお神籤に利用され、さらに子供の遊び道具となり、「千里眼」という子供だまし
のおもちゃにもなる。1830 年の 喜多村信節(きたむらのぶよ)
『嬉遊笑覧(きゆうしょ
うらん)』にも同様の記録がある。
]
1756. ○【中国】中国人周煌(しゅうこう)が、琉球王国尚穆(しょうぼく)王冊封(さくほ
う)のため、正使全魁(ぜんかい)とともに副使として使節団を率いて琉球を訪れる。周煌
は、230 日に及ぶ琉球滞在中の見聞と諸書を参考にして、琉球の自然、人文、諸事百般
を客観的に記述した『琉球国志略(りゅうきゅうこくしりゃく)』16 巻をまとめ皇帝に復
命する。[以後、周煌が滞琉中に残した書が、沖縄県立博物館などに蔵される。]
1756. ○ 【 ス ウ ェ ー デ ン 】 政 府 が 、 統 計 に 関 わ る 常 設 機 関 と し て 、 統 計 表 審 議 会
(Tabellkommission)を設置する。
1756. ○【イギリス】光学者ジョン・ドロンドが、最初の色消しレンズをつくる。これを
カメラ・オブスキュラの小穴にはめて、より鮮明な映像を得る。[ 1793 年頃、フランスの
ニエプス兄弟、ニセフォールとクロードが、この像を固定しようと試みる。以後、多く
の人々がこれを試みる。1802 年に、イギリスのトマス・ウェッジウッドが、硝酸銀を使
って実験したが成功しなかったと、学士院会報に報告する。]
1757(宝暦7年)
1757.○【日本】平賀源内( 29 )が、師の本草(ほんぞう)学者田村藍水(39)とともに江戸・
本郷湯島で物産会を催す。多年諸国から採集した動植鉱物類を一堂に集めて陳列公開す
る。本草家相互の研究に便宜を与え、一般の好評を博す。[以後、6 年間に物産会を 5 回
開催する。]
1757.○【イギリス】バスカヴィル(バスカービル)John Baskerville (51)が、書体デザイン
と印刷事業に乗り出して以来 7 年を費やして、最初の本『ウェルギリウス Virgil 』を世
- 258 -
に出す 。
[以後、この本の美しさは各方面で大きな賞賛を浴びる。アメリカのベンジャ
ミン・フランクリンは 6 冊も予約したと伝えられる。一方、
〈バスカヴィルの活字は目を
痛める〉という批評も出る。
]
1758(宝暦8年)
1758.○【日本】博物学者で文人の木村蒹葭堂(きむらけんかどう)(22)が、この頃より月
例詩文会を催して混沌(こんとん)詩社の基礎をつくる。[以後、和漢のしょうしゃな書籍
を自費出版する。膨大な書画典籍や地図標本類を収集して有名になる。遠近よりの多く
の来訪者はすべて名簿『蒹葭堂日記』に記載する。]
1758.○【日本】世話物の分野を開拓し、新風を吹き込んだ講釈師馬場文耕(ぶんこう)が、
美濃郡上(みのぐじょう)の百姓一揆(いっき)を講じて処刑される。
1758. ○【イギリス】アンブローズ・メイナードが、ミュージックホールの芸人専門の出
演予約事務所をロンドンで開設する。世界最初のタレント紹介所となる。
1759(宝暦9年)
1759. 1.−【イギリス】王立学士院の院長を務めた医学者・収集家スローン Hans Sloane
(1660 ∼ 1753)のコレクションを中心に国立博物館(大英博物館)( British Museum)が、ロ
ンドンに開館する。世界で最初の公共博物館で、世界最大級の博物館となる。エジプト 、
ギリシア、ローマ 、西アジア 、東洋の古代美術、ヨーロッパの中世美術、その他コイン、
メダル、版画、素描、写本などを収蔵する。スローンが自分の大コレクション(歴史的遺
品類 6 万 5352 点、手写本 4100 点 、印刷本 1000 万点)を、彼自身が見積もった 1000 分の 1
の価格 2 万ポンドで国家に遺贈したことに端を発し、これに、『リンディスファーンの書』
、
マグナ・カルタなどを含んだ R.コットンの蔵書、第 1 、 2 代のオクスフォード伯の蔵書が
加えられ、これらを収蔵、公開するために、モンタギュー・ハウス(Montagu House )購入
されて開館する。[以後、収蔵品は増加の一途をたどり、19 世紀初めにはアレクサンド
リア条約の結果、ナポレオンの兵士が発見したロゼッタ・ストーンをはじめ多くのエジプ
ト彫刻がネルソンによって、パルテノンからの彫刻群(エルギン・マーブルズ)がエルギン
卿によって、それぞれもたらされる。1823 ∼ 57 年、改築する。1883 年、自然科学部門
は自然史博物館( Natural History Museum)に独立。1970 年、民族学部門が人類博物館
(Museum of Mankind)として独立する。1972 年、大英図書館(英国図書館)(British Library)
が博物館と所轄を分割し、独立した機関となる。図書館も、蔵書の質・量ともに世界最
大を誇る。]
1759.○【日本】医者山脇東洋が、1754 年に官許を得て刑死体を解剖し、人体の内部構造
を直接観察し、門弟浅沼佐盈(すけつね)が、解剖図 6 枚を描いた記録が 、
『蔵志(ぞうし)』
として刊行される。日本で公刊された最初の実証的人体解剖記録となる 。
[以後、内容
に多くの誤りが発見され、1543 年にイアリアで刊行されたベサリウスの『ファブリカ(人
体構造論)』に及ぶべくもないもので、図も稚拙なものとされる。1758 ∼ 59 年、東洋の
高弟栗山孝庵が、萩で男女の解剖を行う。以後、人体解剖の記録が多くなされる。]
1759.○【スイス】ボルテールの風刺小説『カンディド Candide』 が、ジュネーブのクラ
メール兄弟により刊行される。
- 259 -
1759. ○【フランス】王立絵画・彫刻アカデミーにおいて、着衣の女性モデルが初めて公
式に認められる。[ 16 世紀以来、芸術家が個人的に裸婦を写生することはあったが、19
世紀後半に、美術学校に裸体女性モデルが導入される。]
1760(宝暦10)
1760. ○【日本】江戸の長崎屋経由で、ヨーロッパの情報や書籍が入るようになる。
1760. ○【日本】
『おたふく女郎粉引歌』
、俗に「お茶引」と呼ばれる歌がはやる。主に客
のつかない女郎に刑罰手段として用いられる 。「天じゃ天じゃと皆様おっしゃる/天の
とがめもいやでそろ。/文の数々こいこがれても/わしは当座の花はいや。/数の男の
思いもこわい/みめの好いのも気の毒じゃ。
」
1760.○【ロシア】エカテリーナⅡ世( 31 )が、近衛兵の中で屈強なハンサムを物色しベッ
ドを共にする役を命じる。選ばれた男は、まず医者の診察を受けさせ、それを時々覗き
見する。
1760. ○【ノルウェー】王立ノルウェー学術協会が設立される。最初の学術図書館が設け
られる。
1760. ○【ドイツ】カステル・ファーバーが、黒鉛の粉末に硫黄を混入して鉛筆の芯をつ
くる。[のち、ババリア鉛筆に発展する。]
1760. ○【フランス】世界最初の聾唖教育施設が、パリに開設される。
1760.○【フランス】医学博士ティソ M.Tissot の学位研究に、自慰をすると精液を浪費し、
結核、性的不能、失明、発狂の原因になるとその害を論評する『オナニアについて―マ
スターベーションによって引き起こされる病気についての論考 』(『L'ONANISM』
Dissertation)がラテン語で出版される。[以後、マスタベーションにつて初めて“科学的
”に論じた“名著”として版を重ね、20 世紀の医療関係者にまで影響を及ぼす。]
1760. ○【スイス】この頃、三角形にした補強部材を組合わせて主桁(けた)にする木造の
トラスを使った橋が 2 カ所でつくられる。[以後、1840 年まではそれほど多くはつくら
れない。1850 年頃、アメリカで木造のトラスから鋳鉄と錬鉄を組合わせたトラスにかわ
り、のちに鋼製のトラスに発展する。]
1760. ○【イギリス】ハリスによる『コベント・ガーデンの淑女リスト』が刊行される。
[以後、毎年改訂刊行される。]
1761(宝暦11)
1761.○【ドイツ】ファーバー Kaspar Faber が、黒鉛の粉末と硫黄を混合する方法を考え
出し、鉛筆の製造を始める。ファーバーはスペイン南部の黒鉛に目をつけ、この粉にア
ラビアゴム、にかわ、硫黄などを混ぜてつくることを考え出した。
1761.○【フランス】『寓話』などの作者ラ・フォンテーヌの孫娘たちが、祖父の死後 60
年以上経っているので、書籍商が保有していたいかなる特許認可状も存在せず、自分た
ちの相続権により作品は直系相続人に帰属すると主張し、その著作物を印刷する認可を
取得するため、国王に請願書を提出する。[6 月 29 日付け大法官文書にて、遺族に 15 年
間の特許認可状が与えられる。書籍商は、ラ・フォンテーヌの著作物の出版権は永久に書
籍商の所有権に属していると主張して、対抗する。9 月 14 日、国王顧問会議が、ラ・フ
- 260 -
ォンテーヌの著作物は相続権によって遺族に帰属するとして、特許認可状を孫娘たちに
返還することを認める。書籍商たちは反発して、当局の裁定に対抗する理論武装をする
ため、著名作家のディドロに協力を求める。ディドロは、『百科全書』の発行人であり
パリ書籍商印刷業者組合理事長のル・ブルトンの依頼を受けて 、
『出版業についての歴史
的・政治的書簡』を書き、書籍商の立場に立って、〈書籍の出版は、巨額の先行投資が
必要であり、リスクの大きいもので、投資資金を回収するためには、独占的な権利が保
証されねばならない〉と主張する。一方、ラ・フォンテーヌの遺族の権利が認められたこ
とを、地方の書籍商たちはパリの独占が崩れて自分たちにもチャンスが巡ってきたたと
して喜ぶ。これを契機にパリの書籍商と地方の書籍商との間の亀裂が一層深まる。]
1761. ○【イギリス】ロンドン王立美術工業商業振興会が、工業品を展示する。本格的な
工業展示会で、近代的な意味での世界最初の博覧会となる。[1851 年、ロンドン博覧会
が開催される。以後、ヨーロッパの各都市で開催される。]
1762(宝暦12)
1762. [閏 4.10 ]【日本】平賀源内(34)が、師の本草(ほんぞう)学者田村藍水(44)ととも
に江戸・本郷湯島で第 5 回東都物産会を催す。薬品会では全国 30 余国から 1300 余点に
上る展示物を集め、盛況を呈す。[1763 年 、平賀源内は重要なもの 360 種を選んで分類 、
解説し『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(6 巻)を出版する。]
1762. 5.−【フランス】ルソー Jean-Jacques Rousseau( 50)が、教育論『エミール』を出版
する。人間論からなされた旧体制批判の書として、直ちにパリ高等法院に摘発される。
この頃、民衆は抑圧のもとにあり、子どもは「小さなおとな」でしかなかった。〈人は
子どもというものを知らない〉と書き、教育を考えるためには子どもが何であるかを研
究することから始めなければならない、として、孤児エミールに託して自然の歩みに従
う教育のあり方を追求した本書は、子どもの権利の宣伝の書といわれ、官憲の忌避とす
るところとなる 。
[以後、逮捕を避けてスイスに逃亡する。ジュネーブ政府も『社会契
約論』とともに両書を発売禁止処分とする。スイスのモティエにいったん落ち着くが、
村民の迫害を受ける。1766 年、イギリスに逃亡する。
]
1762. ○【イギリス】エールズベリー(バッキンガムシャー)選出の庶民院議員ウィルクス
John Wilkes(35)が、国王・貴族の寡頭支配的な議会政治体制下で、議会報道の禁止に抵抗
する週刊新聞『ノース・ブリトン(North Briton)』を創刊し、ジョージ 3 世が信任する首
相ビュートの政権に対して攻撃の論陣を張る。[以後、抵抗が繰返される。1763 年 4 月 、
同紙第 45 号で議会開院式の勅語を非難すると、この「扇動的・反逆的文書」の著者・印刷
者・発行者に対する「一般的逮捕状」が出され、ウィルクス自身も同月末逮捕される。ま
もなく議員特権により釈放され、彼を歓迎するロンドン市民の間に、〈ウィルクスと自
由〉をスローガンとする連帯と運動が高まっていく。1763 年末、ウィルクスはパリへ移
住する。1764 年 1 月、庶民院は彼の除名を決議する。同年 2 月、裁判所も文書誹毀罪で
有罪を宣告する。1768 年 2 月、ウィルクスはあえて帰国し、3 月にはロンドン北郊ミド
ルセックス州選出議員に当選する。同年 4 月から 1 年 10 ヵ月の刑期で、彼は王座裁判所
監獄に収監される。その間、前後 4 回議会が彼を除名するたびに、ミドルセックス州選
挙民は彼を当選させる。1771 年、議会報道の自由が獲得される。]
- 261 -
1763(宝暦13)
1763.○【日本】平賀源内( 35 )が、新興の談義本の世界に進み、
『風流志道軒伝 』
(5 巻 )
、
『根南志具佐(ねなしぐさ)(前編)
』
(5 巻)など刊行する 。よどんだ封建社会を風刺する 。
本格的江戸文学が始まる。
1763. ○【日本】肥中村(ひじゅうむら)(のち、山口県豊浦郡豊北町)の年寄足立次郎右ヱ
門他 1 名が、近年漁業不振のため大庄屋に茶屋設置を申請する。茶屋に垢かき女数人を
置き、昼間は蕎麦を供し、夜は居風呂で入浴させ枕席にもはべらせる 。
(渡辺憲司『江
戸遊里盛衰記』
)
1763.○【イギリス】ベイズ Thomas Bayes( 1702 ∼ 61)の『偶然の理論における一問題を
解くための試み』が出版される。統計学による推論という考え方が探求され、以前に起
こった頻度からある事柄の蓋然性を推測するという、史上初の理論が提唱される 。[以後 、
「ベイズの定理」と呼ばれ、次のように定式化される。k 個の事象 E1 、E2、……、Ek
があって、このうちのどの 2 つも同時におこることはなく、k 個のうちのどれか一つが
かならずおこるとすると、このとき、事象 E に対して pE(Ei)= p (Ei) pEi(E)/Σ p (Ei) pEi
(E) が成り立つ。この定理は応用が広く、統計的推論を行うとき重要な役割を演ずる。21
世紀初頭には、インタネットでの迷惑メール対策でこの理論を応用したサービスが増え
る。]
1763.○【イギリス】この頃、ジョンソン Samuel Johnson (54)が、1759 年に母の葬式の費
用に困って 1 週間で書き上げた小説『ラセラス』のおかげで文名が高まり、昨年から年
金 300 ポンドも受け、ようやく生活の安定を得たので、
「文芸クラブ」をつくる。彼を中
心に J.レノルズ、バーク、ゴールドスミス、ポズウェル、ガリックらが集まり、コーヒ
ー店での談論を楽しむ。
1763. ○【アメリカ】サヴァナで初めて印刷が行われる。また、ニューオーリンズで初め
て印刷が行われる。
1764(明和1)
1764.○【日本】画家曽我蕭白( 34 )が活躍期に入る。この頃までに、紅摺絵に藍、黄が加
わる。
1764.○【日本】画家鈴木春信( 39 ?)が、彫師金六の協力を得て、浮世絵多色刷の手法を
開発する。版木は山ザクラ材の板目を使い、両面に彫り、15 ∼ 16 色刷りが多い。[ 1765
年、絵暦(えごよみ)交換会の流行が起こり、これが契機となり、鈴木春信らが、多色摺
木版画を完成させ、
「錦絵」と呼ばれるようになる。]
1764. ○【ロシア】エルミタージュ美術館が、サンクト・ペテルブルグに公開される。女
帝エリザベータ以来ロシア皇帝歴代の宮殿であった冬宮に隣接する離宮であるエルミタ
ージュ(フランス語で隠れ家の意)を美術館とする。[以後、小エルミタージュ、劇場、旧
エルミタージュが増築される。1851 年、新エルミタージュが建設され、計 5 つの建物か
らなるロシア最大の国立美術館となる。1852 年、美術館として機能し始め、一部に公開
される。1917 年、ロシア革命により、文化遺産の保護と国家への譲渡に関する法令によ
り、国有となる。以後、収蔵品はますます増大する。1920 年、一般に公開される。所蔵
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点数は約 300 万点に達し、6 部門(原始文化と美術、古代世界の文化と美術、東方諸国の
文化と美術、ロシア文化、西欧美術、コイン・メダル)に分けて収蔵展示される。1990
年、世界文化遺産として登録される。]
1764.○【フランス】活字鋳造技術者ピエール=シモン・フルニエ(フールニェ)の『活版印
刷術提要』が、パリのバルブーにより刊行される。活字のポイント制を提唱し、優れた
合金を作る作業がいかに微妙なものかについて言及して、〈長い間活字には鉛、しろめ
potin という銅の地金、アンチモンおよび若干の鉄の混合物が用いられれてきたが、その
ため合金は軟らかく、つぶれやすいものになってきた。だが、この 30 年来、われわれは
鉛と精製アンチモンを使うことによって、作業を単純化し 、合金の質を高めてきたのだ〉
という。(『書物の出現』)
1764. ○【ベネズエラ】国内で初めて印刷が行われる。
1765(明和2)
1765. 3.22【イギリス】議会が、イギリス軍の植民地駐屯経費捻出のため、植民地住民に
対する印紙税法(Stamp Act)を可決する 。植民地における新聞、暦、パンフレット、証書、
公文書からカルタにいたるまでの印刷物に、イギリス本国同様に印紙を貼付させること
を命じる。[以後、各植民地で反イギリス運動と暴動が起こる。1766.3.4 イギリス議会が 、
植民地の激しい反発のため印紙税法を撤回する。]
1765. ○【日本】絵暦(えごよみ)交換会の流行が起こる。これが直接の契機となり、鈴木
春信(40 ?)らが 、
「錦絵」と呼ばれる多色摺木版画(完全カラー浮世絵)を完成させる。
従来の紅摺絵の 2 、3 度摺の色摺では、なお象徴的な彩色にとどまり、背景をはじめ紙地
のままに残される余白の部分も多かったが、個々の図様に応じた色面を画面の全面に充
填する多色摺の版画がようやく実現する。
錦繍(きんしゅう)の華麗になぞらえて「錦絵(に
しきえ)」の美称で呼ばれる。[以後、鳥居清長、喜多川歌麿、歌川豊国、葛飾北斎、歌
川広重といった作者が登場する。1780 年、このころ以降は錦絵以外の浮世絵版画はほと
んど制作されなくなる。また、錦絵界に多くの画派が現れる。江戸後期から明治期には 、
浮世絵版画と錦絵はほぼ同意語となる。]
1765. ○【日本】後藤梨春(りしゅん)『紅毛談(オランダばなし)』刊。日本ではじめて顕
微鏡を紹介する。
[十数年後、大坂の服部永錫(えいしゃく)が、顕微鏡を製作する。
]
1765. ○【フランス】パリのパレ・ロワイヤルで、活力回復のスープが売り出される。[以
後、これを出す飲食店を 「レストラン restaurant 」とよぶようになる。レストランは、
〈気
力、体力を回復させる〉という意味のフランス語の動詞 restaurer の分詞的形容詞である。
やがて、一般に料理と飲み物を提供する店のことをレストランとよぶようになる。以後、
フランス以外でもこのレストランというフランス名が一般に使われるようになる。]
1765. ○【オーストリア】神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフⅡ世が、先代のフランツⅠ世がそ
の皇后マリア・テレジアのために、シェーンブルン宮殿に 7 年の歳月をかけてつくった動
物のコレクションを、一般に公開する。これまでにも、王侯貴族が珍しい動物を集めて
飼育し、これを見て楽しんだ例は、古くからエジプト、中国、ヨーロッパ、さらにはメ
キシコにあったアステカ帝国など多くの例が知られているが、このシェーンブルン宮殿
のコレクションをもって近代動物園の始まりとされる。[ 1773 年、フランスでもパリで
- 263 -
国立自然史博物館付属植物園ジャルダン・デ・プラントの一角にメナジュリーとよばれる
動物飼育展示施設が公開される。これが近代動物園の始まりとする説もある。]
1765. ○【イギリス】議会が、ロンドンの全家屋に番号を付ける法令を決める。
1765. ○【イギリス】発明家マッジが、時計の正確さを改良するため、梃子(てこ)式の脱
進機を発明すえる。
1766 明和3
1766. 3. 4【イギリス】議会が、植民地の印紙税法に対する激しい反発に抗しきれず、前
年に制定した印紙税法を撤回する。[ 3.18 議会が、植民地に対して課税権を保有するこ
とを宣言する。]
1766.12. 5【イギリス】クリスティー James Christie( 36 )が、最初のオークション(競売)
ハウス「クリスティーズ」をロンドンに開設、初のオークションを開催する。たまたま
店の隣に風景・肖像画家ゲインズバラ Thomas Gainsborough( 39)が住んでいたので、当初
から絵画の分野にも進出する。[以後、世界で最も有名なオークションハウスとなる。会
社のマークには創立者の横顔が描かれる。1803 年、創業者が死亡し、息子が事業を継承
する。1831 年、ウィリアム・マンソンが経営に参加する。1852 年、弟のエドワード・マン
ソンが参加。1859 年、トマス・ウッズが参加。社名をクリスティー・マンソン・アンド・ウ
ッズとする。1998.5 フランスの億万長者フランシス・ピノーに買収される。]
1766.○【スウェーデン】世界最初の情報公開法「出版の自由に関する法律」が制定され、
行政機関の文書公開を決める。
1766.○【イギリス】化学者・聖職者プリーストリー Joseph Priestley( 33 )が、帯電した物
体間にはたらく力が、その距離の 2 乗に反比例することを発見する。[1785 年、クーロ
ンが、ねじり秤を発明して、帯電している物体間の力を正確に測定する。]
1767(明和4)
1767. 5.22【イギリス】名医ジョン・ハンター(39)が、淋病が梅毒の一症状であるとの仮
説を証明する実験を開始する。淋病患者から採取した膿を自分の陰茎に植え付けて一週
間後、斑点が増加し、梅毒症状を呈したことから仮説は証明されたとした。しかし、そ
の患者は淋病ではなく、梅毒患者であった。この実験は性病研究を 50 年遅らせる結果と
なり、ハンター自身も実験の犠牲となり死去する。
1767.○【日本】江戸の大田南畝(19)が、
『寝惚先生文集』を著し、評判となる。
1767.○【日本】名古屋(のち、中区錦 2 丁目)の大惣(だいそう)こと大野屋惣八が、店を
構えて貸本屋の営業を始める。店先で大勢の客が閲覧し、小説、軍書、武談、仇討ち、
浄瑠璃本、名所記などが多く読まれる。[1898 年、店を閉じる。廃業時の蔵書は 2 千数
百部。1911 年ころ、5 代まで約 150 年にわたり書物の収集に努める。数万巻の蔵書を 3
棟の蔵に整理保存してこれを公開し、庶民はもちろん学者、文人、武家などに広く利用
に供される。これらの旧蔵書は、国立国会図書館、京都大学、東京大学などにおいて和
書の中心資料の一つになる。]
1767. ○【インド】イギリスがインドで徴税権を確保する。
1767. ○【フランス】ディーベ海水浴場に人々が行くようになる。
- 264 -
1768(明和5)
1768.○【日本】上田秋成( 34 )が、大坂で怪異小説集『雨月物語』の自序(剪枝畸人(せん
しきじん))を書く。[ 1776 年、実際に初刊され、初期読本(よみほん)を代表する作品と
なる。以後、幕末まで同一板木によって数版を重ねる。]
1768.○【中国】[乾隆 34]朝廷が、官僚の歌童囲いを禁止する。
1768.○【フランス】ボドニ Caveliere GiambattistaBodoni( 28)が、北イタリアのパルマ公
の招聘を受けて、
公の印刷所の責任者になる 。
[以後、
多言語の書籍を数多く印刷する。
1806
年、パルマ公の提案により、
『主の祈り』の博言集を 155 の言語で印刷する。
]
1768.○【イギリス】エジンバラの銅版画家ベル Andrew Bell( 42)が、印刷業者のマック
ファーカー Collin Macpharcker と共同で、百科事典を出版して、最初の『ブリタニカ百
科事典( Encyclopaedia Britannica)』となる。100 分冊で、価格は各冊 6 ペンス。一流学者
の 44 論文と単行本からの抜粋からなり、主題方式で配列する。「女」の項目には、「人類
(man)のメス科。人属ホモ参照」と記述される。[この頃、イギリスはブルジョアジーの
勃興期にあり、この事典は紳士の教養を要求する階層に支持されて成功する。1771 年、
完成後に 2200 ページを 3 巻に製本して初版とする。初版の序文には、チェンバーズの百
科事典とフランスの百科全書に対して、〈科学知識をアルファベット順に配列された技
術用語のもとに伝えようとする愚かしい試み〉をしたとして批判する。
以後、第 9 版は東洋学者スミス William Robertson Smith( 1846 ∼ 94)の編集で外国人学者
にも寄稿させて有名になる。第 10 版(1875 ∼ 89)は本巻 24 巻に索引と補遺 11 巻をつ
けた全 35 巻として刊行され、ビクトリア女王時代を代表する百科事典となる。これは、
丸善によって日本にも輸入され、
『大英百科全書』として広く日本の学者にも知れ渡る。
1910 ∼ 11 年に発行の第 11 版は、ケンブリジ大学出版局が引き受けて 29 巻とし、初め
てインディア・ペーパーに印刷する。1927 年、第 12 版からはアメリカにあるシアーズ・
ローバック社の出資を仰ぐ。1928 年、シアーズ社の経営に移り、シカゴを本社とし、ロ
ンドンとニューヨークに編集局をもつようになる 。以後 、編集の面でも変化があり、第 11
版刊行後の世界の急激な変化に対応するため、第 14 版で全体的な改稿をほどこし、新版
の刊行を終わる。1936 年から毎年必要箇所を改訂することにする。1938 年からは年鑑を
発行して、旧版所有者にも便宜を図る。1974 年に全面改稿の第 15 版(30 巻)が、書名
を『The New Encyclopaedia Britanica』と改め刊行される。これは、総論・索引編ともい
うべきプロペディア( Propaedia)( 1 巻、1 万 5000 項目)、小項目編のマイクロペディア
(Micropaedia)(10 巻 、10 万 2214 項目)
、マクロペディア( Macropaedia)(19 巻、4207 項目)
の 3 部門からなり 、有機的・体系的に把握できるようになっている 。日本では、1972 ∼ 75
年に、この版の翻訳に新原稿を加えたものを『ブリタニカ国際大百科事典』(28 巻)とし
て発行される。1999 年、書籍の百科事典出版を停止し、CD-ROM 版に専念する方針を決
める 。
]
1769(明和6)
1769. 6.−【日本】読売に「娘評判記」を載せることが禁止される。読売は、1 ∼ 2 枚の
粗末な版行摺で、新聞紙以前のもの。江戸で名高い妓女、茶店の少女などを集めて、見
- 265 -
立三十六歌仙などと称して売り歩いた。
1769. ○【日本】狂歌の会が盛んとなる。
1769.○【フランス】(?)ピエール・ルソーが、M. ヴァイセンブルックの協力によりブイ
ヨン印刷協会(S.T.B. )を設立する。
1769. ○【ノルウェー】全国国勢調査が実施される。[以後、定期的に実施される。]
1769. ○【デンマーク】全国国勢調査が実施される。[以後、定期的に実施される。]
1769.○【フランス】軍事技術者・ルイ 15 世軍砲兵大尉キュニョー Nicolas Joseph Cugnot
(44)が、砲車を牽引させる目的で世界最初の蒸気自動車を実現させる。純粋に機械力で
走る車の最初となる。このころ蒸気機関を利用する輸送手段を考えていた発明家が大ぜ
いいたが、キュニョーはニューコメン式大気圧機関を利用し、ピストンの往復運動を回
転運動に変える方法を考え、前輪 1 個 、後輪 2 個の 3 輪車で、前輪の真上にシリンダー 2
個が置かれ、その前にさらに大きな蒸気釜をつけた大砲運搬用自動車「ファルディエ」
を設計し、技術者ブレザンが製作する 。この車は、4 人を乗せて時速 4km で走ったが、15
分ごとに蒸気釜に水を供給しなければならず、試走中に暴走し兵器庫に激突して壊れる。
[1770 ∼ 71 年、より大型の 2 台目を製作する。同車は長さ 7.2m、幅 2.3m という巨大な 2
輪荷車に前 1 輪を追加した 3 輪車で、前輪の前に 50 リットルの銅製のボイラーをもつ。
そこでつくられた蒸気は前輪の左右に 1 つずつある垂直のシリンダーに交互に送られ、
前輪を回転させる。クランクはなく、ピストンの上下動がラチェットで前輪を回転させ
る。キュニョーの蒸気車はバンセンヌで実験され、4 人を乗せて時速 9.5km で走るが、
操向輪に重いボイラーやシリンダーが載っているため事実上操縦不能で、城壁に激突し
てしまう。1801 年、ナポレオンの目にとまり、パリの国立工芸博物館に保存される。]
1769. ○【スペイン】全国国勢調査が実施される。[以後、定期的に実施される。]
1769. ○【カナダ】ケベックで初めて印刷が行われる。
1770(明和7)
1770. 6.29【日本】串茶屋(北陸街道の宿場町)の新屋の抱え遊女幾瀬川が魚屋の息子吉三
郎( 18 )と深く馴染みになり、心中する。『
( 寝覚の蛍 』
)
1770.○【日本 】平賀源内の、江戸ことばを生かした浄瑠璃『神霊矢口渡』が初演される 。
1770.○【フランス】この頃、パリの活字業者ディドー Fran □ ois Ambrois Didot(40)が、
これまでまちまちであった活字の大きさを、フランスの常用尺度 1 インチの 72 分の 1 を
1 ポイントとして統一することを提案する。この頃、フランスの 1 インチはイギリスの
1.065 インチであるから、ディドーの 1 ポイントは 0.3759mm となる。[以後、ディドー
式はフランスをはじめ、ドイツなどヨーロッパ大陸で使われる。1886 年アメリカで 1 ポ
イントを 0.3514mm とする「アメリカ式」が定められる。]
1770.○【フランス】ドイツ人貴族ドルバック Barond'Holbach,Paul HenriDietrich( 47)が、
「物理的世界と道徳的世界との諸法則について」という副題をもつ『自然の体系 Syst □ me
de la nature』を刊行する。彼の家で定期的にサロンを開催して、ルソーやコンディヤッ
ク、ラ・メトリら啓蒙思想家の多くが顔を見せて、議論をした内容を集大成したものとい
われる。[以後 、
〈唯物論の聖書〉と評され、ラ・メトリの『人間機械論』(1747 年)と並
ぶフランス唯物論の代表的著作とされる。本書によれば、自然のうちには物質とその運
- 266 -
動のほかには何も存在しない。物質はそれ自身に固有の力によって運動し始めるから、
自然には、キリスト教の神も、また理神論者のいう神、つまり運動の第一原因としての
神さえ存在する余地はない。また原子や物質の運動はすべて引力と斥力(せきりよく)と
の必然的法則の支配下にあるから、いっさいは決定されている。むしろ超自然的なもの
に対する信仰こそ、社会的、道徳的悪の根源である。宗教にかわって確立されるべき現
実的道徳についても、この無神論と機械論的決定論の観点が貫かれる。]
1770.○【フランス】C.P. ダルシーが 、
「網膜の残像性の研究」を発表する。
1770.○【バチカン】法王クレメレス 14 世が、去勢した聖歌隊員(ボーイソプラノ)を教
会から追放する。
1770.○【イギリス】化学者プリーストリー Joseph Priestley( 37)が、新大陸発見によりヨ
ーロッパに伝えられ「カウチュク( caouthouc )」と呼ばれるメキシコを起源とする天然ゴ
ムが 、
鉛筆の字を消す(rub-out)性能があることを発見し 、
ラバー( rubber)と命名する 。
[1772
年、ラバー(消しゴム)を初めて商品化する。この頃、鉛筆の字消しには主に柔らかいパ
ンが用いられているが、ゴムはたいへん高価で、その上硬化して紙を削る欠点がある 。
1839
年、ビギエ Constant Viguier の「細密画の画法指針」で、ラバーの欠点を警告する。
]
1770. ○【イギリス】この頃、センセーションとセンティメンタルを狙いとするゴシック
・ロマンス専門の出版社ミネルバ社が、自社の製品を主な対象として貸本業「ミネルバ文
庫( Minerva Library)」を開業する。[以後、貸本業が発達する。これとともに、作家自体
が貸本向きの本を書かされるという事態が生じる。]
1771(明和8)
1771.−[ 3 . 4 ]
【日本】小浜藩医杉田玄白(39) 、中川淳庵(33) 、豊前中津藩医前野良沢(49 )
の 3 人の蘭方医が 、千住小塚原(こづかっぱら)で死刑囚の死体の腑分け(解剖)に立会う 。
腑分けされた死刑囚は、青茶婆(あおちゃばばあ)と呼ばれる 50 歳前後の京都生まれの女
であった。玄白と良沢はそれぞれ『ターヘル・アナトミア』を入手しており、かねてから
その解剖図が漢方の腑分図と異なっているのに気付き、人体内部を実際に見ることを望
んでいた。2 人は『ターヘル・アナトミア』を小塚原に持参し、腑分けが終わってから、
骨を拾って照合すると、西洋医学の本の正確さに感銘を受け、これまでの自分らの知識
や漢方の誤りを悟る。これを機に 3 人は『ターヘル・アナトミア』の和訳を誓う 。
『ター
ヘル・アナトミア』とよばれている原書は、正しくは、ドイツのクルムス Johann Adam
Kulmus が 1722 年に著した『解剖図譜(Anatomische Tabellen)』を、ライデンのディクテ
ン Gerardus Dicten が 1741 年にオランダ語訳した『Ontleedkundige Tafelen』で、杉田玄白
ら手にしていたのはその第 2 版である。
[翌日、翻訳に着手する。1774 年、翻訳を完成
し、
『解体新書』として刊行する。
]
1771. 5 .−【イギリス】ロイズ( Lloyd's)が、コーポレーション・オブ・ロイズ(Corporation
of Lloyd's)という法人に組織を改める。[以後、海上保険以外の保険分野にも活動領域を
広げ、イギリスだけでなく、世界保険市場における強力な保険引受集団となっていく。]
1771. ○【日本】佐渡国・水金町の遊女おかるが、虐待されて死亡する。
1771. ○【イギリス】新聞・雑誌などの議会報道が自由化される。
- 267 -
1772(安永1)
1772.11. 2【アメリカ】イギリス本国と、植民地との対立の激化にともない、ボストンの
愛国派サミュエル・アダムズらが他の地域との連絡を確立するために通信委員会を組織す
る。
1772. ○【日本】この頃、咄本が盛んとなる。
1772.○【中国】[乾隆 38]清の乾隆帝(けんりゅうてい)の欽定(きんてい)の一大叢書『四
庫全書(しこぜんしょ)』の編纂が始められる。朱いんの建議により永楽大典本、朝廷蔵
本、官選本、各省採進本、私人進献本、通行本などから、当時集められるだけの重要な
書籍を集めて、経、史、子、集の四部に分け、これを校正し、善本をつくり、浄写させ 、
各書に著者の履歴、書の内容、批評を記した、いわゆる「提要」を冠する。その際、そ
の内容が清朝に都合の悪いものは、一部分を削り、あるいは禁書に指定した。[以後、 10
年間に、7 万 8731 巻(巻数には異同がある)を作る。途中で、銅貨高騰のため銅活字を
鋳潰し、その代替物として木活字 25 万個を作らせ、これを「聚珍 」と名づける。現在『四
庫全書』のうち 130 種余は『武英殿聚珍版叢書』として出版され、またほかは『四庫珍
本』として初集から 11 集まで出版されている。1860 年。日本で錫活字の鋳造に成功す
る大島大鳥圭介は、鉛活字を「聚珍板」と呼ぶが、本来は清朝に銅活字の代替物として
作られた木活字のことをいう。]
1772. ○【インド】マドラスで初めて印刷が行われる。
1772. ○【ドイツ】シェファーが、木材の小片からパルプを作る技術を考案し、論文を発
表する。
1772.○【フランス】ル・ブルトンが 1746 年に企画し、ディドロ(59)とダランベール(57)
編集の『百科全書』本文 17 巻と図版 11 巻が完成する。全 33 巻の予約価格は、900 フラ
ンで、約 4000 人が予約する大ベストセラーになる。この頃、労働者の賃金は 1 日 1 フラ
ン。[ 1776 ∼ 80 年、続刊の本文 4 巻、図版 1 巻、索引 2 巻を完成する。ル・ブルトンは
莫大な収益を得る。また、表紙革のなめし業、インク、銅板、製紙、活字、製本などの
業者もうるおい、延べ 1000 人の労働者が従事し、
『百科全書』が刊行されている四半世
紀間に、700 万フランの経済効果がもたらされる。編集責任者ディドロは、謝礼として 17
巻のそれぞれにつき 2500 フラン、一時金 2 万フランを受け取る 。
『百科全書』がこれだ
け大歓迎を受けたので、パンクーク C. J. Panckoucke(36)が、続巻を計画する。この時デ
ィドロ( 60)は老年のため辞し、作家マルモンテル Jean-Fran □ ois Marmontel(1723 ∼ 99 )
が引き受ける。ディドロは、著作だけでは安定した老後を営むには足らず、娘の婚礼資
金を調達するため、蔵書をロシアのエカテリーナⅡ世に買い上げてもらうことにする。
エカテリーナⅡ世は 、蔵書をディドロの手元に置くことを認めた上 、司書官として年金 6
万リーブルを与える。]
1772.○【イギリス】フランスのルイ=セバスチャン・メルシェが、教訓に満ちた壮大なユ
ートピア物語『西暦 2440 年』をロンドンで刊行する。[以後、間もなく、王権の検閲に
より禁書処分にされる。以後、1789 年までに 24 版を重ねる。アンシャン・レジーム期最
後の 20 年間に書かれた禁書文学のなかでも最大の売れ行きを示し、ヴォルテール、ルソ
ー、そして多くのポルノ作品をもはるかに凌ぐ。数多くの模倣作品を生み、英語、ドイ
ツ語、オランダ語にも翻訳される。1789 年、フランス革命が始まると、メルシェは自著
- 268 -
について自慢して〈敢えて言うが、未だかつて予言がこれほど実際の出来事に近かった
ためしはない。さらに、驚くべき一連の変化に関し、これほど詳細に述べられたためし
もないのだ。つまり、わたしはフランス革命を予想した真の預言者ということになる。
〉
と語る。](菅野賢治・平野隆文訳『未来の歴史』)
1772.○【イギリス】化学者プリーストリー Joseph Priestley( 39)が、新大陸発見によりヨ
ーロッパに伝えられ「カウチュク( caouthouc )」と呼ばれるメキシコを起源とする天然ゴ
ムが、鉛筆の字を消す( rub-out)性能があることを発見し、ラバー(rubber)と命名、ラバー
(消しゴム)を初めて商品化する。この頃、鉛筆の字消しには主に柔らかいパンが用いら
れているが、ゴムはたいへん高価で、その上硬化して紙を削る欠点がある。[以後、消し
ゴムがフランスをはじめヨーロッパ全土で使用され始める。」
1773(安永2)
1773. 6. 3【ドイツ】銅版画家ホドウィエツキー(ホドヴィエツキー) Daniel Chodowiecki
(47 )が、30 年間会っていなかった母を訪ねるため、ベルリンから約 400km 離れたダンツ
ィヒ(のち、ポーランドのグダニスク)へ向け旅立つ。〈駅逓馬車で行くのは、ごめんだ〉
と考え、河原毛馬を調達して、締め金具で旅行鞄を鞍に固定し、剣で武装する 。
[以後、
種々の障害に出会う。6.11 ダンツィヒに到着する。この間、1 冊の日誌と 108 枚のスケ
ッチをまとめる。
]
1773.○【日本】蔦屋重三郎( 24 )が、新吉原大門口五十間道の左側に書店を構え、鱗形屋
の『吉原細見』の卸し・小売りを始める 。
『吉原細見』は版元の鱗形屋孫兵衛が独占販
売し、毎年春秋に改訂版を出していた。
1773.○【ドイツ】ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe( 24 )が、自由のために戦うドイツ
中世期末の騎士を主人公とする戯曲『鉄手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を書き
上げる。出版社が見つからず、友人のメルクが印刷費、ゲーテが用紙費を負担して 、
“
自費出版”のかたちで刊行する。メルクは、この風変わりな作品を自費で出版すれば、
相当なもうけが得られると計算した。メルクはゲーテの最初の読者であり、ゲーテは、
この作品によって文壇にデビューする。[以後 、自費出版費用の回収はできない 。しかし、
出版社からの執筆依頼が舞い込む。1774 年 、
『若きヴェルテルの悩み』を書き上げ、ラ
イプツィヒのヴァイガント書店から出版する。のち、メルクはゲーテの『ファウスト』
のメフィストフェレスのモデルとされる。のち、メルクが自殺したとき、ゲーテはメル
クを〈私の生活に最も大きな影響を及ぼした独特な人物〉と述べる。]
1773. ○【スイス】この頃、ジャケ・ドロス父子が、ゼンマイと歯車仕掛けで文字を書く
精巧な人形を製作する。背丈 1m ほどの少年の人形が 、机の前に座り右手にペンを握り、
ペンをインク壺に入れ、紙の上に持ってきて字を書く動作をする 。[のち、ヌーシャテ
ルの博物館に展示される。
](立川昭二『からくり』)
1773. ○【イギリス】ロンドン株式取引所が登場する。最初の国民経済的意義をもった本
格的証券市場となる 。
[1812 年、制度が確立する。
]
1773.○【イギリス】キャベンディッシュが、2 枚の電極の間の絶縁体の種類によって畜
電器の静電容量に差があることを発見する。
1773. ○【チリ】国内で初めて印刷が行われる。
- 269 -
1774(安永3)
1774.春【日本】蔦屋重三郎(25)と前野良沢( 51)が 、
『吉原細見』の改訂版のデータ集め
の仕事を引き受ける。
1774.○【日本】小浜藩医杉田玄白(42 )、中川淳庵(36 )、豊前中津藩医前野良沢(52)の 3
人の蘭方医を中心に 、石川玄常、桂川甫周らも加わり、4 年間の努力の結果、
『解体新書』5
巻(図 1 巻・図説 4 巻)を完成し、刊行の推進力となる。1771 年春、江戸の小塚原(こ
づかっぱら)の刑場で死刑囚の死体の解剖を実見したのを契機に、『ターヘル・アナトミ
ア』の正確・精緻なるを知り、翻訳を決意して着手したもの。原本の精緻な銅版画の模
写には、平賀源内のもとで洋風画を学んでいた小野田直武が起用され、細筆を用いて銅
版画を寸分違わず木版画で表現する。最初の本格的蘭方医書の翻訳事業の成果となる。
訳語は、性器を陰器と訳し、
「陰器編」に陰門、陰門唇、陰嚢などの訳語を創作する。[以
後、蘭学発達に大きな貢献を果たし、日本の医学史上に大きな影響を及ぼす。1815 年、
杉田玄白は、蘭学創始をめぐる思い出と蘭学発達の跡をまとめつつ 、同志の『解体新書 』
翻訳の苦心のありさまを追想記『蘭学事始(ことはじめ)』に詳述する。]
1774.○【日本】蘭学者で長崎のオランダ通詞本木良永(もときよしなが)( 39)が、1661 年
刊のオランダのWJブラウの著書『天地二球用法』書の抄訳本をつくり、初めて地動
. .
説を紹介する。
1774. ○【日本】この頃、大坂で、一般応募による雑俳と咄本がさかんとなる。
1774. ○【中国】清朝政府が、乾隆帝の許可のもと宮城内の武英殿で昨年からナツメの木
を用い手木活字を制作し、全 25 万 3500 個の活字を完成させる。
[以後、これを用いて 134
種、2300 巻の書物を刊行する。中国史上最大の木活字出版となる 。乾隆帝は、
「活字版」
という呼び名は典雅でないとして 、
「聚珍版」と改称する。以後、これらの木活字印刷
本は「武英殿聚珍版叢書」と呼ばれる。この叢書の刊行にあたって、木活字の製作およ
び印刷の工程を述べた金簡の『欽定武英殿聚珍版程式』が作られる。]
1774.○【ドイツ】ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe( 25)が、
『若きヴェルテルの悩み』
を書き上げ、原稿を懇請する手紙を送ってきたライプツィヒのヴァイガント書店から出
版する。シャルロッテ・ブフへの愛の喜びと苦しみに発するもので、恋愛小説の一典型
となる。[以後、この小さな本がゲーテの名を一躍有名にする。ゲーテはその反響を〈一
般読者の間で起こった爆発〉と書く。また、顔の見えない読者が大量に出現し、〈作者
と読者とが巨大な深淵によって隔てられていること〉も知らされる。
1774.○【ドイツ】ハーン Philipp-Matthaus Harn( 1739 ∼ 90)が、12 桁計算機を考案する。
1774.○【フランス 】ヴォルテール『哲学辞典』が刊行される。「オナニー 」の項を設け、
ティソーの自慰有害説( 1760 年)をわかりやすく紹介する。
1774.○【イタリア】George Lous Lessage が 、24 本の線条による Pith ball 電信に成功する。
1774. ○【イギリス】ジェファソンの『イギリス植民地アメリカの権利』が、禁書とされ
る。
1774. ○【イギリス】調髪師デビット・ロウが、ロンドンで世界最初のホテル「ロウ・グラ
ンドホテル」を開業する。これまで長期滞在者は、家具付きの貸間を探さなければなら
なかった。
- 270 -
1774. ○【イギリス】新ロイズのルームが、ロンドンの王立取引所のなかに置かれ、海上
保険コーヒー店は終焉する。
1774. ○【イギリス】ワットが、蒸気機関の特許権を得る。
1775(安永4)
1775. ○【日本】幕府が、大坂町奉行名で、大坂の米相場を「幟」を振って連絡すること
を禁止する。[以後、類似の禁令がたびたび出される。大坂と摂津・河内両国での旗振り
が禁止されたので、たとえば大津へ連絡するためには、堂島から飛脚が住吉街道を走っ
て大和川南岸の和泉国・松屋新田に至り、そこで旗を振って大和国・十三峠に繋、山城
国・乙訓郡大原野と比叡山を経て、近江国・大津へ通信する。1865 年に、英仏蘭米代表
を乗せた軍艦が兵庫沖へ進入した際、旗振り信号手がこれを発見して京都所司代へ通報
したことが契機となり、禁止が解かれる。](石井寛治、1994 )
1775. ○【日本 】
『吉原細見』の独占的版元、日本橋旅籠町の鱗形屋孫兵衛の手代が起こ
した事件でそれを出版出来なくなる。この機に乗じて蔦屋重三郎( 26 )が自らの手で新形
式の『吉原細見』を刊行する。工夫したのは、妓楼を睨み合いの形で表現し、1 冊の紙
数を減らし価格を安くした。
1775. ○【日本】恋川春町(こいかわはるまち)画作『金々先生栄花夢(きんきんせんせい
えいがのゆめ)』2 冊が、鱗形屋孫兵衛から刊行される。謡曲「邯鄲(かんたん)」を翻案
し、遊里を舞台としての遊びの「うがち」を主体とした、洒落本の要素を青本に取り入
れたもので、絵を主とする小説である「草双紙(くさぞうし)」の一様式となる。表紙の
色から「黄表紙」と呼ばれ、一躍大評判となる。
[1777 年、春町の友人朋誠堂喜三二(ほ
うせいどうきさんじ)も『親敵討腹悲(おやのかたきうてやはらつづみ)』を出し、以後両
人の多くの名作によって 、
“通(つう)”と“むだ”すなわち洒落と機知によるおかしさ
をねらった成人の漫画ともいうべき作風がうち立てられる。1785 年、芝全交(しばぜん
こう)『大悲千禄本(だいひのせんろつぽん) 』
、 1785 年、唐来参和(とうらいさんな)『莫
切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)』、1785 年、山東京伝『江戸生艶気樺焼(え
どうまれうわきのかばやき)』などによって、天明年間( 1781 ∼ 89)には黄表紙全盛期を
迎える。1806 年までの 30 年間に 2000 種以上の黄表紙が刊行される。]
1775.○【フランス】1789 年にかけて C.A.de クーロンが電気力の大きさが距離とともに
どう変わるかについて研究し、逆 2 乗法則として与える。[のちに(クーロンの法則)と
呼ばれる。クーロン以前にも J.プリーストリー(1767)、H.キャベンディシュ(1772 )によ
っても見出されていた。]
1775.○【スイス】チューリヒの改革派牧師・哲学者ラバーター(ラファーター)Johann
Kaspar Lavater( 34 )が、骨相・顔相を研究し、人間の本性は容貌に表れるという思想に基
づいて、この年から 1778 年にかけて『観相学断片』を著す。[以後、天才と詩人の本質
に関する神秘主義的概念規定により、シュトゥルム・ウント・ドラング運動の基調と一致
し、宗教的非合理主義の予告者としてゲーテ、ヘルダーらに影響を与える。]
1775.○【フランス】Pe()re Marie Dominique Joseph Engramelle( 48)が、鍵盤楽器で演奏さ
れた音楽を半自動的に採譜するため、キーを押した時間と押していた長さを記録する仕
組みを考案し、文献『La Tonotechnie ou l'Art de Noter les Cylindres 』に記述する。キース
- 271 -
トロークは、ピアノロール形式の記譜法により実時間で紙の上に記録され、音楽家によ
って五線譜に直される。
1775. ○【スイス・イタリア】イギリスの鉱物学者グレヴィルが、スイスから馬車でアル
プスを越えてナポリまで行き通せるかどうか賭けをする。イタリアへ通じるザンクト・ゴ
ットハルト峠越えの山道はおおむね大きな玉石敷きで、幅 3 ∼ 4m、人が歩いて通るか
馬かラバでしか通れない。8 人から 10 人の随行者と共に馬車で古いラバ道を通り、初め
て峠を強行突破する。通れない危険な所では何度も馬車を解体して運び、スイスのアル
トドルフ Altdorf から北イタリアのマガディーノまで 7 日間で到着する 。
[1825 年ころ、
ラバ道は馬車が通れる道路になる。1882 年、全長 15km のザンクト・ゴットハルト・トン
ネルの開通により、初めて列車が山を通り抜ける 。
]
1775. ○【イタリア】ボルタが、静電誘導の実験に使うため、金属板をエボナイトで覆っ
た構造の電気盆を考案する。[以後、ボルタは、金属板 2 枚を、間隔をあけて平行に配置
したものを「コンデンサ(畜電器)」と呼ぶ。]
1775. ○【イタリア】生物学者ラザノ・スパランツァーニが、精液による受精を初めて証
明する。番いのカエルの雄にワックス処理した布製避妊用パンツをはかせておくと、卵
は受精しない。雄のパンツの中の精液を採り出し卵を受精させることに成功する。しか
し、彼はこの受精を粘液中のある物質によるものと考え、精子の役目には気付かなかっ
た。
1775. ○【イギリス】モレー並びにアポイン卿が、ロンドンの「ウィグ(かつら)クラブ」
を退会する。その際、クラブの名の由来である国王チャールズⅡ世の情婦の陰毛で作ら
れたかつらを搬出する。このクラブ入会時には、自分の女の陰毛を持参し、元のかつら
に植え付けるのを条件とする。
1775. ○【アメリカ】大陸会議で、独立戦争の戦費調達のために発行した債務証書をスペ
イン・ドル貨で償還することに決定する。[1785 年、大陸会議で、ドルを貨幣単位とし、
十進法を採用することを決める。]
1776(安永5)
1776. 1 . 9 【アメリカ】イギリスのペイン Thomas Paine(39)が 、小冊子『コモン・センス』
を匿名で出版する。本国イギリスからの独立による植民地の利益と世襲君主制打破の意
義を具体的に平明な文章で説き、植民地アメリカの人々の独立への気運を促す。〔ペイ
ンは、1774 年フランクリンとロンドンで知り合い、彼の紹介でアメリカに渡った。フィ
ラデルフィアで 1775 年に創刊された『ペンシルベニア・マガジン』の編集者となってい
る。
〕[以後、アメリカに残り、独立戦争中は、アメリカ軍に参加しながら政治論文『危
機』の執筆を続ける。1777 年大陸会議外交委員、1779 年ペンシルベニア議会書記に任命
される。1787 年にヨーロッパに渡り 、1791 ∼ 92 年、バークの『フランス革命への省察』
に反論して『人間の権利』を発表し、革命を擁護する。]
1776. 3.30【フランス】国王顧問会議が、事実上出版権を持たないオペラ台本の著作者の
申し立てを受けて、初演に限り台本の出版は著作者の権利とみなすという裁定を下す。
音楽の上演に関する特許認可状は、オペラ座ないしはロワヤル・アカデミー・ド・ミュジー
クに与えられており、有料の音楽会、公開舞踏会、宗教音楽演奏会を無断で行うことは
- 272 -
禁じられている。[1786.9.15 国王顧問会議の裁定により、音楽著作物の権利についての
規則が制定される。]
1776. 3 .−【イギリス】アダム・スミス(53)が、
『諸国民の富』を刊行する。
1776. 春【日本 】
『吉原細見』は、蔦屋版と鱗形屋版が並立する。
1776. 7. 4【アメリカ】フィラデルフィアで開かれていた大陸会議が、〈生命、自由、幸
福への追求〉をスローガンに新しい連合を求めて独立宣言を採択する。フィラデルフィ
アの自由の鐘が高らかに鳴らされる。ニューヨークを除く 12 植民地が支持を表明する。
起草委員に任命されたのは、ヴァージニアのジェファソン( 33)、マサチューセッツのア
ダムズ( 44 )、ペンシルベニアのフランクリン( 70 )、ニューヨークのリヴィングストン
(30 )、コネティカットのシャーマン(55 )の 5 人だったが、ジェファソンが実際に起草す
る。イギリス国王は、署名した者すべてを反逆者とみなしていたため、署名部分は公表
されない。[以後、7 月 4 日を独立記念日とする。]
1776.12.−【日本】平賀源内(48 )が、エレキテルを製作する。
1776. ○【日本】大坂の講釈師吉田一保(いつぽう)の持ちネタ『伊賀の仇討』が 、
『伊賀
越乗掛合羽(いがごえのりかけがつぱ)』として脚色され、大好評を博す。[以後、吉田一
保の門より吉田天山、二代吉田一保が出る。]
1776. ○【日本】初代川柳翁評の万句合(まんくあわせ)から川柳風狂句艶句ばかりを選ん
で『末摘花』(初編)が編まれる。誹風末摘花』という。初編は書肆花屋久次郎編。[二編
以下は浅草似実軒酔茶(戯号)編で、 1783 年(天明 3)二編、 1791 年(寛政 3)三編、 1801 年
(享和 1)四編刊。初編の奥に〈川柳評万句合(まんくあわせ)書抜〉とあるように、初代
川柳の万句合摺物から「末番(すえばん)句(ばれ )
」だけを抜いたもので、末番の花を摘
み集めたというしゃれた書名である。4 編合計 2331 句。大正末年に沢田五猫庵の手によ
り、八編までが追加編集される。1958 年にその拾い落しを集めた『古川柳艶句選』
(岡
田甫編)により完備する。性愛に関する人間の諸姿態心情を冷静に見つめた滑稽文学の粋
である。各巻頭句に 、〈蛤は初手赤貝は夜中なり(初夜)〉〈初会にはうつわをかすとお
もふ世〉、
〈陰茎(いんきょう)がおへたと学者妻にいゝ 〉、
〈木のやうにして仲人は床をと
り〉で飾っている。1947 年まで繰返しわいせつ書として発禁処分をうける。]
1776. ○【日本】恋川春町自画作の黄表紙『高慢斎行脚記』刊。世の通人を諷刺する。
1776. ○【ロシア】スイスの医師ヤコブ・フリースが、オムスク∼トムスク間を、馬を一
定間隔ごとに取り替えて、平均時速 5km で走破する。
1776.○【フランス】侯爵ジェファロ(25 )が、最初の蒸気船をドゥー川で航行させる。
1776.○【イギリス】アダム・スミス Adam Smith( 53)が、経済学の最初の体系的著作『国
富論( An Inquiry into the NatureandCauses of the Wealth of Nations ) 』を著し、刊行される。
全 2 巻。
1776. ○【イギリス】チョーサーの『カンタベリー物語』初版本が、クリスティーで競売
にかけられ、6 ポンドで落札される。
[1998.7.8 同じ本がロンドンのクリスティーで競売
にかけられ、460 万ポンド(約 10 億 8000 万円)で落札され 、世界の古書界を震撼させる 。
]
1776. ○【アメリカ】この頃、本国イギリスとの対立が戦争状態に発展している。植民地
のほとんどの人々は和解を信じている。
1776.○【アメリカ】人力推進の潜水艦タートル( Turtle )が、イギリス艦攻撃を試みて失
- 273 -
敗する。実戦に使われた最初の潜水艦となる。
1777(安永6)
1777. 1 . 1【フランス】フランス最初の日刊紙『ジュルナール・ド・パリ』創刊。[以後、
民衆の支持を獲得し、革命気運を盛り上げる。]
1777. 6.14【アメリカ】大陸会議で、13 州を表す赤白 13 本の線と青地に白の 13 の星を
デザインした星条旗が制定される 。
[以後、連邦加盟の州が増えるごとに星の数を加え
る。
]
1777.12.24 【中部太平洋】イギリスの探検航海者クック Christmas Island( 49 )が、第 3 回航
海で無人の島をヨーロッパ人として初めて発見し、ここでクリスマスを過ごしたので、
クリスマス島と命名する。
[1888 年、イギリス領となる。1979 年 7 月 12 日、キリバス共
和国独立。以後、漁業を中心とするキリバスの経済センターの一つとして発展する。]
1777.○【日本】昨年死去した谷川士清(たにがわことすが)(1709 ∼ 1776)の編纂した国
語辞書『和訓栞(わくんのしおり)』(「わくんかん」ともいう)の刊行が開始される。[以
後、刊行には、1887 年(明治 20)までの 100 余年を要する。全 82 冊。日本初の近代的
な国語辞書とされる。前・中・後編の編ごとに、仮名一字の語、二字の語、三字の語な
どそれぞれ別に、また第二音節までを五十音順に配列してある。前編には古言・雅語、
中編に雅語、後編に方言・俗語を収録するのは、編纂の過程を示すものであろう。語彙
は豊富で、確かな根拠に基づいた穏当な語釈がほどこされる。巻首の「大綱」では音韻、
漢字、仮名、方言など、国語を概説している。]
1777. ○【日本】朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)が、恋川春町と親交を結んで、童
話を題材にして成人向けの読み物とした『桃太郎後日噺』(喜三二作、春町画)を発表す
る。民話の世界の滑稽化に独自の境地を開く。
1777. ○【ドイツ】ライン河で、水泳が行われるようになる。
1777.○【フランス】劇作家ボーマルシェ Pierre Augustin Caron de Beaumarchais( 45)が、
一昨年発表した喜劇『セビリャの理髪師』で名声を高め、演劇の台本や音楽の権利を代
行する著作権保護組織を世界で初めて創設する。これまでは国王の特権認可状により著
作者の権利が保護されていたが、フランス革命によって著作者の権利を保護する制度は
すべて廃止されていた。
1777.○【フランス】小説家・侯爵マルキ・ド・サド MarquisdeSade(本名 Donatien Alphonse
Fran ロ ois de Sade)(37)が、獣姦・強姦・殺人等々の非行のあげく、母親の命によりバス
ティーユ監獄に入る。[以後、ここで数々の猥褻な作品を執筆する。 1790 年、大革命と
ともに釈放され、一時は政治運動に挺身するが、恐怖時代に反革命の嫌疑でふたたび下
獄する。]
1777.○【イギリス】ロンドンの売春婦が、7 万 5000 人と推計される。
1778(安永7)
1778.○【日本】佐竹曙山(さたけしょざん)( 30)が、日本最初の西洋画論『画法綱領』と
『画図理解』を著す 。
〈画ノ用タルヤ似タルヲ尊フ〉と書き、絵画の実用性を説く。
1778.○【日本】山東京伝( 27 )が、者張堂少通辺人(しゃちょうどうしょうつうへんじん)
- 274 -
の黄表紙『開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』の画工を務める 。
[以後、
戯作(げさく)に筆を染める。1782 年、『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』で一
躍黄表紙作者として脚光を浴びる 。
]
1778. ○【インド】カルカッタで初めて印刷が行われる。
1778. ○【フランス】クロン・ド・テブノが、クロン式速記法を発表する。[以後、フラン
ス語の速記に一時期実用される。
]
1778.○【フランス】ボーマルシェ( 46 )が 、『ヴォルテール全集』を編集、ケールで刊行
を始める。
[1789 年、全巻完結する 。
]
1779(安永8)
1779.○【日本】塙保己一(はなわほきいち)( 33)が、各地に存する未刊の国書を叢書(そ
うしよ)として出版することを志し、『群書類従』の編纂に着手する。中国には『漢魏叢
書』などをはじめ多くの叢書が編まれているが、日本にはまだそのためしがない。国書
が散逸の危機にさらされているのは、日本人が書物を大切にしていないということで、
しまいには日本そのものが失われてしまうと憂えたのが動機となる。[以後、門人中山信
名(のぶな)、屋代弘賢(やしろひろかた)らの助けを得て、6 歳のおり失明したハンディ
キャップにもかかわらず、各地の諸本の異同などをひとつひとつくわしく校訂し、定本
を定めて版木に彫らせて、1786 年から刊行を開始する。幕府の援助も得て 、1819 年に 530
巻、収録文献 1270 種を刊行する。]
1779. ○【日本】杉田玄白が 、
『天狗通』を著す。幻灯機を「影絵目鏡」と呼んで〈幽魂
幽鬼をあらわす術、影絵目鏡という物目鏡屋にあり〉と記す。[大槻玄沢『蘭説弁感』に
は「影絵灯籠」の呼称で紹介される。1850 年、
『気海観瀾広義』には「魔燈」と記され
る。]
1779. ○【日本】水戸の長久保赤水が、これまでの官選地図を集大成した『改正日本輿地
路程全図』を発刊する。経緯線記入の刊行地図として日本最初のものとなる。
1779. ○【日本】恋川春町自画作の黄表紙『無益委記(むだいき)』刊。未来の空想物とし
て現実を茶化す。
1779.○【ドイツ】クラッチェンシュタイン C. Kratzenstein が、母音だけを人工的に作り
出す音声合成器を作る。記録に残る最初の音声合成器となる。
[1791 年、ハンガリーの
ケンペレンが、子音、母音とも合成に成功する。
]
1779.○【イギリス】ロンドン郊外エプソン高原に住む第 12 代ダービー卿エドワード・ス
ミス・スタンレー 12th Earl of Derby, Edward Smith Stanley( 27)が、エリザベス・ハミルト
ンと結婚する。新夫人の願いによって 4 歳牝馬(ひんば)のみによるレースを行う。これ
が「オークス」の始まりとなる。[この催しがこの頃の競馬界に好評で迎えられたことか
ら、ダービー卿は自分の名を冠した 4 歳牝牡(ひんぼ)馬の混合レースを思い立つ。 1780
年 5 月 4 日、初の「ダービー」を開催する。]
1779. ○【イギリス】エリザベス・ジョンソンが、日曜新聞『ブリティッシュ・ガゼット
・アンド・サンデー・モニタ(The British Gazette and SundayMonitor )』を創刊する。
1780(安永9)
- 275 -
1780. 5. 4 【イギリス】ダービー卿エドワード・スミス・スタンレー 12th Earl of Derby,
Edward Smith Stanley( 28)が、最初の「ダービー」
、距離 1 マイル(約 1600m)レースを
エプソン高原で行う。[ 1784 年、タッテナム・コーナー(Tattenham Corner)のある 2440m
のダービー・コースができる。1920 年、タッテナム・コーナーの一部を削って 2414m とす
る。以後、毎年 6 月の第一水曜日に行われ、この日を「ダービー・デー」とよぶようにな
る。競馬場は 100 万人もの人で埋まり、お祭り騒ぎとなる。]
1780. ○【日本】飲食に関するものがカタログ『自遊從座爲(じゆうじざい)』がつくられ
る。
1780. ○【日本】秋里籬島(あきさとりとう)が、京都の名所案内『都(みやこ)名所図会』
を編纂、刊行する。
[以後、1787 年、
『都名所図会拾遺』
。1791 年『大和名所図会』
。1794
年『住吉名勝図会』など、近畿地方の名所案内図会が出版される。1796 ∼ 1806 年、摂
津、和泉、東海道、河内、播磨、桑名、木曽路などの図会が相次ぎ刊行され、名所図会
のブームとなる。画家には、現地取材の優れた能力が期待される。1902 年 、
『本派本願
寺名所図会』が最後の図会となる 。
]
1780. ○【ベルギー】ロバートスンが、リア・プロジェクション「ファンタスマ・ゴリア」
による映像の投影を試みる。
1780.○【イタリア】生物学者スパランツァーニ Lazzaro Spallanzani(51)が、30 頭の雌イ
ヌに人工受精試みて、18 頭の子イヌを得る。両生類、カイコでも人工受精に成功し、卵
の発生には精液の接触が必要という。発生学では前成説の立場にたち、精液中に存在し
て卵の中にある胚(はい)の成長を刺激する物質の性質を明らかにしようと種々の実験を
行い、とくに、精液を濾過すると受精能力が失われることから、精液中の臭気が受精に
必要であるという従来の考えを否定する。[以後、19 世紀末まで人工授精に関する見る
べき成果はない。1907 年、ロシアの I.I.イワノーフが、ウマについて基礎的および技術
的研究を進め、人工授精が家畜改良の有効な手段であることを提唱する。]
1780. ○【アルゼンチン】ブエノスアイレスで初めて印刷が行われる。
1781(天明1)
1781. ○【日本】乳井貢(にゅういみつぎ)が 、
『初学算法(しよがくさんぽう)』で、そろ
ばんの五玉は一つ、一玉は四つにすべきだと力説する 。[以後、普及はしない。1938 年、
文部省が『尋常小学算術』
(国定教科書)で 4 年生に一玉四つのそろばんを使用させてか
ら急速に普及する。]
1781.○【日本】この頃、呼出しの揚代は銀 75 匁で、祝儀等を加えると 225 匁である。
1781.○【日本】新興の版元蔦屋重三郎( 31 )が、錦絵の版行にも意欲をみせ、美人画の喜
多川歌麿( 28 ?)を起用する。[以後、錦絵ばかりでなく、豪華な多色摺りの狂歌絵本を
次々と蔦屋から発表、写実的な作風に磨きをかける。また、蔦屋は役者絵の東洲斎(とう
しゅうさい)写楽など多くの逸材を世に送り出す。]
1781. ○【フランス】ジャン・ジャック・ルソーの『告白録』が刊行される。自分の性生活
についても〈率直、正直〉に記述されている。
1781.○【イギリス】ドイツ生まれの天文学者ハーシェル SirFrederick William Herschel( 43 )
が、自作の焦点距離 7ft、口径 6.5in(約 16.5cm)の望遠鏡で、黄道一帯を掃天観測中に、
- 276 -
天王星を発見する。[ 1782 年、この業績により王室天文官兼王立天文協会員に推挙され
る。これを機に掃天観測は全天に及び、1783 年に輝星 7 個の固有運動を総合して、恒星
空間における太陽の系統的運動を確認する。また恒星集団に関する最初の銀河系の概念、
いわゆる「ハーシェルの宇宙」を形成する。1802 年、掃天観測のなかから、星雲・星団
合計 2500 個を含む『星雲・星団目録』を作成する。以上のような業績により、1816 年
爵位を受ける。外国からも多くの栄誉や褒賞を受ける。]
1782(天明2)
1782. 4.10【 フ ラ ン ス 】 軍 人 ピ エ ー ル ・ ア ン ブ ロ ア ー ズ ・ コ デ ル ロ ・ ド ・ ラ ク ロ
Pierre-Ambroise-Fran □ ois Choderlos de Laclos( 41 )が、書簡体小説『危険な関係( Les
Liaisons dangereuses )』を発表する。上流社会の誘惑の心理分析と密通を描写しており、
モデル小説としてセンセーションを巻き起こす。
〔この小説の素材は、1769 ∼ 73 年駐屯
兵としてグルノーブルでの駐屯時期に得られ、1780 年夏から 1781 年の秋にかけて執筆、
1781 年末から 1782 年春、2 度目のパリ休暇のおりに完成したと推定されている。〕[1824
年、フランスで発禁になる。20 世紀に入って、風俗批判の小説ないしマルローのいう〈知
力の神話〉の視点から高い評価をかちえる。]
1782.○【日本】蔦屋重三郎( 33)が恋川春町(こいかわはるまち)の書を刊行する。
1782. ○【日本】大田南畝が、絵師・政演こと山東京伝の黄表紙を高く評価する。
1782.○【フランス 】マルキ・ド・サドが『ソドム千百二十日 』を執筆する。[ 1903 年に出版。]
1782. ○【イギリス】郵便物を輸送するために専用の郵便馬車が登場する。
1782.○【イギリス】ワット James Watt (46 )が、遊星歯車を用いた回転機関の特許を取得
する。この中には大気圧利用をやめた複動機関に関するものなどいくつかの重要な内容
が含まれる。
[1783 年、回転機関が最初にウィルキンソンの工場へ供給される。1788 年、
アルビオン製粉所に設置される。回転機関の使用料を決める際は、機関の能力を馬と比
較し、馬力による表示を行う。
]
1782. ○【イギリス】ロンドンで初の人工受精児が行われる。医師ジョン・ハンターが、
洋服屋夫妻を診断し、夫の尿道下症(尿道が陰茎の下で開口し、性交時に精子が放出さ
れない症状)で、患者に自慰により射精させ、精液を注射器で妻の膣に注入して受胎に
成功する。
1783(天明3)
1783. 1.−【日本】
『吉原細見』の鱗形屋版が脱落し、蔦谷重三郎(34)の完全な独占とな
る。これを祝って、朋誠堂喜三二が序を、四方赤良が跋文を、朱楽管江が祝言を書く。
また、彼らとともに江戸の狂歌ブームに乗り、狂歌集と狂詩集を出版し、本店を日本橋
通油町に移す。ここに、吉原遊郭サロンと出版文化サロンが合体する。
1783. 6. 5 【フランス】 ジョゼフ Joseph Michel de Montgolfier( 43)と弟ジャック Jacques
Etienne de Montgolfier(38)のモンゴルフィエ兄弟が、無人の熱気球をアノネイ市広場から
1800m の高度まで上昇させ、約 2.0km の飛行に成功する。人類初の航空機の成功となる。
兄弟は、リオンに近いアノネイで製紙業を営んでいたが、煙が上昇するようすを観察し
て煙が空気より軽いためと考え、直径約 10m の亜麻(アマ)布製の気球を紙で内張りし、
- 277 -
煙(実は熱空気)を詰めて、熱気球をつくった。彼等は、空へ昇る煙から気球を着想した
だけで、加熱された空気が軽くなり浮揚力をもつ原理は知らなかった。[9.19 兄弟は、
ベルサイユ宮殿の庭、ルイⅩⅥ世の目の前で、まずニワトリ、アヒル、ヒツジで動物飛
行を行い、約 2.4km、8 分間の飛行を行う。ついで綱で留めた上昇試験で人体への高度の
影響を調べる。10.15 ド・ロジエ J. F. Pilatre de Rozier( 27)がこの繋留索をつけた熱気球に
乗って、人間として初めて空中に浮上し、無事着地する。11.21 パリで、侯爵ド・ロジエ
とダルランド Fran □ ois, Marquis d'Arlandes( 41 )が繋留索なしで搭乗して、最初の有人飛
行に成功する。のち、6 月 5 日を「熱気球記念日」とされる。]
1783. 8.26 【フランス】物理学者シャルル Jacques-Alexandre-C ■ sar Charles( 37)が、水素
ガスを満たした無人気球を飛ばすことに成功する。昨年から、機械技師ロベール兄弟と
ともに気球製作にとりかかり、当時、熱気球の研究をしていたモンゴルフィエ兄弟に対
して、水素気球方式で開発を競い、水素気球時代を開く。[8.27 パリのシャン・ド・マ
ルス公園(のち、エッフェル塔の位置)から上げられる。翌 28 日、24km 離れたジュノス
まで飛行したことが確認される。12.1 パリのチュイルリー公園から水素気球で飛び立ち、
43km の飛行に成功する。]
1783.11.21【フランス】ド・ロジエ Francois PilatredeRosier( 27 )とダルランド侯爵 Francois
Laurent, Marquis d'Arlandes( 41 )が、モンゴルフィエの熱気球に乗って、ブローニュの森
を離陸、ウールと、アルコールをしみ込ませた藁(わら)を燃やして気球の中の空気を暖
め、浮力をつけながらパリ南部の上空を東方へ飛び、約 8km の距離を 25 分で飛行する。2
人は初めて係留索なしで空を飛んだ人類となる。
1783.12. 1 【フランス】物理学者シャルル Jacques-Alexandre-C ■ sar Charles( 37)が、パリ
のチュイルリー公園から〈40 万人の群衆の前で〉水素気球で飛び立ち、高度 570m に昇
り、43km を飛ぶ。[以後、この成功により気球は水素方式が主流となり、軍用にも用い
られるようになる。]
1783.○【日本】安藤吉次郎こと司馬江漢( 36)が、大槻玄沢(おおつきげんたく)の協力を
得て、日本で初めて腐食銅版画の作成を試み、成功する。
『三囲景(みめぐりのけい)図』
が最初の作品となり、「日本創製」の文字を自作の銅版画に誇らしげに摺りこむ。エッ
チングに必要な硝酸は、将軍家の御典医・桂川甫周の協力により得た。(對中如雲『広重
「東海道五十三次」の秘密』祥伝社、1995)[以後、西洋銅版画の模刻と日本風景の銅版画
を多く制作し、木版画と違って、格段に細密な絵が小画面の中に実現できるようになる。
江漢は、指先のような小さな画面に広大な風景を閉じこめ、
「微塵銅版画」と呼ばれる。
また、油絵も習得する。]
1783. ○【フランス】スイス生まれの化学者フランソワ・アミ・アルガンが、油ランプを改
良し、パリで発表する。ガラスの筒で焔を被うことで光量を増し、灯心の長さを調節す
る装置を加えるなどの改良を工夫した。[以後、アルガンはこのランプをビジネス化する
ためイギリスに渡る。]
1783.○【フランス】ピエール・アンブロアーズ・コデルロ・ド・ラクロ Pierre-Ambroise-Fran
□ ois Choderlos de Laclos( 42)が、
『女子教育論』を発表する。
1783.○【アメリカ】ウェブスター Noah Webster( 25)が、アメリカは言語もイギリスから
独立すべきであるという理念から、アメリカ独自の綴字・文法・読本の 3 部からなる教科
- 278 -
書を出版する。[以後、綴字法の簡易化と愛国的内容で、ほとんどのアメリカの学校で採
用される。1828.4.14 『アメリカの英語辞典(An American Dictionary of the English
Language)』を出版する。]
1784(天明4)
1784.[2.23]
【日本】筑前国那珂郡志賀島(のち、福岡市)で、農民甚兵衛が、水田の溝を
修理していたところ、大石が現れ、二人がかりでこれを掘り起こすと金でできた印鑑が
出てくる。
「漢委奴国王(かんのわのなのくにおう)」の 5 文字が刻まれている。[
[ 3.16]
甚兵衛が郡役所に届ける。甚兵衛は白銀 5 枚を与えられ、金印は黒田家に召し上げられ
る。福岡藩の藩校甘棠(かんとう)館の祭酒(校長)亀井南冥は、これを鑑定し、実物であ
ることを主張、
『金印弁』を著す。
『後漢書』にみえる光武帝が 57 年(建武中元 2 年)に、
倭奴国王に贈ったとされる。20 世紀に福岡市に寄贈される 。
]
1784. 夏【日本】新進作家兼絵師山東京伝( 24)の妹、黒鳶(くろとび)式部(13)が会頭と
なり 、手拭いの図案展「手拭合(てなぐいあわせ)」を上野不忍池付近の寺院で開催する 。
主催者の黒鳶式部をはじめ、京伝、四方赤良(大田南畝) 、平秩東作、喜多川歌麿ら 70 ∼ 80
人が出品する。
[以後、山東京伝が作品集を編集し、白鳳堂から出版する 。
]
1784. [ 9.−]【日本】幕府が、暦の発行を許可している 11 人の暦屋以外の暦類の売買・
辻売りを禁止する。
1784.○【日本】黄表紙が最盛期を迎え、年間 92 点刊行の最多を記録する。
1784.○【フランス】啓蒙主義者アユイ Valentin Ha ロy(39)が、博愛協会の援助を得て、
世界最初の盲児を対象とする学校「パリ盲学校」を設立する。アユイは市場で興行師に
使われていた盲人を見て盲教育に関心を抱いたといわれる。また、盲人のために浮き出
し文字を工夫する。[以後、19 世紀前半に欧米各国に盲学校の設立をみる。その多くは
民間の慈善事業として設立・維持され、貧窮盲人に対し生活扶助とともに宗教教育や凸
文字の読み方、手仕事の訓練等を行う救済施設である。1893 年、イギリス盲聾初等教育
法、1905 年のマサチューセッツ州をはじめとするアメリカ各州の教育法等が制定される。
これによって盲・聾児の就学義務制、盲学校の公立化が進み、初期の収容寄宿制に加え
て通学制盲学校や一般公立校内の盲・弱視学級も出現する。]
1784.○【イギリス】最初の郵便馬車が、ブリストル∼ロンドン間を走る。[ 1786 年、ロ
ンドン∼エディンバラ間が開通する。1838 年から鉄道による郵便輸送を始め、1858 年、
郵便馬車を廃止する。]
1784. ○【イギリス】ウィリアム・ジョーンズが、サンスクリット語と西洋古典語の類似
を指摘する。
[以後、インド・ヨーロッパ語比較言語学が発展する。
]
1784. ○【アメリカ】日刊紙『ザ・ペンシルヴァニア・パケット&デイリー・アドバタイザ
ー』が刊行され、アメリカで最初にビジネス的に成功した新聞となる。
1785(天明5)
1785. 1 . 1【イギリス】日刊紙『タイムズ』創刊。
1785.11. 2【イギリス】ロンドンの馬車製造者 Lionel Lakin が、最初の水中救助艇の特許
を取得する。
- 279 -
1785. ○【日本】戯作(げさく)者唐来参和(とうらいさんな)が、洒落本『和唐珍解』を刊
行する。文中に両ルビが見られる。
1785.○【日本】山東京伝( 24)が、黄表紙『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばや
き)』を刊行する。自惚れの青年が遊里で浮き名を立てようとする様子を描く。黄表紙の
黄金期を迎える。
1785. ○【日本 】芝全交(しばぜんこう)の黄表紙『大悲千禄本(だいひせんろっぽん)』(北
尾政演(きたおまさのぶ)画)刊。千手観音の手の貸借商売を描く。
1785. ○【日本】岡山の表具師幸吉が、羽ばたき式のグライダを考案し、旭川にかかる京
橋から、河原への滑空に成功する。世間を騒がせたとして代官所に引き立てられ、打ち
首にされる。(この項要チェック!!)
1785.○【フランス】クーロン Charles Augustin de Coulomb( 49)が、 1777 年に考案したね
じり秤を用いて、帯電している物体間の力を正確に測定して、帯電体または磁極の引力
斥力の法則、いわゆるクーロンの法則を発見する 。[以後 、多くの研究者が静電気 、磁石 、
電流の磁気作用、電流による化学変化などを応用する通信方法を考案する。これらの一
部は、1838 年にイギリスの鉄道に採用されるが、ほとんど実用化されることなく推移す
る。クーロンの名にちなんで電荷の測定に使われる電気量の単位クーロン(記号 C)が定
められる。1831 年、ロシアのシリングが、電磁式電信機を発明する。]
1785. ○【フランス】マリー・アントワネットの意見で、ルイⅩⅥ世が、国内でハンカチ
ーフの幅を同じものにするよう布告を出す。[以後、小さな四角いハンカチーフが標準的
なデザインになる。](スーザン・ジョナス、マリリン・ニッセンソン『ゴー・ゴーイング・
ゴーン――消えゆくアメリカ』Chronicle Book 、1994)
1785. ○【イギリス】ロンドンで、印刷業者と印刷工との間に初めて賃金の取り決めが協
約される。[印刷業における賃金協約の最も古い例となる。]
1785.○【アメリカ】大陸会議で、正式に「ドル( dollar )」を貨幣単位とし、十進法を採
用することを決める。ドルという名称は、ドイツのターレル( Thaler )、スカンジナビア
のリグスダーレル( rigsdaler )などに由来し、スペインの通貨ペソも、スペイン・ドルと呼
んでいる。[以後、アメリカ合衆国の他に、オーストラリア、カナダ、香港(ホンコン)、
ニュージーランド、シンガポールなど二十数ヵ国が自国通貨にドルの呼称を使うように
なる。]
1786(天明6)
1786. 8. 8【フランス】シャモニーの医師 M.G.パッカールと水晶採りを業とする J.パルマ
ーの 2 人が、モンブランの初登頂に成功する。モンブランはアルプスの象徴として早く
から登山の対象となっていたが 、
「悪魔の山」とも呼ばれていた。スイスの科学者ド・
ソシュールによって登山が提唱され 、その後援によって 2 人はフランス側から登頂した。
[1787 年、後援者のソシュール自身も登頂する。これがヨーロッパにおける近代スポー
ツ登山の先駆けとなる。以後、イギリスをはじめとする多くの登山者がアルプスの高峰
へ挑み、アルプス登山の黄金時代へと発展する。1921 年、外交官で登山家の日高信六郎
(1893 ∼ 1976)が日本人として初登頂する。]
1786. 9.15【フランス】国王顧問会議の裁定により、音楽著作物の権利についての規則が
- 280 -
制定される。
1786. ○【日本】烏亭焉馬(うていえんば)が、「咄の会」を始める。江戸落語の濫觴とな
る。[以後、幇間の桜川慈悲成(じひなり)のお座敷咄が行われる。さらに三笑亭可楽が三
題咄によって登場する。1804 ∼ 30 年、文化・文政期には寄席が盛行を極める。文政末
には 125 軒もの寄席が数えられるまでになる。]
1786.○【日本】塙保己一(はなわほきいち)( 40)が、各地に存する未刊の国書を叢書(そ
うしよ)として出版することを志し、7 年間の苦行ののち『群書類従 』の刊行を開始する。
[以後、幕府の援助を得て、1819 年に 530 巻 1270 種を完成する。この頃、本屋は仲間以
外の出版物を扱わないので、販売面でも苦労し、年頭には予約購読者を訪ねて挨拶(あい
さつ)して回る。]
1786.○【日本】林子平(48)が 、1777 年に起稿した兵書・国防書『海国兵談』を脱稿する。
外圧に対する先駆的著述で、〈細かに思へば江戸の日本橋より唐(から)・阿蘭陀(オラン
ダ)迄、境なしの水路なり〉と説き、日本は海国であるため水戦を重んずべきこと、大船
を建造して大銃(おおづつ)を備うべきとして、海国日本にふさわしい国防体制、武備を
説く 。
[1788 年、第 1 巻を自費出版する。1000 部もの大量を印刷し、版本の初めに〈千
部施行〉と朱印する。巻末に「口上之覚」として、今後の刊行企画の概要と予算面に触
れて、読者に次回配本の予約金納入を乞う。第 1 巻が続刊の実物見本ともなっており、
予約出版のはしりとみられる。この年、6 巻を完成。1791 年、全 16 巻を完結する。のち
に子平は、印刷費用の内訳を詳細に記録する。書肆の見積書によれば、全 16 巻、紙数 350
枚、これを 8 冊につくる。紙 1 枚の彫賃 4 匁 5 分、350 枚分の彫賃 1 貫 500 匁、金にし
て 26 両 1 分。全 8 冊で紙 8 帖ずつ用い、1000 部で 8000 帖。1 帖の値が 8 分 5 厘、8000
帖で 6 貫 800 目、金にして 113 両 1 分と銀 5 匁。表紙 8000 枚が計 2 貫目、金にして 10
両 2 分と銀 5 匁 。縫糸は 1 部に 2 丈用い、1 部の縫糸代 6 分 5 厘 、計 650 目、金にして 10
両 3 分と銀 5 匁。摺り賃は 1 部につき 4 分、計 400 匁、金にして 6 両 2 分と銀 10 匁。仕
立賃が 1 部につき 1 分、計 1 貫匁、金にして 16 両 2 分と銀 1 匁。外題料全部 8 冊に 1 分
ずつ、計 100 匁、金にして 1 両 2 分と銀 10 匁。以上合計が銀にして 12 貫 520 匁、金に
して 208 両 3 分。この頃、彫り師は紙 1 枚分をおおよそ 1 日半かけている。子平は予算
面から彫り師を 1 人しか用いることができなかったので、板刻には 1060 日を費やすこと
になる 。
〕またこの年ロシアの軍艦が蝦夷に来航するなど情勢が緊迫し、幕府は『海国
兵談』を体制を揺るがす危険の書とみなす。1892 年 5 月、幕府が板木(はんぎ)・製本を
没収 、子平に仙台の兄宅での蟄居(ちっきょ)を命じる 。12 月囚人として江戸に送られる。
このとき〈親も無し妻無し子無し板木無し金も無ければ死にたくもなし〉と詠む。1793
年 6 月 21 日、不遇のうちに没。その後、
『海国兵談』の木活字本が三、四種出回るが、
木活字のものは大量印刷に耐えかねることから営業とはみなされず、幕府は咎め立てし
ない。]
1786.○【フランス(??) 】ラングレのレオリエ・ドリールが、ヴィレット候の作品集を、
タチアオイで作った紙に印刷して出版する。
1786.○【イタリア】解剖学者で学研究所の産科学教授ガルバーニ Luigi Galvani(49)が、
カエルの足を用いた電気刺激の研究中、起電機やライデン瓶から直接に放電を受けない
のに、カエルの足に痙攣(けいれん)が生じることを発見する。この「カエルの実験」に
- 281 -
よって、動物の体内に電気発生の機構が存在すると結論する。動物電気の始めとなる。
[1791 年、10 年に及ぶこの研究結果を『筋肉運動における電気の作用に関する覚書』と
して発表する。ボルタはただちにこの問題に取り組み、ガルバーニの動物電気とする解
釈について批判し、2 種の金属の接触による電流の発生であると主張する。90 年代に、
この両論を巡り論争が行われる。1800 年、ボルタが電堆(電池)を発明して、決着がつけ
られる。]
1786.○【イギリス】郵便馬車が、ロンドン∼エディンバラ間 644km を走り始める。それ
までの所要時間 85 時間が一挙に 60 時間に短縮される。1 日の平均速度が約 180km から
約 260km に急上昇する。
1786. ○【イギリス】ベネットが、金箔検電器を発明する。
1786.○【アメリカ】駐仏公使ジェファソン Thomas Jefferson( 43)が、言論の自由に関し
て、〈新聞( newspapers)のない政府( government)と、政府のない新聞とのどちらをとるか
と問われたら私は躊躇することなく後者をとる〉と公言する。
1787(天明7)
1787.11.22 【フランス】ナポレオン( 18)がパリに旅行し、パレ・ロワイヤルの売春婦を相
手に童貞を抛棄する。[ 5 日後、〈自分はようやく熱情の黎明期に達したのみ、心はこの
最初の人間に関する知識が自分の思想の中に生んだ革命の興奮を未だ脱していない〉と
書きしるす。以後、年長の女ばかりに特別の興味を抱き、不貞な母への思慕にかられて
姦通を繰り返す。](高橋鐵『性的人間の分析』)
1787.12.20 【アメリカ】政府が著作権法と登録商標法(copyright andpatent law)を導入する
にあたって、ジェファソン Thomas Jefferson (44)が 、マディソン James Madison( 36 )宛に、
〈I do not like... the omission of a bill of rights providing clearly and without the aid of
sophisms for freedom of religion, freedom of the press, protection against standing armies,
restriction against monopolies, the eternal andunremitting force of thehabeascorpus laws, and
trials by jury in all matters of fact triablebythelawsoftheland... 〉と反対の意志を伝える。
[1788.7.31 ジェファソンは、
〈I sincerely rejoice at the acceptance of our new constitution by
nine states. It is a good canvas, onwhichsome strokes only want re-touching. What theseare, I
think are sufficiently manifestedbythegeneralvoicefrom North to South, which calls for a bill
of rights. It seems pretty generally understood that this should go to juries, habeas corpus,
standing armies, printing, religion and monopolies. I conceive there may be difficulty in finding
general modification of these suited to the habits of all the states. But if such cannot be found
then it is better to establish trialsbyjury,therightofHabeascorpus, freedomofthepressand
freedom of religion in all cases, and to abolish standing armies in time of peace, and
monopolies, in all cases, than not to do it in any... The saying there shall be no monopolies
lessens the incitements to ingenuity, which is spurred on by the hope of a monopoly for a
limited time, as of 14 years; but the benefit even of limited monopolies is too doubtful to be
opposed to that oftheir general suppression.〉と伝える。1788 年 10 月 17 日、マディソンは、
〈With regard to monopolies they arejustlyclassedamongthegreates nuisances in government.
But is it clear that as encouragements to literary works and ingenious discoveries, they are not
- 282 -
too valuable to be wholly renounced Would it not suffice to reserve in all cases a right to the
public to abolish the privilege at a price to be specified in the grant of it? Is there not also
infinitely less danger of this abuse in our governments than in most others? Monopolies are
sacrifices of the many to the few. Where the power is in the few it is natural for them to
sacrifice the many to their own partialities and corruptions. Where the power, as with us, is in
the manynotinthefew,thedangercannotbeverygreatthatthefewwillbethusfavored.Itis
much more to be dreaded that the few will be unnecessarily sacrificedtothemany. 〉と返事を
書く。1989 年 8 月 28 日、ジェファソンは、
〈I like the declarationofrightsasfarasitgoes,
but I should have been for going further. For instance, the following alterations and additons
would have pleased me... Article 9. Monopolies may be allowed to persons for their own
productions in literature, their own inventions inthearts, for a term not exceeding ___ years,but
for no longer term, and for no other purpose.〉と書く。1989 年 9 月 6 日、ジェファソンは
〈The question Whether one generation of menhasarighttobindanother seems never tohave
been started on this [ i.e., the European side --Jefferson was writing from France] or our
[American ] side of the water... that no such obligation can be so transmitted I think very
capable of proof. --I set out on this ground, which I suppose to be self evident, that the earth
belongs in usufructto the living; that the dead have neither powers nor rights over it... A
generation coming in and going out entire... would have a right on the first year of their
self-dominion to contract a debtfor 33 years, in the 10th for 24, in the 20th for 14, in the 30th
for 4, whereas generations, changing daily by daily deaths and births, have one constant term,
beginning at the date of their contract, and ending when a majority of those of full age at
thatdate shall be dead. The length of that term may be estimated from the tables of mortality.
Take, for instance, the tables of M. de Buffon... [ according to which ] half of those of 21years
[of age] and upwards living at any one instant of time will be dead in 18 years 8 months, or
say19yearsasthenearest integral number. Then 19 years is the term beyond whichneither the
representatives of a nation, nor even the whole nation itself assembled, can validly extend a
debt... This principle that the earth belongs to the living, and not to the dead, is of very
extensive application... Turn this subject in your mind, my dear Sir... Your station in the
councils of our country gives you an opportunity for producing it to public consideration...
Establish the principle... in the new law to be passed for protecting copyrights and new
inventions, by securing the exclusive right for 19insteadof 14 years.〉と書く。](出所:URL
(http://digital.library.upenn.edu/books/bplist/archive/1999-02-11$2.html、2003.2.27 伊藤政行氏
のメールによる。)
1787. ○【日本】飲食に関するカタログ『七十五日』がつくられる。広告主の協賛をうた
った最初の共同カタログとなる。
1787.○【日本】黄表紙作者山東京伝( 26)が、
『百人一首和歌始衣抄(はついしょう)』で、
漢字、平仮名、片仮名、逆さ文字、サンスクリット、アルファベットなどの諸文字をち
りばめて、古典の注解という考証学然とした体裁をとって、内容を茶化したりもじった
りする。
1787.○【オーストリア】モーツァルト( 31 )が、『音楽のさいころ遊び』K.294d 。を作曲
- 283 -
する。[小節単位で作られた要素(旋律)の選択と配列が、さいころの目によって決定さ
れるため、数少ない要素から多くの作品(配列)が生み出されるシステムになっている 。
J.S.
バッハの弟子キルンベルガーによる『いつも準備のととのったメヌエットとポロネーズ
の作曲家』などと共に、のちのコンピュータ音楽の発想の一つが現れている。]
1787.○【ドイツ】銅版画家ホドウィエツキー Daniel Chodowiecki( 61 )が、ベルリン・アカ
デミーで個展を開催する。ドイツ最初の美術展覧会とされる。
[1790 年から、同じ会場
で、毎年、国内・国外作家の展覧会が開かれる。]
1787.○【フランス】この頃、ラモンド Lamond が、一本の線条による静電気式電信を考
案する。
1787.○【イギリス】雑誌『 County Magazine』に、木馬型の自転車「ホビーホース
(hobbyhorse) 」の構想が掲載される。鞍(くら)にまたがった乗り手が足で地面をけって 、
その反動で前進する仕掛けで、方向転換はできない。[1818 年、デニス・ジョンソンが、
改良型二輪車を考案し、「ホビーホース」とか「ダンディーホース( dandyhorse)」と呼ば
れて流行する。]
1788(天明8)
1788.○【日本】喜多川歌麿が、艶本『歌まくら』を発表し、江戸の風流人を驚嘆させる。
また、歌麿と 30 人の狂歌師による豪華な多色摺りの狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえ
らみ)』を蔦屋から刊行する。写実的な作風で評判となる。
[ 1789 年 、
『潮干(しおひ)の
つと』刊。1790 年、『百千鳥(ももちどり)』刊。これらの三部作は、虫、貝、鳥を写生
風に描いた色摺りの挿絵をもつ歌麿狂歌絵本の代表作として知られる。]
1788.○【日本】朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』
(喜多川行麿画)が、蔦屋重三郎(蔦重)から刊行される。[以後、幕府のお咎めを受け、喜
三二は黄表紙の執筆を断念する。]
1788.○【日本】この頃、吉原に遊女が約 2500 人いる。
1788.○【イギリス】エジンバラ出身の画家バーカー Richard Parker( 49)が、「パノラマ
panorama」を発明する。半円形に湾曲した背景画などの前に草木や人物などの模型を配
して立体感を現し、照明により室内で観賞する者に、野外の広い実景を見るような感じ
を与える装置で、エジンバラにおいて同市の風景を再現公開する。直径 20 ∼ 30m の円
筒を見回すものもある。近代的パノラマの先駆けとなる。
[以後、パテントを取得する 。
1794
年、ロンドンで興行を打ち、年に 2 回ずつ絵柄を変える。しだいに絵が回る動力式のも
のに進化する。1800 年ころ、パノラマ興行がパリとベルリンに波及し、パノラマ専門館
がつくられる。テーマは、都市の俯瞰図、海戦や大陸戦、アルプスの風景などが採り上
げられる。のちにアメリカにも広がる。1890 年、東京・上野公園で開催された第 3 回内
国勧業博覧会に日本初のパノラマ館が登場する。ベンヤミン Walter Benjamin ( 1892 ∼
1940)は『パサージュ論』(今村仁司他訳、岩波書店)の中で、パノラマは〈写真を越えて、
映画やトーキーを予告していた〉と述べる。]
1788.○【イギリス】女流作家メアリー・ウルストンクラーフト(29)が、最初のレズビア
ン小説『メアリー』を著す。
- 284 -
1789(寛政1)
1789. 3.26【フランス】印刷業者ディドー(ディド) Firmin Didot(25)の一族が、エソンヌ
の製紙工場を買収する。[1799 年、アメリカ帰りの会計担当ルイ= ニコラ・ロベールが、
最初の長網式漉紙機を完成する。ディドーはステロ版(ステロタイプ、(ステレオタイプ
の訛)、 鉛版(えんばん))の製作を復活、発展させ、多くのギリシア・ローマ、フラン
ス、イギリスの作品の豪華版を製作する。
]
1789. 4.30【アメリカ】臨時首都ニューヨーク市のフィラデルフィア・ホールで合衆国大
統領就任式が挙行され、ワシントン(ウォシントン)George Washington( 57)が初代大統領
に就任する。[以後、アメリカ建国の父と呼ばれる。この頃、紙以外に良い情報伝達手段
がないので、ワシントンは自分の信念や主義主張をもっぱら手紙を通じて伝える。人柄
も人を惹きつける天性の魅力を持ち合わせている。1797 年、孤立主義外交を強調した訣
別の辞を公表して引退する。
]
1789. 7.14【フランス】パリの市民が大挙して、バスチーユの要塞を襲撃する。フランス
革命が始まる。
[以後、7 月 14 日が「フランス革命記念日」となる。1933 年、ルネ・クレ
ール監督映画『Quatorze Juillet(7 月 14 日)』が日本公開の際『巴里祭』と訳され、日本
ではこの日を「パリ祭」と呼ぶようになる。
]
1789.8.14【フランス】憲法制定議会が、アンシャンレジームの時代に個人、団体、都市、
地方が有していたすべての特許認可状の廃止を決定する。同時に、著作者、印刷業者、
書籍商、コメディアン、劇場に与えられていた特許認可状も廃止される。すべての著作
物が人民に開放される。
1789.○【日本】丹波福知山藩主朽木昌綱(くちきまさつな)( 39)が、出島のオランダ商館
長イサーク・ティチング(1744 ∼ 1812 )に世界地理書を注文したり、贈呈されたニコラス・
サンソン編世界地図帳『アトラス・ヌーボー』(1692 年版)を基に、大著『 泰西輿地図説(た
いせいよちずせつ)』を出版する。本書により、ユトレヒト、ロンドン、パリの市街地図
が初めて紹介される。
1789.○【日本】山東京伝(28 )が、蔦屋重三郎(39)の注文で洒落本に本格的に取り組み始
める。京伝が、画工として参加した『黒白水鏡』で罰せられる。
1789.○【日本】黄表紙作者恋川春町(こいかわはるまち)( 45)の『鸚鵡返文武二道(おう
むがえしぶんぶのふたみち)』(北尾正美画)が、蔦屋重三郎から刊行される。松平定信の
改革政治を揶揄する。[以後、恋川春町は、当局の召喚を受けたが応じず、ほどなく没す
る。この突然の死は、藩公へ迷惑の及ばぬようにとの配慮と、実直な能吏であった養父
との折り合いの悪さに原因すると考えられ、自殺とみられる。こうした一連の事件によ
り、黄表紙は滑稽味を失い、一転して教訓道義を中心とするものへと向かう。1804 年、
黄表紙はほとんど敵討物(かたきうちもの)となり、黄表紙全盛の時代は終わる。]
1789.○【ドイツ】銅版画家ホドウィエツキー Daniel Chodowiecki (63)が、またまた馬に
乗って、中央ヨーロッパの芸術の中心地ドレスデンに旅をする 。
[以後、風景のスケッ
チとともに、旅日記を書きしるす。ケーニヒシュタイン要塞では、初めて本物のガイド
に案内してもらうが、珍しいものにはすべて別々にガイドがついて説明しているので、
説明を聞いたのちことごとくチップを払わなければならなかった 。
]
1789. ○【フランス】国民議会が、革命の記録を収蔵しかつ展示するための施設を設け、
- 285 -
これを国立公文書館( Archives nationales)とする。近代的な文書館制度がフランス革命に
よって始まる。[数年後、革命以前の旧政権時代の記録の管轄権も国立公文書館に与えら
れる。同時に、すべての市民が国家の記録を利用できる権利も宣言される。しかし、革
命の最中、紙を大量生産するために、古紙の再利用が大規模に行われる。そのため、多
くの古文書がつぶされて失われる 。『
( 書物の出現』
)]
1789.○【フランス】牧師シャップ(シャッペ) Claude Chappe(26)が、聖職録から削除され、
生地ブルュロンに戻り、兄のイニャース Ignace Chappe( 29 )と長距離通信法の研究を始め
る。初め静電気を利用する方法を考案する。[1792 年、腕木式信号送伝機を発明する。]
1789.○【イギリス】フランス革命の伝染を恐れて 、キリスト教道徳が強化される 。[1790
年、性的なことも悪いとされて、「猥褻」という概念が広まり始める。]
1790(寛政2)
1790. [ 2.25]【日本】オランダ商館長の江戸登城を 5 年 1 回とする。
1790. [ 5.24]【日本】老中松平定信の命により、朱子学を正学、他の学派を異学とし、
湯島聖堂での講義を禁止する。
「寛政異学の禁」と呼ばれる。
1790.[ 5.−]【日本】松平定信の命により、絵本・読本・絵草紙などの好色本の出版取締
令が出る。[[10.27 ] 再び禁止令を出す。]
1790. ○【日本】幕府が、出版取締令により 、
「当分之儀(時事的な事柄)」を直ちに一枚
絵にすることを禁じる。
1790.○【日本】武士の子弟、曲亭馬琴( 23 )が、武士階級として生きるのを嫌って、山東
京伝( 29)に弟子入りする。京伝は馬琴を蔦屋耕書堂の番頭に斡旋する。
1790.○【イタリア】ボドニー Cavaliere Giambattista Bodoni( 50)らが、縦横の太線と細線
との差が従来のガラモン( Garamond)やキャスロン( Caslon)よりさらに大きく、セリフは
細く平たい直線状のローマン活字をデザインする。[以後、20 世紀の初期に完成され、
ローマン活字の主流になる。1818 年、未亡人によってボドニの活字書体をまとめた『マ
ヌアーレ・ティポグラフィコ』が刊行される。1963 年、死後 150 年を記念してパルマ市
の市立図書館の一室にボドニ美術館( Museo Bodoniano )が設置される。]
1790. ○【イギリス】最初のシェークスピア・コンコーダンスが刊行される 。この頃、
「コ
ンコーダンス」の語は聖書のものだけでなく、世俗の著書にも適用され始める。以後、
多くの詩人、劇作家、小説家のコンコーダンスが編纂される。]
1790.○【イギリス】木版画家ビューイック(ビウィック)Thomas Bewick(35)が、木口木
版により動物などを題材とした独創的な挿絵を描いた『四足獣大観(四足獣概説)』が、
刊行される。[1797 ∼ 1804 年『英国鳥類図譜』2 巻(1797、1804 )の挿絵を描く。彼の
獣や鳥の挿絵は、毛並みや羽毛の質感まで緻密に描写され、樹木や茂みを背景にして生
命感を与えられている。これにより彼の名声が決定づけられる 。「
〔 木口(こぐち)木版
wood-engraving 」の技法は、ツゲなどの硬質の木材の横断面にビュランで画像を彫るこの
方法で、最初 18 世紀なかばにフランス人のミシェール・パピヨン(??パリの木版画家
パピヨン J.Papillon ??)によって開発された。木版画と同じく凸版法で印刷する。木口
面の木材は概して小さいので、複数の木材の裏面をボルトで締めて大きな版面にする。
ビューイックが改良・普及させた木口木版は、銅版画に劣らない精緻(せいち)な描写を
- 286 -
可能にし、衰退に瀕(ひん)していた木版画に活路を与える。また活版と同じ凸版である
ことから本文と挿絵とを一度の手間で刷ることができ、1840 年以降の挿絵入り新聞、雑
誌、書物の爆発的な隆盛を生む基礎をつくる。]
1790. ○【アメリカ】初代国務長官となったジェファソンが、フランスの呼びかけに応じ
てメートル法の採用を試みるが、議会の反対で否決される。[以後、歴代内閣がメート
ル法への移行を試みるが、実現しない。1988 年、4 年後までに連邦政府の活動にはメー
トル法の採用を義務づけた通商法が成立する。1991 年、大統領ブッシュが、これを徹底
させるための行政命令を出す。しかし、これにも反対が強く、1996 年まで実施が延期さ
れる。連邦高速道路局は、道路の速度表示を書き換えるだけで 2 億ドルかかると試算し
て反抗し、議会の中にも反対が強い 。
]
1790.○【アメリカ】初の著作権法が成立する。有効期間は 14 年とされる。[以後、有効
期間が何度も延長される。1998 年、個人・企業両方の著作権の寿命を 20 年延ばし、そ
れぞれ「70 年」と「95 年」にする新法「1998 Copyright Term Extension Act( CTEA)」が
成立する。これに対し、学者や市民団体などが、猛烈な反対運動を開始する。]
1790. ○【アメリカ】初の全国国勢調査が実施される。
1791(寛政3)
1791. 1.19【フランス】劇場の建設と演劇の上演の自由をうたった「1791 年 1 月 13 ∼ 19
日法」が制定される。革命以前は、すべて国王の許可が必要であった。
1791. 2.27[ 1.25 ]【日本】幕府が、江戸府内の湯屋での男女混浴禁止令を出す。これまで
の男女入込湯は、男湯と女湯に分け、間を羽目板で仕切られる。[以後、間もなく入込湯
は復活する。天保の改革でまた取り締まられる。]
1791. 3. 2【フランス】シャップ(シャッペ)Claude Chappe (28)が、兄のイニャース Ignace
Chappe( 32)とともに長距離通信法を研究し、腕木の操作によってアルファベットの信号
を送信する腕木式信号送伝機を実用化する 。
「セマホール(セマフォール)(semaphore)」
と称するこの設置は、高さ約 10m の自在に動く 3 つの腕木からなり、形の組み合わせで
アルファベットと数字を表す。16km 離れた地点で望遠鏡で腕木の形の変化で通信文を
読み取り、遠距離腕木通信に成功する。しかし、パリのエトワール広場に作られた腕木
信号機は、国王や貴族に反抗する民衆の思い違いのため破壊される。[のち、伝送時間の
短縮と機密保持のため暗号化を行う。1794 年、パリ∼リール間 270km に 22 の通信中継
所をもつ腕木通信線の敷設に成功する 。
「シャップ・テレグラフ」とも呼ばれる。以後、
ヨーロッパ、北アフリカで使用される。1852 年以後は、電信機に取り替えられていく。]
1791.[3.−]【日本】遊里・遊女・遊客などの様子を詳細に描いた洒落本・蒟蒻本が流行
する。前年の取締令にもかかわらず、江戸深川の岡場所を描いた山東京伝作『大磯風俗
仕懸文庫』、『青楼畫の世界 』
、娼妓を将棋に見立てた『娼妓娟麗(しょうぎきぬぶるい) 』
という 3 種の蒟蒻本を出し、表に図々しく「教訓読本」と記したとして、版元蔦谷重三
郎(42)は財産半分没収、事前検閲の責任者である地本問屋行事(ぎょうじ)らは所払い、
著者山東京伝(30 )は 50 日の手鎖の刑という戯作者としては前例のない刑を科せられる。
蔦重に永らく保護され売れっ子になってきた歌麿は報恩のため挫折後、吉原の遊女たち
の美人画を描くに際して、対象の女に近接して、表情の微細な変化を写し留める「美人
- 287 -
大首絵」という新しいジャンルを開拓する 。
「以後、雲母摺大首絵が、版元蔦屋重三郎
の助言と後援のもとに企画・発表される。妓楼経営者たちはスポンサーになりこの美人
画セットの刊行を支援する。寛政の改革のさなかにあって、彫りの精緻(せいち)や色摺
りの度数が制限されたのをかえって逆用し、わずかな色数と限られた線描によって、版
画ならではの明快率直な美的効果を実現する。1792 ∼ 93 年ごろ美人大首絵の連作『歌
撰恋之部(かせんこいのぶ)』
『婦人相学十躰(ふじんそうがくじつたい) 』などを描く。1794
∼ 95 年、
『高名美人六家撰(こうめいびじんろつかせん) 』
『当時全盛美人揃(とうじぜん
せいびじんぞろえ)』などで、全盛の遊女や茶屋女など実在の美女をモデルに、類型的表
現のなかで各人の個性的容貌を微妙に描き分けて、肖像画家としての腕も発揮する。]
1791. 7.19【フランス】政令により、あらゆる占いの活動が禁止される。
[1810 年、刑法
典第 479 条に受け継がれる。
]
1791.12. 4 【イギリス】日曜新聞『オブザーバー( the Observer)』が創刊される。他の日曜
新聞と同じく通俗大衆紙である。これで、1779 年創刊の『ブリティッシュ・ガゼット・
アンド・サンデー・モニタ(The British Gazette and Sunday Monitor)』を含め日曜新聞が 4
紙になる。[以後、宗教関係者らは安息日の日曜日に日曜新聞を発行することを妨害しよ
うとするが、日曜新聞が、休日に娯楽やニュースを求めるイギリス労働者に広く受け入
れられたため成功しない。19 世紀後半、『オブザーバー』は、ニュース報道に専心した
ために評価が高まる。1905 年、ノースクリフ卿がこれを買い取る。1908 年、J.L.ガービ
ンを主筆に迎え、以後、高級評論紙としての声価が定まる。1915 年、ウォルドルフ・ア
スターが事実上の所有者となる 。
「意見は絶対独立、ニュースは絶対に不偏不党」を方
針とし、ガービンと協力して、偏見や宣伝とかかわりなく事実を公正に伝えることによ
って「編集者の黄金時代」といわれる運営を 1942 年まで続ける。1981 年、ロンロ社の
所有となる。]
1791. ○【日本】山東京伝作・画になる洒落本『錦之裏(にしきのうら)』刊。夕霧・伊左
衛門の情話をもとにし、夕霧の伊左衛門に対する真情を描く。
『娼妓娟麗(しょうぎきぬ
ぶるい) 』「
『 仕懸文庫』と共に絶版を命ぜられる。
1791.○【日本】吉原の遊女が増加して、3290 人になる。
1791.○【ハンガリー】ケンペレン W. von Kempelen が、人の音声器官の動作を模擬する
構造をもつ機械的音声合成器を作り、子音、母音ともに人工的に合成することに成功す
る。
[1939 年 、アメリカのダッドリー H. Dudley が 、電気回路構造の音声合成器を作る。
]
1791.○【イタリア】解剖学者で科学研究所産科学教授ガルバーニ Luigi Galvani(54)が、
数年前からのカエルの足を用いた電気刺激の研究をまとめて『筋肉運動における電気
の作用に関する覚書 』を出版する。起電機やライデン瓶から直接に放電を受けないのに、
カエルの足にけいれんが生じることを発見し、雷(大気中の放電)のときにも生じること
の実験、鉄の格子に真鍮の鉤(かぎ)でつるしたカエルの足が、晴れた日でもけいれんが
生じることなどから、神経や筋肉中に動物特有の電気が存すると解し、ライデン瓶のよ
うに筋肉中にたまった電気が金属で回路がつくられたとき放電したと説明する。[1790
年代に、ボルタが、ガルバーニの見た現象は、2 種の金属の接触による電流の発生であ
ると批判し、論争が行われる。1800 年にボルタが電池を発明して決着がつく。1840 年代
に、デュ・ボア・レイモンが動物電気の考えを発展させる。]
- 288 -
1791.○【アメリカ】1791 年連邦憲法修正個条(別名「権利章典」
)第 1 条に、
〈連邦議会
は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは
プレスの自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府
に請願する権利を侵す法律を制定してはならない〉と、世界で初めて言論出版の自由が
明記される。第 2 条においては〈規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であ
るから、人民が武器を保蔵しまた携帯する権利は、これを侵してはならない〉と成文化
して、武器の携帯を合法化する。[以後、アメリカ合衆国は憲法で、プレスの自由を保障
するとともに、人民の武器保蔵・携帯の権利を認める数少ない国となる。
「プレス」は、
出版物や新聞などの印刷媒体の意味から、のちに報道、報道機関、マスコミ、マスメデ
ィアなどを含んで広く解釈されるようになる。1946.11.3 日本国憲法が公布されるが、第
21 条でも「出版の自由」を規定しているが、英語の草案「press」を狭義の「出版」と訳
している。これはプレスの狭い捉え方で、むしろ誤訳に近いとされる。]
1792(寛政4)
1792.[ 9. 3]【日本】ロシアに 1873 年漂流した伊勢国の船頭大黒屋光太夫(だいこくや
こうだゆう)(41 )が、ロシアの遣日使節アダム・ラクスマンに伴われて、蝦夷(えぞ)地根
室に入港して帰国する。精巧な顕微鏡を持帰る 。
[1793 年、江戸に送られ、取調べや審
問を受けたのち、江戸城内吹上御苑に召し出され、将軍家斉はじめ、老中松平定信以下
諸臣列座のもとにロシア事情について質問される。陪席していた、篠本廉が光太夫の話
をまとめて筆録『北槎異聞(ほくさいぶん)』を書く。また、将軍の侍医桂川甫周(かつら
がわほしゅう)が『北槎聞略(ぶんりゃく)』
『漂民御覧之記』などに記録する。1816 年、
松平定信が随筆『花月草紙』に「けみきょうの記」を書く。
]
1792.○【日本】司馬江漢(45 )が、日本最初の銅版世界図『輿地全図』およびその解説編
ともいえる『輿地略説』をほぼ同時に刊行する。
『輿地全図』は、図版 106 を収める。原
図は蘭方医大槻玄沢がオランダ人医師ストッツェルから入手したコヴァン、モルチエ共
編のフランス語版世界図とされ、江漢がこの地図の模写をしたいと願い出たところ、す
でに桂川甫周が成し遂げているので無駄だと玄沢が説得する。しかし、江漢は、あれは
木版だがこちらは銅版なのだから、とあえて刊行に踏切った。出来上がった図を見て、
玄沢はその精巧さに〈殆不恥西刻(西洋製に恥じない)〉と賛嘆する。
[のち、
『輿地全図』
は『地球全図』と改題、4 種の版が作られる。
『輿地略説』は 8 種の版が知られる。
]
1792.○【日本】勝川春朗(のちの葛飾北斎)が、蔦屋重三郎( 43)のもとで黄表紙の仕事を
するようになる。
1792.○【イギリス】女性解放思想の先駆者メアリ・ウォルストンクラフト( 33)が、『女性
の権利の擁護』を刊行し、体系化したフェミニズムの最初の声を放つ。
1792.○【イギリス】ボルトン・ワット商会の技師マードック William Murdock( 38)が、コ
ークス生産の副産物のガスを照明に利用する技術に目をつけて 、
実験工場をつくる。
[1798
年、実用化する。1802 年に、アミアン条約の締結を祝ってバーミンガムのソーホー工場
をガス灯で照明して大評判となる。]
1793(寛政5)
- 289 -
1793. 1 . 2 1 【フランス】国王ルイⅩⅥ世が、ギロチンで処刑される。
1793. 2. 1 ヨーロッパ】フランスが、イギリス、オランダに宣戦布告する。[2.13 スペイ
ン、オランダ、プロイセン、オーストリア、イギリスなどが、第 1 次対フランス大同盟
を結成する。]
1793. 7.13【フランス】革命家マラーが暗殺される。[以後、恐怖政治が始まる。国内は
物情騒然となる。]
1793. 7.24 【フランス】議会が、
「1973 年 7 月 19 ∼ 24 日法」を制定し、あらゆる種類の
文書、音楽、絵画、図案などの著作者が著作物を複製し販売・頒布する権利を生存期間中
保護するすると規定する。保護を受ける著作物や付与される権利の定義などがあいまい
で、解釈の余地を多分に残している。[以後、この法の運用にあたり、さまざまな問題を
もたらす。]
1793. 8.10【フランス】革命のさなか、ルーブル宮殿内の美術館が、共和国の「中央美術
館」と命名されて開館、王室所蔵品を展示する。[ 11.8 一般公開する。19 世紀初頭、「ナ
ポレオン美術館」と改称され、ナポレオンがイタリアやエジプトなどへの遠征からもち
かえったおびただしい戦勝品により、コレクションは一時飛躍的に増大する。ナポレオ
ン失脚後、その大部分がそれぞれの国に返還される。その後、ルーブル美術館( Mus ■ e
National du Louvre)と称して、政府による購入 、個人コレクションの寄贈などがあいつぎ、
充実したコレクションが形成される。]
1793.10.16 【フランス】王妃マリー・アントアネット(38)が、ギロチンで処刑される。
1793. ○【日本】幕府が、禁止令で版木屋仲間以外の者が瓦版を刊行することを禁じる。
瓦版の地下出版に対する監視体制が強化される。[以後、文政年間(1818 ∼ 30)以後にな
ると 、禁令に抗して、大火 、地震、仇討(あだうち)などの瓦版が幾種類も売られ 、また、
米相場一覧、祭礼行列図、琉球使節行列図なども刊行される。]
1793.○【日本】塙保己一(はなわほきいち)(47)が 、江戸・表六番町和学講談所を開設し、
後進の教育と、図書・史料の研究調査活動を進める。[以後 、
『大日本史』の編纂・校訂
に協力する。
『続群書類従』
『史料』などの出版も計画するが未完成に終わる。]
1793. ○【日本】蔦屋の目録に曲亭馬琴の名前が見えるようになる。
1793.○【ドイツ】物理学者・作家 リヒテンベルク Georg Christoph Lichtenberg (51)が、
イギリスの海水浴場での経験から、『ゲッティンゲン(ゲッテチンゲン)日記帳』に 、
「な
ぜドイツにはまだ大規模な公共海水浴場がないのか」と題して、海水浴を推奨する。専
用に製作した海水浴マシンを描き、センセーションを巻き起こす。これは海水浴小屋二
輪車で、4 ∼ 6 人の知り合い同士が座れるベンチ付きで、御者が海水中に引いて行く。
後部で傘のように膨らんだスカート状のテントが開き、これに隠れて衣服を脱いで海水
着に着替えた海水浴客が数回身体を海水で濡らすか、膝をついて水中に潜ることもでき
る。貴婦人には平民の女が付き添い、着替えを手伝ったりして、水浴の最中にも衣服を
まとっているという安心感を保たせる。[この年秋、ドーバーアン付近のハイリゲンダ
ムに、ドイツ最初の海水浴場が開かれる。
]
1793. ○【フランス】この頃、革命期の思潮を反映して、女のファッションが機能的で簡
素なものに変化する。
1793.○【フランス】シャップ Claude Chappe(30)が、約 10km ごとに設けた高い塔の上の
- 290 -
腕木の形の変化を望遠鏡で観測して中継する「セマホール(セマフォール)(semaphore)」
とよばれる腕木式信号送伝機によって、パリ∼リール間 230km の遠距離高速通信を試み、
成功する。
1793. ○【フランス】フランス全土の地形測量にもとづく地図が発行される。ほぼ正方形
で、一辺が約 11m。
[以後、これにならって、イギリス、スペイン、オーストリア、ス
イス、その他の国々も地形測量にもとづく地図を作成する。
]
1793. ○【フランス】革命や戦争の混乱でイギリスからの黒鉛の輸入が途絶え、鉛筆の製
造ができなくなり、情報の管理や教育の効率が悪化する。戦争担当大臣ラザール・カルノ
ーが、コンテ Nicolas Jacques Cont ロに鉛筆の製法を研究させる。[1795 年、従来の硫黄の
かわりに粘土を黒鉛と混合し、芯の形に成型して乾燥させ高温で焼くという製法とを考
案する。]
1794(寛政6)
1794.[10.−]【日本】医家桂川甫周(かつらがわほしゅう)(四代)(43)が、漂流してロシア
から松前に送還された大黒屋幸太夫らの口述をまとめて『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』
12 巻を編纂する。巻之九中の「書籍印刷」の項目に〈印版は皆銅の活字(うえじ)にて綿
花くり(走扁に干)車(わたくりぐるま)の如きしめ木にて搨るなり。都にてはコーフが學
校にて圖籍を刷印す。圖畫の類は銅版も毛彫りのことくに鏤刻し、油にてときたる墨を
ぬり、よく拭ひ取、紙を湿しおき版にかけ、氈にて四五重嚢み、軋木の両軸の間にはさ
み、軋り出せば鏤刻の内に残りたる墨紙にうつるなり。多く搨處にては水車にて軋とな
り。書冊(しょもつ)は一枚の紙へ両面に搨なり。装釘(とづるところ)は見さりしとぞ。
〉
などと記録する。[この年、桂川甫周は幕府医学館教授、外科担当となり、顕微鏡を医学
に初めて応用する。]
1794.○【日本】駿河の武士の子弟・十返舎一九( 29)が江戸に出て、蔦屋に寄食し、どう
さ引きをする。
1794. ○【フランス】アンシャン・レジームの文書・記録を保存するためにフランス国立中
央文書館の設置が法令で定められる。世界最初の近代的文書館が成立する。[1821 年、
国立古文書学校が設立される。以後、文書館員の養成が行われる。1840 年代、文書館と
して十分機能し始める。]
1794.○【フランス】革命政府当局者が、シャップ(シャッペ)Claude Chappe(31)が発明し
た、長距離通信ができる腕木式信号送伝機「セマホール(セマホア、セマフォール)
(semaphore)」を、国防上役立つと判断し、政府の支援のもとに、パリ∼リール間 270km
に 22 の通信中継所をもつ通信ルートを敷設する。2 つの腕木を一緒に動作させることに
よって 8464 通りの意味を伝達する。パリ∼リール間で 1 つの信号が目的地に着くまでの
所要時間は約 2 分間。[以後、長距離通信の威力を発揮する。1852 年までに全国に全長
4800km、中継所数 556 にのぼる大通信網が展開される。ナポレオンの対外遠征とともに
国内外に腕木式通信線が敷設され 、
「セマホール」の軍事的・政治的有用性が大いに発
揮される。類似の方式がイギリスやアメリカなど各国でも実用化され、通信が為政者の
特権的手段から民衆へ解放されるきっかけになる。1805 年、予期せぬ方面から〈シャッ
プは真の発明者ではない〉との異議が出て、これに関連してシャップは自殺する。この
- 291 -
腕木式信号を簡易化して左右の両手旗でアルファベット 2 文字を象形する手旗信号が考
案され、国際信号書にも記載され、海軍などで用いられる。]
1794.○【スイス】ロイセル Reusser が、放電式電信を考案する。
1794.○【イギリス】フランスの腕木式信号送伝機「セマホール」に倣って、6 個のスペ
ースに「○」と「―」の組合わせパターンで文字を表す視覚式信号電送機をロンドン∼
ディール間に設けて、視覚通信ルートが作られる。[以後、ロンドン∼ポーツマス間など
各地に広がり、1842 年まで使用される。]
1794. ○【アメリカ】郵便法改正により、雑誌を対象にした郵送料の割引が認められる。
[以後、1800 年までの 6 年間に、過去 50 年間の創刊雑誌点数を上回る点数の雑誌が創刊
される。]
1795(寛政7)
1795. 1 . 1【日本】蘭方医大槻玄沢(38 )が、太陽暦(グレゴリオ歴)の 1 月 1 日に当たり「オ
ランダ正月」を祝う。
1795. ○【日本】勝川春朗が初めて葛飾北斎の名で鹿都部真顔(しかつべのまがお)撰の狂
歌絵本『四方の巴流(よものはる) 』の絵を描く。春朗が蔦屋で作った最初の狂歌絵本で 、
以後蔦屋で狂歌絵本の名作、合計 9 冊を刊行する。
1795.○【日本】十返舎一九( 30)が、蔦屋から『心学時計草』はじめ 3 冊の黄表紙を自分
の絵で出版する。
1795.○【日本】吉原の遊女が増えて、4443 人になる。
1795.○【ロシア 】ロシア初の国立図書館が、サンクト・ペテルブルグに設立される。[1814
年、一般公開される。1925 年、サルティコフシチェドリン名称国立公共図書館となる
。
1992 年、ロシア国立図書館( NLR)と改称。]
1795.○【ドイツ】ベルリンに政府公認の娼家が 54 軒あり、登録された娼婦が 257 人い
る。
1795. ○【フランス】中央学校が、中等教育機関として成立する。革命によって旧権力機
構や亡命貴族などから没収した図書は、中央学校の管轄となる。
[1802 年、中央学校が
廃止される。1803 年、中央学校図書館と文献保管所の蔵書は、市町村の管轄に置かれる。
以後、各地に約 150 の市立図書館が成立する 。
]
1795.○【フランス】コンテ Nicolas-Jacques Cont ロが、1793 年以来鉛筆の製造を政府から
要請され、研究の結果、硫黄のかわりに粘土を黒鉛に混合し、芯の形に成型十分乾燥さ
せたうえで高温で焼くという方法を考案し、単に焼き固めるくふうをしただけでなく、
黒鉛に混ぜる粘土の割合を変えることによって芯の硬度が変わり、書いたときの濃度が
変化することも発見する。コンテはこの製法で特許を取る。[以後 、コンテ社をつくって、
白亜 、ヘマタイト、木炭などの顔料を基材とした多くの画材、筆記用具を製造販売する 。
鉛筆の芯の標準的な製造方法となって各国に伝わり、フランス、イギリス、ドイツを中
心に、近代的な鉛筆工業が発展する。デッサン用の軟らかい黒色のクレヨンは、発明者
の名からコンテと呼ぶ。]
1795.○【フランス】理工科学校教授モンジュ Gaspard Monge( 49)が、城壁の設計を計算
によらず作図によって解く方法を開発し、
『画法幾何学(G ロ om ロ trie descriptive ) 』を著す。
- 292 -
しかし、軍事機密とされて公開が認められられない。[ 1799 年、公開が認められられて
出版される。]
1795.○【イギリス】この頃、伯爵チャールス・スタンホープ(スタナップ)Charles Stanhope
(42)が、ロンドンで機械技師ウォーカーの協力を得て、ほぼ全部が鉄製の手動印刷機を
開発する。
[1798 年頃完成ともいわれる。
]
1796(寛政8)
1796.[ 2.18]【日本】元鳥取藩医稲村三伯( 38 )らが、日本最初の蘭和辞典『波留麻和解(ハ
ルマわげ)』を完成する。稲村は脱藩して江戸に出て大槻玄沢(おおつきげんたく)につい
て蘭学を学んでいたが、蘭和辞典のないのを遺憾として辞典編纂を志し、元オランダ通
詞(つうじ)で白河藩主松平定信(さだのぶ)に仕える石井恒右衛門(旧名馬田清吉)の指
導・協力を得て、フランソア・ハルマ Fran □ ois Halma( 1653 ∼ 1722)が、ユトレヒトで
出版した『蘭仏辞典』Woordenboek der Nederduitsche en Fransche Taalen の第二版( 1729) 8
万余語の原語を翻訳し編纂 、
『波留麻和解』と名付けて、木活字で 30 部を印刷、頒布す
る。[以後 、
『江戸ハルマ』とも呼ばれる。1810 年以後、長崎でも翻訳され、
『道訳法爾
馬(ドウーフ・ハルマ)』と名づけられるが、区別のため『長崎ハルマ』と呼ばれる。のち
に門下の藤林普山(ふざん)が、『波留麻和解』が大冊で少部数である不便を軽減させる
ため、簡明な『訳鍵(やっけん)』を作成する。なお、ハルマの当て字としてほかに「波
留麻 」
「彼児馬」「波留間」など使用される。]
1796. 5.14 【イギリス】ジェンナー Edward Jenner(47)が、古くからグロスターシャーに
は、牛痘(天然痘に似たウシの軽い病気)に感染したことのある乳搾りの婦人は、人間の
天然痘(痘瘡)にはかからないという俗信があったことから、牛痘と人痘との関係につい
て観察を続けてきたが、ついに実験に踏み切る。乳搾りの婦人ネームズ Sarah Nelmes の
腕にできた牛痘の水疱から内容液を採取し、8 歳少年のフィップス James Phipps の腕に
接種する。少年は牛痘に感染する。[7 月 1 日、少年に人痘を接種するが、発病はしない。
1798 年再び同様な実験に成功し、牛痘の膿汁を接種するという画期的な方法を開発し、
危険度を低下させ、人工的な牛痘によって人痘に対する免疫ができることを実証する。
雌牛すなわちラテン語の vacca からの材料を使ったということで、免疫を誘導するのに
使われる予防接種材料は広く「ワクチン( accine )」と呼ばれるようになる。この種痘の
成功と普及によって、1980 年には然痘は地球上から姿を消すに至る。]
1796. 9.16【アメリカ】大統領ワシントン George Washington( 64)が、大統領 3 選の弊害
を考え、引退を決意し、
「別離の辞( Farewell Address)」と題してスピーチを発表する。
党争や外国との紛争を戒め 、〈人民とは友人で仲間、人民の、人民による、人民のため
の( Friends, & Fellow---Citizens.)〉と訴える。ワシントン自身によるマヌスクリプトには
多数の修正個所があり、悩み抜いて書かれたことが偲ばれる。[以後、アメリカでもっと
も有名なマヌスクリプトの一つとなる。また、アメリカの孤立主義外交の伝統の発端と
もなる。http://gwpapers.virginia.edu/farewell/transcript.html]
1796.○【ドイツ】ミュンヘンの俳優・演出家ゼーネフェルダー Aloys Senefelder(25)が、
劇作に従事するうち、自作の構図を彫刻させる費用に困り、複写の方法として石の凸版
をつくろうと種々の実験を試みているうち偶然に従来の銅版彫刻法にかわる石版印刷の
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原理を発明する。これを自作の脚本を廉価に出版するために使用する。[ 1798 年、転写
法を発明する。]
1796. ○【フランス】ナポレオンが、結婚して間もない妻ジョセフィーヌに宛てて手紙を
書く。[ 1997 年、この手紙が、パリで開かれたオークションで、65 万フラン(約 1400 万
円)で落札される。]
1796.○【イギリス】科学者ジョージ・ケイリー(ケーリー) George Cayley( 23)が、初めて
揚力と推力を分けて独立して発生させるという“飛行機の概念”を提唱、それを実証す
るために鳥の羽を使ったヘリコプタを作る。[以後、おもちゃとして普及する 。1808 年 、
ケイリーがグライダを作って飛ばす。]
1797(寛政9)
1797. ○【日本】考証学者藤井貞幹が『好古日録』を著す。執筆に際して、原稿用紙を木
版で印刷し、片面 20 字 10 行(一説に 20 字 20 行)の升目を設け、字を書く部分を茶色、
罫の部分を白く抜いたものを用いる。[以後、現存で最も古い原稿用紙とされる。]
1797.○【日本】書肆・狂言作家・蔦屋重三郎( 47 )が死去する。[以後、蔦重の死を境と
して、歌麿には他の版元からの依頼が増して、多作・乱作が行われる。よき助言者であ
った蔦重好みの古典的格調を失った結果、作品の質を低下させたとされる。]
1797.○【フランス】ガルネラン A.J.Garnerin が、初めて実用的なパラシュートの実験を
行う。[以後、軍用気球や飛行機搭乗員の救命用として装備されるようになり、さらに
人員や物資の降下・投下などに用途が広がる。
]
1797.○【フランス】アメリカの技術者フルトン Robert Fulton( 32)が、パリに渡り、海上
は帆走、水中は手回しのプロペラで走る潜水艇ノーチラス号をつくり、その試運転に成
功する。[1803 年、セーヌ川で蒸気船の実験に成功する。]
1797.○【アメリカ】エバンズ Oliver Evans( 42 )が、蒸気機関の改良を志し、蒸気車の特
許を取得する。[のちに、
「アメリカのワット」とよばれる。
]
1798(寛政10)
1798. 6. 4【イタリア】エロティックな情事を満載した『回想録』を書き残した作家ジョ
ヴァンニ・カサノーバ( 73)が、遍歴の果てにボヘミヤで寂しく死亡する。
1798. [6.−]【日本】江戸の櫛職人又五郎が、下谷稲荷境内(のち、台東区東上野)で客
を集め、有料の落語会を開く。寄席の初め。[この頃、上方でも初代桂文治が寄席を旗揚
げする。]
1798.9.22【フランス】第 1 回目の産業博覧会が、パリのシャン・ド・マルスで開催される 。
出品者はわずか 110 人で、ナポレオンも唖然とする。[以後、5 年ごとに開催され、1849
年まで 11 回開催される。1849 年、出品者が 4543 人に達し、国内産業の発展に大きな影
響を与える。]
1798. ○【日本】式亭三馬の『辰巳婦言』(石場妓談)が刊行される。江戸深川の花街の一
つ、石場での妓女の痴態を描いた蒟蒻本だが、絶版の命を受ける。
1798.○【ドイツ】チェコスロバキア生まれのゼーネフェルダー(ゼネフェルダー) Aloys
Senefelder( 27 )が、平版印刷の技術を発明する。ミュンヘンで劇作に従事するうち、自作
- 294 -
の脚本と楽譜を安価大量に印刷するため、銅板の代りにケルハイム産の石灰石の利用を
思いつき、実験中に石の表面にインキのついた部分とつかない部分をつくることに成功
し、脂肪クレヨンによる石版印刷によって転写する方法を発明する。石版石の表面に脂
肪質材で図形を描き 、硝酸ゴム溶液で固定すると、脂肪質の図は印刷インキを引きつけ、
白く残したい部分は水を保持して油性のインキを受けつけない。これによって、同じ平
面ながらインキがつくところ、つかないところを化学的にこしらえることができる。脂
肪性インキをつけたローラーを転がせば、模様(画線部分)以外の部分は石の多孔質のた
めに水分を含んでいるのでインキはつかず、画線部分は脂肪性であるのでインキを受け
付ける。[以後、彼は石版用印刷機を考案し、多色刷や亜鉛版印刷も試みる。1818 年、
彼の技法を『石版術全書』にまとめる。この技法を彼自身は「化学印刷」と呼んだが、
一般には「リトグラフ( lithograph 、石版画)」とよばれる。クレヨン、ペン、筆など日常
の道具で描くことができ、自由自在に多様な効果が得られることから、画家の芸術表現
にも適していることがわかる。大量印刷を前提とした多色刷ポスターをはじめ挿絵掲載
の新聞・雑誌の発展の引き金となる。種々の改良を経て、色彩を駆使した多様な表現、
印刷時間の短縮、多数枚葉の印刷、印刷費の低廉化などをもたらす。またリトグラフと
いう芸術の新分野を誕生させる。1848 年、1 時間に 1 万枚刷ることができるようになる。
1866 年、大型の印刷機がつくられ大判のポスターを刷れるようになる。このような技術
的進歩を背景にポスター芸術がフランスで誕生する。]
1798.○【フランス】紙職人ルイ・ロベール Nicolas-Louis Robert が、最初の洋紙連続製造
機械「長網抄紙機」を発明する。エンドレスの「ワイヤー」(機械抄漉きでの抄き網)で
連続的に紙が抄けるようになり、特許を取得する。[以後、紙は手漉きから機械漉きの時
代に入る。1804 年、イギリスのフォードリニア兄弟がこれを実用化する。1807 年、イギ
リスのドンキンがこれを改良して抄紙機の原型をつくる。](紙の博物館・第一展示室)
1798.○【フランス】国民公会の要請により、パリに機械技術者ボーカンソン Jacques de
Vaucanson (1709 ∼ 82)の考案・製作した科学機械を展示し、国民教育に役立てる目的で
工芸博物館(Conservatoirenational des arts et m ロ tiers)が創設される。
1798. ○【フランス】レティフ・ド・ラ・ブルトンヌが、サドの『ジュスティーヌ』に対抗
して『アンティ・ジュスティーヌ』を書く。
1798.○【イギリス】3 代伯爵チャールス・スタンホープ(45)が、ほぼ全部鉄製の手動印刷
機を完成させる。( 1795 年頃とも)[1800 年、ロンドンで製品化される。]
1798.○【イギリス】ボルトン・ワット商会の技師マードック William Murdock が、コーク
ス生産の副産物のガスを照明に利用する技術に目をつけて、ガス灯を実用化する。
1799(寛政11)
1799. 7.19【エジプト】ナポレオンの軍隊が遠征してきて、ナイルの一河口の町ロゼッタ
(アラビア語ではラシード)の近くで 1 枚の黒い玄武岩製石碑を発見する。高さ 114cm、
幅 72cm、厚さ 28cm、重さ 762kg。上段にエジプト語のヒエログリフ(聖刻文字)、中段
にその略書体(草書体)であるデモティック(民衆文字 )
、下段にギリシア文字で、刻まれ
ている。プトレマイオスⅤ世をたたえる神官団の布告が同一の内容の文で刻まれている。
[以後、
「ロゼッタ・ストーン」と呼ばれる。ギリシア語文は、発見後ただちに解読され、
- 295 -
エジプト王プトレマイオスⅤ世の戴冠式 1 周年記念祭において、王をたたえる神官団の
布告の写しであることが分かる。2 つのエジプト語文に関しては、ヒエログリフの部分
が破損が著しかったのと、デモティックの名が親しみを感じさせたので、学者たちはま
ずデモティックの解読に挑戦するが成功せず、結局ヒエログリフ部分のカルトゥーシュ
(王名枠)内のプトレマイオスという表記の分析と他の碑銘との比較研究によって、フラ
ンスの言語学者・考古学者・歴史家シャンポリオン Jean-Fran ロ ois Champollion( 1790 ∼
1832)が、ロゼッタ・ストーンやフィラエ島出土の碑文などをよりどころとして、古代エ
ジプト文字の解読に成功し、ヒエログリフの最初の解読者となる。1822 年、その成果を
パリ学士院で発表する。]
1799.11. 9 【フランス】[共和歴第 8 年ブリュメール 18 日]ナポレオンがクーデターを起
こし、政権を掌握する。
[以後、1789 年のフランス大革命で保障された言論・出版の自由
が再び否定される。ナポレオン失脚後も王制の下でいっさいの出版の自由が停止される。
1830 年の七月革命、1848 年の二月革命で新聞の自由が前進する。1852 年、ルイ・ナポレ
オンによる第二帝政でまた後退する。1871 年、パリ・コミューンによる最後の王制打倒
で第三共和政が成立し、ここでようやくフランスにおける言論の自由が確立する。]
1799.○【ベルギー】ロベールソンロ tienne-Gaspard Robertson( 36)が、移動式幻灯「ファン
タスコープ」を開発し、元カプチン会僧院の廃墟で亡霊の大写しを見せる見世物「ファ
ンタスマゴリア」を上演する。映像をスクリーンの裏から写し、幻灯機を動かしたり光
源を複数にして亡霊の動きを演出する。
1799.○【ドイツ】ノバーリス(ノヴァーリス) Novalis(本名フリードリヒ・フォン・ハルデ
ンベルク)(27 )が、本格的な長編小説にとりくみ『青い花』(原題『ハインリッヒ・フォン
・オフターディンゲン』を著す。第 1 部「期待」
、第 2 部「実現」という構成で、主人公
には中世の歌人 H.v.オフターディンゲンの名を借り、場面もまた中世に置いているが、
全体として、〈世界を詩化し、メルヒェンとする〉というロマン主義的理想のもと、小
説全体がメルヒェンになるように企図されていた。[作者の夭折(ようせつ)のため未完に
終わる。ノバーリスはその繊細な感性と深い思索のためにロマン派の精華とされ 、
『青
い花』はロマン主義そのものの象徴ともなる。]
1799. ○【フランス】ナポレオンのクーデタで、新聞の自由は再び否定される。[ナポレ
オン失脚後、王制の下でもいっさいの出版の自由が停止される。]
1799. ○【フランス】フリップ・ルボーが、照明と暖房兼用のガス器具を考案し、特許を
取る。パリのホテルで実演をするが、人々はガスの悪臭に閉口し、買い手はつかない。
1799.○【フランス】モンジュ Gaspard Monge( 53)が開発し軍事機密とされていた画法幾
何学 descriptive geometry が、公開を認められ、
『画法幾何学Gロ om ロ trie descriptive 』とし
て出版される。[以後、画法幾何学の原典になり、いちはやく各国の軍事関係の学校で学
習される。その後は工業製図の分野に大きな影響を及ぼす。]
1799.○【イタリア】物理学者でパビア大学の自然哲学教授ボルタ Count Alessandro Volta
(54 )が、1791 年にガルバーニが「カエルの実験」による動物電気の存在を発表して以来、
この問題に取り組み、最初はガルバーニの説を受け入れていたが、追試などの検討を経
て、やがてそれを否定し、異種の金属の接触自体に電気発生の原因を求めて、自分の考
案した精密な検電器を使って種々の異種金属間の接触によって生じる電気量を測定し、
- 296 -
金属の電気列(電気化学列)をみいだし、接触電位差の考えに到達するた。こうして、
銅板と亜鉛板の間に湿った布を挟んだものを何十組も重ねて「ボルタの電堆(でんたい)」
をつくり、さらに銅と亜鉛を希硫酸溶液に浸した電池を発明する。この電池で、まず水
の電気分解が行われる。[1800 年、これをイギリスの王立協会に報告する。]
1799.○【スペイン】この頃、画家ゴヤ(53)が、『着衣のマハ』と共に『裸のマハ』を描
く。[以後、初のヘアヌード絵画を描いたかどで、異端審問にかけられる。作品は近代裸
体画の出発点となる。]
1799. ○【イギリス】
『英語辞典』(平凡社『世界百科事典』に『オックスフォード英語辞
典』とあるのは誤り:竹野註)
)に、初めて性に関連する言葉「sexual intercourse」が収
録される。[以後、宗教界からの非難に耐えながら、性に関連する言葉が次の順序で採用
される。1803 年「sexual function」、1828 年「sex organ 」
、1836 年「sexual desire」
、1861
年「sexualinstinct 」、1888 年「sexual impulse」
、
「sexualact 」、1911 年「sexual immorality」。19
世紀初頭に「sexuality 」という言葉ができたといわれ、〈性〉の概念が確立されていく。]
1799. ○【イギリス】ジョン・ハンターが、尿道下裂の男の精液をその妻の腟内に注入し
て妊娠に成功する。ヒトにおける最初の人工授精となる。
1799.○【イギリス】ムトドックが、ガス灯を考案する。工場の夜間照明に使用されるが、
作業用としては、光量が十分でない。[ 1814 年、ロンドン市内のピカデリーに、ガス灯
の街灯が設置される。]
1800(寛政12)
1800. 4.−【アメリカ】合衆国の首都が、臨時首都のフィラデルフィアから、ポトマック
河畔に建設された新都市コロンビア特別地区(のち、ワシントン DC)に移転される。
1800.[閏 4.19]【日本】伊能忠敬(55)が、幕府の許可を得て、蝦夷(えぞ)地南東沿岸の
測量のため江戸を出発する。この頃、正確な暦を作る上に必要な緯度 1 度の里程数が定
まっておらず、天文学上の課題になっており、この解決のために忠敬は長い南北距離の
測量を企て、北辺防備の必要から幕府の許可を得やすい蝦夷(えぞ)地を選び、官許を得
た。
[[5.22] 函館に着く。[9 月]現地実測を終える。[10 月]、江戸に戻り、直ちに地図
を作成。[ 12.21]日本初の実測地図を完成し、幕府の勘定方に差出す。以後、全国の測量
へと発展させる。1816 年、終了するまでに、10 次にわたり、延べ旅行日数 3736 日、陸
上測量距離 4 万 3708km、方位測定回数 15 万回という大事業を遂行する。のち、4 月 19
日を「地図の日」
、「最初の一歩の日」とされる。
]
1800.5.30【オランダ】( 1800 年か?)国立博物館がアムステルダムに開館する。
1800.12.12 【アメリカ】公式にワシントン D.C. が首都に制定される。
1800.○【世界】この頃、世界人口が約 7 億人になる。[1850 年、11 億人となる。1900 年
には 16 億となり、1800 年から 1900 年までの年増加率は 0.5 %である。1900 年以降は異
例的な増加趨勢に転じる。世界の人口が 10 億に達するのは 30 ∼ 40 年後である。人類が
誕生してから、その数が 10 億に達するのには非常に長い歴史が必要であった。以後、約
130 年で 10 億の増加をもたらし、1930 年ころ 20 億になる。]
1800. ○【日本】近藤重蔵と高田屋嘉兵衛がエトロフへおもむく。
1800. ○【日本】歌麿の『床の梅』、『たからぐら』、『常陸帯』、『会本色形容』が刊行
- 297 -
される。
1800. ○【日本】紫の色主・塩屋艶二が江戸品川の遊女・遊客の状態を描いた蒟蒻本『南
門鼠』が刊行される。遊情放蕩を誘致するものとして絶版の命を受ける。
1800.○【ヨーロッパ】この頃、パノラマ興行がイギリスからパリとベルリンに波及する。
演目は犯罪、戦争、大災厄のような超個人的できごとに取材した大道絵起源のものが多
い。[のち、アメリカにも広がる。]
1800.○【イタリア】物理学者でパビア大学の自然哲学教授ボルタ Count Alessandro Volta
(55)が、昨年発明した電堆と、銅と亜鉛を希硫酸溶液に浸した電池の発明をイギリスの
王立協会に報告する。起電力は約 1V で、この発明により、持続的な定常電流を得るこ
とが可能になる。[以後、ボルタによる電池の発明にヨーロッパ各地で沸きかえり、電磁
気学や電気化学の発展をもたらす。1801 年、ボルタはアカデミー・フランセーズの大集
会でナポレオンを前にして電気実験を供覧する。ナポレオンはこのとき彼に金メダルと
勲章を贈る。更にのちに伯爵の称号を与える。]
1800.○【イギリス】医師ヤング Thomas Young (27)が、光の干渉縞実験を行い、光の干
渉現象を発見する。これによって、人間の網膜は赤・黄・青の 3 原色に共振すると論じ
て、光の 3 原色説を打立て、波動説の確立に貢献する。
1800.○【イギリス】ボルタの発明に刺激された化学者ニコルソン William Nicholson(47 )
と外科医カーライル Anthony Carlisle( 32)とが、共同で実験を行って水の電気分解を発
見する。[その後、ただちに、電気分解の現象を通信に利用することが試みられる。1809
年にドイツのゼンメリングが、電気分解による気泡を発生させることによって通信文を
送ることを考える。]
1800.○【イギリス】ブリストルの気体研究所助手デービー Humphry Davy( 22)が、炭素
棒電極間の放電により初めて連続的な光を発生させる。強い光と熱を出し、人工的な太
陽光のように見える。[のち、アーク燈に発展する。1815 年、デービーは安全灯を発明
する。]
1800.○【イギリス】この頃、3 代伯爵で政治家・科学者のスタナップ(スタンホープ)
Charles StanhopeStanhope( 47 )が、初のほぼ全部鉄製の手引印刷機を完成させ、
する。[以後、この型の印刷機は、簡単なレバー操作で圧盤が下がり、強い圧力がかけら
れるので、印刷機の操作性が大幅に向上する。1850 年、オランダ政府は、スタナップ型
印刷機を 12 代将軍徳川家慶におくる。]
1800.○【アメリカ】議会図書館(Library of Congress )が、法によりアメリカ合衆国議会の
図書室として首都コロンビア特別地区(のち、ワシントン DC)に発足する。[1814 年、イ
ギリス軍の戦火にあい、大被害を受ける。1816 年、ジェファソンの蔵書を購入する。以
後、購入と著作権法のもとでの受け入れにより、蔵書数、予算額、職員数すべての点で
世界最大規模の国立図書館となる 。1992 年、本 1800 万冊 、マニュスクリプト 5300 万点、
写真 1200 万点、地図 400 万、動画 50 万など、
]
1800. ○【アメリカ】この頃、川の両岸にたてた塔のような構造物の間に鎖を渡して、こ
の鎖から吊り棒で水平な路面をささえる形の吊り橋がつくられる。[ 1810 年ころ、イギ
リスで同じ方式の橋がつくられる。1816 年、初めてワイヤーケーブルを使用した吊り橋
が、フィラデルフィアのスカイキル川にかけられる。]
- 298 -
1800.○【アメリカ】腕木通信ルートが、ボストン∼マーサスバインヤード島間 104km に
建設される。腕木の間隔は約 10km で、肉眼では形が判別困難なため、望遠鏡が使用さ
れる。
1801(享和1)
1801. ○【日本】伊能忠敬が、関東一円の測量を行う。
1801. ○【日本】近藤重蔵がエゾにおもむく。
1801.○【日本 】長崎の通詞・蘭学者志筑忠雄が 、ケンペルの『日本誌 』の一章を翻訳し 、
「鎖国論」と題して、初めて「鎖国」の語を用いる。
1801.○【日本】最後の『末摘花』4編が編まれ、1 ∼4編で全 2431 句が収められる。
1801. ○【日本】歌麿の『たまくしげ』が刊行される。
1801. ○【日本】栄昌の歌麿模作艶画集『ふみのきよがき』が刊行される。
1801. ○【日本】この頃、江戸の池田都楽というものが、硝子に彩色絵を描き「写し絵」
と称して、画面が動くように仕組み、両国辺を興行して評判となる。その門人も続々と
現れる。「写し絵」とは、天地 3 寸、左右 8 寸くらいの枠に 2 寸角くらいのガラス板を 4
枚ほど仕組み、1 枚ごとに人物や鳥獣の動作の変化した単色画または着色画を描き、こ
れを幻燈器(フロ)に入れて手に持ち、幅 6 尺、高さ 2 尺 4 寸の、障子を横にしたくらい
の、美濃紙を貼った映写枠の後方から映すもの。映写枠の脇にいる、祭文語りあるいは
浄瑠璃語りの語る狂言に含わせて、フロを持った写し絵師は 4 つから 5 つくらいのフロ
を巧みに操って、人物の動作や、背景、小道具の変化までも見せる。[池田都楽の「写し
絵」は、その後多くの門弟、同好者たちの手によって、文化年代以降、江戸から京阪に
流行し、明治初年頃まで盛んに興行された。当時の人情本や浮世絵など描かれる。電燈
の普及と、劇場建築の変化、並びに映画の輿隆等により、衰微する。]
1801.○【日本】この頃、飯盛の揚げ代が 600 文。
1801.○【フランス】ジャカール Joseph Marie Jacquard( 49 )が、工場で働きながら紋織機
の製作に取り組み、織物の模様に応じて穴をあけた紋紙を用いて、複雑な模様も容易に
織ることができる「紋織機械」を発明、パリの産業博覧会に出品する。[以後、改良を重
ねる。1804 年、のちに彼の名を冠して「ジャカード織機」とよばれている機械の原形を
完成させる。この織機の出現により、仕事を奪われることを恐れた織工の反対にあうが、
性能が認められてしだいに普及する。1806 年、政府によって共同財産に指定され、年金
と特許料が支給される。1872 年、日本に輸出される。のち、厚紙に孔をあけ情報を記憶
させるパンチカードシステム開発の基となる。]
1801. ○【イギリス】初の全国国勢調査が実施される。
1801.○【イギリス】トレビシック Richard Trevithick (30)が、蒸気機関を動力とした車両
の路上での試運転を行う。かなり実用的な蒸気自動車で、時速 14km で走り、試運転に
成功するが、運転手の不注意で爆発事故を起こす。
[ 1803 年、直径 3.2m の巨大な駆動
用の後輪をもつ 4 輪車をつくる。高い馬車の車体の後部に 1 気筒の蒸気機関を備え、前
に乗った操縦士と後ろの汽缶士とで運転し、交通を遮断したロンドン市中で〈馬車より
速い速度〉で試走に成功する。
1801. ○【イギリス】紙の製造に、原料のぼろぎれ以外に種々の植物を使っての工業化の
- 299 -
試みが行われる。
[∼ 1804 年 。
]
1802(享和2)
1802. ○【日本】幕府が、エゾに奉行を置く。
1802. ○【日本】一九の『東海道膝栗毛』初編が刊行される。
1802. ○【日本】歌麿の『小町引 』
『美津のはな』
『はなふぶき』『道行恋のふとざお』『会
本ひめはじめ』が刊行される。
1802. ○【日本】歌麿の大錦代表作『美人十二相 』
『婦人相学十体』などが刊行される。
1802.○【日本】亜欧堂田善(あおうどうでんぜん、本名永田善吉(54 )が、白河城主松平
定信に見いだされ谷文晁に師事する。[以後、定信から銅版画(エッチング)の研究を命
ぜられ、はじめ司馬江漢につき、やがて定信周辺の蘭学者の協力を得て、江漢とは別途
に輸入西洋銅版画や油絵の技法を習得する。1808 年に宇田川玄真著『医範提綱』の銅版
挿絵、1816 年に銅版『新訂万国全図』を製作する。]
1802. ○【日本】成三楼酒盛の『婦足カムロ(ふたりかむろ)』が、淫猥な蒟蒻本とされ絶
版の命を受ける。
1802.○【オランダ】国立中央公文書館 Algemeen Rijkasrchif が 、ハーグに設立される。
[以
後、防衛、外交の記録を含め、全行政機関の記録を保存する。1962 年、公文書保存法が
定められ、国と地方政府、ならびに埋立地理事会の 3 種の保存施設を認め、それらに各
種の政府機関の資料が移管される。50 年以上経過した中央および地方政府の記録は、国
立公文書館局の管轄となる。
]
1802. ○【オーストラリア】シドニーで初めて印刷が行われる。
1802. ○【フランス】ナポレオンが王位に就く。
1802.○【フランス】J.タイアーが、
「パノラマ」を公開する。
1802.○【フランス】アベール・マチューが、ナポレオン 1 世に英仏間をむすぶ海底トン
ネルの設計案を提出する 。
[1831 年、フランスのトム・ガモンが潜水して海底の地質調
査を行う。1867 年∼ 1869 年、独自に研究をすすめていたイギリスのジョン・ホークシ
ョウと連絡して、海峡横断トンネルの構想をそれぞれ発表する。1872 年、フランス・イ
ギリスの両国で、海峡トンネル会社が設立され、トンネル建設を具体化に進める。]
1802.○【オランダ】国立公文書館 Rijksarchief が、ハーグに設けられる。
1802.○【イギリス】ガス灯の実験工場を 1792 年につくったマードック William Murdock
(48)が、アミアン条約の締結を祝ってバーミンガムのソーホー工場をガス灯で照明して
大評判となる。
1802.○【イギリス】王立研究所教授デービー Sir Humphry Davy (24)が、アーク放電を発
見する。[1808 年、デービーが 2000 個のボルタ電池を接続して、強烈な光を点灯する実
験を公開する。]
1802. ○【イギリス】化学者トーマス・ウェッジウッドとデービーが、塩化銀を塗付した
紙を使用して、絵画や葉の影絵、人間の横顔の像を作りだすことに成功する。しかし、
これらの写真は、光にあてると紙の表面全体が黒くなるため、保存性はない。
1803(享和3)
- 300 -
1803. 5.26 【日本】午前 4 時頃、寺社奉行の二、三十人の警吏が江戸谷中の延命院を急襲
し、あまたの部屋の中で女を抱いていた僧たちを摘発、住職の日道や僧十数名を女犯の
罪で、また女十数人を捕縛する。[ 7.29 日道らが死罪に処せられる。関係者として「押
し込め」という懲役を受けた女は、捕縛された者のうち、尾張家奥向若年寄をはじめ、
二十底の文箱を使って恋文のやりとりをしていた一橋家奥向勤め、堕胎をしていた西の
丸大奥の下女など一般に身分の低い 7 人に過ぎず、位高い女は見逃された。寺社奉行脇
坂安董は彼女たちの仕返しを恐れたのである。]
1803. 7.26【イギリス】世界初の公設の馬車軌道が、ヴァンズワース∼クロイドン間に完
成する。利用者は自分で乗り物と馬を調達する。
1803. 8. 9【フランス】アメリカ人技師フルトン Robert Fulton( 38)が、アメリカの弁護士
・下院議員でもある駐仏公使ロバート・R ・. リビングストン(リヴィングストン)(57)と
出会い、彼の後援を得て、セーヌ川で大勢の見物人が見守るなか、蒸気機関を取り付け
た船の航行実験を行い、見事成功する 。フルトンが考案したこの船は 、長さ 31m、幅 2.4m
で、船の両側面に直径 3.5m の外輪をつけたもの。この頃、リヴィングストンは、アメ
リカのサミュエル・モーリー(1762 ∼ 1843 )に激励と資金援助を与えて外輪で動く蒸気船
の建造を繰り返させるが、商業的には一隻も成功しない。[1807.8.17 フルトンが蒸気船
の実用化を実証する。]
1803. ○【日本】 小石川の染物上絵職人亀屋熊吉が、江戸時代にオランダ人がもたらし
た幻灯機を使った「オランダエキマン鏡」なる見世物に触発され、友人の医者高橋玄洋
の助けで、その仕掛けの原理を利用した自前の器械を完成、三笑亭(池田)都楽と名のっ
て、江戸で「写し絵」と称する種板式幻灯を寄席で上演する。これはガラスに浮世絵・
黄表紙・浄瑠璃の世界の彩色絵を描いたもの(種板)を数台の「フロ」と呼ぶる幻灯器(熱
をもった箱の表面が結露することからついた呼称)にセットし、
それをかかえた数人の「写
絵師」が種板を操って画像に変化を与えたり絵の動きを出して白布の裏側から映写し、
語りや音曲をつけて物語を演じる。絵を拡大・収縮させることで遠近感も表現できる。
世界初の“アニメーション”といえる。光源には灯明が使われる 。[以後、祭文語りや
浄瑠璃語りがついて上演され、評判をとる。江戸の庶民は〈キリシタンバテレンの魔術 〉
と驚く。のちに光源はランプに移行する。1987 年、この伝統芸能の伝承者、小林源次郎
が『写し絵』(中央大学出版部)を刊行し、全容を解明する。1993 年、 劇団みんわ座の
団員が復元し、公演する。
]
1803. ○【日本】歌麿の弟子、喜多川喜久麿の忠臣蔵ポルノ『会本執心久楽』が刊行され
る。26 図の枕絵で構成され、別にコント一話が付く。
1803.○【ロシア】第 1 回ロシア世界帆船航海が行われる。ドイツの博物学者フォン・ラ
ングスドルフ(30)らが参加する。
[∼ 1806 年。ラングスドルフは、世界周航旅行記をま
とめ、マルキーズ諸島の風習やブラジルの熱帯林を見た感動を記述する。
]
1803.○【フランス】国立図書館(BN)が管理すべき資料が大幅に増大したため、地方に
ある蔵書が地方政府( Municipalite ())の管理に委ねられる。[以後、フランスの図書館の
基本的な傾向は、パリへの蔵書の集中と、政府主導のもと全国の地方図書館は資料の所
蔵と保存を中心とする学術図書館的なサービスが特徴となる。]
1803.○【イギリス】印刷業者ハンサード Thomas Curson Hansard (27)が、急進主義的政
- 301 -
治家 W. コベットの編集した『議会討議録』を印刷する 。
[以後 、
『議会討議録』の印刷
を続行する。1810 年、誹毀(ひき)罪に問われたコベットの新聞を印刷したかどで投獄さ
れる。1833 年、ハンサードの死後も彼の設立した会社により『議会討議録』の印刷を続
けられる。1909 年、
『議会討議録』が公的なものとなり、また内容も逐語的になる。「ハ
ンサード」の名はイギリスの「議会議事録」を指す代名詞として定着していく 。
]
1803.○【イギリス】物理学者ヤング Thomas Young (30)が 、人間の目には青紫(B)・緑(G)
・赤(R)の光を別々に感じる 3 つの感光物質が働き、その感じ方の割合によって多様な
色を感じるとする「三原色説」を唱える。1861 年ころ、クラーク・マクスウェルが、3 色
だけで色が再現的に合成されることを実証し、3 色法によるカラー写真の基礎がつくら
れる。]
1803. ○【イギリス】土木技師ジョン・レニーが、半楕円形のアーチをつかった橋を設計
し、スコットランド・ケルソーのトウィード川に建設する。[以後、近代のアーチ橋の原
型となり、弓形または半楕円形のアーチを使って長いスパンをとったこの種の橋は、ア
ーチを高くしなくても自由に船などが下を通過できるようになる。]
1804(文化1)
1804.3.21【フランス 】ナポレオン法典 Code Napol ロ on が、法律によって制定される。[以
後、フランスの現行民法典となる。初め〈フランス人の民法典 Code civil des Fran ロ ais〉
と題されたが、1807 年 9 月 3 日の法律でナポレオンの名を冠することとなる。法典の正
式名称はその後数次にわたって改められ、第三共和政以降は単に Code civil とされてい
るが、歴史的呼称として〈ナポレオン法典〉の語が用いられ、その内容は部分的にでは
あれ大きな変化を遂げる。]
1804. 5.18【フランス】元老院令によりナポレオン( 34 )が皇帝に即位する。
[12.2 ノート
ルダム大聖堂で、ローマ教皇ピウスⅦ世(62)の立会いのもと皇帝ナポレオンの戴冠式が
行われる。
]
1804.[5.−]【日本】幕府が、絵草紙取締令を出し、彩色を禁止しすべて墨色にすること
を命ずる。
1804.○【日本】三笑亭可楽(初代)( 27)が、江戸下谷の広徳寺門前、孔雀茶屋で、客席か
ら「弁慶、嶋君(つじぎみ)、狐」の 3 題を得て一席の落語にまとめ、初めて三題噺を演
じる。[以後、三題噺の祖といわれる。可楽は、寄席創始期に多くの門下を養成し、江
戸落語の興隆に寄与する。
]
1804.○【日本】ロシアの使節 N.P. レザノフが長崎に到着する。持参した国書は満州語で
も書かれている。幕府の天文方で、満州語に関して辞書などの著作もある高橋景保がこ
れを訳解する。長崎の唐通事(中国語通訳)も満州語辞書を和訳する。
1804. ○【日本】幕府が、法橋玉山著『絵本太閤記』を絶版、版木と在庫本を没収し、合
版(あいはん)の 6 版元過料の刑に処す。また、この物語を 3 枚続き錦絵にした喜多川歌
麿らの浮世絵師、版元などが、武者絵の中に婦女の艶な容姿を画き加えたとして、入牢
・手錠・過料の刑に処される。豊国、春亭、月麿、十九らも手鎖 50 日の刑を受ける。
1804. ○【日本】幕府奥右筆の家に奉公していた品田郡太が、江戸谷中の延命院のスキャ
ンダル( 1803 年)を主題にした『観延政命談』と題する読本(よみほん) 16 冊を著し、貸本
- 302 -
屋を通じて広く読まれるが、摘発され、品田は江戸追放となる。
1804. ○【日本】神田の古本商須藤(藤岡屋)由蔵が、江戸を中心とした諸記録を書き始め
る。[以後、幕府の諸記録をはじめ、市中の災害や興行・評判、落首や落書、噂話などを
買い集めるなどして、記録し続ける。∼ 1868。原本は焼失する。写本 152 冊が『藤岡屋
日記 』として東京都公文書館に保存される。天保改革の部分は『日本都市生活史料集成 』
に収録。1988 年 、
『近世庶民生活資料 藤岡屋日記 第 3 巻』
(鈴木棠三・小池章太郎編、
三一書房)に収録。]
1804.○【イギリス】フォードリニア Fourdrinier 兄弟が、機械技師ドンキン B. Donkin( 36 )
の技術的援助で、1798 年にフランスのロベールが発明した連続式抄紙機を実用化する。
水平に置いたエンドレスのワイヤにパルプ懸濁液を流し、ワイヤが移動する間に脱水し
てシートを作るので、これを「長網抄紙機」と呼ぶ。発明者にちなんでフォードリニア
マシンともいう。[以後、紙は手漉きから機械漉きの時代に入り、大量生産ができるよう
になる。]
1804.○【イギリス】聖書協会( Bible Society)がプロテスタントの関係者により創設され
る。
[1816 年、アメリカ聖書協会が設立される。1937 年、日本聖書協会が組織される 。1946
年、聖書協会世界連盟( United Bible Societies)が結成される。
]
1804.○【イギリス】コングリーブが、ロケット兵器を開発する。[ 1806 年、イギリス海
軍がブローニュ港のフランス艦隊を攻撃するのに用いる。以後、ヨーロッパの各地の戦
争で使われる。インドでも使われる。]
1804.○【イギリス】機械技術者トレビシック Richard Trevithick (33)が、鋳鉄製のレール
(ペニーダーラン軌道(Penydaran tramway))上を走る蒸気機関車の公開走行実験を行う。
しかし、機関車は故障しがつだし、レールは機関車の重量に耐えられず、長期的な運転
は断念する。[以後、この機関車は最初の鉄道用蒸気機関車とされ、トレビシックはイギ
リスで「蒸気機関車の父」と呼ばれる。1808 年、再び機関車「キャッチミー・フー・キ
ャン号」を製作するが採用されず、街中で見世物として運転をする。1812 年、揚水用高
圧ビーム機関、プランジャー・ポール機関( 1815 特許)や、脱穀・製粉などの農業用の機
関を製作する。1833 年、貧しいまま生涯を閉じる。]
1804.○【イギリス】ジョージ・ケーリー(ケイリー)George Cayley(31 )が、凧を主翼に用
い、それを調整可能な水平尾翼と垂直尾翼を備えた胴体に取り付け、全長約 1.5m の模
型グライダを製作して、滑空実験を行う。人類初のグライダを成功させる。[ 1808 年、
有人飛行を目指したグライダを製作する。]
1804.○【アメリカ】チャールス・ジョンソンが、初めて墨インキの製造・販売を始める 。
1804.○【アメリカ】発明家エバンズ Oliver Evans( 49 )が、フィラデルフィア・ドックのた
めに鎖式バケツをもつ最初の蒸気機関式浚渫船を建造する。また、アメリカ最初の高圧
蒸気を使う直動式鉛直型定置機関を建造する 。[以後、イギリスのトレビシックととも
に熱効率を最大限に利用する高圧機関の先駆者となる。1907 年、フィラデルフィアに鉄
工所を建設する。生涯に 50 台の機関を製作する。1919 年、工場が放火にあい、多くの
発明が実用化できず、失意のうちに死去する。
]
- 303 -
1805(文化2)
1805. ○【日本】山東京伝の黄表紙『江戸自慢名産杖』が出版される 。
〈二八の一六が役
者絵二枚、二九の一八で草紙が二冊、四五の二十なら大錦一枚〉とある。
1805. ○【日本】将軍の侍医桂川甫周(かつらがわほしゆう)が、幕府の命により、顕微鏡
の使用法を説明する。甫周は、1793 年、ロシアから帰国した漂流民大黒屋光太夫が将軍
家斉らからロシア事情について質問された際、列座して光太夫の話を聞き、光太夫のも
たらした精巧な顕微鏡も見ていた。
1805.○【フランス】ナポレオンⅠ世(36 )が、『主の祈り Oratio Domonica』の博言集をお
よそ 150 にのぼる言語に翻訳、各国語の固有の文字で印刷することを、パリの帝室印刷
所の総監督マルセル J.J.Marcel に命じる。中国語訳の主祷文もあり、漢字は明朝体の 40
ポイント木活字で印刷される。
[1806 年、ボドニーが、155 の多言語訳『主の祈り』の博
言集を、北イタリアのパルマで印刷する。木活字か金属活字かは不明だが、フランスの
帝室印刷所の印刷文字を参照して模刻したものと考えられる。
]
1805.○【イギリス】ハリスが、幼児向け絵本『ハバードばあさんといぬのゆかいな冒険』
を出版する。楽しさを重視して成功する。[以後、画家や版型は変わっても、とぎれるこ
となく出版され続ける。]
1805.○【イギリス】政治家で科学者のスタナップ Charles Stanhope Stanhope( 52)が、ス
テロ版鋳造法を考案し、オックスフォード大学クラレンドン・プレスに採用される。この
頃までに、スタナップは、2 つの計算器、初の鉄製手動印刷機を考案している。
1805.○【南アフリカ??】Bethelsvillage で初めて印刷が行われる。
1806(文化3)
1806.10. 7【イギリス】ウェッジウッド Ralph Wedgwood が、カーボン紙を考案し、〈書
き物の複製を作るための用具〉として特許を取得する。[以後、量産して、普及する。]
1806.○【ドイツ】石版印刷の発明者ゼーネフェルダー Aloys Senefelder(35)が、ミュン
ヘンの王立印刷局で地図の印刷の指導を始める。[ 1818 年、着色印刷法の著作『石版印
刷教本』を執筆する。また、亜鉛板による金属平版を考案する。]
1806. ○【フランス】初の全国国勢調査が実施される。
1806. ○【フランス】世界で初めての腕時計が、宝飾的な腕輪としてナポレオンの皇后ジ
ョセフィーヌのために作られる。[以後、富裕階級の婦人たちによって、時計は二の次と
して宝飾として腕につけられ始める。20 世紀初め、一般的な腕時計が市場に現れる。第
一次世界大戦でその実用性が広く認識され、たちまち懐中時計にとってかわる。]
1807(文化4)
1807. 8.17【アメリカ】フルトン Robert Fulton( 42)が、駐仏アメリカ公使であった弁護士
・下院議員ロバート・ R・ リビングストン(リヴィングストン)の後援で、イギリスの
ボールトン・ワット商会から取り寄せた蒸気機関を搭載した外輪船「クラモント号」を建
造し、ハドソン川に就航させる。ニューヨーク∼オルバニー間約 240km を 32 時間で結
び、蒸気船が実用的な乗物であることを初めて立証する。クラモント号は史上初の旅客
汽船となる。
- 304 -
1807. 9. 7【中国】ロンドン伝道会(ロンドン伝道協会)The London Missionary Society によ
って派遣された伝道者モリソン Robert Morrison ( 25)が、中国本土への最初のプロテスタ
ント伝道者としてマカオに到着する。[以後、中国名を馬礼遜と名乗る。清朝のキリス
ト教禁制下にあったため、プロテスタント伝道も禁止され、モリソンは説教などによる
伝道を断念し、間接伝道の一つ「文書伝道」に専念せざるを得ず、東インド会社の中国
語通訳やイギリス商務館の主席通訳官などをして伝道経費を補う 。1813 年、
『新約聖書』
の中国語訳を刊行。1815 ∼ 23 年、『字典』(『中国語辞典 A Dictionary of the Chinese』)
を刊行。1823 年、ミルン William Milne( 1785 ∼ 1822 。中国名は米隣)と分担して『旧約
聖書』を翻訳、
『神天聖書』(中国語訳新旧約聖書全巻)を完成する。]
1807.[12. 4]【日本】幕府が、異国船のたび重なる来航に世界地図の必要性を感じ痛感し 、
天文方の高橋影保(かげやす)(23)に洋書を資料とした世界地図「万国全図」の作成を命
じる 。[以後、影保は暦局内に地誌御用掛を設け、間重富(はざましげとみ)や長崎通詞(つ
うじ)馬場佐十郎らの協力を得て多くの世界地図を収集する。1810.3 「万国全図」を完成
する。]
1807.○【中国】(嘉慶 12)満州人の将軍ウロンアが、台湾で銅活字を鋳造し、雍正帝の教
育勅語『聖諭広訓』印刷・刊行する。
1807. ○【ドイツ】ゼンメリンクが、電気化学式電信を考案する。
1807.○【イギリス】ドンキン Bryan Donkin( 39 )が、ロベールの連続紙漉機を改良して、
初めて実用的な製紙機械をつくることに成功する 。
のちの長網抄紙機の原型となる。
[1826
年、乾燥円筒(ドライヤーロール)を取り付けることで、巻き取り紙が作れる長網抄紙機
を完成させる。
]
1807. ○【イギリス】ロンドンのペル・メル街の街灯に、ガス灯がドイツ人技師によって
初めて用いられる。[ 1812 年に「ロンドン・ウェストミンスター・ガス会社 」が成立する 。]
1808(文化5)
1808.○【日本】亜欧堂田善(あおうどうでんぜん、本名永田善吉)(60)が、定信から銅版
術の研究を命ぜられ、輸入西洋銅版画を写して画技をみがいてその模刻を行い、3 年前
に刊行された宇田川玄真著『医範提綱(いはんていこう)』の付図として最初の銅版挿絵
『医範提綱・内象銅版画』を作る。
[1809 年、西洋銅版画の模刻作品『ゼルマニア廓中之
図』をつくる。1810 年、
『新訂万国全図』などの実用銅版画をつくる。]
1808.○【日本】この年 、貸本屋が江戸で 656 人(『画入読本外題作者画工書肆名目集』
)
、
同じころ大坂で約 300 人(『慶長以来大坂出版書籍目録』
)と記録される。本屋との兼業
者も含めるとこの数をはるかに上回るといわれる。
1808. ○【イギリス】ディッキンソンが、主に厚紙や板紙を抄くための円網抄紙機を発明
する。
1808.○【イギリス】ケイリー(ケーリー)George Cayley( 35)が、有人飛行を目指したグラ
イダを作って飛ばす。人類最初の重航空機となる。[ 1849 年、少年を乗せた三葉グライ
ダを曳航させて、滑空飛行に成功する。1853 年、有人グライダを製作する。]
1808.○【イギリス】王立研究所教授デービー Sir Humphry Davy( 30 )が、2000 個のボルタ
電池を接続して、両極からの導線の先に炭素を付け、間隔を調節してアーク放電をさせ
- 305 -
て、ガス灯とは比較にならない強烈な光を点灯する実験を公開する。電気利用の最初の
光源として炭素アーク灯の発明となる。[ 1876 年、ロシアの P.N.ヤブロチコフが実用化
して、パリのコンコルド広場に街路灯として点灯され実用化される。]
1809(文化6)
1809. 9.23【イギリス】ブラマー Joseph Bramah が、銀の管の一方からインキを注ぎ、軸
の胴を握るとインキの出るものと、ピストン式の筆記具を考案し 、「ファウンテンペン
(fountain pen)」と名付け、特許を取得する。
[以後、万年筆に関する新案競争に拍車が
かかる。]
1809.○【ロシア】物理学者??が、液体中の粒子の電気泳動現象を発見する。
[1987 年、
エヌオーケー(NOK )㈱が、マイクロカプセルに封入する技術を考案し、これにより電気
泳動を利用したディスプレイ、すなわち電子ペーパーを開発する 。
]
1809.○【ドイツ】ゼンメリング Samuel Thomas von S ロ mmering( 54 )が、電気分解の現
象を通信に利用することを考案する。ボルタ電池とアルファベットの数だけ並べた文字
のスイッチ盤を通して、水槽内の各文字に相当する個所に電気分解による気泡を発生さ
せることによって通信文を送る装置を作る。電気化学式電信機が登場する。(図:直川一
也『科学技術史』p.131)[以後、ミュンヘン駐在ロシア大使館員シリンクが、これを見て
電気通信に興味を抱き、約 10 年間、実用的な電信機をつくるため種々の実験を重ねる。
1820 年、エルステッドが電流の磁気作用を発見したのをヒントにさらに工夫を重ねる。
1831 年、電磁式電信機を考案する。]
1809.○【イギリス】デッキンソン J. Dickinson が、ワイヤを円筒形の枠に張りパルプ懸
濁液の中で回転させて円筒内に水を吸引することによってワイヤ上に紙層を形成する円
網抄紙器械(丸網抄紙機)の特許を取る。実際には 2、3 年前から実用に供していた。[以
後、手漉き法から器械漉き法への転換が始まる。]
1809.○【イギリス】 F.B.フォルシュが、はじめて万年筆を考案する。金属製の軸内にイ
ンクを貯蔵し、後部のバルブを操作してインクを強制的に金属のペン先におくりだす機
構の筆記具で、筆記のときにインクの送り出しを必要とする煩雑さと、ペン先の材料が
インクの酸に腐食されやすい、という欠点がある。
1810(文化9)
1810. 2 . 5【フランス】出版物に対する検閲が再開される。
1810.[3.−]【日本】幕府天文方の高橋影保(かげやす)(26)が、大坂の天文学者間重富(は
ざましげとみ)(54)、長崎通詞馬場佐十郎( 23)らの協力で、官製の世界地図「万国全図」
を 3 年がかりで完成させる。イギリスのアロースミス図を基本に、日本を中心に東西両
半球を配置する。間宮林蔵の樺太探検の成果も採り入れて、樺太(サハリン)をはっきり
と島として描いており、この時期、世界中で最も詳しい世界地図となる。[ 1816 年、亜
欧堂田善(あおうどうでんぜん)が銅板画におこし、図版 107 を収めた『新訂万国全図』
として印刷され、一般に知られるようになる。1855 年、改訂。明治期にも改訂され、日
本を代表する世界図となる。]
1810. 8 . 3 【フランス】新聞の数が、各県に 1 紙、パリでは 4 紙に制限される。
- 306 -
1810.○【日本 】長崎でオランダ商館長ドゥーフ Hendrik Doeff が 、長崎のオランダ通詞(つ
うじ)らを督励して、オランダの書籍商・出版業者であるフランソア・ハルマ Fran □ ois
Halma(1653 ∼ 1722 )が、ユトレヒトで出版した『蘭仏(らんふつ)辞典』Woordenboekder
Nederduitsche en Fransche Taalen の第二版(1729)を底本として、日本語訳に着手する。
[以後 、
『道訳法爾馬(ドウーフ・ハルマ)』(1796 年に江戸で訳された『波留麻和解(ハル
マわげ)』(別名『江戸ハルマ』)と区別するため別名『長崎ハルマ』)と呼ばれる。ハル
マの当て字としてほかに「波留麻 」
「彼児馬 」
「波留間」などがある。]
1810.○【フランス】刑法典が制定され、第 479 ∼ 480 条で〈事物の予見、予測、あるい
は夢の解釈を生業とする者は、10 フラン以上 15 フラン以下の罰金に処する〉、
〈場合に
よっては身柄の拘束もありうる〉と明文化される 。
[1853.11.30 警察条例で、同じ禁止箇
条が確認される。1882 年、パリ警視総監が〈パリで商売を営む占い師のたぐいを一掃す
る〉と宣言する。
]
1810. ○【フランス】人工妊娠中絶が、刑事犯罪となる。
1811(文化8)
1811. 3.−【イギリス】ノッティンガムの編み物工たちが、賃金をはじめとする労働条件
の改善を求めて生産用機械を破壊し始める。[以後、ヨークシャーの羊毛工業労働者、ラ
ンカシャーの綿工業労働者などに波及する。指導者として架空の人物であるとされてい
るネッド・ラッド Ned Ludd(ネッド王、ネッド将軍ともいう)の名があげられたところか
ら、この労働者による機械打ち壊し運動は「ラダイト運動( Luddite movement)」とよば
れる。単なる反近代的運動としてではなく、機械の破壊などの威嚇行為による労働者の
集団交渉の初期的形態として行われる。1812 年 4 月、ローフォード工場への襲撃事件な
どが起こり、このころから政府によって、中心的参加者の処刑、軍隊の動員などの抑圧
策がとられる。1816 年ころ運動は沈静化する。]
1811. 4.11 【日本】俳人小林一茶( 52)が、生涯 3 度の結婚のうち…(28)と最初の結婚をす
る。日記に交合の記録を日付の上に°印を付けて残す。精力絶倫の源は、俳人が好んで
飲んだ碇草(いかりそう)(淫羊(いんよう)かく)という野草で、毎朝飲んだという。
1811. ○【日本】山東京伝の『先読(まずよんで)三国小女郎』の全巻が刊行される。三国
(福井県)の小女郎の伝説が広められる。
1811.○【ドイツ】ケーニヒ Friedrich K ロ nig(37)が、バウアー Andreas Friedrich Bauer( 28 )
と協力して、蒸気機関と連動して平らな版盤を往復させ加圧して印刷できる押胴式印刷
機を発明する。活版を水平台(版盤)にのせて往復運動をさせ、これに押胴を加圧接触さ
せ、その間に紙をはさむ様式で、15 世紀以来大きな変化のなかった印刷技術に一大革新
をもたらす。のちの活版印刷機の元祖となる。機構上複雑なのは動力装置の円運動を版
盤の往復運動に変えること、押胴に紙を供給し固定することなどの難点がある。[1813
年、イギリスの『タイムズ』がこの押胴式印刷機を購入する。1814 年 11 月 29 日号から
印刷を開始する。1817 年、バウアーと共同でビュルツブルクに印刷機製造工場を設立す
る。押胴式印刷機をしだいに改善改して、高速輪転機の生産を行い、両面印刷も発明す
る。漸次大量生産に入りはじめている新聞・出版業に、格好の生産手段を提供する。]
1811. ○【フランス】ナポレオンⅠ世が、中国語辞書の編纂を命じる。その印刷に必要な
- 307 -
漢字活字の不足分の補充が帝室印刷所で行われる。広東のフランス領事を勤めたクリス
チァン・ルイ・ジョセフが編纂に当たる 。[ 1813 年、中国語辞書『漢字西訳( Dictionaire
chinois, francaiseetLatin) 』が 、欽定版にふさわしい豪華な大型のフォリオ版で完成する。
印刷に使用された 40 ポイント木活字は 1 万 3316 字にのぼる。しかし、これはフランシ
スコ会宣教師ブロロ・デ・グレモナ編の中国語・ラテン語対訳の写本辞書(通称「バジリオ
の辞書」にフランス語訳を付け加えただけの内容で、学者の非難を浴びる。
]
1812(文化9)
1812. ○【日本】雲州松江藩の重臣、江戸の三奇人の一人、天愚孔平(てんぐこうへい)こ
と萩野喜内が、150 歳の長寿と自称して、自伝『天愚雪冤』を著す。曰く、〈私儀、当年
百五ツに相成候。世上にては喜内が百五ツといふは虚言ならん、たか>”七八十計りに
見ゆると取沙汰するよし。是と申すも容貌の若く見ゆる故なり。長寿するにはいろ>”
仕方あれども、まず湯をつかはず、熱[アツイ]物をたべず、女をせぬが第一也。私儀、
四十計[バカリ]より湯をつかひ不v申。冷飯ばかりたべ、妻をも近附不v申。(中略)
私儀、若年より一体、性強く、妄想[夢精]を十一才より毎夜>見たり。十五、六の時に
は甚しく相成候。俗に妄想は弱き人の見るものにて宜しからぬ事也と申せども、私のは
強過ぎて見る妄想とみえて、此年来まで存生仕る。南海公[松江藩第五代藩主]幼年の節、
伽の子供を連れ、毎日遊びに行れし時、私も子供にて供したり。その空き御殿にて朋輩
の子供寄合ひ、私をとらまへ、手すさみ[手淫]をしてくれたり。その後、かのひとり手
すさみを、自分にて三度してみたる外 、したる事なし 。二十才の時にはじめて女を仕る 。
是は内の女のよく寝入りたるを伺ひて忍びより、既に合する迄目をさまさず、その間に
事果てかへれり。その女の名も忘れたり。養生には情をうつさず、はやく仕まふが宜し
く候。(後略)〉(中野三敏『文学』 1987 年 7 月∼ 12 月)
1812. ○【日本】本井子承が『長命衛生論』を著す 。
「夫婦は人倫の大綱」であり「夫婦
の交を大切にして、すくなくなさば身よくかたまり、夫婦長くたのしみのもとひ(基)な
らん」「色欲は甚おもしろきものにて、天地の中生あるもの是を好まざるはなし。その
筈なる事は、夫婦陰陽の気、合体して形をのこし、子孫をつヾけるほどの事なれば、至
て大切の事にて、あだなる事にてはなし、おもしろきたのしき筈なり。
」
1812.○【ノルウェー】オスロ大学図書館( UBO)が、デンマーク王立図書館の重複本 3 万
冊を核として設置される。
1812.○【ドイツ】ヤーコプ Jacob Ludwig Carl Grimm( 27 )とウィルヘルム Wilhelm Carl
Grimm(26)のグリム兄弟が、
『子どもと家庭のための昔話集(Kinder- und Hausm ∵ rchen) 』
初版第 1 巻を出版する。友人 A. von アルニムと C. ブレンターノ共編の民謡集に触発さ
れて、民間に語り継がれている昔話を採集する中、ハッセン・プフルーク家の娘マリーが
話す灰かぶり姫やいばら姫の話、ジャネットの語る赤ずきんの話などを文字に記録して
まとめた 。[以後、通称『グリム童話』と呼ばれ、伝承文芸の収集と研究を著しく促進
し、創作童話にも刺激を与える。各国語に翻訳され、世界中に読まれる。1887 年、桐南
(どうなん)居士(菅了法(すがりようほう))による抄訳『西洋故事神仙叢話』が最初の日
本語訳と言われる。
]
1812. ○【フランス】ナポレオンが、ロシア遠征でモスクワまで占領しながら大敗北を喫
- 308 -
する。これを記念した 5 フラン銀貨が発行される。
1812.○【イギリス】イギリス最初の広告代理業レーネル・アンド・サン社(Reynel and Son )
が、ロンドンに創立される。
1812.○【イギリス】政府所管の郵便料金が、ナポレオン戦争のあおりで過去最高になる。
また、スコットランド向けの郵便物は、2 輪以上の車で運ばれた場合には半ペンスの追
加料金を課すこととなる。また、郵便料金は、確実に受取人に届くという古くからの考
えから、すべて受取人が支払う制度になっている。[以後、この制度が郵便の事務を停滞
させ、やがて行き詰まる。1833 年、下院で郵便制度の根本的な改革が問題となる。1837
年、ヒル Roland Hill が、改革案を示した小冊子を発表する。]
1812.○【イギリス】スミス William Henry Smith ( 20)が、ロンドンのストランド街で貸本
屋と同時に父親の新聞雑誌販売業に加わり兼業する。[以後、弟のヘンリー・エドワード
Henry Edward Smith の協力も得て、地方への短時間配達のための新聞特急列車のチャー
ターや駅馬車を活用して、イギリス最大の業者となる。1846 年、息子のウィリアム・ヘ
ンリー William Henry が共同経営者になる。]
1812. ○【イギリス】ロンドンの街灯にガスを供給するため、
「ロンドン・ウェストミンス
ター・ガス会社」が設立される。ガス事業の初め。[のちに「ガス灯・コークス会社」と
改名する。1823 年に年間 2 億 5000 万立方フィート(700 万 m3)のガスを供給する。]
1812.○【イギリス】ブレンキンソップ John Blenkinsop( 29 )が、鉄のレールに鉄の車輪で
は滑るとの予想から、レールの頭部の外側に歯型をつけ、それにかみ合わせる歯型のつ
いた動輪をもつ機関車を発明する。[以後、その必要性のないことが認識され、普及しな
いで終わる。のちに、この考え方は、登山鉄道の歯車式鉄道(ラックレール式鉄道)とし
て実用化される。]
1813(文化10)
1813. 7.−【中国】ロンドン伝道会の宣教師ミルン William Milne(29)が、マカオに到着す
る。
[以後、インドから印刷機を導入する。1816.11 ベンガルから英語の活字とマレー語
印刷のためのアラビア語の活字が到着する。1818 年、ミルンによって学校「英華書院」
が創設され、印刷所は Anglo-Chinese Press という名称が付けられる。1823 年、モリソン=
ミルン訳『神天聖書』が木版で印刷される。
]
1813. ○【日本】日本初の化粧専門書、佐山半七『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわい
でん)」
』が刊行される。巻頭に〈人は生まれつきの美人というのは少ない。この本を読
んでいろいろ試してみれば見違える女性になる〉という趣旨の言葉が記され、内容は、
顔から手足、身だしなみにいたる細かい留意点を記述する。
1813.○【イギリス 】キリングワース炭鉱のエンジン工スティーブンソン George Stephenson
(32 )が、炭鉱主から蒸気機関車の製作を委託され、初めて蒸気機関車を製作する。[ 1814
年 7 月 25 日、ブリュッヘル号の試運転に成功する。1815 年、坑内安全灯を発明する。1823
年、機関車製作工場を設立する。]
1814(文化11)
1814. 2.25【イギリス】若い頃ポンプの釜たきをしていたスティーブンソン George
- 309 -
Stephenson( 33)が、炭鉱主から委託されて独力で蒸気機関車を研究し、キングスワース
炭坑にレールそ敷き、実験に成功する。
1814. 6. 4 【フランス】ブルボン王朝の復活をになうルイⅩⅧ世(59)が、新体制の基礎と
なる憲章を制定、発布し、立憲君主制を確立する。国王の神聖不可侵と世襲、カトリッ
ク国教化の復活など保守的な面がある一方、法の前の平等、所有権の不可侵、原則的な
言論の自由の保証など、フランス革命の成果を採り入れる。
1814. 7.25【イギリス】スティーブンソン George Stephenson( 33)が、炭鉱主から委託され
て製作した蒸気機関車の運転に成功する。この第 1 号の蒸気機関車は、ワーテルローで
ナポレオンを破った人物にちなんで 、
「ブリュッヘル号」と命名される。[以後、改良を
加え、1825 年までに 16 台の蒸気機関車を製作する。]
1814.11.28 【イギリス】輪転式の印刷機が初めて実用される。ロンドンのタイムズ社社主
ジョン・ウォルターが、版をのせる板を蒸気で往復運動させ、その上から円筒形の押胴で
圧力をかける、ケーニヒの押胴式印刷機を昨年購入、整備したのち、この機械で 11 月 29
日号から印刷を開始する。従来は、夜半の 12 時に原稿がそろうと、朝の 6 時までに 12
台の印刷機に 1 台あたり 2 人の工員がついて、交代で印刷しても 1 万部印刷するのがや
っとであったが、この新型機械では、1 台に 2 人がついて約 1 万枚を刷ることができ、
一夜のうちに全発行部数を刷ることができるようになる。
[11.29 朝、印刷工が手引印刷
機で仕事を開始しようとしている時、ウォルターが現れ、夜の間に高速印刷機で刷られ
たこの日の新聞を全員に披露する。紙面には〈本日のわが『TIMES』紙は、印刷術発明
以来最も偉大な改良の具体的成果を、読者の皆様にお届けします〉と書き、
〈1 時間で少
なくとも 1100 枚は印刷できます〉と付け加える。以後、輪転式印刷機が印刷界に革命を
もたらす。同時に日刊紙の大部数印刷時代が幕を開く。
]
1814.11.−【日本】曲亭(滝沢)馬琴(47)の『南総里見八犬伝 』初輯(第 1 集)が刊行される 。
[以後、1842 年[ 8.20 ]に完結編刊行まで、28 年の歳月をかける馬琴畢生の超大作となる。
稿料は流行作家として 1 冊につき金 4 両を得る。一般には 1 冊 1 両程度、5 冊物で 5 両
が相場である。この頃、合巻では 6 冊物 1 編の稿料は馬琴で 5 両から 10 両、一般には 5
両程度である。完成に近づいたときに、75 歳の馬琴は両眼が盲(めし)いてしまい、漢語
にうとい嫁のお路が苦心惨澹して口述筆記をはたし、ようやく完結にこぎつける。物語
はは壮大華麗、波乱万丈をきわめ、読者を狂喜させる。明治時代にまで及ぶ大ロングセ
ラーとなる。]
1814. ○【日本】和蘭通詞の本木庄左右衛門が、幕府の命により最初の英和辞典『諳厄利
亜語林大成』を編纂する。[以後、写本のため広く行われない。]
1814.○【イギリス】ロンドンのピカデリーに、ガス灯の街灯が設置される。[ 1823 年、
ブリストルにも設置される。以後、各地に普及する。1880 年代以降、しだいに電灯に取
って代わられる。]
1814.○【イギリス】スコット Walter Scott( 43 )が、友人のバランタインと出版社を兼ね
た印刷所を経営し、小説としての第 1 作『ウェーバリー 』を匿名で印刷・出版する。1745
年の旧スチュアート王家復辟(ふくへき)を図った反乱の史実を背景にした歴史小説で、
世の好評を得る。[以後、イギリス小説最初のベストセラーになり、廉価本と合わせて 4
万部を売る。これに自信を得た作者は、以後死ぬまでに合計 27 編の長編小説を書き、そ
- 310 -
れらは第 1 作の題をとって「ウェーバリー小説群」の総称でよばれる。]
1815(文化12)
1815.○【日本】柳亭種彦( 32 )が、役者似顔絵の名人歌川国貞(くにさだ)と提携し、戯曲
風に構成された合本『正本製(しょうほんじたて)』を 、江戸の西村屋与八から刊行する 。
合本の世界に歌舞伎の趣向を取り入れて好評を博す。[∼ 1831。]
1815.○【中国】マカオで、東インド会社の印刷技師トムズ P.P. Thoms が、ロンドン伝道
会宣教師モリソン Robert Morrison (中国名は馬礼遜)の中国語辞書を印刷するために漢字
の明朝体活字を作る。合金あるいはスズに鑿で彫った 4 種類の彫刻活字が作られる。こ
れにより、まず、モリソンの英華対訳字典『字典( Chinese and English,arranged according to
the radicals)』(別名『中国語辞典(A Dictionary of the Chinese Language )』)第 1 巻を刊行
する。[ 1823 年、第 2 巻、第 3 巻を刊行。漢字の全フォント完成に多大の時間を費やす
が、次第に数が増え、中国語学習のための 20 以上の辞書・著作を印刷する。1856 年、
火事で破壊される。]
1815. ○【ノルウェー】オスロ大学図書館が、デンマーク王立図書館に代わって、国内で
刊行された全印刷物を 1 部づつ納本を受けることとなり、国立図書館機能を持つ。[1889
年、オスロに新たに国立図書館が設立される。
]
1815.○【イギリス】物理学者ブルースター David Brewster ( 34)が、光が透明な物体の表
面で反射すると偏光することを発見する。偏光の度合は、光の入射角がブルースター角
とよばれる角度と等しくなるときに最も大きくなる 。
[1819 年、偏光に関する業績によ
り、ロンドンのローヤル・ソサエティ(王立協会)からランフォード・メダルを授与され
る。
]
1815.○【イギリス】王立研究所化学教授デービー Sir Humphry Davy( 37)が、揮発油の炎
を金網の筒で包んだ安全灯を発明する。ガスの炎の上に目の細かい金網をかざすと、金
網より上に燃焼性ガスが存在していても、網を通してこれに着火することはないという
現象に基づいて、炭坑災害防止のためにこれを考案する。王立協会からこれに関連する
研究に対して、ランフォード・メダルを授与される。[この頃、デービーとは独立にクラ
ニー W.R.Clanny やスティーブンソン G.Stephenson らも同様な原理の安全灯を発明してい
る。デービー灯は金網だけを用いていたので照明具としては暗く不十分であったが、ク
ラニー灯は腰ガラスと金網からなり照明具として優れている。のちにこれをドイツのウ
ルフ社が改良し日本にも導入され、ウルフ灯は安全灯の代名詞のようになる。メタンガ
スが安全灯の灯内に入ると、ガスの濃度に比例して炎が伸びるので、炎の長さを測って
ガス濃度を知ることができる。現在安全灯は照明具としては使用されないが、簡易可燃
性ガス検知器として認められている。]
1815. ○【タヒチ】初めて印刷が行われる。
1816(文化13)
1816.○【日本 】亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)(68)が、1810 年に完成した「万国全図 」
を基に、『新訂万国全図』を印刷する。直径約 30cm の東西半球を左右に配する。地図の
四隅には小円図があり、それぞれに北極・南極・京都中心の地図、日本の反対側の地図
- 311 -
が描かれている。製作に際しては、縦 4 段、横 4 列の銅板で分割印刷後、はぎ合わされ
たもので、日本で印刷された最大の地図となる。
1816.○【フランス】ニエプス Joseph Nic ロ phore Ni ロ pce( 51 )が、石版や銅板の面に薬液
を塗り原稿を太陽光線で焼き付けて凹凸のある印刷版を作る方法「エリオグラフィー(ヘ
リオグラフィー)hロ liograpie 」に成功したあと、この方法を使い、カメラ・オブスキュラ
の映像を、塩化銀と硝酸に浸した感光紙の上に定着させようと実験する。未感光部分を
溶かして除去すると、明暗が反対のネガ(陰画)に写ったので、彼自身失敗したと認め
てがっかりしてしまう。この時はまだ定着することも知らなかった。[ 1822 年、上質の
アスファルトが光に当たると油に溶けやすくなる性質を利用して実験を重ねる 。1826 年、
初めて金属板上に恒久的な写真像を固定することに成功する。]
1816. ○【イギリス】活字で、線の太さが一様でセリフのない「グロテスク」体が制作さ
れる。[以後、ヨーロッパで「グロテスク」と呼ばれ、アメリカでは「ゴシック」と呼ば
れる。1928 年、グロテスクスタイルはすべて基本を欠いていると考えられ、レンナーが
「フーツラ Futura」を制作する。]
1816.○【イギリス】物理学者ブルースター David Brewster(35)が、カレイドスコープ(万
華鏡) kaleidoscope を発明する。円筒の中に細長い 3 枚の平面鏡を、鏡面を内側にして正
三角形にはめこみ、筒の一端をすりガラスでおおい、他の端におもにガラスなどの透明
で小さな色片を数多く入れる。筒を明るい方向に向けてのぞき穴から見ると、色片が 3
つの鏡面に写って見える。筒を回すとそれがさまざまに位置を変化させ、同じ模様がふ
たたび現れず、美しく見えるのでこの名がある。[以後、特許をとり、短期間で数千個
を販売するが、簡単にまねのできる発明だったため、結局収入にはならない。またその
ほかにも、わずかに異なる 2 枚の写真をつかって立体的にみせる装置、ステレオスコー
プ(実体鏡)を発明する。1850 年、日本で高野長英訳『三兵答古知幾』に〈可烈以度斯可
布(カレイドスカフ)〉の語が登場する。]
1816. ○【イギリス】ロナルズが、静電気式電信を考案する。
1816. ○【アメリカ】蒸気エンジンをとりつけた帆船による帆走定期航路「ブラックボー
ルライン」が、ニューヨーク港を拠点に開設される。この頃、蒸気船は石炭燃料のスペ
ースが多くとれないため、河川と沿岸航行にしか使えないと考えられている。[ 1819 年、
外輪蒸気船が、初の大西洋横断航海に成功する。]
1817(文化14)
1817.2.17【アメリカ】ボルチモアの街頭で、世界初のガス灯がともされる。
1817.○【日本】長崎にオランダ商館長として着任したブロムホフ(ブロンホフ)(38)が、
夫人と 2 歳の男児を同伴して来る。幕府が女性の出島滞在を禁止していたため、彼女ら
は 40 日余り出島に上陸しないまま、乗ってきた船でジャワに引き返す。この間、鎖国以
来異国婦人を見たことがない日本人の間で大きな話題になり、長崎の人々は一目見よう
と興奮する。
[秋、長崎鎮台鑑画職石崎融思(いそざきゆうし)( 49 )が、
「ブロムホフ家族
図」を洋風画として描く。さらに、長崎の画家たちが肉筆や長崎版画としてブロムホフ
の家族図を描いて、世間に流通していく。
]
1817.○【スウェーデン】ロリンスカ医学研究所の化学薬学教授ベルツェリウス Baron J
- 312 -
□ ns Jacob Berzelius( 38)が 、硫酸工場の鉛室泥中の赤色物質からセレン元素を発見する 。
ギリシア語の月を意味する selene にちなんで命名する。
〔すでに発見されていたテルル(ラ
テン語で地球の意味)との対応によるものといわれ、また、燃えるとき月光に似た青白
い炎をあげることによったともいわれる。
〕
1817.○【ドイツ】ゼーネフェルダー Aloys Senefelder( 46)が、亜鉛版による金属平版を
考案する。
(1818 年か?)
1817.○【ドイツ】数学者ガウス Karl Friedrich Gauss( 40)が、天体望遠鏡を作る。対物レ
ンズは、片面が強い凸面、片面が弱い凹面の薄い「メニスカス」の凸レンズと凹レンズ
の 2 枚組み合わせを用いる。[1880 年、イギリスのクラークが、ガウスの対物レンズを 2
組、絞りをはさんで対称に置いた写真用レンズを設計する。のちに大口径レンズを可能
にするガウス型の発端になる。1897 年、カール・ツアイスのルドルフが、f3.8 のプラナ
ーを作る。以後、多くのガウス型のレンズが設計され、実用化される。]
1817.○【ドイツ】貴族の息子、男爵ドライス・フォン・ザウエルブロン Freiherr Karl
Friedrich Drais vonSauerbronn(カール・フォン・ドライス)( 32)が 、木馬型自転車の原型「ド
ライジーネ」を考案する。大部分は木で作られ、重さは 18kg。[ 1818 年、改良してパリ
のリュクサンブール公園で公開する。]
1817.○【南太平洋??】Moorea Eimeo で初めて印刷が行われる。??
1818(文政1)
1818. ○【オーストラリア】タスマニアで初めて印刷が行われる。
1818.○【ドイツ】石版印刷の発明者ゼーネフェルダー Aloys Senefelder(47)が、着色印
刷法の著作『石版印刷教本』を執筆する。また、亜鉛板による金属平版を考案する(1817
年か?)。[この頃、石版平版の技法はフランス、イギリスにも伝わり、技術的・表現的
にもかなりの発達をみる。鉛筆、ペン、筆などの素描の効果をほぼそのままに再現でき
る特質をもつことから、以後、石版平版の技法は金属平版に受け継がれ、重くて取扱い
の不便な石版はしだいに衰退するが、芸術的版画として「リトグラフ」の名で画家に利
用される。1820 年代以降 、リトグラフは〈ドイツで発明され、フランスで芸術となった〉
といわれるようにフランスでの降盛が目覚ましく 1828 年はドラクロワの『ファウスト』
の連作などをはじめ、ジェリコーらロマン主義の画家たちが次々に優れた作品を生み出
す。1825 年、ボルドーに亡命していたゴヤが『ボルドーの闘牛』の連作をつくる。1832
∼ 72 年社会派の画家ドーミエはリトグラフにより『カリカチュール』や『シャリバリ』
などの風刺雑誌を中心に痛烈な社会・政治批判を行い、その数は 4000 点に達する。この
版画技法は報道や記録などにも盛んに活用され、ニコラ・トゥサン・シャルレやオーギュ
スト・ラフェがナポレオンの戦歴を英雄的に描いたものはフランス国民に熱狂的に迎えら
れ、また自然科学書の挿絵や地誌的な風景版画の手段として、従前の銅版画をしのぐ勢
いをみせる。]
1818.○ 【 ド イ ツ 】 貴 族 の 息 子 ド ラ イ ス ・ フ ォ ン ・ ザ ウ エ ル ブ ロ ン Freiherr Karl
FriedrichDrais vonSauerbronn( 33 )(カール・フォン・ドライス)が、木馬型自転車を改良し、
方向転換のできるハンドルをつけた「ドライジーネ」と名付けた自転車を製作する。パ
リのリュクサンブール公園で初めて公開する。[以後、イギリスのデニス・ジョンソンが、
- 313 -
ドライジーネを改良して特許を取得する。これが流行して、
「ホビーホース(hobbyhorse ) 」
とか「ダンディーホース(dandyhorse )」と呼ばれる。]
1818.○【フランス】物理学者フレネル Augustin Jean Fresnel( 30)が、光の波動説に基づき、
光の波は波長が異なる幾種類もの波が存在し、各種の色光はそれらの波長が異なること
を発見する。
1818.○【イタリア】ボドニー Cavaliere Giambattista Bodoni(1740 ∼ 1813)らによってつ
くられた活字のモダンフェイス modern face の一種「ボドニー体」による『活版術便覧(活
字印刷の手引き)』が刊行される。[以後、洗練の手が加えられ、20 世紀の初期に完成さ
れ、ローマン活字の主流になる。太線と細線との差が大きく、セリフは細く平たく、堅
実さと美しさを併せ持つので、近代世界で文字組版に広く使われるようになる。]
1818.○【イギリス】シェークスピア学者バウドラー(ボウドラー)Thomas Bowdler( 64)が、
性を口にするのは恥ずべきことであるとして、青少年に不適当と思われる性的な部分を
す べ て 削 除 し た 『 フ ァ ミ リ ー ・ シ ェ ー ク ス ピ ア ( 家 庭 向 け シ ェ ー ク ス ピ ア ) Family
Shakespeare』を編集する。バウドラーは、出版物から性に関する部分をすべて追放しよ
うと試みて、legs(脚)の代わりに limbs を、breasts(乳房)の代わりに bosom(胸部)とい
う単語を使うなどした。[以後、このような添削に対して「bowdlerize (わいせつ部分を削
る)」という新語ができる。しかし、その裏面ではポルノグラフィーが流行し、ロンドン
には 8 万人の売春婦がいて 40 万人の男がこれに関係し、1851 年にはイングランドとウ
ェールズの成人女子の 8%が私生児を産むという現実が生じる。]
1818.○【アイスランド】デンマーク領下で、初めて図書館が設けられる 。
[1914 年、ア
イスランドが独立、国立図書館となる。]
1819(文政2)
1819. 5.24【アメリカ】外輪蒸気船サヴァンナ号が、初の大西洋横断を目指してジョージ
ア州サヴァンナを出港する。出港するにあたり 、
「棺(ひつぎ)の蒸気船」とあざ笑う者
もあり、イギリスの自然哲学者ラードナーは、2 年前から〈大型の蒸気船が大西洋を横
断できるわけはない。積載できる人員より、多くの石炭が必要だからだ〉と主張してい
た。この船は、全長 33m、幅 7.8m、排水量 703t の木造船で、帆のほかに 90 馬力の蒸気
エンジンを備えており、前年にニューヨークで建造された。[6.20 サヴァンナ号が、27
日 11 時間の航海で初の大西洋横断航海に成功し、イギリスのリバプール港に到着する。
燃料の薪が十分でなかったため、蒸気機関による航行はときどきしか行なわず、延べ約 80
時間に過ぎなかったが、帆船よりも 10 ∼ 15 日早く着き、蒸気船が長距離の外洋航海に
も使えることを実証した。以後、蒸気船は著しい進歩を始め、遅い帆船を駆逐して蒸気
船中心の時代になって行く。]
1819.○【日本】塙保己一(はなわほきいち)編『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』530 巻
が刊行される。約 300 組出版される。古文献の叢書で、収める文献は 1270 種に及ぶ。部
門を神祇(じんぎ)、帝王、補任(ぶにん)、系譜、伝、官職、律令(りつりょう)、公事(く
じ)、装束、文筆、消息、和歌、連歌(れんが)、物語、日記、紀行、管絃(かんげん)、蹴
鞠(しゅうきく) 、鷹(たか)、遊戯 、飲食、合戦 、武家 、釈家(しやつけ) 、雑の 25 に分け 、
各地の文献を収載する。1 セット 48 両。約 300 人いる大名の半数が、幕府への義理で購
- 314 -
入する。[以後、日本史、国語国文学における重要な資料集となる。明治時代に活版印刷
され、昭和年間に新版が出る。保己一はまた続編をも計画したが、実現できず、子孫・
門人に受け継がれる 。曲折を経て 1924 年より『続群書類従 』が刊行され、全 1150 巻 、2103
種の文献を収録し、活版で刊行される。このほか明治に、市島謙吉により『続々群書類
従』
、水谷弓彦、幸田成行(しげゆき)(露伴)により『新群書類従』が編集・刊行される。]
1819. ○【日本】淀藩医南小柿寧一(みながきねいいち)が、人体の解剖図集『解剖存真図
(ぞんしんず)』を著す。40 余回の解剖に立会い、自ら絵筆をとって写生に励み、83 図を
つくる。最後に妊娠した猿の子宮の解剖図を掲載する 。[以後、江戸時代の解剖図とし
て内容的に最高のものとされる。シーボルトがこれを見て賞賛し、オランダ文で賛詩を
書き入れる。
]
1819. ○【フランス】パリで、街灯のためのガス事業が開始される 。
[以後、世界の大都
市にガス灯が普及していく。
]
1819.○【イギリス】スコット Walter Scott( 48 )が、歴史小説『アイバンホー(Ivanhoe )』
を著し、友人のバランタインと共同経営のバランタイン出版社から印刷・刊行する。出
版物はコンスタブル書籍商を通じて流通・販売する。この頃、作者と印刷・流通・販売
は分業化していない。初版 1 万 2000 部がたちまちにして売り切れる。小説がマスマーケ
ットであることが認められる。[1826 年、バランタイン出版社とコンスタブル書籍商が
破産する。以後、スコットが負債をかかえ、返済のため筆一本で書きまくる。1819 年、
オペラ『ルチア』の原作『ラマムアの花嫁』、
『アイバンホー』を刊行。1821 年、
『ケニ
ルワースの城』
。1825 年、中世の十字軍に材をとった『護符』刊。1832.9.21 疲労のため
死去する。]
1820(文政3)
1820. 4. 8【ギリシア】エーゲ海のギリシア領ミロス島でイヨルゴという一農夫が、アフ
ロディテ神殿の近くで畑をたがやしている時、ギリシア神話のアフロディテ(ビーナス)
大理石像を発見する 。この像は腰部で切断され、上下 2 つの大理石からなる。高さ 204cm 、
上半身は裸体、下半身は衣に覆われている。右脚に体重をかけ、やや前かがみで遠くを
見つめる古典的な顔だちと胸の膨らみ、古代ギリシアの女性美の典型とされる均整のと
れたポーズをしている。[以後、
「ミロのヴィーナス」と呼ばれ、紀元前 5 世紀のものと
騒がれたが、その後の研究の結果、前 130 ∼前 120 年ころの作に帰せられる。フランス
の駐トルコ大使侯爵リビエールが購入、国王ルイ 18 世に献上したことからフランスの所
有となる。1964.4.8 フランス政府の好意で東京で特別公開される。続いて京都で公開さ
れる。]
1820. ○【日本】名古屋で、顕微鏡が見世物興行になり、蚤、虱、蚊などを見せる 。
〈皆
々手のひら程つつニ見え、至ておそろしき物也〉と記録に残される。
1820.○【デンマーク】コペンハーゲン大学物理学教授エルステッド Hans Christian ロ rsted
(43)が、学生に講義している最中に、ボルタ電池に接続してある導線の近くに置かれた
磁針が、導線に電流を通じた時に導線の方向に回転するのを見て、磁針はその電流によ
って力を受けるという電流の磁気作用を発見する。[以後、直ちにこの発見は D.F.J.アラ
ゴ、A.M.アンペール、J.L.ゲイ・リュサックらにより追実験され、M.ファラデー、W.E.ウ
- 315 -
ェーバーらの研究も促して、電気力学、さらには電磁気学形成への道を開いていく。電
流を通した導線のそばにおかれた磁針の振れによって通信を送る方法が発展する。これ
を完成したのはイギリスの C.ホイートストンと W.F. クックとであるが、イギリスでは産
業革命の最盛期であり、迅速正確な通信方法の完成は強い社会的要求となっていた。]
1820.○【ドイツ】数学者・気象学者・ブレスラウ大学教授ブランデス Heinrich Wilhelm
Brandes(43)が 、
『天気学研究(Beitr □ ge zur Witterungskunde)』を出版、そのなかに、世
界最初の天気図を描いて掲載する。これは新しい天気図ではなく、図書館にそれまで死
蔵されていた 25 年以上も前の 1783 年 3 月 6 日の気象観測記録による天気図であり、バ
バリア侯 E.K.テオドルによって組織されたパラチナ気象学会が、ヨーロッパ各地でほぼ
規格を統一して行った観測結果の記録である。したがって、天気予報の実用にはなりえ
ないものである。しかし、これにより、従来の点の観測が、図による間接的な表現では
あるが面の観測となり、高気圧や低気圧のようなスケールの大きい気象の構造の存在が
明らかとなる 。
[以後、スケールの大きな運動では地球自転の影響が大きく作用するこ
とが明らかとなるなど、大気の力学に関する研究が進む。
]
1820.○【フランス】ビオ Jean-Baptiste Biot(46)とサバール F レ lix Savart( 29)が、エルス
テッドによって発見された電流の磁気作用に触発され、ただちに直線・折線電流が磁石へ
及ぼす作用を精密に測定し、その膨大な測定データにより、導体を流れる電流の微小部
分が周囲につくる磁場を与える法則「ビオ=サバールの法則(Biot-Savart's law)」を提出す
る。
1820.○【フランス】ド・コルマ Charles XavierdeColmar(イギリス名 Thomas Colmar)( 1875
∼ 1870)が、実用的な手回し計算機「アリスモメータ」を販売する。[以後、わずか 6 桁
の加減計算を行うのに、大きな机一つ分のスペースを必要としたため、1860 年までに売
れたのは数百台のみに止まる。]
1820.○【フランス】パリに、政府公認の娼家が 178 軒あり、登録された娼婦が約 2800
人いる。
1820. ○【イギリス】ロンドン電信技術者協会図書館で、最初のカード目録が作られる。
カードによる図書・情報などの整理のための「カードシステム( card system)」の先駆け
となる。[以後、帳簿とちがって、一定主題による組替え、追加が自由という利点があり、
文献検索技術として発達する。1898 年、アメリカ議会図書館で、3in × 5in ( 7.5cm ×
12.5cm)のカードを標準目録カードに決定する。1890 年ごろ日本にもカード方式が紹介
される。]
1820.○【アメリカ】ニューヨーク商業図書館協会( NewYorkMercantileLibraryAssociation)
が、アメリカで最初の商業図書館を開く。商業従事者がその仕事に関連する経済、政治 、
その他の分野の知識情報を学ぶ機会を提供する。
1820.○【アメリカ】出版者ピーター・ホームズが、『ファニー・ヒル』(1750 年初刊)を出
版する。この本を売っていた書籍商が処罰される。[ 1821 年にマサチューセッツ州法廷
が、わいせつ物販売の罪で起訴する。1963 年 、ニューヨーク州でこの本が解禁になる 。1964
年、イギリスでこの本の処分をめぐって裁判があり、没収破棄の判決が出される。]
1821(文政4)
- 316 -
1821.[ 4.20]
【日本】幕府が、歴書、天文書、オランダ翻訳書のすべては町年寄奈良屋
市右衛門へ届け出て、江戸町奉行の許可を得るよう命じる。
1821.[ 7.10]
【日本】伊能忠敬の弟子たちの手により「大日本沿海輿地全図」と「大日
本沿海実測録」が完成し、幕府に献上される。3 年前の忠敬の死は地図が完成するまで
内密にされ、幕府天文方高橋影保(かげやす)の監督のもとに編纂が続けられ、完成を期
に来る 9 月 4 日に喪を発することとする。
[以後 、公開されず、幕府により秘図とされる。
]
1821.9.15【メキシコ】スペイン政府軍将軍のイトゥルビデ Agust ■ n de Iturbide (38)が、
スペイン政府を裏切り、メキシコの独立を達成する。[1822.7.21 スペイン王室をメキシ
コへ迎える計画が失敗したのち、自ら「アグスティン 1 世 」と称して帝位につく。以後、
中央アメリカも併合する。1823.3.19 その反動的政策により民衆の支持を得られず、在位
10 か月で退位させられる。ヨーロッパへ亡命する。1824 年、メキシコに再入国をしたと
ころ、銃殺されるた。]
1821. ○【日本】葛飾北斎の艶本『万福和合神』が刊行される。
1821. ○【ドイツ】物理学者トーマス・ゼーベックが、銅とビスマスを接触させて熱を加
えて、一方の接合部が他方よりも高温に保たれると、電圧差が発生し、高温の接合部と
低温の接合部との間に電流がながれる現象を発見する。[以後、ゼーベック効果、または
熱起電力と呼ばれる。1826 年、オームが、電流、電圧、抵抗の関係を実験する際に、こ
の熱起電力を電源とする。]
1821.○【スペイン】公教育法に基づきマドリード中央大学が開設される。[ 1838 年、ア
ルカラのアルカラ・デ・エナーレス学寮制大学がマドリードに移転し、マドリード中央
大学の中心施設となる。以後、マドリード大学( Universidad Complutense de Madrid)(正式
校名マドリード・コンプルテンセ大学)としてスペイン最大の国立大学となる。]
1821.○【イギリス】北イングランドのストックトン∼ダーリントン間 21km の鉄道開通
工事が開始される。スティーブンソン George Stephenson ( 40 )が工事の技師長になる。
[1823 年、スティーブンソンは 2 人の共同出資者とともに世界で最初の機関車工場を設
立する。この工場で製作した機関車ロコモーション号で 1825 年 9 月 27 日にこの鉄道が
開通する。]
1821.○【イギリス】バベジ(バベージ、バベッジ) Charles Babbage(29)が、一連の計算を
実行する機械を構想し、二階差分が定数である関数の 8 桁の差分表をつくる小さい階差エ
ンジン「差分機関( difference engine )」をつくる。機械の中枢を「ミル」、記憶部を「スト
ア」と呼び、綿花工場などと同じように情報を処理するイメージで構成され、自動印刷
出力を備える。この機械は 1 から 108000 までの対数表を作成するのに使われる。バベジ
は、さまざまな命令セットを与えれば、各種の機能を持たせられると考え、一つの機械
に複数の異なる目的に利用する方法を歴史上最初に考え出す。[1823 年、政府の援助を
得て七階差分までを扱える 20 桁の階差エンジンの設計にとりかかり、設計はうまくいく
が、技術水準が低く、完成できずに終わる。1855 年、オランダの企業がバベジの考えに
基づいた機械をつくる。]
1821.○【イギリス】ファラデー Michael Faraday ( 30)が、原理的な電動機を製作し、電磁
気回転の実験に成功する。
1821. ○【アメリカ】ノースカロライナ州のチェロキー族出身のセコイヤが、母語のイロ
- 317 -
クォイ語の音声表記体系を創作する。[以後、数年間でチェロキー族社会の識字率が上
昇する。]
1821.○【アメリカ】
『ファニー・ヒル』(1750 年初刊)の出版者ピーター・ホームズを、マ
サチューセッツ州法廷がわいせつ物販売の罪で起訴する。初のわいせつ裁判が行われる。
[1824 年、マサチューセッツ州で、わいせつ罪に関する法律が制定される。1963 年、ニ
ューヨーク州でこの本が解禁になる。]
1822(文政5)
1822. 9.14【フランス】グルノーブルのリセ(高等学校)の歴史の教師シャンポリオン
Jean-Fran ロ ois Champollion (32)が、ロゼッタ・ストーンやフィラエ島出土の碑文などをよ
りどころとして、古代エジプトの聖刻文字(神聖文字)である象形文字「ヒエログリフ
hieroglyph」の解読を試みた結果、初めて「クレオパトラ」という文字を解読する。[9.27
その解読の原理をパリ学士院で発表する。常時用いられた文字の数は 700 ∼ 800 あり、
その略書体にヒエラティック、デモティックがある 。単音のものが 24 種、その他 2 音、3
音を含むものがあるが、いずれも子音のみを表しているため、各語の発音の完全な復元
は困難である。人間の動作、鳥、獣、魚などはそのまま表している。以後、この年が近
代エジプト学の出発点とみなされる。1824 年、シャルルⅩ世によってシャンポリオンは
イタリアに派遣され、古代エジプトの遺物を購入する。これがのちのルーブル美術館の
エジプト関係のコレクションの基礎となり、シャンポリオンは「エジプト学の父」と呼
ばれる。]
1822.○【フランス】スタンダール Stendhal(本名アンリ・ベール HenriBeyle)( 39)が、1818
年に知り合った生涯最大の恋人マチルデ・デンボウスキとの恋が実らず、その経験を『恋
愛論 』に結晶させる。序文に〈私は 100 人の読者のためにだけ書く〉と記す。[以後 、1833
年までに、17 冊だけ売れる。]
1822.○【フランス】数学者フーリエ一 Jean Baptiste Joseph Fourier( 54)が、論文『熱解析
理論』を発表する。ある面の単位面積を単位時間当りに通過する熱量を熱流束といい、
熱伝導に関しては熱流束は温度こう配に比例するという「フーリエの法則」が成立する
ことを示す。熱伝導論の研究に関連して、複雑な周期振動も多くの単純な信号の和とし
て解析できるということを発見し、すべての周期関数は sin 項と cosin 項の無限級数とし
て表現できることを証明し、フーリエ級数やフーリエ積分の理論を展開する。彼は物理
的な考察からこの発見が導かれたので〈自然の深い研究こそ数学上の発見のもっとも豊
かな源泉である〉ことを信条とする。[以後、フーリエの理論は解析学のまったく新し
い分野に発展する。1843 年、ニュルンベルク工科大学のオームが、フーリエの理論を音
響信号に初めて適用する。1863 年、ドイツの生理学者・物理学者ヘルムホルツが、楽器
の音色が楽器音の安定状態部分の調波フーリエ級数によってほとんど決定されるという
ことを予測する。
]
1822.○【フランス】物理学者・数学者アンペール Andr・Marie Amp e( 47)が、1920 年に
エルステッドが発見した電流の磁気作用について知るとすぐに研究にとりかかり、電流
と磁気の関係を示す「右ねじの法則」を発見し、『電気力学に関する観測集』を著し、
この現象を数学的に説明する 。[1826 年 、
『電気力学的現象の理論』を発表する。]
- 318 -
1822.○【フランス】風景画家ダゲール Louis Jacques Mand ロ Daguerre( 35 )が、画家ダヴ
ィドの弟子シャルル・マリ・プートンと共に、半透明の画面の両面に絵を描き、表裏から
交互にさまざまな光線を投射して映像を変化させる装置「ジオラマ(ディオラマ)diorama 」
を考案し、パリで興行館を開設して大成功を収める。[ 1829 年、ダゲールはニエプスの
協力を得て、ジオラマの絵を描くのに使うカメラ・オブスキュラの焦点ガラスに写る像を
感光物質でとらえて記録する研究を始める。1839 年 1 月、銀板写真(ダゲレオタイプ)を
完成して、研究成果をフランス議会に報告する。一方、ジオラマはパノラマ以上に大流
行する。19 世紀半ばには西ヨーロッパや北アメリカの主要都市に大型のジオラマ劇場が
数多く設置され、マジックショー的な幻灯ショーと並んで代表的な大衆芸能、視聴覚文
化として一世を風靡する。のちに映画の興隆により衰退する。]
1822.○【フランス】この頃、ニエプス Joseph Nic ■ phore Ni ■ pce(57 )が、リトグラフ
(石版画)にヒントを得て、カメラ・オブスキュラの像を自動的に製版することを思い付
き、上質のアスファルトが光に当たると油に溶けやすくなる性質を利用して、研究を重
ねる。[ 1826 年、史上初の写真術「ヘリオグラフィー(heliographie )」に成功する。]
1822. ○【イギリス】ロンドンのハイドパークに初のアキレス全裸像が建てられ、序幕式
が行われる。ナポレオンを破ったウェリントン公爵を象徴したもので、イギリスの女た
ちの寄贈で建てられ、民衆の度肝を抜く。数日後、陰部がイチジクの葉で覆われる。
1822. ○【イギリス】機械的な手法によって軸内の鉛芯を出し入れする単動式の繰り出し
鉛筆がつくられる。[ 1838 年、アメリカのキーランが「エバーシャープ」の名で替芯式
の筆記具を製作し、販売する。最初のシャープペンシルとなる。]
1822.○【
】 ウィリアム・チャーチが、活字を拾う作業の機械化を考案する。1 文字
づつ活字が鋳造され、順番に並ぶように工夫する。[以後、実用性に乏しく、やがて忘れ
られる。]
1822.○【アメリカ】ボストンの新聞に 、「Kaleidacousticon 」の広告が掲載される。単な
る一組のカードだが、使用説明書にこのカードを使って最高 2 億 1400 万通りのワルツを
あっ局作曲作曲する方法が記載されている。世界初の商用音楽ソフトウェアとされる。
(C.Roads 『コンピュータ音楽』)
1823(文政6)
1823. 8.11【日本】ドイツの医者・博物学者シーボルト Philipp Franz Balthasar von Siebold
(27 )が、9 月 23 日ロッテルダムを出航、バタビア(のち、ジャカルタ)を経て、日本に到
着、長崎出島に上陸し、オランダ商館の医官として着任する。シーボルトは、日本・オ
ランダ貿易強化のための総合的・科学的研究の使命を帯びている。東インド会社から幕
府への働きかけにより、シーボルトは、他のオランダ人には与えられない調査・研究の
便宜を得ており、まず出島(でじま)のオランダ商館内で、日本人に治療したり医学を教
えたりできるようになる。[以後、出島を出て、吉雄(よしお)塾、楢林(ならばやし)塾で
治療や教育をすることが許され、ついには長崎郊外鳴滝(なるたき)(長崎市鳴滝町)に
鳴滝塾をつくり、治療と講義ができるようになる。鳴滝塾には、美馬(みま)順 3、岡研
介(けんすけ)、二宮敬作、高野長英、伊東玄朴、石井宗謙、伊藤圭介(けいすけ)など多
数の弟子たちが集まる。シーボルトは弟子たちに研究テーマを与え、オランダ語の論文
- 319 -
を提出させ、彼自身の研究資料にする。また長崎近郊の動植物採集を行い、友人、弟子、
オランダ商館雇い人に協力を依頼する。川原慶賀(けいが)には図を描かせる。]
1823.11. −【日本】串茶屋(石川県)の遊里が、付近の芝居小屋からの出火で類焼し、ほぼ
全焼する。大聖寺や金沢などからの多額の寄進を得て、間もなく再興する。
1823.12. 1【アメリカ】大統領モンロー James Monroe(54)が、議会への教書で、先年から
のの植民地主義の否定を繰り返すとともに、アメリカとヨーロッパの相互不干渉の原則
を表明し、ラテンアメリカ諸国へのいかなる干渉も、合衆国に対する非友好的態度とみ
なすことを宣言する。[以後、モンロー主義( Monroe Doctrine)と呼ばれる。モンロー主義
は以後も繰り返し表明され、合衆国の基本的外交原理の一つとして確立され、時代の推
移とともに拡大解釈されるようになる。20 世紀に入ると、合衆国のみが新大陸諸国に干
渉することを正当化する原理となる。]
1823. ○礫川(こいしかわ)南嶺が女護が島を舞台にした普通の滑稽本『恋湊女護生娘(こ
いみなとにょうごのしまだ)』を著す。[1830 年、ポルノ版が刊行される。]
1823.○【チェコ】生理・解剖学者プルキンエ J. E. Purkinje が、指紋に個人差のあること
をみいだし、初めて簡単な分類を行う。
1823.○【イギリス】ロンドンの大英博物館( British Museum )が、ジョージⅣ世によって
Ⅲ世のコレクションとともにその蔵書を寄贈したのを機に改築工事が開始される。[1847
年、今日見られるような新古典様式のファサードをもつ建物が完成する。]
1823.○【イギリス】ケンブリッジ大学数学教授バベジ Charles Babbage( 31 )が、歯車の組
み合わせにより、二階差分が定数である関数の 8 桁の差分表をつくる小さい「階差エン
ジン difference engine」をつくる。政府の援助を得て 7 階差分までを扱える 20 桁の階差
エンジンの設計にとりかかる。[以後、この機械の設計はうまくいくが、この頃の技術水
準では完成できない。1834 年、のちの電子計算機の原型ともいうべき解析機械の原理を
発見する。長年にわたってこの機械の完成に努力するが、この頃の歯車やクランクなど
の機械的装置だけの技術では実現できない。1855 年、オランダの企業が、階差エンジン
を実現する。20 世紀に、バベジは電子計算機研究の始祖と称される。]
1823.○【イギリス】スティーブンソン George Stephenson( 42 )が、機関車製作工場を設立
する。[1825 年、この工場で製作したロコモーション号がストックトン∼ダーリントン
間において世界最初の旅客列車を牽引する。]
1823.○【イギリス】スタージョン William Sturgeon (40)が、軟鉄電磁石を発明する。王
立技術協会から銀賞を受ける。
1824(文政7)
1824.○【日本】商家約 2400 が登録した、案内カタログの集大成『江戸買物独(ひとり)
案内』がつくられる。
1824.○【日本】曲亭馬琴(57 )が、中国小説『西遊記』を翻案して、合巻『金比羅船利生
纜(こんぴらぶねりしょうのともづな)』(歌川豊国画)を刊行する。合巻の長編化への気
運をうながす。
1824.○【フランス】ロオジェ P.M.Roget が、自分の部屋からよろい窓を通して戸外を走
る二輪馬車の動きにフト注意の眼を向けたことから、運動の視覚的錯覚について研究を
- 320 -
発表する。
1824.○【フランス】コデルロ・ド・ラクロの『危険な関係』( 1782 年刊)が発禁となる。
1824. ○【エジプト】カイロで国内で初めて印刷が行われる。
1824. ○【アメリカ】大統領選挙の際に、有権者の意向を打診するための世論調査が、デ
ラウェア州ウィルミントンで実施される。世界で最初に行われた世論調査となる 。[以後 、
世論調査の技術は、アメリカにおいて、とくに大統領選挙の予想と結びつきながら発達
する。特に選挙の場合には投票結果が数字で示されるため、調査データの正誤がはっき
りと判明してしまうので、少しでも正確な予測ができるよう、調査技術を改善するため
の努力が絶えず払われる。1935 年にギャラップ George H.Gallup が、「アメリカ世論調査
所 American InstituteofPublic Opinion 〉を創設する。]
1825(文政8)
1825. [ 7.26]【日本】
『東海道四谷怪談』が、江戸の中村座で初演される。[のち、7 月 26
日を「幽霊の日」と定める。]
1825.9.27【イギリス】スティーブンソン George Stephenson( 44 )が製作した蒸気機関車「ロ
コモーション号」が、北イングランドのストックトン∼ダーリントン間 21km で、世界
初の鉄道上における旅客列車を牽引し、本格的な鉄道営業が始まる。最初の列車は、38
台の車両を引き、人が乗った馬が先導して、時速 20 ∼ 26km で運行する。馬車にかわる
陸上輸送の開幕となる。[以後、列車のスピードが上がるにつれて、要所要所に見張人を
置き、手で〈進め、止まれ〉などの合図を行うようになる。1830 年、リバプール・マン
チェスター鉄道が、定時に公共輸送を行う初の近代的鉄道として開業する。1833 年、ス
トックトン・ダーリントン鉄道会社は、年間 8 %の配当を行い、近代的鉄道に脱皮する。
1834 年、ロンドン・バーミンガム鉄道の工事が開始される。1836 年、鉄道事業発起熱が
全国を風靡して、各社の互いに連絡のない短区間の鉄道がイギリス全土の各所に建設さ
れ、総延長が 3000km を超える。1840 年ころから、イギリスで腕木式信号機が登場し、
夜間にはその腕にランプを下げて用いられる。]
1825.○【中国】(道光 5)福州の林春祺が、銅活字の制作を始める。
[1846 年、40 万個余
りを制作する。
「福田書海」と呼ばれる。
]
1825.○【ドイツ】シリング P.G.Schilling が、電信機の原理について提案する。
1825.○【イギリス】印刷業者ハンサード Thomas Curson Hansard (49)が、大著『活版印
刷術( Typographia:An histrical sketch of the origin and progress of the art of printing)』を刊
行する。
1825.○【イギリス】スコットランドの出版業者チャルマーズ(チャーマーズ) James
Chalmers(43)が、郵便配達の迅速化を唱えて、糊付きの郵便切手を発明する。[ 1834 年、
郵便切手の実用化を提言する。以後、採用されない。1837 年、ヒル Roland Hill が郵便事
業改革案を発表し、郵便料は前払いでスタンプを押した用紙(のちの郵便書簡)を使用す
るか、またはスタンプを押した小さい紙片(のちの郵便切手)の裏にノリをつけて、郵便
物に貼り付けるという案を提示する。]
1825. ○【イギリス】スタージョンが、軟鉄に導線を巻いて電流を流し、電磁石を作る。
- 321 -
1826(文政9)
1826. 1.−【日本】仕掛ポルノ絵本『開談夜之殿(かいだんよるのとの)』が『百鬼夜行』
の続編として刊行される。
1826. 1.−【イギリス】ロンドンの活字鋳造業者フィギンズ Vincent Figgins が、明朝体に
漢字活字を作る。ロンドン伝道会によって企画され、モリソンの中国語辞典に印刷者で
ある東インド会社の印刷技師トムズ P.P.Thoms の指導によって作られる。
1826. 4.−【日本】利根川畔木下(きおろし)藩大森役所で、代官斉藤孝五郎が、河岸問屋
七之助に、近頃お殿様国許(山城国淀)に飯盛女という名目で遊女宿ができて繁盛してお
る故、そなたの村でも再建を考えてみてはどうかと耳打ちする。[10 月、名主、組頭、
河岸問屋の村方三役による「三喜屋」はじめ5軒の遊女屋が出来、会所が建設される。
翌年 10 月 10 日に 900 両という多額の損金を出して廃業する。](五十嵐行男「印西地方史
よもやま話」
『印西新報』1990.9.12)
1826. 7 .−【フランス】この頃(1822 年説もある )
、ニエプス Joseph Nic ロ phore Ni ロ pce(61 )
が、金属板上に世界で初めてカメラ・オブスキュラの写真像を恒久的に記録することに成
功する。彼は、かつて自分が発明した光線による手書き文字などの石板・金属板への定
着法「エリオグラフィー(ヘリオグラフィー)hロ liograpie」を、カメラ・オブスキュラの
映像の固定に応用しようとして、10 年前に実験したが、それはネガ像であったため失望
した。今度は、ユダヤ産のビチューメン(白っぽい天然アスファルト)をスズと鉛の合金
のピューター板に塗布し、これを改良したカメラ・オブスキュラに装填して、自宅の窓か
ら見える屋根に向けて約 8 時間露出する。その後、石油とラベンダー油の混合液で洗い、
光を受けてアスファルトが硬化した部分を白く残して、カメラによるポジの光学像を固
定することができた。このとき使用したカメラは、パリの光学商シュバリエ製の焦点距
離 300 ミリ f1.5 両凸色消しレンズ付きで、幅 30.5cm、高さ 31.5cm、奥行 38.5cm の木製
のカメラ・オブスキュラを改造したものであった。ここにおいてカメラ・オブスキュラは
はじめてカメラ(写真機)の原形としての第一歩を踏み出すが、この方法は実用には適さ
ない。[ 1829 年(1813 年からとの説あり(岩波西洋人名辞典))、ダゲールと研究の提携を
約す。1833 年、ダゲールのダゲレオタイプ(銀板写真)完成を待たずに死去する。]
1826.10. 7【アメリカ】クインシー∼マサチューセッツの間に、アメリカ初の鉄道馬車が
開通する。
1826.○【日本】頼山陽(46 )が、日本の武家の歴史を記した『日本外史』を完成させる。
これを書くために山陽は、赤線罫の 400 字詰め用紙を作らせて使用する。以後の 400 字
詰め原稿用紙の原型となる。[1832 年死去。死後出版され、幕末の志士たちに読まれて
山陽の名を有名にする。]
1826.○【日本】宇田川榕菴(うだがわようあん)(28 )が、蕃書和解御用(ばんしよわげご
よう)の訳員となる。[以後 、ショメール百科事典を和訳し『厚生新編(こうせいしんぺん)』
を書くほか、多数の蘭書を訳述する。1847 年、『舎密開宗』を翻訳する。]
1826.○【日本】シーボルト( 30 )が、オランダ商館長の江戸参府に随行し、その往復で書
記ビュルガー Heinrich B ロ rger(22 )を助手として、動植物の採集、測量、観測などを行
う。[旅行の往復や江戸滞在中、日本人の学者たちと知識や資料の交換を頻繁に行う。]
1826.○【中国】同性愛状況の百科全書といわれる陳森(字は小逸)の文芸作品『品花寶鑑』
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の刊行が始まる。[∼ 1937。]
1826.○【フランス】エコール・ノルマルの学生ルイ・クリストフ・アシェット Louis
Christophe Hachette(26)が、パリの書店ブレディフを買い取ってアシェットを社名にし、
教科書出版に乗り出す。[ 1852 年、イギリスのキオスク書店をフランスに導入、鉄道の
ニューススタンド販売網を独占、取次販売業務に進出する。1864 年、創業者ルイ・クリ
ストフが死去。1945 年、雑誌『エル』創刊。定期刊行物への進出を図る。1953 年、ポケ
ット本叢書「リーブル・ド・ポッシュ(Le Livre de Poche)」を発刊。1988 年、アメリカ
の百科事典出版の大手グロリア(Grolier )を買収、マルチメディアへの道を開く。 フラン
ス最大規模の出版社となる。1980 年代、兵器およびエレクトロニクス産業のマトラ・グ
ループ( Matra Groupe)に発行株式の 80 %を買い占められその傘下に入る。以後、兵器・
宇宙・ハイテク産業の巨大コングロマリット、ラギャルデール・グループ(Lagard ■ re
Groupe)のメディア部門となる。1989 年、アシェット・フィリパッキ・メディアとアメ
リカのタイム・ワーナー社との合弁による日本法人タイム・アシェット・ジャパンが設
立され、同年に雑誌『エル・ジャポン』を創刊。1993 年、アシェット・フィリパッキ・
メディアの 100 %子会社となる。1999 年 11 月、婦人画報社と合併してアシェット婦人
画報社が発足する。]
1826.○【フランス】物理学者ベクレル(ベックレル) Antoine Becquerel が、ボルタ電池は
電流を流し続けると、電流が取り出せなくなるが、これは分極作用によることを発見す
る。
1826.○【イギリス】国教会との宗教的対立から、急進主義者 H. P. ブルーム、J. ミル、
それに非国教徒が中心になって、ロンドンに宗教色のないユニバーシティ・カレジが設立
される。イングランドに生まれた最初の市民大学となる 。
[1828 年、開校。同年、これ
に対抗して、国教会によりキングズ・カレジが設立され、1831 年に開校する。1836 年、
国王特許状によって、この両カレジの学生を対象に試験を行って学位を授与する機関と
してロンドン大学(London University)が設立される。ロンドン大学は、教育そのものは
行わなず、学位を授与するための機関として生まれる。1858 年、ロンドン大学の機能は
さらに拡大され、両カレジ以外の学生に対しても広く試験と学位の授与を行うようにな
る。1878 年、イギリスで初めて女子にも学位を与えるようになる。1898 年、ロンドン大
学法によって、初めて研究と教育をも行う大学となる。1933 年、大英博物館の北側の土
地に大学本部・付属図書館が設立される。
]
1826.○【イギリス】機械技師ドンキン( 58)が、抄紙機に乾燥円筒(ドライヤロール)を取
り付け、巻き取り紙が作れる長網抄紙機を完成させる。[1851 年、ロンドンの第 1 回万
国博覧会で表彰される。]
1826.○【アメリカ】教育家ホールブルック Josiah Holbrook( 38)が、労働者と職人階級を
主要対象に、科学と有用な一般知識の相互教育を目的に「ライシーアム(lyceum )」をマ
サチューセツ州ミルベリーで開始する。この頃、メディアの発達しておらず、文字の読
めない者にもわかる講演が文化伝達の重要な媒体となる。名称は、アリストテレスがア
テナイ郊外に開いた学校リュケイオン(Lykeion)に由来する。[以後 、
「ライシーアム」は
文化向上運動およびその推進機関の呼称となる。1831 年、全国組織「アメリカ・ライシ
ーアム」が発足する。1834 年、全国の市町村に約 3000 を数える。講演会 、娯楽の指導、
- 323 -
教師の質的向上の援助、図書館活動の活発化などの活動を行い、対象もしだいに知識人
を中心とするようになる。R.W.エマソンをはじめ H.D.ソロー、D.ウェブスター、H.W.ビ
ーチャーらが講師を務め、
相互教育の場としてよりも講演会としての性格を強めていく。
]
1827(文政10年)
1827.5.21【日本】頼山陽(らいさんよう)( 47)が、歴史書『日本外史』 22 巻を完成させ、
松平定信(さだのぶ)に献呈する。 20 余年の歳月を費やし心血を注いでなった山陽のライ
フワークであり、源平二氏から徳川氏に至る武家の興亡が家別・人物中心に漢文で記述
されている。執筆に当たって、山陽は赤線罫(けい)の用紙のつくらせ、 400 字詰め原稿
用紙の最初の原型とされる。[以後、写本として流布する。1836 ∼ 37 年ごろ刊行され、
未曽有の大ベストセラーとなる。]
1827.10.20【日本】関東取締出役小池綾五郎以下 23 人が、利根川上流から木下(きおろし)
河岸へ出張し、遊女宿を手入れする。飯盛女、使用人、客に至るまで召し捕らえ、遊女
屋の発起人の問屋壮左衛門(七之助改め)、名主半右衛門の問屋役、名主役を取り上げの
上、銭 10 貫文ずつの過料、組頭五兵衛には銭 7 貫文の過料を科す。
1827. ○【東アジア】亀の甲や皮製のコンドームが使用される。
1827. ○【ミャンマー】国内で初めて印刷が行われる。
1827. ○【日本】この頃、『閨中女悦笑道具』が刊行され、茎袋(きょうたい)(革製コンド
ーム)などが紹介される。
1827. ○【ドイツ】エストニア生まれの動物発生学者・ケーニヒスベルク大学教授フォン
・ベーア Karl Ernst von Baer(35 )が、哺乳動物の卵巣内のグラーフ濾胞(ろほう)内の卵を
研究し、犬の卵子を発見する。[ 1828 年、胚葉説を発表して、前成説を否定する。以後、
多くの重要な発見を行い 、
〈動物の発生段階では、一般形質が個別形質の前に現れる〉
という「生物発生の原則」(ベーアの法則)を公式化して、近代発生学の礎石を置く。]
1827. ○【フランス】ゴノーが、速記専用タイプライタを考案する。
1827.○【アメリカ】ボルティモア・オハイオ鉄道が、鉄道の敷設免許を得る。
[1830 年、
開業する。
]
1828(文政11年)
1828. 4.14【アメリカ】ウェブスター Noah Webster( 70)が、『アメリカの英語辞典(An
American Dictionary of the English Language)』(全 2 巻)の初版の版権を取得し、コネティ
カト州ニューヘブンで発行する。これまであった辞書より 1 万 2000 語多い 7 万語を収容
する大辞典で、新しい定義も約 4 万くわえられ、英語とアメリカ語の表記や発音の違い
を明示する。英語ではなくアメリカ英語の用法に重点をおいたことや、単語の意味をつ
かわれはじめた順にならべる方法をはじめて採用した。ウェブスターは 1800 年ころから
は語源の研究に熱中し、20 か国語対照表を作成し、それを生かして大辞典を企て、1824
∼ 25 年イギリスの国語の実体研究のためケンブリッジ大学に滞在した。[1840 年、拡大
改訂版が出版される。以後、何回も改訂がおこなわれる。]
1828. ○【日本】近江国(のち、滋賀県)国友村の御用鉄砲鍛冶師の国友藤兵衛(眠竜、一
貫斎)が、青銅の管とねじを使用し、管内に貯蔵された墨が筆先の出しかげんによって調
- 324 -
節されて供給される「懐中筆」(または「御懐中筆」)を発明する。墨の乾燥を防止する
ため、密封できるキャップもついている。
[1885 年、同様のものが「万年筆(まんねんふ
で)」として発表される。いずれも普及しない。]
1828. ○【日本】御手洗(広島県)の住吉神社の社地埋立工事の鎮座祭の際、町内の遊女た
ちが総出で緋縮緬で着飾り華美な行列を行う。この神殿を寄進した大阪の豪商鴻池家の
名代、佐竹弥四郎は〈それは竜宮の乙姫かとまがふほどで京・大阪の遊女も顔負けする
華やかさである〉と報じる。
1828.○【中国】この年(あるいは 1829 年)に、ロンドン伝道会の宣教師メドハースト Walter
Henry Medhurst が、アジアで初めて石版により伝道用のトラクト(小冊子)や聖書を印刷
する。
1828.○【ドイツ】ベデカー Karl Baedeke( 27 )が、旅行案内書シリーズの刊行を始める。
[以後、記述と地図の精確さ、知的水準の高さ、赤表紙の小型ポケット判といった装丁、
英・独・仏といった多国語による刊行、星印による評価などで、後続旅行案内書の模範
となる。1836 年、イギリスのジョン・マレーが同じく「赤表紙」を刊行する。両者はこ
の分野の始祖とされ「ベデカー」と「マレー」が旅行案内書の代名詞となる。
]
1828.○【フランス】仕立屋の業界誌『ジュルナル・デ・タイユール 』の編集者コンパンが、
『仕立て技術――衣服裁断における幾何学の応用』を発表する。17 世紀末以来裁断法の
本はあっても、型紙は仕立屋の親方の秘伝になっていた。コンパンは、この型紙を誰で
も扱えるようにするため、採寸と計算による幾何学的な製図法を開発して、正確な型紙
をつくり公開する。[以後、専門家向けに型紙が販売されるようになる。1840 年代、家
庭洋裁が盛んになり、婦人雑誌の折り込み付録に扱われるようになる。1863 年、アメリ
カでバタリック社が、1870 年にはマッコール社が登場し、平明な型紙が既製服の発展に
大きく寄与するようになる。](北山晴一『おしゃれの社会史』)
1828. ○【イギリス】イギリス初の動物園が、ロンドンのリージェント公園内に、ロンド
ン動物学協会によって開かれる。
1828. ○【 】ウルトラマリン(群青)の材料の合成法が開発される。[以後、顔料や岩絵
の具に希少なラピスラズリ(トルコ石)(Lapis Lazuli) などの粉末が用いられてきたウル
トラマリン、その他の色の材料が、ほとんど合成無機顔料に置き換わる。20 世紀には、
合成有機顔料が開発される。
]
1829(文政12)
1829. 7. 4 【イギリス】馬車製造業者シリビア George Sillibeer が、三頭立て 22 人乗りの
馬車を用いて、パディントン・グリーン∼イングランド銀行間(イズリントン経由)で定期
輸送を開始する。乗合バスの歴史が始まる。[以後、この成功に刺激されて、同じ試みが
続出する。1832 年、乗合馬車法が制定され、運行業者には免許制度が適用される。]
1829. 9.14【オーストリア】ロシアとオスマントルコとの戦争を終結させるアドリアノー
プル(のち、エディルネ)条約が締結される 。
[以後、ドナウ川は交易、航行が自由にな
る。この年、「第一ドナウ蒸気船航行会社」がウィーンで設立され、ウィーン∼ブダペ
スト間を蒸気船「フランツⅠ世」号が初めて運航する。これによって、初めて流域の各
地の広大な純農業地帯が経済的・交通的に結びつけられ、ウィーンから内水を通って海
- 325 -
へ出られるようになる。19 世紀後半、河川整備工事が進みドナウ川が国際河川化されて、
ドナウ川の船舶交通が大規模に拡大される。
]
1829.11.21 【カナダ】エジャトン・ライアソンが、『クリスチャン・ガーディアン』紙を発
行する。
1829.11.30 【カナダ】エリー湖とオンタリオ湖をつなぐウェランド運河が開通し、ナイア
ガラの滝を回避して船が航行できるようになる。
1829.○【日本】柳亭種彦(りゅうていたねひこ)( 46)著、歌川国貞(くにさだ)画『偐紫田
舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』初編を、江戸の鶴屋喜右衛門から刊行する。書名
は、原典である紫式部の『源氏物語』に対し、翻案の意から「似せ紫式部 」、通俗性を
加えた意で「田舎源氏」とする。画工国貞の力を借りて全体に歌舞伎的趣向の汪溢する
艶麗な挿絵を配した。[以後、婦女子読者に熱狂的に迎えられ、不動の名声を得る。その
絢爛(けんらん)華麗な世界の描出が大奥モデル説を生む 。以後 、各編 1 万部以上を売る 。
1842 年、38 編刊。同年、天保の改革で、絶版に処される。39、40 編は未刊草稿のまま
で未完となる。]
1829.○【ドイツ 】博物学者・探検家・地球科学者フンボルト Alexander von Humboldt( 60 )
が、ロシア皇帝の招きでウラルおよびアルタイ山脈を探検し、地磁気の緯度変化を測定
する。
1829.○【ドイツ】シュレッティンガー MartinSchrettinger( 57 )が、図書館の管理・運営に
関して 、
〈当人がいかにすぐれた学者でも、特殊な勉学と準備と実習とを経ないではラ
イブラリアンには適しない〉と指摘し、専門的な図書館学校の必要を初めて論じる。[以
後、シュレッティンガーは〈図書館学 Bibliothekswissenschaft〉なる語を登場させるが、
その内容はあくまで図書館管理学の性格をもつものである。1886 年、ゲッティンゲン大
学の図書館学講座開設として実現する。]
1829.○【フランス】3 歳で失明し 17 歳で盲学校の教師となったルイ・ブラーユ(ブライユ、
ブレール) Louis Braille(20)が、 6 点方式の点字を考案し、論文『単語と音譜と簡単な歌
曲を、盲人のために点字で表す方法』を公表する。それまでは、墨字を模した線文字に
よる凸字方式が用いられており、かつてオーストリアの砲兵士官シャルル・バルビエ
Charles Barbier が軍事用に開発した 11 点の点字方式を改良して、盲人が触読しやすい縦 3
点横 2 列の 6 点式とし、記憶しやすく整合性の点で優れたものとした。[以後、ブラーユ
の提案は、盲学校の内紛により無視される。1852 年、病弱のため死去する。1854 年、政
府によって公認される。彼の名「 braille 」が「点字」を表すフランス語・英語になり、
点字タイプライターは「ブレール・ライター」、点字亜鉛板製作機は「ブレール・シャト
ル」などと呼ばれる。以後、盲人用文字としてしだいに世界的に採用され、盲人ははじ
めて自由に読み書きができるようになり、やがて主流を占めるようになり、盲人の教育
方法に画期的進歩がもたらされる。1890 年、日本で、東京盲唖(もうあ)学校の点字撰定
(せんてい)会において、同校教員石川倉次がブラーユ点字の 6 点を用いて考案した日本
点字の案が採用され、1901 年『官報』に「日本訓盲点字」として掲載される。]
1829.○【フランス】製版印刷法「エリオグラフィー(ヘリオグラフィー)hロ liograpie」を
発明したニエプス Joseph Nic ロ phore Ni ロ pce(64)と、
「ジオラマ(ディオラマ)diorama」
を考案し、パリで興行して大成功を収めたダゲール Louis Jacques Mand ロ Daguerre( 42)が、
- 326 -
共同でジオラマの絵を描くのに使うカメラ・オブスキュラの焦点ガラスに写る像を感光物
質でとらえて記録する研究を始める。[1839 年 1 月、ついに銀板写真を完成して 、
「ダゲ
レオタイプ」と名付けて研究成果をフランス議会に報告する。]
1829.○【イギリス】バベジが 、デジタル式の自動計算機を製作する。[1833 年までに、16
桁までの計算を正確に行えるものにする。この機械はテープに数値と手順とを記録し、
それによって機械を操作するという画期的な計算機である。記憶装置、演算装置、制御
装置などを備え、のちのディジタル型の基本的部分をもつ優れたものであった。しかし、
当時の機械技術では満足なものはつくれず、この機械は実用化されなかった。]
1829.○【イギリス】このころ、マンチェスター∼リバプール間 45km にも鉄道が建設さ
れ、ここで使う蒸気機関車のコンクールが 1829 年に開催される。スティーブンソン
George Stephenson (48)は、息子のロバートと製作した出力 13 馬力の「ロケット号」を出
場させ優勝する。[ 1830 年、マンチェスター∼リバプール間の鉄道が開通する。以後、
スティーブンソンは数年がかりで鉄道の建設許可を得る。この頃、「
〈 高圧蒸気は生命と
健康に害があるから政府は禁止令を出すべきだ〉という意見まで出るが、アメリカ、フ
ランス、ドイツなどに、この新しい陸上輸送手段が広がっていき、スティーブンソンは
ベルギー、スペインなどの鉄道建設に従事する。]
1829.○【アメリカ】国務長官に就任したヴァン・ビューレン Martin Van Buren (47)が、交
通の未来は鉄道ではなく川船にある、と断言する。〈鉄道などという機械の化け物は公
安の観点からあまりに危険すぎる、全能の神は、人間がかくも危険な速度(時速 25km )
で移動することをお望みにならなかったはずだ〉という。
[1832 年、副大統領 。1836 年、
第 8 代大統領に就任。]
1829.○【アメリカ】バート William Austin Burt がタイポグラファー typographer を発明し 、
特許を取得する。キーボードを持たず、半円上の輪に活字をならべ、レバーを回転させ
てめざす文字を選び印字する。[のち、この形式は、手形や領収書の金額など数字とわ
ずかな記号の印字に用いるチェックライターに再現さる。
]
1829. ○【フランス】
『科学者新聞』が、
〈写真術に未来はない、絵画の方がはるかに優れ
ている〉と告げる。
1830(文政13・天保1)
1830.5.24【アメリカ】ボルティモア∼オハイオ間の鉄道の最初の 1 区画が開通する 。
[8.23
ピーター・クーパー Peter Cooper( 39)が試作した、アメリカ最初の機関車「トムサム(親
指トム)号」が公開され、試運転に成功する。同鉄道は当初、馬または帆を利用する方式
をとろうとしたが、以後、蒸気機関車を本格的に採用する。この頃、計画を進めていた
チャールストン・ハンバーグ鉄道やモホーク・ハドソン鉄道などもつぎつぎに蒸気動力を
使用する鉄道として誕生する。
]
1830. 9.15 【イギリス】リバプール∼マンチェスター間 30.75 マイル(49.5km )に鉄道が開
通する。鉄製レール上を機械的動力に牽引された車輌が公共輸送として定時に運行する
近代鉄道が初めて登場する。[ 1831 年後期、リバプール・マンチェスター鉄道会社は 4.5%
の配当を行う。以後、最高 5.0%( 16 期) 、最低 4.0%(1 期)の半年ごとの配当を持続する。
1845 年、リバプール・マンチェスター鉄道は、合併により歴史を閉じる。一方、スミス
- 327 -
親子 W.H.Smith & Son は 、延びる鉄路とともに 、各駅ごとに駅構内売店(railway bookstalls)
を考え、ほぼそれを独占する。息子の方は、このネットワークを活用して貸本業のチェ
ーン・ストアを考案する。1849 年、二代目スミスが、鉄道の駅にキオスク書店を開店す
る。]
1830. ○【日本】喜多村信節(きたむらのぶよ)『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』に〈酒も
て物を書き火にあぶる異国の方よりも簡易なり〉とあり、外国渡来の明礬を使用する代
わりに、酒で紙に書いて乾かしたのち、隠し文字に各人が銭を賭け、火にあぶって出た
文字を当てた者が賭け銭をとる遊びを紹介する 。
[あぶり出しについては、すでに 1756
年、本居宣長『在京日記』に同様の記述がある.
]
1830.○【日本】漢学者寺門静軒(てらかどせいけん)(34)が、「無用之人」と自称し、そ
の目を通して幕末江戸の世相を戯体の漢文で活写した『江戸繁昌記(はんじょうき)』初
編を、出版不許可のまま著す。[ 1844 年まで、正編 5 冊、後編 3 冊を出す。大いに評判
となるが、そこに込められた風刺の鋭さのため 、1844 年、天保の改革の当事者の忌諱(き
い)に触れ筆禍を招く。]
1830. ○【日本】礫川(こいしかわ)南嶺の滑稽本『恋湊女護生娘(こいみなとにょうごの
しまだ) 1823 年刊)に、最後の一章分を加筆、春画の挿絵を入れ、序文の名前を淫亭主人
スキナリと彫り替えて再版したポルノ版が出回る。次いで二三篇が陰茎斉雁(?)高(いん
きょうさいかりたか)作として続刊される。
1830. ○【日本】御手洗(広島県)の住吉神社の造営の際に、遊女が玉垣を寄進する。茶屋
の若胡屋(わかえびすや)などは高灯籠や高麗狗(こまいぬ)を寄進する。
1830.○【日本】この頃、呼出しの揚代が銀 60 文、祝儀などを加えると 180 文。
1830. ○【中国】蘇州の李瑶が、杭州で泥活字を用いて『南彊繹史勘本』(明朝滅亡後、
中国南方にあって清朝に対抗した南明(なんみん)政権の史実を記した歴史書)を刊行す
る。李瑶は自ら「?(イ+ 方)宋膠泥板」を用いて印刷したと書きしるす。[1832 年、金石
学の書物を集めた叢書『校補金石例四種』を刊行する。
]
1830.○【フランス 】貸本屋が、パリで 463 店を数える。この頃 、印刷所は 80 、新聞社 150、
主な書籍商は 131 である。
1830.○【フランス】素描家フィリポン Charles Philipon( 24 )が、政治風刺の週刊誌『カリ
カチュール(La Caricature)』を創刊する。
[1832 年、絵入り風刺日刊新聞『シャリバリ』
を創刊する。
]
1830.○【フランス】王室印刷所で、活字彫刻師ドラフォン Delafond が、東洋学者・パリ
大学教授クラプロート Heinrich Julius Klaproth の指導に従って、漢字活字を偏と旁、冠と
脚などの構成要素に分け、おのおののパンチ父型を彫刻して母型に打ち込み、別々の活
字に鋳造する「分合活字」の考えにより、18 ポイントの楷書活字の開発に着手する。
[1834
年、一応できあがり、この活字を使って、長崎出島でオランダ商館長を勤めたティチィ
ング Isac Titsingh の遺稿『日本王代一覧』にクラプロートが注を付したフランス語訳を
印刷、パリとロンドンで刊行する 。
]
1830.○【フランス】物理学者サバール F レ lix Savart(39)が、回転する鋸状の車輪を用い
て、歯の数と回転速度をもとに、音の正確な周波数を知ることができるピッチ測定技術
を開発する。
- 328 -
1830.○【イタリア】ツァンボニ Zamboni が、初めて電気を時計に応用する。[1840 年、
イギリスのベーン Alexander Bain が 、電気信号によって子時計を動かすことを提唱して、
電気時計への途を開く。]
1830. ○【イタリア】アントニオ・ミケラが、ピアノ鍵盤の外観をもった速記タイプライ
ターを考案し、公表する 。
[以後、第 1 回パリ万国博覧会で受賞する。1880 年、イタリ
ア国会の上院に採用される。
]
1830.○【イギリス】この頃、ブライトンの文具商 S.K.ブリュワーが、初めて商品として
の封筒の製造を始める。[以後、新しもの好きの旅行者に好評で、製造が追い付かないほ
ど繁盛する。]
1830.○【イギリス】J.ペリーと J.メーソンが、万年筆の金属ペンに穴を開けることで、
ペン先に柔軟性をもたせることに成功する。
1830.○【イギリス】スタージョン William Sturgeon (47)が、電池の亜鉛板の水銀アマル
ガム被覆法を考案する。また、電磁回転機器も発明する。
1830.○【アメリカ】W.F. ブローが多色用印刷インキを発売する。数種の原色のみで、こ
れらを調合して望む色を出すには大変な熟練を要したので、印刷業者にはあまり喜ばれ
なかった。
1830.○【アメリカ】この頃、R.ホーが、蒸気機関駆動による輪転印刷機を発明する。毎
時 8000 枚の印刷能力を持つ。[1848 年新聞社で試験的に使用される。]
1830. ○【アメリカ】ボルティモア・オハイオ鉄道が開業する。当初は馬または帆を利用
する方式をとろうとしたが、この年クーパー Peter Cooper(39)が「トムサム(親指トム)
号」を試作して試運転に成功したため、会社は蒸気機関車を本格的に採用する。以後、
チャールストン・ハンバーグ鉄道やモホーク・ハドソン鉄道などもつぎつぎに蒸気動力を
使用する鉄道として誕生する。1840 年、大西洋岸を中心に、約 3500km、1850 年には約 1
万 4400km の鉄道網がはりめぐらされる。]
1831(天保2)
1831. 8.29 【イギリス】ファラデー Michael Faraday (40)が、コイルの中で磁石を動かすと
電流が発生することから、電磁誘導現象を発見する。[以後、この現象を利用した発電機
の開発が多くの人により試みられる。1870 年前後に W.von ジーメンスおよび Z.T.グラム
がほぼ完成する。]
1831.○【ロシア】ミュンヘン駐在ロシア大使館員だったシリンク(シリング) Pawel
Schlling von Canstadt が、ピアノの鍵盤に似た開閉器から 5 本の電線を延ばし 5 つの磁針
を動かす電磁電信を考案する。[ 1932 年、電磁式電信機を発明する。]
1831.○【ドイツ】ロマン派の作曲家、ロベルト・シューマン(21 )が梅毒に感染する。[1994
年、ベルリン・ブランデンブルク芸術アカデミーが、主治医の診療日誌を発見して、シュ
ーマンは梅毒が原因で進行性脳軟化症になり、死因となったことが、確認される。(『朝
日新聞』(夕)1994.3.11)]
1831. ○【イギリス】蒸気自動車が実用化され、マカダムの発明したタールを用いる簡易
舗装のハ全国イウェー網に、スチームコーチ(蒸気馬車)による定期旅客輸送が始められ
る。ダンス Sir Charles Dance が、ゴールズワージー・ガーニー製作の 20 人乗り 6 輪車 3
- 329 -
台により、グロスター∼チェルトナム間の定期運行を開始し、4 か月間に 3000 人の乗客
を運ぶ。また、ハンコック Walter Hancock も、自ら 10 台のスチームコーチを製作し、
ロンドン∼ストラトフォード間で定期旅客輸送に用いる 。
[以後、10 年間にわたりロン
ドン市中と近郊を結ぶ路線に定期運行させる。1840 年代、スチームコーチの平均時速は
25km 程度になる。ハンコックの「オートマトン」は時速 32km にも達する。1850 年代、
スチームコーチは急速に姿を消していく。原因の一つには、より輸送効率の高い鉄道の
発達である。最大の原因は、スチームコーチの普及で経営危機に陥った馬車業者や馬匹
供給業者が議会に働きかけたためである。たとえばリバプール∼プレスコット間のター
ンパイク(有料道路)では、 4 頭立ての馬車の通行料 4 シリングであるのに、スチームコ
ーチは道路を傷めるとの理由で 2 ポンド 8 シリングと、12 倍も課した 。
]
1831. ○【アメリカ】イギリスから輸入された蒸気機関車「ジョンブル号」が、ニュージ
ャージー州で営業を開始する 。
[以後、この機関車はアフリカ歴史博物館(スミソニアン
博物館)に展示される。
]
1832(天保3)
1832. 5.−【中国】広東のアメリカン・ボードのミッション・プレスが、英文月刊誌『チャ
イニーズ・レポジトリー Chinese Repository』を創刊する。時事報道、中国事物研究など
を掲載する。
[1835.11 広東での活動が官憲の妨害などにより活動困難になり、マカオ移
転を決定し、印刷事業を続行する 。
]
1832. ○【日本】儒者寺門静軒が、江戸市内の社寺・遊廓・劇場など繁盛の状態を漢文で
描いた『江戸繁盛記』初編を刊行する。[以後、1834 年に 2 、 3 篇、1835 年に 4 篇、1836
年に 5 、 6 篇が順次刊行される。]
1832.○【日本】幕府の御用鉄砲鍛冶職国友藤兵衛(くにともとうべえ)(54)が、本格的な
望遠鏡の製作始める 。
[1835 年、自製の反射望遠鏡を用いて太陽黒点の連続観測を始め
る。
]
1832.○【ベルギー】ブリュッセルの物理学者プラトー(プラトオ)J.Plateau が、網膜の残
像現象を利用した覗き絵の一種、フェナキスチスコープ(フェナキストスコープ、フェナ
キスティスコープ)(phenakisticope)を考案する 。
ストロボスコーブと形はやや似ているが 、
鏡を用いず、断続絵を描いた円盤と、放射線状に間隙を持った円盤とを、1 本の軸の両
端に結びつけ、それを同時に回しながら、細い間隙の間から絵の方をのぞくと、ストロ
ボスコーブと同じように、円盤に描かれた各個の断続絵が一つに見えて、ちょうど、活
動する 1 個の物体を見るような印象を受ける。[ 1851 年、フランスの詩人ボードレール
が、フェナキスティスコープについて次のように書き、きたるべき活動写真(映画)を予
知しているかのようである 。〈何かしら一つの運動、例をあげればダンサーなり軽業師
なりの一つづきの演技が、幾つかの数に分解されていると仮定して頂きたい。その運動
の一つ一つが――その数を 20 としておこう――軽業師またはダンサーの全身像で表わさ
れ、それがすべて厚紙の円筒のまわりに描かれている、と仮定して頂きたい。この円筒
を、もう一つの、等間隔に 20 の小窓をあけた円筒と共に、1 本の柄の先についている回
転軸に取りつけて、諸君にはその柄を、火の前で火気よけの団扇を持つように握っても
らう。20 の小さな像は、ただ 1 つの像の分解された運動を表しながら、諸君の前面に置
- 330 -
かれた鏡に反射する。諸君の眼を小窓の高さに合せ、迅速に 2 つの円筒を廻転させてみ
給え。廻転が速くなれば、20 の穴は 1 つの循環する帯となり、それを通して諸君は、正
確に類似していて、しかも一種の幻想的な精密さを以て同じ運動を試みている、20 の踊
っている像が、鏡に映るのを眺められるだろう。(中略)こういう方法で創造し得る画
面は、無限にある。
〉(福永武彦訳)
1832. ○【ドイツ】ハノーバー家の宮廷画家の息子で化学者のカール・ホーネマンが、独
自の製法に基づく絵の具の生産を開始する。[ 1863 年、ウィーン出身の化学者ギュンタ
ー・ワーグナーが経営に参加、ワーグナー家の紋章がペリカンの母子像であったため、
ペリカンを商標とする。1878 年、「ペリカン」を登録商標とする。1929 年、ペリカン万
年筆 No.100 を発売する。]
1832. ○【ドイツ】数学者・物理学者・天文学者でゲッティンゲン大学数学科教授・同大
学天文台長のガウス Carl Friedrich Gauss( 55 )が、物理学者ウェーバーと電気・磁気に関
する共同研究を行い、磁気の強さを長さ cm、質量 g、時間 sec で定量的に表す。[以後、
磁束密度を表す単位としてガウス(記号 G)が用いられる。]
1832.○【ドイツ】科学者フォン・スタンプフェル(シュタンパー)Stampfer が、網膜の残
像現象を利用した覗き絵の一種である「ストロボスコープ Stroboscope」を考案する。一
つの鏡面に、数個の放射線状に作った間隙をつけた円盤を向かい合わせ、その円盤の間
隙と間隙の間に、活動する物体の姿を断続的に描き、その円盤をクルクル回しながら、
細い間隙から鏡面を覗くときに、円盤に描かれた断続絵が一つの印象に綜含されて、お
のおのの絵がちょうど活動する 1 個の物体に見えるように出来ている。
1832.○【ドイツ】ミュンヘン駐在のロシア大使館員であったシリンク Pawel Schlling von
Canstadt が、ピアノの鍵盤に似た開閉器から 5 本の電線を延ばし 5 つの磁針を動かす電
磁電信を考案する。6 本のコイルとその上につるした 6 個の磁針を用意し、離れた所に
置かれた電池から、それぞれのコイルに別個の電流が流れるようにする。1 つの磁針は
呼出しように使用し 、
残りの 5 個の磁針の振れによって 32 通りの組合わせで文字を表す。
デジタル式通信の元祖となる。[以後、ロシアや近隣国において実験が行われるだけで、
実用化には至らない。この実験をドイツで見たイギリス人クックが、イギリスで電信事
業を始める計画をたて、キングス・カレッジ教授ホイートストンに相談する。1837 年、
ホイートストンは、誰にでも通信文字を読み取ることのできる文字指示型5針電信機を
考案し、クックと共同で電信会社を設立する。]
1832.○【フランス】初の絵入り風刺日刊新聞『ル・シャリバリ(ル・シャルヴァリ)(Le
Charivari)』が、素描家フィリポン Charles Philipon(26)によって創刊される。
[以後、グ
ランビル、ドーミエ、ガバルニ、シャム Cham( 1819 ∼ 79 )などの優れた素描家の手で風
刺漫画が描かれる。七月王政期に、反ルイ・フィリップのキャンペーンで幾度も検閲の対
象となる。1848 年、二月革命の世論をつくり上げるのに貢献する。その後政治的には中
道へ向かうが、文明批評の鋭さは維持される。1893 年、廃刊。
]
1832.○【フランス】Hippolyte Pixxi が、最初の手回し磁石発電機を考案する。
1832. ○【フランス】リヨン∼サンテティエンヌ間にフランス最初の鉄道が開業する。
1832.○【イギリス】乗合馬車法が制定され、運行業者には免許制度が適用される 。[1838
年、御者と車掌の免許制度も発足する。]
- 331 -
1832.○【イギリス】ファラデー M.Faraday( 41)が、
「視覚的錯覚の特殊な一例について」
と題し、運動の与える印象を、多面的な心理学的実験によって研究しようとする。
1832.○【アメリカ】ヘンリー Joseph Henry( 36 )が、ファラデーに先んじて電流の磁気誘
導を発見する。
1832. ○【アメリカ】チャールズ・ノートンが、避妊に関する本の草分け『哲学の果実』
を刊行する。書中に性交後の洗浄の重要性を説き、明礬に緑茶・キイチゴ苔のような収
斂性植物を混ぜて作った洗浄液の発明を発表する。著者はマサチューセツ州で本書を販
売しようとして 3 ヵ月間拘引される。
1833(天保4)
1833. 9. 3【アメリカ】朝、印刷工デイ Benjamin Day (23)が、ニューヨークで、新聞の大
衆化の先頭を切って 、大衆を対象とする 1 ペニーの安価な報道新聞『サン The Sun 』を、
創刊する。従来の 4 ∼ 6 セントもする高級紙(クオリティ・ペーパ)に対して、わずか 1 セ
ントの廉価大衆紙(ペニー・ペーパ)として売り出される。タイトルの脇に〈太陽は万民の
ために輝く It Shines for ALL〉というモットーを掲げる。内容も犯罪・ゴシップなどの社
会記事に重点をおいて、これまでの政論偏重の新聞とは異なる〈安くておもしろい〉新
聞として大衆の好評を博し、初期大衆紙の原形となる 。[半年後 、8000 部に達する。1835
年、ジェームズ・ゴードン・ベネットがペニー・ペーパ『ニューヨーク・ヘラルド The New
York Herald 』を創刊。1837 年、保守派が『サン』のセンセーショナリズムを攻撃したこ
ともあって、デイはビーチ Moses Y. Beach に 4 万ドルで売却する。1841 年、ホーレス・
グリリーが『ニューヨーク・トリビューン The New York Tribune 』を創刊する。以後、各
国で新聞の大衆化が起こり、新聞が企業化、産業化する。
]
1833.11. −【ドイツ】ハンブルクの聖パウリ地区に、夜の歓楽街レーパーバーンが設けら
れる。
1833.12. 4【アメリカ】ジェームズ・モットらが、フィラデルフィアに「アメリカ奴隷制
反対協会」を設立する。[その際、妻のルクレシア Lucretia Coffin Mott(40 )は会規約起草
を手伝ったが、女の加入は認められなかったため、フィラデルフィア女性奴隷制反対協
会を設立する。また、1840 年、ロンドンでの世界奴隷制反対大会にアメリカ代表として
臨むが女の出席を拒否される。このときエリザベス・スタントンと知り合い、8 年後、セ
ネカ・フォールズで女性の権利のための大会を開き、アメリカ女権運動の端緒をつくる。]
1833.○【日本】大飢饉が始まり、1839 年まで続く。[のちに「天保の大飢饉」と呼ばれ
る。] 遊里への登楼者が激減し、遊女の華美な衣服や高価な器物が廃棄され、彩色をほ
どこした楼の袋棚・天井のすべてが取り除かれる。
1833.○【ドイツ】ゲッティンゲン大学の数学教授ガウス Karl Friedrich Gauss( 56)と物理
学教授ウェーバー Wilhelm Eduard Weber( 29 )が、共同でシリンクの電磁電信に改良を加
え、電磁式電信機を組み立てる。これで、それぞれの研究室間約 83km を結んで送受信
の実験をする。記録にのこる限りでは、電気通信をつかった世界初の試みとなる。
1833. ○【フランス】発明家グザビエ・プロージャンが、文字や記号にそれぞれ別のタイ
プバーを使用し、それぞれに付属したレバーキーで動かす方式の印字機械を考案し、特
許を得る。
[のち、原理の一部がタイプライターに具体化される。
]
- 332 -
1833.○【
】音楽の速記がプレヴォ式速記符号を使って行われる 。5 線紙の代わりに 9
線紙を使用して、音楽を聴きながら楽譜を書き取ることが行われる 。(Navarre, A., DE LA
STENOGRAPHIE, 1909、兼子次生『速記と情報社会』1999 )
1833.○【イギリス】数学者 W.G.ホーナーが、網膜の残像現象を利用した装置「ゾーエ
トロープ zoetrope」を発明する。
1833.○【イギリス】ブルーネル(ブルネル) Isambard Kingdom Brunel(27 )が、ロンドン∼
ブリストル間の「大西部鉄道」の技師長となり、4.85ft の軌道を 7ft に改め、多くの鉄道
トンネル、鉄道橋などの建設に従事する。
1834(天保5)
1834. [ 1.−]【日本】斎藤月岑(さいとうげっしん)(30)が、祖父幸雄(ゆきお)、父幸
孝(ゆきたか)の遺志を継いで稿本『江戸名所図会』を補正し、前編 10 冊を刊行する。画
は長谷川雪旦(せつたん)、雪堤(せつてい)。[1936 年正月に後編 10 冊を出版する。斎藤
家三代の刻苦鏤骨(るこつ)の大業が、によって達成される。月岑はのちに浮世絵を体系
的に収集しようとした最初の人になるが、明治の初年頃からは、写実ではない浮世絵の
収集を止めて写実の写真の収集を始める。]
1834.○【日本】鈴木朗『養生要論 』で 、色欲と飲食は「慎むよりは忘るゝを善しとす。
」
として、欲望充足の必要を説く 。
「予が故郷予州などは遊女の類決してなし、其代り娘
も下婢も後家も婆様も自堕落なり 。
然れども売ものでなければ親切づくならではならず。 」
1834.○【ドイツ 】バイエルンの公務員ガベルスベルガー Franz Xaver Gabelsberger( 45 )が 、
速記実務者の立場から草書派の起源となる独自のドイツ語速記方式を完成させる 。
[以
後、さまざまな研究者により改良され、個人用、秘書用、高速逐語速記用の 3 種が開発
される。オーストリアの経済学者シュンペーターは、ガベルスベルガー式個人用速記符
号を使用し、著書『資本主義・社会主義・民主主義』の草稿の下書きなど研究執筆活動
に役立てる。速記はドイツの知識層の教養の一つとなり、高速筆記法として、また秘密
文字として利用される。ガベルスベルガー速記理論は、北欧諸言語、イタリア語、東欧
語、ロシア語のサカロフ式(GESS)へ影響を及ぼす。GESS から中華人民共和国成の初期
の中国語速記にも影響を及ぼす。
]
1834.○【フランス】ノルマンディー出身の J.B.デュムーランが、オーギュスタン河畔に
歴史と考古学を専門とする新刊書と古書を兼ねた書店を開く。店の在庫は、都市と地方
の歴史、考古学、古銭学、言語学、貴族史に特化し、目録を発行する。[以後、顧客たち
の努力の結晶である記録集成、地方史、諸国年代記、回想録等の出版も行う。]
1834.○【フランス】物理学者ペルチエ Jean Charles Athanase Peltier( 49 )が、アンチモンと
ビスマスを接合した棒に電流を通すと、その接合部分で熱の発生や吸収が起こる現象を
発見する。[以後、異種の材料の接合部が同じ温度に保たれているときに電流を流すと、
熱の吸収または放射のおこる現象が「ペルチエ効果」と呼ばれ、熱と電気の相互転換の
研究に重要な役割を果たす。のちに、ペルチエ効果を応用した半導体装置が、特別用途
の低電力で超小型の冷却装置として利用されるようになる。]
1834. ○【イギリス】ブレストンのムーア公園が、世界初の市立公園として開園する。荒
れ放題の共通地を自治体が測量技師 P. パークの設計により公園化する。
- 333 -
1834.○【イギリス】スコットランドの出版業者チャルマーズ(チャーマーズ) James
Chalmers(52)が、郵便切手を創案する。[以後、採用されない。1837 年、ヒル Roland Hill
が郵便事業改革案を発表し、郵便料は前払いでスタンプを押した用紙(のちの郵便書簡)
を使用するか、またはスタンプを押した小さい紙片(のちの郵便切手)の裏にノリをつけ
て、郵便物に貼り付けるという案を提示する。1839.8.23 大蔵省が、
「 1 ペニー郵便」の
施行を控えて、料金前納方法の具体案とデザインを賞金 400 ポンドで一般公募する。チ
ャーマーズはこれに応募し、最終選考には残らなかったが、再三論文を発表して、スタ
ンプに代わる「貼り付けラベル」は額面によって刷り色を変えること、偽造防止のため
スカシ入りの用紙を使用すること、1 枚の用紙に 100 以上の図版を印刷すること、など
新たな郵便切手のありかたを提案する。のち、チャーマーズは「郵便切手の父」と呼ば
れる。]
1834. ○【イギリス】この頃、イギリス人が、世界中を旅行して遠距離交通を活発にし、
銅版画とガイド商売を繁盛させる。女流作家トロロープ Francis Trollope( 54 )は、〈丈夫
でスマートで蓋がパタンと閉まるトランクを持って、髭をすっかり剃り、たっぷり詰ま
った財布を懐にしたイギリス人を、ヨーロッパ中のいたるところが年中待ち焦がれてい
た。あたかも百姓が刈り入れをじっと待っているように、あるいは漁師がニシンやサバ
を待ち構えているように〉と書く。
1834. ○【イギリス】ガス灯などの明るさを表現するために、ろうそくの明るさを基準に
した「キャンドル・パワー(燭光)」が使われるようになる。[1877 年、ハーコートが考案
したペンタン灯を標準に規定する 。
]
1834.○【イギリス】ホーナー W.G.Horner が 、覗き絵ゾートロープ Zootrope を考案する。
これはスタンプフェル等の試みた円盤を、立体的な内空円筒に替え、円筒の上半部に二
十数個の細目の間隙を設け、円筒の下半部の内側には、断続絵を描いた細長い紙片を置
いて、外部の間隙から断続絵を覗きながら、円筒を回すと、断続絵が活動して見えるよ
うになっている。この絵は少女の縄飛びの場面、少年の機械体操の場面などが描かれ、
絵紙を替えることによって、幾種頬でも異なった活動画を見ることができる。
1834.○【イギリス】スコットランドのベーン(ベイン)Alexander Bain (24)が、
「マスター
・スレーブ(主従)メカニズム」を考案し、特許を取得する。例えば、学校のすべての時
計が同じ時間を刻むようにしたり、静止画を走査によって分解し伝送したのち、走査線
を 1 本づつ再生して 1 つの静止画を組み立てる仕掛けである。[1843 年、基礎的な実験
を行う。のちの電送写真や、テレビ、ファクシミリの基本原理となる。](『ニューズウ
ィーク 日本版』1997.12.31-1.7 号 p.69 は〈1834 年にファクスの技術で特許を取得してい
る。
〉とある。)
1834.○【イギリス】ケンブリジ大学教授・応用数学者バベジ(バベッジ、バベージ)Charles
Babbage(42)が、解析機械(analytical engine)の原理を発見する。J.M.ジャカールの自動織
機にヒントを得て、ンチカードによってプログラムするようにする。[以後、長年にわた
りこの機械の完成に努力するが、歯車やクランクなどの機械的装置だけの技術では実現
できない。バベジの死後に息子 H.P. バベジによって小規模なものが作られる。バベジの
計算機械は、十進法を採用しており、歯車を利用していて純粋なデジタル方式ではない
が、のちの電子計算機(コンピュータ)の源流と考えられる。バベジの機械は、ロンドン
- 334 -
の科学博物館に保存される。1944 年、ハーバード大学のエイケン Howard Hathaway Aiken
(1900 ∼ 73)が、リレー式計算機 MARK(マーク) -Iを開発、バベジの夢を実現したもの
といえる。]
1834. ○【イギリス】スコットランドの造船家・エディンバラ大学物理学教授ラッセル
John Scott Russell( 26)が、エジンバラ郊外の浅い運河のほとりを馬に乗って通過中、運河
の表面に起こった孤立波が何マイルもほとんど波形を変えないで進むのを発見する。ラ
ッセルは、波の理論に基づき最も抵抗の少ない船舶構造を決定しようとする実験を行い、
波の波動に関する研究を発表する。[ 1895 年にコルトベーク D.J.Korteweg とド・フリース
G.de Vries が、浅水波の特徴を表す簡単な非線形方程式を立てる。1960 年代にこの方程
式の性質がコンピュータによって詳しく調べられて、解析的解法が発見される。これに
よって、2 つの孤立波が衝突したとき互いに通過して安定な粒子のようにふるまうこと
が明らかにされる。このような孤立波は「ソリトン」と名づけられ、通信にも利用され
ることが明らかとなる。1995 年 6 月 26 日、日本電信電話㈱ NTT が、光ソリトンの屋外
通信実験に世界で初めて成功したと発表する。]
1834.○【イギリス】ホイートストン Sir Charles Wheatstone( 32)が、電気の伝導速度を測
定して、しだいに電気学の研究へと進む。
1834. ○【アメリカ】ニューハンプシャー州の町ピーターバラが、アメリカで最初の公共
図書館を開設する。
1834.○【
】シルベスター・グレアム( 40)が、性交への警告として『貞節に関する青
年への訓戒。同時に、両親、保護者の思慮にも訴える』を刊行する。1回ごとの射精は
男の寿命を縮めると警告する。
【外国本】A.B.グランヴィル『流産と婦人病図譜』
1835(天保6)
1835.[1. 6 ]
【日本】国友藤兵衛(くにともとうべえ)(57)が、自製の反射望遠鏡を用いて、
日本で初めて太陽黒点の連続観測を始める。
[∼ 1835.[ 2.8] 。延べ 216 回の観察を記録し、
『日月星業試留(にちつきほしわざためしどめ)』にまとめる。
]
1835.12. 7【ドイツ】ドイツ最初の鉄道がニュルンベルク∼フュルト間 6km に、バイエ
ルン選帝侯ルートウィヒの名のもとに開通する。機関車はイギリスのスティーブンソン
機関車製造会社製の「アドラー号」が使用される。[以後、ニュルンベルク近代都市へ
の脱皮の歩みを始める。 1840 年、スイスの文化史家・美術史家ブルクハルト Jacob
Burckhardt ( 1818 ∼ 97)が、ベルリンから手紙に〈鉄道旅行はとても楽しい。まったく、
鳥のように飛んでいく。手前の木や小屋などは、ぜんぜん見分けがつかない。振り向い
て追いかけて見ようとしても、とっくにずっと遠くへ行ってしまている〉と書いて送る。]
1835.○【日本】この頃、上方・江戸間の送達期限を 6 日間としていた飛脚便「定六」の
期限が守れなくなったため、
「正六」という速達便が登場する 。[実際には、正六は 8 ∼ 9
日くらいかかる「並便」とされており、商人が急ぎの手紙を出したいときは、書状 1 通
の料金 4 分のほかに特別料金 1 分を払い 4 日間で到達するという公用通信のための「差
込便」を便乗利用するようになる。市内での集配業務を担当する者が現れ、得意先の有
力商店に毎晩飛脚屋から手紙を集めに来る。市内での一般向けの集配業務を行う飛脚は、
- 335 -
鈴を鳴らしながら回るので、
「ちりんちりんの町飛脚」などと呼ばれる。](樋畑雪湖 、1939 、
石井寛治、1994)
1835. ○【ベルギー】ブリュッセル∼マリーヌ間に、ベルギー最初の鉄道が開通する。他
の国の鉄道が局地的な輸送手段として造られたのに対して、国内交通網変革の計画によ
り建設される。
1835.○【フランス】世界最初の近代的通信社アバス(アヴァス)(Agence Havas)が、ハン
ガリー系フランス人シャルル・アバスにより、パリに創設される。当初は新聞の翻訳や
商況ニュースの配信から出発する 。[以後、腕木信号機や伝書鳩を利用して速報に努める 。
電信時代に入ってから近代的通信社に発展、19 世紀後半から 20 世紀前半にかけて世界
的に活動する。1940 年、第 2 次世界大戦中のフランスの対ドイツ降伏に伴って解散し、
政府に接収される。1944 年、フランスの解放とともに半官組織の AFP が設立されて、
アバスの施設と伝統が受け継がれる。]
1835. ○【イギリス】カーライル∼ニューカスル間に鉄道が開通する。
1835.○【イギリス】タルボット William Henry Talbot( 35)が、塩化銀を塗った紙に写真を
撮る方法に成功し、紙の陰画から多数の陽画を焼き付ける写真術の基本原理を確立する。
これを「フォトジェニック・ドローイング(photogenic drawing)」と呼ぶ。[ 1840 年、没食
子(ぼっしょくし)硝酸銀で潜像を現像する方法を完成し、この方法を「カロタイプ」と
名付ける。]
1835. ○【アメリカ】レールの上を電池と電磁機械で動く模型が作られる。電気機関車の
初めとされる。
[1879 年、ドイツの E.W. von ジーメンスが、ベルリンの博覧会で最初の
実用的電気機関車を走らせる。
]
1836(天保7)
1836.7.29
【フランス 】
パリで、
エトワール(エトアール)凱旋門(Arc de triomphe d e l '■ toile )
が完成する。革命後、ナポレオンⅠ世の命令で古代ローマのそれを手本としてシャルグ
ラン( Jean-Fran ■ ois Th ■ r ■ se Chalgrin )( 1739 ∼ 1811)に設計させ、建立に着手するが、
30 年かかったため、ナポレオンは完成を見ないまま死去する。
1836.10. 2 【イギリス】博物学者ダーウィン( 27 )を乗せたビーグル号が、南アメリカ、南
太平洋諸島、オーストラリアなどにおける調査を終えてファルマス港に帰港する。[1839
ダーウィンが『ビーグル号航海記』をまとめて出版する。
]
1836. ○【日本】柳亭種彦作・歌川国貞画『春情妓談水揚帳』が刊行される。後年、江戸
春画本の白眉と評される。
1836. ○【オーストリア】最も有名なマゾヒスト、フォン・ザッヘル(ザッハー)・マゾッホ
Leopold RittervonSacher-Masoch が生まれる。
1836.○【フランス】最初の大衆紙『プレス( La Presse)』が創刊される。[以後、 1863 年
『プチ・ジュルナル(La Petit Journal) 』、 1876 年『プチ・パリジャン(Le Petit Parisien) 』、 1883
年『ル・マタン( Le Matin)』などが創刊される。]
1836.○【フランス】この頃、パリの王室印刷所の活字彫刻師ルグラン Marcellin Legrand
が、漢字の部首や語根を別々の字母に鋳造することによって、比較的少数の母型からよ
り大きな規模の漢字フォントを作成する。この two-line brevier・16 ポイントの「分合活
- 336 -
字」によって、一定の制約の中で費用と場所を節約し、他のフォントにも適用できるよ
うになる。[1836 年、ルグランが 16 ポイントの分合活字の説明書を印刷する。1837 年、
分合活字により、中国語聖書の組見本を収めた見本帳を印刷する。1859 年 、ルグランが、16
ポイント分合活字の総合的な見本帳『(金+ 周)新刻聚珍漢活字』を刊行。同年(1859 年) 、
ベルリンの活字鋳造業者バイエルハウス(バイヤーハウス)Auguste Beyerhaus が、ルグラ
ンの分合活字の原理に基づいた中間サイズのフォントを完成する。](『印刷史研究』2
号、1996.6 )
1836.○【イギリス】マレー John Murray( 28 )が、オランダ、ベルギー、ラインラントの
名所について、
「赤表紙本」を発行し、旅行案内書シリーズの刊行を始める。マレーは、
一定の旅行ルートについて説明し 、重要性に応じて各名所に星印を 1 つから数個つける。
[以後、1828 年発刊されたドイツのベデカーの旅行案内書シリーズと共に「ベデカー」
と「マレー」は旅行案内書の代名詞となる。
]
1836.○【イギリス】スタージョン William Sturgeon( 53)が、イギリス最初の電気雑誌
『Annals of Electricity 』を月刊で創刊する。
1836.○【イギリス】化学者ダニエル J.F.Daniell が、ボルタ電池の分極作用を防止した電
池を発明する。硫酸亜鉛水溶液 ZnSO4 を入れた素焼の円筒の中に亜鉛棒 Zn を浸して負
極とし、外側に硫酸銅水溶液 CuSO 4を入れたガラス容器内に銅板 Cu を立てて正極と
して構成した二液電池である。起電力は約 1.1 ボルト。[のちに「ダニエル電池 Daniell cell 」
と呼ばれる。電信用の電源として広く利用されるが、放電しなくても液の拡散によって
自己放電が激しく、液の交換を頻繁に行うことを必要とするなどの理由から、実用性を
失う。学校などでは電池の理論的説明に都合がいいので久しく利用される。]
1836. ○【エジプト】カイロで、アラビヤ語の『アラビアンナイト』(アメリヤ版)が出版
される。
1836. ○【カナダ】カナダ最初の鉄道が開業する。イギリスの植民地経営によるものであ
る。
1836. ○【アメリカ】世界初の軌道上を走る馬車の輸送機関、鉄道馬車(あるいは馬車鉄
道)が、ニューヨークで市内交通機関として登場する。[以後、 1854 年にパリ、 1861 年に
ロンドン、1865 年にベルリンと、世界の各都市に広まる。]
1836. ○【アメリカ】初の寝台車が、カンバーランド渓谷鉄道のハリスバーグ∼チェンバ
ースバーグ間に登場する。各車輌は 3 つの寝棚のある 4 室に仕切られ、寝具類は用意さ
れず、乗客はショールに身を包み、靴を履いたまま寝る。
1836.○【アメリカ】ダベンポート T.Davenport( 34 )が、直流電動機を作って電池の電力
で旋盤を回転させることに成功する。
1837(天保8)
1837.[2.19]【日本】朝、元大坂東町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎(中斎)( 44)が、
門弟の与力・同心や近隣の豪農を中心に幕政の刷新を期して大坂で決起する。前年 12 月
ごろから蜂起の決意を固めてひそかに檄文を印刷し、この年 2 月 6 日から 3 日間蔵書 5
万冊を売却して得た資金で貧民 1 万軒に金 1 朱ずつを施行(せぎよう)したが、その額は
620 両余に及んでいた。 この朝配布された檄文には 、
〈天より下され候村々小前の者に
- 337 -
至る東へ〉と上書きされ、裏には伊勢神宮の御祓がはりつけられ、2000 字を超える畢生
(ひつせい)の文章は格調高く蜂起の名分を説いている。この日。夕刻には乱は鎮圧され
る。
[2 月 24 日夜から卑油掛町の美吉屋五郎兵衛方に潜伏するが、3 月 27 日に所在をつ
きとめられ、大坂城代土井利位(としつら)の手勢や与力内山彦次郎らに囲まれ、放火し
て自害する。関係者の処罰は、磔・獄門・死罪に処された 40 人をはじめ総数 750 人におよ
ぶ。
]
1837. 6.20【イギリス】国王ウィリアムⅣ世( 71 )が生涯を閉じ、姪のビクトリア(ヴィク
トリア)(18)が女王に即位する。[1838 年 6 月、ウェストミンスター寺院で戴冠式を挙げ
る。以後、大英帝国の黄金時代に 64 年にわたり君臨する。この間、セックスの抑制、ヒ
ポクラシー(道徳的偽善)の時代に入る。]
1837.[6.−]【日本】対日通商の望みをもって、日本人漂流民の送還のため江戸湾に入っ
たアメリカ船モリソン号が、浦賀で異国船打払令によって撃退される。[三河(のち、愛
知県 )田原(たわら)藩の家老渡辺崋山は『慎機論(しんきろん) 』を 、高野長英は『戊戌(ぼ
じゆつ)夢物語』を著して、世界情勢に目を覆い人道に反する幕府の処置を批判する。1839
年、これらを契機に蘭学(らんがく)者に対する弾圧事件「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」
が起こる。]
1837. 9. 4【アメリカ】ニューヨーク大学美術教授モース(モールス) Samuel Finley Breese
Morse( 46 )が、長距離間の連絡を瞬時に可能にする電信装置の特許を申請する。モース
は、1829 ∼ 1832 年フランスとイタリアに美術研究に遊学、その帰途の船中で、ボスト
ン大学教授ジャクソンからイギリスで発明された最新の電磁石や電磁気学の説明と実験
を受け、航海中にそれを応用して通信する電信機の構想をまとめた。帰国後、ニューヨ
ーク大学のアトリエを実験室にし、大学の同僚ゲール Leonard Gale の協力を得た。電磁
石で不明の点はヘンリーの教えを受ける。モース自身は文字の記号化のため点(短点)と
線(長点)で表す電信符号は考案する。符号は、印刷所で活字使用頻度を調査し、電信に
おいても同様な頻度になると判断して点と線を割り当てる。XやZなど使用頻度の少な
い文字には短点と長点を 5 つと多く割り当てる。この日、特許申請に先立ち、最初の公
開実験を、大学構内に 1700ft(約 518m)の距離に張り渡した電信線によって行い、成功す
る。これを参観した鉄工場主ベイル Alfred Vail が、資金と工場を提供することを申し出
る。[以後、ベイルは電信符号も改良する。1838 年、ワシントンで公開実験を行うが、
議員たちの支持を得られず政府は採用を見合わせる。イギリス、フランスなどヨーロッ
パでの特許権の獲得にも失敗する。1843 年、ようやくワシントン∼ボルティモア間の試
験線架設費 3 万ドルの政府予算を獲得。1844 年 5 月 24 日、有名なことば「神がなせし
業(わざ)」をベイルに送信する。]
1837.○【日本】宇田川榕菴(うだがわようあん)(39)が、日本最初の体系的化学の大著『舎
密開宗(せいみかいそう)』の訳述に着手、最初の巻を刊行する。原著は、イギリスの W.
ヘンリーの著書『An Epitome of Experimental Chemistry 』(1801 初版、のち『Element of
Experimental Chemistry 』と改題、1810 第 6 版)のドイツ語訳書を、さらにイペイ AdolfIjpeij
(1749 ∼ 1820)がオランダ語訳した『Chemie, voor beginnende Liefhebbers』( 1803)ものを
使う。このとき種々の新語、例えば物質、燃焼、酸化、還元、温度、飽和、凝集力、引
力、粘着力、溶解、結晶、分散、分離、気体、流体、蒸気、気圧、大気、元素、窒素、
- 338 -
水素、酸素、炭素、酸、アルカリ、石灰、炭酸ガス、塩化水素、瓦斯などを用いる。[以
後、順次 、内篇(へん)6 篇(各篇 3 巻 、計 18 巻 )、外篇 1 篇(3 巻)が稿なり刊行される。]
1837. ○【地中海】オーストリア・ロイド社の汽船が、トリエステからコンスタンチノー
ブルとエジプトに向けて就航する。初航海において 14 日で到着し、新記録となる。
1837. ○【オーストリア】フロリスドルフ∼ワーグラム間にオーストリア最初の鉄道が開
業する。
1837. ○【フランス】パリ∼ヴェルサイユ間に鉄道が開通する。
1837.○【フランス】舞台背景画家、ルイ・ダゲール Daguerre( 50)が、ニエブス(∼ 1833 )
の研究を受け継ぎ、初めて銀板法による写真術ダゲレオタイプ( Daguerr otype)を発明、
現像から定着までのプロセスを完成、自分のスタジオの撮影に成功する。しかし、露光
に 30 分前後を要し、また陽画(ポジ)であるため、焼き増しはできない。
1837. ○【イギリス】ビクトリア・アンド・アルバート博物館が、産業博物館として開設さ
れる 。
[以後、図書館 Victoria and Albert Museum Library が整備される。のち、国立工芸
図書館になる。
]
1837.○【イギリス】官吏ローランド・ヒル Rowland Hill(42)が、
『郵便制度の改革――そ
の重要性と実行可能性』という論文を小冊子にまとめ、郵便制度の根本的な改革案を主
張する。郵便の最低料金を 1 ペニーに抑え、全国を距離にかかわらず均一の料金とし、
料金は前納制とする。ヒルは、高い郵便料金と複雑な料金体系に対して徹底的改革を望
む世論の高まりに応えて、熱心に郵便制度を研究し、距離の遠近によらず、重量による
全国均一郵便料金制の施行という改革案をこの『郵便制度の改革――その重要性と実行
可能性』という論文にまとめて発表する。この中で、①郵便料金を大幅値下げし、手紙
の基本料金を 1 ペニーとして郵便需要を増大させる。値下げして取扱量が増えれば 1 通
当たりの原価は下がり、利益が出る。②距離別料金制を廃して全国均一料金制へ切り替
える。理由は、原価の大半は輸送コストではなく、人件費などの固定経費で占められて
いるから。③料金算定基準を用紙の枚数から重量制に改める。これにより、ロウソクの
淡い明かりで中身を透かして枚数を確認する作業を省略できる。④郵便料金の前納制を
とる。受取人払いを認めてはいるが、配達人に料金徴収の手間が省ける。前納の方法と
しては、これまでのスタンプに代えて印刷された「ステーショナリー(料金前納の専用封
筒(マルレディ・カバー)または帯封)を発行することを提案する。補足として〈裏面に糊
を塗った小紙片〉(のちの郵便切手に相当するもの)を使用することも考える。[以後、関
係する特権階級は猛反対する。郵政当局も長官を先頭に反対運動を展開する。ヒルの「1
ペニー均一郵便法案」が議会に提案され、白熱の議論の末、民意に押される形で、議会
を通過する。1839.8 女王署名し法案が成立する。ヒルは大蔵省に雇用される。1840.1.1
世界最初の均一郵便料金制「 1 ペニー郵便法」が施行され、イギリスが世界最初の均一
郵便制の実施国となる。5.1 初の郵便切手と郵便書簡が発行される。1854 年、ヒルが郵
政長官に任命される。1860 年、ヒルが多くの郵便事業の改善に努めた功により、ナイト
爵に叙される。1864 年、ヒルが引退する。]
1837. ○【イギリス】海軍が、郵便船の管轄権を握り、大西洋航路のキューナード社、イ
ンド・極東航路の P&O 社、西インド諸島航路のロイヤル・スティーム・パケット社に多
額の補助金を与える。[ 1860 年、議会の調査で補助金の出し方が不明瞭だとして、管轄
- 339 -
権が郵政省へ戻される。]
1837.○【イギリス】ウォトン・アンダー・エッジの教員アイザック・ピットマン Issac Pitman
(24 )が、サミュエル・テーラーのテーラー式速記法を学んだあと、高速度で筆記でき、学
習が容易な正円幾何派の英語速記理論を完成し 、
『速記術』を出版する。1602 年にジョ
ン・ウィリスが提案した、基礎符号を駆使して発言されたすべての音を漏れなく表記する
「全記法」が完成の域に達する 。
[以後、「ピットマン式 」と呼ばれ、大いに普及する。1839
∼ 43 年 、速記学校を営む。1842 年、
『音声学雑誌 』を刊行 。1849 年、ナイト爵を授かる。]
1837.○【イギリス】カーライル∼ニューカスル間鉄道( 1835 年開通)の小駅ミルトンの駅
員エドモンソン Thomas Edmondson (1792 ∼ 1851)が、初めて印刷された乗車券を考案す
る。
1837. ○【イギリス】ファラデーが、電磁場・磁力線の概念を確立する。
1837.○【イギリス】技師クック Sir William Fothergill Cooke( 31)が、ドイツで見たシリン
ク(シリング)の電信機などに触発され電信を研究し、三針電信機を完成する。さらに、
鉄道建設とそれに伴う通信線設置の実用的課題に取り組んでいたキングス・カレッジ教授
ホイートストン Sir Charles Wheatstone( 35 )と共同で会社を設立し、四針電信機、五針電
信機を製作する。五針電磁式電信機の特許をとり印刷電信の先駆となる指示電信機の実
用機を作り、試験電信線をユーストン∼キャムデン間に設置し、1.5km の距離の通信実
験を行う。これは配列された文字の位置に相当する数だけ電流パルスを送って指針を 1
目盛ずつ進ませ円盤上の文字を指示させるものであり、鉄道沿線で有線電信が初めて実
用化される。[1838 年、これがグレート・ウェスタン鉄道に採用され、イギリス初の電信
線として、ロンドンのパディントンとウェスト・ドレイトン間 21km の鉄道沿いに 5 本の
導線を架設する。1839 年、5 針電信機で通信実用化に成功するが、5 本の電信線の故障
が多発する。以後、ホイートストンらは、改良を重ね、電信線 2 本の 2 針式とする 。1845
年、文字を円周上に配置し、中央に置いた磁針をパルス電流で小刻みに回転させ、伝送
文字を磁針で指示する単線方式電信機を開発する。これにより電信事業は順調に発展す
る。1852 年ごろにはイギリス内で 6500km の電信路を完成するまでになる。これを真似
て多数の電信会社がイギリス各地に設立される。]
1838(天保9)
1838. 1.22【イギリス・アメリカ】イギリスのパケット蒸気汽船シリウス( Sirius )号が初
の蒸気船としてイギリスからニューヨークへ大西洋を横断する。 旅行は 18 日間と 10 時
間かかる。
1838. 4.−【ロシア】サンクトペテルブルグとツァールスコエ・セロにあるツァーリの夏
の離宮との間に、ロシア最初の鉄道が開通する。
1838. ○【日本】幕府が、陰間茶屋を禁止する。また、その風俗などを絵画として出版す
ることを禁止する。最初、陰間風俗画は、出版前規制により役人の検閲を受ける際、普
通の女・子どもの遊興の図と見て許可の検印を押したが、のちに奥女中が若衆を買う図
であることが発覚し、直ちに絶版を命じられる。
1838.○【シンガポール】ロンドン伝道協会( The London Missionary Society)の伝道者サミ
ュエル・ダイアが、2 つの漢字のフォントを完成させるために、父型(パンチ;punches)を
- 340 -
彫り始める。この頃、イギリスでパンチを彫る費用は、1 フォント 3000 字種の場合総額
2400 ポンド(1 万 2000 ドル)
、したがって 1 字当たり 16 シリング( 4 ドル)程度、ペナン
では 5100 ルピー(408 ポンド、2040 ドル)で 1 字当たり 68 セント、インドでは 4000 ルピ
ーを越えることはない。
[1844 年、ダイアが死去する。それまでに、1845 字を作る。以
後、中断する。1851 年、アメリカ長老会の R.コールに引き継がれ、大字 double pica・24
ポイント、小字 pica・12 ポイント各 4700 字の漢字フォントが作り上げられる。この活
字は、形状・様式ともに漢字文化の最もうるさい人の嗜好に合うもので、以後永く継続
的に使用され、自動活字鋳造機への道を開く。](『印刷史研究』2 号、1996.6)
1838. ○【オーストラリア】世界初の郵便料金を表す証票が印刷してある封筒兼用の便箋
が、シドニー近郊で発行される。
「のち、日本では封緘葉書、便箋兼用の切手付き封筒、
郵便書簡などと呼ばれる。](★★この項、要調査!)
1838.○【フランス】スタンダール Stendhal (55 )が、
『旅行者の手記』を発表する。
[以後、
「旅行者」という言葉がはやる。また、この頃、「観光産業」という言葉も使われ始め
る。
]
1838. ○【フランス】パリのサント・ジュヌヴィエーヴ図書館が、初めて夜間開館を実施
し、好評を得る 。
[以後、この年、政府は各地の公共図書館にも夜間開館を勧告する通
達を出す。この頃、図書館に暖房施設が登場する 。
]
1838. ○【フランス】パリの王立印刷所が、中国で彫られた版木のセットを入手する。こ
の木版をもとに鉛を流し込んでステロタイプ thick-casting が作られ、この版を裁断して
個々の鉛活字を作る 。『
( 印刷史研究』2 号、1996.6)
1838.○【イギリス】公文書法の公布によって、国の公文書館(Public Record Office;PRO)
が、ロンドンに設けられ、文書長官( Master of Rolls)の下に、統合的に中央政府の記録類
を保管することになる。[以後、連合王国政府の記録、イングランドおよびウェールズの
裁判記録の永久保存分が収容される。最古の資料として、1086 年に作られたドゥームス
デイ本が収められる。多くのヨーロッパ各国でも、19 世紀のなかばころに国立公文書館
が開設整備され、地方も含めて文書館制度が整っていく。]
1838.○【イギリス 】世界初の鉄道郵便車が導入され、鉄道による郵便輸送を始める。[1858
年、郵便馬車を廃止する。]
1838.○【イギリス】ブルーネル(ブルネル)Isambard Kingdom Brunel(32)が、最初の大西
洋横断定期汽船グレート・ウェスタン号を建造する。[ 1843 年、スクリュー推進の鉄船
グレート・ブリテン号を建造。]
1838. ○【アメリカ】この頃、キーランが、繰り出し式鉛筆を「エバーシャープ(つねに
とがっている)」の商標で筆記具を発売する。最初のメカニカルペンシル(シャープペン
シル)といわれる。[1877 年、日本に渡来する。]
1838. ○【アメリカ】ブルースが、手回し式の活字鋳造機を発明する。
1839(天保10)
1839. 1.−【フランス】ダゲール L.J.M.Daguerre(52)が、ジオラマの絵を描くのに使うカ
メラ・オブスキュラの焦点ガラスに写る像を感光物質でとらえて記録することを研究し、
ついに銀板法による写真術「ダゲレオタイプ(Daguerr ■ otype;daguerreo type)」を完成
- 341 -
させ、研究成果をフランス議会に報告する。[以後、ただちにフランス政府はダゲールの
特許を買い上げ、特許権を公開する。8.19 D.F.J.アラゴを介して、フランス学士院におけ
る科学アカデミーと美術アカデミーの合同会議の席上でダゲレオタイプを公表し、正式
の発明品として認められる。]
1839.[ 5.−]【日本】渡辺華山の攘夷の非を責める『慎機論(しんきろん) 』
、高野長英の
『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』が筆禍を買い、崋山が無人の小笠原島渡航計画に関係し、長
英らと蘭学を講じ、幕政批判を行ったなどと罪状が捏造(ねつぞう)され投獄される。[以
後、蘭学圧迫の「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」が起こる。同年 12 月、崋山には国元田原
における蟄居(ちつきよ)、長英には永牢(えいろう)の判決が下された。これより先、小
関三英は自分も罪の逃れがたきを思い自刃し、崋山、長英の両名もやがて自殺に追い込
まれる。]
1839. 8.19【フランス】ダゲール(50 )が、科学者にして政治家のアラゴ(Dominique) Fran
■ ois (Jean) Arago(53)を介して、年金と引き換えにフランス学士院における科学アカデ
ミーと美術アカデミーの合同会議の席上で銀板写真(ダゲレオタイプ)の技術内容を公開 、
正式の発明品として認められる。ダゲレオタイプの説明を聞いた画家ドラローシュ Paul
Delaroche( 42)は、〈今日から絵画は諸滅した〉と慨嘆する。[以後、ダゲールはレジョン
・ドヌール勲章と多額の年金を受け、マルヌ河畔に広大な土地を得て余生を送る 。のち、8
月 19 日が「写真誕生の日」とされる。(??『記念日の事典』や『今日は何の日』など
は 3 月 19 日が「カメラ発明記念日」とある。)]
1839. 8.−【イギリス】ヒル Roland Hill の提案による「1 ペニー郵便法案」が、民意の高
まりに押される形で議会を通過、女王の署名により成立する。
「1 ペニー郵便」の施行を
1840 年 1 月 1 日と決める。[以後、施行までの準備期間中は、料金は距離に関係なく均
一 4 ペンスと定め、料金算定基準を枚数制から重量制に改める。]
1839.8.23【イギリス】大蔵省が 、
「 1 ペニー郵便」の施行を控えて、料金前納方法の具
体案とデザインを賞金 400 ポンドで一般公募する。ヒル Roland Hill は専用封筒(ステー
ショナリー)の方が断然需要が多いと思い、これにこだわり、懸賞には応募せず、自分の
意見を公表し、その中で偽造防止の方法が不十分なことを指摘する。[以後、1834 年に
郵便切手を創案したスコットランドの出版業者チャルマーズ(チャーマーズ)James
Chalmers(57)が、これに応募する。10.15 公募を締め切る。2600 の応募が集まり、その
中の 49 が「貼り付けラベル」の考案であるが、そのまま採用できるアイデアは見いだせ
ない 。最後に 4 案が残されるが、実行するには、①一般人にとって取扱いが便利なこと 、
②偽造できないこと、③郵便局で確認が容易なこと、④製作費と、それをどこでも売ら
せるのに経費がかからないこと、の 4 条件を満たす提案がなかったので、4 人の提案者
には賞金を 4 分して 100 ポンドずつが贈られる。結局、大蔵省が、郵便料金の前納方法
に「レター・シート(郵便書簡)」と「切手(postage stamp )」を採用することとし、ヒルを
雇用し、印刷会社に発注する。ヒルは自分の創意でロンドンの紙幣彫刻家と接触、アメ
リカのジャコブ・パーキンスが 1813 年に発明した彫鋼法による郵便ラベルを 1000 枚 7
ペンス半で製造させることに話をまとめる。切手の図案には、ヒル自身の提案で女王ビ
クトリアの肖像を採り入れる。印刷された切手が発行されるまでは、封筒に〈PAID(前
納済)〉の印を押すこととする。ヒルは、なおも切手よりも郵便書簡方式が普及すると考
- 342 -
える。チャーマーズは最終選考には残らなかったが、再三論文を発表して、スタンプに
代わる「貼り付けラベル」は額面によって刷り色を変えること、偽造防止のためスカシ
入りの用紙を使用すること、1 枚の用紙に 100 以上の図版を印刷すること、など新たな
郵便切手のありかたを提案する。のち、チャーマーズは「郵便切手の父」と呼ばれる。]
1839. 8.−【フランス】ダゲール( 50)が、世界最初の販売カメラである「ジロー・ダゲレ
オタイプ・カメラ」をパリの光学商アルフォンス・ジローから発売する。このカメラは幅
39cm、高さ 32cm、奥行約 50cm で、前面にレンズをつけた木箱と、後部にピントグラス
と銀板を入れる取枠を装着した木箱があり、後部の箱をレンズのついた箱のなかに滑り
込ませ、前後させて焦点調節を行う構造である。レンズはシュバリエ製、焦点距離 38cm
f17 色消しランドスケープで、16.5cm × 21.5cm (八つ切り)の写真を撮ることができる。
露出時間は 30 ∼ 50 分を要したが、以前よりも大幅に短縮され、アラゴが宣伝に努めた
こともあって人気を博す。[以後、カメラの改良と製造の競争がたちまちヨーロッパ各地
に起こる。一方、画家たちは写真の出現により大きな衝撃を受ける。肖像画家、ミニア
チュール画家、シルエット画家、風景画家、複製画家などにとっては、写真は脅威的な
ライバルとなり、絵画における写実の価値が下落し、職を失う者も多く出る。ドイツの
ライプティヒのある新聞は 、〈ある瞬間の像を記録することが不可能であることは、ド
イツの発明史がすでに証明している。それだけではなく、そんなことを願うこと自体が
神への冒涜なのだ。神は自らの姿を似せて人間を造った。人間が造った装置が神の似姿
を写すことが許されるはずもない。こんな荒唐無稽な発明をしたと豪語するフランス人
ダゲールは、愚か者としか言いようがない〉という論説を掲載し、ダゲールを非難する 。
パリの美術家たちは写真の禁止を要求して政府に陳情する。D.アングルなどもその反対
運動の先鋒に立つが、彼は写真の力は正当に認めており、彼の『泉』( 1856 年)が、写真
をもとに描かれていたという事実が、のちに明らかにされる。写真術の発明以後は、絵
画のなかに写実を超える何か新しいものが模索されるようになる。]
1839.10.19【イギリス 】印刷業者ブラッドショー(ブラドショオ)George Bradshaw(38 )が、
『ブラッドショー鉄道時刻表(Bradshaw's Railway Time Tables, and Assistant to Railway
Travelling, with Illustrative Maps & Plams)』(不定期刊)を創刊する。4.5in × 3.0in(11.4cm
× 7.6cm)の大きさで、本文 26 ページ、片面印刷の長い紙片 13 葉。価格は 6 ペンス。扉
に〈全書店並びに全鉄道会社にて発売〉と付記される。世界最初の時刻表として知られ
る。
[1840.1.1 『ブラッドショー鉄道の友(Bradshaw's Railway Companion)』に改題、全国
版不定期刊行物となり、1848 年まで刊行される。1841.12.1 『ブラッドショー鉄道案内
(Bradshaw's Railway Guide) 』が刊行され 、これが事実上のブラッドショー月刊時刻表第 1
号となる。以後 、
「ブラッドショー」は「鉄道時刻表」を意味する語として、一般に認
められる。1961 年 6 月まで発行される。
]
1839.10. −【フランス】男爵フランスのピエール・アルマン・セギエが、世界最初の蛇腹(じ
ゃばら)式カメラを、三脚、雲台のほか薬品などの装備一式とともに一つのトランクに収
める方法を発表する。[ 1840 年に、シュバリエも分解組立て可能の木製カメラを発売す
る。]
1839.10. −【イタリア】ナポリ∼ポルティチ間に、イタリア最初の鉄道が開通する。
末−【中国】広東でイギリス商人によって刊行されていた新聞『カントン・プレス(The
- 343 -
Canton Press) 』が 、イギリスと中国の関係悪化のため、事務所をマカオに移転する 。
[1840
年、この事務所が、主に広東で通訳をいたトーム Robert Thom によるイソップ寓話の中
国語訳『意拾喩言』を出版する。
]
1839. ○【日本】水戸藩が、祝町遊里とその領有権を持つ願入寺を久米村(常陸太田市)に
移転させ、跡地に天下一の大遊里を建設する計画を決定する。徳川斉昭は 『北方未来考 』
で、〈城下二、三里の処へ、天下一の遊里を拵(こしら)へ申すべし。並に大酒屋も多く有
るべし、又芝居等も有べし、此三つは人の好処と見へて、必ず此れ有る所は繁栄す。〉と
記す。[この計画は斉昭の失脚・隠居により中断される。]
1839.○【オランダ】小説家ベーツ Nicolaas Beets( 25)が、ヒルデブラントの筆名で発表し
た短編集『カメラ・オブスキュラ(暗箱 )
』を発表する。この頃の典型的オランダ市民
の生活を明快なタッチでユーモラスに描いた傑作とされる。
1839. ○【フランス】全国図書館網の組織化に関する王令が発布される。図書館の管轄を
内務省から公教育省に移管し、王立図書館、パリ学術図書館、市町村立公共図書館、大
学図書館などを中央集権的に組織化する。
1839.○【フランス】この頃、ベクレル Alexandre Edmond Becquerel)( 19)が、1 対の金属
電極を酸の希釈溶液中に浸し、金属電極の一方に光を当てると、金属電極間に生ずる起
電力が変化することを見いだし、光起電力効果、あるいは光電効果を発見する。[量子
力学誕生の端緒となった物理現象の一つとして、物理学史上、発見の意義を大書される。]
1839.○【イギリス】サミュエル・キュナード汽船会社(のち、キュナード汽船会社)Cunard
Steamship Co., Ltd. が創業する。
[1840 年、最初の大西洋定期航路を設定する。以後、
優れた経営と手厚い政府の保護に恵まれてその基礎を確立し、北大西洋における客船会
社の雄として着実な発展をたどる。1971 年、トラファルガー・ハウス投資会社に買収さ
れ、同社の傘下に入る。]
1839. ○【イギリス】天文学者ジョン・ハーシェルが、タルボットの発明した紙印画法に
対して「フォトグラフ photograph」と名づける。ギリシア語を語源として、
〈光で描く〉
という意味 。〔これまでタルボットは「フォトジェニック・ドローイング photogenic
drawing 」という言葉を使っていた。
〕
1839. ○【イギリス】カークパトリック・マクミランが、後輪駆動の二輪車を考案する。
乗り手はこれによって二輪車として初めて足を地面から離すことができる 。〔以後、実
物が現存せず、この事項につき確証できない。
〕
1839.○【イギリス】スコットランドのデビッドソン Robert Davidson が、世界初の蓄電
池式の電気自動車を発明する。[以後、自動車の原動機として、蒸気機関、ガソリンエ
ンジンと主導権を争う。]
1839. ○【イギリス】グレート・ウェスタン鉄道が、ロンドンのパディントン∼ウェスト
ドレイン間 21km に、5 針電信機を設置し、通信実用化に成功、運用を始める。 [1843
年、2 針式に改める。1845 年、単針回転文字指示形に改める。]
1839. ○【イギリス】グローブが、水素と酸素の反応中に電流が生じることを発見する。
初めて燃料電池の実験をするが、実用化には至らない。また、白金と亜鉛を電極とし、
電解液に希硫酸、消極剤に硝酸を用いた新しい電池を発明する。[のちに、
「グローブ電
池」と呼ばれる。]
- 344 -
1839. ○【イギリス】ファラデーが、硫化銀の抵抗率が金属とは逆に温度の上昇とともに
減少することを発見 。同年A・????
半導体の謎に満ちた現象を発見する 。[以後 、
多くの物理学者が半導体の謎の解明に挑戦する。1948 年、ショックリー 、バーディー
ン、ブラッテンの 3 人がこの謎を解明する。]
1839. ○【イギリス】ポントンが、重クロム酸塩の感光性を発見する。
1839.○【アメリカ】グッドイヤー Charles Goodyear (39)が、天然ゴムの品質欠陥の改良
に専心している最中、生ゴムと硫黄・鉛白の混合物をストーブのわきに放置しておいたこ
とから偶然ゴムの硬化現象を発見する。[以後、高品質のゴム製品の製造が可能になり、
ゴム工業の技術的基盤に発展する。また、消しゴム産業がドイツ、フランス、アメリカ
で発達する。
]
1840(天保11)
1840. 1. 1 【イギリス】「1 ペニー郵便法」が施行される。イギリスが世界最初の均一郵便
料金制の実施国となる。郵便の最低料金を 16g (?)まで全国一律 1 ペニーに抑え、全国
を距離にかかわらず均一の料金とする。また、これまで後納制だった郵便料金を前納制
に改め、前納の方法として、これまでのスタンプ(stamp)(印判)に代えて紙に印刷した郵
便スタンプ(郵便切手)(postage stamp)を発行することとする。ヒル Roland Hill が 1837 年
に提案した郵便制度の根本的な改革案がここに実現する。この時、切手の印刷が遅れて、
まだ発行されないので、前年に引き続き〈PAID(前納済)〉の印判を押捺する。[4.8 切手
の印刷原版が完成。4.27 印刷所で刷り上がった切手が納入される。5.1 初の郵便切手と
郵便書簡が発行される。以後、近代郵便の制度が確立する。ヨーロッパの各国もしだい
にイギリスの例に倣うようになる 。
「郵政権」が、あたかも外交権や貨幣鋳造権のよう
な重要な国家権力の一つになる。1874 年に、万国郵便連合( UPU)が結成される。]
1840. 5. 1【イギリス】世界最初の郵便スタンプ(郵便切手)(postage stamp )と郵便書簡が
発売される。ビクトリア女王の 18 歳の胸像の横顔を図案化し、黒色の 1 ペニーと青色の 2
ペンス切手が登場する。凹版印刷で、1 面が横 19mm ×縦 22.4mm の矩形を 240 面のシ
ートで構成する。切手の下左右角に記載されたアルファベットで個々の切手がシートの
どの位置にあったのか、分かるようになっている 。裏糊がつけられるが、目打(めうち)(切
手を切り離すためのミシンの穴)は入れられていないので、鋏で切り離して使用する。切
手の印面が黒だったので消印は赤で押され、マルタ十字をあしらった図形が採用される。
官製の郵便書簡(郵便封筒)は、美術家マルレディー(マルリーディ)William Mulready( 54)
の図案による封筒をつけたもので、大量に印刷し、1 ペニーの額面に 1/4 ペニーを加算
して売られる。[5.6 使用開始される。のちに、この 1 ペニー切手は「ペニー・ブラック
(Penny Black) 」、2 ペンス切手は「ペンス・ブルー(Pence Blue )」、郵便書簡は「マルレデ
ィ・カバー( Mulready Cover)」と呼ばれる。郵便書簡は、世界最初の料金全納ステーショ
ナリーで、ヒルらは郵便書簡が主流になると考えていたが、予想に反して人気が良くな
い。理由は、額面に 1/4 が加算されたこと、マルレディー原画の詩的で情緒的な封筒の
図案が不評であったことなどがあげられる。大量の在庫が残り、ほとんどが廃棄処分と
される。その後、私製絵入り封筒が盛んにつくられるようになる。1841 年、1 ペニーの
切手は赤茶色に変わり、このときに消印も黒になる。のちに「ペニーレッド(Penny Red) 」
- 345 -
と呼ばれる。イギリスの料金前納制は成功し、切手は郵便料金前納を証明する方法とし
てきわめて便利であることが認識される。以後、全世界に広がり、160 余年間に 30 万種
を超す切手が各国から発行される。]
1840.6.28【中国】イギリス海軍が珠江を封鎖して、アヘン戦争が開始される。
1840. ○【日本】幕府が、蘭書翻訳書の流布取締令を出し、売薬看板の横文字まで禁止す
る。
1840. ○【日本】この頃、長崎に入港したオランダ船によってダゲレオタイプ(銀板写真
法)がもたらされる。これを薩摩藩の御用時計師上野俊之丞が入手する。日本における写
真の始まり。[1841 年 、上野俊之丞が、ダゲレオタイプにより日本初の写真を撮影する。]
1840. ○【日本】佐渡奉行の川路聖護(としあきら)が『島根のすさみ』に、〈佐渡で安い
ものは女と魚、一朱で江戸の一両分の遊興ができる〉と書く。
1840.○【日本】この頃、東海道最初の宿場、品川の宿場女郎の揚代が 10 文(1 両は銀 60
文)
。また、600 文、400 文もあり。戸塚の飯盛も廻しなしで 500 文。小田原の飯盛は廻
しなしで 700 文。浜松は 500 文と 300 文。(水沢山人・玉の門主人『旅枕五十三次』)
1840.○【ドイツ】
「グーテンベルク 400 年祭」が開催される。この頃、「グーテンベルク
聖書」の刊年は 1440 年と考えられている。メンデルスゾーンは、これを記念して男声合
唱の祝典歌を作曲する。
1840.○【ドイツ】ケラー Friedrich G. Keller が、木材を機械的にパルプ化し、砕木パルプ
を発明することに成功する。
1840.○【ドイツ】フレーベル Friedrich Wilhelm August Fr ■ bel(58)が、世界で初めて幼
稚園(Kindergarten)を、ブランケンブルクに開く。幼児の遊びをたいせつにし、創造性、
自発性、共感性などの形成を目ざす幼児教育を行うことを目的とする。[以後、その影響
により、しだいに世界各国に幼稚園が設けられるようになる。1876 年、日本初の幼稚園
が東京女子師範学校(のち、お茶の水女子大学)附属幼稚園として開設される。]
1840.○【ドイツ】砲兵隊士官ジーメンス Werner von Siemens( 24)が、金銀の次にニッケ
ルのめっき法を発明する。[以後、これにより大金を手にする。]
1840.○【フランス】銀板写真が改良され、露出時間が 15 ∼ 30 秒と短縮され、実用化が
加速される。
1840. ○【イギリス】世界第一の時計産業国を誇ってきたイギリスが、製造現場の機械化
への無関心が災いして、この頃から衰退し始める。[以後、スイスの台頭が始まる。]
1840.○【イギリス】ベーン(ベイン)Alexander Bain(22 )が、電気信号によって子時計を
動かすことを提唱する。[ 1841 年、機械時計の振り子を利用し、接点によって一振動ご
とにインパルスを発生させ子時計を動かすことに成功する。これにより、電気時計発展
への道が開かれる。以後、1856 年には、スイスのブレゲーが電気巻き時計、1918 年ごろ
アメリカのワーレン H. Warren が交流同期モーターを使用した時計を、1927 年にはマリ
ソン W. A. Marrison が水晶時計、1949 年にはライオンズ H. Lyons がアンモニア分子の振
動を利用した原子時計をつくる。]
1840. ○【イギリス】この頃、鉄道に腕木式信号機が登場する。夜間にはその腕にランプ
を下げて用いられる。
1840.○【イギリス】発明家アームストロング( 30 )が、水力発電機を発明する。(???
- 346 -
『クロニック世界全史』による。本当か?)
1840.○【イギリス】タルボット(トールボット)William Henry Talbot(40)が、没食子(ぼ
っしょくし)硝酸銀で潜像を現像する方法を完成し、この方法を「カロタイプ」と呼ぶ。
[彼はこのカロタイプを普及させるために世界最初の写真焼付け所を設立する。また 1844
∼ 46 年に、世界最初の写真版入り本『自然の画筆』を出版する。
1840. ○【イギリス】この頃から〈理性と革命〉(フランス革命、産業革命、科学革命)に
対する反動がおきて、自由恋愛、産児制限、女権拡張、結婚改革といった進歩的思想に
反対する「ビクトリアニズム」と呼ばれるピューリタン的行動規準が一般化する。性を
口にするのは恥ずべきこととされ、女の脚を連想させるとの理由で、ピアノの脚にズボ
ンをはかせるなどの行為が行われる。
1840.○【イギリス】ロンドンの売春婦が、16 万人と推計される。
1840. ○【アメリカ】ハーバード大学天文台にいたことのあるドレーパーが、初めて写真
術を天体観測に応用する。天体の微弱な光を、写真の露出時間を長くすることで光を蓄
積してより明瞭に乾板上に固定できるようになうる。[以後、観測データを保存しておく
ことも可能になる。]
1841(天保12)
1841. 1 . 5【日本】中浜万次郎(14 )が、5 人で漁に出た際 、宇佐沖で嵐に遭い、漂流する 。
[以後、無人島(ぶにんとう)鳥島に漂着し、約 5 ヵ月後アメリカの捕鯨船ジョン・ホーラ
ント(ハウランド)号の船長ホットフィールドに救助される。数日後、万次郎は、他の 4
人の仲間がおどおどしているのに自ら見張り役を買って出て、見よう見まねで、鯨を見
つけて〈There she blows, ― blo-o-ws!(あすこでクジラが潮をふいているぞーっ!)〉と声
を発する。日本人の英語史の第 1 声となる。ハワイに着くが、日本が鎖国していたため
に帰国できず、ハワイに残留する 4 人と別れ、万次郎だけがアメリカに渡る。ボストン
近郊のフェアヘブンにある船長の家で家族に温かく迎えられ、ABC から数学、航海術ま
で高等教育を受ける。日本人のアメリカ留学第 1 号となる。1851 年 1 月、鎖国の禁を突
破して沖縄に上陸し、帰国する。]
1841. 1 . −【中国】香港が、イギリスに占領される。
1841. 7. 5 【イギリス】熱心な禁酒論者クック Thomas Cook( 33)が、史上初の公募団体列
車を運行させ、禁酒運動の大会へ同志を団体旅行させる。この頃まだ珍しく高価でもあ
る鉄道に目をつけ、ダービー∼ラグビー線で臨時列車を借り切ってレスター∼ラフバラ
間の往復旅行を割安でできるようにする。大会参加者 570 人が、途中では景色を眺め、
お茶の時間を楽しむなどして大好評を博する。[以後、クックは旅行斡旋業をはじめる。
禁酒主義者は、団体旅行をアルコール反対運動、アルコール乱用反対の大規模集会に利
用する。1851 年のロンドン万国博覧会で成功する。1855 年のパリ万国博覧会のときから
はヨーロッパ大陸その他への団体旅行も始め、大成功を収める。海外旅行にも事業を拡
大し、全世界の主要地に支店を置く世界有数の旅行社トマス・クック・アンド・サン社とし
て、ホテルや乗り物の予約代行など、旅行に不可欠なさまざまな業務を創始する。1873
年、画期的な『ヨーロッパ鉄道(および連絡船)時刻表兼旅行ガイド』を発刊。のちに
全世界の鉄道時刻表を発行する。]
- 347 -
1841. 7.17 【イギリス】作家ヘンリ・メーヒュー(29 )とマーク・レモン(31)が、絵入り風刺
週刊雑誌『パンチ( PUNCH, or the London Charivari)』を創刊する。誌名は、かつて街頭
の舞台で演じられたパンチとジュディの人形劇からとり、副題の「ロンドン・シャリバリ 」
は、発案者のランデルズ Ebenezer Landells が、パリで発行されていた諷刺日刊新聞『ル
・シャリバリ(ル・シャルヴァリ)(Le Charivari)』にヒントを得てつけられる。風俗、世
相、政治その他を上品に風刺する文章に 1 こま漫画がふんだんに挿入される。索引が創
刊号からつけられる 。
[以後、常にその時代最高の文学者と画家が参加する。例えば H.
メーヒューやサッカレー(画家としても腕をふるった)が文章で、ジョン・テニエル、リチ
ャード・ドイル(コナン・ドイルの伯父)が絵画でその紙面を飾る。 1862 年春、イギリスの
ジャーナリスト・漫画家のワーグマン Charles Wirgman が、日本における最初の日本語
版の『ジャパン・パンチ( The Japan Punch) 』を創刊する。1877 年、野村文夫が『PUNCH』
にヒントを得て日本で時局風刺週刊誌『團團珍聞』を創刊する。日本で風刺漫画を意味
する「ポンチ絵」の呼び名はこの雑誌に由来する。1992.4.8 『PUNCH』財政難のために
終刊。151 年間の幕を閉じる。のち、7 月 17 日を「漫画の日」と定められる。]
1841.[ 6.−]【日本】鳥居甲斐守が、南町奉行所に『江戸繁盛記』の作者寺門静軒こと寺
門次右衛門、版元丁字屋平兵衛らを呼び取り調べる。[1842 年、有罪判決。]
1841. 9.11【イギリス】
『ブラッドショー鉄道案内( Bradshaw's Railway Guide)』が刊行さ
れる。これが事実上のブラッドショー月刊時刻表第 1 号となり、鉄道のほかに汽船の時
刻も加えられる。[以後、
「ブラッドショー」は「鉄道時刻表」を意味する語として、一
般に認められる。1961 年 6 月まで発行される。
]
1841. 9.11 【イギリス】ロンドンからブライトンへ 105 分で通勤できる急行列車が定期サ
ービスを始める。[ 12.1 ドイツのライプチヒとベルリンで刊行されている週刊イラスト
新聞『Illustrirte Zeitung』に関連記事が掲載される。]
1841.[12.29]【日本】江戸北町奉行遠山左衛門尉景元が、江戸期 3 度目のポルノ取締を行
う。人情本『春色梅児誉美(うめごよみ)』の版元、文永堂など数軒の大手版元から大八
車 5 台におよぶ春画・好色本の版木・製本板を押収する。『春色梅児誉美』の作者為永春
水(51)、浮世絵師の一勇斎国芳らを逮捕し、内容が好色、淫らなる上にほかにも春本・
春画本の著述があるとして、取り調べ中は手鎖をする 。[1842 年 6 月 11 日、裁許落着し、
板はすべて絶板、打ち砕いて焼き捨て、版元丁字屋平兵衛らは家主預けの上、過料 5 貫
文、および売り得金(販売利益)7 両を没収、作者春水は改めて手鎖 50 日の刑を受ける。
1843 年 12 月 22 日、春水が悶死する。]
1841. ○【日本】老中水野忠邦が、改革に着手する。天保の改革が始まる。思想よりも風
俗取締りに比重がかかる。[文学者では先に山東京伝、後に柳亭種彦と為永春水とが大き
な犠牲を払わされる。]
1841. ○【日本】長崎の御用商人の上野俊之丞が、昨年オランダ船から入手したダゲレオ
タイプにより、薩摩藩主島津斉彬(32 )の肖像写真を撮り、日本初の写真を撮影する。
(?)
[のち、俊之丞の四男上野彦馬(1838 ∼ 1904)は、化学と写真術をオランダ政府派遣の海
軍医ポンペ van M. から学び、写真機や薬品を自製する。1862 年、長崎に日本最初の営
業写真館を開設する。以後 、『東洋日の出新聞』に掲載された上野俊之丞の息子・彦馬
の口述による記事「日本写真の起源」の記述をもとに、6 月 1 日が日本で初めて写真が
- 348 -
撮影された日とされる。1951 年に 写真の日制定委員会が「写真の日」と定め、日本写
真協会が主催する。しかし、この日が 6 月 1 日との確証はない。後の研究で、それ以前
にも写真撮影が行われていたことがわかる。]
1841. ○【ヨーロッパ】このころ、銀板写真術が改良されて、ヨーロッパ各地に続々と写
真館が誕生する。肖像画に代わる肖像写真が急速に普及し、街頭スナップ写真も初めて
撮影される。
1841.○【ドイツ】化学者ブンゼン Robert Wilhelm Bunsen( 30 )が、電極に炭素と亜鉛、電
解液に希硫酸、消極剤に強硝酸を用いた亜鉛炭素乾電池を発明する。起電力は 1.9V 。[以
後、ブンゼンは、この電池を利用して電気アーク灯を作り、考案した光度計でその光度
を測定する。また、電池を使った電気分解法によって、金属マグネシウムを製造する。]
1841. ○【ドイツ】ペーター・ビルヘルム・フリードリッヒ・フォクトレンデル(フォクト
レンダー)(29)が、史上初の全金属製のカクテルシェーカー型のダゲレオタイプ・カメラ
を作り、発売する。ユニークな円筒形をしており、ウイーン大学数学科教授ヨーゼフ・ペ
ツバール設計の f3.7 焦点距離 149mm という驚異的な明るさのレンズを取りつける。こ
れまでは、快晴の日中でも 40 分を要した露出時間を、一挙に約 16 分の 1 に短縮する。
[1849 年に、フォクトレンダーはドイツのブラウンシュバイクに工場を移し、ドイツの
会社になる。以後、140 余年にわたり優れたレンズと独特の機構を持つあらゆる種類の
カメラを造る。1990 年代に熱烈なファンに惜しまれながら消滅する。]
1841.○【フランス】W.ランゲンハイムが、幻灯機に初めてズームレンズを使用し、大き
な映像を写し出す。
1841. ○【フランス】ルルブール社が、同社製カメラのレンズに、回転する金属板に数種
の小穴をあけた回転絞りを初めて採用する。[以後、この方式が盛んに使われるようにな
る。]
1841.○【フランス】数学者 コーシー Augustin-Louis Cauchy( 52)が、のちのサンプリン
グ定理に相当する定理を初めて呈示する。[1928 年、ナイキストが、別の形で「ナイキ
ストの判定条件」として呈示する 。
]
1841.○【イギリス】カーライル Thomas Carlyle(46)らが発起人となり、最大の会員制図
書館、ロンドン・ライブラリー(ロンドン図書館)(London Library)が創設される。
1841.○【イギリス 】W.H.F.タルボットが、ヨウ化銀感光紙を使って写真のネガ像を作り、
このネガを感光紙に焼き付けてポジを作るネガポジ法の祖である「カロタイプ calotype 」
を考案する。イギリス特許を取得し、ロンドンで発売する。[のちに「タルボタイプ
talbotype」とも呼ばれる。]
1841.○【アメリカ 】アメリカ初の広告代理業「ボルネー・B.パーマー( Volney B. Palmer ) 」
が、フィラデルフィアで創業する。パーマーは、原初的な「新聞スペース業務(newspaper
agency)」を開始する。[1865 年、ローエル George P.Rowell が、あらかじめ新聞社から大
量のスペースを買いとり、これを広告主に小売りする「スペースブローカ」を始める。]
1841. ○【アメリカ】サウスカロライナ大学が建設され、最初に独立した建物である図書
館を併設する。
1841.○【アメリカ】作家カート・ヴォネガットが、その小説『スローターハウス 5』に、
〈女とシュトランド・ポニーがいままさに性交を行おうとしている〉ポルノ写真が撮影
- 349 -
され、〈ダゲールの助手であるアンドレ・ルフェーブルが、チュイルリ公園である紳士に
写真を売りつけようとして逮捕された。〉(伊藤典夫訳)と書く。
1842(天保13)
1842. 1. 2【イギリス】異なった鉄道会社の路線をまたがる利用者の便を図るため、鉄道
精算所( Railway Clearing House)が設立され、ロンドン駅ユウストン( Euston)近傍に事務
所を置き、事務員 6 人で業務を開始する 。
[以後、
「鉄道時代」の発展に大きな役割を演
じる。1910 年、約 3000 人の職員を全国約 500 ヵ所の鉄道接続地点に派遣し、1 会社の路
線から他社の路線へ通過するあらゆる車輌の点検に当たるようになる。1953.3.31 国有鉄
道時代となり無用の長物化するに及び、廃止される。]
1842. [ 3.−]【日本】老中水野忠邦の命により、江戸最大の岡場所、深川の遊里が取り
払われる。[ 1843 年、改革は失敗に帰し、老中水野忠邦が退職すると遊里は直ちに復活
する。以後、吉原の遊女が急増し 6000 余人に達する。]
1842. 4.−【ドイツ】マルクス( 26)が、
『ライン新聞』に論文「出版の自由と州議会議事
の公表についての検討」の寄稿を始める。
1842.[ 6. 3]【日本】老中水野忠邦の命により、幕府が絵草紙人情本等諸出版物取締令を
発する。風紀粛正として、富興業、文身(いれずみ)、劇場の散在、岡場所などを禁じる
とともに、書物・絵草紙・人情本についても好色画本などの売買を禁止、また出版に際
し、作者、版元の実名を奥書にすることを命ず。
1842.[ 6.11]【日本】為永春水(52)らが手鎖 50 日の刑に処せられる。柳亭種彦(59)は、
その『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』が大奥を写したとの風評がたち、奉
行所に召喚され取り調べられ、絶版を命じられる。その最中に、春本『水揚帳』執筆も
バレる。版元の鶴屋喜右衛門は版木没収の上、所払いに処せられる。
1842.[ 7.19]【日本】柳亭種彦(初世)(59)が、憂悶(ゆうもん)のあまり発病して悶死する。
一説には、度重なる春本の取調べに病が昂じたとも自殺ともいわれる。
1842.[ 7.−]【日本】幕府が、人情本の売買・賃貸を禁止する。また、版元が保有するこ
れらの版木を没収する。
1842.[ 8.20]【日本】曲亭(滝沢)馬琴が、『南総里見八犬伝』全 98 巻、106 冊を完成させ
る。1814 年 11 月に初輯(第 1 集)を刊行して以後、28 年の歳月をかけた馬琴畢生の超大
作となる。完成に近づいたときに、75 歳の馬琴は両眼が盲(めし)いてしまい、漢語にう
とい嫁のお路が苦心惨澹して口述筆記をはたし、ようやく完結にこぎつける。物語はは
壮大華麗、波乱万丈をきわめ、読者を狂喜させる。明治時代にまで及ぶ大ロングセラー
となる。]
1842.[ 8.20]
1842.[ 8.23]【日本】寺門静軒(46)が、出版不許可の『江戸繁盛記』を 1830 年以来刊行
してきた上、内容が淫らだとして、武家奉公御構い(禁止)の措置を受け、版元の丁字屋
平兵衛は所払い、版木師は過料に処される。
1842.[11.30]【日本】幕府が、書肆組合世話掛名主に、合巻絵草紙の類はすべて草稿中に 、
名主月番の認印を受け、出版の際照合することを命じる。この原稿検閲令により、版元
に大打撃を与える。
- 350 -
1842.[11.−]【日本】幕府が、6 月の禁令が守られないので、〈一枚絵の儀、売買一枚に
つき一六文以上の品、無用なるべく候〉と重ねて絵草紙の値段を制限する。この頃、二八
蕎麦 16 文も「二七蕎麦」14 文に値下げする。
1842. ○【日本】幕府の官学である昌平黌(しょうへいこう)が、「全国出版物改め」を実
行し、新刊書の納本をさせる。[ 1875 年、明治新政府の内務省が納本制度をとる。]
1842. ○【日本】天保の改革のため、多くの寄席が廃止され、演目も軍談や神道講釈など
に制限される。[やがて復活し、従前にもまして盛んになる。]
1842. ○【日本】老中水野忠邦が、混浴を禁止し、男湯と女湯の間に仕切りを設けること
を命じる。[しかし、庶民には効果なく、仕切りはあっても上方だけで、下は共通だった
ため、浴槽の底を泳ぎ抜け女湯側へ入って「バア」とやる輩が絶えない。(篠田鉱造『明
治百話』)]
1842.○【ドイツ】ブンゼンが、昨年発明した炭素-亜鉛電池の消極剤を重クロム酸カリ
に代え、起電力 2.2V の重クロム酸電池を発明する。
1842.○【イギリス】ミューディー C.E.Mudie( 24 )が、ロンドンで貸本文庫(commercial
lending library)(通称 circulating library )
「ミューディーズ・ライブラリー(Mudie's Library) 」
を始める。基本会費1ギニー(21 シリング)を納めることで貸し出す。[以後、2 、3 の
支店からしだいに拡大し、各地のブッククラブあるいは私的な会員制文庫 private
subscription library 、あるいは他の小貸本業者にレンタルで貸しつけることで、ミューデ
ィーの本はイギリス全土にゆきわたる。1937 年、店を閉じる。この間、E.M. サトーがミ
ューディーズ・ライブラリーから、日本に関する記事の書かれた本を借り出して読み、日
本へ行く気になる。]
1842.○【イギリス】絵入り新聞『イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ(The Illustrated
London News)』が創刊される。画家の描いた事件の情景を木版にして印刷する。また、
最初から索引を付ける 。
[以後、写真の原画がある場合でも、製版技術がないので木版
に彫り起こして印刷する。しかし、紙面に写真を元にして描いたという注記をすること
で、高い信憑性を打ち出し好評を得る。]
1842.○【イギリス】ハーシェルが、化学的感光材を用いる初の複写法 、
「シアノタイプ」
を発明する。感光材料として第二鉄塩と赤血塩(カリウム塩)が使用される。トレーシ
ングペーパーの原図を感光用紙の上に置き、アーク灯や高圧水銀灯などで露光する。フ
ェリシアン第一鉄は水溶性でないので、水洗いすると露光しなかった部分が溶けて青地
の中に白線として、つまり陰画として現れる。これを乾燥すれば青写真ができあがる。[青
写真と呼ばれ、安価に複写できるため、土木、建築、機械などの図面の複写に多用され
るようになる。青地部分への書き込みが見にくいことや、水洗い、乾燥という操作をし
なければならない不便な面もあって、1920 年、ジアゾ複写が発明されるまでは、複写の
主流を占める。]
1842.○【アメリカ】ヘンリー Joseph Henry( 45 )が、火花放電が電磁振動を生ずることを
観測し、それが多くの周波数成分を含む振動性のある物理現象であることを発見する。
1842. ○【アメリカ】連邦政府が、フランスからの春画絵はがき輸入を取り締まる法律を
施行する。[マサチューセッツ州1州だけが猥褻を法で禁じており、法に触れた者は 2 例
だけであった。19 世紀末に 30 州が同様な法を施行する。20 世紀半ばに全州に及ぶ。]
- 351 -
1843(天保14)
1843. 6. 1 【フランス・イギリス】英仏郵便交換条約が施行される。条約は本文 68 条から
なる。
[以後、さまざまな条文が条文が追加される。1860.5 極東地域の郵便物について
もこの条約が適用される。
]
1843. 9 . 2【イギリス】経済誌『エコノミスト』が創刊される。
1843.○【日本】老中首座水野忠邦( 49 )、南町奉行鳥居甲斐守忠耀らが失脚し、阿部正弘
が老中首座につく。天保の改革が終結する。
1843.○【日本】歌川国芳( 46 )が、寛政以来の「当分之儀(時事的な事柄)」を一枚絵にす
ることに対する幕府の禁止令による厳重な監視体制にもかかわらず、「源頼光公館土蜘
作妖怪図(みなもとらいこうやかたつちぐもようかいをなすず)」と題する 3 枚続きの錦
絵を発表し、老中首座水野忠邦の失政を強く諷刺する。[以後、江戸で、事件・世相を題
材とする錦絵が出て、“錦絵の瓦版化”という状況が生まれる。(吉原健一郎『落書とい
うメディア』教育出版、1999)]
1843.○【日本】この頃、108 隻ものアメリカ船が捕鯨のため日本近海に出没する。アメ
リカが日本に開国を迫る。このような動きが国内に対外意識を目覚めさせ、蘭書の中心
が医学書から兵学書へ移る。
1843.○【オランダ】オランダ最初の鉄道が、アムステルダム∼ユトレヒト間に開通する。
1843. ○【ドイツ・ベルギー】国境を越える最初の鉄道が、ドイツとベルギー間に開通す
る。
1843. ○【ドイツ】この頃、警察官の手になる匿名のパンフレット「ベルリンの売春とそ
の犠牲者」がまとまる。これによると、ベルリンに約 1 万人、パリに約 3 万人、ロンド
ンに約 9 万人の売春婦がおり、ベルリンでは男 22 人に売春婦 1 人がいることになる。
1843.○【フランス】ドイツの詩人ハイネ Heinrich Heine(本名 Harry Heine)( 46)が、新し
い鉄道に乗り、時間と空間の基本的な考え方が揺らいでしまった、とパリで書く 。
〈今
は 3 時間半でオルレアンへ行けるし、ルーアンへも同じ時間だ。ベルギーやドイツに線
路が延びてそこの鉄道とつながったとしたら、まず何が起こるだろうか。私には、あら
ゆる国の山と森がパリに近寄ってくるように思える 。〉
[この年、ドイツとベルギー間の
国境を越える国際鉄道が開通する 。
]
1843.○【イギリス】ラスキン John Ruskin (24)が、はじめ画家ターナー Joseph Mallord
William Turner( 68 )を擁護するために書き始めた『近代画家論』の第 1 巻を刊行する。一
躍有名となる。[以後、その第 2 巻を書くためにイタリアなどヨーロッパ大陸を何度も訪
れ、絵画、彫刻、建築を研究する。1849 年、その結果、
『建築の七灯』が生まれる 。1851
∼ 1853 年 、
『ベネチアの石』などが生まれる。美術批評家としての名声はいっそう確立
される。彼は「ラファエル前派」と呼ばれる画家たちを擁護して評論を書き、各地で講
演する。1860 年、
『近代画家論』第 5 巻が出て完結する。]
1843.○【イギリス】科学博物館が、寄付により新設される 。
[1851 年、万国博覧会の収
益で科学図書館 Science Library が付設される。
]
1843.○【イギリス】キングズ・カレッジの実験物理学教授ホイートストン Sir Charles
Wheatstone(41)が、1833 年に S.H.クリスティが起電力の比較測定に用いた回路応用、発
- 352 -
展させ、いわゆる「ホイートストンブリッジ(Wheatstone bridge )回路」を発明する。こ
れは、5 個の抵抗が接続されたブリッジで、ブリッジ回路のうち最も基本となるものと
なる。
1843.○【イギリス】ブルーネル(ブルネル)Isambard Kingdom Brunel(37)が、スクリュー
推進の鉄船グレート・ブリテン号を建造する。
1843.○【イギリス】スコットランドの時計技師ベーン(ベイン)Alexander
Bain(33 )が、
静止画を走査によって分解し伝送したのち、走査線を 1 本づつ再生して 1 つの静止画を
組み立てる方法を考案し、基礎的な実験を行う。[以後、振子式走査画像電送装置など
と呼ばれる。映像を水平走査して電送する基本原理となり、のちの電送写真や、テレビ 、
ファクシミリなどで実用される。
](※『ニューズウィーク 日本版 』1997.12.31-1.7 号 p.69
は〈1834 年にファクスの技術で特許を取得している。
〉とある。)
1843.○【アメリカ】政府が、ワシントン∼ボルチモア間の電信施設を 3 万ドルでモール
スに発注する[1845.1.1 開通する。]
1843.○【アメリカ】末日聖徒キリスト教会(モルモン教)の創始者、ジョセフ・スミス Joseph
Smit( 38 )が、初めて信者たちに重婚を奨める。[ 1844 年、合衆国の大統領候補になると
宣言するほど政治的に権力をもつ。彼の影響力の強大さに加えて、一夫多妻制の実践は
人々の脅威となり、それが非難へと変わる。6 月 27 日、彼と弟が暴徒に捕らえられ、殺
される。]
1844(弘化1)
1844. 2.23【中国】(1 月説あり。いずれが正しいか不明)アメリカ長老会の宣教師マッカ
ーティー Divine Bethune McCartee と印刷技師コール Richard Cole が、澳門(マカオ)に到
着する。マカオに聖書の印刷所「華英校書房」を開設する。
[4.1 パリの王室印刷所の活
字彫刻師ルグラン Marcellin Legrand が製作した分合活字の漢字母型のうち 323 個到着す
る。コールの努力により、中国で分合活字が実用に耐えるようになる 。1845 年 、寧波(ニ
ンポウ)に移転し、
名を華花聖経書房(アメリカン・プレスビタリアン・ミッション・プレス)
と改める。1860 年 12 月、(一説に 1861 年)上海・北京路 18 号に移る。]
1844. 4.17【アメリカ】シリンダと平台を組み合わせた印刷機に対するアメリカ初の特許
が、ホー Robert Hoe に認可される。
1844. 5.24【アメリカ】ニューヨーク市立大学美術史教授モース(モールス)Samuel Finley
Breese Morse(53)が、政府の援助でワシントン∼ボルティモア間 37 マイル(約 60km )に
初めて架設した電信回線を通じて、1843 年に会議で承認された、「・」と「−」の 2 種
類の電気信号(のち、モールス符号(morse code ))によって、ベイルに聖書の言葉〈What
hath God wrought? (神がなせし業(わざ))(神がつくり給いしもの)〉というメッセージを
送信し、電信装置で世界初の長距離通信を行う。この当時、一体こんな離れたところの
人間が話をすることなどあるだろうかという懐疑論を吐く者もいる。
[1845.1 電信開通
式を行う。1856 年、実業家シブリー Hiram Sibley がモースを援助してウェスタン・ユニ
オン電信会社を設立する。モースの電信技術が指示電信を淘汰し、電信方式の標準とな
っていく。ウェスタン・ユニオン電信会社は、ニューヨーク∼セントジョセフ間の電信線
を開通させる。それまでは、通信文はニューヨークから船でパナマに運び、陸送して太
- 353 -
平洋沿岸に出て再度びで 1 ヵ月ほどかけてサンフランシスコまで運んでいたが、セント
ジョセフ線の開通により、セントジョセフからは子馬速達便「ポニー・エクスプレス」が
約 3200km を 8 日かけて輸送するようになる。以後、多くの企業を合併して成功、長年
の労苦が報われる。没年までにモースの電信機とモールス符号はヨーロッパのほとんど
の国に採用され、17 か国から勲章を授与される。]
1963.8.23 世界初の静止衛星による通信で、ケネディー大統領が同じメッセージを発す
る。]
1844.12.21 【イギリス】呉服商店員ウィリアムズ George Williams( 22 )を中心とする 12 人
の青年が、初めて「キリスト教青年会(Young Men's Christian Association ;YMCA)」をロ
ンドンで組織する。キリスト教の信仰にもとづいて、男子青年の人間教育と社会奉仕を
目的とする。[以後、後欧米諸国に急速に広まる。1855 年にパリで世界大会を開く。世
界的な団体となる。]
1844.○【日本】佐久間象山( 33 )が、オランダ語の百科全書を読み、電信のことなどを知
る。[ 1849 年、信州松代で電信機を作り、実験する。](加藤木重教『日本電気事業発達
史』前編、電友社、1916 、石井寛治。1994)
1844.○【中国】安徽涇県(あんきけいけん)の塾教師?(羽+集−木)(てき)金生( 70)が、1
万個の泥活字を作製し、自分の詩集『泥版試印初編』を試験的に印刷し刊行する。彼と
家族は、30 年の時を費やし、全財産を投じて 10 万余個の?(イ+方)宋体泥活字を完成さ
せた。活字は大、中、小、次小、最小の 5 つの字体に分かれ、「泥聚珍板(でいしゅうち
んばん)」と称した。この詩集中に詩 5 首を収めるとともに、30 年来の刻字、組版、創
作、編集、印刷の苦しい過程の模様を掲載する。
[以後、友人黄爵滋の詩集を刊行する。1856
年、孫に『(羽+集−木)(てき)氏家譜』を刊行させる。]
1844.○【ドイツ】ベルリンに、政府公認の娼家が 26 軒があり、登録された娼婦が 240
人いる。
1844. ○【ドイツ】ゴットロープ・ケラーが、紙の製造に機械で打解した砕木パルプをぼ
ろの「パート」と混合する方法を考案する。
[1847 年 、ヴェルターがその実用権を得る。1860
年頃、新聞用紙として、ぼろに代わって藁(わら)が広く使用されるようになる 。
]
1844.○【フランス】タルボット William Henry Talbot( 44)が、1840 年に開発した「カロ
タイプ」を普及させるために世界最初の写真焼付け所を設立、世界最初の写真版入りの
書物『自然の画筆』シリーズのを出版を始める 。
[∼ 1846 。日本では「トールボット」
ともよばれる。
]
1844.○【フランス】銀板を半円状に曲げ、画角 150 度のパノラマ写真用カメラがつくら
れる。
1844.○【イギリス】物理学者ホイートストン Charles Wheatstone( 42 )が、海底電信の実験
を行う。
1845(弘化2)
1845. 1.−【イギリス】凶悪犯人ジョン・タウエルが、列車に乗り込んで逃走を図り、ロ
ンドンのパディントン駅に到着して降車した途端、駅舎内で逮捕される。郊外のスロウ
からの有線電話の連絡により、警官が待機して逮捕に成功する。鉄道よりも速い高速の
- 354 -
通信手段があることが初めて認識され、一躍社会的な話題となる。
1845. 4.−【フランス】パリ∼ルーアン間に電信線が敷設される。[この年、政府は電信
事業を民営とすることを決める。]
1845. 7.19【中国】アメリカ長老会の印刷所「華英校書房」が、マカオから寧波に移り、
華花聖経書房と改称する。
[1860.12 再度上海へ移る。
]
1845. 8.−【日本】新吉原梅木屋事件が起きる。梅木屋佐吉の抱え女、福岡が、楼主佐吉
に責め殺されたのを機に、仲間 16 人が放火のうえ逃走、自身番に駆け込み訴えに及ぶ。
1845.12. 5 【日本】新吉原が放火により全焼する。夕 7 時半頃、河津屋新次郎の抱え遊女
玉琴( 16)、六浦( 16)、姫菊(14)の 3 人が放火したと伝えられる。
1845.○【日本】中井三郎平衛が、越三商店を開く。[1876.1 中井商店と改称する。]
1845.○【シンガポール】東南アジア地域で、初の英字新聞『ザ・ストレイツ・タイムズ』
が創刊される。[以後、シンガポールで最大の日刊紙となる。]
1845. ○【フランス】この頃、自然落下式の木製ギロチン型シャッタが現れる。
1845.○【フランス】 F. マルテンスが、回転式パノラマカメラを発明する。
1845.○【イタリア】錫箔とマイカを交互に重ねたマイカコンデンサが作られる。[以後 、
紙コンデンサ、磁器コンデンサ、可変容量コンデンサなどが作られる。アメリカ、イギ
リスなどでは、凝縮器( condenser)と紛らわしいので、キャパシタ( capacitor)と呼ばれる
ようになる。]
1845.○【イギリス】ロンドンのゴム業者 S.ペリーが、輪ゴムを書類や手紙の整理用とし
て製造を始める。[ 1912 年頃、日本でも使用されはじめる。1924 年、日本で国産第 1 号
が生まれる。]
1845.○【イギリス】ブルーネル(ブルネル) Isambard Kingdom Brunel(39 )が、ハンガーフ
ォードの吊橋を建設する。
1845.○【イギリス】電気技術者クック Sir William Fothergill Cooke( 39)が、単針電信機を
発明する。
1845. ○【イギリス】ファラデーが、透明な物質に磁場をかけて、この磁場と同じ方向に
光を通過させると偏光面が回転し、磁場の大きさに応じて光の量が変化する現象を発見
する。ファラデーは、光は波動ではないかと考え、エーテルという媒体の存在に疑問を
持つ 。
[のち、ファラデー効果と呼ばれる 。1884 年、ドイツのニプコーが、この現象を、
テレビの元祖「電気望遠鏡」の原理に応用する。
]
「
1845.○【アメリカ】政府が、雑誌郵送の料金をさらに値下げする。96 ページ建て重さ 5
オンスの雑誌の郵送料は、従来 6.5 セントだったのを 1.5 セントにまで値下げする。
1845. ○【アメリカ】純粋な啓蒙の立場をとった科学雑誌『サイエンティフィック・アメ
リカン( Scientific American )』が創刊される。[以後、大衆向け科学雑誌の原型となる。]
1846(弘化3)
1846. 1.21【イギリス】イギリス最初の日刊大衆紙『ロンドン・デイリー・ニューズ』が、
安い価格で発行される。
1846. 9.23【ドイツ】ベルリン大学のガルレ(ガレ)Johann Gottfried Galle(34 )が、海王星
を発見する。すでにイギリスのアダムズ John Couch Adams( 27)とフランスのルヴェリエ
- 355 -
(ルベリエ)Urbain Jean Joseph Le Verrier(35 )が、それぞれ独立に未知惑星の予測位置を求
めていた。この日、パリ天文台のルベリエより未知惑星の探査依頼状を受け、夜、早速
推定位置の 1 秒近くに光度 8 等の海王星を検出する。アダムズは、ケンブリジ大学在学
中に天王星の運動(公転)がケプラーの法則からずれることを知り、その原因が未知惑星
による摂動のためであると解釈し、1845 年にその計算を完成したが、グリニジ天文台長
エアリーに無視されていた。[1846 年、ルベリエがパリ科学アカデミー会員になる。1848
年、アダムズは、ハーシェルの進言で、その先見性が公認され、その功により王立協会
から最高賞を受ける 。1849 年、ルベリエがソルボンヌ大学天体力学教授となる。1851 年、
ガルレがブレスラウ大学教授兼天文台長になる。]
1846. ○【日本】岡場所への町奉行の手入れの度に、岡場所から吉原に送り込まれる私娼
が激増した結果、吉原の遊女が 7197 人になる。このため、吉原遊女の質が急速に低下す
る。
1846.○【中国】福州の林春祺が、21 年かけて 20 数万両を費やし、大小 40 余万個の銅活
字を鋳造する。楷書体のこの銅活字は「福田書海」と呼ばれ、アジアにおける金属活字
史上、最大量の活字となる 。
[以後、この活字で顧炎武『音論 』『詩本音 』
、行軍時の医
療に関するカンする『軍中医方備要』などが刊行される。また林自身が『銅版叙』を著
し、銅活字を製作するに至る経緯について述べる 。
]
1846.○【ドイツ】ツァイス Carl Zeiss( 30 )が、ベルリンなどの機械工場で修業をした後、
精密機械工場をイエナ(イェーナ)に設立する。[以後、顕微鏡を製作し、 19 世紀後半の
ドイツ光学技術の原動力となり、カール・ツァイス社の基礎を作る。]
1846.○【イギリス】世界最初の本格的なクリスマスカード( Christmas card)が作られる。
1843 年に博物館長ヘンリー・コール Henry Cole の依頼で 、王立美術院会員ホースリー J.C.
Horsley がデザインし、これが 1000 枚印刷される。コールとホースリーが使う分を除い
て 1 枚 1 シリングで売られる。[1860 年代、ロンドンの印刷会社がクリスマスカードの
量産を始める。以後、一般に利用されるようになり、しだいに需要が増大して輸出され
るようにもなる。1874 年、アメリカで L.プラングが製造を開始。優れた色刷り技術が
好評を博す。1881 年、販売数が 500 万枚にも達する。]
1846. ○【イギリス】国内各地に電信会社が乱立し、政府は電信事業の秩序を保つため、
電信事業を民営とする電信会社法を制定する。クックとホイートストンは、エレクトリ
ック・テレグラフ社を設立する。[1852 年、同社は、電信線総延長 6500km、250 の電信局
で 400 台の電信機を使用するようになる。]
1846.○【アメリカ】J.H.ノイズが 、ニューイングランドに「オナイダ共同体」を設立し 、
自由恋愛と産児制限、堕胎を奨める。
1846.○【アメリカ】アメリカ議会法の制定により、スミソニアン協会( Smithsonian
Institution )の設立が決まる。イギリスの初代ノーサンバーランド公サー・ヒュー・スミ
ッソン(スミスソン)・パーシーの庶子ジェイムズ James Louis Macie Smithson( 1765 ∼
1829)が、オクスフォード大学で化学と鉱物学を学び、22 歳でロイヤル・ソサイエティ
に入るが、1826 年に出生の事情に憤りを感じ、大部分母方から相続した財産を、アメリ
カのワシントンに研究所を設立するための寄付に当てることを決意、〈ノーサンバーラ
ンドとパーシーの称号が絶え、忘れられても、自分の名は人々の記憶に残るだろう〉と
- 356 -
書き残し、その遺産を基金に、「人間の知識の増進と普及のための機関」として、設立
が決まる。[1855 年、開設される。]
1846.○【アメリカ】肖像画家として働いていたクラーク Alvan Clark( 42 1が、光学会社
を設立、もっぱら望遠鏡の製作を始める 。
[以後、大型で精密な望遠鏡を作り出し、プ
リンストン大学(口径 23jn)、海軍天文台およびバージニア大学(26in)、プルコボ天文台
(30in)などに設置され、近代天文学の発展に貢献する。長子グラハム Alvan Graham Clark
(1832 ∼ 97 )も父の技を継ぎ、1862 年製作の 18in 望遠鏡は、その試観測の際にシリウス
の伴星(白色矮星)を発見、検出する。1888 年、リック天文台に 36in インチ鏡を設置。1889
年、ヤーキス天文台に 40in 鏡を設置し、世界最大の屈折鏡となる。]
1846. ○【アメリカ】ドイツ系アメリカ人の土木技師ジョン・ローブリングの設計施工に
より、ウェスト・バージニア州のウィーリングのオハイオ川に、世界初のワイヤーケーブ
ルによる長大スパンの吊り橋が建設される。全長 307.9m。
1846.○【アメリカ】モース(モールス)(55)が、支援者たちとマグネティック・テレグラ
フ社を設立する。この頃、モールス電信の受信機が、音響式に改善され、これまでの 1
分間約 20 字が約 60 字送信できるようになり、通信時間の短縮が図られる。電磁石を共
鳴箱に収め、鉄片が電磁石に吸引された時の音と、離れて反対側の留め金に当たった時
の音で点(短点)と線(長点)を識別する 。
[1851 年、全国で 50 社にのぼる電信会社が稼働
する。1860 年ごろ、モールスの最初の技術や機器はほとんど姿を消す。以後、モールス
の名は「モールス符号」としてのみ残る。
]
1847(弘化4)
1847. 9.16【イギリス】シェークスピアがストラトフォード・アポン・エイボンで生まれ
た家が、保存のために国によって購入される。イギリス政府が最初に保存のために購入
した建物になる。
1847.○【日本】宇田川榕菴(うだがわようあん)(49)が、日本最初の体系的化学の大著『舎
密開宗(せいみかいそう)』21 巻を完成させる。
1847.○【ドイツ】貨物定期便会社ハンブルク・アメリカ汽船会社(HAPAG)(のち、ハパ
ーク・ロイド会社)が設立される 。
[以後、キュナードなどのイギリス船主と激しい競争
に入る。1880 年代、北ドイツロイド会社( NDL)( 1857 年設立。のち、ハパーク・ロイド会
社)と共に、ドイツおよび南ヨーロッパ、東ヨーロッパから北アメリカ、南アメリカへの
移民の大量輸送によって急成長する 。
]
1847.○【ドイツ】砲兵士官ジーメンス Ernst Werner von Siemens(31)が、指針電信機の改
良と、1843 年にケーブルの絶縁体として優れた特性のあることが発見された東南アジア
産の樹液グッタペルカ(ガタパーチャ)を巻いた地下ケーブルを発明し、被覆電線製造機
を作る。軍人を辞めて機械工のハルスケ Johann Georg Halske( 33)とともに、電信機の製
作と敷設にあたるジーメンス・ウント・ハルスケ商会(Siemens und Halske )をベルリンに設
立する。[以後、1848 年、電信機器の製造と電信ケーブルの敷設を開始する。1850 年、
イギリス海峡のドーヴァー∼カレー間の世界最初の国際海底電信ケーブルとして用いら
れる。1866 年、発電機の発明を契機に、重電部門の比重を高める。]
1847. ○【フランス】アベル・ニエプス・ド・サン・ビクトルが、タルボットのカロタイプ
- 357 -
処理では、紙のネガの粒子構造が完成したプリントに現れるので、これを改善するため
ガラス板のネガを使用する方法を考案する。タンパク質で処理された臭化カリウムを塗
付したガラス板を、露光する前に、ヨウ化銀溶液にひたしてから撮影に使用する。ガラ
ス板のネガの画像は良好だが、長い露光が必要である。
1847.○【イギリス】1823 年に始まったロンドンの大英博物館( British Museum)の改築工
事が完成する。R.スマーク Robert Smirke の設計で、今日見られるような新古典様式のフ
ァサード(彫刻はウェストマコット R.Westmacott による)をもつ建物になる。[1857 年、
円形の図書館閲覧室が、ロバートの弟シドニー・スマーク Sydney Smirke の設計で完成す
る。その後 1884 年、1914 年、1938 年に増築が行われ、現在に近い形となる。]
1847.○【イギリス】
『Times』紙が、アップルガス輪転機を据え付ける。[ 1848 年、輪転
印刷機で毎時 1 万部の印刷を達成する。
1847. ○【イギリス】この年まで腕木通信が行なわれる。[以後、腕木が立てられた丘を
「テレグラフ・ヒル」と呼び継がれる。]
1847.○【イギリス】イギリス領モーリシャス島で、1 ペニーと 2 ペンスに切手が発行さ
れる 。これら 2 種とも左側が〈POSTPAID〉を〈POST OFFICE〉と誤刻されたまま各 500
枚発行される。[1948 年、正しい表示の切手が発行される。誤刻された切手は収集家の
間で「POST OFFICE 切手」と呼ばれ、珍品中の珍品とされ、26 枚が現存する。
]
1847.○【イギリス】世界最初の機械学会( Institution of Mechanical Engineers)が、鉄道技
術者たちを中心にしてバーミンガムに創立される。初代会長にスティーブンソン George
Stephenson( 66 )が推挙される。[翌 1848 年 8 月 12 日、スティーブンソンがチェスターフ
ィールドで死去する。ひとり息子であり鉄道技術者でもあるロバート(1803 ∼ 1859)が 2
代目の会長に就任する。]
1847.○【イギリス】医師シンプソンが、出産時に新たに開発したクロロホルムを使用し、
産婦の苦痛を軽減させるのに成功する。教会は、〈女は悲しみを耐えて子供を産む〉とい
う聖書の掟を破っている、としてシンプソンを非難する。
1847. ○【アメリカ】議会が、イギリスのキューナード社に対抗するため、コリンズ社に
年間 38 万余ドルの補助金を与える。アメリカ・イギリス両国の汽船が大西洋横断速度を
競うようになる。
(星名定雄『郵便の文化史』1982、石井寛治、1994)
1847. ○【アメリカ】政府が、電信事業を民営で行うことを決定、ワシントン∼ボルチモ
ア間の電信施設を民間に引き渡す。
1848(嘉永1)
1848. 1.24【アメリカ】カリフォルニアの製材所で働くジェームズ・マーシャルが、アメ
リカン川沿岸地帯で砂金の粒をみつける。仲間と秘密にすることを誓う。[8.19 『ニュ
ーヨーク・ヘラルド』にこのニュースが掲載される。またたくまに全世界に広まり「ゴ
ールド・ラッシュ」が始まる。金発見のニュースを知り一攫千金を夢みてカリフォルニ
アに 1 年間に殺到した人々約 10 万人は「フォーティ・ナイナーズ(1849 年の人々)」と呼
ばれ、そのうち、約 5 万人がシエラ・ネバダ山脈のマザーロード地方を中心として採金に
従事する。以後、1870 年代にかけて、アメリカ西部各地で金鉱が発見され、そのたびご
とにゴールドラッシュが生じる。カリフォルニアでは、ブームの去った後にもカリフォ
- 358 -
ルニアに残って商人、農民になった人も多く、都市の発達を促進し、カリフォルニアの
州としての成長に貢献する。]
1848. 2.−【アメリカ】アメリカ科学振興協会(AAAS)が、フィラデルフィアで設立され
る。500 人足らずの会員が科学共通の課題について話し合う場とされる。
[1900 年 、創刊 20
年の『SCIENCE』誌を傘下に収める。以後、広告収入により協会の運営に大きく寄与す
る。1998 年 2 月、創立 150 周年を迎える。会員約 14 万 3000 人、学会約 300 を擁する規
模になる。
]
1848. 6. 1【ドイツ】マルクス( 30)とエンゲルス(28)が、日刊紙『新ライン新聞(Neue
Rheinische Zeitung)』を創刊する。エンゲルスは論文「フランクフルト議会」を載せ、民
主的ジャーナリズムを自ら実践する。
1848.7.19【アメリカ】スタントン Elizabeth Cady Stanton( 33 )とモット Lucretia Coffin Mott
(55)の指導のもとに、史上初の女権会議である「女性の権利のための大会」がニューヨ
ーク州セネカ・フォールズで開かれる。ここで、スタントンは女性の独立宣言というべき
「所感宣言」を起草する。大会は婦人選挙権の要求を採択うる。[以後、アメリカ婦人参
政権運動に発展する。さらにその主張は、選挙権にとどまらず広く女性解放や社会の問
題に及んでいく。]
1848. 7.−【日本】長崎に入港したオランダ船が、オランダ印刷機械 1 台と欧文活字一式
をもたらす。これらは出島から長崎会所に運ばれる。オランダ通詞の北村元助、品川籐
兵衛、楢林定一郎、本木昌造( 24)ら 4 人が長崎会所の御用方から借り受ける。品川、楢
林の両名が一式の元代 2 貫 300 目を半分ずつ負担して御用方へ納める。[以後、印刷機の
現物を前にして、使用法が不明のまま一度も実用に供されない。本木昌造はこれを使用
することよりも、自前の活字を発明することに熱中する。印刷機械一式は、再び長崎会
所に買い戻され、品川籐兵衛の土蔵の片隅に退蔵される。]
1848. 8.31【イギリス】チャールズ・ディケンズの『デイリー・ニューズ』紙が、多くの気
象観測基地から送られてくるデータを分析して、科学的な気象状態を初めて掲載する。
1848. ○【日本】アメリカ船が長崎に来航する。
1848. ○【日本】イギリス船が浦賀に来航する。
1848. ○【日本】豊橋の俳句仲間の一人、福谷世黄が、八幡宮の境内に文庫をつくって自
分の蔵書約 3000 巻を公開する。羽田八幡宮文庫と呼ばれる。
[以後、蔵書は購入と寄贈
により増加し、幕末には 1 万巻に達する。文庫の脇には本よみ所があり、来訪する全国
からの著名な学者らに話をしてもらう場、茶室としても利用される。図書の貸出しは 2
部 10 冊まで、期間は 1 ヵ月以内とされる。]
1848.○【日本】木版彫刻師木村嘉平(三代房義(ふさよし))(67)が 、薩摩藩主島津斉彬(な
りあきら)に召され、欧文書類を版本として藩中あまねく学ばしめたい、そのため幕府が
禁じている洋式鉛活字を開発して欲しい、という秘命を受ける。嘉平は自家の一部に密
室をつくり、昼夜燈火を備えて秘密裏に研究に励む。[ 1858 年、日本最初の電胎活字母
型の製作に成功する。]
1848. ○【日本】この頃、長崎に住む島津藩御用商人上野俊之丞常足(しゅんのじょうつ
ねたり)(58 )が、オランダから最初にダゲレオタイプ(銀板写真)を輸入して島津家に献
上する。はじめて日本に写真機が渡来する。[ 1857 年にこれで撮影されたと思われる島
- 359 -
津斉彬(なりあきら)の肖像が日本最古の銀板写真と推測されている。]
1848. ○【ドイツ】ヘンシェル&ゾーン社が、カッセルで機関車製造を始める。また、こ
の年、カッセルに初めて鉄道が敷設される。フリードリヒ =ウィルヘルム北部鉄道と呼
ばれる。[以後、カッセルは工業都市として発展する。1877 年、蒸気路面列車が開業す
る。1943.10 イギリス軍の激烈な空襲で市街の大半は瓦礫と化し、人口十数万人のうち 1
万人もの犠牲者が出る。]
1848. ○【ドイツ】バーデン大公国の首都カールスルーエに、最初の鉄道が敷設される。
1848.○【ドイツ】ジーメンス Werner von Siemens( 32)が、ドイツで最初の電信線を敷
設する。
1848.○【イギリス】
『Times』紙が 、アップルガス輪転機で毎時 1 万部の印刷を達成する。
1848. ○【イギリス】
『デーリー・ニュース』紙が、天気の一覧表を載せ始める。電信の利
用の急速な普及により、各地の気象状況を迅速に集信することが可能になったことで実
現する。[1849 年、アメリカでも気象資料の電信による集信が試みられる。
]
1848. ○【イギリス】
1848.○【イギリス】C.ホィーストンが、立体写真用カメラを発明する。
1848. ○【イギリス】ベークエルが、円筒式画像走査方式を考案する。ベインの振子式走
査より短時間で画像の明暗を電気信号に変換することができる。[のちに、ファクシミリ
に実用される。]
1848.○【イギリス領ギアナ】イギリスの植民地経営の方策の一つとして鉄道が建設され、
開業する。
1848.○【アメリカ】もと学校教師の A・T・スチュアートが、世界最大の個人商店「ア
ーブル・ドライ・グッズ・パレス」をニューヨークに開店する。
1848. ○【アメリカ】マサチューセッツ州が、ボストン市に対して公共図書館のための課
税を認める州法を制定する。「 1854 年、ボストン公共図書館が開館する。」
1848.○【アメリカ】プール William Frederick Poole(27)が、定期刊行物についてアルファ
ベット順雑誌記事索引を作成し始める。[1898 年、ウィルソン社 H.W.Wilson Co.がプー
ルの事業をよりいっそう発展的に受け継いで、
『累積書籍索引 Cumulative Book Index』を
刊行する。]
1848. ○【アメリカ】ニューヨーク∼シカゴ間に電信が開通する。
1848.○【アメリカ】ニューヨークの 6 つの新聞社が、ニューヨーク港に入港する船舶か
らヨーロッパのニュースを共通取材するため、共同して通信社「ハーバー・ニュース・ア
ソシエーション Harbor News Association」を結成する。[1857 年、改組してニューヨーク AP
となる。その後、国内にニューヨーク AP と結ぶいくつかの通信社が生まれる。1859 年 、
シカゴに結成されたウェスタン AP がもっとも強大となる。1892 年、改組して Associated
Press(AP)と改称。1900 年、本社をニューヨークに移す。]
1849(嘉永2)
1849.12.18 【イギリス】ボンド William Bond が、望遠鏡で月の写真撮影に成功する。
1849. ○【日本】幕府が、重ねて蘭書翻訳書の流布取締令を発令する。
1849.○【日本】本木昌造( 25)が、オランダ人からオランダ活字の発明家コステル( 1370
- 360 -
∼ 1440)の伝記を手に入れる。一心不乱に読んで、コステルが活字の研究に不屈の努力
を重ねたことを知り、自らの発明への思いを募らせる。
1849.○【日本】信州松代藩士佐久間象山( 38 )が、松代藩においてオランダの本『理学原
始 Eerste grondbeginselendernatuurkunde(第 2 版)』(1847 )を勉強して指示電信機を作り、
電源用にダニエル電池を作り、鐘楼と民家の間約 60m に絹巻銅線を架け、電信の実験に
成功する。[ 1950 年、電信機が消失する。以後、銅線以外はこれを実証する物的証拠は
残されない。1854 年、アメリカのペリーがモールス電信機を将軍に献上する。その際、
象山は松代藩警護役として電信機の実演に立ち会い 、
〈理屈はおれのやったことと同じ
だ〉とうそぶく。のち、長野市松代町の鐘楼のそばに「日本電信電話発祥の地」の碑が
建てられる。絹巻銅線は逓信総合博物館に保存される。]
1849. ○【ドイツ】バイエルンが、独自の郵便切手を発行する。
1849.○【ドイツ】ロイター Paul Julius Reuter( 33)が、アーヘンで経済通信を始める。こ
の年ブリュッセル∼ベルリン間の電信が一時中断した際、2 都市間の通信にハトが使わ
れ、ロイターも最初は、伝書鳩を使って通信を伝達する。[1851 年、イギリスのロンド
ンに移って通信社を開設する。]
1849. ○【ドイツ】フランスのアバス通信社に勤務したユダヤ系ドイツ人ベルンハルト・
ウォルフ(ヴォルフ)(38)が、ウォルフ通信社(Wolffs Telegraphisches B ■ ro;Wolffs
Telegraphen-Bureau を、ベルリンに創設する。1865 年、会社組織に改組。1874 年、正式
名称を大陸電報通信社( Continental Telegraphen Compagnie)とする。1870 年、イギリスの
ロイター通信社、フランスのアバス通信社と協定を結び、ドイツ、バルカン、北ヨーロ
ッパ諸国、ソビエト地域を独占的にカバーして通信界に君臨する。第一次大戦のドイツ
敗北で規模縮小を余儀なくされ、勢力範囲は国内に限定される。1933 年、ヒトラー内閣
が誕生すると、ナチスの通信社統合政策により国営 DNB( DeutschesNachrichtenb ■ ro)に
吸収される。1945 年、第二次大戦のドイツ敗北により消滅する。]
1849. ○【ドイツ・オーストリア】最初の国際電信が、プロシアとオーストリアとの間で
電信条約に基づき始められる。初めて国境を越えて電信線が架設され、ベルリン∼ウィ
ーン間の回線が直通になる。これまでは、鉄道線路沿いに架設された電信線が、国境で
途切れていて、それぞれの国境電信員が電信を書き直して、これを「電報」と呼んで手
渡していた。[以後、奇数日はプロシア、偶数日はオーストリアの電報を優先的に取扱い、
発信人が支払う電信料金は両国内規定の料金の合計と決められる。以後、各国間で電信
条約が急速に締結される。]
1849.○【フランス】第 11 回産業博覧会が、パリで開催される。出品者が 4543 人に達し、
国内産業の発展に大きな影響を与える。
1849. ○【フランス・ベルギー】パリ∼ブリュッセル間に電信が開通する。
1849.○【イギリス】2 代目スミス William Henry Smith( 24 )が、鉄道の駅で本や新聞を売
る営業権を手に入れる。貸本屋も兼ねたキオスク書店を鉄道の駅に開店する。[以後、出
展展開はイギリス国内のさまざまな鉄道会社の駅にまで及び、アイルランドまで手を広
げる 。
「スミス(Smith)」といえば「キオスク書店」の代名詞にまでなる。1852 年、ルイ
・アシェットが、フランスにキオスク書店を導入する。]
1849.○【イギリス】ケイリー(ケーリー)George Cayley( 76)が、少年を乗せた三葉グライ
- 361 -
ダを曳航させて、滑空飛行に成功する。
1849.○【アメリカ】電信による各地の気象資料の集信が試みられる 。
[1858 年、これを
天気図にしたものが発表される。]
1850(嘉永3)
1850. 5.28【フランス・イギリス】イギリスのブレット兄弟が、世界最初の国際海底電信
ケーブルとして、イギリス海峡のドーヴァー∼カレー間の敷設作業を完了する。海底ケ
ーブルは、1.65mm4 本の銅線をグッタペルカ(ガタパーチャ)で絶縁し、さらにその上に
外装鉄線を巻いたものが用いられる。[ 8 月、国際電信の試験に成功する。翌日、フラン
スのトロール船により海底ケーブルが切断され、漁夫が金色に光る珍しい海草が採れた
と、その一部を切り取って家に持ち帰る。このため電信は不通となる。1851.11 ケーブ
ルを 7mm の亜鉛引き鉄線 10 本で外装して再敷設し、世界最初の国際海底電信が開通す
る。1866 年、ヨーロッパ∼アメリカ大陸間も大西洋海底線で結ばれる。1930 年、ケーブ
ルの絶縁材料として優れた特性をもつポリエチレンが発明されるとともに、これを用い
た同軸ケーブルが開発され、海底ケーブルには電話用の海底同軸ケーブルが用いられる
ようになる。]
1850. 8.−【アメリカ】ゴールドラッシュに沸き立つサンフランシスコで、5 つの新聞が
創刊される。チャールズ・P ・キンバルは 、
「シティー・ディレクトリー」を印刷する。
1850. 冬 【日本】浜田彦蔵( 13 )ら が、江戸からの帰途、遠州灘で海難に遭う。
[以後、
漂流 50 余日でアメリカ商船オークランド号に救助される。遭難者らは外国人が俺達をと
って食ってしまうと脅えているのを知った船長が、最年少の彦蔵を船底の食料庫に連れ
て行き、〈plenty, plenty, plenty …〉を連発し、
「plenty 」が「たくさん」であるということ
を教える。9 年前のジョン万次郎に続く日本人の英語史第 2 号となる。ハワイに上陸す
ると、最初に出会った人から〈How are you ?〉と声をかけられ、
〈可愛い!〉と日本語で
言われ、日本語のできる人がいると驚喜するが、誤解だったとしり落胆する。日本語の
英語誤解史の第 1 号となる。(小林 馨「ビジネス和訳の落とし穴」
『大学出版』No.43 、1999.
秋)。いったんマカオに送られるがペリー艦隊にあえず再び渡米し、アメリカで教育を受
ける 。1858 年(安政 5)、アメリカに帰化してジョセフ・ヒコ Joseph Heco と名乗る。のち、
日本では「アメリカ彦蔵」ともいわれる。1859 年、アメリカ領事の通訳として来日、日
米通商条約の実施、遣米使節の派遣など外交交渉に活躍する。
]
1850.○【日本】松代藩の兵学者佐久間象山( 39 )が、蘭和辞書の必要性から『道訳法爾馬
(ドウーフ・ハルマ)』(別名『長崎ハルマ』)を数百部復刻したいと願い出るが、幕府はこ
れを認めない。[秋、長崎奉行所が、〈町年寄や通詞が差し支えない内容のものと認めた
ものは世上に流布しても苦しからず〉という布令を出す。この年、象山は蘭書を参考に
電信機と電池を試作し、松代で実験を行う。1853 年 、ペリーの浦賀来航で情勢が緊迫し、
幕府の医官桂川甫周の願い出により、幕府は態度を一変して『長崎ハルマ』の復刻を許
す。]
1850.○【日本】オランダ政府が、12 代将軍徳川家慶に、最初の総鉄製手引き活版印刷機
「スタナップ(スタンホープ)印刷機」と欧文活字、工具等一式を献上する。[以後、使用
法がわからず、 1862 年まで倉庫に死蔵される 。これで『和蘭武功美談』が印刷される。]
- 362 -
1850. ○【中国】広東仏山鎮の唐という書物商が、泥の活字母型を用いて錫活字を鋳造す
る。唐は、1 万元あまりを投資して、扁平体、長体大字、および正文の割り注に用いる
長体小字の 3 組の錫活字を合計 25 万個鋳造させる。字体は美しく上品で、母型、鋳造、
印刷の点で成功を収め、墨が金属活字になじまないという問題も解決する。[1852 年、
元朝の歴史学者馬端臨の『文献通考』を、世界最初の錫活字により印刷刊行する。1854
年、天地会の蜂起の際、錫活字は銃弾にされて、清軍に打撃を与える。](『中国の書物
と印刷』)
1850.○【ドイツ】政府の財政負担による最初の公共図書館が、4 館ベルリンに開設され
る。歴史家・政治家ラウマー Friedrich von Raumer が、アメリカ旅行の際にパブリックラ
イブラリーの意義に目覚め、民衆図書館を通じた知識と教育の大量普及を図るべく政府
に働きかけた結果、実現する、しかし、政府の認可通知に、道徳・信仰・忠誠心の涵養
に資する図書を優先的に選び、これに反するものは慎重に図書館から遠ざけることとあ
り、ラウマーの理想とはかけ離れたものとなる。
1850.○【フランス】この頃、砲兵将校マネーム Am □ d □ e Mannheim( 29 )
(18 ?)が、
カーソルがついた新形の計算尺を作る。[以後、フランスの全砲兵部隊に採用される。
「マ
ンハイム型」と呼ばれて普及する。1894 年、広田理太郎(りたろう)と内務省土木課長近
藤虎五郎の 2 人が、欧米視察の土産の一部としてマンハイム計算尺を持ち帰る。]
1850. ○【フランス】パリに初の近代ホテル、グランドホテルが建設される。
1850. ○【フランス】この頃、ダゲレオタイプの立体版が登場する。
1850.○【イギリス】公共図書館法 Public Libraries Act が成立する。この法は、ヨーロッ
パ大陸の寄付による研究者向けの図書収集をモデルにしており、公的支出を認めていな
いため、一般への本格的な図書館サービスが考慮されていない。
[以後、この法により 、20
年間に 50 の公共図書館が設置される。
]
1850.○【イギリス】この頃、ロンドンの印刷所の従業員数が約 5800 人となり、パリの
それを上回る。
1850. ○【イギリス】初めて貨車を積んだフェリーが運行する。
1850. ○【イギリス】メナイ海峡をまたぐ世界初の鉄道橋「ブリタニア橋」が完成する。
第 2 代機械学会長スティーブンソン RobertStephenson( 47)が建設指導に当たる。
1850.○【イギリス】彫刻家でアマチュア写真家スコット・アーチャー Frederick ScottArcher
(37)が、爆薬として使われているコロジオン液(エーテルに溶かした綿火薬)をガラス板
に塗布して、乾かない間に写真を撮影するというコロジオン湿板法(ウェット・コロジオ
ン法)を考案する。
[1851 年、発表する。
]
1850. ○【アメリカ】中絶禁止法が制定される。
1850.○【アメリカ】この頃、一般の家庭の台所で実際に働いているのは使用人であるが、
ストー夫人の長姉で教育家のビーチャー Catharine Esther Beecher(1800 ∼ 1878)が、使用
人をなくして婦人の労働力を活用することこそ肝要として家事の組織化をとなえる。「理
想の住宅平面図」や船のちゅう房にならってコンパクトで合理的な設計の台所「システ
ムキッチン」を発表する。
1851(嘉永4)
- 363 -
1851.4.29【アメリカ】世界初の電車が 、首都ワシントン∼ボルチモア間を走行する 。(★
NHK「今日は何の日」による。他に文献見あたらず)[1881 年、ドイツで実用的な電車
が登場する。
]
1851. 4.−【イギリス】旅行代理業者クック Thomas Cook( 43 )が、ロンドン万国博覧会旅
行を組織する。延べ 16 万 5000 人が参加し、旅行者数の新記録を打ち立てて、大成功を
収める 。
[以後、海外旅行にも事業を拡大する。のちに、全世界の主要地に支店を置く
世界屈指の旅行社トマス・クック・アンド・サン社となる。]
1851. 5 . 1【イギリス】第 1 回万国博覧会(ExibitionoftheWorldofIndustyofAllNations) 、
別名「水晶宮博覧会( Crystal Palace Exposition)」が、ロンドンのハイドパークで開催され
る。ヴィクトリア女王の夫アルバート公(32 )の強い後押しで実現する。出品者約 1 万 5000
人で 40 ヵ国が参加する世界最初の万国博となる。基本的には、出品物を原料部門、機械
部門、製品部門に分けて展示する。輪転機、ライフル銃が登場する。最大の呼び物はバ
クストン設計の、高さ 30m の鉄と木でできた巨大な骨組みを約 30 万枚のガラスで覆っ
た建物「水晶宮(Crystal Palace)」で、鉄とガラスと植物の博覧会となる。フランスのブ
リュスターのステレオスコープが出展される。この日、女王は( 32 )は、会場に臨み、日
録を次のように書く。〈今日は生涯で最高の栄光の日でる……グリーン・パークとハイド
・パークは、このうえなく陽気で熱狂的な人々であふれかえっていた。こんなハイド・パ
ークを見るのは初めてである。……風にそよぐ椰子の木と花々、回廊と椅子を埋めつく
すおおぜいの人々、そして私たちが水晶宮に入っていったときに鳴り響いたトランペッ
トの華麗な吹奏に、一生忘れられない感激をおぼえた……わき上がる歓声、みんなの楽
しそうな表情、広大な展示館とその装飾や展示品、オルガンの音( 200 の楽器と 600 人の
歌声にも優るようだ)、そして「地球上のあらゆる国の産業と芸術を結びつけるこの平和
の祭典の生みの親である愛する夫、すべてが感動的であり、生涯忘れられない一日とな
った。(大出健訳)〉パリの王室印刷所の活字彫刻師ルグランの分合漢字活字で印刷され
た中国語訳福音書や、ベルリンに活字鋳造業者バイヤーハウスが製作した漢字活字によ
る 1 頁の印刷物が出品される。バイヤーハウスの分合活字は、組み合わせ可能な 1200 個 、
単体の 1200 個、perpendiculars と呼ばれるその他の 105 個の 3 種のパンチ母型から成り、
これらによって 2 万 5000 の異なった漢字を作ることができる。[以後、10 月 11 日まで
日曜日を除く 141 日にわたって開催される。ビクトリア女王は、週に 3、4 回は訪れ、と
きには訪問客も案内し、いつも熱心に展示品を見学する。見物客の総数は 603 万 9195 人
に達する。総収入は 52 万 2179 ポンド、総支出が 33 万 5742 ポンドで、差し引き 18 万 6437
ポンドの収益となる。1852 年、出品の工芸作品を購入し、産業博物館をロンドンに創設
する。1853 年、ニューヨークで第 2 回開催。1855 年、パリで第 3 回開催。1862 年、再
びロンドンで第 4 回開催。1876 年、再びパリで第 5 回開催。以後、ヨーロッパの各都市
で開催される。]
1851.9.18【アメリカ】
『ニューヨーク・トリビューン』紙の記者をしていたレイモンド(レ
ーモンド)Henry J.Raymond が、2 人の銀行家ジョーンズ George Jones、ウェスリー Edward
B.Westley と共同出資し、資本金 10 万ドルで『ニューヨーク・デーリー・タイムズ(The New
York Daily Times)』を創刊する。
『ニューヨーク・ヘラルド』、
『ニューヨーク・トリビュー
ン』に次ぐ 3 番目の新聞として、H.グリーリーの『ニューヨーク・トリビューン』の急進
- 364 -
的な論調に反対する新聞として出発する。4 ページ建てで、5000 部を印刷、定価も安く 1
セントとする。[以後、正確なニュースと鋭い論説で読者を増やし、創刊 10 週後に部数
は 2 万台に達する。出費も多く、8 ページ建て、2 セントに値上げする。1855 年 1 月、3
万 6000 部となり『ニューヨーク・トリビューン 』と拮抗する有力紙となる。1857 年、
『ニ
ューヨーク・タイムズ(The New York Times)』に改称。アメリカを代表する新聞となる。
記事索引「ニューヨーク・タイムス・インデクス(The New York Times Index)」が、1851
年分から作成される。記事の要約、キーワード抽出、クロスレファレンスなどの作業が
行われる。のちにコンピュータによる索引がデータバンク(データベース)として蓄積さ
れ、有料で一般の利用に供される。]
1851.10. −【イギリス】フランスのアバス通信社に勤務したユダヤ系ドイツ人のロイター
PaulJuliusReuter(35 )(のち、イギリスへ帰化)が、ロンドンに Mr.Reuter's Office を設置し、
通信社「ロイター( Reuters Limited )」を開設する。フランスで 1835 年創設のアバス(アヴ
ァス) Agence Havas、ドイツで 1849 年創設のウォルフ(ヴォルフ)Wolffs Telegraphen-Bureau
に通信を占有されていたので、ドーヴァー∼カレー間の海底電線の開通を間近に控えた
ロンドンに移る。当初は財界を対象とし、電報会社に依存して内外の通信供給を受けて
いる地方紙を相手にする。[以後、ロンドンの新聞界にも外信を配信するようになる。王
室と政府に無料配信を始めて権威を確立する一方、イギリス帝国の植民地やアジア各国
に通信網をつくり、アバス、ウォルフと並んで 3 大通信社といわれるようになる。1856
年、
これら 3 通信社は第 1 回の国際協定を結んで、
ニュースの交換を行うようになる 。
1865
年、ロイターは株式会社に改組。19 世紀イギリス連邦の発展とともに栄え、アメリカの
AP、UPI などの通信社が強大になるまでは世界最大の通信社として活躍する。]
1851.11.−【フランス・イギリス】フランスのドーバーとイギリスのカレー間に昨年 5 月
に敷設されたのち断線したケーブルを、7mm の亜鉛引き鉄線 10 本で外装して再敷設し、
世界最初の国際海底電信が開通する。
1851.12. 2【フランス】ルイ・ナポレオンのクーデタで、新聞人が多数逮捕される。アル
マン・デュポルテルらをアルジェに流し、郵便・電信を政府管理に置く。
1851.○【日本】本木昌造( 27 )が、自著『蘭和通弁(らんわつうべん)』をオランダ輸入の
印刷機で印刷する。一方、鉛の流し込み活字の製作を試みるが、結果は意に満たない。
1851. ○【オーストリア】世界最初の新聞切手が発行される。新聞の郵送に貼るためで、
額面は印刷されず、刷色で識別される。
1851.○【オーストリア】F.ウハティウスが、連続変換スライドによる幻灯機「投影型フ
ェナキスティコープ」を発明する。幻灯機が、完成の域に達する。
1851.○【フランス】世界初の音楽著作権協会として、SACEM が創設される。[以後、国
内における音楽著作権の管理を進め、これが一段落すると、近隣諸国に支所や代理店を
設けて業務を拡大する。訴訟を繰返して、判例を積み上げていく。]
1851.○【フランス】リュームコルフ Heinrich Daniel Ruhmkorff(48)が、電流の断続を利
用して高電圧を得る装置、誘導コイル(感応コイル)を発明する。最初の変圧器で、のち
に改善されて無線の実験に用いられるようになる。
1851.○【イギリス】バーゲス Hugh Burgess が、ソーダパルプを発明する。
1851.○【イギリス】彫刻家でアマチュア写真家スコット・アーチャー Frederick ScottArcher
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(38 )が、塗付剤としてタンパク質ではなく 、ヨウ化銀のコロジオンをガラス板に塗布し、
乾かない間に写真を撮影するというコロジオン湿板法(ウェット・コロジオン法)を発表す
る。これは、ヨードカリを含むコロジオンをガラス板に塗布し、これを硝酸銀溶液に浸
して、湿っているうちに撮影、現像を行い、ハイポで定着する方法である。そのために
近くに暗室が必要である。これで得たネガは、裏に黒布を当てるとポジに見える便利さ
があり、画像が鮮明で、しかも銀板写真は数十分、カロタイプが数分という露光時間を
数秒に短縮し、価格も低廉となる。[以後、いわゆる銀板写真時代が幕を下ろし、湿板写
真時代が始まる。発明者が特許を取得しなかったこともあり、またたくまに世界中に広
まり、ゼラチン乾板が普及する 1880 年ごろまで湿板が写真感光材料の主流となる。とく
にこれを用いた肖像写真が盛んになる。一方、銀板は 1855 年ころまで使用される。また、
その間、湿板写真のつくりやすい特徴を生かして野外撮影が盛んになり、辺境の地まで
撮影紹介されるようになる。カメラは携帯容易な旅行向きの蛇腹付き組立て型が般的に
なる。この頃から、カメラは野外で使用するフィールドカメラと室内専用のスタジオカ
メラの区別が生ずる。1861 ∼ 65 年、アメリカの写真家ブラディたちは、南北戦争の間
に、湿式のコロジオン陰画と馬にひかせた移動式の暗室を携えて、何千枚もの写真を撮
影する。]
1851.○【イギリス】ドイツのジーメンス Werner von Siemens( 35)が、イギリスで海底ケ
ーブルを敷設する。
1851. ○【イギリス】厳しい猥褻観の裏で、ポルノグラフィーがはんらんし、浴場には覗
き穴がたくさんあけられている。イングランドとウェールズで成人女子の約 8 %(一説に
10 %)が私生児を産み、人口 236 万人のロンドンでは 5000 人の売春婦が 40 万人の男と
関係している。
1851. ○【アメリカ】鉛筆が、アメリカで初めて製造される。[以後、アメリカでは、鉛
筆の軸材として最適なインセンスシダーを産出し、芯の原料となる黒鉛もメキシコから
得ることができるため、資本、設備、市場などの好条件に恵まれて、鉛筆工業は急速な
発展を遂げる。]
1851.○【アメリカ】C.グッドイヤーが、硫黄と生ゴムを反応させた材料で、インクの酸
に強く万年筆の軸となる「エボナイト」を発明する。
1851. ○【ペルー】ペルー最初の鉄道が開業する。
1851. ○【チリ】チリ最初の鉄道が開業する。
1852(嘉永5)
1852. 7.19【日本】ストラスブールで、鉄道の開通式が行われる。ナポレオンⅠ世の甥、
ルイ・ナポレオン( 44)が、
「君主・大統領(プランス・プレジダン)」として特別列車で 16
年ぶりに“凱旋”する。特別列車がプラットホームに到着しようとする瞬間、大聖堂を
はじめ街中すべての教会の鐘が鳴り響き、祝砲が発射される。駅前に出迎えた群衆が口
々に〈ナポレオン万歳! 皇帝万歳!〉と叫ぶ。[ 12.2 ルイ・ナポレオンが、ナポレオン
Ⅲ世として第二帝政の皇帝となる。]
1852.11.23 【イギリス】国内最初の郵便ポスト( pillar box ;post box;letter box)が、ジャ
ージーの St Helier で設置される。
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1852.12.−【日本】土佐藩の漁夫の子、中浜万次郎(別名ジョン万次郎)(25 )が、1841 年
に出漁中遭難漂流し、アメリカの捕鯨船に救助され、同国に渡り教育を受けたのち帰国
し、藩庁に召され、徒士(かち)格に登用される。アメリカの見分をまとめた『漂客談奇』
で、音響電信機のことを紹介する。
1852.○【日本 】佐賀藩主鍋島直正( 38)が、精錬方を設け、久留米の「からくり儀右衛門 」
こと田中久重(53 )を招き、西洋技術の研究、実験に当たらせる。[以後、大砲、火薬、汽
車、汽船の模型などが製作される。]
1852. ○【ドイツ】出版業界が、書籍商養成所をライプツィヒに設立する。
1852.○【ドイツ】物理学者、ゲッティンゲン大学教授・天文台長ウェーバー Wilhelm
Eduard Weber(48)が、磁気分子説によって磁気現象を解明する。
1852. ○【フランス】勅令により、出版物の事前検閲制度が確立される。
1852.○【フランス】ルイ・アシェット Louis Christophe Hachette(52)が、イギリスでスミ
スが展開したキオスク書店をフランスに導入する 。[1854 年、支店が 60 にまで拡大する。
1864 年、総売上が 100 万フランを越える一大書店チェーンを形成するに至る。]
1852.○【フランス】556 本の腕木により国内に 4800km の腕木通信ルートができている。
[以後、電信の普及により廃止される。]
1852. ○【フランス】写真石版が実用化される。
1852.○【フランス】ブーシコ Aristide Boucicaut( 42 )が、パリに世界最初の大型百貨店「ボ
ン・マルシェ( Au Bon March ロ)]を設立する。設立者は、顧客の出入り自由、正札販売、
商品の大量陳列、返品自由、低価格販売をねらい、低差益・高回転の革新的商法を打出
す。[ 1860 年、創業 8 年にして売上げは創業時の 50 万フランから 500 万フランへと 10
倍 に な る 。 1888.2.6 売 り 上 げ 回 復 策 と し て 、 初 の 特 別 セ ー ル 「 白 物 大 売 り 出 し
(EXPOSITION de BLANC)」を試み、大成功する。以後この成果を見て、1858 年、アメ
リカのニューヨークでメーシー( Macy)が、1863 年、イギリスでワイトリー(ホワイトレ
ー)(Whiteley)が、 1870 年、ドイツでウェルトハイム( Wertheim)が、それぞれの国での最
初の百貨店として誕生する。1904 年、日本では新装開店した三越が最初の百貨店となる。]
1852.○【フランス】ジファール Henri Giffard )( 27)が、史上初の操縦できる飛行船をつく
り、飛行に成功する。全長 44m、直径 14m の紡錘形のガス袋に水素ガスを詰め、蒸気機
関とプロペラの組合せで 8km/h の速度を出す。[以後、ガス袋に安い天然ゴム張りの木
綿の布が用いることで機体の大型化が進む。また小型・軽量の内燃機関の発達によって
速度が増し、さらにバロネット(ガス袋の中に入れられた空気入りの小気嚢で、低高度で
は空気を入れてガス袋内の圧力を保持し、高度が上がり対外気ガス圧が高まるとともに
空気を排出して、柔らかい外皮で作られたガス袋そのものを船体とする軟式飛行船の形
体を保持する役目をする。バロネットを船体の前後に分けて設け、両者の空気量を調節
して機体のつりあいを保つのにも使われる。)の採用と水平舵および方向舵の改良とで操
縦性が向上する。]
1852.○【イギリス】スコットランドの医師ロジェ Peter Mark Roget( 73 )が、医業引退後
に自ら分類した類語辞典を「thesaurus(シソーラス;宝庫;倉庫)」と名付け 、
『 Roget's
Thesaurus (ロジェのシソーラス)』(英語語句宝典)を刊行する。[以後、英語圏で必須の
類語辞典として使われ続ける。]
- 367 -
1852.○【イギリス】産業博物館が 、国内の産業美術 、工芸品、工芸教育の向上を目的に 、
ロンドンのマールバラ・ハウスに創設される。[1899 年、ビクトリア・アルバート美術館
(Victoria and Albert Museum)と改称される。]
1852.○【イギリス】J.I.ホーキンスが、金の合金がインクの酸に強いことを発見、さらに
ペンの先端に摩擦に強いイリジウムをつけることで、万年筆のペン先を改良する。のち
の万年筆の原型ができあがる。
1852.○【イギリス】タルボット William Henry Fox Talbot( 52)が、写真凹版を開発する。
1852.○【イギリス】ノートン Charles Norton が、イギリス最初の専用のミュージック・
ホールとして「カンタベリー・ホール(Canterbury Hall)」をロンドンに開く。舞台と、客
が飲食をとるために椅子とテーブルを並べた部分とをもっている。[以後、同種のホール
が全国につくられる。]
1852.○【イギリス】ロンドンに水洗式の有料公衆便所が「公共待合所」の名で登場する。
監督係 1 人、サービス係 2 人が付いたが、人気は上がらず。
1852.○【アメリカ】ペリー Matthew Calbraith Perry (58)が、東インド艦隊司令官(准将)に
任命され、大統領フィルモアから親書を託され日本遠征を命じられる。訓令では、日本
人との条約交渉において〈断固とした決然たる態度〉が必要としつつも、なるべく〈平
和的〉手段にとどめるよう制約が課される。ペリー自身、時代の膨張思潮マニフェスト・
デスティニーを体現し、日本を欧米キリスト教文明の恩恵に浴させることこそアメリカ
の歴史的使命だとの確信を抱く。日本について周到な調査研究のうえ、旗艦ミシシッピ
号ほか 3 隻を率いて琉球、小笠原諸島に寄港したのち日本に向かう。
1852.○【アメリカ】ウェルズ Henry Wells とファーゴ William G. Fargo らが、カリフォ
ルニアのゴールドラッシュ景気に目をつけ、駅逓馬車による運送・金融会社ウェルズ・フ
ァーゴ会社 Wells, Fargo and Company を設立する。
[以後、郵便物、書類、為替、荷物、
乗客を運搬・輸送し、西部と東部の連絡に大きな役割を果たす。また、砂金を扱ったこと
から金融業も営む。西部に駅馬車網をはりめぐらし、ポニー・エクスプレスも所有する。
しかし、乗客には御者に対する評判は悪く、ライプチッヒの商人たちは〈よく飲んだく
れては役立たずになる 〉
、スウェーデンの詩人アッテルブムは〈制服を着飾った荒くれ
男〉、フランス人の旅行家は〈かつて地球上をはいずり回っていたやつのなかでも最低
の虫けら〉と酷評する。チップ、ちょっとした寄り道、追加旅行のこと、小遣い稼ぎの
ため馬車内に詰め込まれた無賃乗車客や追加荷物に関してもよく話題にされる 。1918 年、
同業他社と合併してアメリカン・レールウェー・エクスプレス会社となる。
]
1853(嘉永6)
1853. 4.−【インド】アジアで最初の鉄道が、イギリス東インド会社により、ポンペイ∼
ターナ間 30km に開通する。地元の人々は、西洋文明の象徴が導入されたのを見て衝撃
を覚える。[ 11 月、カルカッタ∼アーグラ間に電信線が敷設される。この年、ベンガル
においても、カルカッタから数十 km の鉄道が開通する。]
1853. 6. 3【日本】ペリー Matthew Calbraith Perry (59)が、アメリカ大統領の親書を携え
軍艦サスクエハンナ号以下 4 隻をを率い浦賀沖に投錨する。幕府は国法により長崎回航
を諭示するも、ペリーは峻拒、「体面」を重んじて最高位の日本役人との面会を強要、
- 368 -
軍隊上陸を示唆して威嚇する。
[6.9 結局、久里浜に上陸して、大統領フィルモアの親書
を手交しただけでいったん退去する 。
]
1853. 7. 1【日本】幕府が、アメリカ国書訳文を諸侯にに示し、開国の可否を諮問する。
1853. 7.14 【アメリカ】第 2 回、アメリカ初の万国博覧会が、ニューヨークのブライアン
ト公園で開催される。第 1 回ロンドン万博に比較して、規模も小さく、運営にも問題が
あり、23 ヵ国が参加する。このとき、E.G.オーチスが、ロープの張力が緩んだり切断し
たとき、ガイドレールを把持する安全装置を備えた蒸気動力のエレベータを出品してそ
の安全性を実証して、エレベータ普及の道を開く。[以後、会期中、入場者はロンドン万
博よりも 505 万人少ない 125 万人余で、大赤字となる。]
1853. [ 8. 5]【アメリカ】ジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵が、ニューヨークのメトロポリ
タン・ホテルで電信の機能を目の当たりにして、その利便性を実体験する 。〈どうして
電報による手紙が、鳥よりもずっとはやく飛ぶことができるだろうか。そんなことは絶
対に不可能で、この老紳士は私をからかっているに違いない――。けれども、翌日、ボ
ルチモアに着いてみると、義弟の人が馬車をもって迎えにきていた。こうなっては、い
や応なしに彼のことばが本当だとおもわざるをえなかった。
〉(『アメリカ彦蔵自伝』)
1853.8.22[ 7.18 ]【日本】ロシアの使節海軍中将プチャーチン Evfimii Vasil’evichPutyatin
(49 )が、軍艦バルラダ号以下 4 隻を率い長崎に来港する。九州各藩は出兵し、要所を警
護する 。
[以後、プチャーチンが、ロシア皇帝の千島・樺太国境画定問題の解決と日本
との通商を求める国書を徳川幕府に提出し、石炭( NHK はアルコール燃料という)をたい
て走るライブ・スチーム模型機関車を幕府に献上する。[1954.1.3[12. 5] 再び来航して幕
府が派遣した筒井政憲、川路聖謨(としあきら)らと会談を重ねるが、交渉は不調のまま
長崎を去る。]
1853.10.11 【アメリカ】ニューヨークのウォール街 14 番地に、アメリカ最初の銀行手形
交換所であるニューヨーク手形交換所が開かれる。
1853.10.16【トルコ】オスマン帝国が、ロシアに宣戦、クリミア戦争が勃発する。
[∼ 1856 。
この間、イギリスの写真家ロジャー・フェントンが、クリミア戦争の鮮烈な写真を撮り続
け、史上初のドキュメンタリー写真となる。
]
1853. ○【日本】幕府が、ペリー来航後、直ちに「異国船の儀に付妄説等致間敷」という
触れを出し、この黒船来航事件を題材とする瓦版の刊行を禁止する。[以後、それにもか
かわらず、次々と瓦版が売り出される。のち、300 種以上が保存される。]
1853. ○【日本】幕府が、ペリー来航を契機に外交・軍事面の充実を図り、その一策とし
て洋学を取り扱う機関の設置を計画する。[ 1855 年、仮称「洋学所」のもとに頭取(とう
どり)古賀謹一郎を中心として準備を開始する。]
1853. ○【日本】幕府の医官桂川甫周が、『道訳法爾馬(ドウーフ・ハルマ)』(別名『長崎
ハルマ』)の写本のみでは不足しているので、復刻の許可を願い出る。幕府はこれまでの
態度を一変して復刻を許す。
1853. ○【日本】加賀藩の豪商用達、銭屋五兵衛が、磔刑に処せられる。
1853. ○【日本】京都に大火が起こる。
1853. ○【日本】小田原地方に大地震。
1853. ○【日本】福井小浜に大火。
- 369 -
1853. ○【日本】石州津和野藩城下に大火。
1853. ○【日本】畿内諸国に大旱魃。
1853. ○【日本】伊豫地方に大地震。
1853. ○【インド】カルカッタ∼アーグラ間に電信線が敷設される。
1853.○【オーストリア】ギントルが、1 本の電信線で上り下りの 2 信号を伝送する回路
を考案する。
1853. ○【ベルギー・デンマーク】イギリスが、ベルギーとデンマークを結ぶ北海海底ケ
ーブルを敷設する。
1853. ○【イギリス】ジョン・B・ダンサーが、プロペラ型シャッタを持つ二眼式のステレ
オカメラを作る。[以後、原始的なシャッタが出現し始める。]
1853.○【イギリス】ケイリー(ケーリー)George Cayley( 80)が、人を乗せて飛ぶグライダ
を製作する。人を乗せて飛ぶ最初のグライダとなる。
1853. ○【アメリカ】ジョン・W・ドレーパーが、月の超望遠銀板写真の撮影に成功する。
1853. 【本】瀬川如皐(じょこう)『与話情浮名横櫛』、
1854(嘉永7・安政1)
1854. 2.13[ 1.16 ]【日本】アメリカのペリー(60)の率いる艦隊 7 隻が、再び来航し、江
戸小柴沖に投錨する。[[2.6、2.21]さらに 2 隻増加。軍艦 9 隻の威を借りて幕府と交渉す
る。1854. 2.14[ 1.17]ペリーは、フィルモア大統領から将軍への贈り物として持参した
ライブ模型機関車などを幕府に献上する。[ 3.13 ]ペリー一行が、モールス製電信機(印
字電信機)2 機を 、約 1 マイル(約 1.6km)離れた地点で単線による通信を実演して見せ 、
集まった日本人をびっくりさせる。[ 3.24 ]再び電信機の実験と蒸気機関車の模型を公開
する。ペリーは日誌に 、
〈半開国民に対する科学と企業との成果の勝利に満ちた啓示で
あった〉と誇りを持って書く。その後、これを幕府に献上する。電信機の外箱中央の真
鍮板に〈For the Emperor of Japan 〉と刻印されている。幕府の「貢献物目録」には「エレ
クトル・テレガラーフ、ただし雷電気にて事を告げる機械」と記載されるが、操作する
ことができず、倉庫に放置する。以後、幕府は電信機をオランダ・プロシャ・フランス
・スイス各国からも寄贈されるが、実用化の動きを示さない。富国強兵に意欲を示して
いる薩摩、佐賀、水戸、越前などの雄藩は、直ちにこの西洋からもたらされた通信手段
の研究に着手する。3 月 31 日、神奈川条約が調印される。ペリー艦隊は、艦内で『Japan
Expediton Press』を編集・印刷して配布する。1997.4.17 この時の日米和親条約の批准交
換書およびモールス電信機などが重要文化財に指定される。モールス電信機は逓信総合
博物館に展示されている。]
1854. 3. 1 [2. 3]
【日本】幕府が、アメリカ軍艦見物のため錨泊地付近の陸や海に群集す
ることを禁止する。[[3.12]かさねて命令する。]
1854. 3.28【黒海】イギリスとフランスが黒海に艦隊を派遣し、ロシアに宣戦してクリミ
ア戦争に参戦する。[以後、この戦争中に電信が軍事用に用いられ、その効果が認められ
る。1856.3.30 パリで 4 ヵ国連合とロシア間で講和条約が締結され、クリミア戦争が終結
する。]
1854. 3.31[ 3. 3 ]【日本・アメリカ】日米和親条約 12 ヵ条が、神奈川(のち、横浜)で締結
- 370 -
調印される。「神奈川条約」と呼ばれる。アメリカ側の全権は東インド艦隊司令長官ペ
リー、日本側の全権は儒役林飛(あきら)、町奉行井戸覚弘、浦賀奉行伊沢政義、目付鵜
殿長鋭。同条約では、下田・箱館の開港、薪炭の供給、遭難船員の保護、領事駐在の約
束などアメリカはの最恵国待遇を認めただけで、通商条項は含まれておらず、アメリカ
人が日本の法律を守る義務も明記されていない。日本の開国の第一歩となった条約だが、
不平等条約の初めともなる。
[以後、幕府は、条約締結を大名や朝廷に秘密にする。1855
年 2.21 [1.5]下田で批准書を交換し発効する。9 月、公にする。
]
1854. 4. 2 【フランス】ビルメサン(ヴィルメサン)Jean Cartier de Villemessant( 42)が、週
刊新聞『フィガロ( Le Figaro)』を創刊する。仲間のジェヴァンが編集長、共同資金提供
者のドリジャンが発行人になる。創刊号をパリ中のカフェ、クラブ、ホテル、レストラ
ン、浴場、軽食屋、歯医者、産婆に至るまで代理販売人を派遣して置いてもらう。同紙
に購読契約書を添え、年間購読者を募るのに、
〈年間購読料 6 フランは 1 年後に一括して
支払います。
〉という文面をつけ、多数の予約者を得る。最初の代表的保守系紙となる。
この頃、小新聞の多くは予約購読料を先取りして廃刊になり、予約購読詐欺が横行して
いたのを、ビルメサンらは逆手にとって大成功する。[のちにフランスの代表的新聞にな
る。もともと『フィガロ』は 1825 年に反体制派の小新聞として創刊されたが、すぐに廃
刊になり、以後このタイトルは反体制派のジャーナリストの間で次々と受け渡されて来
た。これが何度目かの復刊であるが事実上の創刊である。第 5 号に編集部から「投稿欄 」
を設ける旨の呼びかけが載る。この新機軸が議論好きのフランス人から圧倒的な歓迎を
もって迎えられる。ビルメサンは、投稿原稿の中に才能ある書き手を積極的に発掘し、
これと見込む才能には 1 回につき 100 フランという高額の報酬を与えて紙面を解放する。
1866 年日刊紙に移行する。またヴィルメサンは、従来の粗末な紙と貧弱で不揃いの活字
によるモード新聞を気にして、自ら超高級モード新聞『シルフィッド』を創刊する。](鹿
島茂「フィガロ・マジック」
『ちくま』1996.8)
1854.5.25[ 4.29]【日本】日米和親条約付録 13 ヵ条が協定調印される。
1854. 6 . 2 [5 . 7]【日本】アメリカ艦隊がことごとく下田を退去する。
1854. 8.23 [7.30 ]【日本】日英条約 7 款が締結され、長崎・函館 2 港をイギリスに開放す
る。
1854.11.14 【フランス】大暴風がクリミア半島を襲う。クリミア戦争に参加していた英仏
連合艦隊はバラクラバ沖で大損害を受け、鋼鉄製のフランス最新鋭艦アンリⅣ世号が沈
没する 。
[以後、フランス政府は、この暴風の予測の可能性の調査をパリの天文台台長
ルベリエ Urban Jean Joseph Leverrier( 1811 ∼ 77 )に命じる。彼は助手リアスとともにヨー
ロッパの各観測所から 250 通ほどの気象記録を取り寄せ、天気図をつくり、この暴風が、
スペイン付近から地中海を通って黒海に進んできた低気圧によって起こされたことを明
らかにする。フランス政府は、天気図の有無が国運を左右しうることを認識する。1858
年、無線通信を利用した観測網によって各地の気象状況を集め、これにより天気図作成
が行われる。1863 年、ルベリエらによって日々の天気図が公刊され始める。]
1854. [11.−]【日本】蘭学者川本幸民(かわもとこうみん)(44)が、ファン・デル・ブル
ク『理学原始』第 2 版を、
『遠西奇器述第一輯』と題して訳述する。巻頭に「直冩影鏡」
と題して、ダゲレオタイプに関する記事が掲載される。日本で写真関係の最古の記述と
- 371 -
なる。[ 1859 年[ 8 月] 、
『遠西奇器述第二輯』で電信機、蒸気機関、汽船、汽車を訳述す
る。1861 年、自らが湿式写真を開発して撮影する。]
1854. ○【日本】国学者竹川竹斎が、伊勢国飯南郡射和村(のち、松坂市)に射和(しゃわ)
文庫を開く。[以後、毎月 15 日に定例会、古典の学習会を行う。明治以降も各種の新聞
を購読し、人々に閲覧させ、さかんに情報交換を行う。
]
1854.○【日本】この頃、江戸・亀有の南部藩の医者嶋立甫(1807 ∼ 1873 )が、日本最初
のガス灯を作り点灯する。造船に必要なテール(のち、コールタール)を採るために発生
するガスを利用して 、自宅の柱に竹管を取付けてガスを導き点灯する。巷で評判になり、
老中阿部伊勢守や諸大名たちも見物に訪れる。
[以後、普及はしない。
]
1854.○【日本】佐賀藩の精煉方、田中久重( 55 )が、中村奇輔、石黒寛二らとともに、日
本で初めて模型の蒸気機関車をつくりあげる。[ 1873 年、田中久重が上京、1875 年銀座
に日本最初の民間機械工場、田中製作所を開業する。のち、㈱東芝に成長していく。]
1854.○【日本】佐賀藩主鍋島直正( 40 )が、オランダ国王から将軍への贈物として電信機
が長崎奉行所に届けられたという報に接し、田中久重( 55 )ら精煉方にその製作を命じる。
[1857 年、電信機が完成する。]
1854. ○【オーストラリア】オーストラリア最初の鉄道が開業する。
1854.○【ベルギー】ブールサール Charles Bourseul(25)が、電話についてはその原理を提
案する。[1861 年、ドイツのライス Johann Phillip Reis が実験を行う。]
れる。
1854. ○【ドイツ】ドイツ最初の旅行会社カール・リーゼル旅行会社が創設される。
1854.○【ドイツ】R.フィルヒョーが、生体の神経組織であるミエリンと水を接触させる
ことによってリオトロピック液晶を( lyotropic liquid crystal)得る。リオトロピック液晶は 、
溶媒の量を増していくと、固体→液晶→通常液体という変化を示す。[ 1888 年、ライニ
ッツァー Friedrich Reinitzer が、サーモトロピック液晶を発見する。]
1854.○【ドイツ】ベルリン砲工学校の教職にあるクラウジウス Rudolf Clausius(32)が、
力学的熱理論(のち、熱力学)の第一法則、第二法則と名づけた 2 つの法則を論文で主張
し、「エントロピー」の概念を提案する。熱と関連する現象には不可逆性が伴いうるこ
と、その度合いを表すにはエントロピーという量が役だつこと、不可逆な現象ではエン
トロピーが増大すること、などを論じる。[ 1855 年、新設のスイス、チューリヒ工科大
学の数理物理の教授になる。]
1854. ○【フランス】フランス最初の馬車鉄道が、パリに登場する。
1854.○【フランス】雑文家・風刺画家ナダール Nadar( 34 )(本名ガスパール・フェリック
ス・トゥールナション Gaspard-F ロ lix Tournachon)が、共和主義者として反ルイ・ナポレオ
ン・キャンペーンの先頭に立ったが、食いつめて妻子を養うため、パリのサン・ラザール
通りに兄アンドレとともに小さなスタジオを開く。そこは写真館というよりも、この頃
の知識人たちのサロンといった趣を呈す。[以後、パリで最も有名な肖像写真家となり、
そこを訪れることが名士のステータス・シンボルともなる。ボードレール、デュマ、ゴー
ティエ、ロッシーニ、リスト、ドラクロア、コロー、サラ・ベルナール、ネルヴァルなど
の詩人、文人、音楽家、画家、俳優がこのスタジオを訪れ、ナダールのカメラの前に立
つ。ナダールのポートレート(肖像写真)は、単純な背景の中に全身の 4 分の 3 をストレ
- 372 -
ートなライティングで写したものであるが、それは単なる人物の性格描写を超え、これ
ら芸術家自身の表現世界の広がりをも感じさせるものとなる。ナダールによって初めて
人間の「顔」が作られ、その人物についての情報と一体化し、固定される。1858 年、気
球に乗り世界最初の空中写真の撮影を試みる。ナダールの波瀾に富んだ経歴は J.ベルヌ
の『月世界旅行』などの主人公のモデルとしても反映されているといわれる。彼が残し
た 3 万点以上に及ぶ数々のポートレートやドキュメントは、完成された独自の世界をも
って後世にまで伝えられ、とくにポートレートはすぐれた芸術的古典と評価される。]
1854.○【フランス】A. A. ディスデリ Disd (e)ri が、一度にたくさんの同じ写真を撮影す
るシステム「名刺判写真(カルテ・ド・ビジット; carte devisit) 」を考案して、特許を取る。
レンズをたくさん取り付けたカメラにより、1 枚の原板に 8 枚、12 枚等の写真を写し出
すもので、これによってより多くの肖像写真が安価に写される 。
[以後、このシステム
を使って有名人の肖像を複写複製して売り出しす。これまでにない「肖像」の側面をも
たらす。]
1854. ○【地中海】コルシカ島∼サルジニア島間海底ケーブルが完成する。
1854.○【イギリス】物理学者、王立研究所自然科学教授チンダル John Tyndall(34)が、
光ファイバを通信に用いようと考えるが、アイデアのみにとどまる。[ 1966 年、イギリ
スの STL 研究所のカオが、A.リーブスのアドバイスを受けて、チンダルの考えた光ファ
イバ通信の可能性を発表する。]
1854. ○【モザンビーク】ロレンソマルケス(のち、マプト)で初めて印刷が行われる
1854.○【アメリカ】ボストン市立図書館(ボストン公共図書館)(Boston Public Library)が
開館する。無料公開して、民主主義社会を支える人々に対して知識と情報へのアクセス
を保障し、貸し出しや調査研究を支援するという公共図書館の役割を明確にする 。[以後 、
公共図書館のモデルとなり、議会図書館(LC)に次ぐ全国第 2 位の蔵書を長く保つ。]
1854. ○【ブラジル】ブラジル最初の鉄道が開業する。
1854. 【流行歌】『アメリカ大津絵節』
1855(安政2)
1855. 2. 7[安政 1.12.21]【日本】日露和親条約が下田で調印される。択捉島・国後島・色
丹島・歯舞諸島からなる北方領土が日本の領土として認められる 。面積は 4996 平方 km。
[1856.12.7 [安政 3.11.10 ]批准書交換。1875.5.7 「樺太・千島交換条約」をペテルブルクに
調印。8.22 同条約批准書交換。これによって樺太全島を放棄する代わりに千島列島全て
が日本領となる。1945 年、ソビエトが千島列島の一部であるとして北方領土を占領する。
1951 年、サンフランシスコ平和条約で、日本が戦争によって奪った土地の権利・権原等
は放棄することとなり、千島列島もその中に含まれる。しかし、北方領土は戦争によっ
て獲得した土地ではなく、権限を放棄する千島列島には含まれないところから、北方領
土返還運動が起こる。1981 年、政府が、北方領土返還運動を盛り上げるために 2 月 7 日
を「北方領土の日」に制定する。]
1855. 4.14[ 2.28]
【日本】パンの製法を学ぶために長崎に留学している水戸藩の医者柴
田方庵が、同藩の萩信之助に送った書簡の中に、オランダ人から学んだパン、ビスコイ
ト(ビスケット)製法書を同封する 。
[以後、これが、ビスケットの製法を記した日本初
- 373 -
の文書とされる。1980 年、全国ビスケット協会が、この日を記念して 2 月 28 日を「ビ
スケットの日」とすることを提唱し、翌年から実施する。また、ビスケットの語原がラ
テン語で「二度焼かれた物」という意味の「ビス・コクトゥス( bis coctus)
」であること
から 、
「に( 2)どや( 8)く」の語呂合せの意味も持たせている 。
]
1855. 5.15 【フランス】第 3 回、フランス初の万国博覧会が、パリのシャンゼリゼ産業宮
を主会場にして盛大に開催される。ナポレオンⅢ世がイギリスにライバル意識を抱き、
フランスの威信をかけて開く。ドーバー海峡トンネルの模型が展示され、人目を引く。[∼
11 月。この間、入場者は 516 万人余、収支は赤字となる。]
1855.6.29【イギリス 】
『デーリー・テレグラフ(The Daily Telegraph)』紙が創刊される 。1771
年の議会報道の自由化に重ねて、イギリスの新聞は完全に自由となったのを機に創刊さ
れる。[翌 1896 年、さらに『デーリー・メール(Daily Mail)』が創刊され、両紙とも巨大
な部数に伸びる。]
1855.10.5[ 6. 9]【日本】オランダ国王が、幕府に蒸気船スンビン(Soembing )号を贈る。
また電信機を献上する。[のち、観光丸と改名されて、オランダから派遣されたペルス・
レイケンら教授陣により、長崎で海軍伝習に用いられる。目付の永井玄蕃頭尚志(がんば
のかみなおゆき)が目付の身分のまま海軍伝習総督に就任し、江戸から送られた諸藩の希
望者を対象に訓練が開始される。1957.4.4 初めて外国製日本国籍の軍艦により日本人だ
けで航海して、瀬戸内海から紀州沖を回る海路を開いて江戸に達する。]
1855.[6.−]【日本】長崎奉行荒尾石見守が、近年洋書の需要が著しいのに供給が不十分
で、阿蘭陀通詞も蘭書払底のため修業が十分にできず、よって先年オランダ人がもたら
した活字版をこの際奉行所で摺方を試み、長崎会所で一般志願者に売り渡せば世上便利
になる、という建白書を老中阿部伊勢守の提出する。[ 8 月、幕府から許可が下りる。長
崎奉行所の西役所内に活字判摺立所を創設、この月から江戸・九段坂下の洋学所に勤務
していた本木昌造( 31 )をその取扱係に招く。本木は江戸を出立して長崎に向かう。1856
年 6 月、鉛活字と木版による印刷・出版を開始する。]
1855. 8.16[ 7. 4 ]【日本】勝麟太郎(のち、海舟)( 32)と小田又蔵が、将軍徳川家定(31)を
御浜御殿(のち、浜離宮)に迎えて、ペリーが献上したモールス電信機のお披露目を試み
るが、部分品が紛失し組み立てることもできない。やむなく、前年長崎出島のオランダ
商館長が長崎奉行に献上した電信機を用いて、オランダ人技師が五十音順にあわせて作
った日本語製モールス符号で「ツルカメ 」
、「ワカノウラ」、
「スミダガワ」などの文句を
送信して見せる。[ 1999.11
ペリー献上のモールス電信機が 145 年ぶりに作動すること
が確認され、所蔵する逓信総合博物館で記念実験が行われる。]
1855.11.11 [10. 2 ]【日本】夜、江戸に大地震が起こる。余震 80 回、各地に火災が起こる。
江戸城、諸侯邸 、民家、寺院の被害甚大で、倒壊 1 万 4000 戸 、死者 7000 人余を出す。[以
後、この大地震の瓦版が、300 種以上も出回る。錦絵が瓦版化して「地震絵」と呼ばれ
る。地震を題材とした仮名垣魯文『安政見聞誌』などの冊子や、綴本、一枚摺、錦絵の
類が多数刊行される。のち、
「安政大地震」と呼ばれる。]
1855.10. 5 【フランス】画家ドラクロア(57 )が、友人のフランス写真協会会長ユージェニ
・ディリュをアトリエに招き、ヌードモデルを撮影する。ヌード写真の先駆けとなる。ド
ラクロアはこの写真をもとに完璧な裸婦像を描く。
- 374 -
1855. ○【日本】幕府が 、洋学を取り扱う機関を設置するため、
「洋学所 」を設けて頭取(と
うどり)古賀謹一郎を中心として準備を開始する。[ 1856 年、蕃書調所(ばんしょしらべ
しょ)の名で開業する。]
1855.○【日本】薩摩藩主島津斉昭彬( 46 )が、藩士・蘭学者松木弘安(23)と川本幸民( 45)
に命じてオランダ書を手がかりに電信機の製作を命じる。[1957 年、城内で通信の実験
に成功する。松木は、1868 年に横浜・東京間の電信創設を建議し電信建設を担当する「電
信の父」寺島宗則その人である。]
1855. ○【日本】浅草奥山に活偶人の見世物が出る。
1855. ○【地中海・黒海】地中海から黒海にまで海底ケーブルが敷設される。クリミヤ戦
争で、連合軍が通信に最大限利用する。
1855.○【フランス】技師ラカサーニュとティエールが、リヨンでアーク灯に実験を行う。
空気中アークによる放電式のデュボスク・アーク灯が用いられる。[翌日、
『フランス新
聞』がこの実験を次のように報道する 。
〈昨夜九時ごろ、シャトー・ボージューの近くを
散歩している人々は、突然太陽のように明るい光の洪水におそわれた。実際、太陽が昇
ったのかと思えるほどで、錯覚して眠りから覚めた鳥たちは、この人工の太陽光をあび
て啼きだす始末だった。――広大な領域にあふれた光は強烈だったので、ご婦人方は傘
をさしたほどである――発明者たちに対するお愛想などではない。この得体の知れぬ新
しい太陽光線から身を守るためだった 。〉(ヴォルフガング・シヴェルブシュ、小川さく
え訳『闇を開く光』1988 )]
1855. ○【イギリス】印紙税法が廃止される。課税対象となっていた新聞用紙や広告も印
紙税がなくなる。
1855.○【イギリス】クック Thomas Cook( 48 )が、パリ万国博覧会を機にヨーロッパ大陸
その他へイギリス人を大挙して送る外国団体旅行事業を開始する。
[ 1856 年、アントワ
ープ、ブリュッセル、ケルン、フランクフルト(マイン)、ハイデルベルク、ストラスブ
ール 、パリ、サウサンプトンを宿泊地とする最初の大陸旅行を実施し 、大成功を収める 。
周遊旅行券と一定の乗車船券を合わせたクーポン綴りに宿泊券と食事券を付け、旅行を
簡単で安くした。クックは〈教育を受けていない人たちや、外国語ができない人たち〉
に外国を開放した。旅行客は、この頃流行し始めたカメラを携えて出かけるので、外国
各地で〈彼らはイギリス人とすぐ分かる。彼らはいつもカメラを手にしている〉とささ
やかれる。
]
1855.○【イギリス】写真家ロジャー・フェントン Roger Fenton(36)が、世界で初めての従
軍写真家としてクリミア戦争(1853 ∼ 1856 )に簡易暗室を持ち込み、コロジオン湿板法で
戦争写真を撮影する。これがパリ万国博覧会に出品される。また、これを元とした木版
刷りの絵が新聞『ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 』に挿絵として載せられる 。
この頃、写真印刷がまだ開発されていないので、〈写真を元として描かれた〉という注
釈によって写真と同様の信憑性を得るようにする。[ 1856 年、ガラス板のネガからソル
テッド・ペーパー(塩化銀紙)に焼き付け、台紙に貼った写真帳『The War in Crimea』を、
トーマス・アグニュー・アンド・サンズ社から刊行する。]
1855.○【イギリス】古書籍商ヘンリー・スティブンスが、オランダで偶然『姦淫聖書』( 1631
年版欽定訳聖書)の第 1 番本を発見し、所有者から 25 ギニィで譲り受ける。[のちにアメ
- 375 -
リカ人ジェームズ・レノックスの蔵書となる。第 2 番本はスティブンス自身の蔵書中に発
見され、1856 年 1 月に大英博物館に収蔵される。6 番本までが発見されている。](庄司浅
水『聖書よもやま話』)
1855.○【アメリカ】1846 年にアメリカ議会法の制定により設立が決まったスミソニアン
協会( Smithsonian Institution )が、ワシントンに開設される。[以後、博物館では幅広いコ
レクションを収蔵し、科学的研究および調査を支援し、書籍や雑誌を発行し、14 の博物
館と美術館と動物園、ニューヨークにあるクーパー・ヒューイット美術館とアメリカ・
インディアン博物館で構成される世界最大の総合博物館となり 、
学術研究機関ともなる。
]
1855. ○【アメリカ】少年のころ両親とともにアメリカに移住したイギリスの電気技術者
ヒューズ David Edward Hughes( 24)が、音の伝達・拡大に関心をもち、ケンタッキー州の
バーズタウン大学音楽教授を昨年辞し、1 分間に 100 字以上が処理できる印刷電信機を
発明する。紙を巻いたドラムを時計のように錘によって回転させ、電磁石により文字キ
ーを駆動して印字する。これまでの電信は音響信号を耳で受けて 1 分間に 30 ∼ 40 字程
度であったので、処理速度が飛躍的に向上する。また、誰でも印字されたものを読むこ
とができ、記録として残すこともできるようになる。[以後、ニューヨークで初めて採用
され、後にフランスで使用される。当初は故障が多かったが、フランス人の友人フロマ
ンが改良を重ね、印字速度が 1 分間に 250 ∼ 300 字程度に向上する。イギリスは採用に
抵抗するが、1868 年のウイーン国際電信会議以降はヨーロッパの主要国で採用され、広
く普及する。1877 年、ヒューズがロンドンに帰る。1878 年に、ヒューズは接触抵抗型送
話器(炭素マイクロホン)を発明する。]
1855. 【流行歌】『地震大津絵節』
、『地震けん』
1856(安政3)
1856.1.30[ 12.23 ]【日本】日蘭通商条約を長崎で改正調印する。
1856. 3.30【フランス】パリで、クリミア戦争の終結にともない、4 ヵ国連合とロシア間
でパリ講和条約が締結される。
1856. 3.31[ 2.25]【日本】肌をあらわにした生人形(肉人形)の見世物が、興行差し留め
となる。布洗い姿、半裸体で髪を結わせる遊女、褌一つで逃げる下女の 3 体が興行途中
で公開禁止となる。(『藤岡屋日記』9)
1856. [6.−]【日本】長崎奉行所の西役所内に「活字判摺立所(すりたてじょ)」が設け
られ、取扱係本木昌造( 32 )が、オランダ製印刷機により蘭書を印刷する。活字はオラン
ダ経由の蘭語活字と、昌造が作った流し込み活字および木版が使用される。 文法書『シ
ンタクシス』を 128 部発行、1 部を洋学所に納め、その他は 1 部金 2 部で売り捌く。[1859
年まで行われる。]
1856. 8.21[ 7.21]【日本】ハリス Townsend Harris(52)が、アメリカの初代総領事として
軍艦で伊豆下田に来航する。
1856. 9. 3[ 8. 5]【日本】ハリスが、下田玉泉寺に入り仮領事館とする。[ 9.22[ 8.24]幕
府がハリスの駐在を許可する。1858 年、幕府との間で日米修好条約の締結に成功する。
1859 年、公使に昇格、麻布に公使館を開設し、各国外交団の最古参として活躍する。
1856. ○【日本】東海・東山道地方に大暴風雨、大雷雨が襲う。江戸市中の被害甚大。
- 376 -
1856. ○【日本】開港場の踏絵が停廃される。
1856. ○【日本】倹約令が発布される。
1856. ○【日本】金巾、羅紗などの洋品店が出現する。
1856.○【ヨーロッパ】フランスのアバス(アヴァス)Agence Havas、ドイツのウォルフ(ヴ
ォルフ) Wolffs Telegraphen-Bureau、イギリスのロイター( Reuters)の 3 通信社が、初めて
相場速報の国際協定を結んで、ニュースの交換を行うようになる。[ 1859 年、一般ニュ
ースの交換協定を締結。以後、協定は何度も更改される。1870 年、3 社は「国際通信協
定」を締結し、世界を 3 分割して、それぞれの領域でニュースの収集、配布に独占権を
持つことを取り決める。]
1856. ○【スイス】ブレゲーが、電気巻き時計をつくる。
1856.○【イギリス】詩人モリス William Morris( 22 )が、仲間たちと『オックスフォード・
アンド・ケンブリッジ・マガジン』を刊行し、詩や随筆を発表する。
[ 1891 年、個人出版
「ケルムスコット・プレス」に着手する。
]
1856.○【イギリス】ロジャー・フェントン Roger Fenton (37)が 、
クリミア戦争(1853 ∼ 1856 )
で撮影した戦争写真のガラス板のネガからソルテッド・ペーパー(塩化銀紙)に焼き付け、
台紙に貼った写真帳『The War in Crimea 』を、トーマス・アグニュー・アンド・サンズ社か
ら刊行する。
1856.○【イギリス】郵政当局が、ロンドンを 10 エリアに分けて符号化した郵便コード
(postcode)を制定する。
1856.○【アメリカ】イギリス人ヒューズ David Edward Hughes(25)が、印刷電信機を完
成させ、特許を得る。[以後、これをアメリカ政府に売却する。1957 年、販売のためヨ
ーロッパに渡る。]
1856. ○【アメリカ】西部の実業家ハイラム・シブレーが、電信会社間の競争激化で不振
にあえぐモールス( 65 )を援助し顧問に迎えて、各地の 65 の群小電信会社を買収し、ウェ
スタン・ユニオン電信会社( Western Union Telegraph)( WU)を設立する 。
[以後、合併を重
ね、ついに全国の電信業務を独占する。その後、電気通信サービスの中核が電話とデー
タ通信に移行するにつれて電信業務はしだいに衰退に向かい、再び多角経営戦略に転換
し、ベル・システムから加入電信網を引き継ぐとともに、郵便公社と提携して電子郵便サ
ービス「メールグラム」を開始する。1974 年、通信衛星「ウェスター( Westar )」を打ち
上げ、衛星通信事業にも乗り出す。しかし、これらの経営戦略は成功せず、多くの事業
部門を切り離す。1995 年、大手電子商取引サービス会社ファースト・データ社(1992 年設
立)の一部門となる。2006.1.27 電報サービスを終了する。
]
1856.○【アメリカ】イギリスの化学者ガードナー Alexander Gardner( 35)が、湿板写真の
技術で名声をはせ、アメリカの写真家マシュー・B・ブラディに招かれてアメリカに渡
たる。[ 1861 年、南北戦争が始まると、ブラディ指揮の従軍写真班に参加する。]
1856.○【アメリカ】W. フェレルが、大気の環流論を発表する。スケールの大きな気象
の構造が解明されたことにより科学的な暴風警報、天気予報が可能になる。[1861 年、
イギリスのフィッツ・ロイ R. Fitz Roy が、初めて暴風警報を出す。]
1856. ○【アルゼンチン】アルゼンチン最初の鉄道が開業する。
【流行歌】
『あいなぶし』
- 377 -
1857(安政4)
1857. 2.12[ 1.18]【日本】蕃所調所(ばんしょしらべしょ)が、江戸幕府の洋学研究教育
機関として江戸九段坂下に開所する。幕臣の子弟のみが入学を許可される。授業も開始
される。同所の任務には、洋書洋文の翻訳・研究 、洋学教育、洋書・翻訳書などの検閲、
印刷・出版、一部の技術伝習があり、これを担当する教授方には、箕作阮甫(みつくりげ
んぽ)、杉田成卿(せいけい)、松木弘安(こうあん)(寺島宗則(むねのり))、村田蔵六(ぞ
うろく)(大村益次郎)らの洋学者が任ぜられた。[18587.3 [5.23] 幕府が初めて陪臣の入学
を許可する。ただし一定の学力制限を設ける。]
1857. 4. 4 [ 3. 4]【日本】幕命により矢田堀景蔵ら長崎海軍伝習生が、目付の永井玄蕃頭
尚志(がんばのかみなおゆき)を乗せて蒸気船観光丸で江戸湾回航に出発する。1 年余の
練習ではまだ不足だというレイケンの反対を押し切って、初の日本人だけの自力航海を
始める。長崎港を離れる艦の操作が見事で、見送るレイケンは安心する。[ 4 月 26 日
[3.26 ]、23 日目に江戸に到着する。目付の帰府日程として、従来の陸路では急いでも1
ヵ月を越えていたが、瀬戸内海を抜けて紀州沖を回る海路によって最短記録を作る。]
1857. 4.−【フランス】フロベール(フローベル;フローベール)Gustave Flaubert(36)の小
説『ボバリー夫人(ボヴァリー夫人)』が出版される。初版 1 万 5000 部はたちまち売り切
れる。[ 6 月、再版。フローベルは一挙に当代最高の小説家としての名声を博す。]
1857. 6.17 [ 5.26 ]【日本】アメリカと下田条約 9 ヵ条を締結する。長崎開港、治外法権
等が承認される。
1857. 6.25【フランス】ボードレール『悪の華』初版が発売される。1300 部印刷され、
定価は普及版 3 フラン、上質紙特製版 6 フラン。
1857. 7. 7【フランス】内務省が、『悪の華』の著者ボードレールに公共道徳紊乱の疑い
があるとして、検察庁に捜査を命令する。[10 日後、検察庁も同意を表明し、著者、出版
者の尋問、出版物の押収を開始する。]
1857. 8.20【フランス】
『悪の華』の公判が軽罪裁判所で行われ、即日、著者ボードレー
ルに 300 フラン 、出版者プウレ・マランとド・ブロワーズにそれぞれ 100 フランの罰金刑、
および詩 6 篇の削除の判決が下される。[1949.5.31 再審査の結果、有罪判決の無効が宣
告される。]
1857. 8.−【アイルランド・大西洋】アメリカのフィールドが、大西洋横断海底ケーブル
敷設を計画し、イギリスの実業家も出資して、アイルランド西岸バレンチアからケーブ
ル敷設を開始する。[10 日目、ケーブルが切断して失敗する。1858 年、2 度目の試みで、2
隻の船にケーブルを積んで大西洋の真中から敷設を始めるが、3 マイルでケーブルが切
断する。3 度目は 200 マイルで切断する。]
1857. 9.21[ 8. 4]【日本】幕府がオランダに発注、建造していた軍艦「咸臨丸(かんりん
まる)」(オランダでの原名はヤパン号)が、オランダの海軍士官カッテンダイケ(カッテ
ンディーケ)Willem Johan Cornelis Kattendijke( 42)の指揮で長崎に到着、海軍伝習所の訓
練艦となる。3 本マストの木造帆船で、100 馬力の蒸気機関をもち、長さ約 50m、幅は 8.5m。
[1860 年、遣米使節の護衛艦として随行し、太平洋を横断する。帰国後、幕府の小笠原
島開拓の用船となる。1867 年、損傷して軍籍を離れ、純帆船に改装される。]
- 378 -
1857.11. 2[ 9.16 ]【日本】薩摩藩主島津斉彬(48 )が、オランダ製湿版写真機を入手し、宇
宿彦右衛門に撮影術の研究を命じていたが、この日、自分を写させ、自分でも撮影し、
実験に成功する。
1857.12. 7[ 10.21 ]【日本】アメリカ領事ハリス(53 )が、登城して将軍に大統領の親書を
提出する。
1857.12.12 [10.26]【日本】アメリカ領事ハリス(53 )が、老中堀田備中守正睦(47)に会い、
通商の要を説く。併せて 、
〈電信の発明以来、遠くの出来事も速やかにわかり、ワシン
トンともあっという間に連絡ができるわけです〉と電信の驚異と利便を言上する。
1857. ○【日本】薩摩藩主島津斎彬が、集成館内にガス灯を設ける 。
[のち『島津家国事
堂』に〈安政四年、集成館内鑚開台付近に機械を設け、磯茶屋内の浴室側にガス室を設
置し、室内の石燈籠毎に管を通じて点火せしに、不夜城の観となせり、日本に於けるガ
ス使用の嚆矢なり〉と記される。
]
1857. ○【日本】長崎奉行所で、オランダ製鉛活字を使って英文法書を出版する。
1857.○【日本】オランダの海軍軍医ポンペ Johannes Lijdius Catharinus Pompe van
Meerdervoort( 28 )が、幕府から招かれ第 2 次海軍伝習所医官として着任する。長崎で開か
れた医学伝習所で、幕府医官松本良順を中心に全国から集まった医学生を中心に、人体
解剖・臨床医学講義を含む幅広い教育を行う。また、最新のコロジオン湿板法による写真
撮影を教える。[以後、5 年間日本に滞在する。1861 年、ポンペの要請で長崎養生所が建
てられ、日本における初の近代病院となり、長崎大学医学部の原点ともなる。ポンペが
撮影した写真は未発見。]
1857.○【日本】薩摩藩主島津斉彬の命により、川本幸民と松本弘安(のち 、寺島宗則)が、
蘭学者緒方洪庵( 47)と中原猶介(25)らの協力を得て、電信機を製作し、城内本丸休息所
と二の丸探勝園茶室の間約 550m で絹巻き銅線を通じて通信実験に成功する。機械は送
信された符号を鉛墨で描き出す。[のち、同地に「電信実用記念」の碑が建立される。]
1857. ○【日本】肥前佐賀藩主鍋島直正の命により、精練方の田中久重らが製作していた
電信が完成する 。
〔エンボッシング型のモールス電信機と推定される 。
〕[以後、直正は
これを島津斉彬に贈る。]
1857.○【ドイツ】実験装置製作者ガイスラー Johann Heinrich Wilhelm Geissler( 42)が、ボ
ン大学のプリュッカー J. Pl □ cker に頼まれて、真空放電の実験とスペクトルの研究のた
めに用いる、真空度が数十∼数トル(1 トルは水銀柱 1 ミリメートルの圧力)の冷陰極
放電管を製作する。ガイスラーはこの真空を得るために水銀空気ポンプを開発する。こ
の管は「ガイスラー管」あるいは依頼主の名に基づいて「プリュッカー管 」と呼ばれる。
[1856 年、プリュッカーは、陽極の影が陰極の反対側に写し出される現象を発見する。1864
年、ポッゲンドルフが、この装置で誘導電流の実験に使用する。ガイスラー管は、また
簡単な真空計として真空度の測定に用いられる。さらに、管内の気体原子のスペクトル
研究にも用いられるが、その場合は管の中央部は細くする。]
1857.○【フランス】この頃、イギリス人スコット Leon Scott が、油煙を塗った紙を円筒
に巻きつけて手で回転させ、振動板に取り付けた堅い豚の毛を油煙紙に接触させて、音
の波形を連続的に記録する音響記録装置「フォノートグラフ(フォノトグラフ)
(Phonautograph)」を考案、特許取得する。[ 1877 年、C.クロスが、フォノートグラフか
- 379 -
ら音を再生する方法を考案する。]
1857.○【イギリス】科学博物館(The Science Museum )がロンドンに開館する。
1857.○【イギリス】提督 F.ボーフォートが、暗号を研究した結果、ビジネル表の内部の
文字を逆順にした「逆ビジネル表」を提案する。
1857. ○【イギリス】離婚・結婚問題を裁く裁判所が設置される。男は、相手の不貞だけ
を理由に離婚が認められるが、女は、その他に男色、強姦、獣姦、近親相姦などの理由
が必要とされる。
1857. ○【イギリス】猥褻が、初めてイングランドで、法により禁じられる。
1857.○【イギリス】芸術写真家オスカー・G・レイランダー(40)が、 30 枚のネガから合
成印画をつり、勧善懲悪的なテーマの写真「人生の二つの道」を創作する。モデルには
俳優を動員し、また画面に写真史上ほとんど初めてヌードを登場させる。この作品は
78.7cm × 40.6cm という大きなもので、ビクトリア女王に買い上げられる。
1857.○【大西洋】イギリス∼アメリカ間に大西洋海底ケーブルの敷設が着手される。[1858
年、延長 3600km の大西洋海底電信線が初めて完成するが、約 1 か月で不通となる。以
後、度重なるケーブル切断事故や、1861 ∼ 65 年のアメリカ南北戦争のためアメリカの
大西洋沿岸部で海上封鎖に遭うなど、5 回の工事を繰り返す。1866 年、6 度目の工事で
敷設に成功する。]
1857.○【アメリカ】
『ニューヨーク・デーリー・タイムズ』が、
『ニューヨーク・タイムズ(The
New York Times)』に改称する。[1869 年前後から世紀末にかけて『ワールド』
『ニュー
ヨーク・ジャーナル』など新興大衆紙に押されて、紙勢は下降線をたどりる。1893 年に
は毎週の赤字が 2500 ドルを超え、部数は 9000 台にまで落ちる。]
1857.○【アメリカ】エジソン ThomasAlva Edison( 10 )が、自宅の地下室に実験室を作る 。
[1859 年、鉄道の新聞売り子となり、自宅の実験室を列車内に移す。1862 年その実験室
で火災を起こし、車掌に殴られて耳がよく聞こえなくなる。また同年、駅長の子供の生
命を救った礼として電信術を習い、1869 年まで各地で電信手を勤める。]
1858(安政5)
1858. 1.15[ 12. 1]【日本】盛岡藩が、釜石鉱山において、南部藩士大島高任(おおしまた
かとう)(32)の指導により日本最初の洋式高炉に火入れ 、操業を開始する 。燃料は木炭で 、
反射炉と、その原料としての銑鉄をつくる高炉とを、一つの総合的な技術システムとし
てとらえ、ヨーロッパの製鉄原理を日本の土着文化と結びつけることの成功する 。[以後 、
近代製鉄技術の源流となる。1958 年、日本鉄鋼連盟が 12 月 1 日を「鉄の記念日」と制
定する。]
1858. 3.16【日本】ヒュースケンが、浅草で裸体の生人形を見物し、〈腰に布を捲きつけ
た裸婦のコレクションでは最大のものだ〉と記す。(『ヒュースケン日本日記』)
1858. 6 . 4 [4.23 ]【日本】彦根藩主の井伊直弼が大老に任命される。
1858.[6.−]【日本】オランダ海軍将校が、第 2 期海軍伝習のため長崎に渡来する。この
なかにいた早業活版師インデルマウルが、本木昌造らに新製植字を伝授する。昌造の活
字開発が進捗する。[ 1859 年 12 月、塩田幸八を出版名義にして『和英商賈(しょうこ)対
話集』を刊行する。]
- 380 -
1858. 7.28【アイルランド・カナダ】アメリカのフィールドが、昨年から敷設を試みてい
る大西洋横断海底ケーブル敷設に 3 回も失敗したが、4 回目の挑戦を試みる。[ 8.5 よう
やく成功する。]
1858. 8. 5【アイルランド・カナダ】ニューファウンドランドとアイルランドのトリニテ
間 3240km に大西洋横断海底電信が、アメリカのフィールドによる 4 回目の試みの後、
イギリスの「アガメムノン号」とアメリカの「ナイアガラ号」により、海底ケーブルを
結ぶことに成功、英米を結ぶ海底電信が開通する。[8.14 女王ビクトリアからアメリカ
大統領ブキャナン(ブカナン)に祝電が送られる。また、アメリカ大陸から帰国しようと
していたイギリス連合艦隊に、イギリス本国から〈帰国するな〉という電信が打たれ、
運航経費 5 万ドルが節約できる。9.3 オペレータが誤って海底ケーブルに陸上通信用の
2000V の高圧電流を流しつづけたため 、絶縁物が破壊され、2 ヵ月後通信不能に陥る。1865
年 7 月、5 回目の敷設作業を開始する。]
1858. 8.26[ 7.18]【日本】外国奉行岩瀬忠徳(ただのり)とイギリス使節インド総督エル
ジン(エルギン)との間に、日英修好通商条約と貿易章程を江戸で調印する。同行した書
記官ウィリアム・ナソウ・ジョスリンが、政府から渡された最新式のコロジオン湿板の
カメラで、日本側の武士達を撮影する。[1859.7.11[ 6.12]批准書交換。1998 年、調印時
の写真がロンドンで発見される。江戸で撮った最初の写真といわれ、ビクトリア・アン
ド・アルバート・ミュージアムに寄託される。](『朝日新聞』1998.8.25)
1858.10.13 [ 9. 7]【日本】安政の大獄が起きる。
1858.10.−【中国】アメリカ長老会の宣教師ガンブル William Gamble(?∼ 1886 )が、寧
波(ニンポウ)の印刷所華花聖経書房の第 5 代責任者として着任する。[以後、2 人の中国
人学者を雇って、おのおの 2 年の期限を限ってブリッジマン= カルバートソン訳『耶蘇(草
冠なし)基督救世主新約全書』(1859 年、寧波の長老教会印刷所刊)と 27 の中国語伝道文
書(総計 4166 頁)中の漢字の字種と出現数に関して統計調査をさせる 。1859 年、ここで、
電胎法による漢字活字母型の製作改良に成功し、1 号から 7 号までの活字を鋳造する。
1861 年、統計調査の報告書として、214 部首の各字の出現数と、頻度順 15 類のもとに配
した 2 つのリストを美華書館から発行する。これにより、ガンブルは、適切に選択され
た数千の漢字があれば十分実用に耐えること、頻用される文字の種類は極少数であるが、
書物の大部分を構成しており、他の大多数の文字は滅多に現れない、という結論を導き
出し、総計 6000 字(のち 6664 字になる)を一書体の必要字数とし、これらを常用・備え
用・少用の 3 種類の活字ケースに分類整理する。のちに、ガンブルの調査は宗教書を対
象としたため、出現頻度に偏りがあり汎用性のないことが指摘される。]
1858.11.30 [10.25]【日本】徳川家茂(慶福)が 14 代将軍になる。
1858.[10.−]【日本】福沢諭吉(24)が、築地鉄砲洲中津藩中屋敷内に蘭学の家塾を開く。
[慶応義塾の初め。1968.[4.3 ]塾を芝新銭座に移して慶応義塾と名づける。]
1858.○【日本】上野彦馬( 20)が、オランダ医官ポンペの医学伝習所に入門、舎密(せい
み)学(化学)を学び、同門の津・藤堂(とうどう)藩士、堀江鍬次郎(くわじろう)と写真研
究を始める。[1862 年、長崎において「上野撮影局」を開設する。]
1858.○【日本】木版彫刻師木村嘉平(三代房義(ふさよし))( 77)が、1848 年に薩摩藩主島
津斉彬(なりあきら)の秘命を受けて以来、 10 年間秘密裏に研究してきた結果、日本最初
- 381 -
の電胎活字母型の製作に成功し、初めて洋式鉛活字の刻字、鋳造を行う。[この年、藩主
島津斉彬が急死、後ろ盾を失った嘉平は活字作りを中断する。]
1858. ○【日本】医師杉山信(成郷)の編纂した『萬寶玉手箱』に、鉛活字について記述さ
れる。
「西洋活字の料劑」の章に、鉛活字の製法を明かす 。
〈活字は大小に随て鑄料に差
別あり。其小字料は
安質蒙 十五分 鉛
安質蒙(あんちもおん) 二十五分 鉛 七十五分 其大字料は
八十五分 西洋『アベセ』の文字中、多く用ふる字あり、少なく
用ふる字あり(略)
〉
1858.(??)○【日本】佐久間象山が、日本で初めてダニエル電池を作る。(1849 年か??)
1858. ○【日本】三瀬諸淵が、長崎留学から持ち帰った電信機の公開実験を、伊予国の大
洲常盤井の古学堂で行う。
1858. ○【日本】コレラが大流行する。幕府が、コロリ病予防と治療法を布告する。コレ
ラを題材とした錦絵が瓦版化して「悪疫絵」と呼ばれる。
1858.○【ドイツ】ボン大学の物理学者プリュッカー( 57)が、ガイスラー管を使って実験
中に、陽極の後方のガラス管が光り、陽極の影が写し出される現象を発見する。[1874
年、クルックスが、この現象は陽極から陰極に向かう粒子の流れによることを発見する。]
1858.○【フランス】写真家ナダール Nadar(本名ガスパール・フェリックス・トゥールナシ
ョン Gaspard ‐ F レ lix Tournachon )( 38 )が、パリ近郊でカメラを携えて気球に乗り、80m
の高度から町の様子を俯瞰撮影する。これを利用して地形図の作成を試みる。世界最初
の空中写真の撮影となる。
[1861 年、3 ヵ月をかけてパリの地下に発見されたカタコンベ
(地下納骨堂)の撮影を、ようやく開発されたアーク灯による人工照明で撮影する。]
1858.○【フランス】ロスダー A. Lossedat が、パリ上空で気球から空中写真を写し、パ
リ市街図の作成を試みる。[1867 年、その地図をパリ万国博覧会に出品する。]
1858.○【イタリア】バルサンティ Eugenio Barsanti とマッテウッチ Felice Matteucci が、
石炭ガスを燃料とする内燃機関を製作する。[1860 年、フランスのルノアールも原始的
な点火装置をもったガスエンジンを製作する。
]
1858.○【イギリス 】郵便馬車が廃止され、郵便物はもっぱら鉄道輸送の時代になる。1784
年に最初の郵便馬車がブリストル∼ロンドン間を走って以来、74 年の歴史を閉じる。
1858. ○【イギリス】世界一周も可能な画期的な大型船グレート・イースタン号が進水す
る。速度 14.5 ノットで、最初の外洋船として注目される 。ブルーネル(ブルネル) Isambard
Kingdom Brunel( 52 )の設計で、1852 ∼ 57 年にテムズ川で建造される。全長 211m 、幅
25.2m、排水量 2 万 7000 トン、総トン数 1 万 8915 トン、推進装置として船体中央付近の
両側に 1 対の外車、船尾にスクリュープロペラを装備しているほか、6 本のマストには
縦帆を主体とした帆装をもつ。[以後、約 50 年間、これより大きい船は出現しない。商
業的には、大西洋海底ケーブルの敷設に利用されるものの、石炭消費量が過大なため、
維持費が高くつくなど 19 世紀最大の船は失敗に終わる。1888 年、解体される。]
1858.○【イギリス】フォックス・タルボット(58)が、写真凹版の技術を完成し、グラビ
ア印刷を可能にする。[以後、イギリス特許となる。]
1858.○【イギリス】芸術写真家ヘンリー・ピーチ・ロビンソン( 28)が、5 枚のネガから合
成した少女の「臨終」を完成させる。
1858.○【アメリカ】アメリカで最初の百貨店メーシー( Macy)が開設される。
- 382 -
【流行歌】
『よさこい節』
1858. ○【アメリカ】各地の気象資料を電信によって集信し、これを天気図にしたものが
発表される。
[以後、この事業は民間人によって行われるため、あまり発展しない。
]
1858.○【アメリカ 】フィラデルフィアの L.リップマン(一説にハイマン・リップマン)が、
鉛筆の頭に消しゴムをつけた「消しゴム付鉛筆」の特許をとる。
1859(安政6)
1859. 4.25【エジプト】スエズ運河会社の最高責任者で同運河の考案者フランス人レセッ
プス(54)が、地中海側の地点(のち、ポートサイド)でオスマン朝の皇帝の正式許可が下
りないまま起工式を行い、スエズ運河建設の開始を宣言する。「 1969 年、完成する。
]
1859. 5.31【イギリス】1834 年焼失したウェストミンスター宮殿が、「ウェストミンスタ
ー新宮殿」
として 1840 年に起工 、
完工に先立ち時計塔が完成し、
動き始める。
高さ約 100m 、
内部の大時鐘は直径 2.8m、重さ 13.5t。大男の工事責任者ホール Benjamin Hall の愛称を
とって「ビッグ・ベン( Big Ben) 」と名付けられる。
[1860 年、新宮殿の主要部分が完成。
ビッグ・ベンはグリニッジ天文台と連結しているため時間が正確ということでロンドンの
名物となり、市民や観光客に親しまれる。1946 年、ムクドリの群れが原因で 5 分遅れる
事故が起こり、話題となる。
]
1859. 6.17[ 5.17 ]【日本】1850 年に江戸からの帰途海難にあい、漂流中をアメリカ船に
救われアメリカに渡った浜田彦蔵(彦太郎)(22)が、アメリカに帰化してジョセフ・ヒコ
Joseph Heco と名乗り、神奈川アメリカ領事館通訳として 9 年ぶりに長崎に帰着する。
[以
後、日米通商交渉、遣米使節の派遣など外交交渉で活躍する。
]
1859. 6.26 [ 5.26]【日本】初代イギリス駐日総領事オールコック Rutherford Alcock(50)が
江戸に着任する。高輪東禅寺居館をとする。[11 月、駐日公使に昇格する。]
1859. 6.27[ 5.27]【日本】ハリス Townsend Harris(55)が、アメリカ駐日弁理公使に昇格
したことを幕府に通告する。江戸麻布善福寺を仮公使館とする。
1859. 6.28[ 5.28 ]【日本】幕府が、神奈川、長崎、函館の 6 月開港と、ロシア、フラン
ス、イギリス 、オランダ 、アメリカ 5 ヵ国との自由貿易を許可すると布告する。幕府 300
年の鎖国を解禁する 。
[1963 年、通商産業省が 6 月 28 日を「貿易記念日」と定め、企業
による輸出振興と、国民に輸出の大切さをアピールする。
]
1859. 7. 1[ 6. 2 ]【日本】幕府が、貿易許可の神奈川・長崎・函館の 3 開港場で、江戸図
面、官服、法制書籍、武鑑類、兵学書類、甲冑、刀剣を外国人に売ることを禁止する。
1859. 7 . 1 [ 6. 2]【日本】日米修好通商条約の締結により、それまでの下田、箱館(のち、
函館)のほか、神奈川(のち、横浜)と長崎の港が開港する。神奈川港は洲干島(すかんじ
ま)(山手丘陵から続く砂嘴(さし))の北西端の横浜村に設けられる。横浜は小さな漁村
だが 、近年外国人居留地に商館などが次々と建ち並び、港町として急速に発展してきた。
幕府は、村の中央に運上所(うんじょうしょ)、北の海岸に波止場 2 ヵ所をつくり、東波
止場を外国貿易用、
西波止場を内国貿易用とする。
[以後、
港町として急速に発展する。
1860
年、横浜港は輸出額 320 万円、輸入額 300 万円となり、それらの全国比は輸出 86 %、輸
入 71 %で、日本の貿易に独占的地位を占める。1869 年、東京へ都が移されるにともな
い、横浜港はその外港とされる。のちに 6 月 2 日が「横浜開港記念日」
、
「長崎港記念日」
- 383 -
とされる。1872.11.28
運上所が「税関」と改称される。1917 年、横浜開港 50 周年記念
事業として、開港記念横浜会館が、市民の寄付金により創建される。1920 年、横浜で開
港記念バザールが開かれる。1945.9 開港記念横浜会館が、アメリカ軍によって接収され
る。1958 年、返還され、公会堂として復旧する。1960 年、横浜市開港記念会館として開
館する。1981 年、横浜開港資料館が、旧イギリス領事館跡に開館する。]
1859.8.20【アメリカ】気球ジュピターが 、手紙をニューヨークに配達する。封筒には〈via
Ballon Jupiter〉という文字と共に〈1858〉と数字が記されてあることから、投函された
のは 1858 年だったと推定される。現存する世界最古の Air Mail とされる。(Donald B.
Holmes『AirMail 』による。)
1859. 8.28【アメリカ】ペンシルヴェニア州のロックオイル会社のエドウィン・ドレーク
(40)が、タイタスヴィル付近で地中に打ち込んだパイプによるドリル法で石油層を掘り
当てて、世界で初めて機械掘りによる石油の汲み出しに成功する。[以後、地下 21m か
ら日産 25 バレルの原油を汲み出す。石油ラッシュが起こり、近代石油産業が始まる。
]
1859. 秋 【日本】中浜万次郎( 32)が、日本最初のアメリカ語会話書『英米対話捷径』を
作る。ポケット版で、〈安政巳未晩秋 知彼堂蔵版〉とある。『ABCの歌』が入ってお
り、この歌を初めて日本に伝える 。会話では 、
〈Good day Sir(善き日で ござる) 〉
〈Iamvery
well(わたしハ はなはた こころよひ)〉などと書く。
1859.11.30 【イギリス】博物学者ダーウィン Charles Robert Darwin ( 50)が、
『自然淘汰の
方途による種の起源(On the Origin of Species byMeans of Natural Selection or the
Preservation of Favoured Races inthe Struggle for Life)』をジョン・マレー社から出版する。
自然選択と生存闘争とは適者生存に導き、有利な変異が蓄積されると、新種が形成され
ると論じ、進化論を裏付ける。初版 1250 部はあっという間に売り切れる。
[以後、ダー
ウィンの進化論に対して、熱心なキリスト教信者や教会から強い非難の声があがる 。
]
(?? NHK「今日は何の日」(2000.11.24 放送)は「11 月 24 日という。★ NHK は〈異説
あり、どれが正しいか不明で、今後削除する〉という。2003 年∼ 2005 年現在 NHK はま
だ削除しない。)
1859.[10.27]【日本】幕府が、吉田松陰( 30 )に死罪を、その他多くの者に処罰を申し渡す 。
1859.[12. −]【日本】長崎奉行所の活字判摺立所で、塩田幸八を出版名義にして『和英商
賈(しょうこ)対話集』を刊行する。アルファベット、ローマ数字、片仮名の振仮名の部
分に鋳造活字、対訳部分の漢字・片仮名の部分に整版が用いられ、別個に活版、整版の
順に 2 度刷りされる。したがって、見当がはずれて活字部分に対訳部分の重ね摺りがあ
るのが認められる。
1859. ○【日本】ロシア領事館医師アルブレヒトが、函館で初めて気温の観測を行い、日
本で最初の気象観測を実施する。
[以後、約 2 年間継続する。1864 年、イギリス人 T.W.
ブラキストンが引き継ぎ、降雨・降雪記録をとり始める。1868 年、ブラキストンが、気
圧、気温の観測を始め、4 年余観測を続ける。
]
1859. ○【日本】この頃(昨年から今年にかけて)
、洋灯として石油ランプがアメリカから
渡来する。越後長岡の人が、神奈川(横浜)の外国商人からランプを購入して帰り、点火
する。
1859.○【日本】蘭学者川本幸民(かわもとこうみん)(49)が、『遠西奇器述第二輯』を訳
- 384 -
述する。巻頭に「電氣模造機ガルハノプラスチーキ」と題して、電胎法の文献を紹介す
る。電気分解を利用して活字母型を製作し、金属(鉛)活字をつくる技術が認識される。
1859.○【中国】アメリカ長老会の宣教師ガンブル Wlliam Gamble(?∼ 1886 )が、寧波(ニ
ンポウ)の美華書館(旧華花聖経書房)で 、
電胎法による漢字活字母型の製作改良に成功し、
1 号から 7 号までの活字を鋳造する。[ 1861 年(1860 年 12 月?)、上海・北京路 18 号に
移る。]
1859.○【フランス】プランテ Gaston Plant □( 25)が、実用的な二次電池である「鉛蓄電
池」を発明する。正極に過酸化鉛、負極に海綿状鉛、電解液に希硫酸を用いる。起電力
はおおよそ 2.1 ボルトで、水溶液を電解液とする実用蓄電池のなかでもっとも高い電圧
を示す。起電反応に電解液の希硫酸が関与するので、充放電時に電解液の比重(濃度)
が変わり、寿命や取扱いなどに若干の難点がある。[以後、鉛蓄電池は安定した性能をも
ち、安価なので、永く蓄電池の主流をなす。]
1859.○【フランス】E. A. コッシュが、コロジオン湿板を使用したマホガニーのケース
入りの立体カメラを作る。両眼の間隔ほどに離して置かれた 2 本のレンズと 2 枚の印画
紙を持って 2 枚の写真を同時に撮影し、プリントされた 2 枚の写真をそれぞれ左右の目
で見るという両眼視差式による。
1859.○【フランス】ド・オーロン Louis Ducos de Hauron()( 22)が、天然色写真法を考案
し、天然色乾板を作る。
1859. ○【ドイツ】ベルリンの印刷工バイエルハウスが、ルグランの分合活字の原理に基
づいた中間サイズの漢字フォントの開発をニューヨークの長老会伝道部に提案して、永
い年月を費やしたのち完成する。『
( 印刷史研究』2 号、1996.6 )
1859.○【ドイツ】物理学者キルヒホフ Gustav Robert Kirchhoff(35)が、熱平衡状態にあ
る物質が放出する放射エネルギーと吸収能の比が、物質の種類とは無関係に、波長と温
度によって規定されるという、黒体放射法則を発見する。赤外線や可視光線などの電磁
波エネルギーを完全に吸収する容器として「完全黒体」を考え、それを加熱したときに
容器から放射される電磁波エネルギーの分布状態を示す法則である。[ 1860 年、発表す
る。]
1859.○【ドイツ】数学者・物理学者プリュッカー Julius Plu () cker(58)が、電圧をかけた
放電管の内部の真空度を高めると放電光が消え、目に見えない線が陰極から陽極に流れ
ることを発見する。[1876 年、ゴルトシュタインが「陰極線」と名付ける。1895 年、イ
ギリスのトムソンが、陰極線は電子の流れであることを確認する。]
1859.○【イギリス】詩人 E. フィッツジェラルド(50)が、11 ∼ 12 世紀のペルシアのウマ
ル・ハイヤームの押韻四行詩集『ルバーイヤート rub ´‘iy ´ t』を英語に翻訳する。ル
バーイヤートは、四行詩ルバーイー rub ´‘ の複数形で「四行詩集」を意味する。他
の詩人がこの詩形で神秘主義思想を表現したのに対して、ウマル・ハイヤームは、運命、
酒、美女などをよんだ 。
[以後、世界的に有名になり、各種四行詩集ルバーイヤートの
代表的詩人になる。1979 年、イラン革命でこの詩集は反イスラム的とされ発禁となる。
2000.5.17 自由化政策の象徴として、テヘランでルバーイヤートに関する国際セミナーが
開催される。
]
1859. ○【イギリス】ホイートストンが、紙テープにモールス符号の孔をあける装置を考
- 385 -
案する。
1859.○【カナダ】ブルーネル(ブルネル) Isambard Kingdom Brunel( 53)が、圧搾空気潜函
(せんかん)工法を利用してロイヤル・アルバート橋を完成する。
1859.○【カナダ】1854 年に着工したモントリオールのセント・ローレンス川の大ビクト
リア橋が開通する。イギリスのスティーブンソン Robert Stephenson( 56 )が建設の指導に
当たる。[以後、長らく世界最長の橋となる。]
1860(安政7、万延1)
1860. 2. 4[ 1.13 ]【日本】幕府の軍艦咸臨丸が、遣米使節迎艦ポーハタン号の護衛艦とし
て軍艦奉行木村摂津守喜毅(よしたけ)(芥舟(かいしゅう))(30)、勝麟太郎(海舟)(37 )、
通訳中浜万次郎(33 )ら日本人 96 人、大尉ジョン・ブルックらアメリカ人クルー 11 人が乗
り組み、品川を出航する。[ 2.10[1.19 ] 浦賀発。3.17[2.25] 日本軍艦として初めて太平洋
を横断してサンフランシスコに到着。3.18[2.26] 入港し、大歓迎を受ける。新聞記者団
に囲まれたブルックは、日本人の航海技術を賞賛する。宴会の食事ののちスピーチが行
われ、日本人が最初にスピーチに出会う。以後、遣米使節一行が、近代郵便・電信施設
などを見学する。]
1860.3.24[ 3. 3]【日本】桜田門外の変が起こる。
1860. 4. 3 【アメリカ】郵便配達業ポニー・エクスプレス(Pony Express)が、顧客の品物を
早馬のリレー式で「10 日間以内」に配達するという営業を開始する。[ 4.13 ミズーリ州
セントジョセフ∼カリフォルニア州サンフランシスコ間を 10 日間で運ぶ。]
1860. [ 4.−]【日本】横浜大田新田に、外国人客を主とする遊郭「岩亀楼」などができ
る。
1860. [ 5. 6]【日本】 中浜万次郎(33)がアメリカで習得した航海術の技量を発揮し、嵐
に翻弄される船を操るなどして、日本人の手による自力航行により、ホノルル経由で品
川に帰着する。万次郎は、アメリカから書籍、写真機、ミシンを持ち帰る。ミシンは日
本最初のものとなる。写真機は、すでにオランダ経由で長崎には入っていたが、江戸に
はまだなかたため、写真を撮って欲しいと望む人がたくさん訪れ、万次郎は自らガラス
板に溶剤を塗り、現像液の調合までして、多忙になる。
1860. 7.−【日本】イギリスが、横浜に郵便局を設置する。本国やインドなどとの通信を
開始する。また、英仏郵便交換条約に基づき、香港経由でフランス宛ての郵便物の取扱
いも開始する。
1860.10. 2[ 8.18]【日本】天皇が、条約破棄または攘夷実行を条件に、和宮の降嫁勅許
を幕府に内達する。
1860.[ 9.29]【日本】新吉原が全焼する。紀の字屋六太郎の抱え遊女初梅( 30)と客の屋根
職人常吉(17)の共謀による放火という。
1860.[10. −]【日本】長崎奉行所の活字判摺立所で、増永文治・内田作五郎を発行人にし
て『蕃語小引』を刊行する。本木昌造(36)としては、まだ満足な体裁でないが、初めて
和欧文が完全に鋳造活字、活版で組み上げられる。[この年、昌造は長崎製鉄所御用掛と
なる。1861 年、昌造の海運の急務なるという進言が受諾され、イギリスから蒸気船チャ
ールズ号、ヴィクトリア号の 2 隻を購入、自ら艦長となり、長崎∼大坂∼江戸間を航海
- 386 -
する。]
1860.11.6【アメリカ】共和党のリンカーン Abraham Lincoln( 51)が、合衆国第 16 代大統
領に選ばれる。聖書の一部を引用するなど、さまざまなレトリックを用いた演説は、電
信によって全国各地にほぼ同時に伝えられ、市民の感動を呼ぶ。
1860.12. 5【日本】ヒュースケンが暗殺される。
1860.12.20 【アメリカ】サウスカロライナ州が、共和党候補の大統領当選に反発して、連
邦脱退を宣言する。南部諸州の連邦分離の合図になる。[ 1861.4 南部連合軍がサムター
要塞を攻撃し、南北戦争の発火点となる。]
1860.12. −【中国】寧波(ニンポウ)のアメリカ長老会の旧印刷所「華花聖経書房」が、ガ
ンブルの提案により、将来有望な商業と伝道活動の中心地になると思われる上海へ再度
移転、虹口(ホンキュウ)地区に初めて美華書館を名乗る。[のち、少東門外十六舗に移
る。1875 年、北京路 18 号に移る。1902 ∼ 3 年 、北四川路に印刷工場と付属施設を新築、
北京路 18 号の建物を編集発行所と倉庫に当てる。
]
1860. ○【日本】猿若町の三座(芝居)が焼失する。
1860. ○【日本】プロシア使節が、石版印刷機、指示電信機などを幕府に献上する。
1860.○【日本】大鳥圭介(おおとりけいすけ)( 27)が、小銃弾を方形に改鋳してその一端
に文字を彫り、四号大の錫製の漢字・片仮名の活字を仕立て上げる。これを用いて、バ
レン刷りで蘭兵書『築城典刑』などを出版する。
1860. ○【日本】長崎海軍伝習所医官ポンペのもとで修学していた松本良順(まつもとり
ょうじゅん、順)(28)が、日本で初めて梅毒検査を実施する。長崎奉行が滞在中のロシア
兵に花柳の遊びを斡旋したところ、ロ側が梅毒の伝染を恐れ、娼妓たちの検梅をしてほ
しいと要請したために行われる。[この時点では、丸山町、寄合町の遊郭の者は対象では
ない。]
1860.○【ドイツ】ライス Johann Philipp Reis( 26)が、人工鼓膜を張った紙筒を電線の末
端に装着し、この膜に接した針が磁気効果に応じて振動し、かすかに声を伝達する装置
を作る。これにギリシア語で「Telephon (遠い声)」と名付ける。
1860. ○【フランス】ポアラバンが、コロタイプ法による写真製版法を発明する。
1860. ○【フランス】この頃、紙型鉛版法が発明され、完全な丸版ができるようになり、
マリノニ社によって巻取紙に印刷する輪転機が完成される。
1860.○【フランス】エチエンヌ・ルノアールが、原始的な点火装置をもった 2 サイクル
複動式ガスエンジンを製作する。
[1863 年、ルノアールは液体燃料(ガソリン)で回転す
るエンジンを馬車に積み、試走に成功する。
]
1860. ○【イギリス】ロンドンで幻灯装置などを使ってショーを行ってきたアルバート・
スミスが 、「小さなカスパー」というショーを公演する。三角帽子をかぶったカスパー
の冒険する姿を黒い影絵で描き、白い布にその姿を映し出すもので、時には 6 つの場面
を一つの大きな白布に同時に投影して見せる。
1860.○【イギリス】スワン Joseph Wilson Swan (32)が、木綿糸を炭化して炭素線を作り、
炭素線電球を作る。高真空を得ることができないので、電球の寿命は極めて短い。[1878
年、再度電球作りに挑戦する。]
1860.○【イギリス】ロンドンの売春婦が、30 万人に増加したと推計される。
- 387 -
1860. 【本】黙阿弥『三人吉三廓初買』
1861(万延2、文久1)
1861. 1. 9【アメリカ】前年の選挙でリンカンが大統領に選ばれたことに反発し、奴隷制
を維持する南部のミシシッピ州が連邦を脱退する。[続いてフロリダ、アラバマ、ジョー
ジア、ルイジアナ、テキサスが連邦を脱退。2.4、サウスカロナイナを含む7州は南部連
合を結成する。]
1861. 4.12【アメリカ】南部連合のピエール・ボウレガード将軍がサムター要塞を砲撃し
て、南北戦争が始まる。電信のオペレータの多くが徴兵されたので、代わって女性オペ
レータがモールス信号の送受信を受け持つようになる。[以後、1865 年 4 月まで、南北
戦争の間に、連邦政府軍は各地に総計 2 万 4000km にのぼる電信線を架設し、軍用に使
用する。]
1861. 5.17【イギリス】トマス・クック Thomas Cook (43)が企画し、手配した一般向けの
費用一切込み休日旅行( package holiday)により、聖霊降臨節(Whitsuntide )労働者観光旅行
団が、ロンドンのブリッジ駅からパリへ向け旅立つ。旅行の日数は 6 日間、総費用は 46
シリングで、世界初のパック旅行(パッケージツアー(package tour ))となる。[以後、様
々なパックが組まれ、団体旅行が日常化する。のち、5 月 17 日を「パック旅行の日」と
される。]
1861. 6.22 [5.15]【日本】イギリス人ハンサード A. W.Hansard が、長崎で在住の外国人
のために英字新聞『The Nagasaki Shipping List and Advertiser (ナガサキ・シッピング・リス
ト・アンド・アドバタイザー)』を創刊する。第 1 面を広告ページとし、日本最初の欧字新
聞であり、また新聞広告の初めとなる。〈ボウリング場が出島に開設される〉との記事
も掲載される。
[以後、週 2 回刊行する 。
[8.27 ]28 号で終刊。[10.21]横浜に移ったハ
ンサードが、週刊紙『The Japan Herald』を創刊する。1863 年、邦字新聞の『横浜新聞』
が、翻訳紹介のかたちで邦字紙として初めて広告を掲載する。日本ボウリング協会が、
この日の記事に因み、6 月 22 日を「ボウリングの日」と定める。
]
1861. 7. 5 [ 5.28 ]【日本】水戸藩浪士有賀半弥らが、江戸品川東禅寺のイギリス公使館を
襲い、館員を負傷させる。第1次東禅寺事件が起こる。[ 1862.3.16[ 2.16 ] 賠償金を支払
う。]
1861. 9.20[ 8.16]【日本】長崎に、日本における初の西洋式病院、養生所と医学所が、
オランダの海軍軍医ポンペ Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort( 32)の建議
に基づき建てられ、開院式が行われる。[のち、長崎大学医学部の原点ともなる。]
1861. 9.29[ 8.25]【日本】幕府が、横浜に英学校(洋学校・語学所)と漢学所(修文館)を
設立する。
1861.11.23 [11.21]【日本】長崎から横浜に移ったイギリス人ハンサード A. W. Hansard が 、
週刊紙『The Japan Herald (ジャパン・ヘラルド)』を創刊する。イギリス人ブラック John
Reddie Black( 34 )が主筆となる。ブラックは、スコットランド生まれの海軍士官であった
が、
オーストラリアで商業に従事し、
帰国の途次来日 、
そのまま日本に定住していた。
[1867
年、ブラックは横浜の『ジャパン・ガゼット』に移り主筆を務める。そのかたわら 1870
年に、月 2 回刊の絵入り英文雑誌『ファー・イースト(The Far East)』を創刊し、好評を
- 388 -
得て 1876 年まで発行を続ける。1872.3.17 日本語新聞『日新真事誌』を刊行する。1880
年死去。1915.9 『The Japan Herald』終刊。]
1861.○【日本】蘭学者川本幸民(かわもとこうみん)( 51)が、湿式写真を開発し、写真を
撮影する。
1861. ○【日本】鵜飼玉川(うかいぎょくせん)が、江戸の日本橋(のち、中央区東日本橋
付近)で、日本最初の写真館「影真堂」を開いている。アメリカ人から写真術を習い、日
本人初の職業写真家とされる。[のち、研究によって、鵜飼は、日本写真の開祖といわれ
る長崎の上野彦馬と横浜の下岡蓮杖の開業より 1 年早い文久元年には、
「影真堂」を開い
ていたとされる。2002 年、鵜飼玉川の名入りの湿板写真が初めて長野県内で見つかる。
2002.10.5 東京で開かれた洋学史研究会で発表される。]
1861.○【日本】ドイツのジーメンス製電信機が紹介される。[ 1887 年、ジーメンス東京
事務所が開設される。]
1861. ○【日本】江戸町奉行が、神田辺の私娼数百人を捕え牢に入れる。
1861. ○【日本】麹町に虎の見世物が出る。
1861. ○【日本】江戸市中、物価騰貴し、貧民へ救米が施される。
1861.○【中国】寧波(ニンポウ)の美華書館(旧華花聖経書房)が、上海・北京路 18 号に
移る。[アメリカ長老会の宣教師ガンブル Wlliam Gamble が電胎法で製作した 1 号から 7
号までの漢字活字を使って、ブラウン『日本口語対話篇』
、ヘボン『和英語林集成』(い
わゆる「薩摩辞書」を印刷する。]
1861.○【オーストラリア】シドニーで、路面電車が営業を開始する 。
[1961 年、資金不
足などにより、廃止する。1997.8.11 民営に委託して復活させる。
]
1861.○【ドイツ】ライス JohannPhillipReis( 27 )が、電話の実験を行う。
1861. ○【ドイツ】グスタフ・シュミットが、圧縮効果を発見する。
1861. ○【フランス】世界初の切手カタログが発行される。[以後、ヨーロッパ各国とア
メリカでもさまざまな切手カタログが登場する。]
1861.○【フランス】写真家ナダール Nadar( 41 )が、パリの地下に発見されたカタコンベ(地
下納骨堂)の撮影を、この頃開発されたアーク灯による人工照明により、3 ヵ月かけて撮
影する。
1861.○【フランス】ピエール・ミショウ Pierre Michaux(48)とその息子エルネスト Ernest
Michaux (12)が 、前輪にペダル・クランクを装着した二輪車「ベロシペード」を考案する 。
のちの自転車の原型となる。[ 1863 年、パリの世界博覧会に出品する。1865 年、ミショ
ー・カンパニーを設立し、二輪車「ベロシペード」の生産台数を 400 台に伸ばす。]
1861. ○【イギリス】世界で初めて郵便貯金制度が、実施される 。
[以後、ニュージーラ
ンド。ベルギーで実施される。1875 年 5 月 2 日、世界で 4 番目に日本で実施される。
]
1861. ○【イギリス】イギリス最初の馬車鉄道が、ロンドンに登場する。
1861. ○【イギリス】議会が、レッド・フラッグ・アクト(赤旗法)(正式名ロコモティブ・オ
ン・ハイウェー・アクト)を制定する。スチームコーチ(蒸気馬車)の普及で経営危機に陥っ
た馬車業者や馬匹供給業者が議会に働きかけたため成立したもので、〈いかなるロード・
ロコモティブ(初期の蒸気自動車の呼び名)も、3 人で運行し、うち 1 人は 60m 先を昼間
は赤旗、夜間は赤ランプを持って走ること、速度は町中で時速 3.2km 以下 、郊外では 6.4km
- 389 -
以下とする〉という、スチームコーチ運営業者にとっては極めて過酷なものである 。[1865
年、全面的に施行する。以後、国内でスチームコーチの発達が止まる。1896 年、撤廃す
る。この間、ヨーロッパ大陸やアメリカでは蒸気車はどんどん進歩していく。]
1861.○【イギリス】フィッツ・ロイ R. Fitz Roy が、初めて暴風警報を出す。この頃、高
層の気象に関する研究も始まる。
1861.○【イギリス】この頃、マクスウェル James Clerk Maxwell(30)が、感光乳剤を上塗
りした感光板の加色処理を利用し 、最初のカラー写真の再現に成功 、青紫(B)、緑(G)、
赤(R)の 3 色だけで色が再現的に合成されることを実証する。また、 電気技術が飛躍的
に成長する時期に、電磁気に関する統一的な理論を考察する。[ 1861 ∼ 62 年 、
「物理学
的力線について」を発表する。1894 年、ヘルムホルツが、色覚に関する三原色説を唱え
る。]
1861.○【アメリカ】ガードナー Alexander Gardner(40)が、南北戦争の勃発に伴い、写真
家ブラディ指揮の従軍写真班に参加し、北軍側の記録写真を撮影する。[ 1866 年に『ガ
ードナーの戦争写真スケッチ集』をまとめて公刊する。]
1861.○【アメリカ】ウエスタン・ユニオン社(WU)が、従来のニューヨーク∼セントジョ
セフ間の電信線を、さらにロッキー山脈、シェラネバダ山脈を越えてサンフランシスコ
まで延ばし、ニューヨーク∼サンフランシスコ間の北米大陸横断電信線約 6000km の架
設工事を完成し、運用を開始する。これまで、セントジョセフからは小型郵便馬車「ポ
ニー・エクスプレス」でサンフランシスコまで約 3200km を、40 人の騎手が各所で手分け
して、1 人が昼夜を分けずに約 80km を 13 ∼ 24km ごとに馬を乗り継いで走り、8 日間か
けて郵便物を輸送していた。
1861.○【アメリカ】アイダ・I・メンケンが、バーレスクでデビューし、一躍人気者にな
る。
1861. 【本】
『祝町遊里絵図』
1862(文久2)
1862. 1. 1 [12. 2]【日本】幕府が、長崎のオランダ商館が献上したジャワ・バタビア(ジ
ャカルタ)のオランダ総督府機関紙『ヤファンシェ・クーラント(Javaansche Courant)』を
洋書調所(蕃書調所を改称、のち、開成所)が抄訳したものを、御用書肆、本所竪川三之
橋の老皀(ろうそう)館に 、
『官板 バタヒヤ新聞』巻一と題して出版させる。内容は『ヤ
ファンシェ・クーラント』の国別情報欄の 1861 年の 8 ∼ 11 月分の抄訳で、洋書商の萬屋
兵四郎方から印刷・発売する。最初の木活字による活版印刷により、半紙二つ折り数枚
を 1 冊とする書籍形で、日本最初の新聞となる。[2 月、巻二刊。8 月 、
『官板 海外新聞』
と改題して 1862 年 1 月分の翻訳を原本として巻三を出版。9 月、巻四が出版される。以
後、巻二十三まで刊行される。幕府の手による外国新聞の翻訳出版事業は、文久 2 年度
のみで中止される。この他にも続々と海外の新聞が翻訳され発行される。
]
1862. 1.12[ 12.13 ]【日本】パリ外国宣教会のジラールが、横浜に日本初のキリスト教会
「横浜天主堂」を建設し、献堂式を挙行する。一般に公開する。
1862. 1.22 [12.23]【日本】幕府遣欧使節竹内保徳ら団員 40 人が、兵庫・大坂などの開港
開市延期交渉のためイギリス政府提供の蒸気帆走軍艦オーディン号で品川を出帆する。
- 390 -
[以後、足掛け 73 日目にマルセーユに着く。この間、スエズ・カイロ・アレキサンドリ
ア間を初めて汽車旅行した一行は、時速約 50km のスピードに驚嘆し、〈駿足飛鳥ヨリ疾
シ〉と記す。マルセーユに上陸。4.7 ∼ 4.29 パリに 20 日間滞在する。この間福澤諭吉は、
パリのオペラ座近くのフォルタン文具店で黒革の手帳を購入する。手帳のサイズは縦約
17cm、横約 7cm の細長タイプで、黒革の表紙には小口に鉛筆挿しがついており、中は無
罫の白紙 82 枚で構成される。以後、イギリス、オランダ、プロシャのベルリン、ロシア
のサンクトペテルブルグ、ポルトガルなどを歴訪する。一行は、電信と近代郵便を実体
験する。通訳として同行した福澤諭吉(29)は、ロシアのサンクトペテルブルグに滞在中
に、8 月 25 日、福澤ほか 6 人が帝室図書館を訪れ 、
『グーテンベルク聖書』を見る。福
澤は、手帳に〈1440 獨逸にて出板/ラテン語の書此を/欧州第一の板本/なりと〉と記
入する 。
(宮永孝『文久二年のヨーロッパ報告』新潮選書、1989、石井寛治、1994 、高宮
利行『グーテンベルクの謎』1998 )1984 年、福澤諭吉生誕 150 年に、(社)福澤諭吉協会
が、黒革の手帳の復刻版を製作する。]
1862.2.13 [ 1.15]【日本】坂下の門の変が起きる。
1862. 春【日本】この頃、イギリスのジャーナリスト・漫画家のワーグマン Charles
Wirgman(28 ?)が、日本における最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ( The Japan Punch )』
を創刊する。
[∼ 1987 年、終刊 。
]
1862. 春【日本】アメリカ人ショイアーが、横浜で週刊紙『The Japan Express』を創刊
する 。
[以後、短期間で廃刊 。
]
1862. 春【日本】狩野派の画家下岡蓮杖( 39 )が、ハリス滞在中、通訳ヒュースケンに写
真術を学び、使用人の女を裸にして撮影し、奉行所に訴えられる 。〔おそらく日本での
ヘアヌード写真の第一号とされる 。
〕ついで横浜でアメリカの写真家ウンシンから湿板
写真法を習得し、横浜・野毛(のげ)に日本最初の営業写真館を開設する 。
[以後、上野
彦馬とともに、日本写真草創期の代表的写真師となる。開業当初は、〈写真をとると短
命になる〉とか〈早く死ぬ 〉という噂が広まり、客のほとんどが外国人となる 。1863 年 、
横浜・弁天通りへ進出。また門人多数を育成し、営業写真家の先駆者として、後世に多
くの影響を残す。]
1862. 5. 1 【イギリス】第 4 回、イギリスでは 2 回目の万国博覧会が、ロンドンで開催さ
れる。ゴム製品が初めて登場する。教育部門の展示、美術展示が加わり、万国博覧会に
対するイメージを改める。日本が出品した絹製品や浮世絵、磁器や漆器、骨董などが評
判を呼ぶ。
1862. 6.30 【フランス】ユゴー( 60 )の『レ・ミゼラブル』が出版される。この作品は 30 万
フランという大金で出版社に売られていた 。
[以後、大反響を呼び、大ベストセラーに
なる。ユゴーは亡命先から本の売れ行きを訊くため手紙に「?」と書いて出すと、版元か
らは「!」と返事が来る。世界一短い手紙といわれる。6 年間で 52 万フランの利益を版
元にもたらす。
]
1862. 7. 1【アメリカ】連邦議会が、大陸横断鉄道建設を促進させる太平洋鉄道法を成立
させる。大統領リンカンが、パシフィック鉄道法に調印をして、ユニオン・パシフィック
鉄道とセントラル・パシフィック鉄道の両社に鉄道建設を許可する。これは、カリフォル
ニア州のサクラメントとミズリー川を結ぶ鉄道の建設と操業に、認可を与えるもので、
- 391 -
最初の大陸横断鉄道となる 。
[以後、ユニオン・パシフィック鉄道がネブラスカ州オマハ
を起点として東方からアイルランド人労働者を、セントラル・パシフィック鉄道カリフォ
ルニア州サクラメントを起点として西方から中国人労働者を雇い入れて、互いに競争し
て鉄道延長工事を急ぐ。1869.5.10 ユタ州のプロモントリー・ポイントで、まくら木に金
の大くぎが打ち込まれ、東西からの線路が接続し、全長 2800km の大陸横断鉄道が全通
する 。
]
1862. 夏 【アメリカ】南北戦争のさなかに、北軍が南軍の陣地を空中写真で撮影する。
1862. 9.14 [ 8.21 ]【日本】生麦事件が起きる。島津久光が帰国の途中、藩士奈良原喜左衛
門がイギリス人 4 人を殺傷する。
1862. 8.−【アメリカ】郵政長官ブレアが、共通の基礎に立つ国際郵便条約の締結を目指
し、国際会議の開催を提唱する。
1862. 9.−[ 8.−]【日本】
『官板(かんぱん)バタヒヤ新聞』が『官板 海外新聞』に改題。
[以後、巻二十三まで刊行される。]
1862. 9.−[ 8.−]【日本】薩摩藩が、蒸気船永平丸を 13 万ドルでイギリス商社から購入
する。300 馬力、447 トン。[[閏 8.23]島津久光が京を発つ。[8.29]大坂から永平丸に乗
り、[ 9.4]に早くも鹿児島西海岸の阿久根に上陸し、[ 9.7]鹿児島城下に帰還する。大久保
利通はこのときの航海について、〈順風ニ而神速如射〉と日記に書く。1863[ 1.−]永平丸
は大坂を出て明石海峡にさしかかったところで座礁・沈没し、乗っていた大久保らは危
うく溺死しそうになる。]
1862. 9.−【イギリス】世界初の地下鉄が、ロンドンに着工してから 8 年間を経てほぼ完
成し、試乗会が行われる。(『ロンドン年代記』下巻 p.125 に図あり。)[1862.1.10 正式
開通する。]
1862.11. 2[ 9.11 ]【日本】幕府最初の海外留学生として派遣される築地軍艦繰練所教授榎
本釜次郎(のち、武揚)(26)、津田真道(33)、西周( 33)ら 11 人が、長崎を出港、オランダ
に向かう。それぞれ航海術、砲術、造船術、国際法などを学ぶためだが、ちょんまげ、
羽織・袴姿で、菅笠、頭巾、提灯などを持参し、幕府からは西洋風の宗教、服装などに
染まらぬよう注意を受ける。[ 1863.6.4[ 4.18 ]到着。以後、榎本はロッテルダムで幕府が 40
万ドルを投じて発注した蒸気軍艦開陽丸の製造を監督する。そのかたわら、自らジニエ
ー社製モールス電信機を購入、下宿の部屋で独り操作方法の習得に励む。1867.3 開陽丸
(排水量 2730t、走力 9 ノット)が完成。5 月、帰国。]
1862.11.12 [ 9.21 ]【日本】朝議で、攘夷を決定し、幕府に攘夷勅使を伝達することとす
る。
[[10.28]勅使が江戸に着く。]
1862. [10. −]【日本】横浜の馬場で、在留外国人により日本最初の洋式競馬が行われる 。
1862. [ 11.−]【日本】上野彦馬彦(24)が、カメラ、レンズ、薬品を苦心のすえすべて自
製し、長崎において「上野撮影局」を開設する。彦馬の写真術はダゲレオタイプより進
歩したコロディオン法(湿潤印画法)で、開業後大いに繁盛する。[ 1874 年、金星太陽
面通過の観測写真を撮影する。]
1862. ○【日本】隅田川花見に、武士の狼藉者が多く出る。
1862. ○【日本】黙阿弥『勧善懲悪覗機関』
1862. ○【日本】この頃、鳥料理の小林平八が、アメリカ領事ハリスの通訳ヒュースケン
- 392 -
に雇われたといわれる。日本人最初のコックといわれる。[のち、明治になって彼は横浜
で西洋料理店「西洋亭」を開業する。]
1862.○【日本 】蕃書調所翻訳方の掘達之助らが 、
『英和対訳袖珍辞書』をつくる。[以後 、
「開成所辞書」という通称で、版を重ねる。和紙を用いた版が厚いので 、
「枕辞書」と
呼ばれる。]
1862. ○【ロシア】モスクワのルミャンツェフ博物館の中に、モスクワ初の無料で利用で
きる公共図書館が設置される。[1925 年、レーニン名称ソビエト連邦国立図書館(レーニ
ン図書館)に改称。1992 年 、ロシア国立図書館(RSL)に改称。ルミャンツェフ博物館は SRL
旧館となる。]
1862.○【フランス 】ガンジー島に亡命中のユゴー Victor Marie Hugo ( 60)が、社会小説『レ
・ミゼラブル(Les Mis ロ rables)』を完成し、ブリュッセルとパリで同時出版される。ユゴ
ーが売れ行きを心配してはがきに「? 」とだけ書いてパリの書肆へ送ると、パリから「!」
と書いた返事が来る。史上最短の手紙として後世有名となる。
1862.○【フランス】ボー・ド・ロシャ Beau de Rochas( 47)が、4 サイクル・エンジンの原理
を発見し、その理論を発表する。
[1876 年、ドイツのオットーがその原理による定置用
ガスエンジンの製品化に成功する 。
]
1862. ○【イタリア】バルサンティとマテウスが、ガスエンジン自動車を試作する。
1862. ○【モナコ】モナコ公シャルルⅢ世が、笛博場の建設を認め、スペリュブ(のち、
モンテカルロ)にカジノが開設される。
[以後 、カジノの経営状態は当初は思わしくない。
その後ドイツのホンブルクでカジノ経営に成功した F.ブランが経営に当たり、会社組織
によって新しいカジノを建設する。1866 年、地名も王の名をとって「モンテ・カルロ」
と名づけられる。カジノの建物の一部はパリのオペラ座と同様 C.ガルニエの設計になる。
豪華な施設と美しい庭園、眺望のよいテラスが整備され、折から富裕階級の間に広まっ
た旅行熱とともに発展し、国際的社交・笛博場へと成長する。]
1862. ○【イギリス】歩行者用の最初の安全地帯が、リバプールに設けられる。街角に店
を持つ馬具屋ジョン・ヘイスティングの提案がきっかけとなり、市内の 6 ヵ所に設けられ
る。
1862. ○【イギリス】国鉄が、特急列車「フライング・スコッツマン」をロンドン∼エジ
ンバラ間を開業する。出発時間は午前 10 時。[以後、出発時間午前 10 時を 100 年以上も
守る。]
1862.○【イギリス】マクスウェル James Clerk Maxwell( 31 )が、電磁気に関する統一的な
理論を考察して、昨年からこの年にかけて「物理学的力線について」を発表する。
1862. ○【イギリス】ダンジネス灯台に発電機を設置し、アーク放電灯を点灯する。発電
機の出力が小さいので、1 基のアーク灯に 1 台の発電機を設置する。
1862. ○【アメリカ】ジャスティン・モリルの提唱により、農業大学設立のため各州に公
有地を与えた法律「モリル法 Morrill Act」が成立する。[以後、この法の下で、各州は連
邦議会上下両院議員 1 人当り 3 万エーカー(約 1 万 2000ha )の公有地、または公有地証券
を与えられ、その売却収入を資金に、農業および技術を教える大学を設立する。これら
の大学は「A and M(agricultural and mechanical の略)カレッジ」あるいは「土地賦与カレ
ッジ( land-grant college )」と呼ばれ、その多くはやがて州立大学へ成長していき、大学図
- 393 -
書館の世界にも大きな影響を及ぼす。1890 年、モリルの提唱によって、これらの大学に
年間 2 万 5000 ドルの連邦資金が与えられることになる。]
1862.○【アメリカ】キング A.King とブラック J. W. Black が、気球からボストン市街
の斜め写真の撮影に成功する。
1863(文久3)
1863. 1. 1 【アメリカ】大統領リンカーン(リンカン)Abraham Lincoln(53)の奴隷解放宣言
令で、400 万人近くの黒人奴隷が解放される。
1863. 1.10【イギリス】世界最初の地下鉄「メトロポリタン鉄道」が、ロンドンのファリ
ンドン・ロード∼パディントン間(『エンカルタ』は〈ビショップスロード∼ファリンド
ンストリート間〉とある)約 6km に、午前 6 時正式開通する。コークスを使う蒸気機関
車が客車を牽引し、客車内はガス灯で照らされる。天井がない停車駅で充分にコークス
をたいてから、次の駅まで走る。朝 9 時から正午過ぎまで上りの都心行きの列車は満員
で、途中駅からの乗車は不可能になる。夕方には情勢が一変し、下りが満員になる。一
方、1 時ころ、およそ 650 人の招待客を乗せた列車がパディントンを出発し、途中さま
ざまな駅を視察しながらファリンドン・ストリート駅まで走る。ファリンドン・ストリー
ト駅では、祝賀会の用意がなされていて、招待客らも参加する。この日だけで 3 万人以
上の乗客を運ぶが、希望者が予想以上に多くて、すべての希望に応じることはできなか
った。[以後、地下鉄は延長されて環状線になる。トマス・ハーディー( 22 )は、実家宛て
の手紙に〈先日、地下鉄に乗ってみました……何から何までじつにすばらしくできてい
ます〉と書く。]
1863. 2. 1【フランス】モイーズ・ポリドール・ミヨーが、株式投資と鉄道投機で手に入れ
た資金と、猟奇記事満載の法廷新聞で得た扇情的ジャーナリズムのノウハウを一つにま
とめて、大衆的日刊紙『プチ・ジュルナール』を創刊する。料金は 1 部 1 スー。記者と寄
稿家を性質の似た週刊文芸新聞『フィガロ』からレオ・レスペス(筆名ティモテ・トリム )
らを大量に引き抜く 。
『フィガロ(Le Figaro)』のヴィルメサンは烈火の如く怒り、
『プチ・
ジュルナール』をはるかに上回る条件でレスペスを引き抜き返す。[1864.4 ヴィルメサン
は、
『プチ・ジュルナール 』
(小新聞)の向こうを張り『グラン・ジュルナール 』
(大新聞)
を創刊する。
(鹿島茂「ジャーナリズムのプリンス、ヴィルメサン」9 『ちくま』1996.12 )
1863. 5 .−【フランス】昨年 8 月のアメリカの郵政長官ブレアの提案に応じて、イギリス 、
フランスなど 14 ヵ国の代表がパリに集まり、郵便物の重量および料金の統一など国際郵
便に関する諸問題を討議する。
[∼ 6 月。31 ヵ条からなる一般原則を採用する。1868 年
末、北ドイツ連邦郵政庁の官僚シュテファンが、国際郵便条約の草案を発表する。
1874.9.15 シュテファンの提唱により第 1 回万国郵便大会議会が開催される。
]
1863. 6.25[ 5.10]【日本】幕府が朝廷に約束した攘夷の期限日。この日、長州藩がたま
たま下関海峡を通りかかったアメリカの蒸気商船ペンブロウク号を砲撃する。[この知ら
せは、当のペンブロウク号によって上海にもたらされ、7.12 香港発の蒸気船でロンドン
に伝えられ、8.28 日付け『タイムズ』紙に掲載される。]
1863. 6.27[ 5.12]【日本】伊藤俊輔ら 5 人の長州藩密航者が、ジャーディン・マセソン商
会の援助で 300 トンのペガサス号と 500 トンのホワイト・アッダー号の 2 隻の製茶運搬小
- 394 -
型帆船に分乗させられ横浜を出港、イギリスへ向かう。[ 11.4[9.23 ] 喜望峰経由で足掛け
130 日目にロンドンに着く。この頃、中国からの一番茶を積んだティー・クリッパーが競
争でロンドンに向かう場合、最も早くて 100 日前後を要する。(
] 杉浦昭典『大帆船時代 』
中公新書、1979)
1863. [ 5.−]【日本】横浜のポルトガル人ローザーが、週刊の居留地新聞『The Japan
Commercial News』を創刊する。[∼ 1865.5 。]
1863. 7. 3【アメリカ】南北戦争のゲティスバーグの戦いにおいて、北軍がロバート・リ
ー将軍( 56)率いる南軍を撃破する。
1863. 8.15[ 7. 2]【日本】薩英戦争が起こる。[∼ 8.17。イギリスで 10.21 付け『タイム
ズ』紙にこの戦争の記事が掲載される。]
1863. 9.30[ 8.18]【日本】京都で、薩摩・会津両藩が、尊皇派排撃を企てて宮中クーデ
ターを起こし、尊攘派を京都から追放する。[[8.28]に近衛忠房・忠熙からの 19 日付け
書簡が、薩摩藩士奈良原繁によって 20 夜に京都を出発、昼夜兼行で足掛け 9 日をかけて
28 日に鹿児島に届けられる。]
1863.10.26 [ 9.14]【日本】横浜のイギリス人ハンサード A. W. Hansard が、週刊紙『 The
Japan Herald 』の付録として日刊紙『The Daily Japan Herald』の刊行を始める。
1863.11.15 [ 9.3]【日本】薩摩藩が、情報伝達力・機動力補強のため急遽、小型蒸気船安
行丸(45 馬力、160 トン)を長崎のグラバー商会の仲介で購入する。[以後、1864 年に 5
隻、1965 年に 4 隻の蒸気船を購入する。]
1863.11.19 【アメリカ】ゲティスバーグの戦いの跡地を国立戦没者墓地とし、戦死者の霊
を弔う式典が、大統領リンカーン(リンカン) Abraham Lincoln( 54)を招いて行われる。民
主主義の理念を説いた〈人民の、人民による、人民のための政治〉のことばで結ばれる
リンカーンの演説は、わずか 3 分、10 の文章で構成され、不滅の演説となる。
1863.○【日本】初代駐日イギリス公使オールコック John Rutherford Alcock( 54)が、日本
見聞記『大君の都( The Capital ofthe Tycoon )』を著し、ニューヨークで出版する 。
〈日本
では馬を疾走させることは、野卑で下品だということになっているので、日本人が猛烈
な速さで馬を走らせるのは、普通は酔ったときかいたずらのときかのいずれかであり、
さもなければ文句なしに大君の急用を意味する。〉
(上巻 215 ページ)
、〈飛脚たちは、短
距離をへだてて設けてある宿駅で交代し、万一事故に会うときのことを考えて、いつも
二人でゆく。かれらの速度は、たいそう早くて、江戸から長崎や箱根へゆくのに、嵐の
ために川や入り江を渡ることができないというようなことがなければ、約三五〇里、す
なわち、八五〇マイルを九日間で走る。〉
(中巻、422 ページ)と書く。
1863. ○【日本 】
『横浜新聞』が、翻訳紹介のかたちで邦字新聞として初めて広告を掲載
する。(??『世界大百科事典』による。
『日本新聞百年史』には見あたらず。)
1863.○【中国】両江総督兼江南軍務欽差大臣曾国藩( 52)が、金陵書局を開設する。各省
の官書局による局刻本の作製が始まる。
1863. ○【ニュージーランド】ニュージーランド最初の鉄道が開業する。
1863. ○【フランス】国際郵便の交換制度を創設するための会議が、パリで開催される。
これまでの 2 国間条約では、料金も取扱もまちまちで複雑なものとなっているので、こ
れを解決するため、昨年アメリカの郵政長官モンゴメリー・ブレアが国際会議の開催を提
- 395 -
唱していた。[1869 年、北ドイツ郵政庁のハインリッヒ・シュテファンが、国際郵便連合
の草案を発表する。1874 年、スイス政府の呼びかけにより、ベルンで大会議が開催され、
万国郵便連合創立の条約が署名される。]
1863. ○【フランス】世界初の日々の天気図が、政府の主導によりルベリエらが作成して
公刊を始める。
[以後、世界の文明国がこれに倣って気象事業を本格的に開始する。
]
1863.○【フランス】東洋学者ロニー(羅尼)L. L. Lucian Prunol de Rosny (27)が、
『和漢字
洋譯』をパリ京都東学所で石板刷で刊行する。[ 1868.4 パリで日本語のひらがなで新聞
『よのうはさ』を刊行する。]
1863.○【フランス】ジュール・ヴェルヌ( 35)が、気球でアフリカ旅行を試み失敗した写
真家ナダールの話にヒントを得て、デビュー作『気球に乗って 5 週間』を発表する。大
評判になり、一躍人気作家になる。
1863. ○【フランス】エチエンヌ・ルノアールが、液体燃料(ガソリン)エンジンを馬車に
積み、往復 18km の試走に成功する。
1863.○【イギリス】ピエール・ミショウ Pierre Michaux (50)とその息子エルネスト Ernest
Michaux (14)が 、前輪にペダルを取り付けた自転車「ベロシペード」を開発する。[のち、
パリの世界博覧会に出品される。]
1863.○【イギリス】イギリス最初の百貨店ホワイトレー Whiteley が開設される。
1863.○【イギリス】スワン Joseph Wilson Swan (35)が、炭素を用いた印刷法を発明する。
1863. ○【イギリス】スコットランドの医師デヴィッド・スケイが、疾患としての「自慰
精神病」の概念を提唱する。
1863.○【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison ( 16)が、通信手となる。[以後、アメリ
カやカナダを通信手として渡り歩く。1968 年、ボストンでウエスタン・ユニオン電信会
社の通信手となる。]
1864(文久4・元治1)
1864. 1.11【イギリス】ロンドンのチャリングクロス∼ロンドンブリッジ間に、新しい鉄
道が開通する。法定弁護人・詩人・社会観察家マンビー Arthur Munby は、この日列車に
初乗りして、〈ロンドンの歴史の新しい一章が始まる〉としながらも 、
〈ユダヤの悪魔ア
シュマダイのような列車は、轟音で住めたものではなくなってしまった貧しい人たちの
家々の屋根を見おろし、壊された住宅が無数に残る地域を通り抜けていく……そして、
鉄道のせいで奈落に建っているようになってしまったセント・セイヴィア教会の由緒ある
壮麗な教会堂を、あつかましくも「見おろし 」、最後にロンドン橋のたもとのみすぼら
しい間に合わせの駅に入っていく。昔の乗合馬車駅とバラへの入口をすっかりだいなし
にしてしまっている。取り返しのつかない言語道断な醜悪さは、どんなに強い言葉で非
難しても非難しきれないほどだ。
〉(大出健訳)と書く。[1 月 22 日 、
〈騒音は夜中までつ
づき、ときおり、いまいましい機関車の耳ざわりなきしみ音が聞こえる。〉(大出健訳)
と書く。]
1864. 3. 2[ 1.24]【日本】イギリス公使 R.オールコックが、日本へ帰任する。[5.1 [3.26 ]
本国政府宛通信を書き、その後下関攻撃を決意する。]
1864. 春 【日本】島隆(りゅう)( 41)が、夫の洋画家霞谷(37)とともに写真術を来日外
- 396 -
国人から学び、夫の肖像写真を撮影する。[以後、日本で女性が撮影した現存最古の写真
となる。1870 年霞谷の没後、隆は写真を職とし、故郷の桐生に帰って写真館を開業する。]
(
『文藝春秋』1997.3)
1864. 4.−[ 3.−]【フランス】
『フィガロ』のヴィルメサンが、モイーズ・ポリドール・ミ
ヨーの大衆的日刊紙『プチ・ジュルナール』(小新聞)からレスペスを引き抜き返し、ミ
ヨーの向こうを張っておちょくるため、『グラン・ジュルナール』
(大新聞)を創刊する。
その名の通り、縦 125cm、横 90cm という大きなもので、しかもそのままテーブル・クロ
スに使えるようにとキャラコの布地に印刷される 。[ミヨーは対抗して、レスペスを年間 5
万フランの条件で再度引き抜いたのをはじめ、アンリ・ロシュフォールら大物ライターも
大量に引き抜き、
『フィガロ』に対抗する週刊文芸新聞『ソレイユ』を創刊する 。1865. 1.
ヴィルメサンは、『プチ・ジュルナール』に本格的に対抗するため、大衆的日刊紙『エヴ
ェンヌマン』を創刊する。](鹿島茂「ジャーナリズムのプリンス、ヴィルメサン」9『ち
くま』1996.12 )
1864. 4.−[ 3.−]【イギリス】ロンドンに滞在していた伊藤俊輔らが帰国の途につく。
蒸気船は高くつくので、帆船により喜望峰廻りの航路を選ぶ。[以後、上海に至り、そこ
から蒸気船で[ 6.10 ]頃横浜に帰着する。](石井孝『増訂明治維新の国際的環境』吉川弘
文館、1966 )
1864.6.17[ 5.14]【日本】軍艦奉行並勝海舟が、軍艦奉行に昇進する。[以後、15 万ドル
をはたいて 360 馬力、405 トンの蒸気船をイギリス商社から購入し、順動丸と命名する。
1862 年に軍艦奉行並就任以後、[11.10]に罷免されるまでに次々と蒸気船を購入し、幕府
首脳の上洛には、陸路をやめて速くて安上がりの蒸気船を用いるべきだと主張する。こ
の頃、将軍の陸路上洛は足掛け 22 日間を要する。早駕籠で約 1 週間前後を要するが、海
路では正味 3 ∼ 5 日で品川・兵庫間をつなぐ。]
1864. 6.28[ 4.?−]【日本】ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)( 26)が、岸田吟香( 31)、本間潜藏
らの協力を得て、横浜埋地 142 番館(横浜の「日本国新聞発祥之地」記念碑では「居留
地 141 番」とある )で、日本初の民間紙『新聞誌』(のちに『海外新聞』)を創刊する(一
説に 1865 年創刊(『近代日本総合年表』(岩波)など))。平易な話し言葉で定時的に時事
ニュースを知らせるという近代的概念の新聞が手書きの冊子体で刊行される。この頃の
日本人は情報に対して金を払うべきという感覚が乏しい上、外国事情を求めるだけでも
身に危険が及ぶという世情のため、定期購読者はわずか 2 人で、販路の開拓に打つ手が
ない。[以後、毎号約 100 部が無料で配布される。9 月[ 6 月]、廃刊を余儀なくされる。
のちに吟香は〈実にわが日本帝国における新聞雑誌の元祖〉と自負する。1994 年 6 月、
『海外新聞』発刊 130 年を記念して、横浜・中華街に「日本国新聞発祥之地(日本にお
ける新聞誕生の地)」記念碑が建立される。]
1864. 8.23[ 7.22]【日本】池田筑後守(長発)らが、幕府に欧米の新聞社との通信交換の
必要性を力説した建白書を提出する。
1864. 9. 5[ 8. 5 ]【日本】イギリス・アメリカ・フランス・オランダ 4 国の連合艦隊が、
下関海峡で萩藩砲台と交戦する。[∼[8.8]]
1864.10. −【日本】イギリスの横浜郵便局で、香港切手の使用を開始する。消印には横浜
を意味する「Y1」の文字が表示される 。
[以後、フランス、アメリカの在日郵便局でも
- 397 -
本国の切手を使用するようになる 。
]
1864. ○【日本】ヘボン夫人が、横浜に女塾を開く。キリスト教による女子教育の初め。
1864.○【日本】京都の堀与兵衛が写真館を開業する。函館の木津幸吉(34)らが、ロシア
領事に湿板術を学んで写真館を開業する。[この頃、清水東谷、内田九一、横山松三郎ら
が模索を続けている。]
1864.○【日本】3 世木村嘉平が、ガルバニ式電気鍍金法によって鉛活字の母型を製造す
る。
1864.○【日本】三国(福井県)の『三国鑑』が刊行される。同地の遊女が 26 人、売女 37
人と記録する。
1864.○【スウェーデン】刑法第 18 号第 13 条でポルノグラフィーを道徳に対する犯罪と
規定する。
1864.○【オーストリア】マルクス Siegfried Markus が、ガソリンエンジンを開発し、こ
れによって走る車を試作する。
[1875 年、2 号車を試作する。
]
1864. ○【フランス】池田筑後守長発を正使とする遣仏使節団が、パリに滞在中、団員た
ちがナダールの写真館をしばしば訪ねる。この頃、ナダールに撮影してもらうことは、
ある種のステータス・シンボルになっている。副使の河津祐邦などが、誇らしげな甲冑姿
で写真におさまる。
1864.○【イタリア】ベルナルディ Enrico Bernardi が、ガスエンジンを作る。[1865 年、
ガソリンエンジンを作る。
]
1864.○【イギリス】キングス・カレジの物理学教授マクスウエル James Clerk Maxwell( 33)
が、ファラデーの「力]と「場」の考えを基に、電磁波の存在を理論的に予言し、電磁場理
論を考え 、「電磁場の動力学的理論」を発表する。ここでマクスウェルの基本方程式を
導き、これにより、光と電磁波の波動が同じであることを証明する。しかし、光の媒体
「エーテル」の存在を確信する。[のち、電磁場理論が無線技術などの基礎となる。1888
年、ヘルツにより実際に電磁波の存在が確認される。 1895 年、マルコーニが無線電信装
置を実用化する。]
1864.○【中国・日本】イギリスの P&O 社が、上海・横浜間に隔週の定期配船を開始する 。
[1865 年、フランス郵船会社も上海・横浜間航路を開設する。1967 年、アメリカ太平洋
郵船会社がサンフランシスコ・横浜・香港間の東洋航路を開設する。]
1864. ○【イギリス】 代表的医学雑誌『ランセット』に、女が催眠術(当時、動物電気学
と呼ばれる)でセックスの罠にはまらないよう忠告する記事が掲載される。
1864.○【アメリカ】ウエスタン・ユニオン電信会社(WU)のシブレーが、アメリカ∼ヨー
ロッパ間の電信線をシベリア経由で架設する計画を立て、ロシア皇帝に許可を求める。
この時皇帝は、アラスカを売却する意向を示す。[ 1886 年、大西洋横断海底電信線が完
成したので、工事を中止する。]
1864. 【流行歌】『維新マーチ』
1865(元治2・慶応1)
1865. 1.−【フランス】
『フィガロ』のヴィルメサンが、モイーズ・ポリドール・ミヨーの
大衆的日刊紙『プチ・ジュルナール』に対抗するため、アンリ・ロシュフォールを破格の
- 398 -
条件で主筆に引き抜き返し、大衆的日刊紙『エヴェンヌマン』を創刊する。部数は一挙
に 4 万部に達する。[以後、ミヨーの『プチ・ジュルナール』グループとの競争はますま
す熾烈になる。景品のサービス合戦が展開され、ヴィルメサンは、この頃たいへん貴重
なミカンを 1 ダース、『エヴェンヌマン』の予約購読者には無論のこと、それ以外の日刊
紙の予約購読者にも希望する者には進呈すると宣伝する。過剰投資でミヨーの『プチ・ジ
ュルナール』グループが資金繰りの危機に瀕していると聞くと、いち早く『ソレイユ』
を買収し『フィガロ』に吸収合併する。1866 年、政府は『エヴェンヌマン』の廃刊を命
じる。]
1865. 3. 8【チェコ】ハプスブルク帝国領ブリュン(のち、ブルノ)のアウグスチノ修道会
司祭メンデル Gregor Johann Mendel( 43 )が、遺伝の法則を解き明かし、「植物の雑種に関
する研究」と題して、ブリュンの自然科学協会の例会で発表する。その中で、親の身体
の形や性質が子孫に伝えられるという、遺伝の法則の基本的な枠組みを披露する。[1866
年、
「植物雑種の研究( Versuche ‰ ber Pflanzenhybriden ) 」として『ブリュン自然科学会誌』
に発表するが、反響は少ない。以後、内容を理解して発展させることができる何人かの
人々の手に論文が届かない。1900 年、再発見され、その価値が認められて「メンデルの
法則」の名が与えられる。ブリュンの修道院はメンデル記念館として保存される。]
1865. 4. 8[ 3.13]【日本】イギリス船が横浜に入港し、英字新聞をもたらす。
[以後、江
戸の日系アメリカ人ジョセフ・ヒコ Joseph Heco (浜田彦蔵)(28)が英字新聞から訳出して
『海外新聞』を発刊する。
(創刊は 1864 年(元治 1)説もある。)[∼[9 月]。24 号まで。(1966
年 8 月 25 日の入船による第 24 号まで発行との説もある。)]
1865. 4 . 9【アメリカ】アメリカ盟邦軍(南軍)の司令官リーが北軍の将軍グラントに降伏。
南北戦争が終わり、アメリカ盟邦は 4 年で消滅する。
1865. 4.10[ 3.15]【日本】大久保利通が、京都を発つに先立ち、
「今日定式飛脚便」に託
して 20 日ごろ帰藩すると藩庁宛て書簡を発送する。その書簡で 、
〈海上之儀若延引も難
図事ニ候ニ付大略本文之形行申上候〉と書き、海路より時間はかかっても陸路を行く飛
脚便の方が安全確実だと説明している。『
( 大久保利通文書』第1、石井寛治、1994 )
[し
かし、このときは 27 日暁に大坂を出た翔鳳丸が、瀬戸内海を順調に進み、佐賀関で石炭
を補給し、4.3 暮前に鹿児島前之浜に足掛け 6 日で到着している。]
1865. 4.14【アメリカ】夜、16 代大統領リンカーン Abraham Lincoln( 56 )が、ワシントン
のフォード劇場で観劇中に、狂信的な南部の同調者の俳優 J.W.ブースに狙撃される。[翌
朝、死去する。南北戦争終結の 5 日後のことである。]
1865. 4.17[ 3.22]【日本】薩摩藩士五代友厚(30)、寺島宗則(33)が、幕府による海外渡
航禁止の中、藩命により森有礼( 18 )、畠山義成、吉田清成ら 17 人を引率し、イギリス留
学のため、長崎をひそかに出発する。[以後、ヨーロッパを視察、武器、船舶、紡績機
械などの輸入を行い、薩摩藩の産業振興に大きく寄与する。のち、五代は実業家に、寺
島は外務大輔(外務大臣)に、森は文部大臣になる 。
]
1865. 5. 2【アメリカ】史上初の本格的な寝台車「パイオニア号」が、故大統領リンカー
ンの遺体を乗せて、シカゴ駅を午後 9 時 30 分に発車する。この車両は、1864 年に J.プ
ルマンが試作したもので、在来の車両より幅が 25cm 広く、高さも約 60cm 高い。
1865. 5.13[ 4.19]【日本】将軍家茂が、上京のため陣笠を戴き馬に乗り、歩・騎・砲の
- 399 -
幕府三兵に守られて江戸城を発つ。[ 7.14[閏 5.22] 足掛け 36 日で入京する。]
1865. 5.17【フランス】パリ会議が開かれ、初の国際電信条約が参加 20 ヵ国により調印
される。また、この条約の将来の改訂を可能にするため、万国電信連合が設立される。
国際電気通信を扱う初の国際機関となる。[ 1879 年、日本が万国電信連合に加盟する。
1934.1.1 万国電信連合と国際無線電信連合が合併し、国際電気通信連合(ITU)が設立され
る。1949.10 国際連合の専門機関となる。1969 年、ITU が 5 月 17 日を「世界電気通信記
念日(世界電信デー;世界電気通信の日)(World Telecommunication Day)」と定める。]
1865. 6.14[ 5.21]【日本】大久保利通が、将軍上京の予定を知り、鹿児島を発ち京に向
かう。[遅れて上京した西郷隆盛とともに長州藩再征反対の論陣を張る。]
1865. 7.−【アメリカ・アイルランド】ニューファウンドランド∼アイルランドのトリニ
テ間 3240km に大西洋横断海底電信の 5 回目の敷設作業が開始される。1900km 敷設した
ところでケーブルに欠陥部分のあることが発見され、その部分を良品と取り替え作業中
にケーブルを海底に落とし、ケーブル引き上げにも失敗する。[ 1866 年、6 回目の電線が
敷設され、ようやく安定的な実用段階に入る。5 回目に海底に沈んだままのケーブルも、
今回は船に引上げられて接続したので、2 本の海底ケーブルが敷設される結果になる。]
1865. 9. 8[ 7.19 ]【日本】横浜で、リッカビィらが、
『The Japan Commercial News』を買
収、居留地新聞『The Japan Times 』を創刊する。
1865.11. 4[ 9.16]【日本】イギリス公使パークスの主唱で、英・仏・蘭・米代表を乗せ
た軍艦が条約勅許を求めて兵庫沖へ進入する。このとき、たまたま米相場連絡のための
旗振り信号手がこれを発見して京都所司代へ通報する。[これが契機となり、1775 年以
来の禁令が解かれる。以後、大阪を中心とする旗振り通信線がしだいに範囲を広げ、業
者も増加する。](小島昌太郎・近藤文二「大阪の旗振り通信 」
、大阪市『明治大正大阪
市史』第 5 巻、日本評論社、1933、石井寛治、1994 )
1865.○【日本】福沢諭吉、淵辺徳蔵らが、1867 年にパリで開催される「exposition」へ
の出品勧誘を幕府に報告する。福沢らは「exhibition」の語をすでに「展観場」と訳して
いたので、これとはひと味違った、より規模の大きいものとして、exposition を「博覧会」
と訳して公式文書に「仏国博覧会」と記す。
1865. ○【日本】御手洗(広島県)の遊女屋、若胡屋(わかえびすやヨが営業を停止し、水戸
藩の交易所となる。花魁と呼ばれた遊女の多くが御手洗から姿を消す。
1865. ○【ドイツ】ドイツ最初の馬車鉄道が、ベルリンに登場する。
1865.○【ドイツ】シュテファン Heinrichvon Stephan (1831 ∼ 1897)が、ドイツ連邦諸郵政
庁間の連絡会議の席上で、世界で初めて郵便はがきを採用して郵便料金を安くすると同
時にドイツ連邦内に均一料金制を実施されたいと提議する。
[1869 年 10 月、オーストリ
ア・ハンガリーが世界最初の郵便はがきを発行する。1870 年、ドイツが実際に郵便はが
きを発行する。
]
1865. ○【フランス】ピエールとエルネスト・ミショーの親子が、ミショー・カンパニーを
設立し、前輪にペダル・クランクを装着した二輪車「ベロシペード」の生産台数を 400 台
に伸ばす。自転車産業が企業として成立する礎となる。[ 1866 年、ミショー・カンパニー
で働いていたピエール・ラルマンが、アメリカに渡り、自転車の特許を取得する。]
1865.○【フランス】イギリスを除くヨーロッパ 20 ヵ国の代表がパリに集まり、万国電
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信条約を結ぶ。会議でモールス電信機の使用が正式に決められる。イギリスは多くの民
間会社が電信事業を行っているので、除かれる。[以後、本格的な国際電信が始まり、盛
んに電信線が国境を越えて接続されるようになる。1869 年、イギリスが電信業務を国営
化し、1871 年、万国電信連合に加盟する。]
1865.○【フランス】作家ジュール・ヴェルヌ(37)が、月旅行を描いた『地球から月へ』
を発表する。270m の大砲から打ち出されたアルミニウムの「弾丸列車」に乗った 3 人の
冒険家が、4 日間で月の周回に成功する物語で、大評判となる。
1865.○【フランス】ルクランシェ Georges Leclanch (26)が、ダニエル電池の素焼の円筒
の中に、炭素板を中央に二酸化マンガンと炭素粉末を詰めて正極とし、これを電解液で
ある塩化アンモニウム水溶液の中に浸し、亜鉛棒を負極とした湿電池を考案する。起電
力は約 1.5 ボルトである。[のちに「ルクランシェ電池(Leclanch cell)」と呼ばれる 。1868
年、電解液を細かい砂またはおがくずなどでペースト状とするなどの考案をして、のち
の乾電池の代表的な構造の原型となる。電解液にデンプンなどを加えてゲル化し、電解
液が流れ出ないように改良されて、のちの乾電池に発展する。]
1865.○【イタリア】ベルナルディ Enrico Bernardi が、昨年のガスエンジンに引き続き、
ガソリンエンジンを作る。
1865.○【イギリス】自動車の交通規制を目的とした赤旗法( Red Flag act)(正式名
Locomotive act)が制定される。蒸気自動車が乗合バスとして発達し、蒸気バスに旅客を
とられた馬車運送業者の議会への圧力や煤煙や騒音による街道住民の反対運動によって、
〈自動車は郊外で時速 4 マイル(6.4km/h )以下、市街では時速 2 マイル(3.2km/h)の速度
制限とし、自動車が走る前方を赤旗を持った者が先導し、危険物の接近を知らせなけれ
ばならない〉と定める 。
[以後、これによってスピードをうばわれた蒸気自動車は一気
に衰退し、イギリスにおける自動車の発達は大きく遅れをとり、その中心はフランス、
ドイツ、アメリカなどに移っていく。1896 年、廃止される。]
1865.○【イギリス】鉄道・運河土木技術者ホークショー John Hawkshaw( 54 )が、サウス
・イースタン鉄道とロスチャイルド家の財政的支援を受けて、ドーバー海峡の海底を貫い
て、イギリスとフランスをトンネルで結ぶための海底地質調査を開始する。[ 1866 年、
トンネル掘削が技術的に可能であることが明らかにされれる。]
1865.○【イギリス】この頃、地下鉄で腕木を利用せず灯火の色で表示する「色灯式信号」
が初めて採用される。[以後、20 世紀に入り広く普及するようになる。]
1865.○【イギリス】ロンドンの王立音楽学院教授クリントン J.Clinton が開発したカード
ゲームが「Quadrille Melodist 」という名に改められて、実用的な作曲支援システムとし
て発売される。フランス由来の 4 人で踊るダンス「カドリール(quadrill)」のパーティー
でピアニストが利用する。カードの各々にはそれらしい楽曲の断片が書かれており 、約 4
億 2800 万通りのカドリール曲が生成できるので、夜通し楽しむことができるゲームとな
る。
1865.○【アメリカ】スパッフォード Ainsworth Rand Spofford が、議会図書館の館長に就
任する。
[以後 、スミソニアン協会の科学雑誌コレクションを議会図書館に移管する。1867
年、フォース Peter Force の個人蔵書を 10 万ドルで購入する。1897 年、新しい器として
トマス・ジェファソン館の新築を完成させ、館長を退く。
]
- 401 -
1865. ○【アメリカ】アメリカで初めての新聞切手が発行される。新聞発行人からまとめ
て差し出される新聞や定期刊行物の包装紙に貼るため、目立つように大きなサイズで、
世界最大の切手として有名になる。[のちに、新聞郵便料金は別に一括して支払われるよ
うになり、新聞切手は小型化される。]
1865.○【アメリカ】ローエル George P. Rowell が、広告代理業を始める。新聞社の代理
的取引を行い、あらかじめ新聞社から大量のスペースを買いとり、これを広告主に小売
りする最初の専業「スペースブローカー」業務を行う 。
[1869 年、『アメリカン・ニュー
ズペーパー・ディレクトリー』の刊行を始める。1880 年、終刊。
]
1865. ○【アメリカ】ニューヨークのセントラル・パーク内に、アメリカ初の小動物園が
開かれる。[ 1874 年、フィラデルフィア動物園が、初の本格的な動物園として開かれる。]
1866(慶応2)
1866. 3. 6[ 1.22 ]【日本】薩長同盟が成立する。萩藩士木戸孝允らが、坂本龍馬の斡旋に
より京都鹿児島藩邸で、西郷隆盛らと倒幕のための提携を密約する。[ 3.8[ 1.24]大久保利
通が、同盟締結の知らせを伝えるため大坂から藩の蒸気船三邦丸で出発、3.16[ 2. 1]鹿
児島に戻る。]
1866. [ 2.29]【日本】坂本龍馬(30)が、結婚したおりょうと共に京より鹿児島へ旅に出
る。[後年、司馬遼太郎は『竜馬がゆく 』で 、日本における新婚旅行の風俗の始めと説く。]
1866. 5. 1【フランス】日本幕府のパリ駐在名誉総領事ペ・フロリ・ヘラルドが、この日
付の公文書簡で、勘定奉行小栗上野介忠順(39)と外国奉行星野備中守千之に、鉄道と電
信の創設を建言する。[以後、幕府は、この建言を受けて、市川斎宮ら十数人を電信研究
のためにイギリスに派遣、
あわせてブレゲー電信機 2 機と付属品をフランスに発注する 。
]
1866. 5.16【フランス】政府が、オルゴールの生産国スイス政府の圧力により、5 月 16
日法を制定して、著作権者の許諾を得ずにオルゴールに音楽を複製して頒布する自由を
認める。
1866. 5.21[ 4. 7]
【日本】幕府が、学術修行および貿易のための海外渡航を解禁する。
1866. 7.27【大西洋】大西洋電信会社が、1857 年以来着手していたニューファウンドラ
ンドのバレンチアとアイルランドのトリニテ間 3240km に、新たな大西洋横断海底ケー
ブルが、5 回の失敗を重ねたのち、遂に 6 回目の敷設工事に成功し、イギリスとアメリ
カが電信線で結ばれ、ようやく安定的な実用段階に入る。これにより、約 2 週間を要し
ていたヨーロッパ∼アメリカ間の通信が、極めて短時間で通信可能になる。5 回目に海
底に沈んだままのケーブルも、今回は船に引上げられて接続したので、2 本の海底ケー
ブルが敷設される結果になる。この頃、ウエスタン・ユニオン電信会社(WU)のシブレー
が、アメリカとヨーロッパをカナダ、アラスカ、シベリア経由で電信線を結ぶ計画を立
て、サンフランシスコ∼アラスカ間の電信線架設工事を進めていたが、大西洋横断海底
ケーブルが完成したため、工事をアラスカの途中で中止する。
1866.11.10 [10. 4]【日本】横浜売込商の甲州屋篠原忠右衛門が、奥州南部藩へ水晶鉱山
の検分と海産物の仕入れに赴き、横浜へ宛て手紙を出す。[11.15 1ヵ月半を費やして到
着する。11.23 に出した手紙は 11.9 夜に約半月を費やして着く。飛脚便の往来の頻繁な
東海道筋など以外では、手紙がいつ相手先に届くかは、適当な旅行者が見つかるか否か
- 402 -
という偶然の条件に大きく左右される。](石井孝編『横浜売込商甲州屋文書』
、石井寛
治、1994 )
1866.11. −【フランス】政府が、人気の出過ぎた『エヴェンヌマン』に目を光らせ、ちょ
っとした政府批判記事の掲載を機に、ヴィルメサンにその廃刊を命じる。ヴィルメサン
は週刊文芸新聞『フィガロ』を日刊に変更して対処する。[ 1867.5 高額の供託金を政府
に払って、
『フィガロ』を日刊政治新聞に昇格させる。[1867.1 皇帝ナポレオンⅢ世が、
国民の不満に対し内閣辞職を求め 、立憲的改革を断行する意思を表明し 、政治方針を「自
由帝政」に変化させる。ヴィルメサンはこれを見て、主筆のロシュフォールに〈筆のお
もむくまままにまかせて、思わぬことを書いてしまうことがあるかも知れないが、それ
を恐れるな。読者全員を大いにからかい、笑わせてみるんだ〉と言い渡す。ロシュフォ
ールはこの言いつけに忠実に従った結果 、
『フィガロ』はしばしば当局から罰金の攻勢
を受ける。廃刊への危機を感じたヴィルメサンはロシュフォールに独立を勧め、1868.3.30
『ランテルヌ』が創刊される。]
1866.12.2[ 10.26]【日本】幕府派遣のイギリス留学生が、横浜を出帆する。監督は中村正
直( 34 )、川路太郎の 2 人。学生は外山正一(とやままさかず)(18)、菊池大麓(きくちだい
ろく)(34)、林董(はやしただす)(16)ら 12 人。[ 1868.8.9[6.21]帰国。]
1866.12.10 【イギリス】世界初の交通信号が設置される。(『記念日の本』による)
1866.12.17 [ 11.11 ]【日本】新吉原が放火で全焼する。大桝屋陋習楼主芳三郎の抱え遊女
きく(八重菊、14)が放火したといわれる。
1866. ○【日本】浅草御蔵前で活人形(いきにんぎょう)の見世物が出る。遊女浴場裸の
姿などが展示される。(『武江年表』)
1866.○【日本】日本初の公式灯台が、伊王島(のち、長崎県伊王島町)など全国 8 ヵ所に
設置される。[1877 年、伊王島灯台に、初の無筋コンクリート建物が吏員退息所として
造られる。以後、日本最古のコンクリート建造物として保存され、日本初の灯台記念館
となる。]
1866. ○【日本】フランス領事ヘラルドが、幕閣小栗上野介に電信と鉄道の敷設を建言す
る。
1866.○【スウェーデン】最初の「プレスの自由法 」ができる。
[以後、改訂が重ねられ、
基本法として定着する。]
1866.○【デンマーク】1866 年刑法が制定される。第 184 条にポルノグラフィー禁止条項
を掲げる。
1866. ○【ドイツ】電信機器の製造と電信ケーブルの敷設を事業としていたジーメンス‐
ハルスケ商会が、発電機の発明を契機に、重電部門の比重を高める。
1866.○【フランス】ジャン・マセ Jean Mac(e )が、町村立の図書館を推進し 、
「教育連盟 」
をつくり図書館の組織化を図る。
1866.○【イギリス】L.S.ビールが、マルティースクロスによる間欠送りの「コリュート
スコープ」を発明する。
1866. ○【イギリス】ドーバー海峡の海底を貫くドーバー・トンネルが、鉄道・運河土木
技術者ホークショー John Hawkshaw(55)が昨年から行った海底地質調査で、技術的には
可能であることが明らかにされる。[以後、イギリス、フランス両国間にトンネル掘削へ
- 403 -
の関心が高まる。1872 年、イギリスで、1875 年、フランスで、それぞれのトンネル会社
が組織される。1882 年、両岸で立坑と海底に向かっての試掘坑の掘削が開始される。]
1866.○【アメリカ】写真家ガードナー Alexander Gardner( 45 )が、南北戦争で撮影した写
真をまとめた『ガードナーの戦争写真スケッチ集(Gardner's Photographic Sketch Book of
the War)』をフィリップ・アンド・ソロモンズ社から刊行する。鶏卵紙に焼き付けられた
オリジナル写真 100 枚が、2 分冊に製本される。撮影者にはガードナーのほかティモシ
ー・オサリバン、ジョージ・バーナードなど 10 人以上の名前がクレジットされている。こ
の写真集の写真は、コロジオン湿式法によるため、戦闘シーンなどの動きのあるものは
写しとどめられていな
いが、前線で死傷している兵士の写真や砲撃で破壊された街など、リアルに戦争の痕跡
をとどめる写真をはじめ、1862 年撮影のリンカーン大統領とマックレラン将軍の会見の
模様などが多く収められる。[以後、この写真帖は、同じ国民同士の戦いという悲しい歴
史を想起するものとして受け取られ、商業的には大失敗する。後世、戦争ドキュメンタ
リー写真の先駆として高く評価されるようになる 。1959 年、ドーバー出版社が『Gardner's
Photographic Sketch Book of the Civil War』として復刻する。]
1866.○【アメリカ】印刷工ショールズ Christpher-Larthom Sholes がタイプライタを発明
する。[ 1874 年にレミントン父子商会によって企業化され実用品として認められる。]
1866.○【アメリカ】ウエスタン・ユニオン電信会社の電信線が、総延長 1 万 2000km に達
する。[以後、事業は順調に拡大する。 1978 年、ベル電話会社が設立され、やがてウエ
スタン・ユニオンはベルの支配下に入る。]
1866. ○【アメリカ】ラッセル・サッカー・トラールの『性生理学』が刊行され、ベストセ
ラーになる。アイスランドの女は、体中の筋肉を自分の意志で調節して受精を防ぐとし
て、咳やくしゃみ、走る、飛ぶ、物を持つ、ダンスをするなどが受胎調節に効果がある
と説明している。
1866. ○【アメリカ】議会で、伝染病法案が通過する。陸海軍施設の近辺で働く娼婦の定
期検診、必要により性病治療を義務づける。
1866. 【本】
『都々一(どドイツ)あた競(きそい)』(俳画をまじえた芸妓・遊女たちの吟句
集)
1867(慶応3)
1867. 1. 1[ 11.26]【日本】横浜のイギリス領事館附牧師ベイリー(ベーリー) Buckworth
Bailey が、木版の月刊居留地新聞『萬国新聞紙』を創刊する。邦字新聞の先駆けとなる。
国別海外ニュースを主として、海外読み物、日本関係の国内ニュースを加味する。また 、
社告によって〈迷子、欠落、拾い物、盗まれ物及び読売物等すべて広く世に弘め〉と広
告を募集するが、料金の定めはない。[以後、第 3 集で、日本人最初の広告主、中川屋嘉
兵衛の〈パン、ビスケット、ボットル〉の広告を掲載する。第 15 集で『萬国新聞』と改
題する。1869 年、第 18 集で廃刊。他に同名異種の『萬国新聞』が 2 種あり、偽版も出
回る。]
1867.
[12.−]【日本】福沢諭吉(33)『西洋事情』(尚古堂)初編 3 冊が刊行される。
半紙判、和紙木版刷り。扉絵の題字に〈蒸汽済人電気電信〉(蒸汽は人を済(すく)い、電
- 404 -
気は信を伝ふる)と掲げ、蒸気機関と電信の便益を強調する。[1867 年、外編 3 冊。1870
年、二編 4 冊。内容は、新聞、病院、貧院、図書館の紹介、アメリカ独立宣言の紹介、
自由自主や人間の権利を中心とした文明社会の解説などで、大部分が洋書を種本として
いる。西洋諸国の歴史、制度、国情、西洋文明社会に共通する文物や社会、人間のあり
方を紹介する。鎖国から解かれたばかりの当時の人々にとって好個の西洋世界入門書と
なり、1872 年の学制公布の際に教科書の代用として採用されるなどして、15 万部以上の
未曾有のベストセラーとなる。偽版も多数出て、福沢はこれらを加えると 20 万部ないし
25 万部は間違いないと述べる 。
]
1867. 2.15[ 1.11]【日本・ヨーロッパ】パリ万国博覧会へ参加する徳川昭武( 15)一行が、
フランスの蒸気帆走「飛脚船」アルフェー号で横浜を出港する。一行の中には、刀は武
士の魂であるといって、フロックコートの上に帯を締めて刀をさす者もいる。[以後、香
港まで行き、アンペラトリースに乗り換えて、スエズ∼アレキサンドリア間鉄道を利用
したうえで、
足掛け 48 日目でマルセーユに到着する。](須見裕『徳川昭武』中興新書、
1984 )
1867. 2.17【エジプト】建設中のスエズ運河を最初の船が通過する。[ 1869.11.17 開通記
念式典がイスマイリアで盛大に催され、スエズ運河が正式開通する。]
1867.2.27[ 1.23 ]【日本】福沢諭吉が、幕府の軍艦受取委員に従って 、アメリカに渡る。3
回目の洋行となる。
[7.27[6.26] 帰国する。訪米中に福沢が勝手に大量の書物を買い込ん
だかどで、3 ヵ月の謹慎処分を受ける。この間『西洋事情外編』を書き、初めて著作権
に触れ、保護期間はイギリスやアメリカでは出版後少なくとも 42 年、フランスやベルギ
ーでは死後 20 年で、この期間は著作者が「専売の利」に浴すことができること、偽版に
は罰金が課せられることなどを日本人に知らせる。のちに福沢は〈維新政府の新政令も
或は此小冊より生じたるものある可し〉と『福沢諭吉全集緒言』に書く。
]
1867. 3.30 【アメリカ】国務長官シューアード(スワード) William Henry Seward(66)が、
ロシアからアラスカを 720 万ドルで購入する条約に、ワシントンで調印する。シューア
ードはアラスカを太平洋にまたがる海洋帝国建設の一環として位置づけていた 。
[4.9 上
院が圧倒的多数でこの条約を承認する。下院もただちに予算を計上する。一般のアメリ
カ人国民は「シューアードの愚行」と批判する。「シューアードの冷蔵庫」などと皮肉
られるアラスカを、ロシア皇帝がシューアードに売りつけている風刺画も現れる。10.18
アラスカが正式にアメリカの領土となる。1896 年、クロンダイクで金鉱が発見され、ア
ラスカ一帯でゴールド・ラッシュが起こり、カナダと国境紛争が生じる。1903 年、調停
でアメリカに有利に解決する。1912 年、準州となる。1959.1.3 49 番目の州として連邦に
編入される。
]
1867. 4. 1[ 2.27 ]【フランス】第 5 回、フランスでは 2 度目の万国博覧会がパリで開催さ
れる。電気、圧縮空気、灯用ガス、水圧式エレベータなどが登場する。従来の産業的性
格から文化的性格へと変化した最初の近代的博覧会の原型となる。日本が博覧会という
ものに初めて接し、徳川昭武一行らが将軍の名代として参加する。日本の浮世絵がヨー
ロッパに紹介され、錦絵、漆器、刀、その他銀・象牙・水晶などの細工物が展示される。
その他、曲芸師、奇術師の一座も送り込む。場内に日本式茶店をつくり、芸者 3 人に接
待させ評判となる。幕府に対抗して薩摩藩は「薩摩琉球国」として、丸に十字の島津家
の旗を立てて参加し、肥前藩も出展する。派遣団には、幕府側に田辺太一( 37 )、渋沢栄
- 405 -
一(28)らがおり、薩摩藩側には森有礼(21)、吉田清成( 23)らがいた。
〔1865 年にフラン
スのナポレオンⅢ世が幕府に出展を勧め、これに応じた。そのとき 、外国奉行栗本鋤雲(じ
ょうん)が「exhibition」の訳語として「博覧会」としたといわれる 。〕[以後、会期中、
入場者は空前の 680 万人余(一説に、見学者が約 1100 万人)に達する。
]
1867.[ 5.−]【中国】長老派教会宣教師ヘボン(ヘプバーン)James Curtis Hepburn (52)が、
約 8 年の苦節の末、上海の美華書館で岸田吟香の協力の協力のもとに日本初の本格的和
英辞典『和英語林集成』(初版は A Japanese and English Dictionary; with an English and
Japanese Index)の活字印刷を完成させる。初版 1200 部。値段 12 円。「活版(板)」の項目
があり、「Printed with mouvable types」とあり、〈(KAPPAN) ni suru〉と例文をあげてい
るが 、
「活字」の項目はない。[以後、再版から「 A Japanese-English and English-Japanese
Dictionary 」
。1886 年、第 3 版が丸善から刊行される 。ここで採用したローマ字方式が「ヘ
ボン式ローマ字」と称される。]
1867. [ 4.19]【日本】土佐藩が、坂本龍馬( 32)と中岡慎太郎( 29)の脱藩の罪を許し、土
佐藩の外郭遊撃隊「海援隊 」「陸援隊」が創設される。龍馬は海援隊長、中岡は陸援隊
長に任ぜられる。海援隊は、隊の「約規」により、隊員は各藩の脱藩者で海外に志ある
者で、任務は〈運輸、射利、開拓、投機、本藩(土佐藩)の應援〉と、政治学・航海術・
語学などの修得で、出版なども行う。[ 11 月、隊長龍馬が京都で暗殺される。以後、隊
士はしだいに分散。1868 年、讃岐(さぬき)諸島で活動していた長岡謙吉が隊長になる。
同年閏 4 月に土佐藩によって解散させられる。]
1867.10.12 [ 9.15]【日本】
『ジャパン・ヘラルド』の主筆であったイギリス人ブラック John
Reddie Black (40)が、日刊紙『ジャパン・ガゼット(The Japan Gazette )』に移り、主筆とな
り、この日横浜で創刊する。[1923.8 『ジャパン・ガゼット』終刊。]
1867.10.17 【オランダ】留学中の医師伊東玄伯は、ニューウェデクからアムステルダムに
いる友人赤松大三郎に 、
〈明日お訪ねするからお待ちくだされ〉という意味の電報を打
つ。日本人で最初の電報発信となる。
1867.
[ 9.−]【日本】イギリス海軍軍医ニュートンの建議により、横浜・姿見町に梅
毒病院が設けられる。黴毒院の先駆けとなる。主に開港地の防疫が目的で、娼妓までに
は及ばない。[1868 年[8 月] 大学小助教の早矢仕有的(はやしゆうてき)が、この梅毒院
院長に任命される。1868 年[ 4 月] 横浜吉原遊郭に娼妓を対象とした梅毒病院の仮病院が
発足する。]
1867.11. 9[ 10.14 ]【日本】高家大沢基寿が、将軍徳川慶喜の命により大政奉還上表を朝
廷に提出する。
1867.
[10.−]【日本】幕府の洋学者柳河春三(やながわしゅんさん)(25)が、
『西洋雑
誌』を編集し、江戸で創刊する。月刊で、木活字による木版刷りの小冊子。定価 2 匁。
発刊の辞に〈西洋諸國にハ新聞紙局ありて 、公私の報告、市井の風説を集め、或ハ毎月、
或ハ毎七日、或ハ毎日これを印行して、互に新報を得るを競ふ。就中英吉利の如きハ、
新聞局の数六十有餘ありて、万国に勝りて最盛なりと云。〉と書く。巻末広告に〈此雑
誌出板の意は、西洋諸国月々出板マガセインの如く、広く天下の奇説を集めて、耳目を
新にせんが為なれば、諸学科は勿論、百工の技芸に至るまで、世の益となるべき事の訳
説、宣く加入すべきものあらば、吝惜しなく寄贈し玉へ〉と書く。日本の新聞・雑誌の
- 406 -
先駆けとなる。[1869.10 月まで続く。しばしば『西洋雑誌』は日本の雑誌(マガジン)の
はじまりとされるが、この頃、新聞と雑誌の区別は定かではない。のちに吟香は『新聞
誌』を『新聞紙』と記憶違いを起こす。1873 年『文部省雑誌 』
、1874 年『民間雑誌』『明
六雑誌』あたりから雑誌独自の性格が認識され始める。]
1867. [10.−]【日本】福沢諭吉『西洋旅案内』(慶應義塾出版局)刊。この頃、福澤は、
三田の慶應義塾の構内に活版印刷所を設け、
「福澤屋諭吉」と称して出版業を営む。[1873
年、再販]
1867.○【日本】この頃、米 1 石が 4 円 72 銭。
1867.○【日本】榎本武揚(えのもとたけあき)(31 )が、5 年間のオランダ留学で航海術・
機関学・国際法などを学び、新造軍艦開陽丸とともに帰国する。この時、フランス製電
信機も持ち帰る。[ 1885 年、初代逓信大臣になり、東京の古道具屋で自分が持ち帰った
電信機を見つけ、それを買い戻す。のちに逓信博物館に収蔵される。]
1867.○【日本 】東京・築地に、初の近代ホテル第一号として「ホテル館」が建てられる 。
客室 102 室で、主に外国人客が利用する。
1867. ○【ドイツ】カール・アーデが、ハンカチ、紙巻きタバコ、菓子類の自動販売機を
考案し、性能の高い最初の自動販売機として特許を取る。
1867. ○【ドイツ】ジーメンスが、電池の助けをかりずに発電する自励式直流発電機を考
案する。[以後、直流電動機が広く実用されるようになる 。
]
1867.○【アメリカ ・中国・日本】アメリカ太平洋郵船会社が、年 50 万ドルの政府補助金
を得て、サンフランシスコ・横浜・香港間の東陽航路を開設する。[以後、日本の沿岸航
路で先行のイギリスの P&O 社、フランス郵船会社を圧倒する。]
1867.○【アメリカ】福沢諭吉が、再渡米し、2000 両を越える書籍を購入する。帰国の際
の航海中の危険を心配して保険会社と損保契約を結び、保険契約した日本人第 1 号とな
る。
1867. ○【アメリカ】クエーカー教徒の商人ジョンズ・ホプキンズの寄付金をもとに、ジ
ョンズ・ホプキンズ大学(Johns Hopkins University)が設立される 。
[ 1876 年、開講する 。
]
1867.○【アメリカ】チルグマン B. C. Tilghma が、亜硫酸法による木材のパルプ化を発
明する。
1867. ○【アメリカ】プルマンス・パレスカー社が設立される 。
[以後、長距離鉄道の長旅
を快適にするため、寝台車、談話車、ティーラウンジ車などを製作する。1875 年、回転
安楽椅子付きの応接室車が製作される。]
1867. ○【アメリカ】『ニューオリンズ医学界』誌に「ミシンを踏む女の健康への影響」
という記事が掲載される。針子たちに、足踏み動作のリズムで性的興奮をしないように
鎮静剤の使用を勧告する。
1868(慶応4・明治1)
1868. 1. 1[12. 7]【日本】1858 年の日米修好通商条約に基づき、神戸港が外国に向けて開
港する。当初は古い港市の兵庫港の開港が決められたが、外国人との紛争回避、居留地
の確保などから古来の兵庫港を避け 、生田川尻(じり)から湊川尻間の神戸浦に、停泊地、
居留地、運上所(のち、税関)などが設けられる。同時に大阪が開市し、商人にだけ出入
- 407 -
りが許される。[以後、近代的な開発により、漸次整備される。明治末から大正にかけて
の修築工事により、本格的な拡張工事が行われ、新港第 1 ∼第 6 突堤、中突堤、兵庫第 1
・第 2 突堤、物揚場(ものあげば)、係留岸壁、上屋、貯木場など貿易港としての施設が
整う。1872 年、神戸港と改称する。古い兵庫港と新しい神戸港とはそれぞれに港町とし
て栄える。1879 年、郡区町村編成法で、ともに神戸区に包含される。のち、12 月 7 日を
「神戸開港記念日」と定められる。]
1868. 1. 3[12. 9]【日本】鹿児島・名古屋・福井・高知・広島藩兵警護の宮中で、王政復
古派公卿が集まり、王政復古の大号令を出す。
1868. 1.19 [12.25 ]【日本】払暁、幕府が江戸薩摩藩邸を焼き討ちする。[1.22 [12.28]この
知らせが大坂城の徳川慶喜の下に届く。]
1868.1.27[ 1. 3]【日本 】旧幕府軍が、鳥羽・伏見で鹿児島・萩藩兵と戦い 、敗れる。[1.28
[1.4]鳥羽・伏見の戦。戊辰戦争が起こる。]
1868. 2.14[ 1.29 ]【日本】新政府が、毎月 1 と 6 のつく日を休日と定める。また、官公
所の出仕時間は巳刻(午前 10 時)、退出は申刻(午後 4 時)とする。
1868. 3.15[ 2.22]【日本】新政府が、京都に学校掛をおき、玉松操、平田鉄胤、矢野玄
道ら国学者を任命する。
1868. 3.16[ 2.23]【日本】新政府が、機関紙『太政官日誌』を京都で創刊し、官軍のた
めの広報活動を開始する。印刷は、1 ページの版下原稿を 2、 3 行ごとに分割して、各木
版師に手彫りさせたものを接着して 1 枚の版木にまとめるという方法で、大変時間がか
かった。のちの「官報」の前身となる。(『官報百年の歩み』)[以後、維新政府は、太政
官布告をもって〈新著ナラビニ、翻刻ヲ猥リニ刊行スルコトヲ禁止〉し、官許のない出
版物の売買を差し止める。[ 1869.2.8]「新聞紙印行条例」が制定され、発行許可制などが
規定される。1877.1 11 77 号まで刊行される。1882 年 3 月、山県有朋が「官報」刊行を
建議する。これが翌年実現して、1883 年 7 月 2 日『官報』が創刊される。]
1868. 3.17 [ 2.24]【日本新政府が、京都市中に目安箱(投書箱)を置く。[ 7.19[ 5.30]東京
でも実施する。]
1868. 3.17[ 2.24]【日本】洋学者柳河春三(やながわしゅんさん)( 26 )が、
『中外新聞』を
創刊し、開成所から発行する。開成所から譲り受けた、漢字は楷書体、仮名は変体仮名
の木活字を用い、手彫りしている他紙より早く印刷することができ、同僚たちの支援を
受けて、民間の新聞として発足する。第 1 号は、冒頭に〈西洋三月七日我二月十四日の
横浜出板新聞紙より抄出す〉と題して、〈薩州に兵七百が急に京都を出発、江戸に向か
う〉など、『横浜出板新聞紙』の抄出の体裁で刊行する。半紙二つ折、5 、6 枚の冊子体
で、定価 1 匁 。これまでの瓦版のみみずのような木版の字と異なった、活字による 1 字 1
字が独立した版面に、読者は速報を旨とする新時代の雰囲気を感じる。また、柳河は投
稿者には謝礼を支払うという社告を載せ、全国各地の佐幕派の読者からニュースを集め、
各地の戦況を伝えることとする。[以後、公儀をはばかり、直ちに発行元を上州屋惣七の
名義に変更し、5 日ごとに発行する 。
『中外新聞』の好評に、江戸、横浜でつぎつぎに佐
幕派新聞が現れる。
『中外新聞』第 9 号に、柳河は〈されば民間に行はるる日本新聞紙の
濫觴はこの中外新聞なりと云はんも過言にあらざるべきか〉と記し、民間初の新聞を自
負する。いちはやく大阪の河内屋清七が 、
『中外新聞』の大阪売り捌きを引き受ける。
- 408 -
函館からの購読申込みもあり、地方の読者には合本で応じ、書肆を通じての販売も行う。4
月、柳河の友人の渡邉一郎の名で姉妹版『中外新聞外篇』を発行、増え続ける国内雑報
を主として掲載する。5.16、上野で彰義隊など徳川亡遺の兵士が上野山内に結集して平
定された翌日、新聞号外の元祖『別段新聞』を発行して、大総督府からの風聞としなが
ら上野戦争の状況を報じる。官軍が江戸に入り、佐幕派新聞に厳しい許可制を敷いたの
で、6 月 8 日第 45 号で廃刊する。1869 年 3 月 7 日復刊する。1870 年 2 月に柳河春三が
亡くなり、同月、第 41 号で廃刊となる。]
1868.−−[ 2.−]【日本】新政府が、洋銀(メキシコ銀、1 ドル貨幣)を金 1 枚が金 3 分に
相当すると規定し、日本の貨幣と同じように通用させる。洋銀の初の国内通用となる。
1868.−−[ 2.−]【日本】新政府が、長崎の済美館を広運館と改称し、本学(国学) 、漢学、
洋楽の 3 局を置く。[ 5.22[ 4.30]開局式。]
1868.3.26[ 3. 3]【日本 】兵庫県内で 、外国人が自由に住居をかまえることが認められる。
1868. 3.30 【フランス】『フィガロ』の主筆ロシュフォール Victor Henri Rochefort(35)が、
ヴィルメサンの示唆と全額出資を得て独立し、
『ラ・ラテルヌ La Laterne』を創刊する 。
『フ
ィガロ』の印刷所をそのまま使わしてもらう。[以後、ナポレオンⅢ世の第二帝政を攻撃
して、帝政の最大の敵対者になる。]
1868. 4. 6 [ 3.14]【日本】天皇(17)が、紫宸殿で、公卿・諸侯・文武百官を率い、 5 ヵ条
を読み上げて誓約、億兆安撫・国威宣揚の宸翰を出す 。〈一、広ク会議ヲ興シ、万機公
論ニ決スベシ。一、上下(しょうか)心ヲ一ニシテ、盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フ
ベシ。一、官武一途(いっと)庶民ニ至ル迄(まで)各其(おのおのその)志ヲ遂ゲ、人心ヲ
シテ倦(う)マザラシメンコトヲ要ス。一、旧来の陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道
ニ基クベシ。一、智識ヲ世界ニ求メ、大(おおい)ニ皇基を振起スベシ〉の五か条よりな
る。[以後 、
「五箇条の誓文(五か条の誓文)」と呼ばれ、新政府の基本的な施政方針とさ
れる。しかし、その内容の開明性が一人歩きし、以後、維新の精神のシンボルとされ、
日本における民主主義の出発点とされるなどする。]
1868. 4. 7[ 3.15 ]【日本】新政府が、旧幕府の高札を撤去し、徒党・強訴(ごうそ)・逃散
(ちょうさん)・キリスト教などを禁じる掲示を出す。「五榜(ごぼう)の掲示」と呼ばれ
る。
1868. 4. 4 【フランス】東洋学者ロニー(羅尼)L. L. Lucian Prunol deRosny(30 )が、パリで
日本語のひらがなで新聞『よのうはさ』を刊行する。[[6.5『横浜報知−もしほ草』が〈フ
ランス國巴黎(ぱり)におゐて羅尼(ろに)といふ人、はじめてよのうはさ〔「うはさ」は
傍線つき〕と外題(げだい)せる新聞紙を刊行せり。みな日本のひらがなもて書き、日本
人直によみえらるべきやうに、かきあらはせるものなり。
〉と報道する。
1868. 4.20[ 3.28]【日本】新政府が、神仏判然令(神仏分離令)を布告し、神社が仏語を
神号とすること、仏像を神体とすることを禁止する。[以後、神道家などを中心に各地で
寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などが起きて、廃仏毀釈(排仏棄釈;排仏毀釈)の運
動が起こる。]
1868. 4.25[ 4. 3 ]【日本】福沢諭吉(34)が、築地鉄砲洲中津藩中屋敷内の蘭学の家塾を芝
新銭座に移して、慶応義塾(のち、慶応義塾大学)と正式に名づけ、この私塾によって
文明の火種を伝えるため門戸を開放することに踏み切る。〈商工農士の差別なく〉洋学
- 409 -
に志す者の学習の場とする。初めて授業料制度を設け、授業料を月に金 2 分とする。
[以
後、近代私学の原型となる。上野戦争のさなかにも経済学の講義を行う。また、活版印
刷の重要性を認識し、構内に活版印刷所を設け、福沢屋諭吉と称して出版業を営む。6
月、日本の将来を悲観し、幕府に御暇願を出す。8 月に幕臣を辞し、中津藩の扶持も返
上する。]
1868. 5. 2[ 4.10 ]【日本】福沢諭吉(34)が、
『西洋事情』の重板(ちょうはん、偽版、海賊
版)が出たため 、
『中外新聞』に広告を出してコピライト(版権)の概念を強調する。福澤
の『西洋旅案内』(慶応 3 年刊)を、既刊の『西洋事情』初編(慶応 2 年刊)の後編と偽っ
て売り出した者がいたことを非難する。[『中外新聞』4 月第 12 号に〈重板は萬國普通
の厳禁なり。然るに奸商往々此禁を犯す者少からず〉と、重板厳禁の論を展開する。4
月第 17 号に、柳河は唐通居士の筆名で「論重板」を執筆する。
『中外新聞外編』5 月巻 19
には渡邉一郎が「擬製並重板を禁ずるの論」を執筆、いずれもパテントやコピーライト
の権利などを説き、政府当局者に立法をうながす。福澤の『西洋事情』外編は奥付に〈慶
応 3 年冬〉とあるが、偽版横行のため、1868(明治元)年に売り出す。]
1868. 5 . 3[ 4.11]【日本】江戸城開城 。徳川慶喜が、水戸に退隠のため江戸を立ち退く 。
1868. 5.15[ 4.23 ]【日本】福沢諭吉が、築地にあった塾を芝の新銭座に移し、年号をと
って慶応義塾と命名する。また、授業料制度を設け、月に金 2 分とする。[1871 年、三
田に移る。4 月 23 日を「慶応義塾大学創立記念日」と定める。]
1868. 5.17 [ 4.25 ]【日本】ハワイへ邦人 120 人余が、契約移民として横浜を出航する。
ハワイ名誉領事から砂糖黍畑の仕事に就く移民のを募集を依頼された木村半兵衛(?)が、
男 2、女 1 の割合で希望者を募集したところ、男 150 人、女 3 人が集まった。出航間際
に幕府から海外渡航はまかりならぬと達しがあり、木村は全員に印半纏にぱっち姿の作
業要員に姿を変えさせ、伊豆へ行くと口裏を合わせて、日本脱出に成功する。
[35 日後 、
ハワイへ到着し、大歓迎を受ける。のちに、この最初の海外渡航者は「元年者」と呼ば
れる。9.30 [ 8.15 ]元年者の通信第 1 号として、牧野富三郎の手紙が日本に届く。手紙に
は〈出帆以来 35 日目にホノルル到着、砂糖製造の仕事についたが、手当も食事もよく、
噂に聞いたよりよほど良い所だ〉とある。]
1868. 5.21[ 4.29 ]【日本】江戸城の神田橋、日比谷、虎ノ門、呉服橋、数寄屋橋、外桜
田など諸門の通行が許される。
1868.[ 4.−]【日本】新政府派が、大阪居留地のイギリス人ハルトリーを援助し、
『各国
新聞紙』を木活字版で発行させ、王政復古の宣伝と海外情報の吸収に務める。
1868.[ 4.−]【日本】新政府が、横浜吉原町に日本最初の駆黴病院を設置させ、イギリス
人医師(海軍軍医)ニュートンの指導により遊女たちの検診制度を発足させる。イギリス
公使パークスが、1861 年以来横浜・山手町に駐屯しているイギリス軍の兵たちに花柳病
が多発しているのを憂慮して、駆黴(駆梅)制度を要請していた。神奈川奉行所は郭主に
駆黴病院の設立を命じ、とりあえず横浜吉原遊郭吉原町会所を仮事務所に、岩亀楼主の
長屋を仮病院として発足する。[以後、ニュートンが主任となり無報酬で遊郭の女たちを
診察し、感染者を強制的に入院させる。当初は陰部を人に見られると、泣いて逃げる娼
妓も出る。1871 年ころから梅毒検査が一般的になる。]
1868. 5.11【フランス】新聞発行の自由などを認めた新聞法が施行される。[6.11 集会の
- 410 -
自由が認められる。]
1868. 5.22[閏 4. 1]【日本】イギリス公使バークスが、大阪東本願寺掛所で、信任状を天
皇に提出する。外国が初めて新政府を承認する。
1868.5.24[閏 4. 3]【日本】福地桜痴(ふくちおうち、本名源一郎)(26)が、
『江湖(こうこ)
新聞』を条野伝平、西田伝助、広岡幸助らととも江戸で発刊する。この頃流行の木活字
ではなく、木版に彫刻してバレン摺りにした半紙二つ折、十数枚をとじた冊子。木版使
用のため図や絵を入れて特色を出す 。この日発行の『中外新聞 』第 12 号に「無鳥郷主人 」
の名で『江湖新聞』の広告を出す。[以後、ほぼ隔日あるいは 3 日、4 日ごとに発行され
る。福地は薩長諸藩に反感をもち、官軍を揶揄(やゆ)的に扱っていたうえ、第 16 集に掲
載した「強弱論」で、薩長を足利将軍に対する山名、細川に擬したため新政府ににらま
れ、官軍が江戸に入ると 5 月 18 日糾問所に引き立てられ、版木は没収、新聞は発行禁止
される。[5.22]第 22 集で廃刊となる。ほかの江戸の民間新聞もすべて発行を止められる
ことになる。福地は新聞記者の筆禍事件第 1 号になる。]
1868. 6. 1[閏 4.11]【日本】アメリカ人ヴァン・リード(バン・リード、ヴェンリード、ウ
エンリード、ウエンリート、彎里度) Eugene M. Van Read が、横浜で小冊子型の新聞『横
浜新報 もしほぐさ』を創刊する 。木版摺りで、頒価は 1 部 1 匁 。岸田吟香(ぎんこう)(35)
が編集を助ける。創刊号は『中外新聞』と張り合い、飛ぶように売れる。[以後、横浜居
留地で発行されるため、明治新政府の取締りを受けず、官軍が江戸占領後、一時江戸の
新聞がすべて発行を中止した間も発行を続ける。のちに栗田萬次郎(くりたまんじろう)
が編集を助ける。日本の新聞発行に先駆的役割を果たす。1870 年 3 月 13 日の第 42 編で
終刊。]
1868. 6.11 [閏 4.21]【日本】駅逓司を会計官のもとに置く。[6.17[閏 4.28]駅逓司知事山
中献。∼ 7.20]
1868.6.18[閏 4.28 ]【日本】新政府が、出版物の無許可発行を太政官布告で禁止する。[以
後、官許のない出版物の売買を差し止める。[ 6.8]新政府が新聞の無許可発行を禁止する。
[6.20 ]新政府が、出版書籍の原稿事前検閲制を定める。]
1868. 7 . 4 [ 5.15] 【日本 】新政府が 、新紙幣「太政官札 」5 種(十両、五両 、一両 、一朱、
一分)を発行する。
1868. 7. 4[ 5.15 ]【日本】新政府が、彰義隊など徳川亡遺の兵士を、上野山内に結集して
平定し、上野山内の土地を接収する。
1868. 7. 5[ 5.16 ]【日本】
『中外新聞』が 、
『別段・中外新聞』を発行して、
〈一昨日大総
督府より左の通り御内達ありしよし風聞儘(まま)写し留む〉として、上野山内に結集し
ていた彰義隊攻撃の戦況を報道する 。最初の「新聞号外」となる。[以後 、号外は「別紙」、
「付録」
、
「別号」などとも呼ばれる。1890 年ごろから「号外」という呼び名が定着する。]
1868. 7. 6[ 5.17 ]【日本】横浜の生糸売込・唐物引取商吉村屋吉田幸兵衛が、郷里の上州
山田郡大間々町の本店に「仕立飛脚」便で、上野寛永寺での官軍と彰義隊の戦闘が昨日
夕刻に終わったことを伝える。[通常は双方が 4 と 9 の日に発信し、互いに「六斎状」と
呼び 、4 ∼ 5 日で到着する 。緊急時には仕立飛脚便が用いられ、2 ∼ 3 日で届けられる。]
(横浜開港資料館編『吉村屋幸兵衛関係書簡』
、石井寛治, 1994)
1868.
[ 5.−]【日本】 4 月以来江戸、横浜に『内外新報 』
、
『新時略』
、『公私雑報』
、
- 411 -
『江湖新聞』、
『日々新聞 』
、『そよ吹く風』、
『外国新聞』、
『海陸新聞』、
『東西新聞』など
新聞がつぎつぎと発刊され、別紙を含めて 14 紙を数える。中立を標榜したのは『東西新
聞』のみで、あとはすべて佐幕派に加担する色彩を濃く濃くする。
1868. 7.27[ 6. 8]【日本】新政府が、太政官布告で、新聞の無許可発行を禁止する。吟味
のうえ、許可なき新聞紙類の版木製本共没収し、版元はもとより、編輯を主宰する者並
びに売り捌く者をも厳罰に処することとする。この頃、佐幕派寄りの江戸の新聞は無断
発行されていたので、すべて布告に反するものばかりである。
1868. 8.−[ 6.−]【日本】政府(駅逓司)が、公用に名を借りた私的通信の無賃輸送が横
行したため、公用状といえども宿駅による無賃継立てを禁止する布告を出す。[[7.4 ]再
度布告を出して、[ 8 月]からは無賃の「御用状」についてどんなことがあってもその宿
駅でストップし、継立てをしないように命じる。[7.6 ]京都からの「御用状」継立ての料
金を布告 7 する。京都から江戸までの仕立便を三日限りで送ると 21 両 2 分 、四日限り 12
両、五日限り 9 両、六日限り 6 両。ただし六日限りでもほかの便があるときに差し込ん
で併送する「幸便」ならば 2 朱( 1 両の分の 1)ですむとされる。普通便では、
「早便」は 500
文、
「中便」は 300 文とし、なるべく安い普通便を利用するように訴える。普通便につい
ては、問屋を介さない継飛脚の方式による政府独自の逓送が定期的に行われるようにな
る。]
1868.
[ 6.−]【日本】海軍伝習所係の本木昌造(44)が、長崎製鉄所頭取に任命され
る。[昌造は長崎の浜町と築町の間に日本初の鉄橋を架設する。この間、活字のことが終
始念頭にあり、山内容堂から受ける報酬をすべて字母の開発に注いで、鋼鉄に種文字を
彫ってみたりするが成功せず、一番小さな活字作りに手こずる。]
1868. 9. 3[ 7.17]【日本】天皇が、
〈自今江戸ヲ称シテ東亰(とうけい)トセン〉という詔
書を出す。江戸が東亰(のち、東京)と改称され、東亰府が設置される。[以後、政府諸機
関がしだいに京都から東京へ移る。]
1868.10. 4[ 8.19]【日本】旧幕府海軍副総裁榎本武揚(32)が、新政府からの開陽丸の引
き渡し要請を拒絶、艦船 8 隻を率い品川から奥州へ向けて脱走出帆する。フランス士官 5
人が参加する。出奔の直前に、幕臣前島来輔(らいすけ)(のち、密)(33 )が訪れ、この艦
船を朝廷に納め、勝さん(勝海舟)と力をあわせて海国防御の備えをしろ、と言う。榎本
は、勝こそ裏切り者で、前島を賊臣と呼び、追い返す。[[10.25]函館五稜郭を占領。以
後、旧幕府軍が蝦夷全域を占領、臨時政府を樹立する。1885 年、榎本は初の内閣に逓信
大臣として入閣し、次官に前島の出馬を要請する。]
1868.10.12 [ 8.27]【日本】明治天皇即位の礼が行われる。
1868.
[ 8.−]【日本】医師の早矢仕有的(はやしゆうてき)(31)が、横浜・姿見町の
梅毒病院の院長に任命される。もっぱら疫病の菌の検査を行う。[[11.10] 早矢仕有的は、
師の福沢諭吉の教示により医業から商業に志を転じ、書籍の委託販売を主とする輸入品
販売を目的とする丸屋商社(のち、丸善㈱)を横浜に創立する。書籍・文具・洋品雑貨を
販売する。]
1868.10.22 [ 9. 7 ]【日本】神奈川県判事(知事?)寺島宗則(36 )が、来る 11 月 19 日の東京
開市に備えるため、京浜間の電信線架設を建議する。この時すでに寺島は、スコットラ
ンド生まれのお雇い外国人リチャード・ブラントン( 27)を通じて電信機一式を注文済み
- 412 -
であった。[1869.10.23 [ 9.19]寺島の進言により政府が官営にて電信業務を行うことを
決め、伝信機役所を置き、寺島に指揮を一任して東京∼横浜間に電信線敷設工事を開始
する 。電信業務官営の方針は確固たるものではなく、民間による電線架設が容認される。
[以後、ブラントンの口利きでスコットランド鉄道会社電信技師ジョージ・ギルバートを
電信お雇い外国人第一号として招き、「監督助」の職名で指導に当たらせる。ギルバー
トは、電信架設の方法をすべて定めて実行し、電信線の保守、建築官の配置、工夫看守
人の分配、線路巡回の心得、報告の差し出し方、などを細かく規定する。1870.1.26[ 12.25 ]
横浜∼東京間に電信が開通、日本初の公衆電報取扱いが始まる。]
1868.10.23 [ 9. 8]【日本】明治と改元され、一世一元の制が定められる。
1868.11. 1[ 9.17]【日本】観音埼灯台が起工される。日本最初の洋式燈台で、日本の近
代灯台事業はここに始まる。
[1869.2.11 [1.1 ] 点火される。1949 年、海上保安庁が、起工
の日 11 月 1 日を「灯台記念日」に制定、第 1 回灯台記念日を実施する。以後、毎年記念
行事を行う。2000.1.19 海上保安庁が、記念日制定の前年に関係者の間で「灯台 80 周年」
を祝う記念行事が行われていたことが判明し、2000.11.1 は第 132 回灯台記念日と改め
る。
]
1868.11. 4[ 9.20]【日本】明治天皇( 17)が、東幸のため京都を出発する。
[以後、史上最
大の引っ越しとなる。各地の沿道には新しい君主を一目見ようと民衆が殺到する。新政
府はこの機会に天皇の存在を印象づけようと、民衆に 3500 樽の祝酒を下賜する。11.26
[10.13] 天皇が東京に到着。
]
1868.11.−[ 9.−]【日本】神奈川裁判所が、横浜で立小便を禁止する。
1868.11.26 [10.13]【日本】天皇が東京に到着、江戸城を皇居と定める 。
[1989 年、全国引
越専門協同組合連合会関東支部が、この史上最大の引っ越しの完了を記念して、10 月 13
日を「引越の日」と定める。
]
1868.12.13 [10.30]【日本】東京に駅逓司を設置する。京都と併立し、東京∼京都間に月 6
回の公用定期便を開設する。
1868.
[ 11.10 ]【日本 】横浜・姿見町の梅毒病院の院長、早矢仕有的(はやしゆうてき)
(31)が、師の福沢諭吉の教示により医業から商業に志を転じ、書籍・文具・洋品雑貨の
委託販売を主とする輸入品販売を目的とする丸屋商社(Z.P.MARUYA & CO.)(のち、丸
善㈱)を横浜に創立する。店主は架空名義の「丸屋善八」とする。新時代にふさわしい知
識の輸入が急務という福沢諭吉の教示により商業に志し、かつての英学の同僚医師桑田
衡平に開業資金の一部を出資してもらい開業にこぎつける。まず、神田明神前三島町の
書肆岡田屋嘉七に、福澤諭吉の『西洋事情』などの委託販売をまかせてもらうよう依頼
する。また有的の患家であった和泉屋金右衛門にも委託販売を乞うなどして、事業は順
調に進む。[1869.1.1 正式開業。元金社中(株主)と働社中(社員)で構成した株式会社組織
を採用し、事実上日本の株式会社第一号となり、社長となる。1870 年 3 月、東京・日本
橋品川町(のち、室町 1 丁目)に書店・薬店を営む東京支店(のち、本店)を設ける。同年 、
日本橋通 3 丁目に「丸屋善七」の名義で書籍販売の店を開店し、
『袖珍(しゆうちん)薬説』
の出版も行う。1871 年、大阪店(のち、1899 年支店)を開設。 1872 年、京都店(1907 年支
店)開設。1874 年、名古屋店( 1922 年支店)開設。1878 年、丸善インキを製造販売。また
歯磨 、石鹸、靴墨なども製造。1893 年、商法の施行により社名を丸善㈱と改称 、資本金 20
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万円。1895 年、日本初の万年筆を売り出す。1898.9 国産インキを発売する。以後、書籍
の出版にも力を入れ、ヘルマン・リッテルの『化学日記』、『物理日記』など理工学分野
の出版に特色を打ち出す。1884 年、同系の丸家銀行の破綻に伴い、社長を辞任する。]
1868.12. −【ドイツ】北ドイツ連邦郵政庁の官僚シュテファンが、国際郵便条約の草案を
発表する 。[以後、国際会議開催の準備を始めるが、フランスとプロイセンの間で普仏
戦争が勃発し、中断される。1983 年、スイス政府が、シュテファンの草案を審議するた
め、ベルンで大会議を開催する準備を進め、各国に対して参加を呼びかける。1874.9.15
シュテファンの提唱とスイス政府の斡旋により第 1 回万国郵便大会議会がベルンで開催
される。]
1868. ○【日本】多くの古典籍・文書を収蔵した伊勢の内宮文庫「林崎文庫(はやしざき
ぶんこ)」が、神宮文庫に移管される。
1868. ○【日本】横浜居留地の外国人が、ラントン車で横浜∼東京間を往復する。このこ
とが 、
『ジャパン・パンチ』に掲載される。
1868. ○【日本】からくり儀右衛門こと田中久重が、二輪車と三輪車を製造する。(弟子
川口市太郎の手記による。
『自転車年表』)
1868. ○【フランス】印刷所経営者ガブリエル・モリスが、効果的な広告用ポスタを依頼
されて、広告塔を発案する。高さ約 6m の濃い緑色の円柱状の塔で、頭頂部にタマネギ
形ドームが付いている。[以後、「モリスの塔」と呼ばれ、パリ市内の大通りやターミナ
ル付近に 773 基が建てられ、パリ名物の一つになる。2006 年、7 月までに撤去される。
以後、新しい広告塔が 、
「モリスの塔」を基本にしたものと、頭頂部のドームがひさし
のように突き出ているものの 2 種類が、合わせて 550 基設置される。]
1868. ○【フランス】最初の自転車競走が、パリのサンクールで行われ、イギリス人ジェ
ームズ・ムーアが優勝する。
1868.○【フランス】1868 年ルクランシェ Georges Leclanch( 29)が、マンガン電池を考案
する。正極に炭素、負極に亜鉛、電解液にペースト状にした塩化アンモニウム、消極剤
に二酸化マンガンを使用する。[以後、これが乾電池の代表的な構造となる。]
1868.○【イギリス】世界最初の赤と緑の 2 灯式の交通信号が、ウェストミンスターでで
用いられる。
[1918 年、ニューヨークで 3 色式が設置される。
]
1868.○【アメリカ】印刷技術者ショールズ Christoph Latham Sholes( 49 )が、石油業者デ
ン ス モ ア な ど の 後 援 に よ っ て 最 初 の 実 用 的 書 記 機 械 を 試 作 し 、「 タ イ プ ラ イ タ
(typewriter) 」と名付けて特許を得る 。[以後 、5 年間に約 30 の試作機を考案する。鍵盤(キ
ーボード)の配列も、アルファベット順ではなく文字の使用頻度などから決めるが、あま
り早打ちができすぎて、活字の棒がからまって機械が動かなくなるので、「E」の字を中
段の「AS 」から上方に移すなどして 、指の動きを遅くするよう工夫をして、
「QWERTY」
順の配列の原型をつくる。1873 年、ニューヨークの銃・ミシン・農耕機製造業者レミン
トン父子社に「タイプライタ」の製作を依頼し、9 月に売り出す。レミントンはショー
ルズの特許権を買い取って改良を加え、翌年自社商標で販売を開始する。以後、活字棒
の動きが機構上改良され、合理的な鍵盤の配列も各種提案されるが、常に「QWERTY」
配列に馴染んだ人々に新しい配列は受け入れられず、「QWERTY」配列が全世界の主流
になる。]
- 414 -
1868.○【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison ( 21)が、ボストンでウエスタン・ユニオ
ン電信会社の通信手となる。ファラディーの『電気学の実験的研究』に感銘を受ける。
電気式投票記録機を発明し、最初の特許を申請する。議会での投票において、各議員の
賛成と反対を識別し、化学処理をした特殊な用紙に即座に記録できる装置で、エジソン
は議事の進行を円滑にする画期的大発明と意気込む。[ 1869 年、エジソンが電気式投票
記録機で最初のアメリカ合衆国特許「第 90646 号」を得る。アメリカ各地の議会に売り
込むが、1 台も採用されない。この頃、議会では、議案に反対する議員は牛歩戦術が重
要な手段で、それを否定するような装置は政治本来の機能を妨害するものと反対される。
以後、エジソンは需要のない発明はしないと決心する。]
1868. ○【アメリカ】世界最初の食堂車が、シカゴ・ノースウェスタン鉄道に登場する。
1868.○【アメリカ 】ハイアット John Wesley Hyatt( 31 )が、弟のアイザック Isacc Smith Hyatt
とともに「セルロイド」の製法を発明する。ニトロセルロースを樟脳(しょうのう)で可
塑的にしたものは 1861 年にパークスが発明していたが、ハイアットはこれを固形物の製
造に用い、
「セルロイド」の商品名で登録する。[1870 年、特許を取得する。1888 年、イ
ーストマン社が、セルロイド製の写真フィルムを作製する。]
1869(明治2)
1869. 1. 1[ 11.19 ]【日本】新政府が、鉄砲洲で東京開市する。また、新潟港を開港する。
1869. 1. 1[ 11.19 ]【日本】新政府が、築地に外人居留地を設置する。また、外人相手の新
島原遊郭ができる。[ 1871.6 廃止する。]
1869.
[12. −]【日本】駅逓司が、諸官庁の仕立便の費用がかさむことを避けるため、
毎月五、十の日を選び、計 6 回宰領がついて六日限りの公用便を京都までまとめて差し
立てる「定便」を極力利用するよう訴える。東京から京都への「仕立て飛脚」の料金を
決める。三日限便 23 両(宿継ニテハ人足六人払此賃金金十八両一分二朱余)
、四日限便 7
両(人足五人払此賃金十五両一分一朱余)
、五日限便 6 両(人足四人払此賃金十二両一分
余)
、六日限便 6 両(人足三人払此賃金九両三朱余)
、八日限便 4 両(人足二人払此賃金
六両二朱余)
、十日限便 2 分 2 朱(人足一人払此賃金三両一朱余)
。[[5 月]以降は四、九
の日となる。]
1869.
[12. −]【日本】薩摩藩で島津斉彬の命により電信の実験をしていた寺島宗則の
熱心な進言により、新政府が電信を国営で行うことを決定する。
1869. 2.11[ 1. 1]【日本】観音埼燈台が点火される。煉瓦造り、石油使用の日本最初の西
洋式灯台となる 。
[以後、洋式燈台が野島崎、樫野崎、潮岬、佐多岬、剣崎などに設置
される。]
1869. 2.11[ 1. 1 ]【日本】福沢諭吉門下の医師早矢仕有的(はやしゆうてき)( 32)が、横浜
に丸屋(まるや)商社を結成、和洋書籍、洋品、薬品の販売を始める。[1870 年、東京・
日本橋に東京支店(のち、本店)を設ける。以後、大阪、京都 、名古屋に支店を設ける。]
1869. 3.20[ 2. 8]【日本】「新聞紙印行条例」が制定され、発行許可制、政府批判禁止な
どが規定される。
1869. 3. 2[ 1.20 ]【日本】新政府が、諸道の関門について〈今般大政更始四海一家の御宏
謨立てなされ候に付き〉として、箱根など交通の重要地点に設けられた関所を廃止する
- 415 -
太政官布告を出す。全国の道路は「天下の公道」になる。
1869. 3 . 9 [ 1.27]【日本】新政府が、図書開版に関して、許可、納本手続を規定する。
1869. 3.17[ 2. 5]【日本】新政府が、新価鋳造を決定し、太政官のなかに造幣局を設置す
る。[[7.−] 造幣寮と改称。1877.1.11、ふたたび造幣局と改称する。]
1869. 3.20[ 2. 8]【日本】新政府が、新聞紙印行条例を定める。発行許可制、政法批評禁
止などを規定。東京では昌平・開成学校、その他は各府県の裁判所が管轄する。
1869.3.25[ 2.13]【日本】新政府が、上野山内を開放し、庶民の遊覧に供する。
1869. 3.31[ 2.19 ]【日本】東京府が、市中風俗矯正の町触れを出す。[4. 3[ 2.22 ] 東京府
が、猥褻の図画・見世物・器物の売買・興業を取り締まる。また、男女の混浴を禁止す
る。以後、男女混浴禁止はなかなか守られない。]
1869. 4.18[ 3. 7]【日本】柳河春三(やながわしゅんさん)が、前年廃刊を余儀なくされた
『中外新聞』を官准復刊する。日本で初めて広告料金規定を掲載する。[20 号に、上州
屋総七刊、神田考平訳『和蘭政典 』
、福沢諭吉『英国議事院談』、杉田玄端訳『痘瘡金針』
など日本初の出版広告を掲載する。1870 年 2 月、柳河が病死して、第 41 号で廃刊とな
る。]
1869.[ 3.−]【日本】長崎製鉄所(のち、三菱重工業長崎造船所)頭取の本木昌造(44)が、
上海の美華書館主任ガンブル William Gamble(?∼ 1886 )から印刷技術の伝授を受けるた
めに招きたいとオランダ改革派教会宣教師で開成学校教師のフルベッキ(ヴァーベク)
Guido Herman Fridolin Verbeck ( 38)に懇請する。フルベッキは、本木の要請を理解して、
近くアメリカに帰国予定のガンブルに、帰国途次長崎に立ち寄るよう依頼する。[11 月、
ガンブルが長崎に立ち寄り、字母製造法を本木昌造らに伝授する。]
1869. 5. 1[ 3.21 ]【日本】新政府が、明治天皇の沙汰書により、修史のため史料編輯国史
校正局を九段の旧和学講談所に設置する。原始的な日本の文書館となり、修史事業を開
始する。[6.18 [5. 9]国史編輯局と改称し、昌平学校に移転する。1972.11.4[ 10. 4]太政
官正院直轄の歴史課となる。1893 年、編年史の形の史誌編纂事業を停止。1895 年、収集
史料の編纂を行うために、帝国大学文科大学史料編纂掛が設置される。1901 年、
『大日
本史料』『大日本古文書』を発刊,29 年史料編纂所と改称。史料編纂所は日本に関する
史料の研究,編纂および出版を行うことを目的に,古文書・古記録・古書の収集,複本の
作成,ほかに寄贈・移管により原本も保存するが、7 万点余にすぎない。一方,明治以降
の官公庁の公文書は書庫が狭隘なため文書の保存年限を定めて史料的価値のある有期限
文書もほとんど廃棄し,対策としての文書館はつくられない。1950 年、史料編纂所が東
京大学付置研究所の一つとなる。
]
1869. 5.10【アメリカ】ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道が接
続され、全長 2800km の大陸横断鉄道が全通する。接続地点のユタ州プロモントリー・ポ
イントでは、両社の主任技術者や労働者らが出会い、握手し合う模様が電信で伝えられ、
全国を熱狂させる。完成祝賀式典が行われ、セントラル・パシフィク鉄道社長スタンフォ
ード Leland Stanford (45)が、カリフォルニア州の金で作られた最後の犬釘を枕木に打ち
込む 。最後の犬釘は電信線につながり、全世界にその信号が伝達される仕組みのところ、
社長は釘を打ちそこなう。機転の利く電信技師が咄嗟に信号を送り、アメリカの電信史
上最も目を見張る機会を逸さずに済む。この知らせに、シカゴでは 10km に及ぶパレー
- 416 -
ド行進が行われる。ニューヨークでは 100 発の祝砲が発射される。フィラデルフィアで
は、自由の鐘が打ち鳴らされる。[以後、東海岸と西海岸とを結ぶ全国的な人・物の輸送
を円滑にし、国内市場の拡大に寄与する。大陸横断鉄道の完成により、18 世紀末に東部
大西洋岸地方で駅馬車が運行されて以来発展してきた駅馬車の時代は終わる。]
1869. 6 . 9 [ 4.29]【日本】駅逓司を民部官へ移設する。
1869. 6.18[ 5. 9]【日本】町田房造が、横浜の馬車馬通りに「氷水屋」を開業し、氷水と
日本初のアイスクリーム「あいすくりん」を製造・販売する。当初は外国人を相手に、1
人前の値段は 2 分と大変高価な物で、一般には売れ行きははかばかしくない。[以後、ア
イスクリームが日本で普及するには 30 年ほどかかる。1965 年、日本アイスクリーム協
会が 5 月 9 日を「アイスクリームの日」と定める。]
1869. 6.22[ 5.13]【日本】新政府が、出版条例を布告する。日本史上初めて著作者保護
に踏み出して、出版許可制、政府誹謗・風俗壊乱禁止、版権保護などを規定する。管轄
は昌平・開成学校、3 都には書肆年行司制を置く。第 1 条に〈出版ノ書ハ必ス著述者出
版人売弘所ノ姓名住所等ヲ記載スヘシ、縦令ヒ一枚摺ノ品ト雖モ然リ此法ヲ犯ス者ハ罰
金ヲ出ス可シ〉とする。第 3 条〈図書ヲ出版スル者ハ官ヨリ之ヲ保護シテ専売ノ利を収
メシム〉、第 9 条〈重版(偽版のこと)ノ図書ハ版木製本盡ク官ニ没入シ且ツ罰金ヲ出サシ
ム〉などと規定する。風俗壊乱禁止条項には〈…淫蕩ヲ導クコトヲ記載スル者軽重ニ随
ッテ罪ヲ科ス〉としるされる。[ 1871 年、部分改正される。1875 年、罰則 8 条と付則か
らなる条例に強化され、許可制から届出制になる。]
1869. 6.30[ 5.21]【日本】日本初の小学校、京都府の上京第二十七番組小学校(のち、柳
池中学校)の開業式が行われる。[この年、政府は庶民を対象とする小学校の設置を奨励
し、市内 64 番組に各 1 校の小学校が設立される。学齢人口の約 25 %が就学する。]
1869.
[ 6.−]【日本】長崎製鉄所(のち、三菱重工業長崎造船所)頭取の本木昌造(44)
が、県庁所属の製鉄所内に活版伝習所を設立する。[1872 年[10 月]、工部省所轄の「活
字製作並びに新聞紙局」となり、東京へ移る。同年 11.22 勧工寮活字局に吸収される。]
1869. 夏
【日本】東京∼横浜間の鉄道敷設を目指し、最初に品川・八ツ山の切り
取り工事を開始する。[ 12.12[11.10] 政府が、正式に鉄道計画を決定する。]
1869.7.25[ 6.17 ]【日本】版籍奉還が始まる。藩知事が置かれ統一政権樹立へ踏み出す。
〔版は藩主の版図、籍は人民の戸籍〕また、公卿・諸侯を華族、藩士を士族と卒、農・
工・商を平民と改称する。[以後、形式上は中央集権となる、知藩事には旧大名が任命さ
れたので、実質的にはまだ不十分である。1871.8.29 [7.14 ] 天皇が廃藩置県の詔書を発布、
全国が 3 府 302 県になる。]
1869. 8.15[ 7. 8]【日本】政府が、幕府の開成所を受け継いで昌平校を大学校とする。高
等教育と教育行政の両機能を持つ。
1869.9.14[ 8. 9]【日本】政府に雇い入れられたイギリス人電信技師ギルバート G.M.Gilbert
が、横浜燈明台役所と横浜裁判所(のち 、県庁)の間(7 町)に日本最初の電信線を架設し、
ブレゲー(ブリゲー;ブレゲット)指字電信機(円盤上で文字を指示)により官用通信の実
験に成功する。この際に、神奈川修文館生徒 4 人を選抜して、工部省修技道場を開設し 、
電信機を試験運用する 。
〈それはあたかも時計の盤面の時分を指針の指すの類し、之を
辿りて電報を読みたるものにして、其の操作単純なるも電気の感応微弱にして遠距離に
- 417 -
用ふる能はず、かつ瞬速に送受し難き不便あり〉と記録される。(逓信省『通信事業 50
年史』)[以後、もっぱら官用の供される。]
1869.9.20[ 8.15 ]【日本】政府が、蝦夷地を北海道と改称し、11 国に分ける。
1869.10. 1【オーストリア】オーストリア・ハンガリー帝国で、世界最初の公式前払い郵
便葉書が発行される。考案者はウィーンの陸軍大学の経済学担当教授ヘルマン Emanuel
Hermann( 1839 ∼ 1902)で、この年に、無封印刷郵便が認められている以上、日常の簡易
通信に供するため封書でないカードで郵便を出せるように郵便法を改正すべきであると
いう提案が採用された。[ 1870 年、ドイツとイギリスが郵便はがきを発行。1871 年、ベ
ルギー、カナダ、デンマーク、フィンランドで発行。1872 年、ノルウェー、スウェーデ
ン、ロシアで発行。1873 年、日本、スペイン、フランス、アメリカ合衆国で発行。1874
年、ルクセンブルク、イタリアで発行される。]
1869.10.23 [ 9.19]【日本】伝信機役所を設置、東京∼横浜間に電信線敷設工事を開始す
る。神奈川県判事寺島宗則の進言により政府が電信業務を行うことを決め、イギリスか
ら技師を招いて着手する。[1870.1.26[ 12.25 ] 横浜傳信局(横浜裁判所内)と東京傳信局(築
地)間で開通し、公衆通信の取扱いを開始する。1950 年、日本電信電話公社(NTT)がこ
の工事開始日 10 月 23 日を「電信電話記念日」に制定、この日を中心とした前後 3 日を
電信電話週間とする。]
1869.11. 7【フランス】最初の国際自転車ロードレースが、パリ∼ルーアン間 123km を
結んで開催される。女性 5 人を含む 198 人が参加し、イギリスのジェームス・モアが 10
時間 45 分で 1 着になる。
1869.11.17 【エジプト】スエズ運河が正式開通する。開通記念式典がイスマイリアで盛大
に催される。10 年の工期を要し、総延長 162.5km 。これまでの喜望峰回りがなくなり、
ロンドンからボンベイ(のち、ムンバイ)間の距離が 2 万 1000km から 1 万 1000km に短縮
される。[以後、ドイツの旅行業者カールとルイス・シュタンゲン兄弟が、初めてエジプ
ト旅行を実施する。1870 年、イギリスのクックがあとに続く。オリエントはヨーロッパ
人にとって魅力的な旅行地となる 。
]
1869.[11.−]【日本】長崎製鉄所(のち、三菱重工業㈱長崎造船所)頭取の本木昌造(45)の
要請と、オランダ改革派教会宣教師フルベッキ(ヴァーベク)Guido Herman Fridolin
Verbeck( 39 )の仲介努力により、上海のアメリカ長老会の印刷所美華書館の館長であった
宣教師ウィリアム・ガンブル William Gamble(?∼ 1886)が、アメリカに帰国の途次長崎
に立ち寄る。昌造以下の面々は緊張した面持ちでガンブルを迎える。英学者の何(か)幸
五が通訳にあたる。まず、製鉄所構内に活版伝習所を設ける。ガンブルは上海の美華書
館から携えてきた欧文活字、日本活字、込め物(クワタ)、インテルなど印刷に必要な材
料を備え、文選、植字について教授し始める。昌造は製鉄所係員と新街私塾の学生から
選抜された社中の人々と共に、活字母型の作り方を伝授される。[以後、ガンブルは、4
ヵ月の日本滞在予定を大幅に延ばし、翌年 5 月まで 6 ヵ月滞在し、いったん上海に戻っ
た後、アメリカに帰国する。これによって、昌造らは永年悲願の金属活字字母製作の秘
伝を学び取り、活字鋳造に成功する。1870 年[ 2 月] 本木昌造は頭取を辞任。[3 月] 印
刷業の利潤を割き、また多くの出資を得て、長崎新町に新塾字版製造所(新町活版製造所)
を創設、また、大阪大手筋折屋町に長崎新塾出張大阪活版所を設立し、近代日本の印刷
- 418 -
技術発展の道を開く。1872 年[ 2 月] その成果が、
『新街私塾余談』に掲載された「崎陽
新塾活字製造所」活字見本に表示される。の明朝活字といわれる大小各種金属活字の合
理的なシステム、活字への日本の書のもつ美しさの導入、また長崎新塾による新しい市
民の育成などに貢献する。]
1869.12.10 【アメリカ】アメリカ最初の婦人参政権法が、ワイオミング準州で成立する。
1869.12.12 [ 11.10 ]【日本】政府が、東京∼京都間(中山道経由)の鉄道幹線、東京∼横浜
間、京都∼神戸間、琵琶湖∼敦賀間の各支線の建設を決定する。鉄道建設は徳川幕府の
時代から外国人により出願されており、ようやくイギリスを頼りに正式決定する。[12.14
[11.12] イギリス人レーに 1 割 2 分利付 100 万ポンド借款の起債契約書を交付する。]
1869. ○【日本】萬屋(のち、マンツネ)が創業する。
1869. ○【日本】横浜売込商の甲州屋篠原忠右衛門が、輸出蚕種相場の急騰を甲斐国東八
代郡東油川村の長男正次郎に飛脚便で知らせる。飛脚に持たせた手紙に 、
〈この飛脚が
約束の 22 時間よりも 2 時間早く着いたら、3 両の賃金を 2 分増しにして支払うように〉
としるす。
(薮内吉彦『日本郵便創業史』有斐閣出版、 1975、石井寛治、1994 )
1869. ○【日本】横浜の宣教師が、病身の妻のために車つきの乗り物を作る。これを見た
旧福岡藩士で東京で料理屋を営んでいた和泉(いずみ)要助、八百屋(やおや)鈴木徳次郎、
車職高山幸助らが協力して、それを改良して人力車を発案する。車夫が引いて走る二輪
車の総称で、人力とも略称し、俥(くるま)とも書く。[1870 年、製造を始める。4.22 [3.22]、
東京府の許可を得て開業する。
]
1869. ○【日本 】
『奇機新話』に〈幻燈より発射する光線を平面鏡に写して反射せしめ、
魔術的幻視にて観者を驚かす法〉とあり、初めて「幻燈」の語が使われる。(椎名仙卓『明
治博物館事始め』思文閣出版、1989 )
1869. ○【日本】オーストリアから電信機が献上される。工部省の子安峻が、和文符号を
考える。これは、アルファベットに直接イロハを当てはめた傾向があり、符号長と文字
の使用頻度についての関係も合理性がない。[ 1870 年、通信実験を行う。日本における
通信回線開設の気運が高まる。]
1869. ○【イラク】バグダッドで国内初めて印刷が行われる。
1869.○【ハンガリー】医師ベンケルトが、初めて「ホモセクシャリティー」の語を使う 。
1869. ○【フランス】最初のサイクルショー(自転車ショー)が、パリで開催される。パイ
プ・フレーム、泥除け、ワイヤー・スポーク、前輪ブレーキなどの新しい発明品が多数展
示される。パリの時計製造人ギルメとメイヤーの 2 人が、チェーンを使って後輪を駆動
させるセフチィー型自転車を作ったと伝えられる。
1869.○【フランス】詩人で発明家のクロ(クロス) Charles Cros( 27)が、一種の色彩写真を
発明する。
[1977 年、蓄音機(パレオフォン)を発明する。
]
1869.○【イギリス】科学雑誌『ネイチャー(Nature)』創刊。[専門誌の機能とは別に科学
界の連絡と啓蒙という性格をもつが、より学術的側面を維持しつづける。]
1869.○【イギリス】政府が、電信事業を国営化し、民営の電信線総延長 2 万 5000km を
買収する。
1869. ○【アメリカ】元南軍指揮官・ワシントン大学(のち、ワシントン・リー大学)学長
リー Robert Edward Lee( 63)が、南北戦争で荒廃した南部の再建には優秀なジャーナリス
- 419 -
トが重要な役割を担うとして、ジャーナリスト志望の学生に奨学金を与えることを提案
する。大学におけるジャーナリスト教育の最初とされる 。
[1903 年、カンザス大学でジ
ャーナリズム・コースは開設される。
]
1869.○【アメリカ】エノス・バートンが 、グレー・アンド・バートンという電気器具店を 、
クリーブランドで設立する。バートンは資本が足りず、母親が自宅を担保に入れて 400
ドルを工面する。エジソンも協力する。[のち、ウエスタン・エレクトリック Western
Electric Co.になる。1882 年、ベル・システムの親会社アメリカン・ベル・テレフォン社の
傘下に入る。1984 年、 AT & T テクノロジーに社名変更。]
1869.○【アメリカ】広告会社「N.W.エイヤー・アンド・サン社(N.W.Ayer and Son ) 」が 、
フィラデルフィアに開業する。広告スペースの代理販売のほかに、初めて広告の制作や
市場調査、広告キャンペーンの業務などを始める。
1869.○【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison ( 22)が、ウェスタン・ユニオン電信会社
を辞め、ニューヨークに移転する。電気投票記録機を発明し、最初の特許を得る。これ
は議会での票決を電信によって自動的に記録する機器であるが、採用はされない。また
第二の発明である株式相場表示機(ティッカー)を発明し、特許を申請する。ゴールド・イ
ンディケーター社に勤務するが、辞めて「ポップ・エジソン社」を設立する。[1870 年、
ティッカーが、ウエスタン・ユニオン社に 4 万ドルで売れる。]
1869.○【アメリカ】オーバリン・カレッジ教授グレイ(グレー) Elisha Gray( 34)が、グレ
イ(グレー)・アンド・バートン社を設立する。[以後、電気掃除機、ミシンなどを製造す
る家電メーカとなる。1882 年、ベル・システム( AT&T とその子会社網)に過半数株式を
握られる。以後 、会社の性格を一変させ 、ウェスタン・エレクトリック社(Western Electric
Co., Inc. )に発展、ベル・システムで用いられるコミュニケーション機器の製造に全力を
傾注する。]
1869. ○【アメリカ】ブロンド美人のイギリス人、リンダ(リビア?)・トンプソンが、ニ
ューヨークでアメリカンスタイルのストリップをのバーレスク形式で演じてデビューす
る。ちらりとだけ見せる色気を売り物とし、話題騒然となる。[以後、中西部にも拡大す
る。]
1869. 【流行語】飛脚船。
1870(明治3)
1870. 1 . 6 [1869.12. 5]
【日本】政府が、府藩県の紙幣製造を禁止する。
1870. 1.18[ 1869.12.17 ]【日本】政府が、大学校を大学、開成学校を大学南校、医学校を
大学東校と改称する。
1870.1.26[ 1869.12.25 ]【日本】日本初の公衆電報の取扱いが開始される。東京∼横浜間 8
里 1 町 54 間(約 32km)間に 593 本の電信柱が立てられ、ブレゲー指示電信機による電信
が開通し、公私一般通信が始まる 。
「定連雅楽府(テレガラフ)」とか「針金だより」な
どと呼ばれる。政府が、傳信機役所を傳信局(民部・大蔵両省所管)と改め、公用だけ
でなく民間にも開放され、横浜裁判所(のち、県庁)内と東京築地運上所(のち、税関)に
それぞれ置かれた電信局で公衆電報の取扱いを開始する。料金はカナ 1 文字につき 1 厘 6
毛。これに配達料を加算する。( 25 銭との記述もある。)この頃、米 1 升(約 1.5kg)が 4
- 420 -
銭で相当高価だ。[以後、人を走らせるよりは安く速いということで、相当の利用者があ
る。民衆の間には、電線が伝染病を引っぱってくるという噂がたち、ほとんど利用する
者はいない。新政府に反感を抱く者の中には、電柱を切り倒す武士や電線を切断する者
も現れる。寺島宗則は、電信線が切られたという報告を聞くと 、
〈それはよんどころな
い。政府はつなぎ役、人民は切り役じゃ〉という。9.15[8.20 ] 大阪・神戸間の公衆電報
の取扱いを開始する。1872 年の東京府内の電報料金は 5 銭。のち、横浜地方検察庁脇と
東京都中央区明石町に、それぞれ〈明治二年十二月二五日〉の日付を刻んだ「電信創業
之地」碑が建てられる。]
1870. 1.27[ 1869.12.26 ]【日本】政府が、郵便蒸気船を利用するため「蒸気郵船規則」を
制定し、東京∼大坂間に航路を開設、半官半民の回漕会社に東京∼大坂間の旅客・貨物
輸送に当たらせる。また 、
「商船規則」で西洋型船舶所有者の保護方針、日本の「御国
旗」のデザインや規格などを定める。国旗は、徳川幕府が「日本惣船印」として定めた
白地日の丸を踏襲して「商船国旗」として定める。国旗の寸法は縦横比 7 対 10 、日章直
径は縦の 5 分の 3 、日章の中心は旗面の中心から横に 100 分の 1 だけ旗竿側に寄せるこ
ととされる。 [[ 10.−]民部省大坂出張所が、東京・大坂間の「諸官物」輸送を蒸気船に
頼れば時間・費用が節約できると主張する。これに対して、急ぎの物や大切な物は従来
どおり「陸地運輸」でなければならないという強い反論が出て、結局政府の郵便物輸送
には利用されない。以後、国旗は、海軍国旗章の制定などもあり、日の丸は日本の国旗
としてしだいに内外に定着していく。のち、(社)国旗協会が 1 月 27 日を「国旗制定記念
日」と定める。 1999.8.9 「国旗及び国歌に関する法 」が成立し、日の丸、君が代が国旗、
国歌として法制化される。8 月 13 日、公布、施行。]
1870. 1.−[ 12.−]【日本】村田文夫が『西洋聞見録』を創刊する。案内記事中に、広告
は〈その行数の多少に応じて料金を定める〉とある。[∼ 1871 。
]
1870. 2.23 [ 1.23]【イギリス】イギリス人レイが、日本の鉄道敷設のため、9 分の利子付
き公債をロンドンで募集する。
1870.
[ 1.−]【日本】前島密(35)が、大蔵省に出仕し、大隈重信、渋沢栄一らと近
代化施策を検討し推進する改正掛に席を連ねる。前島は大隈の求めで鉄道建設のための
見積書「鉄道臆測」を即座にまとめる。
1870. 3.−【中国】イギリスが、清国政府と交渉を繰返してきた結果、上海∼香港間海底
電信線の敷設権を得る。敷設工事を大東電信会社(Eastern Extension Australia & China
Telegraph Co. )に当たらせる。この時、すでに大北電信会社が、中国政府の承認を得ずに
この海底線の敷設工事に着手している。
[以後、両社が中国の対外通信業務を分担する。
]
1870. 4.19[ 3.19]【日本】政府が、鉄道掛を設置する。[4.25[ 3.25] 東京∼横浜間鉄道
の測量を開始する。
]
1870. 4.22[ 3.22]【日本】東京府が、人力車の営業を許可する。東京で料理屋を営んで
いた旧福岡藩士和泉(いずみ)要助と友人 2 人が、昨年ヨーロッパの馬車をヒントに考案
した人力車を製造し、これによる営業を申し出ていた。許可に際しては、車はなるべく
丈夫にして華美にしないこと、通行人に迷惑をかけないこと、料金はなるべく安くする
こと、など細かい条件がつけられる。[以後全国的に普及する。東京府だけで、1971 年
に 400 余台、1872 年に 1 万 1040 台、1876 年には 2 万 4470 台と激増する。一部はイギリ
- 421 -
スなどヨーロッパや東南アジア諸国に輸出され、「リキシャ」とよばれ海外でも名をは
せる。機械の輸出の初めとなる。1912 年、空気入りゴムタイヤに改良される。1938.3.31
東京駅構内の人力車が廃止される。]
1870. 4.25[ 3.25]【日本】お雇い外国人の建設技師エドモンド・モレル Edmund Morell
(Morel ?)(29)が、3 月にイギリス公使パークスの推薦により来日して、鉄道寮の初代建
築師長(技師長)となり、東京∼横浜間鉄道の鉄道建設を主宰し、測量を開始する。日本
最初の鉄道企業が開始される。[以後、モレルは、神戸∼大阪間の鉄道敷設事業も主宰す
る。建設資材もつとめて国産品の調達を勧め、経費の節約と工事の速成を図る。また政
府に工部省の設置、同省内に工学寮、工部大学、工技生養成所などの必要性を建言する 。
工事なかばにして過労のため持病の肺疾患が悪化する。1871 年 9 月 23 日、鉄道開業を
前にして日本で客死する。日本人の妻も看護の疲れから半日後に後を追うように急死す
る。夫妻は横浜の外人墓地に埋葬される 。1934 年、篤志家により墓石が建立される。1962
年、鉄道記念物に指定される際、鉄道創業に優れた功績を残した旨を刻んだ顕彰碑が建
立される。]
1870.[ 3.−]【日本】東海道の宿駅での馬継ぎが廃止され、人足継ぎで六日限りの逓送を
行うことになる。
1870.[ 3.−]【日本】2 月に長崎製鉄所頭取を辞任した本木昌造(46)が、長崎新町に新塾
字版製造所(新町活版製造所)を創設する。自ら印刷業の利潤を割き、また松田源五郎(の
ち十八銀行を創設、築地活版所社長)、品川籐十郎、和田半がそれぞれ 1000 両、島田茂
次郎、和田久米造が各 500 両を出資する。貧乏士族の救済の可能性を秘めた新職業とし
て大いに期待される。[[6 月] 昌造が、教部省(のち、文部省)の活版御用掛を命じられ
る。夏、大阪大手筋折屋町に長崎新塾出張大阪活版所を設立する。10 月、教部省活版御
用掛の任官を丁重に断り、代わりに新たに小幡活版所を創設することで協力を惜しまな
いとうことで折り合う。1871 年[ 7 月] 門下の平野富二が、その経営を継承し、活字の鋳
造・販売に力を注ぐ。1973 年 7 月、小幡活版所が手狭になり、築地 2 丁目に 120 坪を買
い、移転して築地活版所を開く。]
1870. 5.15[ 4.15]【日本】政府が、人胆・霊天蓋(脳髄)などとともに陰茎の密売を厳禁
する。
1870.5.16[ 4.16 ]【日本】東京∼横浜間で欧文電報の取扱を開始する。
1870.[ 4.−]【日本】神奈川裁判所の翻訳官子安峻(こやすたかし)(34)が、本野盛享、柴
田昌吉らと英和辞典の刊行を計画し、活版印刷所「日就社」(読売新聞社の前身)を横浜
・弁天通に設立し、3 人で共同経営する。印刷機と活字は上海の美華書館から求めて、
『英
和字彙』を発行する。[ 1871.1.28 子安峻は日本最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』創刊に
あたり、編集担当に迎えられる。1874 年 11 月 2 日、
『読売新聞』を創刊。]
1870.5.30[ 5.1]【日本】
『ジャパン・ガゼット』主筆のイギリス人ブラック John Reddie Black
(43 )が、そのかたわら月 2 回刊の絵入り英文雑誌『ファー・イースト(The Far East)』を
東京で創刊する。好評を得る。[ 1876.6 終刊。]
1870. 6. 8[ 5.10 ]【日本】租税権正前島密(35 )が駅逓権正を兼務する。この日、回付され
た決済文書が、飛脚便を利用した東京∼京都間の代金 1500 両の支払いに関するもので、
御用の仕立飛脚の料金単価があまりに高いのに驚き、官営郵便を開設して同額の支払い
- 422 -
総額を予算に振り向ければ、より効率的に事が運ぶと考える。直ちに試算をし、郵便取
扱方法を検討する。[6.17[5.19 ]新式郵便の制を建議する。6.30[6.2]「新式郵便之仕法」
を太政官に建議する。7.20[6.22] 前島密の駅逓権正兼官が免じられる。1971.3.14 新式郵
便開始。]
1870. [6.−]【日本】政府が、
「伝信機」をいずれは全国各地に設けるが、さしあたり東
京・長崎間に「建造」すると発表する。デンマークの大北電信会社(The Great Northern
Telegraphic Co.)による横浜進出への牽制を図る。[ 9.20[8.25] 交渉の結果、同社に長崎
・横浜への海底電線陸揚げ権を 30 年間にわたり与えることになる。]
1870. 7.15[ 6.17]【日本】前島密が、鉄道敷設の資金調達のトラブルを解決するためイ
ギリス出張を命ぜられ、駅逓権正に杉浦譲が就任する。[ 7.20[ 6.22 ] 前島密の駅逓権正
兼官が免じられる。]
1870. 7.19 【フランス】プロイセンに宣戦布告し、普仏戦争が勃発する。
[∼ 1871 。この
間、フランス軍は、360 羽の伝書鳩を起用して、尾羽に通信文を書いた薄い布を結び付
けて、延べ 15 万以上の通信を運ぶ。
]
1870. 8. 6[ 7.10 ]【日本】民部大蔵省を分割し、民部省と大蔵省とし、駅逓司や電信事務
は民部省に所属する。この日限りで、京都宛て公用「急便」の飛脚問屋委託が停止され
る。[[8.17]東京(江戸)の定飛脚問屋島屋、和泉屋、京屋、山田屋、江戸屋の 5 軒が、料
金を下げるので従来通り御用を勤めさせてもらいたいと願い出るが、却下される。『
( 駅
逓明鑑』郵便上、郵政省編『郵政百年史資料』1968 )
1870. 8.14[ 7.18]【日本】横浜のジャージー・マセソン商会が、シンガポールからの直行
船がもたらしたロンドン 7.20 発の宣戦布告に関する電信文を受け取り、普仏戦争の勃発
を知る。[この頃、ロンドンからはシンガポールまでしか海底電線が届いていない。1871
年に海底電線が香港・上海・長崎まで届く 。
(ジャージー・マセソン商会文書、石井寛治
1994)
1870. 8.16[ 7.20]【日本】横浜に入港した外国船が、日本人に普仏戦争の勃発を知らせ
る。
1870. 8.16[ 7.20]【日本】司法卿江藤新平のもとで、フランス諸法典の翻訳、紹介にあ
たっている箕作麟祥(みつくりりんしよう)(54)らが、外国船によってもたらされた外字
紙を翻訳して『官版海外新聞』を東京で発行する 。
[以後、1871 年 8 月 1 日、51 号まで
発行する。
]
1870. 8.17[ 7.21]【日本】横浜の生糸売込・唐物引取商吉村屋吉田幸兵衛が、普仏戦争
勃発のニュースが入って生糸輸出が止まったことを告げ、生糸の仕入れを即刻中止する
よう郷里の上州山田郡大間々町の本店に「仕立飛脚」便で、緊急連絡する 。(横浜開港
資料館編『吉村屋幸兵衛関係書簡 』
、石井寛治, 1994)
1870. 8.−[ 7.−]【日本】明石博高が、京都祇園に私設療病館を設立し、娼妓の検黴を
行う。[ 1874 年 3 月、府立療病院の所轄となる。]
1870. 9 . 4【フランス】フランスが、共和制を宣言する。
1870. 9. 9[ 8.14 ]【日本】新式郵便を東京∼大阪間で施行することを決め、各駅に官員の
派遣を決定する。
1870.9.15[ 8.20 ]【日本】大阪∼神戸間に電信が開通する。
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1870.9.20[ 8.25 ]【日本 】デンマーク政府特使 J.シックが大北電信会社(The Great Northern
Telegraphic Co.)の利害を代表し、ロシア政府の支援を受け外務大輔寺島宗則との交渉の
結果、日本政府は同社に対して長崎・横浜への海底電線陸揚げ権を 30 年間にわたり与え
る。[ 1871.8.4 上海・長崎間の海底電線を完成させる。1943 年に同社が日本から撤退す
るまで、日本は 70 年以上にわたり十分な主権を持たない状態に置かれる。]
1870.
[ 8.−]大阪府が、全国で初めて自転車取締令を公布する 。
〈自転車、行人の妨
害少なからずにつき、途上運転を禁ず〉と規制する。
1870. 9.30[ 9. 6]【日本】大学南校に物産局仮役所が設けられる。[ 1971[ 9.−] 文部省
博物局となる。湯島大成殿を観覧場とする。博物館の初め。]
1870.10. 2【イタリア】人民投票の結果、ローマを併合して、イタリア統一が完了する。
1870.10.11 [ 9.17]【日本】郵便之法を制定する。郵便賃銭切手の製造を大蔵省に委任す
る。
1870.10.13 [ 9.19]【日本】政府が、士農工商の階級序列を廃止し、平民に苗字(姓)の使
用を許可する。ただし、妻は実家の姓を名のる「夫婦別姓」を条件とする。これまで苗
字は武士、公家、神官などにしか許されず、この頃、百姓・町民などの平民は 94 %が苗
字を持たない。[以後、庶民はどのようにして苗字をつけたらいいか分からないため、進
んで届出をする人は少ない。1875.2.13 太政官布告で、平民も必ず姓を称し、不詳の者は
新たにつけるよう布告する。1898.7.16 民法施行で、
〈戸主及び家族はその家の氏を称す〉
と定め、苗字をつけることを義務づける。1990 年代、男女平等の見地から、夫婦別姓の
声が次第に高まる。]
1870.10.18 [ 9.24 ]【日本】太政官布告により 、
「府県物産表」が公布される。各府県の農
林水産物や鉱工業生産物の生産高を品目別に集計したもので、日本最初の近代的な統計
となる。[1973.7.3 閣議で、10 月 18 日を「統計の日」と決定する。]
1870.10.31 [10. 7]【日本】書状集メ箱の制式を定め、調達する。
1870.11. 2[ 10. 9] 刑法典「新律提綱」が成立する。明律、清律、
『御定書百箇条』を参考
にして作成され、全 6 巻 8 図 14 律 192 条より成る。
[1871.1.10 [12.20]新律綱領と改称
され、発布される。以後、書店での印刷販売が許され、国民も初めてその内容を知るこ
とができる。五刑制(笞、杖、徒、流、死)を復活し、仮刑律に比べ刑罰が寛大で軽くな
っている。しかし、西洋法制の影響はまだみられず、妾(めかけ)は妻と同様、夫の二親
等とされる。1882 年、刑法典の施行により廃止される。
]
1870.11.13 [10.20]【日本】電信事務を工部省に移管する。
1870.11.17 [ 10.24 ]【日本】日本初のトンネル工事が、東海道線住吉駅付近の石屋川トン
ネルで着工される。
1870.[10.−]【日本】駅逓司に郵便掛を置く。
1870.[10. −]【日本】大坂・京都の定飛脚問屋仲間が、私的通信分野にまで官営郵便事業
が進出する準備を進めつつあることを知り、従来通り手紙の逓送の特権を認めてほしい
という嘆願を行う。[[11. −]東京の定飛脚問屋仲間が、同様に嘆願する。いずれも拒絶
される。以後、官営郵便事業に対抗するため、私的通信の領域でサービス向上に努める 。
1873.5.1 民間飛脚問屋による手紙の逓送が禁止される。]
1870.[10 −]【日本】中村正直(敬宇)( 38)が、スマイルスの『自助論(Self Help)』を翻訳
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して『斯邁爾斯(スマイルス)自助論 一名 西国立志編』として静岡藩の木平謙一郎で印
刷、刊行する。木版半紙本。[1871 年にかけて 11 冊、13 編を刊行する。以後、近代国家
形成期の広範な明治青年の精神的よりどころとなって愛読される。1877 年 2 月、秀英舎
で、日本初の四六判・クロス製の活版本として復刻される 。本文子持罫枠の 764 ページ、
紺色背皮、表題と著者名がそれぞれ赤と褐色の貼革に金箔押し。最初の木版本と合わせ
て 100 万部を越えるベストセラーになる。]
1870.[10 −]【日本】フランスの技術者アンリー・ブレグラン(29)が、上海のガス灯を建
設したのち、日本に招聘され、来日する 。
[以後、横浜、東京のガス灯建設の際、見積
書・設計図を作成、指導に当たる 。
]
1870.12.12 [閏 10.20 ]【日本】新政府が、工部省を置く。鉱山・製鉄・鉄道・燈台・電信
の 5 掛を民部省より移管する。
1870. ○【アジア】デンマークの大北電信会社が、ボンベイ∼シンガポール∼上海間に、
アジアで初めての電信用海底ケーブルを敷設する。
1870. ○【日本】政府が、新紙幣の精度が低く偽造が絶えないため、新しい紙幣の印刷を
ドイツのフランクフルトの証券印刷会社ドンドルフ・ナウマン社に発注する。このとき、
ナウマン社には 1867 年にイタリア王立銀行から派遣されていた彫刻技師キオソネ(キョ
ソネ、キヨソーネ、キョッソーネ)Edoardo Chiossone(38))が、新紙幣の版面彫刻を担当
する。[1874 年、キョソネが、ロンドンのデラルー証券印刷会社で彫刻製版技術を習得
する。1875.1 キオソネが、イギリスの証券印刷会社勤務ののち、日本政府に招かれ来日
し、紙幣寮に雇用される。]
1870.○【日本】大学南校(のち、東京大学)学生田鎖綱紀(たくさりこうき)( 16)が 、
『ポ
ピュラーエジュケーター』誌上でアイザック・ピットマンの速記の講義記事を読む。
〔田
鎖は、秋田県大葛金山でアメリカ人技師カーライルと知り合い、速記文字「ステノグラ
フィー」で書かれた雑誌記事を読んでもらい、その内容が、話者の癖や方言などを生き
生きと反映していることに気づき、在来文字による文章以上に速記が人間の情感を伝え
る能力があることに引かれた。
〕[以後、日本語の速記術を考案する。1882. 9.16 創案し
た日本語の速記法を「日本傍聴記録法」と名付けて、『時事新報』に発表する。
]
1870.○【日本】本木昌造が五代友厚と計り、大阪に活版所を設立する。また本木昌造が、
長崎に「新塾活版製造所」創立する。
1870.○【日本】医学専門の大学東校で、委嘱画家島霞谷( 43)がこの年開発した金属活字
により 、
『化学訓蒙』が活版印刷される。医学校として最初の活版出版となる。理化学
担当の少助教石黒忠悳(いしぐろただのり)(25)が、テキストを入手するために、かつて
ポンペの『医学七科書』を手写ししたり、そのため羽根ペンを細工したり、緑礬でイン
キを造ったりした苦労を学生たちに味わわせたくないとの思いから、折しも新活字の製
法を発明した大学東校の委嘱画家島霞谷を励まして、活字開発の成果をあげる。島は、
先ず柘植(つげ)の木に字を刻み、これを河柳という木の小切口に載せて金槌で打つと、
字が凹型に抜ける。その型へ熔解したアンチモニーと鉛の混合物を流し込んで活字を鋳
造する。『化学訓蒙』の奥付に〈東校活版 大学大写字生 島霞谷発明〉と印字される。
[年末、島が亡くなる。1871 年夏、本木昌造の後継者小幡正蔵の小幡活版所が東校の隣
接地に創業し、同校の印刷を引き受ける。](石黒忠悳『懐旧九十年』岩波文庫、1983、
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布川充男「島霞谷と東校・文部省官版」
『印刷史研究』6, 1998.6)
1870. ○【日本】工部省が、和文モールス符号をつくる。文字の使用頻度にまで考えが及
ばず、イロハ 48 文字の符号にいきなりアルファベット ABC の符号を当てはめ、不足分
は符号を追加して作成したので、符号長と文字の使用頻度についての関係も合理性に乏
しい。[以後、関係者は頻度の高い文字に複雑な符号が割り振られたことに気付くが、す
でに多数の人が和文モールス符号を覚えて使用していることから、合理的に変更すれば
通信時間の短縮が図れることは承知の上、混乱を起こすことを恐れてそのまま継続使用
する。]
1870. ○【日本】山梨県の山田有教が、初めて葡萄酒の試作品を売り出す。
1870. ○【日本】竹内寅次郎が、外国人が乗り回している車を真似て自転車を作り、それ
に初めて「自転車」という商標を付けて販売する。[ 1878.3 竹内が、東京府へ大型自転
車の製造・販売の許可を申請する。]
1870. ○【シンガポール】横浜のお豊という女が、イギリス人と結婚しシンガポールに渡
り、夫の死後断髪・男装してホテルボーイになるが、女であることを見破られ、売春婦
となる。客の船員と手を組んで島原・天草などの貧家の娘を買い、働かせる。[これが唐
行きさんの発祥との説がある。]
1870. ○【アフガニスタン】カブールで国内初めて印刷が行われる。
1870.○【ヨーロッパ】フランスのアバス(アヴァス)(Agence Havas)、ドイツのウォルフ
(ヴォルフ)(Wolffs Telegraphen-Bureau)、イギリスのロイター(Reuters)の 3 通信社が、国
際通信協定を結んで、アバスは南ヨーロッパとラテン・アメリカ、ウォルフは北ヨーロッ
パ、ロシア、バルカン諸国、ロイターはイギリス帝国と極東(中国、日本)などと、世界
を 3 つに分割して、相互不可侵を遵守しつつそれぞれの領域でニュースの収集、配布に
独占権を持つことを取り決める。[以後、ニュースを収集・送信する有線通信網を 3 社が
独占し、フランス、イギリス、ドイツ 3 国の大国としての大きな発言権とあいまって、
このような協定が有効に作用する。1934 年、協定廃棄。]
1870.○【ドイツ】北ドイツ連邦の官製はがきに、A.シュバルツが普仏戦争の絵を印刷し
て知人に送る。[以後、シュバルツは一連の風景絵はがきを世間に問う。世界初の絵はが
きとされる。1875 年、絵葉書が商品として発売される。以後、ヨーロッパやアメリカで
絵葉書の発売、使用が、年を追って盛んとなり、世紀末にかけて絵はがきの一大流行を
引き起こす。]
1870.○【ドイツ】ドイツ最初の百貨店ウェルトハイム( Wertheim)が開設される。
1870.○【ドイツ】この頃、1831 年に M. ファラデーが発見した電磁誘導の現象を利用し
た発電機の開発を多くの人が試みる。それらの中で、W.von ジーメンスおよび Z.T.グラ
ムが、ほぼ完成する。[以後、この発電機の完成およびそれに続く電力輸送技術の発展に
よって,電気時代と呼ばれるほどの電気技術の展開が可能となる。]
1870. ○【ドイツ】??この頃、ヨセフ・アルバートが、写真製版のコロタイプの実用性
を高め、「アルバート・タイプ」と呼ばれて一般化する。??(「1876 年に発明」とされ
る。)
1870. ○【フランス】プロイセン・フランス戦争(普仏戦争)で、パリがプロシャ軍に包囲
され、フランス軍将兵や市民は気球によって外部との連絡や郵便物を運ぶ。「バロン・モ
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ンテ( ballon monte)(英語では balloon post)」と呼ばれ、航空郵便の先駆となる。
1870.○【フランス】アルフォンス・ペノーが、ゴム動力のヘリコプタのおもちゃを作る 。
[1871.8.18 これを発展させて、ゴム動力飛行機「プラノフォア」を製作し、パリで公開
実験を行う。
]
1870.○【イギリス】この頃から、J.バトラーを中心とする廃娼運動が盛んになる。
1870.○【アメリカ】スターレー James Starley( 69)が、工業都市コベントリーに新しい自
転車工場を建設し、仲間のウイリアム・ヒルマンらと多くのデザインを開発、
「アリエル」
というオーディナリー型自転車を製作する。自転車のフレームに鉄製チューブを使用し、
軽量化を図ると同時に耐久性をもたらす。[以後、鉄製チューブがさまざまの技術分野の
広い範囲で利用される。スターレーは自転車の発展に大きな業績を残し、
「自転車の父」
と呼ばれる。1884 年、スターレーの甥ジョン・スターレー John K. Starley が安全型自転
車を作る。]
1870.○【アメリカ】郵便物が、4 種類に分類され、新聞・雑誌は第二種扱いとなる。
1870.○【アメリカ】著作権法が改正され、新刊書は 2 部を議会図書館に納入することが
義務づけられる。
1870.○【アメリカ】メトロポリタン美術館( Metropolitan Museum of Art )が、ニューヨー
ク市の有力者たちによって創立される。[ 1880 年、セントラル・パーク東側の一画を占
める地に移る。以後、アメリカ随一、世界最大級の美術館となる。]
1870.○【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison (23)が、第二の発明である株式相場表
示機(ティッカー)を、ウエスタン・ユニオン社に 4 万ドルで売る。[ 1871 年、この資金を
もとにニューアークにティッカー製造会社を設立し、工場を建てる。]
1870. 【流行語】テレガラフ。
1871(明治4)
1871. 1 . 3 [11.13]【日本】郵便役所規則などを決定する。
1871. 1 . 7 [11.17]【日本】書状集メ箱や切手売捌所の設置場所を決め、通達する。
1871.
[11. −]【日本】郵便役所を東京・西京・大阪に設置する。
1871.1.18【ドイツ】ドイツ帝国が成立する。
1871.1.24[ 12. 4]【日本】書状集メ箱(郵便ポスト)と切手売捌所を、東京、京都、大阪の 3
都と、東海道の各駅(宿場)に設置する。集信(しゅうしん)箱とも呼ばれる。[ 1872 年、
木製黒色(チャン塗り)の四角い柱形のポストがつくられる。以後、この形のものが、明
治時代のポストの座を占めることになる。ポストの正面に「郵便箱」と表示されるが、
それを「垂便箱」と読んだ者がいて、トイレと間違えたという話が伝えられる。1949 年、
ポストの正式名称が「郵便差出箱」となる。]
1871. 1.28[ 12. 8]【日本】郵便の「検査済」
「賃銭切手済」の黒印の製造を大蔵省に委任
する。
1871. 1.28[ 12. 8]【日本】神奈川県知事井関盛艮(いぜきもりとめ)が音頭をとって、横浜
商人の島田豊寛(とよひろ)を社長に据え、編集担当に子安峻(こやすたかし)(35)を招き、
横浜で日本最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』を創刊する。鉛活字使用の西洋紙 1 枚刷り
の初の近代型新聞で、本木昌造の鉛製活字による初の新聞でもある。唐通詞の陽其二(よ
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うそのじ、先祖は明朝の遺臣で日本に帰化し、代々唐通詞をしていた)(33)、仮名垣魯文
(かながきろぶん)らが在社する。活字は手持ちのものだけでは不足するので、木活字で
補う。
〔最初から木活字で組んだとの説もある。〕行間の空きがないベタ組みで、字詰め
は不統一、すき間だらけのレイアウトで、ケイも不鮮明、見栄えのしない体裁だが、従
来の和紙木版刷り冊子型新聞から西洋紙 1 枚刷りという画期的形態で発行される。購読
料は 1 部 1 匁、1 ヵ月 24 匁。第 1 号には、船舶、輸出入、為替相場に関する記事が掲載
され、
「新聞告白」(社告)に〈商家の便利を第一〉とし 、
〈この新聞定用買主へは毎朝当
局より差くばり可申〉とあり、同時に、読者に対して「奇事珍説」の情報提供を呼びか
ける。定期購読者には毎朝配達すると告げ、戸別配達の販売形態をめざす。[以後、
「日
刊」と称するが 、1 週間に 3 回発行する 。1879 年 11 月東京に移り、
『東京横浜毎日新聞』
と改題、沼間守一(ぬまもりかず)が社長となり、改進党系の政論新聞として勢威を振る
う。この頃は政府の御用新聞であることを誇りとする。1886 年 5 月『毎日新聞 』と改題、
肥塚龍(こえづかりゆう)に次いで 1894 年、島田三郎が社長となる。石川半山(はんざん)、
木下尚江(なおえ)が在社して、足尾銅山鉱毒事件で田中正造を支援、廃娼(はいしよう)
運動を推進、また日露非戦論を唱えたりするが、しだいに紙勢が衰える。1906 年 7 月『東
京毎日新聞』と改題。1923 年、関東大震災(打撃を受け、府会議員千葉博巳(ひろみ)に
譲渡される。以後、政友会系の三流紙として存続。1940 年 11 月 30 日、廃刊する。1962
年、発刊の地(のち、横浜農林水産消費技術センター)に、「日刊新聞発祥の地」の記念
碑が建てられる。]
1871. [12. −]【日本】郵便役所規則を制定する。
1871.1.28【フランス】ヴェルサイユ休戦協定が結ばれ、パリがドイツ軍に降伏する。[2.26
ヴェルサイユ仮講和条約が結ばれる。5.10 フランクフルト・アム・マインで正式に調印。]
1871. 3.14[ 1.24]【日本】大蔵省駅逓権頭(えきていごんのかみ)前島密(36)の発案によ
り、東京∼西京(京都)∼大阪間に官営の「新式郵便制度」を創設し、開始することが布
告される。東京の日本橋江戸橋南詰四日市(のち 、中央区日本橋)に「四日市郵便役所 」(の
ち、東京中央郵便局)、京都、大阪の 3 地に郵便役所を開設し、私的郵便も取り扱うこと
とし、東京∼西京間を 36 時(とき)(72 時間)、東京∼大阪間を 39 時(とき)(782 時間)で
結び、東海道筋の各宿駅にも郵便取扱所を開設して郵便をとり扱うという。従来の民間
の飛脚便に対して、時刻を定め、〈何様(なによう)の天気〉でも毎日出発し、郵便役所
以外にも郵便物をいつでも差出せる書状集メ箱(ポスト)を町の要所に設置し、郵便切手
を用いて、ポスト近くの切手売捌所で簡便に買い求められること、などで新式と名付け
られる。書状の基本料金は、東京∼横浜間が 48 文、東京∼大阪間が 100 文などとし、
「各
地時間賃銭表」や「書状ヲ出ス人ノ心得」を布達する。[ 4.20[ 3.1]官営郵便事業による第
一便が取り扱われる。のち、「1 月 24 日」を「郵便制度施行記念日」とする。
]
1871. 3.18【フランス】対独ヴェルサイユ条約を結んだティエール政府が、蜂起したパリ
国民軍の武装解除を図るが、民衆の反抗にあい失敗する。この頃 、「第四権力」として
の近代マス・メディアを自由には利用できない民衆は、民衆自身の情報伝達手段として
壁新聞の活用を始める。[以後、壁新聞はマス・メディアに対抗する民衆のカウンター・
メディアとして、永く行われる。]
1871. 3.27[ 2. 7]「郵便」と大書した郵便標旗を定め、郵便役所 、
「箱場」と呼ばれる書
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状集メ箱設置場所に掲示する。郵便標旗は、遠くからでも目につくように高々と掲げら
れ、
「郵便フラホ」と呼んで親しまれる。
1871. 3.28【フランス】直接民主制による民衆の自治都市パリ・コミューンの成立が宣言
される。
1871. 4. 4[ 2.15 ]【日本】大蔵省が、造幣寮を大阪に設置、イギリスから造幣機械を輸入
して、開所式を行う。[以後、この造幣機械ににより、統一的な鋳貨を製造する。1872
年、イギリス人ガウランドが技術指導のため来日。彼は滞日中、考古学のため日本各地
の古墳や遺跡を発掘し、数々の埴輪・土器などの出土品や撮影した写真乾板二百数十枚
を持ち帰り、ロンドンの大英博物館に寄贈する。1877 年 1 月、造幣局と改称する。]
1871. 4.28[ 2.29]【日本】大学が、九段坂上の三番薬園で博覧会を開くことが許可され
る。
1871.
[ 2.−]【日本】築地伝信局と外務省間に電信が開通する。
1871. 4.20[ 3. 1]【日本】飛脚に代わる新式郵便が、取扱開始される。駅逓権正(ごんの
かみ)杉浦譲が、郵便創業のテープを切る。郵便役所を東京、西京、大阪に、郵便取扱所
を東海道各駅に開設し、最初の郵便切手「竜」48 文、100 文、200 文、500 文が発行され
る。郵便役所以外にも郵便物をいつでも差出せるように、江戸時代の目安箱を模した白
木の箱を柱の上に取り付けた書状集メ箱(ポスト)が町の要所に設置される。この日、東
京から 134 通、大阪・京都から東京に向けて計 40 通が差立てられる。郵便物は、逓送脚
夫の肩に担がれてリレー式に受け継がれて、ほぼ予告通りに 78 時間で逓送される。郵便
切手の印刷は、京都の銅版師松田敦朝(あつとも)が経営する松田玄々堂に発注され、松
田が図案、原版作成、印刷などのすべてを官許で一手に請負う。
[以後、取扱人(のち、
取扱役)は駅逓頭からの 1 枚の辞令で開局し、わずかの手当を得て、局務運営を行い、こ
れを国の為として名誉に思う。1873.6.27 民間の飛脚便を禁止し、民部省所管とする。こ
のあと、民間飛脚業者は陸運元会社から内国通運会社へと脱皮し、1880 年代末までは官
営郵便の請負業務をも独占しながら、貨物輸送の分野に活路を見出していく。1872 年、
政府が、松田玄々堂の版を使って切手の印刷を始める。1875.1.1 郵便役所を郵便局と改
称する。1910.3 東京郵便局を東京中央郵便局と改称する。1934 年、逓信省が 4 月 20 日
を「逓信記念日」とする 。1950 年、逓信省が郵政省と電気通信省の 2 省に分割され、
「郵
政記念日」とする。1959 年 、
「逓信記念日」に戻す。2001 年、再び「郵政記念日」とす
る。]
1871.4.23[ 3. 4]【日本】東京∼西京間の公用飛脚便を廃止する。
1871. 5.21【フランス】ドイツの支援をとりつけたティエール政府軍が、パリ市内に突入
する。[以後、1 週間にわたり虐殺を行い、パリを屈服させる。]
1871. 5.22[ 4. 4]【日本】戸籍法を定める。行政区画の区を設置、戸長・副戸長を置くこ
とを定める。[1872.2.1 施行。]
1871.−−[ 4.−]【日本】杉亨二(すぎこうじ)( 43)が、昨年から政府に出仕して統計業務
に従事、日本最初の官製統計書『辛未政表』をまとめる。
「政表 」は statistics の意味。[1872
年、刊行。]
1871. 5 .−【イギリス】保険のアンダライタ(保険引受人)たちの私的な集団、ロイズ Lloyd's
が、これまで海上保険の中心市場としての地位を確立していたので、議会の特別立法で
- 429 -
ある「ロイズ法(Lloyd's Act 1871)」によって法人化され、
「ロイズ組合(Corporation of
Lloyd's )」となる。[以後、ロイズ組合は、ロンドンの個人の保険引受人の集団として、
海上保険以外の保険に対しても弾力的・積極的に引き受け、声価はますます高まり、世
界保険市場における強力な保険引受集団となっていく。](木村栄一『ロイズ』日経新書)
1871. 6 . 5 [ 4.18]【日本】平民の乗馬が許可される。東京府では、十御門の夜間通行禁止、
無提灯乗馬の禁止などの条件が付く 。[のち、この日を「乗馬許可記念日」と定める。(??
『記念日の本』では「4 月 19 日」という。)]
1871.6.27[ 5.10 ]【日本】新貨条例が定められる。新貨幣の呼称を円、銭、厘とし、両、
分、朱を廃止し、10 進 1 位法とする。旧貨幣の 1 両を 1 円とし、日本最初の金本位制を
導入する。
1871. 6.30【日本】ロンドンからの海底電線が、シンガポール経由で香港・上海に届き、
電信開通する。[この年、長崎まで届く。これにより、日本はヨーロッパ経由で北アメリ
カとも電信連絡ができるようになる 。また、長崎経由でウラジオストクに電信開通する。]
1871. 7 . 1 [ 5.14]【日本】大学南校物産局が、招魂社の境内で「物産会」を開催する。[∼ 7.8
[5.21 ]。]
1871. 7 . 9 [ 5.22]【日本】官用伝信機税則を制定 。公用電報も有料とする。[[ 6 月]施行。]
1871.7.10[ 5.23 ]【日本】太政官が、「古器旧物保存方」を布告する。
1871.
[ 5.−]【日本】民部省が、各地の売春業者の新規開業を禁じ、かつ検黴実施
を命じた、いわゆる「伝染病条令」を施行する。[10.14[ 9.1 ]小菅県が、千住宿場の遊女
に検黴を実施する。以後、各地で実施される。]
1871.
[ 5.−]【日本】山県篤蔵が、『新聞雑誌』を東京で創刊する。木戸孝允が支援
する 。[1875 年 1 月、
『あけぼの』と改題、さらに 6 月に『東京曙新聞』と再改題される。
主筆末広鉄腸が、同年 6 月発布の新聞紙条例による筆禍者第 1 号となる。1882.2 『東洋
新報』と改題、同年 12 月に廃刊。]
1871. 8. 1[ 6.15 ]【日本】造幣寮が、ポルトガル人ブラガの指揮下に、洋式帳簿と複式簿
記を採用する。
1871. 8. 4[ 6.18 ]【日本】長崎・横浜への海底電線陸揚げ権を獲得したデンマークの大北
電信会社(GNTS;The Great Northern Telegraphic Co. )が、上海からの海底電線を佐賀藩領
(のち、長崎県)千本に陸揚げして居留地内の同社「伝信機局」まで繋ぎ、上海∼長崎間
の海底電線を完成させる。[ 8.12[ 6.26] 同社が日本∼中国間の電報取扱いを開始する。]
1871. 8.12[ 6.26 ]【日本・中国】デンマークの大北電信会社(GNTS)が、日本∼中国間の
電報取扱いを開始する。日本の民部省が、対外電信を開始する。日本最初の国際電信で 、
ヨーロッパとの間で通信可能となる。対外電信の取扱や料金計算はすべて大北電信会社
の長崎電信局と横浜・神戸の代理店に任せる。11.17[ 10.5] 同社はウラジオストク∼長崎
間の海底電線の敷設も完成させる。1872.1.1[ 11.21 ] ヨーロッパとの国際電報の取扱いを
開始する。]
1871. 8.18【フランス】アルフォンス・ペノーが、ゴム動力飛行機「プラノフォア」を製
作し、パリで公開実験飛行を行う。翼幅約 46cm の主翼、機尾にプロペラを付けた推進
式で、垂直尾翼はない。11 秒間の飛行で約 40m(55m とも)飛ぶ。[以後、この飛行実験
の評価は低い。ペノーは 30 歳で自殺する。]
- 430 -
1871. 8.29 [ 7.14]【日本】天皇が、在京 56 藩知事を集め、廃藩置県の詔書を出す。藩を
廃止して、3 府 302 県を置き、統一国家の基礎をつくる。
1871. 8.30[ 7.15]【日本】横浜郵便役所が開設される。東京∼横浜間に往復郵便、金子
入書状(のち、現金書留)の取扱を開始する。また、横浜からサービス地域以外の各地へ
郵便を届ける「別仕立郵便」を開設する 。
「別仕立郵便」は、郵便局所のない在村への
至急の書状を差出す場合のもので、書状の表面に〈○○より別仕立〉と朱書し、配達局
所から別に配達員を仕立て増料金は受取人からその地相当の金額を徴収する。
[1883.1. 1
郵便条例施行により、料金均一制が徹底され、別仕立を廃止し別配達に統一する。]
1871. 9. 2[ 7.18 ]【日本】大学を廃し、文部省が設置される。同日江藤新平が文部大輔に
任ぜられる。[[7.28] 大木喬任が初代文部卿に任ぜられる。
1871. 9. 5 [ 7.21]【日本】大学東校および大学南校を文部省直轄とし、単に「東校」
、「南
校」と改称する。
1871. 9. 6[ 7.22 ]【日本】各府県に寄留または旅行する者に鑑札を渡す規定を廃止する。
[以後、誰もが全国を自由に旅行できるようになる。]
1871. 9.11[ 7.27]【日本】民部省廃止により、駅逓司を大蔵省、土木司を工部省へ移管
する。[ 9.28[8.14 ]各司を駅逓寮などと改称。]
1871. 9.12[ 7.28]【日本】兵部省海軍部内に条例により、水路局を設置する。海上水路
を測量、航行の安全を図る。[のち、7 月 28 日を「水路記念日」とされる。戦後、水路
業務が運輸省に移管される。1947 年、海上保安庁が新暦の 9 月 12 日を水路記念日とす
る。](??『岩波年表』は 10 月 20 日[9 月 8 日]という。)
1871.9.13[ 7.29 ]【日本】太政官制を改め、正院、左院、右院をおく。
1871.
[ 7.−]【日本】郵便役所を、横浜、神戸、長崎、函館、新潟の 5 港に設置す
る。[∼[8.−]]
1871.
[ 7.−]【日本】大阪∼神戸間の石屋川トンネルが、鉄道初のトンネルとして
完成する。
1871.
[ 7.−]【日本】本木昌造の門下平野富二(24 )が、4 月頃長崎造船所(長崎製鉄
所を改称)を山尾庸三に託して浪人となるが、本木昌造の懇請により長崎の新塾活版製造
所、大阪の長崎新塾出張大阪活版所のいっさいの経営を継承する。[以後、経営の刷新と
工場の大改革を断行する。そのなかに〈大イニ分業ノ法ヲ設ケ〉るとあり 、母型の製造、
鋳造、文選、植字、印刷、解版などの各段階の作業の分担や各係を決めようと試みる。
さらに『横浜毎日新聞』に派遣されている陽其二(ようそのじ)らとともに活字の鋳造・
販売に力を注ぐ。]
1871. 9.21[ 8. 7]【日本】大阪造幣寮が、貨幣鋳造のために発生させたガスを照明に用い
て、構内および付近の往来の各所にガス街灯 65 基、室内ガスランプ
約 621 を設置、点灯する。日本のガス灯第 1 号となる。(??)[以後、見物が絶えず押
しかける。]
1871.9.23[ 8. 9]【日本】東京∼長崎間の電信線架設工事が着工する。
1871.9.28[ 8.14 ]【日本】電信寮を創設する。伝信局を電信局と改称する。
1871. 9.28[ 8.14]【日本】鉄道寮が、品川・神奈川両県に対し、線路立入禁止の通達を
依頼する。この頃、新橋∼横浜間の横浜側の線路敷設が一部完了し、試運転を開始する 。
- 431 -
1871.10. 1[ 8.17]【日本】イギリスから帰朝した前島密が、自ら願い出て駅逓頭に就任
する。
1871.
[ 8.−]【日本】大阪以西に郵便線路を開き、賃銭表を刊行する。逓送は飛脚業
者に委託する。
1871.
[ 8.−]【日本】政府が、工部省傳信局を電信局と改称する。東京∼長崎間の電
信線路の架設工事を、イギリス人技師一行の到着を待って開始する。[以後、工事はさま
ざまな妨害に会い難航する。[[9. −] 山陽道線では、測量の際、広島県下で、農民の間
にキリシタンバテレンの魔術でその危害は計り知れないとの理由で、暴動が起こる。政
府は、沿道の府県当局に対して「電信線」を破損しないように厳重な取締を行うよう命
じるが、電信柱や碍子を破壊したり、電線にいろいろな物を投げつけたり凧の糸を引っ
かけたりする者が後を絶たない。]
1871.10.11 【トルコ】ドイツの考古学者シュリーマン Heinrich Schliemann( 49 )が、小アジ
ア北西部、はるかダーダネルス海峡を望見するヒッサリク( Hissarlik)の丘に立つ。幼時
からホメロスの物語にあるトロヤ(トロイア)の都の実在を信じ、発掘を決意し初めてこ
の地に鍬を入れる。[以後、たちまち宮殿、城壁、多くの財宝などを発見し、ここがトロ
ヤの都の遺跡であること確信する。1873 年、引き続く発掘調査で、この地が古代のトロ
ヤの遺丘であることを立証して、その成果を発表する。大きな衝撃を世界に与える 。1876
年、ミュケナイ(ミケナイ)の発掘にも成功する。]
1871.10.14 [ 9. 1]【日本】娼妓の検黴を、小菅千住駅(のち、東京・千住)で初めて施行
する。[千住は奥州・日光街道で江戸よりの第一駅で、商家や遊女屋が軒を連ね、宿駅と
して江戸時代から発展していた。] 以後、各地で検黴が実施される。
1871.10.15 [ 9. 2 ]【日本】太政(だじょう)官達 453 号で、[9 月 9 日]より東京の江戸城(宮
城)内旧本丸において正午に大砲 1 発を放って報時とすることを定める。
1871.10.18 [ 9. 5]【日本】政府が、鉄道建設資金供給を目的とする鉄道会社の設立を許
可する。[ 1872 年、関西鉄道会社と称し、資金募集を開始するが、意のままに集まらな
い。1873.12.28 解散する。]
1871.10.22 [ 9. 9]【日本】江戸城内旧本丸で、陸軍省が担当して午砲による報時が開始
される。複数の時計を持った砲兵が正午を確認して大砲を撃つことにする 。[以後、最
初のうちは正午の前に撃ったり少し遅れて撃ったりして、必ずしも正確でない。しかし、
人々はこれを喜び、
「正午のドン」と呼ぶ。1922 年 9 月 15 日、陸軍省の予算緊縮でこれ
が廃止される。その後は東京市が受け継いで午砲を発する。1929 年 5 月 1 日から、サイ
レンにかわる。
各地方都市も 1879 年 3 月から内務省の許可を得て午砲による報時を行う。
1929.5. 1 大砲による時報「正午のドン」が、サイレンに変わる。以後、ラジオやテレビ
の普及で放送局の報時にかわっていく。]
1871.10.31 [ 9.18]【日本】文部省に編輯寮が開設される。教科書その他必要の図書の編
輯、洋書の翻訳などを始める。[ 11 月、編輯寮編『語彙』巻 1 ∼ 5、「あ」の部、同別記
発行。1872.9.13 編輯寮廃止。]
1871.11. 2【イギリス】当局が、初めてすべての囚人の写真を撮影し、「犯罪者写真台帳
(Rogues Gallery)」作りを開始する。
1871.11.11 [ 9.29]【日本】文部省に博物局が置かれる。物産局仮役所が文部省博物局と
- 432 -
なる。[以後、文部省博物局が、11 月 13 日[ 10 月 1 日]から 10 日間、湯島聖堂において
博覧会を開くことを公示する。のち、『新聞雑誌』15 号が、博覧会の延引になったこと
を報道する。1872.4.17[ 3.10] 最初の官設博覧会が催される。]
1871.11.16 [10. 4]【日本】文部省が、湯島大成殿を文部省博物局展観場とする。日本に
おける博物館の初めとなる。
1871.11.20 [10. 8]【日本】鉄道開業を明年に控え、品川∼横浜間で試運転中のところ、
梁山泊蒸気会所が、品川∼横浜間の乗車時刻表『岩倉大使外遊岡仕込仕用案内』を発行
する。記録に残る日本最古の時刻表となる。[11.21[10. 9] 外務卿岩倉具視( 46)を特命全
権大使とする米欧回覧の使節団が 、
「当日格別運行」の臨時列車で横浜に向かうため品
川駅から鉄道に乗る。]
1871.11.20 [10. 8]【日本】東海道往復郵便の逓送を陸運会社に委託する。
1871.11.21 [10. 9]【日本】開拓次官黒田清隆の求めに応じて北海道開拓事業を助けるこ
とを決意し、職を辞して 7 月来日し開拓使の御雇教師頭取兼開拓顧問となった元合衆国
政府の農務長官ケプロン Horace Capron( 67 )が、北海道を巡検して、北海道の各種調査や
開拓諸事業(道路および鉄道敷設、鉱山採掘など)についての提言を行う。また、文房(図
書館)や博物院の重要性を強調する。[以後、ケプロンら顧問団の意見は,開拓使の初期
の方針に反映されるが,アメリカと風土や社会状況の異なる北海道において十分生かさ
れたとはいえない。1875 年 5 月、ケプロンはアメリカに帰国する。
]
1871.11.22 [ 10.10 ]【日本】三井八郎右衛門(高福(たかよし))ら民間人が、京都博覧会社
主催「京都博覧会」を西本願寺大書院で開催する。[∼ 12.22 [11.11]。以後、明治末期ま
で引き続き開催。]
1871.
[ 10.−]【日本】伊万里県下の商人が、私設電線の架設と電信局の建設を政府
に請願し、認可される。
[1872.9 電信私設を禁止、既設の私線の政府による買収が決定
される。]
1871.12.16 [11. 5]【日本】東海道・大阪の陸運会社の開業を許可し、陸運会社規則・賃
銭表を頒布する。
1871.12.22 [ 11.11]【日本 】「名古屋博覧会」が名古屋総見寺で開催される。[∼ 12.26
[11.15]。]
1871.12.23 [ 11.12 ]【日本】米欧回覧の使節団が、北海道開拓使黒田清隆( 31)の建議によ
り実現し、一行 60 余人が横浜を出港する。外務卿岩倉具視( 46)を特命全権大使とし、副
使に参議木戸孝允( 38 )、大蔵卿大久保利通(41)、工部大輔伊藤博文(30 )、外務少輔山口
尚芳( 32)がなり、各省派遣の専門官である理事官や書記官などが加わり総勢 46 名の大使
節団と随員 15 人の大使節団となる。文部大丞田中不二麿が、欧米教育制度調査のため随
行する。同じ船で 42 名の留学生が同行し、これには津田梅(8 、満 7 歳)
・永井繁(繁子)
ら 5 名の女子留学生や、旧藩主クラス、さらには高知県士族中江篤介(兆民)(24)らも同
船する。[1873.9.13 使節団が帰港する。この間、約 1 年 10 ヵ月の間、アメリカ、イギリ
ス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イ
タリア、オーストリア 、スイスの 12 ヵ国を回覧する。大久保 、木戸は途中で帰国する。1878
年、この公式報告書が、太政官少書記官久米邦武編修『特命全権大使米欧回覧実記』5
編 100 巻として刊行される。1882 年、津田梅が帰国するが、日本語を忘れている。]
- 433 -
1871. ○【日本】文部省が木村正辞、横山由清らに編集させていた国語辞書『語彙』の刊
行が始まる。[∼ 1881 年に中絶する。]
1871.○【日本】この年、郵便取扱所が 179 局になる。
1871. ○【日本】横浜駐在ドイツ領事が、ガス灯のためのガス会社設立を企て神奈川県に
出願する。県令井関盛良は、この事業が外国人の手中に陥ることを恐れ許可しない。代
わりに,高島嘉右衛門ら有志に諮って別にガス製造所の設立を計画し,フランス人技師
アンリ・プレグラン(ペレゲレン)の設計監督のもとに工事を起こす。[ 1872 年 9 月、完成
して、外国人居留地にガス灯を点火する。]
1871. ○【日本】シーメンス・モールス信号機(モールス印字機)を、イギリスから輸入す
る。和文モールスが定められ、これを初めて使用する。
1871. ○【日本】大阪府の浪花医学校で、黴毒治療のため、府下の女郎屋に通知して娼妓
数十人を集める。〈検黴と称して、実は女陰から真珠を取るのだ。真珠を取られると長生
きしない〉という風評が飛び、反感をあおり立てた。
1871. ○【日本】裸体禁止令が出され、はだかが御法度となる。
1871. ○【日本】初めて「○○○」を以て伏せ字とした本『毒婦伝』が刊行される。(「伏
字漫談」『新青年』1932.7)
1871. ○【タイ】鉄道が開通する。
1871.○【ヨーロッパ】1870 ∼ 71 年の普仏戦争時に、戦争パノラマが大流行を迎える。[以
後、
写真や映画のような新しい媒体の前にパノラマは見世物として消滅の方向をたどる。
]
1871.○【オーストリア】ザッヘル・マゾッホ Leopold Ritter von Sacher-Masoch (34)が、『毛
皮を着たビーナス』を著す。青年貴族クジェムスキーが自らの生殺与奪の権をゆだねる
旨の契約書を貴婦人ワンダと交わし、ワンダとの間に美男の「ギリシア人」なる第三者
が介入してくるや、クジェムスキーの倒錯した快楽と苦痛のアイロニカルな戯れがひと
きわ高まる、という愛の冒険物語で、肉体的接触の一切ない被虐性欲を描き、一躍文名
を高める。マゾッホの名前をとって名付けられたマゾヒズム・ポルノの走りとなる。[以
後、マゾッホは、実生活でもコトウィッツ夫人や女優 F. ピストールらとの恋愛をはじめ、
お針娘 A.リューメリンに貴婦人教育を施したうえでワンダ・マゾッホを名のらせて結婚
し、
「ギリシア人」に相当する男たちを 2 人の間に呼び込むなど、小説の事件そのままの
現実化に打ち込む。1895 年、死去。死後その性的奇行が性心理学者の注目するところと
なる。]
1871. ○【ドイツ】ドイツ帝国が成立して、再び厳しい言論統制がしかれる。[ドイツの
新聞が完全に自由を獲得するのは,第 1 次大戦末の 1918 年になってからになる。]
1871.○【ドイツ 】刑法 175 条で同性愛禁止が規定される。男がもし同性愛が発覚すれば、
程度に応じて刑務所入り、または公民権を停止されることとなる。
1871.○【ドイツ 】ベンツ Carl Friedrich Benz( 27 )が 、マンハイムに機械工作場を設立する。
[1877 年ころから、自動車の設計にとりかかる。]
1871. ○【フランス】パリ・コミューンによる最後の王制打倒で第三共和政が成立し,こ
こでようやく言論の自由が確立する。新聞における言論の自由が保障される。
1871. ○【イギリス】イギリス電信学会が設立される。
1871.○【イギリス】マクスウエル James Clerk Maxwell( 40 )が、光は波長の短い電磁波で
- 434 -
あると提唱する。
1871.○【イギリス】R.L.マドックスが 、写真感光材料の臭化銀ゼラチン乳剤を考案する 。
ガラス板を支持体としてその表面に写真乳剤を塗布,乾燥させて「乾板 dry plate(あるい
は写真乾板 photographic plate)」を初めて作る。露出時間が 15 秒から 200 分の 1 秒に短
縮される。[のちの写真フィルムの乳剤の原型となる。]
1871. ○【イギリス】スウォンが、乾板写真法を発明する。
1871.○【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison (24)が、株式相場表示機(ティッカー)
をウエスタン・ユニオン社に売って得たた 4 万ドルをもとに、ニュー・ジャージー州のニ
ューアークにティッカー製造会社を設立し、工場を建てる。この年に印字電信機を発明
する。[以後、ここで 5 年間発明に専念する。]
1871. 【流行語】邏卒。書状集箱。
1872(明治5)
1872. 1 . 1 [11.21]【日本】長崎∼ウラジオストク間海底電線による通信を開始する。
1872. 1.14[ 12. 5]【日本】日本初の「郵便規則」が施行される。郵便役所を神戸、長崎に
開設し、東京∼長崎間に郵便を開設する。大阪∼長崎間の郵便線路が新設され、190 時
間を要していた東京∼長崎間が 95 時間に短縮される。また、日誌・新聞紙の低料金での
取扱いを開始する。このため 、料額印面が印刷された新聞帯紙が発行される。[ 6.27[5.22]
東京∼横浜間に 1 日 5 回の往復郵便が開設される。]
1872. 1.23[ 12.14 ]【日本】太政官布告 648 号により、治水修路は府県管下で民間により
行うことを許可する。民間による有料道路が認められる。[以後、これにより、渡船およ
び賃銭橋が盛んになる。1872.9.中 宮城県の大竹徳治らにより 7 月から自費で行われた、
宮城県名取郡(のち、仙台市)と山形県(のち、山形市)を結ぶ二口峠の開削が完了、日本
最初の有料道路が開通する。工事費総額約 2000 円。1873.5.13 「入費消却税」として 1
人につき 1 厘 5 毛、荷物 1 貫目につき 5 毛の徴収を始める。1875.9.25 神奈川県の小田原
板橋と箱根山崎間の道路拡張工事が完成し、日本で 2 番目の有料道路となる。1880.9.24
この日まで 5 年間料金を徴収する。]
1872.1.29[ 12.20 ]【日本】大和、河内、和泉、紀伊に郵便役所を開設する。
1872. 1.30[ 12.21 ]【日本】横浜、相州三崎、武州金沢に郵便役所開設。横浜∼横須賀間
に郵便船が就航する。
1872. 2. 1[ 12.23 ]【日本】戸籍法が施行される。庄屋、年寄に戸籍の管理を当たらせ、印
鑑証明を行わせる。印鑑証明の初め。
1872. 2. 2[ 12.24]【日本】太政官正院に、政表課が設置される。初代大主記に杉亨二(す
ぎこうじ)(43 )が任命される。「政表」は statistics の意味。[1881.5.30 太政官に統計院を
置く。杉が統計院大書記官となる。2001.1 総務省統計局統計センターとなる。杉亨二
は初代統計局長とされる。]
1872.
1872.
[ 12.−]【日本】東京府下の人力車が、4 万台になる。
[ 1.−]【日本】駅逓寮が、郵便物の長距離輸送のスピードアップのため、最
初の試みとして荷車式の人力車の利用を思い立つ。
[4.6[ 2.29 ]「郵便人力車逓送規則」を
作成し、東海道筋の各駅へ配布し、各駅に人力車を 1 ∼ 3 両を配備する。
]
- 435 -
1872. 2 . 5 [12.27] 【日本】新紙幣発行の旨、太政官布告される。 [5.7[4.1]新紙幣が計 5289
万 7165 円発行される。]
1872.2.16[ 1. 8]【日本】澳国博覧会事務局を、太政官正院内に設置する。
1872. 2.18[ 1.10]【日本】郵便に別段書留郵便制度を開設、書籍類・見本品の取扱いを
開始する。東海道筋の伝馬所・助郷を廃止する。
1870. 2.22[ 1.14]【アメリカ】特命全権大使岩倉具視一行の使節団が、ワシントンのウ
ェスタン・ユニオン電信会社を訪問し、電信の発明者モースと交信する。[ 3.4[1.25]岩倉
具視が、大統領グラントに謁見する。]
1872. 2.−[−−]【日本】浅野家が、有恒社を設立する。[以後、日本最初の抄紙機を輸
入する。1874.6. 操業開始、日本最初の洋紙を製造する。]
1872.2.28[ 1.29 ]【日本】郵便規則を改正し、郵便料金を文単位から銭単位に改定する。
また、通常郵便物の損害不賠償を明示する。[3.−[2.−]「竜」半銭、1 銭、2 銭、5 銭切
手が発行される。文単位切手を廃止する。4.8[ 3.1]実施 。以後 、郵趣家の間で「竜銭切手 」
と呼び、以前の文単位のものを「竜文切手」と呼んで区別する。]
1872. 3. 8[ 1.29]【日本】政府が、初めて全国の戸籍調査を実施する。「壬申戸籍」と称
される。政表課大主記杉亨二(すぎこうじ)(43)が携わり、
「国知学 」という語を創作する。
[以後、調査結果、人口は男 1679 万 6158 人、女 1631 万 4667 人、合計 3311 万 825 人と
なる。のちに、1 月 29 日を「人口調査記念日」と定める 。
]
1872.3.16[ 2. 8]【日本】
『ジャパン・ヘラルド』の記者であったイギリス人ブラック John
Reddie Black( 45 )が、東京に「貌刺屈(ブラック)新聞社」(築地新栄町)を創設して、日本
語新聞『日新真事誌』を編集、創刊する。薄唐紙に木活字(3 号に近い 4 号)印刷の 4 ペ
ージ立てで、隔日刊(のち、日刊)。1 部 3 銭。
「治外法権」の特権を利用して、日本政府
を批判する記事を書く。[以後、忌憚のない論調と整った紙面構成とによって、この頃の
大新聞(おおしんぶん)の模範とされる。7.8 大蔵省から 3 府 72 県へ 3 枚ずつ定期購読す
る旨沙汰がある。11.8 左院御用新聞となり、経営が安定する。1874.2 鉛製の 4 号活字に
全面的に切り替え、用紙も西洋紙に改める。2 月 7 日付け新聞で、手持ちの木刻の活字
約 8 万本を、廉価で譲渡したいとの社告を出す。この頃、ブラックは、4 号活字 1 本の
値段が 1 セント(6 厘)で、こんな話をわれわれ外国の活字鋳物師が聞けば、ほくそ笑む
だろうと記録する。1873.5 井上馨、渋沢栄一の「財政意見書」をスクープする。1874.1
板垣退助らの民撰(みんせん)議院設立建白書をいち早く掲載する。また新政府の施策を
自由に論評する。1875.1 政府はブラックを左院顧問に任命し、新聞から手を引かせる。
この年、5 号活字を使用する。1875.11 政府の懐柔策に乗せられて骨抜きになる。12.5 廃
刊を余儀なくされる。以後 、
『朝野新聞』が取って代わる。1876 年、怒ったブラックは
上海に去るが健康を害す。1879 年、日本へ戻り、日本滞在記『ヤング・ジャパン』を執
筆する。同書に当時の一般の日本人が新聞がどういうものか知らなかった様子を次のよ
うに書く。
〈
「(新聞が)そんなにお気に召したのなら 、年極めの購読を申し込んで下さい 」
「どうしてですか。私は一つ持っているのですよ。それ以上、いりますか 」「ええ、あ
なたは一日の分を持っているのです。この新聞は毎日発行されるです 」
「わかっていま
す。だが、すでに一つ持っているのに、どうして毎日取らなきゃならないのですか」〉
。
翌 1880 年 6 月 10 日死去する。]
- 436 -
1872. 3.29 [ 2.21]【日本】『官許(以上 2 字は横並び小文字)東京日日新聞』(のち 、
『毎日
新聞』)が創刊される。草双紙作家条野伝平が主宰し、錦絵画家落合芳幾、西田伝助らと
共に、浅草茅町の条野宅を「東京日日新聞日報社」として発行する。活字が間に合わな
いので、木版、バレン刷りでしのぐ。創刊号は約 1000 部刷る。用紙は和紙。新聞が誕生
して以来、書店に委託して新聞を販売していたのを、初めて各家庭に配達する宅配制を
実施する。[以後、2 号から美華書館の活字を持つ日本橋照降町蛭子屋(ゑびす屋か)で印
刷するが、文字が不足して仮名で当て字をしたり、寸法が漢字と仮名で不揃いになった
りする。世間からは〈ちんぷんかんぷん〉の語呂合わせで〈新聞漢文〉とはやしたてら
れ、たびたび活字不揃いを詫びる記事を出す。12 号で木版に戻す。宅配制については、
他紙もまねるようになって、しだいに新聞配達を業とする店が全国各地につくられるよ
うになる。3 月、社屋を日本橋区に移し、社名を日報会社と改める。3.27 大蔵省から 3
府 72 県へ 3 枚ずつ定期購読する旨沙汰がある。7.5 118 号から木活字に替える。1873.3.3
第 304 号から勧工寮製の鉛活字に切り替えるが、依然として書体の質、サイズの不統一
に悩まされ続ける。](『毎日新聞百年史』)
1872. −−[ 2.−]【日本】この頃、福沢諭吉が『学問のすゝめ』初編を自費出版する。
[1876.11.25 最終編、第 17 編完結。以後、福沢諭吉は非合理な印税のため出版屋を嫌い,
みずから出版者となり、その利益と印税で慶応義塾大学を創立する。1900 年代になると
森鴎外や夏目漱石らの実力ある作家は、出版者と交渉して、原稿料・印税の慣行をつく
る。]
1872. −−[ 2.−]【日本】『新街私塾余談』刊。崎陽新塾活字製造所の活字見本が掲載さ
れる。見本文字は〈天下泰平国家安全〉の 8 文字で、活字サイズについて、
「初号」から
「五号」まで 6 サイズが表示される。上海の美華書館の活字の順序と大きさに対応した
上海の North-China Daily News 社の活字見本帳などに、サイズ順に〈No.1 、No.2 、…〉
とあり、これを「号」と訳し、「号」が活字サイズととれるような表示をする 。
[[10. −]
『新聞雑誌』第 66 号付録に「崎陽新塾活字製造活字目録」が別刷りで添付され、天下泰
平国家安全〉の 8 文字「初号」から「五号」までと、新たに「七号振仮名」が加わり、7
サイズが表示される 。以後、日本では、初号を最大として、以下 1 号、2 号 、3 号 、4 号 、5
号、6 号、7 号まで大小 8 種が作られ、「号」が日本独特の活字サイズを表示するものと
して定着していく。号数の番号は大きさを示す単位ではなく、単に大小の順を表すのみ
であり、さらに寸法の基準がないために製造の時期と場所によって大きさが一定しない
という混乱の原因となる。
]
1872. 4 . 6 [ 2.29]【日本】
「郵便人力車逓送規則 」を作成し、東海道筋の各駅へ配布する。
東京から大坂間の街道のうち、箱根峠・宇津ノ谷峠・鈴鹿峠・逢坂山や富士川・大井川
・伊勢湾を除くほぼ 4 分の 3 の部分について、2 時間 5 里(約 20km)の速度で人力車によ
る逓送を行う予定で 、計 14 台の人力車が諸駅に配備される。人力車が壊れた場合は、
〈駅
々稼ノ為メ私ニ所持致シ居候人力車ヲ借り請〉るか、脚夫に替えるようにと指示する。
[4.1 ]開始予定が、[5.20]開始。人力車は、車体にスプリングがなく、車輪もゴム輪でな
いため、舗装の悪い街道を走るとしばしば破損し、時速約 10km の規定の時間より遅れ
がちになる。[7.24]当分の間廃止することとされ、最初の高速化の試みは挫折する。平
安時代からの宿駅制度は廃止され、その後鉄道の発達に押されるかたちで宿場町は衰退
- 437 -
する 。1877 年 、モースが日光へ旅行した際、二輪車を曳いて疾走する郵便屋に出会う。]
1872. 4 . 8 [ 3. 1 ]【日本】1 日 3 度の郵便を東京府下に開設、集配に馬を利用する。
1872. 4.12[ 3. 5]【日本】文部省博物局が、日本初の官設博覧会を湯島聖堂で公開するに
先立ち、まず官吏に拝見を許す。
1872. 4.17[ 3.10]【日本】政府が、東京の湯島聖堂大成殿において、文部省博物局に収
集してあった各地の物産を一般に公開する。初の官設博覧会で、日本で最初に開催され
た博覧会とされる。翌年 5 月に開催予定のウイーン万国博覧会に参加するため国内から
集めた資料を、ウイーンに送る前に国内での展観に供するためで、古美術、油絵をはじ
め、吉野名物山椒魚(さんしょううお)、名古屋城の金の鯱、織田信長の甲冑・陣羽織、
加藤清正の槍などを展示する。[以後、「博覧会」という耳新しい言葉が珍しがられて評
判とり、連日大勢の見物人が押しかける。∼ 6.5 [4.30] 。6.11[ 5.6]毎月官吏の休日である 1
と 6 のつく日に常備品のみの陳列で公開する。自然史・工芸などを展示する最初の国立
博物館として常設展示の始まり。1877.8.21 東京の上野公園で第 1 回内国勧業博覧会が開
かれる。以後、1881 年、1890 年、1895 年、1903 年に内国勧業博覧会が開催される。]
1872. 4.17[ 3.10]第 1 回京都博覧会が、本願寺、知恩院、建仁寺で開幕する。新古美術
品を多数展示する。
[4.20[3.13] 余興に、京都府知事の勧めで、都踊り、鴨川踊り、東山
名所踊りの競演を行う。このうち都踊りが片山春子( 3 代目井上八千代)の努力により好
評を得る。∼ 7.5 [5.30]。以後、都踊りが毎年続けられる 。
]
1872.4.20[ 3.13 ]【日本】明治天皇が、博覧会を観覧する。
1872. 4.20[ 3.13]【日本】「府県物産表雛形」を改正、改正様式による物産表を差し出す
ことを府県に命じる。
1872. 5 . 4 [ 3.27]【日本】神社仏閣の地の女人禁制が廃止される。
1872. 5 . 4 [ 3.27] 【日本】大蔵省が、『新聞雑誌』、『東京日日新聞』、『横浜毎日新聞』の 3
紙を定期に買い上げ、3 府 72 県へ 3 枚ずつ配布することを開始する。[[7.8]『日新真事
誌』を追加する。]
1872. 5. 7[ 4. 1]【日本】政府が、新紙幣を計 5289 万 7165 円発行する。ドイツのドンド
ルフ・ナウマン社で製造・納品されたもので、キョソネ(キョッソーネ)が銅版の彫刻を担
当した。2 円以下の低額券は凸版、5 円以上の高額紙幣には直刻エングレービング凹版に
よる鳳凰や双龍の模様が印刷される。「明治通宝」の赤色文字は納品後に紙幣寮で加刷
される。[以後、
「ゲルマン紙幣」とも呼ばれる。これをきっかけに、紙幣寮がキョソネ
を日本に招聘する。1875.1.12 キョソネが来日する。]
1872. 5.11[ 4. 5]【日本】東京府が、女子の断髪を禁止する。男性の断髪が文明開化の象
徴とされ、女性も競って断髪をする風潮を憂い、〈女が男の真似をしてはならない〉と
断髪禁止令を出す。
1872. 5.19[ 4.13]【日本】大阪・堺のある米問屋が、誰よりも早く堂島の米相場を知る
ために、伝書鳩を使用したという新聞記事が出る。伝書鳩を軍事以外に商売で使用する
さきがけとなる。
1872.5.21[ 4.15 ]【日本】東京∼長崎間の距離別音信料を公布する。
1872. 5.28[ 4.22]【日本】西京電信局が開局する。電信寮が、西京(京都)∼大阪間に電
信を開通させる。
- 438 -
1872. 5.31[ 4.25]【日本】太政官が、僧侶に肉食・妻帯・蓄髪および法用以外での平服
着用を許可する。
1872. 6 . 3 [ 4.28]【日本 】文部省が 、旧大学講堂内に書籍館(しょじゃくかん)を設置する。
昌平坂学問所、蕃所調所、和学講談所等の蔵書を受け継ぐ。[ 9. 3[ 8. 1] 開館。]
1872. 6.12[ 5. 7]【日本】品川∼横浜(のち、桜木町)間で日本最初の鉄道が単線で仮開通
する。蒸気機関車と客車はイギリス製で、イギリスで広軌化のため不要となった狭軌用
のものを大量に購入し、イギリス人の作ったダイヤグラムとイギリス人の機関方(運転手)
によって運転される 。俗に「岡蒸気」と呼ばれる。開通に先立ち駅逓頭(えきていのかみ)
前島密は、鉄道頭井上馨に汽車による郵便逓送を提案し賛同を得る。 [6.13[5.8 ] 仮営業
を開始する。鉄道寮が「鉄道列車出発時刻及賃金表」を駅構内その他に掲示する。日本
最初の時刻表となるが、非売品。横浜・品川発とも 1 日 2 往復で、上りの横浜発車は午
前八字、品川到着午前八字三十五分と、午後四字、品川到着午前四字三十五分、下りの
品川発車は午前九字、横浜到着午前九字三十五分と午後五字、横浜到着午後五字三十五
分とある。表の下欄に〈乗車せむと欲する者は遅くとも此表示の時刻より十五分前にス
テイションに来(キタ)り切手(キッテ)買入(カイイレ)其他の手都合(テツゴウ)を為すへ
し〉とか〈発車時刻を惰(オコタ)らさるため時限の五分前にステイションの戸をトザ(戸
+回)さすへし〉などと記される。片道 35 分で運行される。乗車券は、仮開業に先がけ
て制定された「鉄道略則」で「手形」と呼ばれる。開業に際して駅頭に掲出された「鉄
道列車出発時刻及賃金表」では手形と切手が混用されて、「切手」とも呼ばれる。運賃
は、イギリスと同様に階級制を設けて、上等 1 円 50 銭、中等 1 円、下等 50 銭で、子供
は 12 歳まで半額、4 歳までは無賃。犬 1 匹の片道運賃は 5 銭だが、規則に〈首輪、首綱、
口網をつけるべし〉と記し、旅客車には載せず、犬箱あるいは車長の車で運送する。郵
便物の逓送も開始する。駅には必ず電信設備が設けられ、単線運転に伴う衝突の危険を
避けるための連絡が行われる。信号機は「セマホール相図(あいず)」と呼ばれる腕木式
の信号機が用いられる。腕木は表が赤、裏が白で、夜間は色灯を添えて危害、注意、無
難の 3 現示を出す。車内にはトイレがないため、汽車の中で小便を漏らすと 10 円、放屁
は 5 円の罰金が科せられる。1 ヵ月で利用客が 7 万人。中には乗車前にプラットフォー
ムで下駄を脱ぎ、目的地で下駄がないのに騒ぐ者もいる。10.14[ 9.12 ] 新橋∼横浜間の鉄
道開業式が挙行され、正式開通する。のちにイギリス製蒸気機関車 10 台のうち「一号機
関車 」が交通博物館(東京都千代田区)に展示される。1997.4.18 重要文化財に指定される。]
1872.6.17[ 5.12 ]【日本】東京に、日本橋・両国・浅草の 3 電信局が開局する。
1872.6.19[ 5.14 ]【日本】東京府内の電信局の賃銭表を公布する。
1872.6.25[ 5.20 ]【日本】和歌山博覧会が開催される。[∼ 7.15[ 6.10 ]。]
1872.6.27[ 5.22 ]【日本】東京∼横浜間に 1 日 5 回の往復郵便が開設される。
1872. 6.28[ 5.23]【日本】明治天皇が、中国・西国へ巡幸するため東京を出発する。こ
れに先立ち、天皇の訪問先に指定された各地で「御巡幸線」と称する電信線の架設工事
が昼夜兼行で行われ 、電信による全国主要地域のネットワークが加速度的に推進された。
[下関の稲荷町の遊女が、祖先が中世に天皇に奉仕した官女であるとの理由で、奉迎式典
への参加を特別に許される。7.27[6.22]鹿児島着。8.15[ 7.12]帰京。]
1872. [ 5.−]【日本】品川∼横浜間の汽車に、郵便の搭載を開始する。
- 439 -
1872. [ 5.−]【日本】最初の郵便馬車が、中山道郵便馬車会社により東京∼高崎間 110km
を走り始める。同社は、高崎運輸馬車会社の名称で申請したが、駅逓寮に郵便馬車の名
称を与えられ、中山道郵便馬車会社として 、郵便行李の無料逓送を条件に政府から金 5000
両を無利息 10 ヵ年年賦返納で貸与されて発足した。また、東京、熊谷、高崎の 3 ヵ所に
郵便取扱所を置き、市内および近傍の村々への郵便物の配達を行わせ、郵便切手を販売
させる。
[以後、馬車により東京・高崎とも午前 6 時発、午後 6 時着と定められていたが、
現実には道路が悪くて、到着が夜 8、9 時になることがしばしば起こる。この年、郵便馬
車を京都∼大阪間に開通させる。1874 年、神奈川∼小田原間 、1875 年 、小田原∼熱海間 、
1876 年、熱田∼京都間および神戸∼姫路間に郵便馬車を開通させるが、道路状況により
途中脚夫送などが混用される。
(山本弘文、1972 、石井寛治、1994)
]
1872. 7 . 6 [ 6. 1 ]【日本】東京∼横浜間に 1 日 5 度の郵便を開設する。
1872. 7 . 7 [ 6. 2 ]【日本】前島密(37)が、大蔵省四等出仕兼駅逓頭となる。
1872.7.11[ 6. 6]【日本】文部省博物館において、古金 19 枚が紛失する。
1872. 7.15[ 6.10]【日本】駅逓頭前島密(37)の秘書であった小西敬義が、前島の後援を
得て『郵便報知新聞』を創刊する。第 1 号は、日本橋区横山町の書肆泉屋で、木版刷り、
半紙二つ折りの 9 枚綴り(通常は 6 枚綴り)の冊子体の体裁で製作する。毎月 5 回発行。
値は新貨 3 銭で、初めて新聞に定価を新貨「銭」で表示する。前島密のはからいで、全
国の郵便局に話題を集めさせ、それを無料で郵送するなど、郵便制度の利点を生かして
発足する。[1873 年春、両国広小路横町の碁会所の 2 階を借りて移転。やがて薬研堀に
一本立ちの社屋を貨構え、鉛活字に改める。新社屋は評判となり、活版機械の見学者が
絶えない。部数は 1500 ∼ 2000 部と安定する。6 月から日刊とする。以後、民権派の政
論新聞として言論界をリードする。1882 年、大隈重信が立憲改進党を結成すると、一時
その機関紙となる。1886 年 11 月、社長矢野文雄が紙面を改革、値段を下げて営業新聞
への道を歩み始める。1894 年 12 月 26 日『報知新聞』と改題、家庭新聞をうたって部数
を伸ばす。1898 年、初めて案内広告欄を設ける。1902 年から毎週月曜日に 3 色刷り紙面
を発行。1904 年 1 月 2 日、初めて輪転印刷機による写真版を印刷する。1906 年 10 月 27
日からは朝夕刊発行に初めて成功する。常に新聞界をリード、明治・大正期を通じて東
京屈指の有力紙となる。]
1872.7.15[ 6.10 ]【日本】広島博覧会が、厳島神社で開催される。[∼ 8.13 [7.10]]
1872.7.18[ 6.13 ]【日本】郵便物の列車による逓送を開始する。
1872. 7.20[ 6.15]【日本】政府が、イギリス人ブラックに対し、横浜駅など停車場構内
における新聞の販売を許可する。[ 8.28 新聞販売営業開始。また、この月、赤井金次郎(の
ち、赤井商会)も、横浜駅構内で唐物・小間物・新聞などの販売を始める。ともに日本初
の駅構内営業となる。]
1872. 7.22[ 6.17]【日本】政府が、全国の県庁所在地をはじめ「公私ノ要事繁多之地」
については、毎日あるいは隔日あるいは毎月 5 、6 度あて往復の郵便線路を開き配達の便
宜を図るという布告を出す。ただし、北海道西南部の旧松前藩域以外の蝦夷地には、私
的郵便は届けられない。[ 8.4[ 7.1]実施される。1876 年、北海道全道に私的郵便が届けら
れるようになる。]
1872. 8. 4 [ 7. 1]【日本】駅逓頭前島密が、全国郵便制度を実施する。郵便を、国内一般
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に施行する。ただし北海道後志・胆振以北を除く。[以後、この年、 1159 の郵便局が開
設され、郵便がほぼ全国に実施される。うち、21 局が官設で、それ以外は民間の協力者
である「取扱人 」
「取扱掛」らの協力体制により、郵便の全国ネットワークがほぼ構築
される。取扱人らは国の事業に参画できることを名誉として、土地・建物を無償で提供
する。]
1872. 8.17[ 7.14]【日本】(?)東京・呉服橋の住人が、『東京日日新聞』に「乳母」募集
の公告を出す 。
〈乳母雇入れたきにつき、心当たりの者は…乳さえよろしく候へば給金
は世上より高く進ずべし〉と掲載する。日本最初の新聞求人広告となる。
[以後、巡査、
小学校教員などの募集広告が目立つようになる。のち、7 月 17 日を「求人広告の日」と
定められる。]
1872. 8.23[ 7.20 ]【日本】全国諸道の伝馬所・助郷を 8 月末限りで廃止する旨を布告す
る。宿駅制度が廃止になる。
1872. 8.26[ 7.23]【日本】北海道開拓使函館支庁の通訳官福士成豊(しげとよ)が、日本
最初の気象観測所である函館気候測量所で、気象観測を開始する。イギリス人 T. W. ブ
ラキストンが、1864 年から降雨・降雪記録をとり,1868 年からは気圧、気温の観測を行
っていたのを引き継いだ形で、イギリス製の温度計・雨量計を自宅官舎に置き、観測を
始める。観測は、午前 9 時、午後 2 時。午後 9 時の 3 回行う 。
[1875.6.1 東京気象台(の
ち、気象庁)が内務省測量司の中に創立されたる]
1872. 9. 1[ 7.29]【日本】実業家で易者の高島嘉右衛門(38)らにより、横浜(のち、中区
花咲町)に日本最初のガス製造所が完成する。かねてより 、横浜に居住する外国人たちが 、
日本の夜の暗さを不便に思い、居留地内のガス灯の設置を発案計画し、アメリカ・イギ
リス・ドイツなどが相次いで当局に出願していた。高島は、外国人に権益を取られては
ならじと、市内の有力者 8 人とともにガス会社「日本社中」を創設し、自ら頭取に就任
した。県庁は、ドイツ商会の申請を受けていたが、決定を取りやめ、日本社中にガス灯
建設の免許を与えた。[ 10.31 [9.29 ] 県庁と本町通間のガス灯十数基に灯がともる。]
1872.
[ 7.−]【日本 】最初の地方紙『峡中新聞』が創刊される。[1873 年[7 月] 、
『甲
府新聞』と改題。]
1872.
[ 7.−]【日本】文部卿大木喬任が、文字問題をきっかけに漢字節減の意から、
田中義廉、大槻修二、久保吉人、小沢圭次郎らに命じ、
『新撰辞書』を編纂させる。
1872.
[ 7.−]【日本】『新聞雑誌』に〈尾州(のち、愛知県)より東京迄の模様を通視
せるに、駿遠(のち、静岡県)の間は伝信線に礫(つぶて)を擲(なげ)うち十に六七は破損
せり 。また(電)柱には種々の落がきありてその疎漏なる見るべからず〉との記事が出る。
1872. 9. 3[ 8. 1] 東京∼大阪、横浜∼神戸間に 1 日 2 度の郵便を開設する。また、東京
∼大阪間に至急郵便を開設する。
1872. 9. 3 [ 8. 1] 文部省博物局が、日本最初の国立公共図書館、官立書籍館(しょじゃく
かん、あるいはショセキカン)を、東京湯島博物館の一角にある旧昌平坂学問所の大講堂
内に開館する。日本最初の近代的な公立図書館となる。文部省博物局の布達に〈普ク衆
人ノ此処ニ来テ望ム所ノ書ヲ看読スルヲ差許ス條各其意を体シ有志ノ輩ハ無憚借覧願出
可申事〉と書く。開館時の蔵書数は紅葉山文庫・昌平黌(しょうへいこう)等の蔵本をも
とに 1 万 2916 部。閲覧料は、貴重書は半月以下で 30 銭、一般書は 15 銭前払いで徴収す
- 441 -
る。文部省博物局布達を通じて国民に書籍の献納を要請し、献本も多く集まるが、寄せ
集めの書籍での開館となり、来館者は期待したほど多くはない 。
[以後、新政府の下で
多難の道を歩む。1973.3.19 書籍館が、ウィーン万国博覧会参加準備のための博覧会事務
局に吸収される。 1874.7.30、書籍館の蔵書を浅草の蔵屋敷跡に移して、浅草文庫を設立
する。1875.2.9 書籍館が博覧会事務局と分離、再び文部省の所管となる。1875.4.8 東京
書籍館と改称。1877.5.4 東京府に移管し、東京府書籍館と改称。1880.7.1 文部省の所管
に戻り、東京図書館と改称。(? 1881 年閉鎖。1884 年、太政官文庫に移管。?この項「国
立国会図書館の沿革に記載なし)1885.6.2 東京教育博物館と合併、湯島から上野公園内
に移る。以後、上野図書館の愛称で呼ばれる。1897.4.27 官制により帝国図書館と改称。
1906.3.20 帝国図書館開館式。1947.12.4 国立図書館と改称。1949.4.1 国立国会図書館の支
部上野図書館となる。] (??『記念日の事典』や『記念日の本』は 4 月 2 日(新旧暦不
明)開設といい、4 月 2 日が「図書館開設記念日」あるいは「図書記念日」という??『上
野図書館八十年略史』に、文部省が東京書籍館を廃止し東京府に移管するに当たって、
書籍館側は〈…当館としては、一日も閲覧業務の中止を好まず、開館のまゝ引渡さんと
欲した。従って、当館の廃止・引継ぎを意味せず、事務の移管を望んだのであった。四
月二日、同府(東京府)はこの要求を承認した。
〉とある。しかし、これが 4 月 2 日を「図
書館開設記念日」とする根拠とは思えない。)
1872. 9 . 4 [ 8 . 2] 文部省が、湯島聖堂より常盤橋内元津県県令邸へ移転する。
1872. 9. 5 [ 8. 3] 文部省が「学制」を頒布する 。
〈小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般
必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス〉と定める。[ 1886 年、小学校令が制定され、
尋常小学校 4 年、高等小学校 4 年とし、尋常小学校の 4 年が義務教育とされ、別に修業
年限 3 年以内の小学校簡易科が認められる。]
1872. 9.12 [ 8.10]【日本】日本政府郵便蒸気船会社が設立される。旧幕府・各藩納付の
西洋型船舶の年賦払下げにより、国内航路を開始する。郵便物の無償逓送の受託が主だ
が、乗客・貨物も運ぶ。[12.3[ 11.3] 日本国郵便蒸気船会社と改称する。1875.6 解散す
る。]
1872. 9.18 [ 8.16]【日本】イギリス人弁護士 F.V.ディキンズが、日本にも人身売買は存
在するとして吉原娼婦の年季証文を法廷に提出する。
1872. 9.22 [ 8.20]【日本】工部省が、関門海峡の海底電線の代用として海峡を越える海
上電線工事を始める。馬関側は山上の松の自然木を電柱に代用し、門司側は山上に百尺
ほどの杉柱を立てて七子撚りの導線を架設する。[たるみ度が非常に大きく、間もなくア
メリカ軍艦のマストに引っかけられて切断する。1973.3 下関∼小倉間の 2900 尺(879m )
に海底電線を敷設する工事が竣工する。]
1872. 9.27 [ 8.25]【日本】夜、東京からの郵便行李一荷を岡崎駅から知立駅へ向かい一
人で継ぎ立てていた郵便脚夫が、賊徒に襲われ斬りつけられて死亡する。[以後、政府は、
当分の間夜間継ぎ立てる場合はもう一人脚夫を付き添わせることとする。1873 年[ 6.−]
からは郵便脚夫に六連発の短銃を携帯させることとする。]
1872.9.30 [ 8.28 ]【日本】博覧会事務局が、幸橋御門内元島津装束邸へ移転する。
1872. 9.− [ 8.−]【日本】横浜に新聞縦覧所が設けられる。[以後、東京を始め各地に
私営の新聞縦覧所の設置が広がる。]
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1872.10.14 [ 9.12]【日本】新橋∼横浜間 29km に日本最初の鉄道が開通し、開業式典が、
新橋(のち、汐留(しおどめ)駅)、横浜(のち 、桜木町駅)両駅で盛大に挙行される。さる 9
日に予定され台風のため延期されていた。海軍軍楽隊が伶人(雅楽寮で雅楽を奏する人)
とともに軍楽を演奏する。花火や軽気球があげられ、祝砲が轟く中、官民を挙げて祝福
する 。この日 、天皇が新橋から乗車 、約 1 時間で横浜に到着し、式典後直ちに引き返す。
新橋駅では観客席を設け、2 万人に赤飯を配る。(イギリスのビクトリア女王が初めて列
車に乗ったのは、開通 12 年後の 1842 年であり、しかも余り速く走らせるなと言ったと
いうが、日本の天皇は初日から乗車する。)[10.15[ 9.13] 一般旅客運輸の正式営業が開始
される。鉄道寮が、
「汽車出発時刻及賃金表」を通達する。運行は上り・下りとも 1 日 9
往復、途中、神奈川、鶴見、川崎、品川に停車し、片道の所要時間は 53 分。運賃は、下
等 37 銭 5 厘、中等 75 銭、上等 1 円 12 銭 5 厘。この頃、米 1 升が約 4 銭で、庶民には容
易に手のでない料金である。開業後 1 週間で 2 万 7000 人の乗客を運ぶ。開業直後、日本
初の陸橋「八ツ山橋」架けられる。1873.9.15 貨物運輸を開始する。1922 年 10 月 13 日、
国鉄(のち、JR)が 10 月 14 日を「鉄道記念日」に制定する。1994 年、運輸省(のち、国
土交通省)が中心となり、JR を含めた鉄道事業者が一体となって 10 月 14 日を鉄道を PR
する日として「鉄道の日」を制定する。]
1872.10.16 [ 9.14]【日本】琉球国使臣尚健が、国王尚泰の賀表を天皇に提出する。政府
は、国王尚泰を琉球藩王とし、華族に列すると宣告する。
1872.10.18 [ 9.16]【日本】金沢博覧会が、兼六園で開催される。[∼ 11.16[10.16]。]
1872.
[ 9.−]【日本】電信事業の官営を閣議決定する。電信私設を禁止し、既設の
私線の政府による買収を決定する。
1872.10.29 [ 9.27 ]【日本】山梨県が、啓蒙のため各区で月 6 回新聞解話会を開くよう指
示する。
1872.10.31 [ 9.29]【日本】横浜の神奈川県庁と馬車道本通り∼大江橋間で、日本最初の
ガス灯十数基に灯がともる。フランス人アンリ・プレグラン(31)が設計・監督に当たる。
夕刻、「点消方」と呼ばれる点消夫が点火して回り、翌朝また消灯に回る。ガス灯の明
るさはほぼ 12 燭光(のちの電球の 12W)という。文明開化の象徴キリシタンの魔法を一
目見ようと見物人が大勢押し掛け 、強い臭いのガス燈に周囲は祭のように賑わう 。[以後 、
約 300 基設置される。「点消方」は花形職業になる。ガス製造能力は 1 日 3 万立方フィー
ト(約 850 立方メートル)。この年、東京でも府知事由利公正によってガス灯を新吉原遊
郭内に試用しようとする企てがなされるが,実施をみずに終わる。ガス会社「日本社中 」
頭取の高島嘉右衛門は、この成功により東京にもガス灯建設計画を東京府知事に願い出
る。東京府は直ちには受け入れない。1873.11 東京会議所の会頭渋沢栄一らが、ガス灯
建設を府出願する。1874.1.12 免許が交付される。1972 年、100 周年にあたり、日本ガス
協会が、10 月 31 日を「ガス記念日」と制定する。]
1872.11. 1 [10. 1]【日本】函館∼室蘭∼札幌、小樽∼札幌間に、1 日 2 度の郵便を開設す
る。
1872.11. 2 [ 10. 2]【日本】太政官が、娼婦の解散令を公布し、人身売買禁止、娼妓・芸
妓等の年季奉公廃止を命令する。マリア・ルース号事件の影響により、ペルー政府から〈日
本の遊郭でも、人身売買が行われているではないか〉という抗議を受けることを懸念し
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て対処したもの。[以後、いったん吉原をはじめ全国の遊郭から解放された娼婦たちが、
貧困のため続々と古巣に舞い戻ってくる。政府も早々と解散令を撤回し、娼妓の登録制
を条件に遊郭の営業を再認可する。]
1872.11. 9 [ 10. 9]【日本】
『横浜毎日新聞』の広告欄に、
「広告」の文字が初めて登場す
る。
1872.11.17 [10.17]【日本 】中小学教科書編成のため、文部省に教科書編成掛が置かれる 。
[[11.−]師範学校内にも編輯局をおき、平行して教科書を編纂する。1873.3 教科書編成
掛を編書課と改称。1873.5 編輯局を文部省編書課に合併する。]
1872.11.23 [10.23]【日本】日本初の尋ね人新聞広告が、日本橋釘店の林秋造により『新
聞雑誌』に掲載される。音信のない伊藤逸之助なる者の住居や足取りを求めている。
1872.11.− [ 10.−]【日本】東京・浅草の奥山に新聞茶屋が現れる。新聞 1 冊の見料を 2
厘から 2 厘半、茶代 5 厘をとる。旧幕臣の未亡人が、一児とともに英学塾に学ぶ学費と
生活費をつくるために開業したものという。(『愛知新聞』1872.11 )
1872.
[10. −]【日本】片山淳吉『物理階梯』刊。[以後、科学の教科書初のロングセ
ラーとなる。]
1872.12. 3[ 11.3 ]【日本】日本政府郵便蒸気船会社を日本国郵便蒸気船会社と改称する。
[以後、郵便物・貢米輸送の特権を持ち、東京為替会社の資金力に支えられ、東京・大阪
間をはじめ、函館、勢州、長崎、琉球へも手を延ばし、手広く活動する。しかし、J.R.
ブラックによれば 、〈社長から火夫にいたるまで、全日本人雇用者は、うまい汁を吸う
機会ばかりねらっていた。……会社全体の利益を進めようという目的に向かって、全力
を尽くそうと考える者は、一人もいなかった〉『
( ヤング・ジャパン』3 、1880、ねず・ま
さし他訳、東洋文庫、平凡社、1970)1875.6 解散する。二等副頭取岩橋万造は懸命の努
力をしたが、寄合い所帯の限界を打破できなかったのだという 。
(津本陽『海商岩橋万
造の生涯』中央公論社、1984)]
1872.12. 8 [ 11. 8]【日本 】違式(カイ=言扁に圭)違条令(現在の軽犯罪法)が定められる 。
〈裸体での往来、男女混浴、春画の売買、陰茎模造品の売買、以上の一切を禁ず〉
1872.12. 9 [11. 9]【日本】太陰暦を廃して太陽暦を採用するとの詔書が出される。明治 5
年 12 月 3 日を明治 6 年 1 月 1 日とする。また時刻については、これまでの「不定時法」
を廃し、「定時法」を取り入れて、1 日を 24 時間に等分し、従来の昼夜 12 時を 24 時に
改める。突如年末に改暦に踏み切った理由は、明治 6 年は旧暦では閏年になり 13 か月だ
が、官吏の給与を月給制に切り替えたばかりの政府は、太陽暦採用により 1 か月分の給
与を浮かすことができ、また 12 月は 2 日で打ち切るため、ここでも 1 か月分を節約でき
るという財政上の見地からだった。しかし、改暦詔書には 4 年に 1 回の閏年を置くとだ
けあって、ユリウス暦かグレゴリオ暦かの明示はされていない。[ 1898.5.11 勅令をもっ
て、西暦 1900 年を平年とするグレゴリオ暦の置閏法にすることが明示され、グレゴリオ
歴が正式採用される。]
1872.12.12 [11.12]【日本】太政官布告により、新服制が公布される。式服として大礼服、
通常礼服、燕尾服などが制定され、政府高官などが着用する礼服には燕尾服などの洋服
とし、従来の伝統的な直垂(ひたたれ)やかりぎぬなどの着用を止める。[ 1972 年、洋服
百年を記念して、全国洋服協同組合が、11 月 12 日を「洋服記念日」と定める。]
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1872.12.13 [11.13]【日本】東京府が違式(カイ=言扁に圭)違条令を実施する。
1872.12.15 [11.15]【日本】大蔵大輔井上馨の名で、正院に郵便事業の官営独占案が提出
される。理由は 、
距離による料金差をなくして西洋並に全国同一料金(手紙 1 通 2 匁= 7.5g
ごとに 2 銭、市外地や郵便取扱所のない不便地は増料金 1 銭)としたいが、その場合近
距逓送離が相対的に高い料金となるから、近距離への信書は皆飛脚屋などの手に落ち、
政府の郵便は遠距離宛ての信書の往復のみになる結果に陥り、官営郵便事業は収支がと
れなくなり、発展できなくなるに違いない、というもの。
1872.12.19 [11.19]【日本】天皇、皇后が、内山下町の博覧会事務局においてウィーン万
国博覧会の出品物を観覧する。
1872.12.20 [11.20]【日本】政府が、ウィーン万国博覧会の出品物を諸官吏、外国公使、
華族その他関係者に特別公開する。
1872.12.23 [11.23]【日本】東京・両国の回向院で開催中の大相撲 11 月場所の 2 日目から
婦女子の見物が自由となる。これまで相撲は勧進であるとの建前から、経済的自立が確
立していないとみなされた女や子供は勧進が出来ないとされていた。この日、水商売の
女を中心に桟敷席に女の見物客が姿を見せる。[以後も、当分の間、各場所の初日の見物
は男のみとされる。敗戦後、土俵際の砂かぶりにまで女が姿を見せるようになる。]
1872.12.28 [11.28]【日本】政府が、長崎、神奈川、函館などの運上所を税関と名称を改
める 。
[1952 年、大蔵省が 11 月 28 日を「税関記念日」と定める。]
1872.○【日本】この頃、銭湯の入浴料が 1 銭 5 厘。
1872. ○【日本】旧広島藩主浅野長勲が中心となって、日本最初の製紙会社、有恒社を東
京日本橋に設立する。[ 1874 年 6 月、初めて洋紙を製造する。1924 年、王子製紙に併合
される。]
1872. ○【日本】京都で有志が集書会社をつくる。イギリスやアメリカの会員制図書館の
例にならい、銀 1 円を収めた入会者に本を貸すことを基本とする。[1873 年、京都府が
集書院を設立し、集書会社が運営する。]
1872.○【日本】湯浅治郎が、群馬県安中に便覧舎という名の書籍館を設立する。2 階を
キリスト教教会とする。
1872. ○【日本】高松に、新聞誌展覧所が設置される。
1872.○【日本 】山梨県に、新聞記事を読み解く「読師 」を置いた新聞解話会が発足する 。
1872.○【日本】東京築地活版製造所の平野富二( 26)が、活字書体に字画を整理、改刻し
て、日本最初の活字見本帳を作成して、関係先に配布する。[以後 、明朝活字の「築地体 」
の基礎となる。1879 年、縦線の太い築地体が完成する。]
1872. ○【日本】紙幣寮(のち、造幣局)が、アメリカからトーマス・アンチセルを雇い入
れ、初めて赤、青、緑の洋式印刷インキの製造に成功する。消去不可能とするために特
殊な製法が開発されるが、その内容は秘密にされる。[以後、もっぱら紙幣の印刷に使用
される。民間では 1882 年ころまで、独自に印刷インキを開発し、不足分は外国からの輸
入に頼る。印刷工の仕事に、インキ作りは欠かせないものとなっており、自分で必要な
量だけ顔料を大理石盤の上で練って作るところが多い。やがて、印刷屋の門前へ出張し
て、その場でインキを作る賃練屋という商売も生まれる。1892 年ころから国産インキが
増加する。]
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1872. ○【日本】この年中頃、京都の松田玄々堂で印刷されていた郵便切手が、政府の紙
幣寮に移行され、松田の版を使って印刷を始める。この移行期に、印刷は政府の用紙と
インキを使用し、目打ちだけは松田製の「短器目打」で仕上げる。和紙桜切手は、同じ
料額でも政府と松田で印刷したものがある。[以後、この和紙桜切手を「中間印刷」と呼
び、松田で印刷した切手は「松田印刷」と呼んで区別する。]
1872.○【日本】イギリスの通信社ロイターの記者コリンズ Henry M.Collins が、海外通
信社の最初の特派員として来日する。長崎と横浜に支局を設けて営業を開始する。[1873
年、長崎∼横浜間に電信線が開通、これに合わせてロイターは〈Follow the Cable(電信線
とともに進め)〉を合い言葉に東進する。同社の上海支局が日本向けと判断したニュース
を横浜の代理店へ送信し、代理店経由で契約している英字紙に配信する。[以後、日本の
新聞に掲載される外電はもっぱらロイターの電報となる。「ロイター電」は「外電」の
同義語となり、日本で唯一の国際ニュースとなる。この間、ロイターの表記は「ライト
ル」、
「ルートル 」
、「ルーテル」、
「ロイテル」、
「ルーター」あるいは「路透社」などまち
まちで、昭和初期に「ロイター」が定着する。]
1872.○【日本】岸田吟香(きしだぎんこう)( 39)が、
『東京日日新聞』に入る。[ 1874 年、
台湾出兵に際し、日本初の従軍記者として現地に赴き、その報道が評判をよぶ。]
1872.○【日本】香水〈桜水〉東京親父橋芳町よしや留右衛門の広告が、
『東京日日新聞』
の商品広告の最初に掲載される。
1872. ○【日本】東京∼神戸間に電信線が開通する。(??)
1872. ○【日本】西国方面で電信に関する奇妙な噂が流布する。
1872.○【日本】電信騒擾が、各地で発生する。[∼ 1877 年。]
1872. ○【日本】年末より各府県で、貸座敷・遊女・芸者等渡世規則が定められる。
1872. ○【フランス】マリノニ・イポリトが、両面刷り活版輪転器に改良を加えて巻取紙
用活版輪転機を完成する。
1872. ○【フランス・イギリス】ドーバー海峡に海底トンネルの建設を具体化するため、
両国で海峡トンネル会社が設立される。[以後、イギリス側は、大佐ボーモントが考案
したトンネル・ボーリング・マシン( TBM)をつかって試掘を開始し、約 60m 近く堀りす
すみ、別にシェークスピアクリフから海峡にむかっておよそ 1.6km 掘削する。フランス
側もガモンが指揮して TBM で約 1.8km 試掘する。1882 年、本格的な着工にいたる前に、
おもに軍事上の理由で反対意見が強くなり、イギリスが中止を決定する。1883 年、フラ
ンスも正式に中止する。]
1872. ○【イタリア】レオナルドの手稿が、ミラノのアンブロージォ図書館収蔵の「アト
ランティコ手稿」から 24 枚を抜粋し、改題を付して、原本とまったく同じ体裁・用紙を
用いた初めてのファクシミリ(複製本)「リコルディ版」が出版される。[以後、パリ、ミ
ラノ、トリノ、ウィンザーなど各国が所有する手稿本が複製本として出版される。1940
年代までに、全ページがファクシミリとしてもテキストとしても出版される。]
1872.○【イギリス】ハイド・パーク(Hyde Park)の北東隅のマーブル・アーチ付近に、
スピーカーズ・コーナ( Speakers' Corner)が設けられる。意見を述べたい人は誰でも自由
に台上から群集に向かって演説を行うことができる。[以後、肉声による自由な表現活動
や討論が行われる場所として有名になる。]
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1872. ○【イギリス】ロンドンの菓子屋サミュエル・パーキンソンが、男女の卑猥な体位
の飾り付けをした菓子を売って投獄される。
1872.○【アメリカ】世界最初の国立公園 、「イエローストーン国立公園(Yellowstone
National Park)」が〈国の設置する大自然公園〉として設置される。[以後、これに啓発
されて、各国が国立公園の導入を図る。国情に応じて多少の差はあるが、おおむね国の
設定する自然公園として定着し、世界的に共通の概念が確立される。1916 年、内務省国
立公園局が設置される。]
1872.○【アメリカ】ジェイムズ・W・ペイジが、活字を拾い組版する作業を自動化する機
械を考案する。[以後、マーク・トウェインらの協力を得て機械の完成に 20 年間努力する
が、成功せず、失意のうちに死去する。]
1872.○【アメリカ】イギリス人写真家マイブリッジ Edward Muybridge( 42 )が、動くも
のの連続撮影を試みていたところ、大陸間鉄道の建設者で、元カリフォルニア州知事ス
タンフォード Leland Stanford (48)の要請で、馬が走るとき 4 本の足が地上を離れるか否
かという動物の運動についての論争に決着をつけるため,サクラメントの競馬場で、馬
の脚の運動状況を瞬間写真で撮影することになる。まず特別な感光板と露光装置をつく
り、24 個の写真機を一列に並べ、24 の写真機の開閉弁から 1 本ずつ糸を引き、馬の脚が
その 1 本ずつの糸に触れるごとに、1 枚ずつの写真の撮影ができるように仕組み、4 本の
足が地上を離れることを証明する。さらに、数度の試験の結果、並足、駆足、疾走、跳
躍等の、運動写真がしだいに完成される。ところが、彼のせっかくの製作にもかかわら
ず、これらの運動写真は、運動と並行して撮影されていたために、これをゾートロープ
式装置にかけて、1 個の「動く写真」として見る場合には、馬はただ 1 ヵ所で脚をバタ
バタさせるだけで、少しも前進はしていない。[以後、10 年間に、マイブリッジはいろ
いろの動物や、老幼男女の様々の動作を 781 種、2 万余個の瞬間写真に撮影する。1880
年、これを応用して彼独特の覗き眼鏡ゾープラクソスコーブ(ズープラクシスコープ)
Zoopraxoscope (「動物の動きを見る装置」の意味)を開発し、人間や動物のあらゆる動き
の連続撮影を行う。以後、映画への発展を胚胎するものとして重要視される。]
1872.○【アメリカ】エジソン( 25)が、二重電信機を発明する。
1872. ○【アメリカ】スミスが、セレンの光導電現象を発見する。
1872.○【アメリカ】インディアナ州フォートウェインのジョセフ・R・ベックが、アメリ
カで初めて女のオルガズムを科学的に観察する。
1872. 【事物】鉄道時刻表賃金表、乗客心得。求人広告(乳母募集)。
1872. 【流行語】ポリス。文明開化七つ道具[新聞紙・郵便・瓦斯燈・蒸気船・写真絵・
博覧会・軽気球]。岡蒸気。あんパン。
1873(明治6)
1873. 1. 1【日本】太陽暦の使用が始まる。政府が、旧暦明治 5 年 12 月 3 日が新暦明治 6
年 1 月 1 日であるとして新出発する。同時に、神話に基づき日本建国の年を西暦紀元前
660 年に当たるとして神武天皇紀元を制定し、この年が紀元 2533 年と定める。時刻につ
いては「定時法」による標準時制度が始まる。これまで日の出・日没で 1 日を昼夜の 2
つに分け、それぞれを 6 等分する「不定時法」の時制が用いられていたが、1 日を 24 時
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間に等分し、「正子」から「正午」までを午前何時、「正午」から「正子」までを午後何
時と呼ぶこととし、夜中の「子(ね)の刻」は「午前零時、午後 12 時」、正午は「午前 12
時」とする。2 時とか 3 時という場合の「時」がこれまで使われていた「字」に代わっ
て導入される。[以後、太陰太陽暦とはまったく異質の太陽暦への改暦は、予備知識をも
たない一般民衆には迷惑きわまりないこととなる。各地域間の連絡網も不十分なので、
決められた太陽時の時刻も全国一律となるまでにはいかない。1879 年、初めて平均太陽
時の時制が制定され、京都の地方時が採用される。1898.5.11 勅令をもって、西暦 1900
年を平年とするグレゴリオ暦の置閏法にすることを明示し、初めてグレゴリオ暦を正式
採用する。1987 年、全国団扇扇子カレンダー協議会が、太陽暦採用を始めたこの日にち
なんで 12 月 3 日を「カレンダーの日」と定める。]
1873. 1. 1【日本】駅逓寮の郵便課を廃止し、郵便規画、郵便調整、郵便発着、調度、翻
訳、往復の 6 課を置く。
1873. 1. 1【アメリカ】シカゴ公共図書館が、1871 年のシカゴの大火後、イギリスの支援
を契機に廃墟と化した貯水タンクの跡地に、その骨組みを利用して建設され、開館する。
[1874 年、周辺地域に対し、配本所制度(delivery station system)を実施する。以後、配本
所制度は、20 世紀初頭には貸出全体の 3 分の 2 を占めるようになる。]
1873. 1 . 9 【日本】抄紙会社の設立が許可される。(『王子製紙社史』は 2.12 正式認可)
1873.1.10【日本】徴兵令を布告する。
1873.1.15【日本】太政官が、各府県へ公園の設置を通達する。
1873.1.22【日本】太政官が、尼僧の蓄髪・肉食・婚姻・帰俗を自由とする。
1873. 1.30【日本】ウィーン万国博覧会への出品物をフランス船ハーズ号に積載して発送
する。
1873. 1.−【日本】新政府が、国税として車税(くるまぜい)を創設、乗り物に対して初め
て課税を打ち出す。太政官布告第 31 号で、
〈今般僕婢馬車人力車駕篭乗馬遊船等諸税施
行被仰候條別紙規則之通相心得明治 6 年 1 月ヨリ納税可致事〉と告示する。[1874 年 2
月、第 21 号布告で車を僕婢、乗馬、遊船などと分けて、改めて車税として税額を明示す
る。1896 年、車税は廃止され、車に対する税は府県の雑種税となる。]
1873. 2 . 5【日本】太政官布告で 、年齢計算を満年齢で〈○月○日〉と数えることとする。
1873. 2 . 7【日本】仇討ちが禁止される。
1873. 2.12【日本】日本初の合本組織(のちの株式会社)による有限責任制の会社「抄紙会
社」が、紙幣寮により正式に設立を認可される。日本初の民間株式会社となる。[1874.1
渋沢栄一に会社事務担当(頭取)を委嘱する。 10 月、第一国立銀行内に仮事務所を開設、
「抄紙会社」に表札を掲げる。1875.7.12 王子工場が操業開始。1893.11.8 王子製紙㈱と
改称する。
]
1873. 2.14【日本】駅逓寮が、アメリカ人ブライアンを、最初のお雇い外国人として職員
に採用する。[以後、アメリカとの郵便交換条約の締結業務に当たらせる。8.6 ワシント
ンで条約調印。]
1873.2.18【日本】東京∼長崎間の有線電信工事が完成する。[ 4.29 試験通信を開始する。]
1873. 2.24【日本】政府が、切支丹(キリシタン)禁制の高札を撤去する。キリスト教が黙
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認される。1612(慶長 17)年に始まった切支丹禁制が 262 年ぶりにその効力を失う。
1873. 2.−【日本】西京(京都)∼大阪間で郵便馬車が走り始める。西京大坂間郵便馬車会
社が、京都と大坂を毎日午前 9 時、午後 1 時に出発し、5 時間で目的地に着くこととす
る。郵便物については 4 貫目(約 15kg)までを 35 銭、それ以上は 400 目(約 1.5kg)ごとに 3
銭 5 厘の料金を駅逓寮から支払うが、その他の費用はいっさい会社が自弁するとされて
いる。[ 1877.2 両地間に鉄道が開通する。]
1873.3.10【日本】改正郵便規則を公布する。料金の距離制を廃止し、全国均一制とする。
郵便犯罪罰則により、信書の逓送は駅逓頭の特認とし、これを犯して逓送配達する者は
200 円以内の罰金に処すと定め、郵便事業の官営独占を布告する。[4.1 施行。郵便事業
の官営独占化が進められる。]
1873. 3.14【日本】政府が、日本人と外国人との結婚禁止を公式に解除する。[5.31 山口
県士族の銀行員南貞介( 24)が、イギリス駐在中に親しくなったライザ・ピトメン(23)と結
婚して帰国、外務省に届け出て、国際結婚第 1 号となる。のち、3 月 14 日を「国際結婚
の日」とされる。]
1873.3.15【日本】伊勢山田博覧会が開催される。[∼ 5.15。]
1873. 3.19【日本】太政官が、ウィーン万国大博覧会準備のため、文部省所轄の博物館、
書籍館、博物局、小石川薬園を博覧会事務局へ併合させる。[ 1875.2.9 博物館、書籍館、
博物局、小石川薬園が分離され、再び文部省の所轄となる。]
1873. 3.25【日本】東京府が、浅草寺、上野寛永寺、芝増上寺、深川富岡八幡、王子飛鳥
山の 5 ヵ所を公園に指定し、大蔵省に上申する。
1873. 3.28【日本】外交官矢野次郎が、妻と共にアメリカへ赴任する。妻帯赴任の初め。
1873. 3.29【日本】東京開市場裁判所( 1872 年 2 月築地に開設)が、イギリス人対日本人
商人の金銭トラブルの裁判で判決を下す。[以後、判決原本が、現存する日本最古のもの
となる。]
1873. 3.−【日本】佐賀県三根郡堤村で、電線保守の賦役に不満を抱く農民が電信線を切
断する。
1873. 3.−【日本】磐前県(のち、福島県会津地方)で、青年男女の風紀是正のため、念仏
踊・若者組・地蔵祭などが禁止される。
1873. 4 . 1【日本】郵便料金の全国均一制が実施される。従来の「郵便賃銭」 の呼称を「郵
便税 」と改め、重量 2 匁(7.5g )以下の書状は全国均一 2 銭、市内 1 銭とする。[以後、
「郵
便税」は「郵税」と略しても呼ばれる。]
1873. 4.15【日本】博覧会事務局が、山下門内博物館で初めて「博覧会」を開催する。開
催するにあたり、官庫には「珍品希物」が少ないから、珍奇の品物や新発明の器械等が
あれば出品するよう促す。品物を預かった場合には、預り証書を発行し、またその証書
と引き換えにいつでも出品した品物を引き取ることができるようにする。観覧料は 2 銭。
[∼ 7.31。この間最初の予定を 2 回延長して終了する。]
1873. 4.−【日本】従来の郵便役所を一等郵便役所とし、郵便取扱所のうち 270 を郵便役
所と改称のうえ、二・三・四等に区分する。
1873. 4.29【日本】東京∼長崎間 355 里(1394km)の電信線工事が落成する。工部省は、
モールス印字機を装置し、各省に対して試験通信への参加を呼びかける。[10.1 正式に
- 449 -
開通する。]
1873. 4 . −【日本】電信局に一∼三等の等級を設定する。
1873. 4.−【日本】北村重威(しげたけ)が、日本人を対象にした本格的なレストラン「精
養軒」を、東京・築地采女(つきじうねめ)町に再建、開業する 。
〔前年 1872 年 2 月 26 日
に東京馬場先門前に精養軒ホテルをフランスから料理長チャリヘスを招聘して開業した
が、開店当日の大火で類焼してしまった。
〕[ 1876 年、上野公園にも開店する。]
1873. 5. 1【日本】郵便事業を政府専掌とする。信書送達は政府独占事業となり、民間飛
脚問屋による手紙の逓送が禁止される。
1873. 5. 1【オーストリア】ウィーン万国博覧会が開催される。アーク燈が点灯され、人
々の目を惹く。初めて日本から出品された美術工芸品が好評を博す。有田焼に協力した
ドイツ人ワグネルが、御用掛として日本のために活躍する。[∼ 11.2。予定より 2 日間延
長して終了する。]
1873. 5. 9【オーストリア】オーストリアとハンガリーにおける企業が大倒産し、ウィー
ン株式取引所が大混乱となる。[以後、
「ウィーンの破局 」から、世界的な「1873 年恐慌 」
が始まる。]
1873.5.13【日本】妾を本妻に直すことが認められる。
1873.5.15【日本】妻からの離婚請求権が認められる。
1873. 5.15【日本】京都に集書院が、図書縦覧所として民間有志によって開設される。運
営委託を集書会社が引きうける形をとる。[のちに、京都府立となり、日本初の公立図書
館となる。1882 年、利用者が少なく,閉鎖される。]
1873.5.17【日本】
『東京日日新聞』が和紙の使用をやめて洋紙を使用する。
1873. 5.31【日本】日本橋に洋式木橋が完成する。[この年、日本橋が国内諸街道起程の
元標と定められる。のちに石で造られる。
]
1873. 5.−【日本】印書局(のち、印刷局)に、カナダ人パターソンが雇われ、本格的な洋
式製本術を多くの養成工に伝授する。
1873. 6. 5【日本】神奈川県と外務省などの往復文書は、別行嚢により逓送することとす
る。
「約束郵便」の始まりとなる。
1873. 6. 5【日本】鉄道寮が、新橋∼横浜間鉄道の上等乗客に、3 ヵ月 120 円で往復常乗
り切手(定期乗車券)の交付を決める。[以後、実施されない。1886.1.1 改めて上・中等乗
客に実施、定期乗車券の始めとなる。]
1873. 6 . 9【日本】連名電報の制度を創設する。同文電報の初め。
1873. 6.10【日本】政府が、デンマークの大北電信会社と条約を調印し、料金の相互計算
などを協定する。
1873. 6.11【日本】前年に澁澤栄一の努力で公布された国立銀行条例にもとづいて、日本
最初の近代的銀行、第一国立銀行(のち、第一銀行、第一勧業銀行、みずほ銀行)が、民
間の出資により設立される。資本金 244 万円余、渋沢栄一が総監役(頭取)に就任する。
[7.20 営業開始。8.20 国立銀行紙幣を発行する。以後、政府の奨励で銀行設立がブーム
となり、1882 年に第百五十三銀行までできる。1882.10.10 日本銀行が不換紙幣整理策の
中核として設立され、国立銀行紙幣の発行は停止する。1896 年 9 月、国立銀行としての
営業満期到来に伴い,第一国立銀行は普通銀行として営業を継続し、㈱第一銀行(資本金
- 450 -
450 万円)と改称し、新発足する。]
1873. 6.20【日本】福岡県で米価値上がりに抗して農民一揆が発生する。電信線の東京∼
長崎幹線のうち佐賀県田代∼小倉県境の電線を切断し、電柱を倒す。
1873. 6.21【日本】数万人の暴徒が大名町福岡伝信局に乱入し、機材を破壊し、小倉に達
して海岸沿いの電線を分断し、電柱を破壊する。
1873.6.27【日本】政府が、民間の飛脚便を禁止し、民部省所管となる。
1873. 夏【日本】この頃、福沢諭吉(39)が、慶応義塾の有志の者と演説討論の練磨を始
める。[ 1874 年、三田(みた)演説会を創設。 6 月 27 日第 1 回演説会を開く。]
1873. 7. 1 【日本】新聞原稿逓送規則を施行する。無封・開封の新聞原稿は 4 匁まで無料
とする。
1873. 7.28 【日本】地租改正令が布告される。収穫高から地価への課税に変更、税率 3 %
とし、物納から金納へと改める。
1873. 7.−【日本】平野富二( 26 )が、小幡活版所が手狭になったため、築地 2 丁目に 120
坪を買い、移転して築地活版所を開く。活字販売の広告を出し、3 号活字が永 8 文 5 分(8
厘 5 毛)、4 号が永 8 文( 8 厘)、5 号が永 7 文 5 分(7 厘 5 毛)、7 号振り仮名(ルビ)が永 5
文( 5 厘)の値を付ける。[この年、平野富二が国産最初の本格的な印刷機を製造する。11
月、
『東京日日新聞』に平野活字を納入し、新ケースを設置して組版作業が開始される。
東京日日新聞は、5 号活字は 1 個につき 5 厘しか支払わず、大きい活字が 6 厘では、職
人は彫りやすくて賃金の高いほうを選ぶ。そこで、東京日日は 1 個につき 7 厘出して職
人の引き止めに務める。同紙 11 月 29 日付第 545 号から、従来の 2 分あき 1 行 15 字詰め
を、ベタ組み 22 字に改める。行数も各面とも増加し、1 、2 面を合わせると文字収容量
は計 6798 本となり、5 割弱の増加を実現する。]
1873. 7.−【日本】福島県で電信線路の架設工の際、危害があるとして暴動が起こり、電
信局や電柱を壊す。
1873. 7 . −【日本】小倉県や福岡県で農民の大一揆が起こり、電信線が切断される。
1873. 8 . 1【日本】東京から県庁所在地に毎日郵便が差立てられる。
1873. 8 . 6 【アメリカ】日米郵便交換条約が、ワシントンで調印される。
1873. 8.12【日本】太政官布告により、大学教員は「教授 」
、中学校教員は「教諭 」
、小学
校教員は「訓導」とする職名が定まる。
1873. 8.13【日本】政府が「大日本政府電信取扱規則」を定め、布告する。同規則の第一
条に、〈電信ハ瞬間万里ヲ通スル至緊至妙ノ機関ナリ、然りト雖トモ不断遅延ノ憂ナク誤
謬ノ煩ナク全達センコトハ請合難シトス〉という自信のない弁明を述べ、遅延などのた
めに商業上の損失が生じたとしても弁償はしないと規定している。
1873.8.14【日本】郵便取扱人を郵便取扱役と改称し、一∼七等の等級を設定する。[11.8
八・九等を追加する。]
1873. 8.20 【日本】第一国立銀行が、国立銀行紙幣 5 種を発行し、金貨と同一使用を告示
する。紙幣は、アメリカで製造され、日本の紙幣に初めてアルファベット記号と洋数字
による通し番号が印刷される。
1873. 8 . −【日本】日米郵便交換条約が調印される。
1873. 8.−【日本】アメリカから帰国の森有礼( 26)が、学術の研究、講談のため学社を結
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成することを西村茂樹( 45)にはかる。[9.1 森有礼の住居を会場に、幕末以来の洋学者を
集め、会合を開く。明六社のはじまりとなる。]
1873. 9. 1【日本】鉄道寮が、貨物営業を開始し、同時に鉄道貨物運輸賃金表と鉄道列車
時刻表印刷し、新橋∼横浜間の各停車場の売店や新聞販売人に販売させる。売価は、前
者が 6 銭 2 厘 5 毛(1 朱)、後者が 2 厘 5 毛。日本初の市販時刻表とされる。[以後、存在
は確認されない。正式な題名も不明である。]
1873. 9 . 1【日本】政府が、飛脚と称する物貨運送の私営を禁止する。
1873. 9. 1 【日本】森有礼(26 )が、自宅を会場に幕末以来の洋学者を集め、明六社の会合
を開催する。日本最初の学術結社となる。アメリカから帰国の森有礼の首唱になり、西
村茂樹( 45) 、津田真道(まみち)(44) 、
西周(あまね)( 44) 、中村正直(まさなお)(敬宇 )(41) 、
加藤弘之(ひろゆき)(37) 、箕作秋坪(みつくりしゆうへい)(47) 、福沢諭吉(39) 、杉亨二(こ
うじ)(45) 、箕作麟祥(りんしよう)(37)の 10 人が集まる 。[以後 、毎月 1 日と 16 日の月 2
回のペースで会合し、研究討論や講演会をもつ。のち、津田仙(せん)、神田孝平(たかひ
ら)らが加わる。1874.1.16 この回から築地の精養軒で 1 人 1 円 20 銭という豪華な洋食の
晩餐をとりながらの会合に変化する。1874 年 2 月、「明六社制規」を制定、
〈意見を交換
し知を広め識を明にする〉を目的として、社長を森有礼、社員を 9 名で、正式発足する。
1874.4.2 会合での談論筆記をまとめた『明六雑誌』を創刊する。11.16 出席社員を対象に
演説会を始める。1875.2.16 演説会を一般に公開する。1875 年 11 月、政府の言論取締強
化に伴い『明六雑誌』第 43 号をもって自主的に廃刊する。以後、明六社そのものはサロ
ンとして 1910 年ごろまで存続する。
しかし、
その啓蒙的役割は雑誌廃刊とともに終わる 。
]
1873. 9.21【アメリカ】
「1973 年恐慌」がアメリカに波及し、ニューヨーク株式取引所が
閉鎖される。[以後、金融恐慌の波が各地に広がり、銀行支払いが停止される。恐慌を期
に電信技術が急速に普及する。]
1873. 9 .−【日本】岸田吟香(きしだぎんこう)(40)が、
『東京日日新聞』に入社する。
1873. 9.−【アメリカ】印刷技術者ショールズ Christoph Latham Sholes( 54 )が、自分が特
許を持つ書記機械「タイプライタ」の製作の話をニューヨークの銃・ミシン・農耕機製
造業者レミントン父子社に持ちかけ、こうしてつくられた最初のレミントンのタイプラ
イターが発売される。[ 1874 年、レミントンはショールズの特許権を買い取って改良を
加え、自社商標で販売を開始する。]
1873.10. 1【日本】太政官布告で、公式の書類に実印を押すように定められる。[のち、
全日本印章組合連合会が 10 月 1 日を「印章の日」と制定する。]
1873.10. 1【日本】東京∼長崎間に電信が正式開通する。
1873.10.19 【日本】上野公園が、宮内省管理の公園として開設される。[ 1876.5.9 開園。
1924.1.28 皇太子(のち、昭和天皇)御成婚記念として不忍池とともに東京市に下賜され、
上野恩賜公園と命名され一般に開放される。]
1873.10.19 【日本】新聞の発行許可制や国家非難、官吏の情報漏洩防止などを盛り込んだ
新聞紙条目が定められる。
1873.10.28 【ドイツ】金融恐慌がドイツに波及し、ベルリンの証券取引所が空前の大暴落
に見舞われる。この 3 年間に全国で設立された企業 857 社のうち 160 社が倒産する。[以
後、20 年間経済不況に陥る。]
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1873.11. 8【日本】郵便取扱役の等級に八・九等を追加する。[1874.7.22 八・九等の等級
を廃止する。]
1873.11.10 【日本】太政官布告により、内務省が設置される。征韓論をめぐる政変を機に
設置が公表されていた。[11.29 創設の発議者の大久保利通が初代内務卿に任命される。
[1874.1.10 省機構が確定し太政官中の一省として執務が開始される。当初の機構は、大
蔵省から勧業、戸籍、駅逓、土木、地理の五寮を、司法省から警保寮を、また工部省か
ら測量司を移した六寮一司の構成で、内務行政の主軸は、富国強兵のための勧業政策と
国内治安対策の推進とする。]
1873.11.10 【日本】松本博覧会が開催される。[∼ 12.24。]
1873.11.19 【日本】郵便葉書並びに封嚢発行規則が制定される。
1873.12. 1【日本】日本初の通常郵便はがきが発行される。紅枠縦長の薄手の用紙を二つ
折りにしたもので、文面を他人の目に直接さらさないように配慮する。市内用半銭、全
国用 1 銭の 2 種で 、
「はがき」の文字が長方形の枠状の料額印面内に印刷してあり、唐草
模様が切手と同じく銅板エッチング法による手彫り凹版により紅色で印刷される。また、
郵便封嚢 6 種が発行される。[以後、1 枚目の裏面など随所に文字をびっしり書く者が続
出したので、1 月後、二つ折脇付き葉書の改訂版を出し、1 枚目の表面に初めて「郵便は
がき印紙」の文字が入れられ、裏面に規則を掲げる 。
〈一、他見ヲ憚カラス又上包ヲ要
セサル短文通ヲ低税ニテ往復ノ便宜ヲ開クヘキ為メ之ヲ各地郵便役所及ヒ取扱所ニテ可
売下事 (中略) 一、此面ヘハ決シテ文字等ヲ不可認事(この注意文のある面には絶対に
文字を書いてはいけない)〉などと掲げる。1874.4.1 半銭と 1 銭の「脇なし葉書」が発行
される。以上の 6 種の葉書を総称して俗に「二つ折はがき」あるいは「通常葉書」と呼
ばれ 、
最初の葉書は「紅枠葉書」
と愛称される。
簡便なため年賀状に盛んに使用される。
1874
年、郵便封嚢は「郵便封皮」と改称。1908 年、郵便封皮の発行中止。手彫り葉書は 1875
年 6 月 12 日発行の小型カナなし葉書半銭と 1 銭の 2 種まで計 10 種が発行される。これ
以後、日本でも厚手の紙が製造されるようになったため 1 枚紙になる。1885 年 1 月 1 日
に往復葉書、1951 年 6 月 1 日に小包葉書、1877 年 11 月 20 日に万国郵便連合葉書が発行
される。このほか各所の記念、行事、特別目的、宣伝のためになどに発行される「特殊
葉書」がある。]
1873.12.10 【日本】東京府が、貸座敷(遊郭)渡世規則・娼妓規則・芸妓規則を定める。
1873.12.11 【日本】電信符号取扱規定が制定される。
1873.12.23 【日本】琉球への郵便線路を開き、日本国郵便蒸気船会社と約定を締結する。
琉球の帰属が日清間の争点となっている最中、政府が郵便蒸気船会社に年 6000 円の補助
をして隔月往復の日本∼球間航路を開設させ、郵便物や貨物旅客の輸送を行わせること
とする。[1974.1.10 運航開始。]
1873.12.26 【日本】京都∼大阪間の鉄道建設が開始される。
1873.12.28 【日本】郵便脚夫が、6 月 20 日制定の短銃取扱規則に基づき、短銃を携帯す
ることとする。政府が、郵便業務強化のため、臨時国費により、秤・時計・短銃などを
各地郵便役所に配布する。[ 1874 年にかけて 、秤 1500 挺(単価 5 円 10 銭 4 厘)
、時計 1500
挺(単価 3 円 75 銭 )、短銃 400 挺(単価 7 円 40 銭)を配布する 。](
『太政類典 』
、石井寛治 、
1994)
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1873.○【日本】洋式製本術が日本に伝えられる。[以後、約 30 年間、和本から洋本への
切りかえが徐々に行われ、1900 年ころから洋本仕立てのものが書物の主流を占めるよう
になる。]
1873.○【日本】この頃、堺の納谷伊平が、和装本の表紙をほぐして、和製の紙函第 1 号
をつくる。[1895 年ごろ、洋本装丁の本を紙函におさめるという発想が生まれる。](紀
田順一郎『本の小事典』)
1873. ○【日本】盲人教育用に凸文字の教科書、文部省編『小学読本』巻一が作られる。
版木に彫った文字の上に土佐紙を置き、霧を吹いて型をとり、半乾きのときに取り外し
て裏返して凸文字を紙面に残したもの。
1873.○【日本】函館、岐阜七間町などにに新聞縦覧所ができる 。
[1874 年、江差、高山
にも設けられる。以後、東京・浅草に新聞茶屋ができる。ミルクホールと称して、牛乳
を飲む者には新聞・雑誌や官報を無料で閲覧させる店も現れる。
]
1873.○【日本】京都府が、集書院を開設する。西洋式 2 階建て、最新式の図書館で、昨
年発足した民営の集書会社が運営する。[以後、来館者が少なく、成功するに至らず、
府の事業となる。約 10 年で閉院する。1898.4 蔵書は京都府立図書館に収蔵される 。
]
1873. ○【日本】島根県松江に、松江書籍縦覧所が開設される。
1873. ○【日本】盛岡に、求我社が士族の新時代への適応のための相互扶助と学習活動を
目的として設立される。書籍展覧所を設けて広く開放する。
1873. ○【日本】大阪府の小学校掛、日柳政朔が、福沢諭吉の著書『啓蒙手習の文』を無
断で翻刻して教材に使用する。福沢から〈著書を盗む〉と訴えられるが、日柳は合点が
いかない。盗とは人の金品を奪うことで、福沢の品物を盗んだわけではないのに、なぜ
盗人呼ばわりされるのか、司法省裁判所へ問い合わせる。[のち、日柳は、大阪府学務
課長に就任する。
]
1873.○【日本】最初のイラスト入り英和辞典『附音挿図英和字彙』が出る 。
「spy」の訳
語は「横目、目付警述人(メアカシ)、察事卒(オンミツメツケ)、間者、細作(シノビノモ
ノ)」とある。
1873. ○【日本 】
『新聞雑誌』の別冊付録『新聞大意』に、初めて新聞経営上における広
告収入の重要性を説く 。
[以後、福沢諭吉もみずから経営する『時事新報』紙上におい
て、広告の獲得により政党派閥から新聞を独立させ得ると説くが、他方で、その経営す
る『民間雑誌』などで売薬の誇大広告の弊害について論難したりする。
]
1873. ○【日本】郵便物の受取人の願いにより役所に留置する「郵便役所留置書状」の取
扱いが行われる。
[以後、旅行者などに便利とされる。1882.11.21 受取人の願いによる留
置を禁止し、留置は私書函を貸与する場合に限ることとする。
]
1873.○【日本 】横浜のフランス領事館員で横浜フランス局長を兼務する H.J.デグロンが 、
「横濱本町五丁目・佛国飛脚舩会社長デグロン君」という日本文の住所を表す印判を在
京のフランス人に配布し、外国宛て郵便物に押してもらい、それが横浜の自分宛てに配
達されるようし、フランス等へ差し立てることを考案する。この郵便物には、国内郵便
料金の日本切手とフランス切手の両方が貼られる。この頃、海外郵便は、アメリカ、フ
ランス、イギリスが日本に設置している郵便局を利用して始められる。[以後、このよう
な実逓便カバーは、日本人の郵便物収集家らに「デグロン君カバー 」と呼ばれる。1880.3.31
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フランス郵便局閉鎖。4.1 デグロンが駅逓局顧問に採用される。 ]
1873. ○【日本】政府が、インド政府の通信局に勤務していたイギリスの電気工学者エア
トン William Edward Ayrton( 26 )を招き、工部大学校(のち、東京大学工学部)電信学科教
授を委嘱する。学校は、国家的事業の一環として、虎ノ門の旧延岡藩邸跡(のち、文部省
から霞が関ビル界隈)に建てられ、教室、講堂、寄宿舎などの他に、全科の実験実習施設
が整備される。開校式には、天皇、皇族、政府高官、外国公使をはじめ、東京大学の各
学部総理、学習院長、海軍兵学校校長、陸軍士官学校校長まで臨席する。[以後、エアト
ンの研究室は〈応用電気学のための世界最初の研究室〉といわれ、彼の発表する論文が
次々にロンドンの学会誌に掲載される。電磁気学の大御所マクスウェルは〈電気学の中
心 は い ま や イ ギ リ ス か ら 日 本 に 移 っ た 〉 と 慨 嘆 す る 。 イ ギ リ ス 誌 『 NATURE』や
『ENGINEER』などが、工部大学校を最新の高等工業教育機関の実例として紹介する。
エアトンは、滞日中の 5 年間に、物理学、電信学、電気工学を教え、日本の電気工学の
誕生に寄与する。1878 年 3 月 25 日、グローブ電池 50 個を使用して日本で初めてアーク
灯を点灯させる。また、志田林三郎、中野初子(はつね)、浅野応輔、藤岡市助らを育て
たほか、イギリスへの留学生送り出しにも多く貢献する。1878 年 6 月、帰国する。]
1873. ○【日本】内外用達会社が創立される。業務の一環として日本で初めて広告取次な
どを行う。[1886 年、弘報堂が、新聞などの広告スペースの本格的な売買を始める。]
1873.○【日本】六代目杉浦六右衛門(ろくえもん)( 26)が、薬種商小西屋で写真、石版印
刷材の取扱いを開始する。[1902.5 六桜社を設立。1903 年、国産初の印画紙さくら白金
タイプ紙使用のカメラを発売。1925 年、ロールフィルム使用小型カメラを発売する。]
1873.○【オーストリア】第 1 回国際気象会議が、ウィーンで開催される。観測方法統一
の問題が取り上げられる。[1951 年、国際連合の機構の一つである世界気象機関(WMO )
へ発展する。]
1873.○【ドイツ】ジーメンス Ernst Werner von Siemens( 57 )が、セレンに白金線を巻いた
光電池を発明する。大西洋横断海底電信局で抵抗に使用していたセレン棒が、光が当た
ると抵抗値が 30 %も減少したことから、このアイデアを得た。
1873. ○【フランス】政府が、大学図書館の窮乏に対処するため、図書館税を導入し、蔵
書形成の財源にする 。
[以後、長く蔵書の貧困が続く。
]
1873.○【フランス】ジュール・ヴェルヌ(ベルヌ)( 45)が、空想小説『80 日間世界一周 Le
tour dumonde en quatre-vingts jours』を完成する。馬車、鉄道、船を乗り継いで世界一周
できる最短日数は 80 日だと書く。[1878 年、日本で川島忠之助訳『80 日間世界一周』が
出る 。
]
1873.○【フランス】アメデー・ボレー(父)Am □ d □ e Boll □ e が、前輪独立懸架の 8
人乗り小型蒸気バス「ロベイザント(忠実なるもの)」を開発する。操向に際して左右別
々に首を振る独立懸架の前輪、2 つのV形 2 気筒エンジンで別々に駆動する後輪など先
進的な機構を持つ。[以後、巨大なコーチであった蒸気自動車が、しだいに小型化され、
火を入れてもすぐ走れない、頻繁に水を補給しなければならない、などといった欠点も、
フラッシュ(瞬間)ボイラやコンデンサ(復水器)などで解決されていく。1895 年、アメリ
カでは、ガソリン自動車に関する特許「セルデン・パテント」が成立し、その特許料支払
いを厭う者たちにより、1930 年代中ごろまで蒸気自動車や電気自動車がつくられる。]
- 455 -
1873. ○【スイス】博物学者アルフォンス・ド・カンドルが、英語圏とフランス語圏の地理
的な拡大のリズムを検討した結果、将来は英語がほぼ全世界に行き渡り、とりわけ科学
分野における共通語になるだろうと予測する。
1873.○【イギリス】旅行代理業クックが 、『クックの大陸時刻表( Cooks Continental
Timetable )(ヨーロッパ鉄道(および連絡船)時刻表兼旅行ガイド)』を創刊する。[以後、
多くの旅行者に愛用される。のち、全世界の鉄道時刻表を発行するまでになる 。
]
1873. ○【イギリス】物理学者ウィリアム・トムソン(後のケルビン卿)が、鉄船のもつ磁
気によって生ずる磁気コンパスの誤差、すなわち自差の研究をして、自差修正装置を完
成させる。カード全体を支針の先端で支える乾式コンパス dry compass であるが、近代
的な磁気コンパスの原型となる。[以後、さらに船の振動に耐えるため、カードを液の中
で支える液体コンパス( liquid compass )に改良される。]
1873.○【イギリス】物理学者マクスウェル James Clerk Maxwell(42)が、電磁場の動力学
的理論の研究を集大成して『電気磁気論』を著し、電磁波が存在しその伝播(でんぱ)速
度は光の速度に等しいことを示す。
1873.○【イギリス】メイ L. May が、セレン Se に光を当てると電気抵抗が減少するとい
う光電現象を発見する。この年、アメリカのスミスも同様な発見をする。[以後、光の明
暗を電気の強弱に変える光電管の開発に発展する。テレビジョンの開発の歴史はこのと
きに始まる。のちに、内部光電効果と呼ばれる現象で、20 世紀のテレビ技術開発などに
応用される。]
1873.○【アメリカ】スミス W. Smith (46)が、窓から入る光によってセレンの光導電現象
を発見する。[1875 年、カレイ G. H. Carey が、多数のセレンセルで、同数の伝送路を使
って送る同時伝送式テレビジョンを考案する。]
1873. ○【アメリカ】議会がコムストック法案を可決、ゴム製品(コンドーム)を含むわい
せつ物を郵便物から排除する。熱心な売春反対運動家アンソニー・コムストックは、この
新法律実行のため、郵便局の特別任務を担当する。
1873. 【流行語】血税。
1874(明治7)
1874. 初【イギリス】写真家向けに乾板のネガを販売する商人リチャード・ケネットが、
コロジオン湿板に代えて、乾いていても露光して現像する必要がないタイプのネガの開
発を試み、幾分の改善を試みる。
1874. 1 . 5【日本】東京の京橋∼新橋間に馬車道が開通する。
1874. 1. 9【日本】駅逓寮を前年 11 月に新設の内務省に移管し、内外郵便駅路の配置、
水陸運輸、内国商船の事務を管掌する。
1874. 1.10【日本】東京∼琉球藩間の郵便船の運航が開始される。品川沖から最初の琉球
向け郵便船大有号が駅逓頭前島密( 38 )らの盛大な見送りを受けて出発する。『
( 通信事業
史』
)
1874. 1.12 【日本】東京会議所会頭渋沢栄一( 34 )らが、東京にガス灯設置を計画し、東京
府から免許を交付される。
[12.18 東京の目抜き通りにガス灯が点火される。
]
1874.1.15【日本】東京警視庁を設置し、内務省に所属させる。
- 456 -
1874.1.26【日本】アメリカ牧師ダビート・タムソン方で 、初めて洋式結婚式が挙行され 、
三浦十郎とドイツ女性が結ばれる。[ 7 月、初めて日本人同士で洋式結婚式が行われる。]
1874.1.29【日本】前島密( 38)が、内務大丞兼駅逓頭に就任する。
1874. 1.31【日本】横浜の高島嘉右衛門のガス会社が、近く天皇が横浜に行幸があると聞
いて、「高島館」社屋や野毛山下の異人館などに、ガスの炎で菊と桐を中心にした紋様
の大掛かりな「花ガス」のイルミネーションを点灯する。花ガスは、直径約 2cm の鉄パ
イプに砂を詰め、焼き曲げて形を作り、円孔を一定の間隔に穿ってガス孔として、これ
らを組合わせてを構成する。
[2.3 『東京日々新聞』の「江湖叢談」欄に〈実にめずらし
きものにて、日本にては初めて見るものなり。(略)菊桐其の他さまざまの形きらめき、
これ美しきこと比類なしと言へり〉と記される。3.19 ガス会社「高島館」の楼上の欄干
に、
「花ガス」を設けて点灯する。
]
1874. 2. 1 【日本】佐賀の乱が起こる。江藤一派が電線を切断する。[∼ 3.1。佐賀の乱を
伝える瓦版が出される。]
1874. 2 . 1【日本】東京∼宇都宮間に電信が開通する。
1874.2.13【日本】郵便切手の紙質を改正し、西洋紙を使用することとする。
1874. 2.16【日本】佐賀の乱で反乱軍が政府の電信線を切断し、福岡∼長崎間の電信が不
通になる。陸軍省が、内務省に対し、軍事関係での急ぎの連絡のための特別郵便制度を
作ってほしいと要求する。[ 2.25「飛信(ひしん)逓送規則」が制定され、陸軍公用の速達
便「飛信逓送」の制度が創設される。佐賀の乱では勝敗がすでにほぼ決まっていたので
電信は役に立たなかった。3.1 佐賀の乱が終わる 。3.10 福岡∼長崎間の電信が回復。1877
年、西南戦争のとき、政府の電信網の威力が発揮される。]
1874. 2.−【日本】森有礼(27 )の提唱で昨年 9 月から始められた会合で、明六社制規が制
定され、明六社が正式に発足する。社長森有礼、社員加藤弘之(ひろゆき)、杉亨二(こう
じ)(46)、津田真道(まみち)、中村正直(まさなお)(敬宇)
、西周(あまね)、西村茂樹、福
沢諭吉、箕作秋坪(みつくりしゆうへい)、箕作麟祥(りんしよう)。[4.2 『明六雑誌』創
刊。]
1874. 2.−【日本】太政官布告第 21 号で、車を僕婢、乗馬、遊船などと分けて、車税(く
るまぜい)として税額を明示する。馬車は 2 匹立以上年税 3 円 。同 1 匹立 2 円 、荷積馬車 1
円、人力車 2 人乗 2 円、 1 人乗 1 円、牛車 1 円、荷積大 7 大 8 車 1 円、荷積中小車大 6
以下 50 銭。[ 1878.7 太政官布告第 17 号で、国税の半額以内という条件付きで地方税と
しての付加税を認める。1896.4 国税としての車税は廃止、府県に移管する。以後、車に
対する税は、料理屋、湯屋、理髪屋、相撲、俳優、芸妓、興行などと同じく府県の雑種
税となる。]
1874. 3 . 1【日本 】
山下門内博物館が、〝博覧会〟を開催する。[以後、2 回延長する。∼ 6.10。]
1874.3.13【日本】官立の女子師範学校設立の通達が出される。[1875.11.29 開校式。]
1874. 2.25【日本】
「飛信逓送規則」が制定され、公用の速達便「飛信逓送」の制度が創
設される 。「飛信」は、通常の郵便逓送とは別に、緊急時に特別に仕立てて信書伝達を
行うもので、〈陸軍省又ハ鎮台営所或ハ一方出張ノ指揮長官ヨリ互ニ至急ノ音信ヲ通ス
ル時ニノミ用フル別段ノ飛急便ヲ云フ〉と定義され、この便を利用するには、駅逓寮の
発行する飛信逓送切手を用いることを大原則とする。取扱いには、昼夜風雨を問わず特
- 457 -
に強壮な脚夫の脚力が及ぶ限りの早さで次駅に継立てることとする。[9.4 規則を改正し、
飛信制度を確立する。]
1874.3.20【日本 】琉球藩内の首里・那覇などに、前島密により駅逓寮直轄の郵便仮役所 3
ヵ所、郵便取扱所 9 ヵ所が設置され、開業する。沖縄における近代郵便の始まりで、廃
藩置県の布石ともなる。[ 1879.3.11 琉球藩王に廃藩置県を通達し、藩王を華族に列し東
京居住を命ずる。4.4 琉球藩を廃し沖縄県とする。1999.3.23 郵政省九州郵政局が、地方
切手「沖縄郵政創業 125 年」2 種を発行する。](『駅逓局類聚摘要録 』
、石井寛治、1994
;
『郵趣』1996.9 )
1874. 3.22【日本】抄紙会社が、横浜の景諦社印刷所を買収する。[4.2 横浜分社と命名す
る。1875.1 『曙新聞』の印刷を開始する。]
1874. 3.23【日本】内務省から各府県へ新聞紙を配布していたのを止め、今後は代金を交
付して自由に購読させることとする。
1874. 3.−【日本】デンマークの大北電信会社が、横浜に代理店を設け、海外電報の受付
・配達を開始する。
1874. 4. 2 【日本】明六社が、毎月 2 回の会合の演説、討論の結果を記録にまとめて頒布
する目的で機関誌『明六雑誌』を創刊する。執筆者は明六社社員と同一で、和紙半紙半
截(はんせつ)二つ折りの袋綴じ、活版印刷。ページ数は十数ページ。[以後、月 2 ∼ 3 回
刊。ページ数は 12 ∼ 24 ページ、発行部数は約 3200 。内容は、政治、宗教、婦人、貿易、
貨幣、歴史、法律、風俗、教育、哲学などのほか、国字論、出版の自由などに及ぶ。お
りからの民撰(みんせん)議院設立問題についての言及も少なくないが、時期尚早論が基
調になっていて、みるべきものはない。1875 年 11 月、新聞紙条例の改正、讒謗律(ざん
ぼうりつ)の制定による言論取締り強化に伴い、福沢諭吉の提案で第 43 号をもって廃刊
を決議する。明六社そのものはサロンとして 1910 年ごろまで存続するが、その啓蒙的役
割は雑誌廃刊とともに終わる。]
1874. 4.13 【日本】東京日日新聞記者岸田吟香(きしだぎんこう)(41)が、台湾征討の現地
取材のため、日本初の従軍記者として東京を出発する。台湾の生蕃(せいばん)が日本の
漂流民を殺害したとして政府が台湾に兵を送ることになり、吟香は即刻、従軍記者とし
て志願したが、都督府が応じないので、大倉喜八郎の大倉組の手代に採用してもらった
ことにして従軍を許される。[以後、台湾で取材して、その報道が評判を呼んで『東京日
日新聞』の紙数を伸ばす。7 月末帰国する。1877 年、新聞社を退社し、活動の中心を実
業方面に移す。]
1874. 4.18【アメリカ】ワシントンにおいて日米郵便交換条約の批准書を交換する。[ 6.7
公布。]
1874. 4.−【日本】大蔵省印刷局が、来日アメリカ人北海道開拓仮学校教頭兼化学。地質
学教師アンチセル(アンティセル)Thomas Antisell に委嘱して、その指揮の下に、紙幣寮
で印肉(印刷用インク)原料として顔料を製造する。[1976 年、アンチセルが辞任、帰国
する。]
1874. 5 . 2【日本】駅逓寮の新庁舎が、四日市の旧地に落成する。
1874. 5 . 7 【日本】琉球藩地に、郵便仮役所を 3 ヵ所、郵便取扱所を 9 ヵ所設置する。
1874. 5.10【日本】大阪∼神戸間に日本で 2 番目の鉄道が開通する 。
[5.11 運輸営業が開
- 458 -
始される。鉄道寮が「大阪神戸間発車時刻表及賃銭表」を発行する。1877.2.6 京都∼大
阪間開業。]
1874. 5.11【日本】『東京日日新聞』が、社屋を浅草瓦町から銀座 3 丁目に移す。[以後、
社屋の煉瓦造りの洋館が安藤広重(三代)が錦絵「東京第一名所、銀座煉瓦石之図」とし
て描くなど、有名になる。この年、木版多色刷りの錦絵に総ふり仮名付きの記事を印刷
した「錦絵新聞」が東京で売り出され、たちまち人気を得る。以後、大阪、京都、名古
屋でも発行される。
]
1874. 5 . −【日本】博覧会事務局が、書画展覧会を主催、湯島聖堂で開催する。
1874. 5.−【日本】内務省が東京の警視庁から各大区警視支庁への電線を架設したいと、
左院に申し出て許可を得る。[7 月、警視庁から日本橋電信局へも架設することが許可さ
れる。]
1874. 6. 6【日本】芳原(東京・吉原)で、娼妓の検黴の施行を始める。多くの娼妓がこれ
を忌避し、楼を逃げて実家に帰り、当日検査を受けた 120 人中 80 人以上が病院に送られ
る。(『新聞雑誌』6 月)
1874. 6. 7 【日本・アメリカ】日米郵便交換条約を公布する。信書 15g まで 15 銭とする。
この条約で、両国間に航海する汽船で郵便物を交換し、また他の外国への郵便物の逓送
を媒介する。このため、横浜とサンフランシスコにある郵便局を交換局とする。また、
条約文の随所に「郵便局」という語が用いられる。[ 1 年後、12 銭。]
1874. 6.15【日本】青森県八戸の「読書仲間」というグループ 43 人が、活動の拠点にす
るため東京に移住し、旧藩士の私邸の物見櫓の払い下げを受け 、
「八戸書籍縦覧所」と
名付け、開所式を行う。それぞれが所持する和書・漢籍を持ち寄り、1 日 100 ページの
読書量を基準にした貸出期間を設けて、仲間以外にも貸す活動をしていた。この企てに
賛同した新会員を加え、総勢 146 人が会員になる。[1880 年、八戸にも八戸図書館が創
設され、書籍縦覧所は併設となる。文部省の書籍館、京都集書院に次いで日本 3 番目の
公立図書館となる。1929 年、市制施行に伴い八戸市立図書館に改称。現存する日本最古
の公立図書館となる。]
1874. 6.27【日本】第 1 回三田演説会が、福沢諭吉(40)、小幡篤次郎ら 14 人の会員によ
り開催される。福沢が日本の習慣になかったスピーチの重要性を説き、練習することと
し、日本最初の演説会となる 。
〔日本人が最初にスピーチに出会ったのは、1860 年、サ
ンフランシスコに渡った使節団で、宴会の食事ののちスピーチが行われた。〕[のち、福
沢の訳語「演舌」の「舌」というのは俗な表現とされ 、
「演説」と表記される。1875.5.1
三田演説館が開館する。]
1874. 6.−【日本】日本最初の洋紙生産会社、有恒社が、輸入抄紙機で洋紙の生産を始め
る。
1874.7.10【日本】私設の電信支線を官線に接続することが許可される。
1874.7.20【日本】宇都宮∼白河間に電信が開通する。
1874.7.22【日本】郵便取扱役の等級八・九等を廃止する。
1874. 7.30 【日本】(岩波年表は 8.24)政府が、東京湯島博物館内の書籍館の蔵書を浅草の
蔵屋敷跡に移して、浅草文庫を設立する。閲覧料は前払いで 1 日 1 銭とする。[ 1875.2.9
書籍館が博覧会事務局と分離、文部省の所管となり 、蔵書の大部分が浅草文庫の留まる。3
- 459 -
月、浅草文庫が内務省博物館の所属になる。1881 年閉鎖。1884 年、太政官文庫(のち、
内閣文庫)に移管。のち、国立国会図書館の一部となる。]
1874. 7 . −【日本】東京・銀座の洋風街路がほぼ完成する。
1874.8.28【日本】電信私線規則が制定される。
1874. 8.−【日本】この頃、神田伯圓が、
『郵便報知新聞』の記事を講談に仕組むことを
始める。また、同じ頃、噺家の三遊亭圓朝が 、『朝野新聞』を高座にかけることを始め
る。講談と落語の二大人気者が新聞記事を寄席の空間に持ちこむ。[以後、
『郵便報知新
聞』が、伯圓の動向を記事にする。1975 年 2 月∼ 12 月の間、伯圓が同紙の錦絵新聞の
文案記者をつとめる。]
1874. 8 .−【日本 】郵便馬車を神奈川∼小田原間に開設する。陸運元会社が運営する 。[1876
年、京都にまで達する。]
1874. 9.15【スイス】第 1 回万国郵便大会議が、ドイツの郵政長官シュテファン( 43 )
Heinrich von Stephan の提唱により 22 ヵ国の代表を集めてベルンで開催される。[以後、
シュテファンが議長となり、条約を起草する。10 月 9 日、一般郵便連合条約(「一般郵
便連合の創立に関する条約」)が調印され、同時に「一般郵便連合」(のち、万国郵便連
合( UPU))が設立される。]
1874. 9.22【日本】日本帝国電信条例を制定し布告する。
〈日本帝国内における電報の送
受・集配にかかわる一切の事務は国家の専任とする〉として、電信事業の政府専掌を明
示する。[12.1 施行。]
1874.9.23【日本】売れ行き不振の『公文通誌』を改題して、漢詩人・随筆家成島柳北(37 )
を主宰者として『朝野新聞』が創刊される。1872 年に創刊された『公文通誌』は、創刊
の辞に〈婦女童幼にいたるまで〉と謳い、大衆相手に仮名を付け、紙幅を多くして毎日
刊行をねらった。
「傍訓(ふりがな)新聞」と呼ばれていたが、紙数が伸び悩む。1873 年 9
月、社主乙部鼎が 、『柳橋新誌』の作者で高名な成島柳北を訪れ、入社を懇請し、破格
の月俸 200 円で社主と主筆に迎える。柳北は入社と同時に、陣容を一新し、
「傍訓」を廃
止、1 ページ 4 段組の大判として『朝野新聞』と改題して、論説欄を設けて、政論新聞
の姿勢を打ち出す。一方、
「雑録」の欄を設けて、柳北が執筆、諧謔の精神を発揮する。
[以後、政府の言論弾圧にたいする果敢な抵抗や軽妙なスタイルで時事を諷した雑録が評
判となる。のち、柳北は新聞界の大御所として重きをなす。]
1874.9.25【日本】建白・訴訟・嘆願書の類の郵送には、開封 16 匁まで無税とする。
1874. 9.−【日本】小野梓( 22 )、馬場辰猪(24 )、田尻稲次郎らが、会員の切磋琢磨(せつ
さたくま)と国民啓蒙を目的とした結社「共存同衆」を発足させる。小野と馬場は、ロン
ドンの日本人留学生によって 1873 年 9 月に結成された日本学生会の中心人物であり、小
野の帰国により、同趣旨の会を日本でもつくろうと提唱した。共存同衆の名は小野の命
名により、共存は社会を、同衆は協会を意味するとも、mutualassociation の意ともいう。
[以後、月 2 回( 10 、25 日)の常会をもつ。1875 年 1 月、
『共存雑誌』を発刊(1879 年 3
月から週刊となる。全 69 号)。1877 年 2 月、共存衆館を建設する。また、
「私擬憲法意
見」を起草する。1879 年、共存文庫と称する図書館を開設する。1880 年、集会条例によ
って大打撃を受け,政治的世界から退いて社交クラブとなる。
]
1874.10.11【日本 】新橋駅付近で、ポイント故障により、機関車と貨車 1 両が転覆、客車 2
- 460 -
両が脱線する。日本最初の鉄道車両転覆事故(鉄道事故)となる。乗客に怪我人はなかっ
たが、プラットホームで見ていた人が驚き慌てて数人の軽傷者を出す。1 人の火夫が必
死にブレーキを締めつけ、表彰される。[のち、11 月 11 日を「鉄道安全の日」と定める。]
1874.10. 9 【スイス】第 1 回万国郵便大会議が、22 ヵ国の代表者を集めて先月 15 日から
ベルンで開催されていたが、この日、一般郵便連合条約が調印される。署名国は、(フラ
ンス語順)スイス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ベルギー、デンマーク、エジプ
ト、スペイン、アメリカ 、フランス、イギリス、ギリシア 、イタリア、ルクセンブルク 、
ノルウェー、オランダ、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、セルビア、スウェーデン、
オスマン帝国(のち、トルコ)の 21 ヵ国。日本は自らの郵便局で外国郵便を取扱っていな
いので、加盟しない。条約は全 12 ヵ条からなり、主な内容は、①各国は郵便物を交換す
るため、単一の郵便境域を組成する。②条約によって交換する郵便物の種類は、書状、
葉書、書籍、新聞等紙、その他の印刷物、商品見本、業務用書類とする。③連合の境域
内宛の郵便料金は均一とする。④各種の郵便物は書留とすることができる。⑤郵便料金
は発信する国の郵便切手で前納する。⑥少なくとも 3 年ごとに大会議を開催する。この
ほか、条約で中央機関として万国郵便連合総局を設置し、新規加盟の手続きなどが定め
られる。[1875.5.3 フランスが署名。1875 年 7 月 1 日、条約が施行される。万国郵便連
合( UPU;Universal Postal Union)が正式発足、中央事務局がベルンにおかれる。以後、加
盟国の間に交換される郵便物は、原則として同一種類のものは均一料金となる。また加
盟国あての郵便料金は、発信国の郵便切手で前納し、連合の境域内で逓送(ていそう)す
るにあたっては、なんらの追加料金も要しない。1876 年、国内事情で条約の施行が遅れ
たフランスが、参加する。1877.6.1 日本が加盟する。1947 年、UPU が国際連合の専門機
関の一つとなる。1969 年、東京会議で 10 月 9 日は「万国郵便連合創立記念日 」として、
世界共通の記念日「UPU の日」とされる。1984 年、「世界郵便デー」と改称される。万
国郵便連合総会で、アメリカの提案によりこの日を中心にした 1 週間を「国際文通週間」
と決められる。]
1874.10.13 【日本】会計年度を 7 月から翌年 6 月と定める。
[1886 年、4 月∼翌年 3 月と
する 。
]
1874.10.−【日本】津軽海峡に海底電線が敷設され、本州と北海道間の電信線が開通する。
[1875.3 北海道・本州・九州を結ぶ全線が不十分ながらいちおうできあがる。]
1874.10. −【日本】郵便切手の消印について、日附印捺押心得方を制定し、押印は切手に
七分、外部へ三分の割とする。
1874.11. 2【日本】活版所の日就社が、初の隔日刊大衆新聞『読売新聞』を創刊する。販
売方法として〈これはこのたび虎の門で売り出しましたる讀賣新聞〉と「讀み賣り(呼び
売り)」することにしたためにそのまま題号にした。縦 26cm、横 35cm の横長の西洋紙 1
枚の両面 2 ページ建てで、振り仮名つきで大衆に読みやすくした。[1875 年、日刊化。]
1874.11.16 【日本】神戸の外国人居留地にガス灯が点灯される。オランダ・イギリス・ド
イツ人によって神戸に設立された兵庫ガス会社が 、居留地内に限って建設が許可され 、94
基を設置し運営する。[のち、このガス灯が、大丸北側の歩道、相楽園内旧ハッサム邸
前、および愛知県の明治村に保存される。
]
1874.11. −【日本】駅逓寮が、アメリカ人カー、ファー、クラーク、ラムを外国郵便局書
- 461 -
記官として採用する。[ 12 月、ウァーツを採用する。]
1874.11. −【日本 】
『東京平仮名絵入新聞』に、前田健次郎「金之助の話」の連載が始ま
る。新聞連載小説という新しいジャンルを作り出す。
1874.12. 1【日本】日本帝国電信条例が施行される。電信事業の政府専掌を確立し、初め
て「電報」という用語を使用する。電信局に電信を依頼する電信文の文字はすべてカタ
カナとする。電信私設規則が定められ、現に架設されている官線に接続する線に限り「人
民の架設」が許可される。寺島宗則の主導で創設された神奈川県の電信事業は、正式に
官営事業として認可される。[以後、私設電線・電信局の建設は行われない。1884.10 電
信私設規則が廃止される。
]
1874.12. 2【日本】福地櫻痴( 34 )が、
『東京日日新聞』に社長兼主筆として招かれる。[こ
の月、紙面の横型を縦型に改め、紙幅を 4 ページに拡大する。櫻痴が執筆する社説欄を
設けて、第 1 回には「太政官記事印行御用」と題して、これまでの役所の布令や巷の雑
報をそのまま伝えるだけに終始していたのを、論じる形にする。以後、櫻痴は月俸 250
円で、「池の端の御前」とか「殿様」と異名をとる豪奢な生活ぶりで、毎日出社して原
稿を書く。福地の書く「社説」は,言論機関としての新聞の力を社会に大いに認識させ
る。実現可能な体制内改良,漸進主義をその政治志向とし,民権派新聞と論争し、また
社員にも厳格に対処する。1877 年、西南戦争には記者として従軍し,帰京して天皇に戦
況を奏上する。]
1874.12.12 【日本】札幌∼函館∼小樽間に電信が開通する。
1874.12.18 【日本】東京の京橋・銀座・新橋・芝金杉橋間の街路両側にガス灯が点灯され
る。フランス人アンリ・プレグラン(33)が設計・監督に当たる。金杉橋∼新橋間には管径 6
インチのガス管を敷設、39 基のガス灯を設置、新橋∼京橋間は 5 インチ管で 40 基など
が設置される。
[以後、日本橋∼万代橋、本町∼浅草橋などにも設置され、計 278 基を数
える。1875 年、総基数 347 となる。ガス製造能力は 1 日 2 万立方フィート(約 710 立方
メートル)となる。1876 年 4 月、成島柳北が、
『柳橋新誌』第六編の巻頭に「芝金杉橋瓦
斯会社、附瓦斯燈」と題して、漢文による美文調でガス灯礼賛の文を書く。1886 年、芝
金杉瓦斯工場∼京橋間のガス管を 12 インチに置き換えて、需要の増大に対処する。ガス
会社は、ライバルの石油灯と比較して、明るさ、簡便さ、器具の耐腐食性、清潔さなど
の利点を強調して宣伝する。その結果、一応ガス灯が優位に立つが、石油灯も設置の手
軽さやガス灯の約 2 分の 1 という安さで利用者を増やし続ける 。
]
1874.12.20 【日本】仙台∼一ノ瀬間に電信が開通する。
1874.12.23 【日本】海外郵便を外国郵便と改称する。外国郵便料金表を布告する。日米郵
便交換条約に基づき日本の郵便局から差立てることができるようになり、外国からの郵
便物も直接日本の郵便局へ届くようになる。
1874.12.−【日本】東京府が、福沢諭吉( 40 )の訴えにより、『西洋事情』を無断出版した
大阪の書店河内屋清七らに売上金 22 両を賠償させる。[ 1975 年に、福沢諭吉による「コ
ピライト( copyright)」の訳語「版権」が、図書を出版・販売し利益を占有する権利とし
て初めて法定されている。]
1874.12.31 【日本】在日アメリカ郵便局を閉鎖する。
1874. ○【日本】この頃 、
「玻璃燈」と呼ばれる石油ランプが急速に普及する。それにつ
- 462 -
れて行燈(あんどん)は衰退する。
1874. ○【日本】東京・浜崎町にガス発生所が設けられ、京橋∼金杉橋間にガス街灯が点
火される。
1874. ○【日本】この頃、唄で〈おいおいに開け行く、開化の御代のおさまりは、郵便ハ
ガキで事たりる、針金だよりや陸蒸気(おかじょうき)、つつっぽ姿に靴をはき、乗合馬
車に人力車、はやるは旅籠の安どまり、西洋床に玉突き場、また温泉場、日の丸・フラ
グや牛肉屋、日曜・ドンタク、煉瓦づくりの石の橋〉などと唄われる。
1874.○【日本】この頃、あんパンが 5 厘。
1874. ○【日本】イギリスから輸入した長網抄紙機により、工業的に洋紙の生産が始めら
れる。当初は幅 150cm の抄紙機で抄紙速度も小さい。[のち、幅が 9m 以上,抄速も
1000m/min を超える。]
1874.○【日本】多摩川下流の六郷川に、私設の橋が架けられ、「橋銭」として人 1 人に
つき 3 厘、人力車と馬は各 1 銭、馬車は 6 銭 2 厘を取る。
1874. ○【日本】海軍観象台が完成し,仮規則が制定される。その中に「気象」という用
語が使われ、のちに使用される意味での「気象」の最初の用例となる。
1874. ○【日本】船舶安全航海のため、霧中での信号には蒸気笛を使用することが定めら
る。
[以後、霧笛とも呼ばれる。1879 年 12 月 20 日、下北半島の尻屋崎灯台に初めて霧
笛が設置される。1892 年、国際海上衝突予防規則( 1889 年に採択)を採り入れた海上衝突
予防法が制定され、船は、その長さに応じた基本周波数と音圧とをもち、短音と長音を
発することができる装置(蒸気笛とは限らない)の設備が義務づけられる。船が長いほど
低音で音の大きい信号を吹鳴することになる。信号は短音(約 1 秒間)、長音( 4 秒以上 6
秒間以下)および両者の組合せでつくられ、船の種類(動力船、帆船)、状態(航海中、錨
泊(びょうはく)中、乗揚中)、操船動作(右転、左転、機関後進)、疑問表示、注意喚起、
視界制限状態などに応じ、吹鳴すべき信号、時機、間隔などが定められる。これらはす
べて国際的にも統一される。
]
1874. ○【日本】小池卯八郎が、鉛筆の製造法を井口直樹、藤山種広に伝授され、日本で
初めて鉛筆を作る。[1886 年、真崎仁六(まさきにろく)が、国産鉛筆製造に乗り出す。]
1874. ○【日本】青森県八戸に、旧藩の書物をもとに私立八戸書籍縦覧所が設立される。
1874. ○【日本】徳島に、自助社が結成され、啓蒙運動を行う。その一環として新聞紙縦
覧所を設ける。
1874.○【日本】画家河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)(43)が、仮名垣魯文(かながきろぶ
ん)と組んで日本で最初の漫画雑誌『絵新聞日本地(にっぽんち)』を創刊する。
1874. ○【日本】鉄道寮が、冊子型の『鉄道旅客並貨物賃銭表』(東京虎門外日就社印行)
を発行する。縦 125mm、横 97mm、80 ページ。時刻表と鉄道列車賃金表が縦 286mm、
横 213mm の 1 枚の用紙に印刷し、巻頭に折り込まれる。
1874.○【日本】手島精一(てじませいいち)( 25)が、アメリカ・フィラデルフィアのイー
ストレ大学への遊学から帰国し、幻灯機と 70 枚の種板を持ち帰る。幻灯機輸入の嚆矢と
なる 。「
〔 幻灯」は手島が「magic lantern 」を訳したとの説があるが(平凡社世界大百科事
典など)、 1969 年『奇機新話』に「幻燈」の語が見える。
〕[以後、手島精一は、工業教
育の発展に指導的な役割を果たす 。1881 年、教育博物館館長に就任する。](石井研堂『明
- 463 -
治事物起源』)
1874.○【日本】上野彦馬(36 )が、金星太陽面通過の観測写真を撮影する。学術写真の最
初のものとなる。
1874.○【日本】イギリス人医師フォールズ H. Faulds が、来日して、東京築地(つきじ)
病院に勤務する。[以後、日本で行われていた拇印や爪印の習慣をみて指紋の研究に着手
する。1880 年、指紋は終生不変であることを確認する。1908.10.16 司法省が初めて監獄
の受刑者から指紋徴収を始める。]
1874.○【ドイツ】アルベルト Joseph Albert が、写真製版法によってゼラチン上につくっ
た版で印刷する方法「コロタイプ印刷(collotype printing)を発明し、3 色分解によりカー
ペットの複製を印刷する。濃淡を表すのに網点を使わずゼラチンの皺(しわ)を利用する
もので、原稿の写真からネガチブ(陰画)をつくり、重クロム酸ゼラチンに焼き付ける。
グリセリンで処理すると、当たった光の量によって、インキの付着量が異なるゼラチン
皺ができ、写真の微妙な調子を再現することができる。(「1874 年」は『印刷博物誌』
による。ニッポニカは「1976 年」という。)
1874.○【フランス】動物生理学・生理学者・マレーが、1 個のレンズで、幾個かの写真
を撮影する方法を考案し、
「写真銃( photographic gun )」と名付ける。それは、写真機の
形状が銃のように見えるからである。弾丸を入れるところに小さな乾板を挿入し、鳥の
飛ぶところでも、子猫の戯れでも、撮影しようとするものに狙いを定めて引金を引けば、
乾板に装置してあるマルタ十字型歯車の仕掛けで、乾板が順次に回転し、これに活動体
の瞬間の状態が撮影される。マレーの考案は、映画撮影機の創始に先鞭をつけたが、1
回に 12 個の写真しか得られないために、彼の不自由は並大抵ではなかった。[1894 年、
この仕事の集大成とも言うべき著書『運動』を公刊する。1899.1.29 国立工芸院で、動く
映像の撮影機械「クロノトグラフィー(時間写真) 」につての講演を行う。この記録が『ク
ロノトグラフィー』と題する 40 ページの冊子にまとめられる。]
1874.○【フランス】J.ジャンセンが、天文写真連続撮影機「写真鏡」を発明する。
1874.○【フランス】電信技師ボード Hendrik Wade Bode が、5 単位符号による印刷電信
機を発明する。アルファベット文字を 5 つのパルスの組合わせで表し、そのパルスによ
って受信側の 5 つの電磁石を動作させて文字を印刷する。[1877 年、フランス電信局が
採用する。]
1874.○【イギリス】クルックス William Crookes( 42)が、電極のついたラジオメーターを
作ったことから陰極線の研究へと向かう。ガラス管内を減圧し、管の両端の電極に電圧
を加えると、一方のガラス表面に電子がぶつかりグローが発生する。小さな金属板で陰
極線をさえぎると、板の形をした影がガラス表面に投影される。こうして 2 つの電極を
もち 1 つの電極に高電圧を印加すると陽極付近の管壁が蛍光を発する放電管「クルック
ス管」を作る。[1876 年に、陰極から陰極線が放出されていることを突き止め、この陰
極線が電磁波でなく帯電粒子の流れであり、磁界により焦点を結ぶことを確認し、この
帯電粒子を「微粒子」と呼ぶ。しかし 1879 年に、真空放電現象を気体分子運動論で説明
し,
〈物質の第四状態〉という神秘的な考えを主張して、E.ゴルトシュタインなどに批判
さる。クルックス管はのちにブラウン管が発明されるもととなる。]
1874.○【イギリス】物理学者ストーニー George Johnstone Stoney (48)が、電気分解のイ
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オンの帯電量を計算し電気素量の存在を主張する。[のち、この素量を「エレクトロン
(electron)」と名づける。
]
1874. ○【アメリカ】フィラデルフィア動物園が、アメリカ初の本格的な動物園として開
かれる。
1874.○【アメリカ】L.プラングが、クリスマスカードの製造を開始する。優れた色刷り
技術が好評を博す。[ 1881 年、販売数が 500 万枚にも達する。]
1874. ○【アメリカ】最初の鋼製アーチ橋が、ミズーリ州のセント・ルイスを流れるミシ
シッピ川にかけられ、開通する。設計は土木技師ジェイムス・ブキャナン・イーズ。 3 つ
のアーチで構成され、アーチのスパンはそれぞれ、153m、158.5m、153m である。
1874.○【アメリカ】レミントン父子社( Remington & Sons Co.)が、ショールズが 1866 年
に発明した書記機械「タイプライタ」を昨年 9 月に発売したが、その特許権を買い取っ
て改良を加え、自社商標で販売を開始する。全面に 44 ∼ 46 文字のキーが並ぶキーボー
ドと後部に 1 文字づつ移動するキャリッジがあり、キャリッジにゴムのプラテンが付い
ている。紙は、たがいに平行におかれたゴム製のプラテンと小さなゴム製の円筒の間の
キャリッジで押さえられる。キャリッジは、文字が打たれると右から左へとばねで移動
する。移動は文字送り装置によっておこない、キャリッジが 1 文字分のスペースだけ動
く。キャリッジはレバーによって右側にもどされ、歯止めによって 1 行分のスペースだ
けプラテンを回転させる。タイプバーはまるくならべられ、機械の前側にあるキーボー
ド上のキーが押されると、てこの原理によって、対応するタイプバーの先にとりつけた
活字がプラテンの底部をうつ。インクをふくませた布製のリボンがタイプバーとプラテ
ンの間を走行し、活字がこのリボンにあたってリボン上でプラテンにおさえられた下に
ある紙に活字の凸部のインクを転写する。リボンは 2 つの巻き枠によって、印字するご
とに自動的に移動する。[以後、ショールズが試作機に命名した固有名詞「タイプライタ」
が書記機械の代名詞となって一般化して行く。レミントンの製品は、後年のタイプライ
タにみられるほとんどすべての基本的な特徴を実現している。初期の客に作家マーク・ト
ウェーンがおり、初めてタイプライタで原稿を書いた作家とされる。]
1874.○【アメリカ】エジソン( 27)が、1 本の電信線で双方向におのおの 2 通信が同時に
伝送できる四重電信機を発明する。この時期に後の独創的な発明をする素養をつける。
1874.○【アメリカ】ケアリー G.Carey が、光電現象を応用して光を電気に変える素子す
なわち光電素子と、電気を光に変える素子すなわち電光素子を画面内に多数配置し、こ
れらを 1 対 1 で接続(並列接続)してテレビ効果を得るという提案を初めて行う 。
[のち、
並列テレビ方式または同時伝送式テレビジョンと呼ばれるもの。しかし、精細で良質な
画像を得るには、少なくとも数万個以上の光電素子と電光素子および接続線(伝送線)が
必要で、テレビ放送などの目的には経済的に実現が困難であった 。
]
1874. 【流行語】天賦人権。富国強兵。有司専制。
1874. 【本】森有礼『妻妾論』
1875(明治8)
1875. 1. 1【日本】郵便役所、郵便取扱所をすべて郵便局と改称する。郵便局を一∼五等
に分け、同一市内に数局あるときは 1 局を本局、他を分局とし、遠隔地に郵便受取所を
- 465 -
設置する。外国郵便用のいわゆる「鳥切手」を発行する。
1875. 1 . 2 【日本】郵便為替を創業する。内国為替を 110 局で取扱い開始する。
1875. 1. 5【日本】アメリカとの条約に基づく外国郵便業務を横浜、神戸、長崎の郵便局
で開始する。横浜郵便局では、各国の公使・領事、参議伊藤博文をはじめ多数が出席し 、
盛大な外国郵便開業式が挙行される。しかし、条約のないフランスとイギリスの郵便局
は国内に存続している 。
[以後、外国郵便業務が本格的に実施される。1879 年、イギリ
スの郵便局が閉鎖される。1880 年、フランスの郵便局が閉鎖され、初めて外国郵便の問
題が解消する。1975 年、横浜港郵便局創業 100 年を記念して、
「外国郵便創業の局」の
記念碑が建てられる。1 月 8 日は「外国郵便の日」とされる。
]
1875. 1. 8 【日本】文部省が、学校に通う年齢「学齢」を定める。上等小学校が 4 年、下
等小学校が 4 年、合わせて 8 年間とし、満 6 歳から 14 歳と決める。
1875. 1. 8【日本】日本初の郵便交換条約がアメリカとの間の結ばれる。横浜郵便局で外
国郵便の開業式が行われ、外国郵便第 1 号を載せたアルトナ号が横浜港を出港する。こ
れまでは、横浜の外国人居留地にあったアメリカの郵便局が外国郵便の業務を行ってい
たが 、
これを廃止して、
日本政府が業務を行うこととする。
アメリカまでの郵便料金は、
15g
までが 15 銭。[のち、1 月 8 日を「外国郵便の日」とされる。]
1875. 1.−【日本】郵便役所(郵便仮役所・郵便取扱所など)がすべて郵便局と呼称統一さ
れ、1 ∼ 5 等に区別される。郵便為替事業が開始される。外国郵便が横浜、神戸、長崎
で開業する。[以後、ある種苗業者が農業専門誌に広告を掲載、外国産の苗や種を通信販
売する。この頃、通信販売業者は「郵便便利屋」と呼ばれる。]
1875. 1.12【日本】政府が紙幣印刷の独立を企て、ドイツから印刷機械を購入し、同時に
銅版彫刻師キオソーネ(キョソネ、キヨソーネ、キョッソーネ)Edoardo Chiossone(42)が
“お雇い外国人”の一人として招かれ、摺師と共に来日し 、横浜港に上陸する。(『郵趣』
1998.4) [5.5 紙幣寮(のち、印刷局)に彫刻師として雇用される。契約書には〈本日ヨリ
満三ヶ年間、月給英百磅(ポンド)即日本通貨四百五十四円七十一銭八厘ニテ大蔵省紙幣
寮御雇イトナル〉と書かれる。この頃、日本の太政大臣の月給 800 円、大臣の月給 600
円くらい。以後、キオソーネは、紙幣・公債・切手等の図案とその銅版の彫刻・製版作
業の近代化、技術者の養成に当たる。電胎法、クラッチ法、版面磨耗防止のためのメッ
キ法を導入し、機械的な彫刻を行うためのパントグラフ(縮図機)や花紋(彩紋)彫刻機な
どを導入する。10 月、
「地券状」
「煙草鑑札」
「煙草印紙」の原版を完成。1876 年 2 月、
小判切手の凸版版面を完成させる。5 月、すかし技術を指導する。1878 年、改造紙幣 1
円券(神功皇后札)をデザインし原版完成する。1881 年 7 月、改造紙幣 5 円券(神功皇后
札)原版完成。1884 年 8 月、朝鮮国「郵便切手」原版完成。その間、雇用契約が随時更
新され、約 200 点の紙幣・切手・証券類をデザインし彫刻する。また明治天皇、西郷隆
盛、三条実美、大久保利通、岩倉具視らの銅版肖像画を作る。1891 年 7 月 14 日 、
「御雇
満期解傭」となり終身年金が下賜される。以後、公職から退くが、故国に帰ることなく
日本に滞在する。
。1898.4.11 東京平河町の自宅(一説に鎌倉)で没。1997 年 4 月 16 日∼ 6
月 22 日、没後 100 年に因み、
「お雇い外国人キョッソーネ没後
/
100 年展」が、お札と切
手の博物館(大蔵省印刷局記念館)で開催される。]
1875. 1 . −【日本】抄紙会社の横浜分社が 、
『曙新聞』の印刷を開始する。
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1875. 2 . 3【日本】三菱商会(のち、三菱気船会社)が、横浜∼上海定期航路を開設する。
[6 月、日本国郵便蒸気船会社が解散し、以後政府から年 25 万円の補助金を独占して、
沿岸航路から近海航路へも進出する。補助金のうち 20 万円を上海航路にあて、アメリカ
太平洋郵船会社とイギリスの P&O 社をこの定期航路から漸次駆逐する。4 万 5000 円を
東京・横浜と大阪・神戸、函館、新潟、四日市をむすぶ沿岸航路での郵便物輸送に当て 、
5000 円を長崎・釜山航路の当てる。
11 月から琉球藩への郵便船派遣業務も担当させられ、
6000 円の補助金で年 6 回の航海を開始する。内務卿の命令第 12 条には、
〈此一線ノ航海
タル郵便逓送ヲ本名トナスト雖トモ、最モ緊要トナスベキ一務ハ、琉球藩ヲ本邦ニ結フ
ノ大往還タル線路トナスノ主旨〉であるから、旅客・貨物の扱いを丁寧にし運賃も安く
するように、と記される。]
1875. 2. 6 【日本】明六社社員・外務大丞森有礼( 27)と広瀬阿常(おつね)(19 )が、福沢諭
吉( 40 )を証人とし 、契約書 3 ヵ条を交換してハイカラな結婚式を行い、世間を驚かせる。
〈第 1 条 互いに夫婦となること、第 2 条 互いに余念なく相愛して夫婦の道を守るこ
と、第 3 条 夫婦の共有物の処分については、夫婦合意で行うこと〉との条項があり、
契約結婚の日本第 1 号となる。[1986 年、離婚する。1987 年、森は岩倉具視の娘寛子(ひ
ろこ)と再婚する。]
1875. 2. 9【日本】博覧会事務局に併合されていた博物館、書籍館、博物局、小石川薬園
が、文部大輔田中不二麻呂の努力で、博覧会事務局から分離、再び文部省の所管となる 。
[2.22 小石川薬園が小石川植物園と改称される。3.30 博覧会事務局が「博物館」と改称
され、内務省管轄となる。4.8 博物館を東京博物館と改称する。書籍館は東京書籍館と
改称、再開する。]
1875. 2.13【日本】平民も必ず苗字(名字、姓)を称し、不詳の者は新たに苗字をつけるよ
う再度太政官布告が出る。[以後、庶民はどのようにして苗字をつけたらいいか分からず 、
僧侶や庄屋に考えてもらう者が多い。中には、飲んべえでクダを巻くので「酒巻 」
、女
好きだから「女楽(めら) 」
、はげているから「太古(たこ)」とつけるなど、苦心談珍談
が伝えられる。のちのち後悔する者も現れる。以後、2 月 13 日を「苗字の日」と呼ぶよ
うになる。1898.7.16 民法施行で、〈戸主及び家族はその家の氏を称す〉と定め、苗字を
つけることを義務づける。1990 年代、男女平等の見地から、夫婦別姓の声が次第に高ま
る。]
1875. 2.16【日本】明六社が、演説会を一般に公開する。『郵便報知新聞』2 月 1 日付に
一般公開の広告を掲載し、傍聴切符は一人 8 銭で限定 30 枚とする。切符は会場の精養軒
が窓口となって扱う。[以後、新聞は公開第 1 回の模様を、
〈社員のほか官員、華士族、
平民にいたるまで集会の人員数多〉と伝える。4 月、以後、切符は社員から直接受け取
ることになる。]
1875. 2.−【日本】後藤象二郎( 37)らの楕族社(岩波年表では蓬莱社)(後藤が製糖の目的
で 1872 年設立)が経営する大阪紙砂糖製造所が、製紙工場を開業する。
1875. 2.−【日本】文部省の編集課長西村茂樹( 47)が、英和辞典の編集に携わっていた大
槻文彦(28)に国語辞典の編集を命じる。[ 1886.3 完成稿ができるが、担当の西村は転任
しており、新任の伊沢修二から自費出版を打診される。]
1875. 2.−【日本】郵便物の逓送、金子入り書状の逓送などを担当している陸運元会社を
- 467 -
内国通運会社と改称する。郵便受渡し時限を午前 6 時∼午後 8 時とする。
1875. 3 . 7【日本】陸羽街道筋と京阪神の郵便脚夫に短銃を携帯させる。
1875.3.11【日本】橋爪錦造、月岡芳年( 36)が、
『寄笑新聞』を創刊する。
1875. 3.16【日本】山梨県のビール醸造所が、東京進出する知らせを『東京日日新聞』に
掲載し、初めて「広告」という言葉を使う。これまでは「御披露」、
「告知」、
「口上」な
どと書いていた。
1875.3.20【日本】佐賀∼熊本間、福山∼函館∼札幌∼小樽間に電信が開通する。
1875. 3.25【日本】一ノ関∼青森間の電信線が竣工し、東京∼青森∼札幌∼小樽間の電線
敷設工事が完成する。北海道・本州・九州を結ぶ全線が不十分ながら一応できあがる。
1875. 3.30【日本】博覧会事務局が、博物館と改称し、内務省の所管とする。
「博物館」
という名称は行政事務上の役所の名称であるが、品物を展示するための場所としての博
物館という意義も含められる。[ 5.30 博物館が内務省第六局と改称する。1876.1.4 内務省
第六局が博物館と改称する。1876.2.24 太政官布告により 、内務省所属の博物館のみを「博
物館」と称し、その他は「○○博物館」と地名などをつけることとする。]
1875. 3 . −【日本】配達・還付不能の郵便物を郵便局前に提示する。
1875. 3.−【日本】島津源蔵(初代)(36)が、理化学機械製造の個人会社を創業し、博物学
標本模型製作の工場を京都木屋町二条に設立する。日本における精密機械工業の先駆け
となる。[1884 年、二代源蔵が、物理実験用誘導起電機を完成、理科教育の場に新風を
吹きこむ。1917 年、島津製作所と改称。
]
1875. 4. 8 【日本】書籍館(しょじゃくかん)が、東京書籍館と改称する。[5.17 湯島大成
殿を仮館として開館。]
1875. 4.29【日本】隔日刊の庶民向け小新聞(こしんぶん)『平仮名絵入新聞』が東京で創
刊される。戯作者高畠藍泉(たかばたけらんせん)(1838 ∼ 85)が編集長となる。[以後、
染崎延房(のぶふさ)(通称為永春笑、のち二世為永春水)(1818 ∼ 86)、前田香雪(こうせ
つ)(1841 ∼ 1916)とともに特色ある紙面づくりに貢献する。とくに前田は 、
『岩田八十八
(やそはち)の話』を連載し、好評を博す。これは裁判記録を戯作風に続きものにしたも
ので、新聞小説の元祖とわれる 。
『東京日日新聞』の創刊にかかわった社主落合芳幾(よ
しいく)(1833?∼ 1904)が有名な浮世絵師であったため、毎号みずから彫刻して社会記事
(雑報)に適した挿絵を入れる。高畠、前田らは社会記事を戯作風続きものに次々と小説
化することによって、小新聞の社会記事に新生面をひらく。挿絵は、警察受け持ちの探
訪者が帰社して差し出す原稿の中から、絵を入れるべきものを選んで、画工が直ちに版
下を描き、これをその夜の活版大組の終わりまでの 5 ∼ 6 時間の間に版木を彫刻させる。
のち『東京平仮名絵入新聞』と改題。1876 年、高畠は落合と衝突して『読売新聞』に移
る。『東京絵入新聞』と再改題され、前田、染崎らが健筆をふるい、落合の絵とあいま
って小新聞としての地位を高める。1881 年、先輩格の『読売新聞』を発行部数で上回る
ほどとなる。自由民権期には改進党系に色分けされたものの、社説などは設けず、社会
記事、連載、挿絵などを特色としていたため、筆禍にあうことはまれである。この時期
に坪内逍遥が「春のやおぼろ」の筆名で雑文を投書する。1886 年、自由民権運動が衰退
するとともに急速に部数が減り、5000 部を割り、1 万 3000 部の『読売新聞』に大きく水
をあけられる。1889 年、
『東西新聞』と改題するが、まもなく廃刊となる。
]
- 468 -
1875. 4.−【日本】大蔵省紙幣寮(のち、印刷局)に、抄紙局が設置される。[この年、紙
幣寮抄紙部で、特別に紙幣や証券用に上質紙抄造される。古来の和紙のなかから、ガン
ピ(雁皮)を主原料とする鳥の子紙に着目し、越前(えちぜん)(福井県)から専門家を招
いて、ミツマタ(三椏)を代用し鳥の子紙同様の上質紙の製造に成功する。これを一般に
「局紙(きょくし)」とよぶ。 1877 年、海外へ初輸出される。以後、日本羊皮紙あるいは
植物性羊皮紙とよばれて世界的に有名になる。フランスでは「ジャポン」と呼ばれて、
詩集などの豪華本などに使用される。]
1875. 4 . −【日本】上海と内国各港への郵便物の運送を三菱商会へ委託する。
1875. 5. 1【日本】福澤諭吉が、演説の会場にあてるため,東京・三田の慶応義塾内に三
田演説館を作り、開館式を行う。会堂・講堂の先駆となる。会堂の設計図は、在アメリ
カの友人富田鉄之助に依頼してとりよせたものを参考にする。福澤諭吉は、英語の「ス
ピーチ speech 」を「演説」と訳し、演説を重要なメディアとしてとらえて、その自由な
意思表現の発表の場を実現する。[初めは〈演舌〉という字をあてたが,
「舌」の字が俗
なため,改めて演説としたといわれる。この頃まで、スピーチは「説教 」
「演舌」など
と呼ばれ、言論界は「演説社会」と呼ばれるが、ヨーロッパで行われてきたようなスピ
ーチの習慣は,日本ではみられない。明治初年、福澤諭吉は、慶応義塾内の同志を集め
て演説の練習をはじめていた。]
1875. 5 . 1 【日本】大阪∼安治川間に鉄道が開通する。
[1877.12.1 廃止。
]
1875. 5 . 1【日本】三菱商会が、三菱気船会社と改称する。
1875. 5. 2【日本】郵便貯金制度が創設され、東京 18 ヵ所、横浜 1 ヵ所の郵便局で「貯
金預り所」を設けて貯金の取扱いを開始する。1861 年にイギリスで初めて実施され、こ
れを参考として、駅逓頭(えきていのかみ)前島密(まえじまひそか)によって、ニュージ
ーランド、ベルギーに次いで世界で 4 番目に創設される。この頃、世の中では、金銭軽
視と利殖を卑しむ風潮があり、また信用ある貯蓄機関が未発達のため、金銭の退蔵も盛
んに行われている。郵便貯金制度は、政府の信用を背景とした確実な貯蓄手段を提供す
ることにより、国民一般の間に勤倹貯蓄の美風を養い、その生活の安定を図ると同時に、
日本の近代化のための産業資本の蓄積を図るという目的をもって始められる。
[12 月、
全国的に実施する。以後 、
「貯金」の呼び名は、民間銀行の発達に伴って、混乱を避け
るために「駅逓局貯金」とするが、利用者が少なく、前島が毎日のように新聞で宣伝に
努める。1887 年、
「郵便貯金」とする。発足初年末の郵便貯金残高は 1 万 5000 円。1908
年 1 億円、1923 年 10 億円、1942 年 100 億円と増加し、その資金は大蔵省預金部( 1951
年から資金運用部)に預託され、殖産興業・富国強兵のため利用される。1950 年、郵政省
が「5 月 2 日」を「郵便貯金創業記念日」(郵便貯金の日)と定め、宣伝に努める 。
]
1875. 5. 7【日本】永峰秀樹が、アラビアンナイトの部分訳『開巻驚奇 暴夜物語』を公
刊する。
1875. 5.17【日本】東京書籍館が、湯島大成殿(湯島聖堂)内を仮館として開館する。蔵書
の大部分は浅草文庫に留められ、文部省からの交付本によって再開する。文部省の新方
針として、閲覧を無料とし、館外帯出の適用を拡大する。1877.2.4 東京書籍館を廃止。5.4
東京府に移管、東京府書籍館となる。1880.7.1 文部省の所管に戻り、東京図書館と改称
する 。
]
- 469 -
1875. 5.20【日本】度量衡を国際的に統一しようという目的でフランス政府の提唱により
「メートル条約」が欧米 17 か国間で締結され調印する。[ 1885.10.20 日本政府が「メー
トル条約」に加盟調印する。1986.4.20 公布。1988 年、加盟国数は 47 である。2000 年、
メートル条約締結 125 周年を記念して世界計量記念日(World Metrology Day )を実施。]
1875. 5.−【日本】手彫り葉書の小型カナ入り葉書半銭と 1 銭の 2 種が発行される。料額
印面は丸い円で、その中に菊の葉や花が描かれている 。
[のち、6 月発行の小型葉書カナ
無し 2 種とともに「丸菊はがき」の愛称で呼ばれる。]
1875. 5.−【日本】鉄道寮神戸工場で、台車・台わくなどを除き国産材料による客車を製
作する。[1876 年、100 人乗りボギー車および御料車を製作する。
]
1875. 5.−【日本】海軍省が、築地から横須賀造船所まで電信線を架設してほしいと申し
出て許可される。理由は、外国艦船の修理の依頼を受けた場合、ドックの都合などを問
い合わせる場合、時間がかかりすぎて外国に対して「失信ノ姿」となることがあるとい
うもの。
1875. 5.30【日本】内務省所属の博物館が内務省第六局と改称する。[ 1876.1.4 内務省第
六局が「博物館」と改称される。2.24 太政官布告により、内務省所属の博物館のみ「博
物館」と称し、その他は「○○博物館」のように地名などをつけることとする。]
1875. 5.31【日本】内務省が、各地の陸運会社を解散させる。以後、内国通運会社が全国
の陸運を統括する。
[6 月、日本国郵便蒸気船会社解散。社有船 18 隻などを政府が買い
上げる。]
1875. 6. 1【日本】東京気象台が内務省地理寮(のち、地理局)測量司(東京市赤坂葵町)の
中に設立される。気象掛はイギリスジョイネル H. B.Joyner で、イギリスから観測装置を
購入し、イギリス人シャーボー H. Scharbau が気象器械をたずさえて来日した。この日か
ら東京で毎日 3 回、初歩的な気象観測を開始する。[以後、全国各地に私設や県営の測候
所が設けられる。1883.2.16 東京気象台で初の天気図が作成される。1884 年、東京気象
台が 6 月 1 日を気象記念日と定める。1884.6.1 日本で最初の天気予報が出される。1887
年、観測などを全国的に統一する必要上、気象台測候所条例が公布され、気象事業を国
が行うようになる。東京気象台はこのとき中央気象台と改称される。1891 年、日本の気
象事業は外国人の手から独立する 。1895 年、内務省地理局からに文部省へ移る。1943 年、
運輸通信省へ移管。1945 年、運輸省へ移管される。1956 年 、
「気象庁」として運輸省(の
ち、国土交通省)の外局に昇格する 。1993 年、徽章工学学会が、
「気象記念日」の「気象」
と「徽章」をひっかけて 6 月 1 日を「バッジの日」に制定する。]
1875. 6 . 2【日本 】
『東京曙新聞』創刊。
1875. 6.12【日本】手彫り葉書の小型カナなし葉書半銭と 1 銭の 2 種まで計 10 種が発行
される。以後、郵便葉書は 1 枚紙になる。
]
1875. 6.13【日本】イギリス P&O 汽船会社に横浜から香港、アメリカへの郵便物運送を
委託する。[10.28 取り消す。]
1875. 6.28【日本】反政府運動取締のため、讒謗律と新聞紙条例を定める。新聞紙条目を
廃止する。皇族・華族・官吏の栄誉を侮辱することを禁じる讒謗律 8 条、政府の変壊・
国家の転覆を論ずることや民衆を扇動することを禁じる新聞条例 16 条を発布する。新聞
条例では、発行の許可制、持主・社主・編集人・筆者・印刷人の法的責任、騒乱煽起・
- 470 -
成法誹謗の論説取締りを規定し、さらに特別刑罰規定を設け、手続違反に対して初めて
行政処分規定を定める。[以後、政府は厳しい言論統制を敷き、発展途上にある新聞にも
圧力をかける。各紙とも筆禍を怖れて筆鋒を鈍らせる 。『東京曙新聞』に入社したての
主筆末広鉄腸( 26)が、条例への反撃文と条例非難の投書を掲載し、裁判に付され、禁固
刑を命じられる。末広鉄腸は新聞紙条例による筆禍者第 1 号となり、2 ヵ月の禁獄とな
るが、『東京曙新聞』の人気が高まり、紙数を急激に伸ばす。出獄後、成島柳北の『朝
野新聞』に編集長として迎えられる。10.17『朝野新聞』に、成島柳北・高橋基一連名で
〈今ヤ末廣子ガ精鋭ノ筆力ヲ借テ以テ新聞ノ光輝ヲ添加セントス云々 〉と告知する。12.20
『朝野新聞』が新聞紙条例と誹謗律の制定者といわれる尾崎三郎、井上毅を諷刺する記
事を出し、柳北は禁固 4 ヵ月、罰金 100 円の判決を言い渡され、鉄腸とともに拘留され
る。この年、讒謗律・新聞紙条例による逮捕・拘留者数は 9 人、1876 年には 40 人、1880
年には 200 人にのぼる。1876.6.28 浅草寺で、受難新聞慰霊の新聞供養大施餓鬼会が開催
される。]
1875. 6.−【日本】日本国郵便蒸気船会社が解散し、政府が 18 隻を買い上げる。[ 9.15 三
菱汽船会社に官船 13 隻を無償で払い下げ、助成金交付を決定する。]
1875. 6.−【日本】抄紙会社(のち、王子製紙㈱)の王子工場が竣工する。イギリス製 78in
長網機 1 台が設置される。[7.12 試運転。8 月、本社を王子工場に置き、第一国立銀行内
仮事務所を東京分社と改称する。9 月、包紙(荷包みにしか使えないような粗末な粗い紙)
の抄造開始。10 月、白紙を抄出する。12.16 抄紙会社の開業式を挙行する。]
1875. 7 . 1 【日本】東京府内の郵便配達度数を、これまでの 1 日 6 回から 10 回に増やし、
郵便馬車と郵便人力車を使用する。
1875. 7. 4【日本】郵便葉書や封皮から切取った印章・証券印紙は切手と認めないことと
する。
1875. 7.11 【日本】田中久重( 76 )が、東京・新橋に田中製造所を設立する。日本最初の民
間機械工場で 、
〈萬般の機械考案の依頼に応ず〉という看板を掲げ、電信機械などの製
造を始める。[1876 年、最初の電話機を開発する。後に、これは工部省に吸収される。1882
年養子 2 世田中久重(幼名金子大吉)が独立して田中製作所(のち、芝浦製作所、のち、㈱
東芝)を設立する。以後、民間唯一の機械工場として官需で成長するが、外国製品との競
争で経営が悪化する。1893 年、三井傘下に入り芝浦製作所と改称。1898 年、三井工業部
の廃止で三井鉱山傘下に入る。発電機など重電機を中心に業績を回復。1904 年、芝浦製
作所㈱として独立。1909 年ゼネラル・エレクトリック(GE)社と提携するとともに電機専
門メーカーとして発展を遂げる。1939 年、東京芝浦電気と改称、東京電気と対等合併す
る。]
1875. 7.−【日本】1873 年に渋沢栄一らが設立した「抄紙会社」(のちの王子製紙)が、
苦心の末ようやく操業を開始する。
1875. 7 . −【日本】郵便切手の消印には、濃墨を用いるよう郵便局員に指導する。
1875. 7.−【日本】下総国(千葉県)出身の津田仙(38)が、農業改良を志し、東京麻布に学
農舎を設立する。農業振興のためには、〈智識を交換し農事を研究〉するための読書施
設を備えた「農談会」を作ることの大切さを唱える。
[9.1 学農舎農学校を設立 。1876 年 1
月、
『農業雑誌』を創刊。1900.9 次女津田梅子が、女子英学塾(のち、津田塾大学)を創
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設する。]
1875. 8. 5【日本】度量衡取締条例、度量衡種類表、度量衡検査規則等が制定される。尺
貫法を統一する。
1875. 9. 3【日本】太政大臣三条実美が、出板条例(出版条例)を改正、罰則を公布する。
罰則 8 条と付則からなる条例に強化され、許可制から届出制になる。管轄を文部省から
内務省へ移管、出版物が内務省の統制を受けることになる。納本制度をとり、内務省が
准刻事務(納本)を管轄し、その本の現物各 1 部は旧帝国図書館に交付という形で納めら
れる 。
「内務省交付本 」のはじまり。罰則については 、第 6 条に〈淫褻俗ヲ乱ルノ図書(小
説歌謡彫画ノ類淫褻ニ係ル者ハ皆同ジ)ヲ著訳シテ出板スル者ハ禁獄三十日以上一年以
下罰金三円以上百円以下ヲ科ス〉と規定する。初めて福沢諭吉による copyright の訳語
「版権」が、図書を出版・販売し利益を占有する権利として法定される。また、奥付に
定価表示することも明示される。[以後、定価販売は励行されない。 1919 年、東京書籍
商組合が規約改正して定価販売が実施されるようになる。 1999 年の著作権法で、
「著作
権」の語がこれに代り、「版権」は法律上は廃語となる。]
1875. 9. 3【日本】本木昌造(51)が、長崎で死去する。[9.5 『東京日日新聞』が長文の追
悼記事を掲載する。]
1875. 9.15【日本】三菱汽船会社が、政府から官船 13 隻を無償で払い下げられ、助成金
の交付を受けることが決まる。[ 9.18 郵便汽船三菱会社と改称する。]
1875.10.−【日本】三田製紙所が、東京で操業を開始する。[ 1880.12 真島第二製紙所と
なる。1882 年、工場閉鎖。]
1875.11. 1【日本】三菱会社と郵便汽船三菱会社が、商船学校を設立する。[ 1876.1.24 開
校。のち、東京商船学校となる。]
1875.11.29 【日本】官立の東京女子師範学校が、御茶の水(のち、文京区湯島一丁目)に設
立され、開校式が行われる。
1875.11.29 【日本】京都府顧問山本覚馬と同志社をおこした新島襄(32)が、同志社英学校
を京都旧薩摩(さつま)屋敷の跡に開設する。当初生徒は 8 人。[以後、熊本洋学校に学ん
だ生徒が続々と入学する 1877 年、同志社女学校を開設し同志社の基礎が固まる。1888
年、
「同志社大学設立の旨意(しい)」を宣言し、募金活動に奔走する。1890 年、志なか
ばで病死。]
1875.11.30 【日本】『読売新聞』が、桜田兼房町の火事の記事を書いた紙を本紙へ貼り付
けて速報する。最初の新聞号外となる。
1875.11. −【日本】通常葉書用紙を白色に改定する。
1875.11. −【日本】郵便馬車を、小田原∼熱海間に開設する。
1875.12.16 【日本】抄紙会社(のち、王子製紙㈱)が、王子工場で開業式を挙行する。[こ
の月、新聞用紙の抄造を開始する。]
1875.12. −【日本】内国通運会社の「宰領」が、政府からの金子入書状と郵便関係現金の
逓送を委託され、大井川で博徒に襲われて殺され、輸送中の多額の金銭を奪われる。
[1976.5 政府が、同社に対しても郵便役所と同様に六連発の短銃 100 挺を渡し、同社の宰
領に携帯させることとする。](『社史日本通運株式会社』1962 、
『駅逓局類聚摘要録』
、
石井寛治、1994)
- 472 -
1875.12.30 【日本】
『東京日々新聞』に、〈便利になったものは、郵便と、郵船、それから
電信に蒸気車、その次は人力車〉との記事が出る。この頃、横浜の遊里では、電信を織
り込んだ甚句が流行する〈馬や蒸気じゃ便りがおそい はりがねだよりにしておくれ
海山隔てて暮らして居ても 心は切れないテレガラフ 互いの心に電信かけて 言はず
語らず人知れず〉と唄う。
1875.○【日本】この頃、牛乳 1 本(180cc)が 5 銭。
1875.○【日本】浦和書籍館が、埼玉県立学校内に設立される 。
[1886 年、財政難のため
新しい本が買えず、利用者が激減し、廃館となる 。
]
1875. ○【日本】松島剛(ごう)が、英文速記法の日本語への翻案を試みる。
1875. ○【日本】抄紙会社が、東京分社を設立、日本橋蛎殻町に印刷工場を設置する。
1875. ○【日本】永峯秀樹が 、
『開巻驚奇・暴夜(アラビア)物語』と題して英訳の『千夜一
夜物語』から重訳し、日本に初めて紹介する。
1875.○【日本 】陸軍大丞・啓蒙思想家津田真道(まみち)(46)が「情欲論 」を『明六雑誌 』
に発表する。情欲とは、創造主よおり人間に授けられた最大の贈り物だとし、煩悩は罪
だとする仏教や欲望を有害と考える儒教の主張をしりぞける。
1875. ○【日本】千葉繁が、アメリカのゼームス・アストンの性科学書『造化機論』を訳
出する。日本最初の性科学書となる。性器の各部の訳語に、陰部、陰茎、大陰唇、小陰
唇、会陰など、いたるところに「陰」の字をつける。知識層の評判を呼び、競って読ま
れる。[以後、大部分の生殖器に関する学術用語は千葉の訳語を踏襲する。1876 年、千
葉は『通俗造化機論』を刊行する。これにより日本語で初めて、性交は快感を得るため
の行為であり、妊娠に関する限り無用であると記述し、チヤアン・ハルト氏の話として、
梅毒で陰茎を失った男の精液を採取し、小さなガラス製水鉄砲を使ってこの精液を妻の
子宮に注入して一子を得たことを紹介する。1877 年、アメリカのエドワルド・フート著
の翻訳『造化機論』2 編刊。1879 年、
『通俗造化機論』刊。]
1875. ○【日本】新聞に、〈女学校の先生連中とみえる袴姿の女子七、八人が茶屋で芸者
三人をよんで五時間ほど遊んだ〉との記事が出て〈開化の御世とめでたく存じ奉る〉と
結ぶ。
1875. ○【日本】東京府が、遊郭営業に関する通達を出す。〈このたび吉原・根津・品川
・板橋・新宿・千住等に「三業(さんぎょう)会社」なるものが出来るにつき…(中略)…
貸座敷や女郎屋や引手茶屋の営業をしたいものは、この会社に入ること〉(東京府第 20
号通達)。
1875. ○【日本】営業継続のメドが立った吉原遊郭が 、
「吉原博覧会」を開催する。この
頃一番の格式を誇る金瓶楼を会場に、各遊郭の歴代人気大夫ゆかりの品々や書画骨董な
どを有料展示し、吉原の伝統を宣伝する。
1875. ○【日本】昨年イギリスで建造された大型の洋式船「明治丸」が、横浜に回航され
る。全長 86m,幅 9m,総トン数 1027 トンの鉄製 2 軸汽船であるが、補助帆走用の 2 本
のマスト(のち 3 本)をもつ。灯台巡視船として用いられる 。
[ 11 月、小笠原諸島を日本
政府が領有する旨,島民代表を船上に集めて伝達するのにも用いられる。最優秀新造船
であるため皇室の御召船としても使用される。1876 年、明治天皇の東北・北海道巡航の
御召船として航海する。1896 年、商船学校(のち東京商船大学)に移管されて係留練習船
- 473 -
となる。1964 年、陸上に引き揚げられ東京商船大学の構内に保存される。1978 年、重要
文化財に指定される 。
]
1875. ○【ミャンマー】マンダレイで初めて印刷が行われる。
1875.○【ロシア】( 1876 年??)ヤブロチコフが、交流アーク灯を発明、
「電気ろうそく」
と呼ばれる。従来の直流電源のアーク灯を交流とし、ガラスカバーの内部に 4 組の平行
炭素電極を立て、1 つの電極の先端部から始まったアーク放電が、2時間ほどで消滅す
ると 、次の電極で放電が始まるように工夫したもの 。(図:直川一也『科学技術史』p.82 )
[以後、ヨーロッパで普及する。アークの光線には紫外線が多く、室内では強烈すぎる上、
経費がかさみ、故障が多いので、やがて使用されなくなる。]
1875.○【デンマーク】最高裁が 1866 年刑法第 184 条違反のかどで、クレビヨン『ソフ
ァー』のデンマーク語訳の出版者を 1 ヵ月の懲役、プラス 200 クローネの罰金刑の判決
を下す。
1875.○【オーストリア】マルクス Siegfried Markus が、1864 年の I 号車に続き、2 サイ
クル・ガソリンエンジンで 2 台目の自走車を試作する 。
[のち、この 2 号車はウィーンの
科学博物館に収蔵される。1975 年、100 年目に、時速 8km で実際に走ってみせる。ただ
し、マルクスの車は年代などに疑問点が少なくないと言われる 。
]
1875. ○【ドイツ】ベルリン大学解剖学教授オスカー・ハートビッヒが、ウニの卵に精子
が侵入し、卵の核と精子の核が合体する状態を観察して 、
〈合体(受精)には卵子と精子
の核の融合が必要である〉と説明する。
1875. ○【イギリス】この頃、バークレイが、版面から一度ゴム布面に転写して、それか
ら最終の目的物に印刷する方法を発明し、ブリキ印刷に初めて実用化する。オフセット
印刷の原型となる。[1904 年、アメリカのルーベル(ラブル)I.W.Rubel が、これとは別に、
偶然のことから、ゴムブランケットを介しての間接印刷を考案し 、「オフセット印刷」
と名付ける。]
1875. ○【イギリス】郵政大臣が〈電話は電報の一種だ〉と認識し、電報・電話事業を国
有の一元的企業とする法律が成立する。
1875.○【イギリス】英国国教会の牧師ジョージ・バトラーの夫人エリザベス Josephine
Elizabeth Butler( 47 )らが、国際廃娼連盟を結成する。警察の監視下で売春婦に定期検診
を義務づけることによって事実上公娼制度を法的に承認した「性病法( Contagious
Diseases Act 」(1864、66、69 )の廃止を訴え、女性の全国的組織を先導する。[1886 年、
ナイチンゲールや H. マーティノー、また V. ユゴーら外国人の支持をも得て、同法は
撤廃される。以後も売春の全面的禁止を訴え続け、この運動をヨーロッパ諸国にまで拡
大させ、本部をジュネーブに移す。]
1875. ○【アメリカ】ニューヨークのマッキンノンが、万年筆のペンの先にイリジウムの
パイプをつけた「スタイログラフィック・ペン」の原型を開発する。[のち、ドイツのロ
ットリング社が、製図などにつかう製品を売り出し、世界的に有名になる。]
1875.○【アメリカ】ボールドウィン Frank Stephen Baldwin( 1838 ∼ 1925 )が、実用的な手
回し計算機を開発し、商業的に生産されるようになる。
1875.○【アメリカ】カレイ G. H. Carey が、多数のセレンセルで画面の各部の明暗を電
気の強弱に変え、同数の伝送路を使って送る同時伝送式テレビジョンを考案する。[1876
- 474 -
年、ベルの電話の発明とともに、アメリカではテレビは「絵のある電話」というイメー
ジで開発され、電話も声だけでなく絵も入れた「電画」として志向される。]
1875. 【流行語】巡査。
1875. 【本】福沢諭吉『男女同権論』
1876(明治9)
1876. 1 . 2【日本】電信局のない地から郵便による電報発信の制度を開設する。
1876. 1.13【日本】東京の気温が零下 9.2 ℃を記録する。この年から東京の気温統計が開
始される。[以後、120 数年にわたり、東京の気温は徐々に温暖化し、この日の気温最低
記録は破られない。]
1876.1.18【日本】郵便事務取扱者の徴兵免除を布達する。
1876.1.27【日本】東京警視庁が、私娼取締りのため「売淫罰則」を定める。
1876. 1 . −【日本】越三商店が、中井商店と改称し、初の洋紙の取扱いを始める。
1876.2.10【日本】
『大阪日報』創刊。
1876. 2.14【アメリカ】( 3 月 10 日か??『明治電信電話物語』。
『世界全史』は 2 月 14
日。ベルの実験ノートには〈3 月 10 日金曜日朝〉と記している由(松田裕之氏による))
ボストン大学発声生理学教授(聾唖学校の講師?)ベル Alexander Graham Bell(29)が、ボ
ストンのエクセター 5 番地にいて、電線で音声を移動する技術、すなわち電話を発明し
て、初めて肉声を伝送る。ベルの第一声は〈ワトソン君、すぐ来てくれ。君に用事があ
る Watson, come here, I want you〉である。[ 8.3 ベルが、電話の最初の実験をカナダ・オ
ンタリオ州のブラントフォードのプリザント丘のビル間で実施する。8.10 ブラントフォ
ード∼パリス Paris 間 13km で、初めて長距離通話に成功する。以後、ベルがこの電話の
特許を出願した 2 時間後に、シカゴでエリシャ・グレイ(グレー) Elisha Gray( 41)が同じよ
うな電話機の特許を出願する。以後、ベルの基本特許をめぐって多くの特許権争いが生
じ、その事業化に当たっても幾多の困難に遭遇する。結局ベルが勝訴して、電話の発明
者としてその名を後世に残す。初期の電話は、牧師の演説や劇場の芝居などの音声を、
富裕階級の人々に伝達するのに使われる。1877 年、ベルの父、メルビル・ベルが、カナ
ダで「資本金 1 ドル」の特許権所有企業をつくり、その 75 %の権益を持ち、磁石式電話
を 2 地区間に敷設する。ベルの友人ハバードは、電話が将来有望な産業になると見てと
り、ベル、サンダース、ワトソンの 4 人で資本金ゼロの模擬会社「ベル電話協会」を設
立、持ち分は前 3 者が 10 分の 3 、ワトソンが 1 とする。しかし、会社発展のシナリオは
描かないで終わる。電話事業を軌道に乗せるうえで大きな貢献をしたのはベール
Theodore Newton Vail( 1845 ∼ 1920 )である。]
1876. 2.18【ニュージーランド・イギリス】イギリスとニュージーランドの間に海底ケー
ブルが敷設され、直接電報が開通する。
1876. 2.24【日本】太政官布告により、内務省所属の博物館のみ「博物館」と称し、その
他は「○○博物館」のように地名などをつけることとする。
1876.2.26【日本・朝鮮半島】日韓修好条約調印。
1876. 2.−【日本】紙幣寮抄紙局の紙幣用手漉紙工場が竣工する。[1877.1 印刷局抄紙部
と改称する。]
- 475 -
1876. 2.−【日本】新潟県佐渡相川地方の寝部屋の風習、若衆仲間の慣習、結願・功徳と
称し石塔を立てることなどを禁止する。
1876.3.12【日本】太政官布告により、官庁が、毎月 1 の日と 6 の日を休む「一・六休暇」
を廃し、日曜日を全休、土曜日を半休にすることを定める。[ 4.1 実施。以後、3 月 12 日
を「半ドンの日」とか「サンデーホリデーの日」とされる。]
1876. 3.15【日本】太政官布達により、
〈公文書に洋製墨汁の使用は不可〉と通達し、西
洋インキ(インク)の使用を禁止する 。
[ 1908.12.7 閣令によりその達を廃止し、インクの
使用を許可する。
]
1876. 3.15【日本】山下門内博物館が、
「連日開館」で公開する。[ 4.28 展示していた金鯱
の鱗がはぎ取られる。以後、期間を延長し、7 月 12 日終了する。]
1876.3.20【日本】横須賀に電信が開通する。
1876. 3 . −【日本】大阪府書籍館が設立される。
1876. 4. 1【日本】太政官布告により、この日から満 20 年をもって丁年(成年)とする。
1876. 4. 1 【日本】外国郵便料金を改正する。書状 15g ごとにアメリカ 5 銭、ヨーロッパ
主要国 10 銭とする。
1876. 4.−【中国】日本政府が、上海に日本郵便局を開設する。[11 月、朝鮮の釜山に日
本郵便局を開設する。日本からの郵便料金を日本国内並みにする。のちに、朝鮮開化派
の洪英植が抗議する。]
1876. 4 . −【日本 】真島襄一郎が、蓬莱社製紙部を譲り受け、真島製紙所とする。[以後、
大阪製紙所、下郷製紙所 、中之島製紙所と改称。1926.4 樺太工業中之島工場となる。1928.7
廃止。]
1876. 5. 1【日本】抄紙会社が、大蔵省紙幣寮の命により、社名を製紙会社と改称する。
[8 月、紙幣寮注文の地券用紙の抄造を、破布原質を使用して開始する。11 月、破布原質
を使用して筆記用紙を試抄する。]
1876. 5. 9【日本】上野公園が開園する。太政官布告により、上野寛永寺の境内が指定さ
れて、日本初の公園として造られ、この日天皇を迎えて開園式を挙行する。
1876. 5.10 【アメリカ】合衆国建国 100 年を記念するフィラデルフィア万国博覧会が、フ
ィラデルフィアのフェアモント公園で開催される。会場ではベルとワトスンの音声伝達
機(電話機)の実演が大評判となる。日本は、貿易拡大を目指して工芸品を中心に多数出
品する。[6.25 ベルとワトスンが、名だたる科学者たちを前に公開実験を行い、センセ
イショナルな成功を収める。聴衆の一人が〈ほどなく「電話」の噂が「電信」を伝い、
全国に広まっていくだろう〉と書きとめる。∼ 11.10。 1877 年、これを契機にベル電話
会社が設立される。]
1876. 5.17【日本】郵便切手の「半銭」を「5 厘」に改める。[9.19 郵便葉書半銭を 5 厘
とする。]
1876.5.26【日本】金子入書状を逓送する内国通運会社の宰領者に六連短銃を携帯させる 。
郵便逓送の途中、郵便物を略奪したり脚夫を殺傷する事件が多発したので、1873 年制定
の短銃取扱規則を適用する。
1876. 5.−【日本】文部大輔田中不二麻呂(ふじまろ)(31)が、夫人同伴でアメリカのフィ
ラデルフィア万国博覧会を参観したことが新聞に〈博覧会見物に田中文部大輔、細君同
- 476 -
伴で渡米〉とニュースになる。妻同伴の意義として〈子の教育は、妻の教育から〉とい
う趣旨の長文の記事が掲載される。
1876. 5.−【アメリカ】文部省から派遣されマサチューセツ州ブリッジウォーター師範学
校に学ぶ日本人留学生、伊沢修二(25)が、フィラデルフィア万国博覧会で、マサチュー
セッツ州教育部出品物の中に、ベルが発明した唖者に言葉を教える特殊文字表を偶然目
にする。伊沢は話題のベルの音声伝達機(電話機)よりも文字表のほうに興味を覚える。
[以
後、博覧会終了後、ボストンに戻り、ベルの家を訪ねて自分の話す英語の発音矯正を嘆
願する。ベル( 33)は遠来の客の勉学意欲を歓迎して、発音指導を快諾する。そのとき、
ベルの特殊文字は視話文字(発音の際の口の動きを記号で表示した文字)といい、発明者
は父メルビルであることを知らされ 、
〈吃音矯正の鍵は母音の活用にある〉と示唆する。
また、新型の音声伝達機で事業を興そうとしているベルの様子から、電話機にも興味を
持つようになる。伊沢はこの驚異の通信機の素晴らしさを他の留学生にも知ってもらお
うと、ハーバード大学法学部に留学中の金子堅太郎( 23)を誘い、ベルの屋根裏実験室を
訪れる。ベルは、音の伝達の原理を論じ、音波を電気振動に変える仕組みを解説し、〈こ
の電線はニューヨークとリバプールを結ぶ 3000 マイルの海底電線に使われているのと同
じものだよ〉と説明し、まず金子に受話器を持たせ 、
〈ハロー、ハロー〉と声を出す。
伊沢にも話すよう促す。2 人は初めて電話で日本語を話し合う。電話が英語以外の言語
で話された第 1 号となる。]
1876. 6. 3【日本】郵便往復は最も迅速を主とし、時限を期して逓送の必要があるので、
行啓で一時通行止めがある場合も郵便配達人の通行を許可する。
1876. 6.26【日本】新聞紙・定時刊行物の紙数が 20 枚以上になる場合の郵送料金は、書
籍類の料金とする。
1876. 6.28【日本】東京・横浜の有力新聞・雑誌記者らが、誹謗律・新聞紙条例の公布 1
周年を期して、受難新聞慰霊の新聞供養大施餓鬼会を浅草寺で開催する。
1876. 7 . 3【日本】千葉郵便局で、貯金事務を開始する。
1876. 7. 5【日本】太政官布告で、国安妨害の記事を掲載した新聞・雑誌に対し、内務省
が発行の禁止または停止の行政処分を行うことを定める。[以後、『湖海新報』『草奔雑
誌』
『評論新聞』などが発行禁止となり、1945 年までの 70 年間にわたり、発売頒布禁止
権が出版警察の中核的な行政処分権となる。このため、一般に、新聞記事などに「○○
論」など伏字が増える。それに便乗し「○○亭」という寄席が出来る。(『郵便報知』
、
星新一「夜明けあと 」
『波』1988.6 )
1876. 7.20【日本】天皇が、東北地方の巡幸の旅を終えて青森から明治丸で横浜に帰着す
る。
[以後、明治丸は東京商船大学校内に保存される。1941 年、この 7 月 20 日を記念し
て「海の記念日」が定められる。1995 年、海の恩恵に感謝し海洋国日本の繁栄を願う日
として、国民の祝日の一つ「海の日」に制定される。1996 年から施行 。
]
1876.7.29【日本】三井物産会社が、設立許可される。
1876. 7.−【日本】東京で『写真新文』が創刊される。日本最初の写真雑誌となる。[9
月 8 日、
『写真新聞』と改題。(以上、
「日本新聞百年史」による。)(以下 、
「岩波年表」
による。)1877 年 1 月、第 2 号を発行、以後廃刊。](この項、年表によりマチマチ)
1876. 8.14 【日本】札幌学校が開校する。初代教頭に政府の招請で 7 月に来日したマサチ
- 477 -
ューセッツ農科大学学長クラーク William Smith Clark( 50 )が就任、事実上の創設者とな
る。第 1 期入学生は 24 人。本科の講義は英語で行われる 。
[9.8 札幌農学校と改称。の
ち、北海道大学に発展する。
]
1876.8.15【日本】福島∼米沢間に電信が開通する。
1876. 8 .−【日本・中国】イギリスの P&O 汽船会社が、横浜∼上海航路を廃止する。
1876.10. 1【日本】電信事業に別途会計を採用する。
1876.10. 1【日本】福島∼山形間に電信が開通する。
1876.10. 9【日本】佐久間貞一(28 )らが、高橋活版所を 1000 円で買い取り、個人経営の
秀英舎(のち、大日本印刷㈱)を東京・数寄屋橋河岸御門外彌左衛門町(のち、板橋)に創
業する。秀英舎の社名は〈英国より秀でるように事業を伸ばせ〉という意味で旧幕臣の
勝海舟が名づける。設備は、組版道具一式、美濃判 1 ページおよび 2 ページ掛けの手引
印刷機各 1 台。宗教新聞『明教新誌』を活版刷りで発行する仕事を引き受ける。[以後、
佐久間貞一が舎長として経営にあたり、且つ自ら活字を拾い率先垂範して 20 人の社員と
ともに働き、『明教新誌』、『開智新聞』などを印刷発行する。また中村正直の『西国立
志編』の再版の際に『改正西国立志編』として、それまでの木版に代えて日本で初めて
活版印刷を行い、本格的印刷業の先駆となる。徒弟教育、職工資格の確定、職工保護政
策、職工組合の必要を力説し、工場法の必要を説くだけでなく、秀英舎において 8 時間
労働、養老積立金、夏季休暇などを採用し、労働者団体の育成にも努め、のちに「日本
のロバート・オーエン」と称せられる。 1883 年、蒸気機関を設置し、その動力によって
印刷機を稼働させる。1894 年に株式会社化する。1917 年、電力を導入して印刷機を稼働
させる。1935 年に日清印刷と合併し、大日本印刷㈱と改称する。]
1876.10.24 【日本】敬神党が熊本鎮台を襲撃、熊本神風連の乱が起こる。電信による戦局
の情報が刻々と東京の政府に打電され、派兵や鎮圧に実をあげる。暴徒により電信線が
襲撃される。夜半、神風連が熊本伝信分局を襲撃し、電信技師が遁走した後もカタカタ
と作動する電信機を見て、暴徒の一人が〈すわッ、キリシタンバテレン !!〉と大喝して
斬りつける。電信用インキ壺が破損し、黒インキが噴出して降り注ぐと 、
〈これぞバテ
レンの黒い血なり〉と全員が意気揚々として引き上げる。[ 10.27 熊本敬神党に呼応して、
福岡県秋月で守旧派士族が蜂起する。暴徒が電線を切断するが、お雇い外国人と電信工
夫が直ちに修復する。10.28 山口県萩でも乱が起こる。政府側は電信連絡を駆使して迅
速に軍事動員して、直ちに暴徒を鎮圧する。]
1876.10.26 【日本】勧業に係る郵便逓送規則を布告する。勧業上の各種情報やそれに関連
する質疑応答書を、勧業寮と地方官、地方官と地元の人との間に送受する開封郵便物は
一定量までは無料とする。また、それに関連する種子、見本品、試験品などを送る場合、
重量 32 匁(約 120g )まで無料とする。
1876.10.27 【日本】福岡県秋月で、旧藩士が暴動を起こし、電線を切断する。
1876.10.−【日本】秀英舎舎主佐久間貞一(28 )が 、日本最初の手抄き板紙の製造を始める。
1876.10. −【アメリカ】全国図書館員大会がフィラデルフィアで開かれ、アメリカ図書館
協会( American Library Association ;ALA)が設立される。近代的な意味での図書館専門職
が誕生する。
[この年、世界初の図書館界の専門雑誌『American Library Journal 』が創刊
される。]
- 478 -
1876.11. 6 【日本】工部省工学寮に工部美術学校を付設し、画学・彫刻学の 2 科が設けら
れる。初めてモデルが使われる。
1876.11.14 【日本】東京女子師範学校(のち、お茶の水女子大学)内に付属幼稚園が、文部
省布達により開設される。キンダーガルテン( Kindergarten)に範をとった日本初の近代的
官立幼稚園で、2 歳から 6 歳までの小児 75 人が入園する。保育料は 1 ヵ月 25 銭。[11.16
保育開始。以後、文部省が普及を奨励するが、小学校・中等学校のようには増設されな
い。長い間、幼稚園は中流以上の階層の家庭の幼児が通う、ぜいたくなものという印象
をもたれる。このため、小学校 1 年生入学者中幼稚園修了者の占める百分率(就園率)は、
第二次世界大戦前は 1942 年の 10 %が最高となる。1949 年、お茶の水女子大学附属幼稚
園となる。]
1876.11.25 【日本】福沢諭吉『学問のすゝめ』の最終編(第 17 編)が刊行される。1872 年
に初編を自費出版して以来、ベストセラーになっていた 。
[1880 年、合本として刊行さ
れる 。
]
1876.11.30 【日本】茨城県で農民数千人が、3 年前に公布された地租改正への怒りを募ら
せ、引き下げを要求する一揆を起こす。[以後、三重、堺、愛知 、岐阜の 4 県に波及する 。1876
年、政府は税率を 2.5 %に軽減する。]
1876.12. 1【日本】名古屋∼四日市間に電信線路が開通する。この工事の最中、四日市で
電信線の架設工事の際、住民の間に危害があるとして暴動が起こり、電信局や電柱を焼
く事件が起こる。
1876.12. 2 【日本】三井物産㈱社長益田孝(28 )が、社内に中外物価新報局を設け、日本最
初の経済新聞『中外物価新報』(『日本経済新聞』の前身)を主宰して創刊する。当初、
澁澤栄一らの肝いりと福地櫻痴(35)の協力により、週刊で発行される。題号下の刊記に
〈紀元二千五百三十六年 明治九年十二月二日夜 土曜日 第壱号〉と記す。[1882 年、三
井物産から独立、匿名組合商況社と改称する。1885 年、日刊化される。1889 年『中外商
業新報』と改題する。1924 年、夕刊を発刊。1942 年,第 2 次大戦中の新聞統合令により
業界紙『日刊工業新聞』『経済時事』など 13 紙を吸収し、
『日本産業経済』と題号を改め
る。1946 年 3 月 1 日、
『日本経済新聞』に改題する。]
1876.12.14 【日本】
1876.12.19 【日本】三重県で、住民暴動が発生、四日市伝信分局に放火し、電柱を倒壊す
る。
1876.12. −【日本】大蔵省統計寮編輯『統計雑誌』創刊。
1876.○【日本】画家小林清親( 29 )が、ガス灯の明かりを効果的に使って、西洋の明暗法
により文明開化期の東京の風景を版画で描き始める。ガス灯の放つ一定方向からの光線
を捉えて、人物や物体の背後にある影を巧みに表現する。[以後、自ら「光線画」と称
して従来の浮世絵とは異なった一連の風景版画を発表する。光と陰影により、主に風俗
や町並みに主題を求めて、独特の近代感覚を表現する。1877 年『第一回内国勧業博覧会
瓦斯館図』
、1879 年『江戸橋夕暮れ富士 』
、1880 年『本町通り夜雪』、
『日本橋夜』などを
描く 。
]
1876.○【日本】文部省が『百科全書』を刊行する。その 1 冊に大槻文彦が、洋式活版印
刷全般にわたる最初の文献「印刷術及石版術」を訳述する。[1883 年、予約募集のチャ
- 479 -
ンブル編、西村茂樹ほか訳『百科全書』(丸善)に収録される。]
1876.○【日本】大阪府が、府立大阪書籍館を設立する。
[以後、蔵書数 1000 冊、来館者
は年に 1 万 5000 人余を数える。1888 年、財政緊縮により廃館。]
1876. ○【日本】埼玉県が、県立浦和書籍館を設立する。
1876. ○【日本】長崎に、諸新聞縦覧所が設置される。
1876. ○【日本】日就社(読売新聞社の前身)が、蒸気機関を設置し、その動力によって初
めて印刷機を稼働させる。
1876.○【日本】京都∼大阪間の鉄道開通で、人力車や淀川の水上交通が打撃をこうむり、
関西で人力車の乗り賃の値下げ競争が始まる。
1876. ○【日本】東京で、コタツ付きの人力車が登場する。
1876.○【日本】写真家下岡蓮丈(53)が、浅草寺境内に「コーヒー茶屋」を開く。
1876. ○【日本】山口県・阿川に「他国船御風呂宿」が開業する。廻船が入ると伝馬船に
野菜を積んで風呂の案内に行く。
1876.○【日本 】イギリスの「蒸気機関車の父」トレビシックの孫、F.H.トレビシック Francis
Henry Trevithick (26 )が来日する。[1889 年、汽車監督となる。1893 年、信越線横川∼軽
井沢間のアプト式機関車の試運転を担当、開通に成功する。この間、1888 年、兄の R.F.
トレビシック Richard Francis Trevithick が、汽車監察方として着任する。]
1876. ○【オーストリア】カール・フォン・ウェルスバッハが、トリウム溶液に浸した綿糸
をブンゼン灯のかざしたとき、強烈な白光が放たれることを偶然発見する。[1886 年、
弟子のハイチンゲルが、少量のセリウムを混ぜると、発光力を著しく増すことを発見し、
白熱マントルによるガス灯の改善につながる。
]
1876.○【ドイツ】技師ニコラウス・オットー(44 )が、ボー・ド・ロシャの 4 サイクル・エン
ジンの原理に基づき、4 サイクルのガソリンエンジンを開発、定置用ガスエンジンの製
品化に成功する。[この年、4 サイクル・ガス機関の特許を取得する。オットーの工場の
若い研究員の 1 人、ダイムラーが、のちに独立して研究所を開く。1883 年、小型・軽量
の高速ガソリンエンジンを完成する 。
]
1876.○【イギリス】アダムス G. Adams( 40)らが、固体の光起電力効果を発見する。[の
ちの光電池(太陽電池)開発のきっかけとなる。]
1876.○【アメリカ】政府が、新聞・雑誌を対象とした第二種郵便料金をさらに 50 %値
下げする。[以後、20 世紀に入り、100 万部雑誌の出現に伴い、郵政省の第二種郵便物を
はじめとする赤字が膨大な額になりはじめる。1949 年、赤字が 5 億ドルになる。1966 年、
赤字が 10 億ドルに達する。]
1876.○【アメリカ】1867 年設立のジョンズ・ホプキンズ大学(Johns HopkinsUniversity)が、
開講する。
[以後、初代総長 D.C.ギルマン(1831 ∼ 1908 )は、イギリス型の教育大学でな
く、とくにドイツの学術研究を中心とする大学の創造に努力し、アメリカで初めて科学
研究を中心とする大学院レベルの課程を置き、従来の大学教育の重点を、学部教育から
大学院教育へ、一般教育から専門教育へと移行させる。大学院大学の成功はその後のア
メリカの大学院教育形成のモデルとなり、当時のハーバード、コロンビア、イェールな
どの大学院教育に大きな影響を与える。また、大学図書館は研究支援の任務を帯びた「大
学の心臓部(the heart of theuniversity)」と認識されるようになり、図書館サービスと資料
- 480 -
に対する新しいニーズが発生する 。
]
1876. ○【アメリカ】連邦政府の教育局が、図書館に関する特別報告書『合衆国における
公開性のある図書館( Public Library in the United States )』を公刊する。
1876.○【アメリカ】ボストン・アテナエウム図書館のカッター Charles Ammi Cutter( 39)
が、図書のアルファベット順目録と件名目録を組み合わせた辞書体目録を作成する。6
段階の図書分類法を案出する。
1876.○【アメリカ】図書館学者デューイ Mervil Dewey( 26)が、図書の「十進分類法(Dewey
Decimal Classification)」(略号 DC または DDC)を発表する。すべての図書を、( 1)哲学、
(2 )宗教、(3)社会科学、( 4)語学、( 5)自然科学、( 6)応用科学、(7)美術、(8)文学、(9 )
歴史の 9 類に分けて 1 から 9 の記号を、さらに総記として 0 をあてて分類するものであ
る。この頃、図書館は閉架式で、書架は形態別や受入れ順に配架してあったので、利用
者が請求する本を探すのに、その書架固有の番号をもってしており、分類番号と書架番
号とは別々であった。デューイはこのような不便と不合理に目を付け、新しい領域の拡
大に展開が便利である上、開架制に伴い分類目録と書架分類の一致をはかるという目的
で新しい分類法を創案した。[ 1901 年以後 、「アメリカ議会図書館分類表( Library of
Congress Classification)(略号 LC)が刊行される。]
1876.○【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison (29)が、ニューアークの実験所をニュ
ージャージー州のメンロパークに移す。[1881 年まで、1 日の大半をここで過ごす。創造
力を盛んに発揮し、のちに“メンローパークギャング”と呼ばれるお気に入りの“科学
者”たちと酒を飲みながらアイデアを磨く。発明企業は栄え、ウォール街の金持ちたち
が彼の特許を手に入れようと争う。]
1876. 【流行語】旦那はいけない。私は手疵。
1877(明治10)
1877. 1 . 1【日本】新聞紙・定時刊行物の郵送料金を改定する。
1877. 1 . 1 【日本】為替証書の有効期限を 3 ヵ月に改正する。
1877. 1 . 1【インド】インド帝国が成立する。
1877. 1.11【日本】駅逓寮を駅逓局と改称する。電信寮を新設の工部省に移管して電信局
と改称する。工学校を工部大学校と改称する。
1877. 1.20 【アメリカ】ベル Alexander Graham Bell が、ボストンの中心トレモント街のト
レモント・テンプル公会堂で電話の公開実験を行う。新会社設立のための出資者が思う
ように集まらないので、地元の市民や学生を対象にして行う。ベルから手ほどきを受け
た日本人留学生伊沢周二( 26 )、金子堅太郎(24)のほかに、小村寿太郎(22 )、団琢磨(19 )
らがも駆けつける。公開実験で、伊沢と金子が電話で会話を交わすと、疑わしさを漂わ
せていた会場は静まり返って目の前の現実に耳をそばだてる。[ 1898.10 ベルが夫人メー
ベルと共に日本を訪れ、駐日アメリカ公使バックが主催する歓迎晩餐会で、農商務大臣
を務めた金子堅太郎、貴族院議員伊沢周二も列席する中で、〈私の電話機を最初に通っ
た外国語は日本語だったのです。そして、その通話を行った人こそ、ここに列席してお
られる金子堅太郎大臣なのです〉と挨拶する。]
1877. 1.26【日本】文部省が、東京博物館を教育博物館と改称、再発足させる。発足時、
- 481 -
館名どおりに教育にかかわるものが中心に展示され、国産だけでなく外国から入手した
教育用具、理科教育用理化学器械・博物標本などが展示される。[ 3.9 湯島から上野公園
内に移転する。8.18 教育博物館開館式。8.19 一般公開を始める。1881.7.27 東京教育博物
館に改称。1882.3 上野公園に移り、農商務省所管となる。1888 年、学制改革の中で閉館
となる。1889 年、東京高等師範学校の付属施設として通俗教育館がつくられ、活動を再
開する。1914 年 、独立して東京教育博物館となる。1921 年、再び東京博物館に改称。1923
年、関東大震災で全壊・全焼する。1931 年、上野公園に復興して、館名を東京科学博物
館とする。第二次世界大戦中、爆撃で施設は損壊し、資料も焼失して壊滅的被害を受け
る。1945.12、再開する。1949 年、文部省所轄の国立科学博物館となる。]
1877. 1.30【日本】夜以後、鹿児島私学校派を中核とする九州の士族の一部が、陸軍火薬
局ならびに磯(いそ)海軍造船所付属火薬庫を襲って弾薬を奪う。政府の挑発的な密偵派
遣と相まって、私学校派の怒りは爆発、西郷隆盛( 50 )もこの勢いを抑えることはできず、
心ならずも決起する。[ 2.15 兵を率いて鹿児島を出発する。]
1877. 1 . −【日本】新聞・定時刊行物で定税逓送認可のものはその都度の認可を廃止する 。
欄外に「定時逓送免許」の印章を刷り込むこととする。
1877. 2 . 1 日本】東京女子師範学校(のち、御茶の水女子大学)に、附属小学校を設置する。
[1878.9 授業開始。]
1877. 2. 4 【日本】文部省が、東京書籍館を廃止する。[5.4 東京府へ移管され、東京府書
籍館と改称する。1880.7.1 再び文部省の所管に復し、東京書籍館と改称する。]
1877. 2. 5 【日本】京都∼大阪間の鉄道が開通し、明治天皇が京都・大阪・神戸の 3 停車
場に臨御、京都∼神戸開業式を挙行する。[2.6 旅客営業を開始する。3.19 京都∼大阪間
の鉄道が全通する。列車保守のため、票券式閉塞装置、ブロック電信機を使用する。]
1877. 2.15 【日本】西郷隆盛( 50 )が、兵を率いて鹿児島を出発する。鹿児島で西南戦争が
始まる。国内は騒然となる。郵便の逓送に郵便船を使用する。[以後、北上した西郷軍が
熊本∼久留米間の電信線を破壊する。越智党が福岡近辺の電線を破壊する。熊本伝信分
局が焼失する。2.20 駅逓寮が、郵便物逓送関係者に、火急の用に備え飛信逓送規則を日
頃から熟読し、臨機に対応できるよう通達を出す。情報伝達は、西郷側は薩摩藩時代の
「郷継」による郵送を戸長役場に押しつけることしかできないのに対して、政府側は電
信網の通信を最大に活用し、電報暗号も駆使する。政府は私用電報の取扱いを禁止する
とともに、その日その日の戦況に関する公用電報を具合の悪い部分は隠して『東京日日』
などマスコミにも公開、「呼み売り」(号外)として東京府民にも知らされる。これを機
に、言論戦がはなばなしく展開され、演説会と新聞報道がフル回転する。以後、九州の
前線に取材陣を送って砲煙弾雨の中で生々しく戦況を報道する新聞が紙数を伸ばす。『東
京日日新聞』は主筆福地櫻痴(36 )みずから軍団御用係の名目で記者を引き連れ戦地に飛
び、
「戦報採録」が人気を呼び、帰京して天皇に戦況を奏上する 。
『郵便報知新聞』は記
者犬養毅(22)を熊本県御用係の名目で派遣して「戦地直報 」の記事が読者の喝采を得る。
『朝野新聞』は強力な記者を抱えながら現地取材を見合わせ、後れをとる。9.24 城山も
陥落、西郷以下、桐野、村田、池上四郎、辺見十郎太、別府晋介らが枕を並べて討ち死
にし 、半年に及ぶ戦闘は終結する。この間 、上野彦馬(39 )が従軍写真師として活躍し、
最初の戦争写真を撮影する。また、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、伊藤博文、大隈
- 482 -
重信ら維新の志士や明治元勲の現存する肖像の多くは上野の作品である。]
1877.2.15【日本】名古屋∼津間に電信が開通する。
1877.2.19【日本】日本が万国郵便連合(UPU)へ加盟の権利を取得する 。[6.1 日本が UPU
に加盟する。]
1877. 2.−【日本】東京書籍館(しょじゃくかん)が、西南戦争の影響で、東京府に移管さ
れ、東京府書籍館となる。
[1880.7 東京府から文部省に復帰、東京図書館と改称する。
]
1877. 3 . 9【日本】教育博物館が、湯島から上野公園内に移転する。
1877. 3.10【日本】小学校生徒の作文を中心にした青少年の本格的な投書専門誌『穎才新
誌(えいさいしんし)』が、東京の製紙分社から創刊される。[以後、ほぼ週刊で刊行さ
れる。投書内容は、修身や立身出世を扱った教科書風の紋切型が多いが、しだいに文学
色を濃くしていく。1901 年ごろ、月刊となる。この間、文学愛好の青少年たちが愛読し、
同時に投稿者となり、他者の投稿を見ては競争心を高めつつ、自己の作品の向上につと
める。本誌の愛読者の中から尾崎紅葉、大町桂月、田山花袋ら明治の文学者の多くが出
て、明治文学の基盤づくりに寄与する。1898 年 9 月∼ 1930 年 5 月、投書雑誌『中学世
界』(博文館)が刊行され、多数の原稿が寄せられる。 1906 年 3 月∼ 1920 年 12 月,やや
専門化した投書雑誌『文章世界』(博文館)が刊行される 。
]
1877. 3.11 【日本】東京芝公園内で、貸自転車の営業が始められる。料金は、線香 1 本立
つ間 2 銭、半日 20 銭、1 日 30 銭。[以後、書生の人気を集める。]
1877. 3.19【日本】京都∼大阪間の鉄道が全通する。列車保守のため、票券式閉塞装置と
ブロック電信機を使用する。
1877. 3.21 【日本】郵便取扱役用の提灯徽章を制定する。(図:『郵便創業 120 年の歴史』
p.76)
1877.3.24【日本】風刺雑誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』(團團社刊)創刊。四六倍判。
内務省を辞職した芸州(のち、広島県)の士族野村文夫( 41)が、慶応元年から明治元年に
かけてイギリス留学中に目にした漫画雑誌『PUNCH』を参考にして、筆禍を恐れて直言
直筆できない新聞雑誌に代わり、風刺精神をもって政府の施策を批判するという趣旨で
発刊した。内容の中心は社説にあたる茶説(社説)や雑報、狂詩歌 、狂句、都々逸、狂画(風
刺漫画)などで、読者の投稿参加を重視する。毎号、中央見開きページに傑作が掲載され
る。全国に売捌所(うりさばきじょ)という販売店を設け 、創刊当初は栃木、群馬、千葉、
神奈川、静岡、兵庫などが数の上で目立つ 。
[以後、自由民権運動の時流にのり、爆発
的人気を得て 、
「まるちん」の愛称で親しまれる。発行部数は年を追うごとに増え、最
盛期で年間約 25 万 9000 余に達する。しばしば筆禍を被りながらも、改進党支持の論調
で世論形成に少なからぬ役割を果たす。主な編集関係者は梅亭金鵞(ばいていきんが)、
田島任天、総生寛(ふそうかん)、真木痴臥(まきちのう)、鶯亭金升(おうていきんしよう)、
山田美妙、福地桜痴、幸徳秋水ら、また狂画担当として本多錦吉郎(きんきちろう)(1850
∼ 1921)、小林清親(1847 ∼ 1915)、田口米作らがいる。1878 年 10 月、姉妹誌『驥尾団
子(きびだんご)』創刊。最終刊は 1907 年 7 月と推測される 。
]
1877. 3.28【日本】文部省所管の東京書籍館が、経費節減で東京府が肩代わりし、東京府
書籍館と改称する。
[5.5 開館。
]
1877. 4. 5【日本】
『横浜毎日新聞』が、大阪で、大阪演説会、弁舌会、広演社の新聞演
- 483 -
説会という 3 種類の演説会が活動している、と伝える。
1877. 4.12【日本】開成学校と東京医学校を合併し、東京大学が開設される。学部構成は
法学、理学、文学、医学の 4 学部からなり、ほかに東京大学予備門(のち、第一高等学校
の前身)を所管する。[4.14 小石川植物園が東京大学理学部の附属となる。1886 年、帝国
大学令により東京帝国大学となる。1947 年、東京大学と改称する。4 月 12 日を「東京大
学創立記念日」とする。]
1877.4.15【日本】工部大学校が開校する。
1877. 4.16【日本】マサチューセツ農科大学学長で札幌農学校初代教頭クラーク William
Smith Clark (51)が、 8 ヵ月の在職ののち、アメリカへに帰国の途につくにあたり、生徒
たちに〈Boys, be ambitious for the attainmentof all that a man ought to be.〉と言い残す。
[以
後、(
〈 青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け〉、
〈少年よ、大志を抱け〉などと訳さ
れ、名言として語り継がれる。のち、4 月 16 日を「ボーイズビーアンビシャスデー」
、
「大
志を抱く日」などとされる。]
1877. 4.−【アメリカ】バーリナー(ベルリナー)Emile Berliner(26)が、カーボンマイクロ
ホンの特許を申請する。
1877. 4.30【フランス】シャルル・クロ(クロス)Charles Cros (35)が、1857 年にレオン・ス
コットが考案した「フォノートグラフ( Phonautograph )」の原理を用いて、写真食刻法に
より金属製円盤上の溝に音を記録し、この溝から音を再生する装置を発案する。この発
想を「パレオフォン( paleophne ) 」と名付け、これをフランス科学アカデミーに提出する。
[以後、現実のものとして世上に登場することはない。]
1877. 5 . 3【日本】東京の工部学校で 、日本初の軽気球が揚げられる。
「空飛ぶ巨大な球」
に見物人はびっくりする。
1877. 5. 4【日本】文部省所管の東京書籍館を東京府に移管、東京府書籍館と改称する。
[5.5 開館する。1878 年末 、蔵書数 10 万 1262 冊 。閲覧者は男 2 万 7519 人、女 75 人。1879
年末、11 万 1869 冊。男 4 万 8032 人、女 93 人。女の閲覧者が極端に少ない。1880.7.1 文
部省の所管に復し、東京図書館と改称する。
]
1877. 5.24【日本】大分県が、小倉から中津経由で大分を結ぶ電信線の開設を願い出て、
西南戦争に連係するとの理由で認可される。[ 6.13 測量と架設を同時に進めるという突
貫工事を開始。7.28 竣工する。]
1877. 5.−【日本】製紙会社(のち、王子製紙㈱)が、操業時間 18 時間を 24 時間とする。
1877. 5.−【アメリカ】ボストンで泥棒よけの「防犯警報器」を売っていた E.T.ホームズ
が、ナンバー「6」と「7」の電話機をひく。ナンバー 1 から 5 までの 5 台は電話局内に
積み上げられたままだが、初めて電話機に番号が付けられていた。ホームズは、警報器
と電話回線が導線でつなぐことが可能なことが分かり、両者を接続することを思いつき、
世界最初の商業回線を会社と社長宅間に持つウィリアム会社に持ちかける。同社は半ば
冗談扱いにしたので、別の事業家に話したところ、このアイデアに乗り、ホームズに 12
個の電話機を貸与する。市内の 6 つの銀行に赴き、許可なしにその電話機を取り付ける。
うち、1 行は〈おもちゃだ〉といって取り外すが、5 行はとくに抗議の意思を示さず、ホ
ームズの所有する小さなビルの屋上に交換設備をつくり、各店舗の電話機を結ぶ。昼間
は通常の電話として 、夜間は「防犯アラーム」として使用される。ここに世界最初の「交
- 484 -
換システム」と電話回線による「セキュリティーサービス」が誕生する。ホームズは、
宣伝用見本として、銀行からは料金を取らない。[1911 年、H.N.カッソンが『電話の歴
史』のなかで 、
〈電話機自体は地下室で生まれたが、交換機は屋根裏で誕生した〉と書
く。
]
1877. 5.31【カナダ】最初のベルの商業電話局が、ハミルトンにつくられる。
[以後、年
内に加入者 4 人となる。]
1877. 6. 1 【日本】日本が一般郵便連合(のち、万国郵便連合(UPU ))に加盟する。郵便に
関して初めて他国と同格の地位を獲得する。[ 6.19 条約・同実施細目規則を公布。6.20
施行。書状 15g までアメリカ 5 銭、香港 8 銭、郵便連合諸国が 10 銭または 12 銭。葉書
は、アメリカ・香港 3 銭、郵便連合諸国 5 銭または 6 銭。アメリカの場合、1975 年は 15
銭であったから、大幅に安くなる。1976.2.4 日本の UPU 加盟日は明治 10 年 6 月 1 日と、
改めて決定する。(『郵便創業 120 年史』年表による)]
1877. 6.30【日本】東京で、初の交通規則が制定され、泥酔者の馬車運転が禁止される。
1877. 7 . 9【アメリカ】
ベル Alexander Graham Bell( 30 )が、岳父ガーディナー・ハバード(55 )
らと共に、ボストンでマサチューセッツ州認可法人としてベル電話会社を設立する。
[7.30 業務を開始する。]
1877. 7.18【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison( 30)が、音の記録の理論をノートに
記す。[以後、モールス符号の実験中に偶然発見した音と、ベルが発明した電話機を関連
づけて、電話の音声を直接録音・再生できる装置の原理を発見し 、「フォノグラフ
(phonograph)」と名付けて発表する。自分の不在時にでも電信のデータを記録したいと
試みた際、そのデータを早送りで聞くと音楽に聞こえたことからこの発明につながる。
11.6 世界最初の音響情報の記憶再生装置蓄音機、すなわちレコードと蓄音機の設計に成
功する。]
1877. 7.28【日本】工部省が、大分県による小倉∼中津∼大分間の電信線開設願いを〈西
南の役鎮圧に必要〉との理由で認可し、測量と架設を同時に進める突貫工事により、直
轄線として完成させる。
1877. 7.30【アメリカ】ベル電話会社が、電話業務を開始する。まず、新聞社にニュース
原稿を送ることから始める。[以後、コネチカト州ニューヘブンで営業を開始する。作家
マーク・トウェーン Mark Twain( 1835 ∼ 1910)は、自伝で個人の家に電話を引いた世界最
初の個人は自分であると書く。1880 年、ボストン∼プロビデンス間。1885 年、ボストン
∼ニューヨーク間。1892 年、ニューヨーク∼シカゴ間に電話を開通させる。1899.12.30
持株会社 ATT に改組される。]
1877. 7.−【日本】講談師神田伯圓が、西南戦争の〈実地目撃或ハ聴取に係る細報〉とう
たった『郵便報知新聞』連載の犬養毅の「戦地直報」を、初めて高座にかける。[ 9 月、
伯圓が戦地探訪からこのほど帰京したという触れ込みで「実見談」を口演する。実際は
出掛けていた先は九州ではなく、療養していた箱根の温泉で、郵便報知新聞社長小西義
敬から、紙上に掲載を許可されない通信まで提供してもらい、これに潤色したものだっ
た。客席は、新聞報道より面白い、と連日大入りとなる。同じ頃、講談師松林伯知は、
広島や佐世保へ赴き、軍人から取材したという看板を掲げて、新京極の寄席で好評を博
す。寄席の客席には、娯楽性より「事実」を求める聴衆がいて、浅草の寄席に出演した
- 485 -
講談師は、新聞記事の講釈である旨をビラに大書して大当たりをとる。9.21 『大阪日報』
が、高座で戦局は賊軍有利と語ったところ、客席の学生が、新聞報道と違うじゃないか
と詰問した、という記事を掲載する。]
1877. 7.31【アメリカ】エジソンが、蓄音機の特許を取得する。[のち、7 月 31 日を「蓄
音機の日」とされる。]
1877.8.10【日本】熊本∼八代∼鹿児島間の電信線が完成する。
1877.8.12【アメリカ】エジソンが、錫箔蓄音機の実験に成功する。
1877. 8.21 【日本】第 1 回内国勧業博覧会が、東京の上野公園で開かれ開場式が挙行され
る。駅逓局長前島密が博覧会審査官長に任命される。1873 年のウィーン万国博覧会を模
したいわば新政府の広報的催しで、日本最初の見本市となる。会場の中央に本館と美術
館、その前には不忍池から水を引いた噴水が設けられる。瓦斯館には、ガスの炎により
十六弁の菊花をかたどった径一尺のイルミネーション「花ガス」が出品され、人目を引
く。[∼ 11.30 。この間、出品人員 1 万 6174 人、縦覧人員 45 万 4168 人を記録する。1878.1
東京府が、博覧会展示品残品処分のため、辰ノ口勧工場を開設する。以後、1881 年、 1890
年、 1895 年、 1903 年に京都、大阪などで 5 回開催される。
「花ガス」は、各種の博覧会、
憲法発布記念行事、天長節慶祝、戦勝祝賀行事、会社・商店等の宣伝など広範囲に使用
され、大正の初めまで行事を飾る主役となる。1907.1 夏目漱石が『ホトトギス』掲載の
「野分」に〈西洋軒の二階に綺麗な花瓦斯がついて居た〉と書く 。
]
1877.8.24【日本】城山が陥落。西南戦争が終結する。
1877. 8 .−【日本】コレラが各地に蔓延する。約 8000 人が死亡する。
1877.10. 1【日本】東京∼熊谷間に電信が開通する。
1877.10.10 【フランス】シャルル・クロが、円盤上の溝に音を録音し、この溝から逆に音
を再生する装置を発案、この装置を「パレオフォン(Pal ■ ophone )」と名づけてフラン
ス科学アカデミーに提出したが、現実の物として日の目をみるには至らず、神父ルノワ
ールにより「フォノグラフ( phonograph )」の名で『聖職週報』に掲載される。記録され
た波形から音を再生するものとして、蓄音機の元祖の一種とされる。
1877.10.15 【日本】岡山∼丸亀∼高松間に電信が開通する。
1877.10.20 【日本】小倉∼大分間、熊本∼八代∼加治木間に電信が開通する。[年末、九
州循環線が、公私の通信を開始する。]
1877.11. 6【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison( 30)が、音響情報の記憶再生装置の
設計に寝食を忘れて試行錯誤の実験を繰り返した末、円筒式錫箔録音再生装置、すなわ
ち世界最初のレコードと蓄音機の設計に成功する。溝を刻んだ金属の円筒に薄い Sn 箔
(すずはく)を巻いたもので、音溝の垂直方向の変化という形で音を記録し、その円筒の
音溝を針でトレースして、その動きを振動板に伝えて音を再生する。
[12.6 ニュージャ
ージー州メンローパーク村にあるエジソン研究所で、Talking Machine(話す機械)によっ
て、レコード史上初めて音声が再生される。12.15 特許申請する。]
1877.11. 上【日本】講談師神田伯圓が、木挽町の寄席福田亭や築地の待合を会場に、通俗
演説会を開催する。木戸銭は 5 銭。政談演説会の入りが悪いと泣きついてきた海軍兵学
校教授堀龍太をまきこんで開いたもので、学問や政治に無縁な寄席の聴衆は、ここで始
めて演説というものに出会う。散切り頭に髭、洋服に靴という出で立ちの堀は、演台を
- 486 -
前にして開口一番 、〈聞き度ない者は勝手に帰れ〉と、聴衆の肝をつぶしてから、おも
むろに日本やヨーロッパの軍談を語る。聴衆は、本式の演説に引き付けられ、講談界に
打撃を与える。
〔挿絵:『魯文珍報』第 4 号、1878.1.3〕[以後、講談師の中には、客を集
めるためにはと、客席に「演説」の看板を掲げる者も現れる。堀は、演説家の元祖を名
乗り、陸海軍の将校らを引き入れて演説討論会を続ける。]
1877.11.12 【日本】日本初の夕刊紙、高畠藍泉主宰『東京毎夕新聞』創刊。[1878 年、半
年間で経営者が代わり、廃刊して、朝刊『真砂新聞』が発刊される。のち『東京真砂新
聞』と改題。]
1877.11.13 【日本】工部省が、横浜の外国商館バヴィエー(バビエール)商会 Bavier & Co.
(在日ベル電話会社製造所支店)を通じて、初めてアメリカからベル電話機 2 台を輸入す
る。ベル社にとっても輸出第 1 号となる。[12.18 天皇皇后両陛下を迎えて仮皇居(赤坂
御所)と工部省電信局との間で天覧試験通話が行われる。12.21 工部省と宮内省にそれぞ
れ設置して実験を行う。以後、電話は電信と同様官営となり、5 年間は電話事業は軌道
に乗らない。1890.12.16 東京∼横浜間で初めて電話交換事業が始まる。]
1877.11.20 【日本】駅逓局が、万国郵便連合( UPU)条約に基づき最初の外信用の官製葉書
の 3 銭、 5 銭、 6 銭の 3 種を発行する。「連合はがき」と呼ばれ、UPU 加盟国にのみ使用
される。[のち、郵趣家の間で「三五六はがき」と呼ばれる。1882 年、UPU 理事会が、
各国の外国郵便・基本料額の切手の刷色を統一し、はがきは赤にするよう決議し、加盟
各国に通達する。以後、1953 年に UPU 規定色が廃止されるまでの 70 年の間に、日本で
は 20 種の UPU 色連合はがきが発行される。]
1877.11.27 【日本】六郷川(多摩川下流)の鉄道木橋を鉄橋に改築、日本最初の本格的鉄橋
が開通する。1871 年に新橋∼横浜間の鉄道敷設時に木橋の六郷橋が完成したが、汽車の
重量に耐えられず、イギリスの鉄道技師の設計により、2 年 6 ヵ月を費やして 476m の第 2
代六郷橋が初の鉄橋として完成する 。[ 1973 年、第 4 代鉄橋が完成する。最初の鉄橋は 、
明治村に移設し保存される。]
1877.11. −【日本】
『魯文珍報』が、東京で創刊される。
1877.11. −【日本】
『土陽新聞』が、高知で創刊される。
1877.12. 5【フランス】クロが、パリ科学アカデミーで蓄音機論文を披露する。
1877.12. 6【アメリカ】ニュージャージー州メンローパーク村にあるエジソン研究所で、
スタッフの一人、機械職人のジョン・クルーシーが、エジソンの作成した手書きの設計図
をもとに円筒式錫箔蓄音機「Talking Machine (話す機械)」を作り、公開実験を行う。レ
コード史上初めて音声が再生される。(?)人類最初の録音は、エジソン自身の声による
〈Mary had a Little Lamb ―メリーさんの羊、羊、メリーさんの子羊はまっ白だ…〉とい
うもので、微かな音が録音・再生される。これまで生でしか聞けなかった音楽や講演を、
時間と空間を越えて聞けるようになる。エジソンは、これを「フォノグラフ(phonograph) 」
と命名する。[12.22 『サイエンティック・アメリカン』12 月 22 日号で紹介される。エ
ジソンは『ノース・アメリカン・レビュー』で、フォノグラフの将来の用途を、①口述
筆記の道具。②書物の代替、③教育用、④音楽再生にある、と発表する。1878 年、錫箔
を蝋(ろう)管に替える 。のちに 、エジソンは蓄音機を最も愛する発明と述べる 。のち 、12
月 6 日を「音の日」とされる。12.15 特許申請する。]
- 487 -
1877.12.15 【日本】延岡∼宮崎∼鹿児島間、高松∼徳島間に電話が開通する。
1877.12.15 【アメリカ】エジソンが、世界最初の円筒式錫箔録音・再生機「フォノグラフ
(phonograph)」の特許を出願する。[ 1878.2.19 特許が成立する。]
1877.12.21 【日本】工部省が、アメリカから輸入したベル電話機を、赤坂溜池葵町の工部
省と約 2km 離れた赤坂御所内の宮内省にそれぞれ設置し、各界要人を招いて電話の公開
通話実験を行う。このとき、電信局長芳川顕正が「伝話電信機」に向かって新聞記事を
読み上げ 、〈宮内省之に答ふること恰も膝を交へて語るが如し〉と報じられる。日本で
の電話使用が始まる 。
(石井研堂『明治事物起源』春陽堂、1926)[この月、工部省が、
同省所管の電信局製機所の技術者吉崎牙太郎(きばたろう)(1848 ∼ 1906)、三吉正一(ま
さかず)(1854 ∼ 1906)の 2 人に輸入したベル電話機を模造するよう命ずる。以後、電話
の実用化には多数の電話機を準備する必要があり、経費もかさむので、当分電話事業は
手をつけられない。1878 年、警察用電話として実用化される。]
1877.12.24 【日本】明治天皇(25)が、工部省から青山御所に移設された電話機で、英照皇
太后( 44)との通話を楽しむ。
1877.12. −【日本】鍛冶屋で理学機器の製造修理を営む島津源蔵(初代)が、京都府の注文
により、日本初の人を乗せる気球を作り、京都御所で浮上させる。
1877.○【日本】この頃、盛り蕎麦が 8 厘。
1877.○【日本】文部大輔田中不二麻呂(32)が、「公立図書館ノ設立ヲ要ス」を『文部省
年報』第 4 年報に発表する。この頃、県レベルの最初の図書館がつくられ始める。
1877. ○【日本】生物学者・人類学者モースが日光へ旅行した際、二輪車を曳いて疾走す
る郵便屋に出会う。日記に〈我々は東京行きの郵便屋に行きあった。裸の男が、竿の先
に日本の旗を立てた、黒塗の二輪車を引っ張って、全速力で走る。このような男はちょ
いちょい交代し、馬よりも早い。
〉(図あり)『
( 日本その日その日』1 )
1877. ○【日本】この頃、商品としての鉛筆がドイツから輸入され、
「木筆」(元来は先端
を焼いて書けるようにした木の棒)と称されて、唐物屋の店頭に陳列される。[明治 40 年
代、三越呉服店が積極的に輸入、宣伝し、新しもの好きの人々に喜ばれる。1881 年、手
細工で仕上げた国産初の鉛筆が登場する。]
1877.○【日本】アメリカのキーランが 1837 ∼ 38 年ころに「エバーシャープ(常にとが
っている)」の商標で発売した筆記具シャープペンシルが日本に渡来する。[以後、東京
・浅草の飾り職人が手作りで模造製作する。当初は「繰出鉛筆」と呼ばれる。]
1877.○【日本】この年の新聞発行総部数は、
『讀賣新聞』618 万 9674 部、
『東京日日新聞 』342
万 2792 部、
『仮名読売新聞』277 万 1250 部、
『郵便報知新聞』207 万 6509 部 、
『朝野新聞 』205
万 8764 部、
『東京曙新聞』193 万 3257 部 、
『東京絵入新聞』187 万 2000 部、
『東京魁新聞』57
万 4679 部、『中外物価新報』3 万 6368 部。(「東京府統計表」1877 年)
1877.○【シンガポール】日本人の手による娼家が 2 軒営業されている。
1877.○【ドイツ】E.W.ジーメンスが、スピーカの原理を考案する。
1877.○【ドイツ】カッセルで、蒸気路面列車が開業する。
[1898 年、路面電車が開業す
る。
]
1877.○【ドイツ】ベンツ Carl Friedrich Benz( 33 )が、かねてからの念願であった「馬のい
らない馬車」
、すなわち自動車の設計にとりかかる。[1880 年、定置型の 1 馬力 2 サイク
- 488 -
ル・ガス機関を製作する。]
1877.○【スイス】内科医 A.E.フリックが、初めてガラス製の実用的なコンタクトレンズ
を作る。眼球全体を覆うようなデザインで、使用者はかなり苦痛を覚える 。(チャール
ス・パンティ『日常的な事の驚くべき起源』ハーパー&ロウ)[1936 年以降にプラスチッ
ク製のものが出現する。]
1877.○【フランス】ゾラ■ mile Zola( 37)が、
「フランスの新聞・雑誌」で、次のように
書く。〈鉄道と電線が距離を消滅させるにつれて、読者はますます要求が高くなる。他
方で、生活は熱に浮かされたように激しくなり、飽くことを知らない好奇心が抗いがた
く読者大衆の心をとらえる 。〉この頃、新聞・雑誌がキオスク書店の主力商品となって
いる。[この年、ゾラは、洗濯女ジェルベーズの不幸な生涯を綴る『居酒屋』を著す。
以後、1 年で 3 万 8000 部を売る。
]
1877. ○【フランス】アラビアの性指南書『匂える園(ジャルダン・パルフュメ)』が、石
版印刷によりパリで複写される。モーパッサン( 27 )らが絶賛する。[以後、バートンが編
纂・注釈して、世界に知られるようになる。]
1877. ○【イギリス】ハーコートが、ペンタン灯を考案する。これを一定の条件のもとで
燃焼させた場合の、水平方向の光度の 10 分の一を一燭とする。
[1908 年、イギリス、ア
メリカ、フランスの 3 国が 、
「国際燭光」を正式に制定する。1948 年、光度の単位はカ
ンデラ cd に統一される。1 燭は 1.0067cd、国際燭光は 1.02cd に相当する。]
1877.○【イギリス】図書館専門職の組織として、図書館協会 the Library Association が創
設される。
1877.○【イギリス】インデックス協会(Index Society)が設立される。新聞索引の作成に
着手する。
1877.○【イギリス】スワン Joseph Wilson Swan ( 49)が、写真用臭化銀ゼラチン乾板を改
良して市販する。[1879 年、さらにこれを応用して、ブロマイド印画紙の特許を得る。]
1877.○【イギリス】ソーヤー W.E.Sawyer が、のちのテレビ方式の原理につながる提案
を行う。これはカメラ側で画面を構成する光電素子の 1 個 1 個に対応する画素から得ら
れる信号を同時に送出するのでなく,それぞれの画素から得られる信号を順序よく早い
スピードで切り替え、1 本の伝送線で受信機まで送り,そこでカメラ側と同じ手順で再
び画像に組み立てる方式である。
[のち、直列テレビ方式と呼ばれる。
]
1877. ○【イギリス】ロンドンの出版者チャールズ・ブラッドローとアニー・ペザント、チ
ャールズ・ノートン著『哲学の果実』( 1832 年刊)を再版し、ロンドン・オールド・ベイリ
ー(中央刑事裁判所)に起訴される。[以後、控訴の結果、無罪の判決を勝ち取る。]
1877.○【イギリス】ベル AlexanderGrahamBell( 30)が、電話の公開実験を行う。[以後、
イギリスに民間電話会社が設立されるが、裁判所で、電話も国営電信事業に含まれると
いう判決が出され、電話業務の開始が遅れる。]
1877. ○【アメリカ】ベル、ワトソンらが、電話機の開発テストに成功し、これを宣伝す
るため「電信よりすぐれた特徴」と題する小さなチラシを配布する。特徴として 、
〈①
熟練したオペレーターが不要。直接の交信が第三者を介せず「会話」によって可能だ。
②コミュニケーションは非常に早い。モールス信号では 1 分間平均 15 ∼ 20 文字を伝え
るにすぎないが、電話は一言(ひとこと)から 200 語までできる。③運用においても修理
- 489 -
においても経験は不要。バッテリーも機材も要らない。経済的な上に簡単である 。
〉と
書く。さらに、公開実験やコンベンション会場でデモを行ったり、新聞社にパブリシテ
ィ記事の掲載を依頼する 。
『ボストン・アドバタイザー』紙は 、
〈電信線で語り言葉を運
んだ〉と伝える。
1877. ○【アメリカ】ベル電話会社の電話が実用性ある通信手段として有望なことが知ら
れ、各地に電話会社が作られる。最初はベルの電話機買い上げを拒否したウェスタン・ユ
ニオン社( WU)も、エジソンやオブライエン大学物理学教授イライシャ・グレイ(エリシ
ャ・グレー)Elisha Gray (42)が発明して特許を持つ方式の炭素送話器を使用して電話事業
を始める。性能は、ベル電話機よりエジソン送話器の方が優れている。[以後、ベル電話
会社は、そのアイデアを 1 年間他者が真似ることができないと主張するのに対して、WU
は方式が異なれば別個の発明であると主張し、両社の間で特許問題の係争が生じ、長期
の裁判となる。]
1877. ○【アメリカ】電話の際の最初の呼びかけの言葉について、ベルは船乗りが挨拶に
使う「Ahoy(アホイ)」を提案する。これに対してエジソンは、狩猟犬に獲物をけしかけ
る時に使われる〈Hallo (ハロー)〉をもじって〈Hello(ヘロー)〉とするのがよいのではな
いかと電話会社に提案の手紙( 8 月 15 日付けか???)を書く。結局、「アホイ」は語感
がよくないとされ、エジソンの提案が用いられる。[以後、
「ハロー hallo」はアメリカは
もとより世界で広く使用されるようになる。]
1877.○【アメリカ】C.カトリースと J.レデングが、スピーカの原理を考案する。[1921
年にアメリカのマグナボックス社がホーンスピーカを製品化する。]
1877.○【アメリカ】エジソン( 30 )が、電球の研究に着手する。高い抵抗値をもつフィラ
メントの材料に苦心し、炭素、紙、木綿糸、亜麻(あま)糸などを使って試みるが、いず
れもせいぜい 10 分ぐらいで切れてしまう。[1879 年 10 月 19 日から 10 月 21 日にかけて
40 時間余り光る電球に成功する。]
1877. 【流行語】オヤマカチャンリン。竹槍でちょいと突出す二分五厘。
1878(明治11)
1878.1.14【イギリス】イギリス最初の個人電話が、女王ビクトリアによってウェイ島(Isle
of Wight)の宮殿からかけられる。電話の発明者ベル Alexander Graham Bell( 31)が電話機
の実演を行う。
1878. 1.20【日本】東京府が、勧工場を麹町辰ノ口旧評定所跡に開設する。場内の物品陳
列所で、昨年の第 1 回内国勧業博覧会の出品物残品を展示販売する。
[以後、下谷区(現 ,
台東区)竹町に第二勧工場も設置され、後に民営に移される。1882 年、神田区(現,千代
田区)表神保町に南明館が開設。このごろから、全国の主な都市で、大小の勧工場が開設
される。1888 年、芝公園内に東京勧工場も開設される。民間でも設立され、日用雑貨、
衣類などの良質商品が一つの施設の中で正札販売,現金取引の方法で売られ、市民生活
の要求にこたえ、評判を呼ぶ。1900 年代、各地にデパートなどの発展に伴い、勧工場は
営業不振に陥り、衰退の方向をたどり始める。東京では関東大震災を契機に姿を消す。
大阪などでも,新世界に勧商場の名で登場するが、大正末期に廃止される。
]
1878. 1.24【アメリカ】エジソンが、エジソン・スピーキング・フォノグラフ会社を設立
- 490 -
する。
1878. 1.28 【アメリカ】コネチカット州のニューヘブン地区電話会社 The New Heaven
District Telephone Co.の電話局局長 G.W.コイ( 42)が、助手フロストとともに世界最初の
商業的電話交換機を開発し 、
〈誰でも電話が可能になりました〉と 1000 枚のチラシを市
内に配り、チャペル街 219 番地に小さな電話交換局を開局する。この日加入者は 21 人。
加入費は年 10 ドル。交換台は、A.ベルが板に導線を縛りつけただけのもので、地元エー
ル大学の 16 人の教授宅の電話機を設置して電話局と結ぶ。
[この年、コネチカット州ブ
リッジポート、ニューヨーク、オルバニー、セントルイス、シカゴ、フィラデルフィア
などでも電話の交換業務が始められる。2.21 ニューヘブン電話局の加入者が 50 人にな
り、初の電話帳『ニューヘブン地区電話会社、加入者表 LIST OF SUBSCRIBERS』が発
行される。番号はなく、個人名や会社名が羅列されただけのリストだが、世界最初の電
話帳となる。50 件の加入者は、住宅、内科医、歯科医、商店・工場、精肉魚類市場、貸
馬車・厩舎、ほか 2 など 8 分野に分類される。以後、アメリカでは、電話帳は大学図書
館や公文書資料館(アーカーブス)などで資料として永く保存される。戸籍制度のないア
メリカでは、市民にとって電話帳は貴重なルーツ探しの基礎データともなる。
]
1878. 1.31【アメリカ】コネチカト州メリデンでも、電話交換サービスが始まる。[2.28
ニューヘブン電話局に続く電話帳第 2 号となる「メリデン地区電話会社 加入者表」が発
行される。加入者数は 48 件で、分類はされていない。この頃、電話交換には電信技手を
めざす少年たちが従事し、番号ではなく名前でコールする。“電信小僧”たちは利用者
が正確に発音しなかったり、聞き違えたりすると、〈どこへつなぐんだ〉などと怒鳴り
散らして大騒ぎになる。1878 年、シカゴの電話局を訪ねた記者は、この情景を〈まるで
狐とガチョウの乱闘騒ぎの中にいるようだ〉と書く。1880 年代にはいり、電話交換は中
流家庭の若い女性の職場として定着してゆく。電話交換の少女たちの優しい受け答えは
「交換台スタイルの話法」と言われ、新しい風俗にもなる。1890 年代、電話交換手は女
性職として世間に認知され始める 。
]
1878. 2.18【日本】
『東京日日新聞』が、大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)の
読者について 、
〈日々新聞ノ如キ紙幅大ニシテ,且ツ勿論其議論高尚ナルヲ以テ,中等
以上ノ人民之レヲ読ミ,又夫ノ仮名付小新聞ノ如キハ,平均セバ下等社会ノ読ム所ナル
ベケレ〉と書く。この新聞の二大類型は 1874 年ごろから明確になったもので、大新聞は
紙型がのちの新聞のブランケット判に近いのに対し,小新聞はその半分のタブロイド判
であるため,フランスの「グラン・ジュルナル」にならってこう呼ばれるようになる。大
新聞が政治、経済をおもに取り扱い、漢文口調の論説中心であるのに対し,小新聞には
政治は扱わず、論説もなく,社会面や文芸、芸能関係が目だち、また大新聞にはない傍
訓,挿画がふんだんに使われる。さらに大新聞の記者が旧幕臣を中心とした士族出身で
あるのに対し,小新聞の記者は戯作者を中心とした庶民出身が中心となっている。
1878. 2.19【アメリカ】エジソンの「フォノグラフ( phonograph)」の特許(アメリカ特許
200521 号)が成立する。
1878. 2.20【日本】外務省が、海外行免状を海外旅券と改称し、同時に海外旅券規則を制
定する。この中で日本の法令上初めて「旅券」という言葉が使われる。[1998 年、外務
省が、120 周年のこの日を記念して「旅券の日」を制定する。パスポートの需要性と知
- 491 -
識の普及が目的。
]
1878. 3.25【日本】工部省が、全国主要都市の電信網を整備し、電信開業式を挙行する。
全国の電信の統括をする電信中央局を、東京府下第一大区一〇小区の木挽町(のち、中央
区銀座)に開設し、全国電信業務を開始する。また、万国電信公法により自主的に海外電
報の正式取扱を開始するが、大北電信会社からの自立は、なおも部分的なものにとどま
る。電信中央局開設の祝賀晩餐会が、虎ノ門の工部大学校(のち、東京大学工学部)の講
堂で開かれる。午後 6 時、イギリス人物理学・電気工学教授エアトン William Edward
Ayrton( 31 )の合図とともに、天井に備えられたアーク灯が日本で初めて公の場で約 3 分
間点灯され、来客たちは目もくらむような青白い光が講堂内を照らし出したのに驚愕し
て〈不夜城に遊ぶ思い〉と感嘆の声をあげる。この時点灯されたのは、フランス製デュ
ボクス式アーク灯で、電源はグローブ電池 50 個、起電力 1.8 ∼ 1.9V で、エアトンの指
導のもと、工部大学校電信科の藤岡市助(21)、中野初子(はつね)、浅野応輔の学生たち
が初点灯に成功する。福澤諭吉は、開業式の席上、祝辞で〈近年諸般の発明甚だ多しと
雖も、その発明中の最も大なる者、電信の右に出づる者なし〉と披露する。お雇い外国
人でドイツの内科医ベルツ Erwin von B 〓 lz(29)は〈終始、器械に雑音が多く、ほとん
ど何もわからなかった〉とこの日の日記に書く。1882.11.1
[
銀座の大倉組前に 2000 燭)(し
ょく)のフランスのブラッシ式炭素アーク灯が点灯される。初めて一般の人々の前に電灯
が出現する。1927 年、(社)日本電気協会総会で、初めて公共の場で点灯した 3 月 25 日
を記念して、
「電気記念日(電気の日)」を制定する。 1928.3.25 初の電気記念日を実施。]
1878. 3 . −【日本】印刷局抄紙部が、初めて稲藁を原料としてパルプを試製する。
1878. 4 . 4 【日本】田中久重( 79)が、
「伝話機 」を製作し 、この日の『東京曙新聞 』が 〈南
金六町(のち、東銀座一丁目)の諸機械製造人田中久重は、言語を通ずる電信器械製造方
に工夫をこらし、今度新たに造り試みしに、用をなすこと舶来品にさして替ることなき
よし。工業の進歩実に驚くべきことならずや 。〉と報じる。これが実質的な電話機の国
産第 1 号となる。
1878. 5 . 1【日本】大阪府教育博物館が開館する。
1878. 5. 2【フランス】第 2 回万国郵便大会議がパリで開かれる。参加 38 ヵ国。日本代
表鮫島尚信がアメリカ人ブライアンを伴い、初参加する。条約の改正がおこなわれ、名
称も「万国郵便連合( UPU:正式にはフランス語で Union Postale Universelle)」にあらた
められる。[6.1 最終日、万国郵便連合条約調印。]
1878.5.15【日本】渋沢栄一らが出願した東京株式取引所の設立が許可される。
[6.1 開業。]
1878.5.17【日本】内務省∼警視本庁間に電信線が架設される。
1878. 5.24 【日本】古河(古川)太四郎(ふるかわたしろう)(33 )が、日本最初の盲聾教育施
設を中京区御池東洞院に創始する。通称「京都盲何院」と呼ばれる。古河が 1874 年ころ
から市中の待賢小学校で試みた盲聾教育を発展させ、市中の開設運動が知事槙村正直を
動かし、創設時から府立となる。48 人が入学し、雨中の開業式には 3000 の市民が集ま
る。この頃、手話は「手勢法」と呼ばれる。
[1879 年、府庁前に移転。1880 年、職業教
育を開始。通学人力車,寄宿舎も用意される。1885 年、生徒数 147 名に発展するが、以
後、松方デフレで財政困難となる。1889 年、古河は辞任,京都市に移管される。のち 2
代院長鳥居嘉三郎を中心とする教職員と市民の熱意で復興し,東京盲何学校( 1880 年創
- 492 -
立の訓盲何院が 1887 年改称)と協力して各地に普及しはじめた盲聾教育を先導する。の
ち京都府立盲学校,聾学校として引き継がれる。1900 年、古河は大阪盲何院長に招かれ
る。1907 年、現職で逝去。
]
1878.5.27【日本】金銀複本位制に移行する。
1878. 6 . 1【日本】東京株式取引所が開業する。
1878. 6. 1【アメリカ】アメリカ・スピーキング電話会社(サンフランシスコ)が、市内と
ブッチャタウンで電話交換局の業務を開始し、
「テレホンブック(Telephone Book)」の名
で電話帳を作成する。
1878. 6 . 7【日本 】東京・築地新富町に、12 代目守田勘弥経営の新富座の本建築が完成し、
盛大な開場式を行う。初めて舞台の内外にガス灯による照明など近代的な設備を導入す
る。入口正面には「新富座」の文字を表す花ガスを点じ、舞台照明など内外に 270 個の
ガス灯を点灯し、従来の昼間のみの芝居見物が、夜間でも観られるようになる 。
[以後、
観客の生活時間の変化、意識の変質がもたらされる。]
1878. 6.−【日本】工部省が電話機の製造を試み、2 個の電話機を作り上げる。性能は良
くなく、受話器を耳に当てた工部書記官石井忠亮は、傍らの人に〈幽霊の音声を聞くよ
うだ〉と語る。[1890.10.23 『時事新報』が〈工部省電信局に於いて始めて電話機を製造
したるは、明治一一年六月、米人ベル氏の工風に成れるマグネットテレホンを以て濫觴
とす〉との記事を出す。〔一般にこれが電話機の国産第 1 号とされるが、これより先に民
間人の田中久重が「伝話機」を製作している。
〕(石井寛治、1994)]
1878. 6 . −【日本 】工部省の「電機製造方 」の最後のお雇い外国人が解雇される。[以後、
日本人だけで電信機・電話機の製造を行う。]
1878. 8.−【アメリカ】ベルが電話の特許を取得して 16 ヵ月目、全国(東海岸の一部の州
の都市のみ)での電話機が 778 個に達する。
1878. 8.−【アメリカ】デイトン・ベル電話が、オハイオ州デイトンで、三番街のキーフ
バー食堂兼果物屋の軒先を借りて開局する。キーフバー食堂など 10 軒の加入者が印刷さ
れた 1 枚の電話帳が配布される。
1878. 9. 3 【日本】本郷の東京帝国大学理学部に観象台が設置される。
[1888.6.1 海軍水路
部観象台の天文部門と合併し、麻布飯倉に東京天文台が設置される。]
1878.9.13【日本】大阪府庁∼江戸堀警察本署間に警察電話が開設される。
1878. 9.−【日本】工部省が「製機所」を新設し、田中久重の工場と技術者を吸収し、電
信機・電話機の製造を本格化する。[ 1883.6 までに、合計 41 個のベル電話機を製造し、
ある程度実用化されるが、音声が微弱な欠陥がある。1885 末までにエジソンの炭素電話
機を 252 個製造する。1881.1 この製機所から、沖牙太郎が独立して明工舎(のち、沖電
気)を設立する。1982. 田中大吉(養子 2 世二代久重)が独立して田中製造所(のち、
芝浦製作所、のち、㈱東芝)を設立する。
1878. 9.−【アメリカ】電話の交換機システムが実用化され、ボストンのニューイングラ
ンド・ベル社で、最初の女交換手エマ・ M・ナットが採用される。[以後、女性交換手制度
が世界中に普及する。]
1878.10. 9【日本】團團社が、『團團珍聞』に連載されていた戯作部分を独立させて姉妹
誌『驥尾団子(きびだんご)』を隔週刊誌として創刊する。売価は 5 銭。本誌と同様に狂
- 493 -
歌、川柳、都々逸などの投稿欄も設ける 。
『團團珍聞』が政府批判で発禁処分を受けた
時には、定期購読者に身代わりとして『驥尾団子』を送付して収入減と読者離れをくい
止める役目を持つ。
[以後、5 号から週刊。
]
1878.10.23 【日本】大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)について、この頃小新聞
とされている『読売新聞』投書欄に次のような記事が掲載される 。〈大新聞の雑報より
小新聞の雑報は行届きたるもの多し。其わけといへば,大新聞の記者は論説を第一とし
て雑報を次とし,小新聞は専ら雑報の正確を要せんと心かくる故なり 。
〉この頃、購読
料は 1 ヵ月前金で,大新聞は 50 ∼ 70 銭,小新聞は 20 銭くらい。また民衆の読み書き能
力は低いため,大新聞の内容を理解することは困難である。
[1880 年ころ、東京では『読
売新聞』、大阪では『朝日新聞』が部数でトップに出る。1885 年ころから、自由民権運
動の衰退とともに,政治色の強い大新聞は読者から敬遠され、大新聞も報道重視,平易
な文章といった小新聞色をとり入れ始める。
]
1878.10. −【アメリカ】エジソンが、白熱電球の研究を開始する。
1878.11.16 【日本】来日して東京帝国大学機械工学教授に就任したイギリス人ユーイング
Sir James Alfred Ewing( 23)が、エジソンのフォノグラフを組み立てて、学内で公開実験
する。
1878.11.21 【日本】政治家後藤象二郎が 、
『東京日日新聞』に四女の死を知らせる広告を
出す。初めて死亡広告に黒枠が施される。
1878.12.15 【日本】新橋∼横浜間の各停車場の分局で、一般電報の取扱いを開始する。
1878.12.23 【日本】木村平八・騰親子が、小新聞(こしんぶん)『朝日新聞』の刊行を発意
し、持主村山龍平の名で朝日新聞発行願を大阪府知事に提出する。[1879.1.25 『朝日新
聞』創刊。]
1878. ○【日本】勧工場が登場する。内国勧業博覧会での売れ残り品を陳列・即売し、家
庭用品ならなんでも揃うとの触れ込みで、新しい買い物スタイルを作り上げる。[以後、
デパートに発展する。]
1878. ○【日本】この頃、洋式のハンカチが流行する。実用品として、またアクセサリー
として必需品となる。
1878.○【日本】和田篤太郎(とくたろう)( 21)が、春陽堂を創業し、絵草紙の小売行商を
する。[ 1882 年ごろ、文芸書の出版を開始する。]
1878. ○【日本】書籍の取次を業とする良明堂が登場する。日本最初の出版取次となる。
これまで書店は直接出版社に本を仕入れに来ていた。[以後、東海堂などができて 4 社体
制となる。](笹岡五郎「変革期の学術とオンライン」『大学出版』2002・冬)
1878. ○【日本】秀英舎(のち、大日本印刷㈱)が、舎則を定めると同時に年期習業生(全
寮制)を募集し、印刷業に必要な学科と実技の伝習を開始する。[1884 年まで続ける。]
1878.○【日本】多摩地域の五日市(のち、あきる野市)に、五日市学芸講談会が発足する。
会則に〈会員ハ各自智識ノ進歩ヲ計ラン為メ本会ニ備ヘ置ク書籍ヲ閲覧〉することがで
きる 、として、中心となった深沢名生(なおまる) 、権八親子の蔵書を会員が盛んに読み 、
議論する。
1878. ○【日本】小新聞(こしんぶん)の『東京絵入新聞』が、事件雑報を小説風に脚色し
て「金之助の話」と題して掲載を始める。新聞小説が定着し始める。[のち、
「ニュース
- 494 -
・ストーリー」などと呼ばれる。]
1878. ○【日本】大阪府庁∼江戸堀警察本署間に電信線が架設される。
1878. ○【日本】この頃、官吏を鰌(どじょう)、鯰(なまず)、芸妓を猫、娼妓を牛馬とい
う呼び名が流行する。
1878. ○【スウェーデン】ラーシュ・マグナス・エリクソンが、ドイツとスイスで電気工
学を学んだ後、スウェーデンに戻り、ストックホルムで電信機修理工場を開き、電話修
理サービスを開始し、自ら安くて質の良い電話機の開発に着手する。[ 1878 年、ベル電
話機を改良した最初のエリクソン通信機、
「シグナル・トランペット付き磁石式通信機」
を開発、年末までに 22 台を販売。価格は 1 台 55 クローネ。]
1878.○【ドイツ】シュタンゲン社が、第 1 回世界旅行を企画・実施する。8 ヵ月のツア
ーで、ベルリンからブレーメンに出て、ニューヨークへ 13 日の船旅、それから 54 日間
でワシントン、ナイアガラを経てコロラド、カリフォルニア、サンフランシスコまでア
メリカを横断する。サンフランシスコでは、シュタンゲン社は用心のため特に探偵を雇
って、一行をチャイナタウンの散策に連れ出す。18 日間で太平洋を渡り、中国、インド
シナ(のち、ベトナムなど)、セイロン(のち、スリランカ)、南インドを経由して、ボン
ベイ、スエズ、カイロを巡る。参加費用は莫大で、参加者は 7 人のみ。
1878. ○【フランス】電信庁が、高等電信学校を設置する。
1878.○【イギリス】世界最初のサイクリングクラブが生まれる。
[1898 年、各国の 17 団
体で国際組織 LIAT が設立される。1918 年、AIT に改称。
]
1878. ○【イギリス】写真家チャールズ・ベネットが、ゼラチンと臭化銀の感光乳剤を塗
付した乾板を製造する。[以後、感光板に発展する。
]
1878.○【イギリス】スワン Joseph Wilson Swan ( 50)が、炭素フィラメントによる白熱電
球作りに再度挑戦する。今度は木綿糸を硫酸処理して炭化し、これをフィラメントとし
た電球を考案し、市販する 。スワンは、この過程でニトロセルロース溶液から糸を引き 、
脱硝して繊維を得るニトロセルロース人絹製造法の原理をみいだす。[以後、シャルドン
ネらによって改良され、レーヨン工業へと発展する。1904 年、スワンがナイトに叙せら
れる。]
1878. ○【イギリス】テムズ川岸通りに電灯の街灯が設置される。ウェストエンドでは、
ゲイエティ劇場支配人ジョン・ホリンシェッドが、他に先駆けて自分の劇場に電灯を使用
する。発電機は隣の新聞社に設置され、蒸気機関で駆動する。電線は地中を経由して街
灯まで延びている。
1878.○【イギリス】ロンドン生まれの電気技術者ヒューズ David Edward Hughes( 47 )が、
炭素棒を 2 つの炭素塊の間に緩く挟んだ接触抵抗型送話器を発明する。エジソンの送話
器をしのぐ性能を持ち、「マイクロホン(microphone)」と名付けられ、炭素マイクロホン
の元祖となる。[以後、ベル電話会社に買い取られ、電話の原型となる。これも特許権争
いの争点となる。結局、ベル電話会社が年収の 2 割をウェスタン・ユニオン社(WU)に 17
年間支払い、WU は電話事業から撤退することで和解する。のちに、ベル電話会社は ATT
となり、WU はその傘下に組み入れられる。]
1878. ○【アメリカ】クロス式速記法が発表される。音の現れる位置で符号を使い分け、
また母音の表象を段によって行うという工夫し、半草書派の先駆けとなる。
- 495 -
1878.○【アメリカ】T.S. クロス社が、スタイログラフィック・ペンを製作する。
1878.○【アメリカ】M.M. バーソロミューが、アメリカ初の速記タイプライタを作る。
1878.○【アメリカ】スクリップス Edward Wyllis Scripps(24)が、自分の最初の新聞社ク
リーブランド・ペニー・プレスを設立する。[1985 年、西部の 4 つの新聞社を合併し、ス
クリップス・マクマレー社を組織する。 1907 年に、同社系列新聞社にニュースを提供す
るために通信社 United Press Association ( UP)を創設する。
1878.○【アメリカ】エジソン( 31 )が、ベルの電話機を改良して、炭素粒による可変抵抗
型送話器を考案し、特許を得る。[のち、送話器の原型となる。]
1878. ○【アメリカ】ブラッシュが、高圧直流発電機を開発し、オハイオ州クリーブラン
ド市の街路照明にアーク灯を使用する。[ 1880 年、ブラッシュが電気会社を設立する。]
1878. ○【アメリカ】エドワード・マイブリッジが、走る馬の動体写真撮影に成功し、そ
れを回る幻灯機に張り付け、動画として見せる。
1878. ○【アメリカ】エジソンが、世界初の蓄音機レコード会社を設立する。(?)
1878. 【流行語】牛馬。鰌(どじょう)。鯰(なまず)。猫。
1878. 【流行歌】『梅が枝節』
1879(明治12)
1879. 1.25【日本】日刊紙『朝日新聞』第 1 号が、木村平八・騰親子の出資と発意により
村山竜平を「持主」として 1 月に大阪・江戸堀南通に創立された朝日新聞社から発行さ
れる。総ふりがな・さし絵入り小型 4 ページ。紙幅は縦 32cm ×横 23cm。1 ページ 3 段
組。1 枚 1 銭。1 ヵ月 18 銭。従業員約 20 人 。紙面は「官令」
、
「雑報 」
、
「寄書」、「相場」、
「広告」、
「社告」からなり、政論本位の既存新聞が「大(おお)新聞」と呼ばれていたの
に対して 、〈勧善懲悪ノ趣旨ヲ以テ専ラ俗人婦女子ヲ教化ニ導ク〉ことを標榜した典型
的な大衆向けの小新聞(こしんぶん)として発刊する 。
「官令」と「雑報」記事向けに振
り仮名付き活字を作って、庶民に分かりやすくする 。[以後、4 号までは約 3000 部印刷 。
有料部数は 1000 程度。1881 年、上野理一が経営参加、村山と上野の共同経営となる。
以後、朝日新聞社の大株主で同社発展に尽くした村山、上野両家の相続人は、定款によ
り「社主」とされる。新聞は、しだいに報道主義的新聞の性格を強め,議会開設期から
日清戦争前後にかけて報道の正確、迅速さで部数を伸ばす。1888 年、星亨経営の『めさ
まし新聞』を買収して東京進出に成功する。1888.7.10 社屋を東京市京橋区元数寄屋町に
構え 、
『東京朝日新聞』を創刊する。発行部数約 6000 。付録 2 頁を含めて 10 頁。1 頁 6
段組で紙幅は縦 50cm ×横 36.5cm。1889 年、大阪の『朝日新聞』は『大阪朝日新聞』と
改題する。1895.10 合名会社(村山合名大阪朝日新聞会社)となる。1904 年、二葉亭四迷
が入社。1907 年、夏目漱石が入社。次々と作品を発表する。1908.10 資本金 60 万円の合
資会社へ改組する。1915 年、
『大阪朝日新聞』が夕刊の発行を開始。1921 年、
『東京朝日
新聞』が夕刊の発行を開始。 1940 年 、
『大阪朝日新聞』と『東京朝日新聞』が題号を統
一し『朝日新聞』とする。1966 年 、
「社主規定」が制定され、社主の地位は栄誉的なも
のとされる。]
1879.1.29【日本】万国電信条約に加入調印する。欧州外制度により外国電信業務を行う 。
[10.13 布告。]
- 496 -
1879. 1.29 【日本】大蔵省翻訳局上等生徒であった田口卯吉( 24)が、経済雑誌社を創設し
て月刊『東京経済雑誌』を創刊する。大蔵省翻訳課発行の『銀行雑誌』と択善会発行の
『理財新報』を廃刊し『東京経済雑誌』に併合する。印刷を秀英舎にゆだねる。[以後、
澁澤栄一、岩崎小二郎の協力を得てなんとか軌道に乗せる。1881.7.2 週刊化する。田口
卯吉(鼎軒)は終生主筆を務め、自由主義経済学の紹介と指導にあたり、政府の経済政策
を批判する。1905 年死去。1923 年廃刊。]
1879. 2. 7 【日本】大蔵省が、明治 8 年の歳入歳出決算報告書を発表する。決算報告の初
め。
1879. 2.16【日本】東京∼八王子間の郵便物の逓送を、脚夫扱いから馬車便に改正する。
1879.2.20【日本】四谷∼八王子間、堺∼和歌山間にそれぞれ電信が開通する。
1879.3.10【日本】両国∼千葉間に電信が開通する。
1879. 3.11【日本】政府が、琉球藩王に廃藩置県を達し、藩王を華族に列し東京居住を命
ずる。[以後、内務大書記官松田道之(40)が、 3 度琉球に出張し、軍隊・警官を率いて武
力的威嚇のもとで談判する。3.3 松田道之が 12 個中隊を率いて首里城を接収する。4.4
琉球藩を廃し、沖縄県とする旨布告する。]
1879.3.14【日本】松山にコレラが発生する。[以後、全国に蔓延する。
]
1879. 3.27【日本】パリで締結された万国郵便連合条約・同実施細目を公布する。これに
伴い、在日イギリス郵便局の閉鎖に関する約定が調印される。[ 4.1 施行。12.30 横浜・
神戸・長崎にあったイギリスの郵便局が姿を消す。]
1879. 3.28【日本】イギリス人ユーイング(エウエング)Sir James Alfred Ewing( 24)が、エ
ジソンのフォノグラフを木挽町の東京商法会議所で公開する。フォノグラフは、錫箔張
り円筒式蓄音機で、エウエングはエジソンの原理をもとに自ら製作したものだという。
このとき、『読売新聞』は「言葉をしまって置く機械」と報じる 。
『郵便報知』は「写話
器械」、
「蘇定機(そていき) 」、
『朝野新聞』は「蘇言機(そげんき)」、
「蘇音器」などの訳
語を用いる。[のちに、蓄音器、蓄音機と呼ぶようになる。 エウエングの日本初渡来のフ
ォノグラフは行方不明になる。1958 年、国立科学博物館の倉庫で、技官青木邦夫によっ
て偶然発見される。]
1879. 3 .−【日本】コレラが全国的に発生する。10 万 6000 人が死亡する。
1879. 3.−【日本】Kobe Paper Mill Co.(神戸製紙所)が、操業を開始する。原料は木綿ぼ
ろを使用する。
1879. 4. 4 【日本】太政官布告により、執拗(しつよう)に反対する琉球側を抑えて、1872
年に設置された琉球藩を廃止して沖縄県とする旨布告する。これにより琉球の王国体制
は崩壊し、日本の一員としての沖縄県が誕生することになる。[以後、政府と清国との間
で琉球帰属などの問題がくすぶり続ける。]
1879. 4.14 【日本】新橋鉄道局が、日本人火夫 3 人を機関方(機関士)に登用、新橋∼横浜
間の鉄道で、イギリス人に代わって日本人機関士が初めて乗務につく。
[8.7 神戸∼京都
間でも日本人機関士が乗務する。以後、機関士は急速に日本人に代わり、文字通り「日
本の鉄道」になっていく。
]
1879. 4.−【日本】印刷局抄紙部が、印刷局機械部の製作になる日本最初の抄紙機である
円網抄紙機の運転を開始する。
- 497 -
1879. 4 . −【日本】神奈川県警察本署と各警察署の間に電信線が架設される。
1879. 5. 1【日本】内国通運会社が、東京∼高崎間に馬車輸送を開始する。
[以後、郵便
の輸送も行う。
]
1879. 5. 1【日本】文字富之助が、京都(のち、七条)停車場において『官許京阪神間汽車
時刻及び賃金表』を定価 2 銭で発売する。[1880.7.15 『官許京都大津間汽車時刻及賃金
表』を発刊する。]
1879. 5. 9【日本】政府が、官吏たるものは職務外の政談講学を目的として公衆を集めて
演説を行うことを禁止する旨地方長官に布達する。
1879. 6 . 2【日本】群馬県会が、貸座敷業改正の建議を提出する。群馬県廃娼運動の初め。
1879.6.15【日本】八王子∼甲府間に電信が開通する。
1879. 6.−【日本】大阪府下の警察署で、モールス電信機を廃止し、電信機を設置する。
1879. 6.−【イギリス】第 5 回万国電信会議が、ロンドンで開催される。日本代表が参加
する。
1879.6.30【日本】大阪府庁∼本田警察署間に警察電話が開設される。
1879. 7. 3 【日本】アメリカの前大統領グラント Ulysses Simpson Grant( 57 )が、世界一周
旅行の途次横浜に着く。外国元首級の初来日となり、官民挙げて大歓迎する 。
[8.10 天
皇と浜離宮で会談し、琉球問題、国会開設の順序、外債問題、条約改正などにつき意見
を述べる。9.3 離日。
]
1879.7.10【日本】東京大学法・理・文の 3 学部で、日本で初めて学士号の授与式を行う 。
学士号を受けた卒業生は 50 人で、希少価値がある。
[10.18 医学部でも授与式が行われ
る。
]
1879. 7.14【日本】コレラ蔓延のため、海港虎列刺病伝染予防規則を定める。この日、大
阪府が寄席類の興業を停止する 。
[以後、各地で「コレラ送り」の騒動が勃発する。年
末までに患者総数 16 万 2637 人、死者 10 万 5784 人となる。1961 年、7 月 14 日を「検疫
記念日」と定める。
]
1879. 7.−【日本】郵便局で、郵便切手の消印についての指導が繰返し行われる。消印は
明瞭に押印するとともに、切手の真贋、不正な再使用について十分検査することを強調
する。
1879. 7 . −【日本】品川分署∼大森出張所間に警察電話が開設される。
1879. 9 . 1【日本】宇都宮∼水戸間に電信が開通する。
1879. 9.13【日本】
『朝日新聞』が、最初の論説「新聞紙論説の事を論ず」を掲載する。
1879. 9.18【イギリス】イングランド Lancashire 州西部の港市で保養地のブラックプール
(Blackpool)の照明が、はじめてつけられる。[以後、毎年秋に Blackpool illuminations と
いう照明をする。]
1879.9.29【日本】学制を廃し、教育令を制定する。
1879. 秋 【日本】高畠藍泉作の草双紙『巷説児手柏』が、全編活版刷で刊行される。従
来、木版式合巻の草双紙が初めて活版刷となる。[以後、木版の非効率、経費高、印刷鮮
明度の劣化などが一層明確になり、活版印刷への転換がすすむ。1884 年 9 月、
『芳譚雑
誌』は〈草双紙は活字に限る物とはなりぬ〉と書く。]
1879. 9 .−【アメリカ】シンシナティの 2 人に起業家が、シンシナティ電話局(The City and
- 498 -
Suburban Telegraph Association and Telephonic Exchange)を開局する。人口 25 万 5139 人の
うち、50 人が加入者となる。
[12 月末、加入者が 1000 人となる。1884.3.1 シンシナティ
最初の電話加入者リストが、社内週刊誌『Bulletin』第 4 号に掲載される。加入者 2500
人を収録し、番号はないが、この町最初の電話帳となる。1907 年、R.H. ドネリー社が、
委託を受けて電話帳を作成・発行する。以後 、
「グレーター・シンシナティ電話帳」とし
て、オハイオ河をはさんで、オハイオ州、ケンタキー州、インディアナ州の 3 州を回廊
として各州の電話会社の 100 以上の交換局を貫通する広域電話帳を作る。1945 年、同社
150 番目の電話帳『シンシナティ電話帳』が発行され、過去最大の紙幅に 17 万 8979 人
の加入者を掲載する 。
]
1879. 秋 【アメリカ】マサチューセツ州ローウェルで麻疹(はしか)が大流行し、地元の
医師モーゼス・パーカーが、電話接続を迅速効率的にするために各加入者に特定の番号
をつけてはどうかと電話会社に提案する。
1879.10. 4【日本】郵便汽船三菱会社が、香港航路を開始する。
1879.10.13 【日本】万国電信盟約を布告する。
1879.10.19 【アメリカ】エジソン(32 )が、一昨年から白熱電球の研究に没頭し、水銀排気
ポンプの改良と炭素フィラメントの採用に到達する。木綿の縫い糸を高温で処理し、酸
素を残さないように炭化したものを馬蹄(ばてい)形に成形して 、ガラス球の中に封止し、
水銀真空ポンプを用いて空気を 100 分の一気圧まで排気して電球をつくる。これに電流
を通すと光り続ける。[ 10 月 21 日まで 40 時間余り光り続ける。1981 年、日本では、こ
の日を記念して、
「あかりの日」が制定される。]
1879.10.21【アメリカ】エジソン(32 )が、電球内の真空度を 1000 分の 1Torr まで高めて、40
時間にわたって光らせる炭素線白熱電球を作ることに成功する。デービーのアーク燈に
続く電気利用の第 2 のあかりとなる。これまで 13 ヵ月間に 4 万 2869 ドル 21 セントを費
やした。しかし効率は約 1 ルーメン毎ワット、寿命は 13 時間半にすぎなかった。プラチ
ナ・フィラメントの真空ポンプ、炭素フィラメントの電球の特許を申請する。[11.1 アメ
リカ特許 223898 号を取得する。イギリス郵政公社の主任技師ウィリアム・プリーズは〈電
灯なんて「ignis fatuus(鬼火)」だ〉と決めつける。以後、フィラメントに適する材料と
して木綿の炭素フィラメントは機械的に弱かったので、植物性繊維の研究を続けを探し
求めて、安定して光る材料として竹を選ぶ。約 10 年間その竹が使用される。さらにエジ
ソンは、電球のソケット、安全ヒューズ、積算電力計、地下ケーブル、定電圧直流発電
機、配電盤など、電灯の付帯設備から、発送配電に至る全機器体系を考案する。1882 年、
日本をはじめ東南アジアから南アメリカに至る世界各地の竹の産地に人を送って取り寄
せ、試験した結果、日本の京都付近の八幡(やわた)の竹が最上であることがわかり、電
球の寿命を 900 時間に伸ばす。1981 年、(社)日本電気協会、日本電球工業会など 4 団体
が、10 月 21 日を「あかりの日」(「電灯の日」)とすることを提唱する。]
1879.10.25 【日本】秋田県布達により、秋田公立書籍館が設立される。ジャーナリスト、
県議、衆議院議員を歴任した久保鉄作の建議により実現、民家を借りた質素な建物に設
けられる。[1880.1 初めて図書館として図書の閲覧が行われる。同年 11.22 開館する。]
1879.11.18 【日本】
『横浜毎日新聞』を、嚶鳴社(おうめいしゃ)社主沼間守一(ぬまもりか
ず)(36)が経営を引き受け、東京に進出して『東京横浜毎日新聞』と改題し、自ら筆をふ
- 499 -
るう。沼間は、1873 年言論抑圧に抗し元老院権大書記官を辞め、河野敏鎌らと法律講習
会「嚶鳴社」を結成、この年『嚶鳴雑誌』を発行していた。『横浜毎日新聞』で活躍し
ていた仮名垣魯文(かながきろぶん)(50)は、すでに『仮名讀賣新聞』に移っている。沼
間の友人である『東京日日新聞』主筆福地櫻痴は、〈東京の新聞界に一敵国を得たる感
あり〉としたためた一書を送る。
1879.11. −【日本】駅逓局が、郵便切手の消印に、すべて日付印を使用することとする。
ただし、本局 、2 府五港 、名古屋 、金沢 、熊本、鹿児島局では、白抜十字印を使用する。
1879.12.20 【日本】津軽海峡を航行する船舶の安全のため、下北半島の尻屋崎灯台に蒸気
笛(霧笛)が設置される。20 秒おきに 4 秒間〈ポーッ〉と鳴らされる 。これまでは、重さ 1.6t
の西洋式の鐘が打ち鳴らされていた 。[のち、尻屋崎灯台の霧笛は廃止されるが、竜飛岬、
襟裳岬、宗谷岬などの霧信号所に霧笛が設置される。](NHK 「今日は何の日」による 。)
1879.12.26【日本・イギリス】香港郵政庁との間に、小包郵便交換の条約に署名する。1880
年 1 月 1 日を施行の日と明示する 。[1980.1.29 この条約による取扱方法を新聞公告する。
2.5 布告。日本国内では小包郵便はまだ開設 T されていないが、香港とイギリスにおい
て取扱われいて、それを継続するために日本側も取扱う。東京、大阪、京都、横浜、神
戸、長崎、函館、新潟の各局と、在清のイギリス郵便局とパコイ、シンガポール、マラ
ッカの各郵便局に間で外国小包郵便が始まる。]
1879.12.31 【日本】横浜・神戸・長崎にある在日イギリス郵便局を閉鎖し、その事務を日
本郵便局官吏へ引き渡す。
1879. ○【日本】初めて平均太陽時の時制が制定される。(京都の地方時が採用されたと
される。)[以後、これを期に、独創的できわめて優美な和時計(自鳴鐘)が、廃品化した
り、海外に多数流出する。外国人は、浮世絵などと同様にこれらの時計の価値を最初に
認め収集につとめる。]
1879. ○【日本】大蔵省印刷局が、日本初の本格的な手帳「懐中日記」を製作する。
鉛筆挿し付き、原初的なダイアリー式で、資料集として歴代天皇の名、小包料金、電信
電話表、税金表、列車時刻表、銀行一覧、観光名所、山の案内などがついている。
につくられたのは、1879 年(明治 12)の懐中日記である。[1880 年、横浜の文寿堂(ぶ
んじゅどう)が民間初の手帳を注文生産する。]
1879. ○【日本】秋田公立書籍館が、東北最初の公共図書館として設立される 。
[のち、
秋田書籍館と改称。1883 年、蔵書数 6000 余部、来館者 1 万 1000 人余となる。1886 年、
財政難のため廃館。
]
1879.○【日本】文部大書記官西村茂樹( 51 )の建議により、中国や日本の先行の類書の体
裁にならう日本の百科全書『古事類苑』を国家事業としてつくるため、文部省内に国学
者の小中村清矩、榊原芳野と漢学者の那珂通世 3 名からなる古事類苑編纂掛を置き、編
纂を開始する。[以後、完成を急がせるため、編纂年限を計 9 年半と定め、小杉榲邨、佐
藤誠実、松岡明義ら 8 名の国学者、漢学者を参加させ、小中村に協力させる。1885 年、
期限内に完成する見込みが立たず、官制改革を期に編纂中止となる。1886 年、文部大臣
森有礼が事業の再興を図り、小中村を編纂委員長とし、東京学士会院(会長加藤弘之、幹
事重野安繹)の監督下に文部省内で編纂を再開する。1890 年、神道事務局が設立した皇
典講究所は、文部省の委託をうけて、稿本と収集史料とを引き継いで編纂することにな
- 500 -
り、漢学者川田剛を検閲委員長として 、国学者、国文学者 、考証学者などを集め、40 部 1000
巻の構想を立てる。しかし完成期限を 2 年延長しても完了できず、事業を援助してきた
皇典講究所所長山田顕義らの病死があり、再び中絶の危機に瀕す。1895 年、神宮司庁は
内務省社寺局の斡旋をうけ、東京に古事類苑編纂事務所を設け、川田を編修総裁に、佐
藤を編修(のち、編修長)にあて、5 年以内に編纂出版完了を目標に再出発する。1896 年 、
帝王部以下、18 冊が刊行される。川田の死後,細川潤次郎が受け継ぎ,期限をさらに 7
年余延長して、1907 年に編纂を完了する。この間、校合員ほか多くの所員の報酬を出来
高によって支払い、完成を急がせる。また水火部、祥災部、朝儀部を歳時部、政治部に
併入したりして、40 部を 36 部に、さらに 30 部に整理する。その後、未刊 12 部の校訂
と印刷のため、出版準備委員に松本愛重、山本信哉をあてる。1914 年、天部、歳事部、
地部から人部、姓名部、動物部、金石部にいたる 30 部、小項目としては約 6 万 8000 を
収容する 1000 巻(和装本 350 冊、洋装本 50 冊)が、編纂建議後 35 年、神宮司庁に移って
から 19 年間で総額 18 万 8790 円余りを費やし完成する。刊行完了後、直ちに竹島寛を索
引編纂主任として、総目録索引 1 冊を作成し出版する。]
1879.○【日本】東京築地活版製造所の平野富二( 33)が、活字書体の改良を目指し、社員
の曲田成(のち、3 代社長)を上海に派遣して活字種版について研究させ、これを基礎に
縦線の太い重厚味のある明朝体活字「築地体」を完成させる。改刻には種字彫刻の名人
といわれる竹口芳五郎があたる。
1879. ○【日本】梶野仁之助が、自転車製造所を横浜蓬莱町で開業する。
1879. ○【日本】福岡県に、娼妓の梅毒・淋病治療のため松原駆楳所(福岡市柳町)が設置
される。また、三瀦(みずま)郡に若津駆楳所が設置される。
1879. ○【中国】直隷総督兼北洋大臣李鴻章が、清朝に奏請して、大沽、北塘、海口の各
砲台から天津に至る国内初の電信線の架設を計画する 。[以後、大北電信会社の技師を
招聘する。上海∼天津線架設の勅許も得る。1881 年、工事が完成する 。
]
1879.○【スウェーデン】W.T.オドナーが、回転ハンドルで各桁の数値を入力するピンホ
イール型の計算機を開発する。以後、百年近く実用される。〔ピンホイール型の特許は
すでに 1872 年にアメリカの F.S. ボールドウィンが取得していた。ボールドウィンが自分
の会社を持ったのは 1912 年である。〕
1879.○【オーストリア 】チェコ生まれのクリッチュ Karl Klic(C の上に V、チェコ字)(38)
が、ウィーンで写真印画法の一つであるカーボン印画を彫刻凹版の製版法に応用して、
散粉式写真凹版(ヘリオグラビア)印刷方式を発明する。最初のグラビア印刷となる。少
量の高級美術印刷に用いられる。[ 1893 年、クリッチュが、輪転式グラビアを完成する 。
1914 年に、世界で初めてドイツ南部のババリア王国が、21 種の普通切手にグラビア印刷
を用いる。]
1879.○【ドイツ】ジーメンス Ernst Werner von Siemens( 63 )のジーメンス社が、世界最初
の電気機関車を発明して、電気鉄道を敷設して試運転に成功、ベルリンの勧業博覧会で
公開する。直流電圧 125V,直巻 2 極の円筒電動機による歯車駆動で,300m の区間を 3
両の列車に約 20 名の乗客を乗せて時速 7km で牽引する。[ 1981 年、ベルリン郊外のリヒ
タフェルデ∼グロース―リヒタフェル間に、路面電車を運行させる。以後、間もなく路
面電車が市街地の鉄道馬車に代わって発達する。]
- 501 -
1879.○【ドイツ】細胞学者フレミング Walter
Fleming( 36 )が、動物染色体を研究するた
めにオスミック酸を含む特有の固定液を開発し、染色体の分裂を観察する。[以後、
「フ
レミング氏固定液」とよばれ、哺乳類、鳥類、両生類などの染色体研究のための固定液
として多くの細胞遺伝学者によって愛用される。またフレミングの三重染色法など、細
胞形態学や細胞遺伝学研究上のいくつかの方法も考案する。]
1879.○【ベルギー 】世界最初の小包切手(郵便小包・鉄道小荷物兼用切手)が発行される。
1879.○【イギリス】イギリスで最初の電話局が開設される。加入者は役所の 8 件のみ。
1879.○【イギリス】 ヒューズ David Edward Hughes( 48 )が、2 つの炭素の塊の上に軽く
炭素棒を乗せると音圧によって電気抵抗値に変化を生じることから、ガラス管内に金属
粉末を入れた実験を行い、コヒーラ現象を発見する。
1879. ○【アメリカ】地質測量局が、国土全体の大縮尺の地形図をつくる目的で創設され
る。
1879.○【アメリカ】スペリー Elmer Ambrose Sperry( 19)が、コーネル大学に学び、発電
機とアーク灯を改良する。[1880 年、シカゴに電機工場をつくる。]
1879. ○【アメリカ】ベルが、裁判所に対してウエスタン・ユニオンがベルの持つ電話の
特許を侵害していると訴え、勝訴する。電話事業の最初の競争に終止符を打つ 。
〔以前、
ベルがよちよち歩きの電話会社を 10 万ドルで売却したいと申し出たとき、電報会社ウエ
スタン・ユニオンの社長ウィリアム・オートンは〈電気おもちゃなんて、わが社にとって
は何の役にも立たん〉と言って断られる。(???いつのことか??? )
〕[ 1882 年、ア
メリカン・ベル・テレフォンが、ウエスタン・ユニオン( WU)の電気製品部門ウエスタン・
エレクトリック(Western Electric Co. )を買収する。]
1879.○【アメリカ】レストラン経営者リティ(リッティ)James Ritty が、前年ヨーロッパ
へ船で旅行した際に、機関室のスクリューの回転数を自動的に記録する装置からヒント
を得て、世界で最初の硬貨(コイン)を自動的に数える機械「ダイヤルレジスタ」を発明
する。大きな柱時計のような形の文字盤に、長短 2 つの針があり、下のほうに 2 列に並
んだボタンを押すことによって金額が表示される仕組みである。のちのキャッシュレジ
スタ(金銭登録機)の起源となる。[以後、リティがダイヤルレジスタの特許権を得て、販
売のためナショナル・マニュファクチャリング社を設立、小売店主に「誠実な出納係」
と称して数千台を売る。1884 年、パターソン John Henry Patterson( 1844 ∼ 1922)が、リ
ティの事業を継承して、ナショナル・キャッシュ・レジスタ社(National Cash Register
Co.)( NCR)(オハイオ州デイトン)を設立、キャッシュレジスタの製造・販売を始める。
1974 年、略称の NCR を正式社名とする。]
1879. 【流行語】賄(まいない)征伐。
1880(明治13)
1880. 1. 1【日本】駅逓局が、国内に先立って外国小包郵便物の取扱いを、香港などに向
けて開始する。イギリスの郵便に地方小包の制度があり、日本に設置されていたイギリ
スの郵便局を閉鎖する条件として、その存続が求められたことによる。国内向けには、
貨物の運送を担当する各地の貨物業者からの強力な反対で、実施できない 。
[1892.10.1
小包郵便法が施行され、国内向けの小包郵便物の取扱いを開始する。]
- 502 -
1880. 1. 1【日本】横浜郵便局と香港、在清イギリス局との間で為替の交換を開始する。
1880. 1.−【日本】海港に停泊する船艦や乗務員宛ての郵便物を市外配達として取扱う。
1880. 2 . 5【日本・中国】日本∼香港間の為替交換条約を公布する。
1880. 2 . 9【日本】東京∼八王子間の馬車便に、東京∼甲府間の郵便逓送を委託する。[∼
1889.5.20]
1880. 2.15【フランス】ゾラ■ mile Zola(40)の『ナナ』が出版される。1877 年に著した
『居酒屋』で不幸な生涯を描かれた洗濯女ジェルベーズの娘アンナが高級娼婦となる物
語で、発売と同時に初版 5 万 5000 部を売り尽くすベストセラーとなる。
1880. 2.28 【日本】前島密が、内務大輔兼駅逓局長に就任する。[ 3.23 ∼ 1881.11.8 内務大
輔兼駅逓総官。]
1880. 2.−【日本】『交詢雑誌』創刊。初めて「身の上相談」が掲載される。
(思想の科学
研究会編『身上相談』
河出書房、1956、横田順彌「「もめごと」から得た知識 」
『ちくま 』1997.2)
1880. 2.−【日本】工部省鉱山局所管の釜石鉄道が、開業する。
[1882.3.1 日本初の軽便
鉄道により旅客・貨物の輸送を開始する。
]
1880.3.24【日本】西長堀警察分署∼住吉分署間に警察電話が開設される。
1880. 3.25【日本】文部省に、編輯局が設置される。[ 1881.2 編輯局編『語彙活語指掌』
刊。1883.7 「送仮名法」を定める。]
1880. 3.27【日本】東京府庁が、神田旅籠町一丁目の士族山野重徳の出版した『造化玉手
箱初篇』(同年 3 月 10 日出版御届、和本仕立て、本文 48 ページ、図 4 ページの小型本)
1冊の発売を差し止める。[東京で初の造化機論系の性書に対する取締り。]
1880. 3.27【日本】大阪府東区平野町 5 丁目の石川時助和助が、「春画を出板せし科」に
より禁獄 30 日、罰金 3 円の判決を受ける。(『朝野新聞』4.1 )
1880. 3.31【日本】政府が、この日までに全国の開港場からすべての外国の在日郵便局を
撤退させる。最後に残った横浜の在日フランス郵便局が閉鎖し、日本の郵便の国権を回
復する。
1880. 3 . −【日本】こんにゃく版の印刷が始まる。
1880. 4 . 1【日本】千葉∼佐倉間に電信が開通する。
1880. 4. 1【日本】横浜のフランス領事館員で横浜フランス郵便局長を兼務していたデグ
ロンが、駅逓局顧問に採用される。
1880. 4. 5【日本】政府が、集会条例を公布する。政治に関する演説会の警察への届出と
許可の必要、警察官の臨席・監視、中止・解散命令などを規定する。[以後、活発化し
つつあった学習結社なども活動が制約され、付設された書籍縦覧所など図書館の原型も
発達の芽が失われる。この年、函館で読書好きの官吏が中心となって読書会、共覧会を
結成して「書籍縦覧心得」を定め、会の目的を〈函館ヘ共立書籍館ヲ設立スル〉とした
が、結社制限のため実現しない。1888 年、その構想が区立函館書籍館に継承される。
]
1880. 4.19【日本】聖書翻訳委員会による『新約聖書』の翻訳完成祝賀会が、新栄教会で
開催される。
[以後 、日本の文化・思想の形成に大きな影響を与える 。1917 年、 改定し、
『大正改訳』完成。1952.12 口語訳のキリスト新聞社版『新約聖書』完成。
]
1880. 4.−【日本】葉書の取扱いについて、裏表両面を墨で塗りつぶて、その上に朱ある
いは白墨などで文字を記載したものは葉書としての使用を認めないこととする 。ただし、
- 503 -
裏面のみなら認めることする。また、表面には住所姓名しか記載できないが、「至急」
とか年月日は許容する。[7 月、重ねて注意を行う。]
1880. 4 . −【カナダ】カナダ・ベル会社が設立される。
1880. 5.13【イギリス】ユナイテッド電話会社が、エジソンの特許をもとに開業する。資
本金 50 万ポンド。
1880. 6.15【日本】上田∼松本間、津∼松坂∼山田間、松江∼米子∼鳥取間にそれぞれ電
信が開通する。
1880. 6.28【日本】京都∼大津間の鉄道敷設のため、逢坂山トンネルが、初めて削岩機を
試用して日本人の手だけで工事完成する。
[以後、
鉄道建設工事は外国人の手から離れる。
]
1880. 6.−【オーストラリア】オーストラリア初の電話会社メルボルン電話交換有限会社
(MTEC;Melborn Telephone Exchange Company )が設立される。1 枚の紙に加入者 13 人を
列挙した初の電話帳がつくられる。(図版:『電話帳の社会史』p.22.23)[8 月、加入増で
新交換局をビジネス街の中心につくる。加入者リストには 70 人の名が記載される。消防
署にも接続され 24 時間サービスが行われるが、電話線は 6 マイル(約 10km )以下にとど
まる。1882 年 3 月、加入者が 300 になる。メルボルン郊外のバララット、サンドハース
トに小交換局を増設し、メルボルンとも接続し「市外電話」が始まる。社名も「ビクト
リア電話交換会社」の改称する。1884 年、さらに交換局を増設する。1887 年、ビクトリ
ア州が公有化する。加入者 887 人、従業員 21 人。設備はもっぱらアメリカ、イギリス、
スウェーデンなどからの輸入品でまかなう。以後、電話が爆発的に普及する。
]
1880. 7. 1【日本】東京府書籍館(しょじゃくかん)が文部省の所管に復し、東京図書館と
改称する。
[7.8 開館。1881 年度、蔵書数 38 万 8196 冊に急増する。閲覧者は 6 万 2477
人、1 日平均 191 人に増加する。1884 年度、閲覧者が 11 万 5986 人と著増する。1885.6.2
東京教育博物館と合併して、湯島から上野公園内に移転する。
]
1880. 7.14【日本】京都∼大津間の鉄道開業式が挙行される。明治天皇が両駅間を乗車す
る。[ 7.15 運輸営業を開始する。]
1880. 7.17【日本】刑法が公布される。郵便切手の偽造・変造、再使用した場合の処罰が
規定される。
1880. 8.20【日本】朝日新聞社を退社した津田貞が、大阪で『魁新聞』を発刊する。半井
桃水が記者として入社する。[1881.8.21 廃刊。桃水は釜山に行く。]
1880. 8 . −【日本】千住警察署∼小菅集治監間に警察電話が開設される。
1880.10.28 【イギリス】科学雑誌『Nature』に、東京築地病院のイギリス人外科医フォー
ルズ Henry Faulds(37)が指紋は終生不変であることを確認して投稿した研究論文が掲載
される。フォールズは、1874 年から東京築地病院に赴任し、大森貝塚から出た土器に残
されていた指紋の跡に興味をもち,以後研究を続けて,指紋が犯罪捜査に役立つこと,
また指紋が親子ではよく似ていることなどを発見し、指紋研究の先駆者の一人となる。
[以後、これがきっかけとなり『Nature』11 月 25 日号に、ハーシェル William Hershel( 47 )
の指紋研究が発表される。ハーシェルは、1858 年インドのベンガル地方で民政事務を担
当していたとき,恩給受給者に指紋を押させて個人識別を行い,二重払いの防止に成功
し,1877 年には指紋の個人識別上の重要性について,本国政府に進言していた。1892 年、
アルゼンチンのラプラタ警察が、被害者として名乗り出たフランシス・ロハスという女自
- 504 -
身が仕組んだ殺人事件であることを、彼女の指紋から明らかにする。1901 年、ロンドン
警視総監のヘンリー EdwardRichard Henry ( 1850 ∼ 1931 )によって指紋が初めて犯罪調査
に用いられる。1908 年 4 月、刑法改正により、日本の警察で指紋が利用されるようにな
る。のち、東京のフォールズの住居跡に「指紋研究発祥の地」と記された記念碑が建て
られる。]
1880.10. −【日本】大蔵省印刷局が、印刷工場を設置する。
1880.11.16 【日本】八条島に郵便局が開設される。
1880.11.22 【日本】秋田公立書籍館が、民家を借りた質素な建物で開館する。[以後、秋
田師範学校教師館に移設。のち、一時休館。名称変更など紆余曲折を経る。1884 年、県
の財政難により館費 4 円が 0 円になる。1886 年、廃止される。1899.4.14 秋田県告示に
より秋田県立図書館の設置が告示される。11.1 開館する。 ]
1880.11.28 【日本】北海道開拓使所管幌内鉄道が、手宮∼札幌間に北海道最初の鉄道を開
通させ、日本で初めてアメリカ式蒸気機関車を採用する。(「弁慶号」と「義経号」か???)
鉄道の目的は、幌内産の石炭を小樽に輸送するためで、地下資源の開発と輸送方法をア
メリカ人に依頼したため、鉄道もアメリカ式になる 。アメリカ式機関車は、最前部に「カ
ウキャッチャー」と呼ばれる牛よけが付き、煙突は火の粉止めのついたダイヤモンド型
になっている。[1882.11.11 幌内まで全通する。幌内鉄道と呼ばれるようになる。1884
年、アメリカの H.K.ポーター社で「しずか号」が造られる。1985 年、小樽に運ばれる。
のち、小樽市鉄道記念館に展示される。]
1880.12.21 【日本】警察電話が江戸堀警察本署∼安治川警察署間に開設される。
1880.12.26 【日本】製紙所連合会(のち、日本製紙連合会)が成立する。
1880.12. −【日本】京都府教育会が、図書館を設立する。府立図書館に代わるものとして
公開を前提とする。
[1892 年 5 月、千葉県教育会も図書館を設置。6 月、信濃教育会も設
置。以後、道府県立図書館の 3 分の 2 は、教育会の直接・間接の図書館運動によりつく
られる。1898.4 京都府教育会の蔵書をもとに京都府立図書館が設立される。
]
1880.12.−【日本】国有鉄道の神戸停車場∼三ノ宮停車場間 14 町 56 間 1 尺(約 1.6km)に、
電話線が架設され、電話が鉄道通信に初めて利用される。[ 1885.3 東京の品川・渋谷・
新宿・板橋・赤羽間に電話線が架設される。]
1880.12. −【日本】駅逓局が、郵便取扱役に東京鴻盟社発行『郵便週報』を必ず購読する
よう指示する。
1880.○【日本】長野県で、安曇・筑摩両郡の有志 50 人が発起して、自主的に農事改良
に取り組む結社、松本農事会を結成する。松本城址に事務所を置き、書籍縦覧所を設け 、
資料の閲覧・貸出しを行う。
1880. ○【日本】横浜の文寿堂(ぶんじゅどう)が、住友銀行(のち、三井住友銀行)の依頼
により名入り手帳をつくる。[以後、〈日本洋手帳開祖〉と称して全国的に受注生産を始
める。]
1880. ○【日本】盲人教育用に「凸文字」が作られ、東京盲唖学校(のち、筑波大学附属
盲学校)に寄付される。この頃、京都市上京区待賢小学校訓導古川太四郎や大蔵省大書記
官得能良介らが、盲人に文字を教えるために凸文字を工夫する。1 寸 5 分四方の木板の
表に凸文字、裏に凹文字を刻したもので、他に松ヤニで書いたり、蝋板に刻んだりした
- 505 -
ものなどが作られる。盲人飯島静謙は、楽善会訓盲院において、自ら焼きかまどを作っ
て瓦製の凸文字を作る。
1880. ○【日本】世界廃娼連合会から公娼廃止の勧告を受ける。
1880. ○【日本】大店で、一等の料金が1円。
福岡県遠賀郡に若松検楳所が置かれる。
1880.○【日本】博多大浜町に、娼妓の教養育成機関として翠糸(すいし)学校(生徒 200
人)が設立される。[1897 年、博多柳町にもできる。]
1880.○【ドイツ 】ワールブルク Warburg が、鉄は周囲磁界の変化に対する磁束密度変化、
すなわち磁化の強さに、履歴現象があることを発見する。[1891 年、ユーイングが、こ
れをヒステリシスと名付ける。]
1880. ○【ドイツ】ジーメンス・ハルスケ社が、初めて電動機を動力としたエレベータを
製作、マンハイムで行われた博覧会に出品し、実際に運転してみせる。
1880.○【ドイツ】ベンツ Carl Friedrich Benz(36)が、定置型の 1 馬力 2 サイクル・ガス機
関を製作し、工場用原動機として注目される。[ 1883 年、マンハイムにガス機関工場ベ
ンツ社を設立し、原動機の生産・販売のかたわら〈馬なし馬車〉である自動車の発明に
ますます力を注ぐ。]
1880. ○【フランス】カミュ・フォールが、電気自動車を製作する。
1880.○【フランス】キュリー Pierre Curie( 21 )が、ソルボンヌ大学鉱物学研究室で実験助
手をしていた兄のジャック Paul Jacques Curie( 25)と 2 人で、水晶や電気石の、ある方向
に切った薄板を圧縮すると、圧力に比例する量の、等しく反対の電気が帯電する現象、
すなわちピエゾ電気( piezoelectricity、圧電気)を発見する。[この直後、リップマンが電
場の作用の下で結晶に張力が働くことを理論的に予測する。1881 年に 2 人はそれを実験
的に確かめる。以後、圧電効果は、電波の受信・発信の効果を高める周波数制御素子や
ピックアップ、マイクロフォン、受話器など情報通信分野で珍重され、拡声器・電気ス
イッチなどに利用も利用される。さらに温度変化や時間の経過によるブレをなくす制御
素子として、腕時計からカラーテレビ、ファクシミリなどの家電、自動車、コンピュー
タ、衛星通信に至るまで広く利用されるようになる。]
1880.○【フランス】シャルパンティエ J.Charpentier が、キーボード(鍵盤)で演奏された
一連のキーの押し下げを記録するため、初めて「メログラフィー( melography)」の言葉
を用い、紙ロールに穴をあける「メログラフ( melograph)」を考案する。紙ロールにあけ
られた穴を熟練した人間が読みとり、楽譜に変換する。半自動だが、最初のシーケンサ
ーとなる。
[1950 年、アメリカの民族音楽学者シーガー CharlesSeeger が、電子式の旋律
分析機を考案し、メログラフ( melograph )と名付けるが、シャルパンティエのメログラフ
とは別物である。
]
1880. ○【フランス】ブラジャーが発明される。
1880.○【フランス】ワイン類の小売りが自由化されて、販売競争が激化する。その結果、
“女”と抱き合わせでワインの消費・売上げ向上を狙う店が続出する。
1880.○【イタリア】ベスビオ火山( Vesuvio)の登山鉄道会社「フニコラーレ」が開業、
世界初の火山観光鉄道が運行を開始する。ナポリ市東方約 12km にある二重式の成層火
山で、ヨーロッパ大陸で唯一の噴火記録をもつ。鉄道初のコマーシャルソング『フニク
- 506 -
リ・フニクラ』(デンツァ作曲)が作られ、ナポリ民謡として世界中に知られる。[ 1944
年、大溶岩流で登山電車は破壊され、フニコラーレを廃業に追い込む。以後、観光客が
登頂できるよう、自動リフトが設けられる。]
1880. ○【イギリス】大英博物館の自然史部門に収蔵されていた、クックの航海,ダーウ
ィンのビーグル号航海,スコットの南極探検などの成果をはじめ、標本類の増加のため
自然史部門を別の建物に移転させることになり、サウス・ケンジントンに、A.ウォーター
ハウス設計のロマネスク様式の建物が完成する。[1881 年一般公開される。20 世紀に、
標本の羅列的展示に,生物学の基本を説明する新しいタイプの常設展示が加えられ、こ
の博物館は通称自然史博物館(Natural History Museum )と呼ばれて、イギリスでもっとも
人気のある博物館の一つになる。膨大な標本、多くの蔵書、多数の科学者と最新の研究
設備を擁しており、分類学研究の世界的中心地ともなる。]
1880.○【イギリス】クラークが、ガウスの対物レンズを 2 組、絞りをはさんで対称に置
いた写真用レンズを設計する。のちに大口径レンズを可能にするガウス型の発端になる。
[1897 年、カール・ツアイスのルドルフが、f3.8 のプラナーを作る。以後、多くのガウス
型のレンズが設計され、実用化される。]
1880. ○【カナダ】電信会社ウェスタン・ユニオンが、モントリオールに電話局を開業す
る。
1880.○【アメリカ】ニューヨークの保険外交員 L.E.ウォーターマン L. E. Waterman が 、
万年筆を考案する。彼の商売にはその場でサインのできる道具が必需品であった。[1884
年、特許を取得する 。
]
1880.○【アメリカ】ベル( 33 )が、ヴォルタ(ボルタ)音響研究所を設立する。聾唖者の発
声の問題、蓄音機、光線電話などの研究を始める。難聴者のための補聴器が、ベルによ
る電話の原理を応用して、カーボンマイクロホンと電磁型イアホンを組み合わせた装置
として開発される。また、太陽光を使った光電話( photo-phone )を考案し、声を光に変え
て 213m 先まで伝送し、ふたたび音声に戻す実験に成功する。
[以後、光電話は、光が散
乱したり、雨や霧あるいは障害物などの影響を受けやすいため、ほとんどが実用化には
至らない。1921 年ころ、補聴器に真空管方式が採用される。]
1880.○【アメリカ】イーストマン George Eastman (26)が、ニエプス、ダゲールの写真で
の感光板は石板石、ガラス、金属板などで重くて取扱いに不便であるのを改良し、写真
乾板の製法を開始する。[ 1881 年、イーストマン乾板会社を設立する。1884 年、初めて
ニトロセルロースフィルムにゼラチン臭化銀乳剤を塗布した現代のようなフィルムをつ
くる。]
1880.○【アメリカ】マイブリッジ Eadweard Muybridge( 50)が、ズープラクシスコープ
zoopraxiscope〉(〈動物の動きを見る装置〉の意味)を開発し,人間や動物のあらゆる動
きの連続撮影を行う。従来のような単に動作の分析だけでなく、初めて動作そのものを
再現する。
[以後、映画史上、映画への発展を胚胎するものとして重要視される。
]
1880.○【アメリカ】エジソン( 33 )が、電気照明用の一貫システムを発明する。初の電気
機関車の走行実験に成功する。
1880.○【アメリカ】スペリー Elmer Ambrose Sperry( 20)が、シカゴに電機工場を創設す
る。[以後、1888 年に鉱山用電機工場、1890 年に電気鉄道会社、1890 年に蓄電池会社を
- 507 -
創設する。1900 年、ワシントンに電気化学研究所を創立し、ここで食塩からの純粋なカ
性ソーダの製法、塩素利用のスズ回収法を開発する。1910 年、スペリー・ジャイロスコ
ープ会社を創立する。エジソンに次ぐ発明家といわれるようになる。1929 年、スペリー
の発意により東京で万国工業会議を開催する。]
1880. ○【アメリカ】キャリーが、画像の電送に光電現象を応用することを思い付き、多
数のセレニウムを横一列に並べ、画像走査して電送する方式を考案する。
1880.○【アメリカ】婦人科医スキーン Alexander Johnston Chalmers Skene( 42 )が、女の尿
道孔のすぐ内部に開口する粘液腺を記載する。『
( 岩波西洋人名辞典 』
)
1880. 【流行語】国会熱。紳商。袂時計。密偵。民権熱。
1881(明治14)
1881. 1. 2【日本】金子入書状の取扱いを、北海道・沖縄県・薩南諸島を除き全国的に開
始する。
1881. 1. 3【日本】駅逓局が、駅逓局録事や指令適用などを掲載した『中外郵便週報』を
発刊する。全国の郵便局に購読することを指示する。[1883.6.25 廃刊。
]
1881. 1.14【日本】1877 年に内務省警視局に主管事務が移管されて内務省の一部局とな
っていた東京警視本署が、警視庁として東京に設置される。[のち、1 月 14 日を「警視
庁創設記念日」とされる。]
1881. 1.17【日本】明治法律学校が設立される。[1903 年、明治大学と改称。1920 年、大
学令による大学に昇格する。]
1881. 1 . −【日本】東京の寄席が、物価騰貴と不景気のため廃業するものが続出する。
1881. 1.−【日本】沖牙太郎が工部省製機所から独立し、明工舎(のち、沖電気工業㈱を
設立し、炭素電話機を試作、製品化する。[3 月、第 2 回内国勧業博覧会に炭素電話機を
出品し、有功二等賞を授与される。以後、日本随一の通信機製造工場となる。]
1881. 2. 2【日本】出版物の検閲が強化される。新聞・雑誌などは、発行のつど内務省警
保局に納入することになる。
1881. 2 . 2 【日本】巡査交番が初めて設置される 。これまでは街角で立番をしていたが、1
警察署に 7 つの交番が設けられる。
1881. 2 . −【日本】この頃、日本橋馬喰町の宿屋が連合して、東京名所案内社を設立する。
府下の名所を 4 日間料金 1 円で案内する。
1881. 2 . −【日本】東京洋紙売捌商組合が発足する。
1881.2.28【日本】郵便汽船三菱会社が、ウラジオストク航路を開設する。
1881. 3. 1 【日本】第 2 回内国勧業博覧会が上野公園の博物館を利用して開催される。工
芸、絵画、彫刻などの作品の出品のほか、サンジョバンニの『婦人三弦弾奏図』、ラグ
ーザの『日本婦人』が評判になる。井口直樹が手細工で仕上げた国産初の鉛筆が出品さ
れる 。鈴木三元、斎藤長太郎、坂口清之進の 3 人がおのおの自転車を出品する。[∼ 6.30 。
会期中 82 万人以上が訪れる。1886 年、真崎仁六により、鉛筆の工場生産が始まる。]
1881. 3 . 3【日本】住吉警察署∼堺署間に警察電話が開設される。
1881. 3.18【日本】日刊『東洋自由新聞』が創刊される。長くフランスに遊学して自由主
義思想に触れた公縁西園寺公望(さいおんじきんもち)( 32)が社長,中江兆民( 34)が主筆
- 508 -
を務める。印刷部数は 1600 部 。
[以後、おりからの自由民権運動の高揚のなかでフラン
ス的な自由民権論を展開する。とくに,中江兆民執筆の社説は,当時の自由民権思想の
なかでも卓越している。国内政治状況,外国事情などの報道記事も充実している。しか
し、部数を 1300 部程度に減らしても思うようには売れない。4.12 西園寺が自由民権派
の新聞社社長を務めることを好まない政府が、極秘の勅命によって西園寺を退社に追い
込む。社員松沢求策、上田長次郎らはこれを憤り、政府の干渉のいきさつを暴露する檄
文「東洋自由新聞俵覆す」を配布し,逮捕され、手錠・腰縄で拘禁され、懲役 70 日の刑
に処せられる。4 月 30 日、社長と有力社員を失ったのに加えて資金提供者であった社主
稲田政吉が社を脱退したため経営的にも行き詰まり、第 34 号をもって廃刊する 。
『東洋
自由新聞』は、のちの機関紙の一源流となる。
]
1881. 4 . 1【日本】内国通運会社が、東京∼大阪間に郵便馬車の定期路線を開設する。
1881. 4. 7【日本】農商務省が新設される。駅逓局、内務省博物局およびその博物館が農
商務省に移管される。
1881. 4. 8 【日本】亀井忠一( 25 )が東京市神田神保町で古書店「三省堂(さんせいどう)」
を創業する。[ 1883 年、新刊書店に転換するとともに、初めて出版を志し、桃林堂、開
新堂、十字屋とともに同盟四書房を組織し、「合版(あいはん)」として『ウヰルソン氏
第一リードル 独(ひとり)案内』を処女出版する。1884 年 、
『英和袖珍字彙(しゆうちん
じい)』を刊行、書籍出版に進出する。 1888 年に合版をやめ,三省堂単独で出版するよ
うにする。この年『ウヱブスター氏新刊大辞書和訳字彙』を刊行、これが大成功をおさ
め〈辞書の三省堂〉の礎となる。1892 年 、
『中等教育 日本通史』を発行、中等教科書へ
進出する。1896 年、
『帝国大辞典』の刊行により国語辞典の分野にも進出。1889 年、用
紙・印刷の研究にも熱心な亀井が、三省堂印刷所を設立する。1892 年、神田の大火で焼
失する。1895 年、本格的印刷工場を設置、印刷事業に着手する。1902 年,日本最初の総
合百科事典である『日本百科大辞典』の編纂に着手する 。1907 年 、金沢庄三郎編『辞林 』
刊。1908 年、
『日本百科大辞典 』第 1 巻を刊行。第 5 巻まで刊行するが続かず。1912 年、
『日本百科大辞典』の難航により倒産する。1913 年、日本百科大辞典完成会が設立され
る。1919 年 4 月、全 10 巻が完結する。1915 年、従来の販売部門を㈱三省堂書店とし、
出版・印刷部門は分離独立して㈱三省堂を設立する。1921 年、国産インディアペーパー
を王子製紙と共同開発する。1922 年、
『袖珍コンサイス英和辞典』
。1923 年、
『袖珍コン
サイス和英辞典』
。1925 年 、
『広辞林』などを刊行、大成功をおさめる。1923 年、ベント
ン母型彫刻機を輸入、今井直一が中心になり、辞典用の活字・活字書体の研究開発を行
う。1928 年、法人組織に改組。1929 年、1200 坪 3 階建の社屋完成。「学生のデパート」
として書籍の他、文具・学生服・化粧品・洋品雑貨等を取扱い、プレイガイドも設置す
る。1952 年、世界の語学レコード教材を各国から導入、語学録音機材・機器のパイオニ
アとなる。1964.6 自由が丘店開店。以後チェーン展開をはじめる。1974 年、㈱三省堂が
再び倒産、会社更生法の適用を受ける。1984 年 6 月、㈱三省堂が再建完了する。1996.4
三省堂書店がインタネット・ホームページ「C-MALL」を開設する。1999.9 大丸東京店
開店。店内にカフェを設け、珈琲を飲みながら本が選べる書店として話題になる。]
1881. 5.11【日本】西道頓堀府会議事堂∼難波警察署∼大阪府庁・堺警察署間に警察電話
が開設される。
- 509 -
1881. 5.16【日本】東京∼神戸間の郵便逓送を、従来は京都まで馬車便のところ、大津以
西を汽車便とする。
1881. 7. 1【日本】官設の郵便局を「出張郵便局 」
、郵便受取所を「郵便支局」と改称す
る。
1881. 7 . 1【日本】東京大学理学部博物場(大学博物館第一号)が、一般公開を始める。
1881. 7.26【日本】
『東京横浜毎日新聞』が、社説に「関西貿易商会の近状」を掲載、北
海道開拓使長官黒田清隆の官有物払い下げ事件を大スクープする。[∼ 7.28。以後、『朝
野新聞』
『東京曙新聞』
『郵便報知新聞』があと追い取材競争を展開する。世論の批判が
高まり、「明治十四年の政変」と呼ばれる政争の引き金となる。]
1881.7.27【日本】文部省が、教育博物館を東京教育博物館と改称する。
1881. 8 . 1【ドイツ】日本からドイツ駅逓院博物館へ郵便用品を出品する。
1881. 8.−【日本】製紙会社(のち、王子製紙㈱)が、渡邊登三郎の依頼により三椏(みつ
また)の洋式製紙を試抄する。
1881. 9 . −【日本】野崎左文『新橋芸妓評判記』刊。
1881.10. 1【日本】日本とイギリス間で郵便為替を交換することとし、江戸橋本局と横浜
局で取扱い開始する。
1881.10.−【日本】福島の鈴木三元が、東京府へ新発明三元車の製造発売願書を提出する。
1881.10.−【アメリカ】ベルが、チチェスター・A・ベル、チャールス・S・ティンター
と共に改良型蓄音機の公開実験を行う。
1881.11.1 5【日本 】日本鉄道㈱が、政府の鉄道建設資金の不足を補うため、華士族金禄(き
んろく)公債担保の出資により鉄道建設を推進するため資本金 2000 万円で設立される。
[11.11 政府が、日本鉄道㈱に特許条約書を下付し、日本最初の私設鉄道会社が成立する。
政府の利子補給・利益保護、政府による建設・運営の方式をとる。1882.4.12 川口∼前橋
間に鉄道着工の指令を受ける。1883.7.28 上野∼熊谷間で日本初の本格的な鉄道を仮開業
する。1884 年、高崎まで開業。1885 年、品川∼新宿∼赤羽間開業、生糸の横浜への輸送
で鉄道の経済効果を実証する。1891 年、上野∼青森間全通。以後、常磐線の建設、水戸
・両毛鉄道の合併など東北日本の中心的な鉄道会社となる。運営は自立する。1906.11.1
鉄道国有法により国有化される。]
1881.11. 8【日本】駅逓総官前島密が依願免官、野村靖が就任する。[∼ 1884.7.5 ]
1881.11.11 【日本】政府が、日本鉄道㈱に特許条約書を下付し、同会社が成立する。資本
金 2000 万円。日本最初の私設鉄道会社となる。
1881.11.26 【日本】郵便掛函と柱函に、開函・配達・差出時間を表記することとする。
1881.11.30 【日本】鹿児島県警察本署∼鹿児島警察署・鹿児島県監獄署間に警察電話が開
設される。
1881.○【日本】改造紙幣 1 円券(神功皇后札)が発行される。デザインは“お雇い外国人
”キオソーネ(キョソネ、キョッソーネ)Edoardo Chiossone (49)が担当し、多くの文献や
浮世絵を収集して考証し、さらに印刷局の女性職員をモデルに使うなど、苦心して神功
皇后の肖像を描く。
1881.○【日本】全国の郵便局が 5177 局になる。
1881. ○【日本】近藤瓶城編『史籍集覧』の「仮目録」が配布される。刊行のことば、書
- 510 -
目、申込方法などが記載されている。[現存する日本最古の内容見本とされる。](谷沢
永一『読書人の立場』桜楓社)
1881. ○【日本】文部省音楽取調掛(とりしらべがかり)編『小学唱歌集』初編が出版され
る。日本初の学校唱歌集の出版となる。
[1883 年、第二編。1884 年、第三編が刊行され
る。日本語の歌詞をつけたドイツやスコットランドの美しい民謡や歌曲、日本の伝統的
な雅楽風の歌曲などが収録されている。小学校だけでなく、中学校、師範学校などにお
ける唱歌教育の教科書としても幅広く採用される 。
]
1881. ○【日本】文部省が、幻灯機を学校教材として取り上げ、師範学校に頒布する。
1881.○【日本】講談組合が結成される。[ 1891 年に、正義派と睦(むつみ)派に分裂する 。
やがて統一される。1905 年、正義派と同志派に分かれる。1908 年に合同するが、不参加
者が自由派を名のる。]
1881.○【日本】服部金太郎(21)が、東京・京橋に輸入時計販売の服部時計店を開業する。
[1892 年、精工舎を開設して掛時計製造を開始、懐中時計、置時計などの生産に進出す
る。1917 年、資本金 500 万円の㈱服部時計店となる。1937 年、第二精工舎(のち、セイ
コーインスツルメンツ)を設立する。1959.5 第二精工舎の諏訪工場を分離して諏訪精工
舎を設立する。]
1881. ○【日本】京都市の津田幸兵衛が、日本で初めて通信用電線を製造し、工部省に納
入する。これまではイギリスやアメリカから輸入した通信用電線が使用されていた。[以
後、津田幸兵衛は津田電線㈱を創始する。]
1881. ○【日本】福岡県遠賀郡に芦屋検楳所が置かれる。
1881. ○【中国】国内初の電信線、大沽、北塘、海口の各砲台から天津間、上海∼天津線
の架設工事が完成する。李鴻章を総裁、盛宜懐を総弁とする電報総局が創設される。[以
後、大北電信会社が、電報総局に「総管」を送り込み、中国内における電信架設の特許
契約を締結する。
]
1881. ○【オランダ】オランダ初の電話が、ベル・システムを輸入して開局する。初の電
話帳『Nederl, Bell-Telephoon-Maatsehappij』が発行される。
1881.○【ドイツ】ベルリン郊外のリヒタフェルデ(リヒテルフェルデ)∼グロース-リヒ
タフェル間約 4km に、36 人乗り第三軌条集電方式の木造路面電車が試用運行を開始する。
産業革命の進展に伴う人口の都市集中によってもたらされた市街地内道路の交通難に対
処する方式として 2 年前にジーメンスが創案した電気機関車が用いられる。路面電車は
当時の都市交通網の馬車鉄道の動力だけの変換で、車両の外観は乗合馬車そのままであ
るが、世界初の実用的な電車となる。[1890 年、架線集電方式に改められる。以後、市
街地道路での交通機関としては馬で客車を牽引する鉄道馬車(馬車軌道)がすでに行われ
ており、経済上での優劣や技術開発とのかかわりから、すぐには普及しない。1895 年 2
月、京都で日本初の路面電車が運転を開始する。1900 年代、路面電車が市街地道路での
主要な交通機関となるが、欧米ではその全盛期は短かい。日本では欧米に比べて路面電
車が長く愛用されるが、経済発展の後進性に伴う地下鉄普及の遅滞、石油燃料の使用制
限などによる公共用乗合自動車(バス)路線網の整備不良のためと説明される。1967 年、
ベルリンの路面電車が廃止される。]
1881. ○【フランス】パリで国際電気博覧会が開催される。電話が展示され、オペラ座と
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テアトロ・スランセでの公演の実況中継が行われる。
1881.○【フランス】パリで国際電気学会議が開かれ、cgs 単位の採用を決定する。[ 1885
年、日本が加盟。1908 年、MKS 単位の採用を決定する。]
1881.○【フランス】シャスループとローパーが、電気自動車で時速 63km を記録する。
1881.○【イギリス】良家の娘として質素で孤独な日々を送ているポター Helen Beatrix
Potter(15)が、自分でつくった暗号で日記をつけ始める。[後年、本人が日記を読み返そ
うとしたが、理解できない。1958 年、ポター死後 15 年を経て解読される。日記では、
当時の芸術家や作家、そして政治家に対して鋭い批評を繰り広げている。]
1881. ○【イギリス】スワンシー郵便局が電話交換局を併設する 。
[以後、直ちに国営電
話会(注:
「会社」ではない)( NTC)に接収される 。
]
1881.○【イギリス】フェランティ Sevastian Ziani de Feranti( 17)が、最初の発電機をつく
る。[以後、交流機器の理論的設計に着手する。直流配電に反対し、交流方式による高圧
遠距離送電を唱える。1886 年、グローヴナー・ギャラリー(『日本大百科全書』ではグロ
スベナ発電所)の技術主任となる。1887 年、ロンドン配電会社の大発電所建設に参画、
自ら設計・指導し、変圧器の並列接続の採用、ケーブルの改良などを行う。1889 年、送
電を開始する。生涯に変圧器、ケーブルなどで 170 余の特許を得る。]
1881. ○【アメリカ】カーネギーが、地域社会に公共図書館を寄付する。寄付するにあた
り、毎年寄付総額の 10 %の運営費の支出を保障させる 。
[以後、1919 年までに計 1679
館の公共図書館を寄付する。
]
1881.○【アメリカ】イーストマン George Eastman (27 )が、写真の大衆化を目ざしてイ
ーストマン乾板会社を設立する。[以後、幾度かの再編成を経て、1892 年にイーストマ
ン・コダック(Eastman Kodak Co. )と改称する。]
1881.○【アメリカ】エジソン( 34)が、ニューヨーク 5 番街に「エジソン電気照明会社」
を設立する。
1881.○【アメリカ】ヴェイルが、ボストンのベルに〈輸出用に電話機 100 個を至急手配
されたし〉と電報を打つ。ヴェイルはイギリスに輸出し、ロンドンに小さな電話交換局
をつくる。電話の輸出が始まる。
1881. ○【アメリカ】最初の長距離電話が、ボストンとロードアイランド州プロビデンス
との間に開通する。電話交換は 2 回行われる。この頃、全国で電話機が 7 万 1000 台使わ
れている 。[間もなく、ニューヘヴン∼メリデン間、ニューヘブン∼ボストン間でも開
始する。ボストン訛りのためしばしば交換手が接続を間違えるので、ボストニアンたち
から〈加入者に番号を〉という声が上がる。
]
1881. 【流行語】圧制。円太郎馬車。自由。パア。
1881. 【流行歌】『蝶々』『蛍の光』
1882(明治15)
1882. 1. 4【日本】軍人勅諭「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」が発布される。軍隊が天皇
に直属することを強調し、天皇への絶対的服従を説く。草案は、最初参謀本部長山県有
朋(45)の命を受けて西周( 54)が起草し、福地源一郎、井上毅、山県が加筆・修正する。
1882.1.12【日本】大阪府警察本部∼大阪裁判所間に警察電話が開設される。
- 512 -
1882. 1.25【日本】駅逓局が、郵便物の消印には日付印を用い、局印の使用は不可である
と全国の郵便局に注意する。
1882. 1.−【日本】官製はがきに私的に絵を印刷した年賀状が現れる。年頭の挨拶を述べ
る人物の絵が印刷されている。〔1881 年 12 月 31 日東京市内便が現存する。『
( 郵趣』
1996.1)〕[1990.10.1 郵便法の施行により私製葉書が認められて以後、絵葉書は私製が主
となる。]
1882. 1 . −【日本】大阪府警察本署∼京都府・兵庫県警察本署間に警察電話が開設される 。
1882. 1.−【日本】フランス人の画家ビゴー Georges Ferdinand Bigo ( 22 )が、日本美術研
究のため来日する。
[10 月から 2 年間、陸軍士官学校の画学教師を務める。1887 年、横
浜居留地で漫画雑誌『トバエ T(O) BA(E)』を創刊する。
1882. 1.−【イギリス】エジソン( 35)が、ロンドンで世界最初の中央発電所「エジソン電
灯会社」を設立し、直流発電機 3 台による電灯照明用配電システムの運転を開始する。
エジソンは、日本の竹を炭化した炭素フィラメント電球を作り、電気をなによりもまず
照明を家庭に提供する手段として電灯会社をつくる。イギリス政府は、電灯事業を国営
化する方針を立て、電灯条例を制定し、電灯の料金は使用した電力を計器で測って売ら
なければならないと規程したので、エジソンは使用電流が硫酸溶液を通して流れるよう
にして、電気分解によって生じる鉛の量を測って電気の使用料金を決める方法をとる。
[以
後、約 3000 個の電球に電力を供給する。9 月、ニューヨーク市にも電燈会社を設立、営
業を開始する。エジソンは、京都の山崎の里の竹を大量に輸入し、1891 年までその電球
を製造する。]
1882. 2 . 1【日本】香港との郵便為替取扱局を横浜・東京郵便局とする。
1882. 2 . 2【日本】大阪府監獄本署∼中ノ島分署間に警察電話が開設される。
1882. 2 . 8【日本】北海道開拓史を廃止する。北海道の電信は工部省へ移管する。
1882. 2.−【日本】徹底した民主主義を主張する自由民権家植木枝盛(うえきえもり)(25)
が、公娼制度反対論を発表する。[以後、女郎部屋で女郎と戯れながら執筆したとの評判
が立つが、確証はない。]
1882. 3. 1【日本】『時事新報』が東京で創刊。主筆福沢諭吉(48)、社長中上川彦次郎(な
かみがわひこじろう)(28)。[ 1936.12.25 『東京日日新聞』に合併される。]
1882. 3 . 1【日本】工部省鉱山局所管の釜石鉄道が、旅客・貨物の輸送を開始する。軌間 2
フィート 9 インチ(約 0.898m)で、日本初の軽便鉄道となる。
1882. 3. 4【イギリス】国内で最初の路面電車がレイトンストーンと東ロンドンの間で運
行を始める。
1882. 3. 9【日本】政府が、郵便取扱役が新聞社主や編集印刷人になることを禁止する。
1882. 3.16【日本】新橋∼横浜間の列車時刻を改正する。旅客列車 14 往復のうち 2 往復
を品川・神奈川停車の「急行列車」として 45 分運転となる。
「急行」列車の名称が初め
て用いられる。
1882.3.18【日本】渋沢栄一、大倉喜八郎らが、東京電燈会社の設立を出願する 。[ 7 月、
横山孫一郎、大倉喜八郎らが計画中の電燈会社と合同し、大倉組内に東京電燈会社設立
事務所を設置する。12.14 創立を重ねて出願する 。1883.2.16 許可される。1886.7.5 開業 。]
1882. 3.20【日本】農商務省博物館および附属動物園が、上野公園内に開館する。天皇行
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幸のもと開会式が挙行される。附属動物園の正式名称は東京市恩賜上野動物園で、宮内
省から東京市に下賜されたところから「恩賜」の語がつけれれる。博物館の天産課に付
属し、日本産動物が主体となる。面積約 2 万 3000 ㎡。日本最初の近代動物園となる。ま
た、最初の水族館「観魚室(うおのぞき)」が併設される。飼育方式は止水式で、15 個ほ
どの水槽の中に飼育が容易な淡水産のキンギョやテナガエビなどが展示される。初代飼
育係長に絵師・中島仰山(なかじまぎょうさん)が就任する。入園料は大人 1 銭。[1886
年、宮内省に移管され、明治 20 年代以降、トラ、ゾウ、カバなどの外国産動物が導入さ
れ、それに伴って入園者数も増加する。のち、東京都恩賜上野動物園と改称。1984 年 12
月末、飼育動物は 883 種、1 万 2257 点、面積は 14 万平方メートルになる。]
1882. 4. 1【日本】西北社が、東京∼高崎∼前橋∼坂本(碓氷)間に、郵便物・旅客・貨物
の馬車輸送を開始する。游竜軒など従来の乗合馬車業者が合同する。
1882. 4. 6 【日本】自由党総理板垣退助(46 )が、東海道遊説の途次、岐阜県で暴漢に襲わ
れ、胸や左右の手や左頬に切傷を受けるものの一命は取り止める。これを伝える瓦版が
出される 。[事後、随行の竹内綱らが党本部に宛てた書簡に、遭難時の板垣が〈板垣死
すとも自由は死せず〉と発言した書く。以後、後世に残る名言となるが、その信憑性に
は疑いが持たれる。
]
1882.4.14【日本】群馬県が、全県下の遊郭を 1888 年 6 月限り廃止すべき旨布達する。[以
後、実際は延期されるが、これより廃娼運動が盛んになる。]
1882. 5 . 1【日本】東京商船学校が開校する。
1882. 5. 1【日本】郵便葉書取扱手続が制定される。1880 年以来繰返し指導されてきた葉
書の取扱いに関する注意事項の集大成として、葉書として扱うことが許容される事例、
葉書として効力を失う事例などを明示して関係者に通達する。
1882. 6.14【日本】郵便物の受取人が転居している場合、移転先へ配達依頼の付箋があれ
ば料金を徴収しないこととする。
1882. 6.25【日本】日本最初の私鉄、東京馬車鉄道㈱(のち、東京電車鉄道㈱)が開業、同
社による日本初の鉄道馬車が、新橋∼日本橋間で開通する。車両はイギリス製と日本製
とを混用し、銀座を通る 4ft6in( 1372mm)幅の軌道上を、2 頭の馬が定員 24 ∼ 28 人の小
型の木造客車 1 両を牽いて走り、新橋と日本橋を結ぶ。日本橋の橋上中央にも 2 本の鉄
道が敷設され、車道と両脇の人道が明確に分離される。雨模様だが、物珍しさから乗客
が殺到する。料金は人力車より圧倒的に安く、乗合馬車に比べてたいへん快適とされて
人気を博す。停車場は決められていたが、飛び乗り飛び降りは自由であった。[以後、浅
草まで延長。利用者は年々増加する。日本初の車内ポスタが掲示される。1891 年に大阪、
1898 年には函館でも開通する。1903 年、東京馬車鉄道は京都の市街電車をまねて馬車鉄
道から電車鉄道に動力変更する。のちの市電、都電の基礎となる。地方都市でもしだい
に鉄道馬車は電車やガソリンカーにかわり、第一次世界大戦前にはほぼ姿を消するが、
地方によっては昭和の初めまで残残存する。]
1882. 6.27【日本】ベルギー国立銀行条例を典拠とした日本銀行条例が制定される。政府
の責任においてなされた不換紙幣整理策の中核となる中央銀行として日本銀行(にっぽん
ぎんこう)㈱の設立を定める 。
[10.9 開業免許。資本金 1000 万円 、政府が半額出資する。
10.10 開業 。10.11 当所商業手形割引歩合(のち 、公定歩合)を日歩 2 銭 8 厘(年利 10.22 %)
- 514 -
に定める。
]
1882. 7.10【日本】東京女子師範学校(のち、御茶の水女子大学)に附属高等女学校を設置
する。[ 9 月、授業開始、高等女学校の初め。]
1882. 7.23【朝鮮半島】京城で朝鮮兵が反乱を起こし、軍事教官堀本少尉らを殺害、日本
公使館を襲撃する。公使花房義質らがイギリスの測量船で脱出する。
[7.30 長崎に帰着
する。壬午の変(壬午事変)と呼ばれる。8.16 公使花房義質らが、2 個中隊を率いて京城
に入る。]
1882. 7.−【日本】製紙会社(のち、王子製紙㈱)が、印刷局の命による郵便葉書原紙の抄
造を開始する。
1882. 8 . 5【日本】壬午の変勃発により日清両国間の緊張が高まり、戒厳令が定められる。
暗号の私報電報の使用が停止される。[以後、暗号使用停止に対して、商人、銀行筋か
ら強い反対が起こる 。
]
1882. 8.−【日本】帝国大学(のち、東京大学)の教官外山正一(ゝ山(ちゅざん))、井上哲
次郎(巽軒(そんけん))、矢田部良吉(尚今(しょうこん))の共著『新体詩抄』初編が刊
行される。
『蛍』(のちの『ほたるの光』)など翻訳詞 14 編、創作 5 編を収録し 、
〈夫レ明
治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ〉と詩歌革新の烽火をあげる。[以後、
創作詩はゝ山の『抜刀隊 』
『勧学の歌』のように軍歌や教訓の類が多く,強い批判をま
きおこすが、西洋詩の模倣を合言葉として、日本における近代詩を始動させる。]
1882. 9.16【日本】田鎖綱紀(たくさりこうき)が、ピットマン式系統のアメリカのグラハ
ム式を参考にして日本語の速記法を創案し、
「日本傍聴記録法」と名付けて、
『時事新報 』
に楳の家元園子(うめのやもとぞのし)という筆名で発表する。(??『記念日の事典』で
は 9 月 19 日)[10.28 速記法の指導を開始する。
]
1882. 9.16【日本】日本最初の速記独習書、黒岩大(だい)・日置益(へきます)訳補『議事
演説討論傍聴筆記新法』(丸善)が版権免許を受ける。[ 1883 年、
「速記」という言葉が初
めて使われる。
]
1882. 9.30【日本】外国書留郵便物の事故の場合、万国郵便連合条約により弁償金を支払
うこととする。[1883.1.1 施行。]
1882. 9.−【アメリカ】エジソンが、ニューヨーク市に電灯会社を設立し、市の中央部に
愛称「ジャンボー」とつけられた直流発電機 4 台を設置して営業を開始する。電球に加
える電圧を 110V とし、発電所から末端に至る電圧低下を考慮して、ジャンボーの出力
電圧を 220V とし、中性点から導線を出して+ 110V と− 110V の 3 線式で電球に電力を
供給して、末端での電圧低下を補う。[以後、7000 個の電球に電力を供給する 。1891 年、
発電所が火災により焼失する。イギリスとアメリカで、照明が多くの家庭に普及する。
「夜の情報文化」時代が幕を開ける。この事業を通じて、エジソン電気照明会社(Edison
Electric Light Co.)を形成する。 1890 年にエジソン系各社を合併して Edison General
Electric Co.が設立される。1892 年に Thomson-Houston Electric Co. と合併してゼネラル・エ
レクトリック社(GE;General Electric Co. )が創設される。以後、世界最大の総合電機メ
ーカーに発展する。
1882.10. 4【日本】鉄道馬車が出現したことで、人力車夫が生活擁護を目的に、人力車夫
懇談会を結成する。
- 515 -
1882.10.10 【日本】日本銀行条例に基づき設立された日本銀行(にっぽんぎんこう)㈱が、
業務を開始する。[この年、日本銀行が、神功皇后を図案にした 5 円券を発行し、用紙に
初めて本格的すかしを使用する。白すかしで、トンボと桜花が小さくすき入れられるが、
模様は単純で、試作段階のものにとどまる。]
1882.10.16 【フランス】海底電線保護のための第 1 回国際会議が、パリで開催される。
1882.10.21 【日本】東京専門学校が、開校する。
[のち、早稲田大学となる。]
1882.10.28 【日本】岩手県盛岡の人田鎖綱紀(たくさりこうき)( 28)が、初めてピットマン
系の速記方式を翻案して創案した「日本傍聴記録法」(速記法)を東京で講習会を開くこ
ととし、日本傍聴筆記法講習会の開講式が、東京・日本橋通二丁目、小林茶亭で行われ
る。人の話を目にも留まらぬ速さで筆記する田鎖の姿に人々は驚嘆し 、
「電筆将軍」と
呼ぶ。[ 11.1 開講。第 1 回講習会に若林?(王+甘)蔵(かんぞう)(25)、林茂淳(しげあつ)
(20 )、酒井昇造(23 )ら 30 余人が集まる。11.4 講習会場を神田錦町の東京法学校(のち、
法政大学)に移し、以後半年間、午前中に講習が行われ 17 人が卒業時に残る。半年後、
講習を終えても、一向に速く書けず役に立たない。卒業試験問題は筆記文字を普通文字
に改めるのと、普通文字を速記文字に直すの 2 通りで、とにかく卒業証書が出される。
多くは卒業と同時に速記の道を断念するが、若林、林、酒井ら数人が練習を重ね、演説
会などで実地に筆記して、不完全ながらも書けるようになると、できあがった記録を弁
士らに贈るようになり、日本最初の速記者となる。1883.7.9 自由新聞社で、外部から速
記の依頼を受けて、初めて実用される。1884.2 若林と酒井は、矢野龍渓の『経国美談』
後編の速記を担当する。以後、速記方式の改良が進められ、1906 年に熊崎健一郎(くま
ざきけんいちろう)が「熊崎式 」
、1914 年に中根正親(なかねまさちか)が「中根式 」
、1930
年に川口渉(わたる)が「早稲田式」を創案するなど、次々と発表され、それぞれが普及
していく。のち、日本速記協会が 10 月 28 日を日本速記の原点だとして「速記発表記念
日」(「速記記念日」)と制定する 。
]
1882.11. 1【日本】東京電灯会社設立事務所が、開業の前景気に、銀座大倉組前で 2000
燭光のフランスのブラッシ式アーク灯を点灯する。初めて一般の人々の前に電灯が登場
する 。
[以後、毎夜見物人が押しかける。
]
1882.11.21 【日本】郵便物を郵便局に留置くことは、私書函を貸与する場合に限ることと
し、1873 年から行われてきた受取人の願いによる留置の取扱いを禁止する。
1882.12.16 【日本】郵便規則に代わる初の郵便条例が公布される。郵便創業 11 年目で、
事業運営の基本事項が整い、従来毎年年末に翌年の規則を定めていたのを改め、条例と
して制定する。郵便物を第一種から第四種に区分し、それぞれに料金を設定して料金均
一制を徹底する 。
「無税郵便」の呼び名を「免税郵便」と改め、従来無税扱いであった
新聞原稿、農産種苗などを有料とする。[1883.1.1 施行。
]
1882.12. −【日本】政府が、デンマークの大北電信会社に対して日本とアジア大陸および
南方諸島との間の海底電線を 30 年にわたり独占する権限を与える。同年 8 月にソウルで
起こった壬午事変の際の連絡上の苦い経験から、呼子と朝鮮の釜山とを結ぶ海底電線を
大北電信会社に敷設してもらい連絡を緊密にしようとした際の同社との引換条件による。
1882.○【世界】万国郵便連合(UPU )理事会が、各国の外国郵便・基本料額の切手の刷色
を、それぞれ印刷物は緑、はがきは赤、書状は青に統一するよう決議し、加盟各国に通
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達する。その趣旨は、外国から到着した郵便物が適正に料金納付されているかを、切手
の色だけで判断できるようにすることにある。[ 1883.1.1 日本でも刷色を改正する。
1899.1.1 UPU ワシントン条約により、記念切手の UPU 規定色切手としての使用が禁止さ
れる 。しかし、加盟国は必ずしもこの取り決めを遵守せず、なし崩し的に発行する。1915
年、日本でも「大正大礼」記念切手で UPU 色を復活させる。以後、続々と UPU 色の記
念切手を発行する。1953 年、UPU 規定色が廃止される。この 70 年の間、日本では 151
種の UPU 色の切手と 20 種の UPU 色連合はがきが発行される。](『郵趣』1997.11)
1882.○【日本】横須賀造船所に、16 基のアーク灯が設置される 。
[以後、アーク灯が実
用化される。
]
1882.○【日本】東京∼大阪間に、自働電信機が設置される。モールス機の 1 分 100 字な
のに対して、600 字の送信速度を持ち、あらかじめ準備した送信用さん孔機に符号を打
ち込んでおき、これを装置にかけて自動的に送信する。
1882.○【日本】この年、郵便物数のうち、はがきの占める比率が 40 %と、各国に比べ
て断然高い。ドイツ 22 %、イタリア 13 %、イギリス 10 %、ロシア 6 %、フランス 5 %
を大きく引き離す。外国人はこれを「日本人の徳義は他人に知られるのを恥じる言行が
少ない証拠である」というが、『東京日日新聞』の記者は、はがきのほうが料金が安い
からに過ぎないと指摘する。
(『東京日日新聞』
1884.4.2 、
『郵政百年史資料』
、
石井寛治、
1994 )
1882. ○【日本】切手商の活動が日本で初めて始まる。この頃、日本人の切手収集家は皆
無に近く、彼らは手彫切手や小判切手を買い集め、もっぱら欧米の切手商を相手に輸出
する 。
(
「日清及日露戦役前後の日本切手界を語る座談会 」
『切手趣味』1935 年 1 月 )[ 1895
年 5 月、初の切手カタログ『日本郵便切手類目録』が発行される。]
1882.○【ノルウェー】納本制度が、法律上確立する。
[1939 年、改正。1990 年、納本法
に改正。]
1882.○【ハンガリー】ブダペストの電信局に勤めるクロアティア生まれのテスラ Nikola
Tesla( 25 )が、ブラシのない電動機を早くから夢想していて、多相交流で回転磁界をつく
る「回転界磁型電動機」を着想する。[ 1884 年、この電動機のアイデアを実現すべくパ
リからアメリカに渡り、のち帰化する。初めエジソンの下で働いくが、このアイデアを
ためす機会を与えられず独立する。1887 年、多相交流による電力輸送のための発電機と
誘導電動機に関する特許を出願する。]
1882. ○【オランダ】アレッタ・ヤーコプスが、世界初の避妊クリニックを開設し、「ダッ
チキャップ」の名で知られる避妊用隔膜を世に広める。
1882. ○【ドイツ】ミュンヘンで電気博覧会が開催される。前年、パリ電気博覧会を視察
した電気工学者ミラー Oskar von Miller が、電気技術の重要性を知り、これに尽力、成功
させる。[1891 年、フランクフルト電気博覧会で、175km の遠距離送電実験を成功させ
る。]
1882.○【ドイツ】ダイムラー Gottlieb Daimler( 48 )が、ケルンのランゲン・オットー商会
を去り、マイバッハ Wilhelm Maybach( 36 )とともにカンシュタットにエンジンの試験工
場を設立する。この頃、石油から灯油などを精製した残りカスのガソリンを燃料に使お
うと思い付き、ガソリンエンジンの開発に着手する。[ 1883 年、最初のガソリン機関を
製作する。]
- 517 -
1882. ○ 【 フ ラ ン ス 】 急 進 社 会 主 義 者 グ ル ー プ 所 属 の 下 院 議 員 ク レ マ ン ソ ー
Georges-Benjamin Clemenceau ( 41 )が、ドイツ人が発明した自動車をあざ笑って 、
〈明日
にでも忘れ去られてしまう代物〉と断定する。
[1906 ∼ 09 年、首相をつとめる。
]
1882. ○【フランス】パリでアメリカのマイブリッジが、覗き眼鏡ゾープラクソスコープ
の実験を公開する。これを見た動物生理学・生理学者 E.J.マレーが、マイブリッジの撮
影法の「物理学的欠陥」を指摘し、1個のレンズによって自分が 1874 年に考案した「写
真銃」よりも、もっと多くの瞬間写真の撮影できる写真機を考案し、1秒間に 12 枚の撮
影を可能にする。
1882.○【フランス】 生理学者 E.J.マレー(マレ)が、
「クロノグラフィー(クロノフォトグ
ラフィ)」を発明する。1 枚のガラスの乾板上に人間の運動の段階的な動きを撮影する。
[この年、1 秒間に 12 コマの連続写真を撮影することができる写真銃「フュジ・フォト
グラフィック」を発明する。
[のちの映画用カメラの原型になる。
]
1882. ○【フランス・イギリス】ドーバー海峡の両岸で、フランスとイギリス両国のドー
バー・トンネル建設会社が、それぞれ立坑と海底に向かっての試掘坑の掘削に着手する。
[以後、イギリス国内に、トンネルが国防上の障害になるおそれがあるという理由で反対
運動が起こる。1883 年、イギリス議会が反対の決議をしたので、工事は中止される。そ
れまでに両岸の立坑からイギリス側は 6200ft (1891m)、フランス側は 6027ft(1838m)の試
掘坑を海底に前進させていた。1916 年、1924 年、1929 ∼ 30 年にも計画は再燃し、調査
と設計が行われるが、着工には至らない。]
1882. ○【イギリス】単動式の繰り出し鉛筆がつくられる。
1882.○【イギリス】フレミング John Ambrose Fleming( 33 )が、ロンドンのエジソン電灯
会社で技術顧問をつとめる。[∼ 1891 年。1885 ∼ 1926 年、ユニバーシティー・カレッジ
電気工学教授をつとめる。]
1882. ○【アメリカ】アメリカン・ベル・テレフォンが、ウエスタン・ユニオンの電気製品
部門ウエスタン・エレクトリック(Western Electric Co. )を買収する。
1882.○【アメリカ】NCR の前身となる会社が、金銭登録機製造事業を創業する。[1895
年、のちの IBM の創立者ワトソン Thomas John Watson が同社で働く。1912 年、アメリ
カの金銭登録機市場の 90 %を占拠するまでに大きく貢献する。1926 年、ナショナル・キ
ャッシュ・レジスター会社(NCR)が 、メリーランド州で設立される。1974 年、略称の NCR
を正式社名とする。]
1882. 【流行語】板垣死すとも自由は死せず。月給鳥。女権拡張。道路県令。
1882. 【流行歌】『ダイナマイト節』
1883(明治16)
1883. 1. 1【日本】郵便条例が施行される。郵便物を第一種から第四種に区分し、それぞ
れに料金を設定して料金均一制を徹底する。別仕立を廃止し別配達に統一する。別配達
は、配達局所に到着次第すぐ配達を希望する場合に、書状の表面に〈別配達〉と朱書し
所定の増料金の切手を貼って差し出す制度で、郵便局所のある地域は 2 銭とする。金子
入書状を貨幣封入郵便と改称する 。不定時刊行物と呼ばれた印刷物、書籍、写真、書画、
商品見本などは第四種郵便として取り扱う。郵便料金を 2 倍に値上げし、葉書 1 銭、書
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状を 2 銭(2 匁ごと)とする。1 銭(赤茶)・2 銭(紫)・5 銭(茶)の小判切手(旧小判切手)の
刷色を、1882 年万国郵便連合( UPU)で、外国向けの郵便物に貼る基本料金の切手の刷色
は印刷物用、葉書用、書状用をそれぞれ緑・赤・藍とするとの決議に従い、1 銭緑・2 銭
紅・5 銭青に改めて製造し、発売する。貯金通帳の売買・質入れ・譲渡を禁止する。[以
後、新発行された 3 種の切手は「U 小判」または「U 小判切手」と呼ばれる。]
1883. 1. 1【日本】英領セイロン、オーストラリアのヴィクトリア、英領インド、ドイツ
と、郵便為替の交換を開始する。
1883. 1. 1【日本】郵便汽船三菱会社が沿岸航路を独占し暴利をむさぼっているとの批判
に立ち、共同運輸会社が設立される。室蘭∼青森間の定期航路開設に際しては、年 1 万
円の補助金が与えられる。
[5.1 神戸∼横浜間の航路を開設する。1884.7 新造汽船山城丸
が就航する。9 月、横浜∼神戸間を 26 時間 25 分の新記録で運行する。
]
1883. 1. 2【日本】府県管内の地方郵便を「約束郵便」と改め、地方行政機関の発する郵
便物の低料金扱い(一般書状の半額)を廃止し、料金一括納付(料金後納)とする。東京府
下の集配を 1 日 19 回実施する。
1883.1.22【日本 】
『絵入朝野新聞(えいりちょうやしんぶん) 』が創刊される。
[4 月 3 日、
経営不振のため前田香雪(夏繁(なつしげ?『平仮名絵入新聞』の記者であったか?))経
営の朝野新聞社の経営に移る。以後 ,
『朝野新聞』の姉妹紙として一時は有力な小(こ)
新聞となる。しだいに衰退し,1889 年 5 月 5 日『朝野新聞』との関係を断絶,
『江戸新
聞』と改題。社長は前田香雪。翌 90 年 6 月 1 日からは『東京中新聞』と改め,文字どお
り〈大(おお)新聞〉と〈小新聞〉の中間を目ざした(大新聞・小新聞)。のち大岡育造の手
に渡り,91 年『中央新聞』と改題。1910 年、政友会の機関紙となった。1941 年『日本
産業報国新聞』となったが,1944 年廃刊 。
]
1883. 1.27【日本】新聞に日本初の求婚広告が掲載される。
『伊勢新聞』と『三重日報』
に中尾勝三郎が「先頃女房を離縁して不自由勝ゆえ、貧富を論ぜず、十七歳以上二十五
歳にて嫁にならうと思ふ物は照会あれ」と出す。[以後、近隣に住む 19 歳の女が応募、
その後結婚する。]
1883. 2.15【日本】駅逓区編成法が制定される。法律ではなく、方針を示したもので、全
国を 51 の駅逓区に区分し、駅逓区を郵便区に分け、駅逓区に駅逓出張局を、郵便区に郵
便局 1 局を設置するという基本方針を定める。駅逓区編成法に合わせて郵便大中線路を
制定する。
1883.2.16【日本】東京気象台(のち、気象庁)で日本最初の天気図が作成される。全国 11
ヵ所の測候所で行った観測データを電信で集め、
ドイツ人気象学者エルビン(エリヴィン)
・クニッピング Knipping の指導のもと 7 色刷りの天気図を作成する。[3.1 印刷して発行
される。以後、毎日 1 回印刷・配布するようになる。クニッピングが使った記号がもと
になって 15 種に分けた天気とその記号が使われる 。
「低気圧」という言葉が使われ始め
る。4.6 新聞社や各国公使館にも配布を始める。5.26 東京気象台で初めて暴風警報を発
表する。8.23 新橋と横浜の停車場に掲示される。1884.6.1 毎日 3 回、全国の天気予報の
発表を始める。一般向けに市内の派出所に天気予報を掲示する。のち、2 月 16 日を「天
気図記念日」(天気図の日)と呼ぶ。]
1883. 2.16【日本】東京電燈会社の設立が許可される。[以後、臨時の電燈照明や発電照
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明設備を請負施行する。1885 年、東京銀行集会所開業式で、40 個の白熱電球を初めて点
灯する。1886.7.5 日本橋に直流発電機を設備し、周辺の企業に電灯用電力をを供給開始
し、開業する。]
1883. 2 . −【日本】神奈川∼京都間の郵便物逓送を内国通運会社に委託する。
1883. 3.10【日本】駅逓局が、郵便禁制品封入の郵便物は直ちに差出人に差戻し、逓送し
ないよう注意する。
[5.5 郵便禁制品を局前に提示することを指示する。]
1883. 3 . −【日本】文部省編輯局が、「送仮名法」を定める。
1883.3.31【日本】東京∼千葉間の往復馬車に郵便物逓送を委託する。
1883. 4.16【日本】新聞紙条例を全文改正、言論の取締りを強化する。新聞発行に当たっ
ては巨額の保証金納付制度を定め、発行禁止・停止の適用を拡大する。保証金の額は、
時事評論を報道する新聞は、東京で 1000 円、京都・大阪・横浜・兵庫・神戸・長崎で 700
円、その他の地方で 350 円、1 月 3 回以下はこれらの半額とされ、各新聞社は大打撃を
受ける 。
『團團珍聞』の姉妹誌『驥尾団子』のように″身代わり新聞″が一切禁止され
る。[5 月 、
『驥尾団子』が終刊。
]
1883. 5.10【日本】
『官報』発行のため、太政官(内閣)に文書局が設置されている。初代
局長平田東助。
[7.2 『官報』創刊。
]
1883. 5.26【日本】初の暴風雨警報が福井県に出される。これにより汽船が出帆を取り止
めたところ、実際に暴風雨となり。危害を免れる。
1883. 5 .−【日本】岐阜県中津川に電信局が開設される。
[1884.4 取扱電報通数が少なく、
開局 11 ヵ月で閉局を余儀なくされる。
]
1883. 6 . 3【日本】江崎礼二が、輸入乾板により写真を撮影する。
1883. 6.25【日本】
『中外郵便週報』廃刊。
[7.3 『東京日日新聞』火曜日号に駅逓局の記
事欄を設け、そこに掲載することとする。1884.12.23 『東京日日新聞』に通達類を掲載
することを止める。1885.1.7 『駅逓局報』を創刊 。
]
1883. 6.29【日本】改正出版条例が定められる。発行 10 日前の内容の届出が義務づけら
れ、罰則が強化される。
1883. 7. 1 【日本】かな文字運動の 3 団体が合併して、「かなのくわい」を結成する。会
長に有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王が就任する。
1883. 7. 2 【日本】政府による『官報』第 1 号が発行される。これまで政府の公報は一般
紙などを利用していたが、全国の新聞がほとんど政党機関紙の役割を果たしている状況
から、政府が対抗して発行を決め、太政官文書局が編集・発行、駅逓局が発売・配達逓
送を担当する。
[8.1 『官報』の郵送は、切手を用いず税済印を使用する。
]
1883. 7. 9【日本】郵便報知新聞社記者阪本盛徳が、自由新聞社に〈誣忘(ふぼう)記事の
取り消し談判をするのを一言一句逃さず筆記してほしい〉
と依頼するのを受けて、
若林(王
+甘)蔵(かんぞう)(26)らが、現場に速記に赴く。速記実用の始まりの日となる。
1883. 7.26 【日本 】
『官報』第 22 号に、初めての汽車時刻表、日本鉄道㈱「上野熊谷間汽
車時刻表」が掲載される。[以後、巻末の広告に、新規に開業した鉄道の区間や改正した
区間の時刻などが記載される。7.30 第 25 号に、官設鉄道では初めての「明治十六年八
月一日改正大阪京都大津間汽車発着時刻及賃金広告」が掲載される。]
1883. 7.28【日本】日本鉄道㈱が、上野∼熊谷間で日本初の本格的な鉄道を仮開業する。
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これにより東京∼金沢間の馬車による郵便大線路のうち、東京∼熊谷間は郵便物を汽車
輸送に切り替える 。『
( 東京経済雑誌』8.4 、石井寛治、1994 )熊谷駅では、初めてすしと
パンが売られる。[ 1884.5.1 高崎まで延長する。以後、主として東北、常磐地方に路線を
延ばす。1891 年、青森まで延伸。2006 年、政府により買収される。]
1883. 8.23【日本】東京気象台(のち、気象庁)で作成される天気図が、新橋と横浜の停車
場に掲示される。
1883. 9.−【日本】工部省が、清国へ出張した電信局長石井忠亮の上海での電話交換の実
況見聞に基づき、日本でも官営あるいは民営で中央局を置き電話交換事業を開始したい
と太政官に伺書を提出する。[ 12 月、太政官は民営 の方向で検討せよと指令する 。1884.4
工部省は官営で実施したいとの伺書を提出するが、却下される。1885.5 渋沢栄一らによ
る日本電話会社の創立願書を受け取る。7 月、三度太政官に伺書を提出し官営を主張す
る。](郵政省編『郵政百年史』逓信協会、1971)
1883. 9 . −【日本】札幌∼幌内炭坑間に、事務通報用電話線が架設される。
1883.10. 3【日本】札幌県庁∼札幌監獄署間に警察電話が開設される。
1883.10. 4【フランス】ヨーロッパ最初の大陸横断列車「オリエント急行」が営業を開始
する。午後 7 時 30 分、新型の寝台車を備えた記念列車が、パリ東駅をイスタンブル目指
して発車する。[以後、ドナウ川に鉄橋がないため、乗客はブカレストでいったん下車し、
対岸からローカル列車で黒海に出て、汽船に乗り換える。81 時間 30 分かけて目的地に
到着する。1884 年パリ∼イスタンブル間 3186km の直通路線が開通、名実ともに東西を
結ぶオリエント急行となる。第 1 次と第 2 次世界大戦の間、黄金時代を迎える。第 2 次
世界大戦後、寝台車を普通の客車におきかえて、パリ、ウィーン、ブダペストをむすぶ
列車がオリエント急行とよばれるが、かつてのオリエント急行とはまるで別のものとな
る。1962 年、シンプロン・オリエント急行は姿を消す。 1977.5.20、経営難のため廃止が
決まり、最後の列車がパリのリヨン駅を出発する。1970 年代後半、アメリカの実業家ジ
ェームズ・シャーウッドが廃棄された戦前のワゴン・リ社の寝台車を購入して復元する。
1982 年、ベニス・シンプロン・オリエント急行㈱を設立、ぜいたくな観光列車として定期
運転を開始する。]
1883.10.10 【日本】神戸∼姫路間に人力車による郵便物逓送を内国通運会社に委託する。
1883.10.20 【日本】熊谷∼本庄間の郵便物逓送を汽車により行う。
1883.10.25 【日本】『交詢雑誌』に、電信機の操作が高度な熟練を要することから、電話
機もさぞかし、と思う人から 、〈該機(電話機を指す)は技術に熟せざれば、使用する能
わざるか。果たして然らば、何ほどの年月を修業せば学び得らるるや〉との質問が掲載
される。
1883.10.27 【日本】外国人は自署を以って調印とみなすこととする。
1883.11.20 【日本】大阪梅田電信分局を西部電信中央局と改称する。
1883.11.28 【日本】国際的社交機関の洋風建築物、鹿鳴館が、麹町内山下町(内幸町山下
門内)に完成し、盛大な開館式が行われる。総工費 18 万円。煉瓦造り 2 階建てで、客室、
食堂,奏楽室,喫煙室,玉突場,来賓物置場等がある。婦人化粧室は美麗を極め,楼上
正面に舞踏室があってその両端には見物室と休息室がある。招待状は 1200 余通が発送さ
れ、これまで日本の習慣にはない夫妻招待という西洋の形をとる。ガス灯のシャンデリ
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ヤが屋内を真昼のように照らし、内外の高官、上流の紳士淑女約 600 人が集まり、夜会
を盛大に催して、舞踏会が夜半に及ぶ。〔1881 年に着工、1883 年 7 月に落成。設計はイ
ギリスの建築家 J.コンドルによる 。
〕[以後、連日のように政府高官や外国使臣などの舞
踏会が開かれ,
その様相は欧化政策の象徴となり ,
いわゆる鹿鳴館時代を現出させる 。
1887
年 4 月 20 日、鹿鳴館ではなく首相官邸で仮装舞踏会が行われ、その風潮が頂点に達する 。
1889 年、第十五銀行に払い下げられる。1890 年 11 月∼ 1933 年、華族会館として使用さ
れる。その後、日本徴兵保険会社に売却され、日本徴兵保険、内国貯金銀行、日本不動
産、浜松銀行支店等の事務所として使用される。1941 年 3 月、取りこわされる。]
1883.11.−【日本】若林(王+甘)蔵(かんぞう)( 26)が、報知新聞記者矢野文雄(龍渓)の依
頼に応じて、古代ギリシャを舞台にした政治小説『経国美談後編』の口述速記を始める 。
以前に矢野が書いた『経国美談前編』が予想以上の好評を博し、続編を求める声が高ま
っていたが、矢野が多忙で求めに応じることができないまま、たまたま健康を害して休
養することになり、速記の第一人者として名を上げつつある若林に協力を求めて口述筆
記することになる。[以後、1 ヵ月かけて速記する。この年、若林(王+甘)蔵が、高等法
院(皇室、国事に対する重罪、皇族の犯した重罪などを管轄する刑事だけの特別裁判所。
1881 ∼ 90 年に存在する)で行われる審問弁論を筆記する。日本で最初の裁判速記とされ
る。1884.2 『経国美談後編』が発行される。その巻末に、若林は「速記法のことを記す」
と題して本文の記述に用いた速記符号を掲げ、初めて「速記」という言葉を使用する。
以後も、「速記」という語はすぐには定着せず、記音学、疾書術、捷書(しょうしょ)法、
略記法、速書法、早書法、短記法、線状筆記法、言語速写法、言葉の写真法、言語写真
法、言葉の早取写真、語の紙取り写真、写言術、写言学、書言学などさまざまに呼ばれ
る。
]
1883.12. −【日本】太政官が、電話事業を民営の方向にて検討するよう指示する。
1883.11. −【日本】新橋横浜間汽車時刻及賃金表が改正される。初めて「切符」の呼称が
用いられる。
[1886 年 1 月、
「定期乗車券発行規約」が制定され、初めて「乗車券」とい
う呼称が用いられる 。
]
1883.12. 4【日本】郵便関係免税郵便物には「郵便事務」と表示することとする。
1883. ○【日本】この頃、活版本が安価に出回るようになり、明治維新以後活気を取り戻
していた貸本屋が、この頃を境にして、減少に転じる。
1883.○【日本】『朝日新聞』が、1 日平均発行部数 2 万 1461 部で、全国一になる。
1883. ○【日本】責任有限会社丸善商社(のち、丸善㈱)が、チャンブル編、西村茂樹ほか
訳『百科全書』を予約募集して出版する。
1883. ○【日本】この頃から、ガス灯による照明が、劇場、官庁、学校、新聞社、大商店
などに普及し始める。
1883. ○【日本】濱田けいじろうが、日本で初めて上野駅で駅弁の販売を始める。(?要
確認)
1883. ○【日本】世界基督教婦人矯風会が結成される。
1983. ○【日本 】北海道で、警察∼集治監∼囚人作業所を結ぶ監獄電話網を拡充する。[∼
1889 年頃。]
1883.○【ドイツ】ダイムラー Gottlieb Daimler( 49 )が、ガソリンを燃料とする世界最初の 4
- 522 -
サイクル・ガソリンエンジンを製作する。エンジンは縦型で小型・軽量、回転速度も従来
のものの約 4 倍、毎分 800 回転という過去最高のものである。オットーの工場で研究員
として働いたダイムラーが、独立して研究所を開き、オットー時代の友人ウィルヘルム・
マイバッハの協力を得て、新式エンジンの開発に取り組み、開発に成功する。熱管型点
火装置、気化器は表面型である。ダイムラーらは、エンジンを可搬式にするために、こ
の頃クリーニング以外には使い道のなかったガソリンを燃料に選び、広く浅い皿に入れ
たガソリンが大気の熱で蒸発してできるガスを集めて使う方法をとる。点火には最も苦
心し、電気火花を利用する考え方には至らず、1 本のプラチナ棒をシリンダー内にねじ
込み、外からバーナーで熱して中でガスに点火するホットチューブ・イグニッションとい
う方法を考案する。
ダイムラーはこのエンジンを小型の乗り物に応用しようと考える。
[の
ちに、気化器は霧吹き型とし、吸入空気は予熱されるようにする。1885 年、自転車にエ
ンジンを取り付けて走行に成功する。]
1883. ○【イギリス】ハーストが、静電誘導起電器を発明する。
1883.○【アメリカ】ピュリッツァー Joseph Pulitzer が、『ニューヨーク・ワールド New
York World』を買収する 。イェロー・ジャーナリズム( yellow journalism )の先駆けとなる。
1883. ○【アメリカ】リチャード・スティルウエルが、機械生産によるクラフト紙の平底
紙袋の特許をとる。[ 1930 年代に、アメリカでスーパーマーケットが出現して、平底紙
袋がブームになる。(
] チャールズ・パンティ『日常的な事の驚くべき起源 』Harper & Row)
1883.○【アメリカ】保険外交員ウォーターマン Lewis E. Waterman( 46 )が、毛管現象を
利用した万年筆を考案する。1880 年の初め、ニューヨークで保険のセールスマンをして
いた彼は、万年筆のインク漏れで顧客の契約書類を汚すという大失態を演じてしまい、
一念発起し、インクがもれない万年筆の発明に没頭してきた。[1884 年、ウォーターマ
ンは、毛管式万年筆の特許を取得して万年筆製造会社を設立する。]
1883.○【アメリカ】ベル電話会社のベル Alexander Graham Bell(36)が、科学雑誌『サイ
エンス Science』を創刊する。
1883. ○【アメリカ】ワイオミング州チェイニーの町で、電話会社が一部に黄色の用紙を
使った電話使用法図解を編集・発行する。利用者の評判を得る 。
[のちに、黄色用紙を
使用したビジネス別電話帳が広まり 、
「イエローページ」と呼ばれるようになる。
]
1883. ○【アメリカ】ローブリングの設計によるニューヨーク市の吊り橋「ブルックリン
橋」が、開通した。中央部のスパンは 486.2m。
1883. ○【アメリカ】この頃、発明家ジョージ・イーストマンが、感光乳剤を塗付した長
い紙片でつくったフィルムを製造する。[1888 年、イーストマンは、リボン状のニトロ
セルロースを使って、透明で自由に曲げられるフィルムベースをはじめて製造する。]
1883.○【アメリカ】エジソン(36)が、白熱電球内に Pt 板を入れて実験中に、電源の+
側に接続するとわずかな電流が流れるが、−側に接続すると電流が流れない現象、いわ
ゆる「エジソン効果」を発見する。[これは 2 極真空管による整流作用であるが、エジソン
は積極的に応用しようとはしなかった。1904 年に J.A.フレミングが初めてエジソン効果
を検波器に利用しようと試み、2 極真空管を開発する。]
1883.○【アメリカ】エジソン( 36 )が、自製の発電機や配電設備を利用して独自の電気機
関車をつくる。[以後、この年からの始まる電気鉄道事業を基礎づける。]
- 523 -
1883. 【流行語】海坊主退治。壮士。束髪。
1883. 【流行語】皇御国(すめらみくに)。
1884(明治17)
1884. 1. 3 【日本】大阪鎮台兵数百人が、松島遊郭で巡査と乱闘し、死傷者 9 人が出る。
1884. 1.24【日本】政府が、太政官文庫を設立し、内閣所蔵の図書を収める。さらに、各
官庁所蔵の図書を収集・管理する。[ 1885.12.22 内閣文庫と改称。紅葉山文庫・昌平坂学
問所・和学講談所などの旧蔵書をも引き継ぐ。1971 年 7 月、国立公文書館内に移る。]
1884. 1.27【日本】林茂淳が、かなの会総会で外山正一の講演を筆記する。日本で最初の
演説速記とされる。
1884. 2.15【日本・朝鮮半島】九州∼釜山間に電信が開通する。釜山に日本電信分局が開
業する。
[1885.6 朝鮮政府は、中国と「朝中電信条約」を締結して、ソウル∼義州間の
電信線を架設する。
]
1884.3.15【日本】宮城県庁∼宮城県警察署・同監獄署間に警察電話が開設される。
1884. 3.29【日本】岡山県岡山警察署∼岡山県庁・岡山県未決監獄署・同未決監督署間に
警察電話が開設される。
1884. 3 . −【日本】文部省編輯局編『読方入門』刊。
1884. 4 . 1 【日本】UPU 往復郵便葉書交換協定に加盟する。
1884.4.12【日本】海底電信銭保護に関する万国連合条約に加盟する。
1884. 4.29【日本】郵便 1 銭帯紙を新規に発行する。[以後、これを最後に郵便帯紙は発
行されない。]
1884. 4 . −【日本】工部省が、電話事業の官営案を提出する。太政官は却下する。
1884. 4.−【日本】国有鉄道の滋賀県長浜から福井県金ヶ崎(のち、敦賀港)まで電話線
が架設される。[1892.2 電話線は廃止される。1885 ∼ 1888 年に架設された高崎・横川間
は、早くも 1889.2 に廃止している。これらは電信線に併設したため、電信線からの誘導
妨害が激しく、ときにほとんど通話不能となる。東海道線では最初から電話は使用され
ない 。
]
1884. 5 . 1【日本】大阪商船会社が開業する。
1884. 5 . 5【日本】京橋区南鍋町一丁目 7 番地の長野士族根村熊五郎編輯の『人身造化論』
が当局により発売禁止を命じられる。
1884.5.10【日本】郵便禁制品を郵便函に朱書で追加掲示する。
1884.5.12【日本】貨幣封入郵便物の逓送・配達などを内国通運会社に委託する。
1884. 5.26【日本】兌換銀行券条例が、太政官布告で定められる。日本銀行に銀貨兌換の
日本銀行券を発行させる。保証準備屈伸制限制度による[1885.5.9 10 円券を発行。9.8 1
円券、100 円券を発行。1886.1.4 5 円券を発行。1941 年、最高発行額屈伸制限制度に改
められる。]
1884. 5.30【日本】東京・芝日陰町通りの清涼亭が、新聞縦覧所を開設し、客に見せる。
各種新聞が取り揃えられ、誰でも無料で読めるようになる。この頃、新聞月極購読料は 60
∼ 80 銭、警察官の月給が 6 ∼ 10 円で、一般の庶民には買って読めなかった。( NHK ラ
ジオ「今日は何の日」1999.5.30 による 。
『記念日の本』にも記載。)
- 524 -
1884. 5.−【日本】江藤直純らが、福沢諭吉の支援で東京の京橋に広告取次業を開業し、
時事の広告の取次を開始する。
[1886.11 社名を弘報堂として、新聞などの広告スペース
の売買を専業とする 。
]
1884. 6. 1 【日本】東京気象台(のち、気象庁)が、毎日 3 回、全国の天気予報を発表し始
める 。最初の天気予報の文面は〈全国一般風の向きは定まりなし、天気は変わりやすし 。
但し雨天がち〉というもの。一般向けに市内の派出所に天気予報を掲示する。この日は
最初の気象記念日である。
1884. 6. 7【日本】太政官布告で商標条例を定める。不正な輸出競争防止のため、登録商
標には 15 年間の専用権を与える。[10.1 施行。]
1884. 6.12【日本】婦人慈善会が、鹿鳴館で日本初のバザーを催す。社交界のハイカラな
婦人たちが約 3000 点の手芸品を持ち寄り、新聞広告まで出して宣伝した甲斐あって、大
盛況を呈す。
[∼ 6.14 。この間、総勢 1 万 2000 人が入場し、売上は 8000 円を超える。
]
1884. 6.25【日本】日本鉄道㈱の上野∼高崎間が開通し、上野駅で開業式を行う。会場に
白熱電燈 24 個を点灯する。
1884. 7 . 1【日本】神奈川∼小田原間の馬車便に郵便逓送を委託する。
1884. 7.−【日本】この頃から、鹿鳴館で毎週月曜日に西洋舞踏練習会が開かれ、華族、
高官、実業家やその夫人・令嬢らが集まる。
1884. 7 .−【日本】共同運輸会社の新造汽船山城丸が就航する。[9 月、横浜・神戸間を 26
時間 25 分の新記録で運行する。](『万報一覧』43 号、9.5、石井寛治、1994 )
1884. 7.−【日本】東京・京橋の東京稗史(はいし)出版社が、若林(王+甘)蔵に依頼して
三遊亭円朝の口演『怪談牡丹燈籠』の速記を始める。[以後、酒井昇造が速記に参加し、
毎週土曜日口演 1 席を 1 回として、合計 15 編を出版、初めて「速記本」となり刊行され
る。臨場感に溢れた文章が評判となり、速記が音声芸能を活字にするメディアとなり、
また講談落語速記本の流行の火付け役となり、さらにはのちの言文一致運動のきっかけ
にもなる。活字の約物(記号活字)も各種新たに用いられる。句点(。)は木版の時代に
定着していたが、かぎ括弧(「 」)は 1972 年仮名垣露文『安愚楽鍋』にわずかに用いら
れ、『怪談牡丹灯篭』で初めてかぎ括弧や句読点が頻繁に用いられる。また、各本の始
めに若林が序詞を書き、速記符号を掲載し、速記の宣伝にも一役果たす。1885 年、
『塩
原多助一代記』(速記法研究会)『英国孝子之傳』(速記法研究会)など円朝の講談速記が
若林かん蔵、酒井昇造らによって活字となって刊行される。以後、この成功によって速
記本は広く世人に親しまれ、また言文一致の推進力ともなる。のち、酒井は講談落語速
記の重鎮となる。二葉亭四迷は『浮雲』の文体を〈円朝子の物真似で日本の新文章の嚆
矢〉と自ら書く。山田美妙(びみょう)は雑誌『伊良都女(いらつめ)』に小説『風琴調一
節(ふうきんちょういっせつ)』を連載し、序文に〈この文体は一口にいえば、円朝子の
人情噺の速記に修飾を加えたもの〉と弁明している。]
1884. 8.11【日本】郵便切手類を郵送する包紙は、今後油紙に代え渋紙を使用することと
する。
1884.10. 1【日本】商標条例が施行される。不正な輸出競争防止のため、登録商標には 15
年間の専用権を与えられる。
1884.10. 1【日本】小山梅吉が、日本で初めてネクタイの製造を始める。[ 1971 年、日本
- 525 -
ネクタイ組合連合会が 10 月 1 日を「ネクタイの日」に制定する。
1884.10. 2【日本】静岡県警察本部∼静岡県井宮監獄署間に警察電話が開設される。
1884.10.13 【イギリス】ロンドン南東部、テムズ川南岸のグリニジ(グリニッジ)天文台
(Royal Greenwich Observatory)を通る子午線が、ワシントンの国際会議で、本初子午線に
指定され、経度および時刻の原点となる。1675 年、国王チャールズ 2 世の命により設立
され、建設当初は、台長と数人の召使いがいるという小さな天文台であったが、フラム
スティードの星図作成、ハリーの彗星の回帰の発見、ブラッドリーの光行差の発見など、
天文学史に残る業績がここから生まれた。さらに子午儀や子午環による精密な天体の位
置観測が積み重ねられ、これらの努力が、グリニジ天文台を世界の子午線の基準とする
という決定の要因となる。[ 1946 年、ロンドンの市街光が明るくなりすぎたため、ロン
ドンの南方、サセックス州ハーストモンソーに天文台の移設が決まる。以後、約 10 年を
かけて移される。]
1884.10.−【日本】電信私設規則が廃止される。
[1885.5 電信条例改正により、官設の電
線のない地における 1 人または 2 人の用に供するものに限り、私設電線が許可される。
]
1884. 9.25【日本】小西義敬が、日本初の本格的夕刊紙『今日(こんにち)新聞』を東京・
京橋で創刊する。主筆は戯作者の仮名垣魯文(55 ) 。
[以後、野崎左文は、これに挿絵を入
れたいという野心を抱くが、夕刊紙であるため版木の彫りが間に合わないので、行幸と
か開業式などあらかじめ予定のわかっているものは前もって想像で版木を作っておき、
さらに殺人、情死、強盗などの犯罪物も、類型的な絵柄で彫って版木のストックをおく
ことにする。しかし、大半は事件の人物と版木の絵柄のイメージが相違して、結局九割
は廃物となる。そこで、廃物を活用するために、絵柄に合わせて捏造記事を書くように
なるが、それでも記事と版木の絵柄がうまく合致せず、
こうした試みは失敗に終わる 。
(『明
治文学回想集』所収の野崎左文「明治初期の新聞小説」による。) 1888.11.1 書舗金港堂
が買収して『みやこ新聞』と改題。1889.2.1 題字を漢字に改め『都新聞』と改題、朝刊
紙に移行する。主筆は黒岩涙香。黒岩涙香の翻案小説、伊原青々園の探偵実話、劇評な
どにより、東京下町を中心に読者を集める。1892 年、改進党の楠本正隆が買収して以後
は、政治的には改進党寄り、後には政友会系といわれるが、党派色は薄く日露講和反対
運動で、マスコミの大勢に従った程度にとどまる。1919 年、福田英助が買収する。福田
は花柳記事の縮小と趣味・商況記事の振興など紙面刷新に努める。1923 年、
『大阪新報』
を併合、『大阪都新聞』を発行するが振るわず、1926 年同紙は休刊する。1936 年 10 月、
夕刊発行を始める。1942.10.1 新聞事業令による統合により『国民新聞』と合併して『東
京新聞』となる。
]
1884.11.18 【朝鮮半島】朝鮮政府が、郵便事業を創業する。
1884.11. −【日本】製紙会社(のち、王子製紙㈱)が、サルファイトパルプとグラウンドパ
ルプを初めてぼろに混合して試抄する。
1884.12. 5【日本】郵便葉書を諸種の証書に用いて裏面に証券印紙を貼付してあるものも
葉書として通用することとする。
1884.12.17 【日本】東京∼白河間、白河∼福島間、福島∼仙台間の往復郵便馬車に郵便物
の逓送を委託する。
1884.12.23【日本】駅逓局が、
『東京日日新聞 』に通達類を掲載することを止める。
[1885.1.7
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『駅逓局報』を創刊する。
]
1884.12.27 【日本】往復葉書を発行することとし、郵便往復葉書使用方法を制定する。
1884.12.28 【日本】福井県庁∼福井県警察署間に警察電話が開設される。
1884.12.29 【日本】
『東京日日新聞』に、「明春早々に〈美人共進会〉を行う」との記事が
でる。日本の美人コンテストの先駆けとなる。[しかし、実際に開催されたかどうかは不
明。]
1884. ○【日本】スイス政府から外務省に、著作権を国際的に保護するための国際会議へ
の出席を呼びかける。外務卿井上馨が、内務、文部、農商務の関係各省へ意見を徴する
こととし、会議の目的は〈文学及技術上発明ヲ為シタル者ノ権利を保護〉するためだが 、
これは〈著作権 〉のことと解した方がよいと添書し、各省に回付する 。初めて「著作権 」
の語が登場する。寄せられた回答は次の通り。内務卿山形有朋は、日本の開化には必要
だろうが 、〈国勢ノ進歩同等ノ地位ニ在ラズシテハ其利ヲ見ル能ハズ〉北米合衆国でも
参加しないから〈同意ヲ表シ難ク候〉と反対する。文部卿大木喬任は、一大美挙には相
違ないが、加盟すると〈彼ニハ益アルベキモ我ニハ益スル所ナク、百般ノ事業上不便少
ナカラズ〉と反対する。農商務卿西郷従道は、日本にはまだ「美術上の著作権を保護」
する法律はない。熟考しなければならないので、当面は謝絶する、と回答する。加盟は
反対ということで、欠席する 。
[1886 年、ベルヌ条約本会議には、オブザーバーが出席
する 。
]
1884. ○【日本】製紙会社(のち、王子製紙㈱)が、新聞用紙供給過剰のため上等紙の抄造
を開始する。
1884. ○【日本】仮名垣魯文主筆の『今日新聞』(のちの『都新聞』『東京新聞』)が創刊
される。主に花柳界で読まれる。
1884.○【日本】若林(王+甘)蔵(かんぞう)( 27)が、千葉県議会の議事筆記に従事した経
験から、書記によっては意にかなった演説は立派な議論に書き上げ、相当長い演説でも
趣意が一貫しないものは 1、2 行に葬るといった仕事ぶりを慨嘆し、地方議会にも議事録
を要点だけ筆記するのではなく速記録を採用させようと運動する。郷里の埼玉県に全国
で初めて速記を採用させて、酒井昇造と共に速記に当たる 。
[1885 年、群馬県議会が採
用する。1886 年、茨城県議会。1887 年、長野県議会、愛知県議会が採用。1888 年頃ま
では、地方議会では国会の口語体とは異なり、速記の仕上げは格調高い文語文で書かれ
る。1925 年、青森県議会が速記を採用し、これで全国の道府県議会がすべて速記録を作
成する体制を整える。また、全国の主要な市議会、町議会へも普及する。
]
1884. ○【日本】この頃、東京帝国大学の本郷赤門前の文具・洋書店が、外国から輸入し
た筆記用紙を綴じあわせてノートの形にし東大の学生用に売り出す。"大学"というのは
ブランドそのものだったため、そのまま「大学ノート」の名前で売り出す。[以後、日本
で初めて洋装丁の罫線入りノートを作って販売する。以後も、大学生が使うので「大学
ノート」と呼ばれる。]
1884. ○【日本】横浜のバンダイン商会が、コース・ファウンティン・インク社製のスタ
イログラフィック・ペン「コース万年筆」を輸入 、東京の丸善、伊東古一堂で発売する。
日本に万年筆が輸入された最初となる。
1884.○【日本】島津源蔵(15 )が、物理実験用誘導起電機を完成、理科教育の場に新風を
- 527 -
吹きこむ。
[1887 年 、父の初代源蔵の後任として京都師範学校金工科教師を兼ねる。1894
年、工場経営をつぎ、精力的に研究開発活動を展開。1895 年、島津源蔵が、日本で初め
て鉛蓄電池を製造。1896 年、レントゲン写真撮影に先鞭をつける。1917 年、島津製作所
と改称。1917.1.17 産業用大型蓄電池の工業的製造に着目して日本電池㈱を分離独立させ
る。1920 年、易反応性鉛粉製造法を発明し、世界的に知られる。
]
1884. ○【日本】岡田常三郎が、外国書の翻訳ではない日本人初の性科学書『新選造化機
論』を刊行する。内容は、やはり翻訳書の丸写しに近いが、男女が交合して、男の精液
中にある精虫が女の卵子に触れて〈胎孕(みごも)る〉とし、男子・女子いずれでも自在
に生み分ける法、避妊の法などを記述する。
1884. ○【シンガポール】日本の淡路藩の家老の息子稲田新之助と通訳の神戸新と称する
インテリやくざが来島し、唐行きボスとなる。
1884.○【スウェーデン】ダール C. F. Dall が、クラフト法による木材のパルプ化を発明
する。[以後、大量生産可能な木材パルプが出現し、パルプ工業を製紙工業からの独立
可能な産業とし、洋紙・板紙工業を近代化する。
]
1884. ○【スイス】スイス政府が、著作権を国際的に保護するための国際会議を各国に呼
びかける。2 国間条約以外の方法により著作権の国際的な保護への要請が、とくに各国
の文学者をもって組織される国際文芸家協会を中心に主張されるようになり、これを受
けたスイス政府が各国代表を召集して、会議を開く。[ 1886 年、スイスのベルンで「ベ
ルヌ条約」が成立する。]
1884. ○【ドイツ】若者の間に流行したワンダーフォーゲルの中から、最初のユース・ホ
ステルが開設される 。
[1909 年 、小学校教師シルマン RichardSchirrmann (1874 ∼ 1961)が、
生徒の徒歩旅行の宿泊場所として、休暇中の小学校の教室を転用することを思いつき、
ユース・ホステルの整備を初めて提唱する。シルマンの提案はまずドイツ国内で実現し、
次にヨーロッパに広がる。1932 年、国際ユース・ホステル連盟が設立される。
]
1884.○【ドイツ】ベンツ Carl Friedrich Benz( 40)が、最初の自動車の試作品をつくる。[1885
年、1 気筒 4 サイクルのガソリンエンジンを製作,三輪車に搭載し初の現実的可能性の
ある自動車として工場敷地内を走らせる。]
1884.○【ドイツ】ベルリン大学の物理学の学生ニプコー(ニポー)Paul G. Nipkow(24 )が、
イギリスのソーヤー W.E.Sawyer の構想と電話機の発明にヒントを得て、遠くにいる母親
に自分の動く姿を送りたいと思い立ち、動画像を送る装置、
「電気望遠鏡」を考案する。
のちにニプコーの円盤(あるいはニポー円盤)と呼ばれるもので、盤状の周辺に沿って
小さな穴を渦巻き状に開け、1 回転で 1 画像の全面をスキャンするようにしたもの。小
穴を通過した光がセレン Se で明るさに応じた強弱のある電気の信号に変換される。この
電気信号が電線を通じて遠隔地に送り、ファラデー効果を利用して電気信号を磁気に変
換したあと、磁気を光に変換し、その光をニプコー円盤を通して元の画像を見る。この
ようにして、動画像を瞬間的に見る静止画の連続としてとらえ、おのおのの静止画を1
枚づつ細かく走査して分解し、再び組み合わせて静止画を再生し、これ高速に連続して
送り、目の残像効果を利用して動画像を構成していくものだが、原理の提案だけで、自
分では実験していない。[機械式ながら、のちのテレビの基本動作原理となる。
]
1884.○【フランス】ドラマール=ドブットビル Edouard Delamare-Deboutteville とレオン・
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マランダンが、ガソリン自動車を試作する。[1984 年、フランスで盛大に「フランス自
動車百年祭」を祝う。しかし、この試作は発明者一代限りで終わっており、歴史の流れ
に影響を与えてはいない。
]
1884.○【フランス】ユイスマンス Joris-Karl Huysmans(36)が、自然主義の題材の狭隘(き
ようあい)さと単調さに飽き足らず、『さかしま』を著し、自らの世紀末的審美眼を駆使
した人工美の世界に転進を企てる。ヨーロッパ文学がリアリズムからデカダンスへ転じ
る転機となる。ポルノもサドやレチフの反生殖ポルノを召喚する。
1884.○【イギリス】議会が、メートル国際条約を批准する。[ 1974 年、学校教育がヤー
ド・ポンド法からメートル法に代わる。]
1884.○【イギリス】J. ジェフリーズが、初めて自由気球に乗り高層気象の観測を行う。
1884. ○【イギリス 】、コベントリーに自転車工場を建設したジェームス・スターレー
James Starley の甥ジョン・スターレー John K. Starley (30)が、安全型(セフティー型)自転
車を開発する。初めて前輪と後輪の直径が同じ大きさで鉄製のチューブ・フレームを使
用し、チェーン伝動をもったペダルと、ばね機構を備えたサドルが用いられ、ダンロッ
プ John B.Dunlop( 44)が発明した空気入りゴムタイヤが使われている画期的な自転車で、
のちの自転車の原型となる。[1885 年、「ローバー号」を製造・販売する。]
1884. ○【イギリス】ロンドン・エジソン電灯会社技術顧問フレミングが、電灯の明るさ
を増すためにいろいろな実験を行っている中、エジソン効果を発見する。白熱電球の中
に陰極のフィラメントと、それをとりかこむように陽極の金属円筒(プレート)を挿入し 、
電子の流れをふやすために、円筒のプレートとフィラメントの間に正の電圧を加えると、
プレートからフィラメントを通して電流が流れるが、負の電圧を加えた場合には電流が
流れない。[以後、この現象は電球の明るさを増すことには役に立たず、エジソンはその
まま放置する。1904 年、フレミングは、この 2 極の管は電流を一方向にしか流さないこ
とから、高周波を検波するのにこの特性を利用することを考え、電球と同じ構造の二極
真空管を考案する。]
1884.○【イギリス(?)】パンコースト J.Pancoas が、無精子症の夫をもつ妻に対して、
世界で初めて非配偶者間人工授精( AID;artificial insemination withdonor's semen)を行う。
[1949 年、慶応病院産婦人科家族計画相談所で、日本最初の AID による女児が誕生する。]
1884.○【アメリカ】ニュヨークの保険外交員ウォーターマン Lewis E. Waterman( 47)が,
ペンに密着しているペン芯の背に角溝をつけて空気の流通を図るとともに,角溝の底部
に細い溝を通し,毛細管作用でインキが伝わるようにした万年筆の特許を取得し、ニュ
ーヨークに万年筆製造会社「L・E・ウォーターマンカンパニー」を設立、フルトンスト
リートにある小さなタバコ店奥のキッチンテーブルで、生産を開始する。万年筆の本体
はエボナイト製で、初年度 200 本を生産し、実用的な万年筆の基礎をつくる。
[1887 年、1
日に 1000 本を生産するまでになる。その後、ヨーロッパへ輸出して大ヒットする。1900
年、パリ万国博覧会で最優秀賞を獲得する。ウォーターマンは万年筆を発明しただけで
なく、世界に万年筆を普及させた功労者といわれる。1925 年ころ、万年筆の本体はセル
ロイド製となる。1950 年代、合成樹脂に変わる。
]
1884.○【アメリカ】ベントン Linn Boyd Benton ( 40)が、活字の父型彫刻機を発明する。
二等辺三角形の理論を応用して、精度の優れた活字の父型、したがって母型が作られる
- 529 -
ようになる。[以後、
「ベントン彫刻機」と呼ばれる。また、ベントンは、すべての活字
の幅を 1/6 単位で定め、M を 1 とし、7/6( W)、1、5/6(A)、4/6 (abd )、3/6( ce)、2/6( l)
の 6 種とする。のちに、これでは幅の種類が少なすぎるので、12 ∼ 15 種類が定められ
る。
]
1884. ○【アメリカ】ドイツ生まれのオトマー・マージェンティラー(オトマル・メルゲン
タルラー)Ottmar Mergenthaler( 30)が、行単位の紙型製作機を完成する。個々の活字はタ
イプライターに似た機械でピックアップされ、単語の間や行間を整列した上で紙型の元
版に押しつける。[ 1885 年、活字の代わりに母型を並べて鋳造用の溶けた鉛を流し込め
ば、紙型も不要で活字鋳造機も要らなくなる、という発想から、鍵盤への入力だけで組
版作業をほとんど自動化できる植字鋳造機の第 1 号機「ライノタイプ」を完成する。
1886.7 ニューヨーク・トリビューン社の新聞『Tribune(トリビューン)』の印刷に使用さ
れる。]
1884.○【アメリカ】イーストマン George Eastman (30 )が、初めてニトロセルロースフ
ィルムにゼラチン臭化銀乳剤を塗布した写真フィルムをつくる。
1884. ○【アメリカ】フィラデルフィア万国電気博覧会が開かれる。ここで、工部大学校
の物理学・電信学教授藤岡市助( 27 )がエジソンと交歓する。[のち、これが基で東京電気
㈱と GE 社が技術提携を行う。]
1884. ○【アメリカ】ネブラスカ州のグランド・アイランド電話局で、同局最初の電話帳
が作られる。1 枚の紙に加入者 65 件を印刷し、欄外に〈加入者は一度に 2 個以上の電話
に応答するな〉と注意書きが掲げられている。
1884.○【アメリカ】パターソン John Henry Patterson( 1844 ∼ 1922)が、リティの事業を
継承して、ナショナル・キャッシュ・レジスタ社( National Cash Register Co.)(NCR)(オ
ハイオ州デイトン)を設立、キャッシュレジスタの製造・販売を始める。[ 1912 年、ア
メリカの金銭登録機市場の 90 %を獲得し、
「ザ・キャッシュ」と通称されるまでになる。
1970 年、世界初の POS ターミナルを発表する。1971 年、電子レジスタ、オンライン現
金自動支払機を発表する。以後、業務の中心をコンピュータ部門に移していく。1974 年、
略称の NCR を正式社名とする。1991 年、AT&T と合併してコンピュータ事業を担うビ
ジネス・ユニットとして吸収される。1997 年、ふたたび NCR として分離独立する。
1884.○【アメリカ】クロアティア生まれのテスラ Nikola Tesla(27)が、ブラシのない電
動機のアイデアを実現すべくパリからアメリカに渡る。[のち、帰化する。以後、エジソ
ン会社に勤め、エジソンの下で働くが、多相交流で回転磁界をつくるこのアイデアをた
めす機会を与えられず独立する。1887 年、多相交流による電力輸送のための発電機と同
じ原理に基づく誘導電動機に関する特許を出願する。外相交流による大電力輸送技術体
系の基礎を確立する。]
1884. 【流行語】改良。
1884. 【流行歌】『仰げば尊し』。
『庭の千草』
1885(明治18)
1885. 1. 1 【日本】初の往復葉書 2 銭・4 銭・6 銭が発行される。2 銭は市内用、4 銭は全
国用、6 銭は外国用。
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1885. 1. 1【日本】
『東京日日新聞』が、8 ページ建て 1 日分を 2 つに分けて甲乙 2 版を一
組としての発行を開始する。朝・夕刊制(ワンセット制)の始め。[岡山の『山陽新報』も
始める。時期尚早で永続せず、年内に朝刊のみに復する。]
1885. 1 . 7【日本】駅逓局が、通達類を通報するため『駅逓局報』を創刊する。
1885. 1.17【日本】羅馬(ローマ)字会が、植物学者矢田部良吉、教育者外山正一らにより
創立され、第 1 回例会が開かれる。ローマ字運動の原点となる。[6 月 、
『ROMAJI ZASSHI 』
創刊。1887 年末、最盛期の会員 1 万人以上。1992.12 『ROMAJI ZASSHI 』終刊。]
1885.1.27【日本】ハワイへ第 1 回官約移民団が横浜から出発する。
1885.2.25【日本・フランス】日本・フランス間で郵便為替条約を締結する。
1885. 3. 1【日本】日本鉄道㈱の品川∼赤羽間が開通し、新橋∼赤羽間に直通旅客列車の
運転を開始する。貨物輸送が主で、宣伝不足のため乗客はゼロであった。[1903 年、池
袋∼田端間が開業する。1909.12.16 品川∼烏森(のち、新橋)∼上野間、および池袋∼赤
羽間が電化されて電車の運転が開始され、従来の品川∼赤羽間、烏森∼赤羽間の路線を
あわせて山手線(やまのてせん)となる。]
1885. 3.16【日本】郵便物に禁制品を入れ差出された場合、切手は消印し、差出人に還付
することとする。
1885.3.21【日本】万国郵便連合の郵便為替約定に加盟する。[5.23 調印。
]
1885. 3.26【日本】万国郵便連合条約が調印される。往復葉書の交換、私製葉書の使用を
認める。[1900.10.1 郵便法と鉄道船舶郵便法が施行され、私製葉書の使用が認められる。]
1885. 4.18【日本】専売特許条例が公布される。[7.1 施行。1954 年、(社)発明協会が、
特許法の前身の専売特許条例が公布された日を記念して 4 月 18 日を「発明の日(特許制
度執行記念日)」と定める。1959 年、特許法として大改正される。1960.2.26 閣議了解に
基づき「発明の日」を含んだ 1 週間を「科学技術週間」と定める。]
1885. 5. 2 【日本】尾崎紅葉(18 )が、山田美妙(17)、石橋思案( 18)らと文学上の結社「硯
友社」を結成し、手書き回覧雑誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊する。出来上がった
第一編は、半紙半切判(B6 判よりやや大きめ)、32 ページの小冊子で、紅葉と美妙が手
分けしてGペンで書き上げた。明治年間最初の文芸雑誌で、同人の小説・詩歌・戯文な
どを掲載する。同人雑誌の先駆となる。[以後、8 号まで手書きの書写本が出される。こ
のうち第 6 号が散逸し、7 冊が現存する。1886.11.1 活字による非売本を刊行する。物語
りの巧みさと艶麗な文章で圧倒的人気を獲得する。出版ジャーナリズムと結んで文壇を
支配し、泉鏡花・小栗風葉・柳川春葉・徳田秋声らの逸材を輩出する。1889.3.8 『文庫』
と改題、同年廃刊。]
1885. 5. 7【日本】電信条例を全面改定し、電信取扱規則を定める。電信事業に関する官
民の権利・義務を確定、電信取扱の細項を明らかにする。電報料金を初めて全国同一(一
市内および壱岐対馬は別)とする。和文は片仮名 10 字以内を 1 音信として 15 銭、1 音
信追加ごとに 10 銭増、同一市内は最初の 1 音信が 5 銭、以後 3 銭増。住所氏名は無料。
至急電報を申し込むと、官報は通常料金の 2 倍、私報は 3 倍を支払う。私設電線の建設
が、官設の電線のない地における 1 人または 2 人の用に供するものに限り、許可される。
[7.1 電報料金納付のために「電信切手」1 銭から 1 円まで 10 種類が発行される。1888.3
電信切手を廃止。1890.2.28 使用禁止。]
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1885. 5. 9【日本】日本銀行が、銀貨兌換の銀行券の発行を開始し、最初の 10 円券を発
行する。[9.8 1 円券、100 円券を発行。大黒札 1 円券に初めて黒すかしが本格的に採用
される。分銅、打ち出の小槌、玉鍵などの宝尽くしの図柄で 、
「日本銀行」の文字もす
き入れられる。1886 年 1 月 4 日、 5 円券を発行。最初の 10 円札は、紙の原料のミツマ
タにコンニャクの粉が混ぜてあったため、よくネズミに囓られる。1897 年、金貨兌換と
なる。1917 年 9 月∼ 1930 年 1 月、金本位制が停止され、金貨兌換は行われない。]
1885. 5.22【フランス】詩人・小説家・劇作家・上院議員ユゴー Victor Hugo( 83)が、死
去する。残された手帳に、この年の 1 月 1 日から 4 月 6 日までに、8 回女性と関係を持
ったと書かれていた。
1885. 5.−【日本】渋沢栄一・益田孝・原六郎らが、工部省に日本電話会社の創立願書を
提出する。[7 月、工部省が、民営を示唆する太政官に伺書を提出し、三度目の官営論を
主張する。最大の理由は、民営にすると官庁の機密はもちろん警察上の要件等民間に伝
漏すると弊害が著しい、という。以後、官営論と民営論の対立は激化するが、結局政府
内での官営論が強まる。1889.3 官営方針が閣議決定される 。] (郵政省編『郵政百年史』
逓信協会、1971)
1885. 5 . −【カナダ】モントリオール∼バンクーバー間に、カナダ太平洋鉄道が開通する 。
1885. 6. 2【日本】文部省所管の東京図書館が、政府の行政整理の一環として東京教育博
物館と合併を命じられる。
[9 月、湯島から東京教育博物館のある上野公園内に移転する。
10 月、公開。以後、上野図書館の愛称で呼ばれる。閲覧室は博物館施設を用い、書庫だ
けが新設される。いったん閲覧無料制にしていたのを、移転を機に閲覧有料制に戻し、1
回 1 銭 5 厘、14 回に回数券 10 銭とする。混雑する館内への入場制限の意味もある。館
外への帯出制度も厳しくし、夜間開館も廃止する。以後、サービスの後退により、閲覧
者は 1885 年度 7 万 3771 人、1886 年度 3 万 5346 人と激減する。1889.3.2 東京図書館官制
公布、博物館から分離し再び独立機関となる。
]
1885. 6.12【日本】郵便逓送時計取扱規則を制定し、郵便物の逓送をより正確に運行管理
するため、逓送人に時計を携行させる。
1885.6.25【日本】駅逓局が、すべての郵便局で貯金事務を取扱うと布告する。
1885. 6.27 【アメリカ】A.G.ベル、C.ベル、C.ティンターが、エジソンのフォノグラフの
錫箔の代わりに蝋(ワックス)を塗ったボール紙円筒蝋管録音機を開発する。ベルが、こ
のワックスがけの板に振動の型をきざむ方法の特許を申請する。[ 1886.5.4 ベルの特許成
立(アメリカ特許 341214 号)、
「グラフォフォン(graphophone)」と命名する 1887.7.6 ベ
ルが「アメリカン・グラフォフォン会社」を設立する。1889.1.20 日本で公開される。]
1885. 6.−【朝鮮半島】朝鮮政府が、中国と「朝中電信条約」を締結する。[以後、ソウ
ル∼義州間の電信線を架設し、中国との間の電信連絡を開始する。日本の朝鮮における
対外電信の独占は挫折する。]
1885. 7. 1【日本】電報料金納付のために「電信切手」1 銭から 1 円まで 10 種類が発行さ
れる 。
[1888.3 電信切手を廃止。1890.2.28 使用禁止。]
1885. 7. 1【日本】専売特許条例が施行される。専売特許局が開設され、堀田瑞松(ずい
しょう)(48)が「堀田式錆止塗料及其塗法」を出願する。[ 8.14 初めて 7 件の特許を許可
する。以後、これに刺激されて発明を志す者が増える。豊田佐吉もその一人で、自動織
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機の発明に手をつける。1899.3.2 万国工業所有権保護同盟条約に基づき、特許法、意匠
法、商標法が公布される。1909.4.5 近代法としての形を整え、改正公布される。1921 年、
大改正。]
1885. 7.16【日本】日本鉄道㈱が、東北線上野∼宇都宮間に、利根川橋梁を除き汽車を開
通させる。その鉄道工事中に工事関係者に出す弁当を請け負っていた宇都宮市内の旅館
白木屋(のち、白木屋ホテル)が、日本鉄道の委嘱を受けて旅客用駅弁を宇都宮駅で販売
する。公式な駅弁の始まりとなる。胡麻塩をふりかけた梅干し入り握り飯 2 個に沢庵漬
けが二切れついて竹の皮に包んだもので、価格は金 5 銭。うな丼 10 銭、天丼はりっぱな
エビが入っていて 4 銭の時代に、駅弁が 5 銭という高値で売られたのは、この頃列車回
数が 1 日に 2 両連結の 4 往復と本数、車両数とも著しく少なく、旅客数も限られ、駅弁
の売れ行きは微々たるもので、赤字営業だったからである。[ 10 月、信越線が開業し、
信越本線横川駅の駅弁が始められる。1886 年 3 月、3 番目の駅弁が信越本線高崎駅で売
り出される。6 月 17 日、利根川橋梁が開通する。1889 年、姫路駅で初めて本格的な経木
の 2 段式折詰めを出し、かまぼこ、鯛、伊達巻、きんとん、鶏肉、百合根,奈良漬など
が入っていた。のち、7 月 16 日を「駅弁記念日」と定められる。1993 年、日本鉄道構内
営業中央会が、7 月は季節がら弁当がいたみやすいため、4 月では駅弁の需要拡大が見込
まれる行楽シーズンであり、
「弁当」の「とう」から 10 日、さらに「4」と「十」を合成
すると「弁」に見えることから、4 月 10 日を「駅弁の日」に制定する。]
1885. 7.20【日本】キリスト教を基盤とする女性啓蒙雑誌『女学雑誌』(万春堂刊)が、巌
本善治(いわもとよしはる)を中心に『女学新誌 』から分かれて創刊される 。主宰(編集人)
近藤賢三。第 1 号の内容は、神功皇后の御像つきの小伝、文字を書く心得、婚姻奇談な
ど。[以後、11 号から女学雑誌社発行。24 号から巌本善治主宰。のち青柳猛(あおやぎた
けし)主宰。発行回数は初め月 2 回、ついで 3 回、さらに週刊、隔週刊、月刊へ。女性の
啓蒙・向上を目ざし、婦人矯風会設立や廃娼運動、一夫一婦制建白運動など、日本の初
期婦人解放運動に重要な役割を果たす。1904 年 2 月、計 548 冊出して廃刊。]
1885. 7.−【日本】郵便線路規定が制定される。人夫・人車(人力車)は、全国的大動脈で
ある「大線路」では時速約 10km の「一等速度」で逓送すること、
「人夫送」は 1 人当た
り 4 貫目(約 15kg)を運び、
「人車送」は 1 人当たり 12 貫目(約 45kg)を枠車に積んで運ぶ
こと、などが定められる。
1885. 8.14【日本】専売特許条例により、日本最初の特許として、7 件の特許が交付され
る。特許第 1 号は、漆工芸家坂田瑞松(ずいしょう)(48)が出願した「堀田錆止塗料及其
塗法」で、金属製品の錆止め塗料と塗り方に関するもの。[ 1909.3 アメリカでも防錆及
び防介藻塗料で、アメリカ特許 916869 号の専売特許を取得する。のち、8 月 14 日を「特
許の日」と制定される。]
1885.8.17【日本】郵便物逓送時間を測定するため、試験通信を実施する。
1885. 8.26【日本】東京女子師範学校が、東京師範学校に合併され、東京師範学校女子部
となる。[ 1886.4.29
師範学校令の施行により、東京師範学校は高等師範学校となる。
1890.3.24 高等師範学校から女子部を分離し、女子高等師範学校を創設する。]
1885. 8.28【日本】東京府が、東京瓦斯局を渋沢栄一、大倉喜八郎らに 24 万円で払下げ
を許可する。
[10.1 交付。東京瓦斯会社が成立する。
]
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1885. 9. 6【日本】会計年度を 1886 年以降 4 月 1 日から翌年 3 月 31 日までと定める。た
だし、1885 年は 7 月 1 日から翌年 3 月 31 日までとする。
1885. 9 . 7【日本】郵便為替・郵便小為替を創設する。
1885. 9.27 【日本】日本人の編集になる日本初の英字新聞『Anglo-Japanese Review (アング
ロ・ジャパニーズ・レビュー)』が、大阪で発刊される。
1885. 9.29【日本】郵便汽船三菱会社・共同運輸会社の合併により、日本郵船会社の設立
が許可される。資本金 1100 万円。三菱会社の汽船 28 隻、共同運輸会社の汽船 29 隻のす
べてに 1 個づつ下付されていた郵便函がいったん返納される。同日、政府が、15 年間 8
分の利益を補償するする旨の命令書を下付する。[9.30 駅逓局が、同社に郵便物の逓送
を委託する。10.1 開業する。]
1885.10. 1 【日本】東京瓦斯㈱(のち、東京ガス㈱)が、渋沢栄一(45)・大倉喜八郎らが発
起人となり設立される。資本金 27 万円。
[以後、ガス灯用のガス製造・供給の営業を行
う。大正年間、電灯の普及によりガス灯用需要が激減する。そのため燃料用需要の開拓
を進め、都市熱エネルギーとしてのガス利用の普及に努める。1945 年 10 月、15 のガス
会社を合併し、供給区域を関東一円に拡大する。
]
1885.10. 1【アメリカ】国際子午線会議がワシントンで開かれ、日本を含めて世界の 27
ヵ国の代表が参加する。採択された主な決議は、( 1)イギリスのグリニジ天文台(当時)の
大子午儀の中心を通る子午線を、経度および時刻計測のための本初子午線(基本子午線)
とする、(2 )経度はこの本初子午線から東西両方向へ 180 度を数え、東経を正とし西経を
負とする、(3 )国際的便宜のため、世界日を導入する。これは本初子午線に関する平均太
陽日で、夜半の 0 時に始まり 24 時を刻むなどである 。
[以後、この(3 )は世界時の名称の
先駆となる。1886 年 7 月 13 日、日本で勅令によって、子午線経度の計算法および標準
時が制定される。
]
1885.10. 1【アメリカ】フィラデルフィアのジョン・マックファーソン(マクファーソン)
が、アメリカ最初の「街案内帳 Directory 」を作成する。市街を列挙し、全住民 6250 人
の氏名・住所を平等に採録する 。
[この頃、ボストンでは、世界初の広告入りディレク
トリーが発行される 。
]
1885.10.20 【日本】政府が、メートル法条約に加入調印する。[ 1886.4.20 公布。]
1885.10.27 【日本】
『朝野新聞』に 、
〈今度海軍省にて携帯電話機数十個を製造になる由に
て〉という記事が出る。
1885.10.29 【日本】駅逓局が、汽車郵便逓送規則を制定する。
1885.10.29 【日本】福沢諭吉が、『時事新報』の社説「士人処世論」において、田舎の資
産家の子弟が東京に官職を求めて集中しがちな風潮を戒め、30 年前に東海道五十三次は
15 日を費やし、江戸より長崎四百里の往復は 3 ヵ月でも覚束なかったが、今日では運輸
・通信の手段が飛躍的に改善され、郵便を用いれば日本国中 10 日以内に書状が届かない
所はない、電信があれば即日に世界の消息を聞くことができる、という状況に変化した
結果 、むかしの日本六十四州を武蔵の一国に縮小したということもできる、と書く。
(
『福
沢諭吉全集』5)しかし、政治家や官庁などは、重要あるいは緊急な手紙は使者に運ばせ
るのを通例とし、返事も使者が持ち帰るのが普通であり、官営郵便局が介在する余地は
限られている。むしろ商人などの民間の方が官営郵便をよく利用する。
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1885.11.23 【日本】朝鮮でのクーデタを目指す計画が発覚し、民権運動の中心人物大井憲
太郎(42)らが大阪で逮捕される 。
「大阪事件」と呼ばれる 。
[以後、大阪重罪裁判所にお
ける公判の模様を報道するに当たり朝日新聞社が速記者丸山平次郎に傍聴速記を依頼し、
かたや競争紙も田鎖綱紀を起用すると社告を出すなどして、過激な報道競争が起こる。
結局は田鎖は出動せず、丸山は中途で倒れて 、公判速記報道は腰砕けに終わる。1987.9.24
36 人に有罪判決。1888.3.28 大審院が、大井憲太郎ら 4 人の再審請求に対し、原判決を
破棄し、名古屋重罪裁判所に差し戻す。7.14 重懲役 9 年の有罪判決。7.28 再上告破棄 。]
1885.11.−【ドイツ】ゴッドリープ・ダイムラー( 52)とヴィルヘルム・マイバッハが、264cc
のエンジンを搭載した、世界で最初のモーターサイクルを完成させ、テスト走行に成功
する。[ 1886 年、1 気筒、460cc、1.1 馬力のガソリンエンジンを搭載した実用的な四輪自
動車「ダイムラー・モータ・キャリジ」を製作する。]
1885.12.22 【日本】太政官布達第 69 号により、太政官制を廃止し、内閣制度が創設され
る。第 1 次伊藤博文内閣が成立し、新たに各省に大臣を置く。総理大臣には伊藤博文(44 )
が就任。外相井上馨( 50 )、内相山県有朋(47)、蔵相松方正義(50 )、陸将大山巌(43 )、海
相西郷従道(42) 、法相山田顕義(41) 、文相森有礼( 38) 、農商務相谷干城(たにたてき)( 48) 、
逓相榎本武揚(えのもとたけあき)(49)という顔ぶれで、長州、薩摩がぞれぞれ 4 人、土
佐 1 人、旧幕府 1 人という派閥均衡内閣となる。大臣の平均年齢は 46.2 歳(数え年)。工
部省を廃止し、逓信省が新設される。駅逓局と管船局を農商務省から、電信局と灯台局
を工部省から、それぞれ移管して発足する。逓信省の名称は駅逓と電信から一字ずつと
って新造されたという。[以後、逓信大臣榎本武揚は、東京の古道具屋で昔自分がオラン
ダから持ち帰った電信機を見つけ、それを買い戻す。のち、逓信博物館に収蔵される。
1889.3.22 榎本が逓信大臣を辞任。]
1885.12.24 【日本】新設の逓信省を、日本橋区本材木町に仮設する。
1885.12.28 【日本】政府の布告・布達は『官報』に掲載することを正式とする。官報によ
る公布制が確立する。
1885.12.−【日本】秀英舎舎長佐久間貞一( 37 )が、石版(リトグラフ)印刷がないがしろに
されているのを憂え、泰錦堂を興す。[以後、石版印刷技術の普及に努める。]
1885. ○【日本】海水浴場が初めて大磯に開かれる。保養目的で、人々は岩や磯に打ち付
けた鉄棒を持って海水につかったり、砂浜で寝ころんだり、漁師茶屋で休んだりする。
1885.○【日本】大蔵省が、偽造防止のため、写真に写りにくい水色のインクを使った 10
円札を発行する。
[以後、このインクに入っている鉛化合物のため、温泉地で 10 円札を
使うと酸化して真っ黒になる。
]
1885. ○【日本】東京で時計商を営む大野徳三が、スタイログラフィック・ペンを模造、
管内の墨が筆先の出しかげんによって調節されて供給される国産初のスタイログラフィ
ック・ペンを「万年筆(まんねんふで) 〉」と名付けて発表する。この頃、アメリカ製の
スタイログラフィック・ペン stylographic pen(針先にインキが流れるペン)が輸入され、
「針付泉筆」と呼ばれている。[以後、普及しない。やがて「針付泉筆」も「万年筆」
と呼ばれる。1895 年、アメリカのウォーターマンのペンが輸入されると,前者が針万年
筆,後者がペン付き万年筆と呼ばれる。明治末期には後者が普及して「万年ペン 」
「万
年筆(まんねんひつ)」と呼ばれるようになる。
]
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1885. ○【日本】山形県西村山郡谷地村で、都会から帰ってきた青年を中心に谷地読書協
会が結成される。将来これを母体に谷地図書館を作るという目標を掲げる 。[大正時代
に、図書館が実現する。]
1885.○【日本】小川一真(おがわかずまさ)( 25)が、1882 年アメリカ船に水夫として乗り
組んでアメリカに渡りボストンの写真館でカーボン印画法、コロタイプ印刷法などの最
新写真技術を習得して帰国、東京市内に写真館「玉潤館」を開業する 。
[以後、乾板製
造にも着手する。1889 年、日本ではじめてコロタイプ印刷のための工場を設立する。1910
年、帝室技芸員,東京写真師組合初代会長となる 。
]
1885. ○【日本】江藤直純らが福沢諭吉の支援で東京の京橋で始めた広告取次業が、新聞
などの広告スペースの売買を専業とする「弘報堂」を創業する。[1888 年、広告社、三
成社が創立。1890 年、万年社創立。1895 年、博報堂創立。1901 年、日本広告株式会社(電
通の前身)が創立される。いずれも当初はもっぱらスペースブローカを業とする。
]
1885. ○【日本】広告主の協賛をうたった日本最初の共同カタログ『東京商工博覧絵』が
つくられる。
1885. ○【日本】東京銀行集会所が開業する。開業式では、東京電燈会社が営業開始前の
臨時請負施行により、40 個の白熱電球を初めて点灯する。
[12 月、『銀行通信録』を創刊
する 。
]
1885.○【日本】横浜の梶尾自転車工場が、国産自転車 1 号車「金日本号」を製造する。
「以後、第 2 号を「銀日本号」と名付ける。(??)1988.1.26 帝国自転車製造所が、東京
・浅草に創業し、初めて日本製の自転車を製造する。(??)]
1885. ○【日本】初の警備保障会社、東京火災予防会社が、日本橋区(のち、中央区)富沢
町に本社を置き、会社、商店、大邸宅を持つ個人などを対象に火の番請け負いの営業を
開始する。
1885.○【日本】大学予備門在学中の山田美妙(本名武太郎)(17)が 、尾崎紅葉、石橋思案、
丸岡九華らと硯友社を結成し、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』に馬琴調の文体でアル
フレッド大王伝を『竪琴草紙』として綴る。[以後、坪内逍遥の『小説神髄』の影響を受
けて 、ただちに文学改良主義者に変身、言文一致論や『日本韻文論』で韻律論を展開し、
文学改良に情熱的に取り組む。1887.11.20 『読売新聞』に口語体小説『武蔵野』が掲載
され、一挙に流行作家となる。]
1885. ○【日本】工部省電信局試験所の広瀬新が、軍用電信機の電源用に蓄電池を作る。
1885.○【日本】屋井先蔵が、世界最初の乾電池を作る。[ 1893 年、特許庁に出願し、「連
続電気時計」の名称で日本特許が認可される。民生用には全然売れない。1894 年、日清
戦争が始まり、陸軍は中国大陸で使用する電信機の電源として運搬が容易な乾電池を、
屋井先蔵に 500 個発注する。極寒の大陸で屋井乾電池はちゃんと動作して、軍の通信が
確保される。以後、新聞に報じられ、一挙に屋井乾電池の名が広く知られる。陸軍は、
屋井乾電池を使用し続ける。屋井乾電池は、大正、昭和時代に息子の代にも製造される 。
第二次大戦後、電池業界から姿を消す。]
1885. ○【日本】長崎の遊女を身請けして、熊本の本願寺に献上した者がある。(『朝野
新聞』)
1885. ○【日本】岩手県・鍬ヶ崎(くわがさき)が貸座敷営業許可地に指定される。娼妓数
- 536 -
は 47 人[岩手県全体は 110 人]。他にほぼ同数の芸妓・半玉がいる。
1885. ○【東南アジア】多数の日本人売春婦が清、安南、シンガポールなど東南アジア各
地に進出、婦女売買人が暗躍し、問題となる。
1885.○【中国】この頃、清国各地に日本人娼婦が増加する。上海に日本人娼婦が約 800
人いる。うち二十数名が強制送還される。婦女売買人も増加して、問題となる。(『朝野
新聞 』
)
1885. ○【ベトナム】この頃、安南に日本人娼婦が増加する。
1885.○【シンガポール】唐行きさんが増加し、日本人の娼婦の店が 30 軒ある。(『朝野
新聞』)
1885.○【トンガ】この頃、直径約 5km のドーナツ状をした離れ小島のニウアフォウ
Niuafoou 島で、郵便物をブリキ缶に入れて海上を運ぶ「ティン・キャン・メイル tin can
mail」が始められる。周囲が岩場のため船舶が近づけないので、郵便物を入れる郵袋の
代わりに灯油やビスケットの缶に密封して海水面に浮かべて、現地の泳ぎ手が船から海
岸まで運ぶ。[1900 年代初期、船上から島をめがけてロケットで郵便物を発射すること
も試みられるが、飛びすぎて紛失したり、燃えてしまうなどの事故が起きて、中止され
る。1919 年、ドイツ生まれの貿易業者ウォルター・G・クァンゼルが、ニウアフォウ島に
来て、ティン・キャン・メイルで運ばれたことを示す「TIN CAN MAIL」の文字のカラフ
ルなスタンプを押印することを創案する。1921 年、イギリス人のスチュアート・ラムゼ
イが、定期的なティン・キャン・メイルの運行を始める。
](『郵趣』 1999.9)
1885.○【デンマーク】デンマーク最初の図書館統計が作成される。全国 1697 教区のう
ち、図書館は 1068 館( 63 %)が存在し、うち 700 館が 1860 年以降に設置された。
1885.○【ドイツ】ベンツ Carl Friedrich Benz( 41)が、1 気筒 4 サイクルのガソリンエンジ
ンを製作し、三輪車に搭載して初の現実的可能性のある自動車として工場敷地内を走ら
せる。]
1885.○【ドイツ】ダイムラー Gottlieb Daimler( 51)マイバッハが、ガソリンを燃料とし、
表面気化器と密閉型クランク室によるオイル潤滑方式の縦型単シリンダーエンジンおよ
び冷却装置を完成する。1 気筒、250cc、0.4 馬力のこのガソリンエンジンを木製の二輪
車(自転車)に搭載し、ダイムラーの長男パウルの操縦で、シュトゥットガルト近郊で約
3km の試走に成功、最高時速 12km を記録する。史上初の実用的なガソリン自動車とな
るが、実際にはオートバイの原型となる。[ 1886 年、ダイムラーは、夫人の誕生祝いと
称してつくらせた 4 輪馬車にハンドルをつけ、後席の床に穴をあけて 1 気筒 460cc、1.1
馬力のエンジンを取り付けて 4 輪自動車を作る 。1889 年、V型エンジンなどを完成する。]
1885.○【ドイツ】万国電信連合が、創設 20 周年を迎え、ベルリンで総会が開かれる。
加盟 50 ヵ国、加盟国の電話交換局数は 1168 局に達する。電話は、電信の付属的通信と
して扱われる。
1885.○【ドイツ】魚雷発射管を最初に装備した潜水艇ノルデンフェルト( Nordenfelt)が
完成する。
1885. ○【スイス】ディスクを交換するオルゴールが考案される。ディスク交換により数
種類の音楽が楽しめるようになる。
1885. ○【イギリス】郵便葉書の自動販売機が登場する。近代的な自販機の実用化の始め
- 537 -
とされる。
1885.○【イギリス】 A. キャンベルと J. アッシュが、電池電動機推進の潜水艇「ノーチ
ラス号」を設計建造する。
1885.○【イギリス】刑法に、男の同性愛を犯罪と規定する。[1968 年廃止。]
1885.○【イギリス】探検家・文筆業リチャード・バートンが訳した『アラビアンナイト 』
刊行される。クリトリス手術、同性愛、獣欲などに関する注が付けられる。
1885. ○【アメリカ】大陸間鉄道の建設者で、州知事、連邦上院議員でもあったリーラン
ド Leland(61)とジェーン Jane(60)のスタンフォード Stanford 夫妻が、15 歳で早世したひ
とり息子を悼んで 、〈カリフォルニアの子はみなわが子とならん〉と願って、スタンフ
ォード大学(Stanford University)をカリフォルニア州パロアルトに設立する。初代学長は
デイビッド・スター・ジョーダン David Starr Jordan( 34 )。[以後、スタンフォード・マネ
ジメント・カンパニー( SMC)により運営される。1891 年、開校する。以後、
「学問の 7
つの柱」と称される 7 学部(school )
、文理学、工学、教育学、経営学、地球科学、法学、
医学をもち、各学部は独立しながらも相互に関連しあい、全学教授団を形成する。教授
団は学部課程と大学院レベルの学生の双方を教え、学生は他学部の施設・設備を共用す
ることができる。フーバー戦争・革命・平和研究所、ライナックセンターなどが付設さ
れる。大学図書館は、14 の本館と分館で 630 万冊の蔵書をもつ。大学院の質は全国ラン
キングでつねにトップを競う。1980 年代後半、西洋文化を中心とした一般教育科目を廃
止し、人種・民族的に多様な文化を尊重する多文化主義に基づいたカリキュラム改革を
行い 、大論争を巻き起こす。また、大学出身者によるベンチャー企業に積極的に出資し 、
その収益を新たな研究開発や投資にあてるという「産学共同体」を形成する。近隣のシ
リコンバレーを中心とした「産学協同」は、大学の研究と企業活動との共同事業のモデ
ルとされる。1999 年、教員数約 1600 人、学生数約 1 万 4200 人。]
1885. ○【アメリカ】アメリカン・ベル電話会社が、市外電話業務を専門とする特殊な電
話会社としてアメリカ電話電信会社( American Telephone and Telegraph Company; ATT;
AT&T)を設立する 。この頃、電話会社間の競争は激しく,ベル電話会社は電話製造特許、
電話製造の大プラントに加え、AT&T の長距離電話ネットワークの 3 本柱を傘下に収め、
全国制覇に乗り出す 。
[1994.4.20 AT&T を正式社名とする。
]
1885.○【アメリカ】バース Henry Barth が、初めて活字鋳造機の特許をとる。
1885.○【アメリカ】ランストン Tolbert Lanston (41)が、活字を自動的に鋳造し並べて組
む機械、いわゆる自動鋳植機の一種 、
「モノタイプ monotype」を発明する。1 字ずつ活字
を鋳造し植字して版を組むところから、モノ“( 1 個)タイプ(活字)”の意をとり商品
名とする。欧文モノタイプの初め。モノタイプはキーボード部分と鋳造部分が別個の機
械となっている。キーボードで紙テープに文字の符号を穴あけし、その配列で文字を記
憶させ,このテープを活字鋳植機にかけると符号に従って相当する母型に鉛が流し込ま
れて、1 字ずつ活字を鋳造し排出され組版していく。[1886 年、マーゲンターラー(メル
ゲンターラー)Ottmar Mergenthaler が、1 行分ずつ組む自動鋳造植字機「ライノタイプ」
発明する。1970 年代から自動写真植字機にしだいに置き換えらる。]
1885.○【アメリカ】エジソン( 38)が、列車用誘導電信機を発明する。
1885.○【アメリカ】D.E.フェルトが、8 桁の計算機「コンプトメータ」を発明する。各
- 538 -
桁それぞれ 0 ∼ 9 の計 80 個のキーを押すことにより、バネ仕掛けで自動的に入力できる
もので、操作に熟練を要せず、オフィスに大量に普及する。
1885.○【アメリカ】バローズ W. S. Burroughs(28)が、加算機をつくり実用化する。
1885. 【流行語】馬鹿車。
1885. 【流行歌】『抜刀隊』『ひやひや節』
1886(明治19)
1886. 1 . 1【日本】紙幣の正貨兌換を開始する。
1886. 1. 1【日本】
『東京日日新聞』に、銘酒「猿若街」の広告のバックを赤色で印刷す
る。日本初の色刷り広告となる 。
[次いで、『東京朝日新聞』に、山邑酒造の「桜正宗」
の色刷り広告が掲載される。
]
1886. 1. 1【日本】新橋∼横浜間鉄道の上・中等乗客に、往復常乗り切手(定期乗車券)の
交付を実施する。定期乗車券の初めとなる。
1886. 1.29【ドイツ】カール・ベンツ( 42)が、独力でガソリンエンジンを製作し、それを
用いて 1 気筒、180cc、0.75 馬力のガソリンエンジン付き三輪自動車「ベンツ・モトール
ヴァーゲン(ベンツ・パテント・モータカー)」を製作し、ドイツ帝国特許を取得する。
この車は後退ができない。後退させるには、ニュートラルにして人力で押す。世界最初
の自動車とされる。
(一説に、排気量は 984cc、0.9PS 、最高時速 16km という。)[以後、
のちにベンツは、小規模ながらその製造販売を企業化し、またエンジンや自動車の製造
権を他社にも与え、その普及に努める。そのためダイムラーと並んで「自動車の父」と
呼ばれる。1926 年、ライバル会社のダイムラーと合併する。]
1886. 2.10【日本】郵便条例で定める郵便禁制品を大幅に緩和する。金銀、宝石の類を郵
送することが可能になる。また、流動物、ガラス器、陶器、孵化する物、動物などでも、
〈十分ノ予防ヲ為シ郵便局若クハ郵便受取所ノ承認ヲ受ケタル後郵便ニ差出スモノハ〉
郵送できることとする。郵政サービスの改善への取組みの姿勢を見せる。
1886. 2.15【日本】東京師範学校(のち東京高等師範学校、東京教育大学)が、11 泊 12 日
の日程で東京と千葉県銚子の間を徒歩で往復する「行軍旅行」を実施する。のちの「修
学旅行」の原型となる。[1887.4.30 『大日本教育会雑誌』第 54 号に「長野県師範学校生
徒修学旅行」の記事が掲載される。
「修学旅行」という名称の初見とされる。1888 年 、
「尋
常師範学校設備準則」において「修学旅行」という用語が使用される。
]
1886. 3. 1【日本】逓信省官制公布により、逓信省に駅逓局、電信局、燈台局、管船局、
会計局の 5 局を設置する。
[3.3 初代駅逓局長に林董。∼ 1887.3.9]
1886. 3.26【日本】地方逓信官制公布により逓信管理局を設置し、郵便局を一∼三等に区
分する。郵便局の長をすべて郵便局長とし、従来の取扱役の呼称を廃止する 。
[4.16 一
等郵便局を東京・大阪・京都・横浜・神戸・長崎・函館・新潟・名古屋・熊本・広島・
仙台の 12 局設置する。
]
1886. 3.−【日本】大槻文彦( 39 )が、11 年前に文部省の編集課長西村茂樹から編纂を命
じられた国語辞典を脱稿する。担当者の西村はすでに転任しており、新任の伊沢修二(35 )
から文部省では出せなくなったので自費出版をしてはどうかと打診される。大槻は〈異
存ありません〉と返答する。[以後、大槻は出版の資金集めに奔走し、刊行の段取りをと
- 539 -
りつける。1889 ∼ 1891 年、
『言海』全 4 冊を刊行する。]
1886. 4. 1【日本】7 月∼翌年 6 月の会計年度を、この年から 4 月 1 日∼翌年 3 月 31 日ま
でとする。
1886. 4.10【日本】師範学校令・小学校令・中学校令が公布される。小学校令で初めて義
務教育制を標榜する 。
[以後、1945 年まで学校制度の基礎となる 。
]
1886. 4.17【日本】電信修技学校制を官制公布。[4 月 逓信省が、電信修技学校を設置す
る。1887.5.21 電信修技学校制を廃し、東京電信学校制官制公布。]
1886.4.20【日本】メートル法条約公布。
1886. 4.22【日本】京都の女紅場で「美人品評会」の企画記事が『中外電報』に掲載され
る。〈女生徒中……屈指の美人数名を……撰定せしめ之を夫れと披露せずして広場に招待
し茶菓を饗しつつ品評委員が之を評し一等より十等までの評定を為すと云ふ。〉[しかし、
〈大方斯ることを為したらんには面白かるべしと云ふ位の話なるべし〉と結んでいるか
ら、実際に行われたかどうかは疑わしい。]
1886.4.26【日本】逓信省が、『逓信公報』を創刊する。
『駅逓局報』は廃刊する。
1886. 4.29【日本】師範学校令の施行により、東京師範学校が高等師範学校となる。
[1890.3.24 高等師範学校から女子部を分離し、女子高等師範学校(のち、御茶の水女子大
学)を創設する。]
1886. 5. 1【アメリカ】労働者団体が、8 時間労働を求めてストライキとデモを行う。シ
カゴにおいて最大の盛り上がりをみせる。
[5.3 マコーミック収穫機会社のストライキ労
働者 4 名が警官により殺される。5.4 夜、ヘイマーケット( Haymarket)広場で抗議集会が
催される。警官隊が解散を命じたとき、何者かが爆弾を投じ、衝突のすえ多数の死傷者
(死者は警官 7 名、労働者 4 名)が出る。騒然たる雰囲気のなかで 8 名のアナキストが
裁判にかけられ、1 名は獄中で自殺し、4 名が絞首刑に処せられる。1889 年、第二イン
タナショナルは、事件の記憶をも含めてアメリカ労働者の偉大な闘争を記念して、5 月 1
日を労働者の国際的連帯の日と定める。「メーデー(May day)」の起源となる。
]
1886. 5. 2【日本】真崎仁六(まさきにろく)が、パリの万国博で鉛筆を見て 10 年にわた
る研究の結果、東京の四谷内藤町に鉛筆工場を設け 、国産鉛筆製造を始める。[1887 年 、
眞崎鉛筆製造所を創業する。]
1886. 5.10【日本】文部省が、教科用図書検定条例を公布する。教科書検定制が始まる。
1886. 5.15【アメリカ】シカゴ・ディレクトリー会社のルーベン・ドネリーが、自社のベス
トセラー『市街案内帖』に、爆発的に増加している電話の「加入者リスト」と、「ビジ
ネス・ディレクトリー」の三者を合体した新趣向の出版物を思いつき、広告主とシカゴ・
テレホン社の了解のもとに、
『シカゴ電話帳 CHICAGO Telephone DIRECTORY』の最初
の号を印刷・発行する。全 244 ページで、全体をアルファベット順とビジネスページの 2
部の分け、企業名の他に、コラム(囲み記事欄)を設けて、街区、電話番号、ビジネス内
容などの広告を入れる。のちの「イエローページ」の先駈けとなる。
[以後、2 回目を 9
月 10 日に発行するなど、年 3 回更新する。ドネリー社は、電話帳とディレクトリーの出
版社として永く活動する。
]
1886. 5.−【日本】ヘボン James Curtis Hepburn( 71 )が、『和英語林集成』の版権を丸善に
売り、その内容を全面的に補った 3 版目の『改正・増補 和英語林集成』が丸善から刊行
- 540 -
される。3 版では、再販( 1872 年)より約 1 万 2600 語を増やし、再販で〈しょじゃく〉と
読まれた「書籍」は〈しょせき〉となる 。「図書(としょ) 」
「数学」「哲学」が初めて採
録される。[1887 年、縮小版としての『改正増補英和小辞典 』第 2 版を出版、1907 年に 15
版を数える。]
1886. 5.−【日本】物理学者で東京大学理学部助教授(物理学者)の田中館愛橘(30)が、羅
馬字会がヘボン式を採用したのに反対し、
『ROMAZI SINSI』を創刊し、日本式ローマ字
綴りを提唱する。[∼ 1890.8 頃まで。1955 年、(財)日本のローマ字社( NRS)が 5 月 20 日
を「ローマ字の日」に制定する。ローマ字国字論を展開した田中舘愛橘の命日 1952 年 5
月 21 日に因み、きりのいい 20 日を記念日とした。]
1886. 5 . −【日本】足尾銅山に、民間炭坑として初の電話が架設される。
1886. 6. 2【日本】
『官報』の売り捌きを、逓信省から内閣官報局へ移管する。郵送業務
は再び駅逓局で扱う。
1886. 6.12【日本】甲府の雨宮製糸場の女工が、取締の苛酷、賃金引き下げ、遅刻早退に
よる大幅賃金差し引きに反対して、日本で初めて同盟罷業(ストライキ)を起こす。[6.16
工場主の譲歩で解決する。以後、同地の他の工場でも同様の女工罷業が起こる 。
]
1886. 7. 5【日本】東京電燈会社(のち、東京電力㈱)が開業、一般への電気照明の営業を
開始する。資本金 20 万円。
1886.7.10【日本】大日本音楽会が設立され、第 1 回演奏会を開く。
1886. 7.13【日本】勅令第 51 号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」が公布される。
兵庫県明石市を通る東経 135 度の子午線時を日本標準時と定める。
[1889.1.1 日本標準時
実施 。1895.12.27 勅令の第 1 条で、1886 年制定の日本の標準時を中央標準時と呼ぶこと、
第 2 条で東経 120 度の子午線の時を台湾およびその近傍地域のため新たに追加し、これ
を西部標準時と呼ぶことを公布する。1937.9.24 勅令により、西部標準時は廃止される。
結局、中央標準時だけが残り、日本の標準時の法的名称となる。のち、7 月 13 日を「日
本標準時制定記念日(日本標準時刻記念日)」と定める 。
]
1886. 7.17【アメリカ】サンフランシスコに入港したベルジニック号の日本人乗客が、税
関に春画数冊を所持していることを見つけられ没収される。(『SHINONOME』)
1886. 7.19【日本】内閣が、中山道幹線鉄道の経路を東海道経由に変更することを公布す
る。
1886. 7.−【アメリカ】アメリカにおける最初の邦字新聞『SHINONOME(東雲)』が、サ
ンフランシスコで創刊される。発行者福音会に所属する中村隼雄は、編集掛島内寛治。
[7 月 25 日号に、日本人娼婦が街に目立つようになり、一般日本人が困惑の態であると
の記事が出る。8 月、週刊『サンフランシスコ・レビュー』が発刊される。いずれも,ご
く短期間しか存続しないが,アメリカにおける邦字紙の先駆となる。]
1886. 7.−【アメリカ】ドイツ生れのアメリカ人マーゲンターラー(メルゲンターラー)
Ottmar Mergenthaler( 32 )によって世界で初めて発明された自動鋳造植字機「ライノタイ
プ」が、ニューヨーク・トリビューン新聞社で『トリビューン』の印刷原板の製作に用い
られ、公開される。オペレータが原稿を読みながらキーを押すと,その文字を刻んであ
る母型が貯蔵庫から下りてきて次々に並び 1 行分に近くなったところで鉛を流し込んで
鋳造し,用済みの母型は上昇してもとの貯蔵庫に戻り再使用に備える。毎時 1 万 5000 字
- 541 -
から 1 万 8000 字を鋳植でき,テレタイプセッタを付設すると,テレタイプの紙テープに
よって無人鋳植が可能となる。1 行分ずつ組むところからラインを意味する「ライノタ
イプ」と呼ばれる。[以後、ライノタイプ社(のち、ライノタイプ・ヘル社)から「ライノ
タイプ」の商品名で売り出され、世界的センセーションを呼び起こす。それまで活版組
版の機械化を多くの人が試みたがいずれも実用にならなかったところに画期的な考案が
されたからである。同じ頃ランストンが発明した「モノタイプ」と共にこれら 2 種類の
自動組版機械は世界中に普及し、ほぼ 1 世紀近く、新聞・雑誌などの組版に大いに使用
される。1970 年代から自動写真植字機にしだいに置き換えらて衰微する。]
1886. 8 . 5【日本】内務省が、馬車交通に対応して道路築造標準を公示する。
1886.8.13【日本】登記法、公証人規則が公布される。
1886.9.20【日本】大阪紡績が、夜間作業用の照明としてアーク灯を使用する。
1886. 秋 【日本】この年帝国大学の教授に就任した物集高見(もずめたかみ)( 39)が、定
例昼食会の席で、法学者穂積陳重から日本の隠居制度に関する資料について尋ねられる。
早速自分のカードから関係資料 20 余点を抽出して見せたところ 、
〈ぜひそのカード刊行
を刊行して頂きたい。それは学界に鉄道を敷設するに等しい偉業となるだろう〉といわ
れる。物集は、あらゆる主題についての索引を構築する構想を抱く。これまでの〈天・
地・人〉式の分類か〈いろは〉順の配列を排して、より能率的な五十音順の採用に踏み
きり、編纂に着手する。[ 1899 年、帝大を退職し、自家で門を閉ざし客を断って作業に
没頭する。必要文献はほとんどすべて自費で購入し、親譲りの資産を使い果たし、借金
が重くのしかかる。1916 年、30 余年を費やし家産を傾けて、五十音順の類書形式の百科
辞書というべき『広文庫』20 巻、『群書索引』3 冊を完成させ、佐賀県出身の船成金、中
村精七郎の資金援助を得て刊行する。1975 年、小関貫久の名著普及会の努力により復刻
版が出される。この時、長男の高量(たかかず)は、90 歳台半ばに達していて東京・板橋
で生活保護を受けていたが、訪れた小関に〈父はこの本のために家をつぶし、あたしも
人生の一番大事なときをこの本に費やしてしまいました。復刊はうれしいいが、この本
をお出しになると、あなたの会社はつぶれますよ。およしになったほうがよかありませ
んか?〉と忠告する。]
1886.10. 7【日本】
『やまと新聞』(『警察新聞』改題)が、創刊号から落語・講談速記を
連載する。新聞連載講談の初め。
1886.10.26 【アメリカ】フランスから寄贈された自由の女神が完成、除幕式が行われる。
[以後、アメリカの象徴になる。]
1886.10.−【日本】東京板紙㈲が設立される 。[ 1888.6 操業開始。1920.2 富士製紙と合併。
のち、王子製紙㈱千住工場となる。]
1886.10.−【日本】坪内逍遥(数え 28)が 、本郷根津の遊郭大八幡楼の花魁 、花紫(数え 22)
と 3 年越しの交際の後結婚する。
1886.11.15 【日本】郵便物を保正し修補した場合、附箋を付けて配達することとする。
1886.11. −【日本】日本橋小網町に、東京で最初のコーヒー店「洗愁亭」ができる。
1886.12. 6【日本】矢島輯子(かじこ)・佐々木豊寿らが、基督教婦人矯風会を創立、発会
式を行う。婦人社会の弊風を改め、品位向上をめざす。
1886.12.13 【日本】郵便日付印を、郵便局別、集配等級によって使い分けることとし、そ
- 542 -
の形式を定める。
1886. ○【世界】著作権を国際的に保護する条約 、
「ベルヌ条約」が、スイスのベルンで
調印される。正称は「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約 Berne
Convention for the Protection of Literary and Artistic Works」。スイス、ドイツ、ベルギー、
スペイン、フランス、イタリア、イギリス、ハイチ、リベリア、チュニジアの 10 ヵ国が
調印する。日本はこの条約作成会議には、オブザーバとしてイタリア公使館員黒川誠一
郎を参加させるにとどまる。[1887.12.5 発効する 。1899 年、日本がこの条約に加入する 。
1908 年、以後、著作権の享有および行使には登録、納本、留保の表示などの手続(方式)
を必要としない無方式主義を条約上の原則とする。このため方式主義を採用しているア
メリカ、米州諸国の多くやソビエト、中国などは、ベルヌ条約に加入しない。1908 年、
ベルリンで録音権、映画化権に関する規定を定める。1928 年、ローマでラジオ放送権、
著作者人格権に関する規定を設ける。1948 年、ブリュッセルで放送権を整備、録音物に
よる音楽演奏について報酬請求権を認め、また著作権の原則的保護期間を著作者の生存
間と死後 50 年とするなど、著作権保護の対象を拡大する。1952.9.6 ジュネーブにおいて
ベルヌ条約と並んで著作権を国際的に保護するための条約の一つ「万国著作権条約
(Universal Copyright Convention )が成立する。1967 年、ストックホルムで発展途上国に特
例を認める改正が行われるが、先進の多数国の批准がなされず実体規定が発効しない。
1971 年、パリ改正条約で、発展途上国に対する一種の著作権援助というべき規定を万国
著作権条約と同時に設ける。]
1886.○【日本 】アメリカの自転車世界一周旅行者トーマス・スチーブンスが、来日する 。
1886. ○【日本】小宮山天香が『慨世史談・断楕奇縁』(エルクマン・シャトリアン著『マ
ダム・テレーズ』の訳)の出版に際して、印税(royalty)の支払いに関し鳳文館と契約を交
わす。日本最初の印税(著作権使用料)を規定した出版契約とされる。[以後、著作権者
が書籍の各冊に押印した印紙を貼り(検印と呼ばれる)、発行部数のあかしとすることが
慣行となる。この検印に基づく支払方法が印紙税のそれと似通っていることに由来して
「印税」という語が用いられるようになる。検印は 1970 年代まで永く慣行となる。1980
年代から、発行部数による印税の場合でも検印は廃止されるようになり、実売部数によ
る印税も採用されるようになる。
]
1886.○【日本】この年、東京のガス灯が 、京橋区(のち、中央区)109 軒、日本橋区(のち、
中央区) 161 軒、麹町区(のち、千代田区)25 軒で使用するようになる。
1886.○【日本】電信修技学校が設置される。[以後、東京電信学校、東京郵便電信学校、
通信官吏練習所、逓信官吏練習所、と改称し、日本電信電話公社( NTT)の電気通信学園
となる。]
1886. ○【日本】東京図書館で、初めて西洋近代の思想書や科学書にも通用する図書分類
を採用し、能率的なカード検索システムが構築される。これには手島精一(てじませいい
ち)(37)が、イギリスのマンチェスター図書館を視察して得た知識が採用されており、分
類には哲学、教育、文学、歴史、地理、法律、社会、経済、数学、医学、芸術ほか近代
の学問分類が反映される。
1886 ○【日本】栃木県益子村に、有志が下野新聞縦覧所・雑誌展覧所を開設する。
[1909
年、栃木県家中村で、渡辺家が新聞縦覧所を設置する。
]
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1886 ○【日本】この頃、速記者の速記料金は 1 時間 1 円から 1 円 50 銭。
1886.○【日本】東京・本所の土谷(つちや)ゴム製造が 、日本で最初の消しゴムをつくる 。
[以後、品質がよくなく、あまり使用されない。消費者は、大正初期まではおもに品質の
よい外来品に依存する。]
1886.○【日本】国鉄が、初めて定期券を「上等 」
、「中等」で発売開始する 。
[1895 年、
通学定期券を発売する。]
1886.○【日本】1882 年に出獄後外遊した陸奥宗光(42)が、アメリカから蓄音機を持ち帰
る。日本で初の蓄音機となる。
1886. ○【日本】東京・神田に、いろは屋貸本店が開業する。[以後、学術書、翻訳書、
新小説を中心とした貸本屋が各地に現れる。1913 年頃、いろは屋貸本店が休業する。]
1886. ○【オーストリア】カール・フォン・ウェルスバッハの弟子ハイチンゲルが、少量の
セリウムを混ぜたトリウム溶液中に浸した綿糸をブンゼン灯のかざすと、一層強烈な白
光が放たれることを発見する。[以後、白熱マントルが作られ、ガス灯の発光力が改善
される。ガス灯の種類も、上向き・下向き白熱灯、ルーカスと呼ばれる大型灯など大小
さまざまなものが作られる。1894.9 日本で初めて使用される 。
]
1886.○【ドイツ】ハンガリー生まれのユダヤ人フィッシャー Samuel Fischer( 27)が、文
芸出版のフィッシャー社をベルリンに設立する。ベルリンのツェントラール書店で働き、
書籍の販売だけでなく、自費出版や雑多な出版を引き受けていたが、独立して出版社を
開業する。[ 1887 年 、イプセン 、ゾラ 、トルストイ等の外国文学の翻訳書を刊行する。1890
年、新しい文学・演劇運動の雑誌『フライエ・ビューネ』を創刊。ハウプトマンらの作品
を刊行して以後、常に文学界をリードする形で数々の名作を出版する。ナチスに追われ
て社の拠点をウィーン、ストックホルム、ニューヨークと転々と移して出版を続ける。T.
マン、カフカ、S.フロイト、ホフマンスタール、シュニッツラー、S. ツワイク、ツック
マイヤー、リンザーなどの全集を刊行する。ワイルダー、コンラッドなど外国作家の全
集も手がける。第二次世界大戦後、ポケット版出版専門の姉妹会社ズールカンプをつく
り、文芸叢書や個人全集の廉価版を出すほか、新書版事典シリーズ「フィッシャー・レキ
シコン」などを出す。のち、フランクフルト・アム・マインに本社を移す。]
1886.○【ドイツ】ゴッドリープ・ダイムラー(52 )とヴィルヘルム・マイバッハが、1886
年、1 気筒、 462cc、1.1 馬力のガソリンエンジンを搭載した実用的な四輪自動車「ダイ
ムラー・モータ・キャリジ」を製作する。4 人乗りの馬車の前席と後席の間にエンジン
が積まれていた。ガソリンエンジン時代の幕開きとなる。[1890 年、ダイムラー自動車
会社(のち、ダイムラー・ベンツ)をカンシュタットに創立する。]
1886. ○【ドイツ】生物学者・フライブルク大学動物学教授ヴァイスマン(ワイズマン)
August Weismann( 51 )が、〈精子や卵子には生物の遺伝と生殖に関する物質、すなわち生
殖質が含まれており、両者の合体によって両親の遺伝形質がその半分づつだけ次世代に
伝えられる〉という「生殖質説」を提唱する。[以後、DNA を理解する礎石となる。]
1886. ○【ドイツ】ヘルツが、電波は直進して反射することを発見する。
1886. ○【イギリス】世界に先駆けて公娼制度を廃止する。[以後、これにならい、オラ
ンダ、ノルウェー、デンマーク、スイスなど各国が相次いで廃止に踏み切る。]
1886.○【イギリス】ピーター・ヘンリー・エマーソン( 34)が、自然主義思潮に共鳴し、合
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成写真をつくったオスカー・G・レイランダー(1817 ∼ 75)やヘンリー・ピーチ・ロビンソン
(1830 ∼ 1901 )らの作品を〈文学的詭弁と美術的時代錯誤の典型〉として排し、自ら白金
印画 40 枚の作品集『ノーフォークブローズの生活と風景』を発表する。[1889 年、著書
『自然主義的写真術 』
(1889)を出し、そのなかで、写真は独立した芸術であり、写真は
独立した芸術であり、人間の視覚に忠実な映像であるべきこと、合成や修整は許されな
いと主張する。1890 年、過度にぼかす軟焦点描写が流行するようになったことに怒り、
『自然主義写真の死』を著して写真界から引退する。]
1886. ○【南アフリカ】プレトリアで初めて印刷が行われる。
1886.○【アメリカ】シアーズ Richard W. Sears( 23 )が、R.W.シアーズ社をミネソタ州に
設立して、郵便とカタログを組み合わせて時計の通信販売を始める。シアーズは、子ど
もの頃から、無料のパンフレットを送ってもらうことが好きだった。十代で鉄道の仕事
に従事して、鉄道輸送と電信の知識も得た。鉄道で仕事をしているとき、委託貨物で届
けられた時計が受取人不在の扱いをされている事態に直面し、送り主の卸業者に連絡を
したところ、その時計の売却を依頼される。これを機に、同じ鉄道沿線の駅長に時計を
再販売して利益を得る。この体験から、時計を自ら製造したり店舗を持たなくても販売
して利益を得ることに気付き、時計のカタログ販売を事業化する。[ 1887 年、シカゴに
移り 、時計修理工の A.C.ローバック Alvah C.Roebuck を雇用する。1893 年、時計以外に 、
取扱品目をミシン、食器、衣料品、銃器、そして宝石などに広げた通信販売カタログを
発行し、全国の顧客を相手にする。2 人は共同経営者として、シアーズ・ローバック会社
を創業する。1895 年、ローバックは持株をシアーズに売却する。1906 年、イリノイ州法
人を継承してシアーズ・ローバック会社 Sears, Roebuck and Co.をニューヨーク州に設立、
大規模小売業に発展する。1909 年 、シアーズは社内の不和をうけて、社長を辞任する 。1925
年、最初の小売ストアを開店する。チェーンストアによる小売業務にも手を広げる 。1931
年までに 378 店舗を開設、小売店舗による売上高が郵便通信販売によるそれを上回るま
でになる。以後、世界最大の小売企業に発展する。]
1886. ○【アメリカ】全国の活字業者が集まり、活字の大きさを統一するため、マッケラ
ー・スミス・ジョルダン会社のパイカの 12 分の 1 を 1 ポイントと決める。この 1 パイカの
活字の天地の長さは 0.166044in なので、1 ポイントは 0.3514mm となる。[イギリスは、1
ポイントを 0.3759mm とするフランス式を前世紀から適用してきたが、1905 年ごろから
このアメリカ方式を採用する。日本のポイント活字もアメリカ式を採用する。]
1886.○【アメリカ】セルロイド・フィルムが、イーストマン G.Eastman によって市場に
発売される。
1886. ○【アメリカ】レミントン社が、タイプライターの製造販売部門を売却する。この
年、タイプライターの販売台数は、全メーカー合計で約 15 万台となる。
1886.○【アメリカ】 電信オペレーター 2 万人中 、1400 人が女になる。[ 1900 年、5 万 8000
人中 7000 人に達する。]
1886. 【流行語】西洋フハッション。非職。ワルス。
1886. 【外国本】クラフト・エヴィング『性的精神病質』、
1887(明治20)
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1887. 1. 8【日本】東京・日本橋の漢書専門の老書肆嵩山房が、洋書・翻訳類の営業を開
始すると発表する。
1887. 1.22【日本】東京電燈会社(のち、東京電力㈱)が、市内配電を開始する。移動式石
油発電機を使って、電燈営業として初めて、日比谷の鹿鳴館で白熱電燈を点燈させる。
〈風が吹いても消えない〉をキャッチフレーズとする。[11.19 一般向けの公衆用配電開
始。]
1887. 1.25【日本】
『読売新聞』が「雑譚」欄を廃止して「社説」欄を設ける。主筆に東
京専門学校教員高田早苗( 27 )を迎え、政治と文学の強化を標榜して、小新聞からの完全
な脱皮を図る。[1890 年、議会開設にともない高田早苗は衆議院議員となり通算 6 回当
選する。1915 年貴族院議員に勅選される。1900 年東京専門学校学監、1907 年早稲田大
学学長に就任、1917 年早稲田騒動で一時大学から引退するが,大隈没後には総長に就任
する。]
1887. 1 . −【日本】長崎県有志教育会が、会員のために図書縦覧室を設ける。
1887. 1.31【日本】逓信省が、郵便逓送時計取扱規則で大・中線路を対象としていた時計
携行を、郵便小線路でも、逓送請負人があらかじめ許可を受けて自費調達すれば時計の
使用を認める。
1887. 2. 4【アメリカ】州間通商法が議会で可決される。鉄道の適正運賃が規定される。
[以後、運賃戦争が始まる。]
1887. 2 . 8【日本 】逓信省が、逓信省全般の徽章(郵便マーク)として、逓信省の頭文字(TE)
を図案化した「T印」マークを決定する。[2.19 「T」は万国共通マークでは「郵便料金
不足」のマークであることが判明して、逓信省は、逓信省徽章「T」は「〒」の誤植で
あったと訂正する。片仮名の「テ」の字を図案化したものという。以後、21 世紀に至る
まで、日本の郵便マークとして使用される。
]
1887. 2.15【日本】2 年間陸軍士官学校画学教師を勤めたフランス人画家ビゴー Georges
Ferdinand Bigo( 27 )が、在日フランス人有力者やフランス公使館の援助を受け、第 2 次『ト
バエ T( O )BA(E)』を創刊する。(第 1 次『T (O) BA(E )』は 1884 年刊行。)発行所は、横
浜居留地の海岸五番館クラブホテル。売価は 80 銭。誌名は江戸以来の「漫画」を意味す
る「鳥羽絵」に由来する。
[以後、横浜居留地で人気を呼び、月 2 回刊で約 3 年間刊行さ
れる。これ以外にも数々の風刺雑誌、風刺画集を刊行し、条約改正や日本をめぐる内外
の政局、日本人を辛辣に風刺した漫画を描き、官憲に注意人物と目される。1895 年、日
本女性と結婚し一子をもうける。1899 年 6 月、条約改正による居留地廃止や官憲の弾圧
をおそれて帰国。晩年はパリ郊外に住む。
]
1887. 3. 3【アメリカ】アメリカで初めて「視話法」(唇や舌、のどなどの発声器官の位
置を記号で示すことによって言語音を表示する方法)による聴覚障害者教育にたずさわっ
ていたベル Alexander Graham Bell ( 40 )の依頼で、パーキンス盲学校が、生後 19 ヵ月の
ときの疾病で、視力と聴覚、言語能力を失ったヘレン・ケラー Helen Adams Keller( 7)を
診察した結果、同校のサリバン Anne Sullivan Macy( 21)が、家庭教師としてヘレンのも
とへ派遣され、ヘレンが読み書きの特殊教育を受け始める。[以後、間もなく点字を習
得、特注のタイプライタで書き方も覚える。1890 年 3 月 26 日、わずか 1 カ月の練習で、
話し方までマスターし、初めて〈It'swarm 〉と発音する。]
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1887. 3.23【日本】陸軍が、東京∼静岡県久能山間などで、伝書鳩による試験連絡に成功
する。日本初の伝書鳩となる。[以後、いろいろな分野に使われる。1897.4.23 東京朝日
新聞が、初めて伝書鳩を使って八王子の大火の記事を送る。以後、陸軍、通信社などで
伝書鳩が実用される。1959.3 共同通信社が、通信用伝書鳩を廃止することを決める。
]
1887.3.29【日本】江戸橋の元駅逓局を逓信省構内に移す。
1887. 3.−【日本】大日本教育会が、東京図書館の蔵書を基礎に〈教育及学術ニ関スル通
俗ノ図書雑誌報告書ヲ蒐蔵シ広ク公衆ノ閲覧ニ供セントス〉と附属書籍館を設立する。
東京図書館を学術参考図書館に、附属図書館を普通図書館(通俗図書館)の模範とし、図
書館の機能を二分するという文部省の方針に従う。
1887. 4. 1【日本】星亨が、
『灯新聞』を『めさまし新聞』(『めざまし新聞』)と改題、
発行する。[1888.7.10 村山竜平により買収され 、
『東京朝日新聞』と改題。]
1887. 4 . 1【日本】逓信省が、駅逓局貯金預所を郵便貯金預所に改称する。
1887. 4.20【日本】大仮装舞踏会が、鹿鳴館ではなく首相官邸で開催される。首相伊藤博
文以下の貴顕高官が役者顔まけの扮装で出席する。[この頃、しばしば同様の舞踏会が鹿
鳴館で開かれる。このようにまでして外国使臣の歓心を得ようとしても、現実に外相井
上馨が進めている条約改正案は、日本にとって非常に屈辱的な内容であったから、この
ような皮相的な欧化熱が世人のひんしゅくを買い、欧化主義だと非難される。政府部内
でも農商務相谷干城らの強硬な反対や、勝海舟,政府の法律顧問ボアソナード Gustave
Emile Boissonade de Fontarabie(62)らからも反対意見書が提出される。9 月、ついに外相
井上馨が辞任に追い込まれる。]
1887. 4.25【日本】木曽川橋梁が落成し、長浜∼名古屋∼武豊間鉄道が開通し、敦賀∼武
豊間が全通する。これで太平洋側と日本海側の鉄道が連絡する。
1887. 4 −【日本】文部省編輯局が、帝国大学教師の日本語・日本文化研究者イギリス人
チャンブレン(チェンバレン)Basil Hall Chamberlain(37 )に委嘱して書かせた『日本小文典』
を刊行する。
〔チェンバレンは、1873 年来日、1886 年に帝国大学教師となり、芳賀矢一(は
がやいち)、上田万年(うえだかずとし)などを教える。 1883 年『古事記』の英訳、 1886
年『A Simplified Grammar of the Japanese Language, modern written style (日本近世文語文
典』
、1888 年『A Handbook of ColloquialJapanese(日本口語文典) 』
、1890 年『ThingsJapanese
(日本事物誌)』などの著作で日本語・日本文化を研究・紹介する。1911 年、離日。
〕
1887.4.27【日本】逓信省が、郵便保護銃規則を制定し 、従来の短銃取扱規則を廃止する。
1887. 5 . 2【日本】真崎仁六(まさきにろく)が、眞崎鉛筆製造所を東京市四谷区内藤新宿 1
番地で創業する。日本初の鉛筆の工場生産を始める。[以後、鉛筆の人気はなかなか上が
らない。1901 年、逓信省(のち、郵政省、総務省)が真崎の鉛筆を採用、局用 1 号・2 号
・3 号として初めての国産鉛筆を納入する。1903 年、逓信省納入の 3 種の鉛筆を記念し
て、家紋の三鱗(みつうろこ)を基に 3 種の鉛筆を図案化した「スリーダイアマーク」を
創案 、
「三菱」ブランドとして商標登録する(登録番号 18865 )
。以後、ようやく軌道に乗
る。1925.4 眞崎が、大和鉛筆㈱(横浜市に 1918 年設立)を合併し、眞崎大和鉛筆㈱を設
立、本社を横浜市神奈川町に置く。以後、技術革新とともに品質も向上し、やがて外国
製品と並ぶ性能をもつ国産鉛筆が生産されるようになる。1927 年、世界各国への直輸出
を始める。1952 年、社名を三菱鉛筆㈱と改め、社名と商品名との統一を図る。1958 年、
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高級鉛筆「ユニ」(当初 4H ∼ 4B)を発売。1959 年、ボールペンの製造開始。1961 年、
繰り出し式シャープペンシル(0.7mm・0.9mm)発売。1965 年、藤岡工場(のち、群馬工場)
がサインペン工場として操業開始。高級ボールペン、ステンレスジャンボ「S-500 」を発
売。1966 年、創業 80 年を記念して新デザインの社章、社歌、社旗を制定。最高級鉛筆
「ハイユニ」発売。1968 年、0.5mm シャープ芯を開発。ノック式シャープペンシルの量
産を始める。のち、5 月 2 日を「エンピツ記念日」と定める。]
1887. 5. 6【日本】逓信省が、郵便物集配、電報配達をする人を、ともに集配人と呼ぶこ
ととする。集配人服務規則、集配人採用規程を制定する。
1887. 5. 8【中国】商務印書館が、夏瑞芳によって上海に設立される。日本の出版社金港
堂と資本・技術の提携をし、翻訳学校院長張元済を編集長に迎え、ビジネス書、とくに
英語の参考書の出版を行う。[1900 年、中国で最初に紙型を使った印刷方式を導入する。
1904 年、教科書を出版し、大ヒットする。1952 年、本拠を北京に移す。]
1887.5.18【日本】私設鉄道に関する最初の立法、私設鉄道条例が公布される。
[1900.3.16
私設鉄道法が鉄道営業法とともに公布される。
]
1887.5.19【日本】留置郵便物は、留置期間 90 日を過ぎると配達することとする。
1887. 5.21 【日本】学位令公布。学位を博士、大博士の 2 等とし、博士を法学、医学、工
学、文学、理学の 5 種に分ける。[ 1888.5.7 改正。1898.12.10 改正。]
1887. 5 21【日本】大阪私立商船学校が設立される。
1887. 5 21【日本】電信修技学校制を廃し、東京電信学校制を官制公布する。
1887. 5 −【日本】文部省編輯局編『尋常小学読本』刊。[10 月 、
『高等小学読本』刊。
尋常小学、高等小学の課程を通じて約 2000 字の漢字を教えることとする。]
1887. 6 . 1【日本】新橋・横浜両駅で、小荷物の配達を開始し、内国通運会社に委託する 。
1887. 6. 7【日本】政府が、長崎工作分局を三菱会社に払い下げる。[のち、三菱長崎造
船所となる。]
1887.6.15【日本 】大橋佐平(52)が 、博文館を創業する 。この日、新雑誌『日本大家論集』
を創刊。このころ発行の諸雑誌中の好論文を集め、これらを転載する。菊判 80 ページ、
定価 10 銭 。初版 3000 部。[以後、好評を博し、雑誌界空前の売れ行きを示す。1 ヵ月に 4
回増刷する。9.10 教學書院の名で『日本之教學』創刊。9.25 日本女學社の名で『日本之
女學』創刊。1894.12 『日本大家論集』は 6 巻 12 号で廃刊。博文館は薄利多売主義を掲
げて多くの雑誌・図書を刊行し、出版史上「博文館時代」といわれる出版活動を展開す
る。]
1887. 6.20 【日本】二葉亭四迷(本名長谷川辰之助)(23)の言文一致体による長編小説『新
編 浮雲』第 1 編(金港堂)刊。講談などの速記本とともに、小説の文体も話し言葉という
開かれた清新なスタイルで登場し、より多くの読者を獲得する。[ 1988.2.12 第 2 編刊。
1890.7 ∼ 8 月、第 3 編を『都の花』に連載。これに難渋して創作の自信を失う。後半で
主人公内海文三の苦悩を共有し,期せずして日本最初の心理的リアリズム小説をつくり
出すことになる。これを執筆するにあたり、坪内逍遥に相談したところ、三遊亭円朝の
速記録本『怪談牡丹燈籠』を参考にして、落語の通り書いてみるのがよかろう、とすす
められ、日本最初の言文一致体の文章を試みる。後半では熟した口語文体にまで成長す
るが,作品は未完となる。1891.9 合本。1889 年から内閣官報局雇員となってロシア語な
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ど海外の新聞・雑誌の翻訳に従事する。]
1887. 6 .−【日本】東京教育社が 、月刊誌『教師之友 』を創刊する。[∼ 1889.3 。第 25 号 。]
1887. 7. 6【アメリカ】ベルが、「アメリカン・グラフォフォン会社」を設立する。蝋(ワ
ックス)を塗ったボール紙円筒蝋管録音機「グラフォフォン( graphophone) 」を製造する 。
1887. 7.11【日本】郵便函柱(ポスト)の制式を改正する。函蓋に〈郵便 POST〉と表示す
る。ポストの根元を固めるため根石(ねいし)を用いる。[以後、一般に郵便差出函をポス
トと呼ぶようになる 。
]
1887.7.11【日本】横浜∼国府津間に鉄道が開通する。
1887. 7.14【ポーランド】眼科医で言語学者のザメンホフ Lazaro Ludoviko Zamenhof( 28 )
が、10 年ほど前から、どこの国民の言語でもない、習いやすい共通語があればと試行錯
誤を重ね、人工国際補助語「エスペラント語」を考案し 、ワルシャワで小冊子『国際語』
を刊行する。ロシア語書きの教本で、このときの筆名「エスペラント博士 D-ro Esperanto
(希望者博士)」が、言語そのものの名ともなる。[以後、生活難のなかで普及に努め、
『旧約聖書』『ハムレット』
『アンデルセン童話集』などをエスペラント訳する。その文
体、語法はエスペラントの模範とされる。世界各国で 100 を超す改造案や他の言語案が
世に出るが、エスペラントに代わるものは現れない。1906 年、日本で二葉亭四迷が、エ
スペラント入門書『世界語』と『世界語読本』を刊行する。]
1887. 7.25【日本】逓信省が、ロシア語で発行された印刷物をロシア宛てに発送すること
を禁止する。
1887. 9. 8【アメリカ】サンフランシスコの対岸オークランドで、畑下熊野,石坂公歴ら
が,月 3 回刊の邦字紙『新日本』を創刊する。
“亡命”してきた民権派青年が,現地の日
系コミュニティ向けよりも,むしろ「内地」(日本国内の読者)を主な対象として発行す
る。
[∼ 1888 年 2 月 13 日,16 号で廃刊。
「内地」では許容されない政治的言論新聞であ
るが、200 部ほど刷って〈内地の政客に配分した〉という。1888 年 5 月、オークランド
で〈世界共和〉を目的とうたう『世界の魁(さきがけ)』が発刊される。
1887. 9.26【アメリカ】バーリナー(ベルリナー)Emile Berliner(36)が、円盤レコードと蓄
音機を発明する。シェラックの平円盤を録音媒体とし、これを回転させ、その表面に螺
旋状に溝を刻む方式を考案し、
さらにこれを複製するためのスタンパ(金属などによる型)
を作り、のちのレコード大量生産の基礎をつくる。また 、エジソンの蓄音機を改良して 、
平 円 盤 を タ ー ン テ ー ブ ル に よ っ て 回 転 さ せ る 蓄 音 機 を 開 発 し 、「 グ ラ モ フ ォ ン
(Gramophone )」と名付け、特許を出願する。この円盤状録音媒体は、これまでの円筒状
媒体とは形状が異なるだけでなく、音の強さの変化は溝の深さの変化ではなく、溝の横
方向への振れの変化として刻まれるもので、のちのディスクレコードの原型となる。し
かし 、グラモフォンはラッパ型集音器によって集めた音によって直接振動板を振動させ、
その動きを直接、記録用の針に伝えてレコード盤に記録するため、再生の際の音質はよ
いものとはいえない 。
[ 11.08 ベルリナーの「グラモフォン」特許成立(アメリカ特許 372786
号)
。1988 年、公開する。この頃、レコードの材質は硬質ゴムが中心である。1902 年、
これを母体にビクター社が設立される。以後、ディスクレコードの歴史が始まる。1940
年代末まで、SP レコードの再生装置が広く「蓄音機」という呼名で親しまれる。]
1887.10. 7【日本】郵便物の受取人が不在で配達ができない場合の取扱手続を定める。
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1887.10.17 【日本】千葉県尋常中学校生徒が、博物館・動物園等の巡覧を目的として東京
へ修学旅行を行う。東京への修学旅行の第 1 号とされる。
1887.10.−【アメリカ】エジソン( 40 )が、再び蓄音機の研究に戻ることを公表する。
1887.11. 2【日本】第三種郵便物の認可出願をする場合の手続を制定する。願書に標題・
発行回数・発行日を記入し、見本を添付することとする。
1887.11.11【イギリス】写真入りの広告が初めてマンチェスターのコミック誌『パロット』
に掲載される。ハリソン編み機会社の広告で、ビクトリア女王在位 50 年祝賀博覧会中の
同社の店頭風景の大写真が使用される。
1887.11.15 【日本】富士製紙㈱が設立される。
1887.11.20【日本】山田美妙(本名武太郎)(19)の言文一致体(口語体)の歴史小説『武蔵野 』
が『読売新聞』に掲載される。奥浄瑠璃の〈おじゃる〉調、〈である〉調が斬新な印象
を与える。[11.23、12.6 に続編掲載。1888.8 月、
『夏木立』に収録される。1889 年、『蝴
蝶』も成功して一挙に流行作家に押し上げられる。]
1887.11.29 【日本】東京電燈会社第二電燈局が、直流 200V で初めて一般向けの市内公衆
用配電を開始する。最初は日本橋付近を中心に、電気を引く希望者が多い場所に小型火
力発電所を設置して 、銀行や商店などに配電する。この頃の照明の主役はランプ、提灯 、
ガス灯で、電気によるアーク灯は最先端の照明である。
1887.12. 1【日本】東京手形取引所付属交換所が開設され、交換事務を開始する。
1887.12.15 【日本】日本鉄道㈱の東北線郡山∼塩釜間が開通し、東京∼仙台∼塩釜間が開
通する。
1887.12.28【日本】新聞紙条例改正公布。発行許可主義を廃し新たに発行届出制を定める。
また、ベルヌ条約のイギリス、フランス、ドイツなど加盟 10 ヵ国に歩調を揃えて、版権
条例改正、出版条例、脚本楽譜条例、写真版権条例を公布する。著作権の保護期間を著
作者の没後 5 年とし、また題号変更などの著作者の意を害することのないようよう、初
めて人格権を規定する。
1887. ○【日本】大日本教育会(のち、帝国教育会)が、付属図書館を設ける。官立東京書
籍館からは普通書 1 万 5000 冊を借用する。閲覧料を夜間割引として勤労者の便をはかる。
また、小学生の閲覧を認め、児童図書館の先駆となる。
1887. ○【日本】出版条例が改正される。〈治安ヲ妨害シ風俗ヲ壊乱スル〉文書図画は〈内
務大臣ニ於テ其発売頒布ヲ禁シ〉(16 条)、〈猥褻ノ文書図画〉の著作・発行・発売・頒
布者を処罰することが規定される。初めて書籍などに対する発禁処分が、内務大臣の行
政処分として規定される。
1887. ○【日本】気象台測候所条例が公布され、気象事業を国が行い観測などを全国的に
統一する。東京気象台はこのとき中央気象台と改称される。[1956 年、中央気象台は気
象庁となる。]
1887.○【日本】富山県で、仏教伝道会が、事務所に仏書・新聞の縦覧所を開設する。
[1889
年、射見・礪波の光導会が、雑誌・新聞縦覧所を開設する。
]
1887. ○【日本】逓信省が、東京・京橋木挽町の中央電信局∼熱海・官営温泉研究所翕汽
(きゅうき)館間に電話線 1 回線を架設し、実用化実験を開始する。[1889.1.1 この施設を
使用して公衆用市外電話の業務を開始する。]
- 550 -
1887. ○【日本】六角政太郎が、相場専門の通信業、東京急報社を創業する。[以後、米
相場専門の商業通信社の地位に止まる。]
1887.○【日本】長瀬富郎(とみろう)( 24)が、東京・日本橋馬喰(ばくろ)町に洋小間物商
長瀬富郎商会を創業する。[ 1887 年、苦心のすえに外国製品に劣らぬ品質のせっけん製
造に成功 、「花王石鹸」として発売する。顔をもじった「香王」から「華王」へ、そし
て分かりやすさの点から「花王」と名付ける。最初の年、利益の 44%、2 年目には 28%
という前代未聞の宣伝広告費を投入する。大量に新聞上に広告を打つだけでなく、線路
脇の看板や、劇場の引幕広告など新たな広告媒体の開発を行う。1911 年、合資会社。1925
年、花王石鹸㈱長瀬商会に改組。1935 年、大日本油脂㈱を設立、1940 年、日本有機㈱を
設立。1954 年、前記 2 社を合併して花王石鹸㈱とする。1985 年、花王㈱に社名変更、メ
ディア関連事業に参入する。]
1887. ○【日本】この頃までに、フランス人ダビッド・ブルウルの貿易会社ブルウル商会
(パリ)が横浜に支店を創設する。ダイヤモンドや懐中時計など主に貴金属類を日本で初
めて輸入販売している。日本以外にニューヨーク、スイス、オランダ、中国などに支店
を置く。[1897 年、神戸支店を設ける。1896.4.7 社名をブルウル兄弟商会とする。]
1887.○【日本】イギリスからガワー-ベル(ガワーベル)電話機を輸入する。
「ガワー-ベル」
とは、ベルが考案した受話器に、イギリス人ガワーが考案した炭素棒による送話器を組
み合わせたもので、両人の名に由来する。
1887. ○【日本】日本生命保険㈱が、イギリスから「テートス計算機」を輸入する。[以
後、保険数理の解明や計算業務に実用化する。]
1887. ○【日本】ジーメンス東京事務所が開設される。[以後、同事務所のケスラーが古
河グループとの提携を進める。1923 年、富士電機製造㈱を合弁で設立する。]
1887.○【ドイツ】ツァイス社の物理学・天文学者 E.アッベが、顕微鏡の解像力には限界
のあることを明らかにする。彼の理論によれば、解像力=波長÷開口数、で表され、開
口数=入射側媒質屈折率× sin(最大入射角)、は、油浸でも、1.52 × sin90 ゜が理論上の
最大値であるから、波長 530m μの緑色光を光源としたときの解像力は約 350m μが限
界となる。
1887. ○【フランス】世界で初めての自動車レースが、内燃機関つき自動車が発明された
1885 年から 2 年を経て、パリ∼ベルサイユ間 30km のコースで行われる。自動車の耐久
性や実用性を一般にアピールするためのデモンストレーション走行といった試みで実施
される。[1895.6.11 正式な自動車レースがパリ∼ボルドー間で行われる。
]
1887.○【アメリカ】議会が、ベル電話会社を規制するため、州際商業委員会( ICC)を設
置する。この年、全国の電話加入者が 21 万 2000 に達する。
1887.○【アメリカ】1876 年に「十進分類法」を発表したデューイ MervilDewey( 36)が、
コロンビア大学に図書館学校 School of Library Economy を開設する。入学者は女 17 人、
男 3 人の計 20 人 。
[1889 年、女子学生の存在に反対する大学当局に抗しきれず、デュー
イは図書館学校とともにニューヨーク州立図書館に移転する。以後、弟子たちが 1890 年
創設のプラト、1892 年創設のドレクセル、1893 年創設のアーマー(のち、イリノイ大学)
の各専門学校敷設の図書館学校の教員として活躍する。
]
1887. ○【アメリカ】ガスナーが、マンガン乾電池を発明する。
- 551 -
1887.○【アメリカ】シカゴの J.オコーネルが、電話交換機のコールを知らせる豆電灯を
考案する。
1887.○【アメリカ】内務省統計調査室員ホレリス Herman Hollerith( 27 )が、国勢調査の
集計の迅速化が要請されているのに対して統計機械の発明を志して、リレーを用いてカ
ードを分類する自動統計機を思い付き、パンチカードと統計機械を組み合わせた電気式
製表機を発明する。
[1889 年、完成する。
]
1887.○【アメリカ】エジソン( 40 )が、実験所をニュージャージー州ウエストオレンジに
移し 、大型研究所を建設し、
「発明工場」と呼ばれる工場をスタートさせる。ここでは 45
∼ 60 人の所員がエジソンの発明に協力し、この頃 、
世界最大の研究開発機関となる。
[1888
年、蓄音機の改良、1891 年に映画の撮影機・映写機、1891 ∼ 1900 年に磁力選鉱法、1900
∼ 10 年にエジソン蓄電池などが次々と発明される。最盛時には 1 万人を超す従業員が従
事する。しかし、エジソンの会社は 、電灯の特許権をめぐる訴訟で多額の費用を失う。1892
年、エジソンは会社から締め出される。エジソンが、電灯の訴訟には勝つが、電力輸送
の将来について高圧交流方式の有利さを見抜くことができず、交流変圧器が実用化され
た後も、頑固に交流は危険だから直流の方がいいと主張し続ける。1889 年、州議会に高
圧交流禁止法案を提出するが、否決される。]
1887.○【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison (40)が、謄写版を発明し、ミメオグラ
フ(mimeograph)と名付ける。[ 1894 年、日本の坪井新治郎が坪井謄写版(のち、ガリ版)
を考案する。1910 年、東京の堀井謄写堂から単胴型第 1 号が発売される。]
1887.○【アメリカ】テスラ Nikola Tesla( 30 )が、多相交流による電力輸送のための回転
界磁型発電機と同じ原理に基づく誘導電動機に関する特許を出願する。送配電に直流、
交流のどちらを用いるべきかのいわゆる「交直論争」のなかで、よい交流電動機がない
ことが大きな要素であったが、ブラシのない誘導電動機の出現によってこの論争に決着
がつけられる。[ 1895 年、ウェスティングハウス社がテスラの特許を買収し、ナイアガ
ラ水力発電所からの送配電に二相交流を用いて画期的な成功を収める。]
1887.○【アメリカ】アメリカ初の電車がリッチモンドで試運転が行われる 。
[1999 年、
営業を開始。以後、アメリカやヨーロッパの大都市およびその近郊で、馬によらない路
面電車と郊外電車が発達する。
]
1887. ○【アメリカ】鉄道での白人と黒人の隔離を定めたジム・クロー法(黒人差別法)が
フロリダ州で可決される。
1887. 【流行語】鹿鳴館時代。
1887. 【流行歌】『数えうた』、『金剛石の歌』
1887. 【外国本】コナン・ドイル『緋色の研究』
1888(明治21)
1888. 1 . 1【日本】勅令により、東経 135 度の子午線の時をもって日本の標準時と定める。
[1895 年 12 月 27 日、勅令第 1 条で,1886 年制定の日本の標準時を中央標準時と呼ぶこ
と,第 2 条で東経 120 ツ の子午線の時を台湾およびその近傍地域のため新たに追加し,
これを西部標準時と呼ぶことを公布する。1937 年 9 月 24 日、勅令により、1895 年の勅
令第 2 条,すなわち西部標準時は廃止される。結局,中央標準時だけが残り,日本の標
- 552 -
準時の法的名称となる。]
1888. 1. 4【日本】時事通信社が東京に創立される。内務省警保局長清浦奎吾の肝煎りで
三井物産㈱専務増田孝が出資し、増田を社主として作られる。官営で、政府を代弁する
論説や政府の発表文を提供する。通信方法は専ら電話を用い、毎月手数料として 3 円払
うことにより、東京で起こった事変をその日のうちに各地の新聞社に通知する仕組みと
いう。日本最初の近代的通信社とされる。[ 1890 年、社内の内紛から自然休業となる。
1892.5.10 新聞用達会社と合併して、帝国通信社が設立される。]
1888. 1. 4【日本】民間資本の山陽鉄道会社に免許状が下付され、同会社が成立する。資
本金 1300 万円。社長中上川彦次郎。[ 11.1 兵庫∼明石間の鉄道を開通させる。
1888. 1.26【日本】向山嘉代三郎が、帝国自転車製造所を、東京・浅草に創業する。初め
て日本製の自転車を製造する。(?? 1885 年に梶尾自転車工場が 1 号車を製造か??)
1888. 1.29 【日本】高知県会議員植木枝盛が、公娼制廃止の法案を提起し、反対票 1 票で
通過させる。
1888. 1.−【日本】山田美妙( 20)の歴史小説『蝴蝶』が『国民之友』1 月号に掲載され、
渡辺省亭筆の女主人公蝴蝶の裸体姿の挿絵がセンセーションを巻き起こし、異常な評判
を呼ぶ。
1888. 2. 1【日本】千寿製紙㈲が設立される。[1891.1 操業開始。1909.5 小倉製紙所と改
称。1924.4 王子製紙㈱小倉工場となる。]
1888. 2.22【日本】電信料などを郵便切手で納付することとする。
[3.31 電信切手を廃止
する 。
]
1888. 2.27【アメリカ】覗き眼鏡ゾープラクソスコープの考案者マイブリッジ Eadweard
Muybridge(58)が、発明家 エジソン(42)の自邸を訪れる。
1888. 3. 5【日本】切手売下所開設の出願方法を定め、郵便切手売下人心得を制定する。
許可されると「郵便切手売下所免許之証」が交付される。手数料は〈売下切手高百分ノ
五〉と定められる。
[7.6 切手売下所の開設願いは、一等または二等局を経由し逓信管理
局へ提出することとする。1889.7 一等郵便局長に委任される。同年 10 月、二等郵便局
長に再委任される。
]
1888. 3.−【アメリカ】バーリナー(ベルリナー)Emile Berliner(37)が、酸の腐食によるレ
コード音溝の製法を完成させる。[ 5.16 バーリナーが公開実験を行う。]
1888.3.31【日本】逓信省が、電信切手を廃止する。
1888. 4.13【日本】長崎の唐通詞の一族で中国人の鄭永慶が、日本最初の本格的な喫茶店
「可否(コーヒー)茶館」(かひいさかん)を、東京・下谷黒門町の 2 階建て洋館で開く。1
杯 1 銭 5 厘、牛乳入りが 2 銭。中国の茶館や西洋のカフェを参考にして、店内に藤椅子
と吊りランプを配置し、各種新聞や遊戯具を備え、更衣室や文房具類を備えた部屋も用
意する。都市の中で休憩し、語らう場所が出現する。[以後、客へのきめ細かなサービス
と、目新しさが大人気となるが、短期間で閉店する。のち、4 月 13 日を「喫茶店の日」
と定める。]
1888.4.25【日本】市制・町村制が公布される。
[1889.4.1 施行 。
]
1888. 5.−【日本】曾禰(示扁)荒助主催の座談会「菊花栽培法」で、若林カン蔵、佃与次
郎らが速記を行い、小冊子として発行される。日本初の座談会速記録となる 。[1919.3
- 553 -
婦人雑誌『婦女界』(要チェック)が、初めて座談会の速記を掲載する。
]
1888. 5. 7【日本】25 人の研究者に最初の博士号が授与される。箕作麟祥(42) 、加藤弘
之(52)、外山正一( 40)、伊藤圭介(85)、池田謙斎( 47)、山川健次郎、菊池大麓( 33)、古
市公威( 34)らに法学博士や理学博士が授与される 。
[6.7 第 2 回目の博士号が中村正直ら
に授与される。
]
1888. 5.16【アメリカ】ベルリナーが、3月に完成させた酸の腐食によるレコード音溝の
製法により、音盤をつくり、公開実験を行う。
1888.5.17【日本】新潟県尋常師範学校生徒が、東京方面へ修学旅行に出発する。
1888. 6. 1【日本】東京大学の天象台が本郷から麻布へ移転し、東京天文台と改称する。
[以後、中央標準時決定の責任を負うことになる。正午砲のための標準時計の較正や,
全国電信局への有線による正午報時の発信などのサービスが開始される。
]
1888. 6.16 【アメリカ】エジソン( 41)が、自分の発明した蝋管レコードに 154 秒間、自
分の声を吹き込むみ、改良型蓄音機「フォノグラフ」を完成させる。[以後、すべてのエ
ジソン系列会社を合併させ 、
「エジソン・ゼネラル・エレクトリック社」を発足させる。
ニューヨーク発の世界一周旅行について、〈私の地理学の知識を少し上回ったものであっ
た〉と語っている。
(ニュージャージー州、エジソン国定史跡で、 1995 年 10 月に発見。
)
以後、販売員をチベットのダライ・ラマのところへ派遣し、毎日繰り返しお経をあげるの
に便利だからと、蓄音機を売り込む。]
1888.6.22【日本】愛媛県庁∼松山警察署∼松山監獄署間に警察電話が開設される。
1888. 6.27 【日本】九州鉄道会社に命令書が下付され、同会社が成立する。資本金 750 万
円。社長高橋新吉。
1888.6.30【日本】東京・根津の遊郭を閉鎖する。
1888. 6 . −【日本】経費請負の三等電信局制度が発足する。
1888. 7.10【日本】大阪の朝日新聞が、東京に進出して自由党の星亨が経営していた『め
さまし新聞』を買収して、『東京朝日新聞』と改題、創刊する。号数は『自由燈 』、
『燈
新聞 』
、
『めさまし新聞』を継いで 1076 号とする。4 ページで、定価 1 ヵ月 25 銭。部数
は約 6000 部。社屋は京橋区元数寄屋町。[ 1889.1.3 大阪で発行の『朝日新聞』を『大阪
朝日新聞』と改題する。]
1888. 7.13【日本】『東京日日新聞』に、〈従来内閣其他各省院の間に架設せられたる電話
機は、何分不完全のものにして往々混線の恐れもあり、且つ途中にて音声の漏るること
ありて、秘密を要する事件等は全く電話機を利用する事能はざるの不便あるの由〉とい
う記事が掲載される。
1888.7.15【日本 】磐梯山が大噴火し 、山体が破裂する。[以後、死者 461 人(『岩波年表』
は 444 人とある)、被害面積 25km2 に及ぶ。これを伝える瓦版が出される。東京の新聞
社 15 社が、被害者への義捐金を募る。8.1 『東京朝日新聞』が、画家山本芳翠の磐梯山
噴火の図を木版絵付録として速報、評判となる。]
1888.7.18【日本】神奈川県が、海水浴場に男女区域を設け、男女混泳を禁止する。
1888. 7 . −【日本】大井才太郎を、電話技術および制度研究のために欧米に派遣する。
1888. 8 . 1【日本】内国通運会社が、貨物早達便の取扱を開始する。
1888. 8. 7【日本】
『読売新聞』が、写真師吉原秀雄が撮影した磐梯山噴火による惨状の
- 554 -
現地写真を銅板写真にして掲載する。日本初の新聞での写真掲載となり、報道写真の始
まりとなる。
1888. 9. 1【日本】全国の郵便局で、国内郵便用の消印が年号入りの丸一型日付印に統一
されていっせいに使用開始する。これまで使用されていた二重丸型日付印やボタ印は廃
止される。郵便用と非郵便用などいくつかの形式があり、郵便用は上部に「常陸」など
の国名と局名、下部に日付や便号が右書きで入れられる 。便号は「イ便」から最多は「ワ
便」まである。局名や日付などを縦書きで表示したものも作られる。
1888. 9.19【ベルギー】世界初の美人コンテスト「コンクール・ド・ボーテ」が、スパで開
催される。350 人の応募者の中から、グアドループ島出身のベルタ・スカーレ(18 )が 1 位
に選ばれる。賞金は 5000 フラン。
1888. 9.20【日本】電気学会第三回通常会で、逓信技術士吉田正秀が「日本電信の沿革」
と題して講演を行う。その際、会員の沖牙太郎が芝愛宕下の骨董商から偶然入手した旧
式モールス電話機を借りてきて紹介する。漁師の網にかかって海中から引き上げられた
という以外、詳細な由来は不明という。突然、電気学会会長の逓信大臣榎本武揚が、立
ち上がり、その機械をじっくり眺めたあと、〈戊申の戦(いくさ)で五稜郭にたてこもっ
たとき、行方がわからなくなってしまったが、まさかこんな所で巡り会おうとは…。こ
れは私がオランダ留学時に購入し、持ち帰った、あの電話機だよ〉と語る。劇的な再会
に、会場は水を打ったような静寂につつまれる。そして、昔とった杵柄で〈キイを打つ
コツは、肩の力を抜き、手首柔らかなるべし〉と送信機のキイを叩いてみせる。
1888. 9.26【日本】郵便受取所と貯金預所を官営とし、その取扱人は官務取扱中は官吏と
認める。
1888.10. 8【日本】郵便掛函(ポスト)の塗色を、草色ペンキから春慶塗に改正する。
1888.10. 9【日本】登記印紙規則公布。
1888.10. 9【日本】『九州日日新聞』が、『紫溟新報』を改題して熊本で発刊される。佐々
友房らが主宰。
[のち、
『熊本日日新聞』に改題。
]
1888.10.10 【日本】航路標識条例公布。
1888.10.27 【日本】10 月 7 日に落成した皇居を、宮内省が宮城と称すると告示する。
[1889.1.11 宮城の造営が完工する。
]
1888.10.28 【日本】四国地方で最初の鉄道、伊予鉄道(伊予軽便鉄道?)が、松山∼三津
口∼三津の 3 駅間 6.8km に汽車の運行を始める。軽便鉄道規格の 762mm(2ft6in)ゲージ
を日本で初めて採用し、小型蒸気機関車が牽引する。また、阪堺(はんかい)鉄道(のち、
南海電気鉄道)に続く日本 2 番目に私鉄となる 。
[以後 、
「坊ちゃん列車」の愛称で親し
まれる。11.1 松山∼三津間 1 里 24 町 6 間(約 6.5km)に鉄道用電話線が架設される。1889.5
讃岐鉄道の丸亀・琴平間が開通。1927 年、国鉄予讃線が松山に到達すると、
「松山駅」
の名を“強奪”(『伊予鉄道百年史』)し、伊予鉄道の方は「松山市駅」と改称を余儀な
くされる。以後、旧市街の各地と道後温泉を結ぶ軌道線の市内線と、松山市駅を中心に
高浜、横河原、郡中(ぐんちゅう)の 3 つの方向に鉄道線を延ばす。](『帝国大日本電信
沿革史』1892)
1888. 秋 【日本】川上音二郎( 25)が、大阪落語の桂文之助の門に入り浮世亭浮世亭○○
(マルマル)と名のり、大阪千日前の寄席「井筒」の高座で時事を風刺して、〈権利幸
- 555 -
福きらひな人に、自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい、オッペケペー……〉という『オ
ッペケペー節』を演じる。[1891 年頃、全国に大流行する。]
1888.11.20 【日本】前島密(53)が、逓信次官となり、郵便事業に再登場する。[以後、外
務大臣大隈重信を説き、電信・電話についての内閣の方針を民営から官営に改めさせる。
]
1888.11.20 【日本】『大阪日報』が『大阪毎日新聞』と改題、大阪で発刊される。兼松房
治郎らが主宰、主筆柴四朗。
1888.11. −【日本】初の少年雑誌『少年園』が創刊される。この頃、「少年」には男女が
分離されておらず、女子読者を排除する姿勢はまったくない。[1895 年 、廃刊。1895 年 9
月、雑誌『少年世界』に初めて「少女欄」が開設される。]
1888.11. −【日本】鉄道所属の電信電話線が、公衆通信にも使用されることとなる。
1888.11.30 【アメリカ】メキシコと修好通商条約をワシントンで調印する。日本が初めて
対等の立場で結んだ通商条約となる 。
[1889.6.6 批准。7.17 公布。
]
1888.12. 4【日本】香川県設置の勅令が公布され、愛媛県から独立する。
[以後、府県名
が確立する。
]
1888.12.20 【日本 】
、特許条例、意匠条例、商標条例が公布される。
1888.12.25 【日本】1 月 1 日は郵便物逓送の休日に当たるが、発信が多く 2 日に配達する
ものが多いため、便宜集配を行うこととする。集配人には臨時手当てを支給する。
1888. ○【日本】陸軍参謀本部に陸地測量部がおかれる。これまで、地図の作成事業は政
府機関が中心となり民部省、大蔵省、内務省、工部省、農商務省など多くの省がかかわ
ってきたが、陸地測量部が測量・地図作成の中心となる。[以後、全国の基本図作成事
業をすすめる。1892 年、陸地測量部が 5 万分の 1 地形図作製のための測量を開始する。
これには台湾、朝鮮半島、樺太(サハリン)などもふくまれる 。
]
1888.○【日本】政府が、郵便条例を改定して、新聞・雑誌を発行地から 3 里(11.8km)
以遠に送るときは必ず郵送するよう義務付ける。これまで、新聞・雑誌の郵送料は、16
匁(60g)当たり 1 銭で、新聞社では個々の読者に郵送する代わりに地方の売捌所・取次
所へ民間運送会社を通じて1部当たり 6 ∼ 7 厘で送達するものが多かった。[1889.10 世
論のごうごうたる反対にあって政府は強権的手段をあきらめ、新聞・雑誌の郵送料を半
減する措置をとる。以後、郵送に頼るものが急増する。](『郵政百年史資料』、石井寛
治、1994 )
1888. ○【日本】俵谷高七が、日本で初めての硬化投入式「タバコ自動販売機」を発明す
る。10 年間の期限付きで特許される。折から東京で開催されている内国勧業博覧会に出
品され好評を博す。[ 1904 年、木製の「自働郵便切手葉書売下機」を製作する。]
1888.○【日本】盲唖学校訓導石川倉次( 39 )が、同僚の小西新八からブライユ点字の日本
語への翻案を勧められる 。
〔昨年、石川は盲唖学校訓導小西新八とカナノクワイで知り
合い、懇望されて盲唖学校書記に任ぜられた。][以後、石川は、ブライユの 6 点点字で
はカナ 48 字に対しては不足するので 8 点にしようとしたり、寝食を忘れてさまざまな試
行錯誤を重ねて日夜苦心の結果、6 点点字案をまとめる。没頭する余り、夫人が産気づ
いたのも気がつかなかったといわれる。この間、周囲の同僚や生徒もそれぞれ独自の案
を提出するようになり、期せずして競作の観を呈する。1890 年、最終的に学内の点字撰
定(せんてい)会において、石川の案が採用される。](筑波大学附属盲学校資料)
- 556 -
1888 ○【日本】この頃、田鎖綱紀の門下生藤木顕道(けんどう)が、速記器という木製の
器械を考案し、東京や関西で普及活動を行う。日本初の速記符号書きの機械化となる。
[以後、実用には至らない。
]
1888. ○【日本】イギリスの「蒸気機関車の父」トレビシックの孫で、先に来日していた
フランシス・H・トレビシック Francis Henry Trevithick( 38 )の兄、リチャード Richard
Francis Trevithick( 43)が、汽車監察方として着任し、鉄道の運営、機関車設計などの総監
督に当たる。[1893 年、日本最初の国産蒸気機関車 860 形を設計し、官鉄神戸工場で製
造する。また、日本の鉄道技師養成に功績を残す。]
1888. ○【中国】台北に初めて街路灯がともる。
1888. ○【オーストリア】ジークフリート・マルクスが、四輪車を製作する。
1888.○【オーストリア】植物学者ライニッツァー Friedrich Reinitzer が、コレステロール
のエステルの性質を研究している際、コレステリル安息香酸が、145.5 ℃で完全にとける
が、その外観は通常の液体とは異なり不透明で、さらに 178.5 ℃まで温度を上げると通
常の透明な液体となることを見いだし、サーモトロピック液晶を発見する。[液晶は、液
晶相となる条件から、ある温度範囲で液晶となるサーモトロピック液晶 thermotropic
liquid crystal と、水やその他の極性溶媒と混合した状態で液晶となるリオトロピック液
晶 lyotropic liquid crystal とに分類される。前者では、温度を上げていくと固体(結晶)
→液晶→通常液体→気体へと変化し、後者では溶媒の量を増していくと、固体→液晶→
通常液体という変化を示す。]
1888.○【ドイツ】ベンツ Carl Friedrich Benz( 44 )が、改良したモデル 3 型ガソリンエンジ
ンを三輪車に搭載し、現実的に走行可能な自動車をミュンヘンの作業機・原動機の博覧
会に出品する。非公式な許可の下で 1 日 2 時間公開運転を行う。[以後、この動力三輪車
は新聞などで絶賛され,博覧会の金賞を獲得する。この年、ベンツ夫人が、15 歳と 13
歳の息子を連れて、マンハイムの自宅からフォルハイムまでの 180km を車で旅し、ガソ
リン自動車で長距離旅行をした最初の人となる。1889 年、パリ博覧会でも出品するが、
販売市場の見通しは得られなかい。]
1888.○【ドイツ】ヘルツ Heinrich Rudolf( 31 )が、火花放電の電気振動によって発する電
磁波が空間を伝ぱんすることを観察し、電磁波の存在を実験的に確認する。これが光波
と同じ性質を持つことを確かめ、マクスウエルの電磁理論( 1864 年)を実験的に証明する。
しかし、彼自身は電磁波は実用にならない無意味なものと考える。モールス信号のオン・
オフの時間をそのまま周波数に置き換えると、長い波長となり、それを受信するための
アンテナは巨大なものになると考えたからである。無線通信の始まりとなる。
1888.○【ドイツ】物理学者ハルバックス W.L.F. Hallwacks( 29 )が、絶縁された亜鉛 Zn 球
の清浄表面に紫外線を当てると、球が正に帯電する現象を発見する。[同年、エルスタ
J.P.Elster とガイテル Hans Friedrich Geitel)(34)は、真空中の金属が紫外光照射により電
荷を失うことを発見し、金属から飛び出す光電子の単位時間当りの数は、入射光の強度
に比例することを見いだす。これらの現象は外部光電効果あるいはハルバックス効果と
呼ばれる。1900 年、P.E.A.レーナルトによって,紫外光照射により金属から電子が飛び
出すためであることが明らかにされ、のちの量子論へと発展する。1910 年ころ、エルス
ター J.P.Elster が、外部光電効果を応用してさまざまな光電管をつくり「総放出電子量は
- 557 -
入射光量に比例」することを認める。以後、光電管が実用されるようになる。]
1888.○【フランス】アンドレ Andre()(35)とエドゥアール(29 )のミシュラン Michelin 兄
弟が、ミシュラン・タイヤ会社を設立し、自動車用のタイヤを製造する。
[1891 年、世界
で初めて自動車用の交換可能な空気入りタイヤを製造する。以後、上質の道路地図を作
る。1990 年、旅行ガイドブック『ギド・ミシュラン』を創刊する 。
]
1888.○【フランス】初めて電池と電動機を動力源とした潜水艦ジムノト( Gymnote )が完
成する。
1888 ○【イギリス】アイルランド生まれのグレッグ John Robert Gregg( 21 )が、半草書派
の表音式速記法を考案し、リバプールで『軽快な表音速記』と『グレッグ速記マニュア
ル』にまとめて発表する。グレッグは、テーラー式、ピットマン式、およびフランス、
ドイツの方式を学んで、正円幾何派とドイツの草書派を融合させ、さらに母音の表記に
サイン符号を使うフランスのアイデアを採り入れた 。
[1893 年、アメリカに移住して、
グレッグ出版社を設立する。
]
1888.○【イギリス】エミール・ゾラ『大地』の英訳版が発禁処分を受ける。出版者は 100
ポンドの罰金、1 年の禁固刑に処せられる。[酪農場で働く女が雌牛を雄牛の方へ引っぱ
って行くくだりがわいせつと判定されてのが理由。]
1888.○【イギリス】ダンロップ John B.Dunlop( 48 )が、空気入りゴムタイヤの特許を取
得する。
1888.○【アメリカ】ロード John Laud が、板や厚紙に印をつける筆記具を考案する。ボ
ールペンの原型となる。[1943 年、ハンガリー出身のビロ Lazlo Biro が改良を加え,筆
記具として完成させる。1944 年、エバーシャープ社がビロの特許を買って商品化する。
1945.10.29 発売。]
1888.○【アメリカ】アイルランド系のジャーナリスト、デイヴィッド・クローリー David
Crowley(筆名サー・オラクル Sir.Oracle)が 、
『未来概観』の中で、世界大戦の勃発、ロシ
アの役割、その中国との競合、植民地の独立、映画、飛行機、光電子印刷などの技術開
発を予言する。
1888. ○【アメリカ】アメリカ地理学会の機関誌『ナショナル・ジオグラフィック・マガジ
ン National Geographic Magazine 』が創刊される。エッセイとともに世界の自然と人々の
写真を豊富に掲載する。[以後、美しい写真で世界の珍しい風物を紹介する雑誌として、
一般家庭向けに着実に部数を伸ばす。発行部数は約 1000 万部に達する。]
1888. ○【アメリカ】イーストマン乾板会社(のち、イーストマン・コダック社)のイース
トマン George Eastman (34)が、リボン状のニトロセルロースを使って、透明で自由に曲
げられるフィルムベースをはじめて製造する。これを使用したロールフィルム式のアマ
チュア向け小型携帯用ボックスカメラ「コダック The Kodak 」を発売する。高さ 105mm、
幅 85mm、奥行き 172mm の木箱の中に、撮影すれば自動的に送られる紙シートに、感光
剤を塗布した 100 枚撮りのフィルムが装填されている。撮影の終わったカメラを工場に
戻すとフィルムは現像され、新しいフィルムが入れ替えられて手元に返却される、とい
うシステムである。広告に〈あなたはボタンを押すだけ、あとは私どもにお任せくださ
い。You push the button and we do the rest.〉と書く 。
[以後、大ヒットになり、セルロイ
ド製のロールフィルムが本格化する。写真の揺籃(ようらん)期が終わり、多くのアマチ
- 558 -
ュア写真家が、写真という新しい技術に関心を抱くようになる時期が始まる。同社は写
真機、同用品市場で圧倒的な地位を占め、簡易カメラ「インスタマチック・カメラ」
、フ
ィルム・カートリッジなど技術面、新製品開発面でも絶えず同業界の最先端をきってい
く。
]
1888.○【アメリカ】新生なったレミントン・タイプ社が、タイプライターを月間 15 万台
を売る。
1888. ○【アメリカ】ベル電話会社が、電話交換機の原型、「三者会話システム」を考案
する 。
[以後、小さな交換機を多数手がける 。
]
1888.○【アメリカ】技師オベリン・スミス O. Smith が、電磁誘導作用により磁性体の帯
に音声信号を録音し、再生することができるというアイデアを雑誌に発表する。[以後、
実際に製作はされない。フランスの物理学者フランソワ・デュッソーが、電話の録音用に 、
円筒形の磁性体に電磁石で振動する針で記録する装置を製作する。1894 年、デンマーク
のポールセン(パウルセン) V. Paulsen が、世界で初めての磁気録音再生の実験を行う。]
1888.○【アメリカ】作家エドワード・ベラミー Edward Bellamy (38)が、社会改良思想を
盛り込んだユートピア小説『顧みれば』を著し、西暦 2000 年の未来都市ボストンにおけ
る社会システムを描く。若いボストン市民ジュリアン・ウェストが、100 年の眠りののち
に、社会主義的理想の実現された紀元 2000 年の世界に目覚め、かつての恋人の子孫にあ
たる女性と恋に落ちる物語であるが、あらゆる労働と消費が社会主義的なシステムにっ
て管理され、クレジット・システムが効率的に機能している。そのために情報ネットワー
クが整備され、電話放送により音楽番組などを聞くことができる 。(川本政喜訳、岩波
文庫)[以後、ベラミーは一躍世界的名声を博する。1893 年、ハンガリーの電気技師ティ
ヴァダル・プシュカーシェが、電話放送「テレフォン・ヒルモンド」をブダペストで開設
し、大当たりする。]
1888. 【流行語】超然主義。帝国。
1888. 【流行歌】『紀元節』『故郷の空』
1889(明治22)
1889. 1. 1 【日本】東経 135 度の子午時を日本の標準時と定める。明石市内に子午線の標
識が置かれる。
1889. 1. 1 【日本】郵便局は郵便規則で 1 日は休日だが、前年 9 月に統一された丸一型日
付印に 22 年 1 月 1 日とされた消印が東京麹町ほか数局で使用される。[ 1890.1.1 全国す
べての局で 1 月 1 日印が使用される。]
1889. 1. 1【日本】逓信省が、東京∼熱海間に架設した電話線と国産電話機により、公衆
用市外電話の商用試験通話を開始する。料金は 1 通話 5 分で 15 銭。[以後、主として熱
海に別荘を持つ政財界の有力者たちが利用する。1890.4 この結果を参考にして、東京と
横浜で電話加入者の募集を始める。]
1889. 1 . 3【日本】大阪で発行の『朝日新聞』を『大阪朝日新聞』と改題する。
1889.1.14【日本】逓信省が、電話取扱心得を制定する。
1889. 1.18【日本】
『郵便報知新聞』が、アメリカ人ヘエルが携えてきた A.G. ベルの蝋塗
り円筒式蓄音機グラフォフォン( graphophone)を 、
「通信写言器の初輸入」と報じる。農
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商務大臣井上馨夫妻ほかに話しかけた駐米公使陸奥宗光ほかの声が吹き込まれている円
筒とともに渡来した。[ 1.20 試聴会が行われる。]
1889. 1.20【日本】アメリカ人ヘエルが携えてきたグラフォフォンが、初めて鹿鳴館で公
開される。農商務大臣井上馨が、伊藤博文、山田顕義、森有礼、榎本武揚ら大臣顕官を
はじめ内外朝野の紳士 200 余名を集めて試聴会を行う。人々は再生された陸奥宗光の声
を聞き驚嘆する。その模様を『時事新報』は〈曾て此の蓄音したる本人の音容を知る人
々が、恰も陸奥氏に面話の心地したるなる可し〉と報じる。また。グラフォフォンを各
新聞は「写言機 」
、「蘇音機」、「撮音機 」
、「蓄音機」などと訳語して報じる。「蓄音機」
という訳語がこのとき初めて現れる。[この月、フォノグラフも日本にもたらされる。以
後、
「蓄音機」という訳語が定着していく。]
1889.1.24【日本】内閣が、官吏に政事上または学術上の演説や叙述を許可する。
1889. 1.−【日本】哲学者・井上円了『欧米各国政教日記』が刊行され、欧米にあるハネ
ムーンの習慣を紹介する。[以後、この言葉が日本に来てからハネムーン第一号は、伊藤
博文の娘夫婦となる。]
1889. 1.−【日本】憲法発布をひかえ、国旗が売り切れ状態になり、酒の販売も増加して
値上がり、花柳界がにぎわう。
1889. 1 . −【日本】東京市警察本庁と市内各警察署間を結ぶ直通の警察電話が開設される 。
1889. 2. 4 【日本】
『官報』第 1677 号に「全国鉄道発車時刻表」を最終ページの半分を割
いて掲載する。[以後、記事輻輳の日を除き毎日掲載される。1891.8 掲載回数を月に数
回と減少する。1892.3.28 一旦休載する。同 9.1 再び掲載され、以後、月に数回掲載され
る。同 12.19 掲載され、最終となる。以後、付録の方に発展する。]
1889. 2.10【日本】
『風俗画報』(東京・野口勝一ら主宰、東陽堂発行)が創刊される。西
欧のグラフ雑誌の影響を受け,主として石版画(リトグラフ)の絵が掲載される。日本で
初めて誌名に〈画報〉の文字が使われる。創刊号は 28 ページ,定価 10 銭。
〈画ヲ以テ一
ノ私史ヲ編纂スルノ料ヲ作ル〉ことを目的に,創刊当初、復古調の時流を反映して,江
戸研究に重点が置かれる。[以後、江戸時代風俗の考証,各地に伝わる地方風俗の紹介,
刊行時における流行風俗の記録を編集方針とする。のちに写真版が多数を占めるように
なる 。1916 年 4 月廃刊。通巻 478 号 。号数外の増刊を含む総冊数は 517 冊。
『風俗画報』
の廃刊は,石版グラフィック時代に終止符を打つものとなる。]
1889. 2.11【日本】大日本帝国憲法が発布される。東アジアで最初の憲法となる。国内に
お祝いの声があふれる。二重橋で天皇を迎えるときに、何と唱えるかがあらかじめ調査
・研究され、初めて「ばんざい(萬歳)」(あるいは「ばんぜい」)と叫ぶことが行われる。
万歳三唱の発声の始まりとなる。東京朝日新聞社と大阪毎日新聞社が、この日発表され
た憲法等の全文を東京から大阪へ打電し、赤刷り号外によって大阪で報道し人々を驚か
せる。朝日新聞社の場合の打電量は、計 1137 音信( 1 音信は 10 字)で、料金は 121 円 37
銭。
(
『朝日新聞の九十年』朝日新聞社、1969)[以後 、
「萬歳 」はめでたい時や嬉しい時、
長久を祈る時などに唱えられるようになる。帝国憲法で「言論の自由」については、第 29
条に〈法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集及結社の自由を有す〉とされ、
「新聞紙条例」、
「出版条例」、
「保安条例」、
「集会条例」の 4 つの言論統制法の範囲内での制限付きの自
由のみを認める。また第 8 条「緊急命令」により、議会の承認を必要とせず天皇の命令
- 560 -
によって言論を統制できる規定を設ける。1946 年、新憲法(日本国憲法)制定後は「明治
憲法」と呼ばれる。]
1889. 2.11 【日本】文部大臣森有礼(42)が、官邸玄関で西野文太郎に刺される。西野はそ
の場で殺され、埋葬役の 2 人が衣服を剥ぎ、発覚して逮捕される。[2.12 森有礼が死去。]
1889. 2.11【日本】陸羯南(くがかつなん)が、社長兼主筆として東京で新聞『日本』を創
刊する 。
〈政権を争ふの機関〉でも〈私利を射るの商品〉でもなく,主義のみによって
たつ独立新聞として非党派,非営利の言論新聞をめざし、主義として ,
〈日本の一旦亡
失せる国民精神を回復し且つ之を発揚せん〉という「国民主義」を掲げる。谷干城,浅
野長勲らが資金面で援助する。[以後、漢文調の難解な紙面は,少数の熱心な読者には
支持されるが,営業的にはつねに苦しい。発行部数は日清戦争のころの最盛期でも約 2
万部と推定される。1906 年、陸羯南から伊藤欽亮に譲渡される。伊藤欽亮は紙面通俗化
を図るが、三宅雪嶺,長谷川如是閑らは抗議して退社,雑誌『日本人』に移る。『日本
人』は『日本』をも継承すると称して『日本及日本人』と改題する。1914 年 12 月、新
聞『日本』の経営は伊藤欽亮によっても好転せず,廃刊となる 。
]
1889.2.15【日本】
『秋田魁新聞』創刊。
1889. 2 . −【日本】憲法発布や祝賀式典などに関する錦絵が、盛んに出版される。
1889. 3. 2【日本】東京図書館官制公布。東京図書館が、文部省総務局所属から再び文部
省直轄機関として独立する。[ 1897.4.27 東京図書館官制を廃止、帝国図書館官制が公布
される。]
1889. 3. 4 【日本】宮武外骨( 23 )が、憲法発布をもじって、玉座の骸骨が「大日本頓智研
法」を下賜する戯画を挿入した「頓智研法発布式附研法」を掲載した『頓智協会雑誌』28
号を出す。[以後、発行禁止になる。4.25 東京軽罪裁判所が、編集発行人宮武外骨を不
敬罪で重禁固 3 年、罰金 100 円の刑を宣告する。外骨はこれを不服として大審院に控訴
する。10.25 一審の求刑どおりの刑が確定。東京石川島監獄に収監される。]
1889. 3.14【日本】逓信省が、電信電話線私設条規を公布する。この中で、電話も電信同
様官営とすることを示唆する。
1889. 3.22【日本】1987 年に政府の軟弱外交を非難して大同団結運動を指導した後藤象
二郎(51)が、突如黒田清隆内閣に逓信大臣として入閣する。大同団結運動内からは入閣
反対の声があがる。前逓信大臣榎本武揚は文部大臣に任命される。次官前島密( 54 )は、
反政府運動の大物を突然上司に据えられ、辞任さえも考えるが、電話問題に関して新大
臣の見解を真っ向から問う。後藤は〈官設を推し、民設を排す〉と答える。[以後、後藤
は山県有朋,松方正義両内閣に留任。]
1889. 3.−【日本】電話事業の官営論と民営論の対立が激化するなか、政府内での官営論
が強まり、官営方針が閣議決定される。[1890.12.16 逓信省による電話交換事業が、東京
・横浜両市内および両市間で開始される。](郵政省編『郵政百年史』逓信協会、1971)
1889. 3.−【アメリカ】カンザスシティーの葬儀屋ストロージャー(ストローガー)Almon
B. Strowger が 、初めて自動電話交換機を考案して、特許権を得る。(岩波年表は 1891 年)。
発明の動機は、電話交換手の一人がたまたま商売敵の妻(愛人との説もある)で、葬儀の
注文を全部商売敵に回していることを知り、大憤慨のあげく交換手を必要としない電話
交換の必要性からである。[以後、ストロージャーは葬儀屋をやめて「ストロージャー自
- 561 -
動電話機会社」を設立、のち「オートマティック電機会社に改称。1892 年、インディア
ナ州ラポルテで、最初の自動電話交換機の運用が始まる。以後、電話加入者はすべて番
号にコード化され、みずから番号をダイヤルして相手を呼び出すことができるようにな
る。ストロージャー方式と呼ばれ、ステップ・バイ・ステップ方式のもので、電話交換機
の第一世代として、電話交換に革命をもたらす。制御方式は、加入者のダイヤル操作に
より発生するパルスを直接入力として一桁ずつ順々に処理して接続経路を選択する直接
制御方式を採用している。したがって、一桁のダイヤル数字を受信し、その数字に対応
した経路を選出し、さらに、そのなかから空いている出線を選択するスイッチが基本と
なり、このようなスイッチが多数集められて交換機が構成されている。1905 年、標準的
なタイプを完成させる。ベル電話会社も独自に開発を手がけるが、ストロージャー方式
の足許にも及ばない。1919 年、ベル電話は、ストロージャーから特許を買収し、それを
もとににダイヤル式電話機の 1 号機を作る。のちにドイツで開発されたジーメンス方式
もこの方式である。日本では、1926 年より A 形(ストロージャー式)と H 形(ジーメンス
式)の 2 種類のステップ・バイ・ステップ交換機が導入される。]
1889. 3.31 【フランス】フランス革命 100 周年を記念してパリで開催されるパリ万国博覧
会のモニュメントとしてエッフェル Alexandre Gustave Eiffel(57)が設計した高さ 300m の
世界最高の鋼鉄の塔「エッフェル塔( Tour Eiffel)」が完成する。建設中から、伝統を重ん
じる文化人、芸術家らは一斉に非難したが、多くのフランス人は、塔の高さに賛嘆の声
をあげる。312m の塔の先端にフランス国旗がひるがえり 、
〈300m の旗竿を持っている
のはフランス国民だけ〉と自慢する者もいる。一階(58m)、二階(116m)、三階(276m )に
展望室があり、午後 1 時 30 分、首相はじめ各界の来賓約 60 人がエッフェルの先導で、
エレベータが未完成のため階段を歩いて登り始める。半数近くが途中で脱落し、35 人だ
けが展望台にたどりつく。プジョーが、フランス初の蒸気機関を搭載した三輪自動車「ト
リシクル」を完成させ、この場で発表する。
[5.6 博覧会開会。しきりに悪態をついてい
たエッフェル塔嫌いの作家モーパッサン Henri Ren レ Albert Guy de Maupassant (39)が、
完成後はせっせとエッフェル塔のレストランに通いだし、心変わりをしたのかと尋ねら
れて 、
〈いや、ここはパリで唯一、エッフェル塔を見ないですむ場所だから〉と答える。
博覧会会期中に 600 万人の客を集める。万国博終了後、反対を押し切って無電塔として
残される。やがてパリを象徴するモニュメントの一つとして認識されるようになる 。第 2
次大戦後、ラジオ・テレビ塔として利用され、アンテナを加えた高さは約 320m になる。
2000 年 11 月、新しいアンテナが取り付けられ、324m になる。
]
1889. 4.11【日本】甲武鉄道の新宿∼立川間が開通、中野、境(のち、武蔵境)、国分寺、
立川の 4 駅が開業する。[ 8.11 新宿∼八王子間が全通。1 日 4 往復の列車を運転する。
1906.6.1 官営鉄道の中央線八王子∼甲府間が開通し、鉄道国有法で国有化される 。以後、4
月 11 日を「中央線開業記念日」と定める。]
1889. 4.16【日本】鉄道局が、東海道線天竜川橋梁を完成させ、静岡∼浜松間の鉄道が開
通する。新橋∼長浜間が全通する。この橋のスパン 200 フィートトーラスの弦材に初め
て鋼材を使用する。
1889. 4.19【イギリス】
『ロンドン・タイムス』に、日本の外務大臣大隈重信の条約改正案
に対する論評が掲載される。
[5.31 この記事を『日本』が訳載する。
]
- 562 -
1889.4.30【日本】逓信省が、北海道の郵便線路に騎馬送を認める。
1889. 4 .−【日本 】市外電報料金を改正。15 字以内 20 銭、5 字以内増すごとに 5 銭追加 。
本文末尾の発信人住所氏名を有料とする。
1889. 4.−【日本】官報局が、送仮名法を制定し、官報号外として出版する。[以後、『官
報』の送り仮名はこれによる。]
1889. 4.−【日本】東京の慈恵病院で、受付掛に女性が登用される。外来患者の評判を呼
ぶ。
1889. 4.−【日本】東京府会議員で、娼妓賦金全廃について新吉原貸座敷業者より収賄し
た者が発覚し、問題となる。
1889. 5 . 1【日本】東京に特別市制を施行する。
1889. 5. 6 【フランス】フランス革命 100 周年を記念して、パリで万国博覧会が開催され
る。これを記念して建設されたエッフェル塔が一般公開される。高さ 300m で、晴れた
日には望遠鏡で 80km 近くまでの遠方が見通せると、最も人々の人気を呼ぶ。文化人た
ちからは、常識破りの設計だとして、一斉に攻撃を受ける。また、100 万個の電球が夜
の世界を昼に変え人々を驚かせる。レノー(E) mile Reynaud( 44)が、ゾーエトロープを改
良した「プラキシノスコープ(プラクシノスコープ)を、パビリオン「自由芸術宮」に出
品する。[以後、会期中、3000 万人の観客を動員する。観客向けにヘアヌード写真が大
量に売られる。]
1889. 5.10【日本】イギリスから輸入された日本最初のトイレ付き列車が、東海道線の下
等列車に登場する。イギリス製の洋式トイレで、多くの乗客が使い方がわからず戸惑う。
これまでは停車場に着くたびに乗客が降りて用を足していた。
1889. 5.15 【日本】大槻文彦( 42 )が、多年の労苦のうえて編纂した五十音順による日本最
初の近代的な組織の普通語辞書『言海』を自費出版し、第 1 巻を刊行する。1875 年に文
部省の命によりつくり始め、その構成をウェブスターのオクタボ版に倣い 、完成させる。
印刷は文部省印刷局で行う。編者から見本を手渡された福沢諭吉( 55)は、
〈寄席の下足札
が五十音でいけますか〉と眉をしかめ、面と向かって批判する。[のち、大槻は福沢の批
判に対して〈小学校でも二十年来五十音を教えていることに思い至られなかったのだろ
うか 〉悔しそうに回顧する。1891.4.22 全 4 冊を完成。収録語数 3 万 9103 語。1932 ∼ 1937
年、増補されて『大言海』(大槻文彦編、冨山房刊)として完成する。]
1889. 5.23【日本】植木枝盛が、東京婦人矯風会主催の講演会(数寄屋橋会堂)で一夫一婦
を強調して演説する。
1889. 5.30【日本】 4 月 19 日付け『ロンドン・タイムス』に掲載された外務大臣大隈重
信の条約改正案に対する論評を、
『日本』が訳載する。
[∼ 6.2 。これをきっかけに、条約
改正の反対運動が起こる。1894.7.16 ロンドンで日英通商航海条約が調印され、領事裁判
権の撤廃など幕末以来の不平等条約を改正、いちおう独立国としての体裁を整える。]
1889. 5.−【日本】印刷会社秀英舎(のち、大日本印刷㈱)の舎長佐久間貞一(41)が、欧米
で 8 時間労働を求めて第 2 インターナショナルを結成しようとする動きを察知して、こ
れまでの 1 日 10 時間の労働を試験的に 8 時間労働を実施する。また、業界内にも普及さ
せようと呼びかける。[以後、東京市内のほとんどの印刷会社から、業界秩序破壊になる
として反発を受ける。佐久間は、2 ヵ月余で 9 時間労働に後退を余儀なくされる。この
- 563 -
年、佐久間は活版工組織化運動に支援を与える。1890 年、重ねて活版工組織化を支援し、
自らも片山潜らの進めるナショナルセンター「労働組合期成会」の評議員として活動す
る。]
1889. 5.−【日本】落語・講談速記専門誌『百花園』(東京金蘭社)創刊。講談や人情噺の
速記化による専門雑誌の先駆けとなる。[9 月 、
『百千鳥 』
、 10 月 、
『花筐』 1892 年 7 月、
『東錦』などが創刊される。速記本は,伝統的な話芸にとって欠かせない存在となる。]
1889. 6.15【日本】横須賀線が全通し、東海道線と接続される。横須賀には軍港があり、
軍の強い要請によりこの接続が促進される。
1889.6.24【日本】
『官報』第 1794 号に「新橋神戸間汽車発着時刻竝ニ乗車賃金」が、A4
判 2 ページの独立した付録に掲載される。時刻表が初めて『官報』の独立した付録とし
て登場する。[7.1 東海道線の新橋∼神戸間が全通する。]
1889. 7. 1【日本】長浜∼大津(のち、膳所)間、米原∼深谷が開通し、東海道線の新橋∼
神戸間が全通する。この日『官報』第 1794 号に「汽車発着時刻並賃金表 」が掲載される。
単線で、1 日 1 往復で、午後 4 時 45 分新橋を出た下り夜行列車が翌日 12 時 50 分に神戸
に到着、上り夜行列車は午後 5 時 30 分神戸発、翌日午後 1 時 40 分新橋着予定(『朝野新
聞』6.25)。平均時速 30km に大幅にスピードアップされ、所用時間が上り下りともわず
か 20 時間余、東海道五十三次を直行列車で座ったまま神戸まで行けるということで大き
な話題となる。新聞は 、気楽になった旅の様子を〈東男も京女も旅の衣を装うに及ばず 、
鞄一個とこうもり一本を携えて…〉と書く。時速 10km が限界という脚夫便や馬車便か
らみれば言語を絶する超速度である。汽車賃は汽船より安く、三菱会社の汽船の下等運
賃が横浜∼神戸間 5 円 50 銭だが、東海道鉄道の下等運賃は 3 円 76 銭。この間を船舶で
逓送していた郵便物もこの日より鉄道輸送に切り替えられる。富士山は、上り列車の場
合、金谷∼島田間で最初に見えてから富士川鉄橋を渡り御殿場近くまで車窓に大きく見
え、国府津を過ぎるまで約 170km にわたり 4 時間もの間眺められる。[以後、政府は、
郵便物の輸送をしだいに鉄道に頼るようになる。1896 ∼ 1912 複線化工事が行われる。]
(
『日本国有鉄道百年史』1969 )
1889. 7.14 【フランス】国際社会主義者の大会が、フランス革命 100 周年を記念して、パ
リで開催される。22 ヵ国 395 人の代表が参加し 、第 2 インターナショナルが結成される。
この大会で、1886 年 5 月 1 日にアメリカで行われた労働者の運動を世界に広げることが
決議され、来年 5 月 1 日に労働者の祭日として第 1 回メーデーを開催して、8 時間労働
を求めてデモやストライキを実施することを決める。
1889. 7.14【フランス】革命祭でカンカン踊りが披露され、踊り子は下着をつけず、陰毛
を剃り白粉化粧し、大股開きを見せて大評判になる。
1889. 7.16【日本】東京郵便局、東京電信局など 60 局の郵便局と電信局を合併し、郵便
電信局とする。
1889. 7.20 【日本】山梨県女子師範学校の生徒 15 人が、「体力養成実地修学」の名目で職
員 7 人と共に京都地方へ修学旅行に出発する。[以後、京都、奈良、伊勢を巡り、その珍
しさに行く先々で大歓迎を受ける。女学生の修学旅行の第 1 号とされる。)(『記念日の
本』他による。?? 1899.6 にも山梨女子師範学校生徒が修学旅行とあるり、第 1 号とい
う。??)
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1889. 8. 7【日本】大阪の忠雅堂が、樋口正三郎編集『日本全国汽車時間表』(発行者赤
志忠七)を刊行する。B5 判、漢数字、縦書き、右綴じ、28 ページ。[のち、冊子型の時
刻表として日本最古のもの判断される。単発で終わる。]
1889.8.11【日本】甲武鉄道の新宿∼八王子間が開通する。
1889. 8.12 【日本】東京電燈技師長の藤岡市助( 42)がこの年設立した合資会社白熱社が、
タケのフィラメントを使って、白熱電球を 12 個製作する。この頃国内で唯一発電機など
の電気機器を製作していた三吉正一や東京電燈会社の協力を得て、電球製造機を輸入し
て東京電燈の倉庫の一隅で電球の試作を始めたもので、輸入に頼っていた電球国産化に
成功する。[1896 年、東京白熱電燈球製造㈱に改組。1899 年、東京電気と改称する 。1905
年、GE 社と提携して急成長し、X線管その他製品も多様化する。1925 年、電球に GE
が名づけた「マツダ」の商標を使用する。芝浦製作所と東京電気とは GE 社を通して資
本的・人的交流があった。1939 年、両社は技術的にも重電、軽電の統一が要請されたた
め、芝浦製作所が東京芝浦電気と改称、東京電気と対等合併する。]
1889. 8.19 【日本】第三種郵便物の料金改正により、発売停止の 5 厘切手を再発売する。
1889. 9.−【日本】山内房治郎が、京都市下京区で花札の製造で開始する 。
[1902 年、日
本最初のトランプ製造に着手する 。1933 年、合名会社山内任天堂を設立する。1947 年 11
月、㈱丸福を設立し、かるた、トランプなどの製造販売を開始する。1951 年、社名を任
天堂骨牌(かるた)に変更。1963 年、任天堂㈱に改称。
]
1889.10. 1【日本】第三種郵便物の料金を、16 匁ごと 1 銭を 5 厘に引下げ、第四種郵便
物 8 匁ごと 2 銭を 30 匁ごと 2 銭とし、重量を大幅に緩和する。また、主に農業の振興な
どのために農産物種子を第四種郵便物に追加する。植物種子、苗、苗木、茎、根、蚕種
などが対象で、蚕種を除き、開封が条件で、栽培方法などの説明書を同封することがで
きる。
1889.10.28 【日本】日本の宝物調査事業の鼓吹者の 1 人、高橋健三(34)と友人の岡倉天心
(27 )が、東洋・日本美術専門の豪華美術雑誌『國華(こっか) 』を創刊する 。四六四倍判。
発行兼編輯人山本六三郎、発行所國華社。定価 1 円。美術の複製には、衰退しつつある
日本固有の高度の木版色摺(いろずり)を採用し、その復興を図るため何十回も刷り重ね
る精緻な図版を収め、名品鑑賞の雑誌として出発する。また、アメリカより初めて伝え
られた玻璃(はり)版(コロタイプ印刷)を日本で初めて用いることとし、印刷は、小川一
真(おがわかずまさ)( 29)がこの年創設した日本最初のコロタイプ印刷工場が引き受ける。
[以後、次第に古美術研究の専門誌としての性格を強め、国内のみならず欧米諸国にも
販路を広め、国際的にも高い評価を得る。関東大震災などで版木や資料を焼失。1905 年、
村山竜平が引き継ぎ、朝日新聞社の後援を得て国華社から毎月発行される。英文版も刊
行される。1918.6 第一次世界大戦により英文版の刊行を中止する。1939 年、朝日新聞社
出版局に経営が移る 。1977 年 、1000 号を数える 。世界で 2 番目に長寿の美術雑誌となる。
1979 年,創刊号から 1005 号までのマイクロフィルム版が出版される。1981 年、総索引
が編纂される。
]
1889.11. 1【日本】郵便・電報の受付時間を改め、3 月∼ 10 月は午前 6 時∼午後 10 時、11
月∼ 2 月は午前 7 時∼午後 10 時とする。
1889.11. 3【日本】大倉孫兵衛洋紙店が開業する。[1912.3 大倉洋紙店と改称する。]
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1889.11.
4【日本】横浜共同電燈会社の設立が許可される。資本金 30 万円。[1890.10.1
開業 。
]
1889.11.18 【日本】北海道炭礦鉄道会社が設立される。
1889.11.20 【日本】両毛鉄道の小山∼前橋間が全通する。
[12.26 前橋∼高崎間が開通し、
日本鉄道㈱と連絡する。]
1889.11.23 【アメリカ】サンフランシスコのパレ・ロワイヤル・サルーンで、初のジューク
ボックスが設置される。語源はアフリカの言葉で「売春」という。
1889.11.26 【日本】群馬県議会(議長湯浅治郎)が、廃娼建議案を可決する。
1889.11.−【日本】逓信省が、東京∼大阪間回線に自動電信を開始する。通信速度は 1 分
間 255 ∼ 345 字。
1889.12. 2【オーストリア】作曲家ブラームス Johannes Brahms(56)が、エジソンの発明
した円筒形の蝋管レコードに、みずから作曲した『ハンガリー舞曲第 1 番』など 2 曲を
ピアノで弾いてウィーンで吹き込む。[以後、ブラームスは楽譜を川に流すなど一時作曲
意欲を失い、二度と自分の演奏を録音することなく、これが唯一の録音になる。蝋管は
ベルリン国立図書館に保存される。1935 年と 1938 年、針による再生が試みられるが、
ひびが入り、溝も消滅しかかっている。1997 年 8 月、没後 100 年を期に、日本の北海道
放送(HBC)報道制作局のスタッフが、北海道大学電子科学研究所の協力を得て、レーザ
ー光により溝を読み取り、コンピュータ処理で再生音を得ることに成功する。1997.8.30
日本の TBS 系列で、再生努力のドキュメンタリー『過ぎし日のブラームス』を放送する。]
1889.12.11 【日本】九州鉄道会社が、九州最初の鉄道、博多∼千年川(千歳川?)(仮)間の
鉄道を開通させ、鉄道運輸を開業する。
1889.12.25 【中国】
「80 日間世界一周」に挑戦中のアメリカの女性ジャーナリスト、ブラ
イ(23)が、大西洋、ヨーロッパ・アジア大陸を経て香港に至り、ここで作者のヴェルヌ
に出会う。
1889.12.−【日本】製紙会社(のち、王子製紙㈱)の気田工場が開業する。イギリス製 72in
円網機を設置し、日本最初の亜硫酸パルプを製造する。[1890.2.1 開業式を挙行する。]
1889. 末 【日本】俳優川上音二郎( 25 )が『オッペケペー』を作り、京都・新京極の寄
席(よせ)の幕間で公開する。演歌の先駆けとなる。歌詞は、政府の施策を非難すること
なく、自由と民権の伸張を平易に説く。[以後、『オッペケペー』は、たちまち京都市民
の心をとらえる。歌詞の内容とリズムをたいせつにするだけで、一定の旋律をもたない
この歌(音楽的にはデクラメーション declamation という)は、端唄(はうた)や俗曲以外
には「はやり歌」が皆無に近かったこの頃の民衆にとって、だれもが容易に口ずさめる
歌して、民衆娯楽の新分野を形成することになる。1890 年、川上一座は壮士芝居を率い
て東上して公演する。
『オッペケペー』は横浜や東京でも流行し始める。1891 年 6 月、
流行が絶頂に達する。]
1889.○【日本】大日本帝国憲法発布以後 、
「帝国」の 2 文字を冠した保険会社、ホテル、
商店、雑誌まどが続々誕生する。
1889. ○【日本】この年、政党大会が増え、政府は各府県に秘密探偵を置く。
1889 ○【日本】講談落語速記専門雑誌『百花園』創刊。
1889.○【日本】鉄道総マイル数が 1000 マイルを突破し、1000 マイル 11 チェーン(約
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1720km)に達する。うち、官鉄約 800km、私鉄約 840km。
1889.○【日本】初の本格的な経木の 2 段式折詰めの駅弁が、姫路駅で登場する。かまぼ
こ、鯛、伊達巻、きんとん、鶏肉,百合根,奈良漬などが入っている。
1889. ○【日本】上野停車場電信取扱所が開業する。
1889.○【日本】電信取扱局が 309 局になる。
1889.○【日本】造幣局のイギリス人技師が帰国し、1869 年以来、ようやく日本人だけの
運営となる。
1889. ○【日本】この頃、幻燈が流行する。
1889. ○【日本】東京の浅草に「ヂオラマ(ジオラマ)館」が開設されて評判となる。
1889. ○【日本】大阪の今宮に、博覧会形式の娯楽施設、偕楽園商業倶楽部が開業する。
遊園、茶室などとともに、内外諸新聞縦覧室を設ける
1889. ○【日本】写真師団体「日本写真会」(会長榎本武揚(えのもとたけあき))が発足す
る。[このころアマチュアの芸術写真が撮影され始める。]
1889.○【日本】淡島寒月の父椿丘が向島の別邸、飛雲庵にて死去する。江戸の大通人で、
女関係も噂にのぼったものだけで 160 人という。
1889. ○【中国】台湾に、中国で初めて旅客鉄道が開通する。
1889. ○【ノルウェー】国立図書館が、オスロに設立される。これまで国立図書館機能を
持ってきたオスロ大学図書館から、納本図書館の機能も引き継ぎ、北部の小都市モ・イ・
ラナに置かれた分館が全納本資料に責任を持つことになる 。
[1894 年、館長が任命され
る。1990 年、納本法改正により、モ・イ・ラナ分館は納本行政を担当する 。
]
1889.○【ドイツ】ダイムラー Gottlieb Daimler( 55)が、V型エンジンなどを完成し、自動
車用ガソリンエンジンの原型を完成させる。[1890 年、ダイムラー社を設立する。]
1889.○【フランス】ブランリ Edouard Branly' が、電波の検出に便利なコヒーラ(検出器)
を考案する。[1890 年発表。 1905 年頃まで用いられるが、感度が悪い上、叩いて戻すリ
レーを必要とするなど不便なものである。]
1889.○【ドイツ】ベルリンで機械工場を経営していたリリエンタール Otto Lilienthal( 41 )
が、飛行の基本的実験を行い、著書『飛行術基礎としての鳥の飛行』を出版する。回転
腕による曲面の空気力の考察を記述する。この年 、固定翼グライダーの製作を始める。[翌
1890 年まで続けるが、成功しない。]
1889. ○【ドイツ】エルスターとガイテルが、アルカリ金属を陰極とする光電管を発明す
る。
1889.○【ドイツ】物理学者レーマン O. Lehmann が 、熱した安息香酸コレステリルが 145.5
℃で溶けて濁った液体になり、この濁った液体を偏光顕微鏡で観察して、複屈折する性
質(光学的異方性)などがあることを確認し、この状態を液晶と名づける。
1889 ○【ドイツ】ベルリナーのケンメラー・ウント・ラインハルト社が、最初のグラモ
フォンを発売する。
1889. ○【フランス】世界初の自動車会社、パナール・エ・ルバッソール社が設立される。
1889.○【
】 L.ワイヤが鏡車による機械方式のテレビを、ジェンキンスがドラムに
よる方式を考案する。
1889.○【イギリス】写真家 W.フリーズ・グリーンが 、バイファンタスコープ biphantascope
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と名づけた最初の映画用カメラ(キネマトグラフィー(kinematography))を考案する。
[1952
年、彼の伝記映画『魔法の箱』(ロバート・ドーナット主演)が作られる 。
]
1889.○【アメリカ】日刊経済専門紙『ウォール・ストリート・ジャーナル(Wall Street
Journal)』創刊。金融、財務情報に限って報道する。[以後、第二次世界大戦前後から政
治、科学、レジャー・娯楽産業情報なども報道す。記事の正確さで定評を得る。広告面
を除き写真を載せない。東部、中西部、南西部、西部の 4 版を全国 17 工場で印刷発行す
いる。他社に先駆けて通信衛星によるファクシミリ紙面電送を導入するなど技術革新で
も先端をいく。1976 年、香港で『アジア・ウォール・ストリート・ジャーナル』を発行。
1889. ○【アメリカ】オーティス社が、電動式エレベータをニューヨークのビルに設置す
る。
1889.○【アメリカ】銀行家のイーストマン George Eastman( 45 )が、エジソン(41)に依頼
されてセルロイドの巻き取り式連続 35 ミリフィルムを考案する。[1991 年 、エジソンが、
この 35 ミリフィルムを連続撮影できる活動写真撮影機「キネトグラフ」を考案し、動く
映像の撮影を行う。]
1889.○【アメリカ】マサチューセツ工科大学講師のホレリス Herman Hollerith (29)が、
パンチカードと統計機械を組み合わせた電気式製表機を完成させる。[ 1890 年、この機
械が統計作業に役だつことが証明され、国勢調査で利用され、統計処理の迅速化に寄与
する。1896 年、ホレリスは、パンチカードシステム(PCS)統計機械の製造会社タブレー
ティング・マシン社を設立する。のちにインターナショナル・ビジネス・マシーンズ
(IBM)社となる。]
1889.○【アメリカ】クロアチア生まれの電気工学者テスラ Nikola Tesla( 42 )が、電磁波
を用いて物体を検出しようというアイデアを提案する。のちのレーダのアイデアの初め。
[1904 年に、ドイツのハルスマイヤー(フルスマイヤー)C.Hulsmeyer が、電磁波を用いた
船の衝突防止装置に関する特許を得る。]
1889. 【流行語】元勲内閣。千個不磨の大典。帝国。万歳。
1889. 【流行歌】『オッペケペー節』
『埴生の宿』
1890(明治23)
1890. 1. 1【日本】前年の公達で元日の郵便休日が廃止されたので、この年から全国すべ
ての郵便局で 1 月 1 日印が年賀状に押印される。
1890. 1. 1【日本】
『東京朝日新聞』が、元日号に初刷りの付録に秀英舎で印刷した円山
応挙の絵『虎』をつけて、大好評となる。西洋木版彫刻所生巧館主の合田清が木口彫(こ
ぐちぼり)の西洋木版に彫刻し、それを銀座の製文堂の工場で複製した電氣版で印刷する。
大好評のため、電氣版が磨滅するほど増刷を重ねる。[以後、元日の付録が各紙の恒例と
なる。写真印刷が開発されるまで、小口彫が書籍・雑誌などの口絵、表紙、新聞の付録
などのビジュアル面で大きな評価を得る。]
1890. 1. 4【日本】富士製紙入山瀬工場(のち、王子製紙㈱富士第一工場)が、操業を開始
する。日本初の砕木パルプ(GP)の製造を開始する。
1890. 1. 7【日本】
「80 日間世界一周」に挑戦中のアメリカの女性ジャーナリスト、ブラ
イ Nellie Bly (23)が、日本に至り、横浜を出港し、アメリカに向かう。
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1890. 1.10 【日本】郵便報知新聞社長矢野文雄(竜渓(りゅうけい))(40)が、新聞用達会社
を設立、社長となる。一般ニュース通信を開始する。会社設立の広告に 、
〈英国ノニュ
ース・エゼンシー会社ノ仕組ニ倣ヒ、都鄙(とひ)新聞ニ関スル用達ヲ為スヲ以テ業務ト
ス〉と謳う。[以後、矢野はイギリスのロイターとの契約を意図するが、高額な契約金を
提示され、社内から反対の声が挙がり断念する。1892.5.10 休業中の時事通信社と合併し
て、帝国通信社が設立される。]
1890. 1.25【アメリカ】女性ジャーナリスト、ブライ Nellie Bly(本名エリザベス・シーマ
ン Elizabeth Seaman、旧姓コクラン Cochrane)(23 ?)が、ヴェルヌのベストセラー『80 日
間世界一周』の架空の英雄フィラネス・ホッグに挑戦し、汽船と汽車を乗り継ぎ大西洋、
ヨーロッパ・アジア大陸を横断し 、72 日 6 時間 11 分 14 秒の新記録で世界一周を達成し、
出発点のニューヨーク近郊ジャージー・シティーに戻る。ブライは、精神病院に患者を装
って潜り込んで記事を書くなど、大胆な取材活動をする記者としてすでに有名であった
が、さらに新聞の読者増をねらって実行した。汽車と汽船を乗り継ぎ 75 日間世界一周に
挑戦し、目標より約 2 日早く達成し、一躍世界の注目を浴びる。[この年、この体験を書
いた旅行記『ネリー・ブライの世界一周 72 日間』を刊行する。ブライのペンネームは、
社会改良家を歌ったスティーブン・フォスターの歌からとったものである。]
1890. 2 . 1 【日本】徳富蘇峰(27 )が、日刊紙『国民新聞』を創刊する。
1890. 2.12【日本】逓信省が、市町村制の実施に関連して、当分の間宛て所に新町村名番
地のほか旧町村名も記載するよう告示する。昨年の合併や町名等の改正で、受持局では
新旧対照表を作成したものの、郵便物の区分作業に多大の困難を来したため、新旧の町
村名を併記してもらうよう呼びかける。
1890.2.14【日本】逓信省が、郵便把束法を制定する。一定数の郵便物がある郵便局には、
局ごとに郵便物を区分して把束するが、その数に満たない場合は、地域区分局が他局の
ものと一緒に把束して送る基準を定める。
1890. 2.28【日本】『東京日日新聞』に、〈東京名所絵には景色の一に画きし電線も、今日
のごとく普通電信線、軍用電信線、非常報知線、電話線、電燈線と云うがごとく、左右
縦横に引き張られては景色どころにあらず。東京市民は蜘蛛の巣の中に生活し居るかと
怪しまるるほどなり〉との記事が掲載される。
1890. 3. 1 【日本】秀英舎社長佐久間貞一(42 )が、文部省の認可を得て、教科書会社「大
日本図書会社」を設立する。
1890. 3 . 8【日本】東京電信学校官制を廃止し、東京郵便電信学校官制を公布する。
1890. 3. 9【日本】衆議院に事務局編纂課が設置される。図書の購入・管理を担当する。
[3.10 【日本】貴族院に事務局編纂課が設置される。]
1890.3.13【日本】養蚕業の隆盛とともに蚕卵(さんらん)紙等の郵送が増加しているので 、
逓信省が蚕種を郵送する場合の取扱手続を制定する。蚕種を密封容器に収め、閉緘前に
その確認ができれば、たとえ密閉状態になってもこれを第四種郵便物として取扱うこと
とする。
1890.3.17【日本】逓信省が、日時計による標準時測定心得を制定する。
1890. 3.23【日本】開国の時の話題の人、唐人お吉こときち(50 ?)が、下田で小料理屋
安直楼を開いていたが、乱酔の果てに破産・落魄(らくはく)し、入水(じゆすい)して自
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殺する。[以後、その場所を「お吉が淵」と呼ばれる。これに基づいて十一谷義三郎(じ
ゆういちやぎさぶろう)の小説『唐人お吉』など数多くの作品がつくられる。下田市宝福
寺に墓がつくられる。]
1890. 3.25【日本】高等師範学校から女子部を独立させ、女子高等師範学校が発足する。
1890.3.25【日本】フランスのマリノニ社の輪転印刷機が 、印刷局と大阪朝日新聞社(??)
に導入される。[9.27 東京朝日新聞が、マリノニ輪転機の設置を社告。(??大阪朝日新
聞社は不詳)]
1890. 3.26 【アメリカ】生後 19 か月で熱病のため、目・耳・口の機能を失ったヘレン・ケ
ラー Helen Adams Keller( 9)が、 7 歳のときからパーキンス盲学校のサリバン Anne
Sullivan Macy( 1866 ∼ 1936 )によって点字や特注タイプライタなどで読み書きの特殊教育
を受けていたが、この年から発音の練習を始め、サリバンはヘレンの手を自分の口にあ
てがって声を出すときの舌と唇の動きを教え、わずか 1 カ月間にサリバンの献身的指導
と本人の努力により、初めて〈It's worm(暖かいです)〉と言葉を発する。
[1904 年 9 月、
不屈の闘志により障害を乗り越え、ハーバード大学ラドクリフ・カレッジを優等で卒業、
三重の障害をもって大学教育を終了した世界最初の人となる。
]
1890. 3.31【日本】国内電信線の線条総延長が 8037 町(約 876km)、うち会社・個人所有
のものが 413 町(約 45km )となる。
1890. 4. 1 【日本】第 3 回内国勧業博覧会が、東京・上野公園で開催される。自転車を山
崎治兵衛(製造者梶野仁之助)、向山嘉代三郎の 2 名が出品する。[ 5.4 東京電燈会社が、
スプレーグ式電車 2 台を展示、レール約 400m を敷き、実地運転を実施する。日本で最
初の電車の登場に見物客が驚く。出品人員 7 万 7432 人、縦覧人員 102 万 3693 人を記録
する。]
1890. 4 . 4【日本】ギリシア生まれのラフカディオ・ハーン(ヘルン) Lafcadio Hearn(40)が 、
アメリカの新聞の特派員として来日する。[8 月、島根県の松江中学に赴任。年末に小泉
セツと結婚。1891 年 11 月、熊本の第五高等学校に転じる。1894 年、神戸の『クロニク
ル』紙に入社。
『知られざる日本の面影』をアメリカで出版し、日本紹介を始める。1896
年 2 月、日本に帰化し小泉家を継ぎ、小泉八雲を名のる。]
1890. 4. 9【日本】琵琶湖から京都市内へ通じる水路、琵琶湖疏水(疎水)の開通式が挙行
される。田辺朔郎(さくろう)の設計、施工によるもので、舟運、発電、上水道、灌漑を
目的として、この時期として代表的な土木工事となる。[以後、この滋賀県大津市三保ヶ
崎から京都市蹴上(けあげ)までの長さ 8.7km を第一疏水、 1908 年着工、 12 年完成の長さ
7.4km の部分を第二疏水と呼ばれる。また、蹴上で合流した両疏水がインクラインによ
って続く鴨川(かもがわ)運河(1895 年完成、長さ 8.9km 、宇治川に合流)と蹴上から堀川
に通じる疏水支線( 1887 年着工、1890 年完成、長さ 8.3km )を合わせて琵琶湖疏水とよぶ
こともある。のちに、当初の多目的な機能が薄れ、蹴上浄水場への供給が主たる目的と
なる。]
1890. 4.15 【ドイツ】留学中の音楽学者田中正平( 38)が、純正調オルガン「清澄風琴」の
発明により皇帝ヴィルヘルムⅡ世(31)に招かれ、賞賛を受ける。田中はヘルムホルツに
師事し、1 オクターブを 46 の音階に分けたオルガンをつくり、音楽を調号なしで記譜す
るようにして、みずからも作譜して純正調を推進した 。
[1905 年、日本音楽研究の必要
- 570 -
から、自宅に邦楽研究所を設け、北村季晴、吉住小十郎らと邦楽を五線譜に採録する。
]
1890. 4.19【日本】逓信省が、電話加入制度、通話制度などの基礎となる電話交換規則を
制定、公布する。これに伴い、東京電話交換事務所が設けられ、一般の電話加入者募集
に着手する。逓信大臣後藤象二郎が先頭に立ち、東京 300 人、横浜 100 人を目標とする。
使用料は東京市内が 1 年間で定額 50 円、横浜市内は 40 円。また、電信柱や電線などの
整備資金を効率よく調達するため「加入料」(のちの日本電信電話公社(NTT)の「施設設
置負担金」)50 円を徴収する。貿易会社に勧めるが、加入者はまだない。[5 月、料金を東
京 40 円、横浜 35 円に値下げする。6 月、横浜電話交換事務所が設けられ、横浜でも加
入者募集を行う。申込者は東京 215 人、横浜 45 人にとどまる。12.16 電話交換を開始す
る。1895 年、加入料を 35 円とする。1896 年、加入権が一般の財産と同じように売買の
対象となり、市場では積滞のため 400 円以上で取引される。質権を設定できるほか、企
業財務上は資産として決算書類上に計上することが求められる。1997.7 NTT が、一部の
回線で「加入料ゼロ」の新料金を導入する。]
1890.4.26【日本】商法が公布される。[ 1893.1.1 施行。]
1890. 5 . 1【ヨーロッパ・アメリカ】8 時間労働を求めて 、第 1 回メーデーが開催される。
1890. 5 . 4【日本】東京電燈会社が、第 3 回内国勧業博覧会が開催中の東京・上野公園で、
レール約 400m(一説に 300m)を敷き、アメリカから輸入したスプレーグ式電車 2 台を展
示、実地運転を実施する。日本で最初の電車の登場に見物客が驚く。定員は 22 人で、一
般にも片道 2 銭、往復 3 銭で乗車させる。
1890. 5. 7 【日本】日本最初のパノラマ館が、第 3 回内国勧業博覧会が開催中の東京・上
野公園で開場する。戊辰の役や奥州白河戦争の状況を描いたものを展示し、大評判とな
る。
[5.22 浅草公園内にも同様の「日本パノラマ館」が開場する。
]
1890. 5. 7【日本】発明家を志す豊田佐吉( 23)が、東京・上野公園で開催されている第 3
回内国勧業博覧会で外国製機械を参観して、これから織機の改良のヒントを得る 。[以後 、
豊田佐吉は、木製人力織機の発明に取り組む。11 月、発明に成功する。1891 年 5 月、最
初の特許(第 1195 号)を得る。]
1890.5.10【日本】利根川と江戸川を結ぶ全長約 8km の利根運河が完成する。
1890. 5.17【日本】府県制と郡制が各公布される。首長は東京・大阪・京都各府のみ知事
と呼ばれ、県は県令と呼ばれていたが、今後は、北海道を除きすべて知事と呼ぶように
なる。施行の時期は、郡制は町村制の施行後、府県制は郡制・市制の施行後に内務大臣
が決定する。
1890.5.22【日本】澁澤栄一らが浅草公園内に設けた日本パノラマ館が開場する。[以後、
パノラマ興行が常打ちされる。幼時の萩原朔太郎( 4)が、このパノラマ観覧を体験として 、
のちに定本『青猫』のパノラマ的な挿絵「世界名所図絵」の解説において、〈パノラマ館
の屋根に見る青空の郷愁〉について語る。]
1890. 5.27【日本】長野県古間村の村民らが、蒸気機関車の排煙による火災の危険につい
て陳情書を政府に提出する。
1890. 5.−【日本】横綱免許の西ノ海が、大関にかわる横綱の文字を番付に記入する。大
相撲の番付表に、初めて「横綱」の文字が現れる。横綱を階級化する前提となる。[1895
年、これに刺激された幕末の大関陣幕が、引退して 30 年後に、これまでの大関力士のう
- 571 -
ちから横綱免許を受けた力士を「横綱力士」として選び、これを顕彰する記念碑建立を
計画し、考案した横綱代数記載の文書を配布する。これには、明石、綾川(あやがわ)、
丸山の非実在の伝承力士まで加え、西ノ海の 16 代までを記載する。1900 年、記念碑が
完成する。1905 年、常陸山、梅ヶ谷に横綱免許があって、これまで張り出された横綱が
正欄に記載される。以後、横綱は、一般に階級とみるようになる。1911 年、日本相撲協
会が横綱を階級として成文化し確定する。1950 年、「横綱審議委員会」を設け、横綱の
免許は相撲協会が候補力士を推挙し、その適否について横綱審議委員会の諮問を得て決
定のうえ、協会が推挙状を授与する形式となる。]
1890. 5 . −【日本】女学生の投稿誌『女学生』が創刊される。
1890. 5.−【日本】阿部製紙所が設立される。[1891.8 大阪工場操業開始。1904.9 同社を
継承して日本製紙㈱が設立される。]
1890. 5.−【日本】西川オルガンが、ピアノを発売する。
[1907 年、横浜市中区の馬車道
通に西川楽器店を開設。1919.5 合名会社西川楽器製造所となる。1921.8 日本楽器製造㈱
に吸収される。
]
1890. 6 . 1【日本】広告取次業の萬年社が、大阪で創立される。
1890. 6 . 6【日本】エジソンが、蓄音器を明治天皇に献上する。
1890. 6.20【日本】文部省編輯局が廃止され、総務局中に図書課が設置される。[以後、
編輯局が行ってきた教科書などの編輯・出版の事業が民間に委譲される。1891.7.24 総務
局廃止。大臣官房に図書課が設けられる。]
1890. 6.−【日本】蝋管蓄音器が、東京の浅草公園花屋敷内の奥山閣で公開される。参観
者の縦覧の余興に無料で蝋管蓄音器で役者の声を聴かせる。広告には〈フォノグラフ―
―蓄音器(ルビ:ひとりでものをいふきかい)〉とあって、多大の興味をそそる。[ 7.1 蓄
音器が初めて甲府に入る。以後、各地で公開される。]
1890. 7 . 1【日本】第 1 回総選挙が実施される。初の衆議院選挙で、ほとんどが 1 区 1 人 、
定数 300 の小選挙区。有権者は 25 歳以上の男で、15 円以上の納税をした者と厳しく制
限された約 40 万人で、総人口の 1 %に過ぎない。全国の投票数は、4 万 3474 票で、定
数の 300 人が選出された。[ 11 月末、第 1 回議会が開催される。不馴れなため、進行に
多くの手違いが出る。〈黙れ!〉の声が頻発し、議席の机に書類を積み上げたまま退場
する議員も出る。]
1890. 7.10【日本】逓信省が、郵便切手や葉書の料額印面に多少の汚れがあっても再使用
でなければ有効とする。
1890. 7.14【日本】東京・浅草公園第五区三社裏で、オーストリア人による人体解剖ろう
細工の見世物、その他、覗きからくり、天体望遠鏡などが話題をよぶ。
1890.7.15【日本】逓信省が、東京∼横浜間の電話線路の架設工事に着手する。
1890. 7.21【日本】逓信省が、東京品市内の電話線路の架設工事に着手する。電線は直径
1.6mm の十四番鉄線という裸線が用いられる。[のち、官営電話創業時には、伝導性に
すぐれた直径 1.2mm の一八番銅線が用いられる。](松田裕之『明治電信電話ものがたり 』
追補書簡による。)
1890. 7.−【日本】この頃、新聞社はニュース報道に重点を置くようになり、電報を使っ
てニュースの速さを競い出す。
- 572 -
1890. 7.−【日本】浅草公園花屋敷内奥山閣が、参観者の縦覧の余興に蝋管蓄音機で役者
の声を聴かせる。
1890. 7 . −【日本】名古屋測候所が設置される。
1890. 8. 2 【日本】劇場取締規則が改正され、劇場が大劇場 10 座、小劇場 12 座に区別さ
れる。
1890. 8. 4【日本】中央気象台官制制定。地理局から分離独立して内務大臣直属となる。
1890.8.15【日本】寄席取締規則で、猥褻の芸が禁止される。
1890.8.21【日本】警視庁が 、女優と女形を交えた演劇の男女共演を黙認することを決定 、
各警察署に通達する。
1890. 8.23【日本】東京電燈会社の電柱広告が、産業振興にもなるとして、警視庁から許
可される。
[この年、東京電燈会社は、市内のガス街灯 475 基をすべて電灯に代えること
を市当局に提案する 。東京市会は一応了承する。翌 1891 年、両方の光力を比較した結果、
ガス灯に軍配が上がる。以後、十数年間、ガスマントルの普及とあいまって、ガス灯が
全盛期を迎えて愛用される。1918 年、東京市会が、公道のガス街灯を逐次電灯に置き換
えることを決議する 。
]
1890.8.25【日本】軌道条例公布。道路上に敷設する鉄道を軌道と称し 、内務省所管とし、
その建設基準を定める。[1921.4.14 軌道条例を母体に軌道法が公布される。
]
1890.8.26【日本】埼玉県が、学童の教育上支障があるとして、素人芝居を禁止する。
1890. 8 . −【日本】京都府教育会が、図書館を開設する。
1890. 8 . −【日本】電信線電話線建設条例が制定される。
1890. 9 . 6【日本】鉄道局を鉄道庁と改称し、内務省の管轄下に置く。
1890.9.12【日本】政府が、小包で輸出する物品は関税を免除することとする。
1890.9.19【日本】日本とカナダ間の小包郵便取扱手続を制定する。
1890. 9.27【日本】東京朝日新聞社が、新聞界で初の最新鋭機、フランス製のマリノニ輪
転機を 1 台設置すると社告を出す。毎時 3 万部印刷の威力を発揮するという。
1890. 9.29【日本】全国の新聞記者の有志が 、
「共同倶楽部」を東京に設置する。
[以後、
第 1 回帝国議会開催に備えて、
「議会出入記者団」を結成、当局に取材許可を要求する。
記者クラブの始まりとなる。
]
1890. 9.29【日本】逓信省が、12 月に開業する東京電話局員として、女子を初めて電話
交換手として募集する。採用条件は、尋常小学校高等科卒、夫なく家事に関係せざるこ
と、品行方正なこと、視力・聴力善良にして言語明晰なこと、筆算に優秀なこと、交換
局所在地に在住することなどとする。職業婦人進出のさきがけとなる。[1891.9.8 電話交
換手採用規定制定。]
1890. 9 .−【日本】輪転印刷機が初めて輸入され、政府に 2 台設置される。
1890. 9.−【日本】津軽海峡の函館∼二本木間に、日本人の手で初めて海底電線が敷設さ
れる。
1890.10. 9【日本】電話事業の創業を前に告知のために、最初の電話番号簿「東京 横浜
電話加入者人名簿」が 1 枚刷りで発行される。最初の加入者として東京 155 人、横浜 42
人を収録する。東京之部では、1 番東京府庁、2 番逓信省電務局、3 番司法省、4 番大蔵
省総務局、5 番文部省などと、電話番号と加入者名が番号順に列挙され、6 番までが官庁、7
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番から新聞社が続き、137 番から民間人が並び、269 番まで並ぶ。番号のところどころに
「欠」として計 71 個の番号が空白となっている。横浜之部では、欠番は飛ばして 1 番か
ら 60 番まで 31 の加入者が列挙される。
[以後、3 回発行される。12.16 電話交換事業が
始まる。]
1890.10. 9【フランス】アデール Cl レ ment Ader(1841 ∼ 1925)が、グライダー実験をま
ったく行わず、いきなり蒸気機関付きの単葉飛行機「エオル」を製作して実験を行う。
滑走中ジャンプするにとどまり、飛行はできなかった。(『記念日の本』に 45m 飛んだ
との説あり)[1897 年、再び実験を行うが、飛行はできない。「エオル」は舵(かじ)飛行
ができなかったため、アメリカのライト兄弟の飛行が第 1 号とされる。以後、フランス
では,アデールを飛行機のパイオニアとしてある程度の評価をする。]
1890.10.12 【日本】イギリス人スペンサー Spencer が、横浜公園で経気球に乗って落下傘
で降下し、話題となる。
1890.10.30 【日本】教育に関する勅語が発布される。
1890.11. 1 【日本】官立東京盲唖学校教諭石川倉次(41)が考案した日本点字案が、東京盲
唖学校の日本点字撰定会において満場一致により正式に採用される。これまで日本語を
点字で表す時は、欧米の点字を利用したローマ字綴りにより表現されていた。そこで、
東京盲唖学校長の小西信八が、かな文字にあった点字の研究を依頼し、教員や生徒から 3
つの案が出されていた。石川案は、点字を 50 音用に改め、日本点字の 50 音表をつくる 。
ブライユ点字の 6 点を用いてアルファベットを基本とするヨーロッパの点字に対し、五
十音の仮名に対応する表音文字を基本とし、母音と子音の要素を加味して点字が構成さ
れ五十音を形成する 。[ 12.23 石川倉次が、小西信八らとともに日本点字を完成する。1901
年、『官報』に「日本訓盲点字」として掲載される。当初、旧カナではすべて大文字で
表記するため含まれていなかった拗音が、要望が高いため 、
「キャ」、「キュ 」
、「キョ」
など 6 点点字の組合せが発表される。1925 年および翌年の衆議院選挙法および同法施行
令の公布によって点字が法制上公認される。以後、この方式が、記号等の細部を除いて
そのまま表音式を主流とする日本語点字として定着する。この日を記念して、11 月 1 日
を「日本点字記念日」あるいは「日本点字制定の日」と定められる。](大河原欣吾『点
字発達史』培風館、1937、紀田順一郎『図鑑 日本語の近代史』1997、
『明治・大正家庭史
年表』2000 )
1890.11.10 【日本】東京・浅草千束町・花屋敷にレンガ造り 12 階建ての遊覧所を兼ねた
貸し店舗「凌雲閣」が完成し、日本初の電動エレベータが公開される。日本で初めて輸
入された電動式エレベートル(エレベータ)が取り付けられ、発電所からの電力が初めて
動力に用いられる。[11.27 警視庁が、危険だとしてエレベータの運転を禁止する 。1891.6
エレベータが撤去される。1913 年、国産第 1 号のエレベータが、大阪の楽天地の通天閣
に取り付けられる。1979 年、日本エレベーター協会が、公開日を記念して 11 月 10 日を
「エレベーターの日」と制定する。]
1890.11.13 【日本】東京・浅草千束町に凌雲閣が開場する。パリのエッフェル塔の模倣と
評されるが、最上階からは東京の半分が見られるというほど見晴らしがいいので、多く
の人出で賑わう。1 階と 2 階にガワー-ベル(ガワーベル)電信機が取り付けられ、互いに
通話できるのが人気を呼ぶ。[1891.1.1 「初日の出記念」と称する催しで、電話体験券と
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登閣券を付けた数百個の風船が凌雲閣の屋上から飛ばされ、地上では群衆が壮絶な奪い
合いを演じる。券は奪い合いで引きちぎられ、実際に券を持って現れたのは 1 人だけと
なる。1923.9.1 凌雲閣が関東大地震で倒壊する。]
1890.11.13 【日本】女角力 20 人(多くは山形県出身)が、両国回向院で興行する。[11.27
警視庁から差止められる。翌日より力芸だけを見せる。]
1890.11.16 【日本】逓信省が、電話所を東京市内 15 カ所で郵便電信局の中に、横浜 1 カ
所で電話交換局の中に設置する。日本における公衆電話の原型となる。誰でも定められ
た時間帯(午前 6 時∼午後 10 時、11 月∼ 2 月の冬季は午前 7 時から)において、他の電
話所と直接交信できる。利用者は「コール・オッフィス」(通話室)に入り、局員に相手
を呼びだしてもらって通話する。料金は 1 通話 5 分が市内 5 銭、市外 15 銭。これを郵便
切手を以てその電話所に納付する。(電話交換規則第 15 条ノ 1 )[以後、利用者は、多い
ところで 1 日 8 人、ほとんどは 1 ∼ 2 人にとどまる。]
1890.11.17【日本】
『読売新聞 』に、
〈米国にては、ただ双方の話を送遣するにとどまらず、
各々その機械のかたはらに鏡を掛け、話をするときは、先方の顔をありありと映すとい
ふ、恐ろしき新発明ありたるよしなり〉との記事が掲載される。
1890.11.20 【日本】帝国ホテルが、丸ノ内内山下町 1 丁目に建設され、開業式を行う。木
造 60 室で、1 泊の料金 2 円 75 銭から 9 円。
1890.11.25 【日本】大日本帝国憲法施行。第 1 回帝国議会が召集される。[ 11.29 開会式。
12.6 首相山形有朋が初の議会での演説を行う。貴族院議長はすでに伊藤博文が任命さ
れており、衆議院議長は中島信行が互選される。日本の議会制度が始まる。
]
1890.11.25 【日本】第 1 回帝国議会の開会にあたり、全国の新聞社がその取材許可を要求
して共同新聞記者倶楽部を結成する。日本最初の記者クラブとなる。[以後、日清戦争
の後、各官庁に記者クラブがつぎつぎと設けられる。]
1890.11.−【日本】幸田露伴( 23)が、読売新聞を退き、斎藤緑雨(23)とともに国会新聞社
に入社する。
1890.12. 1【日本】第1通常議会が開会する。速記録作成に関して、貴族院規則、衆議院
規則に〈議事速記録ハ速記法ニ依リ議事ヲ記載ス〉と規定され、第 1 議会から先進国で
初めて発言ありのままの速記録がとられることになる。速記者には、貴族院が伊藤新太
郎、林茂淳、薦野孝卿(こものよしのり)他 17 人、衆議院は若林かん蔵、佃与次郎、松川
福三郎、酒井昇造ほか 15 人が採用される。記録は発言時の事実を一言一句ありのままに
文字化することで、従来の公式記録文書は文語体で書かれるという慣習を一変させる。
[1891.3.7 閉会。第 1 議会終了後、貴族院書記官長金子堅太郎は、速記者一同を自室に
集め、〈第一回帝国議会から逐語速記録を持ち得たことは日本の憲政史上大きな誇りで
ある〉と強調して、感謝の言葉を述べる。1896.5.13 金子自身が賛成演説に立ち、田鎖綱
紀の功績を顕彰して特別年金を与えることを決める。国会の門下生たちが師の栄誉を不
滅のものとし、老後を保障するため運動した結果である。1999.4.1 衆議院には速記者 155
人が所属し、1998 年度の 1 年間に 1675 時間を記録、参議院では 144 人が年間 1214 時間 15
分の速記を記録する。約 7 割が女性である。]
1890.12.16 【日本】逓信省の東京・横浜の電話交換所で、両市内および両市間に電話交換
業務が開始され、日本初、世界で 31 番目の電話事業が始められる。交換機はベルギー製
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の磁石式単式交換機 、電話機はガワー-ベル(ガワーベル)電話機が用いられる 。利用者は、
電話機の電鈴ボタンを押してから受話器を取って電話交換局を呼び出し、交換手に相手
先の番号を言って呼び出してもらう。電話を持てたのは政府高官や経営者に限られてい
て、交換手への呼び出しには偉そうに〈おいおい〉と声をかけ、交換手は〈はい、よう
ござんす〉と答える。交換手は東京は辰ノ口(のち、千代田区)電話交換局の木造平屋建
てに女 9 人、男 2 人がいて、それぞれ昼間、夜間に、自らの手で回線をつないで交換作
業に当たる。東京では電話案内受付用番号として「500 番」を設定、電話番号案内サー
ビスを始める。電話による最初の情報提供サービスとなる。電話線は 1 本の鉄線で、漏
話などが起こりやすく、通信品質はよくない。前年 12 月の申込期限をたびたび延期しつ
つ当局者が懸命に加入を勧誘したが、最初の加入申込者は東京 215 名、横浜 45 名にすぎ
ず、そのうちこの日までに開通したのは、東京 155 名、横浜 42 名である。逓信省の予算
不足により年度内に 50 人の申込積滞が発生する。一般の人気不振の理由は、敷設料は無
料だが、東京∼横浜間の通話料が 5 分 15 銭、年間の使用料が東京 40 円、横浜 35 円と高
く、商店などでは電話よりも小僧を雇うほうが安いという「小僧徳用論」が唱えられた
こと、電話の公開実験を見て不思議さに驚くとともに大流行中のコレラも伝わるのでは
ないかと恐れたためだという。[1891 年、辰ノ口に新設された交換局が、磁石式直列複
式交換機を採用する。以後、加入者が増加し、電話加入者人名簿は、新規加入者として
月に 3 回程度追加発行される。英文加入者リストも 1 回は発行される。1902.7 東京の使
用料を 35 円へ値下げ。1893.3.25 大阪・神戸および両市間で電話交換業務開始。1926.1
自動交換への転換が始まる。1940 年、逓信省が、50 年周年と「紀元二千六百年」を記念
して、東京都千代田区丸の内 1 丁目 2 番地日本工業倶楽部ビル脇(当時、通称辰ノ口麹町
区永楽町 2 丁目 1 番)と横浜市中区日本大通(当時、居留地 233 番地)にそれぞれ「電話交
換創始之地」記念碑を建てる 。1979.3 伊豆・利島で最後の手動交換機の任務が終わる。]
(
『関東電信電話百年史』上、電気通信協会、1968)
1890.12.23【日本】東京盲唖学校教諭石川倉次が 、小西信八らとともに点字の五十音表「日
本訓盲点字」を完成する。
1890.12.26【日本】秀英舎社長佐久間貞一(42) 、前讀賣新聞社社長子安峻( 54) 、陽其二(52 )
らが、東京活版印刷組合を設立する。同意者が 101 工場にのぼり、多くの新聞社が加入
する。
1890.12.−【日本】東京朝日新聞社が、9 月に輸入したフランス製マリノニ輪転印刷機で
『国会』議事付録を印刷する。[ 1891 年 5 月ころ、
『朝日新聞』本紙を新聞紙として初め
て輪転印刷する。]
1890.12. −【日本】博文館の「当用日記」が刊行される。
1890.○【日本】この頃、かけ蕎麦 1 杯 1 銭。
1890.○【日本】東京の下層階級女性の下請内職者が増加する。マッチ箱貼り(手間賃 1
日約 700 個で 4 銭)、紙巻たばこ巻き(同約 800 本で 4 銭)、紙くず屋の選り子など。
1890. ○【日本】官営の東京通信社が、内務省警保局長清浦奎吾の発意により、警保局の
機密費で設立される。代表者二宮熊次郎をはじめ幹部は官吏出身者で占め、記者も巡査
の古手を採用する。[以後、官営であるため各官庁は東京通信社に特別便宜を与えて優遇
する。日清、日露戦争の報道は参謀本部や陸軍省と密接な連絡をとり、戦況ニュースを
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他社より数時間も早く入手し配信するなど活躍する。]
1890. ○【日本】外資案内会社が設立される。通訳、ガイド、ボーイ、コックなどを養成
する。
1890 ○【日本】この頃、パリに本店がある横浜のブルウル商会のダビッド・ブルウルが、
引退してフランスに返る。[1896.4.7 ポールとアンリの 2 人の息子が事業を引継ぎ、社名
をブルウル兄弟商会とする。]
1890 ○【日本】ピットマン式速記法を学んでいたイギリス人エドワード・ガントレット
が来日し、東京高等商業(のち、一橋大学)に奉職する 。
[以後、千葉中学校に勤務、6 年
かけて日本語速記法を考案する。1909 年、ガントレット式を修めた森上富夫が、衆議院
速記者採用試験に優等の成績で合格し、それまで田鎖式系統一色だった国会に新風を吹
き込む。以後、ガントレット式は後継者に恵まれず、普及しない 。
]
1890. ○【日本】鉄道線路に屋根をつけることは採算に合わないと、アメリカから除雪車
を輸入する。
1890. ○【日本】キリスト教徒の廃娼運動が盛んになる。これに対して、日本に滞在中で
一昨年に日本人荒井花子と結婚したドイツの医学者ベルツ Erwin von B □ lz (41)は、存
娼論の演説をする。
1890. ○【日本】横浜の娼婦が、代金の請求にアメリカ人の邸宅に赴くと、出てきた夫人
に殴られる。娼婦の抱え主は、“商品”に傷をつけたと抗議し、金と謝罪書を取り付け
る。
1890.○【中国】この頃、イギリス人によって新聞『漢報 』が創刊される。
[1 年後、廃刊。1893
年夏、姚文藻が復刊させる。以後、経営不振に陥り、東方通信の創設者宗方小太郎に売
却を持ちかける。1896 年、宗方が資金 1000 円を集め、『漢報』を買収、2 月 12 日から発
行する。]
1890.○【ドイツ】ゾネケンが、ドイツ初の商業的製品としてのペンを発売する。[1905
年、安全繰り出し式(セーフティータイプ)のペンを製造する。ドイツにおける万年筆の
歴史が始まる。]
1890. ○【ドイツ】グローデン男爵が、プロイセンから療養のためシチリア島に移住し、
少年たちのヌード写真を多数撮影する。それらの写真が世紀末ヨーロッパの好事家たち
のコレクションの対象となる。グローデンに写真を教えた叔父ガブリエルモ・プラショウ
は、「少年と少女」のヌードを撮影する。
1890.○【ドイツ】ダイムラー Gottlieb Daimler(56)が、ダイムラー社を設立する。[ 1926
年、ベンツと合併、ダイムラー・ベンツ社設立。1998 年、アメリカのクライスラー社と
合併、ダイムラー・クライスラー社設立。]
1890.○【ドイツ】精神科医クラフト-エービング Richard von Krafft-Ebing( 40 )が、相手(と
きには自分自身)から身体的・精神的な苦痛や屈辱を被ることによって性的快楽を得る
性倒錯を、好んでこのような性的行為を描いたオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホの
名にちなんで「マゾヒズム masochism」と名づける。
1890. ○【フランス】ロダンが、『二人の女』の制作を始める。
1890.○【フランス】プジョーが、最初の四輪自動車「クワドリシルク」5 台を生産する。
世界初の自動車量産体制を作る。
- 577 -
1890. ○【フランス】パリの電話会社が、契約者に劇場公演の中継サービスを始める。ま
た、教会のミサ中継、選挙キャンペーン、選挙結果速報なども行う。
1890.○【フランス】パリのカトリック研究所物理学教授ブランリ Edouard Branly( 46 )が、
金属粉の電離性を研究しているとき、ニッケル粉は直流ではばらばらの状態で電流を通
さないが、高周波では粉は互いに密着して電流を通すようになる現象を発見する。この
金属粉末の電気伝導性が電波の到来で増すことを利用して、電磁波の検出に便利な検波
器を考案する。ヘルツが行った数メートルという実験距離を飛躍的に伸ばして、世間の
評判を得る。無線通信技術の端緒を開く。[のち、密着するという意味で「コヒーラー」coh
□ reur と命名される。1894 年、イギリスのロッジ Oliver Joseph Lodge(1851 ∼ 1940 )が
これを改良する。]
1890.○【フランス】動物生理学・生理学者マレー Etienne Jules Marey( 60 )が、写真銃を
発展させた「クロノフォトグラフ( chronophotographe)」を科学アカデミーに発表する。
弾力のある長い紙製の帯に写真の感光薬を塗り、これを従来のガラス製乾板の代りに使
ってみた。この長い紙フィルムを、一方の取枠に捲きつけておき、これを他の取枠に断
続的に輸動させる装置を施し、この間歇装置によって被写像の流動を防ぐことができた
ことは、前の「写真銃」と同様であるが、彼はさらにこの間歇装置を応用して映写機の
考案にまで進展させる。このクロノフォトグラフ映写機こそは、のちの映画及び映写機
の原型をなす。彼は多くの生理学的実験器具を考案改良し、ヒトや動物の歩行、跳躍、
飛行などの運動の研究を行い、
『生命現象における運動』
『グラフ記録法』
『鳥類の飛行』
などの業績を残す。
1890.○【フランス】スイス生まれの金属学者ギヨーム Charles Edouard Guillaume( 29)が 、
フランスの国際度量衡局でニッケル合金の研究に没頭する。[以後、熱膨張率の異常に小
さいインバー(ニッケル 36 %、残りは鉄)を発見、続いて温度変化に対して伸縮の少な
い「アンバー」と弾性変化の少ない「エリンバー」を発見する。アンバーは振り子の棹(さ
お)などに、エリンバーはテンプのひげぜんまいに用いられ、時計の実用精度を著しく高
める。またこれらの合金が多種の科学計測機器にも応用され、それらの精度の著しい改
善に寄与する。これらの業績により、1920 年ノーベル物理学賞を受賞する。]
1890. ○【イギリス】片持ち梁方式による鋼製の鉄道橋「フォース橋」が、土木技師ジョ
ン・ファウラーとベンジャミン・ベイカーによって、スコットランドのクイーンズフェリ
ーに 8 年掛りで建設される。特徴は、橋のスパンを両端で支持しないで、ガーダーやト
ラスの中央部近くで支持することにある。全長 1.6km 以上で、2 つの主要なスパンはそ
れぞれ 521.2m におよぶ。
1890. ○【イギリス】ロンドンで、チューブ式地下鉄道がテムズ川底を横切って開通し、
世界初の電気機関車によって列車牽引を始める。[以後、地下鉄では、電気機関車が蒸気
機関車にとって代わっていく。]
1890.○【アメリカ】この頃、ウェスタン・ユニオンの電信網が、全国で 67 万 9000 マイ
ルに達し、1 万 9382 ヵ所にオフィスを構え、通信事業の独占を誇示する。ベルが電話線
の敷設のため割り込もうとするたびに、「路上交通権」を楯に妨害し、ベルとは異なる
形式の電話交換局をつくり、見栄えのする電話帳も作成する。
1890. ○【アメリカ】「シカゴ電話帳」を考案、発行したルーベン・ドネリーのシカゴ・デ
- 578 -
ィレクトリー社が、『シカゴ・ブルーブック』の名でディレクトリーを発行する。従来の
「市外案内帳」を検討し直し 、上流社会向けのものとし、財界・経済界の人士約 2 万 5000
人を、階層別に分類して収録するという新手法により編集する 。
[以後、ドネリーはこ
れにより巨利を得る 。
]
1890.○【アメリカ】ホレリス H.Hollerith( 30)が昨年考案したパンチカードシステム
(punched card system;PCS)と電気作表システムが、政府による公開競争実験で最優秀の
成績をあげて、政府国勢調査集計に採用され、初めて国勢調査のデータ処理に使われる。
[1896 年、ホレリスは、これをもとにして、パンチカードを用いた統計機械を開発・製
造するタビュレイティング・マシン社を設立する。]
1890.○【アメリカ】マックス Max Levy とルイス Louis Levy のレビー兄弟が、写真や絵
の濃淡を印刷するために,網目スクリーンの製作に成功する。原稿の濃い部分は大きい
点(網点という )
、淡い部分を小さな網点におきかえ,網点自体を小さくして印刷する
と,人間の目の分解能には限界があり、網点ではなく濃淡のある画像として映ずる。[以
後、網目法が広く実用化する。]
1890.○【アメリカ】1886 年に設立されたナショナル・カーボン National carbon 社が、最
初の市販用乾電池「エバー・レディ」を発売する。
1890. ○【アメリカ】 商業用録音が始まる。
1890. ○【アメリカ】チャールズ・ダナ・ギブソンの線画「ギブソン・ガール」が人気を集
める。
1890. 【流行語】インフルエンザ。エレベートル。醜議員。醜類。パノラマ。
1890. 【流行歌】『演歌改良節』
『法界節』
『やっつけろ節』『愉快節』
1890. 【事物】エレベーター。靴磨き。
1890. 【本】森鴎外『舞姫』(『国民之友』)、同『うたかたの記』(『しがらみ草紙』)、穂
積陳重『法典論』、安部磯雄編『廃娼同盟演説集』
1891(明治24)
1891. 1 . 1【日本】新年の挨拶を電話ですることが流行する。
1891. 1.20【日本】帝国議会議事堂が消失する。衆議院は学校の講堂を借りる。
「以後、
政府は、火事の原因が電力の消費による高熱との説を主張する。東京電燈会社はこれを
否認し、名誉回復の訴訟を起こすと息巻く。吉原遊郭では、かねてより高い電気料に困
っていたが、これを口実に石油ランプに戻す店が増える。宮中も、ヒノキ造りなので燃
えやすいため、万一を考えて電燈を廃止する。市民のなかには、電話でも火事になるの
では、と問い合わせる者が多い。コレラの伝染は大丈夫か、と問い合わせる者もある。]
1891.1.24【日本】電話料金の通貨納付制を採用する。
1891. 1.29【日本】明治美術会の月次会で、2 枚の絵を対象に「裸体画と風紀問題」が討
議され、大勢は公表を時期尚早とする。絵は、いずれも幼い男の子の草刈りと、牛にま
たがった姿を描いたもの。
1891. 2. 3【日本 】
『郵便報知』の記事に 、「
〈 或る電話加盟者(が)『電話は非常に英敏に
してよく音声を伝うるものなるが、もし加盟者の中に虎列刺(コレラ)病等ありし場合に
は、その病毒を各加盟者に伝うることなきや』と質問した〉ことを報じる。
- 579 -
1891. 2 .−【日本】秀英舎社長佐久間貞一( 42)が、保田久成(のち、2 代社長)とはかって 、
日本最初の印刷技術啓蒙誌『印刷雑誌』(印刷雑誌社)を創刊する。画家合田清・山本芳
翠らの画塾「生巧館」の西洋木版による表紙と挿絵が人目を引く。[以後、生巧館と合田
清の声名が全国に伝わり、西洋木版がますます普及する。1909 年 11 月、19 巻 11 号で終
刊。]
1891. 3 . 1【日本】東京手形交換所が開業する。
1891. 3. 3【日本】貴族院の最初の秘密会で、政府が「外国ニ於ケル日本婦女保護法案」
を提出する。日本人の海外売春婦が香港に 80 人、シンガポール 150 人、サンフランシス
コ 80 人 、ウラジオストクに 200 人など、計 1200 人に達していると報告 。(売春宿は香港 8
軒、シンガポール 26 軒、サンダカン 6 軒(80)人など。)法案は〈外国で日本人婦女を売
春させたり、売春の場所を提供すりなどした者を一月以上六月以下の重禁固にして、罰
金を科す〉など 5 条から成る。[ 3.7 これまで 2 回審議するが、予算案審議の紛糾の余波
をうけて時間切れとなり、結局政府が提案を撤回、廃案となる。1995.6.5 参議院の一般
公開により判明する。]
1891. 3.17 【日本】逓信次官前島密(56)が辞任する。あと数カ月在任で恩給を受けられる
身であるが、電話事業を国営で創業し、逓信事業の発展に対して自分のやるべきことは
全うしたという心境である。逓信大臣後藤象二郎は、前島の功労を下僚に起草させ、内
閣に上申する。
1891. 3.18【日本】山陽鉄道の三石∼岡山間が開通し、兵庫∼岡山間の鉄道が開通する。
1891. 3.18【日本】新橋鉄道管内で、スチームの暖房設備が普及したので、上・中等客に
限り提供されていた湯たんぽのサービスを廃止する。
1891. 3.18【フランス・イギリス】イギリス∼フランス間に、初の海底電話ケーブルが完
成し、パリ∼ロンドン間に国際電話回線が開通する。
1891. 3.24【日本】度量衡法が公布される。基本単位を尺・貫とし、その基礎はメートル
原器・キログラム原器とする。1 尺は 1m の 10/33、1 貫は 1kg の 15/4 とする。
[1993.1.1
施行 。
]
1891. 3.−【日本】愛知県岡崎の中条(ちゅうじょう)勇次郎が、国産初の蝋管レコードに
よる蓄音機を製作する。[1892 年 、東京の尾花千市(おばなせんいち)も開発に成功する。
世間から「ひとりでものをいう機械」と驚嘆される。]
1891. 4 . 1【日本】郡制施行。
1891. 4.17【日本】逓信事業の運送元請は日本運送会社に落札する。現金、用品の運送・
荷造を独占する。
1891. 4.29【日本】丸亀陸軍病院の薬剤師二宮忠八( 25 )が、2 年前、歩兵第 12 連隊看護
卒として演習中に鳥の飛ぶのを見て飛行機の研究を志し、手作りのゴム動力による紙製
模型飛行機を試作する。夜 、丸亀練兵場で飛ばして、約 10m 近くの飛行に成功する。[1893
年、人間が乗って飛べる複葉機を試作する。1894 年、日清戦争に従軍中、飛行機の設計
図をつけて飛行機研究の重要性を述べた上申書を再三提出するが却下される。以後、独
力で発明を完成させるため除隊し製薬会社に入社、やがて自ら製薬会社を設立して社長
となり研究を続ける。1903 年、ライト兄弟の飛行成功を知り、また自動車事故で重傷を
負ったことなどが重なり、研究を断念する。1915 年、京都府八幡(やわた)町(のち、八
- 580 -
幡市)に飛行神社を造営、航空殉難者の霊を祀る。1925 年、飛行機の考案に対し逓信大
臣から表彰を受ける 。
]
1891. 4.−【日本】松山堂から『艶道通鑑』が復刻される。凡例に〈原本時に猥褻の句あ
るは○○○を以て是に換へ、虫食或は汚損して字体判然せざるものは□□□を以て之に
替ふ〉と記し、伏せ字記号の使い分けを行う。
1891. 5. 1【日本】
『逓信公報』が『朝野新聞』の附録となり、逓信省から部内への命令
達示は同紙に掲載するをもって公達式とする。[ 1892.4.1 『東京日日新聞』に改める。
]
1891. 5. 5【アメリカ】ニューヨークに最大のミュージックホールが完成、こけら落とし
にロシアから作曲家チャイコフスキー Petr Il'ich Chaikovskii( 51)が招かれ、ニューヨーク
・フィルが演奏する。
[以後、アメリカや海外から来演する音楽家たちの檜舞台として有
名になる。1898 年、実業家カーネギー Andrew Carnegie( 56 )の寄付で、演奏会場に改築
され 、
「カーネギー・ホール(Carnegie Hall)」と改称する。客席数 2784。同一建物内にカ
ーネギー・リサイタル・ホールという 355 席の小ホールが併設され、新進音楽家のデビ
ュー演奏会などに利用される。1962 年、リンカーン・センターが開設され、カーネギー
・ホールはニューヨークの音楽活動の中心ではなくなる。
]
1891. 5.11【日本】滋賀県大津で、巡査津田三蔵が、来日中のロシア皇太子ニコライ・ア
レクサンドロヴィッチ( 23 )に切り付け傷害を与える。大津事件と呼ばれ、政府は午前会
議を開き、能久親王、内務大臣西郷従道、外務大臣青木 らを京都に差遣わす。[5.13 天
皇が慰問する。5.19 皇太子が帰国する。
]
1891. 5.15【オランダ】フレデリック・フィリップス Frederik Philips が、長男ジェラルド
Gerard とともに南東部アイントホーフェンにおいて、白熱電球およびその関連機器の製
造・販売を目的としてフィリップス商会(Philips & Co.)を設立する。[以後、経営はうま
くいかず、倒産の危機に瀕するが、末子アントン Anton Philips が経営に参画し、その優
れたセールス活動によって事業は好転する。1912 年、社名をフィリップス・グロエラン
ペンファブリケン社( N.V. Philips' gloeilampenfabrieken)と改称。1914 年、タングステン電
球の時代に呼応して、研究所を設立する。1915 年、アルゴン入り電球を開発する。1918
年、X 線管、放射線管の開発に成功する。1919 年、ベルギーに子会社を設立、多国籍化
の道を歩み始める。1962 年、コンパクト・カセット式磁気テープを開発。1963 年、プラ
ンビコン(テレビジョン用の撮像管の一種)を開発。1972 年、光ディスクの元祖であるレ
ーザディスク( LD)(ビデオディスクともいう)を開発する。 1991 年、社名をフィリップ
ス電機( Koninklijke Philips Electronics N.V.)と改称。ヨーロッパ最大の総合電機会社とな
る。]
1891. 5.16【日本】政府が、大津事件に対応して、新聞・雑誌または文書図書に外交関係
の記事掲載に関して、内務大臣に草案検閲権・禁止権を与える旨緊急勅令を公布する。
[5.17 内務省令で草案提出を命じる。5.28 同省令を廃止する。1892.6.10 勅令で失効する。]
1891.5.20【スイス】第 4 回万国郵便大会議が、ウィーンで開会する。
1891. 5.22 【アメリカ】エジソン( 44)が、イーストマンに注文して作らせたセルロイドフ
ィルムを使って、 1 秒間に 46 コマの映像が撮影できる写真機を助手のディクソン
William K. L. Dickson (綴り?)と共同で考案し 、
「キネトグラフ」と名付け、エジソン研
究所で公開する。一種の「のぞきからくり」で、折から訪れた全国婦人クラブ連合会の
- 581 -
代表たちが画像が動くのを見て、驚きの声を上げる。エジソンは世界初の映画スタジオ
「ブラック・マリア」をディクソンの設計により作り、動く映像の撮影を行う。
「ブラッ
ク・マリア」は、安定した光源を得るために、太陽の光に合わせて設備を動かす回転式に
作られる。
[1893 年、その動画を見るための覗き眼鏡式の「キネトスコープ(kinetoscope) 」
を商品化する。]
1891. 5.31【ロシア 】シベリア鉄道( Transsibirskaya magistral')の工事が、ウラジオストク
で着工される。極東への西欧列強の進出に対抗しようとする戦略的意味が大きな契機と
なり、東方政策の進展のためモスクワ∼ウラジオストク間の鉄道敷設が 1880 年代に具体
化され、この年 2 月に閣議決定された。工事はウラジオストクから西に、ウラル山脈の
東側チェリャビンスクから東に向かって両方からすすめられる。[以後、経費は乏しく、
冬季は酷寒であり、人跡未踏の地域も多く、工事は困難をきわめる。1896 年、路線短縮、
満州(中国東北)への進出企図などから、ロシア鉄道と同一軌幅 1524mm の路線をチタか
ら清のハルビンを経由してまっすぐにウラジオストクにいたる東清鉄道の敷設を、清国
政府との密約によりに承認させる。1897 年、ようやく西側のチェリャビンスク∼イルク
ーツク間と、東側のウラジオストク∼ハバロフスク間が完成する。1904 年 7 月 21 日、
全線 8314km(9297km とも 7416km とも。狭義には、ウラル山脈東麓のチェリャビンスク
からオムスク、ノボシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツク、チタ、ハバロフス
クをへてウラジオストクまでの 7416km をさす。)が開通し、世界最長、ヨーロッパ∼ア
ジア間を結ぶ最も速い交通路となる。]
1891. 5.−【日本】この頃、東京朝日新聞社が、昨年 9 月に輸入したフランス製マリノニ
輪転印刷機で 、
『朝日新聞』本紙を初めて輪転で印刷する。新聞紙として初の輪転印刷
となる。]
1891. 6. 9 【日本】逓信省が、訴訟書類の郵送送達手続を制定する。[7 月、取扱いを開始
する 。
]
1891. 6.−【日本】新聞紙の紙幅が変更され、製紙会社(のち、王子製紙㈱)の王子第一工
場では抄紙機の全幅が使用できなくなる。
1891. 7 . 1【日本】府県制施行。
1891. 7. 1【日本】九州鉄道会社が、高瀬∼熊本間の鉄道を開通させ、門司(のち、門司
港)∼熊本間の鉄道が開通する。[のち、鹿児島本線となる。]
1891. 7.14【日本】小山作之助編著『国民唱歌集』が発表される 。
『敵は幾万』などが収
録される。
1891. 7.24【日本】文部省の総務局が廃止され、大臣官房が置かれる。官房に図書課が設
けられる。[以後、教科書の検定のみを行い、編纂を廃止する。]
1891.7.27【日本】逓信省に電気事業の監督業務を追加する。
1891. 7 . −【日本】訴訟書類の郵送取扱いが開始される。
1891. 7.−【日本】鉄道庁長官井上勝が、
「鉄道政略ニ関スル議」を建議し、鉄道国有化
を主張する。政府も民営鉄道を買い上げて幹線鉄道網を形成する基本方針を固める。
[12.17 政府が、衆議院に鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を提出。12.24 買収法案が否
決される。12.25 公債法案が、解散のため審議未了となる 。6.21 鉄道敷設法が公布され、
鉄道建設の基本法とする。]
- 582 -
1891. 7.−【日本】東京浅草の凌雲閣(前年 11 月建設された高さ 12 階建)で、5 月に警視
庁の措置でエレベータ撤去による客足不振の挽回策として発案された、東京府中の芸妓
100 人の写真による美人投票が行われる。初の美人投票の試みで、大評判になる。[以後
毎年開催、3 年目で中止。]
1891. 8 . 5【アメリカ】アメリカン・エクスプレス社が 、独自のトラベラーズ・チェック(旅
行者小切手)を発行する。同社のジェームズ・ファーゴが開発したもので、面倒な両替の
手間をはぶき、旅行者がサインひとつでその土地の通貨に換えられる
1891. 8.16【日本】逓信省電務局に電気試験所が創設される。[ 1898.11 研究機関の体制が
整う。1918.6.10 逓信省に電気試験所を設置する。]
1891.8.20【日本・朝鮮半島】日本と朝鮮の間で、貨幣封入郵便物の取扱を開始する。
1891. 9. 1【日本】日本鉄道㈱が、盛岡∼青森間鉄道を開通させ、上野∼青森間が全通す
る。1 日 1 往復で、片道の所要時間は約 26 時間 30 分を要する。[のち 、東北本線となる 。]
1891. 9. 8【日本】電話交換手採用規定が制定される。夫なき 15 ∼ 25 歳の者とする。
[1894.1.1 廃止し、
「電話交換手規則要領」に改められる。]
1891.9.12【日本】群馬県が、1893 年限りで公娼廃止の完全実施を布達する。
1891.9.15【日本】逓信省が、封緘不十分の郵便に押す印章を制定する。
1891. 9.17 【日本】貴族院書記官長金子堅太郎( 38)、衆議院書記官長會禰荒助が、議会図
書館設置を内閣に稟議する。[1896.2.10 第 9 回帝国議会で帝国図書館設立の建議がなさ
れる。1897.4.27 帝国図書館官制公布。]
1891.10.28 【日本】岐阜県・愛知県一帯に震度 8.4 の「濃尾大地震」が発生する。全壊消
失 14 万 2000 戸、死者 7200 人を出す。名古屋から〈岐阜ナクナル〉の電報が出される。
災害地向けの救恤品の無賃輸送が初めて実施される。
1891.11. 7【日本】幸田露伴の小説『五重塔』が 、
『国会』に連載を始める。
[∼ 1892.3.18。
出版に当たり、薦める人があり初めて印税契約を結ぶが、本が売れないからとただで出
版権を渡す。のちに、露伴の代表作との評判を得て、露伴は出版権を高額で買い戻す。(青
木玉「裁断機の下の『五重塔』
」『図書』2000.5)]
1891.11.17 【日本】文部省が、小学校教則大綱を定める。教育勅語の趣旨に基づき徳性の
涵養を最も重視する。この他に小学校令の施行諸細則を定める 。
「幼稚園図書館盲唖学
校其他小学校ニ類スル各種学校及私立小学校ニ関スル規則」では 、〈教育上風俗上有害
ナル〉図書の収集を規制する。
1891.12.26【日本】長野県西筑摩郡上松村の松上金重が、人動車を発明し、
「自転運搬車」
として特許第 1411 号を取得する。装置や車体の部分は横浜市の河瀬鐘之進が設計したも
ので、河瀬家に寄留して仕事の手伝いをしていた松上が舵取り装置を考案して特許をと
る。[1894.3 浅草区の中村孝之輔らが芝区に車輌製造所をつくり、日本自転運搬車製造
組合を設立して、松上の運搬車を 2 頭立て鉄道馬車などに代わる輸送手段として資金調
達を始めるが、組合員が予定数集まらず、事業開始には至らない。松上はさらに、本郷
区湯島の島崎商会主島崎秀雄に製造を依頼して、20 人乗りと 15 人乗りの 2 輛を製造し
て「人動快進車」と銘打って、本所区の藤沢製作所内で試運転を公開して宣伝するが、
これも成功しない。1896.6.11 河瀬鐘之進が「人動車」で申請し、特許第 2749 号を取得
する。]
- 583 -
1891.○【日本】改造百円札が発行される。縦 130mm、横 210cm という大型紙幣で、非
常に高額な紙幣のため、主に銀行間の決済に使用され、一般にはほとんど使用されない。
[以後、日本最大の紙幣となる。
]
1891. ○【日本】石川県勧業博物館で、雑誌索引の先駆け『勧業諸報標目』が作られる。
官庁発行の資料や民間の逐次刊行物の記事を、農事部、商事部、工事部などの大分類の
下に 、稲作、雑穀 、蔬菜、通運 、金融、陶磁器ほかの小項目に分けて順不同で配列する。
1891.○【日本】東京の電話加入数が 500 人になる。
1891. ○【日本】東京の辰ノ口局で、革新的な磁石式直列複式交換機を採用、試用を始め
る。回線容量 2100 本で、交換局につながるすべての加入者の通話を、いかなるポジショ
ンからでも接続できる。[1898 年、回線容量最大 7000 本の磁石式並列複式交換機が、東
京、大阪の複局地化にともない実用化される。以後、京都をはじめ全国の主要都市の交
換局で採用される。]
1891.○【日本】日本最初の美人写真コンテストが、芸者 100 人を集めて浅草の凌雲閣で
行われる。日本初のエレベータがしばしば故障し、警視庁に危険とみなされ撤去された
ので、各階に美人芸者の写真を展示して、来客を階上までひきつけようとする対策から
行われる。
[1908.3.5 良家の令嬢ばかりの美人コンテストが行われる]
1891.○【日本】政府が、呼子・対馬海峡間海底ケーブル施設と権利を大北電信会社(GNT)
から 8 万 5000 円で買い取る。
1891.○【日本】独身暮らしの男向けに、月 3 円で、土曜から日曜にかけての女性派遣業
がはやる。
1891.○【日本】佐渡の水金町で火災が発生、遊女屋 11 軒のうち 9 軒が罹災する。
1891. ○【シンガポール】広告に〈賃金の安い日本人の出稼ぎ百人が来る〉と出る。
1891. ○【シンガポール】唐行き業のボス渋谷銀治と二木多賀次郎が、ヨーチュカン路の
傍らに 4 エーカーの土地を買い、墓地を造成し、多数の物故からゆきさんをまつる。[日
本人墓地の発祥]
1891. ○【スウェーデン】世界で初めて古い民族的建造物を一堂に収集したスカンセン野
外博物館が、ストックホルムにできる。
1891.○【スウェーデン】オドナー W.T.Odhner が、歯車式手回し計算機を製作する。実
用化された最初の計算機となる。
1891.○【
】G.ドメニーが、絵の代わりに初めて写真を使って、網膜の残像現象を利
用して動く写真を見せる「フォノスコープ(phonoscope)」を発明する。
1891.○【ドイツ】貨物定期便会社ハンブルク・アメリカ汽船会社( HAPAG )(のち、ハパ
ーク・ロイド会社)が、6 週間のオリエント旅行を企画、開始する。
1891. ○【ドイツ】フランクフルトで電気博覧会が開催される。電気工学者でドイツ・エ
ジソン応用電気会社(のち、AEG(アーエーゲー)社)の創設者ミラー Oskar von Miller( 36)
が、175km の遠距離送電実験を成功させる。
1891.○【ドイツ】リリエンタール Otto Lilienthal( 43)が、鳥の飛び方を研究して自分のグ
ライダーに改良を加えた試作機で、ベルリン付近で飛行実験を行い、滑空に成功する。
[1893 年、飛行場所を、ベルリンから鉄道で 1 時間、ドッセ河畔ノイシュタット南方の
丘に移し、実験を続ける。約 5 年間に 10 種以上のグライダーを製作し,総計約 2000 回
- 584 -
の滑空飛行を行っう。彼の目的はスポーツ的なもので,その販売,あるいは実用までは
考えるに至らない。1896 年、滑空距離を延ばすため,炭酸ガスボンベからの圧力でシリ
ンダーとピストンを作動させ,羽ばたき飛行をする計画を立てるが,墜落して死亡する。]
1891. ○【フランス】ユイスマンスが、小説『彼方』を発表する。
1891. ○【フランス】ロートレックが、パリでムーランルージュ等の石版画ポスタを描き
はじめる。
1891. ○【フランス】ミシュラン兄弟が、世界で初めて自動車用の交換可能な空気入りタ
イヤを製造する。
1891.○【フランス】パナール・エ・ルバッソール社の技術者エミール・ルバッソール Emile
Levassor が、エンジンを座席の下方後部から前方に移し、クラッチ、変速機と縦一直線
に並べた近代的な配置の「パナール・エ・ルバッソール車」を製作する。乗客とエンジン
の位置関係が従来の上下の積み重ねから、前後に水平に展開されたため、車は低く安定
する構造へ一歩踏み出す。この頃、パナール・エ・ルバッソール社は、ダイムラー・エンジ
ンの製造権を獲得し、自ら自動車をつくるかたわら、プジョーなど他社にも供給してい
た。
1891.○【イギリス】詩人、工芸家、社会改革家モリス William Morris( 57 )が、個人の印
刷工房を設立し、邸宅名を冠してケルムスコット・プレス( Kelmscott Press)と名付けて、
個人出版を開始する。産業革命の進行とともに、それまで培われてきた手工業がしだい
に圧迫されて、書物生産もその例に漏れず機械化されスピード化され安直化されている
のを嘆いて、印刷、写真、写真製版のすぐれた研究家であり、また美術・文芸評論家とし
ても著名なウォーカー Emery Walker(40)の協力を得て、創設する。最初の「プライベー
トプレス」となる。
[1896.5 『チョーサー著作集』を刊行。最も美しい本として永く評
価される。1898 年、モリスの死後 2 年を経るまで存続する。その間に 53 タイトル、67
巻( 66 冊)の書物と試刷 1 部を印刷する。中世の手工業を理想とするモリスの芸術活動の
一環をなすもので、中世の写本装飾やルネサンスの書物、15 世紀の活字印刷本に多くを
学び、見開きの状態での紙面構成、黒インキを鮮明に写す手漉(てすき)紙の使用、手引
き印刷機、手製の製本、特にカクストン版を手本としてモリス自身による 2 つの字体と
644 のイニシャル、およびオーナメントの考案等、近世の私家本製本の歴史に重要な貢
献をなす。活字にはローマ字体の変形「ゴールデンタイプ」、ゴシック体の変形「トロ
イタイプ」およびそれを縮小した「チョーサータイプ」があり、その名称はおのおの『黄
金伝説』、
『トロイ歴史集 』
、『チョーサー著作集』のために作られたことに由来する。挿
絵のほとんどは、バーン・ジョーンズによって描かれる。モリスの次女メイ・モリスは〈も
しウォーカーなかりせば、ケルムスコット・プレスはいかなる形においても存在しなかっ
たろう〉と語る。1931 年、印刷芸術への貢献により印刷家として初めてナイトに叙せら
れる。モリス以後、多くのタイポグラファがモリスに刺激され、影響を受けて活躍し始
める 。
]
1891.○【アメリカ】アイヴスが、3 色分解によるカラー写真方式の特許を取得する。
1891. ○【アメリカ】コイン・スロット式自動蓄音機が登場する。
1891.○【アメリカ】ベルリナーが、ユナイテッド・ステーツ・グラモフォン会社(U.S. グ
ラモフォン)を設立する。
- 585 -
1891. 【事物】輸入ハーモニカ。
1891. 【流行語】日本の今日あるは皆これ薩長内閣のためなり。民法出デテ忠孝亡ブ。
1891. 【流行歌】
『縁かいな節 』『演歌欽来節 』
『オッペケペー節 』
『賛成節』
『敵は幾万』、
『道は六百八十里』
1892(明治25)
1892. 1.23【日本】第三種郵便物である定時印刷物の号外は、緊急時事を報道するものの
みを第三種とし、それ以外は第四種とする。
1892.2.27【日本】白木屋に強制的に電話機を敷設する。
1892.3.25【日本】配達証明郵便規則を制定する。
1892.3.29【日本】郵便事業で鉄道利用がますます増加し 、鉄道郵便取扱手続を制定する 。
[以後、鉄道郵便として扱う業務を拡大する。
]
1892. 3.−【日本】日本文庫協会が、東京図書館長田中稲城らが発起人となり、図書館従
事者の組織として設立される。[1898.5 図書館事業従事者合同懇話大会を開く。1903.8
第 1 回図書館事項講習会を、私立大橋図書館を会場に,開催する。1906.3 第 1 回全国図
書館員大会を開催する。1907.10 『図書館雑誌』を創刊。1908 年、日本図書館協会に改
称。1930 年、社団法人となる。]
1892. 4. 1【日本】鉄道の郵便車内での郵便物の区分事務が開始される。鉄道沿線各駅の
ポストに投函された郵便物は直接郵便車に持ち込まれ、次々と積み込まれる郵便物を、
走行中の狭い車両の中で受渡駅に着くまでに少人数で整理する。[以後、鉄道郵便局の作
業が、郵便物の鉄道輸送を支えていく。1986 年、自動車・飛行機輸送の増加により鉄道
郵便局が廃止される。](鉄道郵便研究会編『鉄道郵便一一四年のあゆみ』1987、石井寛
治、1994 )
1892. 4. 1【日本】『朝野新聞』による逓信省から部内への命令達示を廃止し、
『東京日日
新聞』に掲載するをもって公達式とする。
1892. 4.15【日本】逓信省が、鉄道郵便の各地発着時刻を告知する。省内に専任通信事務
官 5 人を置く。
1892. 4.−【日本】日本電燈協会(東京市)が発足する。会員は 64 名、準会員 9 名。帝国
議事堂の火災が漏電によると発表され、創業早々の電気事業にとって容易ならぬ事態と
なり、事業の順調な発達を期するため、協会設立の運びとなる。[1895.5 日本電気協会
と改称。1921.10.10 日本電気協会(東京市 )
、中央電気協会(大阪市)
、九州電気協会(福岡
市)の 3 地区電気協会が 、その業務内容に共通の事項が多く 、社会的要請により合同して 、
(社)電気協会が設立される。1943.10 、会名を(社)大日本電気会と改める。1947.5 第 26
回総会で会名を(社)日本電気協会と改め、新時代への再スタートを切る。]
1892.4.30【日本】逓信省が、配達証明郵便取扱手続を制定する。
[5.16 取扱開始。]
1892. 5 . 4【日本】郵便切手売下人はポストの保護、清掃等を行うこととする。
1892. 5.10【日本】新聞用達会社と休業状態となっている時事通信社が合併して、帝国通
信社(帝通)が設立される。立憲改進党の政党機関通信社で、竹村良貞が社主となる。[以
後、改進党系の地方新聞社に政治ニュースを提供する。政府からしばしば弾圧を受けて
発効停止処置を受けるが、一般ニュースを充実するとともに、広告代理業を積極的に展
- 586 -
開し、単なる政党の機関通信社から報道通信社へ脱皮を図り、通信社の雄として存在感
を示す。]
1892.5.16【日本】逓信省が、配達証明郵便の取扱を開始する。配達証明料は 3 銭。
1892. 5.−【日本】㈱服部時計店(のち、セイコー㈱)社長服部金太郎(32)が、本所に工場
(のち、精工舎)を開設して、八角柱時計の製造を開始する。[以後、振り子を納めた箱が
尾に見えることから「八角尾長」の愛称で親しまれる。さらに、懐中時計、置時計など
の生産に進出する。1970 年、本社工場精工舎を㈱精工舎として分離する。2000.11 セイ
コークロックが、各時代を象徴する復刻限定品として、第 1 号機の八角柱時計(10 万円)、
目覚まし時計(1953 年に民放放送開始初日のテレビ CM に登場した。5000 円)、2000 年
発売の太陽電池で動くデジタル電波時計(1 万 2000 円)の 3 機種を発売する。]
1892. 5 .−【日本 】高橋二郎「人口調査電気機械の発明」を『統計集誌』第 129 号に掲載。
日本で初めてホレリス式パンチカードシステム( PCS)を紹介する。
1892. 6 . 4【日本】日本初の水力発電所、京都市営水力発電所が開業する。
1892.6.16【日本】小包郵便法公布。
[10.1 施行 。
]
1892. 6.17【日本】郵便連合条約国政府発行の郵便切手・封皮・葉書を偽造等から保護す
るため、郵便連合国郵便切手類保護法を公布する。
1892. 6.21【日本】鉄道敷設法が公布され、鉄道建設の基本法とする。政府による幹線鉄
道の建設、公債募集による費用の調達、将来の私設鉄道の買収などを決める。[1922.4.11
改正鉄道敷設法公布。従来の建設計画を変更し、予定線 149 を決定。1951.5.30 鉄道敷設
法改正公布。運輸省に鉄道建設審議会を設置。
]
1892.6.21【日本】鉄道会議規則公布。内務省所管の鉄道建設についての諮問機関となる 。
1892. 6 .−【日本】逓信省が、初めて東京∼大阪間に 4 重電信機を設置する。
1892. 6.−【アメリカ】ハワイにおいて、週刊『日本週報』が創刊される。ハワイで最初
の邦字紙とされる。
1892. 7. 1【日本】東京市内の電話加入料を 40 円から 36 円(35 円??)に引下げ、均一料
金とする。
1892. 7.21【日本】鉄道庁を内務省より逓信省に移管する。
[以後、鉄道国有化の作業を
逓信省で行う。
]
1892.10. 1【日本】小包郵便法が施行され、小包郵便の取扱いが開始される。実施に要す
る財源不足のため、東京市内だけで開始する。小包郵便として扱えるものは、縦・横・
厚さがそれぞれ 2 尺(61cm)以内、重量は 1 貫 500 匁(5.6kg )までで、料金は距離と重量に
よって定められる。例えば、200 匁まで 20 里までは 6 銭、1 貫 500 匁まで 300 里以内は 93
銭。保険料を支払って価額登記小包にすれば、150 円の保証があり、通常小包の損害で
も、100 匁(375g )につき 10 銭の割で賠償する。[以後、この年 4 万 1000 個を取扱う。
1893.2.1 小包を取扱う局 62 局を追加。3 月までに 240 局に拡大される。1897 年、410 万
8000 個、1902 年、1029 万 9000 個、1907 年、1767 万 7000 個、1912 年、2427 万 7000 個
と着実に増加する。
]
1892.11. 1【日本】西洋小説の翻案で名をあげた黒岩周六(涙香)(30)が、
『萬朝報(よろず
ちょうほう)』を創刊する。頒価は他紙が 1 銭 5 厘のところを 1 銭とする。活字は秀英舎
活字を使用する。第 3 種郵便で全国郵送も行う。[以後、
〈簡単、明瞭、痛快〉をモット
- 587 -
ーに、黒岩の翻案小説、名士の私行摘発とキャンペーンで大衆の関心を集め、東京第一
の発行部数を獲得する。東京の商業新聞が激しい販売競争を演じたり、特定政党や企業
の世話になっている間に凋落している最中に、支配層や有名人のスキャンダルの暴露と
趣味娯楽記事を重視することを通じて、広く売れることによって独立の報道をなしうる
大衆新聞となっていく。角界の有力者たちの愛人関係の暴露記事や下世話な艶だねを実
名で詳しく書いた「蓄妾の実例」を連載するなどして、売れ行きの増大を図ったので、「娯
楽的毒舌新聞」(正岡藝陽の言葉)と呼ばれる。淡紅色の紙を使ったので「赤新聞」と呼ば
れる 。
「赤新聞」の呼び名の始まりで、日本のイエロージャーナリズムの初めとされる。
1894.6、日清戦争の後には発行部数 5 万に達し,第 2 位の『東京朝日新聞』の 2 万 5000
を大きく引き離して、しばらくの間東京紙のトップの座を保つ。1940.9.30 終刊。]
1892.12.28 【日本】東京の薄木保吉が『通運便覧』(薄木保吉編纂兼発行、築地活版製造
所印行)を発刊する。「全国汽車発著時刻及乗車賃金表」などを掲載。全 100 ページの冊
子で、従来の民間発行の時刻表の大部分が銅版に手書きであるのに比べ、活版印刷のた
めゆとりがあり見やすく、最も内容が充実している。[1893.9.20 訂正再販を発行する。]
1892.○【日本】山田美妙(24 )が、五十音順の『日本大辞書』を編纂する。東京アクセン
ト・ガ行鼻音を注記する。緒言で〈五十音ヲ執ル説ガ近頃ハ一般ニ多クナッテ、事事シ
ク言フ必要モ無イ〉と記し、五十音採用の理由として検索機能の優秀性を挙げる。[1893
年、完成。]
1892.○【日本】図書館従事者の組織、日本文庫協会が創立される。
[1893 年、第 1 回図
書館事項講習会を開く。日本における図書館学の初めとなる。1908 年、日本図書館協会
と改称する。1930 年、社団法人となる。
]
1892. ○【日本】この年、逓信省が、自転車を初めて電報配達に使用する。
1892. ○【日本】この年度、東京、横浜に続いて大阪、神戸に電話交換局が設置され、電
話加入者が 1500 人を超える。
[1893 年度、約 2700 人となる。]
1892. ○【日本】女子電話交換手の採用を正式に開始する。
1892.○【インドネシア】オランダ領東インドで、オランダが地方公文書館 Landsarchief
をジャカルタに設ける。[1945 年、インドネシア独立後、国立公文書館 Arsip Nasional と
なる。]
1892. ○【デンマーク】初の広告入り職業別電話帳が登場する。店のトレードマークの図
版も入る。
1892. ○【フランス】ファインダ用ビューレンズ側の空間を収納庫として利用するユニー
クな設計の二眼式のカメラ、ジュメユ・カーペンターが作られる。
1892.○【フランス】レノー( E)mile Reynaud (47)が、1889 年のパリ万国博覧会に出品し
た「プラキシノスコープ(プラクシノスコープ)」にもう 1 台の幻灯機をつけ加え、パリ
の蝋人形館「グレヴァン博物館」(モンマルトル大通り)の 3 階ホールを「テアトル・オプ
チック(光学劇場)」、または「光の無言劇」と称して、スクリーンに映写する大仕掛け
な動く幻灯を興行する。1 台の幻灯機に、少しずつ変化する人物の姿を 600 コマ以上に
わたりカラーで描いた長いセルロイド・ベルトを装填し、これを手でハンドルを回しなが
ら、横に流して動きを作り出す。さらにもう 1 台の幻灯機で、動く人物の背景を投影し
て合成する。動画ベルトの製作から上映までをすべて一人でやらねばならず、さらに博
- 588 -
物館の支配人は他の場所での興行を禁じた。[のち、「アニメーション」の元祖と言われ
るようになる。19 世紀後半はこれら幻灯の黄金時代となり、パリの有名なサロン、キャ
バレー「黒猫」などでは盛んに上映会も行われる。1895 年、リュミエール兄弟の動く写
真「シネマトグラフ」が登場し 、
「プラキシノスコープ」のアニメーション興行はガラ
空きとなる。レノーは「グレヴァン博物館」での興行を解雇される。1917 年、病と貧困
のため養老院に収容される。1918.1 孤独の裡に死去する。]
1892.○【フランス】この年(あるいは 1893 年)、発明狂の技師レオン・ブーリーが、連続
写真の装置を製作し 、
「シネマトグラフ」
(ギリシア語の kin ロ matos(動き)と graphein(描
く)の合成語)と名付ける。[ 1895 年 2 月 13 日、リュミエール兄弟が発明した撮影機と
映写機を兼ねた装置「シネマトグラフ・リュミエール」が特許権公布され、シネマトグラ
フが広く映画を意味することばになる。1910 年代、「シネマ cin ロ ma 」の略語が一般化す
る。]
1892. ○【イギリス】ワトソン社で、新型紙抄き機「ツインワイヤーマシン」が初めて稼
働する。ワイヤー上に噴射された紙料を、接触して走行する 2 枚のワイヤーではさみ、
両面から脱水させて紙の層を形成させるもので、高速に高品質の紙が製造できる 。[以後 、
世界の抄紙機の主流となる。日本の新聞用紙もこのタイプの機械で生産される。]
1892.○【アメリカ】アルバート・ラスカー(12)が、4 ページの週刊紙『ガルベストン自由
新聞』をテキサス州ガルベストンで発行する。新聞に有料の広告をとる。[以後、並みの
大人よりも多い年間 750 ドルの定期収入を得る。集金には自分が回るのは社主の威信に
かかわるとして、黒人の集金人を雇う。1906 年、シカゴの広告代理店ロード・アンド・ト
ーマスの社主となる。](三浦朱門訳『頭の回転』新潮社、1961)
1892.○【アメリカ】エジソン( 45)が、X 線を研究する。
1892. ○【アメリカ】エジソン・ゼネラル・エレクトリック社が、モルガン財閥により、交
流技術開発をしていた電球製造電灯会社トムソン・ヒューストン(ハウストン)社と合併さ
せられ、ゼネラル・エレクトリック(GE)社が発足する。エジソンは辞任する。
1892. 【流行語】一銭一厘問答。院外団。がんす。
1892. 【流行歌】『元寇』
1893(明治26)
1893. 1. 1【日本】度量衡法が施行される。基本単位を尺・貫とし、その基礎はメートル
原器・キログラム原器とする。1 尺は 1m の 10/33、1 貫は 1kg の 15/4 とする。
[1959.1.1
メートル法が施行される。
]
1893. 1.20【日本】鉄道小包郵便取扱手続を制定する。[ 2.1 東京から九州に至る幹線道を
中心に 62 局の郵便電信局で小包の取扱いを開始する。
]
1893. 2. 1 【アメリカ】エジソン( 46)が、フィルムに等間隔に穴を開けることでスピード
調整に成功し、箱の中で回転するフィルムを覗いて小さな動画が 1 秒間 46 こまの連続写
真で見える機械を製作し、
「キネトスコープ( Kinetoscope) 」と名づける。
[3.14 発表する。]
1893. 2. 7 【アメリカ】イライシャ・グレイ(エリシャ・グレー)Elisha Gray(58)が、テル
オートグラフ( telautograph;書画電送装置)の特許を取得する。それは自動的にドキュメ
ントにサインができた。
- 589 -
1893. 3. 3【日本】内国葉書または郵便切手を貼った内国葉書を外国に差出すものは、税
額印面を消印せず無効とし、信書として扱うこととする。
1893. 3.14【アメリカ】エジソン(46)が、キネトスコープ( Kinetoscope)の特許を得て発表
する。一度に 1 人だけしか見られないのぞき眼鏡式の窮屈なものだが、映画の始まりと
なる。[ 5 月、シカゴで開催中の万国博覧会に出品したのち、1894 年 4 月、ニューヨーク
で興業、たちまち世界の話題となる。1896 年、エジソン自身がこれを改良し、
「バイタ
スコープ」を発表する。しかし、特許申請の際、申請項目にスクリーン上に投影する可
能性を盛り込まず、またヨーロッパで特許申請しなかったため、後世「映画の父」とい
う栄誉に浴さないことになる。]
1893. 3.25【日本】大阪・神戸および両市間で電話交換業務が開始される。この日の加入
者は大阪 130 名、神戸 74 名。[ 3 月末、大阪の加入者数は 141 名に増加するが、申込者
は 377 名を数える。以後、各都市で市内交換局が設けられる。](『近畿の電信電話』電
気通信共済会近畿支部、1969、石井寛治、1994 )
1893. 4 . 1【日本】鉄道庁が逓信省構内へ移転する。
1893. 4. 1 【日本】急勾配の線路を登るためスイスのアプト Roman Abt(1850 ∼ 1933 )の
発明した歯車式鉄道「アプト式線路」を採用することにより、直江津線横川∼軽井沢間
約 8km の鉄道が開業する。これにより上野∼直江津間の信越本線が全線開通する。最急
こう配は 67 ‰。帯鋼板にのこぎり状の歯を刻んだもの 2 ∼ 3 枚を、歯の位置が交互にず
れるように組み合わせて左右のレールの中央に敷設し、これと機関車下部の歯車をかみ
合わせて駆動力を得る。当初、スイッチバックの多用案 、ループ線なども見当されたが 、
最終的にアプト式に落ち着き、アプト式機関車の試運転には、イギリス人汽車監督トレ
ビシック Francis Henry Trevithick ( 43)が担当した。[1905 年 8 月、上野∼新潟間に初めて
直通列車が 1 往復する。1912 年、アプト式が電化される。1931 年、清水トンネルが完成
して上越線が開通して、信越本線は東京∼新潟間の動脈の座を上越線に譲る。1963 年 7
月、補機(補助電気機関車)連結の運転に変わり、アプト式線路が大勢のファンに惜しま
れつつ廃止される。以後、横川運転区構内に「鉄道記念物」としてアプト式電気機関車
ED421 号機と歯車・ラックレールの模型が飾られる。1997.10. 1 長野(北陸)新幹線が開
業し 、これと引き換えに、信越本線の横川∼軽井沢駅間は廃止され、バスが運行される 。
また軽井沢∼篠ノ井駅間は第三セクタ「しなの鉄道」に転換する。]
1893. 4. 1 【日本】小包郵便物を全国主要都市の郵便受取所でも取扱うこととし、42 の受
取所名を告示する。
[5.1 さらに 52 ヵ所が追加される。
]
1893. 4.14【日本】出版法、版権法が公布される。発行届出制を採り、犯罪曲庇(事実を
曲げてかばうこと)、安寧秩序妨害、風俗壊乱等の文書図画を禁止し、官庁の機密に関す
る非公開文書の出版を許可制とすることなどを定める。禁止事項違反に対しては軽禁固,
罰金に処するほか,検事や内務大臣に仮差押え,出版差止め等の権限を与える。[1934.5.2
改正公布。]
1893. 5.−【アメリカ】シカゴ万国博覧会が開催される。世界最初の電力を利用した「フ
ェリス大観覧車」が登場する。世界最初の活動写真であるエジソンの「キネトスコープ」
、
世界最初のファスナーなどが展示される。
[以後、観覧者は 2700 万人以上を数える。
]
1893. 6 . 1【日本】鉄道庁神戸工場で、初の国産蒸気機関車が完成する。
- 590 -
1893.6.12【ロシア 】ベルリンの駐ドイツ公使館付武官だった陸軍中佐福島安正( 42 )が、
任期を終え帰国に際し、単騎でシベリア大陸横断を計画し、前年 2 月 11 日ベルリンを出
発し、ワルシャワ、ペテルブルグ、モスクワを経てウラル山脈を越え、シベリアから外
蒙古に入り、ふたたびシベリアのイルクーツクを経て、黒竜江の氷上を渡り満州に入っ
たのち、ウラジオストクに到着、シベリア大陸横断に成功する。1 万 5000km を 487 日を
かけて踏破する。この壮挙が世界に喧伝され、日本中が沸き返る。
[6.29 東京・新橋駅
に到着、熱狂する歓迎陣に迎えられる。ただちに宮中へ参内する 。
]
1893. 8.12【日本】文部省が、告示「小学校祝祭日大祭儀式規定」を公布する。小学校の
祝日や大祭式に用いる唱歌として『君が代』、
『一月一日』、
『紀元節』等 8 編が定められ
る。[ 1999 年、
「国旗国歌法」により『君が代』が正式に国歌となる。]
1893. 8.−【日本】日本文庫協会が、第 1 回図書館事項講習会を私立大橋図書館を会場に
開催する。日本における図書館学教育が始まる。
1893. 9.19【ニュージーランド】ニュージーランド自治植民地で、女性参政権が世界で初
めて発効する。[11.18 総選挙で、女性有権者の 85 %、9 万人が世界で初めて投票を行う 。
1902 年、オーストラリアで女性参政権が確立。以後、世界中に普及していく。]
1893.10.31 【日本】鉄道庁を鉄道局と改称し、逓信省の 1 局とし、郵務局と電信局を統合
して通信局とする旨公布される。通信監察官を廃止する。[1908.12.5 鉄道院の官制公布
により、内閣に直属。これに伴い逓信省鉄道局と帝国鉄道庁は廃止される。]
1893.11. 7【日本】日本郵船㈱が、日本最初の遠洋航路、ポンペイ(のち、ムンバイ)航路
を開設する。4 隻の船を投入し、第 1 船「廣島丸」が神戸港を出港する。
[以後、3 週に 1
回就航する。1896 年、 太平洋、ヨーロッパ 、オーストラリアの 3 つの航路を開設する。
]
1893.11. 8【日本】製紙会社が、商法の規程に基づき、社名を王子製紙㈱と改称する。
1893.12.−【アメリカ】エジソンを口説いてキネトスコープを手に入れた興行者の一人が、
ニューヨークで興行を開始する。
「ピープショー」の名で人気を呼ぶ。
1893.○【日本】新聞と雑誌の総部数が、2 億 7815 万 7421 部となる。
1893. ○【日本】私立若松図書館が、日本組合若松基督教会のなかに設立される。
1893. ○【日本】上流階級の人々の自転車旅行が行われるようになり、三菱合資会社社長
岩崎久弥(28)などが日本最初の自転車倶楽部、日本輪友会を交詢社内に結成する。[1964
年、日本サイクリング協会が設立される。
]
1893. ○【日本】西川秀二郎が、雑誌『数学報知』に「四つ玉そろばん」を改良そろばん
として意見を発表する。[以後、そろばんは五つ玉か四つ玉かの論議が盛んとなり、四つ
玉そろばんがすこしずつ普及し始める。]
1893.○【日本】外国人客誘致と接遇のために、喜賓会(きひんかい)( Welcome Society )が
設立される。[1912.3.12 これを母体に、鉄道院が中心となって会員組織の「国際旅客奨
励会( JapanTourist Bureau )」が設立される。]
1893. ○【日本】宮田栄助の宮田製銃所(のち、宮田工業㈱)が、空気入りタイヤのイギリ
ス式自転車の本格的な製造販売を開始する。日本初の自転車の量産で、年間生産能力は
500 台。[以後、第一次世界大戦のころには輸入が途絶したこともあり、国産車の生産が
急伸し、輸入車の時代に終止符を打つ契機となる。]
1893. ○【日本】逓信省が、郵便葉書を墨などで塗抹したものは第一種郵便扱いとするこ
- 591 -
とを告示する。
1893.○【日本】博文館の創業者大橋佐平( 58 )が、イギリス訪問の際、通信社ロイターを
見学し、ロイター電の配信を意図する。帰国後、内外通信社を設立、ロイターと契約を
締結する。[以後、ロイター電が伝える日清戦争の戦況ニュースを新聞社に配信して声名
を高める。しかし、収入が伴わず、同社は破綻する。1906 年、日本電報通信社(電通)が
ロイター代理店と直接契約する。]
1893. ○【日本】この頃、東京∼大阪間の電信線を利用して、深夜に電話の通話試験が試
みられる。何とか実用になることが確かめられる。[ 1898 年 4 月、直径 4.5mm の 8 番硬
銅線を使用して、電話 1 回線の建設を開始する。10 月、完了。]
1893.○【日本】群馬県が、全国に先駆けて公娼制度廃止を実施する。[ 1930 年、埼玉県
が第 2 番目に実施する。]
1893. ○【ハンガリー】エジソンのもとで仕事をしたことのあるティヴァダル・プシュカ
ーシェが、電話放送「テレフォン・ヒルモンド」を開設し、電話を使って加入者にニュー
ス・演劇・音楽などの番組提供をブダペストで開始する。初の電話による「放送」とな
る。[ 1896 年、6000 世帯が加入すうる。中にはブダペストの政財界人、文化人、ホテル
・病院などが含まれ、電話放送が都市の重要なメディアになっている。
1893. ○【ノルウェー】ムンクが『死と乙女』を制作する。
1893. ○【チェコ】クリッチュが、輪転式グラビアを完成する。
1893. ○【ハンガリー】ブダペストの電話会社テレフォン・ヒルモンドが、電話による番
組の定時放送を開始する。政治、経済、スポーツなどのニュースや、音楽、演劇、講演
などの中継を毎日放送する。[以後、成功する。他の電話会社も同様の放送型電話サービ
スを始めるが、急速に普及し始めた中産階級相手の多様なニーズに対応する番組編成と
インフラ整備に投資が間に合わず 、テレフォン・ヒルモンド以上に成功することはない。
一方で、電話の利用形態として、個人間のコミュニケーションという新たな形が次第に
普及していく。]
1893. ○【ドイツ】ルドルフ・ディーゼルが、圧縮点火のディーゼルエンジンの特許を取
得する。
1893. ○【ドイツ】ダイムラー社が、ベンチュリーとノズルを組み合わせた近代的なキャ
ブレータを開発する。
1893. ○【ドイツ】ベンツ社が、ゴムタイヤを装着した自動車「ビクトリア号」を発売す
る。
1893.○【フランス】
パリのミュージック・ホールで、
初めて踊り子がヌードになる 。
[∼ 1894
年。ストリップショーの始めといわれる。
]
1893.○【イギリス】世界最初の立体写真愛好家の組織がつくられる。この頃、2 個のレ
ンズを左右に並べ、同一被写体を同時に左右に並んだ 2 枚の画面に撮影し、その映像を 2
個のレンズを通して立体的に見る金属製ステレオカメラが流行する。
1893.○【イギリス】ロンドンのマクミラン社が、ドイツの物理学者ヘルツ Heinrich Rudolph
Hertz( 36)の著書『電波』を刊行する。[1894.1.1 ヘルツが病死する。]
1893.○【アメリカ】アイルランド生まれの速記法考案者グレッグ John Robert Gregg( 26 )
が、130 ドルを携えてボストンに上陸、アメリカに移住して、グレッグ出版社を設立す
- 592 -
る。[以後、グレッグ式速記法はアメリカで最も広く教えられ、ピットマン式とともに
英文速記に最も多く使用されるようになる。
]
1893.○【アメリカ】アメリカ新聞協会が、広告代理業への手数料を承認する宣言を行う。
[以後、新聞広告の手数料の契約制が確立し、近代化の基盤が形成される。]
1893.○【アメリカ】テスラ Nikola Tesla( 36)が、テスラ変圧器を発明する。[のち、テス
ラ電気会社を設立する。]
1893. ○【アメリカ】国際言語協会が、コロムビア・フォノグラム社の協力でローゼンタ
ールの『オリジナル・ランゲージ・コース』を蝋円盤レコードで制作、テキストを付け、
世界初の語学学習レコードを作る。
1893. ○【アメリカ】ジョージ・セルデンとチャールズ・デュリアが、ともにアメリカ初の
ガソリン自動車を製作する。
1893. 【流行語】速記術。もしもし。
1893. 【流行歌】『一月一日』。
『うさぎ 』
。
『天長節』
1894(明治27)
1894. 1. 1【日本】逓信省が、電話交換手採用規定を廃止し、
「電話交換手規則要領」を
発布する。年齢 13 ∼ 23 歳で、女子なら夫なき者、視聴覚良く言語明晰、動作敏捷、諸
事丁寧で、品行方正な者。採用試験は、読書、作文、筆跡(楷書、行書)、算術。電話交
換局長は、試験及第者中から必要人員を選抜し、電話交換手見習いとして2カ月以上練
習したのち、適当と認めた者を身元引受人の保証書を取り 、電話交換手として任命する。
1894. 1 . 4【ロシア・フランス】露仏同盟が成立する。
1894. 1.31【日本】郵便船航海中に投函された郵便物の切手の国名と、消印の国名に違い
が生ずる場合、通常の消印のほか「郵船」の印章を押捺するか筆書することとする。
1894. 2. 6【日本】逓信省が、信書等であっても、郵便税の一部を前払しない外国郵便は
郵送しないと布告する。
1894. 3. 7【日本】中央気象台が発行する『天気図(WEATHER CHART)』が、第三種郵
便物に認可される。
[以後、1 部〈定価郵便税共金四銭〉で購読希望者に有償頒布される。
]
1894. 3. 9【日本】明治天皇大婚 25 年記念祝典が各地で盛大に行われる。逓信省が日本
初の記念切手 2 種を発行する。菊の紋章に雌雄の鶴 2 羽が描かれたデザインで、紅色 2
銭は内国用、鮮青色 5 銭は外地用である。[のち、3 月 9 日を「記念切手記念日(記念切
手発行記念日)」と定められる。]
1894.3.26【日本】郵便局の業務量増大により、定員を増員する。
1894. 3.29 【朝鮮半島】東学の指導者全ホウ(王ヘンに奉)準( 39)が、政府の虐政に怒った
農民数千人を率いて全羅北道泰仁(テイン)県を攻撃する。甲午農民戦争が始まる。[5.30
農民軍がほぼ全羅道全州を占領する。]
1894. 4.14【アメリカ】ニューヨークのブロードウェーの「キネトスコープ館」で、ボク
シング試合や動植物の生態を写したフィルムを収めたのぞき眼鏡式のキネトスコープが
有料公開される。観客は 25 セントを握りしめて殺到する。
1894. 4 .−【日本】真島製紙所が設立される。[12 月、操業開始。]
1894.5.12【日本】逓信省が、内国郵便葉書を外国郵便に使用することを認める。
- 593 -
1894. 5.30【朝鮮半島】 全ホウ(王ヘンに奉)準を総大将とする農民軍が、ほぼ全羅道全
州を占領する。朝鮮政府が清国に出兵を要請する。[6.2 日本政府が朝鮮出兵を決定する 。
6.9 清の派遣軍が、牙山に到着する。6.10 日本の朝鮮駐在公使大島圭介が、在留邦人の
保護を名目に陸戦隊を率いて漢城(のち、ソウル)に帰任する。6.12 日本の混成旅団の先
遣隊が仁川に上陸する。]
1894. 5.−【日本】山梨県中巨摩郡小井川町(のち、田富町)の樋口惣四郎ほか 2 人が、乗
合人動車をつくり、
「自転車」と名付けて特許を申請する。[ 1895.5.27 特許第 2550 号を
取得する。以後、実用化されない。]
1894. 6 . 5 【日本】大本営を設置する。[9.13 大本営を広島に進める。
]
1894. 6. 6【日本】軍用電信法が公布される。軍用電信は陸・海軍大臣がそれぞれ管理す
ることとする。
[6.14 軍事郵便を創設する 。
]
1894. 6.10【日本】山陽鉄道が、糸崎∼広島間を開通させ、兵庫∼広島間の鉄道を開業す
る。[ 10.10 神戸∼広島間に急行列車の運行を開始する。]
1894. 6.14【日本】逓信省が、軍事郵便を創設する。勅令により、戦時もしくは事変に際
して、海外派遣の軍隊や軍人等が発出する郵便物を軍事郵便とし、郵便税を免除するこ
とを即日実施する 。
[6.16 勅令を受け、軍事郵便物取扱細則を制定し、軍事郵便物を取
扱う郵便局を指定する。私用の軍事郵便の 1 ヵ月差出制限数は、将校・高等文官は 3 通、
準士官・下士官・兵卒は 1 通とする。1895.2.26 差出制限数を拡大し、将校等 4 通、準士
官以下 2 通とする。1904 年 2 月、軍事郵便の制度が確立する。
]
1894.6.16【日本 】清に対して、共同で朝鮮の内政改革を提議する。[ 6.22 清が拒否する。]
1894.6.22【日本】陸軍省が、戦時の際の死体認識票を定める。
1894. 6.23 【フランス】教育家・男爵クーベルタン Pierre de Coubertin( 31)の提唱で、オリ
ンピック復興に関する国際会議がパリ大学ソルボンヌ講堂で開催される。第 1 回オリン
ピックをアテネで開催することを決定、「近代オリンピック」と呼び、国際オリンピッ
ク 委 員 会 ( IOC; International Olympic Committee; CIO; Le Comit( e) International
Olympique )が結成される。初代会長はギリシャのディミトリオス・ビケラスが就任。
[1896.4.6 アテネでオリンピック第 1 回大会を開催 。1896 ∼ 1925 年、クーベルタンが第 2
代 IOC 会長をつとめる。以後、クーベルタンは IOC の終身名誉会長となる 。この 6 月 23
日を「オリンピック・デー」とする。1948 年、日本でも日本オリンピック委員会( JOC)国
際協議課が「オリンピック・デー」を実施する。]
1894.6.25【日本】高等学校令を公布し、高等中学校を高等学校と改称する。
1894. 6.−【日本】エジソンのキネトスコープの記事が、雑誌『写真叢話』に掲載され、
初めて日本に紹介される。それによると、キネトスコープは本邦にもかつて輸入された
教育玩具(ゾートロープのこと)の発達したもので、紙片に描いた絵の代りに、フィル
ムに撮影した写真の連続したものを使い、その写真を撮影するためには、別にキネトグ
ラフという写真機が考案されている――というような意味の記事が掲げられている。ア
メリカの新聞記事から想像して書いたものらしく、部分的な詳述はいない。
1894. 6.−【日本】女子事務員が初めて茨城県河内郡竜ヶ崎役場の工地台帳係として採用
される。[以後、続いて日本銀行が女子を採用、婦人用トイレのないことに気づき、新設
する。]
- 594 -
1894. 6.−【イギリス】ロッジ Sir Oliver Joseph Lodge が、1890 ∼ 91 年にフランスのブラ
ンリが発見した電磁波検出器の原理を用いて、Ni 粉末粒子を使った高感度の電磁誘導無
線受信機を考案し、「コヒーラ(cohera)検波器」(cohera =互いに粒子が凝集する現象)と
名付け、王立協会で行われたヘルツ追悼講演会で一般に公開する。かつてヘルツは、モ
ールス信号を直接周波数に置き換えようとしたが、ロッジは電波の切断を利用して、モ
ールス信号による符号通信を 100m 飛ばすという快挙を成し遂げる。[これは、いったん
電波を受信して導通させると、長時間導通状態が保持されるという欠点があった。1897
年に電波の同調を行って感度を上げる。]
1894. 7.16【イギリス】ロンドンで日英通商航海条約が調印される。これにより日本は幕
末以来の領事裁判権の廃止、関税率の引上げなどが実現し、永年悲願の不平等条約改正
をなしとげ、いちおう独立国としての体裁を整える。関税の自主権は完全には認められ
ないが、不十分ながらも明治政府の条約改正交渉は実る。一方、条文には、ベルヌ条約
加盟がうたわれる。
[8.27 公布。1899 年 7.17 施行。ベルヌ条約に加盟し、著作権法を施
行する。]
1894.7.23【朝鮮半島】日本軍が、漢城(のち、ソウル)の朝鮮王宮を占領する。
1894. 7.25【朝鮮半島】日本海軍が、豊島沖で清の軍艦と交戦する。日本と清国が戦争状
態に入る。
1894. 7.29【朝鮮半島】陸軍歩兵第 21 連隊ラッパ手の木口小平が、安城渡の戦いで左肺
に貫通銃創を受け、ラッパを吹きながら戦死する。[のち、尋常小学校の修身教科書に収
録される。]
1894. 8. 1【日本】日本が、朝鮮の清国からの独立を名目に清国に宣戦布告する。日清戦
争が始まる。
1894. 8 . 2【日本】開戦に伴い、新聞記事の事前検閲令が公布される。
1894. 8 . 2【日本】山陽鉄道が、陸軍の委託を受けて、広島∼宇品間鉄道を起工する。
1894. 8.25【日本】博文館が、『日清戦争実記』を創刊する。初めて写真銅版、写真亜鉛
版(網版)を多数採用して、読者には非常に珍しく映り、国民的大評判を得る。西洋木版
彫刻所の生巧館で彫った木口彫を電氣版にして秀英舎で印刷した墨一色の表紙、写真銅
版の口絵、戦局地図を収め、菊判 100 ページ。毎月 3 回発行。1 冊 8 銭。[1896.1 第 13
編で終刊。各編二十数版を重ね、総計 300 万部余りを売る。]
1894. 9.15【朝鮮半島】日本の中国新聞社の山下静観が、従軍記者として戦死する。従軍
記者初の犠牲者となる。
1894.9.17【中国】黄海の海戦。
1894. 9.−【日本】ガス灯にガスマントルが初めて使用される。横浜駅、横浜市内のホテ
ル、東京の上野駅などに設置され、白熱瓦斯灯の時代が始まる。
1894. 9.−【日本】山田美妙( 26 )が、浅草公園私娼事件のスキャンダルで『萬朝報』に非
難される。
1894.10. 1【日本】東京商品取引所が開業する。
1894.10. 5 【日本】日本初の月刊『汽車汽舩旅行案内』が、東京の手塚猛昌( 41)により、
庚寅(こういん)新誌社より創刊される。恩師の福澤諭吉から時刻表の刊行を勧められ、
イギリスの『ブラドショウ鉄道時刻表』( 1839 年創刊)などを範にとり、最初の冊子式で
- 595 -
定期刊行の汽車時刻表を思い立つ。四六判、94 ページ。定価 6 銭。漢数字縦組み、右綴
じで、列車時刻の推移は右から左へ表記される。巻頭の日本地図は、大和、武蔵などと
廃藩置県以前の旧国名で表示される。小説や紀行文なども掲載する。広告に、イギリス
製新式二連猟銃と護身用ピストルの挿絵付きで「新式猟銃及び拳銃各種大販売」などが
掲載される。従来にない出版物として人気を博す。[以後、毎月刊行され、順調に売り上
げを伸ばす。1896 年 7 月号(第 22 号)に、駅弁販売駅のマーク「▲辨当」が付けられる(駅
弁マークの初出は第 4 号∼第 21 号のいずれか、未確認。林順信による。)。1903.4 庚寅
新誌社内に旅行案内社を設け、『汽車汽舩旅行案内』の鉄道線路案内などのガイドブッ
ク部分を独立させ、月刊『旅行案内』を創刊する。1915 年 1 月、手塚猛昌が、旅行案内
社より月刊『公認汽車汽船旅行案内』を創刊、巻号を庚寅新誌社『汽車汽舩旅行案内』
から継承し、第 244 号とする。1944.3 (財)東亜交通公社に発行権を買収されて 、通巻 593
号で廃刊。1981 年、広島市の古書店、あき書房店主石踊一則が、創刊号の復刻版を発行
する。のち、10 月 5 日を「時刻表の日」と定められる。]
1894.10. −【日本】秀英舎(のち、大日本印刷㈱)の印刷工場(若山鉉吉設計)が完成する。
初の全鉄骨建築で、3 階建てが目を見張る。[この年、秀英舎は、最初の活字見本帖を作
り、得意先に配布する。いわゆる秀英舎体(秀英体)と呼ばれる縦線の細い活字が定着い
していく。]
1894.11.10 【日本】逓信省が、野戦郵便物差立手続を定め、直接差立局として広島、赤間
関(のち、下関)局を指定する。
1894.11.22 【日本・アメリカ】日米通商航海条約調印。
[1895.3.24 公布 。
]
1894.11.24【日本】宮内式部附属音楽学校(東京音楽学校(のち 、東京芸術大学)奏楽堂)で、
「赤十字慈善音楽会」が行われ、グノー作曲『ファウスト』第 1 幕が上演される。日本
で最初の歌劇(オペラ)上演となる。フランツ・フォン・エッケルト指揮、ファウストはオ
ーストリア代理公使が演じ、他の主役はイタリア大使館員ら外国人が参加、管弦楽は宮
内省楽部、合唱は音楽学校生が演じる。[のち、11 月 24 日を「オペラの日」とされる。]
1894.12. 7【日本】逓信省が、野戦郵便為替を開設し、野戦郵便局で振出す通常為替は、
赤間関管理支所で証書を発行することとする。
1894.12.11【フランス】最初の自転車・自動車万国博覧会が、パリで開幕する。9 社から 15
台が出展されるが、余り盛り上がらない。世界最初の自動車ショーとなる。
1894.12.19 【日本】ドイツとの間に締結した小包郵便物交換約定を公布する 。
[ 1895.1.1
取扱開始。
]
1894.12.−【アメリカ】ベルリナーのユナイテッド・ステーツ・グラモフォン会社(U.S.
グラモフォン社)が、レコード第 1 回新譜を発売する。70 回転、直径 17cm 片面で 2 分
間。
1894. ○【日本】日本で使用される明朝体の漢字活字が、この年初めて完全に日本化され
る。1869 年末にガンブルを長崎に招聘した本木昌造が、その後製造してきた活字は上海
美華書館字形によるもので、1873 年以来、新塾出張活版製造所、平野活版所、築地活版
製造所などによって年々改刻してきた結果、この年初めて完全に日本化された明朝体が
出現する。
1894. ○【日本】新聞社や雑誌社が、日清戦争のおかげで好況を呈し、新聞と雑誌の総部
- 596 -
数が 、前年比 32 %増しの 3 億 6773 万 5426 部に伸びる 。特に伸び率の大きい新聞は 、
『東
京朝日新聞 』、『万朝報 』、
『中外商業 』
、『国民新聞』である。(佐々木隆『メディアと権
力』1999 )
1894. ○【日本】戦争ブームで戦争錦絵が盛んに売れる。東京市内の絵草紙屋が大繁盛す
る。また 、『戦国写真画報』(春陽堂)などの雑誌が刊行され、将官の肖像や現地の風景
などの写真を使った本格的な戦争報道の先駆けとなる。
1894. ○【日本】内務省勤農局官吏の堀井新治郎と商社勤めの息子が、同じ文書を何枚も
手書きする事務作業に効率の悪さを感じ、ともに退職して簡易印刷法の開発に専念した
結果、染物の型紙やエジソンのミメオグラフをヒントに謄写版を発明し、一号機を製作
する。蝋をひいた上質の和紙「天狗帖(てんぐじょう)」に鉄筆で文字を刻んだ原紙をス
クリーンに張り付け、インクをつけたローラーを手で転がして印刷する 。
〈簡便に印刷
でき活字より数倍すぐれている〉と宣伝して、通信文書の作成用に最適と陸軍や地方の
役所、学校、商社などに売り込む。「ガリ版」の初め。(田村紀雄・志村章子『ガリ版文
化史』筑摩書房、 1985)[1908 年、改良を加え、
〈枠を台に蝶着し、インキ印刷の取り替え
操作を容易にして印刷を鮮明にせしめる〉堀井謄写版で特許を得る。1910 年、東京の堀
井謄写堂から単胴型の輪転謄写機第 1 号が初めて発売さる。以後、元祖ホリイを始めメ
ーカー約 10 社が謄写版を製造し、
「ガリ版」の通称で、日本中に普及する。1950 年代に
コピー機が登場して、次第に衰退しする。1970 年代前半に、最後に残ったホリイも生産
を中止する。以後は、倉庫に残っている原紙やインクを欲しい人だけに売る。1994 年、
ガリ版誕生 100 年を機に、有志によって「ガリ版ネットワーク」が結成される 。1998.4.13
堀井の出身地、蒲生町がガリ版の文化を後世に残すことを目的に「ガリ版記念館」を開
設する。]
1894. ○【日本】この頃、電話申込者が徐々に増加する一方、日清戦争のため拡充財源が
カットされ、新規架設は軍事上必要なものだけになる。民間の設備拡張の中断により、
既設電話に数百円の売買価格がつけられる。
1894. ○【日本】加入者電信機に筒型受話器を採用する。
1894.○【日本】島津製作所の創業者島津源蔵(初代)が死亡し、息子の梅治郎(24)が父の
名と事業を引き継ぐ。
1894.○【日本】この頃、アメリカのイリノイ盲学校校長フランク・ H・ホールが創案した
点字タイプライター「ブレールライター」が輸入される。[以後 、あまり使用されない。1903
年、石川倉次が、濁音・清音を一度に打てるよう改良した日本語点字タイプライターを
製作する。]
1894.○【日本】広田理太郎と内務省土木課長近藤虎五郎の 2 人が、欧米視察の土産の一
部として、初めてマンハイム計算尺を持ち帰る。[ 1909 年、逸見(へんみ)治郎が、日本
特有の竹製計算尺を発明し普及させる。]
製計算尺を発明し普及させた。
1894.○【日本】クラフト・エヴィングの『性的精神病質』( 1886)が『色情狂篇』としで
日本語に翻訳、出版される。
1894. ○【朝鮮半島】日本の陸軍陸地測量部が、写真班を組織して戦地に進出し、撮影に
当たる。ガラス乾板による撮影で、湿式に比べて撮影領域は拡大したが、暗箱カメラに
- 597 -
よるため、最前線における戦闘場面は撮影していない。]
1894.○【ロシア 】水雷学校教官ポポフ Aleksandr Stepanovich Popov( 35)が、ヘルツの電
波を通信に利用することを考えいて、リレーで連続的に検波器をたたくという「デ・コヒ
ーラ検波器」を考案する。[1995 年、自作のアンテナを使って、最初の無線電報を伝達す
る。]
1894.○【ドイツ】貨物定期便会社ハンブルク・アメリカ汽船会社(HAPAG)(のち、ハパ
ーク・ロイド会社)が、ノールカップ岬∼スピッツベルゲン旅行を企画、開始する。。
1894. ○【ドイツ】ツヴィッカウ市で、路面電車が開通する。
1894.○【ドイツ】ヘルムホルツ Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz( 73 )が、色覚に
関する三原色説を唱える。[のち、三色法によるカラー写真の基礎となる。]
1894.○【ドイツ】リリエンタール Otto Lilienthal( 46)が、自分の機械工場近くのリヒター
フュルデに人造丘を築いて、グライダーの練習に使う。彼のグライダーはハング式で、
搭乗者は腕で機体につかまり、つり下げた下半身を前後左右に振って制御する。機体が
右へ傾いたときは下半身を左へ振って回復するが、これは右へ足を振り出したくなる本
能とは反対の操作である。標準型単葉の他に複葉もつくる。また、滑空距離を伸ばすた
めの羽ばたきのために、炭酸ガス圧の動力を採用することも計画する。[以後、この人造
丘は今日にも残される。]
1894. ○【フランス】パリのバーレスクで、昨年からストリップショーが行われている。
1894. ○【フランス】アルフオンス・ミュシャが 、
『サラ・ベルナールのジスモンダ』を書
く。
1894. ○【フランス】ピエール・ルイスが、
『ビリティスの歌』を著す。
1894. ○【フランス】オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の仏語版が出版される。
1894.○【フランス】史上初の自動車レースが、パリ∼ルーアン間 126km で開催され、パ
ナール・エ・ルバッソールとプジョーの「クアドリレット」が優勝を分け合う。
1894. ○【フランス】物理学者フランソワ・デュッソーが、電話の録音用に、円筒形の磁
性体に電磁石で振動する針で記録する装置を製作する。[ 1896 年、この装置で電話の音
声を記録する。]
1894. ○【フランス】シャルルとエミールのパテ兄弟(?父子)が、円筒レコードの工場を
建設する。
1894.○【イタリア】マルコーニ Guglielmo Marconi( 20 )が、3 階の部屋から、電線を用い
ず電波を利用して無線で地下室のベルを鳴らす装置を作る。[以後、電波の到達距離を延
ばすことに努力する。]
1894.○【イギリス】出版社スミス父子会社の支配人ホーンビー C.H.St.John Hornby( 26 )
が、個人出版(プライベート・プレス)のためアシェンデン・プレス( Ashenden Press)を創立
する。印刷にはしろうとだったので、当初はウォーカーやその他の専門家の助言を受け
ながら、勤務の余暇を利用し、妻や妹たちの手助けを借りて印刷・出版を始める。イタ
リア最初の活字印刷者スヴァインハイムとバンナルツの鋳造したローマ字体を元にスピ
アコ字体を作り、これを洗練し続ける。[以後、30 ∼ 50 部ほどのきわめて少部数を印行
し、私的に配付するにとどめる。その後、『ダンテ著作集 』
、セルバンテスの『ドン・キ
ホーテ 』
、ボッカッチョの『デカメロン』など重厚な本も印行する。印行部数はほとん
- 598 -
ど限定 250 部以下である。第 1 次世界大戦中の一時中断を除き、1895 ∼ 1935 年間に主
要刊本 40 点、小冊子類 13 点、合計 53 点 54 巻を印行する。アシェンデン・プレスは、モ
リス主宰のケルムスコット・プレス,コブデン・サンダーソン Thomas J. Cobden-Sanderson
のダブズ・プレス Doves Press とともに「三大プライベート・プレス」として挙げられる 。
]
1894. ○【イギリス】オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』が、貴族アルフレッド・ダグラ
スにより英訳、ビアズリーの挿絵入りで出版される。
1894. ○【イギリス】ランカスターに移住したウィーンのカール・クリッチェが、レンブ
ラント凹版会社を創始し、初めて輪転式グラビア印刷機「レンブラントグラビア」を商
品化して発売する。
1894.○【イギリス】テイラー・テイラー・ホブソン社の H.D.テイラーが 、写真用レンズ「ク
ック・トリプレット」を設計する。凸凹凸の 3 枚のレンズを離して配置したもので、各種
の収差が程良く補正される。[以後、現代写真機のレンズの基本型となる。1902 年、ド
イツのカール・ツァイス社で、トリプレットの後ろの凸レンズを凹凸 2 枚の貼り合わせに
して収差をさらに除去した「テッサー」が設計される。]
1894.○【アメリカ】人気作家マーク・トウェーン Mark Twain(59)が、広い分野の発明に
無謀な投資をし、特に活字鋳植機の考案者に 25 万ドル以上の援助を行ったにもかかわら
ず失敗して、破産する。[以後、彼の人間観はますます暗くなり、1896 年、長女を突然
脳膜炎で失ったあと、妻の死など個人的な不幸が重なり、救いようのない決定論的な厭
世観、虚無思想にとりつかれるようになる。]
1894. ○【アメリカ】映画フィルムの著作権を確立するために、フィルム映像を印画紙に
転写した紙プリント( paper print )がつくられ、誰が何時どこで撮影したかを明記して当局
に提出される。[以後、1912 年まで約 3000 件が登録される。1912 年以後は、16mm フィ
ルムのプリントで残され、議会図書館のメリーランド倉庫に保管される 。第二次大戦後、
ペーパープリントから 16mm フィルムへの復元作業が行われ、さらに 35mm フィルムへ
の転写もおこなわれる。](テレビ朝日「ニュースステーション」1998.11.2)
1894.○【アメリカ】エジソン研究所で、マイク・レナードとジャック・カッシングの 6 ラ
ウンドのボクシング試合の映画が撮影される。カメラが動かないため、3.6m 四方の狭い
リングで闘った。世界最初のスポーツ映画となる。
1894. ○【アメリカ】コロンビア社が、ぜんまいで円盤レコードを回転させる蓄音機を製
作する。
1894.○【アメリカ】作家スチーブン・クレイン Stephen Crane (23)が、紫の目の少年に誘
われたことから、汚れなき少年が都会へ出て売春を強いられたことを主題にした小説『ア
スファルトの花』を執筆、数章書いたところで師のハムリン・ガーランド Hamlin Garland
(34)に読んで聞かせたところ、あまりに強いショックを与えたので、執筆を中断する。
1894. ○【アメリカ】エジソン映画『ファティーマ嬢の腰振りダンス』が、わいせつとの
理由で〈おへその見える〉部分に線が入れられる。[以後、映画検閲が世界各国で行われ
るようになる。]
1894. 【事物】記念切手。従軍看護婦。人造バター。
1894. 【流行語】剃刀大臣。金鵄勲章請合い。金鵄勲章もの。日本兵。ベースボール。野
球。
- 599 -
1894. 【流行歌】『婦人従軍歌』、『ラッパの響き』
1895(明治28)
1895. 1.−【日本】博文館が、日本初の総合雑誌『太陽』を創刊する。日清戦争後の社会
変化に対応して坪谷水哉(善四郎)が主筆となり創刊される。四六倍判,本文 200 ページ,
写真版 10 ページ,定価 15 銭。[以後、
『太陽』は 1896 年から 99 年までは月 2 回刊で菊
判。1900 年から月刊に戻って菊倍判。1901 年から四六倍判に戻る。また各界の名士二百
数十名よりなる太陽名誉賛成員を掲げ,〈一に国運隆昌の反影を表示するを期し,毫も
政治主義の同異に関せず,専ら公平不偏を以て立つ,故に名誉賛成員各位が世に公にす
るを欲し玉ふ意見は《太陽》最も歓んで登載〉することを編集方針にして,大正前半期
まで総合雑誌の王者であり続ける。しかし日露戦争を前にして台頭してきた国家膨張主
義に迎合する方向がとられ,社会主義運動や大正デモクラシーに対応しきれず,『中央
公論 』
『改造』その地位を奪われ,1928 年 2 月,第 34 巻第 2 号(通算 530 冊)をもって廃
刊に追いこまれる。戦後、他誌に先駆けて全号マイクロフィルム化される。また、CD-ROM
化される。]
1895. 1.−【日本】博文館が、『少年世界』、
『文藝倶楽部』を創刊する。『少年世界』創刊
号には〈全国少年男女〉という言葉が用いられ、
「少女」の語は見られない。この頃 、
「少
年」は年少者全体を意味しており、男女の区分はされていない。
[9 月、
『少年世界』に、
初めて「少女欄」が開設され、「少女」の呼称が見られ、女の存在が意識されるように
なる 。
]
1895. 2. 1【日本】京都電気鉄道が、京都の官営鉄道七条停車場前(東洞院通塩小路)∼伏
見町下油掛(あぶらかけ)間約 6.4km で、日本最初の電気鉄道により市街路面電車の営業
を開始する。軌道は狭軌で、京都から奈良へ向かう旧大和街道の上に敷かれ、電車は土
埃をあげながら走る。初日に 2370 人が新交通機関の乗り心地を味わう。車台・発動機の
一部をアメリカから輸入し、車体は国産でまかなう。定員は 38 人。時速は約 10km 。電
車には「告知人」と呼ばれる少年が 1 人同乗し、通行人に〈電車が来まっせ〉と電車通
過の危険を知らせ、停車場に近づくと赤旗を持って飛び降りて信号手を努め、夜間は細
長い赤提灯を持ってまわりを照らしたりする。電力は琵琶湖疎水の水力で発電を行う京
都市水利事務所から供給を受けるが 、電圧が不安定で、電車はしばしば立ち往生する。[以
後、月に 2 日は琵琶湖の水藻を取る作業のため夕方まで停電となり、電車もこれに合わ
せて運休する。4.1 第 4 回内国勧業博覧会が開催され、会期中この市街電車が大いに人
気を博す。以後、市街電車が新しい市街交通機関として脚光を浴びる。1899.東京、京都、
大阪、名古屋などの各都市で馬車鉄道による市内公共交通に置き換えられ、網の目のよ
うに整備されていく。最初は電灯会社など民営企業が開拓したが、整備されるにしたが
って市当局が交通局として運営する場合が多くなる。京都電気鉄道も、京都市交通局線
となる。他都市でも導入され、都市交通の花形となっていく。]
1895. 2 . 8【日本】戦時議会に、電話民営案が提出されるが、不成立に終わる。
1895. 2.12【フランス】リヨンの写真材料商リュミエール兄弟が発明した「シネマトグラ
フ」の特許権が公布される。
1895.3.15【日本】平安遷都 1100 年を記念して、平安神宮を創建する。
- 600 -
1895. 3.22【日本】郵便条例を改正し、郵便物の種別に第五種郵便物を新設、従来第四種
として扱っていた農産物種子を第五種とする。料金は 30 匁(113g )ごと 1 銭。[1966 年、
第一種に統合される。]
1895.3.30【日本・中国】日清休戦条約調印。
1895. 3 .−【日本】佐藤儀助(のち、義亮(ぎりょう))(17 )が、作家を志し積善学舎を中退、
秋田県の角舘町を出奔し、東京・市ヶ谷の秀英舎第一工場の工員に応募して職工の仕事
につく。刷版を版盤に載せた印刷機械のロールを、人力でハンドルを回して印刷する作
業にも従事する。日給は 15 銭。そのかたわら、神楽坂の書店で毎夜、雑誌や本を立ち読
みし、文章修業に努める。[ 7 月、第一工場の青少年従業員の団体「同窓会」が、日本初
の印刷工場従業員の機関誌『反影』(菊判 40 ページ)を創刊する。佐藤は第 2 号から編集
を担当する。1896 年 7 月、新聲社を創業、雑誌『新聲』を創刊する。1904.5.5 新潮社を
創業する。]
1895. 4 . 3【日本】甲武鉄道の飯田町∼八王子間が全線開通する。
1895.4.17【日本・中国】日清講和条約調印。
1895. 4.−【日本】東京∼大阪間のモールス印字機に、音響機を併設する。印字機は、現
字機と墨汁、繰出し装置を必要とするだけでなく、受信に際して視管(視覚)によるが、
聴管(聴覚)によれば通信速度が大いに増すという理由で、一般に音響機を採用すること
となる。
1895. 5 .−【日本】交通商会が 、日本初の切手カタログ『日本郵便切手類目録 JAPANESE
POSTAGE STAMPS, CARDS, ENVELOPES, WRAPPERS AND BANDS』を発行する。四
六判、和綴じ 34 ページ、定価 25 銭。龍文切手から明治天皇銀婚式までの切手、二つ折
紅枠はがきから唐草連合外信はがきまでの全ステーショナリー、逓信省発行封緘紙まで
を採録する。切手の図版は木版が使用され、各切手の評価は記載されていない。この頃 、
日本に切手収集家はあまりおらず、もっぱら欧米の切手商相手に輸出するために作られ
る。
1895.6.11【フランス 】世界最初の本格的自動車レースが、パリ∼ボルドー間往復 1200km
で行われる。23 台が参加する。[ 6.13 ガソリン車 8 台、蒸気自動車 1 台が完走、1 ∼ 8
着をガソリン車が占める。1 着のタイムは 48 時間 45 分、平均時速 42km を記録し、ガソ
リン自動車の優秀さをアピールする。アンドレ( 42)とエドアール( 36)のミシュラン兄弟
は、世界で初めて空気タイヤを取付けた自動車でレースに出場する。しかし、22 回もパ
ンクする。11 月、日本の『東洋学芸雑誌』に「自動車」としてパリ∼ボルドー間往復自
動車レースの模様を報じる。自動車に関する日本初の記事となる。]
1895. 6.25【日本】
『東京朝日新聞』が、井上馨の帰国報道で、新聞界で初めて伝書鳩を
使用する。
1895. 6.−【イタリア】マルコーニ G. Marconi( 21)が、ヘルツが発見した電磁波に基づき
手製のコヒーラ検波器と 1.8m のアンテナにより実験を重ね、無線電信装置を発明し、90m
の距離での電波受信に成功する。[1896 年、送信距離が平地で 1.7km に達する。イタリ
ア政府はこの発明に興味を示さないので、12 月マルコーニはイギリスに渡る。]
1895. 7.10【日本】豆相人車鉄道が、日本最初の人車鉄道により小田原∼吉浜間を開業す
る。
- 601 -
1895. 7.11【フランス】改正刑法が施行される。第 479 条で、
〈占いや夢の解釈に関する
職業に従事し、新聞に広告を掲載したり、公道でビラを配布することを禁じる〉と規定
する。[以後、警察の立ち入り検査が実施され、何人かの占い師たちが業務停止に追い
込まれる。以後も占い師たちに対する需要は減らず、間もなく透視者のたぐいが勢いを
盛り返す。
]
1895. 8.28【アメリカ】ワシントン財務局の速記係ジェンキンス Fransis Jenkins と友人の
アーマット Thomas Armat が発明した活動写真「ファンタスコープ Phantascope 」の特許
が、公布される。[この年開催される綿花博覧会で、1 人 25 セントの入場料を取って興
業する。]
1895. 8.−【中国】康有為(37 )らが、日本に敗れた清朝政府が過酷な講和条件を受諾しよ
うとしているのに憤激し,運動展開の一環として、北京強学会という学会の名を借りた
政治結社と図書館の設置などを行い、雑誌出版による政治改革の必要を鼓吹する。
1895. 9.−【日本】雑誌『少年世界』(博文館)に、初めて「少女欄」が開設される。近代
少年雑誌における最初の女子専用欄で、「少年」の中から女子を浮かび上がらせる画期
的な企画となる。戦記、英雄伝、冒険小説などにより、読者の「少年」を帝国の〈剛健
雄大〉(同誌発刊の主意)な少年に設定して、女の読者の位置が改めて問題となったため
と考えられる。
1895.10. 1 【日本】野中到(29 )が、富士山頂剣ケ峰に私設の高層気象観測所を設置して気
象観測を始める。厳冬期の富士山登頂の先駆けともなる 。
[10 月中旬、妻千代子( 19 )も
観測に参加する。野中夫妻は、天気の変化は大気の上層部から及ぼされることが多いた
め、富士山頂での観測を平地での観測と対照すれば、数日後から数週間後の天気予報が
できるという信念から、石で囲っただけの仮小屋を観測所とする。12 月、夫妻は体力の
衰弱、呼吸困難に陥る。12.20 野中の相談相手、中央気象台技師和田雄治( 40)が、2 人の
警察官や強力(ごうりき)と富士山頂に登る。23 日、夫妻を救出する。以後、野中夫妻は
富士山頂に住んで宿願の達成に努めるが、果たせずに終わる。19??年、新田次郎が野中
夫妻を主人公にした小説『芙蓉の人???』を著す。]
1895.10. 6【日本】瀬木博尚(43)が、広告取扱業の博報堂を創設する。[以後、第 2 次大
戦中まで、雑誌の掲載広告や新聞の雑誌書籍広告など、主に出版広告を取り扱う。大出
版社博文館の出版広告を取り扱ったこと、
『東京朝日新聞』が 1905 年 1 月から第 1 面を
全面にわたって出版広告にあてたときその取扱いをまかされたことなどが成長の基盤と
なる。1910 年 7 月、博文館の経営していた小説・文芸ニュースなどを地方紙に配信する
内外通信を譲り受けて通信業をも兼営し、社名も内外通信社広告部博報堂と改める 。第 2
次大戦後、通信業部門を廃止し、同時に出版広告以外の分野の広告にも進出し総合的な
広告会社へと転換する。]
1895.10. 8【アメリカ】エミール・ベルリナーが、ベルリナー・グラモフォン会社を設立
する。
1895.10. −【日本】博文館が、懐中日記を発売する。
1895.11. 7【日本】関西鉄道の草津∼名古屋間が、全線開通する。
1895.11. 8 【ドイツ】レントゲン Wilhelm Conrad R ロ ntgen( 50 )が、夕暮れに大学の研究室
で、黒い紙で覆ったガラス管中に電流を流したとき、離れた机の上にある白金シアン化
- 602 -
バリウムの結晶が発光することに気付き、管から目に見えない透過性の光線が出ること
を発見する。これをX線と名付ける。[以後 、6 週間 、この新しい放射線の特性を調べる。
12.28 ビュルツブルクの物理学・医学協会の会誌『物理学・医学協会会誌』編集者あて
にその第 1 報を送る。1896 年 1 月、この“新しい光線”は、新聞報道によって世界中が
知るところとなり、社会、特に医学界に大きな衝撃を与える。1901 年、レントゲンはこ
の業績で第 1 回ノーベル物理学賞を授与される。]
1895.11.27 【スウェーデン】化学技術者・発明家・工業家ノーベル Alfred Bernhard Nobel
(62 )が、自分の遺産のほぼ全額(約 3300 万クローネ)を基金として、毎年「前年度に人類
に対して最大の貢献をした人物」に賞を授けるよう遺言をしたためる。[1896.12.10 ノー
ベル死去。以後、彼の遺言にもとづき、ノーベル財団が設立される。1901.7.1 ノーベル
賞が創設される。1901.12.10 第 1 回ノーベル賞の授賞式が、ストックホルムとクリステ
ィアニア(のち、ノルウェーのオスロ)で挙行される。]
1895.11.−【日本】逓信省が、東京市内の電話増設計画を発表する。時価 200 円以上の債
券が 150 ∼ 160 円に暴落する。
1895.12.28 【ドイツ】レントゲンが、X 線を発見したことを『物理学・医学協会会誌』の
学術論文に発表する。
1895.12.28 【フランス】リュミエール兄弟が、パリのオペラ座に近いグランカフェの地下
室「インド・サロン(インドの間)」とよばれるホールで 、
「シネマトグラフ」により、初
めて一般の観客を集め入場料をとってスクリーン上に毎秒 20 コマの動く映像を投射して
見せる。『工場の出口』、
『列車の到着』などの 10 本の短編フィルムが映写機により大き
なスクリーンに映写される。観客は 33 人。列車の到着の光景をスクリーン上で見た観客
は、その勢いに逃げ回る。[のち、この年が世界の映画元年とされる。 「シネマ」が映画
の代名詞になる。1995 年、映画百年祭がこの日を起点として開催される。]
1895.12. −【日本】逓信省が、東京∼大阪間の長距離市外通話の実験を実施する。
1895.○【日本】コレラが大流行し、死者 4 万 150 人を出す。
1895. ○【日本】岩井三郎が、東京・京橋に私立探偵事務所を開く。日本での私立探偵の
始まりといわれる。[ 1897 年 12 月、秘密探偵の新聞広告が掲載され、これが職業的探偵
の初めとも言われる。(『明治事物起源』1944)[以後、これまで探偵とよばれていた警察
関係の巡査や刑事が、しだいには探偵とよばれなくなる。]
1895. ○【日本】丸善が、はじめてウォーターマンの万年筆を輸入し販売する。[以後、
大阪の福井商店もウォーターマンをはじめペリカン、ドラゴンなど輸入万年筆を販売し、
明治末から大正にかけて舶来万年筆がもてはやされる。この当時、万年筆は輸入品しか
ない。1908 年、伊藤農夫雄が、アメリカからペン先を輸入して組み立てた「スワン」万
年筆を発売する。やがて、さらに純国産の製品も登場する。国内メーカーも試行錯誤の
末、実用的な万年筆を開発していく。]
1895.○【日本】東京市京橋区釆女町 24 番地(のち、銀座 5 丁目)の警醒社(けいせいしゃ)
が、初めて外国製を真似てスクラップ・ブックを製造し、売り出す。
1895. ○【日本】日清戦争が終結する。博文堂がコロタイプ印刷(写真製版は小川一真)の
『日清戦争写真帳』を刊行する。小川一真はこの写真帳の製作をほぼ独占し、商業的に
大きな成果を挙げる。民間人としては、伯爵亀井茲明(これあき)が従軍撮影を行い、コ
- 603 -
ロタイプ印刷による私家版写真帖『明治二十七 八年戦役写真帖』を刊行する。この頃、
白衣の天使(従軍看護婦)たちのヘアヌード写真が大量に流布される。
1895. ○【日本】この頃、電話申込者が増加し、積滞数が加入者数を上回るようになり、
開通を羨望する者が続出する。[1896 年度以後、第一次電話交換拡張計画が、総額 1280
万円、7 ヵ年継続事業として実施される。1898 年度、予算を 300 万円増額。]
1895. ○【日本】音響電信機を東京市内各局で使用を開始する。
1895.○【日本】島津源蔵が、日本で初めて、鉛蓄電池を製造する。[ 1908 年、初代社長
であった島津源蔵のイニシャル( Genzo Shimadzu)をとった商標「GS」を使用開始。1912
年、蓄電池工場(京都市新町今出川)を建設。1917.1.17 蓄電池部門を分離し、日本電池㈱
を設立。1919 年、自動車用電池の製造開始。]
1895.○【日本】大阪の荒木和一(?)がアメリカでキネトスコープを 550 円で買い、帰
国する。神戸市神港倶楽部で「活動写真」として初公開する。
1895.○【日本】(合)石杉社(せきさんしゃ)が設立される。[1900 年、安中電機製作所を
設立 。1908 年 、石杉社と阿部電線製作所が合併し、共立電機電線㈱を設立する 。1931 年 、
共立電機電線㈱と安中電機製作所の合併により安立電気㈱を設立。1985.10.1 社名をアン
リツ㈱に変更。東北アンリツ㈱を設立する。]
1895.○【ロシア 】水雷学校教官ポポフ Aleksandr Stepanovich Popov( 36)が、自作の「デ
・コヒーラ検波器」を取り入れた無線受信装置とアンテナを使って、最初の無線電報を伝
達する公開実験をペテルスブルク大学で行う。
1895.○【イタリア】第 1 回ベニス・ビエンナーレ展が開かれる。
1895. ○【フランス】パリのバーレスクで、ストリップショーが始まる。最初のショーは
「イベットのベッドルーム」と題され、ノミを探す格好をしながら、 1 枚づつ衣服を脱
いでいくものを演じる。
1895. ○【フランス】陸軍歩兵連隊の大尉ジェラールが、折り畳み自転車を開発する。[以
後、軍隊用として広く採用される。]
1895. ○【フランス】リュミエール兄弟が、ホームムービーの原点といわれる『赤ん坊の
食事』、
『金魚鉢 』
、『子供の喧嘩』、
『骨牌争ひ』などを撮影する。パテー社を設立したシ
ャルル・パテーが、リュミエール兄弟から「シネマトグラフ」の権利を買い取り、最初か
ら熱心に映画の「家庭化」を考える。メリエス Georges M ロ li ロs(34)が、リュミエール
兄弟のシネマトグラフの歴史的なプレミアを見て心うたれて、その特許を譲り受けて自
分も上映や撮影を志すが断られる。[以後、リュミエールはシネマトグラフを 100 台製造
し 100 人のカメラマンを養成し、世界各地に派遣して記録フィルムを製作、これを映写
機としてのシネマトグラフとセットにして販売する。またリュミエール兄弟が 28 ミリ、
20
ミリ、そして 1920 年に 9.5 ミリのパテーベビーの開発に成功する。]
1895. ○【フランス】画家ドガが、ヌード写真「腰掛けるヌード」を撮影する。
1895.○【イギリス】W.ポールが、
「アニマトグラフ」を公開する。
1895.○【イギリス】詩人オスカー・ ワイルド Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde( 41)が、
アルフレッド・ダグラスとの淫行を問われた“同性愛事件”で、侯爵クインズベリとの訴
訟に敗れ、2 年間の重労働の実刑に処せられる。弁護士の一人、ジャーナリストの W.T.
ステッドは、〈ワイルドらのやったようなことで投獄されるなら、イートンやハロー、ラ
- 604 -
グビー、ウィンチェスター(いずれも著名な私立校)からは驚くべき人数が刑務所入りし
なければならない〉と書く。[1897 年、出獄する。以後、フランスへ移る。1900.11.30 悲
惨のうちにパリで死去。]
1895.○【アメリカ】W. C. セービンが、音の物理特性と人間の聴感とを結びつけ、残響
理論を唱え、残響時間の重要性を指摘する。
[1900 年 、残響理論による予測方式により 、
ボストン・シンフォニーホールが完成する。その残響時間は満席時に約 2.0 秒である。以
後、音響学が画期的な発達を遂げる 。
]
1895.○【アメリカ】月刊文芸雑誌『ブックマン(The Bookman)』が、国内 19 都市の小売
店で最もよく売れた 6 冊の新刊書のリストを掲載する。
「ベストセラー( best seller( s))」
の起源とされる。[以後、比較的短期間に大量に売れた本のことを「ベストセラー」
、長
期に部数を重ねる「ロングセラー( long seller( s))」と呼び、しだいに読書界で定着して
いく。1914 年 1 月、丸善の『学鐙』誌上の広告でベストセラーが紹介される。日本では
第 2 次大戦後に定着する。
]
1895.○【アメリカ】ハースト William Randolph Hearst が、
『ニューヨーク・ジャーナル New
York Journal』紙を買収する。ピューリツァーの『ワールド』紙との間にイェロージャー
ナリズム同士の激しい競争を展開し、『ワールド』が呼び物として日曜版に 8 ページの漫
画セクションを設けてアウトコールト Richard F. Outcault の漫画『Hogan's Alley』(のち
『イェローキッド』を掲載して部数を伸ばす。黄色い服を着た子供が主人公で人気を博
す。やがて 4 ページをカラー化する。新聞漫画の初めとなる。
1895. ○【アメリカ】弁護士セルデンが、ガソリン自動車の基本にかかわる特許を取得す
る。
[以後、特許料支払いを厭う者が、やむを得ず電気自動車や蒸気自動車をつくる。1920
年代まで電気自動車は生産される。]
1895.○【アメリカ 】ニューヨークの舞台の人気俳優メイ・アーウィンとジョン・ライスが 、
初めてキネトスコープのカメラの前でキス・シーンを演じる。アーウィンとライスのキス
シーンは一人だけで覗き見るキネトスコープの興行で大人気を博す。(エドガー・モラン 、
渡辺淳・山崎正巳訳『スター』法政大学出版局)[以後、ベリーダンス(腹踊り) 、下着姿、
フレンチ・カンカンなどを撮影したフィルムが作られ、男だけの客の間でピープショーが
人気を集める。
]
1895. 【流行語】石ころ缶詰。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。
1895. 【流行歌】『勇敢なる水兵』
『雪の進軍』
1896(明治29)
1896. 1.−【世界】レントゲンが昨年末発見した“新しい光線”(X線)が、新聞報道によ
って世界中に報道される。社会、特に医学界に大きな衝撃を与える。[この年、1 年間で
千数百件の論文が医学関係から刊行される。]
1896. 1.−【日本】東京猟具館(一説に、十文字商会)経営の十文字信介が、ドイツのヒル
デブランド・オルフミルレル製の石油発動自転車(オートバイ)を 500 円で購入、初めて
輸入し、宮城(皇居)前で公開試乗する。新聞は「石油発動自転車」とか「一人乗の汽車」
の名で報じる。
1896. 1.−【フランス】ベクレル Antoine Henri Becquerel( 44 )が、X線発見の知らせを受
- 605 -
けると,X線管中で陰極線のあたる蛍光壁からX線が発生することに注目し,ある種の
蛍光物質からは同様な放射線が放出されているのではないかと考える。そしてリン光を
発するウラン塩を使用した実験から,ウラン元素そのものに由来すると考えられる新種
の放射線(ベクレル線と命名される)を発見、自然放射能の存在を明らかにする。[1903
年、自然放射能の発見に対してノーベル物理学賞が授与される。]
1896. 1.−【アメリカ】ハーストの『ニューヨーク・ジャーナル』紙がピューリツァーの
『ワールド』紙日曜版のほとんど全部のスタッフを引き抜く。直ちにピューリツァーが
買い戻すが、ハーストがより高給で誘い、24 時間で取り戻す。[この秋、『ニューヨーク
・ジャーナル』紙に全 8 ページの漫画セクション「American Humorist 」を出し、アウトコ
ールトの漫画『イェローキッド』が再登場する。対抗した『ワールド』紙は、別の漫画
家ラックス George B. Luks を雇って同名の漫画『イェローキッド』を描かせたので、黄
色い服の人気キャラクターが 2 つの新聞で宣伝され、大衆紙のシンボルと化す。これを
ウォードマン Ervin Wardman が「イェロープレス」と呼び、
『サン』紙のダナらが「イェ
ロージャーナリズム」と名づけて定着させる。]
1896. 1.−【アメリカ】エジソンが、ナショナル・フォノグラフ会社を設立する。[この
年、ホーム型蓄音機を 40 ドルで発売する。1897 年、エジソン スタンダード型を 20 ド
ルで発売、以後 30 年間販売する最大のヒット商品となる。]
1896. 2. 8【アメリカ】エジソンが、人間の脳が動いている状態のX線写真を制作中であ
る、と発表する。実態とは関係なく、他者の動きを牽制するためである。
1896. 2.12【中国】東方通信の創設者宗方小太郎が、西郷従道や海軍司令部に力を借りて
資金 1000 円を集め、経営不振に陥った『漢報』を姚文藻から買収して、漢口で発行を開
始する。中国大陸で日本人経営の初の新聞となる。
1896. 2.−【日本】帝国大学文科大学教授重野安繹 (しげのやすつぐ) (69)と貴族院議員
外山正一 (とやままさかず)(48)が、「帝国図書館ヲ設立スル建議案」を貴族院に提出す
る。
[1897.4.27 帝国図書館官制公布。]
1896. 3.12【日本】熱海∼小田原間に、3 人の男が交替しながら客車を押して走る 8 人乗
り人車鉄道が開通する。下り坂では勢いが余って脱線するなどしたが、所要時間 3 時間、
料金は上等で 1 円とあって、好評を得る。[12 月、熱海温泉が〈あたみに冬なし〉と宣
伝し、浴客が増え、人車鉄道も好調に営業する。
]
1896. 3.15 【日本】日本郵船が、ヨーロッパ定期航路の運行を開始し、第 1 船土佐丸が横
浜を出港する。
1896. 3.24【ロシア 】ポポフ A.S.Popov (37 )が、ペテルスブルグ大学の構内で最初の電信
局を創設し、「 Henri Herz 」というモールス符号を送信し、250m 離れた場所で受信に成功
する。これにより、ロシアでは、ポポフがラジオの発明者とされる。
1896. 3.−【日本】第一次電話拡張計画案が、第 9 通常議会で可決成立する。[以後、清
国からの賠償金の一部を充当して実施に踏み切る。]
1896. 3.−【日本】山川健次郎、水野敏之丞らが、それぞれX線装置をつくり、写真撮影
に成功したと『東洋学芸雑誌』174 号に発表する。
1896. 3.−【イギリス】R.W.ポールが、『ドーバーの荒海』と題した自作の映画フィルム
でイギリス最初の興行上映を行う。
- 606 -
1896. 4 . 6【ギリシア 】フランスの男爵クーベルタン Pierre de Coubertin( 33 )の創意により、
アテネで近代オリンピック第 1 回大会が開催される。参加は 13 ヵ国、男のみ 311 人。ヨ
ーロッパ以外ではアメリカ、チリ、オーストラリアだけが参加し、アジア、アフリカか
らの参加はない。競技は 8 競技 43 種目が実施される。オリンピック開催の第一義は、青
少年の体育向上とともに、性的早熟を防止しようという試みでもあった。この頃、スポ
ーツは性的欲望の減退の妙薬とされていた。[∼ 4.15。以後、4 年ごとに世界各地で開催
される。]
1896. 4. 7【日本】フランス人ダビット・ブルウルが横浜に創立した貿易会社ブルウル商
会が、数年前に引退して本国に帰ったブルウルの 2 人の息子ポールとアンリが引継ぎ、
社名をブルウル兄弟商会とする。[1901.3.26 アメリカ製の蒸気自動車ナイアガラを輸入
し、販売目的で輸入された日本初の自動車となる。]
1896. 4.10【日本】逓信省が、郵便物の配達中に積雪・川止めなどで通行不能で宿泊を余
儀なくされた集配人に、1 泊 25 銭を支給することとする。
1896. 4.12【日本】東京の馬車鉄道の利用者が増加する。この日は日曜日で、9 万 2488
人を記録する。[8.1 停車場を定める。ただし飛乗り・飛降りは自由。]
1896. 4.23【アメリカ】エジソンが、写真家アーマット Thomas Armat が考案した、キネ
トスコープ用の動画フィルムをスクリーンに大きく映写する方式に、「ヴァイタスコー
プ(Vitascope )」の名を冠してニューヨークのコスター・アンド・バイアル・ミュージッ
ク・ホール(Koster & Bial's Music Hall)で、夜、大々的に興行する。新聞はこの〈拡大化
されたキネトスコープ〉をエジソンの最新の勝利と呼んで大々的に騒ぎ立てるが、エジ
ソン自身はこの頃下火になりかけていたキネトスコープに投資した 2 万 4118 ドルを回収
するために自分の名まえを貸しただけであった。ヴァイタスコープの上映は、エジソン
が自らのキネトスコープ方式をやめてスクリーン投影方式に追従したという意味がある。
[のち、同ホールのあった場所に建てられたメーシーズ・デパートの 34 丁目に面した壁
面に 、
〈Macy's〉という店名のプレートの上に〈Here Motion Picture Began (映画発祥の地)〉
と書かかれたプレートが掲げられる。1897 年、エジソンは自分の映写装置を考案して同
じく「バイタスコープ」の名で特許を取る。エジソンの関心は、写真機や映写機の技術
改良と製作という仕事だけに限られていて、活動写真を芸術の形にすることは全然考え
てもみない。]
1896. 4.−【スウェーデン】物理化学者・ストックホルム工科大学学長アレニウス Svante
August Arrhenius( 37 )が 、
『ロンドン・エディンバラ・ダブリン・フィロソフィカル・マ
ガジン』4 月号に、
〈人間の活動は空中に炭素を拡散させており、その影響により地球は
温暖になる〉と予言する。[ 1903 年 、
「電離説による化学の進歩への重大な貢献」に対し
てノーベル化学賞が授与される。]
1896. 5 . 1【日本】大阪商船㈱が、台湾航路を開業する。
1896. 5. 6【アメリカ】天文学者サミュエル・ラングリー(62 )が、蒸気機関を動力とする
模型飛行機を約 3000ft (約 900m)飛行させる。世界最初の動力による飛行機となる。
1896.5.14【日本】北海道鉄道敷設法公布。
1896. 6 . 2【日本】東洋汽船㈱設立。
1896. 6. 3【ロシア 】ロシア・中国間に李鴻章・ロバノフ密約が結ばれる。日本の領土
- 607 -
侵略の場合の相互援助を約束し、ロシアは満州を横断してチタ∼ウラジオストクを直線
的に結ぶ東清鉄道の敷設権を獲得する。[1903.7.1 全線での正式営業が始まる。以後、こ
れによってロシアが満州に進出する。]
1896.6.28【アメリカ】ニューオリンズで最初の映画が 、ブレークモア Allen B. Blakemore
によって彼のヴァイタスコープ( vitascope)で、湖畔に設けられた野外スクリーンに上映
される。ブレークモアは、ニューオリンズ市・湖鉄道の電気技師で、電車の架線からの
500V の電流を水抵抗器により減圧してヴァイタスコープを操作する。
1896. 6 .−【日本】電話市価が高騰し、400 円くらいになり、売買業者が現れる。
1896. 6.−【イギリス】イタリアのマルコーニ( 22)が、イタリア政府が有線電信や海底ケ
ーブルにより一応通信網が確保されていることから、未知数のマルコーニの無線電信に
消極的な態度をしめしたので、昨年発明した無線電信装置「ワイヤレス・テレグラフ」を
携えてイギリスに渡る。マルコーニの母も、アイルランドの醸造家の娘で、イギリス電
信局技師長プリースとも知己であったので、マルコーニと共にロンドンに行き、イギリ
ス政府の支援を受けて特許を申請する。[12 月、公開実験を行い、9 マイル(約 14km)隔
てた地点間の無線送受信に成功する 。
]
1896. 7. 1【日本】小包郵便法施行細則を改正し、小包の表面記載事項、転送処理手続な
どを定める。小包の容積は、各辺 2 尺(61cm)以内のところを、幅・厚さが各 5 寸(7.5cm )
以内の場合長さ 3 尺(約 90cm )までを認める。傘や織物などの小包郵送が便利になる。地
帯別を 10 里まで、100 里まで、100 里以外の 3 段階とする。
[この年、小包の取扱局が前
年度に比べ 1502 ヵ所増えて 2281 ヵ所となり、取扱数も前年比 62 %増の 274 万個とな
る。
]
1896.7.10【日本】佐藤儀助(のち、義亮)(18)が 、秀英舎の印刷工場に勤務のかたわら 、6
畳一間を新声社として、月刊投書誌『新聲』を創刊する。平福百穂が裏表紙に描いた絵
と、中村不折の「天陽」の絵が日本初のコマ絵(カット)となる。創刊号の大半の文章は
佐藤が筆名をいくつも使って書いたものである。[以後、佐藤自身が文芸時評を連載する 。
熱心な投書家に支持され、800 部を広告もしないで売り切る。1896 年 2 月、秀英舎を辞
めて、神田一ツ橋通に新聲社の社屋を構える。以後、田山花袋(かたい)ら自然主義派の
文芸書を出版するなど、『新聲』91 冊と図書 130 余冊を出版する。1903 年、地方書店へ
の売掛金の回収に失敗し、経営不振で新聲社を人手に渡す。1904.5.5 佐藤義亮が再度こ
れを引き継ぎ、新潮社を創業する。]
1896.7.26【日本】日本車両製造㈱設立。
1896. 7.26【アメリカ】アメリカ最初の常設映画館、ヴァイタスコープホール(Vitascope
Hall)が、ニューオリンズの Exchange Alley の一角 623 Canal Street に開設される。客席は
400 。入場料 10 セント。客はさらに 10 セント払うと映写機を見学することができ、さら
に 10 セ ン ト で 使 い 古 し の フ ィ ル ム の 1 コ マ を 買 う こ と も で き る 。
(http://clarionherald.org/20000316/stall.htm)
1896. 7.−【日本】逓信省が、従来のガワー-ベル(ガワーベル)電話機を廃して、デルビ
ル磁石式送話機とソリッドバック受話機の採用を決定する。ガワー-ベル電話機の特徴で
ある炭素棒を炭素粒に替えて感度を高めるとともに、送話回路に誘導輪線を挿入して通
話電流の増幅を図る。卓上式と壁掛式とがあり、壁掛け電話機は、2 つの目のように見
- 608 -
えるベルととんがった口のように見える送話器が、いかにも相手がそこにいるような、
ユーモラスなデザインである。
1896. 7.−【日本】横浜の貿易商 F.W ホーン商会が、日本で初めて蝋管式蓄音機を輸入
する 。
[1907.10.31.ホーン商会が日米蓄音機製造㈱を設立する。
]
1896. 8. 1【日本】日本郵船㈱が、日本とアメリカを結ぶ最初の定期航路として北米航路
を開設し、第 1 船三池丸が神戸港を出港する。運賃は上等 240 円、下等 80 円。
[以後、
横浜、ホノルルに寄港。8.31 シアトルに到着。シアトル市は、21 発の祝砲を轟かせ、パ
レードを行って日米定期航路の開設を歓迎する。
]
1896. 8. 9 【ドイツ】機械製作者リリエンタール Otto Lilienthal( 48)が、標準型単葉グライ
ダで滑空の練習中、突風のため墜落し、重傷を負う 。[翌日 、ベルリンの病院で死亡する。
アメリカの自転車製作業のライト兄弟が、リリエンタールの墜死を知り、自転車事業を
売り払い、飛行機の製作に着手する。]
1896. 8.−【日本】電話機の市価が騰貴する。小学校教員内海大充( 21)が、
「電話売買」
の新商売を編みだし、新橋∼浅草間を走る鉄道馬車に〈電話の譲渡、譲渡の周旋〉と美
濃紙に大書した車内吊り広告を出す。[以後、事業は大繁盛し、株式取引所の真ん前、鎧
橋際に内海電話店を開業する。これを見て東京市内に続々と電話店が誕生する。電話の
取引価格は瞬く間に最低でも 100 円、最高 400 円にまで暴騰する。]
1896. 9. 1【日本】官設鉄道が、東海道線新橋∼神戸間に急行列車の運転を開始する。急
行料金は不要で、所要時間は約 4 時間短縮されて 17 時間 22 分になる。
1896. 9. 3【日本】第二種郵便物(葉書)の利用が増大したため、葉書の物数計算を重量換
算することとし、52 匁(195g)を 100 枚として秤量計算することにする。
1896.9.18【日本・イギリス】日英小包郵便交換約定公布。
[10.1 施行。
]
1896.9.21【日本】代金引換郵便規則を制定する。
1896.11. 上【日本】神戸のリネル商会が、エジソン製作になるのぞき眼鏡式のキネトスコ
ープ 2 台、フィルム 10 種をアメリカから輸入する。[11.17 神戸の鉄砲商高橋信治(45 )
が購入し、神戸で公開し、日本における映画の初公開となる。覗き穴式で 1 分くらいの
活動写真を見せる。折から神戸に滞在していた小松宮に見せる。この時、燕尾服を着用
した上田恒次郎(芸名上田布袋軒)が解説する。(以後、燕尾服が弁士の服装として定着す
る。) 19 日、『神戸又新日報』が〈11 月 17 日小松宮活動写真を御覧〉と報じる 。
「活動
写真」の語が始めて公に使われる。3 日後、兵庫県知事別邸に滞在している有栖川宮の
大妃殿下にも見せて、話題を集める。]
1896.11.11 【日本】東京電話交換局浪花町分局が設置される。
1896.11.21 【日本】関西鉄道が、客車の内側塗装を等級別に上等は白、中等は青、下等は
赤と塗り分ける。客車等級別塗装の始め。
1896.11.25 【日本】高橋信治が、神戸神港倶楽部でキネトスコープの本格的な公開興行を
始める。広告に「電気作用写真活動機械」の語を用い 、興業は 1 日 1 種のフィルムで、『西
洋人スペンセール銃を以て射撃の図 』
『旅館でのトランプ遊興の図 』
『京都祇園新地芸妓
三人晒布舞の図』
『悪徒死刑の図』など 10 種で 、映写時間は 1 ∼ 2 分 。観覧料は 20 銭∼ 30
銭と高額をとる。[以後、大阪・神戸・東京・函館その他で興行し、人気を呼ぶ。新聞は
「電気作用写真活動機械」の語は長いので 、
「活動写真」に短縮して用いる。活動写真
- 609 -
の公開の手配はすべて興行師が行い、客引きの口上言(こうじょういい)がつく。これが
活弁の元祖となる。やがて、上映前に映画の原理や作品の解説などをする前説(まえせつ)
と、上映中にしゃべる中説(なかせつ)とが登場する。 1920 年代に入って前説は廃止にな
り、また「活弁」と呼ばれるようになる。1956 年、初公開から 60 周年を記念して、映
画産業団体連合会が、区切りのよい 12 月 1 日を「映画の日」と制定する。また、全国興
行環境衛生同業組合連合会が、
「映画の日」の 12 月 1 日と、3 月 1 日、6 月 1 日、9 月 1
日を「映画ファン感謝デー」に制定する。](★ NHK は、12 月 1 日公開との異説ありと
いう 。
『記念日の事典』も 12 月 1 日とするが、誤り。)
1896.11. −【日本】白熱ガス灯の広告に 、
〈一組三円五十銭、光力七五灯〉と宣伝する。
1896.12. 5【アメリカ】セントルイスに、電話交換会社「キンローク・エクスチェンジ社 」
が設立される 。
[以後、州内や他州各地にある他社の電話局との接続を拡大、セントル
イスでは同社の電話普及率が 90 %に達する。1900 年、キンローク電話と接続できる電
話局が 7000 局に達する。1905 年、1 万 8000 局になる。1907 年、経営がいったん悪化す
る。1909 年、3 万 7708 局になり、総売上が約 133 万ドル、従業員 819 人になる。
]
1896.12.27 【日本】横浜のブルウル兄弟商会が、新聞に蓄音器の入荷広告を出す。
1896.12. −【日本】山陽鉄道が、主要駅に荷運び夫を配置する。のちの「赤帽」の先駆け
となる。[1897.11. 逓信省が、官設鉄道の主要駅構内で手荷物運搬夫の営業を許可する。
以後、東京駅で登場し、目立ちやすい赤い鳥打ち帽(ハンティング)をかぶっているので
「赤帽」と呼ばれる。]
1896.12.−【イギリス】イタリアのマルコーニ( 22)が、イギリス電気学会の後援を得て、
イギリス陸海軍の関係者も見守るなか公開実験が行われ、9 マイル(約 14km)隔てた地点
間の無線送受信に成功する。
[1897.1 世界各地の新聞が報道する。これに自信を得て、
ロンドンに無線電信会社を設立する。以後、電話も私的な有線通信用具から無線通信へ
の道が開け、やがてラジオとして浮上する。]
1896. 末 【フランス】リュミエール兄弟が、最初の常設映画館「シネマトグラフ・リュ
ミエール」を、パリのサン・ドニ大通りに開設する。[以後、シネマトグラフの常打ち小
屋として、長年月にわたりパリ市民に映画の娯楽を提供しつづける。]
1896. ○【日本】精美堂が、新聞用木版の製作を目的に創業する。サクラなどの木に字や
絵を直接彫りつけて、木の活字・刷版を作る。[以後、写真植字機の登場とともに、写植
の業務を主とするようになる。]
1896. ○【日本】渡辺修二郎『自転車術』(少年園)刊。
1896. ○【日本】白熱電球国産化を目指す合資会社白熱社が、本格的な電球の生産・販売
を図るため、白熱社を吸収する形で東京白熱電燈球製造㈱が設立される。社長は三吉正
一。[以後、製品の価格は輸入品よりも高く、品質も一様でない。[ 1899 年、東京電気と
改称する。]
1896. ○【日本】この年度、京都、名古屋に電話交換局が設置される。
1896. ○【日本】電信協会主催による最初の電信競技会が開催される。
1896. ○【日本】マルコーニの無線電信装置の公開実験に関するイギリス電気学会会長プ
リースの講演を掲載した雑誌『エレクトリシャン』が、日本に到着する。この記事を見
た逓信省管船局航路標識所長石橋絢彦が、無線電信の灯台通信への利用可能性について
- 610 -
逓信省電気試験所の浅野応輔の相談する。浅野は技師松代松之助に調査を命じ、松野は
『ヘルツ波』という本を参考にして研究に着手する。[ 1897 年、逓信省電気試験所と軍
部が、無線電信の研究を開始する。]
1896.○【日本】島津製作所の島津源蔵(二代目)(27 )が、第三高等学校の村岡 の指導に
より自作の感応起電機を使って日本初のX線撮影に成功する。[1908 年、日本最初の医
療用レントゲン装置を完成させ、千葉の陸軍病院に納入する。]
1896. ○【日本】二葉亭四迷が、ロシアのウラジオストクに滞在中に、同地のエスペラン
ト語協会で学び、帰国してエスペラント入門書『世界語』と『世界語読本』(彩雲閣)を
刊行する。[1919 年、日本エスペラント学会設立。]
1896. ○【日本】大審院判決で、娼妓の廃業が認められる。
1896. ○【中国】蔡錫勇が、中国語の最初の速記法「伝音快字」を考案する。蔡はアメリ
カでショートハンドという快速筆記法を知り、知識人がその方法で知的活動に役立てた
り、演説を筆記する職業家がいること西洋で行われていることに深い感動を覚えて、帰
国後〈掃除文盲(そうじょもんもう)〉を目的として、漢字に代わる能率的な表音文字と
して速記符号を考案する。母音 32 と子音 24 の符号をつくり、計 56 の符号の組み合わせ
で 411 あるという北京語の音節のほとんどを表音的に綴ることができるようになる。
[以
後、錫勇の次男蔡(王+偉−人)(い)が北京訳学館で父の符号を操り、評判になる。これ
を知った清国の資政院(国会)章程主任汪栄宝が、錫勇の長男蔡璋を召喚して速記法を考
案させ、1912 年 、
「中国速記学 」として再編成し 、初めて資政院議事の速記に使用され、
中国の速記法が実用化される。1910.2.5 清国政府が資政院に中国速記学堂を開設する。
また、この「伝音快字」の系統を引き継いで力捷三の「(門+虫)(びん)腔(こう)快字」
、
王炳燿の「ピン音(ピンイン)字譜」が公刊される。また 、系統不詳の沈学の「天下公字」
が発表される。
]
1896. ○【ハンガリー】万国電信連合会議が、ブダペストで開催される。各国の国際電話
取次業務が増加したので、1 通話 3 分として国際電話取次料金を算出することを決定す
る。
1896. ○【ハンガリー】ブダペストの地下鉄で、世界で初めて電車が使用される。
1896. ○【ベルギー】フェルナンド・クノップフが「芸術(または愛撫)」を制作する。
1896.○【フランス】メリエス Georges M ロ li ロs(35)が、先年リュミエール兄弟の〈シネ
マトグラフ〉の歴史的なプレミアを見て心うたれ、その特許を譲り受けようとして断ら
れ、ロンドンでロバート・W.ポール( 27 )の「バイオスコープ」映写機とエジソンの〈キ
ネトスコープ〉作品を買い入れて映画の上映を始める。さらに〈バイオスコープ〉のメ
カニズムをもとにしたカメラを作り ,
「スター・フィルム社」を設立して実写映画の製作
を始める。[ 1897 年、パリ郊外にヨーロッパで最初の撮影所を作る。自宅の庭にガラス
張りのステージを建てて、さまざまなトリックをくふうして奇抜な映画をつくる。1902
年、その代表作『月世界旅行』をつくる。リュミエールは映画を現実の記録再現の手段
と考えたのに対し、メリエスは映画を現実には見られない夢や空想を描いてみせるもの
と考える。これらは映画が本来備えている 2 つの機能を象徴するもので、ともに映画の
歴史を通じて重要な役割を演じることになる。]
1896.○【フランス】物理学者フランソワ・デュッソーが、 2 年前に作った電話の録音装置
- 611 -
で、音声を電磁石で振動する針で円筒形の磁性体に記録する。
1896. ○【フランス・イギリス】イギリスとフランスで、従来の手染色に代わり、型紙を
使って映画フィルムの 1 コマずつを染色する型紙染色法 stencil process が考案される。
[1910 年ころまで各国で広く使われる。日本では「極彩色映画」として公開される。]
1896.○【イギリス】大衆紙『デーリー・メール( Daily Mail)』が、ノースクリッフにより
創刊され、創刊号は 40 万部近く売れる。8 ページ建てで、紙代は破格の 1/2 ペニー。1
面は広告にあてる伝統の型を守りながら、要約した簡潔なニュース記事を多くもり、お
もしろい読物を入れる。[以後、保守派はオフィスボーイによって書かれたオフィスボー
イのための新聞と酷評するが、世紀末急速に増えつつあった新中間層を基軸とする新読
者層の要求にこたえる大衆朝刊紙となる。発行部数は 3 年後に 50 万台、4 年後には 70
万台と急上昇する。]
1896. ○【イギリス】ナンシー・ナイトが、X線の効果を描いた漫画を『パンチ』に登場
させ、ドアの外で鍵穴から部屋の中を窺っている女の姿が丸見えになってしまっている
事態を描く。
1896.○【イギリス】粉屋アーノルド・ミラーが、制限速度 2 マイル(3.2km/h )の住宅地域
で蒸気自動車に乗って 13km/h を出して告訴される。[のちに、ミラーはイギリス初のガ
ソリン・エンジン車を製作する。]
1896.○【イギリス 】1865 年以来蒸気自動車の走行速度を制限してきた赤旗法 Red Flag act
が廃止される 。
[この年、これを記念して、ロンドン∼ブライトン間の祝賀ラリーが開
催される。のちに、クラシックカーラリーとして有名なロンドン・ブライトンベテランカ
ーランとなる。
]
1896. ○【イギリス】ビアズリーが、ロシア系ユダヤ人詩人ラファエロヴィッチの詩集の
ために青年裸像の挿扉絵を描いたが、出版者に掲載を拒否される。
1896. ○【アメリカ】農村部への郵便物は、特別料金なしで配達することとなる。
1896.○【アメリカ】南部の起業家アークス(オックス)Adolph S.Och が、ニューヨークの
地方紙『ニューヨーク・タイムズ(The NewYorkTimes)』を 7 万 5000 ドルで買収する 。
[以
後、
〈印刷に値するすべてのニュース〉をスローガンに、取材網を拡大整備する 。
〈教養〉
ある読者層対象に日曜版に力を入れ、大衆紙の手法をとり入れながら 、
〈上品〉に記事
を提示するスタイルをつくり上げ、クォリティーペーパーとしての地位を築いていく。
1900 年、部数は 8 万台に伸び、正確な情報量の多い高級紙として定着する。第1次大戦
にはその取材網を動員して国際社会におけるアメリカの威信の高まりとともに、国際的
に注目される新聞となる。
]
1896. ○【アメリカ】メリーランド州が、ジャーナリストなどが職業的に知り得たことや
情報源について他に開陳しなくてもよい法律特権を定めるシールド法(shield law)を初め
て制定する。
[以後、1991 年までに 35 州が同様の法律をつくる。
]
1896.○【アメリカ】フォード Henry Ford( 33 )が、自宅裏の物置で「馬のいらない馬車」
の製作に専念し、自転車の車輪を流用し、ガソリン自動車の原形を完成させる。自宅付
近で試乗を行う。[1903 年、ミシガン州ランシングにフォード・モーター社を設立する。
1908 年、T 型フォードを発売する。]
1896. ○【アメリカ】エジソンが蛍光灯を発明する。
- 612 -
1896.○【アメリカ】エジソンが、一度に 1 人しか見られぬのぞき(眼鏡)式の「キネトス
コープ」を改良し、
「バイタスコープ」を発表する。
1896.○【アメリカ】ホレリス Herman Hollerith( 36 )が、パンチカード・システム(PCS)
統計機械の製造会社タブレーティング・マシン社を設立する。
[1911 年、コンピューテ
ィング・タビュレーティング・レコーディング社( CTR)となる。以後、いくつかの他の会
社と合併し、 1924 年にインターナショナル・ビジネス・マシンズ・コーポレーション
(International Business Machines Corporetion; IBM)となり、電子計算機が発明されるまで 、
パンチカードシステムを主製品とする。このため、80 欄カードを「IBM カード」
、12 段
ある穿孔位置を用いて英字、数字および特殊記号を表現するためのコードを「ホレリス
コード」と呼ばれるようになる。IBM 社は、リレー式の集計製表機、照合機、乗算機な
ど数多くの事務用計算機を製作し、のちの事務用電子計算機発達の基礎を築く。]
1896. ○【アメリカ】キネトスコープにより、史上初のキスシーンを入れたサイレント短
編映画『KISS −女の親切、またはメイ・アーヴィンとジョン・ C・ライスの接吻 His Kind of
Women』が公開される。エジソンのスタジオで製作、公園のベンチで 2 分間にわたるキ
スを演じたもので、人は初めて他人のキス・愛情場面をクローズアップでしみじみ鑑賞
可能となる。1 人用の小さな覗き映画だが、大評判を呼ぶ。教会関係からは激しい非難
を浴びせられる。
1896.○【アメリカ】アダルトループフィルムが登場する。400 フィートのループフィル
ムに、女のヌードや性的シーンを写し、1 回 1 セントで見せる。
1896. 【流行歌】『川中島』、
『漁業の歌 』
、
『四条畷』、
『夏は来ぬ』
1896. 【外国本】アルフレッド・ジャリ『ユビュ王 』
、ポール・ヴァレリー『テスト氏』
1897(明治30)
1897. 1. 1【日本】尾崎紅葉『金色夜叉』が、『読売新聞』に連載を始める。
[以後、断続
的に連載される。1902.5.11 未完のまま終わる。
]
1897. 1. 9 【日本】京都モスリン紡績会社の社長・稲畑勝太郎( 35)が、フランスのリュミ
エールのシネマトグラフを携え、映写技師・カメラマンのコンスタン・ジレル(23)を連れ
て、神戸港へ帰国する。ジレルは、1 日 3 円の高給で、京都に桂離宮ばりの邸を提供さ
れる。[年末にフランスに帰国するまでに、日本人や日本の風物、とりわけ芸者・舞妓を
好んで撮影する。)
1897. 1.29 【日本】劇作家福地桜痴(56)が、キネマ、シネマと呼ばれていたキネマトグラ
フを「活動写真」と名付ける。(生活情報研究会『記念日の本』による)
1897. 1.−【世界】イタリアのマルコーニ( 23)が、前年 12 月イギリスで行った無線電信
装置の公開実験の成功に関する記事を世界各地の新聞が報道する。海底電線の事業者か
ら激しい反対の声が出るが、船舶の乗務員は喜ぶ。[ 6 月、実験を後援したイギリス電気
学会会長プリースが、ロンドン王立研究所でマルコーニの電信装置と実験結果に関する
講演を行う。講演記録が雑誌『エレクトリシャン』に掲載される。]
1897. 1.−【日本】正岡子規の援助により、柳原極堂(きよくどう)が、愛媛県松山市で日
本派初の俳句雑誌『ほとゝぎす』を創刊する。[1898.8 2 0 号で松山版は休刊する。10 月、
発行所を東京に移して高浜虚子が編集発行を担当。子規一派の機関誌として内藤鳴雪(め
- 613 -
いせつ)、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)、石井露月(ろげつ)、佐藤紅緑(こうろく)
らを擁し、新聞『日本』の子規選俳句欄と並び、日本派興隆の拠点となる。のち 、
『ホ
トトギス』と改題。2005.4.9 創刊から 108 年 4 カ月かけて、4 月号で 1300 号を迎え、東
京・高輪のホテルでその祝賀会が開かれる。]
1897. 1.−【日本】博文館が『一葉全集』を刊行する。1984 年に北村透谷の全集のよう
な『透谷集』が出ていたが、作家の個人名を冠した最初の「全集」とされる。
1897. 2.15【日本】稲畑勝太郎が、大阪南地演芸場でシネマトグラフを「自動写真」の名
で、白幕上に上映して一般公開する。真の活動写真の日本初公開となる。上映プログラ
ムは、
『プレイスに到着する列車』、『巴里のダンス』、『海の小舟』、『カルタ遊びに水
かけ』、『歩兵隊の行進』、『屠殺場に入る羊』、『猫の食事』、『樽の中のボクサー』な
どで 、各映写時間は 2 ∼ 3 分 。これを 10 種類ほど組み合わせて約 1 時間を 1 興行とし 、1
日 8 興行を行う。連日大入り満員の大当たりをする。[以後、日本の映画元年とされる。
これにより前年公開されたキネトスコープはさびれるが、遊園地などでの「一銭活動」
として生き延びる。]
1897. 2.22【日本】荒木和一が輸入したヴァイタスコープ(Vitascope)が、初めて大阪の新
町演舞場で興行される。日本未曾有蓄動射影会の名で 、「為三丸遭難者遺族義捐」と銘
打ってこれを遺族義捐の寄付興行に提供し、金儲けのためでないことを強調する 。
『大
阪朝日新聞』の広告に〈此ヴァイタスコープ機なるものは活動写真を十有余尺に映出し、
ニューヨーク市の人馬絡繹、出水の惨状、波浪の撃破、等をして実際面のあたりに観覧
せしむ〉と書く。[∼ 2.24。3.22 道頓堀の朝日座で興行する。ここでは蓄音器と併せ映
写し、『大阪朝日新聞』は〈加ふるに傍らに発音器を備へおきて、写真中の人物が活動
を見せるのみならず、其の談話をさへ聴かしむる装置なりと云へり〉と書く。]
1897. 3. 6【日本】ヴァイタスコープが、
「電気作用活動大写真」と銘打って東京・神田
の錦輝館で興行される。当初は、歌舞伎座で市川団十郎らの狂言の打ち出し後の夜興行
にしようとしたが、舶来物嫌いの団十郎は、これに反対して〈どうしてもやるというな
ら舞台を鉋(かんな)で削り直しておけ〉と怒鳴ったため、歌舞伎座興行は中止となる。
入場料は特別 1 円 、一等 50 銭、二等 30 銭、三等 20 銭で 、
〈割引切符進呈〉と広告する。
[以後、連日満員で、観衆は拍手喝采、なかにはスクリーンの裏に廻り、何があるのか確
かめようとする者もある。]
1897. 3. 8【日本】石川徳松が、勤めていた砲兵工廠を退職して自宅で鋼ペン先の国産化
の研究に着手、石川ペン先製作所を創業する。[ 1902 年、全くの独創により日本最初の
国産鋼ペン先の製造に成功 、
「アンソン・イリス」の名称で売り出す。1914 年、ペン先
の商品名をゼブラ( ZEBRA)にするとともに、ゼブラのマークを採用する。創業者石川徳
松は、アフリカの原野に棲息する温和な動物である縞馬(zebra)のように、全社員が堅く
団結し、文化の向上、発展にかかせない筆記具の製造に邁進することを願って、ゼブラ
を商標と定めた。また、縞馬は 、別の文字表記では「斑馬 」と書き表すこともあり、
「斑」
という文字は文と王との組み合わせからなり、文具界に身を置く会社にとってふさわし
い文字であるとの認識にたって採用した。さらに、商標の縞馬がうしろをむいているの
は、 温故知新を意味し、人の和の力と温故知新の精神がゼブラを支える 2 本の柱である
とする。1959 年、保存性のよいボールペンインクの開発に成功。 ボールペンの生産を
- 614 -
開始、発売する。1963 年、社名をゼブラ㈱に変更。2003.5.8 デジタル文具事業の拠点と
してゼブラウィング㈱を設立。]
1897.3.22【日本】英字新聞『ジャパン・タイムス( The Japan Times)』が創刊される。
1897. 3.−【日本】丸善㈱が、月刊読書雑誌『學の燈(まなびのともしび)』を創刊する。
菊判 30 ページ。日本最初の出版 PR 誌となる。[以後、新着洋書類の案内を兼ねた評論
随筆雑誌として評判を得る。第 3 号から『和洋書籍及文房具時価月報』(1882 創刊)を合
併,巻末に新着洋書目録を付す。1901 年、内田魯庵(ろあん)が編集者に就任し、モーパ
ッサンなどの翻訳や書物随筆など多数執筆する。モームなど外国文学書の紹介にも誌面
を割いて、外国文学移入の窓口の役割も果たす。1902 年、
『学灯』と改題。1903 年『学
鐙』
(ときに『学燈』とも表記)に改める。1923.8 関東大震災で休刊。1924.6 復刊。1944
年、第 2 次世界大戦のため休刊。1951 年、復刊。]
1897. 3 . −【日本】シネマトグラフが横浜で上映される。
1897. 4 . 9 【アメリカ】日本移民が、ホノルルで 680 人中 560 人が上陸を拒否される。
1897. 4.19 【アメリカ】第 1 回ボストン・マラソンが開催される。1896 年にアテネで開か
れた近代オリンピック第 1 回大会のマラソン・レースを見て感激したボストン陸上協会の
役員が「愛国記念日」を記念して開いたもので、オリンピック以外の初の国際単独競技
となる。[1918 年、第 1 次世界大戦の影響で中止。1951 年 4 月 19 日、第 55 回に日本が
初参加し、広島出身の田中茂樹( 19 )が 2 時間 27 分 45 秒で優勝して〈原爆ボーイ〉と騒
がれる。また日本でボストンの「心臓破りの丘」が有名になる。1972 年、世界で初めて
女子選手の正式参加が認められる。1977 年、身体障害者のための車椅子マラソンも導入
される。]
1897. 4.23【日本】前日の八王子で発生した大火の第一報を、東京朝日新聞が最初に伝書
鳩使って原稿を送り、記事にする 。
〈特派員が視察したる所を、伝書鳩にもたらさしめ
たれば、とりあえず左にしるす、云々〉と前書きして、3300 戸を焼失した大火の様子や
原因を詳細に報道する。
1897. 4.27【日本】帝国図書館官制が公布される。東京図書館官制を廃止し、東京図書館
を帝国図書館と改称、東京図書館館長田中稲城が初代館長に就任、欧米の国立図書館に
ならって整備拡充を図る。[1899.7.13 東京図書館の建設が決裁される。1906.3.20 上野公
園内で帝国図書館開館式が行われる。日露戦争の影響で新館が当初規模の 4 分の 1 なが
ら完成、蔵書数 35 万冊。1929 年、増築により当初計画の 3 分の 1 が完成する。以後、
ずっと未完成のまま、内務省公布本が増大し、蔵書数も増える。1947 年 12 月 4 日、国
立図書館と改称。蔵書数が 105 万冊となる。
]
1897. 4.28【日本】滞日中のフランス人映写技師コンスタン・ジレル(23 )が、京都に滞在
中の天皇(ミカド)に 、なんとか一度「シネマトグラフ 」を上映して見せたいと試みるが 、
実現しない。(ジレルのフランス・リュミエール社宛手紙による)
1897. 4.−【日本】大阪瓦斯㈱が設立される 。
[1901 年、アメリカ資本の導入で日米共同
経営となる。1925 年 、アメリカ資本が国内資本に肩代りされる。1945 年 、神戸瓦斯など 14
のガス会社を合併する。]
1897.5.20【日本】京都市内に電話が開通、電話交換が開始される。
1897. 6 . 7【日本】帝国図書館が、夜間も開館する。
- 615 -
1897.6.10【日本】
『実業之日本』創刊。
1897. 6.16【アメリカ】アメリカとハワイが、併合条約に調印する。[1998 年、アメリカ
連邦議会が大統領マッキンリーのハワイ併合案を承認。同年 8 月 12 日、ハワイが合衆国
に併合される。1900 年 、準州となり、ドールが初代知事に就任する。1959 年 8 月 21 日、50
番目の州に昇格する。]
1897.6.20【日本】京都∼大阪間、京都∼神戸間に市外電話が開通する。
1897.6.22【日本】京都帝国大学が設立される。
1897.6.26【日本】逓信省が、外国新聞電報規則を公布する。[7.1 施行 。
]
1897. 6 . −【日本】博文館印刷工場(のち、共同印刷㈱)が創業する。
1897. 6 . −【日本】磁石式卓上電話機の甲号と乙号が登場する。
1897. 6 .−【日本】小西写真機店が、イギリスからゴーモン・カメラを輸入する。 [10 月、
『写真月報』10 月号に、2 ページにわたる広告を出す。]
1897. 7 . 7【日本】大阪∼堺間、京都∼堺間、神戸∼堺間に市外電話が開通する。
1897. 7. 3【カナダ】カナダにおける最初の日系紙『晩香(バンクーバー)週報』が創刊さ
れる。発行者は Victoria Japanese Church の牧師鏑木五郎 。
[1904 年 7 月 、
『加奈太(カナ
ダ)新報』に改題。さらに『加奈陀日日新聞 』(陀を太と表記したとの説もある)と改める。
1923 年 9 月 9 日、『加奈陀新聞』と改題。1907 年 6 月創刊の『大陸日報』と並んでカナ
ダ日系社会を二分する一般新聞になっていく。
]
1897.7.22【日本】九州鉄道会社の鳥栖∼長崎間が開通する。
1897. 8.18【日本】逓信省の官制改正により、鉄道作業局が現業機関として設置される。
[以後、鉄道局は監督行政、鉄道作業局は官設鉄道の建設・運輸を行う。1907.4.1 帝国鉄
道 1897. 8.1 庁官制施行により、帝国鉄道庁が発足、逓信省より鉄道経営を引き継ぐ。]
1897. 8.19【イギリス】動力が電気で供給されたタクシー(電動タクシー)が、ロンドンに
現われる。[1900 年、非経済的であると分かり、中止される。]
1897. 9.−【日本】逓信省電気試験所長浅野応輔と所員松代松之助が、無線電信の研究に
着手し、試作と実験を行う。コヒーラ検波器を作ろうにも試験所ではガラス管がうまく
作れないので、街のランプ製造業者に相談するが、いずれも製作技術を秘密にして教え
てくれない。ようやく山下町の日電商会が熟練工を派遣してくれ、コヒラーが出来上が
る。[12 月、苦心の末送信機と受信機を作り、東京湾の品川台場∼月島間で無線電信実
験に成功する。]
1897.10.16 【朝鮮半島】朝鮮が国名を大韓帝国と改称する。
1897.10. 1【日本】貨幣法に基づき、金本位制が実施される。
1897.10. −【日本 】
〈小子今回官職を辞し、広く秘密探偵の依頼に応ず〉という新聞広告
が現れる。職業的探偵の初めとも言われる。(『明治事物起源』1944 )[以後、日本ではア
メリカの探偵のようなピストル携行権もなく、またホテル探偵やビル探偵のように限ら
れた区域内での捜査権といったものもなく、狭い範囲で活動する。財政調査 、身元調査 、
結婚調査、尾行などを行う興信所所員を探偵と称することが多く、探偵小説のなかの探
偵のような活動はほとんどみられない。]
1897.10.−【日本】
『写真月報』10 月号に小西写真機店の広告が 2 ページにわたって出る。
〈活動写真器械の到着――撮影界の大発明として天下の一大奇観と呼ばれたる活動写真
- 616 -
器械は数日前英国より弊店へ到着せり。(中略)一たび此器械を運用せば人馬の往来、舞
踊風俗の活画を得べく、殊には父兄の挙動、一族朋友の合歓和楽の光景を子々孫々に伝
へられるべき唯一の珍品なり〉と書き、イギリスのゴーモン・カメラの到着を広告する。
[1899 年、2 年目にようやく買い手がつく。]
1897.11. 1【日本】東武鉄道㈱(東京市麹町区)が設立登記される。[のち、この日を東武
鉄道㈱の創立記念日とする。1899.8.27 北千住∼久喜間で営業開始。]
1897.11. 5【日本】官設鉄道が、主要駅で初めて入場切符の発売を開始する。
1897.11. −【日本】官設鉄道が、上・中・下等の等級区分を一・二・三等と変更する。
1897.11. −【日本】逓信省が、官設鉄道の主要駅構内で手荷物運搬夫の営業を許可する。
[以後、東京駅で登場し、目立ちやすい赤い鳥打ち帽(ハンティング)をかぶっているの
で「赤帽」と呼ばれる。最盛時には 70 人ほどが従事する。1985 年頃、15 人までに減る。2000
年頃、1 日に 5 ∼ 6 人のみが利用する。2001.3.31 この日を最後に廃止される。
]
1897.11. −【日本】電話交換局事務規定で、電話加入者人名表の呼び名を「電話番号簿」
に統一する。各交換局に電話番号簿の年 1 回発行を義務づけ、1 ページ 25 行詰めとし、
内容は従来の番号順でなく読みのイロハ順とし、ヰはイに、ヲはオに、ヱはエの項に併
記することとする。例えば、伊藤はイトウ、井上はヰノウエだが「イ・ヰ」の項、江藤
はエトウ、衛藤はヱトウだが「エ・ヱ」の場所に配置される。屋号・職業も希望があれ
ば可とする。巻頭に色紙を用いて「電話通信心得」を掲示する。
1897.12. 1【日本】電話交換規則を制定する。加入区域、順序開通、名義変更、加入登記
料などを定める。東京∼横浜間の電話料金 1 通話(5 分間)15 銭を 20 銭に引上げる。輻輳
のために市外通話と非加入者の市内通話を 1 通話( 5 分間)以内とする。
1897.12. 1【日本】日本初の労働運動機関紙『労働世界』(労働新聞社)創刊 。主筆片山潜 。
資金は賛同する者から広く募る。印刷は 「秀英舎」の佐久間貞一が全面的に協力した上 、
「労働者諸氏に告ぐ」と題して寄書する。活版ルビ付き、タブロイド版 12 ページ建て、1
部 2 銭。毎月 2 回発行。
[1898.8.1 第 17 号で、安部磯雄の論文「社会主義は空想に非ず 」
を掲載し、この頃より社会主義を啓蒙するようになる。主筆片山潜は紙面の改良の予告
を出し、紙面改善に取り組む。1903.2 第 100 号。以後、
『社会主義』と改題。
] (『機
関紙の歴史』)
1897.12. 2【日本】逓信省が、電信線に裸線を束ねたケーブル線を採用し、東京の銭瓶町
(のち、大手町)の本局から呉服橋までの約 600m に初めてケーブル線が架設される。
1897.12. 中【日本】逓信省電気試験所が、浅野応輔と所員松代松之助が、無線電信の送信
機と受信機を作り、東京湾で火花式無線(スパーク・トランスミッタ)の実験に成功する。
[12.15『読売新聞』が〈送信器と受信器との距離は一丁半(約 164m)計りなりしが、送信
器のほうに当たりコトコトと機械を動かすの音するや、受信器を伝ふて継電器の表面に
は、
『マコトニケツコウヨクウツルムセンデンセンバンザイ』の符号立派に顕はれたり〉
と伝える。12.24 (??) 東京・月島海岸で 1 マイルの無線電信実験に成功する。]
1897.12.−【日本】佐藤祐知( 38)が、亀函(きかん)馬車鉄道㈱を開業し、北海道で初めて
馬車鉄道を走らせる 。蓬莱町∼十字街∼末広町∼大町∼弁天町間の 3270m で客車 15 両、
馬 42 頭で営業する。[ 1898.8 亀函馬車鉄道を函館馬車鉄道㈱へ改称。12 月、湯の川まで
区間延長し 6961m になる。1911 年、函館水電㈱(のち、北海道電力㈱)が、函館馬車鉄道
- 617 -
を買収。1913.6.29 函館水電が、東京以北で最初の路面電車を東雲町∼湯の川間 5830m
に走らせる。]
1897.○【日本】第 2 回水産博覧会が、神戸の和田岬和楽園で開かれ、日本で初めて循環
装置を備えた海水水槽 20 基、淡水水槽 9 基の本格的な水族館がつくられる。
[以後、博
覧会の終了とともに姿を消す。
]
1897.○【日本】蕎麦が 1 銭 5 厘から 2 銭に値上げ 。銭湯も同様に値上げになる 。この頃、
厘の単位を切り捨てる銀行が増える。
1897.○【日本】この頃、東京市中の寄席の数は 153 で、神田区の 22 をトップに芝 17、
日本橋・浅草・本所がそれぞれ 15 あり、落語・講談などいろいろな出し物で繁盛する。
1897. ○【日本】大野洒竹らが編纂した俳書『俳諧文庫』の刊行が始まる。主要な古俳書
を集成翻刻し、略史・系図・年表・評伝等を付録に付ける。[ 1901 年、24 冊完結。]
1897. ○【日本】この頃、ガス灯が一般家庭にも入り出すが、主な使用者は上流家庭の一
部に限られ、電灯や石油ランプと混用される。
[1985 年、横浜の山下公園に 40 基のガス
灯が設置され、ガス灯ブームが起こる。1894 年以後、白熱マントルを使用し始めるなど
により光質の改良も行われ、電灯に対抗する。1915 年ころ、ついにはガス灯は灯火とし
ては電灯に対抗できなくなり、急速に廃れる。
]
1897. ○【日本】フランスのブルウル商会(パリ)が、従来の横浜に次いで神戸支店を設け
る。[以後、事業を拡大して電信電話機、天文測量機器、化学器械類、水揚げポンプ、迅
速計測器、ペン先、消しゴムなどを輸入する 。さらに、エジソンが発明した写真活動機(キ
ネスコープ)、写真活動現影機(プロジェクトスコープ)、蓄音機(フォノグラフ)、レロイ
自転車など、主にアメリカ製の新製品を輸入する。]
1897. ○【日本】柴田常吉が、リュミエールの写真機に取り組み、操作を覚えて、団十郎
と菊五郎の『紅葉狩、中村雁次郎の『鳰の浮巣(におのうきす)』など 4 本の歌舞伎映画
の作品を作りフランス・リュミエール社に送る。団十郎は柴田の活動写真を見て、〈自分
の踊りが見られるとは、ても、不思議だなあ〉と、感にたえぬようにつぶやく。
1897. ○【日本】葉書の宛名のわきに「親展」と書いた人がいる、と『読売新聞』が伝え
る。
1897.○【日本 】この頃、外国航路の日本船の船長はほとんど外国人で、日本人はわずか 2
人だけ。船長の養成が必要との声があがる。
1897. ○【日本】三井銀行が、手形や小切手にインクで書くと消せるので、墨に限ると顧
客に注意する。
1897. ○【日本】逓信省が、加入電話からの電報取扱いを開始する。
1897.○【日本】逓信省が、東京・大手町∼呉服橋間 600m に日本最初の電話ケーブル、
鉛被 15 対紙絶縁 0.8mm 銅線を敷設する。また、東京∼横浜間に初めて 100 対地下鉛被
ケーブルを採用する。
1897. ○【日本】長崎∼台湾間海底ケーブルを日本人の手で敷設する。敷設船と海底ケー
ブルはイギリスに発注する。
1897. ○【日本】横浜の貿易商、牛島商会が、アメリカからキャッシュレジスタ(金銭登
録機)の輸入を始める。[1997 年、日本 NCR が、キャッシュレジスタ輸入 100 年を記念
して、同社のホームページに「レジスター博物館」を開設する。]
- 618 -
1897.○【日本】豊田佐吉(30 )が、木製動力織機を発明する。日本最初の小幅綿織物用の
動力織機となる。[ 1898 年、特許を得る。]
1897.○【日本】島津製作所の島津源蔵が、容量 10Ah の鉛畜電池を作る。
1897. ○【日本】女義太夫 、
『デカンショ節』が流行する。新文化の代名詞「ハイカラ」
が流行する。
1897. ○【日本】松本武一郎が、浅草並木町に蓄音器店を開き、横浜のホーン商会から蝋
(ワックス)を塗ったボール紙円筒蝋管録音機「フォノグラフ」の供給を受け、縁日など
に 1 回 1 銭ずつ取って、ゴム管を耳に差しこんで客に聞かせる。[以後、同様の大道蓄音
器屋が各地に出現し、1 銭∼ 2 銭で聞かせる。]
1897. ○【日本】愛媛県知事が、喜多郡蔵川で男女間の風紀を乱すというので盆踊りを禁
止する。この頃、全国各地で同様のことが起こる。
1897. ○【日本】内務大臣の権限であった新聞・雑誌の発売・頒布禁止権、差押え権が、
裁判所の権限となる。[ 1909 年 5 月 6 日公布の新聞紙法で復活、編集人の責任規定を拡
大する。]
1897. ○【日本】湯屋の柘榴口は、内部が狭くて暗く、不衛生であるとの理由で禁止され
るようになり、この頃、姿を消す。[1912 年に、柘榴口が撤去されたかわりにペンキに
よる風景などの壁画が登場する。]
1897. ○【日本】福岡県に、久留米検楳所が置かれる。
1897.○【日本】福岡県の博多柳町に、娼妓の教養育成機関として翠糸学校(生徒 500 人)
が創立される。また、大川町の若津遊郭に弥生女学校が創設される。
1897.○【インド】イギリス人の警視総監ヘンリー E. R. Henry が、インド全域の警察に
指紋法(指紋の特性によって個人の異同を識別する方法)を採用させる。[ 1901 年にロ
ンドンの警視総監補となり、イギリスでも指紋法を取り入れる。]
1897.○【ロシア 】ポポフが、5km 離れた軍艦同士の無線電信に成功する。[1899 年、軍
艦が座礁した際、救助のため 47km の無線電信連絡に用いられる。以後、ポポフは、イ
タリアのマルコーニのように豊富な実験研究費が得られず、水雷学校教官という公務に
就いていたため、無線電信の研究に専念できず、やがてマルコーニ無線のかげに忘れ去
られる。]
1897.○【オーストリア】グスタフ・クリムトが、ウィーン大学講堂の天井画を制作する 。
[のちに主題があまりにエロチックとスキャンダルになる。]
1897.○【オーストリア】シュワルツ David Schwarz が、縦通材と肋材の骨組みで船体の
骨格を構成し、これに外皮として厚さ 0.2mm のアルミニウムを張った全長 48m の硬式
飛行船を製作する。[以後、硬式飛行船は発達しない。1900 年、ドイツの F.ツェッペリ
ンが、彼の最初の硬式飛行船 LZ1 を作り、本格的な発達を遂げる。]
1897.○【ドイツ】カール・ツアイスのルドルフが、カメラのレンズを考案し、2 枚目と 3
枚目の凹レンズを 2 枚貼り合わせとした 4 群 6 枚、f3.8 のプラナーを開発する。[以後、
この影響下で多くの大口径のガウス型レンズが設計され、実用化される。ライカ用のズ
マール f2 、ズミター f2 、ズミクロン f2 、ズマリット f1.5、シュナイダーのクセノン、ク
セノター、フォクトレンダー(フォクトレンデル)のウルトロン、ノクトンなどの名レ
ンズが、ガウス型の変形として作られる。]
- 619 -
1897. ○【ドイツ】ボッシュが、電気点火用の高圧磁石発電機の開発に成功する。
1897.○【ドイツ】ブラウン Karl Ferdinand Braun ( 47)が、陰極線の方向を制御して、初め
て陰極線管を作り、最初は電気現象測定用に用る。[オシロスコープの先駆けとなる。
のちに一般にブラウン管と呼ばれ、テレビ受像器の重要な要素技術に発展する 。
]
1897.○【ドイツ】ベルリンの医師ヒルシュフェルト Magnus Hirschfeld( 29 )が、ウルリヒ
ス Karl Heinrich Ulrichs( 1825 ∼ 95)に影響をうけて、自分の同性愛傾向を自覚し、世界
で最初の男性同性愛者解放団体「学術的人道委員会」を設立する。ホモセクシュアリテ
ィーの調査機関を設けて研究を行う。[ 1919 年、この調査機関が世界初の「性科学研究
所」に発展する。]
1897. ○【フランス】政府が、市立図書館の写本を中心とする旧蔵書の監督権を強化する
ため、政令により旧蔵書を多数持つ図書館を指定図書館と規定する。[1931 年、国有化
法で国の監督権を強固にする。
]
1897.○【フランス】メリエス Georges M ロ li ロs(36)が、パリ郊外のモントルイユの邸宅
の庭にヨーロッパで最初のグラス・ステージを中心とした撮影所を作る。手工業的であっ
た映画作りを改め,職能を分化した映画の製作システムを確立,トリックを自在に使っ
た荒唐無稽な喜劇や幻想的な映画を作り始める。また、映画史上初のヌード『舞踏会の
後の入浴』を製作する。[ 1899 年 、
『魔術師』の中で映像の女を羽根に変え、史上初の特
殊効果を作り出す。1902 年 、
『月世界旅行』をつくる。]
1897. ○【フランス】小説家ピエール・ルイスが、少女のヌードを撮影する。
1897.○【イタリア】マルコーニ( 23 )が、政府の招きでイギリスから帰国し、ラ・スペツ
ィア La Spezia に無線局を建てる。
1897.○【バチカン 】教王レオⅩⅢ世が、1564 年の『 禁書目録』の改訂を指示し、約 1000
点が排除され、規則も修正される。[ 1948 年、
『禁書目録』の最終版が発行される。]
1897.○【イギリス】物理学者トムソン Joseph John Thomson( 41)が、陰極線が負の荷電粒
子であるとする立場から研究を進め,陰極線の磁気スペクトルが物質の種類によらず同
一になることや,磁場中では陰極線と気体放電のふるまいに違いが生ずることなどを明
らかにする。最終的には,磁場と静電場を使用しての陰極線の屈曲実験から負の荷電粒
子の比電荷を確定し,陰極線の本性が電離した水素原子の比電荷のおよそ 1000 倍もの比
電荷をもつ物質であることを明らかにする。
[これは 1874 年に G.J.ストーニーが仮説的
に提唱した電気量の最小単位「エレクトロン」に相当するもので、のちに電子と呼ばれ
る。
電子の発見は,原子よりも小さな最小単位の存在を実験的に確証することによって、20
世紀の物理学やエレクトロニクスへの扉を開く。
]
1897.○【イギリス】マルコーニ( 23 )が、燈台船舶用の火花放電による無線電信信号会社
The Wireless Telegraph and Signal Co., Ltd. を設立する。世界最初の無線電信会社となる。
イギリスの海岸線にある燈台に無線装置の取り付けを主な事業とする。[1900 年、British
Marconi Company と改称。]
1897.○【イギリス】ロッジ Sir Oliver Lodge( 46 )が、初めて電波の同調を行って無線電信
の感度を上げることに成功する。この特許を出願するが、これをマルコーニが目を付け
買い取る。[1918 年に有効期限が切れる。]
1897.○【イギリス】スコットランドの物理学者・数学者ケルビン卿 Lord Kelvin (73)が、
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〈無線通信に未来はない〉との意見を述べる。
1897.○【イギリス】 C.ヘプワースが、世界最初の映画の手引書『動く写真または映画
撮影の ABC』を書く。
1897. ○【フランス・イギリス・アメリカ 】
「アドミラル煙草」の宣伝映画が、フランス・
イギリス・アメリカ 3 国で制作される。コマーシャル・フィルムの先駆けとなる 。[のち、
フィルムがアメリカ・ニュージャージー州のエジソン商会に保存される。]
1897.○ 【 ア メ リ カ 】 電 話 交 換 機 メ ー カ ー 、 ケ ロ ッ グ 電 話 交 換 機 製 造 会 社 Kellogg
Switchboard & Supply Co.がシカゴで設立される。
[以後、
数々の交換機の傑作を世に出す。]
1897. ○【アメリカ】エジソンが、キスシーンのある映画を作る。半裸のダンサーが踊る
フィルムは最初の検閲で修正される。
1897. ○【アメリカ】初めて合法的な外科的断種が実施される。
1897.○【南極海】ノルウェーの船員アムンゼン Roald Amundsen (25)が、探検船ベルギカ
号に乗り組み、南極海で初の越冬をする。
1897. 【流行語】活動写真。電気扇。ハイカラ。
1897. 【流行歌】『軍艦(軍艦行進曲) 』
『デカンショ節』
1897. 【事物】赤帽。アルミ型弁当箱。神前結婚式。電気扇風機。
1897. 【本】尾崎紅葉『金色夜叉』(『読売新聞』)
1897.【外国本】ハヴェロック・エリス『性心理研究 第 1 巻』(全 7 巻)、
1898(明治31)
1898. 1 . 1【中国】大阪商船㈱が、逓信省の命令で揚子江沿岸航路の上海∼漢口線を開設、
営業を開始する。
1898. 1.13【日本】芹川政一が、アメリカ製のキネトスコープの中にあった日本芸者の布
さらしのフィルムを、ヴァイタスコープにかけて、両国二州亭で興行して、大当たりを
とる。[∼ 1.19 ]
1898. 1.20【日本】九州鉄道会社の早岐∼佐世保間、早岐∼大村間が開業する。佐世保軍
港との連絡が完成する。
1898.1.23【日本】猛吹雪で電話線が切断され 、電柱破損 、加入者線の大半が不通になる。
復旧に工兵隊が出動する。
1898. 1 . −【日本】関西鉄道で、客車内に油ランプに代えて初めて電灯を取り付ける 。[こ
の年、官設鉄道、山陽鉄道でも車内電灯の使用を開始する。]
1898. 1.−【日本】フランスのブイ機械製造所技師マリー・テブネが、名車パナール・ル
バッソールを携えて来日する。日本最初の自動車となる。来日の目的は、自動車・鉄鋼
製造を含む軍需工場を日本財界と合弁でつくることである。[ 2.6 テブネが、持参した自
動車を宣伝のため公開運転する。]
1898. 2. 2【日本】日本鉄道㈱の機関方らが、乗客の生命・財産を守る機関方の手当が駅
長などに比べて低いとして、待遇改善と職名改称、臨時増給を要求賃上げを要求し、我
党待遇期成大同盟会を秘密裏に結成する。
[2.24 指導者の解雇を機にストライキに入る。]
1898. 2 . 4【フランス】最初の映画スタジオが、パリで開設される。
1898. 2 . 6【日本】フランス人技師マリー・テブネが、自動車を初めて日本に持ち込んで、
- 621 -
築地のホテル・メトロポールから上野公園まで走らせる。フランス製のパナール・ルバ
ッソールで、道ばたにはこれを一目見ようと見物客がごった返す。
[3 月、合弁会社設立
に賛同する有力者が現れず、持参した自動車を競売にかける。5300 円まで入札した者が
いたが、6000 円以上でないと売れない、として競売不成立となる。テブネは自動車を持
って、フランスに帰国する。
](佐々木烈『日本自動車史』)
1898. 2.24【日本】日本鉄道㈱が労働活動の首謀者として 10 人を解雇したのを機に、福
島の機関方や火夫らが、午後 6 時ごろからストライキに突入する。日本鉄道争議と呼ば
れる。続いて一関、上野、宇都宮、黒磯、仙台、青森、尻内などの機関方・火夫約 400
余人が一斉に仕事を放棄する。関東・東北一円の鉄道すべてが止まる。日本初の鉄道関
係労働争議となる。
[以後、2 月 27 日まで上野∼青森間の全線の列車が止まる。結局、
機関方の勝利に終わり、争議団側は会社側に、(1 )機関方の名称を機関手とする、(2 )機
関手の待遇を駅長同様とする、( 3 )増給する、などの要求を受け入れさせる。のち、2 月 24
日を「鉄道ストの日」とされる。4 月、ストライキで勝利を収めた経験のうえにたって、
機関方・火夫約 400 人が、日本鉄道矯正会を結成する。鉄工組合、活版工組合と並んで
日本の初期の代表的労働組合となる 。
本部を福島に置き、
東日本全域に支部を広げる 。
1899
年、会員は 1000 人を超える。1901 年、社会主義を支援することを宣言し、
「好戦的労働
組合の標本」と称される。1901 年秋、明治天皇が東北地方を訪れた際、会員が列車事故
を起こしたという口実で政府が解散を命る。以後、消滅する。]
1898. 3.20【日本】本所・深川の印刷工が、活版工同志懇話会を結成する。[4.5 活版工業
組合が発起人 7 人を「ブラックリスト」に載せ業界から締め出したことで、解雇に反対
する同盟罷業(ストライキ)が起こる。1899.11.3 活版工同志懇話会が、改組して労使協調
の活版工組合を結成する。
]
1898. 3 .−【日本 】Kobe Paper Mill Co. が、三菱に譲渡され、(資)神戸製紙所と改称する 。
[1904.6 (資)三菱製紙所と改称する。]
1898. 3.−【日本】風雪害で電話の全加入者の半数に障害が発生する。工事者 450 人を雇
い復旧に当たる。[ 4 日目、復旧する。]
1898. 4.15【日本】ジャパン・タイムス社が、月刊『The Rising Generation 青年』(のち、
『英語青年』)を、
『Japan Times 』の学生版として創刊する。全面英語で英字新聞の記事
を抜粋して掲載する 。
菊半裁判 64 ページ、
定価 8 銭。
500 部発行。
[以後 、
5 号から菊判 。
1900
年、四六判 16 ページ。のち、B5 判。英文に注が付き、和文英訳の添削欄が新設される
などして、英語学習誌としての体裁を整えていく。誌名も『英語青年』となったり『青
年』だけを繰り返す。1901 年、英語青年社が発行元になる。1905 年、『英語青年』に定
着。1944 年、5 月号から研究社から発行。英文学と英語学を研究する人を対象とした英
語研究誌となる。](『本の雑誌』1998.9 )
1898. 4.−【日本】京都府立図書館が、京都府教育会などの旧蔵書をもとに設立される。
[1904.1 巡回文庫を開始する。
]
1898. 5.11【日本】勅令をもってグレゴリオ暦の置閏法にすることが明示される。1872
年 11 月 9 日に発せられた改暦詔書では、太陽暦を採用したものの、4 年に 1 回の閏年を
置くとだけあって、ユリウス暦かグレゴリオ暦かの明示はされていなかった。2 年後の
明治 33 年は西暦 1900 年にあたりグレゴリオ暦では平年となるので、グレゴリオ暦を正
- 622 -
式に採用することに決定した。
1898. 5.−【日本】逓信省電気試験所が、空中線を建てて本格的な無線電信の実験を開始
する。
1898. 6. 9【日本】鉄道郵便係員の乗務しない鉄道郵便線路を「閉嚢鉄道郵便線路」と定
め、従来の関連規程を廃止し、新たな規程を制定する 。鉄道郵便係員が駐在する駅では 、
その係員が郵便物の積卸しを行うが、そうでない駅では駅長を介して受渡を行う。
1898. 6.15【日本】村井兄弟商会が、内務大臣の命により、たばこに添付の外国製裸体画
カードの挿入を中止する。
1898.6.17【イギリス】郵便自動車が、世界で初めて導入される。
[以後、故障が多発し、
再び馬車が使われる 。
]
1898. 6.21【日本】戸籍法、人事訴訟手続法などが改正公布される。男同士の同性愛は犯
罪とみなされる。
1898. 6.23【日本】
『読売新聞』に、投書欄「葉がき集」が上司小剣の発案により開設さ
れる。他紙が週 1 回または不定期の掲載であるのに対して、ほぼ毎日、紙面の約 1 段分
を割いて多数の投書を掲げる充実ぶりを示す。
1898. 6.30【日本】郵便切手売下所の手数料を、買受額の千分の 35 に引下げ、受取所は
同率、三等局は千分の 50 とする。
1898. 6.−【日本】警視庁が、警察官の用語通達を出す。いわゆる「車夫馬丁」には〈お
まえ、おいおい〉
、それ以上の者には〈あなた、もしもし〉と声を掛けるなどとする。
1898. 6 .−【日本 】真島製紙所が、大阪製紙と改称する。[1910.6 野田製紙所に改組 。1915.11
富士製紙により買収。のち、王子製紙㈱神崎工場となる。]
1898.7.16【日本】北海道官設鉄道が、上川線旭川まで開通する。
1898. 7.−【日本】尾崎紅葉『金色夜叉』前編刊。前例のない美本仕立てで、やや厚い用
紙で箱をつける。表には 1 色で夜叉の絵が描かれ 、
〈近来絶無之奇書〉と書かれる。最大
の話題作になる。[ 1899.1 中編、1900.1 後編刊。1902.4 続編、1903.6 続々編刊。続編と
続々編は 3 色刷りの普通のカバー(ジャケット)が付く。]
1898. 8 . 1【日本】徳山∼門司間の汽船内に郵便事務室を設け、郵便物の引受を開始する。
門司局員を船内郵便係員として乗り込ませる。日付印の代わりに線路印を代用する。
1898.8.16【日本】日本最初の大型汽船常陸丸(6172t)が、長崎の三菱造船所で完成する。
1898. 8.18【日本・フランス】日本∼フランス間の価格無表記小包郵便物条約公布。[10.1
施行 。
]
1898.8.23【日本】日本鉄道㈱が、田端∼水戸∼岩沼間の鉄道を全通させる。
1898. 9.16【日本】有志の新聞記者が、
〈刻下ノ形勢上同志記者ノ結合〉が必要と考え、
同志記者倶楽部を組織する。参加者の多くは、改進党の後身である進歩党―憲政本党の
党員やシンパである。[以後、毎月 1 回集会を開く。1900.8.30 義和団戦争のさなか、会
合を開き、
〈日本政府は「極力清国ノ保全」をめざすこと〉など、中国保全論を決議し、
提唱する。]
1898.9.22【日本】フランスを経由して諸外国と交換する小包郵便物規則を制定する。
1898.9.22【日本】山陽鉄道で、初めて列車給仕の乗務を開始する。
1898.10. 1【日本】明治政府の全面的指導下の特別市だった東京が、初めて自治権を持つ
- 623 -
市制を敷き、一般の市になる。東京市の参事委員の互選によって市長が選ばれ、東京市
役所が開庁される。[ 1952 年、東京都が 10 月 1 日を「都民の日」に制定。都内の公立学
校が休みになり、庭園・動物園・植物園等の入場料が無料になる。]
1898.10. 1【日本】新橋分局が、電話交換事務を開始する。磁石式並列複式交換機を初め
て採用する。回線容量最大 7000 本。[以後、東京、大阪の複局地化にともない実用化さ
れる。のち、京都をはじめ全国の主要都市の交換局で採用される。]
1898.10.14 【日本】文部省告示第 61 号により、検定出願教科書用図書の文字印刷等に関
する標準が定められる。
1898.10.17 【日本】銀座に本店を置く玉屋という商店が、新聞に「改良蓄音機(蓄音機の
ルビ:クラブホフオン)の広告を掲載する。〈客年、数百台輸入仕候処〉とあり、過去に
輸入したことを明らかにしている。[12 月、銀座の天賞堂が、第 2 回の蓄音器輸入広告
を出す。(1 回目がいつかは明らかでない)]
1898.10.−【日本】東京∼大阪間に、電話 1 回線の建設を完了する。建設費総額 43 万円。
うち、使用銅線の価格が 20 万円。[以後、東京∼大阪間の通話試験を行うが、交換機を
通した場合、通話が聞き取れない。運用時には終話表示器のみ電話線に直列に接続し、
交換機を通さないように接続する。また、長距離電話申込者の電話機を、炭素粒の両側
に振動板を置いた感度の良いソリッドバック型に取り替えるようにする。1899.2.1 東京
∼大阪間で交換電話の初めての長距離通話サービスが開始される。]
1898.10. −【日本】名古屋局が、電話交換事務を開始する。
1898.11. 1【日本】郵便車を連結した急行列車が途中の不停車駅を通過中に、郵便物を受
渡しするため、鉄輪式の郵便物受渡機械を開発し、東海道線の大森、川崎、藤沢駅に設
置する。(図:『郵便創業 120 年の歴史』p.97)[1901.4.1 山陽鉄道でも、吉野式と呼ばれ
る受渡機械が開発され、使用する。以後、東海道線での活用される。]
1898.11. 6【日本】内外連合自転車競走運動会が。東京・上野不忍池で開催される。
1898.11.18【日本】関西鉄道が、名古屋∼大阪間を全通させる 。[のち、関西本線となる 。]
1898.11.26 【日本】摂津電氣鉄道㈱が、神戸に設立される。資本金 150 万円。社長外山脩
造。[ 1899.7 阪神電氣鉄道㈱と改称。1905.4.12 出入橋∼三宮間を開業する。]
1898.11.27 【日本】九州鉄道会社が、鳥栖∼長崎(のち、浦上)間を全通する。
1898.12.6 【ドイツ】グラモフォン社が、ヨーロッパに進出、ドイツ・グラモフォン社を
ベルリンに設立する。
1898.12.10 【日本】逓信省が、毎年 1 月 1 日から 7 日までの間、外国来を除き、葉書の到
着印を省略することとする。葉書による年賀の挨拶が年々増加して、到着印まで押すこ
とができない状況になったための措置。
1898.12.10 【アメリカ】米西戦争が終結し、パリ講和条約が調印される。その結果、フィ
リピン、グアム、プエルトリコを獲得する。
1898.12.中【日本】松岡もと子(のち、羽仁もと子)(25)が、報知新聞社に入社する。日本
最初の「婦人新聞記者」となる。[ 1901 年、同僚記者の羽仁吉一と結婚して退職。1903
年、夫妻共同で生活雑誌『家庭之友』(のち『婦人之友』と改題)を創刊、男中心の家に
代わる夫婦による家庭づくりを唱え、中産階級の家庭婦人の啓蒙を目ざす。1921 年、新
教育運動の流れの中で、自由学園を創立、キリスト教的自由主義に基づく自由、自治の
- 624 -
女子教育を創始する。]
1898.12. −【フィリピン】米西戦争で勝利したアメリカによる統治が始まる。[以後、マ
ニラに唐行きさんが出没し始める。]
1898.12.−【アメリカ】エジソンが、コンサート・フォノグラフを発売する。価格は 125
ドル。
1898. ○【日本】逓信省が、郵便物の配達処理の効率化を図るため、手紙の宛名にその手
紙を配達する郵便局名を記入する「配達局名表示」の制度を実施する。[以後、当局は制
度の普及に努める。1950 年代、全郵便物の 20 ∼ 30 %にまで記載されるようになる。
1968.7.1 機械読み取りを可能にする「郵便番号」に発展する。]
1898. ○【日本】電話帳が、電話加入者の増加に伴い、検索上の便宜から配列がイロハ順
に改められる。漢数字・縦書きは従来通り。
1898. ○【日本】電話交換業務には女子が適当とみなされ、多数の女子交換手が募集され
る。
1898.○【日本】この頃、東京・神楽坂の相馬屋が、初めてイギリス製の紙を利用し 20
字 10 行の原稿用紙を作って売り出す。[以後、筆記具が筆から万年筆に変わっていく時
代背景もあり、すべりが良く乾きの速いイギリス製の洋紙「ゴロス」や「イーグル」を
用いたものが普及する。]
1898. ○【日本】丸善洋物店が、インキの需要増加のともない、良質の国産インキを発売
する。
1898. ○【日本】講談の速記が、多くの新聞に掲載され、小説の数を上回るようになる。
1898.○【日本】黒沢貞次郎( 23 )が、仮名文字タイプライタを創案する。機構的には欧文
タイプライタと同じである。[以後、仮名だけで文書を作成することが社会習慣上無理が
あるなどの理由で、カナ文字論者や一部の貿易商社(伊藤忠商事、丸紅など)以外にはさ
ほど普及しない。1980 年代、日本語ワードプロセサが出現した後は、ほとんど使用され
なくなる。しかし、仮名タイプライターの鍵盤(キーボード)配列の基本は、日本でのコ
ンピュータやワードプロセサの鍵盤に採用される。]
1898.○【日本】豊田佐吉(31 )が、昨年発明した日本最初の小幅綿織物用の動力織機であ
る木製動力織機の特許を取得する。
1898. ○【日本】初の自転車レースが、東京・上野不忍池畔で行われる。
1898.○【日本】大師電気鉄道が設立される。
[1899 年、大師線で関東地方最初の電車を
走らせ、京浜電気鉄道と改称する 。
]
1898.○【日本】フランス人技師が、フランス製の 1300cc 石油動機車「パナール&ルバ
ーソル」を運転し、築地∼上野間の公道を往復して見せる。
1898. ○【日本】軍医学校長森鴎外が、深夜まで読書するのに健康を維持できる秘訣を問
われ、1 日に卵 10 個、牛乳 3 合をとると答える。これを知った作家の斉藤緑雨が試みた
が、だめだったと、
『報知新聞』が伝える。
1898. ○【日本】内務省が、婦人裸体画の取締りを強化する。この年、裸体画を掲載した
雑誌の発行禁止が相次ぐ。
1898. ○【日本】海外に出稼ぎする売春婦が増加し、南方への「からゆきさん」はもとよ
り、北はシベリアから西はトルコにも及ぶ。
- 625 -
1898. ○【ヨーロッパ】都市を中心に退廃的な世紀末芸術が流行する。
1898. ○【ロシア 】ツィオルコフスキーが、反動推進理論を発表する。ロケットを用い
て人工の衛星を打ち上げることが可能であるという考えを示唆する。
1898.○【デンマーク】ポールセン(パウルセン) V.Paulsen が、世界で初めて磁気録音再
生の実験を行う。信号の録音には鋼線を用い、ワイヤ(鋼線)式磁気録音機を発明する。
録音時間は約 1 分。これを何に使うかは未定である。[以後、ポールセンは、磁気録音機
会社を設立するが、ほとんど注文はない。1900 年、パリ万国博覧会に「テレグラフォン
(Telegraphone)」と名付けて出品し、グランプリを受賞する。1903 年、ポールセンは、
アメリカに磁気録音機会社を設立する。ここでも営業不振で、やがて閉鎖する。以後、
レコードの普及にともなって、磁気録音は世間から忘れ去られる。1930 年代、実用的な
録音再生機として鋼線や鋼帯を用いる録音機がドイツのテレフンケン社とローレンツ社
より発表され、日本にも輸入され日本放送協会( NHK)でも使用される。]
1898.○【ドイツ】私鉄のアルプタール鉄道が、カールスルーエから南約 25km の温泉保
養地バート・ヘレンアルプを結ぶ軌間 1m の小鉄道を全通させる。2 軸の小さな箱形蒸気
機関車が 2 ∼ 3 両の客車を牽引する。
[以後、間もなく電化する。1957 年、バーデン・ヴ
ュルテンベルク州が、アルプタール運輸会社(AVG )を設立、バスを含む地域輸送を担当
する。1961 年、線路をカールスルーエ市電と同じ標準軌 1435mm に改め、ヘレンアルプ
温泉まで市電の車両が乗り入れられるようにする 。
]
1898. ○【ドイツ】カッセルで、路面電車が開業する。
1898. ○【フランス】パリ在住のポーランド人ボレスワフ・マトゥシェフスキが、映画は
歴史資料として保存されるべきだとの主張を最初に行う。[以後、40 年間公的なフィル
ム・アーカイブ(映画の保存所、資料館)の設立は具体化しない。1938 年、国際フィル
ム・アーカイブ連盟( FIAF)が設立される。]
1898.○【フランス】キュリー Marie Curie( 31 )が、ベクレルの研究をよりいっそう精密に
行った結果、放射線の放出がウラン原子そのものの性質であるというベクレルの発見を
確証する一方、トリウムもウラン同様に放射線を放出することを見いだす。自然に放射
線を放出するこれらの現象に対して「放射能」ということばを提唱する。[ 1898 年、天
然鉱石の放射能を調べる中で、強い放射能をもつ未知の元素の存在を予測し、夫ピエー
ルとの協同でウランの原鉱石ピッチブレンド中に新元素を発見し、その一つを祖国ポー
ランドにちなんでポロニウム、もう一つをラジウムと名づけて発表する。その過程で放
射線を目印にした分析法など、放射化学の基本的方法の開発を行う。1903 年、これらの
業績によりベクレルや夫ピエールとともにノーベル物理学賞を受ける。]
1898. ○【フランス】セザンヌが「大水浴」を発表する。
1898. ○【フランス】パリで、史上初のモータショーが開催される。(この項未確認)
1898. ○【フランス】世界最初の女性ドライバが登場する。
1898.○【フランス】ルノー Louis Renault( 21 )が、自動車用のプロペラシャフトとベベル
ギヤ式ディファレンシャルギヤをもつ近代的な動力伝達システムを製作する。ルノー兄
弟商会( Soci レ t レ Renault Fr ≡ res )をパリ西郊に設立し、乗用車の生産を開始する。[の
ち、資本の 53 %を政府が出資、フランス最大、世界でも有数の自動車メーカとなる。]
1898.○【フランス】ピエール・キュリー Pierre Curie(39)が、磁性の研究中、ある温度に
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おいて、磁性を帯びた物質が磁性を失うことを発見する。[以後、この温度をキュリー点
あるいはキュリー温度と呼ぶ。1895 年、理学博士の学位を得て、パリの物理化学学校の
教授になる。]
1898. ○【フランス】デュソーが、ニプコー方式によるテレビの具体化に挑戦する。画像
の分解と再生にはニプコー円盤を使用し、画像信号の伝送には減衰を押さえるために変
圧器により高電圧による伝送を考える。画像の再生にはアーク灯を光源に用い、レンズ
によって平行光線にして 2 枚の細いスリット板に当て、一方のスリットが信号電圧の強
弱により移動して光量変化するのをニプコー円盤を通して再生画像とし、レンズで拡大
された映像をスクリーンに投影しようというもの。提案のみで、実用化されなかった。
1898.○【イギリス】
『TIMS』紙が、
『エンサイクロペディア・ブリタニカ』第 9 版の販売
を引き受け、新聞社として世界で初めて出版事業に乗り出す。[以後、第 10 版で編集ま
で手掛ける。]
1898. ○【イギリス】郵便局の主任技術者ウィリアム・プリースが 、
〈貯蔵した膨大な電気
エネルギーを電信の理法へと振動させることができれば、われわれは火星の人たちと電
話で話をすることができる〉と述べて、無線通信(ワイヤレス)の未来の可能性の夢を語
る。
1898.○【イギリス】リバプール大学物理学教授ロッジ( 47)が、同調回路の原理を発表す
る。[1899 年、マルコーニ無線機に同調回路が導入され、イギリス∼フランス間の無線
通信に成功する。]
1898.○【イギリス】ホランド John P. Holland が、単殻式船体にガソリン機関、蓄電池、
発射管を装備した初の実用潜水艦(潜水艇)ホランド(70 トン)を試作して成功を収める。
[1900 年、アメリカ海軍に購入される。以後、その改良型が建造され、同型艇が日本、
イギリス、ロシアをはじめ広く各国で採用される。]
1898. ○【アメリカ】アメリカ議会図書館が、図書・文献の目録作成のため、カードシス
テム card system を導入し、3in × 5in (約 7.5cm × 12.5cm )のカードを標準目録カードに決
定する。
1898.○【アメリカ】作家モーガン・ロバートソンが、客船の沈没物語『タイタンの沈没』
を著す 。
[1912.4.15 イギリスの豪華客船タイタニック号が、彼の作品と同様な状況下で
沈没する。
]
1898.○【アメリカ】C.L.ブラウンが、カンザス州の人口数百人の小さな町アビレーンに 、
貧弱な独立系の電話交換局を開設する。[以後、同州内に仕事を拡大し、本社をシェウ
ニーミッションに移し、社名をユナイテッドに改称する。のち、国際通信企業スプリン
トに成長する。
]
1898.○【アメリカ】ウィルソン社(H.W.Wilson Co.)が、プール WilliamFrederick Poole の
アルファベット順雑誌記事索引の作成事業をよりいっそう発展的に受け継いで、『累積
書籍索引(Cumulative Book Index)』を刊行する。[以後、索引サービスの事業を行う。]
1898. ○【アメリカ】高校中退のジェームズ・ミドルトン・コックスが 、
『デイトン・デイリ
ー・ニューズ』紙を買収する。[のち、次々と新聞社を買収する。ラジオ、テレビ、ケー
ブル事業にも進出し、CATV 会社の大手になる企業の基礎となる。]
1898.○【ブラジル】サントス・ドゥモンが、飛行船をつくる。[以後、相次いで 14 隻の
- 627 -
飛行船をつくり、大型化と性能向上に大きな功績をあげる。]
1898. 【流行語】ビヤホール。弁士。
1898. 【流行歌】『青葉茂れる桜井の』
1899(明治32)
1899. 1 . 1【日本】ワシントンで締結された万国郵便条約が施行される。
1899. 1. 1【日本】郵便葉書に到着印を押印しないものがほとんどになる。葉書による年
賀の挨拶が年々増加して、到着印まで押すことができない状況になる 。
[7 日まで、この
状況が続く。12.16 年賀状郵便物の取扱方法を改め、年賀郵便特別取扱制を試験的に実
施する。]
1899. 1 . 1【日本 】
『東京朝日新聞』が 10 ページ建てとする 。
[1.25 『大阪朝日新聞』も 10
ページとする。
]
1899. 1. 9【日本】逓信省が、長距離通話の制度を開設する。電話番号簿の様式を改め、
長距離電話加入者には□に特印をつける。[2.1 長距離市外通話サービスを開始する。]
1899. 1.14【日本】東京帝国大学理学部東京天文台が、写真掃天によるルーティン観察を
開始する。
1899.1.15【日本】
『反省雑誌』が『中央公論』と改題して発行される。
1899.1.15【日本】木下立安が、前年大阪で創立された鉄道協会内に鉄道時報局を設置し 、
新聞『鉄道時報』を創刊する。
[以後、土木・建築を中心とした出版を手がける。のち、
理工図書㈱に社名を改める。
]
1899. 2. 1【日本】交換電話の初めての長距離市外通話サービスが、東京∼大阪間で開始
される。利用者は、あらかじめ申し込んで「長距離電話加入者」となり、電話番号簿で
は番号の頭に「特」印が付され、1 通話 5 分間当たり 1 円 60 銭の長距離電話使用料のほ
かに年額 6 円の付加使用料を徴収される。こうした加入者には専用機としてソリッドバ
ック磁石式電話機が与えられる。東京∼大阪間の汽車運賃が 2 円 82 銭なので、電話はか
なりの高額と思われる。加入者数は東京、大阪とも 178 あり、新聞社と株式仲買の利用
が多い。この頃、電話線に伝わる音声信号は、距離とともに減衰するため、アナログ信
号による長距離通話の距離は東京∼大阪間が限度である。通話申込から接続までに 3 時
間待ちもざらで、通話の明瞭度は〈蚊が泣く〉ように低く、長距離用電話機には両耳で
聞くように 2 個の受話器が付いているものもある。[以後、開通後 20 日間の東京側の発
信数は 418 度で、最も多いのが新聞社の 190 度、次が株式仲買の 115 度である。2.10 大
阪毎日新聞社編集総理原敬( 43 )が、電話開通により毎日新聞紙面に一大改革を加える必
要ありとして、社員会議を開き委員会を設け相談させる。以後、東京電話専門の電話速
記者を採用する。2.11 『大阪朝日新聞』が憲法全文の原稿を電報で送信して記事を掲載
する。以後、速記者若林の門下である時事新報社の矢野由次郎が、大阪三品取引相場な
どの決まりものや雑報の送稿に電話回線を利用して速記で受け、原稿用紙に清書する方
法を始める。矢野に続いて、速記者大沢豊子を雇い、場況(ばきょう)、終値など経済記
事を受講する。のちに、大沢は家庭欄の記者を経て、放送業界に転じてジャーナリスト
として活躍する。『
( 毎日新聞七十年』毎日新聞社、1952 、兼子次生『速記と情報社会』
中公新書、1999)11.11 付けで、三井銀行専務理事・鐘淵紡績会長の中上川彦次郎(なか
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みがわひこじろう)(45)は、自ら手紙でもすむところにも電報を多用していたが、鐘淵紡
績専務の朝吹英二と兵庫支店の武藤山治が頻繁に東京・大阪間の連絡に長距離電話を使
うのにクレームをつけた手紙を書く。長距離電話は〈内国無比の高価通信〉であるから
〈今後は書面を以って詳細に通信し、急を要するものは電報を以ってし 〉と再考を促す。]
(
『東京の電話』『中上川彦次郎伝記資料』東洋経済新報社、1969、石井寛治、1994 )
1899. 2. 1【日本】東京∼大阪間に電話が開通し 、
『東京朝日新聞』(東朝)から『大阪朝
日新聞』(大朝)に初めて電話送稿する。
1899. 2 . 8【日本】高等女学校令公布。
1899.2.11【日本】
『大阪朝日新聞 』が憲法全文の原稿を電報で送信して記事を掲載する。
送信に際しては、文字遣いまで片仮名で説明して送信したので、非常に長文の電報にな
る。
1899. 2.13【日本】民間が製造した葉書を、外国郵便に限り使用することが認められる。
ほとんどの国が通常と往復葉書の両方を認めたが、アメリカ、ギリシアなど 4 国は、通
常葉書に限定する。
1899.2.23【日本】鉄道国有調査会規則公布。
1899. 3. 1【日本】アイヌを「旧土人」と称した「北海道旧土人保護法」が公布される。
[1900.4.1 施行。以後、アイヌの救済を謳いながらも、アイヌの農耕民化を促すことに
なる。政府の強力な同化政策によって、長い伝統をもって培ってきた文化的風土はもと
より、アイヌ語を継承していくための条件さえ奪われる。1970 年ころアイヌ語を日常的
に用いている人はほとんどなくなり、わずかな古老が話せる程度になる。北海道ウタリ
協会や各地の心あるアイヌによって、アイヌ語学習のための講座が細々と開かれる。]
1899. 3 . 1【日本】電報発信人の氏名・住所を有料とする 。和文 15 字までを 20 銭とする。
1899. 3 . 1【日本】東京朝日新聞社で、伝書鳩の訓練を開始する。
1899. 3 . 2 【日本】特許法、意匠法、商標法が公布される。[ 7.1 施行。]
1899. 3. 4 【日本】初の著作権法が、法律第 39 号として公布される。1894 年イギリスと
の改正条約に〈日本国政府ハ日本国ニオケル大ブリテン国領事裁判権ノ廃止ニ先立チ,
工業ノ所有権及ビ版権ノ保護ニ関スル列国同盟条約ニ加入スベキ事ヲ約ス〉とあり,ド
イツなどとも同様の規定があり、著作権法の制定は日本が各国と結んだ不平等条約改正
の一条件となっていた。日本はベルヌ条約に加入すこととし、同時に、外国人著作物も
保護することを定める。福沢諭吉による copyright の訳語「版権」に代わり「著作権」
の語が初めて法律上用いられる。[以後 、
「版権」は廃語とされるが、〈翻訳権の取得〉
を〈版権独占〉などと 20 世紀末に至っても日常用いられる。7.15 施行。1908.11.13 政府
が、ベルヌ条約に調印する。1910.9.8 批准公布。]
1899.3.16【日本】官設鉄道の料金を改正し、距離比例制を遠距離逓減制とする。
1899.3.25【日本】郵便局所、切手売下所で、収入印紙の販売を始める。
1899. 4. 1【日本】郵便料金改正。第一種は 4 匁ごとに 3 銭、第二種の通常葉書は 1 銭 5
厘に値上げ。代金引換小包の金額制限を 50 円に。郵便物の容積を曲尺 1 尺 3 寸× 6 寸 5
分× 5 寸(従来は 1 尺 2 寸× 8 寸× 5 寸)とする。この頃第五種で盛んに用いられている
蚕卵紙のサイズに合わせて改正される。[以後、郵便の利用が低迷する。
]
1899. 4. 3 【アメリカ】安孫子久太郎(34)が、サンフランシスコで〈土着永住〉をスロー
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ガンに、従来の『桑港日本新聞』と『北米日報』を合併して、邦字日刊紙『日米 The
JapaneseAmerican News』(のち Japanese American )を創刊する。〈沿岸邦人の精神的統一
を計る〉などをうたう 。
[以後、代表的な日系新聞となる。1920 年、サンフランシスコ
の日系人口は 5385 人で 、
『日米』の発行部数は推定 6000 となる。(万年社所蔵の資料に
よる。)]
1899. 4.14【日本】秋田県告示により、秋田県立秋田図書館を設立する旨公示される。同
時に「秋田図書館規則」が交付される。[以後、秋田図書館は 4 月 14 日を創立記念日と
する。11.1 開館する。]
1899. 4 . −【日本】電話加入者宅に電話番号札を掲出させる。
1899. 5.15【朝鮮半島】日清戦争で鉄道敷設権を得た日本が、京仁鉄道㈱を設立する。社
長渋沢栄一。資本金 72 万 500 円。
[1900.7.8 京城(のち、ソウル)∼仁川間の京仁鉄道が
開業する。1902.12.30 京釜鉄道㈱に合併。
]
1899. 5.18 【オランダ】ロシア皇帝Ⅱ世(31)の提唱で、第 1 回国際平和会議がハーグで開
催される。日本を含む 26 ヵ国の代表が参加、列強間の軍備制限、国際紛争の平和的解決、
戦時国際上の諸問題などが討議される。[∼ 7.29 。
「国際紛争平和的処理条約」や「陸戦
の法規慣例に関する条約」等が結ばれる。1907.6 第 2 回開催。のち、この日を「国際親
善デー」と定める。1931 年、日本でも実施されるが、特に行事等は行われていない。
]
1899.5.25【日本】1 銭 5 厘葉書を発行する。
1899. 5.25【日本】山陽鉄道で、初の食堂車が登場する。大阪∼三田尻(のち、防府)間
の急行列車(下り 307 列車、上り 312 列車)に食堂付き一等車を連結し、日本で初めて食
堂車のサービスを開始する。車両は 3 軸ボギー車で、全長 15m、幅・高さとも 2.4m、重
量 21 嚶米トンで、車室は 3 部に分かれ、その 1 室に一・二等客専用の食堂を設け、厨房
内にレンジと流しを備える。車両中央に縦に置いた長いテーブルに 6 人ずつ向かい合わ
せに椅子を置く。他の 2 室は 8 人定員の一等寝室、および洗面所、便所、乗務員用であ
る。『汽車汽船旅行案内』に〈洋食調進・食堂車運転開始〉の広告を出す。メニューは
洋食のみで、料理は神戸の「自由亭」が請け負い、西洋料理 1 等が 70 銭、2 等 50 銭、3
等 35 銭、コーヒー 5 銭、菓子 6 銭、ビール 25 銭、ウエスケ(ウィスキー)・ブランデ・
ベルモット各グラス 15 銭などのメニューが用意される。列車の揺れが激しく、快適な食
事ができる状態ではないが、珍しさも手伝って好評を得る。[ 1901 年 12 月 15 日、官設
鉄道の東海道線新橋∼神戸間の急行列車にも食堂車が設けられる 。のち 、5 月 25 日を「食
堂車出発の日」あるいは「食堂車の日」とされる 。
]
1899. 5 . −【日本】製紙所連合会が、日本製紙所組合と改称する。
1899. 5 . −【日本】東京製紙会社が、日本で初めて製紙用フェルトを製造する。
1899. 5.−【日本】ロンドンの日本公使館付武官海軍中佐川島令次郎が、本国の海軍省に
宛て、イギリス・フランス・イタリア海軍が無線電信の実用化を着々と図っている様子
を伝え、無線電信は海上作戦上に益するところ大だから日本でも研究するようにという
意見書を送付する。[以後、日本海軍は、イギリスで建造中の一等戦艦敷島にマルコーニ
式無線電信機を搭載し艦員に技術を習得させて帰国させようと考え交渉すると、同無線
電信機がきわめて高価なうえ、特許料として 100 万円を要することが分かり、購入を断
念する。](『日本無線史』
- 630 -
1899. 5.−【日本】郵便用品研究参考室を逓信省内に設置する。[1902 年、郵便博物館に
発展する。1910 年、逓信博物館と改称する。1988 年、郵政研究所の設立に伴い、郵政研
究所附属資料館と改称される。
]
1899. 5.−【アメリカ】サンフランシスコの H.S.クロッカー社(H.S.Crocker Co.)が、アル
ファベット順、街区からの検索、仕事別のディレクトリーを出版する。
1899. 6. 1【日本】日本で初のニュース映画「米西戦争活動大写真」が、東京・神田の錦
輝(きんき)館で上映される。
1899. 6. 9【アメリカ】世界初の電気自動階段の第 1 号機が作られる。チャールズ・シー
バーガー C. D. Seeberger が特許を買い取り、製品として設計、完成させる。これは、踏
段の面にクリート(縦溝)がなく、乗り降りには長い水平部が必要であり、乗降口付近の
手すりは片側だけで、乗客は片側へ寄りながら横から乗り降りする構造である 。
[以後、
オーチス社が移動階段の試作を重ねる。1900 年、パリ万国博に「エスカレーター」の名
で出品、世界初公開する。
]
1899.6.20【日本】最初の日本製活動写真が、「日本率先活動大写真(ヴァイタスコープ)」
と称して駒田好洋( 22 )の説明により東京・歌舞伎座で公開される。これは、駒田好洋経
営の日本率先活動写真会の要望により、柴田常吉・浅野四郎らがゴーモン・カメラで、新
橋・柳橋など花柳界の人気芸者らの手踊りを片っぱしから撮影した、1 巻 70 フィートの
もので、弁士つきで昼夜 2 回開会する。観覧料は、上等桟敷 50 銭、普通桟敷 40 銭、上
等平土間 30 銭、普通平土間 20 銭、12 歳以下木戸場代共半額。[∼ 7.5。のちに、1899 年
が「日本映画の元年」とされる。]
1899. 6.−【日本】山梨女子師範学校が、生徒の体力養成実地修学の名目で、近畿地方へ
女生徒 15 人と職員の男女 7 人で旅行する。山梨県下の修学旅行に初めとされる。(??
1889.7.20 山梨県女子師範学校が修学旅行に出かけたという。??)
1899. 6.−【日本】日本最初の蓄音機専門店三光堂が、東京市浅草並木町に開店する。松
本武一郎、片山潜( 40 )、横山進一郎が共同経営する。アメリカ・グラフホーン会社の特
約店として同社の蓄音器の販売にあたる。またアメリカのコロムビア社の蓄音器の輸入
販売にもあたる。
1899. 6 .−【アメリカ】アメリカに留学中の海軍大尉秋山眞之(あきやまさねゆき)(31)が 、
海軍省軍事課長宛に、マルコーニの無線電信は将来重要な意味を持つから、今のうちに
清国や韓国と交渉して無線電信施設設置権を獲得しておくようにという意見書を送る。
[以後、この意見は閣議で賛同を得て、両国と外交交渉が行われるが、失敗に終わる。 10
月、海軍軍令部少佐外波内蔵吉に無線電信の技術開発の担当を命じる。逓信省電気試験
所と共同研究開発が行われる。1901 年、実験用の三四式無線電信機を完成させる。1903
年、改良機の三六式が作られる。1905 年、これが日本海海戦で使われ、連合艦隊の勝利
に導く。]
1899. 7. 1【日本】特許代理業者登録規則が施行される。施行細則に、特許局が書留郵便
で書類を送付するとき配達証明郵便にせよ、と規定される。
[1909.11.1 施行細則を変更
し、逓信省令で定める特別の手続きとされ、逓信省令で「第二号審判書類」は書留通常
郵便物の配達証明と同一の取扱とする。以後、
「第二号審判書類」という呼称からは「配
達証明」の取扱が含まれるかどうか分からないため、配達局では「配達証明」の手続き
- 631 -
をしなかったり、引受局の丸ノ内局に料金の適否の問い合わせが殺到する 。逓信省は〈配
達証明で取扱うこと〉と通牒を出して注意を喚起する。1912.3.1 特許法施行規則と逓信
省令を変更し 、
「書留配達証明」にしないで単に「書留」だけで郵便
を
差し出すことになり、最低 13 銭を要したのが 9 銭で済むようになる 。
]
1899. 7 . 1【日本 】大阪市南区の渡辺清三郎と村尾喜助が、
「人動車」を発明し、特許第 3623
号を取得する。[以後、人動車、運搬車、自走車、自転車、自動車、踏走車などの名称で
特許を取る者が多く出るが、いずれも成功しない。1999.7.1 弁理士制度 100 周年記念郵
便切手(額面 80 円)のデザインに、特許代理業者登録規則が施行された 1899 年 7 月 1 日
に特許となった渡辺らの「人動車」の解説図が描かれる。]
1899. 7. 4【日本】日本麦酒㈱が、東京・新橋際にビヤホールを開店する。ビールは恵比
寿ビールで、値段は半リテール(リットル) 10 銭、4 半リテール 5 銭。この日、800 人が
押し掛け、遠方から馬車で駆けつける者もあり、計 225 リテール売れる。
[以後、大評判
となり、連日満員の盛況となる。
]
1899.7.15【日本】初の著作権法が施行される。ベルヌ条約にのっとり、洋書の出版後 10
年間に翻訳しようとする場合は、原著作者の承諾が必要となる 。
[以後、翻訳の自由を
放棄したことで、関係者からは許諾手続もさることながら、原著作者に支払う使用料の
負担に耐えられないと猛反対が起こるが、政府に押し切られる 。
]
1899.7.15【日本】阪鶴鉄道が、福知山南口まで開通する。
1899. 7.17【日本】1894 年に調印した日英通商航海条約をはじめ、以後成立の改正条約
を施行する。外国人の治外法権が撤廃される。
1899. 7.17【日本】日本電気㈱が設立される。1998 年設立の日本電気(資)とアメリカの
ウェスタン・エレクトリック社(WE)(のち、ルーセント・テクノロジーズ社)との資本提
携により、日本初の外国企業との合弁会社となる 。
[以後、WE の電話機や交換機を輸入
販売する。のち、WE の先進技術と生産管理方式を導入し、日本最大の電話機メーカと
なる 。
]
1899. 7.−【日本】摂津電氣鉄道㈱が、阪神電氣鉄道㈱と改称する。
[1905.4.12 出入橋∼
三宮間を開業する。]
1899. 8 . 3【日本】私立学校令公布。
1899. 8.15 【日本】森永太一郎( 34)が、在米中に洋菓子製造法を修得して帰国し、森永西
洋菓子製造所を東京・赤坂に開設し、キャンデーやケーキの製造を始める。日本最初の
洋菓子店となる。[ 1902 年、キャラメルの製造を始める。1910 年に株式会社。1912 年、
森永製菓㈱と改称する。]
1899. 8.24【日本】万国郵便条約施行細則を改正する。日本が、経費分担において一等国
となる。
1899. 8.27【日本】東武鉄道㈱が、北千住∼久喜間で同社初の営業を開始する。2 時間間
隔で 1 日 7 往復の混合列車を運転する。
1899. 9 . 1【日本 】
『読売新聞』が、東京大阪囲碁電信大手合を発表する。
1899. 9 . 5【日本】北越鉄道㈱の直江津∼新潟間が開通する。
1899. 9.22【日本】文部省所轄研究所の臨時緯度観測所が、岩手県水沢(のち、水沢市)に
設置される。1880 年代に発見された極運動(地球回転の乱れの一側面)の解明のため、国
- 632 -
際測地学協会が「国際緯度観測事業」を組織し、世界各地の北緯 39 度 8 分上の 6 か所に
観測所を設置することとなり、国際測地学協会と日本国政府の条約に基づいてその 1 つ
として設置される 。
[12 月、緯度観測所が竣工する。初代所長木村栄。創設時の観測機
は眼視天頂儀だけが設置される。1920 年、正式に緯度観測所と改称される。以後、浮遊
天頂儀、写真天頂筒、アストロラーブなどの天文光学観測機による天文経緯度の観測お
よび人工衛星のドプラー観測などの新しい技術による極運動観測が行われる。
]
1899. 9.−【日本】柴田常吉が、際物活動写真『稲妻強盗捕縛の場』(別題『ピストル強
盗清水定吉』)を撮影、興業する。
1899.10.12 【南アフリカ】ボーア人の国家トランスヴァール共和国とオレンジ自由国が共
同してイギリスに宣戦布告して、第 2 次ボーア戦争が勃発する 。
[1900.9.1 戦争の大勢が
ほぼ決し、イギリスがトランスヴァールの併合を宣言する。この間、この戦況が活動写
真で撮影され、史上初めて動く映像で記録された戦争となる。
]
1899.10.15 【日本】浅草公園に、初の常設水族館ができ、開業式が行われる。
1899.10.15【ドイツ】ブレーメン出身の 2 人の詩人、R.A.シュレーダーと W.ハイメルが(O.J.
ビーアバウムらも???)、ミュンヘンで月刊文芸誌『ディー・インゼル』を発刊する。
これを契機にインゼル書店を創設する。[2000 年、リルケとホーフマンスタールの最初
の本を出版する。1902 年、インゼル書店を母体にインゼル会社 Insel-Verlag がライプチ
ヒに設立される。東西ドイツ分裂の時代は、西ドイツのフランクフルトと東ドイツのラ
イプチヒに分かれるが、統一後本社はフランクフルトに置く。1999.10.15 創立 100 年を
迎える。]
1899.10.27 【日本】東京市内の 22 の新聞社の印刷工らが、新聞工茶話会を結成する。
1899.11. 3【日本】本所・深川の印刷工らが結成した活版工同志懇話会を改組し、労使協
調の活版工組合を結成する。
1899.11.11 【日本】図書館に関する日本初の単行勅令、図書館令が公布される。公共図書
館を〈図書ヲ蒐集シ公衆ノ閲覧ニ供〉する施設と定義し、地方自治体や私人による図書
館の設立を認め、公共図書館においては閲覧料を徴集できるものとする。職員は「館長
及書記」とし、図書館職員の任免 、身分等についても規定する 。これまで「図書」を「づ
しょ」と読んでいたのを、この頃から「としょ」と読むようになる。[以後、佐野友三
郎(さのともさぶろう)( 1864 ∼ 1920)が秋田県で無料公開の原則をたてる。ほかに何人か
の館長が欧米型の図書館管理を実践する。1933 年、図書館令を全面改正公布。1946 年、
閲覧料はアメリカの勧告により廃止する。
]
1899.11.29 【日本】2 枚以上の切手を連続して貼った郵便物に対しては、郵便物が輻輳し
ている場合に限り、連続線と郵便物にかけて 1 個の消印を押印することとする。
1899.11. −【日本】印刷業労働者の組織「活版工組合」が、労資協調を理念として結成さ
れる。毎日新聞社長島田三郎を会長に、国家主義的社会政策学者金井延(かないのぶる)
らを名誉会員に迎える。組合員は 2000 人に上り、関東地方から近畿地方にかけて支部を
置く。[以後、鉄工組合、日本鉄道矯正会と並んで、日本における黎明(れいめい)期の労
働組合組織の代表的存在とみなされる。1889 年、ヨーロッパの労働者・社会主義者国際
連合(第二インターナショナル)が呼びかけた「8 時間労働日実現 」を実験的に取り入れ、
政府に対して〈労働者を卑しめれば国が滅びる〉と立場を鮮明にする。1900 年、治安警
- 633 -
察法公布の前後から経営者側の態度が硬化して、組合を離脱するものが増え、急速に衰
える。5 月に活動停止へと追い込まれる。](横山和雄『日本の出版印刷労働運動―戦前
・戦中編』1999)
1899.12.15 【日本】東京・神戸間に長距離通話サービスが開始される。
1899.12.16【日本】逓信省が、年賀郵便特別取扱制を試験的に実施する。東京では 12 月 20
日から 30 日までの間に指定局に持ち込まれる葉書に限り「一月一日イ便」(最先便)の日
付印を捺して、順次先送し、到着局においては到着印を省略してそれぞれ配達区分毎に
区分保管しておき、翌年元旦に最先便より順次配達することとする。これまでは年始に
殺到する年賀状に到着印を押すなどその処理に郵便局は苦慮してきたが、この頃、年末
に投函される年賀郵便が増えて、東京だけで 600 万通に達している。新聞に〈今年に至
り人智の開発と社交の増進の結果、歳一歳と年賀状の著しく増殖せるを見る〉などとあ
り、他の郵便物の処理に支障が出始めたことに対処する。[以後、この期間中に使用され
る日付印を「年賀印」と称し、特別取扱をしなかったものは「年始初日印」と称するこ
ととする。1900.12 公達で指定局のみでなく、必要に応じて全国的に取り扱ってよいこ
とになる。1905.12 公達で強制的に全国で実施することになる。1906.12.15 初めて全国的
に本格的な年賀郵便の特別扱いサービスを開始する。]
1899.12.30 【アメリカ】アメリカ電話電信会社(ATT)が、ベル電話会社と株式交換により
持株会社となり、本社をニューヨークに移転する。製造部門であるウェスタン・エレクト
リック、研究開発部門であるベル電話研究所、傘下の電話運営会社を統轄し、市外電話
業務を運営することとなる。[以後、積極的に競争企業の買収を進める。1913 年までに
巨大な独占企業に成長する。]
1899. 末 【日本】田中正平( 37 )が、脚光を浴びている輸入ガスマントルに対抗して、国
産マントルを試作する。輸入マントルに使用されている材料・薬品を研究し、植物ラミ
ーの茎からつくられる繊維を原料に作り上げる。裸火のガス灯の炎が黄色系であるのに
対して、ガスマントルを用いると白熱して独特の青色状を呈する。[以後、裸体の肌を美
しく見せるというので、大相撲の両国国技館の土俵上にルーカス灯を点灯して、力士た
ちの肌を美しく見せる。小間物屋、瀬戸物屋、呉服屋などでも、商品を見栄えよくする
ためにガス灯を用いる。]
1899. ○【日本】警視庁が、日本最初の道路標識として 、
「通行止 」、
「牛馬並荷車止」な
ど 8 種を制定し、10 本を市中に立てる。
1899.○【日本】郵便料金が、葉書 1 銭 5 厘、封書 3 銭に値上げされる。[以後、38 年間
基本的に据え置かれる。1937 年、大幅改正が行われる。]
1899. ○【日本】帝国教育会に、国字改良部が置かれる。
1899. ○【日本】早川鉄治が、立憲自由党機関の通信社、明治通信社を創立する。
1899. ○【日本】立憲自由党総裁星亨が、同党の主義主張を宣伝し党勢拡張の機関とする
ため 、自由通信社(自通)を創立する。自由党系の地方新聞社に政治ニュースを配信する。
1899. ○【日本】衆議院内に、初めて電話所(のち、公衆電話)を開設する。
1899. ○【日本】女子電話交換手の服装を、筒袖に袴とする。
1899. ○【日本】大師電気鉄道が、川崎の六郷橋から川崎大師に至る大師道(大師線)の上
に、参詣客を運ぶため、関東地方最初の電車を走らせる。この年、京浜電気鉄道㈱と改
- 634 -
称して、品川∼横浜間の本線および穴守線(のち、空港線)を建設する。1942 年、東京急
行電鉄㈱に統合される。1948.6 分離独立して、京浜急行電鉄㈱設立。
]
1899. ○【日本】この頃、各地の祭礼や縁日に蝋管式の蓄音機屋が現れ、大衆はゴム管を
耳に当てて機械の発する音を楽しむ。料金は 1 銭∼ 2 銭。
1899.○【日本】精工舎(のち、セイコーグループ)が、国産第 1 号の目覚まし時計を作る。
手巻き式で、鐘状の金属を打ち鳴らして音を出す。
1899. ○【日本】東京白熱電燈球製造㈱が、東京電気㈱と改称する。社長に藤岡市助が就
任。新しい電球製造機をアメリカから輸入し、製造技術の改良を図る。
[1905 年 1 月 8
日、アメリカのジェネラル・エレクトリック(GE)社と融資および技術提携の仮契約に調
印する。]
1899.○【スウェーデン】最初の広域文書館が設立される。主に市町村レベルの文書館で、
複数の自治体が共同で設置する。[以後、各地に設けられる。]
1899.○【スウェーデン】ユングナー W. Jungner が、ニッケル-カドミウム蓄電池を発明
する。正極に水酸化ニッケル Ni(OH)2、負極にカドミウム Cd 、電解液に水酸化カリウ
ム KOH を用いる。起電力は約 1.33V で、電池 1 個当たりの電圧はおよそ 1.2V ルトであ
る。[のちに「ユングナー電池」とも呼ばれる。1910 年ニッフェ社で工業化される。ア
ルカリ電解液を使用する蓄電池の代表的なものとなる。]
1899. ○【ノルウェー】ヨーハン・バーラーが、数枚の紙を綴じるために、紙に穴を開け
てヒモで結んだり、手にささりやすいピンを使う代わりに、いくつかのクリップの形を
考案する。[ 1901 年、アメリカで特許を取得する。この頃、すでに同様なアイデアがい
くつか登録されている。]
1899. ○【オランダ】ヤン・トーロップが、「スフィンクス」を描く。
1899. ○【オーストリア】グスタフ・クリムトが、「ヌーダ・ヴェリタス」を描く。
1899. ○【ドイツ】医学者ローレーデルが『マスターベーション』を著し、自慰の人体に
及ぼす危険性を警告する。
1899. ○【ドイツ】ダイムラー社が、自動車にアセチレンガス灯の明るいヘッドライトを
採用する。
1899.○【ドイツ 】ザールタール路面電車会社が、プロイセンのザールブリュッケン市で、
最初の路面電車が開業する。
[以後、約 200 両の電車が、同市を中心に半径約 15 ∼ 20km
の範囲にあるいくるもの谷間の郊外都市を盗んで走る。1965.5 人口減、自動車の増加、
炭鉱地特有の地盤陥没による線路の破損などで経営が悪化、路面電車を廃止する。代替
交通機関としてのトロリーバス導入するが、これもやがて廃止し、バスのみとなる。や
がてバスの増加で、中心部の交通混雑を再び深刻化させる。1997.10 路面電車を復活さ
せる 。
]
1899. ○【フランス】ロベール・ドマシーが、ゴム印画法によるヌード写真を発表する。
1899. ○【フランス】ゴーガン(ゴーギャン)が、「タヒチの二人の女」を描く。
1899.○【スイス】750V,40Hz の三相交流用電気機関車が製作される。世界初の交流電
気機関車とされる。
1899.○【イタリア】マルコーニ G. Marconi( 25 )が、昨年ロッジが発表した同調回路を導
入し、火花放電による無線通信の伝達距離を伸ばして 100km 離れたイギリスとフランス
- 635 -
の海峡横断通信に成功し、世界中にセンセーションを巻き起こす。
1899.○【フランス】カミュ・イエナッツィが、電気自動車で時速 105km を記録する。
1899. ○【イギリス】産業博物館が、サウス・ケンジントン美術館から独立して増築を開
始し、ビクトリア女王により名称を夫君アルバートの名とあわせて「ビクトリア・アルバ
ート美術館 Victoria and Albert Museum 」と改める。[以後、世界各国の作品を合わせて収
蔵につとめ、世界最大の工芸美術館になる。その運営は、建築・彫刻、陶磁器、家具・
木工、図書館、金工、東洋、極東、インド、染織・衣装、演劇博物館、絵画・版画・素
描・写真の各部門に分かれてなされている。入場無料で解放される。1996.10 初めて有料
化する。]
1899. ○【イギリス】世界最初の家庭用映写機材として、「ビオカム」が登場する。コダ
ック社の 35 ミリ幅のフィルムを 1/2 に断截した 17.5 ミリのフィルムをアマチュア用のフ
ィルムサイズとして採用したもので、映画の小型化,〈家庭化〉が始まる。[ 1932 年に 16
ミリ幅のフィルムを半截して 8 ミリフィルム(レギュラー 8)を誕生させる。]
1899.○【イギリス】フレミング John Ambrose Fleming( 50 )が、マルコーニ無線電信会社
で技術顧問をつとめる。[∼ 1925 年。この間、1904 年、フレミング管または熱電子管と
よばれる 2 極管を発明する。]
1899. ○【イギリス】メグソンが、アマチュア無線の活動を始める。
1899.○【イギリス】アメリカの女流舞踊家ダンカン Isadora Duncan( 21 )が、ヨーロッパ
に渡り、ロンドンで小さなリサイタルを開く。伝統的なチュチュやトーシューズは肉体
を束縛するものとして嫌い、透明な衣装を着けはだしで踊るが、認められるようになる。
[1990 年、パリで公演する。]
1899.○【イギリス】ロンドンで、第 1 回売春絶滅国際会議開催される。各国政府代表が
非公式に集まり、警察による取締り、宗教的救済などの対策を協議する。
1899.○【アメリカ】特許庁長官チャールズ・H・ドゥエルが、
〈発明可能なものはすべて発
明し尽くされた〉と発言する。
1899. ○【アメリカ】コネチカット州のウィリアム・ミドルブルックが、のちのゼムクリ
ップに似た用紙のとめ具の製造機を考案して、特許を取得する。
1899.○【アメリカ】パトナム Herbert C. Putnam が、議会図書館館長に任命される。[以
後、パトナムは議会図書館の職員体制を合理的な人事管理へと改善する。目録作業の集
中化にも意を用い、印刷目録カードの配布や『National Union Catalog』の編纂、議会図
書館を頂点とする図書館相互協力の実現にも力を注ぐ。
]
1899.○【アメリカ】国際ギデオン協会( Gideons International)が、聖書をホテル,病院,
刑務所などに寄贈する民間の伝道団体として設立される。
1899.○【アメリカ】エジソンが、ジェム型蓄音器を史上最低の 7.5 ドルで発売する。
1899. ○【アメリカ】イタリアのマルコーニが、ニュージャージー州にマルコーニ無線通
信会社を設立する。無線装置を備えた船舶から海岸へ情報を送るデモンストレーション
を行う。客船セントポール号に、初めて無線通信機装置を設置し、アメリカズ・カップの
レースの模様を 、
『ニューヨーク・ヘラルド』本社に無線中継する。これを各地の支社
へ有線電信で送信し、掲示板で速報する。[以後、船舶に続々とマルコーニ無線機が取り
付けられ、海岸無線局と交信が行われるようになる。1901.12.12 マルコーニが、モール
- 636 -
ス信号による大西洋横断無線通信実験に初めて成功する。]
1899.○【アメリカ】世界最初の映画撮影所「ブラック・マリア」の設計者、35 ミリフィ
ルムの発明者 W.K.L.ディクソンが、『フレッド・オットのくしゃみ』を撮影し、初めて
クローズアップの手法を使う。
[1900 年、写真家出身の G. A. スミスが『祖母の読書用
拡大鏡』でクローズアップの技法を使う。1901 年、スコットランドの化学者でイギリス
映画の先駆者 J. ウィリアムソンが『大食漢』で使用。1903 年、エドウィン・ S. ポーター
が『アメリカ消防夫の生活 』
、
『大列車強盗』の中でクローズアップを使う。1911 年、グ
リフィスが、『イノック・アーデン』で、ロングとフルサイズを主体にしたこの頃の映画
の描写の中に、決定的な 1 点を瞬間的にとらえて挿入することによって他のすべてを省
略する劇的なクローズアップを使う。(1908 年から 16 年間グリフィスに協力したカメラ
マン,ビリー・ビッツァー(1872 ∼ 1944 )の自伝的回顧録『ビリー・ビッツァー,ヒズ・ス
トーリー』(1973 )による。)1912 年、グリフィスが、メリー・ピックフォード主演『網を
繕う人』で初めてクローズアップを〈芸術的に〉使う。(映画評論家 H. A. ポタムキン
が 1930 年『シアター・ギルド』誌で指摘。)以後、クローズアップを「モンタージュ」の
一環として使い,映画を空間的束縛から解放したという意味では,グリフィスこそが真
のクローズアップの創始者とされる 。
]
1899. ○【アメリカ】ジェイコブ・ブラウンとクレイソン・ブラウンの兄弟が、カンザス州
アビレーンに電話回線を敷設し、独立電話会社を設立する。[1911 年、カンザスの他の
独立電話会社と合併して、ユナイテッド・テレフォン・カンパニーになる。 1971 年にユナ
イテッド・テレコミュニケーションズと改称。1985 年に GTE から GTE スプリントの株
式を 50 %取得し、両者の合弁会社として US スプリントと改称する。1992 年にユナイテ
ッドが GTE の持株を全部買い取り、社名をスプリントとする。]
1900(明治33)
1900. 1.16【日本】長距離電話が、東京∼京都間、横浜∼京都間、東京∼堺間などに開通
する。
1900. 1.17 【日本】大蔵省紙幣寮(のち、印刷局)の技術者 3 人が、最新式製版技術、エル
ヘート凸版法をもって民間で有価証券類の印刷をすることを計画し、凸版印刷(合資会社)
(のち、凸版印刷㈱)を創立する。資本金 4 万円。[1908 年、株式会社に改組する。]
1900.1.24【中国】台湾総督府が、台湾新聞紙条例を制定する。
1900. 1 . −【日本】グラフ雑誌の先駆『太平洋』が創刊される。
1900. 1 . −【日本】関西文庫協会創立。
1900. 1 .−【日本】日本楽器製造㈱(のち 、ヤマハ㈱)が 、ピアノの国産第 1 号を製作する 。
[以後、「ヤマハピアノ」の製造を開始する 。
]
1900. 2 . 8【日本・朝鮮半島】日韓両国間発着郵便物取扱方を制定する。
1900. 2. 9【日本】海軍に無線電信調査委員会が発足する。海軍はマルコーニ無線機を購
入しようとしたが、マルコーニは他社の無線機との交信を禁止していたので、購入を断
念し、調査委員会を設置する。逓信省などと折衝し、電気試験所の松代松之助、第二高
等学校物理教授木村駿吉(34)、ほか 1 人の割愛を得て、委員に委嘱する。[2.21 調査方
針を決める。2.27 第1回実験を海軍大臣山本権兵衛臨席の下で行う。1901.5 三四式無線
- 637 -
電信機の製造を始める。]
1900. 2.23【日本】函館の娼妓、坂井フクの廃業訴訟が、大審院で勝訴する。[以後、娼
妓の自由廃娼運動が活発となる。]
1900. 3 . 1【日本】札幌に、電話が開通する。
1900. 3.10【日本】治安警察法が公布される。政治的集会や結社の規制、労働・農民運動
の取締を規定する。[ 1916 年、労働者などの団結や争議行為そのものを事実上禁止する
第 17 条が削除される。1945.11.21 連合国最高司令部( GHQ)の命令で廃止される。]
1900.3.12【日本】郵便法、鉄道船舶郵便法公布。
[10.1 施行。
]
1900. 3.13【日本】郵便為替法公布。
「郵便貯金預所貯金」を「郵便貯金」と改称する。
1900. 3.14【日本】電信法公布。電信電話の政府管掌を明示する。電信条例を廃止する。
[10.1 施行。]
1900.3.16【日本】私設鉄道法、鉄道営業法公布。
[10.1 施行。
]
1900. 3.16【日本】郵便切手貯金規則が施行される。「郵便切手貯金台紙」が発行され、
希望者に無料で交付される。切手貼付欄に普通切手 20 枚( 4 × 5)が貼付できる。
1900. 3.23 【ギリシア】イギリスの考古学者エバンズ Sir Arthur John Evans( 49)が、クレ
タ島のクノッソスの王宮遺跡の発掘に着手する。[以後、40 年近く、壮麗なミノス王の
宮殿の発掘と復原に従事する。その間、従来知られていなかったミノス宮殿の実態を解
明し、ミノス文明の時期区分を確立し、前ミノス文化の存在をつきとめる。また、ミノ
ス文字の解読に挑戦して、ミノス文明の究明に偉大な功績を残す。1909 年、オックスフ
ォード大学教授となり弟子を養成する。]
1900. 4. 2 【日本】文部省が、前島密(ひそか)(65 )、上田萬年(かずとし)(33)ら 6 名に国
語調査委員を委嘱する。委員長に前島密。[4.16 文部省で第 1 回国語調査会を開く。
1902.2.8 最終回開催。1902.3.24 国語調査委員会官制公布。]
1900. 4 . 6【日本】長崎県が、乗合馬車営業規則を定める。
1900. 4. 8【日本】官設鉄道の山陽鉄道㈱が、大阪∼三田尻(のち、防府)間の急行列車に
初めて寝台付き 1 等食堂合造車を連結、使用を開始する。寝台車の初め。寝台定員は 16
人(一説に 20 人)。寝台料金 1 人 2 円。ベッドは上下 2 段式で、列車の進行方向と並行の
向きに並べられ、カーテンを付け、豪華な内装が話題を呼ぶ。[夏、蚊帳を貸し出す。10.1
東海道線新橋∼神戸間急行列車にも 2 段・1 室 4 人用 1 等寝台車を連結、使用を開始す
る。12 月 1 日、スチームヒータの使用を開始する。]
1900. 4.14【フランス】パリ万国博覧会が開幕する。パビリオンがこの頃絶頂期を迎えて
いたアールヌーボー様式の建築美で彩られ、電車や数々の大型工業機械類が展示される。
高架鉄道や歩く歩道が登場し、来場者の人気を集める。フランスのリュミエール兄弟に
よる 30m × 40m の大型映像、ベルギーの G.サンソンによる全周映像「シネオラマ」、発
声映画「フォノラマ」などが公開される。また、プールセンによる初の磁気録音機が出
品され、グランプリを受賞する。アメリカのオーチス社が、世界初の電気移動階段を「エ
スカレータ」の名で出品し 、注目を浴びる。日本からは、工芸品のほかに、黒田清輝(34 )
の絵画『智・感・情』などを出品する。[6.25 アメリカからヨーロッパに渡り公演中の川
上音二郎(36)一座が、人気ダンサ、ロイ・フラーの招きで参加出演する。貞奴(29)と音二
郎が演じる『芸者と武士』がエロティシズムをただよわせた異国趣味をかき立てて人気
- 638 -
を博す。全会期を通じて入場者 5000 万人を集める。この間、オリンピック第 2 回大会が
パリ万国博覧会との合同イベントとして開催される。21 ヵ国が参加するも、オリンピッ
クへの無理解からきわめて低調に終始する。
]
1900.4.20【日本】秋田県が、荷車取締規則を制定する。
1900.4.24【日本】東京株式市場が大暴落する。各地に金融恐慌が起こる。
1900. 4.25【日本】神戸市に滞在するイギリスの博物学者スミス Gordon Smith( 42)が、こ
の日の日記に〈警察署長が電話を利用して担当管区の情報をしきりに収集している。日
本では常に、彼らの忠告を受けるのが賢明で、気晴らしにもなるし、情報としても有益
な面白い話がたくさん入ってくる〉と書く
1900. 4.−【日本】佐野友三郎(36)が、秋田県立図書館第 2 代館長に就任する。
[以後、
欧米型の図書館管理を実践し、無料公開の原則をたてる。県立 1 館では全県民への図書
サービスはできないとし、2 年間で 7 郡に郡立図書館を設置する。1902.10.25 日本で初
めて県立館から郡立図書館へ本を送る巡回文庫を実施し、閲覧料も無料とする。1903 年 3
月、山口県立図書館初代館長となる。1904.1 山口県立図書館でも巡回書庫を開始する。]
1900. 4 . −【日本】『妖怪学雑誌』が創刊される。
1900. 4.−【日本】海軍が、無線電信の調査委員会を 2 月に発足させ、マルコーニらの情
報にもとづきながら実験を進めるとともに、独自の機器の開発に着手し、横須賀の兵器
工場や、逓信省の電信燈台用品製造所で製作させ、これによって軍艦相互の交信実験を
試み、18 マイル(約 30km)の距離で成功する。[ 1901.10 無線電信器を正式に兵器として
採用する。]
1900. 4.−【日本】横浜のアメリカン・トレーディング社が、アメリカ製蒸気自動車「ロ
コモビル」1 台を輸入する。日本の自動車の歴史が始まる。在日アメリカ人トンプソン
が買い取る。(???この項、要チェック!!)
1900. 5. 1 【日本】東京電気鉄道㈱が設立される。[1904.12.8 土橋∼御茶ノ水間に電車運
転を開始する。]
1900.5.10【日本】皇太子嘉仁親王(のち、大正天皇)と九条節子姫の成婚式が挙行される 。
サンフランシスコ日本人会が、電気自動車を献上する。日本最初の渡来自動車となる。
1900. 5.10【日本】大和田建樹作詞、上真行・多梅雅(おおのうめわか)作曲『地理教育鉄
道唱歌』第 1 集が刊行される 。
〈汽笛一声新橋を……〉で始まる。
[11 月、東京から神戸
までの東海道線の 66 節、全 5 集が完成、公刊される。他に上眞行作曲のものもあるが、
多梅稚作曲の曲が一般に爆発的に広がり 、
『鉄道唱歌』として愛唱され、明治最大のヒ
ット曲となる。1957 年、新橋駅前に「鉄道唱歌の碑」が建立される。
]
1900. 5.24【日本】内務省が、省令で男女混浴禁止の年齢を 12 歳以上とし、初めて年齢
制限を明確化する。これまでも明治新政府が明治 2 年、5 年、8 年と重ねて禁止令を出し
たが守られず、年齢制限を設けることによって取り締まりを厳格化する。また、18 歳未
満の者の娼妓になることを禁止する。
1900. 5.25【日本】東京市が、市役所吏員の出張巡回に人力車に代え、自転車の使用を開
始する。
1900. 6.12【日本】鉄道作業局が、初めて女子雇員 10 名を採用する。鉄道における女子
職員の始め。
- 639 -
1900. 6.21【日本】警視庁が、自動車の増加に対処して道路取締規則を制定する。この規
則で初めて左側通行を採用する。
1900. 6.26【日本】宮内省が、帝室博物館官制を公布する。東京、京都、奈良の帝国博物
館が帝室博物館となる。[のち、国立博物館となる。
]
1900. 7. 1【日本】長距離電話が東京∼名古屋、大阪間に開通する。新聞原稿の送稿にも
使われ始める。
1900. 7. 2 【ドイツ】ツェッペリン Graf Ferdinand von Zeppelin ( 62)が、初めて実用に適す
る飛行船を完成する。1891 年中将で退役すると、私財を投じて、空気抵抗をアルミニウ
ム合金骨格へ布を張った外殻で受け、浮力を内蔵ガス袋によって得る、高速航行が可能
な硬式飛行船の開発に着手し、LZ 一型「21 号」を建造する。長さ 128m、直径 12m 、ガ
ス容積 1 万 1300 立方メートル、12 馬力エンジンの双発で、ツェッペリン自ら船長とし
て飛行する。[以後、失敗を重ねながら改良を進める。1910 年 6 月 22 日、国内のフリー
ドリヒスハーフェン∼シュトゥットガルト間約 480km を、20 人の乗客を乗せての航空輸
送を開始する。1910 年∼ 14 年の間に、5 隻の飛行船が、無事故で延べ 3 万 5000 人の乗
客を国内輸送する。]
1900. 7 . 2 【スイス】万国郵便連合創立 25 周年記念式典が、ベルンで挙行される。
1900. 7. 8【朝鮮半島】京仁鉄道㈱が、京城(のち、ソウル)∼仁川間の京仁鉄道を開業す
る
1900. 7.16【フランス】第 22 回万国著作権会議が、パリで開催される。パリ留学中の東
京帝国大学法科大学助教授山田三良(さぶろう)( 31)が、日本代表の出席は不可欠として、
折からパリ万国博見物のためパリに滞在中の博文館編集代表大橋乙羽を誘い合って、会
議に出席する。会議議長や書記長は、未だかつて代表者の出席を見なかった日本から代
表者が初めて出席した、と歓迎する。[7.20 会議 5 日目、山田が登壇し、フランス語で
〈10 年間翻訳をすることができないなどとは、実に日本の文明進歩に一大妨害を与える
ものだ〉と主張し、
〈日本人が西洋語を習得するには、まず 10 年はかかる。日本語訳は
原著作者に対しいささかも実害を加えないのみでなく、返って原書の講読を増加させる〉
との論法を展開、翻訳権を保護しない実益を説く。11.1 大橋と乙羽の報告が『太陽』11
月 1 日号に掲載される。乙羽の演説に対して〈一人として首肯せざるものなく、拍手喝
采する者さへ有りたりき〉と書く。]
1900. 7.20【フランス】パリ人類学協会が、パリ万博を訪れた世界の人々の音声をロウ管
に録音する。日本の東京・新橋の料亭のおかみらしき女性の日常会話などもロウ管数十
本に録音する。[以後、8 月 31 日にかけて、17 歳から 55 歳の日本人の芸者や貿易商らが
聖書や舞台のせりふを朗読が録音される。中には徳富蘇峰の弟子の評論家人見一太郎と
見られる聖書朗読も行われる。2002 年秋、日本女子大教授(日本語学)清水康行や東京外
語大助教授(言語学)豊島正之らの共同研究により、パリの民族音楽学研究所でロウ管 14
本、計約 35 分の録音が確認され、現存最古の日本語音声とされる。40 歳前後の女性の
〈やりつけない洋服で行ったってもんでさ。そうしるとね、足ィ豆ェこしらいちまった
ん〉という声は、清水の調べで、芸者一行を引き連れてパリ万博のアトラクションに出
演していた新橋・烏森の料亭「扇芳亭」のおかみの岩間くに、と判明する。]
1900. 7 . −【日本】文部省が 、
『図書館管理法』を刊行する。
- 640 -
1900. 8.20 【日本】小学校令が全面的に改正される。尋常小学校を 4 年制に統一、義務教
育の授業料は無料となる。
1900. 8.21【日本】文部省が、小学校令施行規則を制定する。教育課程を国定とし、教科
を整理して国語科を作る。1 音に対して 1 つの仮名の字体を定め、標準の字体以外の変
体仮名などの異字体の使用を制限する。また、字音仮名遣いを改訂し、漢字の数をおよ
そ 1200 字に制限する 。[ 1940 年、活版印刷業界で、変体仮名活字の廃棄運動が起こる。]
1900. 8 . −【日本】初の自転車専門月刊誌『自転車』創刊。
1900. 8 . −【日本】木村駿吉が、海軍で研究した音響無線機が完成する。
1900. 8.−【フランス】この頃、ロンドンの蓄音機メーカ、イギリス・グラモフォン社(の
ち、EMI)の技師 2 人が、パリ万博に参加出演していた川上音二郎(36)一座の「オッペケ
ペー」や民謡「こちゃ江婦志(えぶし) 」
、シェークスピア劇の翻案「才六 人肉質入裁判
白州之場」などを録音する。録音は、ベルリナー盤と呼ばれるシェラック製平円盤 1 枚
に 1 曲ずつ収められる。[以後、川上音二郎の外遊録には、この録音の事実は記載されな
い。1987 年ころ、アメリカ・ユタ州のブリガム・ヤング大学準教授・日本文学研究者ス
コット・ミラー( 38)が、イギリスの EMI の資料室でこのベルリナー盤 29 枚(30 枚)の存
在をマイクロフィルム化されたカタログで発見する。約 10 年後、レコード・アーカイブ
に保存されていたレコードに「1900.8.23 」などと手書きされた文字から、現存する日本
人の音声の最古の録音盤とされる。1997 年、東芝 EMI から、熱で変形した 1 枚( 2 枚)を
除き、28 曲全部を復刻し、ベルリナー盤 100 年記念の CD 盤『甦るオッペケペー』とし
て発売する。(『朝日新聞』(夕)1998.1.10)、
「テレビ朝日」1998.1.29「ニュースステーシ
ョン」では 30 枚、うち 1 枚の破損は甚だしい 。
)2002 年秋、日本女子大教授清水康行ら
の調査により、
さらに約 1 カ月古い日本人の音声を収めたロウ管があることが判明する 。
]
1900. 9. 1【日本】逓信省が、電報規則を制定する。ウナ(至急報)などの略号が指定され
る。
1900.9.10【日本】残暑が厳しいため、東京馬車鉄道の病馬が 500 頭に達する。
1900.9.11【日本】逓信省が、私書函貸与規定を制定する。
1900. 9.11【日本】逓信省が、電話の積滞とそれによる電話価格の暴騰緩和対策の一環と
して、「電話呼び出し」の取扱いを開始する。加入者は自分の電話で、非加入者は最寄
りの電話所窓口で相手(非加入者)の呼び出しを請求すると、そこから相手の最寄りの電
話所にその旨を通報してくれる。通報を受けた電話所は通話料前納証書(裏面は有効期間
7 日の呼出通話券)を発行し、相手宅へ配達する。呼ばれた人はそれを持って適当な電話
所へ出頭し、呼んだ人と通話する。呼出料手数料は 、市内 10 銭、市外・長距離が 25 銭、
それに通話料が加算される。[以後、この年 6600 度数。1910 年、利用度数が 58 万に達
する。]
1900. 9.11【日本】逓信省が、電話積滞対策の一環として、電話所だけに置かれていた電
話機を街頭に持ち出すこととし、東京の新橋駅構内(中等待合室前)と上野駅構内(駅長室
前)および熊本市内にそれぞれ 1 台ずつ設置する。日本初の本当の意味での公衆電話機と
なる。「自働電話」と称するが、実際は電話口から相手の名を申し入れ、交換手が〈お
金を入れなさい〉というと硬貨を投入し、その音が確認され次第相手につながるという
もの 。料金は 5 分間 15 銭で、10 銭と 5 銭硬貨を投入して使用する。
「自働電話 」の名は、
- 641 -
アメリカ製の街頭電話機に「Automatic Telephone」と書かれており、これを直訳したも
のと考えられる。電話交換は手動だが、磁石式電信機に料金投入・収納装置を付け、電
話所のように窓口で職員がいちいち郵便切手で料金徴収をしなくて済む、というのが自
働の由来とされる。利用者が投入した硬貨が管を通過して底部の金庫に落ちる寸前、5
銭の場合ゴングを「チーン」と高音で、10 銭の場合は別の仕掛けを「ボーン」と低音で
鳴らして交換手に投入完了を知らせる。この音から料金徴収装置は「チーン・ボーン式」
と名付けられる。[10 月 、東京・京橋の橋畔に日本初の電話ボックスが設置される。1901.6
設置場所が 11 カ所に増える。一般庶民は、高い自働電話を敬遠して、馴染みの加入者の
電話を〈ちょっと拝借〉するようになる。定額制のため何回借りても何分使っても金銭
的な追加はないので、自営業者などは顧客獲得のために気軽に電話を貸す。1925 年、電
話が交換手を必要としないダイヤル式になり 、「公衆電話」と呼ばれるようになる。
1982.12 硬貨を投入しなくてもよい磁気カード式公衆電話の設置が始まる。9 月 11 日は
「公衆電話の日」とされる。]
1900. 9.13 【日本】日本鉄道㈱の作業員の事故死が半年間で 131 人を数え、警視庁が調査
に乗り出す。
1900. 9.14 【日本】津田梅子( 36 )が、華族女学校、女子高等師範学校両校の教授を辞し、
東京・麹町に女子英学塾を創設、開校式を行う。塾は 6 畳 2 間の間借りで、教師 7 人、
生徒は 10 人。「女性の全人教育( all round woman)」をめざし、英語教育をとおして女性
の視野を広め国際人としての教養を高めるとともに、中等学校英語教師の養成にのりだ
す。
[以後、津田梅子は英語教科書や英文学書の出版なども行う。1904 年、専門学校に
昇格 。1931 年 、小平に移る。1943 年、理科を増設し、校名を津田塾専門学校と改める。1948
年、新制大学に移行し、津田塾大学として新発足する。1963 年、大学院を設置する。
]
1900.9.14【日本】群馬県が、自転車取締規則を公布する。
1900.9.20【日本 】大阪馬車鉄道が、天王寺西門前∼東天下茶屋間の運行を開始する。[11.29
上住吉まで開通する。]
1900. 9.29【日本】逓信省が第三種郵便物認可規則を制定する。手数料を徴収することと
し、許認可の権限を一等局長に委任する。
1900. 9 .−【日本】逓信省が、電話呼出しの取扱いを開始する。料金は市内 10 銭。
1900. 9.−【日本】サンフランシスコ在住の日本人有志たちが、皇太子殿下のご成婚を祝
して、醵金して 3000 ドルで電気自動車(「ウッヅ」と思われる)を購入して献納する。オ
ートモビールあるいはロコモビールと呼び、高田商会電気部長広田精一が宮内省の依頼
により青山練兵場で試運転を行う。宮内省は、危険な乗り物であるとして、東宮御所の
一隅に放置したまま皇太子殿下の乗用に至らず、日の目を見ずに終わる。(一説に、高田
商会が組み立て、東京・三宅坂で試運転したところ、皇居の濠に落ちてしまった、とい
う。???)
1900. 9.−【日本】救世軍と二六新報社が、新吉原で廃娼運動を展開し、再三流血事件が
起こる。
1900.10. 1【日本】郵便法と鉄道船舶郵便法が施行される。従来の郵便関係法規類を整理
して、郵便の基本法が整備される。価格表記郵便、低料約束郵便(通称、約束郵便)、現
金取立郵便、私書箱制度などが開設される。約束郵便は、定期刊行物、継続印刷物を一
- 642 -
度に多数差し出すもので承認されたものを低料金一括後納で引き受ける。また、内国用
のみの封緘(ふうかん)はがきが初めて発行される。表面にははがきと同じように 3 銭の
料額印面が印刷され、内側に通信文を書き、折りたたみ封をして発送する。さらに、官
製に限られていた葉書の他に、私製葉書が認められるようになる。これに貼るための 1
銭 5 厘切手も発行される。[以後、早くもこの年、少年雑誌『今世少年』の付録として、
少年がシャボン玉を吹いている絵柄の絵葉書が初登場する。以後、美しい図案や写真を
施した葉書の私製が盛んになる。民間の業者が全国の名所絵葉書や、美人葉書、年賀葉
書などの製作、販売に乗り出す。雑誌の付録にも絵葉書が登場する。年賀状の交換にも
拍車がかかる。絵葉書の絵画や写真は、最初の規則によれば、裏面に限られ、表面には
名宛(なあて)人と差出人の住所、氏名しか書くことはできない。 1907 年 4 月から、表面
の下部、3 分の 1 以下に通信文を書くことができるように改正される。1918 年 4 月から、
通信文を書きうる範囲が 2 分の 1 に拡大され、絵葉書の使用はすこぶる便利となり、ま
すます流行するようになる。1947 年、封緘はがきは 、新郵便法の実施に伴い廃止される。
代わりに簡易書簡が発行される。のちに簡易てがみと名称を変える。1966 年 7 月、体裁
を変えて 15 円 2 種が発行され、名称も郵便書簡(愛称「ミニレター」)とする。]
1900.10. 1【日本】電信法が施行される。
1900.10. 1【日本】私設鉄道法と鉄道営業法が施行される。]
1900.10. 2【日本】内務省が、娼妓の自由廃業運動の活発化に対処して、娼妓取締規則を
定め、公布する。内務省令第 44 号に、娼妓は名簿に登録し、警察の取締りを受けること
とする。また、警察官署の許可を得なければ外出することを禁じる。逃亡者は犯罪人で
あることが明確化される。
1900.10.10【日本】逓信省令第 77 号電信法を無線電信に準用する件が公布・施行される。
無線電話の政府専掌を明示する。
1900.10. −【日本】自働電話(公衆電話機)が、東京・京橋の橋畔にも設置される。「自働
電話」と大書された六角錘型白塗りボックス内に設けられ、日本最初の電話ボックスと
なる。1 通話 15 銭。
[1901.12.16 日本銀行前など 17 カ所に京橋と同じ造りの施設が設置
される。以後、飯田町、四谷、浅草公園など 30 ヵ所に増設される。
]
1900.11. 5【日本】文部省が、上田萬年ほか 10 名に調査を委嘱した羅馬(ローマ)字書き
方の報告書を発表する。[5.13 総務局図書課から『羅馬字書方調査報告』が刊行される。]
1900.11. 7 【日本 】
『明星』第 8 号に、フォン・ワイマール von Weimar、ゲーテ J.W.Goethe
らのヌード挿絵を掲載し、発禁処分を受ける。(『芸術新潮』1992.8)
1900.11.11 【中国】ロシアが、李鴻章との協定で、満州占領地域の独占的権益を得る。
1900.11.12【イギリス】日本海軍拡張計画の最後の戦艦が完成し、
「三笠」と命名される。
1900.11.25 【日本】江之島電気鉄道㈱が創立される。資本金 20 万円。[ 1902.9.1 藤沢∼片
瀬(のち、江ノ島)間開業。日本で 6 番目の電気鉄道となる。1910.11.4 藤沢∼小町(のち、
鎌倉)間全線開業。1911.10.3 横浜電気㈱が江之島電気鉄道を吸収合併。1921.5.1 東京電
灯㈱(のち、東京電力㈱)が横浜電気を吸収合併。1926.7.10 江ノ島電気鉄道㈱設立。資本
金 100 万円。1928.7.1 東京電灯より同社江之島線(江ノ電線)を譲り受け営業開始。]
1900.12. 1【日本】東海道線新橋∼神戸間急行列車の車両に、スチームヒーターがつけら
れ、使用を開始する。これまでは火鉢を使用していた。
- 643 -
1900.12.14【日本】専売合資会社(東京市京橋区(のち、中央区銀座 4 丁目))が設立される。
日本鉄道㈱の矯正会に属する機関手小沢直道が特許をとった暖房器具(1899 年 6 月 13
日、特許第 3557 号)の製造販売と、内外専売特許品の委託製造販売、発明品の審査およ
び意匠相談、販売請負を目的とする。社長に日本鉄道会社乗客課教育係長を辞めた松井
民治郎( 35)が就任する。[以後、ブルウル兄弟商会横浜支店から輸入自動車の販売を委託
される。1901.11 松井民治郎が、モーター商会を設立する。]
1900.12.17 【日本】年賀状郵便物特別取扱規程が制定される。
1900.12.24 【日本】大阪府が、自転車取締規則を公布する。
1900.12.28 【日本】逓信省が、東京、大阪、横浜、神戸、長崎の各郵便局とその市内局で
丸二型日付印を試験的に使用することを公達する。円形を 2 本の横線で 3 分しているこ
とから「丸二型」と呼ばれる。[以後、樺太、台北および軍事郵便の野戦局でも使用さ
れる。1905 年、試用を中止する。
]
1900.○【世界】この頃、世界人口が約 16 億人になる。[以後、世界人口はこれまでの人
類の歴史とはまったく異なる異例的な増加趨勢に転じる。]
1900. ○【日本】衆議院図書館が設置される。初代館長を秘書課長神山閏次が兼任する。
(国立国会図書館年表による。月日不詳)
1900. ○【日本】本の箱を製造するためドイツから製函機械が輸入され、釘金綴じの函が
つくられる。[この年、大橋乙羽『欧山米水』に、金銀の蔓草模様をあしらった美しい
貼り函が付けられる。以後も、書籍の函は長い間貼り函が主体になる。1910 年ころから
機械函は学術書などに使用され始める。](紀田順一郎『本の小事典』)
1900.○【日本】東京のガス街灯の設置基数が 1187 基、石油灯は 5639 基となる。
1900.○【日本】公共図書館が、公立 16、私立 27、計 43 となる。(小黒浩司『図書及び
図書館史』)
1900.○【日本】たなべ図書館が、和歌山県田辺町に開館する。[ 1942 年、市制施行、田
辺市立図書館となる。公民館、警察庁舎跡に移転。1963 年、田辺市上屋敷町に移る。]
1900.○【日本 】鉄道に回数券が登場する。記名式と無記名式の 2 種が発行される 。
[1942
年、すべて無記名式になる。
]
1900.○【日本】電話交換手が、
年度末に東京本局・浪花町・新橋・番町の 4 電話局に女 330
人、男 100 人が勤務している。[ 1901.5.10 男子交換手が廃止される。]
1900.○【日本 】逓信省電気試験所が、千葉県八幡に 42m の送信アンテナを立て、海上 10
マイル(約 16km)を隔てた津田沼の 16m のアンテナで無線通信の受信に成功する。
1900. ○【日本】逓信省電気試験所が、東京湾を越えて千葉県津田沼と神奈川県大津(の
ち、横須賀付近)の間約 30 海里(約 56km )の無線通信に成功する。
1900. ○【日本】丸善が、アメリカ製英文タイプライターを輸入する。
1900. ○【日本】唐行きさん引き揚げ促進のため、日本基督教婦人矯風会が東京・大久保
に慈愛館を建設する。
1900.○【日本】ビール王、馬越恭平( 56 )が、あるアメリカ人のすすめにより初めてスワ
ッピングを体験する。(駒田信二「綺譚 明治三十三年のスワッピング」)
1900.○【中国】商務印書館が、中国初の紙型を使った印刷方式を導入する。[ 1902 年、
印刷所、翻訳所、販売所を設立し 、総合出版社を目指す。1909 年 、図書館を併設する。]
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1900.○【イスラエル】この頃、パレスチナに、いったん消滅したヘブライ語が復活する。
ユダヤ教徒によって文字言語として継承されてきたヘブライ語が、啓蒙主義(ハスカラ)
に刺激され、エリエゼル・ベン・イェフダ Eliezer Ben Yehuda (1858 ∼ 1922 )らの献身的な
努力によって、日常語(現代ヘブライ語 Ivrit)として復活する。[以後、イスラエル国の公
用語となる。1980 年代には 300 万人近くが話している 。
]
1900.○【スウェーデン】国立機関の記録の移管保存を定めた法令が公布される。同時に、
〈出所が同一の記録・史料を他の出所のそれらと混在させてはならない〉という「出所
原則 principle of provenance」が導入される。
]
1900.○【オーストリア】精神科医フロイト Sigmund Freud( 44)が、夢に関する最初の学
問的・体系的な研究を行い『夢判断』を出版する。彼は、夢は無意識が表出したもので
あり、したがって夢の探究は無意識に至る王道と考え、夢の機能ないし目的は、抑圧さ
れた「願望の充足」であるとする。
1900.○【ドイツ】プランク Max Karl Ernst Ludwig Planck( 42 )が、量子仮説を導入し、初
めてエネルギーの不連続性を唱える。量子論の始まりで、光と電波の性質の解明に曙光
をもたらす契機となる。
1900. ○【ドイツ】ダイムラーが、車名を「メルセデス」と改める。この年の冬、すでに
死の床にあったダイムラーが、マイバッハの助けを借りて生み出した最初のメルセデス
車は、車軸をよけてカーブした低い鋼製のフレーム、半楕円板ばねの足回り、円ハンド
ル、蜂の巣状のラジエーターなどをもち、近代的な自動車の基本形を確立している。
1900.○【ドイツ】メルクリンMロ rklin 社が、電動モーターで駆動する鉄道模型を発売す
る。[ 1901 年、アメリカのライオネル Lionel 社も発売。1930 年代に普及するようになる。]
1900. ○【フランス】タイヤ・メーカのミシュランが、旅行ガイドブック『ギド・ミシュラ
ン Guide Michelin』を創刊する。空気入りタイヤの発明者アンドレ・ミシュランが、自動
車用地図と自動車用旅行案内書の発行を思い立ち、フランスの旅行およびホテル,レス
トランの案内書を編集・発行する。内容は、自動車の宣伝、タイヤの取替法、アルファ
ベット順地名による各地の案内、電話・電信、ガソリンスタンドの所在地、優秀な外科
医の住所などのリストを掲載する。
[以後、毎年 2 月末日に刊行を続ける。1911 年、ア
ンドレは、自動車用道路標識と道路の番号付けを推進する。1926 年、優れたホテル・レ
ストランに☆印を付ける。翌年から 2 つ☆をつけ、のち 3 つ☆となる。便利さと記述の
正確さ,いっさい他社の広告を載せない判断の中立的厳正さで利用者から高く評価され
る。旅行案内は縦長の緑表紙で「ギド・ベール」とも呼ばれる。ホテル,レストランの案
内は赤表紙で毎年改版され,店の評価も秘密の調査員によって査定が変わり、店側の奮
起をうながす契機にもなる。2000 年 2 月末、創刊 100 年の記念号が刊行され、付録に第 1
号の復刻版が付けられる。第 1 号は 9cm × 12cm ×約 1cm の小冊子で、101 号は 11cm
× 18cm × 5cm 、1700 ページの 1 大冊となる。
]
1900.○【フランス】 「裸足の舞姫」の異称をとる舞踊家ダンカン Isadora Duncan (22)が、
パリ公演で成功を収める。しかし、裸足でダンスをするのはわいせつだとの非難の声も
あがる。[以後、ブダペスト、ベルリン、ロシアなど各地を巡業。透明な衣装を着け裸足
で踊るので、各地でスキャンダルとして受け取られる。]
1900.○【イタリア】マルコーニ G. Marconi(26)が 、国際海上通信会社を設立する。また 、
- 645 -
同調による送信方式の特許を得る。[以後、ラジオにも発展する。]
1900. ○【イギリス】俳優ルイス・ウォラーのファンが、
「ウォラー騎士団」を作る。会員
は彼の出演する芝居の初日には必ず劇場に行くこととする。世界最初のファンクラブと
なる。
1900. ○【イギリス】大英博物館で、図書館の図書目録が完成する。近代的な冊子型書目
の第 1 号となる。
〔イタリア生まれの文学史家パニッツィ Antonio Panizzi( 1797 ∼ 1879 )
が、1823 年イギリスへ亡命し、1831 年大英博物館の司書となる。この時同館では蔵書約 20
万点の分類作業が行われていたが、彼は〈分類の客観的基準がはっきりしない〉との理
由で中止させ、
「91 の規則」作り、1939 年からやり直し作業に入る。彼は 1856 年に図書
館長[∼ 1866]となるが、完成を見ることなく亡くなる。
〕
1900.○【イギリス】ブーツ J.Boots が、自己所有の各地の薬剤店 chemist shops に貸本文
庫をつけ加える。ブーツとスミスの両人の貸本文庫の支店を併せると 1000 店の貸本文庫
チェーン・ストアになるという。[1961 年にスミス文庫が、1966 年にブーツ文庫が店を閉
じ、貸本時代が終焉を迎える。]
1900【イギリス】製本家サンダーソン Thomas J. Cobden-Sanderson ( 60)が、
「ケルムスコ
ット・プレス 」を創設したモリスの死後、その衣鉢を継ぎ、ウォーカー Emery Walker( 49)
と共同で個人出版(プライベート・プレス)のダブズ・プレス( DovesPress)を設立する。サ
ンダーソンは、ケンブリジ大学で医学と神学を学び、その後、弁護士を志し、法律と文
学を学んだ。隣人のモリス夫人のすすめで手工製本術( hand book-binding )の習得を志し
ロンドンの著名な製本家ロジャー・カバリーに弟子入りし、数年後に独立してダブズ製本
工房を設立、手作りの総革製本に従事し、1893 年 3 月までに 143 点の作品を発表する。
表紙のデザインはいずれも独創的なもので、金箔押しと空押し(からおし)を組み合わせ、
格調が高く、調和がとれ、19 世紀のイギリスにおける最も偉大な製本家と称される 。
[以
後、プレス専用のダブズ体活字を用い、1901 ∼ 1916 年の間に 51 点、56 巻の本を印行す
る。中でも 1903 ∼ 05 年刊行の『ダブズ・バイブル』5 巻は、プライベート・プレスの初
期の傑作の一つ称される。のち、サンダーソンは仕事上のことでウォーカーと不仲とな
る。1917 年 7 月、第 1 次世界大戦中にダブズ・プレスを閉鎖する。その際、ダブズ体活
字を他に流用されることをおそれ、ダブズ体活字の父型と母型をテムズ川の川底に沈め
てしまう。ダブズ・プレスは、モリスのケルムスコット・プレス、ホーンビーのアシェン
デン・プレスとともに三大プライベート・プレスの一つ一つとされる。1931 年、ウォーカ
ーが、印刷芸術への貢献により印刷家として初めてナイトに叙せられる。
]
1900.○【イギリス】バーミンガムの演説堂で行われた演説を、電話の送話器 12 個でロ
ンドンに送信し、10 人の速記者が 2 分間交代で速記し、すぐさま反訳し、演説終了後 20
分語に組版を終えて、電報で送稿した他の新聞社よりも 1 時間余り早く号外を出す。
1900. ○【イギリス】玩具商デビッド・ゲステットナーが、世界最初の複胴型の輪転式謄
写機を発明する。[ 1901 年、アメリカの文具商 A.B.ディックが、単胴型を作る。]
1900. ○【アメリカ】マサチューセツ州のコーネリアス・ブロズナンが、留めピンに代わ
る紙のクリップを考案して、特許を取得する。
1900.○【アメリカ】アメリカ小売書店協会( ABA;American Booksellers' Association )が、
ニューヨークで創設される。
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1900. ○【アメリカ】ベルリナーが、彼が創業したグラモフォン社の商標に、フランシス
・バーロー(バラウド)の描いた犬のマークを採用する。犬の本名は「ニッパー」。イギ
リスの画家の愛犬で 19 世紀末に実在した。かみ癖があったため 、
「ニッパー(挟む)」と
呼ばれた。飼い主が亡くなると、弟で同じく画家のフランシスに引き取られた。ある日 、
フランシスが亡兄の声を蓄音機で聞かせると、ニッパーは神妙な表情で耳を傾けて聴き
入った。その姿に感動したフランシスがその姿を描き上げ、
「His Master's Voice 」と名付
けた。ベルリナーがこの絵を気に入り、早速自社の商標に採用した。[のち、グラモフォ
ンは子会社ビクタートーキングマシン社(のち、RCA)を設立し、こちらもニッパーを採
用する。1927.9.13 アメリカのビクター社が、日本に全額出資の子会社、日本ビクター蓄
音器㈱(のち、日本音響㈱)を設立し、ニッパーを商標とする。1945.12 日本ビクター㈱
と社名変更するが、ニッパーは日本ビクターの顔であり続ける。海外輸出ブランドの JVC
も含め、ニッパーはすべてのビクター製品に図案化されたロゴがつく。]
1900. ○【アメリカ】ケーヒルが、電子回路による発振を楽器の音源とする最初の電子オ
ルガン( electronic organ)を製作する。大きさは船の機関室の半分ほどもある。[1906 年、
アメリカのサディウス・ケーヒル ThaddeusCahill( 1867 ∼ 1934)が、シンセサイザの源流
となる「テルハーモニウム(ダイナモフォン)
」を発表する。1950 年代、各国で製品化さ
れ始める。1959 年、日本楽器が 、
「エレクトーン」の商品名で発売する。以後、電子音
特有の音色や効果を追求し電子オルガンの個性が強く表出されるようになる。当初のパ
イプ・オルガン風の持続音だけでなく、
ピアノやハープシコード風の減衰音も加えられる。
音配合の記憶回路や自動演奏回路なども加えられ、シンセサイザの回路網も加えられる
いたる。ピアノに次ぐ家庭用楽器としても広く用いられる。
]
1900.○【アメリカ】シカゴのドネリー社が、ライノタイプを導入し、電話帳を印刷する。
1900.○【アメリカ】コロンビア大学教授(電気力学)ピューピン Michael Idvorsky Pupin( 42)
が、電話の長距離通話を可能にする装荷コイル・ケーブル(装荷輪線)を発明し、特許出願
する。電話線路上に、ある間隔ごとに一定の値をもつインダクタンスを挿入する考えを
具体化し、長距離電線の音声信号の減衰を少なくすることに成功する。[ 6 日後、ベル電
話会社のキャンベルが、装荷ケーブルを実際に電話線に実装実験して、特許出願する。
結局、装荷ケーブルの特許はピューピンが取得する。1901 年、特許をベル電話会社が買
い取る。以後、装荷コイルによって電話ケーブル網は急速に長距離化していく。装荷ケ
ーブル方式は最も権威あるものとされ、世界的に普及する。この発明はピューピンに大
きな富をもたらし、彼はこれをコロンビア大学に寄付する。1932 年、松前重義と篠原登
が、装荷ケーブル方式の欠点を痛感し、無装荷ケーブル方式を発明する。]
1900.○【アメリカ】フェッセンデン(フェセンデン)Reginald Aubrey Fessenden (34)が、
高周波発電式無線電話( radiotelegraphy)を発明する 。従来の火花放電よりも高い周波数で、
音声信号を振幅変調して連続波として空中に発射し、受信時にはこの電波を復調すると
いう無線通信方式を導入する。[1906 年、クリスマスイブにこの無線電話によって音楽
と挨拶を初めて電波にのせる。]
1900.○【アメリカ 】電信のオペレータが全国に 5 万 8000 人、うち女が 7000 人に達する。
1900.○【アメリカ】GE リサーチラボラトリーが、アメリカ初の基礎研究所として、ニ
ューヨーク州スケネクタディーに設立される。[以後、GE 社中央研究所となる。1900 ∼
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1940 年代にかけて電球のフィラメント、医療用X線技術など、戦後は人工ダイヤモンド、
超電導技術、新しいプラスチック製造技術など、大きな発明を世に送り出し、世界の基
礎研究をリードする。]
1900.○【アメリカ】エジソン Thomas Alva Edison (53)が、アルカリ蓄電池の研究を開始
する。[ 1909 年完成する。]
1900.○【アメリカ】ロコモービル蒸気自動車会社が設立される。自動車の輸出が始まる。
1900.○【アメリカ】パッカード社が 、自動車の舵棒のかわりにハンドルを使用し始める。
1900. ○【アメリカ】ドライサーの『シスター・キャリー』が、妻の不貞を描写したため
に出版が中止される。
1900. 【流行語】ああ自由党死す。自動電話。心機一転。ハイカラ。
1900. 【流行歌】
『キンタロウ』。
『東雲節(ストライキ節)』(何をくよくよ川端柳…) 。『鉄
道唱歌(東海道) 』
。『楠公の歌』。
『モモタロウ』
1900. 【本】坂常三郎『娼妓存廃の断案』
。島田三郎・木下尚江『廃娼の急務』
1900. 【外国本】ジグムント・フロイト『夢の解釈』
。シドニー・ガブリエル・コレット『学
校のクロディーヌ』(クロディーヌ・シリーズの第 1 編。 1903 年完結)。 C.H.シュトラッ
ツ『女体の美』
1901(明治34)
1901. 1. 1 【日本】慶応義塾で、午前 0 時を中心に前日の夜半から早暁にかけて、十九・
二十世紀送迎会を開催する。福沢諭吉の発案による 。
[以後 、
「二十世紀」の語が流行す
る。
]
1901. 1. 1 【オーストラリア】イギリス領の 6 植民地がオーストラリア連邦を形成し、イ
ギリスの自治領となる。バートンにより初代内閣が組閣される。
1901. 1.17【日本】熊本電話交換局が開局する。
[1.18 地元の『九州日日新聞』に「電話
通信心得」と題する記事が掲載される。〈相手を呼出さんとするときは電話番号簿に依
り前以て其電話番号を知り置き然る後右手にて発電機の取手を一回廻はしたる後直に受
話器を取外し耳に当て交換手の返答を待つべし〉などと詳細に呼び出す時、呼び出され
たる時、対話中の時、などの心得を記載する。
1901. 1.22 【イギリス】女王ヴィクトリア(ビクトリア)(81)が没し、長男のエドワードⅦ
世が即位する。
1901. 1.−【日本】成田山新勝寺石川照勤が、私立の成田図書館を設立する。閲覧料を徴
収せず、1 万 5000 余冊の蔵書を公開する。
1901. 1.−【日本】20 世紀の始まりに当たって、『報知新聞』が 20 世紀の技術予測を掲
載する。電話が世界を結び、ロンドンの友人と会話できるとか、暑さ寒さを調和する機
械が普及するとか、カラー写真の伝送、映像付き電話による買い物などの登場を予測す
る。また、野生の鳥獣はほぼ絶滅し、都会の博物館でだけ余命をつなぐと書く。
1901. 1.−【日本】『女学世界』が創刊される。
「日本女子大学の近況」と題する建築の進
捗状況や入学申込み者状況を報じる。[4.20 日本女子大学校が開校される。]
1901. 1.−【日本】警視総監安楽兼道が、内田不知庵(魯庵)の「破垣」を掲載した『文藝
倶楽部』第 7 巻第 1 号を、風俗壊乱として発禁命令を出す。発行人堀野賢龍と編輯人田
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村昌新(松魚)に新聞紙条例第 33 条違反の罪で 25 円の罰金に処す。
1901. 1.−【アメリカ】月刊の電話専門業界誌『テレフォニー Telephohy』が、シカゴで
創刊される。広告主はシカゴの独立系の群小電話会社に集中し、ベル系商品は掲載され
ていない。編集長はハリー・B・マックミール(31)、発行人はウィリアム・チェンバー。両
人はチェンバー・マックミール会社を設立して出版事業に乗り出す 。
[以後、同誌は各社
から新電話帳が公刊されるたびに、その体裁や内容を紹介する。1951 年、マックミール
が、
「テレフォニー誌 50 周年」に中で、創刊時を回顧して〈この時代、われわれは独立
系電話会社への忠誠を誓い合ったものだ〉と述べる。]
1901.1.31【日本】東京で、電話の申込件数が 1 万 8702 、うち全通件数 7204 、未通件数 1
万 1398 、横浜では申込件数 1472 、全通件数 1058 、未通件数 385 、大阪では申込件数 7789 、
全通件数 2706、未通件数 5083、神戸では申込件数 1454、全通件数 927、未通件数 527 と
なる。(『時事新報』1901.3.31)
1901. 2 . 1【日本】鉄道託送手荷物配達の取扱いを開始する。
1901. 2 . −【日本】黒沢貞次郎が、カナ文字タイプライターを製作する。
1901.3.14【日本】郵便受取所を郵便及電信受取所に改称する。
1901.3.26【日本】フランス系貿易商ブルウル兄弟商会(横浜市山下町)が、アメリカの J.R.
カイム社(バッファロー)製の蒸気自動車「ナイアガラ」を輸入する。販売目的で輸入さ
れた日本初の 4 輪自動車となる。[6 月、同商会支配人 F.B. アベンハイムが、横浜∼東京
間を試運転する。所要時間は往きが 2 時間 15 分、還りが 1 時間 56 分。]
1901.3.27【日本 】5 厘菊切手の料額「5Rn( N は下付大文字) 」を「1/2Sn (N は下付大文字)」
に改正する。
1901. 4. 1 【日本】下田歌子( 47 )が東京実践女学校を開校し、初めて女学生の制服を制定
する。制服は、1 着 2 円 5 銭で、洗濯のきかない、上っ張りのようなものである。
1901. 4. 1【日本】山陽鉄道で、郵便車を連結した急行列車などの不停車駅で、郵便物受
渡しのため、吉野式と呼ばれる受渡機械が開発され、使用を開始する。(写真:『郵便創
業 120 年の歴史』p.100)[以後、改良を重ねながら大正・昭和初期にかけて約 30 年間用
いられる。
]
1901. 4.20 【日本】成瀬仁蔵(なるせじんぞう)( 43)らが、小石川区目白台に日本女子大学
校を開校する。校長に成瀬仁蔵が就任。専門学校令により、総理大臣伊藤博文をはじめ
各界の実力者、名流から 30 万円の基金を得て、5000 坪の土地を三井家から寄贈され、
皇后から下賜金 2000 円を受けて、大学部に家政学部、国文学部、英文学部の 3 学部と附
属高等女学校をもつ最初の女の最高学府が実現する。
[1902.4.20 記念式典。イベントの
一つに日本初の女子野球の試合が披露される。その後も総合大学としての充実を図り、
大学令に準拠した新しい女子大学の制度化への努力をするが、文部省により拒否され、
大学として認められない。1948 年、2 学部 9 学科からなる新制大学「日本女子大学」と
なる 。
]
1901.4.22【日本】日本語点字が官報に公表される。
1901. 4.−【日本】アメリカ公使館書記官ファガソンが、自動 3 輪車(ノックスか?)を輸
入する。東京芝浦製作所工場長小林作太郎が、その自動車を組み立て、ファガソンから
感謝状と金時計が贈られる。
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1901. 5.10【日本】東京の電話本局で、男子交換手がこの日限りで廃止される。苦学生の
夜間アルバイトとして人気があったが、当局は、女に較べて男は給与は高くつくがサー
ビスは劣るというのが廃止理由という。[以後、他の地域でも男子交換手は次々に廃止
され、電話交換手といえば女という観念が定着していく。](『東京の電話』上、石井寛
治、1994 )
1901. 5.27【日本】山陽鉄道が、厚狭∼馬関(のち、下関)間を開業し、神戸∼馬関間を全
通させる。山陽・九州両鉄道は、関門間を渡船で連絡する。この開通により逓信省は、
徳山∼門司間の船内郵便事務室を廃止する。[のち、山陽本線となる。]
1901. 5.28【日本】
『日出新聞』が「景浜五美人投票募集」を公表する。五美人とは、芸
妓、半玉、娼妓、女中、女義太夫を指す。紙面の第 3 面に連日投票用紙を掲載し、読者
はこれを切り取り、五美人の名前を記入し、新聞社に送る。美人投票が新聞拡販の営業
戦略として用いられるようになる。
1901. 5.29【日本】警視庁が、この頃流行のペスト予防、風俗改善のため、人力車夫や馬
丁が町をはだしで歩くことを厳禁する。
1901. 5.−【日本】海軍が、三四式無線電信機の製造を開始する。通信距離は艦船間 40
海里 、陸上・艦船間 70 海里 。[ 10 月、無線電信器を正式に兵器として採用する 。1903 年 、
通信距離 80 海里の改良機 、
「三六式無線電信機」を完成する。](電波管理委員会『日本
無線史』1951)
1901. 5 . −【ヨーロッパ】この頃から、マルコーニ無線局がイギリス、イタリア、カナダ、
ベルギー、アイルランドに開設される。
1901. 7 . 1 【日本】全国の自働電話が 18 カ所になる。うち東京に 16 カ所ある。[この月、
東京の電話加入数が 1 万を超える。]
1901. 7. 1 【日本】自由党の壮士、光永星郎(みつなほしお)(本名、喜一)( 35)が、新聞社
に対する広告代理業とニュース通信業の併営を志し、日本廣告㈱(東京市京橋)を設立、
その中にニュース通信業の電報通信社を併設する 。
[1906 年 12 月、電報通信社を改組し
て㈱日本電報通信社(電通)を設立する。1907.8.1 日本廣告と、日本電報通信社を統合し
て、広告と通信を併営する㈱日本電報通信社(電通)を設立する。 1955 年、㈱電通と改称
する 。
]
1901. 7. 1 【スウェーデン】ノーベル賞(Nobel Prize)が創設される。破壊的なダイナマイ
トを発明したアルフレッド・ノーベルが、無念の気持ちと平和への志をノーベル賞制定
の遺書に託し、その基金としての全財産の 3100 万クローナを残して 1896 年に他界した。
遺書には〈候補者の国籍はまったく考慮しないこと 〉、
〈人類の福祉にもっとも具体的に
貢献した人びと〉に与えるなど、賞についての細部にわたる指定が行われ、その内容に
基づき創設された。[以後、その内容は少しも変更されない。12.10 第 1 回授賞式。]
1901. 7.−【日本】作曲家滝廉太郎(22)が、東(ひがし)くめら保育者と協力して『幼稚園
唱歌』を出す。「鳩ぽっぽ」( 1899 年作詞) 、
「お正月」などが収録され 、
「鳩ぽっぽ」は
子どもが楽しんで歌えるようにと、浅草観音のハトと子どもを描写するなど、歌詞・曲と
も,子どもにとって平易なものにすることが基本方針とされる 。
[以後、言文一致に批
判的であった文部省も、これを受けいれる。1911.5.8 『尋常小学唱歌』巻 1 を刊行する 。
1914.6 全 6 巻が出る。大半は言文一致の方針で作成される。この唱歌教科書掲載の曲に
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は作詞・作曲者名が記入されず、文部省唱歌と呼ばれる。
]
1901. 8.−【日本】ブルウル兄弟商会横浜支店が、トーマス自動 3 輪車、同 2 輪車を輸入
し、神戸支店に送る。新聞が、神戸最初の自動車と報道する。
1901. 8.−【日本】双輪商会主吉田真太郎(23 )が、ロシア公使館書記官からグラヂュート
ル 4 輪車を譲り受ける。日本最初の自家用車使用者となる。
1901. 9.−【日本】専売合資会社社長松井民治郎( 36)が、ブルウル兄弟会社の依頼で自動
車販売に営業の主体を移すと、出資者の小沢直道らが退社する。松井は会社を銀座 4 丁
目 1 番地に移し、新たにモーター商会を開設する。日本最初の自動車販売店となる。ブ
ルウル兄弟商会横浜支店の代理店として、販売車種カタログにアメリカ製、フランス製
のほとんどの車種を網羅する。[ 1902.6.23 正式に営業登記する。1904.2.12 合資会社組織
にして銀座 1 丁目に移転する。]
1901.10. 2【イギリス】王室海軍の最初の潜水艦 Vickers 号が、 Barrow で進水する。
1901.10. 3【アメリカ】ジョンソンが、グラモフォンから社名を変更し、ビクター・トー
キング・マシン会社を設立する。[のち、RCA ビクターとなる。]
1901.10.10 【日本】黒田清輝(くろだせいき)(35)が、白馬会第 6 回展に「裸体婦人」を出
品する。当局は、風俗を乱すものとして、絵の下半身部分を布で覆わせる。
1901.10.21 【日本】鉄製の赤塗り丸形郵便柱函を、東京・日本橋の北側で、試用する。民
間の俵谷高七が考案したもので、従来の郵便柱函が木製で四角であったものを、鋳鉄製
の円形にした。赤くした理由は、俵谷が 1900 年に黒塗りの試作品を逓信省に持ち込んだ
ところ、係官が〈これから郵便函はすべて赤くなる。赤くするように〉と申しつかった
からという。
[11.7 同所南側に、中村幸治考案の同様のものを試用する。1902 年 、
『読売
新聞』が 、〈郵便ポストの色を、黒から赤に塗り替えたのは好評で、遠方からも手紙を
入れに行く人がある〉と、伝える。1908.10.29 試行後、赤色・鉄製・丸形ポストが正式
に登場する。
]
1901.10.22【日本】金輪倶楽部の秋期自転車競争が、東京・上野の不忍池畔で開催される。
石崎由太郎が 2 分 50 秒で 1 着になる。
1901.10. −【日本】海軍が、無線電信器を正式に兵器として採用する。タイプはマルコニ
ー(マルコーニ)・ロッジ式という簡単なものである。[1903 年末、15 艦が国産の無線電
信器を整備して日露開戦にのぞむ。]
1901.11. 3【日本】大日本双輪倶楽部が、上野公園不忍池畔で自転車競争を開催する。余
興として、ブルウル兄弟商会横浜支店がグラヂェートル 4 輪車、トーマス自動 3 輪車、
トーマス自動双輪自動車を出場させ、競争を披露する。須藤貞三郎のトーマス自動双輪
車が 1 マイル 2 分 40 秒で 1 着、双輪商会主吉田真太郎(23)のグラヂェートルが 3 分 10
秒で 2 着、F.B.アベンハイムのトーマス自動 3 輪車が 3 分 50 秒で 3 着となる。日本初の
モータレースとなる。
1901.11.15 【アメリカ】ハッチンスンが、電話の受話器型のレシーバを付けた補聴器を発
明、特許を取得する。[以後、ハッチンスンはクラクションも発明し、マーク・トウェイ
ンから〈人々の耳を悪くしておいて、補聴器を売りつける気か〉とからかわれる。]
1901.11.29 【日本】横浜の自転車愛好家が、横浜輪友会同志会を結成する。[ 12.8 発会式
を横浜公園で行う。]
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1901.11. −【日本】雑誌『音楽之友』創刊。
1901.12. 5【日本】衆議院内に郵便電信取扱所を設置する。議会召集中、貴族院・衆議院
内から発送する通常郵便物の引受、両院内に発着する電報の取扱いを行う。
1901.12.10 【スウェーデン・ノルウェー】ノーベルの命日に当たるこの日、第 1 回ノーベ
ル賞の授賞式が、スウェーデンのストックホルムのコンサート・ホールとクリスティア
ニア(のち、ノルウェーのオスロ)で挙行される。午後 4 時 30 分、ノーベルの逝った日の
同時刻から行われ、スウェーデン国王から授与状とメダルが贈られる。ストックホルム
の授賞式ではレントゲン(56)が物理学賞、ファント・ホフ( 49)が化学賞、ベーリングが生
物学・医学賞、プリュドムが文学賞を受賞、クリスティアニアの授賞式ではデュナン(73 )
とパシー(79)が平和賞を受賞する。[以後、毎年 12 月 10 日午後 4 時 30 分、ノーベルの
逝った日の同時刻から授賞式が行われる。]
1901.12.12 【イタリア】マルコーニ Guglielmo Marconi( 27 )が、イギリスのコーンウォー
ル州ポルデュ(ポルドゥ)とカナダのニューファンドランドのセントジョンズ間 1800 海里
(約 3000km )の大西洋横断モールス信号による無線通信実験に初めて成功する。ポルドゥ
の送信所には扇形に幾条もの導線を張ったアンテナを立てて、イギリスの電信技師によ
って最初の情報として「S(…)」を繰返し打電する。セントジョンズでは、マルコーニの
他 2 人の技師がアンテナ線を付けた凧を揚げて受信に成功する。当初、科学者は、光の
ように直進する電波が、イギリスから地球の裏側に近いカナダにまで到達するはずがな
い、と否定的な発言をしていた。海底ケーブル会社は、新たな競争相手に顧客を奪われ
ることを心配して、無線電信は誰でも受信可能なので、機密保持が重要な軍事や商売に
は不向きであると宣伝する。これに対してマルコーニは、暗号を使って交信すれば秘密
は保たれると反駁する。[ 1902 年、マルコーニは、科学者の理屈はともかく、実際に大
西洋横断無線通信が可能なことを証明するため、今度はカナダから電波を発射し、イギ
リスで受信してみせる。また 、
磁石検波器(磁気検波器)を発明し、
特許を得る 。
1909 年、
K.F.
ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞。]
1901.12.13 【日本】政治評論家中江兆民が、自分は無宗教だから葬式はいらないと遺言し
て死去、友人らが、宗教儀式にとらわれない、お別れの式として「告別式」を行う。新
聞にも掲載されたため一般にも知られる。告別式の始めとなる。
1901.12.15 【日本】大阪∼下関間全線開通を機に、官設鉄道の東海道本線新橋∼神戸間の
急行列車 4 往復と普通列車 1 往復にも食堂車が連結される。洋食専門の半車食堂車(他の
半車は二等車)で、テーブルは 4 人掛けと 2 人掛けの食卓が横に並ぶ様式を採用する。三
等客は利用できず、現御殿場線区間と灯坂(おうさか)山の急こう配のため、食堂車連結
は新橋∼国府津、沼津∼馬場(ばんば)(現大津市)、京都∼神戸に 3 分割される。[1903
年、全車食堂となり、同時に全区間連結となる。1906 年、鉄道国有法施行とともに、全
国的な幹線網に食堂車が登場する。]
1901.12.16【日本】東京市内に自働電話(公衆電話ボックス)を増設、日本橋区日本銀行前、
深川区高橋北詰、本所区両国橋東詰、麹町九段坂上、赤坂区青山墓地、信濃町鉄道停車
場、京橋区新船松町汽船発着所前、その他飯田橋、王子、四ツ谷、大森、品川など 17 ヵ
所の街頭に設置される。色は朱塗りと白塗りがあり、夜間は室内にアーク灯がともされ
る。[ 1902.3 東京の自働電話が 33 カ所になる。]
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1901.12.−【中国】台湾で中国語紙『?(門+虫)報』を発行していた中島真雄(42)が、北京
で中国人と共同で印刷工場を興し、中国語日刊紙『順天時報』(朝刊 8 頁)を創刊する。
熟練工がいないため 、中島自らが活字を拾ったり、職工に対する教育を行う。
[1904 年 、
日露開戦を前にして「主戦論」を展開し、外務省や軍部から評価され、一躍有名な新聞
になる。1905 年 8 月、外務省に『順天時報』を売却する。以後、外務省直営の新聞とな
り、上野岩太郎が社長となる。1905.7.26 中島が、営口で満州初の日本人経営新聞『満州
日報』を創刊する。1907.10 営口の『満州日報』を中止。1907.12.5 中島が、奉天(のち、
瀋陽)で『満州日報』を創刊する。
]
1901. ○【日本】愛知県小牧町で、小牧新聞雑誌縦覧所が開設される 。
[のち、小牧町倶
楽部図書館に引き継がれる。
]
1901. ○【日本】帝国図書館勤務の太田為三郎が、『日本随筆索引』を刊行する。[のちに
増補され正続 2 巻となり、近世の随筆雑著 392 点の内容が一覧できるようになる。さら
に、
『日本医事雑誌索引』も手掛け、雑誌索引の先鞭をつける。]
1901.○【日本】逓信省が、真崎仁六(まさきにろく)の国産鉛筆を採用する。2B 、HB 、2H
の 3 種類の鉛筆が「局用鉛筆」として採用される。これにより、輸入鉛筆の最大のユー
ザである郵便局が、国産鉛筆に切り替える。[以後、一般の国産鉛筆への認識も高まり、
鉛筆製造の機械化も進んで工業的になっていく。1925.4 三菱鉛筆㈱が設立される。]
1901. ○【日本】このころアマチュアの芸術写真が盛んになる。アマチュア団体「東京写
友会」(会長尾崎紅葉)が創立される。
1901.○【日本】矢頭(やず)亮一(23)が、自動算盤「パテント・ヤズ・アリスモメートル」
を動力飛行機作りのための資金作りに作り、発売する。手回し計算機で、世界最速の乗
算、除算性能を持つといわれる。[以後、3 年間で普及モデル、高級モデル合わせて 2 百
数十台を販売。利益は 5 万円に上る。]
1901. ○【日本】逓信省電気試験所の松代松之助が、マルコーニ型コヒラーを開発する。
1901. ○【日本】関西鉄道が、鉄道で初めてのビュッフェを二等室との合造で設け、大阪
(湊町)∼桑名∼名古屋間で営業を始める。
1901. ○【日本】東京市が、路上見世物を禁止する。
1901. ○【日本】山口県・特牛(こっとい)に県営の神田娼妓健康保健所が設置される。
1901. ○【日本】北陸街道の串茶屋遊郭で唯一残った茶屋、東木屋が廃業する。
1901.○【フィリピン】マニラのサンパロク地区に 、アメリカ軍政当局が赤線街を設ける。
日本人、フィリピン人、白人の売春婦が集まる。客の大半はアメリカの軍人や市民で、
売春婦は一晩で 30 ペソをかせぐ。この頃、農園労働者の日当は 1 ペソ。(寺見元江
「KarayukisanofManila 1890 ∼ 1920 」『Philippine Studies』1988 )
1901.○【ミャンマー】ラングーン(のち、ヤンゴン)に、日本人が男 3 人、女 57 人在住
している。近代ビルマに出かけた初の日本人の記録。男女数の著しい不均衡は、からゆ
きさんが進出していたためと考えられる。(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研
究所助教授根本敬『NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版』1995.7 月)
1901.○【オーストリア】ウィーン大学医学部病理学教室助手ラントシュタイナー Karl
Landsteiner(33)が、ヒトの血液が A, B,C の 3 群に分けられるとして、ABO 血液型を
発見する。[1902 年、別の研究者によって第 4 群が追加される。以後、ラントシュタイ
- 653 -
ナー MN 型も発見、従来危険で不確実とされていた輸血療法の安全実施ならびに免疫学
の発展に貢献する。1925 年、ベルンシュタイン F. Bernstein ,古畑種基らにより、 ABO
血液型の遺伝法則が確立され、血液型が遺伝学上でも重要な地位を占めるようになる。
1930 年、ラントシュタイナーにノーベル生理学・医学賞を授与される。
]
1901.○【ドイツ】貨物定期便会社ハンブルク・アメリカ汽船会社(HAPAG)(のち、ハパ
ーグ・ロイド会社)が 、
〈地球上のあらゆる場所へ行く観光〉を看板に、専用線 1 隻を就航
させる。船内に旅行代理店を置き、各地の鉄道の切符を買うこともできるようにする。
1901. ○【ドイツ】ダイムラー社が、円ハンドル、車軸をよけてカーブしたフレーム、半
楕円板ばねの足回り、蜂の巣状のラジエータを装備した近代的なメルセデス車を完成す
る。
1901.○【フランス】ルノー社が、自動車にクローズド・ボディーとエンジン・ボンネット 、
ラジエーター・グリルを組み合わせたデザインを採用する。
1901.○【フランス】コレージュ・ド・フランスの哲学教授タルド Jean-Gabriel de Tarde( 58)
が、『世論と群集』を刊行する。これによりル・ボンの群集心理学を批判して、「群集」
に対する「公衆」の概念を提出し,公衆の時代におけるジャーナリズムの意義を確認す
る。
1901.○【イギリス】女王ヴィクトリア(82)が逝去、長男のエドワード 7 世 Edward Ⅶ(61 )
が王位を継承する。
1901.○【イギリス】ヘンリー E. R. Henry が、ロンドンの警視総監補となり、警察に指
紋法(指紋の特性によって個人の異同を識別する方法)を採用させる。[以後、さらに指紋
法に改良を加え 、
「ヘンリー・システム」(ゴルトン‐ヘンリー・システムともいう)を確
立する。
1901.○【イギリス】イギリス・グラモフォン社のプロデューサ、ガイズバーグ Fred Gaisberg
が、オペラ歌手シャリアピンの歌唱を録音する 。
[1902 年、カルーゾーの録音で前年の
録音を上回る成功をおさめる。以後 、オペラ歌手による声楽録音の全盛時代をもたらす。]
1901.○【イギリス】世界初の立体駐車場が、ロンドンのデンマン通りに開設される。7
階建てで、世界最大の駐車場となる。電動エレベータで、3t トラックを最上階まで運ぶ
ことができる。
1901.○【アメリカ】文具商 A. B.ディックが、最初の単胴型の輪転式謄写機をつくる。
1901. ○【アメリカ】ミシガン州サギナウの郵便局長が、電話コールで郵便物の集郵・配
達を行うサービスを思いつき、「電話郵便サービス」を始める。サービス区域は市内に
限り 、
「特別配達」料金 2 セントを切手で支払う。
1901.○【アメリカ】シカゴのドネリー社が、電話帳配布部門を創設する。これによって、
ドネリー社は、電話帳の企画から、広告、編集、印刷、配布まで一貫した体制を確立す
る。また、シカゴ職業別電話帳を発刊する。
1901.○【アメリカ】ライオネル社(Lionel)が、電動モータで駆動する鉄道模型を発売す
る。
1901.○【アメリカ】スタンレー社が、蒸気自動車で時速 120km を記録する。[1902 年、
フランスのセルポレも、蒸気自動車で時速 120km を記録する。]
1901.○【アメリカ】オールズモビル社が、カーブド・ダッシュ車を 425 台生産し、史上
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初の量産車となる。
1901. ○【アメリカ】エジソンが、アルカリ蓄電池の一種を発明する。正極活物質に水酸
化ニッケル NiOOH、負極活物質に鉄粉 Fe 、電解液に水酸化カリウム水溶液を用いる。
正極はチューブ式、負極はポケット式であるが、電導性向上のために正極にはニッケル
薄片を、負極には酸化水銀を加えたものが用いられる。起電力は約 1.4 ボルトで、放電
中の平均電圧は 1.2 ボルトである。[のち、
「エジソン電池」と呼ばれる。機械的強度が
大きく、寿命が長いうえに取扱いが容易であるが、ユングナー電池に比べて自己放電が
大きく、低温性能が劣るので、軽負荷用として坑内安全灯、坑内電気車などに用いられ
る。1970 年代に、電気自動車用の動力源として資源や価格、あるいは公害などの面から
も、負極の鉄の優位性が見直され、また蓄電池としての可逆性も優れていることから注
目されるようになり、負極の高容量化など電極の改良が進められる。]
1901. ○【アメリカ】「グラムフォン」の発明者ベルリナーと精密機械会社経営のエルド
リッジ・ジョンソンが、ビクター・トーキング・マシン社を設立する。[以後、イギリスの
青年画家フランシス・バラウドの描いた蓄音器のラッパから出る「主人の声に耳を傾ける
犬のニッパー」の絵を図案化した犬のマークがビクターの音響製品に付けられ、世界的
に有名になる。
]
1901.○【アメリカ】ウィルバー・ライト Wilbur Wright(34 )が、弟のオーヴィル(オービル)
Orville Wright( 30)に〈人間は今後 50 年以内に空を飛べるようにはならないだろう〉と語
る。
1901. 【流行語】社会主義。どんちょう内閣。七重の膝を八重に折り。二十世紀。
1901. 【流行歌 】
『アムール川の流血 』
『うさぎとかめ 』
『おおえやま』『お正月 』
『荒城の
月』
『箱根八里 』『鳩ぽっぽ』
『花咲爺』
『春爛漫の花の色』
1901. 【外国本】ジグムント・フロイト『日常生活の精神病理学』
1902(明治35)
1902. 1 . 1【日本】外国小包郵便規則施行。
1902. 1.12【日本】九世団十郎と五世菊五郎の引退興行が、歌舞伎座で行われる。逓信省
は、歌舞伎座の前に臨時自働電話を設置する。[ 1.14 回向院相撲場で梅ヶ谷と常陸山の
対戦が行われ、相撲場内に臨時自働電話を設置。9 月、上野不忍池畔での全国自転車競
争大会で設置。]
1902. 1.25【日本】北海道旭川市の気象観測所で、最低気温マイナス 41 ℃を記録する。
八甲田山の雪中行軍で遭難。[以後、永く日本の最低観測気温となる。1 月 25 日を「日
本最低気温の日」と呼ぶ。]
1902. 1.30【日本・イギリス】日英同盟協約がロンドンで駐英公使林董(ただす)と外相ラ
ンズダウンとの間で調印、即日実施される。外相小村寿太郎の努力が実を結ぶ。6 ヵ条
からなり,イギリスの中国における,日本の中国,朝鮮における利益保護のための共同
行動(1 条),締約国のいずれかが利益保護のため第三国と交戦するときは他の締約国は
厳正中立を守る(2 条),締約国の一方が 2 国以上と交戦したときには他の締約国は参戦
の義務を負う(3 条),この協約を損なう内容の第三国との協約締結の禁止(4 条),利益が
危険に采(ひん)したときの相互通知義務( 5 条)などを取り決め,期間は 5 年と定められ
- 655 -
た。[ 2.12 公示。原文の「Agreement」が「同盟」と訳されて、多くの日本国民は世界の
大国と攻守同盟が結ばれたとして歓迎する。以後、海軍中尉山本英輔が、イギリス地中
海艦隊旗艦で 120 海里の通信が可能とされる無電機の見学を許され、受信機の中枢、コ
ヒラーに少量の水銀が使用されていることなどを知り、詳細な報告書を提出した上、自
ら無線機の改良に従事する。1903 年末、イギリス海軍でも使用予定の新式継電器を日本
でも採用することができ、通信距離は 200 海里に延びる。1905 年 8 月 12 日,改訂。両
国のアジアにおける植民地支配を承認・擁護する内容を強め,期間も 10 年に延長される。
1911 年 7 月 13 日改訂。1923 年 8 月 17 日、四ヵ国条約が実施され、日英同盟は失効する 。]
1902. 1.−【日本】
『印刷雑誌』1 月号に、日本初の三色版印刷の「猿まわしの図」(田中
猪太郎画)が発表される。[7 月、
『文芸倶楽部』の口絵に芸妓のカラー着色写真が発表さ
れる。]
1902. 1 .−【ロシア】シベリア鉄道が、ウラジオストク∼ハバロフスク間で開通する。(1.30
とも??)
1902. 2 . 8【日本】梁啓超が、横浜で『新民叢報』を創刊する。
1902. 2.19【日本】逓信省が、通常郵便物の集配に支障がない場合、小包郵便物の集配を
併せて行うことができると規程する。
1902. 2.25【日本】東京瓦斯会社が、ガス炊飯かまどの専売特許を取得する。
〔この頃か
ら、ガスが燈用から熱用に使用され始める。神田の牛鍋店も、燃料の木炭をガスに切り
替えたことが新聞の記事になる。
〕
1902. 2.−【日本】ブルウル兄弟商会が、オリエント自動車を輸入する。F.B.アベンハイ
ムと B.C.スワンの 2 人が、オリエント・ラナバウトで横浜∼東京間を試運転する。所要
時間は 69 分で、アベンハイムは東海道線の列車と同じ速度だと自慢する。
1902.3.24【日本】国語調査委員会官制が公布される。[3.25 設置。4.11 委員長加藤弘之、
委員嘉納治五郎ほか 11 名が任命される。4.24 第 1 回国語調査委員会開催。国語国字問題
の審議に当たる。また、〈方言を調査して標準語を選定する〉という方針を打ち出す。]
1902. 3.28 【日本】夜間に鉄道郵便受渡機械を使用する場合は、その 5 分前からアセチレ
ンガスを点灯することとする。
1902. 3 . −【日本】逓信省が、公園、劇場に臨時自働電話を設置する。
1902. 3 . −【日本】ブルウル兄弟商会が、オールズモビルを輸入する。
1902. 3.−【日本】モーター商会主松井民治郎( 37)が、自動車の運転を教えるための自動
車倶楽部をつくり、会員を募集するが 、応募者が予定数集まらず、倶楽部は成立しない 。
林平太郎が、高知師範学校教師を依願退職し、モーター商会の技師となる。
1902. 4. 8【中国・ロシア】ロシアと清国が、満州(中国東北地方)還付に関する協定に調
印する。ロシアは 18 ヵ月以内に満州から撤兵することを約束する。
[10.8 第 1 期履行。
以後、履行しない。
]
1902. 4.18【日本】東京市街鉄道㈱が設立される。資本金 300 万円。
[1903.9.15 数寄屋橋
∼神田間に市電の運転を開始する。のち、東京市電の一部となる 。
]
1902. 4.−【日本】紀州徳川家の蔵書からなる南葵(なんき)文庫が、東京麻布の徳川頼倫
私邸に私設文庫として開庫される 。
[1908.10 一般に公開される。]
1902. 4.−【日本】岡田商会(大阪市道頓堀通)が、アメリカのグッドリッチ会社製モルガ
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ンライト式筋入り二重タイヤの販売広告を出す。日本最初のタイヤ販売店となる。
1902. 4.−【日本】金輪倶楽部が、上野公園商会不忍池畔の自転車レース場で、ナイアガ
ラ蒸気自動車、オールズモビール自動車、オリエント・ラナバウト、オリエント自動 3
輪車、トーマス自動 2 輪車、トーマス自動 3 輪車の各車を披露する。
1902. 4 .−【日本】ウオルター・ストーン(横浜山下町)が、ロコモビル蒸気自動車 8 台(16
梱包)を輸入し、横浜税関で 2 割 5 分の関税を言い渡され 、機械部分は蒸気機関車と同様 、
蒸気で走る機械であるから 1 割 5 分にせよ、と訴訟を起こすが、敗訴する。
1902. 4.−【日本】J.W.トンプソン(横浜山下町)が、ロコモビル・カンパニー・オブ・ア
メリカの日本代理店の代表者となる。
1902. 5.−【日本】片山潜(43 )が、労働者教育のための施設の必要性を説き、労働倶楽部
には図書館、新聞雑誌縦覧場を置くとし、『労働世界』5 月号で、公共図書館の不備を指
摘し、〈各市町村から公費を以て図書館を設け市民をして自由に而も無代価にて有益な
る書物〉に接する機会の必要性を訴える。
1902. 5.−【日本】三井呉服店が、配達を馬車から自動車に切り替えることとし、モータ
ー商会に商用自動車を注文する。[ 1903.4 フランスからクレメント商用車が到着する。]
1902. 5.−【日本】六代目杉浦六右衛門(ろくえもん)(55)が、六桜社を設立する。[ 1903
年、国産初の印画紙さくら白金タイプ紙を発売。1925 年、ロールフィルム使用小型カメ
ラ発売。1929 年、さくらフィルムを発売。1936 年、㈱小西六本店を設立。1943 年、小
西六写真工業㈱と改称。1987 年、コニカ㈱となる。
1902. 6 . 8【フランス 】気象学者ド・ボールが 、探測気球を揚げて 、成層圏を発見する。[以
後、気流の安定した領域の航空路として重要になる。]
1902. 6.15【日本】博文館の創業者大橋佐平の遺志を継いだ息子の新太郎が、図書館の建
設を続行して、一般向け私立図書館として麹町上六番町に大橋図書館を完成させ、開館
する。設立資金 10 万円、維持資金 2 万 5000 円。3 万余冊の蔵書を有し、閲覧料を徴収
するが、12 歳以上の児童の利用を認める。
[以後、1 日平均 321 人の閲覧者がある。1903
年、第 1 回図書館事項講習会を開き、日本における最初の近代的な図書館学・図書館員教
育となる。1923.9.1 関東大震災で焼失。大橋は建設費 50 万円、図書費 25 万円を寄付し、
いちはやく復興する 。
]
1902. 6.18【日本】万国郵便連合加盟 25 年を記念して、逓信省が最初の官製色刷り絵葉
書 6 種を発行する。6 種 1 組で 5 銭。
1902.6.19【日本】元逓信次官前島密が、男爵を授けられ、華族に列する。
1902. 6.20【日本】万国郵便連合加盟 25 年記念祝典が行われる。中央祝典が帝国ホテル
で挙行される。同ホテル内に臨時の記念郵便局を開設し、日本最初の記念特殊郵便日付
印(記念特印)を使用する 。内国郵便葉書 1 万 8598 通 、
うち信書 175 通 、外国郵便葉書 3073
通などを取扱う。
[以後、22 日までの 3 日間、東京ほか 23 局で特殊郵便日付印を使用す
る。
]
1902. 6.21【日本】逓信省が、省内の郵便用品研究参考品室を拡大して、逓信博物館を開
館する。[7.10 開館以来 20 日間に、延べ約 4300 人が観覧する。のち、逓信総合博物館
と改称、郵政省、NTT 、NHK、KDD が共同で運営し、郵便・電信電話・放送・電波など
に関する資料の収集と展示を行う]
- 657 -
1902. 6 . −【日本】逓信省東京電信局が、蓄電池を局内の全機械に採用する。
1902. 6 . −【日本】米国ロコモビル会社日本代理店(横浜市山下町)が 、東京市芝区(のち、
港区)に東京陳列所を開設し、平島商会(京橋区(のち、中央区))を販売代理店とする。
1902. 7.10【日本】代金引換郵便物の引受・同取立金の払渡しを、全国の郵便電信受取所
と郵便受取所でも取扱うことを告示する。
1902. 7.16【日本】逓信省が、特設電話加入規則を制定、公布する。地方小都市の電話需
要に対処するため、市外線と局内装置以外は加入者の負担とする特設電話方式を採用す
ることとする。地方の三等郵便局長に対しては、郵便業務に加えて、特設電話を設置・
維持する電話業務を開設するよう命令する。[9.17 葉山、箱根宮の下、箱根湯本の 3 電
話所で日本初の特設電話制度による交換業務が開始される。9.18 鎌倉、11.11 大磯、
1904.3.15 小田原でそれぞれ開始され、これらの 6 交換局を皮切りに以後各地で採用され
る。1907 年以降は電話未開設の地方中都市にも摘要される。1909.4 以降は同様な加入者
負担による架設方式を 6 大都市での至急開通制度として、またそれ以外の普通電話区域
では寄付開通制度として導入する。](
『逓信事業史 』
『関東電信電話百年史 』
)
1902. 7.17【日本】雑誌『文芸倶楽部』(博文館) 7 月号の口絵に、大江印刷所の製作した
「薔薇」と題する芸妓のカラー着色写真が発表される。日本雑誌初の三色印刷となる。
1902. 7.−【日本】イギリス人クーンが、横浜グランド・ホテルの脇道で、靴職人藤本仲
次郎(29)を自動車で負傷させる。日本最初の自動車事故となる。治療費を払って示談と
なる。
1902. 8. 1【日本】逓信省が、電話所および自働電話の料金を、市内 1 通話 5 分 15 銭か
ら 5 銭に値下げする。[以後、東京市内の公衆電話 1 機当たりの利用が 、1901 年の 1 日 4.1
度から 14.1 度へ増加する。]
1902. 9 . 1【日本】江ノ島電気鉄道㈱が、軌道法に基づく路面電車で、藤沢∼片瀬(のち、
江ノ島)間を開業する。日本で 6 番目の電気鉄道となる。[ 1903.6.20 片瀬∼行合(のち、
七里ヶ浜)間開業。1903.7.17 行合∼追揚(のち、廃止)間開業。1904.4.1 追揚∼極楽寺間
開業。1907.8.16 極楽寺∼大町(のち、廃止)間開業。1910.11.14 大町∼小町(のち、鎌倉)
間開業。1910.10.30 藤沢∼小町間に全線開通。1911.10.3 電力会社の横浜電気㈱に買収さ
れ、同社の路線となる。1921.5.1 東京電灯㈱に買収され、同線の運営も引き継ぐ 。1928.6.30
江ノ島電気鉄道㈱が東京電灯から独立、東京電灯の路線を譲り受ける。1938.10.20 戦時
統合により東京横浜電鉄の傘下に入る。1944.11.18 軌道業を地方鉄道法に基づく地方鉄
道に変更許可。1948.6 東急より独立、小田急グループになる。1949.3.1 小町駅を国鉄鎌
倉駅構内に移転し、省線鎌倉駅西口に乗り入れ開始。小町駅を鎌倉駅に改名。1948.8.1
江ノ島鎌倉観光㈱に社名変更。1981.9.1 江ノ島電鉄㈱に社名変更。2002.9.1 開通 100 周
年を迎える。]
1902. 9. 1【日本】吉沢商会が、明治座で輸入映画の公開に際し、レコードを応用した発
声活動写真の興業を試みる。
1902. 9. 2 【日本】東京専門学校が早稲田大学と改称する。
[10.19 大学開設並びに創立 20
周年記念式典を挙行する。
]
1902. 9.−【日本】アンデルセン作・森鴎外訳『即興詩人』刊。本には厚手の和紙のカバ
ーがかけられ、即興詩人を象徴する月桂樹のデザインと、書名、発行所名が茶色で印刷
- 658 -
される。1894 年から 1901 年までの 8 年間にわたる森鴎外の苦心の訳は、明治・大正期
の青年を熱狂させ、浪漫(ろうまん)精神を沸き立たせる。[以後、阿部次郎、小泉信三、
木下杢太郎(もくたろう)らは、外遊に際してこの本をポケットに忍ばせてイタリア各地
を巡礼する。]
1902. 9.−【日本】上野不忍池畔で全国自転車競争大会が開かれる。会場に臨時自働電話
が設置される。
1902. 9 . −【日本】名古屋に自働電話(ボックス公衆電話)が登場する。
1902.10. 9【日本 】
『万朝報』に連載中の『椿姫』が、風俗壊乱のかどで掲載禁止となる。
[以後、黒岩涙香訳『噫無情(ああむじょう)』が連載される。]
1902.10.24 【アメリカ】ウィルバー Wilbur Wright( 35)とオービル Orville Wright(31)のラ
イト兄弟が、第 3 号グライダーをノースカロライナ州キティーホークで実験し、旋回飛
行を達成する。昨年 9 月か今年の年夏まで、風洞その他の研究を行って、兄弟の飛行の
基礎をつくることになった。この研究の成果を踏まえて兄弟は横滑りのないつり合い旋
回を行うため主翼後方に方向舵を設けて、主翼捩(ねじ)りとあわせて操舵するようにし
た。これにより完全な操縦方法が確立され、ライト機を完成に導く。
1902.10.25 【日本】秋田県立図書館長佐野友三郎が、日本で初めて巡回文庫を始める。佐
野はアメリカのニューヨーク州の公共図書館思想に学び、巡回文庫は〈最も簡易なる公
共図書館〉であるといい、10 月 10 日に「秋田図書館規則」を改正させ、巡回文庫の章
を追加させた。初めての巡回文庫が、仙北、南秋田、山本、北秋田の各郡図書館に向か
って出発する。
1902.10.−【日本】アンドリュース・ジョージ商会(横浜市山下町)が、蒸気自動車トレド、
電気自動車ウエバリーを輸入し、ウイリアム・シー・ボーンを販売代理人とする。
1902.11. 2【日本】連休利用の紅葉見物客のため、新橋∼京都間に初めて回遊列車を運転
する。
1902.11. 7【日本】万国郵便小包交換条約に加入する。
1902.11. −【日本】港湾荷役業者セオドル・マシアス・ニッケル(神戸市)が、モーター商
会からアメリカ製ジュリア自動車を購入する。ブルウル兄弟商会神戸支店の三浦広吉が、
ニッケルらを乗せて市内を運転する。
1902.11. −【日本】橋本商会(神戸市三の宮町)が、ブルウル兄弟商会の自動車販売代理店
となる。関西地区初の自動車販売店となる。
1902.12. 2【日本】
「国勢調査ニ関スル法律」が公布される。[ 1920 年、第 1 回国勢調査
実施。以後、10 年ごとに実施。]
1902.12. 2 【日本】小包郵便料金の距離制を廃止し、同一郵便区内は 5 銭、その他は重量
制を採用する。
1902.12. 2【日本】毎年 1 月 1 日∼ 7 日までの間、第二種以下の普通通常郵便物(外国来
を除く)には到着日付印を押印しないことを告示する。
1902.12.16 【日本】丸善が、
『大英百科全書( ENCYCLOPAEDIA BRITANICA)』全 25 巻を
月賦販売で予約募集を開始する。[以後、好評を博し、伊藤博文、後藤新平 、新渡戸稲造、
犬養毅、嘉納治五郎、尾崎咢堂らが先を争って買い求める。1903.2 予約締切り。1250 部
売れる。(500 セット完売との説あり。
)]
- 659 -
1902.12. −【日本】東京の篠田造が、報知社より月刊誌『旅』を創刊、付録に「全国汽車
発着表」を掲載する。
1902.12. −【日本】山口県立山口図書館が、設立される。
1902.12.−【アメリカ】初の電話交換手組合が、アメリカ労働組合( ALU)の傘下単組と
してモンタナ州ビュートで結成される。12 時間労働制の廃止と最低賃金制の獲得をめざ
す。[1903.4 ビュート交換手組合が、ロッキーマウンテン・ベル社にストライキを起こ
す。1907.3 ストライキに失敗し、解散する。]
1902.○【日本】横浜、神戸港で落球による正午報時(報時球)が開始される 。
[1908 年、
さらに門司港がこれに加わる。1913 年、無線による新しい報時方法が始まる。
]
1902.○【日本】小学校就学率が、初めて 90 %を上回る。ただし、通学率は 68.4 %にと
どまる。
1902.○【日本】公共図書館が、公立 21、私立 46、計 67 となる。(小黒浩司『図書及び
図書館史』)
1902. ○【日本】エビスビールのラベル、岩谷天狗煙草の外箱などが、三色版で印刷され
る。[現存していない。]
1902. ○【日本】朝日新聞社が、振り仮名と漢字が一体化した活字を考案して使用を開始
する。[ 1946 年 11 ∼ 12 月に廃止する。]
1902. ○【日本】この頃、見切本専門の卸商が発生し、書店のほか、露店、荒物店、乗り
物内などで売られる。品目として、大衆読物、絵本、実用辞典、暦、月遅れ雑誌などが
扱われる。[以後、これらの特価書籍を俗に「ぞっき本」、見切本、数物(かずもの)など
とと呼ぶようになる 。最初から特価を前提につくられるものも現れ 、これを「つくり本 」
と呼ぶ 。
「ぞっき」の語源は「殺(そ)ぐ」からとか「そっくり」からとかいわれるが、
定説はない。]
1902. ○【日本】東京電気㈱が、電球バルブをガラス会社から購入していたのを自社生産
に切り替える。従来のソーダガラスを鉛ガラス使用に改め、好結果を得る。[ 1905 年 1
月 8 日、アメリカのジェネラル・エレクトリック(GE)社と融資および技術提携の仮契約
に調印する。]
1902. ○【日本】逓信省が、今年度から小都市に限り、電話架設費の一部を加入者が負担
する「特設電話制度」を導入、民間資金の導入による電話普及を期待する 。[以後、好
評を得て、制度は定着する。1907 年度、特設電話制度が中都市にも適用される。
[
1902. ○【日本】小西本店(のち、コニカ㈱)が、六桜社を創設して印画紙や乾板の生産を
開始する。[1903 年、日本初の印画紙とカメラ「チェリー」を発売する。]
1902. ○【日本】矢頭良一が、独自の構想による手回し計算機〈自働算盤〉を特許出願す
る。[以後数年間に、二百数十台を製造・販売する。]
1902.○【日本】森永太一郎( 37 )が、東京・赤坂の西洋菓子製造所でキャラメルの製造を
始める。外人客の注文に応じて作りはじめ、ばら売りする。[日本の気候に適さず原料配
合の研究が重ねられる。1914 年にポケット用の紙箱入りを発売して評判になり、大量生
産するようになる。]
1902. ○【日本】輸入扇風機、腕時計の使用が増える。
1902. ○【日本】自転車が普及する。
- 660 -
1902.○【日本】歌麿の浮世絵 3 枚物が 400 円で売られる。広重の保永堂版「東海道五十
三次」全 55 枚が 50 円、レンブラントの銅版画に 6000 円の値がつけられる。(對中如雲
『広重「東海道五十三次」の秘密』祥伝社、 1995)
1902. ○【日本】漢文読本に、象の鼻を〈肉柱〉と形容してあり、一部に変な感じを与え
るとして、削除すべきだとの意見が出る。(『日本』)
1902. ○【日本】芸人派遣業の余興(よきょう)社が、舞踊、芝居、音楽、邦楽、講談、落
語、手品、花火などの芸人を引き受ける。
1902. ○【日本】日本の人力車がエジプトへ初めて輸出される。
1902. ○【ドイツ】男女別海水浴場が廃止され、初めて共同海水浴場と家族海水浴場がヴ
ェスターラントにできる。ただし、男性だけの入場やカメラの持ち込みは厳しく禁止さ
れる。
1902. ○【ドイツ】ミュンヘンから昨年ライプチヒに移ってきたインゼル書店を母体に、
文芸出版社インゼル Insel-Verlag が設立される。
[1905 年、ドイツで初めてインディアペ
ーパーを使った「ウィルヘルム・エルンスト大公版ドイツ古典叢書」を発刊、1919 年ま
で刊行する。1912 年、古今東西の名作を自由な形で集めた「インゼル・ビューヒャライ 」
シリーズを創刊。これは新書判に近い廉価さにもかかわらず、厚表紙の上に装丁が美し
く、創立以来たえず装丁美を大切にしてきたこの社の面目を示しており、読者たちには
〈エステーティッシュ(美的な、雅趣のある)〉という印象を与える。東西ドイツ分裂の
時代は、西ドイツのフランクフルトと東ドイツのライプチヒに分かれる。1991 年、統合
して本社をフランクフルトに置く。1999.10.15 創立 100 年を迎える。これを記念して、
フランクフルトとライプチヒのドイツ図書館では「インゼル書店 1899 ∼ 1999 」という
特別展示を行う。
]
1902.○【ドイツ】カール・ツァイス社で、P.ルドルフが、性能が良くて極めてシャープ
な描写をする構造簡単な写真用レンズ「テッサー」f6.3 を設計する。イギリスのテイラ
ーが設計した「クック・トリプレット」の後ろの凸レンズを凹凸 2 枚の貼り合わせにして 、
収差をさらに除去したもので、3 群 4 枚になっている。[以後、明るさは f4.5 、3.5、2.8、2.7
などが作られる。ツァイス以外にも、世界中の多くのメーカーがテッサー型のレンズを
開発、製造する。]
1902.○【ドイツ】レーナルト Philipp Eduard Anton von Lenard ( 40)が、光電子がもつ最大
エネルギーは、入射光の強度にはよらず、入射光の波長にのみ依存するという重要な事
実を明らかにする。
1902. ○【オランダ】スパイカー兄弟が、世界初の四輪駆動乗用車を製作する。
1902.○【フランス】メリエス Georges M ロ li ロs( 41)が、スター・フィルム社で、ジュー
ル・ベルヌの冒険科学小説からヒントを得てストーリーのある映画『月世界旅行』を作る 。
トリックの効果を高めるために、単なる実写ではなく初めて「ストーリー」を導入する 。
[1923 年、スター・フィルム社が破産する。メリエスは不遇の晩年を送る。1931 年、改め
て映画の草創期における開拓者としての功績が高く評価され、レジヨン・ドヌール勲章が
贈らる。]
1902.○【フランス】セルポレが、蒸気自動車で時速 120km を記録する。
1902. ○【フランス】パリで、売春絶滅国際会議が公式開催され、売春処罰の協約が論議
- 661 -
される。[1904 年に 13 ヵ国が調印。会議は第1次世界大戦前まで継続して開催される。]
1902. ○【フランス】シャルル・ドゥベボアが、ブラジャーの原型を考案する。
1902. ○【フランス】ヌード写真がエロチックな商品として売られる。特にパリの娼婦た
ちの絵はがきが「フレンチカード」と呼ばれて人気を集める。
1902. ○【イタリア】マルコーニが、磁気検波器を発明し、到来電波を受話器(レシーバ)
で音として検知する。1895 年にすでにイギリスの物理学者ラザフォードが磁気検波器の
原理を考案していたが、電波によって生じる磁気変化で磁石のついた鏡を動かそうとす
るものであって、それ以上発展させようとはしなかった。マルコーニのは、磁化された
ループ状の軟鉄線のコイルを 1 次側と 2 次側に置き、1 次側につないだアンテナからの
電流が 2 次側に到達すると、軟鉄線の磁気が打ち消されて起こす磁気変化を検出する方
式である。[以後、無線通信士は頭に受話器(ヘッドホン)をつけるようになる。これが契
機となり無線通信が急速に発展し、船舶無線に広く使用されるようになり、世界中が無
線電信の存在を認める。1907 年、イギリス・アメリカ合衆国間の無線電信業務が開始さ
れる。]
1902.○【イタリア】テノール歌手カルーソー Enrico Caruso( 29)が、初めてレコードに吹
き込む。[以後、超ロングセラーになる。]
1902.○【イギリス】ポター Helen Beatrix Potter(36)が、知人の子供にあてた絵入りの手
紙を出す。これがきっかけで、子ども向けに物語と挿絵が補い合った小型絵本『ピータ
ー・ラビットのおはなし』として出版される。創作絵本の出発点、20 世紀絵本の出発点
となる。[以後、湖水地方を舞台に小動物を主人公とした同じ判型の絵本を次々に送り出
す。]
1902. ○【イギリス】観光ステレオ写真シリーズを出版しているアンダーウッド&アンダ
ーウッド(Underwood & Underwood)が、
『ステレオ写真で見るローマ(ROME THROUGH
THE STEREOSCOPE)』など、立体写真 46 枚と折り込み地図を付けた旅行ガイドブック
のシリーズを刊行する。地図には立体写真を撮影した場所とカメラの方向が矢印で示さ
れる。(伴田良輔「秘蔵の書 」
『一冊の本』1999.3)
1902. ○【イギリス】マルコーニが、光のように直進する電波が、イギリスから地球の裏
側に近いカナダにまで到達するはずがない、という科学者の理論に対して、事実上大西
洋横断無線通信が可能なことを証明するため、今度はカナダから電波を発射し、イギリ
スで受信することを試み、成功する。[以後、イギリスのヘビサイド、アメリカのケネリ
ーらは、上空の大気中に電波を反射する何かが存在すると推論する。電離層の発見につ
ながる。]
1902. ○【イギリス】ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジ教授ベイリス(ベーリス)
W.M.Bayliss( 42)と同僚のスターリング E.H.Starling(36)が、腸から分泌して膵臓を刺激す
る物質「セクレチン」を発見する。[1905 年、このような物質を「ホルモン」と名づけ
る。]
1902.○【イギリス】スミス George Albert Smith が、世界最初のカラープロセス「キネマ
カラー( Kinema colour)」を発明する。[1906 年、アーバン Charles Urban が特許を取得す
る。スミスとアーバンがナチュラル・カラー・キネマトグラフ社を設立する。1911 年、最
初のカラー映画『デリーの謁見所』を作る。白黒フィルムとカラーフィルタを使う 2 色
- 662 -
加色法で、実際的で商業的に成功した最初の加色法であるが、ふつうの速度の 2 倍、秒
に 32 コマの速度で撮影、映写されるので、目が疲労し、フィルムの損耗が早く、色がず
れるなどの欠点がある。1913 年、日本の福宝堂が東洋権利の特許を取得し、浅草キリン
館で上映する。]
1902. ○【イギリス】チャールズ・シェンクが、ヌード写真集を刊行する。
1902. ○【エジプト】日本から人力車が輸入される。人力でなくラバに牽かせるよう改良
される。
1902. ○【カナダ・ニュージーランド】カナダのバンクーバー∼ニュージーランドのファ
ニング島間の太平洋横断海底ケーブルが完成する。これにより、イギリスの電信線が世
界一周する。
1902. ○【アメリカ】ヒューイットが、水銀蒸気を充満させた管球内でアーク放電をさせ
て発光する水銀灯を発明する。
1902.○【アメリカ】この頃、アマチュア無線を行う者が登場する。[以後、
「ハム ham」
の名で呼ばれる。
1902. ○【アメリカ】ニューヨークの出版者が、イギリスのチャールズ・シェンクのヌー
ド大写真集を刊行する。ヌード写真が初めて美術として扱われる。
1902.○【アメリカ】写真家アルフレッド・シュテーグリツ(38)が、カメラ雑誌を創始す
る。ヌード写真が裸体美術の新分野として登場する。
1902.○【アメリカ】ストーリーを物語る初めての映画『アメリカ消防夫の生活』
(E.S.ポ
ーター監督)が登場する。[1903 年『大列車強盗』が作られ 、
「ストーリー・ピクチュア」
が定着し始める。]
1902.○【アメリカ】デ・フォレスト Lee De Forest(29 )が、ウェスタン・エレクトリック社
をやめ、独立して無線電信会社を設立する。[しかし、成功しない。]
1902. ○【アメリカ】初のレコード会社、コロムビア、ビクターが設立される。
1902. 【流行語】非戦。
1902. 【流行歌】『嗚呼玉杯に花うけて』、
『演歌四季の歌』、
『書生節』
、『ワシントン』
1903(明治36)
1903. 2. 1 【日本】中央東線で笹子トンネルが 7 年がかりで完成し、大月∼初鹿野間を開
業する。[6.11 甲府まで開業する。]
1903.2.11【日本】川上音二郎一座が、正劇(せいげき)運動と銘打って興行形態を改革し 、
シェークスピアの悲劇『オセロ』を東京・日本橋の明治座で初演する。川上貞奴( 32 )が
デズデモーナ役で日本で初舞台を踏む。[以後、貞奴はスターとして人気を博すが、音二
郎没後はしだいに疎んじられる。1917 年、
『アイーダ』に出演。これを最後に引退する。]
1903. 2.−【日本】山陽鉄道会社が、初めて椅子式簡易 3 等寝台車を使用し、無料で客に
提供する。斜め後ろに倒れる椅子式で、定員 73 人。大小便所には電灯、蒸気暖房器を付
ける。官設鉄道は、従来の 1・2 等および学生 3 等の定期券に加えて、一般向け 3 等定期
券を発売する。
1903. 2.−【日本】山田銀行(三重県)取締役山本伊兵衛が、ロコモビル蒸気自動車を購入
し、宇治山田駅∼伊勢神宮∼二見ケ浦間に乗合自動車営業を出願する。
- 663 -
1903. 2.−【日本】鹿児島の緒方壮吉が、ロコモビル蒸気自動車を購入して鹿児島市内∼
米之津間に乗合自動車営業を出願する。
1903. 2.−【日本】イギリスのグラモフォン&タイプライタ(のち、EMI)が派遣したプロ
デューサー兼録音技師フレッド・ガイスバーグらが、東京のホテルで 25 日間、日本で初
めて諸芸能の録音を行う。吉原芸者でつくる吹奏楽団「吾妻婦人音楽連中」が演奏する
「君が代」をはじめ、雅楽、能狂言、琵琶、箏曲、義太夫、常磐津 、清元 、長唄 、俗曲、
落語、浪曲、娘義太夫、声色、詩吟、吹奏楽、新演劇など、計 173 点を、7 インチと 9
インチ盤に録音する。[ 4 月、吾妻婦人音楽連中が乗った客船が沈没し、ほとんどが死亡
し、話題となる。以後、音源はイギリスの EMI 本社アーカイブに保存される。1997 年、
レコード収集家・落語家都家歌六が発見し、東芝 EMI と交渉する。2001 年 3 月、破損
・変形盤を除く 258 点を収めた CD『全集・日本吹込み事始』が発売される。]
1903. 3. 1 【日本】第 5 回内国勧業博覧会が、初めて大阪天王寺公園で開催される。外国
からも 18 ヵ国参加して、最新の製品を出展する。横浜の自動車輸入会社 3 社がそれぞれ
輸入した蒸気、ガソリン、電気自動車を展示する。駅と会場とを蒸気自動車(バス)で連
絡する。天王寺公園の正門前には開館 2、3 時間前から多数の見物客が押しかけ、2 ヵ所
の改札口ではさばききれず、300 ∼ 400 人の群集がなだれ込む事態をひきおこす。会場
では日本で最初のメリーゴーランドが動き、日没後にはふんだんに使われた電球による
イルミネーションで飾られ、サーチライトが展示館を照らし出すなど、人々は 20 世紀の
幕開けとともに新時代の到来を感じる。電気製品などの新製品にも人々の関心が集まる。
とくに電気冷蔵庫が評判となり、新聞が〈最も有益で趣がある出品〉と書いたため、見
物客が押し掛けて、これを見るのに 20 ∼ 30 分も待たされる。初めて会場内に郵便電信
支局が 2 月 1 日∼ 9 月 10 日間に設置される。また、大水槽や濾過(ろか)循環装置などの
近代的な設備を備えた恒久的な水族館が大阪市堺に設けられる。[∼ 7.31。会期中の観覧
者数は延べ 530 万 5209 人を数える。のち、堺水族館は堺市に移管され、1961 年まで一
般に公開される。]
1903.3.20【日本】町村の請願による電信施設に関する件を公布する。
1903.3.23【日本】鉄道郵便局を、東京 、大阪、神戸 、札幌、名古屋、熊本、仙台 、広島、
長野、青森、金沢に設置し、各郵便電信局鉄道郵便課の事務を継承する。
[4.1 郵便電信
局から独立し、11 局が発足する。12.5 行政整理により廃止される。
]
1903. 3.23【日本】郵便電信局を郵便局と改称し、電信・電話も取扱う。東京・大阪郵便
電信局を廃止し、管理機関として東京・大阪中央郵便局(二等)を設置する。
[12.5 行政
整理により廃止される。]
1903. 3.−【日本】秋田県立図書館館長佐野友三郎が、秋田県知事武田千代三郎の山口県
への移動に伴い、県立山口図書館初代館長に就任する。
[1904.1 、巡回書庫を開始する。
この他に、書架の公開、児童室の設置、出納手続きの簡素化など近代的な図書館サービ
スを導入、山口県下市町村図書館の普及に努める 。
]
1903. 3 .−【日本】富山房が、袖珍名著文庫を発刊する。[以後、約 50 冊刊行。]
1903. 3 .−【日本】東京の自働電話が、65 カ所になる。
1903. 4. 1 【日本】通信官署を通信管理局、郵便局、電信局、電話局、鉄道郵便局の 5 局
とする。郵便局は、郵便為替、郵便貯金のほか、電信電話業務を兼業する。
- 664 -
1903. 4. 1【日本】東京に初めて自動車が走る。前行く人に注意するためベルを鳴らして
走る。
1903. 4.10【アメリカ】
『ニューヨーク・ワールド』紙の発行者ピューリッツァー(56)が、
コロンビア大学にジャーナリズム学部創設資金を寄付する。[1917 年、寄付金の一部に
より「ピューリッツァー賞」が創設され、第 1 回授賞が行われる。]
1903. 4.13【日本】小学校令が一部改正され、小学校教科書は原則として文部省が編修し
著作権を有するものに限定することとなる。国定教科書の制度が確立する。[以後 、修身 、
国語、日本史、地理、図画の教科書は必ず国定教科書を使用する。日本語は、主に東京
の中流社会に行われている言葉を採用する。これによって、国語の標準を知らせようと
する。]
1903. 4.18 【中国】ロシアが、満州からの第 2 次撤兵を履行せず、清国に対して 7 項目の
条件をつきつける。
[4.27 清国政府が、ロシアの要求を拒絶し、還付条約( 1902.4.8)の履
行を要請する。
]
1903. 4 .−【日本】大阪図書館が、設立される。[1906 年、大阪府立図書館に改称。
]
1903. 4 . −【日本】町村の請願により電話局を新設する制度を開始する。
1903. 4.−【日本】手塚猛昌( 50 )が、庚寅(こういん)新誌社内に旅行案内社を設け、『汽
車汽舩旅行案内』の鉄道線路案内などのガイドブック部分を独立させ、月刊『旅行案内 』
を創刊する。定価 10 銭。他社の時刻表と対抗するため 、
『汽車汽舩旅行案内』
『旅行案内』
のいずれか 1 冊を買えば他方は景物として進呈するという販売方法をとる。前半の約 10
ページは異なる話題で埋められるが、鉄道線路案内、汽車航路案内などは両者同じで編
集される。[以後、
『旅行案内』は売れ行きが悪い。1907.11 この月限りで廃刊となる。]
1903. 4.−【日本】三井呉服店がモーター商会に注文していたフランス製クレメント商用
車が到着、納入されて商品配達に使用を開始する。日本最初の商用車使用となる。
1903. 春 【日本】東京銀座の天賞堂が、アメリカ・コロムビア社の技師を招き、日本の
芸能 270 種を録音させる。[以後、アメリカでレコードにプレスする。11.8 「平円盤(へ
いえんばん) 」
と名付けて発売する。
以後、
これが日本人の声の最古の録音とされるが 、
1997
年、これより古い 1900 年の録音の存在していたことが確認される。]
1903. 5.22【日本】東京銀座の天賞堂が、アメリカのコロムビア蓄音器会社製の円盤蓄音
機「グラモフォン」を輸入、初めて公開する。従来の円筒式と違って性能が優れ 、
『東
京朝日新聞』は〈在来の物と其趣を異にし、声調明快にして、非常の好成績なりしとい
う〉と報じる。[ 11.8 初めての録音盤(レコード)を「平円盤(へいえんばん)」と名付け
て発売する。]
1903. 5.21【日本】大審院が、盗電について、電気は有体物ではないが、可動性と管理可
能性を有するから窃盗罪の目的となりうるとし、有罪判決を下す。
1903. 5.−【日本】逓信省京都電話局に、ヘース式共電交換機(アメリカのウェスタン・
エレクトリック社製)が設置される。画期的な「共同電池式(共電式)」により、従来の送
話用電池と信号用発電機を廃して、交換局の装備した大型容量の電池を全加入者が共同
で使用することになる。この方式は絶縁力が低下すると漏電したり、疑似信号が発生す
ることが懸念されたので、四方が山に囲まれて夏も湿度の比較的低い京都で初採用する。
[以後、アメリカで開発された絶縁体を応用したエナメルケーブルが開発され、梅雨期に
- 665 -
も支障を来さないことから、京都以外の地域でも共電式の採用が可能となる。1909 年、
共電式が、東京、大阪、名古屋の一部で大々的に導入される。1910 年、国産品が登場す
る。順次各都市にも普及し、電話機は次々と共電式に改められる。]
1903. 5.−【日本】永井荷風『夢の女』が刊行される。表紙は平福百穂の筆になる女の上
半身の裸体像を配す。コロタイプ版の口絵に美人展覧会で入手した若い女の写真をつけ
る。これが遊女の写真だということで『帝国文学』が〈文学の神聖を汚すこと何ぞ夫れ
甚だしきや〉と非難される。
1903. 5.−【日本】東京の港湾業者平野新八郎が、名古屋市本町∼熱田間に乗合自動車営
業を出願する。
1903. 5.−【アメリカ】ビクター・トーキング・マシン会社が、「赤盤」を発売する。(グ
ラモフォン原盤)。
1903. 6. 1【日本】日比谷公園が陸軍の練兵場跡に完成、開園される。東京市の設計案に
基づき林学者本多静六( 37 )がドイツの公園に範をとって実施案を作成、公園中央には高
級割烹店松本楼が建てられ、馬車の乗入れを想定して大きな道路がつけられる。アーク
灯、ガス灯による夜間照明、珍しい西洋花壇などに人気が集まる。
[ 1908 年、日比谷図
書館、1923 年、野外音楽堂、1929 年、公会堂が建てられる。
]
1903.6.16【アメリカ】フォード Henry Ford (40)が 、フォード自動車会社( Ford Motor Co.)
をミシガン州ランシングに設立する 。
[以後、設立早々にフォード A 型を発売、よく売
れる。次いで C 型、F 型と発売する。1908 年、フォードが長年抱いていた大量生産に
よる大衆車「T 型( T 型フォード)」を発売する。
]
1903.6.26【日本】青森∼室蘭間の郵便汽船内に、郵便事務室を設置する。
1903. 7. 1 【ロシア 】ロシアが清国から敷設権を得て 1896 年以来建設を進めてきた東清
鉄道が完成し、全線での正式営業が始まる。
〔前年 1 月には満州里∼綏芬河間の本線が完
成した。〕アムール河沿いを大きく迂回するシベリア鉄道に対して、満州(のち、中国東
北部)を横断してチタ∼ウラジオストク間を直線的に結ぶことができる。[以後、これに
よってロシアが満州に進出する。]
1903. 7. 6【日本】山口県立図書館が開館する。3 月に秋田県立図書館から山口県に赴任
した佐野友三郎が、初代館長となる。[以後、佐野は児童閲覧室の開設、休日・夜間の
開館、公開書架の実施、郷土史料の収集、巡回文庫、山口式十進分類法の採用、県内図
書館協会の結成などを積極的に推進する。1911 年、全国図書館数 414 館のうち 66 館を
山口県の市町村図書館が占めるに至る。1915 年、文部省派遣でアメリカを訪れ、
『米国
図書館事情』を著す 。1929 年、全国一を誇る山口県の図書館がピークを迎え、自治体 221
に図書館数 254 、うち公立 216 館となる。
]
1903. 7.11【日本】前橋電話交換局が開局する。加入者人名表は「電話番号簿」と題し、
イロハ順に氏名を配列し、電話番号と所在地の町名が示される。
1903. 7.23【日本】東京音楽学校と東京帝国大学の学生らによる歌劇研究会が、日本語に
よる初の歌劇『オルフォイス』(グルック作、石倉小三郎・乙骨三郎ほか訳)を、ノエル・
ペリー指揮、ケーベル伴奏で上演する。ソプラノ三浦環(19)も出演する。
1903. 7.−【日本】小西本店(のち、コニカ㈱)が、携帯に便利で操作簡単な素人向けに作
られた国産初の印画紙さくら白金タイプ紙使用のカメラ「チェリー手提暗箱」を発売す
- 666 -
る。
1903. 7 .−【日本】岐阜県の各務寛左衛門、モーター商会(東京市京橋区)主松井民治郎(38)
ら 8 人が岐阜県知事に提出していた乗合自動車営業許可願いに対して、知事川路利恭が 9
月 14 日取締規則に代わる命令書(26 項目)を発行して営業を許可する。[以後、これが動
機となって岐阜県自動車税制が制定される。]
1903. 7.−【日本】名古屋商会(名古屋市栄町)が、各種自動車の販売を開始する。愛知県
最初の自動車販売店となる。
1903. 8.20【日本】愛知県が、他府県に先駆けて「乗合自動車営業取締規則」(県令第 61
号)を制定する。後の道路交通法・道路運送法・道路運送車両法の原点となる。条文に、
〈自動車ノ速度ハ一時間八哩ヲ超過スヘカラス〉とあり、また 24 条には〈運転手及車掌
ハ行車中飲食喫煙シ又ハ酩酊シ若ハ放歌等を為スヘカラス〉と規定する。[9.29 長野県
が自動車取締規則を制定する。10.28 京都府が「自動車営業取締規則」を制定する。1913
年、名古屋自動車㈱がバスの営業を開始する。1919.1.11 全国統一の「自動車取締令」が
公布される。]
1903.8.20【日本】日本法律学校が、私立日本大学と改称する。
1903. 8.22【日本】東京電車鉄道㈱(東京馬車鉄道㈱を改称)が、初の市街路面電車を新橋
∼品川駅前間約 5km で運行開始する。運転手の未熟や軌道に石が入るなどして、終点ま
で約 1 時間 30 分かかる。乗車賃 3 銭で、この日乗車した人は 8872 人。[9.15 後発の東
京市街鉄道㈱(街鉄)が数寄屋橋∼神田橋間を開業 。1904.12.8 東京電気鉄道㈱が、土橋(新
橋駅北口)∼御茶の水間(外濠線)を開業。以後、東京では、これら 3 つの電車会社による
競合時代が続く。1906.9.11 これらの 3 電が合併して東京鉄道㈱となる。1911.8.1 東京市
がこの会社を買収して、東京市電気局(のち、交通局)が成立する。のち 、8 月 22 日を「チ
ンチン電車の日」とされる。]
1903. 8.−【日本】同鹿市隠『活動写真術自在』(大学館)刊。映写技師たちが、光源のガ
スを発生させるガス釜の中へ入れる白い塩酸カリと黒いマンガンが、灰色に濃くなった
色合を見て、その適量を決めるのを常しているのに対して、塩酸カリの分量の 120 匁に
対するマンガンの適量は 36 匁であるなどと書く。この頃、フィルムにガス焔が触れるこ
とよりも、エーテル管から火が入ってガスタンクに引火し、しばしば負傷者を出したり
火災を起こしたりする。
1903. 8 . −【中国】『北支那毎日新聞』が創刊される。
1903. 9. 6【中国】ロシアが、4 月 18 日の 7 項目要求を撤回し、新たな要求を清国政府に
提出する。清国政府は拒絶する。
1903. 9.12【日本】大阪市営電気軌道が、日本最初の市営電車を、花園橋∼築港埋立地間
で開業する。
1903. 9.15【日本】東京市街鉄道㈱(街鉄)が、数寄屋橋∼神田間に市街電車の営業を開始
する。[ 1906.9.11 東京電車鉄道㈱(東電)、東京電気鉄道㈱(外濠線)と 3 社合併し、東京
鉄道㈱が成立する。1911.8.1 東京市が東京鉄道を買収。東京市電気局を開設し、東京市
電がスタートする。]
1903. 9.16【日本】文部省の国語調査委員会が、国語調査資料収集のため、
『音韻並ニ口
調法取調ニ関スル事項』を印刷、各府県に配布し、その調査報告を依頼する。
- 667 -
1903. 9.20【日本】京都市の福井九兵衛と坪井菊治郎の二井商会が、2 人乗りのトレド蒸
気自動車を 6 人乗りに改造して、京都で日本最初の乗合自動車の営業を開始、堀川中立
売∼七条∼祇園の間を走行する。開業当日に警察から自動車営業取締規則が未発布との
理由で中止を言い渡される。[以後、懇願して取締規則が発布されるまで仮営業する。
1904.1.2 廃業。1987 年、日本バス協会が、全国バス事業大会で、9 月 20 日を「バスの日 」
と制定する。
]
1903. 9.29【日本】長野県が、自動車取締規則(県令第 40 号)を制定する。県下に自動車
はまだなかったが、出現に備えて制定する。[この年 、京都府 、富山県 、宮城県 、石川県、
福井県なども取締規則を制定する。]
1903. 9.29【日本】『神戸又新日報』が、〈自動車は昨今漸次に隆盛に赴かんとする形跡あ
り、当地にて自動車所有者はニッケル氏の瓦斯式 6 人乗り 1 台、亜米利加テレジング商
会某氏の蒸気式 1 台にして、又自転車風の自動車所有者は神戸のマンシニ、斎藤、兵庫
の澤田、住吉の吉田諸氏なるが、売捌店は 24 番ブルフレア(注:ブルウル・フレール商
会神戸支店)及び取次店橋本商会にして、…〉と報じる。
1903. 9.−【日本】フランスのブルウル商会が、横浜および神戸支店を廃止する。支配人
の F.B.アベンハイム、R.E.アベンハイム、リチャード・アベンハイムの 3 兄弟が引き継
ぎ、社名をアベンハイム・ブラザルズ商会とする。
1903. 9.−【日本】中根鉄工所(大阪市西区)が、国産蒸気自動車製造の広告を『大阪朝日
新聞』に掲載し、岡山の自動車会社から製造を依頼されて製造中であることや、京都の
二井商会にも出資している旨を宣伝する。
1903. 9.30【日本】
『東京朝日新聞』(東朝)の池辺三山が、山県有朋に対露策を説く。池
辺三山は 1896 年に主筆として『大阪朝日新聞』大朝に入社、その後東朝主筆として多く
の社説を書いた。二葉亭四迷、夏目漱石の入社に努力した。〈新聞は商品であり、記者
はその商品を作る職人〉、
〈文章は平明で達意であるべき〉という持論を社内に浸透させ
た。[以後、組織、紙面の近代化に尽くし、のちの『朝日新聞』の基礎を築く。]
1903. 9.30 【日本】京都・祇園の芸妓お雪(本名加藤雪(ゆき))( 22)が、アメリカのモルガ
ン財閥当主の甥、ジョージ・D・モルガンに 4 万円(岩波年表では 10 万円)で落籍される。
[1904.1.20 結婚式を挙げる。1905.10.28 夫とともにアメリカに渡る。以後、
「モルガンお
雪」として芝居、小説などで取り上げられ、話題となる。]
1903.10. 1【日本】東京・浅草六区に日本初の常設活動写真館「電気館」が開設される。
従来、光源にガスを使用していたのを、警察が防火上危険だとして禁止したのを機に、
電気の供給を受けて発足する。浅草の仲見世で「汽車活動」という見世物の説明をして
いた染井三郎がスカウトされて専属の弁士となる。本格的映画常設館時代が始まる。毎
日昼 3 回、夜 2 回興行する 。「
( 汽車活動」は画家黒田清輝の作ったもので、汽車の窓の
向こうでパノラマを回して汽車旅行をしている感じを出したもの。染井三郎はそこで歯
切れのいい名調子で説明をしていた 。
)[以後、電気館という名が各地方の活動写真興行
場の名称として用いられる。六区興行街は東京の大衆娯楽の代表地となり、
「六区」は浅
草公園の代名詞ともなる。]
1903.10. 8【中国】ロシア軍が、奉天省城を占領する。
1903.10.28 【日本】京都府が、自動車営業取締規則(府令第 39 号)を制定する。車両は長
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さ 3.3m、幅約 2m 以内で、営業可能な道路は幅 5.4m 以上などとする。
1903.10.29 【中国】清国政府が、フランスとベトナム・雲南( ?(サンズイ +眞)南)鉄道建設
に関する協定に調印する。
1903.10.−【日本】長崎県三重村∼台湾の基隆市近郊八尺門間約 1000km で長距離無線電
信の実験を行う。夜間は通信ができるが、昼間は不感に終わる。
1903. 秋 【アメリカ】アイオワの気象台に勤務するジョージ・ M.チャペルが、希望する
農家に対し、天気予報を電話で伝えるサービスの実験を始める。気象台から毎朝定時に
電話交換局に天気予報を伝え、電話交換局は直ちに希望加入者全員に同時にコールして
伝える。予報サービスは国の気象台情報のため無料とする。一種の有線ラジオ放送のよ
うなものが始まる 。[以後、短期間に中西部の農家の間に広まる。この頃、オハイオ州
では、州都コロンバスの予報官 J.ウォーレン・スミスの電話に接続すると、いつでも気象
情報が得られる 、
「ウェザー・オン・デマンド」の原型が登場する。電話による気象情報
サービスは、農家の電話加入者を増やし、オハイオ州では 119 の電話交換局が誕生する。
アイオワ州では、サービスを受ける農家が 4 万戸に達する。1904 年、インディアナ州で
は、州内の 300 の農家に鉄道輸送で、2500 の農家に郵便で気象情報が配送されているな
かで、無料の気象情報伝送が 7000 戸に達する。
]
1903.11. 8【日本】東京銀座の天賞堂が、この春アメリカ人技師に録音させた日本の芸能
から動物の鳴き声まで 270 種を、アメリカで片面盤にプレスしたものを「平円盤(へいえ
んばん)」と名付けて発売する。「写声機平円盤第一回着荷曲名」と題する一覧表に、邦
楽、軍歌、詩歌、落語など各種の音盤を列挙する。最初の録音は、イギリス人の落語家
快楽亭ブラックの『JAPANESE HUMOUROUS TALK 滑稽咄譚楽屋の笑』(???)
(GRAMOPHONE CONCERT RECORD、 G.C.11178)といわれるが、多数のレコードが同
時に発売されたので、どれがレコード第 1 号かは特定できない。アメリカのコロムビア
蓄音器会社製の円盤蓄音機「グラモフォン」による試聴会の結果、従来の円筒式と違っ
て性能が優れ 、
『東京朝日新聞』は〈在来の物と其趣を異にし、声調明快にして、非常
の好成績なりしという〉と報じる。[この年、イギリス・グラモフォン社のプロデューサ 、
ガイズバーグ Fred Gaisberg が、日本にも録音旅行で訪れる。快楽亭ブラックはガイズ
バーグに協力し、自らも漫談を録音したといわれる。1908 年 4 月 、天賞堂は平円盤を「レ
コード」と呼ぶ。同年 8 月以降「平円盤」の呼称は完全に消え去る。]
1903.11.15 【日本】日露戦争に反対して『万朝報』を退社した幸徳秋水(32 )と堺利彦(33 )
が、週刊『平民新聞』を創刊する。タブロイド判 8 ページ建て。創刊の宣言でみずから
の主義として〈平民主義、社会主義、平和主義〉を掲げ、〈満天下の同主義者が公有の
機関〉と自己規定する 。
[以後、石川三四郎、西川光二郎らが参加、安部磯雄、加藤時
次郎、木下尚江、斯波貞吉らが社外から協力する。平均の発行部数は 3000 ∼ 4000 部程
度。日露戦争中の果敢な言論活動や、日本で初めての『共産党宣言』訳載などのため、
政府からたびたび弾圧を受け、罰金・印刷機没収等により資金が圧迫され、堺らが投獄さ
れる。1905 年 1 月 29 日、マルクスの『新ライン新聞』終刊号にならって全紙赤刷りに
した第 64 号をもって廃刊する。1907 年 1 月 15 日、日刊『平民新聞』創刊。
]
1903.11.16 【日本】新橋駅で、出札掛(切符売り係)に初めて女性 4 人が登場する。好評だ
が、珍しがられて仕事の邪魔になるとの意見も出る。[以後、東京電燈会社、三井呉服店
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など女性を雇う会社が増え、女性の職場進出が続く。]
1903.11.18 【パナマ】アメリカが、運河地帯をパナマ政府から永久租借する。
1903.11. −【日本】森鴎外訳、クラウゼヴィッツ『大戦学理』(いわゆる『戦争論』)が軍
事教育会から刊行される。この中で、鴎外は「Information」を「情報」と訳す。〔「情報」
という言葉そのものは、1876 年、陸軍少佐酒井忠恕訳のフランス語兵術書の訳書『仏国
歩兵陣中要務実地演習軌典』の中で使用されたのが最初という 。
(神戸大学教授小野厚
夫)
〕
1903.11.−【日本】富山県が、乗合自動車営業取締規則(県令第 85 号)を制定する。
1903.11.−【日本】双輪商会が、東京市銀座 3 丁目に自動車部をつくり、シカゴ・モータ
ー・ビークルズの 12 人乗り自動車の広告を雑誌に掲載する。
1903.12. 3【日本】閣議で、ロシアとの開戦の際の清国と韓国に対する政策を決定する。
清国には中立を維持させ、韓国は支配下に置くこととする。
1903.12. 5【日本】通信官署の行政整理により、東京・大阪通信管理局、東京・大阪中央
郵便局を廃止し、東京・大阪郵便局が事務を継承する。また、全国 11 局の鉄道郵便局を
廃止し、その所在地の一等郵便局が事務を継承する。
1903.12.16 【アメリカ】ニューヨークのマジェスティック劇場( Majestic Theatre)で、女性
の案内人が初めて雇用される。
1903.12.17 【日本】私製葉書製式規則が、初めて制定される。
1903.12.17 【アメリカ】ウィルバー Wilbur Wright( 36)とオービル Orville Wright(32)のラ
イト兄弟が、夏に製作した水冷式エンジン、12 馬力、木製プロペラ 2 つの動力飛行機 1
号機「フライヤー(飛行機の意)」を、ノースカロライナ州キティーホークにおいて公開
飛行を行う。翼幅 12m、全長 6m、重量 274kg。強風中に、最初の飛行で約 12 秒空中飛
行する。飛行距離は 36.6m。4 回目に、飛行時間 59 秒、距離 260m の人類最初の動力飛
行に成功する。兄弟は、オハイオ州デイトンで自転車製造販売業を営んで、かなりの成
功を収めていたが、自転車の次の商品として飛行機の開発に興味を抱き、1900 年以後、
人間の乗るグライダを製作し、恒風地を求めて遠い大西洋岸のノース・カロライナ州キテ
ィーホークで実験を繰り返したが、満足すべき成果が得られなかった。苦心のすえ軽い
エンジンと効率のよいプロペラを自製し、最初の動力飛行機を製作した。[ 1908 年、ウ
ィルバーがフランスで 2 時間 30 分を越す飛行を実現する。以後、飛行機は彼らの初めの
予測を遥かに超えて大発展し、20 世紀の偉大で新しい文化となる。]
1903.12.24 【中国 】
『上海週報』創刊。
1903.12.26 【中国 】
『上海新報』創刊。
1903.12.27 【日本】呉線の呉∼海田市間が開業する。
1903.12.29 【日本】郵便物の各種日付印に使用する印肉類は、すべて黒色または黒色類似
のものに限定することとする。
1903.12. −【日本】東海道線の客車に、蒸気で足を暖める設備がつけられる。
1903.12.−【日本】名古屋市議会が、自動車税年税 1 台 20 円を提案する。議員鈴木某か
ら自家用、営業用に区分すべし、と修正動議が出されるが、動議に賛成少数で原案通り
可決する。日本最初の自動車税となる。
1903.12. −【日本】長野県飯田の牧野元らが、乗合自動車を計画、東京からロコモビル蒸
- 670 -
気自動車を取り寄せて、塩尻∼飯田間を試運転するが、自動車 4 台と相当な経費を考え
ると採算がとれないと判断して、営業を断念する。
1903.12.−【日本】鹿児島県が乗合自動車営業取締規則(県令第 44 号)を制定する。
1903.12.−【日本】宮城県が自動車取締規則(県令第 58 号)を制定する。
1903.12.−【日本】石川県が自動車取締規則(県令第 78 号)を制定する。
1903.12.−【日本】福井県が自動車取締規則(県令 64 号)を制定する。
1903.12.−【日本】京都市が、自動車税を制定する。5 人乗以上年税 20 円以内、3 人乗り
以上 4 人乗以下 15 円以内、 2 人乗以下 10 円以内。[1904.4.1 徴収を開始する。課税対象
は日本最初の乗合自動車を営業する二井商会となる。]
1903. ○【日本】冨山房が、日本の古典を中心に収録した「袖珍名著文庫」の刊行を始め
る。のちの文庫本に近い形態のものとして初めて出版された「文庫 」となる。
[以後、1912
年までに 50 冊を刊行する 。
]
1903. ○【日本】森鴎外が、クラウゼヴィッツ『戦論』(『戦争論』)を翻訳、出版する。
この中でドイツ語の「Nachricht」を「情報」と訳す。
1903.○【日本】重野安繹( 76 )・三島毅・服部宇之吉および三省堂編集部編『漢和大辞典』
が刊行される。中国の『康煕字典』に準拠して文字を配列し、国字も収める。熟語は、
「水」の項に「冷水 」、
「雨水」、「河水」などと、親字が下につくものを掲載する 。
[以
後、冨山房が『詳解漢和大辞典』と題して改訂し、熟語については親字を頭字とするも
のが優先的に掲げられ、その後に親字を尾字とする熟語に表を付ける。
]
1903.○【日本】夜間に 、ポストから郵便を盗み出し、為替券を抜き取る犯罪が増加する。
1903. ○【日本 】
『報知新聞』が、他社に先駆けて自社の新聞だけの配達・販売を行わせ
る専売店を各地に設置する。この専売店は配達ばかりでなく、購読者をふやすセールス
マンの機能をになうことであり、『報知』の部数はこれにより上昇する。[以後、他紙も
それぞれ専売店を設ける。1930 年ころ、日本独特の専売制が確立する。1941 年、政府が、
第 2 次大戦下の新聞統制の一環として、専売制から共同販売制に移行させる。1951 年新
聞用紙・価格の統制撤廃とともに専売制に戻る。]
1903. ○【日本】当局が、平凡な事件なのに、号外を発行し大声で売る者を相次いで取り
締まる。
1903. ○【日本】小栗楢香平(おぐるすこうへい)が、軽気球の表面に絵や文字を書いた広
告気球を考案する。[ 1913 年、最初の広告気球が、クラブ化粧品の中山太陽堂により東
京・日本橋に掲げられる。1915 年ごろ、イルミネーション入りの夜間用が考案される。
1919 年、変型広告気球が現れる。1930 年、気球に垂らす広告用文字網が考案される。1934
年ころ、係留広告気球がアドバルーンと呼ばれるようになる。]
1903.○【日本】滝田樗陰(21 )が、東京帝国大学英文学科に入学する。在学中から『中央
公論』誌の海外新潮欄の翻訳者として同誌に関係するようになる。[ 1904 年法科に転じ
るがそのまま編集者として中央公論社に入社し、大学は中退する。]
1903. ○【日本】国鉄が定期券規定を改定する。民鉄各社もこれに合わせて、定期券制度
を整備する。
1903.○【日本】この年度、電話交換局が全国に 45 局、加入者数が約 3 万 5000 人に達す
る。
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1903.○【日本】この頃、海軍が長崎∼と台湾間 630 マイル(1008km)の長距離無線通信に
成功し、無線通信機の採用を決定する。技師木村駿吉らの開発した実用的な無線通信機
「36 式無線機」の製作を横須賀工廠で始める。製造が間に合わないため部品を大阪の安
中電機製作所(のち、アンリツ㈱)にも発注する。電源用の電池は、島津製作所の島津源
蔵が鉛畜電池を直列接続して、1 ケース 24V にまとめたものを作る。これらの無線装置
を海軍の全艦艇 32 隻に取り付ける。[以後 、大晦日も元旦も抜きで無線電信機を製作し、
1904 年までに戦艦・巡洋艦だけでなく、駆逐艦や仮装巡洋艦に至るまで無線電信機を搭
載する。]
1903. ○【日本】横浜、神戸に、船舶に対してグリニジ平均時の報時を行うため、港湾の
埠頭(ふとう)に高くつるした球を正午に落下させ、その瞬時を観測して時刻を知る装置
「報時球(時球)」が設置される。[以後、福岡県門司、長崎、大阪などの各港でも行われ
る。1905 年、アメリカで無線電信による無線報時が始められてからは、報時球の利用価
値がなくなり、第二次大戦以後姿を消す。1911 年、日本でも千葉県の銚子無線電信局を
通じて、1916 年には船橋無線電信局を通じて行われる。]
1903. ○【日本】人力車に自動車のベルをつける者が増える。前行く人たちに声をかけず
にすむ、と便利がられる。
1903. ○【日本】大阪市で路面電車が開業する。最初から二階式の車両が混じっている。
電車の発車合図には車掌が手で紐(ひも)を引っ張ってゴングを鳴らし、また、運転手は
足踏み式のベルを鳴らして警報合図をしたので、チンチン電車の愛称が生まれる。]
1903. ○【日本】歌舞伎座で、曲芸、火災、自然界などの実写物の着色活動写真を上映す
る。
1903.○【日本】石川倉次( 44 )が、1894 年ころにアメリカから輸入された点字タイプライ
タ「ブレールライター」を改良して、濁音・清音を一度に打てるようにした日本語点字
タイプライターを製作する。
1903. ○【日本】東京・万世橋のたもとで、活動写真の看板を首から下げてうろつく男が
人目をひく。サンドイッチマンの先駆けとなる。
1903.○【フィリピン】マニラにおける売春婦総数 476 人、うち日本人の売春婦は 260 人
(総数の約 55 %)、フィリピン人 141 人、欧米各国からの白人 75 人がいる。[アメリカの
国勢調査]。マニラに、日本人の「バー女給」「唐行きさん」が 280 人在住している。[在
マニラ日本領事館記録]。その大半が、 1901 年にアメリカ軍政当局が設けた赤線街サン
パロク地区に集中している。
1903.○【デンマーク】パウルゼンが 、アーク放電により電波を放射する方法を考案する。
水素ガス中の銅電極に強い磁界を加え直流アーク放電をさせて、その放電回路と並列に
LC共振回路を設け、ほぼ単一周波数の電波を放射させる方法で、電弧式と呼ばれる。
パウルゼンは、放電回路に直列に送話器を挿入し、高周波電流の振幅を音声信号で変調
する無線電話機の特許を取得する 。[ 1916 ∼ 1926 年、電弧式送信機が実用に供される。]
1903. ○【ドイツ】無線通信機製造会社テレフンケンが設立される。
1903. ○【ドイツ】リチャード・ウンゲヴィッターが、裸体による社会生活を提唱する。
のちの裸体運動(ヌーディズム)の先駆けとなる。
1903. ○【フランス】政府が、国全体で統一した道路標識(交通標識)を、世界に先駈けて
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導入する。黒い長方形の板に、白く描いたもので、右折、左折、橋、踏切、登り坂など
を示す。
[以後、永く使用される。1968 年、 国連で「道路標識および信号に関する条約」
が採択され、国際的に道路標識の統一化が図られる。 ]
1903.○【スイス】ヨーロッパ初のスキー工場が、グラルス(グラールス)(Glarus)に設立
される。[以後、間もなくスキーをスポーツに利用することが大人気になる。]
1903. ○【イタリア】マルコーニが、ドイツのテレフンケン社が設立されたことで自社の
ライバル登場と考え、マルコーニ無線会社が外国に販売した無線機にもマルコーニ社の
無線通信士を配属し 、他社の無線機との交信を禁止して、世界の無線通信の独占を図る。
[以後、プロシア、ロシア、アメリカなどが反発し、対応策を協議するため、イギリス、
イタリア、スウェーデンなど 9 ヵ国の代表をベルリンに招いて、国際無線通信条約を結
ぶための予備会議を開催する。
1903.○【アメリカ】新聞経営を引退したピュリッツァー Joseph Pulitzer( 56 )が、新聞記
者の向上を願って、コロンビア大学に 100 万ドルを寄贈する。
[1912 年、同大学はこれ
に基づき新聞学部( School of Journalism)を発足させる。1917 年、ピュリッツァーがコロ
ンビア大学に遺贈した 50 万ドルを基金に、ピュリッツァー賞(The Pulitzer Prize )が設け
られる。]
1903. ○【アメリカ】エジソンが、ワックスの録音盤に金属蒸着法により金属皮膜を作る
技術を開発する。[のちに、電鋳めっき作業の基礎となる。]
1903.○【アメリカ 】最初の西部劇映画『キット・カーソン 』と『開拓者』が公開される。
[4 ヵ月後、『大列車強盗』が製作される。
]
1903. ○【アメリカ】世界初の「ストーリーピクチャー(劇映画)」といわれるの西部劇『大
列車強盗』(エドウィン・S・ポーター監督)が製作される。上映時間は約 12 分。オリジナ
ルプリントでは、巻末の強盗の拳銃発射が赤く彩色される。14 のカットからなり、各カ
ットごとに場面が変わるが、それによってストーリーを物語っている。最後の 1 カット
は、ストーリーから独立してはいたが、強盗の 1 人が上半身像で映り、観客に向けてピ
ストルを数発撃つという画面で、迫力ある大写しの効果を発揮する。[ 1908 年、グリフ
ィスは『ドリーの冒険』以降の諸作品でストーリーピクチャーの手法を発展させ、完成
させていく。以後、1910 年ごろまでに映画は物語展開や大写し表現の効果を学び、各国
で寸劇的な喜劇や動きを主とした活劇などがしきりにつくられるようになる。]
1903.○【アメリカ】オールズモビル社が、自動車に初めてスピードメーターを装着する。
1903.○【アメリカ】エジソン電気会社の主任技師だったフォード Henry Ford( 40)が、辞
職して自動車製造に専念、フォード・モーター社をミシガン州ランシングに設立する。[以
後、何回かの失敗を重ねる。1908 年、大衆車「フォード T 型 モデル T」の開発に成功
する。]
1903. ○【アメリカ】この頃、ミシガン貯蓄銀行の頭取が、ヘンリー・フォードの顧問弁
護士ホラス・ラッカムに、フォード社への投資をやめるよう助言して 、
〈馬はずっと生き
るが、自動車は目新しいだけ。一時の流行にすぎない〉という。それにもかかわらず、
ラッカムはフォードの株を 5000 ドル購入する。[数年後にラッカムは 1250 万ドルで売
る。]
1903.○【アメリカ】フェッセンデン(フェセンデン)Reginald Aubrey Fessenden (37)が、
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希硫酸電解液中に白金線電極を設けた電解検波器を発明する。
1903. ○【アメリカ】連邦法の「マン法」が制定され、売春やわいせつ行為のような不道
徳な目的で女を伴って州を越えての移動が禁止される。
1903.○【北極】ノルウェーの極地探検家アムンゼン Roald Amundsen (31)が、 47t の帆船
ヨーア号で北磁極に到達、磁極の移動性を長期観測する。[以後、そのまま太平洋へ抜
け、1905 年 8 月 13 日、北西航路樹立に成功あうる。
]
1903. 【事物】台湾バナナ。
1903. 【流行語】アジアは一つなり。巖頭の感。恐露病。人生不可解。煩悶。
1903. 【本】同鹿市隠『活動写真術自在』(大学館)
1904(明治37)
1904. 1 . 2【日本】
『報知新聞』(のちのものとは別)が、高倉典侍、柳原愛子 、川上貞奴(さ
だやっこ)(32 )らの肖像写真を掲載する。輪転印刷機による最初の新聞写真印刷となる。
1904. 1 . 5【日本】新聞記事取締りに関する緊急内務省令が公布される。
1904. 1 . 5【日本】陸軍省・海軍省が、軍機・軍略事項の新聞・雑誌への掲載を禁止する。
1904. 1. 5【日本】
『大阪朝日新聞』(大朝)が、コラム「天声人語」の掲載を始める。鳥
居素川の命名による。
1904. 1. 6 【日本】双輪商会主吉田真太郎(26 )と内山駒之助が、アメリカの自転車、自動
車事情視察のため渡米する。[4.9 シベリア丸で帰国する。小型乗用車 2 台と大型車のシ
ャーシ 1 台を持ち帰る。この大型車シャーシにボデーを架設して 12 人乗りバスを製作し
て、広島市の杉本岩吉、鳥飼繁三郎らに売る。1905.2.5 杉本らが、これを山陽線横川駅
∼可部間を運行するバスを開業する。日本初のバスとなる。]
1904.1.15【日本】鉄道軍事供用令が施行される。
1904. 1.20【日本】東京の西庫太が、精美社より、一般向けの列車時刻表を掲載した『旅
のつれづれ』を発刊する。定価 1 円。時刻表に初めてアラビア数字を採用する。
1904. 1.20【日本】京都・祇園の芸妓お雪(本名加藤雪(ゆき))(23 )が、1901 年に来日し
たモルガン財閥当主の甥ジョージ・D・モルガンに見そめられ、昨年 9 月 30 日、4 万円
(岩波年表では 10 万円)の落籍料が払われて落籍、この日結婚式をあげる。[1905.10.28
夫とともにアメリカに渡る。以後、まもなくフランスに渡って暮らす。1915 年、夫と死
別。以後、マルセイユ、ニースなど南フランスで生活する。この間、「モルガン雪」と
して、芝居、小説などで取り上げられ、「日本のシンデレラ」と呼ばれる。1938 年、日
本に帰国。余生を京都で過ごす。のち、1 月 20 日をモルガン雪にあやかって「玉の輿の
日」と呼ばれる。1951.2.6 帝劇第 1 回ミュージカルスで、
『モルガンお雪』(秦豊吉製作 、
菊田一夫作、越路吹雪・古川緑波主演)上演。]
1904.1.25【日本】対露戦争準備のため、鉄道軍事供用令が公布される。[ 1.26 施行。]
1904. 1.−【日本】県立山口図書館と京都府立図書館が、それぞれ巡回文庫を開始する。
1904. 1.−【日本】二井商会(京都市)が、株式組織に変更して第一自動車㈱の株式を募集
する。[ 2 月、日露戦争の勃発で応募者なく、破産する。]
1904. 1 .−【日本】広島県が自動車営業取締規則(県令第 3 号)を制定する。
1904. 1 .−【日本】山口県が自働車営業取締規則(県令第 3 号)を制定する。
- 674 -
1904. 1.−【イギリス】ベンハム C.E.Benham が、天井から吊るした紐の先に豆電球をつ
けて円を描くように紐を振り、その光をレンズを通さずに直接的に印画紙に感光させ、
点光源がつくる物理的な運動の軌跡を、長時間露光で記録して光跡写真を作る。紐の吊
り方と動かし方、撮影角度などによって微妙に違う様々なパターンが得られる。この特
殊写真技法を「ペンジュラム・フォト(pendulumphoto)」と名付け、初めてロンドンの『フ
ォトグラム』誌 1 月号に発表する。「
〔 フォトグラム」の方法自体は、カメラを用いない
で印画紙と光源の間に物体を置いて、直接印画紙に感光させる単純な方法で、19 世紀半
ばの写真術草創期のころに、すでに行われていた。〕[以後、
『EncyclopediaofPhotography 』
では、振り子による光跡写真のことを「PHYSIOGRAM」という項目で説明する。日本
では単に「ペンジュラム」と呼ばれる。1922 年ごろ、ハンガリー出身でバウハウスの造
型作家モホリ・ナギ(1891 ∼ )がフォトグラムの技法を用い、同じころ、その絵画性が
ダダイストやシュルレアリストらの目にもとまり 、復活する。アメリカのマン・レイ( 1891
∼ )も、フランスに移って以後、フォトグラムによって夢の中の記憶のような幻想的な
光の風景を構成する 。パリにいた写真家中山岩太(いわた)も同種の技法で制作している。
1935 年ころ、画家の瑛九(えいきゆう)は「フォト・デッサン」と称し、多くのフォトグ
ラムを制作する。]
1904. 2. 4【日本】御前会議が開かれ、ロシアとの交渉を打ち切り、軍事行動に移ること
を決議する。
[2.6 栗野公使が、ロシアに国交断絶を通告する。]
1904. 2 . 5【日本】外国への私用電報に暗号を使うことが禁止される。
1904. 2. 6【日本】軍事郵便物に関する件が公布、軍事郵便規則、軍事郵便取扱規程が制
定される。
1904. 2 . 8【朝鮮半島】日本陸軍の臨時派遣隊の先遣部隊が、仁川に上陸を開始する。[2.9
仁川のロシア艦隊を攻撃する。]
1904. 2 . 8【中国】日本の連合艦隊が、旅順港外のロシア極東艦隊を攻撃、戦闘が始まる 。
1904. 2.10【日本】ロシアに宣戦布告する。日露戦争が始まる。たいまつ行列や旗行列が
行われる。[2.11 大本営が宮中に設置される。]
1904.2.10【日本】陸軍省が、陸軍従軍記者心得を定める。
1904.2.12【日本】陸軍の軍服を、濃紺色からカーキ色に改正する。
1904. 2.12 【日本】モーター商会が、事業を拡張して合資会社に組織変更、銀座 1 丁目に
移転する。松井民治郎( 39)が 1 万円、松井惣吉、黒田琴が各 5000 円を出資、支配人に露
崎伴四郎が就任する 。[以後、日露戦争勃発のため自動車ブームは完全に消沈する。7 月、
芝区高輪南町に移転する。1905.2.6 専売合資会社とモーター商会を解散する。以後、松
井民治郎は単身朝鮮半島に渡る。1906.8 百瀬広之助らと平壌市街鉄道(合)を設立する 。]
1904.2.12【中国】清国が、日露戦争に中立を宣言する。
1904.2.14【日本】函館に戒厳令が敷かれる。[2.15 長崎にも戒厳令。]
1904.2.18【日本】東京の市街電車で、車内禁煙を実施する。
1904.2.25【日本】逓信省が、通信事務上に使用する事務用葉書が発行される。
1904. 2 . −【日本】逓信省が、軍事郵便規則を制定する。
1904. 2.−【日本】海軍が、戦地や近海島嶼の無線機を備えた望楼と内地をつなぐ海底ケ
ーブルを、戦時中の危険を冒して敷設し始める。[1905.2 この頃までに佐世保・大連間 655
- 675 -
海里、松江・元山間 472 海里、北海道・樺太間 3 条 238 海里に加えて、対馬海峡に 181
海里、対馬、沖の島、角島、見島の望楼間の連絡線として 122 海里の海底ケーブルが敷
設される。]
1904. 3 . 3【日本】逓信省が、俘虜郵便取扱規程、俘虜郵便為替規則を制定する。
1904. 3. 5【日本】岐阜県が、県令第 10 号に営業税雑種税として、馬車税、牛車税、自
転車税などとともに、日本最初の自動車税を制定する。自動車税は 1 人乗り年税 3 円、1
人増すごとに 1 円を加算する。なお 、馬車 2 疋立以上年税 8 円 、同 1 疋立 6 円 、人力車 2
人乗 2 円 50 銭、同 1 人乗 2 円、自転車 1 等護謨輪 3 円、同 2 等護謨輪以外 1 円など。
1904. 3 . 8【アメリカ】ニューヨークの女性労働者が、参政権を求めて集会を開く。
1904. 3.10【日本】人力車営業取締規則が改正され、車夫のハッピまたは雨具の背中に背
番号を入れることになる。
1904. 3.13【日本】幸徳秋水( 33)が、
『平民新聞』の社説「与露国社会党書」で、日露両
国の社会党は手を携え共通の敵「軍国主義」と戦うことを提言、日露戦争反対を訴える 。
1904. 3.16【日本】
『二六新報』が、国債批判をして起訴される。また、日露開戦に際し
ては、社主秋山定輔が「露探」(ロシアのスパイ)であるとのデマが流されていた 。
[4.14
発行禁止は必至と判断して、この日限りで廃刊する。4.15 『東京二六新聞』と改題し継
続発行する。1909 年、
『二六新報』に復題。
]
1904. 3.18【日本】東京市街鉄道㈱の上野∼浅草間が開通し、数寄屋橋∼浅草間が全通す
る。これにより鉄道馬車は廃止する。
1904. 3.23 【日本】小説家田山花袋(たやまかたい)(33)が、日露戦争従軍記者として写真
班とともに東京を出発する。
[∼ 9 月。帰国後『第二軍従軍日記』を公表し、前書に〈人
間最大の悲劇、人間最大の事業を見た〉と書く。同年『露骨なる描写』を発表、従軍と
相まって傍観者態度による「平面描写 」
を確立する。1906 年『文章世界』の主筆となる。1907
年『蒲団(ふとん)』を書き、自然主義文学の地位を築く。
]
1904. 3 .−【日本 】逓信省が、第一次電話拡張計画を終了する。全国の加入者数が 3 万 5013
人に達する。
1904. 3 .−【日本】秋田県が自動車営業取締規則(県令第 10 号)を制定する。
1904. 4. 1【日本】国語調査員委員会編『国語国字改良論説年表』、『片仮名・平仮名・
読ミ書キノ難易ニ関スル実験報告』刊。
1904. 4.13 【日本】批評家・作家斎藤緑雨(37 )が、死期の近いことを悟って自筆の死亡広
告を友人に託し、肺結核で死去する。[4.14 『朝日新聞』と『万朝報』に死亡広告が掲
載され、読者を驚かせる。
]
1904. 4.30【アメリカ】セントルイス万国博覧会が開幕する。フランスからのルイジアナ
購入 100 周年を記念して開催され、万国博覧会のアトラクションとして、オリンピック
第 3 回大会が開催される。10 ヵ国が参加。4 年前パリでの第 2 回大会と同様、無理解か
らきわめて低調に終わる。
1904. 4.−【日本】全国の小学校で、国定教科書の使用が始まる。まず修身・読本・日本
歴史・地理が使用される。[1005 年 4 月、算術・図画。1911 年、理科。]
1904. 4.−【日本】アメリカから帰国した湯浅吉郎が、京都府立図書館館長に就任する。
[以後、児童閲覧室の設置、館外貸出の実施など先駆的なサービスに取り組む 。
]
- 676 -
1904. 4 . −【日本】王子製紙㈱が、暗号通信による本社∼工場間の通信を開始する。
1904. 5. 1【日本】日露戦争の実況映画の第 1 報が、「日露戦争活動大写真」と称して神
田区錦町の錦輝館で上映される。入場料は、特別席 1 円、一等席 50 銭から五等席 10 銭
まで 。
〔3 月以来、吉沢商会の専属カメラマン藤原幸三郎と連絡事務員清水粂二郎が、第
一軍司令部付従軍写真班として戦地に赴き撮影して船便で送り、軍部の許可を得たもの
を、アメリカ・フランスなどの通信員の撮ったフィルムと一緒にして上映する。〕
1904. 5. 1【朝鮮半島・中国】日本の第一軍が朝鮮・「満州」国境の鴨緑江渡河作戦を敢行
する。このとき従軍した記者、大阪毎日新聞社の奥村信太郎( 28)が、その記事をいかに
早く大阪本社に送り届けるかを思案し、下関に帰る友人に頼んで同地の大阪毎日駐在員
へ届けてもらい、そこから大阪まで全文打電させることとする。[以後、下関の郵便局が
開局以来という長大な電報を料金後払いで打電してくれる。5.12 ∼ 13 大阪毎日は、他社
に先立って生々しい従軍記を掲載する。5.12 の記事の終わりには〈本電は昨日午後一時
に接受し始め、午後十時三十分に終わる〉と注記する。](毎日コミュニケーションズ出
版部編『明治ニュース事典』1983 ∼ 86)
1904. 5. 5 【日本】佐藤義亮(ぎりょう)(26)が、昨年いったん人手に渡した新聲社を引き
取り、新潮社を創業する。月刊投稿誌『新聲』継承誌として『新潮』を創刊する。佐藤
は、新潮社創業に当たり 、
〈一、良心に背く出版は、殺されてもせぬ事 一、どんな場
合でも借金をしない事 一、決して約束手形を書かぬ事〉と 3 条の社訓を定める。
1904. 5. 5【日本】工業所有権保護協会が、農商務大臣清浦奎吾、特許局長久米金弥らに
より設立される。[1906 年、公益法人として認定され社団法人に改組。1910 年、(社)帝
国発明協会に改称。1936 年、全国の発明奨励団体を統合する。1947 年、(社)発明協会に
改称。]
1904.5.20【日本】東京市内郵便物の集配に、電車の利用を開始する。
1904. 5.21【日本】小学校教科用図書が国定となったため、官制が改正され、専任編修が
おかれる。
1904.5.30【中国】日本軍が、大連を占領する。
1904. 5 . −【フランス】パリで、「醜業を行はしむる為の婦女売買取締に関する国際協定」
が成立する。
1904. 6 . 7【日本】電話機送話口の消毒器が発売される。
1904. 6.20【日本】満州軍総司令部が編成され、総司令官に参謀総長大山巌、総参謀長に
参謀次長児玉源太郎、参謀総長に元帥山県有朋が任命される。
1904.6.25【日本】三井鉱山(名)芝浦製作所が分離独立して、㈱芝浦製作所が設立される 。
資本金 100 万円 。
[以後、㈱東芝の前身の一つとなる。
]
1904. 6.−【日本】軍事上の必要により、この月から一般加入電話の拡張を停止し、東京
と軍港佐世保を結ぶ軍用の 1510km という空前の長距離電話線 2 条の突貫工事を起工す
る。[ 1905.3 開通する。
]
1904. 6 .−【日本】滋賀県が自動車取締規則(県令第 36 号)を制定する。
1904. 6 .−【日本】宮崎県が乗合自動車営業取締規則(県令第 35 号)を制定する。
1904. 6.−【アメリカ】カンザス州ウィチタ電話会社の交換台に、1 分間に 1440 コール
が殺到したことを、地元の『イーグル』紙が伝える。理由は、火災が発生して〈火事は
- 677 -
どこか〉と電話交換嬢に問い合わせてきたことによる。地元の電話局が情報センターと
して人々から認識され始めている。
1904. 7. 1 【日本】煙草専売法( 4.1 公布)が施行される。ただし、刻み煙草は 1905.4.1 施
行。
「敷島」8 銭、「朝日」6 銭など、7 種が売り出される。[以後、新聞は煙草の広告収
入が激減して困る。]
1904.7.15【日本】日米間小包郵便条約公布。
1904. 7.21【ロシア 】シベリア鉄道( Transsibirskaya magistral')が、モスクワからウラジオ
ストク間 8314km を結び開通する。[1916 年、現行のアムール川と並行してロシア領内を
通る路線が開通する。以後、シベリア鉄道は、航空機にその地位をゆずるまで、ヨーロ
ッパとアジアを結ぶもっとも速い交通路の地位を占める。1934 年、急行「リュクス」が、
満洲里(マンチュリ)からソビエトの西の国境、ストルブツィ(ミンスクの南西 78km )ま
で 9 日間で走る。]
1904.7.25【中国】日本軍が、営口を占領する。
[7.26 営口に軍政を敷く。
]
1904. 7.−【日本】双輪商会主吉田真太郎(26 )が、陸軍に納入した自転車の使用状況視察
に満州の戦場に派遣される。[10 月、帰国する。]
1904. 8.21【日本】甲武鉄道(中央線の前身)が、飯田町∼中野間で初めて電車の併用運転
を開始する。アメリカから部品を輸入して製造した 15 両の木造 2 軸車を使用する。同時
に自動信号機を初めて使用する。[1906 年、甲武鉄道が国有化され、この電車が国鉄と
して最初の電車となる。この 1 両が、長野県の松本鉄道で客車の形で保存される。]
1904. 8.−【日本】俵谷高七が、自動郵便切手売下機を考案し、完成させる。実用には至
らないが、画期的な作品として、逓信省が 350 円で買い上げ、郵便博物館に陳列する。
日本の自動販売機第 1 号となる。
1904. 8 .−【日本】神戸市が、特別市税として自動車税を制定、雑種税項目に追加する。1
人乗り自動車が動機となる。1 類として定員 6 人以上が自家用 20 円、営業用 15 円、2 類
として定員 2 人以上が自家用 15 円、営業用 10 円、3 類として定員 1 人が自家用 10 円、
営業用 6 円。
1904. 8 .−【アメリカ】コロンビア社が、10in 両面盤を発売する。
1904. 9. 2【日本】東京市街鉄道㈱が、祝捷のイルミネーション電車を運転し、人気を集
める。
1904. 9 . 6【日本 】明治 37 年戦役記念郵便絵葉書が 、初めて 6 種類発行される。6 種 1 組 12
銭で売られ、戦況の好転とあいまって人気が集まる。
[9.12 この模様図案を縮緬帛紗に
染入れたいと京都で出願する者があり、容認する。12 月、第 2 回目を発売する。
]
1904. 9 .−【日本】神奈川県が自動車取締規則(県令第 53 号)を制定する。
1904. 9.−【日本】林平太郎が、(合)モーター商会の残品を引き受けて、日本自動車商会
(赤坂区溜池町)を創立する。[ 1905.2.6 (合)モーター商会が解散する。精算人木村兼次
郎。]
1904. 9.−【アメリカ】生後 19 か月で熱病のため、目・耳・口の機能を失ったヘレン・ケ
ラー Helen Adams Keller( 24)が、ハーバード大学ラドクリフ・カレッジを優等で卒業、盲
聾唖の三重の障害をもって大学教育を終了した世界最初の人となる。[以後、視覚障害
者のためのマサチューセッツ委員会で委員をつとめる。自らの努力と精神力が障害をも
- 678 -
つ人々に希望を与え、「三重苦の聖女」と呼ばれ、その多彩な活動により「光の天使」
とも呼ばれるようになる。
]
1904.9.30【日本】
『東京朝日新聞』(東朝)が、特派員上野靺鞨の戦地写真「遼陽写真報」
を掲載する。朝日新聞の紙面に登場した最初の写真となる。ざんごうの淵に 3 人の日本
兵が立ち日章旗が見える。
1904. 秋 【アメリカ】この頃、すべての人が電話を使えるとう意味の「ユニバーサル」
サービスという言葉が、電話関係技術者の間ですでに用いられている。マサチューセッ
ツ州ウィンチェスターの技師フレデリック・ W・コバーンが、雑誌論文で〈「ユニバーサル
電話」をすべての技術者が夢見ている、それは、大統領がロシアの指導者に気軽に電話
をかけられるような「時間と空間」の制覇である〉と述べる。
1904.10.27【アメリカ】ニューヨーク初の地下鉄が開通し、市役所前から 145 丁目を結ぶ。
1904.10. −【日本】国語調査員会が『方言採集簿』を公刊する。
1904.11.26 【中国】日本軍第 3 軍が、3 回目の旅順攻撃を開始する。
[12.5 旅順付近の二
〇三高地を占領する 。
]
1904.11.−【日本】国語調査員会が、謄写版刷 1 枚の『仮名字羅馬字優劣論比較一覧』(非
売品)を発行する。
1904.11.−【日本】香川県が自動車営業取締規則(県令第 68 号)を制定する。
1904.12. 1【日本】逓信省が、通信地図規程を制定する。
1904.12. 5【日本】
『大阪毎日新聞』に、初めて写真版が掲載される。
1904.12. 6【日本】三井呉服店と越後屋呉服店が合併し、㈱三越呉服店が、(名)三井呉服
店の営業を継承して設立される。本店は東京。資本金 50 万円。[ 12.21 開業。アメリカ
式のデパートに、品種が多く、正札販売をするというので評判になる。店内はタタミ敷
きで、客は履き物を脱いで店にあがり、玄関には下足番が配置される。1923 年 5 月 15
日、白木屋神戸出張所が、初めて土足入店を実施する。]
1904.12. 7【日本】東京電気鉄道㈱が、土橋∼御茶ノ水間に電車の運転を開始する。
1904.12.13 【イギリス】ロンドンの地下鉄道が電気式になる。
1904.○【日本】公共図書館が、公立 31、私立 69、計 100 となる。(小黒浩司『図書及び
図書館史』)
1904. ○【日本】日比谷公園内に喫茶店がつくられる。
1904. ○【日本】逓信省が、日露戦争に際して国民の士気を高揚するため、「戦役記念」
絵葉書を、戦局の進展に応じて次々に発行する。空前の絵葉書ブームとなる。[1905 年 、
戦争が終わると、陸海軍の凱旋(がいせん)を記念する絵葉書も発行され、ブームは最高
潮に達する。発売の当日、郵便局の前には夜明け前から長い行列ができ、殺到した群衆
のなかに負傷者まで出る騒ぎになる。]
1904. ○【日本】陸軍が、作戦図などを書くために軍隊符号を制定する。絵柄(アイコン)
と文字略号でさまざまな事物を表す 。文字略号は D(師団)、i(歩兵) 、K(騎兵)、A.M. (砲
兵弾薬縦列)などで、例えば 、
「2 | 1、 L、A.M. 」は「第一砲兵弾薬縦列の半縦列」を表
す。
1904.○【日本】全国主要新聞 63 紙の総発行部数が、約 163 万部と推定される。この年
の第 9 回総選挙時点の有権者数約 76 万人を大きく上回る。(毎日繁盛社『広告大福帳 』
1904
- 679 -
年 10 月号)
1904. ○【日本 】
『都新聞』が、劇場、寄席、催し物などの広告を掲載する。便利だとの
評判があがる。
1904. ○【日本 】
『読売新聞』が、費用を負担する人に重大事件を電報で通知するという
社告を掲げる。
1904.○【日本】大阪朝日新聞において、日本最初の輪転機製作に着手する。[ 1906 年東
京機械で完成する。]
1904.○【日本】滝田樗陰(22 )が、東京帝国大学英文学科から法科に転じるが、そのまま
『中央公論』誌の編集者として中央公論社に入社し 、大学は中退する。[以後 、1912 ∼ 25
年の間、同誌の主幹として活躍し、日本初の独立した「編集者の先駆者」となる。その
間、民本主義を主唱する吉野作造や大山郁夫 、美濃部達吉などの学究を論壇に登場させ、
他方 、文芸欄の充実に力をそそぎ 、夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、志賀直哉 、広津和郎、
谷崎潤一郎等の話題作を次々と掲載するなどして『中央公論』を発行部数 10 万を超す権
威ある総合雑誌に育てあげる。談論風発、精力的な樗陰は、人力車で筆者の間を駆けめ
ぐり、多くの作家が門前に彼の車の停まるのを待ち望んだといわれる。中間読物の分野
にも有能な筆者を育成し、総合雑誌として一つの典型的なスタイルを作りあげる。]
1904.○【日本】1888 年にタバコ自動販売機を発明した俵谷高七が、切手自動販売機とは
がき自動販売機とポストの 3 つの機能を一体化した独創的な木製の製品「自働郵便切手
葉書売下機」を考案し製作する。[のちに、この実物は東京・大手町の逓信博物館に陳列
される。]
1904.○【日本】イギリスの絵画的写真が紹介され、秋山轍輔(てつすけ)(24)が「ゆふづ
つ社」を結成し、ピクトリアリズムの代表的技法となったピグメント法を研究する。
1904.○【日本 】アマチュア写真団体「浪華(なにわ)写真倶楽部」が、大阪で創立される 。
この頃、素人写真が次第に各地で普及する。
1904. ○【日本】東京・浅草並木町の三光堂が、イギリスのグラモフォンの平円盤の輸入
販売を開始する。[以後、平円盤の輸入が盛んになる。蓄音器を取り扱う商社も数軒でき
る。]
1904.○【日本】逓信省電機試験所の鳥潟右一( 21 )が、松代松之助や木村駿吉と共に、
『Scientific American 』誌に掲載されたマルコーニの無線技術に関するわずかな情報をも
とに、逓信省式という無線機を作る。
1904.○【日本】東京自動車製作所が、日本初の自動車製造工場を設立する。[ 1907 年、
国産ガソリン車第 1 号を完成する。]
1904. ○【日本】戦地の兵士への慰問袋の中に、日清戦争後に撮られた白衣の天使のヘア
ヌード写真を入れる者がある。
1904. ○【デンマーク】ポールセンの助手ペデルセンが、磁気ヘッドコイルに一定量の直
流電流を流すことにより、硬磁性体である磁気テープの再生音のひずみをかなり解消で
きることを発見する。[ 1921 年、磁気ヘッドコイルに高周波電流を流す交流バイアス法
に発展する。]
1904.○【イタリア】プッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人(Madame Butterfly )』がミラノ
のスカラ座で初演される。蝶々さんは毅然とした意志の女で、彼女を裏切るピンカート
- 680 -
ンも傲慢な人種差別者であり、初演から大不評をこうむる。[以後、改作が重ねられ、
蝶々夫人は無垢で可憐な女とされ、ピンカートンは気の弱いロマンチストとなって、古
式の日本像による異国情緒を創り出してから人気を呼ぶようになる。1921 年ロシア歌劇
団により日本で初演。1930 年に日本人により初演される。1990 年代に至り、初演版のほ
うが紋切り型の蝶々夫人像に比べてはるかに新鮮だと再認識され、1995 年から日本でも
初演版が上演されるようになる。
]
1904.○【フランス】マルキ・ド・サド『ソドム千百二十日』( 1782 年執筆)が出版される。
1904.○【フランス】プジョーが、大衆車「ベベ」を発表する。[以後、1 年間で 400 台を
販売し、画期的な成功を収めて、大衆車の製造・販売の先駆となる。]
1904.○【フランス】パリで、「鑑札持ち娼婦」の中に 73 歳の最年長者がいる。
1904.○【ドイツ】フルスマイヤー(ハルスマイヤー;ヒルシュマイヤー)C.Hulsmeyer が 、
船舶の衝突防止のため電波を利用した航法システムに関する特許を取得する。[のちのレ
ーダー航法の先駆となる。]
1904. ○【イギリス】ランカシャー・アンド・ヨクシャー鉄道の主任エンジニア兼総支配
人アスピノール Sir John (Audley Frederick)Aspinall(53)が、リバプール∼サウスポート
間に、イギリス最初の幹線鉄道電化計画を完成する。
1904.○【イギリス】マルコーニ無線電信会社技術顧問フレミング John Ambrose Fleming
(55)が、無線電信の通信距離を伸ばすには感度の悪いコヒーラ検波器に代わる感度の良
い検波器があればいいということに気付き、エジソン効果を検波器に応用しようと発想
し、検波用の最初の真空管である二極真空管を発明する。[以後、フレミングは世界中で
特許を取得する。無線電信に重要なこの実用的な検波器は、初期のラジオや蓄音機など
の電子機器にも使用され、のちの多極真空管の開発のもとになる。1906 年、三極真空管
が発明され、エレクトロニクスの発展が始まる。1950 年に半導体が登場するまで、真空
管全盛に時代になる。1929 年、フレミングはナイトの称号をあたえられる。]
1904.○【アメリカ】ルーベル(ラブル)Ira Washington Rubel( 58)が、偶然のできごとから
オフセット印刷を考案する。あるとき平版印刷機を操作していた工員があやまって紙を
はさまずに機械をまわしたため、版のインキが圧胴に張ってあったゴム布に印刷され、
それがつづいてはさんだ紙の裏にそっくり移って印刷された。ルーベルは、直接印刷し
た表面の印刷よりも裏面の印刷のほうが精巧で、しかも柔らかみがあって細部までよく
刷れているのに気づき、これを「オフセット印刷」と名付ける。[1905 年、いろいろ考
案した末オフセット印刷機をつくり、いつもゴム布から紙に印刷する間接印刷法を開発
する。]
1904.○【アメリカ】ルクセンブルク生まれのガーンズバック Hugo Gernsback( 20)が、ア
メリカに移住して、
世界で最初のラジオ雑誌『モダン・エレクトリクス』を出版する。
[1911
年、この雑誌に、科学が驚異的に発達した 26 世紀の地球を描く自作の『ラルフ 124 C 41
+(プラス)』を連載する。 1926 年 4 月、世界で最初の SF 専門誌『アメージング・ストー
リーズ』を創刊する。]
1904. ○【アメリカ】シカゴのドネリー社が、カーディーラー向けにポケット電話帳を発
刊する。
1904. ○【アメリカ】ウィリアム・K・バンダービルトが、アメリカ初の自動車レースをニ
- 681 -
ューヨークで開催する。ジョージ・ヒースが優勝する。
1904. 【流行語】軍神。山川草木転荒涼(さんせんそうもくうたたこうりょう)。露探。
1904. 【流行歌】『日本海軍』、『日本陸軍』、『ラッパ節』
1905(明治38)
1905. 1. 1 【日本】
『東京朝日新聞』が、第 1 面を全部出版広告で埋め尽くす。広告代理
店博報堂がその取扱いをまかされる 。
[以後、この企画は博報堂社長瀬木博尚(48)の実験
的な決断によるといわれ、博報堂はこれが基盤の一つとなって成長する 。1940 年まで第 1
面全部出版広告が続けられる。
]
1905. 1. 1 【中国】旅順のロシア軍司令官ステッセル(58)が、日本軍に降伏を申し出る。
[1.5 水師営で第 3 軍司令官乃木希典( 57)と会談が行われる。1.13 日本軍が旅順旧市街
に入り、入場式を行う。]
1905. 1 . 2【日本】陸軍省が、旅順開城を発表する。
1905. 1. 4 【中国】日本の陸軍省が 、
「大連湾出入船舶及び渡航商人規則」(告示第 1 号)
を発布する。〈将来満州におけるわが商権の発展を図ると共に戦役中にありては軍事の
後方便益にも助成せしめん〉ことを目的とする。
1905. 1. 8【日本】東京電気㈱が、アメリカのジェネラル・エレクトリック(GE)社と融資
および技術提携の仮契約に調印、副社長にゲーリーが就任する。この頃、東京、大阪、
名古屋で電球製造者が次々と開業する。[以後、急成長し、製品もX線管その他に多様化
する。]
1905. 1 .−【日本】博文館が、
『太陽』、
『少年世界』を創刊する。 [ 1928.2『太陽』終刊。1933.1
『少年世界』終刊。]
1905. 1 . −【日本】東京・明治座で、日露戦争活動写真を興行する。
1905. 1 .−【日本 】夏目漱石(37)の最初の長編小説『吾輩は猫である 』が 、
『ホトトギス』
に連載を始める。[8 月、完結。小説家夏目漱石の誕生を告げる記念すべき作品となる。10
月、大倉書店・服部書店より共同で上巻を刊行。1906 年 11 月、中巻。1907 年 5 月、下
巻。]
1905. 2 . 5【日本】平民社の白柳秀湖、加藤時次郎らが 、1 月 29 日に廃刊となった週刊『平
民新聞』の後継紙として『直言』を創刊する 。[以後、日本社会主義の中央機関紙とし
ての役割を担う。非戦論の立場を堅持していたものの、紙上で非戦論を活発に展開する
に至らない。
]
1905. 2. 5【日本】広島市の杉本岩吉らが、山陽線横川駅∼可部間に 12 人乗りバスを運
行、「横川・可部間自動車開業式」が挙行される。日本最初の乗合バスとされる。自動
車の製作者として東京の双輪商会主吉田真太郎( 27)が開業式に参列して挨拶する。価格
は 6000 余円。横川駅から可部までの所要時間は約 40 分。
[11 月、馬車業者の反対で廃
業する。2004 年、横川商店街の有志らが、日本最初のバスを記念して「レトロバス復元
の会」をつくり、広島市、国土交通省中国地方整備局などの後援を得て、復元する。]
1905. 2.11 【日本】森下博が 1893 年に創業した大阪の薬種商、森下南陽堂(のち、森下仁
丹㈱)が、口中清涼剤「仁丹」を発売する。[以後、同社は森下博薬房と改称し、創業以
来の〈広告益世〉を事業目標の一つに掲げ、第 2 次世界大戦まで日本の広告界において
- 682 -
突出した広告活動を展開する。まず、この頃の大衆があこがれている大礼服姿を、ドイ
ツの宰相ビスマルク像をもとにデザイン化して商標とし、商品名には儒教の五常(仁義礼
智信)の最初の文字で文字の王とされる〈仁 〉をとる。これが好評を得て、新聞・雑誌の 1
ページ広告、看板、電柱広告などによる効能広告とあいまって、発売 2 年目で日本の家
庭薬の売上げの第 1 位に躍進する。また「仁丹」は、中国市場を見越したネーミングで
もあって、大陸では「万病の薬」としてこれを売る仁丹売りが各地に見られるようにな
る。1907 年に大阪駅前の電飾広告、翌 1908 年に神田明神境内の 3 色変化広告塔を出す
など、積極的に新手法を試みる。1914 年、第1次世界大戦勃発時に〈金言広告〉を始め
て一世をふうびする 。1928 年、雑誌『広告界』の「広告主番付」で 、西の大関とされる。1936
年、飛行機「仁丹号」により全国一周飛行を行う。日本の広告発達史上、つねに注目を
集める。]
1905. 3 . 1【中国】日本軍が、奉天に向けて総攻撃を開始する。
[以後 、日本側約 25 万人、
ロシア側約 32 万人の兵力を投入、日露戦争最大の地上戦となる。日本側に死傷者 7 万人
が出る。]
1905.2.16【日本】実用新案法が公布される。[7.1 施行。]
1905. 3.10【中国】日露戦争の陸の決戦、奉天会戦で日本軍が勝利し、奉天(のち、瀋陽)
を占領を占領する。[ 1906 年、これを記念して 3 月 10 日を「陸軍記念日」とする。]
1905.3.16【中国】日本軍が、鉄嶺を占領する。
1905. 3.21【日本】軍事上、東京∼広島間ほか主要都市の 11 区間の長距離電話の使用を
制限する。
[1906.3.31 解除する。
]
1905. 3.21【日本】落語の人気回復のため三遊派・柳派の幹部らが、落語研究会を結成、
第 1 回口演を日本橋常盤木倶楽部で開く。
1905. 3.24【日本】全国の郵便電信受取所と郵便受取所を三等郵便局に改定し、一部の局
を除き郵便物の集配・電報の配達事務を取扱わない旨、告示する。
1905.3.31 【日本】軍事上の必要により、1904 年 6 月から一般加入電話の拡張を停止し、
東京と軍港佐世保を結ぶ軍用の 1510km という空前の長距離電話線 2 条が 10 ヵ月の突貫
工事により開通する。世界第 2 の長さとなる。[以後、通話音は蚊の鳴くようなもので、
実用には程遠いものとなる。1906.4 一般用にも公開・転用される。](『東京の電話』
)
1905. 4 . 3【日本】日本花柳病予防協会が設立される。
1905. 4.12【日本】阪神電氣鉄道㈱が、大阪市梅田の出入橋から神戸市三宮間 30.6km の
軌道電車を開業する。この計画は、同社技師長三崎省三がアメリカで高速鉄道の活躍ぶ
りを見て、これを阪神間で実現ることを計画したもので、「鉄道」として願い出れば、
官営鉄道の並行線として却下されるおそれが大きかったため、軌道条例で出願した。内
務省幹部古市公威は〈軌道のどこかが道路に付いていればいい〉と柔軟な条例の解釈を
行い、軌道敷設の特許を与えた。これを受けて阪神電気鉄道は、大阪、神戸付近の一部
に申しわけ程度の併用軌道の区間を設け、それ以外はほとんど専用軌道を通すことに成
功した。[以後、軌道条例( 1921 年からは軌道法)による高速鉄道建設が盛んになる。一
方、阪神間の官営鉄道の乗客は 6 割減という惨状に追い込まれる。1977 ∼ 1978 年、阪
神電気鉄道、阪急電鉄、京阪電気鉄道などの「軌道 」が「鉄道」となる 。
](今尾恵介『路
面電車』)
- 683 -
1905. 4.15 【日本】漫画家北沢楽天(29)が、専門漫画週刊紙『東京パック』を主宰して創
刊する。大評判となる。[ 1915 年、終刊。以後、日本漫画会の会長を務めるなど漫画の
普及に努める。日本の近代漫画の育ての親とも称される。]
1905.4.20【日本】特設電話規則を制定する。
1905. 4 . −【日本】京都府立図書館が、児童室を無料公開する。
1905. 5.27【日本海】払暁、日本郵船会社からの徴用汽船で海軍の仮装巡洋艦として哨戒
任務に当たっていた信濃丸が、対馬海峡に姿を現したロシアのバルチック艦隊を発見し、
〈敵ノ艦隊、二〇三地点ニ見ユ、時ニ午前四時四十五分〉という通信文を日本初の暗号
を使用して三六式無線電信機による火花無線電信を発信する。30cm もスパークが飛ぶ強
力な誘導コイルを用いるものが使用される。これを第三艦隊旗艦厳島が中継し、約 200km
離れた朝鮮半島南端の鎮海湾にある連合艦隊旗艦・戦艦三笠へ転電され、司令長官東郷
平八郎が午前 5 時 05 分に敵艦隊の到来を知る。日本最初の無線通信となる。東郷は午前 6
時の出撃に際し 、
〈敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、コレヲ撃滅セント
ス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ〉と打電する。出動後、バルチック艦隊に出逢うまで
の 7 時間余りの間、哨戒役の艦艇から次々と無電が入ってくるにもかかわらず、敵艦隊
の位置を正確に把握できず、三笠の参謀はどこへ行けば敵艦隊と出会えるか分からず一
時困惑し、海峡を東方へ行き過ぎて、西の方へ引き返したところで運よく敵艦隊と遭遇
する。旗艦三笠の檣頭に〈皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ〉というZ
旗を掲げ、ロシア艦隊の進路を圧する丁字戦法により、敵艦に対して一斉射撃をして日
没までに戦艦四隻を撃沈して大勝利を収める。[5.28 ロシア残存艦隊の主力が降伏する。
のち、参謀秋山真之(さねゆき)( 37)は、無線機の開発に従事した木村駿吉(39 )に、〈無線
電信機の武功抜群なり〉と感謝の言葉を送る。のち、丁字型陣形による戦法は「東郷タ
ーン」と呼ばれる。5 月 27 日を「海軍記念日」と定める。]
1905. 5.−【日本】岡田商会(大阪市西区)が、フォード A 型自動車を輸入する。日本最
初のフォード車販売を始める。
1905. 5.−【日本】(合)名古屋鉄工所(名古屋市)が、工学士伊藤淳三、技師大脇政国らを
招き、国産自動車を製造する。
1905. 5.−【日本】名古屋市流川町の柴田勝義らが、笹島町∼東田町間に乗合自動車を営
業する。
1905. 5.−【中国】東京在住の末永純一郎が、関東総督府より新聞発行の許可を得る。末
永は、陸羯南(くがかつなん)らの雑誌『日本』の編集長をつとめた経験があり、日中提
携論者であり、4 月下旬、大連到着直後に、大連遼東守備軍司令官陸軍大将西寛二郎に
「新聞発行特許願」を提出していた 。
[10.25 末永が大連で日本語新聞『遼東新報』を創
刊する。]
1905. 5.−【シンガポール】数百人に達している唐行きさんたちが、シンガポール海峡を
通過して北上するロシア・バルチック艦隊を眺め、日本の勝利を心配して神社に願をか
ける。[日本海大海戦で日本艦隊がロシア・バルチック艦隊を全滅したという勝利の報が
伝わると、彼女らは願いが適ったと狂喜して、その夜は肉体の大安売りを行う。]
1905.6.20【日本】通信日付印規程を制定する。
いわゆる櫛型日付印が誕生する。
[以後、1982
年 5 月に形式改正されるまで 80 年近く使用される。
]
- 684 -
1905. 6.20【日本】
『中学世界』増刊号に竹久夢二(21 )の投稿さし絵「筒井筒」が掲載さ
れる。これまでは無署名で投稿していたが、初めて竹久夢二の名で掲載する。[以後、
つぶらな瞳の愁いを帯びた“夢二美人画”
“夢二式美人”が人気を呼ぶ。
]
1905.6.24【日本】逓信省が、郵便絵葉書の丁寧な取扱いについて通牒を出す。
1905. 6.−【日本】兵庫県の金井四郎兵衛、大島徳蔵らが、資本金 3 万円の有馬自働車㈱
を設立し、阪鶴鉄道三田駅∼有馬温泉間に乗合自動車の営業を始める。自動車はゼーア
ール商会(神戸市)三浦広吉から購入したノックス 2 台、1 台の価格は 8000 円。運賃 1 人 50
銭、荷物 1 立方尺 5 銭 。運転手は大山善太郎と山下友吉。[ 7.22 『神戸又新日報』が、
〈20
日に自動車は到着し試運転を行ったそうだ、1 台 12 人乗りで、運賃は 1 人 40 銭である
が、言うまでもなく護謨車輪であるから揺れも少なく阪神電鉄や汽車の 1 等室より乗り
心地宜いとの事である、本県庁へは既に出願中で許可を待つのみだというが、いつぞや
京都・嵐山間、伊勢神宮と二見間に自動車を運転させた事もあるが、今は止めてないか
ら之れが許可になったら全国唯一であろう〉と報じる。1907.2 解散する。]
1905. 7 . 1【日本】実用新案法が施行される。
1905. 7 . 1 【日本】日韓通信業務合同記念の 3 銭切手 1 種を発行する。
1905. 7. 4【日本】蒲原有明の詩集『春鳥集』刊。本の上下を包み込むようなカバーをつ
ける。
1905. 7 . 7 【ロシア】日本の第 13 師団が、南樺太に上陸する。
[7.8 大泊を占領する 。
]
1905.7.22【日本】私製葉書の「郵便はがき」の文字は外国語表示も有効とする。
1905. 7.24【ロシア】日本の第 13 師団が、北樺太に上陸開始する。[7.31 ロシア軍が降伏
し、降伏条件に調印する。
]
1905. 7.26【日本】大阪の西成鉄道㈱社長桜井義起、前川彦十郎、ヂャスタス・ブリック
スらが、資本金 15 万円の大阪自働車㈱(南区長堀筋)を設立する 。アメリカ製 12 人乗り 15
馬力のホワイト蒸気自動車 15 台で大阪市内日本橋筋∼堺間に乗合自動車の営業を申請す
る。[ 9.28 大阪自働車がホワイト蒸気自動車 6 台で営業開始する。10.2 大阪府が自動車
営業取締規則を公布して認可する。以後、増車して一時は 30 台ほどの車両を擁して日本
最初の本格的なバス会社となる。1908.8 市電が開通、バス営業に大きな影響を与える。
1909 年、解散する。]
1905.7.26【中国 】(光緒 31)中島真雄(46? )が、営口で軍政統治一周年を記念して、満州(の
ち、東北)で最初の日本人向け新聞『満州日報』を創刊する。朝刊 6 ページ。山口県出身
の中島は陸軍将官らち親交があり、1901 年に北京で順天時報社を経営し、中国語の日刊
新聞『順天時報』を発行した経験がある。日本の外務省は機関紙の必要から『順天時報』
の買収を望み、個人経営での困難を感じていた中島は、1 万円で外務省に譲渡した。『満
州日報』は、陸軍の広報紙の役割と、政治記事、ローカル記事を報じる新聞の性格を併
せ持ち、軍政署から日本語、中国語、英語の 3 種の言語で記事を掲載するよう注文され
た。英語の編集にアメリカ留学経験のある従軍通訳浜村善吉( 36)が当たり、英語のでき
る職工を上海から呼び寄せた。第 1 面は全面広告、第 2 ∼ 4 と 6 面は日本語の記事と広
告、第 5 面は 3 分の 2 を中国語記事、3 分の 1 を英語記事で埋める。[1906.6 月末、発行
部数 4000 部に達し、題号を『満洲日報』(サンズイを付ける)とする。7 月 26 日、創刊
一周年記念号を数万部印刷し、無料で一般家庭にも配布する。1906.10.18 中島が、奉天
- 685 -
で中国語新聞『盛京時報』を創刊する。1906.12 軍政署が廃止され、『満洲日報』は広報
紙の役割を失う。1907.10 営口領事館と民団の意思に迎合できず 、突然発行を停止する。
以後、窪田領事らが『満洲日報』の財産を受け継ぎ題号を改め、刊行を続けるが、長続
きしない。1907.10.7 廃刊。1907.12.5 中島らは奉天で『満洲日報』を発行する。]
1905. 7.−【アメリカ ・フィリピン】アメリカの太平洋商業海底電線会社 Commercial
Pacific Cable Co. が、サンフランシスコ∼マニラ間の太平洋横断海底電線を敷設する。
1905. 8. 1【日本】官設鉄道と山陽鉄道㈱が、新橋∼下関間に直通急行列車の運転を開始
する。所要時間は 37 時間。
1905. 8. 1【日本】北海道鉄道が、函館∼小樽(のち、南小樽)間の鉄道を全通させる。北
海道炭礦鉄道と連絡する。
1905. 8.10 【アメリカ】日露講和第 1 回会議が、ポーツマスで開催される。日本側の講和
条件 12 ヵ条を提出する。[ 8.12 逐次審議に入る。]
1905.8.13【北極】ノルウェーの極地探検家アムンゼン Roald Amundsen ( 33)が、一昨年 47
トンの帆船ヨーア号で北磁極に到達、磁極の移動性を長期観測したのち、そのまま太平
洋へ抜け、ヨーロッパ人 300 年間の夢だった北西航路樹立に成功する。
1905. 8.14【日本】
『大阪朝日新聞』が、講和談判の賠償金不調のニュースを、商況電報
の形で検閲をくぐり抜けた特派員電により得て、号外で報道する。
1905. 8.−【日本】信越本線の上野∼新潟間に、初めて直通列車が横川∼軽井沢間のアプ
ト式区間を走行して、1 往復運転される。所要時間は、上野∼長野間が約 8 時間、上野
∼新潟間は 15 時間 40 分。
1905. 8.−【日本】岡山の山羽虎夫が、
「汽発油瓦斯機関」を発明して特許をとり、特許
山羽式自動車(オートバイ)を製造販売する。
1905. 8.−【中国】(光緒 31)清国天津日本図書館が、日本国が中国で最初に設立する図
書館として開館する。天津地域最初の図書館ともなる。[1914.10.28 新館舎に移転する。
11.8 天津日本図書館に改名し、一般公開を始める。1935.6.1 新館舎が大和公園に開館す
る。]
1905. 9. 1【日本】
『大阪朝日新聞』が、日露講和条約反対の論説を、社説「天皇陛下に
和議の破棄を命じ給はんことを請い奉る」として掲載する。[以後 、
『国民新聞』を除く
有力各紙が、こぞって条約反対の論説を展開する。]
1905. 9. 2【中国】清朝政府が、科挙の廃止を決定する。1300 年以上に及ぶ官吏登用試験
の歴史に幕が下りる。
1905. 9. 3【日本】大阪市公会堂で市民大会が開かれ、戦争継続と講和条約破棄を決議す
る。[以後、条約反対運動が起こる。東京をはじめ各地で暴動が発生する。]
1905. 9. 5【日本】山陽鉄道㈱所属の下関∼釜山間の連絡汽船内に、初の船内郵便局とし
て関釜間船内第一郵便局を設置する 。
[1910.1 以後、北米航路の東洋汽船㈱所属の地洋丸 、
天洋丸、日本丸に、日本郵船㈱所属の阿波丸、因幡丸、丹波丸に、それぞれ船名を冠し
た船内郵便局が設置される。いずれも二等郵便局である。
]
1905. 9. 5【アメリカ】日露講和条約・追加約款が、ポーツマスで調印される。
[10.16 公
布。11.25 批准書交換。
]
1905. 9. 6【日本】政府が、治安妨害の新聞・雑誌の発行停止権を内務大臣に与える新聞
- 686 -
・雑誌取締り緊急勅令を公布し、即日実施する。以前に廃止された発行停止条項が復活
する。[以後 、
『大阪朝日新聞 』
、『東京朝日新聞』、
『万朝報』、
『報知新聞』などが続々発
行停止を命じられる。]
1905. 9.11【日本・朝鮮半島】山陽汽船が、下関∼釜山間の連絡航路を開設し、壱岐丸を
就航させる。
1905.9.14【日本】奥羽線の福島∼青森間が全線開通する。
1905.10. 2【日本】黒田善太郎が「黒田表紙店」を創業する。[ 1908 年、和式帳簿の表紙
の製造を開始する。1913 年、洋式帳簿の製造を開始。1914 年、店名を「黒田国光堂」と
改称。伝票、便箋の製造を開始。1917 年、商標を「国誉」と定める。1930 年、バインダ
の製造を開始。1938 年、(合)黒田国光堂に組織変更。1949 年、㈱黒田国光堂に組織変更
し、黒田善太郎が社長に就任。1961 年、社名をコクヨ㈱に変更。1962 年、日本事務用品
工業㈱(のち、コクヨ事務用品工業㈱)を設立。 2000 年、コクヨオフィスシステム㈱を設
立。コクヨビジネスサービス㈱を設立。]
1905.10. 2【日本】大阪府が、自動車営業取締規則(布令第 64 号)を制定、公布する。大
阪自働車㈱(大阪自動車㈱)が設立されて、市内と堺間の乗合自動車営業を申請したのに
伴い公布して認可するとともに、自動車税を制定する。[1906.4.1 施行。]
1905.10.12 【日本】私製葉書で、着色が薄く取扱上支障がないものは有効とする。
1905.10.25 【中国】5 月に大連遼東守備軍司令官陸軍大将西寛二郎から「新聞発行特許」
を得ていた日中提携論者の末永純一郎(38)が、大連で日本人向け新聞『遼東新報』を発
刊する。週 1 回刊、大判日本語 4 ページ、中国語 2 ページが編集される。発行部数約 400。
[以後、満州の現地ニュースを集めた簡単な通信を作り、日本の新聞各社に配布、満州
における日本文の通信業務のさきがけとなる。のち、週 2 回刊、1906.1.1 隔日刊。4.3 日
刊となる。関東総督府の機関紙となることを条件に総督府から 1 万 2000 円を得て、付録
新聞として総督府の『府報』を刊行する。以後、最盛期に発行部数 4 万 5000 部に達する 。
1907.4 満鉄が大連に本社を移す 。以後 、満鉄総裁後藤新平は、機関紙として『遼東新報』
を 3 万円で買収することを図るが 、末永らの反対により実現せず、都督府に圧力をかけ、
『府報』の発行を停止させ、都督府からの資金援助も打ち切る 。
]
1905.10.26 【日本】大阪自働車㈱の自動車が、堺市神明町大通りで龍小芳( 5)を轢いて死
亡させる。日本最初の自動車による死亡事故となる 。[ 11 月、大阪自働車㈱の自動車が 、
南海鉄道の列車と衝突し、死傷者 8 人を出す。]
1905.10. −【日本】ローマ字ひろめ会が設立される。評議員に藤岡勝二、前島密らが名を
連ねる。
1905.10. −【日本】夏目漱石『吾輩は猫である』(『吾輩ハ猫デアル』)上巻が、大倉書店
・服部書店より共同で刊行される。菊判、5 号明朝体、秀英舎で印刷される。定価は 90
銭。天金、アンカットなど造本・体裁や素材の質には漱石の意見が取り入れられ、日本
の本で初めて紙質・色などが吟味された贅沢な本となり、近代造本の出発点となる。橋
口五葉の意匠によるカバー(ジャケット)が取り付けられ、意匠も本体の表紙との釣り
合いをとっている。この時点で日本の本のカバーは欧米の本とは別の道を歩み始める。
[1906.11 中巻刊。1907.5 下巻刊。
『學鐙』(丸善)がいちはやく書評に取り上げて、内容
・外観ともに申し分ない佳著として認め 、
〈著者が高雅なる趣味を以て指導したるに非
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ざればいかで斯の如くなるを得べき〉と賞賛する。この頃から多くの本にカバーがつけ
られるようになる。購入した読者の大半は、1950 年代までカバーははずして捨てるもの
として扱う。以後、古書市場ではカバーのあるなしで何万円も違う評価がなされる。]
1905.10.−【日本】新潟県が、自動車取締規則(県令第 37 号)を制定する。
1905.10. −【日本】有栖川宮威仁(たけひと)親王が、渡欧の際購入したダラック自動車が
到着し、自動車で皇居を訪問して天皇にご覧にいれる。皇居に初めて自動車が入る。そ
のあと、東宮御所を訪問して、皇太子殿下を乗せて、御所内を運転し、さらに小石川の
公爵徳川慶喜邸を訪問、一緒に玉川までドライブする。]
1905.10. −【中国】湖南省都長沙に、前年に開設した湖南図書館兼教育博物館をもとに、
中国初の公共図書館、湖南図書館が開館する。設立に先立ち、湖南巡撫(省知事)端方が
日本に調査員を派遣し、図書館事情を調査させ、大橋図書館をモデルにして湖南図書館
を設立する。
1905.11.10 【日本】政府が、日米著作権保護条約に調印する。翻訳の自由が認められる。
1905.11.15【フランス】アルルで開催された自動車レースで、スイスのデュフォー兄弟が、
時速 157km の世界新記録を樹立する。
1905.11.25【日本】逓信省が 、年賀郵便は全国すべての郵便局で引受けることとする。[以
後、年賀状を前年の 12 月に書く習慣が一般的になってゆく。]
1905.11. −【日本】アメリカのコロムビアレコード会社が、技師を日本に派遣し、主に邦
楽を録音する。
[1906.2 再度邦楽を中心に録音する。
]
1905.11.−【日本】奈良県が、乗合自動車取締規則(県令第 26 号)を制定する。
1905.11.−【日本】大阪自働車㈱の自動車が、南海鉄道の列車と衝突し、死傷者 8 人を出
す。踏切警手が遮断機を下ろさず、裁判になる。
1905.12. 2【日本】外交官・領事官官制改正公布。新たに大使と大使館を置く。これに伴
い、駐英公使館を大使館に昇格させ、日本大使館第 1 号がイギリスに設けられる。
1905.12.22 【中国】満州に関する日清条約が調印される。ロシアから譲渡された南満州に
諸権利について、清国の承諾を獲得する。安東県∼奉天間軍用線の日本による経営、満
鉄平行線の建設禁止なども定められる。[1906.11.26 南満州鉄道㈱が設立される。]
1905.12.24 【日本】京浜電鉄の品川∼横浜間が全通する。
1905.12.27 【日本】官営鉄道が、京浜電鉄の開業に対抗して、新橋∼横浜間 27 分の最急
行の運転を開始する。
1905.12.−【日本】
『大阪朝日新聞』が次々に発行停止処分を受け、この月の発行回数は 12
回のみとなる。
1905.12.−【日本】有馬自働車㈱が、営業を奈良に移し、奈良駅∼春日神社間を運転する 。
奈良駅∼郵便局間 3 銭、郵便局∼一の鳥居間 3 銭、一の鳥居∼春日神社間 4 銭。
1905. ○【日本】ロシアの影響下にあるデンマークの大北電信会社のきずなを脱し、日本
独自の海外通信を確保する意図で、アメリカの太平洋商業海底電線会社と共同で日本と
グアム島の間に小笠原島経由で海底電線を敷設する契約を同社と結ぶ。[1906.8 日米間
直通海底電線が開通する。しかし日本政府の期待を裏切り、料金は一向に安くならず、
また同社の株式の 4 分の 3 が大北電信会社とその提携勢力の下に掌握されていることが
判明する。]
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1905. ○【日本】丙午の年で、出産が減少する。噂に、ガマ、ヘビ、ナメクジを混合して
飲めば妊娠しない、とひそかに流行する。(『東京日日新聞』)
1905. ○【日本】日露戦争の終結で失業者が増え、人力車夫へ転向する者が続出する。
1905.○【日本 】台湾喫茶店が、東京・銀座に開業する。女給が置かれ 、洋酒も準備され 、
喫茶店といってもカフェに近い内容を持つ。
[以後、
「ウーロン」と呼ばれて親しまれる。
]
1905. ○【日本】山梨県知事(?)武田千代三郎が、日本で初めて単画式の「武田式全画体
速記法」を考案し、新聞『日本』に 1 ヵ月間連載する。
[以後、武田式は後継者に恵まれ
ず、普及しないが、田鎖式に発した国会の複画式速記は、しだいに単画式の速記法にと
って代わっていく。
]
1905.○【日本】滋賀県草津駅前で食堂経営と駅弁売りをしていた南新助(20)が、神社仏
閣巡りを望みながらも不安を抱く人が多いのに気付き、高野山参詣や伊勢神宮参拝など
の団体旅行斡旋を始め、各 100 人前後の参拝団を組織する。[以後、「日本旅行会」を発
足させる。1907 年、鉄道の運賃割引を利用して善光寺参詣の団体を募集し、900 余名の
参加者を得る。これがのちの㈱日本旅行の創業といわれる。1927 年、第 1 回海外旅行を
実施する。]
1905.○【日本】山羽虎夫が、国産第 1 号の蒸気自動車を完成する。
1905. ○【日本】ロシアの男たちが、日本娘の評判を聞き次つぎと来日し、主に長崎で金
をばらまいて女遊びをする。ロシアに連れ帰る者もある。(『万朝報』)
1905. ○【日本】フランスのパティー社のブルーフィルムの初期作品がもたらされ、上映
される。
1905. ○【日本】逓信省が、アメリカのホレリスの論文をもとに、パンチカードを使った
統計機械の研究を開始する。
[1923 年、開発する。
]
1905. ○【中国】大連地方に、日本から娼妓たちが密航する。
1905. ○【スウェーデン】クロスバースイッチを使用した自動交換機「クロスバ交換機」
が考案される。[1926 年、実用化される。]
1905. ○【オーストリア】フランツ・フォン・バイロスが、ウィーンで「十八世紀好色歌謡
集」などにエロチックな挿絵を次々に描く。
1905.○【ドイツ 】ゾネケンが、安全繰り出し式(セーフティータイプ)のペンを製造する。
ドイツにおける万年筆の歴史が始まる。
1905.○【ドイツ】貨物定期便会社ハンブルク・アメリカ汽船会社( HAPAG )(のち、ハパ
ーク・ロイド会社)が、旅行会社のシュタンゲン社を傘下におさめ、運輸会社が自前の旅
行代理店を持つようになる。
1905.○【ドイツ】ベルンの特許庁の出願特許予備審査官アインシュタイン Albet Einstein
(26 )が、4 つの論文を物理学雑誌『物理学年報(Annalen der Physik) 』誌に投稿、6 月号∼ 10
月号に次々と発表する。(1 )光の発生と変換に関連する発見的見解。光電効果を説明する
ために、光量子仮説を提案する。光を波としてのみ考えるマクスウェルの理論が不十分
であることを指摘し、光は波としての性質のほかに粒子としての性格も合わせもってい
ると考え、エーテルは存在しないと結論づける。振動数νの光は、エネルギーが h νで
ある粒子(光子(フォトン))としてふるまい、その強度は光子の数に比例するという仮説
を立てる。ここで定数hは、これより少し前に黒体放射スペクトルを説明するのにプラ
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ンクが導入したプランク定数に等しいと考える。この仮説(光量子仮説と呼ばれる)に立
てば、原子、または固体中に束縛されている電子は、束縛エネルギー以上のエネルギー
を光子から受けて外に飛び出すとして、光電効果を説明することができる。この頃、光
量子仮説の正当性を裏づけるだけの実験事実の蓄積はない。( 2)微粒子の熱運動に関する
分子学的考察。いろいろな拡散現象の基本的な公式(アインシュタインの関係式)を提起
する。( 3)運動する物体の電気力学について。特殊相対性理論の最初の論文となる。旧来
の時間・空間概念を根本から変革し、質量とエネルギーの等価性を唱え、物理学的自然
観や哲学思想に多大の影響を与える。(4)質量とエネルギーの等価性。[以後、1916 年ま
でに、R.A.ミリカンらによって、光電子の最大エネルギーと入射光の振動数νとの間に
成り立つアインシュタインの関係式の正しさが、実験的に完全に確かめられる。1916.5.11
アインシュタインが 、論文「一般相対性理論の基礎」を『物理学年報』に発表する。1921
年、光量子仮説への寄与によりノーベル物理学賞を受賞する。以後、物理学界では、1905
年を「奇跡の年」と呼ぶようになる 。
]
1905.○【ドイツ】ブラウン Karl Ferdinand Brawn (56)が、硬マンガン鉱石による検波器
を完成させる。しかし、あまり感度の高いものではない。
1905.○【ドイツ】フロイト Sigmund Freud (49)が、『性に関する三つの論文 』(『性理論(セ
クシュアルティー)についての三つの評論』)を発表する。
1905. ○【フランス】パティー社が、ブルーフィルムの元祖ともいうべき作品『花嫁の初
夜』など好色短編を発売する。
1905.○【イギリス 】トーマス・デ・ラ・ルー社(ThomasDeLaRueandCompany )が、
「オ
ノト(Onoto)ノト)」ブランドの万年筆を発売する。名称は、どんな言語でも発音しやす
いように考案されたという。一説によれば、トーマス・デ・ラ・ルー社は、インドをは
じめとしたイギリス植民地で印紙や切手などを発行し、アジアに大きな市場を開拓して
いたため、当初から国際展開を見越して現地にあった響きを選んだという。[ 1907 年、
丸善㈱が日本総代理店として輸入を開始。書きやすさとインクの出具合の良さで人気を
博す。1912 年、丸善が「萬年筆の印象と図解カタログ」を発刊、夏目漱石の随筆『余と
萬年筆』や、北原白秋の詩『ONOTO』が寄せられる。1958 年、トーマス・デ・ラ・ル
ー社が生産を中止。以後 、
「オノト」は“幻の万年筆”と称される。 1999 年、イギリス
のオノト愛好家や職人がブランドの復活を図り Onoto Pen Company を設立。以後、しば
らく取引がなかい。2004 年、高級万年筆市場の活性化を受け、新モデルの製作と販売を
開始 、
オノト・ブランドの国際的地位回復を目指す。
2005.9.5 丸善が Onoto ブランドの 100
周年記念モデル「Onoto the Centenary Pen(オノト ザ センテナリー ペン)
」を 50 本限定
で販売する。価格は 15 万 7500 円。]
1905.○【アメリカ】ブライヤー Willard G. Bleyer(32)が、ウィスコンシン大学で通年の
ジャーナリズム・コースを教え始める。[1927 年、このコースがジャーナリズム専門学部
となり、博士号を授与するようになる。以後、他大学でジャーナリズムを講じる教授を
輩出する。ブライヤーはジャーナリズム教育の祖として、
「
“Daddy”Bleyer 」と呼ばれる。]
1905. ○【アメリカ】連邦議員アンソニー・コムストックが、バーナード・ショウの『人と
超人』をわいせつを理由にニューヨークの公共図書館から締め出す。
1905. ○【アメリカ】サンフランシスコの日系新聞『日米』を発行する日米新聞社が、電
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話帳を兼ねた『日米年鑑』の刊行を始める。全面を縦組みで通し、電話番号の数字やロ
ーマ字の住所は横に寝かせて縦組みの行に入れる。広告には店のマークなどを入れて広
告料金の増収を図る。
1905.○【アメリカ】ルーベル(ラブル)Ira Washington Rubel( 59)が、ゴム布を介して紙に
間接印刷するオフセット印刷をする画期的な印刷機を発明する。版から直接紙へ転写し
た印刷面より、一度ゴム布に印刷した版から紙に転写印刷された印刷面のほうが鮮明に
なる。さらに、版の像が正像で確認しやすいという特徴もある。また、弾力性のあるゴ
ムブランケットを使用するので、
少々凹凸のある紙などにも正確な画像を転写できる。
[以
後、金属平版は大部分がオフセット印刷となり、金属平版すなわちオフセット印刷とい
う概念が生じる。一方、ゴムブランケットを介する間接印刷は、版が凸版、凹版のいず
れの形式でも可能であるので、一部特殊目的に利用されるが、単にオフセット印刷とい
う場合は、平版オフセット印刷を指すようになる。]
1905.○【アメリカ】シカゴのドネリー社が、シカゴレイクサイド地区ガイドを発行する。50
セント。
1905.○【アメリカ】エジソンが 、アルカリ二次電池を発明する。[以後、
「エジソン電池 」
と呼ばれる。]
1905. ○【アメリカ】クロスバスイッチを使用した自動交換機の一種、クロスバ交換機が
考案される。
1905. ○【アメリカ】コットレルが、静電集塵装置を発明する。
1905.○【アメリカ】ピツバーグに、入場料 5 セント(ニッケル貨)均一の映画館「ニッケ
ルオデオン」(別名「5 セント劇場」)の第 1 号が登場し、こけら落としには最初の劇映
画『大列車強盗』( 1903 年製作)が上映される。[以後、各地に映画館が普及する。1906