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2006 年 9 月 10 日
年表
Ver.0.87
メディアの博物史―トピックスとエピソード
竹 野 萬 雪
はじめに(未定稿)
この年表は、生命の誕生から今日まで、世界の数万年にわたる情報の創造・伝達の移
り変わりを、生命とメディアの視点からとらえて、それらの事象をデータとして年代別
・地域別に並べたものである。その起点を宇宙の誕生にして、生命の発生と進化がメデ
ィア現象に果たす役割をも観察していけば興味あるものとなろうと考えた。
今日 、
「メディア」といえば、直ちに「マルチメディア」とか「ネットワーク」など
のパソコンを中心とした情報通信媒体が思い浮かぶことが多いだろう。しかし、現在の
ようなデジタル中心のメディア文化が開花するまでに、人間は、いや地上に生きとし生
けるものすべては、あらゆる手段を講じてメディア現象を演出してきたのである。
『旧約聖書』の冒頭の書『創世記(Genesis)』に、神がこの世を創ったとある。それか
ら、神は昼と夜を創り、そして生き物を創ったという。生物は発生し、数を増やし、種
を増やし続けた。有核生物は遺伝的な形質を遺伝子に書き込み、同類を増殖させつつ後
世に伝えながらも、絶えず進化の道を歩み続け、多種多様な生き物を地上にあふれさせ
てきた。彼らに遅れて登場してきたヒトは、彼らと同じ有核遺伝子の構造を持ちながら
も、生物としての進化よりもはるかに速いペースで、大脳を使って多様性を編み出す方
法で特異な進化を遂げてきた。ヒトが生み出す情報パターン、メッセージは、鳥や魚や
昆虫の生み出す形質やメッセージ多様性の進化に負けず劣らず多様性を示し、ヒトはこ
れらを保存し伝達し改造することに多くの時間を費やした。ヒトだけでなく地上のあら
ゆる存在は、絶えず多様化を遂げつつメッセージ(情報)を発し続けている。生物は、生
物自身で生体情報のメディアであると同時に、外部への発信者として多様性を生み出し
ている。特にヒトの情報の多様性は、一定の時間・空間の溜まり場の中で「文化(カル
チャー )
」として個性を持ち始めるいう点で共通したものがある。それらの「文化」を
保存し伝達することにおいて、メディアという共通した様式をとる。
従来、メディア現象は、通信システムにモデルをとり、発信系、送信系、受信系とい
う風に分けられるのが一般であった(例えば岡満男・山口功二・渡辺武達編『メディア
学の現在〔改訂版 〕
』1997)。しかし、これではメディアの創出や双方向性がよく整理で
きない。そこでここではメディアを、機能的に「コンテンツ」、
「キャリヤ」、
「エディタ
ー」および「プラットフォーム」の 4 つに大別する。これらは互いに連携して相互に関
係しながらメッセージの拡散と伝達の機能を成し遂げる。これがメディア現象である。
この際、「マルチメディア」という語は「ニューメディア」などとともに無意味であり、
如何なるメディアであるか定義できない。
◇コンテンツ(創意系)は、何らかの担体に印された一連の変異パターンである。例
えば遺伝子、足跡、姿態、信号、模様、音声、言葉、文字、画像、動画などである。
-1-
◇キャリヤ(担体系)は、可塑性の媒体にコンテンツを収容し伝達する事物や手段で
ある。例えば交接器、空気、光、音波、粘土、インキ、紙、本、木版、銅版、活字、楽
器、道路、車、船、印刷、電波、ネットワーク、飛脚、気送管、鉄道、気球、飛行機、
速記 、印画紙 、感光紙、フィルム、マイクロホン、音盤、銅線、アンテナ、光ファイバ 、
磁気テープ、CD-ROM、DVD などである。
◇エディター(編集系)は、コンテンツを媒体に形成・定着する手段である。例えば
DNA、RNA、細胞、生物体、指、足、光、火、石片、木片、鉄片、ペン、筆、鉛筆、万
年筆、カメラ、キーボード、マウスなどである。
◇プラットフォーム(送受系)は、コンテンツの受発信・表示装置である。例えば生
物体 、人間、信号機、電信機 、電話機、蓄音機 、プレヤー、映写機、ラジオ送・受信機 、
テレビ送・受像機、パソコン、ディスプレイ、ロボットなどである。
以上の観点から、生体の繁殖や遺伝、梅毒やエイズなどの伝染病も一般にメディア現
象であると言える。生命体は、遺伝子というメディアのプラットフォームであり、キャ
リアでもある。
一方、情報ビジネスマトリックスの考え方もある。(ハーバード大学情報資源政策グル
ープ。1980年。)縦軸にサービスからプロダクトまでを、横軸にコンテンツからコン
テナまでを表し、郵便、放送、紙、磁気媒体、新聞、書物などさまざまな情報ビジネス
を そ の 特 性 の 度 合 い の 多 少 に 応 じ て 二 次 元 座 標 に プ ロ ッ ト す る 。(1994年、
Cybermedia Group によって改訂される。)
◇サービス・コンテナは、郵便、電気通信、VAN、携帯電話、インターネットなど。
◇サービス・コンテンツは、聖職者、教師、コンサルタント、データベース、ゲームな
ど。
◇プロダクト・コンテナは、紙、磁気記録媒体、ワープロ、電卓など。
◇プロダクト・コンテンツは、書籍、新聞、レコード、ビデオ、ホームページなど。
コンピュータはこの二次元座標の中央に位置する。
マクルーハンは〈メディアはメッセージである〉と言った。地上の多様な生命体は、
すべてそれぞれの固有のかたちでメッセージを作り発信し続けてきている。生命の多様
性とヒトの文化の多様性とは、メディアの生産・伝達という共通の発展形態を持ってい
る。
イギリスの動物学者リチャード・ドーキンスは、ヌクレオチドの有機塩基の配列パター
ンの情報をもつ遺伝子の情報形式は、〈デジタル化したものであるから、劣化せずに永
遠に伝達されて行く。アナログの情報が何世代もつづけてコピーされると、噂話に尾鰭
がつくのと同様になる。〉(『遺伝子の川』草思社)と唱える。そして更に遺伝子に対す
る新しい見方について 、
〈われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保
存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ〉(『利己的な遺伝子』日高敏
-2-
隆ほか訳、紀伊国屋書店、1997)と唱え、世界の思想界を震撼させた。
㈱フォーバル社長大久保秀夫は 、
〈情報化社会は人間の臓器と同じで、血管が通信回
線、臓器がハードウエア、血液がコンテンツだと思う。私は、通信、ハード、コンテン
ツの 3 つの領域を押さえようとしている。
〉と語る。「
( Mainichi INTERACTIVE Mail」
No.1213 、Cover Story 『電話機販売から IT ソリューション企業へ』
、2002.6.27 ■
万物の始源は太陽だが、すべてのメディア、すべてのコンテンツの始源は生命体であ
る。
しかし、ヒトは最も遅れて登場してきた生物の一種でありながら、それまでの既存の
生物から余りにもかけ離れた道を歩み始めた。ヒトは性周期を喪失し、悪食を始め、同
種殺戮を繰り返し、言語、文字など、種々のコミュニケーションズ手段を発明してきた
などは、ほんのわずかの例である。特に産業革命以来のヒトは、エネルギー資源の消費
を増大させ、近来の情報革命時代には爆発的なメディアの生産と消費を続けている。20
世紀はあらゆる意味において「爆発の時代」であった。このままでは 21 世紀は超爆発の
時代になることも予想されるが、一体どういう時代になるのだろうか。それは 20 世紀の
爆発時代の拡大版なのか、それともまったく新しいパラダイムの適用による新たな生物
としての人類への回帰を果たすのだろうか。
この年表は、生物としてのヒトが、性への関わりと共に増殖を続けながらも、メディ
ア現象の場で他の生物とは違った道筋を選んで歩んでいる特異な姿を描き出そうと試み
て作成されたものである。いわば、ヒトの性に関わる歴史を縦糸に、メディアの歴史を
横糸に織りなして、一つのイメージの織物を作ろうと試みるものである。人間の特異な
知能は、飽きることなく次々とメディアを発明しては破壊していく。その間にあって、
これらのメディアを扱い実用化していく無数の職人たちが活動する。これらの有能な職
人は、次世代のメディアの出現によってはかなくも社会から退場を余儀なくされる。一
方、性の探究者もこれらのメディアを縦横に活用して、混沌たる性の曼陀羅を創造して
いく。これらはしばしば時の官憲から迫害され、抹殺されようとするが、ついには地下
に潜っても庶民のあいだに根強く生き続ける。その間に、デジタル情報のコンテンツを
保有する遺伝子だけは、永遠の生命を保ち続けるのだろうか。
知の考古学はメディアの考古学と軌を一つにする。アメリカでは 1997 年 4 月に、メデ
ィアの博物館「ニュージアム Newsium 」を首都に開設した。このような現実にあやかっ
て、この年表は紙上の“性とメディア”の博物館を志している。
(この稿未完)
竹 野 萬 雪
凡 例
Ⅰ. 内容と配列:メディア関連の事件・事項を年表形式に個別に取り上げ、同時代にお
ける事象として現在形で記述する。配列は、時代順、地域順による。地域の順は、日付
変更線から西方へ、かつ北から南へ配列する。同時代・同地域の項目は、メディアとし
-3-
ての登場順とするが、いずれもさほど厳密なものではない。記述は事実の記録を主体に
して、私的な論評をつけ加えることは抑制する。
古代の事件、人名などの生起年に多くの学説があるものは、その中の 1 つだけを選んで
配置し、文頭に〈この頃〉と付記する。
生起年の不詳なものや何世紀ころ、あるいは何 10 年代といった事件については、世紀
の半ばや 10 年代の半ばに「20XX」あるいは「199X」などの年号を配置し、
〈この頃〉
と付記する。したがってこれらの年代については、最大± 50 年あるいは± 5 年の誤差が
あり得る。
8.上または 8.初、8.中、8.下は、それぞれ 8 月上旬または 8 月初旬、8 月中旬、8 月下
旬であることを示す。
8.−は、日付が未確定あるいは不明などであることを示す。
季節のみを示す冬 、春 、夏、秋は、それぞれ 1 月と 2 月の間、4 月と 5 月の間 、7 月と 8
月の間、10 月と 11 月の間に配列する。
Ⅱ用語の表記:表記は原則として慣用に従うが
.
、カタカナ表記の学術的用語については、
文部省編『学術用語集』に準拠する。その著しい例は、英語の綴りの終わりの -er、-or 、-ar
などを仮名書きする場合、長音符号(ー)を付けないこと、また、-gy、 -py などは長音符
号を付けることなどである。ただし、社名や商品名など固有名詞に限り元の表記を尊重
する。
記号:
【
[
】は、地域・国を示す。
]は、将来へ向けての事象の発展、同種現象の生起例を示す。
〔 〕は、過去の経緯、事物の解説。
人名の後の( )は満年齢を表す。本人の生月日と事件日との関係が判明している場合
の他は、当年の誕生日後の年齢とし、プラス 1 歳の誤差がありうる。
以 上
◆目
次◆
MEDIA 01
MEDIA 02
(原初∼ 1699)
(1700 ∼ 1867)
MEDIA 03 明治
(1869 ∼ 1911)
MEDIA 04 大正・昭和Ⅰ(1912 ∼ 1944)
MEDIA 05 昭和Ⅱ
(1945 ∼ 1959)
MEDIA 06 昭和Ⅲ
MEDIA 07 昭和Ⅳ
MEDIA 08 昭和Ⅴ
(1960 ∼ 1969)
(1970 ∼ 1979)
(1980 ∼ 1988)
MEDIA 09 平成Ⅰ
MEDIA 10 平成Ⅱ
(1989 ∼ 1995)
(1996 ∼ 1997)
MEDIA 11 平成Ⅲ
MEDIA 12 平成Ⅳ
(1998 ∼ 1999)
(2000 ∼ 2001)
-4-
MEDIA 13 平成Ⅴ
(2002 ∼ 2002)
MEDIA 14 平成Ⅵ
MEDIA 15 平成Ⅴ
(2003 ∼ 2003)
(2004 ∼
)
MEDIA 文献
2006 年 9 月 10 日
Ver.0.87
年表 メディアの博物史―トピックスとエピソード(1∼11)
―原初∼ 1999 ―
竹 野 萬 雪 編
150億年前★
○【宇宙】宇宙が大爆発「ビッグバン」を起こし、熱い火の玉が誕生し、急激な膨張を
開始する。[10 ∼ 44 秒後、わずかな間に 10 + 100 倍に急膨張する。クォークや電子な
どの物質が発生し、これらの半物質もできる。10 ∼ 5 秒後、物質の量が半物質よりもわ
ずかに多かったため、物質だけが残される。]
[★ 1999 年 5 月 25 日、NASA 本部でカーネギー研究所のウェンディ・フリードマンらが、
ハッブル宇宙望遠鏡での観測で得られた値から計算すると、宇宙が誕生したのは約 120
億年前だった、と発表する。国立天文台は 137 億年とする。
]
149億9970万年前
○【宇宙】温度が約 4000 度 K まで下がり、水素の原子核(陽子)が電子をつかまえて水
素原子ができる。光がようやく直進できるようになる。
46億年前
○【宇宙】原始太陽が、星間雲の収縮により形づくられる。太陽の周囲には、太陽に取
りこまれなかったガスとチリが、回転する円盤を形成する。
45億9800万年前
○【地球】微惑星どうしが衝突・合体し、さらに周辺のチリや微惑星を取り込んで一体
となって、原始地球が形成され、太陽系の 3 番目の惑星なる。誕生直後から地球上に宇
宙空間から絶え間なく微惑星が降り注ぐ。衝突のたびに微惑星や地球に含まれている成
分がガスとなって蒸発し、原始大気がつくられていく。
45億9000万年前
○【宇宙】木星、土星などが形成される。
40億年前
○【地球】微惑星の衝突がようやく減少して、地表の温度が下がり、ほとんどが岩石と
-5-
して固まる。プレートテクトニクスが始まり、地球の表層に弧状列島が誕生する。大気
中に放出されていた水蒸気が雨となって地表に降下し、低地に原始海洋が形成される。
38億5000万年前
○【地球】グリーンランドのアキリア島の岩石に、炭素が含有され単純な微生物の痕跡
が残される。
(カリフォルニア大学研究グループ、
『NATUER』1996.11)
36億年前
○【地球】原始海洋の中に、最初に生命をもった細胞(始原細胞)が発生する。自己複製
機能をもったリボ核酸( RNA)とタンパク質が脂質分子の膜で囲まれていて、RNA にたく
わえられた遺伝情報をもとに、この区画内で新たなタンパク質がつくられるようになる。
[以後、細菌やラン藻のような原核細胞の時代が 20 億年続く。原核細胞の時代に、 RNA
よりも安定した二重らせん構造をもつデオキシリボ核酸(DNA )が登場し、遺伝情報の運
搬体としての機能を果たすようになる。こうして、DNA は遺伝情報をになう分子、タン
パク質は反応を触媒する分子、RNA は DNA とタンパク質をつなぐ仲介者、という役割
分担がなされる。]
34億6000万年前
○【地球】藻に近い細胞(バクテリア)の痕跡がのこされる。
26億年前
○【地球】ランソウ類の仲間である原始的なシアノバクテリア類が現れる。葉緑素(ク
ロロフィル)を体内にもち、太陽エネルギーを受けて二酸化炭素と水から栄養分をつく
り出す光合成を始める。地球の大気に酸素が蓄積し始める。
23億年前
○【地球】海で誕生した生命が地上に進出する。最初の陸上生物が登場する。〔従来は
約 12 億年前とされていたが、ペンシルベニア州立大学教授大本洋らの研究で、一気に 10
億年以上さかのぼる。(『東京新聞』(夕)1999.10.28)〕
19億年前
○【地球】超大陸ローレンシアが生まれる。[以後、大陸の分裂と合体が繰り返される。BC2
億 5000 万年に、超大陸バンゲアが誕生する。]
15億年前
○【地球】ランソウ類をはじめとする原核生物から、規則正しい核の分裂により世代を
継いでいく眞核細胞をもった生物が発生する。眞核細胞は、原核細胞よりも大きく、膜
で囲まれた核の中に大量の始原 RNA と始原 DNA をおさめており、さまざまな機能を持
った多くの細胞小器官をもっている。[以後、眞核細胞を持った生物が、RNA のはたら
きで DNA を設計し、複雑性を増した DNA のはたらきで眞核生物が地球上に増殖し、多
-6-
数の細胞が協調して 1 個体をつくる多細胞生物に進化する。]
10億年前
○【地球】機能の異なる細胞が集まって 1 つの生物をつくる多細胞生物が出現する。藻
類や海綿の多細胞化がすすむ。藻類たちは陸上にも進出して地上を覆い、光合成によっ
て酸素を放出する。地球上にますます酸素が蓄積される。酸素を利用して生きる多細胞
生物が現れて動物になる。[以後、多細胞生物では、さまざまに特殊化した細胞を統合す
る複雑なシステムが発達し、進化と多様化をすすめる。]
8億年前
○【地球】多細胞生物が、しだいに大型化する。カイメン動物のように、多数の個体が
集合体をつくる動物も現れる。
6億年前
○【地球】無脊椎動物が、誕生する。
5億8000万年前
○【中国】多細胞動物がいる。[1998 年、南京市で化石が発見され、これまで最古とさ
れてきたオーストラリアで発見された化石より 2000 万年古いと推定される。]
5億7500万年前
○【地球】カンブリア紀が始まる 。古生代の最初の地質時代とされる。[∼ BC 約 5 億 900
万年。模式地のイギリス、ウェールズ地方の古称カンブリアにちなんで、1836 年にセジ
ウィック A. Sedgwick が命名する。以後、数十種だった生物たちが爆発的な大進化をと
げて、一気に 1 万種まで増える。]
5億6000万年前
○【オーストラリア】多細胞動物がいる。[1998 年、南京市で 5 億 8000 万年前と推定さ
れる化石が発見されるまでは、この化石が最古といわれていた。]
5億4000万年前
○【地球】古生代カンブリア紀が始まる。この時代に生命は爆発的な進化を起こす。
4億年前
○【地球】この頃古生代デボン紀から BC3 億 5000 万年にかけて、酸素によってつくら
れたオゾン層の保護の下、まずは植物の陸上進出が始まる。[以後、両生類が陸上に進出
する。]
3億6000万年前
○【地球】両生類が陸上に進出する。外骨格化するもの、有翼化するもの、哺乳化する
-7-
ものなど、さまざまな分化を始める。[以後、多様なデザインで多くの種類に分化し始め
る。外骨格を持ったもので昆虫になるものは、地球上で最も多い種類を作り出し、地球
が「虫の惑星」になっていく。一説に、一地区にすむ昆虫の種類と個体の数から推算す
ると、地球上の昆虫の全種数は約 300 万、総個体数は 10 の 18 乗にも達するという。ト
ビムシ類の 1 種リニエラ・プラエクルソー( Rhyniella praecursor )の化石が発見されてい
る。]
2億5000万年前
○【地球】超大陸バンゲアが誕生する。[以後、バンゲアが分裂し、ユーラシア大陸など
が形成される。]
○【地球】シダ類が出現する。[以後、陸上に植物の森ができる。]
2億4700万年前
○【地球】中生代の三畳紀に、爬虫(はちゅう)類が誕生する。
2億年前
○【地球】恐竜( dinosaurs)が、陸上に現れる。[以後、地球上に栄える。 BC6500 万年、
白亜紀に絶滅する。]
1 億5000年前
○【地球】哺乳類が誕生する。
7000万年前
○【地球】白亜紀の後期。北アメリカで、人類の祖先である霊長類の哺乳動物〔プルガ
トリウスというリスのような原猿〕が誕生し、恐竜の陰で、樹木に寄り添ってほそぼそ
と虫を食らって生きている。
6500万年前
○【地球】中生代の三畳紀に現れた恐竜( dinosaurs)が、白亜紀に絶滅する。地球に巨大
な隕石が衝突して、環境に大変化をもたらしたことが原因となる。
3000万年前
○【地球】霊長類が猿から分化し始める。
2500万年前
○【地球】人類の祖先である哺乳動物が、体が小さくて適応能力に優れていたため、第
一次氷河期にも絶滅せずに生き残り、類人猿と人類の共通の祖先であるプロコンスルが
現れる。
1500万年前
-8-
○【地球】霊長類が進化して、直行二足歩行するラマピテクスが現れる。
1000万年前
○【地球】人類の祖先がチンパンジーやゴリラの祖先から分かれる。
500万年前
○【アフリカ】北アメリカで生まれた原猿がユーラシア大陸に渡り、紆余曲折を経て、
猿人(アウストラピテクス)がアフリカに現れる。草食で、各所に定住してオルドワイ文
化を形成する。その間に北アメリカの霊長類は絶滅してしまう。[以後、人類への進化の
道をたどる。BC240 万年頃、人類直系の祖先「ホモハビリス」が登場する。]
490万年前
○【地球】原人とチンパンジー、ボノボなどの類人猿とが分岐する。
380万年前
○【地球】火が使用される。[以後、チェソワンジャ遺跡として残る。]
300万年前
○【地球】新生代第三紀鮮新世中期、ヒト科(Hominidae)が動物から人間への移行の場に
入る。
○【アフリカ】マンモスゾウが、アフリカ大陸に起源する。[BC150 万年、第四紀更新
世前期に、ウクライナ、シベリアから北アメリカ大陸に暖帯のマンモス(メリジオナリ
スゾウ)とよばれるものが分布を拡大する。BC1 万年まで、北アメリカで、メリジオナ
リスゾウの子孫の帝王マンモスのような巨大なもの、さらにコロンビアゾウ、ジェファ
ーソンゾウなどが生存する。]
280万年前
○【地球】最初の道具製造者アウストラロピテクス〔アフリカの先人〕が現れる。
240万年前
○【地球】ホモハビリスが現れる。[人類直系の祖先となる。]
200万年前
○【地球】洪積世(氷河時代)が始まる。
○【アフリカ】ホモハビリスの痕跡が残される。
○【アメリカ】岩板に象形文字のような模様が刻まれる。[1868 年、オハイオ州ハモン
ズビル付近の炭坑で発見される。]
190万年前
○【地球】原人類ホモエレクトゥスが現れる。身長約 1.5m、体重 26kg くらいの体格を
-9-
持つ。火を使い始めて、獣類や鳥類を捕獲して肉食をする。
150万年前
○【地球】 ホモエレクトゥスが、直立二足歩行を始める。直立することで、2 本の手が
自由になるとともに、季節的に周期的に性器から出されている視覚的・触覚的・臭覚的
メッセージの大半が隠蔽される。[以後、ヒトは隠蔽された部分の喪失した視覚的・触覚
的・臭覚的メッセージを、大脳で生み出す想像的メッセージで補充する。バーチャル・セ
ックスの始まり。発情のメッセージを表情や発声、手振り、身振りで受発信するように
なる。大脳は季節を問わず想像的メッセージを補充するで、発情期のメッセージの授受
が季節的にあいまいになる。ヒトは季節を選ばず発情するようになる。また、ヒトが道
具を使用し始める。]
140万年前
○【地球】原人が火を使い始める 。
〔一説では 50 万年前。
〕
120万年前
○【地球】ジャワ原人が現れる。右脳と左脳が分離し、5 本の指が分離する。ヒトが道
具を作るようになる。
50万年前
○【地球】原人が火を使い始める。[一説では 140 万年前。]
○【中国】直立猿人の北京原人が現れる。
○【ドイツ】原人、ハイデルベルク人が現れる。
40万年前
○【中国】北京原人が現れる。火の使用を始める。
○【インドネシア】ジャワ原人が現れる。
○【ハンガリー】ヴェールテスセールレーシュなどの人類が、火の使用を始める。
20万年前
○【世界】ネアンデルタール人が現れる。脳の容量は約 1300g。
○【アフリカ】旧人、ローデシア人が現れる。
15万年前
○【世界】ネアンデルタール人が、死体埋葬の観念を持つ。死体を副葬品と共に埋葬す
る。西ヨーロッパを中心にみられる中期旧石器文化「ムスティエ( Moustier)文化」が形
成される。剥片(はくへん)につくられた尖頭(せんとう)器(ポイント)
、横形削器(ラク
ロワール、サイド・スクレーパー)が用いられる。[ 19 世紀に発掘調査が行われる。]
14万1000
- 10 -
○【世界】アフリカで進化したホモサピエンスからヨーロッパ人や日本人の祖先が分岐
する 。
(宝来聡:国立遺伝学研究所, 1995.3.20)
10万年前
○【世界】ネアンデルタール人に代表される中期旧石器文化人類が世界に分布する。西
ヨーロッパを中心に発達したムスティエ( Moustier )文化が、北アフリカおよび西アジア
のルバロワゾ・ムスティエ文化、中央および東ヨーロッパの東ムスティエ文化に拡大し
て行く。
5万年前
○【世界】オーリニャック( Aurignacian)文化が形成される。打製石器が使用される。旧
石器時代が始まる。[以後、フランス、ピレネー地方のオーリニャック遺跡を標準遺跡と
する後期旧石器時代前半の文化が形成される。]
○【中国】新人、周口店上洞人が現れる。
○【フランス】クロマニヨン人( Cro-Magnon )が現れる。脳の容積は 1600 ∼ 1700g 。子音
を発音するようになり、言葉が豊かになる。[ 1868 年,フランス南西部のクロマニヨン
岩陰遺跡で化石人骨が発見される。以後、BC4 万∼ BC1 万年にかけての同類の人骨がヨ
ーロッパ各地で発掘される。身長は高く,約 1.8m 。新人に属し,後期旧石器文化をもつ。]
(松岡正剛『情報の歴史を読む』1997)
4万年前
○【地球】最後の氷河期。
○【世界】新人類のホモサピエンスグループが旧人類に代わって登場する。この頃まで
に、最も原始的な言語形式がつくられて始め、芸術や技術の分野で複雑な行動が爆発的
に発達する。小屋を造ったり、貯蔵用の穴を造ったり、死者を花で飾るようなことを行
う。
○【オーストラリア】アボリジニーが、オーストラリア大陸に到達する。
3万5000年前
○【世界】上部更新世中期末に、ネアンデルタール人が消滅し、人類が本格的に寒冷地
に進出し始める。原始的な言語形態を使用し始め、石刃(せきじん)技法による効率のよ
い石器製作技法を身につけ、樹木の乏しい寒冷ステップ地帯で絶滅種のマンモスやトナ
カイなどの寒冷地特有の動物を狩猟対象とし、獣骨、動物の毛皮などの材料を加工して
衣類 、住居を製作する。石片 、木片、骨片などに、周期性を持った紋様などが描かれる。
声や、日、月、年などのリズムが刻まれる。
3万年前
○【日本】洪積世の人類、葛生人、三日月人、浜北人が現れる。[ 1961 ∼ 62 年、静岡県
浜北市根堅(ねがた)の石灰岩採石場にあった洞窟(どうくつ)で、浜北人が発見される。
○【ユーラシャ大陸】裸の女性小像が、石や粘土、骨、マンモスの牙などでつくられる。
- 11 -
[のちに地層から発掘されて「ヴィーナス」と呼ばれる。]
○【フランス】アルデシュの洞窟に野牛やサイの壁画約 300 点がが描かれる。[ 1994 年 12
月、発見され 、世界最古の壁画とされる 。1995 年、フランス文化省が、サイと牛は 3 万 340
年から 3 万 2410 年前に描かれ、その他、洞窟の地面には 2 万 2800 年前の絵もあったと
発表する。]〔これまでは、1940 年に発見されたフランス南西部、ドルドーニュ地方に
ある洞窟「ラスコー( Lascaux )洞窟」が、動物を描いた旧石器時代後期の壁画として世界
最古とされていた。
〕
○【アメリカ】アジアから新人が入り始める 。[ BC1 万 8000 頃、メキシコに到達する。]
2万5000年前
○【ユーラシャ大陸】裸の女性小像が多数つくられ、豊かな乳房と腰部の性的特徴がま
すます強調される。
2万年前
○【世界】原始農耕が始まる。のちのバイオテクノロジーの起源となる。
○【世界】土器を伴わない打製石器が使用される。
○【ユーラシャ大陸】裸の女性小像が多数つくられるが、頭や腕が省略され、乳房や性
器だけのものが多くつくられる。女性像の他に男性像もつくられるが、性器の誇張はな
い。
○【日本】この頃、日本列島が大陸から分離し、旧石器時代人が生活する。[のち、先土
器文化時代と呼ばれる。]
○【
】性交体位図が描かれる。この頃の正常体位は女が四つん這いになり、その後
ろから男が立って接する背向位である。食生活が不安定なため、発情期も生殖に適した
春期に 1 回だけである。[以後、最古の性交体位図として現存する。]
1万9000年前
○【世界】東北アジアに住んでいたモンゴロイドが、この頃からアメリカ大陸と日本列
島に向けて長い旅に出る。[∼ BC12000 。赤澤威「モンゴロイド・プロジェクト 」
『UP』
1995.10)
1万8000年前
○【日本】沖縄に港川(みなとがわ)人が住んでいる。[具志頭(ぐしかみ)村の港川(みな
とがわ)遺跡から港川人の完全な骨格三体からなる人骨が発見される。]
○【メキシコ】アジアからの新人がアメリカを通り、メキシコに到達する。
1万7000年前
○【フランス】後期旧石器時代最後の文化「マドレーヌ(Magdal □ nien )文化」が、フラ
ンスを中心に形成され始める。[∼ BC1 万 2000 年。スペイン、イギリス、南西ドイツ、
ポーランドにも広がる。同系統の文化があることが知られている。6 期に細分され、I
∼Ⅲ期は骨製尖頭器(せんとうき)の 、Ⅳ∼Ⅵ期は骨製銛(もり)の形態変化に特色がある 。
- 12 -
石器ではI期とⅡ期の差が大きく、I期はバドゥグール文化の名で区別されることもあ
る。美術品にも顕著なものが多く、リアリズムの様相が濃い美術様式が確立され、Ⅴ期
にはその写実性が後退し、観念による描写が始められる。トナカイが狩猟の対象になっ
たことが多く、パリ南東郊のパンスバン遺跡はことに有名である。牛の頭をかぶり、毛
皮を前身にまとって動物霊となるシャーマン「アニマル・マスター」と刈りの獲物が洞窟
一面に描かれる。]
1万5000年前
○【世界】各地に住む人類の言語の多様性が進み、その種類が約 10000 ∼ 15000 という
ピークに達する。
○【世界】生物油による油灯が現れる。
○【フランス】ラスコーの壁画が描かれる。狩りの収穫を祈って、他種類の動物を描き
分けた動物群が線で描かれる。ヒトは、輪郭で表現された画像を実在と対比して認識し、
見分けるようになる。輪郭図がコミュニケーションズの記号の役割を持つようになり、
初原的な「絵文字」の機能が現れる。
○【アメリカ】アフリカで発達した人類が、マンモスを追ってベーリング海峡を渡り、
霊長類発祥の地アメリカ大陸に戻ってくる。
1万3500年前
○【スペイン】北部、サンタンデル県のアルタミラ洞窟に旧石器時代の壁画が描かれる 。
長さ 270m の洞窟内に、入口から 30m ほど入った左方にある、長さ 18m、幅 8 ∼ 9m の
部屋の天井(高さ 1 ∼ 2m)で、25 頭の動物像が赤・黒・褐色で描かれる。とくにバイソン
が多く、鹿、猪、馬などのほか、呪術師らしい仮装人物の絵もある。色彩の対照やぼか
し、洞窟天井の凹凸などによって、立体感や現実感にあふれる表現がみられ、特に巧み
な陰影処理による明暗の効果は、旧石器時代絵画の最高水準を示している。この表現に
「動画」への衝動がすでに見られる 。
[1879 年、サウトゥオラ Marcelino de Sautuola によ
り、貝殻や動物の骨、焚火の跡とともに発見される。彼は旧石器時代のものと主張する
が、学界の承認を得るにいたらない。1902 年、フランスの考古学者カルタイヤック ⊇
mileCartailhac とブルイユの調査により、サウトゥオラ説が確認される。ミュンヘンのド
イツ博物館に、洞窟を再現した一室がつくられる。日本の志摩スペイン村のハビエル城
の中にもレプリカが作られる。
]
1万3000年前
○【日本】静岡県に三日月人が住んでいる。
1万2000年前
○【中国】レコード状の溝が刻まれた石皿が作られる。[以後、チベット自治区のコンロ
ン山脈の洞窟の中から、760 個が発見される。]
1万1500年前
- 13 -
○【ヨーロッパ】旧石器時代の後期、マグダレニアン期の洞窟人種が、その居室と見ら
れる洞窟内の石灰岩の壁面へ、マンガンの化含物と、過酸化鉄から作った粉末ようの絵
具を使って、牛に似た動物の絵を描きつける。よく見ると、この牛の脚が 8 本に描かれ 、
その 8 本に描かれた、非技巧的な、率直な表現の中に 、原始的な動的感覚が認められる 。
(1995 年 6 月 2 日にフランス文化省が確認。)
1万1000年前
○【日本】素焼きの土器の製作が始まる。これまでの石でつくった岩偶に代わって、素
焼きの人形「土偶」もつくられる。[以後、BC300 まで「縄文時代」と呼ばれる。]
1万年前
○【世界】最終氷河期を経て氷河時代が終わる。気候の温暖化が進む。人は、獣たちと
同様に後背位で交わる。
○【世界】磨製石器の使用が始まる。新石器時代が始まる。
○【東アジア】イネの栽培が、インド、中国、ビルマ、タイなどで行われる。
○【日本】縄文時代が始まる。人びとは移動生活から、深林地域での定住的生活に移行
する。九州(のち、長崎県)で、丸底の移動可能な煮沸用容器の豆粒文(とうりゅうもん)
土器が作られる。[のち、泉福寺(せんぷくじ)洞穴で出土する。日本最古の縄文草創期の
土器で、同時に世界最古の土器とされる。以後、BC100 ころまで縄文土器が作られる。]
○【イタリア】レバント地方に集落が形成され、農耕が行われる。
○【オーストリア】ヴィレンドルフのビーナスの彫刻がつくられる。肉食中心の脂肪過
多の食生活を反映した極度に肥満した女の裸像が、石灰岩を丸彫りして作られる。肥満
した女の像が神聖化され、神秘な恍惚感をもたらす性快楽を得られる生殖の神に祭りあ
げられる。[1908 年、クレームスで発掘される。]
BC 8000
BC8000. ○【日本】この頃、新石器時代に入り、縄文文化社会が展開する。縄文式土器
が作られ、打製石器、磨製石器、骨角器などが使用される。
BC8000. ○【西アジア】ザグロス山脈の麓で、コムギやオオムギの栽培をする麦作農耕
が始まる。[ BC7500 年ごろの先土器新石器時代に、麦作文化は冬雨型の地中海気候をも
つ地中海東岸の西アジア地域でおおむね完成する。]
BC8000. ○【近東】最初の新石器時代の村落ふうな集落、例えばイェリコが出現する
BC8000. ○【
】犬と山羊の飼いならしが始まる。
BC 7500
BC7500. ○【西アジア】この頃、先土器新石器時代。コムギやオオムギの栽培をする麦
作文化が、地中海東岸の西アジア地域でおおむね完成する。このころにはヒツジ、ヤギ 、
ブタも家畜化される。
BC
7000
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BC7000. ○【世界】中石器時代に入る。
BC7000. ○【西アジアメソポタミア】メソポタミアで、農耕牧畜が始まる。
BC7000. ○【西アジア】バビロニアで、石の上で平焼きした不発酵パンが作られる。
BC7000. ○【ヨーロッパ】弓矢が急速な発展を遂げる。
BC7000. ○【エジプト】オオムギ、コムギ、キビが栽培される。
BC7000. ○【北アメリカ】コロンビアゾウやジェファーソンゾウとして生きていたマン
モスが、姿を消す。
BC7000. ○【世界】人間の性生活に革命が起こる。農耕牧畜の開始により、食生活が安
定したため、発情期が消滅し、人間と動物一般との区別が決定的になる。性の目的は生
殖から快楽に移り、性交体位にも変化ができて、男女が向かい合う対向形が正常位にな
る。
BC 6800
BC6800. ○【日本】縄文人たちが丸木舟にのって、伊豆諸島に進出する。
BC 6650
BC6650. ○【アフリカ】サハラの岩に、壁画が描かれる。
BC 6500
BC6500. ○【近東】窯業が発明される。
BC6500. ○【トルコ】南アナトリアに、比較的大きな都市が構築される。
BC 6000
BC6000.○【日本】関東地方と関西の一部で、女性を象った素焼きの土偶がつくられる。
単純な形で、性器や乳房の膨らみを誇張しただけの三角型のもの、乳房のついた胸部と
腰部が膨らみ中央のウエストが細くなった糸巻き型のものがつくられる。[以後、縄文遺
跡から発見される。土偶はすべて女性像ばかりで、乳房、性器、へそがついていて、腹
の膨らんだ妊婦型も多い。]
BC6000. ○【メソポタミア】北部で、土器をともなう中期新石器文化、ハッスーナ文化
が広まる。シュメール、バビロニア、アッシリアなどの古代メソポタミアの民族が、粘
土板に楔形文字をきざみこみ、火でやきかためて粘土板文書を作る。[のちに、アッシュ
ールバニパル王(前 7 世紀)の図書館跡からは、
「ギルガメシュ叙事詩」をはじめ大量の粘
土板文書が発掘される。]
BC 5500
BC5500. ○【トルコ・イラン】初期銅器時代が始まる。
BC5500. ○【エジプト】この頃、日時計の利用が始まる。太陽の動きにつれて木や岩な
どの影が長さと方向を変えていくことに気づき、これを時計として利用する。原始以来
の環境的・生理的な体内時計に対して、客観的な時計の歴史が始まる 。[やがて日影棒(ノ
ーモン gnomon )と呼ばれる棒を地面に垂直に立てて日時計とするようになる。]
- 15 -
BC 5000
BC5000. ○【アジア】隕鉄(いんてつ)を鍛打(たんだ)した鉄製の利器が、小アジアやエ
ジプト、メソポタミアでつくられる。[以後、中国では殷(いん)代に隕鉄製の利器がみら
れるが、隕石の数は限られているため、鉄製品は普及しない。]
BC5000. ○【中国】長江の流域、河姆渡(のち、浙江省余姚県)に最古の稲作文化が開け
る。東北の遼寧省を中心に紅山文化が開ける。粟、黍を主体とする農耕が始まる。また
少数の牛、羊、豚を飼育する。牛河梁で廟が建てられ、女神像を拝む。陶器には線形の
刻印が刻まれる。[ 1980 年代、遼寧省喀左県東山嘴の石積み建築祉群から小型の妊婦土
偶の胴体部分が 2 体、牛河梁紅山女神廟遺跡から人頭大の泥製女神の頭部と、肩、手、
乳房など大きさの異なる女神像が 、猪や鳥などの粘土製動物像とともに出土する。当時、
子を産む親は母であり、男は子づくりに必要なことは知られていないと推察される。]
BC5000. ○【西アジア】バビロニアで、ナツメヤシ、干しブドウ、ワインなどから酢が
造られる。
BC5000.○【西アジア 】メソポタミアの南部にウバイド文化が生まれる。売春が始まる。
メソポタミア各地の神殿に集まる旅行者のため尼僧が歓待し、性交の相手となる。やが
て神殿は多数の売春婦をかかえ、これを目当てにする男が増大し、神殿が売春の場所に
なる。その収入は神殿維持の重要な財源となる。
BC5000. ○【エジプト】ハトが家禽(かきん)化される。
BC 4500
BC4500. ○【中国】この頃、陶器に付けられた符号,すなわち陶文(または刻符)がつく
られる。仰韶文化。西安の半坡(はんぱ)遺跡から見つかったものが最も古いとされてい
る。
BC 4000
BC4000. ○【世界】この頃、ころから車輪を発明する 。
[以後、車輪を馬や牛に引かせる
時代が 20 世紀後半まで長く続く。
]
BC4000. ○【日本】関東・東北地方で、素焼きの土偶が少しつくられる。
BC4000.○【中国】華中地区で、水稲栽培が始まる。青連崗文化が開ける。[∼ BC3000 ]
BC4000. ○【西アジア】この頃、メソポタミアで都市文明が起こる。
BC4000. ○【西アジア】バビロニア・アッシリア地方で、シュメール人が、農業の記録を
つけるため、生乾きの粘土板に絵文字を刻む。線状の表意文字で、世界最古の文字とさ
れる 。
[BC3000 頃、90 度回転して真横に変化しながら単純化して、楔形文字になる。の
ち、メソポタミアの南部ウルクで、ウルク第4層と呼ばれる地層から発見される。]
BC4000. ○【エジプト】世界最古の文字による記録、センド王の石文が、聖刻文字(ヒエ
ログリフ)で刻まれる。聞き手が話し手のそばにいなくても、文字によって書かれたもの
は、伝達が可能であり、話し手が移動しなくても遠隔地に伝達させることが可能になる。
文字によって、これまでの同期コミュニケーションから、時間空間を超えたに非同期な
かたちへの変換が始まる。[以後、人間は非同期コミュニケーションの手段を次々と拡張
- 16 -
し続ける。センド王の石文は、オクスフォードのアシュモル博物館に保管される。]
BC 3500
BC3500. ○【世界】初期青銅器時代が始まる。
BC3500.○【中国】山東省中部で、羊の骨に甲骨文字が刻まれる。[ 1998 年、発掘され、
中国最古のものと判断される。数字の「六」と、占いを示す「卜」が解読される。]
BC3500. ○【西アジア】シュメール人の都市国家が発達する。シュメール人が、楔形(く
さびがた)文字の原形である古拙(こせつ)文字を発明する。文字は、一般に粘土板上に右
から左に書かれるが、規則はない。[以後、BC50 年ごろまでほぼ 3000 年にわたって古
代オリエント全土で使用される。なかでも、アッカド人、アッシリア人、エラム人、フ
ルリ人、ヒッタイト人 、ウラルトゥ人 、カッシート人などが楔形文字を使用する。BC2000
ころ、シュメール人の書家たちが、文字を左から右へと横書きに書くようになる。]
BC3500.○【西アジア 】バビロニアで、ノアの洪水が起こったという伝説がつくられる。
[初めに『ギルガメシュ物語』に、神から洪水の予告を受けたウトナピシュティムが、箱
船に乗り込み、自分で舟の入口をふさぐという物語が記される。このモチーフが『旧約
聖書』の「創世記」6 ∼ 9 章にも言及され、アダムより数えて 10 代目のノアとノア一族
洪水に際して箱舟に乗り、最後に神が舟の戸を閉めて洪水による滅びから救ったという
「ノアの箱舟(Noah's Ark ) 」が記述される 。その大きさは、全長 135m、幅 22.5m、高さ 13.5m
で、アララテ山(アララト山)中に漂着したという。以後、箱舟探しを試みる人たちが絶
えない。]
BC3500. ○【アフリカ】ナイル川流域にノモスが分立する。
BC 3400
BC3400. ○【西アジア】この頃、メソポタミアでシュメール人が、史上初の大集落都市
「ウルク都市国家群」を形成し始める。集落のコミュニケーションのために史上初の古
拙な絵文字「ウルク原文字」約 3000 文字を発明する。粘土板上に歴史が書かれ始める。
[BC2900 ころ、絵文字に音価が付けられて楔形(くさびがた)文字に発展する。 BC2400
年ころまで粘土板にシュメール語で家畜,穀物,土地その他行政・経済・簿記に関する
文書が書かれるようになる。その中、約 40 万の粘土板文書が発見されている。BC2400
年ころから国王碑文,ついで書簡,裁判記録,契約書などが書かれる。BC50 年ごろま
でほぼ 3000 年にわたって古代オリエント全土で、アッカド人、アッシリア人、エラム人、
フルリ人、ヒッタイト人、ウラルトゥ人、カッシート人などによって使用される。]
BC 3350
BC3350. ○【エジプト】パピルスに象形文字で文書が綴られる。縦方向でも左右の横方
向でも象形の向きを変えて書かれ、象形が向く方向から読み始める。[イギリスの書誌学
者 F.マダンの説.]
BC 3100
BC3100. ○【西ヨーロッパ】巨石文化が始まる
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BC3100. ○【
】円筒形の石印(シリンダー)を粘土板にころがし、印章や文字を押印
するという方法が行われる。活字の始まり。
BC3100. ○【エジプト】メネス王が、上・下エジプトを統一する。ヒエログリフ(聖刻文
字)がつくられる。太陽暦が使用される。[BC1500 頃から、神官がヒエラティック(神官
文字)を使用する。BC800 ころ、デモティック(民衆文字)が民衆に広がる。]
BC3100.○【エジプト 】近代的化粧法のアイシャドー、マスカラ 、マニキュア 、毛染め、
かつら、香油、紅(べに)などが始まる。
BC
3000
BC3000. ○【日本】中部地方から北海道にかけて、多数の素焼きの土偶がつくられる。[こ
の頃、日本列島の総人口はほぼ 26 万人で、縄文時代最多と推定される。]
BC3000. ○【西アジア】この頃、メソポタミア地域で青銅器時代に入る。ウル第一王朝
時代の王陵に、青銅製の利器が収められる。[この斬新(ざんしん)な技術が、さまざまな
経路を通じてオリエントから諸方面へ伝播(でんぱ)し、各地の人々を青銅器時代に導入
する。BC1200 ころまで行われる。]
BC3000. ○【西アジア 】この頃、シュメール人が、絵文字から発達した楔形(くさびがた)
文字の使用を始める 。[以後、楔形文字は、言語を異にする各種の民族によって採用され、
広くオリエント世界に普及する。BC2350 頃から、アッカド王朝が楔形文字を利用して
セム語を写して以後、古バビロニア王朝のハムラビ王は楔形文字によってハムラビ法典
を残し、アッシリア帝国のアッシュール・バニパルの王宮では、大量の粘土板に楔形文
書が刻まれる。]
BC3000. ○【西アジア】この頃、バビロニアで署名の代用として、あるいは宗教的なシ
ンボルとして捺印(なついん)が使われる。捺印には、指輪などに組込んだ石の表面に紋
章や模様などを彫りこんで、顔料や泥などをつけてから、滑らかで弾力のあるものに押
しつける。[最も初期の印刷技術とされる。]
BC3000. ○【エジプト】この頃、王国が統一され、国家体制が整備され、象形文字のヒ
エログリフ(聖刻文字)が発明される 。
[以後、3000 年にわたってエジプトで使用される。
1799 年、ナポレオンのエジプト遠征の際に発見されるロゼッタ・ストーンの碑文の上段
にヒエログリフが刻まれている。
]
BC3000. ○【エジプト】この頃、すでにパピルスが書写の材料に使用されている。水辺
に生えるアシに似た水草「パピルス(ギリシア語の papyros、ラテン語の papyrus )の茎の
芯を薄くひろげ、それを適当に重ねあわせて接着したもの。[以後、初期のギリシアやロ
ーマでも用いられる。紙の英語 paper の語源になる。]
BC3000.○【エジプト】この頃、天体観測によって 1 年を 365 日とする暦がつくられる。
BC3000. ○【エジプト】この頃、中近東で飼いならされていた鳩を、漁船から漁況を知
らせる通信に利用する。
BC3000. ○【エジプト】この頃、木製の船が丸木のにとって代わる。が
BC3000.○【エクアドル】のちのキトー市の郊外に、世界最大のピラミッドが造られる。
[以後、自然の山と思われていたが、人工のピラミッドと判明する。]
- 18 -
BC
2800
BC2800. ○【イラク】この頃、シュメール文字が公用化する。
BC
2700
BC2700.○【エジプト】この頃、最初のピラミッドが建造される 。
[以後、BC1600 年ご
ろまでに建造される 。
]
BC 2600
BC2600. ○【イラク】この頃、シュメールで書記学校が整備される。その教科書(ファラ
文書)の中に神名を集めた文書があり、そこに初期楔形文字で書かれたシュメール王名表
に記載されている実在の王ギルガメシュ Gilgame ロ(シュメールの表記ではギシュ・ビル・
ガ・メス)が神格化されて登場する。[ BC2300 これをもとにしてアッカド語で『ギルガ
メシュ叙事詩(Epic of Gilgamesh)』が編集される。]
BC2600.○【エジプト】この頃、古代エジプト第四王朝の 2 代目の王クフ Khufu が、ギ
ザ(ギゼー)の大ピラミッドを建造させる。この事業は、ナイル川の氾濫(はんらん)期
に失業する農民に職を与える。クフは、ピラミッド建設資金を得るためにあらゆる方策
を講じ、自分の娘たちには、裕福な旅行者の一人ひとりに身をまかせるよう命じて、そ
の報酬を建設費の一部に充てる。[エジプト最大のピラミッドになる。]
BC
2570
BC2570.○【エジプト】この頃、カイロ郊外南西約 80km のファイユームに、約 10km 余
りの石畳の道路が造られる。
[以後、約 400 年余り改修が行われる。1999 年 5 月、アメ
リカ土木工学協会が、人間の生活に大いに貢献した歴史的建造物に指定する。エッフェ
ル塔、自由の女神、スエズ運河に続いて 4 番目の指定に当たる 。
]
BC 2500
BC2500. ○【日本】この頃、中部地方で石で陰茎を象った「石棒(せきぼう)」の制作が
始まる。石棒は、長さ約 30 ∼ 40cm、直径約 10cm で、頭の部分は亀頭状をしており、
反対側の末端は先細になっているので、土中立てることができる。石棒は主に住居外に
立てられる。[ BC2000 頃、石棒が住居内にも立てられるようになる。サイズで最大のも
のが長野県南佐久郡佐久町大字高野町で発見され 、田の中に立っているのが長さ 223cm 、
地上部分は 180cm、最大幅は 25cm に及ぶ。縄文時代中期の石棒は太くかつ長さが 2m も
及ぶ大形品がみられ、なかには陰茎をかたどったものが存在する。竪穴(たてあな)住居
址(し)の内部に設立してあったと考えられる例もある。後期以降になると小形化し、文
様も精巧になる。とくに晩期の石棒においては頭部を彫刻し、土器と共通する三叉(さん
さ)文、三角状のえぐり込み、線刻などを施すものが目だつようになり、赤色の顔料など
が塗られていたものもある。その形状からみて、呪術的、儀礼的な用途に用いられたも
のとみられるが、江戸時代以降の民間習俗で、縄文時代の石棒を性器(ファロス)として
信仰し祀(まつ)っている例も少なくない。大形のものは安山岩、小形のものは粘板岩、
緑泥片岩などの石を用いることが多い。類似の遺物として縄文時代晩期の東日本に存在
- 19 -
した石刀(せきとう)、石剣(せつけん)などがある。]
BC2500.○【インド】この頃、インダス渓谷に文明が起こる 。
[以後、BC1750 まで、文
明の中心地となり、この地の人々は文字を使用する。その文字は、未解明のままである。
]
BC2500. ○【ギリシア】この頃、エイゲ(エーゲ)文明がクレタ島に起こる。
BC2500. ○【エジプト】 この頃、巨大なピラミッドが造られる。
BC 2400
BC2400. ○【西アジア】この頃から、メソポタミアで楔形文字により国王碑文の粘土板
文書が作られる。この頃、縦書きで書かれる[以後、書簡、裁判記録、契約書などの文書
が粘土板で作られる。BC1700 年ころ横書きに変化する。]
BC
2390
BC2390.○【西アジア】サルゴンⅠ世 Sharru-kin I が、メソポタミア最初のセム系アッカ
ド人の統一王国「アッカド帝国」を興す。都市アガデ Agade(アッカド)の名が拡大され
て地域名となる。[以後、水利、交通基盤を整備し、シュメール諸都市の軍隊を 34 回に
わたって破り、
「肥沃(ひよく)な三日月地帯」周縁の交通、貿易の要衝を確保するなど、
軍事・貿易政策を推進する。その治績が、王碑文にしるされ、多数のコピーが取られて 、
後世に伝えられる。]
BC
2350
BC2350.○【西アジア】サルゴンⅠ世 Sharru-kin I が、南部メソポタミア(バビロニア)の
諸都市を征服統合して、セム系民族として最初のアッカド王国を樹立する。大都市バビ
ロンを建設する。ほぼ現在のバグダード以南の地方の北半分をアッカド、南半分をシュ
メールと呼ばれる。[以後、BC2150 ころまで、アッカド王国は 11 王が治世する。]
BC 2300
BC2300.○【西アジア】アッカド語で史上初の物語『ギルガメシュ叙事詩(Epic of
Gilgamesh)』が編集される。[ BC750 ころ、アッシリア語でニネベ版約 3600 行が書かれ
る。うち約 2000 行が現存し、これにより叙事詩の存在が知られるようになる。ほかにバ
ビロニア語版、ヒッタイト語、フルリ語などで書かれ、この当時世界に広く流布してい
く。1872 年にニネベ出土の粘土書板が、大英博物館に運びこまれ、スミス G.Smith がこ
の叙事詩を発見する。彼は表意文字で書かれた物語の主人公の名を正しく読むことはで
きない。1890 ∼ 91 年 、ピンチェス T.G.Pinches がこの名を「ギルガメシュ」と読む。1930
年にトムソン C.Thompson が、ニネベ版全文の原典を公刊し、各国語訳はますます盛ん
に行われるようになる。比較文学上からは,最古の世界文学とみなされる。]
BC2300.○【西アジア 】この頃、メソポタミアで粘土板にきざまれた地図がつくられる。
多くは徴税目的の土地測量による狭い地域のものである。[以後、現存する最古の地図
とされる。
]
BC2300. ○【エジプト】結婚指輪の風習が起こる。男は家事と財産管理をまかせるしる
しとして、妻の手に指輪をはめる。
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BC 2250
BC2250. ○【エジプト】この頃、僧用文字による写本「パピルス・ブリエ」が作られる。
[以後、最古のパピルス文書とされ、現在、ルーブル美術館に収蔵される。パピルス
(papyrus )は、パピルス草からつくられた紙の一種で、ナイル河畔に茂っているこの草か
らつくられ、各種の文書の作成に利用される。近代の考古学的発掘によって『死者の書 』
などが記された多数のパピルス文書がみいだされ、カイロ、ロンドン、パリなどの博物
館、大学などに保存されいる。書字材料としてのパピルスの使用は、このころから紀元
後数世紀に及び、使用文字もエジプトのヒエログリフ文字(各種の書体を含む)
、コプト
文字、ギリシア文字から、初期アラビア文字、ラテン文字などに及ぶ。
BC
2200
BC2200. ○【中国】この頃、河北省北部で成立した農耕文化が、山東省、河南省、安徽
省にかけて栄える。龍山文化が開ける。貧富の差が生じ、階層分化が起こる。一夫一婦
制が確立し、子は性交によって生まれることを知り、母系氏族制から父系氏族制へ転換
し、血族の生命一体感を確立する。石製または陶製の男根像(石祖、陶祖)が父系祖先崇
拝の象徴として多数製作される。
BC 2040
BC2040.○【エジプト】中王国時代が始まる。[∼ BC1800 頃。]
BC
2000
BC2000. ○【世界】この頃、磁鉄鋼が鉄片を吸い付けることが知られている。
BC2000. ○【日本】この頃、最初の稲作が伝来する。[以後、文化を形成するほどの農業
規模には発展しない。BC300 ころ、朝鮮半島南部から渡来した人々によって本格的な稲
作が行われる。]
BC2000. ○【日本】この頃、東日本の他に近畿から九州までの西日本でも土偶が制作さ
れるが、制作数が減少する。多くつくられたのは頭部が三角形の山形土偶で、大きな乳
房と膨らんだ腹部をつけている。石棒もつくられ、住居内にも立てられるが、住居内の
は小型で優美なものになる。
BC2000.○【小アジア】この頃、インド・ヨーロッパ語族の民族「ヒッタイト( Hittites )」
が、移動を始める。[ BC1750 頃、小アジアを中心として、活躍を始める。]
BC2000. ○【西アジア】この頃、シュメール人の書家たちが、文字を左から右へと横書
きに書くようになる。さらに、文字の向きも時計と逆回りに 90 度回転させる。
[以後、
メソポタミアの楔形(くさびがた)文字も、左から右へ書く様式を採用する。
]
BC2000. ○【イラク】この頃、バビロニアとアッシリア帝国の言語アカド語が使われ始
め、第 1 メソポタミア大文明の言語であったシュメール語が消滅する。
BC2000. ○【イラク】この頃、バビロニアにすんでいたカルデア人が、占星術の原型を
きずきあげている。
BC2000. ○【ギリシア】クレタ島で、ミノア文明が起こる 。
[以後、書家たちは、さまざ
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まな文字を使って記述するが、民衆はミノア文明を通じて、絵文字の一種クレタ・ヒエロ
グリフを使用する。BC1700 ファイトス宮殿で、円盤形の半乾きの粘土板の両面に、印
を押し付けて碑文が刻まれる。BC1450 ミケーネ人が入り込み、ミノア文明が消滅する。]
BC2000. ○【エジプト】この頃、横に長いパピルスつなぎ合わせて軸に巻いた「巻子本(か
んすぼん)」の形態が作られる。[のちに、巻いたものという意味のラテン語から書物の
単位を表す volume という語が使用される。]
BC2000. ○【エジプト】この頃、伝染病に関する記録が残される。
BC
1800
BC1800. ○【西アジア】メソポタミア南部のバビロンで、煉瓦のアーチによる橋がつく
られる。この頃、木の梁による橋が最も利用されている。
BC1800. ○【ギリシア】クレタ島のクノソス宮殿に初めての水洗便所がつくられる。完
璧な給排水装置と陶製便器が備えられる。
BC 1750
BC1750.○【小アジア】この頃、インド・ヨーロッパ語族の民族「ヒッタイト( Hittites )」
が、小アジアを中心として、活躍を始める。[∼ BC ごろまで。ボアズキョイ(ボガズキ
ョイ)出土の粘土板文書ではハッティ、『旧約聖書』ではヘテびとと呼ばれる。英語のヒ
ッタイトが一般化する。]
BC1750.○【西アジア】この頃、西セム系アムル人のバビロン第一王朝第 6 代の王ハム
ラビ(ハンムラビ、ハンムラピー)(在位 BC1792 ∼ BC1750 または BC1728 ∼ BC1686 )が 、
ラルサのリーム・スィーンⅠ世の打倒(治世 31 年)を皮切りに、アッシリア、マリ(ユー
フラテス川中流域)など周辺諸国を次々に征服して、約 250 年ぶりにメソポタミア全土の
統一に成功し、282 条からなる「ハムラビ法典」を制定する。楔(くさび)形(がた)文字
法典で 、
〈目には目を、歯には歯を〉の同態復讐法。[ 1901 ∼ 02 年に、西イランのスー
サで石碑が発見され、ルーブル美術館に収蔵される。そこには、神(おそらく太陽と正義
の神シャマシュ)から権力の印を受ける王の浮彫りと、楔形文字による法典とが刻まれて
いる。]
BC1750. ○【西アジア】この頃、バビロニアで最初の占星術文献『エヌマ・アヌ・エンリ
ル』が成立する。神々を天体になぞらえて、シン(月神)とシャマシュ(太陽神) 、アダド(天
候神)、イシュタル(金星神)の凶兆を記している 。
[以後、この伝統はアッシリア、ペル
シア帝国に及ぶ。BC410 年ころ、バビロニアで最初の星占いが成立する。
]
BC 1730
BC1730. ○【エジプト】ヒクソスが進入してくる。
BC 1700
BC1700. ○【西アジア】この頃、バビロニアでハムラビ法典が編纂される。閃緑岩の石
円柱に刻まれる。この頃から横書きが一般的になる。[のち、ルーブル美術館に保管され
る。]
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BC 1650
BC1650. ○【ギリシア】クレタ島のクノソスに、史上初の陶製浴槽がつくられる。
BC1650. ○【エジプト】避妊法が始まる。アカシアの木の粉を布に含ませ、子宮口にあ
てがうペッサリーが使われ始める。アカシアは弱酸性のアラビアゴムを含み、精子を殺
す効果がある。
BC 1600
BC1600. ○【ギリシア】ギリシアで初めて文化を持つミケーネ人が現れる。
BC 1570
BC1570.○【エジプト】新国王時代が始まる。[∼ BC1085 。]
BC
1550
BC1550. ○【中国】この頃、成湯(せいとう)(甲骨文では大乙)が、夏(か)の桀王(けつお
う)を滅ぼし、武王と号し、天子の位につく。ここに商王朝(殷王朝)が始まる。甲骨文字
(こうこつもじ)を発明する。甲骨文字は、占卜(せんぼく)に用いた亀甲(きっこう)・獣
骨上に小刀をもって刻みつけられた文字で、最古の漢字となる。陰茎を象った甲骨文字
は、
「祖」のつくりの且の原型となり、家系の由来するところをを意味する。[以後、し
ばしば遷都が行われ、成湯から数えて第 18 代の盤庚(ばんこう)のときまでに 5 回移る、
といわれる。BC1000 頃 、第 30 代帝辛(ていしん)(紂(ちゅう))のとき、国は大いに乱れ、
西方に興った周によって滅ぼされる。周により商は「殷(いん)」と称せられる。現代中
国でも「商」とよぶ場合が多い。史書では、これに先行する夏王朝が存在したとされる
が、その実在を証明する遺物、遺跡が未発見であるため、現在、殷王朝が中国史上、確
認される最古の王朝とされる。1899 年、河南省安陽県近くの小屯(しょうとん)という村
のわきを流れるえん河が氾濫して堤防が崩れ、そこから、文字を刻した亀甲(きっこう)
や獣骨の断片が多数発見される。偶然のきっかけから、これらを入手した劉鉄雲(りゅう
てつうん)が、この文字を解読した結果、これらのうちに、殷商王名が多数、読みとられ
る。これによって、これらが商代の遺物であること、また逆に、史書中の記述が架空の
ものではなく、商王朝が実在したことが確実になる。以後も、甲骨片は同地域で多数発
見される。1928 ∼ 37 年、中央研究院歴史語言研究所の手によって大規模な発掘が行わ
れ、大量の甲骨片とともに、巨大な王墓や宮殿跡、その他無数の遺物、遺跡が発見され
て、ここが『史記』にいういわゆる殷墟(いんきょ)であり、この地が、盤庚から末王帝
辛までの都址(とし)であろうと考えられるに至る。20 世紀、中国考古学、古代史研究に
おける最大の発見といわれる。]
BC1550. ○【ギリシア】クレタ文明が全盛期を迎える。ミケーネ文明が起こる。コルセ
ットやスカートが出現する。クレタ島の女は非常におしゃれで、コルセットによりウェ
スト、胸、腰の形を整え、ひだのある長いスカートをはき、紅玉ネックレスをつけ、髪
をカールにした。
BC1550.○【エジプト】すでに 1 年を 365 日とする暦が用いられており、この頃、日時
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計や水時計によって昼夜を各 12 等分している。
BC1550.○【エジプト 】医学全集が初めてつくられる。パピルスに書かれ、外科 、内科、
小児科、産婦人科、皮膚科に至るまで? 875 種の処方をあげ、寄生虫の駆除法、はげの
療法なども説明されている。
BC
1500
BC1500. ○【インド】この頃、インド・アーリア人が、アフガニスタンからヒンドゥー・
クシ山脈を越えてインダス川流域のパンジャーブ(五河)地方に進入する。彼らはイン
ドに進入する際、それ以前から長い間にわたって保持してきた宗教をインドにもたらす。
[以後、さらに東進して肥沃なドアープ地方を中心にバラモン文化を確立し、バラモン階
級を頂点とする四階級からなる四姓制度(バルナ(varn.a))を発達させる。BC500 年ころ
までの間に、『リグ・ベーダ』をはじめ、ブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッド
を含む膨大な根本聖典ベーダを編纂する。]
BC1500. ○【エジプト】この頃、日時計が製作される。[のち、ベルリン博物館に収蔵さ
れる。]
BC1500. ○【エジプト】ケシの乳汁(アヘン)が手術の麻酔剤、その他の痛み止め、幻覚
剤として広く使用され始める。
BC 1490
BC1490.○【エジプト】この頃、トトメス 3 世の摂政ハトシェプスト Hatshepsut が、古代
エジプト第 18 王朝第 5 代の女王としてに国政の実権を握る。男性という慣例を破って共
治王となり、伝統的な王号、王冠、王の付髭(つけひげ)をそのまま踏襲する 。
[在位 BC1490
頃∼ BC1468 年頃 。
]
BC
1482
BC1482.○【エジプト】ハトシェプスト Hatshepsut 女王が、中断していた交易関係を再再
開するために、古くからあった交易の道をあらためて切り開き、探検隊をアフリカ東海
岸の伝説のプント国に向けて送り出す。
[∼ BC1481。この間、帆船によってナイル川か
ら地中海へ 2000km を超える航海をする。その様子がテーベ付近のデイル・エル・バーリ
断崖寺院の壁面に描かれる。これらを飾る彫刻浮彫は第 18 王朝芸術の典雅な作風の原型
となり、象形文字に似た 16 行の銘文は最古の旅行報告書となる。女王の死後トトメス 3
世はただちに征服政策を再開、また浮彫・碑文から女王の姿や名前を削除し、肖像彫刻を
破壊して女王の記憶の抹殺を図る 。
]
BC 1450
BC1450. ○【ヨーロッパ】この頃、動物の皮から“紙”を作る技術が地中海沿岸諸国で
開発される。
BC1450. ○【ギリシア】クレタ島で、ミケーネ人がミノア人に取って代わり、ミノア文
明が消滅する。
BC1450. ○【エジプト】この頃、水時計が製作される。[のち、カイロ博物館に収蔵され
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る。]
BC1450. ○【エジプト】この頃、経文『死者の書』が編纂される。人間の死後の経過に
ついて抱いた信仰を、聖刻文字(ヒエログリフ)または神官文字で書いたもの。
BC1450. ○【ギリシア】 古代ギリシアの黄金時代を迎える。エーゲ海岸に港湾都市エフ
ェツス(聖書ではエペソ)が建設される。石畳のメーンストリート、25000 人収容の円
形劇場、神殿、遊郭、公衆便所などがつくられる。舗装道路の石の表面に人の足形が彫
られ、その脇に女の顔とハートの形、金銭を意味する四角の札がある。これは、足型の
つま先の方向に進むと遊郭があるという印である。世界最古の看板か?
BC 1400
BC1400.○【中国】この頃、商(殷)王第 21 代武丁(ぶてい)代で、占卜(せんぼく)に用い
た亀甲(きっこう)・獣骨上に小刀をもって刻みつけられた「甲骨文字」(亀甲獣骨文字、
殷墟(いんきょ)文字、卜辞(ぼくじ)、殷墟書契(しょけい)、契文などともいう)が書かれ
る。[以後、BC1150 頃第 30 代末王帝辛(しん)(紂(ちゅう))の頃まで用いられ、後世
に知られる最古の漢字となる。1899 年に殷の都址(とし)であった河南省安陽県小屯(し
ようとん)村を中心に出土し、出土総数 10 万片を超える。文字数は約 2200 字が知られ、
半数以上が解読される。別に 1977 年以降 、陝西(せんせい)省岐山県近くの周原において 、
殷代末期に周族によって占卜された有字甲骨が発見される。]
BC1400.○【パレスチナ】この頃、カナン地方で、文字体系が完成する。文字数は 27 ∼ 30
で、文字を書く方向は右から左、左から右、あるいは行ごとに交互に書く牛耕式(ブスト
ロフェドン)などまちまちで 、縦書きも行われる。
[以後、アルファベットのもととなる。
]
BC1400. ○【シリア】この頃、北西シリア沿岸に位置する都市国家ウガリトが最盛期を
迎える。ウガリト語を書き留めるための楔形文字によるアルファベットが発明される。
ウガリトの書記はこれまで知られていた楔形文字の中からつくられた 30 字を用いて、1
字で 1 語ないし 1 音節を表すのでなく、1 字で一つの音価を表す表音文字として用いる
という発明をする。これまでメソポタミアで使用されてきた 500 種類以上もの複雑な楔
形文字を一新し、文字革命、言語革命が起こる。
[以後、ウガリトは海上貿易で栄える。
BC1200 頃、「海の民」の襲来により、混乱の中で滅亡する。
]
BC1400. ○【エジプト】この頃、底に穴をあけた容器の内側に目盛を刻み、中に入れた
水の水面の高さから時刻を知る「水時計」が作られる。[現存している。]
BC 1300
BC1300. ○【エジプト】パピルスに描かれたヌビア地方の金山の地図が作られる。
BC 1280
BC1280.○【イスラエル】この頃、イスラエル民族が、モーセ(モーゼ、モイゼ)Moses に
率いられてエジプトから脱出し、シナイ砂漠をさまよう。[ BC1240 ころ、シナイ山にお
いて神ヤーウェとの契約関係に入り、ヤーウェの民になる。シナイ山における契約に際
して、モーセは神からイスラエルの民が守るべき「十戒」を授かる。それ以前はヘブル
人とよばれる、小家畜を飼育する諸部族の集合にすぎなかったが、ヤーウェ宗教の受容
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によって、一つの民族としての自覚をもつに至る。以後、この「エクソダス(脱出)」を
記念して、ユダヤ教で「過越(すぎこし)の祭」が行われる。]
BC
1230
BC1230. ○【イスラエル】この頃、モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエ
ル人が、まずエリコを占領し、ここを拠点としてエルサレムを占領する。
BC 1200
BC1200.○【インド】この頃、インド最古の聖典『ベーダ(ヴェーダ)Veda』の一つ『リ
グ・ベーダ』のサンヒター(本集(ほんじゆう) )が成立する。[以後、ウパニシャッド(奥
義書(おくぎしょ))などがつくられる。 BC500 年を中心として『リグ・ベーダ』、
『サー
マ・ベーダ』
、
『ヤジュル・ベーダ』
。『アタルバ・ベーダ』の 4 つがつくられる。]
BC1200.○【イラン】この頃、古代ペルシアの宗教家・思想家ゾロアスター Zoroaster(ペ
ルシア語でザラスシュトラ Zarathushtra)が、30 歳でアフラ・マズダーによる啓示を受け、
倫理性を尊ぶと同時にきわめて楽観的な新宗教(のちにゾロアスター教とよばれる)を
開く。[以後、故郷では受け入れられなかったので、40 歳で伝道の旅に出、2 年後、東北
イランのバルフ地方を支配していたウイシュタースパ王の改宗に成功して、この信仰を
広める契機をつくる。最初の結婚による娘を王の宰相ジャーマスパに嫁がせ、自らもジ
ャーマスパの姪(めい)を 3 度目の妻として迎えて地歩を固める。77 歳まで信仰の発展に
尽くすが、対立部族の手によって暗殺される。]
BC1200. ○【地中海】エーゲ海から地中海東部一帯を、大火災が襲う。ミケーネ文明が
崩壊する。
[以後、多くのギリシア人は、キプロス島をはじめ各地に移住する。
]
BC1200.○【アメリカ】この頃、現ニューハンプシャー州ノースセイラムに、22 個から
なる巨石建造物が造られる。現存するアメリカ最大の巨石建造物となる。
BC1200.○【中部アメリカ】メソアメリカでピラミッドが建造される 。
[1521 年、スペイ
ン人に征服されるまでつくられる 。
]
BC
1027
BC1027. ○【中国】周が殷を滅ぼし、封建制度を確立する。父系血族の生命一体感の思
想に基づいて、同性の男女は結婚してはならないとする「同性不婚」の結婚規範を制定
する。ここでいう「姓」とは「宗」と同様に、共通の祖先から分かれた父系血族の家系
名をいう。世継ぎの男子がいない場合は、同姓の男子を養子とし、異姓の男子を養子と
することを禁じる。娘は父の子であるから、父の姓を名のり、結婚後も姓を変えること
は許されない。[のち、
『左氏伝』(春秋左氏伝)には 、
〈男女同姓、其生不繁〉と書かれ、
同姓の男女が結婚すると、繁殖率が低下して子が産まれにくいと述べている。以後、「夫
婦別姓」の制が確立し、現代まで守られる。この制は韓国にも波及する。]
BC
1010
BC1010. ○【イスラエル】この頃、ダビデがイスラエル王になる。
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BC
1000
BC1000. ○【日本】女性像の土偶の制作が減少する。陰茎を象った大型石棒が再び住居
外に多く立てられる。特に、多数の石を円形に配置した中央部に石棒を立てることが多
くなる。[のちに「配石遺構」と呼ばれる。]
BC1000. ○【イラク】この頃、バビロニアとアッシリア帝国の言語アカド語が消滅し始
める 。
[以後、加速度的に消滅が広がる。
]
BC1000. ○【シリア】この頃まで、アラム人が、自分たちの言語である西セム語を、フ
ェニキア文字を使用する。
[BC700 ころ、独自のアラムカ文字に発展させる。
]
BC 955
BC955. ○【イスラエル】この頃、ダビデの子ソロモンがイスラエル王となる。古代イス
ラエル王国の全盛時代が到来する。壮大な宮殿を建造し、かつてダビデの設けたイスラ
エルの神の祭壇の前に神殿を造営する。町の周囲には城壁を築き、増加した住民もそこ
に居住するようになる。
BC 931
BC931.○【イスラエル】ソロモンの没後、反乱が起こり、イスラエル王国が、北の 10
部族のイスラエル王国と南の 2 部族のユダ王国に分裂する。エルサレムはユダ王国の首
都となる。
BC 900
BC900. ○【イスラエル】この頃、ヘブライ語の農業暦がつくられる。
BC 850
BC850.○【シリア】この頃、バビロン(アッシリア)の女王セミラミス Semiramis が、男
の奴隷を去勢する。
BC
820
BC820. ○【イスラエル】この頃、牡牛(おうし)を信奉する土俗的なバール神の信仰がひ
ろまり、このバール信仰にユダヤ教が融合しそうになる。予言者エリアはバール信仰と
ヤハウェ信仰の混淆に反対し、十戒の唯一神信仰を主張する。バール信仰者たちの殺害
が始まる。[のち、アメリカの神話学者ジョセフ・キャンベルは、この頃から行われた異
信仰者に対する殺害の習慣が、以後の「戦争の原型」をつくった、と唱える。]
BC 813
BC813. ○【イスラエル】ユダ王ユアシと司祭エホダヤが、バール信仰の根絶とヤハウェ
神殿の復活を図る。
BC 800
BC00.○【バビロニア】この頃、楽譜が古代バビロニアの粘土板に楔形(くさびがた)文
- 27 -
字で刻まれる。[現存する最古の楽譜とされ、東ベルリン国立美術館に収蔵される。まだ
解読されていない。]
BC
778
BC778.○【ギリシア】4 大祭典の一つ、聖地オリュンピアのゼウス神を祭るためのオリ
ンピア競技の祭典が行われる。競技がおこなわれる年の初めには、国内全土に使者がお
くられ、オリンピック休戦をふれまわり、ゼウスに貢ぎ物をおさめるよう各ポリスによ
びかける。また、ギリシアの各都市が、オリンピックの知らせを各地に運ぶためにハト
を用意して、競技の勝者の速報に利用する。ポリスは、りっぱな装具と才能にめぐまれ
た選手と、見物人を送り込む。選手は、ギリシア人の自由市民の男子にかぎられ、女性
は見物もできない。[以後、この年の開催が記録上古代オリンピック競技の最も古い開催
となる。前 5 ∼前 4 世紀にもっともさかえる。393 年、第 293 回を最後に、翌年幕をと
じる。]
BC 771
BC771. ○【中国】周の幽王が、犬戎(けんじゅう)の侵攻で殺害される。都を鎬京から洛
邑に移す。東周時代(∼ BC256)、春秋時代(∼ BC403)が始まる。この頃、同性愛が流行
する。
BC
750
BC750. ○【インド】この頃、整形手術が、刑罰で鼻をそがれた罪人のために行われる。
BC750.○【ギリシア】この頃、ホメロス Homeros が、古代ギリシアの英雄叙事詩『イリ
アス lias 』をまとめる。全編 1 万 5693 行で、10 年にわたるトロヤ攻防戦も終末に近い
ころの、約 50 日間のできごとを構成する。題名は「イリオスの歌」の意で、イリオスは
トロヤの別称である。[ BC3 世紀ころ 24 巻(ギリシア語アルファベット 24 字で順序を示
す)に分けられる。]
BC
711
BC711. 1. 1【日本】神話上の初代の天皇、神武天皇が誕生する。[BC660 (辛酉の年) 初
代天皇に即位する。BC585.3.11(神武天皇 76 年) 127 歳で没したとされる。]
BC 700
BC700. ○【シリア】この頃まで、アラム人が、アラム語を表記するための独自のアラム
カ文字を発達させる。[以後、アラム語が、ペルシャ帝国の公用語としてアナトリア、
レヴァント、エジプト、メソポタミアでも話されて、アラムカ文字が広く使用される。
アラム文字を継承して、ヘブライ語の活字体とその変種である草書体が作られる。]
BC700. ○【ギリシア】この頃、リュクルゴスが、ギリシア中部のパルナッソス山の南麓
にあるアポロンの聖地デルフォイからの「レトラ(おきて)」をもたらしてスパルタの政
治・社会体制をつくりあげる。[以後、デルフォイの神託は、単なる地方的なものでは
なく、非常に重要視されるようになり、その名声はギリシア人の範囲を越え、リュディ
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アやエジプトを含むオリエント諸国にまでひろがる。]
BC700.○【ギリシア】この頃、ホメロス Homeros が、古代ギリシアの英雄叙事詩『オデ
ュッセイア Odysseia』をまとめる。題名は「オデュッセウスの歌」の意で、全編 1 万 2000
行弱、トロヤ落城後、さらに 10 年にわたって各地を放浪した英雄オデュッセウスを主人
公とした冒険談を構成する。
〔BC3 世紀ころ 24 巻(ギリシア語アルファベット 24 字で順
序を示す)に分けられる。
『イリアス』と『オデュッセイア』の両作品が同一作者(ホメ
ロス)ではないとする見解のほうが優勢である。ただし、同一作者である可能性も残っ
ている。]
BC700. 【ローマ】この頃、エトルリア文字の象牙板文字表が作られる。22 文字から成
る初期ギリシア・アルファベットに補足文字 Y,Φ,Χ,Ψ を加えた 26 個の「原エト
ルリア文字」が書かれている。字形も初期ギリシアのものとほとんど似ている。この文
字表がエトルリア文字の現存する最古の資料となる 。
[以後、ローマ人に採用されたら
しい。BC4 世紀以後、エトルリア語の特徴に合わせて変えられる。]
BC 668
BC668.○【西アジア】アッシュールバニパル王が即位する。[在位∼ BC627。19 世紀の
半ば、アッシリアのニネベの王宮跡が発掘され、楔形文字が記された大量の粘土板文書
が出土する。いわゆるアッシュールバニパル王の図書館と呼ばれるものである。図書館
は神殿や宮殿の中に位置し、コレクションには、当時の日常生活とりわけ商取引と宗教
関係の記録や英雄物語が含まれている。粘土板は、エジプトなどが利用したパピルスと
は対照的に、持ち運びには不便だが、滅びにくい素材である。]
BC 650
BC650. ○【ギリシア】この頃、パルナッソス山の南麓にあるアポロンの聖地デルフォイ
(デルフィ)(Delphoi )が、ギリシア人の植民が盛んになって、非常に重要視されるように
なる。[以後、その名声はギリシア人の範囲を越え、リュディアやエジプトを含むオリ
エント諸国にまでひろがる。神託の方法については、この神域にあった大地の割れ目の
上に青銅の鼎(かなえ)をわたし、その上に巫女(みこ)ピュティア pythia が座って地底か
ら立ちのぼる霊気を吸い、忘我の状態になって神の言葉を発し、かたわらの神官がそれ
を韻文に直して質問者に与えたと伝えられる。392 年、テオドシウス帝が異教崇拝の禁
止令を発するにいたり、デルフォイはその歴史を閉じる。1891 年ころ、フランスの考古
学者の手により、デルフォイの本格的な発掘調査が始まる。その結果、大規模なドリス
式のアポロン神殿や大小 20 以上の宝庫をはじめ、ディオニュソスの小神殿、評議会場、
劇場、柱廊、祭壇、多数の彫像台座などの跡が明らかになる。神域の外には、走路 180m
の競技場、アテナ・プロナイアの神殿や円形堂、カスタリアの泉などの遺跡がある。
]
BC650.○【イタリア】この頃、ナポリの南方のサレルノにベネディクト派の僧院が建つ。
[以後、気候もよかったことなどから、保養地として有名になる。11 世紀ごろから医学
センタとして知られるようになる。]
BC
610
- 29 -
BC610.○【中国】この頃、唐で印仏が作られる。像高 10cm 前後で,小型のものは 1 紙
に数十体をくり返し捺している。[のち、敦煌等から遺品として発見される。]
BC610.○【インド】この頃、印仏が作られる。[以後、 7 世紀末の文献上で、印仏に関す
る記録が初見される。]
BC
600
BC600. ○【ギリシア】ミレトスの哲学者タレスが、摩擦による静電気や天然の永久磁石
について観察し、琥珀(コハク)を摩擦すると、琥珀が軽い物体を吸引する現象が知られ
る。ギリシア語で琥珀はエレクトロンと呼ばれる。[ BC300 ころ、ギリシアの哲学者テ
オプラストスは、この力が帯電しているものとは別の物質によると主張する。のちに、
ギリシア語のレクトロンが、電気( electricity)、電子( electron)の語源になる。]
BC 597
BC597. ○【イスラエル】新バビロニアの王ネブカドネザルが、エルサレムを攻撃し、王
や住民をバビロンに送る。[以後 、
「第一次バビロン捕囚」と言われる。BC586 年、ユダ
王国を滅亡させて、
「第二次捕囚」とする。]
BC 594
BC594.○【ギリシア】BC600 年ころサラミス島の領有をめぐるメガラとの争いに市民を
激励して名声を得たソロン Sol ロn( BC 前 640?∼ BC560)が、アルコン(執政官)兼調停者
に選ばれる。貧富の懸隔から危機に直面していたアテナイで、危機克服のための大改革
を断行する。貧民を少数の金持ちの隷属状態に陥れた借財の一切帳消しを断行するなど
数々の大胆な改革を行う。また、アテナイに初めて公共娼家を設ける。そこに属する売
春婦たちは、それとわかる服装を強制され、他の街区への移動や宗教儀礼への参加を禁
じられる。[以後、市民は貴族、平民双方ともそれに満足しない。ソロンは任期を終えて
から旅に出て、エジプト,キプロス島などを歴訪する。]
BC
586
BC586. ○【イスラエル】新バビロニアの王ネブカドネザルが、ユダ王国を滅亡させて、
王や住民をバビロンに送る。[以後、「第二次バビロン捕囚」と言われる。この頃、預言
者たちが「バビロンの捕囚」を迎えると、苦難に陥った民族を励まし、苦難が将来の生
活にもつ積極的な意味づけを語る 。これが『エゼキエル書 』や『イザヤ書』の第 40 ∼ 66
章となる。『イザヤ書』の第 53 章の「主のしもべのうた」では、きたるべきイエスの出
現を「預言」したことばとなる。]
BC
585
BC585. 5.28【ギリシア】タレス Thal □ s(39?)が、この日起こった日食を予言する。彼は
七賢人の筆頭にあげられる多才な人物であり、1 年を 365 日に分け、1 か月を 30 日と定
めたりしたとも伝えられる。また、万物の元のもの(アルケー)は水であり、大地は水
の上に浮かんでいると考えたという。科学的一元論の先駆けとなる。[以後、ここからデ
- 30 -
モクリトスの「原子論」などが生まれる。]
BC 582
BC582. 1.−【日本】(神武天皇 29 年)神話上の第 2 代天皇、綏靖(すいぜい)天皇が即位
する。[∼ BC549.5.10。欠史八代の 1 人で、実在しないと考えられている。一方、実在
するとする説もある。]
BC 565
BC565.○【ネパール】この頃、ブッダ Buddha (釈迦)が、非アーリア系釈迦族の国王、浄
飯王(じょうばんのう)の長子として生まれる。姓はゴータマ Gotama, Gautama(瞿曇(く
どん)と音写)、名はシッダッタ Siddhattha 、シッダールタ Siddh ■ rtha(悉達多(しっだる
た)と音写)。[以後、反バラモンを標榜する仏教を興す。別説では、BC463 ころの誕生
という。BC486 頃没。「仏陀(ぶっだ)」はサンスクリット語のブッダの音写。仏(ぶつ)、
「ほとけ」ともいう。Buddha は budh (目覚める)を語源とし 、
「目覚めた人」
「覚者」
、
すなわち「真理、本質、実相を悟った人」を表す。もとは普通名詞であり、仏教と同時
代のジャイナ教でも用いられる。ゴータマ・シッダールタはその 1 人で、のちゴータマ・
ブッダとなり、それが仏教を創始した釈迦(しやか)にほかならない。中国では「浮図(ふ
と)」などと音写し、それが日本に「ふと」として伝わり、これに「け」が加わって、や
がて「ほとけ」となる。「仏」は仏陀の略ではなく、伝来の過程で Buddha が Bud となっ
たものと推定される。唐以降は仏陀の音写が広まる。]
BC
560
BC560. ○【トルコ】リュディア王国最後の王クロイソスが即位する。世界初の金貨を造
らせる。[∼ BC546。世界初の金貨を造らせたのは、クロイソスより約 100 年前のリュ
ディア王国の王ギュゲスだったとの説もある。その金貨は金 73 %、銀 27 %だったとい
う。のちにクロイソス Croesus の名は、英語で「富豪」
「大金持」を意味するようになる。]
BC
550
BC550.○【イラン】アケメネス家のキロス大王(キュロスⅡ世、在位 BC559 ∼ BC529)が、
メディア王国の首都エクバタナを陥れ、西アジア一帯を征服してアケメネス朝ペルシャ
大帝国を建設する。[以後、その広大な領域を統治するため、全土にわたって街道を開き、
街道に沿って、1 日行程ごとに宿場( angara)を設ける。ここに継立ての要員と馬匹とを配
置して、緊急の連絡に供し、アンガレイオン(angareion)とよばれる駅伝制度を整備する。
これにより大王の命令はただちに地方の隅々に伝わり、地方の状況もいち早く大王のも
とに達するようになる。大王のための使者は、命令あるいは報告を携えて、宿場から宿
場へと継送し、普通の旅行者が 3 ヵ月を要する行程を、彼らは 7 日間で走り継いだとい
う。こうして駅伝は大王の統治のために活用される。以後、このような駅伝制度を、ロ
ーマ帝国も採用する。]
BC550.○【イスラエル】この頃、エズラ Ezra が、ネヘミヤもともに、ユダヤ民族のバビ
ロン捕囚(前 587 ∼前 538)後のユダヤ教の発展に指導的な役割を果たす。宗教改革は徹
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底的な律法の遵守を要求し、異教徒との雑婚の禁止する。[以後、ユダヤ教の律法第一主
義と民族の純血を基盤にした選民観に道を開く BC250 ころ、
「エズラ記 The Book o f Ezra」
がまとめられ、
『旧約聖書』中の一書となる。]
BC550. ○【ギリシア】この頃、風向の観察が行われる。
BC
540
BC540.○【ギリシア】この頃、アナクシマンドロス Anaximandros( BC610 ころ∼ BC547
ころ)が、大地は円筒状であって世界の中央に位置しているという、世界の成り立ちを描
き出す。万物のもとのもの(アルケー)は無限定なもの「ト・アペイロン」であり、この神
的で不滅なアペイロンから、まず暖かいものと冷たいもの、乾いたものと湿ったもの、
といった性質の対立するものが分かれ、そして、争い合うこの対立するものから地水火
風が生じ、さらに星辰(せいしん)や生物が生じるが、これらは掟(おきて)に従い、やが
て争いの罪をあがなって死滅し、アペイロンへ戻るという。
BC540.○【ギリシア】この頃、ヘラクレイトス Herakleitos が、小アジアのイオニア地方
の町エフェソスの王家に生まれる。[以後、成人になるにつれ、高邁(こうまい)であるが
傲岸(ごうがん)となり、同時代のエフェソス市民をはじめホメロス、ヘシオドス、ピタ
ゴラス、クセノファネスといった詩人や哲学者を痛罵(つうば)する。哲学的著作『ペリ・
フュセオース(自然について)』は、宇宙、政治、神を扱う 3 部に分かれていたらしいが、
散逸して断片ばかりが残る。宇宙には相反するものの争覇があって、あらゆるものはこ
うした争覇から生じる。したがって、「戦いは万物の父、万物の王」であると唱える。
しかし、こうした争覇のうちに秘められた調和 、
「反発的調和 」(パリントロポス・ハル
モニエー)をみいだすことができる。これが世界を支配するロゴス(理法)であって、こ
うしたロゴスの象徴として火が想定される。火は転化して水となり、水は土となる(下
り道)
。土は水となり、そして水は火に還(かえ)る(上り道)が、
「上り道も下り道も一つ
であって同じものである 」
。2 つの道は相反しているものの、全体としては調和が保たれ
ており、この世界は〈つねに活(い)きる火としてほどよく燃えながら 、いつもあったし 、
あるし、あるであろう〉と説く。こうした思想を、彼は短い箴言(しんげん)風の文体で
書きつづける、それは晦渋(かいじゅう)を極め、「闇の人」とか「謎をかける人」とい
ったあだ名を与えられる。]
BC 508
BC508.○【中国】孔子( 43 )が、定公の即位にもない斉から魯に帰る。このころから子路
(しろ)、閔子騫(びんしけん)らの弟子が集まり、孔子の名声が高まる。
BC 500
BC500.○【インド】インドに進入してきたインド・アーリア人が、進入時からおよそ 1000
年を経て、『リグ・ベーダ』をはじめ、ブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッドを
含む膨大な根本聖典ベーダを編纂する。
BC500.○【インド】この頃、マハービーラ Mah □ v □ ra(「偉大な英雄」を意味する尊
称。本名はバルダマーナ)が、12 年間裸体を守り、厳しい苦行を続けた結果、完全な智
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慧を体得してジナ(「勝利者」の意)となり、ジャイナ教(「ジナの教え」の意味)を確
立する。[以後、30 年間遍歴しつつ教えを説き広め、72 歳でパータリプトラ(のち、パ
トナ)市近郊のパーバー村で生涯を閉じる。その後仏教とともに、非正統バラモン教思
想を代表する宗教に成長し、現代に至るまでインド社会のなかでさまざまな形で影響を
与え続ける。]
BC500.○【ギリシア】この頃、ピタゴラス Pythagoras( BC570 ころ∼ BC496 ころ)が、ク
ロトンにおいて、オルフェウス教の流れをくむ一つの教団を組織する。その教義は、魂
の不滅、輪廻(りんね)、死後の応報にあり、魂の浄化、救済を重視し、団員はピタゴラ
スを頂点に緊密に団結し、内部にあってはさまざまな戒律の下に禁欲的、厳格な生活を
送り、外部に対してはきわめて排他的に振る舞う。また財産の共有を原則とし、それを
教団内の学問研究の結果にも適用する。この教義を追究するための補助的なものとして
音楽、数学、天文学、医学を研究する。合理性のなかにときとして神秘性が混在する。
たとえば、奇数は男性、偶数は女性とみなし、男性数 3 と女性数 2 の和である 5 は結婚
を象徴する数とする。また、ピタゴラスは。弦の長さと音の高さが比例関係にあり、弦
の長さの比が整数比のときに、それらの音は心地よい響きをつくることを発見し、こう
した響きを協和音と名付ける。[以後、ピタゴラスおよびその学派は、万物の根源を「数」
だとする 。〈直角三角形の斜辺の平方は他の二辺のそれぞれの平方の和に等しい〉とす
る「ピタゴラスの定理」は、ピタゴラス自身か、その門人によって発見されるが、その
厳密な証明は、後のユークリッドによってなされる。この定理の発見は、正方形の一辺
とその対角線との関係が 1 :√ 2 という、正数だけを数とみなすこの学派では認めがた
いものをみつけたことで、この学派に難問をもたらす。さらにこういった数は、正五角
形の作図の際に使う中外比(黄金分割)の場合にも現れるので、彼らは、こうした「口に
できない数」を無理数( alogos )とよび、この秘密を学派外に口外しないようにする。ま
た、ピタゴラス音律は中世まで音律論の基礎となる。]
BC500.○【ギリシア】この頃、ミレトスの歴史家ヘカタイオス Hekataios が、ペルシア、
エジプトなどを広く旅行する。
[以後、直接の見聞を散文(イオニア方言)で書き、地誌、
風俗・習慣の記録、奇異な物語などを数多く残す。代表的なものは『世界周航記』で、エ
ウロペ(ヨーロッパ)とアシエ(アジア)の 2 部に分け、後者にはエジプトとリビアを含ま
せる。この著作でヘカタイオスは「地理学の祖」といわれるようになるが、この書は失
われ、その約 300 の逸文がビュザンティオンのステファノスによる『エトニカ』に残さ
れているにすぎない。冒頭に〈ミレトスのヘカタイオスかく言う、ギリシア人の物語は
多いが笑うべきことがらである。私がこれから述べるのは真実である〉と記し、真実へ
の関心を示す。また著作の断片が多数残されるが、後世の偽作もあると考えられる。『世
界周航記』はまた世界地図をも意味しており、彼が世界地図を描いた可能性も大きいと
考えられる。ヘロドトスの『歴史』巻 5、49 節中にみられるミレトスの僭主がスパルタ
王に示した銅板に彫られた世界図も彼によるものと推定される 。
]
BC
497
BC497.○【中国】孔子( 54 )が、三桓の勢力を削減しようと謀るが、露顕して失敗する。
[以後、14 年間、自分の理想の政治を実施してくれる君主を探し求めて、曹(そう)(山
- 33 -
東省 )
、衛、宋(そう)、鄭(てい)、陳(ちん)、蔡(さい)(以上河南省)
、楚(そ)(湖北省 )
の諸国を流浪する。どこへ行っても採用されず、ときには人違いで殺されかけたり、飢
えたりする。BC482 年、69 歳で魯に帰り、政界に望みを絶ち、弟子の教育に専念する。
弟子の数は 3000 人にのぼる。BC479 年に死去。その後、孔子の弟子の弟子(孫弟子)た
ちが、それまでに書き留められていた師匠の語を論纂(さん)して『論語』10 巻 20 篇を
まとめる。]
BC 490
BC490. 9.12【ギリシア】ペルシアに対して勝利したという知らせを伝えるため、ギリシ
アの兵士フェイデピデスが、マラトンの町からアテネまでの約 40km 弱の道のりを走り 、
〈我が軍勝利す〉と告げ、絶命する。[以後、「マラトンの戦い」として伝説となり、長
距離走行競技を「マラソン」と呼ぶようになる。19 世紀、ドイツの学者が歴史家ヘロド
トスの詳細な月などの記録をもとに 9 月 12 日と計算し、定説となる。1896 年、この伝
説にちなみ、第 1 回アテネ・オリンピックで「マラソン」が行なわれる。1908 年、ロン
ドン・オリンピックのマラソンコースは、ウィンザー城とロンドン市内のオリンピック
競技場間の 42.195km とする。1924 年、パリ・オリンピックから 42.195km をマラソンの
正式な距離として採用する。以後、マラソン競技は、レースごとにコースが異なるため
に、男子・女子ともに世界記録としては公認されず、世界最高記録とよばれる。2004.7
テキサス州立大学の天文学者らが、これまで考えられていた 9 月 12 日より 1 カ月早い 8
月 12 日だったという新説を、天文誌 8 月号に発表する。]
BC490.○【ギリシア】この頃、カルタゴの提督、探検家、航海家ハンノ Hanno が、貿易
市場の開拓と植民地建設を目的に、50 櫂船(50 人漕ぎの船) 60 隻に約 3 万人の男女と食
糧を乗せた船団を指揮して西アフリカに向かう。[以後、カメルーンにまで達したとい
われる。もっと南のガボンにまで達したとする説もある。ハンノは植民地建設の目的を
達成すし、航海記録をカルタゴの神殿に刻む。びっしり毛が生えた野生人間「ゴリラ」
とか、カメルーンの火山の爆発で灼熱の川が海に注ぎ火柱が星まで届くように見えたな
どという記述が、人々の想像をかきたてる。以後、カルタゴ人とギリシア人は、新しい
土地を発見し入植しようと、たびたび偵察隊を送り出すが、ハンノに続く大航海家は約
2000 年後のポルトガル人航海家まで現れない。前 1 世紀、ギリシア人がそれを翻訳して
残し、このギリシア語訳だけが後世に知られる。しかし、記録中の地名の多くが比定困
難であることをはじめ、いくつかの理由をあげてこの記録に信憑(しんぴょう)性を認め
ない学者もある。
]
BC 486
BC486.11.−【イラン】アケメネス朝ペルシアの王ダリウスⅠ世 Darius I(ダレイオスⅠ世
Dareios I)( BC550 ?∼ BC486 )が死去する。BC522 年即位以来、キロスⅡ世が創設した帝
国を、版図、行政機構などほとんどすべての面で完成させた。徴税のために、全土に均
一の度量衡を定め、金銀複本位制に基づく貨幣制度を採用して金貨を鋳造し、貨幣の使
用を普及させた。広大な領土の連絡を保つために道路網を整備し、駅伝制を定めた。新
種の植物栽培を奨励し、農業経済の向上を図った。パサルガダエから移した新首都ペル
- 34 -
セポリス、スーサの宮殿、ナイル川と紅海を結ぶ運河などの土木工事を行う。アッカド
語、エラム語および従来のものを改良した楔(くさび)形文字による古代ペルシア語の碑
文を多数残す。
BC486.○【インド 】この頃 、仏教の創始者、釈迦(しゃか)ことゴータマ・ブッダ(80)が、
北インドのクシナガラで没する。生前、バラモンが神に供える生贄を殺生と非難して不
殺生を説き、階級や男女を差別する垣根を取り払って仏教教団の問をすべての人に開放
した。そして、人々がこの世において涅槃(ねはん)に入ることを仏教の最大の目標とし
た。また、生殖は男女が平等に寄与して行うもので、男の要素と女の要素が混じり合っ
て子供ができるとした。[以後、7 日目に遺骨が 8 分されて、生前に縁のあった王や貴族
たちに与えられる。BC280 ころ、仏教教団が拡大し固定していく。その過程で、上座部
と大衆部が分裂する。BC268 ころ、マウリヤ朝のアショーカ王が即位(∼ BC233)し、こ
のころ、仏教が全インドに広まる。仏教、スリランカにも伝わる。BC200 ころ、部派の
細分裂が進み、部派仏教に入る。経蔵・律蔵がほぼ確定し、論蔵も成立する。存家信者
を中心に仏塔崇拝が広まる。BC160 ころ、バクトリア王ミリンダ(メナンドロス)が、仏
教を保護する 。
『ミリンダ王の問い(那先比丘経)』が成る。 BC150 ころ、説一切有部が
確立する。BC120 ころ 、サーンチーの大塔が建立される。紀元前後、大乗仏教が始まる。
このころ、大乗仏教経典『般若経』、その後『法華経 』、『華厳経』などの原形が成立す
る。このころ、中国に仏教が伝わる。67 年、中国最初の仏寺、白馬寺が建立される。372
年、仏教が高句麗に伝わる。384 年、百済に伝わる。415 年ころ、仏音(ブッダゴーサ)が
スリランカにきて活躍し、スリランカに仏教が栄える。538(宣化 3)年、百済より日本に
伝来する(別説は 552 年(欽明 13 ))。
BC 477
BC477. ○【インド】この頃、マガダ国の都ラージャグリハラ(王舎城)の城外の七葉窟(精
舎(しようじや))で、初めて仏典結集(ぶってんけつじゅう)が行われる。もっぱらブッダ
の弟子たちの暗唱によって記憶されているブッダの教えが、戒律の緩みや自由勝手な解
釈が生まれる危険性が認識され、これを防ぎ、出家修行者(比丘(びく))の守るべき戒律
を確認するため、弟子の一人、マハーカーシャバが召集をかけ、500 人の比丘が参加す
る。た。ウパーリが、記憶をたどってブッダの教えを朗読し、それを参加者一同が確認
したのち、全員で合誦(がっしょう)する。[500 人が参加したので「500 結集 」と呼ばれ 、
のちに何回かの結集が行われたので、この結集が第 1 回仏典結集とされる。BC377 頃、
第 2 回仏典結集が行われる。
「結集(けつじゅう)」は、一般に仏教における聖典編集のた
めの集会をいい、パーリ語のサンギーティ sam.g □ ti(「合誦(ごうじゅ)」の意)または
サンガハ sam.gaha(「集成(しゅうせい)」の意)の訳語である。今 20 世紀までに前後 6 回
開催されるが、その内容は時代とともに変化し、また南方の伝承と北方の伝承とでは食
い違いがあり、かつその歴史性が学者によって問題とされる場合もある。]
BC477. ○【インド】この頃、ジャイナ教の創設者マハービーラ(本名バルダマーナ(「繁
栄をもたらす者」の意))( 72 )が、パータリプトラ(のち、パトナ)近郊のパーバー村にお
いて世を去る。30 歳で出家し、ニガンタ派とよばれる修行者の群れに身を投じて、12 年
に及ぶ厳しい苦行ののち、ケーバラ・ジュニャーナ(完全知)を体得してジナ(勝利者)とな
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り、
「ジナの教え」を意味するジャイナ教を創設する。その後 30 年間教えを説き広めな
がら 、遍歴の旅を続け、アヒンサー(生きものを傷つけないこと、不殺生(ふせつしよう))
の誓戒を柱とする厳格な禁欲主義を説いた。[以後、永く信仰される。仏典にも、この頃
の代表的な 6 人の自由思想家(六師外道(ろくしげどう))のなかに、ニガンタ・ナータプ
ッタ、すなわち「ニガンタ派のジュニャートリ族出身者」として記録される。]
BC 458
BC458.○【ギリシア】アイスキロス(アイスキュロス)の悲劇『オレステイア(Oresteia )』
が上演される。母クリタイムネストラとその情夫アイギストスに父アガメムノンを殺さ
れた王子オレステスが、アポロン神からの命令で母たちを殺して父の仇(あだ)を討つ物
語を中心にしていて 、『アガメムノン』、『コエフォロイ(供養する女たち) 』、『エウメニ
デス(慈(めぐ)みの女神たち)』の 3 部よりなる。劇中、アポロンが〈母は親にあらず〉
と語り、有名になる。裁判で〈子の親は父であり、母は宿った種を育てる者に過ぎない。
母は子の親でないから、オレステスの行為は親殺しに当たらない〉と主張し、女神アテ
ネの一票によってオレステスは有罪を免れ、救済される。[以後、ギリシア悲劇三部作と
しては唯一の残在作品となる。]
BC 445
BC445.○【ギリシア】この頃、歴史家ヘロドトス H ^ rodotos(?) が、ペリクレスの活
躍するアテナイを訪れ、ペルシア戦争史の一こまを演説して人気を博す。アテナイは多
額の金を贈って感謝したと伝えられる。
[BC443 アテナイが南イタリアのトゥリオイ市
を建設する際にそれに参加して同市の市民となる。BC430 年の少し後、没したらしい。
この間、ミレトスのヘカタイオスのように直接の見聞を求めて東方世界を広く旅行し、
古代ギリシア最大の旅行家となる。その足跡は黒海北岸からフェニキア諸市やバビロン
を経てエジプト、さらにナイル川をさかのぼってエレファンティネ、アフリカ北岸のキ
ュレネに及ぶ。そして各地の地誌、風土、風俗や歴史物語を、独自の観点からペルシア
戦争において頂点に達した東西抗争という巨大な物語の中に統一的に流しこみ 、
『歴史』
全 9 巻として残す。初めて世界の全体像を示した地誌となり、またこの時代の世界史と
もなる。また、彼は前代の世界地図でオケアノス(大洋)が大地を円形に囲繞しているこ
と,カスピ海がオケアノスから湾入していること、またエジプトがナイル川によりアジ
アとリビアに二分されるという通説等を批判するが、なお大地が平板状であると考えて
いる。 ]
BC 431
BC431. ○【ギリシア】アテネとスパルタの両陣営の間にペロポネソス戦争が始まる。こ
の頃、暗号が使用される。スパルタの将軍リュサンドロスが出先の司令官との連絡にス
キュターレ(scytale)という 1 本の棒を使用する暗号を用いたとプルタルコスの『英雄伝』
に記される。[BC404 ペロポネソス戦争が終結する。]
BC
430
- 36 -
BC430. ○【ギリシア】トゥキュディデスが、アテナイで起こった疫病流行を記録し、す
でに伝染病を耐過するとそれに再びかからないと書く。免疫についての最初の記録とな
る。[∼ BC429 ]
BC 425
BC425.○【ギリシア】この頃までに、ヘロドトスHロ rodotos( BC484?∼ BC425?)の『歴
史 Historiai』が公刊されている。イオニア方言で書かれ、冒頭には、ギリシア人とバル
バロイ(非ギリシア人)によってなしとげられた驚くべき事跡が時とともに忘れ去られる
ことがないようにこれを書き記す 、ということが著者自身の名において宣言されている。
第 1 巻 199 節によれば、バビロンの女のすべてはミュリッタ Mylitta (ギリシアのアフロ
ディテに相当する地母神)の神殿内で、一生に一度必ず見知らぬ男と交わらなければなら
ず、その金額はいくらでもよく、どんな男でも拒まれることはなかったという。同様の
風俗はキプロスにもあると記されている。[後に『歴史』はアレクサンドリアの学者によ
って 9 巻に分けられる。]
BC 427
BC427.○【ギリシア】シチリア島のレオンティノイの人ゴルギアス Gorgias(BC500 か 484
∼ BC391 か 375)が、軍事援助要請のための全権大使としてアテナイを訪れ、その雄弁
によって使命を成功させる。[以後、弁論術への大きな関心を呼び起こす。この頃からソ
フィストとして活動を始め、弁論術中心の教授法によってギリシア全土に名声を博す。
その理念と方法は、イソクラテスの弁論術学校に継承発展され、さらに後の西欧文化の
伝統にまで影響を与える。また彼の華麗な文章技巧や修辞法は、ギリシア散文の発展に
大きく貢献する 。
『パラメデス弁明』、『ヘレネ賛』、『在らぬものについて、もしくは、
自然について』などの著作からの文章が後世に伝えられる。]
BC 411
BC411. ○【ギリシア】アリストファネス作の喜劇『女の平和』が上演される。女の性的
ストライキを描いた滑稽で淫猥な作品として伝えられる。
BC
410
BC410. ○【バビロニア】この頃、最初の星占いが成立する。[以後、ヘレニズム時代に
ギリシアに入り、プトレマイオスの『テトラビブロス(四書)』に集大成される。バビロ
ニアがギリシア人によってカルデアとも呼ばれたことから、この神聖科学を「カルデア
人の術」と呼び、これを独占する司祭階級を「カルデア人」と呼ぶ。]
BC
403
BC403.○【中国】晋が分裂し、春秋時代から戦国時代(∼ BC221)へ入る。この頃、同性
愛が盛んに流行する。
BC403.○【中国】この頃、絹布に絵や文字が書かれる。[1942 年に、湖南省長沙市外の
戦国時代初期の古墳跡から、絵と文字が書かれた 30 ∼ 40cm 大の絹布(帛画、帛書)が発
- 37 -
見される。数百の文字の周囲に、植物、怪獣、2 本の角を生やし 3 つの頭を持つ奇怪な
人物などが描かれている。アメリカのニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵され
る。1973 年にも戦国時代の墳跡から 1 枚の帛画が発見される。1972 ∼ 1974 年に、長沙
郊外の前漢時代古墳、馬王堆(まおうたい)1 ∼ 3 号墓から大量の帛書、帛画、竹簡、木
簡のたぐいが発見される。帛書には『老子』、
『左伝 』
、
『戦国策』などが記されている。]
BC 400
BC400. ○【ギリシア】クセノフォンやアリストテレスに捧げた言葉が、速記で碑文に書
かれる。
BC 399
BC339. 6.−[ 4.27 ]【ギリシア】ソクラテス Socrates(70)が、告発され、裁判され、死刑
の宣告を受け、毒杯を仰いで死去する。生前に、自分自身の「魂」(ps □ ch □)をたい
せつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問う
て、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事としていたが、おそらくはこの仕
事のために嫉(そね)まれて告発される。若いころは政治に志した弟子プラトンが、ソク
ラテスの処刑を転機として、暗愚なアテネの政界を見限り、人間の存在を真に根拠づけ
うるものを求めて、愛知(フイロソフイア)(哲学)に向かう。[以後、この裁判の模様と獄
中および死去の場面を哲学的戯曲『プラトンの対話篇』、『エウチュプロン』、『ソクラ
テスの弁明』、『クリトン』、『パイドン』など諸作品に詳しく書く。そこに描かれた、
死に面するソクラテスの平静清朗な態度は、生死を越えた重大事に対面する哲学者のあ
り方を示すものとして、後世に永く伝えられ、読む人の心にせつせつとして迫るものが
ある。のち、4 月 27 日を「哲学の日」と定められる。また、ソクラテスの妻が悪妻とし
て有名であることから「悪妻の日」ともされる。]
BC 387
BC387.○【ギリシア】この頃、哲学者プラトン Plat ロn( 41)がアテナイに戻り、自分の
理想と目的にかなった人材の養成を終生の事業と見定めて、アテネの西北、英雄アカデ
モスに捧げられた神域に学園アカデメイア(Akad □ meia)を創設し、研究教育活動を進
める。この頃(?)、笛について、許されるのは素朴な牧笛などだけで、
〈転調の可能な
笛は、淫蕩な気風を助長するから、哲人の国では排除されるべきだ〉と書き残す。
BC
385
BC385.○【ギリシア】この頃、プラトン Platon( 42 )が、学園アカデメイア(Akad □ meia)
で、各地から青年を集めて、研究と教育の生活に専念し、『国家(Politeia)』全 10 巻を完
成する。
BC
377
BC377.○【インド】ブッダ没後約 100 年のこの頃、西インドの出家修行者(比丘(びく))
ヤシャスが、マガダ国のヴァイシャーリ(ベーサーリ)を訪れ、この地方の比丘が金銭の
- 38 -
寄進を受けているのを見て驚き、地元の比丘との間に戒律上の争いが起こる。この解釈
による違いを解決するために、ヤシャスが中心となり 700 人の比丘が参加して話し合い
が行われ、第 2 回の仏典結集(ぶってんけつじゅう)となる。ここで、各地に伝承されて
いるブッダの言葉 700 が集められる。
BC
370
BC370. ○【
BC
】この頃、同心天球理論。
355
BC355.○【ギリシア】この頃から、アテナイの政治家デモステネスDロ mosthen ロs(29)
が、公法および政治問題に関する演説によって法廷と議会で活躍する。[ BC351 年から、
フィリッポス 2 世の率いる新興国マケドニアがギリシア本土の内紛に乗じて勢力を伸張
してくる情勢に対抗し 、
『反フィリッポス演説』と同盟市オリュントスを支援する演説
各 3 編を発表して、反マケドニアの立場を鮮明にする。彼の弁論は,これまでのアテナ
イの弁論作者たちの優雅さ、簡潔さを備えているうえに、独自の力強さを持つとして称
賛され 、
「アッティカの十雄弁家」の一人に数えられる。近代に至っても、祖国愛に支
えられた理想とあいまって欧米の議会演説にも大きな影響を与える。]
BC 353
BC353.○【ギリシア】この頃、アテナイの弁論家イソクラテス Isokrat ロs(82)が、長編
の作品『財産交換について』を著し、法廷弁論の形式を借りてみずからの弁論家として
の立場を披瀝(ひれき)する。[以後、彼は、生来声が小さく実際演壇には立たなかったが,
自分の政治・教育理念を訴えるために多くの演説形式の評論を書き残す。書簡を含めて
約 30 編の作品が、中世以来の写本のほか、部分的ではあるが 1 ∼ 2 世紀ごろのパピルス
によっても伝わっている。彼はソフィストたちの弁論が陥る倫理的無責任を非難し、弁
論は単なる説得の技術にとどまらず人間の英知の表現手段としての役割をもつべきだと
主張する。この理想は、幾層にも分岐しながら一つのまとまりをもつ息の長いよく均衡
のとれた独自の文体とあいまって、ローマのキケロから絶賛される。さらにルネサンス
期の人文主義者エラスムスらを経て、近代の弁論に深い影響を与える。]
BC 351
BC351.○【エジプト】アレクサンドリアの有名な遊女タイス Thais が、隠修士パフヌテ
ィウスの導きで修道院に入りキリスト教徒となる。その際、これまで集めた豪華な衣装
や宝石類を惜し気もなく公然と焼き捨てる。[以後、3 年間修道院の独房で修徳生活を行
う。BC348 、修道女とされるが、わずか 14 日で没する。人々から聖女、悔悛者として尊
崇される。10 月 8 日が祝日とされる。タイスの劇的な生涯は、後世しばしば作品化され
る。中世ドイツでは女流詩人ロスウィータが戯曲を書く。1889 年に A.フランスが歴史小
説『タイス』を著す。1894 年にやマスネーのオペラ『タイス』が初演される。]
BC
350
- 39 -
BC350. ○【中国】この頃、十二律をはじめとする音楽理論があり、文字による楽譜が書
かれ始める。[以後、長い歴史を通じて表音譜と奏法譜という二つの形態がそれぞれ多様
に展開され、近隣のベトナム・朝鮮半島・日本に影響を及ぼす。表音譜は七声や十二律
の音名を漢字ないしその変形により表し、それらを縦に書き並べていくときの空白の大
小により時間やリズムの側面が表現される。近世中国では、工尺譜(こうしやくふ)のよ
うに 、拍節法が明確に表記される。さらに、縦横の線で表のように整然と表した井間譜(せ
いかんふ)ができる。これが変形されてベトナムや沖縄の古典音楽において継承される。
井間譜は朝鮮でもっとも緻密(ちみつ)にくふうされ、『李(り)朝実録』
、『世宗実録』、
『世
祖実録』などで朝鮮固有の三拍子系リズムが偶数拍群法と絡む実態を表記する方法に変
遷する。]
BC350. ○【インド】この頃、雨量の観測がなされる。
BC350.○【ギリシア】この頃、アテナイの有名な遊女フリュネ Phryn ロが、起訴されて、
法廷で胸をはだけ、その美しさで裁判官を感動させて無罪を勝ちとる 。
〔フリュネは、
当代一の美女と評判をとって財を成し、テーバイの城壁復旧の資金を寄付して〈アレク
サンドロス大王これを破壊するも遊女フリュネこれを再建す〉との銘を刻ませる。また
画家アペレス、彫刻家プラクシテレスのモデルになり、前者の『海から上がるアフロデ
ィテ 』
、後者の『クニドスのアフロディテ』は、ともにフリュネを模したものとされる。]
BC 344
BC344.○【ギリシア】哲学者アリストテレス Aristotel □ s(40 )が 、レスボス島に移る。[以
後、2 年間、テオフラストスらと生物学研究にいそしむ。動物の発生は〈父の精液に内
在する起動因と形相が、母の精液である月経の中の質量因に作用すると、胚の発生が始
まり、胎児に成長する〉という雄優位の発生説を唱える。]
BC
340
BC340. ○【ギリシア】この頃、アリストテレスが『天体論』、
『宇宙論』を著す。地上と
天体の運動を質的に異なるものとし、天体の円運動原理を確立する。
BC 335
BC335.○【ギリシア】この頃、哲学者アリストテレス Aristotel □ s(49)が、アテネに情
報センタ「Lykeion(リュケイオン)」を開設する。自ら飽きることのない自然観察家とし
て、その時代の自然知識を余すところなく収集し、詳しく検討して、自分の哲学的見地
とりわけ目的論に基づいて体系化しようと試みる。その範囲は、物質界の普遍的諸条件
や宇宙の構造などから、地球上の個々の動植物、その諸器官の記述などに至るまで、お
よそ存在するものの全体に及ぶ。また、盲人教育の可能性を説く。さらにこの時期に、
暗くした部屋の屋根や壁などに小穴をあけ、その反対側の白い壁や幕に、戸外の実像を
上下逆さまに写し出す「カメラ・オブスキュラ camera obscura」(ラテン語で暗い部屋の
意)の原理によって、戸外の景観を写して観察したといわれる。[以後、のちのカメラの
前史の一こまとなる。以後、自然科学にかかわる『自然学』
、『天体論』、
『生成消滅論』、
『気象論』、
『宇宙論 』
、『動物誌』、
『動物部分論』、
『動物運動論』、
『動物発生論』などを
- 40 -
書く。]
BC 334
BC334.○【アジア】アレクサンドロス大王( 19 )がアジア遠征を開始する。
BC
331
BC331.○【エジプト】アレクサンドロス大王(22)が、エジプト征服後、ナイル川デルタ
西端のフェニキア人の港のあったラコティスの漁村に接近し、北にファロス島を控え、
南にマレオティス湖をたたえた地を選び、彼の名にちなんだ都市「アレクサンドリア」
を建設する。復活神オシリスと繁殖神アピスを合成してつくりあげたセラピス神を信仰
する都市として発展させる。[大王の死後、エジプトに創建されたプトレマイオス朝の首
都となり、プトレマイオスⅡ世フィラデルフォスの治世に都市はほぼ完成する。地中海
世界とアラビア、インドとの貿易の商港、商工業の中心地としてヘレニズム最大の都市
として繁栄、人口約 80 万を数える。また、ヘレニズム文化の中心都市でもあり、プトレ
マイオスⅠ世ソーテルによって「ムセイオン」とその付属の大図書館が設立される 。BC280
年ころ、エジプトのアレクサンドリアの港口のファロス島に灯台が建設される。ローマ
帝政期には新プラトン哲学とユダヤ・キリスト教神学、グノーシス思想が形成される。
646
年アラブ人に攻略され、エジプトにおける政治、文化の中心はカイロに移っる。1517 年
トルコの支配下に入る。1798 年ナポレオンのエジプト遠征により、1803 年までフランス
が占領する。]
BC
324
BC324.○【イラン】アレクサンドロス大王(29)が、ペルシャ帝国を征服する。敵王ダレ
イオスⅢ世の王女スタテイラをめとる。また、首都スサで 1 万人の集団結婚が行われる。
BC 321
BC321.○【エジプト】アレクサンドロス大王( 32 )が死去し、アンティゴノスⅠ世が継ぐ。
[彼は、ペルシア駅伝の復活を試みるが、しかし数年にして死去し、この計画も立ち消え
となる。帝国は 4 分裂し、ヘレニズムの精神がユーラシア各地に拡散していく。]
BC 310
BC310. ○【フランス】この頃、マッサリア(のち、マルセイユ)のギリシア人探検家ピュ
テアス Pytheas が、カルタゴに独占されていたスズの通商路とコハクを求めて、フラン
ス西海岸からグレートブリテン島を一周、この島の大きさや住民、アイルランドの存在
について伝え、さらにその北方のトゥーレに至り、この地が北極圏下に位置していると
する。また、ゲルマニアの海岸をバシリアという大島まで航行し、大西洋や白夜、海の
凍結現象などについて、探検記『大洋について』に記載する 。
[以後、探検記の内容は
地中海世界の人々には理解を超えたものであったため、多くの人から大嘘つきとされる。
のちに、彼はマッサリアの緯度を正しく測定していたなど、優れた観測者、観察者であ
ったことが知られるが、探検記は残存せず、ポリュビオス、ストラボンらによりその事
- 41 -
績が知られるだけとなる。
]
BC 305
BC305.○【エジプト】プトレマイオスⅠ世ソーテルが、王号を称する。[ BC295 ころ、
アレクサンドリアに総合学術機関「ムセイオン( mouseion )(学問研究所=学芸神ミューズ
の神殿の意)」とその付属の大図書館を創設する。
]
BC 300
BC300. ○【日本】この頃、朝鮮半島南部から北九州に上陸した人々によって稲と鉄器が
もたらされ、本格的な稲作が行われる。また、麦、粟、黍などの栽培が始まる。渡来人
は、北九州の他に山陰、北陸の日本海沿岸にも上陸する。先住民の縄文人を征服し、西
日本一帯に定着する。女が少なかったので、縄文人との混血が急速に進む。弥生時代が
始まる。
BC300. ○【インド】マガダ国首都パータリプトラ駐在のギリシア大使メガステネスが、
「当地の婦女子は強いて貞節を強制されない限り売春して差し支えない」と『インド誌 』
に書く。
BC300.○【イスラエル】この頃 、
「ネヘミヤ記(The Book of Nehemiah )」が制作される。
ユダヤ地区総督ネヘミヤのエルサレム城壁工事と強制移住による都市国家の再建、祭司
エズラの神殿教団設立の経過を伝える。[以後、「エズラ記」と共に『旧約聖書』中の諸
書の一つとなる。]
BC300.○【ギリシア】この頃、ユークリッドが 、
『原論( Stoicheia)』を著す。
BC300.○【ギリシア】この頃、アリストテレスの後継者としてリュケイオン校の第 2 代
学頭となるテオフラストス Theophrastos(チランタス Tyrantus)( 28 ?)が、約 200 の天気
俚諺を集めた本をつくる。そのなかには〈夕焼けは晴,朝焼けは雨〉〈月や日がかさを
かぶると雨〉〈北東風は天気が悪い〉〈絹雲は雨のきざし〉などがあり、長期予報、超長
期予報に関係するものもある。
BC300.○【ギリシア】この頃、アテナイの著名な遊女フリュネ Phryn ロが、画家アペレス
や彫刻家プラクシテレスのモデルとなる。前者の『海から上がるアフロディテ』、後者
の『クニドスのアフロディテ』は、ともに彼女を模したものとされる。
BC300. ○【エジプト】この頃、アレクサンドリアに天文台が建設される。ここには、星
や惑星の位置を知るため天の緯度と経度を測定する装置、アストロラーベがそなえられ
ていたと思われる。[以後、約 500 年間存続する。]
BC 295
BC295. ○【エジプト】この頃、プトレマイオスⅠ世ソーテルが、アレクサンドリアに総
合学術機関「ムセイオン( mouseion )(学問研究所=学芸神ミューズの神殿の意)」とその
付属の大図書館を創設する。図書館の蔵書の書写作業は奴隷を使って大々的に行われ 、20
万巻にも及ぶ巻子本(かんすぼん)が所蔵されることになる。文献学と自然科学が興隆し、
ギリシア語訳『旧約聖書』もここでつくられる。
「博物館」の名称のもとである英語〈ミ
ュージアム〉の語原になるが、この呼称がヨーロッパで一般化するのは、17 世紀からと
- 42 -
いわれる。その後、図書館も消失する。1995 年、政府が伝説の図書館の再建事業に本格
着工し、1999 年 5 月完成を目指す。総工費 1 億 9000 千万ドルのうち、サウジアラビア
が 2300 万ドル、あらぶ首長国連邦が 2000 万ドル、イラクが 1990 年 8 月のクェート侵攻
前に 2100 万ドル以上を拠出するなど、中東を中心とした国債プロジェクトとなる。]
BC
280
BC280. ○【中国】晋の武帝が呉を滅ぼす。三国時代が終結し、晋が天下統一する。これ
以後、南北朝時代にかけて、同性愛は最高に盛んになる。
BC280. ○【ギリシア】この頃、ギリシア文字で書かれた現存する最古の文書『ヴィーン
パピルス』(∼ BC270) が書かれる。
「アルテミシアの呪文」とも呼ばれ、夫が亡児の埋
葬費を出さず、妻を振り捨てたのを恨み、死んだ愛児の父に悪い報いがあるように呪っ
た祈祷書。
BC280. ○【ギリシア】この頃、アリスタルコスが、地球の自転とともに公転運動を主張
する。
BC280.○【エジプト】この頃、アレクサンドリア港の沖、約 1km の岩礁「ファロス島」
に灯台が約 50 年かけて建設され、完成する。建物は 3 層に分かれ、第 1 層は四角柱で高
さ約 70m、第 2 層は八角柱で約 35m、第 3 層が円柱で約 10m、計約 110m の石積塔をな
し、屋根とその上の青銅像を合わせると約 140m の高さを誇る。円柱頂部の台で枯草や
木に樹脂を混ぜたものを毎夜燃やし、銅製の反射鏡に光を反射して地中海を照らす。[以
後、古代世界の七不思議の一つに数えられる。1998 年、ファロスの灯台の再建計画が進
められる。]
BC 268
BC268.○【インド】この頃、マウリヤ朝の第 3 代王アショカが即位して、広大な領土を
継承する。[BC259 年頃、即位 9 年目にカリンガを征服するが、10 万人が殺され、その
数倍の人々が戦禍で亡くなり、
この征服戦争の悲惨さを反省して、
仏教にいっそう帰依(き
え)する。仏教を庇護(ひご)し、各地に僧院がつくられて仏教が急速に広がっていく。普
遍的倫理(ダルマ)に基づく政治を理念として掲げて、彼自身がその実現に精力的に努
力し、官吏に命じて人民の倫理遵守の徹底を期せしめる。BC244 ころ、第 3 回仏典結集
を行う。]
BC 250
BC250.○【ギリシア】この頃、数理科学者アルキメデス Archim ロdロs(BC287 頃∼ BC212 )
が、円に内接および外接する正 96 角形の周を計算して、円周率πの小数点以下第 2 位ま
での正確な値を理論的に導く。
BC250. ○【ギリシア】この頃、幾何学者ユークリッドが、暗い部屋の壁面の小孔を通る
光線により外の風景が投影されることを認めていたと伝えられる。
BC 244
BC244.○【インド】この頃、ブッダ没後約 240 年で、マウリヤ朝の第 3 代王アショカが、
- 43 -
都のパータリプトラで第 3 回仏典結集(ぶってんけつじゅう)を行ったと伝えられる。モ
ッガリプッタ・ティッサを首座として 1000 人の比丘が参加し、このとき『論事』の成立
をみたといわれる。またダルマ(普遍的倫理)による政治を表明し、これを徹底させるた
めの詔勅を各地の言語で石柱や岩石に刻ませる。同一文字「ブラーフミー文字」による
石碑を建てる。[BC232 ころアショカが死没する。以後、この政治理念は失われ、帝国
は衰運に傾いていく。BC1 世紀のころ第 4 回の仏典結集が、スリランカのアルビハーラ
(石精舎(せきしようじや))で開催され、このとき初めて、それまで口誦で伝承されて
いた三蔵(経律論)がその注釈とともに書写される。北方の伝承では、2 世紀のカニシ
カ王治下のカシミールで『大毘婆沙論(だいびばしやろん)』が編集されるのを第四結集
とみなしている。1871 年、ビルマのマンダレーで第 5 回結集、1954 年仏誕 2500 年を記
念して同じくビルマのラングーンで第 6 回結集が開催される。そのときビルマ文字によ
るパーリ蔵経の出版がなされる。]
BC
235
BC235.○【ギリシア】この頃、地理学者・数学者エラトステネス Eratosthen ^ s(42 ?)
が、プトレマイオス 3 世に招かれ、アレクサンドリアのムセイオン( Mouseion)の館長に
就任する。
BC 230
BC230.○【ギリシア】地理学者・数学者エラトステネス(46 ?)が、世界地図をつくり、
地球の大きさを計算する。のちの数理地理学の基礎を築く。[以後、地球の大きさと形
について初めて一定の概念が生まれ、重要な交易地域であるインドへの人々の関心が再
び甦る。BC200 ころ、地中海世界の人々の地球世界についての知識は、ブリテン島、ス
カンジナビア、セイロン島にまで及び、地球陸地の約 10 %、海面の 2 ∼ 3 %をカバーす
ることになる。
]
BC 221
BC221.○【中国】秦の始皇帝 Sh ロ hu ロ ng d ロ( 38)が、天下を統一して大帝国を建設する。
太古の三皇五帝から採って皇帝の称号を定め、みずからは始皇帝と称して帝位を 2 世、3
世と無窮に伝えることを意図する。さらに、文字を統一して、朕、制、詔など皇帝専用
用語を制定し、また旧来の文や武といった諡法(しほう)を廃止する。[以後、在位中に通
信システム整備のため、駅伝が全土にくまなく設けられる。駅は主要な街道に沿って 30
里(約 12km )ごとに設けられ、馬を備える。また集落ごとに郵や亭が置かれ、治安の維
持を図るとともに、公文書の逓送にあたる。さらに都会(主として県の役所の所在地)に
は伝が設けられ、馬車が備えられて、公用の使者や官僚の往来に供する。伝は馬車を用
いるから、騎馬よりも速力が落ちる。中央の命令(詔勅)の伝達や、軍事などの緊急事態
には、駅が用いられ、駅使が馬を乗り継いで走る。そして高官の赴任や、公務による往
来、また高官が自ら使者にたつときなどに、伝を用いる。つまり駅は緊急の通信機関で
あり、伝は公用の交通機関である。この制度は次の漢帝国に受け継がれる。三国時代か
ら南北朝時代にかけては、戦乱や割拠のために、駅伝の制度も一時廃れるが、隋、さら
- 44 -
に唐の帝国が形成され、統一政治が再現すると、駅伝の制度も大いに整備される。]
BC 215
BC215.○【中国】秦の始皇帝(44)が、〈秦を滅ぼすのは胡である〉という讖緯(しんい)
を誤解して北辺に蒙恬(もうてん)を派遣する。オルドスに占住していた匈奴を漠北に追
い払うとともに、西方は甘粛の岷県付近を起点とし、黄河の北をまわって趙の長城に合
し、その東端を燕の長城につなぎ、赤峰から遼陽付近に至る約 1500km に及ぶ長城を築
き、北方民族の侵入に備える。[∼ BC214。]
BC 213
BC213.○【中国】秦の始皇帝(46)の命により「焚書坑儒」が行われる。博士淳于越(じ
ゅんうえつ)が古制に従って子弟を封建するよう建議したのに対し、丞相(じょうしょう)
の李斯(りし)は、学者たちが昔の先例を引いていまの政治を批判するのを禁止せよと上
奏する。皇帝はその主張をいれて、秦朝の政治方針に反する思想や人物を取り締まるこ
ととし、
『秦記 』
(秦国の史官の記録)および医薬書、卜筮(ぼくぜい)(占い)の書、農書
以外は 、
『詩経』、『書経』や諸子百家の書などを民間で所蔵することを禁止し、すべて
の書籍を民衆から提出させて焼き捨てる。一方、そういう思想を広め始皇帝を批判した
疑いのある方士(ほうし)、儒学者たちを多数逮捕し、 460 余人を都の咸陽(かんよう)で
「坑(あなうめ)」の刑に処する。なお、朝廷の博士はいかなる書籍の所有をも許可され
る。史実に残る旧中国第一の思想言論弾圧事件となる。[以後、10 年もたたぬうちに秦
帝国は滅亡する。]
BC 212
BC212. ○【イタリア】ローマでありとあらゆる種類の神託、預言が口伝えに広がり、あ
らぬ噂、憶測、混乱を引き起こしている。元老院は、ローマでは公認の占術によっての
み未来の予示がなされることを示威するため、法務官(プラエトル)アエミリウスに命じ
て、外国起源の予言書、占術典礼書などを回収させ廃棄を命じる。押収された神託書の
うち、占い師マルチウスの書とマルキイ兄弟の書が、カンナエの敗北を予言し、アポロ
ンの名を讃える祭典競技の開催を強く進言しているので、元老院議員たちは真に受けて、
廃棄できず保存しておくよう命じる。異国書ながら、公的に古文書として保存される最
初の神託となる。
BC
210
BC210.○【中国】秦の始皇帝(49)が、巡幸の途中で病死する。丞相の李斯と宦官の趙高
は内乱の発生を危惧してこれを秘し、詔命と偽って太子の扶蘇と蒙恬を自殺させ、棺を
咸陽に運んで初めて喪を発し、驪山(りざん)に埋葬する。
BC
202
BC202. ○【中国】この頃までに、石や銅などの金属をつかって印がつくられ、捺印に似
た印刷技術が開発されている。[のち、金印ともよばれる「漢委奴国王印(かんのわのな
- 45 -
のこくおういん)」が、福岡県で出土する。]
BC 200
BC200. ○【世界】この頃、売春の風俗が十分確立する。[のちに、俗に「最古の職業」
と呼ばれる。]
BC200. ○【中国】この頃まで、青銅器時代が続く。尊彝(そんい)を中心とする多種多様
の青銅製の儀器を遺(のこ)すなど、特異な青銅器文化を築く。
BC200. ○【中国】この頃、磁鉄鋼が鉄片を吸引することが知られ、記録に残される。
BC200.○【インド】この頃、百科全書的な宗教聖典『マヌ法典』の原型が作られ始める。
マヌとは「人類の始祖」を意味し、いっさいの「法」(ダルマ)に関する最高権威として
崇(あが)められ、本書の成立と結び付けられている神話的人物である。[以後、ヒンドゥ
ー教に強く彩られた慣習法として集大成されていく。200 年ごろ、原型ができあがる。]
BC200.○【ギリシア】アポロニオスが、太陽、月の複雑な運動を説明するために、1 つ
の円軌道しか許さない同心天球理論を捨て、複数の円を組み合わせる周転円理論をつく
る。
BC200. ○【ギリシア】この頃、地理学者エラトステネスが、既知の世界として、北西は
イギリスから東はガンガー(ガンジス川)の河口、南はリビアまでを表した世界図を作成
する。緯度をしめすために、地図を横切る平行線がこの地図ではじめてひかれる。何本
かの経線も記入されてるが、規則的な間隔をもつものではない。彼は、シエナとアレク
サンドリアの間の位置関係を、後世でいう多角測量に近い方法により求め、これより地
球の 1 象限の弧長を 1 万 1560km であると計算する。
BC 197
BC197. ○【トルコ】都市国家ペルガモン(のち、ペルガマ市)の王ユウメネウス(エウメ
ネス)Ⅱ世が王位につく。[∼ BC159。この間、彼はアレクサンドリアに大図書館をつく
ったエジプト王プトレマイオスが羨ましくて仕方がなく、互いに書物の収集を競う。そ
の挙げ句、強引にアレクサンドリア図書館館長で著名な書誌学者アリストパネスをスカ
ウトしようとする。これがエジプト側に発覚して、プトレマイオスを怒らせてしまい、
アリストパネスを内通のかどで投獄、ペルガモンへは写本の主要な書写材であるパピル
スの輸出を厳禁する。パピルスを入手できなくなったペルガモンでは、図書館に収蔵す
る本が作れなくなる。困ったユウメネウスⅡ世は、これを機に以前から使っていた動物
の皮の書写材を見直し、皮の処理方法を改善し、優れた書写材をつくるようになる。こ
れが「ペルガメーナ」「
( ペルガモンの」という意味)とよばれるようになる。のちにこ
のような羊や山羊(やぎ)の皮でつくる半透明ないしは不透明な獣皮を「パーチメント
(parchment)(羊皮紙)」と呼ぶようになるのは「ペルガモン」に由来する。パピルスは脆
くて折り曲げが困難なのに対して、パーチメントは丈夫で容易に切断したり折り曲げた
りすることができる 。パピルスの巻子本(かんすぼん)scroll に対して、パーチメントは「二
つ折り」( 4 ページ) 、
「四つ折り」(8 ページ) 、
「八つ折り」(16 ページ)などが可能とな
る。2 世紀半ばころ、キリスト教徒たちがパーチメントの冊子本(コーデックス)(odex )
スタイルを考案し、ひそかに聖書を作り始める。折りたたみができる材料と製本法から、
- 46 -
ヨーロッパの本の大きさを表すフォーリオ、クォート、オクターヴォなどの呼び名が生
まれる。]
BC
196
BC196.○【エジプト】神官団が、プトレマイオスⅤ世をたたえる布告「メンフィス法令」
を玄武岩に刻む。上段にエジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)、中段にその草書体である
民衆文字(デモチック)、下段にギリシア文字で同一文書が刻まれる。
[1799 年 7 月 19 日、
ナポレオンのエジプト遠征のおり、ナイルの一河口の町ロゼッタ(アラビア語ではラシー
ド)の近くでこれを発見する。以後、「ロゼッタ石(Rosetta Stone )」と呼ばれる。ロンド
ンの大英博物館に保管される。]
BC
195
BC195.○【ローマ】カトー(大カトー)Marcus Porcius Cato Censorius(39)が、コンスル(執
政官)に選ばれる。[ BC184 年、ケンソル(戸口総監)に選ばれる。雄弁家として知られ、
弁論,詩,歴史などの著作を残す。]
BC
153
BC153. ○【中国】淮南(わいなん)(寿春(じゅしゅん))を都とする、淮水中流域の国)の
王劉安(りゅうあん)(26 )が、この頃から知識人を招いてそのパトロン役を引き受ける。
各地から数千人の賓客(ひんきゃく)が淮南に身を寄せる。[BC141 年、漢の景帝が崩御
し、これを機に、武帝に『淮南子(えなんじ)』の編纂を求める。]
BC 141
BC141.○【中国】漢の景帝が崩御し、その子武帝(16)が即位する。淮南(わいなん)の王
劉安(りゅうあん)(38 )が、これを機に、帝国治下の諸勢力・諸思想をすべて容認しつつ
それらの緩やかな大調和による統一を実現せよと、武帝に『淮南子(えなんじ)』の編纂
を求める。[BC139 年 、
『淮南子』全 21 篇がまとめられる。]
BC 139
BC139. ○【中国】この頃、張騫(ちょうけん)が、漢の武帝の命によって中央アジアに派
遣される。匈奴(きようど)によって河西(甘粛(かんしゆく))地方からイリ川方面に追
われていた月氏(げつし)と同盟を結ぶことにより匈奴挟撃を図った武帝の策に応じ、使
者として 100 余人を伴い長安を出発する。[以後、匈奴の捕虜となり甘粛で 10 年ほど過
ごすが脱出、西域(せいいき)北道経由で大宛(だいえん)(フェルガナ)に至る。月氏は
すでにアムダリヤ北方に定住し、大月氏国として繁栄に甘んじて、東行の意志はない。
そこでバクトリア地方などを実地に見聞し、南道を通って帰国の途中、ツァイダム付近
でふたたび匈奴に捕らえられて抑留される。BC126 年内乱に乗じて脱出し、道案内の甘
父との 2 人だけになって帰国する。BC119 年、ふたたびイリの烏孫(うそん)へ使節とし
て出かける。]
BC139.○【中国】淮南(わいなん)の王劉安(りゆうあん)(40)が、諸子(思想家たち)の
- 47 -
雑家(総合学派)に属する百科全書風の思想書『淮南子(えなんじ)』を撰(せん)する。
全 21 篇で、構成は、道家の存在論を基礎に据え、世界の構成をモデルにした、道を探求
した原道篇→一の根源的真理の俶真(しゆくしん)篇→二の天文篇・地形篇→四の時則篇
→万物の覧冥(らんめい)から泰族(たいそう)に至る 15 篇、の展開よりなる。内容は、道
家の「道」と儒家・墨家(ぼくか)などの「事」とを、ともに生かして両者を高次の「玄
妙(げんみよう)」へとアウフヘーベン(止揚)し、それを永劫(えいごう)・普遍に有効
な帝王の道として示す。また戦国時代以来のすべての百家の、天文学・地理学・時令思
想・感応(かんのう)思想・君主論・兵法・説話集・修養論など、あらゆる分野の知識を
含む。[以後、本書は、若い武帝に帝王の道としての思想統一の意義を教え、董仲舒(と
うちゆうじよ)をはじめ対抗する儒家に中央集権政治思想の整備を促す。その結果、儒教
の地位が急速に高まり、BC136 年に国教化する。BC135 年実権のあった祖母竇(とう)太
后が死去し、この頃から独裁的専制君主の本領を発揮するようになる。BC122 年、つい
に劉安( 57 )を謀反の罪で自殺させるに至る。BC106 年に、全土を 13 州に分かって州に
刺史(しし)を置き 、郡県の地方行政の組織的監察を実現する 。また高官の子弟の任用(任
子)を主とした官吏登用制度を改革し、各郡国に毎年孝と廉とを推挙させ(孝廉科 )
、
あるいは儒学を公認の教学として五経博士を設置し、博士官に配属された弟子員のなか
から試験合格者を官吏として抜擢(ばつてき)するなどの方法を創始し、専制的な官僚統
治の体制を整備する。]
BC
119
BC119. ○【中国】張騫(ちようけん)が、ふたたびイリの烏孫(うそん)へ使節として出か
け、副使を西方各地に派遣する。このときも月氏(げつし)と同盟して匈奴挟撃を図った
武帝の策は成就しない。[以後、西域諸国は活発に来漢するようになる。張騫の 2 度の使
節行を契機として 、
「西域(せいいき)」と称される中央アジアや西アジア各地との国交
が開け、使節団(商人)が中国を訪れて、珍しい品々や文物をもたらすようになる。こ
れによって張騫がシルク・ロードの開通者と言われるようになる。]
BC
100
BC100. ○【日本】この頃、部落国家を形成し、単位家族が竪穴住居に生活する。
BC 81
BC81.○【ローマ】キケロ Marcus Tullius Cicero( 25 )が、『クインクティウス弁護』を皮切
りに弁論家としての道を歩み始める。[ BC80、殺人事件を扱った『ロスキウス弁護』に
おける演説によって名声を博す。BC79 年からアテナイ,ロドス島に遊学して、ストア
学派の哲学者ポセイドニオスらに師事し,弁論術,哲学を修める。ギリシアの学術、と
くにラテン語にない用語や表現の翻訳を行い、これを後世に伝える。法廷弁論,政治演
説という実践の世界に本領を発揮する。法廷弁論のかたわら、BC75 年にクアエストル
(財務官)、BC66 年にはプラエトル(法務官)に選出され、政治の道にも踏み込む。]
BC
65
- 48 -
BC65.○【ギリシア】この頃、チツス・ルクレチウス・カルス Titus Lucretius Carus が『視
覚論』を著わし、その中で残像の心理についてつぎのように述べる。〈諸君は、手や足
を動かしてみて、それが動いて見えるのを不思議に思うことはないか。それは前の影像
が消えて、その次に現われる影像が、前とは少し異なった位置を占めているからである。
ただ、動作が迅速に行われているために、人びとは気がつかないだけである。〉[後の活
動写真や映画の原理の最初の認識となる。]
BC 63
BC63.11. 8 【イタリア】キケロ(43 )が、コンスルに就任する。カティリナの陰謀を未然
に防ぐために元老院で弾劾演説を行う。この演説は初めてティロの速記によって記録さ
れる。キケロの演説第一声は〈カティリナよ、お前はどれだけ我々の忍耐を費やしたこ
とか? Quo usque tandem abutere, Catilina, Patientia nostra?〉の文句をキーワード 3 文字を
取り出して「QPN」と摘記法で速記される。
[以後、皇帝の演説などが、速記奴隷により
記録される。ティロの速記法は習得するのが非常に困難で、高度に使いこなすには 10 年
の研鑽を必要とすると言われる。皇帝ティベリウスは、速記奴隷が満足な速記ができな
かった罰として指を切らせたと伝えられる。また、他の速記奴隷は思い出せなかった速
記略字を額に焼き付けられる。速記禁止の演説を速記した者は、利き腕を切断されるな
ど、残酷な刑罰を受ける。
]
BC
59
BC59.○【フランス】この頃、ニームにポン・デュ・ガール橋が建設される。ガール川の
上に全長 260.6m、全高 47.2m におよび、アーチが 3 段重ねになっている。[以後、大規
模なローマ時代の水道橋として最良の状態で原形をとどめている。]
BC59.○【ローマ】ローマの執政官になったカエサル Gaius Julius Caesar( 41 )が、元老院
の議事録「アクタ・セナトゥス(acta senatus)」
、民会の決議、一般事件「アクタ・ポプリ(acta
populi)」とからなる政府発表事項を日報の形で毎日掲示する『アクタ・ディウルナ( acta
diurna)』を作成して、ローマの市場( forum)に公示するよう命じる。これはいわば一種の
公報であるが、記録性、現実性、公開性、定期性を備えているとみられるので、新聞の
起源とされる。[以後、
「アクタ・ポプリ」のみ、帝政時代を通じて存続する。のち、
「diurna
(日々の)」は英語の「journal(毎日つけられる記録) 」の語源となり、さらに「日刊新聞」
の意味となる。]
BC
49
BC49.○【中国 】(黄竜1)ロブ・ノールの堡塁で、この年の年紀のある木簡と1枚の紙
が、1933 年に中国の考古学者黄文弼(こうぶんひつ)によって発見される。1 枚の紙は、4cm
× 10cm の小さな粗末な紙であるが、ほぼ同時代のものと推定される。
BC
46
BC46.○【ローマ 】カエサル(54)が、ユリウス歴を制定する 。平年を 365 日とし、4 年に 1
度 366 日の閏年を設けることにする。[BC45.1.1 実施する。ユリウス歴では、1 年は 365.25
- 49 -
年となるが、実際の 1 太陽年は 365.2422 日であり、その差は 1 年で約 11 分、128 年でほ
ぼ 1 日の食い違いが生じる。1582.10.15 教皇グレゴリウス(グレゴリオ)ⅩⅢ世が、ユリ
ウス歴をグレゴリオ歴に改める。]
BC 44
BC44. 3.15 【ローマ】カエサル(56 )が、権力を一身に集中したため、元老院議場でブル
ートゥス、カッシウスら共和政護持者たちに〈ブルートゥス(ブルータス)、お前もか! 〉
と叫びながら暗殺される。[この後、カエサルの腹心でコンスル(執政官)のアントニウ
ス Marcus Antonius(38)が、追悼演説で人望を集める。この演説は語り継がれて、シェー
クスピアが『ジュリアス・シーザー』の中で、この場面を再現する。]
BC
40
BC40.○【イスラエル】この頃、ユダヤ教の一分派エッセネ派の宗団と思われるキルベ
ット・クムランの住人たちが 、
『死海文書(しかいもんじょ)Dead Sea Scrolls』を書く。[ 1947
年春、ベドウィンが、死海北西岸の古代遺跡クムラン付近の洞窟(どうくつ)群で 7 巻の
羊皮紙巻物を発見する。その後、銅板巻物を含む多くの文書が出土する。主要なものは
エルサレムのイスラエル博物館の「聖書館」に収蔵展示される。これらの巻物は元来、
蓋(ふた)付き円筒形土器に収められ 、羊皮紙やパピルスの場合はインクを使って書かれ、
銅板には字が彫り付けられている。言語はヘブライ語楷書(かいしよ)が主で、ほかにア
ラム語も用いられる。年代は紀元前 2 世紀から前 40 年にわたるが、そこには「エステル
記」を除く『旧約聖書』の最古の写本がみられ、クムラン教団の戒律、思想、聖書解釈
を記した巻もある。]
BC 30
BC30.○【中国】この頃、学者劉向(りゅうきょう)(48 ?)が、成帝に用いられ、外戚の
横暴を牽制(けんせい)し、天子の鑑戒(かんかい)ともなるよう上古から秦(しん)漢に至
る符瑞(ふずい)災異の記録を集成して『洪範(こうはん)五行伝論』11 篇を著して上奏す
る。また宮中の図書を整理する際に撰述(せんじゆつ)して、目録『別録』を編纂する。[向
の子きんが、これによって『七略』を撰(せん)し、これがやがて『漢書(かんじよ)』芸
文志(げいもんし)にほぼそのままの形で収載される。]
BC 27
BC27. 1.16【ローマ】ガイウス・オクタウィアヌス Gaius Octavius(36)が、元老院と属州
統治を分担することになり、アウグスツス( Augustus =尊厳者)の尊称を受ける。アウグ
スツス帝時代が始まる 。
[以後、ローマ領内に出回っているギリシア語とラテン語の予
言書のたぐいをすべて回収させ、2000 種以上を焚書処分にする。
]
BC27.○【ローマ】この頃、大金持ちで淫乱な奴隷ホスティウス・クアドアが、女色のみ
ならず男色もほしいままにし、物体を拡大して映し出す凸面鏡を作り、男と交わってい
るとき、相手の陰茎を大写しして喜ぶ。(セネカ『自然研究』)
- 50 -
BC
19
BC19.○【ローマ】アウグストゥス( 44 )が、コンスル命令権を与えられ、その地位を確
立する。彼は、前 3 世紀前半に完成したアッピア街道の道路上に駅伝の施設を整え、帝
国の大動脈とする。ローマの駅伝は初め、ペルシアの制度に倣って、一定の距離ごとに
飛脚を配し、命令や報告をリレー式に伝達させていた。この制度に改革が加えて、特定
の使者が宿場ごとに車や馬を乗り継いで全行程を走る、という方式を採用する。こうし
て整備された駅伝の制度は公共便 cursus publicus とよばれ、もっぱら国家の公用に供せ
られる。[しかし、駅伝は公衆が利用する施設ではなく、緊急の事態が起こると、公用の
使者は馬車を乗り継いで走る。もっとも急を要する際には騎馬によって走る。しかも施
設の維持はその地域の責任とされ、人民の負担は大きく、生活も圧迫されて、4 世紀に
は「ローマ世界の悪疫」とまで嘆かれるようになる。帝国の衰退とともにこの駅伝制度
も崩れていく。]
BC
18
BC18.○【ローマ】アウグストゥス( 45 )が、共和政時代以来の公私両面の悪習を除き、
家庭生活の健全化を図るための立法を行う。すなわち、公職を得るため贈賄した者を締
め出すことを定めた「選挙買収についてのユリウス法 」、元老院議員身分中、結婚し子
供をもつ者に特権を与え、未婚の者に不利益を課した「結婚規制についてのユリウス法」、
姦通を刑法上の犯罪とした「姦通処罰についてのユリウス法」の三法である。[紀元後 9
年「結婚規制法」はパーピウス・ポッパエウス法により強化される。]
BC
12
B12.○【ローマ】ティベリウスが、アグリッパの寡婦ユリア(27)と結婚するため、前妻
を離別する。
BC 8
BC8.○【ローマ】詩人オウィディウス(51 )が、風俗壊乱の理由で突然アウグストゥス(55 )
の命令によって、黒海西岸に追放される。彼の詩『恋の技巧』がエロチックな表現で良
俗を害したとみなされ、またアウグストゥスの娘エリアをめぐるスキャンダルに連座し
たともいわれる。
BC 1
BC1.○【ヨルダン】イエスがヘロデ王治政下のユダヤのベツレヘムで、ガラリアのナザ
レの大工ヨセフとマリアの間に生まれる。ヘロデ王は東方から来た占星術者がイエスは
ユダヤ人の王であると聞きイエス殺害を企て、ベツレヘムの 2 歳以下の男子を皆殺しに
する。このときヨセフ夫妻はエジプトに避難していて、イエスは生きのびる。
1
1.○【世界 】この頃、世界人口が約 3 億人。[ 1650 年、約 5 億になる。BC 850 年から 1650
年に至る 2500 年間の人口増加率は年率 0.07 %で、この間は 1000 年で人口が倍増すると
- 51 -
いう水準である。]
14
14. 8.19 【ローマ】初代皇帝アウグストゥス( 76 )が、ノラで病死する。ティベリウス(55 )
が皇帝に即位する。処女の死刑を禁止し、死刑宣告の場合は、公衆の面前で死刑執行人
により犯されることとする。
25
25.○【中国】後漢の光武帝が中国を統一する。
28
28.○【ヨルダン】この頃、イエス(34 ?)が、ヨルダン川で洗礼者ヨハネにより洗礼を受
ける。洗礼を受けたイエスは荒野に行き、40 日後、〈悔い改めよ、天の国は近づいた〉
と言い、伝道を始める。
30
30. 4.30【エルサレム】神の子イエス・キリスト(36 ?)がユダヤ人の祭司長、長老らに捕
らえられる。[翌日、裁判により涜神の罪と判断され、磔刑が確定する。]
37
37. 3.16 【ローマ】ティベリウスが死去し、カリグラ(本名ガイウス、25)が第 3 代皇帝に
なる。
38
38. 6.10 【ローマ】第 3 代皇帝カリグラ(26 )の妹で帝と近親相関関係にあったとうわささ
れたドルシラが死去する
41
41. 1.24 【ローマ】第 3 代皇帝カリグラ・ガイウス(29)が、ローマの自邸で暗殺される。
妻、娘も同時に殺害される。
XX
XX.○【ギリシア】アレクサンドリアのヘロン Hero() n Alexsandria (?∼?)が 、
『気体学 』
の中で、硬貨を入れるとその重みで栓が開き,数滴の水が出るという「聖水自動販売機 」
を紹介する。硬化投入式の自動販売機の初めとされる。[以後 、
「聖水自動販売機」はエ
ジプトの神殿に設置されたともいわれている。17 世紀、このアイデアがイギリスで復活、
さらに広くヨーロッパやアメリカに伝わって、タバコ,切手,書籍,菓子などの自動販
売機の考案に生かされる。]
54
- 52 -
54.10.13【ローマ】第 4 代皇帝クラウディウス( 63)が皇妃小アグリッピナ( 39)によって毒
殺され、ネロ(17 )が帝位に就く。
57
57.○【日本】百余国の部落国家の一つ、奴国の王が、後漢の光武帝に使者を送り、印綬
を授かる。[のちに、九州志賀島(しかのしま)で発見された金印「漢委奴国王(かんのわ
のなのこくおう)」がこれではないかといわれる。]
62
62. 2.−【イタリア】ポンペイが大地震に襲われ、住民が不安に陥る 。
[79 年 8 月 24 日、
ベスビオ火山が大爆発を起こす。
]
77
77.○【ローマ】この頃、軍人・行政官・歴史家・博物学者のプリニウス(大)Gaius Plinius
Secundus(53)が、
『博物誌( Historia Naturalis)』を編集し、全 37 巻 2493 章を完成させる。
現存するヨーロッパ最初の百科事典とされる。この頃の博物学の集成で、博物関係著者
ローマ人 146 人、ほか 330 人の著書 1000 余部から 2 万の動植物などを選んで記述する。
第 1 巻は総説、索引的目次、引用書目録。第 2 巻からは分類別に 2 万種の説明がある。
第 2 巻は自然宇宙、第 3 ∼ 6 巻は地理と人類学、第 7 巻は人類学・心理学、第 8 ∼ 11 巻
は動物学、第 12 ∼ 19 巻は植物学、第 20 ∼ 32 巻は薬剤学、第 33 ∼ 37 巻は鉱物学・金
属学となっている。この中に「羊皮紙(パーチメント)(parchment)」の製法についても書
かれている。また、女を裸にして陰部を露出させると害虫が落ちると記されている。[以
後、中世にかけて権威があり、1500 年近くもひろく利用される。1473 年、刊行される。
79
79. 8.24 【ローマ】ベスビオ(ウェスウィウス)山が大爆発をおこす。ポンペイ一帯には大
量の火山灰、火山礫(れき)が降り注ぎ、降灰や溶岩でポンペイの町全体が埋没する。死
者は 2000 人と推定される。[以後、ポンペイは二度と復興されることなく忘れ去られる。
当時のポンペイが都市としての盛期を過ぎていたことが、放棄された理由とされる。16
世紀なかばになって、土に埋もれた古代都市の存在が発見され、1748 年に発掘が開始さ
れる。発掘に伴って、古代ローマ時代の都市生活の実態が明らかにされる。フォルム(広
場)を囲むアポロ、ウェヌス、ユピテルの各神殿、三角広場の大小の劇場、1 万 5000 人
収容の大闘技場などの大建築に加え、車道と歩道が区別され横断歩道すらある街路、食
料雑貨の小売店、酒場などの建物がある。また裕福な商人ウェッティの家、悲劇詩人の
家など富豪の邸宅の豪奢(ごうしゃ)なようすも見られる。郊外の秘儀荘の家からは華や
かなディオニソスの密儀の壁画が発見される。そのほか、逃げ遅れた人間や犬、食事中
のテーブル、さまざまな食物、医療器具、遊具、ポスタ、その他日常品なども多数発掘
され、古代ローマ人の生活がを知られる。ほぼ 8 割が発掘され、遺跡公園として、火山
灰に埋もれる直前の街のたたずまいがそのまま再現されて、多くの見学者を集めている。
アレクサンドロス大王のモザイクなど多くの出土品は、ナポリの国立博物館に収められ
- 53 -
る。遺跡は考古学研究所の管轄下にあって発掘が続けられている。 2003 年、 BBC の
Andrew Wallace-Hadrill が、ポンペイの惨状を CG アニメーションや多くの写真資料で解
説
す
る
。 「
Pompeii:
Portents
of
D i s a s t e r」
http://www.bbc.co.uk/history/ancient/romans/pompeii_portents_01.shtml]
100
100.○【中国】この頃から 300 年代にかけて、磁針を水に浮かべて南北の方位を知るの
に用いられる。
100.○【中国】この頃、許慎(きょしん;Xロ Sh ロn)が、漢字の字形からの分析を体系
的に試みた最初の字書『説文解字(せつもんかいじ;Shu ロ wロn ji ロ zロ) 』15 編を著す。
配列の順序は〈一〉の次は〈二 〉
,その次は〈示〉というように,字形上の連鎖感を配
慮しながら,また十二支所属の文字が最後にまとめて置かれるなど,この頃中国で普通
に人のいだいていた宇宙構成に関する思考をも重ね合わせて決められる。この中に、
〈紙。
絮(じょ)〉を一苫するなり〉とあり、古真綿のくずを簀の子で抄くと紙のようなものが
できていたことを示している。[以後、単に『説文』とも呼ばれ、体系的な字形、字源字
書として千数百年間、唯一絶対の権威として漢字文化圏に通用する。1969 ∼ 1974 年に
日本の白川静が、19 世紀末から発見されるようになった亀甲や獣骨に刻まれた殷代の甲
骨文字や周代の青銅器に刻まれた金文の研究から『説文新義』16 巻を著し、
『説文解字 』
の誤りを正す。]
100.○【インド】この頃を中心に、『法華経(ほけきょう)』『華厳経(けごんきょう) 』
『無
量寿経(むりょうじゅきょう)』などが鋭意編集され、初期大乗仏教が成立する。『
〔 法華
経』は、すべての仏教テキストのうちでも、もっとも重要な経の一つ。サンスクリット
原典はサッダルマ・プンダリーカ・スートラ Saddharmapundar □ ka-s □ tra といい、ネパー
ルにその完全な写本が数種伝えられ、20 世紀初めに完本が出版される 。
『華厳経』は、
詳しくは『大方広仏華(だいほうこうぶつ )厳経 』
。紀元 1 世紀ころこの経の古い部分の
サンスクリット原典「十地品(じゆうじぼん)」と「入法界品(にゆうほつかいぼん)」が
編纂」される 。
『無量寿経』は『大無量寿経』とも呼ばれ、サンスクリット原典「スカ
ーバティー・ビューハ Sukh □ vat □-vy □ ha (極楽(ごくらく)の荘厳(しようごん)」が、
この頃、北西インドで編纂(へんさん)される。]
102
102.○【中国】(永元 14 )鄧が皇后になる。地方からの献上品が〈紙墨のみ〉になる。こ
の頃 、すでに各地で紙の製造がかなり広く行われていた。
(
『後漢書』巻十上の鄧皇后伝 )
105
105.○【中国】(元興 1)宦官の蔡倫(さいりん)が、軽く、薄く、しかも安価な「新型の
紙」を開発し、和帝( 26 )に献上する。[以後、尚方令(宮中の調度品を製作する役所の長
官)に任ぜられ、樹皮,麻,ぼろぎれ,魚網などを原料として、臼の中でたたいて繊維
をもみほぐして紙を造る。のちに竜亭侯に封ぜられ、彼の紙は「蔡侯紙」と呼ばれる。
蔡倫は紙の発明者でなく、改良者である。初期の製紙には麻が主要な原料であったが,
- 54 -
蔡倫の改良によって多くの植物繊維が使用されるようになる。蔡侯紙製法はたちまち中
国全土にひろまり、敦煌からシルクロードを経て 1000 年をかけて西域からヨーロッパに
伝わり、
「紙の千年旅行」と言われる。
(
『後漢書』巻百八宦者列伝)[ 1989.8.2『光明日報』
が、蔡倫の紙よりさらに 200 年以上も前のものと見られる紙が甘粛省の漢時代の古墳の
中で発見され、山脈、川、道路などを描いた地図であることが判明したと報道する。]
127
127.○【エジプト】この頃、天文学者プトレマイオス Ptolemaios Klaudios が、アレクサ
ンドリアで天体観測をする。
[∼ 141 年。地球中心体系に基づくもっとも精緻(せいち)な
天文理論を記述した『アルマゲスト』を著す。以後、プトレマイオスの天文理論が、コ
ペルニクス時代まで,古代,ビザンティン,イスラム,中世ヨーロッパの天文学の中心
となる。また、『地理学入門』8 巻を著し、「ゲオグラフィア(地理学)」を世界地図を描
く学問であるとし,地方図を描く「コログラフィア」と区別する。8 世紀に、イスラム
世界に導入される。1409 年あるいは 10 年、アンゲルスによりラテン語訳され『コスモ
グラフィア(宇宙誌)』の名で以後の地図学に大きな影響を与える 。
]
138
138.○【ギリシア】医師ソラヌスが、簡単な避妊法を提唱する 。
〈射精の際、女は息を止
め、身体を少し後に引く。そうすれば精子は子宮に入らない。その後、直ちに膝を曲げ
て座り、くしゃみをする〉と説く。
150
150.○【中国】この頃、中国で発明された製紙技術が、初めて国外に流出して、辺境の
トルキスタン地方までの移転が行われる。
150.○【エジプト】この頃、アレクサンドリアの天文学者プトレマイオスが、世界地図
を掲載した地理書を出版する。これらの地図は、数学的に正確な円錐図法を採用してい
る。しかし、アフリカ大陸が南方に極端に広がっていたり、インド洋が大きな内陸海に
なっていたり、多くの間違いがある。
169
169.○【ローマ】ギリシアの医学者ガレノス Claudius Gal □ nos( 40 ?)が、ローマ皇帝マ
ルクス・アウレリウス(在位 161 ∼ 180 )の遠征軍に参加してローマに帰還する。[以後 、
王子コンモドゥスの侍医となり、主として著述に努める。著作は医学に関するもののほ
かに、哲学、文法、数学にまでわたる。解剖学、生理学に関しては、人生理学上の実験
や、体解剖は禁止されているので動物解剖を頻繁に行って、人体の働きや構造について
優れた考えを示し、医学に一定の科学的基礎を与える 。
「ゴノリア(種の流出=淋病)
」
という言葉もガレノスが作る。ガレノス医学は、1400 年もの長期間、中世ヨーロッパの
医学に大きな影響を与える。ガレノスの生理学説、なかでも血液の生成・流れと精気
pneuma の問題に関する誤った学説が永く一般に信じ込まれる。17 世紀にハーベーの血
液循環説が打ち出されて、ガレノスの学説は打ち砕かれる。]
- 55 -
175
175.○【中国】[熹平 4] 霊帝( 18)が、正しい経典を広めるために、学者たちにテキスト
を書かせ、これを 46 枚の石に彫って石経とし、洛陽の大学(講堂)門外に建てさせる。古
文・篆(てん)・隷(れい)の 3 種の字体で彫られたので「三体石経」と呼ばれる。大勢の
市民が集まり、これの拓本をとる。摺拓法と呼ばれ、彫られた文字の上に湿った紙をの
せ墨をつけたタンポンでその上を叩くと、彫られた部分が白く抜かれて文字が浮かび上
がる。文字の複製法の一種で、原初的な印刷の始まりか?[653[永徽(えいき) 4]年、唐の
太宗の『温泉銘』の拓本が作られ、墨書される。]
180
180.○【ギリシア】この頃、地誌学者・著述家パウサニアス Pausanias( 65 ?)が、
『ギリ
シア案内記』10 巻を完成する。アッティカ,メガラ,コリントス,アルゴリス,ラコニ
ア,メッセニア,アカイア,アルカディア,ボイオティア,フォキス,デルフォイなど
ギリシア本土の各地の都市,聖域,名所,神殿などを歴訪する旅人のための案内書の形
をとり,各地の史跡にまつわる伝承や史実,神話などを織りまぜながら,過ぎにしギリ
シアの栄光を物語る。自然の風景について語るところは皆無に近いが,神殿や公共の建
築物や記念碑の類,また絵画,彫刻,その他の工芸美術品について詳記しているところ
が多く,古代ギリシア・ローマの芸術史の手引としても貴重な資料となる。また,ギリシ
アの諸地方に口碑として伝わる珍しい神話伝説も多く記録されている。
189
189.○【日本】この頃、邪馬台国の卑弥呼が、周辺諸国を統一して倭国の女王となり、
三十余国を支配し 、〈嫁に行かず、鬼神の道につかえ、よく妖をもって衆を惑わした〉
と中国の『魏志』倭人伝に書かれる。また、同書には、女性支配者がいる一方で男性首
長の多くが何人もの妻を抱えている、として〈国には女子多く、大人は皆、四、五婦、
下戸も或は二、三婦、婦人淫せず、妬忌せず〉と記述する。
200
200.○【日本】弥生時代。人口が約 59 万人。(国立社会保障・人口問題研究所『人口統計
資料 2004』)
200.○【中国】この頃、棒状の磁石を紐(ひも)で吊るすと、磁石が南北方向を指すこと
を発見し、磁石が方位を知る道具として使用され始める。腹に磁石を入れた木製の指南
魚などが作られる。これまで磁石は実用的に用いられることはほとんどなく、むしろ物
を動かす磁石には霊魂があると信じられたり、ニンニクによってその力は失われるとさ
れ、呪術・秘術的なものとされていた。古代中国では占いに用いられていた。[11 世紀
ごろ、アラビア人によってヨーロッパに伝わる。1310 年、羅針盤(コンパス)に応用さ
れる。]
200.○【インド】この頃、百科全書的な宗教聖典『マヌ法典』の原型ができあがり、ヒ
ンドゥー教に強く彩られた慣習法として集大成される。マヌとは「人類の始祖」を意味
- 56 -
し、いっさいの「法」(ダルマ)に関する最高権威として崇(あが)められ、本書の成立と
結び付けられている神話的人物である。12 章に分かれ、2684 条のサンスクリット語韻文
で書かれる。万物の創造から説き始め、人が一生を通じて行うべき各種の通過儀礼や日
々の行事、祖先祭祀(さいし)、学問、生命周期に関する規定、国王の義務、民法、刑法
および行政に関する規定、カースト制の厳守規則や贖罪(しよくざい)の方法、最後に輪
廻(りんね)と業(カルマ)および解脱(げだつ)に関する議論が詳細に論じられる。法律
論的条項のうちには、相続法、婚姻法、裁判手続などもみられる。生殖に関しては、〈子
は父の再生であり女は子を産む道具に過ぎない〉とする「田地種子論」を示す。]
200.○【ローマ】この頃、ペルシャを起源とする密儀宗教ミトラス教がローマ帝国の各
地に広まる。信徒は男に限られ、断固たる勇気、禁欲、純潔を理想とし、入信の儀式に
は 7 つの階梯があり、厳しい試練を克服しなければならない。ミトラス教の創造神話で
は、ミトラス神が殺した雄牛の血から生命と植物、そして最初の人間の男女が生まれた
とされる。
218
218.○【ローマ】シリアのへリオガバルス(エラガバルス)(14)が、軍隊に推薦されてロ
ーマ皇帝になり、アウレリウス・アントニヌスと称する 。
〔エメサの太陽神の神官で、セ
ウェルス帝の妻の妹の孫で、一説に、カラカラ帝の庶子ともいわれる。
〕
219
219.○【ローマ】皇帝アウレリウス・アントニウス(15)が、ローマに移る。女装を好み、
それに止まらず奴隷に恋して、彼のために下腹部に女性器をつける手術を受ける。[のち
の性転換の元祖とされる。]
222
222. 3.11【ローマ】皇帝アウレリウス・アントニウス(18)が、女装して素行おさまらず、
軍隊の暴動により殺される。
239
239.○【日本】卑弥呼が、朝鮮の帯方(たいほう)郡の太守を介して魏の明帝に朝貢し、
皇帝から「親魏倭王」の称号と金印紫綬、銅鏡 100 枚を与えられる。[以後、卑弥呼が死
に、いったん男が王になるが倭国は混乱する 。卑弥呼一族の壱与(いよ)が女王に即位し 、
再び国が治まる。266 年、壱与が晋に使者を送る 。このことが『晋書』に記述されるが、
以後約 150 年間、中国の歴史書に日本についての記述が絶える。]
269
269. 2.14 【イタリア】この年か 270 年、後顧の憂いを絶つため遠征する兵士の結婚を禁
じたローマ皇帝クラウディウスに反対した司祭バレンタイン(ウァレンティノス;バレン
ティヌス)が処刑される。[以後、聖バレンタインは、恋人たちの守護者とつたえられる 。
のち、2 月 14 日が、古代ローマのルペルカリアの祭(2 月 15 日)が、ローマの殉教者 2 人
- 57 -
(司祭バレンタイと司教テルニ)を記念した祭日(2 月 14 日)とむすびつけられるようにな
る。中世後期、2 月 14 日を「バレンタイン・デー(Saint Valentine's Day )」とされ、この
日が鳥の交配期の始まりと信じられるようになる。キリスト教の行事に加えられ、恋人
たちの愛の誓いの日になる。]
280
280.○【中国 】晋の天下統一が成る。三国時代が終結する。この頃、男色(男寵、南風、
龍陽癖、 餘桃断袖)が大いに興り、女色よりも甚だしくなる。
28 4
284.11.20【イタリア】ローマのヌメリアヌス帝が殺害され、ディオクレティアヌス( 39?)
がローマ皇帝に即位する。軍人皇帝時代が終わる。[以後、帝国組織の統治全般の抜本
的な機構改革を断行する。また、占星術の廃止をめざす。
]
300
300.○【インド】この頃、バーツヤーヤナ(マッラナーガ)作の性愛論書(カーマ・シャー
ストラ)『カーマスートラ K ´ mas 仝 tra』が成立する。古来,インドではダルマ(法),
アルタ(実利),カーマ(性愛)を人生の三大目的(トリ・バルガ)とするが,バーツヤーヤナ
は特にカーマを学ぶ意義を強調してこの書を著す。7 巻(アディカラナ),1250 詩節より
なり、第 1 巻「総論」,第 2 巻「性交」
,第 3 巻「処女との交渉と結婚」
,第 4 巻「妻に関
すること」
,第 5 巻「他人の妻」,第 6 巻「遊女について」
,第 7 巻「秘法」である。
306
306.○【イタリア】コンスタンティヌスⅠ世 Constantinus I,Flavius Valerius( 26?)が、副帝
に擁立される。副帝だったセウェルスが正帝になる。
[310 年頃、正帝になる。初めてキ
リスト教の公認と宗教自由の原則を決定する。史上最初にキリスト教に改宗した皇帝と
して,キリスト教史上刮目(かつもく)すべき位置を与えられ,ローマ帝国の劇的転換の
立役者とされる。また、すべての占星術を自分一人の独占物にしようとし、特に皇帝の
身に関する予言にだけは禁止する 。
]
348
348.○【中国】(前涼建興 36)この頃の紙には、すでにセッコウの類を紙面に塗布し、紙
質を変え吸墨性をよくする「サイズ」の方法が施されている 。
[以後、この年の紙が後
世に出土する。18 世紀、ヨーロッパでこの方法が行われるようになる。
]
350
350.○【インド】この頃、西インドで、大乗仏教とヒンドゥー教が習合して、前期密教
が興る。呪術を中心として現世利益を期待する仏教で、密教として体系化に至っていな
い「雑教」である。[ 650 年以後、インド大乗仏教の末期に、大乗仏教の『般若経』や『華
厳経』の思想や中観(ちゅうがん)派、瑜伽行(ゆがぎょう)派などの思想を基盤とし、さ
- 58 -
らにヒンドゥー教の影響を受けて、にわかに密教が興起する。]
353
353. 3. 3【中国】東晋の会稽内史に任じられ、会稽郡山陰県(のち、浙江(せっこう)省紹
興府)に赴任した能書家王羲之(46)が、山陰県の名勝蘭亭に名士謝安、孫綽(そんしゃく)
らを招き宴を催し、詩を賦す。[以後、このとき詠まれた詩で編まれた『蘭亭集』に、王
羲之は序文「蘭亭序」を揮毫する。曲水(きょくすい)の宴として後世に伝わる。]
357
357. 4.28 【イタリア】ローマの再統一を図るコンスタンティウスⅡ世(40 )が、ローマに
入城し、帝位僭称者マグネンティウスに対する勝利を祝う。占星術と腸卜を禁止する。
369
369.○【インド】ブラフマン(司祭階級)のバーツヤーヤナ(パトシャヤーナ、マッラナー
ガ)が、330 年からこの頃までに、古来インドでダルマ(法),アルタ(実利)と並んで人生
の三大目的の一つとされてきたカーマ(性愛)の意義を強調して、性愛の教典『カーマス
ートラ K ´ mas 仝 tra』をまとめる。7 巻(アディカラナ),1250 詩節よりなり、第 1 巻
〈総論〉,第 2 巻〈性交〉,第 3 巻〈処女との交渉と結婚〉
,第 4 巻〈妻に関すること〉
,
第 5 巻〈他人の妻 〉
,第 6 巻〈遊女について〉,第 7 巻〈秘法〉で構成される。[以後、現
存する古代インドの性愛論書(カーマ・シャーストラ)のうちで,最も古くかつ重要な文献
とされる。]
375
375.○【バルカン半島】遊牧民族のフン族が、黒海沿岸にあったゲルマン系の東ゴート
王国を征服する。フン族により同じく圧迫されていた西ゴート族も、ドナウ川を渡りロ
ーマ帝国領内に移住する。ゲルマン民族大移動 V □ lkerwanderung の発端になる。[以後、
西ローマ帝国の滅亡を経て帝国領内の各地にゲルマン民族が定住し、諸部族王国を建設
する。6 世紀末までの 200 年余の過程が「民族大移動」、あるいは「ゲルマン人の侵入
(German invasions) 」、
「蛮族の侵入( Barbarian invasions)」などとよばれる。]
393
393.○【ギリシア】第 293 回オリンピック競技が開催される。[394 年、ローマ皇帝テオ
ドシウスⅠ世の異教禁止の影響を受けて、1000 年以上続いてきたオリンピア競技が幕を
閉じる。]
400
400.○【アルメニア】4 世紀初頭に世界最初のキリスト教国になったアルメニアで、この
頃、独自のキリスト教文化が発達している。修道士メシュロプが、36 字からなるアルメ
ニア語を表記するアルファベットを考案し、シリア語聖書にもとづき新約聖書と箴言を
翻訳する。
- 59 -
404
404 ○【朝鮮半島】高句麗広開土王碑文に、「倭寇」の文字が初めて現れる。[ 1223 年、
文献に〈倭、高麗の慶尚道金州を寇す〉と初出する。以後、豊臣秀吉の朝鮮出兵も 20 世
紀の日中戦争もひとしく倭寇の文字であらわされる。]
406
406.○【日本】この頃から、大和政権の全国統一が進む。
406.○【日本 】王仁(わに)が、百済(くだら)王に命じられて日本に渡来し、
『論語』10 巻、
『千字文』1 巻を応神天皇に貢進する。儒教と漢字が日本に伝えられる。[以後、王仁は 、
和邇吉師(わににきし)とも呼ばれ 、
朝廷の文筆に従事した西文首(かわちのふみのおびと)
の祖、また学問の祖とされる。一族は、河内(かわち)の古市(ふるいち)(のち、大阪府羽
曳野(はびきの)市)に居住し、文字の使用、普及に貢献する。]
406.○【アルメニア】僧メスロップ(メスロープ)Mesrop が、聖サハクの協力を得て、母
音字 6 、子音字 30 のそれぞれ大文字・小文字からなる独特のアルファベットを創案して、
キリスト教徒のために聖書の訳書を作る。また、メスロップは、グルジア文字も創案し
たといわれる。グルジア文字(あるいはムケドルリ)は、母音字 5 、子音字 28 からなるア
ルファベットで、大文字・小文字の区別はなく、左から右に横書きされる。
409
409.○【イタリア】西ローマ皇帝ホノリウス(25 )と東ローマ皇帝テオドシウスⅡ世(7 )が、
占星術師らに対し、司教の立ち会いのもとで所持する書物をすべて焼却するよう命じ、
この命に背いた者は国外追放に処する、と宣告する。
411
411. 7. 1【地中海】カルタゴの会議が始まる。会議の議事は速記者ヒラリウスが監督に
なり、多数の速記者が従事する。
413
413.○【日本】大和政権が 、中国南朝の宋との交流を始める。[以後 、中国側は日本を「倭
の五王時代」と呼ぶ。五王とは、讃、珍、済、興、武で、それぞれ仁徳(または応神)、
反正、允恭、安康、雄略天皇とされる。いずれの王も宋へ朝貢する。]
414
414.○【ヨルダン】文献学者・修道士ヒエロニムス Eusebius SophroniusHieronymus(69 ?)
が、ヘブライ語の『旧約聖書』原典からのラテン語訳を完成する。[以後、
『ブルガータ
ー(ウルガーター)聖書』と呼ばれ、中世ヨーロッパに広まり、唯一の聖書として重んじ
られる。ローマの貴族層の女たちのなかに、教えに従うものが現れる。]
415
- 60 -
415.○【エジプト】ギリシア人の女性科学者ヒパチアが、学園に行く途中、アレクサン
ドリアの司教職キリロス一味の修道士のなかの暴徒たちに襲われる。ヒパチアは街路で
真っ裸にされ、教会に引きずっていかれて棍棒でなぐり殺される。その死体は寸断され、
肉は貝殻で骨から削りとられ、そのあとばらばらになった肉片や骨片は火中に投げ込ま
れる。キリロスは、聖母マリアの崇拝を広め、巧みな説教で信者から好評を博していた
が、この犯行についてはローマ教皇庁から一度も弁明を求められない。[以後、ヒパチア
の惨殺は世俗的な学問や知識を望む人々への警告と受けとめられ、アレクサンドリアで
のギリシアの学問は終わりを告げる。]
439
439.○【中国】太武帝が北涼を滅ぼし華北を統一する。南北対立の形成なり、南北朝時
代が始まる。この頃、同性愛が大流行し、一般人士もこれにならう者が続出する。夫婦
離別する者も出る。
496
496.○【
じる。
】ゲラシウス教王が、教令を発して、多数の教外典や異端の書の読書を禁
500
500.○【インド】この頃、0(零)が位取り記数法において、ある位が欠けていることを
表す記号として認識される(一説には紀元 5 ∼ 6 世紀)
。
[以後、何も存在しないことを
表す0が、整数の一つとして取り扱われるようになる。0を用いた位取り記数法は、イ
ンドからアラビアを経てヨーロッパに伝わる。そのため、「アラビア数字」と呼ばれる
ようになる。
]
512(継体天皇6)
512.[ 12.−]【日本】百済の求めに応じて、任那の 4 県 、上(口+多)(口+利) 、下(口+多)
(口+利)、婆陀、牟婁を割譲する。(『日本書紀』)
513(継体天皇7)
513.○【日本】任那(みまな)割譲によって領土を拡大した百済が、代償で、儒学者段楊
爾(だんように)を、大和朝廷に派遣する。『易経 』
『詩経』『書経 』『春秋 』『礼記』に精
通し教授した「五経博士(ごきょうはかせ)」と呼ばれる。日本への帰化ではなく年期を
定めた貢上・交代制による派遣で、百済からの文化輸入の役割を果たす。[ 516 年、彼を
帰国させ、代わって漢高安茂(あやのこうあんも)を派遣する。この頃から、日本の知識
層は、子は男女の性交によって生まれることを初めて認識する。さらに、子は父と母の
精が和合して生まれるという仏教の生殖観と、子は父の子種から生まれるという中国の
生殖観があることを知るが、現実に母が子を産む姿を見てきた日本人は、父が真の親で
あるという異国の教えを心底から信ずることはできなかった。](市川茂孝『日本人は性
をどう考えてきたか』)
- 61 -
524
524.○【イタリア】この頃、東ゴート王テオドリックの下で執政官、元老院議長、宰相
などの要職を歴任した哲学者ボエティウス Amicius Manlius Severius Boethius( 44 ?)が、
ビザンティン帝国と通じて王に陰謀を企てたとして北イタリアのパヴィアで投獄される。
獄中で『哲学の慰め De consolatione philosophiae』 5 巻本を書く。さらに獄中でアリスト
テレス、プラトン、ポルフィリオスら古代哲学者の全著作の翻訳を試みるが、完成を待
たず処刑される。[以後、
『哲学の慰め』は、哲学に導かれて神と摂理の善性を認識する
ことによる運命の肯定を主題とし、広く一般に読まれ、ヨーロッパ中世前期の思索に基
本的道具を与える。幾何、算術、天文学、音楽の 4 学科に関する著作も行ったが、『算術
教程』と『音楽教程』だけが残される。]
525
525.○【イタリア】ローマのディオニシウス・エクシグウス Dionysius Exiguus(497 ころ
∼ 550 )が、キリスト生誕の年を起点にした西暦紀元を創設する。[532 年、復活祭表に
初めて用いられる。しかし、彼はキリスト生誕の年を実際よりはすこし遅らせていると
いわれる。また、最初の年をゼロ年でなく、紀元 1 年 1 月 1 日から始めたため、世紀(セ
ンチュリー)や千年期(ミレニアム)に関して、一般の人の間に混乱を生じさせる。以後、
西暦は、各国の暦法のいかんにかかわらず、広く国際的に用いられるようになる。]
529
529.○【ギリシア】ユスチニアス皇帝が、アテネでの哲学の授業を禁止する。800 年以上
続いたプラトンのアカデメイアも幕を閉じる。
529.○【イタリア】ヌルシアのベネディクトゥス Benedictus Nursiensis(49 ?)が、少数の
弟子とともにモンテ・カッシーノに移って最初の修道院を創設する。共同の定住生活に基
づき「祈りと労働」をモットーとする組織的修行形式を規定した修道戒律を制定し、清
貧や祈祷、伝道などとともに、読書の重要性を強調する。[ 540 年、モンテ・カッシノに
図書館を持つベネディクトゥス中央修道院を設立する。この中で書写室が設けられ、聖
書や典礼書などの写本の生産が始まる。]
532
532.○【イタリア 】525 年にローマのディオニシウス・エクシグウス Dionysius Exiguus(497
ころ∼ 550 )が創設した西暦が、復活祭表に初めて用いられる。
538(宣化3)
538.○【日本】百済の聖明王が、仏像、経論を朝廷に献上し、仏教が日本に伝来する。[別
説は 552 年(欽明 13 )。]
540
540.○【イタリア】この頃、東ゴート王テオドリックに仕えた政治家カッシオドルス
- 62 -
Cassiodorus( 53 )が、ゴート戦役中に政界を退き、モンテ・カッシノのヴィヴァリウム
Vivarium (養魚池の意)に図書館を持つベネディクトゥス修道院を設立し、古代の文献の
収集・翻訳・書写を行う。[のちに「ヴィヴァリウム」がこの図書館の通称になる。以後、
この整備された図書館は、西ヨーロッパ各地の修道院図書館の手本となり、写本センタ
ー「スクリプトリウム(書写室)」が次々とできる。中世では写本作りはもっぱら書写室
で細々と行われ、書写は僧侶の義務となる。写本作りの仕事は、総監督のもと、修道士
の写字生、訂正係、装飾師、製本師らの共同作業で行われる。12 世紀に、大学の興隆と
ともに、写本作りが商売として成り立つようになり、大学町に書写を専業とする写字生
が誕生する。20 世紀に、アラン・ケイが、ヴィヴァリウムに関心を持つ。](松岡正剛『情
報の歴史を読む』1997 )
554(欽明天皇15)
554. [ 2.−]【日本】百済からの五経博士王固徳馬丁安(ことくめちようあん)が柳貴(おう
りゅうき)と交替する。また僧 9 人も交替する。
590
590.○【ヨーロッパ】この頃、英語とドイツ語が分岐し始める。(モリス・スウォディッ
シュによる仮説。
)
592
592.○【日本】最初の女帝推古天皇( 38 )が即位する。第 33 代天皇とされる。厩戸(うま
やど)皇子(聖徳太子)を摂政(せっしょう)とする。
600(推古 8 )
600.○【日本・中国】(開皇 20)倭王阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)(推古天皇)が、
随に最初の使いを送る。
604(推古12)
604.[ 4. 3]【日本】聖徳太子が、自ら作成中の憲法十七条の草案を発表する。中国大陸
の文物制度の影響を受けて作られた斬新なもので、日本最初の成文法となる。
607(推古15)
607.[ 7. 3]【日本・中国】(大業 3)聖徳太子( 33 ?)が、600 年の遣隋使派遣以来、2 度目
の遣隋使として、冠位大礼の小野妹子ら数百人を随に派遣する。小野妹子らは、国書を
携え、随が復興した仏教を本格的に摂取すること、中国の国家体制の根幹をなす儒教の
礼制を学ぶことを使命とする。
607.○【日本】推古天皇( 53 )と聖徳太子が、用明(ようめい)天皇の遺命を受けて法隆寺
と薬師像を完成する 。
〔建立年代については 、
『興福寺年代記』の推古 7 年説、
『興福寺
略年代記』の推古 21 年説など、諸説がある。〕
- 63 -
610(推古18)
610. 3.−【日本】高句麗の僧曇徴(どんちょう)が来日し、文字や一般文具の製法を伝
える。また紙の製法も伝えたかも知れない。曇徴は〈五経を知り,またよく彩色及び紙
墨を作り,そのうえ碾磑(てんがい(を造る〉という。製粉用の碾磑については,とく
に〈碾磑を造ること,ここに始まる〉と書かれている。紙などについてはこうした記載
はないので、曇徴が製紙術を最初に伝えた人物であったかどうかは疑わしく,あるいは
それ以前に製紙術は伝わっていたのかもしれない。この頃、すでに戸籍用紙など膨大な
公用紙を必要とする国家機構の整備が始まっているので,曇徴以前に製紙技術は伝来し
ていた可能性が考えられる。『
( 日本書紀』)
610.○【インド】この頃、西インドで、中期密教の体系化が進み 、
『大日(だいにち)経』
が成立する。[ 650 年頃、南インドで『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)が成立する。]
610.○【サウジアラビア】ムハンマド Muh.ammad(マホメット)( 40 ?)が、ある夜、いつ
ものようにヒラー山の洞窟に籠っているとき、突然、異常な体験をする。天使ガブリエ
ルが現れ、巻物で彼ののどくびを押さえ付けるようにして 、〈誦(よ)め〉という。これ
がアッラー(神)からの最初の啓示となる(『コーラン』96 章 1 ∼ 5 節)。混乱と苦悩のの
ち、やがて彼は預言者としての自覚を得て伝道を開始する。[以後 、イスラムが成立する。
614 年、ムハンマドが、メッカでイスラムの布教を始める。20 余年にわたってアッラー
が、天使ガブリエルを通してムハンマドに、天にある「啓典の母体」から読み聞かせた
とされる啓示を人々が記憶し、ムハンマドの死後結集(けつじゅう)して『コーラン』が
つくられる。]
622(推古30)
622. 7.16 【サウジアラビア】木曜日。イスラム教の預言者ムハンマド Muh.ammad(マホ
メット)が、信徒とともにメッカからメディナに「遷行・移住」する。これを「ヒジュラ
(ヘジラ)(Hijra )」という。[636 年、イスラム教主第Ⅱ世オマル'Umar (在位 634 ∼ 644)
が、この 622 年を太陰暦の「イスラム暦(ヒジュラ暦、マホメット暦、回教暦)
」紀元元
年とする。ヒジュラは、預言者がメッカで迫害を受けたことから、しばしば「逃亡・逃
避」と訳されるが、Hijra の動詞形 hajara は、本来、
〈だれだれとの交わりを断つ〉との
主体的意味をもつ。したがって、ヒジュラは単なる受身の逃亡ではなく、メッカに見切
りをつけ、新天地を求めてのメディナへの「移住」を意味する。ヒジュラの行われた年
がのちにヒジュラ暦の起点とされるのは、このような意義を認めてのことである。]
623(推古31)
623.○【スペイン】セビーリャのイシドルスが、
『語源論』20 巻を纂する。[以後、百科
事典的著作として中世に高く評価される。]
627(推古35)
627. 8.−【中国】(貞観 1) この頃、玄奘(げんじょう)(25)が、仏教教義主義に疑問を抱
き、原典の研究が必要と決断するが、公務以外の国外旅行が禁じられているため出国許
可がおりない。ついに意を決して国禁を破り、ひそかに長安を出発する。
(一説に 629 年
- 64 -
ころ)[以後、天山南麓(なんろく)を経由し、ヒンドゥー・クシ山脈を越えて、インド北
辺から中インドに入る。]
629(舒明1)
629.○【中国】唐の太宗の命を受けた魏徴(ぎちょう)、長孫(ちょうそん)、無忌(むき)
らが、『隋書(ずいしょ)』を編纂する。東夷伝倭国条に、日本からの使者(遣隋使)から
聞いた日本の風俗について次のように記述される。〈倭国の後宮には女が六、七百人い
る。姦通は殺人強盗と同様に死罪である。人民は物静かで訴訟は稀である。文字はなく 、
木を刻み縄を結ぶだけである。百済から仏法を得て、初めて文字を知った。女が多く、
男が少ない。婚嫁には同姓を取らない。男女は愛し合えばすぐ結婚する。女が夫の家に
入るには必ず火を跨ぎ、そこで夫と互いにまみえる。
〉(市川茂孝『日本人は性をどう考
えてきたか』)。
629.○【中国】唐の高僧玄奘(げんじよう)(三蔵(さんぞう)法師)(27 )が、インド旅行に
出発する。[645 年、帰国する。]
630(舒明2)
630. 8. 5【日本】最初の遣唐使、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(くすしえ
にち)が使節として出発する 。
国際情勢や大陸文化を学ぶための始めての公式使節となる。
[894.[9.30]菅原道真の建議により派遣が中止される。この間、十数回派遣された。以後
も、民間の貿易、通交は続けられる 。
]
630. 8.−【インド】玄奘(げんじょう)( 28)が、インドに入り、マガダ国のナーランダ僧
院に至り、シーラバドラ(戒賢(かいけん))法師と対面(一説に 634 年)する。[以後、
法師について『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』を中心に学ぶこと 5 年に及ぶ。635 年いっ
たん師のもとを去り、東インドから南インド、さらに西インドを経由してインド半島一
巡の旅を終える。638 年ナーランダ僧院に戻り、師と再会。その後は近辺の諸師につい
て学んだが、とくにジャヤセーナ(勝軍(しょうぐん))居士(こじ)について 2 年ほど唯
識(ゆいしき)の論典を中心に学んだことが注目される。640 年、東インドのクマーラ王
の招聘を受け、彼の王宮に 1 ヵ月ほど滞在、さらに中インドのシーラーディティヤ(戒日
(かいにち))王に招かれる。翌 641 年プラヤーガでの 75 日の無遮(むしゃ)大会に参列し
たのち、秋に帰国の途につく。]
631(舒明3)
631.○【中国】唐朝の太宗の勅命で魏徴(ぎちょう)ら学識ある高官たちが、
『群書治要(ぐ
んしょちよう)』50 巻を編纂する。経書をはじめ正史や諸子の書六十数種から、為政者
の参考となる箇条を抜き出してまとめたもの。[以後、散逸する。日本に伝わり、皇室や
武家に重宝される。1616 年、徳川家康の命により駿河で活字版が印行される。]
635(舒明7)
635. 6.10 【日本】百済の使節が朝貢する。
635.○【中国】オロボン(阿羅本)を団長とする伝道団が、長安に到着する。キリスト教(景
- 65 -
教)がはじめて中国に伝わる。
636(舒明8)
636.○【サウジアラビア】イスラム教主第Ⅱ世オマル'Umar(在位 634 ∼ 644)が、イス
ラム教の預言者ムハンマド(マホメット)がメッカからメディナに脱出した西暦 622 年 7
月 15 日木曜日を紀元年数の起算点と定め、その年を太陰暦の「イスラム暦(ヒジュラ暦 、
マホメット暦、回教暦)」紀元元年とする。[これをヒジュラ紀元という。この 7 月 15 日
という元期は天文学的に新月などの日付を計算するときに用い、実際はその翌日の月光
を初めて認めた 7 月 16 日金曜日から数える。閏(うるう)年は 30 年に 11 回で、ヒジュラ
紀元を 30 で割り、その残りが 2、 5、 7、10、13 、16 、18 、21 、24 、26 、29 となる年を閏
年とする。
645(大化1)
645. 1. 7【中国】玄奘(三蔵法師)(43)が、約 16 年間インドで収集した仏典・仏具類を乗
せた馬 20 頭を引き連れ、帰国する(一説に 643 年 )
。長安では高官たちが列をなしてこの
高僧の帰還を出迎える。玄奘は、仏像、仏舎利(ぶっしゃり)などのほか、サンスクリッ
ト原典、総計 520 夾(きよう)、657 部を持ち帰る 。[2 月 1 日、高句麗(こうくり)遠征準
備のため洛陽にあった太宗皇帝に拝謁。3 月、長安に戻り、弘福(ぐふく)寺に住して仏
典の翻訳準備にかかる。5 月 2 日、
『大菩薩蔵経(だいぼさつぞうきょう)』の翻訳に着手。
以後、訳場を弘福寺、弘法(ぐほう)院、慈恩(じおん)寺、玉華(ぎょくか)寺に移しなが
らも、訳経組織を整備して編集チームとともに死の直前までつねに翻訳に従事する。訳
出された仏典の総数は、『瑜伽師地論』、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』など瑜伽唯
識の論典を中心に計 75 部 1335 巻に及ぶ。この分量は中国歴代翻訳総数の 4 分の 1 弱に
相当する。質的な面でも、訳語の統一を図り、原文に忠実たらんとした跡がみられ、中
国訳経史上に一時代を画したため、彼以降の訳を「新訳」
(以前の訳を「旧訳(くやく)」
と呼ぶ。646 年ころ、帝の求めに応じてインド・西域に関する見聞録『大唐西域記(だい
とうさいいきき)』を弟子の弁機に編述させ、完成する 。664 年(麟徳 1)2 月 5 日 、63 歳(一
説に 65 歳。ほか異説あり)で示寂。]
645. 7.10 [6.12]【日本】未明に中大兄皇子が中臣鎌足らと、権勢をふるっていた蘇我入
鹿を宮中で暗殺する。大化の改新の始まり。
645. 7.17 [6.19]【日本】初めて「大化」と元号をたてる。
645. [8. 5]【日本】男女の法を定め、良・賤の区別を明らかにする。人民を良人(りょう
じん)と奴婢(ぬひ)に 2 分し、各身分間の所生子の帰属(所生の奴婢については主に所有
権)を規定する。良人男女間の子は父に配する。良男と婢の間の子は婢に配し、良女と
奴の間の子は奴に配し、奴婢間の子は婢に配し主家の所有とする(奴婢となる)。寺家
の仕丁(しちょう)(隷属民)は、奴婢とされている場合以外は良人に準じて法が適用さ
れる
646(大化2)
646.[ 1. 1]【日本】大化改新の詔(みことのり)を発布する。この詔で、公用文書の伝達
- 66 -
のため駅馬(えきば)、
伝馬(てんま)を置くことが示される 。
京都∼九州太宰府間に約 16km
間隔で駅馬を置き、緊急公用情報は使者が馬を乗り継いで 5 日間で走る。[ 701 年、大宝
令(たいほうりょう)によって制度的確立をみる。平安時代後期に、宿駅制度となり、住
民に次の宿駅までリレー輸送を義務づける。1872 年、宿駅制度が廃止され、その後の鉄
道の発達におされるかたちで宿場町は衰退する。]
646.○【中国】唐の高僧玄奘(げんじよう)(三蔵(さんぞう)法師)がインド旅行(629 ∼ 645 )
中の見聞を語ったものを、弟子の弁機(べんき)が筆録した『大唐西域記(だいとうさいい
きき) 』12 巻が成る。玄奘の歩いた順に、138 ヵ国にわたって 、地理 、風俗 、産物、言語 、
伝承、仏教事情が述べられている。[以後、この時代のこれらの地方の民族や政治、文化
などを知るうえの貴重な史料となる 。
]
650(白雉1)
650.○【インド】この頃、南インドで中期密教の体系化が進み 、
『金剛頂経(こんごうち
ょうぎょう)』が成立する。
653(白雉4)
653.○【中国】[永徽(えいき) 4] 唐の太宗の『温泉銘』の拓本が作られ、墨書される。
拓本技術の跡をとどめる。[のちに敦煌石窟(とんこうせっくつ)で発見される。この頃、
版材に木を使った最古の凸版印刷である「木版」が行われ、経典、仏像、紙幣などの印
刷に使われ始める。]
667(天智6)
667.[ 3.19 ]【日本】中大江皇子(42 )が、大王の宮を琵琶湖西岸の大津宮に移す。新羅(し
らぎ)侵攻の脅威のもと、外敵の攻めにくい内陸部に位置し、人心を一新し、東西南北に
水陸の交通網が広がる利点に着目する。[以後、人々の評判は悪く、火災など異常が頻発
する。670.[6.24]壬申の乱が起こり、都は兵火で廃虚となる。572.冬 大海人皇子(天武天
皇)が、飛鳥浄御原(きよみはら)宮(のち、奈良)に都を移す。]
668(天智7)
668.[ 1.3 ]中大江皇子(43)が即位して、天智天皇となる。
○【中国】(総章 1 )唐の高宗が、宮中で『老子化胡経(ろうしかこきょう)
』の真疑を対
決させた結果、仏教側が勝利し、いっさいの『老子化胡経』の焼棄を命じる。老子が釈
迦を教えたと説く道教の偽経『老子化胡経』に対抗して、仏教側も老子を仏弟子とする
『老子大権菩薩経』等を偽作して、隋・唐の間にあってその争論の中心となっていた書
物を消滅させる。[ 1908 年、フランスの東洋学者 P. ペリオが敦煌から残巻を発見する。]
671(天智10)
671. 6.10 [4.25]【日本】近江大津宮(のち、近江神宮)で、漏刻(水時計)で初めて鐘鼓を
打って時を知らせる 。琵琶湖岸の新しい内裏の一角に漏刻を据えて、1 日を 12 等分した 1
時(とき)ごとに鐘が打ち鳴らされる 。宮門はその音に合わせて開閉される。647 年以来、
- 67 -
午前 4 時に集合し日の出を待って参内する官人の出勤規則が、音で確認されるようにな
る。
[のち、
『日本書紀』天智(てんじ)天皇 10 年 4 月 25 日の項に〈
「漏剋(ろこく)(漏刻(ろ
うこく))を新しき台(うてな)に置く。始めて候時(とき)を打つ。鐘鼓(かねつづみ)を動
(とどろか)す〉と記述される。1920 年、東京天文台と生活改善同盟会が、〈時間をきち
んと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう〉と、この 6 月 10 日を時間を尊重、
厳守し、生活の改善、合理化を進めることを目的とする日として「時の記念日」と制定
する。天智天皇を祀(まつ)る近江神宮では、毎年この日に漏刻祭が行われる 。
]
676(天武5)
676.○【日本】下野国の百姓が、売子の許可を願い出るが、許されない。
682(天武11)
682.○【日本】記録にみえる最初の辞書『新字(にいな)』44 巻が成立する。[以後、現存
せず、内容は未詳である。]
686(朱鳥1)
686. 5.−【日本】教化僧宝林が、願経『金剛場陀羅尼(だらに)経 』
(智識経)を筆記する。
[以後、現存する最古の願経となる。]
691(持統5)
691.○【日本】詔(みことのり)により、奴婢の制を定め、貧窮の父母による売子は効力
を認める。
700(文武4)
700. [ 6.17 ]【日本】刑部(おさかべ)親王(天武皇子が、藤原不比等(ふひと)や渡来人一
世あるいは渡来系氏族出身者ら 19 人に大宝律令を撰定させ、禄を与える。
[この年、行
政法としての「令」が完成する。
]
700.○【中国】この頃、『妙法蓮華経』が印刷される。?
701(大宝1)
701. [ 3.21]【日本 】対馬が金を献上したので、大宝と建元する。大宝令(たいほうりょう)
を施行し、位階(五位以上)と官制を新令に従って改正する 。中央集権的国家体制を築く。
唐の駅伝制度が日本にも伝えられ、律令時代の駅制がつくりあげられる。この頃の日本
では、驛を「うまや」と訓じる。伝の本字は「傳」であり、宿場における継立て用の車
馬を意味する。字の中に「車」という字が含まれているように、傳は宿場の車もしくは
馬車をさす。転じて 、馬車を備えた宿場の意味に用いられるようになり、あわせて驛傳(駅
伝))という。
701. [8. 3]【日本】刑罰法としての「律」の編纂が完了し、大宝律令(たいほうりつりょ
う)が完成する。ここに律 6 巻、令 11 巻の大宝律令が揃い、律令国家が完成する。すべ
ての土地が国家の所有であることが明確にされる。
[702.[ 2.1] 諸国に頒布する。[7.30]
- 68 -
大宝律の講義が、初めて文武官人在京国司に行われる。この律令は 757 年(天平宝字 1)
まで施行され,その間に日本の律令制の骨格がかたちづくられる 。
]
702(大宝2)
702.[ 2. 1]
【日本】大宝律を諸国に頒布する。
702.[ 3. 8]
【日本】大宝律令の制定に対応して度量を定め、全国に告知する。唐の制度
にならい尺、寸、升などの量と単位が使用される。[のち『続日本紀』に〈はじめて度
量を天下諸国にわかつ〉と記述され、日本で初めて度量(度量衡)という語が現れる。]
702.[12.14]
【日本】大宝律令を諸国に頒布する。頒布に際し〈新印様を頒付〉とあり、
中国にならって印章の制度を整えようとしたもので、文献上で日本の印章に関する記述
の初めとなる。
702.○【日本】この年に日本で漉かれた紙が正倉院に伝わる。美濃、筑前、豊前の戸籍
用紙で、年代の明らかな最古の紙であり、すでにそれぞれの地域の特色があらわれてい
る。[以後、奈良時代の『正倉院文書』には紙名や加工和紙名が数多く記されており、紙
漉きの行われている国として約 20 国がわかっている。おそらく各国府には、国衙(こく
が)(政庁)の指導のもとに製紙場が設けられ、地方で使用する紙をまかない、さらに上等
の紙を中央に納めたものと思われ、紙漉きの技術はいちはやく全国に伝播したものとみ
られる。]
704(慶雲1)
704.○【日本】鋳銅印を造って国々に下付する。官印の私鋳を禁じ、宮内省の鍛冶司が
鋳造して太政官庁を経て諸国・諸省その他の役所に頒布する。
708(和銅1)
708.[ 1.11 ]【日本】武蔵国秩父郡で産出された天然の銅、すなわち和銅(にぎあかがね)が
朝廷に献じられ、慶雲の年号を和銅と改める
708. [2.11]【日本】初めて造幣を監督する役所である催鋳銭司(さいちゅうせんし)が置
かれる。
708. [ 5.11]【日本】銀銭の和銅開珎(かいちん)が鋳造され、使用が始まる。
708. [8.10]【日本】近江国で銅銭の和銅開珎が鋳造され、使用が始まる。ふほん銭に続
いて日本における本格的な貨幣が流通し始める。人々は慣れない貨幣の使用に戸惑いを
見せる。[以後、河内、山城などでも和銅開珎をつくらせる。]
711(和銅4)
711. 9.18【日本】元明(げんめい)天皇が、太安万侶(おおのやすまろ)(安麻呂)に詔して、
稗田阿礼の誦み習うところの神代から推古(すいこ)天皇に至るまでの古事を筆録し献上
せよと命ずる。[以後、安万侶は種々くふうを凝らしてこれを呉音で訓読した筆録を行い 、
序文および上・中・下の 3 巻の書物とする。709 年正月 28 日に奏上する。]
712(和銅5)
- 69 -
712. 1.28 【日本】大安万侶が『古事記』を撰上する。神代から推古(すいこ)天皇に至る
までの古事を記録し 、出雲(いずも)の国譲(くにゆず)り 、天孫降臨(てんそんこうりん) 、
日向(ひゆうが)3 代などの物語を載せ、天地・万物の生成、天皇支配の起源と正当性な
どを説明する。おおらかな性語や性表現に溢れているが、この頃は猥褻文書などとはさ
れない。[以後、現存最古の歴史書となる。]
713(和銅6)
713. 5. 2【日本】元明天皇の命により,諸国の国司・郡司を総動員して郷土誌的文書を作
成させることになる 。
[以後 、
『続日本紀』和銅 6 年 5 月 2 日条に〈畿内七道諸国は,郡
郷の名は好き字を著け、その郡内に生ずるところの銀銅、彩色、草木、禽獣、魚虫等の
物は具(つぶさ)にその品目を録し 、
及び土地の沃涯(よくせき)、
山川原野の名号の所由(い
われ) 、また古老相伝の旧聞異事は、史籍に載せて言上せよ〉と記述される。この文書は 2
通か 3 通作られ、それぞれ地元の国庁と中央の官庁に保存される。平安時代、中国の風
土記に魅せられた学者文人たちがこれを「和銅風土記」と呼ぶようになる。733 年(天平
5) 、
『出雲国(いずものくに)風土記』が成る。これは節度使が編修主体となったもので、
軍事的要素が加味されて実用性の強い地誌としてあらわれていて 、「和銅風土記」とは
やや異質のものだが、この期のもの(豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)の風土記など)を含めて
「古風土記」と呼ばれ、記紀には見ることのできない地方民衆の風俗や民間伝承が豊富
に盛られている点できわめて貴重な古典となる。
]
718(養老2年)
718.○【日本】養老令が制定される 。
「以後、この中の「職員令」の中で、陰陽寮に 2 人
の漏刻博士がおり 20 人の守辰丁を使って時刻を監視し鐘鼓(しょうこ)をうって時を知ら
せると記載される。]
720(養老4年)
720. [5.21]【日本】天武天皇第 5 皇子舎人(とねり)親王( 45)を中心に、この頃随一の文
章家紀清人(きのきよひと)、三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)らが日本最初の編年体の歴
史書『日本紀』(のち、『日本書紀』
)を完成、30 巻に系図 1 巻を添え、撰上する。神代
より持統天皇の代までの事績が、漢文で書かれる。また中国の史書にならい編年体で記
述されるなど、国際的プロトコルを考慮して作成される。読みも漢音による。内容は多
くの性表現が含まれているが、猥褻文書として取り上げられることはない。[以後、日本
最初の正史、いわゆる六国史(りっこくし)の第一とされる。添えられた系図 1 巻は散逸
する。平安初期のころから「日本書紀」と呼び、『古事記』と併せて「記紀」というよ
うになる。]
720.○【日本】この頃、ろうそくがつくられる。
724(神亀1)
724. [ 2. 4]【日本】聖武(しょうむ)天皇(在位 724 ∼ 749)が即位する。[以後、光明(こう
みょう)皇后と国分寺の建立を発願(ほつがん)し、国ごとに国分寺を建てさせ、鎮護(ち
- 70 -
んご)国家を祈らせる。大和の東大寺が総国分寺に、法華(ほつけ)寺は総国分尼寺と定め 、
全国ネットワークの中枢となる。
『続日本紀(しよくにほんぎ)』の 741 年(天平 13)1 月 15
日条に「国分寺」が記述され、ついで翌 742 年 11 月 17 日「大養徳(やまと)(大和)国城
下(しきのしも)郡司優婆塞貢進文(ぐんじうばそくこうしんもん)」(正倉院文書)に記載
される。]
725(神亀 2 )
725.○【日本】奈良時代。人口は約 451 万人。(国立社会保障・人口問題研究所『人口統
計資料 2004』)
729(天平1)
729.○【日本】この頃、官立の写経所で数多くの仏典が写経生によって書写され、写経
事業が盛んになる。[ 749 までの天平年間、写経事業が盛んに行われる。]
729.○【日本 】この頃 、朝廷が、唐の新しい情報を直輸入しようとして、従来の「呉音」
に代えて漢籍や一部の仏書には用いられていた「漢音」を「正音(せいおん)」として普
及に努める。[以後、呉音を排除するには至らず、両者併用される。]
732(天平4)
732.10.15【フランス】フランク王国にウマイヤ朝イスラム軍が大挙侵攻し、ボルドーを
占拠し、さらに北上を続けようとした際、宮宰(きゅうさい)カール・マルテル(44 ?)が、
トゥールとボアティエ間でイスラム軍を撃退し、北上を阻止する。[のちに「トゥール・
ボアティエ間の戦い」と呼ばれる。以後、マルテルのカロリング家がメロヴィング家に
代わり王国を支配し、ヨーロッパの萌芽をつくる。800 年 12 月 25 日、カロリング家の
フランク王カールⅠ世が、ローマ皇帝に戴冠され、カロリング朝を発展させる。]
733(天平5)
733.[ 2.−]【日本】『出雲国風土記(いずものくにふどき)』1 巻が成立する。出雲国 9 郡
の地理、産物、伝説、神話などを郡ごとに記す。[以後、現存する 5 風土記のうち唯一の
完本となる。]
735(天平7)
735.○【日本】釈迦一代の行歴を説いた『絵因果経』が写経生により書かれる。上段に
過去・現在、因果経の意味を絵にして入れ、下段に経文を書く。
740(天平12)
740.○【日本 】藤原広嗣の乱が起こる。この時、広嗣が国内兵士を徴発する際に、烽(と
ぶひ)が使用される。[烽は日本古代の軍事施設で、飛火の意。各地と都を結ぶ連絡網の
一つで、都の周辺には都に直結する烽がおかれ、それらが軍要地の烽と結ばれていた。
烽が実際に使用された例は、この例しかわかっていない。]
- 71 -
746(天平18)
746.○【日本】具注暦(漢字のみで書かれた暦)が作られる 。
[以後、東大寺正倉院文書と
して収められ、現存する最古の具注暦となる。
]
747(天平19)
747.○【日本】奴婢売り券が作られる。[この年と翌年の奴婢売り券 2 通が正倉院に現存
する。]
749(天平勝宝1)
749. 7.−【日本】聖武天皇の譲位によって第 46 代に数えられる女帝孝謙天皇( 31)が即位
する。実権は、紫微中台(しびちゅうだい)を設け藤原仲麻呂を紫微令に任じた母の光明
皇太后が掌握する。
751(天平勝宝3)
751.○【朝鮮 】慶州の仏国寺に、三重石塔の釈迦塔が建立される。[以後、
「開かずの塔」
として有名になる。この中から木版印刷の『無垢浄光大陀羅尼経』が発見され、751 年
以前に作られた世界最古の木版印刷物とされる。]
751.○【中央アジア】サラセン(アラビア)軍と唐軍が中央アジアで戦う。唐軍は大破し
てトルキスタンの首府サマルカンドが陥落する。捕虜の唐兵の中に製紙工がいて、製紙
技術がアラビア人に習得されて、サマルカンドに製紙工場がつくられる 。原料はボロで、
「サマルカンドの紙」と呼ばれる。[以後、製紙技術の西方への移転が始まり、サラセン
に伝えられて順次西に工場が建てられるようになる。793 年にアラビア人によってバグ
ダード製紙工場が建てられる。]
752(天平勝宝4)
752. 4. 9【日本】奈良の東大寺で、最初の廬舎那仏(るしゃなぶつ)の開眼供養(かいげん
くよう)が行われる。孝謙(こうけん)天皇、聖武太上(しょうむだいじょう)天皇、光明(こ
うみょう)皇太后らの臨席のもと、文武百官および全国の国分寺からはせ参じた僧 1 万人
が参列し、インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)によって盛大に行われる。五節(ごせち)
・久米(くめ)・楯伏(たてふし)・踏歌(とうか)などの歌舞があり、仏法東帰以来初めて
の盛大な斎会(さいえ)となる。[以後、1185 年(文治 1)8 月 27 日に後白河(ごしらかわ)
法皇によってふたたび盛大な開眼供養が営まれる。第 3 回目は、公慶上人(こうけいしょ
うにん)が大仏尊像を修理鋳造して、1692 年(元禄 5)開眼供養が営まれる。]
759(天平宝字3)
759. 8. 3 【日本】756 年に、聖武・孝謙両上皇の勅願により来朝した唐僧過海(かかい)大
師鑑真和上(がんじんわじょう)が、奈良に唐招提寺を建立する。勅額が下賜され、その
勅文に 、
〈招提是諸寺本寺十方僧依所、日域七衆根本寺、故號唐招提寺〉とあり、四方
僧坊の義をとり、諸寺の根本とする。[以後、天皇・皇后以下百官も皆ここで受戒し、帰
依(きえ)も厚くする。1900 年、独立して律宗総本山となる。1998 年、世界遺産の文化遺
- 72 -
産として登録される。]
760(天平宝字4)
760. 3.16 【日本】新銭の「万年通宝」
、銀銭の「大平元宝」
、金銭「開基勝宝」が鋳造さ
れる。開基勝宝は日本初の金貨で、型を造って溶融した金を流し込んで鋳造したもの。
762(天平宝字6)
762.○【中国】上都(長安)東市の大(?)家が、具注歴(漢字のみで書かれた暦)を刊行す
る。
764(天平宝字8)
764. 9.−【日本】恵美押勝(えみのおしかつ)の乱が起こる。女帝孝謙皇帝(46)が、追討
軍を発遣して仲麻呂一族を湖西に敗死させ、淳仁天皇を廃して淡路に配流し、代わって
称徳天皇として重祚する。[以後、称徳天皇は道鏡を重用し、太政大臣禅師に任じ、つい
で法王の位を授け、法王宮職を設置する。その結果、道鏡は宇佐八幡神の託宣と称して
皇位につこうとするが、和気清麻呂が神教を復奏して妨げ、実現しない。]
764.○【日本】この年の『正倉院文書』に、生紙(いきがみ)に対する加工紙の意で、〈熟
紙(しゅくし、じゅくし)〉という言葉が初めて登場する。故人をしのんでその生前に使
った紙を漉き返して写経に用いたことい始まるといわれるが、写経のほかにさまざまな
文書に用いられる。]
770(宝亀1)
770.[ 4.26 ]【日本】唐から伝えられた木版技術によって『陀羅尼経』の印刷が完成する。
恵美押勝(えみのおしかつ)の反乱を平定するに際して、法力の加護を祈念して、木製の
高さ約 20cm の小塔「恵美三重小塔」を 100 万基作り、その内部にこの経を入れて、全
国の十大寺に分置する。経は幅約 5cm、長さ約 40cm の巻物で、本文には 4 種の異版が
ある。[以後 、
『百万塔陀羅尼経』と呼ばれ、印刷年代の明らかな世界最古の印刷物とさ
れる。版の材料が木版か銅版かはいまもってわからない。]
770.○【日本】女帝称徳天皇( 52 )が、道鏡から進呈された「雑物」(張形)」を使用中に、
抜けなくなり大騒ぎになる。[8 月、河内由義(ゆげ)宮(西京)から還幸後、平城宮西宮で
没す。]
781(天応1)
781.[ 6.24]【日本】文人・政治家・大納言石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)( 52)没。生
前は、仏教にも帰依して自宅を阿醗寺(あしじゅくじ)という寺にし、この寺の南東に芸
亭(うんてい)を建てて、儒教の典籍など、仏書以外の図書(外典(げてん))を収蔵し,好
学の徒に開放した。学者賀陽豊年(かやのとよとし)も,宅嗣に好遇されて数年間芸亭で
諸書を閲覧したという。芸亭院とも呼ばれ、日本最初の公開図書館となる。
781.○【西ヨーロッパ】イングランド人神学者、アルクイン Alcuin (ラテン名アルクイヌ
ス Flaccus Albinus Alcuinus)(46 ?)が、カロリング家のフランク王カール 1 世に招かれて
- 73 -
大陸に渡る。[以後、イギリスの僧院に保存されていた古典文化の遺産を大陸に伝え、宮
廷学校や文庫の経営にあたり、フランク王国の教育・宗教行政の整備に尽力して、学問
復興の基を開く。のちに「カロリング・ルネサンス」と呼ばれ、古典文化、宗教、政治の
緊密かつ緊張ある結合を特色とするヨーロッパ中世文化の基礎を定めるのに貢献する。
ラテン語の正確な用法の確立を唱え 、ローマ字に大文字と小文字の使い分けを導入する。
著作は、文法、修辞学、弁証法、幾何学、算術、天文学、音楽など古代学芸における自
由 7 科の手引書をはじめ、
『魂の本質について』の哲学的著作、三位(さんみ)一体につい
ての神学的著作など多岐にわたる。804.5.19 6 9 歳(?)で没。]
782(延暦1)
782.○【日本】この頃、大伴家持が中心となって『万葉集』20 巻を集成する。
789(延暦8)
789.○【西ヨーロッパ】この頃、カロリング家のフランク王カール 1 世が、
「教育勅令」
を発布し、国内の青少年に教育的基礎を施すことを命じる。また、布教用に大量の写本
つくりを命じる。この時に当たり、神学者アルクイン Alcuin( 55 ?)は、これまでの荘重
な書体「アンシャル体」に代わる新たな筆記書体「カロリング(カロリンガ)体」を創始
する。[以後、フランス最初の軽快な筆記体が用いられて、写字生により大量の写本がつ
くられ、流布される。]
793(延暦12)
793. 6. 8【イギリス】北海を越えてやってきたデーン人(デイン人)バイキング(ヴァイキ
ング)( Viking)の一団が、ブリテン諸島北部の島々を根拠地として、イングランド北部ノ
ーサンブリアの海岸に位置するリンディスファーン島にある修道院を突如襲う 。
[795 年、
アイルランドを攻撃する。以後、イングランドをはじめ大陸各地をしばしば襲い、混乱
に陥れる。
]
793.○【イラク】アラビア人によって、バグダードに製紙工場が建てられる。[ 10 世紀、
エジプトのカイロを中心にして製紙工場が多く建てられ、アマを原料とする製紙が行わ
れる。]
794(延暦13)
794.○【日本】桓武天皇が、都を長岡京から平安京に遷す。水陸交通の便のよい山背(や
ましろ、山城)国愛宕(おたぎ)・葛野(かどの)両郡にまたがる地(のち、京都市)に平安京
が造営される。[以後、長安を模して碁盤の目状の市街が造られる。形式的には 1869 年(明
治 2)の東京奠都(てんと)まで 1275 年間続く。]
799(延暦18)
799.○【フランス】ノルウェー系バイキングが、フランス西岸,ロアール河口のノアー
ル・ムーティエ島を襲撃する 。
[814 年、セビリャ,コルドバ、860 年、ニーム,アルル,
ピサ、842 年、ルーアン、843 年、ナントなどを襲撃する。しかし、ノルウェー人のおも
- 74 -
な活動はアイルランドを中心とするブリテン諸島に向けられる 。
]
800(延暦19)
800.12.25【バチカン】聖ピエトロ寺院で、カロリング(カロリンガ)家のフランク王カー
ルⅠ世(大帝)(58)が 、教皇レオ 3 世( 55 ?)の手によって 、ローマ皇帝の冠を授けられる 。
[以後、ヨーロッパで彼に臣従していないのはイングランドとイスパニア(のち、スペイ
ン)の小国だけとなる。巨大国家の君主としてカロリング朝を発展させる。]
800.○【アラビア】この頃、アル・フワーリズミー al-Khw ロ rizm ロ(780 頃∼ 850 頃)が、
アラビア数字をインドから導入し、
『代数学』を著す。[12 世紀に、ヨーロッパでラテン
語に翻訳され、ヨーロッパに初めて代数というものの存在を教える。彼の名前が転訛し
て、アラビア記数法やそれに基づく計算を意味する「アルゴリズム」という語ができる 。
「アルジェブラ algebra =代数学」という語がこの本の書名の一部 al ‐ jabr (移項して負
の項をなくす操作)に由来する。このように西ヨーロッパ世界の数学に大きな影響を及
ぼす。]
800.○【ヨーロッパ】この頃、修道院の工房における手写本生産が増加する。
804(延暦23)
804. 5.19【フランス】イングランド人神学者で「カロリング・ルネサンス」の功労者アル
クイン Alcuin (69 ?)が、トゥールで没する。
804. 7.−【日本】空海( 31 )が、遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)の船に橘逸勢(たちば
なのはやなり)らと同乗し、唐留学に出発する。[途中、暴風雨にあい九死に一生を得て
入唐する。]
804.12. −【中国】空海が、遣唐大使藤原葛野麻呂に従って長安に到着する。[以後、唐の
長安に留学する。翌 805 年、長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵(はんにゃさんぞう)ら
に就いてサンスクリット(梵語(ぼんご))やインドの学問を学習する。同年 6 月から半年
間、青竜寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)から密教の伝授を受けて、真言密教の第 8
祖を継ぐ。12 月 15 日、恵果(60)が没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く。
長安滞在中、唐の仏者たちや文人墨客と交流し、広く文化を摂取する。男色の習俗も実
地に見る。806 年、帰国する。]
806(大同1)
806. 8.−【中国】空海( 32)が、越州に着いて内外の経典を収集し、明州を出発して帰国
の途につく。
806.10.−【日本】空海( 32 )が、唐より膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅(まんだら) 、
その他の文物をたずさえて帰国する。男色の習俗も持ち帰る。[ 12 月、月遣唐判官高階
遠成に付して『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出すが、入京は許されない。 807
年 4 月観世音寺に入り、次いで和泉国に移る。809 年 7 月に入京し、京都高雄山寺(たか
おさんじ)(神護寺)に入る。翌年、国家を鎮める修法を行う。812 年、比叡山(ひえい
ざん)の最澄(さいちよう)や弟子に灌頂(かんじょう)(水を頭に注いで仏位につかせる儀
式)を授ける。816 年 6 月、43 歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場と
- 75 -
するために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏し、7 月 8 日に勅許を得る。819 年 5 月から
伽藍(がらん)の建立に着手する。高野山は、天台宗の比叡山とともに平安初期の山岳仏
教の拠点となる。821 年 9 月 、四国讃岐の満濃池(まんのうのいけ)(のち、香川県満濃町)
を修築し、農民のために尽力する。823 年 1 月 、京都の東寺 (教王護国寺 )を給預され、
ここを京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める。828 年 12 月、東
寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開設す
る。835 年 1 月 、宮中真言院で後 7 日御修法(ごしちにちみしゅほう)を行い、同年 3 月 21
日に高野山で入滅する。没年 62。921 年醍醐(だいご)天皇から弘法大師の諡号が贈られ
る。]
807(大同2)
807.○【日本】古代の氏族である斎部(いんべ)氏の由緒を記した歴史書(のち 、
『古語拾
遺(こごしゅうい)』)が成立する。祭祀(さいし)を担当した斎部広成(いんべのひろなり)
が撰集したが、内容は同様の職掌に携わっていて勢いを強めた中臣(なかとみ)氏に対抗
して提出された愁訴(しゅうそ)状で、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神の国
生みと、神々の誕生神話から筆をおこし、757 年(天平宝字 1 )の時代までのことが記述さ
れる。
814(弘仁5)
814.○【チベット】ヒンズー教の性力崇拝(シャクティズム)の影響下に成立したインド
の在家密教(性瑜伽)が流行する。政府はこれを警戒して禁止する。また、勅令で関係経
典の訳出を禁止する。
820(弘仁11)
820.○【大西洋】この頃、ノルウェー系バイキングが、細長く両端が反り上がったバイ
キング船で帆走し、遠洋航海ののち、ブリテン北部の北にフェロー諸島を発見し、ここ
に植民する。
]
824(天長1)
824.○【中国】(長慶 4)白居易( 42 )の『白氏長慶集』50 巻を、親友の元嬢(げんしん)が
編纂する。詩を諷諭,閑適,感傷,律詩の順序に分類配列して,そのあとに賦と散文を
収める 。
[825 年、揚州、越州で刊行される。以後、白居易みずから『白氏長慶集』以後
の作品を数度にわたって収録して『白氏文集』を編集する。845 年(会昌 5)、後集全 25
巻を完成する。前巻と合わせて 75 巻を『白氏文集(はくしもんじゅう B ⊂ i sh ≒ w レ n j
∩、以上文字化け)』と総称され、中国最古の個人全集となる。1107 年[5.5] 藤原茂明
が、日本で初めて『白氏文集』を書写する。以後、単に〈文集〉といえば『白氏文集』
を指し、古代の日本文学に最大の影響を与えた書物となる。
]
828(天長5)
828.○【サウジアラビア】アラブの文学家,文献学者アスマイーロ Abd al-Malik al-A ロ ma
- 76 -
ロロ(本名イブン・カリーブ、多くの古事を語ったのでアスマイー(語り部)という名をつけ
られる)(88)が死去する。カイス族出身でバスラに生まれ,のちバグダードに出た。強い
記憶力の持主でラザズ調の古詩1万 2000 句を暗記し,18 箱の本を手もとから離さなかっ
た。[以後、40 余の著書のうち、13 種ほどが残される。詩,動植物名の由来に関するも
のが大部分をしめ、特に『アスマイーヤート詩集』が伝えられる。]
830(天長7)
830.○【アイスランド】この頃、ノルウェー人が、船でフェロー諸島へ向かったが漂流
し、無人のアイスランドを発見する。
[870 年、永住的な植民が始まる。以後 60 年間、
植民が事実上先住者のいなかった島への漸次的で平和的な移住となるり、ここに北欧社
会が雛形として再現される。のちに、アイスランド社会は、バイキング時代の北欧,ひ
いては古ゲルマン社会の研究にとって特別な重要性をもつようになる。
]
836(承和3)
836.○【日本】この頃、馳駅(しえき)(飛駅)が大宰府∼京都間を 6 ∼ 13 日で結ぶ。緊急
を要する謀反以上の大事、大瑞(たいずい)、軍機、災異、外敵来襲などの場合は馳駅を
発する。行程は 1 日 8 駅、馳駅は 10 駅以上、伝馬は 1 日 70 里(約 37km)を原則とする。
845(承和12)
845.○【中国】唐の武宗が、全国の仏寺を打ち壊すよう勅令を出す。仏教教典の印刷本
を所蔵していた河南洛陽の敬愛寺(きょうあいじ)お打ち壊される。
[869 年以降、敬愛寺
の僧恵確(えかく)が、改めて仏典の刊行を発願し、文学者司空図(しくうと)が恵確のた
めに布施を請う文章を書く。
]
847(承和14)
847.○【日本】天台宗の僧円仁(53 )が、845 年(唐の会昌 5 )武宗の仏教弾圧にあい,外国
僧追放令のため長安を去り、帰国する。経典 559 巻,曼荼羅(まんだら)・舎利・法具類 21
種などとともに鍮石(とうせき)印仏を請来する。(『僧円仁請来目録 』
)
847.○【日本】唐の商人 47 人が来着する。
860(貞観2)
860.○【ヨーロッパ】この頃、英語とオランダ語が分岐し始める。(モリス・スウォディ
ッシュによる仮説。
)
861(貞観3)
861.○【中国】長安東市の李家が、最初の印刷本医学書『新集備急灸経』を刊行する。
865(貞観7)
865.○【日本】僧宗叡(しゅえい)が、唐の西(四?)川で刊行された『玉編』(部首分類の
字書)『唐韻』(唐代の漢字を発音別に分類した字書すなわち韻書)および仏典などの書物
- 77 -
を持ち帰る。
868(貞観10)
868.[ 4.15 ]○【中国】[咸通 9] 木版印刷による巻子本(かんすぼん)(冊子本)『金剛般若
波羅蜜多経』が、王?(王+ 介)(ワンチェ)により作られる。製版により 7 枚の紙に印刷さ
れ、貼り合わされて 全巻長さ 16 尺(約 5m) 、高さ 1 尺( 31.1cm)の 1 巻の巻物としたもの。
巻頭に精緻な釈迦説法図の精細な版画が入り、巻末に〈唐咸通九年四月一五日王?(王+
介) 二親の為に敬みて造り普施す〉と印刷開版の年が明記される。文人たちは、古典を
このような方法で印刷することは冒涜行為だと考え、しかも自分たちの写字の仕事がな
くなることを恐れて、木版印刷に反対する。[ 1907 年、イギリス人探検家オーレル(アウ
レル)・スタイン率いる西域探検隊が、敦煌の石窟寺・千仏洞内の密室内に隠されている
のを、略奪同然の方法で買い取り、大英博物館に寄贈する。印刷開版の年を明記した最
古の冊子体の現存書籍とされる。]
869(貞観11)
869. 2.−【ギリシア】サロニカの伝道僧コンスタンティノス Constantinos, Konstantin( 43 )
が死去する。永眠に先だつ 50 日前に修道士となり、以後キリル(キリロス)Кирилл
と称した。生前に、兄弟のメトディオスと共に、ギリシア正教の布教のためにギリシア
語で書かれた福音書、祈祷書をスラブ語に訳した。その際、スラブ人には文字がなかっ
たので、キリロスがギリシア字母の大文字の形に基づいてつくった文字を考案して使用
した。
[以後、このスラブ・アルファベットは、彼の名をとってキリル文字と呼ばれ、の
ちのロシア文字の母体となる。この文字で書かれたスラブ最古の文献の言語は古代スラ
ブ語、あるいは教会スラブ語と呼ばれる。のち、ロシア語、ウクライナ語、ブルガリア
語、セルビア語、マケドニア語などのスラブ語派に属する言語のアルファベットへと発
展する。]
875(貞観17)
875.○【スコットランド】ジューインⅢ世が初夜権を確立し、また別途「一般庶民の妻
は貴族に開放されるべきこと、地主は所有地に住むすべての処女の処女膜を獲得できる」
という法律を定める。[以後、中世初期まで存続する。]
894(寛平6)
894.[ 10. ]【日本】菅原道真の建言により遣唐使が廃止される。
900
900.○【エジプト】カイロに製紙法が伝えられる。
905(延喜5)
905.[ 4.18]【日本】醍醐天皇の勅命によって、紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(とものり)、
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)が撰者として『古今和
- 78 -
歌集』の編集にあたる。
923(延長1)
923.○【中国】突厥(とっけつ)出身の李存勗(りそんきょく)が、後梁を滅ぼして後唐(こ
うとう)を起こし、洛陽を都とする。宰相に馮道(ひょうどう 、フウドウ)が就任する 。
[以
後、馮道は後晋・遼・後漢・後周と五朝十一帝に宰相として仕える。932 年、馮道は古
典を保存・普及する手段として木版印刷の利点を挙げ、皇帝への上奏文に木版印刷を正
式に薦める。
]
932(承平2)
932.○【中国】後唐(こうとう)の宰相馮道(ひょうどう、フウドウ)が、皇帝への上奏文
で、儒家の経典の正本を保存・普及するため版印刷すべきことを薦める。これまでの王
朝が繁栄を誇っていた時代には 、
「石碑に彫った経典」を次々に作ってきたが、その余
裕を失った今、次善の策として「九経」(『易経』
『書経』
『詩経』
『周礼(しゆらい)』
『儀
礼(ぎらい) 』『礼記(らいき) 』
『春秋左氏伝 』
『春秋公羊(くよう)伝 』
『春秋穀梁(こくり
よう)伝』
『孝経』
『論語』
『爾雅(じが)』の 12 経)の刊行を建策する。
[以後、953 年にか
けて、大学者田敏(でんびん)らが中心となり、博士、儒徒を招集し、石碑の経文にもと
づき詳細に本文を校訂し、経典のテクスト編纂を行い、書道の名手に依頼して楷書で浄
書したうえ、刻工を組織して版木に彫り、国子監(こくしかん、この頃の大学)で印刷を
行う。政府が大規模に出版を行った最初の例となる。のちにこれらの本は「五代監本九
経」と呼ばれる。この成功により、木版印刷が公認のものになり、やがてあらゆる分野
の書物が印刷されるようになる。政府が印刷業を提唱したことで、士大夫が個人的な書
物「家刻本」を出版することも多くなる。
]
934(承平4)
934.○【日本】この頃、源順(したごう)が、日本初の百科事典『倭名類聚鈔(わみょうる
いじゅしょう)』(『和名類聚抄』『和名抄』『倭名鈔』ともいう)を編纂する。分類体漢
和対照辞書で、10 巻または 20 巻。源順約 2600 の漢語を分類し、その文例・語釈を漢籍
から引用して、割注で字音と和訓を示す。従来の『楊子(ようし)漢語抄』『弁色立成(べ
んしきりゆうじよう) 』
(いずれも逸書)などの漢和対訳語彙(ごい)集を集成し、漢籍を
引用して学問的権威づけを施したもの。[以後、辞書の一つの標準として後の時代に影響
を与える。10 巻本(24 部 128 門)と 20 巻本(32 部 249 門)の 2 系統があり、いずれを
原撰とみるかで論が分かれている。20 巻本は職官、国郡、郷里、曲調、薬名など、語彙
や地名を列挙するのみの部門がある。]
950(天暦4)
950.○【ヨーロッパ】この頃、楽譜に譜線を用いることが始まる。これは譜線ネウマ staff
neume ないし隙間(音程)ネウマ(diastematic neume, interval neume )とよばれ、それ以前の
ものはカイロノミック( cheironomic neume )とよばれる。
- 79 -
970(天禄1)
970.○【エジプト】世界最初の大学の一つ、アズハル大学(Al-Azhar University )(正式名称
アル・アズハル大学)が、カイロに創立される。もともとシーア派のモスクに起源をもつ。
[以後、イスラム研究の中心的存在としてアラブ世界に君臨する。18、9 世紀に、イギリ
ス・フランスの支配下にあって大学の近代化が図られる。1936 年に、イスラム法学、イ
スラム神学、アラビア語学の 3 学部に再編される。1961 年高等教育省設立後はエジプト
のすべての大学がその管轄下に入るが、例外としてこの大学のイスラム法学部とイスラ
ム神学部は独自の自治権を維持する。学生選抜法も他大学とは異なり、イスラムの遺産
を継承、発展、普及させ、アラブ世界を再興することを目的とする。]
977(貞元2)
977.○【中国】(太平興国 2)李隈(りぼう)らが、太宗の勅命をうけて『太平類編』の編纂
を開始する。
[984 年、6 年 9 ヵ月の歳月をかけて,1000 巻の一大類書を完成させる。以
後、
『太平御覧』とも呼ばれる。]
982(天元5)
982.○【アイスランド】アイスランドに移住したノルウェー人、ヴァイキングの族長の
赤毛のエイリーク( 30?)が、殺人事件のため 3 年間の追放処分となり、西方に航海し、大
きな島を発見する。入植への期待を込め「グリーンランド(緑の島)」と名付ける 。[985
年、故郷に戻り、入植者を募って船で出発する。986 年、グリーンランドに植民を組織
する。最盛期には、2 ヵ所に計 280 の農場があったと伝えられる。13 世紀以後、気候の
悪化もあって衰退し,1500 年ころ絶滅する。1000 年ころ、赤毛のエイリークの息子レイ
ブが、カナダ北東海岸からニューファンドランドを発見する。
]
983(永観1)
983.○【中国】(太平興国 8)宗朝政府が、成都で『大蔵経』の版木を掘らせ、12 年の歳
月をかけて版木 13 万枚余にて、1076 部を収録した『大蔵経』を完成させる。太宗は同
年、版木は開封に移送させ、専門の印刷所「印経院」を設置する 。[以後、政府が直接
印刷を管理する。1071 年(神宗熙寧 4)、政府が版木を開封の顕聖寺聖寿禅院に移管し、
民間に公開し、国内いずれの寺院でも、自ら紙を整え版木を借りて印刷が行えるように
する。1108 年(徽宗大観 2)までに、大蔵経は幾度も修補改訂が行われ、少なくとも 7 回
印刷が行われる。
]
984(永観2)
984.[ 11.28]【日本】鍼博士丹波康頼(たんばのやすより)が、隋・唐の医書,方術書等百
数十巻を渉猟し約 3 年の歳月をかけて医書『医心方(いしんぽう)』撰述し、30 巻が完成
し、円融天皇に奏進する。主に随の巣元方の『病原候論』による医学全書(内科,小児
科,産婦人科,養生,房内等を含む)で、30 巻より成る。[以後、戦国時代に正親町天
皇から典薬頭半井瑞策(なからいずいさく)に下賜されるまで康頼自筆の正本は宮中に秘
蔵される。その間,丹波家の控本は増補・伝写されて宇治本,仁和寺本,延慶本,相国
- 80 -
寺本その他の伝抄本となり,民間に伝わって利用される。また,それを抜抄・改編した
『医略抄』『産生類聚抄 』
『衛生秘要抄 』
『遐年要抄』等として活用される。1854 年に幕
府の医学館で医書校刊事業の一つに取り上げられ,1860 年に刊行される。1909 年に、書
肆浅倉屋がこの板木を使って再刷すた。本書に引用された医書類は,中国も含めてその
ほとんどが今日散逸したか現存しても宋代の改修を経ているので,書誌的価値が高く,
本書をもとに数本が復元されている。]
984.○【中国】李隈(りぼう)らが、太宗の勅命をうけ、 6 年 9 ヵ月の歳月をかけて,一大
類書『太平類編』全 1000 巻を完成させる。
『易』昔辞の〈凡そ天地の数,五十有五〉に
もとづいて,全体を天,時序,地,皇王,偏覇,州郡など 55 門に分け,あらゆる事類を
網羅することを示す。各門をさらに類に分け,すべてで 4558 類になる。引用書は 1660
種にのぼり、前代につくられた『修文殿御覧 』
『芸文類聚 』
『文思博要』どの類書から転
引したものも多い。
[以後、太宗が毎日 3 巻ずつ、1 年かけて読み終え、
『太平御覧』の
名を賜る。のちに作られる『太平広記』
『文苑英華』
『冊府元亀 』と合わせて「宋四大書」
と称される。
]
985(寛和1)
992(正歴3)
992.○【中国】太宗の命により、医学薬学の書物を集大成した『太平聖恵方』が完成す
る。
[以後、各州に頒布される。1147 年、福建路転運司公庫が、再刊する。
]
1000(長保2)
1000.○【西ヨーロッパ】キリスト教世界に、紀元 1000 年に世界が消滅するという「千
年恐怖」がひろがる。この年にこの世の終わりと最後の審判が下されるという噂がしき
りになされて、人々を恐怖のどん底に陥れる。巡礼が盛んに行われ、白い石造りの教会
堂が盛んに建設され始める。
1000.○【中国】この頃、磁気コンパスがつくられる。[ 12 世紀末ごろ、ヨーロッパに伝
えられる。]
1000. ○【カナダ】グリーンランドを発見した赤毛のエイリークの息子レイブが、カナダ
北東海岸からニューファンドランドを発見し、調査する。ニューファンドランドには植
民が試みられるが、原住民との衝突などにより失敗に終わる。
[以後 、
『赤毛のエイリー
クのサガ』で伝えられる。しかし、ヨーロッパ一般には知られないままだったので、ア
メリカ大陸は 500 年後の 1492 年にコロンブスらにより再発見されることになる 。
]
1001(長保3)
1001. 4 . −【日本 】紫式部が、夫藤原宣孝(のぶたか)と死別する、[秋ごろ、創作物語『源
氏の物語』を書き始める。]
1002(長保4)
1002. ○【日本】この頃、紫式部が長編の虚構物語『源氏の物語』(のち、『源氏物語』)
- 81 -
の一部を書き終える 。[以後、
「光源氏(ひかるげんじ)の物語」
「紫の物語」
「 紫のゆかり」
などと呼ばれ、あるいは「源氏」「源語」「紫文」「紫史」などとも略称される。主人公
光源氏が華やかな貴族世界で、さまざまな女との愛を経験し、栄華に満ちた一生とその
一族たちのさまざまの人生を七十年余にわたって構成し、王朝文化の最盛期の宮廷貴族
の生活の内実を優艶(ゆうえん)かつ克明に描き尽くす。これ以前の物語作品とはまった
く異質の文学を創出する。全 54 巻の完成は、一条(いちじよう)天皇中宮彰子(しようし)
のもとに出仕した 1005 ∼ 06 年(寛弘 2 ∼ 3)までの間と推定されるが、各巻が、どの
時点でどのあたりまで書かれたのかは明らかでない。全部が完成したのちに発表された
のではなく、1 巻ないし数巻ずつ発表されたらしい。まず最初の数巻が流布することに
よって文才を評価された式部は、そのために彰子付女房として起用されたのであろう。
宮仕えののちも、しばしば里邸に下がって書き継いだようだ。1010 年 、
『紫式部日記』
にすでに書かれた巻々の加筆改修もしたらしいことがしるされる。]
1003(長保5)
1003. ○【ヨーロッパ】「千年恐怖」もようやく去り、なにごともなかったので、ヨーロ
ッパ各地に、大聖堂や修道院聖堂や、村々の小教会まで、それまでの木造りであったも
のを、感謝の気持ちを表すために、一斉に白い石造りの立派なものに改築される。
1010(寛弘7)
1010. 夏○【日本】この頃、紫式部が 、
『源氏物語』を完成される。[年末までに『紫式部
日記』をまとめたらしい。]
1010.○【朝鮮半島】契丹(遼)軍が、高麗に侵入する。[ 1011 年、首都の開京(かいけい)
を陥落させる。]
1011(寛弘8)
1011. ○【朝鮮半島】国王顕宗が、侵略してきた契丹(遼)軍の調伏を祈願して、
『大蔵経(だ
いぞうきょう)』の彫版を発願する。[1021 年に着手する。1087 年に完成する。慶尚北道
大邱の符仁寺に収められる。1232 年、モンゴル軍の兵火により焼失する。]
1024(万寿1)
1024. 1.−【中国】この頃、宋が四川の成都に益州交子務(こうしむ)を設置し、民間金融
業者の間で使われていた交子(手形)を官営化する。「官交子」と呼ばれ、世界初の政府
紙幣とされる。材料は、桑の樹の内皮を砕いてパルプにし、手漉きで造った灰色味を帯
びた緑色の紙が使用される。宋は政策上、四川ではもっぱら重い鉄銭を流通させており、
取引に不便を来たしがちであった。四川では以前から成都の富豪 16 家が共同出資して、
私的に手形を発行していたが、富豪が没落し、手形の交換ができずしばしば訴訟が起き
たため、交子務を設置する。
[以後、交子 1 枚を 1 貫として、3 年を兌換有効期限とし、
手数料をとって新しい交子に交換する。のち、期限が 2 年とされる。1126 年、宋室が江
南に移り南宋となると、数種類の紙幣を発行し、盛んに利用される。]
1024. 6.24【イタリア】僧侶ギドーが、教会の合唱隊に聖ヨハネ賛歌を訓練している時、
- 82 -
曲の音に一定の規則のあることに気付く。そこで、それぞれの音に相当する歌詞「ウト
・レ・ミ・ファ・ソレ」で発声練習をさせる。[のち、ド・レ・ミの音階の始まりとされ
る。以後、ウトがドになり、シが新規に加えられる。]
1025(万寿2)
1025. 5.−【日本】雲林院(うりんいん)の菩提講に集まった人々が、講師の登壇を待つ間
の雑談に興じる。その中にかつて宇多天皇の母后班子女王に仕え,当年 190 歳になる歴
史の語り手、大宅世継(おおやけのよつぎ)という翁があり,藤原忠平の小舎人童であ
ったというこれまた百数十歳の夏山繁樹とその妻を相手に,昔の思い出を語り始める。
『大鏡』はこの 3 人の架空の人物に若侍を加えた対話の形で歴史叙述を進めている。
1033(長元6)
1033.○【西ヨーロッパ】キリストの受難から 1000 年がたったこの頃、打ち続く長雨、
飢饉、天災などにより、キリスト教徒の間に最初の「千年王国(ミレニアム)」が終わっ
たとして、終末思想が急速に広まる。災厄は教会にも及び、多くの異端者が現れ、怒れ
る民衆によって火刑に処されるなどの事件が続発する。数知れぬ巡礼者が聖地エルサレ
ムに向かい、主の近くで世の終わりを待とうとする。
1036(長元9)
1036.○【中国】西夏国の政府が、国定文字として西夏文字を公布する。全体で 6133 字
あり ,漢字と似て約 300 種の冠(かんむり) ,偏 ,旁(つくり)などの要素を組み合わせて(44
通り)構成され,形声字,会意字が多い。たとえば,木冠に〈先端〉は梢,水偏に〈重い〉
は沈む,金冠に〈二つに切る〉は鋸(のこぎり)などの会意字を作る。[以後、西夏語の
表記に用いられる。1190 年、西夏文と漢文の対照字典『番漢合時掌中珠』が出版される。
1227 年、西夏国が滅亡する。以後も西夏文字は使用される。]
1040(長久1)
1040.○【中国】(慶暦1) この年から 1041 年の間に、宋の鍛冶屋・錬金術師畢昇(ひっ
しょう)(生没年不詳)が、膠泥(こうでい)の 1 つ 1 つに文字を彫ってそれを火に入れて焼
き固めた 1 文字 1 活字の素焼の活字を作る。[以後、科学者・政治家沈括(ちんかつ、し
んかつ)(1031 ∼ 1095)が、随筆集『夢渓筆談』巻 18「技芸」に畢昇について記述する。
それによれば、民間の人畢昇が、慶暦年間(1041 ∼ 48 )に活字を発明する。印刷は、ま
ず鉄板の上に松脂(まつやに)・臘(ろう)と紙の灰を混ぜたものを一面に塗り、その上に
鉄の枠を置いて、枠の中に素焼きの活字を植字する。ついでこれに熱を加えて松脂など
が溶けてきたら活字を板で押さえ平らに整える。冷却して活字が固定したら墨をつけ、
上から紙を置いて印刷したという。また、畢昇は木活字の製作も試みたが、木活字は水
に濡れると膨張し、版面が高低不揃いになりやすく、また鉄板上の薬物とくっついて取
り外しにくくなるなど、問題点が多かった。結局、泥で活字を製作することとし、木活
字による印刷計画は実現しない。しかし、泥活字も以後発展はしない。]
- 83 -
1041(長久2)
1041.7.18【日本】節日に美服を着ることを、公卿・侍臣らに禁止する。
1050(永承5)
1050.○【日本】平安末期、人口は約 684 万人。(国立社会保障・人口問題研究所『人口統
計資料 2004』)
1050.○【アラビア】この頃、アラビア人たちが天幕製のカメラ・オブスキュラ camera
obscura を楽しんでいる。イブン・アル・ハイサム(アルハーゼン)が、その著作に〈日食
がきれいな三日月形に投影されるのは、小穴の径がきわめて小さい場合のみである〉と
研究報告する。小穴のレンズ作用の光学的記述の初期のものとされる。[のちのカメラの
起源とされる。
「カメラ」はラテン語で〈暗い小部屋〉を意味する。その原理を基に、13
世紀には R.ベーコンが光学的利用を唱え、眼鏡がつくられ始める。イタリアのレオナル
ド・ダ・ビンチも、カメラ・オブスキュラの現象で映し出される映像をトレースして紙に描
き定着させ、遠近法の実験に利用して、正確な記述を残す。1550 年にミラノの物理学者
ジロラモ・カルダーノが、両凸面レンズを穴にはめると、より鮮明な明るい像が得られる
と解説する。レンズの材料は、当初、水晶か透明な緑柱石であるが、やがてガラスが使
われるようになる。]
1050. ○【イタリア】この頃、サレルノが、ベネディクト派の僧院を中心として、気候の
良さから保養地として有名になり医学センターができる。[以後、ヨーロッパ各地から治
療を目的とした患者が多く集まり、ギリシア、アラブ、ユダヤ、ラテンの 4 つの文化が
共存する都市になる。1080 年、医学校が設けられる。1140 年には、この地方を支配する
シチリア王ルッジェーロ 2 世 Ruggiero Ⅱ(在位 1130 ∼ 54)の名で、ヨーロッパ初の医
師の試験免許制が布告される。サレルノは重要な海港都市であり、東ローマや地中海諸
国家と密接な関係にあったので、ここで生み出された医学書『サレルノ健康法 Regimen
sanitarissalernitanum 』は全ヨーロッパで広く読まれ、大きな影響を及ぼす。]
1050. ○【イタリア】この頃、ボローニャでローマ法を講じるイルネリウスの講義を聴く
ため、学生がヨーロッパ各地から集まって来て、組合団体 Universitas (のち、ボローニャ
大学( Universita Degli Studi di Bologna ))を結成する 。
「あらゆる地域の学生が集まる学苑
(がくえん)」を意味する Studium Generale とも呼ばれる。パリ大学とともに世界最初の
大学として、世界の大学制度の原型となる。[ 1158 年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリ
ヒⅠ世バルバロッサの特許状により、組合は自治権を得て、法学研究を主とする大学と
して公認され、世界最古の大学となる]
1052(永承7)
1052.○【日本】ブッダ入滅後 1000 年を経たこの年、仏教徒の間に、末法(まっぽう)第 1
年目に入ると信じられる。
『扶桑略記(ふそうりゃくき)』に〈今年はじめて末法に入る〉
と記述される。仏教の三時思想にいう〈正法・像法・末法〉の最後の御時世とて、とく
に日本で末法思想が流行し、浄土信仰が流布する。貴族たちは先を争って観音堂や常行
三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)をつくって念仏に専念する。[ 1053.3.25 関白藤原頼
道(61)が、宇治の平等院に阿弥陀堂(鳳凰堂)を完成させる。壁と扉の部分には、阿弥陀
- 84 -
如来に迎えられて極楽往生したいという願いを込めて、九品来迎図(くほんらいごうず)
が描かれる。
「九品」とは、
『観無量寿経(かんむりようじゆきよう)』に説かれた仏教用
語で、極楽浄土(ごくらくじようど)に生まれるのに、この世で生活した仕方によって 9
種類の生まれ方があることをいう。非の打ちどころがない善人は臨終のとき、仏が迎え
にきて即座に極楽に往生(おうじよう)できるのを上品上生(じょうぼんじょうしょう)と
いう。以下、上品中(ちゅう)生、上品下(げ)生、中品上生、中品中生、中品下生、下品
上生、下品中生と続き、最後の下品下生は、極悪非道の行為を繰り返した者が、臨終の
とき、念仏を唱えたことによって往生できるという。この思想に従って、阿弥陀仏(あみ
だぶつ)にも九つの印相(いんぞう)(手に結ぶ印の形)があるという考えが一般化し、鎌
倉中期以降、とくに九品の阿弥陀仏の造像が行われる。]
1066(治歴2)
1066.○【日本】この頃、漢文学者藤原明衡(あきひら)( 77)が、中国の書儀にならった書
簡の模範文集『明衡往来(めいごうおうらい)(『雲州消息(うんしゅうしょうそく)』とも
いう)を著す。四季折々の行事や贈答に関する 209 種の手紙文例が紹介され、年始のあい
さつを含む文例が収めれれる。年賀状に関する記述の始めとされる。[以後、いわゆる
「往来物」の始めとして,後世に多大な影響を与える。
]
1069(延久1)
1069.[閏 10.11]【日本】後三条天皇( 35)が、2 月に発した延久の荘園整理令の実施を徹底
するため、太政官の外局的機関として記録荘園券契所(記録所)を設置する 。[以後、記
録荘園券契所の性格・機能が変遷するにつれて、略称の「記録所」が正式名称となり、天
皇親政の象徴的機関となる。
]
1071(延久3)
1071. ○【トルコ】セルジューク・トルコが、東イスラム圏の実権を握り、エルサレムを
はじめシリア、小アジアの要衝を相次いで占領し、マラズギルト Malazgirt(のち、トル
コ東部)でビザンティン軍を撃破する。[以後、ビザンティン帝国は強い危機感を抱き、
国土防衛と失地回復を目的とする戦略的親西欧政策を採用し、ナポリ、シチリアに進出
していたノルマン人騎士や聖地巡礼途上の西欧諸侯に傭兵(ようへい)派遣を要請したり、
1054 年の東西教会分離以来疎遠になっていたローマ教皇庁との再接近を図る。ヨーロッ
パが東方へ介入する端緒となる。]
1074(承保1)
1074.○【イラン】この頃、数学者・天文学者・詩人ウマル・アル・ハイヤーミー Abu 'l-Fath
‘Umar ibn Ibr □ h □ m al-N □ s □ b □ r □ al-Khayy □ m □(通称オマル・ハイヤム
Omar Khayyam)( 26)が、セルジューク王ジャラール・アル・ディン・マリクシャー Jal □ r
al-Din Malik-sh □ h の求めにより、イスファハンの新しい天文台でペルシア暦(1 年が 365
日)の改良に当たり、新しい暦「ジャラール暦」al-Ta'-r □ kh al-J □ lar □をつくる。[こ
れは約 5000 年に 1 日の誤差しか生じることがなく、その点では、3330 年に 1 日の誤差
- 85 -
のあるグレゴリオ暦よりも精確である。彼はまたユークリッドの『原論』Stoikheia の公
準と定義とを研究するが、愛と自由をたたえたペルシア語の四行詩『ルバイヤート』Rub
□'□ y□ t の作者として名を残す 。
「ルバイヤート」は、イラン固有の詩形で、第 1 行、
第 2 行、第 4 行の脚韻はかならず押韻し、第 3 行の脚韻は押韻してもしなくてもよい。10
世紀の詩人をはじめとして多くの詩人たちがこの詩形を作詩するが、ペルシア文学史上
とくに四行詩人として知られるのは、ウマル・アル・ハイヤーミーおよびアブー・サイード
・ビン・アビル・ハイル、アンサーリー、バーバー・ターヒルの 4 詩人である。人生の無常 、
宿命、酒の賛美、一瞬の活用などが基調となっているウマル・アル・ハイヤーミーの作品
が、19 世紀なかば、イギリスの詩人 E.フィッツジェラルドによって流麗な英語で翻訳・
刊行される。以後、世界中に名声が高まり、日本語を含めて世界の主要な言語に翻訳さ
れる。]
1079(承暦3)
1079. 4.16【日本】「いろは歌」全文が載った最初の文献『金光明最勝王経音義(こんこう
みょうさいしょうおうきょうおんぎ)』が書かれる。『金光明最勝王経』の中の難しい文
字について意味と発音をまとめたもので、発音を示すための凡例として、万葉仮名 47 字
を重複なく用いた歌〈色(いろ)は匂(にほ)へど 散(ち)りぬるを 我世誰(わがよたれ)
ぞ常(つね)ならむ 有為(うゐ)の奥山(おくやま) 今日(けふ)越(こ)えて浅(あさ)き夢
見(ゆめみ)じ 酔(ゑ)ひもせず〉が記載される。[以後、いろは歌の普及により、平安末
期の橘忠兼(たちばなのただかね)編『色葉字類抄』などの発音引き辞書の作成が可能に
なる。また、仮名遣いを統一しようという気運も生まれてくる。いろは歌は日本語の発
展に大きな役割を果たす。なお 、
「いろは歌」に先行する同類のものとして「たゐにの
歌」や、ア行のエとヤ行のヱを区別して 48 字ある「あめつち」が知られている。]
1082(永保2)
1082.○【朝鮮半島】高麗で、1011 年から 71 年の歳月を費やし、
『高麗蔵』6000 余巻が
刊行される。遼朝から贈られた『契丹蔵』などを原本として、高麗産の良質な紙と墨を
用い 、中国の製版技術にならい、刊行する。朝鮮半島における最初の大蔵経刊行となる 。
[1232 年、モンゴル軍が来襲し、大蔵経版木の大部分が焼き尽くされる 。
]
1084(応徳1)
1084. ○【バチカン】カトリック教会法で、〈セックスが不可能な結婚は成立せず、無効
である〉と規定する。
1088(寛治2)
1088.○【日本】
『成唯議論(じょうゆいしきろん)述記』 10 巻が刊行される。模工僧観増
の刊記がある。[以後、興福寺を中心に奈良の諸大寺で同様な経巻類が開版(板)され、藤
原氏の氏神である春日神社に奉献される。明治以後にこれらは「春日版」と呼ばれ、『成
唯議論述記』は正倉院に収蔵され、現存する最古の春日版となる。1行 17 字詰の楷書を
用いて版式を整備し,使用料紙の質がよく,墨色優秀をもって知られる。毎版面の右す
- 86 -
みに開版の年代,寺名,願主,施主,彫工などの名が隠刻されているが,普通は印刷の
さい刷りこまれていない。ほかに、模工僧延観の刊記のある『成唯識論』巻十(京都守
屋家蔵)、1212 年刊『瑜伽師地論』100 巻、1209 年刊『法華経普門品』3333 巻、1225 ∼ 1227
年刊の『大般若波羅蜜多経』 600 巻などがある。この頃の版木で現存するものも比較的
多く,興福寺北円堂に現存する『成唯識論述記』の版木は,1195 年の彫刻で,現存古刻版
木のうち最も古いものの一つとなる。]
1090(寛治4)
1090. ○【日本】
『源氏物語絵巻』がつくられる。主殿頭(とのものかみ)藤原隆能(たかよ
し)の絵、世尊寺権中納言伊房の詞書といわれ、俗に「隆能源氏」と呼ばれる。
1090. ○【日本】この頃、漢字字書『類聚名義抄(るいじゅうみょうぎしょう)』が編纂さ
れる。古辞書、仏書、古訓点など多数の先行文献を忠実に引用して 、
「人」「彳」等 120
の部首により漢字を分類し、発音、字義、和訓等を注記したもの。著者は法相(ほっそう)
宗の僧かともいわれるが不明。[初撰(しよせん)本は 6 帖(じよう)か。うち 1 一帖のみ伝
えられ、宮内庁書陵部に収蔵される。増補本の別があり、
「仏」「法」「僧」の篇名(へん
めい)をもつので『三宝類字集』等の別名がある。]
1095(嘉穂2)
1095.11.27 【フランス】教皇ウルバヌスⅡ世が、東西教会の再合同、東方における教会国
家の創設、西欧諸国民の大量移民などを目的とする大規模な救援軍派遣計画を構想し、
クレルモン公会議開催中に第 1 回十字軍発動の宣言を行う。その趣旨は、全キリスト教
徒の義務として聖墳墓に参詣する誓願をたて、イスラム占領下の聖都を奪回し、シリア、
パレスチナの教会を解放するための軍事行動を勧説しようというものである。教皇はま
た、即位以来の懸案であるドイツ(神聖ローマ)皇帝との「聖職叙任権闘争」を教皇側
に有利に解決する意欲と、西欧封建社会の積弊であった諸侯・騎士同士の私的闘争を「神
の平和」運動によって抑止する念願とを達成するため、十字軍運動の盛り上がりを巧み
にとらえ、教皇代理ル・ピュイ Le Puy 司教アデマール Adh □ mar を総司令官とする軍団
編成をフランス諸侯に呼びかける。
1099(康和1)
1099. 7.15【イスラエル】第 1 回十字軍がエルサレムを占領する。[直後、シリア、パレ
スチナにエルサレム王国を創設する。]
1100(康和2)
1100. ○【日本】この頃、大江匡房が『遊女記』を著す。古代の遊女のありさまを描写し
たもので、淀川河口の江口、神崎(かんざき)などに集まっていた遊女を取り上げる。
1100. ○【フランス】この頃から、南フランスで、封建大諸侯の宮廷に、貴女(きじょ)を
中心とする狭いが華やかな社会が生まれ、貴女崇拝と宮廷風とよばれる新しい恋愛の理
念が生じる。そういう環境と理念のなかで、大領主アキテーヌ公 9 世のように、領主で
ある詩人が、愛する心の貴女に永遠の思慕を寄せて、それをときには晦渋(かいじゅう)
- 87 -
なまでに凝った詩型に歌い込んで、それに自分で曲をつけて、城から城と遍歴して歌っ
て回る者が現れる。ただしその内容は一定していて、けっして報われることのない貴女
への愛の嘆願と奉仕の誓いである。その願いがいれられても、額に口づけを一つ受ける
程度であるが、詩人はその「コンソラメンテ」という口づけの栄誉をさらに保つために 、
なおいっそうの誠を捧げる。[以後、吟遊詩人(ぎんゆうしじん)(トルーバドゥール
troubadour)と呼ばれ、領主、騎士、僧侶、庶民まで多様な階層の人物が登場する。以後 、
北フランス、ドイツにまで広がり、1170 年ころ騎士階級を中心としたミンネゼンガー(ミ
ンネジンゲル)が登場する。400 余人の名が残される。]
1101(康和3)
1101.○【朝鮮半島】高麗王文宋の王子王煦(おうく)が、中国、朝鮮の各地を歴遊し 、宋 、
遼、朝鮮の仏教学者の著作を収集し、
『続蔵』4000 巻を編集刊行する。[以後、宋、遼、
日本に数部を分贈する。]
1102(康和4)
1102. ○【朝鮮半島】この頃、宋から鼓鋳法という、ふいごを使って炭火などをあおり、
高温で銅鉱石を溶かして銅を精錬し、銅銭を作る技法を学ぶ。この技法により優れた高
麗銭の鋳造を行う 。[以後、高麗銭は文字がよく出ているので、中国の貨幣研究家など
から称賛される。1227 年、金属活字の鋳造にも応用され、良質の銅活字が作られる。
]
1103(康和5)
1103.○【中国】福州の東禅寺において、1080 年以来 23 年の歳月をかけて、民間の寄付
により『福州東禅寺大蔵経』(「福蔵」)全 6434 巻、580 函が刊行される。民間の寄付で
刊行された最初の大蔵経となる。
[1112 年、福州城内の開元寺においても、民間の寄付
を募り『大蔵経』の刊行を始める。1151 年、全 6117 巻、567 函の『毘廬(びる)大蔵経』
(「毘廬蔵」)が完成する。
]
1113(永久1)
1113.○【日本 】この頃、真言密教の一流、立川流が誕生する。武蔵国立川の陰陽師某が 、
女犯によって伊豆に流された仁寛(真言宗醍醐三宝院の僧勝覚の弟子)と出会い創始する 。
男女の交合を即身成仏秘法とし、信仰の中心に位置付ける。[以後、醍醐寺の座主文観の
努力により次第に普及する。13 ∼ 14 世紀に最盛期。慶長(1596 ∼ 1615 )以後、この流は
邪教とされて、その勢力はほとんど衰微する。]
1120(保安6)
1120. ○【日本】白河法王が、公卿顕隆と〈水魚の契りを結び法王と二者合一となる〉と
『中右記』に記される。天皇の男色を記録したものとなる。
1127(大治2)
1127. ○【中国】南宋が成立する。
- 88 -
1127. ○【中国】金の軍隊が、北宋の政治・商業・文化の中心地開封を占領し、大量の書
籍や版木を戦利品として金の中都(のち、北京)へ移送する。開封の書店は相次いで臨安
へ逃れ、出版業は衰退する。
1130(大治5)
1130. ○【ヨーロッパ】この頃、イタリア語とルーマニア語が分岐し始める。(モリス・ス
ウォディッシュによる仮説。
)
1133(長承2)
1133. ○【日本】日宋貿易が始まる。[以後、砂金、水銀、硫黄、木材、蒔絵、扇子、刀
剣が、日本から宋へ輸出される。]
1133. ○【イギリス】オックスフォードに、パリから神学者ロベール・ピュランが来講す
る。これがイギリス最初の大学、オックスフォード大学の起源となる。[ 1168 年ごろ、
パリ大学を脱出したイギリス人学生が帰国してここに集まり、一方ヘンリーⅡ世の勅令
で海外留学を禁止された学生も加わって大学の基礎が固まる。12 世紀末、大学は全キリ
スト教国共通の学位の認定権を取得する。13 世紀初めに「ローマ教会の第二の学校」と
して、パリ大学に次ぐ地位を与えられる。]
1144(天養1)
1144. ○【日本】この頃、橘忠兼(たちばなのただかね)が、ことばの配列を初めていろは
順にし、その中をさらに天象・地儀・動植物などと系統立てた辞書『色葉字類抄(いろは
じるいしょう) 』(通例『伊呂波字類抄』と表記)を作る。これまでの辞書が漢字を引い
て,そのよみかたを求める体裁のものであったのに対し,ことばからこれにあてる漢字
を求めるようになっている。[1180 頃 、橘忠兼編の 3 巻本が成る。日常実用の語を主に 、
漢文訓読語をもあわせて、広く和語・漢語を採録。語の頭音によって全体を伊呂波 47 篇
に分け、さらにその各篇について、意義分類に従って天象・地儀など 21 部をたてて収録
語を類聚(るいじゅう)する。普通に使用された漢文体の文章(漢詩文、記録、文書など)
を作成するうえで心得るべき語、漢字表記を中心に、とくに漢語が豊富に集録される。
以後、後数百年にわたる辞書の組織のもととなる。2 巻本と 3 巻本と 10 巻本がある。2
巻本は 3 巻本の稿本とみられる。鎌倉時代に大増補され、10 巻本になる。10 巻本は『伊
呂波字類抄』の名で引用されて,江戸時代の初期に学界に紹介される。3 巻本は,昭和
年代にはいって初めて複製本で世に知られ,前田本(中巻を欠く)と,それを補う黒川
本との 2 つがある。]
1145(久安1)
1145. ○【イタリア】シチリア王ロジェルⅡ世が、羊皮紙に比べて破損の恐れのある未知
の素材であることを理由に、紙を用いて公文書を起草することを禁止する。前の治世に
〈綿のような紙〉で作成された免許状をことごとく羊皮紙に転写して、転写後はすべて
廃棄するよう命じる。
- 89 -
1150(久安6)
1150.○【ヨーロッパ】この頃、アル・フワーリズミー al ‐ Khw ロ rizm ロ(780 頃∼ 850 頃)
の『代数学』がラテン語に翻訳され、アラビア数字と位取り記数法が広まる。
1151(久安7)
1151.○【スペイン】11 世紀にアフリカ沿岸地方で盛んになった製紙技術が、スペインに
侵入したムーア人によってスペインのバレンシア地方に伝えられ、ザディバに製紙工場
が建設される。ヨーロッパにおける製紙工場の始まりとされる。[以後、1238 年、イタ
リアのファブリアーノ、1338 年、フランスのトロワ、1389 年、ドイツのニュルンベルク 、
1411 年、スイス 、1490 年ころイギリスへと伝えられる。(以下??)1276 年にイタリア、
1348 年にフランス、1390 年にドイツ、1494 年にイギリス、1586 年にオランダなど順次
製紙工場が建てられる。紙は羊皮紙に比べて耐久性がないとの理由で、紙製の書物は羊
皮紙のものよりも廉価で取引される。]
1154(久寿1)
1154. ○【シチリア】モロッコ生まれのイスラム世界の代表的旅行家・地理学者イドリー
シー( 54)が、地中海を中心とする詳細な世界地図をつくる。
1158(保元3)
1158.○【イタリア】神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒⅠ世バルバロッサ( 35 ?)が、ボロ
ーニャの学生を領主裁判権から保護し、学生らの組合に自治権を与える。組合は自治権
を得て、法学研究を主とする大学として公認され、パリ大学とともに世界最古の大学と
なる。[13 世紀に、ローマ法王からも認可を受ける。この頃、すでに医学、神学、哲学
の各学部が設置されており、14 世紀には数学部も加えられる。医学部は世界で最初に解
剖学の教授と実習を行った学部であり、南ヨーロッパの学術の中心となり、おびただし
い数の学生を各地から引き付ける。ダンテやペトラルカもここで教鞭をとる。1802 年、
国立大学となる。]
1162(応保2)
1162.○【日本】毘沙門天立像の印仏が作られる。1 版 1 体の像を 1 紙に 10 体ずつあらわ
し,もと 100 枚計 1000 体を毘沙門天立像に納入し、供養される。[以後、銘記のある最
古の印仏(川端氏蔵)とされる。紙面に捺印した印仏ではなく、紙を版木の上に置いて刷
る摺仏(すりぼとけ)とする説もある。]
1165(永万1)
1165.○【エジプト】スペインのコルドバ生まれのユダヤ人哲学者マイモニデス Moses
Maimonides(イブン・マイムーン Ibn Maim □ n (30)が、この頃、イスラム教徒の圧政を逃
れてエジプトのカイロに移り、定住する。[以後、宮廷の侍医、ユダヤ教神学者、哲学者
として活躍し、1177 年にカイロのユダヤ教団を主宰する。アリストテレスの哲学によっ
て神学の合理的基礎づけを試み 、
『旧約聖書』の内容が理性的に確立されたものと矛盾
- 90 -
するときには、寓意(ぐうい)的に解釈されねばならないと主張する。能動的理性の説、
意志の自由の主張、世界の永遠性を否定する学説などを説き、また、割礼法を改善し、
痔疾は便秘が原因で起こるとし、その治療には野菜を主とする軽い食事を奨める。著書
『迷える人々のための導き』などがヘブライ語、ラテン語に訳されて、13 世紀西ヨーロ
ッパの哲学に大きな影響を与える。1204 年当地で没する。遺体はモーセのたどった道を
運ばれて、ティベリアスに葬られ、以後、その墓には巡礼者があとを絶たない。]
1170(嘉応2)
1170. ○【ドイツ】この頃、南フランスのトルーバドゥール(吟遊詩人)の影響を受けて宮
廷叙情詩(ミンネザング)の歌人「ミンネゼンガー Minnes □ nger」が登場する。詩は宮
廷の宴席で発表され、作者は作詩、作曲、朗唱のすべてを行うシンガーソングライター
である。なかでも、若い騎士の、容姿・品性優れた高貴の既婚婦人にあこがれる歌が多
い。高潔な異性への官能の成就なき愛(ミンネ Minne )は騎士の精神を高め、中庸や自制
心を教える。[以後、1300 年ごろまでドイツやオーストリア各地の宮廷で、純潔無垢(む
く)な庶民の少女への現実的な愛をたたえた恋愛詩やきぬぎぬの歌のほか、多くの政治詩、
格言詩、十字軍の歌などがつくられる。]
1175
1175.○【イギリス】テムズ河畔の町ティルベリのジョン John of Tilbury が、速記記号を
考案する。[以後、英語の速記の起源ともされるが、定かではない。 1588 年、イギリス
の外科医ティモシー・ブライトが、速記文字を考案する。
1178(治承2)
1178.○【日本 】山陰道諸国司あての公家新制 12 ヵ条中に、諸人奴婢の勾引売を禁じる 。
1185(文治1)
1185.○【日本 】屋島の戦いで平氏が敗れる。壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、安徳天皇(7)
が入水により死去する。天皇に仕えていた女官たちが、生活のために春をひさぎ、遊女
になる。[以後、下関の豊前田遊郭に発展する。またこれにより、下関の赤間神宮の先帝
祭行事の女ロウ(じょろう)代表参拝が行われるようになる。]
1190(建久1)
1190. ○【中国】
〈番漢の衆を和し、二国の誼を増す〉
、すなわちタングート族と漢族が仲
良くし、西夏国と宗が友好関係を深くするために、西夏文と漢文の対照字典『番漢合時
掌中珠』が出版される。
1190. ○【ヨーロッパ】この頃、中国から磁気コンパスが伝えられてる。針を磁石でこす
って磁化させ、この針を紐(ひも)で吊るしたり、針を藁に刺して水に浮かべたりして北
を検知するといったものと思われる。
1191(建久2)
- 91 -
1191.○【日本】公家新制 36 ヵ条中に、諸人奴婢の勾引売を禁じる。
1191. ○【イギリス】イングランドのリチャード獅子心王が,十字軍遠征でマルセイユに
上陸した先頭騎士が軍資金を娼婦につぎこんでいるのを見て嘆息する。
1193(建久4)
1193.○【中国】(紹興 4)宋の宰相周必大( 67)が、畢昇の方法に習って、泥活字を用いて
自著『玉堂雑記』を刊行する。友人宛の手紙に、〈泥活字と銅板を使用して、版を崩し
ては並べ替え印刷し、今日たまたま『玉堂雑記』ができあがりました〉と書く 。
[以後、
世界最古の活字印刷本とされる。
]
1197(建久8)
1197. ○【日本】大隅・薩摩守護あて幕府下文に売買人を禁じる。
1200(正治2)
1200. ○【日本】この頃、絵巻「鳥獣人物戯画」が制作される。擬人化された動物の諸態
や、人間の遊びに興ずるさまを描き集めた戯画絵巻で、「鳥獣戯画」ともよばれる。各制
作年代と筆を異にする 4 巻が残され、甲巻は猿、兎(うさぎ)、蛙(かえる)などが人間を
まねて遊ぶ模様、乙巻は馬、牛、鶏、獅子(しし)、水犀(みずさい)、象、それに麒麟(き
りん)、竜など空想的なものを含めた各種動物の生態、丙巻は僧侶や俗人が勝負事に興ず
るありさまと、猿、兎、蛙などが遊び戯れるさま、丁巻はやはり僧俗の遊び興ずるさま
が、それぞれ描かれる。各巻とも詞書(ことばがき)を欠き、絵に説かれる内容、意味が
明らかでなく、種々の解釈がなされるが定説をみない 。筆者は鳥羽僧正(とばそうじよう)
覚猷(かくゆう)(1053 ∼ 1140 )と伝称されるが確証はない。[以後、京都・高山寺(こうざ
んじ)に所蔵され、国宝の指定を受ける。]
1200. ○【フランス】ノートルダム楽派が、多声音楽の各声部のリズムを明示する必要か
ら、モード記譜法 modal notation を考案する。リガトゥラ(連結符)の並び方のパターン
により、リズム型が示される。また、初めて声部ごとに分けて書くパート譜がつくられ
る。
1202(建仁2)
1202.○【イタリア】数学者フィボナッチ Fibonacci(1170 頃∼ 1240 以後)が、
『バクス
の書 Liberabaci 』
(別称『算術の書』を著し、インド・アラビア式数字(現在の算用数字)
による筆算法をヨーロッパ世界に伝える。最終章に、フワーリズミーやアブー・カーミ
ルの二次方程式論を取り扱っている。[ 1228 年に改訂。彼はキリスト教的ヨーロッパ世
界が生んだ最初の偉大な数学者となる。]
1205(元久2)
1205.[ 3.26]
『新古今和歌集』の部類(各部への配当・各部における配列作業)が完成し 、
竟宴(きょうえん)(撰集作業が終わった「竟」のあと開かれる宴)が催され、
『新古今和
歌集竟宴和歌』が詠まれる。
- 92 -
1206(建永1)
1206.○【中国】モンゴル高原中部以東を制圧した破竹の勢いのテムジン(39)が,オノン
河畔にクリルタイを開き,チンギス・ハーン(成吉思汗)という称号をとり,モンゴル帝国
を樹立する。
1206. ○【イギリス】カンタベリーの大主教ステファン・ランクトンが、初めて『旧約聖
書』に章節の区分をつける。[ 1551 年、パリの印刷業・出版業者ロベール・エティエンヌ
が、
『新約聖書』に章節を付けて印刷する。]
1209(承元3)
1209. ○【イギリス】オックスフォード大学から、多数の学徒が市民との騒擾(そうじょ
う)を避けてケンブリッジに移動する。[1226 年、ケンブリッジ大学総長が任命され、つ
いでヘンリーⅢ世が市長に通告を出し、国に名誉と利益をもたらす学生を歓迎するよう
に命じる。1284 年に最初の学寮(college)が設立される。1318 年教皇ヨハネス 22 世が、
全キリスト教国に通用する学位の認定をこの大学に承認する。以後、名実ともに一流の
大学に発展しする。]
1212
1212.○【フランス】全国の納税台帳に、作家 24 人、書籍商 8 人 、製本屋 17 人、写本屋 13
人の名が記載される。
1215(建保3)
1215.○【フランス】フランス最初の大学、パリ大学(Universit □ de Paris)が、パリ公教
会の付属学校などを母体として正式に創立される 。教授と学生ともに聖職者身分であり、
研究・教育を目的とする同業組合(ギルド)である。[この頃、大学の興隆とともに、写
本作りが商売として成り立つようになり、パリなどの大学町には書写を専業とする写字
生が誕生する。パリ大学では、学生に良質の教科書を大量生産するため「ペチア(ペシア)
pecia 方式」を開発して解決する。
〔ペチアは英語の piece、すなわち冊子体の帖のこと。
大学当局から認められた書籍商が、大学教科書の見本(当局がお墨付きを与えた原本
(master copy ))を多数未製本のまま帖単位で所有しており、転写を希望する学生たちに
番号のついた帖を順番に有料で貸し出す。この方法で一度に帖の数だけの写本作業がそ
れぞれ学生の手で同時に行われる。この方法は、のちにボローニャ、オクスフォードな
どいくつかの大学でも行われるようになる。大学は学年初めに、貸し出し可能なテキス
ト一覧を発行する。そこには許可済みのペチアのタイトル、各書のペチア数、貸出料な
どが記載される。1275 年にパリ大学で作られた現存最古の目録には、トマス・アクィナ
スによる聖マルコ福音書の注解書が掲載されており、ペチア数は 57、貸出料はセットで 3
ス・ドール。1304 年の目録では、同じセットの貸出料が 4 ス・ドールとなっている。14 世
紀後半に、ペチア方式は消滅する。理由は不明だが、14 世紀半ばに始まる黒死病(ペス
ト)の流行との関係が指摘されている。
〕13 世紀中に、パリ大学は数回の自治権獲得闘争
の結果、ローマ教皇、国王から自治権をかちえる。1968 年に解体され、パリ第一大学∼
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第 13 大学までの 13 の新制大学に再編される。]
1219(承久1)
1219.○【日本】この頃、社寺縁起の絵巻『北野天神縁起』8 巻本が描かれ、根本縁起と
して北野天満宮に秘蔵される。縦幅 51.5cm、全 8 巻の全長 69.89m というまれにみる大
画面に描かれ、1 巻∼ 6 巻には菅原道真の生涯と死後の怨霊による災いが描かれる。詞
書中に〈承久元年 今にいたるまで〉とある。後の 2 巻は絵のみで詞書はなく,日蔵(道
賢)上人地獄巡りと六道のありさまを収める。また第 9 巻は創立由来と利生記だが未完成
のまま一部白描の画稿だけが残る 。
[のち、国宝に指定される。国宝の絵巻の中で最長
である。]
1219.○【スペイン】アルフォンソⅨ世が、サラマンカ( Salamanca )にサラマンカ大学を
創設する。[以後、ボローニャ大学、パリ大学、オクスフォード大学と並ぶ第一級の大学
として広く知られる。16 世紀、7000 人の学生が在学する。大学の設立によって町はヨー
ロッパ有数の学術、文化の中心地となる。]
1223(貞応2)
1223. ○【日本】諸国に大田文(土地台帳)を作成させる。
1223.○【中国】道元(23 )が、栄西の高弟明全(みょうぜん)とともに入宋する。
1224(元仁1)
1224. ○【イタリア】フリードリヒⅡ世が、教皇の強い影響下にあるのボローニャ大学に
対抗して、ナポリ大学を創設する。[ 1253 年、サレルノ大学と統合。1258 年、分離。]
1225(元仁1・嘉録1)
1225.○【日本】公家新制 36 ヵ条中に、勾引人・売買人を禁止する。[翌 1226 年、幕府
は諸国御家人にその施行を命ずる。]
1227(元仁1)
1227. ○【朝鮮半島】高宗の時代、銅活字がつくられる。
1229(寛喜1)
1229. ○【ヨーロッパ】オゴタイ・ハーンが、東ヨーロッパを征服する。
1229. ○【ドイツ】本の見本市がライプチヒで開催される。ブックフェアとして最古のも
のとされる。
1231(寛喜3)
1231. ○【朝鮮半島】蒙古が高麗への侵略を始める。
1231. ○【イタリア】神聖ローマ皇帝フリードリヒⅡ世が、羊皮紙に比して破損の恐れの
ある紙を用いて公文書を作成することを禁止する。
1231. ○【イタリア】サレルノ医学校が、神聖ローマ皇帝フリードリヒⅡ世の勅令により
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サレルノ大学(Universit ■ degli studi di Salerno )大学として公的に承認される。[以後、
中世前半期における医学のセンタとして全ヨーロッパ的な名声を博す。ここで生み出さ
れた医学書『サレルノ健康法(Regimen sanitaris salernitanum)』は全ヨーロッパで広く読
まれ、大きな影響を及ぼす。1253 年、近隣のナポリ大学と統合。1258 年、ナポリ大学を
分離する。以後、衰退する。19 世紀初頭、閉学を余儀なくされる。 1970 年、再建され
る。]
1232(貞永1)
1232. ○【中国】金(きん)の軍が、タタール軍との戦争で「飛火槍(ひかそう)」という兵
器を使用する。槍の先に火薬をつめ、轟音とともに火焔を噴き出して相手を威嚇する兵
器で、記録に残っている最初のロケット式兵器であるとされる。
1234(文暦1)
1234. ○【朝鮮半島】高麗で最初の銅活字による印刷が始まり、
『古今礼文評定』(あるい
は『評定古今礼文』)が刊行されたと記される。[以後、これは消失する。1377 年、銅活
字で禅書『直指心経(ちょくししんきょう)』が印刷され、現存する世界最古の活字本と
してパリ国立図書館に収蔵される 。
20 世紀に高麗銅活字を分析して、
その金属含有率が 12
世紀に流通していた銅貨「海東通宝」とまったく同一であることが判明して、高麗活字
版は 12 世紀から開始されたのではないかととなえられる。]
1235(嘉禎1)
1235. [5.27]【日本】歌人藤原定家(ふじわらのさだいえ)(73 )が、息子為家の舅で北関東
屈指の豪族宇都宮入道蓮生(れんしょう)(頼綱)(63)の懇望に応じ、天智(てんじ)天皇以
来の代表的歌人 100 人からそれぞれの秀歌 1 首ずつ選び出し、蓮生の山荘の障子(襖)に
貼る色紙に書く。[のちに、
「小倉百人一首」の原型となる。歌道入門書として読まれ、
注釈書も刊行される。近世以後、絵入りの歌がるたの形にもなり、一般教養書や遊びの
ひとつとして普及する。5 月 27 日は「百人一首の日」とされる。
]
1235.○【ドイツ】ドイツ国王・神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒⅡ世 Friedrich II ( 41 )
が、イングランド王の妹イザベラを妻に迎える。[以後、お抱えの占星術師らが時宜を
定めるまで、妻と肉交することを拒み続ける。
](年代記作家マティウス・パリスによる)
1236(嘉禎2)
1236. ○【朝鮮半島】モンゴル軍の高麗侵入に対して、開京(かいけい、のち、開城)から
江華島(こうかとう)に遷都した崔氏の武人政権が、この国難を克服するために仏の加護
を祈願して、大蔵都監の本司を置き高麗版『大蔵経』(『高麗蔵』)の再版彫造を始める。
[1251 年、6558 巻を完成する。以後、海印寺に 8 万余枚の版木が保存される。]
1237(嘉禎3)
1237. ○【フランス】この頃、韻文物語『薔薇物語』が書かれる。宮廷風恋愛の伝統を夢
の寓意で表し、押韻二行連句が 2 万 2000 行続く。
[以後、エデンの園という、一種「無
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政府主義的コミュニズム」のテーマが代々伝えられる。写本が 300 以上も現存する。
]
1238(暦仁1)
1238. ○【イタリア】紙の製造技術がファブリアーノに伝えられる。原料の多くは動物繊
維の古着が用いられる。[1338 年、フランスのトロワに伝えられる。]
1239(延応1)
1239.[ 4.17]【日本】幕府が、寛喜飢饉以来黙認の人身売買を再び禁止し、経過措置を定
める。
1239.[ 5.23]【日本】赤木左衛門尉平忠光が六波羅飛脚として、20 日の未刻(午後 2 時)
に京を出て、この日申刻(午後 4 時)3 昼夜と 2 時間で鎌倉に駆けつけ、その速さは〈殆
んど飛鳥の如し〉と『吾妻鏡 』に記される。六波羅飛脚は、通常乗馬による飛脚であり、
この場合、馬を次々と乗り換えて東海道を疾走したと考えられる 。
(石井寛治、1994)
1244(寛元2)
1244.○【中国】モンゴル帝国が、山西省平陽の玄都観で、
『道蔵』7800 巻を刊行する。
1250(建長2)
1250. ○【朝鮮半島】この頃、金属(銅)活字により『古今礼文評定』を刊行と伝える。
1250.○【ヨーロッパ】この頃、楽譜の 4 線上に角形ネウマ nota quadrata を泳がせる方式
が広く使われるようになる。ただしゲルマン系のゴシック・ネウマ gothic neume という
鋲(びよう)形ネウマを使うところも多い。譜線ネウマは、曲全体を通じて音程関係は正
確に表せるが、音価の表記はあいまいなままにされる。
1250. ○【ヨーロッパ】この頃、楽譜の音符に長短の関係をさらに明示できる「定量記譜
法 mensural notation」が考案される。長符ロンガ longa と短符ブレビス brevis が区別され
る。[14 世紀初めに、分割と倍価による長短関係がさらに明確になる黒符定量記譜法が
現れる。]
1250. ○【ヨーロッパ】この頃以降に 、
「バージ脱進機」という時計固有の機構と歯車装
置との組合せによって、純機械時計と呼べるものが出現する。脱進機の構造は簡単で、
のこぎりのような歯をもつ冠車(かんむりぐるま)と、その歯に交互にかみ合う 2 枚の角
板のついた軸および軸の上端に取り付けられて往復回転運動をする棒てんぷとによる簡
単なものである。[以後、棒てんぷに代わって円形のはずみ車であるてん輪やひげぜんま
いが、また重錘の代りにぜんまいが使われるようになるが、バージ脱進機は提げ時計の
時代にもまだ生き残り、17 世紀半ばの時計技術革新時代が到来するまで、約 400 年にわ
たり時計の唯一の抑制機構として生き続ける。バージ脱進機時計は、400 年間ほとんど
進歩が見られないが、しだいに小型になるとともに、カレンダー装置や太陽、月、惑星
の運動を示す天文時計のような複雑な機構をもち、外装部も貴金属、宝石をちりばめた
精巧で高度に装飾的な、工芸品としてもすばらしい価値をもつ時計が作られる。これら
は王侯貴族の権威や富の象徴として珍重される。]
1250. ○【フランス】この頃、ゴチック書体が北フランスを中心に広まり始める。
- 96 -
1250.○【イギリス】神学者・哲学者・科学者ベーコン( 30 ?)が、実験科学に取組み、馬
や牛に牽かせる車を見て 、
〈いつの日か、馬あるいはその他の動物によらず、自身の力
で走る車が可能になろう〉と、自動車の出現を予言する。
1251(建長3)
1251.○【朝鮮半島】高麗で、モンゴル調伏を祈願して 15 年の歳月をかけて『高麗大蔵
経(こうらいだいぞうきょう)』の再販彫造作業が完成する。『八万大蔵経』と称され、
全蔵 6791 巻、版木 8 万 1258 枚、1 枚の版木の両面に文字が刻される。[以後、経典 1512
部、6805 巻を収めた 8 万 1000 枚余の版木が、慶尚南道陜川(きょうせん)の伽?(イ+那)
山海印寺(かいいんじ)に伝えられる。]
1252(建長4)
1252.○【スペイン】アルフォンソⅩ世 Alfonso X (41)が、カスティリャとレオンの王に
就く。[以後、中世における最大の文化人の一人として、中央集権化を念頭においた法
典の整備のほか、多くの学者・文人をあつめてアラビア語文献やギリシア古典などの翻
訳事業を推進し、ガリシア語の詩歌の集成などに貢献する。また、天文学における太陽
・月・惑星の運行推定表「アルフォンソ表」の作成を指導する。しかし、統治者として
は失敗を重ねる。
]
1253(建長5)
1253. 1.−【フランス】フランシスコ会修道士ルブルク William Ruysbroeck(リュブリュキ
Guillaume Rubruquis)(38 ?∼ 33 ?)が、ルイⅨ世の使者としてモンゴルへ向け出発出発
する 。
[12 月 27 日、カラコルム西方のモンケ・ハーンの本営に到着。1254 年 4 月初め、
カラコルムに入る。7 月 10 日、モンケの書簡を持って帰途につく。1255 年、帰国し、広
大なアジア内陸部についての情報を記録する。彼の記録はモンゴル人そのものよりも旅
行の描写に重点がおかれる。また仏教徒、イスラム教徒、ネストリウス派教徒との討論
会の場面も記述する。1948 ∼ 49 年、ソビエト・モンゴルの考古学者が、カラコルムの
発掘・調査の際に、ルブルクのカラコルムに関する詳細な記事が案内書として使われる。
]
1253. ○【日本】鎌倉執権北条氏の姻戚として勢力をもつ秋田城介(あきたのじょうのす
け)(安達泰盛)(24)が、祖父景盛以来の縁故で紀伊の高野山にはいり、武家の愛護のも
とに偉大な勢力をもって,開版事業にも力をつくし、密教の書『三教指帰(さんごうしい
き)』を開版する。[のちに、これら高野山およびその門流寺院で開版した、密教(おも
に真言宗)ならびに悉曇(しったん)に関する書物を「高野版」と総称する。用紙は厚手
の鳥の子紙を用い,表裏に印刷し,装丁はおおむね粘葉(でつちよう)形を採用している。
高野版は、1260 年から 1323 年までのあいだに刊行された 4 種の開版目録が現存する。
それには書名,開版者名,料紙,装丁の品別,価格,経師注文の規定が記載され,日本
の開版文化史上貴重な資料となる。なお江戸時代初期から木活字による開版がおこなわ
れたが,これは「高野活字版」といって「高野版」とは区別される。]
1257(正嘉1)
- 97 -
1257.10.−【フランス】聖王ルイⅨ世の聴罪司祭でパリ大学教授ソルボン Robert de Sorbon
(56 )が、教区司祭となる貧しい神学部学生に住まいを提供する目的で、
ソルボンヌ学寮(コ
レージュ)を設立する。名称は「貧乏学生のためのコミュニティ」という意味をもつ。
[14
世紀、ヨーロッパの神学教育の中心的存在となる。のち、パリ大学神学部をさすものと
なる 。
]
1260(文応1)
1260. 5 . 5【北アジア・中国】モンゴル帝国の第 4 代ハーン、モンケが合州(四川(しせん))
の陣中で病没する。次弟のフビライ(45)が、一時停戦して急いで北帰し、開平(上都、
のち 、ドロンノール)に支持者だけを集め、独断でクリルタイを開き、大ハン位につく(す
なわち、元の世祖(せいそ))。中国風に年号をつくって中統元年し、大都(のち、北京)
を国都に定め、上都を副都にしする。[以後、夏季は上都に避暑する。1271 年に国号を
大元と称し、彼は中国流の天子になる。]
1263(弘長3)
1263. ○【日本】高麗使が来航し、倭寇の禁圧を要請する。
1264(文永1)
1264. ○【中国】ヴェネチアの宝石商人ニッコロとマッテオの兄弟が、キプチャク・ハー
ン国で戦乱にまきこまれて帰路を閉ざされる。迂回路を探しているときにイル・ハーン国
の元朝への使者に出会い、誘われるまま同行し、開平(上都、のち、ドロンノール)で
フビライに謁見する。2 人は、キリスト教国の政治や教会の事情をモンゴル語で巧みに
説明する。フビライは 2 人に教王への使者の役を与えてヴェネチアに帰国させる。
1265(文永2)
1265. ○【ローマ】この頃、スコラ神学者でパリ大学哲学教授、ローマ教皇庁顧問兼講師
トマス・アクィナス Thomas Aquinas( 40)が、『神学大全(Summa Theologiae)』を執筆し始
める。太っていて、しかも悪筆の彼は、机を腹の形に削り取り、数人の秘書に代筆させ
て、あふれる思索を著述につぎ込む。著作の意図は、これまでの神学教育の経験を生か
して 、神学的観点からの中世学問を集大成し、初心者のための教科書を書くことにある。
「神・創造論」、「倫理編」、「キリスト・秘跡論(未完)」の 3 部からなる。叙述様式は 、
中世大学特有の授業形式である「討論」に由来し、構成要素である 2669 個の「項」はす
べて「……であるか?」という問いの形をとる。まず著者自身の立場に反対する最強の
異論(通常 3 個)が提示され、それら異論の間の緊張、矛盾自体が高次の総合へ導く、
という探究の構造が認められる。[1272 年、ドミニコ会の新しい神学大学を設立するた
めナポリに帰ったトマスは、他の著作と並行して『神学大全』第 3 部を書き進める。1273
年 12 月 6 日聖ニコラウスの祝日のミサののち、突然筆を置く。驚く同僚に対して〈私に
新たに啓示されたことに比べると、これまで書いたものは藁(わら)くずのようだ〉と理
由を述べる。結局第 3 部は未完に終わるが 、本書はしばしばゴシック大聖堂に例えられ、
ヨーロッパ中世文化のもっとも輝かしい傑作の一つとなる。
]
- 98 -
1269(文永6)
1269. ○【日本】蒙古の使者「黒的(ヘイド)
」が、対馬に来航し、島民を拉致する。
1269.○【 】ペトルス・ペレグリヌス Petrus Peregrinus de Maricourt が、初めて磁石に関
する実験的研究を行い、2 つの磁極の存在、両極間の引力と斥力の関係、磁石の作り方
などを述べた書を著す。
1271(文永8)
1271.12.18 【中国】フビライ(世祖)(56)が、モンゴル帝国の大ハーン位を継承し、国号を
中国風の「大元」と改め、都を大都(のち、北京)に定める。
1271. ○【イタリア・中国】ヴェネチアの宝石商人ニッコロとマッテオの兄弟が、ニッコ
ロの息子マルコ・ポーロ Marco Polo(17 )と伝道士を伴って、再び東方へ旅立つ。[以後、
小アジアのシワスからモスルを経てイラクへ入り、海路によって中国へ赴く予定で、バ
グダードからバスラへ行く。しかし、海路をトルコとをやめ陸路によることにし、キル
マン、タブリーズ、バルフ、ヤルカンド、ホータン、チェルチェンなどタクリマカン砂
漠の南辺のオアシス諸都市を通って河西地方に到着し、甘州で 1 年間滞在したのち、1274
年夏、フビライ・ハン(世祖)のいる上都(のち、ドロンノール)に到着する。]
1274(文永11)
1274.10. 5【日本】約 2 万 8000 よりなる蒙古軍と高麗軍が 、を襲う。元寇の始まり。[10.20
対馬・ 壱岐を侵し、博多に上陸する。]
1274. 夏 【中国】ヴェネチアの宝石商人ニッコロとマッテオの兄弟が、ニッコロの息子
マルコ・ポーロ Marco Polo(20)と伝道士を伴って、夏の宮殿のある上都(のち、内モンゴ
ル自治区南部ドロンノール)に戻ってきて 、大ハーン、フビライ(世祖)(59 )の拝謁を賜る 。
[以後、マルコはそのまま中国にとどまって元朝に仕え、優遇されて官職につく。その間、
中国の各地を広く旅行し、17 年間、元朝で暮らす。マルコ一行は、イランのモンゴル王
朝イル・ハン国のアルグン・ハンに降嫁する元朝の王女コカチンの旅行案内者に選ばれ、
ようやく中国を離れることになった。一行は福建省の泉州(ザイトン)を出帆、ジャワ、
マレー、セイロン(スリランカ )
、インドのマラバル海岸などを経由して、イランのホ
ルムズに着いたが、アルグン・ハンがすでに没していたので、王女をその弟ガイハトゥ
・ハンに渡し、1295 年ベネチアに帰る。その後ベネチアとジェノバとの戦争に巻き込ま
れ、捕虜になってジェノバの牢獄(ろうごく)に入れられるが、この入牢中に、物語作者
ルスティケロに東方での見聞談を筆録させる。これが現存するマルコ・ポーロ旅行記『世
界の叙述 Description of the world 』(通称『東方見聞録』)のもとになる。この書はコロン
ブスのアメリカ発見の機縁となる 。またヘディンやスタインは、その中央アジア探検に、
この書を座右から離したことがなかった。ルスティケロの原本は早く散逸したが、それ
を基にして潤色、加筆、または削除した多くのテキストができ、そののち幾多の変遷を
経て、今日の諸テキストが伝来した。これらの異本は、ムールとペリオとの共編によっ
て校合(きようごう)のうえ出版されている。]
- 99 -
1275(建治1)
1275. ○【日本】この頃、北条(金沢)実時が、武蔵国久良岐(くらき)郡六浦庄金沢郷(む
つらしょうかねさわごう)(のち、
横浜市金沢(かなざわ)区金沢町)の居館内に金沢文庫(か
ねさわぶんこ)の基を開く。[以後、南面する台地の東谷に持仏堂(じぶつどう)(のち、称
名寺)が建立され、西谷に金沢氏の住居などが構えられる。文庫は居館の後ろ山際に、独
立の家屋として建てられる。蔵書は千字文(せんじもん)によって分類される。1333 年、
鎌倉幕府の崩壊にあい、金沢氏は北条高時とともに滅ぶ。以後、金沢文庫は氏寺(うじで
ら)称名寺によって管理されるが、寺側も大檀那(だいだんな)を失い、しだいに衰微し、
文庫の蔵書はその時々の権力者によって持ち出される。なかでも徳川家康の移出は多量
に上る。その文庫本は宮内庁書陵部、国立公文書館などに分蔵される。1930 年、神奈川
県立金沢文庫が、神奈川県の昭和御大典記念事業の一環として、実業家大橋新太郎の寄
付金を受けて図書館として復興され、称名寺ならびに金沢文庫に伝来された多数の文化
財(鎌倉時代の古書、古文書、美術工芸品)が保管されることとなる。1955 年、博物館と
して運営されるようになり、中世歴史博物館として存続している。]
1275. ○【フランス】パリ大学で、ペチア(ペシア)の目録が作られる。現存最古の目録と
なる。トマス・アクィナスによる聖マルコ福音書の注解書が掲載されており、ペチア数は
57、貸出料はセットで 3 ス・ドールと記載されている。[以後、大学周辺でペチアシステ
ムによる写本生産が発展する。1304 年の目録では、同じセットの貸出料が 4 ス・ドール
となっている。14 世紀後半に、ペチア方式は消滅する。
]
1275. ○【フランス】ツールーズのアンジェラ・ド・ラバルトが、悪魔との性交の罪で女性
初の火あぶり刑に処される。罪状は、狼の頭とヘビの尾を持つ赤児を産んだことで発覚
する。
1278(弘安1)
1278.○【イギリス】哲学者・科学者で驚異博士( Doctor mirabilis)と称されるベーコン
Roger Bacon( 64 )が、錬金術および自然科学特に光学に通じ、拡大鏡を発明し、これを使
って初めて凹面鏡における光の球面収差などを研究していた。これがいかがわしい新説
を提示したというみなされ、異端の疑いで修道院に監禁される。[∼ 1292 年。以後、知
識はすべて経験に基づくという「経験学(scientia experimentalis)」を提唱する。ただし、
経験には感覚によるもののほかに 、神的照明によるものも含まれるとする。経験 (実験 )
の重視、光学における業績、工学的予見などのために、近代科学の先駆者とされる。]
1280(弘安3)
1280. ○【イタリア】フロレンス出身の科学者サルビノ・アルマトが、光の屈折の実験中
に目を悪くし、視力改善のために眼鏡作りを手掛け、厚く湾曲した視力矯正用レンズを
発明する。
1280. ○【イタリア】この頃、ファブリアーノの製紙業者が、「カム」を使った搗砕器を
導入し、技術革新を図る。
1281(弘安4)
- 100 -
1281. 5.21【日本】元の船 500 余隻が、対馬に侵攻する。弘安の役が始まる。[5.29 壱岐
へ襲来する。]
1281.[閏 7.1]【日本】北九州を襲っていた元船が、大風雨に襲われ、多数が沈没する 。[閏
7.5 肥後国鷹島に残った元の主力の船が集結し、将軍ら首脳が協議するが、日本軍の猛
攻で将軍らは兵を捨てて逃げ帰る。この頃、九州博多から鎌倉への飛脚による急便が、
約 12 日で到達するようになる。]
1281. ○【中国】元の世祖が 、
『道徳経』を除く道教の書物の版木をすべて焼却させる命
令を下す 。[以後、都の内外の道教経典の版木はほとんど灰燼に帰す。道教の勢力も衰
退する。]
1282(弘安 5 )
1282. ○【イタリア】現存する最古のウォーター・マークが作られる。
1287(弘安10)
1287.○【日本】鎌倉建長寺で、日本最初の翻刻書『禅門宝訓』が刊行される。
[1325 年 、
禅尼宗沢が、唐の寒山子の『寒山詩』を、詩文集として初めて翻刻する。
]
1288(正応1)
1288. ○【イギリス】スコットランドの女王マーガレットが、女からのプロポーズを定着
させようとして「閏(うるう)年に関する法令」を施行する。4 年間に 1 日ある 2 月 29 日
の閏日( leap day )にだけ、女から男へのプロポーズが法的に公認される。男はそれを断わ
ることはできないとされ、男が断った場合、罰則として 1 ポンドかシルクのガウンを女
にプレゼントしなければならないと規定する。
1290(正応3)
1290. ○【日本】幕府が、人商人の顔に火印を押す。
1290.○【ポルトガル】コインブラ大学( Universidade de Coimbra )が、教皇ニコラウスⅣ
世の認可のもとに、王ディニスによりリスボンで創設される。宣教師養成を目的とする。
[のち、学芸、市民法、教会法、医学を教授するようになる。1308 年、大学の自治権が
認められていたが、学生の自治権乱用により閉鎖される。以後、リスボンとコインブラ
の間を往復して設置・廃止を繰り返す。1537 年、最終的にコインブラに定着する。1772
年、再編される。1911 年、リスボン大学創設。この 400 年間、ポルトガル唯一の大学と
して発展する。]
1291(正応4)
1291. ○【中国】福建建安の虞氏務本堂が、『新全相三国志平話』を刊行する。「以後、現
存最古の封面(タイトルページ)付きテキストとなる。」
1291. ○【イラン】ペルシャを統治しているモンゴルのイル汗国が、都タブリーズにおい
て紙幣を発行する。上面に漢文とアラビア文字が印刷され、中国(元朝)の紙幣「宝鈔(し
ょう)」にならって「鈔(しょう)」字を借用してこれが貨幣であることを示す。
- 101 -
1293(永仁1)
1293.[ 2.−]【日本】この頃、肥後国の武士、竹崎季長が、文永・弘安の合戦での活躍を
描かせた『蒙古襲来絵詩』が成る 。
『竹崎季長絵詩』とも呼ばれる。
1294(永仁2)
1294.[ 8.−]【日本】1277 年からこの年にかけて『本朝書籍目録』が成る。三条実冬の
家の蔵書を中心に、本朝の書籍を 20 の編目に分類し、総計 493 の書目と巻数を記載する 。
1295(永仁3)
1295.[ 9.−]【日本】『野守鏡』が著される。一遍や京極為兼の和歌を厳しく批判すると
ともに、法華経の読経の芸能では蓮入の流れを非難し、また禅宗の修行のあり方につい
ても批判を加える。
1295.[10.中]【日本】
『親鸞上人絵伝』が成る 。
『善信聖人絵』などとも呼ばれる。
1295. ○【日本】伊勢神宮の神官らによって歌合が行われる。[以後、ほどなく絵巻『伊
勢新名所絵歌合』が制作される。]
1295. ○【中国】安虐旌徳県の官吏王禎(おうてい)が 、中国最初の総合的な農業技術書『農
書』を編纂する。
[以後、この著作を刊行するため、王禎は職人に依頼して 2 年の歳月を
費やして中国最初の木活字 3 万個余りを製作させる。製作工程は、まず 1 枚の木版を用
意し、文字を一面に書いた紙を裏返しにして貼りつけ、丁寧に彫刻する。文字が彫りあ
がると、細工用の鋸で単字を 1 個ずつ切り離し、小刀で修整を加えて、木活字の大小高
低の不揃いを調整する。王禎は、陶活字やスズ活字に比べて木活字が優れていることを
確信し,また活字収納のために転輪排字架(円テーブル状の回転式活字盤)を考案する。
1298 年、木活字を用いて彼自身が編纂の中心となった『旌徳県志』全巻 6 万余字の印刷
を試験的に行い、1 ヵ月足らずの間に 100 部印刷に成功する。以後、この本が記録に残
された中国最古の木活字印刷となる。1313 年(皇慶 2)、
『農書』22 巻(あるいは 36 巻)を
刊行する。
]
1298(永仁6)
1298.[ 8.−]【日本】蓮行(れんぎょう)が鑑真(がんじん)を描いた『東征伝絵巻』が完成
し、律宗の僧忍性(にんしょう)が唐招提寺に寄進する。
1298.○【中国】[大徳 2 ] 地方長官王禎(おうてい)が、初めて木活字で農書『旌徳県志』
を試験的に印刷する 。[以後 、これが世界最古の木製活字による印刷と考えられていたが 、
1996 年 11 月、中国西北部の寧夏回族自治区の文化部が、1991 年に山中の塔から発見さ
れた 36 冊の文献が、11 ∼ 13 世紀に栄えた西夏時代のものであり、その一部に 12 世紀
後半に作られた世界最古の木製活字による印刷物が認められたと発表する。]
1298.○【イタリア】ポーロ Marco Polo (44 )が、ベネチアとジェノバの間に戦端が開かれ
ると、従軍してガレー船艦長の指揮顧問官となる。クルゾラ沖の海戦に敗れてジェノバ
の獄につながれる。[以後、同室の囚人ピサのフランス語冒険物語作者ルスチケロ(ルス
チケルロ)が、ポーロの 1270 ∼ 95 年にわたる東方旅行でえた知識を記憶とメモによって
- 102 -
フランス語により口述する。 1299 年 、
『マルコ・ポーロ旅行記 』
『東方見聞録』のオリジ
ナル本が完成する。ポーロの旅行は、球体としての地球世界がまだ認知されていないこ
の頃の人びとの平面的東西世界を,北回りの陸路と南回りの海路で周回した最初の体験
となる。また、その東アジアについて初めて包括的に記録に残したという点で、のちに
最も重要な資料とされるが、最初はでたらめ扱いされて、多くの架空不思議旅行記の種
本となる。オリジナルは散逸するが、これに基づく多様の古写本・古版本が現存する。
]
1300(正安2)
1300.○【ウイグル 】この頃、ウイグル語の文字の木片活字が作られる。[以後、敦煌で、
ペリオによって発見される。]『
( 書物の出現』
)
1300. ○【ヨーロッパ】この頃、各国語の俗語による写本が増加する。
1300. ○【ヨーロッパ】この頃、機械時計が発明される。[以後、漸次日時計や水時計に
とってかわっていく。北部イタリアを中心にヨーロッパの主要都市が、時打ち装置をも
つ公共的な塔時計を競って設置する。]
1300.○【フランス】パリのジャンが 、
『反キリスト論』のなかで、この世の終末が 200
年以内にやってくると予見する。彼は占星術に基づいく計算により、紀元後 130 年に時
点でこの世はおよそ 5100 年を経ていたと計算し、現世は 6000 年しか続かないはずなの
に、天地創造以来、すでに 6300 年を経ており、一般に流布している意見に従えば最後の
1000 年は最終的には 6500 年まで延長され得るからだという。
1300.○【イタリア】この頃、ジョヤ Flavio Gioja が、磁針と方位を書いたカードを一体
にしたコンパスを作る。コンパスが持ち運び可能になる。[以後、イタリア人カルダーノ
Girolamo Cardano ( 1501 ∼ 1576 )がジンバルリング(遊動環)を発明し、船が揺れてもコ
ンパスは水平を保つようになり、コンパスとして完成される。]
1301(正安3)
1301. ○【ヨーロッパ】この頃、楽譜で分割と倍価による長短関係をさらに明確にした黒
符定量記譜法が行われる。[ 15 世紀に、この黒符が白抜きに変更され、白符定量記譜法
となる。]
1309(延慶2)
1309. ○【日本】奈良の春日神社に絵巻『春日権現験記絵』が奉納される。
1310(延慶3)
1310. ○【イラン】ペルシャの歴史家ラシード・アディーンが、著書『集史』の中で、中
国の製版印刷術を、転写、校正、彫刻、印刷、発行の過程について詳細に紹介する。
1310. ○【イタリア】ジォイアが、磁気コンパスを作る。羅針盤の元祖となる。
1313(正和2)
1313.○【中国】(皇慶 2)元の官吏王禎が、木活字をつくって自著の『農書』22 巻(ある
いは 36 巻)を完成させる。巻末に、活字印刷の経験をまとめた「造活字印書法」を付け
- 103 -
る。活字の配列は回転式円盤の図解を掲載する 。
[以後 、
「造活字印書法」は、系統的に
活字印刷を記述した最古の文書となり、数カ国語に翻訳され、世界的に知られるように
なる 。
]
1315(正和4)
1315.○【ベルギー】 12 世紀からのヨーロッパの重要な商業市場アントウェルペン
Antwerpen (英語名 Antwerp (アントワープ))が、ハンザ同盟に加盟する。各国商人に特権
や無税品目を認め、世界各地の産物が取引される。[1415 年以降、年 2 回の定期市が開
かれる。]
1320(元応2)
1320.○【フランス】この頃、ビトリ(ヴィトリ)Philippe de Vitry (38)が、音楽の自由なリ
ズムを表記する新しい記譜法について論じた理論書『アルス・ノバ(ars nova)』を著す。
従来の記譜法における音価の三分割法に加えて二分割法も容認したこと、イソ・リズムと
よばれる独自のリズム法やホケトゥスなどの特殊な技法の使用、世俗音楽に対するポリ
フォニーの積極的な適用と世俗音楽の定型化などを特徴とする。そして、前代の 13 世紀
フランス音楽を「アルス・アンティクア(ars antiqua ;古い芸術)」とよんで区別する。[以
後、この書の題名により、
「アルス・ノバ」は「新芸術」を意味する 14 世紀フランス音楽
の総称ともなり、次いでイタリア音楽をはじめとする 14 世紀ヨーロッパ音楽全体をさす
ようになる。]
1321(元享1)
1321.[12. 9]【日本】後醍醐天皇が、院政を停止して親政を開始し、ついで記録所を再興
する。
1322(元享2)
1322.○【中国】浙江奉化州知事馬称徳が、10 万個の木活字を刻み、宋の真徳秀が四書の
『大学』を敷衍した政治倫理の著書『大学衍義』20 冊を刊行する。また、くつかの書物
を刊行する。
1323(元享3)
1323.10.5【日本】藤原蔭子の知り合いであるという白拍子(しらびょうし)が、夜になっ
て仙洞(せんとう)御所に広義門院藤原寧子(ねいし)を訪ねたさい、退位して孤独な花園
上皇(27)が、白拍子をひそかに御所に招き、箏(そう)を弾かせて無聊(ぶりょう)をなぐ
さめる 。
〔白拍子は平安時代末期ころに登場し、水干(すいかん)・立烏帽子の男装で今
様(いまよう)など当世風の歌をうたいながら舞をまう歌舞を業とする舞女をいう。鎌倉
時代には京をはじめ各地で見られるようになり、貴族の遊宴に侍り、諸芸能を演じて大
いにもてはやされる。白拍子の名称の起源は、声明道(しようみようどう)や延年唱歌(え
んねんしようが)、神楽(かぐら)歌(うた)の白拍子という曲節にあるとか、舞楽(ぶがく)
を母胎にする舞にあるとかの諸説がある。
〕
- 104 -
1325(正中2)
1325. [7.18]【日本】幕府が、鎌倉の禅宗寺院建長寺の修造料を得るため元への貿易船派
遣を決定していたが、出港にともない沿岸各地の御家人に貿易船警固を通達する 。
[以
後、日元間の国交が回復する。1326.9.4 貿易船が唐物を満載して帰国する。
]
1327(嘉暦2)
1327. ○【フランス】ギリシア語のカタロゴス(登録する、完全に数えあげる)が、ラテン
語のカタログスを経由して、この頃フランス語のカタログ(catalogue)になる。[ 1460 年
ごろ、そのまま英語に転化する。]
1327.○【イタリア】フィレンツェで 、徴税を目的にして国勢調査が実施される。[以後、
調査の実施には経費がかさむことが分かったので、調査はまれにしか実施されない。し
かし、フィレンツェの例を他の諸地域は見習って実施する。]
1333(元弘 3 ・正慶2)
1333.[ 5.21]【日本】新田義貞が、鎌倉を攻略する。
1333.[ 5.22]【日本】北条時高(31)以下が自刃し、将軍守邦親王は出家する。鎌倉幕府が
滅亡する。
1333.[ 5.25]【日本】後醍醐天皇が、二条富小路(とものこうじ)殿に凱旋し、皇太子康仁
親王を廃す。
1333.[ 6.−]【日本】京都に、記録所が再び設置される。
1334(建武1)
1334. 8.−【日本】京都二条河原に政治批判の落書(らくしょ)が立てられる。
「二条河原
落書」と呼ばれ 、
『梁塵秘抄』にも見える〈此比都ニハヤル物〉という書出しの,八五
調・七五調とり交ぜた物尽し形式の落書で,全 88 句より成る。建武新政発足後 1 年を過
ぎ、新政の矛盾・混乱がはなはだしくなり、機構改革,政策修正の動きが出はじめたと
きに当たり,洛中治安の乱れ,おびただしい訴訟人の上洛,官庁職員の膨張や人事の不
公正,武士の退廃,成出者の下剋上,鎌倉風・田舎ぶりの風俗好尚の流入などが謡いこ
まれて,新政下の京都の混乱は〈自由狼藉ノ世界 〉として ,一々具体的に鋭く批判され,
一旦の平和も再び破れんとする予兆まで指摘されている。作者は不詳だが,新政を不満
とし冷眼視する公家か僧侶と見るのが穏当であろう。落書(らくしょ)の歴史上,比類の
ない傑作とまで評価されている。
1338(延元3・暦応1)
1338. ○【フランス】紙の製造技術がトロワに伝えられる。原料の多くは動物繊維の古着
が用いられる。[1389 年、ドイツのニュルンベルクに伝えられる。]
1338.○【フランス】この頃、ソルボンヌ学寮の蔵書は、26 脚の大机に鎖でつながれた書
物が 338 冊あり、大部分は神学書である。貸出図書は 1728 冊あり、ギリシア・ローマの
作家たちの書物など 59 に分類さているが、内 300 冊は紛失している。(『書物の出現』
- 105 -
上)
1341(興国2・暦応4)
1341. ○【中国】湖北の資福寺が、朱墨套印本『金剛経注』を刊行する。[以後、最古の
多色刷り印刷とされる。]
1348(正平3・貞和4)
1348.○【ヨーロッパ】全土に黒死病(ペスト)が大流行する 。
[1349 年末、西ヨーロッパ
のほぼ全域に広がる。以後、何度も流行し、ヨーロッパ人口の 3 分の 1 以上を死に追い
やる。ドイツでは地方によって 40 %減、イギリスでは 20 %、イタリアでは地方によっ
て 10 ∼ 50 %減少する。
]
1348.○【チェコ】プラハ大学(正称、カレル大学( Univerzita Karlova))が、ベーメン(ボヘ
ミア)王カレルⅠ世(カールⅣ世)によりパリ大学をモデルに創設される。
[以後、宗教改
革者フスも教壇に立ち、大学をチェコ民族の機関とすべく努力する。その結果、チェコ
民族とドイツ民族の対立が激化し、大学は一時的に衰退する。17 世紀、イエズス会の支
配下に入る。1773 年、ふたたびチェコ民族の機関となり、活力を取り戻す。1882 年、チ
ェコ大学とドイツ大学に分離する。1920 年、チェコ大学が、創設者の名にちなみカレル
大学と改称する。第二次世界大戦中、ナチスの支配下で閉鎖される。1945 年、ドイツ大
学は廃止され、カレル大学がふたたびチェコ民族の大学として復活する。
]
1348.○【イタリア】ボッカチオ(ボッカッチョ)Giovanni Boccaccio (36)が、トスカナ地方
を襲ったすさまじいペスト大流行を見て、長年にわたって書きためてきた、あるいは温
存してきた短編物語をもとに、
『デカメロン( Decameron;十日物語) 』の執筆に着手する。
[1353 年、10 日 100 話をまとめ上げる。1490 年、Anton Sorg が活版印刷する。
]
1349(正平4・貞和5)
1350(正平5・観応1)
1350.○【フランス】ジャン善良王が即位する。認証の署名に初めて 7 世紀以来忘れ去ら
れていた草書体を用いる 。
[∼ 1364。以後、パリ大学が、エソンヌとトロワに製紙工場
を設け、所有者は大学構成員として諸税を免除されるという権利をジャン善良王から得
る。この頃、各地の大学でも、安い紙を大量に入手できることを期待して、製紙用水車
の建設を奨励する。パリ大学は、エソンヌ、トロワの他にコルベーユ、サン= クール周
辺などの製紙水車の建設を援助する。(『書物の出現』上)]]
1350. ○【フランス】この頃、王侯貴族の宴会でバレエが行われる。この頃のバレエは、
エロチックな見世物で、遊女を選ぶ品定めのショーとして催される。
1350.○【イタリア】フィレンツェで、1338 年に 11 万人の人口が、黒死病(ペスト)のた
め 4 万 5000 ∼ 5 万人に激減する。「 1380 年、7 ∼ 8 万人に回復する。
]
1350. ○【イタリア】ユマニストたちを中心に、人文主義書体が広まり始める。
1354(正平9・文和31)
- 106 -
1354.○【イタリア】法学者バルトーロ(バルトルス Bartolus) Bartolo deSassoferrato( 40 ?)
が、マルケ州のファブリアーノで発展している製紙業の製品を評して 、
〈この地では最
高級の紙が作られている〉と述べる。ファブリアーノの製紙業者は、石臼に代えて積極
的にカム(水車の回転運動を往復運動に変換する)を使った叩解(こうかい)装置を導入し、
だんぷん糊の代わりにゼラチンや動物性の糊を使用し、艶だしには専門の職人に担当さ
せて、上質の紙を製造している。各製紙工場では、製品を識別するために、独自の模様
を紙に漉き込んでいる。[のちに、バルトーロは、国際私法の祖といわれる。]
1360(正平15・延文5)
1360.○【フランス】ジャンⅡ世(在位 1350 ∼ 64)が、ラテン語「Franco()rum Rex(フラ
ンスの王)」の文字を刻んだ適正な純金のドニエ貨を発行 、
「フラン」と命名する。量目
が純金 3.88g で、計算貨幣 1 リーブル(livre)と正確に対応させる。[以後、国内および属
領で「フラン」が通貨単位となり、フランス革命まで「リーブル」と同義語で区別なく
使われる。]
1361(正平16・康安1)
1361. ○【イタリア】パビア大学(パヴィア大学)が創設される。
1364(正平19・貞治3)
1364. ○【ロシア(??)】クラコフ大学が創設される。
1364.○【イタリア】デ・ドンディ Giovanni de' Dondi の作製した天文時計、高さ 4.6ft(1.4m )
の置き時計の詳細な記録が書かれる。この頃の時計構造は、重錘(じゅうすい)の力で歯
車を回転させ、冠形脱進機に慣性の大きな棒テンプをかみ合わせて軸の回転を抑制する
方式である。棒テンプ自身は現在の振り子やテンプのように等時性をもった振動を行わ
ないため、時計の狂いは 1 日に 30 分にも及ぶ。このため時計は時針 1 本だけで、眺める
ものではなく鐘で時刻を知らせるものである。この頃につくられた大部分の時計には文
字板がない。「クロック」の語源は「鐘」であり、一般市民は鐘の音にあわせて生活を
営むようになり、これまでの不定時法にかわって、1 日を 24 等分して時を刻む定時法が
浸透していく。[この時計は現存していない。1960 年に、その記録により正確な複製品
がつくられ、アメリカのスミソニアン博物館に所蔵される。]
1365(正平20・貞治4)
1365.○【オーストリア】ウィーン大学( Universit □ t Wien )が、ルドルフⅣ世により創設
される。ドイツ語圏最古の大学となる。パリ大学をモデルに整備され、法学、医学、文
学の 3 学部よりなる。[1384 年、神学部が加えられ、発展する。16 世紀、宗教改革期に
一時衰える。18 世紀中期、神聖ローマ女帝マリア・テレジアの教育改革により、ふたた
びヨーロッパ有数の学術機関としての地位を確立する。
]
1366(正平21・貞治5)
1366.○【イタリア】トレヴィーゾの製紙業者が、不可欠な原料であるぼろぎれを確保し、
- 107 -
ぼろ回収業者に法外な条件を吹っかけられないようにするため、ヴェネチアの元老院に
回収の独占権を請願し、特権を獲得する。(『書物の起源』)
1368(正平23・応安1)
1368. ○【中国】明王朝が成立する。朱元璋が即位し、太祖(洪武帝)となり、都を応天府
(のち、南京)に定める。[以後、洪武帝は、元代に設立された西湖書院の所蔵する宗・元
版の版木をすべて南京に運ばせ、国子監の保存させる。∼ 1398 ]
1368.○【フランス】シャルルⅤ世 Charles V(31 )が、ルーブル宮に王室文庫を開設する。
国立図書館(BN)の始めとなる。[1996.12 国立図書館新館(BNF)が設立される。これに伴
い BN は、1998 年末、
「国立芸術研究院」として再生する。]
1370(建徳1・応安3)
1370. ○【ヨーロッパ】この頃、絵画の木版印刷がはじまる。
1370. ○【ハンガリー】この頃、ハンガリー王妃エリザベトが、「ハンガリー水」を愛用
する。[のちに、広義の香水の初めといわれる。]
1370.○【フランス】ドイツ人ド・ビック Henri de Vic が、シャルルⅤ世のために機械時計
をつくる。[現存する最古の時計となる。]
1374(文中3・応安7)
1374.○【日本】
観阿弥(かんあみ)(41)が、
初めて京都に進出し、
長男世阿弥(ぜあみ)(12 ?)
とともに今熊野(いまくまの)神社で新しい芸能「猿楽」を演じて、第 3 代将軍足利義満(あ
しかがよしみつ)(16)の心をとらえる。[以後、観阿弥は義満後援のもとに世阿弥と二代
にわたって能を大成する。座の属した大和猿楽の演劇性を基礎としながら、ライバル的
芸能であった田楽(でんがく)の長所や、近江(おうみ)猿楽の唯美主義を取り入れ、長い
生命力をもつ演劇、能の基礎を打ち立てる。観阿弥はまたこの頃流行していた曲舞(くせ
まい)を能の主要部分に導入し、従来のメロディー本位の小謡節(こうたぶし)に、リズム
とテンポのおもしろさを加えた音楽上の改革を行い 、
『自然居士(じねんこじ) 』
『卒都婆
(そとば)小町 』
『四位少将(しいのしようしよう)』『
( 通(かよい)小町』の原作)などを
創作する。とくに俗語までを駆使した会話のおもしろさが好評を博す。1440 年、世阿弥
が、
『風姿花伝(ふうしかでん)』をまとめる。]
1374.○【フランス】ヤン・セレが、ズウォレの学校長となり、1200 人の生徒を集める。
生徒たちを 8 学年に分け、初めの 4 学年は上級四科(クワドリヴィウム)を含み、後の 2
学年では専門の教師を置く 。
[以後、初等教育が発展する。のちの学院(コレージュ)の
原型となる。
]
1374.○【フランス】最初の製紙水車が、イタリア商人の手でカルパントラに建造される。
1375(天授1・永和1)
1375.12.21 【イタリア】作家ボッカチオ(ボッカッチョ)Giovanni Boccaccio(62 )が、隠棲
していた城塞都市チェルタルドの家で死去する 。
[1389 年、蔵書がフィレンツェのサン
ト= スピリート修道院のアウグスティノ会に寄贈される 。
]
- 108 -
1375. ○【
】『カタルン世界地図』が作られる。
1376(天授2・永和2)
1376. ○【朝鮮半島】初めて木活字を用いて 、
『通鑑綱目(つがんこうもく)』が刊行され
る。
[1397 年、木活字で『開国原従功臣録券』が刊行され、現存する最古の木活字本と
なる 。
]
1376.○【フランス】パリ市民の 2 人の製紙業者が、パリに近いサン=クールで、町の司
教との間で 1 基の大型水車の長期賃貸契約を交わす。契約書には〈この水車で紙など利
益をもたらす製品を作ってよいが、いかなる穀物を挽くことも挽かせることもしてはな
らない〉と記される。
1377(天授3・永和3)
1377. ○【朝鮮半島】銅活字で禅書『直指心経(ちょくししんきょう)』が印刷される。こ
の銅活字は、蝋型法(ロスト・ワックス法)により鋳造したとされる。[以後、現存する最
古の活字本としてパリ国立図書館に収蔵される。]
1377.○【イギリス】ペストのため、この年までに人口の 40 %を失う。
1380(天授6・康暦2)
1380.○【イギリス】オックスフォード大学のスコラ哲学者ウィクリフ John Wycliffe
(Wyclif)(60 ?)が、ローマ教王を攻撃したために、いっさいの公職から追放される。ウ
ィクリフとその信奉者たちは、神の言葉を民衆に理解できる形で伝えるには、ラテン語
ではなく英語で聖書を読めるようにすることが大切だとして 、
『新約聖書』の翻訳に着
手する。[1382 年、全巻の英訳が完成する。]
1381(弘和1・永徳1)
1381. ○【ベルギー】聖ニコラス教会に、カリヨン自動演奏器付きの鐘楼が完成し、話題
を呼ぶ。
1382(弘和2・永徳2)
1382.○【世界】ウィクリフ(62 ?)とその信奉者たちが 1380 年以来英訳を進めてきた『新
約聖書』の全巻が完成する。この英語の『聖書』に「sex」という語が初めて登場する。
[1384 年、ウィクリフが死去する。以後、親友のジョン・パーヴェイがあとを引き継ぎ、
改訳を施す。1408 年、教会側が、聖書写本を当局の許可なしに翻訳、転写、所有するこ
とを禁止する。]
1386(元中3・至徳3)
1386. ○【ドイツ】選帝侯ルプレヒトⅠ世が、パリ大学をモデルにハイデルベルクにドイ
ツ最初の大学 Ruprecht-Karls-Universit ロ t Heidelberg を創設する。[17 世紀、三十年戦争の
影響を被り、閉鎖∼再開∼避難を繰り返す。18 世紀に一時的にカトリック教会の支配下
に入る。1803 年、バーデンの領主カール・フリードリヒによる大学再編により、近代的
- 109 -
大学への脱皮が図られる。同時に、教授用語もラテン語に代わりドイツ語が採用される。]
1388(元中5・嘉慶2)
1388.○【ドイツ】ケルン大学 Universit □ t zu K □ ln が、自由都市ケルンにウルバヌス
Ⅵ世の勅書を得て設立される。[以後、フランスのパリ大学に範をとり、神学を中心に
ハイデルベルク大学と名声を競うが、しだいに振るわなくなる。1798 年、フランスに占
領され、大学は閉鎖される。1901 年、単科の商科大学として再建される。1904 年、臨床
専門の医学アカデミーを吸収する。1919 年 プロイセン政府がケルン市と契約して総合
大学となる。第二次世界大戦後、ノルトライン・ウェストファーレン州に移管される。
]
1388.○【ドイツ 】シュトラースブルク(ストラスブール)で 、ライン河に橋が架けられる 。
[以後、地の利を得て、生産品を東方ドイツに輸出するようになり、西方へはロレーヌ
地方やフランス王国との結びつきを確保して、ニュルンベルクと並ぶ繁栄を享受する。
]
1389(元中6・康応1)
1389. ○【ドイツ】紙の製造技術が、木版印刷の中心地ニュルンベルクに伝えられる。原
料の多くは動物繊維の古着が用いられる。[1411 年、スイスに伝えられる。]
1391(元中8・明徳2)
1391. ○【ドイツ】 ニュルンベルクに、ドイツ最初の製紙所ができる。当地の富豪ウル
マン・シュトレーマーが、グライスミュールの製粉水車を製紙用に改造して、イタリアか
らフランチェスコとマルコのマルキオ兄弟、その奉公人の 3 人を招聘して、ドイツ人に
製紙法を指導させる。
[1420 年、リューベックで製紙業が起こる。1460 年、アウスブル
ク。1469 年、ウルム。1500 年代半ばにようやく紙の自給が可能な状態になる 。
]
]
1392(元中9・明徳3)
1392.[8.6 ]【朝鮮半島】高麗最後の国王恭譲王が譲位し、大将軍李成桂(57 )が推戴されて
王位に就く。[1393 年、国号を「朝鮮」と変える。李氏朝鮮が創建される。1394 年、首
都を漢陽(のち、ソウル)に定める。]
1392.○【朝鮮半島】書籍院が設置される。金属活字による活版印刷技術がさらに発展し、
李氏朝鮮時代に引き継がれる。[1403 年、国立の鋳造所で多数の活字が鋳造される。の
ちに、忠清北道の清州市に、最古金属活字を記念して、古印刷博物館が設けられる。]
1394(応永1)
1394. 6.24【ドイツ】マインツの貴族フリーレ・ゲンスフライシュ(のち 1430 年頃までに
「フリーレ・ツー・グーテンベルクと改姓する)と、1386 年に 2 度目の結婚をしたエルザ・
ヴィリッヒとの間に、次男が誕生する。「聖人ヨハネ」の日に生まれたので、ヨハンと
名づける。[のちに、ヨハ・ゴーテンベルクンは、金属活字による印刷術を発明する。印
刷界は、毎年 6 月 24 日にグーテンベルクの誕生日を祝うようになる。]
1398(応永5)
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1398. ○【フランス】パリの製紙業者が、同業組合を結成し、規約を作成する。
1400(応永7)
1400.○【日本】世阿弥(ぜあみ)(38 ?)が 、父観阿弥(かんあみ)の教えに基づいて 、ただ 1
人の真実の後継者に能の真髄を伝えようとして、能楽論『風姿花伝(ふうしかでん)』を 3
編までまとめる。[ 1418 年、2 男の元雅(もとまさ)と考えられる元次にひそかに伝えられ
る。以後、秘伝であるが、汎(はん)演劇論として、芸術論として、教育論、人生論、魅
力の美学として、後世に広く伝えられる。書名については世阿弥自身〈風姿花伝と名づ
く〉といっており、略する場合は「花伝」であるから 、「花伝書」という俗称を用いる
のは正しくない 。
「花伝書」は、室町後期からの能の伝書の全体、そして立花の教えを
さすことばになる。]
1400.○【日本】この頃、紙の増産で紙価が低落し、1 帖 48 枚 100 文していた杉原紙が産
地価 21 文になる。
1400.○【ヨーロッパ】この頃、紙が大量生産されていて、ありふれた商品になっている。
1400. ○【ヨーロッパ】この頃、木版画に手彩色がはじまる。
1401(応永8)
1401. 5.13 【日本】将軍足利義満( 44)が、明との本格的な朝貢貿易で国交正常回復の期待
をかけて、九州の商人肥福(こいずみ)と僧祖阿(そあ)を遣明使として明に派遣する。遣
明船には、金 1000 両に馬 10 疋をはじめ、薄様(うすよう、和紙)1000 帖、屏風 3 双など
多くの献上品が積まれ、明へ向け出発する。
[1402.8.3 遣明使帰国の知らせを受けた義
満が、娘を伴い兵庫浦(のち、神戸市)に赴き、明の答礼使たちを出迎える。答礼使がも
たらした明帝の国書のなかで、義満を「爾(なんじ)日本国王源道義(どうぎ)」と呼び、
義満を明帝の正式の家臣として認めたしるしに大統暦(だいとうれき)を下賜する。義満
は国書を焼香三拝、ひざまづいて受け、日本が明国の冊封(さくほう)体制に組込まれた
ことを内外に示す。1402.9.5 遣明使が無事帰国し、同行してきた明国の正使天倫道彝(て
んりんどうい)と副使一庵一如を、北山第で義満が会見する。義満の熱烈歓迎ぶりや明へ
の外交姿勢があまりに屈辱的であるとの非難が集中する。1404 年、義満が、明帝から「日
本国王」の亀紐(きちゅう)と勘合符(かんごうふ)100 通を授かる。1407 年、勘合符を持
った貿易船に限り 10 年に 1 回の朝貢貿易が認められる。以後、明から書籍や印刷術など 、
さまざまな文化が輸入される。
]
1401. ○【朝鮮半島】この頃、活版印刷の時代がはじまる。
1403(応永10)
1403. 7.−【中国】永楽帝( 43 )が、翰林(かんりん)侍読学士解しん、姚広考(ようこうこ
う)らに、経、史、子、集百家の書から天文、地志、陰陽、医卜(いぼく)、僧道、技芸に
わたる一大類書を編集することを命じる。[翌 1404 年『文献大成』として完成する。さ
らに諸書の博捜(はくそう)を続けさせ、2169 人が従事した結果 、1409 年冬に『永楽大典』
ができあがる。本文 2 万 2877 巻、凡例(はんれい)目録 60 巻、1 万 1095 冊で、中国最大
の類書となる。あまりにも大部なため、正本は 1 本しか蔵しない。1562 年徐階らが勅命
- 111 -
で副本をつくる。明末の動乱で正本が焼かれるが、副本が清(しん)朝に引き継がれる。
アロー戦争や義和団事件などでほとんど焼失し、約 60 冊だけが残される。]
1403.○(1401 年とも)【朝鮮半島】李氏朝鮮の初代国王、太祖(李成桂、イ=ソンゲ)(68 )
が、啓蒙政策を提示し、法や経典の知識を普及させるために、磨滅しやすい木版に代え
て銅活字による印刷を切望し、王立の活字鋳造所が南山の麓(ふもと)に設立される。費
用は人民からの税によらず、宮廷の財源から支出し、数十万個の銅製活字が世界で初め
て鋳造される。[以後、この年の干支にちなみ「癸未(きび)字」と呼ばれる。1420 年、
および 1434 年、歴代の王が政府事業として大々的に銅活字の鋳造や改鋳を盛んに行い、
それを用いて活発な印刷出版を行う。約 100 年間に 10 組の活字セットが作られ、王立印
刷所の倉庫に保管される。1860 年代までに、計 30 組近い金属活字が鋳造され、200 ∼ 300
万字に達する。うち、鉛活字 1 組、鉄活字 1 組以外はすべて銅活字である。]
1403. ○【イギリス】ロンドンで書籍商ギルドが発足する。
1404(応永11)
1404. ○【日本・朝鮮】足利義満が、
「日本国王」として朝鮮と対等の外交(交隣)関係を開
く。[以後、両国は明治維新にいたるまで,基本的にはその関係を維持する。この関係に
もとづいて,文禄・慶長の役まで朝鮮からは通信使(派遣の名目によって回答使とされる
こともある)が、日本からは「国王使」が頻繁に往来する。徳川家康以後の歴代将軍は,
対馬の宗氏が詐称した場合を除いて,直接使節を送らないので,朝鮮から通信使が来日
するのみとなり、鎖国状態の中でも総計 12 回派遣される。]
1405(応永12)
1405.○【中国】イスラム教徒の家系である宦官(かんがん)の鄭和(34?)が、司令官とし
て南海への大航海に出発する。主な目的は政府直営の海外貿易の促進にあり、船団は宝
船、西洋取宝船などとよばれる大型の 500 トン、4 層デッキの平底竜骨船(長さ 150m、
幅 62m)60 数隻からなり、乗員も 2 万数千人に上る。[ 1407 年 、チャンバ、パレンバン、
マラッカ、サムドラへ寄港、カリカットを最終地として第 1 次航海を終える。
「鄭和の西
洋下り」と呼ばれる。1407 ∼ 09 第 2 次。1409 ∼ 1411 第 3 次。1413 ∼ 15 ホルムズを最
終地として第 4 次航海。1417 ∼ 19、1421 ∼ 22 、1431 ∼ 33 いずれもホルムズを最終地
として第 7 次までの大航海を行う。別働隊はアフリカ東岸から紅海沿岸に進出する。随
行者が『瀛涯勝覧(えいがいしようらん) 』『星槎(せいさ)勝覧』などを著し、中国人の
東南アジア方面に関する知識を深め、華僑進出の端緒ともなる。]
1407(応永14)
1407. 7.22【日本】遣民使が明使とともに兵庫に帰着する 。
[8.5 将軍義満( 50 )が明使を引
見する。]
1408(応永15)
1408. ○【イギリス】教会当局が、聖書写本を許可なく翻訳、転写、所有することを禁止
し、これを犯す者は処刑されるとの通達を出す。ウィクリフ派が 1380 年以来英訳し普及
- 112 -
させてきた聖書も禁止される。英訳の中心的人物ヘリフォードのニコラスは破門、改訳
を施したジョン・パーヴェイは投獄、ウィクリフが主張した個人的な信仰による救済に賛
同して英訳聖書を頒布してきたロラード派伝道師の多くは処刑される。[以後、英訳聖書
は地下出版物として、写字生によって転写される。書体のくせや出身方言によって身元
が判明するのを恐れて、独特の書体(テクストゥーラ・セミクォドラータ)と共通の方言を
使用する。1416 年、ウィクリフの遺骨も掘り起こされて焼き捨てられる。19 世紀前半、
ウィクリフ訳聖書が印刷本として復活する。]
1409(応永16)
1409.○【ベルギー】ブリュッヘ( Brugge)(フランス語名ブリュージュ(Bruges ))に、情報
交換のための施設として証券取引所( bourse)が設立される。[1460 年、アントワープの設
立。1462 年、リヨンに設立。1530 年、アムステルダムに設立。1554 年、ロンドンに設
立。1558 年、ハンブルクに設立。1624 年、コペンハーゲンに設立。]
1410(応永17)
1410. ○【中国】明の成祖が、チベットに人を派遣して経典の収集につとめ、チベット文
『大蔵経』を復刻させる。
『番蔵』と呼ばれる。
1410. ○【オランダ】この頃、フランドル地方で芸術表現の手段として使える「油絵」の
技術が開発され、画家ファン・アイク(ファン・エイク)Jan van Eyck (40 ?)と兄のフーベ
ルト Hubertvan Eyck (実存不詳)が、この油絵技術を用いて最初の傑作を描く。
1410. ○【イギリス】ヨークシャのマウントグレイスにあるカルトジオ派修道院院長ニコ
ラス・ラヴが、ボナヴェントゥラ作といわれる『キリスト伝省察』を 、
『イエス・キリス
トの祝福されし生涯の鏡』と題する美しい英語散文に翻訳し、カンタベリー大司教トマ
ス・アランデルに検閲のために送る。大司教は〈異端者やロラード派の教化に役立つ〉と
して出版を許可する。[以後、ラテン語によるお墨付きをつけた手書きの写本が多く作ら
れ伝搬する。1484 年、ウィリアム・キャクストンが、この作品を印刷する。]
1411(応永18)
1411. ○【スイス】紙の製造技術が伝えられる。原料の多くは動物繊維の古着が用いられ
る。[ 1490 年頃、イギリスに伝えられる。]
1415(応永22)
1411. 3.11【フランス】トロワとパリの紙業者が、パリ周辺に多くの製紙水車ができたた
め、紙の価格が下落したとして、パリ大学に対して諸特権の確保を願い出る。
[1489 年 3
月、シャルルⅧ世の特許状を得て、パリ大学の諸特権が確認される。](『書物の出現』
上)
1411. ○【日本】興福寺金堂の新築に際して、「番付け図」という簡単な平面図が用いら
れる。[現存する最古の建築設計図の記録となる。これ以前の創建になる構造物に対して
も、同様な図面が用いられていたと想像される。以後 、番付け図はしだいに整備されて 、
立絵図や指(さ)し図なども併用されるようになる。]
- 113 -
1411. ○【中国】明の胡広らの編纂により、『論語 』
、『孟子 』
、『大学』、『中庸』を集成し
た『四書大全』36 巻が刊行される。内容は粗雑であるが、受験参考書として人気を得る。
1411.○【フランス】神学者ジェルソン Jean de Gerson (本名ジャン・シャルリエ Jean
Charlier)( 52)が、紙は羊皮紙に比べて長持ちしないとして、テキストを紙に写さないよ
う写字生に注意する。(『書物の出現』上)
1411.○【ローマ】法王ヨハネス 23 世(初代)が、近親相姦、姦通、暴行、殺人、無神論
の罪でその地位を追われる。
1411.○【ベルギー 】 アントウェルペン Antwerpen(英語名アントワープ Antwerp)で、年 2
回の定期市が開かれる。[1460 年、史上初の国際株式取引市場が開設される。]
1417(応永24)
1417.○【イタリア】この頃(あるいは 1425 年ころ)、フィレンツェの建築家ブルネレス
キ Filippo Brunelleschi(本名 Filippo di Ser Brunellesco)(40 )が、遠近法の最初の実験的な
試みによって線遠近法と消失点への科学的なアプローチを成し遂げる。[ 1425 年ころ、
フィレンツェ洗礼堂の正面に立ち鏡を使って古代の透視図法の有効性を実験し、厳密な
線的遠近法を確立する。以後、絵画での最初の実現は、マサッチョによるフィレンツェ
のサンタ・マリア・ノベッラ聖堂の壁画『三位(さんみ)一体』で果たされる。 1436 年、こ
の壁画の影響下に、建築家アルベルティが最初の遠近法の理論を述べた『絵画論』を出
版する。]
1418(応永25)
1418.○【ヨーロッパ】木版(ザイログラフィー)1 枚刷りの聖母子像「四人の聖女と聖母
子」がつくられる。年代が明示された最初の木版画となる。[のち、ブリュッセル王立
図書館に収蔵される 。
]
1419(応永26)
1419.○【ポルトガル】アビス朝創始者ジョアンⅠ世の第 5 子エンリケ Henrique( 25)(「航
海王子( Navegador )」とあだ名される)が、イベリア半島南端サン・ビセンテ岬付近のサグ
レスに航海学校(サグレス・インスチチュート)を、国の援助を受けて創設する。[以後、
造船、航海術、地図作製、その他航海関連科学技術の発展を図り、技術者たちは、大帆
船や航海システムを設計し、ポルトガルが他国に先駈けて世界的な海上貿易の時代を切
り開く基礎をつくる。1434 年,エンリケの従士ジル・エアネスが、ボジャドル岬越えに
成功してヨーロッパに未知の世界を切り開く。エンリケは、新しい世界への好奇心から
ラゴスの居館に天文学者や数学者を招き、ヌノ・トリスタン、ペロ・デ・シントラやイタリ
ア人カダ・モストらの航海者はエンリケに仕えて西アフリカ探検を進める。さらに西アフ
リカ探検航海事業を指揮して、近代の幕あけを準備する。
]
1420(応永27)
1420. ○【日本】朝鮮の宋希景が、『大蔵経』を届ける名目で、倭寇問題の交渉のため来
日する。[以後、『老松堂日本行記』を執筆する。]
- 114 -
1420.○【イタリア】建築家フォンタナ GiovanniFontana が、最初の機械要素として複雑
なギア機構を組み込んだエンドレスロープによる手動の四輪車のスケッチを描く。[15
世紀末、レオナルド・ダ・ビンチが、チェーン機構の詳細なスケッチを描く。いずれの
場合も実現することなく夢に終わる。]
1420. ○【イタリア】ベネチア生まれのジョヴァンニ・ダ・フォンタナが、光を透過できる
ほど薄くした角(つの)に「悪魔」の絵を描き、ランタンの光で大きな影を投影して見せ
る。光源と絵とスクリーンという幻灯の基本的な構造をもった装置の先駆けとなる。(た
だし、レンズは用いられなかった。)(イギリス幻灯学会(The Magic Lantern Society )『幻
灯の図像――幻灯の図像学 1420 ∼ 1880』)
1421(応永28)
1421. 2. 2 【中国】永楽帝(61 )が、正式に首都を北京に移す。これにより今までの首都応
天府(おうてんふ)を南京、新都の順天府を北京と改称する。
1421.○【イタリア】建築家・彫刻家ブルネレスキ Filippo Brunelleschi(本名 Filippo di Ser
Brunellesco )( 44 )が、船を設計し、特許が与えられる。記録に残る最初の特許とされる。
ブルネレスキは、かねてから他人の発明を自分の手柄だと言い張る人びとに対して用心
するよう同僚に警告していた。[ 1474 年、最初の特許法がベネチアで可決される。]
1423(応永30)
1423. ○【ドイツ】ヨーロッパでの年代を明記した版画「聖クリストファの図」が制作さ
れる。[以後、1418 年の「聖母子像」とともにヨーロッパでの年代を明記した現存最古
の版画となる。これ以前の 14 世紀末にも木版画はかなり成熟していたものと考えられて
いる。初期の木版画は東洋も西洋も信仰と関連して発達する。キリスト、聖母、聖者た
ちの像を表したものが、多くは修道院などでつくられ、火災、盗難、疫病などの予防の
ために庶民の家の戸口や家具などに貼られる 。「聖クリストファの図」は、イギリスの
マンチェスター大学ジョン・ライランズ図書館に収蔵される。]
1424(応永31)
1424. ○【イタリア】ファブリアーノ出身のジェノヴァの製紙業者が、原料の古綱類を確
保するため自らの手で回収したいとして元老院に請願し、独占購入権を獲得する。(『書
物の起源』)
1425(応永32)
1425. ○【ベルギー】ブルゴーニュ公国のジャンⅤ世により、ルーバン(ルーヴァン)カト
リック大学が創設される。低地地方(ネーデルラント)唯一の大学として各地より学生を
集める。[以後 、人文主義者エラスムスなども滞在する学問研究の中心となる 。1968 年 、
ワロン人とフラマン人の言語紛争の結果、大学はオランダ語部門とフランス語部門に 2
分割されることになる。1972 ∼ 79 年、フランス語部門は分離独立して、ブリュッセル
南郊のフランス語(ワロン語)地域であるブラバン・ワロン州のルーバン・ラ・ヌーブ
Louvain-la-Neuve に移転する。]
- 115 -
1426(応永33)
1426. ○【朝鮮半島】朝鮮半島に日朝貿易のため、富山浦(のち、釜山) 、薺浦(せいほ)(の
ち、熊川)、塩浦(のち、蔚山)の 3 つの港「三浦」が成立する。[以後、貿易などに従事
する日本人が三浦に多数居住する。]
1429(永享1)
1429. ○【日本】尚巴志(しょうはし)が、三山(さんざん)を平定して琉球を統一し、中山
王府(ちゅうざんおうふ)(琉球王府ともいう)を樹立する。首里を王都として整備し、対
外交易港那覇の充実を図る。[1477 ∼ 1526 年、尚真(しょうしん)が王位に就く。その 50
年間、王を頂点とする位階制度や行政機構を整備・強化し、地方統治制度や神女組織を
確立するなど王府支配システムに抜本的な改革を加える。1609 年、島津侵入事件により
王国が幕藩制国家の一環に編入される。以後、王国の経営が薩摩藩・幕府の規定を受け
るようになる。1879 年、日本政府による琉球処分によって、王国は崩壊し、王府もまた
瓦解する。]
1430(永享2)
1430.○【ドイツ】最初の彫刻銅版(engraving)が、ライン川上流域の金工家の工房で製作
され始める。[1446 年、現存最古の彫刻銅版画「キリスト笞刑図」が製作される。]
1434(永享6)
1434. ○【朝鮮半島】金属活字の改鋳が盛んに行われる。四世紀東晋の書家衛夫人(王義
之の書道の先生)の書法にならって鋳造された銅活字の字体は、精緻で美しく、最も流行
する。この年甲寅にちなみ「甲寅字(こういんじ)」と呼ばれる 。[以後、甲寅字は 、
「朝
鮮万世の宝」といわれる。
]
1434.○【ドイツ】3 月 14 日以降、グーテンベルク Johanul Henne Gutenberg ( 28 ?∼ 40 ?)
(本名は Johannes Gensfleisch zur Laden 。グーテンベルクは母方の姓による通称)が、祖父
もやっていた金貨鋳造業者としてのすぐれた技術にもかかわらず、母方の祖父だけが貴
族でなかったという理由で貨幣鋳造者ギルドに入会させてもらえなかったため、政治抗
争に巻き込まれ、マインツを離れて、シュトラースブルク(ストラスブール)に移住する。
[以後、金細工師や鏡職人として生計をたてながら、活字印刷機の作成を試みる。1436
年ころから、事業資金の提供者アンドレアス・ドリツェーン A. Dryzehn とともに、従来
の木版に代わってもっと書物をたやすく安くつくる方法、つまり 1 冊の本をつくるのと
同じ時間で数百の本をつくるという着想を企業化しようともくろむ。1439 年、ドリツェ
ーンが急死し、事業化は頓挫する。その兄弟から出資金を返すか、自分を仲間にするよ
う訴訟を起こされるが、裁判の結果、ドリツェーン側に少々の金額を払うだけで終わる。
1440 年頃までに、グーテンベルクは印刷術を完成させるが、その発明は妖術とも悪魔の
仕業とも思われている。裁判を通じて同僚やその家族から強く憎まれる存在となるが、
グーテンベルクは秘中の秘の印刷術については誰にも教えずにすむ。1444 年までシュト
ラスブルクにとどまり、文字の機械的再生について考案を重ねる 。
]
- 116 -
1435(永享7)
1435. ○【ベトナム】政府が、初めて正式に書物の刊行に手をつけ、儒家の経典『四書大
全』を初めて木版印刷により刊行する。(一説に、1427 年ともいう。)[1467 年 、
『五経』
の版木が完成する。官刻の書籍がしだいに多くなる。政府は、文廟(孔子廟)に専用の貯
蔵庫を建てる。
]
1436(永享8)
1436. ○【朝鮮半島】初めて鉛活字の丙辰字を用いて、中国の司馬光の歴史書『通鑑綱目
(つがんこうもく)』が刊行される。正文に用いられた丙辰字は、大らかな書法による書
体で、大きな活字で、見るも者の目を引く。小字には銅活字の甲寅字が用いられ、2 種
の活字の混合は印刷史上でも稀である。[以後、世界最初の鉛活字印刷本とされる。
]
1436.○【イタリア】フィレンツェの建築家アルベルティ Leon Battista Alberti( 32)が、マ
サッチョによるフィレンツェのサンタ・マリア・ノベッラ聖堂の壁画『三位(さんみ)一体』
の影響を受けて、最初の遠近法の理論を述べた『絵画論』を出版し、「視覚の円錐(えん
すい)の截断(せつだん)面」として遠近法を定義づける。この書物は遠近法の探究を試み
ていた芸術家ブルネレスキ、マサッチョ、ドナテッロ(ドナテロ)、ギベルティらの友人
に献呈され、彼らとそれに続くフィレンツェ画家の作品に応用され理論と実践が展開さ
れる。]
1438(永享10)
1438. ○【ドイツ】シュトラースブルク(ストラスブール)で、再びペストが大流行する。
[1444 年、住民は都市民 1 万 6000 人、逃げ込んできた農民 1 万人だけとなる。
]
1440(永享12)
1440.○【中国】官刻の大蔵経『永楽北蔵』が、北京で完成する。1621 種の仏教経典 6361
巻を 636 函に分装する。
[1584 年、万歴皇帝の母親が各宗派の著述 36 種、410 巻を補刻
した『続入蔵経』が『永楽北蔵』に収められる。
]
1440. ○【ドイツ】この頃、銅版が考案される。凹版法による銅版画は、金工師の領域か
らやや偶然に発明される。[ 1446 年、現存するもっとも早い年記のある銅版画がつくら
れる。アルプスの北側とイタリアなどの南側のどちらが先かはまだ確認されていない。
金工師の技術領域からは、15 世紀の初めに錫(すず)などの軟質の金属板にさまざまの鏨
(たがね)で図像や装飾模様を打ち表し、凸版法で刷るメタルカットが生まれたが、銅版
画の登場とともに廃れる。この頃、木版画師は大工のギルドに属し、銅版画師はそれよ
りも地位の高い金工師のギルドに属しており、芸術の一形態としての可能性があること
が評価されている。こうして木版画はほとんど無名の職人により作られ、銅版画は製作
者の名やイニシアルが知られている場合が多い。]
1443(嘉吉3)
1443.○【朝鮮半島】李朝第 4 代国王世宗が中心となって、朝鮮独自の文字「訓民正音(く
- 117 -
んみんせいおん)」の創案がすすめられ、完成される。この文字は、子音 17 字と母音 11
字(のち、子音 14 字と母音 10 字)とからなる音素文字であると同時に、音節単位でまと
めて表記するという音節文字的性質も備えており、この頃の朝鮮語の音韻を分析し、抽
出された音素に該当する文字を人工的につくりだした、世界の文字史上画期的なものと
なる。[1446 年 、
『訓民正音』という書物の形で公布される。以後 、
「女文字」と呼よば
れ、おもに女だけに使用されるようになる。のち、正字として使われている漢字漢文に
対して「諺文(オンモン)」という卑称でよばれるようになる。李(り)氏朝鮮王朝末期の
開化期の民族意識の高揚とともに「国文」とよばれ、さらに国語学者周時経が「ハング
ル」
(han =大いなる、g ■ r =文字)と命名する。1945 年以降、大韓民国では「ハング
ル」
、朝鮮民主主義人民共和国では「チョソンクル(朝鮮文字)」と呼ぶようになる。
]
1444(文安1)
1444. ○【日本】意味分類の日常所用の語彙の辞書『下学(かがく)集』が作られる。著者
は京都東山建仁寺の僧かといわれるが、序末に〈東麓破衲(とうろくはのう=東山の麓の
僧の意味) 〉とあるのみで不明。内容は使用度の高い漢字漢語約 3000 語を〈天地〉
〈時節 〉
〈神祇〉〈人倫〉
〈人名〉
〈家屋 〉
〈気形〉ほか 18 の門目を立てて,中世に行われた通俗
の漢語の類を標出し,多くの場合それに注を加えてある。語彙 の配列はアトランダム
であり、語の検索には不便である。[以後、
室町時代に写本が相当多数作られて伝わる 。
1617
年、初めて板本が刊本される。以後,幾版かを重ねる。室町中期にいろは順に配列した
『節用集』が登場してからは、しだいに『節用集』の勢力におされる。元和の板本は岩
波文庫に復刻される。]
1445(文安2)
1445.○【中国】(英宗正統 10 )成祖が即位した際に勅命により編集を開始した『正統道蔵
(しょうとうどうぞう)』5305 巻、480 函が完成する。勅命により、全国各地の道観に頒
賜される。
[1607 年、
『続道蔵』180 巻、32 函が刊行される。1900 年 、義和団の変による 8
ヵ国連合軍の北京入城の折りに、すべて焼失する 。
]
1445.○【ドイツ】前年かこの年、グーテンベルク(39 ?∼ 51?)が再びマインツに戻り、
活字印刷行うため、ブドウ絞りの機械を改造して、螺旋(らせん)とレバーとを組み合わ
せ、インキをつけた活版の上に紙をのせ、真上から圧力をかけるプレス方式の原始的な
印刷機を実現させる。この町の金細工師・実業家フスト Johann Fust(?∼ 1466)の出資を
得て、印刷所を設立する 。
[以後、この印刷機の方式から、印刷機をプレスと呼ぶよう
になる。]
1446(文安3)
1446.[10. 9]【朝鮮半島】朝鮮独自の文字「訓民正音(くんみんせいおん)(ハングル) 」が、
『訓民正音』という書物の形で公布される。[1946 年、南朝鮮(のち、大韓民国)で世宗
の訓民正音公布 500 年を記念し、10 月 9 日を「ハングルの日」とし、祭日に定める。]
1447(文安4)
- 118 -
1447. ○【朝鮮半島】朝鮮独自の文字「訓民正音(くんみんせいおん)」で書かれた最初の
文学作品『竜の歌』が出版される。これまではすべて中国語で書かれていた。教育を受
けたエリートの言語である中国語は、朝鮮の複雑な文法を持った多音節言語には向いて
いなかった。
1447. ○【ドイツ】この頃、グーテンベルクが、カレンダーを印刷する。
1449(宝徳1)
1447.○【中国】明の景帝(7 代、代宗、景帝、景泰帝)が即位する。美しい芸妓を宮廷
内に召し入れて享楽する。
1450(宝徳2)
1450. ○【ヨーロッパ】この頃、芸術的なエッチングとして版画の創作などに彫刻凹版の
技術が使用される。
1450. ○【ヨーロッパ】この頃、手書き新聞が出される。
1450. ○【ヨーロッパ】この頃、楽譜の記法が多様化するが、この中からフランス、イタ
リアで五線譜による記譜法が用いられる。初めて線と線間による図示的な性格と、おた
まじゃくしによる符号的な性格を兼ね備えた五線譜が採用される。[19 ∼ 20 世紀に、ヨ
ーロッパの外にも広く普及していき、現代的記譜法へと完成度を高めていく。]
1450. ○【ヨーロッパ】この頃、ヨーロッパの諸大学はコインブラ大学からクラコフ大学
まで広がるネットワークをなしており、各大学のカリキュラムは非常に均一性があるの
で、学生は比較的容易に一つの大学機関から他の大学機関へと移ることができる。この
慣習は「大学巡礼( peregrinatio academica)」と呼ばれ広く知られる。
1450. ○【ドイツ】グーテンベルクが、マインツで印刷工場を開く。当地の実業家ヨハン
・フスト Johannes Fust(?∼ 1466 )が 、グーテンベルクに〈仕事の完成〉を当てにして、800
グルテンを利息 6 %で貸す。その際、印刷機械を抵当にする。[1452 年、再び 800 グル
テンを貸す。これを羊皮紙、紙、インクなどの購入の支払いに当てられる。1455 年、フ
ストが、契約不履行でグーテンベルグを訴える。]
1450. ○【ドイツ?】この頃、ヨハンセン・フンケンが、鉱石中の銀を銅や鉛から分離す
ることに成功する。
1450.○【イタリア】この頃、ベネチアのジャンソン Nicolas Jenson( 1420 ∼ 80)らが、太
線と細線との差が少ない最初のローマン体活字「ベネチアン」を開発する。
1450. ○【イタリア】ベルガモ出身の豪族ロジャー・デ・タッソが、ドイツ皇帝フレデリッ
クⅢ世の下でベルガモ∼ウィーン間に国王の郵便の伝達を始める。[以後、家名をタキシ
ス(タクシス)と改める。タキシス家は神聖ローマ皇帝から、領内における郵便事業の独
占と、これを世襲する権利を与えられ、ヨーロッパの各地を結んで、タキシス郵便の業
務を発達させる。1506 年、フランツ・フォン・タクシスが、国王の郵便物以外に一般の郵
便物も扱うようになる。]
1451(宝徳3)
1451.○【朝鮮半島】金宗瑞(きんそうずい)、鄭麟趾(ていりんし)(55)らにより、官撰史
- 119 -
書『高麗史』全 139 巻の編纂が完了する。高麗一代に関する紀伝体史書で、世家 46 巻、
志 39 巻、年表 2 巻、別伝 50 巻、目録 2 巻、計 139 巻より成る。
1451.○【ドイツ】ブリクセンの司教クザーヌス(クサのニコラウス)Nicolaus Cusanus ;
Nikolaus von Cusa( 51 または 50)が、近視用の凹レンズの眼鏡を考案する。[以後、彼は
ブルーノ、ライプニッツに影響を与え、ガリレイにも親しまれる。]
1452(享徳1)
1452. 4.15【イタリア】レオナルド・ダ・ビンチ Leonardo da Vinci が、フィレンツェの近郊
ビンチ村に、公証人ピエロと農家の娘カテリーナとの庶子として生まれる 。[以後、画
家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者として活躍し、〈愛は知識の母であり、智恵
は経験の娘である〉という言葉を残す。ルネサンスにおいて近代科学を準備した典型的
な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)と評価される。 1986 年、全日本航空事業連
合会は、ヘリコプタが第二の空輸システムとしての普及を図ることを目的として、ヘリ
コプタの原理を考えたレオナルド・ダ・ビンチの誕生日 4 月 15 日を「ヘリコプタの日」と
定める。]
1452. ○【ドイツ】この頃、本の転写で生計を立てていたゲルンスハイム出身の法学生シ
ェーファー(シェッファー)Peter Sch ffer が、マインツにやってきて、グーテンベルク
の職工長として働く。写字生だったシェーファーは、彼独特のカリグラフィックな装飾
効果を持つ字をもとに、木や金属でつくった活字の代わりに、パンチを打ち込んで母型
をつくり、それから鋳型をつくり、それに鉛とスズの合金を溶融して流し込んで活字を
つくることに成功する。活版の印刷はもともと写字の労を省くことを目的として工夫さ
れ、初めはラテン文法書『ドナトゥス』などできるだけ手写本に似たものを刷ることを
前提とする。そのため最初のころの活字は、写字師が書いた「黒い文字(black letter)」そ
のままの字体になる。[ 1455 年、グーテンベルクの印刷所で『四十二行聖書』を完成す
るが、シェーファーのデザインによる活字かどうかは不明である。]
1453(享徳2)
1453.○【ドイツ】この頃、マインツ出身の鍛冶屋グーテンベルク( 47 ?∼ 61?)によって、
ヨーロッパで初めて活版印刷術が完成する。
(?)可動式の金属活字として、鉛、スズ、
アンチモン、少量のビスマスの合金を溶かしたものを、鋼鉄製の字母に鋳込んでつくり、
これを吟味した良質の印刷インキと紙と羊皮紙など(パーチメントあるいはベラム)と、
たくみに組み合わせた機械的印刷で、グーテンベルクは、行間の取り方、製本の仕方に
至るまで、これまでの手書きの聖書美しさに負けないように心をくだく。[以後、経済的
逼迫と闘い続けて、2 年間を費やして史上初の活字版聖書を完成させる。この頃、ヨー
ロッパ大陸全体で約 3 万冊の本が存在し、その大部分が手書きの聖書あるいは聖書の注
釈書である。]
1454(享徳3)
1454.○【ドイツ】マインツ(フランクフルト??)で 、グーテンベルク(48 ?∼ 60?)が、2
種の免罪符(贖宥状)「30 行免罪符」と「31 行免罪符」の印刷に着手する。羊皮紙に印刷
- 120 -
し、手書きで氏名、年月日を記入する。教王ニコラスⅤ世が、キプロスにおけるオスマ
ントルコとの戦いで功績のあった人物に対して免罪符を与えることとなり、キプロスを
援助するために各地で贖宥(しょくゆう)を販売することが決定されたためである。[以後、
この年から翌年にかけて印刷する。可動式活字を用いた最初の印刷物であり、また最初
の公式文書となる。]
1455(康正1)
1455.○【ヨーロッパ】
この頃、
木版本が印刷され始める。
[ 1460 年代に最盛期を迎える 。
1510
年ころまで、活版印刷と並行して木版印刷本がつくられる。]
1455.○【ドイツ】万用歴( almanac )が初めて印刷機から製作される 。
[以後、これを用い
た占星術が民衆へと浸透していく 。
]
1455.○【ドイツ】この頃 、グーテンベルク(49 ?∼ 61?)と資産家フスト Johannes Fust( 55?)
が、共同で史上初の鉛合金活字による活版印刷最初の本「ラテン語聖書」を完成させる 。
印刷が完成する以前に予約が一杯になる。当初、200 冊(158 部とも 180 部とも)出版する。
これを印刷中、グーテンベルクがフストから借りた資本金の返済期限が来る。フストは、
グーテンベルクに複利計算で元利合計 2020 グルテンの返済を迫る。グーテンベルク本人
は、各種の実験に財産全部を使いはたし、期日までに返済できず,訴訟でその提携を解
消される。11 月 6 日に裁判がおこなわれ、グーテンベルクは負債の代償に活字と 2 台の
印刷機など印刷所の権利をフストに譲渡し、破産する。[以後、グーテンベルクの印刷事
業がフストの手に移り、フストは独自に印刷所を設けて、フストはグーテンベルクの弟
子シェファー Peter Sch ffer( ?∼ 1503 )と共同で聖書の出版を続ける。活版印刷最初の
聖書は、ゴシック書体の美しい本で、いずれの点からみても非のうちどころのないとこ
ろから、人々は読む以前にもその語間から発する精神に打たれる。のちにこの活字版聖
書は「グーテンベルク聖書」あるいは『四十二行聖書』と呼ばれる。これまでは聖書は
手書きで複製されていて、修道士が筆写するのが通例だが、たいてい 1 年かけて 1 部を
複写するのが精一杯であった。活版印刷術により、書物はいったん完成すると何部でも
好きなだけ印刷することが可能になる。しかし、グーテンベルクらは革新的な方法を用
いながらも、あくまで手書き写本に似たものを作ることに専念する。用紙は従来の羊皮
紙(パーチメント)と、近年ようやく中国からもたらされていた手漉き紙が半々に用いら
れる。フストはこれをパリに売りに行き、写字生の反発を危惧して「筆写本」として売
り捌く。この年以後、1500 年までに機械的印刷の力を得て書物の総計が 900 万冊を越え、
あらゆるテーマを網羅するようになる。1804 年、カンタベリ大司教のランベス宮図書館
所蔵の写本目録が編纂され、グーテンベルクの『四十二行聖書』は誤って写本として分
類される。1992 年 、富田修二『グーテンベルク聖書の行方 』(図書出版社)に、1455 年 11
月 6 日の裁判記録の全文の邦訳が掲載される。グーテンベルクの名が活版印刷術とから
めて印刷された例がない。そこで、彼が活版印刷の発明家とするには異説も出る。1997
年 10 月、
『LIFE』誌が、過去千年間の人類文化史上、重要人物 100 選のランキング第 1
位にグーテンベルクを掲げる。](高宮利行「写本から印刷へ――グーテンベルクと印刷
文化の誕生(5)」、『図書』1997.10、同(7)1997.12 )
1455.○【フランス】この年までに、アングレームのサン=チレール聖堂参事会が、自分
- 121 -
たちの製粉水車を製紙用に改造する。
1456(康正2)
1456. ○【日本】瀬戸内海の水軍の首領村上山城守雅房が、『船行要術』を著し,天気に
関する経験則を 30 あまり掲げる。日本最初の記述された天気俚諺となる。
1456. ○【ドイツ】グーテンベルクが、マインツ市の法律顧問コンラート・フメリーの援
助で第 2 印刷工房をつくり、来年の暦を印刷する。
1457(長禄1)
1457.10.14 【ドイツ】フストとシェーファー(27 ?)が、2 人のコンビで初めて羊皮紙印刷
の聖詩篇『マインツ詩篇』を刊行する。2 色刷り木版画を入れ、史上初めて印刷業者名
と発行日付を明記した、いわゆる奥付を付ける。[ 1466 年(または 1467 年)
、シェーフ
ァーはフストの娘クリスチーナと結婚して、義父の跡を継ぐ。同年秋、フストが死去。
その時までにフストとシェーファーのコンビは、25 点ほどの印刷物を出版する。]
1457.○【ドイツ】破産したグーテンベルク( 51 ?∼ 63?)が、マインツの自宅の印刷所で
手元に残された印刷機 2 台と四二行聖書で使用したものよりわずかに劣る活字と 2 人の
職人 、ハインリッヒ・ケッファーとベヒトルフ・フォン・ハーナウを使って、
『 三六行聖書』
(
『マインツ聖詩編』?)を印刷する。[以後、9 部(のち 16 部であることが判明)が現
存する。1460 年、
『カトリコン』を印刷する。その他は、すべて小冊子や 1 枚物を印刷
する。]
1458(長禄2)
1458. ○【ドイツ】グーテンベルクの助手ヨハン・メンテリンがシュトラスブルクへ、同
僚の助手ハインリヒ・ケファー Keffer がバンベルクへ移ってそれぞれ印刷所を興す。
[1459 年、ケファーが、36 行聖書の印刷に着手し、バンベルク領主司教ゲオルク・フォン
・シャウムベルク Schaumberg がその全費用を負担する。1461 年、完成する。]
1458.○【ドイツ】アルプレヒト・プフィスター Pfister が、バンベルクで印刷業を開業す
る。
1459(長禄3)
1459.○【ドイツ】フストとシェファー( 29 ?)が、大小の活字を使って 2 色刷りの典礼書
GulielmusDuranti とラテン語賛美歌を印刷する。
1459. ○【ドイツ】ヨハン・メンテリンが、マインツ以外の地、シュトラースブルクで初
めて印刷業を営む。
[1473 年、この年の日付の入った印刷本が現存する。1476 年、ヴァ
ンサン・ド・ボーヴェの『道徳の鏡』が印行される。
1459. ○【
】『フラ・マウロ世界地図』が作られる。
1460(寛正1)
1460.○【ヨーロッパ】この頃から約 10 年間に、木版印刷本が、全盛期を迎える。難解
で高価な活版印刷に対して、活字も印刷機も不要で、絵と文字を版木に彫刻刀を用いて
- 122 -
彫り、インクをつけ、紙をあてて手で摺るだけの簡便な木版印刷が用いられ、比較的低
所得の素朴な読者層向けに安価につくられる。[ 1725 年ころ、ロシアで聖書の名場面や
聖人の暦を扱った木版本が生産されるようになる。]
1460.○【ドイツ】グーテンベルク(54 ?∼ 66? )が、大判のラテン語辞書であるヨハネス
・バルブスの『カトリコン』(文典、辞典、「万能薬」の意))を、新しい小さな活字を使
って、大型二折判(ロイヤル・フォリオ)373 葉(全 748 葉)の大冊を印刷、学校教科書に用
いられる。グーテンベルクは失明し、印刷事業を放棄する。『カトリコン』はフストと
シェファーによって安値で処分され、その活字は人手に渡される。グーテンベルクは、
マインツの大司教から恩給を与えられて、晩年を送る。
[1468 年 2 月 3 日、貧困と人々
の忘却のなかで亡くなるが、機械的印刷技術は急速に全ヨーロッパに広まり、宗教改革
や科学革命を促す。]〔西洋式活版印刷の発明については、1423 年オランダの L.J.コステ
ルとする説、イタリア説、チェコ説などがある。
]
1460. ○【ドイツ】バンベルクで最初の印刷工房が開設される。
1460.○【ベルギー】アントウェルペン(Antwerpen)(英語名アントワープ( Antwerp))で、
史上初の国際証券取引市場が開設される。[以後、名実ともに国際商業都市として繁栄す
る。1648 年、ウェストファリア条約によりスケルデ川の航行が断たれ、昔日のおもかげ
を失う。]
1461(寛正2)
1461. ○【中国】明帝国の官撰地理書『大明一統志』が刊行される。
1461.○【ドイツ】グーテンベルクが、この年までに 36 行聖書を刊行する。
1461. ○【ドイツ】メンテリンが、シュトラスブルクで聖書を印刷する。
1461.○【ドイツ】この頃、バンベルクの印刷業者アルプレヒト・プフィスター Pfister が、
木版画の版木を活字とともに組版のなかに嵌め込み、ウルリッヒ・ボーナーの『エーデル
シュタイン(宝石)』など何冊かの絵入り寓話書 Der Edelstein を印刷する。最初の絵入り
活字本の挿絵は、線画で陰影もない単純なもので、後から水彩で色付けした粗末なもの
である。読者はすでに木版本でこの種の挿絵を見ていたので、別段驚かない。[以後、
ドイツで民衆本に挿絵を入れる習慣が確立され、木版画技術の完成とともに、あらゆる
ジャンルの本に広がる。]
1462(寛正3)
1462. ○【ドイツ】マインツで司教の座をめぐる抗争が勃発し、ナッソウのアドルフⅡ世
がマインツに攻め入る。兵士らの略奪を受け、兵火によりフストの家は焼失し、シェフ
ァーの印刷所は破壊される。[以後、印刷工員たちは、仕事を求めてライン川に沿って各
地に散って印刷所を開く。ほどなくドイツの都市から、1464 年、イタリアのスビアコ 、1468
年、スイスのバーゼル、1470 年、フランスのパリ、1483 年、スウェーデンのストックホ
ルム、1487 年、ポルトガルのファロ、1493 年頃、トルコのコンスタンティノープルへと
伝播する。1500 年ころまでに 1000 軒を超える印刷所がヨーロッパ全土にできたという。
なかでも有名なのはイタリアにおけるジャンソン Nicolas Jenson (1420 ∼ 80 )で、のちに
広く使われるローマン体(立体)をデザインし、マヌティウス Aldus Manutius(1450 ?∼
- 123 -
1515)はイタリック体(斜体)をデザインする。ネーデルラント(のち、ベルギー)のプラン
タン Christopher Plantin( 1514 ∼ 89 )
、フランスのエチエンヌ Estiennes 一家、イギリスの
カクストン William Caxton( 1422 ?∼ 91)らが活字書体のデザインや活版術の基礎を築い
ていく。]
1462.○【フランス】リヨンに、証券取引所( bourse)が設立される。
1463(寛正4)
1463. ○【フランス】パリのノートルダム橋に、世界で最初の住所番号が付けられる。
1464(寛正5)
1464.○【ドイツ】ベルトルト・ルッペルが、バーゼルで印刷業を開業する。(1468 年とも?)
1464. ○【フランス】公用の文書運搬者が、個人の書信の運搬を引き受けるようになる。
郵便物はマル(malle)と呼ばれる旅行用の袋に入れて運ばれる。
[以後、
英語でメール( mail)
と呼ばれ、アメリカ英語で「郵便」の意味になる。]
1464. ○【イタリア】フィレンツェで金融家の倒産が相次ぐ。
1464.○【イタリア】(1964 年とも)マインツの兵火を逃れたドイツ人の印刷師コンラート
・シュヴァインハイム(スヴァインハイム) C.Schweynheym と A.パナーツが、ローマ近郊
スビアーコのベネディクト会修道院に印刷機を据え付けて、ローマ字活字でイタリアで
初めて印刷を開始する。[1467 年、印刷所をローマに移す。]
1465(寛正6)
1465.10.13 【イタリア】ラクタンティウス『神的訓辞』が、スビアーコのベネディクト会
修道院で印刷される。イタリア最初の刊行期日を有する印刷物となる。
1465.○【ドイツ】グーテンベルク(59 ?∼ 71 ?)が、アドルフⅡ世の宮廷の従者に任ぜ
られる。これを機に印刷活動から引退する。[ 1468.2.3(?)死去。(『集英社世界文学大事
典』1996 )]
1465. ○【イタリア】スビアコで印刷業務が開始される。
1466(文正1)
1466.○【ドイツ】この年(または 1467 年)
、シェーファー(41 ?)が、フストの娘クリス
チーナと結婚して、義父の跡を継ぐ。同年秋、フストが死去する。その時までにフスト
とシェーファーのコンビは、 25 点ほどの印刷物を出版する。[以後、独立したシェーフ
ァーは、1502 年までに書物 130 点、 1 枚物 75 点の印刷物を出す。また、国際的に活躍し
た最初の書籍印刷販売業者として、パリ、リューベック、バーゼルにまで販売拠点を設
ける。1502 年、シェーファーが死去。以後、孫の代まで印刷出版業で栄える。]
1466.○【ドイツ】シュトラスブルクのハインリヒ・エッゲシュタイン Eggestein が、ラテ
ン語聖書と印刷書籍広告を出す。[のち、現存する最古の印刷書籍広告となる。]
1466.○【フランス】オート=ソーヌ県リュクソーユの大修道院長ジャン・ド・ジュフロワ
が、2 人のピエモンテ人がブルシン川で製紙に従事することを許可する。その見返りと
して、1 年に紙 4 連( 2000 枚)を納入させる。
- 124 -
1467(応仁1)
1467. ○【フランス】パリで、活版印刷本が出版される。
1467. ○【イタリア】ローマで最初の印刷工房が開設される。ここでドイツ人の印刷技術
者モンラート・スヴァインハイムとアーノルト・パナーツが、枢機卿ファン・デ・トルケマ
ーダの『瞑想録』を出版する。これにドイツ人の手になる木版画が挿入され、イタリア
最初の絵入り本となる。
1468(応仁2)
1468. ○【ドイツ】アウスブルクで最初の印刷工房が開設される。
1468. ○【スイス】バーゼルで国内初の印刷工房が開設される。
1469(文明1)
1469. ○【日本】この頃、いろは引きの国語辞書の先駆け『節用集』が編纂され、利用さ
れ始める。各語にはカナの振り仮名が振られ、ときに意味や語源が付記される。[以後、
簡便な点が実用的な書として,一般の歓迎をうけ,江戸時代の一般民衆のあいだでは,
節用集といえば,いろは引きの辞書の代名詞とさえなる。種々の訂補や改編を経ながら,
明治時代の初期まで長い生命を保って使用される。]
1469. ○【ドイツ】シェーファーが、初めて書籍目録を出す。
1469. ○【イタリア】ヨハネス・フォン・シュパイアーが、ベネツィアで最初の印刷工房を
開設し、ローマン体の活字によりキケロの『親しき者への手紙』を印刷、刊行する。
1470(文明2)
1470. ○【ドイツ】ニュルンベルクで最初の印刷工房が開設される。
1470.○【ドイツ】ケルンのアルノルド・テル・ Hoernen が、初めて印刷書籍にページ付け
をする。[以後、1500 年代までページ付けは普及しない。]
1470.○【フランス】パリ大学学長ギョーム・フィッシュ(フィシェ)と J.ハインリンが、
大学構内に印刷工房を置く許可を得て、ドイツから印刷工 U.ゲーリング、M. フリブルガ
ー、M.グランツを招く。ソルボンヌに初めて印刷技術が導入され、パリで初めて印刷が
行われる。フランス最初の活字本として G.バルツィツァ『書簡集』が印刷される 。[1473
年、ゲーリングらドイツの印刷工たちが、庇護者を失って、パリ市内サンジャック街に
新たに印刷工房をつくる。]
1470. ○【イタリア】ナポリで最初の印刷工房が開設される。
1470. ○【イタリア】この頃、フィレンツェの印刷業界で ,
、世封建時代の遺物である「黒
い文字」に代わって、明るく読みやすい新字体が採用される。これを土台にしてベネチ
アのジェンソン Nicolas Jenson( 50)が、ローマン体の活字を完成し、イタリアで初めて活
版本を出版する。
1470. ○【イギリス】ケンブリジ大学の図書館蔵書目録が作成される。
1471(文明3)
- 125 -
1471.[ 7.17]【日本】本願寺第 7 世存如(ぞんにょ)の長子、蓮如(56 )が、越前(のち、福
井県)の吉崎(よしざき)に道場「吉崎御坊」を開く。[以後、布教手段として、消息(しょ
うそく)形式で教義を平易に説いた『御文(おふみ)』『
( 御文章(ごぶんしょう)』)とよば
れる伝道文書や、
『正信偈和讃(しょうしんげわさん)』などの独創的メディアを開板し、
教化活動を行う。1 ∼ 2 年のうちに門徒が群集し、宿泊施設や商人たちで賑わう寺内町
が形成される。]
1471. ○【ハンガリー】ブダペストで最初の印刷工房が開設される。
1471.○【ドイツ】1 年全体を扱った最初の万用歴が作製される。
1471.○【ドイツ】レギオモンタヌス Regiomontanus(本名ミュラー Johannes M ロ ller)(35)
が、ニュルンベルクにヨーロッパ最初の天文台を建設する。ここで新天文観測器を製作
し、新観測法を考案して、各種の天体位置を観測する。これまでは恐怖の的であったハ
リー彗星の出現に際して、その位置変化を追跡するなど、彗星を初めて客観的に観測し
て、それが天体であることを認定する 。[ 1474 年『天体位置推算表』を印刷 、公刊する。]
1471. ○【フランス】ガスパリーノ・バルジッザのラテン語による『正書法』が、パリで
刊行される。この中で印刷術に関して〈マインツのそばにいた、姓をグーテンベルク、
名をヨハンという男が、印刷術を考案した最初の人物である。これは我々が今日やるよ
うな葦やペンで書くという伝統的なやりかたではなく、金属活字を用いて、早く、優雅
に、そして美しく書かれた書物であった〉と書いている。グーテンベルクを印刷術の発
明者として最初に言及した本となる 。ここで、バルジッザは、グーテンベルクの名を「良
い山」というラテン語に意訳して「Bonemontanus( Bonemo(上線)tano)と綴る。
1471. ○【イタリア】ミラノ、ボローニャで印刷業務が開始される。
1472(文明4)
1472. ○【ドイツ】ウルムで最初の印刷工房が開設される。
1472. ○【イタリア】フィレンツェで最初の印刷工房が開設される。
1472.○【イタリア】ダンテ『神曲』初版が、フォリーニョで J.ノイマイスターにより刊
行される。
[この年、マントヴァとイエージでも刊行される。]
1472. ○【イタリア】イタリア最初の絵入り本、ロベルト・ヴァルトゥリオ作『軍事論』
が、ヴェローナで印刷される。
1472. ○【イタリア】古典ものを手がけるローマの大手印刷業者は、書物の生産過剰で経
営危機に直面する。(『書物の出現』)
1473(文明5)
1473. 5.21【フランス】G.モンテ= ロケリ『司教者の手引』が、パリで U.ゲーリング、M.
フライブルガー、M.クランツによって印刷される。フランス最初の日付を明記された活
字本となる。
1473. 9.17【フランス】リヨンの資本家 B.ビュイエが、リエージュ出身の G.ル=ロワに開
設させたリヨン最初の印刷工房で 、リヨン最初活字本、枢機卿ロタリウス『教義の捷径 』
を印刷する。
1473. ○【ドイツ】リューベックで最初の印刷所が開設される。
- 126 -
1473.○【ドイツ】Ulm でボッカチオの『デカメロン(十日物語)(Decameron)』が、木版
画の挿絵入りで印刷される。全部で 78 点のイラストが掲載され、世界で印刷されたもっ
とも古いポルノ・イラストの一つとなる。[1925 年、復刻版限定 250 部。](伊藤 政行氏
所蔵、2003.5.28 )
1473. ○【ベルギー】アールストで最初の印刷所が開設される。
1473.○【フランス】この頃、パリ大学総長であった神学者ジェルソン Jean de Gerson (本
名 J. Charlier)( 1363 ∼ 1429 )の生前の論文『写字生賛』が、リチャード・ド・ベリーの『フ
ィロビブロン(書物愛)』の付録として同時に印刷・出版される。ジェルソンの論文は、
祝日に書物の転写をしてよいのかというカルトジア派とセレスト派の修道会からの問い
合わせに対する回答として 50 年も前の 1423 年に書かれたもので、祝日でもキリスト教
の信心の書を転写するのに何ら問題はない、としている。また、大学。修道院、大聖堂
の当局者に向けて、図書館をつくって予算を投入するだけでなく、写字生たちに十分な
特権と賃金を与えるよう勧めている。この頃でも、修道士は、食事の他はもっぱら狭い
個室で瞑想、祈祷と転写に明け暮れる修道院もある。[一方、修道院内に印刷所を設けよ
うとする修道会も増えていて、1470 年代に 7 ヵ所の修道院で印刷機が稼働している。フ
ランス以外に、オランダ、イタリア、イギリスでも修道院が経営する印刷所の数は増え
ていく。]
1473.○【フランス】イギリス人のカクストン(キャクストン)William Caxton(51?)が、ケ
ルンの印刷業者ヨハン・フェルデナーのもとで資本参加しながら印刷技術を修得したの
ち、北のヴェネチアと謳われた文化都市ブルージュに戻り、『トロイ歴史集成』を印刷
・上梓する。
1473. ○【イタリア】ローマのコンラート・シュヴァインハイムが、銅版でプトレマイオ
ス地図を印刷する 。[この頃、ボローニャでも、プトレマイオスの地図が出版される。
以後、数百年の間、この地図がヨーロッパの地図製作者に大きな影響をあたえる。]
1474(文明6)
1474.○【ドイツ】レギオモンタヌス Regiomontanus(本名ミュラー Johannes M ロ ller)(37)
が、惑星の運動を観測して、そのデータを印刷した『天体位置推算表』を公刊する。印
刷という新技術を科学的な目的に利用した最初の人となる。[以後、これを遠洋航海者に
配布し、また恒星と月との角距離による時刻比較法を指示して、洋上経度の決定を可能
にし、大航海時代の進展に寄与する。
1474. ○【フランス】ブルージュで指折りの能書家として知られたコラール・マンシオン
(1425 ?∼ 84)が、カクストン(キャクストン)の印刷工房に就職する。[1476 年、カクス
トンはイギリスに戻るが、マンシオンはブルージュにとどまり出版を続ける。マンシオ
ンがフランス語で出版すると、その英訳本をカクストンがイギリスで出版する。]
1474. ○【イタリア】世界最初の特許法がベネチアで可決される。
1474. ○【スペイン】バレンシアで印刷業務が開始される。フランドル出身のランベルト
・パルマルトが、バレンシアでベルナルド・フェノリャールの作品をローマン体で印刷、
刊行する 。[以後、ローマン体はあまり使用されず、折衷ゴシック体のほうが用いられ
る。
]『
( 書物の出現』)
- 127 -
1475(文明7)
1475. ○【ドイツ】教皇シクストゥスⅣ世が、印刷本の検閲権をケルン大学に与える。
1475. ○【ベルギー】ブルージェで印刷が初めて行われる。
1475.○【フランス】リヨンの G.ル=ロワが、フランス語最初活字本『世界驚異物語』を
印刷する。
1475. ○【イタリア】画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ(ピエロ・デラ・フランチェスカ)
Piero della Francesca(59/55 )が、これまで『キリストの笞打ち』などの大作を描き遠近法
を画面の構図法なり明晰な視覚表現の旨としてきた経験から、
『絵画の遠近法』を著し、
遠近法の理論を集大成する。[以後、ドイツのデューラーたちによって、線遠近法の探究
がさまざまに実験される。マニエリズム、バロックの時代まで、絵画の中心的な課題と
して、作品の構図や様式にさえ関連するほどの重要性を担う。たとえば、短縮や、トロ
ンプ・ルイユ(だまし絵)の技法、あるいは 2 点透視や 3 点透視法による構図の変化など
が登場し、また遠近法を逆用した隠し絵なども現れる。]
1475. ○【スペイン】バルセロナで印刷業務が開始される。
1476(文明8)
1476. 9.−【イギリス】カクストン(キャクストン)William Caxton( 54?)が、昨年末ブルー
ジュから活字や印刷機一式を持って帰国し、イギリス最初の活版印刷所「Una Shopa」を
ウェストミンスター寺院参事会会堂の 2 つの控え壁の間の救貧所を借りて開設する。
[1477.11.18 イギリス最初の印刷物として『The Dictes or Sayinges of the Philosophres 』を
印刷・出版する。また、免罪符や、チョーサーの『カンタベリー物語』を印刷する。(『ロ
ンドン年代記』は 1476 年 9 月。『日本大百科全書で』は 1477 年となっている。)
〔カクス
トンは、印刷術を初めてケルンで学んだのち、シティーの織物商に徒弟入りして、ベル
ギーのブリュージュに織物商組合代表者として渡り、ここで最初の印刷所を開いた 。
〕[以
後、娯楽読み物、ロマンス、教科書、教訓書、祈祷書、ゲーム本、古典翻訳物など、多
種多様書物の印刷、出版、製本、写本や輸入書物販売などを営む。その総数は 1492 年に
死ぬまでに 80 冊に上り、国王や金持ち商人に人気を得る。彼のパトロンのリストには、
ヘンリーⅥ世、エドワードⅣ世、リチャードⅢ世、ヘンリーⅦ世、アンソニー・ウッドヴ
ィル、マーガレット・ボフォートらの名が並べられる。英語の書き方がまだ確立していな
いこの時代に、活版印刷によって新しい文章をつくったことが評価され、イギリスの印
刷術の父と呼ばれる。また、イングランドでは同じ語が人の好みでいろいろにつづられ
ていたのが、印刷術の導入によって〈同じ語は同じつづりで〉書かれるようになる。正
書法のきっかけとなる。](アンドルー・セイント他『ロンドン年代記』
、ほか)
11. 9【ドイツ】印刷業ヨハン・メンテリンが、ヴァンサン・ド・ボーヴェの『道徳の鏡』
を印行する。
[以後、この日の日付入りの 1 冊が慶応義塾図書館に収蔵される。
]
1476. ○【オランダ】デーヴェンダーで印刷所が開設される。
1476. ○【ベルギー】ブリュッセルで印刷が初めて行われる。
1476. ○【ドイツ】ウルリッヒ・ハーンが、音譜の印刷を考案する。
1476. ○【ドイツ】ロストックで印刷所が開設される。
- 128 -
1476. ○【フランス】マンシオンが、ブルージュでボッカチオのフランス語訳『貴族の没
落』を印刷・出版する。
1476. ○【イタリア】フィレンツェ市内外で、ホモセクシュアルが浸透する。サルタレッ
リが同性愛の罪で当局に告発され 、相手がレオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci( 24)
であるとされたが、再審ののち、レオナルドは無罪となる。
1477(文明9)
1477.11.18 【イギリス】カクストン(キャクストン)William Caxton( 55?)が、『The Dictes or
SayingesofthePhilosophres 』を印刷・出版する。イギリス最初の印刷物となる。
1477. ○【スウェーデン】北ヨーロッパ初の大学、ウプサラ大学が創設される。
1477.○【イタリア】哲学者フィチーノ Marsilio Ficino( 44 )が、コジモ・デ・メディチに見
込まれギリシア語を学んだあと、1462 年にプラトンの『対話篇』のイタリア語訳に着手
して、完成させる。[ 1486 年、その注釈のかたわら、プロティノスの『エンネアデス』
の翻訳も終える。コジモ・デ・メディチが用意した翻訳編集工房「プラトン・アカデメイア 」
の中心人物として 、「第二のプラトン」とまでよばれる。さらにプラトン的哲学の基礎
のうえに、キリスト教神学を再建しようと試み、1469 ∼ 74 年の間、『魂の不死に関する
プラトン神学』(1482 年刊)や『キリスト教について』(1474 年刊)を執筆する。こうして
神、宇宙、人間の霊魂などに関して、とくに哲学の新プラトン主義と宗教のキリスト教
を融合させるという魔術的操作により、古典古代をヨーロッパによみがえらせると同時
に、その経緯を勝手に組み替える作業を行う。]
1477. ○【ドイツ】ケルンで印刷所が開設される。
1477.○【フランス】イギリス人のカクストン(キャクストン)William Caxton(55?)が、ブ
ルージュで、チョーサー Geoffrey Chaucer( 1343?∼ 1400)の『カンタベリ物語』を十数冊
印刷する。(?? 1475 年?)[以後、9 部が現存する。1998.7.8 初版本が、ロンドンのク
リスティーで競売にかけられ、印刷された書籍として史上最高値の 460 万ポンド(約 10
億 8000 万円)で落札される。
]
1477.○【イタリア】ニュルンベルクの印刷師ペーター・レスライン L(o)slein が、ヴェネ
チアで『ローマ史』を印刷する。
1477. ○【スペイン】サラゴサで初めて印刷業務が行われる
1477. ○【イギリス】ウエストミンスターで初めて印刷業務が行われる。
1477. ○【
する 。
]
1477.○【
】マルコ・ポーロの旅行記が、初めて印刷・出版される 。
[以後、広く普及
】理論家ティンクトリス Johannes Tinctoris( 1435 頃∼ 1511 )が、ポリフォ
ニーに関して,この頃の即興対位法による歌唱法( super librum cantare)と区別して、固定
された音楽作品を「成されたもの(resfacta)」と定義し,これに「作曲する(componere)」
の語を限定的に当てる。[以後、作曲はまず,作曲者が推敲を重ねて作品として楽譜に定
着させる過程をさすようになる。
]
1478(文明10)
1478. 8.26【フランス】ドイツ人の印刷業者マルティン・フス(マルタン・ユス)が、フラン
- 129 -
ス最初の絵入り本、
『人類贖罪の鑑 』をリヨンで印刷する。挿絵に使った 256 枚の木版は、
すでに 1474 年にケルンで、1476 年にバーゼルで使用したものを流用する。
1478.○【デンマーク】コペンハーゲン大学図書館が設置される 。
[1728 年、コペンハー
ゲンの大火で灰燼に帰し、大部分の中世の文献が消滅する。
]
1478. ○【チェコ】プラハで最初の印刷工房が開設される。
1478. ○【フランス】トゥールで最初の印刷工房が開設される。
1478. ○【イギリス】エドワードⅣ世の治世下で郵便制度ができる。[以後、民間郵便と
して行われる。1516 年、郵便が王室の専売特許になる。]
1478.○【イギリス】ルッド Rudd が、ドイツのケルンから最新の印刷技術を携えてきて
オクスフォードで印刷業を開業する。[ 1487 年、オクスフォード大学の認可の下に大学
関係の書籍の生産を始める。]
1479(文明11)
1479. ○【ドイツ】ウュツブルクで最初の印刷工房が開設される。
1479. ○【フランス】ポアティエで最初の印刷工房が開設される。
1479. ○【ローマ】異端・異教の伝播を恐れてきたローマ教皇庁が、迅速、大量、安価な
出版手段である活版印刷の出現に衝撃をおぼえ、印刷所監督に関する諸規定を公布する。
1479.○【メキシコ】アステカ帝国で、
「太陽の歴石(こよみいし)」が造られる。
「13 葦の
年」に当たり、アステカ人は第 5 の太陽の時代の記念として重さ 24t の歴石をテノチテ
ィトランの神殿に奉納する。
1480(文明12)
1480. ○【ヨーロッパ】この頃、印刷された書物が増加し、日常的に用いられるようにな
る。書物市場の組織化が進む。[以後、蔵書をもつ個人も多くなり、これまで書物がも
っぱら修道院のものであった時代が終りを迎える 。
]
1480.○【ドイツ】アドルフ・ルッシュが、初の医学事典『Aggregator Paduanus de Medicinis』
を印刷する。
1480. ○【イタリア】この頃、ヴェネチアが刊本、手書き本ともにヨーロッパ最大の書籍
製作地となっている。
1480. ○【イタリア】パビーアで印刷業務が開始される。
1481(文明13)
1481.11.21 【日本】一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(87)が、酬恩庵(京都府田辺町)で風
狂の生涯を閉じる。当時すでに幕府の御用哲学と化していた五山派の禅の外にあって、
ひとり日本禅の正統を自任し、独自の漢詩文を駆使して禅の本質を芸術性豊かに歌い上
げた。自らを「狂雲子」と号し、形式や規律を否定して自由奔放な言動や奇行をなした
が、その姿は当時の形式化、世俗化した臨済の宗風に対する反抗、痛烈な皮肉であった 。
晩年には盲目の佳女森侍者(しんじしや)を愛し、その愛情を赤裸々に詩文に詠む。しか
し、その実人生と文学的虚構の間にはいまなお多くの謎(なぞ)を残す。その徹底した俗
心否定と風刺の精神は後世に共感を得 、
『一休咄(ばなし) 』
『一休頓智談(とんちだん)』
- 130 -
などが上梓され、子供にも親しまれるようになる。]
1481. ○【ベルギー】アントワープで最初の印刷所が開設される。
1481. ○【ドイツ】ライプチヒで最初の印刷工房が開設される。
1481.○【フランス】ジャン・デュ=プレが、パリで挿絵入りの『ヴェルダンのミサ典書』
を印刷する。写本から直接とられた動物やグロテスクな紋様からなる独創的な唐草模様
の「ボーダー bordure 」が初めて登場する。
1481. ○【イタリア】銅版画入り『神曲』が、フィレンツェで刊行される。
1481.○【イギリス】印刷出版業者カクストンが、13 世紀にフランスのドミニコ会の修道
士ヴァンサン・ド・ボーヴェ(バンサン・ド・ボーベ)Vincent de Beauvais(ラテン名ウィン
ケンティウス・ベロウァケンシス Vincentius Bellovacensis)( 1190 ?∼ 1264 ?)が編纂し
た百科全書『大鏡( Speculumma ■ us)』を印刷・出版する。この書物は自然、教義(理論)、
道徳、歴史の 4 鏡に分かれ、当時の広範な知識・学問が集約されている。ギリシャ・ヘ
ブライ・ローマ系の学者 450 人の著作が含まれ、古典への関心をよみがえらせる。[ 1590
年、ヴァネチアで刊行される。1624 年、題名を『世界の図書館( Bibliotheca Mundi)』と
改め、ドゥエで再版される。]
1482(文明13)
1482. ○【デンマーク】オーデンセで国内初の印刷業務が開始される。
1482. ○【オーストリア】ウィーンで最初の印刷工房が開設される。
1483(文明15)
1483.○【フランス】この頃、不定期発行冊子『オカジオネル Journal Occasionnel』が発
刊され、宮廷・外交・戦争・異変・発見・物語などをテーマにした記事を掲載し、街頭
で呼び売りされる。体裁は縦 13.5 ∼ 19.5cm、横 8.5 ∼ 13cm の用紙に、多くは木版の挿
絵を入れる。[以後、記事の多くは無署名で散文のほか韻文も用いられる。活字は不揃い
で、同一の木版画が繰り返し用いられる。]
1483. ○【スウェーデン】ストックホルムで国内初の印刷業務が開始される。
1484(文明16)
1484.○【日本】大伴広公が、初の五十音引き国語辞書『温故知新書』3 巻を著す。五十
音に分けてから、さらに乾坤(けんこん)、時候、気形、支体、態芸など 12 項目に分類す
る。
1484. ○【フランス】トゥールーズで印刷業務が開始される。
1484. ○【フランス】マンシオンが、オヴィディウスの『変身物語』のフランス語散文訳
に多くの木版の挿し絵を加えて出版する。[以後、財政的に破綻し、ブルージュを去る。]
1484. ○【ローマ】法王が、回勅「緊急の要請」を公布して魔女の存在を断定し、審問官
の活動を擁護する。[ 1487 年『魔女の鉄槌(てっつい)』が公刊される。本格的な魔女狩
りの時代が始まる。]
1484.○【イタリア】ゾルグ Anton Sorg が、ボッカチオの『デカメロン Decameron(十日
物語)』を、木版画の挿絵入りで印刷する。(世界最初のポルノ出版か??。伊藤政行に
- 131 -
よる)
1484.○【イギリス】ウィリアム・キャクストンが、1410 年にラヴが英訳した『イエス・キ
リストの祝福されし生涯の鏡』を初めて印刷する。また、若い騎士の教科書『騎士道の
鏡』を出版する。[1490 年、
『イエス・キリストの祝福されし生涯の鏡』第 2 版を出版す
る。]
1485(文明17)
1485. ○【ドイツ】この頃まで、活字印刷本が手書き写本の外見に似せて作る試みがなさ
れる。活字をデザインする写字生、朱を入れる朱書き師、大文字や欄外に装飾を施す装
飾師らの仕事が、活字印刷の場で継続される。[以後、活版印刷術の普及により、写本の
需要が徐々に減少し、写字生は転職を余儀なくされる。印刷業者になる者、少部数のみ
の需要のある書簡・業務記録・式典用原稿・法律文書などを扱う筆耕業者、豪華写本の
コレクターのための能書家(カリグラファー)、人物細密画(ミニアチュール)の絵描きな
どに転業する。世紀末には、自分の仕事を横取りしたとして写字生が印刷工を法廷に訴
える出来事まで起こる。]
1485. ○【ドイツ】マインツに司教が、ギルシア・ラテン作品のドイツ語版の印刷に先だ
って教会検閲を始める。
1485.○【フランス】この頃、パリのアントワーヌ・ヴェラール Ve()rard が、資材・機器
を貸し出して印刷製本させる資本家的印刷出版業を始める。
1485.○【イタリア】レオナルド・ダ・ビンチ( 33)が、人間が空を飛ぶための機械を草稿に
記述する。
1485. ○【イタリア】ナポリの人文主義者フランチェスコ・トゥッポの許で働いているド
イツ人印刷技術者が、イソップ『寓話集』を刊行する。紙面にはナポリ趣味に影響を受
けた芸術家のオリエント風の豊かな装飾技法による唐草模様で飾られる。
1485. ○【スペイン】ブルゴスとパルマで印刷業務が開始される。
1485. ○【イギリス】ウィリアム・キャクストンが、マロリーの『アーサー王の死』を印
刷、出版する。
1486(文明18)
1486. 1.−【スペイン】コロンブス(35)が、フェルナンド王とイサベル女王のカトリック
両王にあらためて航海計画を提案する。[以後、提案はタラベラ神父が主査する諮問委
員会に付託される。委員会は〈大西洋には果てがなく、したがって提案の航海は不可能
である。天地創造から何世紀も経っているのに、今さら未知の大陸が見つかるはずがな
い〉と、コロンブスの計画に反対する。折からカトリック両王はイスラム勢力最後の牙
城グラナダの攻略に全精力を注いでおり,最終判断が出ぬまま数年経過する。1492 年 4
月 17 日 、ついに航海実施の合意が成立する。のちに「サンタ・フェの協約」と呼ばれる。]
1486.末【ドイツ】画家を志したデューラー Albrecht D □ rer( 15 )が、ウォルゲムート
MichaelWolgemut( 52 )の工房に入る 。
[以後、ここで人文学者シェーデルの『世界年代記』
のための木版挿絵を師と共作したと推定される。
]
1486. ○【ドイツ】マインツで、大僧正ベルトルドが、出版物を取り締まるために検閲庁
- 132 -
を設ける。マインツ大学評議会の許可なくギリシアその他の書物を翻訳印刷販売するこ
とを禁じる。
1486.○【フランス】この頃、パリを中心として「時祷(示+寿)書」(book of hours)(キリ
スト教の平信徒のために書かれた個人用祈祷書。時裳(正しくは時課)とは毎日の定時の
祈祷をいう。)が続々と出版される。
[1530 年までに 1600 点近く出版される 。
]
1486.○【イタリア】人文主義者のサベリーコ Marcantonio Sabellico( 50 )が著した『ベネ
チア史』に、著作権が与えられる。記録に残る最初の本の著作権となる。
1486.○【イタリア】E.シルベルが、G.ピコ=デラ= ミラーンドラ『九百の提題』をローマ
で印刷する。
[のち、禁書になる。
]
1487(長享1)
1487. ○【ドイツ】教王が教書で、印刷物の発行には教会の許可を条件とする。
1487. ○【ドイツ】ドミニコ会士の異端審問官インスティトリスとシュプレンガーが、
『魔
女の鉄槌(てっつい)』を書き公刊する。狂信的な危機感、嗜虐(しぎゃく)的な使命感が
全編を貫き、たとえば、教会に行きたがらぬ者は魔女の疑いがある、熱心に教会に通う
者は偽装した魔女である、と断定している。一節に〈すべての妖術は女の中にある。そ
れは子宮の口である。だから彼女らは肉欲を満たすためなら悪魔とでも交合する〉と書
く。恐るべき魔女のイメージが、この本によって決定され、魔女狩りの絶対の権威とし
て教典とされる。本格的な魔女狩りの時代が始まる。[この頃、神学者や教会関係者のす
べてが論旨に同調したわけではないが、一度権威が確立されると 、『魔女の鉄槌』批判
は魔女たることの自白に等しいとみなされる。宗教改革以後は、プロテスタント諸国で
も教典として受け入れられる。魔女狩りは、とくに 1590 ∼ 1610 年 、1625 ∼ 35 年、1660
∼ 80 年の 3 度激しく行われる。]
1487. ○【ポルトガル】スペインのユダヤ人追放により脱出したユダヤ人が、ファロで、
国内初の印刷業務を開始する。[以後、一時期の間、ポルトガルがヘブライ語出版を一
手に引き受ける。1494 年、キリスト教徒が印刷に手をつける。1498 年、ユダヤ人は国を
追われるか改宗を強いられる。ユダヤ人印刷業者はイタリアに逃げ込む。
]
1487.○【イギリス】ルッド Rudd によって 1978 年にオクスフォードに最初に設けられた
印刷所が、オクスフォード大学の認可の下に書籍の生産を始める。オクスフォード大学
出版部の前史の初めとされる。[以後、十二使徒信条や基礎的な学術書、オクスフォード
大学編纂の文法書などが印刷されるが、経済的に破綻する。1584 年、大学が会議を開き、
大学出版部理事会の前身母体が結成される。1633 年、理事会( Delegate)となる。1690 年 、
大学自体が自ら運用する印刷所を設置し、印刷、出版活動を始める。]
1488(長享2)
1488.○【ドイツ】ヨハン・プリュスが、シュトラスブルクで音楽書『Flores Musicae』を
木版印刷する。[以後、最初の音楽理論書とされる。]
1488. ○【イタリア】最初のヘブライ語聖書『ソンチノ完全聖書』原典が、クレモーナ近
郊のソンチノ(ソンチーノ)で、ポルトガルから移住してきたユダヤ人印刷業者「ソンチ
ーノ一族」により印刷される。聖書本文の最初の刊本となる。
[1516 年、エラスムスの
- 133 -
校訂本が出て、最初の新約原典となる。]
1489(延徳1)
1489. 3.−【フランス】紙の価格が下落するため、製紙業者の訴えにより、パリ大学が安
価な紙を得るための諸特権に関してシャルルⅧ世の特許状を得て確認される。人文学士、
学生、正教授をはじめ、特権を享受できる者として出版業者 24 人、羊皮紙業者 4 人、パ
リの紙問屋 4 人、トロワ・コルベーユ・エソンヌの製紙業者 7 人、彩色絵師・書士(エク
リヴァン)・製本屋各 2 人を列挙したリストが作成される。こうした業者は「大学宣誓紙
業者」の肩書がつけられ、大学当局の手厚い保護のもと、租税免除など各種の特典を享
受する。(『書物の出現』上)
1489. ○【ポルトガル】リスボンで国内で、印刷業務が開始される。
1490(延徳2)
1490.○【中国】この頃、無錫の華燧(かすい)(会通館)が、大小 2 種の字体の銅活字を用
いて『宋諸臣奏議』を試験的に刊行する。華燧は、銅活字に精通している、という意味
で自ら「会通」と号した。この印刷は、金属活字自体が墨を受けつけなかったので、刷
り上がりはぼけたものになってしまう。また、組版が不揃いで、校正も精密を欠いたの
で、朝鮮銅活字版の精緻華麗さに遠く及ばない結果となる。[以後、華燧は、銅活字の
鋳造、組版、施墨、印刷など一連の技術問題を解決し、活字印刷術の発展に大いに貢献
し、少なくとも 18 種、約 1000 巻以上を印刷・刊行する。
『宋諸臣奏議』は、現存最古の
金属活字印刷本とされ、北京図書館に収蔵される 。
]
1490. ○【ドイツ】この頃、郵便飛脚が角笛を使うようになる。
1490.○【イタリア】レオナルド・ダ・ビンチが、カメラ・オブスキュラの可能性を述べる 。
1490. ○【イタリア】ヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウス(アルド・マヌツィオ;ア
ルド・マヌッツィオ)(38 ?)が、自分の作品を出版するため、ヴェネツィアで印刷所を開
設する 。
[1493 年、自著『ラテン文法書』を印刷する。1494 年、アルド書店を開き、最
初の印刷本を出版する。]
1490. ○【スペイン】セビリャで、印刷業務が開始される。
1490. ○【イギリス】紙の製造技術が伝えられる。原料の多くは動物繊維の古着が用いら
れる。紙は羊皮紙より長持ちしないという理由で、紙製の書物は羊皮紙のものより廉価
で取引される。
1491(延徳3)
1491. ○【ドイツ】ニュールンベルクの学術書の出版業者アントン・コーベルガーが、絵
入り本に進出し、『聖櫃』に挿入するため、版画家ミヒャエル・ヴォールゲムートに、聖
書の場面や寓意を表す 1 ページ大の版画 91 枚を制作させる 。
[1493 年、さらにハルトマ
ン・シェーデルの『世界年代記』(のち、
『ニュールンベルク年代記 』)の挿絵として、約 2000
枚の木版を彫らせる 。
]
1491. ○【イギリス】この頃、キャクストンが死去する。弟子のウィンキン・ド・ウォード
が印刷機一式を遺贈される 。[以後、しばらくしてロンドン市内のフリート街に工房を
- 134 -
移転する。キャクストンが常に上流階級を顧客にして小部数の出版を行っていたのに対
し、ド・ウォードはより広い購買層を対象に、小活字で組んだ廉価な小型本を、約 800 点
を印刷出版する。
]
1492(明応1)
1492.10.12【中央アメリカ 】イタリアの航海者コロンブス Christopher Columbus(46 ?)が、
シナ(のち、中国)を目指し、マルコ・ポーロの東方見聞録を携えて西方に航海し、未明午
前 2 時、ピンタ号の水夫ロドリゴ・ド・トリアナが、マストの見張台から、
〈前方に島があ
るぞ!〉と叫ぶ。コロンブスは乗組員を連れて上陸し、バハマ諸島をサン・サルバドルと
名付けてスペイン領とする。この航海中に、地磁気に偏角があることに気付く。[のちに、
アメリカ大陸の発見とされ、1492 年 10 月 12 日の出来事が最も有名になり、歴史に大き
く残される。10.28 キューバを発見する。12.6 ハイチに着き、定住拠点をつくる。のち
に緯度によって伏角が異なることも発見する。のち、10 月 12 日を「新大陸発見の日」
といわれる。中南米では「人種の日」、スペインでは「イスパニーダの日」と呼ぶ。先
住民が住んでいたことを考えると「発見」というのは適切でない、との意見もあり、「コ
ロンブス・デー」「ディスカバリーの日」「ランディングデー」と呼ぶようにもなる。国
によっては 10 月の第 2 月曜日を「コロンブス・デー」とするところもある。]
1492.○【イギリス】イギリスの印刷術の父、カクストン William Caxton ( 70?)が死去する。
(1491 年説あり)この頃、カクストン以外の国内の印刷業者はすべて大陸からの来住者
であり、カクストンの工房と住居はアルザス生まれの印刷師ウィンキン・ウォードに引き
継がれる。[1513 年ころ、カクストンに続くイギリス人の印刷業者が現れる。]
1492. ○【ヨーロッパ】コロンブスが、アメリカ大陸から梅毒をヨーロッパに持ち帰る。
〔もともとヨーロッパに古くからあったという説もある。
〕
1493(明応2)
1493.○【ドイツ】この頃 、自然現象や社会事件を報じる 1 枚刷りのフルークブラット(フ
ルークシュリフト、フリーゲンデブラット)( Flugblatt)が、国内やウィーンなどドイツ語
圏で刊行される。[以後、時には 2 枚刷り以上になり、災害、疫病、奇譚などを絵入りで
印刷され、速報媒体となる。近代新聞の先駆けとなる。]
1493.○【ドイツ】コーベルガーが、ハルトマン・シェーデル( 53)の『世界年代記』(『ニ
ュルンベルク年代記』)を刊行する。1 万 9000 点の木版を組み合わせて 1800 点あまりの
図版を収め、出版として大成功を収める。
1494(明応3)
1494. 1.25 【フランス】シャルルⅧ世(24)が、王位継承権を主張する。これによって、フ
ランス軍がイタリアに侵入、イタリア戦争が始まる。
1494.12.31 【イタリア】シャルルⅧ世の率いるフランス軍が、ローマに入城する。フラン
ス人がルネサンスに接触する契機となる。また、ヨーロッパ中に激痛と膿疱を伴う怖ろ
しい病気(梅毒)が大流行する。[以後、フランスとナポリの兵多数が梅毒にかかり、「フ
ランス病」 の名を広める。フランス人は「イタリア病」、「ナポリ病」 と呼ぶ。それを
- 135 -
うつされた国民がその直前に伝えた国の名を病名につけるのを常とするが、一般には「悪
魔の病」と呼ばれる。]
1494. ○【ドイツ】クロイツナハ付近のシュポンハイム(スポンハイム)の修道院長トリテ
ミウス Trithemius(本名 Johannes Heidenberg)( 32)が、昨今の印刷術の普及により修道士の
写字が軽視されるような風潮に反発して、『写字生賛』を著す。内容の一部は、1473 年
頃出版されたジャン・ジェルソンの論文『写字生賛』に負っている。その中で、羊皮紙に
写字することで 1 千年も長持ちするのに、紙に印刷では寿命が短く、また手で転写する
ことにより空いている手を働かせておけるし、勤勉や献身や聖書の知識が身につくとい
った利点を説く。しかし 、
『写字生賛』は紙に印刷されて刊行される。また、彼はマイ
ンツのさる印刷屋を頻繁に使うので、そこはあたかもシュポンハイム修道院出版局の様
相を呈していた。(E.L.アイゼンシュタイン 、別宮貞徳監訳『印刷革命』みすず書房、1987 )
1494.○ 【 ド イ ツ 】 ブ ラ ン ト Sebastian Brant( 36) の 風 刺 文 学 『 阿 呆 船 ( 愚 者 の 船 )
DasNarrenschiff』が、J.ベルクマンによりバーゼルで出版される 。
[以後、ブラントは、
一連の「阿呆文学 Narrenliteratur 」の祖となる。]
1494.○【ドイツ】この頃から、フルークブラット Flugblatt(ビラの意)が、戦争、天変
地異など単独のニュースを伝えるために発行される。多くは街頭で呼び売りされる。定
期的に発行される新聞の先駆形態の一つとなる。
1494.○【フランス】シャルルⅧ世の裁断により、リヨンの年 4 度の大市(おおいち)が確
立される。
[以後、1 世紀近くリヨンの「書籍大市」が繁盛する。]
1494.○【イタリア】この頃、学者アルド・マヌッツィオ(アルダス・マヌティウス)Aldus
Manutius( 42 ? 45? )が、ベネツィア総督の甥などから財政的援助を受けて、ベネツィア(ベ
ネチア)にアルド書店を開く。錨と海豚を商標として、印刷・出版を初める。この年初め
て『ギリシア詩集』を刊行する。また、自社出版物だけでなく他社の出版物も列記し、1
冊ごとに解説と定価を明記した初の「カタログ(出版案内)」を印刷して、読書愛好家に
送り届ける。[以後、1495 年∼ 1519 年の間に、130 点あまりの出版を手がける。中でも、
コンスタンティノープル(のち、イスタンブール)から亡命してきた多くのギリシア学
者たちに指導されて、異教のギリシア古典の正確な版本を刊行する。1501 年、多くの購
買者層に迎えられるように、ローマン・アルファベットの楷書体を斜めにした「イタリッ
ク体」をデザインさせて、これで手軽に持ち運べるサイズの 16 折小型版本の印刷を開始
する。古典をたやすく民衆の手に与えるための企画であり、本というものを初めて親し
みやすい個人のためのメディアに仕立てて、出版史上最初の普及廉価版となる。マヌテ
ィウスは各種のギリシャ語活字をデザインし、1502 年からはアイスキュロス、ソポクレ
ス、プラトン、デモステネス、ヘロドトス、ピンダロスなどギリシャ古典を次々と印刷
・出版する。20 年間に 120 種 250 巻の書物を印刷する。
(塩野七生「イタリア遺文」14
話、
『波』1980.4 月)(平凡社『世界世界大百科事典 』
)[ 1968 年、アメリカのアラン・ケ
イ Alan C. Kay が、マヌティウスが初めて書物を手軽なサイズに定めて以来、身近に持
ち歩けるものになったという話と、小型ディスプレイ「NLS」、教育用言語「 LOGO」
、
手書き文字認識システムの〈 3 つの画期的な技術〉に出会ったことで、本とコンピュー
タとのアナロジーから、個人用のコンピュータの原型「ダイナブック Dynabok」を初め
て発想する。
(ボブ・ライアン「アラン・ケイが再び語る Dynabook の将来像 」
『日経バイ
- 136 -
ト』1991.6 、鶴岡雄二訳『アラン・ケイ』アスキー出版局、1992)]
1494. ○【イギリス】 スコットランドで、モルトが蒸溜されて地酒として飲まれる。[以
後、スコッチウィスキーとして世界に広がる。]
1495(明応4)
1495.夏 【ドイツ】最初の梅毒患者がシュトラスブルクで報告される 。梅毒が流行する 。
これをドイツ人は「フランス病」と呼ぶ。
1495. ○【イタリア】ベネチア元老院が、イタリック文字の発明者で印刷業者のアルド・
マヌッツィオ(アルダス(アルドゥス)・マヌティウス)Aldus Manutius に、
『アリストテレ
ス著作集』などギリシャ語書物の印行に関し 25 年間の特許認可状(privilege )を与える。
[以後、記録に残る最古の出版特許認可状となる。]
1496(明応5)
1496. ○【オランダ】梅毒が流行する。
1496. ○【イギリス】梅毒が流行する。
1497(明応6)
1497. 3. 9 【ポーランド】コペルニクス Nicolaus Copernicus( 24)が、ボローニャ大学教授
ノバラに師事する。[以後、アルデバランの星食を観測し、プトレマイオスの月理論の誤
りに気づく。10 月 20 日フロムボルクのワーミアの聖堂の評議員に任命される。このこ
ろ、プールバハ、レギオモンタヌス共著『アルマゲストの概説書』を入手し、天動説の
再検討に進む。]
1498(明応7)
1498.末【ドイツ】ニュールンベルクの A.コーベルガーが、デューラー Albrecht D □ rer(27 )
の 1 枚刷り木版画の連作『ヨハネ黙示録』を完成する。
[1498 ∼ 1510 年、
『大受難伝』
、1502
∼ 1510 年、『聖母マリア伝』の 1 枚刷りを制作する。以後、ドイツ民衆芸術として出発
した木版画が、デューラーによって初めて高度の芸術的表現を得たと評価される 。
『ヨ
ハネ黙示録』は、のちにテクスト入りの書物となって売出される。デューラーは、動植
物、人体の形態学的研究および遠近法の研究を行い、この頃 、
『パウムガルトナーの祭
壇』
(ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)、
『三王礼拝 』
(フィレンツェ、ウフィツィ美
術館)を制作する。
]
1498. ○【インド】梅毒が流行する。
1498. ○【中東】梅毒が流行する。
1498. ○【スペイン】梅毒がエルザス(アンザス)にかけて流行する。
1499(明応8)
1499.○【ドイツ】ケルンの J.ケルホフが 、
『ケルン年代記』を刊行する。この中に、印
刷術に関する最初の記述があり 、
〈活字による印刷術は、ドイツのマインツという都市
で発明されたが、最初の試作はオランダで行われ、マインツに先駆けてドナトゥスの教
- 137 -
本が印刷された〉と記述される 。
[以後、この記事が契機となって、ドイツとオランダ
の学者らによって、印刷術がいずれの国で始まったかという論争が続けられる 。
]
1499.○【イタリア】ヴェネツィアのアルド・マヌッツィオ(アルダス・マヌティウス)が、
1469 年にドミニコ派修道士フランチェスコ・コロンナの著した『ポリフィーロ酔夢譚』
を印刷・刊行する。また、ニッコロ・ペロッティの『豊穣の角――ラテン語解義』でペー
ジ付けがなされ、恐らく最初のページ付刊本とされる。また、 F.コロンナ『ポリフィー
ロ酔夢譚(ポリフィルス狂恋夢)』を刊行、揺籃活字(インキュナブラ)の傑作とされる。
[以後、『ポリフィーロ酔夢譚』の内容や装飾によって、ラブレー、ダンテ・ゲイブリエ
ル・ロセッティー、ビアズリーらが影響を受ける。また、新奇さを求める無名の工芸家、
職人、装飾家などに大きな影響を及ぼす。1904 年、メシュアン社が 、
『ポリフィーロ酔
夢譚』初版の写真復刻版(ファクシミリ)を刊行する。]
1499.○【イタリア】この頃、レオナルド・ダ・ビンチ Leonardo da Vinci(47)が、螺旋(ら
せん)面回転翼機のスケッチを描く。回転翼による飛行機の最初の構想となる。ダ・ビン
チは人力で回転翼(ロータ)を回転させる計画だったが、実現はしない 。
[以後、約 400 年
間、多くの人々が試みるが、軽くて高出力のエンジンが得られずに実現しない。1986 年、
全日本航空事業連合会は、ヘリコプタが第二の空輸システムとしての普及を図ることを
目的として、ヘリコプタの原理を考えたレオナルド・ダ・ビンチの誕生日 4 月 15 日を「ヘ
リコプタの日」と定める。
]
1500(明応9)
1500. ○【ヨーロッパ】この頃までに、ヨーロッパで印刷された書物(インキュナブラ)は
約 4 万点、総部数は約 2000 万部に達する。うち、約 45 %が宗教書である。手写本は各
地の図書館から少しずつ表舞台から追いやられ、もはや学者たちによってたまに参照さ
れるだけになっている。[以後、インキュナブラは約 3 万点が保存される。]
1500.○【オランダ】人文学者エラスムス Desiderius Erasmus( 34)が、諺集『アダージア』
を、アルファベット順に編集する。[ 1596 年、話題別配列にして再版される。]
1500. ○【ドイツ】この頃、ニュルンベルクにすむ錠前師のヘンラインが、ぜんまいを使
って、持ち運びできる小さな卵形の懐中時計をつくり出す。[以後 、
「ニュルンベルクの
卵」と呼ばれて富豪の間でもてはやされる。
]
1500.○【フランス】パリに、50 軒以上の印刷業者が営業している。
1500. ○【フランス】リヨンのマチュー・ユスが、初めて印刷工房で働く植字工、インク
工、プレス工らを描いた版画『死の舞踏』を出版する。15 世紀の終末思想を反映して、
印刷所とそれに隣接する書店で働く人々に死神が襲ってくる光景が描かれる。植字工は
非常に低い活字ケースの前に座って作業をしている。(高宮利行『グーテンベルクの謎』
p.106 )[以後、印刷工房図を収める唯一の揺籃本(インキュナブラ)となる。16 世紀後半、
植字工が立ったまま作業をするようになる。]『
( 書物の出現 』
)
1500. ○【フランス】ルイⅩⅡ世が、ギョーム・ユスターシュにラテン語訳『ユダヤ教徒
に対する反論』の印行に対して特許認可状(privile()ge)を与える。書籍商の営業を保証
するためのフランス最初の出版特許認可状となる。[1507 年、
「使徒ポールのアントワー
ヌ・ベラールに宛てた書簡」
、1508 年、聖ブルーノの著作物にも与えられる。]
- 138 -
1500. ○【イタリア】この頃、ヴェネツィアのアルド・マヌッツィオ(アルダス・マヌティ
ウス)が、袖珍版の刊行を始める。
1500.○【イタリア】バレンティノ公爵、教皇軍の将軍チェザレ・ボルジア Cesare Borgia
(24?)が性器潰瘍を患う。[以後、彼はマキアベリに理想的な新君主と評価される一方,
人々からは妹の夫や弟の殺害なを平然と実行できる冷酷非道の権勢家と批判されてい
る。]
1501(文亀1)
1501. ○【ドイツ】シュトラスブルクの司祭ガイラー(ヨハン・ガイラー・カイザースベル
ク)が、同市参事会に梅毒患者のための病院建設など処遇についての嘆願書を提出する。
1501.○【ローマ】教皇アレクサンデルⅥ世が、15 世紀からのローマ教皇のカトリシズム
に対する異端取締りが展開される中で、宗教書の出版に事前検閲制度を敷く。ヨーロッ
パにおける最初の出版言論統制の事例となる。
1501.○【イタリア】印刷家アルド・マヌッツィオ(アルダス・マヌティウス )Aldus Manutius
(51 ?)が、出版物に内容をより多く収容する目的で、ヴェネツィアで教皇庁尚書院の「書
記局書体」に範をとった幅の狭い斜字体(のち、イタリック体活字)を創作し、彫り師フ
ランチェスコ・グリッフォに依頼する。イタリック体活字を使った最初の刊本として、ウ
ェルギリウスの詩篇『作品集(アエネイアス)』を刊行する。[以後、斜字体は発明者の
名をとって「アルディーノ」(アルド式)と呼ばれるが、イタリアの他の出版社もいっせ
いにこのアルド式を採用する。以後、ローマン書体に付属してつくられるようになり、
普及する。ヨーロッパではイタリック(イタリア式)の名で定着する。1502 年、マヌッツ
ィオはヴェネツィアにおけるギルシャ語書物およびイタリック体によるラテン語書物出
版の独占権を得る。以後、プラトン、アリストテレス、キケロ、カエサルなどが、アル
ドゥス社の文庫版として、イタリック体を使用して、出版される。イタリック体を使用
することで、小型本の紙面でもかなり多くの文字列を収容し印刷することが可能になる。
ヨーロッパでイタリックが流行し始める。のち、イタリック体は、あらゆる書体の斜体
を総称するようになる。]
1502(文亀2)
1502. ○【中国】華珵が、精密な銅活字を製作し、南宋の詩人陸游の『謂南詩集』と『剣
南続稿』を刊行する。
1502. ○【ドイツ】ウイッテンベルク大学が設立される。ライプツィヒやチュービンゲン
で学んだ学者によって組織され、かなり伝統色の濃い教育を行う。[1508 年、ルター Martin
Luther が一般教養科目を担当する。1512 年、ルターが神学博士となり聖書学を担当する。
1517.10.31 ルターが 、
「九十五か条の論題」を大学の掲示板でもあった城教会の扉に提示
する。宗教改革運動の発端となる。]
1502. ○【ドイツ】ウイッテンベルクで最初の印刷工房が開設される。
1502.○【ドイツ】シェファー Peter Schoeffer が、世界最初の本の広告ビラ、ポスターを
印刷する。
1502. ○【ドイツ】シュトラスブルクの奇特な市民セバスチアン・エルクが、イル河の運
- 139 -
河地区の建物を同市参事会に寄贈し、梅毒患者隔離病棟となる 。
[以後、19 世紀末に取
り壊されるまで機能し続ける。
]
1503(文亀3)
1503. ○【トルコ】オスマン帝国のコンスタンティノープル(のち、イスタンブール)で印
刷所が開設される。
(★ 1494 年とも)
1503. ○【ドイツ】ペーター・シェファーの息子ヨハンが、印刷事業を受け継ぐ。早速印
刷出版した書物の奥付に、自ら〈印刷術の発明者の子孫〉と名乗る。[ 1509 年、ヨハン
が、祖父ヨハン・フストを印刷術の発明者と明記する。1514 年、シェファーが出版した
書物のなかで、オランダの人文学者エラスムス Desiderius Erasmus が〈印刷術の発明者は
ヨハン・フストであったらしい〉と記す。以後、印刷術の発明者のグーテンベルクの名は
霞んで、フスト説が強く擁護される。1514 年、ヨハン・シェファーは、この年印刷した
リヴィウスの『ローマ史』の序文に〈印刷術を発明したのは自分の父ではなく、ヨハン・
グーテンベルクであった〉と記す。]
1503.○【イタリア】ファーノの G.ソンチーノが、ペトラルカ『イタリア語作品集』を刊
行する。序文でソンチーノは〈イタリック体発明の栄光を A.マヌッツィオ(アルダス・マ
ヌティウス)が、横取りした〉と激しく非難する。
1504(永正1)
1504. ○【ドイツ】ニュールンベルグの錠前屋の親方、ペーター・ヘンレインが、鉄製の
クロノメーターを作る。[★ 1509 年ともいわれる。現存する最古の携帯用時計となる。]
1505(永正2)
1505.○【中国】明の武宗(8 代、正徳帝)が即位する 。
[以後、在位∼ 1521 。美しい芸妓
を宮廷内に召し入れ、逸楽にふける。また、役者の蔵賢を異常に寵愛する。さらに、20
才前の高永壽を寵愛する。以後、宮廷では高小姐とよばれる。宦官の専横が甚だしくな
る。
]
1505.○【中国】梅毒が流行する。多くの官僚、士大夫も邸宅に歌い女を囲って享楽する。
1505. ○【中国】中国史上第二の同性愛流行の時期を形成する。
北京の蓮子胡同(簾子胡同)という路地に、同性愛者相手の男たちが客引きをする。
1505. ○【中国】南方の福建沿岸の一帯に、「契兄弟」、「契児」と呼ばれる風習があり、福
建人(閏?人)は男色をひどく重んじる。
1505. ○【ドイツ】ヤーコブ・ヴィンプヘリングが、印刷術はグーテンベルクがシュトラ
ースブルクで発明した、と記述する。[以後、シュトラースブルクの市民は、自分たち
の町こそ印刷術誕生の地と思うようになる。
]
1505.○【フランス】ビアトール J.P.Viator が、線的遠近法に関連した透視図の理論書を
出版する。ここで初めて距離点( distance point)の理念が明確にされ、透視図法の描法を
容易にする。[以後、透視図法は、視点と物体と画面の相対性に基づいて決定されるもの
とされる。この技法の発展は、自我(視点)が物体(自然界)を見ている世界を窓(画面)と
してとらえることを意味するようになる。]
- 140 -
1505. ○【スペイン】スペイン最初のアラビア語辞典が出版される。
1506(永正3)
1506. 2.14 【バチカン】教皇ユリウスⅡ世(63 )が、古代彫刻のコレクションを教皇庁のベ
ルベデーレの庭に展示する。[以後、これを元に、歴代のローマ教皇、教皇庁によって集
められた美術品など収集品を収蔵・展示した「バチカン美術館( Musei Vaticani)」が開設
される。美術館とよばれる部分は本館の一部と別棟の絵画館である。本館に含まれる図
書室、フレスコ画で名高いいくつかの間、さらに礼拝堂もあわせて公開される。]
1506. ○【オランダ】アムステルダムで印刷が初めて行われる。
1506. ○【ベルギー】イタリアのベルガモ出身の豪族フランツ・フォン・タキシス(タクシ
ス) Franz von Taxis( 56 )が、国王の郵便物以外に一般の郵便物の取扱いを開始する。[以
後、本拠をベルギーのブリュッセルに移し、政府の郵便物を無料で運ぶという条件で、
ハプスブルク家から領内官民の文通逓送事業を世襲制にすることを許され、域内の郵便
事業を独占する。最盛時には、ドイツ、イタリア、オランダ 、ベルギー、スペインで「タ
キシス郵便」を走らせ 、ヨーロッパ最大の郵便組織になる。タキシスでは、螺管(コイル)
をひと巻した郵便角笛(ポスト・ホーン)を紋章に定め、
郵便事業のマークにも使用する。
19
世紀初め、ドイツ国内に路線を撤退。1867 年、プロイセンに郵便権を売却し、12 代にわ
たるタキシス郵便は消滅する。以後、タキシスは単なる貴族となる]
1506. ○【イタリア】この頃、ルネサンスの極盛を迎える。
1506. ○【バチカン】教皇ユリウスⅡ世( 63 )が、サン・ピエトロ大聖堂の旧堂を全面的
に取り壊して改めて新聖堂を再建することに決め、時の建築家たちの諸提案からブラマ
ンテ(62)の立案を採用し建設に着手、定礎式を行う。ブラマンテの構想は、ギリシア十
字形のプランに、ローマのパンテオンから着想されたクーポラ(円蓋(えんがい) )をのせ 、
周柱を巡らした頂塔をその上に立てるものである。1514 年、中央のクーポラを支える 4
本の支柱の建立中にブラマンテが死去する。以後、後継者に指名されたラファエロが、
ジュリアーノ・ダ・サンガッロとフラ・ジョコンドに協力を求め、ブラマンテによるギ
リシア十字形プランは典礼に不適合であるとして 、ラテン十字形に改めて工事を進める。
1520 年、ラファエッロも没する。バルダッサーレ・ペルッツィ、ジュリアーノの甥のア
ントニオ・ダ・サンガッロと工事が引き継がれる。その間、教会の財源の逼迫や「ロー
マの略奪」のため工事の進展はみられない。1546 年、アントニオの没後、ミケランジェ
ロ(72)が独自の構想をもって工事を担当することになる。ふたたびギリシア十字形を採
用して、クーポラを支えるタンブール(円筒形部分)の外観効果を強調し、さらに堂内の
アプスや礼拝堂の設計を改める。1564 年、ミケランジェロ没。以後、ミケランジェロが
残した木製模型により、ジャコモ・デッラ・ポルタの手でクーポラが完成される。1614
年、カルロ・マデルナが、身廊を西側前方に延長させ、さらにナルテックス(前廊)を設
けてラテン十字形プランに改め、壮麗な正面(ファサード)を構築する。 1626.11.18 着工
以来 120 年の歳月を経てウルバヌスⅧ世により新大聖堂の献堂式が行われる。]
1506.○【イギリス】オランダの人文学者エラスムス Desiderius Erasmus( 37 ?)が、イタ
リアからイギリスへ旅行中に戯文(げぶん)『愚神礼賛(ぐしんらいさん)(痴愚神礼賛)』
を書くことを着想する。ロンドンの親友モア Thomas More( 29)の家に滞在して書き始め
- 141 -
る。[ 1509 年、書き終える。]
1507(永正4)
1507.○【ポーランド】この頃、フラウエンブルク聖堂参事会員コペルニクス Nicolaus
Copernicus( 34)が、1496 年北イタリア遊学以来着想した地動説に関する小冊子『概要』
を書き、知友に回覧する。地球は他の惑星と同様に、動かない太陽の周囲を回転し、見
かけ上の星の動きは地球の自転によって起こされるとする。しかし、月の運動を除いて、
太陽の歳差運動、惑星運動についてはまだ多くの課題を残す。一方、ハイスベルクで伯
父ワッツェンローデの秘書兼侍医として活動する。[1512.3.29 伯父が死去する。フロム
ボルクに転任する。1513 年、惑星の系統的な観測を始める。1530 年ごろ、本格的な著述
に入り、『天球の回転について』をまとめる。]
1507.○【ドイツ】地図学者ワルトゼーミュラー(ヴァルトゼーミュラー)Martin Waldseem
■ ller(37 )が、『世界地誌概説(Cosmographiae Introductio )』を書き、初めて地球を球体と
して描き 12 葉に分割した世界地図を発表する。縦 18cm、横 35cm で、印刷はフランス
北東部サン・ディエ(Saint-Di ■)で行われた。アメリゴ・ベスプッチの航海記にもとづい
て世界地図に初めて新大陸を書き加え、南北アメリカとアジアをはっきり区別し、太平
洋を描いたはじめての地図となる。コロンブスの発見したインディアスが実はアジア、
ヨーロッパ、アフリカ以外の第 4 の大陸であると認識し、
〈新大陸はベスプッチによって
発見された〉とし、新大陸を彼の名にちなんでアメリカと名づけることを提案する。[以
後、この手記によってこの本が広く流布され 、「アメリカ」の名称が一般に用いられる
ようになる。しかし 1 世紀以上も、アメリカとアジアの地形的関係については、さまざ
まの誤解や誤呈が尾を引く 。
「アメリカ」という名称は、16 世紀後半までにヨーロッパ
各国で一般に用いられるようになるが、スペインではインディアスという呼称が 19 世紀
初めまで好んで用いられる。1515 年、更に大きなバージョンが製作され、しばしば「ア
メリカの出生証明書」と呼ばれる。(これはアメリカの連邦議会図書館が 2003 年に 1000
万ドル( 10 億 7000 万円)で購入する。)2005.6.8 ロンドンの競売会社クリスティーズで、4
枚残っているうちの 1 枚が約 54 万 5000 ポンド(約 1 億 600 万円)で競り落とされる。]
1507. ○【フランス】写本制作工房を経営していたアントワーヌ・ヴェラールが、有力な
印刷業者の協力を得て、ラテン語の古典やフランス語の通俗作品の出版を手がけ、ルイ
ⅩⅡ世専属の書物取扱い業者に指定される。[以後、数々の特権を与えられる。]
1508(永正7)
1508.○【イタリア】印刷家アルド・マヌーツィオ(アルドゥス・マヌティウス) Aldus
Manutius( 58 ?)が、オランダの人文学者エラスム Desiderius Erasmus(42)を招いて、彼の
『格言集』をアルド書店から出版する。アルド風活字(イタリア風活字=イタリック体)
で印刷された本は芸術的印刷の典型とされ賞賛される。[以後 、
『格言集』はベストセラ
ーになる。]
1508.○【スペイン 】神学中心のアルカラ・デ・エナーレス学寮制大学が設立される。1499
年に教皇アレクサンデル 6 世の設立認可教書を得たトレド大司教ヒメネスが、設立する。
[以後、トリリンガル学寮が設立され、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の 3 言語の研
- 142 -
究を奨励する。1514 ∼ 17 年、3 カ国語対訳聖書を編集・刊行する。16 ∼ 18 世紀にかけ
て法学中心のサラマンカ大学と並び、ラテンアメリカ植民地に多くの上級聖職者、行政
官僚を送り出し、また植民地に設立された 26 大学のモデルとなる。1838 年、マドリー
ド中央大学の中心施設として、マドリードへ移転する。マドリード大学( Universidad
Complutense de Madrid)(正式校名マドリード・コンプルテンセ大学)としてスペイン最大
の国立大学となる。]
1509(永正6)
1509.○【イギリス 】ヘンリーⅧ世( 18 )が、チューダー朝 2 代目のイギリス王に即位する。
1509.○【イギリス】オランダの人文学者エラスムス Desiderius Erasmus(43)が、戯文(げ
ぶん)『愚神礼賛(ぐしんらいさん)(痴愚神礼賛)』を、ロンドンの親友モア Thomas More
(32 )の家で書き上げる。「愚(おろ)かさの女神」が世にいかに愚かごとが多いかを数え上
げ、自慢話をするという形式をとり、哲学者・神学者の空虚な論議、聖職者の偽善など
に対する鋭い風刺が語られている。[ 1911 年、パリで刊行される。]
1509. ○【イギリス】活版職人が製作した壁紙が、ケンブリッジ大学のクライスト・カレ
ジの教師寮に貼られる。現存する最古の壁紙となる。壁紙は、15 世紀後期から高価なタ
ピスリー、彩色布地や皮革製壁掛けの代用品として製造されてきた。
1510(永正7)
1510.○【ドイツ】この頃、ニュルンベルクの錠前師ヘンライン Peter Henlein が、ぜんま
い式の携帯時計をつくる。懐中時計の元祖となる。この頃のぜんまい時計は、巻き締め
状態によってぜんまい力が大きく変動して時計を狂わすことが最大の問題点となってい
る。[以後、発明者は不明であるがレオナルド・ダ・ビンチの手稿にみられる均力車 fus □ e
フランスやスタックフリード stack freed 装置が考えられ、16 ∼ 17 世紀の携帯時計には
そのいずれかが用いられる。初期の携帯時計は分厚く、首または胸にぶら下げられ、時
打ち装置を備えたものが多く、
「クロック・ウォッチ」とよばれる。]
1511(永正8)
1511. ○【ヨーロッパ】この頃、いわゆるキアロスクーロ(単彩明暗画)の素描から着想を
得た多色刷り木版画「キアロスクーロ・ウッドカット(chiaroscuro woodcut) 」が生まれる。
[以後、17 世紀初頭まで続く。イタリアのウーゴ・ダ・カルピ、ドメニコ・ベッカフーミ、
ドイツのクラナハ(父 )
、ブルクマイヤー、オランダのヘンドリック/ホルツィウスら
がこの技法により制作する。16 世紀末ごろから木版画は急速に衰退し、もっぱら民衆的
画像表現の具としてのみ存続し、美術史の表面からは姿を消す。19 世紀末にゴーギャン、
ムンクによって復活する。]
1511.○【ドイツ】エッラープが、地図上の 2 点をむすぶ直線が常に一定の方位をしめす
図法で地図を作成する 。
[のち、この図法は「メルカトル図法」と呼ばれ、1569 年に同
様の方法で航海用地図投影法を導入したフランドル(のち、ベルギー)の地図学者メルカ
トル GerardusMercator( 1512 ∼ 1594)の業績とされる。
]
1511. ○【フランス】エラスムスの『愚神礼賛(ぐしんらいさん)(痴愚神礼賛)』が、パリ
- 143 -
のグールモン書店から刊行される。大当たりとなり、初版の 1800 部がたちまち売り切れ
る。[この年に版を重ねる。1522 年までに、翻訳も含めて 2 万部を売り、宗教改革の気
運を大いに盛り上げる。しかしエラスムス自身は慎重な態度をとり、この運動には加わ
らない。]
1513(永正10)
1513. ○【ドイツ】?【スイス】か? グラーフが、エッチングを発明する。
1514
永正11
1514.○【ローマ】コペルニクス Nicolaus Copernicus( 41)が、教皇庁の改暦審議会に召請
され改暦に関して意見を求められるが、返答を差し控える。その理由として、太陽年の 1
年の長さが未解決であることなどをあげる。その実は、地動説を確信しながらも、それ
がカトリックの教義に照らし異端であることをひそかに配慮したためである。これを著
述したり公刊することには大きな勇気が必要であると感じる。]
1514. ○【スペイン】枢機卿ヒメネスの『多国語対照聖書』の印行が、ユマニスト、アン
トニオ・デ・ネブリハの尽力により着手される 。
[1517 年、完成する。1520 年、発売され
る。
]
1515(永正12)
1515. ○【中国】無錫の華燧(かすい)の甥華堅が、「蘭雪堂」の名のもとに、唐代の類書
『芸文類聚』100 巻を銅活字印刷により刊行する。
[以後、1490 年から 1516 年にかけて、
華燧、華堅ら華家は、銅活字を用いて約 24 種、1500 巻余の書物を刊行する 。
]
1515.○【フランス】パリの J.バードが、G.ピュデ『古代貨幣考』を刊行する。
1515.○【ローマ】教王レオⅩ世 Leo Ⅹ(40 )が、印刷物の事前検閲令を出す。西ヨーロッ
パ全域に、高位聖職者による検閲を命じる。
1515.○【イギリス】ウルジー(ウルシー) Wolsey が大法官となり、印刷物の取締りを強
化する。
1515.○【イギリス】ロンドンの副司政長官モア Thomas More( 37)が、通商問題でオラン
ダに渡り、外交交渉に手腕を発揮する。この旅行中に、理想的国家像を描く『ユートピ
ア』を書き起こす。[ 1516 年、帰国後完成する。外交交渉の手腕と識見をヘンリーⅧ世
に認められ、請われて宮廷に出仕し重用される。1529 年大法官に任命される。王の離婚
問題に最後まで反対し、1532 年官を退く。1534 年反逆罪のかどでロンドン塔に幽閉され、
翌年断頭台の露と消える。モアは諧謔(かいぎやく)趣味の持ち主で、辛辣(しんらつ)な
毒舌家としても知られるが、同時に敬虔(けいけん)なクリスチャン、名文家、論争家で
もあり、市民の人気も絶大で、処刑にあたり王はその影響を苦慮したといわれる。没後 400
年の 1935 年、ローマ教皇から「聖徒」の称号を与えられる。]
1516(永正13)
1516.○【ギリシア】サロニカで印刷所が開設される。
(★ 1500 年とも)
1516. ○【スイス】バーゼルのヨハネス・フローベンのフローベン書店が、エラスムス『校
- 144 -
訂新約聖書』を刊行する。
1516.○【イギリス】トーマス・モア Thomas More(39)が、ラテン語で『ユートピア』を
完稿する。これをネーデルラント(のち、オランダ)のルーヴァン(ルーバン)のディルク・
マールテンスが印刷、刊行する。[ 1551 年、英訳される。]
1516. ○【イギリス】ヘンリーⅧ世が、王の急送公文書を配達するために、これまで行わ
れていた民間郵便を王室の専売特許とし、郵便網を整備する。国璽秘書官ブライアン・チ
ュークを初代郵政長官( Master of Posts)に任命する。これは王室の専用で、民衆は利用で
きない。この間、民営の試みがなされるが、政府の弾圧によって永続できない。1635 年
に、国営の郵便が一般国民に開放される。]
1517(永正14)
1517.10.31 【ドイツ】ヴィッテンベルク大学で聖書学を担当するルター Martin Luther( 34 )
が、ラテン語で書いた『九五カ条の論題』をヴィッテンベルク大学の掲示板でもあった
城教会の扉に掲示する。彼は聖書の講義を行い、罪の赦しのために制定された悔い改め
の礼典に疑問を抱き、ドイツのザクセン地方に販売され始めていた教皇の免罪証書(免罪
符)について学問上の討論を開く目的で「九十五か条」を提示する 。
[以後、この論題は
たちまちドイツ語に訳されて全ドイツに流布する 。同時に宗教改革の小冊子があふれる。
宗教改革運動の発端となる。
]
1517. ○【スペイン】枢機卿ヒメネスの『多国語対照聖書』の印行が、ユマニスト、アン
トニオ・デ・ネブリハの尽力により完成する 。
[ 1520 年、発売される 。
]
1519(永正16)
1519. ○【オランダ】エラスムス『対話集』が、ルーヴァン(ルーバン)のディルク・マー
ルテンスにより刊行される。
1520(永正17)
1520. 9.20【スペイン】ポルトガルの航海者マジェラン Ferdinand Magellan(ポルトガル名
マガリャンイス Fern □ o de Magalh □ es、スペイン名マガジャネス Fernando de
Magallanes(またはマゼラン)( 40 ?)が、スペイン南西部の港町サンルカル・デ・バラメダ
から世界周航に出発する。
1520.11.28 【南米】マゼラン(マジェラン)の船団が、南アメリカ大陸の東岸沿いに南下を
続けたのち、南端のティエラ・デル・フエゴ島との間の通路(のち、マゼラン海峡)を通過
して 、未知の大海原に出る。無風で平穏だということで、マゼランは「Oceano Pacifico (太
平洋)」と命名する。[のち、11 月 28 日は「太平洋記念日」とされる。]
1520. ○【ヨーロッパ】書物の末尾に印刷所あるいは出版所の意匠や標章などを印刷した
「コロフォン( colophon)」と呼ばれる一種の奥付が、この頃から、巻頭に移して記載す
るようになる。[以後、欧米書の慣例となる。巻末の奥付は日本のほか、中国・韓国の一
部のみに見られる。]
1520.○【ドイツ】画家・版画家デューラー Albrecht D ‰ rer(49 )が、皇帝カール 5 世の
戴冠式を機にネーデルラント(のち、オランダ)へ旅行してアントワープに滞在する。旅
- 145 -
行にはキャビン付きの船を利用する。
[∼ 1521 。約 1 年間に、数種の写生帳や旅日記を
残す。道中と宿泊の費用についても頻繁に記録し、バンベルクからフランクフルト・アム
・マインまでの直線距離で約 179km の間に、26 回も税関と国境を通過して、繰り返し金
を払わなければならなかったこを書く。]
1521(大永1)
1521.○【中国】無錫の大地主・大商人安国( 40 )が、銅活字を用いて印刷出版を始める。
まず『東光県志』を刊行する。中国で唯一銅活字印刷された地方志となる。
[以後、1534
年まで、地方志、水利通志、文集、類書など、少なくとも 10 種の書物を刊行する。これ
らは、いずれも精緻華麗な印刷で、厳密な校勘がほどこされており、「安国活字銅版」
と呼ばれる。1534 年、安国の死後、6 人の子に銅活字が分配相続され、それぞれが不完
全揃いのため無用の長物となる。
]
1521.○【ドイツ】ルター( 38 )が、教皇レオⅩ世により破門される。
1521. ○【ドイツ】ウィッテンベルク大学聖書学教授でルターの同僚であるメランヒトン
Philipp Melanchton( 24 )が、
『神学総論(Loci Communes)』(第 1 版)を出し、宗教改革の教
義を初めて明瞭に組織する。主題を項目別に、神、創造、信仰、希望、慈悲心、罪、恩
寵、聖礼典などの「場所(loci)」もしくは「頭( capita)」に分けて論じた。[以後、その教
育上の才能によりプロテスタント神学と哲学の教師となる。1530 年、プロテスタント最
初の信仰告白である『アウクスブルク信仰告白』を執筆する。]
1521.○【フランス】フランソア(フランソワ)Ⅰ世( 27)が、初の出版統制令を出す。パリ
大学の事前検閲を王の名により確認する。
1521. ○【フランス】パリの北東の町、モーの人々により福音主義運動が始まる。
1522(大永2)
1522.○【ドイツ】ルター(39 )が、ザクセン選帝候フリードリヒの保護のもと、チューリ
ンゲンの森を望む古城ヴァルトブルグの一室で、『新約聖書』のドイツ語訳を完成させ
る。ヴィッテンベルクのメルヒオール・ロターが出版する。[以後『ルター訳聖書』とよ
ばれる。その民衆の言葉に即したわかりやすさ,語彙選択の幅の広さなどの理由により,
印刷術を応用して、短期間のうちに前例のないほどに全ドイツに広まる。ルターは聖書
翻訳の際の語形など言語の外形を,当時ウィーンの皇帝庁と並んで有力であった,自己
の出身地に近いザクセン地方のマイセンの官庁語に従わせるが,マイセンの官庁が存在
するドイツ東中部地方の東中部ドイツ語の特徴をもったルターのドイツ語は,ドイツ西
部,北ドイツの低地ドイツ語地域にも広まり,のちの統一されたドイツ文語の基礎とな
る。バイエルンを中心とするカトリック地域のドイツ東南部の通用語とルターのドイツ
語との言語的競合はしばらく続く。1522 年以降もルターは数回にわたって新・旧約聖書
の改訂版を出すが,ルターのドイツ語は、とくに語の形態と正書法においてはいまだ規
範をもたず,確固としたものではない。]
1523(大永3)
1523.○【フランス】ルフェーブル・デタープル Jacques Lef ≡ vre d ’⊇ taples(ラテン名フ
- 146 -
ァベル・スタプレンシス Faber Stapulensis)(73 ?)が、新約聖書の初のフランス語訳を完
成する。パリのシモン・ド・コリーヌにより出版される 。[以後、間もなくパリ大学神学
部により異端の嫌疑をかけられて逃亡、沈黙を続ける。
]
1523.○【 】ヘブライ語聖書の最初のコンコーダンスが刊行される。[ 1755 年、ジョン
ソンの英語辞書が初めて「コンコーダンス(The concordance)」を〈聖書の各単語が何箇
所に出てくるかを示す本〉と定義する。]
1524(大永4)
1524. ○【ドイツ】ニュルンベルク帝国議会が、検閲に関する最初の規定を作る。神聖ロ
ーマ帝国一円に検閲制度が始まる。[1548 年、カールⅤ世が勅令「警察法規」により明
白な検閲の命令を発する。]
1524. ○【イギリス】ロンドン司教による検閲が始まる。
1525(大永5)
1525. ○【中国】江蘇の王延哲が、宗朝の黄善夫の刊行したものに基づき『史記』を刊行
する。精緻な彫刻で美しく仕上がり 、
『史記』覆宗本の中で最も優れたものとされる。
1525. ○【オランダ】この頃、ネーデルランドで銅版(エッチング)が起こる。
1525. ○【フランス】パリ大学神学部が、エラスムス『結婚礼賛』などルイ・ド・ベルカン
の手になるフランス訳書を禁書とする。また、仏訳聖書の出版・販売を禁止する。
1527(大永7)
1527. ○【ドイツ】マールブルク大学が、ドイツ初のプロテスタント系大学として設立さ
れる。
1528(享禄1)
1528. ○【日本】阿佐井野宗瑞が、
『医書大全』を開版する。
1528.○【イタリア】文学者・外交官カスティリオーネ(カスティリョーネ) Baldassare
Castiglione( 50 )が、対話篇『宮廷人の書』4 巻を著す。ウルビーノの宮廷で行われた(と
想定される)教育と生活に関する対話に基づき、宮廷人の理想を論じる。ベストセラーと
なる 。[ 1529 年、カスティリオーネがトレドで死去。以後、さまざまな言語に翻訳され 、16
世紀を通じて 125 回も版を重ねる。原書は対話を羅列するだけで、章分けすらなされず、
内容を探すことが困難な構成になっているのを、一部の出版社が、章分けを施し、傍注
を充実させて、情報検索を容易にできるようにすることで、立派な参考書に仕立て上げ
る。]
1529(享禄2)
1529. ○【フランス】ガリオ・デュプレが、以前なら折衷ゴチック体で印刷するのがあた
りまえになっているフランスの文書をローマン体を使用して、
『薔薇物語』やアラン・シ
ャルチエの作品集を印刷して外見を刷新する。(『書物の出現』)[1532 年、同じくロー
マン体で『ヴィヨン全集』を刊行する。以後、ローマン体による刊本が年々増加し、ヨ
- 147 -
ーロッパのほぼ全域に普及する。
]
1529.○【フランス】印刷出版者で王室御用印刷者のトリー Geoffroy Tory ( 49 ?)が、『万
華園』を、パリのジル・ド・グールモンと共同で出版する。豊富な図版入りでアルファベ
ット大文字の美的調和的な字体デザインを論じ,ラテン語至上・国語蔑視の風潮に抗して
母なるフランス語の尊重を力説し、フランス語の純化や綴字記号などについて意見を述
べる 。
[1530 年、優れた版画・装丁の技術を認められて王室御用印刷者を拝命する。
]
1529. ○【フランス】ルイ・ド・ベルカンが、エラスムス『結婚礼賛』などの禁書を刊行し
たかどで、火刑に処せられる。
1529. ○【イギリス】ヘンリーⅧ世が、特定の書物の読書を禁止する。
1529. ○【イギリス】政府が、外国人の新規印刷出版業の開業を禁止する。
1529. ○【イギリス】イングランドの枢機卿ウォルゼイが、いつもヘンリーⅧ世に耳打ち
していたために梅毒を移したという罪を科せられる。
1530(享禄3)
1530. 3 . −【フランス】フランソアⅠ世が、人文主義者ギヨーム・ビュデの進言を入れて、
王立教授団を創設する。当初は 5 人の講師で、2 人がヘブライ、2 人がギリシア語、1 人
が数学を教える 。
[以後、大革命期に国民学院、ナポレオン時代に帝国学院と名称を変
え、第三共和政以後コレージュ・ド・フランス(Coll ≡ gedeFrance )となる。
]
1530.○【ポーランド】聖職者コペルニクス Nicolaus Copernicus( 58 )(ポーランド名 Mik □
aj Kopernik )が、20 ∼ 30 年前から地動説を執筆し、この頃『概要』をまとめる。理論的
に書かれた太陽中心説の初めての概説書となる。小部数だけ自費出版し、活動的な天文
学者・数学者・聖職者らに配布する。その一部は教皇クレメンスⅦ世およびシェーンベ
ルク僧正にも贈られ、僧正からは主著公刊の激励を受ける。
1530.○【オランダ】アムステルダムに最初の証券取引所(bourse)が開設される。ヨーロ
ッパ通商の金融的中心に位置し、通貨・為替の売買市場であるとともに各国政府が財政資
金を調達する公債発行市場としても機能する。
[1608 年、新しい取引所が設立される。
]
1530. ○【ベルギー】ルフェーブル訳『旧約および新約聖書』が、アントウェルペン(ア
ントワープ)の M.ファン=カイセレンにより出版される。
1530. ○【フランス】パリで、ジョス・バードと初代アンリ・エチエンヌが、ローマン体活
字の普及を始める。この頃、パリの G.デュ=プレが『薔薇物語』
、ヴィヨン『遺言詩集』
などをローマン体で印刷、刊行する。[以後、1540 年にかけて、一連のローマン体活字
が出現し、印刷業者に使用される 。
]
1530.○【フランス】ストラスブールのヨハン・ショットが、1527 年にニコデミズモを最
初に理論化した O.ブルンフェルスの『自然の姿の植物図鑑』を出版する。
[以後、16 世
紀絵入り本の一大傑作と称される 。
]
1531(享禄4)
1531.○【イギリス】ヘンリーⅧ世が 、聖職者を許可人として最初の出版許可制度を敷く。
[1644 年,詩人ミルトンが『アレオパジティカ』を出版して,検閲制度を激しく攻撃す
る。1695 年、議会が、出版許可制度が有効に機能していないという理由で、出版許可法
- 148 -
を廃止する。]
1532(天文1)
1532.○【フランス】ラブレー Fran □ ois Rabelais( 38 ?)が、やがて大きな連作となるべ
き物語の最初の 1 巻『第二之書 パンタグリュエル』を変名で出版する。ラテン語こそが
文化と教養の言語であり、フランス語は低次元の俗語にすぎないとする通念がようやく
揺らごうとしているこの時期に、フランス語で発表する。ラブレーは『第二之書』にお
いて民衆的な笑いと人文主義およびスコラ哲学・神学の学殖とを巧みに織り交ぜ、あら
ゆるレベルのフランス語散文を駆使している。[本書は一般には好評を得る。人文主義者
のなかにラブレーが軽率にも学者の正道を逸脱したとして厳しく批判する者があり、さ
らにパリ大学神学部の一教授は、本書を〈ふとどきな(または猥褻(わいせつ)な )
〉書
物と弾劾する。以後ラブレーが新作を世に問うたびに、神学部は発禁処分に付す。ラブ
レーは逐電・亡命を余儀なくされる。1534 年『第一之書ガルガンチュワ』、 1546 年『第
三之書パンタグリュエル 』
、1552 年『第四之書パンタグリュエル』を発表する。これら
は豊かな語彙(ごい)と多彩な技法を駆使し、あらゆるレベルの言語表現の可能性に挑戦
している。1552 年秋ラブレー投獄の噂(うわさ)がリヨンに広まり、1553 年 1 月 2 つの司
祭食禄を辞退する。その後の消息は知られていない。死後 1564 年に出された『第五之書
パンタグリュエル』を含めて全 5 巻の『ガルガンチュワ-パンタグリュエル物語(Gargantua
et Pantagruel)』と総称され、ルネサンスを代表する空前絶後の作品と評価されるが、死
後出版の最終巻には偽作の疑いがもたれる。]
1532.○【イタリア】マキアベリ(マキャベリ)が 1513 年から翌年にかけて執筆した『君
主論 Ilprincipe』が、ローマの A.ブラードにより刊行される。
1532.○【イタリア】アリオスト『狂気のオルランド』決定版が、フェラーラの F. ロッシ
によって刊行される。
1533(天文2)
1533. ○【フランス】メディチ家のウルビノ公ロレンツォの娘、カトリーヌ・ド・メディシ
ス Catherine de M ロ dicis( 14)が、フランス王フランソアⅠ世の第 2 子アンリ(のち、アン
リⅡ世)と結婚する。[以後、3 人の国王(フランソアⅡ世、シャルルⅨ世、アンリⅢ世)
と 2 人の王妃(フェリペⅡ世の王妃エリザベト、アンリⅣ世の王妃マルグリット)の母と
して、ユグノー戦争の混乱時代を、寛容を信条に、国王の尊厳の確立とバロア王家の存
続のために生き抜く。カトリーヌ・ド・メディシス非常な香料愛好家で、このためにフラ
ンスで 16 世紀の中ごろから香料植物の栽培と香料の製造が盛んになる。フランスの宮廷
をはじめ貴族や富豪が争って香料や化粧品を使うようになるが、これは彼女が政治的支
配を確実にするために、宮廷に軟弱な佞臣(ねいしん)をつくるという目的があったから
だともいわれる。]
1534(天文3)
1534.10.17 【フランス】リヨンからヌーシャーテルに亡命した印刷業者ピエール・ド・ヴァ
ングルが、ミサ聖祭を否定する張り紙を印刷する 。
[∼ 10.18。
「檄文事件」と呼ばれる。
- 149 -
フランソアⅠ世は、この事件に厳しく対処する。10.22 ∼ 25 贖罪の行列が町を練り歩く。
高等法院は裁判所の構内で〈くだんの檄文を確かにそれと示され、それを貼りつけた者
が誰かを告げることができる者に対しては、宮廷より 100 エキュを賜う。反対にその者
をかくまう所を見つけられた者は、火刑に処す〉という布告を掲示する。以後、パリの
町に密告が続けられる。]
1534.11.10 【フランス】モーベール広場で 、
「ルターの悪書」を印刷して販売した出版業
者が焼き殺される。
1534.12.24 【フランス】アントワーヌ・オジュロが、マルグリット・ド・ナヴァールの『罪
深き魂の鑑』の出版者の一人で、先に王立教授団事件の際にも牢につながれたことで、
火刑に処される。
1534. ○【イギリス】ヘンリーⅧ世法により、国内の出版業・書籍業育成のため、外国系
同業者の営業を卸売りに限定する。
1535(天文4)
1535. 1.13【フランス】フランソワⅠ世が、国内の一切の書物の発行を禁止し、違反者は
絞首刑に処すことを命じる。[以後、ビュデやデュ=ベレーが反対を唱え、結局禁令は撤
回される。
]
1535. 1.21【フランス】パリで贖罪の行列がフランソワⅠ世の臨御のもとに市中を練り歩
く。この夜、6 人の異端者が火刑に処せられ、彼らの家から発見された大袋 3 個分の書
物も火中の投げ込まれる。書物こそが、被疑者の罪状を物語る唯一の形ある証拠品とさ
れる。
1535.○【イタリア】この頃、ヴェネチアで『売春婦の価格表(Tariffadelle puttane )』が刊
行される。対話体で書かれ、 110 人の高級娼婦の名前、住所、魅力点、問題点、価格を
掲載する。[1570 年、掲載人数が 210 人に増える。]
1535. ○【スペイン】トレド宗教裁判所が、カトリック教司祭バルデラマーに、強姦、神
への冒涜、売春婦との交わりの罪、および罪障消滅と称して若い女に愛情を強要したこ
とで、10 日の謹慎とダカット金貨2枚の罰金を科す。
1535. ○【メキシコ】米州大陸で、印刷業務が開始される。
1535.○【
】英訳の新約聖書のコンコーダンスが刊行される。[ 1550 年、旧約新約両
方のコンコーダンスが刊行される。]
1536(天文5)
1536. ○【フランス】王室の活字鋳造者でパリに世界最初の活字鋳造専門の工場を開いた
ガラモン Claude Garamond(?∼ 1561 )が、従来のゴシック活字の代わりにローマン・タイ
プの活字をつくる。[ 1545 年、ガラモンはエティエンヌと協力してギリシア字母の活字
体を創出する。1615 年、ジャノン J. Jannon がこれをコピーしてデザインする 。以後、100
種以上の「ガラモン」型活字がつくられる。]
1536.○【スイス】カルヴァン『キリスト教綱要』ラテン語版が、バーゼルの T.プラッタ
ー、B.ラシウムにより出版される。
1536.○【イタリア】ヴェネチアで、ニュースを手書き複製して「ガゼット Gazette」と称
- 150 -
して売り出される。
[のちに、ローマ、ドイツのニュールンベルクでも流行する。
]
1536. ○【イタリア】ジョヴァンニ・ジョリートが、ベネツィアでジョリート書店を設立
する。[ 1541 年、息子のガブリエーレが出版を開始する。1599 年までに 1050 点の本を出
版する。]
1536. ○【イギリス】最初の修道院解散法(小修道院解散法)が議会を通過する 。
[以後、
全修道院財産の没収が行われ、修道院付設の図書館もその存在を否定される。まもなく,
北部諸州で「恩寵の巡礼」と呼ばれる農民反乱がおこり,宗教改革,修道院解散の反対
を唱えつつ,囲込み反対,農民保有地の保全を要求するが,鎮圧される。1539 年、再び
修道院解散法が成立する。
]
1537(天文6)
1537.○【ベルギー】フランドルの数学者メルカトル
Gerardus Mercator( 25 )が、はじめ
ての地図、パレスチナの地図を作成する。[1538 年、心臓形図法をつかって世界地図を
作成する。
]
1537.○【フランス】フランソアⅠ世 Fran ぅ ois I(43)が、その王室図書館の蔵書を増や
すために、法定納本制度(legal deposit)を設け、フランスで印刷されたすべての書籍を 1
部ずつ必ず王室図書館に収められるようにする。世界で初めて納本制度が始まる 。
[以
後、大革命のあともこの規則は守られる。
]
1538(天文7)
1538.○【フランス】フランソアⅠ世 Fran ぅ ois I (44)が、コンラッド・ネオパール Neopal
を王室印刷師に任じ、ガラモン Claude Garamond (?∼ 1561 )に、王室用のギリシア語活
字、ラテン語活字をつくらせる。
1538. ○【フランス】リヨンのトレクセル兄弟が 、
『絵入り聖書』を印刷し、フレロン兄
弟が出版する。リューツェルビュルガーが、ドイツの画家ホルバインの下絵を小カット
に彫った挿絵「死の舞踏 Danse macable 」が人気を呼ぶ。
1538. ○【イギリス】国王による書物の検閲が始まる。
1538. ○【イギリス】政府が、外国で印刷された英語本の輸入を禁止する。
1538.○【イタリア】ベルギー生まれのパドバ大学解剖学・外科教授ベサリウス Andreas
Vesalius( 24)が、伝統的な理髪医師任せの解剖を改め、教授自らが執刀する画期的な解剖
示説を行い、
『解剖学六図』を出版する。
[1543 年 、
『人体の構造に関する七つの本』(『フ
ァブリカ』)を出版する。
1539(天文8)
1539. 9. 3【ローマ】イグナティウス・デ・ロヨラ Ignatius de Loyola(48)とその同志が、修
道会創立の計画について「会掟草案」を教皇パウルスⅢ世に提出し,口頭で創立の承認
を受ける。イエズス会が正式発足する。
[1540.9.27 教皇パウルスⅢ世が「イエズス会創
立勅書」にてこれを正式に認可する。1541 年 4 月 8 日、イグナティウスが初代総長に選
ばれる。]
1539.○【ポーランド】コペルニクス Nicolaus Copernicus( 66 )のもとに、地動説に関心を
- 151 -
抱くドイツの若い数学者でウィッテンベルク大学の初等数学講師レティクス George
Joachim Rheticus( 25 )が訪れる。[以後、2 年間をコペルニクスの下で過ごし、自らが『地
動説序説』を著し、1540 年にコペルニクス学説の概要『ナラティオ・プリマ』
(??前者
と同じ本か???)を出版する。コペルニクスに対しては 1530 年ごろから本格的に書い
てきた『天球の回転について』の公刊を懇願し、執筆を激励する。コペルニクスは異端
のとがめをおもんぱかって、その公刊をためらうが、最後にギーゼ司教の推賞とレティ
クスの懇請を受け入れて、出版を決心する。レティクスは原稿の校正や、ニュルンベル
クのグーテンベルク印刷所への印刷の斡旋を引き受ける。1543 年、ニュルンベルクで刊
行される。]
1539.○【フランス】フランソアⅠ世 Fran ぅ ois I (45 )が、ビレル・コトレ(ヴィレール =コ
トレ)の王令で、裁判記録等公文書におけるラテン語の使用を禁じ、フランス語への統一
を規定するなど、全国統一的な行政の条件を固める。強権をもって、まだ威信の低い俗
語に絶対的優位を与えることで、特定の選良の知的支配を打破し、ラテン語の知識のな
い階層にも、国家的規模における活動への道を開く。[以後、このモデルは、大多数の近
代国家に踏襲される。]
1539. ○【フランス】 リヨンとパリで、印刷職工たちが過重労働に反対して同盟罷業を
起こす。この頃、リヨンでは印刷産業が絹織物業とともに基幹産業となっており、印刷
工は、1 日 14 時間就業、印刷の仕上げは 1 日 300 ∼ 500 紙を標準とするが、作業量はこ
れをはるかに超過する。[以後、
罷業は 4 ヵ月続くが解決せず 。
以後も罷業を繰り返す 。
1542
年、ようやくひとまずの妥協が成立する。]
1539.○【メキシコ】印刷工 J.パブロが、メキシコシティーに入り、印刷工房を開く。
1540(天文9)
1540. 3.14【フランス】ミュウ村のギョウム・ガルニエが、黒い牝犬と獣姦した容疑で逮
捕される。11 ヵ月後罪を認め、町の広場の仮設刑場で火あぶりの刑を受ける。黒犬も殺
され、町の外れの空き地に埋められる。『
( 不思議図書館』
)
1540. ○【ドイツ】ベルリンで最初の印刷工房が開設される。
1540. ○【ベルギー】アントワープで絵画取扱所が開設される。世界最初の美術展覧会と
される。[1640 ∼ 64 年、ユトレヒトのギルド主催の展覧会が開催される。1656 年、ハー
グのギルド主催の展覧会が開催される。]
1540.○【イタリア】ヴァノッチオ・ビリングッチオ Biringuccio が、活字鋳造を含む金属
工学書『De la Pirotechnia 』をヴェニスで出版する。
1541(天文10)
1541. ○【日本】鶴子銀山が開発される。佐渡銀山の始まり。[以後、各所に金山が発展
する。]
1541.○【ベルギー】フランドルの地図学者メルカトル Gerardus Mercator (29)(本名ゲル
ハルト・クレメル)が、地球儀を製作する。
[1544 年、新教徒であったため迫害を受け、
投獄される。以後、政治活動から遠ざかり、地図製作に専念する。1552 年、家族ととも
にドイツのデュースブルクに転居する。]
- 152 -
1541.○【スイス】カルヴァン『キリスト教綱要』フランス語版が、ジュネーブの J.ジェ
ラールにより刊行される。
1541.○【イタリア】ガブリエーレ・ジョリート Giolito が、ジョリート書店で出版を開
始する。[以後、1560 年まで、対話集、戯曲、書簡集、ノヴェッラ、歴史、詩、祈祷書
など、文藝のあらゆるジャンルのイタリア語著作品を上梓する。明解なイタリック体活
字を使用し、巧みな挿絵、魅力的な装幀、炎から羽ばたく不死鳥を商標として、俗語の
みによる著作品を出版する。1599 年までに計 1050 点の本を刊行する。]
1542(天文11)
1542.○【フランス】1539 年以来のパリとリヨンでの印刷工争議に王権が介入し、徒弟数
制限撤廃、労働者の団結禁止などを条件として、ひとまず終息する。[ 1572 年、余燼が
ようやく収まる。]
1542. ○【ローマ】教皇パウロⅢ世が、カトリックに反対する出版物に対して、異端審問
所の許可を取っていないものについては発行・流布を禁止する。
1542. ○【 】アンドリュー・バードが健康法の本を著し、レタスを食べると性欲が抑制
されると警告する。逆にイチジクは男を性的行為にかりたて、精子の数を増すとしてい
る。
1543(天文12)
1543. 3.−(5.23 ?)【ドイツ】ポーランドの天文学者コペルニクス(70)の著書『天球の回
転について De revolutionibus orbium coelestium』 6 巻が、神学者オシアンダーにより、ニ
ュルンベルクのグーテンベルク印刷所から出版される。近代地動説の原典となる。
[ 5 月 24
日、フロムボルクで死去する。](『記念日の本』は 、死の前日 5 月 23 日に出版とある。)
1543. 8.25 【日本】台風一過、種子島の南端の門倉崎に突然 3 本帆柱の異様な巨船が漂着
する。小舟に乗って上陸した数人の乗員が浜辺に一かたまりになっている。駆けつけた
地頭の西村織部丞(おりべのじょう)が近寄って見ると、男たちの中の 3 人は衣服も髪毛
も異様で、言葉も通じない。思案にあまった織部丞は、そのなかの明国人らしい男をま
ねいて、手にした馬の鞭の先で砂上に〈船中之客不知何国人也何某形之異哉〉(この船
に乗っているのは、いずれの国の人か。なにゆえその形が異様なのか)と書く。この字
を目で追っていた相手はにわかに明るい表情になり、鞭を借りて砂上に〈此是西南蛮種
之賈也非可怪矣 〉
(この男たちは南蛮の商人で、あやしむほどのことはない)と書き、
微笑する。この筆談によって、男は明の儒者で汪五峰と名乗る者で(実は船主の海賊商
人、王直)その船がポルトガル商人のものであることがわかる 。
(ヨーロッパ側史料で
は 1542 年のことという。
)[以後、五峰はじめ 120 人の船員、船客、ポルトガル商人の一
行を、寺の宿坊に分宿させる。領主種子島時尭(ときたか)( 16)が、宿泊中のポルトガル
商人ムラシュクシャ(牟良叔舎)(フランシスコ・ゼイモト?)とキリシタ・ダ・モッタ(喜利
志多他孟太)(アントニオ・モタ?)らを引見する。彼らは鉄砲を持参して実弾を込めて発
射して見せて、2 梃を献上する(一説に 2000 金を投じて譲り受けるとある。この頃の世
界の相場の 12 倍に当たる 。
)時尭は鉄砲の威力に驚き、
〈この物一たび発せば銀山をも砕
くべし、鉄壁をも貫くべし……これ稀世の珍宝なり〉と狂喜し、みずから日夜射撃の練
- 153 -
習に励み,百発百中の腕前になる。こうして日本に鉄砲が初めて伝えられる。のちにこ
れを「鉄砲伝来(てっぽうでんらい)」と呼ぶ。この最初に伝えられた鉄砲は、ヨーロッ
パ式の銃ではなく、東南アジアに普及した急速点火機構のマラッカ型火縄銃で、日本の
火縄銃は幕末までこの形式が踏襲される。時尭は、家臣らに命じて火薬の製法を学ばせ,
鉄砲製作を研究させ ,ついに鉄砲の国産化に成功する。その情報を知った紀州(和歌山県 )
根来杉坊(ねごろすぎのぼう)の院主津田監物(けんもつ)は部下を種子島に遣わして、2
本のうちの 1 挺を譲り受け、根来寺門前町西坂本(にしさかもと)に居住する鍛冶(かじ)
芝辻清右衛門(せいえもん)に製銃を行わせる。さらに種子島家より島津氏や室町幕府に
倣製銃が献上されるなど、比較的早く中央へ伝播(でんぱ)する。1575 年、長篠の戦いで、
多量の火縄銃を装備した織田信長の鉄砲隊が、天下無敵といわれた甲州武田氏の騎馬隊
を、密集弾幕の中に捕捉殲滅し、兵器としての効果が認められるようになる。以後、鉄
砲の登場は強者と弱者の力量差をなくし、鉄砲を多量に保有することが覇者への道とさ
れ、戦場から英雄豪傑のロマンが失われるていく。鉄砲伝来とそれを介したヨーロッパ
人との接触は、それまでの日本人がまったく知ることのなかった異質の文明との遭遇で
あり、ヨーロッパの科学技術に対する驚嘆は、日本近代化のインパクトとなる。](『鉄
炮記(てつぽうき) 』
、神坂次郎『海の稲妻』4 、
『日本経済新聞』1996.10.13)
1543.○【ポーランド】天文学者・フロムボルクに大管区長コペルニクス Nicolaus
Copernicus(ポーランド名 Mik □ aj Kopernik)(70) が死去する。その臨終の枕辺に終生の
主著『天球の回転について De revolutionibus orbium coelestium』の第 1 冊が届けられる。
コペルニクスは 1530 年ごろから本格的な執筆に入り、本書をまとめたが、異端のとがめ
をおもんぱかって、その公刊をためらった。ところがギーゼ司教の推賞とレティクスの
懇請を受け入れて、出版を決心し、レティクスの斡旋によりニュルンベルクのグーテン
ベルク印刷所で印刷製本された 。
[以後、近代地動説の原典とされる。教皇庁は、この
書を単なる天体位置の計算書とみなす。1632 年、ガリレイ裁判の際、改めて禁書目録に
登録される。
]
1543. ○【スイス】ヴェサリウス『人体の組成について』が、バーゼルのヨハネス・オポ
リンによって刊行される。
1543.○【イタリア】ベルギー生まれのパドバ大学解剖学・外科教授ベサリウス Andreas
Vesalius( 29)が、
『人体の構造に関する七つの本』(『ファブリカ』)とその要約本『梗概(こ
うがい)』(『エピトーメ』)を出版する 。[以後 、
『ファブリカ』は画期的な解剖学書と
して医学界に衝撃を与える。コペルニクスの著作『天球の回転について』と並んで、科
学革命の火付け役としての役割も果たすことになる。]
1544(天文13)
1544. ○【ロシア】プロイセン(のち、ドイツ)のケーニヒスベルク(のち、ロシアのカリ
ーニングラード)に、ケーニヒスベルク大学が設立される。
1544. ○【スイス】ドイツのヘブライ語学者、バーゼル大学ヘブライ語学教授ミュンスタ
ー Sebastian M ‰ nster ( 56 ?)の『宇宙誌(コスモグラフィア』初版が、バーゼルの H.ピ
エールによって刊行される 。
[以後、6 カ国語に翻訳され、1 世紀以上にもわたって便利
な世界地理歴史百科として利用される。]
- 154 -
1545(天文14)
1545. ○【フランス】教会が、初めて禁書目録を出す。
1545.○【フランス 】王室の活字鋳造者ガラモン(?∼ 1561)が 、出版業者エティエンヌ R.
Estienne( 42)と協力してギリシア字母の活字体「Grecs du roi」を創出する。これを最初に
カエサレアのエウセビオスの版に使用する。[ 1551 年、エティエンヌは、ギリシア語新
約聖書で、のちに広く行われる区分を初めて行う。]
1545.○【スイス】医師・博物学者・言語学者ゲスナー Konrad( Conrad) von Gesner( 29 )
が、最初の世界書誌『図書総覧( Bibliotheca universalis)』(『世界文献目録』
、『書斎』)の
編纂を行い、第 1 巻を出版する。アルファベット順に本を紹介する。[1455 年、全 4 巻
まで刊行する。3000 人の著者によるラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の文献数万冊に
言及し、書誌学の基礎を築く。1551 ∼ 71 年、
『植物大鑑( Opera botanica)』2 巻を刊行。
自ら 1500 ほどの図を描く。1551 ∼ 87 年 、
『動物誌( Historiaanimalium) 』5 巻を刊行 。4500
ページにわたり動物名を、アルファベット順を原則に配列する。]
1545.○【イタリア】教皇パウルス 3 世が、宗教改革運動に対処するため、トレント( Trento )
(ドイツ名トリエント(Trient))第 19 回公会議を開く。トレント公会議(トリエント公会議)
と呼ばれる。会議の目的は、宗教改革によって生じた信仰分裂の解消と、カトリック教
会内部の改革とにあった。[∼ 1947 年。1551 年∼ 52 年、第 2 会期。1562 年∼ 63 年、ピ
ウス 4 世より第 3 会期が行われる。]
1545.○【スペイン】摂政の王子フェリペ Felipe が、シマンカスの城に政府関係文書の保
管を命じる。[1556 年、王位に就き、フェリペⅡ世となり、歴史家ヘロニモ・スリタ Jer
(o) nimo Zurita( 1512 ∼ 80 )に公文書の収集と監督をさせ、王自身も分類と保管のため文
書を選り分ける。]
1546(天文15)
1546. 8. 3 【フランス】ユマニストの出版業者エチエンヌ・ドレ⊇ tienne Dolet(37)が、マ
ロやラブレーの出版を手がけ,異端のかどをもって、絞首された後焼かれる焚刑に処さ
れる。ドレは、執行人に強要され,おのが罪業を認め〈……わが書物はくれぐれも注意
して読まれよ〉と大声で叫ぶ。[以後、活版印刷術の普及に伴い、火焙にされる人間の
「告白」をパンフレットにつくり上げ,群衆に売りつける商売も現れる。
]
1546. ○【ギリシア】ギリシャ語聖書の最初のコンコーダンスが刊行される。
1546.○【フランス】F.コロンナ『ポリフィルス狂恋夢』フランス語訳が、パリの J.ケル
ヴェールによって刊行される。
1547(天文16)
1547.12.−【マラッカ】イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル Francisco de Xavier( 41)
が、マラッカで日本人アンジローと出会い、日本行きを決意する。[1549 年 8 月、訪日
し、1551 年 11 月まで 2 年 3 ヵ月滞在する。]
1548(天文17)
- 155 -
1548.○【スイス】書誌学者ゲスナー Conrad Gesner( 32 )が、「本の秩序(ordo librorum )」
という言い方を生み出し、総合的な文献目録を作成する。経済哲学、地理学、魔術、機
械技芸、政治学などの分類を想定する。[以後、ゲスナーの想像上の図書館が、人文学者
フーゴ・ブロティウス Hugo Blotius(1533 ∼ 1608)が司書を務めていた頃のウィーンの帝
国図書館のような、現実の図書館の蔵書カタログの基礎となる。]
1548. ○【イタリア】書籍商と印刷業者の組合が、ヴェネツィアで結成される。
1548.○【スペイン】神聖ローマ皇帝カールⅤ世(カルロス 1 世)Karl V(48 )が、神聖ロー
マ帝国警察法規に署名する。この中に事前検閲・出版地明記などを命じた出版関係法規
が含まれる。
1549(天文18)
1549. 8.−[ 7. 3]【日本】鹿児島に南蛮船が着く。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザ
ビエル Francisco de Xavier( 43 )が、マラッカで出会った日本人アンジローと、トレス、フ
ェルナンデスらと共に鹿児島に上陸する。他の船員たちも上陸し、タバコを吸いながら
町を歩く。日本人が初めてタバコを見て 、
〈腹の中で火を燃やしている〉と大騒ぎをす
る。[ 1551 年 11 月まで 2 年 3 ヵ月滞在する。この間鹿児島、平戸、山口、京都、豊後を
訪問して日本開教の目的を果たし、1000 名内外を改宗させるた。]
1549.○【ベルギー】フランス出身のプランタン( 29 ?)(オランダ名プランテイン
Christoffel Plantijn)が、パリとカンで書物の製作と販売を学んだ後,アントワープに居を
定める。[以後、出版活動を開始する。彼の経営する印刷・出版所は、最盛期に 20 台近く
のプレス式印刷機を備えて,ヨーロッパ最大の規模を誇り,出版点数も 1500 点余に及ぶ 。
活版と装丁の技能にすぐれ,経営の才に長けているだけでなく、広い学識と宗教的関心
をもち,学者や要人との交友関係も広める。1583 年、ライデン大学の印刷師となる。の
ち、この印刷・出版所はそのまま残されて,プランタンと,その女婿で後を継いだモレト
ゥス J. Moretus の名を冠した,アントワープ市立の博物館となる。
]
1549.○【フランス】J.デュ =ベレー『フランス語の擁護と顕揚』が、パリの A.ランジュ
リエによって刊行される。
1549. ○【イギリス】エドワードⅥ世が、印刷許可制を布き、ウォチェスターのジョン・
オスウェン Oswen ら各印刷師に期限付きの印刷権を与える。また、レイナー・ウォルフ
を、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の印刷物の王室印刷師に任命し、他の印刷師が
ウォルフの印刷物の複製・販売を禁じる。
1550(天文19)
1550. ○【トルコ】この頃、初のコーヒー店がオスマン朝の首都イスタンブールに登場す
る。シリアのアレッポ生まれのハケムとダマスクス生まれのシェムスの 2 人が、コーヒ
ーの飲用の習慣が広まっているのに目をつけ、開店する。市民がこぞって店につめかけ、
市民の社交場、情報の交換の場となる。
1550. ○【ヨーロッパ】価格騰貴がヨーロッパ経済を襲う。
1550. ○【ヨーロッパ】この頃、トマトが原産地の中南米からヨーロッパに入る。媚薬と
されて、禁欲を信条とするピューリタンに嫌われる。特にイギリスでは「愛のリンゴ」
- 156 -
と呼ばれて嫌われる。
1550. ○【フランス】この頃、青年貴族たちの間で「股袋」をタイツに付け股間を飾るこ
とが大流行する。男の大切なものを誇示するためで、中身は空洞であった。
1550.○【フランス】この頃、絶世の美女の条件は、白いもの 3 つ(肌、歯、手)、バラ
色のもの 3 つ(唇、頬、爪)
、しなやかなもの 3 つ(胴体、髪、手)とされる。
1550.○【スイス】フランスの印刷出版者ロベール・エチエンヌⅠ世 Robert I Estienne(47 )
が、宗教改革弾圧の激化によって、カルバン指導下のジュネーブへ亡命する。[以後、
ジュネーブで印刷出版をおこなう 。1551 年、長子,大アンリ 2 世 HenriII Estienne(120 ?)
が、イタリアその他に遊学の後,父の跡を追いジュネーブに定住して家業を継ぐ。1552
年、エチエンヌⅠ世は風刺文『パリ大学神学者の図書検閲を笑う』
、 1557 年『フランス
文法』)を著す。]
1550.○【イタリア 】ミラノの医学者ジロラモ・カルダーノ Girolamo(Geronimo )Cardano(49 )
が、
『根本的なこと De subtilitate』を著し、カメラ・オブスキュラの穴に両凸面レンズを
めると、より鮮明な明るい像が得られると解説する。これまでのカメラ・オブスキュラは
レンズなしの、いわゆる「ピンホールカメラ」であったが、ここにレンズの役割が明示
される。
[以後、ピンホールの代わりに凸レンズが用いられたカメラ・オブスキュラが、17
世紀から 19 世紀にかけての写真術発明時まで、画家のスケッチ用具として使用される。]
1550. ○【イギリス】清教徒革命により成立した議会が、迷信深い図書の破壊を命じる立
法措置をとる。不穏文書についての情報を届け出た者に賞金を出す。
1550. ○【アイルランド】ダブリンで印刷が初めて行われる。
1550. ○【
】英訳の旧約新約両方のコンコーダンスが刊行される。
1551(天文20)
1551.○【日本】スペインの宣教師ザビエル Francisco de Xavier(45)が、山口の領主大内
義隆(よしたか)に布教の許可を願い出る。このとき土産に持ち込んだいくつかの機械時
計を献上する。[以後、これが日本に渡来した最初の機械時計とされるが、この時計は焼
失して現存しない。またこれらの時計は「定時法」のものであるが、日本は日の出・日
の入を基準とする「不定時法」の時代で、この頃の日本では実用にならない。1873 年に
時刻法の改正で、日本も定時法になり、西洋式の機械時計が実用になる。]
1551.○【フランス】アンリ 2 世が、
「シャトーブリアン勅令」によって,プロテスタン
トに対する弾圧を指示する 。[以後、思想弾圧が強化され、書籍商・印刷業者などが次
々にジュネーブに亡命する。
]
1551.○【スイス】博物学者ゲスナー Konrad ( Conrad) von Gesner(35)が、アドリア海沿
岸、アルプスなどを探検、標本収集につとめ、
『植物学大全(植物大鑑)( Operabotanica) 』
第 1 巻を刊行する。みずから描いた多数の図を載せて、花と果実の精確な描写をもとに
植物の類縁関係が探られている。また、大著『動物誌(Historia animalium)』第 1 巻も刊
行する。これは、この頃知られているすべての事項を網羅的に叙述しようとする一方、
観察事実を重視する立場で動物の外部体制、所在、習性、解剖学的特徴を記述し、サイ
の図をデューラーが描くなど一流の画家の手になる写実的な図とともにまとめられる。
[1571 年 、
『植物学大全』全 2 巻がまとまる。自ら描いた図は 1500 にも及ぶ。K.von リン
- 157 -
ネに影響を与える。1587 年 、
『動物誌』全 5 巻がまとまる。4500 ページにわたり動物名
を、アルファベット順を原則に配列している。]
1551.○【スイス】フランス人の印刷業・出版業者ロベール・エティエンヌⅠ世 Robert
Estienn (48 )が、ジュネーブでギリシア語『新約聖書』の第 4 版に初めて章節の区分を付
けて印刷する。昨年、パリからリヨンへ亡命の途次に思いつき、実行する。[以後、この
区分が広まり、現在に至るまで聖書の章節は彼が始めた区分が踏襲される。]
1552(天文21)
1552. ○【ユーゴスラビア】ベオグラードで最初の印刷工房が開設される。
1552. ○【トルコ】この頃、シリアのアレッポ出身のハケムとダマスクス出身のシェムス
が、オスマン朝の首都イスタンブールで最初のコーヒー店を開く。市民はこぞってこの
店につめかけ、市民生活の社交場、情報交換の場となる。この国際都市を訪れるヨーロ
ッパ人にもコーヒーの飲用を伝える。
1553(天文22)
1553. ○【フランス】ジャン・ド・トゥルヌが、ベルナール・サロモンのカットを添えたク
ロード・バラダン『四行詩付き絵入り聖書』をリヨンで出版する 。
[1557 年、オウィディ
ウスのプロテスタンティスムの布教書『変身物語』を出版。両書とも大成功を収める。
以後、サロモンのカットは、タピスリー・絹織物・七宝細工・陶器・木工細工などに着
想を提供し、直接に、あるいは複製版画を通じて間接的に、多くの絵画にも影響を及ぼ
す。
『変身物語』のページ飾りは、レース編みのパターン・ブックにも使われる 。
](『書
物の出現』)
1553.○【スイス】スペインの医者・自由思想家ミシェル・セルベトゥス(セルヴェ)Michael
Servetus(スペイン名ミゲル・セルベト Miguel Serveto)( 42)が、異端審問を避けてカルバ
ンのいるジュネーブに行き、最後の著『キリスト教の回復』を書いたが逮捕され,ジュ
ネーブで裁判を経て焚刑に処せられる。信教の自由の論議を起こす一つの機会となる。
1554(天文23)
1554.○【ドイツ】フランドル(のち、ベルギー)生まれの地図製作者メルカトル Gerardus
Mercator (42)(ゲルハルト・クレメル)が、15 葉からなるヨーロッパ図をデュースブルク
で出版する。
1554. ○【イギリス】ロンドンに証券取引所が設立される。
1555(弘治1)
1555. 5. 4【フランス】医師・占星術師ノストラダムス Nostradamus(52 )が、予言集を刊
行する。予言は四行詩に表わされ、16 世紀中葉から紀元 3797 年にやってくるという世
界の終末に至るまでの出来事が、あいまいな表現で記述されている 。[1559 年、
『諸世紀』
に「老いたライオンが若いライオンに負かされ、むごい死に方をする」と書かれている
とおり、アンリⅡ世が死亡、一気に話題となる。ノストラダムスの名声はますます高ま
る。1560 年、フランス王シャルル 9 世の侍医に任命される。晩年に多くの人が面会に来
- 158 -
る。フランス女王カトリーヌ・ド・メディシスも、夫のアンリ 2 世や子供たちの星占い用
の天宮図の作成を依頼する。1566 年、南フランスのサロン・ド・プロバンスで死去。1568
年、
〈1999 年の 7 の月、空から恐怖の大王が来るだろう〉という文句を含んだ『諸世紀』
が刊行される。2003 年、ノストラダムスの誕生 500 年祭が、南フランスのサロン・ド・プ
ロバンスのノストラダムス記念館で行われる。]
1555. ○【オランダ】アムステルダム市政府が、手相読み、占い師、占星術師など、将来
の予言をしたり過去の秘密を暴くことができると言い張る者を禁じる布告を出す。違反
者には罰金 6 フローリンを課す。
1555.○【ベルギー】フランス生まれの製本業プランタン Christophe Plantin (オランダ名プ
ランテイン Christoffel Plantijn)(35 ?)が、アントウェルペン(アントワープ、アンベルス)
で印刷業を開く。イタリア語とフランス語を並列したジョヴァンニ・ブルートの著作を印
刷・出版する。[以後、彼の名声はヨーロッパ中に広まる。1583 年ライデン大学の印刷
師となった以外は、1589 年に没するまで同地で活動。最盛期に 20 台近くのプレス式印
刷機を備えて、ヨーロッパ最大の規模を誇り、神学、典礼、科学、文学、語学と多様な
分野にわたって出版し、出版点数 1500 点余に及ぶ。1569 ∼ 73 年、スペイン王フェリペ
Ⅱ世の後援のもとに『王の聖書 Biblia Regia』の名で知られる 8 巻本の多国語聖書(ヘブ
ライ語、ギリシア語、ラテン語など)を出版する。1876 年、アントワープの印刷・出版
所が市に買い上げられ、プランタンと、その女婿で後を継いだモレトゥス J.Moretus の名
を冠した市立の博物館となる。]
1555.○【スイス】博物学者ゲスナー Conrad von Gesner (39)が、20 以上もの異なる言語
社会に属する臣下と話ができたというポントス王国の王の名を冠して、22 の言語に翻訳
された主祷文を収めた『ミトリダテース(Mithridates )』をチューリヒで刊行する。
1555. ○【バチカン】法王パウロⅣ世が、システィナ聖堂のミケランジェロ作「最後の審
判」が猥褻であるとして、取りはずしを命令する。周囲の反対に会い、結局、絵の中の
すべての裸像に服を着せることで妥結する。この作業を行ったミケランジェロの弟子ダ
ニエレ・ダ・ヴォルテーラは、のちに〈罪作り〉と呼ばれる。
1556(弘治2)
1556.○【インド】イギリス人の印刷工がイギリスの武装商船団に乗ってゴア Goa に渡来
し、アジアで初めて印刷を始める。[1591 年、アジアで 2 番目に日本の長崎で印刷が行
われる。1674 年、ボンベイで印刷が始まる。1733 年、コロンボ。1772 年、マドラス。]
1556.○【イギリス】ロンドンに書籍業者組織(Stationers' Company)が結成され、97 人の
業者が参加する。印刷出版統制と出版権保護に乗り出す。(『書物の出現』では 1557 年)
1556. ○【ブラジル】フランスの地理学者・旅行家アンドレ・テベが、ブラジル探検に参
加する 。
[以後、珍しい鳥に関すること、捕虜を殺し調理して食べる儀式について、新
しい情報を持ち帰る。この儀式の絵が、地図の中で南アメリカ南部を「食人風習の地」
として装飾に好んで使用される。
]
1557(弘治3)
1557.○【イギリス】出版印刷業組合が、国王から特許( privilege )(許可)を得て独占権復
- 159 -
活が認められ、印刷業者の人数も制限する。
1558(永禄1)
1558.○【ドイツ】イエナ大学(正式名称フリードリヒ・シラー大学( Friedrich-Schiller
Universit ■ t Jena))が発足する。1548 年に設立されたアカデミーが、ドイツ皇帝から大
学としての認可を得て、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒにより設立される 。[以後 、
18 世紀末から 19 世紀初頭にかけてもっとも栄え、哲学部を中心にシラー、W.フンボル
ト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ゲーテらが教授陣として活躍する。]
1558.○【ドイツ】ハンブルクに証券取引所( bourse)が設立される。
1558.○【イタリア】ジョバンニ・デラ・ポルタ( 20)が 、カメラオブスキュラについて 、
〈こ
の箱よれば絵心のない人でも鉛筆かペンを用いて対象がどんなものでもスケッチするこ
とができる〉と述べる。
1558.○【ポーランド】郵便事業が始められる。[1958 年、ポーランド郵便事業 400 年展
が催される。
]
1559(永禄2)
1559.○【ドイツ】 P.スカーリヒが 、
「Encyclopedia」の語を表題に初めて使った百科事典
を出版する。体系や内容は粗雑で、知識の体系化はなされていない。
1559. ○【バチカン】法王パウロⅣ世が、「禁書目録」の編纂を開始する。アントーニオ・
ブラードが印刷し、パウロⅣ世が出版する。[以後、あまりの厳しさに、年内に「禁書目
録の緩和」が教令により出る。1966 年、廃止される。廃止までに 4000 以上の書目が掲
げられ、その中には、バルザック、デュマ、スタンダール、アルベルト・モラヴィアのす
べての著書が含まれる。]
1560(永禄3)
1560. ○【ヨーロッパ】梅毒が、史上初めて大流行する。ロシア人は「ポーランド病」と
呼び、ポーランド人は「ドイツ病」と名づける。
1560. ○【デンマーク】クヌドストラップのヘルシングボル城主の長男でコペンハーゲン
大学に学んでいるティコ・ブラーエ Tycho Brahe (14)が、部分日食を観察する。[1563 年 、
木星と土星との会合、1566 年、皆既月食を観察する。1572 年カシオペヤ座超新星(ティ
コの星)を発見する。]
1560. ○【フランス】王令により、印刷業者や書籍商が、事前に大司教あるいは司教の検
査を受けない限り、万用歴や占いの書の印刷・出版を一切禁じる。万用歴に見られる政
治的預言の一掃を目的とする。
1560.○【フランス】画家ジャン・クーザン(父)の『遠近法論』が、パリのジャン・ル=ロ
ワイエから出版される。
1560. ○【スイス】最初の絵入りの印刷聖書「ジュネーブ聖書」がジュネーブで刊行され
る。
1560. ○【スイス】ジュネーブで、最初の出版統制令が出される。
1560. ○【イタリア】フィレンツェに、メディチ家のコジモⅠ世がトスカナ大公国の主要
- 160 -
な 13 の政庁を統合する庁舎をバザーリに命じて着工させる。[1580 年、建築家・彫刻家
のブオンタレンティらが完成させる。のちのウフィツィ美術館( Galleria degli Uffizi)にな
る。]
1560.○【イタリア】解剖学者ガブリエロ・ファロピウス(ファロピオ)Gabriel Fallopius ;
Gabriello Fallopio( 37 )が、リネンで陰茎を覆って梅毒を防ぐことを考案する。[以後、こ
れによって、ファロビオがコンドームの発明者とされる。]
1560. ○【イギリス】イギリス最初の料理の本が出版される。
1561(永禄4)
1561.○【イタリア】解剖学者ファロピウス(ファロピオ)( 38)が、『Observationeanatomicae 』
を著す。卵巣、円靱帯輸卵管等発見し、論文に記載する。[以後、彼は、膣、胎盤に名を
つける。また、子供の頃にペニスをマッサージして大きくすることを勧める。]
1561.○【バチカン】P. マヌツィオが、教皇ピウスⅣ世の依頼によりローマに移り、ロー
マ印刷所を設立する。
1561.○【イギリス】ニュースを歌謡詞にした印刷紙『News out of Kent』が出る。
1563(永禄6)
1563.○【フランス】シャルルⅨ世( 13 )が、母后カトリーヌ・ド・メディシスの摂政のもと,
出版許可権は国王にある旨を定める。
1563.○【イタリア】手書き新聞『Gazetta 』が、ヴェニスで発行される。
1563.○【イタリア】トレント( Trento)(ドイツ名トリエント(Trient))で開かれた第 19 回
公会議の第 3 会期が終わり、多年の懸案であった改革上の諸問題を解決し、反宗教改革
の推進に大きな貢献をする。公会議で採択された教令は、(1)第二聖典を含む聖書正典と
聖伝との権威の承認、( 2)恩寵と自由意志の協働の必要性、(3 )七つの秘蹟の確認、(4 )ブ
ルガーター訳聖書の権威の承認、( 5)ミサにおけるラテン語の使用、(6)ミサはキリスト
の十字架上の犠牲の繰り返しを意味すること、( 7)平信徒には聖体授与に際しパンのみを
与えること、(8 )聖体における実体変化説の確認、(9 )司祭の独身制の遵守、などであり 、
これらはすべて宗教改革派の主張を全面的に否定するものである。これにより、中世に
おける教義や典礼の多様性は切り捨てられ、統一的教会を目ざす近代的カトリック主義
が樹立される。[以後、カトリック教会の教会区の司祭は、出生、婚姻、死亡の記録簿を
つけるように定められ、教会の状態、信者会の数、平信徒の道徳性などに関する厖大な
記録が集められるようになる。また、異端へのますます高まる恐怖から「魂」の人口調
査と呼ばれる調査が定期的に実施され、数的な計算力の発達と統計学の興隆に寄与する。
]
1564(永禄7)
1564. 1. 1 【フランス】国王シャルルⅨ世(14 )が、ルーション王令発し、これまで復活祭
の前日だった 1 年の始まりを、キリスト割礼の祝日にあたる 1 月 1 日に変更する。古代
ローマでは、カエサルのユリウス歴にしたがって 1 月 1 日が年の始めだった。12 世紀に
教会が復活祭の前日を年始と定め、14 世紀になると国王文書の日付にもこれが採用され
ることになった。ところが、復活祭は春分後の最初の満月の次の日曜日にあたり、年に
- 161 -
よって年始の日付が移動し、 1 年の日数も一定でなく不便をきたしていた。この改暦に
対して、高等法院は反対する。また、新年の祭りの最後の日である 4 月 1 日に贈り物を
しあう習わしがあり、これを懐かしむ人々の反対の声があがる。[以後、これに反発した
人々が 4 月 1 日を「嘘の新年」として位置づけ、馬鹿騒ぎをするようになる 。
「エイプリ
ルフール(エープリルフール)」の始まりとされる。しかし、1 月 1 日の年始はしだいに
定着する。1582 年、グレゴリオ歴の採用で新しい暦法が成立する。しかし、フランス以
外の国では年始の変更は遅れる。西洋では、4 月 1 日を「四月馬鹿の日(April foolDay) 」
、
または「万愚節(All fools' Day)」とよんで、この日の午前中は、社会の安寧秩序を乱す
ようなうそでない限り、他人を担いでむだ足を踏ませたり、いたずらをしたりしてもよ
いとされる風習が定着する。また、だまされた人を「四月馬鹿( April fool)」と呼び、し
だいに世界的に広がっていく。ただし、エイプリルフールの起源には諸説がなされて、
定説はない。]
1564.○【ベルギー】オルテリウス Abraham Ortelius(37)が、初めて 8 枚からなる世界大
地図を完成する。[1565 年に、2 枚からなるエジプトの地図、1567 年にはアジアの地図
を出版する。1570 年 5 月 、地図帳『世界の舞台(Theatrum Orbis Terrarum ) 』を出版する。]
1564.○【ドイツ 】フランドル(のち、ベルギー)生まれのメルカトル Gerardus Mercator( 52)
が、クレーヴェ侯お抱え地理学者となり、縦 1.32m、横 1.98m の 18 葉からなる世界地図
を完成する。両端に近くなるとゆがむ欠点はあるが、従来の地図に比べはるかに正確で、
方位が正しく、羅針盤航海に最適であるため大評判となる。[以後、世界地図帳の編纂
をすすめる。1569 年、正角円筒図法の世界地図を作成し出版する。
]
1564.○【ドイツ】最初の『大市展示書籍目録』が、アウクスブルクの G.ヴィラーにより
印刷される。
1564. ○【バチカン】トレント(トリエント)公会議のとき特別委員会が置かれ 、
『禁書目
録』(通称「インデックス(Index )」)の編纂に着手する。各国語訳の聖書を禁書とし、エ
ラスムスやルターの著作も目録に掲げる。[1571 年、整備された禁書目録が作成され、P.
マヌツィオが印刷し、公刊される。エラスムスやルターの著作は、カトリック権力の圏
外でプロテスタントたちにより印刷され、禁書目録に載ることがかえって宣伝となり、
ベストセラーになる。『禁書目録』は、主にプロテスタントの地域において、そこに掲
載された書物を無料で宣伝することになる。]
1564. ○【イギリス】良質の黒鉛(グラファイト)が、カンバーランド地方ボローデール渓
谷で発見される。[翌年、これを棒状に切断して糸でまいたり木ではさんで、筆記具に応
用される。]
1565(永禄8)
1565. ○【ドイツ】ケルンのナザレ修道院で大エロチック騒動が発生する。医師デ・ワイ
ヤーが調査に当たったところ、修道女たちは、仰向けになり、目をつむり、腹をエロチ
ックに突き出し、性器を突き上げていた。
1565. ○【イギリス】良質の黒鉛(グラファイト)を木片にはさんだものが筆記具に使用さ
れる。のちの鉛筆の原型となる。[以後、ボローデールの黒鉛を使用した鉛筆は好評を博
す。とくに,ルネサンスの画家たちの間に浸透していく。政府はボローデール鉱坑を保
- 162 -
護管理するが,のちにはほとんど採掘されてしまう 。1761 年 、ドイツでファーバー Kaspar
Faber が、黒鉛の粉末と硫黄を混合する方法で鉛筆の製造を始める。]
1566(永禄9)
1566.○【中国】チャイ・ホン・チュウ・ジェン(女の園の主)が、1556 年から古代の房中
術を集成して、性愛研究書『素女妙論』をまとめる。黄帝と美女の対話という形式で、
性生活について語られる。[以後 、オランダのファン・フーリックが『古代中国の性生活』
として訳す。1988 年、松平いを子による重訳でせりか書房から刊行される。]
1566. ○【スペイン】マドリッドで、印刷業務が開始される。
1567(永禄10)
1567.○【フランス】翻訳家でシャルルⅨ世の宮中司祭アミヨ Jacques Amyot( 54)が、ギ
リシアのプルタルコスの『英雄伝( Bioi parall ^ loi) 』を 1559 年にフランス語に訳した『対
比列伝』の決定版が、パリの M. ド・ヴァスコザンにより刊行される。[以後、モンテーニ
ュなどに多大の影響を与える。1579 年、ギリスでアミヨの仏訳をもとに、ノース Thomas
North が英訳を完成させる。シェークスピアはこれを大いに利用して、古代を舞台にし
た『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ 』、
『コリオレーナス』などの
戯曲を作り上げる。
]
1567.○【イタリア】ベネチアの元老院が、画家ティツィアーノ Tiziano Vecellio (1482 頃
あるいは 88/90 ∼ 1576)の作品に著作権を与える。彼の作品の複製を無断の模倣品から保
護することを目的としたもので、芸術家に与えられた最初の著作権となる。
1568(永禄11)
1568.○【ドイツ】ザックス Hans Sachs(72)の『身分尽し』が、スイスの画家アマン Jost
Amman ( 29)の挿絵入りで、フランクフルトの印刷・出版業者フォイアーアーベント
Sigmund Feuerabend (40)により刊行される。
1568.○【フランス】ノストラダムスの死後 2 年目、
〈1999 年の 7 の月、空から恐怖の大
王が来るだろう〉(訳文は『ノストラダムス大予言原典(諸世紀)』(たま出版)による)と
書かれたノストラダムスの予言集『諸世紀』が刊行される。[以後、この版はすべてがノ
ストラダムスが書いたものか疑問がもたれる。]
1568.○【イタリア】ベネチアの貴族ダニエッロ・バルバーロ(バルバロ)Daniel Barbaro( 40 )
が、著書『遠近法の実際』の中で、小さい絞りの効果を発表し、鮮明な映像を得る方法
として絞りの採用を提案する。[また、バルバーロやカルダーノは、両凸レンズを用い
て明るい映像を得る方法を述べている。]
1569(永禄12)
1569.○【ドイツ】1552 年に家族とともにデュースブルクに転居してきたフランドル(の
ち、ベルギー)の地図学者・数学者メルカトル Gerardus Mercator (本名ゲルハルト・クレ
メル)(57)が、自ら考案した航海用地図投影法(正角円筒図法)を導入した世界地図を作成
し、当地で出版する。地図上の 2 点をむすぶ直線が常に一定の方位をしめすので、羅針
- 163 -
盤航法にきわめて好都合となる 。
[のち、「メルカトル図法」と呼ばれ、永く航海図とし
て使用される。しかし、この図法は、メルカトルが生まれる前年の 1511 年に、ドイツの
エッラープがすでに地図の作成に用いていることがのちに証明される。1585 年、メルカ
トルは「地図帳」を指すのに初めて「アトラス(atlas )」という言葉をはじめて使用し、
その表紙絵に両肩に地球をにせたアトラスの絵を掲げる。1594 年、死去。1595 年、息子
のレモルトが 107 葉の地図を収めた地図帳『アトラス( Atlas)』を出版する。これらの業
績により、メルカトルは「近代地図学の祖」と呼ばれるようになる。]
1569.○【オランダ】シモン・ステビンが、2 本マストの帆走車をつくり、28 人を乗せて
海岸の固い砂上を時速 24km で走行する。しかし陸上ではジグザグの帆走はできないの
で、普及には至らない。
1569. ○【ベルギー】アントウェルペン(アントワープ、アンベルス)の印刷業者プランタ
ン Christophe Plantin(オランダ名プランテイン Christoffel Plantijn)( 49 ?)が、スペイン王
フェリペ(フィリペ)Ⅱ世の委嘱と部分的な経済的支援のもとに 、
多国語聖書(ヘブライ語、
ギリシア語、ラテン語 、カルデア語、シリア語の本文を対面ページに欄を区切って印刷 )
の印刷に着手する。[ 1573 年、
『王の聖書( Biblia Regia)』の名で知られる 8 巻本が完成す
る。1200 セットが紙に印刷され、フェリペⅡ世用に 13 セットの羊皮紙の版が製作され
る。]
1569. ○【フランス】この頃、木版に代わって銅版の使用が広まる。
1570(元亀1)
1570. 5.20【ベルギー】フランドルの地図製作者オルテリウス Abraham Ortelius(43)が、
多くの地図を収集し 、その表現を統一して、70 枚の地図を 53 ページの地図帳に編集し、
『世界の舞台(Theatrum Orbis Terrarum )』と題して出版する。ヨーロッパ最初の完備した
近代地図帳と評価される。[以後、需要が多く、2 版を重ねる。1595 年版には日本図が加
えられ、単独の日本地図としてはヨーロッパで最初のものとなる。](C.クーマン、長谷
川孝治訳『近代地図帳の誕生』臨川選書 11、1997 )
1570.10. −【フランス】ムーラン法令が発布され、書籍販売を規制する。書肆が官憲に無
断で到来した書籍の荷を開梱したり行商することを禁止し、販売書目録の作成を義務付
ける。また、印刷物に著者と印刷者の名を明示させる。[1571 年 4 月、同様な法令が発
布され、合わせて「ムーラン法令」と呼ばれる。この法令および関連法令により、ロム
が焚刑に処せられる。1590 年、ブールゴワンが四裂刑に処せられる。]
1570. ○【日本】豪族長崎甚左衛門が、領主大村純忠(すみただ)の命を受けて、イエズス
会に長崎開港を約束する。[ 1571 年、ポルトガル船が入港、長崎 6 町の地割を行う。]
1570. ○【フランス】この頃、パリとリヨンで印刷工の争議が再び起こる。
1570. ○【イタリア】この頃、フィレンツェの文化運動を推進しようとする集団「カメラ
ータ」が、音楽は詩の表現を高めるためにあるのだという考えを、オルフェ伝説など古
代ギリシア悲劇を模範として推し進めるため 、
「カメラータ・フィオレンティーナ」とい
うアカデミーをつくる。「フィレンツェ楽派」が誕生する。[以後、彼らは伴奏付きモノ
ディーによる表現様式を開発する。1600 年、その成果として現存する最古のオペラ『エ
ウリディーチェ』(リヌッチーニ台本、ヤコボ・ペーリ作曲)がつくられる。しかし、フィ
- 164 -
レンツェ楽派の作品はイタリア音楽史を通じてもっともことばに接近しており、忠実に
歌詞の抑揚に従っているため、旋律らしきものはどこにも存在していない。]
1570. ○【イタリア】この頃、印刷業者は、錫で作っ活字が長持ちしないために、新たな
書物づくりに着手する度に、新しい活字を注文しなければならないという悩みを克服で
きない。例えば、出版業者アルドゥス・マヌティウス(アルド・マヌッチ)の息子パオロ・マ
ヌツィオは、4 ヵ月ほどでようやく書物が半分できあがった頃に活字が摩滅して駄目に
なってしまう、と書く。(『書物の出現』)
1571(元亀2)
1571.○【日本】長崎開港。最初のポルトガル船が入港する。長崎 6 町の地割を行い、大
村、島原、平戸、横瀬浦、外浦、文知が町となる[以後、マカオからの大船が定期的に入
港する。]
1571. ○【バチカン 】整備された『禁書目録』(通称 「インデックス 」)が公刊される 。[以
後、この禁止は読書だけでなく、著者、出版、販売、翻訳、蔵書にも及び、重大な違反
は破門の罰を受ける。1897 年、教王レオⅩⅢ世の指示で改訂され、約 1000 点が排除さ
れ、規則も修正される。]
1572(元亀3)
1572. 8.24【フランス】サン・バルテルミーの日、早朝パリでカトリック教徒の一隊が、
ユグノー貴族らを襲い 200 人以上を虐殺する。[以後、虐殺はパリ市内に広がり、3 日間
にわたり無差別の殺戮が行われる。犠牲者は 3000 とも 5000 ともいわれる。虐殺はフラ
ンス各地にも及び、2 ヵ月間続く。新教徒が冊子を多数つくって檄を飛ばす。]
1572.○【デンマーク】ティコ・ブラーエ Tycho Brahe( 26)が、カシオペヤ座超新星(ティ
コの星)を発見する。[以後、その光度変化を継続観測しているうち、恒星は不変なもの
ではなく活動していることに感動する。1573 年、論文『新星』を著し、天文学者として
の名声を高める。1574 年、国王フリードリヒⅡ世の命でコペンハーゲン大学で講演し、
宇宙の壮美性、天文学の実用性、占星術の信頼性を強調する。]
1573(天正1)
1573. 7 . −【フランス】勅令でユグノーの自由を一時承認する。
1573.○【デンマーク】天文学者ティコ・ブラーエ Tycho Brahe(27)が、これまでの天体
運行表に重大な誤りを見つけ、この修正に着手する。[以後、恒星や惑星の観察を行い、
位置的に正確な運行表を作る。
]
1573.○【フランス】頻発する印刷工の争議に、王権が介入し、印刷機 1 基当たり徒弟数
を 2 人に制限し、賃金、見習期間、休暇などについて定める。
1573.○【フランス】職業作家ベルフォーレ Fran (c)ois de Belleforest( 43 )が、演説集『大
演説』を出版する。古代および近代の代表的な歴史家の著書から、演説の部分を抜粋し
て集めたもので、個々の演説の前に要約が付けられ、末尾に印象批評を加える。
1573. ○【ベルギー】アントウェルペン(アントワープ、アンベルス)の印刷業者プランタ
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ン Christophe Plantin(オランダ名プランテイン Christoffel Plantijn)( 53 ?)が、スペイン王
フェリペ(フィリペ)Ⅱ世の委嘱と部分的な経済的支援のもとに 、『王の聖書( Biblia
Regia )』の名で知られる多国語対訳聖書(ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、カルデア
語、シリア語の本文を対面ページに欄を区切って印刷)の 8 巻本を 1569 年から 4 年をか
けて完成させる。1200 セットが紙に印刷され、フェリペⅡ世用に 13 セットの羊皮紙の
版が製作される。この頃、プランタンの工房でも印刷工のストライキが発生する。
1575(天正3)
1575. ○【オランダ】オラニエ公ウィレムが、オランダ最初の大学であるライデン大学を
創設する。[ 1580 年、既設のイタリア諸都市やドイツのライプツィヒにあるような薬草
を栽培する薬草園を創設する。1587 年、薬草園は時代おくれと断じ、薬草栽培に限定し
ない世界初の「植物園」を設立する。歴代園長や園芸主任らの努力により、この植物園
に栽培される植物数は、1685 年の 3000 から、1729 年には 8000 に増える。1633 年、天
文台を設置。1669 年、実験室を設置。他の分野でもグロティウス Hugo Grotius らの学者
を輩出する。ヨーロッパの学術中心になり、カルバン派神学、医学、東洋学などの分野
で業績をあげる。]
1575.○【イギリス】エリザベスⅠ世が、宮廷オルガン奏者トーマス・タリス Tallis とウィ
リアム・バード Byrd に 21 年間の楽譜用紙印刷販売の権利を与える。
1576(天正4)
1576.○【デンマーク】ティコ・ブラーエ Tycho Brahe(30)が、王室費の援助により本格的
な装置を備えたウラニボル(ウラニボリ)天文台を、ベーン(フェン)島に設立する。ティ
コの天文台建設の目的は、器械の大型化による測定値の精密化、観測の常務制による変
動の継続追究にある。ティコは、測角両脚器(脚長 1.6m )、方位四分儀(経緯儀原型)、壁
面四分儀(半径 1m、子午儀原型)などを考案設置して、この頃最高水準の豪壮精微を誇
る天文台を主宰する。[以後、月の運動の不等(中心差、出差、二均差、年差)、月の視半
径、黄道傾斜、大気差の影響、彗星の視差などの数値を更新する。1596 年頃、プラハに
住んでいて、ドイツの天文学者ケプラーと文通を始める。1609 年、ケプラーが、ブラー
エの観測結果に基づき、惑星の運動についての第 1 、第 2 法則を発見し、
『新天文学』を
著す。]
1576. ○【ドイツ】ヘルムシュテット大学が設立される。
1576.○【フランス】J.ボダン『国家論』が、パリのデュ=ピュイⅠ世により刊行される。
1577(天正5)
1577.○【イギリス】ステーショナーズ社( Stationers' Co. )が、エリザベスⅠ世に一貫性を
欠いた印刷権付与に苦情を申し立てる。
1577.○【デンマーク】天文学者ティコ・ブラーエ Tycho Brahe(31)が、これまで大気現
象だと考えられていた大彗星の出現を、天体であることを証明する。
1578(天正6)
- 166 -
1578. ○【ポーランド】ワルシャワで最初の印刷工房が開設される。
1579(天正7)
1579.○【フランス】国王アンリⅢ世 Henri III ( 28)が、万用歴の作成者が世間のことや国
家の事柄について予言を行うことを禁止する。万用歴の書き手たちは、天候や三面記事
的な出来事に関する月並みな話題しか扱えなくなる。
1580(天正8)
1580.○【フランス】モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne( 47 )が、1572 年頃から書
きとめていた感想・論考を 2 巻 94 章の『エセー(随想録)』として、ボルドーの S. ミラン
ジュにより刊行される 。
[以後、このころ起こった腎臓結石の治療のため、翌年へかけ
て約 1 年半にわたり 4 人の若い貴族と一緒に馬で東フランスのプロンビエールの温泉か
ら,スイスのチューリッヒ、南ドイツを通って、イタリアのルッカ近郊の温泉地をめぐ
り旅する。またローマの教皇庁をも訪れる。この時の旅日記が詳細に生き生きとした筆
致で書かれ、没後の 1774 年、
『イタリア旅行記』として出版される。旅行の費用につい
ても細々と書かれ 、〈もしこんなに金がかからなければ、旅行はもっと快適になるだろ
うに 。旅費が高くて私の財力を超える!〉と書き留める。1588 年 6 月 、3 巻 107 章の『随
想録』第 4 版を刊行する。1592 年 9 月 13 日、自邸で没する 。
]
1580. ○【イタリア】フィレンツェに、メディチ家のコジモⅠ世が着工させたトスカナ大
公国の主要な 13 の政庁を統合する 3 階建ての庁舎が完成する。アルノ川を越えてパラッ
ツォ・ピッティに至る歩廊も加えて、建築家・彫刻家のブオンタレンティ Bernardo
Buontalenti(44)らが完成させる。[ 1581 年、フランチェスコⅠ世は、それまでにメディチ
家が収集した美術品を展示するために、最上階を美術館にする。のちにウフィツィ美術
館( Galleria degli Uffizi)になる。]
1581(天正9)
1581.○【日本】イエズス会東インド巡察師バリニャーニ(バリニャーノ)(43)が、長崎に
セミナリオ、コレジオ、修練所をつくる。
1581.○【中国】湖州の凌 、閔の両家が、套印本(多色刷印刷本)の刊行を始める。
[以後、
盛んに刊行する。1644 年までに 144 種を刊行する。
]
1581. ○【フランス】印刷物に検閲税が設けられる。
1581.○【イタリア】T.タッソー『解放されたイエルサレム』が、パルマの E.ヴィオット
により刊行される。
1581.○【スペイン】国王フェリペ二世の御用時計師ハンス・デ・エバロ Hans de Evalo
が、マドリードで置き時計をつくる。[以後、これが徳川家康に献上され、家康に愛用さ
れる 。静岡県の久能山(くのうざん)東照宮博物館に収蔵され、重要文化財に指定される。]
1582(天正10)
1582. 1.28 【日本】イエズス会東インド巡察師バリニャーニ( 44)の勧めにより、大友宗麟
・大村純忠・有馬晴信の 3 大名の名代(みょうだい)として、ローマ教王に謁見するため
- 167 -
の使節の少年一行 9 人が、バリニャーニとともにポルトガル船に乗って長崎港を出発す
る。正使は伊東マンショ( 13 )、千々石(ちぢわ)ミゲル(13)、副使は原マルチノ(15?)、中
浦ジュリアン(13)。バリニャーニがこの計画を熱心に推進した理由は、第 1 に日本を去
る前に、大名の使節をローマ教王の足下にひざまづかせることによって、自分の 30 年に
わたる布教活動の成果を教王に誇示すること、第 2 に、海外に出たことのない日本人に
ヨーロッパ諸国の繁栄と文化、ローマ教王の威厳とローマ教会の大きさを目の当たりに
させて、キリスト教に対する誤解や疑惑を一掃させることにある。また、随員の一部に 、
ポルトガルで印刷技術を習得をさせ、日本で印刷を行うことも計画する。[1585.2.22 ロ
ーマで教王グレゴリウスⅩⅢ世に謁見し、盛大な歓迎を受ける。以後、イタリア、スペ
イン、ポルトガルを歴訪し盛んな歓迎を受ける。美少年の中浦ジュリアンは、ヴェネツ
ィアで画家ティントレットにモデルになることを所望されるが、街角で出逢った妖婦人
に誘惑されて、梅毒をうつされる。ティントレットは、顔一面に暗褐色の粒々がひろが
り、ふた目と見られぬ醜悪な相を呈しているのに絶望する。(柴田錬三郎『美しい日本
の少年』)日本では梅毒は「ポルトガル病」と呼ばれる。1590 年、バリニャーニらとと
もに、一行が帰国する。同時に印刷技術習得した日本人(氏名不詳)とともに、印刷機械
がもたらされる。]
1582.10.15 【バチカン】教皇グレゴリウス(グレゴリオ)ⅩⅢ世( 80)が、ユリウス・カエサ
ルの決めたユリウス暦の矛盾を調整し、グレゴリオ歴に改め、この日から実施する。5
年前から改暦委員会を組織し、新しい暦の作製をすすめてきたが、この日、ユリウス歴
で 10 月 5 日にあたるが、これを 10 月 15 日とした。ユリウス歴では、1 年は 365.25 年と
なるが、実際の 1 太陽年は 365.2422 日であり、その差は 1 年で約 11 分、128 年でほぼ 1
日の食い違いが生じる。グレゴリオ歴でも、4 で割り切れる年を閏年するが、100 で割り
切れる年についてのみは 400 で割り切れる年だけを閏年とした。これによって、1 年の
平均日数は 365.2425 日となり、太陽年に近くなる。この改暦でこの年は 10 日間が消滅
した。[以後、イタリア、スペインなどが採用するが、カトリックに反発するイギリス、
ロシアなどは採用しない。国ごとに日付が異なるという不都合が永く続くが、徐々にヨ
ーロッパの各国が新暦に移行する。1751 年、新教国イギリスが、11 日のずれを解消する
ために初めて新暦への移行を決定する。グレゴリオ歴がヨーロッパ起源の最初の“国際
標準”となる。1873 年、日本で施行される。のち、10 月 15 日を「グレゴリオ暦制定記
念日」とされる。]
1583(天正11)
1583.○【フランス】政府が、一般市民の書籍の装幀に 4 個以上のダイアモンドの使用を
禁止する。
1583.○【イタリア】この頃、ガリレイが、振子の等時性を発見する。[ 1657 年、ホイヘ
ンスが最初の振子時計を完成させる。]
1583.○【イギリス】昨年「タウン・カレッジ」としてスコットランド王ジェームズ 6 世
の王許を得たエジンバラ大学(University of Edinburgh )が開設される。
[1584 年、図書館
が設置される。これまで横に寝かせて置かれた図書が、初めて棚のついた書架に立てて
置かれ、体系的な図書目録が作られる。]
- 168 -
1583. ○【ペルー】南米大陸で初めて印刷が行われる。
1584(天正12)
1584.12.−【日本】イエズス会士フロイス( 52 )が、イエズス会総長宛の書簡で、(目下の
ところ日本イエズス会には次の二件が緊急時と存ぜられる。その一つは印刷機を備える
ことで、それは日本に来朝した神父・神弟が各自勉強に必要な日本文典、辞書、カテキ
ズモ及びその他のものを転写せなばならぬことは余りにも過重にすぎ、筆写に生涯を空
費させないためである。印刷機はセミナリオにとってもまた大いに助けとなるであろう。
)
と記す。
1584. ○【イタリア】リアルト銀行が、都市国家ベネチア(ヴェネツィア)元老院令により
設立認可される。
[1587 年、開店。
]
1585(天正13)
1585.○【日本】豊臣秀吉(49 )が大阪城を築き、関白の地位につく。将兵慰安のため大坂
の島之内辺に色里を公認する。厳密な意味における公娼集娼を目的とした遊郭の始まり。
[以後、徳川氏がこの政策を継承して整備していく。慶長年間(1596 ∼ 1615)に道頓堀
へ移った後、17 世紀初頭の元和∼寛永初年に新町(しんまち。のち、西区新町 1 丁目付
近)へ移転して定着する。
]
1585.○【フランス】外交官 B.de ビジネルが、多表式暗号とその使用法などをも含めて
「ビジネル式暗号」を完成させる。[多表式暗号とは複数個の換字表を準備して,組立を
行う際に原文の途中で換字表を変えながら換字していく形式で、その最も代表的なもの
がビジネル式暗号である。もともとドイツの修道院長トリテミウス Trithemius が考案し
たものをイタリアの医師 G.B.ポーターが表を完成し,ビジネルが完全なものにする。1857
年、イギリスの提督 F.ボーフォートはビジネル表の内部の文字を逆順にした「逆ビジネ
ル表」を提案する。]
1585.○【スイス】リヨンの J.ド・トゥルヌⅡ世が、ジュネーブへ亡命する。
1585.○【イスラエル??】マリア・マグダレーヌ Mary Magdalene が、修道院の中を狂っ
たように走りまわり、庭の茨の中を転げまわったり、自分を鞭打ったり、他の修道女た
ちに自分を柱に縛りつけて溶けたローソクを投げさせたりした。記録上最初のマゾヒス
トとされる。
[1671 年、マリアは聖人となる。]
1586(天正14)
1586. ○【ヨーロッパ】この頃、イタリア語とフランス語が分岐し始める。(モリス・スウ
ォディッシュによる仮説。
)
1586. ○【フランス】クリストフ・プランタンが、多言語聖書『ポリグロット・バイブル』
をつくる。[以後、特権的な聖職者だけでなく、多くの人々が聖書を読むことが可能にな
る。]
1586.○【イギリス】星室庁が、印刷条令を定め、印刷出版の特許( privilege )(許可)制度
を基幹とする言論統制を行う。無断複製にみずからでは対処できないとみた出版者が、
その保護につき国王や行政機関に請願し、これが受けいれられ、出版者は特定の作品に
- 169 -
つき一定の期間、出版・販売をなす地位を与えられる。特許の申請があると,ただちに
特許が付与されるわけではなく,審査のうえ、〈有益なもの〉についてのみ特許の付与が
なされる。特許の制度は出版を規制ないし取り締まる機能をも果たすことになる。[1641
年、廃止。1643 年、議会が、出版に関する事前検閲令と出版文具組合の登録令を施行す
る。1662 年、特許検閲法を制定する。]
1586. ○【イギリス】オクスフォード大学が、大学内に印刷所を設ける。
1586. ○【イギリス】プロテスタントの聖職者や信者が現物あるいは資金を出して図書館
を設置する動きが現れ、最初の図書館がノリッジの町にできる 。
[以後、この形態の図
書館がイギリス各地に設置される 。
]
1587(天正15)
1587. 1.−【日本】フロイス( 55 )が、イエズス会総長宛の手紙で 、
〈印刷機がせつに欲し
い。印刷術をわきまえ、人にも教えられる人を希望する。あらゆる書物をヨーロッパか
ら取り寄せることは不可能である。費用がかかり過ぎその上大きな危険のために失われ
るものが多い。
〉と記す。
1587.[7.24]【日本】豊臣秀吉(51)が、キリシタン宣教師に国外退去を求める追放令を発
布する。
1587. ○【インド】日本人の天正遣欧使節団随員コンスタンチーノ・ドゥラードが、団員
原マルチノのラテン語による演説を、ゴヤで印刷する。[ 1592 年、コンスタンチーノ・ド
ゥラードらが、天草で切支丹本『伊曽保物語』などを印刷する。]
1587.○【イタリア】1584 年に設立認可されたリアルト銀行が、都市国家ベネチア(ヴェ
ネツィア)で開店する。都市国家が保証人となり 、預金の受け入れ 、為替手形の引き受け、
銀行口座間での債権の振り替えを行う。[以後、国家保証債権から多大の利益をあげる。
1609 年、ベネチア銀行に範をとり、アムステルダム振替銀行が設立される。1619 年、同
じくベネチアでも振替銀行のベネチア銀行が設立される。1797 年、フランス軍の侵攻に
より、業務停止する 。
]
1587.○【バチカン】バチカン印刷所が、B.バーザや A.マヌツィオⅡ世の協力で設立され
る。
1587.○【アメリカ】イギリス人のジョン・ホワイトが、1585 年以来 2 年間ヴァージニア
で、アメリカインディアンと新世界の植物と動物の絵を描く。
1588(天正16)
1588. 7.中【イギリス・スペイン】2 万 2000 の兵力を乗せた 130 隻のスペインの艦隊
(Armada)がラ・コルニャを出航、イギリスに接近する。この時、イギリス側は、丘から
丘へとのろしを上げて急を知らせる。まもなくイギリス艦隊が迎撃に出る。[以後、ドー
バー海峡で 9 日間砲火を交える。]〔「のろし」にあたる英語には「signal fire」
、
「signal
smoke」、
「beacon 」などがあり,ビーコンにはのろしをあげる場所としての丘、あるいは
そのための施設(塔)や見張台が設置された丘という意味もある。ウェールズのブレコン・
ビーコンズ( Brecon Beacons )(グウェント州)、エクスムアのダンケリー・ビーコン
(Dunkery Beacon )(サマセット州)など、ビーコンの語がついた地名がイギリス各地にあ
- 170 -
る。
〕
1588. ○【日本】刀狩り令、身分の固定、人売買禁止が一般化する。
1588. ○【日本】この頃、江戸城下に定まった遊女町はなく、軒を並べるのは三、四ヵ所
あるのみ。麹町八丁目、鎌倉河岸にそれぞれ十四、五軒、大橋の内柳町に二十余軒ある
だけ 。
(庄司勝富『洞房語園 』
)
1588. ○【ドイツ】ブラウンシュワイクの公爵ユリウスが、〈寝台馬車の旅はのらりくら
りで怠け者〉のようだとの理由から、そのような男らしくない乗り物の使用を禁止する。
壮健者は旅行馬車で揺られながらの旅よりも、相変わらず馬に乗るほうを選ぶ。
1588.○【ドイツ】ケルンの印刷者アイツィング Michael Freiherr von Aitzing が、フルー
クブラット(Flugblatt)(ビラの意。戦争、天変地異など単独のニュースを伝えるために発
行されるビラやパンフレット(Flugschrift )のこと)を刊行する。同時に半年単位で主要な
事件の要約を『レラティオ・ヒストリカ(Relatio Historica )』として刊行するものも現れる 。
[∼ 1593]
1588. ○【フランス】製紙業が盛んになったため、原料となる古いリンネル地などを回収
するぼろ回収業者が繁盛する。ヴォージュ地方の回収業者の場合、金銭はもとよりヘア
ピンを提供してまでぼろを回収して回る。[のちに、遠方の土地に脚を延ばして、陶皿ま
ではずんでぼろの確保に努める 。
「トランプ・厚紙製造業者」がぼろ回収業者を兼ねる
て財をなす者もある 。
](『書物の起源』上)
1588.○【イタリア】サン・マルコ図書館( Libreria di San Marco)が、ベネチアのサン・マ
ルコ広場に続くピアツェッタ(小広場)に完成する。ヤコポ・サンソビーノの設計により
1536 年に起工、彼の死後、弟子のスカモッツィに引き継がれて完成する。ベネチアの伝
統的な形式に盛期ルネサンスの古典的様式を取り入れたこの建築を、パラディオは〈古
代以来建造された建物のうちでもっとも豪華なもの〉と絶賛する。
1588.○【イギリス】外科医ティモシー・ブライト Timothy Bright(38)が、速記文字を考案
し、『キャラクタリー(記号論)』(副題「シークレットライティング」)を発表する。一
見フェニキア文字に似て、上から下への縦の線が好んで使用されている 。
[以後、女王
エリザベスに献上され、エリザベスはブライトの業績を認め、特許を与える。ブライト
式速記法が、速記ルネッサンスを起こすきっかっけになるとともに、副題に大書されて
いるように、暗号文字としても使用されるようになる。1660.1.1 サムミュエル・ピープス
が、シェルトン式速記符号を使用して、赤裸々な日記を書き始める。]
1589(天正17)
1589.○【日本】豊臣秀吉(53 )が、京都・柳の馬場に郭を公認する。柳町遊郭は,規模は
小さいながら集娼制の意図を明白にしており,遊郭制度の最初とされる。この頃、遊女
は太夫と端女郎[はしじょろう]の二階級に分けられる。
[後に移転を重ねて 1640 年に島
原遊郭が成立する。
]
1589. ○【ベルギー】アントウェルペン(アントワープ、アンベルス)の印刷業者プランタ
ン Christophe Plantin(オランダ名プランテイン Christoffel Plantijn)( 69 ?)が、死去する。
最盛期には 20 台近くのプレス式印刷機を備えて、ヨーロッパ最大の規模を誇り、神学、
典礼、科学、文学、語学と多様な分野にわたって出版し、印刷・出版した本は 1500 点余
- 171 -
に及ぶ。商人として紙や印刷関連の機材や材料も商った。アントウェルペンの工房には、
多数の亡命者や外国人が入り込み、翻訳者、編集者、校訂者、活字デザイナーとして活
動し、印刷技術の国際交流が実現していた。また、木版の挿し絵が普通だったこの頃、
銅版画を積極的に取り入れ、フランスや低地地方でこれを見習う印刷業者が多く出た。]
1589.○【イタリア】物理学者ジョバンニ・バッティスタ・デラ・ポルタ G.B.della Porta が、
著書『自然の魔術』の中でカメラ・オブスキュラを一般に広く紹介し、絵を描くときの補
助具として推奨する。[以後、この本がヨーロッパ各国で翻訳出版されて非常に売れる。
そのために、ポルタがカメラ・オブスキュラを発明したものと誤信される。]
1590(天正18)
1590. 7 .?[ 6.20] 【日本】イエズス会日本準管理区巡察師バリニアーノ(ヴァリニャーニ)
Alessandro Valignani( Valignano )( 51 )が、帰途にある天正遣欧使節と共にインド副王特使
として再度来日する。この時、バリニアーノの要請とイエズス会総長の厚意により、特
使に付き添って来たヂエ・デ・メスキタが、リスボンからグーテンベルク式活版印刷機や
欧文の活字・母型、西洋流のインクなどを運んで来る。また印刷技術を習得して帰国し
た日本人コンスタンチノ・ドゥラド、アウグスチノ(日本名不詳)らが、和文鉛活字の鋳造 、
整版、印刷などの実務に当たる 。
[以後、肥前加津佐の日本耶蘇会学林に印刷機を設置
し、ローマ字で印刷を始める。イエズス会士が、九州有馬のセミナリオで西洋印刷術、
銅版法などの伝習を始める。10 月 12 日、フロイスは、印刷機がもたらされた喜びをイ
エズス会総長宛書簡で〈今までのように多くの書写から胸をやられないように、そして
言葉を勉強する時間がさらに多く彼らに残るように印刷されて行くでしょう。(中略)日
本人はこの印刷技術を見ることを非常に楽しみにし、この仕事を尊重している。〉と記
す。1591 年に、日本ヤソ会はこれによって欧文活字と日本文字の木活字を組み合わせて、
日本初の西洋活版術を行い、いわゆる切支丹版を出版する。]
1590.[ 8. 1 」【日本】徳川家康(48)が、豊臣秀吉の命により江戸に入城する。
[以後、家
臣団の在地性を克服し、新しい領国支配体制構築の可能性を生み出し、江戸幕府の基礎
作りが始まる。
]
1590.○【日本】幕府が 、公用の通信手段として飛脚を開始する。(?東芝の広告による。
『日経情報ストラテジー』2003.4)
1590. ○【ヨーロッパ】激しい魔女狩りが行われる。魔女裁判では拷問が用いられ、自白
が強要される。拷問によっても自白しないときには、自白しないという事実が悪魔の保
護下にある証拠だとして多くの“魔女”が断罪される。[以後、1610 年まで 20 年間行わ
れる。以後、1625 ∼ 1635 年、1660 ∼ 1680 年にもとくに激しく行われる。]
1590. ○【オランダ】眼鏡職人ハンスとザカリアス・ヤンセン父子が、顕微鏡を発明あう
る。[以後、しばらくのちに望遠鏡が発明され、天文学を飛躍的に発達させる。これと
深く関連して顕微鏡も進歩し、生物学を画期的に発展させる。
]
1590. ○【ドイツ】版画家の一家デ・ブライによる銅版画の挿画をほどこした旅行記『西
インド誌』が、フランクフルトで刊行開始する 。
[以後、デ・ブライ家は、壮麗で入念に
つくられた銅版画入りの大小さまざまな旅行記の膨大な集成の刊行を 44 年にわたり試み
る。
]
- 172 -
1590.○【イタリア】13 世紀にフランスのドミニコ会の修道士ヴァンサン・ド・ボーヴェ(バ
ンサン・ド・ボーベ) Vincent de Beauvais(ラテン名ウィンケンティウス・ベロウァケンシ
ス Vincentius Bellovacensis)( 1190 ?∼ 1264 ?)が編纂した百科全書『大鏡(Speculumma ■
us)』が、ヴァネチアで刊行される。[1624 年、題名を『世界の図書館(Bibliotheca Mundi )』
と改め、ドゥエで再版される。]
1590.○【スペイン】全国国勢調査が実施される。[∼ 1591 年。]
1591(天正19)
1591.○【日本 】日本ヤソ会(日本イエズス会)が 、バリニャーノ(ヴァリニャーニ)Alessandro
Valignano (52)がリスボンからもたらした活版印刷機を用いて、島原半島南端の肥前加津
佐で 、インドのゴアに続いてアジアで 2 番目、日本で初めて活字印刷を行い、切支丹版(吉
利支丹版、キリシタン版)『サントス(註:聖使徒)の御作業の内(うち)抜書( Sanctos
Nogosagveono Vchinvqigaqi )』2 巻 700 余頁を出版する。日本語をローマ字で表したもの
で、日本で活字印刷された本の第 1 号となる。
[10.6 バリニャーノがマニラのイエズス
会院長宛書簡に 、
〈本年日本語で種々の書物が印刷された。日本語を習うヨーロッパ人
たる我々に大いに役立つローマ字本及び国字本は、印刷機がなかったので、これまでな
かったのである。かくて、信者に必要にして適切な事柄を盛り込んだ問答体の『どちり
な』(『どちりな・きりしたん』)が印刷された。〉と記す。『どちりな・きりしたん』の印
刷には変体仮名の連綿体が初めて活字化され用いられる。この年、切支丹印刷所が加津
佐から天草コレジオに移る。以後、日本イエズス会が、この西洋印刷機および同種機を
用いて、和語、ラテン語、ポルトガル語の和洋混淆体の図書・出版物を、1611 ∼ 14 年(慶
長 16 ∼ 19)ごろまでの約 20 年間にわたり、少なくとも 30 点以上( 31 点ともいう)が、お
もに九州の各地で印刷・刊行する。諫早生まれの青年で使節随員として渡欧し、印刷技
術を習得してきたコンスタンチーノ・ドウラド(日本名不詳)を中心に開版される。彼らは
不足しているローマン体やイタリック体を新たに母型を作って鋳造したり、漢字、ひら
がな(半濁音を印刷物に初めて用いる)、ふるがな(ルビ)活字を自力で鋳造し、フロイス
ら伴天連(ばてれん、パードレ、神父)たちをびっくりさせる。多くは和紙に印刷した和
式の袋綴じ製本だが、革表紙の洋式製本も数点作る。これら一連の図書・出版物を「キ
リシタン版(切支丹版、吉利支丹版)」(加津佐版、天草版、長崎版など)という。またそ
の前後に同機をもってゴア、マカオで出版した 4 種も同属とみなされる。キリシタン版
は、1980 年ベニス発見の 2 点を加え、約 31 種、75 点が世界に、1 点か数点ずつ散存す
る。内容別には、①キリスト教教義、信心録など。例、『ドチリナ・キリシタン』(キリ
スト教の教義。日本文字、ローマ字各 2 種)など。②言語関係書。例、
『ラテン文典』
(E.
アルバレス著。天草、1594 年刊)など。③教養書。例、
『伊曽保(いそほ)物語 』
(いそっ
ぷ物語。ローマ字日本文、天草、1593 年刊)、
『倭漢(わかん)朗詠集』(日本文字、1600
年刊)などの 3 種に分けられる。文字はローマ字、片仮名、平仮名、漢字で、和語やラ
テン語、ポルトガル語外国語を使用して、日本人および外国人の双方に役だて伝道の便
に供した。なかに 1 点『こんてむつすむん地』
(1610 年京都版)は日本式印刷を利用し
た木活字版である。しかし、キリシタン版はキリスト教禁制下の非合法出版で、しばし
ば弾圧を受ける。とくに島原の乱以後はきびしい血の粛清にさらされて、印刷技術も日
- 173 -
本で受け継がれることなく、ついに根絶してしまう。遺品の多くは、大英図書館、オッ
クスフォード大学、バチカン図書館、日本天理図書館、東洋文庫、北京(ペキン)北堂な
どに蔵せられる。]
1591. ○【日本 】伊勢の与一が、江戸でひと旗あげようと伊勢から出てきて、銭瓶橋際(の
ち、常盤橋と呉服橋の中間)に初の湯屋(ゆうや)(風呂屋)を開設する。地名が縁起のよい
ところから、この場所を選んだ。入浴料は永楽通宝 1 枚。男女混浴の蒸し風呂(伊勢風呂
形式)で、珍しさのため大勢が押し寄せるが、あまりの熱さと湯気で、ものも言えなくな
る。
[やがて、世間話をする社交場になる。風呂賃は永楽銭一つ(4 文相当) 。七つ(午後 4
時)になると一般の客は断り、湯女風呂の二階は男の享楽の場と化す。この頃、火災の多
い江戸では、火事を出すことを警戒して、家に風呂を持たないことが多かった。1614 年、
三浦浄心『慶長見聞集』に〈風呂銭は永楽一銭なり。みな人めずらしきものかなとて入
りたまいぬ。されどもその頃は風呂ふたんれん(不慣れ)の人あまたありて、あらあつ
(熱)の湯の雫や、息がつまりて物もいわれず、煙にて目もあかれぬなどと云て、小風
呂の口にふさがり、ぬる風呂を好みしが…… 〉、また湯女については〈今は町ごとに風
呂あり。びた拾五文廿銭にて入る也。湯女といいて、なまめける女ども廿十人、三十人
並びいて垢をかき、髪をそそぐ。さてまた、その他に容色よく類なく、心ざま優にやさ
しき女房ども、湯よ茶よと云いて持ち来りたわむれ、浮世がたりをなす。こうべを回し
一たび笑めば、百の媚びをなして男の心を迷わす……〉と書く。1657 年、幕府が湯女風
呂を禁止する。]
1591.○【イタリア】ガリレイ Galileo Galilei( 27 )が、ピサの斜塔で落下体の実験をする。
1591. ○【フランス】この頃、壁紙が初めて工場で生産される。ペルシアから輸入した紙
をまねた大理石模様が最初につくられる。[17 世紀の後半 、東インドとの交易が始まり 、
パリの木版画家パピヨン Jean Papillon(後に壁紙の父とよばれる)が新しい印刷技術を
開発すると、中国風のデザインがヨーロッパ各地の大邸宅の装飾に広く用いられるよう
になる。18 世紀の後半、フランスとイギリスで風景画風の壁紙が流行する。18 世紀には
アメリカでも壁紙が使われ、壁紙産業はアメリカで全盛期を迎える。20 世紀初期、壁紙
の人気は一時衰えるが、1930 年代後期のシルクスクリーンの技術の開発以来、急激に需
要が増大する。]
1592(文禄1)
1592.[4.13 ]【朝鮮半島】日本軍先鋒の小西行長らが 、釜山に上陸し朝鮮侵略を開始する。
文永の役が始まる。[この年(あるいは 1593 年?)、朝鮮のソウルの王城内の校書館の庫
内で銅鋳活字により書物が印刷されているのを見た者が、銅活字と活字版の道具を略奪
して日本に持ち帰る。持ち帰った銅活字のと木活字の総数は 10 万個ともいわれる。この
ときまでに朝鮮半島で作られた活字は約 300 万字と推定される。(横山和雄『印刷文化と
出版』出版ニュース社) 朝鮮側は、歴代鋳造の活字が略奪されて〈一空せり〉と記録す
る。1593 年、秀吉が、朝鮮活字を後陽成天皇に献上する。天皇は側近の者に命じ、活字
版で 、
『孝経』を印刷させる。日本における活版印刷の始めとなる。
[以後、後陽成版『古
文孝経』と呼ばれるが、現存しない。朝鮮活字の行方も不明である。]
1592 ○【日本】天正遣欧使節団随員であったコンスタンチーノ・ドゥラードらが、天草
- 174 -
で切支丹本『伊曽保物語 』などを印刷する。和紙・洋紙・羊皮紙を使用する。[以後、約 50
点を印刷刊行する。]
1592 ○【中国】元代に刊行された『元本西遊記』を集大成して『西遊記』20 巻が、南京
の世徳堂から刊行される。
1592 ○【ドイツ】フランクフルトのエゲノルフ・ベルナー活字鋳造所が、活字見本表を
出す。
1592 ○【バチカン】バチカン印刷所が、
「ウルガタ版聖書」を出版する。
1592 ○【スペイン】フェリペⅡ世 Felipe II ( 64)が、無敵艦隊の敗北に動揺し、占星術
と占術を禁止する。[以後、女預言者ルクレツィア・レオンに耳を貸す。間もなくその預
言が反君主的になると、彼女を異端審問所に告発する。
]
1593(文禄2)
1593.[6.−]【朝鮮半島】朝鮮軍が、明の援軍や義兵の決起を受け、各地で日本軍を撃破
する。日本軍は、釜山に後退し、明軍との和議に入る 。[以後、加藤清正ら朝鮮遠征軍
に諸将が、おびただしい戦利品を持ち帰る。その中に漢城(ハンソン、現ソウル)で手中
にした朝鮮銅活字、摺具などの印刷器具や、それで印刷したと想われる朝鮮刊本がある。]
1593.[9.−]【日本】秀吉が、日本軍が朝鮮からもたらした朝鮮活字(すべて漢字)と印刷
器具を後陽成天皇に献上する。本は朱子学系のものが多い。[以後、儒教中心の文教政
策に大きな影響を与える。]
1593.[閏 9.21]【日本】後陽成天皇が、朝鮮よりもたらされた銅活字で『古文孝経』を皇
居内御湯殿上の間で印刷することを、六条有廣らの側近 12 人の者に命じる。[以後、木
活字も製作される。この活字版は「文禄勅版」と呼ばれるが、1 冊も伝わっていない。
銅活字の行方も不明である。後陽成天皇は慶長と改元後も『日本書紀』以下いくつかの
「慶長勅版]を活字版で刊行する。次代の後水尾天皇もそれにならって勅版を作らせるが 、
勅版の多くは、朝鮮活字を模した木活字で印刷される。]
1593.○【日本 】日本人切支丹ファビアンが、天草本口語訳『平家物語抜書』を印刷する 。
1593.○【フィリピン】タガログ語版と漢文版の『無極天主正教真伝実録』が刊行される。
1594(文禄3)
1594.○【ドイツ】ケプラー Johannes Kepler( 23)が、チュービンゲン大学神学科を卒業し、
グラーツ高等学校の数学教師に赴任する。かたわら市長の委託で占星暦の編修を試み、
厳冬や戦乱などの世相予言が的中して評判となる。その間、宇宙構造に関する構想をめ
ぐらせる。[1596 年、最初の著作『宇宙の神秘』を刊行する。
1594. ○【イタリア】古代ギリシアの悲劇の復興を目ざしたフィレンツェの文学者・音楽
家のグループ「カメラータ」が、登場人物の台詞(せりふ)を通奏低音を伴奏として歌う
という、モノディ様式をオペラの主体とし初の試みとして、リヌッチーニの台本、ペー
リの作曲になる『ダフネ』を公演する。[以後、この作品は現存しない。1600 年の『エ
ウリディーチェ』が、現存する最古のオペラとなる。]
1595(文禄4)
- 175 -
1595. ○【日本】日本の木活字を使った『法華玄義序 』
『天台四教義集解』が、民間人に
より印刷される。[以後、現存する日本最古の活字本とされる。以後、漢字は種類が多く、
多数の活字を必要とし、また粘土や木の活字は高さが不ぞろいで印刷しにくいため、普
及しない。その後の出版は主として木版でつくられる。
]
1595. ○【日本】ヨーロッパから来日したキリスト教宣教師たちが、『拉葡日(らほにち)
辞典』を作る。
1596(文禄5・慶長1)
1596.○【日本】朝鮮半島から伝わった印刷技術により、木活字本『標題徐状元補注蒙求』
が刊行される。
1596.○【ドイツ】ケプラー Johannes Kepler( 25 )が、最初の著作『宇宙の神秘』Mysterium
cosmographicum を刊行する。ここでは、太陽を中心として 6 惑星(水星・金星・地球・
火星・木星・土星)が、5 個の正多面体に順次外接・内接することによって、その距離
が保たれるという半思弁的な設定をする。[以後、この著述によって、ティコ・ブラーエ
やガリレイの知己を得る。1599 年 、新教徒への迫害が始まり 、1600 年プラハへ移住する 。
1596.○【ドイツ】デンマークの天文学者ティコ・ブラーエ Tycho Brahe(50 )が、新王クリ
スティアンⅣ世のもとで年金差し止め、資財没収されてドイツに亡命する。ドイツの皇
帝ルードルフⅡ世はティコを宮廷数学官に任じ、プラハ郊外のペナテク城を天文観測所
として与える。[1600 年、同じ追放の身の数学教師ケプラーの請願を受け、勅許庇護(ひ
ご)のもとで師弟の共同研究を始める。]
1597(慶長2)
1597.[7.−]【日本】後陽成天皇が、朝鮮半島から伝わった印刷技術により、日本製の大
型木活字による勅版『錦繍段』を開版する。跋文の一部に〈この木活字印刷法は朝鮮に
由来して天聴に達したもので、彼のように依り工に模写させる〉と記載される。活字の
大きさは駿河版より大きく、縦 15 ∼ 16mm、横 17 ∼ 18mm 程度。[[ 8.−]木活字版『勧
学文』を開版する。
]
1597. ○【日本】日本の木活字により『勧学文』が刊行される。
1598(慶長3)
1597.4.13【フランス】国王アンリⅣ世が 、ナントで王令を発布する。ナントの王令⊇ dit de
Nantes(ナントの勅令)と呼ばれる。宗教戦争の渦中にすでに萌芽の見られた「寛容王令」
の集大成であり,この王令により,1562 年以来 30 余年に及んだ宗教戦乱に一応の終止
符が打たれる。
1597.[ 7.下]【日本】後陽成天皇の勅版『錦繍段』が、日本の木活字により刊行される。
1597.[ 8.下]【日本】後陽成天皇の勅版『勧学文』が、日本の木活字により刊行される。
1597. ○【ドイツ】フランクフルトの市参事会が、官製目録の刊行を開始する。
1597. ○【イタリア】ペーリ作曲のオペラ『ダフネ』が、謝肉祭の日フィレンツェのコル
シ邸で上演される。実際にオペラの形態をとった最初の作品とされる 。
[以後、この作
品は断片的にしか伝わらない。
](1597 年とも。要チェック!!))
- 176 -
1597.○【イギリス】ボドリー Thomas Bodley が、オックスフォード大学の図書館に関与
する 。
[以後、15 世紀に個人文庫ではじまったこの図書館の復興に尽力する。1601 年、
ジェイムズ Thomas James を図書館員に指名し、図書収集の充実強化と整備に取り組む。
のち、ボドリーを記念してボドレーアン図書館と呼ばれ、書籍商との契約で納本図書館
となる。]
1599(慶長4)
1599.[閏 3. 3]【日本】日本の木活字により勅版『日本書紀神代巻』が刊行される。
1599.[閏 3. 8]【日本】日本の木活字により勅版『大学』が刊行される。
1599.[閏 3.17]【日本】日本の木活字により勅版『中庸』が刊行される。
1599.[ 5.−]【日本】徳川家康が、足利(あしかが)学校第 9 代校主三要元佶(さんようげ
ん
きつ)(51)に命じて、京都伏見の円光寺内で木活字を用い、『孔子家語(こうしけご)』『六
韜(りくとう) 』
『三略 』など儒書・軍書を多く刊行させる。[[∼ 1606 年 。以後、
「伏見版」
あるいは「円光寺版」と呼ばれる。『貞観政要(じょうがんせいよう) 』
『三略』『周易古
注(しゅうえきこちゅう)』
『七書(しちしょ)』などが作られ、
『六韜』
『三略 』は 3 度 、
『七
書』は 2 度開版される。]
1599.○【中国】(万暦 27)清の太祖ヌルハチの命を受けて、2 人の儒臣エルデニとガカ
イが 、
モンゴル文字を満州語に応用した最初の満州文字
「無圏点老満文」を制作する。
[1632
年、太宗が改良を命じ、字母の傍らに圏と点をつけ、漢字音を表す字母を加えるなどし
て「有圏点満文」が考案される。](中嶋幹記「世界の文字 24 満州文字」
『三省堂ぶっ
くれっと』No.120、1996 )
1599. ○【フランス・イギリス】 この年までに、公衆浴場が男女混浴だったため風紀を乱
すということで廃止される。[以後、入浴の習慣がなくなり、香料の使用が盛んになって
いく。]
1599.○【イギリス】この頃(16 世紀末)
、ブライト Timothy Bright が、英語速記方式を
創始する。[のち 、
「ブライト式」と呼ばれ、近代速記方式の先駆けとなる。1837 年に、
覚えやすいピットマン式が発表される。1888 年にアメリカでグレッグ式が創案され、広
く行われるようになる。]
1600(慶長5)
1600. 1.−【イギリス】ロンドンで、独占的特許会社、イギリス東インド会社が設立され
る。[ 1602 年 3.20 オランダ東インド会社が設立される。1604 年フランス東インド会社が
設立される。「
〔 東インド」の名の由来は、コロンブスが新大陸発見のとき、これをイン
ドの一部と誤認し 、「西インド」の名称でよんだが、真相が知られてからも、便宜上従
来の東洋貿易の目的地を「東インド」とよぶ習慣ができたことによる。この東インドの
産物のうちでもとくにヨーロッパ市場で喜ばれたのは、胡椒(こしよう)、丁子(ちよう
じ)、肉豆く(にくずく)などの香辛料(香料)である。このため、香料の原産地であるモル
ッカ諸島(香料諸島)の争奪が繰り返され、数年前から東インド地域で、新教国のイギリ
スとオランダの両国もこの競争に加わるようになる。国内どうしでの過熱した競争を避
- 177 -
けるために統合して、独占的特許会社をつくるに至る。]
1600. [3.16]【日本】オランダの東方貿易会社の木造帆船リーフデ号が、臼杵湾入り口
の佐志生(さしう)に漂着する。東洋に派遣された 5 隻の商船隊の 1 隻で、乗組員 110 人
のうち漂着時の生存者は 24 人、歩くことができるのは 6 人。日本とオランダの最初の出
会いとなる。
[上陸後、6 人が死亡する。[5.12 ]家康が、航海長ウィリアム・アダムズ( 37)
と船員ヤン・ヨーステン( 44?)を大坂城内で引見する。のちに家康は、江戸に幕府を開く
とアダムズ(三浦按針)とヨーステン(耶楊子)を外交・貿易顧問として厚遇する。ヨース
テンは家康から江戸に屋敷を与えられ、八重洲という地名のもとになる。
]
1600. [ 6.−]【日本】多摩川に六郷橋が架けられる。
1600. [ 9.15 ]【日本】関ヶ原の戦い。
1600. ○【日本】この頃、来航した宣教師たちが、日本でグレゴリオ歴を用い始める。
1600. ○【日本】小判の「光次」の墨書を、極印(ごくいん)に改める。
1600. ○【ヨーロッパ】この年の前後、携帯時計が多くつくられ、十字形、頭蓋(ずがい)
骨、動物、果物、星、花などをかたどった珍奇な形の時計が相次いで登場する。
1600.○【チェコ】デンマークからプラハへ亡命してきた天文学者ティコ・ブラーエ Tycho
Brahe(54)が、同じくドイツから逃れたきた数学教師ケプラーの請願を受け、勅許庇護の
もとで師弟の共同研究を始める。[1601 年、共同研究を始めてわずか 1 年半でティコは
病没する。ティコが 1596 年に亡命の際帯出した約 20 年間にわたる火星の追跡観測記録
には、視位置と視光度が豊富に記録されており、ケプラーが整理研究し 、
「惑星公転の
三法則」発見の基礎資料となる。]
1600.○【オランダ】シモン・ステファンが、馬車に 2 枚の帆を張り最初の風力自動車を
製作する。時速 33km で走り、人々を驚かせる。
1600. ○【イタリア】フィレンツェ楽派のヤコボ・ペーリとジュリオ・カッティーニが、最
初のオペラ『エウリディーチェ』(リヌッチーニ台本)を作曲し、フィレンツェでメディ
チ家の娘マリアとフランス王アンリⅣ世の結婚式を祝う祭典に上演される。大評判にな
る。[1601 年、ペーリとカッティーニが、それぞれこのオペラを出版する。以後、楽譜
を伴う完全な形で残っている最古のオペラとなる。このオペラを見たマントヴァ公ゴン
ザーガ Vicenzo Gonzaga が 、このようなオペラを作りたくなり 、モンテヴェルディ Claudio
Monteverdi( 33 )にに新しいオペラの作曲を依頼する。1607 年に『オルフェ』が作曲され
る。]
1600.○【イギリス】医師・物理学者ギルバート William Gilbert(56)が、イギリスで書か
れた最初の科学書『磁石、磁性体、そして大きな磁石としての地球について』を公刊す
る。電気と磁気の性質を明らかにするための独自の実験を行い、地球が巨大な磁石であ
ることを実験的に示す。摩擦するともみがらなどの軽いものを引きつける物体がいろい
ろとあることを指摘し、こういう物質を磁気と区別してエレクトリック(electric )という
言葉を用いる。また 、初めて電気力、電気相互作用、磁極などという用語を使用する。[1601
年、エリザベスⅠ世の侍医となる。]
1601(慶長 6 )
1601. 1 .−【中国】中国語を学び,利瑪竇(りまとう)と名乗るイエズス会士リッチ(49)が 、
- 178 -
北京に入り,万暦帝に拝謁し,北京在住と中国全土におけるキリスト教布教の許可を得
ることに成功する。[以後、リッチは多くのイエズス会宣教師が渡来する。リッチはキリ
スト教布教にヨーロッパ科学の紹介が必須であると考え,後続の宣教師にはすぐれた科
学知識の持主が多い。これ以後イエズス会は、科学知識の紹介に重点を置くことを基本
方針とする。中国側は大臣に昇った徐光啓,イエズス会側ではリッチが中心となり,ユ
ークリッドの『ストイケイア』をはじめ,ヨーロッパの天文学,数学などの書物の漢訳
が盛んに行われるようになる。1602 年、李之藻が編集した『天学初函』にこれらの多く
が収められる。1910 年、その死にあたり万暦帝より墓地を賜る。以後、墓地は北京市内
に保存される。]
1601.[1.−]【日本】徳川家康(60)が、東海道諸宿に伝馬(てんま)の制を布き、 1 日に 36
疋までの伝馬の提供を命じ、代償に居屋敷を与える。宿はすでに既存の集落を利用する。
[1618 年、箱根宿を設置する 。1623 年、川崎宿を設置する。以後 、江戸(日本橋)・京都(三
条大橋)間に品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、
三島、沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子、岡部、藤枝、島田、金
谷、日坂、掛川、袋井、見附、浜松、舞坂、新居、白須賀、二川、吉田、御油、赤坂、
藤川、岡崎、池鯉鮒(ちりゆう)、鳴海、宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、
坂下、土山、水口、石部、草津、大津の 53 宿があるので、五十三次と呼ばれる。また大
津から伏見、淀、枚方(ひらかた)、守口の 4 宿を経て大坂に至る京街道も東海道の延長
とみなされる。2001 年、静岡県などが、
「東海道 400 年祭」のイベントを催す。]
1601. ○【日本】慶長大判・小判・一分金・丁銀・豆板銀が造られ始める。金の含有率は
86.79 %、銀の含有率は 80.0 %。
1602(慶長7)
1602. 3.20【オランダ】アムステルダムでオランダ東インド会社が設立され、史上初の株
式会社として発足する。連邦議会が、数年前から東インド地域で過熱した競争を繰り広
げて過当競争により利益が上がらなくなっていたオランダの貿易会社 14 社を統合させる
ことにより、連合東インド会社の設立を決定した。2 年前にイギリス東インド会社が設
立されていたが、その資本金はオランダの会社の 1/10 にも満たず,またその性格も航海
ごとに起債する当座企業の性格を残していたので,このオランダ東インド会社が世界最
初の株式会社と見なされる。これにより、アムステルダム,エンクハイゼン,ホールン,
ロッテルダム,デルフト,ミッデルブルフの 6 ヵ所に散在していた個々の会社が統合さ
れ,それぞれは東インド会社のカーメル(支部)と改称する。取締役会は前身会社の取締
役 72 名を引きぐ。
[以後、徐々に 60 名まで減らし,その上に 17 人会と呼ばれる重役会
を置く。]
1602.[ 6. 1]【日本】喧嘩口論・博奕(ばくち)の禁止や、日本橋馬喰町以外での馬売買の
禁止を定めた高札が、馬喰町や各所の馬市場に立てられる。
1602.[ 6.24]【日本】家康が、江戸城中に富士見亭文庫を設立して金沢文庫の書籍を移し、
足利学校の僧侶寒松に目録の作成を命じる。
1602. ○【日本】京都の柳の馬場の廓が六条に移され、三筋町となる。
1602. ○【日本】この頃、江戸を描いた最初の図「慶長江戸図」が登場する。
- 179 -
1602.○【フィリピン】
マニラで、アジアで 3 番目に印刷が行われる 。
また、ビノンド Binondo
でも始められる。
1602.○【イタリア】世界図を幾種類か描いたイエズス会士リッチ(50)が、北京で李之藻
に木刻で『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』を印刷させる。アジアで最初の世界
図となる。
1602.○【イギリス】ジョン・ウィリスが、表音的な速記理論を初めて提案し、
『速記術 Art of
Stenography 』を刊行する。初めて「ステノグラフィ」という語を用いる。基礎符号を駆
使して発言されたすべての音を漏れなく表記する「全記法」の先駆けとなる。[以後、
速記法の基礎となり、ブライトは「近代速記の父」とも呼ばれる。1620 年、シェルトン
が、ウィリス式を改良してシェルトン式符号を考案、初版を発表する。1837 年、アイザ
ック・ピットマンが、全記法を完成させる 。
]
1603(慶長8)
1603.3.24 [ 2.12]【日本】徳川家康(62)が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く 。
「江
戸時代」が始まる。
1603. [ 3. 3]【日本】家康(62 )が、江戸を天下に号令する将軍の城下町にふさわしい都市
にするため、諸大名に先ず市街地の造営を命じる。
1603. 春 【日本】江戸の道三堀と平川を延長してつくられた堀川に、長さ 37 間(約
68m)、幅 4 間 2 尺 5 寸(約 8m)の大きな橋が架けられる。橋上からは江戸城や富士山を
望むことができる。[以後、だれいうともなく「日本橋」と呼ばれる。やがて、付近一帯
も日本橋と呼ばれるようになる。1604 年、ここが一里塚の原点と定められ、東海道をは
じめとする五街道の起点となる。1618 年、改築され、長さ 28 間(約 51m)、幅 4 間 2 尺 5
寸(約 8m)の大橋になる 。1911 年 、ルネサンス様式を模したアーチ型の長さ 49m,幅 27m
の石橋が架けられる。]
1603. 4 . 3[3.24 ]
【イギリス】チューダー朝 5 代目の女王エリザベスⅠ世 Elizabeth I( 69 )(在
位 1558 ∼ 1603)が死去する。愛称は「よき女王ベス」
。チューダー朝は終わり、スコッ
トランドからメアリー・スチュアートの子ジェームズⅥ世が、ジェームズⅠ世として即位
し、スチュアート朝を開く。女王の死去を知らせる使者が、ロンドンからエディンバラ
まで 644km を 1 日平均 200km の速さで飛ばして約 3 日で到着する。[この年、ジェーム
ズⅠ世は、万用歴の出版を担っている書籍商商会への専売権を認める勅許状を出して政
府の厳しい統制下におき、その中に書かれる占星術関連の予言のあらゆる行き過ぎを禁
止し、違反者は厳しい身体刑に処すと書き加える。1641 年、禁制を廃止する。
]
1603. ○【日本】日本で初めて印刷出版,販売を専業とする本屋が出現する。新刊、古本
を扱い、貸本屋も兼ねる。(長友千代治『近世貸本屋の研究』)
1603. ○【日本】ヨーロッパから来日したイエズス会宣教師たちが、ヨーロッパ式の体裁
を整えた日欧対訳辞書『日葡(にっぽ)辞書』を作る。[のち、パジェスLロ on Pag ロsが
『日仏辞書』に改編する。]
1603. ○【日本】出雲大社の念仏踊りの歩き巫女と称する阿国(おくに)という女が、初め
て女の集団、女歌舞伎をつくり、京都の北野天満宮近くに舞台を造り、念仏踊(ねんぶつ
おどり)を興行する。『当代記』は、〈異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇差、衣装以下コト
- 180 -
ニ異相〉と、その異様さを伝える。[以後、間もなくこの踊りがこの頃の巷(ちまた)にみ
られるかぶき者(異風異装の者、したがってまた、流行の先端を行くとっぴな者)やキリ
シタンの風俗を取り入れ、その結果「かぶきおどり」とか「阿国かぶき」といわれるよ
うになり、のちの歌舞伎の歴史の発端となる。1629 年に禁止される。]
1603. ○【オランダ】マライ語、インドネシア語の辞典が、連合東インド会社で使用する
ために出版される。[ 1623 年、1640 年、1650 年にも出版される。]
1603.○【イタリア】フェデリコ・チェシが、アカデミア・デイ・リンチェイ Accademiadei
Lincei をローマに設立する。
[1630 年、彼の死とともに消滅する。18 世紀に復活し,さ
まざまに形を変えて今日に至る。
]
1604(慶長9)
1604.[ 2. 4]【日本】日本橋を五街道の基点として、東海道、越後・陸奥への諸道を整備
し、一里塚を築き、街道の両側に松を植える。
1604. ○【日本】この頃、連綿体の活字による印刷本が普及し始める。
1604. ○【日本】幕府が、諸大名に、国を単位とした国絵図や郷帳(ごうちょう)を作成さ
せ、提出させる。
1604.○【フランス】国王アンリⅣ世( 51 )が、アジア地域での貿易を独占的特許会社とし
てフランス東インド会社を設立する。[以後、先行のイギリス、オランダよりも進出が遅
れたため商業拠点を欠き、資本蓄積も遅れているため、十分な商業活動ができない 。1664
年にコルベールによって再組織され、アジア地域への本格的進出が始まる。]
1604.○【イタリア】パドバ大学の外科・解剖学教授とファブリキウス Hieronymus Fabricius
(67 )が、研究と著作に専念し始める。[以後、人や動物の血管、胚(はい)、胎児、胎盤、
臍帯(さいたい)などを詳細に研究。雄は雌が精神的に流出する精液によって受胎すると
いう仮説を発表。精緻(せいち)な銅版画を載せた『静脈弁について』『胎児の形成につ
いて 』
『卵と雛(ひな)の形成について』などの著書は好評を博す。
1605(慶長10)
1605. 1.16【スペイン】作家セルバンテス Miguel de Cervantes Saavedra( 58 )が、『ドン=キ
ホーテ』(正式の題名『智あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ( El ingenioso
hidalgo Don Quijote de laMancha)』)第 1 部を書き上げ、マドリードの J.デ =ラ =クエスタ
により初版 1200 部が刊行される。物語はラ・マンチャに住む老いた郷士が、そのころ大
流行していた騎士道物語を百冊以上買い集めて、日夜読みふけったすえ、自ら遍歴の騎
士となって世の中の不正を正し、虐げられた者を助けようと、ドン= キホーテと名のっ
て旅立ち、行く先々で悲喜劇的な事件を引き起こす話で、たちまち大好評を博す。[以後、
スペイン各地で版を重ね、ヨーロッパ各国まで伝播するが、版権を安い金で売り渡して
いたので、彼の生活も社会的地位も不安定なままである。1607 年、ベルギーで初版が復
刻される。1612 年、イギリスで翻訳刊行される。1615 年、第 2 部を刊行。1622 年、イ
タリアで翻訳刊行。『ドン=キホーテ』のめざましい重版と翻訳刊行により、ヨーロッパ
の出版業界の勃興と 、近代小説の出発点と評価される。以後、世界で『ドン=キホーテ』
以上に翻訳されたのは聖書とレーニン全集だけといわれる。2005.1.16 初版の発表 400 年
- 181 -
を記念して、刊行日と伝えられる 16 から、国内外で記念行事が行われる。]
1605.[4.16 ]【日本】家康が、征夷大将軍職を秀忠に譲る。
[1607.[ 7.3] 、駿府城が完成し、
家康が移る。
]
1605. 5.−【オランダ】アブラハム・ホーフェンが、アルベルト大公の許可を得て、新聞
『Nieuve Tijdingen 』を発刊する。近代的新聞の先駆けとなる。[1617.4 週刊となる。]
1605.[7.28]【日本】この頃、銅活字の鋳造が始められる。家康が、高麗(朝鮮)銅活字を
後陽成天皇から借り受け、それをモデルに伏見の臨済宗円光寺の僧、三要元佶( 58 )に総
監督を依頼して日本最初の銅活字を作らせる。鋳造は伏見円光寺学校(足利学校の分校)
で行われ、唐(中国)人の林五官(56 ?)が鋳造にあたる。
[1606.4.1 約 8 ヵ月をかけて約 8
万本を鋳造する。
]
1605. ○【日本】江戸城普請にともない、傾城屋二十余軒のある柳町が、幕府の御囲い地
(馬場御用地)として召し上げられる。代替地として与えられた神田元請願寺前に移る。
この機に、諸処の遊女屋が集まり傾城町をつくる希望を願い出たが、不許可となる。
1605. ○【中国】マテオリッチが、漢字表記の世界地図をつくる。
1606(慶長11)
1606.[ 4. 1 ]【日本】この頃、銅活字約 8 万個が出来上がる。
1606.[ 6. 4 ]【日本】銅活字 9 万 1261 個が出来上がる。他に摺板、罫、輪郭、活字収納
箱なども作られる。
[[6.6 ]銅活字 9 万 1261 字を後陽成天皇に献上する。家康はもう一組
の 9 万余字を自家用に鋳造させたと推定される。以後、1616 年まで 3 次にわたりに 11
万余個の銅活字(一部木活字)が作られる。これをもとに約 80 冊の本が印刷される。のち
に「伏見本」と呼ばれる。]
1606.[ 9.23]【日本】江戸城本丸の工事が終わり、秀忠が入る。
1606.○【日本】秀頼が、家康の伏見版に刺激され、挿絵入り木活字版『帝鑑図説』6 巻 6
札を印刷させる。朝鮮伝来の原本の翻刻で、精美な書体の木活字が用いられ、多数の挿
絵が挿入される 。
[以後、秀頼版とも呼ばれ、日本のごく初期の挿絵本の典型的な例と
して重要な古活字本と評価される 。
]
1606. ○【日本】京で印刷した暦が売られる。
1607(慶長12)
1607.[ 2.20]【日本】出雲阿国(おくに)が、江戸城内で徳川家康や諸大名の前で初めて歌
舞伎踊を上演する。[のち、2 月 20 日を「歌舞伎の日」と呼ぶようになる。]
1607. [閏 4.24 ]【日本】朝鮮国使が来日し、初めて江戸に入る。日本橋馬喰町本誓寺を
宿舎とする。
1607. [ 5. 6]【日本】朝鮮国使が、江戸城に登城し、将軍秀忠に拝謁、国書を幕府に提
出する。[この年、朝鮮通信使が始まる。]
1607.○【イタリア】作曲家モンテベルディ Claudio Monteverdi (40)が、マントヴァ公ゴ
ンザーガ Vicenzo Gonzaga に仕え、その以来で新しく登場したオペラにも手を染め、最
初の本格的オペラ『オルフェオ Orfeo 』を作曲する。[1608 年、
『アリアンナ Arianna』を
作曲し、一躍人気作曲家になる。本格的オペラの歴史がこれによって始まる。]
- 182 -
1608(慶長13)
1608. ○【日本】洛西(のち、京都西部)嵯峨の素封家角倉(すみのくら)素庵(光昌)が、寛
永の三筆の一人本阿弥(ほんあみ)光悦の協力と出資をうけ、光悦の字をもとに彫刻した
木活字を用いて私刊本を版行する。なかにはすぐれた挿絵を入れた「料紙装飾」、墨摺
の「挿絵」が始まる。[以後、木活字を用いたコマーシャルベースの私家版が、注文によ
り続々開版される。開版の地名により「嵯峨本(さがぼん)」と呼び、あるいは開版者の
名を冠して「角倉本」ともいい、版下が光悦の自筆またはその門流の手になるところか
ら「光悦本」とも呼ぶ。まれには木版整版刷のものもあるが、大部分はひらがな交りの
木活字本(古活字版)で、版式および装丁において、ほとんどその類を見ぬ特徴を有する。
すなわち、平安時代の彩飾書写本の料紙、表装などに施された美術的意匠を印刷本に試
み、その多くは本文用紙に雲母(きらら)を引き、または雲母で模様を刷り込み、さまざ
まな色の紙を用い、表紙にも雲母で花鳥の文様をあらわし、または染色した豪華本で一
種の美術本でもある 。嵯峨本と呼称される資料で現存するものには、
『伊勢物語』10 種 、
『伊勢物語聞書』
(肖聞抄) 2 種 2 冊 、
『源氏小鏡』1 種 2 冊、『方丈記』2 種 1 冊 、
『撰集
抄』2 種 3 冊、『徒然草』6 種 2 冊、
『観世流謡本』9 種 100 冊 、
『久世舞』( 30 曲本)1 種 1
冊、
『久世舞』( 36 曲本) 1 種 1 冊 、
『新古今和歌集抄月詠歌巻』2 種 1 冊 、
『百人一首』2
種 1 冊、
『三十六歌仙』2 種 1 冊、『二十四孝』1 種 1 冊など 13 点ある。うち『新古今和
歌集 』
、
『三十六歌仙』
、
『二十四孝』の 3 書は木版本で、光悦、素庵らの美筆を版下とし
た木活字本である。]
1608. ○【日本】遊女歌舞伎が全盛を迎える。
1608. ○【日本】昨年より、院内(のち、秋田県雄勝町)で、村山宗兵衛が夢の告げで銀山
採掘が始まり、山に数千人がむらがる。ここに遊女、白拍子が 5 人下り来る。[以後、あ
ら町には傾城、白拍子、夜発(やほつ)などが二百余人徘徊する。また 、うかれ女も 10 人、20
人と集まり徘徊する。](
『院内銀山記後編』1660)
1608. ○【オランダ】この頃、オランダで良質のレンズが生産され、レンズ研磨師で眼鏡
師のリッペルスハイ Hans Lippershey (38)が、遠くのものを近くに見えるようにする道具、
すなわち望遠鏡を発明、特許を出願する。( 1609 年とも。)[以後、これを聞いたイタリ
アのガリレイが、光学理論によってただちに倍率 3 倍の望遠鏡を製作する。1609 年、さ
らに高性能のものに改良する。]
1608.○【イギリス】イングランドの航海者ハドソン Henry Hudson( ?∼ 1611?)が、イン
グランド商社の依頼で昨年に続き 2 回目の北極探検航海を行う。バレンツ海のノバヤ・ゼ
ムリャ島を経由する北西航路をさぐるが、またも失敗に終わる。この間、地磁気の北磁
極点を発見する。
1609(慶長14)
1609. 1.15【ドイツ】世界最初の定期的新聞、週刊『レラツィオン( Relation)』が、シュ
トラスブルク(のち、ストラスブール)で発刊される。近代的印刷新聞の先駆となる。[ま
た、同じく週刊の『アビソ Aviso 』も創刊され、両紙はドイツでもっとも古い週刊新聞
とされる。 ]
- 183 -
1609. 4. 9【オランダ】スペイン王フェリペⅢ世(31)が、ハーグでネーデルラント北部 7
州と休戦条約を結ぶ。オランダが事実上独立する。[直後に、ベネチアのリアルト銀行
に範を取って北ヨーロッパで最初の公立(市立)銀行、アムステルダム銀行(Amsterdamse
Wisselbank)が設立される。内外の雑多な鋳貨の流通による混乱を克服することを目的と
する。以後、アムステルダムの通貨は安定し、ヨーロッパ各地の商人たちも、ここに口
座を開く。当座貸越しを厳禁し、国や市への貸付けもほとんど行わない。アムステルダ
ム銀行の機能はヨーロッパの主要都市で模倣され、1619 年にハンブルク、1621 年にニュ
ルンベルク、1635 年にテルダムでそれぞれ同様な銀行が設立される。1732 年ころから東
インド会社への貸付けが次第に累積し、その財務内容は悪化をたどる。1795 年、フラン
ス軍がオランダを占領すると、大量の預金がハンブルクに逃げ出し、この銀行は事実上
その生命を終える。1819 年、回復不可能に陥り、正式に廃止される。
]
1609. [ 7.25]【日本】徳川幕府が、オランダ国王の要請を受け入れてオランダに貿易の
ための来航を許可する 。
[以後、オランダは、平戸に商館を造り、日本が鎖国を続けて
いる間にもここを拠点として貿易を行う。
]
1609. 8.−【イタリア】ガリレイ( 45)が、オランダで望遠鏡が発明されたことを知り、さ
らに高性能のものに改良して、倍率 32 倍の精巧な望遠鏡を製作する。人類で初めて望遠
鏡を天体観測に用いて、月面や天の川、そして惑星などに望遠鏡を向け、月の山やクレ
ーターを発見、天の川が星の集団であることや木星の 4 大衛星(ガリレオ衛星)を発見し、
これらを忠実に記録する。[ 1610.3 『星界からの報告』(『星からの使者』)として発表
する。]
1609. ○【日本】京都の本屋新七が、中国の詩文の選集『古文真宝(こぶんしんぽう)』を
出版する。日本最初の出版人とされる。
1609. ○【スウェーデン】政府が、官職として司書を定め、最初の国家司書官にヨハン・
ブーレ Johann Bure(41)を任命する。
1609.○【ドイツ】この頃、アウスグスブルグで週刊新聞『アヴィサ(アビソ)(Avisa)』
が発行される。近代的な最初の新聞とされる。
1609.○【ドイツ】シュトラスブルグで週刊新聞『レラツィオン( Relation)』が発行され
る(創刊月は不詳)
。12cm × 17cm、1 ページ 35 ∼ 45 行で 4 ∼ 8 ページ建てで、初の新
聞らしい体裁で、近代新聞の祖である週刊の印刷新聞の初めとされる。
1610(慶長15)
1610. 3.−【イタリア】ガリレイ( 46)が、自作の望遠鏡で、月面の山脈、木星の衛星、金
星の満ち欠けなど新発見をして『星界からの報告』として次々発表する。[以後、この功
績により、ベネチアの元老院からパドバの終身教授としての地位を与えられる。望遠鏡
は天体観測に不可欠の器械となり 、ケプラー、ホイヘンス、ヘベリウス、ニュートン、W.
ハーシェルら多くの研究者によって改良が重ねられる。]
1610.○【日本】院内(のち、秋田県雄勝町)で、銀の採掘が盛んになる。遊女屋が約 40
軒集まり、遊女町を形成することが奉行により認可される。京にまさるとも劣らない煩
が繁華の地を呈する 。『
( 院内銀山記後編』1660)
1610. ○【日本】京都原田アントニヨ印刷所で、『こんてむつす・むん地』が販売用に印
- 184 -
刷される。
[のち、重要文化財となる。
]
1610. ○【レバノン】レバノンで、印刷業務が開始される。
1610.○【フランス】この頃、ランブイエ侯夫人カトリーヌ・ド・ビボンヌ Catherine de
Vivonne( 22)が、ルーブル宮殿の近くにあった自邸でサロンを開く。フランス最初のサロ
ンといわれる。リシュリュー、コンデ大公、コルネイユらが常連となる。[以後、このサ
ロンは、ルネサンス以後の我の自覚、自由検討の精神、女性の地位の向上などを背景と
して、約半世紀の間繁栄する。]
1610.○【イギリス】ボドリー Thomas Bodley( 65)と書籍出版商組合の間の紳士協定にも
とづいて、イギリス最初の納本が自発的に行われる。[以後、ボドリーは、15 世紀に個
人文庫ではじまったオックスフォード大学の図書館の復興に尽力する。これを記念して、
ボドレーアン図書館と呼ばれるようになる。1662 年、新たな出版条例により、オックス
フォード大学のボドレーアン図書館、王立図書館、ケンブリッジ大学図書館が納本制度
による特権を得る。これは図書館の蔵書を確保するという面より、済聖(とくせい)的内
容のものや治安を乱すおそれのあるものの刊行を防止することを目的とする。1709 年、
出版者側が版権保護を求めたことで ,納本受入れ図書館は計 9 館に増える。1911 年以降、
納本図書館は、大英博物館図書館,オックスフォード,ケンブリッジ両大学図書館,ス
コットランドの国立図書館,ウェールズの国立図書館,およびアイルランドのトリニテ
ィ・カレッジ図書館となる。]
1611(慶長16)
1611.○【日本】京都・六条三筋町に遊郭ができる。[1640 年、島原に移転する。]
1611.○ 【ドイツ】この頃、ゼーゲン Ludwig von Siegan が 、凹版印刷術(concave printing
press )を考案する。
1611. ○【イギリス】ジェームズⅠ世の欽定訳聖書が、英訳聖書として初めてイギリスで
印刷される。これまで、英訳聖書はすべて大陸で印刷され、ヘンリーⅧ世らの弾圧をく
ぐり抜けてイギリスにもたらされていた。カトリックは自国語聖書の使用を禁止し、一
方プロテスタントはこれを奨励し、義務づけた。[以後、プロテスタントの信者には文字
を学ぼうという動機が公式に与えられる。(アイゼンステイン 、別宮貞徳監訳『印刷革命』
1987)]
1611.○【アメリカ】ヴァージニアに到着した 2 人の未婚女性が妊娠していると分かり、
即刻本国に送還される。以後数年間、このような女たちは、植民地の風紀を乱すとして
本国に送還される。
1612(慶長17)
1612. 4. 7【日本】院内(のち、秋田県)で初めて歌舞伎が興行される。江戸、駿府ではす
でに禁令が出されていた遊女歌舞伎は、当地では税金を課すのとひきかえに歌舞伎興行
が認可される。[∼ 4.9 。]
1612. ○【日本】遊女屋の亭主ら、庄司甚右衛門(甚内)を主導者として江戸の散娼を集め
て傾城町をつくることを願い出る。出願に際し、引負横領之事(一日一夜のみ逗留)、人を
勾引(かどわ)し並に養子娘之事(悪質遊女屋の取締り)、諸浪人悪党並に欠落(かけおち)者
- 185 -
之事(悪党らを見逃さず届け出る)の三ヵ条を条件とした。
[1617 年、許され、元吉原町
開基。]
1612. ○【日本】幕府が、キリスト教を禁じ、京の教会を取り壊す。
1612. ○【日本】佐渡国で金山が繁昌して、江戸にもないほどの遊山見物、遊女等が充満
する 。『
( 慶長年録』)
1612.○【フランス】新聞発行業者 T.ルノードが、広告代理業「金の雄鶏社(El Gallo de
Oro)」をパリで創業する。世界初の広告代理業とされる。[1812 年、イギリスの広告代
理業がロンドンで創立。1841 年、アメリカではフィラデルフィアで創業する。]
1612. ○【イタリア】ガリレオが、温度計を考案する。
1613(慶長18)
1613.[2.13 ]【日本】京都の内裏(だいり)で女歌舞伎が催される。
1613.[5.5 ]【日本】イギリスの東インド会社貿易船隊司令官ジョン・セーリス John Saris
(34?)が、軍艦グローブ号で肥前の平戸に来航し、上陸する。
1613. 夏【トルコ】 オスマン朝第 14 代スルタン、アフメトⅠ世(24)が、全土に禁酒令
を発布する。
1613.[8.4 ]【日本】イギリス東インド会社司令官ジョン・セーリスが、かねてより家康に
重用されていた同国人のウィリアム・アダムズ(50)に伴われて駿府に至り、家康、秀忠に
謁見しイギリス国王ジェームスⅠ世の国書と贈物を提出する。贈物の中に長さ 1 間(約
1.8m)ほどの「靉靆(あいたい)」(遠眼鏡)があり、 6 里(約 2.7km)遠方まで見える望遠鏡
で家康の歓心を得ようとする。日本最初の望遠鏡の伝来となり、家康が初めて望遠鏡を
見る。[以後、アダムズの斡旋で返書と、オランダよりも有利な通商許可の朱印を得て、
平戸に商館を開くことを決定し、リチャード・コックスを商館長に任命する。1614 年に
帰国する。一方、靉靆のほうは、イギリス側の意図に反して、一般人はもとより諸大名
が所持するのも禁止され、外国船の監視にもっぱら使用される。]
1613.○【日本】院内の傾城が最盛期を迎える。[以後衰微し 1618 年頃には傾城は存在し
なくなり、雇女、洗濯女らの下級遊女を中心とした遊里になる。]
1613. ○【日本】佐渡国の山先町(山崎町)と柄杓町に遊女町があり 、
「山先柄杓役」とい
う傾城税が課せられ、「地子銀帳」にしるされる。[以後、山先町の遊女からの営業税が
山先役、柄杓町の比丘尼からの営業税が柄杓役と呼ばれる。]
1613. ○【オランダ】株式を対象とする証券取引所が、初めてアムステルダムに設立され
る。
株式会社制度のはしりとされるオランダ東インド会社の株式がおもに取引される。
[以
後、ドイツのフランクフルト、イギリスのロンドン(ロンドン株式取引所)などにも設立
され、しだいに一般化していく。1791 年、アメリカのニューヨーク(ニューヨーク株式
取引所)にも証券取引所が誕生する。]
1614(慶長19)
1614. 9.−【日本】幕府が、ヤソ教師や教徒を大追放する。ポルトガルからもたらされた
印刷機械や活字を海外に返送する。[以後、印刷は朝鮮方式がもっぱら用いられ、西洋活
版術は 19 世紀中期まで中絶する。]
- 186 -
1614.12.21 [11.21]【フィリピン】キリシタン大名高山右近が、追放船でマニラに到着す
る。
[12.25 盛大なクリスマスのミサに右近が参列する。
](加賀乙彦)
1614. ○【日本】中野市兵衛が、空海の『遍照発揮性霊集』を民間の古活字により出版す
る。
1615(慶長20・元和1)
1615.[3.21 ]【日本】駿府(すんぷ)(のち 、静岡市)に退隠している家康が、以心(いしん)(金
地院(こんちいん))崇伝(すうでん)(46)と林羅山(道春(どうしゅん))(33 )に仏教書『大蔵
(だいぞう)一覧集』の開版を命じる。[以後、林らは、1606 年鋳造の銅活字に加えて、
不足分を鋳造させ、1 万 368 本が新規鋳造される。唐人林五官が鋳造を担当したと推定
される。6.30 『大蔵(だいぞう)一覧集』が開版され、10 部を家康に見せる。1616 年、
第 3 次鋳造で 1 万 3000 本を鋳造。駿河版活字は、銅活字 、木活字合わせ、前後 3 回で 11
万個近く作られる。
]
1615. 5. 7【日本】大坂夏の陣の最後の決戦が茶臼山・岡山付近で行われ、豊臣方の主力
が壊滅して真田幸村らが戦死する。
1615. 6.30 【日本】林道春(羅山)(33)が、徳川家康(74)の命により銅活字を用いて仏教書
『大蔵(だいぞう)一覧集』を開版し、125 部を印行し、家康に 10 部を進呈する。
1615.○【日本】この頃 、京都・島原で太夫の揚代が銀 53 匁、祝儀等を加えると 163 匁。
1615. ○【日本】大坂夏の陣の結末を報じた『安部之合戦之図』と『大坂卯年図』が刊行
される。瓦版、辻売り絵草紙のはじまりとされる。[以後、ともに現存するが,これを当
時印刷されたものとする直接の証拠はない。]
1615. ○【オランダ】スネリウスが、三角測量による最初の測定を行う。[以後、緯度・
経度や地球の大きさ、形がより厳密に測定されるようになり、地図の精度が増す。]
1615. ○【イタリア】ヨーロッパで最初のコーヒー店が、ベネチアに初めて開かれる。
〔世
界で最初にコーヒー店ができたのは、トルコのコンスタンティノープル(のち、イスタン
ブール)といわれる。〕[1645 年にはパリ、1650 年にはオックスフォードと波及する。以
後、ヨーロッパ全土に流行していく。]
1616(元和2)
1616. 2 .−【イタリア】ガリレオ・ガリレイ(52 )が、教会から地動説の放棄を強制される。
1616.[1.19]【日本】徳川家康が、駿府で林道春( 33)、金地院崇伝(47)に、唐から伝わり
中国では失われていた魏徴らの『群書治要(ぐんしょちよう)』の開版を命じる 。
[以後、
既存の銅活字に加えて、不足分 1 万 3000 本を唐人林五官( 66 ?)と庄兵衛が新たに鋳造
する。1606 年以来 3 次にわたる鋳造で、銅活字の在庫が 10 万 182 個となる。[2.25 頃]
林五官が銅活字新鋳の鋳立料を受領する。
]
1616.[4.17]【日本】午前 10 時すぎ、病臥中だった徳川家康(74 )が、『群書治要』の完成
を見ないまま、駿府城で急逝する。
1616.4.23【スペイン】小説家、劇作家、詩人セルバンテス Miguel deCervantesSaavedra( 69 )
が、マドリードで死去する。[以後 、セルバンテスを偲んで「本の市 」が毎年開かれる。4
月 23 日は、スペインのカタルーニャ地方に伝わる守護神サン・ジョルディを讃える日で
- 187 -
あり、この日に男は愛する人に勇気のシンボルの赤いバラの花を贈り、女は男に本を贈
るのが慣わしになり、青空市で本やバラの花が売られる。ユネスコは、4 月 23 日を「国
際本の日」と定める。1986 年、日本に紹介され、書店組合連合会などが 4 月 23 日を「サ
ン・ジョルディの日」と定める。]
1616. 4.23 【イギリス】詩人、劇作家シェークスピア William Shakespeare( 52 )が、死去す
る。[以後、世界演劇史を通じて最大の劇作家とされる。4 月 23 日を「シェークスピア
記念日」とされる。]
1616.[6.初]【日本】この頃、銅活字本『群書治要(ぐんしょちよう)』50 巻 47 冊約 100
部が印行される。[以後、
『群書治要』は、皇室や武家に重宝される。これを用いて、尾
張(おわり)藩の天明(てんめい)版、紀州藩の弘化(こうか)版と相次いで刊行され、普及
する。のちにこれらの銅活字本は「駿河版」と呼ばれる。1898 年、残存銅活字が東京・
麻布の徳川頼倫(よりみち)邸内に開設された南葵文庫に保管される。1940 年、南葵文庫
の解散に際し、日本勧業銀行総裁石井光雄(積翠)と徳富蘇峰の斡旋により、凸版印刷㈱
が、およそ 3 分の 1 にあたる残存の駿河版活字(銅活字 3 万 2166 個(大字 866 個、小字 3
万 1300 個)、木活字 5813 個、計 3 万 7979 個)と銅罫線 88 個、銅輪郭 18 個、摺板 2 面と
ともに駿河版『群書治要』41 巻(原欠 3 巻の他 6 巻欠)を所蔵することとなる。1942 年、
この活字を使って『積翠華甲寿記念論纂』(限定 300 部)の巻頭に「般若心経」が凸版印
刷㈱で印刷される。1944.12 徳富蘇峰の希望により『蘇峰詩集』(前・中・後編)が印刷さ
れる。この際、木活字が新刻補充され、実用版は紙型からとった平鉛版が用いられる。
1944.7.6 駿河版活字が重要美術品にに認定される 。1962.6.21 重要文化財に指定される。]
1616.○【日本】幕府が最初の人売買禁止令を出し、年季は 3 年とする。
1616. ○【日本】佐渡国・柄杓町の比丘尼の買春が禁止され、比丘尼らは近隣の九郎左衛
門町に集団移転する。
1616. ○【オランダ】印刷された競売目録が刊行される。[世界最初の競売目録(カタログ)
とされる。競売カタログの出現によって、情報は地域的なものから、しだいに国際的な
ものになっていく。(クシシトフ・ポミアン『コレクション』吉田城・吉田典子訳、平凡
社)。]
1616.○【オランダ】科学者ベークマン Isaac Beeckman( 28 )が、音の「微粒子」理論を提
唱する。弦のように振動する物体はすべて、周囲の空気を球状の微粒子に切り取り、振
動によりあらゆる方向に微粒子を放射し、これらの微粒子が鼓膜に衝突するときに音を
知覚すると考え、理論化する。
[1618 年 、デカルトが志願将校としてオランダ軍に入り ,
ベークマンを知って,自然学の研究に数学を利用する新しい方法を教えられるなど,強
い影響を受ける。1946 ∼ 47 年、イギリスの物理学者ガボール Dennis Gabor が、量子物
理からの理論的な視点と実験により、音の粒子表現を提唱する 。
]
1616.○【イギリス】対数の発見したスコットランドの数学者ネーピア(ネピア)Laird of
Merchiston, John Napier( 66 )が、「ネーピアボーン」を考案する。[のち、計算尺に発展す
る。]
1617(元和3)
1617. ○【日本】旧北条氏城下・小田原の遊女町の首領庄司甚内(甚右衛門)が、江戸・吉
- 188 -
原(元吉原・のち、中央区人形町)に遊女屋の設立を願い出て 、幕府が 、これを公認する 。
条件は、客は一日一夜、遊女の衣服は関西のように華美でないこと、怪しい遊客は奉行
所へ訴えることを命じる。甚内は、江戸の遊女業者が各地に散在しているため取締りが
困難なこと、遊女街が反徳川浪人の居場所になっていることなどから、「専売」を幕府に
申し込んでいたもの。割り当てられたのは、江戸町一、二丁目、京町一、二丁目の 4 町
で、2 町(200m )四方の泥地で葭(よし)が茂っていたのを、縁起をかついで吉原と名付け、
工事を始める。[1918 年に完成、開業する。]
1617. ○【中国】明で小説『金瓶梅』が出版される。
1617. ○【ウクライナ】キエフで印刷業務が開始される。
1617.○【オランダ】ライデン大学数学教授スネル(ラテン語読みでスネリウス) Willebrord
Snell(26)が、地球の上の 2 点の距離測定のために三角測量法を発明する。
[17 世紀中期
にフランスで発明される望遠鏡とバーニア目盛りのついた測角器を用いることにより、
長い距離を巻尺で精度よく測るという困難な作業を減らし、かわりに多くの角を測定し
て、広い区域にわたって高い精度で位置の測量をすることが可能となる。
]
1617.○【イギリス】この頃、スコットランドの貴族で、対数計算の創始者 J.ネーピアが 、
「ネーピアの計算棒」と呼ばれる計算器具を発明する。これは,九九の表を分解記入し
た棒を並べて,乗除算を行うものであって,実用的に広く使われる。イギリスが世界の
海を支配し始め、天文学や三角関数に基づいた航海術における計算需要がその背景とな
る。[ 1623 年ころ,ドイツのシッケルト W.Schickerd が、ネーピアの計算棒による乗除算
機構と歯車による加減算機構とを組み込んだ計算機械を試作しようとする。]
1618(元和4)
1618.11. −【日本】江戸・吉原(元吉原・のち、中央区人形町)で、庄司甚内を首領とし
て画期的な遊女町が営業を始める。たちまち日本三大遊女町の一つになる。遊女は 3 階
級あり、大名や大町人を相手とする太夫、中級の格子女郎、下級の端女郎で、太夫は京
都出身が多く、美人であることはもとより、茶道、華道、歌道などの教養が深いことも
条件とされる。この頃、客は直接遊女屋に行くのではなく、揚屋という高級茶屋に行っ
て遊女を呼ぶのが原則とされる。客は、酒食を茶屋でとり、遊女とも茶屋で寝る。[16
年に吉原に所替えを命じられる。]
1618.○【日本】この頃、菱川師宣(∼ 1694 ?)が生まれる。浮世絵師の始祖で、四十八
手の考案者。作品には肉筆が「見返り美人 」
、版画「吉原の体 」
「月次遊[月並み遊び]」
などがある。
1618.○【スウェーデン】国立文書館が設立される。
[1878 年、完全な独立機関となる。
]
1618. ○【フランス】パリに書籍商・印刷業者・製本業者組合が、王権の認可を得て設立
される。[ 1644 年、地方にも書籍商組合が設立される。作家たちは、書籍商に作品を売
るか、有力な書籍商に雇われたり、国王や貴族をパトロンとして庇護を受ける。]
1619(元和5)
1619.○【日本】徳川頼宣が、紀州に転封する。駿河版銅活字も紀州に移管される。
[1846
年、紀州版『群書治要』が刊行される。]
- 189 -
1619. ○【日本】幕府が、詳細な人売買禁止規定を定める。
1620(元和6)
1620. ○【日本】幕府が、漢訳の洋書『欧羅巴人利瑪寶らが作、三拾弐種之書、ならびに
邪宗門教化の書』を禁書にする。32 種の中にはユークリッド幾何学の『幾何原本』など
もある。
1620. ○【日本】この頃、民衆向けのかな書き中心の小説,実用書,娯楽読物が出版され
るようになり,それらを売り歩く行商本屋が登場、貸本屋も兼業する。
1620. ○【ドイツ】この頃、天文学者ケプラーが、移動可能なテント型のカメラ・オブス
キュラを製作し測量に使用する。同じころウュルツブルク大学の数学教授カスパル・ショ
ットが、焦点調節のできるものを製作する。
1620.○【オランダ】この頃、ヨーロッパの「ニュース集散地」であるアムステルダムで 、
のちの新聞に類似した多くの 1 枚刷りのニュース媒体「コラントス corantos」が出され
る。[ 1621 年、イギリスのアーチャー Thomas Archer が,これらのオランダのニュース媒
体を翻訳して、初めて報道の小冊子『ニューズブック(newsbook)
』を出版する。]
1620.○【オランダ】天文学者・物理学者、ライデン大学数学教授スネル Willebrord Snell
(29)が、光の屈折の法則を実験的に発見する。[以後、公表しない。1637 年、デカルト
が理論的に屈折の法則を論じたのを機会に 、
「スネルの法則」として世に知られるよう
になる。]
1620.○【フランス】カトリック・ルネサンスにより、宗教書の出版が盛んになる。
[以後、
1650 年まで続く。
]
1620. ○【イギリス】旅行用の大きな鞄が作られるようになる。中には、銀無垢に金メッ
キした皿、洗面用具、筆記用具、ポット 、照明用具 、蓋付き缶が入るようになっている。
1620.○【イギリス】思想家ベーコン Francis Bacon( 59)が、
『学問の大革新』全 6 部とし
て予定されている書の第 2 部として『ノウム(ノヴム)・オルガヌム Novum Organum(新
機関)』を著す。第 1 巻で、活版印刷術、火薬、羅針盤を、学問・戦争・航海に大変革を
もたらした3大発明として掲げる。さらに、人間の知性の真理への接近を妨げる偏見と
して、4 つのイドラ idola (偶像または幻影)をあげる。第一は、自己の偏見にあう事例に
心が動かされる、人類に共通の種族の偶像、第二は、いわば洞窟に閉じ込められ広い世
界をみないために個人の性向、役割、偏った教育などから生じる洞窟の偶像、第三は、
舞台上の手品・虚構に迷わされるように、伝統的な権威や誤った論証、哲学説に惑わさ
れる場合の劇場の偶像、第四は、市場での不用意な言語のやりとりから生じる市場の偶
像である。
1620. ○【イギリス】トーマス・シェルトンが、ウィリス式速記法を改良して、シェルト
ン式符号を考案、初版を発表する 。
[1630 年(一説に 1625 年)改良 2 版「ショート・ライ
ティング」を発表する。]
1620.○【イギリス】天文学者エドマンド・ガンター Edmund Gunter( 39 )が、ガンター尺
とよばれる対数尺を考案し、コンパスを使って航海上の問題を解く計算に利用する。計
算尺の元祖となる[以後、イギリスのウィリアム・オートレッド William Oughtred(1574
∼ 1660)が、ガンター尺を 2 本相互に移動させることによって、コンパスを使わずに計
- 190 -
算できるようにする。また、オートレッドは、円板の周上に目盛りを施した最初の丸型
計算尺を発明する。以後、イギリスで計算尺はしだいに改良されていく。とくにジョン
・ロバートソン John Robertson (1712 ∼ 76 )は真鍮製の薄片でカーソルをつくり実用価値
を高める。]
1621(元和7)
1621.○【日本】後水尾天皇が、宋の江少虞『皇朝類苑 』を 、銅活字を用いて刊行させる。
[以後、中国にも伝わり、永く伝来を絶っていた書物が、日本の翻刻本によって復活保
存される。
]
1621.○【イギリス】アーチャー Thomas Archer が、オランダのニュース媒体『コラント
ス corantos』を翻訳して、報道の小冊子『ニューズブック(newsbook )』をロンドンで出
版する。このためにアーチャーは投獄される。現物も残されていない。[ 9 月、〈N.B.〉
なる男がこの翻訳新聞刊行・販売の公認をもらって仕事を始める 。1622 年、規模を拡張,
ほぼ週 2 回、8 ∼ 24 ページのセミ・パンフレットの形で国外ニュース(国内ニュースは
厳禁された)集録を刊行する。この頃、「コラントス」とか「ニューズブック」と呼ば
れる新聞が多数出現する。1632 年、この国外ニュース翻訳新聞も禁止される。1638 年に
は星室裁判所(Court of Star Chamber )の事前検閲など制限つきで復活、自由に新聞が発行
できるようになるピューリタン革命まで続く。公認をもらった〈N.B.〉は、ロンドンで
本屋と出版を営んでいたバター Nathaniel Butter とされるが、同業のボーン(ブアーン)
Nicholas Bourne との説もある。]
1622(元和8)
1622. 5 .−【イギリス】アーチャー ThomasArcher とボーン(ブアーン)Nicholas Bourne が、
許可を得てイギリス最初の週刊の印刷新聞『ウィークリー・ニュース Weekly News
(Newes ?)』を創刊する。[以後、
『A Courant of General News』などと題号は不定。10
月、
『Weekly News』を継続する。
1622. ○【ドイツ】製紙業が盛んになり、原料のぼろぎれが不足気味になっているため、
政府は製紙工場を中心に発生したぼろぎれの独占的回収の特権を製紙業者に与える。
(『書
物の起源』)
1622. ○【フランス 】有力なパトロンの庇護を受けている画家・彫刻家など美術家がの「特
権享受者」が、公開勅書により独立性が制限される。これまで、組合加盟による公認を
義務づけられていた美術家が、パトロンを持つことにより自由な制作活動を行うことの
できる特権享受者があいついで活躍するようになり、組合側は特権享受者により組合の
権利が侵食されることを恐れて抗議してきた。[ 1623 年、組合の主張が最終的に認めら
れる。ルイⅩⅣ世時代、組合は特権享受者の美術家の数を減らすよう要求し、これを契
機に新組合として「アカデミー・ロワヤル」が設立される。]
1622. ○【ローマ】教皇グレゴリウスⅩⅤ世が、新旧両教の対立の中で、カトリシズムの
教義の積極的な宣伝を目的として「布教聖省 Sacra Congregatio de Propaganda Fide」を創
設する。[以後、ヨーロッパにおける組織化された宣伝の最初といわれる。]
1622.○【イギリス】占星術師ウィリアム・リリー( 20)が、万用歴と助言による利益、公
- 191 -
的地位による年金収入、弟子たちの払う保証金を合わせて、年間およそ 500 ポンドの収
入を得る。
1623(元和9)
1623.○【日本】この頃、京に書肆が 14 を数え、商業出版が成立している。[以後、出版
業が京を中心とする上方で栄える。]
1623. ○【日本】この頃、古活字本の仮名草紙『きのふはけふの物語』刊。(?)
1623.○【ドイツ】ケーニヒスベルクで、週刊報道紙『Avisen oder Wo()chentliche Zeitung 』
が発刊される。
1623.○【ドイツ】この頃、シッケルト W.Schickerd が、ネーピアの計算棒による乗除算
機構と歯車による加減算機構とを組み込んだ計算機械の製作を試みる。[のちに、この機
械は復元される。]
1623.○【イギリス】シェークスピア『ファースト・ジョリオ版』が、ロンドンの W.ジャ
ガードにより刊行される。
1623. ○【イギリス】世界で初めて発明特許法が制定される、
1624(寛永1)
1624.○【日本】この頃、湯屋の料金が 8 文になる。2 階には 8 文払えば利用できる座敷
がある。もう 8 文出すと菓子が出る。碁、将棋などが置いてあり、壁には芝居の番付類
などが貼ってある。湯屋は、老若男女を問わず江戸庶民の社交場となっている。[1772
年まで料金は据え置かれる。]
1624.○【デンマーク】コペンハーゲンに証券取引所(bourse)が設立される。
1624.○【ドイツ】シッカルト Wilhelm Schickart( 1592 ∼ 1635 )が、計算機械を考案する。
1624.○【イギリス】専売条例( Statute of Monopoly)が制定される。近代特許法の先駆と
される。[以後、このような産業保護制度の整備が、他国に先んじてイギリスに産業革命
をもたらしたとも考えられる。]
1624. ○【アメリカ】リチャード・コーニッシュが、同性愛で初めて有罪となる。若い男
に不自然な性関係を強要したとして絞首刑に処せられる。
1625(寛永2)
1625.○【日本】幕府が人売買を禁止し、年季を 10 年に改める。
1625.○【日本】この頃、江戸の風呂賃が 20 文。
1625.○【ヨーロッパ】再び魔女狩りが激しく行われる。[以後、1635 年まで約 10 年間行
われる。また、1660 ∼ 1680 年にも激しく行われる。]
1626(寛永3)
1626.11.18【バチカン】新大聖堂が完成し、ウルバヌスⅧ世により献堂式が行われる。 1506
年に着工以来 120 年の歳月を経ており、この年は奇しくも旧堂が献堂されてから 1300 年
目にあたっていた。[以後、工事は続行される。1657 年、ベルニーニによって巨大な柱
廊を巡らした聖堂前広場が整備さる。1566 年、この柱廊から教皇庁に通ずる階段「スカ
- 192 -
ラ・レジア」が完成される。]
1626. ○【日本】江戸市中に時刻を知らせる最初の「時の鐘」が、日本橋本石町に設けら
れる 。江戸城の鐘撞き役人辻源七が、この土地を拝領し 、鐘楼を建てて業務を開始する 。
1626. ○【日本】常陸水戸の富商佐藤新助が、幕府および水戸藩の許可を得て寛永通宝を
鋳造する。官銭ではない 。
[1636 年、江戸と近江坂本の銭座で、官銭として鋳造を始め
る。
]
1626. ○【中国】南京の呉発祥が、(飴−台+豆)印(多色刷版画)『羅軒変古箋譜』を刊行
する。
1626.○【オランダ】A.ヴァン・デン・シュピーヘルが、『胎児形態図譜』を刊行する。
1626. ○【フランス】出版業者セバスチャン・クラモワジーが、サンタレッリ『暴君放伐
論』を受け取った咎で処罰される。
1626.○【ローマ】布教聖省( De Propaganda Fide )の印刷所が建てられる。
[以後、諸言語
の活字群が組織的に蓄積され、これによる各言語の印刷物が作られて、世界各地域へ福
音が宣べ伝えられる 。
]
1627(寛永4)
1627. ○【中国】南京の胡正言が、(飴−台+豆)印(多色刷版画)『十竹斎書画譜』を刊行
する。
1627.○【フランス】マザランの個人文庫の司書ノーデ Gabriel Naud (e)が、図書館とい
うものは書物を集めておくだけのものでなく,大いに研究に利用さるべきもので,科学
者,研究者の「実験室」の性格をもつべきものであることを主張する。[1643 年、ノー
デがマザラン図書館を創建する。
]
1628(寛永5)
1628.1.20【フランス】枢機卿・宰相リシュリュー Armand Jean du PlessisdeRichelieu( 43 )
が、万用歴の著者たちがその守るべき義務を逸脱し、占星術的予言など確かな根拠のな
い無益な事項を盛り込み、国民を困惑させていることを遺憾とし、万用歴に 1 ヵ月間の
月の様子、蝕 、および大気のさまざまな傾向や性質以外の事柄を掲載するのを禁止する、
と宣言する。
1628.○【ドイツ】イエズス会士キルヒャー Athanasius Kircher( 26)が、エジプトのオベリ
スクを写生した画集を通じて聖刻文字(ヒエログリフ)を知る。[1636 年に、コプト語
を手がかりに解読に着手する。1652 年,その成果を『エジプトのオイディプス』として
公表する。]
1628.○【イタリア】北イタリアでペストが流行し始める。[翌 1629 年までの 2 年間に死
者が 100 万人に達する。ペストの流行の際、生き残った聖職者たちが患者を介護しても、
再びペストにかかることがなかったことが、恩寵(おんちよう)として語られる。]
1628.○【イギリス】ロイヤル・カレッジ・オブ・フィジシアンのラムレー講師(教授相当 )
ハーベー(ハーヴェイ)William Harvey (50)が、多くの冷血動物や温血動物の生体解剖によ
って、心臓の動きや弁膜の機能の解剖生理学的研究を行い、大循環、小循環を明らかに
して 、
『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』Exercitatio anatomica de
- 193 -
motu cordis et sanguinis in animalibus(四つ折判 72 ページの小冊子)を、フランクフルト
・アム・マインで出版する。
1629(寛永6)
1629. ○【日本】幕府が、キリシタン摘発のために絵踏みの制度を案出し、まずは信者の
多い長崎で実施する。絵踏みに用いられる絵は「踏絵(ふみえ)」と呼ばれる。
1629. ○【日本】幕府が、女歌舞伎を風紀を乱すものとして禁止令を出す。ここに女によ
る歌舞伎の上演は終止符を打つ。[以後、ひとたび流行したこの奇抜な踊りは人々の心を
捉え、消滅消滅することなく、密かに法網をくぐって、前髪の美少年たちを女装させ踊
らせる歌舞伎、若衆歌舞伎が流行する。]
1629. ○【日本 】幕府が、吉原の夜間営業を禁止する 。[以後、銭湯の一種である「湯女(ゆ
な)風呂」が人気を集める。容色のすぐれた湯女をかかえて ,浴客の垢をかき,髪を洗い,
酒席にはべるなどさせる。このような湯女風呂が堀丹後守の邸前(のち、神田須田町付
近)に何軒かあり、江戸では丹前(たんぜん)風呂の名が喧伝され ,
〈丹前風〉と呼ぶ風俗
を生み出す。]
1629.○【オランダ】エルゼヴィール(エルゼビア) Elsevier が、袖珍版古典双書の刊行に
踏み切る。
[1880 年、創業。
]
1629. ○【フランス】ミショー法典が発布される。出版統制に関する箇条で、検閲人を選
ぶのは大法官であることが定められる。[以後、この規定にもかかわらず、パリ大学神
学部との抗争はなおも続く。1653 年、大法官セギエが、パリ大学神学部より事前検閲権
を奪取する。
]
1629.○【フランス】コンラール Valentin Conrart( 26)が、サロンを始める。ボアロベール
やシャプランの集会所となる。[1635 年に誕生するアカデミー・フランセーズの母体とな
る。]
1629.○【アメリカ】ピューリタンの一群が、マサチューセッツの植民地へ 62 冊の小コ
レクションを持参する。[1638 年、宣教師ハーバード John Harverd の遺贈になる 260 冊
の蔵書により、ハーバード大学図書館がスタートする。
]
1630(寛永7)
1630. ○【日本】幕府が 、禁書令により、キリシタン信者の国外追放とともに 、伴天連(バ
テレン)訳述のキリシタン関係書 32 点の輸入を禁じ,所持も禁じる。
『天学初函』19 点
はキリスト教義の書で、その他 13 点は数学・天文測量書。[1639 年、鎖国令とともに厳
重に取り締まる。]
1630. ○【日本】この頃から、庶民を対象にした出版物の印刷は、活版から版木に転換し
てゆく。活字は約 8 万種の鋳型を必要とし、さらに嵯峨本のように連綿体に対応するた
めの 2 字続き活字、3 字続き活字の鋳造も必要になる。出版数が増えれば、鋳型ととも
に大量の銅活字のために膨大な量の銅が必要になる。また木活字で彫るとしても、手間
は板に彫るのと大差ないことになり、活字のメリットはほとんどなくなる。さらに読者
層が庶民に及ぶにしたがって、漢字に振り仮名をつけるとか、挿絵も必要になる。[1635
年ころ、出版業界は活字の使用を断念する。以後、仮名草子をはじめ、紀行、注釈、評
- 194 -
論、俳諧集などが版木によって出版されるようになる。版木によって可能になった振り
仮名は、中国語の原文に、右側には漢字の読み、左側には翻訳をつけることを可能にし
て、中国大衆小説や詩集の翻訳書を大衆化して、日本独特の出版形態を作り出してゆく。
『唐詩選』なども、文字が篆書、隷書、楷書、草書などいくつもの字体で印刷され、絵
を中心に編集されて『唐詩選絵本』として大量に出版される。]
1630. ○【ドイツ】ハンブルクの郵便局長ハンス・クラインハウスが、ニュース紙を発行
する。[∼ 1675 年。]
1630.○【ドイツ】アルシュテット Johann H. Alsted (42)が、
『分類百科事典(Encyclop ■
diaseptem tomio distincta )』を著す。初めて「エンサイクロペディア」の語を用いて、プ
リニウス以後の分類型大著となる。[以後、ラテン語で書かれたため、一般には利用され
ない。]
1630.○【イギリス】トーマス・シェルトンが、1620 年に考案した速記符号を改良し、改
良 2 版「ショート・ライティング」を発表する。(一説に 1625 年という。)[ 1641 年、ス
ピーディー・ライティングとも呼ばれる「タキグラフィー」を発表する。
1630. ○【イギリス】この頃、演劇で両性具有的な少年俳優に代わって、初めて女優が登
場する。異性装は神への冒涜として清教徒に攻撃されていた 。
(國學院栃木短大、山崎
順子「シェイクスピアと歌舞伎」交際会議、西宮市・尼崎市、1995.8.8 )
1631(寛永8)
1631.5.30【フランス】外科医でルイⅩⅢ世の宰相だったルノード Th レ ophraste Renaudot
(45 )が、週刊の印刷新聞紙『ガゼット( La Gazette)』を創刊する 。4 ページ建て。
[11 月 、
「各地通信」4 ページがつけ足される。『ガゼット』より少し前に創刊されていた『各地
通信』を、宮廷をバックにしたルノードが吸収合併したものと言われる。しかし『ガゼ
ット 』(のち『ガゼット・ド・フランス』と改称)がフランス最初の新聞で、ルノードは〈フ
ランス新聞の祖〉だとされる。1650 年ころ、一種の旅行代理店である「アドレスとめぐ
りあいセンター」を設立する。1925 年、彼にちなんで小説を対象とする文学賞「ルノー
ド賞 」が設けられ、1926 年から授賞が開始される。授賞日はゴンクール賞と同日である。
]
1631.○【チェコ】モラビア生まれの教育思想家コメニウス Johann Amos Comenius(39)が、
百科全書的原理によるラテン語教科書『語学入門(Janua linguarum reserata ) 』を公刊する。
言語教育の領域で、ヨーロッパに一躍有名になる。[ 1633 年に『語学入門手引(Janua
linguarum reserataevestibulum )』を著す。]
1631.○【スペイン】アラオス Francisco de Ar(a) oz が、
『 図書館での配列の仕方』を著し、
書物を 15 のカテゴリーへ分割する。5 つは宗教的なもので、神学、聖書研究、教会史、
宗教詩、教父たちの業績とする。のこりの 10 は世俗的なもので、辞書、主要論題集、修
辞学、世俗史、世俗詩、数学、自然哲学、道徳哲学、政治学、法学とする。
1631.○【イギリス】この頃までに、馬車( coach)がロンドンで普通の乗り物になってい
る。のちのタクシーの前身であるハックニー乗合馬車が、非常に数が増える。ブラック
フライヤーズの住民たちは、貴族たちが劇場に馬車でやってくることで生じる迷惑につ
いて枢密院に嘆願する。[以後、クロムウエルが、免許システムを導入して馬車の数を制
限する。1634 年 、椅子付きの駕籠「セダン 」が流行して、問題を一層複雑化させる。](『ロ
- 195 -
ンドン年代記』)
1631. ○【イギリス】王室御用印刷師のロバート・バーガーとマルチン・ルーカスが、八つ
折り判欽定聖書を 1000 部印刷したが、出エジプト記第 20 章 14 節の「汝、姦淫するなか
れ」とすべきところを、否定の「なかれ(not) 」を落とし「汝 、姦淫せよ 」としてしまう。
刊行後間もなく誤りが発見され、直ちに回収、焼却を命じられる 。
『姦淫聖書(Adultery
Bible)』あるいは『邪悪聖書( Wicked Bible)』と称せられる。[ 1632 年 5 月 8 日に、高等
査問会の法廷に召喚、6 月 14 日に再審問され、300 ポンド(一説には 500 ポンド)の罰金
を課せられる。1855 年にイギリスの古書籍商ヘンリー・スティブンスが偶然に! 冊を発見
する。]
1632(寛永9)
1632. 2.−【イタリア】ガリレイ Galileo Galilei( 68 )が、6 年間をかけて 1630 年に脱稿し
ていた地動説に関する論考が『天文対話』として刊行される。コペルニクス理論と地球
上での力学理論の整合、つまり天地の同等性を述べることを主要な論点とする。[ 7 月、
発売禁止令が出る。10 月、ローマの異端審問所への出頭命令が出て第二次宗教裁判が始
まる。1633 年 6 月、判決が下り、「異端誓絶」を強制される。12 月、幽閉される。1634
年、長女ビルジニアが死去し、ほどなく両眼を失明する。]
1632. ○【日本】林羅山が、忍ヶ岡の邸内に忍岡文庫を設ける。
1632.○【中国】(天聡 6)清の第 2 代皇帝太宗(ホンタイジ Hongtaiji)(40)が、文館の儒臣
達海(ダハイ)に文字の改良を命じ、 1599 年に制作された「無圏点老満文」の字母の傍ら
に圏と点をつけ、漢字音を表す新しい字母を加えるなどして「有圏点満文」が考案され
る。満州文字は縦書きであるが,行は左から右へ追う 。[以後、清朝時代の文献の大部
分が有圏点満文で記される。現在まで満州族の子孫 、新彊シボ族が使用し続ける。シボ(錫
伯)族(シベ族ともいう)は、遠く清の西辺の防備のため,1764 年∼ 65 年にかけて満州から
新疆へ移住した兵士と家族の子孫が、新疆ウイグル自治区のチャプチャルシベ(察布査爾
錫伯)自治県などで定住し、満州語を話している。この満州語はシボ(錫伯)語(シベ語)と
もいう。](中嶋幹記「世界の文字 24 満州文字 」
『三省堂ぶっくれっと 』No.120 、1996、)
1632. ○【イラン】ペルシャのサルー・サルタキ(年とった宦官)が、アッパースⅡ世の宰
相となる。
[∼ 1945 。厳しい法律で買春行為を禁止する。
(シャルダン『ペルシャ紀行』
)
1633(寛永10)
1633. 6.22【イタリア】ローマの異端審問所が、ガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei (69)に
有罪判決を下す。ガリレイは、地動説を破棄するよう「異端誓絶」を強制され、自宅で
の謹慎を命じられるが、
〈それでも地球は動いている〉と抗議する。[12 月、ローマの自
宅に幽閉の身となる 。1634 年 、長女ビルジニアが死去し 、ほどなく両眼を失明する。1642
年 1 月 8 日死去。1983.5.9 ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世が〈かつてガリレイが教会側か
ら苦痛を被ったことを認める〉と、バチカンで開催中の国際シンポジウムで発言、350
年ぶりにガリレイの復権を認める。]
1633.12. −【ドイツ】ザクセン候が、ライプチヒのモーリッツ・ペルナーの手書き新聞を
印刷新聞にすることを許可する。
- 196 -
1633. ○【日本】長崎出島のオランダ商館長が、対日貿易を許可されている礼を述べるた
め、江戸へ赴く。[以後、毎年江戸に赴くようになる。]
1633. ○【日本】この頃、江戸で湯女風呂が流行する。湯女は入浴の世話をしたり、浴後
の接待をしていたが、多くが私娼化してひそかな人気を得て、このような女を 20 ∼ 30
人を抱える町湯が「湯女風呂」と称して急増する。[以後、幕府は、湯女の私娼化と湯
女風呂が市中の遊侠者の溜まり場になっていいることなどを理由に、度重なる取締りを
行うが、なかなか実効があがらない。1657 年、これを全廃し、新吉原へ吸収させる。
]
1633. ○【フランス】ジヤック・コサールが、フランス最初の速記法を発表する。[以後、
実用化されない。1778 年、クロン・ド・テブノがクロン式を発表、実用が始まる。
]
1633.○【イギリス】ロンドンの商人トーマス・ウィザリングスが、外国郵便局長となり 、
ロンドン∼アントワープ間の郵便を週数回に増やす。所要日数は 3 日。
1634(寛永11)
1634.[閏 7.9]
【日本】薩摩藩の征服下にあった琉球の使節団が、将軍の代替りを祝う賀
慶使として来航し、薩摩藩主島津家久に伴われ、二条城で将軍家光に謁見する。
1634. ○【フランス】宰相リシュリューが、アカデミー・フランセーズ(フランス学士院)
を創設する。40 人の終身会員から成り、“不滅の 40 人”と称せられる。会員には、正し
い国語を確立するために辞書を作り、文法書を刊行することなどの任務が課せられる。
[1694 年、最初の『アカデミー辞典』が発行される。
]
1634. ○【フランス】ルダンの修道女ジャンヌ・デザンジェが、牧師グランディエに失恋
し、エロティックな妄想、ひきつけのあげく、想像妊娠をする。このことで牧師は火あ
ぶりの刑となり、彼女は広く崇拝された。[この事件をもとに、1952 年にオルダス・ハク
スリーの小説『ルダンの悪魔』、 1970 年代にケン・ラッセルの映画『肉体の悪魔』などが
作られる。]
1634. ○【イギリス】ロンドンの交通手段の一つとして、フランス式の椅子付き駕籠「セ
ダン( sedan)」がはやりだす。在来の乗合馬車( coach)に入り交じって、交通渋滞や駐・
停車場所での混雑を引き起こし、問題化する。『
( ロンドン年代記』上巻 p.183 に図あり。)
1635(寛永12)
1635.[ 5.20]【日本】幕府が 、外国船の入港を長崎に限定する 。
[[5.28] 「第 3 次鎖国令」
により、日本人の海外渡航、海外からの帰国を禁止する。
]
1635.○【日本】朝鮮との関係が修復する 。
[1636.12 正規の通信使(朝鮮通信使)が来日す
る]
1635. ○【日本】 参勤交代が始まる。以後、全国の幹線道路が整備され、安全で清潔な
ものに整備されていく。
1635.○【フランス】宰相リシュリュー Armand Jean du Plessis de Richelieu ( 50)が、フラ
ンス語の改良や純化に寄与する目的で「アカデミー・フランセーズ(Acad レ mie fran ぅ
aise)」を創設する。1633 年ごろ、リシュリューが詩人コンラール Valentin Conrart( 1603
‐∼ 5)の家で文芸同好会のような集りがあるのを知り、これを公的機関に制定した。会
員は 40 名。終身制で「不滅の 40 人」と呼ばれ、フランス国籍所有者に限られ、例会出
- 197 -
席のためパリ在住を義務づけられる。[以後、フランス語と文化についての最高権威の組
織として、永く活動を続ける。1640 年、王立印刷所を創設する。]
1635.○【フランス】王室薬用植物園が発足する。[1640 年、民衆に公開される。1739 年、
博物学者ビュフォンが園長に就任。以後、1788 年までの間に、世界有数の植物園に発展
する。ここで解剖学、植物学、化学の講義が行われる。パリ植物園(Jardin des Plantes )と
なり、国立パリ自然史博物館の付属施設とされる。]
1635. ○【イギリス】王室の専用の国営郵便が、一般国民に開放される。ロンドン∼エジ
ンバラ間に郵便馬車が設けられる。[ 1680 年、ロンドンの商人ドクラ W. Dockwra が、ペ
ニー郵便を創設する。]
1635.○【イギリス】ジェリ・ブランドが 、地磁気の偏角が経年変化することを発見する 。
1635. ○【イギリス】初の郵便法がつくられる。王室専用だった政府直営の郵便が一般国
民に開放される。
1636(寛永13)
1636.[ 5.19]【日本】前年に続き、幕府が鎖国令を発す。日本人の海外渡航を厳禁し、ポ
ルトガル人とその家族を国外追放する。第 4 次鎖国令で、これをもって「鎖国令」の枠
組みがほぼ完成する。[以後 、
「寛永の鎖国令」と呼ばれる。
]
1636.[12.13]【日本】前年に朝鮮との関係が修復し,正規の通信使(朝鮮通信使)任絖が
来日、泰平を祝して江戸城で将軍家光に謁見する。[12.20
[
] 一行が日光東照宮に参拝
する 。
]
1636.○【日本】江戸の城下町が一応完成する。家康が着手以来 46 年目のことである。
1636. ○【日本】幕府が、正貨として銅銭「寛永通宝」の鋳造を許可し、江戸の浅草橋場
・芝縄手の 2 ヵ所、および近江坂本の銭座で鋳造が開始される。
[1637 年、陸奥仙台・常
陸水戸・越後高田・信濃松本・三河吉田・備前岡山・長門萩・豊後竹田の 8 ヵ所にも銭座が増
設される。その後全国各地に銭座が開設されて銅銭貨の大量鋳造が行われる。1869 年、
寛永銭 1 文が 1 厘となって通用する。1871 年、造幣局でつくられた貨幣が発行され,寛
永銭は流通市場から姿を消す。
]
1636.○【日本】幕府が 、キリシタン関係書の輸入取締りのため、長崎に春徳寺を建立し,
開山泰室に目利(めきき)(検閲者)を命じる。[1685 年、副目利長崎聖堂祭酒向井元成が、
清船積荷検閲で『寰有詮』等を発見し、その功で正副目利の地位が逆転する。]
1636.○【中国】金のホンタイジが、皇帝を称し、金を清と改める 。
[1644 年、明は滅亡
し、清軍が万里の長城を越えて中国に入り、順治帝が都を北京に定める。
]
1636.○【ドイツ】イエズス会士キルヒャー Athanasius Kircher( 34)が、コプト語を手がか
りに、エジプト聖刻文字(ヒエログリフ)の解読に着手する。
[1628 年、エジプトのオベ
リスクを写生した画集を通じて聖刻文字を知り、解読を試みる。その成果を『エジプト
のオイディプス』(1652 ∼ 54 )として公表する。しかし解読法がカバラの神秘的な言語
分析法に拠りすぎていたため今日では誤読とされているが,着想の方向としては正しか
った 。
]
1636.○【フランス・イタリア】メルセンヌ Marin Mersenne(48 )とガリレオ(72)が、音の
- 198 -
ピッチは波形の周波数によるものであることを実験的に調べる。
[1636 年、メルセンヌ
が大著『普遍和声学』を著す。さらに、メルセンヌとガッサンディは、音波の伝達速度
を決定する最初の実験を行う。以後 、実験に基礎を置く近代科学の確立と推進に尽くす。]
1636. ○【スペイン】セビリアで、ティルソ・デ・モリナが戯曲『セビリヤの色事師と石の
客人』を発表する。[以後、ドン・ファン伝説の起源となる。]
1636. ○【アメリカ】アメリカで最初の私立大学、ハーバード・カレッジ(のち、ハーヴァ
ード大学)が、マサチューセッツ州ケンブリッジに創設される。イギリスからニュー・イ
ングランドに移住してきたピューリタンが、上陸して 17 年目のこの年に、牧師養成のた
めの宗教教育を目的として創設する。創立に際し、イギリス生れの牧師ハーバード(ハー
ヴァード)John Harvard( 29)が最初の寄付者となり 、校名はその名を記念してつけられる。
[1638 年、ハーバードが死去し、遺言により財産と蔵書が寄付される。1643 年、このカ
レッジ創設の理念を〈「学問を進め、これを子々孫々に不朽に残し、将来教会が無学の
牧師に任せられるようなことがあってはならない〉という文書で示す。この文句は、現
在同大学校門に彫られている。]
1637(寛永14)
1637. 7.−【イギリス】チェンバー Star Chamber が、厳しく広汎な印刷物取締令を布告す
る。扇動的冊子や文書の印刷を禁じ、輸入書籍販売事前検閲、許可・登録前の図書印刷
の禁止、著者の了解なき図書の再刊の禁止、図書・バラード・地図・肖像等の印刷物に
印刷者・発行者・著者名を明示することなどを規定する。また、王立・大学の印刷所以
外の印刷業は 20 人に限定し、1 印刷師の印刷機は 2 基 、徒弟を 2 人に限定する。[以後 、
Star Chamber が、不穏文書作成の罪で冊子作者プリン、僧バートン、医師バストウィッ
クらに罰金刑、さらし刑、耳削ぎ刑に処す。また 、印刷許可不要の手書き報道紙「newsletter」
の発行が急増し、週毎の手書き郵便ポストが出現する。1638 年、チャールズⅠ世が、報
道禁令を緩める。1640 年、議会が、プリン、バートンらを釈放し、補償する。大法官フ
ィンチはオランダに逃亡する。]
1637.○【日本】幕府が、江戸中の風呂屋の湯女(ゆな)を 3 人限りに制限する。この掟を
破る者は吉原大門の外で処刑される。
1637.○【中国】(崇禎 10) 宋応星(そうおうせい)が、産業技術書『天工開物(てんこうか
いぶつ)』を書く。[以後、中国では忘れられる。日本へは江戸中期に何部かがもたらさ
れる。1771 年、大阪の菅生堂が訓点と送りがなをつけて和刻本を出す。1927 年、日本に
留学していた章鴻釗(しょうこうしょう)が日本で見つけて中国に持ち帰り、翻刻する。]
1637. ○【デンマーク】コペンハーゲン天文台が設置される。安全な航海のために星の位
置や時刻を精確に定める目的で建てられた最初の近代的な天文台となる。
1637.○【フランス】デカルト( 41)の最初の作品『方法叙説(Discours de la m レ thode)』
が、
「屈折光学」、
「気象学」、
「幾何学」の 3 つの「試論」とともに、その序文として、
ライデンのジャン・メールによって刊行される。
「屈折光学」では、オランダの V.スネル
の考えをもとに光の反射・屈折を数学的に解析した。ここから屈折率の異なる 2 つの物
質を通過する光は入射角を大きくすると、すべての光を全部反射する全反射現象が起こ
ることを発見したことを報告する。
- 199 -
1638(寛永15)
1638. 9. 5【フランス】ルイⅩⅣ世が生まれる。[以後、おっぱいが好きで、何人もの乳
母たちのおっぱいを次々に飲み干してしまう。]
1638.○【日本】幕府が、遊女を抱えた江戸の銭湯主 11 人を磔刑に処す。
1638.○【中国】(崇禎 11)明政府の公報『邸報』が、木活字を使用して印刷、刊行される。
1638. ○【イギリス】チャールズⅠ世が、報道禁令を緩め、ナタニエル・バターとニコラ
ス・ブアンに誓詞を書かせて 21 年間のニュース印刷権を与える。納付金は 10 リーブル。
[以後、期間中に印刷を禁止する。]
1638. ○【アメリカ】北アメリカで最初の印刷が始まる。イギリスのステフェン・デイ
Stephen Daye ら印刷工が、印刷機と用紙などを携えてイギリスの植民地ニューイングラ
ンドに渡航、マサチューセッツのケンブリッジで、初めて印刷を行う。[ 1640 年、最初
の書物『ザ・ベイ・サーム・ブック』が発行される。]
1638.○【アメリカ】イギリスのピューリタン牧師ジョン・ハーバード John Harverd の遺
贈による 260 冊の蔵書により、ボストンに北米初の図書館、ハーバード大学図書館が発
足する。
1639(寛永16年)
1639. 3.−【アメリカ】ステフェン・デイが、マサチューセツでスター印刷所を興す。最
初に 1 枚刷りの『Freeman's Oath 』、
『1639 年暦』
、
『聖詩篇』などを印刷する。[のち、ケ
ンブリジ・プレスと改称する。]
1639.[7.−]【日本】幕府が、阿媽港船長ドアルテ・コレアノを焚刑に処し、長崎在住のオ
ランダ人妻子じゃじゃがたらお春らを追放する。ポルトガル船の日本渡航を禁止し、鎖
国が始まる。
1639. ○【日本】宮本武蔵が、九州黒田家の預かり武士(身分不定の家来)として江戸に滞
在し、島原の乱により、吉原の中級遊女屋から出陣する。
1639. ○【スペイン】アメリカ先住民の言語であるグアラニー語の辞典が出版される。
1639. ○【アメリカ】マサツーセツ州プリマスで、メアリー・マンデームがインディアン
のティンジンと数回戯れ、不潔な行為をしたかどで、町の通りを鞭打たれながら歩かさ
れ、常に服の左袖に罪の印を付けられる。これを怠れば顔にその印の焼印を押された。
ティンジンは誘惑の罪でさらし台で鞭打ちの刑を受ける。
1640(寛永17年)
1640.[6.−]【日本】幕府が、禁を破って来航してしばしばバテレンを船底に隠していた
阿媽港船のポルトガル人ら 74 人中 61 人を斬る。
1640.○【日本】1611 年にできた六条三筋町の遊郭の周辺に民家が建ち連なり、移転の必
要に迫られる。
1640.○【フランス】宰相リシュリュー Armand Jean du Plessis de Richelieu ( 55)が、王立
印刷所(Imprimerie Royale)をルーブル宮に創設し、国王の栄光、宗教の発展および文学
の進歩に役立てる目的で、公報紙、宗教書、科学書、文芸作品などを印刷・出版させる。
- 200 -
神話画、宗教画、風景画で名声ある画家プサン(プーサン) Nicolas Poussin( 46)が、ルイⅩ
Ⅲ世に招かれてルーブル宮の装飾にあたるかたわら、王立印刷所の刊本の扉の制作に従
事する。彼は古典主義的な簡潔さを貴び、古代風に襞のある衣をまとった数人の偉人の
姿を描くにとどめ、そのようなデッサンは従来の装飾画から口絵となり、書物の巻頭を
飾るイラストとなる。[以後、巻頭の口絵の次に活字だけの扉に書誌的データのみが記
載されるようになり、実用的に不可欠なものとなる。書物の構造に革新をもたらして、
諸方面に影響を及ぼす。また、精力的に数多くの言語の活字を製作・蓄積していく。]
1640. ○【アメリカ】ロスアンジェルスで、北米で初めて印刷が行われる。
1641(寛永18年)
1641. ○【日本】この頃、日本との貿易をとくに認められたオランダ船が、長崎来航にあ
たり海外情勢に関する風説すなわちニュースを総括した書『和蘭陀風説書(オランダふう
せつがき)』を、幕府に提出するようになる。キリスト教禁制を強行し、日本人の海外渡
航禁止の政策をとった幕府が、海外情報源の確保のための重要な手段としてオランダ人
による風説書提出が案出される。海外ニュース新聞の前身となる。[当初は、かならずし
も提出が義務づけられてはいないが、やがて通商許可に対する「御忠節」の性格を帯び
るに至る。1676 年、和蘭カピタン通詞の本木庄太夫らが『和蘭陀風説書』を和解して幕
府に提出する。1859 年 7 月、最後の『和蘭陀風説書』が出る。1976 年『和蘭(オランダ)
風説書集成』上下 2 冊(吉川弘文館)刊。]
1641.○【日本 】京の遊郭を、六条三筋町から朱雀野に移され、島原遊郭となる。幕府が 、
朱雀野の島原遊郭を公許する。
1641. ○【日本】遊女町吉原の昼夜営業を禁じられ、昼だけの営業となる。この頃、吉原
の遊女は約 950 人、うち太夫は 75 人。
1641.○【日本 】三浦浄心(みうらじょうしん)(76 )の『慶長見聞集』(1614 年刊)の分冊『そ
ぞろ物語』が独立刊行される。歌舞伎,元吉原の遊女町,湯女,遊女の西国への追放な
どを記し、慶長の江戸の風俗を克明に書きしるす。
1641.○【フランス】モントージエ侯爵の注文で、カリグラフィー傑作『ジュリーの花飾』
が作られる。
1641. ○【イギリス】国王の失政が追求され、長期議会において、国王独裁を抑制する改
革立法が制定される 。
[以後、国王空位時代が続く。1660.6.8 王政復古。
]
1641.○【イギリス】占星術関連の万用歴などの出版物を取り締まる 1603 年の法律を廃
止する 。
[以後、予言が、小論、小冊子、パンフレット、とりわけ万用歴というかたち
で、爆発的に流行する 。1643 年、議会が占星術師ジョン・ブッカー(1602 ∼ 1667)を、
「数
学(占星術)、暦、占い」の書を取り締まる公認の監督官に任命するが、徒労に終わる 。
]
1641. ○【イギリス】トーマス・シェルトンが、速記符号を改良し、スピーディー・ライテ
ィングとも呼ばれる「タキグラフィー」を発表する 。
[1650 年、改良方式「ジグログラ
フィア」を発表する 。
]
1642(寛永19年)
1642. 1 . 8 【イタリア】ガリレイ Galileo Galilei(77)が死去する。
- 201 -
1642.12.25 【イギリス】ニュートン Isaac Newton が、ウールズソープの農家に生まれる。
1642.○【日本】山東京山作・歌川国芳画『朧月猫の草紙』が刊行される。この頃、随筆、
名所記、研究書、中国大衆小説の復刻本などが作られるようになる。
1642.○【フランス】パスカル Blaise Pascal( 19 )が、税務所の役人の父親が毎日大量の計
算に悩まされるのを見て、歯車を組み合わせた加減算計算器を考案する。[以後、デジタ
ルの機械式計算機の最初のではないかとされるが、実用には至らない。1971 年頃、ドイ
ツのライプニッツが、パスカルの設計を改良して、加減乗除のできる四則計算機を試作
する。]
1643(寛永20年)
1643. 6.−【イギリス】議会が、再び印刷規制を強化し、出版に関する事前検閲令と出版
文具組合の登録令を施行する。書籍商帳簿に全書籍を控え書きさせる。[以後、ロンドン
以外に規制は及ばない。]
1643. ○【日本】山田浦(岩手県)にオランダ船が漂着する。代官が港に遊女を立たせ手招
きさせたら、船の 10 人がこれにつられて上陸し、これを捕らえる。『
( 山田町郷土資料御
用書留』)
1643. ○【ノルウェー】オスロで国内初の印刷業務が開始される。
1643.○【フランス】マザランの個人文庫の司書ノーデ Gabriel Naud (e)が、マザラン図書
館を創建する。[のち、フロンドの乱により散逸する。1661 年、マザラン学院図書館と
して再建される。
]
1644(正保1年)
1644.11.23 (推定)【イギリス】ミルトンが、前年 6 月に施行された出版に関する事前検閲
令に厳しく抗議して、パンフレット『アレオパジティカ Areopagitica』を出版する。前年
にミルトンが議会の許可なく出した、妻メアリーとの別離についての『離婚の教理と規
律』が議会で問題にされたことに抗議したもので、ミルトンは〈真理と虚偽を闘わしめ
よ。自由な公開の勝負の場で真理が負けたためしを誰が知ろうか 〉〈あらゆる自由以上
に、知り、発表し、良心に従って自由に論議する自由を我に与えよ〉と主張する。国家
権力に対抗して言論の自由を訴えた先駆的著文書となる。
1644. ○【日本】山形県尾花沢町の延沢銀山に、遊女役(売春営業税)が設けられる。
1644.○【日本】佐渡国・山先町(山崎町)に遊女屋が 14 件建つ。遊女 42 人、雇女 149 人
が「遊女役銀帳」に記載される。役銀は 5 匁。
1644. ○【中国】明が滅亡し、満州族の清軍が万里の長城を越えて中国に入り、順治帝が
都を北京に定める。
1644. ○【中国】上海で、印刷業務が開始される。
1644.○【イタリア】ローマに 1638 年に移住してきたドイツのイエズス会士・万能学者
のキルヒャー Athanasius Kircher( 42)が「幻灯機」を考案する。石油ランプを使用した光
源とレンズの外に種板を置き,正立像を写しだすもので、セットされた 2 枚のガラス絵
を左右に手早くスライドさせ、大食いの人物がブタに変わるといった〈動き〉のある映
像が写し出される。光学を応用してスクリーンに投影した世界最初の映像で、幻灯の原
- 202 -
理の先駆けとなる。
[1645 ∼ 1646 年、キルヒャーは『光と影の大いなる術』をローマで
刊行し、著者が考案した幻灯機を「ラテルナ・マギカ(魔法灯)」と呼んで紹介する。1671
年、同書第 2 版が刊行され、初めて幻灯のイラストレーションが挿入される。この図で
は、太陽光を光源に使い、逆像に描かれた原図像を鏡に映して反転し、レンズを通して
暗箱としての室内に投影するようになっている。キルヒャーは、他にも拡声器などを発
明、画家プッサンには遠近法を教授する。死後ローマに「キルヒャー博物館」が設置さ
れ、彼の残したおびただしい資料と文献が保管される。
]
1644.○【イギリス】詩人ミルトン John Milton( 36)が、結婚生活の破綻を契機に一連の離
婚論を書き,それに対する弾圧に対抗して言論と出版の自由を主張する意見新聞『アレ
オパジティカ Areopagitica 』を発刊する。
1645(正保2年)
1645.12.25 【日本】江戸・富沢町から出火し、遊女町吉原も全焼する。吉原全焼の第 1 回
となる。[以後、間もなく復興し、営業続開する。]
1645. ○【日本】大目付井上政重が、日本に帰化したオランダ人沢野忠庵(クリスタボ・
フェレイラ)に、天文地理学書をローマ字綴りの日本語に翻訳することを命じる。[以後、
訳本がオランダ語通詞西吉兵衛の家に伝わり、長崎奉行が国語に書き改めさせる。1659
年、国語化が完成する。
1645.○【日本 】
『万国総図 』と初めて異国人を描いた『万国人物図』が印刷される 。
[1720
年、西川如見(じょけん)が簡単な解説を付けて『四十二国人物図説』として出版される。
]
1645.○【日本】藤本箕山(畠山箕山)(数え 20)が『色道大鏡』の執筆に着手する。関東、
中国、九州への遊郭を訪ねて巡り始める。
1645.○【イラン】カリーフェ・スルターンが宰相となる。[∼ 1655]。娼婦取締りの法律
を作る。娼婦は自分から客を取りに出歩いてはならない、呼ばれない限りどこにも商売
に行ってはならない、など、また買春の根本原因はブドー酒の飲用にあるとし、酒の販
売を禁止し、違反者は厳罰に処する。少年に買春させた者には串刺しの刑、自分の娘に
買春させた女は、塔上から突き落とし、犬に食わせることとする 。(シャルダン『ペル
シャ紀行』
)
1645. ○【ドイツ】幻灯機が発明される。
1645.○【フランス】フランス初のコーヒー店が、パリに登場する。[ 1650 年、イギリス
のオクスフォードに波及する。]
1646(正保3年)
1646. 1.13[ 12.28 ]【日本】長崎オランダ商館長レイニール・ファン・ツムが、江戸で長崎
奉行筑後守を通じて将軍に集熱凸レンズ、拡大鏡とともに、写真鏡(カメラ・オブスキュ
ラ、活動眼鏡とも言われる)を献上する。[3. 6[ 1.18] 筑後守邸に届けたこれらの品物が
返却される。通訳によると将軍の気に入る品がないため不満であったという。その代わ
り、オランダ人の中に「のろし」と砲車の製作ができるものはないかと尋ねられる。(
] 『長
崎オランダ商館長の日記 第 2 輯』岩波書店、1957)
1646. ○【イタリア】モシーニが、戯画を収集し、出版する。[以後、フランスを経てヨ
- 203 -
ーロッパ全土に広まり、新聞戯画漫画の源流となる。]
1646.○【イタリア】ドイツの万能学者・イエズス会士キルヒャー Athanasius Kircher( 44 )
が、ローマで『光と影の大いなる術』を著し、著者が考案した幻灯機「ラテルナ・マギカ
(魔法灯 )
」を紹介する。[以後、キリスト教伝道のためのアトラクションや民衆を驚愕
させる見世物に利用される。また、拡声器などを発明し、画家プッサンには遠近法を教
授する。1680 年死去。のちにローマに「キルヒャー博物館」が設置され、彼の残したお
びただしい資料と文献が保管される。これはイギリスの「アシュモリアン博物館」と並
ぶ世界最初期の公共資料施設となる。光源は、1879 年にエジソンが白熱電球を発明する
まで、石油ランプや蝋燭が用いられる。]
1646.○【イギリス】ウィリアム・リリー(1602 ∼ 1681)の万用歴『天使的なるマーリン』
が、刊行される。この年、1 万 3500 部発行される。
[1647 年、1 万 7000 部。1648 年、1
万 8500 部。1649 年、約 3 万部。予測の的中率が、他者の予測よりも高く、絶大な人気
を博す。カーリスブルック城に幽閉されているチャールスⅠ世も 、〈もしリリーを金で
買い取ることができていたなら、それは 6 連隊分の力に匹敵していたことだろう〉と述
べ、いかにすれば脱獄できるかを知ろうとしてリリーの助言を仰ぐ。この頃、占星術関
連の文書が 40 万部にも達していると推定される。3 家族に 1 冊の割合で万用歴が普及す
る。
]
1647(正保4年)
1647.○【イギリス 】占星術師ジョージ・ウォートン(1617 ∼ 1681)が 、リリーの万用歴『天
使的なるマーリン』の人気の高さに苛立ち 、
『天使的なるマーリンの誤り』を著し、
〈こ
の書は、陛下の友が彼に忠実たろうとするのを妨げるために作られた、単なるこけおど
しの案山子にすぎない〉と告発する。[1649 年、投獄される。リリーを含む同業者たち
の仲裁で釈放される 。
]
1648(慶安1年)
1648.[ 2.28]
【日本】幕府が、江戸市中に道路、下水、服装など幅広い範囲で庶民の日
常生活を細かく規制した「市中法度(はっと)」を布達する。
1648.[ 2.−]
【日本】幕府が、江戸の風呂屋に湯女(湯女か?)の禁止令を出す。(? 4 月
か)
1648.[ 4.−]
【日本】幕府が、江戸市中の湯女(ゆな)を禁止する。
1648. 5 . −【日本】幕府が、江戸の風呂屋に再び女湯の禁止令を出す。(??)
1648.○【日本】寛永寺の僧天海の発願により、11 年の歳月をかけて『大蔵経』6326 巻
が巻が刊行される。木活字を用いて刊行され、活字を用いて刊行された世界最初の大蔵
経となる。
[以後、「寛永寺版」
「天海版」と呼ばれる。
]
1648.○【日本】伊勢神宮外宮の権禰宜(ごんねぎ)度会延佳(わたらいのぶよし)ら約 70
人の籍中(同人、のちに文庫衆)が、外宮祠官の修学のために醵金によって、宮崎文庫を
外宮神域外側の豊宮崎の地に設立する。籍中は維持経費を負担し、順番に図書の整理・
閲覧・貸出しを担当する。[以後、一般にも開放され、全国から学者ら多くの利用者が訪
れる。明治末年、神宮文庫に合併。豊宮崎文庫とも呼ばれる。]
- 204 -
1648.○【ドイツ】時計職人ハンス・ハウチュが、ぜんまいで自走する 1 人乗りの車を試
作し、時速 1.5km キロで走る。しかし、ぜんまいの能力に限界があり、実用には至らな
い。
1649(慶安2年)
1649.[ 2.26 ]
【日本】幕府が、諸国郷村に 32 か条からなる「慶安の御触署」を公布する。
これまでの代官への指示を集大成し、年貢諸役の厳守から、農作物の作り方、生活のす
みずみまで農民統制を強化する。たとえば、村役人を親と思うこと、朝は草を刈り、昼
は田畑を耕作し、晩には縄をない俵を編んで、油断なく仕事にはげむこと、みめかたち
の良い女房でも、夫をおろそかにし、大茶を飲み、もの参り遊山好きの女房は離別する
こと、などと細かく規定する。
1649. ○【日本】大阪の書肆西村伝兵衛が 、
『古状揃(こじょうそろえ)』を出版する。本
文中に家康が大坂冬の陣直前に大坂方を恫喝した手紙や、〈家康表裏之侍太閤忘厚恩〉
という家康を誹謗する文句を含んだ秀頼の返書などを収録したことから、幕府がこの書
物を没収、絶版の処分にし、伝兵衛を斬首刑に処す。
1649. ○【日本】長崎に来航した清船が、幕府に「風説書」を寄せる。
1649. ○【フランス】全国各地で新聞冊子が続出し、政府は極刑で取り締まる。
1649. ○【アメリカ】プリマスで、初のレズビアン裁判が行われる。グッドワイフ・ノー
マンとメアリー・ハモンがベッドの上で淫らな会話を交わしながら、いやらしい行為をし
たというので、ノーマンは有罪、ハモンは無罪の判決を受ける。
1650(慶安3)
1650.○【世界】この頃、世界人口が約 5 億人。[ 1750 年には世界人口は 7 億、1800 年に
は 9 億へと増加し、1650 年から 1800 年に至る 150 年間の年増加率は 10.4 %である。
1650. ○【日本】この頃、遊郭の新設不許可の方針が確立する。
1650.○【フランス】この頃、フランス最初の新聞『ガゼット』の創刊者ルノード Th (e)
ophraste Renaudot( 64)が、一種の旅行代理店である「アドレスとめぐりあいセンター」を
設立し、団体旅行者のために目的地、宿泊所のアドレスを集め、馬、輿、馬車の調達、
船や宿泊の予約、その他関連業務を行う。
1650.○【フランス】パスカル Blaise Pascal( 27 )が、計算機械「パスカリーヌ」を考案す
る。
1650.○【イタリア】トリチェリ Evangelista Torricelli( 42 )が、真空ポンプの実験によって、
音は空気の振動であるということが明らかになる。
1650.○【イギリス】イギリス最初のコーヒー店が、オクスフォードに登場する。[1652
年、ロンドンのシティーにコーヒー店が開店する。以後、ヨーロッパ全土に流行してい
く。コーヒー店は人々の社交の場となり、政治家、宗教家、文学者や社会各層の人が集
まって繁栄する。そのため、一部の宗教家や政治家は、危険な思想の温床になるとして
いろいろ制約を加えたりもするが、コーヒー店の波及を止めることはできない。]
1650. ○【イギリス】トーマス・シェルトンが、速記符号を改良し 、
「ジグログラフィア」
を発表する。
- 205 -
1650. ○【イギリス】新聞『完全な日録』に、盗まれた馬捜しの懸賞広告が有料で掲載さ
れる。新聞広告料金をとった最初の新聞広告とされる。
1651(慶安4)
1651.11.−【ドイツ】ライプチヒの郵便局長クリストフ・ミュールバッハ Mu ()hlbach が、
新聞印刷発行権取得工作に成功し、同地のティモティウス・リッチと競合する。この頃、
新聞発行は郵便営業権に付属するとみなされていた。
1651. ○【ドイツ】マルティン・ツァイラーが、ドイツ語で書かれた最初の旅行案内書『主
君に忠節を尽くしてつき従ったアカーテスのような信頼のおける随伴者、すなわち正確
な旅行案内、ならびに旅行をじょうずに有益にするための配慮』を著す。よく利用され
る旅行ルートと、ルート上にあり皆が求めるような都市、宮殿、城郭、見どころ、珍し
いもの、熊や狼に出くわしたときの措置や、税関吏との対応のような旅行中の注意事項
などの情報を記載する。
1651. ○【フランス】リュート奏者ギョーム・モレルが、音楽著作物に関するフランス最
初の特許認可状をアンリⅡ世から与えられる。[ 1552.4.19 モレルは、楽譜の販売の特許
認可状を持つ出版者ミシエル・フザンダと契約する。モレルは自身で楽譜を販売できず、
書籍商の圧力に屈して、すべての権利を書籍商に与える。]
1651.○【イギリス】医師ハーベー(ハーヴェイ)William Harvey(73 )が、胎生学の研究に
没頭した結果、
『動物の発生について』を出版し 、
〈すべての動物の発生は卵から発生し 、
雄の精液は関係しない。発生は無形の種(たね)から始まる。先ず組織ができ、それらが
各器官に分化し、さらに、複雑な構造を形成して、完全な体ができあがる〉という卵由
来の「後成説」を主張する。
1652(慶安5、承応1年)
1652.[ 1.20]【日本】幕府が、2 月 2 日以降市中のかぶき者を捕らえることを諸大名に通
達し、かくまうことを禁じる。
1652. 1 . −【日本】幕府の命で、歌舞伎役者が逮捕される。
1652. 2.16【フランス】アンリⅡ世が、印刷業者アドリアン・ルロワとロベール・バラール
に声楽と器楽曲の著作物について永久的な特許認可状を与える。[以後、フランス革命に
よって特許認可状が廃止されるまで更新される。バラール家は、王家に出入りを許され、
楽譜印刷業界を牛耳る。]
1652. 3.28【イギリス】明日の日食を控え、国民の不安は最高潮に達する。数カ月前から
破局を告げる文献が国中に溢れ、3 月に入り頂点を迎えていたため、ある程度の覚悟は
できていたものの、国中を動揺の渦の中に陥れる。これらの文献は、暗黒に姿を消した
ある惑星を根拠に、突然の大量死や集団的狂気の発生、広範囲な圧制の出現などを予告
していた。ロンドンの市長と議会議員全員が、蝕に関する説教に耳を傾ける一方、多く
の市民は一部の財産を持って町から脱出する。
1652. 3.29【イギリス】日食が起きる日だが、この日に何も起こらない。ジョン・グリー
ンは、日記に〈今回の件で占星術師たちの評判が傷つけられた〉と記す。しかし、占星
術師たちは、「
〈 エラーレ・フマーヌス・エスト(誤りを犯すは人間の常なり)」という定式
- 206 -
がある〉とか 、
〈神が奇跡によって星々の感化力を逸らした〉とか、言い逃れの言葉に
事欠かない。
1652. 6 . −【日本】幕府が、江戸の風呂屋に湯女の禁止令を出す。
1652. 7 .−[ 6.20]【日本】幕府が、歌舞伎役者の前髪を剃らせる。
1652. 7.−[ 6.27]【日本】幕府が、風紀を乱すものとして前髪立の少年が舞台に立つこ
とを禁止し、実質的に若衆歌舞伎を禁止する 。[以後、成人男性のみが歌舞伎を演ずる
こととなる。翌年「野郎歌舞伎」と呼ばれるようになるが、あまり人気を呼ばず、芝居
も採り入れた演劇スタイルの現在の歌舞伎の原型が形成されるようになる。]
1652. ○【日本】この頃、江戸初期に興ったヨーロッパ流あるいは朝鮮流の活版印刷によ
る活字版ブームが、漢字・和字の複雑さからついに普及するに至らず、終焉を迎える。[以
後、明治を迎えるまで活字版は日の目をみることはない。これまでに開版された活字本
は「古活字版」と総称される。]
1652.○【イタリア】ドイツの万能学者・イエズス会士キルヒャー Athanasius Kircher( 50 )
が、エジプト聖刻文字(ヒエログリフ)の解読を試み、その成果を『エジプトのオイデ
ィプス』として公表する。[∼ 1654。しかし解読法がカバラの神秘的な言語分析法に拠
りすぎていたため、のちに誤読とされる。さらにキルヒャーは聖刻文字を,ノアの洪水
後最初に神意を記した際に用いられた文字とみなし,これを解読することは神意を直接
知ることにつながると考え,中国の漢字もまたエジプト人が東洋へ伝えた聖刻文字にほ
かならないと主張する。この先駆的な古代文化研究により,のちのサンスクリットとオ
リエント諸語との比較研究をも導き,世界の文明の起源問題を解明する端緒となる。]
1652.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens(23)が、望遠鏡と顕微鏡の改良を問題
とし、光学に関する研究を始める。最初は光学器械の改良に関連し、レンズの屈折、倍
率、球面収差を研究する。[以後、複屈折現象の理論的説明を試みる中で、しだいに光の
本性の問題を扱うようになる。ホイヘンスは、R.フックや I.G.パルディースらとは異な
り発光体の微粒子を考えながらも、彼らと同様光の波動説を主張し、光の伝搬に関する
「ホイヘンスの原理」を確立して、これに基づいて光の反射、屈折、複屈折などの現象
に説明を与える。1655 年に光学研究をもとに改良した望遠鏡を用いて、土星の衛星「タ
イタン」を発見する。1690 年、光学に関する研究の成果を『光についての論考』にまと
める。]
1652. ○【イギリス】ロンドンで最初のコーヒー店が、シティーに開店する。[以後、コ
ーヒー店の数が増える。コーヒーを飲むことがロンドン市民の流行になり、コーヒー店
は人々のたまり場になる。次第に各店の客筋が固定し、店独自の特色が出るようになる。
1688 年にロイド Edward Lloyd がロンドン塔に近いのタワー街に「ロイド・コーヒー店」
を開業する。]
1653(承応2年)
1653. ○【日本】幕府は、女や若衆でない野郎頭(やろうあたま)の成年男子がまじめな芝
居をするという条件付きで「野郎歌舞伎」を許可する。このときから女形ができる。
1653. ○【デンマーク】国王フレデリックⅢ世が、個人文庫を設ける。王立図書館の基と
なる 。
[1673 年、新館(のち、国立公文書館)に移る。1697 年、納本図書館になる。1793
- 207 -
年、一般に公開される。1849 年、立憲君主制になり、王立図書館とコペンハーゲン大学
図書館の一本化が進む。1906 年、現在の建物に移る。1989 年、王立図書館が人文・社会
系部門、コペンハーゲン大学図書館が科学・医学部門の国立図書館機能を受け持つこと
になる。]
1653. ○【フランス】パリのある民間人が、ルイⅩⅣ世の許可を得て、郵便事業を開始す
る。郵便ポストがパリ市内の要所に設置される。世界で最初の郵便ポストとなる。[以後、
事業は長続きせず失敗に終わる。]
1653.○【フランス】大法官セギエが、パリ大学神学部から事前検閲権を奪取する。1649
年出版規制令とあいまって、王権による出版統制が確立する。
1653. ○【フランス】シラノ・ド・ベルジュラックが、自作の悲劇『アグリッパ』に特許認
可状を得る。サン・タマンが、自作の詩集『救われたモーセ』に特許認可状を得る。[以
後、書籍商や印刷業者の同業組合が結束し、著作者の特許認可状は〈特定の書籍商また
は印刷業者に著作物を印刷させる権利を認めたものに過ぎない〉として、著作者自身が
自著を印刷・販売することを認めない。著作者は、特許認可状を書籍商と印刷業者の同
業組合に登録することが義務づけられるが、組合は容易には登録の受付けに応じない。]
1653.○【フランス】パリで印刷工のストライキが発生する。[∼ 1654 。
]
1654(承応3年)
1654.[ 2. 4]
【日本】幕府が、旗本に対して、少年を小草履取に抱えて男色関係を結ぶこ
とや男色を取り持つこと、また、男色のことで争論することを禁じる。この頃、旗本た
ちは、15 ∼ 16 歳の美少年の小草履取に絹の小袖、唐木綿の袷を着せ、しゃれた帯を締
めさせ、立派な脇差しを与えて、身辺に置いて客の給仕もさせるなどの行為が流行して
いる。これまで幕府はたびたび禁令を出したが、効果はなかった。
1654. ○【フランス】マルセーユに、フランス初のカフェが登場する。
1655(明暦1年)
1655.11.−【イギリス】「advertisement(広告)」という語が、ニューズブック『Mercurious
politicus』に初めて登場する。[日本では 1872 年(明治 5)ころ「広告」という語が新聞
に登場し、1887 年ころから一般に使用されるようになる。]
1655.○【日本】この頃、江戸・吉原で太夫の揚代が銀 90 匁、祝儀代を加えると 270 匁
である。
1655. ○【ヨーロッパ】
『女のための本』
(作者不詳)が出版される。セックスの楽しみ方
についての本で、避妊の方法、陰毛かつらの選び方なども書かれている。
1655.○【スウェーデン】女王クリスティーナ Kristina( 29)が、新型のフランス製金塗り
木造、内装ダマスクス絹張りの儀装馬車の大行列でヨーロッパを旅行する。女王はこの
高価な馬車を借りるしかなかった。
1655.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens(26)が、レンズの研磨法を考案し、土
星を観察して「輪」を発見する。
1655.○【フランス】この頃、帝国議会で、30 年戦争後の人口減少対策の一環として、重
婚を認める。
- 208 -
1655. ○【フランス】サロン紙を発行するジャン・ロレが、発行特許を得て他紙による偽
作盗作の防止を図る。
1656(明暦2年)
1656.10. 9【日本】町奉行石谷将監(いしがやしょうげん)が、吉原の所替えを命令する。
代替地は本所か浅草日本堤か好きな方を選べという。一旦押し返したが、如何ともしが
たく、相談の末、吉原町の年寄りたちが吉原を選ぶ。同時に、江戸町中に 2 百余軒ある
湯女風呂(湯女を置き、売色を業とした)を 、吉原の営業を脅かす存在として取り潰し、
湯女すべてを新吉原にひきとる。
1656. ○【スウェーデン】ストックホルム銀行が、国家を顧客とする初めてのステートバ
ンクとして設立される 。
[1661 年、銅貨に代わるヨーロッパ最初の銀行券「クレディテ
ィヴセドラル」が発行され、流通する。1664 年、紙幣発行の抑制がきかなくなり、実験
的紙幣発行の試みは頓挫する。
]
1656.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens( 27 )が、1583 年にガリレイが発見し
た振り子の等時性を時計に利用して、振子時計を考案する。[ 1657 年、完成する。]
1656. ○【フランス】政府が、印刷物取締令を繰り返し出して、不穏冊子の発行者、呼び
売り人に罰金刑を課す。[1659 年、重ねて冊子禁令を繰り返す。]
1656.○【フランス】J.シャプラン『乙女ジャンヌ=ダルク』が、パリの A.ヴィトレによ
り刊行される。A.ボスが図版を描く。
1656.○【イギリス】ノリッジの町に会員制図書館 subscription library が登場する。
1656.○【アメリカ】マサチューセッツ植民地の商人ケイン Captain Robert Keayne が、遺
言により、個人蔵書を含む資産をボストンの町に贈り、市場と役所と図書館の複合施設
の建設を託す。
[1711 年と 1747 年 、2 度の火災に遭遇する。以後、図書館は町が所有し、
のちの公共図書館の原型となる。
]
1656.○【アメリカ】ボストンの船長ケンブルが、3 年間の航海から帰ったばかりの日曜
日に人前で妻とキスしたことで猥褻罪に問われ、有罪判決を受け、さらし台に 2 時間さ
らされる。
1657(明暦3年)
1657. 1.18【日本】江戸本郷丸山の本妙寺から発火し、翌日にかけて江戸の大半を消失す
る。いわゆる振袖火事。吉原も焼尽するが、火事跡地に小屋掛けで営業再開する。大火
を報道する速報の呼び売りが出る。
1657. 3 . −【日本】吉原の移転先、浅草日本堤に 新吉原の工事に着手する。
1657. 6. 9【日本】幕府が江戸街地の再建に、吉原の地の明け渡しを指令する。新吉原完
成までの営業を、今戸・山谷・新鳥越の 3 ヵ所の町屋で行うよう特別許可する。これを
仮宅(かりたく)営業と称する。また、これまでの湯女風呂を全廃して、私娼化している
湯女たちを新吉原へ吸収させることとする。
1657. 8.14【日本】江戸浅草本堤に新吉原が完成し、傾城町として公認され、営業開始す
る。同時に、寛永 18 年( 1641)以来禁制の夜間営業を 16 年ぶりに免許される。
1657. ○【日本】振袖火事以後の都市復興の活況のなかで、江戸における大衆向け絵入り
- 209 -
版本の需要は、初め上方(かみがた)版の輸入によって満たされていたが 、江戸の版元(地
本問屋(じほんどんや))による版行も盛んとなり、版下絵師(はんしたえし)も数多く育
てられることとなる。仮名草子がいっきに増え、浄瑠璃本も出版される。[以後、版下絵
師の 1 人として成長した菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が、仮名草子や好色本を中心に優
れた挿絵を提供し、本のなかに占める挿絵の比重を拡大していく。]
1657. ○【日本】この頃、浄瑠璃作者岡清兵衛(おかせいべえ)が 、
『太平記』を読んで喝
采を博す。[のち、江戸舌耕師の祖と称せられる。講談の始祖とされる。]
1657.○【日本】この頃から幕府による出版規制が始まる。[1722 年に、本格的な取締条
目が発布される。]
1657.○【日本 】水戸藩主徳川光圀(みつくに)が 、江戸駒込別邸に大日本史編纂所(のち 、
彰考館)を設け、事業を開始する。[ 1672 年、小石川の本邸に移し、左伝の「彰往考来」
の句に基づいて彰考館と命名する 。1698 年以後 、江戸と水戸の両館で修史を続ける。1830
年、大部分を水戸に移す。1879 年、偕楽園内に移転し、のち彰考館文庫を新築する。1906
年、
『大日本史』が完成する。第二次大戦で 7 万冊余の蔵書の大半が焼失する。]
1657. ○【日本】幕府が、風俗上の理由で湯女風呂を禁止する。湯女たちは吉原へ送られ
る。[以後、江戸の銭湯はそれぞれの町内の共同入浴施設といった性格をもつようになる 。
狭い地域内の人々がたえず顔を合わせるところから,銭湯は町の住人たちの社交場とし
ての役割を果たすようになる。]
1657.○【チェコ】宗教改革者・教育思想家コメニウス Johann Amos Comenius( 65)(チェ
コ名コメンスキー Jan AmosKomensk ロ )が、大著『大教授学』を公刊する。これにより、
身分や階級の違いを問わず〈すべての人に〉〈すべてのことを 〉〈楽しく 〉
〈的確に〉教
えるための、学校の全面的な改革原理を提案する。[のちに、この著書は、当時の「金持
ち」のためのものであって「貧乏人」のためではない学校、
「折檻(せつかん)場」
「拷問
室」に等しい学校への批判のうえにたつ近代的学校思想の先駆として、高く評価される。]
1657.○【オランダ】科学者ホイヘンス Christiaan Huygens( 28)が、1583 年にガリレイが
発見した振り子の等時性を時計に利用して、最初の振り子時計を完成させる。[ 1675 年
に、テンプと渦巻状のひげぜんまいを組み合わせた調速機を発明する。]
1657.○【イギリス】初の全面広告週刊紙『The Publick Adviser』が発刊される。[6.16 チ
ョコレートの広告が〈…ビショップスゲート街クイーンズヘッド小路のさるフランス人
邸でチョコレートと呼ばれる西インド諸島産の美味しい飲物が召し上がれます…〉と掲
載される。]
1658(万治1年)
1658.○【チェコ】宗教改革者・教育思想家コメニウス Johann Amos Comenius( 66)(チェ
コ名コメンスキー Jan AmosKomensk ロ )が 、世界最初の絵入り語学教科書『世界図絵 Orbis
pictus 』を著し、ドイツで出版する。子供に言語を事物と結合して学習する方法を具体化
してみせる。具体的な目に見える事物や出来事の他に 、「人間の魂」のような目に見え
ないものまで、各項目ごとに 1 枚の木版画を入れ、ひとつひとつに番号をふって、説明
をラテン語とドイツ語の両方で記していく。たちまち英語版も出る。[この頃からその意
義は高く評価される。のちの視聴覚教材の先駆となる。]
- 210 -
1658. ○【アメリカ】プリマスの清教徒らが「姦通に対する法律」を通過させる。不貞を
した女は鞭打ち刑のほかに、一生胸に「A」の字をつけ、これに従わない場合は「A」を
顔に焼印される。[これに基きナサニエル・ホーソンは 1850 年に『緋文字』を書く。]
1659(万治2年)
1659. 2.16【イギリス】ニコラス・バナッカーが、デルボー宛てに世界最初の銀行小切手
を切る。[のち、国立ウエストミンスター銀行の記録保管所に保存される 。
]
1659.[12.13]【日本】江戸隅田川上に初めて橋が架かる。武蔵国と下総国の両国にまたが
るので「両国橋」と名付けられる。幕府はこれまで戦略的な観点から上流の千住大橋以
外の橋を架設しなかったが、1657 年の江戸の明暦の大火ののち、市街地の拡大のため墨
東(隅田川の東)一帯を開発に着手、翌年に橋の工事を開始し、この日完成する。
1659. ○【日本】服部紙店が創業する。
1659. ○【日本】幕府が公娼遊郭制をとり、道中筋の飯盛女など、旅宿にいる制限付きの
いわば半公認の私娼を厳禁する 。
[その後は、これを「食売女」として認め、道中奉行
の支配とし、1 旅館 2 人以内(江戸 4 宿は宿内全人数制限)
、衣服は木綿着用と定める。
しかし、人数制限は守られず、さらに飯盛の認められない所では「洗濯女」などの名で
雇うこともあった。
]
1659.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens( 30 )が、1656 年末から実用的な時計
の改良をめざし、この年にサイクロイド曲線を描く振子の等時性を発見、幾何学的に証
明し、精度のよい振子時計を設計する。また、ホイヘンスは持ち運びのできる幻灯装置
を考案する。光源を入れたランタンとレンズの間に図像を入れる構造で、のちの幻灯機
の基本的な構造を備えている。[1673 年、
『振子時計』を著し、このサイクロイド振子の
等時性をはじめ、振子の長さと周期の関係、縮閉線(エボリュート)の理論、円運動にお
ける遠心力の研究など、力学上の諸研究をまとめる。]
1659. ○【ドイツ】官立図書館(のち、ベルリン国立図書館)が、ベルリンに建てられる。
[1661 年、開館。]
1659. ○【イギリス】公式の気象観測が始められる。
1660(万治3)
1660. 1. 1 【イギリス】ピープス Samuel Pepys( 26)が、暗号としてのシェルトン式速記符
号(分速 30 語程度の個人用)と普通文字を混合使用して日記を書き始める 。
[以後、日常
生活を子細に性生活をも含めた赤裸々な記録を書き続ける。1669.5.31 約 125 万語に及ぶ
日記の最後のページを書く。この年、妻が死亡、自身も視覚障害に苦しめられる。日記
は母校ケンブリッジ大学のモードリン学寮に保管される。1825 年、同学寮長の兄、ブレ
イブルック卿が、苦学生ジョン・スミスに暗号文を初めて解読させる。1828 年、公刊さ
れる。以後、2 回にわたり新しい解読者がスミスの解読を見直す。1970 ∼ 76 年、完全無
削除版が出版される 。
]
1660. 1.19【フランス】書籍商ギョーム・ド・リュイーヌが、モリエールの『才女気取り』
を作者の意に反して出版を強行するため、国王から 5 年間の特許認可状を取得する。[以
- 211 -
後、出版される。モリエールは、書籍商の横暴に憤慨するが 、
〈せめて蝋燭の光で読ん
で欲しい〉と抗議する。]
1660. 1.−【ドイツ】リッチが、ライプチヒで『Neu-Einlauffende Nachricht von Krieg und
Welthandeln(戦争および世界通称に関する新着報)』を、発行日を付けて創刊する。[4 月 、
日曜日も発行し、世界最初の日刊紙『ライプチガー・ツァイトゥング(Leipziger Zeitung) 』
となる。以後、ドイツは絶対主義の時代が長らく続き、他国に先立つ近代新聞の歴史を
もちながらも、新聞の発達は著しく遅れる。]
1660. 6. 8 【イギリス】大陸に亡命していたチャールスⅡ世 Charles Ⅱ(30 )が正式に即位
し、イギリスの王政復古がなる。[この年、官営の郵便役所を設立し、初の郵政長官にヘ
ンリー・ビショップを任命する。以後、この年をローヤルメール(Royal Mail)元年と定め
られる。1661 年、ビショップは、郵便物の配達が遅いとの批判に応え、書状の表面に差
出された月日を押印するよう命じる 。これがイギリス最初の消印で「ビショップ・マーク 」
と呼ばれる。消印押捺により局放置郵便物が解消され、郵便の信頼度が高まる。それで
も郵便の配達は、徒歩のフットメッセンジャか、馬に乗ったポストボーイによって行わ
れる。また、チャールズ 2 世の時代には、日曜日に新聞を売る者に罰金を科した。1960
年、
「郵便役所 300 年」記念切手が発行される。]
1660.11.28 【イギリス】イギリス初の学術団体、ローヤル・ソサエティ(Royal Society;王
立協会)が発足する。正式には、自然についての知識を改善するためのロンドン・ロイヤ
ル・ソサエティ(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge )と称する。
1645 年以降に、宗教と政治に関する不毛な論争を嫌って情報交換の場としてもたれた非
公式な会合がロンドンのグレシャムカレジとオクスフォードにつくられ、これら 2 つの
サークルが合流して、物理学者 R.ボイルや経済学者 W.ペティらを含む 12 名の会員でス
タートする。
[1662.7.15 国王チャールズⅡ世の勅許状を得て、正式に設立される。]
1660.○【中国】希代の読書家・書物蒐集家であり出版業者でもあった毛晋(60)が死去す
る。生前に彼は、宋元版多数を含む 8 万数千冊の蔵書を誇り、耀古閣、目耕楼という書
庫を建ててそれらを収蔵した。彼は自分の家の門に広告を掲示し 、〈宗版の書物をお持
ちになった方には、門内で主人が葉数を調べ、毎葉 200 文をお支払いします。旧抄本は 、
毎葉 40 文です。現行の善本には、よそが千文なら当方は千二百文お支払いします〉と書
く。湖州一帯の書物商は、船に古典籍を満載して毛晋の家の門口に押し掛け、〈世間に
はさまざまな商売があるが、本を毛氏に売るのが一番もうかる〉という諺が流行した。
子の毛漁(もうえい)(1640 ∼?、字は斧季(ふき))も父を助けて古書校刊の事業に従事し
た。没するまでの四〇数年間、刊行した書物は 600 種を超える。
1660.○【ヨーロッパ】魔女狩りが激しく行われる。[以後、1680 年まで 20 年間激しく行
われる。]
1660.○【ドイツ】ゲーリケ Otto von Guericke ( Gericke)(58 )が、天体が磁気力によって相
互作用をすると考えて、それを証明するために、硫黄を含む金属球を摩擦して静電気を
発生させる。[ 1709 年ころ、ガラス球を使用するようになる。ゲーリケは起電機の発明
者とか電気学研究の先駆者にあげられることになる。以後、摩擦電気による静電気の時
代に入る。摩擦起電機で発生させた静電気による電気ショックで病気を治療する試みが
行われる。]
- 212 -
1660.○【オランダ】ライデン大学教授ヨンストン( 67)が、『ヨンストン動物図鑑』をア
ムステルダムで刊行する。哺乳類から魚類、昆虫にいたるまで世界中の動物を銅版画約
300 枚に収める。
1660.○【フランス】この頃、パリに占星術師の仕事場が約 400 ある。住民 1000 人当た
りほぼ 1 つの仕事場があり、ロンドンに勝とも劣らない熱心さで星の動きが探られてい
る。
1660. ○【フランス】政府が、中傷紙を取り締まるため街頭呼び売りを規制し、不穏ニュ
ース紙を発行した者を辻辻で笞刑に処す。
1660. ○【フランス】王立舞踊アカデミーが創立される。ボーシャンがバレエの専任教師
となり、バレエの基本である足の 5 つのポジションが定められる。
1660. ○【イギリス】フックが、時計の正確さを改良するため、テンプ(調速機)を動かす
ひげぜんまいを発明する。
1660. ○【グアテマラ】グアテマラで、印刷業務が開始される。
1661(寛文1)
1661.○【イギリス】書籍販売商カークマン Francis Kirkman が 、貸本屋(commercial lending
library)を開く。
1661.○【イギリス】ビショップ Henry Bishop が、郵便長官に任命される。郵便物の運搬
者が運搬を怠けないように、すべての郵便物にそれを受け入れた月日のスタンプを押す
ことを考えつく。4 月を「AP 」
、10 月を「OC」のようにその月の略字と日の数字を上下
に配置した円形のスタンプを押すこととする。
1662(寛文2)
1662. 4.22 【イギリス】国王チャールズⅡ世( 32 )が、新しい学問研究をめざす学術団体と
してロンドン・ローヤル・ソサエティ(Lomdon Royal Society)に勅許状を与える。[7.15 正
式に設立される。]
1662. 5.−【イギリス】特許検閲法(Licensing Act)が公布される。これにより、印刷出版
の特許( privilege)(許可)制度および事前検閲制度を基幹とする言論統制を強化する。ロ
ンドンの印刷所が約 60 人のところを 20 人に制限され、カンタベリ大主教が科学哲学に
関する検閲責任者に任命される。この法により、法学書は大法官による検査、歴史書は
国務大臣による検査、その他のほとんどの種類の本はカンタベリ大主教とロンドン主教
による検査を受けなければならなくなる。[1695 年 、特許検閲法廃止 。検閲だけでなく 、
出版業者組合による印刷の管理も終結する。1709 年、世界最初の著作権法である「アン
法」が制定される。]
1662. 7.15【イギリス】ロンドン・ローヤル・ソサエティ(The Royal Society of London;ロ
ンドン王立協会)が、国王チャールズⅡ世の勅許状により、正式に設立される。国王が設
立者となり、正式名も、1660 年の創設時の名から、「自然についての知識を促進するた
めのロンドン・ローヤル・ソサエティ(The Royal Society of London for Promoting Natural
Knowledge)」と改められる。図書館も設置される 。[以後、公式の研究機関として絶大
な権威を手にする。当初設立者に加わっていたウィリアム・リリーら占星術師たちは学者
- 213 -
たちの会合から閉め出されていく。1665 年、機関誌『フィロソフィカル・トランザクシ
ョンズ(哲学紀要)』創刊。1800 年、
『会報』創刊。
]
1662. ○【日本】幼童向けの赤表紙絵本(赤本)『ねずみのこうさく』が刊行される。[の
ち、現存する最古の赤本作品とされる。はじめ、大半紙半切の中本型、6 丁(12 ページ)1
冊を単位としたが、のちに 5 丁( 10 ページ)1 冊とする形式が定まり、これが以後の草双
紙の定型となる。題材は「桃太郎」、「舌切り雀 」、
「鉢かづき姫 」、
「頼光山入(らいこう
やまいり)」などの昔話や御伽草子、浄瑠璃本で、近藤清春、西村重長、羽川珍重らの画
工が手がける。]
1662.○【スウェーデン】宮廷文庫に始まった王立図書館が、納本図書館となる。
[以後、
国立図書館として発展する。
]
1662. ○【オランダ】興行師で数学者のラスマセン・ウオルゲンスタインが、幻灯のデモ
ンストレーションを行う。[ のちに、ロンドンの眼鏡商リチャード・リーヴスが、ウオル
ゲンスタインの装置を望遠鏡などとともに販売する。1965 年、ウオルゲンスタインが自
分の装置に「幻灯( magic lantern )」と名付ける。1666.8.19 サミュエル・ピープス宅にリー
ヴスが訪れ、ウオルゲンスタインの装置を使ってデモンストレーションする。]
1662. ○【フランス】ルイⅩⅣ世が、危険なニュース紙発行者をバスチーユに投獄する。
発行者の一部はオランダに脱出し、発行を続ける。
1662. ○【イギリス】新出版条例により、オックスフォード大学のボドレーアン図書館、
王立図書館、およびケンブリッジ大学図書館が、納本制度による特権を得る。これは図
書館の蔵書を確保するという面より、涜聖(とくせい)的内容のものや治安を乱すおそれ
のあるものの刊行を防止する狙いで行われる。[ 1709 年、版権保護を出版者側が求めた
ことで、納本受入れ図書館は計 9 館に増える。1911 年以降は、大英博物館図書館、オッ
クスフォード、ケンブリッジ両大学図書館、スコットランドの国立図書館、ウェールズ
の国立図書館、アイルランドのトリニティ・カレッジ図書館となる。]
1663(寛文3)
1663. 8.−【イギリス】ロジャー・レストレンジが新聞出版監督官に任命され、ニュース
印刷物は政治に係わり合わせる可能性があると危惧して、民間紙の発行を抑圧し、新聞
ほか印刷物の呼び売りを禁止する。[以後、レストレンジが『Mercurius Politicus』( 1653
年創刊)と『King's Intelligencer』(ヘンリー・マディマンが 1659 年に『 The Parliamentary
Intelligencer』として創刊)を廃刊させて、自ら月曜発行紙『The Intelligencer 』と木曜発行
紙『The Newes』を発刊する。4 つ折り判 1 枚、1 部 0.5 ペニー。[1666 年、廃刊]
1663.○【日本】江戸の「定飛脚問屋」
、京都の「順番飛脚問屋」、大坂の「三度飛脚問屋」
が、同時に飛脚仲間を結成する。[1664 年、月 3 度定期的に飛脚を出発させることを条
件に、幕府から宿駅伝馬を有料で利用する権限を認められる。以後、しだいに、公用通
信もこれら町飛脚を利用するようになる。この頃、上方・江戸間の送達期限を 6 日間と
していたので、飛脚便を「定六」と称する。1830 年代に、期限が守れなくなったため、
「正六」という速達便が登場する。]
1663. ○【フランス】政府が意図する国勢調査に対して、民衆が〈家族と動物とを数えあ
げることは、国民を奴隷の状態にすることである〉と主張し、反対を声高に唱える。
- 214 -
1663. ○【イギリス】占星術師ジョン・ヘイドンが、国王の出生図を計算し作製したとし
て、投獄される。
[1667 年、
〈イギリスでは狂信的信者たちは許容されるか〉、
〈次の講和
条約締結に際してイギリスは中立の立場を採るか〉の 2 つの問いに回答を与えた廉で、
再びロンドン塔に幽閉される。
]
1664(寛文4)
1664.10. −【アメリカ】イギリスが、オランダの拠点ニューアムステルダムを占領して、
ニューヨークと改称する。
1664. ○【フランス】科学者ピエール・プティが、幻灯の製作を試みる。
1664.○【
】フランチェスコ・エスキナルディが、『Centuriae Opticae』を刊行する。幻
灯に関して最初の記述をするが、挿絵はない。
1664.○【イギリス】ヘンリー・パワー Henry Power(41)が、顕微鏡観察を扱った『実験哲
学( Experimanal Philosophy)』を公刊する。ただし、観察図は稚拙で、観察の結果は主と
して言葉で記載される。[ 1665 年 1 月、フックが、最初の微少世界の詳細な観察図を豊
富に収めた『ミクログラフィア( Micrographia )』を出版する。]
1665(寛文5)
1665. 1 .−【フランス】ドゥニ・ド・サロが、週刊紙『ジュルナール・デ・サバン le Journal des
Savants』を創刊する。12 ページ建てで、ラ・フォンテーヌ、デカルト、コルネーユらの
稿を収載する。[以後、マガジン(雑誌)の始めとされる。]
1665. 1.−【イギリス】グレシャム・カレッジ幾何学教授フック Robert Hooke (30)が、顕
微鏡による自然観察の図版『ミクログラフィア(Micrographia )』を出版する。微少世界の
さまざまな姿を精密な図版によって示しており、ガリレオの『星界の報告』に匹敵する
衝撃を人々に与える 。240 ページを超える中身に 118 枚の図版が収録されている。うち、
昆虫が 23 種類、植物等が 15 種類取り上げられ、針・布などの人工物の観察図も 5 件取
り上げている。一見鋭くとがって見える針先が、拡大すると丸いことも明らかにされて
いる 。
〔印刷は 1664 年 8 月に開始されたが、王立協会で、化石は生物の遺骸が石化した
ものであるというフックの推論が問題になり、その検討に手間取る。11 月 23 日に許可
される。〕[公務員ピープス Samuel Pepys( 32)は、1 月 2 日の日記にこの書物に関して次
のように書く 。
〈それから本屋へいって、製本工がフックの顕微鏡についての本を手が
けているのを見た。たいそうきれいなものだったので、即座に注文した。そして役所へ
帰る 。
〉1 月 20 日に〈そこから本屋へゆき、フックの顕微鏡の本をもって帰る。じつに
立派な本だ。たいへん鼻が高い。
〉と書く。ところが 2 月 15 日の晩に割り勘で食事を碩
学たちと共にした中にフックやボイルもおり 、〈なかんずくボイル氏は今日会合に出席
していた。彼にもましてフック氏は、わたしがこれまでこの世で見た中で、実力一番な
がら、一番見かけの悪い人間である〉と書いている。
(臼田昭訳『サミュエル・ピープス
の日記 第六巻 1665 年』国文社、1990)1667 年、第 2 版が出版される。同年、ドイツ語
訳も現れる。]
1665. ○【日本】幕府が、僧侶の市井法談を禁止する。
1665. ○【日本】幕府が、道中筋の遊女を禁止する 。
[のち、人数制限をつけた上で半公
- 215 -
認となる。]
1665. ○【ヨーロッパ】印刷物『コンダムに関する賛辞』(伯爵ジョン・ウィルモット)の
上に、初めて「コンドーム」の文字が記される。
1665. ○【イギリス】アーリントン卿が、命により政府機関紙として、オクスフォードで
半週刊紙『オクスフォード・ガゼット(The Oxford Gazette)』を、配下のジョセフ・ウィリ
アムソン監修の下で発行する。片面 2 欄刷り、売価 1 ペニーで、植民地へも送る。イギ
リスで新聞のようなものの初めで、また官報ともいうべきものの初めとなる。[1666.2.5
第 24 号から『ロンドン・ガゼット』と改題。
]
1665. ○【イギリス】ロンドンにペストが大流行する。呼び売り紙がロンドン内外のペス
ト流行の状況を報道する。この年の死者数は 、「死亡者報告書」に記載された者だけで
も 9 万 7306 人にのぼる。[∼ 1668 年。14 世紀の黒死病の流行以来の未曾有のもので、
歴史上最後の大流行となる。](『ロンドン年代記』)
1665. ○【イギリス】ローヤル・ソサエティが、機関誌『フィロソフィカル・トランザクシ
ョンズ Philosophical Transactions 』の刊行を始める。[この頃の科学革命期において、近
代科学普及のメディアになり、後の科学雑誌のモデルになる。]
1665.○【イギリス】ニュートン Isaac Newton( 23)が、ロンドンにペストが流行している
ので、故郷に避難する。[以後約 2 年間滞在する。この間 1666 年に、万有引力の法則の
着想を得る。]
1666(寛文6)
1666. 2 . 5【イギリス】政府機関紙『オクスフォード・ガゼット(The Oxford Gazette) 』第 24
号を『ロンドン・ガゼット』と改題する。これを契機に公式の政府広報媒体となったと伝
えられる。
1666. 8.19【イギリス】サミュエル・ピープス宅に、友人の眼鏡商リチャード・リーヴスが
売り物の幻灯機を携えて訪れ、絵図の投影を実演して見せる。幻灯機はオランダのウオ
ルゲンスタインが 1662 年に考案した型のもので、直径約 3 インチ、全部ガラス製の半球
の覆いのあるランタンで、光源とガラスの間に図柄を描いたガラスを挿入して、ぞの図
像を比較的遠くの壁面に投影することができる。
1666. 9. 2【イギリス】ロンドンに大火が起こる。午前 2 時ごろ、ロンドン・ブリッジに
近いプディング・レーンのパン屋が火元になり、たちまち全市に広がる。[以後、 4 日間
燃え続け、市の中心部を焼き尽くす。]
1666. ○【日本】中村惕斎(てきさい)による図解百科『訓蒙図彙(きんもうずい)』が京都
で発刊される。[以後、『人倫訓蒙図彙』を経て、1713 年、『和漢三才図会(ずえ)』に集
大成される。]
1666. ○【イラク】ペルシャの首都イスパハンで、「顔を露出した女たちの街」「ベールを
つけない女たちの街」などと呼ばれる娼婦街がある。登録されている娼婦が 1 万 4000 人
いて、隊商宿を根城にしている。登録されている娼婦は団体があり、きちんと納税して
いる。娼婦からとる税は 10 万エキュ(フランス価換算)以上だが、役人は無理に登録させ
ようとはせず、代わりにより高い税を取り上げている 。
(シャルダン『ペルシア紀行』
)
1666. ○【スウェーデン】ストックホルム銀行が、世界最初の銀行券を発行する。偽造防
- 216 -
止対策の一つとして「BANCO」という文字の白すかしを入れる。
1666.○【ドイツ】ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz( 20 )が、イスパニアのレイモン
ド・ルルの真理を発見する自動的方法をつくろうという考えを、いくつかの計算原理で置
き換え、合理的に発展させようとする。学位論文「結合法論考( Dissertatio de Arte
Cornbinatoria )」で推論法則やその様式の整理を試み、さらに数学の組合せについても論
述する。[彼は、あらゆる数字は 2 つの数字、0 と 1 によって表現され得ること、すなわ
ち二進法を発見する。さらに人間の思考過程を記号化し、記号間の演算によって完全な
結論へと導くことを考える。のちの命題計算の思想に発展する。]
1666.○【フランス】財務総監コルベール Jean-Baptiste Colbert( 47)が、科学アカデミーに
おける年金支給の対象となる学問のリストから占星術を除外し、ソルボンヌ大学の星占
い講座を「科学ではない」として廃止させる。
1666.○【イギリス】ニュートン Isaac Newton( 24)が、万有引力の法則の着想を得る。[故
郷の農場で、リンゴの実の落下を見て重力の法則を発見したとのちに伝えられるが、こ
の話の真偽のほどはさだかでない。この話の出所はニュートンの伝記作家スチュクリー
William Stukeley (1687 ∼ 1765)にニュートンが語ったことからといわれ、また一説には『プ
リンキピア』をフランスに紹介したボルテールともいわれる。またこの頃、太陽光の白
光色をプリズムに通すと 7 色の単色光に分かれるが、この 7 色をプリズムに通すと白色
光になることを発見する。のちに、赤・緑・青の色の 3 原色にうち、人間の目の感度か
ら、赤 30 %、緑 59 %、青 11 %の混合で白色光が再現できることがわかり、カラーテレ
ビの原理に応用される。]
1667(寛文7年)
1667.○【フランス】パリの治安が再編成される。警視総監の職が置かれ、初代総監ラ=
レニーがドラマールの権力のもと、出版統制に乗り出す。
1667.○【フランス】最初の官営美術展覧会「サロン」が、J.B.コルベールの発案によっ
て王立アカデミー主催のもとルーブル宮殿の「サロン・カレ(salon carr ロ;四角の間)」で
開かれる。[以後、2 年ごとに行われる。やがて不規則になり、1737 年より再び隔年ない
しは毎年開かれるようになる。出品者は 17 ∼ 18 世紀を通じてアカデミーの会員か準会
員,あるいは美術学校の教官に限られる。1748 年より出品作の検閲が始まり、おもに道
徳面でのチェックを行う。]
1667.○【イギリス】盲目の詩人ミルトン John Milton( 59)が、口述筆記によって叙事詩『失
楽園』全 10 巻を完成させる。出版に際して初めて「著作権」が明文化され、初版 1300
部の権利を 5 ポンドで書籍商に売り、初版が全部売り切れたら改めて 5 ポンド、第 2 版
と第 3 版が売り切れたときはさらに 5 ポンドの支払いを受ける契約を結ぶ。[1674 年 、12
巻の増補第 2 版を刊行する。書籍商は『失楽園』によって莫大な収益を得る。]
1668(寛文8年)
1668.[12.−]【日本】幕府が、劇場および娼街の規制を命令する。
1668. ○【イギリス】この頃、大火後王政復興のロンドンでコーヒー店やパブが増えて、
市民の新しい社交場 、新聞閲覧の場になっている(『ロンドン年代記』上 p.256 に図あり。)
- 217 -
1668.○【フランス】ラ・フォンテーヌ Jean de La Fontaine (47)が、
『寓話』第 1 巻を著す。
[1686 年、
『寓話』を書籍商バルバンに売り渡す。以後、書籍商の特許認可状は繰返し更
新される。ラ・フォンテーヌは 1694 年まで 2 巻、3 巻を書く。1695 年 4 月 13 日、パリで
死去する。1761 年、孫娘たちが祖父の著作物を印刷する認可を取得するため、国王に請
願書を提出する。]
1668. ○【イギリス】ニュートンが、色収差の生じない反射望遠鏡を発明する。
1669(寛文9年)
1669. ○【日本】鉄眼禅師が、明の禅僧隠元禅師の援助のもと、『大蔵経』の刊行を計画
し、桜材の版木で整版に着手する 。
[1678 年、完成する。
]
1669.○【オランダ】博物学者・解剖学者スワンメルダム Jan Swammerdam( 32)が、多く
の種の昆虫を解剖し、その生殖法や生活史を研究しながら、蝶の蛹を観察して、〈母体
内の卵には完成した体の雛形が小さく折り畳まれて入っており、胎児の発生はこの雛形
が開いて発生成長するにすぎない 〉という生殖の「前成説」を唱える。[1680 年 、死去。1737
∼ 38 年、この観察記録や発生説がブールハーフェによりまとめられて『自然の聖書
(Biblia naturae)』2 巻として出版される。]
1670(寛文10年)
1670. 4.−【日本】将軍家綱が、末次平蔵建造のオランダ式大船を品川に回航させて、観
覧する。
1670. ○【日本】琉球の那覇の辻に遊郭が公娼制度として成立する。薩摩藩による大和化
政策の一環で 、
「日本琉球同祖論」を説く。尚象賢は、時の国王から下級の氏族までが
遊女遊びにふけることを嘆いて「遊治郎取締令」により取締りを強化しようとするが、
失敗する。
1670.○【オランダ】スピノザ Baruch de Spinoza( 38 )が、
『神学・政治論』を匿名で刊行
する。この著作は神学者の不寛容に対して思想の自由を擁護し、この目的のために政治
的権力の宗教的権威からの独立を要求した。たとえば「モーセ五書」がモーセ自身の手
になることを否定し、後世の編集によると主張する。[以後、涜神(とくしん)の書として
神学者たちの厳しい非難を浴びる。1674 年、オランダ議会は『神学・政治論』を発禁に
する。1675 年、主著『エチカ』を 15 年の歳月を費やして完成させる。しかし、厳しい
非難のため生前に刊行することが不可能になる。そればかりでなく、スピノザ哲学その
ものが死後 100 年もの間、
「死せる犬」のように葬り去られることになる。]
1670. ○【フランス】コルベールが、パリでの洗礼、結婚、埋葬に関して、月ごとに公表
するよう命じる。
1670. ○【フランス】思想家パスカルの断片的なノートをポール・ロアイヤルの人々が編
集し,『宗教および他の若干の問題に関するパスカル氏の断想(パンセ)』と題して、パ
リの G.デプレが出版する。
[以後、断片の配列を変えた各種の版が出され、
『パンセ(Pens
レ es) 』、『瞑想録』などと呼ばれる。1940 年代に、パスカルが著作プランを立ててそれ
に応じて断片を分類していたことが発見され,著作の構想をある程度理解することが可
能になる。
]
- 218 -
1670.○【フランス】この頃、パリの活字業者ディドー Fran □ ois Ambrois Didot(40)が、
フランスの常用尺度 1in の 72 分の 1 を 1 ポイントとする活字の大きさの単位を提案す
る。この頃のフランスの 1in はイギリスの 1.065in であるから、ディドーの 1 ポイントは
0.3759mm である。[以後、ディドー式はフランス、ドイツなどヨーロッパ大陸で使われ
る。1886 年、アメリカ全国の活字業者が、パイカの 12 分の 1 を 1 ポイントと決める。]
1670. ○【イタリア】教育者ラナが、盲人用に点字のアイデアを発表する。
1671(寛文11年)
1671.○【イラン】フランス人の旅行家シャルダン Jean Chardin( 28 )がペルシャを旅する。
そこで、国王お抱えの踊り子一座はみんな高級娼婦で、給料は年 1800 フランであり、こ
の他に、呼ばれた一夜に 50 ピストル( 1 ピストルは 10 リーヴル)以上を得ることを観察
する 。娼婦のベールは普通よりも短かく、しっかり閉ざされていないので容易に分かる。
女は値段で呼ばれ、10 トマン嬢、5 トマン嬢、2 トマン嬢などと呼ばれている[1 トマン
は 15 エキュ]
。また、雇い妻(ムタ・ダムアド)を望むだけの期間、合意した報酬で囲
う。イスパハンでは、美人で若い女を1年間「借りる」代金が 450 リーヴルである。そ
の他、衣装代・食費・住居費手当が必要。これは民事契約で、裁判官立会いで締結され
る。[1686 年、ロンドンで『サー・ジョン・シャルダンのペルシャと東インドの旅』を公
刊する。]
1671. ○【オランダ】ネーデルラント等族会議が、自国で紙を製造することの必要性を認
識し 、製紙風車を作り紙を国内生産することとし、フランスからの紙の輸入を禁止する。
[以後、従来の木槌によるぼろぎれの搗砕器の代わりにローラー式叩解機が考案される。
この改良されたぼろ処理により、良質の紙が作られるようになり、オランダの優位が 18
世紀末まで続く。
]
1671.○【ドイツ】哲学者・数学者ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz( 25 )が、加減乗
除のできる四則計算機の製作を始める。[以後、1694 年にかけて加減乗除のできる四則
計算機を試作する。
]
1671.○【フランス】パリの書籍商が発行後 60 年しか経過していないアン・フランソワ・
ド・サールの著作物が“古い著作物”であるので、特許認可状の更新を申請しなくても印
刷する権利がある、と主張したのに対して、国王顧問会議は“古い著作物”といわれる
ものは印刷術の普及する以前、すなわち 1670 年以前に死亡した作者の著作物である、と
判定し、書籍商の主張を退ける。
1671.○【アメリカ】ヴァージニア植民地長官 W.バークレイが、イギリスのチャールズ
Ⅱ世に宛てて 、
〈当地に学校も印刷所もないことを神に感謝する、知識は不服従とセク
トを生む〉と書き送る。
1672(寛文12年)
1672. ○【日本】菱川師宣が「絵師菱川吉兵衛師宣」の署名で『武家百人一首』の書の挿
絵家として登場する。以後続々と春画を発表する。
1672.○【日本 】沖縄・那覇の一角に、私娼・街娼を集めて遊郭をつくる。
「辻(チージ)」
の始まり。
- 219 -
1672.○【中国】[康煕 10]内城での遊郭開設禁止令が出る。
1672.○【オランダ】フランスのルイⅩⅣ世がオランダを侵略し、
「ルイ 14 世の侵略戦争」
(オランダ戦争)が始まる。
[1678 年、ナイメーヘンの和約が成立し、オランダは全土を保持する。この間、オラン
ダは戦争による疲弊がはなはだしく,以前の栄光は失墜する。同時に製紙風車が増設さ
れ、国内の製紙業が優位に立つ。
]
1672.○【オランダ】医師・解剖学者ド・グラーフ Regnier de Graaf(31)が、ヒトを含む多
くの哺乳(ほにゆう)類の卵巣を解剖し、詳細な図版を描く。ウシの交尾前後、ウサギの
妊娠全過程の卵巣の形態学的変化を観察し、ほ乳類の卵(卵胞)の生理機能を推論して「卵
子論 」を提唱する。
〔この頃、デンマークのコペンハーゲン大学解剖学教授ステノ Nicolaus
Steno(ステンセン Niels Stensen )(34 )も、卵巣の機能を解明している。
〕[のち、ド・グラー
フは濾胞全体を卵だと誤認はしたていたことが判明する。 1827 年、ドイツのフォン・ベ
ーアが初めてほ乳動物のうち犬の卵子を発見する。1900 年ごろ、卵巣の黄体が分泌機能
をもつということが初めて確認される。]
1672. ○【フランス】王立舞踊アカデミーと王立音楽アカデミーが合体して、王立音楽舞
踊アカデミー(パリ・オペラ座)が設立される。
1672.○【ドイツ】物理学者ゲーリケ Otto von Guericke( 70 )が、機械的に回転させた硫黄
球に手のひらを当て、摩擦電気を起こす装置を作る。最初の摩擦起電機とされる。
1672.○【ドイツ】ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz( 26 )が、加減乗除の四則演算が
可能となるように計画された「段階計算機」を考案する。
1672. ○【イギリス】ロンドンで公開コンサートが開かれる。国王に非礼を働き、主席宮
廷楽士の地位を追われた J.バニスターが、寺院裏手の居酒屋の 2 階で、連日、午後にコ
ンサートを開き、生計を立てる。演奏者たちは、人前に顔をさらすことを嫌い、カーテ
ンの背後に隠れて演奏する。公開コンサートの元祖とされる。
。
1672.○【イギリス】ニュートン Isaac Newton( 30)が「光と色の新理論」を発表する。光
は粒子によって伝わるという光の粒子説を提唱する。[これを契機に、多くの科学者が光
の本質の研究に目を向け始める。フック Robert Hooke( 37 )は、光の分散・干渉理論で光
の波動説を提唱し、ニュートンと激しい論争を展開する。ニュートンの名声が偉大なた
め、フックの波動説は影をひそめる。1690 年、オランダのホイヘンスも、光の波動説を
唱える。]
1672. ○【アメリカ】植民地の人口増大を目的に、イギリスからヴァージニアに送られた
女にたばこの値段に換算した値段がつけられる。若く美しく教養ある良家出の娘は、120
ポンド(約 20 ドル)のたばこと交換される。
1673(寛文13年・延宝1年)
1673.5. −【日本】幕府が、初めて本格的な出版取締令を出す。公儀や諸人に迷惑になる
ような書物の出版は、奉行所に届け出るようにという町触れを出す。[以後、たびたび出
版統制令が出される。1722 年、享保の改革で正式に法令化される。]
1673. ○【日本】川島紙店(のち、川島洋紙店)が創業する。
1673. ○【日本】市川団十郎が、江戸荒事歌舞伎を開く。
- 220 -
1673.○【日本】この頃、太夫の揚代が銀 74 匁、祝儀等を加えると 220 匁になる。
1673.○【ドイツ】ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)( 27)が、ロンドンで計算機を
披露する。[1675 年、微積分を着想する。]
1674(延宝2年)
1674. ○【日本】山ケ野(鹿児島県姶良郡)の金山が衰え、山ケ野遊郭(長崎・門司ととも
に九州の三大遊郭の一つ)の傾城役(営業税 )
、うどんや女役の徴収を止める。うどんや
女は飲食のかたわらで買春を行う。
1674. ○【インド】ボンベイで、印刷業務が開始される。
1674. ○【オランダ】議会が、スピノザの『神学・政治論』を発禁にする。
1674. ○【オランダ】デルフトの商人で保安官助手や酒量を検査官を兼任するレーウェン
フック Anton van Leeuwenhoek( 42)が、ガラスや水晶を研磨してレンズをつくり、倍率約
300 倍もの単式顕微鏡を組み立て、いろいろなものを観察、淡水産の繊毛虫を発見し、
虫に生えている毛の姿はまつげに似ているとして cilium(繊毛)と名づける。[ 1676 年、
細菌を発見する。]
1674.○【フランス】コルベールが、原料不足によるフランスの製紙業の不振を憂慮して、
製紙業者に対して、常に十分なぼろぎれを備蓄しておくよう命じる。(『書物の起源』)
1674.○【フランス 】僧モレリが編纂した『歴史大辞典(Grand dictionnairehistorique ) 』が、
パリの J=B. コワニャールにより出版される。フランス語で書かれ、人名と地名の項目も
多く、歓迎される 。
[以後、英語とドイツ語に訳される。1597 年、カルバン派の信者ベ
ールが 、
『歴史批評辞典』を刊行し、これはモレリの『歴史大辞典』をはじめとする従
来の歴史辞典の不正確と偏向を正した「誤呈の辞典」であると主張する。
]
1674.○【イギリス】占星術師ウィリアム・リリー( 72)の万用歴が、またもや検閲により
発禁処分を受ける。
1674.○【イギリス】フック Robert Hooke( 39)が、惑星の運動に関する逆二乗則を唱える。
[のちにニュートンと万有引力について先取権を争う。]
1675(延宝3年)
1675.○【オランダ】ホイヘンス Christiaan Huygens(46)が、精度のよい時計を目指して、
「てんぷ」、「ひげぜんまい」を組み合わせた調速機を考案する。[この頃、イギリスの
フックもこの発明に成功していたといわれる。のちに腕時計の心臓といわれるようにな
る「てんぷ」、「ひげぜんまい」には、いずれもそれ自身で振動運動を繰り返す性質をも
っており、振動の周期がほぼ一定、つまり「等時性」をもっている。以後、このような
調速機が時計に組み込まれて、その精度を一変し、高精度化への道を開く。]
1675.○【ドイツ】ライプニッツ(29)が、微積分を着想する。
1675.○【イギリス】国王チャールズⅡ世( 45 )が、世界制覇にとって航海術の発展は不可
欠と考え、正確な緯度を決める研究をすめていた王室天文学者フラムスティード John
Flamsteed (29 )に天文台創設を命じる。フラムスティードは、国王の援助を得て、ロンド
ン近郊のグリニジに王立天文台を開設、初代天文台長となる。
[1676 年、天体観測を開
始する。その結果にもとづいて従来の天文学上の数字の大きな誤りを修正する。観測デ
- 221 -
ータにもとづく、近代的な天文学の始まりとなる 。
]
1675. ○【アメリカ】ボストンでで、印刷業務が開始される。
1676(延宝4年)
1676.○【日本】和蘭カピタン通詞の本木庄太夫(本木昌造の先祖)(48)が、同僚の中島、
楢林らとともに、長崎に来航するオランダ船が幕府に提出してきた『和蘭陀風説書(オラ
ンダふうせつがき)』を和解して、幕府に提出する。[ 1682 年、本木良意(りょうい、庄
太夫の号)が、通詞職のかたわら、商館員から医学知識を受け、ドイツ人ヨハネス・レム
メリンの解剖書のオランダ語訳本を重訳。没後の 1772 年、鈴木宗云(そううん)によって
『和蘭全躯(わらんぜんく)内外分合図』と題して解剖図と説明書の 2 冊が刊行される。
『解
体新書』出版の 2 年前にあたるが、影響は与えない。]
1676. ○【ドイツ】アルトドルフ大学のヨハン・シュトルムが、著書『実験的もしくは好
奇的集団』のなかで、初めてレフレックス型のカメラ・オブスキュラの図解を試みる。
1676. ○【イギリス】 ロンドンで、図書の競売が始まる。
1677(延宝5年)
1677.[5.−]【日本】井原西鶴(35)が、この頃、
「阿蘭陀(オランダ)流」と称された自由奔
放な俳諧的世界を拡大化して「矢数(やかず)俳諧(弓術の大矢数をまねて、1 日の間に
つくった句数の多さを競う俳諧興行)」を創始して世間の注目を集めていたが、この日、
1600 句を独吟する。[1680 年 5 月、4000 四千句を独吟。1681 年『西鶴大矢数』と題して
刊行する。1684 年[6 月 5 日]、1 万 3500 句を独吟し、新記録を打立てる。
]
1677. 8.−【オランダ】ダンツィヒの医師ルイス・ド・ハン(ヨハン・ハム)が、自分の精
液を顕微鏡でのぞいて「尾をカタツムリのように動かして進む無数の微生物」(精子)の
存在を発見する。[以後、ハンはデルフトに移り、顕微鏡技術者レーウェンフック Anton
van Leeuwenhoek ( 45)と出会う。11 月 、レーウェンフックは、
〈胎児の雛形は精子にある〉
という「精子論」をまとめ、ロンドンのイギリス学士院に送る。多くの者は、受精に結
びつくものとは思いつかず、寄生虫の一種とみなす。1695 年 、
『顕微鏡で明らかにされ
た自然の秘密』4 巻を著す。1780 年(1680 年?)
、肉眼でみることができない世界まで
生物界を拡大した業績が認められ、外国人として初めてロンドンの王立協会会員に推さ
れる。]
1678(延宝6年)
1678.○【日本】鉄眼禅師が、明の禅僧隠元禅師の援助のもと、1669 年から『大蔵経』の
刊行を計画し、黄檗山万福寺で桜材の版木 6 万枚を開版して、刊行する。
[以後、黄檗版
と呼ばれる。
]
1678. ○【日本】この頃、江戸で幼童向けの絵本「赤本」が流行する。
1678. ○【日本】名優坂田藤十郎が、大坂に和事(わごと)歌舞伎を確立する。傾城買(け
いせいかい)狂言、およびこれに伴う和事(わごと)の演出として発達、江戸の荒事(あら
ごと)に対し上方を象徴する特色になる。 [1679 年 、
『夕霧名残正月(ゆうぎりなごりの
しょうがつ)』の藤屋(ふじや)伊左衛門役で和事(わごと)」の芸を確立する。]
- 222 -
1678.○【日本】菱川師宣( 48 )が、枕絵本に情熱を傾注しはじめる。
1678.○【フランス】ルイⅩⅣ世が、
『中庸』などシナの古典のラテン語訳書刊行させる。
1679(延宝7年)
1679.○【日本】菱川師宣(49)が、枕絵本『表四十八手』を刊行する 。
[1990 年に日本芸
術出版社が復刻する。]
1679. ○【中国】初学者のための画法指導書『芥子園画伝(かいしえんがでん)』初集「山
水樹石譜」が完成する。山水画の描き方を豊富な白黒版画や多色刷り版画をもちいなが
ら解説し、最後に著名作品の模写を掲載する。非常な好評を得る。[1701 年、王蓍(おう
し)、王概、王 (おうげつ)の 3 兄弟の編集した 2 集「蘭竹梅菊譜」と 3 集「草虫 毛花
卉(れいもうかき)譜」が出版される。 1818 年、好評に便乗した出版業者が、他書をよせ
あつめた 4 集「人物画譜」が蘇州で刊行される。日本にもはやくから伝来し(一説には元
禄年間に荻生徂徠が入手)、文人画をはじめ江戸時代の画壇に大きな影響を与える。中国
でたびたび改版模刻される。1748 年、日本においても和刻本がつくられ、広く普及する。]
1679.○【オーストリア】ウイーンで、
『Wiener Zeitung 』紙が発刊される。[以後、第 2
次世界大戦後まで長期にわたり刊行される。]
1680(延宝8年)
1680. 4.−【イギリス】ロンドンの商人ドクラ W. Dockwra とマレー Robert Malay が、ロ
ンドン市内で大がかりな郵便事業を計画する。この頃、都市間の郵便は政府の独占だが、
同一都市内の郵便物は個々の団体間の取り決めで自由に行っている。マレーは間もなく
手を引きドクラの個人事業として民営のペニー郵便を創設する。1 ペニーという安い料
金で重さ 1 ポンド、価格 10 ポンドまでの書信と小包を書留にして引き受け、料金の収納
印を押して、戸別に配達し、郵便物の紛失には賠償金を支払うという画期的な事業であ
る。郵便料金を受け取ったしるしに手彫りのスタンプを押す。郵便物の受付所と郵便箱
を 400 ∼ 500 カ所に設け、1 時間ごとに郵便物を集め 、都心では毎日 10 回の配達を行う。
[以後、直ちに郵便長官ヨーク公が郵便法違反だとして訴訟を起こす。1682.11 ドクラの
事業は政府により営業停止を命じられ、その仕組みは国営の郵便組織の一部門に吸収さ
れる。以後、郵便業務は、受取人による料金の後納を認め、しかも料金は手紙の枚数と
距離の遠近によって異なるうえ、しだいに引き上げられてゆく。1840 年、ローランド・
ヒルが、これに根本的な改革を加える。]
1680.12. −【ヨーロッパ】巨大な彗星が出現する。この彗星の出現により、ヨーロッパ中
で、星の果たす役割についてのおびただしい数の論考が公表される。占星術師らは、こ
れによる様々な予言を行う。これに対して、占星術による予言に反駁する声も高まる。
1680.12.−【イギリス】天文学者ハリー Edmund Halley( 24 )が、フランスに渡る船上で、
大彗星を見る。彗星運動の謎を解くことを心に期す 。
[1682 年、彗星運動に関する執筆
を始める。
]
1680. ○【日本 】
『洛陽集』に〈春の夜の影人形のはつ芝居〉と記述される。この頃、厚
紙を切り抜いてつくった人形に,やはり紙製の片手を糸で結びつけた影人形がつくられ、
人形の下部につけた竹串を動かして手を上下させたりしながら,灯火を利用して障子ご
- 223 -
しにその影の動きを観賞させる。子どもの遊びのほか酒席の座興にも用いられて流行す
る。なかには歌をうたいながら切抜き絵を手影絵と併用して,複雑な形を表現するもの
もある。
1680. ○【中国】清朝政府が、清華門内の武英殿に修書処(編纂所)を設ける。校訂官と刻
工、写字工をここに集め、翰林院に所属する文学的才能を有する臣下に司らせる 。
[以
後、内府の書籍や歴代の政府刊行物のすべてを武英殿で印刷する。内府本は「武英殿本 」
と改称され、「殿本」と略称される。殿本は、精密な校勘、上質の紙墨、ゆったりと潤
いのある字体、上品な版式、端正荘重な装丁などで有名になる 。
]
1680. ○【ヨーロッパ】ドイツやヨーロッパ各地で、反乱、飢饉、黒死病(ペスト)が多発
し、経済は混乱し、人民は物価変動に苦しむ。
1680. ○【ドイツ】黒死病がまん延して、新聞出版業も停滞する。
1680. ○【オランダ】科学者ホイヘンスが、気圧の差による原動機の可能性を示唆して蒸
気機関の発明を助けた経験から、火薬を用いた内燃機関(大気圧機関)を提唱する。内
燃機関の歴史の紀元となる。
1680. ○【イギリス】物理学者・数学者ニュートンが、史上初のジェット推進車の模型を
作り、実験に成功する。ボイラーでつくった高圧蒸気を後方の細い管から噴射し、その
推力で走る。しかし、この車は、高温・高圧のガスを噴射するので、路上で使用するに
は危険が大きすぎ、現物はつくられない。
1680. ○【アメリカ】ニューヨークのウォール・ストリートの先の小さな通りで、多くの
娘が処女を捨てたので、この通りが「処女の細道」と名づけられる。
1681(天和1年)
1681. 2.28 【日本】将軍綱吉( 36 )が、長崎出島のオランダ商館長イサーク・ファン・スヒネ
を引見する。
1681. ○【フランス】パリの舞台で、バレエの踊り手に初めて女性が登場する。それまで
は女性役は少年が踊っていた。
1682(天和2年)
1682. 8.−【イギリス】グリニジ天文台で、台長フラムスティード John Flamsteed (36)の
助手ハリー Edmund Halley (26)が、彗星を発見する。彗星運動に関する研究の執筆を始
め、彗星の観測データにニュートンの万有引力の法則を適用し、彗星はケプラーの説く
ような直線運動をするのではなく、あるものは太陽の周りに楕円軌道を描いていること
を数学的に示す。
[1705 年、彗星の軌道計算に成功 、
『彗星天文学綱要』を出版して発表
する 。
〈1531 年、1607 年、1682 年に出現した彗星は同一のものである〉と考え、次の出
現を 1758 年と予言する。1758 年 12 月 25 日、この彗星が現れる。以後、
「ハリー彗星」
と名付けられる。これによって、天体の運行に関しては、天文学という科学のほうが占
星術よりも有効であるということが確認される。
]
1682.12.28 [ ]【日本】午後 1 時過ぎ、江戸・駒込大円寺から出火、市中の広範囲が焼失
し、夜になって鎮火する。焼失家屋は大名屋敷 75 、旗本屋敷 166 、寺社 95 、町屋 5 万 2000
余、焼死者 3500 人。[以後、八百屋お七の仕業とされ、大火に至った“放火犯人”お七
- 224 -
の摺りものが出て、俗に「お七火事」と呼ばれる。1683 年 3.29 お七が江戸市中引廻し
のうえ、鈴ケ森の刑場で火刑に処せられる。お七火刑に関する呼び売りが出る。]
1682.○【日本】井原西鶴『好色一代男』(大型本で 8 巻 8 冊)が出版され、ベストセラー
になる。[刊記による。実際は翌 3 年の正月ごろであろうとされる。以後、浮世草子とい
うジャンルが形成され、大都市をベースにした出版市場が確立する。]
1682. ○【日本】この頃 、
「浮世絵」という新造語が定着し始める。浮世の絵といわれた
その浮世ということばには、彼岸ならぬ現世、過去でも未来でもない現在、そして好色
の気味の濃い俗世間という多重の語義が込められており、したがって浮世絵の扱う主題
は、当世流行の最先端の社会風俗、それも幕府から悪所とされた遊里や芝居町などの風
俗が中心となる。
1682. ○【アメリカ】ジェームズタウンで、印刷業務が開始される。
1683(天和3年)
1683.○【フランス】ルイⅩⅣ世( 45 )が、フランソワⅠ世の遺品であるギリシア語活字を
国立印刷所に贈る。[以後、同所は、ヘブライ語、シナ語、アラビア語、ロシア語その他
の活字を備える。]
1683.○【フランス】ルイⅩⅣ世( 45 )が、王妃マリー・テレーズの女官モンテスパン夫人
を愛人とし、家庭教師マントノン夫人と秘密結婚をする。[以後、ルイⅩⅣ世とマントノ
ン夫人の関係を醜聞と書き立てた冊子が出廻る。1694 年、冊子の作者を追求し、印刷販
売人を捕らえて絞首刑に処す。]
1683. ○【イギリス】オクスフォード大学に、古物収集家・錬金術文献収集家アシュモー
ル Elias Ashmole( 66)の収集した自然史資料を中心にした博物館が誕生する。アシュモレ
アン博物館と呼ばれ、イギリス最初の自然史博物館であると同時に、世界で最初に一般
に公開された公共博物館となる。イギリスの旅行家・探検家であるトラデスカント John
Tradescant(1570 ∼ 1638 )と同名の息子(1608 ∼ 62)の 2 代にわたって収集された資料をア
シュモールが入手し、その後、彼自身も資料収集を続け、その全資料を大学に寄贈した
ことが契機となる。展示は、「自然科学」、
「古物 」、
「珍奇品」の 3 分野に分けられ、一
般に公開する。[以後、利用者の多くがオクスフォード大学の学生となり、大学の科学研
究において重要な位置を占めるようになる。研究・教育と博物館施設とが一体をなして
発展した注目すべき例となる。海外への学術調査がさかんに行われるにしたがい、自然
物の標本が集積されるようになり、各地に大規模な自然史博物館が建設されていく。]
1684(天和4年、貞享1年)
1684.
[ 2.27]【日本】幕府が、関東の譜代大名に半年ごと参勤交代を命じる。
1684.
[ 4.11]【日本】幕府が、寛文 13 年の出版令に続いて出版取締令を出し、官家
に関すること、新奇のことの刊行を禁じる。[ 11 月、市中に流行している卑猥な小唄な
どの版行、風説の呼び売り、新奇出版物の印刷・売買を禁じる。以後、数年ごとに禁令
を出すが、効果は一時的なものに終わる。]
1684.
[ 6.5 ]【日本】井原西鶴(42)が、大坂の住吉神社で 3 度目の大矢数俳諧(おおや
かずはいかい)を興行し、1 昼夜に 2 万 3 千 5 百句を独吟して新記録を立てる。記録者は
- 225 -
筆記はおろか数を数えるだけで精一杯の有様であった。西鶴は自ら創始した矢数俳諧に
終止符を打つ。[以後、
「オランダ西鶴」と異名されるが、この時の句は記録されていな
い。
]
1684.
[10.29]【日本】霊元天皇の改暦の宣下があり、朝廷が渋川春海(はるみ)(46 )
の手になる新暦を「貞享歴(じょうきょうれき)」と号して、今後用いるよう宣旨を下す 。
かねてより春海は、862 年以来の「宣明歴」が 2 日以上の誤差があり 、中国の 「授時歴」
の採用を上表していたが、朝廷は明の「大統歴」を採用、これも日本では誤差があり採
用されず、前年 11 月に再度改暦を申し出ていた。これを知った将軍綱吉が徳川光圀に密
かに工作させ、大統歴と春海の新暦との優劣を、京都梅小路で渾天儀を用いて観測させ
た結果、新暦に軍配が挙がり、春海の新暦が採用されることになる。日本人の手になる
初の暦となる。
[1685 ∼ 1754 年の間使用される]
1684.○【日本】井原西鶴『好色二代男』が出版される。
[1722 年、好色本禁止令により
『諸艶大鑑』と改題される。]
1684.○【オランダ】
ロッテルダムに亡命しているフランスの思想家ベール Pierre Bayle( 37 )
が、学界の消息,新刊書の抜粋と書評などを集めた月刊誌『文芸共和国便り』を、アム
ステルダムの H.デボルドにより創刊する。
[以後、すぐれたジャーナリストとしてもヨ
ーロッパ中に知られる。 1677 年、廃刊。
]
1684.○【フランス】文学者フュルティエール(フュルチエール)Antoine Fureti ≡ re( 65)が、
1672 年ころから『大辞典 Dictionnaire universel』の編纂に励んできたが、これを出版し
ようとして、辞典公刊を独占していたアカデミーと対立する。
[1685 年、激しい論戦の
末アカデミーからも除外される。1688 年、失意のうちにパリで死去する。1690 年、ピエ
ール・ベールによりオランダで刊行される。一種の百科事典の観があり、多方面のおびた
だしい術語のほか古語、新語、俗語をも収め、また語義にも詳しく、17 世紀のフランス
語を知る上で不可欠の文献となる 。
]
1684.○【ドイツ】僧ツァーン Johann Zahn (43)が、カメラ・オブスキュラに関する本を著
し、実用的なポータブル型の装置を解説する。当時、カメラ・オブスキュラはもっぱら絵
を描くときのトレース用として利用され、その小型化が課題となっていた。彼のカメラ・
オブスキュラには光路に斜めに反転可能な鏡があって、水平なピントグラス上に映像を
結ぶ一眼レフ方式になっている。
1684.○【イギリス】物理学者フック Robert Hooke(49)が、遠距離通信を可能にする視覚
信号システムを考え、学士院で発表する。[以後、フックの提案は実現されない。1789
年、フランス革命が起こり、遠距離通信の必要性が高まり、1792 年、シャップが腕木通
信を考案して実用化に持ち込む。]
1684. ○【イギリス】ロンドンで、初めて注目に値する性書『アリストテレスの傑作―世
代の秘密は体のすべての部分に現れる』が出版される。性交の前戯を数多く紹介し、特
に陰核を愛撫することを強調し 、
〈石炭を吹いて炎を燃え上がらせる〉ように女を快楽
に誘うようにと解説する。
1685(貞享2年)
1685.8.31【アメリカ】メリーランドで最初の印刷が、St. Mary's City で開始される。
- 226 -
1685. ○【日本】幕府が、中国商船の舶載した貨物の中から、耶蘇教勧法書を見つけ摘発
する。以後、洋書中に少しでも耶蘇教の文言が目につけば焼却し、それを運んだ船の貿
易を一切禁じる。[ 1720 年、吉宗により洋書が解禁される。]
1685. ○【ドイツ】ウュルツブルクの修道僧ヨハン・ツァーンが、著書『遠隔光線の屈折
光学的人工眼』で、カメラ・オブスキュラの焦点板として乳白色ガラスを用い、箱の中を
黒く塗って内面反射を防止することを初めて提案する。
1685.○【オランダ 】ルイⅩⅣ世打倒の出版キャンペーンが盛んに行われる。
[∼ 1715 年 。
]
1685. ○【フランス】ナントの王令が廃止される。プロテスタントの国外脱出が増える。
書籍商が多く脱出する。
1685.○【フランス】ルイⅩⅣ世( 47 )が、情報収集、通商、布教を目的に、イエズス会士
や旅行家を近東、東洋、アメリカ大陸などに派遣する。
1686(貞享3年)
1686. 5.14 【ポーランド】ファーレンハイト Daniel Gabriel Fahrenheit が、ダンツィヒ(の
ち、ポーランドのグダニスク)で商家の長男として生まれる。[のち、ドイツの物理学者
となる。1724 年、温度計の目盛りの標準化を図る。 健康な男性の口の中または腋(わき)
の下の温度を 90(のち、96)とし、氷と水の混合物の温度を 30(のち、 32)とする。ファー
レンハイト温度目盛「度 F 」の発端となる。中国でファーレンハイトの名に華倫海の文
字をあてたので中国や日本では「華氏」となる。以後、ファーレンハイトの誕生日を記
念して 5 月 14 日を「温度計の日」とされる。]
1686.○【日本】井原西鶴『好色五人女』が出版される。
[1722(享保 7)年、好色本禁止令
により『当世女客気』と改題される。]
1686.○【中国】(康煕 25)江蘇常熟の「吹藜閣」が、楷書体の銅活字を用いて、唐代の科
挙受験用の文体律賦の選集『文苑英華律賦選』を印刷・刊行する。清朝最初の銅活字印
刷本となる。
1686. ○【ドイツ】ブランデンブルグ選帝候が、行き過ぎた旅行を禁止する強力な勅令を
出す 。重商主義の立場からは 、旅行の増加が現金の外国への流出をもたらすというので、
重い旅行税を設けて処罰すればよい、というポーランド王室兼ザクセン選帝候宮廷商業
顧問官パウル・ヤコブ・マルペルガーの進言による 。
[以後、 30 歳以下の国民は選帝候の
許可なしにはだれも外国旅行ができなくなる。
]
1686. ○【フランス】出版に関する規則「出版規制令」が制定され、印刷業者と書籍商以
外の者が書物を販売することがあらためて禁止され、出版に対する特許認可状に関する
従来の勅令の趣旨が再確認される。外国からの出版物流入も規制される。[以後も、地方
の書籍商たちには無視されることが多く、著作者たちも特許認可状を申請して自分で販
売するようになる。17 世紀末にかけて、クラモワジーなどパリの書籍商の倒産が相次ぐ。]
1686.○【フランス】フォントネル Bernard Le Bovier de Fontenelle ( 29)が、
『世界の複数
性に関する会話』でデカルトの哲学をひきながら宇宙のしくみを文学のかたちでたくみ
に紹介する。
1686.○【イギリス】政府が、印刷業者 36 人に印刷特権を認め、鮮明な印刷と良質紙の
使用などを約束させる。
- 227 -
1686. ○【アメリカ】カロライナ行きのイギリス船の一乗客が、アメリカへの「売られた
花嫁」60 人中 12 人は娼婦であったと発表する。
1687(貞享4年)
1687.○【フランス】フォントネル Bernard Le Bovier de Fontenelle( 30 )が、
『神託の歴史』
を著し、神託とは古い時代の宗教が編み出したまやかしの結果に過ぎないとして、宗教
的な迷信に対して反駁する。
1687. ○【フランス】王立コレージュ・ド・フランスの解剖学・外科学教授ニコラ・ヴネ
ット( 55)が、
『夫婦生活のすべて』を出版する。
1687.○【イギリス】ニュートン Sir Isaac Newton ( 45)の『プリンキピア』が出版される。
1688(元禄1年)
1688.○【日本】井原西鶴『好色盛衰記』が出版される。[ 1722(享保 7)年、好色本禁止令
により『西鶴栄花話』と改題される。]
1688.○【日本】藤本箕山『色道大鏡』(全 16 巻)が成立する。
1688.○【日本 】
『諸国色里案内』が刊行される 。佐渡国・山先町では太夫 35 匁、天神(江
戸では格子と呼ばれる) 25 匁、半夜 15 匁、下ノけち 2 ∼ 3 匁、長崎・丸山では太夫 30
匁、江戸・吉原の太夫 35 匁である 。
[佐渡は江戸に比肩する遊女の格の高さを示す例で
ある。]
1688.○【日本】この頃、夜鷹(街娼)が 24 文∼ 100 文で買春する。
1688.○【イギリス】ロイド Edward Lloyd)(40 ?)が、ロンドン塔に近いのタワー街にロ
イド・コーヒー店を開店する。プール・オブ・ロンドンの船着き場に近いところから、客は
船主、船長、船員らが多く、やがて主として海運業者や海上保険引受人のたまり場とな
る。店主のロイドは客の便宜のため,海事・海運に関するニュースを集めたり,船舶の
売買や積荷取引の周旋を行う。たちまち海上保険取引の中心となる。[以後、ロイド・コ
ーヒー店は、海事に関しては信頼できる情報を提供することで有名になり、大いに栄え
る。1691 年、ロンドンの商業金融の中心ロンバード街に移る。のちに世界最大の保険市
場になる。]
1689(元禄2年)
1689.5.16[ 3.27]【日本】早朝、松尾芭蕉( 45)が、門人河合曽良(かわいそら)を伴って江
戸深川から陸奥・出羽・北陸への旅に出発する 。
[7.13 [ 5.27 ] 立石寺で〈静かさや岩に
しみいる蝉の声〉と詠む。9.3[ 8.21]ごろ]美濃の大垣に到着し、2400km に及ぶ約 150 日
間にわたる「おくのほそ道」の旅を終える。1692 年 6 月以後翌年 4 月末までの間、旅を
素材とした俳諧紀行『おくのほそ道』の草稿本が成立したと推定される。1694 年初夏、
推敲を加えた決定稿を、能書家の素龍(そりゅう)に依頼して清書本が完成する 。1988 年 、
日本旅のペンクラブが、5 月 16 日を「旅の日」と定める 。
]
1689. ○【フランス】パリに、プロコプのコーヒー店が開店する。ディドロとその友人の
会合場所となる。コーヒー店の主人は、店内に新聞・雑誌を置いて自由に読ませること
で客を惹きつける。客は新聞記事を話題にしたり議論に加わる。[以後、
「公論」とか「公
- 228 -
共圏(ハーバーマス)」と呼ばれるものが形成される。]
1690(元禄3年)
1690. 8.18 【日本】ドイツ人ケンペル(39)が、医学・博物学を修め、ヨーロッパ各地を旅
行したのちオランダ東インド会社に就職し、長崎出島のオランダ日本商館長オートホー
ルン付き医師として来日する。[1692 年 10 月まで滞在する。この間、1691 年と 92 年の 2
回、商館長の江戸参府に随行し、日本の歴史、社会、政治、宗教、動植物などを総合的
に観察し、記録する。得意な絵筆をとって挿絵も準備する。]
1690. 9. 5【アメリカ】イギリスの植民地であるアメリカで、ハリス Benjamin Harris が最
初の新聞『パブリック・オカレンシズ(Publick Occurrences Both Forreign and Domestick)』
創刊号を発行する。
[以後、発行を禁じられる。]
1690.○【オランダ】フュルティエールの『大辞典( Dictionnaire universel)』 が、ピエー
ル・ベールの序文をつけてデン=ハーグとロッテルダムで、A&R.レールスによって刊行さ
れる 。
]
1690. ○【イギリス】オクスフォード大学が、自ら運用する印刷所を設置し、印刷、出版
活動を始める。オクスフォード大学出版部( OUP)の歴史が始まる。[以後、オクスフォー
ド聖書と祈祷書について、特許状によりなかば独占的な出版権を取得、聖書の印刷所と
して大成功をおさめる。1896 年 、ニューヨークに聖書販売のための支店を設立する。1909
年、アメリカ初のスコフィールド聖書を出版する。1920 年、宗教書以外の出版に着手す
る。1989 年、印刷所を閉鎖、その歴史的役割を終える。]
1690. ○【アメリカ】ヨーロッパの製紙技術が、初めて大西洋を渡り、製紙工場がフィラ
デルフィアに建設される。
1691(元禄4年)
1691. 2.30 【日本】オランダ商館長バイテンヘム以下、医師ケンペル Engelbert K □ mpfer
(40 )と 2 人の商館書記の一行 4 人が、礼装に黒マントをまとい、馬に乗って江戸城へ登
城する。商館長だけ将軍綱吉(46)に拝謁したのち、4 人は将軍と夫人・大奥女性・諸大
名が居並ぶ第 2 謁見室へ通される 。綱吉は商館員たちに立ったり 、歩いたり 、踊ったり 、
オランダ語とドイツ語で歌ったり、怒る真似などさせる。ケンペルには癌と潰瘍の処置
法や不老長寿に関して熱心に質問する。
1691.○【イギリス】ロイド Edward Lloyd( 42 ?)ロイド・コーヒー店が、繁盛して手狭に
なったため、ロンドンの商業金融の中心、王立取引所の近くのロンバード街に移る。海
運業者や海上保険引受人のたまり場となっており、みなここを取引の場所にする。店主
のロイドは客の便宜のため,海運に関するニュースを集めて紙片に書いて閲覧に供した
り,船舶の売買や積荷取引の周旋を行ったので,その店は大いに栄える。1696 年に新聞
『ロイズ・ニュース(THE LOYDS NEWS )』を創刊する。76 号まで続く。1774 年、新ロ
イズのルームが、王立取引所のなかに置かれ、海上保険コーヒー店は終焉する。1871.5
ロイズが法人化される。]
1692(元禄5年)
- 229 -
1692.○【日本】ケンペル Engelbert K □ mpfer( 41)が、再び商館長の江戸参府に随行し、
『諸国参府旅行日記』を著す。
1692. ○【フランス】パリの薬局医師ニコラ・ド・ブルニュが、イエローページ(案内書)
の構想を基に 、
『パリ住所便利帳』を印刷し、売り出す。求人、図書館、公開講義、浴
場、音楽教師、パリ大司教の公衆相手の説教の時と場所、ロイヤルタッチ(国王が患者に
触ると治癒するという慣習)の実施などに関する情報を掲載する。
ブルニュは著者名に「ア
ブラハム・ド・プラデル」という偽名を使い、住所が掲載されたということで名士や市
民がプライバシー侵害を訴えることに備えた。
1692. ○【ドイツ】ある男が旅の先々で 、
〈モレアム行きの女志願兵の部隊が通る〉と言
いふらしたところ、百姓や市民が何時間も「巨大なオッパイ女たち」が来るのを待って
いた、と小説家ヨハン・ベーア( 37)がその様子を語る。土地の百姓たちにとって 、
「新し
いこと」を運んでくる旅行者は、外の世界との唯一のつながりとなっている。
1692.○【アメリカ】マサチューセッツ植民地のセーラム(Salem )で、牧師が所有するテ
ィツバという奴隷のことばを聞いて、少女たちが原因不明の苦痛を感じるという事件が
起こる。牧師会議によって魔女と判断されたのを受けて、植民地総督任命の委員会が数
百名を捕縛し、19 名を絞首する。[のち、「セーラムの魔女」事件と呼ばれる。]
1693(元禄6年)
1693. 6.27 【イギリス】世界初の女性向け週刊雑誌『The Ladies Mercury(ザ・レディーズ・
マーキュリー)』が、
『Athenian Mercury 』を辞めた John Dunton によりロンドンで創刊さ
れる。1 枚の紙両面に印刷したもので、記事はすべて未婚、既婚、未亡人を問わず女性
の身の上相談で埋める。創刊の辞で〈風変わりな質問にもすべてお答えします〉と宣言
する。不倫や性に関する記事も扱い、読者の好奇心をそそる。
「 mercury」は、使者、道
案内人、恋愛などの仲介者、橋渡し役など 、さらに報道者の意味がある。古くは「新聞」
という意味もあり、この頃から新聞や雑誌名に用いるようになる。[のち、イギリス国立
図書館には 1963 年 2 月 27 日付けの『The Ladies Mercury』が保存される。★日付の差は
何故か不明。???★(http://www.bl.uk/collections/brit17th.html#four )]
1693. ○【アメリカ】ニューヨークで、印刷業務が開始される。
1694(元禄7年)
1694. 1.−【日本】鹿野武左衛門の咄本『鹿の巻筆』に、舞台で馬の中にいた役者が見物
と口をきいた話をこじつけて、南天の実と梅干が流行のコロリ(コレラ)に利くと書く。
この咄にヒントを得たデマが巷(ちまた)に流れたため、幕府は、世を惑わしたとして、
出版者筑紫団右衛門を町中引き回しの上斬首、版元は流罪、武左衛門は伊豆大島に 6 年
間の流罪の刑に処する。[ 1700 年、武左衛門は 6 年の刑期を終えて江戸に帰り、その年
に病死する。
」
1694. 1.−【日本】鈴木武平筆『吉原草摺り引き』が刊行される。吉原青楼の善悪、遊女
の品定めなどを詳記する。幕府は直ちに絶版を命じる。
1694.○【ドイツ】哲学者・数学者 G.W.ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz(48)が、
加減乗除のできる四則計算機を 23 年かけて試作する。加減算を行う操作ハンドルを回転
- 230 -
することによって、乗算を加算の繰り返しで、除算を減算の繰り返しで実現するもので
ある。[以後、実用化に至らない。簡単な数値に対しては正しく計算を行えるが、桁上
げが数桁以上繰り上がるときには正しく動作しない。その原因は、機械設計上の弱点と
加工精度の不十分さにあり、当時の技術では解決困難であった。しかし、乗除算を加減
算の繰返しによって実現する機械方式は,キャッシュレジスタなどに採用され、またそ
の考えはのちのデジタルの計算機械のほとんどすべてに採用される。]
1694.○【フランス】アカデミー・フランセーズが、発足以来 60 年の歳月を費やして編集
してきた国語辞典『アカデミー辞典 Dictionnaire de l’Acad レ mie fran ぅ aise 』初版を完
成させる。パリのコワニャールにより印刷され、国王ルイⅩⅣ世に献じられる。
[以後 、18
∼ 19 世紀を通じて 1718 ,1740,1762 ,1798,1835 ,1878 年とたびたび改版される。1932
∼ 35 年、第 8 版。第 9 版が準備中。
]
1694. ○【フランス】ルイⅩⅣ世と家庭教師マントノン夫人との秘密結婚を醜聞と書き立
てた冊子の作者を追求し、印刷販売人を捕らえて絞首刑に処す。
1694.○【フランス】新発見集録紙『Recueil d'Observations』が創刊。[以後、9 号まで刊
行。]
1694.○【イギリス】イングランド銀行(正式名 The Governor and Company of the Bankof
England )という法人(株式会社)が、ウィリアム・パターソンの原案に基づいて資本金 120
万ポンドの出資を募り,その全額を国庫に貸し上げる代償として出資者たちにより設立
される。当初の株主は 1268 人で,株主総会で選出された正副総裁と 24 人の理事が重役
団を構成する。
[以後、政府から年 8 %の利子(および 4000 ポンドの管理費)を受け取る
ほか,資本金と同額まで銀行券を発行して各種の銀行業務を行い、組織的に手形割引を
始めた最初の大型銀行となる。同行の創立によってイギリス(さしあたりロンドン)の手
形割引歩合は急落し 、4 ∼ 5 %(ときに 3 %)という低い金利水準が普通になる。1709 年、
唯一の株式発券銀行としての地位を認められる。1826 年、支店設置の権限が与えられる。
1833 年、法律でイングランド銀行券は法貨とされる。また、ロンドンから 65 マイル以
遠の地方では株式発券銀行が設立できることになる。1844 年、ピール銀行法によって銀
行券はイングランド銀行に統一されることになり、発券銀行としての排他的独占権を獲
得する。初めて期間を限定せずに一定の金貨が支払われることを保証した兌換銀行券が
生まれる。
]
1694.○【イギリス 】国による新聞の特許制(licensing)と検閲制( censorship)が廃止される 。
[以後、原則的には言論の自由が確立する。1704 年、デフォー Daniel Defoe の『レビュ
ー Review』創刊。1710 年、スウィフト Jonathan Swift も論説を執筆する『エグザミナー The
Examiner』が創刊される。しかし、絶対主義時代に王の手にあった言論に対する権利は
直ちに民衆の手には渡らず,議会が握り続ける。]
1694.○【イギリス】世界初の女性誌『The Ladies Mercury』が創刊される。内容は主に身
の上相談。[以後、
『Femail Tatler』(1709 ∼ 1710)など同じような女性向け雑誌が多く創
刊される。]
1695(元禄8年)
1695. 7.19【イギリス】世界初の結婚相手募集広告が、ジョン・ホートンの『農業と商業
- 231 -
の改善のための情報集』に掲載される。〈当方 、年齢 30 位の紳士。広い土地を所有 。3000
ポンド程度の財産を有する淑女を求む。〉と記載する。[1727 年、女性が初めて求夫広告
をマンチェスターの週刊紙に掲載する。]
1695. ○【日本】水戸光圀が祝町(茨城県)に遊郭を許可する。遊女屋ははじめ洗濯屋と呼
ばれ、5 軒が営業する。[のちに 7 軒、元禄末に 12 軒になる。]
1695.○【オランダ】顕微鏡学者レーウェンフック Anton van Leeuwenhoek( 63)が 、
『顕微
鏡で明らかにされた自然の秘密』4 巻を著す。
1695.○【イギリス】出版検閲法(事前許可制法)が廃止される。1538 年に国王による書物
の検閲が始まって以来約百数十年にわたり続いた政府や教会による検閲制度が終わる。
出版物の検閲だけでなく、出版業者組合による印刷の管理も終結する。誰もが、自由に 、
好むものを出版し、その結果を引き受けることができるようになる。[以後、出版物が急
増する。]
1696(元禄9年)
1696. ○【日本】幕府が、宿継飛脚の速さを定める。江戸伝馬役からの宿継公状は、大坂
まで 130 里(511km)が通常 48 時( 96 時間)、京都まで 120 里(471km)が通常 45 時(90 時
間)、急行便が 41 時(82 時間)とされる。
(駅逓局御用掛青山秀編『大日本帝国駅逓志考
証』、『駅逓志稿・完』1881)
1696. ○【日本】京都の河内屋利兵衛(かわちやりへえ)が、『増益書籍目録大全』を刊行
する。約 7800 点に上る書籍を収録しており、民間出版が緒につく。[以後、1720 年ころ
までに出版の中心は京都から江戸へ移る。]
1696. ○【日本】宮崎如見による日本初の農書『農業全書』が成る。
1696.○【オランダ】フランスの亡命哲学者ベール Pierre Bayle( 49)が、
『歴史批評辞典(歴
史的批判的辞典)』に取り組み、ロッテルダムの出版業レールス Reynier Leers(42)が支援
のために給料を支払いながら刊行を準備する。[1997 年、完成。ディドロなどの『百科
全書』の先駆をなす 。
]
1696. ○【イギリス】ロンドンのカボット・ドークスが、
『ドークスの手紙新聞』を創刊す
る。筆記体に似たイタリック活字を使用し、読者が地方にいる友人らに送る時のための
伝言用白紙スペースを設ける。最初の夕刊紙とされる。
1699(元禄12年)
1699.○【イギリス】自然哲学者ニュートン Sir Isaac Newton( 57)が、造幣局長官となる。
[以後、贋(にせ)金作りを取り締まり、ハリーやロックらとともに、大蔵大臣を務める教
え子で友人のモンタギューの貨幣改鋳事業を助ける。1700 年に、貨幣重量に厳しい正確
さを求める。1717 年に政府に助言して、1 ギニー金貨が銀 21 シリングと決定され、これ
によってイギリスは実質的に金本位制となる。ニュートンはイギリス貨幣制度史上にも
名を残す。]
1700(元禄13)
1700. ○【ヨーロッパ】この頃、摩擦起電機で発生させた静電気による電気ショックで病
- 232 -
気を治療する試みが盛んに行われる。
1700.○【ドイツ】アウクスブルク(アウグスブルク)で、旅行セットが作られる 。中には、
お白粉入れ、爪ブラシ、薬用スプーン、インク瓶、砂撒き器など、50 個以上の小物が入
っている。
[∼ 1770 年。これらの品物を使用するのは、少数の貴族階級だけである。
]
1700.○【ドイツ】ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz(54)が、ベルリン科学協会(の
ち、ドイツ科学アカデミー)を創設、初代院長となる。[以後、ライプニッツはロシアの
ピョートル大帝の顧問となり、科学アカデミーの設置を提案する。1724 年、ベルリン科
学協会をモデルにして、サンクト・ペテルブルク科学アカデミーが設立される。]
1700. ○【イギリス】この頃、ロンドンの盛り場でコンドームが売られる。性病予防のた
め山羊の盲腸や魚の浮袋で作られ、水洗いして何度も使用される。
1700. ○【南アフリカ】ケープタウンで初めて印刷が行われる。
1700.○【アルゼンチン(?)】Am Rio dela Plata (ラプラタ川畔の意味か??)で初めて印
刷が行われる。(★要調査)
1701(元禄14)
1701. 3.14 【日本】午前 9 時ごろ、赤穂藩主浅野内匠頭長矩( 35)が、江戸城松之廊下で高
家筆頭吉良上野介義央( 61)に、突然、小刀を振るって刃傷に及ぶ。[以後、事件を国元へ
知らせる浅野の家臣 2 名が早打駕籠にそれぞれ乗って、170 里(668km)を 4 日半昼夜兼行
で、3.18 赤穂に着く。このときは、人足数名掛かりで駕籠を担いで走り、人足が宿場で
交代するとき使者も粥をすすり仮眠をとったという。(樋畑雪湖『江戸時代の交通文化』
1931、石井寛治、 1994 )]
1701.○【日本】京都の本屋、八文字屋八左衛門(筆名:八文字自笑( 2 代目))が、江島其
磧(えじまきせき)を専属作者として起用し、浮世草子『けいせい色(いろ)三味線』を刊
行する。西鶴の好色本を模倣したものだが、この頃の役者評判記に見られる横本の形式
で、仮名書きでわかりやすい文体であり、現実に取材しながら、教訓性を盛り込む。其
磧の才筆と自笑の商才により他の本屋を圧倒する。[以後、其磧や多田南嶺(ただなんれ
い)などの作者をうまく使い、庶民向けの読み物として広く読まれ 、
「八文字屋本」と呼
ばれる。八文字屋は、孫の代まで約 70 年間上方(かみがた)の出版界をリードする。]
1702(元禄15)
1702. 3.−【イギリス】印刷書籍業者エリザベス・マレット Mallet が、イギリス最初の日
刊紙『ザ・デイリー・クーラント(Daily Courant)』を創刊する。紙面はほぼフールスカッ
プ大、片面刷り 2 欄 2 ページ。1 部 1 ペニー。記事は大半がオランダ紙やフランス紙か
らの訳載と大陸戦争記で埋め、国内の政治記事は避ける。ドーバー海峡∼ロンドン間の
毎日郵便制がこの日刊紙刊行を可能にする。[4 月、サミュエル・バックリィ Buckley が
引き継ぐ。のちに北アメリカにも送る。1735 年廃刊。]
1702.○【フランス】東洋学者アントワーヌ・ガラン Antoine Galland( 65)が、アカデミー・
デ・ザンスクリプション会員とな利、膨大な「古銭学辞典」を作り始める。
1702.○【イギリス】ジャーナリスト、デフォー Daniel Defoe( 32?)が、非国教徒を徹底的
に弾圧せよと主張するふりをして 、弾圧の愚かさをかえって強く訴えるパンフレット『非
- 233 -
国教徒処理の近道 』を書く。政府ににらまれて投獄され、さらし台に立たされるが、民
衆には支持され、獄中から個人週刊新聞を出す。[1704 年、出獄後個人新聞を続刊し『レ
ビュー』を創刊する。1713 年廃刊。]
1703(元禄16)
1703.1.30[12.14]
【日本】四十七士が吉良邸に討ち入りする。
1703. ○【日本】曾根崎心中の呼び売りが出る。[以後、近松門左衛門が『曾根崎心中』
を執筆する。幕府が、町触れで、謡、小唄になぞらえた時事出版を禁じる。]
1703.○【フランス】東洋学者アントワーヌ・ガラン Antoine Galland( 67)が、ド・ギュイ
ラーグの娘のために「船乗りシンドバッド」を訳し始める。印刷の直前にこれが一大物
語群『千夜一夜物語』の一部であることを知って印刷を延期する。[以後、諸方に写本を
求め、シリアからの写本により訳業を継続する。1704 年、出版を始める。1715 年、没す
る。没後も翻訳の出版は続けられる。1717 年、全 12 巻が完結する。以後、ヨーロッパ
中で各国語に訳される。]
1703.○【イギリス 】ニュートンが、王立協会( Royal Society)総裁に就任する。
[以後、1727
年、死去するまでこの地位にある。この間、グレー(グレイ)Stephen Gray が、摩擦され
た物体の軽い物を引きつける能力が、麻糸や金属を通して他の物体に伝えられることを
発見、摩擦電気を通信に使うことを提唱するが、ニュートンはグレーに 1 度しか機関誌
に論文掲載を許さなかった。 2000 年、工学物理研究所のデビッド・クラークらが『ニュ
ートンの専制』を著し、グレーがニュートンに嫌われた天文学者フラムスティードの親
友だったため徹底的に疎まれ、先駆的なグレーの通信に関する研究成果が十分に公開さ
れなかったので、電気通信の研究が大きく遅れたという。
]
1703. ○【ブラジル】国内で初めて印刷が行われる。
1703. ○【パラグアイ】国内で初めて印刷が行われる。
1704(元禄17、宝永1)
1704. 8 .−【ドイツ】書籍印刷業ヨハン・ロレンツ Lorentz が、プロシア政府の許可を得て、
マリア・カタリナの印刷所と『Mercurius』その他ベルリン紙の発行権を 2500 ターレルで
買い取る。[以後、ヨーロッパ各地との通信網を整備してゆく。]
1704.○【フランス】各都市の印刷工房の数が制限される。パリ 36、リヨン・ルーアン 18 、
トゥールーズ・ボルドー 12 など、110 都市で計 278 工房になる。
1704. ○【フランス】国王付き検閲官が 、
『善良なる農夫の万用歴』または『日々の万用
歴』を、〈民衆の心に迷信を保たせる役にしか立っていない〉との理由で禁止する。
1704. ○【スイス・フランス】幾何学者で光学機械商のファキオ・ド・ドイリエと、フラン
スの時計製造者 P. ドボーフルが、宝石入り時計の特許を取得する。(☆次項との関係
は??)
1704.○【イギリス】ロンドンで働いているスイス人ファティオ N. Fatio が、ルビーに穴
をあける方法を発明する。これによって、時計の歯車の軸受に宝石が採用されるように
なる。[以後、前世紀のフック R. Hooke、クレマン W. Cl □ ment に続いて 18 世紀のト
ンピオン T. Tompion 、グラハム G. Graham、マッジ T. Mudge などの脱進機に関する発明、
- 234 -
グラハムの水銀補正振り子など、主要な発明によって、時計の構造が大いに改良される。]
1704.○【イギリス】ジャーナリスト、デフォー Daniel Defoe(34?)が、週 3 回刊の個人新
聞『レビュー Review』を創刊する。[1713 廃刊。この間 10 年近くにわたってデフォー
はこの新聞のため論説を書き、イギリス商業、貿易の策や商人道徳、宗教問題を論じる。]
1704.○【イギリス】ハリス John Harris( 1667 ?∼ 1719)の『技術辞典(英語学術辞典)
(Lexicon technicum)』が、10 人の書籍商や引受人の連合組織によって出版される。900
人近くの予約者を集める。予約者の中にはアイザック・ニュートン Issac Newton (62)や
古典学者リチャード・ベントレー Richard Bentley (42)をはじめ、船大工や時計製作者も
含まれる。アルファベット順に配列された英語での最初の百科事典と考えられている。
1704. ○【アメリカ】イギリスの植民地ボストンで、最初の定期的新聞『ザ・ボストン・ニ
ューズレター(The Boston News-Letter)』が創刊される。題字の下に〈官許発行(Published
by Authority)〉という文字を掲げる 。
〔1690 年にベンジャミン・ハリスが試みようとした
『Public Occurrence』を最初の新聞とする説もある 。
〕
1705(宝永2)
1705. 夏【日本】春から盛んだったお陰参りが沈静化する。
1705.○【日本】お伊勢抜け参りが爆発的に広まる。この年、公式記録で 362 万人がこれ
を行う。
1706(宝永3)
1706. ○【日本】この頃、江戸を中心に、落首や落書が増える。
1706. ○【シリア】アレッポで初めて印刷が行われる。
1706.○【イギリス】トーマス・トワイニング Thomas Twining が、ロンドンで、コーヒー
や紅茶を飲ませる「トムのコーヒーハウス」を開店する。紅茶の葉を店頭に置いて、入
れ方から販売まで行う。[ 1717 年、紅茶専門の目方売りの店「ゴールデン・ライオン」を
開店する。]
1707(宝永4)
1707. 2 . −【日本】幕府が、雑説、落首や落書、捨て文の禁令を出す。
1707. ○【インドネシア】バタビア(のち、ジャカルタ)で、初めて印刷が行われる。
1709(宝永6)
1709. ○【フランス】ナルボンヌ公会議が、占い師、魔女、占星術師、卜占を信じる者た
ち、および個人占星術師たちを破門する。
1709. ○【フランス】黙許本が現れる。
1709.○【イギリス】教区図書館維持法( the Act for Preservation of Parochial Libraries)が成
立する。イギリス最初の図書館立法となる。
1709.○【イギリス】官報編集官スティール Sir Richard Steele( 37)が、書評・戯評・随筆
などを中心に親ウィッグ党の週 3 回刊マガジン『タトラー(Tatler )』を創刊する。これを
コーヒー店にも置く。[ 1711 年 1 月、廃刊。同年 3 月 1 日、スティールがアジソンと共
- 235 -
に世界初の日刊マガジン『スペクテーター(The SPECTATOR)』を創刊する。]
1709.○【アメリカ】トーマス・ショート Thomas Short が、コネティカト州ニューロンド
ンに最初の印刷業を開業し、州政府印刷所となる。
1710(宝永7)
1710.○【フランス】外務大臣トルシー Jean-Baptiste Colbert Torcy( 45)が、外交行政に関
する文書に関心を持ち、そのための特別の集積室を設ける。[1746 年、トルシー没。こ
の頃には、どの官庁も行政の記録を所定の場所に集積するようになる。役人が家で仕事
をして、文書を私的財産として扱っていた時代から、徐々に、役所で働いて、書類を文
書庫に保管する時代へと転換していく。保管している書類を読みたいという誘惑を避け
るために、文書庫の管理係には読み書きのできない人を充てることが通例となる。]
1710.○【フランス 】この頃、ランベール夫人 marquisedeLambert( 63)が、サロンを開く。
[1713 年、
「古代人と近代人の優劣論争」(新旧論争)などが行われる。これはホメロス論
争で、ウダール・ド・ラ・モットの『イーリアス』フランス語訳が原典を傷つけるとして、
古典学者ダシエ夫人が攻撃し、再び文壇で古代派と近代派が対立する。1714 年、フェヌ
ロンがこれを『アカデミーへの書簡』によって調停する。この論争により、人文主義の
伝統につながる古典の絶対視から、文学の相対的あるいは歴史主義的評価への転換を促
し、実証的な科学研究の成果にもとづく進歩の思想を文学の領域に導入したことで、フ
ランス文芸思潮の転回点となる。1733 年までサロンは続けられる。]
1710.○【イギリス】アン王女( 44 )が、世界最初の著作権法を制定する。私権としての著
作権を初めて定める。著作者が書物を出版する権利を保有し、著作者はその権利を 4 年
間享受でき、著作者が生存していれば、さらに 14 年間その権利を更新できると定められ
る。既刊本著者に 21 年間、未刊本著者に 14 年間の出版権を与え、ともに Stationers Co.
に登録することと規定する。この頃、出版者の保護と検閲が表裏一体となった「特許検
閲法」ではいまだ著作者の保護は不十分であって、著作者自身の保護に焦点を合わせる
法律思潮が生じていた。[以後、「アン法(Statute of Anne )」と呼ばれる。著作者の待遇は
大幅に改善される。あらゆる著作権の基礎となり、多くの国々が近代的な著作権法を制
定する。](●著作権の年表「A History of Copyright in the United States」がある URL
(http://arl.cni.org/info/frn/copy/timeline.html)では「 1710 年」になっている。アン法の全ペ
ージは URL( http://www.copyrighthistory.com/anne.html )で見ることができる。これによれ
ば、1980 年までは 1709 年だったが、John Feather, The Book Trade in Politics: The Making of
the Copyright Act of 1710, ''Publishing History'', 19(8 ), 1980, p. 39 ( note 3)によって、1710
年に修正された、とある。以上 2003.2.27 伊藤政行氏指摘。
)
1710.○【イギリス】評論雑誌『ジ・エグザミナー The Examiner』が創刊される 。[以後、
スウィフトが半年間論説を担当する。1712 年、廃刊。]
1711(正徳1)
1711. 3. 1【イギリス】ロンドンで、世界初の日刊マガジン『スペクテーター(The
Spectator)』が、スティール Sir Richard Steele (38)とその協力者 J. アジソン(アディソン)
Joseph Addison( 38 )によって創刊される。仮想人物からなる会員クラブの発行という形式
- 236 -
で、架空の人物 スペクテーターを語り手として当時の風俗や文学、道徳に関する 2 人の
自由なエッセイを主として掲載する。従来のトピック主義の編集を採らず、テーマ別編
集によって、巷の噂や市場の動向なども採り上げる。2 人は「思想の自由 」について 、
〈ク
ラブの自由が必要である。互いに知りつくしている紳士や友人のあいだで必要とされる
ような自由が必要である。
〉と書く。[1712.12 、555 号でいったん終刊。この間、政治・外
交・文化の諸問題について鋭い考察を続け、一時、2 万部を発行する。1714 年、アジソン
により再刊され、同年 80 号で終刊。以後、イギリスでマガジンが続々と創刊される。]
1711.○【イギリス】シャフツベリ伯(3 世)3rd Earl of Shaftesbury,Anthony Ashley Cooper
(40 )が、情報文化論の書『人々、風習、意見、時勢の特徴』
(
『諸特徴』
)を出版する。[以
後の社会批評の先駆けとなる。]
1711.○【イギリス】トランペット奏者・リュート奏者ショア John Shore が、一定のピッ
チで振動する音叉を発明する。彼はその道具を「くま手(pitch fork )」と呼ぶ。
1712(正徳2)
1712. 8.−【イギリス】トーリー党政府が、印紙税 Stamp Tax の賦課を実施する。アン王
女の発議とされ、反逆紙の抑圧を狙う。ニュース紙は 1 部 1 ペニー、同半裁紙は 0.5 ペ
ニー、広告は 1 件 1 シリングが課せられる。[以後、印紙税のため『Observer』が廃刊を
余儀なくされる。
『The Spectator』は 2 ペンスに値上げする。廉価紙や弱小紙は部数を減
らす。]
1712. ○【日本】この頃、図入り百科事典の先駆け『和漢三才図会』(わかんさんさいず
え)が、大坂杏林堂より刊行される。105 巻 81 冊。編者は大坂の医師寺島良安。編者の
師和気仲安の〈医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり〉との言に従い著述を計画
し、30 余年の歳月をかけて完成に至る。明の王圻(おうき)の『三才図会』 106 巻の体裁
にならって編集し、和漢の事物を、天部、天文、天象、時候、暦占、暦日吉凶、人倫、
親族、官位より禽獣、草木に至るまで 96 の部類に分け、考証、図示する。必ず和漢の事
象を併記し、和事項については広く日本国内を実地調査し、種類、製法、用途、薬効な
どを客観的に記述したところに特色がある。[以後、正徳 2 年の自序のほかに、同 3 年の
大学頭林信篤、和気仲安の序、清原宣通の後序、同 5 年臥雲閣主人の跋(追加)がある。]
1712. ○【オランダ】商業都市ユトレヒトで、スペイン継承戦争後の平和条約締結のため
講和会議が開催される。講和会議にやってきた各国の外交官や政府高官たちが、ユトレ
ヒトの娼婦たちから性病をうつされる。[1713.4.11 イギリスがフランスと講和条約を締
結する。同日、オランダ、プロイセンなどもフランスと条約を結び、スペイン継承戦争
はほぼ集結する。フランスのスペイン合同阻止に成功したイギリスは、最大の受益者と
なり、ヨーロッパにおける一大強国に発展する。]
1712.○【ドイツ】ケンペル Engelbert Kaempfer ( 61 )が、旅行見聞録『廻国奇観(Amoenitatum
Exoticarum) 』
5 編を、
故郷レムゴウで印刷業を営んでいたマイヤー Heinrich Willhelm Meyer
の書店から印行する 。第 5 編は日本植物誌にあてられ 、約 250 頁にわたり「粟」
「稗 」
「粳」
「糯」「黍蜀」などと、かなりの数の植物の漢名が木活字で印刷される。ケンペルは、
本書の編纂に際し、中村惕斎『訓蒙図彙』を利用しており、木活字はこれを参照して彫
- 237 -
られたが、書体は奇妙で不完全である。(図:『本と活字の歴史事典』140 ∼ 141 頁)
1713(正徳3)
1713.○【中国】(康煕 52)清朝政府が、銅活字の武英殿活字を用いて、天文に関する書物
『星歴考源』
、数学書『数理精蘊』を刊行する。
[1724 年、音楽に関する書物『律呂正義』
を刊行する。
]
1714(正徳4)
1714. ○【ロシア】ロシア初の公共図書館が開館する。
1714.○【ドイツ】ファーレンハイト Daniel Gabriel Fahrenheit( 28)が、水銀温度計を発明
する。[ 1720 年、温度目盛を作成する。]
1714.○【イギリス】技師ミル Henry Mill が筆記機械(書記機械)を考案し、特許権を得る。
欧文タイプライターの歴史がはじまる。[以後、その詳細は伝えられない。その後、ヨー
ロッパ、アメリカでの書記機械の考案は 150 年間に 50 以上が数えられ、中でも特に盲人
用としての試作が行われる。1850 年代から、主にアメリカでの考案が増加し、70 年代ま
でに約 20 件が発表されるが、操作が複雑で印字速度も遅く、実用には至らない。エジソ
ンも書記機械を発明し、のちに通信用テーププリンタの原型となる。]
1714. ○【イギリス】政府が、長い航海中船舶が海上において標準時と地方時の差から正
確な経度(誤差 30 マイル以内)を測定する方法を考案した者に対して 2 万ポンドの賞金を
設定する。大工で発明家のハリソン John Harrison (21)が、このための正確な時計の製作
に挑戦する。[1735 年、ハリソンが「クロノメータ」第 1 号を製作する。]
1715(正徳5)
1715. ○【日本】江戸の若狭屋忠右衛門が、東海道筋の飛脚業に新規参入する。[以後、
間もなく、独自の馬継所を設けて騎馬による「通馬早飛脚」のサービスを始め、江戸・
大坂間を 3 日半∼ 4 日で手紙輸送する。1739 年 、大坂の飛脚問屋柳屋嘉兵衛も開始する。
1743 年、幕府によって禁止される。]
1715. ○【日本】神道講釈の増穂残口(ますほざんこう)が、男女陰陽和合の理を説く『艶
道通鑑(えんどうつがん)』を刊行する。[以後、これを含む残口八部書を残す。]
1715. ○【フランス】帝室印刷所で、中国語文典と辞書の印刷に備えて、漢字活字の彫刻
が、コレージュ・ド・フランスのアラビア語教授フールモン Etienne Fourmont の指導のも
とで始められる。
[1719 年、漢字を生成するための 214 の「鍵(clave ) 」(部首)が作られ 、
印刷・発表される。1737 年、40 ポイント木活字を初めて本格的に使用して、フールモン
が、中国語文典の一部として中国語学の概論書『中国の考え方 Meditationes Sinicae』を
刊行する。1742 年、『中国語文典』が刊行される。同時に、漢字活字の彫刻が中止され
る。1811 年、漢字活字の彫刻が再開される 。
]
1716(享保1)
1716. ○【日本】女子教訓書『女大学宝箱』が刊行される。末尾に貝原益軒述とあるが、
彼の 1710 年の著作『和俗童子訓』巻 5 「女子を教ゆるの法」をもとにして書かれたもの
- 238 -
と考えられる。〈女は陰性(いんしょう)なり。故に女は男に比ぶるに、愚かにして目の
前なる可然(しかるべき)ことをも知らず 〉
〈総じて婦人の道は、人に従うにあり〉とい
う女性観に立ち、婚家先での嫁のとるべき態度を説く。夫および舅姑(きゅうこ)への服
従を基本とし、
〈婦人は別に主君なし。夫を主人と思い、敬い慎みて事(つか)うべし〉
〈万
のこと舅姑に問うて、其の教えに任すべし〉と説く。[以後、同内容の「女大学」と題す
る本が、数十種類出版される。これらは江戸時代には寺子屋で読本兼習字用教科書とし
て、明治以降は女学校の修身教材として使われ、封建社会における家族制度を維持・強
化していくための女子教育の書となる。1906 年、加藤弘之・中島徳蔵『中等教科明治女
大学』が刊行され、第2次世界大戦終了時まで使用される。一方、1876 年土居光華『文
明論女大学』、1899 年、福沢諭吉『女大学評論』
『新女大学』などは、西欧思想を取り入
れて「女大学」を批判する。]
1716.○【中国】(康熙 55)康熙帝の命令で編集された字書『康熙字典』が完成する。帝の
序文では「字典」とだけ呼ばれる。張玉書(1642 ∼ 1711)らが監修して、 214 の部首が筆
画数の順に並べられ、過去最大の親字 4 万 7035 字、さらに古代の異体字 1995 字を収め
る。1 字 1 字については反切による字音、ついで字義を示し、字義ごとにその用例を列
挙する。多くの人を使役しわずか 6 年間で完成させたが、誤りも多い。[1827 年(道光 7 )、
道光帝の命を受けて王引之が『字典考証』を作り、引用上の誤り 2588 条を正す。1885
年、日本の渡部温が独自に校勘し 、
『標注訂正康熙字典』でさらに多くの誤りを指摘す
る。
]
1717(享保2)
1717.○【イギリス】トーマス・トワイニング Thomas Twinng が、コーヒーハウスが女人
禁制になっているのに目を留め 、
「トムのコーヒーハウス」に隣接して紅茶専門の目方
売りの店「ゴールデン・ライオン」を開店し、女性の間に評判を呼ぶ 。
「オレンジ・ペコ
Orange Pekoe」など“等級名”が商品名のようにして売られる。
1717.○【アメリカ】フランクリン James Franklin が、イギリスから印刷機と活字を運ん
で来て、ボストンに印刷所を開く。[1718 年、弟ベンジャミンが兄の下で徒弟として勤
める。]
1718(享保3)
1718. ○【中国】山東泰安の徐志定が、泥活字の上に磁釉(磁器の釉薬)をかけて焼き固め
た磁活字を作製する 。
[1719 年、磁活字を用いた印刷に着手する 。
]
1718. ○【日本】将軍吉宗が、天文学に関心を持ち、長崎の鏡職人に命じて日本最初の大
望遠鏡を製作させる。
1718. ○【ロシア】新たな人頭税の導入と関連して、国勢調査が実施される。
1718.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin (12)が、兄ジェームズの経営する印
刷所に年季奉公に入り、そこで発行する新聞『ニューイングランド・クーラント』に匿名
で寄稿するなど文章の練磨に努める。[1723 年、17 歳のとき、印刷工の職を求めてフィ
ラデルフィアに移る。]
- 239 -
1719(享保4)
1719. 1 0 . 9【イギリス】パークス William Parks が、Ludlow と Shroshire で最初の新聞を発
刊する。[1726.3 アメリカのメリーランドで印刷を開始する討論会を開催し、法律と討
論の議事録を印刷する。]
1719. ○【中国】泰安の徐志定が、磁活字を用いて、張爾岐『周易説略』『蒿庵閑話』を
刊行する。中国唯一の磁活字印刷本となる。
[以後、注目されることなく、散逸する。1961
年、済南の古書店で『蒿庵閑話』が発見される。同年、北京で『周易説略』が発見され
る。
]
1719. ○【フランス】製紙の原料のぼろぎれ不足の状況を打開するため、ルネ・レオミュ
ールが、木材から紙を製造する可能性について科学アカデミーで指摘する。『
( 書物の起
源』
)
1719.○【イギリス】ジャーナリスト、デフォー Daniel Defoe(49? )が、『ロビンソン・ク
ルーソー』(原題『ロビンソン・クルーソーの生涯と不思議な驚くべき冒険(The Life and
Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe )』)を発表する。[これまでのロマンス風
の散文物語と異なり、平易な文章を駆使して写実的に描くところに特色があり、苦難に
支配されずに着実に生活を築いてゆくこの頃のイギリス市民の生き方がよく出ていて、
デフォーのもっとも有名な作品となり、またイギリス小説成立期の重要作品となる。以
後、デフォーは散文による物語を次々に書くようになる。1722 年、自伝形式の小説『モ
ル・フランダーズ』は、環境のせいもあってさまざまの罪を重ね、男を遍歴する女モルを
主人公に、逆境をたくましく生きるあばずれ女モルと当時の下層階級を写実的に描く。
1724 年『ロクサナ』も自伝の形で、5 人の子をもちながら夫に捨てられ、大陸まで放浪
して生きていく女の話を語る。自ら出版業なども営み、1726 ∼ 27 年に『完全なイギリ
ス商人』を刊行し、商業を志す若者に商人道、心得などを説く。]
1720(享保5)
1720.○【日本】将軍吉宗の命により、1685 年(貞享 2)以来の漢訳洋書の輸入禁令を緩和
する。宣教師の著述でも科学書など宗教書と見なされないものは、多少の文句が禁に触
れる場合でも輸入することとし、海外の新知識の導入を図る。
1720.○【日本】大坂の狩野派の大岡春卜筆といわれる戯画集鳥羽絵本『軽筆鳥羽車』3
冊が刊行される 。
[この頃、鳥羽絵が大坂で流行し始める。略画的タッチで人物や動物
などを滑稽に描き、日本最初の漫画本とされる。『鳥獣戯画』の筆者に擬せられる鳥羽
僧正(覚旨(かくゆう))にちなんでこう呼ばれる。 ]
1720. ○【日本 】
『洞房語園(どうぼうごえん)』に、全国の遊郭として、大坂新町、京都
島原、江戸吉原のほか、伏見撞木(しゅもく)町、奈良木辻(こつじ)、大津柴屋(しばや)
町、駿府弥勒(すんぷみろく)町、敦賀(つるが)六軒町、越前三国、佐渡鮎川(相川 )
、
堺高須、同乳守(ちもり)、神戸磯ノ町、播磨室津、備後鞆(とも)、安芸宮島、同多太海
(ただのうみ、忠海 )
、石見温泉津(ゆのつ)、下関稲荷町、博多柳町、長崎丸山などで、
計 25 ヵ所を挙げる。
1720. ○【日本】幕府は、新吉原のほかの江戸府内に、遊女、私娼を置くことを禁じてい
たが、守られないので罰則を公布し、取締りを強化する。遊女屋を勝手に経営した遊女
- 240 -
抱え主、遊女を置いた家主は、家財をすべて没収のうえ、百日の手鎖の罰とする。五人
組、名主は過料に処せられ 、遊女、踊り子らは 3 年間、新吉原へ引渡しの処分をうける。
将軍吉宗は、この措置に 、
〈夫婦にて、生計も立たざる貧乏なれば、たがいに納得のう
えにて、身をひさぎし女は、罰せずともよし。納得しあわざるに、妻をむりじいに娼妓
といたせし夫は、死罪といたすべし〉と寛典を付ける。(津本陽『大わらんじの男』490
『日本経済新聞』1995.3.7 )
1720.○【ヨーロッパ】オランダを中心に、出版業の危機が訪れる。
[1740 年まで続く。
]
1720.○【ドイツ】ファーレンハイト Daniel Gabriel Fahrenheit( 34)が、水銀温度計の温度
目盛を作成する。食塩と雪の重量比 1 対 3 の混合物が日常得られる最低温度であること
に着目して、これを 0 度とする 。
またヒツジの体温(約 38 ℃)をもって 100 度とする。[1724
年、健康な男の口の中または腋(わき)の下の温度を 90(のちに 96)とし、氷と水の混合物
の温度を 30(のちに 32)とする。のち、氷と塩の混合物の到達温度は零下 22.0 ℃(共晶点)
とされる。これはファーレンハイトのスケールでは零下 8 度Fに相当する。中国では彼
の名に華倫海の文字をあてたので 、
「華氏(またはカ氏)温度」と呼ばれる。]
1720.○【イギリス】ウィリアム・カズロン(キャスロン)William Caslon(28 )が、活字鋳造
所を開き、オランダから輸入している字母や活字の国産化を試みる。[ 1722 年、ローマ
ンタイプの活字体を創作する。]
1720.○【イギリス】フランス人ジェームズ・レブロン Lebron が、3 原色メゾチント凹版
印刷を実用化する。
1721(享保6)
1721.[ 7.21]幕府が、
「新規御法度」により、新奇でぜいたくな衣服・調度・食物を禁
止する。また書籍の発行は町奉行に届け出、時事的な絵草紙の版行を禁じる。
1721.[ 8. 2]幕府が、目安箱を江戸城竜の口の評定所門前に設置する。これに先立ち幕
府は、閏 7 月 25 日、日本橋に高札を立て、8 月以降毎月 2 日、11 日、21 日の 3 度、評
定所の外に箱を出しておくので、政治改革はの提言や不平不満などを将軍に起訴したい
者は、正午までに、訴状に住所・氏名を明記したうえ固く封をして持参せよ、と触れを
出していた。箱はそのまま将軍吉宗の前に運ばれ、小姓が鍵を開けて取り出した書状は
封をしたまま将軍に手渡される。
1721.○【日本】江戸中期、人口は約 3127 万人。(国立社会保障・人口問題研究所『人口
統計資料 2004』)
1721. ○【日本】大岡越前守が、書物問屋、草紙(そうし)屋に命じて書物目録を作成させ
る。書物目録には 7446 種の書籍が掲載される。このころまでに出版の中心は京都から江
戸へ移っている。
1722(享保7)
1722.11. −【日本】南町奉行大岡越前守が、好色本や徳川家批判の書を取り締るために、
「新板書物之儀ニ付町触」という御触書を出す。内容は猥褻や異説を唱えるもの、徳川
家に事績に関する記事を禁止する 。
〈好色本ノタグイハ風俗ノタメニモヨロシカラザル
儀ニ候間、ダンダン相改メ、絶版ツカマツルベク候コト〉また、書籍の発行に際しては
- 241 -
〈何書物ニヨラス此以後新板之物、作者並板元之実名奥書(おくがき)ニ為致可申事〉と
して、巻末に開版年紀、開版地名、開版書肆または開版人などを表示した「奥付」をつ
けるように定める。出版物取締りに関しては、奉行所でやったのでは厄介なので、本屋
仲間の自主規制にゆだねる。[以後、寛永時代から非公式に結成されていた本屋仲間組織
が公認された形になる。1723 年、江戸で古くからあった通町組、中通組に新たに南組が
加わり 3 組をつくる。大坂では槙組、明組、篤組の既存 3 組に審組、博組を加えて 5 組
が結成される。京都では正徳年間からあった上組、中組、下組の 3 組が公認仲間組織と
なる 。各仲間組織には、幹事役としての「行事 」(大坂では「行司」)を数名を選出して、
草稿の段階で行事が「回り本」と呼んで回覧して検閲する。OKとなれば、添書きして
奉行所に提出して、出版許可証を下付してもらう。本屋はこの許可を得て、初めて版木
彫刻を開始することが認められる。]
1722.12.−【日本】幕府が、5 ヵ条からなる出版令を公布し、好色本や異説本の出版と呼
び売りの禁令を強化し、本屋仲間の結成とを組織的に両立させる。布令には将軍役人等
の政道と行為の記事を禁止し、伝聞浮説、新規の創作、好色物、華美な絵柄を禁じる。
その第 4 条に〈何書物によらず此後新板之物、作者並板元実名奥書為致可申候事〉とあ
り、
「奥付」の記載を法的に定める。歴史的には 11 世紀末から「刊記」として始まって
いる。[以後、これを基本法規として幕末まで取締りが行われる。1869 年、
「出版条例」
に受け継がれる。1893 年、「出版法」によって奥付は〈文書図画ノ末尾〉になり、記載
の形式も整えられて不可欠のものとなる。1949 年 5 月、同法は廃止され、奥付の法的制
約はなくなるが、以後も書誌的事項を表す重要な箇所との認識から、ほとんど変更され
ることなく慣行として存続する。巻末の奥付は日本のほかには、中国・韓国の一部のみ
に見られる独特のもので、ヨーロッパなどでは巻頭につけられるのが通例である。]
1722.○【日本】幕府が江戸の人口調査を実施する。
町奉行支配の江戸町方人口は 48 万 3355
人で、男 31 万 2884 人、女 17 万 471 人と女は 35.3 %で、江戸は女日照りの大都会とな
っている。ほかに寺社奉行支配の人口が約 5 万人、吉原に約 8000 人が居住しており、町
方総人口は約 54 ∼ 55 万人を数える。このほか武家人口とあわせると、江戸の人口は 100
万人に達する。新吉原の遊女の数は 3900 人前後である。
1722.○【中国】清朝第 4 代皇康煕帝( 61)が、大量の銅製活字の製造を命じる。[この年、
暢春園(ちようしゆんえん)離宮で病没する 。この活字は欠点があり典雅でなかったので 、
第 6 代皇帝乾隆帝(けんりゅうてい)(在位 1735 ∼ 95)が「聚珍」と名付け、銅貨が不
足した時期に溶かすことを許可する。その後、この措置を後悔して、銅活字に代わる 25
万の木活字を作らせる。] (『印刷史研究』2 号、1996.6)
1722.○【イギリス】活字彫刻家カズロン(キャスロン)William Caslon(30 )が、字形が整
一で調和があり、読みやすいローマンタイプの活字体を創作する。[以後、ヨーロッパや
アメリカで広く用いられ、オールドスタイルのほとんどの活字体がカズロンの書体を基
に発達する。アメリカ合衆国の独立宣言や憲法の印字、イギリスの作家ショー George
Bernard Shaw の全作品などにカズロン体活字が用いられる。
1723(享保8)
1723. 2.28【フランス】1686 年規制令を基礎に諸法令を集大成した「出版法典」が出さ
- 242 -
れる。国王顧問会議の裁定により、初めて著作者にも自作の著作物を自分で販売するこ
とを認める特許認可状が与えられるよう規則が制定される。作曲者も自作の楽譜を印刷
業者に印刷させ自ら販売する特許認可状を与えられるようになる。かねてから、地方の
書籍商は、パリの書籍商が保有している特許認可状の紀元満了ののちは、誰でも出版で
きるよう要求して提訴していたため、この裁定により、著作者と取引すれば地方でも印
刷できると歓迎する。[1738.2 楽譜印刷を牛耳っていたバラール家は、オペラ座で上演
された楽譜の印刷・販売に関する特許認可状の申請書を国王に提出するが、作曲者たち
が強く反対する。ルイⅩⅤ世は、作曲者が特許認可状を保持していることを宣言する。
しかし、楽譜に印刷されるオペラの台本を出版する権利はオペラ座に与えられていたの
で、作曲者には台本を出版する権利はなく、著作者には何らの支払いも行われない。ま
た、ルイⅩⅤ世は、活字の高さを統一するために、これを 10 リーニュ半(約 2.36cm )と
定める。]
1723. 4.−【中国】[雍正 2]八旗に属する官僚の遊郭・歌舞場への立ち入りを禁止する。
1723. ○【日本】幕府が、情死者の処置を定め、心中事件を絵双紙や歌舞伎で取り上げる
ことを禁止する。
1723.○【ギリシア】印刷出版者の一族ディド Ambroise Firmin Dido( 33 )が、トルコ駐在
フランス大使に従ってギリシア、中近東、エジプトに旅行、遺跡の発見などをおこなっ
て帰国後、トルコの支配から独立しようとするギリシア支援の運動を起こし、ギリシア
に最初の活字印刷機や図書を寄贈する。[1827 年、弟と共同で家業を継ぐ。
]
1723.○【フランス】アミアンの印刷業者 M.D. フェルテルが、
『印刷技術実践教本』を出
版する。この中で 、〈活字ケース内の配列法が依然として工房によりまちまちである〉
と書いて、効率的配列法としてキャピタルはアルファベット順に、その他の活字は使用
頻度に応じて大小各種の仕切りの中に収容すべきだ、と提唱する。この頃、職人たちは
工房を変わる都度、活字ケースの中の配列を新たに覚えなければならない。『
( 書物の出
現』
)
[1793 年、A.F. モモロ『印刷技術基礎論』でも効率的な配列法を示す。
]
1723.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin (17)が、兄ジェームズの印刷所を去
り、フィラデルフィアのサミュエル・ケーマー Kaymer の下で働く。
1723. ○【キューバ】ハバナで初めて印刷が行われる。
1724(享保9)
1724.○【イギリス】ロングマン Thomas Longman( 25)が、8 年間の徒弟生活を終えて、
ロンドンのパタノスタ通りのひとつの書店を譲り受け、ロングマン社を創業する 。[以後 、
教育関連書を中心としたイギリス最大の総合出版社となる。1755 年、サミュエル・ジョ
ンソンによる初の包括的な英語辞典『ADictionary of the English Language』を出版する。
また、科学技術関係書、児童書、一般書、医学書などを刊行。1966 年、ロングマン社が
ロングマン社グループ( Longman Group Ltd.)に発展、世界各地に子会社、支店、事務所
を持つ。1968 年、イギリスのメディア・グループであるピアソン( Pearson)の傘下に入る。
1995 年、
アメリカの大手教育出版社アディソン・ウェスリー(Addion Wesley )と合併して、
アディソン・ウェスリー・ロングマン(Addison Wesley Longman Inc.)に社名変更する。
現存する商業出版社としては世界最古となる。創業以来、初代トマスが掲げた「帆船マ
- 243 -
ーク」は、何度もデザインを変化させながらも、永く持続させている。]
1724.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin (18)が、印刷技術を磨くためイギリ
スに渡る。[1726 年、アメリカに帰り、印刷・出版業に従事する。]
1725(享保10)
1725. ○【中国】清朝政府が、武英殿にて銅活字を用いて、『欽定古今図書集成』の刊行
を開始する。
[1726 年、全 1 万巻を計 66 部刊行する。約 1 億 6000 万個の活字を用い 、5020
冊に分冊され、522 函に収められる。大小 2 種の銅活字が用いられ、大字は正文、小字
は注に用いられる。以後、この宮廷銅活字は二度と使用されることなく、武英殿の銅字
庫内に置かれたままになる。1744 年、北京で貨幣が不足し、銅活字はすべて鋳つぶされ
て銅銭に改鋳される 。
]
1725. ○【ロシア】この頃、聖書の名場面や聖人の暦を扱った木版本が生産されるように
なる。これらは呼売り商人(チャップマン)により販売される。
1725.○【イギリス】この頃、ロンドン市内にコーヒー店が約 2000 店あり、内外の新聞
を置いて客を集める。
1725. ○【イギリス】貸本屋が、ロンドンに姿を現す。古本屋が兼業する形で、新刊中心
ではない。
1726(享保11)
1726. 3.−【アメリカ】パークス William Parks が、メリーランドで印刷を開始する討論
会を開催し、法律と討論の議事録を印刷する。[以後、パークスは、メリーランドで印刷
ビジネスを開始する。 1727 年、ペンシルバニア最初の新聞『メリーランド・ガゼット
(Maryland Gazette)』を Annapolis で印刷して発刊する。パークスは 1737 年までメリーラ
ンドとバージニアで印刷会社を運営する。]
1726.○【日本】大坂で、
「本屋仲間届出惣人数」が 89 人と記録される。
1726. ○【オーストリア】ウィーンの高等図書館が、公に開放される。
1726.○【イギリス】ガリバー Lemuel Gulliver 著『ガリバー旅行記( Gulliver's Travels)』4
巻が刊行される。実際の作者はダブリンの聖パトリック教会の首席司祭でイギリス系ア
イルランド人のスウィフト Jonathan Swift( 59)だが、政府の糾弾を避けて匿名で出版する。
「ガリバー旅行記」は、船医のガリバーが難破により小人国、巨人国、空飛ぶ島、馬の
国などを遍歴する物語。その奇想天外さから子供の読み物としても人気をえてきたが、
実際は全編がイギリス社会と人間への痛烈な批判にみちた辛口の風刺小説となっている。
文学史上初の逆ユートピアの登場となる。たとえば空飛ぶ島の巻では、無用な実験、探
究に明け暮れる自然科学者を俎上(そじよう)にのせる。もっとも辛辣なのは馬の国の巻
で、ここでは馬が理性を備えて支配者の地位にたち、人間そっくりのヤフーという動物
は、家畜も野生種もきわめて醜悪、無恥、下劣、不潔な動物として描かれる。[以後、政
府の追及がなされるが、市民は作者の正体を知りながらも誰も告げることはない。かえ
ってスウィフトの平明な文章が、イギリス散文の模範とされる。]
1726.○【イギリス】詩人・書籍商ラムゼー Allan Ramsay( 40 )が、エジンバラの町で貸本
屋を始める。すでに 17 世紀のロンドン市中で、書籍商が自家の蔵書を貸し出していたが 、
- 244 -
折からの大衆文芸の発達の中でラムゼーが初めて専業の貸本屋を開業する。[以後、ロー
マ支配時代からの温泉場バース(文字どおり温泉の意)をはじめとする保養地には欠かせ
ないものとして栄える。]
1726.○【アメリカ】イギリスで印刷技術を修得したフランクリン Benjamin Franklin( 20 )
が、アメリカに帰国する。[ 1728 年、印刷所をつくり、印刷・出版業に従事、
『ペンシル
ベニア・ガゼット』紙の発行者となる。]
1727(享保12
1727. ○【トルコ】オスマン帝国に印刷所が設立される。
1727.○【アメリカ】パークス WilliamParks が、ペンシルバニア最初の新聞『メリーラン
ド・ガゼット(Maryland Gazette)』を Annapolis で印刷して発刊する。[1736 年、ヴァージ
ニア最初の新聞『ヴァージニア・ガゼット(Virginia Gazette )』も発刊する。さらに南ポ
トマックでも最初に新聞を発刊する。1750 年、彼の会社である Willamsburg の事務所で
死去する。]
1728(享保13)
1728.○【日本】儒学者岡島冠山( 54 )が、けん園の「訳社」
(華語講習会)を通し中国語学
(唐話学)の形成および白話(はくわ)(口語体)小説の翻訳本の刊行を始める。
1728. ○【ドイツ】ブルクマンが、昨年からこの年にかけて、木材から作った紙を用いて
『地中における神の驚異』を数冊印刷させる。(『書物の出現』)
1728.○【イギリス】チェンバーズ Ephraim Chambers(1680 ?∼ 1740 )が 、
『百科事典(サ
イクロピーディア)、また芸術科学の世界辞典(Cyclopaedia ; or an Universal Dictionary of
Arts and Sciences)』4 巻をロンドンで刊行する。全知識をアルファベット順の大項目にま
とめ、系統的に記述する。人名と地名はとっていない。売価は 4 ギニー。[以後、多いに
歓迎され、1738、1739、1741 、1746 年( 5 版)と増刷を重ねる。1748 ∼ 49 年、イタリア
のベニスで、チェンバーズ自身の協力によって翻訳、9 巻で出版される。1778 ∼ 88 年、
リース Abraham Rees(1745 ∼ 1825)が 5 巻の増訂版を出す。1819 ∼ 20 年、45 巻の同名
の事典が発行される。フランスではミルズ J. Mills とセリウズ G. Sellius らがフランス語
訳本の出版を企て、パリの出版者ル・ブルトン Le Breton に持ち込むが、契約は成立せ
ず、中止する。ル・ブルトンは企画をあきらめず、ついに英語の翻訳者として知られた
ディドロに頼み、ディドロは友人ダランベールと共同で引き受ける。ディドロ『百科全
書』出版の契機となる。]
1728.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin( 22)が、ヒュー・メレディス Meredith
と共同でペンシルベニアで印刷所をつくる。[以後、印刷・出版業に従事する 。1729 年 、
『ペンシルベニア・ガゼット(Pennsylvania Gazette) 』紙の発行者となる。フランクリンは、
印刷・出版業の成功で財をなしてからは、経営をパートナにまかせ、自らは科学・学術
の分野で活動、また政治的活動に専念する 。しかし、彼は生涯〈印刷業者フランクリン〉
と自称する。]
1729(享保14)
- 245 -
1729.○【朝鮮半島】呉道一の詩文集『西坡(土+皮)集』が、世界初の鉄活字を用いて刊
行される。
1729.○【ヨーロッパ】この頃、3 色、4 色重ね摺りが試みられる。
1729.○【イギリス】グレー(グレイ) Stephen Gray( 63)が、摩擦された物体の軽い物を引
きつける能力が、麻糸や金属を通して他の物体に伝えられることを発見する。これによ
り電気を通す導体と電気を通さない不導体に区別されることを見い出す。また、電気が
流動しうるものであるとの認識をもたらすことによって、後の電気流体説の基礎を築い
く重要な発見となる。また、摩擦電気を通信に使うことを提唱する。
1729.○【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin( 23 )が 、サミュエル・ケーマーから『The
Universal Instructor』を買い取り 、『ペンシルベニア(ペンシルバニア)・ガゼット(The
Pennsylvania Gazette)』と改題して発行する。[ 1730 年、独立してこの新聞の発行にあた
る。1766 年『ペンシルベニア・ガゼット』を 、デヴィッド・ホール Hall に譲る 。1815 年 、
廃刊。1821 年、『Saturday Evening Post 』となる。]
1730(享保15)
1730.○【日本】幕府が、大坂の堂島米会所に、
「正米商内 」
(現物取引)と「帳合米商内」
(先物取引)を公許する。米相場は「米飛脚」によって同地への回米を行う西日本各地
へ伝えられる。[ 1750 年頃から、手旗信号による通信が始まる。白黒大小の信号旗を地
形・天候により使い分け、夜間には提灯を振り、遠眼鏡も使用される。]
1730. ○【ドイツ】木彫の鳥が啼いて時を告げる「はと時計」がでつくられる。
1730.○【アメリカ】ヴァージニア植民地地域管理者グーチ William Gooch が、アメリカ
最初の印刷アートの本『TypographiaanODE,onPrinting 』を著し、パークス William Parks
が印刷する。アメリカン・グラフィック・デザインの最初の印刷物となる。[ 1926 年、
Stone Printing and Manufacturing 社が、American Institute of Graphic Arts の会員向けに 550
部限定で復刻する。その後、同社の社員向けとして 350 部増刷する。(注:最初の限定復
刻版の 360 番を伊藤政行氏が所蔵している。)]
1731(享保16)
1731. [ 9.−]【日本】尾張藩主徳川宗春( 36)が、藩祖以来の国禁を破って、名古屋で遊
郭の開設を許可する。武士の芝居見物禁止や祭礼の制限なども取り払う。[以後、御殿の
ような芝居小屋が常設され、これまで年に 1 ∼ 2 本だった芝居が、この年 33 本が興行さ
れる。1732.[ 1.−]遊郭が開業する。]
1731. [ 12. 3]【日本】清の画家沈銓(しんせん)(沈南蘋(しんなんぴん;ちんなんぴん))
(49 )が、長崎に来る。[以後、長崎滞在中に熊斐(ゆうひ)に画法を伝える。江戸後期の画
壇に写実主義が勃興する契機となり、伊孚九(いふきゆう)らと並ぶ来舶画人の一人とし
て日本近世画壇に大きな影響をもたらす。熊斐の門下から宋紫石、鶴亭、熊斐文、真村
挿江(まむらろこう)、諸損監(しよかつかん)、森蘭斎、建部凌岱(たけべりようたい)な
どの画家が出る。総称して南蘋派と呼ばれる。1733 年、帰国。以後も、日本側の注文に
応じて作品を送り続ける。]
1731. ○【ドイツ】鉛筆製造のギルドがつくられる。
- 246 -
1731. ○【イギリス】議会報道の禁止に抵抗する雑誌『ジェントルマンズ・マガジン
(Gentleman's Magazine )』が、ロンドンで創刊される。知識人に情報と娯楽を提供するこ
とを目的とし、議会権力に抵抗する。「倉庫」の意味の「magazine 」を転用した最初の出
版物で、雑誌(マガジン)の元祖になる。
1731. ○【アメリカ】チャールストンで初めて印刷が行われる。
1731.○【アメリカ】フランクリン( 25 )が、フィラデルフィア図書館会社(Library Company
of Philadelphia )を設立し、アメリカ最初の会員制巡回図書館を経営する。アメリカの公
共図書館のさきがけとなる 。
[1747 年、これに刺激され、コネチカット州にダーラム図
書会社( ook Company of Durham)、ロードアイランド州のニューポートにレッドウッド図
書館( Redwood Library)が設立される。
]
1732(享保17)
1732. 1 .−【日本】名古屋で、各地からの遊女が 700 人も集まり、西小路 、葛(かつら)町 、
富士見原の遊郭が開業する。三浦屋、富士見屋、日野屋などが客を集め、日々繁盛する。
[5.20 富士見原遊郭で花火が打ち上げられる。花火は古くから戦場での信号に用いられ
た流星花火で、さほどはなやかなものではないが、名古屋では最初の催しなので、何万
人もの見物が田畑を踏み荒らし押し合いへし合いし、溝川、肥溜に落ちる者も数多く出
る。5.25 将軍吉宗(49)が、尾張藩主徳川宗春( 37)の豪放な開放政策を譴責するため詰問
使(きつもんし)を派遣し、宗春の政治姿勢を詰問し、倹約令違反により譴責する。1736
年、名古屋の遊女町が縮小される。]
1732.[閏 5.−]【日本】尾張藩 7 代藩主主徳川宗春(37)の『温知政要』を京都西堀川の本
屋が出版しようとして、京都町奉行により禁止される。宗春の政治方針が世間に広がっ
て、幕政にさからう気運がたかまるのを防止するため。[以後、絶版となる。]
1732. ○【フランス】オーヴェルニュ地方で、製紙業者が必要とする原料のぼろぎれが極
度に不足し、政府は古着の供出を命じる。
[1733 年、再度命令を出す。1754 年、ぼろの
他地方への流出を防止するため、回収業社は港や他地方との境界付近に倉庫を設けるこ
とを禁止される。
]
1732.○【アメリカ】フランクリン( 26 )が、処世訓、格言を付した『貧しいリチャードの
暦』を売り出す。
[以後、大衆的な読物として好評を博し、年間 1 万部売れ、啓蒙的な思
想家としてのフランクリンの名を高める。
]
1733(享保18)
1733.[ 5.28]【日本】疫病が大流行し、隅田川の両国橋付近で水神祭りの川開きが行われ
る。慰霊を兼ねて花火を打ち上げる。[以後、川開きは庶民の楽しみとして定着する。玉
屋と鍵屋が技を競うようになる。のち、5 月 28 日を「花火の日」とされる。]
1733.[6. 1]【日本】幕府が、永代橋の渡橋銭の徴収を停止する。
1733.11. 5【アメリカ】イギリスの植民地ニューヨークで、ドイツ系移民の印刷者ゼンガ
ー John Peter Zenger が、
『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル New York Weekly
Journal』紙を創刊する。イギリス本国政府任命の総督 W.コスビーが、
『ニューヨーク・ガ
ゼット』を御用新聞として使っていたため、本国政府およびコスビーの政策に不満な住
- 247 -
民有力者たちは、ゼンガーを援助してこの新聞を出させた。ゼンガーは期待にこたえて
激烈な批判を展開する。[ 1734.11.17 、総督コスビーを批判したかどで、誹毀罪で逮捕、
投獄される。公判で、弁護士が陪審員に新聞の記述内容の真偽を判定させて無罪を勝ち
取り、本国政府に対する批判の自由を獲得する。]
1733.○【フランス】物理学者デュ・フェー(デュフェイ)Charles Fran ロ ois de Cisternay Du
Fay (35)が、電気に2種類あることを発見する。この頃、電気はすべて摩擦によって得
ていたから、ガラスを摩擦したときに生ずる電気を「ガラス電気 」、樹脂を摩擦したと
きに生ずる電気を「樹脂電気」と名付け、2 流体説を唱える。[のちにそれぞれ陽電気、
陰電気と呼ばれるものに相当する。]
1733.○【イギリス】ロンドンの活字鋳造家カスロン(カズロン 、キャスロン) William Caslon
(41 )が、最初の活字見本表の英訳を作成する。
1734(享保19)
1734.11.17 【アメリカ】イギリスの植民地ニューヨークで、ゼンガーが『ニューヨーク・
ウィークリー・ジャーナル』で、イギリス本国政府任命の総督 W.コスビーに対して激烈
な批判を展開し、誹毀罪で逮捕される。[以後、約 9 ヵ月間獄中にある。この間、ゼンガ
ー夫人が獄中から原稿を受け取って新聞を出し続ける。1735.8.4 公判が開かれ、ゼンガ
ーの弁護士ハミルトン Andrew Hamilton は、言論の自由がいかに必要かを熱烈に訴え、
記述内容の判断は裁判官のみが行い、陪審員は問題の新聞を出したかどうかだけの判断
を求められる慣行に対して、陪審員も記述が真実か否かの判定をするように求め 、
〈無
罪〉の評決を勝ちトルコとに成功する。この裁判の結果は、植民地時代のアメリカの新
聞に本国政府を批判する実質上の自由を与え、独立戦争にいたる「世論」形成にも大き
な役割を果たす里程標となる。]
1734. ○【日本】この頃、専門業者によるゴミ収集が行われるようになる。
1734.○【イギリス】ロンドンの活字鋳造家カスロン(カズロン 、キャスロン) William Caslon
(42 )が、1 枚刷りの活字見本表を作成する 。活字書体の基礎にヴォルテール『哲学書簡(イ
ギリス書簡)』を用い、官憲をあざむくためにタイトルページに〈アムステルダム、E.ル
カ〉と記す。14 種のキャスロン体ローマンとイタリック・アラビア活字、数個のオーナ
メントを示す 。
[以後、しばしば活字見本帳をつくる。カズロンの活字は全ヨーロッパ
にひろまり、さらに新大陸にも伝えられる。
]
1735(享保20)
1735.8.28【日本】幕府が、諸大名が遊里や芝居小屋に入ることを禁止する。
1735.○【イギリス】版画家著作権法が成立する。画家ホガース William Hogarth (38)が、
自分の絵を剽窃されることによって、他の芸術家よりも多くの損害を蒙っていたので、
彼の尽力により実現する。
(1697 ― 1764 )イギリスの。ロ
1735.○【イギリス】大工ハリソン John Harrison( 42 )が、
「クロノメータ」第 1 号を完成
させる。1714 年にイギリス政府が賞金 2 万ポンドで、船舶が長い航海中、海上において
- 248 -
標準時と地方時の差から正確な経度(誤差 30 マイル以内)を測定する方法を募集して以
来、そのための正確な時計の製作に挑戦し、20 年を費やして熱膨張率の異なる金属を用
いることで温度による長さの変化がない補正振子を考案し、完成に至る。重量は 33kg。
[以後、ぜんまい巻きによる時間の狂いを防いだり、小型・軽量化するなどの工夫を重ね
る。1761 年、懐中時計の大きさになる。第 4 号までを完成させる。最後のものは 1762
年および 1764 年の 2 回の試験において賞金獲得の条件を完全に満たしたが、賞金は半額
しか支給されない。1776 年、死の直前に全額を受け取る。]
1736(享保21・元文1)
1736. ○【日本】名古屋の遊女町が縮小される。
1736.○【日本】この頃、深井新蔵(一無堂栄山とも号す)(?∼ 1765 )が、修行ののち還
俗(げんぞく)し 、
「志道軒(しどうけん)」と名乗り、浅草三社権現(ごんげん)前のよし
ず張りの中で講釈を行う。手に陰茎に似た棒を持ち、男女交合のさまなどを仕方で演ず
るという猥雑(わいざつ)さで、二世市川団十郎と並ぶ江戸の名物との評判を得る 。[一方 、
大名高家に出入りし、政治批判なども行う。『元無草(もとなしぐさ)』などの書をも著
す。1763 年、平賀源内が彼をモデルとする滑稽本『風流志道軒伝』を刊行する。]
1736. ○【スウェーデン】政府が、〈豊富な貧民は国の最大の富である〉という原則に基
づいて、僧侶たちに教会区での出生と死亡との年間の数字を提出するよう命じる。[1748
年、全国国勢調査を命じる。]
1737(元文2)
1737.○【日本】岡島冠山( 1674 ∼ 1728 )訳『通俗忠義水滸伝』の刊行が始まる。[以後、
中国白話小説の翻訳が盛んとなる。∼ 1790。]
1737. ○【スリランカ】コロンボで初めて印刷工房が開設される。
1737.○【イギリス?】書籍商クルーデン Alexander Cruden( 36)が、英訳聖書のコンコー
ダンス(用語索引)を刊行する。(1739 年説あり。)従来のものに比べ最も緻密なものとな
る。[以後、英訳聖書のコンコーダンスは概ねこれをもとにする。]
1738(元文3)
1738.○【中国】(乾隆 3)北京の賢良寺の蔵経院で、『大蔵経』が完成する。1733 年、『大
蔵経 』に誤字の多いことから蔵経院を設置して、仏教学者を集めて経文の校訂に着手し、
1735 年から刊刻を始め、わずか 4 年間で総重量 4 トンにも達する 7 万 9036 枚の版木の
両面に経文を刻んだという前代未聞の突貫作業であった。仏教経典 7168 巻、724 函、総
字数約 6700 万字、経典 1669 部を収録する。100 部が印刷され、北京内外の寺院に頒賜
される。
[以後、
『乾隆大蔵経』と呼ばれ、中国における現存最大の版刻典籍となる。ま
た、この版木のみが現存する。
]
1738. ○【コロンビア】コロンビアで初めて印刷工房が開設される。
1739(元文4)
1739.○【日本】大坂の飛脚問屋柳屋嘉兵衛が、大坂・江戸間を 3 日半∼ 4 日で手紙輸送
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する「通馬早飛脚」のサービスを始める。[1743 年、幕府によって禁止される。]
1740(元文5)
1740. ○【イギリス】時計会社スウェイツ・アンド・リードが設立される。[のち、テムズ
川に臨む国会議事堂の塔上の大時計「ビッグ・ベン」の管理を担当する。2000.12.11 イン
ターネット上で売りに出される。
]
1741(元文6・寛保1)
1741.○【スウェーデン】セルシウス Anders Celsius(40)が 、氷点と水の沸点との間隔を 100
分割し、氷点を 100、沸点を 0 とする温度目盛りを考案する 。フランスのクリステン J. P.
Christen( 1683 ∼ 1755)もほぼ同時期に考案する。[1942 年、論文を提出して、温度測定
の基準の提案する。のち、スウェーデンのウプサラ大学のリンネその他の人が値を逆転
し、氷点を 0、沸点を 100 とする。のち、国際単位系(SI)の組立単位としてのセルシウ
ス度(℃)となる。]
1741.○【フランス】科学アカデミー会員ジャン=エチエンヌ・ゲタールが、棕櫚・エスパ
ルト・アロエ・いらくさ・桑・海草など、さまざまの植物を使った紙の製造実験に着手
する。
1742(寛保2)
1742. ○【日本】この頃、上方に読本が盛んになる。
1742.○【イギリス】社交場として本や新聞を備えたコーヒーハウスや新聞閲覧所(news
room )が、ロンドンに多く出現する。地方都市バース等の温泉保養地には以前から出現
していた。circulating library(貸本屋)という言葉が普及し始める。[以後、 1750 年代にか
けて地方の小さな町や村にまで普及する。1800 年代には 1000 店以上に及ぶ。]
1743(寛保3)
1743. ○【日本】江戸の若狭屋忠右衛門、大坂の飛脚問屋柳屋嘉兵衛らが行う、独自の馬
継所の騎馬による高速郵便サービス「通馬早飛脚」が、幕府によって禁止される。幕府
の宿駅制度に依存する既存の飛脚問屋たちが、この新興サービスを快く思わず、官許を
欠く、夜間通行しているなどの理由で幕府に訴え、禁止させるに至る。
1744(寛保4・延享1)
1744. ○【日本】絵暦と役者絵で、筆彩版画の代わりに、「紅摺絵(べにずりえ)」(色摺の
版画)が行われ始める。最初に紅と草(緑色)の 2 色が用いられる。
(大田南畝『一話一言』
)
〔色摺版画の試みはすでに享保年間( 1716 ∼ 36 )のころから、俳諧(はいかい)を趣味とす
る好事家たちにより、句集の表紙絵などの私的な出版物を場として行われていた。そし
てついに元文(げんぶん)年間(1736 ∼ 41 )には本格的な見当法による 1 枚絵の摺物を実現
させ(虚実馬鹿語(きよじつばかばなし) )
、その技術がただちに借用されたのであった。
遺品としては寛保 4 年(1744)の絵暦(えごよみ)(ボストン美術館蔵)と同年正月の中村座
公演に取材する役者絵(ポートランド美術館蔵)が知られ、南畝の証言を裏づけている。
- 250 -
この初期の紅と草(緑色)の 2 色を主調色とする寡色摺(かしょくずり)版画(1764 年まで
には藍(あい)や黄などさらに 2、 3 色が加わる)は「紅摺絵」とよばれ、宝暦年間( 1751
∼ 64)まで 20 年ほど盛行した。植物性染料の紅と草との清澄でさわやかな色感は筆彩の
紅絵のそれを継承し、版型もなお細判を標準として守った。紅摺絵の 2、3 度摺の色摺で
は、なお象徴的な彩色にとどまり、背景をはじめ紙地のままに残される余白の部分も多
い。1765 年 、個々の図様に応じた色面を画面の全面に充填する多色摺の版画が実現する。〕
1744. ○【日本】鱗形屋が、黒表紙本『丹波爺打栗(たんばててうちぐり)』を刊行する。
これ以前にも黒表紙本は出されたが、刊年の記載がない。
1744.○【フランス 】神父ギヨンが『東インドの歴史』を著し、これを印刷させ、販売し、
また販売させ小売りさせることのできる特許認可状を取得する。[以後、パリの書籍商組
合に登録される際、この字句が意図的に削除される。結局、ギヨンは特許認可状の権利
を書籍商に永久に譲渡する。同様なことが著作者たちと書籍商たちとの間に繰返され、
書籍商が著作者の権利を剥奪する典型的な手段となる。書籍商たちは、著作者から期限
付きの特許認可状の譲渡を受ける際に、所有権の永久譲渡を受けるように工作する。]
1744.○【イギリス】サミュエル・ベーカー(ベイカー)が、1733 年ころから古書籍の店を
開いていたが、ロンドンで定期的な書籍のオークション(競売)を始める 。[ 1780 年、創
業者の死後、甥のジョン・サザビーが経営の実権を握る。書籍類や版画がオークションの
中心となる。1957 年、ワインバークの優れた印象派絵画コレクションで初めて本格的な
絵画を扱う。1958 年、ゴールドシュミットの印象派絵画の大オークションを開く。この
時から、競争相手のクリスティーズを抜いて、美術品オークション会社としての地位を
確立する。1964 年、ニューヨークのオークション会社パーク・バーネットを買収し、サ
ザビー・パーク・バーネットとなり、アメリカ市場にも大きく進出する。1983 年、アメ
リカの実業家トーブマンにより株式が買い占められ、サザビーズに社名変更する。以後、
ロンドンとニューヨークを中心に世界各地でオークション活動を展開する。
]
1745(延享2)
1745. ○【日本】山本九左衛門が、鳥居清信画の青表紙本『風流鱗魚退治(ふうりゅうう
ろくずたいじ)』を刊行する。これ以前にも青表紙本は刊行されたが、刊年の記載がない。
1745. ○【日本】和蘭カピタンの通詞本木二世初太夫が、西善三郎、吉雄幸右衛門らと蘭
書を読む許しを得る。
1745.○【ドイツ】クライスト Edwald Georg von Kleist が、ガラス瓶の外面に金属箔をは
り、内部に導電性の液体を入れ(あるいは内面にも金属箔をはり)、この両者をコンデン
サの両極とする蓄電びんを実験する。[1746 年、蓄電びんを発明する。]
1745.○【スイス】生物学者ボネ Charles Bonnet(25)が、アリマキの雌のみを飼育しても
次世代が生じる(単為生殖)ことを発見し、前成説を主張し、とくに卵が重要であるとす
る「卵子論」を支持する。[以後、ヒドラなどの再生を研究して、これが前成説では説明
しにくいことを認め、その前成説を修正する。また子が両親の形質を遺伝することにつ
いては、精液が栄養として卵に影響を与えると述べる。晩年は眼病のために実験を断念
してもっぱら思索を行い、自然物が元素から人間に至る階段状の配列をとるという「自
然の階段説」を唱える。1762 年、著書『有機体についての考察』を著す。]
- 251 -
1745.○【フランス】ボーカンソン Jacques de Vaucanson (36)が、世界最初の力織機(りき
しょっき)のモデルを製作する。[1749 年に、紋織機を着想する。1801 年、ジャカールが
ヒントを得てジャカード織機を発明する。]
1746(延享3)
1746.○【ドイツ】クライスト Edwald Georg von Kleist が、蓄電びんを発明する。
1746. ○【オランダ】ライデン大学実験物理学教授ミュッセンブルーク(ムッセンブルッ
ク) PetrusvanMusschenbroek( 54 )が、ドイツのクライストとは独立に蓄電びんを発明する。
[以後、ミュッセンブルークの蓄電びんのほうが有名になり、蓄電びんは「ライデン瓶」
と呼ばれるようになる。これによって、多量の電荷を蓄えることができるようになり、
摩擦起電機とあいまって静電気学の研究が大いに促進される。]
1746. ○【フランス】書籍商ル・ブルトンが、イギリスで好評を博したチェンバーズ編の
百科事典『サイクロピーディア( Cyclop □ dia) 』
(初版 1728 年)の刊行を企画し、特許認
可状を得る。ル・ブルトンに雇われたディドロ Denis Diderot(33)が、親友で著名な数学者
ダランベール Jean Le Rond d'Alembert( 29 )を誘い、フランス語訳『百科全書』の刊行に
着手する。ディドロは、とくに「コピーライト( droit de copie)」の項目を設けて、書籍
商ダビットに執筆させて、書籍商の権利を積極的に擁護する。当初、ディドロとダラン
ベールは編集の下働きにすぎない。[ 1748 年、監修者の更迭と企画変更に伴い、2 人は、
フランス人によるオリジナルな『百科全書(L'Encyclop □ die )』の本格的な編集に着手す
る。ダランベールは若いながらアカデミー会員であり、ボルテール、モンテスキュー、
ビュフォン、ケネー、ルソー、コンディヤックに寄稿を引き受けさせることに成功する 。
1750 年、予約出版趣意書を 8000 部を配布する 。1751.4 予約者が 1000 人に達する 。6 月 、
『百科全書』第 1 巻 2000 部を発行する。7 月、予約者が 1400 人に達する。以後、ディ
ドロは 1772 年まで、本文 17 巻、図版 11 巻、計 28 巻の完成に心血を注ぐ。]
1747(延享4)
1747.○【イギリス】ワトソン Watson が 、グレイの発見した摩擦電気を実験に結び付け 、
シューターヒルで金属線を柱の頂部に架け渡し、ライデン瓶からの電気を伝えることに
成功する。
1747.○【イギリス】ロンドンの Reverend Creed が、鍵盤の即興演奏から自動的に楽譜を
記録する可能性を示す論文をイギリス王立協会に提出する。
[1752 年 、ドイツの J.F.Unger
らが、そのようなシステムを初めて実現させる。
]
1747.○【ブラジル】リオデジャネイロで初めて、国内で 2 番目に印刷が行われる。
1748(延享5・寛延1)
1748.○ [ 8.14]【日本】2 世竹田出雲・三好松洛・並木宗輔(千柳)作の人形浄瑠璃『仮名
手本忠臣蔵』が、大坂竹本座で初演される。
[以後、大当たりしてロングランとなる。12
月、大坂角の芝居の舞台に取り上げられる。翌 1749 年、江戸三座で競演。歌舞伎の独参
湯(どくじんとう)(起死回生の妙薬)と称され、大入りを呼ぶ人気狂言の一つに数えられ、
演技や演出にもさまざまな工夫がこらされ続ける 。
]
- 252 -
1748. ○【日本】中国清代の画譜『芥子園画伝』が翻刻される。[以後、南画の発展普及
に寄与する。]
1748. ○【スウェーデン】全国国勢調査が実施される。
1748. ○【オーストリア】自然史博物館が、ウィーンに設立される。
1748.○【フランス】ディドロ Denis Diderot( 35 )が、小説『不謹慎な宝石(Les Bijoux
indiscrets) 』を著す。あらゆる快楽に飽きたコンゴ王朝のマンゴギュル王(ルイⅩⅤ世)が 、
あるとき愛妾ミルゾーザ(ポンパドール夫人)の連れてきた仙人から魔法の指輪をもらう。
その指輪の爪を女たちに向けると、女たちの宝石(女陰)が過去の来歴を勝手にしゃべり
だす、という物語で、従来のほのめかし的な手法からより直接的なセックス描写に踏み
込んだ作品で、同時に“プッシー・トーク”物の先駆けとなる。
1748.○【イギリス】ジョン・クレランド(38)が、さし迫った借金に追われて、『ある遊女
の回想記(Memories of a Woman of Pleasure)』第 1 部を書く。価格は 1 冊 3 シリング。直
ちに内容不謹慎のかどで罪に問われるが、貧窮を理由にして刑を免れる。
1749(寛延2)
1749.○【フランス】博物学者ビュフォン Georges Louis Leclerc de Buffon( 42 )が、地球の
起源や生物界の変遷など自然界を支配する統一的な法則を明らかにするために、博物学
上の知識の集大成を意図して『博物誌(Histoire Naturelle )』をまとめ、パリ王立印刷所に
より出版を開始する。博物学者・解剖学者のドバントン Louis Daubenton( 33 )ら多くの共
同執筆者の協力を得て、地球、人類、四足獣、鳥類、爬虫類、魚類、クジラ類、鉱物な
ど広い分野を包括する。[∼ 1804 年。全 44 巻。]
1749.○【イギリス】小説家で昨年ロンドンの判事となったフィールディング Henry
Fielding( 42)が、パウ通りの事務所に 、
「イギリス初の探偵団体」と呼ばれる機関を設立
する。フィールディングは、情報は犯罪に対抗する武器だと考え、強盗についても情報
登録すべきだと主張していた。
1750(寛延3)
1750. ○【日本】この頃、世界で初めて組織的な手旗信号による通信が始まる。白黒大小
の信号旗を地形・天候により使い分け、夜間には提灯を振り、遠眼鏡も使用される。[以
後、幕府が禁止する。]
1750. ○【ヨーロッパ】この頃、人妻や夫の浮気が公認されている。複数の恋人をもって
いても非難されるどころか、かえって魅力ある人物と尊敬される。
1750. ○【ヨーロッパ】この頃、目の下に黒いアイシャドーでくまどる化粧法が流行する。
〈恋人とあまり深く愛し合ったので疲れてしまった〉という女の見栄の表現だった。
1750.○【フランス】マルゼルブ Chr レ tien Guillaume de Lamoignon de Malesherbes( 29)が、
租税法院長兼図書監督局長となる 。
[以後、出版については革新的であってもそれほど
危険でないと判断される本に対して 、より多く暗黙の許可を与え、検閲制度を緩和する。
1771 年、反動的な大法官モープーに危険視され、追放処分をうける。1794 年、死去。1809
年、生前の著書『出版業と出版の自由についての覚書』が刊行される。
]
1750. ○【スイス】ある時計メーカーが、この頃流行していた手回しオルガンを懐中時計
- 253 -
の中に仕込んで、初めてオルゴールの原型を開発する。[以後、間もなく宝石箱やアルバ
ムに仕込まれ、精巧なものに発展する。レコードが商品化されるまで、オルゴールは音
楽を機械的に複製するただ一つの機械となる。]
1750. ○【イギリス】この頃、ようやく道路網が発達してきて、高速郵便馬車が主要都市
間を結ぶようになる。[以後、従来の徒歩で輸送するフットメッセンジャや、馬に乗った
ポストボーイらの仕事は徐々に減っていく。]
1750.○【イギリス】バスカヴィル(バスカービル)John Baskerville (44)が、針金線も鎖線
も入らない上質紙「ベラン(ベラム) 」
(高級羊皮紙に似せて作った紙)の製法を初めて思
いつく。また、この頃、書体デザインと印刷事業に乗り出し、活字鋳造の試作を開始す
る。
[1752 年、バーミンガムに活字鋳造所を開設し、初めてローマン体活字を発表する 。
以後、彼が設計・鋳造した活字は「バスカヴィル」と呼ばれ、オールドローマン、とく
にカスロン・タイプからモダン・ローマンへの橋渡しの役割を果たす。1757 年、最初の本
『ウェルギリウス Virgil 』を印刷する 。1758 年、ケンブリジ大学の印刷請負業者となる。
]
1750. ○【イギリス】メーソン式速記法を学んだロンドン中央刑事裁判所の速記者トーマ
ス・ガーニーが、ガーニー式速記法を考案して公開する。メーソン式が 4800 もの省略符
号を持っていたのを数百に減らして、学習を大幅に容易にした。
[以後 、
『ザ・ミラー・オ
ブ・パーラメント』紙の国会担当記者チャールズ・ディケンズが使用し、速記のかたわら
小説を書いて成功する。]
1750.○【イギリス】ジョン・クレランド John Cleland( 41)が、大陸で働いたり旅して、フ
レンチ・ポルノに魅せられて、帰国後、ポルノ後進国のイギリスで初めてフレンチ・ポ
ルノに対抗できる内容を持った『ある遊女の回想記』を書き、
『ファニー・ヒルの手記』
と改題して秘密出版する。発行者はグリフィスで、彼の関係する雑誌『マンスリー・レビ
ュー』に賛辞とともに予告紹介されたのちに発行される。原著の大胆な描写はほとんど
削除されるが、ベストセラーになる。[以後、クレランドは、ジャーナリズムや劇作にも
手を染めたが、いずれも成功せず、ケルト語の研究にも手をつけた。1963 年、再び出版
されるが、猥褻出版物取締法によって告発され 、2 世紀を隔てて二度“問題作”となる。]
1750. ○【アメリカ】この頃、書店や婦人帽子店、コーヒーハウスなどを併せて経営する
貸本屋( circulating libraries )が各地に登場する。
1751(宝暦1年)
1751. 3.11【イギリス】
『London Advertiser』と『Literary Gazette』の 2 紙が、初めてコラ
ムを掲載する。筆者は両方ともジョン・ヒルで、ペンネームの「ザ・インスペクター」を
用いる。内容はかなり中傷的なもので、原稿料は破格の年 1500 ポンド。[以後、政治家
ディズレーリは 、
〈最後に陳腐な教訓のついた軽いスキャンダル記事だ〉と鼻であしら
う。ヒルは、街頭で杖で殴打されるという災難にも遭遇する。]
1751. 3 .−【イギリス】議会が、ユリウス歴を廃してグレゴリオ歴の採用を決める。[1752
年、旧暦 9 月 2 日の翌日を 9 月 14 日にすることで施行する。月給で生活している民衆は
〈11 日間を返せ〉と叫ぶ。]
1751. 4.−【フランス】昨年からその刊行が予告され、予約購読者の募集が始まっていた
『百科全書(Encyclop □ die, oudictionnaire raisonn □ des sciences, des arts et des m □ tiers,
- 254 -
par une soci □ t □ de gens de lettres)』の第 1 巻 2000 部が刊行される。ディドロとダラ
ンベール編集のこの進歩的啓蒙(けいもう)事典の出現に新興の商人階級や思想家は賛成
したが、貴族と僧侶の上層階級には反対が多く、また極右のイエズス会の激しい圧迫が
かかる。[ 1752 年、第 2 巻がイエズス会士の圧力等により、発売禁止となる。以後、両
勢力の対抗の間に、出版監督長官マルゼルブの尽力もあって出版は進む。これら寄稿者
たちは百科全書派(アンシクロペデイスト;encyclop □ distes)と呼ばれるようになる。と
ころが、第 7 巻にダランベールの「ジュネーブ」が出るとルソーは怒って脱退する。1759
年、出版特許を取り消されて寄稿家の大部分が脱退、政府ににらまれることを恐れたダ
ランベールも続巻の編集から手を引いてしまう。その後はドルバック Baron d'Holbach,
Paul Henri Dietrich (1723 ∼ 89 )が鉱物学、化学、博物学などの項目を執筆する。残された
ディドロと学者ジョクール Louis Chevalier de Jaucourt( 1704 ∼ 79)は、ついには地下印刷
という最悪の事情のもとに無償の働きを余儀なくされ、財産も売り払って書記らの給料
を払う。この間、ディドロは、出版の孕んでいる危うさと投機性、発売禁止との戦い、
著作権と海賊版の問題、他の商品とは異なる書籍の性格、作品と商品、読者、出版者に
よる著述の検閲と改竄、書籍市場と作者の闘争、といったすべてを体験する。1764 年、
ディドロはマルゼルブの後任のサルティーヌに宛てて『出版業についての歴史的・政治
的書簡』を書き、出版の企画は商業的な成功 1 に対して失敗 3 ∼ 4 の割合であり、良書
の再版は平均 10 年かかり、失敗すれば破産の危険がある。海賊版を伴う多数の出版と競
争は粗製濫造を招き、いかがわしい出版を横行させる、などといい、作者や著者がいか
に報われないものであるかも付言する。1772 年、種々の困難を切り抜けて、ついに『百
科全書』は本文 17 巻と図版 11 巻をもって完結する。執筆者はルソー 、モンテスキュー 、
ヴォルテールなど 184 人に及ぶ。大歓迎を受け、予約者は最終的に 4000 人となる。パン
クーク C. J. Panckoucke( 1736 ∼ 98)は続巻を計画、この時ディドロは老年のため辞し、
作家マルモンテル Jean-Fran □ ois Marmontel(1723 ∼ 99)が引き受ける。1776 ∼ 80 年、
本文 4 巻、図版 1 巻、索引 2 巻を完成する。]
1751.○【日本】この頃、太夫の揚代は銀 90 匁、祝儀等を加えると 270 匁である。これ
以後、太夫は一人もいなくなる。
1751.○【フランス】数学者・天文学者モーペルチュイ Pierre Louis Moreau de Maupertuis
(53)が、多指症患者の家系調査から、子は両親からの形質を受け継ぐと主張する。最初
の遺伝学説となる。
1751.○【フランス】ニコラス・デズモンドが、英仏間を海底トンネルで結ぶ計画を立て、
フランスの海底のチョーク層の研究を行う。アミアン・アカデミーが、海峡連絡案を募
集する。[1802 年、アベール・マチューが、ナポレオンⅠ世に海底トンネルの設計案を
提出する。
]
1752(宝暦2年)
1752. 2.−【フランス】
「プラド事件」が起こる 。
『百科全書』の執筆者の 1 人プラド(プ
ラード)神父の博士論文が、反対派のイエズス会士たちの策動によって、パリ大学神学部
で否認宣告を受けたのを機に、イエズス会やヤンセン派(ジャンセニスム)の影響下にあ
ったパリ高等法院により最初の 2 巻が発禁処分になる。[以後、
『百科全書』は地下出版
- 255 -
のかたちで印刷が続けられ、進歩的な知識人や科学者たちはこぞって『百科全書』の陣
営に参加し始める。老大家ボルテールやモンテスキューをはじめ、デュクロ、マルモン
テル、モルレ、サン・ランベールらのアカデミー会員、ラ・コンダミーヌ、ケネー、チュ
ルゴー、フォルボネなどが参加する。パリ高等法院の激しい攻撃のなかで、再三の発禁
処分を受けるが、21 年間にわたって刊行され、完結する。これについて、ディドロのい
うように 、〈各人がばらばらでありながらそれぞれ自分の部門を引き受け、ただ人類へ
の一般的関心と相互的好意の感情によってのみ結ばれた文学者、工芸家の集まり〉に支
えられていたから完結が可能になる。また国璽尚書(こくじしょうしょ)ダルジアンソン
侯爵(こうしやく)や出版監督局長官マルゼルブなど旧制度の官僚にも 、
『百科全書』の
刊行に協力を惜しまない人々の賜物でもある。]
1752. 9.−【アメリカ】フランクリン Benjamin Franklin( 46 )が、フィラデルフィアの自宅
に世界初の避雷針を設置する。鉄棒の先端は屋根から約 2.5m 突きだし、下端は地中に
約 1.5m 埋め込む。フランクリンは、雷雨中に凧をあげて、雷光が火花放電であること
を立証する。この頃、ヨーロッパで摩擦起電機と蓄電器とを使ったさまざまの静電気学
的実験が、初めは宮廷で、後には民間でも一種の見世物として大いに流行している。フ
ランクリンは、そのような電気実験の興行を見て電気学の研究に関心を抱くようになっ
た。[ 1753 年、フランクリンが避雷針を発明する。]
1752.○【ドイツ】音楽技術者 J.F.Unger と J.Hohlfelt が、鍵盤の即興演奏から自動的に楽
譜を記録することができるシステムを作り、ハープシコードに取り付ける。
1752.○【イギリス】バスカヴィル(バスカービル)John Baskerville (46)が、バーミンガム
に活字鋳造所を開設し、初めてローマン体活字を発表する。[以後、彼が設計・鋳造し
た活字は「バスカヴィル」と呼ばれ、オールドローマン、とくにカスロン・タイプからモ
ダン・ローマンへの橋渡しの役割を果たす。バスカヴィルは、利益を度外視して最高に美
しく良質な書体を開発して優れた印刷物を製作することを最優先とする。1757 年、最初
の本『ウェルギリウス Virgil』を印刷する。1758 年、ケンブリジ大学の印刷請負業者と
なる 。
]
1753(宝暦3年)
1753. 6. 7【イギリス】国会が、大英博物館図書館(the British Museum Library)(のち、大
英博物館(British Museum))の創設案件を承認し、初の国立博物館がロンドン、ブルーム
ズベリーのラッセル・スクエアに創設が決定される。王立学士院院長を務めた医学者で
収集家として有名であったスローン Hans Sloan (1660 ∼ 1753 )が、6 万 5352 点に上る古
美術、メダル、コイン、自然科学標本類など(ほかに手稿本約 4000 点、印刷本約 4 万点)
の大コレクションを 2 万ポンド(彼自身の見積額の 4 分の 1 )で国家に遺贈し、それを博
物館で公開するように遺言書で提案していた。これに、すでに国の所蔵になっていたロ
バート・コットン卿一族の蔵書と、初代・2 代のオクスフォード卿収集の手稿本とを加
え、収蔵・展示する。図書館を併設して、世界最大級の博物館とする。
[1759.1 開館し、
一般に公開する。]
1753. ○【日本】御手洗(広島県)で、海老屋に茶屋の免許が与えられる。
1753.○【スウェーデン】生物学者リンネ( 46)が、『植物の種』を著す 。
[以後、植物の学
- 256 -
名はこの本から採用される。
]
1753. ○【アメリカ】ロンドンで鋳造された「自由の鐘」が、フィラデルフィア州議事堂
の鐘楼に釣り下げられる 。
[以後、イギリスからの移住者は事あるごとにこの鐘の下に
集まる。1976 年 7 月 4 日、独立宣言が採択された時、人々は自由の鐘を乱打して祝う。
その後、鐘はひび割れを起こし引退し、独立記念館(旧議事堂)に展示される。
]
1753.○【アメリカ】モリソン Charls Moroson(スペル?)が 、静電気式電信を考案して『ス
コッツマガジン』で提唱する。
1754(宝暦4年)
1754.○【日本】医者山脇東洋( 49 )が、京都の西の刑場で斬刑(ざんけい)に処せられた死
体を官許を得て解剖、人体の内部構造を直接観察する。門弟浅沼佐盈(すけつね)が、解
剖図 6 枚を描く。[1759 年、このときの記録が『蔵志(ぞうし)』として刊行される。日
本で公刊された最初の人体解剖記録となる。
]
1754.○【スウェーデン】政府が、天文学者ヴァルゲンティン Per Wilhelm Wargentin( 37 )
に、これまで聖職者たちに命じて提出させていた出生と死亡の統計を分析するよう委嘱、
その結果が科学アカデミーの雑誌に発表される。[∼ 1755 年。1756 年、政府が統計表審
議会を設置し、ヴァルゲンティンもその一員となる。]
1754.○【イギリス】海水の医療効果を主張するラッセル Richard Russell が、イースト・
サセックス州西部の漁村ブライトン( Brighton)に住み、彼の提唱で世界初の海水浴場が
開かれる。
[以後 、海水浴が大人気となり、ブライトンは海水浴場として有名になる。1783
年、皇太子(のちのジョージ 4 世)の後援を受ける。1841 年、ロンドンとの鉄道開通によ
って一大保養地に発展する。
]
1754.○【イギリス】家具デザイナーのチッペンデール Thomas Chippendale( 36 ?)が、家
具のカタログ『ジェントルマンと家具メーカーのための指針(紳士と家具師のための手
引)』を作成する。家具の様式が、すでに地域や職業や階級に固有なものでなくなって、
より大量に商品化されつつあることを示すものになる。[以後、チッペンデールは国際的
な名声を博し、ヨーロッパ中に多大な影響を与える。]
1754. ○【エクアドル】国内で初めて印刷が行われる。
1755(宝暦5年)
1755. 4.15【イギリス】ジョンソン Samuel Johnson (46)が、他からの経済的援助もいっさ
いなく独力で約 8 年間を費やして『英語辞典( The Dictionary of the English Language )』を
編集・出版する。英語では最初の学問的辞書で、英語辞典編纂の出発点となる記念碑的な
出版物となる。また、つづり字統一の権威ある規範となる。この『英語辞典』の計画、
出版をめぐり、初め有力者チェスターフィールド伯に後援を求めたが断られ、独力で着
手した。完成まぎわ、伯の側からの援助の申し出があったのを蹴る。これを機にイギリ
スの出版は後援者と絶縁することになる。[以後、『ジョンソン辞書』とも呼ばれ、保守
的な編集方針により標準英語の確立に貢献する。〈からす麦=イングランドでは馬に食
わせるが、スコットランドでは人間さまの食べ物〉などといった人をくった定義があち
らこちらにみられ、辞書の欠点とされるが、のちにはかえってそういう箇所に人気を呼
- 257 -
ぶ。]
1755. 5. 8【ロシア】学者ロモノーソフがロシア人子弟のための高等教育機関の創設の必
要を元老院に建言し、これをうけた女帝エリザベータ・ペトロブナの勅令によって、モス
クワ大学が開設される。正式名称は M.V.ロモノーソフ記念国立モスクワ大学(Moskovskii
gosudarstvennyi universitet imeni M.V.Lomonosova; MGU)
。[ 1756 年、印刷局を設け、書
籍の発行を始める。1918 年、国立となり、広く勤労者階級に門戸を開放する。1927 年、
印刷局はモスクワ大学出版局に改称する。]
1755. 春 【日本】義太夫節『三国小女郎曙桜』が語られ、三国(福井県)の遊女小女郎の
名が広められる。
1755. ○【イギリス】ウィリアム・ブラックウエルが、ロンドンで初めて黒インキを発売
する。印刷インキ製造販売の始まり。
1756(宝暦6年)
1756. 1.−【日本】本居宣長が『在京日記』に、酒で書いて乾かした隠し文字に各人が銭
を賭け、火にあぶって出た文字を当てた者が賭け銭を取る遊びがあることを書く 。
[あ
ぶり出しは、江戸時代中期に、主に明礬を用いた「明礬文字」と称して大人の酒席の遊
びとして生まれた。酒も用いられ、これは日本のが案出したといわれる。やがて辻占や
神社のお神籤に利用され、さらに子供の遊び道具となり、「千里眼」という子供だまし
のおもちゃにもなる。1830 年の 喜多村信節(きたむらのぶよ)
『嬉遊笑覧(きゆうしょ
うらん)』にも同様の記録がある。
]
1756. ○【中国】中国人周煌(しゅうこう)が、琉球王国尚穆(しょうぼく)王冊封(さくほ
う)のため、正使全魁(ぜんかい)とともに副使として使節団を率いて琉球を訪れる。周煌
は、230 日に及ぶ琉球滞在中の見聞と諸書を参考にして、琉球の自然、人文、諸事百般
を客観的に記述した『琉球国志略(りゅうきゅうこくしりゃく)』16 巻をまとめ皇帝に復
命する。[以後、周煌が滞琉中に残した書が、沖縄県立博物館などに蔵される。]
1756. ○ 【 ス ウ ェ ー デ ン 】 政 府 が 、 統 計 に 関 わ る 常 設 機 関 と し て 、 統 計 表 審 議 会
(Tabellkommission)を設置する。
1756. ○【イギリス】光学者ジョン・ドロンドが、最初の色消しレンズをつくる。これを
カメラ・オブスキュラの小穴にはめて、より鮮明な映像を得る。[ 1793 年頃、フランスの
ニエプス兄弟、ニセフォールとクロードが、この像を固定しようと試みる。以後、多く
の人々がこれを試みる。1802 年に、イギリスのトマス・ウェッジウッドが、硝酸銀を使
って実験したが成功しなかったと、学士院会報に報告する。]
1757(宝暦7年)
1757.○【日本】平賀源内( 29 )が、師の本草(ほんぞう)学者田村藍水(39)とともに江戸・
本郷湯島で物産会を催す。多年諸国から採集した動植鉱物類を一堂に集めて陳列公開す
る。本草家相互の研究に便宜を与え、一般の好評を博す。[以後、6 年間に物産会を 5 回
開催する。]
1757.○【イギリス】バスカヴィル(バスカービル)John Baskerville (51)が、書体デザイン
と印刷事業に乗り出して以来 7 年を費やして、最初の本『ウェルギリウス Virgil 』を世
- 258 -
に出す 。
[以後、この本の美しさは各方面で大きな賞賛を浴びる。アメリカのベンジャ
ミン・フランクリンは 6 冊も予約したと伝えられる。一方、
〈バスカヴィルの活字は目を
痛める〉という批評も出る。
]
1758(宝暦8年)
1758.○【日本】博物学者で文人の木村蒹葭堂(きむらけんかどう)(22)が、この頃より月
例詩文会を催して混沌(こんとん)詩社の基礎をつくる。[以後、和漢のしょうしゃな書籍
を自費出版する。膨大な書画典籍や地図標本類を収集して有名になる。遠近よりの多く
の来訪者はすべて名簿『蒹葭堂日記』に記載する。]
1758.○【日本】世話物の分野を開拓し、新風を吹き込んだ講釈師馬場文耕(ぶんこう)が、
美濃郡上(みのぐじょう)の百姓一揆(いっき)を講じて処刑される。
1758. ○【イギリス】アンブローズ・メイナードが、ミュージックホールの芸人専門の出
演予約事務所をロンドンで開設する。世界最初のタレント紹介所となる。
1759(宝暦9年)
1759. 1.−【イギリス】王立学士院の院長を務めた医学者・収集家スローン Hans Sloane
(1660 ∼ 1753)のコレクションを中心に国立博物館(大英博物館)( British Museum)が、ロ
ンドンに開館する。世界で最初の公共博物館で、世界最大級の博物館となる。エジプト 、
ギリシア、ローマ 、西アジア 、東洋の古代美術、ヨーロッパの中世美術、その他コイン、
メダル、版画、素描、写本などを収蔵する。スローンが自分の大コレクション(歴史的遺
品類 6 万 5352 点、手写本 4100 点 、印刷本 1000 万点)を、彼自身が見積もった 1000 分の 1
の価格 2 万ポンドで国家に遺贈したことに端を発し、これに、『リンディスファーンの書』
、
マグナ・カルタなどを含んだ R.コットンの蔵書、第 1 、 2 代のオクスフォード伯の蔵書が
加えられ、これらを収蔵、公開するために、モンタギュー・ハウス(Montagu House )購入
されて開館する。[以後、収蔵品は増加の一途をたどり、19 世紀初めにはアレクサンド
リア条約の結果、ナポレオンの兵士が発見したロゼッタ・ストーンをはじめ多くのエジプ
ト彫刻がネルソンによって、パルテノンからの彫刻群(エルギン・マーブルズ)がエルギン
卿によって、それぞれもたらされる。1823 ∼ 57 年、改築する。1883 年、自然科学部門
は自然史博物館( Natural History Museum)に独立。1970 年、民族学部門が人類博物館
(Museum of Mankind)として独立する。1972 年、大英図書館(英国図書館)(British Library)
が博物館と所轄を分割し、独立した機関となる。図書館も、蔵書の質・量ともに世界最
大を誇る。]
1759.○【日本】医者山脇東洋が、1754 年に官許を得て刑死体を解剖し、人体の内部構造
を直接観察し、門弟浅沼佐盈(すけつね)が、解剖図 6 枚を描いた記録が 、
『蔵志(ぞうし)』
として刊行される。日本で公刊された最初の実証的人体解剖記録となる 。
[以後、内容
に多くの誤りが発見され、1543 年にイアリアで刊行されたベサリウスの『ファブリカ(人
体構造論)』に及ぶべくもないもので、図も稚拙なものとされる。1758 ∼ 59 年、東洋の
高弟栗山孝庵が、萩で男女の解剖を行う。以後、人体解剖の記録が多くなされる。]
1759.○【スイス】ボルテールの風刺小説『カンディド Candide』 が、ジュネーブのクラ
メール兄弟により刊行される。
- 259 -
1759. ○【フランス】王立絵画・彫刻アカデミーにおいて、着衣の女性モデルが初めて公
式に認められる。[ 16 世紀以来、芸術家が個人的に裸婦を写生することはあったが、19
世紀後半に、美術学校に裸体女性モデルが導入される。]
1760(宝暦10)
1760. ○【日本】江戸の長崎屋経由で、ヨーロッパの情報や書籍が入るようになる。
1760. ○【日本】
『おたふく女郎粉引歌』
、俗に「お茶引」と呼ばれる歌がはやる。主に客
のつかない女郎に刑罰手段として用いられる 。「天じゃ天じゃと皆様おっしゃる/天の
とがめもいやでそろ。/文の数々こいこがれても/わしは当座の花はいや。/数の男の
思いもこわい/みめの好いのも気の毒じゃ。
」
1760.○【ロシア】エカテリーナⅡ世( 31 )が、近衛兵の中で屈強なハンサムを物色しベッ
ドを共にする役を命じる。選ばれた男は、まず医者の診察を受けさせ、それを時々覗き
見する。
1760. ○【ノルウェー】王立ノルウェー学術協会が設立される。最初の学術図書館が設け
られる。
1760. ○【ドイツ】カステル・ファーバーが、黒鉛の粉末に硫黄を混入して鉛筆の芯をつ
くる。[のち、ババリア鉛筆に発展する。]
1760. ○【フランス】世界最初の聾唖教育施設が、パリに開設される。
1760.○【フランス】医学博士ティソ M.Tissot の学位研究に、自慰をすると精液を浪費し、
結核、性的不能、失明、発狂の原因になるとその害を論評する『オナニアについて―マ
スターベーションによって引き起こされる病気についての論考 』(『L'ONANISM』
Dissertation)がラテン語で出版される。[以後、マスタベーションにつて初めて“科学的
”に論じた“名著”として版を重ね、20 世紀の医療関係者にまで影響を及ぼす。]
1760. ○【スイス】この頃、三角形にした補強部材を組合わせて主桁(けた)にする木造の
トラスを使った橋が 2 カ所でつくられる。[以後、1840 年まではそれほど多くはつくら
れない。1850 年頃、アメリカで木造のトラスから鋳鉄と錬鉄を組合わせたトラスにかわ
り、のちに鋼製のトラスに発展する。]
1760. ○【イギリス】ハリスによる『コベント・ガーデンの淑女リスト』が刊行される。
[以後、毎年改訂刊行される。]
1761(宝暦11)
1761.○【ドイツ】ファーバー Kaspar Faber が、黒鉛の粉末と硫黄を混合する方法を考え
出し、鉛筆の製造を始める。ファーバーはスペイン南部の黒鉛に目をつけ、この粉にア
ラビアゴム、にかわ、硫黄などを混ぜてつくることを考え出した。
1761.○【フランス】『寓話』などの作者ラ・フォンテーヌの孫娘たちが、祖父の死後 60
年以上経っているので、書籍商が保有していたいかなる特許認可状も存在せず、自分た
ちの相続権により作品は直系相続人に帰属すると主張し、その著作物を印刷する認可を
取得するため、国王に請願書を提出する。[6 月 29 日付け大法官文書にて、遺族に 15 年
間の特許認可状が与えられる。書籍商は、ラ・フォンテーヌの著作物の出版権は永久に書
籍商の所有権に属していると主張して、対抗する。9 月 14 日、国王顧問会議が、ラ・フ
- 260 -
ォンテーヌの著作物は相続権によって遺族に帰属するとして、特許認可状を孫娘たちに
返還することを認める。書籍商たちは反発して、当局の裁定に対抗する理論武装をする
ため、著名作家のディドロに協力を求める。ディドロは、『百科全書』の発行人であり
パリ書籍商印刷業者組合理事長のル・ブルトンの依頼を受けて 、
『出版業についての歴史
的・政治的書簡』を書き、書籍商の立場に立って、〈書籍の出版は、巨額の先行投資が
必要であり、リスクの大きいもので、投資資金を回収するためには、独占的な権利が保
証されねばならない〉と主張する。一方、ラ・フォンテーヌの遺族の権利が認められたこ
とを、地方の書籍商たちはパリの独占が崩れて自分たちにもチャンスが巡ってきたたと
して喜ぶ。これを契機にパリの書籍商と地方の書籍商との間の亀裂が一層深まる。]
1761. ○【イギリス】ロンドン王立美術工業商業振興会が、工業品を展示する。本格的な
工業展示会で、近代的な意味での世界最初の博覧会となる。[1851 年、ロンドン博覧会
が開催される。以後、ヨーロッパの各都市で開催される。]
1762(宝暦12)
1762. [閏 4.10 ]【日本】平賀源内(34)が、師の本草(ほんぞう)学者田村藍水(44)ととも
に江戸・本郷湯島で第 5 回東都物産会を催す。薬品会では全国 30 余国から 1300 余点に
上る展示物を集め、盛況を呈す。[1763 年 、平賀源内は重要なもの 360 種を選んで分類 、
解説し『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(6 巻)を出版する。]
1762. 5.−【フランス】ルソー Jean-Jacques Rousseau( 50)が、教育論『エミール』を出版
する。人間論からなされた旧体制批判の書として、直ちにパリ高等法院に摘発される。
この頃、民衆は抑圧のもとにあり、子どもは「小さなおとな」でしかなかった。〈人は
子どもというものを知らない〉と書き、教育を考えるためには子どもが何であるかを研
究することから始めなければならない、として、孤児エミールに託して自然の歩みに従
う教育のあり方を追求した本書は、子どもの権利の宣伝の書といわれ、官憲の忌避とす
るところとなる 。
[以後、逮捕を避けてスイスに逃亡する。ジュネーブ政府も『社会契
約論』とともに両書を発売禁止処分とする。スイスのモティエにいったん落ち着くが、
村民の迫害を受ける。1766 年、イギリスに逃亡する。
]
1762. ○【イギリス】エールズベリー(バッキンガムシャー)選出の庶民院議員ウィルクス
John Wilkes(35)が、国王・貴族の寡頭支配的な議会政治体制下で、議会報道の禁止に抵抗
する週刊新聞『ノース・ブリトン(North Briton)』を創刊し、ジョージ 3 世が信任する首
相ビュートの政権に対して攻撃の論陣を張る。[以後、抵抗が繰返される。1763 年 4 月 、
同紙第 45 号で議会開院式の勅語を非難すると、この「扇動的・反逆的文書」の著者・印刷
者・発行者に対する「一般的逮捕状」が出され、ウィルクス自身も同月末逮捕される。ま
もなく議員特権により釈放され、彼を歓迎するロンドン市民の間に、〈ウィルクスと自
由〉をスローガンとする連帯と運動が高まっていく。1763 年末、ウィルクスはパリへ移
住する。1764 年 1 月、庶民院は彼の除名を決議する。同年 2 月、裁判所も文書誹毀罪で
有罪を宣告する。1768 年 2 月、ウィルクスはあえて帰国し、3 月にはロンドン北郊ミド
ルセックス州選出議員に当選する。同年 4 月から 1 年 10 ヵ月の刑期で、彼は王座裁判所
監獄に収監される。その間、前後 4 回議会が彼を除名するたびに、ミドルセックス州選
挙民は彼を当選させる。1771 年、議会報道の自由が獲得される。]
- 261 -
1763(宝暦13)
1763.○【日本】平賀源内( 35 )が、新興の談義本の世界に進み、
『風流志道軒伝 』
(5 巻 )
、
『根南志具佐(ねなしぐさ)(前編)
』
(5 巻)など刊行する 。よどんだ封建社会を風刺する 。
本格的江戸文学が始まる。
1763. ○【日本】肥中村(ひじゅうむら)(のち、山口県豊浦郡豊北町)の年寄足立次郎右ヱ
門他 1 名が、近年漁業不振のため大庄屋に茶屋設置を申請する。茶屋に垢かき女数人を
置き、昼間は蕎麦を供し、夜は居風呂で入浴させ枕席にもはべらせる 。
(渡辺憲司『江
戸遊里盛衰記』
)
1763.○【イギリス】ベイズ Thomas Bayes( 1702 ∼ 61)の『偶然の理論における一問題を
解くための試み』が出版される。統計学による推論という考え方が探求され、以前に起
こった頻度からある事柄の蓋然性を推測するという、史上初の理論が提唱される 。[以後 、
「ベイズの定理」と呼ばれ、次のように定式化される。k 個の事象 E1 、E2、……、Ek
があって、このうちのどの 2 つも同時におこることはなく、k 個のうちのどれか一つが
かならずおこるとすると、このとき、事象 E に対して pE(Ei)= p (Ei) pEi(E)/Σ p (Ei) pEi
(E) が成り立つ。この定理は応用が広く、統計的推論を行うとき重要な役割を演ずる。21
世紀初頭には、インタネットでの迷惑メール対策でこの理論を応用したサービスが増え
る。]
1763.○【イギリス】この頃、ジョンソン Samuel Johnson (54)が、1759 年に母の葬式の費
用に困って 1 週間で書き上げた小説『ラセラス』のおかげで文名が高まり、昨年から年
金 300 ポンドも受け、ようやく生活の安定を得たので、
「文芸クラブ」をつくる。彼を中
心に J.レノルズ、バーク、ゴールドスミス、ポズウェル、ガリックらが集まり、コーヒ
ー店での談論を楽しむ。
1763. ○【アメリカ】サヴァナで初めて印刷が行われる。また、ニューオーリンズで初め
て印刷が行われる。
1764(明和1)
1764.○【日本】画家曽我蕭白( 34 )が活躍期に入る。この頃までに、紅摺絵に藍、黄が加
わる。
1764.○【日本】画家鈴木春信( 39 ?)が、彫師金六の協力を得て、浮世絵多色刷の手法を
開発する。版木は山ザクラ材の板目を使い、両面に彫り、15 ∼ 16 色刷りが多い。[ 1765
年、絵暦(えごよみ)交換会の流行が起こり、これが契機となり、鈴木春信らが、多色摺
木版画を完成させ、
「錦絵」と呼ばれるようになる。]
1764. ○【ロシア】エルミタージュ美術館が、サンクト・ペテルブルグに公開される。女
帝エリザベータ以来ロシア皇帝歴代の宮殿であった冬宮に隣接する離宮であるエルミタ
ージュ(フランス語で隠れ家の意)を美術館とする。[以後、小エルミタージュ、劇場、旧
エルミタージュが増築される。1851 年、新エルミタージュが建設され、計 5 つの建物か
らなるロシア最大の国立美術館となる。1852 年、美術館として機能し始め、一部に公開
される。1917 年、ロシア革命により、文化遺産の保護と国家への譲渡に関する法令によ
り、国有となる。以後、収蔵品はますます増大する。1920 年、一般に公開される。所蔵
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点数は約 300 万点に達し、6 部門(原始文化と美術、古代世界の文化と美術、東方諸国の
文化と美術、ロシア文化、西欧美術、コイン・メダル)に分けて収蔵展示される。1990
年、世界文化遺産として登録される。]
1764.○【フランス】活字鋳造技術者ピエール=シモン・フルニエ(フールニェ)の『活版印
刷術提要』が、パリのバルブーにより刊行される。活字のポイント制を提唱し、優れた
合金を作る作業がいかに微妙なものかについて言及して、〈長い間活字には鉛、しろめ
potin という銅の地金、アンチモンおよび若干の鉄の混合物が用いられれてきたが、その
ため合金は軟らかく、つぶれやすいものになってきた。だが、この 30 年来、われわれは
鉛と精製アンチモンを使うことによって、作業を単純化し 、合金の質を高めてきたのだ〉
という。(『書物の出現』)
1764. ○【ベネズエラ】国内で初めて印刷が行われる。
1765(明和2)
1765. 3.22【イギリス】議会が、イギリス軍の植民地駐屯経費捻出のため、植民地住民に
対する印紙税法(Stamp Act)を可決する 。植民地における新聞、暦、パンフレット、証書、
公文書からカルタにいたるまでの印刷物に、イギリス本国同様に印紙を貼付させること
を命じる。[以後、各植民地で反イギリス運動と暴動が起こる。1766.3.4 イギリス議会が 、
植民地の激しい反発のため印紙税法を撤回する。]
1765. ○【日本】絵暦(えごよみ)交換会の流行が起こる。これが直接の契機となり、鈴木
春信(40 ?)らが 、
「錦絵」と呼ばれる多色摺木版画(完全カラー浮世絵)を完成させる。
従来の紅摺絵の 2 、3 度摺の色摺では、なお象徴的な彩色にとどまり、背景をはじめ紙地
のままに残される余白の部分も多かったが、個々の図様に応じた色面を画面の全面に充
填する多色摺の版画がようやく実現する。
錦繍(きんしゅう)の華麗になぞらえて「錦絵(に
しきえ)」の美称で呼ばれる。[以後、鳥居清長、喜多川歌麿、歌川豊国、葛飾北斎、歌
川広重といった作者が登場する。1780 年、このころ以降は錦絵以外の浮世絵版画はほと
んど制作されなくなる。また、錦絵界に多くの画派が現れる。江戸後期から明治期には 、
浮世絵版画と錦絵はほぼ同意語となる。]
1765. ○【日本】後藤梨春(りしゅん)『紅毛談(オランダばなし)』刊。日本ではじめて顕
微鏡を紹介する。
[十数年後、大坂の服部永錫(えいしゃく)が、顕微鏡を製作する。
]
1765. ○【フランス】パリのパレ・ロワイヤルで、活力回復のスープが売り出される。[以
後、これを出す飲食店を 「レストラン restaurant 」とよぶようになる。レストランは、
〈気
力、体力を回復させる〉という意味のフランス語の動詞 restaurer の分詞的形容詞である。
やがて、一般に料理と飲み物を提供する店のことをレストランとよぶようになる。以後、
フランス以外でもこのレストランというフランス名が一般に使われるようになる。]
1765. ○【オーストリア】神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフⅡ世が、先代のフランツⅠ世がそ
の皇后マリア・テレジアのために、シェーンブルン宮殿に 7 年の歳月をかけてつくった動
物のコレクションを、一般に公開する。これまでにも、王侯貴族が珍しい動物を集めて
飼育し、これを見て楽しんだ例は、古くからエジプト、中国、ヨーロッパ、さらにはメ
キシコにあったアステカ帝国など多くの例が知られているが、このシェーンブルン宮殿
のコレクションをもって近代動物園の始まりとされる。[ 1773 年、フランスでもパリで
- 263 -
国立自然史博物館付属植物園ジャルダン・デ・プラントの一角にメナジュリーとよばれる
動物飼育展示施設が公開される。これが近代動物園の始まりとする説もある。]
1765. ○【イギリス】議会が、ロンドンの全家屋に番号を付ける法令を決める。
1765. ○【イギリス】発明家マッジが、時計の正確さを改良するため、梃子(てこ)式の脱
進機を発明すえる。
1766 明和3
1766. 3. 4【イギリス】議会が、植民地の印紙税法に対する激しい反発に抗しきれず、前
年に制定した印紙税法を撤回する。[ 3.18 議会が、植民地に対して課税権を保有するこ
とを宣言する。]
1766.12. 5【イギリス】クリスティー James Christie( 36 )が、最初のオークション(競売)
ハウス「クリスティーズ」をロンドンに開設、初のオークションを開催する。たまたま
店の隣に風景・肖像画家ゲインズバラ Thomas Gainsborough( 39)が住んでいたので、当初
から絵画の分野にも進出する。[以後、世界で最も有名なオークションハウスとなる。会
社のマークには創立者の横顔が描かれる。1803 年、創業者が死亡し、息子が事業を継承
する。1831 年、ウィリアム・マンソンが経営に参加する。1852 年、弟のエドワード・マン
ソンが参加。1859 年、トマス・ウッズが参加。社名をクリスティー・マンソン・アンド・ウ
ッズとする。1998.5 フランスの億万長者フランシス・ピノーに買収される。]
1766.○【スウェーデン】世界最初の情報公開法「出版の自由に関する法律」が制定され、
行政機関の文書公開を決める。
1766.○【イギリス】化学者・聖職者プリーストリー Joseph Priestley( 33 )が、帯電した物
体間にはたらく力が、その距離の 2 乗に反比例することを発見する。[1785 年、クーロ
ンが、ねじり秤を発明して、帯電している物体間の力を正確に測定する。]
1767(明和4)
1767. 5.22【イギリス】名医ジョン・ハンター(39)が、淋病が梅毒の一症状であるとの仮
説を証明する実験を開始する。淋病患者から採取した膿を自分の陰茎に植え付けて一週
間後、斑点が増加し、梅毒症状を呈したことから仮説は証明されたとした。しかし、そ
の患者は淋病ではなく、梅毒患者であった。この実験は性病研究を 50 年遅らせる結果と
なり、ハンター自身も実験の犠牲となり死去する。
1767.○【日本】江戸の大田南畝(19)が、
『寝惚先生文集』を著し、評判となる。
1767.○【日本】名古屋(のち、中区錦 2 丁目)の大惣(だいそう)こと大野屋惣八が、店を
構えて貸本屋の営業を始める。店先で大勢の客が閲覧し、小説、軍書、武談、仇討ち、
浄瑠璃本、名所記などが多く読まれる。[1898 年、店を閉じる。廃業時の蔵書は 2 千数
百部。1911 年ころ、5 代まで約 150 年にわたり書物の収集に努める。数万巻の蔵書を 3
棟の蔵に整理保存してこれを公開し、庶民はもちろん学者、文人、武家などに広く利用
に供される。これらの旧蔵書は、国立国会図書館、京都大学、東京大学などにおいて和
書の中心資料の一つになる。]
1767. ○【インド】イギリスがインドで徴税権を確保する。
1767. ○【フランス】ディーベ海水浴場に人々が行くようになる。
- 264 -
1768(明和5)
1768.○【日本】上田秋成( 34 )が、大坂で怪異小説集『雨月物語』の自序(剪枝畸人(せん
しきじん))を書く。[ 1776 年、実際に初刊され、初期読本(よみほん)を代表する作品と
なる。以後、幕末まで同一板木によって数版を重ねる。]
1768.○【中国】[乾隆 34]朝廷が、官僚の歌童囲いを禁止する。
1768.○【フランス】ボドニ Caveliere GiambattistaBodoni( 28)が、北イタリアのパルマ公
の招聘を受けて、
公の印刷所の責任者になる 。
[以後、
多言語の書籍を数多く印刷する。
1806
年、パルマ公の提案により、
『主の祈り』の博言集を 155 の言語で印刷する。
]
1768.○【イギリス】エジンバラの銅版画家ベル Andrew Bell( 42)が、印刷業者のマック
ファーカー Collin Macpharcker と共同で、百科事典を出版して、最初の『ブリタニカ百
科事典( Encyclopaedia Britannica)』となる。100 分冊で、価格は各冊 6 ペンス。一流学者
の 44 論文と単行本からの抜粋からなり、主題方式で配列する。「女」の項目には、「人類
(man)のメス科。人属ホモ参照」と記述される。[この頃、イギリスはブルジョアジーの
勃興期にあり、この事典は紳士の教養を要求する階層に支持されて成功する。1771 年、
完成後に 2200 ページを 3 巻に製本して初版とする。初版の序文には、チェンバーズの百
科事典とフランスの百科全書に対して、〈科学知識をアルファベット順に配列された技
術用語のもとに伝えようとする愚かしい試み〉をしたとして批判する。
以後、第 9 版は東洋学者スミス William Robertson Smith( 1846 ∼ 94)の編集で外国人学者
にも寄稿させて有名になる。第 10 版(1875 ∼ 89)は本巻 24 巻に索引と補遺 11 巻をつ
けた全 35 巻として刊行され、ビクトリア女王時代を代表する百科事典となる。これは、
丸善によって日本にも輸入され、
『大英百科全書』として広く日本の学者にも知れ渡る。
1910 ∼ 11 年に発行の第 11 版は、ケンブリジ大学出版局が引き受けて 29 巻とし、初め
てインディア・ペーパーに印刷する。1927 年、第 12 版からはアメリカにあるシアーズ・
ローバック社の出資を仰ぐ。1928 年、シアーズ社の経営に移り、シカゴを本社とし、ロ
ンドンとニューヨークに編集局をもつようになる 。以後 、編集の面でも変化があり、第 11
版刊行後の世界の急激な変化に対応するため、第 14 版で全体的な改稿をほどこし、新版
の刊行を終わる。1936 年から毎年必要箇所を改訂することにする。1938 年からは年鑑を
発行して、旧版所有者にも便宜を図る。1974 年に全面改稿の第 15 版(30 巻)が、書名
を『The New Encyclopaedia Britanica』と改め刊行される。これは、総論・索引編ともい
うべきプロペディア( Propaedia)( 1 巻、1 万 5000 項目)、小項目編のマイクロペディア
(Micropaedia)(10 巻 、10 万 2214 項目)
、マクロペディア( Macropaedia)(19 巻、4207 項目)
の 3 部門からなり 、有機的・体系的に把握できるようになっている 。日本では、1972 ∼ 75
年に、この版の翻訳に新原稿を加えたものを『ブリタニカ国際大百科事典』(28 巻)とし
て発行される。1999 年、書籍の百科事典出版を停止し、CD-ROM 版に専念する方針を決
める 。
]
1769(明和6)
1769. 6.−【日本】読売に「娘評判記」を載せることが禁止される。読売は、1 ∼ 2 枚の
粗末な版行摺で、新聞紙以前のもの。江戸で名高い妓女、茶店の少女などを集めて、見
- 265 -
立三十六歌仙などと称して売り歩いた。
1769. ○【日本】狂歌の会が盛んとなる。
1769.○【フランス】(?)ピエール・ルソーが、M. ヴァイセンブルックの協力によりブイ
ヨン印刷協会(S.T.B. )を設立する。
1769. ○【ノルウェー】全国国勢調査が実施される。[以後、定期的に実施される。]
1769. ○【デンマーク】全国国勢調査が実施される。[以後、定期的に実施される。]
1769.○【フランス】軍事技術者・ルイ 15 世軍砲兵大尉キュニョー Nicolas Joseph Cugnot
(44)が、砲車を牽引させる目的で世界最初の蒸気自動車を実現させる。純粋に機械力で
走る車の最初となる。このころ蒸気機関を利用する輸送手段を考えていた発明家が大ぜ
いいたが、キュニョーはニューコメン式大気圧機関を利用し、ピストンの往復運動を回
転運動に変える方法を考え、前輪 1 個 、後輪 2 個の 3 輪車で、前輪の真上にシリンダー 2
個が置かれ、その前にさらに大きな蒸気釜をつけた大砲運搬用自動車「ファルディエ」
を設計し、技術者ブレザンが製作する 。この車は、4 人を乗せて時速 4km で走ったが、15
分ごとに蒸気釜に水を供給しなければならず、試走中に暴走し兵器庫に激突して壊れる。
[1770 ∼ 71 年、より大型の 2 台目を製作する。同車は長さ 7.2m、幅 2.3m という巨大な 2
輪荷車に前 1 輪を追加した 3 輪車で、前輪の前に 50 リットルの銅製のボイラーをもつ。
そこでつくられた蒸気は前輪の左右に 1 つずつある垂直のシリンダーに交互に送られ、
前輪を回転させる。クランクはなく、ピストンの上下動がラチェットで前輪を回転させ
る。キュニョーの蒸気車はバンセンヌで実験され、4 人を乗せて時速 9.5km で走るが、
操向輪に重いボイラーやシリンダーが載っているため事実上操縦不能で、城壁に激突し
てしまう。1801 年、ナポレオンの目にとまり、パリの国立工芸博物館に保存される。]
1769. ○【スペイン】全国国勢調査が実施される。[以後、定期的に実施される。]
1769. ○【カナダ】ケベックで初めて印刷が行われる。
1770(明和7)
1770. 6.29【日本】串茶屋(北陸街道の宿場町)の新屋の抱え遊女幾瀬川が魚屋の息子吉三
郎( 18 )と深く馴染みになり、心中する。『
( 寝覚の蛍 』
)
1770.○【日本 】平賀源内の、江戸ことばを生かした浄瑠璃『神霊矢口渡』が初演される 。
1770.○【フランス】この頃、パリの活字業者ディドー Fran □ ois Ambrois Didot(40)が、
これまでまちまちであった活字の大きさを、フランスの常用尺度 1 インチの 72 分の 1 を
1 ポイントとして統一することを提案する。この頃、フランスの 1 インチはイギリスの
1.065 インチであるから、ディドーの 1 ポイントは 0.3759mm となる。[以後、ディドー
式はフランスをはじめ、ドイツなどヨーロッパ大陸で使われる。1886 年アメリカで 1 ポ
イントを 0.3514mm とする「アメリカ式」が定められる。]
1770.○【フランス】ドイツ人貴族ドルバック Barond'Holbach,Paul HenriDietrich( 47)が、
「物理的世界と道徳的世界との諸法則について」という副題をもつ『自然の体系 Syst □ me
de la nature』を刊行する。彼の家で定期的にサロンを開催して、ルソーやコンディヤッ
ク、ラ・メトリら啓蒙思想家の多くが顔を見せて、議論をした内容を集大成したものとい
われる。[以後 、
〈唯物論の聖書〉と評され、ラ・メトリの『人間機械論』(1747 年)と並
ぶフランス唯物論の代表的著作とされる。本書によれば、自然のうちには物質とその運
- 266 -
動のほかには何も存在しない。物質はそれ自身に固有の力によって運動し始めるから、
自然には、キリスト教の神も、また理神論者のいう神、つまり運動の第一原因としての
神さえ存在する余地はない。また原子や物質の運動はすべて引力と斥力(せきりよく)と
の必然的法則の支配下にあるから、いっさいは決定されている。むしろ超自然的なもの
に対する信仰こそ、社会的、道徳的悪の根源である。宗教にかわって確立されるべき現
実的道徳についても、この無神論と機械論的決定論の観点が貫かれる。]
1770.○【フランス】C.P. ダルシーが 、
「網膜の残像性の研究」を発表する。
1770.○【バチカン】法王クレメレス 14 世が、去勢した聖歌隊員(ボーイソプラノ)を教
会から追放する。
1770.○【イギリス】化学者プリーストリー Joseph Priestley( 37)が、新大陸発見によりヨ
ーロッパに伝えられ「カウチュク( caouthouc )」と呼ばれるメキシコを起源とする天然ゴ
ムが 、
鉛筆の字を消す(rub-out)性能があることを発見し 、
ラバー( rubber)と命名する 。
[1772
年、ラバー(消しゴム)を初めて商品化する。この頃、鉛筆の字消しには主に柔らかいパ
ンが用いられているが、ゴムはたいへん高価で、その上硬化して紙を削る欠点がある 。
1839
年、ビギエ Constant Viguier の「細密画の画法指針」で、ラバーの欠点を警告する。
]
1770. ○【イギリス】この頃、センセーションとセンティメンタルを狙いとするゴシック
・ロマンス専門の出版社ミネルバ社が、自社の製品を主な対象として貸本業「ミネルバ文
庫( Minerva Library)」を開業する。[以後、貸本業が発達する。これとともに、作家自体
が貸本向きの本を書かされるという事態が生じる。]
1771(明和8)
1771.−[ 3 . 4 ]
【日本】小浜藩医杉田玄白(39) 、中川淳庵(33) 、豊前中津藩医前野良沢(49 )
の 3 人の蘭方医が 、千住小塚原(こづかっぱら)で死刑囚の死体の腑分け(解剖)に立会う 。
腑分けされた死刑囚は、青茶婆(あおちゃばばあ)と呼ばれる 50 歳前後の京都生まれの女
であった。玄白と良沢はそれぞれ『ターヘル・アナトミア』を入手しており、かねてから
その解剖図が漢方の腑分図と異なっているのに気付き、人体内部を実際に見ることを望
んでいた。2 人は『ターヘル・アナトミア』を小塚原に持参し、腑分けが終わってから、
骨を拾って照合すると、西洋医学の本の正確さに感銘を受け、これまでの自分らの知識
や漢方の誤りを悟る。これを機に 3 人は『ターヘル・アナトミア』の和訳を誓う 。
『ター
ヘル・アナトミア』とよばれている原書は、正しくは、ドイツのクルムス Johann Adam
Kulmus が 1722 年に著した『解剖図譜(Anatomische Tabellen)』を、ライデンのディクテ
ン Gerardus Dicten が 1741 年にオランダ語訳した『Ontleedkundige Tafelen』で、杉田玄白
ら手にしていたのはその第 2 版である。
[翌日、翻訳に着手する。1774 年、翻訳を完成
し、
『解体新書』として刊行する。
]
1771. 5 .−【イギリス】ロイズ( Lloyd's)が、コーポレーション・オブ・ロイズ(Corporation
of Lloyd's)という法人に組織を改める。[以後、海上保険以外の保険分野にも活動領域を
広げ、イギリスだけでなく、世界保険市場における強力な保険引受集団となっていく。]
1771. ○【日本】佐渡国・水金町の遊女おかるが、虐待されて死亡する。
1771. ○【イギリス】新聞・雑誌などの議会報道が自由化される。
- 267 -
1772(安永1)
1772.11. 2【アメリカ】イギリス本国と、植民地との対立の激化にともない、ボストンの
愛国派サミュエル・アダムズらが他の地域との連絡を確立するために通信委員会を組織す
る。
1772. ○【日本】この頃、咄本が盛んとなる。
1772.○【中国】[乾隆 38]清の乾隆帝(けんりゅうてい)の欽定(きんてい)の一大叢書『四
庫全書(しこぜんしょ)』の編纂が始められる。朱いんの建議により永楽大典本、朝廷蔵
本、官選本、各省採進本、私人進献本、通行本などから、当時集められるだけの重要な
書籍を集めて、経、史、子、集の四部に分け、これを校正し、善本をつくり、浄写させ 、
各書に著者の履歴、書の内容、批評を記した、いわゆる「提要」を冠する。その際、そ
の内容が清朝に都合の悪いものは、一部分を削り、あるいは禁書に指定した。[以後、 10
年間に、7 万 8731 巻(巻数には異同がある)を作る。途中で、銅貨高騰のため銅活字を
鋳潰し、その代替物として木活字 25 万個を作らせ、これを「聚珍 」と名づける。現在『四
庫全書』のうち 130 種余は『武英殿聚珍版叢書』として出版され、またほかは『四庫珍
本』として初集から 11 集まで出版されている。1860 年。日本で錫活字の鋳造に成功す
る大島大鳥圭介は、鉛活字を「聚珍板」と呼ぶが、本来は清朝に銅活字の代替物として
作られた木活字のことをいう。]
1772. ○【インド】マドラスで初めて印刷が行われる。
1772. ○【ドイツ】シェファーが、木材の小片からパルプを作る技術を考案し、論文を発
表する。
1772.○【フランス】ル・ブルトンが 1746 年に企画し、ディドロ(59)とダランベール(57)
編集の『百科全書』本文 17 巻と図版 11 巻が完成する。全 33 巻の予約価格は、900 フラ
ンで、約 4000 人が予約する大ベストセラーになる。この頃、労働者の賃金は 1 日 1 フラ
ン。[ 1776 ∼ 80 年、続刊の本文 4 巻、図版 1 巻、索引 2 巻を完成する。ル・ブルトンは
莫大な収益を得る。また、表紙革のなめし業、インク、銅板、製紙、活字、製本などの
業者もうるおい、延べ 1000 人の労働者が従事し、
『百科全書』が刊行されている四半世
紀間に、700 万フランの経済効果がもたらされる。編集責任者ディドロは、謝礼として 17
巻のそれぞれにつき 2500 フラン、一時金 2 万フランを受け取る 。
『百科全書』がこれだ
け大歓迎を受けたので、パンクーク C. J. Panckoucke(36)が、続巻を計画する。この時デ
ィドロ( 60)は老年のため辞し、作家マルモンテル Jean-Fran □ ois Marmontel(1723 ∼ 99 )
が引き受ける。ディドロは、著作だけでは安定した老後を営むには足らず、娘の婚礼資
金を調達するため、蔵書をロシアのエカテリーナⅡ世に買い上げてもらうことにする。
エカテリーナⅡ世は 、蔵書をディドロの手元に置くことを認めた上 、司書官として年金 6
万リーブルを与える。]
1772.○【イギリス】フランスのルイ=セバスチャン・メルシェが、教訓に満ちた壮大なユ
ートピア物語『西暦 2440 年』をロンドンで刊行する。[以後、間もなく、王権の検閲に
より禁書処分にされる。以後、1789 年までに 24 版を重ねる。アンシャン・レジーム期最
後の 20 年間に書かれた禁書文学のなかでも最大の売れ行きを示し、ヴォルテール、ルソ
ー、そして多くのポルノ作品をもはるかに凌ぐ。数多くの模倣作品を生み、英語、ドイ
ツ語、オランダ語にも翻訳される。1789 年、フランス革命が始まると、メルシェは自著
- 268 -
について自慢して〈敢えて言うが、未だかつて予言がこれほど実際の出来事に近かった
ためしはない。さらに、驚くべき一連の変化に関し、これほど詳細に述べられたためし
もないのだ。つまり、わたしはフランス革命を予想した真の預言者ということになる。
〉
と語る。](菅野賢治・平野隆文訳『未来の歴史』)
1772.○【イギリス】化学者プリーストリー Joseph Priestley( 39)が、新大陸発見によりヨ
ーロッパに伝えられ「カウチュク( caouthouc )」と呼ばれるメキシコを起源とする天然ゴ
ムが、鉛筆の字を消す( rub-out)性能があることを発見し、ラバー(rubber)と命名、ラバー
(消しゴム)を初めて商品化する。この頃、鉛筆の字消しには主に柔らかいパンが用いら
れているが、ゴムはたいへん高価で、その上硬化して紙を削る欠点がある。[以後、消し
ゴムがフランスをはじめヨーロッパ全土で使用され始める。」
1773(安永2)
1773. 6. 3【ドイツ】銅版画家ホドウィエツキー(ホドヴィエツキー) Daniel Chodowiecki
(47 )が、30 年間会っていなかった母を訪ねるため、ベルリンから約 400km 離れたダンツ
ィヒ(のち、ポーランドのグダニスク)へ向け旅立つ。〈駅逓馬車で行くのは、ごめんだ〉
と考え、河原毛馬を調達して、締め金具で旅行鞄を鞍に固定し、剣で武装する 。
[以後、
種々の障害に出会う。6.11 ダンツィヒに到着する。この間、1 冊の日誌と 108 枚のスケ
ッチをまとめる。
]
1773.○【日本】蔦屋重三郎( 24 )が、新吉原大門口五十間道の左側に書店を構え、鱗形屋
の『吉原細見』の卸し・小売りを始める 。
『吉原細見』は版元の鱗形屋孫兵衛が独占販
売し、毎年春秋に改訂版を出していた。
1773.○【ドイツ】ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe( 24 )が、自由のために戦うドイツ
中世期末の騎士を主人公とする戯曲『鉄手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を書き
上げる。出版社が見つからず、友人のメルクが印刷費、ゲーテが用紙費を負担して 、
“
自費出版”のかたちで刊行する。メルクは、この風変わりな作品を自費で出版すれば、
相当なもうけが得られると計算した。メルクはゲーテの最初の読者であり、ゲーテは、
この作品によって文壇にデビューする。[以後 、自費出版費用の回収はできない 。しかし、
出版社からの執筆依頼が舞い込む。1774 年 、
『若きヴェルテルの悩み』を書き上げ、ラ
イプツィヒのヴァイガント書店から出版する。のち、メルクはゲーテの『ファウスト』
のメフィストフェレスのモデルとされる。のち、メルクが自殺したとき、ゲーテはメル
クを〈私の生活に最も大きな影響を及ぼした独特な人物〉と述べる。]
1773. ○【スイス】この頃、ジャケ・ドロス父子が、ゼンマイと歯車仕掛けで文字を書く
精巧な人形を製作する。背丈 1m ほどの少年の人形が 、机の前に座り右手にペンを握り、
ペンをインク壺に入れ、紙の上に持ってきて字を書く動作をする 。[のち、ヌーシャテ
ルの博物館に展示される。
](立川昭二『からくり』)
1773. ○【イギリス】ロンドン株式取引所が登場する。最初の国民経済的意義をもった本
格的証券市場となる 。
[1812 年、制度が確立する。
]
1773.○【イギリス】キャベンディッシュが、2 枚の電極の間の絶縁体の種類によって畜
電器の静電容量に差があることを発見する。
1773. ○【チリ】国内で初めて印刷が行われる。
- 269 -
1774(安永3)
1774.春【日本】蔦屋重三郎(25)と前野良沢( 51)が 、
『吉原細見』の改訂版のデータ集め
の仕事を引き受ける。
1774.○【日本】小浜藩医杉田玄白(42 )、中川淳庵(36 )、豊前中津藩医前野良沢(52)の 3
人の蘭方医を中心に 、石川玄常、桂川甫周らも加わり、4 年間の努力の結果、
『解体新書』5
巻(図 1 巻・図説 4 巻)を完成し、刊行の推進力となる。1771 年春、江戸の小塚原(こ
づかっぱら)の刑場で死刑囚の死体の解剖を実見したのを契機に、『ターヘル・アナトミ
ア』の正確・精緻なるを知り、翻訳を決意して着手したもの。原本の精緻な銅版画の模
写には、平賀源内のもとで洋風画を学んでいた小野田直武が起用され、細筆を用いて銅
版画を寸分違わず木版画で表現する。最初の本格的蘭方医書の翻訳事業の成果となる。
訳語は、性器を陰器と訳し、
「陰器編」に陰門、陰門唇、陰嚢などの訳語を創作する。[以
後、蘭学発達に大きな貢献を果たし、日本の医学史上に大きな影響を及ぼす。1815 年、
杉田玄白は、蘭学創始をめぐる思い出と蘭学発達の跡をまとめつつ 、同志の『解体新書 』
翻訳の苦心のありさまを追想記『蘭学事始(ことはじめ)』に詳述する。]
1774.○【日本】蘭学者で長崎のオランダ通詞本木良永(もときよしなが)( 39)が、1661 年
刊のオランダのWJブラウの著書『天地二球用法』書の抄訳本をつくり、初めて地動
. .
説を紹介する。
1774. ○【日本】この頃、大坂で、一般応募による雑俳と咄本がさかんとなる。
1774. ○【中国】清朝政府が、乾隆帝の許可のもと宮城内の武英殿で昨年からナツメの木
を用い手木活字を制作し、全 25 万 3500 個の活字を完成させる。
[以後、これを用いて 134
種、2300 巻の書物を刊行する。中国史上最大の木活字出版となる 。乾隆帝は、
「活字版」
という呼び名は典雅でないとして 、
「聚珍版」と改称する。以後、これらの木活字印刷
本は「武英殿聚珍版叢書」と呼ばれる。この叢書の刊行にあたって、木活字の製作およ
び印刷の工程を述べた金簡の『欽定武英殿聚珍版程式』が作られる。]
1774.○【ドイツ】ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe( 25)が、
『若きヴェルテルの悩み』
を書き上げ、原稿を懇請する手紙を送ってきたライプツィヒのヴァイガント書店から出
版する。シャルロッテ・ブフへの愛の喜びと苦しみに発するもので、恋愛小説の一典型
となる。[以後、この小さな本がゲーテの名を一躍有名にする。ゲーテはその反響を〈一
般読者の間で起こった爆発〉と書く。また、顔の見えない読者が大量に出現し、〈作者
と読者とが巨大な深淵によって隔てられていること〉も知らされる。
1774.○【ドイツ】ハーン Philipp-Matthaus Harn( 1739 ∼ 90)が、12 桁計算機を考案する。
1774.○【フランス 】ヴォルテール『哲学辞典』が刊行される。「オナニー 」の項を設け、
ティソーの自慰有害説( 1760 年)をわかりやすく紹介する。
1774.○【イタリア】George Lous Lessage が 、24 本の線条による Pith ball 電信に成功する。
1774. ○【イギリス】ジェファソンの『イギリス植民地アメリカの権利』が、禁書とされ
る。
1774. ○【イギリス】調髪師デビット・ロウが、ロンドンで世界最初のホテル「ロウ・グラ
ンドホテル」を開業する。これまで長期滞在者は、家具付きの貸間を探さなければなら
なかった。
- 270 -
1774. ○【イギリス】新ロイズのルームが、ロンドンの王立取引所のなかに置かれ、海上
保険コーヒー店は終焉する。
1774. ○【イギリス】ワットが、蒸気機関の特許権を得る。
1775(安永4)
1775. ○【日本】幕府が、大坂町奉行名で、大坂の米相場を「幟」を振って連絡すること
を禁止する。[以後、類似の禁令がたびたび出される。大坂と摂津・河内両国での旗振り
が禁止されたので、たとえば大津へ連絡するためには、堂島から飛脚が住吉街道を走っ
て大和川南岸の和泉国・松屋新田に至り、そこで旗を振って大和国・十三峠に繋、山城
国・乙訓郡大原野と比叡山を経て、近江国・大津へ通信する。1865 年に、英仏蘭米代表
を乗せた軍艦が兵庫沖へ進入した際、旗振り信号手がこれを発見して京都所司代へ通報
したことが契機となり、禁止が解かれる。](石井寛治、1994 )
1775. ○【日本 】
『吉原細見』の独占的版元、日本橋旅籠町の鱗形屋孫兵衛の手代が起こ
した事件でそれを出版出来なくなる。この機に乗じて蔦屋重三郎( 26 )が自らの手で新形
式の『吉原細見』を刊行する。工夫したのは、妓楼を睨み合いの形で表現し、1 冊の紙
数を減らし価格を安くした。
1775. ○【日本】恋川春町(こいかわはるまち)画作『金々先生栄花夢(きんきんせんせい
えいがのゆめ)』2 冊が、鱗形屋孫兵衛から刊行される。謡曲「邯鄲(かんたん)」を翻案
し、遊里を舞台としての遊びの「うがち」を主体とした、洒落本の要素を青本に取り入
れたもので、絵を主とする小説である「草双紙(くさぞうし)」の一様式となる。表紙の
色から「黄表紙」と呼ばれ、一躍大評判となる。
[1777 年、春町の友人朋誠堂喜三二(ほ
うせいどうきさんじ)も『親敵討腹悲(おやのかたきうてやはらつづみ)』を出し、以後両
人の多くの名作によって 、
“通(つう)”と“むだ”すなわち洒落と機知によるおかしさ
をねらった成人の漫画ともいうべき作風がうち立てられる。1785 年、芝全交(しばぜん
こう)『大悲千禄本(だいひのせんろつぽん) 』
、 1785 年、唐来参和(とうらいさんな)『莫
切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)』、1785 年、山東京伝『江戸生艶気樺焼(え
どうまれうわきのかばやき)』などによって、天明年間( 1781 ∼ 89)には黄表紙全盛期を
迎える。1806 年までの 30 年間に 2000 種以上の黄表紙が刊行される。]
1775.○【フランス】1789 年にかけて C.A.de クーロンが電気力の大きさが距離とともに
どう変わるかについて研究し、逆 2 乗法則として与える。[のちに(クーロンの法則)と
呼ばれる。クーロン以前にも J.プリーストリー(1767)、H.キャベンディシュ(1772 )によ
っても見出されていた。]
1775.○【スイス】チューリヒの改革派牧師・哲学者ラバーター(ラファーター)Johann
Kaspar Lavater( 34 )が、骨相・顔相を研究し、人間の本性は容貌に表れるという思想に基
づいて、この年から 1778 年にかけて『観相学断片』を著す。[以後、天才と詩人の本質
に関する神秘主義的概念規定により、シュトゥルム・ウント・ドラング運動の基調と一致
し、宗教的非合理主義の予告者としてゲーテ、ヘルダーらに影響を与える。]
1775.○【フランス】Pe()re Marie Dominique Joseph Engramelle( 48)が、鍵盤楽器で演奏さ
れた音楽を半自動的に採譜するため、キーを押した時間と押していた長さを記録する仕
組みを考案し、文献『La Tonotechnie ou l'Art de Noter les Cylindres 』に記述する。キース
- 271 -
トロークは、ピアノロール形式の記譜法により実時間で紙の上に記録され、音楽家によ
って五線譜に直される。
1775. ○【スイス・イタリア】イギリスの鉱物学者グレヴィルが、スイスから馬車でアル
プスを越えてナポリまで行き通せるかどうか賭けをする。イタリアへ通じるザンクト・ゴ
ットハルト峠越えの山道はおおむね大きな玉石敷きで、幅 3 ∼ 4m、人が歩いて通るか
馬かラバでしか通れない。8 人から 10 人の随行者と共に馬車で古いラバ道を通り、初め
て峠を強行突破する。通れない危険な所では何度も馬車を解体して運び、スイスのアル
トドルフ Altdorf から北イタリアのマガディーノまで 7 日間で到着する 。
[1825 年ころ、
ラバ道は馬車が通れる道路になる。1882 年、全長 15km のザンクト・ゴットハルト・トン
ネルの開通により、初めて列車が山を通り抜ける 。
]
1775. ○【イタリア】ボルタが、静電誘導の実験に使うため、金属板をエボナイトで覆っ
た構造の電気盆を考案する。[以後、ボルタは、金属板 2 枚を、間隔をあけて平行に配置
したものを「コンデンサ(畜電器)」と呼ぶ。]
1775. ○【イタリア】生物学者ラザノ・スパランツァーニが、精液による受精を初めて証
明する。番いのカエルの雄にワックス処理した布製避妊用パンツをはかせておくと、卵
は受精しない。雄のパンツの中の精液を採り出し卵を受精させることに成功する。しか
し、彼はこの受精を粘液中のある物質によるものと考え、精子の役目には気付かなかっ
た。
1775. ○【イギリス】モレー並びにアポイン卿が、ロンドンの「ウィグ(かつら)クラブ」
を退会する。その際、クラブの名の由来である国王チャールズⅡ世の情婦の陰毛で作ら
れたかつらを搬出する。このクラブ入会時には、自分の女の陰毛を持参し、元のかつら
に植え付けるのを条件とする。
1775. ○【アメリカ】大陸会議で、独立戦争の戦費調達のために発行した債務証書をスペ
イン・ドル貨で償還することに決定する。[1785 年、大陸会議で、ドルを貨幣単位とし、
十進法を採用することを決める。]
1776(安永5)
1776. 1 . 9 【アメリカ】イギリスのペイン Thomas Paine(39)が 、小冊子『コモン・センス』
を匿名で出版する。本国イギリスからの独立による植民地の利益と世襲君主制打破の意
義を具体的に平明な文章で説き、植民地アメリカの人々の独立への気運を促す。〔ペイ
ンは、1774 年フランクリンとロンドンで知り合い、彼の紹介でアメリカに渡った。フィ
ラデルフィアで 1775 年に創刊された『ペンシルベニア・マガジン』の編集者となってい
る。
〕[以後、アメリカに残り、独立戦争中は、アメリカ軍に参加しながら政治論文『危
機』の執筆を続ける。1777 年大陸会議外交委員、1779 年ペンシルベニア議会書記に任命
される。1787 年にヨーロッパに渡り 、1791 ∼ 92 年、バークの『フランス革命への省察』
に反論して『人間の権利』を発表し、革命を擁護する。]
1776. 3.30【フランス】国王顧問会議が、事実上出版権を持たないオペラ台本の著作者の
申し立てを受けて、初演に限り台本の出版は著作者の権利とみなすという裁定を下す。
音楽の上演に関する特許認可状は、オペラ座ないしはロワヤル・アカデミー・ド・ミュジー
クに与えられており、有料の音楽会、公開舞踏会、宗教音楽演奏会を無断で行うことは
- 272 -
禁じられている。[1786.9.15 国王顧問会議の裁定により、音楽著作物の権利についての
規則が制定される。]
1776. 3 .−【イギリス】アダム・スミス(53)が、
『諸国民の富』を刊行する。
1776. 春【日本 】
『吉原細見』は、蔦屋版と鱗形屋版が並立する。
1776. 7. 4【アメリカ】フィラデルフィアで開かれていた大陸会議が、〈生命、自由、幸
福への追求〉をスローガンに新しい連合を求めて独立宣言を採択する。フィラデルフィ
アの自由の鐘が高らかに鳴らされる。ニューヨークを除く 12 植民地が支持を表明する。
起草委員に任命されたのは、ヴァージニアのジェファソン( 33)、マサチューセッツのア
ダムズ( 44 )、ペンシルベニアのフランクリン( 70 )、ニューヨークのリヴィングストン
(30 )、コネティカットのシャーマン(55 )の 5 人だったが、ジェファソンが実際に起草す
る。イギリス国王は、署名した者すべてを反逆者とみなしていたため、署名部分は公表
されない。[以後、7 月 4 日を独立記念日とする。]
1776.12.−【日本】平賀源内(48 )が、エレキテルを製作する。
1776. ○【日本】大坂の講釈師吉田一保(いつぽう)の持ちネタ『伊賀の仇討』が 、
『伊賀
越乗掛合羽(いがごえのりかけがつぱ)』として脚色され、大好評を博す。[以後、吉田一
保の門より吉田天山、二代吉田一保が出る。]
1776. ○【日本】初代川柳翁評の万句合(まんくあわせ)から川柳風狂句艶句ばかりを選ん
で『末摘花』(初編)が編まれる。誹風末摘花』という。初編は書肆花屋久次郎編。[二編
以下は浅草似実軒酔茶(戯号)編で、 1783 年(天明 3)二編、 1791 年(寛政 3)三編、 1801 年
(享和 1)四編刊。初編の奥に〈川柳評万句合(まんくあわせ)書抜〉とあるように、初代
川柳の万句合摺物から「末番(すえばん)句(ばれ )
」だけを抜いたもので、末番の花を摘
み集めたというしゃれた書名である。4 編合計 2331 句。大正末年に沢田五猫庵の手によ
り、八編までが追加編集される。1958 年にその拾い落しを集めた『古川柳艶句選』
(岡
田甫編)により完備する。性愛に関する人間の諸姿態心情を冷静に見つめた滑稽文学の粋
である。各巻頭句に 、〈蛤は初手赤貝は夜中なり(初夜)〉〈初会にはうつわをかすとお
もふ世〉、
〈陰茎(いんきょう)がおへたと学者妻にいゝ 〉、
〈木のやうにして仲人は床をと
り〉で飾っている。1947 年まで繰返しわいせつ書として発禁処分をうける。]
1776. ○【日本】恋川春町自画作の黄表紙『高慢斎行脚記』刊。世の通人を諷刺する。
1776. ○【ロシア】スイスの医師ヤコブ・フリースが、オムスク∼トムスク間を、馬を一
定間隔ごとに取り替えて、平均時速 5km で走破する。
1776.○【フランス】侯爵ジェファロ(25 )が、最初の蒸気船をドゥー川で航行させる。
1776.○【イギリス】アダム・スミス Adam Smith( 53)が、経済学の最初の体系的著作『国
富論( An Inquiry into the NatureandCauses of the Wealth of Nations ) 』を著し、刊行される。
全 2 巻。
1776. ○【イギリス】チョーサーの『カンタベリー物語』初版本が、クリスティーで競売
にかけられ、6 ポンドで落札される。
[1998.7.8 同じ本がロンドンのクリスティーで競売
にかけられ、460 万ポンド(約 10 億 8000 万円)で落札され 、世界の古書界を震撼させる 。
]
1776. ○【アメリカ】この頃、本国イギリスとの対立が戦争状態に発展している。植民地
のほとんどの人々は和解を信じている。
1776.○【アメリカ】人力推進の潜水艦タートル( Turtle )が、イギリス艦攻撃を試みて失
- 273 -
敗する。実戦に使われた最初の潜水艦となる。
1777(安永6)
1777. 1 . 1【フランス】フランス最初の日刊紙『ジュルナール・ド・パリ』創刊。[以後、
民衆の支持を獲得し、革命気運を盛り上げる。]
1777. 6.14【アメリカ】大陸会議で、13 州を表す赤白 13 本の線と青地に白の 13 の星を
デザインした星条旗が制定される 。
[以後、連邦加盟の州が増えるごとに星の数を加え
る。
]
1777.12.24 【中部太平洋】イギリスの探検航海者クック Christmas Island( 49 )が、第 3 回航
海で無人の島をヨーロッパ人として初めて発見し、ここでクリスマスを過ごしたので、
クリスマス島と命名する。
[1888 年、イギリス領となる。1979 年 7 月 12 日、キリバス共
和国独立。以後、漁業を中心とするキリバスの経済センターの一つとして発展する。]
1777.○【日本】昨年死去した谷川士清(たにがわことすが)(1709 ∼ 1776)の編纂した国
語辞書『和訓栞(わくんのしおり)』(「わくんかん」ともいう)の刊行が開始される。[以
後、刊行には、1887 年(明治 20)までの 100 余年を要する。全 82 冊。日本初の近代的
な国語辞書とされる。前・中・後編の編ごとに、仮名一字の語、二字の語、三字の語な
どそれぞれ別に、また第二音節までを五十音順に配列してある。前編には古言・雅語、
中編に雅語、後編に方言・俗語を収録するのは、編纂の過程を示すものであろう。語彙
は豊富で、確かな根拠に基づいた穏当な語釈がほどこされる。巻首の「大綱」では音韻、
漢字、仮名、方言など、国語を概説している。]
1777. ○【日本】朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)が、恋川春町と親交を結んで、童
話を題材にして成人向けの読み物とした『桃太郎後日噺』(喜三二作、春町画)を発表す
る。民話の世界の滑稽化に独自の境地を開く。
1777. ○【ドイツ】ライン河で、水泳が行われるようになる。
1777.○【フランス】劇作家ボーマルシェ Pierre Augustin Caron de Beaumarchais( 45)が、
一昨年発表した喜劇『セビリャの理髪師』で名声を高め、演劇の台本や音楽の権利を代
行する著作権保護組織を世界で初めて創設する。これまでは国王の特権認可状により著
作者の権利が保護されていたが、フランス革命によって著作者の権利を保護する制度は
すべて廃止されていた。
1777.○【フランス】小説家・侯爵マルキ・ド・サド MarquisdeSade(本名 Donatien Alphonse
Fran ロ ois de Sade)(37)が、獣姦・強姦・殺人等々の非行のあげく、母親の命によりバス
ティーユ監獄に入る。[以後、ここで数々の猥褻な作品を執筆する。 1790 年、大革命と
ともに釈放され、一時は政治運動に挺身するが、恐怖時代に反革命の嫌疑でふたたび下
獄する。]
1777.○【イギリス】ロンドンの売春婦が、7 万 5000 人と推計される。
1778(安永7)
1778.○【日本】佐竹曙山(さたけしょざん)( 30)が、日本最初の西洋画論『画法綱領』と
『画図理解』を著す 。
〈画ノ用タルヤ似タルヲ尊フ〉と書き、絵画の実用性を説く。
1778.○【日本】山東京伝( 27 )が、者張堂少通辺人(しゃちょうどうしょうつうへんじん)
- 274 -
の黄表紙『開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』の画工を務める 。
[以後、
戯作(げさく)に筆を染める。1782 年、『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』で一
躍黄表紙作者として脚光を浴びる 。
]
1778. ○【インド】カルカッタで初めて印刷が行われる。
1778. ○【フランス】クロン・ド・テブノが、クロン式速記法を発表する。[以後、フラン
ス語の速記に一時期実用される。
]
1778.○【フランス】ボーマルシェ( 46 )が 、『ヴォルテール全集』を編集、ケールで刊行
を始める。
[1789 年、全巻完結する 。
]
1779(安永8)
1779.○【日本】塙保己一(はなわほきいち)( 33)が、各地に存する未刊の国書を叢書(そ
うしよ)として出版することを志し、『群書類従』の編纂に着手する。中国には『漢魏叢
書』などをはじめ多くの叢書が編まれているが、日本にはまだそのためしがない。国書
が散逸の危機にさらされているのは、日本人が書物を大切にしていないということで、
しまいには日本そのものが失われてしまうと憂えたのが動機となる。[以後、門人中山信
名(のぶな)、屋代弘賢(やしろひろかた)らの助けを得て、6 歳のおり失明したハンディ
キャップにもかかわらず、各地の諸本の異同などをひとつひとつくわしく校訂し、定本
を定めて版木に彫らせて、1786 年から刊行を開始する。幕府の援助も得て 、1819 年に 530
巻、収録文献 1270 種を刊行する。]
1779. ○【日本】杉田玄白が 、
『天狗通』を著す。幻灯機を「影絵目鏡」と呼んで〈幽魂
幽鬼をあらわす術、影絵目鏡という物目鏡屋にあり〉と記す。[大槻玄沢『蘭説弁感』に
は「影絵灯籠」の呼称で紹介される。1850 年、
『気海観瀾広義』には「魔燈」と記され
る。]
1779. ○【日本】水戸の長久保赤水が、これまでの官選地図を集大成した『改正日本輿地
路程全図』を発刊する。経緯線記入の刊行地図として日本最初のものとなる。
1779. ○【日本】恋川春町自画作の黄表紙『無益委記(むだいき)』刊。未来の空想物とし
て現実を茶化す。
1779.○【ドイツ】クラッチェンシュタイン C. Kratzenstein が、母音だけを人工的に作り
出す音声合成器を作る。記録に残る最初の音声合成器となる。
[1791 年、ハンガリーの
ケンペレンが、子音、母音とも合成に成功する。
]
1779.○【イギリス】ロンドン郊外エプソン高原に住む第 12 代ダービー卿エドワード・ス
ミス・スタンレー 12th Earl of Derby, Edward Smith Stanley( 27)が、エリザベス・ハミルト
ンと結婚する。新夫人の願いによって 4 歳牝馬(ひんば)のみによるレースを行う。これ
が「オークス」の始まりとなる。[この催しがこの頃の競馬界に好評で迎えられたことか
ら、ダービー卿は自分の名を冠した 4 歳牝牡(ひんぼ)馬の混合レースを思い立つ。 1780
年 5 月 4 日、初の「ダービー」を開催する。]
1779. ○【イギリス】エリザベス・ジョンソンが、日曜新聞『ブリティッシュ・ガゼット
・アンド・サンデー・モニタ(The British Gazette and SundayMonitor )』を創刊する。
1780(安永9)
- 275 -
1780. 5. 4 【イギリス】ダービー卿エドワード・スミス・スタンレー 12th Earl of Derby,
Edward Smith Stanley( 28)が、最初の「ダービー」
、距離 1 マイル(約 1600m)レースを
エプソン高原で行う。[ 1784 年、タッテナム・コーナー(Tattenham Corner)のある 2440m
のダービー・コースができる。1920 年、タッテナム・コーナーの一部を削って 2414m とす
る。以後、毎年 6 月の第一水曜日に行われ、この日を「ダービー・デー」とよぶようにな
る。競馬場は 100 万人もの人で埋まり、お祭り騒ぎとなる。]
1780. ○【日本】飲食に関するものがカタログ『自遊從座爲(じゆうじざい)』がつくられ
る。
1780. ○【日本】秋里籬島(あきさとりとう)が、京都の名所案内『都(みやこ)名所図会』
を編纂、刊行する。
[以後、1787 年、
『都名所図会拾遺』
。1791 年『大和名所図会』
。1794
年『住吉名勝図会』など、近畿地方の名所案内図会が出版される。1796 ∼ 1806 年、摂
津、和泉、東海道、河内、播磨、桑名、木曽路などの図会が相次ぎ刊行され、名所図会
のブームとなる。画家には、現地取材の優れた能力が期待される。1902 年 、
『本派本願
寺名所図会』が最後の図会となる 。
]
1780. ○【ベルギー】ロバートスンが、リア・プロジェクション「ファンタスマ・ゴリア」
による映像の投影を試みる。
1780.○【イタリア】生物学者スパランツァーニ Lazzaro Spallanzani(51)が、30 頭の雌イ
ヌに人工受精試みて、18 頭の子イヌを得る。両生類、カイコでも人工受精に成功し、卵
の発生には精液の接触が必要という。発生学では前成説の立場にたち、精液中に存在し
て卵の中にある胚(はい)の成長を刺激する物質の性質を明らかにしようと種々の実験を
行い、とくに、精液を濾過すると受精能力が失われることから、精液中の臭気が受精に
必要であるという従来の考えを否定する。[以後、19 世紀末まで人工授精に関する見る
べき成果はない。1907 年、ロシアの I.I.イワノーフが、ウマについて基礎的および技術
的研究を進め、人工授精が家畜改良の有効な手段であることを提唱する。]
1780. ○【アルゼンチン】ブエノスアイレスで初めて印刷が行われる。
1781(天明1)
1781. ○【日本】乳井貢(にゅういみつぎ)が 、
『初学算法(しよがくさんぽう)』で、そろ
ばんの五玉は一つ、一玉は四つにすべきだと力説する 。[以後、普及はしない。1938 年、
文部省が『尋常小学算術』
(国定教科書)で 4 年生に一玉四つのそろばんを使用させてか
ら急速に普及する。]
1781.○【日本】この頃、呼出しの揚代は銀 75 匁で、祝儀等を加えると 225 匁である。
1781.○【日本】新興の版元蔦屋重三郎( 31 )が、錦絵の版行にも意欲をみせ、美人画の喜
多川歌麿( 28 ?)を起用する。[以後、錦絵ばかりでなく、豪華な多色摺りの狂歌絵本を
次々と蔦屋から発表、写実的な作風に磨きをかける。また、蔦屋は役者絵の東洲斎(とう
しゅうさい)写楽など多くの逸材を世に送り出す。]
1781. ○【フランス】ジャン・ジャック・ルソーの『告白録』が刊行される。自分の性生活
についても〈率直、正直〉に記述されている。
1781.○【イギリス】ドイツ生まれの天文学者ハーシェル SirFrederick William Herschel( 43 )
が、自作の焦点距離 7ft、口径 6.5in(約 16.5cm)の望遠鏡で、黄道一帯を掃天観測中に、
- 276 -
天王星を発見する。[ 1782 年、この業績により王室天文官兼王立天文協会員に推挙され
る。これを機に掃天観測は全天に及び、1783 年に輝星 7 個の固有運動を総合して、恒星
空間における太陽の系統的運動を確認する。また恒星集団に関する最初の銀河系の概念、
いわゆる「ハーシェルの宇宙」を形成する。1802 年、掃天観測のなかから、星雲・星団
合計 2500 個を含む『星雲・星団目録』を作成する。以上のような業績により、1816 年
爵位を受ける。外国からも多くの栄誉や褒賞を受ける。]
1782(天明2)
1782. 4.10【 フ ラ ン ス 】 軍 人 ピ エ ー ル ・ ア ン ブ ロ ア ー ズ ・ コ デ ル ロ ・ ド ・ ラ ク ロ
Pierre-Ambroise-Fran □ ois Choderlos de Laclos( 41 )が、書簡体小説『危険な関係( Les
Liaisons dangereuses )』を発表する。上流社会の誘惑の心理分析と密通を描写しており、
モデル小説としてセンセーションを巻き起こす。
〔この小説の素材は、1769 ∼ 73 年駐屯
兵としてグルノーブルでの駐屯時期に得られ、1780 年夏から 1781 年の秋にかけて執筆、
1781 年末から 1782 年春、2 度目のパリ休暇のおりに完成したと推定されている。〕[1824
年、フランスで発禁になる。20 世紀に入って、風俗批判の小説ないしマルローのいう〈知
力の神話〉の視点から高い評価をかちえる。]
1782.○【日本】蔦屋重三郎( 33)が恋川春町(こいかわはるまち)の書を刊行する。
1782. ○【日本】大田南畝が、絵師・政演こと山東京伝の黄表紙を高く評価する。
1782.○【フランス 】マルキ・ド・サドが『ソドム千百二十日 』を執筆する。[ 1903 年に出版。]
1782. ○【イギリス】郵便物を輸送するために専用の郵便馬車が登場する。
1782.○【イギリス】ワット James Watt (46 )が、遊星歯車を用いた回転機関の特許を取得
する。この中には大気圧利用をやめた複動機関に関するものなどいくつかの重要な内容
が含まれる。
[1783 年、回転機関が最初にウィルキンソンの工場へ供給される。1788 年、
アルビオン製粉所に設置される。回転機関の使用料を決める際は、機関の能力を馬と比
較し、馬力による表示を行う。
]
1782. ○【イギリス】ロンドンで初の人工受精児が行われる。医師ジョン・ハンターが、
洋服屋夫妻を診断し、夫の尿道下症(尿道が陰茎の下で開口し、性交時に精子が放出さ
れない症状)で、患者に自慰により射精させ、精液を注射器で妻の膣に注入して受胎に
成功する。
1783(天明3)
1783. 1.−【日本】
『吉原細見』の鱗形屋版が脱落し、蔦谷重三郎(34)の完全な独占とな
る。これを祝って、朋誠堂喜三二が序を、四方赤良が跋文を、朱楽管江が祝言を書く。
また、彼らとともに江戸の狂歌ブームに乗り、狂歌集と狂詩集を出版し、本店を日本橋
通油町に移す。ここに、吉原遊郭サロンと出版文化サロンが合体する。
1783. 6. 5 【フランス】 ジョゼフ Joseph Michel de Montgolfier( 43)と弟ジャック Jacques
Etienne de Montgolfier(38)のモンゴルフィエ兄弟が、無人の熱気球をアノネイ市広場から
1800m の高度まで上昇させ、約 2.0km の飛行に成功する。人類初の航空機の成功となる。
兄弟は、リオンに近いアノネイで製紙業を営んでいたが、煙が上昇するようすを観察し
て煙が空気より軽いためと考え、直径約 10m の亜麻(アマ)布製の気球を紙で内張りし、
- 277 -
煙(実は熱空気)を詰めて、熱気球をつくった。彼等は、空へ昇る煙から気球を着想した
だけで、加熱された空気が軽くなり浮揚力をもつ原理は知らなかった。[9.19 兄弟は、
ベルサイユ宮殿の庭、ルイⅩⅥ世の目の前で、まずニワトリ、アヒル、ヒツジで動物飛
行を行い、約 2.4km、8 分間の飛行を行う。ついで綱で留めた上昇試験で人体への高度の
影響を調べる。10.15 ド・ロジエ J. F. Pilatre de Rozier( 27)がこの繋留索をつけた熱気球に
乗って、人間として初めて空中に浮上し、無事着地する。11.21 パリで、侯爵ド・ロジエ
とダルランド Fran □ ois, Marquis d'Arlandes( 41 )が繋留索なしで搭乗して、最初の有人飛
行に成功する。のち、6 月 5 日を「熱気球記念日」とされる。]
1783. 8.26 【フランス】物理学者シャルル Jacques-Alexandre-C ■ sar Charles( 37)が、水素
ガスを満たした無人気球を飛ばすことに成功する。昨年から、機械技師ロベール兄弟と
ともに気球製作にとりかかり、当時、熱気球の研究をしていたモンゴルフィエ兄弟に対
して、水素気球方式で開発を競い、水素気球時代を開く。[8.27 パリのシャン・ド・マ
ルス公園(のち、エッフェル塔の位置)から上げられる。翌 28 日、24km 離れたジュノス
まで飛行したことが確認される。12.1 パリのチュイルリー公園から水素気球で飛び立ち、
43km の飛行に成功する。]
1783.11.21【フランス】ド・ロジエ Francois PilatredeRosier( 27 )とダルランド侯爵 Francois
Laurent, Marquis d'Arlandes( 41 )が、モンゴルフィエの熱気球に乗って、ブローニュの森
を離陸、ウールと、アルコールをしみ込ませた藁(わら)を燃やして気球の中の空気を暖
め、浮力をつけながらパリ南部の上空を東方へ飛び、約 8km の距離を 25 分で飛行する。2
人は初めて係留索なしで空を飛んだ人類となる。
1783.12. 1 【フランス】物理学者シャルル Jacques-Alexandre-C ■ sar Charles( 37)が、パリ
のチュイルリー公園から〈40 万人の群衆の前で〉水素気球で飛び立ち、高度 570m に昇
り、43km を飛ぶ。[以後、この成功により気球は水素方式が主流となり、軍用にも用い
られるようになる。]
1783.○【日本】安藤吉次郎こと司馬江漢( 36)が、大槻玄沢(おおつきげんたく)の協力を
得て、日本で初めて腐食銅版画の作成を試み、成功する。
『三囲景(みめぐりのけい)図』
が最初の作品となり、「日本創製」の文字を自作の銅版画に誇らしげに摺りこむ。エッ
チングに必要な硝酸は、将軍家の御典医・桂川甫周の協力により得た。(對中如雲『広重
「東海道五十三次」の秘密』祥伝社、1995)[以後、西洋銅版画の模刻と日本風景の銅版画
を多く制作し、木版画と違って、格段に細密な絵が小画面の中に実現できるようになる。
江漢は、指先のような小さな画面に広大な風景を閉じこめ、
「微塵銅版画」と呼ばれる。
また、油絵も習得する。]
1783. ○【フランス】スイス生まれの化学者フランソワ・アミ・アルガンが、油ランプを改
良し、パリで発表する。ガラスの筒で焔を被うことで光量を増し、灯心の長さを調節す
る装置を加えるなどの改良を工夫した。[以後、アルガンはこのランプをビジネス化する
ためイギリスに渡る。]
1783.○【フランス】ピエール・アンブロアーズ・コデルロ・ド・ラクロ Pierre-Ambroise-Fran
□ ois Choderlos de Laclos( 42)が、
『女子教育論』を発表する。
1783.○【アメリカ】ウェブスター Noah Webster( 25)が、アメリカは言語もイギリスから
独立すべきであるという理念から、アメリカ独自の綴字・文法・読本の 3 部からなる教科
- 278 -
書を出版する。[以後、綴字法の簡易化と愛国的内容で、ほとんどのアメリカの学校で採
用される。1828.4.14 『アメリカの英語辞典(An American Dictionary of the English
Language)』を出版する。]
1784(天明4)
1784.[2.23]
【日本】筑前国那珂郡志賀島(のち、福岡市)で、農民甚兵衛が、水田の溝を
修理していたところ、大石が現れ、二人がかりでこれを掘り起こすと金でできた印鑑が
出てくる。
「漢委奴国王(かんのわのなのくにおう)」の 5 文字が刻まれている。[
[ 3.16]
甚兵衛が郡役所に届ける。甚兵衛は白銀 5 枚を与えられ、金印は黒田家に召し上げられ
る。福岡藩の藩校甘棠(かんとう)館の祭酒(校長)亀井南冥は、これを鑑定し、実物であ
ることを主張、
『金印弁』を著す。
『後漢書』にみえる光武帝が 57 年(建武中元 2 年)に、
倭奴国王に贈ったとされる。20 世紀に福岡市に寄贈される 。
]
1784. 夏【日本】新進作家兼絵師山東京伝( 24)の妹、黒鳶(くろとび)式部(13)が会頭と
なり 、手拭いの図案展「手拭合(てなぐいあわせ)」を上野不忍池付近の寺院で開催する 。
主催者の黒鳶式部をはじめ、京伝、四方赤良(大田南畝) 、平秩東作、喜多川歌麿ら 70 ∼ 80
人が出品する。
[以後、山東京伝が作品集を編集し、白鳳堂から出版する 。
]
1784. [ 9.−]【日本】幕府が、暦の発行を許可している 11 人の暦屋以外の暦類の売買・
辻売りを禁止する。
1784.○【日本】黄表紙が最盛期を迎え、年間 92 点刊行の最多を記録する。
1784.○【フランス】啓蒙主義者アユイ Valentin Ha ロy(39)が、博愛協会の援助を得て、
世界最初の盲児を対象とする学校「パリ盲学校」を設立する。アユイは市場で興行師に
使われていた盲人を見て盲教育に関心を抱いたといわれる。また、盲人のために浮き出
し文字を工夫する。[以後、19 世紀前半に欧米各国に盲学校の設立をみる。その多くは
民間の慈善事業として設立・維持され、貧窮盲人に対し生活扶助とともに宗教教育や凸
文字の読み方、手仕事の訓練等を行う救済施設である。1893 年、イギリス盲聾初等教育
法、1905 年のマサチューセッツ州をはじめとするアメリカ各州の教育法等が制定される。
これによって盲・聾児の就学義務制、盲学校の公立化が進み、初期の収容寄宿制に加え
て通学制盲学校や一般公立校内の盲・弱視学級も出現する。]
1784.○【イギリス】最初の郵便馬車が、ブリストル∼ロンドン間を走る。[ 1786 年、ロ
ンドン∼エディンバラ間が開通する。1838 年から鉄道による郵便輸送を始め、1858 年、
郵便馬車を廃止する。]
1784. ○【イギリス】ウィリアム・ジョーンズが、サンスクリット語と西洋古典語の類似
を指摘する。
[以後、インド・ヨーロッパ語比較言語学が発展する。
]
1784. ○【アメリカ】日刊紙『ザ・ペンシルヴァニア・パケット&デイリー・アドバタイザ
ー』が刊行され、アメリカで最初にビジネス的に成功した新聞となる。
1785(天明5)
1785. 1 . 1【イギリス】日刊紙『タイムズ』創刊。
1785.11. 2【イギリス】ロンドンの馬車製造者 Lionel Lakin が、最初の水中救助艇の特許
を取得する。
- 279 -
1785. ○【日本】戯作(げさく)者唐来参和(とうらいさんな)が、洒落本『和唐珍解』を刊
行する。文中に両ルビが見られる。
1785.○【日本】山東京伝( 24)が、黄表紙『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばや
き)』を刊行する。自惚れの青年が遊里で浮き名を立てようとする様子を描く。黄表紙の
黄金期を迎える。
1785. ○【日本 】芝全交(しばぜんこう)の黄表紙『大悲千禄本(だいひせんろっぽん)』(北
尾政演(きたおまさのぶ)画)刊。千手観音の手の貸借商売を描く。
1785. ○【日本】岡山の表具師幸吉が、羽ばたき式のグライダを考案し、旭川にかかる京
橋から、河原への滑空に成功する。世間を騒がせたとして代官所に引き立てられ、打ち
首にされる。(この項要チェック!!)
1785.○【フランス】クーロン Charles Augustin de Coulomb( 49)が、 1777 年に考案したね
じり秤を用いて、帯電している物体間の力を正確に測定して、帯電体または磁極の引力
斥力の法則、いわゆるクーロンの法則を発見する 。[以後 、多くの研究者が静電気 、磁石 、
電流の磁気作用、電流による化学変化などを応用する通信方法を考案する。これらの一
部は、1838 年にイギリスの鉄道に採用されるが、ほとんど実用化されることなく推移す
る。クーロンの名にちなんで電荷の測定に使われる電気量の単位クーロン(記号 C)が定
められる。1831 年、ロシアのシリングが、電磁式電信機を発明する。]
1785. ○【フランス】マリー・アントワネットの意見で、ルイⅩⅥ世が、国内でハンカチ
ーフの幅を同じものにするよう布告を出す。[以後、小さな四角いハンカチーフが標準的
なデザインになる。](スーザン・ジョナス、マリリン・ニッセンソン『ゴー・ゴーイング・
ゴーン――消えゆくアメリカ』Chronicle Book 、1994)
1785. ○【イギリス】ロンドンで、印刷業者と印刷工との間に初めて賃金の取り決めが協
約される。[印刷業における賃金協約の最も古い例となる。]
1785.○【アメリカ】大陸会議で、正式に「ドル( dollar )」を貨幣単位とし、十進法を採
用することを決める。ドルという名称は、ドイツのターレル( Thaler )、スカンジナビア
のリグスダーレル( rigsdaler )などに由来し、スペインの通貨ペソも、スペイン・ドルと呼
んでいる。[以後、アメリカ合衆国の他に、オーストラリア、カナダ、香港(ホンコン)、
ニュージーランド、シンガポールなど二十数ヵ国が自国通貨にドルの呼称を使うように
なる。]
1786(天明6)
1786. 8. 8【フランス】シャモニーの医師 M.G.パッカールと水晶採りを業とする J.パルマ
ーの 2 人が、モンブランの初登頂に成功する。モンブランはアルプスの象徴として早く
から登山の対象となっていたが 、
「悪魔の山」とも呼ばれていた。スイスの科学者ド・
ソシュールによって登山が提唱され 、その後援によって 2 人はフランス側から登頂した。
[1787 年、後援者のソシュール自身も登頂する。これがヨーロッパにおける近代スポー
ツ登山の先駆けとなる。以後、イギリスをはじめとする多くの登山者がアルプスの高峰
へ挑み、アルプス登山の黄金時代へと発展する。1921 年、外交官で登山家の日高信六郎
(1893 ∼ 1976)が日本人として初登頂する。]
1786. 9.15【フランス】国王顧問会議の裁定により、音楽著作物の権利についての規則が
- 280 -
制定される。
1786. ○【日本】烏亭焉馬(うていえんば)が、「咄の会」を始める。江戸落語の濫觴とな
る。[以後、幇間の桜川慈悲成(じひなり)のお座敷咄が行われる。さらに三笑亭可楽が三
題咄によって登場する。1804 ∼ 30 年、文化・文政期には寄席が盛行を極める。文政末
には 125 軒もの寄席が数えられるまでになる。]
1786.○【日本】塙保己一(はなわほきいち)( 40)が、各地に存する未刊の国書を叢書(そ
うしよ)として出版することを志し、7 年間の苦行ののち『群書類従 』の刊行を開始する。
[以後、幕府の援助を得て、1819 年に 530 巻 1270 種を完成する。この頃、本屋は仲間以
外の出版物を扱わないので、販売面でも苦労し、年頭には予約購読者を訪ねて挨拶(あい
さつ)して回る。]
1786.○【日本】林子平(48)が 、1777 年に起稿した兵書・国防書『海国兵談』を脱稿する。
外圧に対する先駆的著述で、〈細かに思へば江戸の日本橋より唐(から)・阿蘭陀(オラン
ダ)迄、境なしの水路なり〉と説き、日本は海国であるため水戦を重んずべきこと、大船
を建造して大銃(おおづつ)を備うべきとして、海国日本にふさわしい国防体制、武備を
説く 。
[1788 年、第 1 巻を自費出版する。1000 部もの大量を印刷し、版本の初めに〈千
部施行〉と朱印する。巻末に「口上之覚」として、今後の刊行企画の概要と予算面に触
れて、読者に次回配本の予約金納入を乞う。第 1 巻が続刊の実物見本ともなっており、
予約出版のはしりとみられる。この年、6 巻を完成。1791 年、全 16 巻を完結する。のち
に子平は、印刷費用の内訳を詳細に記録する。書肆の見積書によれば、全 16 巻、紙数 350
枚、これを 8 冊につくる。紙 1 枚の彫賃 4 匁 5 分、350 枚分の彫賃 1 貫 500 匁、金にし
て 26 両 1 分。全 8 冊で紙 8 帖ずつ用い、1000 部で 8000 帖。1 帖の値が 8 分 5 厘、8000
帖で 6 貫 800 目、金にして 113 両 1 分と銀 5 匁。表紙 8000 枚が計 2 貫目、金にして 10
両 2 分と銀 5 匁 。縫糸は 1 部に 2 丈用い、1 部の縫糸代 6 分 5 厘 、計 650 目、金にして 10
両 3 分と銀 5 匁。摺り賃は 1 部につき 4 分、計 400 匁、金にして 6 両 2 分と銀 10 匁。仕
立賃が 1 部につき 1 分、計 1 貫匁、金にして 16 両 2 分と銀 1 匁。外題料全部 8 冊に 1 分
ずつ、計 100 匁、金にして 1 両 2 分と銀 10 匁。以上合計が銀にして 12 貫 520 匁、金に
して 208 両 3 分。この頃、彫り師は紙 1 枚分をおおよそ 1 日半かけている。子平は予算
面から彫り師を 1 人しか用いることができなかったので、板刻には 1060 日を費やすこと
になる 。
〕またこの年ロシアの軍艦が蝦夷に来航するなど情勢が緊迫し、幕府は『海国
兵談』を体制を揺るがす危険の書とみなす。1892 年 5 月、幕府が板木(はんぎ)・製本を
没収 、子平に仙台の兄宅での蟄居(ちっきょ)を命じる 。12 月囚人として江戸に送られる。
このとき〈親も無し妻無し子無し板木無し金も無ければ死にたくもなし〉と詠む。1793
年 6 月 21 日、不遇のうちに没。その後、
『海国兵談』の木活字本が三、四種出回るが、
木活字のものは大量印刷に耐えかねることから営業とはみなされず、幕府は咎め立てし
ない。]
1786.○【フランス(??) 】ラングレのレオリエ・ドリールが、ヴィレット候の作品集を、
タチアオイで作った紙に印刷して出版する。
1786.○【イタリア】解剖学者で学研究所の産科学教授ガルバーニ Luigi Galvani(49)が、
カエルの足を用いた電気刺激の研究中、起電機やライデン瓶から直接に放電を受けない
のに、カエルの足に痙攣(けいれん)が生じることを発見する。この「カエルの実験」に
- 281 -
よって、動物の体内に電気発生の機構が存在すると結論する。動物電気の始めとなる。
[1791 年、10 年に及ぶこの研究結果を『筋肉運動における電気の作用に関する覚書』と
して発表する。ボルタはただちにこの問題に取り組み、ガルバーニの動物電気とする解
釈について批判し、2 種の金属の接触による電流の発生であると主張する。90 年代に、
この両論を巡り論争が行われる。1800 年、ボルタが電堆(電池)を発明して、決着がつけ
られる。]
1786.○【イギリス】郵便馬車が、ロンドン∼エディンバラ間 644km を走り始める。それ
までの所要時間 85 時間が一挙に 60 時間に短縮される。1 日の平均速度が約 180km から
約 260km に急上昇する。
1786. ○【イギリス】ベネットが、金箔検電器を発明する。
1786.○【アメリカ】駐仏公使ジェファソン Thomas Jefferson( 43)が、言論の自由に関し
て、〈新聞( newspapers)のない政府( government)と、政府のない新聞とのどちらをとるか
と問われたら私は躊躇することなく後者をとる〉と公言する。
1787(天明7)
1787.11.22 【フランス】ナポレオン( 18)がパリに旅行し、パレ・ロワイヤルの売春婦を相
手に童貞を抛棄する。[ 5 日後、〈自分はようやく熱情の黎明期に達したのみ、心はこの
最初の人間に関する知識が自分の思想の中に生んだ革命の興奮を未だ脱していない〉と
書きしるす。以後、年長の女ばかりに特別の興味を抱き、不貞な母への思慕にかられて
姦通を繰り返す。](高橋鐵『性的人間の分析』)
1787.12.20 【アメリカ】政府が著作権法と登録商標法(copyright andpatent law)を導入する
にあたって、ジェファソン Thomas Jefferson (44)が 、マディソン James Madison( 36 )宛に、
〈I do not like... the omission of a bill of rights providing clearly and without the aid of
sophisms for freedom of religion, freedom of the press, protection against standing armies,
restriction against monopolies, the eternal andunremitting force of thehabeascorpus laws, and
trials by jury in all matters of fact triablebythelawsoftheland... 〉と反対の意志を伝える。
[1788.7.31 ジェファソンは、
〈I sincerely rejoice at the acceptance of our new constitution by
nine states. It is a good canvas, onwhichsome strokes only want re-touching. What theseare, I
think are sufficiently manifestedbythegeneralvoicefrom North to South, which calls for a bill
of rights. It seems pretty generally understood that this should go to juries, habeas corpus,
standing armies, printing, religion and monopolies. I conceive there may be difficulty in finding
general modification of these suited to the habits of all the states. But if such cannot be found
then it is better to establish trialsbyjury,therightofHabeascorpus, freedomofthepressand
freedom of religion in all cases, and to abolish standing armies in time of peace, and
monopolies, in all cases, than not to do it in any... The saying there shall be no monopolies
lessens the incitements to ingenuity, which is spurred on by the hope of a monopoly for a
limited time, as of 14 years; but the benefit even of limited monopolies is too doubtful to be
opposed to that oftheir general suppression.〉と伝える。1788 年 10 月 17 日、マディソンは、
〈With regard to monopolies they arejustlyclassedamongthegreates nuisances in government.
But is it clear that as encouragements to literary works and ingenious discoveries, they are not
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too valuable to be wholly renounced Would it not suffice to reserve in all cases a right to the
public to abolish the privilege at a price to be specified in the grant of it? Is there not also
infinitely less danger of this abuse in our governments than in most others? Monopolies are
sacrifices of the many to the few. Where the power is in the few it is natural for them to
sacrifice the many to their own partialities and corruptions. Where the power, as with us, is in
the manynotinthefew,thedangercannotbeverygreatthatthefewwillbethusfavored.Itis
much more to be dreaded that the few will be unnecessarily sacrificedtothemany. 〉と返事を
書く。1989 年 8 月 28 日、ジェファソンは、
〈I like the declarationofrightsasfarasitgoes,
but I should have been for going further. For instance, the following alterations and additons
would have pleased me... Article 9. Monopolies may be allowed to persons for their own
productions in literature, their own inventions inthearts, for a term not exceeding ___ years,but
for no longer term, and for no other purpose.〉と書く。1989 年 9 月 6 日、ジェファソンは
〈The question Whether one generation of menhasarighttobindanother seems never tohave
been started on this [ i.e., the European side --Jefferson was writing from France] or our
[American ] side of the water... that no such obligation can be so transmitted I think very
capable of proof. --I set out on this ground, which I suppose to be self evident, that the earth
belongs in usufructto the living; that the dead have neither powers nor rights over it... A
generation coming in and going out entire... would have a right on the first year of their
self-dominion to contract a debtfor 33 years, in the 10th for 24, in the 20th for 14, in the 30th
for 4, whereas generations, changing daily by daily deaths and births, have one constant term,
beginning at the date of their contract, and ending when a majority of those of full age at
thatdate shall be dead. The length of that term may be estimated from the tables of mortality.
Take, for instance, the tables of M. de Buffon... [ according to which ] half of those of 21years
[of age] and upwards living at any one instant of time will be dead in 18 years 8 months, or
say19yearsasthenearest integral number. Then 19 years is the term beyond whichneither the
representatives of a nation, nor even the whole nation itself assembled, can validly extend a
debt... This principle that the earth belongs to the living, and not to the dead, is of very
extensive application... Turn this subject in your mind, my dear Sir... Your station in the
councils of our country gives you an opportunity for producing it to public consideration...
Establish the principle... in the new law to be passed for protecting copyrights and new
inventions, by securing the exclusive right for 19insteadof 14 years.〉と書く。](出所:URL
(http://digital.library.upenn.edu/books/bplist/archive/1999-02-11$2.html、2003.2.27 伊藤政行氏
のメールによる。)
1787. ○【日本】飲食に関するカタログ『七十五日』がつくられる。広告主の協賛をうた
った最初の共同カタログとなる。
1787.○【日本】黄表紙作者山東京伝( 26)が、
『百人一首和歌始衣抄(はついしょう)』で、
漢字、平仮名、片仮名、逆さ文字、サンスクリット、アルファベットなどの諸文字をち
りばめて、古典の注解という考証学然とした体裁をとって、内容を茶化したりもじった
りする。
1787.○【オーストリア】モーツァルト( 31 )が、『音楽のさいころ遊び』K.294d 。を作曲
- 283 -
する。[小節単位で作られた要素(旋律)の選択と配列が、さいころの目によって決定さ
れるため、数少ない要素から多くの作品(配列)が生み出されるシステムになっている 。
J.S.
バッハの弟子キルンベルガーによる『いつも準備のととのったメヌエットとポロネーズ
の作曲家』などと共に、のちのコンピュータ音楽の発想の一つが現れている。]
1787.○【ドイツ】銅版画家ホドウィエツキー Daniel Chodowiecki( 61 )が、ベルリン・アカ
デミーで個展を開催する。ドイツ最初の美術展覧会とされる。
[1790 年から、同じ会場
で、毎年、国内・国外作家の展覧会が開かれる。]
1787.○【フランス】この頃、ラモンド Lamond が、一本の線条による静電気式電信を考
案する。
1787.○【イギリス】雑誌『 County Magazine』に、木馬型の自転車「ホビーホース
(hobbyhorse) 」の構想が掲載される。鞍(くら)にまたがった乗り手が足で地面をけって 、
その反動で前進する仕掛けで、方向転換はできない。[1818 年、デニス・ジョンソンが、
改良型二輪車を考案し、「ホビーホース」とか「ダンディーホース( dandyhorse)」と呼ば
れて流行する。]
1788(天明8)
1788.○【日本】喜多川歌麿が、艶本『歌まくら』を発表し、江戸の風流人を驚嘆させる。
また、歌麿と 30 人の狂歌師による豪華な多色摺りの狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえ
らみ)』を蔦屋から刊行する。写実的な作風で評判となる。
[ 1789 年 、
『潮干(しおひ)の
つと』刊。1790 年、『百千鳥(ももちどり)』刊。これらの三部作は、虫、貝、鳥を写生
風に描いた色摺りの挿絵をもつ歌麿狂歌絵本の代表作として知られる。]
1788.○【日本】朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』
(喜多川行麿画)が、蔦屋重三郎(蔦重)から刊行される。[以後、幕府のお咎めを受け、喜
三二は黄表紙の執筆を断念する。]
1788.○【日本】この頃、吉原に遊女が約 2500 人いる。
1788.○【イギリス】エジンバラ出身の画家バーカー Richard Parker( 49)が、「パノラマ
panorama」を発明する。半円形に湾曲した背景画などの前に草木や人物などの模型を配
して立体感を現し、照明により室内で観賞する者に、野外の広い実景を見るような感じ
を与える装置で、エジンバラにおいて同市の風景を再現公開する。直径 20 ∼ 30m の円
筒を見回すものもある。近代的パノラマの先駆けとなる。
[以後、パテントを取得する 。
1794
年、ロンドンで興行を打ち、年に 2 回ずつ絵柄を変える。しだいに絵が回る動力式のも
のに進化する。1800 年ころ、パノラマ興行がパリとベルリンに波及し、パノラマ専門館
がつくられる。テーマは、都市の俯瞰図、海戦や大陸戦、アルプスの風景などが採り上
げられる。のちにアメリカにも広がる。1890 年、東京・上野公園で開催された第 3 回内
国勧業博覧会に日本初のパノラマ館が登場する。ベンヤミン Walter Benjamin ( 1892 ∼
1940)は『パサージュ論』(今村仁司他訳、岩波書店)の中で、パノラマは〈写真を越えて、
映画やトーキーを予告していた〉と述べる。]
1788.○【イギリス】女流作家メアリー・ウルストンクラーフト(29)が、最初のレズビア
ン小説『メアリー』を著す。
- 284 -
1789(寛政1)
1789. 3.26【フランス】印刷業者ディドー(ディド) Firmin Didot(25)の一族が、エソンヌ
の製紙工場を買収する。[1799 年、アメリカ帰りの会計担当ルイ= ニコラ・ロベールが、
最初の長網式漉紙機を完成する。ディドーはステロ版(ステロタイプ、(ステレオタイプ
の訛)、 鉛版(えんばん))の製作を復活、発展させ、多くのギリシア・ローマ、フラン
ス、イギリスの作品の豪華版