ヤン・シュヴァンクマイエルの映像作品 における「触覚」の分析的研究 《夢》《存在の境界》《言葉》を中心に 遠 藤 琴 美 目 次 はじめに ...................................................................................................................... 4 第1章 序 論 第 1 節 研究目的・意義(先行研究と研究の着眼点について) ..............................11 第 2 節 論文の構成と概要 ............................................................................................. 23 第2章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 「肉片の恋」における言 語論的連合作用と芸術的異化作用について はじめに ............................................................................................................................. 25 第 1 節 シュヴァンクマイエル作品における《触覚》の重要性 ............................. 26 第 2 節 「触覚」について ............................................................................................. 29 第 3 節 西洋における《触覚》表現 ............................................................................. 40 第 4 節 言語論とシュヴァンクマイエル ..................................................................... 42 第 5 節 ロシア・フォルマリズムと〈異化作用〉 ..................................................... 44 第 6 節 シュヴァンクマイエルとアルチンボルド ..................................................... 48 第 7 節 疑似《触覚》 ..................................................................................................... 52 第 8 節 「肉片の恋」 第 9 節 アンチ現代文明 シュヴァンクマイエルの《触覚》表現方法 ............. 54 反抗 .............................................................................. 56 おわりに............................................................................................................................. 57 第3章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 『アリス』の《夢》と《現 実》について はじめに ............................................................................................................................. 60 1 第 1 節 ルイス・キャロルと『不思議の国のアリス』 ............................................. 61 第 2 節 アリスが見た《夢》 夢は現実、現実は夢 .......................................... 62 第 3 節 『アリス』冒頭 ................................................................................................. 65 第4節 『アリス』の<部屋> 《夢》と《現実》のロジックと「形体の自然主義」 .......... 67 第 5 節 《現実》と《現実界》 ..................................................................................... 71 第 6 節 『アリス』の〈トポス〉について ................................................................. 73 おわりに............................................................................................................................. 75 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 「アッシャー家 の崩壊」と「幽霊宮」について はじめに ............................................................................................................................. 78 第 1 節 エドガー・アラン・ポーと「アッシャー家の崩壊」 ................................. 79 第 2 節 ポーとシュヴァンクマイエルの出会い ......................................................... 81 第 3 節 シュヴァンクマイエルの映像とナレーションについて ............................. 84 第 4 節 「幽霊宮」The Haunted Palace について ...................................................... 86 第 5 節 「幽霊宮」とシュヴァンクマイエルの映像 ................................................. 94 第 6 節 「無機物にも知覚がある」 ............................................................................. 96 第 7 節 《日常》と《非日常》の曖昧性 「アッシャー家の崩壊」の構造 .. 99 第 8 節 無機物とマナ(mana) .................................................................................. 102 おわりに........................................................................................................................... 104 第5章 ヤン・シュヴァンクマイエルと言葉 「対話の可能性」と「対話 の不可能性」について はじめに ........................................................................................................................... 106 第 1 節 「永遠の対話」と「不毛な対話」 ............................................................... 108 第 2 節 「情熱的な対話」 ........................................................................................... 109 第 3 節 執着する「ラメラ」 ........................................................................................110 第 4 節 対話の“不可能性” ............................................................................................113 2 おわりに............................................................................................................................118 第6章 終 章 第 1 節 総括 ................................................................................................................. 121 第 2 節 結論 ................................................................................................................. 129 あとがき........................................................................................................................... 132 参考文献........................................................................................................................... 136 3 はじめに “ N o w, yo u w i l l s e e y o ur f i l m. ” (ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』冒頭より) はじめに シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 作 品 を 初 め て 見 た の は 、日 本 大 学 法 学 部 1 年 次 に 受 講 し た「 基 礎 研 究 」だ っ た 。そ れ ま で 海 外 の 芸 術 作 品 に 対 す る 興 味 、ま し て や ア ニ メ ー シ ョ ン に 対 す る 関 心 は あ ま り 高 く な か っ た よ う に 記 憶 し て い る が 、一 瞬 に し て そ の 世 界 に 惹 か れ 、こ の 作 家 の こ と を もっと知りたいと感じた。 ま た 、 そ の 授 業 で は 、 中 島 敦 や ホ ル ヘ ・ル イ ス ・ ボ ル ヘ ス 、 ウ ラ ジ ミ ー ル ・ ナ ボ コ フ な ど を 中 心 と し た 比 較 文 学 の 講 義 が 展 開 さ れ 、そ の 中 で は 、フ ロ イ ト や ラ カ ン な ど 、精 神 分 析 学 に 関 す る 文 献 も 多 く 紹 介 さ れ た 。 予 て よ り 関 心 の あ っ た 精 神 分 析 学 、そ れ に 付 随 し た シ ュ ー ル レ ア リ ス ム 。 シ ュ ー ル レ ア リ ス ム へ の 感 興 は 次 第 に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 興 味 へ と繋がっていった。 チ ェ コ は 元 来 、ア ニ メ ー シ ョ ン が 有 名 な 国 で あ る 。イ ジ ー・ト ル ン カ 、 ブ ラ ジ ス ラ フ・ポ ヤ ル 、イ ジ ー・バ ル タ 、ヘ ル ミ ー ナ・テ ィ ル ロ ー ヴ ァ ー な ど 、数 多 の 作 家 が い る 中 で 、特 に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に 一 番 心 惹 か れ た の は 、彼 の 作 品 の 背 景 に あ る 、哲 学 的 な 思 想 を 強 く 感 じ た か ら だ った。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に 関 わ ら ず 、ア ニ メ ー シ ョ ン は ト ー タ ル 芸 術 で あ る と 言 え る 。芸 術 、美 術 、文 学 、音 楽 、哲 学 、精 神 分 析 学 、言 語 論 … … そ の 中 で も 取 り 分 け 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 芸 術 に は す べ て が 内 包 さ れ て い る 。こ れ ま で 蓄 え て き た 諸 学 問 を ベ ー ス に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル芸術をトータルな視点から捉えてみたいと考えた。 筆 者 は か つ て 、日 米 関 係 、こ と に《 原 爆 》に 関 す る 文 学 作 品 の 考 察 を 4 はじめに 中 心 と し た 研 究 ・ 分 析 を 試 み よ う と し て い た 。な ぜ な ら ば 、日 米 関 係 の 諸 問 題 は 、常 に 社 会 科 学 の 領 域 と し て 扱 わ れ 、か つ て 人 文 科 学 の 領 域 に お い て は 深 く 厳 密 に 考 究 た こ と は な く 、ま た 、そ の 成 果 を 得 た こ と は な いと考えたからである。 社 会 科 学 的 な 問 題 を 議 論 す る こ と に つ い て 、ア ン ト ニ ア オ ・ ネ グ リ と マ イ ケ ル・ ハ ー ト は『 マ ル チ チ ュ ー ド 』の 序 文 に お い て 次 の よ う に〈 宣 言〉している。 心 に と ど め て お い て い た だ き た い の は 、本 書 が 哲 学 書 だ と い う こ とで ある。本書 では 、戦争 を終 わら せ、世界 をも っと 民主 的 なも の に す る た め の 取 り 組 み の 例 を 数 多 く 示 し て い く 。し か し 、だ か ら と い っ て 、本 書 に「 何 を な す べ き か ? 」と い う 問 い に 答 え た り 、 具体的な行動プログラムを提示したりすることを期待しないで いただきたい。1 社 会 科 学 的 な 問 題 を 議 論 す る と き 、通 常 で あ れ ば そ の 具 体 的 な 解 決 策 を提示することが期待されるが(もちろんそうではなく、研究者の興 味 ・ 関 心 の 元 に 展 開 さ れ て い る 考 察 ・ 分 析 も ま た 、 多 く 存 在 す る )、 人 文 科 学 的 ア プ ロ ー チ で そ の 問 題 を 扱 う 場 合 に は 、精 神 分 析 学 者 で あ る ジ ャ ッ ク・ラ カ ン や 、哲 学 者 の ジ ャ ッ ク・デ リ ダ が 、鋭 い 問 題 を 提 起 す る が 結 論 を 示 そ う と し な か っ た よ う に 、〈 答 え 〉 を 提 示 す る こ と は 、 あ ま り意味のないことだと思われる。 な ぜ な ら 、千 住 博 の『 千 住 博 の 美 術 の 授 業 絵 を 描 く 悦 び 』に も あ る よ う に 、「 良 い 質 問 に は 答 え が す で に 含 ま れ て い る 」 か ら で あ る 。「 芸 術 と は 答 え の 返 っ て こ な い 永 遠 に 向 か う 問 い か け の よ う な も の 」 で 、「 答 1 ネ グ リ 、 ア ン ト ニ オ 、 マ イ ケ ル ・ ハ ー ト 『 マ ル チ チ ュ ー ド :「 帝 国 」 時 代 の 戦 争 と 民 主 主 義 』( 上 )、 幾 島 幸 子 訳 ( N H K 出 版 、 2 0 0 5 年 )、 2 3 -2 4 . 5 はじめに え の 歴 史 で は な く 、宇 宙 や 神 に 対 す る 質 問 の 歴 史 が 芸 術 の 歴 史 」な の だ 。 2 ま た 、ラ カ ン は 、真 理 へ の 到 達 や 唯 一 解 が 存 在 す る と い っ た〈 至 高 善 〉 を 神 経 症 的 、つ ま り〈 異 常 〉で あ る と し 、こ れ を 禁 止 の 対 象 と し て 位 置 付 け て い る 。真 理 や 唯 一 解 だ と 思 わ れ て い る も の を 根 拠 づ け 、正 当 化 す る〈答え〉は、やはり存在しないのである。 精 神 分 析 学 理 論 の 創 始 者 で も あ る ジ ー ク ム ン ト ・ フ ロ イ ト は 、人 は 無 意 識 に よ っ て 動 か さ れ て い る こ と を 発 見 し た が 、ラ カ ン が 言 う と こ ろ の 《 他 者 の 欲 望 》で 結 び 付 け ら れ て い る 集 団・組 織・国 家 も 、無 意 識 に よ っ て 動 か さ れ て い る 。し た が っ て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 研 究 に お い て も 、歴 史 的・実 証 的 研 究 に 加 え 、精 神 分 析 学 的 、あ る い は 言 語 論 的・心 理 学 的 ・ 哲 学 的 ・ 文 学 的 視 点 か ら 多 角 的 に 分 析 す る 必 要 が あ る 。な ぜ な ら 、精 神 分 析 学 な ど の 人 文 科 学 的 視 座 を 加 え る こ と に よ っ て 、今 ま で《 無 意 識 》の 領 域 に〈 潜 伏 〉し て い た た め に 、明 ら か に さ れ な か っ た 様 々 な 側面が浮き彫りになると考えられるからである。 ミ シ ェ ル ・ フ ー コ ー に よ っ て も 示 唆 さ れ て い る 通 り 、精 神 分 析 学 理 論 は 依 然 と し て 強 い 影 響 力 を 持 ち 、芸 術 や 文 化 理 解 な ど 様 々 な 事 象 に お い て 用 い ら れ て い る が 、日 本 で は 欧 米 諸 国 に 比 べ 、そ の 研 究 が 遅 れ て い る 。 特 に 文 化 ・ 芸 術 面 に お い て は 、フ ロ イ ト や ラ カ ン に よ っ て も 比 較 的 少 数 の言及しかされておらず、その解釈・展開が期待される分野であるが、 こ れ に つ い て は 筆 者 の 関 心 も 高 い 。そ の な か で も 、フ ロ イ ト か ら 多 大 な 影 響 を 受 け た シ ュ ー ル レ ア リ ス ト で あ り 、チ ェ コ の 映 画 監 督 ・ 映 像 作 家 で も あ る シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 に は 、目 に 見 え る 意 識 的 な も の だ け で は な く 、そ の 深 層 に あ る 無 意 識 的 な も の に 注 視 す る と い う 精 神 分 析 学 的 要 素 が 随 所 に 散 在 し 、フ ロ イ ト ・ ラ カ ン 的 エ コ ー が 感 じ ら れ 、精 神 分析学の研究対象としても大変興味深いと感じた。 2 千 住 博『 千 住 博 の 美 術 の 授 業 絵を描く悦び』 ( 光 文 社 、2 0 0 4 年 )、4 1 -4 2 . 6 はじめに シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 や 思 想 は 、か つ て フ ロ イ ト が ダ ・ ヴ ィ ン チ (「 レ オ ナ ル ド ・ ダ ・ ヴ ィ ン チ の 幼 年 期 の あ る 思 い 出 」 3 ) や ド ス ト エ フ ス キ ー (「 ド ス ト エ フ ス キ ー と 父 親 殺 し 」 4 ) の 作 品 を 精 神 分 析 学 的 に 分 析・考 察 し 、そ れ が 後 世 の 文 化・芸 術 論 に 様 々 な 影 響 を 与 え た よ う に 、 精神分析学にとっても、貢献できる研究であると考えている。それは、 精 神 分 析 学 が 単 な る 精 神 病 の 一 治 療 方 法 と し て の 側 面 だ け で は な く 、芸 術・文 学 理 解 へ の ア プ ロ ー チ 方 法 と し て 有 義 性 を 所 持 す る こ と の 証 左 に もなるだろう。 さ ら に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 諸 作 品 に 一 貫 し て い る 哲 学 ・ 思 想 で も あ る《 近 代 》の 問 題 を 考 え る こ と は 、学 際 的・学 問 横 断 的 で あ る べ き 研 究 内 容 で あ り 、こ の よ う な 分 野 の 研 究 は 、単 な る 芸 術 論 を 超 え て 、比 較 思 想 、比 較 文 学 、哲 学 、言 語 論 と い っ た 人 文 科 学 の 専 門 分 野 に も 寄 与 す る も の で あ り 、さ ら に 、人 間 や 社 会 の 在 り 方 と し て の 社 会 科 学 や 自 然 科学にも貢献できる可能性を含んでいるのではないだろうか。 以 上 が 、日 本 大 学 大 学 院 総 合 科 学 研 究 科 に お い て 、筆 者 が シ ュ ヴ ァ ン クマイエルの研究を試みたゆえんである。 さ ら に は 、大 学 院 1 年 次 に 必 修 の 授 業 で あ っ た 記 号 論 に お い て 、ソ シ ュ ー ル や 丸 山 圭 三 郎 の 言 語 論 に つ い て 、ま た 、ゼ ミ で は 空 海 や 親 鸞 、道 元 、井 筒 俊 彦 を は じ め と す る 東 洋 哲 学 に つ い て も 深 く 学 ん だ こ と が 、研 究視点を広げる契機となった。 こ れ ら を ベ ー ス と し て 、在 学 時 に 日 本 英 語 文 化 学 会 ・ 国 際 文 化 表 現 学 会 に お い て 口 頭 発 表 を し 、ま た 、学 術 雑 誌 へ 論 文 を 投 稿 し た 。本 論 文 で 取 り 扱 う 主 要 テ ー マ 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に お け る 《 触 覚 》《 夢 》《 存 在 の 境 界 》《 言 葉 》 の 問 題 は 、 そ れ ぞ れ の 口 頭 発 表 と 投 稿 論 文 を 深 化 さ 3 フ ロ イ ト 「 レ オ ナ ル ド ・ ダ ・ ヴ ィ ン チ の 幼 年 期 の あ る 思 い 出 」『 フ ロ イ ト 著 作 集 第 3 文 化 ・ 芸 術 論 』 高 橋 義 孝 訳 ( 人 文 書 院 、 1969 年 ) 4 フ ロ イ ト 「 ドストエフスキーと父親殺し 」『 フ ロ イ ト 著 作 集 第 3 文 化 ・ 芸 術 論 』 高 橋 義 孝 訳 ( 人 文 書 院 、 1969 年 ) 7 はじめに せ、大幅に加筆・修正したものである。 博 士 論 文 を 執 筆 す る に 当 た り 、筆 者 は 、日 本 大 学 総 合 科 学 研 究 科 4 年 次 に「 大 学 院 総 合 科 学 研 究 科 共 同 研 究 費 」を 利 用 し 、2 0 0 8 年 2 月 1 7 日 か ら 3 月 5 日 ま で 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の ア ト リ エ 訪 問 と 文 献 調 査のためにチェコ・プラハに滞在した。 プ ラ ハ の 街 は 世 界 有 数 の 観 光 地 で あ る が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の ア ト リ エ が あ る プ ラ ハ 城 近 隣 は 、道 を 一 本 奥 に 入 る と 、観 光 客 は 足 を 踏 み 入 れ な い 、ま る で 何 世 紀 が 前 に タ イ ム ト リ ッ プ し た よ う な 物 静 か な 場 所 である。 フ ラ ン ツ・カ フ カ も か つ て 暮 ら し て い た プ ラ ハ 城 の す ぐ 側 に あ る ア ト リ エ を 訪 ね た そ の 日 、残 念 な が ら シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ に は 会 え な か っ た 。 い か に も チ ェ コ 人 ら し い 、 無 愛 想 な 女 性 が 店 番 を し て お り 、「 写 真 を 撮 っ て 良 い か 」 と 尋 ね る と 、 そ っ け な く 「 ye s 」 と 答 え て く れ た 。 近 年 で は 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 の ほ ぼ す べ て が DVD で 見 ら れ る と い う こ と も あ り 、日 本 に お い て も 彼 の 人 気 は 高 ま っ て い る 。2 0 0 7 年 8 月 に ラ フ ォ ー レ 原 宿 で 開 催 さ れ た 展 覧 会( ヤ ン & エ ヴ ァ ァンクマイエル展 シュヴ ~ ア リ ス 、あ る い は 快 楽 原 則 ~ )で は 、ラ フ ォ ー レ 原 宿 で 開 催 さ れ た 展 覧 会 の 中 で 、過 去 最 高 の 入 場 者 数 を 記 録 し た と い う 。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 歌 舞 伎 や 能 を は じ め と し て 、日 本 の 古 典 芸 術 に も 強 い 興 味 と 関 心 を 示 し て い る 。 ま た 、 江 戸 川 乱 歩 (『 人 間 椅 子 』) や 小 泉 八 雲(『 怪 談 』)の 小 説 の 挿 絵 も 手 が け 、日 本 に お い て 出 版 し て い る 。 な お 、筆 者 は チ ェ コ 語 文 献 を 解 読 す る に 当 た り 、チ ェ コ 大 使 館 で 開 講 されているチェコ語講座を修了した。 8 はじめに プラハの街並み ヤン・シュヴァンクマイエルのアトリエ外観 プラハにて遠藤撮影 9 はじめに ヤン・シュヴァンクマイエルのアトリエ プラハにて遠藤撮影 10 第1章 序 論 第 1章 序 論 第 1 節 研究目的と意義(先行研究と本研究の着眼点について) チ ェ コ の 芸 術 家 、映 画 監 督 、映 像 作 家 で あ る ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル ( J a n Š va n k ma j er, 1 93 4 -) に つ い て は 、 ア ー テ ィ ス ト や ク リ エ イ タ ー と し て の 才 能 や 影 響 力 の 大 き さ を 世 界 が 認 め て い る に も 拘 わ ら ず 、そ の 学 術 的 ・ 体 系 的 研 究 は 、日 本 、ま た 世 界 に お い て も 非 常 に 遅 れ て い る と言わざるを得ない。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 の す べ て は 、文 学 的 、か つ 、哲 学 的 な 思 想 を 含 ん で お り 、そ の 映 像 の 中 に は 、人 間 と は 何 か 、言 葉 と は 何 か と い う 問 題 、さ ら に は 、今 日 の グ ロ ー バ ル 社 会 に 対 す る 政 治 的 発 言 さ え も 託 さ れ て い る と 考 え ら れ る 。彼 の 作 品 は 、単 に 映 像 だ け を 楽 し む 性 質 の も のではない、と言って良い。 本 研 究 最 大 の 特 色 は 、従 来 の 芸 術・ 文 学 研 究 に 、言 語 論 、精 神 分 析 学 理 論 、あ る い は 哲 学 的・比 較 文 学 的 視 座 を 加 え 、多 角 的 に 分 析・考 察 し ようとしている点にある。 こ れ ま で の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に つ い て の 研 究 は 、い わ ゆ る「 評 論 」 が 中 心 で あ っ た 。国 内 に お い て 学 術 論 文 と 呼 べ る も の は 赤 塚 、佐 野 に よ っ て 論 考 さ れ た 僅 か な も の し か な い 。ゆ え に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 研 究 が 学 問 と し て 評 価 さ れ る こ と は 少 な か っ た と 言 え る 。ま た 、そ の 先 行 研 究 の ほ と ん ど は 、い か に し て 斯 様 な 映 像 が 作 ら れ た か と い う 映 像 技 法 的 ア プ ロ ー チ 、あ る い は チ ェ コ の 共 産 主 義 時 代 と 彼 の 経 歴 を 辿 る 歴 史 的 ア プローチと政治的な意図を探る影響研究が中心であった。 シュヴァンクマイエル作品についてのこれまでの主な学術的研究に つ い て 、国 内 の 数 少 な い シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル を 扱 う 研 究 者 で あ る 佐 野 明子は以下のように論じている。 11 第1章 序 論 現 在 で は 国 内 外 に お い て 盛 ん に 研 究 が 行 わ れ て い る が 、そ の 傾 向 は 明 確 に 二 極 分 化 し て い る と い え よ う 。一 方 は 作 品 の 独 特 な 作 風 を 評 価 す る 研 究 で あ る 。そ れ は チ ェ コ ・ シ ュ ル レ ア リ ス ム や ル ドルフ二世時代のマニエリスム芸術の影響を多大に享受したシ ュヴァンクマイエル作品を美術史や映画史に位置づけるもので あ り 、テ ク ス ト そ れ 自 体 の 特 徴 を 抽 出 す る 作 家 論 ・ 作 品 論 と し て 評 価 で き る 。他 方 は 作 品 に 含 ま れ る 政 治 的 隠 喩 を 指 摘 す る 研 究 で ある。シュヴァンクマイエルが6つの異なる政治体制を経験し、 また全体主義政権下において7年にわたり映画製作を禁止され た 背 景 を 考 慮 に い れ 、そ の 政 治 的 ト ラ ウ マ が 作 品 に 反 映 し て い る と 主 張 す る も の や 、よ り 広 範 な 社 会 問 題 ― た と え ば 消 費・産 業 主 義社会がもたらす全世界的な問題に対する異議申し立て―とし て 捉 え る も の で あ る 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 自 身 が シ ュ ル レ ア リ ス ム の 政 治 的 な 精 神 指 向 を 言 明 す る よ う に 、作 品 が 政 治 的 告 発 の 意 図 を も つ こ と は 明 瞭 で あ る た め 、こ れ ら は 妥 当 な 着 眼 点 に も と づ く 論 考 だ ろ う 5。 二極分化の一つであるシュヴァンクマイエル作品におけるアニメー ション技法の研究・分析については、これまで主にイギリスの映画学 者・批評家であるマイケル・オプレイとカナダの映画学者であるヤン・ ウ ー デ に よ っ て 論 考 さ れ て き た 6。 5 佐野明子「日常のポリティクス―ヤン・シュヴァンクマイエル映画のナ ラ テ ィ ヴ ― 」『 大 阪 大 学 言 語 文 化 学 』 v o l . 1 3 、 2 0 0 4 、 1 3 2 . 6 佐 野 133. オ プ レ イ と ウ ー デ に よ る 研 究 は 主 に 以 下 を 参 照 。 M i c h a e l O ’P r a y, “J a n Š v a n k ma j e r ; a M a n n e r i s t S u r r e a l i s t . ” D a r k A l c h e m y : T h e F i l m o f J a n Š v a n km a j e r . E d . P e t e r H a ma s . We s t p o r t , C o n n : G r e en w o o d P r e s s, 1 9 9 5 . “T h e r e v i e w o f T h e D e a t h o f St a l i n i s m i n B o h e m i a ” S i g h t a n d S o u n d , v o l . 2 , i s s u e 2 ( S e p t e mb e r 1 9 9 2 ) . p . 6 4 . ) J a n U h d e . “ T h e F i l m Wo r l d o f J a n Š v a n k ma j e r. ” C ro s s C u r ren t s : A Ye a r b o o k o f C e n t ra l E u ro p ea n C u l t u re 8 ( 1 9 8 9 ) : 1 9 5 -2 0 8 . 12 第1章 序 論 彼らがシュヴァンクマイエル作品の特徴として分析した主要 な ス タ イ ル は 以 下 の 3 点 で あ る 。( 1 ) ク ロ ー ス ・ ア ッ プ と 超 ク ロ ー ス・ア ッ プ に よ り 、日 常 的 な 事 物 の 非 日 常 的 な 様 相 を ひ き だ し 、ま た 事 物 の「 触 覚 性 」を 強 調 す る 。 ( 2 )モ ン タ ー ジ ュ が「 可 視 的 」 で あ り 、 造 形 ・ 色 彩 な ど 視 覚 的 要 素 を 重 視 す る 。( 3 ) 実 写 映 像 に く み あ わ さ れ る ア ニ メ ー シ ョ ン 映 像 は 、強 力 な 過 剰 さ を 表 現 す る 作 家( ジ ョ ル ジ ュ ・ メ リ エ ス 、ル イ ス ・ ブ ニ ュ エ ル な ど ) の作品の系譜に属する。 こ れ ら は シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 の 本 質 、す な わ ち 日 常 的 な 事物を主体とする視覚優位の映像の特徴を的確に指摘するもの と し て 評 価 で き る 。と く に ウ ー デ は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に お い て 人 間 と 事 物 は 等 価 に 扱 わ れ る と 指 摘 す る 7。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 の 映 像 技 法 分 析 は 、オ プ レ イ と ウ ー デ 以 外 に も 、 A d a me c , H a m es , D r yj e , C ar di n al ら に よ っ て 考 察 さ れ て い る 8 。 二 極 分 化 の も う 一 つ で あ る 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に お け る 政 治 的 隠 喩 と チ ェ コ の 歴 史 的 背 景 に つ い て は 、 St r i c k, P o so va , Wel l s , R o mn e y ら に よ っ て 、 こ れ ま で 主 に 論 考 さ れ て き た 9。 佐 野 133-134. Fr a n t i š e k D r yj e . “ S p i k l e n c i S l a s t i a n e b J an Š v a n k ma j e r ů v Fa n t o m S v o b o d y. ” F i l m a D o b a 1 -2 ( 1 9 9 7 ) . O l d ř i c h A d a me c . “A n i mo v a n é f i l m y J an a Š v an k ma j e r. ” P e te r H a me s . “ T h e f i l m e x p e r i me n t . ” R o g e r C a r d i n a l . “ T h i n k i n g t h r o u g h t h i n g s : t h e p r e s e n c e o f o b j e c t s i n ea r l y f i l ms o f J a n Š v a n k ma j e r. ”( 以 上 は D a r k A lc h em y : T h e F i l m o f J a n Š v a n km a j e r . E d . P e t e r H a ma s . We s t p o r t , C o n n : G r e en w o o d P r e s s , 1 9 9 5 . に 所 収 )。 9 P h i l i p St r i c k . “ A l i c e . ” M o n t h l y F i l m B u l l e t i n 6 5 8 N o v ( 1 9 8 8 ) : 3 1 9 - 3 2 0 . Ka t e ř i n a P o s o v á . “ B y t : N a s t a v e n é z rc a d l o J a n a Š v a n k ma j e r. ” F i l m a d o b a 1 2 J u l y ( 1 9 6 8 ) : 3 5 2 -3 5 6 . P a u l We l l s . “B o d y C o n s c i o u n e s s i n t h e f i l m o f J an Š v a n k ma j e r. ” A re a d e r i n a n im a t i o n s t u d i e s . E d . J a yn e P i l l i n g . Lo n d o n : J . Li b b e y, 1 9 9 7 , 1 7 7 -1 9 4 . J o n a t h a n R o mn e y, “J an Š v a n k ma j e r ’s n e w f i l m 7 8 13 第1章 序 論 1 99 0 年 の 長 い 時 事 諷 刺 映 画『 ボ ヘ ミ ア に お け る ス タ ー リ ン 主 義 の 終 焉 』を べ つ に す る と 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 画 が あ か ら さ ま に 政 治 的 な こ と は め っ た に な か っ た 10。 R o mn e y も 言 及 し て い る よ う に 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 作 品 に ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ お い て 、あ か ら さ ま に 政 治 的 な 意 図 を 含 む 作 品 は 少 な い と 言 え る 。し か し 、そ の 映 像 作 品 に 全 く 政 治 的 な 色 が な い と 言 え ば 、そ う で は な い 。作 品 か ら 発 せ ら れ て い る 政 治 的 な 意 趣 は 、( あ か ら さ ま に で は な く ) そ の ほとんどが隠喩的もしくは換喩的なメッセージとして表現されている と 考 え ら れ る 11。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 研 究 の 二 極 分 化 に つ い て 、佐 野 は さ ら に 次 の よ うに述べている。 し か し い ず れ の 方 向 に も 問 題 点 は あ る 。前 者 に お い て は 、作 品 と 現 実 社 会 と の 相 関 関 係 が 捨 象 さ れ て い る こ と で あ る 。あ ら ゆ る 映画はつねに社会的コミュニケーションのなかで製作されるの だか ら、作 品の「 美 学」を テク スト 内に 閉じ られ たも のと 捉 える 論 考 は こ う し た 事 実 を 見 逃 し て い る と い っ て よ い 。対 照 的 に 後 者 は 作 品 の 政 治 性 を 主 眼 に お き 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 政 治 的 な メ ッ セ ー ジ を 解 読 し た り 強 調 し た り す る が 、し か し 論 点 を 表 象 さ f e a t u re s a C z e c h T V s t a r f a k i n g o rg a s m w h i l e s t an d i n g i n a b u c k e t o f c a r p . Wh y? ” T h e G u a r d i a n , Fe b r u a r y 1 4 , 1 9 9 7 , Fr i d a y R e v i e w, p . 9 . 1 0 赤 塚 若 樹『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル と チ ェ コ ・ ア ー ト 』 ( 未 知 谷 、2 0 0 8 年 ) 5 1 . R o mn e y 9 . 1 1 唯 一 の 例 外 と 言 え る 作 品 と し て 挙 げ ら れ る の が 、R o m n e y も 言 及 し て い る 1990 年 に 発 表 さ れ た 短 編 映 像 作 品 『 ボ ヘ ミ ア に お け る ス タ ー リ ン 主 義 の 終 焉 』で あ る が 、こ れ は 第 2 次 世 界 大 戦 後 の ソ 連 軍 に よ る チ ェ コ へ の( 解 放という名の)侵略の歴史を、粘土や写真のコラージュを用いて描いた作 品であり、その冒頭において、粘土でできたスターリンの頭はメスで切開 され、その中からゴットヴァルト新大統領の頭が産声とともに現れる。 14 第1章 序 論 れる内容に集中させる単純な社会反映論的解釈が大半を占めて い る 12。 こ れ に 加 え て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に つ い て の 先 行 研 究 全 般 に お け る問題点は、従来の映像論やアニメーション研究といった学問に分類・ 分断され、ゆえに狭義的な解釈に縛られているという点が指摘できる。 そ し て 両 者 に い え る の は 、多 く が 個 々 の 作 品 に 散 見 さ れ る「 チ ェ コ 的 な る も の 」に 着 眼 し 、結 果 と し て 作 品 全 体 の 根 源 を チ ェ コ の 文 化 や 社 会 背 景 な ど に 求 め て い る こ と で あ る 。な か で も 欧 米 の 研 究 者 は お お む ね 作 品 を ま ず 西 欧 か ら み た「 東 欧 」に 位 置 づ け た う え で 論 じ て お り 、自 己 の オ リ エ ン タ リ ズ ム 的 な 視 点 に 無 反 省 と いえ るだ ろう。また これ らは 作品 の「東 欧性」を強 調す るこ とに よ り 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル を デ ィ ズ ニ ー 作 品 や ハ リ ウ ッ ド 映 画 を 批 判 す る 際 の 格 好 の 参 照 項 と す る 傾 向 が 認 め ら れ る 13。 以 上 の 観 点 か ら も 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 研 究 に は 、従 来 の 映 像 技 法 的 ア プ ロ ー チ と 、歴 史 的・政 治 的 ア プ ロ ー チ に 加 え 、こ れ ま で と は 異 なった、広範囲な研究視点が必要であるのは明白であろう。 佐 野 も 言 及 し て い る よ う に 、こ れ ま で の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 研 究 に 佐 野 132-133. 佐 野 133. デ ィ ズ ニ ー 作 品 と 対 比 す る 論 考 は 主 に 以 下 を 参 照 。 M a u r e en F u rn i s s . “A d a p t i n g A l i c e . ” A r t & A n i m a t i o n . E d . P au l We l l s . Lo n d o n A ca d e m y E d i t i o n s , 1 9 9 7 , 1 0 -1 3 . H a me s 1 9 9 5 . J a n U h d e . “J a n Š v a n k ma j e r : T h e P ro d i g i o u s A n i ma t o r f r o m P r a g u e ” K i n e m a , S p r i n g 1 9 9 4 . ハ リ ウ ッ ド 作 品 と 対 比 す る 論 考 は 主 に 以 下 を 参 照 。 M i c h a e l O ’P r a y, “A S v a n k ma j e r In v e n t o r y. ” A f t e r i m a g e 1 3 , 1 9 8 7 , p . 1 0 . M i ch a e l O ’P r a y, “S u r r e a l i s m, Fa n t a s y a n d t h e G r o t e sq u e : T h e C in e ma o f J a n S v a n k m a j e r. ” In F a n t a s y a n d t h e C i n e m a , e d . J a me s D o n a l d . Lo n d o n : B F I P u b l i s h i n g , 1 9 8 9 . 12 13 15 第1章 序 論 お い て 欠 如 し て い る 視 点 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 本 質 と 思 想 性 に つ い て の 考 察・分 析 だ と 言 え よ う 。し か し 、佐 野 の 言 及 は 、本 質 や 思 想 性 に つ い て の 考 察・分 析 が「 足 り な い 」と い う 指 摘 に 留 ま っ て お り 、そ れ に つ い て 深 い 論 考 は な さ れ て い な い 。そ の 意 味 に お い て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に 関 し て「 現 在 で は 国 内 外 に お い て 盛 ん に 研 究 が 行 わ れ て い る 」と あ る 記 述 は 、限 定 的 な 範 囲 の 研 究 に つ い て の み 有 効 な 説 で あ る と言える。 つ ま り 、こ れ ま で の 多 く の 論 文 や 評 論 が シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の「 外 部・周 辺」の研 究に 留ま って しま って い るた め、彼 の「 内部・本質 」に つ い て 、彼 の 思 考 方 法 、無 意 識 、思 想 性 に つ い て の 研 究 は 、や は り 少 な い と 言 え る 。そ れ ど こ ろ か 、そ の 体 系 的 な 研 究 は 、い ま だ か つ て 存 在 し ないとさえ言い得るのではないだろうか。 な お 、 遠 藤 に よ っ て 発 表 さ れ た 論 文 ( 国 際 文 化 表 現 学 会 2 0 0 8 、 2 0 09 、 2 01 0 、日 本 英 語 文 化 学 会 2 0 0 9 )に お い て も 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 思 想 性 に 関 し て 、4 作 品 を 中 心 に 多 く の 言 及 が な さ れ て い る が 、そ こ で は 各 短 編 映 像 に 的 を 絞 っ た 断 片 的 な 指 摘 に 留 ま っ て お り 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イエル芸術の全体像の核心に迫るものとはなっていない。 本 論 文 は 、こ う し た 先 行 研 究 に お い て 欠 け て い る 視 点 、す な わ ち 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 思 考 方 法 、無 意 識 、思 想 性 に つ い て 深 く 迫 っ た 研 究 論 文 で あ る 。主 題 と し て 触 覚 や ル イ ス ・ キ ャ ロ ル の「 不 思 議 の 国 の ア リ ス 」、 エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー の 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 や 《 言 葉 》 を 取 り 上 げ て は い る が 、 本 論 考 は 、 単 な る 「 触 覚 」「 不 思 議 の 国 の ア リ ス 」「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」「 言 葉 」 の 研 究 で は な い 。 第 3 章 に お い て も 詳 し く 述 べ て い る こ と で は あ る が 、こ れ ま で の 多 く の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル ・ ア リ ス 論 で は 、ア リ ス や キ ャ ロ ル の「 夢 の 象 徴 を 解 明 す る こ と 」が 議 論 の 中 心 と な っ て い た 。し か し そ れ は 、シ ュ ヴ ァンクマイエルが自身の発言によって真っ先に否定しているところで 16 第1章 序 論 もあ り、また、彼 の『アリ ス』は、これ まで の解 釈と は全 く 異な っ た 視 点によって映像化されているということの証明でもある。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 や 発 言 を 注 意 深 く 観 察 す る と 、先 行 研 究 の視点、すなわち、アリスやキャロルの夢を解明しようとすることは、 彼 の 作 品 理 解 に お い て は あ ま り 意 味 の な い こ と だ と 思 わ れ る 。な ぜ な ら 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は ア リ ス の 《 夢 》 で は な く 、《 現 実 》 を 描 い た の だから 第4章の主題であるエドガー・アラン・ポー「アッシャー 家 の 崩 壊 」に つ い て も 、こ れ と 同 様 に 、先 行 研 究 と は 異 な る 視 点・ア プ ローチ方法において考察を試みた。 先 に も 言 及 し た よ う に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 は 、文 学 的 か つ 哲 学 的 な も の で あ る に も 関 わ ら ず 、そ の 作 品 の 持 つ 深 い 思 想 性 に つ い て の 本 質 的 な 研 究 は 、い ま だ な さ れ て い な い と い う の が 現 状 で あ る 。従 来 の 研 究 方 法 ・ ア プ ロ ー チ で は 推 し 量 れ な い 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 あるいは芸術の本質を明らかにすることが本研究の目的であり、また、 芸 術 論 、文 学 、言 語 論 、心 理 学 等 々 、各 学 問 分 野 へ の 貢 献・意 義 で も あ ると考えている。 以下にシュヴァンクマイエルのこれまでの主な経歴をまとめた年譜 を記す。 17 第1章 序 論 ヤン・シュヴァンクマイエル年譜 1934(0 歳) 9 月 4 日、チェコスロヴァキア生まれ。父は陳列窓装飾家、母は熟練の裁 縫婦。 1492(8 歳) クリスマスに父親から人形劇セットをもらう。これが世界観・芸術観の形 成に決定的な役割を果たすことになる。 1950(16 歳) プラハの工芸高等学校に入学(卒業は 1954 年)。在学中にチャペックが翻 訳したフランス現代詩と引き換えに、同級生からタイゲの『匂いのする世 界』を受け取る。古本屋をまわってシュルレアリスム関係の本を探しはじ める。ブルジョアの「退廃芸術」を批判する本をとおして、S・ダリの絵 と出会う。 1954(20 歳) プラハの芸術アカデミー演劇学部(DAMU)人形劇学科に入学(卒業は 1958 年)演出法と舞台美術を学ぶ。 1957(23 歳) 劇団 D34 のために伝統的な人形劇『ドン・ファン』の上演準備をする(結 局は上演されなかった)。著名な演出家の E・F・ブリアンがリハーサルを 観に来る。 1958(24 歳) 大学の旅行でポーランドを訪れ、そのときはじめてパウル・クレーの絵画 をみる。DAMU の卒業制作として、カルロ・ゴッツィの『雄鹿の王』を、 人形と仮面をかぶった俳優を組み合わせた方法をもちいて上演する。この 舞台を将来の妻エヴァが観て、気に入っていたらしい。短い期間、リベレ ツの国立人形劇場で出演と舞台美術を担当する。エミル・ラドクと出逢い、 ラドクの短編映画『ヨハネス・ドクトル・ファウスト』の撮影に人形つか いとして参加。マリアーンスケー・ラーズニュで義務兵役に就く(1960 年まで) 。殺虫剤の撒かれたノミだらけの兵器庫のなかで、しわくちゃの 紙にドローイングとグアッシュ画を熱心に描いたという。 1960(26 歳) エヴァと結婚。プラハのセマフォル劇場で仮面劇のグループを組織し、 1962 年までのあいだに、V・ネズヴァルのパントマイム『一兵卒の物語』、 J・マヘンの『サーカス・リングで難破した者たち』、そしてまた、伝統的 な人形劇『ヨハネス・ドクトル・ファウスト』を仮面劇として上演するな どした。この年から、ルドルフ 2 世のマニエリスムに着想を得たオブジェ を系統立てて制作しはじめる。 1961(27 歳) セマフォル劇場で個展(「ドローイングとテンペラ画」) 1962(28 歳) 兵役中に描いたドローイングとグッアシュ画をセマフォル劇場の廊下に 展示する。画家ヴラスチミル・ベネシュと彫刻家ズビニュク・セカルにグ ループ〈マーイ〉を紹介され、メンバーとなる(1964 年まで)。この年に、 はじめてパリを訪れる。またこのころセマフォル劇場との関係が切れ、仮 面劇場とともにラテルナ・マギカへ移り、1964 年まではそこで活動をつ づける。エミル・ラドクもラテルナ・マギカではたらいていたために、ふ 18 第1章 序 論 たりの関係が再開し、定期的にあって数多くの脚本を書くが、実現してい ない。 1963(29 歳) 長女ヴェロニカ誕生。プラハで個展(「オブジェ」) 1964(30 歳) 最初の映画『シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック』。 ラテルナ・マギカを去り、その後は外部から協力する。シュヴァンクマイ エルにとってラテルナ・マギカが雇用されてはたらく最後の場となる。 1965(31 歳) 映画『J・S・バッハ、G 線上の幻想』、『石のゲーム』。 1966(32 歳) 映画『棺の家』 、『エトセトラ』。 1967(33 歳) 映画『自然の歴史(組曲)』。 1968(34 歳) 映画『庭園』、 『部屋』。8 月のワルシャワ条約機構軍の侵攻後、シュヴァ ンクマイエル自身は気が進まなかったものの、妻エヴァにうながされて、 家族とともにオーストリアへ行き、ハンス・ブルイのもとに身を寄せる。 そのときに映画『ヴァイスマンとのピクニック』を撮影しているらしい。 1969(35 歳) エヴァを連れてプラハに帰る。映画『ヴァイスマンとのピクニック』、 『家 での静かな一週間』 。プラハのシュルレアリスム・グループのリーダーで 理論家のヴラチスラフ・エフェンベルゲンと出逢う。 1970(36 歳) 映画『コストニツェ』『ドン・ファン』。「正常化」政策のために、地下活 動を余儀なくされたシュルレアリスム・グループのメンバーとなる。グル ープの地下出版されるアンソロジーやカタログにも作品を寄せる(たとえ ば、『想像空間』[1978]、『開かれた遊び』[1979]、『夢の領域』[1983]、 『ユーモアの変容』 [1984]、『鏡の裏側』[1985]、『ガンブラ』[1989])。 70 年代のあいだナ・ザーブラドリー劇場、ヴェチェルニー・ブルノ劇場、 ナノヘルニー ク ル ブ そしてとりわけ劇 場 クラブの舞台美術に協力する。 1971(37 歳) 映画『ジャバウォッキー』。〈空間コラージュ〉の実験(「アンチキリスト の誕生(降誕の図) 」)。 1972(38 歳) 映画『レオナルドの日記』。 「空想の動物学」というテーマにもとづく造形 芸術作品のいくつかのシリーズ コラージュの〈シュヴァンク=マイヤ ー百科事典〉、エッチングの〈博物誌〉、オブジェ〈博物誌のキャビネット〉 を制作する(1973 年まで)。これは映画『自然の歴史[博物誌]』に直接 結びついている。 1973(39 歳) 『オトラントの城』の準備をはじめるが、当局側から映画制作の禁止を命 じられる。その後 1980 年まではバランドフ映画スタジオで特殊撮影と美 術を担当して生計を立てる(たとえば O・リプスキー監督の『アデーラは 夕食前』 [1977]、 『カルパチアの城の謎』 [1981]など)。 〈ステレオコラー ジュ〉の最初の作品(「純潔-ミュートスコープ」)に着手(完成は 1975 年) 。 1974(40 歳) 〈触覚のオブジェ〉の最初の作品(「修復家」)。これがシュルレアリスム・ グループによる集団的な解釈のゲームの基礎となり、それに刺激を受けた 19 第1章 序 論 シュヴァンクマイエルは 1983 年まで集中的に触覚芸術の実験を試みてい く。 1975(41 歳) 長男ヴァーツラフ誕生。論文『未来は自慰機械のもの』を執筆(発表は翌 1976 年にフランスで刊行されたヴァサン・プヌール編集の論文集『シュ ルレアリスム文明』)。これは、1972 年に〈シュヴァンク=マイヤー百科 事典〉に属する作品として制作したコラージュのテーマ「自動自慰機械」 にもとづいており、これを実現した機械が 1996 年の映画『快楽共犯者』 に登場している。 1976(42 歳) 妻エヴァとともにセラミックによる作品を制作し、「コステレツ」を共同 の制作者名とする。 1977(43 歳) 西ドイツ・ミュンスター、ゾネンリンク・ギャラリーで夫妻の展覧会(「子 供の欲望」 )。 1979(45 歳) 映画『オトラントの城』完成。 1980(46 歳) 映画『アッシャー家の崩壊』。 1981(47 歳) ホルニー・スタンコフの遺棄された館を購入し、徐々に「シュルレアリス ト」のクンストカマー(芸術品蒐集室)にかえていく。 1982(48 歳) 映画『対話の可能性』、『地下室の怪』。 1983(49 歳) 映画『陥し穴と振り子』。触覚芸術をめぐる著作『触覚と想像力』を地下 出版する(タイプ原稿による版で、発行部数は 5 部)。プラハ映画クラブ で個展(「博物学のキャビネット」)。 1986(52 歳) 映画『アリス』を撮りはじめる。 1987(53 歳) 『アリス』完成。ベルギーのブリュッセルとトゥールネで夫妻の展覧会 ( 「隠された興奮」 )。 1988(54 歳) 映画『男のゲーム』 、『アナザー・カインド・オヴ・ラヴ』 1989(55 歳) 映画『肉片の恋』、『闇・光・闇』、『フローラ』。ニューヨーク近代美術館 で映画の回顧上映。 1990(56 歳) 映画『スターリン主義の死』。 〈触覚と手ぶりの人形〉シリーズを制作。マ ーネスで開催されたシュルレアリスム・グループの共同展覧会「第三の箱 舟」に参加。川崎市民ミュージアムの「シュヴァンクマイエル映画祭’90」 にあわせて来日。 1991(57 歳) プロデューサーのヤロミール・カリスタとともに、クノヴィース地区の古 い映画館を買い取り、映画スタジオ〈アタノル〉を創立する(「アタノル」 とは、錬金術師がものを蒸して柔らかくするときにつかうかまどのこと)。 フランスのアヌシーで夫妻の展覧会(「意味の汚染」)。個展をベルギーの アントワープ(「遊戯の原則」)と、スペインのバリャドリード(「想像力」) で開催。 1992(58 歳) 映画『フード』。イギリスはウェールズのカーディスで夫妻の展覧会(「夢 の伝達」 )。 20 第1章 序 論 1993(59 歳) ウィーンで個展( 「夢の百科事典」)。 1994(60 歳) 2 本目の長編映画『ファウスト』。〈錬金術〉シリーズの最初のオブジェを 制作。『触覚と想像力』が正式に刊行される。プラハの中央ヨーロッパ・ ギャラリーがシュヴァンクマイエルにかんするモノグラフ『感覚の変容』 を刊行。スペインのシトヘスで夫妻の展覧会(「アナロジーの言葉」)。 1995(61 歳) アメリカはコロラド州のテルライドで夫妻の展覧会(「アタノル」)。 1996(62 歳) 『快楽共犯者』。ロンドン、ワルシャワ、クラクフで夫婦の展覧会(「触覚、 アルチボンド、そしてヴァニタス」)。 1997(63 歳) 〈アニメ化されたフロッタージュ〉シリーズを制作しはじめる。夫婦の展 覧会がプラハのベセダ・ギャラリー(「話をする絵、口の利けない詩」)と、 ヨゼフ・スデク・ギャラリー(「博物誌のキャビネット」)で開かれる。サ ンフランシスコ映画祭で「伝統的な映画制作の枠組みにとらわれない仕事 をしている」映画監督の業績にたいして授与される〈ゴールデンゲート残 像賞〉を受賞する。 1998(64 歳) チェコはクラトヴィのウ・ビーレーホ・イェドノロシュツェ美術館でシュ ヴァンクマイエル夫妻の大きな展覧会(「アニマ・アニムス・アニメーシ ョン」)が開催され、それにあわせて大判のモノグラフが刊行される。 1999(65 歳) チェコの民話「オテサーネク」を題材とする同名の長編映画を準備(翌年 の 2 月まで)。 2000(66 歳) 『オテサーネク』、ヴェネツィア映画祭でワールドプレミア。 2001(67 歳) ベルリン映画祭で〈アンジェイ・ワイダ自由賞〉を受賞。 『オテサーネク』 がチェコの映画賞〈チェスキー・レフ〉の最優秀作品賞を受賞(ほかに夫 妻で最優秀美術賞を、エヴァは最優秀ポスター賞も受賞している)。映画 にかんするテクスト、インタビュー、未映像化シナリオなどを収めた著作 『想像力』を刊行する。 2003(69 歳) プラハの芸術アカデミーより名誉博士号を授与される。 2004(70 歳) プラハで夫妻での展覧会「フード」。 映画『ルナシー』の撮影を開始。 2005(71 歳) 10 月 20 日、エヴァ死去。11 月、映画『ルナシー』チェコで公開される。 秋には日本でも夫妻展が開催される。 2006(72 歳) 1月、「自分の世界観に忠実であり、その世界観を綺想に富む映画という 造形手段によって表現したこと」を理由に〈ヴラジスラフ・ヴァンチェラ 賞〉を受賞。ロッテルダム国際映画祭で『ルナシー』のワールドプレミア。 『サヴァイヴィングライフ 夢は第二の人生 』の脚本が完成し、 撮影準備を始める。2月、 『ルナシー』での仕事が評価され、 〈チェスキー・ レフ〉の最優秀美術賞と最優秀ポスター賞が故エヴァ・シュヴァンクマイ エロヴァーに授与されている。 2009(75 歳) 7月、第 44 回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で特別功労賞を授与される。 21 第1章 序 論 2010(76 歳) 9月、ヴェネツィア国際映画祭で『サヴァイヴィングライフ 二の人生 夢は第 』のワールドプレミア。 2011(77 歳) 3月、『サヴァイヴィングライフ』で〈チェスキー・レフ〉の最優秀美術 賞を受賞。 2012(78 歳) プラハの旧市街広場 Dům U Kamenného zvonu にて展覧会開催。 2013(79 歳) 7月、東京で展覧会『<遊ぶ>シュルレアリスム ―不思議な出会いが人 生を変える―』開催。 2014(80 歳) 現在、カレル・チャペック/ヨゼフ・チャペックによる戯曲『虫の生活か ら』をモチーフにした映画『蟲』 (原題:Hmyz,英題:Insects )を制作中。 2015 年公開予定であるが資金難による制作遅延のため公開日は未定。 22 第1章 序 論 第2節 論文の構成と概要 本論文は、全部で 6 章から構成されている。 第 1 章 序 論 本研 究の 概要・目的・意義・特 色と シ ュ ヴァ ンク マイ エル の 経歴 につ いて述べる。 第 2 章 ヤン・シ ュ ヴァ ンク マイ エル と《触覚 》 「肉 片の 恋」に おける言語論的連合作用と芸術的異化作用について 短 編 映 画 「 肉 片 の 恋 」( “ Za mi l o v a n é m a s o , ” 1 9 8 9 ) を 具 体 例 と し て 、 シュヴァンクマイエル作品における最大の特色でもある触覚的な表現 プリミティヴ エロティシズム オリジナル が、《触覚》のもつ 原 始 性、原初性、そして 性 愛 にもとづくものであ る こ と 、ま た 、彼 の 表 現 が 、ロ シ ア・フ ォ ル マ リ ズ ム の 概 念 で あ る〈 異 化 作 用 〉に よ る も の で あ る こ と を 中 心 に 、な ぜ 彼 が《 触 覚 》に こ だ わ る の か 、《 触 覚 》 と は 何 を 意 味 す る の か と い う 問 題 を 、 言 語 論 的 側 面 か ら 考察する。 第 3 章 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル と《 夢 》 『 ア リ ス 』の《 夢 》 と《現実》について ル イ ス ・ キ ャ ロ ル 原 作 の 「 不 思 議 な 国 の ア リ ス 」 と 、シ ュ ヴ ァ ン ク マイエルの長編映画 『アリス』 ( “ N ě co z A l e n k y, ” 19 8 7 )と の 考 察 か ら 、 《夢》と《現実》 のロジックや、言語あるいは 〈幻想〉 というフィ ルターを通してしか 《見る》 ことができなくなった 〈象徴界〉 的現 代 へ の 批 判 が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に 一 貫 す る 哲 学 で あ る こ と を 述べる。 第 4 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 23 「アッ 第1章 序 論 シャー家の崩壊」と「幽霊宮」について エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー の 原 作 を も と に 映 像 化 さ れ た 、同 タ イ ト ル の 短 編 映 画 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」( “ Zá n i k d o mu U s h er ů , ” 1 9 8 9 ) と 、 そ の 中 で 、テ ク ス ト と 映 像 双 方 に お い て 、作 品 の 中 心 と な っ て い る 「 幽 霊宮」 という詩について、 《生物》 と 《無生物》 の境界の曖昧性 の 問 題 、ソ シ ュ ー ル の 言 語 学 的 問 題 、お よ び 〈 言 語 〉 と 認 識 や 存 在 の 問 題 に 言 及 し 、 そ こ か ら 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 創 作 の 本 質 に 、〈 近 代批判〉があることを示す。 第 5 章 ヤ ン・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル と《 言 葉 》 「対話の可能性」 と「対話の不可能性」について シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 多 く の 映 像 作 品 で は 、ナ レ ー シ ョ ン や セ リ フ と い っ た〈 言 葉 〉が 使 わ れ て い な い 。そ れ は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の な か に 、〈 言 葉 〉 に 対 す る 懐 疑 、 あ る い は そ の 性 質 上 、 本 質 的 な も の が 表 現 さ れ な い 、根 本 的 な も の を 表 現 し 得 な い〈 言 葉 〉に 対 す る あ る 種 の 恐 れ が 存 在 し て い る か ら だ と 考 え ら れ る 。こ の よ う な 言 語 に 対 す る 批 判 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 の 特 徴 で も あ る 触 覚 的 な 表 現 、あ る い は 近 代 批 判 へ と つ な が っ て い く 。そ の 哲 学 を 最 も よ く 観 察 で き る 作 品 の 一 つ と し て 挙 げ ら れ る の が 、 1982 年 に 発 表 さ れ た 「 対 話 の 可 能 性 」 ( “ Mo žn o s t i di al o gu , ” 1 98 2 ) で あ る 。第 5 章 で は こ の「 対 話 の 可 能 性 」に つ いて詳しく分析する。 第 6 章 終 章 第 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 章 で 分 析 し た 4 作 品 を 中 心 に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル作品に一貫する思想から、本研究の成果を集約する。 24 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 第 2章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 「肉片の恋」における言語論的連合作用と芸術的異化作用について 私は彫刻家である。 多分そのせいであろうが、私にとって此世界は触覚である。触覚はいち ばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的な ものであると言える。彫刻はいちばん根源的な芸術である。 ( 高 村 光 太 郎 「 触 覚 の 世 界 」 よ り ) 14 はじめに 《触覚》は新しい“言語”となり得る。 本 章 で は 、な ぜ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が《 触 覚 》に こ だ わ る の か 、《 触 覚》とは何を意味するのかという問題を、短編映画 「肉片の恋」を具 体例として、言語論的側面から考察する。 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 作 品 に お け る 触 覚 的 な 表 現 、具 体 的 に 言 え ば 、ア ニ メ ー シ ョ ン あ る い は 画 面 か ら 、人 物 や モ ノ の 質 感 や 重 さ 、ニ ュ ア ン ス な ど が 伝 わ る 表 現 、そ し て さ ら に は 嗅 覚 や 聴 覚 な ど 、五 感 に 訴 え る も の 、そ れ ら が 発 す る 声 、音 、香 り 、臭 い ま で も が 伝 わ っ て く る よ う な 表 現 に 注 目 す る こ と は 、彼 の 作 品 を 深 く 理 解 す る た め に 重 要 な手がかりとなるだろう。 な お 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の《 触 覚 》を 感 じ さ せ る 映 像 技 法 に つ い て は 佐 野 ( 2004) も 『 J.S.バ ッ ハ : G 線 上 の 幻 想 』 の 作 品 分 析 に お い て 「つまり観客は壁の向こう側を見ることができない仕掛けになってい 14 高 村 光 太 郎 「 触 覚 の 世 界 」『 美 に つ い て 』( 筑 摩 書 房 、 1 9 6 7 年 )、 7 . 25 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 る の だ 。こ う し て 作 品 全 体 に ほ ぼ 一 貫 し て 二 次 元 的 空 間 が 構 築 さ れ 、観 客 の「 視 触 的 」な 視 点 が 組 織 さ れ る と 考 え ら れ る 」と 言 及 し て い る 。こ こ で 言 う「 視 触 的 な 視 点 」と は 、ま さ に《 触 覚 》的 な 表 現 方 法 を 意 味 す る。 本章では、シュヴァンクマイエルにおける触覚的な表現が、《触覚》 プリミティヴ オリジナル エロティシズム のもつ原始性、原初性、そして 性 愛 に基づくものであること、また、 彼 の 表 現 が 、ロ シ ア ・フ ォ ル マ リ ズ ム の 概 念 で あ る〈 異 化 作 用 〉に よ る も の で あ る こ と を 中 心 に 、作 品 に お け る《 触 覚 》の 重 要 性 を 、言 語 論 的 側 面 を 加 え て 考 察 す る こ と に よ り 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 芸 術 の 本 質 に 迫るものとしたい。 第 1 節 シュヴァンクマイエル作品における《触覚》の重要性 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 は 、ア ニ メ ー シ ョ ン や 実 写 な ど の 映 像 作 品 の み な ら ず 、コ ラ ー ジ ュ 、ド ロ ー イ ン グ 、オ ブ ジ ェ な ど 多 岐 に 渡 っ て い る が 、彼 は 自 身 の 作 品 に お い て 、見 る も の に《 触 覚 》を 想 起 さ せ る こ と 、《 触 覚 》 の 経 験 を 与 え る こ と の 重 要 性 を 、 イ ギ リ ス の 映 画 批 評 家 で あ る ピ ー タ ー ・ ヘ イ ム ズ ( P e t er H a me s ) と の イ ン タ ビ ュ ー の 中 で 、 次 の ように述べている。 映画 のな かで 触覚 の「経 験」をど うや っ て活 用す れば いい か とい う こ と を く り 返 し 考 え ま し た 。一 見 し た と こ ろ で は 、こ れ は 逆 説 的 に 思 え ま す 。映 画 は こ の う え な く 視 聴 覚 的 な 表 現 手 段 な の で す か ら 15。 15 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル ,ヤ ン 『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』 赤 塚 若 樹 編 訳( 国 書 刊 行 会 、1 9 9 9 年 )、8 1 . H a me s , P e t e r. , e d . D a r k A l c h em y : T h e F i l m s o f Ja n Š v a n k m a j e r . C o n n e c t i c u t : G r e e n wo o d P re s s , 1 9 9 5 . 1 0 9 . 26 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 シュヴァンクマイエルも言及しているように、彼の作品のみならず、 一 般 的 に 言 え ば 、映 画 や 映 像 作 品 は〈 見 る も の 、そ し て 聴 く も の 〉、す ふれ な わ ち 視 聴 覚 的 作 品 で あ り 、〈 触 る も の 〉 、 す な わ ち 触 覚 的 作 品 で は な い 。し か し 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 自 身 の 映 像 作 品 に お い て 、視 聴 覚 ・ ・ ・ ・ 的 な 手 段 を 用 い て 見 る 者 に《 触 覚 》を 喚 起 さ せ る 。い わ ば 、逆 説 的 に《 触 覚 》を 表 現 し よ う と し て い る の だ 。こ れ は 言 い 換 え れ ば 、言 語 論 で 言 う と こ ろ の ( 聴 覚 映 像 に よ る “ シ ニ フ ィ ア ン si g ni f i a nt ” で は な く ) 《 触 覚 》 ・ ・ に よ る “ シ ニ フ ィ ア ン ”( 触 覚 映 像 ) で 《 触 覚 》 の 言 語 世 界 を 提 示 し よ う としているということであろう。 シュヴァンクマイエルは、視聴覚的な表現を使って、いかに《触覚》 を 表 現 し て い る の か 。 な ぜ 視 覚 ・ 聴 覚 を 用 い な け れ ば 、《 触 覚 》 を 表 現 す る こ と が 困 難 な の か 。 そ れ に は 、 彼 が 辿 っ て き た 歴 史 と 、《 触 覚 》 の プリミティヴ オリジナル エロティシズム もつ 原 始 性・原初性と 性 愛 が深く関連している。 チ ェ コ で 活 動 を し て い る シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 画 は 、「 プ ラ ハ の 春 」 ( 1968 年 ) 以 降 、 共 産 主 義 体 制 下 に と っ て 有 害 で あ る と 見 な さ れ 、 1 97 4 年 か ら 1 9 7 9 年 ま で 、 そ の 製 作 が 禁 止 さ れ た 。 彼 は 、 再 び 映 画 製 作 が 開 始 で き る ま で 、所 属 し て い た シ ュ ー ル レ ア リ ス ト ・ グ ル ー プ が 実 施 し た 「 触 覚 の 実 験 」 に 没 頭 し 、 そ の と き 、《 触 覚 》 の 芸 術 的 可 能 性 を 見 出した。 私 は 1 9 7 0 年 代 半 ば か ら 触 覚 の 実 験 を 行 っ て き ま し た 。は じ め は 、 運 に 左 右 さ れ る ゲ ー ム の よ う に し か 思 え ま せ ん で し た 。私 が オ ブ ジ ェ を つ く っ た の は 、シ ュ ル レ ア リ ス ム ・ グ ル ー プ に 行 っ た 、解 釈すべきテーマという枠組みでの集団的な触覚の実験のために でした。けれども、結果がとても見込みのあるものでしたので、 27 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 映画が撮らせてもらえなかった 7 年間を丸ごとこの実験につかい ま し た 16。 そ の「 実 験 結 果 」は 、1 98 3 年 に わ ず か 5 冊 の み 地 下 出 版 さ れ た『 触 覚 と 想 像 力 』 ( 原 題 H m at a i m a gi n ac e , 1 98 3 年 ) に お い て 発 表 さ れ 、 そ れ 以降は、一貫して自身の作品や芸術を通し、現代芸術における《触覚》 の 重 要 性 を 主 張 し て い る 17。 そ の 『 触 覚 と 想 像 力 』 の 前 書 き に 相 当 す る 以 下 の テ ク ス ト に お い て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は《 触 覚 》こ そ が 現 代 芸術にもっとも適した機能である、と述べている。 お そ ら く 、触 覚 と い う 感 覚 は す べ て の 感 覚 の な か で も っ と も 長 い 間 実 利 的 機 能 に と ら わ れ て お り 、実 際 的 な 理 由 だ け で は み ず か ら を「美 化す る」こ と がで きな かっ たか ら こそ、世界 との ある 原初 プリミティヴ 的 な 、「 原 始 的 な 」結 び つ き を と ど め て い た の だ 。も ち ろ ん 、こ エロティシズム こには、身体の感覚が 性 愛 においてもっとも重要な役割のひと つ を は た す と い う 事 実 も く わ わ っ て く る 。ま だ 美 的 規 範 に よ っ て プ リ ミ テ ィ ヴ ィ ズ ム 気 力 を そ が れ て い な い こ の「 原 始 的 状 態 」と 触 覚 的 知 覚 の 体 験 に お け る 本 能 的 状 態 に よ っ て 、私 た ち は 連 想 を 行 な う さ い に 、い つ も 無 意 識 の 最 深 部 へ と 差 し 向 け ら れ る こ と だ ろ う 。触 覚 は 、ま さ にすべての感覚のなかでもっとも現代芸術の機能に適した感覚 と な れ る だ ろ う 18。 ( 傍 線 は 筆 者 に よ る ) 引 用 中 の 傍 線 箇 所 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 に お い て 、《 触 覚 》 が な ぜ 重 要 と な る の か 、そ れ を 解 く 鍵 と な る 概 念 = キ ー ワ ー ド を 示 し て 16 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』、 8 2 . 赤 塚 若 樹 「 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 「 触 覚 芸 術 」」『 夜 想 の 魔 術 的 芸 術 』 35(ペ ヨ ト ル 工 房 、 1999 年 ) 、 48. 18 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』 182. 17 28 チェコ 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 い る 。こ れ ら の キ ー ワ ー ド に つ い て は 、後 に 第 3 節「 言 語 論 と シ ュ ヴ ァ ンクマイエル」において詳述する。 第 2 節 「触覚」について シュヴァンクマイエル作品における《触覚》の重要性についての議論を す る 前 に 、ま ず 、 「 触 覚 」が 各 学 問 分 野 に お い て 、ど の よ う な 認 識 を さ れ て いるかを整理したい。 科 学 的 な 知 見 に お け る 「 触 覚 」 に つ い て 、『 触 覚 を つ く る 《テクタイ ル》という考え方』では、以下のように言及されている。 触感(触覚)が扱いづらい原因は、触感が包括的なイメージの総 体として感じられるからであり、また主観的な体験でもあるからで す。 科学では、複雑な現象をより下のレベルに分解していき、単純な 部品を個々に点検することで現象を解明する方法を好みます。これ を要素還元論と呼びます。しかし、触感は、全体で一つのイメージ を形作っているため、部分ごとの精度の高い測定にこだわりすぎて もあまり意味がありません。触感を理解するためには、慣れ親しん だ 分 析 方 法 だ け に と ら わ れ ず 、そ の 全 体 像 を 扱 う こ と が 肝 要 で す 1 9 。 さ ら に 筆 者 ら は 、「 主 観 的 な 触 覚 体 験 は 論 理 的 に ( 言 葉 で ) 説 明 し よ う と す れ ば す る ほ ど 、 実 態 か ら ど ん ど ん か け 離 れ て し ま う 」 20こ と に も 注 視 している。 こ こ で 述 べ ら れ て い る よ う に 、 こ れ ま で 、「 触 覚 」 を 科 学 的 な 枠 組 み の 19 仲谷正史、筧康明、白土寛和『触覚をつくる 《テクタイル》という考 え 方 』 ( 岩 波 書 店 、 2 0 11 年 ) 、 1 2 -1 3 . 20 同 上 、 17. 29 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 中で取り扱うのは非常に難しいとされてきた。なぜなら「触覚」は、主観 的な体験に拠るところが大きく、科学的なデータで再検証することが難し いからだ。 し か し 近 年 で は 、「 触 覚 」 を 主 観 的 体 験 と し て 定 量 化 す る 心 理 学 的 手 法 も 発 達 し て き た 21。 そ れ で も 「 触 覚 」 を 科 学 的 に 分 析 す る こ と は 難 し い 。 「 触 覚 」を 担 う 細 胞 や 神 経 、脳 の 働 き を 分 析 す る 脳 科 学 ・ 認 知 科 学 に お いては、どのように考えられているのだろうか。 最 新 の 脳 科 学 ・ 認 知 科 学 で は 、「 触 覚 」 に つ い て 、 直 接 触 れ な く て も 、 「 気 持 ち 、思 い 、心 」を 含 む 考 え に よ っ て 、そ の 触 覚 的 内 容 を 理 解 す る こ と の 出 来 る 「 思 考 的 触 覚 」 な る も の が 、( 人 間 の 考 え を 生 み 出 す ) ダ イ ナ ミ ッ ク・セ ン タ ー コ ア の 神 経 回 路 と 知 覚・触 覚 中 枢 が 連 動 す る こ と に よ り 生 み 出 さ れ 、〈 直 接 触 れ る 感 覚 〉 と は 異 な る 「 感 覚 」 を 生 み 出 す のだ、と主 張 され て いる。しか も、そう した「 思い 」な るも のは、脳神 経 細 胞 一 個 一 個 が 持 っ て い る と い う 、「 生 き た い 」「 知 り た い 」「 仲 間 に なりたい」といった本能的機能から由来し、芸術に「触れた」ときも、 そ の 背 景 に は 、こ の「 思 考 的 触 覚 」な る も の が 含 ま れ て い る の だ 、と 分 析 さ れ て い る 22。 一方、美学的観点からはどうだろうか。佐々木健一は、日本的感性の特 徴である「ずらし」と「触覚性」について、以下のように明らかにしてい る。 感性とは、世界の状況やそこにある対象の性質を知覚しつつ、わ たしのなかでその反響を聴くはらたらきであった。言い換えれば、 世界とわれをつなぐ回路のつなぎ目である。いかなるつなぎ方を好 仲 谷 、 筧 、 白 土 、 17. 林成之「意識障害と治療 判断力・気持・考えに障害を残さないための 脳低温療法」 『 C l i n i c a l N e u r o s ci e n c e 2 0 1 4 年 0 8 月 号 』 ( 中 外 医 学 社 、2 0 1 4 年 )、 9 3 8 -9 4 2 . 21 22 30 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 むかが、西洋的な世界認識と日本的な感性的世界経験とを分かつ。 前者が世界に対して距離をとり、明晰判明な像を結ぼうとするのに 対して、日本的感性は直接の接触性を求める(あるいは、これは西 洋 と 日 本 と 言 う よ り も 、知 覚 と 感 性 的 認 識 の 違 い だ と 言 っ て も よ い 。 感性を問題とする限り、西洋人も接触感を求めるはずである。しか し 、身 に つ い て い る の が い ず れ の 態 度 か 、と い う 点 に 違 い が 現 れ る )。 バラ型に対するサクラ型の違いである。桜の花の観賞方式は、その 美 し い 空 間 の 広 が り の な か に 入 り 、そ の 空 間 に 包 ま れ る こ と で あ る 。 ここから、日本的感性の基調として、触覚性を引きだすことができ る。この場合の触覚性とは、皮膚を介して外なる世界を感ずるとい う元の意味だけでなく、対象や世界の像が心に粘着することも、ま た自然界の内部でものとものとが接触することも含む広い意味であ る。これを接触と言わず、敢えて触覚的というのは、自然の接触現 象でさえ、それが意味をもつのは、それに注目し、好んでそれに感 応 す る 感 性 が あ っ て の こ と だ か ら で あ る 23。 花 の 好 み に 現 れ る よ う に 、日 本 人 に は 西 洋 人 と は 違 う 感 じ 方 が あ る 。 〈世 界〉が〈われ〉のなかでどのように響き合うか、それこそが感性であるな らば、その多くは文化的環境のなかで育まれ、個々の文化(=言語体系) に固有の感性が生まれる。 か く し て 日 本 的 感 性 は 、 触 覚 性 を 本 質 的 要 素 と し 、《 世 界 - わ れ 》 の基軸上の位置と、宇宙の意識それぞれの動性という二つのパラメ ー タ ー が 、触 覚 性 を 多 様 化 す る こ と に よ っ て 展 開 す る 《 。世界-われ》 の隠喩的交感は高次の触覚性である。ずらしを基本とする意識の動 佐 々 木 健 一 『 日 本 的 感 性 触 覚 と ず ら し の 構 造 』 (中 央 公 論 新 社 、 2010 年 ) 、 2 8 3 -2 8 4 . 23 31 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 性は、感性の知的領域を展開してゆく。この意味において、日本的 感 性 は 触 覚 性 と 自 由 な ず ら し の 動 性 の 合 力 に 集 約 さ れ る の で あ る 24。 佐 々 木 は 上 記 の よ う に 、 ず ら し の 原 理 と は 、「 心 に 染 み 付 い た イ メ ー ジ や 情 念 を 他 の 対 象 に ず ら す 」 方 法 で あ る と し て い る 。 そ れ は 、「 思 い 遣 る 」 という言葉の綴り自体が意味しているように、 「 想 い 」を ど こ か 遠 く へ「 遣 る」ということである。 触 覚 性 は 日 本 的 感 性 の 基 礎 、常 数 で あ り 、 「 ず ら し の 原 理 」に お け る〈 寄 物陳思〉の思想と関係している。この考えでは心が物に転化されて表現さ れ る 。こ の 対 象 に 心 理 的 な 解 釈 を 持 た せ る 転 化 、粘 着 性 、寄 物 性 の こ と を 、 佐 々 木 は「 触 覚 性 」と い う 概 念 で ま と め て い る 。ゆ え に 、日 本 的 感 性 は「 ず ら し 」 と 「 触 覚 性 」 に あ る と い う よ り 、「 ず ら し の 原 理 」 の 「 隠 喩 」 型 の 表 現方法の下部に位置している考え方が「触覚性」と言える。廃墟を見て今 の寂寥感を具現化していると感じたり、晴天を眺めて明るい未来と希望を 思 い 描 い た り す る 情 感 は 、「 世 界 」 と 「 心 」 を 結 び 付 け る 、 接 着 さ せ る 、 こ の「触覚性」の操作に拠っている。 このような日本的・東洋的「触覚」への理解がある一方で、西欧形而上 学においては、他の感覚よりも触覚に絶対的優位を認める触覚主義(ある いは触覚中心主義)が引き継がれてきた。 ジャック・デリダは『触覚 ジャン=リュック・ナンシーに触れる』に おいて、西洋における触覚中心主義について、哲学的観点から分析をして いる。そこでは、アリストテレスから現代に至る哲学が、触覚の直接性に もとづく「直観主義」の罠に陥っていることに注視し、それを免れたジャ ン=リュック・ナンシーの哲学の可能性、すなわち、いかにナンシーがそ れを「脱構築」したかを解明している。 さ ら に 、 そ の ナ ン シ ー に よ っ て も ま た 、『 私 に 触 れ る な 24 佐 々 木 2 9 0 -2 9 1 . 32 ノ リ・メ ・ 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 タンゲレ』において、接触と「触覚」をめぐる興味深い芸術的・哲学的考 察がなされている。 ヨハネによる福音書では、マグダラのマリアは復活後のイエスに最初に 立ち会った女性として描かれており、 「 ノ リ・メ・タ ン ゲ レ( 我 に 触 れ る な )」 とは、まだ完全に復活を遂げていない状態のイエスに触れようとしたマグ ダラのマリアに向かって、イエスが言い放つ言葉である。これは多くの芸 術家によって絵画のモチーフとされてきた。ナンシーは、このイエスの復 活に邂逅するマグダラのマリアの絵画表象を分析しており、その中には、 マリアがイエスに「触れて」いる(ように見える)ものもあれば、イエス がマリアに「触れて」いる(ように見える)ものもある。あるいは、互い に「触れて」いない(ように見える)ものもある。 「 触 れ て い る の に 触 れ て い な い 」 の か 、「 触 れ て い な い の に 触 れ て い る 」 のか マグダラのマリア、彼女だけが唯一イエスに触れることができ ( 最 後 の 晩 餐 で マ リ ア は イ エ ス の 足 を 洗 っ た )、ま た 触 れ る こ と を 拒 否 さ れ た 「ノリ・メ・タンゲレ」から導かれる接触と「触れること」につ いての哲学的議論は、後に詳述する〈直接触れなくても、その触覚性を知 り う る 非 直 接 的 ・ 非 接 触 的 な 「 触 覚 」〉 に 繋 が る も の と な る 。 以上のような議論が各分野においてなされているが、それでは、シュヴ ァンクマイエル本人は「触覚」をどのように考えているのだろうか。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 「 触 覚 に つ い て 」 と い う タ イ ト ル で 、「 触 覚 」 とその他の感覚についても言及しながら、以下のように主張している。 現 在 、触 覚 が 直 面 し て い る ジ レ ン マ は 、人 間 の 進 化 の 過 程 に お い て 、 ほかの多くの感覚 すでに人間の生命に不可欠なものではなく なっているほかの多くの感覚(もっとも最近そうなっているのは嗅 覚) がそうしたのと同じように発達をやめるか、あるいは、 33 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 みずからに磨きをかけて、手仕事の場合とはことなる機能に適応す るか、というものだ。もちろん、それには長い時間のかかる進化が 必要となる。慣れる必要があるだろうが、はたして眼や耳は慣れな くてもよかったのだろうか?私たちが触覚のこの新しい機能の事実 上の出発点にいるからこそ、私は、触覚に仲介される私たちとの内 側と外側の世界の体験を、最大限に真正なものとして信じることが できる。身体的感覚は、いわゆる高次の感覚のあいだで特別な位置 を占めている。視覚と聴覚はまったく客観的な感覚であり、味覚と 嗅覚は主観的だ。触覚はどこかそのあいだにある。つまり部分的に は 客 観 化 す る が 、部 分 的 に は 主 観 化 す る 。私 た ち は 何 か に 触 れ れ ば 、 その印象を外に、自分の外部に投影するが、それと同時に自分自身 の触覚、自分の肌の触覚も知覚する。これが意味しているのは、触 覚 が〈 主 観 - 客 観 〉の 対 立 を 乗 り 越 え る さ い に 重 要 な 役 割 を は た す か も し れ な い と い う こ と だ 25。 シュヴァンクマイエルは「視覚と聴覚はまったく客観的な感覚であり、 味覚と嗅覚は主観的だ」と認識しているが、これは厳密な科学的知見から すると誤りを含んでいる可能性がある。しかし、ここでは論考が本題から 逸れてしまうため、これについての議論は割愛したい。 シュヴァンクマイエルの触覚感について重要なことは、彼が「触覚」を 「〈 主 観 - 客 観 〉 の 対 立 を 乗 り 越 え る さ い に 重 要 な 役 割 を は た す か も し れ な い 」と 認 識 し て い る こ と 、つ ま り 、 「 触 覚 」は 変 容 可 能 な 感 覚 と 捉 え て い る ことである。 こ の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 発 言 を 踏 ま え 、 本 論 文 に お い て は 、「 触 覚 」 について、主に以下の2つの「触覚」的観点から考察していく。 シュヴァンクマイエルにとっての「触覚」は直接的な触覚と、非直接的 25 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』、 1 8 2 . 34 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 な触覚とに分けられる。 直接的な「触覚」とは、極めて「主観的」なものである。これは、直接 触れた本人が、 〈その時〉 〈そこで〉 〈 そ の 人 の み 〉に 感 じ る も の で あ る か ら 、 他 人 に は 厳 密 な 意 味 で は 全 く 知 り 得 な い も の と 言 え る 。さ ら に は 、 (他人で な く と も )当 の 本 人 で さ え 、触 れ た 環 境( 時 間 ・ 空 間 )が 違 え ば 、そ の「 触 覚」は、まったく異なるものとなるであろう。直接的な触覚は〈その場限 り〉のものであり、それゆえ、極めて「主観的」であると言える。 シュヴァンクマイエルは、短編映像作品『アッシャー家の崩壊』の中の 「幽霊宮」という詩の描写において、粘土によるアニメーションを展開し た。これは、シュヴァンクマイエルが、粘土への手の押し跡を「創作者の 心的状態の純粋な表出」と見做し、それをアッシャーの心的状態を粘土に 手を押し付けるという手法で「表出」したためである。これについては第 4章において詳しく分析をする。 二つ目の「触覚」は、直接触れなくても、その触覚性を知りうる非直接 的 ・ 非 接 触 的 な 「 触 覚 」で 、こ れ は 共 通 感 覚 的 な も の で あ る ( こ れ は ま た 、 「疑似触覚」であるとも言えるが、詳しくは本章・第7節において考察を す る )。 人 は「 視 覚 」を 通 し て 事 物 を 認 識 す る 。 た と え ば 、 肉 片 を 見 た と き 、 「あ れは肉だ」と、瞬時に脳裏で言語化し、かつての経験からの「肉」のイメ ージ(シニフィエ)を抱く。そこから「肉」のその「触覚」を想像し、あ りありと感知した気になる。実際には触っていないのに、あたかも触って い る よ う な 感 覚 さ え 持 ち 得 る 。こ の と き 作 用 し て い る の が「 触 覚 的 想 像 力 」 だと言える。シュヴァンクマイエルはこの「触覚的想像力」を自己の作品 の 中 で 多 用 し 、そ の 芸 術 的 可 能 性 に も 言 及 し て い る 「触覚的想像力 は こ う い っ た 感 覚( 非 直 接 的 な 触 覚 )を か な り 徹 底 的 に 変 容 さ せ る こ と ができます」と。 従 っ て 、 非 直 接 的 な 触 覚 は 、 主 観 的 な も の で は な く 、「 皆 も 知 っ て い る 35 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 あの肉の感覚」という、共通感覚的なものであると言える。本章後半にお いて詳述する作品「肉片の恋」は、一義的にはこちらの「触覚」に基づく 作品と言える。 創作者であるシュヴァンクマイエル自身にとって、作品における粘土の 押し跡や素材として用いた肉の感触は主観的である。一方、われわれ鑑賞 者にとって(あるいは出来上がった作品を〈見る〉シュヴァンクマイエル にとっても)それはもはや、主観的ではなく、共通感覚的触覚として認識 しているに過ぎない。 本来であればその場限りのもので、当人にしか知り得ない触覚。世界と 私との、有り有りと実感されたあの相互作用・交感・いわゆる触覚の「言 葉 」。 シュヴァンクマイエルはこの主観的感覚へと、あの共通感覚を移行させ よ う と し た 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 芸 術 の 神 髄 は 、 「 触 覚 的 想 像 力 」に よ っ て 、こ の 共 通 感 覚 的 触 覚( 非 接 触 的 な 触 覚 )を 、主 観 的 触 覚 ( 直 接 的 触 覚 ) へと、様々な芸術的手法を用いて変容させるところにある。 そ れ で は な ぜ 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 執 拗 に 、無 意 識 の 最 深 部 に ま で至るこのような《触覚》にこだわるのか。彼にとって《触覚》とは、 ど の よ う な 意 味 を 持 つ の か 。こ の 問 題 を 考 え る と き 、ま ず 、彼 の 作 品 が 典 型 的 な ユ ー ロ ・ ア ニ メ ー シ ョ ン で あ る こ と に 触 れ る 必 要 が あ る 。そ う で な け れ ば 、こ の《 触 覚 》表 現 は あ り 得 な か っ た 、と 考 え ら れ る か ら で ある。 ここでシュヴァンクマイエルが言及している「無意識」に関連して、そ の詳細を議論しておきたい。 彼の言う「無意識」とは、厳密に言えば、精神分析学者であるフロイト やラカンが用いたエス・超自我を示す「無意識」とは意味合いが異なる。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 言 う 無 意 識 と は 、フ ロ イ ト ・ ラ カ ン 的 な「 無 意 識 」 36 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 と 言 う よ り は 、 む し ろ 、 井 筒 俊 彦 が 「 意 味 分 節 理 論 」 26に お い て 定 義 し て い る と こ ろ の「 深 層 意 識 」、あ る い は「 下 意 識 領 域 」と 呼 ば れ る も の に 近 い ものであると捉えるべきであろう。 洋の東西を問わず、諸芸術や文学あるいは諸宗教思想研究で最も重要で ある、ヒトの意識の深層を「意味分節理論」研究が鋭く解明している。こ とに東洋では、伝統的に二千年以上にも及ぶ深層意識の解明研究実績があ る。以下、それらに基づく井筒俊彦による精細な研究を参照しながら、 「 意 味 分 節 理 論 」研 究 が 明 か す ヒ ト の「 意 識 」の 真 相 と 本 研 究 内 実 と の 関 連 性 を 示 唆 し 、ヒ ト の「 意 識 」と い う こ と に つ い て 説 明 し て お き た い(『 意 識 と 本 質 』 岩 波 文 庫 、 p . 2 1 4 )。 図 の A は い わ ゆ る「 意 識 」で あ り 、私 た ち が 日 常 的 に 経 験 し て い る 現 実 の 世 界 認 識 と 言 い 換 え る こ と も で き る 。 つ ま り 、 通 常 、「 意 識 」 と 私 た ち が 捉 え て い る も の は 、井 筒 理 論 に よ れ ば「 表 層 意 識 」と 位 置 付 け ら れ 、 こ れ は 経 験 世 界 を 構 成 す る 日 常 的 な い わ ゆ る 「 意 識 」、 あ る い は 理 26 私 た ち の 存 在 世 界 は「 言 葉 」か ら 現 出 す る 。存 在 は も と も と「 言 葉 」で ある。言葉によって存在世界が「分節」され、その結果として「世界」が 存 在 し て い る( つ ま り 世 界 は 言 葉 に よ っ て 分 類 さ れ て い る )。言 葉 な き 世 界 に お い て は 、私 た ち は「 世 界 」 を 認 識 す る こ と が で き な い 。 「 言 葉 」の 存 在 生産機能の真相を理解するためには、 「 言 葉 」が 人 間 の 深 層 意 識 、あ る い は 下意識領域に根源的な形で関わってくるところまで、いわば垂直的に降り ていって、そこに働く意味生成のエネルギーの現場を捉える必要がある。 37 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 性 領 域 を 指 し 示 す 。ま た 、コ ー ド 化 さ れ た 言 語 体 系 に よ る デ カ ル ト 的 な 「 普 遍 的 理 念 構 造 」領 域 と で も 言 う べ き も の で も あ る 。科 学 を 初 め と し た 西 欧 近 代 に 起 点 を 持 つ 今 日 の 諸 学 問 は 、こ の 表 層 領 域 で 展 開 さ れ 、現 代文化の中心を形成している。 こ の「 表 層 意 識 」の 下 部 構 造 が 広 大 な「 深 層 意 識 」領 域 で あ り 、以 下 で述べる幾つかの層に構造化されている。 「 深 層 意 識 」の 最 下 部 C 領 域 は 、全 体 と し て 未 だ 世 界 の 意 味 分 節 が な さ れ て い な い 、 ま さ に 「〈 無 〉 意 識 」 領 域 で あ る 。 た と え て 言 う と 、 宇 宙 が 一 面 均 質 な 霧 で 覆 わ れ て い る が 如 き 情 況 で あ る 。B 領 域 に 近 づ く に つ れ 少 し ず つ 意 識 化 へ の 胎 動 が 始 ま る 。宇 宙 を 覆 う 霧 が ゆ っ く り と 動 き 始 め る( 変 化 し 始 め る )と で も 言 っ た ら 良 い だ ろ う か 。従 っ て C 領 域 の 最 下 点 は 、井 筒 が 言 う と こ ろ の 意 識 の「 ゼ ロ・ポ イ ン ト 」で あ り 、心 の あらゆる動きの終局点となる。 C の 上 層 の B 領 域 は 、井 筒 に よ っ て「 言 語 ア ラ ヤ 識 」と 呼 ば れ て い る 。 い よ い よ 霧 に 濃 淡 が 生 じ 、あ た か も 宇 宙 に 星 が 生 ま れ 始 め る 情 況 に た と しゅうじ えられよう。世界分節のための言語の「種子」が生成する領域である。 な お 、こ の 領 域 に 関 し て は 唯 識 哲 学 の 研 究 が 名 高 い 。こ の B 領 域 の 最 大 の 特 徴 は 、「 潜 性 性 」「 隠 在 性 」 と い う こ と で あ ろ う 。 つ ま り 、 こ の B 領 しゅうじ 域 の 事 象(「 種 子 」)は 、そ れ そ の も の と し て 決 し て 顕 在 す る こ と は な い 。 ま る で 母 親 の 子 宮 の 中 に い る「 胎 児 」の 如 く 、確 か に 存 在 は し て い る の だ が 、決 し て そ れ そ の も の は 知 ら れ る こ と な く 潜 在 し て い る の だ と 言 え る 。精 神 分 析 学 者 で あ る カ ー ル・ユ ン グ の 言 う「 集 団 的 無 意 識( 文 化 的 無 意 識 )」領 域 は 、 ほ ぼ こ の B 領 域 に 該 当 し 、 「 元 型 」成 立 の 場 で あ る と 井筒によって指摘されている。 そして、B と A の中間地帯である M 領域は、文学や芸術成立に非常 に 重 要 な「 元 型 」イ マ ー ジ ュ 出 現 の 場 所 で あ る 。つ ま り 、潜 在 す る B 領 域 の「 元 型 」が 様 々 な イ マ ー ジ ュ と し て 顕 在 化 す る 場 所 で あ り 、以 下 の 38 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 ごとく表層意識の A 領域とはまったく異なった原理が働いている。 B に隠 在す る「元 型 」は様 々な るイ マー ジュ とし て立 ち現 れ 、ここ で 独 自 の 機 能 を 発 揮 す る 。そ の 機 能 の 代 表 例 が「 象 徴 化 作 用 」で あ る 。例 え ば 、こ の 元 型 イ マ ー ジ ュ が A に ま で 突 き 上 っ て き て 、現 実 の 事 象 を 象 徴 化 す る と 、わ れ わ れ の 経 験 的 世 界 は 一 変 し て 、象 徴 的 世 界 と し て 体 験 される。 「 花 」は 単 な る「 花 」で は な く 、極 め て 象 徴 的 な「 花 」と な る 。 小説や日本画で好んで描かれる夢幻的な満開の桜の樹のように。また、 第 4 章 で 取 り 扱 う ポ ー 作 品「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」に 現 れ る〈 沼 〉や 崩 壊 す る〈 家 〉な ど は 、こ の 典 型 例 と い え る 。作 家 の 深 層 心 理 解 明 の 重 要 なヒントとなる。 ま た 、「 元 型 」 イ マ ー ジ ュ の 他 の 重 要 機 能 と し て 、 物 語 性 を 所 持 す る こ と 、説 話 的 自 己 展 開 性 を 有 す る こ と が 挙 げ ら れ る 。例 え ば 、夏 目 漱 石 の「 夢 十 夜 」の よ う に 、不 思 議 な 神 話 性 を 帯 び て く る 文 学 作 品 な ど 枚 挙 に暇がないだろう。 さ ら に 、「 元 型 」 イ マ ー ジ ュ が 全 体 と し て 強 い 関 連 性 を 持 っ て 構 造 化 さ れ て い る こ と も 指 摘 し て お こ う 。た と え ば 、マ ン ダ ラ 。そ こ で は 総 て の 仏 に 主 も な く 従 も な い 、か つ そ れ ら は 強 い 連 関 性 の 中 で 、強 烈 な 存 在 エ ネ ル ギ ー を ダ イ ナ ミ ッ ク に 交 わ し 合 っ て い る 。後 に 取 り 上 げ る 「 夢 幻 能 」も 死 者 と 生 者 の 異 次 元 時 空 間 で の 、こ う し た「 元 型 」イ マ ー ジ ュ の (象徴性を帯びた)自己展開である。 もはや明確に分かるように、古来、文学・芸術の多くは、この M 領 域 と 密 接 な 関 係 を も っ て 施 行 さ れ て き た 。触 覚 が「 原 初 的 」な も の で あ る と 言 う シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 触 覚 芸 術 も 、深 層 意 識 の 重 要 部 分 を 占 めるこの M 領域と密接に関わる。 「 原 初 的 」と 言 う の は 、上 に 述 べ た「 元 型 」イ マ ー ジ ュ の 諸 機 能 と の 触 覚 芸 術 の 強 い 関 わ り を 彼 が 体 験 し て い る 証左であろう。とくに本論文で扱うポーやアリスに関わる彼の作品は、 そうした文脈の中でより深く解すことが出来るものである。 39 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 な お 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、こ こ で 述 べ た よ う な 詳 細 な 無 意 識 論 ( 無 意 識 の 構 造 論 )を 展 開 し て は い な い 。彼 は 大 ま か に 表 層 意 識 以 外 を 「 無 意 識 」と 発 言 し て い る と 思 わ れ る 。従 っ て 、本 論 文 で 使 用 す る「 無 意 識 」と は 、彼 の 言 説 に 沿 っ て 論 を 展 開 す る 際 に は 、彼 に 従 い 、A( 表 層意 識)以 外 の部 分 を「無 意識 」と し、狭く は、特 に この 文 学・芸 術に と っ て 重 要 な M 領 域 27を 指 し て い る と し て お く 。 第 3 節 西洋における《触覚》表現 ヨ ー ロ ッ パ で 創 ら れ た ユ ー ロ ・ ア ニ メ ー シ ョ ン に は 、フ ラ ン ス の 映 画 監 督 ・ ポ ー ル ・ グ リ モ ー ( P a ul G r i ma u l t , 19 0 5 -1 9 9 4 ) の ア ニ メ ー シ ョ ン 作 品 L e R o i et l ' O i s e a u ( 『 王 と 鳥 』 1 9 7 9 年 ) に お け る 、 王 様 の ド シ ド シ と し た 足 音 や 、足 を ゆ っ く り 一 歩 ず つ 踏 み 出 す 際 に 、地 面 に 直 に 触 れ る が ご と く《 触 覚 》を 感 じ さ せ る よ う な 歩 き 方 の 描 写 が あ る 。こ の よ う な 《 触 覚 》を 視 聴 者 に 想 起 さ せ る 表 現 は 、ユ ー ロ・ア ニ メ ー シ ョ ン 、加 え てディズニーなどに代表されるアメリカのアニメーション全般におい ても観察できる。 触 覚 的 な ユ ー ロ ・ ア ニ メ ー シ ョ ン で は 、人 物 の 重 さ や 質 感 が 見 る も の に 伝 わ る 。一 方 、日 本 の ア ニ メ ー シ ョ ン は 概 し て 平 面 的 で あ る か ら 、人 物 の 質 感 や 触 覚 的 な 凹 凸 感 、 重 量 感 は 伝 わ り に く い 。『 ド ラ え も ん 』 を 見て、一体誰がその登場人物たちの重さや質感を想像できるだろうか。 ち な み に 、『 王 と 鳥 』 は 、 ス タ ジ オ ・ ジ ブ リ 発 足 の き っ か け と な っ た 作 品 で も あ り 28、 宮 崎 駿 監 督 は 、 代 表 作 の 『 ト ト ロ 』 『 魔 女 の 宅 急 便 』 な ど に 見 ら れ る 躍 動 感 を 感 じ さ せ る 子 ど も の 走 り な ど の 場 面 に お い て 、日 井 筒 俊 彦 『 意 識 と 本 質 』、 2 1 4 -2 5 7 . 高 畑 勲『 漫 画 映 画 の 志 「 や ぶ に ら み の 暴 君 」 と 「 王 と 鳥 」』( 岩 波 書 店 、 2007 年 ) 27 28 40 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 本 の ア ニ メ ー シ ョ ン に 、そ れ ま で あ ま り 見 ら れ な か っ た《 触 覚 》表 現 を 導入しようとしたとも言える。 《 触 覚 》的 な 表 現 に 関 し て は 、文 学 に お い て も 西 洋 と 東 洋( 日 本 )の 違 い を 指 摘 で き る 。 た と え ば 、 バ ル ザ ッ ク の L e P e re G o ri ot ( 『 ゴ リ オ 爺 さ ん 』1 8 3 5 年 )な ど の 西 洋 文 学 に は 、舐 め る が ご と き 部 屋 の 家 具 の 細 か い 描 写 が 見 ら れ る が 、川 端 康 成 の 小 説 に は 、そ の よ う な 描 写 は あ ま り 見 当 た ら な い 。事 物 描 写 で は な く 、た と え ば 、川 端 の 小 説『 千 羽 鶴 』 ( 1952 年 ) に は 、「 太 田 夫 人 」 と い う 女 性 の 心 理 描 写 、 す な わ ち 、 家 具 の よ う に 〈 触 れ る こ と が で き る も の 〉 で は な く て 、 む し ろ 、〈 触 れ る こ と が で きないもの〉が極めて仔細に描かれている。 西 洋 文 学 の よ う に 、家 具 や 場 景 を 微 細 に 描 写 す る こ と 、表 現 す る こ と は 、〈 触 れ ら れ る も の 〉 を 描 く と い う 点 に お い て 、 一 種 の 《 触 覚 》 表 現 への近接であると言える。 《 触 覚 》に こ だ わ る と い う 意 味 に お い て 、や は り シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、ユ ー ロ ・ ア ニ メ ー シ ョ ン の ジ ャ ン ル に 属 す る と 考 え る こ と が で き る が 、 こ れ は 一 般 的 に 言 っ て 、《 触 覚 》 に よ ら な い と リ ア リ テ ィ を 感 じ る こ と が で き な い ヨ ー ロ ッ パ の 慣 習 、 す な わ ち 、《 触 れ る 》 こ と ( 「 握 手 」「 抱 擁 」「 キ ス 」な ど )を 拒 否 せ ず 、違 和 感 な く 受 け 入 れ る ヨ ー ロ ッパの伝統・文化・言語体系に、彼が帰属していることを意味する。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 作 品 の 多 く は 、コ マ 撮 り の ア ニ メ ー シ ョ ンによって非常に細密に作られているが、その細密さのあまり、1 年間 に 15 分 間 し か 作 品 制 作 が 進 行 し な か っ た 期 間 も あ っ た 。 彼 の 作 品 の 最 も顕著な特徴でもあるコマ撮りのアニメーション、すなわち、実際に 2 人を動かすのではなく、粘土や石やモノを(まるで誰かに操られてい る よ う に )動 か す こ と に よ っ て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、そ の《 触 覚 》 感覚をより強烈に、見ているものに印象付ける。 41 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 な ぜ 役 者( 生 身 の 人 間 )で は な く 、粘 土・石・モ ノ を 用 い て 表 現 を し て い る の か 。こ れ を 解 明 す る 鍵 と な る の が 、先 に 引 用 し た シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル と ヘ イ ム ズ の イ ン タ ビ ュ ー に お い て 傍 線 で 記 し た 「 触 覚 /原 初 プリミティヴ エロティシズム 的 / 原 始 的 / 性 愛 /触 覚 的 知 覚 の 体 験 /本 能 的 状 態 /無 意 識 の 最 深 部 」 と い っ た キ ー ワ ー ド で あ る 。次 節 で は こ れ ら の 概 念 に つ い て 、ソ シ ュ ー ル の 言 語 論 を 基 に 紐 解 き 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に お け る《 触 覚 》の 重 要性について考えたい。 第 4 節 言語論とシュヴァンクマイエル 一 般 的 に 言 え ば 、わ れ わ れ は 視 覚 を 通 し て 映 画 や 映 像 作 品 、あ る い は 〈 世 界 〉 を 見 て い る よ う に 見 え る 。 し か し 、 厳 密 に 言 う な ら ば 、( 視 覚 ・ ・ ・ ・ ・ ・ を一端介しているように見えるが)実際は視覚によってそれと同時に ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ( 間 髪 を 入 れ ず に )喚 起 さ れ た 言 葉 、す な わ ち 、言 葉 の 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン “ s i g n i f i a nt ” )・ 概 念( シ ニ フ ィ エ “ s i g ni f i é ” )に よ っ て〈 世 界 〉 を 見 て い る の だ 。こ れ を 言 語 論 的 に 換 言 す る と 、聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン ) に よ る 言 語 体 系 ・ ラ ン グ “ l a n gu e” ・ 意 味 価 値 を 通 し 、〈 世 界 〉 を見ているということになるだろう。 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )は 概 念( シ ニ フ ィ エ )と 紙 の 表 裏 の ご と く 、 言 語 記 号 ( シ ー ニ ュ “signe”) と し て 一 体 化 さ れ て お り 、 わ れ わ れ の 表 層 意 識 は 、そ れ を 通 し て〈 世 界 〉を 認 識 し て い る と 言 え る 。そ の 一 方 で 、〈 世 界 〉を 《 触 覚 》を 介 在 さ せ て〈 見 る 〉 と す る な ら ば 、 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )に よ っ て つ く ら れ た 表 層 意 識 で〈 世 界 〉を 見 ている現代人にとっては、 《 触 覚 》の 世 界 は 原 始 的・原 初 的 に 映 る た め 、 む し ろ( 表 層 意 識 の 奥 に あ っ て 、そ れ に よ っ て は 理 解 不 能 な )無 意 識 的 なレベルのものであると考えられるのではないだろうか。目を閉じて、 42 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 周 り の 物 に 触 れ て み れ ば 、そ の 時 、原 始 的 ・ 原 初 的 な 感 覚 が 甦 る の を 感 ずるだろう。 な ぜ な ら 、《 触 覚 》 を 通 し て 見 た 世 界 は 、 聴 覚 イ メ ー ジ ( シ ニ フ ィ ア ン )に よ る〈 世 界 〉と は 全 く 異 な る 世 界 、今 ま で 見 た こ と が な い 、経 験 し た こ と の な い〈 世 界 〉で あ り 、そ れ は こ れ ま で の 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )の 言 語 体 系 を 超 え た 、異 質 な 言 語 体 系 に よ る〈 世 界 〉と な る からであると言える。 さ ら に は 、《 触 覚 》 を 通 し て 見 た〈 世 界 〉は 、 こ れ ま で と は 異 な っ た 新しい言語体系・ラング・意味価値に基づく世界を開示するがゆえに、 生 々 し く 、グ ロ テ ス ク で も あ る 。そ れ は 、現 在 の よ う な 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )の 言 語 体 系 が 出 現 し 、確 立 さ れ る ず っ と 以 前 の 状 態 と 同 じ で あ る か ら 、洗 練 さ れ て い な い 、原 始 的 ・ 原 初 的 な も の で あ る と 言 え る のだろう。 したがって、シュヴァンクマイエルの描く触覚的な言語体系・ラン グ・意 味 価 値 を 通 し て 見 る〈 世 界 〉は 、わ れ わ れ が 見 て い る 、知 っ て い る 、経 験 し て い る〈 世 界 〉( = 聴 覚 映 像 の 言 語 世 界 ) と は 、 全 く 異 質 な ものとなるのは当然である。 先 に も 述 べ た 通 り 、粘 土 や 石 や モ ノ を 動 か す こ と に よ っ て 制 作 す る コ マ 撮 り の ア ニ メ ー シ ョ ン が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 作 品 に お い て 多 用 さ れ て い る の も 、役 者( 生 身 の 人 間 )が 演 ず る よ り も も っ と 本 能 的 エロティシズム な、動物的な、 性 愛 が、見るものによりダイレクトに伝わるというこ と を 、意 識 的 に 取 り 入 れ て い る か ら だ ろ う( シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 確 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 実 に 意 識 を し て 、自 ら の 意 図 を ダ イ レ ク ト に 表 現 す る た め に 、触 覚 的 な コ マ 撮 り ア ニ メ ー シ ョ ン を 手 段 と し て 選 択 し て い る 。こ れ に つ い て は 後 に作品「肉片の恋」を具体例として詳しく述べたい)。 ま た《 触 覚 》は 、原 始 的・ 原 初 的 で あ る が ゆ え に 文 化 的 普 遍 性 や 人 類 の 共 通 認 識 を 含 む も の で あ り 、さ ら に は そ の 未 開 性 か ら は 、 人 間 の 持 っ 43 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 て い る 無 限 の 可 能 性 さ え 感 じ さ せ る も の で あ る 。こ れ こ そ が シ ュ ヴ ァ ン クマイエルが指摘し、最も重視しているところでもある。 ここまでの議論をまとめると次のようになる。 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )に も と づ く 言 語 体 系 は 、既 に 人 類 の 初 期 か ら 言 葉 が 始 ま っ て 以 来 、何 万 年( 何 十 万 年 ? )も 経 て お り 、洗 練 さ れ て い る も の で あ る 。し か し 、触 覚 イ メ ー ジ に よ る 言 語 体 系 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も「( 触 覚 は )ま だ 美 的 規 範 に よ っ て 気 力 を そ が れ て い な い 」と 言 及 し て い る よ う に 、現 代 風 の 妙 な 美 的 規 範 に よ っ て 汚 染 さ れ て い な い 、 純 粋 な 、 未 開 ・ 未 熟 な も の で あ る 。こ の よ う に 、《 触 覚 》は 原 始 的 ・ 原 初 的 で あ る ゆ え 、こ れ か ら の 可 能 性 を 含 む も の で も あ る 。こ れ ら は 現 代 人 に と っ て は 本 能 的 ・ 動 物 的 で あ る た め 、極 め て エ ロ テ ィ シ ズムに満ちたものとなる。 さ ら に 《 触 覚 》 は 、 現 代 人 の 表 層 意 識 /理 性 領 域 ( こ れ ら は 聴 覚 イ メ ー ジ の 言 語 体 系 に よ っ て つ く ら れ た も の で あ る )で は な く 、原 始 性 ・ 原 初性のゆえに、その深層意識に働きかけることになるため、ルドルフ・ オ ッ ト ー が 言 う と こ ろ の 身 の 毛 も よ だ つ よ う な 体 験 、す な わ ち 、ヌ ミ ノ ー ゼ 的 体 験 2 9 を 、現 代 人 に も た ら す も の と も な ろ う 。こ れ は 第 4 章 に お い て 詳 し く 議 論 す る 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」( エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー 原 作 の 短 編 小 説 、1 9 8 0 年 に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 映 像 化 す る )に お い て 重要なテーマとなる。 第 5 節 ロシア・フォルマリズムと〈異化作用〉 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に お け る《 触 覚 》の 重 要 性 を 指 摘 す る と き 、 その理論的背景の重要な概念であるロシア・フォルマリズムにおける 29 ド イ ツ の 神 学 者 で あ る オ ッ ト ー の 用 語 で 、聖 な る も の に 面 し た と き に 生 ずる畏怖と魅惑という両義的な感情をともなった体験のこと。 44 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 〈 異 化 作 用 〉 30に も 言 及 す る べ き で あ ろ う 。 2 0 世 紀 初 頭 の ヨ ー ロ ッ パ 、こ と に 第 一 次 世 界 大 戦 前 後 の ヨ ー ロ ッ パ に お い て 、イ タ リ ア 未 来 派 、ド イ ツ 表 現 主 義 、フ ラ ン ス の ダ ダ イ ス ム 、ス ペ イ ン の ウ ル ト ラ イ ス モ な ど 、既 存 の 価 値 観 の 崩 壊 や 、ヨ ー ロ ッ パ の 政 治 ・ 経 済 を は じ め と し た 広 範 囲 に わ た る 没 落 傾 向 へ の 憂 慮 な ど 、一 種 の 精 神 不 安 が 生 じ 、精 神 分 裂 の 表 象 が 数 多 く 生 み 出 さ れ 、伝 統 的 規 範 の 破 壊 と い っ た 運 動 が 各 地 で 展 開 さ れ て い た 。ま た 、そ れ と 同 時 に 、そ う い った運動をある仕方で理論化、学問化しようとする営みも展開された。 その一つに、ロシア・フォルマリズムがある。 ロ シ ア の 作 家 で あ り 言 語 論 学 者 で も あ る ヴ ィ ク ト ル・シ ク ロ フ ス キ イ ( , 1 8 9 3 - 1 98 4 ) に よ っ て 唱 え ら れ た 〈 異 化 作 用 〉は 、そ の 当 時 の 芸 術 を も っ と も よ く 説 明 す る 芸 術 理 論 の 一 つ で あ る 。〈 異 化 作 用 〉 の 説 明 に は 、 フ ラ ン ス の 芸 術 家 で あ る マ ル セ ル ・ デ ュ シ ャ ン ( M ar c el D uc h a mp , 1 8 8 7 -1 9 6 8 ) の 作 品 、 『 泉 』 ( 原 題 F o nt a i n e , 1 91 7 年 ) が そ の 良 い 例 と な ろ う 。 デ ュ シ ャ ン は 、 一 般 的 な 男 性 用 の 水 洗 式トイレに『泉』というタイトルをつけ、美術展に出品しようとした。 主 催 者 側 は こ れ を 拒 否 し 、そ れ を 展 示 す る に は 至 ら な か っ た の で あ る が 、 マ ン ・ レ イ ( M a n R a y, 1 8 9 0 -1 9 7 6 ) を は じ め 、 そ の 後 の 多 く の シ ュ ー ル レ ア リ ス ト た ち は 、 こ の 『 泉 』 に 共 感 を 示 し た 31。 1917年 、ニ ュ ー ヨ ー ク で「 独 立 派 ア ー テ ィ ス ト 協 会 」展 が 創 設 さ れ た 。パ リ の ア ン デ パ ン ダ ン 展 を モ デ ル に し て 、6 ド ル 払 え ば 、 誰 で も 作 品 を 2点 ま で 出 品 す る こ と が で き る と い う も の で あ る 。 30 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 と 〈 異 化 作 用 〉 に つ い て は 、「 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に お け る 《 触 覚 》 表 現 と 〈 異 化 作 用 〉 に つ い て 」(『 国 際 文 化 表 現 研 究 4 号 』、 国 際 文 化 表 現 学 会 、 2 0 0 8 年 、 2 7 9 - 2 8 8 . ) に お い て既に言及した。 31 平 芳 幸 浩「 ダ ダ イ ス ト と し て の マ ル セ ル ・ デ ュ シ ャ ン アイデンテ ィティの問題として 」『 水 声 通 信 』 7 ( 水 声 社 、 2 0 0 6 年 ) 、 1 2 4 -1 3 1 . 45 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 デ ュ シ ャ ン も 理 事 の 1人 で あ っ た が 、 こ の 組 織 が 気 に 入 ら ず 、 作 品の展示責任者を怒らせようとして、《泉》を匿名で出品した。 《泉》は、便 器で ある。公衆 便所 で男 性が 立っ たま ま 用足 しす る 時 に だ け 使 用 す る 便 器 で あ る 。作 品 展 示 委 員 が こ の 作 品 を 目 の 当 た り に し た 時 、立 小 便 を し て い る 男 や 、そ の 他 の 卑 猥 な 妄 想 が 彼 ら を 襲 っ た こ と は 疑 う 余 地 が な い 。デ ュ シ ャ ン は 便 器 を 買 っ て 、 平 ら な 面 を 底 に し て 置 い た だ け で あ る 。そ う す る こ と で 、便 器 が 真 っ 直 ぐ「 立 っ た 」の で あ る 。デ ュ シ ャ ン は 基 部 の 取 水 口 の す ぐ 横 に 、 R . マ ッ ト ( R . Mu t t ) と サ イ ン を し た 。 こ の サ イ ン は 4 コ マ 漫 画 に 登 場 す る 「 マ ッ ト と ジ ェ フ 」 に 掛 け た り 、 Rは フ ラ ン ス 語 の 俗 語 で「 財 布 」そ し て 、金 持 ち の 男 と い う 意 味 で も あ る “ R i c ha r d” に 掛 け て い た も の だ が 、作 品 展 示 委 員 は 当 初 こ の サ イ ン の 主 を 下 品 な ろ く で な し ( m ut t ) だ と 考 え た こ と だ ろ う 。 し か し 、 こ れ は デ ュ シ ャ ン が ま た 、こ の 便 器 の 購 入 先 で あ る ニ ュ ー ヨ ー ク の「 マ ッ ド ・ ワ ー ク ス 社 」 ( M ot t W or ks ) の 社 名 を 、 彼 な り に 少 し 手 を 加 え て 遊 ん だ の で あ る 32。 水洗 式ト イレ に『 泉 』とい うタ イト ル =〈名前 〉、す なわ ち 、観 賞者 に 対 す る あ る 種 の〈 フ ィ ル タ ー 〉・〈 遮 蔽 幕 〉が 与 え ら れ 、芸 術 家 の サ イ ン が な さ れ た な ら ば 、そ れ は も は や〈 ト イ レ 〉で は な く な る 。つ ま り 、 ト イ レ は〈 異 化 〉さ れ 、ひ と つ の 芸 術 作 品 と し て 、こ れ を 認 識 せ ざ る を 得 な く な る 。ト イ レ か ら 流 れ 出 る 水 は 、あ る 意 味 で《 泉 》と 言 え な く も な い 。そ の 連 想 が 、当 時 と し て は 意 表 を 突 い た も の で あ り 、賛 否 両 論 が 巻き起こったのだと考えられる。 ト イ レ に 便 器 が あ る こ と は 、わ れ わ れ 現 代 人 に と っ て 、い わ ば 常 識 事 32 ジ ャ ニ ス 、 ミ ン ク 『 マ ル セ ル ・ デ ュ シ ャ ン : 1 8 8 7 -1 9 6 8 』( タ ッ シ ェ ン ・ ジ ャ パ ン 、 2 0 0 1 年 )、 6 3 、 6 7 . 46 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 項 で あ り 、そ れ は 、一 般 化 さ れ た〈 同 化 的 認 識 〉で あ る と 言 え る 。し か し 便 器 が 美 術 館 に 展 示 さ れ る や 、 こ れ は 、〈 異 化 的 認 識 〉 を 呼 び 覚 ま す も の と な る 。当 時 、主 催 者 側 は 、こ の 便 器 の〈 異 化 的 認 識 〉に 耐 え ら れ な か っ た 。つ ま り 、現 存 の 言 語 体 系・ラ ン グ・意 味 価 値 の 中 で は 、便 器 を《泉》に還元することができなかったのだ。 シ ク ロ フ ス キ イ は 「 手 法 と し て の 芸 術 」 の 中 で 、〈 異 化 作 用 〉 に つ い て次のように述べている。 そ こ で 、生 活 の 感 覚 を 取 り も ど し 、も の を 感 じ る た め に 、石 を 石 ら し く す る た め に 、芸 術 と 呼 ば れ る も の が 存 在 し て い る の で あ る。芸術の目的は、認知(ウズナヴアーニエ)、すなわち、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ そ れ と 認 め 知 る こ と と し て で は な く 、明 視 す る こ と( ヴ イ ー ヂ エ ニエ)として、ものを感じさせることである。また、芸術の手法 (プ リヨ ーム)は、もの を自 動化 の状 態 から 引き だす 異化( アス トラ ニエ ーニ エ )の 手法 であ り、知 覚を むず かし くし、長び かせ る 難 渋 な 形 式 の 手 法 で あ る 33。 ・ ・ ・ シ ク ロ フ ス キ イ は 、石 を 石 と し て 見 せ る た め に 、異 化 作 用 が あ る と 述 べ た が 、こ れ は 、芸 術 ・ ア ー ト の あ る 本 質 的 な 一 面 を 捉 え て い る と も 言 い 得 る 。日 常 的 に 存 在 す る も の を 日 常 的 に 示 し た の で は 、な ん ら 芸 術 的 感 動 を 喚 起 す る に は 至 ら な い 。日 常 的 に 存 在 す る も の の 非 日 常 的 側 面 が 照 射 さ れ る と き 、人 々 は 驚 き 、そ の い く つ か は 芸 術 的 感 動 に 昇 華 さ れ る の で あ る 。そ し て こ の〈 異 化 作 用 〉に よ る 日 常 の 芸 術 的 昇 華 こ そ 、シ ュ ヴァンクマイエルの触覚芸術に他ならない。 普 通 に ( 通 常 ど お り ) 映 画 を 見 る 、 あ る い は 芸 術 作 品 に 限 ら ず 、〈 世 33 シ ク ロ フ ス キ イ , ヴ ィ ク ト ル 「 手 法 と し て の 芸 術 」『 ロ シ ア ・ フ ォ ル マ リ ズ ム 論 集 』 新 谷 敬 三 郎 ・ 磯 谷 孝 編 訳 ( 現 代 思 想 社 、 1 9 7 1 年 )、 11 7 . 47 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 界 〉を 見 る こ と 、こ れ は 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )の 意 味 価 値 の 中 で の 世 界 で あ る 。 と こ ろ が 、〈 異 化 作 用 〉 に よ っ て 見 え る 触 覚 的 な 世 界 は 、( 触 覚 イ メ ー ジ に よ る か ら ) こ れ ま で と は 異 な っ た 、 新 し い 世 界 で あると言える。また、触覚的に〈見る〉ということは、新しい〈世界〉 が 見 え る と 同 時 に 、従 来 の 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )に よ る〈 世 界 〉 は 姿 を 消 す こ と に な る 。そ れ は 、こ れ ま で の 意 味 価 値 が 壊 さ れ る 、破 壊 さ れ る と い う こ と も 意 味 す る 。ジ ャ ッ ク ・ デ リ ダ の 言 葉 を 借 り て 言 う な ら ば 、デ コ ン ス ト ラ ク シ ョ ン( 脱 構 築 )さ れ て い る と い う こ と に も な る 。 な お 、 ソ シ ュ ー ル は こ れ を 、「 ( 旧 来 の 言 語 体 系 で あ る ) 鶏 が 孵 化 さ せ た( 新 言 語 体 系 で あ る )ア ヒ ル に 似 て い る 」と 表 現 し て い る ( ソ シ ュ ー ル 第 2 回 講 義 ・ 1908年 11月 16日 ) 34。 第 6 節 シュヴァンクマイエルとアルチンボルド こ の よ う に し て シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 手 法 は 、芸 術 的 異 化 作 用 に よ っ て い る と 見 る こ と が で き る だ ろ う 。そ し て 、彼 の 作 品 に お け る こ の 作 用を考えるとき、イタリアの画家であるジュゼッペ・アルチンボルド ( G i us e p pe A r c i mb o l d o, 1 5 27 -1 5 9 3 ) 3 5 か ら の 影 響 を 無 視 で き な い 。 ア ル チ ン ボ ル ド は 1 6 世 紀 に 活 躍 し た マ ニ エ リ ス ム の 画 家 で あ り 、当 時 、 プ ラ ハ を 統 治 し て い た ル ド ル フ 2世 の 宮 廷 画 家 で も あ っ た 。 有 名 な 作 品 で は 、 そ の ル ド ル フ 2世 に 捧 げ た 「 ウ ェ ル ト ゥ ム ヌ ス に 扮 し た ル ド ル フ 二 世 」 ( 原 題 L ' i m p er at o re R o do l f o I I ,1 5 9 1 年 ) 3 6 や 、 連 作 「 四 季 」 《 春 ・ 34 森 山 茂 『「 ソ シ ュ ー ル 」 名 講 義 を 解 く ! ヒトの言葉の真実を明か そ う 』( ブ イ ツ ー ソ リ ュ ー シ ョ ン 、 2 0 1 4 年 )、 1 7 6 . 35 ア ル チ ン ボ ル ド か ら の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 へ の 影 響 に つ い て は 、 「ヤン・シュヴァンクマイエル作品における《触覚》表現と〈異化作用〉 に つ い て 」(『 国 際 文 化 表 現 研 究 4 号 』、 国 際 文 化 表 現 学 会 、 2 0 0 8 年 、 2 7 9 - 288.) に お い て 既 に 言 及 し た 。 3 6 肖 像 画 の よ う に 見 ら れ る こ の 絵 は 、部 分 的 に 見 る と 、野 菜 や 果 物 の 集 合 に過ぎないことが分かる。こういった絵をルドルフ2世は大変気に入って 48 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 夏 ・ 秋 ・ 冬 》 ( 原 題 Quatt ro st agi oni , 15 7 3 年 ) な ど が あ る 。 ア ル チ ン ボ ル ド は 、動 物 や 植 物・書 物・道 具・武 器 な ど を 巧 み に 組 み 合 わ せ て 画 面 ・ 絵 画 を 構 成 し 、静 物 画 で も あ り 肖 像 画 で も あ る よ う な 、一 種 の だ ま し 絵 で知られている。 ア ル チ ン ボ ル ド の マ ニ エ リ ス ム 特 有 の 抽 象 的 表 現 、す な わ ち 、表 面 の 写 実 性 よ り も 、内 面 や 本 質 の 重 視 、ま た 、コ ラ ー ジ ュ 的 手 法 ・コ ラ ー ジ ュ 的 寓 意 な ど は 、1 9 世 紀 末 か ら 2 0 世 紀 初 頭 に か け て 、当 時 を 代 表 す る サ ル バ ド ー ル・ダ リ や マ ッ ク ス・エ ル ン ス ト な ど の シ ュ ー ル レ ア リ ス ト た ちによって再評価された。 そ し て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 に も 、既 出 の ヘ イ ム ズ と の イ ン タ ビ ュ ー に お い て 彼 自 身 が 述 べ て い る よ う に 、ア ル チ ン ボ ル ド か ら の 影 響が見受けられる。 ア ル チ ン ボ ル ド は 、物 を 積 み 重 ね て 人 物 像 を つ く る 彼 の 方 法 と と も に 、私 が 満 足 で き る 解 釈 が み い だ せ な い で い る 強 迫 観 念 の ひ と つ と な っ て い ま す 。ア ル チ ン ボ ル ド の 方 法 の い っ た い 何 が 、私 に と っ て こ れ ほ ど あ ら が い が た い 魅 力 を も ち 、ふ だ ん な ら ひ ど く 見下すイミテーションをみても嫌にさえならないのでしょう? も し か し た ら 、そ れ は 、当 時 錬 金 術 師 の あ い だ で 新 た な る ヘ ル メ ス・ト リ ス メ ギ ス ト ス 趣味と関心が一致する人物なら数百 年後 でも 支配 でき る ヘル メス・ト リス メ ギス トス として知 ら れ て い た ル ド ル フ 二 世 が 首 都 に 魔 法 を か け る の に も ち い た 、プ ラハのマニエリスムの深く刻まれた印なのでしょうか? あるい は 、精 神 分 析 が 示 唆 す る よ う な 幼 年 時 代 の 自 慰 行 為 の 昇 華 、ア ル いた。なぜなら、野菜や果物などの集合によって別の絵に見えることは、 当時、ヨーロッパ世界を半ば支配していたハプスブルグ帝国を象徴してい たからである。部分としての各国を統合して、ハプスブルグ帝国が出来て いることの、これは象徴だったのである。 49 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 チ ン ボ ル ド の 方 法 に お け る 事 物 、動 物 、果 物 の 積 み 重 ね に た い へ ん表情豊かにあらわれている蒐集への情熱なのでしょうか? 私 がルドルフのマニエリスムを愛好していることはよく知られて い ま す 37。 1 96 7 年 の 映 像 作 品「 自 然 の 歴 史( 組 曲 )」( H i st or i a N a t u r a e[ S ui t a ]) で は 、 ル ド ル フ 2世 へ の オ マ ー ジ ュ と し て 、 ア ル チ ン ボ ル ド 風 の コ ラ ー ジ ュ が 多 用 さ れ て お り 、ま た 1989年 の「 フ ロ ー ラ( Flora)」に は 、ア ル チ ン ボ ル ド の 同 名 作 品「 フ ロ ー ラ( F l or a )」か ら の 影 響 が 強 く 見 て 取 れ る。 ア ル チ ン ボ ル ド や シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の コ ラ ー ジ ュ 的 手 法 は 、ソ シ ュールの言語論的連合作用から次のように説明できる。 た と え ば 、ト マ ト に よ っ て 描 か れ た「 く ち び る 」が あ る と す る 。す る とそのとき、「くちびる」という言葉の周囲には、トマト、赤、血潮、 肉 、腐 肉 、エ ロ ス 、タ ナ ト ス 、性 愛 … … な ど の 無 限 と も 言 え る 連 合 言 語 群 が 、星 雲 状 に 零 次 元 時 空 間 に 団 塊 を な し て 、人 々 の 脳 裏 に 喚 起 ・ 形 成 されてくる。 「 連 合 “ a s s oc i a t i o n ” 」 と は 、 「 語 の 周 囲 に 星 雲 の よ う に 漂 う 、 我 々 の 心 の な か に 持 つ( 潜 在 的 )差 異 、そ し て 語 感 の 対 立 の 集 合 で あ る 。具 体 的 に は 、連 合 は 語 の 意 味 イ メ ー ジ( 概 念 、シ ニ フ ィ エ )と 音 の イ メ ー ジ( 聴 覚 イ メ ー ジ 、シ ニ フ ィ ア ン )に 深 く 関 係 し て 、心 的 に 一 瞬 の う ち に 、団 塊 の ご と く 喚 起 さ れ 、形 成 さ れ て く る も の で あ る 。そ れ は 心 が 結 び つ け る 語 の グ ル ー プ 」 で あ る 38。 連合において最も重要なことは、連合がないと「発話として、言辞、 37 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』、8 0 . H a me s , P e t e r. , ed . D a r k A l c h e m y : T h e F i l m s o f J a n Š v a n km a j e r , 1 0 8 . 38 森 山 茂 『「 ソ シ ュ ー ル 」 名 講 義 を 解 く ! ヒトの言葉の真実を明か そ う 』、 1 2 . 50 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 言 葉 」が 、「 現 前 ( 顕 在 化 ) し て く る こ と は な い 」 。実 は そ れ だ け で は な く 、連 合 こ そ が 、 「 人 間 の 芸 術 活 動 の 本 源 を 形 成 し て い る 」の で あ る 。 連 合 は 、「 単 に 言 語 芸 術 の み な ら ず 、 絵 画 や 音 楽 、 生 け 花 等 々 あ ら ゆ る 芸 術 的 活 動 の 根 源 を 支 え て い る 」 の で あ る 39。 連合には、 「 一 種 の 優 劣 関 係 」は な く 、連 合 関 係 を イ メ ー ジ す る と 、 「 す べ て の 関 連 語 が 一 点 に 凝 縮 さ れ て 存 在 」 し て お り 、「 ゼ ロ ( 零 ) 次 元 時 空 間 」上 に あ る 。連 合 関 係 を 形 成 し て い る 語 同 士 の あ い だ に は 、 「主 もなく従もない、ある種の『星座』関係にあるとしか言いようがない」 も の で あ り 、「 本 来 そ こ に は 、 中 心 の 語 な ど と い う も の は 絶 対 に あ り 得 な い 」 の で あ る ( ソ シ ュ ー ル 第 3 回 講 義 ・ 1911年 6月 27日 ) 40。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル や ア ル チ ン ボ ル ド の 表 現 方 法 は 、ま さ に こ の ソ シュールの言語論的連合作用とシクロフスキイが唱えるところの芸術 的 異 化 作 用 と に よ る も の で あ る 。彼 ら の 作 品 に お い て 、映 画 や キ ャ ン バ ス の 上 に「 目 」や「 く ち び る 」と し て 描 か れ た 野 菜 や 果 物 は 、本 物 の「 目 」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ や「くちびる」以上のものに見えてくる。これはまた、本物に似せて ・ ・ ・ ・ 描 か れ た 目 や く ち び る 以 上 に「 目 」で あ り 、「 く ち び る 」で あ る こ と が 、 触 覚 も 含 め た 「 連 合 」 を 形 成 し て い る 言 葉 群 か ら 喚 起 さ れ る 41。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が『 触 覚 と 想 像 力 』に お い て 述 べ た よ う に 、こ れ ま で の 芸 術( 特 に 視 聴 覚 的 作 品 と さ れ て き た 映 画 )は 、視 覚 と 聴 覚 が 39 同 上 、 13. 同 上 、 2 1 -2 2 . 41 ア ル チ ン ボ ル ド は だ ま し 絵 に よ っ て「 こ れ は ~ で あ る 」 「 こ れ は( 野 菜 ・ 果物ではなく)ウェルトゥムヌスⅡ世である」と対象(ウェルトゥムヌス Ⅱ世)を表した。描かれた対象を対象そのもとして受け入れているにも関 わらず、個々のパーツはウェルトゥムヌスⅡ世ではない別のもの(野菜や 果物)である。これは言葉の連合があるから可能となる。 そ れ と は 反 対 に 、 ル ネ ・ マ グ リ ッ ト は パ イ プ を 描 き 、「 こ れ は ~ で は な い」と対象(パイプ)を表した。描かれている対象を、対象そのもとして 受け入れさせないにも関わらず、描かれているものはまるで本物のパイプ である。 〈表象〉とは何か?〈言葉〉とは何か?2つの絵はわれわれに問いかけ ている。 40 51 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 主 体 で あ り 、〈 見 る も の 、 そ し て 聴 く も の 〉 で あ っ た 。 し か し 、 ア ル チ ン ボ ル ド や シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、触 覚 的 な 手 法 に よ り そ の 視 覚 を 変 容 さ せ 、見 る も の に 触 覚 の 経 験 を 与 え る こ と に よ り 、自 身 の 作 品 の 表 層 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 的な部分のみならず、深層部までをも見せようとしたと言えるだろう。 第 7 節 疑似《触覚》 こ の ア ル チ ン ボ ル ド 効 果 と で も 言 う べ き も の を 、リ ト ア ニ ア の 美 術 史 研 究 者 で あ る ユ ル ギ ス ・ バ ル ト ル シ ャ イ テ ィ ス ( J ur gi s Ba l t r us ai t i s , 1 90 3 -1 9 8 8 )は 、そ の 著 書『 ア ナ モ ル フ ォ ー ズ 光 学 魔 術 』に お い て 、 「 視 の 二 重 化 」 と 表 現 し た が 42、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 諸 作 品 に も 、 同 様 の こ と が 言 え る 。そ れ は 、バ ル ト ル シ ャ イ テ ィ ス 風 に 換 言 す る な ら ば 、「 視 覚 と 触 覚 の 二 重 化 」、あ る い は「 感 覚 の 二 重 化 」と 表 現 で き る 。 つ ま り こ れ は 、見 て い る の に 触 っ て い る よ う な 感 覚 、触 れ て い な い の に 触れているような感覚を意味する。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、〈 異 化 作 用 〉に よ っ て も た ら さ れ る《 触 覚 》 作 用( 正 確 に は 、実 際 に 触 れ て い な い た め《 視 覚 》の 疑 似《 触 覚 》作 用 )、 す な わ ち「 感 覚 の 二 重 化 」を 、自 身 の 芸 術 に お い て 表 現 し て い る わ け で あ る 。彼 は こ の 疑 似《 触 覚 》作 用( 触 れ て い な い の に 触 れ て い る よ う な 感 覚 ) 43に つ い て 、 ヘ イ ム ズ と の イ ン タ ビ ュ ー で 、 次 の よ う に 述 べ て い る。 42 赤 塚 若 樹「 実 現 さ れ た 夢 の 世 界 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル・ア ー ト の 正 し い 見 方・楽 し み 方 」 『ヨーロッパにおけるアニメーション文化の 独 自 の 発 展 形 態 に つ い て の 調 査 と 研 究 』( 2 0 0 7 年 )、 4 1 . 43 バ ル ト ル シ ャ イ テ ィ ス の 「 視 の 二 重 化 」 に つ い て は 、 「ヤン・シュヴァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に お け る 《 触 覚 》 表 現 と 〈 異 化 作 用 〉 に つ い て 」(『 国 際 文 化 表 現 研 究 4 号 』、 国 際 文 化 表 現 学 会 、 2 0 0 8 年 、 2 7 9 - 2 8 8 . ) に お い て 既に言及した。 52 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 も ち ろ ん 、触 覚 は 仲 介 さ れ る 感 覚 で あ っ て 、自 分 の 身 体 で 直 接 体 験 は し て い ま せ ん が 、触 覚 的 想 像 力 は こ う い っ た 感 覚 を か な り 徹 底 的 に 変 容 さ せ る こ と が で き ま す 44。 シュヴァンクマイエルは、自身の作品の《触覚》を感じるためには、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 必 ず し も 作 品 に 直 接 触 れ る 必 要 は な い こ と を 示 唆 し て い る 。つ ま り 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 芸 術 に お い て《 触 覚 》を 感 じ る と い う こ と は 、 〈目〉 を 、 い わ ば 皮 膚 化 す る こ と で あ り 、〈 目 〉を 〈 皮 膚 〉 と す る こ と ( こ れ は「 触 覚 的 想 像 力 」に よ る )に よ っ て 、そ の 作 品 に 触 れ る こ と を 意 味 す る 。そ れ に よ っ て 、直 接 触 れ た と き と 同 じ 触 覚 映 像( 触 覚 の シ ニ フ ィ ア ン ) が 得 ら れ る の だ 。 そ し て 、 そ の よ う に 感 覚 が あ る 意 味 で “超 越 ”さ れ た と き 、た と え ば 、 映 画 や 絵 画 の よ う な 〈 視 覚 的 作 品 〉 が 、「 触 覚 的 想 像 力 」に よ っ て〈 触 覚 的 作 品 〉と な っ た と き 、日 常 的 な 事 物 や 場 面 の 非 日常的側面の提示による、一種の〈異化作用〉が起こるのだと言える。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 自 身 の 作 品 や 芸 術 に お い て 、触 っ て い な く て も 触 っ て い る よ う な 疑 似 《 触 覚 》、 さ ら に は 、 見 て い る の に 触 っ て い る よ う な 疑 似《 視 覚 》を 表 現 し て い る 。つ ま り 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、 ........... ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 「 見 て い な い の に 見 て い る 」。さ ら に は 、 「見ている以上に見ている」 (こ れ に 関 し て は 、ア ル チ ン ボ ル ド の 作 品 に お い て も 、同 様 の こ と が 言 え る 。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ シュヴァンクマイエルはアルチンボルドが 見ている以上に見ている の で あ る が )。 44 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』、8 2 . H a me s , P e t e r. , ed . D a r k A l c h e m y : T h e F i l m s o f J a n Š v a n km a j e r , 1 0 9 . 53 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 第 8 節 「肉片の恋」 シュヴァンクマイエルの《触覚》表現 方法 《 視 覚 》の 疑 似《 触 覚 》作 用 は 、人 間 の 認 識 パ タ ー ン に お け る シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 表 現 方 法 を 示 し て い る と も 言 え る 。1 9 8 9 年 の 短 編 映 像 作 品 「 肉 片 の 恋 ( Za mi l o va n é ma s o ) 」 で は 、 2 枚 の ス テ ー キ 用 の 肉 が 、 コ マ 撮 り ア ニ メ ー シ ョ ン に よ っ て 、ダ ン ス を し て い る よ う に 見 え る 。こ の 短 編 で は 、 2枚 の 生 肉 が 、 単 な る 無 機 物 的 な 肉 片 で は な く 、 ア ニ メ ー シ ョ ン の 力 に よ り 、愛 し 合 う 男 女 が ダ ン ス を 楽 し ん で い る も の と し て し か見ることができない。 ( な お 、第 3 章 で 詳 し く 議 論 す る こ と に な る が 、 「無機物的な肉片」 このフレーズからは、後にシュヴァンクマイ エ ル が 映 像 化 し 、彼 の 重 要 な 作 品 に も な っ て い る エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ーの「アッシャー家の崩壊」のキーワードでもあるアッシャーの言葉、 「無機物にも知覚はある」を想起せざるを得ない)。 こ れ に よ り シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、恋 愛 を 描 く の に は 生 身 の 人 間 で な く て も 良 い こ と を 証 明 し て い る 。つ ま り 、人 間 の 認 識 作 用 に は 、〈 肉 〉 と い う 言 葉( シ ー ニ ュ / 言 語 記 号 )に 伴 う 無 限 の「 連 合 」作 用 に よ っ て 、 生 々 し さ や エ ロ テ ィ シ ズ ム が す で に「 恋 愛 」と い う シ ー ニ ュ の 意 味 ・ 価 エロティシズム 値の裏側に組み込まれており、生肉(それは赤、血、初潮、 性 愛 、恋 愛 、生 殖 、腐 敗 、肉 汁 、死 、火 葬 、エ ロ ス 、タ ナ ト ス … … と い う よ う な 、 無 限 の 連 合 の 星 座 を 形 成 す る )を 観 客 に 示 す だ け で 、わ れ わ れ の 認 識 作 用 は 、「 肉 」 と い う 言 葉 の 持 つ 多 重 の 連 合 に 裏 打 ち さ れ た 、 生 身 の 人 間 の 生 々 し い「 恋 愛 」を 想 起 せ ざ る を 得 な い の だ 。し か も そ の う え 、そ の 「恋愛」には疑似触覚として、生肉に触るときのあの感覚、ベタベタ、 ヌ ル ヌ ル と し た 嫌 ら し い 弾 力 性 を 伴 う 、生 肉 の あ の 触 感 が 、こ の 映 像 を 見 る も の の バ ッ ク グ ラ ウ ン ド に 、あ る い は 深 層 意 識 に い つ も 潜 在 し て い ることになる。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に と っ て 重 要 な こ と は 、〈 表 現 す る も の 〉 = 生 54 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 肉 だ け で は な く 、〈 表 現 さ れ る も の 〉 = 上 で 述 べ た よ う な 触 覚 的 な 生 々 し さ や エ ロ テ ィ シ ズ ム で あ り 、し た が っ て 、2 枚 の 肉 片 に よ っ て 彼 が 描 い て い る の は 、単 な る〈 男 女 〉と い う よ り は〈 男 女 の 恋 愛 を 含 め た 彼 ら .... 二人の、まさに文字通り生々しい関係性〉であると言えるだろう。 関係性 それは、生肉のこうした「連合」から喚起されてくるも のである。 こ こ で の《 肉 片 》と は 、単 純 に 食 べ る《 肉 》と い う 表 層 的 な 意 味 では な い 。そ れ は 、ま る で 一 つ 一 つ の 楽 器 の 音 が 、幾 重 に も 重 な り 合 っ て 音 楽 を 奏 で る オ ー ケ ス ト ラ の よ う に 、 多 重 音 的 ( ポ リ フ ォ ニ ー /ポ リ フ ォ ニ ッ ク )な 連 合 の 意 味 ・ 価 値 の 世 界 が 形 成 さ れ て い る の で あ る 。肉 片 が 生 身 の 人 間 以 上 に 「 恋 愛 」 を 表 す ・ 表 現 す る こ と に 効 果 的 な の は 、「 肉 片 」と い う 言 葉 の 持 つ エ ロ テ ィ ッ ク な 触 覚 感 覚 も 含 め た 言 語 論 的 連 合 作 用によると言えるだろう。 こ の よ う に 、ア ル チ ン ボ ル ド や シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 に お い て 、 「 肉 」 や「 く ち び る 」は 単 な る 「 肉 」「 く ち び る 」に と ど ま ら な い 。 そ こに は「肉 」や「 く ちび る」と い う言 語 記号( シー ニ ュ)へ の無 限と も エロティシズム 言える連合(赤、血、初潮、 性 愛 、恋愛、生殖、腐敗、肉汁、死、火 葬 、エ ロ ス 、タ ナ ト ス … … )が 形 成 さ れ て お り 、見 る も の は 、深 層 意 識 に訴えてくる、この連合作用に強く惹かれるのではないだろうか。 「 肉 片 の 恋 」は 、2 枚 の 肉 片 が ダ ン ス を し て い る 最 中 、 (何者かにより) フ ラ イ パ ン で 焼 か れ て し ま う シ ー ン が エ ン デ ィ ン グ と な っ て い る 。楽 し ん で い る 最 中 に 、 一 瞬 に し て 焼 か れ て し ま う 様 ( “焼 か れ る ”も 「 肉 」 と い う 言 葉 の 連 合 で あ る )は 、人 生 の は か な さ を 表 し て い る の か も し れ な い 。こ の 人 生 に お け る 無 常 観 は 、第 5 章 に お い て 議 論 す る シ ュ ヴ ァ ン ク マイエルの短編映像作品「対話の可能性」にも通ずるものであろう。 こ こ ま で 芸 術 的 異 化 作 用 に つ い て 、ま た 、そ れ に よ っ て も た ら さ れ る 55 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 疑 似《 触 覚 》に つ い て 、さ ら に 、そ こ か ら 触 覚 も 喚 起 さ れ る・想 像 さ れ る 言 語 論 的 連 合 作 用 に つ い て 述 べ た 。 こ の 「 触 覚 的 想 像 力 」 は 、 1980 年 の 短 編 映 像 作 品 『 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 ( Zá n i k d o mu U s h er ů )』 に お い て 結 実 し た 。 そ の 後 、『 対 話 の 可 能 性 ( Mo žn o st i di al o gu )』『 闇 ・ 光 ・ 闇 ( T ma , s vě t l o , t ma ) 』 な ど の 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 「 手 の 押 し 跡 」 を 「 創 作 者 の 心 的 状 態 の 純 粋 な 表 出 」 と み な し 45、 そ れ を と ど め る 素 材 と し て の 粘 土 を 使 っ た ア ニ メ ー シ ョ ン へ と 転 化 さ れ て い っ た 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、粘 土 と い う 素 材 の 質 感 を 強 調 す る こ と に よ っ て「 触 覚 的 想 像 力 」を 満 た し 、ま た「 肉 片 の 恋 」の よ う な 触 覚 的 映 像 に よ る 新 た な世界観を発展させていったのである。 第 9 節 アンチ現代文明 反抗 こ れ ま で 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に お け る 芸 術 的 異 化 作 用 と 言 語 論 的 連 合 作 用 に つ い て 述 べ て き た が 、彼 の 触 覚 的 創 作 は 、芸 術 と い う 領 域 を 越 え 、現 代 文 明 に 対 す る 反 近 代 ・ ア ン チ 近 代 的 な メ ッ セ ー ジ が 込 め ら れ て お り 、こ の 思 想 は 、彼 の 諸 作 品 に 一 貫 す る 哲 学 で も あ る 。2 00 6 年 に 発 表 さ れ た 長 編 映 画『 ル ナ シ ー( Š í l e ní )』公 開 時 の イ ン タ ビ ュ ー に お い て 、 シュヴァンクマイエルは〈現代文明〉について次のように述べている。 現代 文明 で気 にな る のは その 実用 性、功 利主 義、金 への 礼拝 、そ して自由を守るどころかより強い操作に逆用される形骸化した 民 主 主 義 の 仕 組 で す 。現 代 文 明 は 科 学 技 術 の あ わ た だ し い 発 展 を と お し て 人 の 感 覚 を 堕 落 さ せ て い ま す 。視 覚 は 商 業 映 画 、テ レ ビ と コ マ ー シ ャ ル に よ っ て だ い な し に さ れ 、聴 覚 は 文 明 と ポ ッ プ ミ ュ ー ジ ッ ク の バ ン ド の 騒 音 に よ っ て 衰 え 、臭 覚 は ほ と ん ど 退 化 し 、 45 赤 塚 若 樹 「 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 「 触 覚 芸 術 」」、 5 4 . 56 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 味 覚 は ハ ン バ ー ガ ー に よ っ て 破 壊 さ れ 、触 覚 は 単 純 な 肉 体 労 働 か 電 子 機 器 の ボ タ ン を 押 す た め だ け に つ か わ れ て い ま す 。こ れ ら の 理 由 か ら 、私 の 触 覚 的 創 作 が 反 抗 行 為 に 他 な ら な い と 理 解 し て い た だ く 必 要 が あ り ま す 46。 (傍線は筆者による) ま た 、2000年 に 公 開 さ れ た 長 編 映 画『 オ テ サ ー ネ ク 』に 関 す る コ メ ン ト に お い て も 、彼 自 身 の 触 覚 的 創 作 が 反 抗 行 為 に 他 な ら な い こ と を 明 言 している。 グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン へ 抵 抗 す る こ と が 必 要 で す 。私 た ち が 少 な い予算で、クラシックな技術を使って芸術を表現しているのは、 画 一 化 さ れ た 世 界 を 粉 砕 し 、 自 分 達 の 立 場 を 守 る 代 償 で す 47。 こ の よ う に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、自 身 の 触 覚 的 創 作 に よ っ て 、現 代 文 明 に お け る 感 受 性 の 全 般 的 な 貧 困 化 と 、グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン に よ って画一化された世界に警鐘を鳴らしているのである。 おわりに シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に と っ て 、そ し て わ れ わ れ 現 代 人 に と っ て《 触 覚 》 と は 、「 感 受 性 の 全 般 的 な 貧 困 化 」 か ら 立 ち 直 る た め に 必 要 な 、 人 間 の 感 覚 器 官 の 中 で 、最 も 根 源 的 で 原 始 的 ・ 原 初 的 な 感 覚 で あ る と 言 え る。 46 小 久 保 よ し の 編『 オ ー ル ア バ ウ ト シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 』 (エスクァイ ア マ ガ ジ ン ジ ャ パ ン 、 2 0 0 6 年 )、 1 6 . 47 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 「 神 話 、 メ デ ィ ア 、 触 覚 」『 オ テ サ ー ネ ク 妄 想 の 子 供 』( 工 作 舎 、 2 0 0 1 年 )、 1 0 7 . 57 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 美 学 研 究 者 で あ る 谷 川 渥 が 、そ の 著 書『 鏡 と 皮 膚 』に お い て 述 べ て い る よ う に 、『 旧 約 聖 書 』の 「 ヨ ブ 記 」に は 、《 触 覚 》の 根 源 性 に 触 れ る 記 述 が あ る 。 ま ず 、 以 下 に 「 ヨ ブ 記 」 に お け る 「 第 二 の 試 練 」 ( 第 2章 7 -1 0 ) を 引 用 す る 。 てっ 敵 対 者 は ヤ ハ ウ ェ の 前 か ら 出 て い っ て 、ヨ ブ の 足 の 裏 か ら 頭 の 天 ぺん はれもの 辺 ま で 悪 い 腫 物 で 彼 を 打 っ た 。そ こ で ヨ ブ は 陶 器 の か け ら を と っ て 体 を か き む し り 、灰 の 上 に 坐 っ て い た 。彼 の 妻 が 彼 に 言 う 、 「あ な た は ま だ 自 分 を 全 き も の に し て い る の で す か 。神 を 呪 っ て 死 ん だ ら よ い の に 。 」 ヨ ブ は 彼 女 に 言 っ た 、「 お 前 の 言 う こ と は 愚 か な 女 の 誰 か れ が 言 い そ う な こ と だ 。わ れ わ れ は 神 か ら 幸 い を も 受 け る の だ か ら 、災 い を も 受 け る べ き で は な い か 」。こ れ ら す べ て の こ と を 通 じ て ヨ ブ は そ の 唇 を も っ て 罪 を 犯 さ な か っ た 48。 こ の よ う に「 ヨ ブ 記 」で は 、ヨ ブ は サ タ ン に よ っ て 、皮 膚 を 、今 日 で 言 う 象 皮 病 に さ れ て し ま う 。ヨ ブ は 、そ れ ま で 息 子 7 人 と 娘 3 人 を 奪 わ れ ても、神に対し呪詛の言葉ひとつ言わなかった。 し か し 、 象 皮 病 に さ れ た こ と が 原 因 で 、 す な わ ち 、《 触 覚 》 が 奪 わ れ た こ と が 原 因 で 、 や が て 神 を 呪 う よ う に な る 49。 こ の こ と か ら も 、人 間 に と っ て《 触 覚 》と は 、最 深 部 に あ る 、本 質 的 な 感 覚 で あ る こ と が 伺 い 知 れ る 。 あ ら ゆ る 感 覚 の 中 で 、《 触 覚 》 が 重 要 な の で あ る 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、そ の 人 間 の 中 で 最 も 原 始 的 ・ 原 初 的 で あ り 、エ ロ テ ィ ッ ク な 感 覚 で も あ る《 触 覚 》を 、自 身 の 作 品 に お い て 表 現 し よ う と し て い る 。こ の 触 覚 的 想 像 力 を 作 品 化 す る 試 み は 、彼 が 人 間 の 持 つ 根 源 的 な も の へ 迫 ろ う と す る 、本 質 主 義 者 で あ る こ と の 何 48 関 根 正 雄 訳 『 旧 約 聖 書 ヨ ブ 記 』( 岩 波 文 庫 、 1 9 7 1 年 )、 1 3 . 谷川渥『鏡と皮膚 芸 術 の ミ ュ ト ロ ギ ア 』( 筑 摩 書 房 、 2 0 0 1 年 )、 2 6 7 -2 6 9 . 49 58 第 2 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《触覚》 よりの証明であると言えるのではないだろうか。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は な ぜ 触 覚 に こ だ わ る の か 。そ れ は 彼 の 、見 せ か け で は な く 、よ り 本 質 的 な も の に 対 す る 憧 れ と 欲 求 、さ ら に は 近 代 化 し た 社 会 に 対 す る 反 抗 を 含 む 創 作 活 動 が 、こ れ ま で の 聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )に 基 づ か な い 、 《 触 覚 》と い う 新 た な 言 語 ・ ラ ン グ ・ 意 味 ・ 価値・文化体系に、人類の文化的普遍性を見出したからに他ならない。 そして、原始的・原初的であるがゆえに多くの可能性を秘めた《触覚》 と い う 新 た な 言 語 体 系 に よ っ て 、ま だ 開 拓 さ れ て い な い 、新 し い 、衝 撃 的 な《 世 界 》や 人 間 像 を 、わ れ わ れ 現 代 人 に 見 せ よ う と し た か ら で は な いだろう。 59 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 第 3章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 『アリス』の《夢》と《現実》について 彼は炎の布きれのほうへ歩いて行った。それは彼の肉をかまず、熱も燃焼 も お こ さ ず に 彼 を 愛 撫 し 彼 を 包 み こ ん だ 。安 堵 と 、屈 辱 と 、恐 怖 を も っ て 、 彼は、自分もまただれか他の者によって夢みられた、ひとつの幻影だった ことを理解したのである。 ( ホ ル ヘ ・ ル イ ス ・ ボ ル ヘ ス 「 円 環 の 廃 墟 」 よ り ) 50 はじめに 《 夢 》 は 《 現 実 》 で あ り 、《 現 実 》 は 《 夢 》 で あ る 。 本 章 で は 、ル イ ス・キ ャ ロ ル 原 作 の 「 不 思 議 の 国 の ア リ ス 」 と 、シ ュヴァンクマイエルの長編映画 『アリス』との考察から、シュヴァン ク マ イ エ ル が 描 い た も の が 、ア リ ス の 見 た《 夢 》で は な く《 現 実 》で あ る こ と 、表 層 的 な 言 語 あ る い は 〈 幻 想 〉 と い う フ ィ ル タ ー を 通 し て し か 〈見る〉 ことができなくなった 象徴界的現代への批判が、シュヴ ァンクマイエル作品に一貫する哲学であることを述べる。 『 ア リ ス 』( 原 題 N ě co z A l e n k y, 19 8 7 ) は シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 最 初 の 長 編 映 画 と し て 1 9 87 年 に 発 表 さ れ た 。 彼 の 作 品 に は 、 他 に も 文 学 作 品 を 映 像 化 し た も の 、 例 え ば 、 ゲ ー テ の 『 フ ァ ウ ス ト 』( 原 題 L e kc e F au st , 1 9 94 )、 エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー の 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」( 原 題 Zá n i k d o mu U s h er ů , 1 9 80 )、 そ し て 、 ポ ー と ヴ ィ リ エ ・ ド ・ リ ラ ダ ン の テ 50 ボ ル ヘ ス 、ホ ル ヘ ・ ル イ ス「 円 環 の 廃 墟 」 『 筑 摩 世 界 文 学 大 系 81 ボ ル ヘ ス 、 ナ ボ コ フ 』( 筑 摩 書 房 、 1 9 8 4 年 )、 2 8 . 60 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 ク ス ト が 翻 案 と さ れ る 「 陥 し 穴 と 振 り 子 」( 原 題 K y va dl o , j á ma a na d ěj e ,1 9 8 3 ) な ど が 例 と し て 挙 げ ら れ る が 、 そ の す べ て は 文 学 的 、 か つ 哲 学 的 な 内 容 を 含 ん で お り 、単 に 映 像 だ け を 楽 し む 性 質 の も の で は な い 。 詩 人 が 言 葉 で 音 楽 を 奏 で よ う と し た り 、作 曲 家 が 音 楽 で 絵 画 を 描 こ う と す る か の よ う に 、彼 も 自 身 の 作 品 に お い て 、そ の 映 像 の 中 に 、自 ら の 思想や人間とは何かという問題、あるいは言語論や精神分析学的問題、 さ ら に は 政 治 的 発 言 さ え も 託 し て お り 、『 ア リ ス 』 は 、 そ の 中 で も 画 期 的 な 、し か も シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に と っ て 本 質 的 な 内 容 の 作 品 で あ る と考えられる。 本 章 で は 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が ル イ ス ・ キ ャ ロ ル の 原 作 A l i ce 's A dv e nt ures i n Wo n d e r l a n d の 何 を 、 ど の よ う に 映 像 化 し た か 。 ま た 、 ど の よ う に ア リ ス( ま た は ル イ ス・キ ャ ロ ル )の〈 世 界 〉を 見 て い た か を 考 察したい。 第 1 節 ルイス・キャロルと『不思議の国のアリス』 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 作 品 『 ア リ ス 』 の 原 作 で あ る A l i ce ' s A dv e nt ures i n Wo n d e rl a nd は 、 1 8 6 5 年 に 、 イ ギ リ ス の マ ク ミ ラ ン 社 よ り 発刊された。 『不 思 議の 国の ア リス』は、原作 者 で ある ルイ ス・キャ ロ ルが、知人 の少女アリス・リデルのために即興で作った物語が元となっている。 1 87 1 年 に は 、 続 編 の T h r ou g h t h e L o ok i n g - G l a s s, a n d Wh a t A l i c e F ou n d T he r e ( 『 鏡 の 国 の ア リ ス 』 ) も 発 表 さ れ た 。 物 語 は 、幼 い 少 女 ア リ ス が 、白 ウ サ ギ を 追 い か け て 不 思 議 の 国 に 迷 い 込み、さまざまなキャラクターたち(喋るトランプやチェシャ猫など) と出会いながら、不思議の世界を冒険する様子を描いている。 61 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 ジ ョ ン ・ テ ニ エ ル に よ る 作 品 の 挿 絵 は 、『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』 の イ メ ー ジ 形 成 に 大 き く 寄 与 し て お り 、後 世 の 挿 絵 画 家 に も 大 き な 影 響 を 及 ぼ し た 。デ ィ ズ ニ ー 映 画『 ふ し ぎ の 国 の ア リ ス 』を は じ め と し て 、映 像 化・翻案・パロディの例も多数ある。 ま た 、『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』 は 、 シ ュ ー ル レ ア リ ス ム の 作 家 た ち に も大きな影響を与えている。 ア ン ド レ・ブ ル ト ン の『 シ ュ ル レ ア リ ス ム と は 何 か 』( 1 9 3 4 年 )に は 、 シュールレアリスムの精神的祖先としてキャロルの名が挙げられてい る ほ か 、ア ン ト ナ ン・ア ル ト ー も ア ン リ・パ リ ゾ ー の 勧 め に よ っ て『 鏡 の 国 の ア リ ス 』第 6 章 の 翻 訳 を 試 み て い る 。ま た 、マ ッ ク ス・エ ル ン ス ト は キ ャ ロ ル の 詩 で あ る『 ス ナ ー ク 狩 り 』の フ ラ ン ス 語 版 に 挿 絵 を つ け て お り 、ル ネ・マ グ リ ッ ト は ク ノ ッ ケ・ズ・ル ー ト の カ ジ ノ 壁 画『 魅 せ ら れ た る 領 域 』の 一 部 と し て『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』を 描 い て い る 。ま た 、サ ル バ ド ー ル・ ダ リ は リ ト グ ラ フ で『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』の 挿 絵 を制作した。 第 2 節 アリスが見た《夢》 夢は現実、現実は夢 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の『 ア リ ス 』は も ち ろ ん 、ル イ ス ・ キ ャ ロ ル の Al i c e 's A dv e nt ures i n Wo n d er l an d が そ の も と と な っ て い る が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は『 ア リ ス 』以 前 に も 、 『ジャバウォッキー』 ( 原 題 Ž va h l a v a ne b ša t i č ky S l a mě n é h o H u be r t a , 1 9 7 1 ) と い う 『 鏡 の 国 の ア リ ス 』 に 収 め ら れ た詩が原案となっている映像作品を制作している。 ま た 、ア リ ス の 物 語 を も と に 創 作 し た コ ラ ー ジ ュ の 挿 絵 と 原 作 の 物 語 で 構 成 さ れ た 『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』 51と 『 鏡 の 国 の ア リ ス 』 52の 2 冊 51 キ ャ ロ ル , ル イ ス『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』ヤ ン・シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 画 , 62 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 も 出 版 し て お り 、そ の 前 書 き に 相 当 す る テ ク ス ト で は 、キ ャ ロ ル 、あ る い は『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』が 、自 身 に と っ て「 イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン の 源泉」の一つであることを明言している。 私 は 、キ ャ ロ ル が も た ら し た イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン と 上 手 に 付 き あ え る よ う 、生 涯 に わ た っ て 努 め て き ま し た 。そ し て あ り が た い こ と に 『 ジ ャ バ ウ ォ ッ キ ー 』『 地 下 室 の 怪 』『 ア リ ス 』 と い っ た 映 像 作品を通じて、それと正面から向きあう機会を得ました。 (中略) 私 が 折 に 触 れ て 、こ う し て ア リ ス の 元 へ と 帰 っ て く る の は 、こ の 本が私にとって尽きることのないインスピレーションの源泉で あ る か ら に ほ か な り ま せ ん( 幼 年 時 代 も ま た 、汲 め ど 尽 き ぬ イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン の 宝 庫 で す ) 53。 (傍線は筆者による) 上 記 か ら も 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に と っ て ル イ ス ・ キ ャ ロ ル 、あ る いは「アリス」が創作の源泉となっていることが伺い知れる。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ ル の 作 品 が キ ャ ロ ル か ら 影 響 を 受 け て い る こ と 、彼 に と っ て 、キ ャ ロ ル あ る い は「 ア リ ス 」が 、創 作 に お け る イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン の 本 質 的 な 部 分 を 構 成 し て い る こ と は 、彼 の 作 品 を 理 解 す る 上 で 、 重 要 な 手 が か り と な る こ と は 明 白 で あ ろ う 54。 そ れ で は な ぜ 、『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』 は シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に と 久 美 里 美 訳 ( エ ス ク ァ イ ア マ ガ ジ ン ジ ャ パ ン 、 2006 年 ) 52 キ ャ ロ ル ,ル イ ス 『 鏡 の 国 の ア リ ス 』 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 画 , 久 美 里 美 訳 ( エ ス ク ァ イ ア マ ガ ジ ン ジ ャ パ ン 、 2006 年 ) 53 キ ャ ロ ル 『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』、 4 - 6 . 54 ル イ ス ・ キ ャ ロ ル あ る い は「 不 思 議 の 国 の ア リ ス 」か ら の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル へ の 影 響 に つ い て は 、「 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 『 ア リ ス 』 に お け る ≪ 夢 ≫ と ≪ 現 実 ≫ に つ い て 」(『 国 際 文 化 表 現 研 究 5 号 』、 国 際 文 化 表 現 学 会 、 2009 年 、 289- 296.) に お い て 既 に 言 及 し た 。 63 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 っ て「 イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン の 源 泉 」と な り 得 る の で あ ろ う か 。そ れ に は 、 以下で議論する《夢》が深く関係している。 キャロルの「アリス」について言うならば、この本は、読む年齢 に よ っ て 全 く 異 な っ た 本 と な り ま す 。な ぜ な ら ば 、私 た ち は 生 涯 夢 を 見 つ づ け る か ら で す 。キ ャ ロ ル が こ こ に 描 い た の は 、お と ぎ 話 で は な く 、 夢 な の で す 55。 フロイトから多大な影響を受けたシュールレアリストであるシュヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、《 夢 》 に 強 い 関 心 を 抱 き 、 ま た 、 そ う で あ る が ゆ え に 、『 ア リ ス 』 に 代 表 さ れ る 彼 の 諸 作 品 に は 、 精 神 分 析 学 的 要 素 が 随 所 に 散 在 す る 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 が 、精 神 分 析 学 の 研 究 対 象 と し て も 大 変 興 味 深 い と い う 理 由 が こ こ に あ る の で あ る が 、そ の 彼 が 、キ ャ ロ ル が 描 い た 《 夢 》、 あ る い は ア リ ス が 見 た 《 夢 》 の 映 像 化 を 試 み た というのは、極めて当然のことであると考えられる。 し か し そ れ は 、一 般 的 、あ る い は 通 常 の ア リ ス 論 で 言 わ れ て い る よ う な 「 不 思 議 の 国 」 = 「 夢 の 世 界 」( 単 な る 寝 て い る と き に 見 る 夢 ) と い う 簡 単 な も の で は な く 、ま た 、そ れ は 単 純 に イ コ ー ル に よ っ て 図 式 化 し 得 る も の で は な い 。 そ う で は な く 、 ア リ ス が 見 た 《 夢 》 は 、「 不 思 議 の 国 」 と い う 〈 ト ポ ス 、「 場 所 」〉 に お け る も う ひ と つ の 《 現 実 》 で あ り 、 この《 現実 》こ そが 、まさ に《 夢》で あ ると いう 認識 によ っ て、シ ュヴ ァンクマイエルは、アリスの《夢》の世界へ私たちを導く。その結果、 わ れ わ れ の 見 て い る 、ま た 、日 常 的 に 経 験 し て い る《 現 実 》も 、実 は《 夢 》 な の で は な い か と い う 奇 妙 な 錯 覚( あ る い は そ の 夢 こ そ が《 現 実 》か も しれないという思考)に、私たちは導かれることになる。 夢は現実であり、現実は夢である 55 キ ャ ロ ル 『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』、 4 - 6 64 こ の 問 題 は 、『 ア リ ス 』 と シ 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 ュヴァンクマイエル作品において重要な〈トポス〉の問題に関連する。 これについては後ほど改めて言及したい。 以 上 の よ う な 観 点 か ら 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の『 ア リ ス 』は 、原 作 を 忠 実 に 再 現 し て い る 作 品 で は な く 、『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』 か ら 読 み 取られた本質を映像化した作品だと言えるだろう。 第 3 節 『アリス』冒頭 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 画『 ア リ ス 』の 冒 頭 は 、非 常 に 奇 妙 な 、か つ 、ま こ と に 複 雑 な 構 造 を 所 持 し て い る が 、こ の 冒 頭 に こ そ 、彼 の 描 き た か っ た ア リ ス の《 夢 》が 集 約 さ れ て お り 、作 品 の 中 で も 、最 も 重 要 な 部分だと考えられる。 まず、映画の冒頭は、原作と同じように、小川のシーンから始まる。 ア リ ス は 、退 屈 そ う に 自 分 の ス カ ー ト の 上 に あ る 小 石 を 、小 川 に 投 げ 込 んでいる。アリスの隣では、アリスのお姉さんが読書をしている。 次 に 、ア リ ス と 思 わ れ る 少 女 の〈 唇 〉の ク ロ ー ス ア ッ プ 映 像 が 映 し 出 さ れ る 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の『 ア リ ス 』は 、原 作 や デ ィ ズ ニ ー に よ る ア ニ メ ー シ ョ ン「 ふ し ぎ の 国 の ア リ ス 」と は 異 な り 、ア リ ス 以 外 の 登 場人物たちが言葉を発することはない。 物 語 は 最 初 か ら 最 後 ま で 、ア リ ス の 言 葉( 唇 の ア ッ プ 映 像 )が 挿 入 さ れ る 方 法 で 進 め ら れ る( 実 は 、こ の ク ロ ー ス ア ッ プ さ れ た〈 唇 〉は 、映 画 の 中 で ア リ ス を 演 じ て い る 少 女 の〈 唇 〉で は な い 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、彼 女 の〈 瞳 〉に 惹 か れ 、そ の 少 女 を ア リ ス 役 に 抜 擢 し た が 、彼 女 の 〈 唇 〉 は 気 に 入 ら な か っ た 。 そ の た め 、〈 唇 〉 の ク ロ ー ス ア ッ プ 部 ・ ・ ・ ・ 分 の 映 像 は 、ア リ ス を 演 じ て い る 少 女 と は 別 の 少 女 の も の が 使 わ れ て い 65 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 る と い う 5 6 )。 言 う ま で も な く 、く ち び る は 触 覚 的 で あ り 、触 覚 を 重 視 す る シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 手 法 が 存 分 に 発 揮 さ れ て い る が 、い か に も 彼 ら し い こ の 唇のアップ映像からは、空想的な言葉、不思議な言葉、不気味な言葉、 マントラ 性 愛 的 な 言 葉 、あ る い は 根 源 的 な 言 葉( 真 言 )さ え も が 連 想・ イ メ ー ジ され、あたかもそれらが響いてくるようにも見受けられる。 そ し て 場 面 は 移 り 変 わ り 、 ア リ ス が 述 べ る “ Yo u mu s t c l os e y o ur e ye s , ot h er w i s e , yo u w on ′ t se e a n yt h i n g ! ”( 目 を 閉 じ な き ゃ 。さ も な い と 何 も 見 え な い の よ ! )と い う 言 葉 に 導 か れ て 、私 た ち は ア リ ス の《 夢 》の 世 界 へと足を踏み入れる。このアリスの言葉からは次のことが連想される “ 表 層 意 識 で 見 て は い け な い 、深 層 意 識 で 見 よ 。 《 目 》で 見 て は い け な い 、 《触覚》で見よ。” 次 の シ ー ク エ ン ス は 、『 ア リ ス 』 の 中 で も 、 お そ ら く 最 も 重 要 な シ ー ンだと思われる。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ こ こ で は 、ア リ ス の 子 ど も 部 屋 で 、冒 頭 と 全 く 同 じ 、ア リ ス が 石 を 投 ・ ・ げ る シ ー ン が 繰 り 返 さ れ る 。し か し 、そ れ は 屋 外 で は な く 室 内 で 展 開 さ れ 、ま た ア リ ス と ア リ ス の お 姉 さ ん に よ っ て そ れ が な さ れ る の で は な く 、 ・ ・ ア リ ス に 似 た〈 人 形 〉に よ っ て 、そ れ ら が 繰 り 返 さ れ る 。し か も 、そ の 人 形 を 動 か し て い る の は 、冒 頭 に 出 て き た〈 人 間 の ア リ ス 〉で あ り 、そ し て 、〈 人 間 の ア リ ス 〉 が 川 に 小 石 を 投 げ た よ う に 、〈 人 形 の ア リ ス 〉 が ティーカップに小石を投げているように見える映像となっている。 こ の 人 形 に よ る 一 種 の〈 代 理 行 為 〉は 、見 る も の を あ る 驚 き へ と 導 く 瞬 間 で あ る 。最 初 に 、太 陽 の 日 差 し の も と で 石 を 投 げ て い た あ の 少 女 は 誰 だ っ た の か 。 実 は あ の 少 女 も 、〈 人 形 の ア リ ス 〉 と 同 じ よ う に 、 別 の 少 女 に 操 ら れ 、石 を 投 げ て い た に 過 ぎ な か っ た の で は な い か 。さ ら に は 、 56 講 演 「 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 氏 と 語 ろ う 」、 新 宿 朝 日 カ ル チ ャ ー セ ン タ ー 、 2007 年 8 月 25 日 66 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 キ ャ ロ ル の『 鏡 の 国 の ア リ ス 』の エ ン デ ィ ン グ が 、今 ま で 見 て い た《 夢 》 が 誰 の 《 夢 》 だ っ た の か を 言 い 争 う 場 面 で 終 わ っ て い る よ う に 57、 も し か し た ら 、 こ の 物 語 の す べ て が 、〈 人 間 の ア リ ス 〉、 あ る い は 〈 人 形 の ア リ ス 〉の《 夢 》な の で は な い だ ろ う か 。こ れ は 夢 だ ろ う か 、現 実 だ ろ う か…… ま た 、 こ の 場 面 に 登 場 す る 〈 人 形 の ア リ ス 〉 は 、〈 不 思 議 の 国 〉 で 小 さ く な っ た ア リ ス で も あ り 、〈 人 形 の ア リ ス 〉 だ け で な く 、 ア リ ス の 部 屋 に あ る も の た ち( テ ィ ー カ ッ プ や 本 な ど )が 、小 さ く な っ て〈 不 思 議 の 国 〉で も 登 場 す る こ と は 、注 目 す べ き 点 で あ る 。そ れ は ま た 、す べ て は《 夢 》の 中 、ま た〈 部 屋 〉の 中 で 起 こ っ た 出 来 事 の 証 明 で あ る と も 言 える 。こ れ は〈 部 屋 〉と いう「 トポ ス 」の中 で起 こっ た《現 実》の出 来 事 で あ り 、そ こ で 誰 か に 操 ら れ て い る よ う な こ の シ ー ン は 、精 神 分 析 学 者 で あ る ジ ャ ッ ク ・ ラ カ ン が 論 じ た「 大 文 字 の 他 者 」を 想 起 さ せ る 。 「大 文 字 の 他 者 」は 、自 ら が 作 り 出 し た が ゆ え に 自 ら を 操 作 す る よ う に 見 せ 、 また、象徴界によって規制されながら行動している。 第4節 『アリス』の〈部屋〉 《夢》と《現実》のロジッ クと「形体の自然主義」 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 映 画 『 ア リ ス 』 を 撮 影 す る 前 に 、「 不 思 議 の 国 の ア リ ス 」と い う タ イ ト ル で 、映 画 の コ ン セ プ ト や 構 想 を 記 し た 覚 書 を 書 い て い る が 5 8 、 そ の 中 で 、「 ア リ ス の 《 夢 》 は 〈 ア リ ス の 部 屋 〉 の 中 で展開されなければならない」というまことに重要な指摘をしている。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ア リ ス の 《 夢 》 は 以 下 で 議 論 す る あ る 必 然 性 に よ っ て 、〈 部 屋 〉 の 中 で 57 キ ャ ロ ル 『 鏡 の 国 の ア リ ス 』、 1 2 0 . 赤 塚 若 樹 『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル と チ ェ コ ・ ア ー ト 』「 実 現 さ れ た 夢 の 世界 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル・ア ー ト の 正 し い 見 方・楽 し み 方 」 ( 未 知 谷 、 2 0 0 8 年 )、 1 5 . 58 67 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 展開されている(されなければならない)からである。 夢全体が、アリスの子ども部屋の中で展開されなければならず、 必 要 に 応 じ て 部 屋 は 大 き く な っ た り 、小 さ く な っ た り す る 。あ る と き に は 、部 屋 の 中 で 本 当 の 庭 が 広 が っ た り 、ま た あ る と き に は 、 おもちゃの庭になる。小川が流れたり、森林で一杯になったり、 あ る い は 四 方 の 壁 が 沿 岸 と な る よ う な 海 に な っ た り す る 。そ れ は 、 別 の 世 界 に な る の で は な く 、少 し ば か り 異 な っ て 調 合 さ れ た 、ア リスの子どもの世界なのである だが、アリスが意識する世 界 の 外 に あ る 世 界 で は な い 59。 (傍線は筆者による) ア リ ス の《 夢 》は〈 部 屋 〉の 中 で 展 開 さ れ な け れ ば な ら な い 。な ぜ な ら 、 ア リ ス の 《 夢 》 に は 、《 部 屋 》 の 外 部 = 「 ア リ ス が 意 識 す る 世 界 の 外にある世界」は存在し得ないからだ。 原 作 の ア リ ス は 、屋 外 で 夢 か ら 目 を 覚 ま す が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の『 ア リ ス 』で は 、ア リ ス は 部 屋 の 中 で 目 を 覚 ま す 。ア リ ス の 部 屋 に は 四方 を遮 る〈壁 〉が ない 。あ た かも〈 外 〉の 世界 の よう な〈 内〉なる世 界、それが〈アリスの部屋〉であり、またこれは、まさしく《夢》の世 界でもある。 先 の 覚 書 に お い て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は《 夢 》に つ い て 次 の よ う に述べている。 私 が 試 み る の は 、キ ャ ロ ル の 本 に 描 か れ て い る 夢 の 象 徴 を 解 明 す る こ と で は な く( キ ャ ロ ル 本 人 の 秘 め た 願 い を 解 説 す る こ と か ら 59 渡 邉 裕 之 編『 ヤ ン & エ ヴ ァ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 展 ア リ ス 、あ る い は 快 楽 原 則 』( エ ス ク ァ イ ア マ ガ ジ ン ジ ャ パ ン 、 2 0 0 7 年 )、 1 0 -11 . 68 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 始 め な け れ ば な ら な い の だ か ら 、な か な か う ま く は で き な い だ ろ う )、 映 画 の 形 で 、 考 え ら れ う る 限 り 最 高 の 真 正 さ を こ れ ら の 夢 に 与 え る こ と だ 。 別 の 言 葉 で 言 え ば 、「 形 体 の 自 然 主 義 」 と 夢 の ロ ジ ッ ク を 結 び 付 け る こ と 。目 の 覚 め た ア リ ス が 目 に す る 具 体 的 な 世 界 を (「 芸 術 家 の 筆 致 」 と い う 様 式 化 さ れ た も の に 変 形 さ せ る こ と な く )、ア リ ス が 自 分 の ま つ げ の 柵 越 し に 見 た 夢 の 世 界 へ 、 移し変えようとした のだ。つまり、これは幻想的な話でも、自由 ・ な 想 念 の 連 想 で も な く 、 純 然 た る 夢 な の だ 60。 (傍点はシュヴァンクマイエル、傍線は筆者による) ここでシュヴァンクマイエルが述べた「夢の象徴を解明する」とは、 夢 は 何 を 意 味 し て い る の か( 象 徴 し て い る の か )と い う 精 神 分 析 の こ と で あ る が 、彼 は 原 作 、あ る い は ル イ ス ・ キ ャ ロ ル の 精 神 分 析 学 的 解 明 を 目 指 し た の で は な く 、『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』 の 映 像 化 に お い て 、「『 形 体 の 自 然 主 義 』 と 夢 の ロ ジ ッ ク を 結 び つ け る こ と 」 を 目 的 と し た 61。 「 形 体 の 自 然 主 義 」と 夢 の ロ ジ ッ ク を 結 び つ け る こ と と は 、ど う い う こ と か 。 そ れ は 、「 ア リ ス が 目 覚 め た と き に 見 た 具 体 的 な 世 界 を 、《 夢 》 60 渡 邉 裕 之 編『 ヤ ン & エ ヴ ァ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 展 ア リ ス 、あ る い は 快 楽 原 則 』、 1 0 -11 . 6 1 第 1 章 に お い て も 既 に 言 及 し た 点 で は あ る が 、本 稿 は あ く ま で も シ ュ ヴ ァンクマイエルについての研究、すなわち、ルイス・キャロルに題材をと っ た シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の『 ア リ ス 』に つ い て の 研 究 で あ り 、 「不思議の 国 の ア リ ス 」、あ る い は キ ャ ロ ル の 研 究 と パ ラ レ ル で は な い こ と を 、再 び こ こで明言したい。 これまでの多くのアリス論では、アリスやキャロルの「夢の象徴を解明 すること」が議論と中心となっていた。しかしそれは、シュヴァンクマイ エ ル が 7 1 ペ ー ジ の 引 用 に お い て 真 っ 先 に 否 定 し て い る と こ ろ で も あ り 、ま た、彼の『アリス』は、これまでの解釈とは全く異なっているということ の証明でもある。 シュヴァンクマイエルの作品や発言をよく見ると、先行研究の視点(ア リスやキャロルの夢を解明しようとすること)は、方法論や前提の誤りに 気が付く。なぜなら、シュヴァンクマイエルはアリスの《夢》ではなく、 《現実》を描いたのだから 次章の主題であるエドガー・アラン・ポ ー「アッシャー家の崩壊」についても、これと同様のことが言える。 69 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 の 世 界 へ 移 し 変 え る こ と 」、 あ る い は 、 ア リ ス が 見 た 《 現 実 》 を 、 以 下 に 述 べ る ロ ジ ッ ク に よ っ て 、《 夢 》 の 世 界 へ 映 像 化 す る こ と で も あ る 。 こ の と き 注 意 し な け れ ば な ら な い の は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 映 像 化 し た 現 実 は 、ア リ ス が 見 た《 現 実 》で あ り 、通 常 の 、日 常 的 な 現 実( わ れ わ れ が 経 験 し て い る 物 質 的・質 料 的 世 界 )で は な い と い う こ と で あ る 。 彼 が 映 像 化 し た も の は 確 か に 現 実 で は あ る が 、そ れ は カ ッ コ 付 き の《 現 実 》で あ り 、実 際 に 日 常 生 活 で 体 験 し て い る よ う な 現 実 で は な い( 両 者 は よ く 似 て い る が 同 じ も の で は な く 、ま た 、違 う か ら と 言 っ て 全 く 別 の も の で も な い 。そ の 境 界 は 曖 昧 で あ り 、明 確 な 区 別 は で き な い の だ 。こ こで指摘される境界の曖昧性については第4章において詳しく議論す る )。 し た が っ て 、逆 説 的 で は あ る が 、映 像 化 さ れ た も の は 、ア リ ス が 見 た 単 な る 夢 で は な く 、ア リ ス が 見 た( し か も 、 「 目 覚 め た 瞬 間 に 見 た 世 界 」、 そ れ は「 ま つ げ の 柵 越 し に 見 た 夢 の 世 界 」と い う ) 《 現 実 》な の で あ り 、 そ れ は 、日 常 的 な 言 葉 、す な わ ち 、聴 覚 イ メ ー ジ( シ ニ フ ィ ア ン )に よ っ て デ フ ォ ル メ さ れ て い な い 、ま た 、象 徴 界 の 原 理 で 固 め ら れ て い な い 、 原始 的・原 初的 な《 現実 》で あ る( ま た それ は《 夢 》で も あ る)と言え る だ ろ う 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は ア リ ス の〈 目 〉を 通 し て 、私 た ち に 原 始 的 ・ 原 初 的 な 《 現 実 》 を 、《 夢 》 の よ う に 見 せ よ う と し た わ け で あ る 62。 62 こ こ で 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 発 言 を め ぐ る 解 釈 に つ い て 、先 行 研 究 と本稿との相違を明らかにしたい。 6 8 ペ ー ジ の 引 用 に お い て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 本 人 も( 映 画 に お い て 試みたのは) 「 形 体 の 自 然 主 義 と 夢 の ロ ジ ッ ク を 結 び 付 け る こ と 」と 述 べ て い る 通 り 、彼 が『 ア リ ス 』に お い て 描 い た の は 、 (夢のロジックに移し変え た 、 い わ ゆ る )《 現 実 》 で あ る こ と は 、 疑 い よ う が な い 。 しかし、先行研究中の論考においてはそうではない。シュヴァンクマイ エルの意図を逆に解してしまっている。 「映画のなかで描かれるのが〈夢〉であり、映画はその〈夢〉に現実 世界にあっても自然な姿をあたえることによって成立するとシュヴァ 70 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 第 5 節 《現実》と《現実界》 《 夢 》 の 中 で 遭 遇 す る 《 現 実 》 は 、〈 幻 想 〉 と い う 遮 蔽 膜 ( フ ィ ル タ プリミティヴ ー)に覆われていない原始的なものであるがゆえに、恐ろしく、また、 外 傷 的 で も あ る 。 精 神 分 析 学 者 の ス ラ ヴ ォ イ ・ ジ ジ ェ ク ( S l a voj Ži že k, 1 9 4 9 - )に よ る と 、現 実 か ら 逃 れ る た め に《 夢 》が あ る の で は な く 、 《 夢 》 あ る い は 《 現 実 》( 現 実 界 ) か ら 逃 れ る た め に 、 わ れ わ れ の 経 験 し て い る 世 界 、す な わ ち 、通 常 で 言 う と こ ろ の 現 実( 象 徴 界 )が あ る の だと言う。 ンクマイエルはいっている」 (『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル と チ ェ コ ア ー ト 』 16.) 「くり返して言えば、 〈 芸 術 〉作 品 に よ っ て み ず か ら の 夢 の 世 界 、空 想 の 世 界 を 現 実 の も の と し よ う と し て い る の だ 」( 同 上 、 2 9 . ) こ の 引 用 か ら も 明 ら か な よ う に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は ア リ ス の《 夢 》 を描いている、夢を現実の論理で見ているのだと解釈してしまっている。 そのうえ、このような見方、つまり、現実とは別ものの超現実的なものが 夢であるという二元論的思考では、夢と現実は全く別のものとなってしま う。しかしシュヴァンクマイエルは、夢と現実を隔てて考えてはいない。 さ ら に 加 え て 、次 の よ う に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 芸 術 を 一 種 の ギ ャ グ 、 真剣にばかをやっているプロセスだと捉えている。 「シュヴァンクマイエル・アートは一種のギャクを大まじめにやって いるそのプロセス、もっとありていにいうなら、真剣にばかをやって い る そ の プ ロ セ ス だ と い っ て み た い の だ 」( 同 上 、 2 9 . ) 「想像力や〈夢〉によって生みだされる世界 自分がそこに暮ら したい世界 に『アリス』という物語をとおして具体的なかたち をあたえたいということだ。とすれば、アリスはシュヴァンクマイエ ル以外の誰でもないということになるし、もしそうであるなら、映画 『アリス』には〈不思議の国のシュヴァンクマイエル〉という副題を あたえることさえできるかもしれない。いいかえれば、わたしたちは シュヴァンクマイエルが生きたいと願っている世界とそこに存在する だ ろ う 事 物 を〈 芸 術 〉と し て 楽 し ん で い る と い う こ と で も あ る 」 (同上、 32.) 繰り返しになるが、シュヴァンクマイエルが描いたものは《現実》であ り、現実を夢の論理・ラングで見てみたいと彼自身も述べているように、 決して不思議の国=シュヴァンクマイエルが夢見る世界ではないことを指 摘したい。 71 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 も し わ れ わ れ が「 現 実 」と し て 経 験 し て い る も の が 幻 想 に よ っ て 構造 化さ れて いる と した ら、そし て幻 想 が、わ れ われ が生 の〈現 実 界 〉に じ か に 圧 倒 さ れ な い よ う 、わ れ わ れ を 守 っ て い る 遮 蔽 膜 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ だ と し た ら 、現 実 そ の も の が〈 現 実 界 〉と の 遭 遇 か ら の 逃 避 と し て ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 機 能 し て い る の か も し れ な い 。夢 と 現 実 と の 対 立 に お い て 、幻 想 は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭 遇 す る 。つ ま り 、現 実 に 耐 え ら れ な い 人 た ち の た め に 夢 が あ る の で は な く 、 自 分 の 夢 ( そ の 中 に あ ら わ れ る 〈 現 実 界 〉) に 耐 え ら れ な い 人 の た め に 現 実 が あ る の だ 。こ れ が 、フ ロ イ ト が『 夢 判 断 』 の 中 で 例 に 挙 げ て い る 有 名 な 夢 か ら 、ラ カ ン が 引 き 出 し た 教 訓 で あ る 63。 上 記 に お い て ジ ジ ェ ク が 言 及 す る よ う に 、ジ ャ ッ ク ・ ラ カ ン は 、暴 力 的 な 現 実 界 と の 遭 遇 に 耐 え ら れ な い 人 た ち の た め に 現 実( 象 徴 界 )が あ る と 考 え た が 、こ こ か ら シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 主 要 テ ー マ に つ な げ る と、次のように表すこともできるよう 「 現 実 」、 そ れ は 触 覚 的 世 界から逃れるための視聴覚的世界である、と。 そ し て 、 私 た ち が 、〈 幻 想 〉 と い う フ ィ ル タ ー を 通 し て 見 て い る こ の 現実 は、ま さに《 夢 》の よう な《現 実 》に他 なら ない 。キャ ロル の『 鏡 の 国 の ア リ ス 』 は 、「 生 き る そ れ は 夢 で な く し て な ん で あ ろ う 」 6 4 と い う 一 節 で 閉 じ ら れ て い る が 、こ の 言 葉 を 目 に 見 え る 形 で 教 え る の が 、シ ュヴァンクマイエルの作品に他ならない。 シ ュ ー ル レ ア リ ス ム に 深 い 造 詣 が あ る シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、超 現 実 主 義 的 な 表 現 方 法 、す な わ ち 、現 実 の 中 に 現 実 を 超 え た も の 、つ ま り 63 ジ ジ ェ ク , ス ラ ヴ ォ イ 「〈 現 実 界 〉 を め ぐ る 厄 介 な 問 題 『エイリア ン』を観るラカン 」『 ラ カ ン は こ う 読 め ! 』 鈴 木 晶 訳 ( 紀 伊 國 屋 書 店 、 2 0 0 8 年 )、 1 0 1 . 64 キ ャ ロ ル 『 鏡 の 国 の ア リ ス 』、 1 2 1 . 72 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 “s ur r éa l ” な も の を 見 出 す こ と に よ っ て 、 『 ア リ ス 』を 制 作 し た 。作 ら れ た 映 像 を 一 見 す る と 、描 写 そ の も の は 写 実 的 で は あ る が 、そ れ は 日 常 的 な 現 実 そ の も の で は な い 。夢 か 現 実 か … … ど こ の〈 ト ポ ス 〉の 映 像 か 、ど こ の〈 ト ポ ス 〉で 行 わ れ て い る こ と な の か … … そ の 境 界 が は っ き り し な い 描 き 方 、 判 然 と し な い よ う な 描 き 方 、 こ こ に は 、『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』 は 、「 幻 想 世 界 を 描 い た お と ぎ 話 」 で は な く 、 日 常 世 界 の 《 夢 》 の 表出であることを強く意識したシュヴァンクマイエルの解釈が垣間見 え る 65。 第 6 節 『アリス』の〈トポス〉について ル イ ス ・ キ ャ ロ ル の 原 題 は A l i c e' s A d ve n t ure s i n Wo n d e rl a n d と な っ て い る 。 す な わ ち 、 ア リ ス の 物 語 は す べ て Wo n d e rl a nd で 起 こ っ て い る 。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の『 ア リ ス 』も 、ア リ ス の 子 供 部 屋 で「 事 件 」が 展 開 さ れ て い く 。そ こ で は 夢 か 現 実 か 、判 然 と し な い 。す べ て が 夢 で あ り 、か つ 現 実 で も あ る 。そ の 様 な 不 可 思 議 な 時 空 間 こ そ が 、彼 ら の 作 品 に 共 通 す る 重 要 な〈 ト ポ ス 〉な の で あ る 。そ の 様 な 不 可 思 議 な〈 ト ポ ス 〉 を 、 ま さ し く キ ャ ロ ル は Wo n d er l a nd と 呼 ん だ の で あ る 。 Wo nd e rl a nd と いう言葉にはその様な思いが込められている。 と こ ろ で 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の『 ア リ ス 』で は 、先 の 引 用 に お い てシュヴァンクマイエルの発言から見られるように、 「形体の自然主義」 と 夢 の ロ ジ ッ ク を 結 び 付 け 、目 の 覚 め た ア リ ス が 目 に す る 具 体 的 な 世 界 ( = 現 実 )を 、ア リ ス が 自 分 の ま つ げ の 柵 越 し に 見 た 夢 の 世 界 へ 、移 し 変 え よ う と し た 。 こ れ こ そ 、『 ア リ ス 』 に お い て 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ルが一番表現をしたかった本質的なところであると考えられる。 65 渡 邉 裕 之 編 『 ヤ ン &エ ヴ ァ は 快 楽 原 則 』、 9 7 . シュヴァンクマイエル展 73 アリス、あるい 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 そ れ で は 、ア リ ス が 目 覚 め た の は い つ ・ ど こ で( 場 所 = ト ポ ス )だ ろ うか。 ア リ ス が 目 覚 め た 時 ・ 場 所 は ( 夢 の 中 で は な く )《 現 実 》 で あ る 。 シ ・ ・ ・ ・ ・ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 映 画『 ア リ ス 』に お い て 、そ れ を《 夢 》に 置 き 換 え た 。 『アリス』が展開されている〈トポス〉 それは完全なる《夢》 で は な い 、 か と い っ て 完 全 な る 《 現 実 》 で も な い 。《 夢 》 と 《 現 実 》 の 境界 ……《 夢》と《 現実》の境 界 がな く なっ た〈ト ポ ス〉… …こ れは 夢 なのだろうか……現実なのだろうか……シュヴァンクマイエルが先の 引 用 に お い て「 形 体 の 自 然 主 義 と 夢 の ロ ジ ッ ク を 結 び 付 け る 」と 述 べ た の は 、ま さ に こ の こ と に 他 な ら な い 。だ か ら『 ア リ ス 』は「 幻 想 的 な 話 ・ で も 、 自 由 な 想 念 の 連 想 で も な く 、 純 然 た る 夢 な の だ 」。 夢 か 現( う つ つ )か 、こ の よ う な 不 思 議 な 時 空 間 は 、日 本 の 芸 術 に お い て 、人 間 存 在 の 最 深 の 事 態 が 展 開 さ れ る 場 所( ト ポ ス )と し て 、古 来 最 も 重 視 さ れ て き た と こ ろ で あ る 。我 々 は 直 ち に 能 を 思 い 起 こ す で あ ろ う。周 知の よ うに、とく に世 阿弥 の『 井 筒』に 代表 さ れる「 夢幻 能」と はすべてその様な〈トポス〉で展開されているものである。 古 来 日 本 で は 、 夕 暮 れ 時 の あ る 一 瞬 の 、 明 る み と 暗 み の 渾 然 一 体 66と し て 区 別 で き な い 不 可 思 議 な 時 空 間 を 、 ト ポ ス を 、「 大 禍 時 」( お ほ ま が とき)と呼んだ。それは謂わば、夢と現(うつつ)とが、生と死とが、 渾 然 一 体 と し て 、ま っ た く 区 別 で き な い 異 次 元 時 空 間 で あ る 。具 体 的 に は 夕 暮 れ 時 の あ る 一 瞬 、夕 暮 れ 時 の 明 る み と 暗 み と が そ の 境 界 を な く し 渾 然 一 体 と 化 し た 一 瞬 、 そ の 様 な 不 思 議 な 時 空 間 に 迷 い 込 む 。( な お 、 そ こ で の ト ポ ス は 何 故 か 、明 る み と 暗 み の 渾 然 一 体 と し た 明 け 方 の 一 瞬 「渾然一体」とは、よく言われているように、明と暗が混在をなして い る と い う よ う な 二 元 論 / 実 体 論 / 原 子 論 で は 決 し て な い 。も は や 、区 別 が つ か な い 、区 別 す ら な い 、そ の よ う な 状 態 が「 渾 然 一 体 」で あ る 。明 る み と 暗 み が「 渾 然 一 体 」と な っ た ま さ に そ の と き 、そ れ ま で の ト ポ ス から、異次元の時空間へ つまり、別の〈トポス〉へと迷い込むの だ。 66 74 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 と 繋 が っ て い る 。だ か ら 、異 次 元 時 空 間 で 展 開 さ れ て い た「 夢 幻 能 」の 世 界 は 、突 如 明 け 方 に 終 了 し 、ワ キ と し て の 旅 の 僧 に は「 現 実 」だ け が 取 り 残 さ れ る の で あ る 。) な お 、同 じ よ う な 意 味 で 、そ の 様 な 不 可 思 議 な〈 ト ポ ス 〉を 沖 縄 本 島 で は「 あ こ ー く ろ ー 」と か「 ゆ さ に り 」と 言 い 、八 重 山 の 波 照 間 島 で は 「 あ や ふ ふ ぁ み 」と 言 う 。つ ま り 、普 遍 的 に 日 本 人 は 、こ の よ う な ト ポ スの存在を身体的に知り、永年生き継いできたのである。 本 章「 お わ り に 」の 節 で シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の イ ン タ ビ ュ ー 記 事 を 載 せ た が 、そ こ に あ る よ う に 、彼 が 日 本 の 能 や 人 形 浄 瑠 璃 な ど 、古 典 芸 能 に 異 常 な 関 心・感 動 を 示 す の も 、彼 が「 夢 と 現 実 の せ め ぎ 合 い 」と 呼 ぶ そ の 芸 術 の 本 源 と ま っ た く 通 底 す る と こ ろ を 、日 本 の 古 典 芸 術 の〈 ト ポス〉に見、震えるほどの感動を彼が得ただろうことが想定される。 おわりに シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の『 ア リ ス 』は 、キ ャ ロ ル に よ る 原 作 の 形 式 的 な 構 造 を 再 現 し て い る 類 の 作 品 で は な い 。 彼 の 『 ア リ ス 』 に は 、『 不 思 議の国のアリス』から読み取られた本質が無駄なく映像化されており ( 逆 に 言 え ば 、 本 質 以 外 は 排 除 さ れ て い る )、 原 作 の 形 式 的 な 構 造 は 再 現 さ れ て い な く と も 、む し ろ 、原 作 の 精 神・意 図( 夢 か 現 実 か 、境 界 の 曖昧性)は忠実に再現されていると言える。 ま た 、映 画 の ク レ ジ ッ ト に も I N S P IR E D B Y L EW IS C A R R O L L 'S A L I C E IN WONDERLAND と あ る よ う に 、 キ ャ ロ ル の 『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』 は 、映 画 に お け る 原 作 と い う よ り 、ひ と つ の イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン で あ る 。 邦 題 は 『 ア リ ス 』 で あ る が 、 チ ェ コ 語 原 題 は “ N ě c o z A l e n k y” 、 こ れ を 英 訳 す れ ば “ S o me t hi n g f r o m A l i c e ” と な り 、こ の “ S o me t h i n g” 、す な わ ち 、 〈表 現 す る も の = A l i c e i n Wo n de r l a n d 〉 で は な く 、〈 表 現 さ れ た も の = 75 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 S o me t hi n g 〉 が 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に と っ て 重 要 と 言 え る だ ろ う 。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、日 常 的 な こ の 現 実 に 揺 さ ぶ り を か け 、あ る 種 の 〈 異 化 作 用 〉、 す な わ ち 、 日 常 的 に 存 在 す る も の の 非 日 常 的 側 面 を 示 し 、そ れ ら を 芸 術 的 感 動 へ と 昇 華 さ せ る こ と に よ っ て 、あ る い は 、ジ ジ ェ ク 的 に 言 う な ら ば 、現 実 を「 斜 め か ら 見 る 」こ と に よ っ て 、そ こ に 亀 裂 を 入 れ る こ と に な る 。さ ら に 、言 語 論 的 解 釈 を す る な ら ば 、こ れ ま で の 言 語・ラ ン グ 体 系 で は な い 、 《 触 覚 》と い う 異 な っ た 、新 し い 意 味 ・ 価 値・文 化 体 系 を 通 し て 世 界 を〈 見 る 〉こ と に よ っ て 、原 始 的・原 初 的 な 《 現 実 》( あ る い は 《 夢 》) を 表 現 し て お り 、 こ れ は ま た 、 彼 の 諸 作 品 に 共 通 し て い る 哲 学 で も あ る 。《 夢 》 の 中 で の 日 常 の 論 理 を 超 え た 真 新 しい《現実》との遭遇は、日常の論理からの解放を意味する。 2 011 年 2 月 1 7 日 、 映 画 「 サ ヴ ァ イ ビ ン グ ラ イ フ 生 夢は第二の人 」P R の た め に 来 日 し た シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、東 京 都 写 真 美 術館で開催された「第3回 恵比寿映像祭」の記者会見において、講演 参加者からの質問に回答する形式で、次のことを述べていた。 質 問 者 :「 今 回 の 映 画 は 現 実 と 夢 の せ め ぎ 合 い が 描 か れ て い る 。 このテーマは日本の古典芸能である能に通じる世界観でもある が、刺激を受けた作品と新たに挑戦したことは?」 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル :「 能 を は じ め と し た 日 本 の 古 典 芸 能 、 歌 舞伎・人形 浄瑠 璃・文楽 に兼 ねて から 惹 かれ てお り、来 日し た際 は 可 能 な 限 り 舞 台 を 見 に 行 っ て い る 。夢 と 現 実 の せ め ぎ 合 い に つ い て は 、日 本 の 古 典 演 劇 に も 宿 っ て い る 主 題 で あ る が 、こ れ は か ねてより自分もテーマとしてきたものである。 今 回 の 映 画 で は 、夢 と 現 実 を そ の ま ま 捉 え た 映 画 を 撮 り た か っ 76 第 3 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《夢》 た 。夢 と 現 実 は 明 確 に は 区 別 で き な い 、な い ま ぜ な も の で あ る か ら。 し か し 、現 代 人 は 夢 を 忘 れ が ち で あ る 。現 実 と 平 等 に 、平 行 に 、 ( も し く は そ れ 以 上 の 価 値 を 持 っ て )夢 に 対 し て 向 き 合 う べ き だ 。 私 は 夢 の 価 値 を 向 上 さ せ る た め に こ の 映 画 を 撮 っ た 。」 6 7 こ の よ う に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、人 間( 特 に 現 代 人 )の《 夢 》に 対 す る 偏 見 ・ 軽 視 ・ 過 小 評 価 を 嘆 い て い る 。《 夢 》 と 《 現 実 》 は 非 連 続 的 な も の で は な い 、《 夢 》 と 《 現 実 》 は 連 続 し て い る 。《 夢 》 は 《 現 実 》 で あ り 、《 現 実 》 は 《 夢 》 で あ る こ と を 強 調 し て 、 本 論 考 を 終 え る こ と としたい。 67 「第 3 回 恵比寿映像祭」にて、会場での発言記録を遠藤が筆記記録し た個人資料。 77 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 「アッシャー家の崩壊」と「幽霊宮」について 《「 理 性 」 が 「 狂 気 」 の 記 憶 を 、 彼 の 口 述 の も と に 書 き と る 》、 二 重 と な っ たひとりの人間が、彼の行為をもうひとつの行為の上に投影しながら行動 する、自分自身をまのあたりにするのである。 ( P・ J・ ジ ュ ー ヴ 『 夢 と エ ロ ス の 構 造 』 よ り ) 68 はじめに 《 存 在 の 境 界 》は 曖 昧 で あ る 。日 常 か ら 非 日 常 へ 、そ し て 再 び 日 常 へ 戻 る と い う 立 体 的 三 次 元 構 造 の 中 で は 、原 初 性 へ の 完 全 回 帰 は あ り 得 な い。 本 章 で は 、エ ド ガ ー ・ア ラ ン・ポ ー の 原 作 を も と に 映 像 化 さ れ た 、同 タ イ ト ル の 短 編 映 画「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」と 、そ の 中 で 、テ ク ス ト と 映 像 双 方 に お い て 、作 品 の 中 心 と な っ て い る 「 幽 霊 宮 」 と い う 詩 に つ い て 、《 生 物 》 と 《 無 生 物 》 の 境 界 の 曖 昧 性 の 問 題 、 ソ シ ュ ー ル の 言 語 学 的 問 題 、お よ び 〈 言 語 〉 と 認 識 や 存 在 の 問 題 に 言 及 し 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 創 作 の 本 質 に 、〈 近 代 批 判 〉 が あ る こ と を 示 す 。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、1 9 8 0 年 、エ ド ガ ー・ア ラ ン・ポ ー( E d ga r A l l a n P oe , 1 80 9 -1 8 4 9 )の 短 編「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 ( 原 作 E d ga r A l l a n Po e , Th e F al l of t h e H ou s e of U s he r , 1 8 39 . 映 画 J an Š va n k maj er チ ェ コ 語 原 題 : Z án i k d o m u Us h e rů , 1 9 80 , 1 6 分 , モ ノ ク ロ )の 卓 越 し た 映 像 化 に 成 功 し た 。 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」は 、原 作 者 で あ る ポ ー 自 身 が 最 も 愛 し た 最 良 68 ジ ュ ー ヴ 、P・ J『 夢 と エ ロ ス の 構 造 』谷 口 正 子 訳 ( 国 文 社 、1 9 9 0 年 )、 56. 78 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 の 作 品 で あ る だ け で な く 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に よ っ て 映 像 化 さ れ た 作 品 も 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 自 身 に よ っ て 、最 良 の 作 品 の 一 つ で あ る と考えられている。 本 論 考 で は 、ま ず 、ポ ー と シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 出 会 い 、そ の 接 触 が い か な る も の で あ っ た か に つ い て 触 れ 、最 初 に 、ポ ー の 重 要 な メ ッ セ ー ジ =「 無 機 物 に も 知 覚 が あ る 」と い う 生 命 論 に 言 及 す る 。次 に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 で 重 要 な 意 味 を 有 す る と 思 わ れ る 、映 像 に お け る ナ レ ー シ ョ ン と 、そ の 時 に 見 え る 映 像 に つ い て 言 及 す る 。さ ら に 、作 品 の 中 心 と な る 詩「 幽 霊 宮 」に つ い て の 考 察 を し 、そ し て 最 後 に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」の 作 品 全 体 の 構 造 を 分 析 す る 。 そ の 構 造 分 析 か ら 、ポ ー の テ ク ス ト が 潜 在 的 に 所 持 し て い る《 日 常 →非 日 常 →日 常 … … 》と い う ス パ イ ラ ル 構 造 を 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も ま た 、そ れ が ポ ー の テ ク ス ト の 最 も 重 要 で 本 質 的 な と こ ろ で あ る と 捉 え て 、 自 ら の 映 像 作 品 に お い て も 、そ の 構 造 を 模 倣 し て い る こ と を 明 ら か に し たい。 第1節 エドガー・アラン・ポーと「アッシャー家の崩壊」 エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー の 代 表 的 な 短 編 と し て 知 ら れ る「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 " T he F al l of t h e H o u se of Us h er " は 、 1 8 39 年 『 バ ー ト ン ズ ・ ジ ェ ン ト ル マ ン ズ ・ マ ガ ジ ン 』9 月 号 に 掲 載 さ れ 、1840 年 に 発 刊 さ れ た ポ ー の 小 説 集『 グ ロ テ ス ク と ア ラ ベ ス ク の 物 語 』の 中 の 一 編 と し て 収 録 さ れた。 旧 友 ロ デ リ ッ ク・ア ッ シ ャ ー と 妹・マ デ ラ イ ン が 二 人 で 住 む 屋 敷 に 招 か れ た 語 り 手 が 、そ こ に 滞 在 す る う ち に 体 験 し た 怪 奇 な 出 来 事 が 描 か れ ている。 79 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 語 り 手 は 、旧 友 で あ る ロ デ リ ッ ク か ら 突 然 の 招 待 を 受 け 、荒 涼 と し た 景 色 の 中 に 建 つ ア ッ シ ャ ー 家 に 辿 り 着 く 。数 年 ぶ り に 会 っ た 旧 友 は か つ て の 面 影 を 残 し な が ら も 、神 経 を 病 ん で い る た め か す っ か り 様 子 が 変 わ っ て い た 。最 愛 の 妹 マ デ ラ イ ン が 死 に 瀕 し て お り 、そ れ が 病 の 原 因 と な っているということであった。 語 り 手 は ア ッ シ ャ ー 家 に 滞 在 し 、そ の 間 、と も に 書 物 を 読 ん だ り 、ロ デ リ ッ ク の 弾 く ギ タ ー を 聴 い た り し て 時 を 過 ご す 。や が て あ る 晩 、ロ デ リ ッ ク は 妹 マ デ ラ イ ン が つ い に 息 を 引 き 取 っ た こ と を 語 り 手 に 告 げ 、二 人 は そ の 亡 骸 を 棺 に 納 め 、地 下 室 に 安 置 す る 。マ デ ラ イ ン の 死 に よ っ て 、 ロデリックの錯乱は一層悪化していく。 そ れ か ら 一 週 間 程 経 っ た 晩 、二 人 は 屋 敷 の 窓 か ら 、こ の 屋 敷 全 体 が ぼ ん や り と 光 る 雲 に 覆 わ れ て い る の を 見 た 。こ の 怪 異 な 光 景 が ロ デ リ ッ ク の 病 状 を 悪 化 さ せ る こ と を 恐 れ た 語 り 手 は 、ラ ン ス ロ ッ ト ・ キ ャ ニ ン グ の 『 狂 気 の 遭 遇 』 (架 空 の 文 学 作 品 )を 朗 読 し 、 ロ デ リ ッ ク の 注 意 を 逸 ら そ う と す る が 、物 語 を 読 み 進 め る う ち 、語 り 手 は 屋 敷 の ど こ か か ら 不 気 味な音が響いていることに気が付く。 そ の 音 は 徐 々 に 大 き く な り 、や が て は っ き り と 聞 こ え る よ う に な る と 、 ロ デ リ ッ ク は そ れ が 、妹 マ デ ラ イ ン が 棺 を こ じ 開 け 、地 下 室 を 這 い 登 っ て く る 音 で あ っ て 、自 分 は 妹 を 生 き て い る と 知 り な が ら 棺 の 中 に 閉 じ 込 めてしまったのだと告白する。 や が て 重 い 扉 が 開 き 、死 装 束 を 血 で 汚 し た マ デ ラ イ ン が 現 れ る と 、彼 女 は 兄 に の し か か り 、ロ デ リ ッ ク を 殺 し て し ま う 。恐 怖 に 駆 ら れ た 語 り 手 は 、屋 敷 を 飛 び 出 し て 逃 げ て 行 く 。背 後 で ア ッ シ ャ ー の 屋 敷 は 、そ の 亀 裂 か ら 月 の 赤 い 光 を 放 ち な が ら 轟 音 を 立 て て 崩 れ 落 ち 、淀 ん だ 沼 の 中 に飲み込まれてしまった…… 80 第4章 第 2 節 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 ポーとシュヴァンクマイエルの出会い シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」は 、ポ ー の 原 作 で あ る テ ク ス ト の 大 筋 を 比 較 的 忠 実 に 映 像 化 し 、成 功 し た 作 品 で あ る と 評 価 さ れ て い る 。 ポ ー も シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 の 世 界 に 心 惹 か れ 、ま た 、そ の 小 説 化 ・ 映 像 化 が と も に 成 功 し て い る と い う こ の 幸 福 な 出 会 い は 、 如 何 に し て 生 じ た の か 69。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、ポ ー の テ ク ス ト か ら 何 を 読 み 取 り 、そ の と き 読 み 取 ら れ た も の は 、ど の よ う に 映 像 化 さ れ て い る の だ ろ う か 。そ し て 、そ の 映 像 化 さ れ た も の と ポ ー の テ ク ス ト を 比 較 し た 場 合 、そ こ に 如 何 な る 評 価 を 与 え る ことが可能なのか。 これらの問いに対しては、ポーのテクストの中に登場する「幽霊宮」 T he H a un t ed P al ac e と い う 詩 の 直 後 に 書 か れ て い る テ ク ス ト か ら 、 そ の 答えを類推することができる。 ・・・あらゆる植物には知覚があるとする もの。しかし錯乱した 彼 の 脳 裏 で は 、こ の 考 え は さ ら に 大 胆 な 性 格 を 帯 び 、あ る 条 件 の も と で は 、そ れ が 無 機 物 の 世 界 に も 適 用 さ れ る と い う の で あ っ た 。 (中略) 無機物にも知覚があるとする証拠は 彼の語るところによれ ば ( そ し て そ れ を 聞 い て 私 は 慄 然 と し た の だ が )、 沼 や 水 や 壁 に ま つ わ る 独 自 の 妖 気 が じ わ じ わ と 、だ が 確 実 に 凝 縮 し つ つ あ る 事 実 に 求 め ら れ る 、 と い う 70。 パレス シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル と ポ ー の 出 会 い 、 相 似 点 に つ い て は 、「 ≪ 宮 ≫ の 崩壊 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」と エ ド ガー・ アラン・ポー「幽霊宮」について 」(『 国 際 文 化 表 現 研 究 6 号 』、国 際 文 化 表 現 学 会 、2 0 1 0 年 、2 8 0 - 2 9 2 . )に お い て 既 に 言 及 し た 。 70 ポ ー , エ ド ガ ー ・ ア ラ ン『 黄 金 虫 ・ ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 』八 木 敏 雄 訳 ( 岩 波 文 庫 、 2 0 0 6 年 )、 1 8 6 -1 8 7 . P o e , E d g a r A l l an . T h e F a l l o f t h e H o u s e o f U sh e r. N e w Yo rk : Vi n t a g e B o o k s , 1 9 7 5 , 2 3 9 . 69 81 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 こ の 「 無 機 物 に も 知 覚 が あ る 」 と い う 認 識 、 す な わ ち 、「 無 機 物 も 生 き て い る 」と い う 考 え 方 は 、そ れ ま で ア ニ メ ー タ ー と し て 、石 や 粘 土 や 肉 片 な ど 、さ ま ざ ま な モ ノ を 動 か し 、映 像 作 品 を 作 り 続 け て き た シ ュ ヴ ァンクマイエルにとっては無視できない、かつ、ポーに共感を持った、 衝 撃 的 な 言 葉 だ っ た の で は な い だ ろ う か 。 そ し て 、「 無 機 物 に も 知 覚 が あ る 」こ と を 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、自 ら の 映 像 制 作 の 経 験 を 通 し て実感していたに違いない。 も ち ろ ん こ れ は 、一 般 的 に 見 れ ば 、錯 綜 し た 考 え 方 か も し れ な い 。し かし、石を彫る彫刻家や、粘土を扱うシュヴァンクマイエルにとって、 石 や 粘 土 は 、一 般 人 が 認 識 す る も の と は 、当 然 異 な っ て し か る べ き で あ る 。そ れ は 単 に 、思 い 入 れ が あ る と い っ た 次 元 の 話 で は な い 。英 語 で 言 え ば “i n t e r s u bj ec t i ve ” に 、 つ ま り 、 相 互 主 体 的 に 、 石 や 粘 土 が 真 実 親 密 に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に 語 り か け る 瞬 間 が あ る 、と い う 意 味 に お い て である。 ポー の「ア ッシ ャ ー 家の 崩壊」の場 合 は 、家( 建物)と、そ こに 住ん で い た 人 々 と の 特 徴 の 不 思 議 な 一 致 が 、テ ク ス ト の 中 で も 書 か れ て い る 。 こ の 建 物 の 特 徴 と 、世 間 が そ う だ と し て い る こ の 建 物 の 住 人 の 特 徴 と が 完 全 に 一 致 し て い る の は 何 故 か 71 家や石の配置そのものが建物の住人の特徴と不気味にも完全に一致 す る 、つ ま り 、家 は あ る 種 の 生 命 を 持 っ て い る 、家 に 生 命 が 宿 っ て い る 。 ア ッ シ ャ ー は そ の 生 命 を い つ も 感 じ な が ら 、錯 乱 状 態 で 生 き て い る 、と いうことなのである。 こ の ア ッ シ ャ ー の 状 態 は 、現 在 の 人 類 が 所 持 し て い る 科 学 的 生 命 観 と 71 ポ ー 『 黄 金 虫 ・ ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 』、 1 7 0 . P o e , T h e F a l l o f t h e H o u s e o f U s h e r. 2 3 2 . 82 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 は 、相 反 す る も の だ と 言 え る 。わ れ わ れ の 世 界 で は 、ま ず 動 く も の 、そ の 中 で も 人 間 が 最 高 位 に 位 置 付 け ら れ 、次 に 動 物 、そ の 次 に 植 物 が 命 あ る も の と し て 評 価 さ れ て い る 。さ ら に 言 え ば 、微 生 物 や 細 菌 類 も 、実 は 生 き て い る の で あ る が 、一 般 的 な 認 識 で は 、人 間 を 含 む 動 物 と 植 物 は 異 な る も の 、 別 の も の と さ れ て い る 72。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も ポ ー も 、オ ー ト ポ イ エ ー シ ス 論 の よ う な 現 代 科 学 の 生 命 論 や 生 物 学 の 議 論 が 起 こ る 前 に 、直 観 的 に こ う し た 問 題 、す ・ ・ ・ ・ な わ ち 、生 物 と 無 生 物 を 常 識 的 に 端 か ら 分 別 し て い る 無 意 味 さ に 気 付 き 、 し か も 、わ れ わ れ を 取 り 巻 く 世 界 の 実 相 、わ れ わ れ が そ の 中 で ま さ に 生 き て い る 世 界 の 真 相 に 対 し て 独 自 に そ の 答 え ま で 出 し て い る 。す な わ ち 、 「 無 機 物 も 生 き て い る 」。 ポ ー は さ ら に 、「 本 能 vs . 理 性 黒い猫について」というエッセーで は、動物にも思惟の力があると信じ、小さな虫の集まりにも関わらず、 一 つ の 意 志 で 動 く か の よ う な「 サ ン ゴ 」や 、最 大 の 空 間 を 得 た 上 で 、最 高 の 強 度 を 有 す る「 蜂 の 巣 」の 不 思 議 に つ い て も 述 べ て い る 。こ の よ う な 問 題 を 所 持 し て い る ポ ー の テ ク ス ト に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 無 関 心 で あ っ た は ず が な い 73。 72 最 新 の 生 命 論 で あ る オ ー ト ポ イ エ ー シ ス 論 で は 、外 力 や プ ロ グ ラ ム な ど 、 外 か ら の 指 示・操 作 を 一 切 借 り な い で 、す な わ ち「 ひ と り で に 」 ( オ ー ト )、 自分で自分を制作していく(ポイエーシス)のが、生物であると定義され る。だから、一般的な常識とは異なり、生命には「入力も出力もない」と いうこととなる。さらには、このシステム作動によって、自己の身体=生 命システムの外側・外部に、自己システムの作動とは矛盾しない「環境」 を自然に作り出すことになる、と主張する。ポーが現代に生きていたら、 このような先端科学の生命論に大きな関心を示したことは想像に難くない。 73 ポ ー の 関 心 は 、ま っ た く 現 代 科 学 の 先 鋭 な 生 物 学 者 の 関 心 と 一 致 し て い て 興 味 深 い 。 例 え ば 、 世 界 的 に 有 名 な 南 方 熊 楠 ( 1 8 6 7 -1 9 4 1 ) の 粘 菌 に 関 す る 研究は、ポーとまったく同じ観点からの研究である。棲息条件の変化など に応じて、粘菌のように、個体が離合集散し、全く別の個体としか考えら れない生物に変身したりする例は多く知られている。例えば、一般に猛毒 クラゲとして知られているカツオノエボシは、実は、ヒドロ虫という個虫 が 寄 り 集 ま っ て( 共 生 )、群 体 を 形 成 し 、 巨 大 な 一 個 の 生 命 体 ( 共 生 態 ) を 作 り 出 す 。 ま た 、 人 間 個 体 さ え 、 そ も そ も 、 60 兆 個 の 「 生 き た 細 胞 」 の 共 83 第4章 第 3 節 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 シュヴァンクマイエルの映像とナレーションについて 次 に 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 の 映 像 と ナ レ ー シ ョ ン の 関 係 に つ い て 幾 つ か の 点 を 指 摘 し た い 74。 ま ず 、 ポ ー の テ ク ス ト と 異 な り 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 に は 、人 物( 人 間 の 役 者 )は 登 場 し な い 。彼 の 映 像 に お い て 、ポ ー の 小 説 の 中 で の 語 り 手 と ア ッ シ ャ ー の 会 話 は ナ レ ー シ ョ ン に よ っ て 処 理 さ れ て お り 、ア ッ シ ャ ー の 人 物 は な く 、ア ッ シ ャ ー が 座 っ て い る ( い た ) と 考 え ら れ る 〈 椅 子 〉 が 映 し 出 さ れ る 。〈 椅 子 〉 を 生 命 体 と 見 立 て て い る と い う 隠 喩 的 解 釈 も 可 能 か も し れ な い が 、こ こ は や は り 、そ の〈 椅 子 〉が 、換 喩 的・連 辞( ソ シ ュ ー ル に よ る 言 語 学 的 解 釈 )・ 置 き 換 え( フ ロ イ ト に よ る 精 神 分 析 学 的 解 釈 )と し て ア ッ シ ャ ー 本 人 を 表 現 し て い る 、す な わ ち 、ア ッ シ ャ ー が〈 椅 子 〉に 置 き 換 え ら れ て い る 、 と見るべきであろう。 そ し て 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 の 中 心 に あ る 「 幽 霊 宮 」( こ れ は 、ポ ー の 小 説 の 中 心 で も あ る )と い う 詩 が 朗 読 さ れ る 箇 所 で は 、粘 土 に よ る ア ニ メ ー シ ョ ン が 登 場 す る 。そ の 映 像 は 、一 般 的 に は 何 を 表 し て い る か よ く 分 か ら な い 、判 別 で き な い 、ま た 、あ る 具 体 的 な 形 象 を 表 し た も の で は な い 、と も 考 え ら れ る が 、こ の 抽 象 化 に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エルが全知全能を傾けたことは、次の引用からも明らかである。 エド ガー・アラ ン・ポー の短 編小 説に 着 想を 得た 映画『 アッ シャ ー 家 の 崩 壊 』の な か で 、私 は こ の 短 編 小 説 の 一 部 と な っ て い る 詩 「 魔 の 宮 殿 」(「 幽 霊 宮 」) を 解 釈 す る た め に 、 粘 土 に 押 し つ け る 生 態 で あ る 。 こ こ か ら は 、「 個 」 と は 何 か 、「 共 生 」 と は 何 か 、 そ も そ も わ れわれの認知している生命体とは何か、というような、ポーが先鋭にも気 付いていた生命に関する本質的課題が生じてくる。 7 4 「 幽 霊 宮 」に お け る シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 と ナ レ ー シ ョ ン の 関 係 については、 「 ≪ 宮 (パ レ ス )≫ の 崩 壊 ヤ ン・シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」と エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー「 幽 霊 宮 」に つ い て 」 (『 国 際 文 化 表 現 研 究 6 号 』、 国 際 文 化 表 現 学 会 、 2 0 1 0 年 、 2 8 0 - 2 9 2 . ) に おいて既に言及した。 84 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 アナロジー 触 覚 の 手 ぶ り と い う テ ク ニ ッ ク を も ち い た 。詩 は 類 推 と い う 方 法 で、ア ッシ ャー の精 神状 態の 変容 を表 現 して いる。これ は、狂気 の は じ ま り を 想 起 さ せ る 詩 だ 。そ れ が あ ら わ し て い る の は 、知 ら ず 知 ら ず の う ち に 、そ の 狂 気 が ど う な る か を 感 じ て い る ア ッ シ ャ ー が 、そ れ に 立 ち 向 か う こ と が で き な い と い う こ と な の だ 。だ か ら 、こ の 詩 は 短 編 小 説 に お い て も 、私 の 映 画 の 構 想 に お い て も た いへん重要な役割を担っている。これは類推における類推だ。 (中略) ア ニ メ ー シ ョ ン 全 体 に よ っ て 、私 は 相 当 の 精 神 的 消 耗 へ と 導 か れ た 75。 こ こ で 、「 類 推 の 類 推 」 と い う 意 味 を 以 下 で 解 剖 す る 。 先 ほ ど 筆 者 は 抽 象 化 と 述 べ た が 、そ れ は「 幽 霊 宮 」解 釈 へ の ア ニ メ ー シ ョ ン 制 作 の 手 法 か ら の 当 然 の 帰 結 で あ る 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 上 アナロジー の 発 言 の よ う に 、ポ ー の「 幽 霊 宮 」は「 類 推 と い う 方 法 で 、ア ッ シ ャ ー の 精 神 状 態 の 変 容 を 表 現 し て い る 」の で あ る が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、「 粘 土 に 押 し つ け る 触 覚 の 手 ぶ り と い う テ ク ニ ッ ク を 用 い る 」 と い う 彼 独 特 の 類 推 方 法 に よ っ て 、 さ ら に 、 (既 に 類 推 法 の 施 さ れ た )ポ ー の 「 幽 霊 宮 」を 解 釈 し た の だ か ら 。つ ま り「 類 推 に お け る 類 推 」が ア ニ メ ー シ ョ ン の「 幽 霊 宮 」に お い て 施 さ れ て い る の だ 。抽 象 化 と 見 え る の は 、 こ の よ う な 複 合 的 な 、複 雑 な 類 推 法 の 結 果 に よ る も の で あ る 。彼 が 精 神 的 に 消 耗 し た と い う の は 当 然 だ ろ う 。な お 、な ぜ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 粘 土 へ の 手 の 押 し 跡 を 用 い た の だ ろ う か 。そ れ は 彼 が 、触 覚 芸 術 に お い て 、 粘 土 へ の 手 の 押 し 跡 こ そ が 、「 創 作 者 の 心 的 状 態 の 純 粋 な 表 出 」 とみなしているからである。 こ の よ う に 、ポ ー の「 幽 霊 宮 」は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 に お 75 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』、 1 6 4 - 1 6 5 . 85 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 いても、重要な、作品の中心となっているのが分かるであろう。 そ れ で は 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 に お い て 、「 幽 霊 宮 」 と は 、 ど の よ うな意味を持つ詩なのだろうか。 第 4 節 「 幽 霊 宮 」 Th e H au n t ed Pal ace に つ い て ポ ー の 「 幽 霊 宮 」 は も と も と 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 発 表 5 ヶ 月 前 に 、 雑 誌 『 ア メ リ カ ン ・ ミ ュ ー ジ ア ム 』 “T h e A me r i ca n Mu s e u m” の 1 8 3 9 年 4 月 号 に 独 立 し た 詩 と し て 掲 載 さ れ た も の で あ り 、こ の 詩 は 小 説 に 先 立 っ て 出 版 さ れ た 詩 で あ る が ゆ え に 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 の 最 も 本 質 的 な と こ ろ 、す な わ ち 、後 で 議 論 す る《 存 在 の 境 界 》の 曖 昧 性 、な ら び に「 無 機 物 に も 知 覚 が あ る 」と い う 思 想 が 凝 縮 さ れ て い る と 考 え ら れ る 。 こ れ を 換 言 す れ ば 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 は 「 幽 霊 宮 」 の メ タ テ ク ス ト で あ り 、ポ ー は「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」と い う 散 文 に よ っ て 、 「幽 霊 宮 」と い う 詩 の ひ と つ の〈 翻 訳 〉を 試 み た の だ と さ え 言 え る 。し た が って、 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」は 、テ ク ス ト 全 体 が「 幽 霊 宮 」の〈 翻 訳 〉、 あ る い は 解 説 と な っ て お り( 同 じ く カ フ カ の『 審 判 』と「 掟 の 門 」 が こ れ に 該 当 す る 7 6 )、ま た こ の 詩 に は 、以 下 で 議 論 す る ポ ー の 文 学 の 本 質 が 表 出 さ れ て い る と も 考 え ら れ る の で は な い だ ろ う か 77。 以 下 、 ポ ー に よ る T he H a u nt e d P a l a ce 原 文 と 八 木 敏 雄 に よ る 訳 文 を 示 す。 76 カ フ カ ,フ ラ ン ツ「 掟 の 門 」 『カフカ短篇集』 ( 池 内 紀 編 訳 、岩 波 書 店 )、 1 9 8 7 年 。カ フ カ ,フ ラ ン ツ『 審 判 』カ フ カ 小 説 全 集 2( 池 内 紀 訳 、白 水 社 )、 2001 年 。 77 ポ ー の 詩 「 幽 霊 宮 」 に つ い て は 、 「エドガー・アラン・ポー「幽霊宮」 に関する一考察 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 と 「 対 話 の 可 能 性 」 と の 比 較 か ら 」(『 異 文 化 の 諸 相 第 3 0 号 』、 日 本 英 語 文 化 学 会 、 2009 年 、 75-87.) に お い て 既 に 詳 し く 分 析 し た 。 86 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 I. In t h e gr ee n es t o f o u r va l l e ys , B y go o d a n gel s t e n an t e d , O n ce a f ai r a n d st at el y p al a ce Ra di a nt p al ac e r e ar e d i t s h e a d. In t h e mo n a r c h T ho u g ht 's d o mi ni o n It st o o d t he r e ! N e ve r s er a ph s pr ea d a pi ni o n O ve r f ab r i c h al f s o f ai r . II . B an n er s ye l l o w , gl or i o us , go l de n , On i t s r o of di d f l o a t a nd f l o w ( This all this w a s i n t he ol d e n T i me l o n g a go ) ; A n d e ve r y ge n t l e ai r t ha t d al l i e d , In t ha t s w e et da y, A l o n g t h e r a mp a r t s p l u me d a nd p al l i d , A wi n ge d od o ur w e nt a wa y. II I . Wa n de r e r s i n t ha t h a p p y va l l e y T h r ou gh t w o l u mi n o us w i n d o w s s a w S pi r i t s mo vi n g mu si c al l y T o a l ut e 's w e l l -t u nè d l a w , R o un d ab o ut a t hr o n e, w he r e si t t i n g ( P or p h yr o ge n e ! ) 87 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 In s t at e h i s gl o r y w e l l be f i t t i n g, T h e r ul er of t h e r e al m w a s s ee n . I V. A n d a l l wi t h p ea r l a n d r u b y gl o w i n g W as t h e f ai r p al a ce do o r , T hr o u gh w hi c h c a me f l o wi n g, f l o w i n g, f l o w i n g, An d sp a r kl i n g e ve r mo r e , A t r oo p of E ch o es w h os e s w e et d ut y W as b ut t o si n g, In vo i ce s of s u r p a ss i n g b e au t y, T h e wi t a n d wi s do m o f t h ei r ki n g. V. B ut e vi l t h i n gs , i n r o be s of so r r o w , As s ai l e d t he mo n ar ch 's h i gh es t a t e ; ( A h , l e t u s mo u r n , f or ne ve r mo r r o w S h al l d a w n up o n h i m, d e s ol at e ! ) A n d , r ou n d a b o ut hi s h o me , t h e gl or y T h at bl u sh e d a n d bl o o me d Is b u t a di m -r e me mb e r e d s t or y O f t h e o l d t i me e n t o mb e d . VI . A n d t r a ve l e r s n o w w i t h i n t h at va l l e y, T h r ou gh t h e r e d -l i t t en w i nd o w s , s ee V as t f or ms t h at mo ve f a nt a st i c al l y 88 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 T o a d i s c or d an t me l o d y; Wh i l e , l i ke a r a pi d gh as t l y r i ver , T h r ou gh t h e p al e d o or , A hi d eo u s t hr o n g r us h o u t f or e ve r , b ut s mi l e n o mo r e . 7 8 A n d l a u gh I. 緑したたる山あいに よき天使らの住みなせる は みや いにしえの、愛しけし、いかめし、宮 輝きの宮 こうべ 頭 をあぐる。 王なる「思考」の治むる宮ぞ そび そこに聳えし。 セ ラ フ うる え 熾天使とてかく美わしき宮の上を か 翔けしことなし。 II . さんらん き ん 旗たちは黄なり、燦爛、黄金の色 屋上に棚引き、流る。 (こは こは、なべて、いにしえの かみ その昔のこと) そよ吹く風のそよ吹けば、 は その愛しき日に、 黄によそわれし城壁は 78 P o e , T h e F a l l o f t h e H o u se o f U s h e r. 2 3 8 -2 3 9 . 89 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 気高き香こそ走りゆく。 II I . さきわ 幸 う山あいさまよえば そう 双なる光の窓のうち ギターラ 天使らぞ見ゆ、小琴の のり がく ととのう法の楽にぞ乗りて 玉座をめぐるを。玉座には きんじき 黄金の御子! いかめしき衣いと神さびて 国の王とぞ見ゆるなれ。 I V. こうぎょく 真珠、紅玉ちりばめし、 は 愛しけ、宮の戸口より あふ い 溢れるよ、溢れるよ、溢れ出ずるよ、 とことわの光あふれて、 エ コ ー 一群の木霊たちは。その勤め ほが ひたすらに、こよなく朗ら、 声美しく歌うなり、 ち けい 王の智と王の慧とを。 V. ころも しかあれど、邪悪なる者、悲しみの 衣 身につけて た か み く ら 襲いたり、王の高御座。 (ああ悲しみ深し とこしえに あした 王の 旦 は明くるまじ、すさびたり) 90 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 この宮めぐりて花咲ける 昔の光いま亡くて かみ 去にしその昔思うとも かすみ 霞 にのみぞ偲ばるれ。 VI . いま山あいを行く者は 赤く染みたる窓のうち いぎょう 異形なるもの、おどろしく けたたましき音に躍るを見む。 おぞましく早瀬の如く あ 色褪せし戸口より い 忌まわしの群れとどめなく走り出でては 声高に笑えども 微 笑 み の 絶 え て な し 79。 この詩を要約すると、次のようになる。 自 然 豊 か な 山 あ い に 、栄 光 に 満 ち た 、い に し え の 宮 が 、パ レ ス が そ び え て い る 。そ の 城 壁 は 見 事 に 美 し く 、光 に あ ふ れ 、精 霊 が か つ て の 王 を 褒 め 讃 え る 歌 を 歌 っ て い る 。し か し 邪 悪 な る 者 が 王 を 襲 い 、そ れ に よ っ て 光 は 消 え 、パ レ ス は 荒 ん で し ま い 、今 は 、山 あ い を 歩 く 者 に は 、そ の 異形の悪霊たちが、けたたましく音を立てているさまが聞こえる。 パレス こ の 詩 が 八 木 訳 注 で も 言 及 さ れ て い る よ う に 、「 < 宮 > を 人 間 の 頭 と 心 の 比 喩 と な し 、そ の 荒 廃 と 崩 壊 を 、ア ッ シ ャ ー の 心 の ア レ ゴ リ ー と し て 表 現 し て い る こ と は 明 ら か 」で あ る 8 0 。 (第3節のシュヴァンクマイエ アナロジー ル の 発 言 に も あ る よ う に 、「 詩 は 類 推 と い う 方 法 で 、 ア ッ シ ャ ー の 精 神 79 80 ポ ー 『 黄 金 虫 ・ ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 』、 1 8 2 -1 8 6 . 八 木 敏 雄 註 、 ポ ー 『 黄 金 虫 ・ ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 』、 3 8 2 . 91 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 状 態 の 変 容 を 表 現 し て い る 」 の だ )。 ま た 八 木 は 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 と 「 幽 霊 宮 」 の ア レ ゴ リ ー 関 係 について、 「この詩が自立するためには、 「 宮 殿 」を「 思 考 」の 宿 る「 頭 」 と み な す 黙 契 が 誰 の 心 に も あ る の で な け れ ば な る ま い 。が 、今 日 は 言 う に 及 ば ず 、ポ オ の 時 代 の ア メ リ カ に も そ の よ う な 精 神 風 土 は な か っ た は ず で あ る 」と も 述 べ て お り 、当 時 の ア メ リ カ 文 学 に お い て 、ポ ー が 異 質 な 存 在 で あ っ た こ と を 強 調 し て い る 81。 「幽霊宮」にはノンブルがふられ、これは 1 番から 6 番まである歌、 バ ラ ッ ド で あ る こ と を 示 し て い る 。 こ の 詩 を 見 る と 、 最 初 に “ In t h e gr ee n e st of ou r va l l e ys ” 8 2 と あ る が 、“ gr ee n e st ” と は 何 を 意 味 す る の だ ろ う か。 も ち ろ ん 、 “ gr e e n es t ” は gr e en の 最 上 級 で あ り 、 通 常 gr e e n は 〈 緑 〉 と い う 色 を 示 す の で 、最 上 級 に は な り 得 な い 。緑 は 緑 で あ り 、最 高 に 緑 と 言 っ て も 、 そ れ は 緑 で あ る の で 、 一 見 し て み る と 、 “ gr ee n es t ” と い う 最 上 級 に は 意 味 が な い よ う に 思 わ れ る 。さ ら に 詳 し く 分 析 す れ ば 、こ こ で の“ o f ”は「 ~ の 中 で 」と い う 用 法 、“ o ur va l l e ys ”は 不 特 定 多 数 の「 谷 」 を示している。 「 谷 」は「 す べ て の 谷 」を 意 味 し て は い な い の で 、 “ gr e e n es t ” と あ っ て も 、 そ れ は 、「 い く つ か の 谷 の 中 で も っ と も 緑 」 と い う こ と に なり、最上級を意味しない。 し か し 、こ こ に は ポ ー で あ る か ら こ そ 、ま た 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 で あ る か ら こ そ 、重 要 な 意 味 が 込 め ら れ て い る と 考 え ら れ る 。も ち ろ ん 、 英 語 の 詩 に お い て は 、通 常 の 英 語 と は 異 な る 用 法 が し ば し ば 見 ら れ 、そ の た め 、 “ gr e e ne st ” は 詩 で あ る か ら 許 さ れ る と い う 解 釈 も 成 り 立 つ と も 思 わ れ る が 、 も し こ こ が In t h e gr e e n of o ur val l e ys で あ れ ば 、 そ れ は 、 〈 通 常 〉の 風 景 描 写 に な っ て し ま う こ と が 想 定 さ れ る 。し か し 、ポ ー は 81 82 同 上 、 65.. P o e , T h e F a l l o f t h e H o u se o f U s h e r. 2 3 8 . 92 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 日 常 的 な 風 景 描 写 を 超 え る た め 、つ ま り 、こ れ は 通 常 の 風 景 で は な い の だ と い う こ と を 、 読 者 に 一 気 に 伝 え る た め に 、 こ こ で “ gr e en es t ” を 使 っ て い る と 考 え ら れ る の で は な い だ ろ う か 。 そ の 意 味 に お い て 、 “ In the g re e n es t o f o ur v a l le y s ” と は 、 通 常 の 認 識 を 超 え た 、 非 日 常 的 な 、 ・ ・ ・ 「最高に緑の谷」であると言える。 こ の 描 写 は 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 に お け る 日 常 と 非 日 常 の 曖 昧 性 の 問 題 に つ な が る も の で も あ る 。 そ こ に は “ go o d a n gel s ” が お り 、 美 し く 荘厳な “ pa l a c e” が そ び え 建 っ て い る 。 そ れ は “ T h o u gh t ” と い う 名 の “p al a ce ” で あ る 。 こ こ で 使 わ れ て い る “T h o u gh t ” と は 、 「 思 想 」 や 「 考 え 」 と い う よ り は 、 辞 書 に も あ る よ う に 、「 想 像 力 ・ イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 」 と 訳 す べ き で あ ろ う 。 な ぜ な ら 、 こ の 詩 の 本 質 、 あ る い は 物 語 内 容 は 、「 想 像 力 」 と い う 名 の “ p a l a c e” が 、 “ s or r o w ” 「 悲 し み 」 の 衣 を 身 に 纏 っ た “e vi l t hi n gs ” 「悪しきものども」によって破壊されるということだからである。 それ では、この「悪 しき もの ども」が 身 を覆 う「悲 しみ 」と は、何 を 意味するのだろうか。この問題を分かりやすく説明すれば、ミヒャエ ル ・ エ ン デ の『 は て し な い 物 語 』“ D i e u n en d l i ch e G es c hi ch t e”( 1 9 7 9 )8 3 、 あ る い は 映 画 『 ネ バ ー エ ン デ ィ ン グ ・ ス ト ー リ ー 』 “ D i e u ne n dl i c h e G es c hi c ht e/ T he N e ve r e n di n g St o r y” ( 1 9 8 4 ) 8 4 の テ ー マ と 同 じ 性 質 の も の であると言える。 『 ネ バ ー エ ン デ ィ ン グ ・ ス ト ー リ ー 』は 、「 悲 し み 」で は な く「 虚 無 」 が フ ァ ン タ ー ジ ェ ン と い う 世 界 を 滅 ぼ そ う と し 、少 年 が そ れ を 救 う 物 語 で あ る が 、 フ ァ ン タ ー ジ ェ ン と は す な わ ち 、「 幽 霊 宮 」 で 言 う と こ ろ の “T h o u gh t ” 「 想 像 力 」 に 他 な ら な い 。 「 悲 し み 」 や 「 虚 無 」 と い っ た 衣 83 エ ン デ ,ミ ヒ ャ エ ル『 は て し な い 物 語 』上 田 真 而 子 他 訳 、岩 波 書 店 、1 9 8 2 年。 84 ペ ー タ ー ゼ ン ,ウ ォ ル フ ガ ン グ『 ネ バ ー エ ン デ ィ ン グ・ス ト ー リ ー 』1 9 8 4 年公開。 93 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 で身を包んだ「悪しきものども」は、「想像力」を破壊しようとする。 ミヒャエル・エンデも、ポーと同じことを考えていたわけである。 ミ ヒ ャ エ ル・エ ン デ と ポ ー が 異 な る と こ ろ は 、 『 ネ バ ー エ ン デ ィ ン グ・ ス ト ー リ ー 』で は 、現 実 と 空 想 の 世 界 は 分 離 さ れ て お り 、両 者 は 本 を 通 し て リ ン ク さ れ 、ま さ に ネ バ ー エ ン デ ィ ン グ ・ ス ト ー リ ー と な っ て い る の に 対 し 、 ポ ー の 場 合 は 、 現 実 と 空 想 の 世 界 は 分 離 さ れ て い な い 。「 幽 霊 宮 」 の 第 五 ス タ ン ザ に “ d i m -r e me mb e r e d s t o r y” 8 5 と あ る よ う に 、 現 実 の 中 に 空 想 の 世 界 、す な わ ち 、非 現 実 的 、非 日 常 的 な《 夢 》の 世 界 が あ り 、 そ れ は 、「 お ぼ ろ げ に 覚 え ら れ て い る 物 語 」「 ま も な く 失 わ れ て い く 物 語 」で あ る 。こ こ に は ポ ー の 、近 代・ 現 代 世 界 に 対 す る 失 望 感 が 表 れ て いると言えるのではないだろうか。 ま た 、 dim と い う 言 葉 使 い の 中 に 、 第 3 章 に お い て 議 論 し た 明 る み と 暗みがその境界をなくし渾然一体とした不可思議な時空間、生と死が、 夢 と 現 ( う つ つ ) が 渾 然 と し た 世 界 (そ れ は 唯 物 的 ・ 科 学 的 思 考 が 支 配 す る 現 代 文 明 の 中 で 、 や が て 見 失 わ れ て ゆ く 世 界 )を 想 起 さ せ る 。 第 5 節 「幽霊宮」とシュヴァンクマイエルの映像 一 方 、 ポ ー と 同 じ く シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も 、「 幽 霊 宮 」 こ そ が 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」の 本 質 で は な い か と 考 え て い た ふ し が あ る 。作 品 に は 原 文 の チ ェ コ 語 訳 が ナ レ ー シ ョ ン と し て 部 分 的 に 使 わ れ て い る が 、約 16 分 の 短 編 映 像 に お い て 、「 幽 霊 宮 」 の 朗 読 部 分 は ほ と ん ど カ ッ ト さ れ て い な い 。 こ れ は 、 彼 が テ ク ス ト の 中 で 、「 幽 霊 宮 」 を 重 視 し て い た こ との証拠でもある。 先 に 言 及 し た よ う に 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、「 幽 霊 宮 」 の 映 像 化 に 粘 土 に よ る ア ニ メ ー シ ョ ン を 使 用 し て い る 。映 像 で は 、粘 土 が 動 い て 85 P o e , T h e F a l l o f t h e H o u se o f U s h e r. 2 3 9 . 94 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 ま ず タ ワ ー の よ う な も の が 作 ら れ 、そ れ が 解 体 さ れ て 口 の よ う な も の に 飲 み 込 ま れ る 。こ の タ ワ ー の よ う な も の は 男 性 、口 の よ う な も の は 女 性 の性的な表象(生命世界の表象)とも読み解くことができる。 ここからポーの「幽霊宮」を考察すれば、詩の中の「王」は男性を、 「 悪 霊 」は 女 性 を 表 象 し て い る こ と に な り 、こ の 考 察 が 正 し け れ ば 、こ れ が ポ ー の テ ク ス ト に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 付 け 加 え た 解 釈 、意 味 、 あ る い は 〈 翻 訳 〉、〈 類 推 の 類 推 〉 と い う こ と に な る 。 ま た 、 こ の 男 性 ・ 女 性 の 表 象 は 粘 土 で あ る か ら 、つ ぶ さ れ て は 生 成 し 、ま た つ ぶ さ れ る と い う 動 き を 繰 り 返 す た め 、そ の 区 別 は 極 め て 曖 昧 に な っ て い る 。し か し 、 最 終 的 に は す べ て の 差 異 性 が 飲 み 込 ま れ て 、口 の よ う な も の の 開 閉 だ け が 永 遠 に 繰 り 返 さ れ て「 幽 霊 宮 」の 映 像 は 終 了 す る の で あ る が 、こ う し た描写方法は、後述するシュヴァンクマイエルの「対話の可能性」 “M o žn o st i di a l o gu ” ( 1 98 2 年 ) に つ な が っ て い く 。 この場面を精神分析学的に考察すると、次のように言えるだろう。 〈 王 〉 や 〈 タ ワ ー 〉 は 《 象 徴 界 》 を 、〈 悪 霊 〉 や 〈 口 〉 は 《 現 実 界 》 を 表 わ し 、〈 タ ワ ー 〉 が 〈 口 〉 に 飲 み 込 ま れ て し ま う と い う 表 現 は 、《 現 実界》の侵入に圧倒される《象徴界》を表象しているとも解釈できる。 ま た 、〈 タ ワ ー 〉 や 〈 口 〉 の も と と な っ た 粘 土 の 塊 は 、 外 部 の 〈 沼 〉 か ら 投 げ 込 ま れ た と い う 点 も 、外 傷 的 な《 現 実 界 》の 恐 ろ し さ を よ く 表 わ し て い る の で は な い だ ろ う か 86。 外 的 擾 乱 を 受 け た 象 徴 界 は 、し か し や が て 、す べ て の 存 在 の あ い だ の 〈 境 界 〉を 飲 み 込 ん で 、一 種 の 曖 昧 性 を 実 現 す る 。つ ま り 、存 在 の〈 境 界 〉喪 失 に よ っ て 、も は や 何 の 生 成 も 起 こ る こ と の な い 一 種 の カ オ ス 状 態 が 実 現 す る 。ま さ に 宇 宙 の 原 初 性 で あ る 。映 像 で は 、口 の よ う な も の の 開 閉 だ け が 永 遠 に 繰 り 返 さ れ る だ け で あ る 。も う 何 も 起 こ ら な い 。ア ッシャーの精神状態はカオスに帰っていったのであろう。 86 Ž i ž e k , S l a v o j . H o w t o R e a d L a c a n . Lo n d o n : G r a n t a B o o k s , 2 0 0 6 . 95 第4章 第 6 節 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 「無機物にも知覚がある」 ポ ー の「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」の 語 り 手 で あ る「 私 」は 、ア ッ シ ャ ー が 詠 っ た「 幽 霊 宮 」と い う 詩 を 回 想 す る こ と に よ り 、彼 の 思 考 の 一 片 で ・ ・ ・ ・ ・ あるものの見方を理解する。 I w e l l r e me mb e r t ha t s u g ge st i on s a r i si n g f r o m t hi s ba l l ad l e d us i n t o a t r a i n o f t ho u g ht w h er ei n t h er e b e c a me ma ni f es t a n op i n i o n of U s he r 's w h i c h I me n t i o n n ot s o mu c h o n a cc o u nt o f i t s n o ve l t y, ( f or ot h er me n h a ve t ho u g ht t h u s , ) as o n a c co u nt of t h e pe r t i n a ci t y w i t h w hi c h h e ma i n t a i n e d i t . T h i s o pi n i o n , i n i t s ge ne r al f o r m, w a s t ha t of t h e s en t i e nc e o f al l v e get a bl e t hi n gs . Bu t , i n h i s di s or de r ed f a nc y, t h e i d ea h a d a ss u me d a mo r e da r i n g c h ar ac t er , a nd t r es p as s ed , u nd er ce r t ai n c o n di t i o ns , up o n t he ki n gd o m o f i no r ga ni za t i o n . 8 7 (傍線は筆者による) バラッド 忘 れ も し な い 、こ の 歌 謡 か ら 湧 き 出 た 連 想 が 我 々 を 一 連 の 思 考 いざな に 誘 い 、そ の 過 程 で ア ッ シ ャ ー の 見 解 が 明 白 に な っ た こ と を 。だ が 、私 が こ こ で そ れ を 言 う の は 、そ の 見 解 の 斬 新 さ の せ い で は な く(そ んな こと を考 えた 者は 他に もい る )、彼が それ を繰 り 返し た執 拗さ のせ いで あ る。そ の見 解は、要 する に、あ らゆ る植 物に は 知 覚 が あ る と す る も の 。し か し 錯 乱 し た 彼 の 脳 裏 で は 、こ の 考 え は さ ら に 大 胆 な 性 格 を 帯 び 、あ る 条 件 の も と で は 、そ れ が 無 機 物 の 世 界 に も 適 用 さ れ る と い う の で あ っ た 88。 87 88 P o e , T h e F a l l o f t h e H o u se o f U s h e r. 2 3 9 . ポ ー 『 黄 金 虫 ・ ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 』、 1 8 6 . 96 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 “t he s e nt i e n ce o f al l ve ge t a bl e t h i n gs ” 8 9 と あ る よ う に 、 ア ッ シ ャ ー は 、 す べ て の 植 物 に 知 覚 力・認 識 力 が あ る と 信 じ て お り 、“ i n or ga ni za t i o n” 無 機 物 の 王 国 に ま で 、そ の 力 は 及 ん で い る と 考 え て い る 。こ の 一 連 の 思 考 は、 「 幽 霊 宮 」か ら 湧 き 出 た 連 想 に よ っ て 明 白 に な っ た 、と 語 り 手 の「 私 」 は 告 白 す る の で あ る が 、お そ ら く シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、こ の 箇 所 を 読 ん で 感 動 し た の で は な い だ ろ う か 。な ぜ な ら 彼 こ そ 、現 代 に 生 き る ア ッ シ ャ ー に 他 な ら な い か ら で あ る 。そ れ ま で ア ニ メ ー タ ー と し て 、石 や 粘 土 や 肉 片 な ど さ ま ざ ま な モ ノ を 動 か し 、映 像 作 品 を 作 り 続 け て き た 自 ら の 経 験 か ら 、「 無 機 物 に も 知 覚 は あ る 」 こ と を 実 感 し て い た シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、 ア ッ シ ャ ー は 自 分 だ と 思 っ た こ と だ ろ う 90。 ま た 、 詩 の 第 二 ス タ ン ザ に あ る “ B a n ne r s ye l l o w , gl o r i o us , go l de n , On i t s r oo f d i d f l o at an d f l o w ” 、 ポ ー は こ れ を “T h i s — al l t h i s — w as i n t he ol d e n T i me l o n g a go ” 「 こ ん な 風 景 も 、 こ ん な す べ て の 風 景 は 、 古 き 良 き 時 代 の 一 つ の 風 景 に す ぎ な い 」と 述 べ て い る が 、そ の 風 景 は 今 で は 見 ら れ な い 。 こ れ は ま さ に 、 “ A wi n ge d o do r we n t a wa y”「 気 高 き 香 こ そ 走 り ゆ く 」 と い う 表 現 通 り で あ り 91、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 映 像 作 品 に お い て ア ン テ ィ ー ク の 家 具 に こ だ わ る の も 、こ の 感 性 が あ れ ば こ そ だ と 考 え ら れ 89 Ib i d . ウ ー デ( 1 9 8 9 )は「 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 に お い て 人 間 と 事 物 は 等 価 に 扱 わ れ る 」 と 指 摘 し た が 、 佐 野 ( 2 0 0 4 ) は さ ら に 加 え て 、「 し か し シ ュヴァンクマイエル作品において事物と人間の関係は同等というよりはむ しろ、事物が中心になり人物に優先して主役となるところが重要だ」と述 べている。さらに「この物と人間の逆転的な関係が、生身の人間が演じる 登場人物を「仕掛け」として用いることにより実現される」として、その 具体例として『アリス』を挙げ、作品分析をしている。 シュヴァンクマイエルの映像において、人と物とが逆転していること、 こ れ は ま さ に 、生 物 と 無 生 物 の 境 界 の 曖 昧 性 を 証 明 し て い る と も 言 え よ う 。 ま た 、 佐 野 は シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 技 法 に お い て は 、「 急 速 な ズ ームやスウィッシュ・パン、ラピッド・カッティング、アニメーション技 術など装飾的な技法が反復されることによって、単なる「事物の記憶」以 上 に「 動 き の 過 剰 さ 」が 奔 流 し て い る 。」 ( 佐 野 、2 0 0 5 )と も 分 析 し て お り 、 これはシュヴァンクマイエルが「無機物にも知覚はある」と考えているこ とを暗示している。 9 1 P o e , T h e F a l l o f t h e H o u se o f U s h e r. 2 3 8 . 90 97 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 る 。今 日 で は 見 ら れ な く な っ て し ま っ た「 古 き 良 き 風 景 」が 失 わ れ た こ と を 嘆 く 彼 は 、自 身 の 作 品 に お い て 無 機 物 を 動 か し 、そ こ に “ s e nt i e nc e ” 知覚があることを示そうとしているのではないだろうか。 無 機 物 の “ s e nt i e n ce ” を 示 す の に は 、 「 想 像 力 」 が 必 要 で あ る が 、 美 し く 荘 厳 な “T h ou gh t ” と い う 名 の “ p al ac e” は 破 壊 さ れ 、 今 日 で は ポ ー の 詩 のように、「いにしえの かみ そ の 昔 の こ と 」 92の 一 つ に な り つ つ あ る 。 実 際 、私 た ち の 近 代 化 さ れ た 生 活 か ら は 、も は や「 想 像 力 」が 奪 わ れ てしまっていないだろうか。 夜 、空 を 見 上 げ て 晴 れ て い れ ば 月 が 見 え る 。通 常 で あ れ ば 、私 た ち が それを不思議に思うことはまずない。しかし、私たちはその時、「月」 の 何 を 見 て い る の だ ろ う 。「 月 」 を 見 て い る の で は な く 、「 月 」と い う 〈 言 葉 〉 ( 聴 覚 映 像 ) を “聴 い て ”は い な い だ ろ う か 。 その意味において、私たちは「月」そのものを見ているのではなく、 「 月 」と 名 付 け ら れ た 言 葉 の《 影 》を 見 て い る の で は な い か 。そ れ は 現 代 科 学 に よ っ て ま っ た く 汚 染 さ れ て し ま っ た「 月 」と い う 概 念 、も は や か つ て の あ の 気 高 い「 想 像 力 」の ま っ た く 奪 わ れ て し ま っ た … … 中 島 敦 の「文字禍」では、これと同様の問題提起がなされている。 にぶ 文 字 を 覚 え る 以 前 に 比 べ て 、職 人 は 腕 が 鈍 り 、戦 士 は 臆 病 に な り 、 猟 師 は 獅 子 を 射 損 う こ と が 多 く な っ た 。之 は 統 計 の 明 ら か に 示 す 所 で あ る 。文 字 に 親 し む よ う に な っ て か ら 、女 を 抱 い て も 一 向 楽 し ゅ う な く な っ た と い う 訴 え も あ っ た 。も っ と も 斯 う 言 出 し た の は 、七 十 歳 を 越 し た 老 人 で あ る か ら 、之 は 文 字 の 所 為 で は な い か も 知 れ ぬ 。 エジプト ナブ・アヘ・エ リバ は斯 う考 えた。埃及 人 は 、ある 物の 影を 、其 の み な 物 の 魂 の 一 部 と 見 做 し て い る よ う だ が 、文 字 は 、そ の 影 の よ う な も のではないのか。 92 ポ ー 『 黄 金 虫 ・ ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 』、 1 8 3 . 98 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 獅 子 と い う 字 は 、本 物 の 獅 子 の 影 で は な い の か 。そ れ で 、獅 子 と い う 字 を 覚 え た 猟 師 は 、本 物 の 獅 子 の 代 り に 獅 子 の 影 を 狙 い 、女 と い う 字 を 覚 え た 男 は 、本 物 の 女 の 代 り に 女 の 影 を 抱 く よ う に な る の で は な い か 。文 字 の 無 か っ た 昔 、ピ ル ・ ナ ピ シ ュ チ ム の 洪 水 以 前 に は 、歓 び も 智 慧 も み ん な 直 接 に 人 間 の 中 に は い っ て 来 た 。今 は 、文 ヴエイル 字の薄被をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。 いたずら 近 頃 人 々 は 物 憶 え が 悪 く な っ た 。之 も 文 字 の 精 の 悪 戯 で あ る 。人 々 は 、最 早 、書 き と め て 置 か な け れ ば 、何 一 つ 憶 え る こ と が 出 来 な い 。 着 物 を 着 る よ う に な っ て 、人 間 の 皮 膚 が 弱 く 醜 く な っ た 。乗 物 が 発 明 さ れ て 、人 間 の 脚 が 弱 く 醜 く な っ た 。文 字 が 普 及 し て 、人 々 の 頭 は 、 最 早 、 働 か な く な っ た の で あ る 93。 こ の 問 い を 突 き 詰 め て い く と 、本 論 文 で 何 度 も 触 れ て き た よ う に 、 〈言 葉 〉 と 認 識 や 存 在 の 問 題 、〈 言 葉 〉 と は 何 か と い う ソ シ ュ ー ル の 言 語 論 的 問 題 、あ る い は ジ ャ ッ ク・ラ カ ン が 所 持 し て い た 精 神 分 析 学 的 問 題 や 、 ジ ャ ッ ク ・ デ リ ダ の エ ク リ チ ュ ー ル に 関 す る 議 論 に ま で 発 展 し 、さ ら に は 、文 化 や 人 間 存 在 と は 何 か 、人 間 と は 何 か と い う 哲 学 的 問 題 に も 及 ぶ こ と に な ろ う 。そ し て ま た 、そ れ ら の 問 題 は ポ ー と シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 芸 術 の 核 心 へ と 至 る こ と に な る の だ 、と い う こ と を 繰 り 返 し 強 調 し ておきたい。 第 7 節 《日常》と《非日常》の曖昧性 「アッシャー家の崩 壊」の構造 こ れ ま で 見 て き た よ う に 、幽 霊 宮 の 映 像 は 、生 命 の 誕 生 の 瞬 間 、ま た は 人 間 に は 見 え な い 世 界 で 展 開 さ れ て い る 無 機 物 の 闘 い 、あ る い は《 無 93 中 島 敦 「 文 字 禍 」 『 中 島 敦 全 集 1』 ( ち く ま 文 庫 、 1993 年 ) 、 43. 99 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 意識》といった問題と深く関連している。 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」や「 幽 霊 宮 」で は 、ポ ー の テ ク ス ト が 潜 在 的 に 所 持 し て い る 〈 境 界 の 曖 昧 性 〉、 つ ま り 、《 日 常 と 非 日 常 》《 現 実 と 夢 》 《生物と無生物》のあいだの曖昧性が表現されており、さらにポーは、 「 早 す ぎ た 埋 葬 」 や 「 陥 穽 と 振 子 」 と い っ た 作 品 で は 、《 生 と 死 》 の 曖 昧性までをも描いていることが指摘できる。 一 方 、《 日 常 》 と 《 非 日 常 》、《 現 実 》 と 《 夢 》 の あ い だ の 境 界 に お け る曖昧性についての議論は、第3章でも看過し得ない主題であったが、 本 章 に お い て も 同 様 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 本 質 に 迫 る 問 題 の 一 つ で もある。 ポ ー の 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 に お け る 《 日 常 》 か ら 《 非 日 常 》、 そ し て 再 び《 日 常 》へ 戻 る と い う 構 造 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も 理 解 し て い た 。 こ れ が 分 か る の は 、《 日 常 》 か ら 《 非 日 常 》 へ の 展 開 の サ イ ン と し て 、 映 像 の 冒 頭 に お い て 、〈 カ ラ ス 〉 の ク ロ ー ス ア ッ プ が 短 く 挿 入 さ れ て い る 点 が 指 摘 で き る 。お そ ら く こ の〈 カ ラ ス 〉は 、ポ ー の 有 名 な 詩 で あ る「 大 鴉 」T h e R av e n( 18 4 5 年 )か ら き て い る の だ と 考 え ら れ る 。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」は 、ま ず 冒 頭 に 〈 カ ラス〉が登場し、見ているものを《非日常》の世界へと誘う。そして、 作品の最後には、この〈カラス〉と全く同じショットが再び登場する。 し か も こ の〈 カ ラ ス 〉は 、映 像 に お い て バ ラ バ ラ に さ れ 、こ れ は 剥 製 だ と 思 わ れ る が 、映 画 は 、こ の〈 カ ラ ス 〉の 解 体 を 持 っ て 終 わ る 。そ れ は つ ま り 、〈 カ ラ ス 〉 の 解 体 に よ っ て 、 観 客 は 再 び 《 日 常 》 を 取 り 戻 す と も 読 み 取 れ る の で あ る が 、し か し 、再 び 訪 れ た《 日 常 》は 、も は や 以 前 の《日常》とは同じものではない。 この《日 常 》か ら《 非日 常》へ 、そ して 再び《日 常 》へ 戻る とい う構 造 、 ま た は 《 意 識 → 無 意 識 → 意 識 → 無 意 識 … … 》、 あ る い は 《 現 実 → 夢 → 現 実 →夢 … … 》 と い っ た 円 環 構 造 は 、 平 面 的 ・ 二 次 元 的 な 世 界 の も の で 100 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 はなく、スパイラルのような、立体的三次元構造をしている。つまり、 「 見 て し ま っ た 、知 っ て し ま っ た 」後 は 、も と の 場 所( す な わ ち 、あ の 《 日 常 》) に 戻 る こ と は で き な い の で あ る 。 原 初 性 へ の 完 全 回 帰 は あ り 得ない、不可能なのだ。 し か し 、そ も そ も 私 た ち が 今 生 き て い る こ の 世 界 は 、本 当 に 、単 な る 現実( 日常 )で ある と断 言で きる だろ う か。夢 と現 実( 日常 )は、明確 に 区 別 が で き る だ ろ う か 。古 く は 荘 子 の「 胡 蝶 の 夢 」に 始 ま り 、精 神 分 析学者であるジャック・ラカンや、アルゼンチンの作家であるホルヘ・ ル イ ス・ボ ル ヘ ス も 考 え た よ う に 、わ れ わ れ の 日 常 は 、自 分 の( あ る い は 誰 か の )《 夢 》 に 過 ぎ な い と は 考 え ら れ な い だ ろ う か 。 エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー に 憧 憬 を 抱 い た 江 戸 川 乱 歩 も 、「 う つ し 世 は 夢 夜の夢こそ ま こ と 」と い う 言 葉 を 残 し て い る よ う に 、実 は こ の 世 界 は 、自 分 の 、あ る い は 他 者 の 《 夢 》、 も し く は 《 非 日 常 》 的 な 世 界 で も あ り 得 る と い う ことは、充分に想像されてよいことである。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の〈 カ ラ ス 〉に 話 を 戻 そ う 。ポ ー の テ ク ス ト「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 に お い て は 、 こ の 〈 カ ラ ス 〉 の 存 在 は 、〈 沼 〉 に 相 当 す る 。 こ れ は 、〈 沼 〉 に 始 ま り 〈 沼 〉 に 終 わ る 、 と い う ポ ー の テ ク ス ト を 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が〈 カ ラ ス 〉に 始 ま り〈 カ ラ ス 〉に 終 わ る と い っ た 構 成 で 、 構 造 的 に も 模 倣 し て い る 証 拠 で あ る と 考 え ら れ る (も ち ろ ん 、 こ れ ら は ア ッ シ ャ ー の 精 神 状 態 の 崩 壊 を 表 象 し て い る )。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 に 登 場 す る 〈 沼 〉、 そ れ は カ オ ス で あ り 、 原初性の表れであることは想像に難くない。 〈 沼 〉は す べ て を 飲 み 込 み 、 生 成 し 、原 初 性 へ と 立 ち 戻 る 。す べ て を 飲 み 込 む〈 エ ネ ル ギ ー 〉を 秘 め て い る 不 気 味 な 〈 沼 〉 は ま た 、〈 近 代 〉 と 言 い 換 え る こ と も で き る だ ろ う。 し か も こ の ス パ イ ラ ル 構 造 は 、一 読 し て 分 か る よ う な 類 の も の で は な く 、長 年 ポ ー の 文 学 を 研 究 し て い る よ う な 者 の み に 理 解 で き る 類 ・ 性 質 101 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 のものである。単純に〈沼〉から〈沼〉へ立ち戻るという話ではなく、 終わ りに 表れ た〈 沼 〉は、最初 にあ った〈沼〉とは 一致 しな い。平 面的 な 循 環 で は な く 、立 体 的 な 循 環 な の だ 。カ オ ス か ら 、ま た 、次 の 別 の 宇 宙の生成を予感するような。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は ポ ー を 深 く 読 み 、そ の 秘 め ら れ た テ ク ス ト の 構 造 ま で よ く 理 解 し て い た と 言 え る の で は な い だ ろ う か 。そ し て そ れ は 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル と ポ ー が 本 来 的 に 共 有 し 、直 観 的 に 、無 意 識 的 に 理解していた世界でもあった。 第 8 節 無 機 物 と マ ナ ( man a ) そ れ で は 、ポ ー 、あ る い は シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に 共 通 す る も っ と も 本質的なもの、両者が一番主張したかったことは何だったのか。 「 無 機 物 に も 知 覚 が あ る 」「 無 機 物 も 生 き て い る 」 と い う 見 方 は 、 あ る 意 味 、極 め て 東 洋 哲 学 的 で あ り 、そ し て こ の 哲 学 的 思 考 に は 、今 か ら 約 1 万 年 前 の 縄 文 時 代 に 始 ま り 、現 在 も 受 け 継 が れ て い る 、日 本 の 精 霊 信仰との類似性が指摘できる。 比 較 文 学 者 の 中 西 進 に よ る と 、航 海 術 が 発 達 し た 1 万 年 前 、民 族 の 移 動 に 伴 い 、南 方 の メ ラ ネ シ ア か ら「 マ ナ 信 仰 」と い う 考 え 方 が 伝 わ っ た と さ れ る 94。 広辞苑によると「マナ」とは以下のような意味を示す。 マ ナ ( ma n a ): メ ラ ネ シ ア を は じ め 広 く 太 平 洋 諸 島 に 見 ら れ る 非 人格的・超自然的な力の観念。精霊・人・生物・無生物・器物な 94 中 西 進「 日 本 文 化 は ど う 展 開 し た か 2 3 7 ( 2 0 0 9 年 )、 11 2 - 11 4 . 102 意志の力をめぐって」 『 We d g e 』 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 ど あ ら ゆ る も の に 付 帯 し 、 強 い 転 移 性 や 伝 染 性 が あ る 95。 「 マ ナ 」 は 、 日 本 で は 「 モ ノ 」 と 発 音 さ れ る よ う に な り 、 本 来 、「 も の 」 と は 、〈 椅 子 〉 や 〈 粘 土 〉 な ど 具 体 的 な 存 在 物 で は な く 、 移 り 変 わ り ゆ く 力 ・ エ ネ ル ギ ー を 意 味 し て い た 。「 も の の け 」 と い う 言 葉 も 、 現 存 す る 縄 文 文 化 の 証 で あ り 、そ し て 、こ の「 マ ナ 」を 表 現 し た 造 形 物 の 一つが縄文土器である。火焔形の縄文土器は、火の〈形象〉ではなく、 その〈 エネ ル ギー〉や〈勢 い〉を造 形し たも のだ と言 える 。同様 に、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル や ポ ー が「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」に お い て 表 現 し た も の も 、物 体 を 超 え た 、非 定 着 的 な 力 と し て の「 マ ナ 」と 見 る こ と が で きるだろう。 つ ま り 、「 無 機 物 に も 知 覚 が あ る 」 と い う シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 的 な 見 方 と は 、有 機 物 か 無 機 物 か 、あ る い は 生 き て い る か 生 き て い な い か で 区 別 す る 唯 物 論 的 な 見 方 、ま し て や 現 代 の よ う な 実 体 論 で は な い 。そ れ は す な わ ち 、深 層 意 識 か ら 立 ち 上 が っ て く る「 マ ナ 」と い う エ ネ ル ギ ー 、 つ ま り 形 而 上 的 実 在 が 、一 瞬 照 射 さ れ て 浮 か び 上 が っ た「 マ ナ 」を 見 て いることを示唆している。 ま た 、こ れ を ラ カ ン の 精 神 分 析 学 に 換 言 す る と 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ルはアッシャー家の「マナ」を、換喩的方法により〈椅子〉や〈粘土〉 へ と 置 換 す る こ と に よ っ て 、《 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 》 を 表 現 し た 、 と 分 析で きる。ア ッシ ャ ーの 住む 家・建物 は 、単な る「 もの」で はな く、エ ネ ル ギ ー と し て の 「 マ ナ 」、 そ の も の で あ る 。 し た が っ て 、 ポ ー の 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 に も あ る よ う に 、「 こ の 建 物 ( ア ッ シ ャ ー 家 ) の 特 徴 と 、世 間 が そ う だ と し て い る こ の 建 物 の 住 人 の 特 徴 と が 完 全 に 一 致 し て い る 」 こ と は 、「 マ ナ 」 と い う 概 念 を 導 入 す れ ば 、 不 思 議 で は な い 。 95 新 村 出 編 『 広 辞 苑 』 第 5 版 ( 岩 波 書 店 、 1 9 9 8 年 )、 2 5 2 1 . 103 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 おわりに パレス な ぜ 、《 宮 》 は 崩 壊 し て し ま っ た の か 。 そ れ は 、「 マ ナ 」 が 、 生 成 す る 力 、あ る い は 想 像 的 イ マ ー ジ ュ を 失 っ た 、単 な る「 も の 」に 落 魄 れ 果 て て し ま っ た か ら 、 つ ま り 、《 近 代 》 に お い て 、 科 学 的 思 考 法 に 汚 染 さ れ る こ と に よ っ て 、「 無 機 物 は 生 き て い な い 」 と 認 識 さ れ る よ う に な っ て しまったからだと言えるのではないだろうか。 “T h ou gh t ” と い う 名 の “ p a l a ce ” を 失 っ た 果 て に は 、 ア ッ シ ャ ー の よ う に 精 神 的 な《 崩 壊 》が 待 ち 受 け て い る 。そ れ は 、ポ ー が「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩壊」と「幽霊宮」でアレゴリカルに描いた〈頭と心〉の崩壊であり、 さらには、「想像力」の崩壊、〈言葉〉の崩壊であるとも言える。 そ し て こ の《 崩 壊 》 を 導 く も の は 、「 幽 霊 宮 」 の 言 葉 を 使 え ば 、詩 の 第 六 ス タ ン ザ に あ る “h i de o us t h r on g” 、こ れ は 直 訳 す れ ば「 恐 ろ し い 群 衆 」 96 に 他 な ら な い ( こ の 言 葉 か ら は 、 ハ イ デ ガ ー の 「 D a s M an n ( 世 人 ) 」 や 、「 ラ メ ラ 」「 リ ビ ド ー 」「 欲 動 」 と い っ た 精 神 分 析 学 的 概 念 が 喚 起 さ れ る ) 。 こ れ は 、 小 林 秀 雄 が 恐 れ た 無 責 任 な 大 衆 の 力 で あ る が 97、 大 衆 は 本 来 、 “ T h o u gh t ” 「 想 像 力 」 を 持 た な い も の で あ る 。 「 想 像 力 」 が あ る の は 、個 人 と し て の 人 間 で あ り 、そ の 個 人 の「 想 像 力 」が 、近 代 に お い て 、 大 き な 力 “ h i d e ou s t h r o n g” に よ っ て 押 し つ ぶ さ れ 、《 崩 壊 》 さ せ られていくのである。 第 2 章 ・ 第 3 章 に お い て も 指 摘 し た と こ ろ で は あ る が 、シ ュ ヴ ァ ン ク パレス マ イ エ ル は 繰 り 返 し 、《 近 代 》 批 判 を し て い る 。《 宮 》 あ る い は 〈 ア ッ シ ャー 家〉を 崩 壊さ せ たも のは《 近 代》で あり、そし て それ は《科学 》で も あ る 。 さ ら に 、《 近 代 》 や 《 科 学 》 は 、 あ る 意 味 で は 人 間 の 精 神 の あ パレス り 方 を も 崩 壊 さ せ て し ま っ た 。そ の 様 が 、ポ ー で は 《 宮 》の 崩 壊 に よ っ て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル で は〈 カ ラ ス 〉の 解 体 に よ っ て 、表 現 さ れ て 96 P o e , T h e F a l l o f t h e H o u se o f U s h e r. 2 3 9 . 小 林 秀 雄 『 小 林 秀 雄 講 演 第 二 巻 信 ず る こ と と 考 え る こ と 』 新 潮 CD 講 演 、 新 潮 社 、 2004 年 。 97 104 第4章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《存在の境界》 いる。 ポ ー も シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も 、一 見 、社 会 を 豊 か に す る よ う に 見 え る も の の 中 に 、あ る《 滅 び 》を 読 み 取 っ て い る の は 大 変 興 味 深 い 視 点 で あ る が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は ポ ー の テ ク ス ト か ら 、こ の《 滅 び 》を 正確に読み解き、かつ、その映像化に成功した。 シュヴァンクマイエルはポーの世界に深く傾倒している芸術家であ り 、ま た 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に よ っ て 映 像 化 さ れ た 作 品 は 、ポ ー の 作品の根底にある思想や哲学の核心に迫るものだと言えるだろう。 「 無 機 物 は 生 き て い る 」。 ポーとシュヴァンクマイエルが表現 し た 生 物 と 無 生 物 の 曖 昧 性 、物 質 と 非 物 質 の 曖 昧 性 は 、そ の 境 界 が 融 解 していく壮大な宇宙論、コスモロジーの創生でもあることを指摘して、 本論考を終えることとする。 105 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 第 5章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 「対話の可能性」と「対話の不可能性」について 五大皆有響、十界具言語、六塵悉文字、法身是実相。 ( 空 海 「 声 字 実 相 義 」 よ り ) 98 はじめに 《言葉》によって表現されるもの、されないもの、され得ないもの。 本 章 で は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 言 語 に 対 す る 批 判 や《 恐 れ 》を 最 も よ く 観 察 で き る 代 表 作 品 の 一 つ で あ る「 対 話 の 可 能 性 」に つ い て 詳 し く 分 析 し 、そ れ が 彼 の 作 品 の 最 大 の 特 徴 で も あ る 触 覚 的 な 表 現 、あ る い は近代批判へとつながることを示す。 ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 多 く の 映 像 作 品 で は 、ナ レ ー シ ョ ン や セ リ フ と い っ た〈 言 葉 〉が 使 わ れ て い な い 。そ れ は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 所 持 し て い る 、本 当 に 自 分 の 伝 え た い こ と が 相 手 に 伝 わ ら な い と い う〈 言 葉 〉に 対 す る 不 信 や 懐 疑 、あ る い は そ の 性 質 上 、本 質 的 な と こ ろ が 表 現 さ れ な い 、根 本 的 な も の を 表 現 し 得 な い〈 言 葉 〉に 対 す る あ る 種の《恐れ》が存在しているからだと考えられる。 誰とでも会話をする必要はない。 し か し 、そ れ で も 対 話 は 、映 画 以 外 で も 実 り 多 き テ ー マ と な る 。 とくに非言語的な対話。 私 は 、人 間 、あ る 種 の 事 物 、闇 、そ し て 口 に さ れ た 言 葉 が 怖 い 。 98 空 海 「 声 字 実 相 義 」『 日 本 の 仏 典 2 空 海 』( 筑 摩 書 房 、 1 9 8 8 年 )、 2 5 9 . 106 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 対話が行なえるものには、 言語、視線、身ぶり、ふれあい、匂い、味がある。 たとえば、言葉のやりとりの代わりに おたがいに舐め合うこともできる。 月並みな対話と呼ばれるものからも、このうえなく興味深く、 このうえなく重要な考えが生まれるが、 それは言葉の陳腐さの背後にある。 本質的なものは口にされないからだ。 うまくいきはしない。 人間の言葉は、愛、恐怖、よろこび、悲しみ、怒り、嫌悪とい った深い感情を表現するには貧しすぎるからだ。 だ か ら 、「 イ メ ー ジ 」 を 欠 い た 「 純 粋 な 」 対 話 は 、 不 具 も 同 然 だ。 私 は い つ も そ の よ う な 対 話 を 避 け 、必 要 が あ る と き に の み 行 な った。 たぶん、独白がそれにまさるということはまったくない、 と い う こ と は つ け く わ え て お く 必 要 が あ る だ ろ う 99。 (傍線は筆者による) こ の よ う な 表 層 意 識 レ ベ ル で の t r i vi al な 言 語 に 対 す る 批 判 か ら 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 の 特 徴 で も あ る 触 覚 的 な 表 現 が 、近 代 批 判 へ と つ な が っ て い く と 見 て よ い 。そ の 哲 学 を 最 も よ く 観 察 で き る 映 像 作 品 の 一つとして挙げられるのが、「アッシャー家の崩壊」の次に創作され、 1 98 2 年 に 発 表 さ れ た「 対 話 の 可 能 性 」で あ る 。本 章 で は こ の「 対 話 の 可 能性」について詳しく分析したい。 99 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル ,ヤ ン『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』赤 塚 若 樹 編 訳 ( 国 書 刊 行 会 、 1 9 9 9 年 )、 2 0 5 . 107 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 第 1 節 「永遠の対話」と「不毛な対話」 「 対 話 の 可 能 性 」は 3 つ の 部 分 か ら な っ て お り 、そ れ ぞ れ に「 永 遠 の 対 話 」 「 情 熱 的 な 対 話 」「 不 毛 な 対 話 」 と い う タ イ ト ル が 付 け ら れ て い る。 最 初 の「 永 遠 の 対 話 」で は 、ア ル チ ン ボ ル ド が 野 菜 や 果 物 の 組 み 合 わ せ で ル ド ル フ Ⅱ 世 の 顔 を 描 い た よ う に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も 日 常 的 な も の 、 t r i vi al な も の 、 す な わ ち 食 材 や 台 所 用 品 ・ 文 房 具 な ど で 顔 を 作 り 、そ の 顔 が あ た か も 戦 争 の よ う に 相 手 を 切 り 刻 み 破 壊 す る 様 子 が 、彼 特 有 の コ マ 撮 り ア ニ メ ー シ ョ ン に よ っ て 展 開 さ れ て い る 。そ れ ら は 最 終 的 に 細 か く 切 り 刻 ま れ 、つ い に は 人 間 の 頭 の 形 を し た 粘 土 に な る の で あ る が 、そ の 粘 土 の 頭 が ま た 粘 土 の 頭 を 吐 き 出 し 、こ れ が 延 々 と 続 く 様 を 描きながら作品は終了する。 「 永 遠 の 対 話 」の 次 の「 情 熱 的 な 対 話 」は 後 述 す る の で 、先 に「 不 毛 な 対 話 」に つ い て 述 べ れ ば 、こ れ は 人 間 の 形 を し た 二 つ の 粘 土 の 頭 に よ る 対 話 な き 対 話 、一 種 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン で あ る 。一 方 の 頭 が 口 か ら ハブラシを出すと、もう一方が歯磨き粉を出す、一方が鉛筆を出すと、 も う 一 方 が 鉛 筆 削 り を 出 し て そ れ を 削 る 、と い う よ う に 、最 初 は う ま く 事 が 運 ぶ の で あ る が 、し か し 、映 像 の 途 中 で 両 者 の 位 置 が 入 れ 替 わ る と 、 一 方 の 口 か ら 鉛 筆 が 出 て も 、一 方 は 歯 磨 き 粉 を 出 す 、一 方 の 口 か ら ハ ブ ラ シ が 出 て も 、一 方 は 鉛 筆 削 り を 出 す 、と い う よ う に 、す べ て が 上 手 く い か な く な る 。挙 句 の 果 て に は 双 方 の 粘 土 の 頭 が ひ び 割 れ て い き 、今 に ・ ・ も壊れそうなほど崩れ落ち、まさに両者は崩壊する。 「 永 遠 の 対 話 」と「 不 毛 な 対 話 」で は 、伝 え た い こ と が 相 手 に 伝 わ ら な い こ と /受 け 手 が 発 信 者 の 意 図 と は 異 な る 受 け 取 り 方 を す る こ と が 描 ・ ・ ・ か れ て お り 、 そ の 材 料 と し て 、 台 所 用 品 や 文 房 具 な ど 、 日 用 品 = t r i vi al な も の が 使 用 さ れ て い る 。こ こ か ら は 、機 械 的 で プ ロ グ ラ ム 化 さ れ た 表 層 意 識 的 言 語 が 圧 倒 す る 近・現 代 社 会 、日 常 的 な〈 言 葉 〉だ け が 氾 濫 し 、 108 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 か つ そ れ が 唯 一 の 価 値 を 伴 っ て 流 通 し て い る《 近 代 》へ の 批 判 が 読 み 取 れ る 。 薄 っ ぺ ら な 上 辺 だ け の 対 話 は 延 々 と 続 く ……終 わ り の な い 、 「 永 遠 の 対 話 」 に 、 そ の 全 生 涯 を 費 や す 現 代 の 人 々 …… ま た 、両 作 品 は 、相 手 に 自 分 の 思 い や 考 え が 伝 わ ら な い こ と で 、互 い に 傷 つ け 合 い 、そ れ に よ っ て 両 者 は 滅 び る 様 が 描 か れ て い る が 、こ れ は 単 に 個 人 間 で の 争 い の み な ら ず 、組 織 ・ 地 域 ・ 国 レ ベ ル で の 争 い に 対 す る 批 判 を も 含 ん で い る こ と が 読 み 取 れ る の で は な い だ ろ う か 。こ の こ と は 21 世 紀 に な っ て 急 速 に 増 す 国 際 紛 争 と 、 対 話 の 不 通 状 態 を 目 の 当 た り に し て い る わ れ わ れ に は 、極 め て 深 刻 で 切 実 な 問 題 で あ る 。さ ら に は 、 ( 相 手 を 自 分 の 思 い 通 り = 同 じ よ う に し よ う と す る )画 一 化 さ れ て ゆ く グ ロ ー バ ル 社 会 へ の 抵 抗 と し て の 、政 治 的 批 判 さ え も 含 ま れ て い る の で はないかと考えられる。 第 2 節 「情熱的な対話」 そ し て 次 に 、3 部 構 成 の う ち 2 番 目 に あ た る「 情 熱 的 な 対 話 」に つ い て詳しく述べたい。 こ の 作 品 は 、粘 土 に よ る コ マ 撮 り の ア ニ メ ー シ ョ ン で あ る が 、や は り シュヴァンクマイエル特有のエロティシズムをもって表現されている。 「 情 熱 的 な 対 話 」の 中 で 、粘 土 で で き た 男 女 は 愛 し 合 い 、二 つ の 体 は 融 合 し て い く 。こ れ は 素 材 が 粘 土 で あ る か ら 、ア ニ メ ー シ ョ ン に よ っ て 融 合 を 見 せ る の は 、原 理 的 に 簡 単 な こ と で あ る と 言 え る 。も ち ろ ん シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に と っ て 、こ の ア ニ メ ー シ ョ ン を 作 り 上 げ る 作 業 に は 、 か な り の 時 間 と 労 力 が 必 要 で あ っ た こ と に 違 い は な い が 、こ こ で は 、粘 土 で し か 表 現 で き な い 、ま さ し く 一 つ に 融 合 す る《 愛 》が 描 か れ て い る 。 そ し て 、 最 後 は や は り 、「 永 遠 の 対 話 」「 不 毛 な 対 話 」 と 同 じ よ う な 戦 争 状 態 に な り 、見 る も 無 残 に 破 壊 さ れ た 、崩 壊 し た 粘 土 の 状 態 に な っ 109 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 ていく。 粘土で作られた人間が粘土で作られた人間を破壊するのはおぞまし い 光 景 で あ る が 、こ こ で 思 い 出 さ れ る の は 、私 た ち 人 間 も ま た 、土 か ら 作 ら れ て い る と い う ゴ ー レ ム 伝 説 で あ る 。そ れ を 想 起 す る と き 、本 当 は 私 た ち 人 間 も 粘 土 で で き て い る の で は な い か 、有 機 物 と 考 え て い た も の が 、実 は 無 機 物 な の で は な い か 。そ う で あ れ ば 、エ ド ガ ー・ア ラ ン・ポ ー が 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 に お い て 、 “t he s e nt i e nc e o f a l l ve ge t a bl e t h i n gs ”「 無 機 物 に も 知 覚 が あ り 知 性 が あ る 」 1 0 0 と 考 え た こ と は 、不 自 然 ではないというテーマが、ここで再びよみがえることになる。 しかし、一番の問題はそれ以降に生じてくるのだ。 映 像 に お い て 融 合 し た 肉 体 は 再 び 別 々 に な る が 、完 全 に 元 の 形 に 戻 る わ け で は な い 。二 人 の 間 に 、何 か 子 ど も の よ う な 小 さ な 粘 土 の 塊 が 残 さ れている。つまり、1+1=2になったのではなく、1+1=2+α が 生じたのである。 +α とは何か?二人は融合する前の状態に戻ったと思われるので、そ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ こ に は 、二 人 の 肉 体 的 で は な い 何 か が 、目 に 見 え る 形 で 現 れ て い る と 考 え ら れ る 。こ れ は 一 体 、何 を 表 し て い る の だ ろ う 。二 人 が 愛 し 合 っ た 時 間 や 思 い 出 だ ろ う か 。そ れ と も 愛 し 合 っ た 結 晶 だ ろ う か 。答 え は 否 で あ る。 第 3 節 執着する「ラメラ」 二 人 が 愛 し 合 っ た 余 剰 と し て の 小 さ な 粘 土 の 塊 、あ る い は 薄 片 は 、映 像では目に見えているが、原理的には目に見えないもの、霊的なもの、 あ る 種 の〈 精 神 〉の よ う な も の で は な い だ ろ う か 。ジ ャ ッ ク ・ラ カ ン で 100 ポ オ 『 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 』、 2 3 9 . 110 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 あ れ ば 、 こ の 小 さ な 薄 片 を 「 ラ メ ラ 」 “lamella” と 呼 ん だ に 違 い な い 101。 新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れ る た び ご と に 、何 か が そ こ か ら 飛 び 散 る 、と ち ょ っ と 想 像 し て み て く だ さ い 。卵 の 場 合 も 人 間 、つ ま り オ ム レ ッ ト( h o m me l et t e )、 ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。 ラ メ ラ 、そ れ は 何 か 特 別 に 薄 い も の で 、ア メ ー バ の よ う に 移 動 し ま す 。た だ し ア メ ー バ よ り は も う 少 し 複 雑 で す 。し か し そ れ は ど こ に で も 入 っ て い き ま す 。そ し て そ れ は 性 的 な 生 物 が そ の 性 に お い て 失 っ て し ま っ た も の と 関 係 が あ る 何 者 か で す 。そ れ が な ぜ か は 後 で す ぐ に お 話 し し ま し ょ う 。そ れ は ア メ ー バ が 性 的 な 生 物 に 比 べ て そ う で あ る よ う に 不 死 の も の で す 。な ぜ な ら 、そ れ は ど ん な 分 裂 に お い て も 生 き 残 り 、い か な る 分 裂 増 殖 的 な 出 来 事 が あ っ て も 存 続 す る か ら で す 。そ し て そ れ は 走 り 回 ります。 (中略) こ の ラ メ ラ 、こ の 器 官 、そ れ は 存 在 し な い と い う 特 性 を 持 ち ながら、それにもかかわらず器官なのですが この器官に ついては動物学的な領域でもう少しお話しすることもできる でしょうが 、それはリビドーです。 こ れ は リ ビ ド ー 、純 粋 な 生 の 本 能 と し て の リ ビ ド ー で す 。つ ま り 、不 死 の 生 、押 さ え 込 む こ と の で き な い 生 、い か な る 器 官 も 必 要 と し な い 生 、単 純 化 さ れ 、壊 す こ と の で き な い 生 、そ う 「 情 熱 的 な 対 話 」 に お い て 観 察 さ れ る ジ ャ ッ ク ・ ラ カ ン の “ lamella” に つ い て は 、「 エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー 「 幽 霊 宮 」 に 関 す る 一 考 察 ヤ ン・シュヴァンクマイエル 「アッシャー家の崩壊」と「対話の可能性」 と の 比 較 か ら 」(『 異 文 化 の 諸 相 第 3 0 号 』、 日 本 英 語 文 化 学 会 、 2 0 0 9 年 、 75-87.) に お い て 既 に 言 及 し た 。 101 111 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 い う 生 の 本 能 で す 。そ れ は 、あ る 生 物 が 有 性 生 殖 の サ イ ク ル に 従 っ て い る と い う 事 実 に よ っ て 、そ の 生 物 か ら な く な っ て し ま う も の で す 。 対 象 「 a」 に つ い て 挙 げ る こ と の で き る す べ て の 形 は 、 こ れ の 代 理 、 こ れ と 等 価 の も の で す 102。 精 神 分 析 学 上 の 概 念 で あ る「 ラ メ ラ 」と は 、ア メ ー バ の よ う な も の で あ り 、 そ れ は リ ビ ド ー に 実 体 を 与 え る 器 官 で あ り な が ら 、( た と え ば 心 臓や脳などとは異なり)「空間的には存在しない」という特性を持つ。 そ れ で も 一 つ の 器 官 で あ る と ラ カ ン は 考 え て い た の で あ る が 、二 人 の 分 離 の 後 に 生 ま れ た こ の 小 さ な 粘 土 の 薄 片 は 、ま さ に「 ラ メ ラ 」と い う 概 念 を 想 起 さ せ る も の で あ る 。「 ラ メ ラ 」 と 呼 ば れ る 何 者 か が 、 象 徴 界 で は 掬 い 取 れ な い 残 余 の 幻 想 的 実 体 と し て 、ま た 、も は や 破 壊 す る こ と の で き な い リ ビ ド ー の 執 着 = 「 死 の 欲 動 」 103 と し て 、 二 人 の 間 に ( exist = 存 在 す る の で は な く ) i n si st = 執 着 し て い る と 考 え ら れ る の で は な い だろうか。 一 度 男 女 が 愛 し 合 え ば 、そ こ に は 目 に 見 え な い「 ラ メ ラ 」が 生 ま れ て いる。 「 情 熱 的 な 対 話 」の 最 後 で は 、男 は 女 に こ れ を 押 し 付 け よ う と し 、 女 も こ れ を 男 に 押 し 付 け よ う と す る 。お 互 い に 、生( 性 )の 不 気 味 な 過 剰として生まれた「ラメラ」が要らないのである。 一 度 愛 し 合 っ て し ま っ た ら 、愛 し 合 う 以 前 に は 戻 れ な い 。な ぜ な ら そ こには、+α が、リビドーが、ラメラが生じてしまうから。知ってしま っ た ら 元 の 場 所 に は 戻 れ な い 。原 初 性 へ の 完 全 回 帰 な ど あ り 得 な い の だ 。 102 La c a n , J a c q u e s . M i l l e r, J a c q u e s -A l a i n e d . S h e r i d a n , A l a n t r a n s . T h e F o u r F u n d a m e n t a l C o n c e p t s o f P s y c h o a n a l y s i s : T h e S em i n a r o f J A C Q U E S L A C A N B o o k X I . N o r t o n , 1 9 9 8 , 1 9 6 -1 9 9 . 訳 は ジ ジ ェ ク 『 ラ カ ン は こ う 読 め ! 』、 1 08 -1 0 9 を 参 照 。 103 Ž i ž e k , S l a v o j . H o w t o R e a d L a c a n . G r a n t a B o o k s , 2 0 0 6 , 6 1 -7 8 . 112 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 第 4 節 対 話 の “不 可 能 性 ” 「 対 話 の 可 能 性 」 全 体 に 話 を 戻 す と 、 作 品 に は 、「 対 話 の 可 能 性 」 と い う 日 本 語 タ イ ト ル が 付 け ら れ て い る が 、 チ ェ コ 語 原 題 は “ M o žn o st i di al o gu ” 、 英 訳 す る と “ Di me n si o ns of D i a l o gu e ” と 表 わ さ れ 、 こ の 作 品 は 、対 話 と い う も の を 様 々 な 側 面 か ら 観 察 し た 寓 話 と い う 性 質 を 持 ち 合 わ せ て い る 。 そ れ は つ ま り 、 対 話 の p o s si bi l i t y = 可 能 性 に 限 っ た 話 で は な い 。 チ ェ コ 語 原 題 か ら も わ か る よ う に 、 対 話 に よ る i mp o s si bi l i t y = 不 可 能 性 が も う 一 つ の テ ー マ と な っ て お り 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 的 に 解 釈 を す る な ら ば 、こ れ こ そ が〈 対 話 〉の 本 質 で あ る と 言 え る の で は な い だろうか。 ま た 、対 話 の 不 可 能 性 と は 、対 話 の《 崩 壊 》、あ る い は〈 言 葉 〉の《 崩 壊 》で も あ り 、こ の 崩 壊 感 覚 は 、ポ ー の「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」ま た は 「 幽 霊 宮 」 に つ な が る も の で も あ る 。「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 と 「 対 話 の 可 能 性 」に 共 通 す る テ ー マ で あ る《 崩 壊 》は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ の み な ら ず 、宇 宙 は 膨 張 し て お り 、不 変 で あ り 得 る も の は 一 切 な く 、 す べ て は《 崩 壊 》す る 運 命 に あ る と 考 え て い た ポ ー に と っ て も 根 源 的 な も の で あ っ た 。こ れ は 、ポ ー の 最 晩 年 の 作 品 で あ る『 ユ リ イ カ 』“ E u r e ka ”( 1 84 8 ) か ら も 読 み 取 る こ と が で き る 104。 さ ら に は 、言 語 的 な 対 話( = 現 行 の 、聴 覚 映 像 = シ ニ フ ィ ア ン を 介 し た 対 話 )の 不 可 能 性 が あ る 一 方 で 、非 言 語 的 な 対 話 の 可 能 性 も ま た 存 在 し 、 こ こ か ら は 、「 非 言 語 的 」 な 対 話 の 雄 弁 性 が 、 こ の 作 品 の 隠 さ れ た も う 一 つ の 主 題 と な っ て い る こ と が 指 摘 で き る 。「 非 言 語 的 」 な 対 話 と は 、言 う ま で も な く 触 覚 イ メ ー ジ の シ ニ フ ィ ア ン を 用 い た や り と り で あ り 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、こ の「 対 話 の 可 能 性 」と い う 作 品 に よ っ て、新しい触覚言語の可能性を提示・暗示しているとも言えよう。 104 P o e , E d g a r A l l a n . E u re k a . P r o me t h e u s B o o k s, 1 9 9 7 . 113 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 「 対 話 の 可 能 性 」の も う 一 つ の 主 題 で あ る 対 話 の “不 可 能 性 ”、こ れ は つ ま り 、〈 言 葉 〉 に よ る 対 話 の 不 可 能 性 で あ る と も 考 え ら れ る 。 そ し て さ ら に 、〈 言 葉 〉 の 不 可 能 性 は 、《 翻 訳 》 の 不 可 能 性 に も つ な が る だ ろ う 。 萩 原 朔 太 郎 は 、《 翻 訳 》 の 不 可 能 性 に つ い て 次 の よ う に 述 べ て い る 。 翻訳の不可能は、もつと広く、根本的の問題としては、必ずしも 詩ばかりでなく、文学一般に関係し、さらに尚ほ本質的には、外国 文 化 の 移 植 そ の こ と に 関 係 し て 来 る 。一 例 と し て Real と い ふ 言 葉 は 、 日 本 語 で は 「 現 実 」 と 訳 さ れ て ゐ る 。 し た が つ て ま た Realism は 、 日 本 語 で 「 現 実 主 義 」 と 訳 さ れ て ゐ る 。 し か し な が ら Real と いふ言葉は外国語の意味に於いては、単なる「現実」を指すのでな く 、も つ と 深 奥 な 哲 学 的 の 意 味 、即 ち 或 る「 真 実 の も の 」 「確実なも の 」、架 空 の 幻 影 や 仮 象 で な く し て 、正 に「 実 在 す る も の 」と い ふ や う な 意 味 を 持 つ て ゐ る 。然 る に 日 本 の 文 壇 で は 、こ れ を 単 に 、 「現実」 と訳したことから、日本の所謂レアリズムの文学が、単なる日常生 活の事実を書き、無意味な現実を平面的に記述するに止まるところ の、所謂「身辺小説」となつてしまつたのである。 (中略) 真実の意味を言へば、外国語は決して訳することが出来ないの である。単に類似の言葉をもつて、仮りに原語に相当させ、ざつと 間に合はせておくにすぎない。 (中略) 外 国 文 化 の 輸 入 に 於 て 、翻 訳 が 絶 対 に 不 可 能 の こ と 、実 に は「 翻 案 」し か 有 り 得 な い こ と 、そ し て 結 局 、す べ て の 外 国 文 化 の 輸 入 は 、 国民自身の主観的な「創作」に過ぎないことは、以上の一例によつ ても解るのである。支那文化を同化した日本人の過去の歴史は、特 114 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 に よ く こ の 事 実 を 実 証 し て ゐ る 105。 読者は本を読むとき、自分に読めるものだけを、自分なりに《翻訳》し て 読 む 。個 人 に よ っ て 評 価 や 解 釈 が 異 な る の は 、 《 翻 訳 》の 不 可 能 性 の 観 点 からも、当然であると言える。 〈言葉〉あるいは〈翻訳〉の不可能性 なぜ、思いや言葉が相手 に 通 じ な い の か 。埋 め る こ と が で き な い 隔 た り は 、ど こ か ら 生 じ る の だ ろ う か 。そ の 答 え の 要 因 の 一 つ と し て 考 え ら れ る〈 言 葉 〉と〈 イ メ ー ジ 〉 のギャップについて、小林秀雄は次のように述べている。 子 供 は 母 親 か ら 海 は 青 い も の だ と 教 え ら れ る 。こ の 子 供 が 品 川 の 海 を 写 生 し よ う と し て 、眼 前 の 海 の 色 を 見 た 時 、そ れ が 青 く も がくぜん な い 赤 く も な い 事 を 感 じ て 、愕 然 と し て 、色 鉛 筆 を 投 げ 出 し た と かつ し た ら 彼 は 天 才 だ 、然 し 嘗 て 世 間 に そ ん な 怪 物 は 生 れ な か っ た だ け だ 。そ れ な ら 子 供 は「 海 は 青 い 」と い う 概 念( 大 人 の 論 理 )を 持っているのであるか? だ が 、品 川 湾 の 傍 ら に 住 む 子 供 は 、品 川 湾 な く し て 海 を 考 え 得 ま い 。子 供 に と っ て 言 葉 は 概 念( 大 人 の 論 理 )を 指 す の で も な く 対 象 を 指 す の で も な い 。言 葉 が こ の 中 間 ほうこう を 彷 徨 す る 事 は 、子 供 が こ の 世 に 成 長 す る 為 の 必 須 な 条 件 で あ る 。 そ し て 人 間 は 生 涯 を 通 じ て 半 分 は 子 供 で あ る 。で は 子 供 を 大 人 と するあとの半分は何か? 人 は こ れ を 論 理 と 称 す る の で あ る 。つ ま り 言 葉 の 実 践 的 公 共 性 に 、論 理 の 公 共 性 を 付 加 す る 事 に よ っ て 子 供 は 大 人 と な る 。こ の 言 葉 の 二 重 の 公 共 性 を 拒 絶 す る 事 が 詩 人 の 実 践 の 前 提 と な る の で あ る 。中 天 に か か っ た 満 月 は 五 寸 に 見 え る 、理 論 は こ の 外 観 の 虚 偽 を 明 か す が 、五 寸 に 見 え る と い う 現 象 105 萩 原 朔 太 郎『 萩 原 朔 太 郎 全 集 第九巻』 ( 筑 摩 書 房 、1 9 7 6 年 )、9 6 -9 7 . 115 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 自 身 は 何 等 の 錯 誤 も 含 ん で は い な い 。人 は 目 覚 め て 夢 の 愚 を 笑 う 、 だ が 、夢 は 夢 独 特 の 影 像 を も っ て 真 実 だ 。フ ロ オ ベ ル は モ オ パ ッ サ ン に「 世 に 一 つ と し て 同 じ 樹 は な い 石 は な い 」と 教 え た 。こ れ は 、自 然 の 無 限 に 豊 富 な 外 貌 を 尊 敬 せ よ と い う 事 で あ る 。然 し こ の 言 葉 は も う 一 つ の 真 実 を 語 っ て い る 。そ れ は 、世 の 中 に 、一 つ と し て 同 じ「 世 に 一 つ と し て 同 じ 樹 は な い 石 は な い 」と い う 言 葉 も な い と い う 事 実 で あ る 。言 葉 も 亦 各 自 の 陰 翳 を 有 す る 各 自 の 外 貌 を も っ て 無 限 で あ る 。虚 言 も 虚 言 た る 現 象 に 於 い て 何 等 の 錯 誤 も 含 ん で は い な い の だ 106。 (傍線は筆者による) 小林の引用を敷衍するならば、次のように言うこともできよう。 子 ど も は 青 く も な い 、赤 く も な い 海 を 見 る 。そ の と き 彼 の 感 じ て い る まこと そ の 海 の 色 と は 、そ の 子 ど も に と っ て は 唯 一 の 真 実 、か け が え の な い 真 で あ る 。彼 は そ れ を 大 人 か ら 教 わ っ た 言 葉(「 大 人 の 論 理 」)で 表 そ う とする 「海は青い」と。このときの「海が青い」とは、大人が言 う「 海 が 青 い 」と は( 同 一 の シ ニ フ ィ ア ン で は あ る が )シ ニ フ ィ エ が 全 く 異 な る 。 大 人 が 言 う 「 海 は 青 い 」 は 小 林 が 指 摘 し て い る よ う に 、「 言 葉 の 実 践 的 公 共 性 」( 海 は 青 い ) に 「 論 理 の 公 共 性 」( た と え ば 科 学 的 な論理、すなわち、海水が青く見えるのは光の反射によって……など) が 付 加 さ れ て い る か ら だ 。さ ら に は 、こ の「 青 」も ま た 、各 人 に よ っ て 異なってくる。もちろん、子どものそれとも。 一 般 的 に「 海 は 青 い 」と 言 う 。し か し 厳 密 に 言 え ば 、そ こ に は〈 言 葉 〉 と 各 人 の〈 イ メ ー ジ 〉の ギ ャ ッ プ が 生 じ て い る 。あ な た に と っ て の「 海 」 と 私 に と っ て の 「 海 」、 そ の 埋 め 難 い ギ ャ ッ プ こうしたギャップ から起因する「対話の不可能性」は、いかにして生じるか。 106 小 林 秀 雄『 小 林 秀 雄 全 作 品 1 様 々 な る 意 匠 』 ( 新 潮 社 、2 0 0 2 年 )、1 4 7 . 116 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 まずはラングの違いから た と え ば 、 日 本 語 ( 海 ) と 英 語 ( sea) の違い。ラングが異なると言葉は全く通じず、対話は成立しない。 次に、シニフィエの違いから たとえば、海外に簡単に行き来で き る 現 代 の 人 々 に と っ て の「 海 」と 、鎖 国 を し て い た 江 戸 時 代 に 生 き た 人 々 に と っ て の 「 海 」。 こ の 場 合 、 た と え シ ニ フ ィ ア ン “ u - m i ” は 同 じ で あ っ て も 、そ の シ ニ フ ィ エ( 概 念 )は 全 く 別 の も の と な っ て い る こ と だ ろう。 ・ ・ ・ ・ ・ 最後に、各人によるシニフィエの違いから た と え ば 、「 私 」 に とっての「海」と「あなた」にとっての「海」は同じではない。各人が 生きてきた歴史や環境によって、異なった「海」のシニフィエ(概念) が 形 成 さ れ る の だ 。人 の 履 歴 や 境 遇 に よ っ て 言 葉 に 付 与 さ れ た 意 味 ・ 価 値 を 「 コ ノ テ ー シ ョ ン ( 共 示 )」 と 言 う 。 人を取り巻く環境や価値観はめくるめく変化する。発話(パロール “ pa r ol e ” )の 寸 前 に 形 成 さ れ る「 連 合 」も 、環 境 と の 相 互 作 用 に 従 っ て 、 常 に 変 化 を 繰 り 返 す 。ゆ え に「 連 合 」を 構 成 す る 各 語 の 境 界 は 定 ま っ て お ら ず 、常 に 揺 ら い で い る 。極 端 な 話 、今 日 の「 海 」と 明 日 の「 海 」は 、 全 く 違 う 意 味・ 価 値 に な る か も し れ な い( 震 災 が 起 こ る 前 の「 海 」と 後 の「 海 」が 違 う よ う に )。小 林 の 言 う「 言 葉 も 亦 各 自 の 陰 翳 を 有 す る 各 自 の 外 貌 を も っ て 無 限 で あ る 」と は 、さ ま ざ ま な 事 象 の 相 互 作 用 に よ っ て 、各 人 の 言 葉 の 連 合 は 変 化 し 、そ れ が 各 人 の 言 葉 に「 無 限 の 陰 翳 」を ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 与 え る こ と を 意 味 し て い る 。こ の よ う に 、 厳 密 に 言 う な ら ば 、言 葉 の 性 質 上 、 対 話 は 本 質 的 に “不 可 能 ”で あ る 。 し か し な が ら 、本 章 の「 お わ り に 」の 最 後 で 述 べ る よ う に 、対 話 の 不 可 能 性 の 中 に は 、全 く 絶 望 的 な こ と ば か り で は な い か も し れ な い 。そ こ に は 、 “無 限 ”の 可 能 性 も ま た 、 含 ま れ て い る と 考 え ら れ る か ら で あ る 。 117 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 おわりに シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品『 対 話 の 可 能 性 』の テ ー マ で あ る 対 話 の “不 可 能 性 ”、 こ れ は 、 言 葉 が 本 来 的 に 所 持 し て い る も の で あ る 。 伝えるものと受け取るもののあいだに生ずる〈言葉〉と〈イメージ〉 の ギ ャ ッ プ は 、言 語 論 的 に は 必 然 の も の で あ る が 、こ れ は 根 本 的 に 、各 人の異なる「連合」に起因している。 同 じ シ ニ フ ィ ア ン で も 、各 人 の 連 合 に よ っ て 異 な る シ ニ フ ィ エ を そ れ ぞ れ が 所 持 し て い る か ら 、 1 0 0 人 い れ ば 1 00 通 り の シ ニ フ ィ エ が あ る 。 厳 密 な 意 味 で 、対 話 が 可 能 な は ず が な い 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は こ の “ 不 可 能 性 ” を 、「 対 話 の 可 能 性 」( 永 遠 の 対 話 )( 情 熱 的 な 対 話 )( 不 毛 な 対話)において、逆説的に表現し、卓越した技術によって映像化した。 で は 、ど の よ う に し て 他 者 と 意 思 疎 通 を 図 れ ば 良 い か ? シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル で あ れ ば 、「 お 互 い に 舐 め 合 う 」、 す な わ ち 、 “ 触 覚 で 対 話 せ よ ” と言うだろう。 ソ シ ュ ー ル が 厳 し く 批 判 し た「 言 語 名 称 目 録 観 」 1 0 7 が 非 常 に 強 い 現 代 人 の 言 語 観 か ら す れ ば 、言 葉 は 一 つ の 意 味・概 念 を 示 し 、各 人 共 通 、か つ 、普 遍 的 な も の で あ る と さ れ て い る か ら 、対 話 の “不 可 能 性 ”は 理 解 さ れ な い 。特 に 近・ 現 代 に お い て は 、表 層 的 な 意 識 、あ る い は そ れ を 表 す t r i vi al な 言 語 が 重 視 さ れ 、 そ れ で 世 界 の 総 て を 説 明 で き る と 錯 覚 し て い る 。特 に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 属 す る 西 洋 世 界 ・ 文 化 に お い て は 、そ の傾向がより一層強いものだと言えるだろう。 一方、東洋世界は深層意識、そして無意識の領域まで下りて行って、 内 に 秘 め る こ と 、行 間 を 読 む こ と に よ っ て 相 手 の 心 情 を 汲 み 取 る 、あ る い は 世 界 を 認 識 し よ う と す る 。そ の 中 で も 、空 海 や 道 元 は 、は る か 昔 に 、 こ れ ま で 述 べ て き た よ う な 言 語 論 的 な 議 論 が 起 こ る よ り 以 前 に 、既 に こ の 言 語 の 本 質 的 な 問 題 に 気 づ き 、そ れ ぞ れ が 究 極 的 な 境 地 に 達 し て い た 。 107 言語を、既定のものの名称を与える目録のようなものとする考え方。 118 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 た と え ば 、 道 元 や 空 海 に は 、「 言 語 道 断 」「 以 心 伝 心 」 と い っ た 有 名 な 言 葉 が あ る 。 道 元 が 言 う 「 言 語 道 断 」 と は 、「 言 葉 で は 、 世 界 や 宇 宙 の 核 心 ・ 本 質 、あ る い は 人 間 の 実 相 は 、正 し く 言 い 当 て る こ と が で き な い こ と 」 を 意 味 す る 。 ま た 、 空 海 が 言 う 「 以 心 伝 心 」 と は 、「 言 葉 で は 言 い尽くせないが、お互いの心と心で通じ合うこと」を意味する。 対 話 の “不 可 能 性 ” シュヴァンクマイエルもこの問題に気づき、 自 身 の 芸 術 に お け る 重 要 な テ ー ゼ と し た 。ラ ン グ も シ ニ フ ィ エ も 各 人 に お け る 連 合 も 違 う 人 々 に お い て 、対 話 を 可 能 と す る も の は 何 か 、そ れ は ま さ し く 、「 芸 術 」 で あ る と 言 え る 。 芸 術 は 深 層 意 識 ・ 無 意 識 の 領 域 ま で 含 め て 、わ れ わ れ に 訴 え か け る も の を 持 っ て い る 。芸 術 は 人 類 が 発 明 し た 最 大 の 表 現 方 法 で あ る 。こ こ で 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が《 触 覚 》に つ い て 述 べ た テ ク ス ト を 再 度 引 用 し てみたい。 お そ ら く 、触 覚 と い う 感 覚 は す べ て の 感 覚 の な か で も っ と も 長 い 間 実 利 的 機 能 に と ら わ れ て お り 、実 際 的 な 理 由 だ け で は み ず か ら を「美 化す る」こ と がで きな かっ たか ら こそ、世界 との ある 原初 プリミティヴ 的 な 、「 原 始 的 な 」結 び つ き を と ど め て い た の だ 。も ち ろ ん 、こ エロティシズム こには、身体の感覚が 性 愛 においてもっとも重要な役割のひと つ を は た す と い う 事 実 も く わ わ っ て く る 。ま だ 美 的 規 範 に よ っ て プ リ ミ テ ィ ヴ ィ ズ ム 気 力 を そ が れ て い な い こ の「 原 始 的 状 態 」と 触 覚 的 知 覚 の 体 験 に お け る 本 能 的 状 態 に よ っ て 、私 た ち は 連 想 を 行 な う さ い に 、い つ も 無 意 識 の 最 深 部 へ と 差 し 向 け ら れ る こ と だ ろ う 。触 覚 は 、ま さ にすべての感覚のなかでもっとも現代芸術の機能に適した感覚 と な れ る だ ろ う 108。 ( 傍 線 は 筆 者 に よ る ) 108 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 『 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 世 界 』 182. 119 第 5 章 ヤン・シュヴァンクマイエルと《言葉》 ここにもあるように、 《 触 覚 》、が 近 代 社 会 を 席 巻 す る 表 層 的 な 言 語 の 表 現 能 力 を は る か に 超 え る も の で あ る こ と は 、も は や 言 及 す る ま で も な かろう。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も 、芸 術 が 人 類 共 通 の 文 化 的 普 遍 性 、対 話 を 可 能とするものと捉えているのではないだろうか。 120 第6章 終 章 第 6章 終 章 第 1 節 総 括 本 研 究 で は 、ヤ ン ・ シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 映 像 作 品 に お け る 触 覚 的 な 表 現 は 、彼 の 作 品 を 深 く 理 解 す る た め 、ま た 、本 質 に 迫 る た め に 重 要 な手がかりとなることを論じてきた。 本研究の総括を以下にまとめる。 (1) シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 は 、ア ニ メ ー シ ョ ン や 実 写 な ど の 映 像 作 品 の み な ら ず 、コ ラ ー ジ ュ 、ド ロ ー イ ン グ 、オ ブ ジ ェ な ど 多 岐 に 渡 っ て い る が 、彼 は 自 身 の 作 品 に お い て 、見 る も の に《 触 覚 》を 想 起 さ せ る こ と 、《 触 覚 》 の 経 験 を 与 え る こ と の 重 要 性 を 指 摘 し て い る 。 シュヴァンクマイエルも言及しているように、彼の作品のみならず、 一 般 的 に 言 え ば 、映 画 や 映 像 作 品 は〈 見 る も の 、そ し て 聴 く も の 〉、す ふれ な わ ち 視 聴 覚 的 作 品 で あ り 、〈 触 る も の 〉 、 す な わ ち 触 覚 的 作 品 で は な い 。し か し 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 自 身 の 映 像 作 品 に お い て 、視 聴 覚 ・ ・ ・ ・ 的 な 手 段 を 用 い て 、逆 説 的 に《 触 覚 》を 表 現 し よ う と し て い る 。こ れ は 言 い 換 え れ ば 、 言 語 論 で 言 う と こ ろ の ( 聴 覚 映 像 に よ る “シ ニ フ ィ ア ン ・ ・ si g ni f i an t ” で は な く )《 触 覚 》に よ る “ シ ニ フ ィ ア ン ”( 触 覚 映 像 )で《 触 覚》の言語世界を提示しようとする新しい試みである。 1 98 9 年 の 短 編 作 品 「 肉 片 の 恋 ( Za mi l o va n é ma s o )」 で は 、 2 枚 の ス テ ー キ 用 の 肉 が 、コ マ 撮 り ア ニ メ ー シ ョ ン に よ っ て 、ダ ン ス を し て い る よ うに見える。この短編では、2 枚の生肉が、単なる無機物的な肉片では な く 、ア ニ メ ー シ ョ ン の 力 に よ り 、愛 し 合 う 男 女 が ダ ン ス を 楽 し ん で い るものとしてしか見ることができない。 こ れ に よ り シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、恋 愛 を 描 く の に は 生 身 の 人 間 で 121 第6章 終 章 な く て も 良 い こ と を 証 明 し て い る 。つ ま り 、人 間 の 認 識 作 用 に は 、〈 肉 〉 と い う 言 葉( シ ー ニ ュ / 言 語 記 号 )に 伴 う 無 限 の「 連 合 」作 用 に よ っ て 、 生 々 し さ や エ ロ テ ィ シ ズ ム が す で に「 恋 愛 」と い う シ ー ニ ュ の 意 味 ・ 価 エロティシズム 値の裏側に組み込まれており、生肉(それは赤、血、初潮、 性 愛 、恋 愛 、生 殖 、腐 敗 、肉 汁 、死 、火 葬 、エ ロ ス 、タ ナ ト ス … … と い う よ う な 、 無 限 の 連 合 の「 星 座 」を 形 成 す る )を 観 客 に 示 す だ け で 、わ れ わ れ の 認 識 作 用 は 、「 肉 」 と い う 言 葉 の 持 つ 多 重 の 連 合 に 裏 打 ち さ れ た 、 生 身 の 人 間 の 生 々 し い「 恋 愛 」を 想 起 せ ざ る を 得 な い の だ 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に と っ て 重 要 な こ と は 、〈 表 現 す る も の 〉= 生 肉 だ け で は な く 、〈 表 現 さ れ る も の 〉= 生 々 し さ や エ ロ テ ィ シ ズ ム で あ り 、し た が っ て 、2 枚 の 肉 片 に よ っ て 彼 が 描 い て い る の は 、単 な る〈 男 女 〉と い う よ り は〈 男 女の恋愛を含めた彼ら二人の生々しい関係性〉であると言え るだろう。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は な ぜ 触 覚 に こ だ わ る の か 。そ れ は 彼 の 、見 せ か け で は な く 、人 間 存 在 の よ り 本 質 的 な も の に 対 す る 憧 れ と 欲 求 、さ ら に は 近 代 化 し た 社 会 に 対 す る 反 抗 を 含 む 創 作 活 動 が 、こ れ ま で の 聴 覚 イ メ ー ジ ( 聴 覚 映 像 = シ ニ フ ィ ア ン ) に 基 づ か な い 、《 触 覚 》 と い う 新 た な 言 語 ・ ラ ン グ 体 系 に 、人 類 の 文 化 的 普 遍 性 を 見 出 し た か ら に 他 な ら な い 。そ し て 、原 始 的 ・原 初 的 で あ る が ゆ え に 多 く の 可 能 性 を 秘 め た《 触 覚》という新たな言語体系によって、まだ開拓されていない、新しい、 衝 撃 的 な《 世 界 》や 人 間 存 在 の 本 質 を 、わ れ わ れ 現 代 人 に 見 せ よ う と し たからではないだろうか。 (2) 1 98 7 年 に 発 表 さ れ た シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 初 の 長 編 映 画 で あ る『 ア リ ス 』 は 、 ル イ ス ・ キ ャ ロ ル の A l i c e 's A dv en t ure s i n Wo n d er l an d が そ の 基 と な っ て い る が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は ル イ ス ・ キ ャ ロ ル 、あ る い は 122 第6章 終 章 『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』が 、自 身 に と っ て「 イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン の 源 泉 」 の ひ と つ で あ る こ と を 明 言 し て い る 。 な ぜ 彼 に と っ て 、『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』は「 イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン の 源 泉 」と な り 得 る の で あ ろ う か 。そ れ に は 、《 夢 》 が 深 く 関 係 し て い る 。 『 不 思 議 の 国 の ア リ ス 』は 、ア リ ス が 不 思 議 の 国 に 迷 い 込 み 、そ の 世 界 を 冒 険 す る 物 語 で あ る が 、作 品 は 、ア リ ス が《 夢 》か ら 目 を 覚 ま し た と こ ろ で 終 わ り を 告 げ る 。一 般 的 な 、あ る い は 通 常 の ア リ ス 論 に お い て 、 「 不 思 議 の 国 」 = 「 夢 の 世 界 」( 単 な る 寝 て い る と き に 見 る 夢 ) と 認 識 さ れ て い る こ の 構 図 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 原 作 を も と に 映 像 化 し たアリスの《夢》の世界とは異なっている。 ア リ ス が 見 た 《 夢 》 は 、「 不 思 議 の 国 」 と い う 〈 ト ポ ス 〉 に お け る も うひとつの《現実》であり、この《現実》こそが、まさに《夢》である と い う 認 識 に よ っ て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、ア リ ス の《 夢 》の 世 界 へ 私 た ち を 導 く 。彼 が 映 像 化 し た 現 実 は 、ア リ ス が 見 た《 現 実 》で あ り 、 通常の、日常的な現実(われわれが経験している物質的・質料的世界) で は な い 。両 者 は よ く 似 て い る が 同 じ も の で は な く 、ま た 、違 う か ら と 言 っ て 全 く 別 の も の で も な い 。そ の 境 界 は 曖 昧 で あ り 、明 確 な 区 別 は で きない。 夢 か 現 実 か … … ど こ の〈 ト ポ ス 〉の 映 像 か 、ど こ の〈 ト ポ ス 〉で 行 わ れ て い る こ と な の か … … の 境 界 が は っ き り し な い 描 き 方 、判 然 と し な い ような描き方。夢と現実の境目に特異な〈トポス〉がある。 し た が っ て 、逆 説 的 で は あ る が 、映 像 化 さ れ た も の は 、ア リ ス が 見 た 単 な る 夢 で は な く 、 ア リ ス が 見 た ( し か も 、「 目 覚 め た 瞬 間 に ま つ げ の 柵 越 し に 見 た 」)《 現 実 》 で あ り 、 そ れ は 、 日 常 的 な 言 葉 、 す な わ ち 、 聴 覚イメージ(シニフィアン)によってデフォルメされていない、また、 象 徴 界 の 原 理 で 固 め ら れ て い な い 原 始 的 ・ 原 初 的 な 《 現 実 》( で あ り 、 ま た そ れ は《 夢 》で も あ る )と 言 え る だ ろ う 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 123 第6章 終 章 ア リ ス の 〈 目 〉 を 通 し て 、 私 た ち に 原 始 的 ・ 原 初 的 な 《 現 実 》 を 、《 夢 》 のように見せようとしたわけである。 そ の 結 果 、わ れ わ れ の 見 て い る 、ま た 、日 常 的 に 経 験 し て い る《 現 実 》 も 、実 は《 夢 》な の で は な い か と い う 奇 妙 な 錯 覚( あ る い は そ の 夢 こ そ が《 現 実 》か も し れ な い と い う 思 考 )に 、私 た ち は 導 か れ る こ と に な る 。 夢は現実であり、現実は夢である これはアリスとシュヴァンクマ イエルを理解する上で重要なテーゼとなる。 (3) シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、1 9 8 0 年 、エ ド ガ ー ・ ア ラ ン ・ ポ ー の 短 編 小 説「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」に お い て 、抽 象 的 な 粘 土 ア ニ メ ー シ ョ ン に よ っ て こ れ を 映 像 化 す る こ と に 成 功 し た 。「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 は 、 ポ ー 自 身 が 最 も 愛 し た 最 良 の 作 品 で あ る だ け で な く 、そ の 映 像 化 さ れ た 作 品 も 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 自 身 に よ っ て 、彼 の 最 良 の 作 品 の 一 つ で あ る。 第 4 章 で は 、小 説 の 中 心 と な る 詩「 幽 霊 宮 」に つ い て の 考 察 と 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」に お け る 作 品 全 体 の 構 造 を 分 析 し 、 ポ ー の テ ク ス ト が 潜 在 的 に 所 持 し て い る 《 日 常 →非 日 常 →日 常 … … 》と い う ス パ イ ラ ル 構 造 を 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 作 品 の 本 質 を 捉 え て 読 み 解 き 、自 ら の 映 像 作 品 に お い て 、そ の 構 造 を 模 倣 し て い る こ と を明らかにした。 ポ ー の 「 幽 霊 宮 」 は も と も と 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 発 表 5 ヶ 月 前 に 、 雑 誌 『 ア メ リ カ ン ・ ミ ュ ー ジ ア ム 』 “T h e A me r i ca n Mu s e u m” 1 8 3 9 年 4 月号に独立した詩として掲載されたものであり、この詩は小説に先立 っ て 出 版 さ れ た 詩 で あ る が ゆ え に 、「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 の 、 あ る 本 質が凝縮されていると考えられる。 124 第6章 終 章 一 方 、 ポ ー と 同 じ く シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も 、「 幽 霊 宮 」 が 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」の 本 質 で は な い か と 考 え て い た ふ し が あ る 。作 品 に は 原 文 の チ ェ コ 語 訳 が ナ レ ー シ ョ ン と し て 部 分 的 に 使 わ れ て い る が 、 約 16 分 の 短 編 映 像 に お い て 、「 幽 霊 宮 」 の 朗 読 部 分 は ほ と ん ど カ ッ ト さ れ て い な い 。 こ れ は 、 彼 が テ ク ス ト の 中 で 、「 幽 霊 宮 」 を 重 視 し て い た こ と の証明でもある。 「 幽 霊 宮 」が 朗 読 さ れ る 箇 所 で は 、粘 土 に よ る ア ニ メ ー シ ョ ン が 登 場 す る 。そ の 映 像 は 、一 般 的 に は 何 を 表 し て い る か よ く 分 か ら な い 、 判 別 で き な い 、ま た 、あ る 具 体 的 な 形 象 を 表 し た も の で は な い 、と も 考 え ら れるが、この抽象化に、シュヴァンクマイエルは全知全能を傾けた。 幽 霊 宮 の 映 像 は 、生 命 の 誕 生 の 瞬 間 、ま た は 人 間 に は 見 え な い 世 界 で 展 開 さ れ て い る 無 機 物 の 闘 い 、あ る い は《 無 意 識 》と い っ た 問 題 と 深 く 関 連 し て い る 。こ こ で は 、ポ ー の テ ク ス ト が 潜 在 的 に 所 持 し て い る〈 境 界 の 曖 昧 性 〉、 つ ま り 、《 日 常 と 非 日 常 》《 現 実 と 夢 》《 生 物 と 無 生 物 》 の あ い だ の 曖 昧 性 が 表 現 さ れ て お り 、 さ ら に ポ ー は 、「 早 す ぎ た 埋 葬 」 や 「 陥 穽 と 振 子 」 と い っ た 作 品 で は 、《 生 と 死 》 の 曖 昧 性 ま で を も 描 い て いることが指摘できる。 《 日 常 》 と 《 非 日 常 》、《 現 実 》 と 《 夢 》 の あ い だ の 曖 昧 性 に つ い て の 議 論 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 本 質 に 迫 る 問 題 の ひ と つ で も あ る 。ポ ー の 「 ア ッ シ ャ ー 家 の 崩 壊 」 に お け る 《 日 常 》 か ら 《 非 日 常 》、 そ し て 再 び《 日 常 》へ 戻 る と い う 構 造 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も 理 解 し て い た。この《日常》から《非日常》へ、そして再び《日常》へ戻るという 構 造 、 ま た は《 意 識 → 無 意 識 → 意 識 → 無 意 識 … … 》、 あ る い は《 現 実 → 夢 →現 実 →夢 … … 》 と い っ た 円 環 構 造 は 、 平 面 的 ・ 二 次 元 的 な 世 界 の も の で は な く 、( ス パ イ ラ ル の よ う な ) 立 体 的 三 次 元 構 造 を し て い る 。 つ ま り、 「 見 て し ま っ た 、知 っ て し ま っ た 」後 は 、も と の 場 所( す な わ ち《 日 常 》) に 戻 る こ と は で き な い の で あ る 。 原 初 性 へ の 完 全 回 帰 は あ り 得 な 125 第6章 終 章 い、不可能なのだ。 アッシャーは、すべての植物に知覚力・認識力があると信じており、 “i n or ga n i zat i o n ” 無 機 物 の 王 国 に ま で 、そ の 力 は 及 ん で い る と 考 え て い る 。 この一連の思考は、 「 幽 霊 宮 」か ら 湧 き 出 た 連 想 に よ っ て 明 白 に な っ た 、 と 語 り 手 の「 私 」は 告 白 す る の で あ る が 、そ れ ま で ア ニ メ ー タ ー と し て 、 石 や 粘 土 や 肉 片 な ど さ ま ざ ま な モ ノ を 動 か し 、映 像 作 品 を 作 り 続 け て き た 自 ら の 経 験 か ら 、「 無 機 物 に も 知 覚 は あ る 」 こ と を 実 感 し て い た シ ュ ヴァンクマイエルは、アッシャーは自分だと思ったことだろう。 (4) シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 多 く の 映 像 作 品 で は 、ナ レ ー シ ョ ン や セ リ フ と い っ た〈 言 葉 〉が 使 わ れ て い な い 。そ れ は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル が 所持している、本当に自分の伝えたいことが相手に伝わらないという 〈 言 葉 〉に 対 す る 不 信 や 懐 疑 、あ る い は そ の 性 質 上 、本 質 的 な と こ ろ が 表 現 さ れ な い 、根 本 的 な も の を 表 現 し 得 な い〈 言 葉 〉に 対 す る あ る 種 の 《恐れ》が存在しているからだと考えられる。 こ の よ う な 言 語 に 対 す る 批 判 は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 の 特 徴 で も あ る 触 覚 的 な 表 現 、あ る い は 近 代 批 判 へ と つ な が っ て い く 。そ の 哲 学 を 最 も よ く 観 察 で き る 作 品 の 一 つ と し て 挙 げ ら れ る の が 、1 9 82 年 に 発 表 さ れ た「 対 話 の 可 能 性 」で あ る 。第 5 章 で は こ の「 対 話 の 可 能 性 」に ついて詳しく分析した。 「 対 話 の 可 能 性 」は 3 つ の 部 分 か ら な っ て お り 、そ れ ぞ れ に「 永 遠 の 対 話 」「 情 熱 的 な 対 話 」「 不 毛 な 対 話 」 と い う タ イ ト ル が 付 け ら れ 、 こ れらはすべてコマ撮りのアニメーションである。 「 永 遠 の 対 話 」と「 不 毛 な 対 話 」は 、相 手 に 自 分 の 思 い や 考 え が 伝 わ ら な い こ と で 、互 い に 傷 つ け 合 い 、そ れ に よ っ て 双 方 が 滅 び る 様 を 表 し 126 第6章 終 章 て い る も の と 考 え ら れ 、特 に 現 代 社 会 へ の 悲 愴 な 批 判 が 盛 り 込 ま れ て い るとみられる。 一 方 、「 情 熱 的 な 対 話 」 で は 、 粘 土 で で き た 男 女 は 愛 し 合 い 、 二 つ の 体は融合していく。これは素材が粘土であるから、融合を見せるのは、 原 理 的 に 簡 単 な こ と で あ る と 言 え る 。こ こ で は 、粘 土 で し か 表 現 で き な い、融合する《愛》が描かれている。 映 像 に お い て 融 合 し た 肉 体 は 再 び 別 々 に な る が 、完 全 に 元 の 形 に 戻 る わ け で は な い 。二 人 の 間 に 、何 か 子 ど も の よ う な 小 さ な 粘 土 の 塊 が 残 さ れている。つまり、1+1=2になったのではなく、1+1=2+α が 生じたのである。 +α とは何か?二人は融合する前の状態に戻ったと思われるので、そ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ こ に は 、二 人 の 肉 体 的 で は な い 何 か が 、目 に 見 え る 形 で 現 れ て い る と 考 えられる。これは一体、何を表しているのだろう。 二 人 が 愛 し 合 っ た 余 剰 と し て の 小 さ な 粘 土 の 塊 、あ る い は 薄 片 は 、映 像では目に見えているが、原理的には目に見えないもの、霊的なもの、 あ る 種 の〈 精 神 〉の よ う な も の で は な い だ ろ う か 。ジ ャ ッ ク ・ラ カ ン で あ れ ば 、 こ の 小 さ な 薄 片 を 「 ラ メ ラ 」 “ l a me l l a ” と 呼 ん だ に 違 い な い 。 作 品 に は 、「 対 話 の 可 能 性 」 と い う 日 本 語 タ イ ト ル が 付 け ら れ て い る が 、 チ ェ コ 語 原 題 は “ Mo žn o s t i di al o g u ” 、 英 訳 す る と “ D i me n si o ns o f D i a l o gu e ” と 表 わ さ れ 、 こ の 作 品 は 、 対 話 と い う も の を 様 々 な 側 面 か ら 観察した寓話という性質を持ち合わせている。それはつまり、対話の p os si bi l i t y = 可 能 性 に 限 っ た 話 で は な い 。 チ ェ コ 語 原 題 か ら も わ か る よ う に 、 対 話 に よ る i mp o s si b i l i t y = 不 可 能 性 が も う 一 つ の テ ー マ と な っ て い る 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 的 に 解 釈 を す る な ら ば 、こ れ こ そ が〈 対 話 〉 の本質であると言えるのではないだろうか。 さ ら に は 、言 語 的 な 対 話( = 現 行 の 、聴 覚 映 像 = シ ニ フ ィ ア ン を 介 し た 対 話 )の 不 可 能 性 が あ る 一 方 で 、逆 に 言 え ば 、非 言 語 的 な 対 話 の 可 能 127 第6章 終 章 性 も ま た 存 在 し 、 こ こ か ら は 、「 非 言 語 的 」 な 対 話 の 雄 弁 性 が 、 こ の 作 品の隠されたもう一つの主題となっていることが指摘できる。 「 非 言 語 的 な 対 話 」と は 、言 う ま で も な く 触 覚 イ メ ー ジ の シ ニ フ ィ ア ン を 用 い た や り と り で あ り 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、こ の「 対 話 の 可 能 性 」と い う 作 品 に よ っ て 、新 し い 触 覚 言 語 の 可 能 性 を 提 示 ・ 暗 示 し て いるとも言えよう。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品『 対 話 の 可 能 性 』の テ ー マ で あ る 対 話 の “不 可 能 性 ”、 こ れ は 、 言 葉 が 本 来 的 に 所 持 し て い る も の で あ る 。 伝 え る 者 と 受 け 取 る 者 の あ い だ に 生 ず る〈 言 葉 〉と〈 イ メ ー ジ 〉の ギ ャ ッ プ は 、言 語 論 的 に は 必 然 の も の で あ る が 、こ れ は 根 本 的 に 、各 人 の 異 な る 「 連 合 “ a s s o ci at i o n ”」 に 起 因 し て い る 。 同 じ シ ニ フ ィ ア ン で も 、各 人 の 連 合 に よ っ て 異 な る シ ニ フ ィ エ を そ れ ぞ れ が 所 持 し て い る か ら 、 1 0 0 人 い れ ば 1 00 通 り の シ ニ フ ィ エ が あ る 。 厳 密 な 意 味 で 、対 話 が 可 能 な は ず が な い 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は こ の “ 不 可 能 性 ” を 、「 対 話 の 可 能 性 」 に お い て 逆 説 的 に 表 現 し 、 卓 抜 し た 技 術によって映像化した。 128 第6章 終 章 第 2 節 結 論 こ れ ま で の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に つ い て の 研 究 は 、大 き く 2 つ の 主 流 に 分 け ら れ る 。一 つ は 、彼 の 映 像 が い か に 作 ら れ た か と い う 映 像 技 法 的 ア プ ロ ー チ 、も う 一 つ は 、チ ェ コ の 共 産 主 義 時 代 と 、彼 の 経 歴 を 辿 る 歴 史 的 ア プ ロ ー チ か ら 、映 像 が 所 持 し て い る 政 治 的 意 図 を 探 る 影 響 研 究 である。これらの先行研究の多くは、シュヴァンクマイエルの「外部・ 周 辺 」に つ い て の 研 究 に 留 ま っ て し ま っ て い る の が 特 徴 で 、彼 の「 内 部 ・ 本 質 」に つ い て 、つ ま り 、そ の 思 想 性 に つ い て は 、ほ と ん ど 言 及 が さ れ ていないことは、第1章において既に言及した。 本 論 文 は 、先 行 研 究 に お い て 欠 け て い る 視 点 、す な わ ち 、シ ュ ヴ ァ ン クマイエルの思想性について、可能な限り深く迫った研究論文で ある。 そ の 最 大 の 特 色 は 、従 来 の 研 究 に 、言 語 論 、心 理 学 、あ る い は 文 学 的 視 座を加え、多角的に分析・考察しようとしている点にある。 特 に 言 語 論 的 ア プ ロ ー チ に お い て は 、《 触 覚 》 と ソ シ ュ ー ル 言 語 論 の 概念である連合作用を結び付け、シュヴァンクマイエル作品における 《触覚》の重要性を、従来の視点とは異なる角度から検証した。また、 心 理 学 的 側 面 に お い て も 、《 触 覚 》 は 単 に 五 感 の 中 の 一 感 覚 で あ る の み な ら ず 、様 々 な 心 理 的 影 響 を 及 ぼ す こ と に つ い て 言 及 し 、さ ら に は 、 作 品 研 究 に お い て も 、ル イ ス・キ ャ ロ ル や エ ド ガ ー・ア ラ ン・ポ ー の 原 作 と の 比 較 研 究 の み な ら ず 、そ れ ら に 付 随 し た 思 想 性 に つ い て の 考 察 も 試 みた。 こ れ ま で の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル に つ い て の 研 究 は 、客 観 的 事 実 の 究 明 が 中 心 で あ っ た 。そ の 意 味 に お い て 本 論 文 は 、従 来 の シ ュ ヴ ァ ン ク マ イエル芸術論とは異なるアプローチ方法によって構成されていると言 え る 。映 像 の 1 コ マ 1 コ マ を 分 析 し 、そ こ か ら 意 味 さ れ る も の を 求 め る と い う 手 法 に よ っ て 分 析 さ れ た 論 文 ・ 先 行 研 究 に よ っ て 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル を 理 解 す る 一 つ の 側 面 を 見 る こ と は 可 能 で あ る が 、こ れ は 、い 129 第6章 終 章 わ ゆ る《 断 片 》に 過 ぎ な い と 考 え ら れ る 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 研 究 の 《 核 》と な る 部 分 は 、別 の と こ ろ に あ る の で は な い だ ろ う か 。こ の よ う に 考 え た と き 、こ れ ま で と は 異 な っ た 研 究 手 法 が 必 要 で あ る こ と に 気 が 付く。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 を 研 究 す る 場 合 、こ れ ま で の 客 観 的 事 実 の 分 析 に 加 え 、主 観 的 事 実 の 考 察 が 必 要 で あ る 。芸 術 や 文 学 が 追 及 し て い る と こ ろ は 、「 い か に し て 人 間 は 生 き る か 」 と い う 問 題 で あ り 、 こ れ は 、科 学 的 な 映 像 ・ デ ー タ 分 析 に よ っ て の み 解 明 で き る 類 の も の で は な い。それはまさに、思想性に深く関係しているからである。 本 研 究 は 、多 く の 先 行 研 究 の 内 容 と は 異 質 と な る た め 、あ る い は 通 常 の 芸 術 論 、映 像 論 の 研 究 視 点 に お い て も 、ア プ ロ ー チ 方 法 が 異 な る 部 分 が あ る た め 、こ の 研 究 方 法 に つ い て 、科 学 的 で は な い 、ア カ デ ミ ッ ク で はない、といった懐疑的な見方があるかもしれない。 し か し 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 の 性 質 上 、客 観 的 事 実 の 考 察 の み で は 、そ の 深 淵 に は 迫 る こ と が で き な い 。な ぜ な ら 、精 神 分 析 学 理 論 が 示 す よ う に 、こ れ ま で の 目 に 映 る 意 識 的 な も の だ け を 対 象 と し た 分 析 方 法 で は 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル 作 品 の 本 質 ・ 深 層 意 識 を 読 み 取 る こ と は困難だと言えるからである。 先 に も 言 及 し た よ う に 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 作 品 は 、文 学 的 、か つ 哲 学 的 な も の で あ る に も 関 わ ら ず 、そ の 作 品 の 持 つ 、深 い 思 想 性 に つ い て の 本 質 的 な 研 究 は 、い ま だ 、な さ れ て い な い と い う の が 現 状 で あ る 。 そ れ で は ど の よ う な 点 が 、シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 深 い 思 想 性 に つ い て の 考 察 ・ 分 析 の ポ イ ン ト に な る か と い う と 、そ れ が ま さ に 、本 論 文 を 構 成 し て い る 4 つ の キ ー ワ ー ド 、す な わ ち《 触 覚 》 《夢》 《存在の境界》 《言 葉》であり、本論文の各章においてその詳細を分析した。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル の 芸 術 作 品 に 共 通 す る テ ー マ 《 触 覚 》《 夢 》《 存 在 の 境 界 》《 言 葉 》 に つ い て 考 え た と き 、 そ の ど れ も が 、 近 代 以 降 な い 130 第6章 終 章 が し ろ に さ れ て お り 、そ れ ゆ え 、大 き な 可 能 性 を 秘 め た ま ま と な っ て い ることに気が付く。 特 に 、《 触 覚 》 と 《 言 語 》 に つ い て 第5章で取り上げた『対話 の 可 能 性 』 の も う 一 つ の 主 題 で あ る 、 対 話 の “不 可 能 性 ”に 、 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 直 観 的 に 気 づ き 、自 身 の 芸 術 に お け る 重 要 な テ ー ゼ と し た 。 言 語 体 系 も シ ニ フ ィ エ も 、各 個 人 に お け る 言 葉 の 連 合 も 異 な る 人 々 に お い て 、 対 話 を 可 能 と す る も の は 何 か 、 そ れ は ま さ し く 、「 芸 術 」 で あ る と言える。 芸 術 は 深 層 意 識 ・ 無 意 識 の 領 域 ま で 含 め て 、わ れ わ れ に 訴 え か け る も の を 持 っ て い る 。芸 術 は 人 類 が 発 明 し た 最 大 の 表 現 方 法 で あ り 、そ れ が 近代社会を席巻する表層的な言語の表現能力をはるかに超えるもので あることは、もはや言及するまでもない。 さ ら に シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、こ の「 芸 術 」と 同 様 、 《 触 覚 》に も 、 言 葉 に よ る 表 現 手 段 を 凌 駕 す る 機 能 ・ 作 用 が あ る こ と を 信 じ て い る 。自 身の作品において《触覚》を重視するのは、このためである。 シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル は 、原 始 的 ・ 原 初 的 で あ る が ゆ え に 多 く の 可 能 性 を 秘 め た《 触 覚 》と い う 新 た な 言 語 体 系 に よ っ て 、ま だ 開 拓 さ れ て い ない、新し い、衝撃 的な《 世界 》や 人間 像を、芸術 作 品を 通 して、われ わ れ 現 代 人 に 見 せ よ う と し た 。そ し て《 夢 》と《 境 界 の 曖 昧 性 》も ま た 、 新しい《世界》へ私たちを誘うものである。 シュヴァンクマイエル作品の主要テーマである4つの概念《触覚》 《 夢 》《 存 在 の 境 界 》《 言 葉 》 は 、 正 面 か ら 見 る ・ 分 析 す る だ け で は 、 そ の す べ て を 知 る こ と は で き な い 。シ ュ ヴ ァ ン ク マ イ エ ル も こ の こ と に 気 づ き 、こ れ ま で と は 別 の 角 度 か ら 、異 な る 視 点 か ら 、こ れ ら の 概 念 を 見 つめ、芸術、そして《触覚》という人類共通の普遍的な手法を用いて、 われわれ現代人に、その可能性を示そうとしたのではないだろうか。 131 第6章 終 章 あとがき 日本大学大学院総合科学研究科を5年で単位取得満期退学し、それから 民間企業に就職して5年、ようやくこのような形で博士論文をまとめるこ とができました。 いつかは形にしたいと就職をしてからもずっと心に思っていましたが、 一度アカデミックな世界から逸脱した《恐れ》からか、なかなか踏み切る ことができませんでした。仕事が忙しいことを言い訳に、在学時からお世 話になっていた先生方から常々お声掛けをしていただいていたにも関わら ず、また、大学院が特例措置としてポスドクと同等の条件で籍を残し、研 究環境を整えてくださったにも関わらず、挑む勇気がありませんでした。 大 学 院 で 5 年 間 、 学 部 時 代 を 含 め る と 約 10 年 間 、 芸 術 や 文 学 、 哲 学 と い っ た 美 し い《 夢 》の 世 界 に 浸 っ て い た 私 に と っ て 、 《 現 実 》の 象 徴 で も あ る民間企業への就職は、これまでの人生における最大の挑戦であったよう に思います。 当初、就職する気などは全くなく、可能であればそのまま大学院に残り 研究を続けたかったのですが、諸々の事情があり、広告代理店で働くこと になりました。働いてみてわかったことは、数字として日々の営業成績が 求められる現実世界は想像以上に厳しく、理不尽であり、大変だというこ とでした。 そこでは《夢》を見ることは許されません。暴力的な《現実》を生きる しか道はないのです。民間企業で働くことにより、シュヴァンクマイエル が〈敵〉としている〈近代〉を、身を持って知ることとなりました。 研究や博士論文のことはいつも頭にありましたが、なかなか決心ができ ずにいたところ、ある日《風》が吹き、やるなら今しかないと思い立ちま した。それは仕事中のことで、心に決めたときの情景を今でもよく覚えて います。 決心をしてからは夢中で取り組みました。私にとって昼間の仕事は《現 132 第6章 終 章 実 》で あ り 、夜 や 休 日 に な る と 訪 れ る 研 究 の 時 間 は 、 《 夢 》の 中 に い る よ う でした。もちろんその〈境界〉は曖昧で、どちらが《夢》でどちらが《現 実》か、わからないときもあったのですが…… 仕事と両立をしながら再び集中して博士論文を執筆したこの時間は、確 かに大変ではありましたが、本当に幸せな時間でした。 これは民間企業に就職していなければ、感じることは難しかった喜びか もしれません。その意味においては、就職をして良かったとも思います。 しかし、やはり《現実》は荒々しく、長く《夢》を見ることを許しては くれません。3月に同僚が一人辞め、繁忙期が重なり、夜や休日さえも自 分の時間が持てなくなる=《夢》を見ることができなくなる日々が続くよ うになりました。 春から夏に季節が変わる頃、やるとは決心したものの思うように執筆が 進まず、何度も立ち止まりました。論文のアイデアが頭の中でまとまって いても、また、その答えが直観的にわかりかけていても、それを言葉にし て 、文 章 と し て ま と め る こ と が で き な い の で す 。自 分 自 身 の 知 識 不 足 と《 言 葉 》の 不 可 能 性 に は 随 分 悩 ま さ れ ま し た 。仕 事 と は ま た 別 の 、苦 し さ で す 。 立ち止まった私の背中を強く押してくださったのが、大学院1年次から お世話になっていた森山茂先生でした。森山先生のご指導と励ましがなけ れば、この論文は完成することはなかったと断言できます。大学院の必修 授業であった記号論と自主ゼミを通して、森山先生からお教えいただいた 広範囲の様々な知識が私のベースとなり、また、この論文のベースにもな っています。学位取得を目指すと決めてからは、現在のお住まいのある信 州から東京・市ヶ谷の研究室まで、ゼミを開講するために毎週のように駆 け付けてくださいました。また時には旅先から、論文の添削やアドバイス をいただき、それがどれだけ私の励みになったかは、言葉では到底語り尽 くせません。森山先生はカオスの中にいた私を救ってくださいました。あ る意味では、私の命の恩人とも言えます。 133 第6章 終 章 そしてもう一人、カオスから私を救い出してくれたのが、法学部時代か らの友人であり、大学院の同期でもある岡崎匡史君です。岡崎君は在学中 に 500 ペ ー ジ に も 及 ぶ 日 米 関 係 に 関 す る 論 文 に よ っ て 博 士 号 を 取 得 し た 秀 才です。岡崎君の協力がなければ、おそらく提出期限に間に合わなかった かと思うと、一生頭が上がりません。 総合科学研究科の中村二朗先生、齋藤安彦先生、野池達也先生は、満期 退学後も大学院に籍が残るようご尽力くださいました。先生方からは、大 学院を離れてからも折に触れて励ましのお言葉を掛けていただき、大学院 に所属しているという事実が、どれ程私を支えてくれたことでしょう。脳 科学の権威である林成之先生からは、最新の医学的データに基づいた助 言・アドバイスをいただきました。 また、新設された研究科の1期生ということもあり、事務の方々にも大 変お世話になりました。中山聡事務課長をはじめ、湯澤映子さん、小向井 秋三さん、戸田浩司さん、栗林健太さん、五十畑久美子さん、湯田栄作さ ん。いつも優しいお心遣いをありがとうございました。 西鋭夫先生、丸田利昌先生、同期の西村征也くん、褚 敏慧さん、法学 部講師の山田綴先生、日本大学三島高校からの友人である本田(旧姓・間 宮)薫さん、白百合女子大学の宇佐美奈麻子さん、法学部の後輩である池 田沙栄子さん、仕事でお世話になった人たち……学位申請をする決心がで きたのは、みなさんの支えがあったからです。 そ し て 何 よ り 、学 問 、学 ぶ こ と の 楽 し さ を 最 初 に 教 え て く だ さ っ た の は 、 法学部時代の恩師である諸坂成利先生でした。先生のご専門は比較文学で あり、英語・フランス語・スペイン語、時にはロシア語やギリシャ語、サ ン ス ク リ ッ ト 語 ま で を も 自 在 に 操 る 諸 坂 先 生 は ま さ に 天 才 、私 の 憧 れ で す 。 大学1年生の4月に先生に出会えたことで、私の人生は大きく変わりまし た。1年次から4年次まで受講した諸坂先生の授業、そこで触れた美しい 世 界 が い つ も 私 の 根 底 に あ る こ と 、こ れ ほ ど 幸 運 な こ と は あ り ま せ ん 。 《神》 134 第6章 終 章 から授けられた、最高の贈り物だと思っています。芸術・文学・哲学・音 楽……美しいものはすべて、諸坂先生が教えてくださいました。シュヴァ ンクマイエルの映像を初めて見たのも、諸坂先生のクラスでした。 また、付属高校から所属している日本大学からは、学部・大学院を通し て複数の奨励金・研究費をいただき、それを利用してチェコに滞在するこ とができました。在学中の学業成績と研究への熱意を認めていただき、最 大限の援助を受けられたことを、とても誇りに思います。 さらに、大学院1年次から5年次まで給付された守谷奨学金の援助がな ければ、大学院生を続けることさえ難しく、長い間ご支援いただき大変感 謝をしております。 博士論文を執筆する契機となったのは、シュヴァンクマイエルの美しい 世界に触れたいという、いわば、自身の欲望を満たすためのものでした。 し か し 、完 成 さ せ た い と 強 く 願 っ た の は 、家 族 と 大 切 な 人 た ち の た め で す 。 今年1月に亡くなった祖母のよしゑは、いつも私を気に掛け、応援して くれました。弟の大輔とさやかさん、甥の空澄、拓海、妹の麻美、家族の ために、途中で諦めないと決めました。そしてこの論文を、私たち兄弟を 富士山麓の素晴らしい環境の中、何不自由なく育て、3人とも東京の私立 大学へ通わせるという莫大な教育的投資を惜しみなくし、いつも大きな愛 で見守っていてくれる父・清暢と母・かよ子に捧げます。 本当に多くの方々に支えられて、博士論文を仕上げることができました。 みなさまの幸せを、心よりお祈り申し上げます。 夢ならで ゆめなることをなげきつつ 秋のうつつに ものおもふかな (藤原義孝の詠を翻案として) 平 成 26 年 9 月 4 日 ヤン・シュヴァンクマイエル生誕の日に 遠藤 琴美 135 参考文献 ≪参考文献一覧≫ 〔欧文〕 Adamec, Oldřich. 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