廖仲愷が国民党の右派によって暗殺された時、子息の廖承志は十六歳であった。仲愷の妻・ 何香凝は、自宅の門に「精神不死」(肉体は殺せても、精神を殺すことはできない)との横幕 を掲げて抗議し、毅然として新中国の建設のために戦い抜いた。その彼女の闘争を、若き鄧穎 超は支え続けてきた。 廖承志は、父の遺志を受け継ぎ、社会改革の道を歩み、長征にも加わった。しかし、なんと 味方である紅軍からもスパイの嫌疑をかけられ、手枷をつけて行軍させられたこともあった。 また、文化大革命では、理不尽な攻撃にさらされ、四年間の軟禁生活を送った。 中国の要人たちの誰もが、激動の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りに も遭い、肉親や同志を失っていた。 革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が 誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。 貧しさにあえぐ人民に幸せな生活を送らせたいというのが、廖仲愷、何香凝を活動に駆り立 てた願いであったにちがいない。忘れてはならないのが、その革命の原点である。 山本伸一たち訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。 伸一は、空を仰ぎながら、皆に語った。 「ご両親の追善をさせていただいたことを聞けば、廖承志先生も、きっと喜んでくださるで しょう。 私が、日中友好に全力を注ぐのは、こうした平和と人民の幸福を願った方々の志を無にした くないからです。そのためには、経済的な利害や、政治的な駆け引きに翻弄されることのない、 友誼と信頼の堅固な基盤を築かなくてはならないからです。 どうか、その私の心を、永遠に忘れないでほしい。特に青年部、頼むよ」 一行は、孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花をし、冥福を祈り、題目を三唱した。 そして、夕方には、空路、南京から最終訪問地の北京へ向かったのである。
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