『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「シヤーロツク・ホームズの歸還」より 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 三上於莵吉訳 ホームズは全く黙りこんだまま、 その脊の高い痩せた身体を猫 脊にして、何時間も化学実験室 に向っていた。そこからは頻りに、 いやな悪臭がただよって来る、 横浜コミュニケーション障害研究会 -1- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ――彼の頭は胸に深くちぢこめ られて、その恰好は、鈍い灰色 と さ か の羽毛の、黒い鳥冠の奇妙な鳥 のようにも見えた。 「そこで、ワトソン君、――」 彼は突然に口を開いた。 「君は南アフリカのある投資事業 に、投資することは、思い止まっ てしまったのだね」 私はサッと驚かされてしまった。 横浜コミュニケーション障害研究会 -2- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 私は彼の不思議な直覚力と云っ たようなものには、毎度のことで よく慣れていたが、しかしこの私 の胸中の、秘中の秘事にずばり っと図星を指されたのには、全く あきれ返ってしまった。 「一たい君は、どうしてその事を 知っていたのだね?」 私は訊き返した。 「さあワトソン君、ぐうの音が出ま 横浜コミュニケーション障害研究会 -3- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) いがね」 「いや、全くその通りだ」 「それではね君、とにかくきれい い っ さ つ に参ったと云う一札を入れたま え」 「それはまたどうしてさ?」 「いや、実はもう五分の後には、 君はきっと、それは馬鹿馬鹿しく わかり切ったことだと云うに相違 ないからだよ」 横浜コミュニケーション障害研究会 -4- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「いやいや、僕は決して、そんな ことは云わないよ」 「ワトソン君、それでは御説明に 及ぶとしようかね」 ホームズは試験管を架にかけ て、教授が講堂で、学生たちに 講義でもする時のような恰好で 話し出した。 「先人の研究材料を基本として、 それを単純化して、推論の系統 横浜コミュニケーション障害研究会 -5- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) を立てると云うことは、決してそう 難しいことでもないのだ。そして こころみ もしこう云う 試 をして、誰かが中 心思潮となっている論説を覆し あら た て、更にその聴衆に、新な出発 点と結論とを与えたら、それはた しかに、キザたっぷりなことでは あるが、しかし一つの驚歎すべ き結果をもたらしたと云ってよか ろう。さて、君の左の人差し指と 横浜コミュニケーション障害研究会 -6- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) お や ゆ び 拇指の間の皮膚の筋を見て、君 が採金地の株を買わなかったと 云うことが、あまり首をひねりまわ う ち さない中に解ったと云うわけさ」 「どうも僕には何の事か解らない ね」 「いや誠に御もっとも至極――し かしこれはごく手短に説明する ことが出来るんだ。ここにそれぞ れ取り外れていた、鎖の輪があ 横浜コミュニケーション障害研究会 -7- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) るからね。第一には、君が昨夜 く ら ぶ 倶楽部から帰って来た時は、君 の左の手の指のあたりに、白い チョークがついていたこと。第二 キュー す べ には、君が玉を突く時は棒の辷 りをよくするために、チョークをつ ける習慣のあること。第三には、 ほ か 君はサーストン氏との外には、 決して玉を突かないこと、―― 第四には君が四週間前に、サ 横浜コミュニケーション障害研究会 -8- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ーストン氏は、南アフリカの採金 地の株式募集をやっているが、 その締切りまでは一ヶ月あるの で、君にも加入してくれと云って 来たと話したことのあったこと、 ――第五には、君の小切手帳 ひ き だ し は、僕の抽斗に入って錠が下り ているが、しかし君はその鍵を 決して僕に請求しなかったこと、 ――第六には、君がこのようにし 横浜コミュニケーション障害研究会 -9- 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) て、この株式に申込をしなかっ たと云うこと、――」 「ははははははは、何と云う馬鹿 馬鹿しく解り切ったことだ!」 私は叫んだ。 「全くその通りさ」 彼はちょっと不気嫌になって 云った。 「どんな問題でも、一通りわかっ てしまうと君には皆小供だましの 横浜コミュニケーション障害研究会 - 10 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ように解り切ったものになってし まうのだ。ではここに未解決の問 題があるが、ワトソン君、これに は君はどう云う解釈を与える ね?」 彼は一枚の紙を机の上に放り 出して、また化学の分析の方に 向き直った。 私はそれを見て驚いてしまっ た。それは、何かの符牒の文字 横浜コミュニケーション障害研究会 - 11 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) のようなものであった。 「何んだ、――これは小供の絵 ではないか――ホームズ君!」 私は叫んだ。 「ははははははは、そんなものに 見えるのかね!」 「じゃ何なんだね?」 「これは、ノーフォークのリドリン グ公領のヒルトン・キューピット氏 が、しきりに知りたがっていること 横浜コミュニケーション障害研究会 - 12 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) なんだがね。この謎のような問題 は、第一回の郵便配達で来て、 その人は二番列車でその後から 来ることになっているのだ。ああ ワトソン君。ベルが鳴っているが、 あるいはその人かもしれない ――」 重々しい足取りが、階段にきこ う ち えたと思う中に、一人の紳士が 入って来た。脊の高い、血色の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 13 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) あ よい、綺麗に剃てられた紳士で、 その澄んだ目、輝く頬、――と、 ベーカー街の霧の中からは遥 に離れた処に生活している人に へ や 相違ないと思われた。彼が室の 中に入って来た時に、どこか強 健なきびきびしたような、東海岸 におい 独特の香が、ただよって来るよう であった。彼は我々二人と握手 を交わして、さて腰かけようとし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 14 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) た時に、私が見て机の上に置い てあった、不思議な記号のような ものに目を止めた。 「ああホームズさん、――これを どう云う風にお考えになりました か?」 彼は叫んだ。 「あなたは大変、奇妙な神秘的 なことをお好きでいらっしゃるそ うですが、しかしこれはまた一段 横浜コミュニケーション障害研究会 - 15 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) と、奇妙不可思議なものでしょう。 私はあなたが、私が来る前に研 究しておかれるようにと思って、 前もってお送りしたわけです」 「これはたしかに奇妙なものです な」 ホームズは云った。 い た ず ら が き 「ちょっと見れば、子供の悪戯画 のようにも思われるし、また、紙 の上を踊りながらゆく、でたらめ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 16 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) な小さな姿の、絵のようでもあり ますね。一たいこんな変な、得 体の知れないものに、どうしてそ んな勿体振った意味をつけよう と仰有るのですか?」 「いや、私は決してそう云うつもり ではないのですが、ただ私の妻 が大変なのです。実は妻が全く 気絶するほど、これに驚かされ たのです。彼の女は何にも云い 横浜コミュニケーション障害研究会 - 17 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ませんが、しかし私はその目の き ょ う ふ 中に、非常な驚怖を見て取りま せ ん さ く した。それでそれを穿鑿してみ たいと思ったわけです」 ホームズは紙片を取り上げて、 太陽の光線をその上に直射せ しめた。その紙片は、ノートブッ クから離し取ったもので、鉛筆で か た ち 次のような象形が画かれてあっ た。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 18 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ホームズはしばらくの間、それ し ら て い ね い を検べていたが、やがて、叮嚀 に折りたたんで、自分の手帳の 間にはさんだ。 「これはとても面白い、稀有の事 件かもしれない」 彼は云った。 「ヒルトン・キューピットさん、あな う ち たはお手紙の中では、二三具 横浜コミュニケーション障害研究会 - 19 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 体的なことを書かれてありました が、しかしこの友人のワトソン博 士のために、もう一度一通りお 話し下さいませんか」 ま ず 「どうも私は説明は拙劣いので すが、――」 我等の訪客は、その大きな強 い手を、組んだり放したり、もじも じさせながら、神経質に語り出し た。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 20 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「いずれお解りにならないところ は、そちらの方からお訊ね下さ い、――私は去年、結婚した時 のことから申しますが、まずその 前にお耳に入れておきたいこと は、私の家は、決して金持では ありませんが、ここ約五世紀の間 は、現在のリドリング村に住んで いて、ノーフォーク地方では、第 一の旧家だと云うことです。去年 横浜コミュニケーション障害研究会 - 21 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) の五十年祭には私はロンドンに 来て、ランセル街の宿泊所に滞 在しました。それは私の教区の 牧師の、パーカーさんが滞在し ていた関係から、そこを選んだ のでした。そうするとそこに、 亜米利加の若い婦人が居たの ア メ リ カ でした。パートリックと云う名前で ――すなわちエルシー・パートリ ックと云う女でしたが、――ふと 横浜コミュニケーション障害研究会 - 22 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) した機会から、私共は友人にな ってしまいましたが、その滞在中 に私は、遂に男性並々に、その 女と恋愛関係に陥ってしまった のでした。それで私共は早速結 婚の手続をすまし、夫婦としてノ ーフォークに帰って来ました。と にかく少しは知られている旧家 の人間が、こんな風にして、全く その身元調査もろくろくしないで、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 23 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 結婚してしまうなどということは、 とても乱暴なことと思われるでし ょうが、しかしそのことは、私の妻 を御覧下されて、彼の女を知っ て下されば、お解りになると思わ れますが、―― とにかく彼の女は、――エルシ ーは卒直でした。もし私が訊ね さえしたら、何もかも隠さずに云 ってくれたと思っています。「わ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 24 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) たしにはとても厭な思い出があり ますのよ」こう云って彼の女は語 るのでした。「わたしはそれをどう にかして忘れてしまいたいと思 いますわ。わたしはもう一切それ には触れたくはありませんの。ヒ ルトンさん、あなたがもしわたし を求めて下さるなら、そりゃ過去 において一点の曇もない女性を 得ることになると申しますが、し 横浜コミュニケーション障害研究会 - 25 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) かしいずれあなたは、わたしの 言葉を全部信じて下さって、わ たしの過去については、何にも 訊ねないと云うことを約束して下 さい。それでこのお約束が無理 だと仰有るのでしたら、どうぞわ たしをこのままのこしてノーフォ ークにお帰り下さい」と、これは 私達の結婚の前日に、彼の女 が私に云った言葉でした。それ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 26 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) で私は彼の女の言葉をそのまま 容れて、その後もこの約束をか たく守って来たのでした。 そしてその後私共は、この一 年の間、結婚生活をつづけて来 ましたが、私共は実に幸福でし た。しかしほぼ一ヶ月前、―― 六月の末頃に、私は始めて わ ざ わ い 煩累の兆を見たのでした。その ア メ リ カ 頃妻は亜米利加の消印のある 横浜コミュニケーション障害研究会 - 27 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 手紙を受け取ったのでしたが、 その時彼の女の顔は気絶しない ばかりに蒼白になり、手紙を読 んでから、それを火の中に投げ こんでしまったのでした。その後 は別に彼の女はそれについて 何も云いませんでしたし、私もま た約束にしたがって、そのことに ついては一言も触れませんでし た。しかし彼の女は、それ以来 横浜コミュニケーション障害研究会 - 28 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) はずっと、一つの不安にとざさ れていて、とかく顔色が浮かなく なり、何ごとかにビクビクしている ようでした。まあ俺を信ずるがよ い。俺こそは彼の女の、最もよい 伴侶なのだ。私はそう思ってい ました。しかし彼の女が云い出 すまでは、私は切り出すことは 出来ません。しかしホームズさん、 くれぐれもお含みを願いたいの 横浜コミュニケーション障害研究会 - 29 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ですが、彼の女はたしかに真実 な女性で、もし彼の女の過去に、 何か難題のようなものがあるとし ても、それは彼の女の欠点では ないと思うのです。私はただノー フォークの田舎者にすぎないの ですが、しかしそれでも、英国で は第一流の旧家であると云うこと は、彼の女はよく知っており、ま た結婚前からも認めていました 横浜コミュニケーション障害研究会 - 30 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) から、まさか彼の女は、その私の ば ん ば ん 家名を汚すようなことは、万々無 いと私は確信するのです。 さていよいよこれから、私の話 は、奇怪な部分に進みますが、 一週間ばかり前、――そうです 先週の火曜日でした。私は窓硝 子の上に、この紙に画いてある で た ら め ような、出鱈目な小さな、踊って いるような姿が、画かれてあるの 横浜コミュニケーション障害研究会 - 31 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) を発見したのでした。それは白 墨でいたずら画きしたものでした うま や が、私は厩番の少年がかいたの だろうと思いました、その若者は、 全く知らないと云いはるのでした。 とにかくそれは夜かかれたもの でしたが、私はそれを洗い落し てから、このことを妻に話しまし た。ところが驚いたことには、妻 はそんなものを大変重大視して、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 32 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) もしまた画かれたら、ぜひ見た いと云うのでした。それから、一 週間の間は、そんなものは画か れませんでしたが、ちょうど昨日 の朝、またまた私は、庭園の日 時計の上に、この紙片がおかれ てあるのを見つけたのでした。 私はそれをエルシーに見せまし たら、彼の女は気絶して倒れて しまったのでした。それ以来彼 横浜コミュニケーション障害研究会 - 33 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) の女は、全く茫然としてしまって、 いつも恐怖にとりつかれた目色 をしているのです。それでその 時に私は、この紙片をあなたに お送りして、手紙をさし上げた次 第でした。これはまさか警察に 訴えても、ただ笑いものにされて、 取りあってくれますまいし、あな たでしたら何とか方法を教えて 下さるだろうと考えたのでした。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 34 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 私は決して金持ではありません が、しかし何か私の妻を悩まして いるものがあるとしたら、私は彼 女を全財産を賭しても、保護し てやりたいと思うのですが――」 古いイギリスっ児のこの人間は、 単純で卒直で、目は大きく熱意 のこもった、堂々たる風貌の紳 士であった。彼がその妻に対す る愛情と信実は、外部にまで溢 横浜コミュニケーション障害研究会 - 35 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) れ出ていた。ホームズは全注意 を集めて、この話を聞いていた が、この話が終ると、しばしの間 は、静っと沈黙したまま思案に じ 沈んだ。 「いや、キューピットさん、――」 彼はようやく口を開いた。 「これはやはり、あなたが直接に 奥さんにお訊ねになって、あな か く たに対して秘されていたことを、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 36 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 話してもらうのが一番早道では ないかと思われますがね」 ヒルトン・キューピットはしかし、 その大きな頭を振った。 「ホームズさん、約束はどこまで も約束ですからね。もしエルシ ーが、話していいと思うくらいで したら、彼から話してくれるでしょ う。そしてまたもし話したくないこ とでしたら、私は彼の女に対して 横浜コミュニケーション障害研究会 - 37 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 強要はしたくはありません。しか しそれと離れても、私には私で 取るべき道はあるはずです。そ おおい してそれを私は大にやろうと思う のです」 「いや、そう云うのでしたら、私も あずか 全力をつくして御相談に与りまし ょう。まずお訊ねしますが、この 頃からあなたの御近所に、新に 来た者があるようなことはお聞き 横浜コミュニケーション障害研究会 - 38 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) になりませんか?」 「いえ」 「大変閑静なところだろうと思わ れますが、新顔などが現われて、 人々の噂に上るようなことがあり ますか?」 「えい、そうそうごく近所にありま した。しかし私共の近所には、 と う じ ば 湯治場があるので、よく田舎者 共が宿をとります」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 39 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「この象形文字は、たしかに意 味がありましょう。もし全く出鱈目 なものだとすれば、それはもうと ても解釈が出来ませんが、しか しこれが組織的なものだとすれ ば、きっとどうにかして解くことが 出来ますよ。しかし何しろこれは ひどく短いもので、どうにも仕様 が無いし、またあなたが持って 来られた事柄も、はなはだ漠然 横浜コミュニケーション障害研究会 - 40 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) としたことで、考査の基本にはな りませんからね。やはりこれはあ なたが、一度ノーフォークにお 帰りになって、注意深く監視をし て、もう一度この踊り人の姿が現 われた時に、正しく写し取った 方がいいと思いますがね。先に 窓硝子に画かれたものの写しを、 見ることの出来ないのははなは だ遺憾ですが、いずれ近所に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 41 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 最近に現われた者に対しても、 慎重の注意を向けなさい。そし て新な証拠が得られたら、また お出で下さい。これがもうあなた に対しての、僕の最善のお答え です。それでヒルトン・キューピッ トさん、もし何か新な展開があり ましたら、その時は私はいつで も早速出発して、ノーフォークの お宅でお目にかかりましょう」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 42 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) この会見の後、シャーロック・ホ ームズは、しっかり考えこんでし まった。そしてこの後二三日の 間、彼はたびたび手帳から、例 の記号の画かれてある紙片を取 り出しては、長いこと熱心に見つ めているのであった。その後二 週間ばかりの間、彼はそのことを、 にも出さなかったが、ふとある日 の午後、私が外出しようとしてい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 43 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) るところを呼び止めた。 「ワトソン君、出ないでいる方が よかろうと思われるんだがね」 「なぜ?」 「今朝ヒルトン・キューピットから 電報が来たのだ。そらあの舞踏 人形のヒルトン・キューピットを知 っているだろう。彼は一時二十 分にリバプール街に着くと云っ ているのだ。で、もうやがてここ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 44 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) に見えるだろうと思うのさ。その 電報を綜合すると、どうも何か重 大な新らしい出来事があったよ うに思われるのだ」 やがてまもなく、二輪馬車が全 速力で、停車場から我等のノー フォークの紳士を乗せて、来た のであった。大変悩み衰えてい るらしく、目は疲れており、額に は皺を寄せていた。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 45 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「これには全く、すっかり弱らさ れてしまいました、ホームズさん、 ――」 彼は半病人のように、腕椅子 にもたれ寄りながら云った。 「どうでしょう、――自分の周囲 に未知の未見の人間が、何か 策動していて、しかもその上に 妻がもう一寸刻みに、殺されて ゆくと考えては、とても我慢が出 横浜コミュニケーション障害研究会 - 46 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 来ませんでしょう? いやこれこ そ全く生きた気持はありませんよ。 いや私の妻は刻々に、弱ってい きます。もう刻々に弱って私の前 から消えてしまいそうなんです」 「奥さんは何も仰有いません か?」 「いえ、何も云いません。しかし 彼の女は、云おうとしたこともあ ったようでしたが、やはり遂に云 横浜コミュニケーション障害研究会 - 47 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) い出し得ませんでした。私は妻 を助けようとしました。しかし私は まずかったので結局彼の女を怖 れすくませてしまうだけでした。 彼の女は私の古い家庭のこと、 私の家庭の地方においての名 聞、またその汚れない名誉と云 ったようなものについて、言葉を 触れさせることもありましたが、そ の時は私は、いよいよ大切な要 横浜コミュニケーション障害研究会 - 48 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 点にゆくのだと思うと、もうその中 う ち よ そ そ に、話は外に外れてしまうのでし た」 「しかしあなた御自分で、気のつ いたものはありませんでした か?」 「いやホームズさん、それはたく さんあります、私はぜひあなたに お目にかけたい、新な舞踏人の 絵を持って来ました。そして更に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 49 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 重大なことは、私はある者を見 たのです」 「ある者を、――それはその絵を 画いた当人ですか?」 「そうです。私はその者が画いて いるところを見ました。いやとに かく、最初こう順序を立てて申し ましょう。私がこの前にお訪ねし て帰ってからまず、次の朝に新 な舞踏人の絵を見たのでした。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 50 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) それは芝生の横にある、物置の 真黒い扉の上に、白墨で画か れたものでしたが、私のところの 正面の窓から目に止まったので した。私はそれを正確に写し取 って来ましたが、これがそれで す」 彼は一枚の紙をひろげて、テ ーブルの上に置いた。それは次 の図のような、象形記号と云った 横浜コミュニケーション障害研究会 - 51 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ようなものであった。 「素敵! 素敵! さあその先を、 ――」 ホームズは云った。 「私がそれを写し取ってしまって から、その絵を消してしまいまし たが、その次の次の朝に、また 別のが画かれてありました。それ がこの方です」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 52 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ホームズは、手をもじゃもじゃさ せ、歓喜の微笑をもらした。 「材料は着々と集まって来る ぞ!」 彼は云った。 「それから三日の後、紙の上に メッセージ 走りがきされた、一枚の通牒が 日時計の上の、小石の下に置 かれてありました。それはこれで 横浜コミュニケーション障害研究会 - 53 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) す。御覧の通り、これはすべて 同一人のものですがね。それで この後は私は、一つ待ち伏せし ピ ス ト ル てやろうと思い立って、拳銃を持 って、私の書斎に位置を取り、 芝生や庭を見張りました。午前 二時頃、――私が窓際に腰か ほ の けていましたが、外は月夜で仄 あかるかったがしかし、その外は もちろん暗闇でした。その時私 横浜コミュニケーション障害研究会 - 54 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) はふと後に、人の気配を感じた と思うと、それは寝巻姿の妻でし た。彼の女は私に、寝室に帰る ようにと云いましたが、私は卒直 に、私たちに馬鹿気たいたずら をする者を突き止めようと思うの だと告げました。そうすると妻は、 それはつまらない悪戯に相違な いのだから、私に深く気に止め ないようにと云うのでした。そして 横浜コミュニケーション障害研究会 - 55 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「もしこんなことが本当に、あなた を困らすのなら、ヒルトン、私た ちは旅に――出れば、こんな 五月蝿いことは避けられるでは う る さ ないの」と云う風に云うのでした。 「だってそんな馬鹿気た悪戯に、 自分の家 を追い出されたりして、 う ち 世間の笑い物になったりしては いられないではないか、――」 私はこう答えました。「えい、それ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 56 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) もそうですね。でもとにかく寝室 にいらっしゃいよ。朝になってか らよくお話が出来るじゃありませ んか」彼の女は更にこう云うので した。 しかし彼の女はこう云うと共に、 彼の女の白い顔は、それは月光 の中としても、あまりに白いと思 われるように、蒼白になって来て、 手を私の肩にしっかりとかけまし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 57 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) た。その時に物置小屋の蔭の中 に、何か動いているのに目が止 まりました。何かいっそう黒い影 す み が、その蔭の角のところを這いま うずく わって、戸口の前に跼まったの でした。私はやにわに、ピストル を持って飛び出そうとすると、妻 は両腕でしっかりと私を抱き止 ふ る めて、顫えるような力で押えるの でした。私は妻を振り放そうとし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 58 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ましたが、彼の女は全く必死で した。私はやっと振り払って、外 に出てその物置へ行った時は、 もうその姿は見えませんでした。 しかしたしかにその者は来た形 と 跡はあって、扉の上には例の舞 え 踏人姿の画がかかれてありまし た。それは以前に二度かかれた ものと同じものですが、その写し はこれです。それから私は周囲 横浜コミュニケーション障害研究会 - 59 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) を残る隈なく探しましたが、もう その他には何の痕跡もありませ んでした。しかしそれから更に驚 いたことには、その者はその後も 現われたらしく、翌朝になって私 と は、例の扉の上を見ましたら、私 が前夜見ておいたものの下に、 更に新らしいのが画かれてあり ました」 「その新らしいのも写し取りまし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 60 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) たか?」 「えい、とても短いものですが、こ れです」 彼は更に新らしい紙片を取り 出した。その新らしい舞踏人姿 は次のようなものであった。 「いや、ちょっと――」 ホームズは云った。彼は非常 に気乗りがして来たらしかった。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 61 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「これは最初ののに、ただ附け たしに画かれてありましたか、そ れとも全く別のものに離して画か れてありましたか?」 かがみいた 「これは扉の別の鏡板にかかれ と てありました」 「素敵だ! これは我々にとって は、最も重要なものだ。これでは なはだ有望になった。さてヒルト ン・キューピットさん、とても面白 横浜コミュニケーション障害研究会 - 62 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) いですが、その先を云って下さ い」 「ホームズさん、もう何も云うこと はないのですが、――ただ私は、 その夜妻が、私が悪漢をつかま えるために、飛び出るのを引き 止めたことについて怒りました。 そうすると妻は、私が怪我をして はいけないと思ったからと云い わけするのでした。しばしの間は 横浜コミュニケーション障害研究会 - 63 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 私に、妻はその者の何者である かを知っていて、またその変な 相図もわかっていて、彼の女の 案じているのは、私ではなく、向 うの者の怪我であると云うことが、 閃きましたが、しかしまたよく考 え直してみると、ホームズさん、 彼の女の声の調子にも、また目 の色にも、この疑念をかき消させ るものがありました。それで私は 横浜コミュニケーション障害研究会 - 64 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) やはり、彼の女が本当に心配し たのは、私自身の身であったの だと考えるのです。これでもう話 は終りました、が、さてどうすれ ばよろしいのか、これに対する 方法を教えていただきたいので すが。――まあ私の考えとして は、百姓の若者共を五六人も待 ち伏せさせておいて、その者が 出て来た時に、したたか打ちの 横浜コミュニケーション障害研究会 - 65 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) めして、以後私共に近寄れない ようにしようかとも思っています が、――」 「いや、そんな簡単なことで、収 おさま りのつくことではないでしょう」 ホームズは云った。 「一たいあなたはどのくらい、ロ ンドンに滞在することが出来ま すか?」 「私は今日中には、帰宅しなけ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 66 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ればなりません。私はどんなこと があっても、妻を一人で夜を暮 させることは出来ません。彼の女 はもう非常に神経質になってい て、どうしても僕に帰宅するよう にと云うのです」 「いや、それは御もっともです。 しかしもしあなたが、滞在してお られるなら、一両日中にはあな たと一緒に出かけることが出来 横浜コミュニケーション障害研究会 - 67 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ると思いますが、――とにかく、 この紙は置いて行って下さい。 私はごく最近にお訪ねして、こ の事件に対しては、多少の吉報 もたら を齎すことが出来ると思います から、――」 シャーロック・ホームズは、この 訪客が立ち去るまでは、いかに もその職業的な、冷静を保って いたが、しかし彼の容子を見な 横浜コミュニケーション障害研究会 - 68 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) れている私には、彼は内面では、 こ う ふ ん ひどく昂奮しているに相違なか った。ヒルトン・キューピットの広 い脊中が、扉の外に見えなくな ド ア るや否や、彼は机の上に走り寄 って例の舞踏人画の紙を取り出 して並べて、とても大変なこみ入 った計算を始めた。 二時間ばかりの間、――彼は 何枚も何枚も、数字と文字を書 横浜コミュニケーション障害研究会 - 69 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) いては、その仕事に没頭した。 へ や 全く私がその室にいるのさえも 忘れて、一生懸命に続けた。あ る時は多少に仕事が進むものの ように、口笛を吹いたり歌ったり し、またやがては、全くその長い 謎に閉口してしまったように、額 をすくめ目を茫然とさせていた。 それから遂に彼は思わずも歓喜 の声を上げながら起ち上って、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 70 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 盛んに手をもじもじさせながら室 へ や の中をぶらぶらと歩き出した。そ れから海底電信機式に、長い電 報をかいた。 「もしこの返事が、僕の注文通り のものだったらワトソン君、―― しゅうしゅう 君の蒐集の中に、また実に素晴 らしいものを加えることが出来る んだがね」 彼は云った。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 71 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「明日は我々はノーフォークに 行って、あの人間が苦しんでい る秘密事に、決定的な新な展開 を与えることが出来そうだ」 私はとても好奇心をそそられて しまった、しかしまた私は、彼は いつも自分の方から、いい時を 見計らって話してくれることはよ く知っているので、私の方から訊 ねることはしなかった。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 72 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) しかしその返電はなかなか来 なかった。ホームズはその間を、 呼鈴に注意しながら、ヤキモキ して待った。二日は空しく過ぎて しまった。しかしその二日目の夕 方、やっとヒルトン・キューピット から、一通の手紙が来た。その 手紙によれば、ヒルトン・キュー ピットの身辺は、その後は静穏 であったが、しかしその朝、また 横浜コミュニケーション障害研究会 - 73 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) また、日時計の上に、長いもの を画いたものが乗っていたので、 その写しをとって送ってよこした のであった。それは次のようなも のであった。 ホームズは数分間の間、―― この奇怪な帯模様の絵に見入っ ていたが、突然、驚愕と困迷の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 74 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 声を上げて起ち上った。その顔 は不安のために全く色を失って いた。 「これはうっかりしてしまったかも しれない!」 彼は云った。 「今夜これから、北ワルシャムに 行く汽車があるかね?」 私は時間表をくってみた。ちょ うど最終列車が出たばかりのとこ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 75 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ろであった。 「じゃ仕方がない。――あしたの 朝早く朝食をすまして、一番列 車に乗ろう」 ホームズは云った。 「俺たちは出来るだけ早くゆかな ければならない。これがすなわ ち待ち設けた海底電信なのだ。 ちょっとハドソン夫人、また返事 がいるかもしれませんが、―― 横浜コミュニケーション障害研究会 - 76 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) いやこれでよい、これでよい。こ の通信が手に入った以上は、い よいよ遅れてはならない。一時も 早く、ヒルトン・キューピットに、こ の事を知らせてやらなければな らない。これがすなわちあのノー フォークの先生を悩ましている、 蜘蛛の網だからね」 たしかに着々とその通りに進ん だ。私はその話を一時は子供威 横浜コミュニケーション障害研究会 - 77 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) しと思ったのであったが、しかし あ ん た ん その暗澹たる真相を知るにつれ て、私はその後感じさせられた 気味悪さを、今更にまた深く感じ させられた。私は読者諸君には、 どうにかしていい話をきかせた いと思うのであるが、しかし事実 はこうであったのだ。私はこのリ ドリング地方と云う名前が、僕が 数日の間に、全英国の人口に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 78 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) か い し ゃ 膾炙した言葉となってしまった 物語を、そのままここに述べて みることとする。 私たちが北ワルシャムに着い て下車して、我々の行先を云う や否や、駅長が我々の前に走っ て来た。 彼はそしてこう云った。 「あなた方はロンドンからお出で になった、探偵の方々でいらっ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 79 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) しゃいますか?」 ホームズの面上には、当惑の 色が現われ出た。 「どうしてそう思うのです?」 「いえ実はじき今し方、検察官の マーチンさんが、ノーアウィッチ から来て、ここを通過して行った ばかりなのです。しかしあるいは あなた方は、外科医でいらっし ゃるかもしれない。――彼の女 横浜コミュニケーション障害研究会 - 80 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) はまだ死にませんよ。いやさっき きいた容子では、たしかにまだ 死なないとのことでしたがね。あ なた方は間に合うでしょう。―― もっともどうせ絞首台にゆくこと ですがね」 ホームズの顔はすっかり不安 お お に蔽われてしまった。 「我々は、リドリング村に行く途 中ですが、しかし実は、全くどん 横浜コミュニケーション障害研究会 - 81 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) なことが起ったのか、きいてはい ないのです」 彼は云った。 「それはなかなか大変なことです な」 駅長は云った。 「ヒルトン・キューピット夫妻は、 どちらも撃たれたのだそうです。 召使の者の云うには、まず夫人 だ ん な が檀那さんを撃って、それから 横浜コミュニケーション障害研究会 - 82 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 自分も撃ったのだそうですがね。 だんな それで檀那さんの方はもう事切 れてしまい、夫人の方は虫の息 ですって、――どうも全く、あた ら名門の末を本当に、――」 ホームズは一語も発せず、馬 車に大急ぎで乗り、それから七 ま いる 哩以上の道のりを、全く黙し切っ たままであった。私は実際この 時ほど、ホームズが落胆してい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 83 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) る様子を、そうたびたび見たこと はない。彼は町から以来と云うも と ざ のは、全く不安に塞されたまま じ っ で、ただ凝と朝刊に、不安な目 を向けているだけであった。そし て結局、最も悪い結果の予想が、 俄然はっきりしてしまってからは、 彼はもう救うべからざる憂欝に陥 ってしまったのであった。彼は坐 も た 席に凭れて、沈思のために全く 横浜コミュニケーション障害研究会 - 84 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 茫然自失の容子であった。しか しもちろん我々の馬車の両側に は、とても興味ある眺望があった のであった。すなわち我々の馬 車の両側には、英国の特有の 田園が展開し、方々に散在して いる田舎家は、今日の殷盛な人 口を思わせ、またあっちにもこっ ちにも、大きな四角な塔の教会 き つ り つ が、平原の地平線の上に屹立し、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 85 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 緑の濃い風景、――と、昔の東 部アングリアの、光栄と殷盛を想 う ち わしめるものであった。その中に す みれいろ ド イ ツ 遂に、菫色の独逸海の海面が、 ノーフォークの海岸の緑の縁を ぎ ょ し ゃ 越して現われた。それから馭者 は、茂った樹木の間からそびえ 立っている煉瓦と木材の破風を、 鞭で指しながら「あれがリドリング 村です」と云った。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 86 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 私たちが玄関の戸口に乗りつ けると、その前面は、テニスコー トの横であったが、黒い戸の建 物と、台の上に乗っている日時 計が目に止まった。これ等につ いては私たちは、もちろん不思 議な連想を持っているのである。 一人の気のきいたような小さな ろ う 男が、蝋を塗ったような髭をして いたが、二輪馬車から敏捷な容 横浜コミュニケーション障害研究会 - 87 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 子で下り立った。その男は、自 分自身で、ノーフォーク警察の、 検察官マーティンであると云っ て紹介して来たが、私の友人の 名前を聞いた時は、かなり驚い た様子であった。 「これはまた、ホームズ先生、 ――犯罪は今朝の三時に行わ れたばかりなのですが、ロンドン で、どうしてこんなに早くお聞き 横浜コミュニケーション障害研究会 - 88 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) になったのですか? 私と同時 にこの現場にお出でになると云 うことには全く驚きました」 「私はこのことを予想したのでし た。実はそれを防止するために やって来たのでしたが」 「それではあなたは、われわれ の知らない、重大な証拠をお持 ちになっていられるでしょう、 き ん ひ つ あ い わ ――彼らは大変琴瑟相和した 横浜コミュニケーション障害研究会 - 89 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 夫婦だったと云うことですがね、 ――」 「私はただあの舞踏人の話を知 っているだけなんですが、――」 ホームズは云った。 「いずれ後刻、そのことはお話し ましょう。いずれにしても、もう手 遅れしてしまいましたが、しかし 僕は、多少持ち合せている智識 を、この事件の解決のために、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 90 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 出来るだけ提供し、利用したい 希望なのですが、あなたはこの 事件の調査については、私と協 同して下さいますか、、またそれ とも別々に行動しましょうか?」 「いえホームズ先生、協力してや らせて下されば光栄の至りです が、――」 その検察官は熱意をこめて云 った。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 91 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「では早速証拠を持ち寄り合っ て、時を移さずこの邸内の調査 を始めようではないですか、 ――」 検察官のマーティンは私の友 人に大変好意を持っていて、私 の友人を自由に活動させて、た だその結果を注意深く見ている だけであった。白髪の老田舎外 科医が、ヒルトン・キューピット夫 横浜コミュニケーション障害研究会 - 92 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 人の診察に来ていたが、その話 に因れば、彼の女の傷は重傷 ではあったが、しかし命には差 支えがなかろうと云うことであっ た。弾丸は彼の女の前額を貫通 た ま していたが、たぶん彼の女はし ばらくの間は、意識を失ったに 相違なかった。彼の女が撃たれ たのであるのか、それとも自分か ら自分を撃ったのであるかと云う 横浜コミュニケーション障害研究会 - 93 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ことについては、彼の女は決し て口を開かなかった。そしてそ れは疑もなく、ごく近距離から発 射されたものに相違なかった。 ちょう 室の中に一挺のピストルっきり見 や く き ょ う 出されなかったが、しかし薬莢 は、二つ空になっていた。ヒルト ン・キューピット氏は、心臓を打 ちぬかれていた。そのただ一挺 のピストルは、二人のちょうど中 横浜コミュニケーション障害研究会 - 94 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 間の床の上に落ちてあったが、 したがってこれは、ヒルトン・キュ ーピットがその妻を撃ってから、 自分自身を撃ったのか、それと も妻の方が先に夫を撃って自分 を撃ったのか、いずれとも考え 迷われることであった。 「ヒルトン・キューピットさんは動 かされましたか?」 ホームズは訊ねた。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 95 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ほ か 「いいえ、奥さんの外は、何も動 かしません。怪我をしている者 だけは、そのまま床の上に放っ ておくわけにはゆきませんから な」 「あなたはいつ頃ここに来られま した?」 「四時でした」 「外に誰かいましたか?」 「巡査が来ています」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 96 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「では何にも手を触れないわけ ですな?」 「えい、決して、――」 「なかなか慎重におやりになりま したな。誰があなたをお迎えに ゆきました?」 「女中のサウンダーでした」 「最初に見つけたのはその女だ ったのですか?」 コ ッ ク 「その女とそれから、料理女のキ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 97 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ングさんと云うのと二人だそうで す」 「その人たちはどこにいます か?」 「たぶん台所にいるでしょう」 「そう、それでは早速、その人た ちからきいてみよう」 樫の腰板の、高い窓のついた 古い広間が、審理所にあてられ た。ホームズは大きな古い型の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 98 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 椅子に腰かけて、古色蒼然とし け い け い た顔から烱々とした眼光を輝か していた。その目の中には、彼 が依頼されながら、みすみす助 ける機会を失ってしまった依頼 者のために、見事に復讐してや るまでは、この事件に心身を賭 してやるという決心の色が窺わ れた。小ざっぱりとした検察官の マーティン、灰色髭の老田舎医 横浜コミュニケーション障害研究会 - 99 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 師、私自身、のろまなような田舎 巡査とが、変な恰好のつかない 一坐をつくった。 その二人の女は、よく明瞭に 話してくれた。その話に因ると、 彼の女たちは爆音に目をさまさ せられたのであったが、その時 この爆音は、ものの一分も間が あったろうか、すぐにきえたそう である。彼の女たちは室をとなり 横浜コミュニケーション障害研究会 - 100 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 合せて、寝ていたのであったが キング女の方がサウンダー女の 方に、驚いて飛びこんで行った。 そして二人は一緒に階段を下り ド ア た。書斎の扉は開いていて、テ ーブルの上には、ローソクがとも っていた。そして彼の女たちの 主人は、うつ伏せになって室の た お 中央に斃れて、もう全く息は絶 えており、夫人の方は窓近くに 横浜コミュニケーション障害研究会 - 101 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 這い寄って、壁に頭を寄せかけ ていたが大変な負傷で、顔の半 面は血まみれになっていて、もう う め い 何も云うことが出来ず、ただ呻吟 ていたそうである。室の中はもち におい ろん、廊下も何も、火薬の煙と臭 で一ぱいで、室の窓はたしかに 閉められて、内側からは掛け金 もかけられてあったと。二人の女 どもはこの点については、とても 横浜コミュニケーション障害研究会 - 102 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) よくはっきりしていた。彼の女た ちは早速、医者と駐在所に知ら せた。それから馬丁と厩番の少 か 年の手を藉りて、夫人をその室 に移したのであった。主人夫婦 はたしかにその夜は寝室に入っ たに相違なかった。婦人のほう は日常の着物を着ていたが、し ドレッシングガウン かし主人の方は、 寝 衣 に、 ナイト ガウン 寛服を重ねていたのであった。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 103 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 書斎の中は全く一物も動かされ た形跡はなかった。その女たち の見て知っているところでは、そ の夫妻の間に、喧嘩と云ったよう なもののあったためしも無いよう であったと。とても仲のよい夫婦 と見られていたのであった。 以上のことは女中たちの陳述 の大要であるが、検察官マーテ ド ア ィンに答えた言葉では、扉と云う 横浜コミュニケーション障害研究会 - 104 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 扉は全部、内部からしっかりと締 ド ア め下されてあって、誰も家の中 から遁げ出したはずはないと云 うことであった。それからホーム ズの問いに対しては、彼の女た ちは、一番上の自分たちの室を 飛び出した時に、火薬の臭をか いだと云うのであった。 「これはなかなか慎重にかから なければならない大問題です 横浜コミュニケーション障害研究会 - 105 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) な」 ホームズは仕事仲間に云った。 「さあ、それでは、一つ室の中を 徹底的に調べてみようじゃない ですか」 書斎は小さな室であった。三 し ょ づく え 方は書物を立て並べられ、書机 は普通の窓に向って置かれ、そ こから庭園は見渡されるのであ った。まず我々は第一に、この 横浜コミュニケーション障害研究会 - 106 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 不幸な田園紳士の死体を検べ く か ん た。彼のがっかりした躯幹は、室 にさし渡しになって横たわって いた。着衣は大変乱れていたが、 それはあるいは彼が眠ってると ころから、飛び起きたのだろうと 思われた。弾丸は前面から撃た れて、彼の心臓をやっつけたま ま、体内に止まっていた。彼の 死はたしかに即死で、しかももう 横浜コミュニケーション障害研究会 - 107 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 苦痛さえも無いものであったろう。 ドレッシングガウン 火薬の痕跡は、 寝 衣 にもまた 手にもついてはいなかった。ま た田舎医師の言葉では、妻の方 は顔には血がまみれていたが、 しかし手には何にもついてはい なかったと云うことであった。 「手に何にもついていなくっては、 何にもならない、――もっともも しついていたとすれば、もうそれ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 108 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) で何もかも一目瞭然だけれど、 ――」 ホームズは云った。「しかしもっ とも実弾がうまく装填されておれ ば、何発でも何の痕跡ものこさ ずに、撃つことも出来ることは出 来るのだが、――さてもう、キュ ーピット氏の死体は、動かしても ド ク ト ル よろしいでしょう。それから先生、 夫人を撃った弾丸は、見つかり 横浜コミュニケーション障害研究会 - 109 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ましょうか?」 「何しろ非常な大手術をしなけ ればなりませんな。しかし実弾は 四発ありますから、二発で二人 が撃たれ、弾丸の勘定はよく合 いますがな」 「そう思いますか?」 ホームズは云った。 「あなたはあのたしかに、窓の縁 を射た弾丸も勘定に入れておら 横浜コミュニケーション障害研究会 - 110 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) れるでしょうな?」 彼は突然振り返って、痩せた 長い指で一点を指さした。なる インチ ほど、窓の下際から一吋ばかり 上の処を、見事に貫通した穴が あった。 「ああ!」 検察官は歎声を上げた。 「どうしてあんなものに目が止ま ったのですか?」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 111 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「いや私は探していたのです」 「これは怖ろしい!」 田舎医者は云った。 「いや確に仰せの通りに相違あ りません。それでは、第三弾が 発射されてるわけですから、第 三者がいなければならないわけ ですな。しかしそうしたら、どんな 者がここに現われて、そしてどう して遁げ出したのでしょう?」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 112 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「そのことがすなわち、これから の我々の問題ですがね」 シャーロック・ホームズが云っ た。 「ね――検察官のマーティンさ ん、女中たちは室を出るや否や、 火薬の臭がしたと云った時に私 はそれはとても重要なことだと云 ったでしょう?」 「えい、たしかに仰有いました。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 113 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) しかし私は正直のところ、あまり それに同感も感じていませんで した」 「このことはつまり、発射された 時には、室のドアも窓も開いて いたのだと云うことを暗示してい るのです。もしそうでないとしたら、 そんなに早く、火薬の臭が家中 に、ただよい渡るはずはないか らね。それにはどうしても一陣の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 114 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 隙間風を必要とする。ドアも窓も、 ほんのちょっとの間開かれたの だ」 「それはどうして証明なさいます か?」 「ローソクが傾いてへっていなか ったから、――」 か な 「ああこれは敵わない!」 検察官は叫んだ。 「ああ、大したものだ!」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 115 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「この悲劇の時は、窓は開いて いたと云うことを認めてみると、こ の事件には第三者があって、そ の開いていた窓を通して、窓の 外から射撃したに相違ないと云 うことが考えられる。それからそ の者を撃った弾丸のどれかは窓 縁に当ったに相違ない。私は見 渡したら果して、弾痕があっ た!」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 116 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「しかしそうしたとしたら、窓が閉 められて、しかも内側からしっか りと締めつけられたのはどう云う わけでしょう?」 「女と云うものは、本能的に窓を 閉めて、しかも締めつけるもので はないですかね。ああ、おやお や、――これは何だろう?」 ハ ン ド バ ッ ク 机の上に婦人の手提袋があっ た。気のきいた小さな、鰐皮のも 横浜コミュニケーション障害研究会 - 117 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) のであった。ホームズは中のも のを取り出した。その中には、英 ポンド 蘭銀行の五十磅紙幣二十枚が、 印度ゴムのバンドでしばられて ほ か 入っていた外、あとは何にもな かった。 「これは法廷で必要だろうから、 よく注意して保管しておくように」 ホームズは中味をしっかりと入 れて、その手提袋を、検察官に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 118 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 渡しながら云った。 「さて今度はこの第三弾の正体 をつき止めなければならないこと になった、――もっともこれは木 の裂け具合から見て、明かに内 側から発射されたものだが、 コ ッ ク ――さて料理女のキングさんに ちょっとききたいが、あのキング さんあんたは、とても高い爆音に 目をさまされたと云ったが、これ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 119 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) は最初の一弾が、次の爆音より も大きかったと云うことかね?」 「はあ、左様でございます。わた しはその音で、目を醒ましたの でございましたが、どうもはっきり とはいたしませんが、とにかく大 変大きな音でございました」 「君は一度に二発うたれたのだ と云うようには感ぜられなかった かね?」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 120 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「さあ、それははっきりとは申し上 げられないんでございますが ――」 「しかしそれはきっとそうだったろ う。さて検察官のマーティンさん、 もうこの室で調査することは、全 く尽きてしまったと思われるが、 何でしたら今度は庭の方を歩き まわって、新たな証拠をさがそう じゃないかね」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 121 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 書斎の窓の下からずっと、花 壇になっていたが、我々はそこ に近づいてみて、あっと驚かさ れてしまった。花は踏みにじられ、 柔かな土の上には、足跡が一ぱ いについていた。それは男性の 大きな足跡で、特に足先が鋭く 長い足のものであった。ホーム ズは草や木のあいだを、レトリー バー犬が傷ついた鳥を探すよう 横浜コミュニケーション障害研究会 - 122 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) に、探しまわったが、遂に彼は ひどく喜んだ叫びを上げて、身 しんちゅ う をこごめて、小さな真鍮の円筒 を拾い上げた。 「僕はたしかに、ピストル又は、 薬莢の自動排除装置があって、 きっと第三弾があるに相違ない と睨んでいた、――」 彼は云った。 「さあ検察官マーティンさん、こ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 123 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) れでもうほとんど、この事件も調 査が出来上ったですな」 この田舎検察官はしかし、ホー ムズのあまりに急速な、あまりに も鮮かな探査振りに、ただ驚歎 の色を現わしているのであった。 う ち 最初の中は多少は、自分自身 の立場も、発揮したいような傾向 も見えたが、しかし今はもうとても 歯がたたないと観念して、ただ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 124 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ホームズの為すままに、唯々 諾々として、後からついて来るだ けのことになってしまった。 「犯人は誰でしょう?」 彼は訊ねた。 「いやその事はいずれ後にしま しょう。実はこの問題には、まだ あなたにはっきりと説明しかねる ことが二三点あるんですがね。と にかくここまで来たのですから、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 125 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 僕はこの上もひた押しに押し切 った方がいいと思われるのです。 それから全部を明瞭に発表しま しょう」 「犯人があがるまでは、ホームズ 先生、あなたの御自由におやり 下さい」 「いや別に秘密主義でゆこうと云 う意味でもないのですが、いず れ事件の進行中に、長い込み 横浜コミュニケーション障害研究会 - 126 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 入った説明をすることは難かし いことですからね。まあ僕はこの 事件のすべての鍵は持っていま す。もし夫人が遂に意識を回復 しなくっても、この事件は明瞭に することが出来ますよ。まず第一 に、この近所に、エルライジと云 う名前で通っている旅館がある かどうか、確かめたいものだが ね」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 127 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 下僕の者共をよく審問してみ たが、しかし誰もそんな旅館を 知っているものはなかった。その う ち 中に厩番の少年が、この事に対 して一条の光明を与えてくれた。 それはここから東ラストンの方に、 ちょっと離れているところに、こう 云う名前の農夫のあることを思 い出してくれたのであった。 「そこはとても人里離れた農場か 横浜コミュニケーション障害研究会 - 128 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ね?」 「えい、とても寂しいところです」 「どうだろう、――そこの人達は、 まだここの事件について知らな いだろうか?」 「さあ、たぶんまだきこえてはい ないだろうと思いますが、――」 ホームズはしばらくの間、―― じ 静っと思案していたが、やがて 小気味の悪い微笑をうかべた。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 129 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「おい若者君、――馬の用意を してくれたまえ。御苦労だがこの 書付を、エルライジと云う人の農 場に持って行ってもらいたいん だ」 彼はポケットから、舞踏人のい か み き れ ろいろの紙片を取り出した。そし てこれを前に並べて、机に向っ て何かやっていた。そして一枚 の書付を少年に渡して、その書 横浜コミュニケーション障害研究会 - 130 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 付をきっとこの宛名の人に手渡 し、またどんな質問をされても、 決して答えないようにと云うこと を、くれぐれも云い含めた。その 封筒の上の文字は、私の目に 止まったが、ホームズの簡明な 文字とは似も似つかず、苦心し て手跡をかえたものであった。 その宛名は、ノーフォーク、東ラ ストン・エルライジ農場、アベー・ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 131 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) スラネー氏と云うのであった。 「検察官――」 ホームズは叫んだ。 「護衛の者を派遣してもらうよう、 打電した方がいいと思いますが ね。もし僕の胸算用に誤りがな いとすれば、あなたはとても危険 な犯人を護送しなければならな いことになるかもしれないと思わ れますよ。いやこの書付を持っ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 132 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) てゆく子供は、きっとあなたに電 報を打たせることになりますよ。 さてワトソン君、もし午後の汽車 があるなら、我々はそれに乗っ た方がよかろう。やってしまいた い、面白い化学の分析の仕事も あったし、またこの事件の方はも う、さっさと片づいてしまいそうだ から――」 その若者が出発してしまって 横浜コミュニケーション障害研究会 - 133 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) からは、ホームズは今度は、下 僕たちに指図した。もし夫人を 訪ねて来た者があっても、決し てその状態を知らせてはならな いこと、――そしてその者を早 速、応接間に通すこと――こう 云うことを彼は、熱心に云い含 めた。それから最後に彼は、もう 仕事もなくなったから、いずれま た何か出てくるまで、ブラブラし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 134 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ていようじゃないかね、と云いな がら、応接間の方に引き上げて 行った。田舎医者は、患者のと ころに出かけたので、もう私と検 察官と三人だけになってしまっ た。 「さあそれでは、この一時間の間 を、最も愉快に、最も有益に過 そう」 ホームズはこう云って、テーブ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 135 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ルに椅子を引き寄せ、変なおど けたような、舞踏人を書いた か み き れ 紙片を、その前に拡げた。 「いや、わが友人のワトソン君、 君には君の持前の好奇心を満 足させずに、今まで待たせてお いたことの、埋め合せをしなけれ ばならないし、それから検察官、 あなたにはこの事件の一切は、 か つ も く 最も刮目すべき職業上の研究 横浜コミュニケーション障害研究会 - 136 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 問題として現われるでしょう。そ れでまず第一にあなたにヒルト ン・キューピット氏が、ベーカー 街で私に相談に来られた事情 についてお話しなければならな い」 彼は簡単に要領よく、前に述 べたようなことを概略して話すの であった。 「ここにこう云う全く奇妙なものが 横浜コミュニケーション障害研究会 - 137 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ありますがね。まあ誰が見たって、 これがあんな恐ろしい悲劇の、 先駆であったと云ったら、まず一 笑に附してしまいたくなりますが ね。私は元来、暗号記号につい ては、いささか自信があって、そ れについてはつまらない論文も ありますが、その中で私は、百 六十種の暗号を解析してみまし たが、しかしこれはまた、私にと 横浜コミュニケーション障害研究会 - 138 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) っても全く最初のものでした。こ の暗号を案出したものの考えで は、これに意味があるなどと云う ことは巧みに隠して、ただ子供 たちを、気まぐれにスケッチした ものだと思わせるつもりなのだが ね。 しかし、これも結局文字の代用 であるとわかって、それからあら ゆる暗号文字の解釈に適用す 横浜コミュニケーション障害研究会 - 139 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) る法則をあてはめたところ、この 解釈も容易でした。最初に私の 手に入ったものは、ごく短いもの だったので、 この記号はア ルファベットのEを表わすものだ と云うことを、云い切られただけ でした。御存じの通り英語のア ルファベットの中では、Eは最も 普通の文字で、どんな短い文章 のなかでも、一番出て来る文字 横浜コミュニケーション障害研究会 - 140 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ですからな。この最初手に入っ た文章の中では、十五の記号の 中で、これは四つだけあって、 一番多かったので、これをEと帰 納したわけです。それから記号 もある時は旗を持ち、ある場合 は持っていないが、段々考えた らこの旗は、文章を言葉に区切 るためのものでした。私はこれを 仮説として立てて をEと置 横浜コミュニケーション障害研究会 - 141 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) いたのです。 しかしここまではいいとして、こ れから先がなかなか大変なので す。英語の文字では、Eの後に 来るものは、決してそう決定的で はない。ちょっとした文章などで 平均を取ってみたら、あるいは 反対の現象を現わしているかも しれない。まあ大ざっぱに云っ てみて、T、A、O、I、N、S、H、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 142 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) R、D、L、――と云うのは、その 頻出数の順序であるが、しかし、 T、A、O、Iなどは、実に伯仲し ているからね。これ等の結合を 考えて、意味を見出そうと云うこ とは、それは全く際限の無い仕 事になる。それで私は、新たな 材料の来るのを待った。第二回 のヒルトン・キューピット氏との会 見では、私は二つの短い文章と、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 143 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) メッセージ 一つの牒号を提供されたが、こ メッセージ の牒号には旗が無いので、単語 に相違ないと思った。これがそ れですがね。さて単語としてみる と、これは五文字から成る単語 で、しかも私が先に推定したEが、 第二と第四にあるもの。――そ れは SEVER(切り放す)か、 て こ LEVER(梃子)か、NEVER(けっ して、―打ち消しの)などとなる。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 144 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 哀願に対する返事としては、こ の最後のものはもう異論なく、最 も適当である。そしておそらくは これは、夫人の書いた返事であ ろうと思われる点も大いにあるの だ。 これだけのことを認容してみる と、もう記号の はそれ ぞれ、N、V、R、と云うことになる。 しかしまだまだ私には、難関が 横浜コミュニケーション障害研究会 - 145 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) あるのであったが、幸いに他の 文字の解釈に、都合のよい思い つきが浮んだ。つまりもし私の予 想が違わないとすれば、この哀 訴が夫人の以前の腹心の者か ら来たものとすれば、両端にEが あって、真中に他の三文字のあ るものは、結局、ELSIE と云う名 ふ ん ご う 前に、ぴったりと吻合して来る。 それで更によく調べてみると、三 横浜コミュニケーション障害研究会 - 146 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 度とも文章の末尾が、この組合 せで終っているのを発見した。 それでこれは ELSIE に、何か 訴えて来たものに相違ない。こう して私はLと、Sと、Iを得た。しか らば一たい何を訴えて来ている のであろう? この ELSIE の前 には、四文字あって、しかも終り はEである。これは確に COME ほ か であろうか、――私は外にも、E 横浜コミュニケーション障害研究会 - 147 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) で終っている、四文字の単語を 考えたが、しかしどうもこの場合 に適当と思われるものは見当ら なかった。それで私はこうして、 C、O、M、を得たので、今度は 再び最初の文章にもどって、こ れを言葉に分けて、未発見の記 号と共に、書き並べるまでになっ た。そうしたら、次のようなものと なった。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 148 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) .M. ERE. .ESL. NE. そこで、この中で最初の文字 はAに相違ない、と云うことを推 定した。と云うのは、この短い文 章の中で、三度も出ているから、 このよく出て来る文字はAに相 違ないと考えた。これは大変有 益な発見であった。そこで、第 二の場所は、Hであろうと想定し 横浜コミュニケーション障害研究会 - 149 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) てみた。そうしてまたあてはめて みると、 AM HERE A. ESLANE. となり、また、名前の解りきった 空所を満たしてみると、 AM HERE A. E SLANEY. 私はもうかなりの文字を得たの で、今度は相当の自信を持って、 第二の文章に進むことが出来る 横浜コミュニケーション障害研究会 - 150 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) こととなった。それをやってみる と今度はこんなものになった。 A. ELRI. ES. さてこうなると、私は、Tと、Gを 空所に入れると、やっと意味を なして来ることに気がついた ――そしてこれはこの筆者のい る家か、旅館の名であろうと推定 したわけだ」 検察官マーティンと私は、この 横浜コミュニケーション障害研究会 - 151 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 我々の面前の難事業を、快刀で 乱麻を断つように、明快に解決 を与えた、私の友人の説明に、 全く魅了されて傾聴した。 「先生、それからどうなされたの ですか?」 検察官は訊ねた。 「私は種々の理由から、この Abe Slaney. と云うのは、 ア メ リ カ 亜米利加人であろうと推定した 横浜コミュニケーション障害研究会 - 152 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) のです。この Abe と云うのは元 ア メ リ カ つ づり 来、亜米利加式の綴にあるし、 ア メ リ カ それに亜米利加から来た、一通 の手紙と云うのが、今回の大事 件の端緒でしたからな。それに 更に私は、この事件には、更に その中に伏在した、隠れたる犯 罪があるに相違ないと睨む理由 があったのです。つまり夫人が 過去について、ちょっと仄めかし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 153 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) たあと、夫に対して絶対にそれ を追求させなかったなどと云うこ とは、明かにそうした理由を暗示 しているものだからね。それで私 は、私の友人でニューヨークの 警務局の、ウィルソン・ハーグレ ーブに、海底電信を打ってやっ たのです。この男はたびたび、 こ うむ 私からお蔭を蒙っているもので すがね、で私はこの男に、Abe 横浜コミュニケーション障害研究会 - 154 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) Slaney と云う者を知っているか どうかと云ってやったのだが、そ の返電はこうだったのです。 シ カ ゴ 「市俄古での最も恐るべき悪漢」 と。するとちょうど私が、この返電 を得た夜、ヒルトン・キューピット メッセージ は、スラネーからの最後の牒号 を送ってよこしたのです。それに また、先の文字をあてはめてみ ると、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 155 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ELSIE. RE. ARE TO MEET THY GO. それでこれにPとDを加えてみ メッセージ ると、もうこの牒号の意味は完全 なものとなる。(ELSIE PREPARE TO MEET THY GOD. エルシ ーよ、汝の神に逢う用意をしろ) これによると、悪漢は説得から威 嚇に進んだことがわかり、更に シ カ ゴ 私はこの者の市俄古での兇悪 横浜コミュニケーション障害研究会 - 156 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 振りを知っているだけに、もうす ぐに実行するだろうと直覚した。 それで取るものも取りあえず、友 人であり相棒である、ワトソン博 士と共に、ノーフォークに駈けつ けたのだが、もう時既に遅かっ た」 「事件を扱うに際して、あなたと 協力することが出来るなどと云う ことは全く、望外の特権ですね」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 157 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 検察官は静かに云い出した。 「失礼して卒直に申しますが、あ なたはあなた御自身が御満足な さればおよろしいのですが、私 は上官に対して、私の職責を全 うしなければなりません。それで もしそのエルライジにいる、アベ イ・スラネーなる者が、本当に下 手人であるとすれば、私がこうし ている中に、逃亡でもしてしまう 横浜コミュニケーション障害研究会 - 158 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) と、とても大問題になりますが、 ――」 「いや御心配はいらない、―― 彼は逃亡などはおそらくしない から、――」 「どうしてそう仰有います?」 「逃亡することはもう、犯罪を自 白していることだからね」 「それでは逮捕に向おうではご ざいませんか?」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 159 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「いや、もうじきにここに来る」 「ではどうしてここになぞ来るの でしょう?」 「さっき手紙を書いて、招んでや ったから、――」 「いやホームズ先生、それはちょ あ て っと当にはなりますまい。あなた がお招びになったって、その者 は来ると云うわけはございますま い。それどころかかえって、感づ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 160 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) いて逃亡することになりはしませ んでしょうか?」 「いや私も、その手紙のこしらえ 方は知っているつもりだがね」 シャーロック・ホームズは云っ た。 「論より証拠――大体間違いは なさそうですよ。ほら、その紳士 御自身で、御出張になったよ」 一人の男が玄関の方に、大股 横浜コミュニケーション障害研究会 - 161 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) に歩いて来るのであった。その 男は、背の高い、男振りのよい、 色の浅黒い顔で、灰色のフラン ネルの着物を着てパナマの帽 こ わ 子を冠り、剛い黒い髭をはやし、 高い圧倒的な鼻をうごめかして、 籐の杖をふりまわしながらやって 来た。彼は全く意気揚々として、 小径をはばむようにして歩き、 ベ ル 堂々と呼鈴を押すのであった。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 162 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「諸君、――」 ホームズは静かに云った。 「これは我々はドアの蔭にかくれ た方がいいようだよ。あんな奴の 相手になるには、うっかりしたこ とは出来ないからね。それから 検察官、手錠が入りますよ。さあ 黙って、――」 一分間ほどの間――我々は息 を殺して待った。忘れようとして 横浜コミュニケーション障害研究会 - 163 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) も、決して忘れることの出来ない 一分間であった。やがてドアは 開いて、その男は中に入って来 う ち た。と、――思う中に、ホームズ はピストルをその男の頭に狙い つけ、マーティンは素早く、手錠 をはめてしまった。こうしたことが、 全く疾風迅雷的にやられたので、 流石の悪漢もただ茫然として、 何もかもすんでからやっと、自分 横浜コミュニケーション障害研究会 - 164 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) が待ち伏せをくったのだとわか った。その男は私達を、次から 次と、その黒い鋭い目で睨みつ けた。そして最後に、ゲラゲラと 苦しい笑い声を上げた。 「いや各々方、なかなかうまく、 仕組んだと云うわけですか、 ――これはとんだ災難に遭った ものだ。しかし僕はヒルトン・キュ ーピット夫人の手紙に答えるた 横浜コミュニケーション障害研究会 - 165 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) めに来たのです。夫人はここに 居るかどうか、教えてくれないで すか? 夫人は僕を陥れること あ ず に与ったのですか?」 「ヒルトン・キューピット夫人は、 瀕死の重傷を負うているのだよ」 しわが その男は嗄れた声で、家中に ひ き ょ う 響き渡るように、悲叫を上げた。 「あなた方は気が違っているの だ!」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 166 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) その男は激しく叫んだ。 「負傷したのはヒルトン・キューピ ットで、彼の女のはずはない。誰 があの可愛いエルシーなどを傷 つけるものか! 私は彼の女を 威かしはしたかもしれないが、そ れは神様もお許し下さろう。 ――しかし私は彼の女の美しい 頭の、髪の毛一本にさえも触れ はしないのだ。さあそれを取り消 横浜コミュニケーション障害研究会 - 167 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) しなさい。彼の女は決して負傷 しないと云って下さい!」 そ ば 「彼の女は死んだ夫の側に、ひ どく怪我をしているのを発見され たのだ」 う め き ご え 彼は深い呻吟声を上げながら、 腕椅子に崩れるように腰かけて、 手錠のかかった両手で顔を蔽う た。五分くらいの間は、全く黙り こんでいたが、それからまた顔を 横浜コミュニケーション障害研究会 - 168 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 起して、今度はもう捨鉢の度胸 で、冷静に語り出した。 「いや、皆さん、決して何も隠し 立てはしません」 彼は言葉をつづけた。 「もし私が彼を撃ったと云うなら、 彼もまた私を撃っているのです。 ここに殺人罪はありません。また もしあなた方が、私があの女を 撃ったのだとお思いになるなら、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 169 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) それはあなた方が、私とあの女 とをよく知らないからです。私は はばか 断言して憚りませんが、私はい かなる男性の愛情よりも、彼の 女を深く愛していました。私は彼 の女に対しては、権利を持って います。私達は数年前に、それ ぞれ誓った間柄です。それだの に我々の間に入って来た英国 人などは、全くどこの馬の骨でし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 170 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ょう? 私は断言しますが、私こ そは彼の女に対して、第一の優 先権を持っている者で、ただ私 はその正統の権利を要求しただ けです」 「夫人は君のそう云う人となりを 知ったので、君の把握から遁げ 出したのだ」 ホームズは厳しく云った。 「夫人は君を避けるために 横浜コミュニケーション障害研究会 - 171 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ア メ リ カ 亜米利加から遁げ出して、英国 の立派な紳士と結婚したのだ。 それに君は未練がましくも追か けて来て、彼の女にその敬愛す る夫を捨てて、憎悪し恐怖して いる君と、遁げ出すことを強迫し たので、彼の女は、不幸極まる ものになってしまったのだ。君も 一人の貴人を殺し、しかしてそ の妻を自殺させて、もうそれで 横浜コミュニケーション障害研究会 - 172 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ば ん じ き ゅ う す 万事休矣というものさ。君のお手 柄の一切はこれだけだが、さて アベー・スラネー君、この上はた だ法の適用を受けるだけさ」 「もしエルシーが死ぬなら、そり ゃもうこの身体などは、どうなっ たっておかまいなしだ」 ア メ リ カ その亜米利加人は云った。そ てのひら して彼は片方の 掌 に、皺くしゃ になっていた書ものに見入った。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 173 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「これを御覧下さい」 彼は目を疑い深く閃かせなが ら叫ぶのであった。 「あなた方は私をおどかしている のではないでしょうね? もし彼 の女があなた方の仰せのように 非常に重態であるとしたら、一た い誰がこの手紙をかいたのでし ょう?」 彼はその紙片をテーブルの上 横浜コミュニケーション障害研究会 - 174 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) に投げてよこした。 「君をここに来させるために、僕 が書いたのだ」 「あなたが書きましたって? こ の世界中でわれわれの仲間の ほ か 外は、誰もこの舞踏人の秘密を 解るものが無いのですよ。どうし てあなたなどが書けるものです か?」 「君、誰かが案出したものとすれ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 175 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ば、また誰かがそれを解くことが 出来るさ」 ホームズは云った。 「さてスラネー君、君をノーアウッ ドに、連れてゆく馬車が来た。し かしまだ、君の悪業に対して、 多少の罪滅しをする時間はある。 君は気がついているかどうか、 ――実はヒルトン・キューピット ふ く ん 夫人は、夫君の殺害に対して、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 176 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 非常に重大な嫌疑を受けていた のだが、幸いに僕が現われて、 たまたま持ち合せていた智識で、 夫人は告発されることを免れるこ ととなったのだ。それで君の夫 つぐない 人に対する、最後の 償 として、 夫人はこの大悲惨事に対しては、 直接にも間接にも、全然責任は ないものであると云うことを、全 世界に明瞭にしたまえ」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 177 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「もうどうにでもなるがよい」 ア メ リ カ 亜米利加人は云った。 「えい一そのこと、何もかも有り のままにさらけ出してしまいまし ょう」 「そうだ。それが一番君のためな のだ。本職もそれを君にすすめ る」 検察官はあたかも英国刑法の、 厳粛な公明を示すものの如く云 横浜コミュニケーション障害研究会 - 178 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) った。 スラネーは肩をすくめた。 「早速申し上げましょう」 彼は語り出した。 「まず第一に皆さんの御了解を 得たいことは、私はあの夫人と は、ごく小供の時からの知り合い であると云うことです。私共も七 シ カ ゴ 人の仲間で市俄古で徒党を組 んでいたのですが、あのエルシ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 179 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ーの父はその首領でした。悧※ [#「りっしんべん+巧」、126-1] な人で、パトリック老人と云った ものです。この暗号を案出した のも彼ですが、これはもうあなた がこれを解く鍵を持っていなか ったら、ただ小供のいたずら書と しか思われないものですからね。 さて、あのエルシーは私共のす ることを多少気がついたのです 横浜コミュニケーション障害研究会 - 180 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) が、しかし彼の女は、こうした仕 事を見ることはもう堪えられなか ったのですな。そして彼の女は 自分の、これは公明正大な金を 多少持っていたので、私達の中 から抜け出して、ロンドンに遁げ て来てしまったのです。私は彼 の女とは婚約の仲でしたが、こ れは私は今でもそう思っている のですが、もし私が商売替えを 横浜コミュニケーション障害研究会 - 181 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) したら、彼の女はきっと私と結婚 してくれたに相違ありませんでし た。彼の女はかりそめにも不正 なことに対しては、掛り合いを持 ちたくなかったのでしょう。そして 私がやっと彼の女の居所をつき とめた時は、彼の女はもうこの英 国人と結婚していました。それで 私は手紙を出しましたが、しかし 返事はくれませんでした。私は 横浜コミュニケーション障害研究会 - 182 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) それでこっちに海を越えて来た のですが、手紙はもう何の役に も立たないので私は、あの通牒 を彼の女の目の止まるところに 置いたのでした。 そしてとにかく私がここに来て から一ヶ月になります。あの農場 に住んで、地下の一室を持って、 夜間は毎夜のように、自由に出 入が出来ました。しかし誰もその 横浜コミュニケーション障害研究会 - 183 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ことは知りませんでした。私はあ らゆる手段をつくして、エルシー を誘い出そうとしました。彼の女 はたしかに、通牒は読んだに相 違なく、遂に一度だけは返事を くれました。それに私は少し気を よくして、彼の女の脅迫を始め たのです。それから彼の女は一 本の手紙をよこして、私に立ち 去ってくれるようにと、懇願して 横浜コミュニケーション障害研究会 - 184 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 来ました。そしてもし夫の身辺に、 その名誉を汚すようなことでも起 ったら、もう彼の女は立っても寝 てもいられないからと云うのでし た。そして、もし私が素直にここ を立ち去って、彼の女を安穏に のこして行ってくれるなら、夫の あ 眠っているのを見計らって、暁 け方の三時に起きて来て、私に 立ち退くように説得するために、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 185 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 金を持って来ました。私はこれを か っ 見て、嚇としてしまって、彼の女 の腕を取って、窓から引ずり落 そうとしたのです。と、――その 瞬間に、彼の女の夫は、ピストル を手にして、飛び出して来ました。 エルシーは床の上に跼まってし まったので、私たちは顔と顔とを 向き合せていました。私も身体 をこごめました。そして鉄砲を取 横浜コミュニケーション障害研究会 - 186 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) り出して、彼を脅かして自分も遁 げようとしました。しかし彼は発 射し、しかも弾丸は外れました。 それで私もほとんどおくれずに 引き金を引きました。彼は斃れ たのです。私はそれから庭を横 切って遁げましたが、私の後か ら窓を閉める音がきこえたのでし た。皆さんこれは、すべて有りの ままで、神明に誓って偽りはあり 横浜コミュニケーション障害研究会 - 187 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) ません。そして私は、その後は、 あの若者がこの手紙を持って来 て、私が、まるでむくどりのように、 あなた方の網にかかってしまうま では、何にも知りませんでした」 ア メ リ カ 亜米利加人が話している中に、 馬車は着いていた。その中には 制服の巡査が二人いた。検察 官マーテンは起ち上って、犯人 の肩に手をかけた。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 188 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 「さあ行こう、――」 「ちょっと彼の女に逢わせて下さ いませんでしょうか?」 「いや、夫人はまだ意識が回復 しないのだ。シャーロック・ホー ムズ先生、――何卒この後も重 大事件が突発した時は、よろしく 御助力下さいますよう、幾重にも お願い申します」 私たちは窓際に立って、馬車 横浜コミュニケーション障害研究会 - 189 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) の遠ざかってゆくのを眺めた。そ れから私は振り返った途端に犯 人がテーブルの上に投げて行 った、紙片を丸めたものを見つ けた。それはホームズが彼をお びき寄せた手紙であった。 「さあ、君、これを読めるかね? ワトソン君、――」 ホームズは笑いながら云った。 それは一語もなく、ただ次のよ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 190 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) うな舞踏人の短い一行であった。 「いや、僕が使った、暗号表を用 いれば、これはもうごく簡単なも のだとわかるよ」 ホームズは云った。 「これは、"COME HERE AT ONCE"(すぐに来い)と云うだけ のことだよ、いくら何でもこの招 待状では、彼は万障を繰合せて 横浜コミュニケーション障害研究会 - 191 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) も来ると思ったのさ。何しろこうし たものを書ける者は、夫人以外 には無いのだと彼は信じている のだからね。さてこうして、親愛 なワトソン君、我々もこの悪業の 手先に使われていた舞踏人を、 今度は善い意味のものに転化し てしまったし、また僕も君の覚書 の中に、一つはなはだ特異な件 をお土産にしようと云う約束も、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 192 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) これでともかく果したわけだ。三 時四十分の汽車があるが、我々 はベーカー街に行って、夕食で も食べるとしようか、――」 簡単に結末だけを。 ア メ リ カ この亜米利加人のアベー・スラ ネーは、ノーアウィッチの冬期巡 回裁判で、死刑を宣告されたの であったが、しかしヒルトン・キュ ーピット氏が、最初に発射したと 横浜コミュニケーション障害研究会 - 193 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 云うことが明瞭になったので情 状酌量して、死刑を改めて懲役 刑とされた。 それからヒルトン・キューピット 夫人については、その後負傷は すっかり癒り、寡婦として一貫し、 その生涯を救貧事業と、亡夫の 遺産管理に専念していると云う ことをきいただけである。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 194 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 底本:「世界探偵小説全集 第四卷 シヤー ロツク・ホームズの歸還」平凡社 1929(昭和 4)年 10 月 5 日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表 記にあらためる際の作業指針」に基づいて、 底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「貴方→あなた 汎ゆる→あらゆる 或る→あ る 或→あるい 如何→いか 聊か→いささ か 何時→いつ 一層→いっそう 愈→いよ いよ 何れ→いずれ 於て→おいて 却って →かえって 可成り→かなり かも知れ→かも しれ 屹度→きっと 位→くらい 極く→ごく 此→この 併し→しかし 而も→しかも 直・ 直き→じき 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 即 ち→すなわち 凡て→すべて 是非→ぜひ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 195 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 其処→そこ 其の→その 沢山→たくさん 唯→ただ 度々→たびたび 多分→たぶん 丁度・恰度→ちょうど 一寸→ちょっと (て) 居→い・お (て)置→お (て)見→み (て) 貰→もら 何処→どこ 何方→どちら 仲々 →なかなか 何故→なぜ 成る程→なるほど 計り・許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなは だ 不図→ふと 程→ほど 殆んど→ほとん ど 略々→ほぼ 先ず→まず 亦→また 間 もなく→まもなく 見す見す→みすみす 若し →もし 勿論→もちろん 以って→もって 尤 も→もっとも 矢庭に→やにわに 矢張り→ やはり 漸く→ようやく 宜しい→よろしい 妾 →わたし」 この作品には、JIS X 0213 にない、以下の文 字が用いられています。(数字は、底本中の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 196 - 『暗号舞踏人の謎』(アーサー・コナン・ドイル) 出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文 内では「※[#…]」の形で示しました。 「りっしんべん+巧」 126-1 横浜コミュニケーション障害研究会 - 197 -
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