「長崎に学ぶ」∼中学生平和体験の旅∼ 派遣団文集 感想文 団 長 武田 団 員 佐々木 瞭·················································· 3 岩渕 隼也·················································· 4 岡田 優···················································· 5 久保田 資 啓一·················································· 1 幸恵················································ 7 大場 捷平·················································· 9 伊藤 智··················································· 10 末永 優花················································· 11 阿部 栞奈················································· 12 尾梶 七海················································· 13 野田 史緒················································· 14 赤坂 純佳················································· 15 加藤 真梨················································· 16 料 平成 22 年度「長崎に学ぶ」派遣団員名簿································ 17 平成 22 年度「長崎に学ぶ」派遣事業日程································ 18 平成 22 年長崎平和宣言················································ 20 美里町非核・平和都市宣言············································· 22 平成22年度「長崎に学ぶ」中学生平和体験の旅に参加して 団長 教育委員会教育次長 武田 啓一 私は、毎年長崎市で開催される平和祈念式典をテレビニュース等で見るだけでありましたが、今 年は機会があって、8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に町内の中学生12人と参加する という大変貴重な体験をいたしました。 原爆のことについては、かつて長崎を旅行したときに短時間の見学を通して多少知っていました が、式典前日に中学生たちと一緒に参加した青少年ピースフォーラムでの被爆体験者の話は、65 年前の出来事にもかかわらず被災の惨状がひしひしと伝わってくるものでした。特に、原爆の熱線 により焼きただれた多くの犠牲者や負傷者を目の当たりにしながら家族、兄弟を探し回った時の話 には、戦争の惨さと愚かさに対する憤りにも似たものが心にこみ上げてきました。その後のフィー ルドワークでは、高校生や大学生のボランティア・ガイドの説明で被爆建造物や被爆当時の地層な どを見学して回り、中学生たちと改めて原爆のすさまじさを実感しました。 式典の当日は、台風の影響が心配される中、早めに会場に到着し、長崎のシンボルでもある平和 記念像を背景に記念写真を撮り、中学生たちは大屋根テントの中の指定された席に着き、開会の時 間を待ちました。今年の式典は、台風の影響による雨の中の式典となり、被爆者で結成されたコー ラスグループによる合唱がはじまった瞬間、多くの出席者であふれていた会場は一瞬にして静まり、 「あの日を二度と繰り返してはならない」という強い願いを込めて歌われた歌声に耳を澄ませて聞 き入りました。そして、原爆投下の午前11時2分、犠牲者に対する黙祷のアナウンスが流れ、参 加者全員が起立して黙祷が行われた。黙祷の時間は短かったが、犠牲者に対するご冥福と平和への 願いをこめて参加者全員の気持ちがひとつになった時間であったと感じました。また、「式辞」や 「平和宣言」、 「平和への誓いのことば」の中には、被爆地としての世界恒久平和の実現に向けた取 り組みと決意が切々と謳われ、全国各地、諸外国から参加した人たちにとっても改めて「核兵器の ない平和な世界」の実現を確認する式典でありました。 今回の平和体験の旅に参加した12人の中学生にとっては、教科書や映像等だけでの知識でしか なかった長崎の原爆について、被爆者からの話を自分の耳で聞き、今なお残っている原爆の爪あと -1- を自分の目で見て確認し、ピースフォーラムの大勢のボランティアの人たちや全国の小中学生たち との交流、そして被爆者の強い願いが込められた平和祈念式典から「平和の尊さ」を肌で感じるこ とができた大変貴重な体験であったに違いありません。核兵器廃絶・平和都市宣言を行っている本 町は、戦争を知らない若者たちにその活動の継承を託さなければならない中で、毎年12人の中学 生を派遣する平和学習事業は、大変有意義な事業であると感じました。 最後に、この事業に参加した若者たちが中心となり、新たな平和活動が構築されることを期待し て、報告とさせていただきます。 -2- 長崎で学んだこと 小牛田中学校 2年 佐々木 瞭 私がこの事業に参加するにあたっての目標は、 過去の被爆の事を知ることと自分自身を見直す ことでした。 まさにその両方にピッタリと当てはまる充実 した三日間を過ごす事が出来ました。 平和祈念式典に参加したり、ボランティアの 方々にお話を伺ったりなど、普通ではなかなか出 来ない貴重な体験をさせて頂きました。 三日目のグラバー園や市内視察なども興味深かったです。 特に印象深かったのは、一日目のフィールドワークです。 実際に歩きながら、被爆による被害の規模などを詳しく知る事が出来ました。 また、長崎新聞文化ホールでの交流会では、各県の方々とお話をする事が出来ました。 いずれも貴重な体験ができてよかったです。 今回学んだ原爆の恐ろしさは、たぶん多くの被害のうちのほんの一握りだったと思います。 被爆者の方々はもっと悲惨な体験をしているし、遺族の方々の悲しみは、私達では考えられない ものだと思うのです。 しかし、そのなかで私は平和の大切さを痛感しました。 私はこの旅で、平和な世界の実現のために自分は何が出来るか、という事を考えました。 まずは過去の悲惨な被爆の事を多くの人に知ってもらう事が大切だと思いました。 そのために私も、学んだ平和の大切さを伝えて行こうと思いました。 私自身、今の平和な日常がどれほど大切かという事を、改めて感じました。 また、その 大切な日常 を自分は本当に大切にしているだろうか?と、自分自身についても考 えさせられました。 私は戦争と関わる事が無い日常を、かけがえのないものとし、今以上に大切にしていこうと思い ます。 -3- 平和体験の旅 小牛田中学校 2年 岩渕 隼也 この長崎に学ぶ平和体験の旅で学んだことは、 原子爆弾の恐ろしさがテレビで見る時とくらべ実 際に体験した人の体験談を聞くとその内容が身に 感じて恐いくらいでした。 原爆で壊されてしまった浦上天主堂は柱しか残 されていませんでした。レンガで造られた柱は、 4トンぐらいなのに5センチほど横におされたあ とがあり爆風がどれほどつよいか知る事ができ勉 強になりました、また、天主堂はほぼ全焼だった のに何故か木でできてあるマリア様は残されてあり、よく燃えずに残っていたと思う。 平和祈念像が上空をさす右手は原爆を意味し水平に伸びた左手は世界平和を、軽く閉じた目は犠牲者 の冥福を祈ってるんだそうです。原爆資料館では全身火傷の少女や、ガラスが刺さった作業服またケロ イドなどといって放射線が及ぼす症状など原爆は一瞬で終わるのではなく今後の生活にも影響する事 がわかりました。原爆の恐ろしさを世界中に広め原子爆弾を持っている国に訴えてほしいです。なぜな らこのような事が今後起こらないとはかぎらないからです。 僕がこの事業に参加できて知らない事が沢山あったんですけど少しでも分かったので今後の生活や 学校生活に役立ていきたいです。 -4- 長崎で学んだこと 小牛田中学校 2年 岡田 優 8月8日、私たちは宮城県から遠く離れた長崎県に行きました。 長崎県は宮城県にも増して一段と暑く、良い天気でした。 まず始めに私たちは「青少年ピースフォーラム」という行事に参加しました。ピースフォーラムでは 被爆者の方による被爆体験講話を聞きました。原爆が落とされた時の事を詳しく語ってくださいました。 原爆によって亡くなった方々の多くは建物の下敷き、体じゅうに大火傷、焼けた皮膚がはがれてぶら下 がっている・・・。 聞いているだけでも恐ろしく、可哀そうで悲しくなりました。 また、自分の家族の事まで話してくださいました。 全身に大やけどを負いながらも生きるために必死に逃げた弟。 自宅で被爆した母と妹は原爆症に苦しみ、妹は1カ月後に死亡。 母は妹の50周忌まで生きたが死亡。 とても可哀そうでなりませんでした。 この講話を聞いて私は、改めて戦争の恐ろしさを知りました。 それと同時にもう二度と戦争を起こしてはいけないと思いました。 そのあと私たちは被爆建造物等のフィールドワークに行きました。 どの建造物も当時の事が生々しく残されていました。 1日目の夜、全国から集まった小中学生で交流会がありました。 名刺交換や食事会をして仲良くなれたのでよかったです。 1日目の最後は稲佐山展望台に行き、長崎の夜景を見ました。 夜景はとてもきれいなものでした。 2日目は、いよいよ「平和祈念式典」です。 被爆した方々の歌から始まった式典、歌から被爆した方々の悲しみと、たくさんの命を奪われた悔し さ、「一生癒える事のない心の深い傷」がすごく伝わってきました。 11時02分の黙とう・・・目を閉じている間、被爆者の方の話の一場面一場面が絵になって頭の中 に映し出されました。 今まで晴れていた空も、涙をこぼすかのよ うに雨を降らせました。 そんな悲しいことを思い出すのは辛いこ とですが、あえてその辛い過去を知り平和な 未来を築いていきたいと思いました。 2日目の夜は中華街を散策しました。いろ んな中華料理の店が並んでいたり土産店も たくさんあって何を買おうか迷いました。ま た、カステラなどのお菓子も普通の土産店で 買うよりも安くなっていました。 -5- 3日目、いよいよ長崎の旅も最終日・・・。 長崎市内視察です。まず、グラバー園に行きました。 グラバー園ではハート形の石があったり、花がたくさん植えてあったり、自然がいっぱいでした。 私は散策している途中で具合が悪くなってしまったのですが、グラバー園内の土産店の方々が助けて くれました。 長崎の人はとても思いやりがあって優しい人たちなのだと思いました。感謝の気持ちでいっぱいにな りました。 その後、元気を取り戻し、復活した私は皆とビルで合流することができました。 私が今回の長崎の平和体験の旅で学んだことは「平和の大切さ」と「思いやりの心」です。 今、こうして普通に生活していられることも平和なことだと思います。思いやりの心を持つと優しい人 になれると思います。 今回の旅で学んだことをこれからの生活に生かし、もう二度と戦争を起こらない、起こさないように 平和な未来を自分たちの手で作り上げていきたいです。 -6- 「長崎に学ぶ」を体験して 小牛田中学校2年 久保田 幸恵 戦争を全く知らない私にとって『戦争や原爆とはどういうものか、そしてこれから平和な未来を築く ために、自分には一体何ができるのか・・・』という事をきちんと理解し、学びたいと思い、今回「長 崎に学ぶ・中学生平和体験の旅」に参加しました。 まず、一日目の青少年ピースフォーラムでは、永野悦子さんという被爆体験者の方の話を聞きました。 今は、お金を出せば欲しいものがたくさん手に入るし、自由に使ったり、またいらなくなれば簡単に捨 ててしまったりしてしまいますが、戦時中はお金があっても買う物そのものがなく、食べたい物や着た い服なども全く手に入らない状態、兵器をつくるために、当時私達と同じ中2の永野さんも学校にも行 かされず、勉強したくても毎日毎日働かされ過ごしていたそうです。 この原爆で7万4千人の人が生きたまま焼け死に、2010年8月9日現在ではのべ15万2776 人もの方が被爆によって亡くなられたそうです。 聞くに堪えない生々しい惨状や、また弟さんや妹さんなどご家族の状況も赤裸々にお話して下さいま したが、その内容は悲惨で背筋が凍る思いでした。原爆、そして核兵器を絶対に許さないとの強い訴え でした。 次のフィールドワークでは、被爆建造物を6ヶ所ほど見学しました。その中でも一番印象に残った場 所は、原爆落下中心碑です。ここは、原子爆弾が上空500mの所で爆発し、7万4千人の尊い命が奪 われた、とても悲しく残酷な場所でした。私は、ショックを受けるのと同時に、核兵器のない世界にし なければいけないと強く強く思いました。 また原爆資料館では、被爆写真が展示されていました。その一枚一枚は、どれも思わず目をそむけて しまいたくなるくらいの悲惨な光景の写真ばかりでした。それだけ戦争というものは、恐ろしく怖いも のなんだとつくづく実感しました。 二日目の平和祈念式典では、今から65年前の8月9日、長崎に原爆が投下されたのと同じ時間の午 前11時2分に黙とう・・・式典はどしゃぶりの雨の中行われ、私はまるでその雨が被爆された方々の 涙のように感じられました。式典の中で印象深かったのは「もう二度と」という合唱でした。この曲を 歌っているのは被爆を体験した方だけでつくられた被爆者合唱で、その歌詞には悲しみから希望へ、平 和を願う思いがこめられたものでした。テントに雨が当たる音ではっきりは聞こえませんでしたが、皆 さんの思いが伝わってきてとても感動しました。 また、そのあとには核兵器の廃絶に対し、いま長崎 が世界に向けて行っている平和宣言についてなど学び ました。 それからさらに感動した事として、この式典の中で 高校生の方々がお茶やおしぼりを配るなど一生懸命ボ ランティアをしている姿でした。そうやって、長崎市 民の皆さんが、それぞれにいろんな形で平和のために 頑張っているんだなぁと感心しました。 私は今回、 「長崎平和体験の旅」をとおしてわかった -7- 事は、何の悪い事もしていない全く罪のない方々が戦争というものに巻き込まれ、尊い命を奪われてし まった事、また何とか命が助かった方々も、体と心に深い傷を負い、いまだに苦しみつづけているとい う事、原爆は、一瞬のうちにみんなの幸せを奪う、なんと恐ろしく怖いものか、戦争は悲惨以外の何も のでもないという事です。これは、被爆した方の体験を直接聞いたり、被爆建造物や原爆資料館などを 実際に自分の目で見てみなければ、ここまで理解はできなかったと思います。 この「長崎に学ぶ」に参加したおかげで、戦争や原爆について理解し、心に刻む事ができ、これまで の戦争に対しての考え方が一段と深いものとなりました。 私達一人一人は弱い小さな存在ですが、平和の大切さを願い、みんなで協力し合い、手をたずさえて いく事によって、やがては大きな力となり、世界を変えていけると思います。核兵器や戦争のない平和 な世界を築くために、まずは見聞きしてきた事をみんなに 語り伝え、そして今後も自分にできる事を見つけて、取り 組み、その役目をしっかりと果たしていきたいと思います。 最後に、交流会をとおして他県の中学生と仲良くなり、 住所を教えあったり、美里町の他中の人達とも親しくなれ た事も、平和な未来への一歩だと思います。 この中学2年生の夏、「長崎に学ぶ」の体験は、私の大 切な思い出となりました!! 被爆体験者・永野悦子さんの体験を聞いた時、メモに書き記した中から抜粋して紹介します。 ・65年前の8月9日午前11時2分、7万3800人の人が生きたまま焼け死んだ。 ・お金があっても、食べ物がない、勉強できない、働かされる、服もない。(当時16歳) ・自宅に戻る道路はもうなく、家がどんどん焼けている。 ・お互いに無事だったという事を確認し泣いた。 ・まっ黒にこげた馬が立ったまま死んでいた。 ・鉄筋は溶けていた。 ・道には、まっ黒の人、ばらばらの人、白骨化している人、目の前で助けてといいながらばたばた亡く なっていく人達がたくさんいた。 ・川岸では、死体が折り重なるように亡くなっている。 ・防空ごうの中でも怖くて寝られない。 ・弟は、全身大火傷で全身がはれ、目もあけられない状態。父が医者へ連れて行こうと弟の体にふれる と皮ふがはがれてしまった。弟に声をかけるとこっくりとうなずくので耳は聞こえていた。なので、 全身の傷みは全て感じていた。太陽はかんかん照り、日影もないまま三日後の8月11日に弟さんは 亡くなったそうです。(当時9歳) ・母と妹に偶然、山のふもとで会った。弟のかわりはてた姿を見て母と妹は、気がくるってしまった。 自分達で弟をお骨にするために泣きながら火をつける。 ・毎日、人間の死体が焼かれるにおい、人が腐っていくにおい。 ・妹は、一週間原爆症に苦しんだ。髪の毛が抜け、歯ぐきからは血がでて、苦しみながら一ヶ月後の9 月10日に亡くなった。 ・父は、三年後に病気で亡くなった。 ・最近、お墓参りに行った時、家族のお骨を見たら父の骨は白と黒がまざったような色だった。弟と妹 の骨は、全てまっ黒になっていた。核兵器は人の骨、せきずいまでまっ黒にしてしまうもの。 ・平和とは今、友達をいっぱいつくること。社会にでてそれをたくさん活かすこと。 -8- 長崎に学ぶ 不動堂中学校3年 大場 捷平 長崎に学ぶを通して以前より平和について学ぶことができました。 8日の朝は、集合時間が早く少し眠かったです。でも、これから出発だと思うと楽しみになってきま した。仙台空港で少し時間を過ごしてから飛行機に乗りました。飛行機では少し暇でした。 電車で移動し長崎まで移動しました。それからピースフォーラムに参加しました。そこでは、実際に 被爆した方のお話を聞くことができました。聞けば聞くほど原爆の恐ろしさが分かってきました。次に フィールドワークに参加しました。そこでは、原爆で被害にあっ た建物などを見て原爆の威力の強さなどを学ぶことができました。 そこでボランティアの方が言っていた今でも土の中に埋ってる人 がいるかもしれないということが頭に残りました。 夜は、楽しみにしていた交流会がありました。交流会では、他 県の人と話したりして仲良くなることができました。ステージで やっていたクイズやPRなどを見ていてすごく楽しかったです。 夜は、パーチーなどをして遊びました。なんだかんだで時間が 過ぎて2時∼3時くらいまで遊びました。朝起きたのが6時過ぎ くらいなので3∼4時間くらいしか眠れませんでした。 この日の朝はバイキングでした。眠気があったのであまり食べ る気になりませんでした。路面電車で移動をして平和公園まで行 きました。平和祈念式典は、テレビで見たことはありますが実際 に参加したことはなかったのではじめての参加でした。 夜は、中華街に行って中華料理を食べました。中華料理は昼も食べたので中華三昧でした。中華街で は、お土産を買ったりもしました。中華街にいた変なおじさんが印象深かったです。 長崎に学ぶに参加する前は、平和というのは、戦争がない世界だけだと思っていました。しかしピー スフォーラムなどを通して平和というのは、みんなが仲良くいれるなどいろいろな平和があることがわ かりました。体験したことを友達や家族に伝えていきたいと思います。そして核の恐ろしさを知っても らいたいです。核をこの世界から完全になくすのは、時間がかかると思いますが、核の恐ろしさが知っ てもらえればいつかはなくなると思います。 核のない世界が実現できることを願っています。 -9- 長崎で学んだこと 不動堂中学校3年 伊藤 智 僕は長崎に行って平和についてたくさんのことを学んできました。 まず「原爆の被害の大きさ」です。 実際の長崎に行ってみたら、昔に原爆が落ちたのに都会ですごかったです。原爆が落ちたころの写真 を見せてもらったら、今とは違って何にも無くてがれきが残ってるくらいでした。そこからここまで発 展したのはすごいなあと思いました。でもその中にも原爆の被害の跡が残っていました。やっぱり原爆 の威力は計り知れないもんだなあと改めて感じさせられました。話によると原爆を落とした後、飛行場 を作るためにがれきなどを片付けないで土を上から固めたため、地層が見つかったそうです。今でも地 層があるため長崎にいる人はその上で生活を営んでいると言われました。原爆が今の日本に落ちたらと んでもないことになるなあと、すごく実感させられました。 次に「原爆の被害を受けた人々の思い」についてで す。 長崎に着いてからまず原爆をうけた永野悦子さん から話を聞きました。1時間という短い時間でしたが 知らなかった事が色々ありました。その当時の詳しい 様子がわかりました。 永野さんはその時、爆心地から2.8キロメートル の長崎大学経済学部で学徒動員作業中に被爆したそ うです。そこから脱出して自宅に向かったそうです。 しかし自宅は全焼していました。必死に家族を探したそうです。家族とは弟以外とは合流できたそうで す。弟とは防空壕で会ったそうです。しかし弟は全身火傷をしていて大変な事になっていたそうです。 永野さんは必死に弟を助けようとしました。 しかし火傷がひどくてだめだったそうです。 別の人からも話を聞いてアメリカを嫌っている人が多いそうです。 最後に「平和とはどういうものか」です。 平和とは色々あると思います。みんなが笑って過ごしている時、自分の思い思いのことをしている時、 そして今などあると思います。 自分達がこうやって暮らしているのも平和なの かなあと思いました。 この大きな三つを長崎で学んできました。 昔の人達の原爆への思いは教科書には載ってい ない悲しい思いでした。この長崎に学ぶという貴重 な体験を通して平和について改めて考えさせられ ました。みなさんも平和とはどういうものか。深く 考えてみてはどうですか。 - 10 - 「長崎に学ぶ」に参加して 不動堂中学校3年 末永 優花 私が想像もできない1945年、8月9日午前11時2分、原子爆弾が長崎に投下されました。 原子爆弾が投下されてから65年後、私は「中学生平和体験の旅」に参加し長崎にいました。この旅 で私は、「核の恐ろしさ」 「戦争の悲惨さ」そして「平和の大切さ」を学んできました。 初日は、フィールドワークで被爆遺構巡りを しました。私が一番驚いたのは、浦上天主堂で す。浦上天主堂とは、建設するのに30年もか かったとっても立派な教会です。しかしあの原 子爆弾により鐘が落ちてしまったのです。私は、 あんな大きな鐘が落ちてくるとは信じられま せん。とても怖くなりました。被爆遺構は、た った一発の原子爆弾のすさまじい威力・恐ろし さを物語っていました。 二日目は、平和式典に参加しました。会場に 着いてからすぐに目についたものがありました。それは、遺族席という文字。私は、その文字を見た時、 戦争は終わったけれど被爆者、大切な家族を失った人は今でも苦しんでいる。心と体に深く刻みこまれ た傷は決して消える事はないだろうと思うととても心がしめつけられたように苦しくなりました。式の 中では被爆者や児童の合唱、平和宣言を聞き「あの日をもう二度と繰り返してはいけない」という人々 の思いが強く伝わってきました。そして多くの参列者と共に黙とうをし、核兵器廃絶と世界平和を祈り ました。 私は、たくさんの疑問があります。なぜ戦争をするのか、人々は自分の命を犠牲にしてまで勝ちたか ったのか・・・。それは、日本が軍国主義だから? 天皇のため? 私は、昔の人の気持ちが考えても、 考えても分かりません。亡くなられた方は、何のために亡くなったのでしょうか。平和な生活を送りた かったのではないでしょうか。私は、戦争は絶対してはいけない、起こしてはならないと思います。 そして最終日。長崎市内を視察しこの三日間を思い出しながら美里町に帰りました。 私が今、こうして平和に暮らしているのは終戦後一度も 戦争をしなかったから。そして戦争の悲惨さ、広島・長崎 に起こったあの恐ろしい出来事を被爆者が後世に伝えて きたからだと思います。私は、今回「長崎に学ぶ」に参加 して「核」 「戦争」 「平和」についてたくさん学び、たくさ ん感じました。これから私にできる事は、長崎に行って学 んだ事をまわりのみんなに伝える事だと思います。そして 戦争や原爆のない平和な世界になれるよう願い続けてい きたいと思います。 最後になりましたが、この貴重な体験をさせていただき 本当にありがとうございました。 - 11 - 長崎に行って 不動堂中学校1年 阿部 栞奈 わたしがこの「長崎に学ぶ」に参加したのは、授業では広島の悲劇ばかり習ってきたので、もう一つ の被爆地、長崎にも目を向けてみたかったからです。 長崎に原爆が落とされたのは「その日の天気がよかったから」と聞きました。それだけの理由で多く の人が亡くなったのはとても悔しいです。許せないと思います。 一日目のピースフォーラムでは町の中の碑やこわれた建 物を見てきました。特に印象的だったのは浦上天主堂です。 浦上天主堂はキリスト教信者の手によってつくられまし たが、完成してたった20年で原爆により崩壊しました。 今でも当時あったヨハネ像やキリスト像は残っていますが、 指や頭がとれていたり黒くすすけている部分があります。 それを見て原爆の威力がどれほどのものかがよくわかりま した。そして信者たちが30年もかけて作った浦上天主堂 が一瞬にしてくずれるなんてとても悲しいです。 その他にも爆風や熱線によって割れたりとけたりしたガラス、泡立った瓦など建物の大きな被害を知 りました。 二日目は、平和祈念式典への参列や原爆記念館を見てきました。式典では被爆者のみなさんの気持ち がよく分かります。「核兵器を許さない。」「二度と同じ事をしてはいけない。」自分も同じ考えです。 黒くこげた人、皮がはがれ血がにじんでいる人。どの人も何も罪はないのに殺されていきました。そ れに今でも放射線の影響で苦しんでいる人はたくさんいます。 わたしはそんな人達のため、少しでも力になりたいと思っています。具体的には原爆の悲劇を忘れな いように周りに伝えることや、これから核兵器が二度と使われないように、身近なところから争いをな くし、平和を広めることです。実際に美里町では「非核・平和都市宣言」が出されています。美里町の 町民としてその宣言を守っていきたいです。 きっとこのままいけば、アメリカも、核をなくす努力をしているし、核兵器は世界から少しずつ無く なっていくと思います。一刻でも早く平和が広まるように、わたしはずっと願いたいです。 - 12 - 「長崎に学ぶ」に参加して 南郷中学校 ・ 1年 尾梶 七海 ・ 「七海∼。今年はこれに参加してみたら∼?」と母の声が聞えたので、とりあえず、行ってみる。母 は低いテーブルの前にすわったまま、いつものように私と弟の学校からのおたよりを読んでいた。テー ブルの上には、母がすでに読み終わったもの、そうではないもの、それと、もう一枚。 「長崎に学ぶ 中 学生平和体験の旅」と書かれた紙が、テーブルから半分はみ出した状態で置かれていた。「長崎?行き たい!行きたい!!」とすぐに思った。と言うのも、私 はこういう行事には慣れている。小学校三年生から去 年の六年生まで、沖縄に二回、七ヶ宿の交流会に一回、 秋田の白神山地に一回、親から離れて行ってきたのだ。 もちろん、他の参加者と一緒に。そのおかげで、他の 学校にも、同じ学校の人達が知らない友達がたくさん いる。さっそくみんなをさそったら、「部活がいそが しいから」とか、「飛行機が苦手だから」などという 返事がほとんどだった。中には、「親に聞いてみる」 という人もいたけれど、だめだったらしい。各学校で 作文に合格した四人が行けると書いてあったので、文章を考えるのが大変でした。私の通っている、南 郷中学校からは、四人しか希望者がいなかったらしく、四人ぴったり合格できた。中には、クラスは違 うけれど、同級生の友達もいました。 ゴォー・・・。飛行機が動きはじめた時には、長崎が楽しみでしかたなかった。しかし、遊びに行く のとは、わけがちがう。1945年8月9日、午前11時2分に長崎に落とされた、原子爆弾ファット マン。ファットマンとは、日本語で太っちょと言う意味だそうだ。ファットマンたった一発で、なんと 約7万3千人もの人が亡くなった。実際に原爆を落とされた長崎に行き、戦争や平和について学び、地 元のみんなにそれを伝えるための旅。そうこうしているうちに、長崎に着いた。そして、ホテルに到着 してすぐ、少しの自由時間があった。最初は同じ学校の友達としか話さなかったけれど、知らないうち に、みんな仲良くなっていました。最後の日の夜は、みんな夜遅くまで、一緒にいました。いちゃりば ちょーでーという言葉が頭にうかびました。いちゃりばちょーでー とはいうのは、沖縄の方言で「一度あったらみな兄弟」という意味 です。みんなでとったグループ写真は、大切な思い出となりました。 私は、これが本当の「平和」なんじゃないかなぁーと思いました。 一番心に残ったのは、平和記念式典の時に聞いた、「もう二度と」 という歌です。この歌は、被爆者の気持ちがそのまま曲になってい ます。帰りの飛行機やバスの時間は、とても短く感じました。 長崎に行って、原子爆弾の恐ろしさはよく分かりました。しかし、 まだ原爆を知らない人達もいると思うので、次は私がその人達に原 爆を伝えたいです。 - 13 - 長崎に学ぶに参加して 南郷中学校1年 野田 史緒 今年は広島・長崎に原子爆弾が投下され、日本が太平洋戦争に敗れて65年になるそうです。私のま わりでも戦争を経験した人は、祖父や祖母だけです。普段の会話にも戦争の話が出ることはほとんどあ りません。 今回「長崎に学ぶ」に参加した大きな理由の一つは、私の 2人の姉がどちらも長崎に行っていたことです。姉は「長崎 は楽しかっただけではなく、戦争は本当に残酷なことであ る。」と私に教えてくれました。応募用紙を書いている時には、 「本当に行くのかな。」といった感じでしたが、出発が近づき 姉たちと原子爆弾や長崎の話をしていくにつれて、私は戦 争・原爆・平和などに興味がわいてきました。 そして、戦争のことや平和について知りたいと思うように なりました。 3日間の中で特に思い出に残っているのは「平和祈念式典」 です。 戦争に参加した人々は年々高齢化していく今、祈念式典で の、 「平和への誓い」や被爆者の皆さんの歌「もう二度と」は 平和を願う気持ちがたくさん伝わってきて感動をしました。 またピースフォーラムでの永野悦子さんの講話で、原子爆弾の恐ろしさを知りました。二度と原爆が 落とされることがないように被爆者の皆さんが自らの命を削るようにしてその体験を語っていました。 それから、被爆した当時の写真や原爆の模型からも当時の様子を知ることができました。当時を想像 しただけで怖くて残こくです。体験した人たちは本当に大変だったと思います。 今私は幸せな時代に生きていると思いました。こんなにも恐ろしい戦争・原爆は二度とあってはなら ないという気持ちでいっぱいです。 今回長崎にいって戦争や原爆についての事実を知ったことで、これから先、私は平和な国に生きたい と強く思いました。 そして、戦争で敵の国であった人達とも私たちが大きくなった時代には、仲良く話したり交流できる 世界であってほしいと思っています。 - 14 - 長崎で学んだこと 南郷中学校 2年 赤坂 純佳 私が「長崎に学ぶ」平和体験の旅で学んだことは、三つあります。 一つ目は、戦争の実態です。私たちは一日目に青少年ピースフォーラムの開会行事で、被爆体験をし た永野悦子さんから、原子ばくだんの恐ろしさを聞きました。永野さんは、16歳の時に被爆したそう です。永野さんの話は、とても生々しく、私には聞えました。あんまり、原子ばくだんのことを知らな いで長崎に行った私は、永野さんの話を聞いて、とてもショックをうけました。二日目に私達は平和祈 念式典にでました。そこでは、たくさんの人 がいました。そして、戦争、原子ばくだんで、 今もたくさんの人が苦しめられていること が分かりました。そして、この式典にでた人 達は、みんな、この世界から原子ばくだんが 無くなることを願っていることが、見ている 私達にも、強く伝わりました。私もこれから、 原子ばくだんが無くなることを願います。そ して、もう二度と、こんなことがおこらない ように願い続けたいです。 二つ目は、宮城県ではない、たくさんの別の県の人達のことです。私たちは青少年ピースフォーラム に参加して、たくさんの人達と交流をしました。東京や、京都、北海道や、すごく遠い所だと沖縄から 来ている人もいました。普通では、あまり行けない県の人とも友達になれて、とても楽しかったです。 長崎に、こんなに全国からたくさんの人が来ていることに、とてもおどろきました。 三つ目は、長崎のことです。長崎には、私の見たことが無いような所がたくさんありました。「原爆 落下中心地碑」は原爆のおとされた所に建てられたものです。原爆はこの碑の約5百メートル上空で爆 発しました。「浦上天主堂」は完成してたった二十年で原子爆弾によって、崩壊しました。作っていた 時間より、建ててあった時間のほうが短かかったそうです。他にもたくさんの所に行きました。 この長崎を通して、原子ばくだんのことがとてもくわしく、生々しく分かりました。この長崎で学ん だことを、たくさんの人に伝えていきたいと思います。そして、学んだことを、これからの生活に生か していきたいと思いました。 - 15 - 長崎にいって学んだこと 南郷中学校 2年 加藤 真梨 8月8日に長崎に行って3日間すごしてきました。一日目は青少年ピースフォーラムで被爆した人の はなしを聞きました。話をきいてすごくこわかったです。熱戦をあびてすごくやけどをおったり、放射 線をあびて、生き残った人たちも白内障や白血病などでくるしめられていると聞いて、ものすごく原爆 がこわいことがわかりました。あと夜には交流会が ありました。宮崎県の人がすごくなまっててびっく りしました。沖縄の人や神奈川の人、京都の人とか と話してすごく楽しかったです。二日目は平和祈念 式典にいきました。すごく人がいっぱいいて、平和 祈念像がとても大きかったです。あと外の方にはい ろんな県の学校などが作ってきた千羽鶴がいっぱい かざってありました。ほかにも平和祈念式典では被 爆者合唱、児童合唱などが聞けたのでよく学べまし た。夜に中華街を散策しました。人がたくさんいま した。あとカステラやビードロ、ガラスでできた小さいおきものとかがいっぱいあってとてもきれいで した。ほかにもおみせの人とかとしゃべったりしました。楽しかったです。三日目はグラバー園という ところにいきました。石がいっぱいあってすごかったです。あと、資料館みたいなところには、オルゴ ールとかふねの模型、でっかい絵や小さい絵などいろいろみれたので、よかったです。おひるには長崎 のでっかいおみせにいっておひるをたべて、自由行動でぐるぐるまわったりしてすごく楽しかったです。 午後には、おっきい橋にいったりしました。長崎のことがいろいろ分かったのでのよかったです。そし て飛行機にのって宮城県に帰りました。長崎にいって、被爆した人の話や、いろんな県の人とはなした り、みれたりしたのですごくいってよかったと思いました。あと原爆の高熱でとけたびんとかいろいろ みれてとても学べました。今までだと、よく原爆のおそろしさとかがよくわかんなかったので知れてと てもよかったです。 - 16 - 平成 22 年度「長崎に学ぶ」∼中学生平和体験の旅∼ 氏 名 所 属 学年 性別 団 長 武田 啓一 美里町教育委員会 教育次長兼教育総務課長 - 男 団 員 佐々木 瞭 小牛田中学校 2 男 団 員 岩渕 隼也 小牛田中学校 2 男 団 員 岡田 優 小牛田中学校 2 女 団 員 久保田 幸恵 小牛田中学校 2 女 団 員 大場 捷平 不動堂中学校 3 男 団 員 伊藤 智 不動堂中学校 3 男 団 員 末永 優花 不動堂中学校 3 女 団 員 阿部 栞奈 不動堂中学校 1 女 団 員 尾梶 七海 南郷中学校 1 女 団 員 野田 史緒 南郷中学校 1 女 団 員 赤坂 純佳 南郷中学校 2 女 団 員 加藤 真梨 南郷中学校 2 女 事務局 佐藤 俊幸 美里町総務課 - 男 事務局 佐野 仁 美里町総務課 - 男 - 17 - 派遣団員名簿 住 所 平成 22 年度「長崎に学ぶ」∼中学生平和体験の旅∼ ◎ 日 時 平成22年8月8日(日)∼10日(火) ◎ 場 所 長崎県長崎市 ◎ 参加行事 派遣事業日程 青少年ピースフォーラム参加(長崎市主催) 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 ◎ 宿 泊 先 ベストウェスタンプレミアホテル長崎 長崎県長崎市宝町2−26 ◎ 日 程 8月8日(日) 結団式∼美里町役場庁舎前 6:15 7:20 役場出発 午前6時 00 分 8:25 仙台空港 10:30 10:52 福岡空港 ANA3182 便 町研修バス 10:58 11:20 博多駅 特急かもめ 19 号 地下鉄 13:22 14:00∼15:00 15:10∼17:00 長崎駅 青少年ピースフォーラム(平和会館ホール) フィールドワーク (浦上天主堂コース) 18:00∼20:00 20:15 21:00 22:00 交流会(長崎新聞文化ホール) ホテル 稲佐山展望台 ホテル ※青少年ピースフォーラム1日目 14:00∼15:00 開会行事(被爆体験講話、長崎平和推進協会継承部会 永野悦子さん) 15:10∼17:00 被爆建造物等のフィールドワーク 18:00∼20:00 交流会(長崎新聞文化ホール) ※フィールドワーク(高校生・大学生のボランティアガイドの説明による被爆遺構巡り) 原爆落下中心地碑→浦上天主堂の遺壁→下の川→被爆当時の地層→ 浦上天主堂天使像等→浦上天主堂鐘楼ドーム→原爆資料館到着 - 18 - 8月9日(月) 9:00 9:30 ホテル 平和祈念式典(平和公園内平和祈念像前広場) 13:30∼15:30 15:30 17:00 参加型平和学習(原爆資料館平和学習室) 原爆資料館 ホテル 18:00 21:30 新地中華街 ホテル ※青少年ピースフォーラム2日目 午前 平和祈念式典への参列 13:30∼15:30 平和学習(1日目のフィールドワークで学んだことを振り返り、グループでの 意見交換を通して平和について考える) 8月10日(火) 9:00 9:05∼15:20 ホテル 長崎市内視察(グラバー園、出島周辺、眼鏡橋等) 15:25 17:16 長崎駅 17:28 17:33 博多駅 特急かもめ 32 号 19:15 21:00 福岡空港 地下鉄 仙台空港 ANA3183 便 22:15 美里町役場 (解散) - 19 - 21:15 町研修バス 平成 22 年長崎平和宣言 被爆者の方々の歌声で、今年の平和祈念式典は始まりました。 「あの日を二度と繰り返してはならない」という強い願いがこもった歌声でした。 1945年8月9日午前11時2分、アメリカの爆撃機が投下した一発の原子爆弾で、長崎の街は、 一瞬のうちに壊滅しました。すさまじい熱線と爆風と放射線、そして、燃え続ける炎……。7万4千人 の尊い命が奪われ、かろうじて死を免れた人びとの心と体にも、深い傷が刻みこまれました。 あの日から65年、「核兵器のない世界」への道を一瞬もあきらめることなく歩みつづけ、精一杯歌 う被爆者の姿に、私は人間の希望を感じます。 核保有国の指導者の皆さん、「核兵器のない世界」への努力を踏みにじらないでください。 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議では、当初、期限を定めた核軍縮への具体的な道筋が 議長から提案されました。この提案を核兵器をもたない国々は広く支持しました。世界中からニューヨ ークに集まったNGOや、私たち被爆地の市民の期待も高まったのです。 その議長案をアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の核保有国の政府代表は退けてしまいま した。核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて、世界 は逆に核拡散の危機に直面することになります。NPT体制は核兵器保有国を増やさないための最低限 のルールとしてしっかりと守っていく必要があります。 核兵器廃絶へ向けて前進させるために、私たちは、さらに新しい条約が必要と考えます。潘基文国連 事務総長はすでに国連加盟国に「核兵器禁止条約」の検討を始めるように呼びかけており、NPT再検 討会議でも多くの国がその可能性に言及しました。すべての国に、核兵器の製造、保有、使用などのい っさいを平等に禁止する「核兵器禁止条約」を私たち被爆地も強く支持します。 長崎と広島はこれまで手を携えて、原子爆弾の惨状を世界に伝え、核兵器廃絶を求めてきました。被 爆国である日本政府も、非核三原則を国是とすることで非核の立場を明確に示してきたはずです。しか し、被爆から65年が過ぎた今年、政府は「核密約」の存在をあきらかにしました。非核三原則を形骸 化してきた過去の政府の対応に、私たちは強い不信を抱いています。さらに最近、NPT未加盟の核保 有国であるインドとの原子力協定の交渉を政府は進めています。これは、被爆国自らNPT体制を空洞 化させるものであり、到底、容認できません。 - 20 - 日本政府は、なによりもまず、国民の信頼を回復するために、非核三原則の法制化に着手すべきです。 また、核の傘に頼らない安全保障の実現のために、日本と韓国、北朝鮮の非核化を目指すべきです。 「北 東アジア非核兵器地帯」構想を提案し、被爆国として、国際社会で独自のリーダーシップを発揮してく ださい。 NPT再検討会議において、日本政府はロシアなど41か国とともに「核不拡散・軍縮教育に関する 共同声明」を発表しました。私たちはそれに賛同すると同時に、日本政府が世界の若い世代に向けて核 不拡散・軍縮教育を広げていくことを期待します。長崎には原子爆弾の記憶と爪あとが今なお残ってい ます。心と体の痛みをこらえつつ、自らの体験を未来のために語ることを使命と考える被爆者がいます。 被爆体験はないけれども、被爆者たちの思いを受け継ぎ、平和のために行動する市民や若者たちもいま す。長崎は核不拡散・軍縮教育に被爆地として貢献していきます。 世界の皆さん、不信と脅威に満ちた「核兵器のある世界」か、信頼と協力にもとづく「核兵器のない 世界」か、それを選ぶのは私たちです。私たちには、子供たちのために、核兵器に脅かされることのな い未来をつくりだしていく責任があります。一人ひとりは弱い小さな存在であっても、手をとりあうこ とにより、政府を動かし、新しい歴史をつくる力になれます。私たちの意志を明確に政府に伝えていき ましょう。 世界には核兵器廃絶に向けた平和の取り組みを続けている多くの人々がいます。長崎市はこうした 人々と連携し、被爆地と心をひとつにした地球規模の平和市民ネットワークをはりめぐらせていきます。 被爆者の平均年齢は76歳を越え、この式典に参列できる被爆者の方々も、少なくなりました。国内 外の高齢化する被爆者救済の立場から、さらなる援護を急ぐよう日本政府に求めます。 原子爆弾で亡くなられた方々に、心から哀悼の意を捧げ、世界から核兵器がなくなる日まで、広島市 とともに最大限の努力を続けていくことを宣言します。 2010 年(平成 22 年)8 月 9 日 長崎市長 - 21 - 田上 富久 美里町非核・平和都市宣言 多くの尊い命を奪った原子爆弾が広島と長崎に投下されてから60年以上が経過した。 先達の努力により、あの惨状が夢だったかのように我が国は復興を遂げ、今私たちは平和 を享受している。 しかし、世界に目を向けた時、内戦や地域紛争等、未だにこの世界中のどこかで戦争が 行われ、多くの核兵器が存在しているという事実がある。 世界における「核」は、今や平和利用の域をはるかに越えて、核軍備の拡大はとどまる ことなく、人類の生存に深刻な脅威をもたらしている。 私たちは、世界唯一の被爆国の国民として、非核三原則を堅持し、平和を愛するすべて の国の人々とともに、人類の安全と生存のため、これからも不断の努力を続け、次の世代 に平和な地球を引き継いでいかなければならない。 美里町は、先達の平和の理念を継承し、日本国憲法の平和主義の精神に基づいて、核兵 器の完全廃絶と軍備縮小を世界に訴え、人類の願いである真の世界平和の実現を希求し、 永遠の非核・平和都市であることをここに宣言する。 平成18年6月22日 宮城県遠田郡美里町 - 22 -
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