第4回(5/21) 地下のパリの歴史Ⅰ:パリ名産は石材、下水道、地下墓地

横浜市立大学エクステンション講座
エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第4回(5/21) 地下のパリの歴史Ⅰ:パリ名産は石材、下水道、地下墓地
はじめに
(1)街路断面図
(2)パリおよびパリ盆地
Ⅰ パリの地層
パリ盆地は人間界の交通の要所であると同時に、地質学的、地形学的にみた大きなま
とまりの中心に位置している。盆地中央部は単なる窪みではない。パリを含むイル=ド=
フランス地方は、第3紀に堆積した沖積土が浸食を受けた台地で、水平な段を成す台地
と小丘から成る。
パリ盆地の歴史は2億 5 千万年前に遡る。そこは広大な海の広がりであった。海底に
堆積物が次々と層状に重なり、ゆっくりと岩石に変わっていく[注]。アルプス山脈の隆
起に伴う盆地の全般的隆起が 5 千万年間つづき、海底層が最終的に海面上に出現し、現
在の形を成すにいたる。その後いくたびか隆起と沈下を繰り返し、そのたびに海侵と海
退を交互にくり返したが、地質学でいう新生代の第3紀前半に周期的に見られた海の侵
入や湖・干潟の形成が終止符を打ち、2,500 万年前に沈下を終えた。
パリ盆地は地質学の発祥の地であることを忘れてはならない。
[注] スパルナック階(Sparnacien←Epernon)
、スタンプ階(Stampien←Etampes)
、ルテシア階
(Lutétien←Lutèce パリの古称)
など。
パリの街路には地質学の先駆者たちの名が刻まれている。
eg. Palissy, Jussieu, Lavoisier, Lamarck, Cuvier…
パリ南西郊外のムードンからサン=クルーにかけて、モンマルトル丘の頂上部とビュッ
ト=ショーモン丘よりパリ東郊にかけてスタンプ階が見られる。地質学的に新しい第4紀
の地層(スタンプ階、バートン階、ルテシア階、スパルナック階、モン階)がセーヌ渓
谷の開削と過度の屈曲により削られてムードンとサン=クルー、ビュット=ショーモン以
東を除き流出してしまい、古い層(第3紀のモン階および中生代堆積層の白亜階)が地
表に露出。
Ⅱ パリの地下資源 ― 地下水・石油・石材 ―
1 地下水
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16 世紀までパリは運河によって水供給を受けていた。その後、セーヌ川の水を汲みあ
げるとともにサン=クルーやランジスの台地の水源から、さらに 19 世紀以降はウルク運
河の長い水路により、デュイス川、アヴル川、ロワン川、ヴァンヌ川など、遠くの川か
ら水を引いていた。
パリに特有なことはその地下に大量の地下水があったことである。ローマ人は共同浴
場のためアルカイユの水路を建設していた。
19 世紀末に二十数か所の泉が知られている。中でも著名な湧水源は以下の5箇所。
① レブヴァル (?, rue Rébeval),
② テルヌ (21, rue Pierre-Demour)
③ パシー (5, rue Raynouard)
④ オートゥイユ (2, rue de la Cure)
⑤ バティニョル (11, rue Sauffroy)
とくにパシーは良質水で有名で、鉄分を多く含み貧血症の人に最適という評判をとっ
ていた。かくて、パリ中の著名人がそれを求めて集まった。胃病によいとされたのはオ
ートゥイユの泉水。
「アトラスの水」として有名なベルヴィルの泉も忘れてはならない。
パリの人口増は水の需要増を生じ、井戸掘りが始まった。深堀技術の観点で 3 段階に
区分できる。
第一段階: せいぜい 40m 程度。自然湧水の場所が最初に開発対象となる。テルヌ泉
源、つづいてバティニョル、パシー。1870 年の調査によれば、泉源は3万箇所存在した。
だが、この井戸掘りも長くは続かなかった。車道、排水渠、汚水溜、便所などから浸透
によって汚染され、飲用に危険であることがわかったからだ。
第二段階: 19 世紀後半、深さ 550~750mのオーブ階にまで到達。それはプールや公
衆浴場のためのものだ。現在なおグルネル、 パシー、 エベール広場、 ビュット=オ=
カイユー、 ブロメ、ヴィルモンブルの6箇所に掘り抜き井戸が残り、
「ミュロの水」
、
「ア
ラゴの水」と言われている。最も有名なのが、セーヌ河畔で 1963 年に建設されたラジ
オ・フランスの井戸。容積 750 ㎥で、日産 50 ㎥ を出す大きな地下水源に到達。温度は
27 度。燃料を使わないで放送局全体を温め、近隣住民 2 千人に飲料水を供給。しかし、
掘り抜き井戸の開設の結果、パリ東部の地下水が空になってしまった。
第三段階: 深度は 1,600m 以上。新手の帯水層から取り出された 50~70 度の温水は
パリ近郊のムラン、クレイユ、プレジールで建物の暖房とヴィレット科学産業館の暖房
熱源として利用されている。
2 パリ油田
詩人 ジャン・ジロドゥーJean Giraudoux (1882-1944)が詩篇『シャイヨー奇談』La
Folle de Chaillot(1935)の中で、
「パリは石油を産する」と予言。地質学者はこれを否定。
鑿孔(ボーリング)技術の発達のおかげで深度は 1953 年には 2,300m、翌 54 年には
2,600mに達した。1953 年の時点で、全長 100km を超える試掘がおこなわれた。1954
年にパリ東郊で石油が噴出。
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翌 1954 年にパリ東郊 50 km のクーロムで、
地下 1,875mで最初の油田が発見される。
1958 年 1 月 22 日、クーロムで 30 の採油櫓が立ち、その年だけで 10 万トンがセーヌ下
流の精油所に運び込まれた。埋蔵量は 200 万トンと見込まれた。
1958 年 4 月、 モンタルジの東郊シャトールナールでも油田が!… これは期待がもて
た。シャトールナールは年産 16 万トン。 同年 10 月 27 日、ムラン近郊のシャイイ=ア
ン=ビエール=シャトレット で 12kmの長さの油田がみつかった。これは 0,850 度とい
う例外的に高い純度をもっていた。シャイイ に 60 基以上の櫓(やぐら)が立てられ、
年産 10 万トンに達した。そのほか、セーヌ=エ=マルヌ県のヴィルメール(4 万トン)
、
ヨンヌ県のサン=マルタン=ドゥ=ボスネー (11 万トン)。1962 年には 60 万トンのナフサ
が産出された。4 つの石油会社が起こされ、パリ盆地の真直中にパイプラインが引かれ、
セーヌの各支流とその運河を小型タンカーが往復。
いくつか問題が生じた。第一の問題:その所有権が誰に帰属するか? 第二の問題:試
掘の費用を個別の企業のみで負担できなかったため、国家が助成金を出すことになった。
いちばん面倒な第三の問題:1 ヘクタール当りの森林伐採を必須とし、ダイナマイト
音のために鳥獣が棲めなくなり、猟師の側からの苦情があい次ぐ。
3 石材
A パリの名産=切石
石材とは、切石に使われる粗石灰岩、石膏、レンガ用の粘土と黄土、沖積層の砂と砂
利。そして「ムードンの白亜」である。白亜は塗料や陶器製造に使われた。サン=クルー
に、名高いセーヴル陶器工場(現在は国立博物館)があるのはこれと無関係ではない。
パリの地下資源でとくに重要なのは粗石灰岩(ルテシア階)である。パリに石造建築
物が多く建立されているのもこの豊富な石材と関係がある。
ノートルダム寺院(12 世紀)の石 ← サン=ミシェル、サン=ジャック、サン=マルセ
ルの切石、
ルーヴル宮殿(13 世紀)の石 ← サン=クルーとモンパルナスから切り出したもの
陸軍大学校(18 世紀)の石 ← ヴォージラール採石場の石
切石は外国にまで輸出された。イギリスのケント州カンタベリー大聖堂の石はパリか
ら搬送。細密さで有名な「テュルゴーのパリ地図」
(1739 年)にも、切石を船に積んで
いるようすが描かれている。
パリ市役所前広場はその昔グレーヴ(砂・砂利の意)広場といわれたが、ここは砂・
砂利の積出港のあった場所である。
パリ最古の採石場はパリ第 5 区の植物園の下。ローマ人はここの石でシテ島の要塞を
築く。
採石はシャイヨー、パッシー、モンマルトルでもおこなわれ、採石場風景はパリの風
景の一部となる。
採掘は郊外に向かう。パリ南郊バニューの石灰岩採掘場が閉鎖されたのは 1939 年。
最初は露天掘りで、のちに地下採掘場として、文字どおりパリの地下を食い荒らした。
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1千ヘクタール(パリの面積の 10 分の1)が掘削された。
① パリの半分以上の区で採掘が試みられたが、それはセーヌ左岸に集中。パリ5区、
6 区、13 区、14 区、15 区の計で 600 ヘクタールに達する。サント=ジュヌヴィエ
ーヴ丘、リュクサンブール公園、植物園、イタリ―広場、ダンフェールロシュロー
広場、グラシエール、ビュット=オ=カイユー、モンスーリ公園の地下もそうであ
る。ここには建物の礎石に適した粗石灰石が埋まっていた。一方、右岸で粗石灰岩
はわずか2箇所(50 ヘクタール)、すなわち、パッシーとドーメニル街区のみ。
② 石膏の採掘はセーヌ右岸、パリ 8 区、10 区、12 区、16 区、18 区、19 区、20 区
に集中。モンマルトル、ベルヴィル、メニルモンタン(ペール=ラシェーズ墓地)
、
モン=ヴァレリアンなどの丘地。今は埋め戻されているが、ビュット=ショーモン
とバニューの採掘場も石膏採石場であった。石膏を求めての採掘もパリ郊外(ヌイ
イ=プレザンス、ガニー、ヴィルパリシス、アルジャントゥイユなど)をめざす。
粘土はオートゥイユ(モザール大通り)
、ヴォージラール(博覧会場跡地)
、メゾン
=ブランシュ(モンスーリ公園からジャンティまで)で産出。
③ 上質粘土は陶器と瓦の製造に使用。採掘は地下 35mにまで達するが、浸水と酸欠、
有毒ガスに出くわす危険を伴った。
④ ルイイとグルネルで採取された砂と砂利は鉄道敷設に欠かせない資源であり、砂と
くに「フォンテーヌブロー砂」はモルタルとコンクリートに不可欠の資材で、とく
に 19 世紀末以降、重要度が増大。砂・砂利はベルヴィルとビュット=ショーモン、
ピレネー通りで採取された。パリ市内において最後の採石場となったのはモンマル
トルで、1870~71 年の戦争(普仏戦争)の直後に廃坑となった。
B 宙吊りの都パリ
無秩序な採石の結果、パリは穴だらけ、地下道だらけ。坑道の全長は 300km に達す
る。坑道の深度は浅いもので 2m(たとえばヴォージラールにおけるアルレー辻公園)
、
深いものでウィレットとテルトル広場の 40m。これらの錯綜した地下迷路はあたりかま
わず広がっている。
モンパルナス墓地の下8km、リュクサンブール公園の下3km、植物園の下 800m。
パリ市内の 10 分の1…ブーローニュの森およびヴァンセンヌの森を含むパリの全面
積 1 万ヘクタールのうち1千ヘクタールに地下回廊が走り、パリは文字どおり「宙づり
の都」といえる。とくに、モンパルナス駅、シャイヨー宮、ヴァル=ド=グラース寺院、
パリ天文台、ゴブラン工場、その他の公的施設の下ががらんどう。
郊外40 市町村が採石場跡地をかかえ、セーヌ県全体で採石場は 1,300 ヘクタールに
もなる。
採石場の多くの穴倉は安全面から埋め立てられたが、延べ 300km の監査坑道が残っ
ている。それは危険な迷路で、原則として立入禁止となっている。
北部と北東部の丘の石膏層に見られるように、自然溶解によってできた空洞もある。
自然溶解というのは、地下帯水層内の水の循環が原因となって、広大な空洞がさらに広
がり、上層が落盤し、これによって数千立方メートルの鐘型の空洞が形成される。
廃坑を放置しておくのはきわめて危険である。盗賊の住処、秘密結社の根城、政治的
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陰謀の中心、陥没事故…。フランス革命時、ジロンド派のコンドルセが追手の追跡を逃
れて石切場に9か月隠れた例が有名である。
最大の懸念は建物の倒壊。陥没事故の引きがねとなるのは自然浸水である。大雨によ
る地面への水の浸透が地面の亀裂を大きくし、そこに建物の重量が加わり、地面が突然
沈下を起こす。
16 世紀、パリ南郊エタンプのサン=マルタン教会はピサの斜塔のように傾いていたと
いう記録ある。1880 年、サン=ミシェル大通りの理髪店で夕食の最中に陥没が発生。突
然地面が割れ、料理・テーブル・皿・陳列品ごと地面に吞み込まれた。店主自身は奇跡
的に椅子に座った状態で沈下し無傷だった。
1953 年、バニョレの丘の立入禁止場所に近くの住民が柵を越えて侵入し、ウサギ小屋
を作ろうとしたとき、突然、巨大な穴が口を開け、6 才の児童と母親がそこに呑み込ま
れ犠牲となった。その半月後、今度はパリ西郊ナンテールで直径 100 m の大穴が生じ、
100 人以上の負傷者を出した。1955 年には南郊クラマールでも、地下 6mで下水工事を
していた 3 人の作業員が事故に巻き込まれる。同年、東郊ノワジ=ル=セクでも直径 30
mの穴が出現。
事故で最大規模のものは 1961 年 6 月 1 日にパリ南郊クラマールで発生。イシー=ムー
リノーとクラマールの境界線上で、セーヌ川に突き出した絶壁の天辺で大陥没が生じ、
一面一帯がガレキの山と化した。60 戸の住宅、集合住宅がバタバタと倒壊したほか、23
戸の住宅が居住不能となった。この事故で 21 人が死に、18 人が重傷を負った。被災者
は 100 世帯 279 人にのぼった。さらに午前 10 時 40 分、大音響とともに炎が噴出した。
プラスティック工場と軍倉庫で火災が発生。30 分後、新たな大地の揺れとともに、もう
一つの巨大な漏斗が陶器工場をスッポリ呑みこんだ。幸い、操業開始前で死傷者なし。
行政官庁が採石場跡地に対する調査と監視を強化。危険地域への立ち入りと建造物を
禁止。
C パリの茸 Champignon de Paris
採石場跡地は一風、変わった利用のされ方もしている。ビール醸造と茸(キノコ)の
栽培。茸の栽培は偶然、発見されたようだ。19 世紀の初めごろ、サンテ通り(パリ 13
区と 14 区の境界を南北に走る街路)で、野菜栽培業者がある日、付近の採石場跡地に降
りたとき、そこに茸を発見した。これとは別に、ナポレオン軍の将校が発見したという
説もあり。①低い温度(12 度~14 度)
、②適度な湿り気、③土質!が適していた。
発見場所については諸説あり一定しない。メニルモンタンおよびベルヴィルの採石場
跡地説やトロカデロ宮殿の跡地説も…。しかし、パリ南部のほうがキノコ栽培に適して
いることがわかり、ここで大量生産されるようになった。20 世紀初の最盛期には日産
25 トンに達したといわれる。
残念ながら、現在はパリのキノコは生産されていない。他所へ移っていったからだ。
パリ郊外 → フランス全土 → ヨーロッパ各国へ。今現在でも、総計でセーヌ県および
セーヌ=エ=オワーズ県の約 300 箇所の採石場跡地の 500 ヘクタールで、1500 人の労働
者を擁する産業として続いている。
そのほか、地下の低温を利用してここでビールが醸造されたり(現在、工場は撤去)
、
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倉庫として利用されたりしたこともある。
Ⅲ 水道
1 上水道
都市の膨張は「水との格闘」つまり給水と排水の問題を生じる。
Ⅱ-1「地下水」でみたように、パリの上水は昔から①自然湧水、②掘り抜き井戸、
③セーヌ川からの揚水を利用。市内各地に給水栓を設置。給水栓のないところでは、街
頭を練り歩く水売商人から飲み水を買う。パリで水道問題が深刻化したのは 19 世紀にお
いて人口が爆発的に増大したせいである。
ナポレオン三世によって抜擢されたオスマン県知事(1853~1870)がパリ都市改造に
着手したのは 1853 年。当時、パリの上水道資源は主に 5 か所で1日あたり 134,000 ㎥。
内訳は以下のとおり。
① 100,000 ㎥ がウルク運河
② セーヌ川の揚水場(シャイヨー、オーステルリッツ)が 30,800 ㎥
③ アルカイユの湧水を 1,800 ㎥
④ 北東部(ベルヴィル、プレ=サン=ジェルヴェ)の湧水が 600 ㎥
⑤ グルネルの掘り抜き井戸が 800 ㎥ を提供していた。
オスマンが水道局長に抜擢したユジェーヌ・ベルグランは抜本的な水源問題に着手。
新水源はセーヌ川上流の①オーブ川、マルヌ川、エーヌ川の支流、②ヴァンヌ川に、白
羽の矢。水はパリから 180km も離れた水源から運河、水道管、水道橋、サイフォン管
などを通じて引く。新たな水源を得てパリは一日あたり 30 万㎥の水を確保し、オスマン
就任以前の実に2倍半に達する。これでもって給水問題はほぼ解消した。
ベルグランは給水を上水と中水に分け、パリ市内で別々に貯蔵した。水の消費量は昼
間と夜間で異なるため、夜間は消費地に近いところで一時的に貯蔵される必要がある。
モンソー公園脇など市内各地に従来から存在する貯水槽に加え、パシー、ベルヴィル、
メニルモンタン、モンルージュ、ジャンティなど 8 箇所に貯水槽を設置。これらの貯水
槽から大・中・小 3 種類の管渠を通じて四方八方に水道管が走り出る。この全長は約 1
千 km に達する。金持ち住宅へは直接に水道が引かれ、上流階級の風俗に一つの大きな
変化が生まれ、家庭風呂が普及した。それまでパリで風呂をもつ家屋は僅少。
オスマン知事はパリ市内の主だった公共的施設の近くに巨大な噴水を設置した。ラボ
ルド通り、ピガール広場、テアトル=フランセ広場、シャトー=ドー(現レピュブリク)
広場、オプセルヴァトワール通り、サン=ミシェル広場などに大型の噴水装置が誕生。
オスマンは街角に公共水道栓(borne-fontaine)を増設し、それは在任中に 100 箇所
を数える。
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2 下水道
パリの最初の下水道は城壁沿いに造られた堀であり、それはセーヌ右岸のメニルモン
タン川(現在は消失)に通じていた。この川はメニルモンタン丘に源を発し、セーヌ右
岸を遠巻きにぐるりと半周し、シャイヨーの丘の下付近でセーヌに合流。左岸では長い
間ビエーヴル川が同じ役割を果たしていた。この原始的な下水溝は 18 世紀末まで続く。
ところが、その頃から、町の膨張に伴い汚物が増え、水の流れを途中で堰き止めるよ
うになった。憂慮したパリ市長エティエンヌ・テュルゴーは 1740 年にポンプ場と大貯
水槽をつくり、昼夜の別なく汲み上げた水を一旦この大貯水場に溜め、時おり栓を抜い
ては放流。この高度差から生じる水圧によって下水溝を洗い流すのだ。
暗渠の歴史は 14 世紀に始まるが、19 世紀までは普及しない。第一帝政前に下水溝の
全長は 10 km 少々で、うち暗渠は2㎞にしかならなかった。ナポレオン大帝がこれを延
長したが、それでも 1824 年当時、パリの下水道の全長は 37km しかなかった。
小説「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンが 1832 年 6 月のパリ暴動のあ
と逃げ惑った下水道は第一帝政下でできたものである。彼はサン=ドニ通りの下水渠入口
から地下に降り、市内の中心部をぐるりと半周してシャイヨー口からセーヌ川に脱出。
下水道問題の解決を刻下の急務としたのは七月王政下・二月共和政下で生じた 3 度
(1832、1847、1849 年)のコレラ禍だ。1841~47 年までに敷設された下水道は 27km。
時の県知事ランビュテオー(
「蒲鉾型街路」と歩道の創始者)は下水道整備の重要性を認
識していたが、二月革命の政変により着手できなかった 。一方、1833 年に 16km しか
なかった歩道は、
彼が辞職する 1848 年には 195km に延びた。
オスマンはこれを 1,088km
に延長。
1853 年当時、パリの下水道の全長は 107 km。第二帝政末までに 560 km に、つまり
5 倍になった。下水設備は「パリの美化」に貢献したが、公道の直線化、新道の開設、
新街区の建設、公園緑地造成などの工事の一環として工事が施された意義は大きい。
技師デュピュイはオスマン就任前からこの職責にあったが、かれが樹立したモデルは
オスマン知事のもとでベルグランに引き継がれていく。このデュピュイこそ、近代的下
水道計画の創案者。彼は下水管渠を大・中・小の 3 種に区分し、家庭や工場など排水源
から出る下水を小さな管から、次第に大きなものへと順に移し、最後に大管渠を通じて
セーヌ川下流にまで導き放流。巨大な坑道(高さ 4m、幅 2.4mという穴)はもはや、当
時の常識でいう下水道の概念を完全に超えていた。当時の人々はこれを「洞窟」
「トンネ
ル」と言ってあざ笑った。
オスマン県知事の右腕として活躍した水道局長ベルグランは下水道4原則を掲げた。
① 最大雨量に達したばあいでも、排水に堪えうること
②
下水渠の上部に1~2 本、給水管を設置すること
③ 下水渠の清掃のため、舟または下水清掃車による清掃システムをもつこと
④
セーヌ川の増水時にも、それが下水管に影響を与えぬよう備えること
ベルグランは管渠を 3 種に区分。第一種:高さ 230 ㎝、幅 130 ㎝、第二種:高さ 240
~390 ㎝、幅 150~400 ㎝、第三種(「アニエール集合管」):高さ 440 ㎝以上、幅 400
~560 ㎝。第三種は現在の地下鉄ほどの広さがあった。両サイドに作業員が移動できる
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側道が設けられ、窪んだ中央部を清掃船が移動できた。
アニエールはパリの北西郊外にあって、セーヌ川の蛇行により半島のようになった地
形の根元部分にあたる場所。これが下水の出口であるため、
「アニエール」は下水処理場
を意味した。
パリのセーヌ右岸の汚水は、コンコルド広場下の「アニエール集合管」に集められた。
一方、セーヌ左岸の汚水はコンコルド橋の橋桁に設置された管渠を通じてサイフォン原
理によってコンコルド広場下の「アニエール集合管」に導かれる。
下水処理に関連して下肥処理の問題がある。従来は各住居に備え付けられた便壺を空
にするため、汲み取り車による作業がおこなわれていた。汲み取り車はモンフォーコン
の窪地(現ビュット=ショーモンの池)に運び込まれ、ここで何日も天日に晒されて乾燥
人糞(poudrette)になる。もし東風でも吹こうものなら、モンフォーコンから発する悪
臭がパリの街にドッと流れ込む。人々はモンフォーコンを「パリの恥」と呼んだ。
ベルグランはこの原始的な人糞処理の方法を中途半端な形で解決。当時、ロンドンに
倣って「あらゆる物を下水渠へ!」というスローガンを唱える者もいたが、オスマンも
ベルグランもこれを採用せず、汚物は浄化槽による一時滞留方式を選んだ。オスマンが
辞職してから 60 年後の 1928 年でもパリでの全面下水渠放流方式はようやく 8 割を超え
た程度(81%)であった。
Ⅳ カタコンブ(地下墓地)
1 カタコンブの由来
パリ地下採石場の跡地利用で最も目を引くものはカタコンブであろう。ローマ、ナポ
リにもカタコンブがあるが、これはキリスト教徒の墓地。
一方、パリのカタコンブは趣向をまったく異にする。パリ市内の墓地整理の過程で出
てきた遺骨の処分に困った当局により、それが採石場跡地に移送されたのだ。
パリのレ・アール(中央市場)に隣接して「イノサンの泉」がある。そこは昔、サン=
ティノサンといわれる教会堂と墓地のあった場所である。この教会と墓地はもともと城
壁の外にあったが、パリが拡大し、そこが市街地に含まれることになってから不つごう
が生じた。キリスト教徒は遺体焼却を嫌い(火葬は火炙り刑!)
、土葬するのがきまりだ
が、それは墓地でかなりの面積を必要とする。人口の多いパリのイノサン墓地では埋葬
がひっきりなしで、次々に埋葬をくり返すものだから、前に埋めた遺骸を引っ張り出し、
そこに次の埋葬を行なうという具合になった。引っ張り出した遺骸は囲い地の周辺の屋
根つき回廊に山積みにされにされた。
イノサン墓地自体は周囲の街路より 2m 以上も高くなっていて、雨がつづくと不都合
きわまりないことになった。周辺一帯に悪臭がたちこめ、伝染病源ともなりうるわけで、
近隣住民が移設の陳情を繰り返した。墓地を早晩、移設しなければならないことは当局
もわかっていた。
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1786 年、国家参事会はイノサン墓地の遺骨をダンフェール=ロシュローの採石場跡地
に移送することを決定。同跡地は当時まだ市街地でなく、何ら問題はなかった。同年 4
月 7 日、パリ大司教はカタコンブを承認した。
いつ、どのようにして運ぶかが問題となった。夜の帳が降りると、黒い幌を被せられ
た台車に遺骨を山と積んだ行列が僧侶を伴って厳かにイノサン墓地を後にした。僧侶は
スベルペリチョといわれるカトリックの白い法衣をまとい、聖歌を歌いつづける。松明
持ちが先導役をつとめ、黒煙をたなびかせる行列となった。この奇妙な行列は毎晩毎晩
くり返され、それが一段落するのは 15 ヵ月後の 1787 年夏である。
イノサン墓地の移設は、パリ市内の 30 ヶ所にのぼる墓地整理の手始めにすぎない。ダ
ンフェール=ロシュロー広場の下の石切場跡地。その広場は今でこそ、その真ん中に寝そ
べるライオン像(1870~71 年の戦争でのベルフォール攻防戦でダンフェール=ロシュロ
ー中佐の奮戦ぶりを顕彰)で有名である。同広場の真下 20mのところにカタコンブがあ
る。その敷地は、ダロー通り、アレ通り、ダランベール通り、モンスーリ公園大通りで
囲まれた 11,000 ㎡ 内に含まれる。
そこの狭い回廊に、少なくとも 600 万体 — 800 万体という説もある — の遺骸が詰
まれた。それは実に、現在のパリ人口 215 万人の 3 倍に相当。
アンシアン・レジーム末期に造られた関所の建物が入口である。見学料は 5 ユーロ。
特別に読者氏のために、この「死者の帝国」を案内しよう。
① まず、90 段のラセン状石段を降りる
② 石段を降りたあたりは高さ 230 ㎝、幅 1mくらいの狭い通路
③ 200mほど進むと、
「立ち止まれ!これより先は死者の帝国なり」という碑銘に出く
わす。回廊の幅は 150 ㎝くらいで、
「死者の帝国」とは地下墓地という意味だ
⑤ 墓地が終わりを告げる仕切りがあり、そこを抜けると、再びふつうの通路となり、
20 段登るとそこが出口(36, rue Rémy-Dumonce)
。
さすが整理好きのフランス人だけのことはある。骨の山はその出身墓地別[注]に類別
されている。
[注]サン=トゥスターシュ、サン=テチェンヌ=デ=グレ、サン=ランドリ、サン=ジュリアン=デ=ザール、
サン=ジャン=ド=ロテル=ド=ヴィル、ブラン=マントー、サン=テスプリ=アン=グレーヴ、サン=ニコラ=
デ=ション, etc.…。
墓標や墓碑銘はいっさいない。この「死者の帝国」は完全な平等社会である。貴族も
貧しい人々も、著名人も、無名の庶民も、まったく同じ姿で積まれている。敵・味方の
区別もない。そこには文字どおり、
「死の前の平等」が支配している[注]。
[注]ポンパドゥール夫人 vs フィリップ平等公; コルベール vs ルーヴォア; カトリック教徒 vs プロ
テスタント教徒; ギロチンで死んだ者 vs ギロチンをかける側にまわった者 — の区別も全くない。
恐怖政治の張本人ロベスピエール、サン=ジュスト、クートンもここに眠る。詩人ラブレー、建築家
マンサール、法学者モンテスキュー、化学者ラヴォアジエ、サント=クロチルド、サン=ジェルマンも。
カタコンブは 1874 年に一般公開されたが、それまでは許可制だった。訪れた著名人
の中に、オーストリア王フランツ一世、シャルル十世、ナポレオン三世、ビスマルクら
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がいる。
カタコンブは風変わりなエピソードに事欠かない。1897 年 4 月 2 日、若者の一団が侵
入しコンサートを開いた。
『ル・フィガロ』紙の伝えるところによれば、曲目はショパン
の「葬送行進曲」
、サン=サーンスの「死の舞踏会」
、最期にベートーベンの「英雄」であ
った。そして、骨叩きの木琴音が伴奏する!
2 地下迷路の利用
石切場跡地と地下迷路も 19 世紀のパリを彩る革命騒動に巻き込まれた。1848 年革命
とパリ=コミューンが最も有名である。
1814 年早春、ナポレオン軍が降伏し、対仏同盟軍がパリに殺到したとき、
「ナポレオ
ンはパリを敵の軍靴下に置くよりも、パリ全体を爆破するつもりらしい。なんでも全て
の石切場跡地に爆薬が隠されており、それがすでに点火寸前の状態に置かれているらし
い」という噂が流れた。
1848 年の六月暴動に際し、カヴェニャック将軍はモンマルトルの石切場入口を襲い、
その場に居合わせた百人ほどを見境なく銃殺刑に処した。パリ南郊のイヴリー要塞でも、
反乱兵の捕虜を石切場跡地に送り込み、そこで何人かを溺死させた。
1870 年 9 月からパリはプロイセン軍との間に 132 日に及ぶ籠城戦で石切場跡地は防
御に活用された。外部要塞つまりパリ南部のヴァンヴ、イシー、モンルージュの各要塞
を地下道で相互に繋ぎ、かつパリ市内とそれらを繋ぐ連絡道が確保された。
地下洞に逃げた叛乱兵と政府軍の間で戦闘が繰り広げられたのは 1871 年のパリコミ
ューンのときである。地下での叛乱兵掃蕩はコミューン壊滅後の 6 月初旬。
1900 年の万国博覧会における呼び物のひとつはトロカデロでの石切場跡地見学であ
った。しかし、あまりに人気がなかったようだ。
ダンフェール=ロシュロー広場の脇ライオン像の真下 26mのところに、パリを含むイ
ル=ド=フランス地方の抵抗運動の総司令部がおかれた。1944 年 8 月、ロル=タンギー
Rol-Tanguy 大佐。1944 年 8 月 19 日~23 日のパリの一斉蜂起はこの地下から指揮され
た。
ドイツ軍占領本部がパリの石切場跡地を警戒しなかったわけではない。リュクサンブ
ール公園の南端の「モンテーニュ国立中高等学校」
。リュクサンブール宮の占領(ドイツ)
軍総司令部と目と鼻の先。この地下坑道に抵抗組織のアジトがあった。
(c)Michiaki Matsui 2015
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