第3回 6月28日

岡山もんげー講座
館長閑話 03
平成 27 年7月8日
第3回
農繁託児所を調べてみて
江 戸 時 代 の 文 久 2 年 (1862)、干 ば つ 対 策 の た め 備 前 国 児 島 郡 八 浜 村( 現 玉
野 市 )金 甲 山 麓 に 猪 窪 池 を 築 い て い ま す 。地 元 農 民 男 女 100 人 が 毎 日 5 カ 月
間 休 み な し 働 き ま し た 。そ の 間 は 子 ど も の 育 児 に 困 る 者 が 出 ま し た 。そ こ で
名 主 の 野 田 久 右 衛 門 が 自 宅 の 下 男・下 女 に 八 幡 宮 境 内 で 子 ど も の 世 話 を さ せ
ま し た 。 こ れ が 岡 山 県 最 初 の 託 児 所 と さ れ て い ま す (守 屋 茂 『 近 代 岡 山 県 社
会 事 業 史 』 444 頁 )。
明 治 に な る と 幼 稚 園 や 工 場 内 の 託 児 所 が 出 来 は じ め ま す 。明 治 38 年 (1905)
には日露戦争軍人遺族の授産のための遺族家族幼児保育所が各地に出来 ま
した。
農 繁 期 の 一 時 的 な 託 児 所 の 岡 山 県 内 最 初 は 、 明 治 43 年 (1910)に 児 島 郡 で
あ っ た と い う 記 事 が 、前 掲『 近 代 岡 山 県 社 会 事 業 史 』の 年 表 に み え ま す が (798
頁 )、 こ の 根 拠 資 料 は ま だ 見 つ け て い ま せ ん 。
講 座 当 日 ま で に わ か っ た こ と は 、 大 正 14 年 (1925)岡 山 県 社 会 課 が 指 導 し
て は じ め た の が 、実 態 の わ か る 県 内 最 初 の 農 繁 託 児 所 で し た 。県 外 に 目 を 向
けると、同年に茨城県では愛国婦人会の指導の下で3箇所開設しています
(『 愛 国 婦 人 会 茨 城 支 部 施 設 事 業 概 要 』大 正 14 年 11 月 )。そ の 他 で は 、イ ン
ターネット検索によって収集した文献での調査ですが、熊本県が昭和2年
(1927)か ら 、京 都 府 が 昭 和 3 年 、秋 田 県 が 昭 和 4 年 か ら で し た 。岡 山 県 は 全
国的にみても早いものであることがわかりました。
大 正 14 年 岡 山 県 で は 19 カ 所 で き て い ま す 。翌 大 正 15 年 に は 80 カ 所 、昭
和 2 年 178 カ 所 、 3 年 211 カ 所 と 急 速 に 増 大 し て い き ま す 。
こ れ は 行 政 が 強 力 に 指 導 し た こ と が 最 大 要 因 と 思 い ま す が 、託 児 所 を 要 請
す る 社 会 風 潮 が あ っ た こ と 、大 正 デ モ ク ラ シ ー や 農 民 運 動 、社 会 連 帯 共 同 意
識 の 高 ま り と い っ た こ と な ど も そ の 背 景 に あ る で し ょ う 。農 業 技 術 面 で 労 働
力集中といったことなどとの関係性を考察してみる必要があるようにも思
っ て い ま す 。地 元 新 聞『 山 陽 新 報 』も 各 地 の 農 繁 託 児 所 の 様 子 を 掲 載 し 、設
置推進を後押ししています。
さ て 、岡 山 県 は 指 導 書『 農 繁 托 児 所 』を 大 正 14 年 5 月 頃 に 発 行 し ま し た 。
現 在 そ の 資 料 を 確 認 で き て い な い の で す が 、そ れ は『 山 陽 新 報 』に 同 年 5 月
16 日 付 で 、
「 岡 山 県 社 会 課 緋 生 」の 記 名 で 農 繁 托 児 所 事 業 を 広 報 す る 記 事【 資
料 1 】 に 、「 詳 し く は ( 中 略 ) 近 刊『 農 繁 託 児 所 』に つ い て ご 承 知 下 さ い 」と
書 い て い る こ と か ら わ か り ま す 。当 館 に は 同 年 11 月 発 行 の「 訂 補 第 2 版 」(請
求 番 号 A59-49)が あ り ま す 。こ の 岡 山 県 版 が 全 国 最 初 の ハ ン ド ブ ッ ク じ ゃ な
いかと今わたくしは思っています。
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『 山 陽 新 報 』 に 寄 稿 し た 「 緋 生 」 と は 緋 田 工 の こ と で す 。 彼 は 大 正 15 年
9 月『 託 児 所 の 経 営 と 其 教 育 の 基 調
附・農 繁 託 児 所 の 経 営 』を 社 会 教 育 研
究 所( 東 京 )か ら 発 行 し ま し た( 国 立 国 会 図 書 館 近 代 デ ジ タ ル ラ イ ブ ラ リ ー
参 照 )。そ こ で 彼 は 、日 本 に 託 児 所 に 関 す る 権 威 あ る 書 物 が 一 冊 も な い と し 、
自 ら 指 導 し て い る 岡 山 県 の 実 践 例 を 中 心 に 、託 児 教 育 に 関 す る 考 え 方 を 述 べ
て い ま す 。こ の 本 が ど れ だ け 流 布 し た の か わ か り ま せ ん が 、発 行 し た 社 会 教
育研究所は、国家主義思想家大川周明が主催している団体でした。
同 書 に は 吉 備 郡 服 部 村( 総 社 市 )の 婦 人 会 の 例 を 書 い て い ま す が 、緋 田 は 、
御 津 郡 北 長 瀬 村 (岡 山 市 北 区 )の 土 光 午 次 郎 の 指 導 も 行 っ て い ま す 。 記 録 資 料
館には土光の実践日誌が残っています。
そ こ で 、【 資 料 2 】に 抄 録 を 掲 載 し て お き ま す 。は じ め て の 試 み に 土 光 は
情熱をもって準備している様子がわかります。
農 繁 託 児 所 は 、前 述 の と お り 大 正 末 か ら 昭 和 初 年 に か け て 、岡 山 県 内 は も
と よ り 全 国 で も ま た た く 間 に 広 く 開 設 さ れ ま し た 。 緋 田 は 山 陽 新 報 大 正 15
年 6 月 21 日 付 で 農 繁 託 児 所 は 「 徹 底 し て 貧 者 に 対 す る 福 利 施 設 と し て 経 営
せ ら れ な け れ ば な ら ぬ の で あ り ま す 」と 述 べ て い ま す 。当 初 は 貧 民 対 策 と い
っていいでしょう。
こ こ か ら は 閑 話 余 談 の 仮 説 で す が 、昭 和 初 期 に は 凶 作 対 策 、つ い で 日 中 戦
争・太 平 洋 戦 争 時 代 に な る と 銃 後 支 援 、戦 後 は 高 度 成 長 支 援 と い っ た 意 義 付
け が 出 来 る よ う に 思 っ て い ま す 。そ し て 、事 象 だ け を み る と 、今 日 の 子 育 て
支 援 事 業 に 通 じ る も の と い え ま す が 、そ の 実 態 は 、保 護 者 の 子 育 て 機 会 を 奪
っ て ま で も 、保 護 者 を 農 業 生 産 現 場 へ 直 行 さ せ な け れ ば な ら な い 事 情 が 、大
正末以来激増しているとも思いました。
何 は と も あ れ 、今 回 調 査 し て み て 、岡 山 県 に お け る 農 繁 託 児 所 の 研 究 は 未
開 分 野 で し た 。色 々 と 考 え る こ と が で き る 好 材 と 思 い ま す の で 、数 少 な く な
っ て い る 経 験 者 か ら の 取 材 な ど 含 め 、今 こ そ 調 査・研 究 を す る こ と を 、み な
さまにおすすめいたします。
【 資 料 1 】 『 山 陽 新 報 』 大 正 14 年 5 月 16 日 記 事
農繁託児所
五月雨が農村を訪れそめると、お百姓は次第に忙しくなって参ります。私は先日あ
る用事のため旭川に沿うて北へ北へと自転車を駆けりました。春の郊外の気はまこと
にのびやかで、私の心を軽くしました。
そ の 時 私 は 、田 圃 の 畦 で 子 供 に 乳 を ふ く ま せ て い る 一 人 の 若 い お 母 さ ん を 見 ま し た 。
これは農村では、まことにありふれた事実であって、あまり珍しいことではありませ
んが、私は丁度先般来から、そうした人達に対する適当な社会事業的施設を講じたい
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と考へてゐた矢先でしたから、その情景が頭にピンとこたへました。私は今爰に述べ
ようといふのは、これ等子供を持つお百姓達のために設けようとする「農繁托児所」
のことです。
田植えが始まりますと、お母さんは子供のお守りどころか、お百姓が忙しくて 忙し
くて手がいくらあっても足りないといふ有様ですから、お子供さんのお守りは、自然
小さな兄さんや姉さんの仕事となるわけです。そのため可愛い盛りのお子供さんが用
水 溝 に 陥 ち 込 ん で 死 ん だ と い ふ 記 事 が 、其 の 頃 の 新 聞 を み て ゐ る と よ く 目 に つ き ま す 。
これは全く理屈抜きにして考へてみても、本当に可哀想なことです。これでは他に出
て苗を挿してゐるお母さんも、安んじて仕事に精しむことが出来ぬでせう。そこで農
繁期中だけ一週間でも十日でも又一ヶ月でも、適当な期間子供を預かる施設をこしら
へてお母さんは気掛りなしに仕事に精を出し、子供さんは怪我したりすることのない
ように保護しよふというのが「農繁托児所」の任務です。
「托児所」の世話人は婦人会の人達がしても、又処女会、地主会神官僧侶、小学校
の先生方などに願ふのもよいと思ひます。其のうち、地主階級の婦人達で経営して下
されば殊更結構です。小学校は、農繁休暇が大抵あるのですから、女教員の方達で托
児所の世話をして頂ければ好都合です。
経費はなるべく使わぬのが理想です。ですから開設場所なども特別な建物は要らぬ
ので、部落の公会堂とか、お寺とか、或いは又個人の家屋の一部を一時使用させても
らってもよろしい。開設区域は一村一ヶ所にまとめるには却てやりにくいから、十戸
でも八戸でも二三十戸でも、一かたまりの部落毎に開設するのが便利です。開設の時
期は日の出から日の入りまで位にするのが農村向きでよろしからう。お弁当は握り飯
位にしないと親達の気が張る向きがあるからいけぬと思ひます。又着物はみんな常着
の ま ゝ 集 め る こ と に し な い と 弊 害 が 伴 ふ か も 知 れ ま せ ん 。玩 具 と し て 、絵 本 や 水 盥 や 、
盆踊用の太鼓などを備へた方が遊ばしやすいでせう。間食は、お芋や、砂糖はぜや、
煎豆などあまりお金のかゝらぬものが農村向きです。子供が三十人も集まるやうな ら
二人の子守を頼まねばなりません。尤も十人位でも二人居れば最も好都合です。何分
夏のことですから托児所でお風呂の用意をして子供を入れさせることが出来れば特に
結構です。
この事業は調査の上岡山県社会事業協会から設備の約半額程度の補助金が出る筈に
なってをります。町村も農会もこの事業にはなるべく補助をしてもらひたいと思ひま
す。全経費が僅かで済むことですから大した補助も要りません。子供を托す人からも
一日五銭位を徴収してもよいと思ひます。
詳しくは岡山県社会課の近刊「農繁托児所」についてご承知下さい。
(岡山県社会課緋生)
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【 資 料 2 】 「 農 繁 託 児 所 運 営 日 記 」 (抄 録 、 表 題 は 仮 )
当館寄託河原家資料
四月十八日
社会事業研究会出席、農繁托児所の計画を聞く 。
四月二十日
緋田兄より托児所開設を勧めらる。
五月
我が村難波鉄三郎兄、穐山次太氏、岸元三郎氏、瀬川倉次氏を訪問、賛
二日
成を得、近隣の勧誘を依頼し、快諾を得。
(中略)
五月十六日
本村済世会の日、緋田兄来遊、大略の協議を了す 。
五月二十日
内山下幼稚園高原先生を訪ねしも不在、他の方に保姆の紹介その他の指
導を依頼して帰る。
五月二十二日
我が大字各戸を訪ねて二十数名の托児を得たり 。
五月二十七日
内山下幼稚園にて高原先生に会見、開放の指導を受く、大工中村君来
園。スベリ台、積木、黒板などを見学せしめ、依頼す。保姆の方適者なし。県庁柴
部兄を訪ね、保姆の尽力を乞ふ。
五月三十日
専売局托児所見学大参考。高原先生に其後の経過を聞けども、至難の
風あり。図書館河本兄に依頼して帰る。保姆の依頼には大いに苦しむ。中島医師の
来診を乞ふ、快諾。
五月三十一日
托児所より幼稚園に進み、これより家庭と親和を致し、公開会堂や図
書館或は娯楽場に至らば、期せずしてセツトルメント事業を行ふべく、我が理想の
緒ハ此の農繁托児所に始まる。河本兄より来信あり保母なし。妻河内町より帰り早
島及び河内の幼稚園につき研究す。
六月
一日
内山下幼稚園、県社会課訪問、保母につき依頼す、適者なし。難波金之
助氏を訪ね種々に指導を乞ふ。エプロン二十五調製を依頼。小学校、村役場にては
幼稚園に対する意見を求む。
六月
二日
(中略)托児所案内を作る。今村宮より托児 の歓迎を約さる。
六月
三日
妻、河内の幼稚と倉敷さつき会の幼稚園の見学に行く。難波金之助氏来
遊エプロン。保姆につき協議す。金拾五円をお渡しした。河本氏より来書、保姆あ
りと。内山下幼稚園より河本氏を訪ね、保姆を依頼し、難波金之助氏と柴部・緋田
両兄より報知し、尚金八円を難波氏に渡し、エプロンを今少し増加して戴く 。
六月
四日
高原・柴部両氏より招電あり。保姆のこと協議す。河本兄に断りて京都
の方を頼む。幼稚園にて折井様と会談。得るところ多し。
六月
六日
托児所案内を各家に配布。知己、先般へも郵送す(十六通)。
六月
八日
保姆鷦鷯速子さん来車。準備の相談を終へ、出岡して各種の品を 買ふ
六月
九日
父フランコなどを製し、家内総動員にて長屋を保育室とす。午前 十時ご
ろ鷦鷯さん来車。村長より重ねて要求あり。郡長宛報告書を提出。
六月
十日
朝、大工中村君を訪問す。正午より中島医会見、十二日来診を乞ふ。難
波金之助氏よりエプロンを持ち帰る。大工積木を持参す。
六月十一日(晴天)
開所
(以下略)
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