天理大学学報 2 1 8: 3 3―4 4,2 0 0 8 翻 訳 フランスにおける柔術と柔道の起源(5) 細 川 伸 二 The Roots of Jujutsu and Judo in France(5) Shinji Hosokawa Abstract This section of the Tenri University Journal is a continuation of the translation and annotation of “LE JUDO, son histoire, ses succès” written by Mr. Michel BROUSSE. The fifth part of this book is broken down into the following sections : The French Federation of Judo−Jujutsu, The Black Belt Commitee, Professional Tradition, Profession : Judo Master (History of Profession), Various Types of Recognitions, Passion and Requirement for Quality, Crisises and Growth, Abe Ichiro and Kodokan Judo. Uncovering the roots and development of Judo in France could indicate guidelines for the development of Judo throughout the world. しつづけた過程を明らかにすることは,わが はじめに 国をはじめ世界の柔道の普及・発展を考える 本翻訳は,Michel BROUSSE “LE JUDO, うえでの指針ともなろう。 son histoire,ses succès “Edition Liber, 1996, フランス柔道・柔術連盟1) ”LE JUJUTSU OU LES RACINES DU JUDO EN FRANCE”の翻訳である。 柔道への関心は広まり,そして大きくなっ 天理大学学報第5 4巻第3号,第5 5巻第3号, た。1 9 4 3年5月,ワグラム会館2)で開催され 第5 6巻第3号,および第5 7巻第3号に引き続 た第1回フランス選手権の取材に訪れた記者 き,“LE JUDO, son histoire, ses succès”の は5名のみであったが,翌年の大会ではその 翻訳及び注釈を連載する。第5部は,フラン 数は8 0名となった。第2回フランス選手権は ス柔道・柔術連盟,有段者会,プロとしての 財政的に驚くべき成功を収めた。収入は1 5万 伝統,職業としての柔道師範,さまざまな認 フランを超えた。成功は柔道に限ったことで 証形態,質への情熱と要求,危機と成長,安 , はなかった。ドイツ占領下3)の「暗黒の年月」 部一郎と「講道館柔道」について紹介する。 あらゆるスポーツは驚異的な競技者人口の増 フランス柔道の歴史を探り,今日まで発展 加をみた。ヴィシー政権4)の間,多くのフラ 天理大学体育学部 Faculty of Health, Budo and Sports Studies, Tenri University 34 フランスにおける柔術と柔道の起源(5) 1 9 4 9年第7回フランス選手権大会 ンス人にとって,スポーツ・文化・レジャー の急速で力強い発展」の様子が見事に示され は,自身のための時間であり,煩わしさを忘 ている。同報告書には,登録者数の増加のみ れ,自由を取り戻せる空間だった。 ならず,フランスの様々な街で,5 1のクラブ が設立途中にあり,6 3のクラブが新設申請中 柔道の競技人口は1 9 3 8年には1 0 0名ほどで であると記されている。また,設立から1年 あった。1 9 4 0年以降その数は増え続け,1 9 4 4 の驚異的な進展の様子も詳細に報告されてい 年の調査では6 0 0名までになった。当時はま る。新連盟の取扱い郵便量も大きく増加し, だ「ジュードーメン(judomen) 」と呼ばれ 受領書簡2, 4 5 0通,送付書簡4, 3 1 5通となった。 ていた柔道の競技人口は,たちまちレスラー よりも多くなった。柔道が急速に発展したこ 有段者会9) とから,レスリング連盟の傘下部門としての ドイツ占領軍からの解放後10),フランスで 柔道連盟では運営が難しくなった。1 9 4 6年1 2 はスポーツに関する法整備が進み,国家の役 月5日,フランスレスリング連盟5)の「柔道 割が明確にされた。国内大会の運営,および 6) ・柔術部門」 は独立し,「フランス柔道・ 国際大会におけるフランス代表チームの選考 柔術連盟」 (FFJJJ)となった。ポール・ボ にあたっての全権を国が握ることとなった。 7) ネ‐モーリ が引き続き代表者となった。フ そして,その権限が公認の連盟に委ねられた。 ランス柔道・柔術連盟の成長は続き,1 9 4 7年 これらの措置に対し,有段者らは柔道がスポ 末,柔道の登録者数は5, 7 0 0名となった。ジ ーツ関係組織に管理されることに不安を感じ 8) ル・ド・ジャルミ が作成した連盟事務局運 ていた。有段者会(CCN)の創設者の一人, 営に関する長文の報告書には「フランス柔道 ジャン‐ジョルジュ・ヴァレ11)は「柔道はい 35 細川 存の監督任務を担う」有段者会に意見を求め なければならない,と定められている。1 9 4 7 年1 1月9日,ジャン・ド・エルディ12)が法的 な組織を設立するよう訴えたものの,結局, 既存の有段者会を公認するにとどまった。そ の基本原則は日本のシステムを取り入れたも のであった。日本では,嘉納師範は自分一人 で弟子の任命を行うことができなくなる と,1 8 9 4年より,達人集団である講道館有段 者会にその任命を委ねていた。イギリスで は,1 9 3 4年からイギリス有段者会が存在した。 川石酒造之助13)はイギリス滞在中に同会の準 会員の一人となった。イギリス同様,フラン ス有段者会も,伝統の尊重,段位の保証,指 導の認可の監督任務を担うことを主とした専 門家集団として存在していた。 柔道家に課せられた規律は厳しいものであ り,柔道部門の協力なく運営されるスポーツ 行事・デモンストレーション・試合への参加, 柔道・柔術関連書籍の発行,記事の執筆,講 フランス柔道・柔術連盟報告書 演,雑誌・ラジオのインタビュー,柔道・柔 術に関する映画撮影などが,特別な許可があ かなることがあろうとも,スポーツとみなす る場合を除き,すべての柔道家に禁止された。 ことはできない。(中略)柔道は哲学的指導 また,各自の行動は高段者の義務を定めた次 法である。(中略)実践者に人生を考える特 のような規律によって定められた。「有段者 別な方法を授けることを目的としている」と は特に,柔道の鍛錬を継続する,特段の理由 述べ,「柔道は決して単なるスポーツではな がある場合以外は柔道をやめない,柔道の妨 い。(中略)柔道は芸術や知的分野に分類す げになることをしない,特別な許可がある場 べきである」と続けている。柔道の伝統・文 合を除き,秘儀,特に『活法』を明らかにし 化の擁護は大多数の有段者による共通の姿勢 てはならない,あらゆる情況において柔道の であり,共有の意志であった。しかし不安を 礼儀作法に従う」という規則が定められた。 感じる中,理想を追うばかりではなく,拡大 またフランスレスリング連盟・柔道部門の内 する連盟の影響に対抗する手段を見つけた者 規第9条では次のように定めている。「柔道 もいた。 家は挑戦やショーを行ったり,レスリング, プロレスリング,ボクシングなど他の格闘ス 柔道の秩序だった集団に上級理論の規範が ポーツ家との試合を行ってはならない。自身 存在した。それは有段者会である。実際, 1 9 4 2 の言動や姿勢において,柔道家は他の格闘ス 年のフランスレスリング連盟・柔道部門の内 ポーツに対し常に礼節を示さなければならな 規にも,同部門役員会において「柔道の技術 い」としている。 および精神に関する問題」が生じた場合,「先 学の有段者で構成され,柔道の正しい伝統保 ジャン・アンドリヴェ14)がフランス有段者 36 フランスにおける柔術と柔道の起源(5) 会会長に選任された。ジャーナリストと柔道 浪する柔道家の伝説をさらに強めた。軍隊や 家の才能を合わせ持つピエール・マルテル15) 警察で柔道指導を行った石黒のルーマニアに は,有段者会の構想の一貫性の欠如や急務の おける華々しい成功は,パリ時代の金銭的問 問題点について次のように報じた。「主とし 題や失敗を忘れさせるものだった。「駅に着 て3つの傾向がある。柔道をスポーツとしか くと,輝く勲章をつけた大勢の武官たちが目 認めてない者,芸術とみなす者,そして柔道 に入った。この国の軍人はずいぶん飾り立て を知的分野に分類する者である」と。有段者 た軍服が好きなんだな,などと考えていた。 は皆,有段者会とフランス柔道・柔術連盟の 電車から降りた際,私は日本領事館の役人に 両方に所属しており,組織の活動分野が重複 『誰かお偉いさんを待っているのですか』と するため,態度表明の仕方も様々であった。 尋ねると,『何をおっしゃっているのですか。 川石酒造之助,公式の連盟,有段者会が3種 あなたをお迎えするために皆ここにいるので 類の異なる組織を形成し,各々がフランス柔 す』という返事が返ってきた。カバン1つで 道の運営に重要な役割を担っていると自負し 日本を出たが,帰りには3 5個になっていた」 ていた。そして,この複雑な集団を,さらに と,ふざけた調子で記述している。 アマチュアの論理と指導のプロの論理という 2つの異なる論理が動かしていた。 プロとしての伝統 歴史的には,柔道を海外に広めた者たちの アプローチは,アングロサクソン系スポーツ の指導者の貴族的な論理とは異なる場合が多 近代武術の歴史は早くから経済的動機に結 い。しかしロンドン武道会の小泉軍治21)は私 びついた。明治時代,既に嘉納師範は,武術 利私欲のないイギリスのスポーツの伝統を認 を有料の見世物に貶めた,落ちぶれた「サム めた。そして,「柔道は芸術であり,学問で ライ」たちを非難していた。2 0世紀初頭,ロ ある。一切の人為的束縛を受けず,また財政 ンドンの柔術クラブであるバルティツゥー・ 的,商業的,個人的影響に制約されてはなら クラブ16)の創設者バートン・ライト17)と,同 ない」としている。一方,川石はこうしたア クラブの指導者であり,ミュージックホール プローチを取らず,イギリス柔道の創始者で の舞台でショーを行っていた谷幸雄18)との断 ある小泉との溝は決定的なものとなった。 絶が最初の金銭問題ではなかったか。谷を知 る者たちによると,栄光の頂点にいた谷が稼 フェルデンクライス22)の時代,フランス柔 いだ金額は莫大なものであったと言う。ロン 術クラブ23)の生徒の受講料は任意だった。各 ドン武道会のマーカス・ケイ19)は,当時を振 自,可能な範囲で受講料を支払っていた。川 り返り,達人であった日本人が賭け事やドッ 石の着任後,受講料は義務となり,支払日が グレースに入れ揚げたことを惜しみ,「子供 定められた。1 9 4 0年,柔術クラブがテナール じみた愚かな」行為であったと慎重かつ控え 通り24)からソムラー通り25)に移転した時,月 めに記している。 謝は8 0フランから2 5 0フランになった。また, 個人指導も徴収された。その額は人により異 ブラジルでは,通称コンデ・コマ(コマ伯 爵)こと早稲田大学出身の前田光世が,数々 の挑戦や勝利により名声を博し,向こう見ず な柔道家の典型とされた。また,石黒敬七20) なったが,月額,最高1, 0 0 0フランとなる場 合もあった。 職業としての柔道師範 も前田同様の柔道家であった。石黒のヨーロ 「指導者養成」 が最重要事項となった。1 9 4 6 ッパ旅行記は,外国で栄光と富を得ながら放 年,ポール・ボネ‐モーリは「生徒にとって 37 細川 茶帯は最上階級である。(中略)高段位や黒 に取り上げるまで,要求は関係官庁により門 帯への昇段はより困難である,なぜなら生徒 前払いとなっていた。事件とは,ベトナムレ はその時点で教師となっているからだ」と記 スリング26)のインストラクター,トラン・ト 述している。現実に,指導者資格の規定に対 ルン・フォン27)が生徒から喉締めを受け,死 する要望はあったが,例外が存在し,茶帯の 亡したというものである。この極端な事例に 生徒(時には級位が下の場合もあった)が, 加え,申請が繰り返し提出されたこともあり, 条件付きで稽古をつけることが許可されるの ようやく手続きが開始された。そして「柔道, も珍しいことではなかった。 および柔術の職業に関する規定」を明記した 第5 5−1 5 6 3号法案が,1 9 5 5年1 1月2 8日可決さ 特別な規定がなかったことから,柔道教育 れた。実際,同法は抑止効果をあげた。連盟 は経験者のみが行っていた。新たに昇段し, 機構は指導の資質について法的に監督できる 指導を希望する者は,各関係者,すなわち連 ようになった。ただし,確かに免許の交付が 盟役員会,有段者会,自身の師匠などから承 行われるようにはなったものの,その価値は 認を得なければならなかった。パリでは追加 以前と変わるものではなく,政府管轄の最初 条件が求められた。道場を開設する場合,必 の試験が実施されるには1 9 6 8年まで待たねば ず「一番近い道場の技術部長の書面による了 ならなかった。 承」を受けねばならなかった。無許可で道場 を開設した場合は告発を受け,また「商業的 理由からと思われる」申請は拒否された。こ さまざまな認証形態 川石は谷が持っていたのと同様の金銭問題 うした原則は時として大いに議論の的となり, に苦しんでいた。「柔道はいい商売になる」 パリの地図や,メジャー,コンパスなどを使 と柔道を商売の道具として見る会員がいたか い,ポール・ボネ‐モーリと事務局長が,事 らだ。師範をモデルとみなすやり方は柔道ク 務局の床に這いつくばって,道場と道場の間 ラブ経営にまで広がった。非営利団体に関す の距離を綿密に計測することもあった。 る1 9 0 1年の法律は,個人投資や教師の積極的 な活動を優遇する柔軟な措置を柔道クラブに 指導者のプロ化はフランスにおける柔道発 与えた。スキー,水泳,テニス,ゴルフなど 展の重要な要因であった。指導者の資質は精 他のスポーツも同じ措置の恩恵を受け発展し 査の対象だった。柔道の技により死に至るケ ていた。これらスポーツに比べ,柔道には大 ースがあることを伝えた三面記事がジャーナ 掛かりな工事や施設は必要ではない。カフェ リスト達の関心を引き,柔道のイメージダウ の奥のホール,倉庫や地下室に,シートカバ ンとなった。このことが,認定した専門家の ー,鋸屑や鉋屑,更衣室やシャワーなどの設 みに指導を委ねるという,連盟の態度の理由 置で道場は簡単に作れる。報酬体系は職人と ともなった。1 9 6 0年3月2 0日開催の総会では, 同じ場合が多かった。達人や精勤であろうと, 前科がある柔道家に対する連盟委員会の黒帯 教師が仕事で受けとる収入は,ボクシング, 認定の拒否を再度決議しているが,指導者資 サッカー,興行スポーツのスターの収入とは 格規定に対する要望は常に存在していた。 比較にならなかった。1 9 5 7年,柔道指導者全 2 8) は賃金指標リストを作成し 国組合(SNPJ) 教師たちは自身の指導資格を正式なものと して認める免許の創設を願った。要求は早く た。団体指導は月額3, 0 0 0フラン,個人指導 はレッスン毎に2, 0 0 0フランであった。 からあった。しかし,1 9 5 4年6月2 2日,世間 有段者の多くにとって,目標は指導のプロ を揺るがす事件が起き,これを雑誌が大々的 となることに変わった。実際,柔道指導を本 38 フランスにおける柔術と柔道の起源(5) 業とする柔道家の数は限られていた。大多数 うした制度を教師全体が採り入れたわけでは の柔道家は,生活や余暇の時間を犠牲にしな なかった。パリやいくつかの大都市では実施 がらも多くの時間を割き,副業として指導を されていたものの,他の地域では事情は異な 行っていた。ボランティアも存在したが少数 っていた。制度の適用は経済状況に左右され であった。弁護士に倣った「Maître(メト た。その適用は,柔道に教育や人間性よりも, ル・師範) 」の称号は,柔道教師の社会的地 ビジネスや名誉を重んじる指導者世代の性格 位を高めた。市民生活においても,柔道教師 が反映されていた。 は,柔道の規律の厳しさのイメージから,社 会的地位,人間関係,影響力を高める名声を 有段者の増加,スポーツとしての発展,そ 得ることとなった。軍隊や警察においても, してより適切な法規の施行により,師範と弟 柔道の段位取得は階級昇進や特に名誉ある地 子の関係は変化した。総合スポーツクラブや 位への昇進に直接結びつく要因の1つとなっ 市町村の公民館などに柔道部門が創られたた た。有段者はもはや無名の一個人ではなかっ め,問題の論点が変わり,古い制度は無力化 た。フランス柔道・柔術連盟役員会の元役員 した。次の例は些細なことではあるが,当時 2 9) は,1 9 5 0年代初頭,表書きに「ル・アーヴル 3 0) の変化をよく物語っている。1 9 6 4年,ミッシ の黒帯,ジャン・ドゥヴァリオー 」とのみ ェル・アニファ31)が「武術教師と税金32)」と 記された手紙を受け取ったことを,驚きと同 題された独特の情報ガイドを出版し,柔道家 時に誇らしさを込め回顧している。 における新しい関心が示されている。 弟子にはしばしば師範への忠誠が課せられ 柔道教育の商業化が,柔道の発展にブレー た。フランスレスリング連盟柔道部門の内規 キをかけたのも明らかだった。関係官庁は, においても「新しい有段者は指導を受けた師 柔道指導者全国組合が創設される以前,連盟 匠の助手として1年間務めなければならな がボランティア指導者とプロ指導者の利益を い」と定められていた。実際,精神的従属だ 分けて考えないことに不満を抱いていた。ま けでなく,財政的な従属が加わることも多か た,ジャーナリストの中には地方のクラブの った。公然と触れられることはまれだったが, 宣伝に加担しないよう,記事の執筆を拒む者 内輪では,新人の指導者とその師匠との間に もいた。 金銭問題が関わることがあった。経済的関係 を基本としていることが明白であるケースも ここでもまた,ボランティアとプロの指導 あった。例えば,ジャン・ド・エルディのク 者の間の対立する論理の違いが見出せる。当 ラブの傘下には5 0以上のクラブが加盟してい 初,フランス柔道・柔術連盟は,フランスに た。ジャン・ド・エルディが道場設営費用を おける柔道の発展のために集うという考えか 負担し,彼が技術方針を定め,優秀な弟子た ら両者が併存していた。簡単に言えば,概念 ちと共に定期的に各道場の訪問を行う。その の流布と指導法の国内普及を優先する,ポー 代わり,各クラブは,初年度は会費の5 0%, ル・ボネ‐モーリの理想主義や,柔道指導だ 次年度以降は2 5%をエルディに納入した。他 けでは生活できない者たちの理想主義が,営 の場合,制度はより不明朗であった。納入率 利主義を退けていたと考えられる。しかし, は漸減せず,自分自身に資格を与えた一人の 川石と川石に倣う者たちは,自分たちが用い 師範のみを教師とするケースがあった。この る方法が柔道の道徳に反するものではないと ような師弟関係が,弟子を支配下に置き,師 して,競技人口の増加が確実な商業的アプロ 弟の隷属関係を継続させる原因となった。こ ーチを選んだ。 39 細川 柔道のデモンストレーション(スタジアムの芝生にシートを敷いている) 法」の研究などの珍しい書物は,1ページ1 質への情熱と要求 ページ写真に撮られ,選集の形で販売された 商業的論理は,アカデミックなスポーツの り,交換された。日本人チャンピオンの技を 支持者が受け入れた慣習から背離し,アマチ イラストにした動きのある本が,一部の恵ま ュアリズムの支持者を苛立たせたが,同様に れた者だけが所有していたフイルムにとって フランス柔道にパワーをもたらし,質を高め かわった。研修では師範のデモンストレーシ た。教師達は情熱溢れる柔道家であった。以 ョンや解説が念入りに書きとめられた。多く 前は,徒歩や自転車で長い道のりを辿り,道 の教師は,彼らの時代の特徴でもある熱意の 場に来訪した達人の講義を受け,研修に参加 面影を尚も残していた。 したり,試合に参加する生徒に同行したり, またデモンストレーションを企画する者など 非常に早いうちから,技術の枠を大きく超 いなかった。共通して,個人的思想から生じ える完全なプログラムが組み立てられていた。 る熱意を持っていた。絶えざる好奇心,学ぶ 1 9 4 9年から1 9 5 5年にかけて発刊された全5巻 ことへの強い意欲が現れていた。教師の個人 におよぶラモット36)とマルスリン37)の共 著 的探求心は本物だった。柔道の基本原則が常 「柔道・柔術完全マニュアル38)」は柔道教師 に研究の対象となった。誰もが完璧な動きに の必須知識の一例とみなされた。解剖学や医 ついてより理解を深め,体得できるよう,詳 学の知識,柔道の歴史や哲学,禅は,柔道長 細な研究を行うようになった。 期発展の研究対象となった。知識の差はあっ たが,柔道教師は付随知識を有していること 当時,柔道に関する書物は入手が困難だっ が特徴だった。 た。問題の解決に,必要であれば翻訳し,テ キストを忍耐強く書き写し,イラストは小学 教育の質における最優先課題は,一番の関 生のノートに模写した。コピー機がない時代 心事である技能であった。大多数の教師はプ 3 3) だったため,イヴ・ル・プリウール が翻訳 ロとしての要求を自らに課した。そして偏り したヨコヤマ34)やオオシマ35)の著作や,「活 があるとしても,知識が個人の地位や階級制 40 フランスにおける柔術と柔道の起源(5) の構造を強めたことは明らかである。しかし, ス」誌において,ヘンリー・プレ40)が指導の このことがフランス柔道の特徴であり,今も 独断性と階級授与における自由裁量を告発し 尚フランス柔道の質の高さの源泉となってい たのである。記事は論争を引き起こし,柔道 る全体的活力や,美と効果における秀逸性へ 家全体にとっても,憂慮すべき危機的状況が の絶えざる強い関心があったことも事実であ 生まれた。第二次世界大戦後,交通機関の向 る。 上により,遠隔地への旅行が容易になってい た。多くのフランス人が研修のために東京へ 他のすぐさま現れた結果は,プロ化により 旅立ち,日本の達人達がフランスを訪れた。 階級に箔がつき重要性を増したことである。 長きにわたり唯一の模範であった「川石流指 知のシンボルである帯は,また商売道具にも 導法」が,こうして日本で実際に行われてい 権力の道具にもなった。「階級のある者は柔 た指導法と比較されることになった。パリの 道を知る」と有段者会の責任者の一人,ジャ 柔道家の好奇心はすぐさま呼び覚まされた。 3 9) ン‐マキシム・シャリエ は言明する。柔道 しかし公式には,確立した規律を乱しかねな の発展は政治と連盟の利害とは別の新しい論 い外部からの指導方法は容認されなかった。 理を生んだ。段位取得は成長への副次的原動 ジャン・ボージャ ン41),ロ ジ ェ・デ ュ シ ェ 力になった一方,フランス柔道の分裂の原因 ヌ42),そして特に望月稔43)などの努力にもか ともなった。 かわらず,嘉納師範が練り上げた指導法はフ 危機と成長 ランスではほとんど知られることはなかった。 1 9 5 1年1 1月,「講道館から正式派遣された」 フランス柔道は川石師範の人格と指導法を 一人の日本人学生の到着が,この2つの指導 中心に確立した。5 0年代初頭,柔道は統一さ 法をめぐる激しい対立を引き起こした。これ れたまとまりのある集団を形成していた。連 により生じた亀裂はフランス柔道の進展にお 盟と有段者会は国内の指導を分担し,川石自 ける決定的な局面となった。 身や,川石と共に決定した方策を実施してい た。しかし均衡は不安定で,急速な発展の結 安部一郎と「講道館柔道」 果,新たな問題が生まれた。そして,成長と 1 9 5 0年1月,トゥールーズ44)で,ジョルジ 疑問の1 0年が始まった。4 0年代の柔道の控え ュとロベールのラセール45)兄弟が修道館を創 めで秘儀的な文化は,拡大するスポーツの模 設した。修道館はロンドン武道会に加盟し, 範と対立した。「柔道はスポーツか,スポー 独自の機関紙を発行した。ラセール兄弟は, ツとは別物か」と1 0年以上の間,柔道のアイ 柔道は個人や組織の思惑を越え,人間性の向 デンティティに関する本質的な問題が,柔道 上に役立つべきであるという教えを守った。 家を悩ませた。組織の強い関心,上層部が柔 1 9 5 0年,ポール・ボネ‐モーリに宛てた書簡 道を国の代表的スポーツにしようとする意欲 において,ロベール・ラセールは「柔道は偉 が,スポーツとみなす動きに拍車をかけた。 大な存在です。柔道は障害を乗り越え,また 柔道の大衆化や,先達の行ってきた柔道とは 我々すべてに関係しています。柔道は普遍的 異なる経験を持つ新たな実践者の到来が,こ です。そしてそれは,我々に浸透するに違い の根本的議論に絶えず影響を与えた。 ない普遍の感情です。人種,肌の色,階級の 違いを超えて,人間的な向上を求める,人間, 制度の中心である「川石流指導法」が,非 兄弟,巡礼者がいるのみです。我々は精一杯 常に堅固である制度の弱点であることが明ら の誠実さ,謙虚さで手をさしのべなければな かになった。1 9 5 5年9月1 5日付け「柔道プレ りません。こうして我々は優れた人間になる 細川 ことができるのです」と言明している。 柔道研修会のポスター 41 42 フランスにおける柔術と柔道の起源(5) 川石酒造之助(フランス柔道クラブ) 国内の上層部は川石の定めた制度に外部の 限が終了すると安部はトゥールーズを後にし, 主導権が加わることを容認しない方針をとっ パリに向かった。フランス柔道史における修 た。修道館の指導者たちの決意は考慮されな 道館の貢献はこれで終わりではない。人間性 かった。しかし,決意が大きいだけにいっそ の向上を重視するアプローチが続けられた。 う,修道館はその熱望する指導法に専心した。 反主流とされたものの,修道館は自らに課し 4 6) 修道館はメセナ として日本人学生向けの奨 た使命を追求し続け,成功を収めた。2 0年以 学金制度を設立した。安部一郎はその奨学生 上の間,修道館は人間,柔道家を育み,そし の一人であった。六段を有し,優れた技を持 てロベール・ニコデム56)のような有名チャン つ安部は,トゥールーズ地方の柔道家たち, ピオンを輩出した。 続いて,情報を知ったパリの教師たちを魅了 し,彼らはすぐさま彼の熱心な生徒となった。 安部の指導は大きな反響を呼んだ。その指 新しい指導法を認めた者として,ジャック・ 導法は連盟の指導法と対峙するようになった。 ブロー47),ルシアン(別名リュック・ルヴァ 「川石派」はフランス柔道の団結と力を危機 ニエ)48),ピエール・ルーセル49),アンドレ にさらすとして「講道館派」を非難した。こ 5 0) 5 1) ・ドゥバール ,ジャン・プジョル ,ピエ れに対して「講道館派」は技術の進展の必要 ール・マルテル,ベルナール・ミダン52),レ 性を論拠に反論した。フランス柔道は分裂し 5 3) 5 4) イモン・モロー ,ジョルジュ・ボードー , 5 5) た。トゥールーズで生まれた対立は拡大し, ギィ・ペルティエ などの名が挙げられる。 パリやリヨン,そしてフランスの多くの都市 彼らは講道館柔道の代弁者となった。奨学期 に広がった。2つの流派は完全に決裂した。 43 細川 日本大使宅での私的な会合で,フランスにお と柔術の起源(3)参照 いて引き続き川石流指導法を優先する決定が 1 4)Jean Andrivet なされた。安部はパリを離れ,ブリュッセル 1 5)Pierre Martel に居を構えた。ベルギーはトゥールーズのあ 1 6)Bartitsu−Club フランスにおける柔道 るラングドック地方57)以上に講道館流の受け 入れに前向きであった。1 9 5 4年1 0月8日,フ ランス柔道・柔術連盟から分離した連盟が設 立された。フランス講道館柔道愛好者連合 9 5 6年に (UFFAJK)58)である。同連合は,1 は,2, 5 0 0名近くの会員を数えた。 注 釈 1)FFJJJ : la Fédération française de judo -jiu-jitsu と柔術の起源(1)参照 1 7)Barton-Wright フランスにおける柔道 と柔術の起源(1)参照 1 8)谷 幸雄 フランスにおける柔道と柔術 の起源(2)参照 1 9)Marcus Kaye 2 0)石黒 敬七 フランスにおける柔道と柔 術の起源(2)参照 2 1)小泉 軍治 フランスにおける柔道と柔 術の起源(3)参照 2)salle Wagram 凱旋門近くにある会館 3)1 9 4 0年6月2 2日,ドイツとの休戦協定に より,フランスは北部,西部大西洋岸が ドイツ軍占領下におかれた。1 9 4 2年1 1月, ドイツ軍はフランス全土を占領した。 2 2)Moshe Feldenkrais フランスにおける 柔道と柔術の起源(2)参照 1 9 3 6年,フランス柔術クラブ設立。同ク ラブ副会長 2 3)le Jiu-Jitsu Club de France 4)1 9 4 0年7月,ペタン元帥を主席とする対 2 4)Thénard パリ5区,ソルボンヌ大学な 独協力政権がフランス中部,ヴィシーに ど教育機関の多いカルチェラタンにある 誕生した。1 9 4 4年9月,シャルル・ド・ 通り ゴールが臨時政府を樹立し,ヴィシー政 権は崩壊した。フランスにおける柔道と 柔術の起源(4)参照 2 5)Sommerand テナール通りに程近い通 り 2 6)vo et vat 5)la Fédération française de lutte 2 7)Tran-Trung-Huong 6)la section judo-jiu-jitsu 2 8)SNPJ : Syndicat 7)Paul Bonét-Maury フランスにおける 柔道と柔術の起源(2)参照 8)Gilles de Jarmy national des pro- fesseurs de judo 2 9)Le Havre フランス北西部,英仏海峡 に面した都市 9)CCN : le Collège des ceintures noires 3 0)Jean Devarieux 1 0)1 9 4 4年6月6日,連合軍がノルマンディ 3 1)Michel Hanifa ーに上陸し,以後フランス各地で武装蜂 起が起こった。同年8月2 5日,パリは解 3 2)Les professeurs des arts martiaux devant le fisc 放され,シャルル・ド・ゴールはパリに 3 3)Yves Le Prieur 凱旋した。1 9 4 5年5月,ベルリンを包囲 3 4)Yokoyama 不明 されたドイツは無条件降伏をした。 3 5)Oshima 不明 1 1)Jean-Georges Vallée 3 6)Manuel complet de Judo et Jiu-Jitsu 1 2)Jean de Herdt 第1回フランス選手権 3 7)Lamotte 3 8)Marcelin (1 9 4 3年)優勝者 1 3)川石 酒造之助 フランスにおける柔道 3 9)Jaen-Maxime Chalier 44 フランスにおける柔術と柔道の起源(5) 4 0)Henly Plée フランスにおける柔道と 柔術の起源(3)参照 (3)においてヘンリー・プリーとした が,ヘンリー・プレに訂正 4 1)Jean Beaujean 4 2)Roger Duchêne 4 3)望月 稔 武道を通じフランス文化に貢 献した。その実績に対し,1 9 6 0年,パリ 市長,市議会議長より文化功労賞がおく られた。 4 4)Mécénat 学問芸術の庇護。企業などに よる文化支援活動 4 5)Toulouse フランス南西部,ガロンヌ 県・県庁所在地 4 6)Georges et Robert Lasserre 4 7)Jacques Belaud 4 8)Lucien dit Luc Levannier 4 9)Pierre Roussel 5 0)André Debard 5 1)Jean Pujol 5 2)Bernard Midan 5 3)Raymond Moreau 5 4)Georges Baudot 5 5)Guy Pelletier 5 6)Robert Nicodème 5 7)Languedoc フランス南西部,地中海沿 岸の地方 5 8)Union fédérale française d’amateurs du judo Kodokan
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