グローバルスタンダードな母語教育 ~言語技術教育の体系と内

言語技術教育についての講演
「グローバルスタンダードな母語教育 ~言語技術教育の体系と内容~」
講演者:つくば言語技術教育研究所
三森ゆりか氏
音声ファイル名(081119 交渉研究会(三森先生講演).MP3)
森下:
イントロといいますか、あとは麗澤中学、高校での実践での話を少しいたしまし
たのでイントロがわりになったかと思いますけれども、今日はご本人に来て頂い
ていますので、お話を早速、お伺いしたいと思います。よろしくお願いします。
三森:
よろしくお願いします。グローバルスタンダードの母語教育ということでお話し
をさせていただきます。言語技術教育と日本では呼んでいますが、これは英語の
Language Arts の訳語で、この訳語を最初に使ったのはたぶん物理学者の木下是
雄さんです。日本では「技術」と言うと、非常に誤解があるのですが、なぜ Art
なのかを簡単に説明しましょう。例えば、お花にもちゃんと型がまずあります。
例えば三点に生けるというような型があります。お花を習うと、まず型ばかり習
います。ところがそれが完全に身に付くと自在に自分の好きな花が生けられるよ
うになるというので Art になるわけです。言語技術も全く同じようなかたちで、
初めは各スキルを身につけさせるのですが、それが身に付くと自在に体の中で働
くようになり、本人の能力次第では色々な風に花がひらくという、そういう種類
のものです。
私がこんな事をはじめたのは子供の時にドイツに住んでいたからです。西ドイ
ツに 4 年ほど住んでいて、各国の外交官と新聞記者の子供達がドイツ人と一緒に
学ぶという学校に中学2年生から高校2年生まで行ったのですけれど、そこであ
まりにも勉強ができなかったのでこういう事を始めました。というのはですね、
他の国から来た人たちはみんな母語でほとんど Language Arts を習っていて、
それがドイツ語に代わるだけで済むのですけれども、私にしてみれば、私だけで
なく、他の日本人あるいは韓国人や中国人もできなかったですけども、議論の仕
方がわからない、作文の書き方がわからないと全てがわからないことづくめで、
それを全てドイツ語で学習しなければならず、ものすごく大変だったのです。結
局、最後までついていけなかったというのが元々のきっかけです。もう一つは商
社に勤めていまして、商社で東ドイツとのプロジェクトに関わっていました。そ
して交渉議事録を翻訳していたのですけれども、ドイツ語から日本語に議事録を
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翻訳する中で、決して勝てないということが全部みえてきました。その時に交渉
の運び方が全てドイツの学校教育の中に詰まっているのに気付いたことが、言語
技術を自分の子供には教えようと思ったきっかけです。特に日本の若い人たちへ
の教育をしていると目立つのが、はっきり自分の考えを言えないだけではなく、
全てが曖昧模糊としていることです。考えが言えない以前に考えを持てないとい
うところが一番の問題で、それはたぶん大学生でもあまり変わらないのではない
かと思います。
言語技術はグローバルスタンダードな言語教育と言えます。私自身は、西ドイ
ツに当時住んでいたときに世界中の国から来た同級生がいて、彼らは皆、言語技
術を習得していました。また、その後色々調べたことから言えるのは言語技術と
いうのは形は変わり、名前は変わってもヨーロッパ全域で行われているというこ
とです。それから当然、ヨーロッパの文化が持ち込まれた北米、南米でも行われ
ていて、南米では例えば、ブラジルでもやっています。例えばサッカー選手のラ
モスさんが「僕たちもやった」っていうことを、サッカー協会で教えた時におっ
しゃっていました。それから、アルゼンチンでもやっていますし、オセアニアや、
アジアの英語圏では結構やっています。そして、中近東やアフリカ諸国でも実施
しています。これは調べればわかるのですけれど、修辞学とか論理学とかそうい
うものが言語技術教育の根底にあるので、それが各国に広がっていく段階で子供
の発達段階に合わせて教育を組み立てて行くと、だいたい似たようなものになる
ということなのではないかと考えています。
これがドイツの母語教育のカリキュラムです。私のカリキュラムは、ドイツの
母語教育のものを下敷きにしています。ドイツのカリキュラムはすごく整理され
ていてシステマティックなので扱いやすかったんからです。教育の目的自体は 、
「読み」
「書き」
「聴く」
「話す」です。これは日本の国語教育の目的と全く一緒で
す。けれども、何が違うかというと、非常にきちんとした体系になっている、こ
の点が違います。まず「話す」
「聴く」に関しては授業がほとんどディスカッショ
ンで成り立っていて、一方的に教師が話す授業というのはほとんどありません。
それが高校 2 年生くらいからはさらに徹底して、クラスを小さくして議論が中心
になるという授業になります。あと作文の指導が日本と全く違。います。要する
に選択式の試験だとか穴埋め式の試験がいっさい無く、全部記述です。例えば大
学に入ろうと思うと高校卒業の時点で卒業試験を受けなければならなくて、そこ
で大論文を書かなければいけないので、結局、そこに向かって作文教育がずっと
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組み立てられているのです。例えば論文を書くためには、物語る能力が必要です
し、それから説明の能力が必要です。また、報告の能力が必要だし、それから論
証の能力が必要だしというふうに全てが論文に向かってきちんと積み上げられて
いて、最終的に論文に向かっているという感じです。ところが、日本の教育では
「はい、小論文書いてね」と、感想文から小論文にすっ飛ぶのですが、この間の
教育が全く無くて小論文に飛ぶのです。小論文を教えるときも「序論・本論・結
論で書くのですよ」だけで、あとはどうかいても自由というのが日本の小論文指
導の現状です。小論文を生徒に書かせてみるとわかるのですが、そこでは物語る
ことができなくてはいけないし、客観的にきちんと相手がわかるように説明がで
きなければならないし、また論証ができないといけません。つまり、色々な能力
があってはじめて小論文や論文が書ける状態になるのです。さらにこの作文の教
育内容を支えるために、あるいは作文の材料を作るために読解教育があるのです。
「読む教育」ですね。まず、だいたい 5 年生から中学 1、2 年生まで、徹底的に情
報の要約の訓練をします。これは 1 枚程度の分量から 300 ページに及ぶような本
までが対象なのですが、小説を要約させられます。日本では要約というと、一般
的に説明文の要約で、小説は要約させません。ところが実は、やってみるとわか
るのですが、小説の要約のほうが難しいのです。小説は因果関係で展開している
ので、要点を押さえないと小説は要約できないのです。ところが、説明文や評論
文の類は、だいたい序論か結論を読めばだいたい書いていることはわかりますか
ら、本当は物語の方が要約は難しいのです。しかし、これは日本ではほとんど全
くやっていないのです。そしてさらにその上で重要になってくるのが、だいたい
8 年生くらいから始まるドイツではインタープレタツィオーン(interpretation)と
呼ばれているものです。インタープリテーションですね。これは、英語ではクリ
ティカルリーディング(critical reading)と呼ばれているもので、文章を読んで、
それを日本式に感覚的に読むのではなくて、必ず自分の意見を証拠で支えながら
読むという、そういう読み方をします。これは唐突に 8 年生から始まるわけでは
なくて、実はその前から、小学校 1 年生くらいから、あるいは読み聞かせの段階
から「何故、そう思うの?」と聞いたりしながら、既に始まっています。あるい
は絵を使いながら「何故、そう思うの?」と聞いたりもするので、クリティカル
リーディング自体が 8 年生からいきなり始まるわけではなく、8 年生から本格的
に始まるというだけです。それが全部論文の中身になっていきます。つまり、日
本で「小論文を書いてね」と言ったときには、何にも中身が無いままにいきなり
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考えを書かせようとするため、うまくいくわけがないということですね。私が教
えていて感じることは、ここの部分がたぶん一番重要で、日本の教育の中で一番
欠けているのがこのテクスト分析(Critical reading)の部分だと考えています。と
いうのは、これができなかったら議論などしようがないのです。議論は、本来は
何か情報に基づいて、それについて考えを述べます。そして考えを述べたときに
必ずその意見が妥当かどうか検証ができなければいけないわけですけれど、その
時に必ずここにこの証拠があるとあげないかぎり、その意見の妥当性ははかれま
せん。しかし、そうした教育は日本では本当に全くやっていないのです。クリテ
ィカル・リーディングは、もちろんドイツ語の授業で行います。でも、もちろん
ここで教えたものは全ての教科に活きます。例えばドイツ語でテクスト分析をや
らされた結果、私が西ドイツの高校 2 年生の時の試験問題で覚えているのが「独
ソ不可侵条約がドイツにもたらしたメリット、デメリットを論ぜよ」というもの
です。
「記述せよ」という内容で、持ち込みの教科書が「ナチスの記録文書」だっ
たのです。分厚い記録文書がありまして、それを持ち込まされて、その独ソ不可
侵条約の前後を自分で探して、それを証拠に引用しながら自分でどういうメリッ
トがあり、どういうデメリットがあるかと論述するわけです。その方法はドイツ
語の授業で基本を習っているんですが、それが歴史や社会学や哲学や色々なもの
に応用される。もちろん、英語でもフランス語でも同じ事をやるという状況です。
(00:10:42)
私は現在、大学でも教えているし、社会人にも教えているし、学校の教員にも
教えていますけれど、彼らはこのテクスト分析はほぼ全くできません。教わった
ことが無いからです。外国人の知り合い、例えばドイツ人の先生とかアメリカ人
の先生などに「日本人がテクスト分析をできるかどうか」と聞くと、もうテクス
ト分析はできないから「あきらめた」と言う方が多いですね。結局、母語ででき
ないことを一から外国語で教えるのはすごく難しいので、
「 もうできないから文法
を教えるだけで良い」という方が今まででドイツ語の先生、アメリカ人の先生で
何人かそういう方お会いしました。そのような経験から、私が作ったのがここに
示したようなプログラムです。ドイツの条件は、週に 5 ~6 時間、ドイツ語を全
て言語技術で指導するというものです。ところが、私は、初めは塾の形で始めま
したので、週に 1 回しか指導できなくて、しかも国語に入り込むわけにもいかな
いので、週 1 回のなかで効率よく教えていくっていうのが絶対の条件でした。も
う一つ、日本人ができなかったのが対話をすることです。はじめにいきなり議論
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をさせようとして、議論がまったく成立せず、失敗しました。例えば何か質問し
ます。そうすると「わかった」
「わからない」
「好き」
「嫌い」これしか返ってこな
くて、
「何故?」と問うと「微妙」と返ってきます。そういう形では全く議論その
ものに進んで行きません。それで考えたのが、この「問答ゲーム」という対話の
練習です。その「問答ゲーム」を土台にし、その後は問答の基本である「問答ゲ
ーム」を利用しながら物語とか説明とか読解とか論証とかを教えていきます。そ
の際、全てこちらが一方的に教えるのではなくて、何故そういうふうにやる必要
があるのかいうことをみんなに議論させて考えさせ、自分達の頭を使って、使え
るように持って行きます。完全にできる、わかるというところへ持って行くとい
うのがこの授業で目指しているものです。そういうものが全て、対話だとか物語、
説明、読解、論証ができて初めて小論文とかプレゼンテーションが出来ると考え
ています。
言語技術を簡単にまとめると、まず質問があり、そして、その質問に応じて意
見交換をし、そうしているうちに考える方法が見えてきて、そうやっているうち
に思考のプロセスが自分の中に無意識のうちにできあがってくるというものです。
そして、そのようにしてまとまってきた自分の考えを小論文なりなんなりに記述
する、
・・・こうしたことの繰り返しで、スパイラル方式に同じ事をだんだんレベ
ルを上げて繰り返していくうちに、言語技術は完全に身に付きます。
実は、このことを言ってきたのは高校 1 年生の子達なのです。今、柏市の麗澤
というところで教えている高校 1 年生の子たちは、ちょうど始めて 4 年目になる
のですけれども、
「言語技術ってこういうことですね」と、実は、生徒達が言って
きたのです。生徒たちがこのことに気付けるということは、もうしっかり自分で
思考のプロセスの組み立てが出来るようになっているということなのです。それ
は週に 1 回の授業の中で、中学 1 年生から始めて身に付いたものです。そして、
一番大事なのが「楽しい」と彼らが言ったことです。
「自分の頭で考えられて、そ
れぞれいろんな人の意見が聞けて、自分で考えられるようになるのが楽しい」、そ
ういうことを彼らは言いました。
言語技術で質問がなぜ重要かと言うと、授業では質問を畳みかけるように繰り
返すのですけれども、この質問によって、生徒達が多角的に考え、思考を深め、
考えを交換し、自分たちの考えを形成していくからです。例えば去年 2 月に麗澤
中学で公開授業をやったときに、90 分の授業の中で絵本を 1 冊分析するという授
業をしました。この 90 分の授業の中で私が質問したのは 93 回だったそうです。
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数えた方がいらして後で教えていただきました。その 93 回の質問に生徒が全部
答えているのですが、答えながら同時にメモもとっています。これはもう本当に
完全な能力です。いくら畳みかけられても柔軟に対応できて、様々な考えが出て
くるという、そういう頭がたった数年間で育つということです。これが出来れば
たぶんどこの国に行ってもやっていけると私は思っています。生徒が言ってくれ
たことをまとめると、例えば私が最初に質問をすると、最初の段階では曖昧なイ
メージがあって、それに彼らは何となく答えるそうです。ところがそれに対して
さらに質問を畳みかけられるので、その質問によって考えの掘り下げが出来、そ
してさらに色々な方向から質問をされているうちに答えがしっかりと掘り下がっ
て行き、固まってきて自分の意見ができあがる、そうことが言語技術の授業の中
で実感できるんだ、と、彼らは言っていました。言語技術は世界基準の言語教育
ですが、それは結局こういう事です。まず、問題があるとプロセスを経て、自分
の解決策がみつける、と。日本の国語教育の一番の問題は、問題があると正解が
あるということです。しかもその正解がはたして正解かどうかも不明です。ほと
んど消去法で、これしかないという状況で答えを見つけるのが今の日本の国語教
育なので、本当の意味で考えるということには繋がっていません。言語技術教育
の目標である、4 つの教育の重点というのはここに書いてあるとおりです。これ
は実はバイエルン州のドイツ語の指導要領に書かれているものです。まずは知識
です。その次に、その知識を使いこなす能力と運用力が必要になってきて、それ
を使って生産的な思考ができて、さらに価値判断ができること。これが言語技術
というかドイツの、ひいてはバイエルン州の母語教育の目的です。でも、これは
バイエルン州だけではなく、もちろんドイツ全体の教育目標です。日本は、知識
の教育は行っていますが、能力と運用については、クエスチョンマークです。生
産的な思考と価値判断については、もうたぶん全く国語の中で教えられていない
領域になっています。ところが、教えるとちゃんとこれができるようになるので
すね。ですから、週に 1 回でそれだけ出来るようになるということは、週に 5 回
も 6 回も教えたらもっときちんとものの考え方が出来るようになるのではないか
と思っています。
ということで、ちょっと具体的なお話しに入ります。まず一番初めに教えてい
るのが先ほどのリストにありました「問答ゲーム」というものです。これは対話
の教育をしないと先に進まないからです。これはどんなものかというと、例えば
「あなたはサッカーが好きですか?」とこちらが質問します。それに対して「私
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はサッカーが好きです。何故かというとサッカーは面白いからです。だから私は
サッカーが好きです」というふうに答えさせるだけのものです。ここで今、重視
しているのが、まずきちんと主語を入れて話しをする、という点です。日本語は、
対面では主語を入れる必要がない言葉なのですけれども、ただ、いつも主語が入
らないとそのうち主語というものを認識しなくなるのですね。そうすると一体誰
の責任でものをやるのかということに全然気がつかなくなります。それでここで
は、最初の第一文の所では必ず主語を入れなさいと言っています。そうすると何
が出来るようになるかというと、例えば人の話を聞いて「今のは誰の意見なんだ
ろう」とパッと反応出来るようになるのです。あるいは古文の文章を読んでいて、
主語がないから主語を埋めて古文が読めるようになるという能力も育ちます。結
局誰の責任でこの文章が成り立っているのかということに敏感に反応出来るよう
になります。そうすると例えば、これは企業の方と話したのですけども、企業交
渉なんかの時にはわざと主語を抜いて話すということも可能になるわけですね。
というのは、主語を意識的に入れたり出したりができるようになるからです。で
すから授業の中で誰の意見かはっきりしないときに「それ、誰の意見なの?」っ
ていうとすぐにパッと反応出来るようになります。それは「主語」
「主語」と、何
回もこの「問答ゲーム」で注意されているからです。それから必ず理由を言い、
そしてまとめるという言い方をさせています。これはそのまま英語の話形と一緒
です。まず主張を言って、それから理由を言って、それからまとめるということ
です。この話形はまた、このままパラグラフの形になります。ですから英語を教
えるときには今度は、
「パラグラフの形というのは『問答ゲーム』と一緒ですとい
うとすぐイメージができるというところへ繋がっています。問答ゲームの際には、
一問一答で終わるのではなくて(基本的には「なぜ」を探り出す)いわゆる「い
つ」「どこ」「なに」「どんな」「だれ」「なんのため」などという 5W1H を使って
2、3 問たたみかけ、ます。そして、また次の子に質問します。問答ゲームは、こ
れだけの単純な事なのですが、実は相当な効果があります。また、問答ゲームを
やらない人達と「さぁ、文章の分析をしましょう」と言うと、
「私はそう思います、
どうしてかというとわかりません」という形になってしまって、理由がほとんど
出てきません。あと主語も入ってこないし、だいたい理由からグダグダグダグダ
と述べられて結論がわからないという言い方をします。ところが、一回この「問
答ゲーム」を教えてしまうと「結論を先に言ってくれる?」と言うと、すぐに何
をどのように言えば良いかを理解してもらえるし、主語が抜けてれば「それは誰
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の意見なの?」と言っただけで主語が入ってくるというふうに、この「問答ゲー
ム」という言葉が共通の認識になって、この形でものが言えるようになります。
そして、何よりも精神力が鍛えられます。普段、畳みかけられるということに慣
れていない子たちが、畳みかけられてもきちんと答えられるようになるので(日
本は、畳みかけられるとすごく弱い)、精神力がいつの間にか鍛えられるという効
果も持っています。結局、この「問答ゲーム」で育つのは対話をする力と質問を
する力、そして論理力です。この論理力というのはこの場合は「なぜ」が言える
という程度の論理力です。自分の考えを根拠で支えられるという程度です。そし
て、精神力が鍛えられます。
(00:21:26)
自宅で「問答ゲーム」をやっても楽しく結構できます。中学生も高校生もかな
り好きですね。こういう状況を見ていると、
「実は日本の子供達も本当は自分の意
見を言いたいんだな」ということがわかります。ただ、機会が無いのでできない
だけです。この「問答ゲーム」は、
「問答ゲーム」として取り出して行います。つ
まり、本人たちの生活に関係はあるけれども、直接自分達の色々なごちゃごちゃ
した問題にはタッチしないような問題を選んで行います。表面的な問題、あるい
は本人達の本当に抱えている問題にはふれないようにして、対話力だけを鍛える
練習なのです。
福井:
「問答ゲーム」では、うっかりすると子供の「なぜ」「なぜ」に引っ張られて、
むしろ彼らの関心事というか、子供自身の生活に関わる問題に引っ張られてしま
って、主語や述語をきちんと話すとか、あるいは5W+1H を使って話すとか、
そういう形式面には関心が行かなくなってしまいませんか。
三森:
いや、問答ゲームでは 2、3 回しか畳みかけないと決めているので、そういうと
ころには行かないです。
福井: 行かないですか・・・。
三森:
はい。逆に言うと、生徒達は自分達の個人的な問題に触れられるのは嫌がるので
す。だから、「サッカーが好きなのか」とか「雨の日に外を歩くのは好きか」と
か、わざとちょっと外した問題にして、本当にその話形と理由をきちんと言う練
習だけをすることが重要です。
福井:
なるほど。分かりました。意識的に個人的な問題を避けることが出来るかどうか
ということですね。自分の子供にやろうとするとなかなかそうはいかなくて、子
供の問い返しに、つい「それは君が勉強してないからだよ」と言ってしまったり
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します。
三森:
それは、親が言ってはだめなのです。親の気持ちが入ってしまうとそういうこと
になってしまうので難しいのです。なるべく、客観的な問題を扱って質問をする、
これが大事です。学校でやる場合には、問答ゲームは 2 回くらいしかやっていま
せん。それでも十分にこの話形に基づいて話をするということが出来るようにな
ります。
その次に教えているのが、あるいは、問答ゲームに平行して、まず最初の段階
で教えるのが、
「物語りをする」ということです。この目的は、物語が書けるよう
になることと、もう一つ作文をすらすら書けるようにするためです。まず、作文
をすらすら書けるようにするために、
「再話」というのを行っています。これはド
イツの方式です。例えば短い桃太郎の物語の読み聞かせを 2 回ほどして、それを
自分の言葉で再生するという、そういう単純な練習です。
「再話」によって何が身
に付くかというと、インプットされたものを素早くアウトプットしなければいけ
ないということで、頭の中で要点をとらえる力がまずでき、そしてそれを素早く
文章化するという能力がつきます。それがもっと長けてくると原稿用紙がたぶん
頭の中にイメージ出来るようになって、だいたいこの程度のものだったら何字く
らいで書けるなという予測まで出来るようになる。だいたい、今、中学 2、3 年
生くらいになると 400 字程度だったら 15 分くらいあれば書けるという、そんな
感じになっています。もしかしたらもっと早いかもしれないですね。そのように
早く書く力があって初めて論文まで到達できるのです。まずすらすら書く能力が
ない人に「長い文章を書け」と言っても、これは無理です。その「再話」をして
いるうちに子供達が気づくのが物語には必ず基本的な構造があるということです。
どの物語も古今東西を問わずですね、みんなほとんど同じ形をしています。それ
を物語の構造という形で教えています。英語で「story structure」でインターネ
ットで検索するとたくさん出てきます。
福井:
「再話」って、最初は正確に描写ができるというか、たぶんディクテーションと
同じような形で・・・
三森:
ディクテーションとは違います。
福井:
ではないんですよね。でも、きっちり形を全て押さえるところからだんだん文章
が長くなっていくと要約的な形になってくる・・・。
三森:
そうですね。小さい子供、例えば小学校 1 年生にはうんと短い話をしますから、
小学校 1 年生くらいだとほとんど丸暗記して書きます。でも、もちろん 10 分も
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の長い話になると、全部は覚えきれませんから、重要点をきちんと押さえながら
因果関係で展開するように物語を書くというふうになります。
福井: じゃあ、だんだんとそれが要約に繋がると。
三森:
そうです。「再話」ができない人に要約は出来ません。という意味で、「再話」が
先にあってその次に要約があるっていうことになります。その要約に入るまでに
大事なのがこの物語の構造です。「再話」を繰り返していると、だいたいこうい
う流れで話はいつも展開するなとなんとなくわかるようになります。物語の構造
では、最初にこまず冒頭というのがあります。日本語で「冒頭」という名前を付
けてますが、ここで必ず設定が述べられます。「いつ」「どこで」「どんな主人公
がいて」「どんな環境で暮らしていた」ということが最初に述べられます。そし
てその次に「発端」というところがありますけれども、物語というのは必ず事件
です。事件が無いところに物語は発生しないので、まず必ず事件があります。ま
ずこの「発端」の部分で敵が登場します。この敵というのは、鬼でもいいし、魔
女でもいいし、災害でもいいし、病気でもいいし、喧嘩でもいいし何でもいいの
ですが、要するに主人公がこの時点では克服出来ないものが出てきます。そうす
ると物語が複雑化して短い話だとすぐ「山場」が始まるります。この「山場」は
「山場」と呼んでもいいし、「展開部分」と呼んでもいいです。ここでだいたい
昔話の場合は三回危機が訪れます。物語の場合、昔話ではほとんど三回危機があ
ります。日本の「三枚のお札」は三枚のお札を持って追いかけてくる鬼ばばから
逃げきるし、イギリスの「三匹のこぶた」は三回オオカミに襲われるし、ドイツ
の「白雪姫」はやっぱり三回女王に襲われるというふうに、必ずといっていいく
らい危機は三回です。そして、一回目より二回目が、二回目より三回目がという
ふうにだんだん危機的な状況が強くなり、最後にクライマックスでぐるっと強弱
がひっくり返ります。そうするとお話を続けていく理由がなくなるので、ストン
と山が落ちて結末がくるというのが物語の構造です。「再話」を繰り返している
うちにこれが理解出来るようになり、それが理解できるようになるから要約へ繋
がっていくわけです。そうすると何百ページもある話でも、どこを押さえていけ
ばきちっと再生ができるということが理解できるようになりますし、あるいはプ
レゼンテーションなんかで話をするときにも、こういう物語の構造を知っている
と、きちっと人が引き込まれるような話に持っていけるっていうことに繋がって
いきます。あとはこれが基本構造なので、例えば映画ですと山場の途中から始ま
ってぐるっとひっくり返って初めから述べてみたり、あるいは結末から始まって
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元に戻ったりという形もあります。回想方式ですね。また「走れメロス」という
話では、「メロスは憤ってた」と始まって、しばらくいくと「メロスは村の牧人
で」という説明になるのですが、物語の構造がわかっているとどこでどうひっく
り返ってるかという、組み立てまで見えてくるという非常に使い勝手のいいもの
です。例えばインターネットで story structure を検索するとたくさん出てきます。
だいたい西洋の人たちはこういうものは十分に学習した上で小説を書いている
から、小説が面白いのです。日本の小説が結構使い物にならないのは、この構造
になっていないものが多いからですね。マンガのほうがよっぽど良くできていま
す。物語の構造を理解していると、そういう比較もできるようになります。
(00:30:08)
この「物語」のジャンルに入れている、
「視点を変える」という課題は、この間、
福澤先生がお話しされたものです。これは、例えばドイツの教科書では、取り出
して単元にはなっていないものですけれども、もうあちらこちらにポイント・オ
ブ・ビュー(point of view)という言葉が出てきます。要するに、立場、つまり、
どこからものを見てものを考えるのかということが非常に強調されています。そ
ういうことを日本人はやらないために、自分と立場の違う人がどういうもののを
考え方をするのかということ考えるのが非常に弱い。それで私たちは、これを取
り出して教えるようにしました。いくつか指導のためのパターンがあります。こ
こに持って来た「赤ずきん」の課題は、初めに行う物ではなくて、もっと簡単な
ところからだんだんここまで持ち上げます。これについてはみなさん、説明は聞
いてらっしゃるのでしょうか。
福井: 視点を変える・・・
森下:
非常に簡単な・・・
三森:
では、もう一回説明をさせて頂くと、これは「赤ずきん」の物語をコマまんがに
したものです。この「赤ずきん」の物語は、普通、三人称で語られています。三
人称というのは神様の視点と同じで、全てが見える視点です。三人称客観視点と
言います。それを赤ずきんの主観的な一人称限定視点とうのに変えるのです。一
人称の赤ずきんの視点からだけ見えるものに視点を限定して変えるとどんなふ
うに物語が変わるだろうかという、そういう訓練です。そうすると例えば 2 コマ
目は語れないのです。何故かというと、オオカミが木の陰から、「おや、赤ずき
ん一人でどこへ行くんだろう」と心の中で赤ずきんを見ながら思っている事なの
で、これは赤ずきんにはわかりません。それから 4 コマ目は、オオカミが、「よ
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ーし、先回りしておばあさんも赤ずきんも食べてやろう」とやはり心の中で考え
ています。だからこれも赤ずきんの視点からは語れません。もしこのことを赤ず
きんがわかっていたら、当然のことながらおばあさんの家へ行くわけがないわけ
ですよね。そして 6 コマ目と 7 コマ目は、オオカミが赤ずきんに花を摘むように
すすめて、その間におばあさんの家に先回りして、おばあさんの家でおばあさん
を食べた出来事ですから、これも赤ずきんの視点からはとりあえず語れません。
そしてもう一つ、11 コマ目の場合には、赤ずきんはオオカミのお腹の中にいるの
で、お腹の中はどんな様子かは語ることは出来ても、オオカミが寝ているかどう
か、眠っているかどうかは語ることが出来ない。というふうに 2、4、6、7、11
コマまでのコマを外して一人称で物語を語ります。そうすると例えばこんな話に
なります。「ある日、私は『行ってきます』と言っておばあさんの家にお見舞い
に出かけました。しばらく歩いていくと『赤ずきんどこへ行くんだい?』とオオ
カミが話しかけてきたので、『おばあさんの家にお見舞いに行くのよ』と、私は
答えました。するとオオカミが、『お見舞いに行くんだったら綺麗なお花をたく
さんとるといいよ』と言って花畑に連れて行ってくれたので、私は夢中になって
花を摘みました。はっと気がつくとずいぶん時間が経っていたので、私は慌てて
おばあさんの家へ行きました。そしておばあさんの家の戸をトントンとたたいて、
『赤ずきんよ』と言うと、中から『お入り』というおばあさんの声が聞こえてき
ました。私が中に入ると、おばあさんの様子がなんだかいつもと違います。それ
で私が、『あらおばあさんの目、どうしてそんなに大きいの?』と聞くと『おま
えがよく見えるようにさ』と、おばあさんは答えました。それでもなんだか腑に
落ちないので、私はさらにおばあさんに、『なんでそんなに口が大きいの?』と
聞くと、おばあさんは突然オオカミに変身して、
『おまえを食べるためにさ』と、
襲いかかって来ました。気がつくと私はオオカミのお腹の中にいました。もうこ
れで私は死ぬのかな、と思って悲しんでいると、外から突然光が入ってきて、続
いてジョキジョキとはさみで切るような音が聞こえて来ました。私がオオカミの
お腹をかき分けて外へ出て行くと、狩人さんがオオカミのお腹を切って私を助け
てくれたのです。だから、私は狩人さんに、『ありがとう』と言いました」とい
うような話になります。たぶん皆さんがご存じのお話とは全然変わりますね。こ
ういう事を、三人称のお話を元にして、赤ずきんの一人称限定視点、オオカミの
一人称限定視点、あるいはおばあさんの一人称限定視点、お母さんの一人称限定
視点で書かせていきます。こうやって立場が違うと見えることが違う、認識でき
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ることが違う、考えることが違うという訓練をしています。一旦視点を変えると
いうことが理解できるようになると、例えば議論しているときなどに、「ちょっ
と視点を変えて考えてみて、誰々の立場だったらどういうふうに考えられる?」
ということがすぐに見えるようになって、これがディベートの基本になるわけで
す。ということで、この視点を変えるはすごく重要です。そして大事なのは、必
ず文章にさせるということです。口頭でやっただけだとすぐに忘れてしまうので、
必ず作文で落とさせるということがとても大事になります。この「物語」という
ジャンルでは、物語をする力、構成する力が育ちます。そしてさきほどの「視点
を変える」では、複眼的に考える力が育ち、そしてそれについて話をさせるので、
結局、発表する力にも繋がっていきます。ここで何かご質問ありますか?
福井:
視点を変えるという課題について、「赤ずきんちゃん」以外にどういう教材を他
には使われているんですか?いろんな物語を使われていると伺っておりますが。
三森:
一番始めは例えば小学生なんかにやる場合は、箱を持っていって、その箱の四隅
に違う絵を貼っておきます。そして、4 人を周りに立たせてそれぞれの方向から
何が見えるかを言わせて、見えるものが全然違うということを認識させるところ
から始めます。こちら側の子が見えているものとあちら側の子が見えているもの
は違うんだと、そこからやるんですね。その後は例えば、「捨て猫」という教材
をつくったのですけども、それは猫と女の子は気持ち、つまり言葉が通じないの
で、猫の気持ちと女の子の気持ち、それぞれが感じていることを書かせることを
させています。色々な教材を使いますが、この「赤ずきん」くらいまでくると、
もう「視点を変える」は十分にわかるので、それ以上はもうやる必要がありませ
ん。あとはもう実践で使って考えていくという形になります。
福井: 「赤ずきん」は要するに最終段階なんですね。
三森:
この「赤ずきん」はもう最終段階に近いですね。といっても小学校 5、6 年生で
十分出来るものです。次に大切なのが、この「説明の能力」です。日本の教材、
国語教育では時間の順序で説明することは学習します。タイムオーダー(time
order)です。やらないのが、空間の秩序をどうとらえて、どういうふうに配列す
ればその空間的な状況を相手に伝えられるか、というもので、スペースオーダー
(space order)というものです。これは全くやらないです。ですからたぶん日本人
が最も苦労するのが、その目で見たそのものをどうやって相手に伝えるかという
ことでしょう。どうやって順番に作るかは教えられても、例えばこういう風に目
で見た対象を相手に伝える方法、それは習っていないので、日本人が一番苦労す
13
るところなのです。このスペースオーダーが出来ないと、結局、報告文にしても、
時間の順序で説明するのではないときには、しっちゃかめっちゃかになりますし、
記録文も同じなのです。ですから、タイムオーダーと並んで、このスペースオー
ダーがきちんと出来ることはすごく大事です。例えばこのフランス共和国の国旗
をどんなふうに説明したら、相手がこのフランス共和国の国旗を頭の中に描く事
が出来るか、ということを教えていきます。これは時間の順序では説明出来ない
ので、空間の順序ということになります。皆さんはどうやったら説明出来ると思
いますか?これについては、まず条件を設定しています。このフランス共和国の
国旗については、「国旗というものは知っているけれども、フランス共和国の国
旗がどんな様子か知らない。その相手に向かって相手が頭の中に絵を描けるよう
に説明しましょう」と言っています。どうしたら良いでしょう。
福井: 確か自由・平等・博愛で色が対応しているんでしたよね。
三森:
はい。でもそれではしょうがないですね。
福井: はい。
三森:
この絵を相手に頭の中に描いてもらわないといけない、その時にどうしたらいい
でしょうというのが皆さんの課題です。いかがでしょう。
福井: リベルテ(Liberté)が、確か青かな・・・。
三森:
そうですね。リベルテ、エガリテ、フラテルニテ(Liberté, égalité, fraternité)
です。はい。リベルテが青で、エガリテが白で、フラテルニテが赤です。
福井:
リベルテ、エガリテ、フラテルニテというこの順番は変えちゃいけないというこ
とで。
三森:
そうです。
福井: 左から順に青・白・赤という形で記述されるという、そういう説明だったかな。
三森:
でもそれだとこの色の順番しか出てこないですよね。
福井: そうですね。縦の縞が・・・説明がむずかしいですね。
(00:40:01)
三森:
ということで、まずは国旗の全体像を相手に与えなければいけないのです。だか
らまずは形の説明が必要なのです。どうやって授業やるかというと、まず「この
共和国の国旗を相手に説明しなければいけないとすると、どんな項目(カテゴリ
ー)について説明するべきか?」と聞きます。そうすると、色とか模様とか形と
かが出てきます。だいたいこの 3 つが出てきます。その上で「色、形、模様のど
れをまず相手に与えなければいけないか」と議論させるのです。そうすると「形」
14
と出てきます。「では、なんで形なの?」と聞くと、結局色々話し合ったあげく、
「形が無いところに色や模様を乗せようがないからまずは全体の形が必要だ」と
いう考えが出てきます。「その上で、形についてはどういうふうに具体的に説明
をする?」と訊くと、「四角形」とか、色々出て来ます。「四角形」だと、私の場
合は縦に長方形の絵を描きます。縦長の長方形をわざと描きます。そうすると、
説明がうまく通じてないからということで、「横長の長方形」という言葉が出て
きて、さらに比率が出てきて、ようやくこの形ができる、という風に進みます。
それを全部やりとりで行います。その次に、「模様と色ではどちらが先か?」と
聞くと、たいてい「模様だ」と出て来ます。「模様の無いときにこの場合は色を
塗りようがないから」というのがその理由なのですが、それを必ず全部理由付け
をさせるわけです。さらに、「模様だとして、どういうふうに説明すればいい?」
というと、たいてい「縦に三等分」という言葉が出てくるんですが、「縦に三等
分」という説明で絵を描かせると、面白いことにこの旗の縦線を三等分にする方
がとても多いのです。「縦に三等分」と言われたとたんに、何となく縦の線を思
い浮かべてそこを三等分してしまうのですね。その結果、横に三本線が入ってし
まうわけです。その説明ですと結局通じないので、「もっと簡単に通じる方法は
無いだろうか」と考えさせます。その結果いつも最終的に出てくるのは、「縦縞
という言葉を使えばいいんじゃないか」という、意見です。その通りで、そうす
れば絶対に横の縞にする人はいない、それが一番わかりやすいということです。
縦縞のあとに情報として必要なのが、三本ということと、幅が同じだという情報
です。だんだん情報を小さくしていくわけですね。さらに、色については、色は
もうそれしか残っていないので、最後に色の説明をすればいいのですけれども、
色は三色で、左から順に青・白・赤です。でも、日本人の場合良く出てくるのが、
右から順に赤・白・青という説明です。たまに「真ん中が白で、左が青で、右が
赤がいい」と言う子もいて、そこでまた議論になります。三色くらいの場合、真
ん中、右、左と言われてもついていけます。でもこれが何本もの縞になったらも
う訳わからないですよね。ということで、右か左か、どっちからか言わなければ
いけない、ということを考えさせます。でも色までの説明だったら、日本人の場
合は右からものを見るので、縦書きの文字を右から読むので、どうしても日本人
は右から物を見る癖があるのですね。だから色までだったら右から言っても問題
はありません。しかし次に、色の意味までを言わなければいけないとしたら、色
の順番を右から言っても良いかどうかと考えさせます。すると先ほどおっしゃっ
15
たように、色の意味は左から青・白・赤の順で言うのですね。そうなると色につ
いては右から順に「赤・白・青」と言ったのに、色の意味は左から「青が自由で、
白が平等で、赤が博愛です」という言い方をすると、色について右から言ったも
のがその意味については左から戻って来ることになります。これでは予測が裏切
られて混乱をすることになります。「説明ではフェイントはかけてはいけない」
ということです。「この色の意味について、自由・平等・博愛の順番で言うのは
もう常識なので変わりません。だったら色の順番を左から言うべきだ」というと
ころへきちんと持っていかせます。これが一旦出来るようになると、この後に、
例えば中国の旗をやると、中国の旗の場合は地の色の情報の方が大きいから、ま
ず地の色を言ってから左隅の模様を言えばいいというふうになりますし、その後
アメリカの旗をやると、今度はアメリカの旗には二つのパターンの模様が入って
いるので、まず大きい方の縞の模様をきちんと説明してから左隅の四角い模様を
言えば良いと、もう全部フランス国旗の説明の応用しながら、自分で考えて情報
の整理が出来るようになる、そういう頭が簡単に中学生くらいでできるようにな
ります。そうすると、あとは色々なものに応用で当てはめていくだけです。要す
るにきちんとわかってもらいたいのは、説明の原則として大きい情報から小さい
情報に並べるのだということです。これがよく「概要から詳細」というふうに言
われますけども、こういう事を先に教えると、何が概要で何が詳細かがきちんと
わかり、イメージが出来るようになるので、情報を見た瞬間に「何が大きくて何
が小さくて、どの順番に並べれば相手がわかるか」ということが非常に明確にわ
かるようになります。これを無しにして文章を書かせると、本当に支離滅裂な文
章になります。
福井:
今の国旗の説明で非常によくわかったんですが、私は最後の結論だけ覚えてたわ
けですよね。要するに「概要から詳細」、「全体から分類」というふうな順を追っ
た形で頭に入ってなかったわけですよ。前回の福澤先生の説明でそれなりに概要
を踏まえていたつもりだったのですが。
三森:
なるほど。
福井: やっぱり訓練が欠けていたと思いました。
三森:
今まで教えてきて、最初から出来る方はほとんどいませんでした。今度は、別の
課題です。これは、自分の部屋にどのように家具が配置されているかを説明する
というものです。これは最初に日本人に英語を教えているアメリカ人が、部屋に
置いてあるものの配置の説明を日本人にさせようとして失敗したのがきっかけで
16
す。私の部屋にはこんなふうにものが置いてあります、と絵を元にして英語で説
明すればいいわけです。アメリカ人が日本人に英語を教えていて頭を抱えたのが、
ほとんどの日本人が、
「私の部屋にはこういうふうにものが置いてあります」と説
明しようとすると、ほとんど例外なく入り口の反対側の壁の中央にあるテレビの
説明から始めるということでした。何故かというと開けた瞬間に目の前に飛び込
んでくるのがテレビだからです。だからその先の事を考えずに、テレビの説明か
ら始めようとするわけです。ところが、このテレビから説明を始めると、次のテ
レビの左右にある家具の説明をし、さらに右か左どちらかの壁にある家具につい
て触れ、さらに間の空間を飛び越えて反対側の壁にある家具の説明をすることに
なります。つまり、こういって、こういって、こういって、また飛び越えてこう
なる。とにかく、順番には説明できなくて、行ったり来たりしなければいけない
ということは全く考えず、まずはこれが目に飛び込んでるから最初に説明を使用
とする。全く先のこと考えて無いのです。これはどこでやっても、ほとんど同じ
結果になります。ところが、中学 1 年生からこういう事を教えた中学 3 年子供た
ちにこれをやったら、一人の男の子がわざとウケを狙って、
「それを言うのが俺の
役割でしょ」と言って、
「テレビから」と言ってくれ、その結果、議論が面白くな
りましたが、後はもうほとんど例外なく、左側の出窓がある方から説明を始め、
右にぐるりと回ると言いました。その方が単純でわかりやすいということで、こ
こから誰も動きません。そういうふうに考えられるように頭がもうできてしまっ
ているということですね。もちろん、アピールしたいときにはわざと違う場所か
らアピールするということも考えられるのですが、この説明の基本がわかってい
れば、アピールするときに情報をわざと崩すということも可能になるということ
です。
質問者B: さっき、縦に三等分というふうに***で表現すると図形を横に切ると**
三森:
そう。そういう人が多いのですよ。「縦に三等分」と言われた途端に、頭の中で
しかイメージを描いておらず、実際に絵を描いてないので、縦線を思い浮かべる
ということだと思います。「縦に三等分してください」とただ単に言ってみたこ
とがあるのですが、そうすると、もちろん横の辺に縦線を引く方も半分くらいい
るのですが、縦の辺を三等分して横縞にする方達が相当数いるんですよ、面白い
ことに。でも、「縦縞です」と言うと、そういう間違いは絶対におきません。だ
からどういう言葉を使うと一番間違い無く情報が伝わるかということをみんな
で考えて議論していって、結局、縦縞という言葉なら間違いなく情報が伝わると
17
いう結論に至るわけです。むろん、この場合はということです。
さて今度は、このフランス共和国の国旗の説明を「文章を書きなさい」という
指示します。必ず文章に書かせることが言語技術で重要です。それによってスキ
ルを定着させるわけです。この説明文の形式がそのまま「パラグラフで書く」と
いうことに繋がっていきます。もっとも「問答ゲーム」も同じことなのですけれ
ども、パラグラフというのは、トピックセンテンス(topic sentence)として最初に
文章全体で自分が一体何を言うつもりなのかを言います。つまりこの場合だった
ら、
「フランス共和国の国旗は次の様な様子をしている」というような文、トピッ
クセンテンスが先にきます。そうするとそれを読んだ人は、
「ここから先にはフラ
ンス共和国の国旗がどんな様子かについての説明がくるんだな」ということがわ
かります。その後にそのトピックセンテンスを支える文章として、形、模様、色
などの説明がきて(サポーティングセンテンス/supporting sentences)、最後に
そのまとめとして、コンクリューディングセンテンス(Concluding sentence)とし
て、
「以上がフランス共和国の国旗の様子である」と書きます。書かせるときには
もう早い段階からこのパラグラフの形というものを意識させて、
「 改行しないでひ
とつながりの文章で書きなさい」と指示しています。日本人の文章で非常に多い
のは、トピックセンテンスとサポーティングセンテンス、コンクリューディング
センテンスのところで全部改行してしまう文章です。パラグラフ自体を習わない
ので、一応、英語の教科書には高校 3 年生くらいの時にパラグラフという言葉が
出てくるのですが、実際にはほとんど習っていないので、その結果、日本語の文
章には改行が多くなります。日本語にはパラグラフの考え方、あるいは段落とい
うものの考え方がきちんと無いので、適当なところで改行するというのが一般的
です。理解しやすい文章にするのには最低、このパラグラフの形になっていない
といけません。適当なところで改行されていると何を言ってるのかがわからなく
なってしまうので、小さい文章を書く段階から必ずこのパラグラフに当てはめて
書かせるということが重要です。
(00:50:52)
さっきほどの「問答ゲーム」も一緒です。あれはそのまま意見文に繋がってい
きます。
「私は小学生が学校で体育を習うことに賛成です。なぜかというとこうこ
うこういう理由だからです。だから私は小学生が学校で体育を習うことには賛成
です」という文章も、そのままパラグラフに当てはめて意見文という形で書かせ
るということを教えています。それが中学校の後半くらいからだんだんと、いわ
18
ゆる英語でエッセイと言われる小論文の形に発展していくというふうに指導をし
ています。パラグラフを小論文にまで発展させるには、何度も何度も各訓練をす
ることが大切です。それで例えば、国旗の説明をさせてはパラグラフに当てはめ
て書かせていくということを何度も繰り返すのです。そして、多くの文章を書く
作業を行ったり来たり行ったり来たりしながら書く技術そのものを高めていくわ
けです。日本の学校の現状では、例えば大学の AO 入試などで小論文を求めてま
す。そこに対応するために教えてるのは、「序論・本論・結論」、それだけなので
す。その序論や本論や結論の形式がパラグラフであるということは全く教えてい
ません。序論と結論はパラグラフとはちょっと形が違いますけれど、本論は確実
にパラグラフで作られていないといけません。ところが、この本論の段落のひと
つひとつが、実は先ほどのパラグラフになっているということは全く教えていな
いので、だからとても支離滅裂なレポートや小論文ができあがるということにな
ります。これにはたぶん異論はないのではないでしょうか。説明で育つ力として
は分類する力、それから整理する力、それから構成して提示する力、こういう力
が訓練をするうちに自然についていきます。
最後に読み書き能力としてのリテラシーとして、ビジュアルリテラシー(visual
literacy)とよばれる絵の分析と、テクストアナルシス(text analysis)あるいは
クリティカルリーディング(critical reading)とよばれるテクスト分析を教えて
います。欧米などの場合ですと、絵の分析は幼児教育の中に入っています。ド
イツの教育をみても、これはだいたい幼児教育に入っていて、高校段階では名
画を相手に絵の分析をしたりはしますけど、基本は幼児教育から始まっていま
す。私の場合は、例えば中学で教える場合にも高校で教える場合にも大学で教
える場合にも、この絵の分析から始めます。というのは絵の分析もこの文章の
分析も読み方は基本的に一緒だからです。証拠に基づいて読むという意味でで
す。証拠に基づいて読むのは、文章だと難しくなるので、絵で始めます。絵の
方が証拠を発見しやすいからです。ということで、大人だろうと子供だろうと
このビジュアルリテラシーから始めます。これは 3 歳くらいからできます。絵
本で。ということは、3 歳くらいから始めると、6 歳くらいでほとんど確実に
絵を読む能力が身についてきます。だいたい小さな子は絵を読む能力ってある
のです、基本的に。それが育つ段階で、文字が読めるようになる段階で消えて
いくのですけれども、この絵の分析をやると、この能力は消えずに発展します。
発達していきます。例えばこれは、現在教えている麗澤中学・高等学校(千葉
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県柏市)で、中学 3 年生の子達に 1 学期に期末試験として出した絵です。「こ
れはミレーの絵である。この絵を分析しなさい」と、絵と原稿用紙 3 枚渡した
だけです。それで何を彼らがやったかというと、これまで指導したとおりの手
順を踏んで、絵を一人で分析しました。絵を分析するときにはだいたいまずセ
ッティングを分析します。場所とか季節とか天気だとか時間とか時代だという
点を分析します。その上で、人物が描かれていればそれがどんな人物で、何を
やっていて、どんな状況で、どんな事件が起こっているかということを考えて
いきます。これはどんな絵についても同じアプローチをします。麗澤では、120
名のいる生徒の大半がそれはきちんとできていました。しかし、中には教えて
いないことを書けた子達がいました。それがこれです。
「この絵の表現の特徴は
二つある。一つは目に飛び込んでくる様な色はあまり使わず暗めの色をたくさ
ん使っていることである。二つめは主として描かれているのは収穫をしている
女性のはずなのにその女性の顔が全くといってよいほど描かれていないことで
ある。このような特徴からこの絵は一所懸命に仕事をしていても社会的には光
を浴びない女性達の空しさ悲しみなどを観た人に訴えてくる絵だと言える」。こ
れは、男子が書いたものです。書いた物の一部分です。もう一つ。
「絵の手前に
来るに従い画面が暗くなっているのは人々の身の上を表現している。後ろに行
くに従い色が明るくなり仕事が楽なものになる。明るく光があたっている部分
に描かれたのは社会の中程度の水準にいる人々。そして、その手前もっとも暗
いところにいるのは社会に於いてピラミッドの底辺にいる人々、すなわち奴隷、
もしくはそれに準じたクラスの人々である」。これも男子の書いた物です。この
絵では確かに光と陰を読むのがすごく重要で、ミレー展が日本に来たときにも、
美術評論家がこれとほぼ同じ事を書いています。この二人は、
『落ち穂拾い』と
いうタイトルは全然知らなかったようです。だから、絵を読んだだけでここま
で読めているわけです。そして、光と影の意味と手前の人物達の顔の向きとを
読んで、ほとんど美術評論家と同じ様なことを述べています。そして実のとこ
ろ、彼らにそれまで光と影の読み方を指導したことはありませんでした。これ
はただ情報が分析できるに止まらず、教養の領域まで、知性の領域まで踏み込
んでいるという一つの例です。面白いことに、120 人くらい書いた中でここま
で書けていたのが 20 人くらいで、その大半が男子なのです。こういうものは
女性の方が得意だとおっしゃる方が多いのですけれども、私は教えていて男子
の方が得意だなと実は思っているのです。男子の方が論理的に読んでいって、
20
対象の中に入っていく力があると。女の子達は表面的に感覚的に読むことは得
意です。読み方に差があり、それが議論の場に出されるので、絵の分析はおも
しろいのです。ただ、この「落ち穂拾い」の場合は、教えたこと以上の読みを
したのが、ほとんどが男子だったというのが面白かった点です。
質問者B: 先生。この手前の方の暗いところにいる人は社会では底辺にいるっていうの
は何の証拠もないですよね。
三森:
これはですね、評論を見ると書いてあるんですよ、そういう事が。
質問者B: いえいえ。
三森:
証拠は確かにどこにもありません。この生徒達が言っている、人物達が下を向い
て落ち穂を拾っているということは、要するに後ろの収穫のグループに入れても
らえない人々だということです。
質問者B: と、どうして断定できますか、この絵からだけで。
三森:
この絵では、3人の人物が画面の全面中央に描かれているにもかかわらず表情が
書かれておらず、皆下を向き、落ち穂を拾っています。あと光が全然当たってい
ない、この辺りが証拠になります。
質問者B: いやいや、ミレーの絵がこの絵であることはわかるんですが、この絵から浮
かぶ印象とそれが証拠に基づいて確実なことかとは別問題ですね。
ですから、前が暗いからこの人はピラミッドの底辺にいると書くのはその絵から来る推論
は、もうどこかで独断が入っちゃって証拠に基づいていないのではないですか。
三森:
まあ、中学 3 年生っていうことをまず考慮していただきたいのですが、この子達
にはまず光や陰を読むということは全然教えていません。まず何故後方の人々に
は光をあてて手前には全く、一応、この全面に描かれた人たちがこの絵の中心で
あるには間違い無いにもかかわらず、それなのに全く光が当たっていなくて、全
員が下を向いていて顔が描かれてないのかとかんがえます。彼女たちは、何か落
ちているものを拾っているというところから、この人達が、社会に於いて底辺に
いるというのは飛びすぎなのかもしれないですけれども、ただ、要するに後ろの
収穫のグループに入れてもらえないということを読んでいるということです。何
も指導しないでポーンと絵を渡しているわけですから、その辺が詰め切れていな
いところは、絵を勉強している人達でもないですから仕方がないのではないでし
ょうか。
福井: 身なりとかそういうふうなことも含めて読み込んでもらうわけですか。
三森:
そうです。
21
福井: 底辺の人か、奴隷かどうかはわからないけど。
三森:
そうそうそう。それはまた別のことですね。
福井:
やはり、あまり恵まれていないというところまでは証拠あげて言えるっていう考
え方ですね。
三森:
そうですね。
福井: あと後ろの方に、馬に乗っている人が描かれています。
三森:
そうです。馬上に監督官がます。
福井: 馬上の監督官。
三森:
そうです。後ろの人達は馬上の監督官に管理されながらも、収穫を喜んでるので
すね。手前の人達はその中に入れてもらえなくて、身なりも非常に貧しい。それ
は、今お見せした文章の前の段階にきちんと書いてあるんですよ。その上で、総
合的に解釈してこういう言葉を持ってきてるというところだけを、ここでは見せ
てるわけです。
福井: なるほど。
三森:
これは 1200 字くらい書いていたもののほんの一部です。
(01:00:25)
野村:
すみません。また法律家の悪い癖でにわかに断定しがたいという事を申しますと
ね。
三森:
はい。
野村: 中 3 ですよね。
三森:
はい。
野村: この絵というのはおそらく見たことがあるかもしれない。
三森:
はい、見たことはあるんですね。
野村:
しかも親に連れられて展覧会とか行ったりとか。だったら、小学生でも新聞を読
みますので、中 3 ならばもちろん新聞を読んでこの絵について情報を持ってる人
もいるはず・・・
三森:
中にはいました。はい。もちろんです。
野村:
あそこに例にあげられた子供達がどれほど知っていて、また全く既存の知識無く
この絵を分析したかっていうのはこれだけからはわからないんじゃないか。
三森:
そうですね。ただ私は文章全体を読んでいるのです。彼らはタイトルも知らなか
った。おそらくこの二人は、絵は見たことがあるでしょう。たいていの子がこの
絵を見たことはあります。だけど、ここまでのことまでは恐らく読んだことは無
22
い、そういうことです。
福井:
1200 字のものを書くっていうのは中 3 の生徒には相当大変なことだと思います
が。
三森:
そうです。そこをまず評価していただきたいです。ここだけではなくて。これは
ですから、セッティングから何から全部自分で読んだあげくに最終的にこういう
事も書いていたという、そういうことなのです。
野村:
中 3 ですよね。
三森:
中 3 です。
野村:
中 3 って相当のものを書く。
三森:
書けないです。一般的には。
野村:
そうですか?
三森:
書けません。
野村:
そうかな。
三森:
無理です。
野村:
小学校 6 年生でも・・・
福井:
やはり訓練の成果だとは言えると思うんですけど。
三森:
日本の中 3 では無理です。
福井:
何も与えないでやったらたぶん阪大の学生でも全然書けないでしょうね。
三森:
書けないです。無理だと思います。はい。
福澤:
成果を何にとるかっていうことの問題がひとつ***されていると思うんですけ
れども、この絵そのものは、僕、三森さんに何回もこれを説明を受けているって、
解説を受けているのは初めてじゃ無いんだけれども皆さんの話を聞いてて、この
絵の素材で一応、例えば小学校 6 年生または中学 3 年生をターゲットにしたとき
にどの辺まで何をやらせたいための素材なのか?すなわちエビデンスベースで
言える事っていうのはあまり無くて
三森:
そうですね。
福澤:
実は、要するにエビデンスベースから解釈が入ってくる、そのインテリジェンス
な裏側があるというところに連続的に変化してきますよね、絵というのは。
三森:
これは解釈の段階に入ってるんですね。
森下:
だからどこまでを一応やってくれれば良いとして子供達に言うのかっていうセッ
ティングはどうなんですか。
三森:
ですから証拠をあげて分析ができて、その上で解釈ができるところまで持ってい
23
ければよしとしています。
森下:
だから、解釈も入ってるってことですね、本来。
三森:
入ってます、もちろんです。絵の分析には必ず解釈が入ってきます。それは法律
とは違うということでしょうか。
質問者C: むしろ解釈を奨励しているようなところもあるわけ。
三森:
ですから、解釈が単に感覚的な解釈ではなくて、あくまでも証拠をあげた上で、
その上で解釈に持っていくというのがクリティカルリーディングの基本なので、
まずは書かれてる文や描かれてる事実に基づいて分析をし、その分析をした証拠
を束ねて、そこから解釈を引き出すというのがその次の段階で、さらにその上の
段階がクリティックの段階になります。これは段階的に進むものなのです。この
子達は中 1 からはじめたばかりで、この絵を分析すること自体がまだ 4、5 枚目
です。ですからこれだけできれば十分だし、実際、他のところで日本の子供達に、
大学生であろうと高校生であろうと、これやっても、まずここまでは書けないで
す。1200 字もの文章は書けないということです。
その上でもう一つやってるのが、文章の分析というものです。例えば簡単です
けれど、
『たきび』という歌、皆さんご存じですよね。絵の分析のスキルを、今度
は文章の分析になったときどういうふうに生かすかということなんですが、例え
ばこの詞の季節はいつか、と考えます。
質問者C: 冬かな。
三森:
冬ですね。そうしたら今度は冬の証拠を探します。さっきの絵よりも証拠を探
すのが難しくなります。これは詩だからまだ楽なのですけれども。そうすると例
えば「きたかぜ」という言葉が冬の証拠になります。ただ「きたかぜ」が冬の証
拠になるだけでは弱いので、
「きたかぜ」の定義をします。ちゃんと辞書を引けば
「きたかぜ」の定義はできます。そして、何故「きたかぜ」でもって冬だと言え
るのか、その証拠をきちんと論拠として出します。あるいは「さざんか
さいた」
ですね。「さざんか」は一年中その辺にあるけれども、「咲く」のは秋から冬にか
けてだから、それをもって冬だと言えるわけです。あるいは「こがらし」。それか
ら「しもやけおてて」と。
「しもやけ」というのは手足の指先にできる軽い凍傷で
すから、そこから気温が低い、つまり、冬だといえる、というふうに、ひとつひ
とつ証拠をあげながら何故冬だと言えるのかと考えていくわけです。あるいは、
「ここに一体、何人、人が登場してるでしょう」ということも考えます。だいた
いイラストなんかを見ますと同い年くらいの子達が描かれています。
「 詩には何人
24
の人が登場してるでしょう」と訊くと、だいたい「三人」と出てきます。一人は
たき火を焚いている人、この「きたかぜ」が「ピープー」と音をたててるほど強
く風が吹いている日に、
「たきび」を放置するわけはないから、そこに1人おじさ
んがいるはずだという意見がでてきます。
「おじさん」かどうかは別としても、確
かに誰か焚き火番がいるでしょう。あとはもう二人、
「あたろうか」と一人が言い、
「あたろうよ」と一人が答え、また「そうだん」をしているので必ず二人はいる
ことになります。「ではこの二人がもし同い年だとしたら何歳くらいだと思う?」
と聞いてみるのです。そうするとだいたいいつも結果としては、
「5 歳前後くらい」
と出てきます。その根拠としてはまず「おてて」という言葉を使っているという
ことです。
「おてて」というのは幼児語で、
「手」の幼児語ですから、せいぜい 6、
7 歳ぐらいまでしかつかわない。もう1年生になったら「おてて」はほとんど使
わない。ただ「おてて」という言葉だけだと 2 歳の子供でも使います。ところが
この分析の際には、
「この二人がもし同い年だとすると」という条件を与えていま
す。そこで、
「かきねの
かきねの」と住宅の周りを囲む囲いである垣根が繋がっ
ているところから、場所は住宅地だと考えられますけれども、その住宅地であろ
うと 2 歳の子がたった二人で歩いて、その上、たき火に「あたろうか」、「あたろ
うよ」と判断を巡る相談はできませんから、2 歳では無理だということになりま
す。3 歳も同じような理由で難しい。4 歳になると幼稚園の年中さんくらいだか
ら、4 歳くらいならそろそろ成立するかもしれない。5 歳も成立するだろう。6 歳
も大丈夫だろうということで、4 歳、5 歳、6 歳ぐらいという考えがでてきます。
しかしここで、「4 歳です」とか「6 歳です」と言い切ることはできません。だか
ら「5 歳前後」として逃げて終わりにしようという話し合いになるわけです。こ
ういう事が簡単なものでできるようになると、あとはだんだん対象や扱うテクス
トを難しくしていって、必ず自分の読みを証拠で支えて分析し、さらに解釈し批
判を加えるということができるようになります。
福井:
この教材は最初のころに使うのですか?教材の印象からは学年は比較的低い学年
に使うように思えるのですが。
三森:
これですか?これはですね、だいたい 4、5 年生ぐらいでできます。ただ中学か
ら教える場合は中学 2 年生ぐらいでやっていますし、大学生に教える場合もわか
りやすいのでまずこれを使っています。あとはもう新聞だろうとなんだろうと読
み方は一緒です。特によく使うのがショートストーリーの類ですね。村上春樹の
ような一読しただけでは訳のわからない文章、ああいうものが盛んにこのクリテ
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ィカルリーディングに使われます。その発展系が結局、私が西ドイツでやらされ
た「独ソ不可侵条約がドイツにもたらしたメリット、デメリットを説明せよ」と
いう、高校 2 年生の時の試験の内容なのですが、これも詩の分析と全く同じ事を
やらなければいけないことになります。ということで、この情報分析で育つのは、
分析力と解釈力、批判力、論証力なのですが、それを繰り返すうちにいつの間に
か教養というものが育ってきて、これがあってはじめて色々な人と教養のある会
話ができるようになる事に繋がっていくということです。
福井:
最後にちょっと教養について聞いてみたかったんですが。よろしいですか。
三森:
はい
福井:
教養って結局なんなのかっていうと
三森:
教養が何かという説明は難しいですけれども・・。
福井:言語技術教育では、分析力、解釈力、論証力、批判力といった力を伸ばしていくと
いうことが言われますが、それは結局、情報を体系立てて伝える技術ということ
になってくると思うわけです。
三森:
はい、そうです。
福井:
ただ、ごちゃごちゃと情報を伝えるのではなく、常にどうやって説明するか、つ
まり伝えたい素材とともに、その整理の仕方が合わさっている。それがすっとで
きるというのが教養なのではないかと思うのです。
三森:
そういうものを取り出しながら人と会話したり、議論したりすることができると、
人の情報も受け取って、さらに自分の巾が広がっていくという意味で、本当の意
味で教養を耕していることになるわけなのではないでしょうか。ですから、生徒
達が、長く言語技術を学んだ子達が、
「分析が一番おもしろい」という言い方をし
ます。そしてまたこの分析結果もさき程のエッセイライティングの構造を使って、
必ず自分たちが分析したことを文章に落とさせるっていうことをやっているので
すが、この文章自体もやはりだんだんと洗練されていくんですね。
福井:
つまり、教養ってものは、そういう構造をもってるんだってことです。
三森:
はい、そうだと思います。以上です。
(01:10:25)
野村:
残り時間がわずかになってきましたので逆算をしたいと思うんですが、30 分には
次の会議が始まるということですので、森下先生の方から何かアナウンスメント、
何分くらい、5 分とか
森下:
いえ、特に何か、すごく特別な事があるということではないのかなっていう
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野村:
じゃあ、5 分くらい
森下:
5 分か 10 分くらいで。
野村:
5 分か 10 分くらいで。
森下:
十分だと思います。
野村:
私からのアナウンスとか日程調整がありますのであと 7 分
森下:
僕、5 分くらいで大丈夫です。
野村:
じゃあ、あと 10 分くらい、8 時 15 分まで、ありましらどうぞ。
質問者B: 先生は「言語」っていうことと「思考」っていうこととどういうふうに関係
して考えますか?
三森:
難しいでですね。結局、言語、つまり言葉がないと思考ができないので、こうい
う事を教えていて実感できるのは、賢い子供が育っているなということです。つ
まり、思考、自分で考える力のある子供が育っているなということは実感できる
んですね、学校で教えていても。ですから結局、言語を、言語力を鍛えれば、思
考力が高くなるのではないでしょうか。そういう関係にあるのではないか、と思
っています。
福井:
いや、言語によって思考ってかなり構造が変わってきますよね。物事の整理の手
順も構造を持っていて、それを言葉が形作っている。
三森:
そうですね。整理するのが難しいですけれどね。言葉と思考は、切っても切り離
せない関係にあります。例えばごく普通の中学生で、今まで一回も言語技術とい
うものをやったことがない子達に教えはじめた時に、彼らの考え方は皆一様にぼ
んやりしています。そういう子供たちに、考え方の方法論を、つまり言語技術を
教え、ものの見方や考え方それから思考のための手だてを与えることになります。
そうすると 2 年、3 年経ってきて、例えば高校 1 年生くらいになると、確かに彼
らの賢さが増して、なんて言うのでしょうね、自分たちの力できちんとものを考
え、はっきりとした自分の考えが見えるようには変わってくるなということは実
感できるのです。だから結局、言語技術というか言語力を鍛えることによって、
明らかに思考力は向上していると言えるのではないかと思います。言語技術を鍛
えるには、議論と、授業の中では方法論を教えるために議論を使っているのです
が、それと必ず議論を通して考えたことを文章に落とさせることによって定着さ
せています。それを繰り返して、繰り返して繰り返して、という形をとっていま
す。それが必ず今の日本の受験体制に直結するかというと、これはまた別ものな
のですけれども。ただ、社会に出てからは役に立つ頭にはなっているのではない
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かと言えます。
福澤:
三森さんはスキップしちゃったんだけどもミレーの「落ち穂拾い」の次の絵が
あったでしょ。あれはいわゆる分析という点ではエール大学の医学部が最初に取
り入れて、今、アメリカの医学部ではかなりのところが絵の分析を医学部の授業
に入れているんですよね、実際に。
三森:
エール大学の医学部の1年目に、3 時間、絵の分析がオブザーベーショナルスキ
ルズ(Observational skills)という形で必修になっているのです。それを始めたの
はアービン・ブレーバーマン(Irwin Braverman)さんという博士です。これは、
実際にそこで使われている絵を頂いたものです。彼の絵の分析は、私と全くやり
方が同じです。読売新聞に出ていた記事を読んだのでメールをだしたら、メール
を頂いて、私もエール大学に見に行き、彼も麗澤中学に見に来てという関係にな
り、絵をいただきました。この絵には、実は正解があります。これは実在の人な
ので。例えば「この人は何歳くらいですか?」と訊かれたら、絵の中から全部証
拠をとりださないといけないんですね。何歳くらいに見えますか?
質問者C: 28
三森:
28。もっと若いです。
福井:
10 代の前半くらいとかですか。
三森:
はい?
福井:
10 代の前半くらいじゃないですか?
三森:
前半ではないですけども
質問者D: 20 歳前後くらい・・・
三森:
はい、17 歳ですね、本当の年齢は。それのために、肌にシワがないとか、ヒゲが
ほとんど無いとか、体が妙にきゃしゃであるとかということで証拠を集めていく
のです。あと、エール大学の質問にあったのが、
「この人は生きていますか?死ん
でいますか?」という質問でした。私はそういう訊き方はせず、
「この人は今、ど
んな状態ですか?」と訊きます。すると、だいたい「死んでます」という話にな
ります。しかも、
「自殺だ」と出てきます。それはまずベッドの側の床の上に小さ
な瓶が転がっているということと、目がよく見るとうっすら開いているんですね、
そしてこの胸の所に掻きむしった跡があります。そしてそもそもこの身体の向き
では絶対に寝られないんですね。頭がずり落ちた状態では人間は寝ていられない
ので、無意識でも必ずあちら側、つまりベッドの方に向き直るかこちら側に向き
直ろうとしてドサッと落ちるかどちらかなのです。しかし、この絵の人物はこの
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まま、こうして寝ていられるというところから、もう死んでいると言える。あと
肩が妙にねじ曲がっている、そういうところを読んでいくわけです。エール大学
で、この絵を分析する手法を取り入れた理由は、医者に一番必要なのが観察する
力で、そこから真実を引き出す力が重要だからだということです。
「ドクターハウ
ス」というアメリカの医者のメディカルドラマでは、やはりいつも絵の分析をや
っています。似たようなことを。
福井:
情報を読みとるっていうだけじゃなくてそれを伝えるってこと、正確に伝えるっ
てことが大事ですよね。
三森:
はい。まずはその学生達が何の、どういう病気なのだろうと読むために、情報を
集めて、それを分析する力がいるということで、はじめ細胞を使ったり病巣の写
真を使ったりしてやっていたのだそうです。ところが、細胞やその病巣には、意
味がない。だからいくらやっても学生には見えるようにならなくて、それである
とき学芸員の方に絵を使ってみたらと言われたところ、絵には意味があるので意
味を探りながら考えるとよく観察ができるということが明らかになったそうです。
それで結局、絵画の分析にしたということです。私も幼児に絵の分析をやってい
るからよくわかるんですよ。幼児にこういう絵を見せても、子供なりに意味を取
り出そうとするのです。私がかならず「どうしてそう考えるの?」と訊くと、
「ど
うしてかっていうとね、ここにバラが咲いてるでしょ」とか「煙が出てるよ」っ
て必ず証拠をあげて答えよとするんですよ、4 つ、5 つの子達が。そうやって自
分で意味づけしているうちに、意味づけをしようとするためにより良く観察しよ
うとするのですね。だから観察力と分析力と解釈力がついていくというのがこの
絵の分析です。
福井:
医学部でやる意味というのをもうちょっと掘り下げて考えたいのですが、絵から
情報を引き出して来ると当時に、同レベルの分析力を持った人が対話をするとい
うことが重要なのではないですか。そうだからこそ伝達ミスが減ります。
三森:
そうですね。当然です。
福井:
おそらくは治療法の発見であれなんであれ、高い分析レベルを共有している医学
生たちが共同で分析を行うのですから、うまく行くと思うんです。つまり、言語
技術が議論を広げ、分析を深めていくための土俵になるということです。
三森:
はい、そういうことになりますね。本当にクラス、あるいは教室で一枚の絵を分
析していっても同じような結果が出てくるんですよ。色々な子達が色々な見方を
しているうちに色々な発見をするので、結局、一人の子が一つしか見つけられな
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かった根拠が、複数の子がいれば複数見つけられるので、確実に論証の精度が増
していくということは、もう生徒達がよく知っています。
野村:
言語技術という観点からとらえられていますけども、医学部では、イギリスでわ
りと 1960 年代書かれた本に同じような考え方があるんです。それはむしろ言語
技術ではなく、医学生でも患者を診たりとか「みる」というのは誰でも同じもの
を「みる」じゃない。
「みる」というのは訓練とか学ばなくてもみれるんだという
誤解をもって患者を診ることによって誤診とかが生じるので絵を解釈させる。ま
ず「みる訓練」というのをやり始めたそうなんですね。
三森:
ですからエール大学でもオブザーベーション(観察)と言っています。でも、彼
らにはランゲージアーツが当たり前のように、まず、教育のベースにあるので、
元々こういう事は当然のこととして入っているわけです。例えば、それは美術の
授業で行ったりします。カナダの教員に尋ねたら、これは英語の授業ではやらな
い、それは美術の先生がやるからっていう、そういうおっしゃり方をしました。
ドイツでは、ドイツ語の授業にも入っていますが、美術でもやっています。日本
では誰もやってくれないので、言語技術の中に入れて、私はよりはっきりとテク
スト分析と繋げたわけですけれども、元々は別に言語技術としてやる必要がある
かどうかはわからないです。
(01:20:15)
質問者E: 視点を変えるっていうことでアメリカの教育学者が私に教えてくれたことで
すけど、彼がやってるのは、学生達をチームに、3 人ないし 5 人くらいのチーム
にしてキャンパスに連れて行きまして、キャンパスを見て、例えば、エンジニア
の目で見て、エンジニアの目で見るか、あるいはキャンパス****の目で見て、
あるいは美術の目で見るか様々な視点から同じくキャンパス周りを見て、後から
報告する。そのキャンパスを改革などの視点から、それぞれの観点から議論させ
ていくということですが、同じように法科大学院の授業で、例えば日本の法学教
育改革などについて、それを例えば法曹の観点か法律事務所の観点から見る場合
か、あるいは大学の側からみるか、あるいは小学校、中学校のなどの観点からみ
るということで、学生のチームも 5 人くらいのチームにして報告させるとさすが
に学生達は一生懸命、なるほど、こういう観点からみるとだいぶ違って見えるっ
ていうことがわかりますので、しかも活発な議論ができます。それもひとつのあ
るいは法科大学院で使える***ではないと思います。
三森:
たぶん私が教えているのはその前の段階ですね。おそらく、アメリカの学校なん
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かですと、その前の段階でもっとこのポイントオブビュー(point of view)として
色々な事をやっていて、その上に今おっしゃったようなことが乗っかると思いま
す。ところが、日本ではゼロなんですね、そこが。
質問者E: これは東大の法科大学院でやってきまして、結構、学生達ものりますけど。
確かに先ほどから聞いて、確かに絵の分析は私の小学校とかから高校まではそれ
はほとんど無かったのですけれども、あとのところはほとんどアメリカでやって
いましたので
三森:
あとのところは全部あるはずです。
質問者E: はい、もちろんです。そうなんです。日本はどうなってるのかと思ったもん
ですから
三森: そうです。日本はどうなっているのかという状態なんです。本当にそうなのです。
日本人が国際的な競争力がないっていうのは、こういうものが全部欠けてるのに
同じ土俵で戦わなければいけないということで競争力無いんだと私は思っていま
す。ですからこういう教育がきちんと入った上で、英語なりなんなりが乗っかっ
て、議論を、国際的な議論をするとなると、共通基盤として同じものの考え方、
認識の仕方があるわけですから、それが使えるのと使えないのとでは、結果が大
きく違うんじゃないかと私は考えています。それは自分の経験から言っているの
です。そして日本の国語はまだまだ変わりそうもないです。一応、今年の指導要
領から言語技術が入ることは入るのですけれども、ただ、教えられる人がいない
ので、大学で教えた方が早いという状況ですね。
野村:
是非、文科省の人達を教えてあげて欲しいと思います。
三森: 文科省の指導要領の改訂の議論のところに入っていたんですよ、実は私も。だた、
結局、教えられる先生を育てるのにまだ何十年かかってしまうので、それを期待
しても無理なのですね。だから、まず大学は大学で、ご自分達で行動を始めたほ
うがよろしいでしょう。始めないともう間に合わないです、正直言って。そんな
状況です。
野村:
おもしろかった。ありがとうございました。
(01:23:56)
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