◆申し込み:TEL・FAX:025-222-2676 Eメール[email protected]で砂丘館へ。 FAX、Eメールで ◆ 休館日 : 月曜日 (9/19は開館)、9/20、23 お申し込みの方は催事名、申込者氏名、電話番号、人数を併記して下さい。 ◆受付開始日:8月7日 主催:砂丘館(指定管理者 新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体) 後援:新潟日報社 水と土の文化創造都市 市民プロジェクト2016 ◆ 会場:砂丘館ギャラリー (蔵)ほか ◆ 観覧無料 海にかかる橋を ―― ◆セミナー会場:砂丘館 座敷・居間・茶の間 ◆参加料:1∼3 ¥800・定員20名/4¥1,000・定員30名 想像しよう 2016 / 8 / 23( 火)- 10 / 2( 日)9:00-21:00 金 時 鐘 の 長 篇 詩 集﹁ 新 潟 ﹂を め ぐ っ て +阪田清子(美術家)+藤石貴代(新潟大学准教授・朝鮮近代文学) カク・ヒョンドク キム・シジョン セミナー4 ラウンドテーブルトーク「金時鐘の「新潟」を新潟で読む」 9月27日(火)13:30-15:30 金 時鐘+郭 炯徳(韓国語訳「新潟」翻訳者・韓国科学技術院KAIST教授) 在 日 の 詩 人 金 時 鐘︵1929 ̶ が ︶ セミナー3 沖縄で読む「新潟」と作品が生まれるまで 9月24日(土)15:00-16:30 阪田清子 聞き手:大倉宏 1970年 に 発 表 し た 長 篇 詩 集﹁ 新 潟 ﹂が 、 阪田清子展 対岸―循環する風景 セミナー2 長篇詩集「新潟」と「帰国事業」の時代 9月16日(金)19:00-20:30 森沢真理(新潟日報論説編集委員室長) 半 世 紀 の 時 を 経 て 、新 潟 を 、海 を 、 セミナー1 ま新しい潟をもとめて̶̶いま金時鐘を新潟で読むこと 9月9日(金)19:00-20:30 細見和之(詩人・京都大学教授・大阪文学学校校長・ドイツ思想) 列 島 と 半 島 の 境 を 、現 代 史 を 照 射 す る 。 金 時 鐘 の﹁ 新 潟 ﹂を 新 潟 で 読 む セミナー 長篇詩集「新潟」は、在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国事業」を日本が官民あげて支援した1950年代末より構想さ れ、日本語による詩作が指弾され、北朝鮮への渡航が拒否された時代に書きつがれ、 「 発狂しなかったのが不思 議だった」ほどの精神的苦境期に完成しながら、公表まで約10年を要した、複雑な構成をもつ叙事詩である。分 断された祖国を隔てる国境という壁を突き抜く道を、日本という場所で、詩的想像力によって生み出そうとし たこの壮絶な試みを、帰国事業の受け入れ港であり、詩の舞台となった土地、新潟で読み解きます。 写真/阪田清子「対岸について」 ( 映像作品20分)長篇詩集「新潟」より(詩:金時鐘) 同時開催 新大付属 特別支援学校 新潟国際情報大学/新潟日報社 連携 文化講演会 金時鐘「詩について思うこと、考えること」 ● 2016年9月25日(日)14:30∼16:00 どっぺり坂 (階段) ◆協力:砂丘館 新潟中央キャンパス9階講堂 新潟市中央区上大川前通7 ◆申し込み:往復はがき、 またはEメールで住所、氏名、年齢、電話番号、 「金時鐘講演会」と明記し、下記の住所・アドレスまで送る。 新潟駅万代口より浜浦町線C2系統または 観光循環バス乗車「西大畑坂上」下車徒歩1分 ◆申し込み締切:9月12日 (月)必着 ● 消防署 ● 新潟小学校 ● 中央警察署 ● 日銀 ● 新潟市 美術館 ★ ● 西堀地下駐車場入口 ※砂丘館には駐車場がありません。 また、 周辺の道路は駐車禁止です。公共交通機関をご利用ください。 ※新潟市西堀地下駐車場をご利用の方は駐車券提示にて1時間分の無料券を差し上げます。 TEL 025-227-7111 私たちは砂丘館の自主事業を応援しています。 株式 会社 新潟ビルサービス 郷土の文化に親しむ会 ワークショップ「海水から塩を作る」 8 / 27( 土)13:00-15:00 *海水から作られた塩の結晶が作品の素材で使われています。 今回は浜辺へ海水を汲みに行き、それを煮て、阪田さんと塩を作ります。 *ワークショップ後、斎藤文夫さん(郷土史家・写真家)から新潟の塩作りについてお話をお聞きします。 ◆ 講師:阪田清子・斎藤文夫 ◆ 参加料:¥1,000 ◆ 定員:20名 ◆ 会場:砂丘館 NEXT21 広小路 〒951-8068 新潟市中央区上大川前通7-1169 新潟国際情報大学中央キャンパス宛 Eメール:[email protected] 三越 ● 西堀通 安吾 風の館 ● 至萬代橋 指定管理者 新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体 東中通 柾谷小路 新潟市中央区西大畑町5218-1 TEL・FAX.025-222-2676 Eメール [email protected] ◆定員:150名 (先着順・入場券を送付)/聴講無料 株式会社 ● 旧齋藤家別邸 西大畑 ◆会場:新潟国際情報大学 ◆問い合わせ:新潟国際情報大学中央キャンパス ★ 西大畑坂上 ◆ 申込:TEL・FAX・Eメールで砂丘館へ ギャラリートーク「対岸―制作風景と作品について」 8 / 28( 日)14:00-15:30 ◆ 阪田清子 ◆ 聞き手:大倉宏 ◆ 参加料:¥500 ◆ 申込不要 (直接会場へ)◆ 会場:砂丘館 長篇詩集「新潟」 共に過ごした時間について 無二のそれらがなぜ不在に なったのかを わたしは知りたい 例えば ひとつの 中に存在する相違なるものについて あるいは かつて 存在したものが密やかに喪失していくことについて それらを語ることができないのは このうえもなく悲哀で 残酷なこと 国家間や民族間を わたしとあなたの間を 拘束の煩悶を 小勢の隠蔽を わたしは拾い集める それらは不確かな立ち位置の集合体となり 儚くも力強く 幾通りもの答えを抱き 不在を希望へと 変えてくれる ことだろう 阪田清子 例えば あなたと共に生きた場所について あるいは さかた きよこ 現代美術家。1972年新潟県生まれ。沖縄県立芸術 *1950年代末から1980年代にかけて行なわれた在日朝鮮人とその家族の、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への 集団的な永住帰国あるいは移住事業。新潟赤十字センターで渡航者の最終意思確認と手続きが行われた。 大学大学院造形芸術研究科修了。主な展覧会に、 「ニイガタ・クリエーション」新潟市美術館(2014/ 新 潟 )、 「アジアをつなぐ ̶ 境界を生きる女たち 1959年に新潟から北朝鮮への「帰国事業」* 第一便が出港した 翌年には原稿がほぼ出来上がっていたと言われる。しかし当時詩人が 属していた組織から、日本語による詩作や表現が激しい批判にさらされ、 原稿の散逸や消失を恐れた詩人は小型の耐火金庫に保管していたという。 出版は1970年になって実現した。全体が「雁木の歌」 「 海鳴りのなかを」 「 緯度が 見える」の3部構成をとる壮大な叙事詩である。刊行の翌年詩人の高良留美子は「三千 行をこえる長詩『新潟』は、日本のなかや朝鮮(韓国)のなか、また日本と世界のあいだに すでにこしらえられている道を拒みながら、別の道、まったく新しい道をつくり出そうとする 苦闘にみちた作品」と評した。 長篇詩集「新潟」の関連セミナーを開催します。詳細は裏面をご覧ください。 長篇詩集「新潟」 ( 1970) 韓国語版(2014) 1984-2012」 ( 2012/福岡アジア美術館/沖縄県立博 物館・美術館/栃木県立美術館/三重県立美術館巡 回展)、 「 VOCA展」 ( 2010/上野の森美術館)、 「沖 しっくりこないこと 縄プリズム1872-2008」 ( 2008/東京国立近代美術 館 )、 「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエン ナーレ2006」 ( 2006/新潟松之山エリア)など。 (ステイトメントより) 日 本 海 / 東 海 と 呼 ば れ る 海 は 、大 韓 民 国 、朝 鮮 民 主 主 義 人 民 共 和 国 、日 本 、ロ シ ア 連 邦 に 囲 ま れ て い る 。そ の せ い か 新 潟 の 海 岸 線 を 歩 い て い る と 、様 々 な 言 語 の 漂 流 物 が 岸 辺 へ と 打 ち 上 げ ら れ て い る 。風 が強い荒波をあちらへこちらへと漂流を続けてい 阪田清子に砂丘館で展示をしてほしいと思ったのは、 られ、のめりこんだのは、おそらくそこにもまた「しっく 2 0 1 4 年 新 潟 市 美 術 館 で 開 催 さ れ た「 ニ イ ガ タ・ク リ エ ー りこない」感覚の豊穣を感じたためだった。沖縄にいて、 シ ョ ン 」と い う 展 覧 会 で 彼 女 の 作 品 を 見 た と き だ っ た 。 新潟との往復を続けながら制作する阪田の表現が、皇国 新潟県上越市生まれで沖縄県立芸術大学で学んだ阪田 少 年 と し て 日 本 の 植 民 地 下 の 朝 鮮 で 育 ち 、終 戦 と と も は、以後沖縄に拠点を置いて制作、発表を続けている。沖 に 、祖 国 統 一 の 運 動 に 関 わ る こ と で 祖 国 を 追 わ れ 、日 本 縄に行く前には新潟デザイン専門学校に学んだ時期が 語 で 詩 を 書 く こ と を 批 判 さ れ 、新 潟 を 出 港 地 と し た「 帰 あ り 、そ の 時 私 は 、講 師 と し て 彼 女 が 在 籍 す る ク ラ ス を 国 船 」に 乗 れ な か っ た 在 日 の 詩 人 の 言 葉 が 、な ぜ 私 を か 教 え た 。そ う し た 個 人 的 つ な が り は あ っ た も の の 、そ れ く も つ か む の か 。そ れ は 新 潟 と い う 土 地 が 、そ こ に 生 活 だ け で な く 、何 か 、彼 女 の 作 品 に 微 妙 に 感 応 す る 自 分 が する私自身が、なぜか「日本」にしっくりはまらないと感 いたのだと思う。 じてきたからではないか。 「しっくりこないこと」という言葉がうかぶ。大学の卒業 対岸とは、つまりどちらでもなく=どちらでもあるこ 制 作 の 木 漏 れ 日 に 差 し 出 さ れ た 手 の 写 真 が 、心 に 残 る の と 、こ こ と こ こ で な い 場 所 を 揺 れ 続 け る こ と で あ り 、見 は 、日 向 で も 日 陰 で も な い 場 所 、ま だ ら な 場 所 に 自 分 は えにくいことではあるが、それは洪水でたえず耕地をく い る と 言 っ て い る よ う な そ の 手 の 姿 に 、私 自 身 が 重 な る ずされ、川を刻むことで、水を痩せさせ、港町でありなが 指 で な ぞ り な が ら あ た り を 見 回 す 。そ れ は 、誰 か ら 感 覚 が あ る か ら か も し れ な い 。こ こ で も な く 、そ こ で も ら 、土 砂 を 河 口 に 堆 積 さ せ て 寄 港 す る 船 を 失 い 続 け 、近 来 た の か 、誰 に 届 く の か 、宛 の 無 い 無 数 の 手 紙 が 散 ない。あるいはここでありながら、そこでもある。そのよ 代化の進展とともに日本の「裏」に押しやられ、豊かな湿 うな、しっくりと定義できない、永遠にはぐれたような、 地を単調な田に変えつづけてきた、北陸にも、関東にも、 はみでた場所、存在、ありよう。 東北にもしっくりはまらない新潟の、そこにかつて住む 「 ニ イ ガ タ・ク リ エ ー シ ョ ン 」で 展 示 さ れ た 椅 子 の 、座 こ と を 選 ん だ 私 自 身 の 、鏡 像 で あ り 、似 姿 で も あ る か ら 面 に 過 剰 に 植 え 込 ま れ た 脚 は 、椅 子 の 脚 で あ る こ と を は ではないか。 大倉 宏(美術評論家・砂丘館館長) み だ し 、風 を は ら ん だ ま ま 静 止 し た カ ー テ ン は 、カ ー テ た の だ ろ う 、ど れ も 傷 が ひ ど い 。そ の ひ と つ を 手 に と り 、か つ て の 所 在 地 だ っ た 彼 方 の「 対 岸 」に つ い て 想 い を 巡 ら せ た の は 、2 0 1 3 年 夏 の こ と だ っ た 。傷 を 乱 す る 光 景 に も 思 え た 。そ し て 、そ の 長 く 険 し い 漂 今 回 の 展 覧 会 の 作 品 の 一 部 に 、敬 愛 す る 金 時 鐘 氏 の 長 篇 詩 集「 新 潟 」を 引 用 さ せ て 頂 い て い る 。詩 の 背 は 皆 無 で あ り 、浅 は か な 行 為 か も し れ な い 。し か し 、 私にとって確実だったことは金時鐘氏の詩が傷と い う 痛 み と と も に 共 同 性 を 想 起 さ せ 、言 葉 で は 表 せ ない 何 か を 受 け 取っ た と い う 感 触 だ っ た 。 キム・シジョン 詩人。1929年釜山生まれ。済州島で育つ。48年の済 州島四・三事件を経て来日。50年頃から日本語に よる詩作を始め、53年詩誌『ヂンダレ』創刊。在日 ン で あ り な が ら 、カ ー テ ン で あ る こ と か ら 、は ぐ れ よ う とする。 「 対 岸 」と 題 さ れ た 今 回 の 展 示 の 構 想 を 彼 女 が 抱 い た 朝鮮人団体の文化関係の活動に関わるが、運動の の は 、新 潟 の 浜 辺 で 作 品 の 素 材 と な る 流 木 を 拾 っ て い 路線転換以後、批判を受け組織運動を離れ、日本 て 、ハ ン グ ル が 印 さ れ た 漂 着 物 が 多 い こ と に 気 づ い た と 語による詩作を中心に、批評、講演などの活動を 続ける。詩集に『地平線』 ( 1955/ヂンダレ発行所)、 きだったという。それらはまさに、それらが生み出され、 使われた場所――むこうから、はみ出して、こちらにやっ 日本海/東海を交差しながら、 「 こ ち ら 」と「 あ ち 『日本風土記』 ( 1 9 5 7 / 国 文 社 )、長 篇 詩 集『 新 潟 』 ら 」を 差 し 替 え 、見 え な い 互 い の「 対 岸 」に つ い て 想 ( 1 9 7 0 / 構 造 社 )、 『光州詩片』 ( 1 9 8 3 / 福 武 書 店 )、 て き た も の た ち だ っ た 。新 潟 の 海 は 朝 鮮 半 島 の 対 岸 と い 像 で き な い だ ろ う か 。こ の 目 前 の 海 岸 へ 打 ち 上 げ ら 『原野の詩』 ( 1991/立風書房)、 『 化石の夏』 ( 1998/ 海風社)、 『 失くした季節』 ( 2010/藤原書店 高見 う 視 点 を 得 る こ と で 、日 本 海 と い う 呼 称 を は み 出 し「 東 れ た 宛 の 無 い 無 数 の 手 紙 た ち と 、往 復 書 簡 を 始 め る こと は で き な い だろ う か 。 阪 田 清 子 順賞受賞)など。2015年四・三事件の記憶をはじめ て 綴 っ た 自 伝 的 回 想 記『 朝 鮮 と 日 本 に 生 き る 』 (2015/岩波書店)で大佛次郎賞を受賞。 海 」に な る 。今 回 の 展 示 で 阪 田 は 東 海 と 日 本 海 を 向 か い 合わせるが、その作品に引用される長篇詩集「新潟」の作 者 金 時 鐘 は 、そ の 詩 で「 ぼ く は 船 腹 に 呑 ま れ て / 日 本 へ 釣 り 上 げ ら れ た 。/ 病 魔 に あ え ぐ / 故 郷 が / い た た ま れ ずにもどした/嘔吐物の一つとして/日本の砂に/も ぐりこんだ」と書いていたように、自分の居場所から、歴 史の変転によって、幾重にもはみだし、押し出され、その は み だ す こ と 、永 遠 に し っ く り で き な い 場 所 に 詩 を 、言 葉を、生きることを置いてきた人であった。 私は阪田に金時鐘を、 「 新潟」を、教えられたが、たちま ち そ こ に 、そ の 背 景 を 知 る よ う に な る 前 か ら 、引 き つ け 阪田清子「自画像」1999年 写真 54×36cm 景にある壮絶な体験を私などが全て理解すること 金 時鐘 流の 道 の り に 想 像力 を 傾 け て み る 。
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