日本国際観光学会論文集(第19号)March, 2012 ネパール観光産業の現状と問題点 カルカ・クリシュナ・バハドゥル 創価大学・大学院経済学研究科博士後期課程 This thesis is going to discuss on the present situation and the problems of Nepal tourism industry. This research has been conducted using secondary data and the personal hearing by this researcher to the some related persons of Nepal tourism industry and the field experience for long years of researcher in Nepal travel and tourism sector. Mainly the research observed to Nepal tourism development stages and government policies and tried to clear out the present major problems of Nepal tourism industry. 1.はじめに し、文化・民族はかなり多様で、豊かな観 界旅行産業会議 (WTTC)のデータ、ネパ 20世紀半ば以降、観光産業はグローバル 光資源を享受している。すなわち、ネパー ール政府が定期的に発表している統計と国 化の進展と共に世界諸地域に広がっていっ ルは自然と文化が豊富であり、世界で最も 家計画、ネパール観光に関係する方々との た。この産業は、今や世界のGDP、雇用 魅力がある観光地のひとつになっている。 聞き取り調査、そして、筆者自身のネパー に約1割を占める巨大な産業となっており、 観光産業は外貨獲得の第一の資源であり、 ル観光産業での経験を用いた。 世界経済の中でも非常に重要な位置にある。 ネパールの経済にGDPの2.4 ∼ 4%貢献す 発展途上国といわれる国のなかで、後発と るまでになっている。また、関連産業を含 2.ネパール観光産業の発展の動き 位置づけられる南アジアのネパールでは、 む全観光産業の就業人口は、2011年にネパ 森本泉 (1998) によれば、ネパールの観光 産業化が遅々として進まない状況下で、自 ールの全雇用者数の約7.6%に相当する95 産業は、 (1)ヒマラヤ登山期 (1950年代∼ (1) 然資源・文化資源を活用した観光業が、一 万2400人となっている 。 60年代) 、 (2) トレッキングおよびヒッピー 時期、農業に次いで重要な産業となってい 発展途上国ネパールの経済と社会の発展 期 (1970年代∼ 80年代前半) 、 (3)マス・ツ る。つまり、発展途上国ネパールにとって、 のため、非常に貴重な役割を果たしてきた ーリズム期 (1980年代後半以降)との3段階 観光産業は、就労機会や収益を生み出すと 観光産業におけるヒマラヤ、トレッキング の発展期がある。山本勇次 (2006)によれ いう利点と共に外貨獲得の重要な手段とし 地域、エコ・ツーリズム、文化的観光など ば、この3発展期説が発表された以後加筆 て、最も重要な産業のひとつである。 にいくつかの先行研究が存在するが、この 修正されており、 (3)マス・ツーリズム期 世界 最 高 峰 エ ベ レ ス ト 山 (8848メ ー ト 産業開発の問題を探る研究はない。本稿の は1980年代∼ 99年までと修正され、さら ル)をはじめ、標高8000メートルを超える (4)下降期 (2000年以降)との4段階の発 目的は、ネパール観光産業について検討し、 に 巨峰8座を含む、東西800キロメートルに及 観光開発の問題を論じることである。本稿 展期が加えられた。実際は、この4発展期 ぶネパール・ヒマラヤは、現在ではヒマラ の第2節では、ネパール観光産業の発展段 説が発表された以後をさらに修正すると、 ヤ登山の最も華々しい舞台となっている。 階を概観し、第3節では、これまで策定さ (4)下降期は2000年∼ 2006年までと修正さ ネパールは、これからの世界経済の舞台上 れた5 ヵ年国家計画を中心とした観光開発 れ、新しく (5)新ネパール・ツーリズム期 でとりわけ大きな役割を演じることが明ら 計画を検討する。そして第4節でネパール (2007年∼現在まで)との5段階の発展期が かである中国とインドの間に位置する国で 観光の現状を観察したのち、ネパール観光 あると筆者は考えている。 あり、世界有数の高度差・環境差をもち、 産業における問題を明らかにする。本稿の 本節では、 ネパール観光発展の第1期「ヒ そこに四方からさまざまな人・文物が流入 資料として、世界観光機関 (UNWTO) 、世 マラヤ登山期」から第4期「下降期」まで −13− 日本国際観光学会論文集(第19号)March, 2012 図−1 1962年から2011までのネパールへ訪れた観光客の動き 出所:ネパール観光省観光統計2011年を基に筆者作成, ネパール観光省のHP http://www.tourism.gov.np/uploaded/statistics2011.pdf,Retrieved 2012.1.20. を述べ、第5期「新ネパール観光期」は第4 節で述べる。 (1) ヒマラヤ登山期 ネパールは19世紀中頃から、インド以外 駆け巡ると、ネパール国とヒマラヤ登山の (2) 人、1965年 に、9388人 だ っ た が、1975年 魅力が世界中に周知される機会となった 。 には9万2440人とほぼ10年で約10倍増加し 1950年代はヒマラヤ登山の黄金時代で、欧 た。さらに1975年から1980年には16万2897 米日の登山隊が、国の威信をかけてヒマラ 人へと5年間で150%以上の急増加が見ら ヤ巨峰に挑んだ。 れた。これは1970年代後半から、欧米日か との国とは実質的な鎖国政策をとっていた。 1960年代半ばまでは、インド人を除く外 らの観光客に続いて、韓国、台湾、香港、 民主主義の導入、国連への加盟への動き、 国人の入国者数は、1万人足らずで、カト 中国など東アジア諸国からの観光客が多く 王権の復活などにより、1846年から続いた マンズを主とする国内のホテルのベッド数 来るようになったことに由来する。さらに、 ラナ家摂政政治が、1950年に終焉を迎えた は400に 満 た な か っ た。 し か し な が ら、 1980年代に入ると、インド人観光客、主に 契機にネパールは開放政策に切り替え、外 1960年代後半に入ると、観光そのものを目 夏の避暑客と新婚旅行客が大勢ネパールに 国人の観光旅行にも門戸を開くようになっ 的にネパールを訪れる人々の数が急増して 来るようになった。 ていた。この門戸開放によってまず盛んに きた。1962年から1969年の外国人の入国 この1970年代には、アメリカをはじめと なっていったのはヒマラヤの登山であった 増加は年率29%であった。1965年に9388 した欧米のヒッピーたちが第3世界を放浪 ため、ネパール観光産業の発展段階である 人であった外国人の数はその5年後の1969 していた時期に重なる。ネパールもヒッピ 1950年から1960年代は、第一期ヒマラヤ登 年に3万4901人までに達し、3.7倍の増加が ーの聖地としてユーラシア大陸を横断した 山期といわれる。この第一期のヒマラヤ登 見られた。 最後のデスティネーションとして人気を集 山期は、1950年、仏国隊モーリス・エルゾ ーグがアンナプルナⅠ峰で人類初の8000 めていた。その頃にカトマンズの旧王宮バ (2) トレッキング・ヒッピー期 サンタプルのすぐそばに、フリーク・スト メートル峰の登頂に成功したことによって 1972年にネパールのビレンドラ国王は、 リート (Freak Street) と呼ばれるヒッピー 幕が開けられた。続いて1953年5月29日に 西独と共同作成した「ネパール・ツーリズ の溜り場が形成され、その俗称の通り多く は、英国隊エドモンド・ヒラリーとネパー ム・マスタープラン」を採択し、以後20年 のヒッピーが麻薬を服用してたむろしてい ル人シェルパ、テンジン・ノルゲイが世界 間のネパール政府のツーリズム開発の基本 たという。今では、 「Freak Street」と書 最高峰エベレストの初登頂に成功した。そ を示した。ビレンドラ国王こそがネパール かれた看板がたてられ、観光客がその名残 の翌日6月2日が英国新女王エリザベス2 観光立国政策の創始者であると言われる。 を見に訪れ、1種のツーリズム資源化した。 世の戴冠式であったことから、このエベレ このマスタープランでは、ポカラは観光産 1970年代半ばにアメリカ政府の援助によ スト初登頂は英国式の新女王戴冠式への御 業開発の拠点として期待され、1970年代以 り、それまで自由に行われていた麻薬売買 祝儀と解されている。後日、エリザベス女 降にはヒマラヤ登山が大衆化するなかで が禁止され、やがてヒッピーの足も遠のい 王がこの時の登山隊長ハントと登頂者ヒラ 「トレッキング」が流行し、エベレスト・ リーに勲爵士 (サー) の称号を授与している コ−スとは別に、ポカラからアンナプルナ のは、この御祝儀への返礼であると考えら に向かうトレッキング・コースにも観光客 れている。そしてエベレスト初登頂と英国 の人気が集まりだした。ネパールへの観光 1980年代後半から外国人観光客の中に 女王戴冠式のダブル・ニュースが世界中を 客総数 (インド人を除く) は、1963年に7275 は、アルピニズムの大衆化で始まったトレ −14− ていく。 (3) マス・ツーリズム期 日本国際観光学会論文集(第19号)March, 2012 ッキングを楽しむ観光客が大幅に増えてき 降減少にいった背景にあるのは、1999年末 段としてまずは輸出産業の拡大が挙げられ、 た。1995年のトレッキング許可証の発行数 にネパール最大の観光市場であるインドと 次いで観光の導入が指摘された。この時、 は、インド人以外の外国人観光客総数の34 ネパールを結ぶ主要空路でハイジャック事 ネパールの観光資源として挙げられたのは、 %に当たる8万4787件になる。こうしてネ 件が起こり、その後、当該事件が起きたイ ヒマラヤをはじめ自然的なものであった。 パールへの国際観光客数は、1986年の22万 ンディン・エアラインが5ケ月間、両者間 第2次3ケ年計画は1962年に発表され、主に 3331人から伸長し続けて1999年には49万 のフライトの就航を取りやめたことが大き 旅行代理店の設立、宿泊施設の増強、宣伝 1504人のピークを迎えたのであった。国際 い。これに加えて2001年6月、ネパール王 が提起された。この計画は、ネパールの観 観光客の出身国の内訳の推移は、1990年前 室をめぐって王宮内で惨事が起こり、その 光資源として自然と共に文化資源も指摘さ 後から大きな変化が見出せる。大きな変化 ニュースはネパール国内のみならず世界を れた。1965年に施行された第3次5ケ年計画 とは、それまで欧米からの観光客が大半を 震撼させた。 では、航空運送とホテル施設の増強に観光 占めていたのが、日本をはじめアジア各国 また1996年に始まったマオイスト (毛沢 開発の焦点が定められた。この計画期間に からの観光客が増加したことである。日本 東主義)のゲリラ活動が激化したことなど カトマンズにおける都市観光開発が初めて をはじめとしたアジア諸国も増加し、アジ をきっかけに治安状態があまりよくないこ 注目された。1970年に施行された第4次5ケ アからの観光客数が半数以上を占めている。 と、政情不安定などから観光客は減少傾向 年計画はネパール観光開発の扉を開いた。 1990年代にネパール全体におけるホテル にあった。この減少の第一の理由は人民戦 この計画では、ツーリズム・マスタープラ 数も急増していることが分かる。この背景 争の戦闘情報が新聞テレビで世界に伝達さ ンの調査・構想や、宣伝、カトマンズ以外 にあるのが1990年の民主化の達成とそれ れたことである。釈迦の生国ネパールのイ の観光地の開発、観光サービスに関する訓 に伴う経済の自由化である。また、国を挙 メージが物騒なゲリラ、テロや戦争のイメ 練などに具体的に提起された。第4次5ケ年 げての観光推進の初めの試みであった ージに塗り替えられると、観光産業のダメ 計画 (1970 ∼ 1975)の期間に観光客数は毎 1998年のVisit Nepal Year 1998のために、 ージは甚大である。 年40%増加し、カトマンズ、ポカラ、チト ホ テ ル の 開 業 が 相 次 い だ。Visit Nepal 2000年から2006年の7年間、ネパール観 ワン、ルンビニとクンブ地域に様々な規模 Year 1998に観光客数の目標が50万人であ 光産業は混乱になり観光産業に関する企業 のホテル設備の設置と必要な最低限のイン ったが、1998年の観光客数は目標に4万人 も生き残るかどうかに左右された。この下 フラ整備も開発させ、地域的、歴史的、文 届 か な か っ た。 前 年 比 で9.9 % 増 加 し 降期で最も激減になったのは2002年であ 化的な誘致を注目させた。 463684人であった。観光産業による収入は るが、その後、2003年から2006年までの 国連機関の協力を得てツーリゾム事態調 1997年の1億1千5百90万米ドルに対し、32 観光客数は38万前後と低迷した。1999年の 査や開発計画の構想が行われるようになっ %増の1998年には1億5千2百50万米ドルと、 49万も超えた観光客数は2006年まで8年間 たのが、西ドイツとネパールの協同調査を 驚 異 的 な 成 長 を 遂 げ た 。Visit Nepal の間に増加より減少の比率が高くなってい 踏まえて1972年に公表された「ネパール・ Year 1998をはじめとする様々観光ソロー った。 ツーリズム総合基本計画」 (以下マスタープ (3) ランと記す)である。このマスタープラン ガンと政策を掲げ観光産業に取り組んでい た結果、1999年にネパールへ訪れる観光客 3.ネパール観光開発国家計画 数は2006年までの最大の数で49万1504人 ネパールは自然と文化資源が豊富な国で、 リズム開発の基本とされる。しかし、ネパ のピークを迎えたのである。 世界の注目された観光地となっていたが、 ールにおける地域開発計画としては、1969 図−1に示したように1994年から1999年 ネパールの観光産業はいまだに遅れている 年、Krishna Raj Pandey を 主 幹 と す る のネパール観光客数は順調に上がっていっ 現状が見られる。観光産業の発展のため、 “The Physical Development Plan for The た。この背景には、ネパール国内にも政治 ネパールの政策がどうなっているのか、観 Kathmandu Valley”が代表的なものとし 的に内戦や自然的な被害などもあまりなか 光開発には計画と政策の問題かそれが実行 てあげられる。1972年、1984年の2度にわ ったことと共に、国際的に政治経済システ の問題かと大きな疑問である。本章では、 たるドイツプロジェクトチームによる観光 ムの変革もあったと考えられる。 ネパール観光開発においてネパール政府に 資源の発掘と保全開発は、首都カトマンズ よって発表された計画と政策について検討 から近く古都バクタプルの発掘保全計画の する。 マスタープランBhaktapur Town Develop 2000年に入ると、ネパールへの国際観光 ネパールにおける経済開発のナショナル ment Plan, 1977 客が減少してきた。2002年には30万人代に プラン (5ケ年計画)がはじめて施行された Bemherd Kolver 減り、その翌年からは若干持ち直し37万、 のは、1956年のことである。現在は第12次 concept and functions in a town of 38万人代で停滞する。1999年まで観光客の 3ケ年計画が実施されている。1956年に施 Nepal,1975などの優れた計画書・報告書が 統計は年々増加傾向にあったが、2000年以 行された第1次5ケ年計画では、外貨獲得手 ある。 (4) 下降期 −15− が今までのナショナルプランにおけるツー やNiels Gutschow and のOrdered Space 日本国際観光学会論文集(第19号)March, 2012 表−1 ネパール観光国家計画と業績 出所:ネパール定期的国家計画資料の基に筆者作成 1998年 に 施 行 さ れ た 第9次5ケ 年 計 画 第5次5ケ年計画 (1975 ∼ 1980)期間に第 源の保護することである。 4次5ケ年計画で誘致された歴史的、文化 第7次5ケ年計画は1990年までだが、第8 (1997-2002)の目的は総合的な経済発展の 的、地域的観光開発が強化された。1981年 次5ケ年計画は2年間を遅れて1992年に施 ため、宣伝と販売促進を通して世界観光市 に施行された第6次5ケ年計画 (1980-85)の 行された。この背景には、ネパール国民に 場を広げ、外貨収益、収入世代と雇用機会 主要な政策は山岳観光、観光調査、研究、 より第1の民衆運動が起き、1990年に民衆 を高めることであった。カトマンズにおけ 遠隔地観光開発、観光案内所を強化するこ 化を導入し、その後、国の政経と憲法も取 るカルチャーツアや聖地巡礼、コンフェレ とであった。この計画期間には自然保護が り換えたことがある。1990年に達成された ンス・観光などにも注目された。この計画 ナショナルプランにおいて本格的に取り組 民主化の影響でネパール観光産業の展開に 期間の1998年にアメリカのラディソンと まれるようになった。これまで開発一辺倒 大きな変化が生じることになった。1990年 ハイヤットとの提携で五つ星ホテル2軒、 であった観光開発計画の論調が、環境保全 以降、観光産業の質的規模的発展のために ホテルラディソンとホテルハイヤット を図りながら開発、持続可能な開発を移行 観光分野における企業のための貸し付を優 (Hotel Radisson and Hyatt International) していくことになった。実際に、持続可能 先し、外国資本を含む民間資本の導入が促 が運営されることになった。1998年にはビ な開発を行うようになったのは、実施調査 進された。第8次5ケ年計画において観光開 ジット・ネパール・イヤー 1998が実施し、 に基づいてマスタープランを再検討した 発に関する融資や起業について便宜が図ら ネパール観光産業に初めて国際的に宣伝さ 1984年以降である。1986年に施行された第 れると、宿泊施設などが急増するようにな れた。その結果、1999年にネパールで2006 7次5ケ年計画 (1985-90)では、外貨獲得手 った。この計画以降には、全体的なホテル 年までの最大の観光客が集まるようになっ 段と雇用機会創出手段として観光産業の開 の増加に加え、カトマンズ以外のホテルの た。 発可能性が高く評価され、その開発を推進 増加と共に地域分散化が成功されている。 2002年の施行された10次5ケ年計画 (2002- する計画が打ち出される一方で、宗教、歴 この計画期間の1994年には外国投資に著 2007)は観光領域にインフラス整備の開発 史、文化、環境資源の保護の必要性が提起 しく変化が見られた。1994年に制定された とエコ・ツーリズムを促進する政策であっ された。この計画の政策は政府と民間部門 1千万ドル以上の投資に関する法によって た。この計画期間の2002年から2007年ま の投資協同、ポカラ観光開発、観光人材の は、投資額が1千万ドル以上であれば全額 でネパール国は政治的な混乱がひどく、観 訓練などを主に含んでいた。1986年にポカ 投資が可能、あるいは、ネパール人のカウ 光産業は大きく左右された。その結果、 ラの北の山間地域アンナプルナ(A n n a ンターパートが必要でなくなり、利益を全 2002年から2006年の間には観光客数は減 purna)周辺において大規模なエコ・ツー 額本国に送還することを認めた。この計画 少し、観光開発1950年後に観光下降期とな リズム開発であるACAP(Annapurna Conser 期間 (1992-97)ではネパールが国際的に有 っていた。第2国民運動の影響で第10次5ケ vation Area Project)が開始される。この 名な観光地として展開することを主な目的 年計画は成功できなくなった。 プロジェクトの主な目的は地域住民の観光 として観光大臣の組織構造で様々な改革を 第11次3ケ年計画 (2007-2010)の主な目的 への参入を促進すると地域における観光資 引き受けた。 は国際と国内の空港を整備し、様々な宣伝 −16− 日本国際観光学会論文集(第19号)March, 2012 とイベントを成功させ、近隣国インドと中 換すること。 2007年から2011年まで観光客の到着数は 国からの観光客を増加させることであった。 ② 国際観光しか行わないというものから 増加しているが増加比率が大きくないため、 この計画期間に従来のカトマンズにおける 国際観光と国内観光を並行するように転換 ほぼ横ばいである。この背景には、ネパー トリブバン国際空港の上、もう一か所の国 すること。 ル国は政治的に新しい時代に向かっている 際空港はバラ (Bara)に あ る 二 ズ ガ ド ③ 主に国の投資でインフラ整備を行って がまだ観光産業の改善の途中であるため、 (Nizgadh)に作るための準備が整いた。ネ いたが、国、地方、部門、集団、個人の協 安心、安全、快適な環境には未成熟である パール政府は自然魅力上で、治安な観光地 力、また自国資本と外国資本の共同利用へ と考えられる。 としてネパール国際観光を強化するため、 と転換すること。 国の観光活動をさらに拡大するために、 新しい観光政策2008(ネパール年2065) ④ 観光経営者は事業型から企業型へ転換 ネ パ ー ル 政 府 は「 ネ パ ー ル 観光年2011」 が発表された。この政策の主な目的は雇用 し、自主経営を行い、業界競争に参入する 創出を増加させ一般国民の生活水準を高く こと。 (4) 表した。このキャンペーンの第一の目的は することである。そして、観光活動と観光 に関するエアライン、ホテル、旅行、トレ ッキング企業などの幅を拡大し、収入への 貢献に伴う経済成長を増加させることも目 (Nepal Tourism Year or NTY 2011) を発 毎年観光客を100万人に達成させることで 4.ネパール観光産業の現状 (1) 新ネパール観光期 (2007年から現在ま で) ある。キャンペーンの他の目的は観光に関 するインフラ整備を旧と新両方の観光地域 に拡充させ、サービスプロバイダーの容量 標である。この政策は国内観光、スポーツ 1996年に始まったマオイスト (毛沢東主 を高め、旅行者の必要性を満たす新しい領 観光、教育観光、ヘルスツーリズムと農村 義者)のゲリラ活動が激化したことなどを 域の共同体能力を築き上げる。 キャンペ 観光を重視している。ネパール観光年2011 きっかけに治安状態があまりよくないこと、 ーンはインフラ整備開発、製品改良、販売 のキャンペーンを成功させるため、様々な 政情不安定などから2006年まで観光客は 促進、国際的な宣伝、共同体能力の増進、 宣伝も行われた。 減少傾向にあったが、2007年からネパール サービス品質などにも強調を与える。ネパ 第12次3ケ年計画 (2010-2013)は2010年に 国は平和が回復しはじめ、観光産業も回復 ール観光省と観光庁は ネパール観光の総 発表し、この計画では、観光資源の保護、 してきた。2005年2月1日に当時の国王ギャ 合的な案内地図として観光ビジョン2020 インフラ整備の拡大、人材育成、ホームス ネンドラが国の全政権を持ったという発表 を作成した。NTY 2011は新しい観光潜在 ティ、登山・トレッキング観光の発展など の後、毛沢東主義者マオイストとその他ほ 市場の調査、観光整備の投資の誘致、観光 が挙がった。この計画期間内に観光客数は とんど全政党が国王ギャネンドラ政権に反 活動の向上に力を入れ、観光ブランドとし 120万、観光客の平均滞在日は12日、国際 対するため力を合わせた結果、2006年4月 て“Naturally Nepal-once is not enough” 航空サービス数は35までにすることが目 24日にギャネンドラ国王は政権を失い、政 「豊富な自然の国ネパールの旅は一回で足 標である。ネパール政府によって作られた 権は再び国民の手に戻された。2007年1月 りない」と作られた。このネパール観光年 定期的な国家計画を見ると、第1から第8観 15日に人民戦争をしてきたマオイストと7 2011は世界一の人口が持つネパールの近 光国家計画は着々進んでいたが、第9と10 党の同盟で新しく政府が立ち上がった。こ 隣国である中国からの観光客を増やそうと 観光国家計画はほとんど進められなかった。 の結果、ネパールに人民戦争がなくなって の考えである。2011年の初めから10月まで 第11の観光国家計画も完全に進められな 平和の扉を開くことになった。2008年4月 のネパール観光統計によれば、ネパールに か っ た。 第10次5ケ 年 国 家 計 画 期 間 内 の 10日には国民議会の選挙があり、その国民 訪れる観光客が21.7%で増加し、その中か 2006年までは王国であったが、それ以降は 議会の初めての議会が2008年5月28日に行 ら中国からの観光客が最も多く66.7%まで 歴史上はじめて共和制度に代わったため、 われた。そこで、ネパール国は歴史上はじ になった(5)。 国民による多数のデモの影響があり、計画 めて共和制度となり、新ネパールとして誕 どおり観光産業が運営できなかった。 生した。王国から共和国、戦争から平和の ネパール観光の国家計画の歴史を見ると 状態になった新ネパールの観光産業は新段 観光産業に関係する様々な分野に必要な投 階に入ったと考えられる。2006年に38万 本節では、ネパール観光産業の現在の展 資の余裕がなく、計画どおり政策は運営さ 3926人 で あ っ た 観 光 客 が2007年 に52万 開状況を統計資料から概観する。ネパール れてない事実があった。ネパールの観光計 6705人、37%で増加した。2007年から観 観光産業開発の主な問題群を探る。 画を初めから現在まで検討した結果、ネパ 光客は50万人を超え、それ以前より増加傾 ネパール観光統計によれば2011年にネ ール観光発展に関しては以下の4つの転換 向が見られる。2007には民主化を果たした パールへ訪れる観光客数は71万9547人で が定まれる必要である。 ネパールは治安も安定し、再び観光に力を あった。ネパールに2007年から2011年ま ① 従来の観光客の誘致優先から観光資源 入れた結果は2008年に外国人の観光客数 での観光客数は50万から71万の間にある の開発と観光客の誘致を並行するように転 は50万人を越えた。図−1に示したように ことで、南アジアではインド、モルディブ、 −17− (2) ネパール観光産業の現状における問題 点 日本国際観光学会論文集(第19号)March, 2012 表−2 ネパール観光産業のシナリオ 出所:ネパール観光省観光統計2011年を基に筆者作成, ネパール観光省のHP(http://www.tourism.gov.np/uploaded/statistics2011.pdf),Retrieved 2012.2.1 スリランカに次ぎ4番目になる。南アジア 二番の多い人口をもち世界経済舞台上で最 われるべきである。交通手段は地域全体の におけるスリランカとネパールでは2006 も注目されているネパールの近隣国である 開発と共に観光産業のため、重要なインフ 年以前に治安問題、その後の解決時期が共 インドと中国の両国と鉄道が繋ぐことがで ラ整備であることを地域政府に注目される 通であるが、観光客数の増加率においてス きれば、インド人と中国人の観光客が増え 必要がある。また、今後の成長が見込まれ リランカよりネパールでは低くなっている。 るのは当然であるが、インド、中国へ旅行 る観光産業の課題を克服するための手段と 2010年と2011年のデータで、スリランカは する他の国々の観光客もインド、中国を旅 して民営化と外国の投資の可能性が考えら 2010年に観光客が65万に達し、2011年に 行した折にネパールも訪れる可能性がある。 れる。民営化と外国の投資を誘致するため、 (6) 30.78%の増加で85万までになったが 、ネ 今まで観光客の76%が利用する空路にも1 ネパールには政治的に安定と投資安全の環 パールは2010年から2011年まで60万から か所のみの国際空港しかなく、空路整備も 境を築く政策が必要である。 19.35%の増加で71万までに達した。スリ 余裕がない。観光客を増加させるため、国 表−2に示したように観光客1人当たり、 ランカとネパールは発展途上国、治安問題 際空港と国内空港、エアラインなどの拡大 1日平均約43.2米ドルの出費でネパールに と解決時期も共通で、観光資源としてネパ する必要があると考えられる。交通手段に 滞在、かつ楽しむことができる。宿泊費だ ールは世界一の山エベレストと釈迦の誕生 おける量と質両方の不足が現在ネパール観 けで一泊100米ドルは下らないシンガポー 地をはじめ自然的・文化的に観光客を誘致 光産業の最も大きな問題だと考えられる。 ルや香港における観光に比べ、国際観光市 させるような魅力的観光地にもかかわらず ネパール政府がネパール観光産業におけ 場ではかなり安価な観光地である。2010年 スリランカより低い増加率を示し、ネパー る問題点について理解し、問題の大きさに にネパールへ旅行する観光客の数が2009 ル観光開発に先進国から学ぶことはもちろ よっては解決を優先するような政策が必要 年より18%増加したにもかかわらず観光 ん、他の発展途上国の国々の観光開発に関 であると考えられる。ネパール観光の最も 収入では11%減少した。2008年から2010 するやり方も学ぶべきだと思われる。 大きな問題は交通問題であることは国の政 年まで観光客からの平均収入も毎年減って 内陸国ネパールの交通手段は空路と陸路 府に認められているが、この問題の解決を いる。観光客が増加したのにもかかわらず しかないが、表−2に示したようにネパー 国家計画や国家予算の議論よりも優先させ 収入が減少したということが観光開発にお ルへ訪れる観光客の76%が空路、24%が陸 る必要がある。2011年度のネパール国家予 いては大きな課題だと思われる。観光客の 路を利用する。陸路からの観光客数を増や 算によれば、ネパール観光分野が持ってい 平均出費が下がったのは、世界経済の影響 (7) すため、近隣国であるインドと中国両方と る予算は全額の0.0032%だけである 。国 もあるが、ネパールへの観光客が発展途上 ネパールを繋ぐ、未だになかった鉄道を開 家予算で無駄な支出を減らし、観光分野の 国から多いということも影響していると思 発する必要がある。世界人口の内、一番と 予算を拡充させ、その分は、交通手段に使 われる。ネパールへのトップ5の観光客源 −18− 日本国際観光学会論文集(第19号)March, 2012 はインド、中国、スリランカ、アメリカと 一つとして位置している。ネパール観光産 , Millennium Development Goals Needs イギリスである。インドとスリランカ以外 業は2000年から2006年まで下降期である Assessment for Nepal, Sajha Prakashan, の人々はトレッキング観光が主な目的であ が、2007年に新ネパール期となってから回 Nepal. る。トレッキング観光は山麓や田舎での観 復している。ネパール観光産業に21世紀の 3)森本泉[1998]「ネパール・ポカラにおけ 光であるため、旅行費は町より安い。イン 観光として競争力が高くするにはインフラ るツーリストエリアの形成と民族企業家の ド、スリランカからの観光客の滞在日も短 整備と共に人材育成にも多額の投資が必要 活動」 『地理学評論』71(4), pp. 272-293. く、旅行費も安いため、ネパール観光客数 である。観光客の増加は、治安状態が比較 4)藤巻正巳・江口延清[2009]「グローバル が多くても観光収入が減少すると考えられ 的よいこと、相対的に物価が安いことなど 化とアジアの観光」,ナカニシャ。 る。観光客数と観光収入は共に開発されて の要因が指摘であるが、観光国家計画はそ 5)飯島茂[1982]「ヒマラヤの彼方からーネ いないこの問題の解決方法としては、ネパ の面にも注目しなければいけない。ネパー パール商業民タカリ族生活誌」, 日本放送 ールは安心、安全、快適な観光地を築き、 ル観光産業の発展についてハードとソフト 出版協会。 先進国からの観光客数を増加させ、発展途 の両面からの研究をすることが今度の課題 6)隈信夫・日隈建壬[1998]「ネパールにお 上国からの観光客の滞在期間を拡大するこ である。 ける観光開発と文化財保存に関する研究ノ とに注目する必要があると考えられる。 ネパール観光開発には人材育成の問題も ート」 『広島修論集』第39券第1号, pp.367注 389 ある。表−2に示したが、旅行会社とトレ ッキング会社の数が増えているにもかかわ (1) WTTC(World Travel and Tourism らずツーリストガイドとトレッキングガイ Council)の研究データ,http://www.wttc. ドの数があまり増えてない。2011年に旅行 org/research/economic-data-search- 会社数は1750社、ツーリストガイド数は tool,2012.3.20. 2663人で、一つの旅行会社が持つツーリス (2)山本勇次[2006]「観光立国ネパールの観 トガイド数の比率は1.52人で最も少ない。 光産業の脆弱さ」 『グローバル化とアジア ネパールでツーリストガイドとなるため、 の観光』 ,ナカニシャ,96−199ページ。 大学卒業の教育制限があり、ツーリストガ (3) ネ パ ー ル 観 光 統 計 1998 に よ る, イドの職場の安全性も余裕ではない。最近、 http://welcomenepal.com/promotional/ 大学でも観光コースが取り入れられている が、観光に関する教材、教員なども不足。 観光開発のためにネパールは人材育成にも っと力を入れる必要があると考えられる。 statistics.php, 2012.3.11. (4) ネパール暦は西暦より57年前となって いる。 (5) WTTC,: http://www.wttc.org/ research/economic-data-search-tool, 4.おわりに ネパール観光産業としてのポテンシャル は依然として高く、今後の政策によって理 2012.3.20. (6) WTTC,: http://www.wttc.org/ research/economic-data-search-tool, 想的な観光産業のあり方を探る必要がある。 2012.3.30 今日のネパール観光産業における経済的影 響をまとめてみると、観光産業は近代の経 (7)ネパール財務省2011による, http://www.mof.gov.np/publication/ 済活動分野では、あらゆる資源環境の中で、 budget_pragati/2011/pdf/be6869.pdf, 最も成長が期待できるものである。過去の 2012.4.24 成長実績からみても、観光産業は他の分野 を抜いて、特に外貨獲得において現ネパー 参考資料 ル経済に最も影響を及ぼしている。これか らも経済効果の高い産業としての政策を実 行する必要がある。 1)Bhattarai K, Conway D, Shrestha N. (2005) “Tourism, Terrorism and Turmoil ネパールにおいて観光は、おそらく1990 in Nepal”Annals of Tourism Research 年代以降も,短期的には多少の変動はあっ 32(3)669-688. ても、成長を続け、もっとも重要な産業の 2)National Planning Commission(2010) −19−
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