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目 次
【論 文】
日本語の右方転移:移動分析と削除分析
……………………………………………………………木 村 宣 美 1
りんごの甘酸適和をめぐる一考察
……………………………………………………………四 宮 俊 之 13
金曜日の可能性
……………………………………………………………清 水 明 37
アルベール・カミュ『誤解』の世界
― 作品の生成と作家の表現欲求― (上)
……………………………………………………………奈 蔵 正 之 59
日本語の右方転移:移動分析と削除分析 *
木 村 宣 美
0. はじめに
日本語は主要部後置型(head-final)言語であり,述語(predicate)が通常文末に生じる。しかしな
がら,次の(1b)に見るように,述語の左側に本来位置する要素が述語に後続する位置に配置され
る右方転移(right dislocation)文が日本語にもある。1
(1)a. 君は,本当にダメだね。
b. 本当にダメだね,君は。2(久野 1978:67-68)
(1b)のような右方転移文の派生に対して,概略,3種類の分析が提案されている。右方転移文の
派生方法の一番目は,述語に後続する位置に置かれる要素,すなわち,転移されている要素が,本
来の位置から文末に右方移動(rightward movement)しているとする分析である。例えば,
(1)を例
に取れば,(1a)の「君は」が文末に移動されて,
(1b)が導かれることになる。右方移動に基づく右
* 本研究は,平成 ₂₂ 年度-平成 ₂₄ 年度日本学術振興会科学研究費助成事業(科学研究費補助金)
((基盤研究(C)
研究課題『句構造の非対称性・線形化と構造的依存関係に関する理論的・実証的研究』)
[JSPS 科研費 22520487]
の助成を受けたものである。
Ross(1986/1967)によれば,右方転移は転写変形(copying transformations)の一つであり,(ia)から(ib)を導く
1
規則である。
(i)a. The cops spoke to the janitor about that robbery yesterday.
b. They spoke to the janitor about that robbery yesterday, the cops.(Ross 1986/1967:257-258)
(ib)では主語位置に名詞句 the cops に対応する代名詞が置かれ,文末に同一指示の(co-referential)名詞句が生じ
ている。Ross(1986/1967:257)によれば,英語の右方転移では,代名詞ではない名詞句が右方にチョムスキー付
加され,もとの位置に同一指示の代名詞が置かれる。Rodman(1997/1974:48)は,左方転移(left dislocation)と異
なり,右方転移では代名詞(an anaphor in the main clause)が,常に生じなければならないことを指摘している。
(1b)に対して,右方転移文,後置文,右方転位文等の用語が用いられているが,本稿では,右方転移文とい
う用語を用いる。なお,右方転移との用語を用いるが,これは,移動(movement)が関与することを主張するも
のではない。右方転移文の研究において,一般に用いられている用語を便宜上借用しているにすぎないことに注
意されたい。
2
本稿では,右方転移された要素に,波線を引くことにする。
1 方転移文分析は Haraguchi(1973)で提案されている。二番目の派生方法は,従来右方移動が関与す
ると分析された右方転移文は,動詞句前置 / 残余句移動等の左方移動(leftward movement)によって
生成されるとする,黒木(2006)や Fukutomi(2006)等で提案されている分析である。この分析に従
えば,(1b)は,「本当にダメだね」の左方移動により,導かれることになる。三番目の派生方法は,
右方転移文は,移動規則によって導かれるのではなく,文の部分的繰り返しによって導かれるとす
る分析である。この分析では,
(1b)の前半「本当にダメだね」は省略文として生成され,この省略
文の主語が「君は」であることをはっきりさせるため,文末で繰り返すことによって,(1b)が導か
れるとする,久野(1978)
,Abe(2004)
,綿貫(2006)等が提案している分析である。3
本稿の目的は,日本語の右方転移の諸特性に基づき,日本語の右方転移文に対する移動分析
(Haraguchi(1973)の右方移動分析,黒木(2006)や Fukutomi(2006)の左方移動分析)と久野(1978)
や Abe(2004)が提案する「省略文+繰り返し文」に基づく削除分析を批判的に検討し,分析の可能
性を探ることにある。
1. 右方転移文の派生:移動分析と削除分析
日本語の右方転移文の派生に関しては,述語に後続する位置に要素への右方・左方移動規則の適
用により生成されるとする移動分析と移動規則ではなく削除(deletion)に基づき導かれるとする
「省略文」+「繰り返し文」に基づく分析,すなわち,削除分析が提案されている。この節では,こ
れら2種類の分析を概観する。
3
久野(1978:68)では,日本語の右方転移文(久野(1978)では,後置文)に関して,次の(i)のような伝達機能が
あることが指摘されている。
(i)後置文の伝達機能
後置文において主動詞の後に現われる要素は,
(a)話し手が最初,聞き手にとって,先行する文脈,或いは非言語的文脈から,復元可能であると判断し
て省略したものを,確認のため,文末で繰り返したものか,
(b)補足的インフォメーションを表わすもの
に限られる。
綿貫(2012)は,後置される情報は省略可能な情報であると分析する久野(1978)等の分析とは異なり,話し手
の頭に最初に浮かぶ重要・緊急の情報が先に発話された結果,副次的な情報が後に発話されるという原理を提
案する Simon(1989)の分析を支持し,
「後置される要素が文脈上解釈可能である場合と解釈不可能な場合がある
とする分析を提案している。解釈不可能な情報が後置される場合,最も話したい・聞きたい情報を発話した結
果として省略された(一旦焦点から外れてしまった)情報を後置することで,その情報を再焦点化し,話し手が
自己の発話意図を充足する機能を有する」との分析が提案されている。Gundel(1977/1974),久野(1978),高見
(1995)
,Rodman(1997/1974),Huddleston and Pullum(2002)等では,i)疑問詞(不定名詞句),ii)疑問文の焦点を
担う要素,iii)新情報を担う属格名詞句等が右方転移されることがないということに基づき,右方転移される要
素は,談話機能上の旧情報でなければならないとの分析がなされている。今後,綿貫(2012)の主張する「文脈上
解釈不可能な場合」を詳細に検討する必要がある。
2
1.1. 移動分析
黒木(2006)は,右方移動(Haraguchi 1973)が適用されて導かれると分析されていた構文には,動
詞句前置 / 残余句移動等の左方移動が関与していると分析されるべきであると主張している。この
分析は,左方移動のみを可能な移動操作(右方移動は原理的に禁じられる)と位置づける反対称性
統語論(antisymmetry of syntax; cf. Kayne 1994)に合致する分析であると主張されている。
黒木(2006)は,i)かき混ぜ(scrambling)と右方転移文が異なる統語特性を示す(cf. Saito 1985),
ii)作用域(scope)解釈や上方制限(upward-boundedness)から右方移動が関与していない,iii)概念的
(conceptual)観点から,単節構造を仮定すべきであると主張し,単節構造に基づく左方移動分析を
提案している。また,様態標識である「よ」が,様態句(ModalP: MdP)の主要部として現われ(cf.
Endo 1996)
,この指定部に任意の TP/VP が左方移動するとの分析が提案されている。左方移動に基
づく具体的な派生を,次の(2)を例にとり,考えてみることにする。
(2)主語「右方」転移文
ei ]
]
]
a.[TP 太郎が[VP 花子を[愛している
i
ei ]
]
[
]
(黒木 2006:219)
b.[MdP[VP 花子を[愛している
i
j MdP よ[TP 太郎が ej ]
人間言語の基本語順は SVO であると仮定し,
(2)では,基底構造において目的語「花子を」が動詞
句指定部へ顕在的に(overtly)移動している。
(cf. Kayne 1994)その後,動詞句[VP 花子をi[愛して
いる ei ]]が様態句指定部に移動され,右方転移文が導かれることになると黒木(2006)では提案さ
れている。
1.2. 削除分析
久野(1978)では,日本語の右方転移文は,移動規則の適用によるのではなく,文の部分的繰り
返しによって生じると主張されている。すなわち,
(1b)の前半「本当にダメだね」は省略文として
作り出される。そして,この省略文の主語が「君は」であることをはっきりさせるため,それを文
末で繰り返すことによって,
(1b)が導かれるとする分析である。日本語の右方転移文は,前半が
省略文で,後置要素も省略文で,確認あるいは補足のために付加された要素であると分析されてい
る。本稿では,このような「文の部分的繰り返し」に基づく分析を,削除分析と呼ぶことにする。
Abe(2004)は,久野(1978)に従い,日本語の右方転移文は複合節構造(complex clause structure)
を持ち,削除規則の適用と述語の後にある句(postverbal phrase)の左方移動に基づく分析を提案し
ている。4 この分析を,次の(3)の派生(4)を例にとり,考えてみることにする。
4
後置要素である省略文において左方移動が適用されるとする分析には,右方転移文に対する移動分析と同様
の問題が生じることになる。
3 (3)ジョンは批判した,メアリーを。
(4)a. ジョンは ei 批判した,メアリーを i[ジョンは ei 批判した]
(leftward movement of object)
b. ジョンは ei 批判した,メアリーを[e]
i
(deletion under identity)
(Abe 2004:56)
右方転移文の派生(4a, 4b)において,
「メアリーを」が2番目の節頭(the top of the second clause)に
あり,この節の他の要素が1番目の節との同一性のもとで削除される。この分析は,久野(1978)
の分析を具体化したものであると言うことができる。これら2つの節の間の関係は,節の繰り返し
(clause-repetition)で,2番目の節においては,操作語移動(operator movement)が適用されるとの分
析が提案されている。
2. 右方転移文の特性:移動分析と削除分析
2.1. 島の条件(island conditions; cf. Ross 1986/1967, Rodman 1997/1974)
久野(1978:74-75)では,日本語の右方転移において,従属節中の要素が自由に主節の動詞の後に
現われるわけではないこと,すなわち,複合名詞句制約(complex noun phrase constraint: CNPC)に
従うことが指摘されている。
(5)a. [この間,あのレストランで食べた]海老は,おいしかったね。
b. *[この間食べた]海老は,おいしかったね,あのレストランで。
(6)
a. 花子に[太郎から貰った]柿をやりました。
b. * 花子に[貰った]柿をやりました,太郎から。
(Endo 1996:3)
(7)* 昨日 ei 買ったワインを飲むよ,ジョンが i 。
(5-7)では,複合名詞句「この間,あのレストランで食べた海老」
,
「太郎から貰った柿」
,「昨日
ジョンが買ったワイン」の中にあると考えられる「あのレストランで」
,
「太郎から」
,「ジョンが」が
それぞれ右方転移されている。
(5-7)が非文法的であることから,日本語の右方転移は CNPC に従
うことがわかる。
CNPC と同様に,右方転移が付加詞条件(adjunct island)に従うことが,Abe(2004)や Fukutomi
(2006)で指摘されている。
(Abe 2004:55)
(8)a.?* 私は[ジョンが ei 食べた]ので 彼の母親を叱りつけた,ケーキをi 。
(Fukutomi 2006:315)
b.?* ジョンは[ビルが ei 話した]から 嫉妬している,メアリーとi 。
4
(8a, b)では,理由節である「ジョンが ei 食べたので」と「ビルが ei 話したから」から,
「ケーキを」と
「メアリーと」が右方転移されて,非文法的である。これは,右方転移が付加詞条件に従うことを
示している。
また,等位構造制約(coordinate structure constraint: CSC)や前置詞を残留させることを禁じる条件
にも従う。
(9)a. * ジョンは[みかんと ei ]を 食べたよ,りんごi 。
b. * 今年は[みかんと ei ]が豊作だ,りんごi 。
(10)* 太郎がこの問題で ei と議論したよ,花子i 。
(9)では,等位接続されている「みかんとりんご」から,一方の被接続要素「りんご」が右方転移さ
れている。(9)が非文法的であることから,右方転移が CSC に従うと言うことができる。また,
(10)では,後置詞「と」をもとの位置に残して,
「花子」のみ右方転移されているが,非文法的であ
る。これは,前置詞を残留させることを禁じる条件に,右方転移が従うということを示している。
日本語の右方転移と島の条件の関係をまとめると,次のようになる。右方転移は,複合名詞句制
約・関係詞節の島の条件,付加詞条件,等位構造制約,前置詞を残留させることを禁じる条件に従
う。これらの現象は,右方転移が移動現象であると仮定するならば,容易に説明することのできる
現象である。5
2.2. 上方制限(upward boundedness)6
久野(1978:74)は,日本語の右方転移文において,右方転移された要素が「省略文」の中の従属節
内の構成要素として解釈されることが許されることを指摘している。すなわち,右方転移には,上
方制限が課されないということである。この点を,
(11)を例に取り,考えてみることにする。
(11)a.[この間,あのレストランで何を食べたか]覚えているかい。
b.[何食べたか]覚えているかい,この間,あのレストランで。
(11b)の「この間,あのレストランで」は,
(11a)の従属節内「この間,あのレストランで何を食べた
か」の構成要素である。また,従属節全体や従属節内の要素に右方転移が適用され,主節の述語動
5
右方転移を移動現象であると分析すると,属格名詞句が右方転移されることが問題となる。第 2.5 節を参照の
こと。
6
上方制限は,節の有界性(clause-boundedness)と呼ばれることもある。
5 詞に後続する位置にあるのであれば,何ら問題がない。7 この点を,次の(12)を例に取り,考えて
みることにする。
(12)a. ジョンは[彼の妹がその本を読んだと]言ったよ。
b. ジョンは言ったよ,
[彼の妹がその本を読んだと]
。
c. ジョンは[その本を読んだと]言ったよ,彼の妹が。
d. ジョンは[彼の妹が読んだと]言ったよ,その本を。
e. ジョンは[妹がその本を読んだと]言ったよ,彼の。
(12b)では従属節「彼の妹がその本を読んだと」全体,(12c)では従属節内の主語「彼の妹が」,
(12d)では従属節内の目的語「その本を」
,
(12e)では従属節の主語名詞句を修飾する属格表現「彼
の」が主節の動詞に後続する位置に生じている。このように,右方転移された本来従属節内にあっ
た要素が主節の動詞に後続する位置に生じることができる。これは,日本語の右方転移には上方制
限が課されないことを示唆しているように思われる。ただし,
(11, 12)からわかることは,日本語
では目的語節からの右方転移がなされている場合に,上方制限が課されないということである。こ
こで,日本語の主語節からの右方転移が許容されるのかどうかを,考えてみることにする。
(13)a.[駒沢大学が箱根駅伝で復路優勝したことが]聴衆を感動させたね。
b.[箱根駅伝で復路優勝したことが]聴衆を感動させたね,駒沢大学が。
c.[駒沢大学が復路優勝したことが]聴衆を感動させたね,箱根駅伝で。
(13a)から「駒沢大学が」を右方転移すると(13b)が,「箱根駅伝で」を右方転移すると(13c)が導か
れる。(13b, c)が文法的であることは,日本語の主語節及び目的語節からの右方転移には,上方制
限が課されていないと結論づけることができる。8
7
Fukutomi(2006)や綿貫(2006)等でも,日本語の右方転移は上方制限,すなわち,右屋根制約(right roof constraint:
RRC)に従わないとの判断が示されている。
(i)a. メアリーがジョンが食べたと思っている,りんごを。
(Fukutomi 2006:314)
b. 太郎が花子が買ったと言ってたよ,パソコンを。
(綿貫 2006:265)
しかしながら,Tsujimura(1996:209)は,右方転移は主節内に限られた現象で,節境界を越えることはできな
いと主張する。
(ii)* 太郎が [ S 花子が ti 作った ] って言った,寿司をi 。
8
この特性は,Saito(1985)が指摘する,かき混ぜの長距離移動を思い起こさせる。
(i)a. その本を i ジョンが [ S’メアリーが ti 買ったと ] 思っている(こと)
b. その村に i ジョンが [ S’ビルが ti 住んでいると ] 思っている(こと) (Saito 1985:156-157)
(i)では,従属節内の「その本を」と「その村に」が長距離移動により,従属節内の要素が主節の文頭に生じてい
る。
6
本節では,日本語の右方転移には上方制限,すなわち,右屋根制約(RRC)が課されていないこ
とを見た。久野(1978:74)は,従属節の構成要素を右方向に移動する規則は,その従属節の境界線
を越えて適用してはならないとする RRC の観点から,日本語の右方転移文の派生に,右方向への
移動,右方移動は関与していないと主張する。日本語の右方転移の派生方法として,右方移動に基
づく分析には問題があることがわかる。9
2.3. 主節現象(main clause phenomena)
日本語の右方転移が移動現象ではないことを示す第 2 番目の証拠として,右方転移が主節現象で
あることを指摘することができる。日本語の右方転移が主節現象であることは,Haraguchi(1973),
Saito(1985)
, Endo(1996)
, Fukutomi(2006)等で指摘されている。10
(14)a. ジョンがメアリーにその本を渡したこと
b. * ジョンがメアリーに渡した,その本をこと
c. * 来たよ,バスがという事実(cf. Endo 1996: 6 )
d. * メアリーが[ジョンが食べたリンゴをと]思っている(Fukutomi 2006:313)
(14b, c, d)が非文法的であることは,従属節内において右方転移が許容されないということを示し
ている。このように,右方転移は,左方への移動現象であるかき混ぜとは異なる特性を示すことが
わかる。すなわち,右方転移は主節現象であるが,かき混ぜは主節にのみ限られた現象ではなく,
従属節内でのかき混ぜも存在するのである。
(15)a. ビルは[その本を メアリーが 太郎に 渡したと]言った。
b. ビルは[彼女を 太郎が 批判したと]言った。
(15a, b)では,目的語の「その本を」と「彼女を」に従属節内でかき混ぜ規則が適用され,文法的で
ある。右方転移は主節現象であり,左方移動規則のかき混ぜとは異なる特性を示す。
2.4. 主語名詞句の右方転移
日本語の右方転移において,様々な表現が,右方転移された要素として述語に後続する位置に生
じる。この点を,(16)を例に取り,考えてみることにする。
9
10
Kayne(1994)の反対称性統語論に基づく句構造が正しいとするならば,右方向への移動は存在しない。
Emonds(1976:34)は,右方転移は根変形(root transformation)であり,文法性は右方転移された要素が主節
の節点 S に直接支配されているかどうかによるとしている。一方,Ross(1986/1967),Rodman(1997/1974),
Gundel(1977/1974)は,右方転移が従属節内であっても適用されることを指摘している。
7 (16)a. ジョンがメアリーにその本を渡したんだ。
b. メアリーにその本を渡したんだ,ジョンが。
c. ジョンがメアリーに渡したんだ,その本を。
d. ジョンがその本を渡したんだ,メアリーに。
(16b, c, d)から明らかなように,目的語名詞句「その本を」や「メアリーに」が右方転移されるよう
に,主語名詞句「ジョンが」も右方転移される。このように,右方転移では主語名詞句が右方転移
される。これは,左方移動であるかき混ぜと大きく異なる特性である。すなわち,Saito(1985)が
指摘するように,主語名詞句がかき混ぜの適用を受けることはないからである。
(17)a. * そのお菓子が i ジョンが[ S’ ti おいしいと]思っている(こと)
(Saito 1985:185)
b. * その本が i ジョンが[ S’ ti よく売れていると]思っている(こと)
一般に,主語名詞句がかき混ぜの規則の適用は受けることはないが,主語名詞句の右方転移は可能
である。右方転移を左方移動規則として特徴づけることはできないように思われる。
2.5. 属格名詞句の右方転移
久野(1978:75)が指摘しているように,名詞句の修飾語も右方転移される。この点を,
(18, 19)
を例にとり,考えてみることにする。
(18)a. 何か外国にないような大研究をなさったのですか。
b. 何か大研究をなさったのですか,外国にないような。
(19)a. 君,僕の妹と結婚してくれないか。
b. 君,妹を結婚してくれないか,僕の。11
(18-19)から明らかなように,前位修飾語としての節や限定詞としての属格表現も右方転移される
ことが可能である。しかしながら,右方転移とは異なり,
(20)で示されているように,かき混ぜ
の規則の適用を属格名詞句が受けることは許されない。
11
右方移動と上方制限の関連を議論する際に,名詞句の属格表現が右方転移されることが指摘されている。第
2.2 節を参照のこと。英語においても,属格名詞句が右方転移されることが Ross(1986/1967:260)や Huddleston
and Pullum(2002:1411)で指摘されている。なお,右方転移された名詞句の属格表現と対応する代名詞に下線を
引くことにする。
(i)a. I noticed his car in the driveway last night, your friend from Keokuk.(Ross 1986/1967)
b. Whatʼs his name, your son?(Huddleston and Pullum 2002)
8
ti 大統領選挙の話題で持ちきりだ]
(20)a. * アメリカの[テレビ番組では
。
i
。
b. * 富士山の i[今年は例年になく ti 雪景色が美しい]
この属格名詞句が右方転移されるという特性は,左方移動規則であるかき混ぜとは大きく異なる特
性である。
2.6. 残余代名詞(resumptive pronouns)
Haraguchi(1973)や綿貫(2006)等で指摘されているように,日本語の右方転移において,残余代
名詞の出現が許されることがある。12
(21)a. ジョンは彼女が好きです,メアリーが。
b. 太郎が彼女を殴ったんだ,花子を。
(綿貫 2006:253)
(21a)では「彼女が」と「メアリーが」
,
(21b)では「彼女を」と「花子を」が同一指示の名詞句である。
Tsujimura(1996)は,Shibamoto(1985)の研究,すなわち,日本語の右方転移は男性よりもむしろ
女性が使う傾向にあり,男性が使う場合には,右方転移された要素に対応する代名詞,あるいはそ
れを指示する要素が少なくとも,前半部の元々の位置にあることを報告している。
(22)a. それは古いかもしれませんよ,我々の感覚は。
b. 私ついついゆっちゃうんですね,私の場合は。
c. 子供と遊んだりするのは楽しいね,あれ。
(22)の「それは」,「私」
,
「子供と遊んだりするのは」は,右方転移された要素と同じことを指示す
る要素である。Shibamoto(1985)によれば,男性は右方転移を強調や述べ直しの手段として使って
いると説明している。13
右方転移では顕在的な残余代名詞が生じるが,かき混ぜでは生じることはない。14
12
残余代名詞と右方転移された要素,あるいは右方転移された要素に対応する代名詞,あるいはそれを指示する
要素と右方転移された要素に,下線を引くことにする。
13
綿貫(2006)は,残余代名詞に関して,右方転移文の前半部と右方転移された要素を含む文との構造的・意味
的な平行性に基づく削除分析を提案している。
14
ただし,文頭にあるガ格名詞句が大主語(major subject)である時,残余名詞句が生じることが marginally に許
される。
(i)?? この議論 i が [ S ジョンが [ Sʼ それ i が一番説得的だと ] 思っている。(Saito 1985:222)
9 (23)a. * その本 i を[ S ジョンが[ Sʼ メアリーが それ i を買ったと]思っている(こと)
b. * その村 i に[ S ジョンが[ Sʼ ビルが そこ i に住んでいると]思っている(こと)
(Saito 1985:221)
上方制限が右方転移に課されていないことから,右方転移は右方移動に基づく現象ではない。ま
た,右方転移が主節現象であること,主語や属格名詞句が転移されること,残余代名詞が生じる場
合があることから,右方転移は左方移動に基づく現象ではないように思われる。15
3. まとめ
本稿では,日本語の右方転移の諸特性に基づき,日本語の右方転移文に対する移動分析(Haraguchi
(1973)の 右 方 移 動 分 析, 黒 木(2006)や Fukutomi(2006)の 左 方 移 動 分 析)と 久 野(1978)や Abe
(2004)が提案する「省略文 + 繰り返し文」に基づく削除分析を概観し,右方転移に対する分析の可
能性を探った。
日本語の右方転移は,複合名詞句制約・関係詞節の島の条件,付加詞条件,等位構造制約,前置
詞を残留させることを禁じる条件に従うことが示された。この現象は,右方転移が移動現象である
と仮定するならば,容易に説明することのできる現象である。日本語の右方転移には上方制限,す
なわち,右屋根制約(RRC)が課されていないことを見た。この点から,日本語の右方転移文の派
生に,右方向への移動,すなわち,右方移動は関与していないことになる。また,右方転移が主節
現象であること,主語や属格名詞句が転移されること,残余代名詞が生じる場合があることから,
右方転移はかき混ぜのような左方移動に基づく現象ではないように思われる。日本語の右方転移に
は,左方移動分析を支持する特性と削除分析を支持する特性とが混在しているように思われる。今
後は,左方移動分析と削除分析のいずれかの分析で統一的に扱うことができるのか,それとも,左
方移動分析と削除分析の双方の分析を必要とする現象であるのか,詳細な吟味が必要であるように
思われる。
参考文献
Abe, Jun. 2004 . “On Directionality of Movement: A Case of Japanese Right Dislocation,” Proceedings of the 58 th
Conference, 54-61, The Tohoku English Literary Society.
Emonds, Joseph. E. 1976 . A Transformational Approach to English Syntax: Root, Structure-Preserving, and Local
Transformations, New York: Academic Press.
15
久野(1978:77)は,右方転移文のあとに,確認のため,省略されていた要素を繰り返したり,補足的インフォ
メーションを付け足すというプロセスは,右方転移文とは独立して仮定しなければならないと主張し,前半部で
何の省略が行われていないにも拘わらず,述語動詞の後に繰り返しが行われている(i)を提示している。詳細な
分析は,久野(1978:77-80)を参照のこと。
(i)山田は馬鹿だよ,あいつは本当に。
10
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11 りんごの甘酸適和をめぐる一考察
四 宮 俊 之
目次
はじめに
(1)味覚や食味の表現としての甘酸適和
(2)味覚や食味としての甘酸適和の捉え方
(3)りんごの消費や需要の歴史文化性
(4)りんごの甘酸適和に見る歴史文化性からの異同
むすび
はじめに 文筆家として著名な吉田健一の随筆に『甘酸っぱい味』という題目の本がある。そこでは「甘い
のは前通り(その通り)で、酸っぱいのは、辛味を少し薄めたという気持である」としている 1。
このような味の表現は、一般的に果物の味に関して用いられる例が多く見られる。日本では、果物
の味として、それが絶妙なバランスをとっている場合、
「甘酸適和」という表現がしばしば使われ
る。2011 年の国内における果実の紹介や通信販売での食味の表現で「甘酸適和」が使われている
ものをパソコン上で検索してみると、桃やブドウ、プルーン、ネーブルなどの食味についても用い
られるけれど、圧倒的に多いのがりんごの食味に関するものであるように思われる 2。
このようなりんごの食味に関しての「甘酸適和」という表現については、より具体的に糖度や酸
度などの数値的なデータで示す例を散見できる一方で、多くの場合、一般の消費者にとって必ずし
も未だ馴染みのあるものとなっていない。それでも、りんごの栽培や流通などに関わる関係者たち
の専門的な用語として広く使われる表現になっている。本論では、この「甘酸適和」という表現を
1
吉田健一『甘酸っぱい味』筑摩書房、2011 年、12 頁(原著は新潮社刊、1957 年)。
2
例えば、全国農業協同組合連合会青森県本部ホームページ「りんごの主な品種紹介」
(http://www.am.zennoh.
or.jp/apple_breed.html 2011 年 11 月 15 日検索)
。代田農園ホームページ「プルーン」
(http://www.shirota-nouen.
com/shirota-plns.html 2011 年 11 月 11 日検索)。胆振総合振興局ホームページ「いぶり・サミット食材リスト さくらんぼ」
(http://www.iburi.pref.hokkaido.lg/ss/srk/summitshokuzai-32.htm 2011 年 11 月 30 日検索)
。福岡大
同青果
(株)
ホームページ「野菜と果物の旬情報 ネーブル」
(http://www.fdydo.co.jp/guide/200502.html 2011 年
11 月 30 日検索)など。
13 糸口として、りんごの品種や食味に関する地域的あるいは社会的、時代的な評価の異同や変遷など
について、そこに見られる歴史文化性を絡めて考察していきたい 3。
(1)味覚や食味の表現としての甘酸適和
私の手元にある国語辞典には、
「甘酸適和」という見出し語がない。
「甘酸」については、
「甘い
と酸(す)いと」、「苦しみと楽しみ」などとあり、
「適和」になると、やはり見出し語として載せ
られていない 4。そのことからも推測されるように、この「甘酸適和」という言葉は、我々が日常
的に生活の中で使わない表現であるように思われる。ちなみに、食味についての表現に関して、社
会や時代ごとで食文化への関心や価値付けなどが異なり、食文化への関心が高いと食味に関する言
語表現も多様かつ豊かになるとの話をかつて新聞の文化欄で読んだことがある。たとえばフランス
や中国などでは歴史的に食文化への関心や価値付けが高かったため、イギリスなどよりも食味につ
いての言語表現が豊富かつ多様であり、今日の英語における表現の多くもフランス語などから英語
化したものが多いとの話であった。
なお、この「甘酸適和」という表現は、一見すると中国語のように思われるが、筆者の勤める大
学の中国や台湾からの留学生や同僚の中国人教員などに尋ねると、意味を解せるものの、中国で普
通「酸甜适中」などと表現し、
「甘酸適和」になるとむしろ日本独自なものでないかとされる。
ところで、このように味覚や食味を言語で表現することは、テレビの「味めぐり」番組などでレ
ポーターの多くが「美味しい」という表現を乱発して済ませてしまうようにかなり難しい。味覚の
表現が複雑であるのは、瀬戸賢一編著『ことばは味を超える-美味しい表現の探求-』
(2003 年)
などを読むとよく理解できる。同書によれば、
「巷には料理人や文人による味エッセーがあふれて
いる」
、
「しかし、…正直いって満足できない。なにかが足りない。そのあたりのすき間をねらっ
て、試験管を片手に実験室から手をあげる先生がおられる。旨みの成分が分かった! グルタミン
3
本論は、弘前大学人文学部のビクター L. カーペンター教授を研究代表者とする日本学術振興会科学研究費補
助金・挑戦的萌芽研究「台湾市場における青森リンゴブランドの定着プロセスに関する調査研究」(2009 -
2010 年度)、また同じく基盤研究(B)(海外学術調査)「ピンクレディ・システムに関する総合的調査研究」
(2010 - 2012 年度)に研究分担者として加わり、2009 年と 2010 年に台湾、また 2011 年にオーストラリア、
ニュージーランドを調査した際、そこでの研究課題に絡めて派生的に関心をもつようになったリンゴの味覚や
食味に関する地域的、あるいは歴史文化的な異同や変遷について検討、論述しようとするものである。カーペ
ンター教授をはじめ同じく同僚の黄孝春教授、農業生命学部の神田健策教授や荒川修教授、成田拓未特別研究
員(現・東京農工大)などの調査・研究メンバー各位、さらに台湾やオーストラリア、ニュージーランドで聞
き取り調査に応じていただいた現地関係者各位などに、この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
ところで、本論の内容は、筆者が専門とする経営史の研究とは一見してかけ離れている。それでもりんご関係
のビジネス全般がりんごの味覚や食味の問題などと大きく関わることは言うまでもない。そのため、自らの問
題関心の赴くところとして、あえて門外漢ながら考察に取り組んでみたものである。本論での記述にもし誤り
があるならば、それらは全て筆者の責任であることをお断りしておきたい。
4
久松潜一監修
『新潮国語辞典 現代語・古語』新装改訂版、1985年。新村出編著『広辞苑』第2版補訂版、1986年。
14
ナトリウムがどうのこうの、舌に分布する味蕾がかくかくしかじか、と口のなかが酸っぱくなりそ
うなことを、たっぷりの図と表で説明される。残念ながら、だいたいが消化不良をおこしてしま
う。いかんせん、素人にはよくわからないというよりも、はっきり言って、どちらでもいいという
気分になってしまう。申し訳ないですが、美味しくありません」
。世間にある「味の違いは、舌先
に定着し、ことばに定着する。定着して、記憶となり、文化となる」。「本来の味ことばは、甘いや
辛いなどの五味を中心としたものである」が、それだけでなくメターファー(隠喩)やメトニミー
(換喩)
、シミリー(直喩)
、シネクドキ(提喩)などが加わることで、多様な味覚や食味表現が成
り立ってきており、
「味ことばが味を作るといってもいいくらい」とまで述べている。また、
「甘
酸っぱい」については、
「味表現」の中の「食味表現」であり、そこでの「五感表現」の中の「味
覚表現」に含まれ、
「甘味」と「酸味」の複合表現として分類されるとしていく 5。
もっとも、同書の実質的な続編となる瀬戸賢一・他著『味ことばの世界』
(2005 年)では、さら
に「ことばで味わうにとどまらず」
、
「脳で味わい、心で味わい、体で味わい、比喩で味わい、語り
で味わい、文学で味わう。色とりどりの味を堪能できるフルコース」とし、「『なぜ味はことばで表
現しにくいのか』という反面の真実にも注目していく。つまり、味ことばは単純に『美味しい』で
済ませないことが勝負なのに対して、私たちはしばしば『美味しい』の一語で満足する。これはな
ぜか」ということまで論じていく。その詳細は、同書に掲載された各論に委ねなければならない
が、その冒頭の第 1 章における「ことばで味わう」の中で、瀬戸は、味の表現として示した「【方
法4】組合せを利用せよ」をめぐって、インターネットにより 87,600 例を検索した結果、
「甘い、
辛い、酸っぱい、苦い、旨い」という五つの基本味の組合せの中で最も多く使われていくのが「甘
酸っぱい」(72,700 例)
、次が「甘辛い」
(13,200 例)で、
「このふたつの組合せが他を圧倒する」と
している。また、それら「五味の中では、
『甘・辛・酸』が中心であり、その中核が『甘』だ…。
これは『甘辛い』『甘酸っぱい』の頻度が圧倒的に高いこと。両表現に共通な核が『甘』であるこ
とから明らかである。これらは、また、生理学的にも重要な要素である」としている 6。
このほか、同書の第 5 章での「比喩で味わう」においては、「味の深さ」に絡めて「酸味と甘み
の反応時間に、明確な差があることがわかった。反応時間の短い酸味は『深い』と結びつきにく
い。逆に反応時間の長い甘みは、
『深い』との相性がとてもいい。これは偶然ではないだろう。『深
い味』では、味の反応時間の長さが『深さ』に見立てられているといっていいのではないか」とす
る。また、「『味の奥行き』も、味の反応時間の『長さ』を、『深さ』に見立てるメタファーの展開
とみなすことができる」とし、古木から採れたりんごの味が「酸味の奥に深い甘みがあって、力強
さを感じさせます」という場合、
「甘味よりも酸味のほうが、早く感じられ、その味はサッと消え
る。甘味はゆっくり感じて、あと味も長く続く。この反応の時間差が、
『奥に』ということばで捉
5
瀬戸賢一編著『ことばは味を超える-美味しい表現の探求-』海鳴社、2003 年、5-6、12、16-28、29-31
6
瀬戸賢一、他著『味ことばの世界』海鳴社、2005 年、5-7、24-26、29 頁(瀬戸執筆部分)。
頁(瀬戸執筆部分)。
15 えられている」としている 7。
但し、それらと併せて同書が論じていくように、
「食卓の会話では、目前の料理の味わいについ
てことさら細かに語り合う必要はない」
、
「
『おいしい』ということばを交わしさえすれば、今、自
分が感じている身体的な反応の詳細を相手もまた経験していると了解できるのである。近接的な状
況では美味の感覚を言語化するのは困難だが、実は詳細に言語化する必要もないのだ。コンテクス
トの力を借りて非常に効率的な情報伝達が『おいしい』というだけで可能になるからである」
。け
れども、
「遠隔化された状況はこれと大きく異なる。聞き手は話し手と同じ身体反応を共有しない
から、味覚についていくらかでも聞き手に伝えたいのなら、ことばを選び、表現を連ねていくより
方法がない」としている 8。
それゆえに、同書の中で「至高の味ことばというべき優れた実例」などとして再三取り上げられ
る小説家の開高健による文章表現 9 をめぐって、開高の友人であったサントリーの 2 代目経営者・
佐治敬三も、自著の中でワインに関する開高の会話文を例として、
「その表現の精緻、的確、さす
がに言葉の魔術師の名をほしいままにしていることに三嘆四嘆を禁じ得なかった。…だがしかし、
ワインはやはり飲むべきである。千万の表現をもってしてもこの一口には及ばない」と言い切れたので
ある 10。
(2)味覚や食味としての甘酸適和の捉え方
前掲の『味ことばの世界』によると、人々は食を「ことば」だけでなく、当然ながら「脳」や
「心」
「体」などでも味わうとされる。その内、脳で味わうことについては、
「食物を摂取する前の
感覚として、視角と臭覚があり、口に入れたときの感覚として味覚、触(圧)覚(歯ごたえ、舌ざ
わり、噛み心地などの食感)
、温度(冷、温、熱)感覚、痛覚、聴覚(咀嚼音)などがある。そし
て、飲み込んだ後の感覚に内臓感覚や満足感、至福感などがある」とする 11。心で味わうことにつ
いては、食べた味の認知に「私たちが『こころ』として考えている気分、感情、記憶、意志といっ
たものの影響を強く受けている」12、また体で味わうについては、体調などが影響していくとして
いる 13。
このような味わいの知覚や認知についても、これまで幾つかの研究が散見される。そのひとつと
して日下部裕子・和田有史編『味わいの認知科学』
(2011 年)では、
「分子生物学、情報工学、心
理学などの知見を集積させ、…食品を味わう、ということがいかに人間生活そのものと相互作用を
7
同上書、152、156 頁(辻本智子執筆部分)。
8
同上書、172−173 頁(小山俊輔執筆部分)。
9
同上書、48−53 頁(瀬戸賢一執筆部分)、192-196 頁(山口治彦執筆部分)。
10佐治敬三『へんこつ
なんこつ 私の履歴書』日本経済新聞社(日経ビジネス文庫)2000 年、142−143 頁。
11前掲『味ことばの世界』5,
12同上書、89
13同上書、132
16
56 頁(山本隆執筆部分)。
頁(楠見孝執筆部分)。
頁など(澤井繁男執筆部分)。
しているかを紹介する」と先ず述べ、次に「
『味わい』は、食物の味覚情報が口中の味蕾・味細
胞・味神経を経て脳に伝えられ、視角や触角、聴覚などの感覚・知覚情報と統合され、様々な蓄積
された認知的情報と出会い、その味の全貌を認知していく過程をさすと考えられ、単なる『味』に
比べ時間的で多次元的な広がりをもった過程と考えられる」とする。また , その一方で例えば「脳
機能のレベルでは、いまだ多くがブラックボックスで、識別や分類を論じることが難しい」などと
『味』のみを取り出して感じること
していく 14。但し、それでも「私たちが食べ物を味わう際に、
はほぼ皆無である。しかしながら、
『味わう』という言葉に『味』が入っていることからもわかる
ように、
『味わう』と『味』は混同されがちである。そんな中、食べ物の美味しさを解明しようと
昔から様々な実験が行われてきた。そして、21 世紀に入ってからは遺伝子配列の解明や分子生物
学の進捗に伴い、私たちが口に入れたものが舌の上でどのように受容され、その信号がどのように
脳に伝えられ知覚されるかが徐々に明らかになってきた。そればかりでなく、生理状態と味覚の関
係についても研究が進んできている」と述べている 15。
また、本研究が取り上げる「りんごの甘酸適和」とも関わるであろう「甘味はエネルギーの情報
であるため、腹が減っているときだけでなく、勉強やストレスで脳が興奮して多量の血糖を消費し
血糖値が下がると甘味が欲しくなる」
、他方で「酸味は唾液の分泌を促し、口の中に残る種々の味
成分を素早く洗い流すことができるため、脂の多い食事に加えられることが多い」としている 16。
同書では、このほかに嗅覚の役割も大きいとし、
「フルーツフレーバーが甘味・酸味の主観的強
度に対して影響を与え、フレーバータイプと糖酸液の濃度によってもその作用が異なる」ことを指
摘している。すなわち、
「糖酸量を一定にした水溶液にフルーツフレーバーを 0.1%添加したときで
は、主観的な甘味に対する強度も酸味に対する強度もフルーツフレーバーのタイプによって変化す
ることが確認されている」とし、ストロベリーフレーバーやピーチフレーバーでは主観的な甘味強
度が酸濃度に影響されながら増強され、レモンフレーバーでは酸味強度が全ての糖酸濃度で増強さ
れる。これに比べると、それほどでないものの、アップルフレーバーでも「糖濃度および酸濃度の
組み合わせにより酸味強度の増強と減少の両効果を示し」
、それらから「甘味および酸味強度は基
本的には糖酸濃度に依存するが、必ずしも糖濃度および酸濃度だけが甘味および酸味濃度を規定す
るわけではなく、香料が甘味強度および酸味強度に与える影響は決して少なくないものと考えられ
る」とする 17。
さらに、同書で別の共著者は、
「味とにおいの相互作用」に関連させて、「目隠しをした上で鼻を
つまみ、においが分からない状態でブドウジュースとリンゴジュースを飲んでみよう。あなたは今
14日下部裕子・和田有史編『味わいの認知科学』勁草書房、2011
年、ⅱ頁(日下部裕子、和田有史執筆部分)、
1、7 頁(斎藤幸子執筆部分)。
15同上書、23
頁(斎藤幸子、河合崇行執筆部分)。
16同上書、45−46
頁。
17同上書、62−65
頁(國枝里美執筆部分)。
17 飲んでいるものがブドウジュースなのか、リンゴジュースなのか区別がつくだろうか。どちらも同
じ甘さと酸っぱさの、味気ないジュースに感じられるのではないだろうか。実は、この二つの
ジュースの酸味と甘味の強さは一般的にほぼ同じであり、味覚で感じられる部分に大きな違いはな
い。鼻をつまんでにおいを感じられなくした事により、ブドウやリンゴという個性的な風味を感じ
る事ができず、どちらも甘酸っぱいジュースとしか感じられないのだと考えられる。つまり、われ
われがブドウ味、リンゴ味を区別するためには、味に加えてにおいの情報が必要なのである」とす
「どんな味とどんなにおいがどのように相互作用するかというルール
る 18。もっとも、その場合、
は、個人や文化によってかなり異なっている事が知られている。つまり、味とにおいの相互作用が
起こる組合せが生得的であるとしても、また後天的であるとしても、少なくともその組合せのルー
ルに影響を与える要素が、個人や文化に関連して存在していると考えられるのである。その要素と
して重要視されているのが、食経験や学習である」としている 19。
このほかに、食べ物を口に入れてからの歯ごたえや舌触り、歯切れ、喉越しなどの感覚、さらに
食品の色や光沢、形などについての食前の視覚や臭覚的情報も、そのおいしさにとって味よりも重
要な因子になる場合が多いとする。さらに食べ物を食べる人間の側での様々な身体的あるいは心
理・社会的要因や商品ブランドの有無などからの影響についても言及している 20。
このような多様多次元的な感覚知覚の統合などによって食べ物の「おいしさ」が認知されるとし
たならば、改めて「おいしさは測れるのか」との問いについても、その解を何か特定の計測対象か
ら割り出すことが難しくなるであろう。それでも「おいしさ」は、多くの人間にとって日常生活の
それぞれのシーンで重要な価値評価のひとつの尺度となってきており、その限りである種の普遍化
された嗜好と見做すことができようし、また個人や社会、地域、時代などに応じての違いや偏差の
存在などを指摘することもできるであろう。
(3)りんごの消費や需要の歴史文化性
りんごの食味については、生食する場合と、何らかの料理や加工がなされる場合の二通りが想定
される。ただし、後者に関しては、その食味が料理や加工を経て複合化されていくほか、りんごの
特性として他の食品に組み合わされると往々に自らの食味を希薄化させていくために、多くの他の
食品との間で相性がよいと評されたりもする。そこで、以下においては、専らりんごの生食に限っ
ての「甘酸適和」について考察していきたい 21。
18同上書、74−75
頁(藤木文乃執筆部分)。
19同上書、87−88
頁。
20同上書、97−98、117−118、145−162
頁。191−197 頁(和田有史執筆部分)。
21もっともりんごを主に生食するのは、日本や中国などの東アジアで、ヨーロッパやアメリカなどでは、料理や
加工に用いていく比率が高い。したがって、このような違いもまた歴史文化性の相違や差異として研究の対象
にできるであろう。
18
別の拙論で既に検討したように、りんごはもともと西アジアのコーカサス(カフカス)山脈地方
が原産地とされ、そこから西のヨーロッパと東の中央アジアおよび東アジアへと大きく二手に分か
れて伝播していったとされている。そのうちで今日の世界において主流となってくる品種は、西の
ヨーロッパへ伝わった後、さらにアメリカにも伝わり、そこから日本などのアジアへ地球を西回り
しながら、その間に選択、改良されてきたものである。ちなみに、りんごの西アジアやヨーロッパ
での栽培は、4000 年ほど前から始まっていたとされる。ギリシャ時代やローマ時代には、りんご
が人々にとって既に身近な果実のひとつであっただけでなく、「智恵」や「豊穣」「愛情」などの象
徴と見なされるようにもなっていた。古代ローマの饗宴は、前菜の卵から始まり、デザートのりん
ごで終わると言われたりもしていた 22。
りんごのヨーロッパでの栽培の適地は、地中海沿岸地方よりも気温が冷涼かつ降雨が多く、日照
も弱いため、ぶどうの栽培に不向きなヨーロッパの中部や北部地方であった。そのりんごは、17
世紀以降になるとクラブ・アップル(crab apple・野生りんご)と総称されていくようになる小玉
で、強い苦味や渋味、酸味をもつ半ば野生に近い自生りんごであり、主に発泡性りんご酒(シード
ル)の醸造用原料と、一部が調理用や保存向けの食材として使われた 23。
このようにりんごがヨーロッパの中部以北で早くから栽培されていく理由としては、その適地性
だけでなく、ヨーロッパの地中海沿岸地方にて飲用に不向きな生水の代用とされたぶどう酒〈ワイ
ン〉に取って代わるものとしてりんご酒の需要があったほか、人々が日頃から常食していた肉食と
の食味上の相性や、人体が必要とするビタミンCなどを摂取するための野菜などを補完できる食材
としても好まれたためとされている。そこで、6,7 世紀頃からりんごの品種や栽培法、加工法な
どの改良が進んで、17 世紀頃になると生食向きの品種も作られていくようになった。19 世紀頃に
なると、フランスやドイツなどのほか、イギリスもヨーロッパの主要産地のひとつになっていた。
今日でもヨーロッパの中部以北において、中小玉で酸味のやや強い在来種のりんごが調理用食材と
して依然好まれていくのも、このような野菜などとの補完関係や、食材としての実用性、習慣性な
どを踏まえて理解されるべきであろうと言われている 24。
また、これとは別に 17 世紀中頃よりイギリスなどから多くのヨーロッパ人がアメリカへ移住して
いくようになった。その際に初期の移住者たちの多くがアメリカで生水を飲用することに不安を抱
き、それに代る水分補給食材としてヨーロッパからりんごの苗木を持参し、アメリカで接木法によ
る増殖を試みたものの、風土の違いなどから根付かせるまでに至らなかった。移住者たちは、そこ
で改めてりんごの種子からの実生として新たな苗木を育てていくようになり、その中から多様なり
22四宮俊之「りんごの消費や需要に見る歴史文化性の差異について」
『弘前大学大学院地域社会研究科年報』第
4 号、2007 年、22 頁。
23同上、22−23
24同上、23
頁。
頁。
19 んごの新品種が生み出され、それらのりんごを原料にしてヨーロッパと同様の発泡性のりんご酒を
盛んに醸造していくようにもなった 25。
このようにしてアメリカで 19 世紀後半から 20 世紀初頭にかけてゴールデン・デリシャス
(Golden Delicious)やジョナサン(Jonathan, 日本名が紅玉)をはじめとして新たなりんごの品種
が生み出され、りんごの商業的生産も盛んに行なわれるようになった。但し、アメリカでは、その
後 1920 年から 33 年にかけて禁酒法が施行され、それまでりんごの主たる用途となっていた発泡性
りんご酒(20 世紀になるとハードサイダーとも称する)の製造、販売が違法となった。そのた
め、りんごの生産者などが窮余の策としてりんごの生食を「健康に良い」と宣伝し、
「リンゴ一日
一個で医者要らず」という標語を考え広めていくようにもなった。また、既存のりんご酒工場も冷
蔵技術の進歩を利用して非発酵のりんご果汁を製造し、それを原料にりんごの酢やジャム、ソー
ス、バター、ゼリー、さらにりんごの缶詰や調理用乾果などの製造に取り組んでいった。かくし
て、アメリカでは、りんごの用途が旧来のりんご酒や自家消費向けの調理用食材などから、多様な
工業的食品加工分野へと拡げられ、それとともに新たな消費や需要の創出に向けて広告や宣伝が商
業的になされていくようになったのである 26。
ところで、アメリカで新たに実生から生み出されたりんごの品種としては、ゴールデン・デリ
シャスやジョナサンのほか、スターキング・デリシャス(Starking Delicios)やレッド・デリシャ
ス(Red Delicious)などもあって、いずれもそれまでのりんご酒醸造向けの小玉で酸味の強いも
のに比べると、やや大玉で甘味があり果汁も多かった。これらが新たな生食向けの品種となって、
アメリカ北西部のオレゴン州やワシントン州などで栽培されていった。そのうちのゴールデン・デ
リシャスなどは、その栽培における豊産性と食味の適度な甘酸により、やがてヨーロッパへ苗木が
持ち戻されて生食向けの主要な品種になっていった。そのため後年になると、世界で栽培される生
食向け優良品種のほとんどがアメリカにおいて生み出されたと言われるまでになった。ただし、ア
メリカの東部や中西部においては、その後も依然として酸味の強い加工向けりんごの栽培も盛んに
行われ、新たに大衆向け飲料となっていく果汁(ジュース)や未発酵の発泡性スィートサイダーな
どの工業的生産の原料として需要を伸ばしていった。また、ホームメイドのアップルパイが「おふ
くろの味」
、さらに最も「アメリカ的」な食品の一つに例えられるまでになっていくのである 27。
このようにアメリカでは、ヨーロッパに比べると、りんごの品種や食材としての用途などに新た
な変化と広がりが見られた。それでも双方が畜肉を常食する食文化を持つ点で共通していたため、
それとの食味上の相性として一定の酸味をそなえ、かつ生食や調理・加工に向いた手頃な大きさの
りんごが半ば必需品としてともに選好されていった。また、野菜を補完する植物性の副食材の一つ
25同上、23−24
26同上、24
頁。
27同上、24
頁。
20
頁。
であると見做して、りんごの食用を半ば習慣化していく食生活もほぼ近似していたと思われる。但
し、アメリカにおける消費の独自なあり様としては、労働力の相対的不足による粗放的な栽培法の
影響などもあって、りんごの外観などに重きをおかず、安価で平均的な食味のものを、例え画一的
であっても大量に求めるという多分に質実重視の傾向が強かったように見える 28。
このようにしてヨーロッパ、次いでアメリカへと広がった「西洋リンゴ」は、その後 1870 年代
に日本や中国などへ伝播し、東アジアでも栽培されていくようになった。日本や中国などでは、そ
れ以前から既に原産地の西アジアからシルクロードなどを通じて東へ伝播した、前述のごとくヨー
ロッパでクラブ・アップルと称されるものに近似した小玉で、苦味や渋味があって、酸味も強い野
生りんごが存在していた。日本では、それらを「和りんご」「地りんご」「小りんご」などと称して
いたが、柿などに比べると分布状況が限られ、商業的な栽培もほとんど行なわれていなかったと思
われる。それらのりんごは、主として仏前の供え物などに使われ、生食しても食味が良くなかった
と言われている。その点は中国においても同様と思われる。中国で古くから果実の代表と目された
「五果類」は、桃、アンズ、ナツメ、スモモ、栗であり、りんごを含んでいなかった。日本や中国
などでは、近代に先立っての時代に限ると、それほど人々の間でりんごの食用について馴染みが歴
史的になかったと見られる 29。
そのため、近代になって日本へ西洋りんごが伝播してくると、例えば 1877(明治 10)年に青森
の北斗新聞が和りんごと比較して、
「じつに管内未曾有の大なるものにして味わい殊に美に、日本
種類とは比較し難し」30 と絶賛した。なお、りんごが日本へヨーロッパやアメリカから何時、また
どのように伝播してきたのかについては諸説がある。アメリカから 1858 年頃との話もあるが、公
式な説としては、政府が 1871〈明治 4〉年にアメリカから 70 余種の苗木を輸入し、それらを接木
繁殖させ、1874 年から全国の府県へ配布したことが始まりとされている。青森県へは 1876 年まで
に 308 本が配布され、それらを試植し 1877 年に初めて実をならせたとされている 31。
日本に最初伝播した西洋りんごの品種は、アメリカ産の 75 種とヨーロッパ産の 108 種ともされ、
そのうち日本に根付いていくのは、アメリカにて新たに実生から生まれたロールス・ゼネット
(Rall’s Janet, 日本名が国光)やジョナサン(同・紅玉)
、ゴールデン・デリシャス、スターキング
などであった。ヨーロッパ産の品種が根付かなかったのは、日本の雨量がアメリカ東部と同様に
ヨーロッパと比較して多かったためと言われている。日本での西洋りんごの商業的栽培は 1880 年
代に広まり、1890 年代になると各地の品評会や試食会などでアメリカ産品種の国光や紅玉、マザー
(Mother, 日本名が大猩々)
、スミスサイダー(Smith’s Cider, 柳玉)、それに日本原産とされる印度
28同上、25
頁。
29同上、25、32-33
頁。
30杉山芬ほか『青森のりんご-市販の品種とりんごの課題-』北の街社、2005
31前掲「りんごの消費や需要に見る歴史文化性の差異について」25
年、167-168 頁。
頁。
21 などが高い評価を得ていき、とりわけ収穫の多収性や高経済性、果実としての貯蔵性の良さなどか
ら国光と紅玉に人気が集まった。1911 年の青森県農会調査によれば、青森県におけるりんご総生
産量 74 万箱のうち、国光が 48%、紅玉が 30%で、その他の品種になるといずれも 7%以下に過ぎ
なかった。ここで、生産量を示す単位として使われるりんごの「箱」は、その形状や寸法、重量が
きん
当初まちまちであったものの、明治末期までに青森県を筆頭として全国で 40 斤(英斤で約 18kg 相
当)入りの木箱の利用が広まり、それが後の 1926 年に「標準箱」として規格化されていったので
ある 32。
こうして青森県などで栽培されていくようになった西洋りんごは、品種や品質にもよるが、一般
に「舶来の果物」と見なされたため、良品になると高価で贅沢な嗜好品の一つになっていった。東
京でりんごが一般に広く一般に販売されるようになったのは 1898 年以降であった。その頃には、
何をおいても大きなりんごが好まれ、小さかったり、酸味が強いと市場で嫌われた。また、紅色で
光沢のあるものも好まれた。ヨーロッパやアメリカでは、前述のようにりんごが肉食との食味上の
相性やビタミン C などの摂取に適っていただけでなく、野菜を補完する副食材として早くから習慣
的に食用されてきたのに対して、日本では、米や魚介に加えて多様な野菜を副食材として多食して
おり、果物になるとかつて主に上流階級の人々が「水菓子」などと称し珍重しながら食べるくらい
であった。日本で人々が古くから見慣れてきた果物は、在来種の柿や桃くらいで、その他の市場に
出回る果物になると、多くが近代以降に外国から持ち込まれたものが多かった。1895 年に京都で
開催された第 4 回内国勧業博覧会へ西洋りんごが出品、展示された際には、その審査報告書による
と「観客常ニ群ヲナシ口ヲ極メテ激賞セリ、或ハ其ノ果物ノ何者タルヲ知ラス、或ハ模造品ナルヤ
ヲ疑ウニ至レリ」33 とのことであった。そのため、近代になって西洋りんごなどの外来果物を当初
食用したのも、依然として一部の富裕層の人々に限られ、その多くが病気見舞いなどの贈答用とし
て使われた。また、その食べ方は生食が主流であった。日本で日常の食生活に果物を取り入れてい
くことが提唱されるようになったのは、1907 年以降のこととされている 34。
りんごの価格は、それでも栽培法の改善などによる生産の拡大に応じて 1910 年代まで徐々に下
落していった。しかし、りんごは、依然として贅沢な嗜好品と見られていた。青森県林檎同業組合
が 1922 年に当時のりんご価格下落の原因を探るため全国各地に派遣した視察班の調査報告書で
は、
「京阪神の三都に於いてさえ、未だ之を贅沢品視し中流以上の人の用うる所たり。其他の地方
にありては時に贈答品又は病人の食用に限られ其他は極稀に用い他の果物に比肩すべくもあら」ざ
るとしていた 35。
32同上、26
頁。小林章『文化と果物-果樹園芸の源流を探る』養賢堂、1990 年、54 頁。
33塚谷裕一『果物の文学誌』朝日新聞社、1995
年、18 頁。
34前掲『りんごの消費や需要に見る歴史文化性の差異について』26-27
35同上、27
159 頁。
22
頁。
頁。青森県編『明治・大正りんご販売史(青森県りんご発達史 第 5 巻)』青森県、1965 年、155 -
しかし、その後 1926 年に全国生産量の 70%台を占めるまでとなっていた青森りんごが未曾有の
大豊作になると、阪神市場の小売価格が例年の半分とか、三分の一とかになったごとく全国の消費
地で価格の下落が生じ、一般の庶民階層にもりんごの消費が拡がっていった。その頃までに先行し
て庶民向け果物になっていたミカンや柿、梨が売り切れた 12 月以降を中心として、それらに次ぐ
四番手の果物として、りんごが全国の主要地域へ出回っていくようになった。1932 年に青森県り
んご組合連合会などが連名で鉄道大臣宛に提出した運賃の低減を求める請願書では、
「今や林檎は
生活必需品として年を加うるに従って其需要拡大しある」と述べるまでになっていた。東京や大阪
の市場では、りんごの取扱額が 1931 年から 1935 年までにかけてミカンやバナナなどを上回り、「果
物の王」と賞賛されるようにもなったのである 36。
また、この時期におけるりんごの豊作と価格の下落は、新たにりんごを原料とする食品加工業の
取り組みを促す機会となった。青森県では、すでに明治期からりんごを原料に羊羹や砂糖漬、乾燥
りんごなどの菓子類を製造する動きが零細事業ながら見られた。大正期以降には、りんごのジャム
や、ボイル、缶詰のほか、りんご液(果汁)やりんご酒、シードルなどの製造も始まった。1926
年には青森県が農事試験場内に苹果加工貯蔵部を設置し、りんご加工のための技術研究を本格化さ
せていくようにもなった。しかし、このような加工品の開発に向けての取り組みは、技術の未熟や
資本力の不足などもあったが、何よりも加工品のほとんどが日本の伝統的な食習慣や食文化に馴染
みのないものであったため、纏まった需要をほとんど見出せず、本格的な事業化に繋がらなかった 37。
ところで、その後に日本が戦時体制に向かっていくと、りんごを含む青果物に 1940 年から戦時
価格統制の一環として配給統制と価格統制が及んでくるようになった。1944 年には、りんごを「腹
の足しにもならぬ」不急不要物資のひとつとしていくだけでなく、その栽培を規制して警察が取り
締っていくようになった。このことは、政府がりんごを依然として贅沢な嗜好品と見做していたこ
とを示していた。しかし、第二次世界大戦後になると、全国的な食料不足が深刻化し、日本人が主
食とした米穀の不足を補完する代用食品としてりんごなどが需要されていくようになった。また、
それに戦後インフレの影響も加わって、売り手主導の高値での闇取引が横行し、りんごの栽培が再
び急増した。青森県でのりんごの生産は、1945、46 年に 200 ~ 300 万箱程度であったのが、1947
年になると貯蔵性の優れた戦前からの品種である国光や紅玉を中心に 900 万箱、次いで翌 48 年に
戦前のピークであった 1942 年実績を上回る 1377 万箱へと増えた。青森県だけでなく、長野県など
でも新たに生産が伸びて、1950 年になると国内でりんごがミカンを上回って最も生産量の多い果
物となったのである 38。
このような戦後の生産拡大と、さらに 1949 年以降における経済不況によって、その後のりんご
36前掲『りんごの消費や需要に見る歴史文化性の差異について』27-28
頁。青森県農林部りんご課編『昭和前
期りんご販売史(青森県りんご発達史 第 11 巻)』青森県、1972 年、147-148 頁。
37同上『りんごの消費や需要に見る歴史文化性の差異について』27-28
38同上、28
頁。
頁。
23 市況は反落していくようになった。そこで、りんごは戦前や戦後当初のやや贅沢品といった消費感
覚を依然残しながらも、やがて多くの人々にとって以前にも増して身近な果物になっていった。り
んごが国内の果物生産高合計に占めるシェアは、
1952 年に 25 ~ 30%に及んだ。ただし、ミカンも、
1950 年代に入るとりんごを上回る生産拡大を見せ、1960 年にミカンなどの柑橘類の国内生産が再
びりんごを上回るまでになった。また、1963 年にはバナナの輸入が自由化された。そのため、当
時のりんごの主力品種であった国光や紅玉のもつ酸味が次第に消費者から敬遠されるようになっ
た。りんご産地における冷蔵保存の長期化などを原因とする食味の劣化も次第に目立っていった。
そこで新たに消費者のりんご離れが引き起こされた。1968 年には、りんご価格が暴落し、小玉や
品質不良のものになると生産原価割れの低価格でも売れなくなったのである 39。
そのため、食味や香味、着色の良さなどで価格の暴落を免れていたデリシャス系のスターキン
グ・デリシャスや、新品種として当時登場していたふじがなどへの品種更新が 1968 年以降進めら
れていくようになった。1965 年に国光 35%、紅玉 29%であった青森県でのりんごの品種構成は、
1978 年までに国光と紅玉がそれぞれ 9%へと減少し、それらに代わってデリシャス系が 37%、ふ
じが 27%へと増えていった。スターキングは、戦前から青森県などで既に栽培されており、香味
や着色に優れていたが、貯蔵性に難があった。それが戦後における冷蔵保存の再開を受けて、新た
な更新品種として再評価されていったのである。ただし、1983 年になると長期保存での品質劣化
が表面化し、消費者から不評を買うようになった。そこで、ふじを中心とする品種更新がさらに進
んでいった。ふじは戦後の日本において生み出された新品種で、果汁の多さや甘酸の調和、食味の
良さなどから周知のようにやがて生食向けの新たな主力品種となっていくのである 40。
ところで、このようなふじへの品種更新は、国内の消費者の側での生食向け果物に一層の甘味を
求める当時の動向と符合していた。りんごが同じ生食中心の嗜好果物であるミカンやバナナなどと
果物市場での競合関係を次第に強めていく際に、
「甘酸適和」が一応の理想と目されながらも、ど
ちらかと言えば酸味より甘味の濃厚さの方を消費者の多くが歓迎、選好していくようになった。そ
の結果、1990 年代の後半になるとふじやつがる、黄林など戦後に開発された甘味の強い品種が国
内でのりんご生産量の 80%を占めるようになった。ヨーロッパやアメリカなどでは、ゴールデ
ン・デリシャスやレッド・デリシャスなどに続く、さらなる品種更新にあまり積極的でなかった
が、それに比べると日本では、さらにふじへの品種更新が続けられ、それが日本のりんご栽培にお
ける新たな特徴になったのである 41。
このような日本におけるりんご栽培や産業としての特徴については、それ以前から既に指摘され
るようになっていた。やや長文の引用になるが、例えば宮下利三は、1960 年に「日本化したりん
ご」と題して、日本で知られる祝や旭、国光、紅玉という品種の「母国」がいずれもアメリカであ
39同上、29
頁。
40同上、29
頁。
41同上、30
頁。
24
るとしながら、
「さらに特徴があるのは、リンゴの品種が生食用のものに限られている…。サイ
ダー用とか料理用といわれる加工用品種は、フランス、イギリスなどには多いが日本では全く作ら
れていない」
、
「加工用リンゴは、サイズが大きく、収量が高いという特徴をもっているが、価格が
安いために地代の高いところでは作り難い実情にある。わが国のリンゴ生産者は、平均して経営規
模が小さいから、単位面積当りの収量が大きく、しかもそれが高価格を期待するようなものでない
と、作る気にはなれない。価格の安い加工用リンゴに関心をもたないのは、当然である」としてい
た。また、
「わが国の生食用のリンゴは、こうした農民の希望に応えて自然にサイズが大きくな
り、それに平行して収量も高くなってきた。そして、いまではサイズの大きいものほど価格が高い
という事実に押されて、この傾向はさらに強まりつつある。…日本農業の特徴である零細な経営規
模と、日本果実商業の特徴である『リンゴの一箇売り』という二つの条件に導かれて、リンゴの果
実は、大きく美しく育てることによって、始めてソロバンのとれる作物となり得たのである」、「日
本のリンゴは、サイズの大きいものほど美しく、ていねいに作られているのであって、味も、大き
いものほど良いことは、すでに読者も実験済みのことであろう。サイズの大きいものは加工用リン
ゴだ、などという外国風の通年は、ここでは消え失せてしまっている。…生産とマーケッティング
の見事な調和というべきものが、外来のリンゴを日本化し、それを独特の商品に育てたということ
が、わかるのである」とも論じていた 42。
こうした日本でのりんご栽培や産業としての独自性が、食味における甘味への嗜好と相俟って、
ふじへの品種更新を急速に広げていくようになったのである。
(4)りんごの甘酸適和に見る歴史文化性からの異同
日本での戦後におけるりんごの食味に関する嗜好は、加工向けや果汁向けを除く 43 と、ふじの
登場とほぼ歩調をあわせながら、生食を中心に甘味の強さを求める方向へ傾いていくようになった
と思われる。しかし、それとは別に国や社会、民族、時代ごとにおける食文化の違いなどからりん
ごに求める食味などに関して違いや差異があることもしばしば指摘されてきた。これまで我々の行
なってきたりんご関係の海外調査でも、そうした違いがたびたび認識され、話題となってきた。例
えば、2010 年 12 月における台湾でのりんご流通事情調査では、台北市の果物輸入商からの聞き取
りによると果実の豊富な台湾の特徴として消費者がりんごについても甘さを求めるとされ、ニュー
ジーランド産の新品種であるジャズ(Jazz)などを酸味が強く不評であるとしていた。また、2011
年 3 月のオーストラリアとニュージーランドでのりんご産業調査では、近年のアジア系移民の増加
による自国の多民族化を反映してりんごに多様な食味が求められる一方で、ヨーロッパ系住民の間
に好ましい食味として適度な酸味を求める嗜好が窺われ、移民ごとの出身国を含めての歴史文化性
42『嗜好』第
410 号、明治屋発行、1960 年 12 月(宮下利三『リンゴのマーケッティング-宮下利三著作集-』
青森県りんご協会、1963 年、3−6 頁)。
43前掲「りんごの消費や需要に見る歴史文化性の差異について」32
頁。
25 の違いによる好みの違いや差異が存在することを印象付けられた 44。
日本の農水省果樹試験場盛岡支場育種研究室では、りんごの品種選抜の指標として「大きさ、
形、果梗の長さ、地色、果色、着色歩合、果点の大きさ、果面の状態、さびの多少、果皮の厚さ、
果肉色、蜜入り程度、肉質の良否、果汁の多少、甘味、酸味、味の濃さ、香気、熟度、硬度、糖
度、酸度、貯蔵性、生産力」といった項目を 3 ~ 5 段階で調査、評価するとしている。そのうちで
「食味に関するものは肉質の良否、果汁の多少、糖度、酸度などがあり、なかでも品質に最も大き
な影響を及ぼすと考えられている指標に糖度、酸度」をあげている。そのため、栽培に際しても
「リンゴの品質には糖度と酸度のバランスが大きく影響を及ぼすと考えられており、糖酸比を評価
指標として重要視している」とする 45。
そこで、次にりんごの食味における品種別の違いについて「甘酸」という概念を軸として図- 1
と図- 2 により見ていきたい。図- 1 は、日本の明治~昭和中期および 1990 年代頃の品種や北ア
メリカでの加工適性品種などの糖度と糖酸比の組合せについて、石山正行が 1994 年に品種ごとの
糖度を横軸にて、また糖酸比を縦軸にて図示したものである。石山によると、日本の主要品種は、
国光や紅玉からスターキング・デリシャスやふじへと、次いでふじやつがるへと順次交代してきて
おり、先行したスターキングやふじへの交代では、
「リンゴ酸含量が半減したが、糖含量はほとん
ど変わらなかった」
、また次のふじやつがるへの交代では、「味の変動はなかった。これを糖酸比
(糖度÷酸度)でみると、国光、紅玉が 20 前後なのに対して、ふじは 30、Starking Deliciousは 45 前
後である。…今後日本人のリンゴの好みがどのように変わるかは明らかでないが、Jonagold が増加
し、さんさが評価されつつあるので、将来は糖酸比 30 前後の味が、主要品種としての必要条件の
ように思える」としていた 46。
また、図- 2 は、日本のりんごとニュージーランドやアメリカからの輸入リンゴについて、梶川
千賀子が 1999 年に品種ごとの糖度と糖酸比を同様に図示したものである。梶川は、これも長文の
引用になるが、次のように述べている。
[Apple & Pear Australia Ltd.] での
Jon Durham
(Managing Director)や Annie Farrow(Industry Services Manager)、Kevin Sander(Director)の
各氏からの聞き取り、2011 年 3 月、オーストラリア。Chris Peters(Fruits Growers Victoria, Manager PIDO
Project)氏からの聞き取り、同 3 月、オーストラリア。Pipfruit New Zealand での Mike Butcher 氏などからの
聞き取り調査、同 3 月、ニュージーランド。Butcher 氏は、ヨーロッパとアジアでのりんごの食味における嗜
好の違いについて、その理由をヨーロッパ系でのビネガーとアジア系での醤油といった食味文化の違いで説明
してもいた。
2011 年の調査では、黄孝春教授もオーストラリアではりんごの食味として酸度があり、かつ「しっかりした
味」で、それに甘味が若干あるものが好まれることを指摘していた。また、カーペンター教授は、その調査に
先立つ 2010 年 10 月の弘前大学農生学部りんご振興センターでの『りんごトーク・アメリカワシントン州のり
んご事情-クラブ制を中心に-』において、ふじの食味を「アメリカ人の口に合わない」、それに比して
ニュージーランドのクラブ制りんごであるジャズを「酸味があって、硬くて、おいしい」と評していた。
45梶川千賀子『リンゴ経済の計量分析』農林統計協会、1999 年、119 頁。
46石山正行「世界と日本のリンゴ品種」
(中村信吾編著『りんごのすべてⅠ』アップルフェア推進協議会、1994
年、36 頁)
。
44鳴和實業有限公司・唐國青氏からの聞き取り、2010 年 12 月、台湾。APAL
26
「1960 年代の中心栽培品種であった紅玉や国光は、糖度は 14%以上と高いものの糖酸比は 25 以
下であり、酸味のかなり強い品種である。また、早生種の旭と祝は、糖酸比 25 以下。糖度 12%以
下ときわめて酸味が強く、…酸味のまさった品種であるといえよう。
…これが、スターキング・デリシャスやゴールデン・デリシャスになると、糖度も 12%以上、
糖酸比が 25 以上となり、
(糖度が高まり、酸度は低下し)甘味がより強くなった品種であることが
うかがえる。ツガルやフジ、北斗など国内育種品種は、早生・中生種が糖度 13%前後、晩生種が
糖度 14 ~ 15%で、かつ糖酸比は 30 前後に分布している。このように糖度が高く、適度な糖酸比
をもった品種を育種目標としてきた結果、日本での栽培品種の多くはこの枠内にある。
…これに対して、輸入リンゴの値をみると、ニュージーランド産輸入リンゴの Royal Gala,
Braeburn, Granny Smith は糖度が 13%以下、Fuji は糖度が 13.6%と輸入リンゴの中では高いが、糖
酸比が 45 を超えている(この場合、糖度は基準内にあるが、糖度 13%台で糖酸比 45 のリンゴは
食 味 的 に は 甘 味 が 薄 い と 評 価 さ れ る ) と い う 問 題 が あ り、 現 状 で は、 ア メ リ カ か ら の Red
Delicious, Golden Delicious の特性値のみ、糖度が 13 ~ 15%、糖酸比が 25 ~ 45 という枠内にある。
しかし、このアメリカ産 2 品種にしても渋みが残っており、ボケやすく、果汁不足と指摘されてお
り、ニュージーランド産リンゴに関しては、果汁不足、硬さ不足、食味の淡泊さといった品質評価
がなされた。日本の消費者は、糖度が高く適度な酸味を有し、果汁が多く、果肉のしっかりした品
種を好み、外観のよさを重要視する。日本のリンゴ育種の方向は、このような消費者嗜好を念頭に
図−1 日本や北アメリカでのりんごの糖度と糖酸比の品種別組合せ
(明治〜昭和中期、1990年代前半の品種)
出典:石山正行「世界と日本の品種」
(中村信吾編著『りんごのすべて Ⅰ』アップルフェア推進会議、1994年、37頁。
27 図−2 日本の国産りんごと輸入りんごの糖度と糖酸比の品種別組合せ
(1990年代)
出典:梶川千賀子『リンゴ経済の計量分析』農林統計協会、1999年、120頁。
行われてきたが、この図で過去の主要品種の推移をみても、このことは明らかであり、糖度、酸度
といった物理特性値が、リンゴの品質評価の際にきわめて重要な指標であるといえる。」47
ところで、本論の冒頭で述べた 2011 年における果実の紹介や通信販売での食味の表現について
パソコンで検索した中に、例えば『木村りんご園ホームページ』における「美味しいりんごの見分
け方」と題するサイトでは、
「味の知識」として「1.甘味と酸味の釣り合いが必要。2.我が国では
糖分が多いほどうまいという人が多い。3.
果実の中に酸の量が多いと、糖分が多くても甘味の感じ
方が少なくなる。4.糖も酸も多いほど味が濃い」と記述し、糖酸比 41 以上を甘味種、30 ~ 40 を
甘酸適和種、29 以下を酸味種というように分けている。また、品種ごとの糖酸比として印度 58、
世界一 48、王林 41、北斗 40、つがる 36、ふじ 31、ジョナゴールド 23、陸奥 21、紅玉 16 などと
している 48。さらに別のホームペ-ジでは、甘酸適和の美味しいりんごとして糖酸比を 30 ~ 40 と
している 49。この他に甘酸適和として糖度が 14 ~ 15%で酸度が 0.5g/100ml 前後、あるいは糖度が
16 ~ 18%で酸含量が 0.5%程度とか、糖度が 14.1%で酸度が 0.31%、さらに糖酸比が 45 などとし
47前掲『リンゴ経済の計量分析』
、119-121
頁。
48『木村りんご園ホームページ』http://www.jomon.ne.jp/˜kimura/miwaku.htm(2011
年 11 月 12 日検索)。
49『工藤農園ホームページ・美味しいりんごはここに成る』http://www.kudofarm.el2.jp/feature/apple/production/
sentei/003/(2011 年 11 月 15 日検索)。
28
ていく説明が見出せる 50。
先の図- 1 や図- 2、あるいは上述のような代表的品種ごとの食味についての説明としては、そ
のほかに次のようなものがあった。印度は「硬くて、甘くて、酸っぱくない異端の味」
、11 月初旬
には「あまり甘さを感じ」ないが、1 月になると本来の味に「変化」する。糖度が赤色面で
16.0%、緑色面で 14.9%、
「酸味はごく少ない」
。王林は「多汁、酸は少なく、甘さが強い」
。金星
は「多汁…さわやかな歯ざわり…食べたときの口中に広がる香りと甘味は他に例が」なく、
「うま
くなるのは、12 月中旬以降」
。北斗は「甘酸適和で、芳香があり、蜜が入り、果汁が多く、噛むと
口中に果汁があふれ、その果汁を飲んで噛むと、また果汁が口にあふれます。…特に甘いわけで
も、酸が効くわけでもないのですがうまいのです」
。つがるは「酸に強みがなく、弱い酸が甘味を
より引き立ている感じです。糖度は 12 ~ 13.5%に達し、肉質も良く、多汁な早生品種」で「9 月
初旬後半から中旬にかけて糖度が高まり、柔らかさや味が増し、酸っぱさも和らぎ、そして残留デ
ンプンも消失し、食味がよくなります」
。ふじは「色、味、保存性ともに抜群」ながら「熟する時
期が非常に遅い品種」で、糖度も平年で 10 月頃の 12%台が 11 月 14%台となり、酸度が逆に 10 月
頃の 0.45 前後が 11 月に 0.40 から 0.35 前後へ下がっていく。また、ジョナゴールドは「完熟品は
やや酸味が強いですが、甘味と酸味のバランスがとれ、口当たりもよく、多汁です。…熟してから
食べましょう」
。陸奥は「果汁が多く、穏やかなよい香がする甘酸適和」
、紅玉は「酸の効いた甘
味、さわやかな芳香、多汁な口当たり」など 51。
それでは、このようなりんごの食味について、海外ではどのような言葉で表現していくのであろ
うか。アメリカの英語文献を例にして見ると、アメリカでは甘味について sweet という言葉を専ら
使い、それに sweet flesh、tender sweet、tingling sweet、sugary sweet のような程度の違いを示
す表現を併せて付していくことが多いようである。それに対して、酸味については、tart を筆頭に
acidic、sour、spicy、sharp など幾つかの異なる表現が使われており、これらのことからりんごの
甘味より酸味の微妙なニュアンスの違いの方に英語圏の人々が歴史文化的なこだわりをもっている
ことが窺える。なお、酸味についても、medium tart、mildly tart、slightly tart などのようにやは
り程度の違いを示す表現を併せて付していく例が散見される。また、りんごの「甘酸適和」に相当
する表現としては、tart-sweet、sweet-tart がある。それらの表現を使って sweet として表現、分類
される品種としては McIntosh、Spartan、Golden Delicious、Cortland、Northern Spy、Fuji、Gala
などがある。Tart として表現、分類される品種としては Granny Smith、Jonathan、Greening、
Newtown Pippin などが、さらに Tart-Sweet とされる品種としては McIntosh、Northern Spy、
50『りんごの品種特性』http://www.agri.hro.or.jp/center/kenkyuuseika/.../2007014.html(2011
年 11 月 15 日検
索)
、
『いま須坂』http://www.city.suzaka.nagano.jp/ima-web/prg/view2.prg?(同日検索)、『着色の優れたり
んご新品種「昻林」の果実特性[要約]
』http://www.pref.ibaraki.jp/bukyoku/nourin/santoku/.../sankanseika03.
pdf(同日検索)
。
51杉山芬&杉山雍『青森県のりんご-市販の品種とりんごの話題-』北の街社、2005
年、40、49、60、67、91
-92、107-108、129-130、137、144 頁。
29 Winesap、Idared などがある。ふじは sugary sweet と評されたりもしている。この他にりんごの
食感を絡めての表現になると、delicious、crisp、juicy、aromatic、tangy、ripe、flesh, beauty、
tasty, flavorful、crunchy、safe など多様になってくる 52。もっとも、これらの評価や分類は、
McIntosh のように同じ品種が sweet と tart-sweet の両方に該当させられるように、区分けが必ず
しも厳密でない場合がある。前掲した日本の文献でも、Delicious やふじを「甘味」、Cox’s Orange
Pippin や Granny Smith, Jonathan, McIntosh を「酸味」、Golden Delicious や陸奥、Gala、Jonagold
を「甘酸適和」などと評価、分類したりしている 53。
ところで、筆者は未だヨーロッパのリンゴ事情について実際に見聞、調査する機会を持たない
が、林望著「風の林檎」
(
『イギリスはおいしい』1991 年、平凡社)によると、
「イギリスのリンゴ
の代表的な品種は、何といってもコックス(cox)である。…生で食べるりんご(eating apple 日
本にはこういう区別はないけれど、イギリスでは生で食べる品種と過熱用のそれ、すなわち
cooking apple とは厳格に区別されて用いられ、混同されることはない)の一般的な品種で、甘
くってそうして幾分ピリリとした味わい(…“spicy taste”…)
、赤く彩られた緑黄色の果実をもつ
…。こういうリンゴを…百年間も変わりなく栽培し続けている…。つまりは、味の上ではもうこれ
以上改良の余地がない、とイギリス人は考えているのであろう」と述べている。また、イギリス人
の話として、
「EC加盟以来、イギリスは盛大にヨーロッパ各国から野菜や果物を輸入し、隣国の
フランスからも青いの黄色いの、色々のリンゴがやってくるが、正直な話、ことリンゴに関しては
世界のグルメ国フランスといえども、わがイギリスのコックスに及ぶものではない」とか、
「フラ
ンスなど欧州のリンゴの中でも本物のおいしさは英国という気がします。本物というのは自然に近
いということです」
、
「丸ごと一個食べるとその水気でちょうど喉の渇きが癒され、食後、口の中に
は理想的な割合で酸味と甘みと芳香が残る…。リンゴは大なるが故に、もしくは甘きが故に尊から
ず、というものである」
、
「もし、出盛りの頃に、スーパーマーケットでコックスを買おうものな
ら、当時三ポンドも出せば、上等のヤツが二十個程も手に入った。リンゴの値いは、本来その程度
のもの、とイギリス人は考えるであろう」と紹介している 54。
また、その他の文献でも、19 世紀中頃にりんごの需要の多様性や品種の多さなどでイギリスを
「アングロ=サクソン人がリンゴを愛好する有様は、
ヨーロッパにおける「一流」の産地 55 とか、
52Christopher
Idone, Apples: A Country Garden Cookbook, Collins Publishers San Francisco, 1993, p.7, 14, 17.
20, 23, 24, 38, 27, 41, 42, 55, 63, 64, 76. Washington apple commission, The Washington State Apple Industry,
2008, DVD.WAC/DIS. 前掲「世界と日本のリンゴ品種」221 頁。
53同上「世界と日本のリンゴ品種」13−17
頁。
54日本ペンクラブ編、俵万智選『くだものだもの』ランダムハウス講談社、2007
年、127−130 頁。なお、生食
用のりんごは、Dessert apple とも呼ばれ、Cooking apple と区別される。(A. Desmond O’Rourke, PhD: The
World Apple Market, Food Products Press, USA, p11, 14.)但し、日本では、加工用のりんごもほとんどが生
食用の屑実や下級品を中心とする需給調整を目的としての転用で占められてきた。
55鵜飼保雄他『品種改良の世界史・作物編』悠書館、2010
30
年、472−473 頁。
あたかもラテン民族がブドウおよびオリーブを重要視するのとよく似ている。とくに英国人はリン
ゴをひじょうに好み、年間に出回る多数のリンゴ品種の形状や品質、その用途などについて語るの
を得意とし、西洋リンゴの栽培技術の改善および品種改良に尽くした功績は大きい」56 としている。
つまり、イギリスなどのヨーロッパが旧態依然として昔からの品種のみのりんごを栽培していた
わけではなかった。1980 年代後半にヨーロッパへ赴いた青森県からの調査団の視察報告書による
と、
1982 年のフランスでアメリカ原産のゴールデン・デリシャスがりんご栽培面積の 50%以上(第
二位のグラニースミスが 7%)
、同じくオランダで 25%、1983 年のイタリアで 42%を占めるように
「 古 い 品 種 」 の Golden
な っ て い た と 記 述 し て い る 57。 さ ら に、 そ の 後 の 1990 年 代 に な る と、
Delicious、Red Delicious、Rome Beauty、Jonathan などが減少し , 新たな品種が増加し、ふじや
Gala なども注目されるようになっていたと言われている 58。もっとも、先の調査団の報告書による
と、ヨーロッパのりんごは、
「日本の美麗な果実と比較すれば屑実同然である。…要するに日本で
は果実品質に対する価値観、要求の度合がヨーロッパのそれとはまるで異なることから “ 投入エネ
ルギー ” の効率を無視して “ よりよいもの ” を得ようとしているのである。…(ヨーロッパでは-引
用者記)ゴールデンデリシャスを相当に未熟な段階で収穫するとともに通年販売をしている。未熟
でも料理用ならば、野菜的見方をすることによって理解できるが、一部は生食されている。彼らの
味覚は不可解である」59 とまで述べていた。また、その際の日本人参加者による感想文では、ヨー
ロッパのりんごについて「品種を味の面から見たとき、…甘いものへの志向はなく、甘酸のものに
徹している」60 と評してもいた。
2010 年 7 月の弘前大学でのイギリス人・Edward Knight(実家がりんご農園経営)氏のレク
チャーでも、現在のイギリスでの主要品種として、料理用で酸味の強い Bramley、Cox’s Orange
Pippin、Gala などがあるけれど、この 10 年間ほどにEU全体で Gala や Braeburn、Fuji などの生産
が増加している。その一方、Golden Delicious や Red Delicious、Granny Smith、Jonagold、Jonathan、
Cox’s Orange Pippin などは減少しているとの話であった。また、イギリスでは「りんごは安いの
が当たり前」で、2000 年の一人当たり年間消費量が 10.4㎏(EUでは 17.6㎏)で、日本の 5.3㎏を
大きく上回っているとの説明であった 61。
とはいえ、イギリスでのリンゴの伝統的な嗜好の存在などを考慮すると、先述した我々の 2011
56小林章『果物と日本人』日本放送出版協会、1986
年、213 頁。
57浅田武典「視察国のリンゴ栽培事情」
『剪定・ヨーロッパのわい化栽培・1987 視察報告特集号』第
36 号、り
んご剪定技術研究会、1988 年、15、20、26 頁。
58前掲「世界と日本の品種」16
頁。
59塩崎雄之輔「視察先(農家、試験場)の概要」同上誌、59-60
60岩舘義博「ヨーロッパの視察から」同上誌、79
頁。
頁。
61エドワード・ナイト「自由貿易と英国産りんご」弘前大学農業生命学部附属リンゴ振興センター主催『リンゴ・
トーク』2010 年 7 月 9 日。同氏はオックスフォード大学卒(化学専攻)で、青森県弘前市の片山りんご(株)
にて当時研修中であった。
31 年におけるオーストリア、ニュージーランド調査でもヨーロッパ系移民の子孫と見られる関係者た
ちの多くがりんごの酸味を好ましいものとしていた理由の一端を理解できるように思える 62。1990
年 代 の オ ー ス ト ラ リ ア で は「Granny Smith が 圧 倒 的 に 多 く、Democrat, Sturmer Pippin, Red
Delicious, Cleopatra などが主要品種」であり、ニュージーランドでは「Granny Smith と Delicious
が主体で、Golden Delicious, Cox’s Orange Pippin, Gala, Sturmer Pippin が主力品種」であったと
されている 63。もっとも、近年のオーストラリアやニュージーランドなどは、アジア系移民の増加な
どで、アメリカなどと同様に多民族国家としての様相をかなり強めている。その結果、りんごの需
要が輸出分を含めて多様化しつつあり、栽培されるりんごの種類も生食用などを中心にかなりの多
様性を見せているように思える。ちなみに、りんごの品種数は、1950 年代中頃に世界で「おそらく」
3000 種類超とか 64、アメリカで 1869 年に 1099 種、1905 年に 7108 種と言われたりしている 65。
我々の聞き取り調査でも、オーストラリアのリンゴ業界団体の関係者は、オーストラリアが多様
なりんご需要を自国内にもっており、それが今後の国際競争でプラスに作用するとの見通しを語っ
ていた 66 ほか、実際にオーストラリアとニュージーランドの双方とも意図的に多様な品種を同じ園地
内で栽培している例を普通に見出せた。また、リンゴの品種が多様なだけでなく、消費者の好みも多
様であって、それに比べるとバナナやパイナップルなどの場合、品種や食味、さらに歴史文化性など
が相対的に単純であるとして、双方の違いを強調しながら、りんごの栽培や流通における多様な品揃
えの重要性を指摘する見解もしばしば聞かれた 67。この点は、2010 年に日本で東京青果(株)果実第
一事業部調査役の平山義孝がミカンとりんごを「国産果実の両雄」としながらも、
「嗜好品の王者」
としてのミカンの生産量が減少しているのに対し、りんごが 1963 年の 115 万トンをピークに生産量
を維持していることを、
「私はこの違いはリンゴが多種多様な品種に富んでいることだと思います。
赤を基調に青、黄色とバラエティーが豊かで、また、周年供給できる産地背景も影響しているのでは
ないでしょうか」と述べていたことと符合する見方であった 68。
我々がやはり 2011 年に聞き取り調査したニュージーランドの有力なリンゴとナシの輸出業者で
あるエンザ・インターナショナル社(ENZA International, ターナー&グロワーズ グループ系企
業)が先述のように台湾などで酸味の強さが不評の品種ブランドであるクラブ制のジャズを酸味が
62イギリスは、20
世紀初めに生食用のリンゴをシーズン・オフに南半球の植民地であったオーストラリアや
ニュージーランド、南アフリカから輸入するようになり、その量が第二次世界大戦後に増加した(前掲 The World
Apple Market, p.11, 14)。
63前掲「世界と日本の品種」12 頁。
64序・梅田邦彦 青森県農業総合研究所長(西谷純一郎『りんご栽培史 品種編』1956 年)
65前掲『品種改良の世界史・作物編』476、480-481 頁。
66前掲 Jon Durham 氏からの聞き取り。
67前掲 Kevin Sander や Mike Butcher 各氏からの聞き取り。
68平山吉孝「
(特集・リンゴ産業の明日を見る)市場流通の現場から見たリンゴの位置付け」
『果実日本』第 65 巻
第 10 号、日本園芸農業協同組合連合会、2010 年 10 月、74 頁。但し、ミカンを含む柑橘類も、りんごと同様に
多種多様な品種をもっているとされる(ピエール・ラスロー『柑橘類の文化誌-歴史と人との関わり』一灯舎、
オーム社、2010 年、14-15 頁)
。
32
好まれるヨーロッパやアメリカなどへ積極的に輸出し、それに比して甘味がより強く、大玉の品種
ブランドである同じくクラブ制のエンビィ(Envy)をアジア向けとして積極的に売り込んでいこ
うとしているように見える輸出戦略の区分けなども、そのようなリンゴの多様性に絡む歴史文化性
の違いや差異などを踏まえての動きと捉えるべきであろう 69。
これに対して日本や中国などでは、りんごの評価や選好が、その多様性よりもともすれば特定の
品種へ集中し勝ちのように見える。その点も歴史文化性の違いに絡めて論じることができるであろ
う。中国や韓国などは、日本以上に栽培されるりんごが特定の品種に偏っているといわれ、中国に
なるとほとんどがふじで占められているとされる 70。それもヨーロッパなどに比べるとりんごをめ
ぐる歴史文化性が希薄で、また生食を中心とするために専ら直接の食味や大きさ、色づきなどにつ
いての比較的単純な嗜好で選別されていく結果であろうと思われる。ちなみに、日本や中国などで
評価の高いふじは、甘酸適和の観点から見るとやや甘味の強い方へ傾いているとされる。これは、
日本の場合、消費者が果物全般に酸味を近年敬遠しがちで、甘味を求める傾向が強く、それに生産
や流通の業者が糖度計の普及もあって栽培技術などで甘味の追求を競うようになったためといわれ
ている 71。また、ふじの甘味を強める「蜜入り」については、固いリンゴを好むヨーロッパやアメ
リカの消費者や需要者から時として加熟現象である Water Core(水入り、蜜病)と誤解され嫌わ
れるともされている 72。これら一連の評価の差異からも日本やヨーロッパなどの間での歴史文化性
の違いが垣間見えてくるのである。
2010 年における世界でのリンゴ生産の主要品種とシェアは、中国を除くと、Delicious 19.7%、
Golden Delicious 17.5%、Gala/Royal Gala 11.9%、Fuji 7.0%、Granny Smith 4.7%、Idared 3.2%、
Jonagold 2.1%、Cripps Pink/Pink Lady 1.8%、Braeburn 2.1%、Elstar 1.2%、Jonathan 1.5%、
McIntosh 1.1%、Honeycrisp 0.5% などで、上位 37 種にて全生産の 82.4%に及んでいるが、今後も
各国で品種の変化が見込まれている 73。このようなリンゴの品種的な多様性と、それを受け入れて
69ENZA
International 社での Chris Hawkins
(Global Programme Administrator)
や Duncan Park
(National Quality
Manager)
などからの聞き取り、2011 年 3 月。黄孝春、山野豊、王建軍「知的財産権をベースにしたりんごの生
産販売体制の再構築」『人文社会論叢』社会科学篇、第 27 号、2012 年、弘前大学人文学部、7-11 頁。ビク
ター L. カーペンター、黄孝春「韓国のりんご最新事情」
(りんご振興研究センター・第 17 回りんごトーク、
2012 年 4 月 20 日、弘前大学)
70同上「韓国のりんご最新事情」
。“World
Apple Variety Forecast to 2020.” The World Apple Report, vol.19
no.2, Belrose Inc. USA, Feb. 2012, 71今智之(青森県産業技術センター・りんご研究所 品種開発部長)氏からの聞き取り(2011
年 10 月 14 日の
弘前大学における『国際りんごフォーラム in 弘前』後の懇談)。「エコ探偵団・果物が甘くなったってホント」
日本経済新聞、2011 年 1 月 8 日号、東北版。
72りんごを考える会編著『集会要記-主として(りんごの大衆化)について』青森県経済農業協同組合連合会弘
前支所、1980 年、12 頁。北山敏次編著『リンゴグルメの本』ミリオン書房、1986 年、47 頁。
73前掲
“World Apple Variety Forecast to 2020.” The World Apple Report, vol.19 no.2, このデータで中国が除か
れているのは、中国が 2010 年に世界のリンゴ生産の 47.8%を占めるものの、データが過小な上に、ほとんど
が Fuji で占められており、品種の多様性という点で意味をもたないためとされている。
33 いく消費者や需要者の食味に関する好みや用途などの多様性、さらにそれぞれにおける歴史文化性
の違いなどを受けて、そこでの甘酸適和の判断に関しても自ずから人それぞれに相応な主観的な尺
度の幅や差異が入り込んでくると見られ、それが本論における考察の一応の結論になろうと考える。
むすび
本論では、りんごの食味に関する褒め言葉としてしばしば使われる「甘酸適和」という表現を糸
口にして、そうした食味表現の意義や捉え方をめぐる一般的な理解を先ず検討した。次いでりんご
の品種や食味、さらに用途などに関してそれぞれの地域や社会、時代などに応じて歴史文化性が見
られることを概論し、それらを絡めながら今日のようなりんごの品種や食味などの多様性がもたら
されてきていることや、日本のあり様などについて考察してきた。
西アジアを原産地として世界中に今日まで広まってきた西洋りんごは、先ずヨーロッパ、次いで
アメリカ、さらに日本などの東アジアへと地球を西向きに回りながら長い時間を要して伝播し、そ
の間に多様な遺伝子の組み合わせによる品種上の進化や突然変異だけでなく、そこでの品種の人為
的な選択や栽培法の改良などが加えられ、品種や食味などに歴史文化性の差異や異同などを反映さ
せた多様性をもたらしてくるようになった。
日本へ西洋りんごが伝来したのは、1871 年のこととされている。最初に根付いたのは、アメリ
カ産で、日本にて国光や紅玉と称されていく品種であった、それらは、1920 年代後半頃にようや
く一般の庶民階層でも食用されるようになっていくが、概して第二次世界大戦前においては、
「舶
来の果物」と目された贅沢な嗜好品であった。このため、その後の戦時体制のもとでは、不急不要
物資のひとつとして栽培を政府が規制していくようにもなった。しかし、戦後は、新たに国内の米
穀不足を補完する代用食品のひとつとして大衆に広く食用され、1950 年に国内で最も生産量の多
い果物となったのである。
ただし、その後にミカンなど柑橘類の国内生産が伸び、1963 年にはバナナの輸入が自由化され
た。それとともに、りんごの主力品種であった国光や紅玉の酸味が次第に消費者から敬遠されてい
くようになり、消費者のりんご離れがもたらされて、新たにふじなどの新品種への品種更新が進ん
でいった。ふじは日本で開発され、果汁の多さや甘酸の調和、食味の良さなどで、生食向けの新た
な主力品種となっていった。
日本で今日栽培されるりんごは、主に生食され、食味について酸味より甘味の方が重視され、ま
たサイズがやや大き目で、かつ色づきや見栄えもよくなければならいといわれる。これらの特徴
は、明治期から第二次世界大戦後の経済復興期に至るまでのりんごを概して贅沢な嗜好品と見做す
時代を経て、戦後の高度経済成長期以降の大衆消費社会の台頭と、そこでのみかんなどの柑橘類と
の競合、さらにバナナなどの輸入自由化などを受けて次第に鮮明化してきたものであった。しか
し、ヨーロッパやアメリカなどに比べると、日本では、りんごの食用について習慣性が希薄であっ
た。もともと日本の伝統的な和食との組合せや相性を特段に求められなかったし、専ら食事の最後
34
におけるデザート、あるいは間食向けとして食用され、ヨーロッパやアメリカのように日常の食事
に半ば必需品的に組み合わされる歴史文化性をもってこなかった。また、調理や加工向けの用途も
ジュースの飲用を含めて国内で未だ限定的に留まってきている。そこで、大衆の嗜好品として甘味
が従来に増して歓迎され、それが日本でのふじの開発と普及に符合していったと理解して過言でな
いように思われる。
この点は、リンゴの食味、とりわけ生食でのひとつの理想とされる「甘酸適和」という評価を理
解する場合も同様である。りんごの甘酸適和に関しては、その糖度や糖酸比が一つの客観的指標と
なり得るが、りんごが持つ品種や食味、食感、色合いなどの多様性を受けて、人々がりんごについ
て持つ好みもそれぞれの地域や社会、時代ごとの歴史文化性の変遷や差異、さらに個人ごとの味覚
の差異、他の食物との相性などを含めて多様であり、そのために「甘酸適和」の尺度まで多様とな
らざるをえないのである。ただし、それでもヨーロッパやアメリカが酸味の異同に関心をもつよう
に見えるのと対照的に、日本などの東アジアでは甘味の異同などに専ら関心を向け、それらの点が
栽培されるりんごの品種選択だけでなく、りんごの国際的な取引や事業のあり方にまで影響を及ぼ
していくようになったのである。
35 金曜日の可能性
清 水 明
0 .抜き打ちテストのパラドックスとの出会い
来週の月曜から金曜のいずれかの日に抜き打ちテストを行う、と教授から通告された学生が、次
のような推論を行う。
月曜日から木曜日まで試験がなければ、試験は金曜日に行われることがわかる。しかしそれは抜
き打ちテストではなくなるから、金曜日に試験を行うことはできない。そこで、金曜日に試験がで
きないとすると、木曜日が試験を行うことができる最終日となる。しかし、月曜日から水曜日まで
試験がなければ、試験のできる日は木曜日だけであることがわかってしまい、そしてそれは抜き打
ちテストではなくなるから、木曜日にも試験を行うことはできない。同様にして、水曜日にも抜き
打ちテストはできないし、火曜日、月曜日にもできない。教授の通告は実行不可能な通告であった
のだ。
このように推論した学生は、安心して次週を迎えたが、しかし、たとえば水曜日に試験が行わ
れ、その学生はあわてることになる。試験はできないはずだと教授に抗議しても、教授はこう答え
るだけだ。君は今日試験が行われると思っていなかったんだろ、それなら抜き打ちテストじゃないか。
抜き打ちテストのパラドックスとして知られているものは、おおよそ以上のようなものである。
学生の推論のどこに間違いがあったのか。抜き打ちテストを行うという通告に矛盾は含まれていな
いのか。そもそもこれはパラドックスなのか。パラドックスだとすれば、それはどのようなパラ
ドックスなのか。どのように解決したらよいのか。
私がこのパラドックスのことを知ったのはもう 20 年以上前のことである(注 1 )
。その時の私の
第一印象は、うまくできたジョーク、というものだった。しかし少し考えて学生の推論に誤りを発
見できなかった私は、教授の通告のほうに矛盾が含まれているのだろうと思った。そしてそれ以上
考えるのをやめてしまった。浅はかであった。もう少し考えれば、このパラドックスがそう簡単に
解決できるものではないことがわかったであろうからである。
最近になって、ある本を読んでいたらこのパラドックスに触れている箇所があった。マーティ
ン・コーエン著『哲学 101 問』
(矢橋明郎訳、ちくま学術文庫)である。そこにはこう書かれてい
た。
「ボブ(学生の名前である)の論法には全く欠陥がないのだが、実際にはうまく行かないので
ある。…中略…、議論のそれぞれの段階は正しいし、結論も正しい。しかし…中略…それはただ現
37 実と合わないだけなのである」
(注 2 )
。現実と合わないだって?なんということを言うのだ、論理
をなんだと思っているのだ、この著者は。
論理に対するこのような誤解は、世間ではよくあることである。しかし、哲学者あるいは論理学
者がこのようなことを言ってはならない。
「正しい論理でも現実と合わないことがある」こうした
考えは論理と理論とを混同している。そして理論を頭で考えた理屈という程度に考えている。頭で
考えた理屈が現実と合わないことは、しばしばあることだろう。不思議なことでも何でもない。合
わなかったら、また考え直せばよいのである。科学的な理論の場合も同じである。現実の経験に
よって検証し、現実と合わなければ、その理論は修正しなければならない。現実と照合されるべき
は、論理ではなく理論である。それに対して論理は、理論と現実の照合の際にも、また理論の構築
の際にも、守らなければならない言語表現上の最低限のルールである。もし論理的に間違いを含む
言語表現を行えば、言っていることが通じなくなってしまうようなルールである。したがって、頭
で考えた理屈あるいは科学的理論として提出されたものは、現実と合う合わない以前に、論理的に
正しいものでなくてはならない。論理的な間違いが含まれていれば、それは現実との照合以前に失
格である。
さて、抜き打ちテストのパラドックスの場合、形式的には次の四つの場合が考えられる。
①学生の推論に間違いがあり、抜き打ちテストは正しく行われる。
②学生の推論に間違いはなく、抜き打ちテストは正しく行われない。
③学生の推論に間違いがあり、抜き打ちテストも正しく行われない。
④学生の推論に間違いはなく、抜き打ちテストは正しく行われる。
『哲学 101 問』の著者はこの第四の選択肢を選んだように思われる。しかし、この選択肢だけは選
んではならない。学生の推論に間違いがないのだとすれば、その推論の結論は、抜き打ち試験は正
しく行うことができないということであり、正しく行うことができないはずの試験を教授は行うこ
とができるというのは明らかに矛盾である。
『哲学 101 問』の著者の解説によっては、パラドック
スは全く解消されていない。
1 .このパラドックスを巡る様々な話題と種々のバリエーション
1 - 1 .様々な話題
抜き打ちテストのパラドックスについてはすでに何十もの論文が書かれているが、いまだその分
析法について意見の一致は見られていないようだ、と書く著者がいる(注 3 )
。私はこのパラドッ
クスについて書かれたすべての論文を読んだわけではないので、その真偽はわからない。これまで
調べた限りの諸家の見解を吟味し、現時点での私の見解を述べることしかできない。
このパラドックスには様々なバリエーションがあることはよく知られている。代表的なものは
「予期せぬ絞首刑のパラドックス」と呼ばれており、予期せぬ日に絞首刑が執行されることが判事
から死刑囚へ通告されるものである(国王が命令するというバージョンもある)
。テストが処刑に
38
変わっただけで、細部はともかく(注 4)
、本質的には同じパラドックスであろう。予期せぬ日に
処刑するのは、死刑囚に、毎朝今日は執行されるかもしれないという恐怖を与えるための措置だと
いう。
このパラドックスは現実の出来事が元になっていると書く著者(パウンドストーン)もいる(注 5)
。
戦争中(1943 年かあるいは 1944 年)
、スエーデンのラジオ局が次のような放送をした。
「今週、民
間防衛演習が行われます。民間防衛組織の態勢を万全に整えてもらうため、この演習が何曜日に行
われるかは、前もって知らされません」
(注 6 )
。あるスエーデンの数学者がこの放送内容に「微妙
な矛盾を認識し」大学の授業で取り上げたのがきっかけで、世界中にこの話が広がったのだという。
以上挙げた、抜き打ちテストのパラドックスと二つのバリエーションは、①「月曜から金曜日ま
での間に何か(テスト、処刑、民間防衛演習)が行われる」、しかしそれは、②「抜き打ち」ある
いは「予期せぬ」あるいは「前もって知らされない」ものである、とされている。微妙に表現が異
なるが、これらはほぼ同じパラドックスを表していると考えられ、それぞれ①と②の二つの部分に
分けることのできる通告(あるいは判決)が実行可能かどうかが問題になっている。一見すると実
行可能な通告(判決)であり、それに対して実行不可能であることを証明する一見正しい論証があ
り、にもかかわらずその通告(判決)はおそらく実行されてしまう、というパラドックスである。
しかし、次の二つは、いずれもこのパラドックスのバリエーションと言われているが、本質的に
同じパラドックスと言えるかどうか、若干の疑問がある。
1-2.
「隠された卵のパラドックス」
このバリエーションは前出のパウンドストーンの本に紹介されており、1951 年の『Mind』に掲
載されたマイケル・スクリブンの論文に出てくるという。それは次のようなものである(注 7 )
。
あなたの目の前に 1 番から 10 番まで番号がついた 10 個の箱が並んでいる。ここであなたの友人が、
① 10 個の箱のどこかに卵を隠したうえで、次のように言う。
② 1 番から順に箱を開けていった時あなたは予期せぬ時にその卵を見つけるだろう。
あなたは次のような推理をして、友人が①と②の条件を同時に満たすような卵の隠し方はできない
ことを論じる。
「最後の箱に隠すことはできないだろう。なぜなら、9 番目までの箱を開けていずれの箱にも
入っていないことがわかれば、10 番目の箱に入っていることがわかってしまう。しかし、それは
②の条件に反する。従って 10 番目の箱に隠すことはできない。10 番目の箱に隠すことができない
とすると、9 番目の箱が隠すことの可能な最後の箱である。しかし、9 番目の箱にも隠すことはで
きない。なぜなら、8 番目までの箱を開けていずれの箱にも入っていないことがわかれば、9 番目
の箱に入っていることがわかってしまうからだ。以下同様に、どの箱にも隠すことができない。」
しかし、あなたは、たとえば 6 番目の箱を開けた時、卵を見つける。あなたは 6 番目の箱に入っ
いることを予測できないだろう。
39 隠された卵のパラドックスが抜き打ちテストのパラドックスや予期せぬ絞首刑のパラドックスと
異なっている点は、後者の二つのパラドックスが、最終日の前日まで試験あるいは処刑が行われな
かった時、最終日に試験あるいは処刑が行われるかどうか必ずしも明確ではないのに対して、
「隠
された卵のパラドックス」は最初に卵をいずれかの箱に入れているという点である。この相違点が
本質的なものかどうか、後に論じることになるだろう。
1-3.
「赤い帽子のパラドックス」
このバリエーションは野崎氏がその著書『詭弁論理学』で紹介しているが、考案者等の由来は記
されていない(注 8)
。あるクラブに新入生が 10 人入った。クラブの先輩は新入生の思考力テスト
と称して、次のようなことを行う。まず、10 人を縦一列に皆前を向かせて並べる。各人は列の前
の人しか見えない。その上で、列の最後尾の新入生に、次のような仕方で各人に帽子を被せるよう
命じる。
①誰もが白い帽子か赤い帽子を被せられ、赤い帽子は一つだけである。
②赤い帽子を被せられた人は自分の帽子が赤いことがわからない。
最後尾の新入生は次のような推論を行い、命じられたことは実行不可能だと主張する。
「最後尾の自分に赤い帽子を被せることはできない。なぜなら赤い帽子を被っていることを私はわ
かるからである。では、私の前の人つまり前から 9 番目の人に赤い帽子を被せることはできるだろ
うか。いやできない。なぜなら、彼は先頭から 8 番目の人々に被せられた帽子を見ることができ、
そのいずれも白だった場合、自分の帽子が赤であることがわかってしまうからである。同様に、8
番目の人にも赤い帽子を被せることはできない。以下同様、どの人にも赤い帽子は被せることがで
きない。
」
このバリエーションは非常に興味深いものである。抜き打ちテストのパラドックスや予期せぬ絞
首刑のパラドックスと本質的に同じパラドックスなのか、もしそうでないなら相違点は何か、また
このバリエーションでのパラドックスの解決法が私たちのパラドックスにも適用可能かどうか、後
に論じることにする。
2 .推論の検討
2 - 1 .赤い帽子のパラドックスの場合
まず最初に、赤い帽子のパラドックスの推論から検討しよう。このパラドックスには曖昧な点が
なく、もし推論の間違いがあるとすれば、比較的容易に発見できるであろうと思われるからであ
る。やや詳しく(おそらく、くどいと思われるほどに)論じてみよう。
最後尾の新入生の推論の中で、最後尾の自分に赤い帽子を被せることはできない、という最初の
部分に間違いはないだろう。帽子を被せる役は自分だからである。自分で赤い帽子を被せたのなら
自分の頭に赤い帽子が被せられていることは当然知ることができ、②の条件に違反してしまうから
40
である。では、前から 9 番目の人に赤い帽子を被せることはできない、という部分はどうだろう
か。最後尾の新入生は自分に赤い帽子が被せられないことを知っている。しかし、9 番目の人はそ
のことを知ることができるだろうか? もし知ることができなければ、9 番目の人は自分の前の人
全員の帽子が白いことを知っても、赤い帽子が被せられているのが自分か最後尾の人であるかわか
らないはずである。その場合は 9 番目の人は赤い帽子を被せられていてもそのことを推測できず、
従って最後尾の人は 9 番目の人に赤い帽子を被せることができることになる。しかし、9 番目の人
は最後尾の人の頭に赤い帽子を被せられないことを推測できる。なぜなら、確かに 9 番目の人は最
後尾の人を見ることができないので、最後尾の人に赤い帽子が被せられていないことを見て知るこ
とはできない。しかし、最後尾の人が行う自分の頭に帽子を被せることができないというその同じ
推論を 9 番目の人ができない理由はない。したがって、もし 9 番目の人に赤い帽子を被せたら、9
番目の人は自分の前の人全員が白い帽子を被せられていることを見ることになり、かつ最後尾の人
に赤い帽子を被せられないことを推測できるのであるから、自分の頭に赤い帽子が被せられている
ことを推論できるだろう。かくして、9 番目の人に赤い帽子を被せることはできない、というとこ
ろにも間違いはない。以下は、同様の議論であるが、念のため 8 番目の人の場合についても検討し
ておこう。8 番目の人に赤い帽子を被せることはできるだろうか。8 番目の人は確かに自分と 9 番
目の人と最後尾の人を見ることはできない。しかし、8 番目の人は最後尾の人が行う推論について
も 9 番目の人が行う推論についても、同じ推論を行うことができ、もし 8 番目の人に赤い帽子が被
せられているなら、自分の前の人全員が白い帽子であることを見て、残された可能性が自分の頭に
赤い帽子が被せられていることだと推論できるだろう。そしてそれは条件の②に違反するのである
から、最後尾の人は 8 番目の人にも赤い帽子を被せることはできない。この部分の推論にも間違い
はない。以下同様。かくして、最後尾の新入生は、1 番目から 9 番目までのどの新入生にも帽子を
被せることができないと推論できる。すなわち、先の二つの条件を同時に満足する帽子の被せ方は
ない、という推論は正しい。
しかし、次のような反論が予想される。
「最後尾の新入生は、自分以外の誰にでも赤い帽子を被
せることができる。なぜなら、赤い帽子を被せられた新入生(たとえば前から 6 番目の新入生)は
上に述べた正しい推論を行って、自分には赤い帽子は被せられないと考えるだろう。そのことは、
自分が被せられた帽子が赤いことを推測していないということである。従って②の条件は満たされ
ている」。もしこの反論が正しいとするなら、赤い帽子のパラドックスは正真正銘のパラドックス
であり、私たちは迷宮に入ってしまう。
しかし、上の反論は間違っている。先の正しい推論によって、条件①と②を同時に満たす帽子の
被せ方はないことが示された。したがって、
「新入生の思考力テスト」は企画段階で実行不可能と
判定されるのであり、正しく実行されることはないのである。上の反論は、暗黙の内に「新入生の
思考力テスト」が実行されたと仮定している。実行不可能な方法が実行されるという矛盾した仮定
を基に、6 番目の新入生は自分に帽子が被せられていることを推理できないといっても、それはア
41 ンフェアな議論である。また上の反論は 6 番目の新入生が行う推論についても間違った想定をして
いる。彼は先に示された正しい推論を行って、
「このゲームは成立しない」という結論を得てい
る。上の反論が言うような「自分には赤い帽子は被せられない」という結論を得ているのではな
い。
「新入生の思考力テスト」が始まってしまった場合の 6 番目の新入生は実に理不尽な立場に置
かれている。実行不可能な方法が実行されたことになっている不条理な状況では、彼にとって規則
①も規則②ももはや信頼に足る規則ではない。彼には推理の手がかりがなく、自分の被っている帽
子を予想できない。この場合、確かに規則②が満たされ、一見パラドックスが成立したかのように
見えるが、実はパラドックスでも何でもない。新入生に推論の手がかりを与えず、予想できないだ
ろうといっているだけに過ぎない。パラドックスとは、一見正しい推論が成り立つように見えるの
に、その推論と相反する結末が生じる場合である。この場合には、もはやいかなる推論も成立しな
いのである。
赤い帽子のパラドックスが抜き打ちテストのパラドックスやその他のバリエーションと、幾つか
相違点はあるものの、本質的には同様のパラドックスであるならば、今見た赤い帽子のパラドック
スでの推論と同様の推論を、抜き打ちテストのパラドックスや他のバリエーションにも行うことが
でき、そしてその推論は正しいということになるはずである。はたしてそうであるか、検討してみ
よう。
2 - 2 .隠された卵のパラドックスの場合
隠された卵のパラドックスの場合を検討してみよう。私自身は、先に挙げた推論のどこにも間違
いを見いだすことはできないが、次のように言うことはできないだろうか。
「 9 番目の箱に隠すことができないことを言う論証では、9 番目の箱に卵が隠されていると仮定
して、 8 番目の箱まで開けていずれも空であることがわかった時、残る可能性は 9 番目だけであ
り、そこに卵が隠されていることが予想できるとし、翻ってそれは条件②に反するので 9 番目の箱
には隠せないとしている。しかしその時点では、まだ 9 番目の箱と 10 番目の箱は開けられてない。
どうして 10 番目の箱に卵が隠されている可能性を排除できるのだろうか。それ以前の論証部分で
10 番目の箱に卵を隠すことはできないと論証されているからである。しかし、10 番目の箱に隠す
ことができないことが論証されるのは 10 番目の箱に卵が隠されていると仮定した議論によるもの
ではなかったのか。それを仮定の異なる 9 番目の箱の場合の論証に使うことは許されないのではな
いのか」
。
なんだかもっともらしい反論ではある。しかしこのように言うことによって先の推論を否定する
ことはできない。10 番目の箱に隠せないことを示す論証の過程でどのような仮定が用いられよう
とも、10 番目の箱に隠せないという結論は、その仮定には依存していないからである。したがっ
て 9 番目の箱に隠せないことを論証する過程で使っても何ら差し支えない。
隠された卵のパラドックスについて、私の述べるべき論点はすでに述べてしまったが、なお納得
42
されない方がいるかもしれない。以下は疑念を持つ人をいくらかでも少なくするために述べる。箱
が 10 個もあるとわかりにくいので、問題を単純化してみよう。次の二つの場合を比較しよう。箱
が二つあり、そのどちらかに卵を隠した場合、
(1)箱を開けた時その箱にあったことを予想できない隠し方はあるか
(2)箱を順番に開けてゆく時その箱にあったことを予想できない隠し方はあるか
すぐわかるように、
(1)と(2)の違いは、箱を開ける順番が(1)では決まっていないのに対し、
(2)
では定められているという点である。
(1)に対しては、そのような隠し方はある、と答えられる。
なぜなら、それは単純なゲームだからである。誰も箱を開ける前はどちらの箱に卵が隠されている
か、推論のための何の手がかりもない。それに対して(2)では箱を開ける順番が指定されている。
そこで次のような推論が成り立つ。
「もし最後に開ける箱に入っているなら、最初の箱を開けた瞬間にそれが空であるので、最後の
箱に入っていることがわかってしまう。したがって、最後の箱に隠すことはできない。すると残さ
れた可能性のある箱は最初に開ける箱でしかなく、最初にその箱を開ける前にそこに隠されている
ことを予想できることになる。したがってどちらに入っているか予想できない仕方で卵を隠すこと
はできない」この推論によれば、
(2)のような隠し方はないのである。
これはパラドックスではないのだろうか。たしかに、開ける順番を指定されていても、もし二つ
の箱が示されて予想できるかと問われれば、卵が入っているのは最初に開ける箱であるのか最後に
開ける箱なのか、何の手がかりもなく、予想できないように思われる。だがしかし、これは先の赤
い帽子のパラドックスで、いったん帽子当てゲームが開始されてしまえば、先頭から 9 番目までの
新入生の誰も推論できなくなるのと同様、アンフェアな設定なのである。この場合には、パラドッ
クスの構成要件である一見正しそうな推論というものがそもそも成立せず、パラドックスではない。
(1)と(2)は箱を開ける順番が決まっているか決まっていないかだけの違いであるにも関わら
ず、様相は一変している。
(1)には予想できない隠し方があるのに対して(2)には存在しない。こ
れはある意味で驚くべきことであるが、このことに何の不条理なところもない。
赤い帽子のパラドックスと隠された卵のパラドックスとは、細部は異なるものの、本質的には同
じパラドックスである。そして、この二つのパラドックスにおいて見いだされたパラドックスの解
決策の要点は次の二点にある。
(1)推論は正しい。すなわち、条件の①と②を同時に満たす仕方は存在しない。
(2)不可能な仕方が実行されると、推論が成立せず、パラドックスは生じていない。
この解決策の方針は、抜き打ちテストのパラドックスにも適用できるだろうか、それを次に検討し
よう。
2 - 3 .抜き打ちテストのパラドックスの場合
まず、推論は正しいだろうか。もしこの推論に誤りがあるとしたら、次の点を指摘する議論であ
43 ろう。
「推論の誤りは、金曜日にしか行うことのできない想定を、それ以前の木曜日に持ち込んでいる
点にある。金曜日に試験ができないことを想定できるのは木曜日まで試験が行われなかったことを
知った後である。したがって、木曜日の朝の時点では、木曜日に試験があるか金曜日に試験がある
か、予測することができないはずである」
。
この議論は正しいだろうか。この議論の特徴は、このパラドックスを時間に関係あるものとして
捉えている点にある。金曜日になって初めて知ることのできることを木曜日に行う推論で使ってい
る、と指摘している。しかし、この推論は時間に関係ないものとすることができる。次のように。
「もし木曜日までにテストが行われないとするならば、金曜日しかテストを行うことができな
い。そして金曜日に行われるテストは予想されたテストになるだろう。したがって金曜日に条件②
を満たすテストを行うことはできない」
金曜日に条件②を満たすテストができないことを論証する議論は以上である。木曜日までにテス
トが行われないことを仮定しているが、出された結論はその仮定には依存しない。したがって金曜
日に抜き打ちテストができないことを結論とする論証は木曜日以前にも行うことができる。言い換
えれば、木曜日以前でも金曜日に抜き打ちテストを行うことはできないことを推論できるのであ
る。ここには、隠された卵のパラドックスでの推理の検討で確認したことと同じ事情がある。
さて、ここまでは抜き打ちテストのパラドックスを赤い帽子のパラドックスや隠された卵のパラ
ドックスと、細部は異なるものの、本質的には同じパラドックスであると見なした議論をしてい
る。そしてもしこの見なしが正しければ、抜き打ちテストのパラドックスの解決策は、先に示した
ように、
(1)推論は正しい(抜き打ちテストは実行不可能である)
(2)不可能な仕方が実行されると、推論が成立せず、パラドックスは生じていない。
となるだろう。
しかし、抜き打ちテストのパラドックスは、赤い帽子のパラドックスや隠された卵のパラドック
スと細部が異なるため、本質的には異なるパラドックスになっているのである。
3 .クワインの見解
クワインは「想定されたアンチノミーについて On a Supposed Antinomy 」という論文(注 11)
で、予期せぬ絞首刑のパラドックスを論じている。そこで述べられた彼の見解は、その後何人かの
著者が引用し、影響を及ぼしたものであるので、検討しておく必要がある。クワインは予期せぬ絞
首刑のパラドックスを「想定されたアンチノミー」と呼び、アンチノミーであると想定されている
が実はアンチノミーではないと(従ってパラドックスでもない)と論じる。アンチノミーとはクワ
インがパラドックスを分類したものの内の一つであるので、まずはクワインによるパラドックスの
分類について見ておく必要がある。
44
3 - 1 .クワインによるパラドックスの分類
クワインによれば、パラドックスは三つに分類され、それぞれ真実を語るパラドックス veridical
paradox、虚偽を語るパラドックス falsidical paradox、アンチノミー antinomy と呼ばれる
(注 12)
。
真実を語るパラドックスとは、最初は不条理に聞こえるがしかしそれを支持する議論は正しく、
真実を語っているというものであ。その例としてクワインは『ペンザンスの海賊 The Pirates of
Penzance 』と、いわゆる「床屋のパラドックス」を挙げている。
『ペンザンスの海賊』は、物語
の主人公フレデリックはたった 5 回誕生日を迎えただけで 21 歳に達したという挿話を含む物語で
ある。最初不条理に聞こえるこの挿話もフレデリックの誕生日が 2 月 29 日であることを知れば、
不条理さは消える。もう一つの床屋のパラドックスについては多少の説明を必要とするだろう。
床屋のパラドックスとは、ある村に男がいて、その男は床屋であり、その床屋は自分で髭を剃ら
ない村のすべての男の髭を剃りそしてそれのみを剃る、という話である。さてこの床屋自身は自分
の髭を剃るだろうか。もし彼が自分の髭を剃らないならば、彼は自分の髭を剃ることになり、もし
彼が自分の髭を剃るならば彼は自分の髭を剃らないことになる。どちらにせよ不条理なことにな
る、というものである。
このパラドックスについて、クワインは、こうした不条理を導く議論に間違ったところはなく、
ある真実を語っているのだという。その真実とはそのような床屋は存在しない、ということであ
る。この議論には、上で述べたような床屋がいるという前提がある。その前提の下に議論が進めら
れ、不条理なことすなわち矛盾が導かれたのであるから、背理法によって、その前提が間違ってい
ること、すなわち、そのような床屋は存在しないということが証明されたのである。というわけ
で、床屋のパラドックスは真実を語るパラドックスに分類される。
虚偽を語るパラドックスとは、一見正しいように見える議論によって、不条理な結論が得られる
のだが、実はその議論の中に誤謬が含まれているものである。したがって不条理である結論も誤り
である。クワインの挙げているのは、次のような、 2 = 1 を結論する偽の証明である。
x =1 とせよ。
両辺に x をかけて、x2 = x 。
両辺から 1 を引いて、x2 - 1 = x -1 。
(x -1)であるから、
左辺の x2 - 1 は因数分解すると(x +1)
両辺を x - 1 で割ると、x+ 1 = 1。
ここで x = 1 であるからそれを代入すると、2 = 1。
証明終わり。
誤謬は、両辺を x -1 で割るところ、すなわち 0 で割るところにある。
クワインは古代のゼノンのパラドックスの幾つかは、虚偽を語るパラドックスであると言う。た
とえばアキレスと亀のパラドックスには、アキレスはいつまでも亀を追い越せないという不条理な
結論を導く議論があるが、それには誤謬が含まれているとクワインは言う。アキレスが出発する
45 時、亀はアキレスより前にいるのだが、アキレスがそこに到達するまで亀は幾分か前に進んでい
る。アキレスがそこに到達した時には亀はさらに幾分か前に進んでいる。以下同様。こうしたこと
が無限に続くので、いつまでもアキレスは亀に追いつけない。この議論の中で、
「無限に続くの
で、いつまでも」という推論部分に、
「無限に続く過程には無限の時間がかかる」という想定が潜ん
でいる。しかし、これは誤りである、すなわちこれは収束する級数の問題であり、継起する時間間
隔を次第に小さいものに選べば全体の継起の時間は有限にも無限に設定できる、とクワインは言う。
アンチノミーの例としてクワインが挙げるものは、グレリングスのパラドックス Grelling's Paradox、
エピメニデスのパラドックス The paradox of Epimenides(これらはパラドックスと呼ばれてきた
がアンチノミーと呼ぶ方がよいとクワインは言う)
、ベリーのアンチノミー、ラッセルのアンチノ
ミー、カントールのアンチノミーなどである。集合論など数学の基礎に関して深刻な問題を投げか
けたラッセルのアンチノミー(これも普通はラッセルのパラドックスと呼ばれている)を最も重要
なものとしてクワインは論じているが、本稿ではパラドックスの分類法を紹介するのが目的である
から、ここではエピメニデスのパラドックスを例に、アンチノミーとはどのようなパラドックスを
言うのかを説明しよう。
エピメニデスのパラドックスは、通常「嘘つきのパラドックス」として知られているもので「ク
レタ人のエピメニデスが、クレタ人は嘘つきだと言った」というものである。そこで疑問が生ず
る。このエピメニデスの発言自身は嘘なのか本当なのか。
パラドックスはその細部の表現で様相が一変することがある。嘘つきのパラドックスもその典型
的な例で、上記の表現のままでは、実はパラドックスは生じないかもしれないという曖昧さを含ん
でいる。この話を伝え聞いた聖パウロが手紙の中で次のように表現したためにはっきりとパラドッ
クスになったという。
「彼等の内の一人、まさに彼等自身の予言者が言ったのである。クレタ人た
ちはいつも嘘つきである」
。
ふつう嘘つきはいつも嘘をつくわけではない。むしろ、たいていの場合は本当のことを言い、肝
心なところで嘘をつく。だから人は騙される。もし嘘つきがそのようなものであるならば、
「クレ
タ人は嘘つきだ」という(クレタ人の一人である)エピメニデスの発言は本当のことであったとし
ても、何ら不条理は生じない。発言が嘘であったとしても何ら不条理を生じない。しかし、嘘つき
を「いつも嘘をつく人」と考えてしまえば、発言が嘘であるならばエピメニデスは真実を語ってい
ることになり、発言が本当だとするならば虚偽を語っていることになり、どちらにしても不条理な
ことになってしまう。
そこで、嘘つきのパラドックスの本質を明らかにするために、曖昧さのない形に言い直すことが
行われた。それは「私は嘘をついている」である。この発言は嘘なのか本当なのか。いずれと考え
ても不条理である。これの文章バージョンもある。「この文は偽である」。この文は、それが偽であ
りかつ偽であるときにのみ真である文であり、もちろん不条理である。
これらのパラドックスをアンチノミーと呼ぶのはなぜなのか。クワインは、アンチノミーでは推
46
論の中に誤謬が含まれており、したがってそれは虚偽を語るパラドックスであるのだが、その誤謬
の箇所を明確に指摘できない点で区別されるべきものであると言う。誤謬を引き起こす基になるも
のは、普段はパラドックスを引き起こさずむしろ有用なものとしてあり、ある種の使われ方をする
ととたんにパラドックスを引き起こす、私たちの暗黙の概念枠や推論のパターン、推論原理なのだ
という。したがって、アンチノミーの解決法は、そのような暗黙の概念枠、推論パターン、推論原
理を顕在化し、それを排除する、あるいは制限する、一時停止することであるという。
嘘つきのパラドックスの場合は「偽である false」という「真理についての言い回し」を自己自
身について適用した場合にパラドックスが生じているので、このアンチノミーの解決法は「偽であ
る」を自己自身には適応しないことにするか、あるいは自己自身について適用する場合はそこに階
層を設けるなどの対策を取ることであるという。
3-2.
「抜き打ちテストのパラドックス」についてのクワインの見解
クワインの「想定されたアンチノミーについて」における議論は、予期せぬ絞首刑のパラドック
スについて行われているのであるが、本質的には同じなので、これを抜き打ちテストのパラドック
スに置き換えて、紹介しよう。前もって結論を言っておくと、クワインは、このパラドックスにお
いては、試験は実施できないとする学生の推論には誤りがあり、試験が実施されてもなんら不条理
ではないのである。すなわち抜き打ちテストは問題なく実施される、というものである。先に紹介
したパラドックスの分類によれば、これは虚偽を語るパラドックス、ということになるだろう。で
は、クワインは学生の議論のどこに間違いがあったというのだろうか。
学生の議論で、金曜日に試験は行われないだろうという箇所について、クワインは次のように言う。
学生は木曜日の時点で次の二つの可能性を想定できると考えた。
(a)試験は木曜日までに行われているだろう。
(b)試験は金曜日に行われるだろうが、そのことを前日に知るだろう。
ここで学生は(b)は通告に違反するので、この可能性は排除できると考え、試験は金曜日に行わ
れないだろうと推論したのであるが、実は(a)
(b)に加えて次の二つの可能性があるという。
(c)試験は(通告に違反して)金曜日になっても行われないだろう。
(d)試験は金曜日に行われるだろうが、そのことを学生は知ることがないだろう。
学生は(a)の可能性だけを残したのであるが、クワインの考えでは、
(a)の他にも(c)や
(d)も可能性としては残るというのである(注 13)。
クワインの論文は 3 ページ足らずの短いもので、しかも簡潔に述べられているので、かえってわ
かりにくい。クワインはこのパズルに騙されるのは学生の議論を背理法と混同するためであるとし
ている。すなわち、学生の議論は通告が実行されることを仮定したうえで、しかし実行されるとそ
れは通告違反になることを示し、それは矛盾であるから、仮定された「通告が実行される」が否定
され、通告は実施されない(試験は行われない)ことを結論する議論であると考えられている、と
47 いう。しかし、背理法で排除されるのは(b)と(c)だけであり(なぜならそのいずれの場合も
通告違反になるから)
、
(a)と(d)は排除されない、とクワインは言う。学生は残された可能性
が(a)のみであることから、金曜日には試験はできない、したがって木曜日が試験を行うことの
できる最終日である、という風に議論を進めたのである。では、クワインはどうして(d)の可能
性が残ると考えるのだろうか。
通告が実施されるという仮定によって(d)の可能性が排除されると考えることは、次の二つを
混同することだ、とクワインは言う。
(i)通告は実施されるだろうという仮定
(ii)通告が実施されることを木曜日に知るだろうという仮定
クワインは、
(i)の仮定をするとき暗黙の内にそのことを木曜日に知るだろうと考えてしまって
いるので、
(d)の可能性を排除してしまっているのだ、と言うのである。そしてさらにクワイン
は、ある事実を仮定することと、その事実を知っていると仮定することとは異なることを、次のよ
うな例で説明する。フェルマの問題を研究しているある数学者が、その帰結を探求するために、
フェルマの命題が真であると仮定するという場合を考えて、その際彼はフェルマの命題が真である
ことを彼が知っていると仮定しているわけではない、とクワインは言う。フェルマの命題が真であ
ることを彼が知っているというのは反事実的な仮説であるが、フェルマの命題が真であるという仮
説は真であるかもしれないしそうでないかもしれないような仮説である、とクワインは説明する。
確かに、クワインの説明は一般的には正しい。しかし、この場合の、
(試験を行うという)通告
が金曜日に実施されると仮定することと、通告が(金曜日に)実施されることを木曜日に知るだろ
うと仮定することとの間には関連があり、
(i)を仮定すれば(ii)が帰結されるのではないだろう
か。金曜日に試験が行われると仮定することは、木曜日まで試験が行われなかったと仮定すること
である。そしてその仮定の下では、金曜日に試験が行われることを木曜日に推論できるのではない
だろうか。合理的根拠に基づいて推測できる場合は知ると言ってよいならば、それは(ii)にな
る。(d)の可能性が排除されないということについての、クワインの示す論拠は成り立たないよ
うに思われる。もしクワインの言う理由によっては(d)の可能性が排除されないのなら、まだ明
らかにされていない別の理由によって排除されるという可能性を、私たちは探らなければならない。
3 - 3 .抜き打ちテストのパラドックスは「予言のパラドックス」なのか
中村氏はクワインに従って(d)の可能性が排除されないと考えているが、その理由として二つ
あげているように思われる。一つは「ある言明が真であり、かつこれを知っていても、その言明か
ら論理的に導き出せることがらについても知っていることにはならない」(注 14)というものであ
り、第二には「未来言明の特殊性」である。この第二の理由はさらに二つに分かれるようである、
その一つは「年度内に試験を行うことと、試験日を知らせないという二つの学則を同時にどのよう
に履行するかについて、学生には十分な確信はないはずである。両者が矛盾するように見えるから
48
である」
(注 15)というものと、
「未来に特有な疑い」
「学年末の前日になっても試験がなかったと
きにも、学生に何の知らせもなければ、明日必ず試験があるとどうして言えようか」(注 16)、と
である。
中村氏の考えについては、野崎氏が反論しており(注 17)
、その反論は大筋において正しいと私
も思うが、やや視点が異なるように思われるので、私の考えも述べておこう。
まず、知っている事柄から推論によって導かれたことは知っているとは言えない、という点につ
いて。確かに、ある事柄を知っていても、そこから当然導かれる結論に気づかないということはあ
りうる。しかし、推論の方法が示され、その推論が正しいならば、知っていると言ってよいと思わ
れる。多くの数学上の定理は、前提された公理や推論規則を知っていても、そこから導き出される
すべての定理となるべきものが知られているわけではない。しかし、証明法が確立されれば、それ
は知られた定理となるのである。ただしかし、推測を知識として認めてよいのはどういう場合かと
いう知識論の問題を、このパラドックスの検討に持ち込むことに、私は懐疑的である。野崎氏も
「このパラドックスは正しい推論の結論なら認めるという立場で述べられている」(注 18)と言っ
ているように、知識の問題にこだわるのは筋違いであろう。
未来言明の特殊性と中村氏が言うもののうち、
「未来についての特有の疑い」と言われているも
のについても、このパラドックスの検討にとっては筋違いだと思われる。中村氏はこのパラドック
スを「予言のパラドックス」と呼んでおり、この点を強調しているのであるが、
「未来についての
特有の疑い」とは、煎じ詰めれば、未来においては何が起こるかわからない、未来については知識
は成り立たない、と言っているに過ぎないと思われる。これも、知識の問題にこだわりすぎた見解
だと思う。確かに、試験の通告が行われても、教授が突然病気で倒れた場合はどうなるのかとか、
大地震が起こって試験会場が準備できないこともありうるとか、そうしたことは十分考えられる。
しかし、パラドックスの検討の際には、そうした不測の事態は起こらないことが前提で、通告が通
告通り行うことができるのかどうか、その際どのような推測が成り立つのかが問題であろう。
「二つの学則がどのように履行されるか予測できない、特に二つの学則が矛盾しているように思
われるとき」という点は不測の事態に関わるものではない。当然予想される事態である。さて、中
村氏はこれを「未来言明の特殊性」に含めている。しかし、私はこの見解に懐疑的である。確かに
これは推測に関する事柄であり、まだやってきていない金曜日についての推測であるのだから、未
来予測であるように思われるが、果たしてそうだろうか。未来に関する予測という点がこのパラ
ドックスにとって本質的な点なのだろうか。
野崎氏は、中村氏の言う「未来についての特有の疑い」について、抜き打ちテストのパラドック
スにとって時間は本質的ではないと論じている。野崎氏が根拠とするのは、赤い帽子のパラドック
スにおいては時間が関与しないということである。野崎氏の見解が正しいものとなるのは、赤い帽
子のパラドックスには確かに時間が関与していないということが明らかにされ、赤い帽子のパラ
ドックスが抜き打ちテストのパラドックスと本質的には同じパラドックスであることが示された場
49 合である。
赤い帽子のパラドックスは時間には全く関与していないのだろうか。赤い帽子のパラドックスの
場合は 10 人が同時に並んでおり、確かにここで時間は関係しないように思われる。ただし、未来
予測ではないにせよ、ここにはそれと同様の事態は生じているのではないだろうか。抜き打ちテス
トのパラドックスの場合、月曜から木曜の学生はそれ以後の曜日に起こることを知らない。それは
未来だからである。いずれの曜日の学生もそれ以前の曜日に起こったことは知っている。それは過
去だからである。赤い帽子のパラドックスの場合は、10 人が縦一列に並んでおり、誰もが前の人
しか見えず後の人は見えない。これは抜き打ちテストの場合の学生が過去しか見ることができず未
来のことを見ることができないのと同じ事態ではないのか。いずれも一方向から見えることしか知
らないのである。野崎氏の言う通り、時間は本質的ではないが、一方向性ということは本質的であ
るように思われる。空間の場合は後を振り向けば後ろが見える。一方向だけでなく両方向を見るこ
とができる。しかし、前しか見てはならないという規則があれば、見ることによって知るという点
では空間も時間と同様の性質を持ってしまうのである。しかし、これは知識の問題であって推測の
場合は必ずしもそうは言えない。
「二つの学則がどのように履行されるかわからない」という事態はたしかに金曜日になって二つ
の規則が矛盾するように思われるときその二つの規則がどのように履行されるかということである
から、未来予測が関わっていると言えないこともない。しかし、問題の本質はその推測が未来のこ
とに関わるからではなくて、その二つの規則の取り扱いについて何ら定められていないということ
なのである。定めがない場合にどのようなことが推測できるかという問題なのである。したがって
抜き打ちテストのパラドックスは予言のパラドックスと呼ぶよりも、より適切には、規則に従った
行為とその予測のパラドックスと呼ぶべきであろう。野崎氏の見解についての後半、すなわち、赤
い帽子のパラドックスと抜き打ちテストのパラドックスは、本質的に同じパラドックスなのか、と
いう点については、もう少し後で扱うことにしたい。
話をクワインの見解に戻すと、クワインは抜き打ちテスト(何度も言うが、クワイン自身は予期
せぬ絞首刑のパラドックスを論じている)の短縮バージョンを次のように提出している。なんと、
処刑日の前日に、明日処刑する、と告げるのである。
「判事は日曜日の午後、K(訳者補足:被告のことである)にこう告げる。K は次の正午に絞首
刑になるだろう、そして K はその日の朝までその事実を知らないでいるだろう、と。この時おそ
らく K は判事が自己矛盾することを言っていると抗議するだろう。そしておそらく絞首刑執行人
は次の午前 11 時 55 分に K の自己満足につけ込み、判事が自己矛盾することを言ったのではなく、
単なる真理を言ったことを示すだろう」
。
(注 19)
以上の文章から読み取れるクワインによるこのパラドックスの解決法は、まずは、K の推理に誤
りがあり、K は絞首刑が行われないと(誤って)予測する。そこで絞首刑の執行は予期されぬもの
となり、判事は真実を語っていたことになる、というものであろう。
50
以上のクワインの解決法は満足のゆくものであろうか。一つだけ考慮されていない点があると思
われる。この解決法では K は間違った推理を行いそれを信じていることになっている。では、ク
ワインほどの論理的能力を持つ被告であるならばどうなるのだろうか。クワインによれば、それは
「絞首刑は行われる」という可能性と「絞首刑は行われない」という可能性が共に残るということ
であり、しかもそのどちらになるか被告は「知らない」というものである。K は自己満足に陥るこ
とはなく、絞首刑執行人はそこにつけ込むことはできないだろう。したがって、これはクワインの
最終的な結論ではない。
クワインの最終的な結論は次のようなものである。これは短縮バージョンについて語られてい
る。もし K が正しく推理していたら、次のように推理したはずだというのである。
「四つの場合を区別しなければならない。第一に、私は明日の正午に絞首刑になるだろうそして
私はそれを今知っている(しかし私は知らない)
。第二に、私は明日の正午絞首刑にならないだろ
うそして私はそれを今知っている(しかし私は知らない)
。第三に、私は明日の正午絞首刑になら
ないだろうそして私はそれを今知らない。第四に、私は明日の正午絞首刑になるだろうそして私は
それを今知らない。後の二つの選択肢は開かれた可能性である。そして最後の選択肢は判決を満た
すだろう。従って判事に自己矛盾の責めを負わせるよりむしろ、判断を差し控え最善を望んでいよ
う」
。
(注 20)
クワインはこれ以上何の説明もしていない。四つの場合を、絞首刑が行われる場合と行われない
場合、そしてそれを知っている場合と知らない場合の組み合わせとして区別している。確かに組み
合わせは四つである。しかし、知っている場合の二つの場合にクワインは括弧書きで「しかし私は
それを知らない」と補足している。これは一体何を意味するのか。
「後の二つの選択肢は開かれた
可能性である」と言っていることから、前の二つは閉じられる可能性であり、その閉じられる理由
が「しかし私はそれを知らない」なのである。私が知らないのだから、知っているという二つの場
合は排除される、と。知っている場合の二つの可能性が消され、知らない場合の二つの可能性が残
される。ではなぜ、
「私は知らない」と言えるのだろうか。中村氏はそこで、「未来予測の特殊性」
と考えた。煎じ詰めれば、未来のことについては知っているとは言えない、という論拠である。し
かしこの点については、すでに論じ、
「二つの規則がどのように履行されるのか」を知らない、と
いう可能性だけが残されていた。そしてこれは未来予測ではなく、規則がどのように履行されるの
か予測できない、ということだったのである。
クワインは次のように考えているように思われる。短縮バージョンの K の推理が示すように判
事の判決は一見自己矛盾しているように見える(クワインは、おそらく K は判事が自己矛盾する
ことを言っていると抗議するだろう、と書いている)
。しかし、絞首刑を行うという規則と、それ
が予期せぬものでなければならないという規則との、二つの規則の遵守の仕方には定めがない。定
めというのは、二つの規則のうち、共に満たすことができない場合はどちらを優先させるか等々の
定めである。この点を考慮して、クワインはこのパラドックスを次のように解釈したと思われる。
51 規則の遵守の仕方に定めがないのだとすれば、規則の遵守の仕方については判事に一任されてい
る、と。つまり、判事は刑の執行をあくまで優先し被告がそれを予測できる場合も刑の執行を命じ
るのか、被告がそれを予測できる場合には刑の執行の取りやめを命じるのか、その選択権は判事に
あると。それゆえ、被告は判事がどちらを選ぶか前もって知ることはできない、と。
このように解釈する場合、被告(あるいは学生)は「二つの規則がどのように履行されるかわか
らない」
(つまり予想できない)が、判事(あるいは教授)がその履行の仕方を決定するというよ
うに解釈したということである。これはこのパラドックスの一つの解釈であり、その解決法になる
だろう。この場合、絞首刑(試験)が実行されれば規則①は履行されるが規則②は履行されないこ
とになる。なぜなら、木曜日までにそれが実行されない場合は金曜日に実行されることが予想でき
るから。また、絞首刑(試験)が実行されない場合には、規則①が履行されないことになる。規則
①が履行されなければ規則②はそもそも発効しない。
抜き打ちテストのパラドックスと予期せぬ絞首刑のパラドックスとをこのように解釈すること
は、一つの解釈として認められるだろう。これをクワインの解決法と呼んでよいが、幾つか問題点
があった。それは(d)の可能性が残ることすなわち被告(あるいは学生)が金曜日に何が起こる
か知らないことの理由として、クワインの説明が間違っていたという点と、その正しい説明を与え
ていなかったために、その理由が「未来に特有の疑い」と解釈されたり、知識の問題に対するこだ
わりを生んでしまった点である。その点を除けば、抜き打ちテストと予期せぬ絞首刑のパラドック
スに一つの解決をもたらしたことはクワインの功績と言える。しかし、クワインの解決法は「二つ
の規則が履行される仕方」についての一つの解釈に過ぎず、他にも解釈の余地があることをクワイ
ンは見落としていたとも言える。
4 .規則に従う行為と予測のパラドックス
野崎氏の見解の検討で残された問題を考えよう。赤い帽子のパラドックスと抜き打ちテストのパ
ラドックスとは、本質的には同じパラドックスであるのか。この問題を規則に従う行為と予測の観
点から整理してみよう。この観点から見ると、二つのパラドックスは確かに異なっているのである。
4 - 1 .抜き打ちテストの規則
抜き打ちテストの場合に、試験を行うという行為は次の二つの規則に従うべきものとされている。
規則① 試験を月曜から金曜までの間に行う
規則② その試験は予測されたものであってはならない
ただし、この二つの規則は、互いに独立したものではなく、また、二つの規則の履行のされ方が曖
昧であるということが問題を複雑にしている点は見落としてはならない。したがってこの二つの規
則の履行のされ方によって、抜き打ちテストのパラドックスは幾つかの場合に分かれることになる。
52
4 - 2 .赤い帽子と隠された卵の場合の規則
赤い帽子のパラドックスと隠された卵のパラドックスは、抜き打ちテストや予期されぬ絞首刑の
パラドックスが、最終的に試験が行われる(絞首刑が行われる)か否かが不明確である点を改めた
バージョンである。赤い帽子のパラドックスにおいては、赤い帽子があらかじめ一つ用意され必ず
誰かに被せられるという設定になっている。隠された卵のパラドックスでも隠される卵があらかじ
め用意されどこかの箱に隠されるという設定になっている。これを抜き打ちテストのパラドックス
の場合に当てはめると、月曜日から金曜日のいずれかの日に試験を行うという規則①が必ず遂行さ
れるという設定に相当する。したがって、規則①を優先することを明確にした抜き打ちテストのパ
ラドックスは、本質的に赤い帽子のパラドックスと同じになる。
4 - 3 .二つの規則の履行のされ方
このように、抜き打ちテストのパラドックスにおいては、規則①と規則②とがどのように履行さ
れるか、幾通りもの場合がある。まず第一に、どのように履行されるか何の定めもない場合であ
り、この場合がクワインの解釈である。そしてクワインの分析によれば、学生の推論は成立せず、
金曜日には教授の恣意に任されるのである。したがって、予期せぬ絞首刑のパラドックスの場合
は、その決定を行うのは王様であるという話が一番ふさわしい。法律に則って判決を下す判事に
は、普通そこまでの権限は与えられていないからである。学生に対する教授の権限は臣民に対する
王の権限にも匹敵するのかもしれない。
第二の場合は、規則①が必ず履行されると定められている場合で、抜き打ちテストのパラドック
スは赤い帽子のパラドックスと本質的には同じものになる。
第三に、規則②を優先させる場合があるかどうかであるが、これは検討を要する。規則②がどの
ように述べられているかがまず問題である。先には、規則②を「その規則は予想されるものであっ
てはならない」としておいたが、このパラドックスを紹介する人や書物の間では、微妙な表現の揺
れがある。幾つかの可能性があるだろう。単に、
(a)
「試験は予想されないものとする」という表現がとられるのか、それとも
(b)
「予想される場合は試験は行わない」という表現なのか。
(a)の方から検討する。
「予想されないものとする」という表現では予想された場合どうするかは
明言されていない。この場合、
(a-1)規則②を優先し規則①の違反を犯すのか、
(a-2)規則①を優先して、規則②の違反を犯すのか、
このどちらを定めているのかは、次のように表現すれば明確になるだろう。
(a-1)試験は予想されないものとする。予想された場合は、試験は行わない。
(a-2)試験は予想されないものとする。予想された場合でも試験は実施する。
(a-1)をよく見ると、結局(b)になっていることがわかるだろう。
53 (a-2)の場合は、規則①が必ず履行されるとした、第二の場合と同じになり、赤い帽子のパラ
ドックスと本質的に同じパラドックスになる。結局残されるのは(b)の場合だけである。
4 - 4 .自己破壊的な規則
そこで問題は(b)のように、
「予想される場合は試験は行わない」という表現の場合である。こ
の表現にはどこか矛盾するものが含まれていないだろうか。
「予想される」とは試験が実施される
ことが予想される」ということである。するとこの規則は「試験が実施され、それが予想されると
き、試験は実施しない」と言っていることになる。試験の実施が予想されるならば、試験は実施さ
れなければならない。しかし、この規則が守られるならば、試験は実施されないのである。そして
試験が実施されないならばこの規則の発効条件が満たされないことになる。
(b)の「予想される場合は試験は行わない」は、この規則が守られるならば、この規則の発効
条件は満たされない、という規則である。この形の規則②は規則①が履行されるときに発効し、規
則②の内容は規則①の履行を妨げる。すなわち、この形の規則②は、その発効が規則②の発効条件
自身を妨げる自己破壊的な規則であるということである。ここまでくると、この形の規則はエピメ
ニデスのパラドックス(クワインによればアンチノミー)によく似ていることに気づかされる。そ
のエッセンスである「この文は偽である」において、この文は偽であるという文がこの文自身に言
及しているならばパラドックスを生じる。
5.結論
抜き打ちテストのパラドックスは、その語られ方の曖昧さあるいは多様さによって多様なバリ
エーションが生み出され、多様なパラドックスを含む複合体となっている。それらは規則に従う行
為と予測のパラドックスとして統一的に分析されるべきものであり、これまでそうした多様さに気
づかず、異なったパラドックスが混同され議論されていたことが、このパラドックスについての分
析法に意見の一致が見られなかったことの最大の原因であろう。
抜き打ちテストのパラドックスを、規則に従う行為と予測のパラドックスとして捉えるとき、ま
ず次の二つの規則が抽出できる。
規則① 月曜日から金曜日の間に試験を行う
規則② その試験は予想されるものであってはならない
この二つの規則がどのように履行されるかについて曖昧であることから、様々な場合が考えられ、
その履行のされ方の違いによって、パラドックスは様々な様相を示す。
5 - 1 .履行のされ方に定めがない場合
二つの規則の履行のされ方に定めがない場合、超法規的絶対者を必要とする。定めのない場合も
何らかの行為は行われるからである。そしてこの場合を分析したのがクワインの分析である。
54
木曜日まで試験が行われなかった場合、次の二つの可能性が残り、学生は試験の実施があるとも
ないとも予想できない。
(i) 金曜日に試験は実施される(規則②の違反)
(ii)金曜日に試験は実施されない(規則①の違反)
教授(超法規的絶対者)はこのどちらにするか、恣意的に選択することができ、学生は教授の選択
を予想できない。また、金曜日に試験が行われる可能性が残されているので、最初に挙げた学生の
推論は成立しない。ただし、金曜日にはどちらにせよ規則違反が行われるのであるから、学生は抗
議することはできるはずである。判決は問題なく実行されるかのような言い方をしていたクワイン
は、この点に関しては間違っている。
クワインの分類によれば、これはパラドックスではなく、三つのいずれにも分類されない。抜き
打ちテストは実行されるが、金曜日の試験はだまし討ちと言える。
5 - 2 .規則①が必ず履行されると定められている場合
この定めがあれば、規則①が履行されることがわかっているので、それを前提した規則②も発効
する。この場合、学生の推論は成立し、その二つの規則を同時に満たす方法は存在しないことが証
明される。この場合は、赤い帽子のパラドックスと本質的に同じパラドックスとなる。クワインの
分類によれば、二つの規則を同時に満たす方法は存在しないことを述べる、真実を語るパラドック
スと言えるだろう。
存在しないはずの方法が実行されてしまうと、隠された卵のパラドックスと同じになる。学生は
試験期間が始まる前、教授に抗議すべきである。試験期間が始まってからでは、学生は試験日を予
測できないが、これは存在しないはずの方法が実行されているためで、規則を基にした推測ができ
なくなっているためである。推論が成立しないのであるから、パラドックスも生じてはいない。こ
の場合、抜き打ちテストは規則に違反することなく実行可能であったように見えるが、最初にルー
ル違反が行われているのでだまし討ちである。
、金曜日に試験が行われる場合は規則②に明白に違
反している。
5 - 3 .規則②が「予想される場合は試験を行わない」と表現されている場合
この場合は、規則②が自己破壊的な規則になっている。規則②自身がその発効条件である規則①
の履行を妨げるからである。これはエピメニデスのアンチノミーに似た事態である。似てはいる
が、異なる。エピメニデスのアンチノミーの場合は真理に関する言い回しが自己言及する場合に発
生するアンチノミーであったが、この形の規則②は自己破壊的であり、自身の発効条件を崩して無
効化するものである。真偽に関するアンチノミーではなく有効無効に関するアンチノミーである。
したがってこのアンチノミーを避けるには、自らの発効条件を無効化する規則を作ってはならない
とする他はない。
55 レイモンド・スマリアンは、抜き打ちテストのパラドックスについて、
「私が教授を疑っている
とき、そしてその時に限り教授は正しくなる。つまり、私が教授を疑えば教授は正しくなるが、完
全に信頼すれば教授は嘘つきになってしまう! この不思議な点に気がついた人が、今までにいた
だろうか」
(注 21)と言い、このパラドックスは、整合性の証明が不可能であることを証明した
ゲーデルの第 2 不完全性定理に関係していると述べている。スマリアンが言っている「この不思議
な点」というのは、ここで検討した形の規則②がアンチノミーを生ずることに対応しているだろ
う。ただし、教授を信じるとか完全に信頼するという表現は誤解を招きやすい。教授を信頼すると
は規則①が遂行されることがわかる、と言い換えることができるし、教授を疑うとは規則①が遂行
されるかどうかわからないと言い換えることができ、ここでの問題が必ずしも信念の問題であると
は言えないからである。信念の問題ではなくむしろ規則遂行とその予測の問題として扱うべきだと
思われる。ゲーデルの第 2 不完全性定理に関係しているという意見については、私の判断能力を超
えているので論評を差し控えたい。
規則②が「予想される場合は試験を行わない」と表現されている場合引き起こされるアンチノ
ミーは次のような不条理である。規則①が履行されると考えて試験を予想すると、試験は行われな
いことになり、試験は行われないことを推論すると試験は予想されないことになり、試験を行うこ
とができるようになる。これは規則のせいによって起こる不条理であるのだから、学生はこのよう
な規則は理解できないと抗議すべきであろう。王様に抗議しても首を切られるだけかもしれないが。
ただし、ここで生ずるアンチノミーは規則②によって引き起こされるアンチノミーであり、抜き
打ちテストのパラドックスにおける学生の推論の一部だけに関わるものである。これによって学生
の推論がどのような影響を受け、抜き打ちテストのパラドックス全体の様相がどうなるかは、また
別の問題である。
規則②がアンチノミーを引き起こすと、上で述べたように規則①と規則②との間で無限の反射が
起こり、推論は終わらない。この事態を「学生は金曜日の試験を予想できない」と捉えれば、パラ
ドックス全体の様相は、二つの規則の履行の仕方が定められていない場合と同じことになると思わ
れる。すなわち、学生の推論が成立せず、パラドックスではない、と。
5 - 4 .遂行的矛盾
抜き打ちテストのパラドックスに含まれている種々のパラドックス(あるいは非パラドックス)
の分析は以上である。では、それぞれの場合に、抜き打ちテストは実行可能であろうか。そしてそ
の実行は正当であろうか。こうした観点からの総括を行っておこう。
まず、二つの規則の履行に定めがない場合、抜き打ちテストは何曜日でも実行される。学生の推
論が成立しないのであるから、パラドックスは生じていないが、金曜日の試験だけは規則②の違反
となるので、試験の強行はだまし討ちだと言える。金曜日以外は規則①も規則②も満たされ、抜き
打ちテストは成功する。
56
次に、規則①が必ず履行される定めになっている場合、学生の推論は成立し、試験期間に入る前
に抗議することができる。試験期間が始まってからは、学生の推論は事実上できなくなり、金曜日
以外は抜き打ちテストは成功するかに見えるが、最初に教授がルール違反をしているのだから、だ
まし討ちと言える。金曜日の試験は規則②に対する明白な違反である。しかしこれはパラドックス
ではない。ただ理不尽だというだけである。
最後に、規則②が「予想される場合は試験を行わない」という自己破壊的規則になっている場合
であるが、アンチノミーが生じるのは金曜日だけであることに注意しなければならない。金曜日以
外に試験が行われた場合は、規則①も規則②も共に満たされ、抜き打ちテストは成功するのである。
アンチノミーを引き起こすものは、普段はおとなしく潜んでいる。ある特殊な場合に発動し不条理
を招くのである。だから、ここに論理的矛盾があると表現するのはあまり適切ではない。金曜日以
外は両立すらするのである。論理的矛盾ではなく行為遂行的矛盾あるいは規則遂行的矛盾と呼ぶべ
きもの(単に遂行的矛盾と呼ぶことを提案したい)が一定の条件下で生じるということなのである。
以上をまとめると、規則①が必ず履行される定めになっている場合は、抜き打ちテストの実行は
理不尽であるが、二つの規則の履行に定めがない場合と規則②が「予想される場合は試験を行わな
い」という場合には、一方は定めがないため、他方は規則②が自己破壊的になるため、と理由は異
なるものの、金曜日以外は抜き打ちテストは実行可能であり、金曜日にだけ規則違反あるいは自己
破壊的規則の露呈による不正な実行となるのである。金曜日を避ければ、抜き打ちテストは実行可
能、という結論が得られる。
抜き打ちテストのパラドックスの表現のされ方は、今述べた二つ規則の履行のされ方が曖昧な場
合と「予想される場合は試験を行わない」という二つの場合であり、規則①が必ず実行されるとい
う表現をとるものはないことを考えれば、抜き打ちテストは実行できるのである。そしてこれはパ
ラドックスではない。学生の推論が成立しないからである。学生の推論の誤りは金曜日に試験がで
きないとした点にある。金曜日の可能性は排除されない。規則の遂行がどのように行われるか予想
ができないから。これが答えである。
赤い帽子と隠された卵のバリエーションでは、学生の推論は成立し、試験実施不可能を証明する
「真実を語るパラドックス」が成立している。試験の強行はだまし討ちである。抜き打ちテストの
パラドックスの分析にこの種のバリエーションを加えてしまったことは、一方で事柄を深く探求す
るのに役立ったが、他方ではこれを抜き打ちテストのパラドックスと混同するという、混乱を招く
一因にもなったであろう。
注
1 .私がこのパラドックスを最初に知ったのは、たしか、中村秀吉著『パラドックス』(中公新書)によって
だったと思う。その書にこのパラドックスについての解説が記されてあるが、その解説はとうに忘れてい
た。しかし今回読み直してみて、中村氏の解説には納得が行かなかった。後に中村氏の解説についても触れる。
2 .マーティン・コーエン著『哲学 101 問』(矢橋明郎訳、ちくま学術文庫)pp.128-129
57 3 .レイモンド・スマリアン著『決定不能の論理パズル -ゲーデルの定理と様相論理-』(長尾確・田中朋之
訳、白揚社)訳書 p.17
4 .細部の違いの最大のものは、抜き打ちテストの場合は通告する者とテストを実行する者とが同じ教授であ
り、他方、予期せぬ絞首刑の場合は判決を下す裁判官と判決を実行する死刑執行人は通常別人であるという
違いがある。教授はいわば全権を握っているが、死刑執行人は裁判官の命令に従わなければならない。実行
不可能な通告(判決)がなされた場合、教授はその通告を取り消し別の行動を取るかもしれないが、死刑執
行人はどうしてよいかわからなくなる。
5 .ウィリアム・パウンドストーン著『パラドックス大全』(松浦俊輔訳、青土社)
6 .パウンドストーン前掲書、p.167
7 .パウンドストーン前掲書、p.169 このバリエーションは非常に簡略に紹介されているので、本論文では細
部を補って述べている。
8 .野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書 448)、p.179-180 野崎氏の記述より、より詳しく述べることにする。
9 .中村秀吉著『パラドックス』(中公新書)p.128
10.野崎昭弘著『詭弁論理学』p.186
11.クワイン W.V.Quine 著『パラドックスの方法 The Ways of Paradox and other essays』Revised and enlarged
edition, 1966 に所収。「想定されたアンチノミーについて On a Supposed Antinomy」は 1952 年の論文。
12.クワインの前掲書に所収の論文「パラドックスの方法 The Ways of Paradox 」(1961)による。
13.中村秀吉氏も『パラドックス』(p.132)で、このクワインの見解として四つの可能性を紹介しているが、そ
こでは本論文での表記で、(c)と(d)とが入れ替わっていることに注意されたい。また中村氏は、(c)の試
験が行われない可能性を(中村氏の順序づけでは(d))、通告によりただちに排除しているが、クワインはた
だちには排除していないように思われる。
14.中村秀吉、前掲書 p.132-133
15.中村秀吉、前掲書 p.133
16.中村秀吉、前掲書 p.133
17.野崎昭弘、前掲書 p.185-186
18.野崎昭弘、前掲書 p.186
19.クワイン、前掲書 p.21
20.クワイン、前掲書 p.21
21.レイモンド・スマリアン、前掲書 p.17-18
58
アルベール・カミュ『誤解』の世界
―― 作品の生成と作家の表現欲求 ――
(上)
奈 蔵 正 之
序
1.
『誤解』の出発点
2.
『誤解』の成立
3.
『誤解』の変容1
悲劇の中でぶつかり合う力動は,どちらも正しく,筋道が通っている。逆に,通
俗劇や普通の芝居では,片方の力動だけが正しい。つまり,悲劇は両義的なもの
であり,普通の芝居は単線的なのだ。悲劇においては,どちらの力動も,同時に
善であり悪である。普通の芝居では,正しいのは片方だけであり,もう一方は悪
なのだ。(カミュ,「悲劇の将来について」より)2
序
アルベール・カミュが執筆した二番目の戯曲『誤解』は,決して数多くはない彼の著作の中で
も,とりわけ暗い作品である。生まれ故郷のチェコの村を長年離れていた男,ジャンが,ようやく
一財産をこしらえ,妻マリアを連れて帰郷する。彼の母親と妹のマルタは,さびれた宿屋を営んで
いた。ジャンは,久しく絶えていた家族のつながりを取り戻したいと望んでいた。だが,自分だと
は名乗らずとも母親と妹がジャンであると気付いてくれることが,そのために必要な条件である
と,彼は頑なに思い込んでいたのである。妻を別の宿屋に泊まらせると,ジャンは旅人を装って生
家へと戻る。だが,母親も妹マルタも,彼がジャンだとはわからない。そのうえ,この二人は,旅
人を殺めては金品を奪うという行為に手を染めていた。それは,マルタが太陽と海を求めて地中海
に面した土地へ移り住みたいという強烈な願望を抱き,そのために金が必要となったからであり,
1
2
本論文は,紙数の関係から,上・下の 2 つに分けて発表を行う。「下」の構成は次の通りである。
4.悲劇の再生 5.失われた祖国と死の中の合一 6.反抗と兄弟殺しの神話
«Sur lʼavenir de la tragédie», PLIII, p.1115, および PLT, p.1707.(略号については,本論文末尾の一覧を参照)。
カミュの作品については,新プレイヤッド版と旧プレイヤッド版の,両方におけるページを示すこととする。
なお,カミュ・テクスト,およびカミュの研究書などから本論文において引用した部分は,特にことわりのな
い限り,筆者自身による拙訳である。また,テクストを照合する関係上,原文も併せて掲載した場合がある。
59 母親も,娘の強い思いに促されて,共犯者となっていたのであった。ジャンもまた,これまでの犠
牲者同様,茶に仕込んだ眠り薬で眠らされ,川に沈められてしまう。翌日,パスポートから,この
旅人の正体がわかる。母親はジャンが永遠の眠りに就いてしまった川へ身を投げに行く。妹マルタ
は,尋ねてきたジャンの妻マリアに怨嗟の声を浴びせてから,縊死へと向かう。絶望の淵に投げ込
まれたマリアは,「神様,お慈悲を!」と叫ぶが,そこに現れた宿屋の老使用人が言い放つ「だめ
だ!」 3 。
そして『誤解』は,カミュの作品の中でも不遇なものの一つである。この戯曲は,同じく戯曲で
ある『カリギュラ』と合本の形で,1943 年 5 月にガリマール社から出版され,同年 6 月に,ドイ
ツ軍占領下のパリにおいて,マルセル・エランが主催していた「マチュラン座」でその初演が行わ
れた。それ以前にカミュは,42 年 6 月に小説『異邦人』によって華々しく文壇にデビューし,同
年 10 月には哲学エッセイ『シーシュポスの神話』を発表するなど,一躍新進作家の列に名を連ね
ていた。他方,占領という厳しい状況に置かれたパリ市民達にとって,演劇鑑賞は数少ない楽しみ
の一つであった。それだけに,
『誤解』の上演に足を運んだ人々は,この若き作家が演劇の分野で
どのような才能をきらめかせるか,かなりの期待を抱いていたはずである。
だが,中心人物マルタを演じたマリア・カザレスの熱演にもかかわらず,
『誤解』の初演は思わ
しい成果を収めなかった。ハーバート・ロットマンによる浩瀚なカミュの評伝によれば,6 月 24
日に行われた総稽古(招待客を迎えて行うプレ上演)は,嘲笑と口笛を浴び,台無しにされたとい
「芝居全体が単調で暗鬱」「ストーリーが簡単に予測できる」
う 4。新聞など掲載された各種劇評も,
「登場人物に真実らしさが感じられない」など,批判的なもので占められていた。プレイヤッド版
新カミュ全集で『誤解』の解説と注解を行ったデイヴィッド・ウォーカーは,ドイツ軍による検閲
を受けていた当時のプレスが,ネガティヴな内容の作品を好ましいものとして扱わなかったことも
批判に拍車をかけたのでは,と指摘している 5。そして,すでに 6 月にノルマンディー上陸作戦を
成功させていた連合軍がパリに迫ってきたために,上演は 7 月で打ちきりとなり,パリ解放後,10
月に再演されたが,その際のメディアの受け止め方はやや好意的になったという。しかし,
『異邦
人』や『シーシュポスの神話』の成功と比べるならば,また,45 年 9 月に初演され,ジェラール・
フィリップの魅力も手伝って好評を博した『カリギュラ』と比べるならば,
『誤解』は,カミュが
望んだような結果を得ることができなかった。作家自身,おそらくは苦い思いをこめて,それを認
めている。
3
芝居が始まってからこの時点まで終始無言を貫いてきた老使用人は,ジャンがパスポートを見せようとするの
を邪魔するなど狂言回しの役割を務めるとともに,明らかに「神」を象徴している。
4
Herbert R. Lottman, Albert Camus, Widenfeld & Nicolson (London), 1979(以下,ロットマン(英)と略す),pp. 318-
19. および,マリアンヌ・ヴェロンによるその仏訳(Seuil, 1978. 以下,ロットマン(仏)と略す),pp. 332-33. な
お,英語版の原著と仏訳版とでは,注の記載に若干の異同が認められる。
5
PLI, p.1339. 新プレイヤッドにおけるウォーカーによる『誤解』の解説(PLI, p.1328-44)のことを,以下
「ウォーカー」と表記することにする。
60
今日『誤解』に込められた深い意図について説明を求められるというのは,この戯曲が喝采をもっ
て迎えられたと言うにはほど遠いことを十分に示している。そう述べるのは,不満を言うためではな
く,ものごとをありのままに述べるためである。そしてものごとをありのままに述べるならば,
『誤
解』はかなり多くの観客を集めたけれども,その観客の大半にとって満足のいくものではなかったの
だ。はっきり言えば,失敗だったということである。
もちろん,私はこの失敗の理由について考えた。ある意味で,この戯曲には欠点が多かった。細か
な点で不器用であり,より重要なことに,冗長な点があり,息子の人物設定についてある種不確かな
ところがあり,それらがみな,観客の困惑の原因となったというのは,当然であろう。
[...]6
また,研究の分野においても,
『誤解』は研究者の関心の対象から外れることが多い。新プレイ
『誤解』を主な対象にした研究
ヤッド版第 4 巻にはカミュ研究に関する書誌が収められているが,
は 2 つしか掲載されていない 7。数年おきに出版されるカミュ研究の雑誌に,La Revue des Lettres
Modernes の「シリーズ・アルベール・カミュ」があるが,カミュの演劇を特集した第 7 号には,
『誤解』に関する研究は一つも収められていない 8。また,かつて 1989 年に,フランスのアミアン
でカミュの演劇作品に関する国際学会が開催されたことがあったが,そこでも,
『誤解』を扱った
発表は皆無であった 9。カミュの作品で最も失敗に終わったのはやはり戯曲の『戒厳令』であり,
こちらはわずか 10 回の上演で打ちきりとなって,カミュの生前には二度と再演されることがな
かった。だが,『戒厳令』に関する研究は,プレイヤッド版の書誌には 3 つ掲載されているし,89
年の国際学会でも取り上げられていた。今もなお数多くの研究者が取り組んでいるカミュ研究の世
界において,
『誤解』はあまりにも低い扱いを受けていると言ってよいであろう。
しかしながら,作家の内部で『誤解』が占めていた位置は,決して低いものではなかった。この
後見るように,
1938 年ごろに最初の着想を得てから 1943 年に本格的な執筆にかかるまでのあいだ,
『カリギュラ』
,
『異邦人』
,
『神話』の執筆と平行して,『誤解』のテーマはゆっくりとカミュの中で
醸成されていた。また,
『戒厳令』には二度と手が入れられることがなかったが,『誤解』は,版が
改まるたびに,あるいはテレビでの放映に際して,何度も改稿を施され,完成度を高める努力が行
われた。現在見る『誤解』の最終版が出版されたのは 1958 年であり,およそ 20 年にわたって,何
らかの形でカミュは『誤解』に関わり続けたのである。それほど作家が愛着を抱いていた作品をない
がしろにするというのは,カミュ研究において大きな欠落を生じさせることになるのではなかろうか。
6 『フィガロ・リテレール』紙
7
Figaro Littéraire 1944 年 10 月 15-16 日版にカミュが寄稿した文章。資料として全
文が収められたのは,プレイヤッド新版が初めてであり,
『誤解』に関する貴重な資料である。PLI, p.505.
PLIV, pp.1574-1594 に収められた書誌,特に p.1588 を参照のこと。なお,カミュに関する研究の数は膨大であ
るため,この書誌に取り上げられているのは,代表的な研究かそれに準ずるものに過ぎない。しかし,どの作
品に関する研究が多いかどうかという傾向を,この書誌が相対的に反映していることは確実である。
8
9
Albert Camus 7 le théâtre, Minard, 1975.
この国際学会における発表を掲載した研究書を参照のこと。Albert Camus et le théâtre, Innec Édidion, 1992. p.245
の目次を参照。
61 一方,一個の演劇作品として評価するだけではなく,作家の作品世界総体におけるテーマ分析の
視点から捉えるならば,生前未刊に終わった最初の小説『幸福な死』同様,『誤解』には,カミュ
にとって根本的と言える素材がちりばめられていることがわかる。この作品に表出されている,祖
国からの追放,母親と息子の関わり,殺人と自殺,不条理への反抗,これらは,作家が生涯こだわ
り続けたテーマ群にほかならない。カミュの作品総体を貫くテーマを分析,検討する研究にとっ
て,
『誤解』は重要な証言者としての働きをするテクストなのである。さらに,『誤解』には,母親
を巡る兄弟の争いという,研究者がこれまでほとんど看過してきた,カミュの内的世界における闇
のモチーフも秘められているのである。
カミュ研究の定本として,1962 年と 65 年に出版された旧プレイヤッド版が長いあいだ使用され
てきたが,近年,装いを全く新たにして,4巻からなるプレイヤッド版のカミュ全集が刊行された
(『誤解』が収められた第1巻は 2006 年発行)
。この新プレイヤッド版には,それまで未発見あるい
は未刊行だった各種の資料や草稿の異文などが収録されているが,
『誤解』に関しても,これまで
の研究に修正を迫ることになる興味深い新資料が発掘されているのである。それらの資料を入念に
検討しつつ,この戯曲を改めて検討することは,カミュの作品世界を掘り下げるために,少なから
ぬ意義を持つはずである。
本研究の前半においては,主に新プレイヤッド版の注解に基づきながら,
『誤解』の成立と変容
を詳細に検討する。すなわち,この戯曲が着想され構想が練られ執筆されていった過程を明らかに
したうえで,1943 年にいったん完成されたあと,どのような改稿を経て出版稿に至ったかを精査
し,さらに,現在見る 1958 年の最終版へと姿を変えていった過程をつまびらかにする。後半にお
いては,カミュを『誤解』の執筆へと駆り立てた要因の一つである「現代悲劇の創造」という問題
に触れた後,ジャンとマルタという二人の登場人物を軸に据えつつ,
『誤解』とそれ以前にカミュ
が著したさまざまなテクストを比較検討することで,この作品がはらんでいるテーマの重要性を浮
き彫りにしたい。
1.
『誤解』の出発点
1−1.
『誤解』のモデル
雪の結晶には核が必要となるように,作家の内面で文学作品が着想されるに際しては,何らかの
外的事実が引き金となることが多い。それでは,カミュを『誤解』の構想へと促した発端はどうい
うことだったのであろうか。プレイヤッド旧版で『誤解』の注解を行ったロジェ・キヨは,中世以
来さまざまな国の伝説で似たような物語が語られていると述べた後,ニヴェルネ地方の古い民謡
や,18 世紀の哲学者ルイ=クロード・ド・サン=マルタンの自伝『歴史的哲学的我が肖像』に似
たような事件の記載があることや 10,果てはドイツ・ロマン派の劇作家ツァハリーアス・ヴェル
10
PLT, p.1788 における注1。なお,Louis-Claude de Saint-Martin(1743-1803)は,「天啓説」(l'illuminisme)とい
われる神秘主義の思想家である。
62
ナーの『二月二十四日』など 11,およそ生前のカミュが知悉していたとは思われない事例を列挙し
ている。しかし,血縁者とは知らずに殺害してしまうという物語は,実の父親を殺めたオイディプ
スの例を挙げるまでもなく,人類の神話・伝説に普遍的に認められる祖型(アーキタイプ)の一つ
であって,
『誤解』の出発点をそのようなものに求めるのは,あまり意味がないと思われる。
『誤解』の典拠(sources)は,興味深いことに,まずカミュの作品自体に姿を現わしている。そ
のプロットが,よく知られているように,
『異邦人』L'Étranger の中で先に語られているのである。
主人公ムルソーは,夏の浜辺でアラブ人を射殺した廉で逮捕され,独房に入れられるが,寝床の台
とマットのあいだに古い新聞の切り抜きを見つける。そしてその内容が気にかかったのか,退屈な
独房での時間を紛らわすためか,何度も何度もその切り抜きを読み返すのである。
ある男が一財産を作ろうと,チェコの村を離れた。25 年経ち,金をこしらえた男は,妻と子供を伴っ
て戻ってきた。男の母親と女兄弟は,生まれ故郷で宿屋を営んでいた。二人を驚かせてやろうと,男
は妻と子供を別の宿に残し,母親の所へ行ったが,彼が誰だか,母親にはわからなかった。冗談のつ
もりで,男は宿を取ることにした。男は,持っている金を見せた。夜,母親と女兄弟は,男を金槌で
殴り殺し,金を奪って,死体を川に投げ捨てた。そうとは知らずに,朝になって男の妻がやってき
て,彼が誰だったのかを告げた。母親は首を括った。女兄弟は井戸に身を投げた。僕は,この話を何
度読み返したことだろう。ある意味で,ありそうもない話だ。だが別の意味で,当たり前の話であ
る。どっちにしても,この男は自業自得と言えるし,演技をしたりしてはならないのだと,僕は思っ
たものだ。12
この惨劇が実際に起った話なのか,それともカミュの創作なのかを確かめることは,
『誤解』の形
成過程(la genèse)の探索のみならず,作品の理解を深めるためにも重要であると考えられる。こ
れについては,まず,リヒャルト・ティーベルガーが 13,1960 年に著した研究書 Albert Camus, Eine
Einführung in sein dichterisches Werk の中で「自分は 57 年にカミュから手紙を受け取り,それには
11
カミュ研究の大家レエモン・ゲエ=クロジエはドイツ文学にも造詣が深く,カミュの演劇作品に関する総
合的な研究である『ある失敗の裏面』
(Raymond Gay-Crosier, Les Envers dʼun échec, Minard, 1967)において,
Zacharias Werner(1768-1823)の『二月二十四日』Der vierundzwanzigste Februar について詳しく紹介しており,
同作においては,息子が父親と母親によって殺害されるということである。しかし,カミュはニーチェを除い
てはドイツ文学・ドイツ思想にあまり関心を抱いておらず,そもそもカミュの生前にヴェルナーの作品が仏訳
されていた可能性が極めて低い。
12『異邦人』
第2部第2章。PLI,
p.187, および PLT, p.1182. 男と sœur の年齢関係は不明であるので,以下,sœur は
「女兄弟」
,frère は「兄弟」と訳しておくことにする。日本語の「姉妹」は,女兄弟相互の関係でのみ用いられる
ので,frère との関係で sœur を「姉妹」と訳すのはおかしい。戯曲の原稿に入ってからは,「ジャンが旅立った
時にマルタが une pitite fille だった」と明記されているので,「兄,妹」と訳すことにする。なお,ジャンとマル
タの年齢関係に関しては,戯曲の設定上の都合に止まらない象徴的な意味が込められていると考えられるの
で,後に詳しく論じる。
13
Richard Thieberger(1913-2003)は,オーストリアに生まれ,若い頃にフランスに移り住み,戦後はニース大学
で教鞭を取った。カミュに関するごく初期のドイツ語による研究を紹介した Camus devant la critique de langue
allemande(Minard, 1964)の編者でもある。
63 『誤解』の元となった事件は実際の新聞記事で読んだものだと記されていた」と述べている。この
指摘はしばらくのあいだフランス語圏の研究者の間では知られていなかったようであり,例えば
『誤解』が収められているプレイヤッド旧版は 1962 年の出版であるが,キヨはティーベルガーに言
及していない。一方,ゲエ・クロジエは,
『ある失敗の裏面』において,ティーベルガーがカミュ
から手紙を受け取ったことを紹介しており,それには「この戯曲の着想は,確かに,新聞で読んだ
三面記事から得ています」と書かれていた,と記している 14。キヨも,カミュの人と作品について
網羅したエッセイ『海と牢獄』の改訂版を 1970 年に著した折にはこの手紙を紹介し,「自分はヴェ
ルナーの戯曲を読んだことはなく,
(
『誤解』の元となった)事件は新聞で読んだものだ」とカミュ
が述べていたことを示している 15。
そして 1968 年,デイヴィッド・G.スピーアにより,1935 年の 1 月にユーゴスラヴィアのオラ
ヴィサという場所で,現実に『誤解』のプロットと同様の事件が起ったことが示された 16。この惨
劇は世界中に報道され,フランスでは,パリの 2 紙,Le Peuple と Le Populaire に掲載されたという。
スピーアは,カミュがこのどちらかをアルジェで読んだのではないかと推測した。これに対して,
1970 年に,カミュ研究家のアンドレ・アブーが,アルジェリアで発行されていた新聞 La Dépêche
algérienne と L'Écho d'Alger にもこの事件の記事が載っていたことを明らかにした 17。アブーによれ
ば,この両紙の見出しは,以下のようであったという。
La Dépêche algérienne 紙:
20 年ぶりに故郷に戻った男が,彼だとは気付かなかった母親と女兄弟によって殺害され,金品を奪わ
れた。
L'Écho d'Alger 紙:
宿屋の女主人が,娘の手を借りて,旅行者を殺害し金を奪ったが,その旅行者は実は息子だった。過
ちに気が付き,母親は首を括り,娘は井戸に身を投げた。
これを受けて,作家ロジェ・グルニエは,カミュの人と作品を語ったエッセイ『アルベール・カ
ミュ,太陽と影』において,記事の本文の抜粋を紹介している(配信記事を掲載したため,両紙の
記事本文は同一であった)
。
14
Les Envers dʼun échec,(前掲)p.101 の注 11。カミュの手紙は,Albert Camus, Eine Einführung in sein dichterisches Werk
(前掲)の p.19 に紹介されているとのことである。
15
16
Roger Quillot, La Mer et les Prisons(édition revue et corrigée), Gallimard, 1970. p.134 の注4。なお,La Mer et les
Prisons の初版は 1956 年であり,カミュの作品の全体像について論じた最も初期の著作であった。
David G. Speer, «Meursault's Newsclipping», Modern Fiction Studies, vol. XIV, no2, Summer 1968, pp.225-29. これは,
Brian T. Fitch, «Travaux sur L'Étranger», Albert Camus 2, Minard, 1969, pp.156-7 において紹介されている。また,
キヨも,前掲書 p.134 の注4で紹介している。なお,当時のユーゴスラヴィアは王国であり,その版図は,ほ
ぼ後の旧ユーゴスラヴィア連邦と同じである。
17
André Abbou, «La Source du Malentendu», Albert Camus 3, Minard, 1970, pp.301-2.
64
ベオグラード発,1 月 5 日。La Verme 紙が,ベラ=ツェルカヴァの宿屋で起きた恐るべき殺人を報じ
た。宿屋の女主人とその娘が,女主人の息子であり娘の兄弟であるペタール・ニコラウスを殺害した
のである。ニコラウスは,20 年間外国で働き,一財産をこしらえ,その一部をもたらそうと思ったの
である。18
若きカミュが,実際にこの記事を読み,強い印象を受けたことは,ほぼ確実であろう 19。特に『エ
コー・ダルジェ』紙における,
「母親は首を括り,娘は井戸に身を投げた」«la mère se pend, la fille
se jette dans un puits» という部分は,時制が大過去になり(ムルソーによる語りよりも前の時点であ
るから,時制は自動的に大過去になる)
,la fille が la sœur になっていること以外は,そのまま『異
邦人』において用いられている。«La mère sʼétait pendue. La sœur sʼétait jetée dans un puits.»
惨劇が起きた場所がユーゴからチェコに置き換えられているのは,アブーが主張しているよう
に,カミュの記憶の誤りなどではなく,意図的なものであろう。カミュはユーゴのことはよく知ら
なかったが,チェコには,次節で見るように,1936 年の夏の長い旅行の際に立ち寄っていた。ま
た,『異邦人』の原稿の大部分が書かれたのは 1940 年の前半と推定されるが,1 − 3 で述べるよう
に,すでに 1938 年の時点で戯曲の舞台をチェコに据えることをカミュは考えていたので,『異邦
人』において事件の舞台がユーゴからチェコに置き換えられたのは,自然な流れだったと言えるだ
ろう。
1−2.
『誤解』の舞台
第 2 章で見るように,
『誤解』の第 1 稿は 1943 年の 7 月に完成したが,そのプロローグにおいて,
愛妻マリアに対してジャンは,
「二人の幸せの中にあっても,これまで僕は追放を受けて暮らして
いたんだ。」と語っていた 20。この台詞は,44 年版以降「追放されたり忘れ去られたりしたら,幸
18
Roger Grenier, Albert Camus, soleil et ombre, Gallimard, p.130. なお,新プレイヤッド版カミュ全集における『誤解』
の注解では,この事件に関して,スピーアとアブーに言及することなく,ロジェ・グルニエによる情報だけを
紹介し,あたかもロジェ・グルニエが最初にこの記事を発見したかのような印象を与えてしまっている。PLI,
19
p.1329.
アブーは,「1935 年,カミュは『エコー・ダルジェ』紙を読んでいた。同紙に絵画批評をいくつか発表してい
るからである」と書いているが(前掲書,p.302)
,この文の後半は誤りだと思われる。アブーが根拠としてい
るのは,プレイヤッド旧版においてロジェ・キヨが『裏と表』について記している注解であり,そこには,
「カミュ
は『エコー・ダルジェ』紙に絵画批評を掲載しており,
画家ピエール・ブシェルル Pierre Boucherle についてカミュ
が書いた文章の下書きを自分は見つけた」という旨の内容が確かに記されている(PLE, p.1178)。だが,1935
年当時カミュはまだ学生であって,新聞に記事を載せたはずはなく,また,確かにピエール・ブシェルルにつ
いて書いた文章は存在するが,これが発表されたのは,学生新聞『アルジェ・エテュディアン』Alger-Étudiant
なのである(PLI, p.558-560 に収録されている)
。プレイヤッド旧版は,カミュの死後数年後に出版という驚異
的なスピードで編纂されており,そのためか,キヨの注解には,残念ながら,拙速によると思われる誤りが散
見される。なお,ブシェルル(1894/95-1988)は,チュニジア生まれの画家である。
20
PLI, p.503.
65 せにはなれないんだ。
」と 21,抽象化・一般化される。だがいずれにせよ,ジャンはなんらかの事
情で故郷を捨て,北アフリカの地で一財産を作り,マリアという伴侶も得たが,彼の人生における
「幸福」は,それだけでは完結しなかったわけである。カミュの代表作『ペスト』において新聞記
者ランベールが「自分だけが幸福になるというのは,恥ずかしいことかもしれない」と呟いたよう
に 22,ジャンも,故郷の母と妹を見捨てて自分だけが異郷で幸福になることはできないと感じたの
である。
チェコの故郷への帰還は,この追放状態にけりをつけるための試みのはずであった。ところが
ジャンは,母にも妹にも彼だと認められることがなく,自らが育った家を「自分の家ではない」と
感じ,旅人を装って泊まった部屋では不安感すら覚えてしまう。彼の追放状態は解消されるどころ
か,生まれ故郷でさらなる追放感を味わうことになってしまうのである。
ジャンのこの二重の追放状態と,モデルとなった実際の事件が起こったユーゴスラヴィアから
チェコへと戯曲の舞台を移したこと,この 2 点には,戯曲を構築する上での必要性を超えた,カ
ミュにおける強い内的要請が反映されている。というよりも,彼の内面に形成されていた悲痛なこ
だわりを吐きだす上で,
『誤解』の執筆が格好の機会となった,と述べても過言ではない。その点
を詳しく見てみよう。
1935 年,イヴ・ブルジョワという若い教師がアルジェのリセに赴任し 23,カミュが中心になっ
て組織していた「労働座」という素人劇団の活動に加わった。カミュとブルジョワは次第に親交を
深めていく。そしてカヤック(一人乗りのカヌー)で川を旅するという趣味を持っていたブルジョ
ワは,
1936 年の夏,カミュを中欧ヨーロッパの旅に誘う。こうして 36 年の 7 月から 8 月にかけて,
アルベールとシモーヌのカミュ夫妻は,ブルジョワとともに,オーストリア,ドイツ,チェコを巡
る旅に出かけるのである。
この旅の旅程を確かめるために,
『カルネ』という資料にあたることにしよう。1935 年からカ
ミュは,内的省察や創作のための覚え書き,あるいは時期によっては純然たる日記などを一連の
ノート(cahier)にしたためるようになり,それは死の直前まで続いた。これらのノートは全部で
21
第1幕第4場,PLI, p.464, PLT, p.127, および Mal47, p.28.
22『ペスト』第4章。PLI,
23
p.178. および PLT, p.1389.
Yves Bourgeois(1909/10-2000)は高等師範学校卒(ノルマリアン)で,いくつもの言語を話し,さまざまな国
に滞在したことのある国際人だったという。彼はアルジェ時代の一時期カミュとたいへん親しかったが,その
後疎遠になり,ロットマンがカミュの評伝を著した 1970 年代にはすでに物故したと一般には思われていたら
しい。だがロットマンは,ブルジョワが南仏で暮らしていたのを探し出し,評伝のためにいくつもの貴重な証
言を引き出すことができた。
1996 年にやはり浩瀚なカミュの評伝を著したオリヴィエ・トッドもブルジョワにインタビューしているが,
その内容は,ロットマンによる評伝のものと大差がない。トッドによるカミュの評伝の値打ちは,未公開書
簡を数多く引用していることであり(その大部分は,現在もなおカミュの書簡集として出版されてはいない),
それ以外の部分は,いわば「ロットマンによる評伝の後付け・リメイク」という趣きのもので,独自性には乏
しい。
66
9 冊にのぼり,カミュの死後,三部に分けて『カルネ』Carnets というタイトルで出版された(プ
レイヤッド旧版より後の出版になったため,プレイヤッド旧版には収録されていない)24。プレイ
ヤッド新版は基本的に編年体の編集を行っているため,
『カルネ』は二部に分けられ,第 1 ノートか
ら第 6 ノートの 1948 年 12 月までの部分が第 2 巻に,第 6 ノートの 1949 年 1 月の部分から第 9 ノー
トが第 4 巻に収められている。この『カルネ』は,作品の着想過程を追ったり,作家の内面の動き
に迫ったりする上で格好の研究資料となっており,『カルネ』に言及しないカミュ研究家はいない
と述べてもよいくらいなのであるが,その第 1 ノート断章 92 に,1936 年の旅の旅程が詳細に記述
されているのである 25。そして,ロットマンおよびトッドによる評伝における記載と照らし合わせ
ると,この断章 92 の内容がほぼ正確なものであることがわかる 26。
リヨン
フォアアールベルク―ハレ
クーフシュタイン:チャペルと,雨にうたれ,イン川にそった原。孤独が錨を下ろす。
ザルツブルク:『イェーダーマン』27。サンクト・ペーター教会の墓地。ミラベル宮殿の庭園とその見
事な成功。雨,フロックス ―湖と山― 高台を歩く。
リンツ:ダニューブ川と労働者街。医師。
ブトヴァイス:大通り。ゴチック様式の小さな修道院。孤独。
プラハ:最初の 4 日間。バロック様式の修道院。ユダヤ人墓地。バロック様式のいくつかの教会。料
理店に着く。空腹。金がない。死人。酢漬けのキュウリ。アコーデオンに腰を下ろした片手の男。
24
その際,アメリカ旅行と南米への旅行の時に記された部分は抜き出されて,『旅行記』Journaux de voyage とい
うタイトルで別に出版された(1978)。プレイヤッド新版では,このような不自然な編集を解消して,ノート
を元の形に戻している。
25
Carnets, «Chaier I», PLII, p.820, および CaI, pp.55-56. 下線は筆者による。この部分の重要性については,この後
1−3において論じる。
なお,『カルネ』に記されている個々のメモのことを,本稿では「断章」と呼ぶことにする。断章と断章の分
かれ目は,元々のカミュの草稿では空白で分かたれていたと考えられるが,出版に際し,分かれ目がアステリ
スク「*」で示されるようになった。これらの断章を取り扱いやすくするために,筆者は,1から始まる通し
番号を『カルネ』の各ノートごとに振って,それを論文中で明示することにした。例えば「«Chaier II», 断章
第 51」であれば,第2ノートの 51 番目に書かれている断章,という意味である。もちろんこの通し番号は,
原テクストには存在しない。
26ロットマン,
pp.111-119(英)
pp.125-133(仏)
,
。Olivier
Todd, Albert Camus, une vie, Gallimard, 1996(以下,
「トッド」
と略す),pp.110-119. ただし両者とも,この旅の体験に基づいた「魂の中の死」や『幸福な死』のテクストを,
あたかも事実のようにして自分で取材した内容の間に挟み込んでいる部分があるので,注意が必要である。こ
うしたカミュ自身からの引用は省いて,ロットマンとトッドが独自に記した部分とカミュのテクストを比較す
ると言う方法を採らなければ,評伝が傍証とならなくなってしまう。
27『イェーダーマン』
Jedermann
は,オーストリアの詩人・作家・劇作家フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874-29)
が,15 世紀イギリスの神秘劇を元に,1911 年に発表した戯曲である。カミュはザルツブルクで,この芝居を
観劇したという。
『イェーダーマン』は「ザルツブルク祝祭上演」(日本では「音楽祭」と呼ばれているが,実
際には音楽だけの祭典ではない)で上演されるのが慣例となっているので,その際のことであろう。トッドは,
この上演についてカミュが記した未公表書簡を引用している(トッド,p.113)。
67 ドレスデン:絵画。
バウツェン:ゴチック様式の墓地。レンガ造りのアーチの中に咲いているゼラニウムとひまわり。
ブレスロー:霧。いくつかの教会と工場の煙突。この町に特有な悲劇的な様子。
シレジアの平原:非情で恩知らずな。
―砂丘―ねっとりとした朝,粘りつく大地の上を鳥たちが飛ぶ。
オルミュッツ:モラヴィアの優しく,ゆったりとした平原。酸っぱいプラムの木々と,心を揺さぶる
遠景。
ブルノ:貧しい地区。
ウィーン ―文明― 寄り集まった豪華さと,保護してくれる庭園の数々。内なる悲嘆が,この絹の
襞のあいだに隠れている。28
7 月初め,カミュ一行はアルジェからマルセイユ行きの船に乗り,次いで列車でリヨンに着く。7 月
半ば,オーストリアのインスブルックに移動し,そこからカヤックでの川旅を試みた。クーフシュタ
インまで,イン川の渓谷を辿ろうとしたのである。だが結核の持病を持ったカミュにとって,カヌー
で両肩を使いまくるという運動は禁物であった。一日にして彼は脱落し,妻とブルジョワには川旅を
続けさせて,自分は列車でクーフシュタインへ赴くことにした。だがブルジョワたちの川旅が遅れて
しまい,カミュは予定より丸 1 日長く,クーフシュタインで彼らを待ち続けることになる。断章 92
で「孤独が錨を下ろす」と記しているのは,この間の事情を物語っているのであろう。これ以降の旅
で,カミュは妻やブルジョワと離れて,一人で行動することが何度か起る。この結果,三人旅である
はずなのに,一人旅であるかのような孤独感を折りに触れ味わうことになってしまうのである。
クーフシュタインを発ったカミュ一行は,ベルヒステガーデンを経由して,音楽の都ザルツブル
クへと至る。ここでカミュは,自分を深く打ちのめす事件に遭遇してしまうのである。7 月 26 日
の朝,カミュは,局留めで送ってもらっていた郵便物を受け取りに郵便局まで一人で赴いたが,そ
の中に,妻シモーヌ宛の手紙があった。彼が開封すると,それはある医師からのもので,シモーヌ
に麻薬を提供しようという申し出であり,さらには,シモーヌとその医師がただならぬ関係である
ことが読み取れたという 29。その日,カミュ夫妻の部屋で激しい諍いがあったようだと,後年ブル
ジョワはロットマンのインタビューに応じて語っている。トッドも,この事件に関するカミュの友
人クリスチャーヌ・ガランドーの証言を紹介している 30。
この突発事にもかかわらず,友人ブルジョワのためを思ってなのか,カミュは旅行を中断させる
28「フォアアールベルク(オーストリア最西端の州)―ハレ(ドイツのザクセン=アンハルト州の町)
」というの
は,当初の旅全体の計画を指しているのだろう。カミュ一行は,実際にはハレまで行くことはなく,後半の旅
程を短くして,ウィーンからはイタリア経由でアルジェへの帰途についた。また,実際には滞在したもののこ
の断章から省かれているのは,オーストリアで最初に立ち寄ったインスブルックと,クーフシュタインの後に
滞在したドイツ南端の町ベルヒステガーデンである。後者の削除については,この町が当時ナチズムと極めて
関係が深かったことに反感を感じたからかもしれない。
29ロットマン,pp.114-115(英)
,pp.128-129(仏)
。
30トッド,p.780(p.113
68
の注 2)
。
ことなく,予定通りの旅を続けた。それが『カルネ』断章 92 における,リンツ以降の旅程なので
ある。しかし妻に裏切られたことの衝撃は彼の内面を大きく切り裂き,この時覚えた嫉妬と苦しみ
の感情が生涯にわたってカミュを苦しめ,その影響が,まるで空気で一杯にした玉をいくら水中に
押し込もうとしても浮かび上がってくるように,テクストに折りに触れて姿を見せるようになるの
『カ
である。『幸福な死』のマルトの男関係に対して主人公メルソーが覚える激しい嫉妬の感情 31,
リギュラ』の初稿(1939)と 1941 年稿で皇帝カリギュラがある貴族の妻を舞台の袖へ連れて行っ
て関係を持ち,その後ぬけぬけと舞台に戻ってきて妻を寝取られた貴族を愚弄する場面 32,そのカ
リギュラの転生であるかのように,後年の『転落』において語り手クラマンスは,いかに友人たち
の妻を寝取ってきたかを自慢げに語る 33。
妻の不貞を知ったことへの驚きと悲しみ,そして「性的な嫉妬」を無理やり抑え込んで旅行を続
けたことの反動なのであろう 34,カミュは,カヤックで移動するブルジョワとシモーヌと離れて一
人旅になると,著しい抑鬱状態に落ち込むこととなった。
それがどん底に達したのが,プラハに到着し 4 日間をこの異郷の町で一人で過ごした時であり,
カミュは,この際の悲痛な心境を,1937 年に出版された初のエッセイ集『裏と表』L’Envers et
l’endroit に収められた「魂の中の死」«La Mort dans l'âme» で克明に描き出すのである。彼の抑鬱と
孤独感は,「不安」や「パニック」という形を取り,さらに,嗅覚や聴覚の刺激と結びついて,実
在的な恐怖感となって襲いかかってきた。この時のカミュは,パニック障害の一歩手前まで行って
いたと考えても良いであろう。
31La
Mort heureuse, 第1部第3章,PLI, pp.1117-18,および CA1, pp.52-54.
32「嫉妬心を抱くとは,
なんと醜いことか!
虚栄心と想像力で苦しむとはな! おのれの妻が膝を開き,腹の上に,
他の男の腹を受け止めるのを目にするなどとはな」『カリギュラ』,1941 年稿,第2幕第9場。PLI, p.410 およ
び CAC4, p.55. 自虐的とも言えるこの台詞や,ある貴族の妻を連れ去る場面は,1944 年の初版では完全に消し
去られることになる。
33「もちろん私には,たとえば,友人の妻には手を触れてはならないという原則がありましたよ。ただ,本当に
誠意を込めて,その旦那さんに対する友情を数日前に捨て去ったわけですよ」『転落』第3章。PLIII, p.723 お
よび PLT, p.1505.
34カミュがこの事件によるショックをいかに抑圧しようとしていたかを逆説的に物語るのが,まさに同日の7月
26 日の日付がある,ジャン・グルニエ宛の書簡である(『往復書簡』,pp.27-28)。この書簡の冒頭に「ザルツ
ブルクで先生の手紙を受け取りました」とあることから,グルニエの手紙は,ある医師からシモーヌへ宛てた
手紙と一緒に,その日の朝にカミュの手に渡ったことになる。そしてその日のうちにカミュは,グルニエに宛
てて書簡集の体裁にして2ページにもなる長文の手紙をしたため,妻との諍いのことなどおくびにも出さず,
ふだんのグルニエ宛て書簡と全く変らない様子で,旅と文学について,グルニエの論文について語っている。
この手紙を書くことは,この日のカミュにとって,精神的平衡を保つための儀式にも似た行為だったのであろ
う。一方,トッドが伝えるところによれば,やはりこの日にアルジェの女友達マルグリット・ドブレンヌとジャ
ンヌ・シカールに宛てて書いた手紙の方は内心をさらけ出したものであり,
「最も辛い打撃の一つ」が彼を襲い,
「そのせいで僕の人生は根本から変わろうとしていた。打ち明け話は好きじゃない。でも,君たちの友情に対
して,ただある事実を伝えておきたいんだ。アルジェに戻ったら,僕はまったく一人きりで暮らすことになる。」
と記されていたと言う(トッド,p.113)
。
69 [...]不安が次第に首をもたげてきた。自分の頭の中のこの鋭い切っ先について,考えすぎていたの
だ。
[...]
僕は,人気がなく静まり返った,巨大なフラドチャニ地区で,異様な時間を過ごした。日差しが傾く
頃,その大聖堂と建物の影を受けて,僕の孤独な足音が通りに響いていた。それに気が付くたびに,
僕はパニックに襲われた。[...]
そして,今なら語ることができる。プラハについて僕の中に残っているのは,酢に浸けたキュウリのあ
の匂いなのだ。通りの角と言う角で酢漬けキュウリを売っており,客は親指でつまんで食べるのだ。ホ
テルのドアを開けて表に出るや否や,その酸っぱく鼻をつく香りが,僕の不安を呼び覚まし,それをか
き立てたのだった。そのことと,そしてたぶん,アコーデオンの,あるメロディーのこともある。
[...]
僕はいまだに覚えている。ヴルタヴァ川のほとりで突然立ち止まり,あの匂いとあのメロディーに
つかまえられ,僕自身の限界へと投げ出され,とても小さな声でつぶやいたのだ。
「これはなんの意
味なんだ,これはなんの意味なんだ?」35
さらに不幸な偶然が重なり,カミュは,泊まっていたホテルの隣室で死人が出るという事態に遭遇
してしまうのである 36。彼の困惑と絶望は筆舌に尽し難いものとなった。
午後の終りごろ,疲労にたたきのめされ,僕はホテルの部屋で,扉の掛け金を狂ったように見つめて
いた。頭は空っぽになり,アコーデオンの大衆的なメロディーが延々と聞こえていた。その時,もう
前に進むことができなくなっていた。国もなく,町もなく,部屋もなく,名前もなく,狂気に取り付
かれたのか征服されたのか,屈辱を受けたのか霊感を得たのか,僕はわかろうとしていたのか,それ
とも燃え尽きようとしていたのか? 37
その時「扉にノックの音がして,友人たちが入ってきた」とカミュは続ける。しかし実際に彼に合
流したのは,別行動をしていた妻とブルジョワだった。これでカミュは孤独から救われたわけだ
が,4 日間のプラハにおける精神的危機について,おそらくは二人には語らず,またも自分の中で
抑圧したのであろう。ザルツブルクでの事件以来わだかまりが生じた妻には心を開くことができな
かったであろうし,ロットマンもトッドも,ブルジョワがカミュからプラハでのパニックについて
聞いた,という証言を引用していないからである。
「魂の中の死」は,初期のカミュのテクストの中でも最も赤裸々な,精神の危機の告白である
(しかしその引きがねとなったザルツブルクでの事件については,巧妙に隠蔽している)
。だがこの
告白でも心の痛みを昇華しきることができず,彼は小説『幸福な死』において,プラハでの暗黒体
験を再び取り上げるのである。主人公メルソーは,
「幸福の追究に必要な時間」というものを贖う
35
«La Mort dans l'âme», PLI, p.57, p.58. および PLE, p.32, 34. ゴチックによる強調は筆者。なお,フラドチャニは,
プラハにある歴史的旧市街の一つである。
36
37
ホテルでのこの死人は,病死であるらしいことが示唆されている。あまりにも「出来すぎた」事件であるが,
断章 92 のプラハに関するメモの中でも「死人 Le mort」と記されているので,実際に起こったことなのであろう。
同上,PLI, p.60 および PLE, p.36.
70
ため,体の不自由な資産家ザグルーを 38,半ば彼の同意の元に,拳銃で殺害し,金を奪うと,中欧
ヨーロッパの旅に出る。この旅は「殺人後の高飛び」というよりも,メルソーが「幸福にふさわし
い人間」へと転生するために精神的な試練を受ける,一種の地獄巡りと言う役割をテクストの中で
果たしている。「魂の中の死」における語り手同様,
『幸福な死』のメルソーも,プラハで酢漬け
キュウリの匂いとアコーデオンのメロディーに苦しめられ,エッセイと違って小説では,メルソー
は行きつけとなったレストランの前で殺人事件に遭遇する 39。パニックに襲われ,メルソーはホテ
ルの部屋に舞い戻ると,ベッドに突っ伏すのである。
鋭い切っ先が,メルソーのこめかみを焼いていた。心は空っぽになり体は締めつけられ,彼の反抗の
思いが破裂しようとしていた。自分の人生のイメージが両目にあふれ出た。自分の中の何かが,女達
のしぐさを,開かれる両手を,暖かい唇を求めて,叫び声を上げていた。プラハの痛々しい夜々の底
から,酢の匂いと子供じみたメロディーの中を通って,メルソーの方へ,彼の熱に伴ってきた古いバ
ロックの世界の不安に満ちた面差しが浮かび上がってきた。40
ザルツブルクでの事件が嫉妬に苦しむ感情に加えてカミュに与えたもう一つの重大な影響が,この
ように,旅における深い孤独感が追放を受けた感覚にまで深まってしまったこと,そしてその暗い
心象が,実際の土地の魅力からかけ離れて,次に訪れたチェコの町や大地と分かちがたく結びつ
き,カミュの内面に固着してしまったことなのである。これこそ,
『誤解』の舞台が本来のユーゴ
からチェコに移された理由であり,息子が母と女兄弟に殺害されるという惨劇の舞台としては,自
分にとっての暗鬱の国であるチェコこそふさわしいと,彼は考えたのであろう。
プラハを発った後の旅程については,
「魂の中の死」も,
『幸福な死』も,断章 92 に記された内
容を忠実に辿っている。ここでは前者から引用しよう。
それからすぐ,僕はプラハを発った。そして確かに,その後目にしたものに関心を持ったのだ。バウ
ツェンの小さなゴシック様式の墓で過ごしたあのような時間,そこに咲いていたゼラニウムのまばゆい
赤,そして青い朝について,語ろうと思えば語れるだろう。シレジアの長々と続く,非情で恩知らずな
38「ザグルー
Zagreus」という名前は,当然のことながらギリシア神話の「ザグレウス」にちなんだものである。
ザグレウスはペルセボネー(あるいはデーメーテール)とゼウスの間の子供であり,嫉妬にかられたゼウスの
妻へーラーが巨人ティーターンたちに命じてザグレウスを八つ裂きにさせた。残された心臓をゼウスが飲み込
み,そこから生まれたのが酒の神ディオニューソスであるという。つまりザグレウスは「死からの再生」の象
徴である。『幸福な死』において,メルソーに殺害されたザグルーは,まさにそのことによってメルソーの中
に精神的に甦り,共に幸福の探求を行うことになる。『幸福な死』は,このような若きカミュにおける秘教的
なヴィジョンを託された作品であり,リアリズムの観点から批評・批判しても意義に乏しい。
39
この殺人事件のありさまは,
『カルネ』第 1 ノート・断章 9 の内容とほぼ同じであり(PLII, p.798 および CarI,
pp.19-20)
,さらに,はるか後年になって,カミュの遺稿となった『最初の人間』の草稿にも書き込まれてい
る(PLIV, pp.822-23 および CA7 pp.127-28)
。したがって少年期のカミュが実際に目にしたか,あるいは人づて
に話を聞いた,現実の事件であった可能性が高い。
40
La Mort heureuse, 第2部第1章,PLI, p.1146,および CA1, p.109. ゴチックによる強調は筆者。
71 平野について,語れるだろう。僕は朝早くそこを通ったのだ。霧が立ちこめるねっとりとした朝,粘り
つく大地の上を,鳥たちが重々しく飛んで行った。優しく,ずっしりとしたモラヴィア,その澄んだ遠
41
景,酸っぱい実を付けたプラムの木々で縁取られたその道々も,気に入った。
(下線は筆者による)
本節の最後に,『カルネ』第 1 ノートの断章 92 を巡る問題点を指摘しておきたい。断章 92 とここ
までの「魂の中の死」の引用を比較すれば,後者は断章 92 のメモに基づいて執筆されたと考える
のが自然である。ところで断章 92 は,
『カルネ』第 1 ノートの 1937 年にあたる部分に置かれ,
「7
月」の日付がある断章 85 と,同じく 7 月と記された断章 95 に挟まれているので 42,37 年 7 月に
書かれたとふつうは考えられよう。だが,
『裏と表』がアルジェのシャルロ書店から出版されたの
は 1937 年 5 月であって,したがって「魂の中の死」のテクストは,37 年 5 月よりも前に書かれた
ものなのである。これはどういうことなのであろうか。
実は,『カルネ』の第 1 ノートに関しては,日付が明示されていない断章については,書かれた
時期をある程度疑ってかかる必要があるのである。ロットマンによれば,第 1 ノートは元のページ
が切り抜かれたり張り合わされたり,切り抜かれたものが別の箇所に挿入されたりしているという 43。
カミュがこのような編集を行った理由の一つが,1936 年の旅の最中あるいは前後に記した部分を,
心の痛みに耐えかねて廃棄したということだろう。実際,36 年の夏に書かれたと思われる記事は,
第 1 ノートにほとんど見当たらないという不自然な状態が生じているのである。例外的に残されて
いるのが,恐らくは旅を終えた直後に記されたと思われる断章 92 であって,カミュがノートの切り
貼りを行った際に,故意にか誤ってか,
37年7 月と推測されてしまう部分に挟み込まれたのであろう。
1 − 3 .明日なき創造
それでは,1935 年の新聞記事に着想した戯曲を執筆しようとカミュが具体的に思い立ったのは,
いつ頃のことなのだろうか。この点については,新プレイヤッド版の刊行によって初めて明らかに
された,«Sans lendemains»「明日(未来)などない」と題された極めて興味深い資料がある。これ
は未発見だったノートに 10 数ページにわたって記された,長めのフラグマン(断片資料)の集ま
41
«La Mort dans l'âme», PLI, p.60. および PLE, p.36. なお,プレイヤッド新版における『裏と表』の注解者は,トッ
ドの著書を提示しながら「健康上の理由でカミュは旅程を短くしなければならなくなり,ヴィチエンツァとジェ
ノヴァを経由して一人で戻った」と記しているが(PLI, p.1216 の注3),この文の後半は正確ではない。ロッ
トマンもトッドも,カミュ一行は連れ立ってアルジェに戻ったと記している。
42
43
PLI, p.818, Ca1, p.53. および PLI, p.821, Ca1, p.57.
ロットマン,p.689(英)の注 16,p.99(仏)の注 18。および p.694(英)の注 8,pp.155-56(仏)の注 8。なお,
トッドはこの重要な問題については言及していない。また,プレイヤッド新版では,明らかに 1936 年夏以降
に書かれたのに『カルネ』の単行本では 36 年夏より前の時点に置かれていた3つの断章を 36 年夏以降の部分
に移しているが(PLII, pp.810-11)
,施された訂正はそれだけで,残念ながら『カルネ』第1ノートの草稿を綿
密に鑑定し直した形跡がない。そもそもプレイヤッド新版における『カルネ』の注解者は,ロットマンの評伝
を読んでいないようである。
72
りであり,1941 年から 42 年にかけて,オランにある二人目の妻フランシーヌの実家フォール家に
カミュが滞在した際に(この間の事情は後述)
,このノートがそのまま同家に置かれることになっ
たものらしい。ノートはカミュの死後 1962 年になってフランシーヌの姉クリスチャーヌによって
発見され,88 年に,カミュの娘カトリーヌの手に渡ったという 44。
«Sans lendemains» というタイトルはノートの 5 ページ目に記され,6 ページ〜 13 ページに記さ
れた「1938 年 3 月 17 日」という日付のある第 1 フラグマン,14 ページに記された第 2 フラグマン,
15 〜 16 ページの第 3 フラグマン,17 〜 18 ページの第 4 フラグマン,そして 19 ページ目の第 5 フ
ラグマンの 5 つからなる 45。書体や内容から見て,そのいくつかは明らかに異なった時期に書かれ
たものだと,注解を行ったアブーは述べている。新プレイヤッド版において,この資料は『幸福な
死』の「付属資料(Appendice)
」として掲げられているが 46,明らかに『幸福な死』と関わるのは
第 5 フラグマンだけであり,その他の部分は,当時のカミュの心象風景を強く物語るとともに,
『シー
シュポスの神話』や『異邦人』など,カミュの第 1 期の作品に関わる言及が認められるのである。
先に述べたように『カルネ』はカミュ研究における極めて重要な資料であるが,作品によっては
関連するメモが『カルネ』にほとんど見つからない場合や 47,カミュが『カルネ』のノートに書き
込むことをほとんど行っていなかった時期もある。また,生涯を通じて記したノートが全体で 9 冊
というのは,分量にしてあまりにも少ない。そこで,
『カルネ』としてまとめられたノート以外に
も,創作ノートや省察日記の類いがあったのではないかと推測されるのだが,今回発掘された
«Sans lendemains» は,
『カルネ』を補う重要な資料であると言えるだろう。
カミュはどうして,
『カルネ』のノートとは別のノートに,«Sans lendemains» のフラグマンを記
したのだろうか。たまたま日頃記していたノートが見当たらず,それを探す時間も惜しくて別の
ノートを用いたのだろうか。それとも,内容的に極めて特殊なので,いつものノートとは別にしよ
うと考えたのだろうか。どうやら後者のように思われる。というのも,カミュの他のテクストでは
見つけることができない,直接的で衝撃的な自殺願望が,1938 年 3 月 17 日の日付を持つ,長大な
第 1 フラグマンに書き込まれているからである。この冒頭から,走っている車に飛び込むことを真
剣に考えたという,悲痛な叫び声が発せられている。
44
45
PLI, p. 1463 の解説による。
第1〜第5というナンバリングは,検討しやすくするために筆者が振ったものであり,原資料にあるものでは
ない。また,
「フラグマン fragment」はつまり「断章」であるが,本稿では「断章」という用語はカミュの『カ
ルネ』の記事を指すのために用いているので,混同を避けるために,«Sans lendemains» においては「フラグマ
ン」という用語を用いておく。
46
PLI, p.p. 1198-1204. なお,«Sans lendemain»(ただし単数形)というタイトルは,
『カルネ』の断章にも見つかる(第
3,第4,第5ノートにそれぞれ1箇所ずつ)。これらのうち最後の第5ノートのものについては,この後の
注 70 で言及する。
47
例えば『幸福な死』においては完全に創作ノートして使われ,『ペスト』においてもかなりの書き込みが行わ
れている一方,『異邦人』については関連する断章が非常に少ない。
73 「その日は,車の一台一台が,誘惑だった。車の車輪が僕にのしかかってくるのが見えた――僕の体
は動かなかったけれど,その体の中で,もう一人の存在が向かおうとしていたのは,僕を押しつぶし
かねない,魂を持たぬあの力の方へだった。町という町で,僕は,いっしょに人間らしい行いができ
る人を探していた。コーヒーを飲むとか,女に笑いかけるとか,映画館に入るとか。だが人々は,癩
病患者を避けるものだ。だから癩病患者が誰も見つけられないとしても,それは当たり前のことなの
だ。」[...]
「どう述べたらいいのだろう。僕の一日がどんなものであったかを,そしてあのどん底の絶望,僕が
投げ込まれた狂おしい思いのことを。この後に続くことで重要なのは,この夕べの瞬間に,僕は,考
えもせずに,死ぬという考えを受け容れたこと,そして,もはや生きた人間としてではなく,
(死の)
刑の宣告を受けた者として,ものを考えたということだ。」
[...]
「今まで僕は,目的を持つことで,未来と正当化に(誰について何についての正当化かは,どうでも
よい)心を配ることで,生きてきた。そうした心配りが人生を導いてくれたのだ。僕は機会を見積
り,「もっと後で」を当てにしていた。まるで,そうした機会や未来に働きかけることができるかの
ようにふるまっていたのだ。(だが)その夜,すべてが崩れた。
」[...]
「つまり僕は自由ではなかった。そうではなく,死の奴隷だったのだ。
」
[...] 48
当時 24 歳だったカミュは,この時期,なぜここまで暗い心境にあえいでいたのであろうか。理由
はいくつも考えられる。17 歳の時に発病した結核に苦しめられ続けていたこと(フラグマンにお
いて自らを「癩病患者」に喩えていることは,もちろん精神的に「異邦人」と化し孤独に苛まれて
いる状況の比喩であるが,他方で,
「結核患者」とは書けなかったため,という解釈も成り立つだ
ろう)
,前節で見たように,1934 年に結婚した最初の妻シモーヌとわずか 2 年後に決定的な不和に
陥ったこと,大学を卒業するも自分の知性と能力を生かせるような職がなかなか見つからなかった
ことなど。だが決定的だったのは,前年の 37 年の夏からこの頃にかけて,全精力を傾けて,まさ
に作家たらんとして構想・執筆を行ってきた小説『幸福な死』に行き詰まってしまったことではな
いだろうか。
カミュがこの作品の発表を断念することになった最大の理由は,二人の恩師,ジャック・ウルゴ
ン Jacques Heurgon とジャン・グルニエ Jean Grenier から受けた手厳しい批評であった。ロットマン
「カミュがウルゴンと(
『幸福な
によれば,当時の女友達の一人クリスチャーヌ・ガランドーは 49,
死』について)話をした直後に会ったところ,落胆した様子であった」と語ったという 50。一方,
リセ時代の恩師ジャン・グルニエとカミュが生涯交わした書簡集によれば,カミュがグルニエに宛
てた,1938 年 6 月 18 日の日付がある非常に長文の手紙に,グルニエの忠告に従ってこの若書きの
48
49
50
PLI, pp. 1198-99. 後年カミュが自動車事故で早すぎる死を迎えたことを想起すると,ある種の感慨を禁じえない。
クリチャーヌ・ガランドーは,カミュから依頼を受けて『幸福な死』のタイプ原稿を作成した。
ロットマン,p.171(英)
,pp.187-88(仏)
。 ジャック・ウルゴン(1903-95)は,当時アルジェ大学でラテン語
の教鞭を執っており,一方,ジッドなどフランス本土の文人たちも親交があった。カミュは,1939 年に出版
したエッセイ集『婚礼』に収められた「アルジェ夏」を,ウルゴンに献呈している。また,同じく「砂漠」は,
グルニエに献じられている。
74
作品をあきらめたことが綴られているのである。
先生のおっしゃることは,今日,まったくその通りだと思います。この本にはとても苦労しました。
毎日,仕事を終えてから,何時間も書いたのです。最後まで,一行たりとも読んでもらったことはあ
りません。そして,これがもう遠いものとなってしまった今,深く考えなくてもわかるのです。僕は
自分に溺れ,物が見えなくなり,多くの箇所で,語るべきことではなく,語るのが楽しいことを先に
してしまったのです。僕にとって残念なことに――このテーマにとっても残念なことです。それは今
日,かくも心にこびりついているのですから。[...]ただ,仕事にまた取りかかる前に,先生にお尋
ねしたいことがあるのです。忌憚なくおっしゃってくださることができるのは,先生だけですから―
―僕がものを書き続けるべきだと,心からお考えでしょうか?[...] 51
この手紙は 6 月のものだが,
「この本」つまり『幸福な死』について過去形を用いて語っているこ
と,
「これがもう遠いものとなってしまった j'en suis éloigné」と記していることから,小説の発表
を断念したのは 38 年 6 月よりはかなり以前のことだと考えられる。また,38 年 4 月の日付のあ
る『カルネ』第 2 ノートの断章 51 には,
「 2 つのエッセイ。カリギュラ。[...] 2 年経ったら一つ
の作品を書くこと」と記され 52,4 月の時点でカミュの関心が『幸福な死』から「次」へ移ってい
たらしいことが読み取れる。さらに,5 月の日付のある断章 59 では,
「施設で亡くなった老女」と
いう,その後『異邦人』の第 1 部第 1 章で用いられることになる素材が書き込まれている 53。以上
か ら, カ ミ ュ が『 幸 福 な 死 』 を 放 棄 し た の は 38 年 3 月 ご ろ と 推 測 さ れ 54, そ れ ゆ え,«Sans
lendemains» の第 1 フラグマンに現れている死を思う絶望感の理由の一つが,小説創作の失敗だっ
たと十分に考えられるのである。作家としての本格的デビュー以前から,書くことは,まさに若き
カミュの「存在理由 raison d'être」であった。にもかかわらず彼が書くことへの深刻な疑念に囚わ
れ,それが長く続いたことが,上記のグルニエ宛書簡からよくうかがえる。
このような創作活動の深甚な挫折から,ではどのようにすれば立ち直れたであろうか。負傷した
体を治すには安静にしているだけでは十分ではなくリハビリの運動が必要となるように,創作活動
51『カミュ―グルニエ往復書簡』Albert
Camus - Jean Grenier Correspondance 1932-1960, Gallimard, 1981(以下,
『往
復書簡』と略す),p.29,書簡第 18。この手紙の全文は p.28 から p.32 にまで及ぶ。なお,カミュは 1939 年 10 月に,
それまで自分が受け取っていた手紙類をすべて処分したので(マルグリット・ドブレンヌによる『往復書簡』
の序文を参照。p.10)
,この時期のグルニエからカミュへの書簡は現存せず,カミュからの手紙の文面から想
像するしかない。この往復書簡集にグルニエからの手紙が現れるのは,1940 年8月の書簡第 27 からである。
52
53
54
Carnets, «Chaier II», PLII, p.850, および CaI, p.107.
Carnets, «Chaier II», PLII, p.852 および CaI, pp.110-111.
しかしカミュは,
その原稿自体を放擲することはなく,生涯大切に保管していた。そのおかげで,
『幸福な死』は,
1971 年に死後出版と言う形で日の目を見ることができたのである。この作品の小説としての出来は,2年後
に傑作『異邦人』を著した同一人物の手になるものとは思えないくらいに欠点だらけのものであるが,その一
方,作中にちりばめられたさまざまなテーマは,カミュの内的な表現欲求を極めて忠実に反映しており,カミュ
の作家としての自己形成を探る上では見落とすことのできないテクストとなっている。
75 の失敗は,まさに創作活動でしか癒せるものではない。そして «Sans lendemains» の第 1 フラグマ
ンの続きは,興味深いことに,死を巡る想念から発展して,次なる作品を目指すかのような内容に
変化する。まるでベートーヴェンにおける「ハイリゲンシュタットの遺書」のように,芸術創造こ
そがカミュを死の誘惑から救いだす道であることが示されていくのである。
「ある明け方,牢獄の扉が開かれた際に,死刑囚が感じる神聖なる自由,命の純粋な炎におけるいか
なる渇きに対しても感じるあの恐るべき無関心,これこそ,うわべを持たぬ僕の歩みの最後の目的と
して見いだそうとしていたものだ[...]
」55
この一節に,
『異邦人』へのつながりを見いだすことは難しくないであろう。さらに次の一節は,
『異邦人』のフィナーレにおけるムルソーの反抗の叫びを想起させるとともに,
『シーシュポスの神
話』で論じられるテーマを先取りしていると述べてよいであろう。
「ものを考える人間にとって,悲劇とは結局,統一への欲求と自分をとりまく非合理的なものの折り
合いを付けることを意味する。死を悟った人間にとって,それは,人生において,ひとりの人間の生
において,自分だけの,個人的な,かけがえのない生において,統一を実現するということなのだ。
」56
そしてカミュは,このフラグマンの最後に,今後自分が構築したいと思う作品群の壮大なリスト
を書き記しているのである。まさに,創作の挫折の痛みを,創作の計画そのものによって癒し,自
らを鼓舞するかのように 57。
エッセイ
演劇
小説
「不条理」あるいは
カリギュラあるいは
自由な男
出発点
死に至る演技者
閉じられた世界
ブジェヨヴィツェ
悲劇に関するエッセイ
あるいは罰せられた演技者
[渇望 ?]
ドン・ジュアン
恋する者
反ファウスト
癩病患者
(無関心な人間)
ドーリア式のペスト
(N)
死の神々
55
56
57
PLI, p. 1200.
同上。下線部は,原文においてイタリック。
PLI, p. 1201. ゴチックによる強調は筆者。なお(N)が意味するものはよくわからない。
76
その後カミュは,一つの根源的なテーマを中心にエッセイ・演劇・小説の 3 つのジャンルを組み合
わせて作品を作り上げるという構想を抱き,それを一つの「系列 série」と呼ぶことになる。その
実際の製作は紆余曲折を極めたが,最終的に,
『シーシュポスの神話』―『カリギュラ』『誤解』―
『異邦人』から形成される「不条理の系列」
(1940 年代前半)と,『反抗する人間』―『正義の人々』
『戒厳令』―『ペスト』で構成される「反抗の系列」(40 年代後半から 50 年代初頭にかけて)の 2
つは完成を見た(それ以降は,小説と翻案戯曲しか発表できなかったため,3 つ目以降の「系列」
は構築できなかった)
。そのような作品体系の構想が初めて示されたのが,1938 年 3 月の «Sans
lendemains» における第 1 フラグマンだったのである 58。
ここで,一番上の行が後の「不条理の系列」のひな形であることは明らかである。後年カミュ
は,『シーシュポスの神話』において,自殺が「不条理を盲目的に解消させるために死の中へ逃げ
込む」という逃避にほかならないと規定し,シーシュポスが無限に岩を押し上げ続けたように,人
は不条理という宿命を直視し続けるべきだと説いて,いわば論理的に自殺願望を乗り越えることを
テーマの中心に据えることになる。また,戯曲『カリギュラ』におけるローマ皇帝は,確かに死に
至るまで「演じ」続けるわけだが,この時点でどれほど具体的に内容が考えられていたのかは不明
である。『異邦人』も,38 年 3 月の時点では,まだ構想と言える段階には至っていなかったはずで
ある。だがここに書かれている「自由な」や「無関心な indifférent」は,ここまでのテクストの流
れから言って,「死に直面した男が,にもかかわらず生へのこだわりから自由になり無関心になる」
という意味であることは明らかであろう。そして,
「自由な男 Un homme libre」は,
『異邦人』のタ
イトルの候補ともなったのである 59。
第 2 行が非常に興味深く,ここではエッセイの位置に来るのが「悲劇に関するエッセイ」であ
り,それが「ブジェヨヴィツェ Budejovice」と「ドーリア式のペスト la peste dorique」と組み合わ
され,「反抗」の概念が現れていない。
「反抗」そのものは,個人としての人間に課された宿命(例
えばカミュ自身における結核という宿痾の病)への抵抗という意味で,カミュのごく初期から姿を
現わすキーワードであったが,後年のように「戦争などの悲惨な時代状況や圧制などの過酷な社会
システムに対する異議申し立て」という意味で頻繁に使われるようになるのは,第二次世界大戦と
フランスの占領,およびカミュ自身のレジスタンス運動への参加といった時代の荒波に直面してか
らのことなのである。後年『反抗する人間』のような著作を著すことになるとは,1938 年の時点
のカミュは想像もしなかったことであろう。
「ドーリア式のペスト」というのは「ギリシア悲劇を
想起させるペスト」といった意味であろうが,そのまま現在見る小説『ペスト』につながるような
58
なお『カルネ』においては作品の「系列」という意味で単語 «série» が初めて現れるのは,1940 年4月に書かれた,
『カルネ』第3ノートの断章第 139 と 140 であり(PLII, p.914 および CaI, pp.214-215),そこでは興味深いことに,
第3系列だったはずの「ドン・ジュアン」に関するアイデアが「第2系列」として示されている。カミュの構
想も揺れ動いていたのであろう。だが結局,
「ドン・ジュアン」が作品化されることはなかった。
59
PLT, p. 1916 の,ロジェ・キヨによる『異邦人』の解説を参照。
77 ものでなかったのは確かである。
そして重要なのが「ブジェヨヴィツェ」という記述である。後にカミュが『誤解』を具体的に構
想する際に「ブジェヨヴィツェ」を仮の題名として採用したのみならず,2−2で見るように草稿
では「芝居の舞台はブジェヨヴィツェ」と明記しているからである。チェスケー・ブジェヨヴィ
ツェ České Budějovice は,チェコの南ボヘミア地方にあり,13 世紀にさかのぼる古都である 60。そ
して 1936 年夏の中欧旅行の際,カミュはほぼ確実に,ブジェヨヴィツェの町に立ち寄っていた。
前 節 で 引 用 し た『 カ ル ネ 』 ノ ー ト 1 の 断 章 92 を 見 る と, プ ラ ハ の 直 前 に「 ブ ト ヴ ァ イ ス
Butweiss」と書かれている。断章 92 においてカミュは地名をすべてドイツ語綴りで記しているの
だが,Butweiss とは,チェコ語の「ブジェヨヴィツェ Budějovice」のことなのである。ここでも
クーフシュタインと同様「孤独」と記されていることから,カミュは,妻とブルジョワを待ちなが
ら,ブジェヨヴィツェで孤独の時間を過ごしたのではなかろうか。そして,この後プラハで訪れる
パニックに近い追放感の萌芽が,実はブジェヨヴィツェで姿を見せており,その時の記憶が,後年
『誤解』の舞台を当初チェコのブジェヨヴィツェに設定することの大きな理由となったのではない
だろうか。最悪の心的状態に陥った場所がプラハとは言え,この古都は『誤解』の舞台とするには
大きすぎ有名すぎる。代替の町としてはブジェヨヴィツェがいかにも適切だとカミュには思えたの
であろう。こうして,
『誤解』のテクストの中には,当初の題名であったブジェヨヴィツェという
地名とともに,チェコで遭遇したパニック体験の残照が引きずり込まれることになるのである。
だが,ブジェヨヴィツェの人口は 2005 年の時点で 10 万弱であるから,戦前でも数万は数えたと
考えられ,ヨーロッパの地方都市の基準ではそれほど小さな町とは言えない 61。また,中世からバ
ロック期にかけての建築物が多く,昔から観光地として有名である。ところが,『誤解』の草稿で
は「une petite ville」と形容され,旅人さえ稀な寂れ果てた土地として描かれることになる。こうし
たデフォルメには,カミュの内部でチェコに対して形成されてしまった否定的な心象と,
『誤解』
の執筆中に滞在していた南フランスの小邑ル・パヌリエの冬に対して抱いた印象が反映しているの
であろう。惨劇が実際に起ったユーゴの地名ならともかく,無関係なチェコに舞台を移した上で,
さらに実際の地名まで指定するのはさすがに行きすぎだと考えたのか,カミュはこの「舞台はブ
ジェヨヴィツェ」という指定を完成稿からは削除することになる 62。
そして「ブジェヨヴィツェ」
,つまり後年『誤解』となる戯曲に関して,一番初めに思いついた
60「ブジェヨヴィツェ」には南ボヘミアのチェスケー・ブジェヨヴィツェとモラヴィアのモラヴスケー・ブジェ
ヨヴィツェの2つがあり,混同されやすい。だが,1936 年にカミュが辿ったのはリンツ―ブジェヨヴィツェ―
プラハと北上して行く旅程だったので,明らかにチェスケー・ブジェヨヴィツェの方を指していると考えられ
る。なお,以下,単に「ブジェヨヴィツェ」とのみ記すことにする。
61
世界遺産として有名になった近隣のチェスキー・クルムロフよりは,ずっと大な町である。
62
同様に直接的すぎる言及をさけたケースは,ジャンの出身地に関する記述がある。ジャンを兄だとはわからな
いマルタが,この「旅人」に出身地を尋ねると,草稿では「プラハ」と都市名を答えていたのが,1944 年の
初版から「ボヘミア」という地方名に修正された(PLI, p.466 の注 ab と p.1348)。
78
テーマが,
「罰せられた演技者 le joueur puni」であり,つまり,主人公の男が故郷へ戻っても自分
の正体を明かさずに旅行客を「演じ」たことによって殺害という報いを受けることであったという
点が,«Sans lendemains» の第 1 フラグマンから見て取れる。これは,第 1 節で引用した『異邦人』
におけるムルソーの述懐「どっちにしても,この男は自業自得と言えるし,演技をしたりしてはな
らないのだと,僕は思ったものだ De toute façon, je trouvais que le voyageur lʼavait un peu mérité et quʼil
ne faut jamais jouer.」と呼応しているだろう。ムルソーは社会的に要請される「演技」を拒んだこ
とによって罰せられる。これとは逆に,
『誤解』のジャンは「演技」をし続けることによって自ら
の死を招く。こうして,作家の創造世界における登場人物の血脈が明らかになる。ジャンとムル
ソーは,「演技」を巡って,完全に対立しあう鏡像同士のような存在なのである。
もちろん,他の作品計画と同様,この時点では「ブジェヨヴィツェ」の詳しい内容までは構想さ
れていなかったであろう。しかし,死を具体的に思うほどの絶望の底から,精神的な再生を願い,
作家として誕生することを願ってカミュが作り上げた作品計画の中に,
「ブジェヨヴィツェ」が含
まれていたことを銘記しておきたい。いかなる作品形成の流れも,源流はわずかな数語による着想
にさかのぼるという意味において,この 1938 年 3 月 17 日こそ,
『誤解』の出発点だったと述べて
よいであろう。
«Sans lendemains» の続く第 2・第 3 フラグマンでは,第 1 フラグマンにおける作品構想に対する
コメントや,内的省察,さらに愛を巡る考察などが綴られている。ただし,書体に変化があるの
で,第 2 と第 3 のあいだには期間が置かれたらしい。そして第 4 フラグマンは,明らかに数年経ち,
1941 年から 42 年にかけての期間に記されたものだが,そこに「ブジェヨヴィツェ」の名前が再び
登場するのである。
「この作品の第 1 部を仕上げるのに 3 年かかった。その中には,僕の思想の否定的な側面を,そして
それだけを,表現するように務めたのだ。その表現のためにどうして 3 つの形態を与える必要がある
と感じたのか,今でもわからない。こうして,小説『異邦人』
,エッセイ『シーシュポスの神話』
,戯
曲『カリギュラ』が生まれた。『異邦人』と『シーシュポスの神話』だけが出版の値打ちがあった。
見直すかどうかわからないままに『カリギュラ』は保留にして,他の二作を出版することにしたの
だ。
[......]
」
「それゆえ僕は,『ペストの太陽』と『ブジェヨヴィツェ』に専念し,構想していた作品のみについ
て考えを深めることに決めようとしたのだ。僕が構想したものはすべて,常に自分自身について深く
極めることなしには,到達しえないものだった。経験を通して自分の考えを一つ修正する。一つを簡
素化することで,一つの真実に達するのだ。[......]」 63
「この作品 cette œuvre」とは,第 1 フラグマンで構想したようなカミュの作品世界全体を指してい
る。この構想が 1938 年の 3 月であり,次節で見るように『シーシュポスの神話』の完成が 41 年 2
63
PLI, p. 1200. 小説『ペスト』の題名として,
カミュはこの時点では『ペストの太陽』を考えていたことが伺える。
79 月であるから,その第 1 段階の完成には,確かに 3 年を要したわけである。そして『カリギュラ』
の出版は見合わせた上で,カミュは,38 年の構想における第 2 段階である,
「ブジェヨヴィツェ」
とペストに関わる小説に取りかかろうとしたわけである。
なお,第 5 フラグマンは,第 4 の後に来るものの,実際に書かれたのは第 3 フラグマンと同時期
らしく,『幸福な死』の主人公パトリス・メルソーが 50 歳を過ぎてからカミュに手紙をよこした,
という奇妙な内容のものになっている。カミュのただの夢想だったのかもしれないし,なおも『幸
福な死』の書き直しを考えていたのかもしれない。
2.
『誤解』の成立
2−1.
『誤解』の着想過程
次に,『カルネ』の断章を追うことで,
『誤解』の具体的な構想へと至る過程を跡付けてみよう。
『誤解』に関しては,
『カルネ』における記述は多くなく,
『カルネ』が『誤解』の創作ノートの役割を
果たしたわけではないが,作品の着想に関わる極めて重要な断章も含まれているのである。以下に,
多かれ少なかれ『誤解』との関連が考えられる『カルネ』の断章を一覧にしよう。なお,
〈1〉〜〈10〉
の通し番号は,取り扱いやすいように筆者が振ったものであり,原テクストに存在するものではない。
〈 1 〉第 3 ノート・断章 7。PLII, p.879, および CaI, pp.157-58.(時期:1939 年前半と推定される)
〈 2 〉第 3 ノート・断章 180。PLII, p.923, および CaI, p.229.(時期:1940 年 4 月)
〈 3 〉第 4 ノート・断章 72。PLII, p.957, および CaII, p.39.(時期:1942 年 8 月以降と推定される)
〈 4 〉第 4 ノート・断章 91。PLII, p.961, および CaII, p.45.
〈 5 〉第 4 ノート・断章 133。PLII, p.971, および CaII, p.59.(時期:1942 年 12 月と推定される)
〈 6 〉第 4 ノート・断章 144。PLII, pp. 973-4, および CaII, pp.63-65.
(時期:1942 年 12 月〜 43 年 1 月の間と推定される)
〈 7 〉第 4 ノート・断章 194。PLII, p.993, および CaII, p.91.(時期:1943 年 3 月以降)
〈 8 〉第 4 ノート・断章 209。PLII, p.994, および CaII, p.95.(時期:1943 年 3 月以降)
〈 9 〉第 4 ノート・断章 218。PLII, p.997, および CaII, p.98.(時期:1943 年 6 月)
〈10〉第 4 ノート・断章 231。PLII, p.1001, および CaII, p.103. (時期:1943 年 6 月以降)64
まず〈 1 〉第 3 ノート・断章 7 を見てみよう。これは「仮面をかぶった男 Lʼhomme masqué に関す
る戯曲」の着想であり,これが『誤解』の出発点ではないか,という指摘を旧プレイヤッド版の注
64
個々の断章に必ず日付が記されていたならば,研究はずっと行いやすくなったことであろうが,(旅行中の日
記のように用いた場合は除いて)カミュは『カルネ』の断章に日付を記すことが稀であった。そこで,日付を
持たない断章については,その断章の前後で一番近い位置に記された日付を探し,そのあいだの期間に書かれ
たと推測することなる。
80
解でロジェ・キヨが行って以来,それが踏襲されているようである 65。
戯曲のテーマ。仮面をかぶった男。/ 長い旅を終えて,男が戻ってくるが,仮面をかぶっている。
男は芝居の間中,仮面をかぶり続ける。なぜか?それがテーマだ。/ 最後に,男は仮面を外す。仮
面をかぶっていたのは,何のためでもなかった。仮面をかぶったまま見るためだった。ずっとそのま
までいたかもしれない。彼は幸福だったのだ。もしこの言葉に意味があるとすれば。だが,男が仮面
を外さなければならなくなったのは,妻が苦しんでいるためだった [...]
これは,«Sans lendemains» における「罰せられた演技者 le joueur puni」という発想を引き継いでい
るものだと考えられる。
「演技を行うこと jouer」が「仮面をかぶること」に置き換えられているわ
けである(言うまでもなく,ギリシア悲劇においては,仮面をかぶることがすなわち演技を行うこ
とであった)。とはいえ,それ以外の点では,後の『誤解』との直接の関わりは認められない。こ
の時期のカミュは,
『アルジェ・レピュブリカン』紙の新米記者として多忙を極めており,他方,
芸術創作で頭を占めていたのは,前年の 38 年に発表を断念した『幸福な死』の失敗を乗り越える
新しい小説の構想と,戯曲に関しては『カリギュラ』のはずである。断章 7 の時点では,『誤解』
の構想と呼び得る具体的なものは,まだ生まれていなかったと考えられる。そもそも,作品に先立
つ各種のメモと作品との関係を論ずるには慎重な姿勢が大切であって,作品からさかのぼり作品の
視点から過去のメモを読んでしまうと,さまざまにこじつけた解釈が可能となってしまう。それは
時間を逆行させるようなもので,根本的に非科学的である。そのような思いつき的な手法ではな
く,創作メモから作品へという時間軸に沿ったベクトルを厳密に守ったうえで,メモの要素が実際
に作品の中に出現しているかどうかを検証しなければならない。
1939 年 9 月,第二次世界大戦が勃発し,アルジェリアにも戦時の空気が漂ってくる。この頃の
カミュは『アルジェ・レピュブリカン』紙とそれを引き継いだ『ソワール・レピュブリカン』紙の
記者として糊口をしのいでいたが,この両紙が相次いで休刊に追い込まれ職を失ったために,彼は
パリに渡り,『パリ・ソワール』紙で働くことになる。
『異邦人』の原稿の大部分を執筆し,完成さ
せたのは,このパリ滞在時のことである 66。開戦後,ドイツは電撃的にポーランドを攻略したが,
西部戦線においては,マジノ線をはさんで仏独両軍が睨み合うだけという,いわゆる「奇妙な戦
65
PLT, p.1788 における注2。これを受けて,例えば,ゲエ=クロジエや(前掲書,p.100),新プレイヤッド版に
おいて『誤解』の詳細な注解を行っているデイヴィッド・H・ウォーカーは,この断章が『誤解』の出発点で
あると主張している(PLI, p.1318)
。さらには新プレイヤッド版の「カミュ年表」でもそのように記されてい
る(PLI, p. LXXVII)
。
66『パリ・ソワール』における仕事はそれまでと違って閑職であり,カミュは小説の執筆に充てる時間を十分に
取ることができた。一方,この時のパリにおけるホテル住まいで,カミュはある種の追放感,自分が「異邦人」
であるという感覚を覚えている(
『カルネ』第 3 ノート・断章 108,109。PLII, p.906, および CaI, pp.201-2.)。
そして5月と記された断章 141 で
「
『異邦人』
を終えた」と書き込むことになる。
(PLII, p.914, および CaI, p.215)。
さらに,5月1日付けの妻フランシーヌに宛てた感動的な手紙で「小説を終えたところだ」と記している。(トッ
ド,pp.246-7)
81 争」の状態が続いていた。だが 1940 年 5 月,ドイツ軍は,ベネルクス三国に侵攻した後,防御が
手薄だったアルデンヌ地方を機甲軍団で強行突破し,フランスになだれこんだ。防衛体制の不備や
緩慢な作戦などがたたったフランスは,短期間で屈辱的な敗北を喫し,6 月 10 日にパリを明け渡
して(ドイツ軍の入城は 14 日)
,22 日には降伏文書に調印を行った。この間カミュは,間一髪の
ところで『パリ・ソワール』紙の社員の集団疎開に同行し,クレルモン=フェランに至る。次に移
動したリヨンで,人員整理に伴い『パリ・ソワール』紙を解雇されてしまったので,1941 年 1 月,
再婚相手のフランシーヌのふるさとである,アルジェリアのオランに渡り,フランシーヌの実家
フォール家に居を定めた。
『カルネ』第 3 ノートの,1941 年 2 月 21 日の日付を持つ断章 162 で,カミュは次のように記し
ている。
シーシュポスを終える。3 つの「不条理」が完成した。/ 自由の開始だ。
Terminé Sisyphe. Les trois Absurdes sont achevés. / Commencements de la liberté.67
3つの「不条理」とは,
『シーシュポスの神話』,『カリギュラ』68,そして『異邦人』のことであ
り,«Sans lendemains» のフラグマンにおいて,再生を期して計画した壮大な構想の第 1 段階を,時
代の激動に揺さぶられながらも,カミュは見事に実現してのけたのである(本来「出発点」であっ
た『神話』の完成が,実際には一番最後になった)
。
創作活動の第一期を終了したと考えたカミュは,オランの地で,次の作品群のための構想を練
る。それが記されているのが,41 年の 4 月に書かれた,
〈2〉第 3 ノート・第 180 断章である。
第 2 系列 / 悲劇の世界と反抗の精神 / ―ブジェヨヴィツェ( 3 幕)/ ペストあるいは冒険(小説)
IIe série. / Le monde de la tragédie et lʼesprit de révolte / — Budejovice(3 actes). / Peste ou aventure(roman).69
これがこの時点で初めて着想したものではなく,«Sans lendemains» の第 1 フラグマンに記されてい
た計画の第 2 段階を発展させたものだということは,明らかであろう。
「悲劇の世界と反抗の精神」
は,«Sans lendemains» における「悲劇に関するエッセイ」に「反抗」という概念が付け加ったもの
で,エッセイのことを指している。したがって第 2 系列は,最初に「反抗」という基本テーマが据
67
Carnets, «Chaier III», PLII, p.920, および CaI, p.224.
68『カリギュラ』の初稿は
1939 年 9 月までに完成していたが,これは 3 幕構成であった。1941 年 2 月,新たな
第 3 幕が挿入されて 4 幕構成となり,全体もかなり書き改められた。39 年当時はまだカミュの中で明確では
なかった「不条理」のテーマを,より強く反映させるために,このような改定を行ったのであろう。その後,
この 1941 年稿に全面的な改訂が行われ,1944 年に,
『カリギュラ』は『誤解』と合本の形で出版されること
になる。
69
Carnets, «Chaier III», PLII, p.923, および CaI, p.229.
82
えられてそれを元に 3 つの作品が構想されたものではなく,当初は創作の時期的な第 2 段階を示す
ものに過ぎなかった。だから,
「ブジェヨヴィツェ」
(後の『誤解』)が「ペスト」と同じ系列に組
み合わされていたのである。
この後,
『ペスト』は,占領下におけるカミュの体験を反映して当初の構想から大きく変化して
行き,エッセイの方はまったく装いを改めて,
『反抗する人間』となる。この 2 つに,戦後になっ
て着想された『正義の人々』と『戒厳令』を加えて,改めてカミュは「第 2 系列」の作品群と呼ぶ
ことになる。こうして「ブジェヨヴィツェ」
,つまり後の『誤解』は,本来の第 2 系列から外れる
ことになり,『カリギュラ』と組み合わされて,第 1 系列の戯曲という位置に収まることになるの
である 70。そして内容的にも,不条理に直面した人間の悲劇という色彩が濃厚になっていく。
しかし,1941 年 4 月における断章 180 の時点では,「ブジェヨヴィツェ」は 3 幕構成であるとい
うことに止まり,戯曲の構想はまだ形を取らなかった。これ以降しばらく「カルネ」には,
『ペス
ト』に関連すると思われる断章は数多く現れるが,戯曲への言及は認められないからである。1941
年から 42 年の前半にかけて,恐らくカミュは『ペスト』の構想と初稿の執筆にかかりきりとなっ
ていたのだろう。
1942 年 1 月,彼の宿痾の病だった結核が悪化し,これまでの右肺に加えて,左の肺まで冒され
てしまった。そこでカミュは療養のためにフランスの山岳地帯に移ることに決め,ようやく 8 月に
なって,サン=テチエンヌから遠くない,ヴィヴァレ地方の小邑ル・パヌリエに移る 71。時代の荒
波に揺さぶられたとはいえ,1939 年からこの頃までのカミュは,フランス本土を転々としただけ
ではなくアルジェリアとフランス本土を往復し,まさに寧処に暇がない転居ぶりであった 72。一
70
1947 年 6 月に,カミュは自分の作品体系を新たに構想して,『カルネ』第 5 ノートの第 156 断章に記し,そこ
で『誤解』は明確に「第1系列」に位置づけられた(PLII, pp.1084-85, および CaII, p.201)。さらに,断章の冒
頭に «Sans lendemain» と書き込まれている点が興味深い。この時,明らかに,1938 年の «Sans lendemains» 第
1フラグマンにおける最初の計画を思い起こしていたのであろう。
「翌日などはない。
第1系列。不条理:
『異邦人』―『シーシュポスの神話』―『カリギュラ』と『誤解』。
第2系列。反抗:
『ペスト』
(およびその付属文書)―『反抗する人間』―カリャーエフ(後の『正義の人々』)
第3系列 ―「審判」―「最初の人間」
第4系列 ―「引き裂かれた愛:火刑」―「愛について」―「誘惑者」
第5系列 ―「正された創造」あるいは「体系」―大いなる小説+大いなる考察+上演不可能な芝居」
ただし,ロットマンによれば,
この時実際に書かれたものには「第 3 系列」の記載はなく,その部分は,後になっ
てからカミュが書き加えたものだと言う。1947 年の時点でカミュが「最初の人間」というタイトルを着想し
ていたとはほとんど考えられないので,この指摘は正しいと思われる。ロットマン,p.428(英),p. 439(仏).
しかし,プレイヤッド新版の『カルネ』の注解は,怠慢にも,このロットマンの重要な記述を無視している。
また,第 4・第 5 系列は,カミュの夢想に終わった。
71
«Sans lendemains» を記したノートは,この時オランからフランス本土に渡る際に,フォール家に残されたもの
と考えられる。
72
この間のカミュの動向に関しては,ロットマンおよびトッドによるカミュの伝記に詳しく記載されている。
83 方,この間の 42 年 5 月に,ガリマール社から『異邦人』が出版の運びとなり,カミュは一躍新進
作家の仲間入りを果たしている。
カミュが本格的に『誤解』の想を練り執筆に向かったのは,このル・パヌリエでのことであっ
た。
『ペスト』の初期原稿の執筆と『誤解』の構想は,平行して進められたわけである。こうし
て,明らかに 42 年 8 月以降に記された『カルネ』の〈 3 〉第 4 ノート・断章 72 に,戯曲終幕の場
面の着想が書き込まれることになる。また,ここでは「ブジェヨヴィツェ」に下線が引かれ,明ら
かに題名として扱われている。
『ブジェヨヴィツェ』,第 3 幕。母親の自殺の後,女兄弟が舞台に再び登場する。/ (男の)妻と
の対峙 / ― 何の名において語っているの? / ―愛の名において。 / ―何よ,それは? / 女兄弟は立ち去る。男の妻は泣き叫ぶ。泣き声を聞きつけて,寡黙な使用人が登場。 / ―あ
あ,せめてあなたは,私をお助け下さい! / ―だめだ。
(幕)
Budejovice, acte III. La sœur revient après suicide de la mère. / Scène avec la femme :
— Au nom de quoi
parlez-vous? / — Au nom de mon amour. / — Quʼest-ce que cʼest ? / La sœur sort pour la fin. La femme hurle et
pleure. Entre la servante taciturne, attirée par les pleurs : /— Ah vous, vous du moins aidez-moi! /
— Non.
73
(Rideau.)
『誤解』に関しては,次節で見るように,カミュは『カルネ』とは別に創作メモ(brouillons)を
つけていたので(それは現在,ばらばらにされて第 1 稿の関連箇所に貼付けられているので,残念
ながらこの創作メモ自体が書かれた過程を時間的に追うことができない)74,この断章 72 だけか
ら,
「カミュが『誤解』の作品イメージを終幕から固めていった」と断じることはできない。しか
し,使用人=神が,絶望に投げ込まれた人間の必死の懇願に応えようとしないというテーマは,
『誤解』の具体的な構想にあたって,
「核」の一つであった。断章 72 からほとんど間を置かずにか
「神は応えな
かれた〈 4 〉第 4 ノート・断章 91 においては,終幕の場面が具体化されるとともに,
い」という一句が記されているのである。
ブジェヨヴィツェ(あるいは,神は応えない)。寡黙なメイドは,老いた男の使用人だ。 / (男
の)妻が,最後の場で「主よ,哀れみをお示し下さい。こちらを向いて下さい。私のことばを聞いて
下さい,主よ。御手を差し延べて下さい。主よ,愛し合っているのに別れ別れにされてしまった者た
ちにどうか哀れみを」 / 老使用人が登場。 / 「お呼びですか?」/ 妻「―はい ... いい
え ... もうわかりません。けれど助けて,助けて下さい。助けが必要なのです。お哀れみを。そし
て,助けるとおっしゃって下さい」
/ 老使用人「だめだ」 /(幕)
/ 象徴作用を強めるため
73
なお,la femme はそれだけでは「女」だが,カミュは『誤解』の第1稿で,主人公ジャンの妻の役名を「LA
FEMME」と記しているので,ここでは「妻」と訳しておいた。役名が「マリア」という名前による記載にな
るのは,第2稿からである。また,«scène» の訳については,この後の注 90 を参照。
74
この創作メモの存在は,PLI, p.1344 における注解で初めて明らかにされた。
84
に,細部を追い求めること。75
この終幕の部分は,多少の字句の追加修正をおこなっただけで,ほぼそのまま『誤解』のラスト
シーンとして用いられた。断章 91 の原文と同一の部分をイタリックに変えて,その原文を引用しよう。
MARIA : Oh ! mon Dieu ! je ne puis vivre dans ce désert ! Cʼest à vous que je parlerai et je saurai trouver mes
mots. Oui, cʼest à vous que je mʼen remets. Ayez pitié de moi, tournez-vous vers moi ! Entendez-moi, donnez-moi
votre main ! Ayez pitié, Seigneur, de ceux qui sʼaiment et qui sont séparés !
LE VIEUX : Vous mʼavez appelé ?
MARIA : Oh! je ne sais pas ! Mais aidez-moi, car jʼai besoin quʼon mʼaide. Ayez pitié et consentez à mʼaider !
LE VIEUX : Non! 76
さらに着目するべきなのは,後に述べるように『誤解』は第 1 稿から出版稿までの間に大きく書き
換えられ,1944 年の出版の後も改訂を施されて,1958 年版が最終版となっており,カミュの作品
の中でも最も手が加えられたものの一つと述べてよいのだが,この最終部分は第 1 稿からまったく
「神は応えない」というテーマが,
改変されていない,という点である 77。以上のような経緯は,
こうした場面としてイメージ化され,いかに深く作家の内面に錨を下ろしていたかということを,
強く物語っているだろう。
1940 年の敗戦後,フランスはほぼ南北に分かたれ,北部が「占領地帯」となったのに対し,南
部は「自由地帯」とされ,いわゆるヴィシー政権は,この自由地帯の方に置かれた。占領地帯と自
由地帯との往来には厳しい規制がかけられたが,自由地帯とフランス領アルジェリアとの往来は,
ヴィシー政権の許可があれば可能であった。カミュがフランス本土とアルジェリアを往復できたの
は,そのためである。ル・パヌリエで過ごしたのは,健康上の理由でアルジェリアの夏の酷暑を避
けたからであって,冬になれば,逆に冬でも温暖なアルジェリアに,カミュは戻る予定であった。
ところが,1942 年 11 月 8 日,北アフリカ戦線において有名な「トーチ作戦」が敢行され,連合国
軍がアルジェリアとモロッコに上陸し,東側からドイツ軍を押し返しつつあったイギリス軍と連携
して,ロンメル麾下のドイツ軍を挟撃する構えを取った。これに応じて,北アフリカに駐留してい
たヴィシー政権下のフランス軍が連合国側に帰順したため,報復として,10 日,ドイツ軍は南の
自由地帯も占領し,フランス本土全体がドイツの監督下に入ることとなった。この結果,カミュは
地中海を渡れなくなり,先にオランに帰っていた妻と引き裂かれ,ル・パヌリエで孤立してしまう
のである。11 月 11 日,カミュは「カルネ」に記した。
「まるでネズミだ! Comme des rats! 78」
75
Carnets, «Chaier IV», PLII, p.961, および CaII, p.45.
76『誤解』第
77
78
3 幕第 3 場〜第 4 場。PLI, p.497, および PLT, p.179-180.
プレイヤッド版において,この部分には注が全く打たれていない。
Carnets, «Chaier IV», 断章第 113。PLII, p.966, および CaII, p.53. 85 これは,その後のカミュの人生を大きく変える出来事であった。まず創作の世界では,ル・パヌ
リエを動けない自分のことを「追放状態 exilé」であると痛切に感じた結果,
「追放」のテーマが作
品の中に大きく現れるようになる。例えば,
『ペスト』の作中に追放のテーマが書き込まれるよう
になるのは,この時からである。他方,実生活においては,カミュはレジスタンスの地下運動と次
第に関係を持つようになり,剣ではなくペンの力でこれに参加し,最後には,地下出版だった『コ
ンバ』紙 Combat に論説を載せながら,44 年 8 月のパリ解放に立ち会うことになる。そしてこのレ
ジスタンス体験も,戦後のカミュの創作活動や社会に対する積極的な発言において,深い刻印を捺
すようになるのである。
『誤解』の着想にも,
「追放」のテーマが盛り込まれるようになる。42 年 12 月に記されたと思
われる 79,『カルネ』の〈 5 〉第 4 ノート・断章 133 には,次のように認められる。
「演劇作品の出版へ向けて:カリギュラ:悲劇
―追放された者(あるいはブジェヨヴィツェ):喜劇
Pour la publication du théâtre : Caligula : tragédie
— LʼExilé(ou Budejovice): comédie 80
LʼExilé と男性形にされているからには,この時点では,後に「ジャン」と命名される,母親と女
兄弟に殺害される男を,主人公として考えていたのであろう。しかし,この後見るように,
『誤解』
の第 1 稿以降,女兄弟マルタもまた「追放された者」として位置づけられ,真の主人公だと形容で
きるほど,戯曲の中で重みを増していく。また,カリギュラはこの時点で第 2 稿が完成しており,
発表も可能な状態であったが,まだ着想段階であった『誤解』とカップリングして出版することを
カミュが早くも計画していたことが,この断章から看取できる。さらに,フランス語の comédie
は,それ単独では「芝居」とも「喜劇」とも取れるが,tragédie と組み合わされているからには,
「喜劇」の意味となる。悲惨な『誤解』の世界が,言葉の本来の意味で「喜劇」となることはあり
えず,2−3で見るグルニエ宛の書簡にあるように,実際には「現代における古典悲劇」を目指し
て『誤解』を執筆することになるので,これは,
「神は決して人間の問いや願いに答えない」こと
が喜劇にほかならないという,カミュ一流の皮肉なのかもしれない。
この後,1942 年 12 月〜 43 年 1 月の間に記されたと推定される〈 6 〉第 4 ノート・断章 144 は,
極めて重要である。戯曲全体にわたる台詞のひな形が現れるのである。ただし,以下の引用文中 1
〜 5 の番号は,おそらくカミュの覚えのためであって,実際の芝居の進行に対応しているわけでは
ない。また,翻訳引用において[ ]に入れた注記は,このひな形が戯曲の第 1 稿でどのように用
いられたか等を示すために,筆者が付け加えたものである。そして,引用原文の中の下線部は,第
1 稿においてそのまま使用されている箇所であり,イタリックの部分は,1958 年の最終稿まで保存
79
80
この直後の断章 134 に,「12 月 15 日」の日付が記載されている。
Carnets, «Chaier IV», PLII, p.971, および CaII, p.59.
86
された部分である。それらを比較すれば,この断章 144 を第 1 稿においてカミュはほぼ忠実に再利
用したことと,現在見る最終稿と異なっているのは,その後大きく推敲を行ったからであることが
わかる。
『ブジェヨヴィツェ』(あるいは『追放された者』)
1 母親:いえ,今晩はやめようよ。あの男に,この時間と憩いをあげようよ。あたしたちも一休み
しようよ。この一休みのおかげで,救われるかもしれないよ。/ 娘:救われるって,どういうこと
なの? / 母親:永遠の赦しを得るということさ。/ 女兄弟:それじゃあ,もう救われているわ。
だって,この先どうなったって,私は初めから,自分で自分を赦しているんだから。
[→第 2 幕で
ジャンが薬で眠らされた後]
2 (カルネの)もっと前のページ / 女兄弟:何の名において語っているの? /(男の)妻:愛
の名において。/ 女兄弟:何よ,それは?(移動する) / 妻:愛というのは,失われてしまった
私の喜び,そして今日の私の苦しみのことよ。/ 女兄弟:まったく,あなたの話している言葉は,
あたしにはわからないわね。愛とか,喜びとか,苦しみとか,そんなたわごとを耳にしたことは一度
もないわよ。[→第 3 幕でマルタとマリアが対峙する場面。前記の断章 72 を再利用]
3 死ぬ前に男は言う「ああ,では,この世界は僕のために出来ているのではないし,この家は僕の
家ではない」 / 女兄弟:世界は,そこで死ぬために出来ているんだし,家は,眠るために出来てい
るのよ。 [→第 2 幕でジャンが眠り込む前に。女兄弟の台詞は,第 2 幕の最後で]
4 第 2 幕。宿屋の部屋に関する考察。沈黙。足音。口をきかない老人が登場。しばし,扉の前で動
かず,黙ったままでいる。/ なんでもない,と男の方は言う。なんでもないんだ。だれか答えてく
れるか,呼び鈴が鳴るかどうか,確かめたかったんだ。 / 老人はしばし動かず,立ち去る。足音。
[→第 2 幕の最初]
5 女兄弟:石のようにしてくださいと,神様に祈るがいいわ。それが本当の幸せってやつなのよ。
それがあなたの旦那さんが選んだことなのよ。/ 旦那さんは,もう耳も聞こえないし,口もきかな
いわ。石ころみたいにね。旦那さんと同じようになれば,もう流れる水も,暖めてくれる日の光も,
まるでわからなくなるわよ。さっさと石と一緒になるがいいわ。(発展させること)[→第 3 幕]
Budejovice(ou LʼExilé)
.
I / La mère. — Non, pas ce soir. Laissons-lui ce temps et cette halte. Donnons-nous cette marge. Cʼest dans cette
marge peut-être que nous pourrons être sauvées. / La fille.
— Quʼappelles-tu être sauvées ? / La mère.
—
Recevoir le pardon éternel. / La sœur. — Alors je suis déjà sauvée. Car pour tous les temps à venir, je me suis
dʼavance pardonné à moi-même.
II / Id. voir plus haut. / Sœur. — Au nom de quoi? / La femme. — Au nom de mon amour. / Sœur. — Quʼest-ce
que ce mot veut dire ?(Passage). / Femme. — Lʼamour, cʼest ma joie passée et ma douleur dʼaujourdʼhui. / Sœur.
— Vous parlez décidément un langage que je ne comprends pas. Amour, joie et douleur, je nʼai jamais entendu
ces mots-là.
III / Ah! dit-il avant de mourir, ce monde nʼest donc pas fait pour moi et cette maison nʼest pas la mienne. / La
sœur. — Le monde est fait pour quʼon y meure et les maisons pour y dormir.
IV / 2e acte. Méditation sur les chambres dʼhôtel. Il sonne. Silence. Des pas. Apparaît le vieux muet. Un moment
immobile et silencieux devant la porte. / — Rien, dit lʼautre. Rien. Je voulais savoir si quelquʼun répondait, si la
sonnette marchait. / Le vieux un moment immobile, il sʼen va. Des pas.
V / La sœur. — Priez Dieu quʼil vous rende comme une pierre. Cʼest ça le vrai bonheur et cʼest cela quʼil a choisi
pour lui-même. / Il est sourd, je vous dis, et muet comme un granit. Faites-vous semblable à lui pour ne
connaître plus du monde que lʼeau qui ruisselle et le soleil qui réchauffe. Rejoignez la pierre pendant quʼil en est
87 temps(à développer).81
それゆえ,『誤解』の具体的な構想は,1942 年の暮れから 43 年初めにかけてほぼ固まったと結論
づけてよいであろう。
ここで「石のようにしてくださいと神様に祈れ」と女兄弟が男の妻に投げつけるせりふに注目し
よう。これは言うまでもなく,ギリシア神話におけるニオベーの悲惨な物語を下敷きにしている。
テーバイの王アムピオーンの妃ニオベーは,自身の父親がゼウスの息子であるのみならず,夫もゼ
ウスの息子であった。そのため自分の産んだ 7 人の息子と 7 人の娘が(異説では 6 人ずつ)ゼウス
の血を引いており,女神レートーはゼウスの子を二人しか産まなかった(アポローンとアルテミ
ス)ので,女神よりも自分の方が優れていると,こともあろうにレートーを祭る祝いの日に自慢を
した。これに怒った女神は,息子アポローンにニオベーの息子たちを,娘アルテミスに同じく娘た
ちを,ことごとく矢で射殺させたのである(男女一人ずつ生き残ったという異説あり)
。子供たち
を失い,嘆き悲しんだニオベーは,ゼウスに祈って自身を石に変えてもらったが(あるいは泣き続
けたあまりそのまま石に変わったとか,衰弱して死んだニオベーを神々が哀れんで大理石に変えた
とか,異説あり)
,石に化してもなお,涙を流し続けたという。いかにもギリシアの神話・伝説に
造詣が深かったカミュらしい「本歌取り」であるが,これはヨーロッパにおいては人口に膾炙した
物語であるので,
『誤解』が上演された際には,大方の観客にカミュの意図は伝わったことであろう。
『誤解』の完成原稿では,マリアに対して浴びせられるこのマルタの台詞は,次のようになって
いる(第 2 稿。ただし,第 1 稿でもほぼ同様だったと推測される。)。
あなたの神さまに祈りなさい。石ころと同じようにしてくださいと。それがあいつが選んだ幸せなの
よ。それが本当の幸せってやつなのよ。あいつは耳が聞こえなくなり,物も言えなくなって,岩のよ
うに物に動じなくなっているわ。あいつのようにしなさい。さっさと石と一緒になるのよ。そうすれ
ばたぶん,柱とか彫像みたいに,目の見えない安らぎを手にできるでしょうよ。もしそれが無理だっ
たとしても,いつだってこの共同の家に戻ってきて,あたしたちと一緒になるがいいわ。 82
しかし,ニオベーならぬ妻マリアが,夫を殺されたことへの悲嘆のあまりゼウスならぬキリスト教
の Dieu に祈ったとしても,もとより石への変身はかなわない。戯曲のテーマの一つ,
「神は応えな
い」という命題は,最終場面以前に,
「神様に祈ったってむだなのよ」という女兄弟マルタによる
呪詛の中に姿を見せているのである。
81
82
Carnets, «Chaier IV», PLII, pp.973-4, および CaII, pp. 63-65.
PLI, p.497 における注 z と p.1359.
44 年版では,途中から,次のように書き換えられている「それがあいつが手にする幸せなのよ。それが本当
の幸せってやつなのよ。あいつのようにしなさい。どんな叫び声も聞こえないようになるのよ。さっさと石と
一緒になるのよ。でも目の見えないこの安らぎに入るのが怖くてたまらなかったら,いつだってこの共同の家
に戻ってきて,あたしたちと一緒になるがいいわ。
」(PLI, pp.496-7,および Mal47, p.95.)
88
『カルネ』の断章によって『誤解』の着想形成を辿る道は,残念ながらここで断たれてしまう。
これ以降,カミュは,先に述べた『誤解』専用の創作メモを使って作品のプランの形成や下書きを
行ったからである。とはいえ,作品の内容に大きくかかわることはないものの,まだ関連する断章
が『カルネ』に 4 つ見つかるので,それらを瞥見することとしよう。
1943 年の 3 月以降,おそらく『誤解』の本格的な執筆に取りかかっていたと想定される時期に,
カミュは『誤解』のエピグラフとしてモンテーニュの『エセー』から引用することを考えていた。
そのために取ったメモが,
〈 7 〉第 4 ノート・断章 194 と〈 8 〉同ノート・断章 209 である。まず
断章 194 であるが,
Epigraphe pour Le Malentendu ? « Ce qui naist ne va pas à perfection et cependant jamais nʼarrête. »
Montaigne.83
『誤解』のためのエピグラフ?「生まれかけたものは完成に達することなく,けっして止まることが
ない」モンテーニュ。
実はこの通りの文は,
『エセー』には見当たらず,こちらに関しては,カミュはモンテーニュの原
文に当たっていなかったと思われる 84。
他方,断章 209 における引用については,確かにその通りの文章が『エセー』に存在している。
83
84
PLII, p.993, および CaII, p.91.
とはいえ,内容的に合致する文が,『エセー』第2巻の長大な第 12 章「レーモン・スボンの弁護」の最終部分
に見つかる。
«De façon que ce qui commence à naistre ne parvient jamais jusques à perfection d'estre, pourautant que ce naistre
n'acheve jamais, et jamais n'arreste, comme estant à bout.» Montaigne, Essais II, Gallimard (Coll. Folio), 1973, p.349.(た
だし,Folio 版は綴りを現代綴りに直しているので,インターネットでオリジナルを検索した上で,16 世紀の
原綴で引用を行った。http://fr.wikisource.org/wiki/Essais/Livre_II/Chapitre_12)
「だから生まれかけたものが完全な存在にまで達することはけっしてない。この誕生はけっして完成すること
がなく,究極に達したものとしてとどまることがな[い。
]」(この訳文は,原次郎訳「筑摩世界文学体系 13『モ
ンテーニュⅠ エセー』
(筑摩書房)
,1973 年,p.438 から引用させて頂いた。)
カミュはどうして原文とは異なる引用を行ったのであろうか。さまざまに調べたところ,ドイツ文化研究家シャ
ルル・アンドレール Charles Philippe Théodore Andler(1866-1933)の大著『ニーチェの生涯と思想』Nietzsche,
sa vie et sa pensée(全6巻,1920-31)の第1巻で,ニーチェのモンテーニュ理解を論じた部分に(p.163)
,« Ce
qui naist ne va pas à perfection et cependant jamais nʼarreste.» という全く同文の記述があることが見つかった(http://
fr.wikisource.org/wiki/Page:Andler_-_Nietzsche,_sa_vie_et_sa_pensée,_I.djvu/171)。アンドレールは,この文の前
後に記した『エセー』からの引用には詳細に注を振ってページを明らかにしているのに対し(また,綴りは
16 世紀の原綴を用いている)
,この一文だけは注が打たれていない。おそらくアンドレールは,記憶に頼って
引用を行ってしまったのであろう。それをカミュが,モンテーニュの原文を確かめずに,そのまま(ただし
«arrête» というように 16 世紀の綴りを間違えて!)写してしまったのではなかろうか。カミュは学生時代から
ニーチェに熱中していたので,
アンドレールのこの研究書を読んでいた可能性が十分にある。というよりも,
『カ
ルネ』のこの断章を記した頃にカミュがモンテーニュに興味を抱いたのは,アンドレールを通じてであったか
もしれない。カミュは生涯を通じてニーチェに傾倒していたのに対し,自国のモンテーニュにはそれまで全く
関心を示していなかったからである。なお,ウォーカーも,『エセー』の原文にあたることなく,カミュが書
いた断章をそのまま引き写している(PLI, p.1334 の注2)。
89 Épigraphe pour Malentendu : « Voilà pourquoi les poètes feignent cette misérable mère Niobé, ayant perdu
premièrement sept fils et par la suite autant sept filles, surchargée de pertes, avoir été enfin transmuée en rochier.
. . pour exprimer cette morne, muette et sourde stupidité qui nous transit lorsque les accidens nous accablent,
surpassant nostre portée. » Montaigne.
Id. De la tristesse. « Je suis des plus exempts de cette passion et ne lʼayme ny lʼestime, quoy que le monde
ayt prins, comme à prix faict, de lʼhonorer de faveur particulière. »
Id.(Des menteurs)« Et nʼest rien où la force dʼun cheval se cognoisse plus quʼà faire un arrest rond et net. »85
第 1 巻第 2 章(悲しみについて)
「だから詩人たちも,先に七人の息子を,次いで同じ数の娘を失っ
て,痛手に打ちひしがれている母親のニオベを,ついに岩に化したと想像したのである。[......]それ
によって,彼らは,われわれの力を越えるいろいろな出来事に圧倒されたときに茫然として声も出せ
ず,耳も聞こえなくなるあの沈欝な痴呆状態を表現しようとしたのである。」
第 1 巻第 2 章(悲しみについて)「私はこの感情をもっとも免れている者の一人である。そしてこれ
を好みもしないし,尊重もしない。ところが世間の人々は,まるで当然のことのように,これに特別
な好意を寄せて尊敬している。
」
第 9 章(嘘つきについて)
「馬の能力はきれいに,ぴたりと停止することでいちばんよくわかる。」86
これらのうち,ニオベーについて語った「悲しみについて」の部分をエピグラフとして掲げたなら
ば,先に見た「石にして欲しいと祈れ」という台詞の部分と見事に呼応したことであろう 87。だが
そのようにすると,作品のテーマが「大切な存在を殺された者の悲しみ」に焦点を合わされ,男の
妻が着目されすぎてしまっただろう。実際の『誤解』は,マリアを中心とした芝居ではなく,
「追
放者」ジャンと「反抗者」マルタ,特に後者が際立った存在感を放つ戯曲である。また,子を失っ
た悲しみという意味では,男の「母親」こそニオベーにふさわしい。このような事情を考慮して
か,カミュはモンテーニュからエピグラフを採用することを断念する。そして,第 1 稿のエピグラ
フとして掲げたのは,第 4 章で見るように,ラシーヌの『ベレニス』の序文から引いた,スエトニ
ウスによるラテン語の語句であった。
『誤解』に言及したと考えられる断章の残りの〈 9 〉第 4 ノート・断章 218 と,〈10〉断章 231
は,明らかに 1943 年の 6 月に入ってからのもので,この頃は原稿の大半は書き終わっていたと考
えられるので,最終段階における簡単なメモといった性格の断章である。
プロローグ:愛 ...... ―知ると言うこと ...... ―それは,同じことば。
Prologue : Lʼamour... / — La connaissance... / — Cʼest le même mot.88
85
86
87
88
PLII, p.994, および CaII, p.95. また,
Montaigne, Essais I, Gallimard
, 1973, p.58, p.59, および p.84 を参照。
(Coll. Folio)
訳文は,やはり原二郎訳を用いさせて頂いた。前掲書,p.8, p.9, および p.23。
断章 144 における «Il est sourd, je vous dis, et muet comme un granit.» の部分は,『エセー』の « pour exprimer cette
morne, muette et sourde stupidité» という表現をヒントにしたものかもしれない。
PLII, p.997, および CaII, p.98
90
この断章は何に関連するものか,これまではよくわからなかった。しかし,新プレイヤッド版の注
解により,『誤解』の第 1 稿と第 2 稿には,ジャンとマリアの会話による長大な「プロローグ」が
存在していたことが示されたため,
『誤解』に関する断章だと言うことが判明したのである。とは
いえ,内容的には,作品の理解に大きくかかわるものではない。それは,次の断章 231 でも同じこ
とである。
誤解。妻は,夫の死後に:「愛していたのよ!」
Malentendu. La femme, après la mort du mari : « Comme je lʼaime ! »89
結局この台詞は,『誤解』の原稿では使われることがなかった。
『カルネ』の断章を辿って『誤解』の形成を跡付ける考察は,ここまでとなる。そこで次節で
は,カミュが『カルネ』とは別につけていた「創作メモ」の中で,『誤解』をどのように構成して
いったのかを検証することにしよう。
2−2.
『誤解』の構想プラン
この『誤解』の「創作メモ」は,プレイヤッド新版の刊行まで一般に知られていなかったわけで
あり,その全体が復刻されてプレイヤッド新版に収められていたら,作品の形成過程の研究に資す
ること大であっただろう。だが,ページ数の制限のためか,今なお文学研究に蔓延している「決定
稿至上主義(イコール,未定稿や創作メモは参考資料に過ぎないとする発想)」のためか,注解者
ウォーカーは,この貴重な「創作メモ」のうち,
『誤解』の構想プラン 2 つを収録するに止めてい
る。非常に残念なことであるが,それでもこの 2 つのプランは,カミュが『誤解』をどのように具
体的に構想したかについて,多くの情報を示してくれるのである。
これらが記された時期は明確ではないが,内容から考えて,前述の『カルネ』第 4 ノート・断章
144 よりも後のものであることは確実である。まず,プラン第 1 を見てみよう。
ブジェヨヴィツェ / プラン第 1 / 3 幕構成
第 1 幕:宿屋。宿屋のホール。追放からの帰還。出会い / 第 2 幕:殺害 / 第 3 幕:兄弟の妻の
帰還
第1幕
1 .女兄弟と母親の登場 2 .老使用人が舞台を横切る 3 .二人連れが到着し,男は演じることに
決める。そんなことはしないで欲しいと嘆願してから,女は去る。 4 .女兄弟および母親との出会
い。
[4b.兄弟が女兄弟に説明(挿入)
] 5 .母親が一休みを求める[女兄弟は退ける(削除)
]
一
休み。
89
PLII, p.1001, および CaII, p.103
91 第 2 幕 部屋で
1 .宿屋の部屋と呼び鈴について考える 2 .老使用人が呼び鈴に応えて登場 3 .女兄弟が,頼ん
でもいないお茶を男に運んでくる。対峙。 4 .男が茶を飲む。独白。眠り込む。 5 .母親と女兄弟
の登場。「でも始めなくちゃ」母親は一休みを求める。
第3幕
1 .母親が(男の)身分証明書を見つける。対立。首を括る。 2 .女兄弟の独白 2 (ママ)
.男
の妻が取り乱して登場。女兄弟との対峙。「旦那さんは死んだわよ。溺れてね」
3 .妻と老使用人と
の対峙。90
このプランは,「プロローグ」がないことを除けば,
『誤解』の第 1 稿との大きな相違がない。戯曲
の骨格は最初の構想の段階で固まり,カミュはそれを脱稿まで忠実に守ろうとしたことがわかる。
『異邦人』においてムルソーが読みふけった新聞記事との比較で注意を引くのは,記事では息子は
金槌で殴り殺されていたのが,この構想において「茶で一服盛られる」ことに変えられている点で
ある。この変更は完成稿まで維持され,頼みもしないのに運ばれてきた茶には眠り薬が仕込まれて
おり,眠り込んだジャンは,川まで運ばれて沈められてしまう 91。戯曲から不要な残虐性を取り除
きたいというのが,カミュが殺害方法を変更した大きな理由であろう。しかしその結果,「茶」を
巡るやりとりが,完成稿ではかなりくどいものとなってしまったきらいもある。
次の構想にはカミュによる番号の指定がないので,仮に「プラン第 2」と呼ぶことにしよう。
「プラン第 1 」よりもかなり詳しく練り直され,各場の割り付けも後の完成稿に近いので,
「プラン
第 1 」からは,ある程度時間を置いて構想されたものだろう。以下,各場の後に[ ]に入れて記
されているのは,筆者が補ったものであり,その内容が最終的に第 1 稿のほぼ第何場に当たること
になったかを示している。
ブジェヨヴィツェ。舞台は,ブジェヨヴィツェで進行する。チェコの南部にある,さして特色もない
小さな町。
90
PLI, p.1335. なお,
「対峙」と訳したのは原文では «scène» という単語であるが,ここでは芝居の「場面」とい
う意味ではなく,両者のあいだのいさかい,対決という意味である(avoir une scène avec qn. という形でよく
用いられる)
。『誤解』の実際の内容を踏まえて,
「二人に人物が差し向いになる」という意味で「対峙」と訳
しておいた。
91
モデルとなった実際の事件でどのように殺害されたかは,ロジェ・グルニエが示した実際の新聞記事が途中ま
での引用なので,不明である。引用されなかった記事の後半には殺害方法が記されているはずであり,それは
恐らく,ムルソーが読んだ記事と同じく,金槌による撲殺なのだろう。
母親の台詞に「このままにしておけば目を覚ます」とあることから,ジャンは毒殺されたのではなく,睡眠薬
で眠り込まされたのだということがわかる。1930 〜 40 年代で睡眠薬と言えば,当然バルビツール酸系のもの
だろうが,戯曲にあるように宿屋の2階から下ろして川まで引きずって行っても覚醒しないほどの薬量を1杯
の紅茶に仕込めたものかどうか,それほどの薬量のバルビツールならばあっさり致死量に達してしまうのでは
なかろうか,さまざまな疑問の残るところである。
92
3 幕およびプロローグ。
タイトル:『誤解』。老使用人について,耳が聞こえないのではなく,聞き間違え(誤解)をするの
だ,と語られる。「この人はほんの少ししか話さないし,話すとすれば大切なことだけだ」
(Titre : Le Malentendu. On dit du vieux que ce n'est pas qu'il n'entend pas, mais qu'il entend mal. "Il parle le
moins possible et seulement pour l'essentiel.")
ブジェヨヴィツェの小さな修道院でのプロローグ。
Jは宿屋へ行く。彼女たちには,彼のことがわからない。
「そのまま続ける」という考えが彼に浮か
ぶ。彼女(妻)はそれが気に入らない。この国のことが気に入らない。自分の国から離れすぎている
のだ。そして今や,夫が自分から離れていろと言う。だが,彼は続けなければならないのだ。
第 1 幕:宿屋のホール。片づいていて,わびしげな所は少しもない。朝。
第 1 場:母親と女兄弟は,着いたばかりの客―そして以前の客たちについて話題にする。母親は疲れ
ている。それでも,二人は続けなければならない。部屋の隅では,老使用人が押し黙っている。母親
と女兄弟が退場。
[第 1 場]
第 2 場:舞台には老使用人。息子が登場。宿屋の主人たちを呼ぶように言う。老使用人は彼の方を見
て,立ち上がり,舞台をよぎって,退場。
[第 2 場]
第 3 場:女兄弟が登場。身分証明書。家族のことなど。パスポートの場面(?)[第 3 場]
第 4 場:母親が登場。座る。息子がなんとか話を通じようとする場面。お茶を注文するように頼まれ
る。[第 4 場]
第 5 場:母親は一休みを求める。女兄弟は承服しない。母親は永遠の救いを願う。女兄弟は,すでに
自らに赦しを与えている。
[第 5 場]
第 2 幕:息子が泊まった部屋。夜。
第 1 場:宿屋の部屋と呼び鈴について息子が考える。[第 2 場]
第 2 場:呼び鈴を鳴らす。―老使用人が応じる。対峙「壊れているように思った」[第 2 場]
第 3 場:再び考える。―非常に(1語判読不能)
[第 3 場]
第 4 場:女兄弟が茶を運んでくる。頼んではいなかったが,それにはこだわらない。旅と海。まさにそ
の話が,女兄弟に決断させ得る。
(Les voyages et la mer. Justement ce qui peut la décider.)[第 4 場と第 1
場]
第 5 場:男は(茶を)飲み,考えを巡らす。眠り込む。[第 5 場][第 7 場]
第 6 場:母親と女兄弟が登場。決断しなければならない。[第 8 場]
第 3 幕:翌朝の宿屋のホール
第 1 場:老使用人がパスポートを落す。女兄弟がそれを開く。じっくりとそれを読み―母親に差し出
す。母親がそれを目にする。しなければならないのは
( 8 語判読不能)
。母親は井戸へ身を投げに行
く。[第 1 場]
第 2 場:絶望する女兄弟。
[第 2 場]
第 3 場:ノックの音。男の妻だ。夫を呼んで欲しいと言う。女兄弟が事実を告げる。男の妻に,でき
るだけ急いで石のようになりなさいと言う。女兄弟は,首を括りに行く。[第 3 場]
第 4 場:妻は悲嘆に暮れ,神の救いを求める。老使用人が登場し,「だめだ」と言う。[第 4 場]92
92
PLI, p.1336.
93 「プラン第 1 」からの重要な変更は,まず,第 1 幕の 2「二人連れの到着」が削除されている点
である。その代わりに,
「ブジェヨヴィツェの小さな修道院でのプロローグ」が追加されている。
「二人連れの到着」の内容がここに移されたのであり,実際に,第 1 稿と第 2 稿のプロローグにお
いて,ジャンと妻のあいだのやり取りが詳しく書き込まれることになる。ところが 1944 年の出版
稿では,プロローグがカットされ,ジャンと妻の場面は新たに第 3 場・第 4 場として書き込まれる
のであり,この内容は,結果として「プラン第 1 」の位置に戻ったことになる。
次いで,題名がブジェヨヴィツェから『誤解』Le Malentendu へと変更されたのが,この「プラ
ン第 2 」においてであることがわかる(しかし,舞台がブジェヨヴィツェとされているのはこれま
で通り)。ただし,この時点では老使用人が「聞き間違えをする entendre mal」という意味で指定さ
れている。これに対し,完成稿では,母親とマルタがジャンのことを赤の他人の旅人と取り違え
た,という意味に移し替えられることになる 93。(ただし,老使用人に関する描写はそのまま用い
られている)
さらに,第 2 幕第 4 場における,ジャンと女兄弟とのやりとりがある。これは,完成稿では第 1 場
に移し替えられることになるが,タオルを取り換えにジャンの部屋にやって来たマルタと会話にな
り,ジャンは,自分が長年過ごした北アフリカの美しい自然,その太陽と海について感動的に語
る。まさにそれが,海のない中欧ヨーロッパの町に閉じこめられたマルタが希求していた世界であ
り,彼女は,ジャンに対して嫉みにも似た感情を抱くようになる。第 2 幕の最後で,この旅人に対
して何かを感じ取った母親が,
「一休み une marge」(完成稿では「猶予 un sursis」となる)をしよう
と,今回は見逃すことを遠回りに提案するが,マルタはこれを受け付けない。その頑なな姿勢の背
景には旅人への嫉妬心があったことが,«Les voyages et la mer. Justement ce qui peut la décider.» とい
うメモによって示唆されている。こうして,モデルとなった実際の事件とは関わりがない,ジャン
殺害の新たな動機が付け加わることになるのである。
最後に,「プラン第 1 」では,実際に起きた事件やムルソーが読んだ新聞記事と同様,首を括る
のは母親だが,「プラン第 2 」では,縊死するのはマルタの役回りとなり,井戸に身を投げるのが
母親になる。完成稿ではさらに,母親はジャンが沈められた川へ入水しにいくことなる。このよう
な変更には重要な象徴的意味が込められていると考えられるので,第 5 章で詳しく検討する。
それでは,この「プラン第 2 」には欠落していて,完成した第 1 稿に出現する重要な要素は何で
あろうか。構想メモから原稿化する上で細かな様々な追加や修正が起るのは当然のことなのでそれ
らは措くとして,明確に新たな「場」として挿入されるのが,第1幕第 4 場(44 年版以降では第 7
場)と,第 2 幕第 6 場である。前者は,母親のモノローグでだけで構成されている場であり,その
前の場でジャンと交わした会話に触発されて,母親はさまざまな物思いにふける。その内容は第 1
93 第
3 幕第 3 場で,宿屋を訪れたマリアは,夫が殺害されたとマルタから聞かされて驚愕し,彼が自分の兄弟だ
とわかっていたのか,とマルタに迫る。これに対してマルタは「お知りになりたいというのなら,誤解があっ
たのよ Si vous voulez savoir, il y a eu malentendu」と淡々と応えるのである。PLI, p.494. PLT, p.175.
94
稿,第 2 稿,第 2 稿タイプ原稿,1944・47 年版,そして 1958 年版と,何度も書き直されていて,
ほとんど原形を止めておらず,このモノローグについてカミュが苦心惨憺したことがわかる 94。
第 2 幕第 6 場では,ジャンが眠り薬入りの茶を飲むのを止められないかと母親がやって来る。そ
してジャンと母親との会話になり,息子は,
「今夜は泊まらずにここを引き払う。宿賃は払うから」
と申し出る。彼は,名乗らずとも自分を認めてもらおうという考えを改め,翌日改めて妻を伴って
戻ってきて,きちんと自分の正体を明かそうと考えたのである。だがジャンは,すでに第 5 場でそ
の茶を飲んでしまっており,母親が立ち去った後すぐに眠り込む。ジャンの運命を巡って皮肉なす
れ違いが展開されるわけである。
このように,「プラン第 2 」とできあがった第1稿を比べると,母親の役割が増大していること
が一番の改変点であることがわかる。ジャンと妹と母親で構成される三角形の緊張関係において,
元のプランでは母親の重みが低すぎてバランスを欠いていると,カミュは判断したのであろう。
2−3.
『誤解』の完成
このように『誤解』のプランは練り直されたわけであるが,それでは,いつごろ主な執筆が行わ
れ,いつごろ最初の原稿が完成したのであろうか。これに関しては,前掲の『カミュ―グルニエ往
復書簡集』が,大きな手がかりを与えてくれる。ル・パヌリエに閉じこめられたカミュは,友人知
己と頻繁に手紙をやり取りをしており,その中には,当時パリ近郊のフォントネー・オ・ローズに
住んでいたグルニエも含まれていた。1943 年 4 月のグルニエからカミュへの書簡を見ると,グル
ニエが,ミシェル・ガリマールからカミュの新しい戯曲について聞いていたことがわかる。それゆ
え,43 年春の時点で,
『誤解』の第 1 稿が進行中だったと思われる。また,これにさかのぼる 1 月
にカミュはパリに赴き様々な友人と旧交を暖めたり新しい知己を得たりしたが,ロットマンによれ
ばこの時にミシェルに会っているので,
『誤解』についてミシェルに伝えたのは 1943 年 1 月と推測
される。
ミシェル・ガリマールから,君がチェコを舞台にした悲劇を書いているということ,そして,5 月の
終りに君がこちら(パリ)に来る予定であるということを聞きました。嬉しく思います。95.
94
PLI, p.473 の注 aq, ar と p.1349, および PLT, p.141 の注 1 と pp.1800-01, さらに Mal47, p.22. なお,PLI の注は,
この部分については 1947 年版から 58 年版への異同が掲載されていないので,注意を要する。『誤解』の 47 年
版と 58 年版を比べるためには,プレイヤッド新版よりも旧版の方が役に立つ。
95『往復書簡』
,第
80 書簡,p.93. なお,ミシェル・ガリマールは,ガリマール社の創始者ガストン・ガリマー
ルの甥で,生涯カミュと親交を結んだ。1960 年1月4日にカミュが自動車事故で急死した際,車を運転して
いたのはミシェルであった。
なお,「チェコを舞台にした悲劇」と訳した部分は,原文では «une tragédie tchèque» である。ウォーカーは,
この表現から想を得て,1938 年にチェコを襲った悲劇,つまりナチス・ドイツによるチェコ併合と『誤解』
執筆との関わりを推測しているが(PLI, p.1331)
,これは考えすぎであろう。そのような推測を裏付けるいか
なる証拠も存在しない。
95 そして 6 月 1 日,この手紙にあるようにカミュは再びパリへ赴き,この際にはグルニエと再会し
ているので,執筆中だった『誤解』に関して当然話題に上ったと考えられる。1943 年 7 月 8 日の
グルニエからカミュ宛の便りには,追伸欄に次のような文句が記されている。
何か知らせはありますか? / そして君の戯曲は? 96
7 月 17 日,カミュは返信を行う。
僕の戯曲は書き終わりました。ですが,まだ推敲が必要です。とりあえず,また『カリギュラ』に
手を入れています。そのあとに,また『誤解』(これが私の戯曲のタイトルです)に取り組むつもり
です。これは,失われた楽園,取り戻せなかった楽園の物語です ― すでに書いたものよりも人間
的な物語ですが,より肯定的というわけではありません。原稿を渡す前に,先生に読んで頂き,ご意
見を頂戴したく思います。お時間があれば,の話ですが。97
こうして,
『誤解』の第 1 稿が 43 年 7 月には完成していたことと,その出来栄えにはまだ満足して
いなかったことがわかる。したがって,43 年の初めから 6 月にかけての期間が,カミュが『誤解』
『誤解』というタイトルはすでに「第 2 プラン」で現れて
の執筆に集中していた時期であろう 98。
いるので,かなり前から着想していたはずだが,この書簡を読む限り,6 月に会った時にはグルニ
エに告げていなかったらしい。また,
「かつて別れた家族との再会を望んだが残酷な形で裏切られ
た」ジャンが戯曲の中心だとカミュは述べているが,実際の作品はもっと複雑なものになっていた。
なお,ウォーカーによれば,リヨンにあったルネ・レエノーのアパルトマンで,すでに 6 月に,
レエノー,フランシス・ポンジュ,ミシェル・ポン=トレモリの 3 人に,カミュは『誤解』を読ん
で聞かせていたと言う 99。この時に朗読したのが『誤解』の全体であれば第 1 稿の完成は 6 月中
だったということになるが,全体であったかどうかの証言は見つかっていない。
7 月 21 日,グルニエは「すぐに戯曲の草稿を送ってもらいたいところだが,あいにく母親が病
気になりレンヌに行かなければならない」旨をカミュに書き送る 100。29 日,カミュはグルニエの
母親の容態を心配しつつ,
「自分の戯曲はまだお見せするにはほど遠い」と返信する 101。だが,17
日付の書簡にあるように,すぐに『誤解』の第 2 稿に取りかかるのではなく,まず『カリギュラ』
96
『往復書簡』
,p.98.(第 86 書簡)。
「何か知らせ」というのは,「オランにいるカミュの妻フランシーから便り
97
『往復書簡』,p.99(第 87 書簡)
。
はあるか」という意味だと,
『往復書簡』の編者マルグリット・ドブレンヌは述べている(p.254)。
98
ただし,この期間もこれ以降も,カミュは『ペスト』の執筆・修正を継続していたので,
「
『誤解』にかかりきり」
というわけではなかったと思われる。
99
ウォーカー,PLI, p.1334.
100 『往復書簡』
,p.99(第
88 書簡)
。
101 『往復書簡』
,p.100(第
96
89 書簡)
。
の再度の改訂を進めたらしい。これは,
『カリギュラ』と『誤解』を合本して出版すると言う計画
が固まっていたためであろう。またロットマンによれば,この夏,カミュは『あるドイツ人の友へ
の手紙』にも手を染めたと言う。そのため,
『誤解』第 2 稿はしばらく完成しなかった。
9 月上旬,少し前から知己となっていたブリュックベルジェ神父の招きで,カミュは,ヴァール
県のサン = マクシマンにあるドミニコ会の修道院に赴いて滞在する。『誤解』第 2 稿が完成を見た
のはこの頃らしく,やはりウォーカーによれば,カミュはブリュックベルジェ神父やその友人の修
道士たちを前に『誤解』の朗読を行ったという 102。カミュの作品の中でも最もアンチ・キリスト
教的なこの作品を聞かされて,敬虔な修道士たちはどのような反応を示したのであろうか。
9 月 20 日,カミュはル・パヌリエに戻り,グルニエに書簡を送る。これには,事実上最も早い
段階での,カミュ自身による作品解説も含まれているので,興味深い。
戯曲の原稿を同封して送らせていただきます。お読みになることができるかどうか,お尋ねをせず
にお送りして済みません。実際のところ,先生に手助けをお願いしているのです。戯曲 2 作を(もう
片方は『カリギュラ』の新しい原稿です),10 月の初めまでにガリマール社に送りたいと思っていま
す。けれども原稿を送る前に,先生からご批評を頂き,それを生かして,新たに推敲を加えたく思っ
ているのです。先生のご意見をお聞かせ下さり,手直しが可能な箇所を教えて下さいませんでしょう
か。もしお時間が取れないようでしたら,ご無理は言いません。その場合は,もう一部原稿が手元に
ありますので,それを見直してから,直接ガリマールに送ることにします。
僕は『誤解』を書くことで,現代悲劇を作りたいと思いました。私たちには,昔からの悲劇のジャ
ンルがあります。けれども僕が書くのは,そうした伝統に立った悲劇ではないのです。というのも,
大抵の場合,それらの悲劇は舞台や物語を古代人(アトレウスの子孫たち!)から借り受けているか
らです。その理由は,「背広を着た悲劇」を書くのがとても難しいからなのです。僕は,背広を着た
悲劇を書こうとしました。けれども,それには随分と危ない点があり,先生のご意見を必要としてい
るのです。とりわけ,劇のトーンについてお尋ねしたいのです。過剰にもならず,抑えすぎもせず,
滑稽なところがなく,距離を置くトーン。ですが,そのようにできたかどうか,確信が持てません。 103
9 月 25 日,グルニエは「前日に『誤解』の原稿を受け取った」とカミュに書き送る。かつてグル
ニエは,先に見た 38 年 6 月のカミュからの書簡にあるように,彼が最初に手に染めた小説『幸福な
死』を批判し発表の断念に追い込むなど,厳しい師であった。だが,
『異邦人』以降,カミュの作品
を認めるようになり 104,今回の戯曲も,彼の文学批評眼を満足させるものであった。10 月 6 日,
102
ウォーカー,PLI, p.1334.
103『往復書簡』p.103(第
93 書簡)。なお,アトレウスはギリシア神話に登場するミュケーナイの王で,アガメ
ムノーンとメネラーオスの父親である。もちろん,アガメムノーンとその子供のオレステースとエーレクト
ラーは,アイスキュロスによる三部作の悲劇『オレステイア』の中心人物である。この一文はもしかしたら,
『オレステイア』に題材を執ったサルトルの戯曲『蝿』
(1943 年 6 月初演)を風刺したものかもしれない。
104
出版される前の『異邦人』の原稿を読んだグルニエは,とてもよく書けているという評価を,1941 年 4 月 19
日付けの手紙でカミュに書き送っている。
『往復書簡』
,p.51. 第 38 書簡。
97 グルニエは『誤解』を激賞した書簡を,成長したまな弟子に送っている。
この戯曲は最高のレベルのものであり,第 1 稿を読ませてもらった時の『カリギュラ』よりもずっ
と出来がよいと思われます。君は自分のトーンを見つけましたね。
『誤解』はまさにアルベール・カ
ミュの作品です。『異邦人』と同じ資格において。テーマはとても見事で,君はそれを,見事な形で
扱っています。と同時に,君の力であるあの節度も伴っています。
いちばんうまく描けている登場人物は,マルタです。マルタは君に似ており,君のほとんどすべて
を表現しているからです。この戯曲はマルタによって動かされ,マルタによって意味を獲得していま
す。私が「ほとんど」と言ったのは,ジャンも重要であり,彼はマリアの影響を受けているからで
す。マリアはこの戯曲における「ヴィオレーヌ」ですね。一方,マルタは「マーラ」です 105。ですか
ら,当然のように,衝突と動揺が生じるのです。
戯曲の調子は,悲痛極まるものです。とりわけ気に入ったページかその向かい側のページの余白
に,鉛筆で線を引いておきました。ですが,なにもかも気に入っています。とはいえ,文章それ自体
としては文句の付けようがないけれどもあまりにも雄弁調なところや,芝居よりも読み物にふさわし
い象徴を含んでいるところなどには,下線を引かせてもらいました。
[...]さらには,使用人=ゼウ
スが登場する終幕は,すばらしい効果をもたらすでしょう。
これを読めたのはとても嬉しいことです。私にとって嬉しいし,君にとっても,掛け値なしに嬉し
いことです。[...]106
この称賛は,カミュを大いに勇気づけたことであろう。10 月 11 日,彼は恩師にお礼の返信を行う。
[...]この戯曲が気に入っていただけたということで,嬉しく思います。余白に指示を記して下さ
り,ありがとうございました。どの文章も見直す必要があるものでした。すべてに修正を施しました。
これを,『カリギュラ』と一緒にガリマールに送るつもりです。
『カリギュラ』は,
『誤解』ほど出
来がよくありません。それはわかっています。それは,38 年に着想して書いた作品と,5 年経ってか
ら執筆した作品との違いだと思います。ですが,これらのテクストを,一つの中心テーマの周りに
しっかりとまとめました。さらに,二つの作品に用いた技法は,まったく異なったものであり,その
ことで,書物ととしての釣り合いが取れると思います。この次パリに赴いた時に(たぶんもうすぐで
す),『カリギュラ』の最終原稿をお渡し致します。
『誤解』の終幕部分にはこだわりがあります。ですが,先生はまずまずとしか思われていないよう
な気がします。どうか遠慮なくご意見をお聞かせ下さい。先生のおっしゃることは,つねに,じっく
り考えるべきことなのです。
[...]107
105「ヴィオレーヌ」と「マーラ」は,
ポール・クローデルの戯曲『マリアへのお告げ』L'Annonce
年 12 月初演)の登場人物を指している。
106『往復書簡』pp.104-05(第
107『往復書簡』p.107(第
95 書簡)
。
97 書簡)。カミュは 10 月7日にグルニエ宛ての第 96 書簡を送っていたが,これはグ
ルニエからの第 95 書簡と行き違いになっていた。
98
faite à Marie(1912
11 月に入ると,カミュはガリマール社で働くこととなり,ル・パヌリエを離れて占領下のパリ
に移り住んだ(これ以降カミュはガリマール社と深い関わりを持つようになり,また,パリに腰を
落ち着けて創作活動を行うようになる)
。
『誤解』の原稿がガリマール社に渡ったのは,この頃のこ
とであろう。
そして『誤解』は,序で述べたように「マチュラン座」で上演されることとなり,翌 44 年の 3 月
から,出版に先駆けて稽古が開始され,6 月に初演を迎えた。その間の 5 月に,
『誤解』は,予定
通り『カリギュラ』と合本でガリマール社から出版されたのである。ところが,出版された『誤
解』のテクストは,43 年 9 月にカミュがグルニエに送付した第 2 稿のものとは大きく異なってい
た。いったいどういう理由で,また,いつごろに,
『誤解』はもう一度書き改められたのであろう
か。次章では,その問題も含めて,第 1 稿から 44 年の出版稿へと至り,そして最終的には 58 年版
へとさまざまに姿を変えて行った『誤解』の変容の過程をつまびらかにしていきたい。
3.
『誤解』の変容
3 − 1 .様々なテクストとその問題点
『誤解』の草稿には第 1 と第 2 があり,さらに創作メモも見つかっているのは前章で見た通りだ
が,それ以外の資料やタイプ原稿の存在も確認されている。また,実際に上演してみて反省点が見
つかったり,カミュの内部での美学上の変化があったりしたために,1944 年の初版から 58 年の最
終版に至るまで,作家は何度も改訂をほどこした。あくまでもテクストの中で完結する小説とは異
なり,戯曲は,実際の上演の結果によって修正を施し,その修正が次の上演に影響を与えるとい
う,テクストと舞台との相互干渉のたまものであり,したがって戯曲のテクストは決して「完成す
る」ことはなく本質的に揺れ動き続けるものだ,と述べても良いであろう。このようにして,第 1 稿
から現在見る最終版にいたるまで,
『誤解』にはさまざまなテクストや資料が存在することとなっ
たのである。それらを,新プレイヤッド版におけるウォーカーの注解に従って,概観してみよう 108。
なお,( )内はプレイヤッド版で用いられている略号であり,冒頭の番号は,わかりやすくする
ために筆者が振ったものである。
1 .第 1 稿(ms.1):1943 年 7 月に完成させたが,グルニエに送るのをためらった,最初の原稿の手
書き草稿。初めは「プロローグ」が置かれていたが,後にその部分が切り取られている。マリア・カ
ザレスが所持していたが,現在はパリのフランス国立図書館に収められている。
1 − 2 .第 1 稿修正(ms.1v):プロローグが削除されるとともに書き直された台詞が記された数ペー
ジ。「異文」として,第 1 稿の末尾に綴じられている。
1 − 3 .第 1 稿創作メモ(ms.1b)
:第 1 稿の元となった下書きで,資料としては最も古いものになる。
第 1 稿の関連するページに貼り付けられている。ただし一部分,第 1 稿下書きや第 1 稿そのものより
108
PLI, pp. 1344-5.
99 も後のものである書き込みも,
「異文」として,これらと一緒にされているという
1 − 4 .第 1 稿冒頭(pm)
:カミュの死後,1965 年になって,妻のフランシーヌが,チャリティーの
ために第 1 稿のプロローグをタイプしたもの。遺漏が多いと言う。
1 − 5 .創作メモ第 2(bm)
:19 枚からなる,2 種類目の第 1 稿下書きで,フォトコピーの形で保存
されている。
2 .第 2 稿(ms.2):1939 年 9 月に推敲が終了した,2 番目の手書き草稿。第 1 稿の台詞がすべて書
き写され,削除する部分に削除線が引かれ,書き換える必要がある所は別の用紙に書き換え,«bis»
として該当部分に挟み込まれている。ところどころ鉛筆による書き込みがなされているので,カミュ
が批評を仰ぐために 9 月 20 日にジャン・グルニエに送付したのは,この草稿だと考えられる。ル・
パヌリエ滞在に友人となったブリュックベルジェ神父にカミュが献呈したために,
「ブリュックベル
ジェ稿」という通称がある。その後テキサス大学に売却された。
2 − 2 .第 2 稿のタイプ原稿(dactyl)
:カミュがブリュックベルジェ神父依頼して作成してもらった
第 2 稿のタイプ原稿に,ところどころ修正を施したもの。61 枚のタイプ原稿と 7 枚の手書き原稿から
構成されている。
3 .1944 年版(1944)
:
『カリギュラ』と合本で出版された,
『誤解』の初版。ただし,後に見るよう
に,第 2 稿からかなり書き直されている。
4 .1947 年版(1947)
:47 年に出版された第二版。1944 年版に若干の修正が施されている。
5 .テレビ稿(T):1955 年に『誤解』がテレビ番組化された際に作成された修正稿。テレビでの演
出を考慮に入れて,多くの加筆訂正が施されている。85 枚の印刷ページと,11 枚の手書きページから
109
なっている。
5 − 2 .テレビ稿のタイプ原稿(T2)
:テレビ稿をタイプで打ち直した 66 枚のページに,ところどこ
ろ手書きの修正が施されている。
6 .1958 年版:カミュが最後に修正を施し,1958 年に出版されたもの。テレビ稿における修正を元
にしているが,47 年版のものに戻されているところもある。結果として,47 年版と比べると百数十ヶ
所の修正個所があるという,大掛かりな改訂版となった。
旧プレイヤッド版も新プレイヤッド版も,これを「決定稿」として採用している。
「決定稿になって
しまったのは,カミュの意図によるというより彼の早すぎる死による」という観点から,本論文では
「決定稿」という表現を避け,
「58 年版」あるいは「最終版」と呼ぶことにする。
以上のうち,第 1 稿創作メモ(ms.1b)
,第 1 稿修正(ms.1v)
,および創作メモ第 2(bm)は極めて
重要な資料であって,この 3 つを詳細に検討すれば,
『誤解』の生成過程がより明らかになってく
るであろう。だが残念ながら,プレイヤッド新版では,先に見た構想メモ 2 つが紹介されている以
外は,この 3 つについては,ごく僅かな注が施されているにすぎない。そこで本論文においては,
収録された資料・注解と『誤解』1947 年版を用い,第 1 稿から出発して,それがどのように 58 年
版のものへと変化して行ったかという変容の流れを追うこととしたい。
109
ただしキヨは,『誤解』がテレビ化されたのは 1950 年と 55 年の 2 回あると指摘し,テレビ稿としての改変
が 2 度に渡って行われたことを示唆している(PLT, p.1792)。ウォーカーは,50 年のテレビ放映については
言及していない。
100
プレイヤッド新版に対し,旧版の注解者キヨは,次の 5 種類の異稿を分類している 110。
草稿(manuscrit)
1944 年版(édition 1944)
1947 年版(édition 1947)
TV 用指定(les variantes des représentations télévisées)
1958 年版(édition 1958)
まず問題となるのは,キヨが挙げている「草稿」が,第 1 稿と第 2 稿のどちらを指しているの
か,ということである。キヨもウォーカーと同様に 2 種類の草稿の存在を指摘しているのに,異文
注解においては単に「草稿」と記しているだけだからである。キヨが異文として挙げているのが第
1 稿のものか第 2 稿のものか,あるいは第 1 稿と第 2 稿をとりまぜているのか,という点について
確認できなければ,プレイヤッド旧版と新版の異文注解を比較することができない。
結論から述べると,キヨがプレイヤッド旧版の注解のために調べたのは第 1 稿であった,と断定
できる。それは,以下のような理由に基づく。
1)
「マリア・カザレスのおかげで草稿に当たることができた」と述べている。
2 )「草稿には第 1 幕の第 3 場と第 4 場がなく,そのため,男の妻のマリアが登場するのは最終場
面となる」と記している。つまり,キヨがあたった草稿は,プロローグが切り取られたものであ
る。
(だがキヨは,もともとプロローグがあったことに気付かなかった 111)
3 )プレイヤッド旧版でキヨが「草稿のものである」として挙げている異文は,新版でウォーカー
が「第 1 稿の異文」としているものとほぼ一致する。112
キヨも「ブリュックベルジェ神父に献じられた別の草稿がある」と記しているが,
「たぶん(カザ
レス所持の草稿より)後のものだろう」と述べるだけに止まっており,実際に目にした形跡はな
い。この草稿はテキサス大学に売却されていたため,プレイヤッド旧版の編集に際して,キヨはそ
こまで赴くことができなかったのであろう。
しかし,ここで一つの謎が生じる。ウォーカーの言うように「第 1 稿修正」と「第 1 稿創作メ
110
111
PLT, pp.1791-2. なお,
『誤解』が収められているプレイヤッド旧版の出版は,1962 年である。
そのため,キヨは次のようなやや滑稽な注解を行っている「マリアは最終場面にしか登場しない。[...]確かに,
男兄弟,つまりジャンは,第 2 幕のモノローグ(第 2 場と第 5 場)で,愛する女(la femme aimée)の姿を長
いこと想起している。だが正確には,その女は女性の姿一般として現れているのだ。あるいはむしろ,冒険,
好奇心,苦悩といった男性の好みに対立する,素朴で大地に根を張った,肉体を持った女性という一種の観
念として,現れているのだ」
(PLT, pp.1791-92)キヨが紹介しているその場面の草稿では,ジャンはしっかり
112
「マリア」と呟いていると言うのに!(PLT, p.1808)
以上,PLT, p.1791 を参照。
101 モ」が第 1 稿に綴じ込んであるのならば,どうしてキヨはプレイヤッド旧版においてそれに言及し
ていないのだろうか?キヨはあえて見過ごしたのだろうか?それとも,綴じ込みが行われたのは,
プレイヤッド旧版よりも後になってからのことなのだろうか?どうやら後者の可能性が高い。
「第 1 稿修正」は「プロローグが削除された後の台詞の修正」であるから,本来ならば第 1 稿で
はなく第 2 稿に対する修正のはずである。それが第 1 稿の方に綴じ込んであるというからには,
その綴じ込みはカミュ自身の手によるものではなく,その死後しばらくして,キヨは参照すること
ができなかった「第 1 稿修正」と「第 1 稿創作メモ」が発見され,第三者の手によってそれらが第
1 稿に綴じ込まれるということになったのではあるまいか。第 2 稿はテキサス大学の所有であるた
めに,そちらに綴じ込むことはできなかったのであろう。
次に,基本的にはプレイヤッド新版の注解に基づきつつ,旧版の注解も参考にすることによっ
て,1943 年の第 1 稿から 58 年の最終版までの変容の流れを克明に辿ることができるかどうかとい
う問題がある。残念ながら,それには若干の留保が必要となる。この 2 つの注解が,テクストの改
稿部分をどれだけ忠実に拾い上げたかという疑問があるからである。
例として,
1947 年版と 58 年版の比較を行ってみよう。幸いにして筆者は,1947 年版の単行本(い
わゆるブランシュ版)を入手できたので,1958 年版との異同を実地に検証することが可能となった
のだが,その結果判明したのは,カミュが行った改訂は約 133 箇所にも及ぶ,ということである 113。こ
れに対して,プレイヤッド新版においてウォーカーが取り上げている 58 年版への改稿は,わずか
29 箇所にすぎず,一方旧版においてキヨが指摘しているのは 99 箇所である(つまり,47 年版から
の改稿については,旧版の方がはるかに詳しい)
。58 年版における修正は,台詞の推敲が中心であ
り,接続詞(et, mais, car など)の削除といった細かな点も多いので,キヨもウォーカーも,注解で
取り上げるのは重要な改稿点に止めてかまわないと判断したのであろう。だが,それならばそれ
で,どのような異文ならば取り上げどのような異文は掲載しないか,その基準を示すべきではないだ
ろうか。
結局,プレイヤッド版に従うだけでは,47 年版の全体を把握することはできない。それゆえ,
44 年版や草稿についてはどうなのか,プレイヤッド版の注解をテクスト変容の研究の基盤とする
ことが可能かどうか,確かめる必要が生じるのである。そこで,以下のようなプロセスで検討を
行った。
113
改稿個所をどのように数えるか,という定義は難しい。単語 1 つの訂正も,原稿 1 ページ分の新たな追加も,
それぞれ「1 つの改稿」とカウントすることが可能だからである。異文の存在を示す注の打ち方も,注解者
によってさまざまである。本稿のための研究にあたって,筆者は暫定的に次のような方法でカウントするこ
ととした。
「改稿数」ではなく,「改稿箇所」のカウントであることに注意されたい。
1)一定のまとまりをもった改稿部分を一箇所とカウントする。
2)したがって,その前後に改稿がまったくなければ,単語 1 つの改変で一箇所とカウントされる。逆に,
いくつもの改稿を含んでもそれがひとつのまとまりになっていれば,いくつの単語が改変されていても,一
箇所とカウントする。
3)改稿ブロック(これについては3−2において説明)は,全体として一箇所とカウントする。
102
1 )まず 44 年版であるが,47 年版にかけての改訂は非常に少ないということが,各種の証言から
明らかになっている。そして,プレイヤッド新旧両版が挙げている異文が,完全に一致している。
それゆえ,注解に挙げられている改訂箇所で全てであると判断して差し支えないと考えた。そこ
で,47 年版のテクストを OCR で読込んだデジタル・テクストを作成し,プレイヤッド版の注解に
基づいて,該当箇所を 47 年版から 44 年版に戻すことで,『誤解』44 年版を復元したのである。
2 )次に第 1 稿に関して,ウォーカーによる新しい注解とキヨによるこれまでの注解との比較検証
を行った。その結果,両者とも注解の内容がほぼ一致することが明らかとなった。相違点は,
ウォーカーが挙げていない異文をいくつかキヨが挙げていること(つまり,キヨの方が詳しい),
キヨが「判読不能」と判断した箇所をウォーカーが判読していること,キヨの注解における決定的
なミスを(これについては後述)ウォーカーが訂正していること,などである。以上から,多少の
見落としや,異文として挙げるまでもないと判断して故意に収録しなかった箇所などがあるとして
も,大筋において,彼らの注解にしたがって第 1 稿を復元できると判断した。
3 )ついで第 2 稿であるが,これはウォーカーによる注解しかないので,直接の比較検証を行うこ
とができない。しかし,復元した 44 年版と第 2 稿の異文,第 1 稿の異文の 3 者を慎重に比較した
ところ,第 1 稿→第 2 稿→ 44 年版という修正・変更の流れに内容的に考えて無理のないこと,つ
まりウォーカーの注解に大きな見落としはないであろうことが判明した。そこで第 2 稿について
は,細かな字句の修正は収録されていない可能性が大であるが,プレイヤッド新版の注に従うこと
とした。
4 )そして 1)で復元した 44 年版のテクストとプレイヤッド新版の注から(この注自体は 58 年版
,第 2 稿に当たるものを復元した。さら
のテクストに振られているため,解読と判断が難しい 114)
に,この復元第 2 稿とプレイヤッド新旧両版の注から,『誤解』の第 1 稿に当たるものを復元した
のである。(ただし,ウォーカーによる注の記し方が非常にわかりにくいため,その異文が第 1 稿
のものなのか第 2 稿のものなのか,判定しきれない場合も若干生じている)
5 )最後にテレビ稿であるが,キヨもウォーカーもあまり多くの異文を挙げていない。これは,テ
レビ稿を元に 58 年版を作成したために,47 年版からテレビ稿へかけての多くの異文がそのまま 58
114
プレイヤッド新版における異文注解は,以下のように非常にわかりにくく読みにくいシステムを取っている
ので,58 年版であるテクスト本体と注を交互に読みがら 58 年版以前の状態を復元して理解するのは,困難
に近い。
・注の記号が数字でなくアルファベットで打たれている。
・異なる原稿の異文を一度に一箇所の注に押し込んでいる。
・どの版における異文なのかという版の略号を冒頭ではなく末尾に記している。
・注における切れ目を改行ではなく記号で示している。
そのため筆者は,注の内容全体をデジタルデータとして読み込み,パソコンで読みやすく編集して,研究を
行った。注のシステムは,プレイヤッド旧版の方がはるかにわかりやすかった。いつごろからか,プレイヤッ
ド全集における異文注解のシステムが,上記のようなわかりにくい方法に統一されてしまったようである。
ページ数の節約のためなのであろうか。
103 年版に引き継がれたためであろう。取り上げられた異文の多くは,テレビという媒体ゆえに可能と
なったト書きの追加などが占めており 115,これらは当然ながら 58 年版では 47 年版のものに戻さ
れている。また,その他の改稿とは異なり,テレビ稿では,戯曲の内容に大きな影響を与える新し
い場面の挿入といった変更は認められない(むしろ目立つのは,テレビの放映時間に合わせるため
か,台詞の削除の方である。それら削除された台詞のほとんどは,58 年版で元に戻されている)
。
そのため,テレビ稿については,そのつど注を参照するだけでよく,特に復元テクストを作る必要
はないと判断した。
以上により,
『誤解』の第 1 稿→第 2 稿→ 44 年版→ 47 年版→テレビ稿→ 58 年版という,テクス
ト変容の流れを追跡することがほぼ可能となったのである。これらのうち,既に述べたように 44
年版から 47 年版への異同はわずかであり,47 年版からテレビ稿への重要な異同は 58 年版に反映
されている。したがって本論文においては,
1 .第 1 稿→第 2 稿
2 .第 2 稿→ 44 年版
3 .47 年版→ 58 年版
という 3 点の変容に絞って,その主なものを取り上げ,カミュが改稿を行った意図を推測し,ま
た,それらの修正がテクストにもたらした意味を分析することとしたい。ただし,1 のケースにお
いて,第 2 稿において書き改められた部分がその後の 44 年版などにおいてさらに修正を施された
という場合は,そうした第二次以降の改訂も併せて取り扱うこととする。2 も同様であって,2 の
ケースで最も重要な点は,
「44 年版に際して初めて改訂された」ということである。3 においては,
上記の 1) 5 )などの理由から,47 年版での改訂・テレビ稿での改訂・58 年版での改訂を一括し
て取り扱うこととする。
3 − 2 .第 1 稿から第 2 稿へ
Maria」という固有名詞ではなく,
まず挙げられるのは,第 1 稿では役名が「Jan,Martha,
「息子,
115
例えば次のようなテレビ稿で付け加えられたト書きは,テレビ放映だからこそ可能となったものであり,そ
れ以外の版には見られない。
第1幕第2場の初め:
「宿屋へと向かう道を,ジャンとマリアが進んで行く。」(PLI, p.461 の注 p と p.1347 お
よび PLT, p.121 の注1と p.1796)
第1幕第3場の初め:
「マリアは遠ざかり,それから夫の方を向き,遠くからからっぽの両手を開いて見せる。
ジャンは妻が立ち去ってゆくのを見ている。ためらってから,地平線の違う方向を向く。下の方に川の流れ
が見える。彼はきっぱりとした様子で建物の方へ戻り,中に入る。[...]」(PLI, p.465 の注 y と p.1348,および
PLT, p.128 の注3と pp.1797-98)
なお,55 年のテレビ稿では第3場と第4場が融合されて第2場となっており,この後に続くテレビ稿の第3
場の内容は,44 年版〜 58 年版では,第2場+第5場のものとなっている。もちろん,このト書きにある「川」
に,この後ジャンは沈められてしまうことになるわけである。
104
妹,妻(Le Fils, La Sœur, La Femme)
」という家族の名称だけで与えられていることである 116。物
語自体がいかに異常な出来事であるとはいえ,家族の認知という問題はどこでも起こり得る普遍的
な問題だと言う意味を,カミュはこの指定に込めたかったのであろう。もっとも,この 3 者が無名
のまま戯曲が進行するわけではなく,ジャン,マルタ,マリアという固有名詞は,台詞を通じて明
かされる。また,ジャンとマルタが会話を行う場面では,Le Fils の代わりに Le Frère(兄)が役名
として用いられている。そして,第 3 幕第 3 場でマルタとマリアが対峙する際には,Martha,
Maria という固有名詞で示されている。つまり,会話を行う当事者同士の家族関係や人間関係に
よって,役名の記述が変動していたのである 117。
これではわかりにくくなるとカミュは考えたのか,第 2 稿以降,役名の指定は固有名詞で統一さ
「母親(La Mère)
」は 1958 年の最終版までそのままであり,劇中で名
れることになった。ただし,
前が明かされることもない。つまり,カミュは意図的に「母親」に固有名詞を与えることを避けた
わけであり,この事実には強い象徴的な意味合いが認められると思われる。
戯曲の本文に関しては,プレイヤッド新旧両版の注解に基づく限りでも,第 1 稿から第 2 稿への
改稿は数十ヶ所に上るので,そのすべてを取り上げるわけにはいかない。そこで「改稿ブロック」
というものを考えることとする。それは,
「1 つのブロックとして捉えることができる大がかりな
改稿部分であり,その改稿によって戯曲の内容や台詞の流れにかなりな変化が生じるもの」という
ことである。そこで第 1 稿から第 2 稿への修正において改稿ブロックと捉えてよい部分を探すと,
以下の 4 つのブロックを見つけることができる。
改稿ブロック 1 − 1:第 2 幕第 1 場におけるジャンとマルタの会話
改稿ブロック 1 − 2:第 2 幕第 2 場におけるジャンのモノローグ
改稿ブロック 1 − 3:第 2 幕第 7 場におけるジャンのモノローグ
改稿ブロック 1 − 4:第 3 幕第 3 場におけるマルタとマリアの会話の一部 118。
ここからわかるのは,第 1 幕に関しては第 1 稿にほどこした訂正は字句の修正が中心であるという
こと,そして,第 2 稿へ向けての改稿ブロックのうち 3 つが,ジャンの台詞に関するものであると
いうことである。したがって,第 1 稿の完成時点でカミュが一番不満を抱いていたのは,ジャンの
造形に関してであったということが理解できる。ジャンの人物像の描き方については,第 2 稿にお
ける修正を経て,さらに 44 年版になっても,カミュは満足しきることができなかったらしい。実
116
117
PLI, p.455 における注 a と p.1347.
ただし,La Mère に対して La Fille が用いられることはない。
118 「改稿
1-1」
といった通し番号は筆者が振ったものである。以下,最初の番号は 1 が「第 1 稿→第 2 稿への改変」,
2 が「第 2 稿→ 44 年初版への改変」
,3 が「47 年版→ 58 年版への改変」を示す。そして後の番号は,それ
ぞれの改稿ブロックを芝居の進行順に並べたものである。
105 際,「序」で引用したように,1944 年 10 月に『フィガロ・リテレール』に寄稿した一文の中で,
44 年版を用いた初演に対する観客の反応を踏まえて,「ジャンの人物像に問題があった」とカミュ
は記すことになるのである。
それでは,これら 4 つの改稿ブロックについて,第 1 稿と第 2 稿を対比することで,その変化を
具体的に検証してみよう。
【改稿ブロック 1 − 1:第 2 幕第 1 場におけるジャンとマルタの会話】
このブロックの前半においては,マルタがタオルと水を取換えに来て(古い宿屋なので,各部屋に
までは水道は通っていないという設定である)
,ジャンと会話になり,あえて自分の宿屋の設備が
老朽化していることを述べ立てるマルタに対して,ジャンはいぶかしく思う。第 1 稿でのやりとり
が冗長だと判断したためか,カミュは第 2 稿で大幅に短縮している。特に,ジャンが金を持ってい
ることを巡る部分が削除されている点が注目に値する。この削除により,ジャンの金に関する言及
は,戯曲全体を通じて,マルタと母親のあいだだけで行われることになるからである。
[第 1 稿→第 2 稿で削除された部分の一部]
兄:こちらの言い方がまずかったですね。でも,とても簡単なことです。毎日のこまごまとしたこと
について,とやかく言おうとは,少しも思わないんですよ。
妹:ですが,お金持ちでいらっしゃる。
兄:たぶん。ですが,前は貧しかったし,もう一度貧しくなろうなどとは思いませんね。どっちにし
たって,自分の望みは脇にやるようにしているし,注文をつけるとしたら,細かなことではなく,大
きなことに注文をつけたいと思いますね。119
ついで,ジャンが 20 数年を過ごした,地中海に面した北アフリカの土地について感動的に語る場
面が来る。その陽光と海こそ,マルタが長年恋い焦がれ続けており,そこへ移り住むために犯罪ま
で厭わなくなったという,彼女の情動の根本を突き動かす憧憬の対象であった。前章で見た「プラ
ン第 2 」にあったように,地中海の自然を満喫したこの旅人に対して,マルタの中に嫉妬の念が生
まれ,ためらいを見せる母親に対して,この男を始末しようとせき立てることになるのである。
第 1 稿:第 2 幕第 1 場 120 → 第 2 稿以降:第 2 幕第 1 場 121
妹:美しい国なんですよね?
兄:(窓から外を眺めて)ええ,美しい国です。
妹:そちらでは,まるでひとけがない浜辺があると
伺っていますけれど。
119
120
121
PLI, p.474 における注 a と pp.1350. PLT, pp.1803.
マルタ:美しい国なんですよね?
ジャン:(窓から外を眺めて)ええ,美しい国です。
マルタ:そちらでは,まるでひとけがない浜辺があ
ると伺っていますけれど。
PLI, pp.476. における注 c, と p.1351. PLT では,この部分を見落としており,注として掲載していない。
PLI, pp.476, PLT, pp.148-149. および Mal47, p.54.
106
兄:ええ,人を思わせるものはなにも見あたらない
んですよ。生き物のあかしと言えば,砂浜に残され
た海の鳥の足跡だけなんです。あの国にいらしたこ
とがないんでしたら,自然の砂浜に訪れる朝がどん
なものか,思い描くのは無理ですね。まるで,毎
朝,世界が初めて生まれるかのようです。夕暮れは
といえば ...
妹:夕暮れはといえば,お客様?
兄:心を揺さぶられます。一日と言うものの大いな
る情熱のようです。ええ,美しい国です。罪なき者
の祖国が見いだせるのです。
[...]
あの土地の春には喉をつかまれる思いがします
よ。今頃でさえ,数えきれない花々が白い壁をよじ
登り,海へと流れ下っては大きく叫び声を上げるの
です。私が住む町を取り囲む丘を小一時間でも歩き
回れば,黄色いバラの蜜の香りが,服に染みつくこ
とでしょう。
妹:素晴らしいですわ。私どもがここで春と呼んで
いるのは,ようやく修道院の庭に顔を出した一輪の
バラと二つの芽のことです。それだけで,私ども
ヨーロッパの人間の血の気を失った血が騒ぎ立てる
のです。あの人たちの魂は,あのしみったれたバラ
のようなものですわ。やっとのことで花開いて,厚
い壁のあいだで,曇った空の下で,不確かないのち
を送るのです。でも,少しでも強い風が吹けば,か
き消されてしまうんです。あの人たちにふさわしい
春ですわ。
兄:たぶん,それは少々手厳しすぎるでしょう。私
はどちらの国も知っていますからね。この国に春が
あるなら,あの国には秋があります。こがね色の混
じった紺碧,くぐもった吠え声,カラスのしゃがれ
声。その時,花が咲きます。でも,木々の葉の中で花
が咲くんです。血の色に染まった桜,( 1 語判読不
能)の蜜,ブロンズ色に流し込まれるブナの木,大
地全体が,二度めの春の数えきれない炎で身を焦が
すのです。たぶん,魂についても同じことで,もし
あなたが辛抱づよく助けてやれば,それらの魂も花
を咲かせると思いますよ。
ジャン:その通りです。人を思わせるものはなにも
ありません。朝,砂浜に残された海の鳥の足跡が見
つかります。それだけが,生き物のあかしなんです
よ。夕暮れはといえば ...
マルタ:夕暮れはといえば,お客様?
ジャン:心を揺さぶられます。ええ,美しい国です。
[...]
あの土地の春には喉をつかまれる思いがします
よ。数えきれない花々が白い壁を伝って咲き誇るの
です。私が住む町を取り囲む丘を小一時間でも歩き
回れば,黄色いバラの蜜の香りが,服に染みつくこ
とでしょう。
マルタ:素晴らしいですわ。私どもがここで春と呼
んでいるのは,ようやく修道院の庭に顔を出した一
輪のバラと二つの芽のことです。それだけで,私の
国の人間は騒ぎ立てるのです。あの人たちの魂は
[ 58 年版:心は]
,あのしみったれたバラのようなも
のですわ。少しでも強い風が吹けば,しおれてしま
うんです。あの人たちにふさわしい春ですわ。
ジャン:たぶん,それは少々手厳しすぎるでしょ
う。あなたたちには秋もあるんですから。
マルタ:秋って,何ですの?
ジャン:二番目の春です。木々の葉という葉が,
花々のようになります。たぶん,魂についても同じ
ことで,もしあなたが辛抱づよく助けてやれば,そ
れらの魂も花を咲かせると思いますよ。
ここでも,第 2 稿に移るにあたっては台詞が圧縮されていること,特に,詩的すぎる表現が削除さ
れていることがわかる。だが,地中海の自然に関する第 1 稿の描写のほうが,エッセイ集の『婚
礼』の「チパサでの婚礼」や『幸福な死』に見られるような若きカミュの叙情的な表現との類縁性
を,より強く想起させるのではなかろうか。また,
「血の気を失った血 le sang pâle」という撞着語
法(オクシモロン)など,捨てるには惜しい表現の妙が散見されるのである。
カミュ独特の形容表現としては,
「心を揺さぶられる」と訳した «bouleversant» と,「喉をつかま
れる思いがする」と訳した «prendre à la gorge» も指摘しておきたい。どちらも,通常は「気を動転
させる」「喉をつかんで苦しい思いをさせる」という,否定的な意味で使用される表現である。だ
がカミュはここで,
「深い感動を与える」という肯定的な意味に強引に転用して用いている。この
107 ように通常とは異なった,あるいは逆のニュアンスを特定の単語や表現に与えるというのは,カ
ミュのテクストに広く認められる特徴だが,特に若い頃のカミュにはその傾向が強い。エッセイ集
『裏と表』や『異邦人』において「無関心 indifférence」という単語が称賛するべき事柄として用い
られたり,『シーシュポスの神話』において「希望 espoir」という語が「形而上的な救いを空しく
望む」という否定的な意味で使われたりしていて 122,不用意な読者はテクストのあやまった解釈
に導かれる恐れがある。そのような独特の言い回しが,この『誤解』にも認められるのである。
【改稿ブロック 1 − 2:第 2 幕第 2 場のジャンのモノローグ】
マルタが去ったあと,一人になったジャンがマリアのことを思い,彼女を一人別の宿へやったこ
とについて思い悩み,それでも旅人のふりを続けようと考える。〈A〉と記してあるその冒頭の部
分は,第 2 稿においては,書き直された上で第 2 幕第 1 場の冒頭に移される。それが 44 年の出版
稿以降にも受け継がれる。ところが興味深いことに,55 年のテレビ稿では,第 1 場の冒頭には,
第 1 稿のものがほぼそのままで復活し 123,さらに 58 年版では再び第 2 稿・44 年版のものに戻され
ているのである。カミュ・テクストの変容の過程においても,珍しいケースと言えるだろう。さら
に,後半の〈B〉と記した部分は,44 年版において全面的に書き直され,その一部分が 47 年版で
削除されている(58 年版では異同はない)
。こうした事情から,現在見る第 2 幕第 2 場における
ジャンのモノローグは,第 1 稿の原形をほとんどとどめていないテクストに変容しているのであ
る。その様子を追えるような形で引用しよう。
(なお,〈A〉
〈B〉という表記はわかりやすくするた
めに筆者が施したもので,原文には存在しない)
第 1 稿:第 2 幕第 2 場 124 → 第 2 稿以降:第 2 幕第 1 場,第 2 場 125
息子:
〈A〉マリアの言う通りだ。この時間はつら
い。そうだ,マリアの国では,毎日の夕べが幸福の
約束だったのに,この夕べは,不安の匂いがする。
そしてこの日暮れ,僕たちははじめて離れ離れにな
り,互いに向かおうとしてもむなしく,学び始めて
いるのは,体におけるよりも,考えにおいてずっと
122
〈第 2 稿:第 1 場冒頭〉
ジャン:マリアの言う通りだ。この時間はつらい。
マリアは宿の部屋で,何をしていて,なにを考えて
いるのだろう?心は閉ざされ,目は渇き,いすに深
く腰を沈めきって。あの国では,毎日の夕べが幸福
の約束だった。でもここでは,それどころか ...... カミュにおける «espoir» という単語の特異な用法について,かつて筆者は論考を行ったことがある。「カミュ
における反シーシュポス的 espoir»」,
『カミュ研究』第4号(
「カミュ研究会」編,発行:青山社),2000 年5月,
pp. 1-25 を参照。
123PLI,
124
p.474 における注 b と p.1351. ほぼ同一のテクストなので,ここでは引用を行わない。
PLI, p.479- における注 e と pp.1351-52. ここでのウォーカーの注解は,〈A〉の部分の記載がなく,そこに注 b
の内容を入れて読むようになっているので,たいへんわかりづらい。第1稿を解読するのに後年のテレビ稿
のテクストを使わせると言うのは非常識の極みで,ページの節約にもほどがあると言うべきだろう。キヨの
方は,
〈A〉〜〈B〉のテクスト全体を漏れなく挙げている。PLI, p.152 における注3と pp.1804-05。下線は筆
者による。
125
PLI, p.479 および同ページ注 f と p.1353. また PLT, p.152 および同ページ注4と p.1805. さらに Mal47, pp.58-59.
下線は筆者による。
108
確実に,愛が尽きていくということだ。今ここにい
ない人に我を忘れて手を差し伸べようとすることの
つらさ,そして,その人に背を向けることのさらな
るつらさ!少なくとも今は,ここで僕を呼んでいる
ものなど,どうでもいい。僕の思いは,マリアへと
向かう。マリアは,宿の部屋で,いすに深く腰を沈
めきり,心は閉ざされ目は渇き,不安な思いでこの
不幸の色をした空を見つめているのだ。わかれば,
せめてわかれば,この愛だけが僕のすみかではない
のかどうか。
〈B〉いいや,そんなことはむだだ。前に進むことで
しか,わかりはしない。幸福に似た夕べであれ,不
幸に似た夕べであれ,何があろう。人のために作ら
れたかもしれぬ空に,何があろう。どんな空にあっ
ても,どんな夕べでも語りかけてくるのは,同じ無
関心についてだ。夕べが僕の役に立てるとしても,
僕が生きる助けになれるとしても,物事を知る役に
立ちはしない。見つめようと愛そうと,いったい何
になろう。本当に僕のすべきことが思いがけぬ出来
事なのだとしたら,じっと物思いにふけるよりも大
いなる出来事などはない。そしてここは僕の独房な
のだ。
(部屋を見渡す)いやいや,この不安には理由がな
い。望んでいることを知っていなければいけない。
この部屋でこそ,なにもかも解決するのだ。
〈この後で,マルタが入ってくる〉
〈第 2 場冒頭〉
ジャン:[...] マリアが待っている。どうしてその元へ
駆けつけないのだろう。僕に失われているのが愛な
ら,知ることなど何になろう?僕が異邦人のままな
ら,祖国など何になろう?いいや,そんなことはむ
だだ。前に進むことでしか,わかりはしない。そし
てこの部屋でこそ,僕は心の静かさを得るのだ。
(立
ち上がる)けれども,何と言う寒さだ!
〈44 年版:第 2 場冒頭〉
ジャン:[...] だが,あの娘のせいで,ひたすら,ここ
を発ちたい,マリアに会いたい,また幸せになりた
いという気持ちが起こる。なにもかも馬鹿げてい
る。僕はここで何をしているんだ?いやちがう,母
さんと妹に対してなすべきことがあるんだ。あまり
に長いこと忘れてしまっていた。[二人に果たすべき
ことがあるんだ。二人に対して責任があるんだ。そ
してああした場合は,僕が誰だかわかってもらい,
「僕だよ」と言うだけでは十分ではないんだ。加え
て,愛してもらわなくていけないんだ。
:47 年版で
削除]
(立ち上がる)そうだ,この部屋でこそ,なに
もかも解決するのだ。
ジャンは自ら名乗らずとも母親と妹によってすぐに自分だと認めてもらえると期待していたが,そ
れが空しい結果に終わると,二人が気が付くまで旅人の役割を「演じ」ようとする。プロローグに
おいて(44 年版以降は第 1 幕第 3 場・第 4 場)
,「僕だよ,とひとこと言えばそれで済むのに」と
いう妻の意見を退けると,第 1 幕第 3 場(44 年半以降は第 6 場)で,なんとか母親に気が付いて
もらおうと言葉の限りを尽くすがうまくいかない。そして改稿ブロック 1 − 1 にあるように,今度
は妹に言葉を投げかけてみるが,地中海の自然への共感は得られたものの,この客が兄だと気付く
気配も見せない。すっかり意気消沈したジャンは,この計画をあきらめ,マリアの元へ戻ろうと考
える。そして第 1 稿では,自分のいる部屋が「独房 cellule」であるとまで言い放つ。しかし第 2 稿
においては,「前に進もう」と考え直し,部屋のことを「心の静けさを得る je serai pacifié」場であ
ると思い直すことになる。さらに 44 年版になると,「この部屋でこそ,なにもかも解決するのだ
cʼest dans cette chambre que tout sera réglé」という言葉を,第 2 場冒頭に続いてもう一度繰り返し,
「母さんと妹に対してなすべきことがあるんだ jʼai la charge de ma mère et de ma sœur」と,自分の責
任をきっぱり口にすることとなるのである。ジャンのモノローグにはこの続きがあり,それは第 3
場まで続くが,その部分は第 2 稿から 44 年版に移る際に改稿されることになるので,次節で取り
扱うこととする。
109 【改稿ブロック 1 − 3:第 2 幕第 7 場におけるジャンのモノローグ】
この後の第 4 場に,妹が薬を仕込んだ茶を運んでくる。第 6 場になり茶を飲むのを止められない
かと母親が部屋に上がってくるが,時すでに遅し,ジャンは第 5 場で茶を飲んでしまっている。そ
して母親と息子の最後の会話,つまりジャンが救われるかもしれない最後の機会が訪れるが,やは
り彼は名前を明かすことができず,母親も息子に気が付かない。母親が部屋から出て行った後,薬
が効いてきたために次第に意識が不明瞭になりながらジャンが第 7 場で行うモノローグが,改稿ブ
ロック 1 − 3 となる。実はこの部分のウォーカーの注解は,第 1 稿から第 2 稿への改稿が 2 種類挙
げられていて,やや不明瞭である。ただ,第 2 稿は第 1 稿を丸ごと写した上で改稿部分を挿入して
作られたという経緯があるので,第 2 稿では 2 度にわたって修正されたと判断し,第 1 稿に基づく
修正を左側に配置し,全面的な書き直しであるものを右側に配置した。このモノローグは,さらに
44 年版において作り直され,58 年版でも修正されており,ジャンの最後の言葉についてカミュが
ずいぶんと苦労したことが理解される。最終的な 58 年版のモノローグは,第 1 稿におけるマリア
への愛の言葉が完全に削られて,非常に簡素なものとなっている。
第 1 稿:第 2 幕第 7 場 126 → 第 2 稿:第 2 幕第 7 場 127
(息子は,母親が出て行くのを目にする。突然,激し
い興奮に駆られる)
息子:マリア!今夜だけは離れ離れになるまい。違
う,ここは僕の家ではない。人の愛が待っている別
の家へ向かおう。この愛よりも高みにある愛などは
ない。僕の手に余るものを探し求めてもむだなこと
だ。あした,妻の手を伴って戻ってきて,こう言お
う。
「僕だよ」。どんなやり方で僕だとわかってもら
おうが,どうでもいいではないか。その後僕はここ
を去り,もう一度あの愛とともに生き,あの愛とと
もに死を迎えるのだから。美が現在のものでしかな
いあの国で。そうだとも。それに,何も悔やむま
い。少なくとも,この長い旅路のことで,まだ不安
でしかないものを確信に変えることができたなら,
そして,幸福へと生まれ変わるためには夢に死すこ
とに同意しなければならないと,この先ずっとわき
まえることができたなら。今夜は,なにもかも入り
乱れている(ベッドに座る)
。だが明日は,ウイかノ
ンか,僕の夢が正しかったのかどうか,ようやく答
えを得ることになるのだ
[第 2 稿における修正:それに,何も悔やむまい。
この長い旅路の終りに,僕の夢が正しいものであっ
たかどうか,この先ずっとわきまえるのだ。今夜
は,なにもかも入り乱れている。だが明日は,たぶ
ん,まだ不安でしかないものが確信へと変り,幸福
〈第 2 稿〉
(息子は,母親が出て行くのを目にする)
ジャン:「僕だよ」でも,ああ,お母さん,なんて遠
くにいるんだ。おかしい,なにもかもひどく遠くに
思える。これから落ち合わなければならないマリア
のことさえ(ため息を付き,横になりかかる)
。だれ
も僕のそばにいない。なにもかも遠ざかる。マリア
は海の向こう側へ,ひどく遠くに。そしてお母さ
ん,なんというへだたり!(口ごもり,横になる。
まだことばは聞こえる)僕の手に余るものを,どこ
に探しに行けばいいんだ。僕の夢が正しかったかど
うか,どこでわかればいいんだ(切れ切れの声で)
いまこの時間は ...... つらい。(不明瞭な二言三言。彼
は身じろぎをし,眠る [......])
〈44 年版〉
ジャン:なにもかも,そうだ,なにもかも簡単にし
なくてはいけない。明日,マリアと一緒に戻ってき
て,こう言うんだ「僕だよ」。二人を幸せにするの
に,なんの邪魔もないはずだ。わかりきってるじゃ
ないか。マリアの言う通りだ。
(ため息をつき,横に
なりかかる)ああ,今夜はいやだ!なにもかも遠ざ
かる。
(すっかり横になる。不明瞭な二言三言。よう
やく聞き取れるほどの声で)ウイかノンか?
〈58 年版〉
ジャン:明日,マリアと一緒に戻ってきて,こう言
126
PLI, p.483 の注 o と p.1354. PLT, p.158 の注3と p.1808. ただし,PLT の注の後半(p.1809 のページ上半分の部分)
127
PLI, p.483 および同ページの注 o と p.1354. また PLT, p.158. さらに Mal47, p.67. 下線は筆者による。
は間違っている(詳しくは後述の,改稿ブロック 2 − 3 の部分を参照)。下線は筆者による。
110
へと生まれ変わるためには夢に死すことに同意しな
ければならないと,おそらく学ぶことになるのだ]
。
うんだ「僕だよ」
。二人を幸せにするのに,なんの邪
魔もないはずだ。わかりきってるじゃないか。マリ
アの言う通りだ。
(ため息をつき,横になりかかる)
マリアの言う通りだ。
(ため息をつき,横になりかか
る)ああ,今夜はいやだ!なにもかも遠ざかる。
(すっかり横になる。不明瞭な二言三言。ようやく聞
き取れるほどの声で)ウイかノンか?
また,
「お母さん」と呼びかけている第 2 稿のモノローグは,『誤解』のさまざまな版本・未定稿を
通じて,最も心を打つものの一つだろう。ここにはおそらく,第 5 章で見ることになるカミュの内
心の叫びが,恐ろしく直接的に反映されている。だが,それゆえにこそ作家は,この部分を 44 年
版で採用することをためらったのであろう。
【改稿ブロック 1 − 4:第 3 幕第 3 場におけるマルタとマリアの会話の一部】
このブロックは,第 3 幕第 3 場における,ジャンの妻マリアとマルタの凄絶なやり取りの後半で
ある。犯行の翌朝,マルタは解放感に浸り,これで太陽の国へ旅立てるという思いで一杯になる。
マルタに引きずられる形で共犯になってきた母親も,娘が喜ぶ姿に満足を感じる。だが例の老使用
人がジャンのパスポートをさし出し,ギリシア悲劇で言うところの「認知(アナグノーリシス)
」
が起こって 128,舞台は一挙に暗転する。母親はただちに息子の後を追うことを決意し,自分を捨
てないでほしいという娘の懇願を退けて,ジャンが沈んでいる川へと向かう(第 3 幕第 1 場)。し
かしマルタは,自分の罪を悔いることなどなく,幸せを希求する人間の思いが打ち砕かれるという
この世界の不条理に対して精一杯の反抗の叫び声を上げる(第 3 幕第 2 場)。
そこへ,夫のことを案じたマリアがやって来る。マルタから,ジャンの身に起こった一部始終
と,義理の妹と母親が殺人者であったことを聞かされたマリアは,驚愕と悲嘆の叫びを上げる。だ
がマルタは,一片の同情すら見せることなく,逆に怨嗟の声をマリアに浴びせ続けるのである(第 3 幕
第 3 場)
。この二人の激しく切ない台詞の応酬の前半は,第 1 稿からほとんど変更が認められない 129。
それだけ初めから完成度が高いとカミュ自身が判断していたか,あるいは非常にこだわりのあるテ
クストだったのであろう。まずその部分から抜粋してみよう。
マルタ:[...]あなたの旦那さんは,川の底に沈んでいるわよ。昨日の夜,眠り込ませてから,母さ
んとあたしがそこへ運んだのよ。苦しまなかったわ。でも,死んだことに変わりはないわね。あたし
たちが,旦那さんの母親とあたしが,殺したのよ。
マリア:私の気がおかしくなったんだわ。この世でこれまで誰も聞いたことのないことばが聞こえて
128 「認知とは,その名が示しているように無知から知への転換――その結果として,それまで幸福であるか不
幸であるかがはっきりしていた人々が愛するか憎むかすることになるような転換――である。認知のもっと
もすぐれているのは,
『オイディープス王』における認知のように,それが逆転と同時に生じる場合である。」
アリストテレース『詩学』
,松本仁助・岡道男 訳,岩波書店(岩波文庫),p.48.
129
修正されているのは,47 年版からマリアの次の台詞が削られたことだけである。ジャンとマリアの会話でマ
ルタの名前が出ることがなかったので,不自然であるとカミュは考えたのであろう。「ねえ,マルタ―だっ
てあなたはそういう名前なんでしょう?」
(PLI, p.493 における注 t と p.1358.)
111 くるなんて。[...]
マルタ:あたしの役割はあなたを納得させることじゃなくて,あなたに教えてあげることよ。自分で
確かめてみたらわかるわよ。
マリア:でもどうして,どうしてそんなことをしたの?
マルタ:何の名において尋ねているのかしらね。
マリア(叫び声を上げる):愛の名においてに決まってるじゃない!
マルタ:そのことばの意味がわからないわね。
マリア:愛っていうのは,たったいま,私を引き裂き私を苛んでいるすべてのもの,人殺しに対して
両手を拡げようというこの狂った思いのことよ。過ぎ去ってしまった私の喜び,あなたがもたらした
ばかりの苦しみのことよ。[...]
マルタ:まったく,あなたの話すことばは,わけがわからないわ。愛だとか,喜びだとか,苦しみだ
とか,いったい何のことかしらね。
[...]
(マリアは泣きながらマルタの方へ向かおうとする)
マルタ(後じさりして,再びきつい声になる)
:さわらないでって,言ったでしょ。死ぬ前に人の手が触
れて暖かみを押し付けられるなんて考えただけで,人間の忌まわしい優しさに似た何かがなおも追っか
けてくるかと考えただけで,血の怒り狂った流れという流れが,このこめかみにのぼってくるわ。
(マリアは立ち上がり,二人の女はお互いに正面から向かいあう)130
一方,これに続く二人の長く激しいやり取りが,第 1 稿から第 2 稿へかけて大きく書き直されてお
り,おそらく,第 2 稿においてカミュがもっとも苦心を重ねた部分であることが推察される。兄を
殺した妹と,夫を殺害された妻,この二人の女の盛り上がる感情の対立を,通俗的なものに堕さな
いように,悲劇としての格調を高めるように,そして真実らしさが生じるように,カミュは努力を
払ったのであった(もっともその努力は,初演時には報われなかったのであるが ......)
。マリアは,
夫が殺されたこと,しかも家族の手にかかって命を落したことへの驚愕と悲しみに突き落とされる
が,マルタに対して怒りを爆発させるよりも,自分の不幸に共感をしてもらいたいとマルタに言い
募る。だがマルタは,人間的なものを求めるマリアを退け,自分が何者かわかってもらえないとい
うことこそ物事の「筋道 ordre」なのだと言い放つ。さらに,
「太陽と海の土地へ渡るという積年の
願いがかなわなくなったうえに,母親からも見捨てられた自分こそが,マリアよりも不幸な存在な
のだ」と第 1 稿のマルタは断言するが,表現が直接的すぎると判断されたのか,その部分は第 2 稿
では削除されている。
第 1 稿:第 3 幕第 3 場 131 → 第 2 稿以降:第 3 幕第 3 場 132
マリア:[...]もう私は,誰を愛することも,憎むこ
ともできないのよ。たった今から,あの人のことが
ずっとのしかかってくるのだから。生きていたあの
130
131
マリア:
[...]もう私は,誰を愛することも,憎むこ
ともできないのよ。
(突然両手で顔を覆う)それに本
当を言えば,苦しむ時間も怒る時間もほとんどな
PLI, pp.493-495. PLT, pp.173-177.
PLI, p.496 の注 w と p.1358. および注 y と pp.1358-59. また,PLT, p.177 の注 4 と p.1819. ただし,PLT の注では,
第1稿の後半部分が収録されていない。下線は筆者による。
132
PLI, p.496 の注 w と p.1358. および注 x と p.1358
112
人の愛よりも,あの人の思い出の方がずっと重く,
ずっと苦しいものとして運んでいかなくてはならな
いのだから。いま始まるのは涙の時であり,怒りの
時はいま終わるのよ。それに本当を言えば,苦しむ
時間も怒る時間もほとんどなかったわ。不幸は,私
よりもずっと大きいのよ。
マルタ:この事情について正しく考えてもらわない
と,あなたの涙と愛にうんざりさせられるばかりだ
わね。けれどもたぶん,なにもかもよくわかってい
るのだろうし,今自分がいるのが筋道だってことを
納得してるんでしょう。誰なのかわかってもらえな
かった連中はみんな殺されて死ぬというのが,筋道
なのよ。そして,誰も自分だとわかってもらえない
というのが,筋道なのよ。あなたに話をしているこ
のあたし,自分の空から金輪際遠ざけられてしまっ
たこのあたしが誰だか,わかるとでも言うの?母親
の愛を失う時のあたしが誰だか,わかるとでも言う
の?でも,あなたに泣き言を聞かせたりはしないわよ。
マリア:でも,私は泣き言を言いたいし,苦しみに
身を委ねたいわ。今は涙の時だし,あなたの声も
やっと聞こえるだけ ― むしろ,あなたの言葉の
中に,愛した人の姿の影を求めている。私がこころ
ひかれるのは,あの人だけなのよ。
マルタ:もういなくなった人間のことで泣き言を
言って何になると言うのよ。あいつがやって来たの
は,金輪際追放の憂き目に遭う,辛さの家なのよ。
兄さんは,人の心にある愚かさという愚かさでいっ
ぱいだった。自分が誰だかわかってもらおうとし,
おなじく,家族と一緒になりたいと思った。一緒に
はなれたけれど,誰だかわかってはもらえなかった
わね。そしてやっとわかってもらえた時には,もう
永遠の別れだった。納得しなさいよ,愛に傷ついた
奥さん。泣くのをやめなさいよ。自分の国は,死の
中でしか見いだせないのよ。それで夢も終りってわ
け。ほら!いのちにおいても死においても,人の心
にとっての安らぎなんかないのよ。追放のうちに生
きた人間は,死によって,最後の追放をこうむるん
だわ。なぜって,自分の国だなんて呼べないじゃな
い,光を奪われ,目の見えない獣を食べて命をつな
ごうとする,この厚ぼったい土地のことなんか。だ
から泣くのをやめて,なにもかもむなしいんだって
悟りなさいよ。
マリア:私が愛した人は,そんなふうには考えな
かった。あの人の国を探す旅に,きっぱりと向かっ
たのよ。
マルタ:あいつはその答えを今日受け取ったわけ
ね。あなたも受けとることになるわ。このわめき
声,この魂のおびえ,この大きな人間の呼び声,愛
へ向かうのか海へ向かうのか,この深い叫び声,そ
うよ,そんなものは取るに足りないわ。あの大げさ
な希望は答えを受け取るのよ。「大地の息子たちよ,
汝等の家を与えん」その通りに,最後には家をもら
える。やつらが戻ってくるのは,この忌まわしい家
で,木々の根っこが,やつらのまなこをえぐり出す
んだから。[...]
かったわ。不幸は,私よりもずっと大きいのよ。
マルタ:でも,いくら大きな不幸だからと言って
も,あなたに涙を残してくれているんだから,まだ
まだだわね。永遠のお別れを言う前に,まだやり残
したことがあるようだわ。あなたを絶望させてあげ
なくちゃね。
マリア(恐怖でマルタを見つめる):ああ,ほってお
いて!行ってちょうだい!私をほっておいて!
マルタ:ほっておいてあげるわよ。その通りにね。
その方があたしも楽だしね。あなたの愛とか涙とか
にはうんざりするもの。けれども,あなたが正しく
て,愛はむなしいものではなくて,これは偶然の出
来事だったなんて考えを抱かせたままで,こちらが
死ぬわけにはいかないのよ。あたしたちが今いるの
が,物事の筋道ってやつなんだから。あなたに納得
してもらわなくちゃね。
マリア;どんな筋道なの?
マルタ:誰だって,自分が何者だかわかってもらえ
ないということよ。
マリア(我を失って)
:何だって言うの。あなたの言
うことはほとんどわからないわ。私の心は引き裂か
れ,私が心ひかれるのは,あなたが殺したあの人の
ことだけなのよ。
マルタ(激しく)
:おだまり!あんなやつのことなん
か,もう聞きたくないわよ。あいつなんか大嫌い
だ。あなたにとってももう何でもありゃしない。あ
いつがやって来たのは,金輪際追放の憂き目に遭
う,辛さの家なのよ。ばかな奴! あいつは自分の望
むものを受け取った。探していたものを見つけた。
あたしたちはみんな筋道の中にいるのよ。わかって
もらいたいわね。あいつにとっても,あたしたちに
とっても,いのちにおいても,死においても,自分
の国なんてないし,安らぎなんかもないってこと
を。
(軽蔑に満ちた笑い声を上げて)なぜって,自分
の国だなんて呼べないじゃない,光を奪われ,目の
見えない獣を食べて命をつなごうとする,この厚
ぼったい土地のことなんか。
マリア(泣きながら)
:ああ神様,できません,こん
なことばに耐えることなどできません。あの人だっ
て,耐えられないはずです。あの人が探していたの
は,もっと違う祖国なのです。
マルタ(扉のところまで行きかけて,急に戻ってく
る)
:その愚かさは,報いを受け取ったわよ。あなた
ももうすぐ受け取るわ。
(同じ笑い声で)あたしたち
は裏切られたのよ。請け合うわ。このわめき声,こ
の魂のおびえが,何の役に立つと言うの?なぜ海に
向かって叫んだり,愛に向かって叫んだりするの?
取るに足らないわ。あなたの旦那さんは,いまでは
答えを知っているのよ。この忌まわしい家で,あた
しがやつらを一緒にして,木々の根っこが,私たち
ののまなこをえぐり出すってわけ。
[44 年版:この
忌まわしい家で,あたしたちはようやく身を寄せあ
うってわけ。
]
[...]
113 1943 年 7 月にいったん完成された『誤解』は,同年 9 月に,このような数々の重要な改稿過程を経て
第 2 稿へと達したのである。この過程は,資料として第 1 稿しか用いることができなかったプレイ
ヤッド旧版ではわからなかったものであり,近年新プレイヤッド版カミュ全集が出版されたことで
初めて明らかになったのである。
3 − 3 .第 2 稿から 44 年出版稿へ
作家が手書きで原稿を書いていた時代,まず手書き原稿からタイプ原稿を作成して,そのタイプ
原稿によって印刷所へ入稿するのが一般であった。また,タイプが上手でない作家の場合,家族や
友人など第三者にタイプを依頼することも多かった。カミュもその例に漏れず,作品のタイプを実
に様々な人々に頼っている。
『誤解』の場合は,3 − 1 で見たように,この頃親しくしていたブ
リュックベルジェ神父に依頼しており,そのお礼のためか,
『誤解』第 2 稿の草稿を神父に献じて
いる。そしてこのタイプ原稿は,当然のことながら,カミュが指示を行った修正以外,第 2 稿の手
書き原稿とほとんど相違がない。したがって,1944 年の出版稿は,第 2 稿とほぼ同一のものとな
るのが自然であろう。
ところが,ここで一つのミステリーが生じる。『誤解』の変容過程において最も劇的な変化が起
きたと述べてもよいのが,この第 2 稿から 44 年版へかけてなのである。まず,改稿ブロックとし
て挙げられる部分が 5 箇所を数える。
改稿ブロック 2 − 1:プロローグの削除と第 1 幕への新たな第 2・第 3・第 4 幕の挿入
改稿ブロック 2 − 2:第 1 幕第 7 場における母親のモノローグ
改稿ブロック 2 − 3:第 2 幕第 2 場におけるジャンのモノローグ。
改稿ブロック 2 − 4:第 2 幕第 3 場におけるジャンのモノローグ。
改稿ブロック 2 − 5:第 2 幕第 5 場におけるジャンのモノローグ
特に改稿ブロック 2 − 1 が重要であろう。第 1・第 2 稿にあったジャンとマリアの長い会話で形成
されるプロローグが削除され,その内容が縮約されて,新たに第 3 場・第 4 場として挿入されるの
である。また,ジャンが登場する場面として新たにごく短い第 2 場が追加される。その結果,第
1・第 2 稿の第 2 場が,44 年版では第 5 場となり,以降,順次繰り下がることとなる。
この比較は,プレイヤッド新版においてプロローグが完全な形で収録されたために,初めて可能
となったものである 133。ただし,このテクストの扱いには若干の留保が必要となる。収録された
のは,第 2 稿におけるプロローグであって,第 1 稿のプロローグはどのようなものであったか,第
133
注解においてではなく,
「Appencices 付随テクスト」として,『誤解』の本文の直後に収められている。PLI,
pp.499-504.
114
1 稿から第 2 稿にかけてプロローグに改稿が施されたのかどうかが,不明だからである。ただし,
ウォーカーによれば第 1 稿からプロローグの部分だけ切り取られているというので,その切り取ら
れた原稿がそのまま第 2 稿に貼付けられた(したがってプロローグに関しては第 1 稿から第 2 稿へ
の変更はない)という可能性が高い。
せっかくのプロローグが 44 年版で削除されることになった最大の理由は,もしかすると,上演
に際しての制約だったのかもしれない。プロローグが演じられる場所はブジェヨヴィツェの修道院
という設定であり 134,その通りに上演するとなるとかなり大掛かりな舞台装置が必要となったで
あろう。
『誤解』が初演されたのはドイツ軍占領下のパリであり,資金も物資も人手も,何もかも
欠乏していた。プロローグを削除し 44 年版以降の形にしたことで,舞台設営で必要なのは宿屋の
1 階のホールと,2 階のジャンの泊まる部屋だけとなった。これは劇場側にとって大変な経費節約
となったことであろう。
しかしながら,この改稿の結果,
『誤解』の序盤における伏線が大きく変化したことは重要であ
る。第 1・第 2 稿では,母親と妹に再会したものの,二人が自分に気が付いてくれなかったとジャ
ンがマリアに語ることから芝居が開始される。そしてジャンは,気が付いてもらえるまで見知らぬ
旅人の振りをするという決意をマリアに伝える。このように上演されたならば,観客の関心は当然
ジャンの「演技」がどこまで続くのかという点に集中したであろう。ところがプロローグが終わり
第 1 幕が開くと,ジャンの妹と母親は実は人殺しであり,次の獲物としてジャンを狙っているとい
う事実が明かされるというどんでん返しが起こる仕掛けになっていたのである。
だが,プロローグを削除した 44 年版以降では,芝居は母親とマルタの会話から始まるので,二
人が旅人を殺めては金品を奪う常習犯であることと,次の獲物に狙いを付けていることが最初に示
される。観客の興味は,それでは次の犠牲者はどのような人物なのかということに集まるであろ
う。そこで第 2 場へと移り,その人物がほかならぬ兄であり息子であるという衝撃の事実が示され
る。その上でジャンは自分の名を明かさないとマリアに告げる。こうして,ジャンの正体はいつ母
親と妹に明らかとなるのか,ジャンは助かるのか犠牲者に名を連ねるのかということが,語源通り
の「サスペンス」として続くことになるのである。
これほど重要な変更を含む 44 年版への改稿は,いつごろ,どのようにして行われたのであろう
か。『誤解』初版の出版は 1944 年 5 月だが,3 月からすでにマチュラン座の稽古が始まっていた。
一方,
『誤解』のタイプ稿(ほぼ第 2 稿と同内容)は 43 年の 10 月にガリマール社に送られている。
したがって,1943 年 11 月〜 44 年 3 月までに期間に改稿が行われたことになる。その改稿はゲラ
刷りの上に施されたのであろうか?残念ながら『誤解』のゲラ刷りは残されていないので確かめる
134
ブジェヨヴィツェには現実に修道院があり,1 − 2 で見た 1936 年の旅の際,実際にカミュがこの修道院を訪
れた可能性がある。ただし,プロローグでは,おそらくは修道院の彫像のことを「バロックの天使たち」と
表現しているが,実際にブジェヨヴィツェにあるのは,ゴチック様式の聖母マリア教会付属ドミニコ会派修
道院である。
115 術はないが,ゲラの上に書き込むには膨大な修正なので,修正部分を新たに書き直してゲラに挟み
込んだという可能性もある。
すでに述べたように「第 1 稿修正」は,実は第 2 稿修正で,プロローグを削除した後の台詞の変
更が記されているということから,そのかなりの部分が 44 年版の元となった可能性が高い。だが
ウォーカーはそのような視点からの分析を行っておらず,また,注解で「第 1 稿修正」の異文を取
り上げることもほとんどないので,確認することができない。「第 1 稿修正」以外にも 44 年版の元
となったメモが存在する可能性もある。
さらに,いったん出版社に送った原稿をこれほど大きく書き直すというのは,カミュ自身の判断
だけに基づくものだったかどうかにも疑問が残る。ウォーカーは,ガリマール社の校閲係から修正
するように要請があったのでないか,という示唆を行っている 135。もう一つ考えられるのは,マ
チュラン座のマルセル・エランが,原稿の状態で『誤解』を読み,主として実際の演出上の効果か
ら台本の書き換えをカミュに提案したのではないか,ということである。また,3 月に稽古が始
まってから舞台での効果を実際に見てカミュが書き直したという可能性に関して検討すると,出版
が 5 月であることを考えると,それには無理があるように思われる。いずれにせよ,ウォーカーは
« Ces questions resteront sans réponse.» と述べるに止めており,ロットマンの評伝もトッドの評伝も
この問題には何の情報をもたらしてくれていないので,残念ながら謎を解き明かすことができない。
プロローグ以外の改稿ブロックを検討すると,ジャンのモノローグが 3 つも占めており,第 2 稿
への改稿と同様,44 年版への改稿においても,ジャンの人物像の修正が重要であったことが見て
取れる。残る 1 つが母親の人物像を語るモノローグであり,第 2 稿へと移る時にも字句の修正がか
なり施されていたが,44 年版になると,モノローグ全体がぐっと圧縮され,母親の内心はむしろ
観客には伏せられるような形になっている。
それでは,各ブロックにおける改稿の様子を具体的に見て行こう。
【改稿ブロック 2 − 1:プロローグの削除と第 1 幕への新たな第 2・第 3・第 4 場の挿入】
第 2 稿までのプロローグでは,ブジェヨヴィツェにある修道院で,マリアがジャンを待ってい
る。ジャンは自分の生家=宿に母親と妹を訪ねに行ったのだ。修道院に戻ってきたジャンにマリア
が話しかけることから,舞台は始まるのである。これに対して 44 年版以降では,宿屋に来たジャ
ンがいったん出て行ったと母親とマルタが会話していることから,ジャンがマリアの元へ一度戻っ
たというシチュエーションで芝居が始まっていることがわかる。だがその際,プロローグで語られ
るようなジャンとマリアの会話は行われなかったという設定らしく,第 1 幕第 2 場でジャンがまた
宿屋へ来た際にマリアが後をつけきて,宿屋のホールで二人の会話が行われるのである。そのた
め,プロローグでは最後に立ち去るのがジャンであるのに対し,44 年版の第 4 場で最後に立ち去
るのはマリアとなる。
135
PLI, p.1339.
116
第 1・2 稿におけるジャンとマリアの会話は,長大なものである。プロローグという位置づけ
だったからこそこれだけ長いやり取りが可能だったわけであり,プロローグの内容を第 2 場以降に
移動し統合するためには,内容を切り詰める必要が生じたと思われる。そのため,44 年版以降の
会話は,かなり刈り込まれたものとなっている。ここでは,第 2 稿から 44 年版への移行が把握で
きるような形で,抜粋を引用することする。
第 1・2 稿:プロローグ 136 → 44 年版以降:第 1 幕第 3 〜 4 場 137
プロローグ:ブジェヨヴィツェの小さな修道院
(マリアはベンチに座っている。ジャンが登場。二
人とも旅行着を着ている。修道院の奥には,修道僧
が一人いて,動かない)
マリア(遠くから):うまくいった?
ジャン(同じく遠くから)だめだった。
(急いでマリ
アの元へ行く)
マリア:見つからなかったの?
ジャン:会ったよ。
マリア:二人とも驚いた? 喜んでいたでしょ?
ジャン:いや。(ためらう)僕だとわかってもらえな
かったんだ。
マリア:まさかそんなことが! 母親というのは,
息子のことがすぐにわかるものよ。せめてそれだけ
はできるものなのよ。
ジャン:そうだね。けれど,20 年も離れていて音信
も不通だと,事情がすこし変わるんだと思う。アフ
リカに旅立った時,ぼくはまだほんの若者だった
し,妹はまだ小さかった。でも,生活は続いた。僕
は大人になったし,母さんは年老いて,目が衰え
た。僕だって,ようやく母さんだとわかったくらい
なんだ。
マリア:でも結局は,話しかけたんでしょ?
ジャン:やっとのことでね。あの宿のことはよく覚
えていなかった。ためらいながら入ったんだ。二人
はホールにいた。こちらを見る様子から,僕だとわ
かっていないと悟ったんだ。「こんにちは」と言っ
て,何歩か歩んで,腰を下ろした。ホールは,僕の
思い出とはずいぶん違っていた。記憶がまちがって
いたんだ。でも僕は,しばらくのあいだ待っていた
んだ。驚きの声をね。飲み物を頼んだよ。妹は黙っ
て出ていった。老人がぼんやりした様子で入ってき
て,飲み物を置いた。そのあいだずっと,母さんは
僕に視線を向けていた。けれども,うけあってもい
い,僕を見ていたわけではなかったんだ。結局,だ
れも大声をあげたりしなかった。頼んだビールを飲
んだよ。
[...]
136
137
第3場
(マリア登場。ジャンは急に振り返る)
ジャン:ついて来たのかい。
マリア:ごめんなさい。でも,無理だったの。たぶ
んすぐに帰るわ。でも,あなたを一人にしておく場
所を見せておいて。
ジャン:人が来たら,僕のやりたいことがだめに
なってしまうよ。
マリア:せめて,だれかがやって来て,あなたの思
いに反して,あなたが誰だか私が教えてしまうとい
う,この機会を大事にしましょうよ。
(ジャンは背を
向ける。間)
マリア(あたりを見渡す):ここなの?
ジャン:そう,ここだよ。僕はこの扉を開けた。20
年前のことだ。妹はまだ小さかった。この隅っこで
遊んでいた。母さんは,僕にキスをしにやって来な
かった。その時,どちらでもいいことだと思ったよ。
マリア:ジャン,お母さんたちがすぐにあなただと
わからなかったなんて,信じられないわ。母親とい
うものは,息子のことがすぐにわかるものよ。せめて
それだけはできるものなのよ[58 年版:一文削除]。
ジャン:そうだね。でも,20 年も離れていると,事
情はすこし変ってしまうんだ。僕が旅立ってから,
生活は続いた。
[58 年版:20 年も会っていなかった
んだよ。あの頃僕は若くて,まだ少年と言ってもい
いくらいだった。
]母さんは年老いて,目が衰えた。
僕だって,ようやく母さんだとわかったくらいなんだ。
マリア(辛抱できずに)
:わかってるわ。あなたは部
屋に入って,
「こんにちは」と言って,いすに腰を下
ろした。この部屋は,あなたが覚えていたものとは
違ったのよね。
ジャン:僕の記憶がまちがっていたんだ。二人は,
何も言わずに僕を迎え入れた。頼んだビールを出し
てくれた。僕に目をやったけれど,僕を見てはくれ
なかったんだ。何もかも,考えていたよりずっと難
しかった。[...]
PLI, pp. 499-501.
PLI, pp. 461-.63. PLT, pp.121-125. さらに Mal47, pp.21-25. 下線は筆者による。
117 マリア:待ってちょうだい。わかりやすく話すよう
にしましょうよ。お二人はあなただとわからなかっ
た。それはわかったわ。けれど,そういう時には,
「僕だよ」って話せば,そう口にすれば,なにもかも
うまくいくものなのよ。
ジャン:ああ,そういう時には,そうするものだよ
ね。でもつまり,マリア,僕の場合はそんなにこみ
いったことじゃないんだ。何の準備もしていなかっ
たということなんだよ。僕の頭の中では,息子が
帰ってくるというのは,それだけで話の済むもの
だった。何も問題にならないし,何もかも初めから
解決しているように思われたんだ。「僕だよ」と言
う。泣きながらキスをしてくれる。僕はただ,二人
のために用意しておいた驚きをを楽しみさえすれば
いい。僕は,いろんな想像でいっぱいだったんだ。
でも,そういうことにはならなかった。放蕩息子に
ふるまわれる食事を少しは期待していたんだけれ
ど,出てきたのはビールで,それに金を払ったん
だ。それを見たら,しばらく言葉が口から出なく
なってしまった。それで,最初からうまく行くとは
限らないし,このまま続けねばならないと思ったんだ。
マリア:ああ,ジャン!なにもかも,まともじゃな
いわよ。そんなのはあなたの思いつきだし,たった
ひとことで十分だったはずなのよ。
ジャン:思いつきなんかじゃないよ,マリア。こと
のなりゆきだよ。なにか始めたら,続けなくちゃな
らないんだ。そうだよ,たぶん一言で十分だったは
ずだ。けれどね,僕は君とは違うんだ。君はいつ
だって,必要なふるまい方をかんたんに見つけてし
まうけれど。なにもかも変だった!僕はただ,この
方向に一歩歩みたいと,もっと前へ行きたいと,
思っただけなのに。母さんに部屋はあるかと尋ねた
んだよ。母さんは僕を見た。僕のことがわかっても
らえたと思った。けれども,抑揚のない声で「あり
ますよ」って答えてくれただけだった。よく考えて
みれば,何もおどろくことはないだろう?僕はた
だ,自分の家に戻るというのは,ふつうに言われて
いるほどたやすいことではないし,見知らぬ他人が
息子であるとわからせるには,少し時間がかかると
思ったんだよ。
[...]
ジャン:ここに来たのは,幸せのためじゃないよ。
幸せなら,もう僕らにはある。
マリア:(激しく)
なぜその幸せだけじゃいけないの?
ジャン:僕なりの理由があるんだよ,マリア。でも
つまりは,僕の愛している人たち,母さんと妹と君の
みんなを結びつけるだけで,大したことだろうと思
う。もうそれ以上望むことなんてなくなるだろうと思
えるんだ。僕ら二人の幸せのただ中にあってさえ,母
さんのことを考えると気が休まりはしなかった。だか
らいま,自分の家へ戻らないといけないんだ。明日に
なったら,たぶん,君を連れて行けると思うよ。
マリア(叫び声を上げる)
:じゃあ,私を一人きりに
しておきたいの?
[...]
118
マリア:そんな難しいことじゃないし,話してみれ
ばよかったって,わかってるでしょう。そういう時
には,
「僕だよ」って口にすれば,なにもかもうまく
いくものなのよ。
ジャン:ああ。でも僕は,いろんな想像でいっぱい
だったんだ。放蕩息子にふるまわれる食事を少しは
期待していたんだけれど,出てきたのはビールで,
それに金を払ったんだ。それを見たら,言葉が口か
ら出なくなってしまった。このまま続けなくてはい
けないと思ったんだ。
[58 年版:僕は心をかき乱さ
れて,それ以上口がきけなくなってしまったんだ。]
マリア:続ける必要なんてないわよ。そんなのはあ
なたの思いつきだし[58 年版:削除]
,ひとこと言
えばそれでよかったはずよ。
ジャン:思いつきなんかじゃないよ,マリア。こと
のなりゆきだよ。僕はことのなりゆきを信じている
んだ。それに,それほど急いではいなかった。[58
年版:そのひとことが見つからなかったんだよ。か
まうものか,そんなに急いではいない。
]ここにやっ
てきたのは,お金を,そしてもしできれば,幸せを
いくらか持ってくるためだ。父さんが亡くなったと
知った時,母さんと妹に対して僕に責任があるとわ
かったんだ。それがわかったからには,するべきこ
とをしなくちゃならない。でも,自分の家に戻ると
いうのは,ふつうに言われているほどたやすいこと
ではないし,見知らぬ他人が息子であるとわからせ
るには,少し時間がかかると思うんだよ。
[...]
ジャン:ここに来たのは,幸せのためじゃないよ。
幸せなら,もう僕らにはある。
マルタ:なぜその幸せだけじゃいけないの?
ジャン:幸せがすべてというわけじゃない。男には
義務があるんだ。僕の義務は,母さんを見つけ,自
分の国を見いだすことなんだ。
(マリアが身振りをする。ジャンがそれを止める。足
音が聞こえる。
[58 年版:老使用人が窓の前を通る。
]
)
ジャン:誰か来る。行ってくれ,マリア。お願いだ。
マリア:こんなのはいやよ。できないわ。
ジャン(足音が近づいてくる間に)ここに隠れてい
てくれ。(ジャンは妻を奥の扉の陰に隠す。)
第4場
(奥の扉が開く。老使用人が,マリアを目にするこ
となく,舞台を横切り,玄関から出て行く)
ジャン:今だ,行ってくれ。僕のチャンスなんだ。
[...]
自分が息子であり兄であるとすぐに認めてもらえるだろうという期待が夢想に終わったジャン
は,このようにして,旅人と間違われたのならば,そうではないとわかってもらえるまで,旅人の
役割を「演じ」続けようと決心し,その考えは常軌を逸しているという妻の抗議を説き伏せるので
ある。自分から「息子である」と名乗り出るのでは帰郷を果たしたことにならず,真に故郷に帰還
するためには,そして母や妹との再会を全うするためには,彼女たちの方からジャンであると認め
られることが,欠くことのできない通過儀礼であると,彼には痛切に感じられたのである。『誤解』
を着想するきっかけを作った 1935 年の新聞記事においては,死者は語らずであり,なぜ犠牲者が
自分の正体を明かさなかったかは,当然記されていない。
『異邦人』の中でムルソーが読んだ記事
においては,
「冗談のつもりで」と,男の意図が示されている(あるいは,ムルソーがそう考え
た)
。これに対して『誤解』では,息子であるという認知を希求するという,カミュ作品の根底に
流れる深いテーマの一つが(これについては第 5 章で詳しく検討する)
,ジャンの思いに表出され
ることになるのである。
台詞を切り詰めたのではなく,改稿に際して明らかに内容を変えた点では,以下に着目しておき
たい。まずは父親の扱いである。第 2 稿までのジャンは,「いつかは,戻ってこなければならな
かったはずなんだ。父さんだけが,その妨げとなっていた。だから,父さんの死を知った時,なに
もかもたやすくなったと思ったんだ。
」と語り 138,以前に父親とのあいだに確執があったらしいこ
と,それが,かつて一度故郷を捨てたことの理由の一つであるらしいことが示される。しかしこの
ように父親の存在も家族の問題として上がってしまうと,その後の芝居の展開で父親に対する言及
がまったく行われないのが不自然になる。とはいえ,息子と父親の問題まで持ち込むと,戯曲の筋
立てが複雑になりすぎる。また後述するように,
『誤解』のおける親子関係は,カミュにとって,
あくまで母と息子との関係として焦点を当てるべきものであった。以上のような理由から,44 年
以降においては,ジャンは「父さんが亡くなったと知った時,母さんと妹に対して僕に責任がある
「家族の問
とわかったたんだ。
」とだけ述べるにようになるのである 139。そしてこの台詞自体は,
題が大きなテーマであるのになぜ父親に言及されないのか」という観客の当然の疑問に対する「言
い訳」として機能することになる。
一方で,改稿に際して第 2 稿より詳しく書き込まれているのが,「約束」を巡る部分である。以
下の部分は,第 2 稿のプロローグには認められない。
ジャン:どうかわかっておくれ,マリア。僕には守らなければならない約束があって,それはとても
大切なことなんだ[58 年版:後半削除]。
マリア:どんな約束なの?
ジャン:母さんが僕を必要としているとわかった日に,自分でした約束なんだ。
138
139
PLI, p. 501.
PLI, pp. 461-462. および PLT, p.123. さらに Mal47, p.23.
119 マリア:あなたには,他にも約束があるじゃない。
ジャン:どんな?
マリア:人生を共にすると誓った日に,私にした約束よ。
ジャン:どちらの約束も折り合いをつけられると思うんだ。君に頼んでいるのはわずかなことだよ。
気まぐれなんかじゃない。たった一晩,たった一夜のことだよ。それだけで,自分の道を見つけ,愛
している母さんと妹についてもっとよく知り,どうすれば二人を幸せにできるかわかることになるんだ。140
【改稿ブロック 2 − 2:第 1 幕第 7 場における母親のモノローグ】
第 2 稿の第 4 場において,旅人を装ったジャンは,この宿屋の女将である母親と会話になり,自
分が息子であることに何とか気付かせようとして,さまざまにことばを費やす。女手二人で宿屋を
切り盛りするというのはたいへんではないか,時には男手が欲しいとは思わないか,例えば息子が
いたとしたら,などと。だが母親もマルタも,この旅人の真意に少しの注意も払わず,特にマルタ
は,親密な調子で話しかけられるのは迷惑だ,客らしくふるまってくれと,にべもない。そして,
母親が立ち上がろうとするのにジャンが手助けをしようとしたところ,母親はそれを断る。
「かま
わないでください,息子さんや。あたしはからだが不自由なわけではないんですよ。この両手を見
てごらんなさいな。人の両脚を抱えることだってむずかしくはないんですよ 141」この「息子さん
や mon fils」という言い回しにジャンは敏感に反応して,どうして自分をそう呼んだのかと尋ねる
が,母親からは,
「他意はなく,ただ(若い男性に対する)呼びかけの言い回しにすぎない」とい
う返事が返り,彼は落胆する。だが母親のことば通り,その両手は,これまでいくどとなく,眠り
込ませた旅人を川まで運んで行った,処刑者の両手であったのだ。そして続く第 5 場,母親は,自
分が口にしてしまったことばについて,やって来た新しい犠牲者について,物思いにふけり,そし
て罪を重ねることへの疲労感をもらすのである。
第 2 稿:第 1 幕第 7 場 142 → 44 年版以降:第 1 幕第 7 場 143
あたしの手についてあの客に話すなんて,おかしな
思いつきをしたもんさね。まるで,気をつけるよう
にとあの客に言わなければならなくなって,けれど
も,はっきりと伝えることはできない,というみた
いだったよ。伝えることができたのは,あの曖昧な
ことばだけだった。
[確かに,あの客はほとんど耳を
貸さなかったよ。あの爺さんとうまがあうね。二人
とも,話を半分しか聞かないし,物事をはっきりさ
せようとしないからね。
:タイプ稿において削除]け
れど,あたしの手をじっと見たのだとしたら,マル
タの話の中でわかるまいとしていることを,理解し
たのかもしれない。でもあの客は,耳を貸さないの
140
141
142
143
なんで,あたしの手についてあの客に話したりした
んだろう? けれど,この手を見たのだとしたら,
マルタの話の中でわかるまいとしていることを,あ
いつは理解したのかもしれない。
[58 年版:マルタ
が言おうとしていたことがわかったのかもしれない]
。
PLI, pp. 463-464. および PLT, p.126. さらに Mal47, pp.26-7.
PLI, p. 472. および PLT, p.140. さらに Mal47, pp.43-44.
PLI, p.472 における注 aq, ar と p.1349. 下線は筆者による。
PLI, p. 472. PLT, p.141, および注 1 と p.1800. さらに Mal47, p.45. 下線は筆者による。
120
と同じく,物を見ないね[ほんのわずかしか耳を貸
さないし,物を見ないね:第 1 稿]
。ああいう人間に
は会ったことがないよ。ほとんど疑いを知らず,敵
意に満ちたことばだとはけっして認めようとせず,
気まずさを感じず,何の役にも立たないというのに
どうしてもとどまると言い張るとはね。
[...]
マルタでさえ,あのいけにえのことを無邪気とは思
いたくないようだよ。でも,いけにえが自分で身を
差し出しているんだ。首を伸ばしてね。あいつが望
んでいるのはいけにえを捧げる祭壇で,他のところ
じゃないんだよ。あいつのにおいがするよ。あいつ
は,お茶をくれと言う。いやむしろ,あたしたちが
忘れていたら,自分から姿を現わす。自分の子供の
頃をしゃべりたてる。一人きりなんだと述べたて
る。自分のことをかまってもらえるまで,お茶を受
け取って,眠りつくまで。あいつは自分を犠牲とし
て 捧 げ る[ し, 無 垢 の 力 を 持 っ て い る: 第 2 稿 か
ら]。自分に危険をもたらすものが何であっても,あ
いつの[耳には聞こえないし:タイプ稿において削
除]目には入らないんだ。自分のすることの一つ一
つが,危険を引き寄せているというのに[自分のす
ることの一つ一つ,自分のことばの一つ一つが,危
険を招いているというのに:第 1 稿]
。
ああ,自分で身を差し出す[,そして身を捧げ
る:タイプ稿で削除]いけにえの方が,逆らういけ
にえよりも,運ぶのに重いものでありますように!
なぜ,あの男には死に行く心根があれほど恵まれて
いて,あたしには,もう一度殺すための心根がこれ
ほどわずかでしかないんだろう?この苦難とこの疲
れが,どこかへ行ってほしいものだよ。あいつが
[この家が自分を襲う者の家だと悟って,やっと:第
2 稿で削除],立ち去ってくれないものかね,あたし
が横になり眠ることができるように。あたしは年を
取りすぎて,またしてもあいつのくるぶしを両手で
つかんで,川へ向かう道のあいだあいつの体がぶら
ぶらするのを感じ続けるなんて,無理な話だよ。あ
たしは年を取りすぎて,あいつを水に放り込み,腕
をぶらぶらさせたまま,息を切らせ,筋肉は強ばる
という,そんな最後の努力は無理な話だよ。眠った
男の重みではねかえった水が顔にかかっても,それ
をぬぐう力さえ残っちゃいない。年を取りすぎたん
だよ。いや,なんだというんだい!あのいけにえは
非の打ち所がないよ。
[眠らせてくれ,運び出してく
れ,急いでくれ,溺れさせてくれと言ってるんだ。
打ち勝ち難い優しさで,抵抗できない無邪気さで,
無垢の力を振り絞って,自分のものとなる定めを欲
しがっているんだ。そしてあたしだけが:第 2 稿で
削除]あいつに眠りを与えてやらなくちゃならない
んだ。あたしの方に夜が与えられるためにね。不運
なことに,あたしが自分に期待していた[望んでい
た:第 1 稿]ものを,あいつに授けてやらなくちゃ
ならないんだよ。夜の道[夜道:第 2 稿]を揺さぶ
られてゆくという恐ろしい心地よさ,身動きできな
いまま草の葉っぱと川の香りの中を[暗がりの中
を:第 1 稿]通って,忘却の[沈黙の]黒い水の中
で,終りのない眠りのうちに閉じこもってしまうと
いう心地よさのことだよ。
けれどなぜ,なぜ,あの男には死に行く心根があれ
ほど恵まれていて,あたしには,もう一度殺すため
の心根がこれほどわずかでしかないんだろう?[58
年版:あの男は事情がわかり,ここを発つ。そう
なってくれたら。いや,あいつはわかっていない。
あいつは死にたいんだ。]あいつが立ち去ってくれな
いものかね[58 年版:あいつが立ち去ってくれるこ
とだけが望みだよ],あたしが今夜も,横になり眠る
ことができるように。年を取りすぎたよ!あたしは
年を取りすぎて,またしてもあいつのくるぶしを両
手でつかんで,川へ向かう道のあいだこあいつの体
がぶらぶらするのを感じ[58 年版:抑え]続けるな
んて,無理な話だよ。あたしは年を取りすぎて,あ
いつを水に放り込み,腕をぶらぶらさせたまま,息
を切らせ,筋肉は強ばるという,そんな最後の努力
は無理な話だよ。眠った男の重みではねかえった水
が顔にかかっても,それをぬぐう力さえ残っちゃい
ない。年を取りすぎたんだよ!いやいや!あのいけ
にえは非の打ち所がないよ。あいつに眠りを与えて
やらなくちゃならないんだ。あたしの方に夜が与え
られるためにね。それが ......
121 第 2 稿までの母親のモノローグは,殺人を重ねた者としての生々しい述懐も含まれ,非常に長い。
これに対して,44 年版ではほぼ半分の分量に切り詰められ,特に,ジャンに対する感想が大きく
削除されている。ジャンが母親のことを考えているのに対して,母親もこの「客」について詳しく
考えていることを明らかにしてしまうと,そこにある種の相方向性が生じてしまい,かえって劇的
効果を阻害すると,カミュは考えたのであろう。結果として,44 年版以降では,ジャンから母親
への思いがより一方通行的なものとなり,理解しあうことの困難さや認知されることの不可能性と
いう,
『誤解』のテーマにふさわしい形を取るようになったと評価される。
【改稿ブロック 2 − 3:第 2 幕第 2 場におけるジャンのモノローグ】
改稿ブロック 2 − 3 は,前節で取り上げた改稿ブロック 1 − 2 の後に直接続く,ジャンのモノロー
グの後半である。ここでジャンは,生家に帰ったというのに,自分が泊まることになった部屋が,
他の旅先での見知らぬ宿の部屋と同じようなものだと感じるとつぶやく。第 1 幕後半で母親に自分
だと認めてもらおうとしたがそれがかなわず,第 2 幕第 1 場で妹マルタに地中海の世界について語
りその関心を引くものの,親密な会話を行うことを最後には冷たく拒絶され,妻マリアの願いをふ
りきってまで挑んだ「家族から認知される」という試みは挫折に終わったのであった。こうして,
故郷から離れたことで追放感を常に抱いていたジャンは,故郷に戻っても認められないことで,二
重の追放感を味わうことになるのである。
第 2 稿:第 2 幕第 2 場 144 → 44 年版以降:第 2 幕第 2 場 145
ジャン:けれども,何も見覚えがない。何もかも新
しくされている。この部屋は今では,見知らぬ町と
言う町の,毎日夜ともなると客が寂しくやって来る,
どこの宿屋の部屋とも同じようだ。それはわかって
いる。だから,砂漠から学ぶのは美しさだけなのだ。
そして,ここと似たような部屋という部屋で僕がい
つも考えたのは,自分が今いる土地は,人に禁じられ,
愛について禁じられ,幸福の水を奪われ,だが冷や
やかな偶像に捧げられた土地であって,その偶像の
心を揺さぶるほほえみが,秘密というもののほほえ
みなのだということだ。それをここで見いだしたの
は,たまたまだろうか。つまりは,やっとその秘密
が僕に約束されたと考えてもいいのだろうか。そう
だ,ホテルの部屋という部屋で,夕べの時間という
時間が,孤独な人間にとってはつらいものなのだ。
だが,それが秘密というものの約束であり,僕の不
安はむだなものだ。でもここでは(部屋の隅を指す)
,
144
145
ジャン:けれども,この部屋は何て寒いんだ! 何
も見覚えがない。何もかも新しくされている。今では,
見知らぬ町と言う町の,毎日夜ともなると客が寂し
くやって来る,どこの宿屋の部屋とも同じようだ。
それはわかっている。見つけるべき答えがそこにあ
るように思えたものだ。たぶん,ここで答えを受け
取ることになるんだ。
(窓の外を眺める)空は曇って
いる。
[だから,ホテルの部屋という部屋で,夕べの
時間という時間が,孤独な人間にとってはつらいも
のなのだ。
:58年版では削除]そしてほら,僕の昔か
らの不安が首をもたげる。そこに,僕の体の空洞に,
まるで動くたびにうずくひどい傷口のように。その
名前を,僕は知っている。永遠の孤独を恐れること
であり,呼べども応えがないのではないかという不
安なのだ。それに,ホテルの部屋で,いったい誰が
応えるというのだろう?
PLI, p.479 における注 e, f, g と pp.1351-52. ゴチックによる強調および下線は筆者。
PLI, p.479. および PLT, p.152. さらに Mal47, p.59. ゴチックによる強調および下線は筆者。
122
僕の体の空洞に,その秘密を,まるで生々しい傷口
のように,動くたびにうずく痛々しい花のように感
じる。これが何のしるしなのか,僕は知っている。
永遠の孤独を恐れることであり,呼べども応えがな
いのではないかという不安なのだ。それが宿の部屋
というものだからだ。叫んだり,人を呼んだりでき
ても,見知らぬものしか応えに来るはずはないのだ。
そうだ,それが呼び覚まされた僕の傷口だ。孤独の
冷たさと,誰も僕の呼び声に応えないという考え...... もし呼んでみたら。
このジャンの悲痛な台詞には,1936 年夏の旅においてプラハでカミュが味わった孤独とパニック
の体験が色濃く反映しているであろう。1 − 2 で引用した「魂の中の死」や『幸福な死』のパッセー
ジにおけるキーワード「不安 angoisse」が,ジャンのことばでも発せられることに注目したい。そ
れは「生々しい傷口のように,痛々しい花のように動くたびにうずく」という,身体感覚にも等し
いものであった。おそらくカミュは,プラハの宿で数日間過ごした時にその部屋に対して感じた深
い違和感を,ジャンの口を借りて,当初ブジェヨヴィツェを舞台として考えていたこの戯曲の中に
表出したのであろう。しかし,そうした直接的な表現は 44 年版においていくぶん和らげられ,さ
らに,58 年版では「だから,ホテルの部屋という部屋で,夕べの時間という時間が,孤独な人間
にとってはつらいものなのだ。
」という部分まで削除される。『誤解』の中に込められた個人的な色
彩を少しでも薄め,戯曲に普遍性を与えたいというカミュの意図が,このような改訂過程から読み
取れると述べてよいであろう。
ところで,上記のジャンの台詞の第 2 稿は,ウォーカーによれば第 1 稿から変更がされていな
い。ところが旧プレイヤッド版の注解者キヨは,第 1 稿において,この部分が次に見る茶を飲んだ
後のジャンのモノローグ(第 2 幕第 5 場)の後に続くものであると扱っているのである 146。仮に
その通りだったとしたら,テクストの構成が非常に異なることになってしまう。キヨが正しいの
か,それともこの台詞を改稿ブロック 1 − 2 に直接続く部分として挙げたウォーカーが正しいのか
であるが,
「もし呼んでみたら si jʼappelle」という表現で終わっていることから,この後呼び鈴を
鳴らすはずであり,ウォーカーの注解の方が正しいことは明白である。茶を飲んだ後のジャンは次
第に睡魔に襲われて行き,眠り込んでしまうのであって,モノローグの後呼び鈴を鳴らすことなど
はできない。また 44 年版において,実際にこのモノローグのあと,ジャンは呼び鈴を押すのであ
る。旧プレイヤッド版で散見されるキヨの注解のミスの中でも,これは非常に大きなものであろう。
【改稿ブロック 2 − 4:第 2 幕第 3 場におけるジャンのモノローグ】
改稿ブロック 2 − 4 は,2 − 3 に引き続くものであって,呼び鈴を押したものの,やって来た老
146
PLT, p158 における3番の注と,pp.1808-09 を参照のこと。
123 使用人が何も言わずに去っていった後,ジャンが再び行うモノローグである(なお,第 1 稿では内
容はほぼ同じであるものの,第 3 場に場割りがなされず,そのまま第 2 場の続きとされている)。
ここでは,第 2 稿までの内容が 44 年版では徹底的に削除され,47 年版ではさらに 1 文が省かれて
おり,58 年版に至っては全体がごく一言のつぶやきにまで短縮されて,全く原形を止めていない
ことが印象的である。第 2 場からのジャンのモノローグが延々続き,くどすぎると判断されたの
が,その一因であろう。また,
「女の愛に動かされるのは狂気だ」という部分は,『誤解』のテーマ
から著しく外れるものである一方,
「母親の愛はすべてを救う」という箇所は,逆に,そのテーマ
を赤裸々に語りすぎていると判断されたのであろう。
第 2 稿:第 2 幕第 3 場 147 → 44 年版以降:第 2 幕第 3 場 148
ジャン:呼び鈴はなる。だが,あの老人は応えない。
違う,これは応えではないし,この部屋はよそよそ
しいままだ。どこに僕のめじるしがあるのだろう。
この熱を帯びた傷口を覆ってくれるひんやりとした
手,僕が眠ることのできる部屋[修正前:家]がある
のだろう。そうだ,そういったもの全てを持っていた。
けれども,いつしかあのしおれた花がまたも僕の中
で開き,この家から僕が望むものは,永遠の安らぎ
を得ることなのだ。女の愛には心を動かされるが,
それは狂気の沙汰であり,混乱だ。母親の愛は,す
べてを救い,その優しさは眠りのようなものとなる
はずだ[修正前:なることができる]
。だが,優しさ
の夜へと向かうその道のなんと長いことか。
(空を見
上げる)だんだん暗くなってくる ...... もうすぐ,大
地のすべてが暗さで引き裂かれるだろう。だが,僕
の愚かな希望とは,どんな喉の渇きも癒す泉を見つ
けるために砂漠を渡らねばなるまいということ,息
子の部屋をもう一度見つける前に,よそよそしい部
屋の不安と知り合いにならねばなるまいということ
なのだ。
〈なぜ,なぜ ......:削除〉
ジャン:呼び鈴はなる。だが,あの老人は応えない。
これは応えではない。
(空を見上げる)だんだん暗く
なってくる。もうすぐ,大地のすべてが暗さで引き
裂かれるだろう。どうしよう? [マリアと僕の夢の,
どちらが正しいのだろう?:47年版から削除]
[58年版]
ジャン:呼び鈴はなる。だが,あの老人は応えない。
これは応えではない。
(空を見上げる)どうしよう?
【改稿ブロック 2 − 5:第 2 幕第 5 場におけるジャンのモノローグ】
続く第 4 場では,マルタが茶をジャンの部屋へ運んでくる。茶など頼んでいないとジャンが言う
と,件の老使用人が取り違えたのだろうとマルタは答える。47 年版までは,このあと,もうお茶
は入っているのだから召し上がり下さい,追加料金はいただきませんからとマルタが述べるのに対
して,そういうことを気にしているのではないとジャンが応える,といったやりとりが行われるの
だが,58 年版では,その部分は削除されることになる。実はこの茶には大量の睡眠薬が仕込まれ
147
148
PLI, p.479 における注 e の後半と,p.1352. 下線は筆者による。
PLI, p.480 と注 h および p.1353. また,PLT, p.153 の注 1 と p.1805. さらに Mal47, p.60.
124
ており,旅人から金品を奪って殺害するために,手はず通りにこれまで幾度も繰り返されてきた行
為であって,客の注文の取り間違いなどではなかったのである。
改稿ブロック 2 − 5 は,マルタが去った後,茶を飲み干してしまう前に第 5 場でジャンが行うモ
ノローグである。ここで,出された茶を「放蕩息子へのごちそうだ」と表現していることに着目し
たい。劇中でこの表現が用いられるのは,これが二度めであって,最初のものは,先に見たジャン
とマリアの会話においてである。第 2 稿まではプロローグ,44 年版からは第 1 幕第 2 場のことで
あるが,その部分の台詞に変更は施されていない。「放蕩息子にふるまわれる食事を少しは期待し
ていたんだけれど,出てきたのはビールで,それに金を払ったんだ。
」これはもちろん,
「ルカによ
「死
る福音書」15.11-30 における,人間に対する神の無限の愛を教えるたとえ話のもじりである 149。
んでいたのに生き返った」と呼ばれる聖書の放蕩息子に対して,
『誤解』のジャンは,生きて帰っ
たのに殺されてしまう。いかにも皮肉の利いた喩えであると,カミュは考えたのであろう。その効
果を強めようと狙ったのか,44 年版では,ジャンに神への祈りをさせることになる。他方,44 年
版からは削除されてしまったが,第 2 稿における「荒れ野から戻ってきた者」というのは,洗礼者
ヨハネのことを指している 150。
149
「また,イエスは言われた。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に『お父さん,わたしが頂くことになっ
ている財産の分け前をください』と言った。それで,父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたたない
うちに,下の息子は全部を金に換えて,遠い国に旅立ち,そこで放蕩の限りを尽して,財産を無駄使いして
しまった。何もかも使い果たしたとき,その地方にひどい飢饉が起って,彼は食べるにも困り始めた。[...]
そこで,彼は我に返って言った。
『父のところでは,あんなに大勢の雇い人に,有り余るほどパンがあるのに,
わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち,父のところへ行って言おう。「お父さん,わたしは天に対
しても,またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人に
して下さい」と。』そして,彼はそこをたち,父親のもとに行った。[...]父親は僕(しもべ)たちに言った。
『急いでいちばん良い服を持って来て,この子に着せ,[...]それから,肥えた仔牛を連れてきて屠りなさい。
食べて祝おう。この息子は,死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして,
祝宴を始めた。[...]
」(新共同訳:新約聖書,p.139)
150
洗礼者ヨハネは四福音書すべてに登場しているが,ここではマタイ福音書から引用しておこう。「マタイに
よる福音書」3.1-6(新共同訳:新約聖書,pp.3-4)
そのころ,洗礼者ヨハネが現れて,ユダヤの荒れ野で宣べ伝え,「悔い改めよ,天の国は近づいた」と
言った。これは,預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え,
その道筋をまっすぐにせよ』
」
ヨハネは,らくだの毛衣を着,腰に革の帯を締め,いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで,エル
サレムとユダヤ全土から,またヨルダン川沿いの地方一帯から。人々がヨハネのもとへ来て,罪を告白し,
ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
なおカミュは後年,傑作『転落』において,その語り手を,洗礼者ヨハネにちなんで,「ジャン=バチスト・
クラマンス(叫び声を上げる洗礼者ヨハネ)
」と名付けている。
125 第 2 稿:第 2 幕第 5 場 151 → 44 年版以降:第 2 幕第 5 場 152
ジャン(カップを取り,眺め,再び置く)
:あいかわ
らず,放蕩息子へのごちそうだ。一杯のビール。だが,
金を払ったからだ。一杯のお茶。だが,客を引き止
めるためだ。でもだからと言って,僕には,荒れ野
から戻ってきた者の雄弁はない。たった一度も,母
と妹を前にしてことばを見つけることができなかっ
た。あのきっぱりした口をきく妹を前にして,なに
もかも解決してくれることばをむなしく探すだけだ。
ああ!なにもかも妹にはたやすいことなんだ。人を
結びつけることばを作り出すより,しりぞけること
ばを見つけるほうが,ずっと易しいからだ。怒りと
いうのは,おのれのことばをそっくり備えている。
けれど,愛というものは,ことばを探しつづけてい
るんだ。せめて,僕は自分のことばを探しつづけよう。
でも,たぶん僕は,しりぞけられ続けるんだろう。
それに,この疲れからさえも,僕はなにかを期待し
ているんだ。妹には,僕の居場所から離れたままで
いてほしい。その居場所は,この世に,荒々しくて
優しいあの国に,僕の愛する人のそばに,あるんだ。
ジャン(カップを取り,眺め,再び置く)
:あいかわ
らず,
放蕩息子へのごちそうだ。一杯のビール。だが,
金を払ったからだ。一杯のお茶。だが,客を引き止
めるためだ[だが,間違いだ:58年版]。
[あのきっぱ
りした口をきく妹を前にして,なにもかも解決して
くれることばをむなしく探すだけだ。それに,なに
もかも妹にはたやすいことなんだ。人を結びつける
ことばを作り出すより,しりぞけることばを見つけ
るほうが,ずっと易しいのだ。
:58年版で削除]
(カッ
プを手にし,しばらく黙っている。それから低い声で)
ああ,神さま! 私のことばを見つけるすべをお与
え下さい。さまなくば,このむなしい企てをあきら
めて,マリアの愛の元へ行けるようにして下さい。
そして私が望み,大切に思っている方を選ぶ力をお
与え下さい。
(カップを取り上げる)これが放蕩息子
へのごちそうだ。せめてこれを誉れとし,ここを発
つまで,わが役目を全うせん。
[58年版:
(笑う)。さあ,
放蕩息子のうたげを誉れとしようではないか。]
この改稿ブロックで重要なのは,第 2 稿でこのあと延々と続く,マリアへの美しい愛のことばが,
44 年版では全面的に削除されていることである。これはカミュ・テクストの中でも他に例をみな
いほど深く叙情的な女性への愛を謳い上げたもので,出版稿からは消し去られてしまったのが,ま
ことに惜しく感じられる。そのテクストを復元して,以下に引用しよう。
あの国におけるうっとりとした二つの顔を除いて[あの陽光に包まれた国を除いて:第 1 稿]
,僕
を待っているものなどはなく,僕が期待できるものもない。そして僕はもう一度,マリアの方を向く
んだ。その純粋さに忠実なのに,今では夜の中にあって,黙りこくった大きな叫びで夜明けを求めて
いるマリア。僕も夜明けを求めている。夜明けがもう一度マリアの顔の上を流れるのを見たいから。
マリアは僕の重しであり,この世における僕の秤りなんだ。マリアを通じてこそ,僕は大地と一緒に
なるんだ。僕は苦い知識を欲しがっているというのに,マリアは人としての知恵をさし出してくれ
る。僕は「もうすぐ」と言い,「たぶん」と大声をあげる。でもマリアは,
「ほらね」と答えてくれ
る。僕は愚かにも楽園は失われるためにあると思っているのに,唯一のエデンは手のとどくところに
あるものだと,マリアは教えてくれる。僕にとっていちばん確かなものはマリアだからだ。それを悟
るためには,取り上げられるまで待たなくてはいけないのだけれど。でも,マリアは僕を大地にしっ
かりと植え付けてくれるし,マリアを通して,僕は地面に立つんだ。マリアのもとへ行けば,影を追
い求める者が近づいてきて,マリアの兄弟のような体から身を離せば,大地の安らぎへとうち捨てら
151
152
PLI, p.480 における注 j と p.1353. および PLT, p.154 の注 1 と p.1806. 下線は筆者による。
PLI, p. 480. また,PLT, p.154 およびその注 1 と p.1806. さらに Mal47, p.61. 下線は筆者による。
126
れた男になってしまうんだ。たとえ道に迷っても,たとえ自分からはずれても,たとえこの世の道か
ら離れても,マリアは僕の守り主であり,僕の道しるべなんだ。ああ!打ち寄せる波の中で立ったま
ま,塩に濡れた髪を後ろになびかせ,口を日の光でいっぱいにして笑うマリア。いったいどうしてあ
のマリアを,憎しみに満ちた空の下,見知らぬ部屋で,精気を失った女にしてしまうことができるだ
ろう?いったいどうして,僕の口に幾度となく喜びの声をあげさせたことから,目をそらしてしまう
ことができるだろう?
153
『誤解』の第 2 稿までは,母と妹による認知をこいねがい,また二人への義務感に駆られるという
方向と,そのために旅人を演じつづけるのは,マリアを孤独の一夜へと追いやり,彼女の愛情に逆
らうことになるというベクトルの間で,ジャンが引き裂かれる姿が描かれている。改稿ブロック 2
− 1 で見たようなジャンとマリアの長い会話がプロローグに置かれることで,その矛盾が戯曲の主
題の一つであるかのような印象を与えるしかけになっている。だが 44 年版で施された改稿の結
果,ジャンの葛藤という要素は薄められ,母親たちによる認知を求める彼の姿の方がクローズアッ
プされることになる。マリアへの愛の問題に重みを置くと,『誤解』のテーマが多岐にわたりす
ぎ,かえって効果を損ねるとカミュは判断したのであろう。そのことをよく物語るのが,上記の
パッセージの削除なのである。また,先に見た改稿ブロック 1 − 3 における度重なる修正の結果,
第 1 稿にあったマリアへの言及が完全に消滅したのも,同様の理由によると考えられる。ゲエ=ク
ロジエは,前掲書において,
「マリアこそ戯曲の中心人物であると評してよく,彼女に重きを置い
た演出が可能であろう」という旨の主張を行っているが 154,事実は,マリアの人物像は草稿から
出版稿へ移るに際して,かえって薄められていったのである。
以上の検討で明らかなように,本来出版稿となるはずだった第 2 稿は,そのままの形で採用され
ることがなく,さらに大幅な加筆・修正・削除が行われて,『誤解』の初演に用いられた 44 年版へ
と辿り着いたのである。
3 − 4 .最終 58 年版への重要な変容
47 年版から 58 年版への改稿箇所は,極めて多く,百数十にのぼるが,その大半は語句の修正に
とどまっていることは,先に述べた通りである。その中で改稿ブロックと呼んでよい部分を探す
と,以下の 4 点を指摘することができる。
改稿ブロック 3 − 1:第 1 幕第 1 場におけるマルタと母親の会話
改稿ブロック 3 − 2:第 2 幕第 6 場におけるジャンと母親の会話
153
PLI, p.480 における注 j と pp.1353-54. および PLT, p.154 の注 1 と p.1806. 下線部は筆者による。大地と一緒
になることで幸福を成就させるというのは,
『幸福な死』やエッセイ集『婚礼』などに現れているように,
カミュにとっての根源的なテーマの一つである。
154
ゲエ=クロジエ,前掲書,pp.109-110.
127 改稿ブロック 3 − 3:第 2 幕第 8 場におけるマルタと母親の会話
改稿ブロック 3 − 4:第 3 幕第 1 場におけるマルタと母親の会話
その中でひときわ目立つのが第 2 幕第 7 場におけるマルタと母親との会話であり,第 1 稿から 47
年版まで引き継がれていた長い会話が一挙に縮められているのである。58 年版における改稿は,
それまでのテレビ版における改稿が元になっているので,このような短縮は,テレビにおける放映
時間を考慮してのことなのかもしれない。実際,テレビ稿における改稿の多くは,58 年版では元
に戻されているからである。だがカミュは,第 7 場については,テレビのためにできあがった新た
なヴァージョンの方が優れていると判断して,これを 58 年版で採用したのであろう。
【改稿ブロック 3 − 1:第 1 幕第 1 場におけるマルタと母親の会話】
44 年版以降『誤解』の冒頭となった部分であるが,「金持ちの一人客が重要だ」というぼかした言
い回しにより,この後に続く,マルタと母親が自分たちが犯してきた,そしてまたも犯そうとする
罪について語る部分の伏線が張ってある。44 年版と 58 年版とで,内容的には大差はないが,表現
を切り詰め,戯曲をより簡素なものにしつらえようとする 58 年版における改稿の意図をよく物
語っている箇所だと思われる。
47 年版:第 1 幕第 1 場 155 → 58 年版:第 1 幕第 1 場 156
母親:あの男は戻ってくるよ。
マルタ:そう言ったの?
母親:ああ。
マルタ:一人で?
母親:知らないよ。
マルタ:見かけは,お金を持っていないようじゃな
いわね。
母親:宿賃のことは気にしていなかったからね。
マルタ:よかったわ。でも,お金があって一人で泊
まる客というのは,あまりいないのよね。だからい
ろいろと難しくなるんだわ。金持ちの一人客しか目
当てにしていないから,ずっと待たなくちゃならな
くなるのよ。
母親:ああ。そういう機会はあまりないよね。
マルタ:確かに,ここ数年というもの,あたしたち
はずっと休暇を取っていたようなものだわ。この宿
に誰もお客がいない時も結構あるし。お金のない連
中は泊まっても長逗留はしないし,金持ちときた
ら,時たま顔を出すだけだもの。
155
156
母親:あの男は戻ってくるよ。
マルタ:そう言ったの?
母親:ああ。おまえが出てった時にね。
マルタ:一人で戻ってくるの?
母親:知らないよ。
マルタ:金持ちなの?
母親:宿賃のことは気にしていなかったからね。
マルタ:金持ちなら,けっこうだわ。でも,一人客
じゃないとね。
母親:一人客で金持ち,そうだね。じゃあ,また始
めなくちゃならないんだね。
マルタ:そうよ,また始めるのよ。でもそれだけの
見返りは払うんですから。
(沈黙。マルタは母親を見
つめる)お母さん,おかしいわよ。しばらく前か
ら,なんだかお母さんらしくないわよ。
母親:疲れてるんだよ,マルタや,それだけだよ。
それで,休みを願っているんだよ。
PLI, p. 457, 注 b, c と pp.1346-47. および PLT, p.115 の注 2 と p.1794. さらに Mal47, pp.13-14.
PLI, p. 457. PLT, p.115.
128
母親:文句を言うもんじゃないよ。その金持ちがた
くさん仕事をくれるんだから。
マルタ(母親を見ながら)
:でも,支払いはいいわ。
(沈黙)お母さん,おかしいわよ。しばらく前から,
なんだかお母さんらしくないわよ。
母親:疲れてるんだよ,マルタや,それだけだよ。
それで,休みを願っているんだよ。
【改稿ブロック 3 − 2:第 2 幕第 6 場におけるジャンと母親の会話】
妻の諌めに逆らってまで旅人の演技を続けようとしたジャンは,前節で見た第 2 幕第 2 場から第
3 場にわたる長いモノローグを通じて,母親に自分だと認めてもらうのは空しい願いだと悟るよう
になる。そして,運ばれてきた茶を飲んだ後,部屋に上がってきた母親と第 6 場で会話になり,つ
いに,自分の企てを放棄することを口にするのである。
ジャン:おかみさん!
母親:はい。
ジャン:私はいまさっき決めました。食事の後,今夜のうちにここを引き払おうと思います。もちろ
ん,宿賃はお支払いします。(母親は黙ってジャンを見つめる)驚かれるご様子なのはもっともなこ
とです。ですが,そちら様になにか落ち度があったなどとは,どうかお思いにならないでください。
お二人には,気持ちのよい思い,いや,とても気持ちのよい思いを抱いています。けれども,率直に
言って,ここではどうも居心地がよくなく,これ以上とどまらないほうがよいと思えるのです。[...]157
改稿ブロック 3 − 2 はこれに続く部分であり,3 − 1 と同様,やはり表現をより簡素なものにする
修正が行われている。そしてジャンは,
「ここは自分の家ではないような気がする」という最後の
謎かけを母親に対して行うが,やはり解き明かしてもらうことはかなわなかった。
47 年版:第 2 幕第 6 場 158 → 58 年版:第 2 幕第 6 場 159
母親:なにも特別なことはありませんよ,お客様。
母親:なにも特別なことはありませんよ,お客様。
お客様の意に沿わないようにする格別の事情など,
お客様の意に沿わないようにする格別の事情など,
私にはございませんから。
私にはございませんから。
ジャン(感情を抑えて):たぶんそうですね。けれど
ジャン(感情を抑えて):たぶんそうですね。けれど
こう申し上げているのは,気持ちよくお別れがした
こう申し上げているのは,気持ちよくお別れがした
いと思うからです。しばらくしたら,たぶん,また
いと思うからです。しばらくしたら,たぶん,また
ここに参ります。必ずそうするでしょう。その時には,
ここに参ります。必ずそうするでしょう。ですが今
きっともっと具合が良くなっているでしょうし,そ
のところは,私は間違いをしてしまったような,こ
157
158
159
PLI, p. 481. および PLT, pp.155-56. さらに Mal47, p.63. PLI, p. 482, 注 m, l と p.1354. また PLT, p.156, および注 1, 2 と p.1807. さらに Mal47, p.64. 下線は筆者による。
PLI, p. 482. PLT, p.156. 下線は筆者による。
129 うしたら,楽しい思いでもう一度お会いすることに
こではなにもすることがないような気がしているの
なるに違いありません。ですが今のところは,私は
です。包み隠さず述べるなら,よくわからないとおっ
間違いをしてしまったような,ここではなにもする
しゃるかもしれませんが,ここは自分の家ではない
ことがないような気がしているのです。包み隠さず
ような気持ちがするのです。
述べるなら,よくわからないとおっしゃるかもしれ
(母親はジャンを見つめ続ける)
ませんが,ここは自分の家ではないような気持ちが
母親:そうでしょうとも。ですがたいていは,そういっ
するのです。
たことをすぐに感じるものですね。
母親:わかりましたよ,お客様。ですがたいていは,
ジャン:そうですね。でも,私は少しうっかりして
そういったことをすぐに感じるものでして,お客様
いました。それから,長いこと離れていた国に戻る
はそう気がつくのにお時間がかかったものですね。
というのは,たやすいこととはとても言えません。
ジャン:そうですね。でも,私は少しうっかりして
おわかり下さい。
いました。ヨーロッパに来たのは,急いで片づけな
ければならない用事があったからなんです。長いこ
と離れていた国に戻るというのは,たやすいことと
はとても言えません。おわかり下さい。
この後,会話を続けるうちに次第に眠り薬が効き始める。そして母親が去った後に,改稿ブロック
1 − 3 で見た第 7 場が続き,ジャンはベッドで眠り込んでしまうのである。
【改稿ブロック 3 − 3:第 2 幕第 8 場におけるマルタと母親の会話】
第 8 場で,ついに犯行に及ぶために,母親とマルタがジャンの部屋に入ってくる。ここのト書き
が重要であって,47 年版まではやってくるのは二人だけであったが,58 年版では老使用人も後か
らついてくる。そして 47 年版まででは,マルタはジャンの金を奪うだけであるが,58 年版では,
上着からパスポートがこぼれ落ち,それを老使用人が拾って立ち去るのである。こうして,それま
ではジャンの企てに偶然が重なって息子殺しという悲劇が生じてしまっていたのが,58 年版では
運命あるいは神の象徴である老使用人が「デウス・エクス・マキナ」のように芝居に直接介入する
ことでジャンの命が奪われるという構図に,劇的に置き換わっているのである。ただし,ここまで
明白に老使用人の役割を描き出すことが劇作上で有効であるかどうかは,評価の分かれるところで
あろう。
47 年版:第 2 幕第 8 場 160 → 58 年版:第 2 幕第 8 場 161
マルタ(ジャンの体をランプで照らしだし,押し殺
した声で)ほら!
[...]
(マルタはジャンの上着をまさぐり,札入れを取り
だして,札を数える)
母親:この男はよく眠り込んでいるものだね,マルタ!
マルタ:他の連中が眠っていたのと同じようなもの
よ。さあ,早く!
160
161
マルタ(ジャンの体をランプで照らしだし,押し殺
した声で)眠ってるわ。
[...]
(マルタはジャンの上着をまさぐり,札入れを取り
だして,札を数える。ポケットを全部からにする。
この作業のあいだに,パスポートがこぼれ,ベッド
の向こう側に滑り落ちる。老使用人がパスポートを
拾いにいくが,マルタも母親もその姿を目にしない。
PLI, p. 484 の注 p と pp.1354-56. および PLT, p.159. の注 3 と pp.1809-10. さらに Mal47, pp.68-72.
PLI, pp. 484-85. PLT, pp.159-161. 下線は筆者による。
130
母親:少し待ちなよ。確かに,眠り込んだ男という
のは,みんな武器を手放しているような具合だね。
マルタ:自分たちでそういう具合にしているのよ。
でもいつだって,最後には目を覚ますんだから ......
母親(まるで考え込んでいるかのように):いやい
や!男たちはそんなに目立ちはしないよ。でも,マ
ルタや,おまえはあたしが話したいことがわかって
いないよ。
マルタ:ええ,わかっていないわ。でも,時間を無
駄にしているということはわかっているわよ。
母親(疲れて皮肉めいた様子で)
:何も急ぐことはな
いよ。それどころか,ほっておいてもかまわないと
いう時だよ。大事なことは終わってるからね。なん
でそんなにかりかりしているんだい?そんなふうに
しなくてもいいだろう?
マルタ:どんなふうにする必要もないのよ,おしゃ
べりしているんだから。尋ねあっているひまがあっ
たら,用事を片づけましょうよ。
母親(静かに):椅子に座ろうよ,マルタ。
マルタ:ここ?この男のそばに?
母親:そうだよ。座ろうじゃないか。この男は,自分
を遠くへ連れてゆく眠りに入ったばかりで,目を覚ま
して,あたしたちに何をされるか尋ねることもできや
しない。この世の名残りと言えば,この締め切った部
屋の扉しかない。あたしたちと一緒に,この時間とこ
の休息を,安らかに楽しむことができるんだよ。
マルタ:冗談はやめてよ。そんなのは私の趣味じゃ
ないわ。
母親:冗談なんかなものかね。おまえが熱くなって
いるから,あたしが冷静なことを見せてあげようと
いうだけだよ。ほれ,座りなさい(奇妙な様子で笑
う。マルタは座る)。この男を見るんだよ。しゃべっ
ている時よりも眠っている時の方が,もっと無邪気
に見える。こいつは,少なくとも,この世にけりを
つけたんだよ。これからは,何もかもたやすいこと
になる。ただ,いろんなものを見る眠りから,夢を
見ない眠りに移るだけのことさね。他の連中にとっ
て恐ろしい別れであるものが,こいつにとっては永
い眠りにすぎないんだよ。
[...]
マルタ:
[...]何度もこいつを引きずって,川岸に辿
り着いたら,川の中へ,できるだけ遠くに,投げ込
むのよ。もう一度言わせてちょうだい。夜がずっと
続くわけじゃないのよ。
母親:確かに,それがあたしたちのすることだね。
だから,始める前からもうあたしは疲れてしまって
るんだよ。あまりに昔からの疲れで,もう血が流れ
てもこの疲れを取ることができやしない。今のとこ
ろは,こいつは何も気付かずに休息を楽しんでいる
よ。もし目が覚めるまでほっておいたら,こいつは
やり直しをすることになる。あたしの見たところ,
こいつは他の連中と違いはないし,心の安らぎを得
ることもないね。たぶん,だからこそ運んで行っ
て,川の流れに放り込まなくちゃいけないんだろう
ね。(ため息をつく)でも,一人の男を馬鹿な思いか
ら[第 1 稿:沈黙した神々から]引き離して本当の
安らぎへつれていくのに,こんなに面倒なことが必
要なのは,なんとも残念なことだよ。
マルタ:お母さん,いったい何をわけのわからない
ことを言っているの?[...]
老使用人はしりぞく。
)
マルタ:ほら,これでもういいわ。もうすぐ川の水
がいっぱいになるわ。もうすぐ,川の水が一杯にな
るでしょう。下へ降りましょう。水が堰を越えるの
が聞こえたら,戻ってきてこいつを連れてゆくの
よ。来て!
母親(落ち着いて)
:いや,ここでこのままでいい
よ。
(椅子に腰を下ろす)
マルタ:でも ......(母親を見る。それから,挑むよ
うな調子で)そんなことを怖がるだなんて,思わな
いでよ。ここで待ちましょう。
母親:そうだとも,待とうよ。すぐに,この男を川
までずっと引きずって行かなくてはならなくなるん
だからね。始める前からもうあたしは疲れてしまっ
てるんだよ。あまりに昔からの疲れで,もう血が流
れてもこの疲れを取ることができやしない。
(半ば
眠ったかのように,体を左右させる)今のところ
は,こいつは何も気付いていないよ。この世にけり
をつけたんだ。何もかもたやすいことになるよ。た
だ,いろんなものを見る眠りから,夢を見ない眠り
に移るだけのことさね。他の連中にとって恐ろしい
別れであるものが,こいつにとっては永い眠りにす
ぎないんだよ。
マルタ(挑むような調子で):じゃあ,喜びましょう
よ!こいつを憎む理由はないわね。だから,すくな
くともこいつが苦しみを受けずにすむというのは,
あ り が た い こ と よ。 で も, 水 が 増 え て き た み た
い ......(耳をそばだてる。それから,にこりとする)
お母さん,お母さん,なにもかも終わるわ,もうじき。
母親(前と同じ様子を続けて)
:ああ,なにもかも終
わるね。水が増えている。こいつは寝ている。も
う,何か決めるという仕事の疲れもないし,片づけ
るべき仕事もない。こいつは寝ている。もう,頑な
にならなくても,頑張らなくても,できもしないこ
とをやろうと言い張らなくても,いいんだよ。も
う,休息や気晴らしや心の弱さを禁じる,あの内面
の生き方という十字架をぶら下げていないんだ
よ ...... こいつは眠っていて,もうものを考えてい
ない。義務も役割もない。ない,ない。そしてあた
しは,年を食って疲れている。ああ!今は眠りたい
し,すぐに死ぬようになりたいものだよ。
(沈黙)何
も言わないね,マルタ。
[...]
131 あまりに長大なので半分ほどに省略したが,このように,47 年版までの第 2 幕第 8 場においては,
旅人に手を下す前の最後の逡巡を長々と物語り,彼が迎える死の定めについてあれこれと思いを巡
らす。それに対して,一刻も早く犯行を済ませてしまいたいマルタは焦慮にかられ,母親を急かし
つづける。母親の長い迷いは,それとは気が付かぬ間に,実は息子に対する母親の思いの間接的な
表現の役割を果たしているのである。したがって,
『誤解』の執筆当時,カミュにとって深い意味
を持つパッセージであったが,時を置き,テレビ稿における修正を経て,客観的に見直した結果,
劇的な緊張を維持するためには 58 年版のように表現を切り詰めるほうが適切であると,作者は判
断したのであろう。58 年版における最も重要な修正が,この改稿ブロック 3 − 3 だったのである。
【改稿ブロック 3 − 4:第 3 幕第 1 場におけるマルタと母親の会話】
二人の女による犯行の場面そのものは,むろん戯曲では描かれていない。重い一晩が明け,第 3
幕へと移る。改稿部分 3 − 4 は,その第 1 場の冒頭の部分である。また一つ殺人を犯したというの
に,マルタは罪の意識にかられるどころか,これでようやく太陽と海の土地へ渡れるという解放感
に浸る 162。第 1 幕で「娘らしいことはなにもしていない(男性と付き合ったこともない)」と漏ら
していたマルタは,まるであらためて美しさを取り戻したかのように,自分はまだきれいかと,母
親に語りかける。そして,
「大地と一つになって幸せになる」という,エッセイ集『婚礼』や小説
『幸福な死』とつながる,最も重要なカミュ的テーマの一つを明白に口にするのである。
このまま旅人の正体を知らずにこの宿を後にして旅立ったならば,あるいはマルタは,
『幸福な
死』におけるメルソーのように,犯罪を犯したのに罪の意識に苦しまずに幸福を追求するという,
「無垢なる殺人者」となれたかもしれない。しかし,『誤解』における運命の神は苛酷であった。47
年版までにおいては,老使用人が旅人のパスポートを処分するように命じられ,それを見つけて中
を改めると,マルタに差し出す。そして 58 年版では,先に見たように犯行の前に老使用人はパス
ポートを見つけるも,その時は渡さずに,翌朝になってからマルタに渡すのである。拾った後にす
ぐ中を改めるのが自然であるから,老使用人は,旅人の正体に気が付きながら,二人の女が家族殺
しを行ってしまうのを黙って見ていたことになる。58 年版におけるわずかな改変を通じて,カミュ
は,運命というものの擬人化を強烈なまでに『誤解』のテクストに書き込んだのである。
47 年版:第 1 幕第 1 場 163 → 58 年版:第 1 幕第 1 場 164
マルタ:ほら,夜明けは来たでしょ。私たちにとっ
て,あの夜はもう終わったのよ。
162
163
164
マルタ:ほら,夜明けは来たでしょ。
これまで何人もの旅人から金を奪ってきたのに,どうして最後にジャンから盗むことが旅立ちのために決定
的だったのか,ジャンがそれほどの大金を所持していたというのなら,札入れだけに入れることが可能だっ
たのか,リアリズムの観点から言えば問題が残る部分である。
PLI, p. 486, の注 a, b, c と p.1357. および PLT, p.163 の注 1 と pp.1812-13. さらに Mal47, pp.75-77. 下線は筆者
による。
PLI, p. 486. PLT, pp.163-64. 下線は筆者による。
132
母親:そうだね。明日になったら,片づけてしまっ
てよかったと思うようになるだろうよ。今のところ
は,眠気と,渇いた心しか感じないんだよ。
マルタ:でもこの朝は,もう何年ぶりで,やっと息
がつけるわ。これほど人殺しが楽だったことなんて
ない。もう海の音が聞こえるような気がするし,私
の中に喜びが生まれて,叫びだしたいような思いだわ。
母親:よかったね,マルタや,よかったね。でも今
のあたしは,年を食いすぎて,お前と何かを分かち
合うのは無理な話だよ。明日になれば,なにもかも
もっとましになるように思うよ。
マルタ:ええ,なにもかもましになるわ,そうよ。
でも,どうか愚痴をこぼさずに,心ゆくまで幸せに
させて。私は昔の若い娘に戻ったのよ。もう一度,
この体が熱を取り戻して,駆け出したくなったわ。
ああ,ただ言って欲しいのは .......
母親:どうしたんだい,マルタや。よくわからないよ。
マルタ:お母さん ...... (ためらう。それから情熱
を込めて)私,まだきれいかしら?
母親:今朝のお前は,きれいだと思うよ。おまえの
ためになってくれる行いというものがあるんだね。
マルタ:ちがうわ,たやすく片づけられるように思
える行いというだけの話よ。でもきょうは,生まれ
変わったような思いがする。私は大地と一つになっ
て,そこで幸せになるんだわ。
母親:それはよかったよ。この疲れが取れれば,本
当に嬉しいんだがね。幾度も夜中に立ちっぱなしに
なったけれど,そのおかげで,おまえが幸せになれ
るんだというんだからね。でも今朝は,休ませても
らうよ。この夜が辛かったと,しみじみ感じてるんだ。
マルタ:なんてことはないわよ!きょうは,すばら
しい一日なんだから。おじいさん,気をつけてちょ
うだい。運んだ時にあのお客の証明書を落してし
まったから,さっさと見つけなくちゃいけないのよ。
探して。
(母親は退場。老使用人はテーブルの下を掃き,息
子のパスポートを拾い,開いて中を確かめる。それ
から,開いたまま,マルタに差し出す)
マルタ:そんなものに用はないわ。かたづけて。全
部焼いてしまうのよ。
(老使用人はパスポートを差し出し続ける。マルタ
はそれを受け取る)
マルタ:いったい何なの?
(老使用人は退場。マルタは長いことパスポートを
読むが,ぴくりとも動かない。明らかに落ち着いた
声で,母親を呼ぶ)
マルタ:お母さん!
母親:(舞台に現れずに)どうしたんだい?
マルタ:来て。
(母親が登場。マルタからパスポートを受け取る)
マルタ:読んで!
母親:そうだね。明日になったら,片づけてしまっ
てよかったと思うようになるだろうよ。今のところ
は,疲れしか感じないんだよ。
マルタ:この朝は,もう何年ぶりで,やっと息がつ
けるわ。もう海の音が聞こえるような気がするし,
私の中に喜びが生まれて,叫びだしたいような思い
だわ。
母親:よかったね,マルタや,よかったね。でも今
のあたしは,年を食いすぎて,お前と何かを分かち
合うのは無理な話だよ。明日になれば,なにもかも
もっとましになると思うよ。
マルタ:ええ,なにもかもましになるわ,そうよ。
でも,どうか愚痴をこぼさずに,心ゆくまで幸せに
させて。私は昔の若い娘に戻ったのよ。もう一度,
この体が熱くなって,駆け出したくなったわ。あ
あ,ただ言って欲しいのは .......
(マルタは口ごもる)
母親:どうしたんだい,マルタや。よくわからないよ。
マルタ:お母さん ...... (ためらう。それから情熱
を込めて)私,まだきれいかしら?
母親:今朝のお前は,きれいだと思うよ。罪という
のは美しいね。
マルタ:罪がなんだというの!私は生まれ変わった
のよ。大地と一つになって,そこで幸せになるんだ
わ。
母親:よかったよね。あたしは休ませてもらうよ。
でも,やっと人生がおまえにとって始まったのだと
思うと,嬉しいよ。
(老使用人が階段の上に現れ,マルタの方へ降りてき
て,パスポートを差し出し,それから無言で退場す
る。マルタはパスポートを開いて読むが,動かない)
母親:どうしたんだい?
マルタ(落ち着いた声で)
:あいつのパスポートよ。
読んで。
母親:あたしは目が疲れているって言ってるじゃな
いか。
マルタ:読んで!名前がわかるわ。
133 以上が,戯曲『誤解』の変容のあらましである。1943 年の第 1 稿から 58 年版へかけて,幾度も
幾度も改訂を施され,そのたびにテクストは微妙に,時には劇的に,その姿を変えてきたのであ
る。カミュがこの作品の完成度を高めるために払った努力は,並々ならぬものであった。そのこと
は,
『誤解』がいかにカミュにとって重要な位置をしめていたかを,雄弁に物語っているであろう。
我々が定本として捉えている 58 年版は,
『誤解』の変容の最終形にほかならない。だが,あたか
もトロイの遺跡のように,58 年版のテクストの下には,幾重にも重なったさまざまな『誤解』の
ヴァージョンが眠っているのである。テーマ批評の観点から『誤解』の世界を十全に探求するため
には,58 年版のみを対象とするのは不十分であろう。埋められてきた過去のテクストという『誤
解』の遺跡群をも視野に入れる必要があると考えられるのである。
(以下,次号に掲載)
【使用略号一覧】
PLI : Albert Camus, Œuvres complètes, tome I(1935-1944), Gallimard, Bibliothèques de la Pléiade, 2006.
PLII : Ibid., tome II(1944-1948)
, 2006.
PLIII : Ibid., tome III(1949-1956)
, 2008.
PLIV : Ibid., tome III(1957-1959)
, 2008.
PLT : Albert Camus, Théâtre, récits, nouvelles, Gallimard, Bibliothèques de la Pléiade, 1974.(初版は1962)
PLE : Albert Camus, Essais, Gallimard, Bibliothèques de la Pléiade, 1977.(初版は1965)
Mal47 : Le Malentendu, édition de 1947, Gallimard(Blanche)
.
CAC1 : Cahiers Albert Camus 1, La Mort heureuse, Gallimard, 1971.
CAC2 : Cahiers Albert Camus 2, « Écrits de jeunesse », Gallimard, 1973.
CAC4 : Cahiers Albert Camus 4, « Caligula, version de 1941 », Gallimard, 1984.
CAC7 : Cahiers Albert Camus 7, Le premier homme, Gallimard, 1994.
CaI : Carnets 1, mai 1935 - février 1942. Gallimard, 1962.
CaII : Carnets 2, janvier 1942 - mars 1951. Gallimard, 1964.
CaIII : Carnets 3, mars 1951 - décembre 1959. Gallimard, 1989.
134
弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』の刊行及び編集要項
平成23年4月20日教授会承認
この要項は,弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』(以下「紀要」という。)の刊行及び編集に
関して定めるものである。
1 紀要は,弘前大学人文学部(以下「本学部」という。
)で行われた研究の成果を公表することを
目的に刊行する。
2 発行は原則として,各年度の8月及び2月の年2回とする。
3 原稿の著者には,原則として,本学部の常勤教員が含まれていなければならない。
4 掲載順序など編集に関することは,すべて研究推進・評価委員会が決定する。
5 紀要本体の表紙,裏表紙,目次,奥付,別刷りの表紙,研究活動報告については,様式を研究
推進・評価委員会が決定する。また,これらの内容を研究推進・評価委員会が変更することがある。
6 投稿者は,研究推進・評価委員会が告知する「原稿募集のお知らせ」に記された執筆要領に従っ
て原稿を作成し,投稿しなければならない。
「原稿募集のお知らせ」の細目は研究推進・評価委
員会が決定する。
7 論文等の校正は著者が行い,3校までとし,誤字及び脱字の修正に留める。
8 別刷りを希望する場合は,投稿の際に必要部数を申し出なければならない。なお,経費は著者
の負担とする。
9 紀要に掲載された論文等の著作権はその著者に帰属する。ただし,研究推進・評価委員会は,
掲載された論文等を電子データ化し,本学部ホームページ等で公開することができるものとする。
10 紀要本体及び別刷りに関して,この要項に定められていない事項については,著者が原稿を投
稿する前に研究推進・評価委員会に申し出て,協議すること。
附記
この要項は,平成23年4月20日から実施する。
執筆者紹介
木 村 宣 美(英語学/コミュニケーション講座)
四 宮 俊 之(経営史/ビジネスマネジメント講座)
清 水 明(哲学/情報行動講座)
奈 蔵 正 之(フランス20世紀文学・現代フランス研究/コミュニケーション講座)
編集委員(五十音順)
◎委員長
北 島 誓 子
齋 藤 義 彦
作 道 信 介
柴 田 英 樹
城 本 る み
田 中 岩 男
田 中 一 隆
◎長谷川 成 一
日 野 辰 哉
宮 坂 朋
人文社会論叢
(人文科学篇)
第28号
2012年 8 月31日
編 集 研究推進・評価委員会
発 行 弘前大学人文学部
036-8560 弘前市文京町一番地
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/
印 刷 やまと印刷株式会社
036-8061 弘前市神田四-四-五
28
KIMURA Norimi ……………… Right Dislocation in Japanese:
Movement Analysis and Deletion
Analysis
…………………………
1
SHINOMIYA Toshiyuki …… On the Balance between Tart and ………………
Sweet of Apples
13
SHIMIZU Akira ……………… A Possibility on Friday…………………………………………………… 37
NAGURA Masayuki ………… Une édude sur le Malentendu d’Albert
Camus
………………………
59
−la genèse et les thèmes− (Première partie)