「マルタとマリア」の物語 ルカによる福音書 10 章 38~42 節 ルカによる福音書だけが伝えています「マルタとマリア」の物語は、エルサレム へと進まれる主イエスの旅の途上の中に出てきます。 主イエスを家に迎え入れたのはマルタでした。その様子を、ルカは徴税人ザアカイ が主イエスを家に迎え入れた時と同じ言葉(原文)を用いて表現しています(19:6)。 おそらくマルタは、大切な客である主イエスのために心尽くしのもてなしをしよう としたのでしょう。しかし、やがてそのマルタの口から姉妹マリアに対する不平不 満の言葉が漏れ聞こえてきます。 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさ せています・・・」 。 私たちは、家族や人間関係、仕事や趣味、自分の健康や病気のことなど、日常の 中で実に多くのことに心を配りながら生きています。おそらくそれが人間らしいこ との一つなのでしょう。けれども、そうした日々の事柄に心を砕く中で、逆にそれ らのことに心を絡め取られてしまうのも事実です。心を配るという人間らしいあり 方が、いつの間にか心引き裂かれるようになる。それもまた、人間らしいことの一 つなのかもしれません。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、 必要なことはただ一つだけである」 。主イエスがおっしゃった言葉は、このときのマ ルタの姿を照らし出すものでした。多くのことに心を用い、気をもむ中で、心を騒 がせ、とうとう混乱に陥ってしまったマルタの心を、主イエスはご覧になられまし た。そして、このときのマルタに必要なことを姉妹の姿を通してお示しになられた のです。 私たちは、神との関わりにおいて、地上のさまざまな事柄について考えます。そ して、それらの事柄を通して、神を思い巡らし神と出会う者にされています。信仰 に生きる人は、神との関わりを欠いた地上の歩みがむなしいことを知っています。 それと同時に、地上の歩みを大切にしない神との関わりも無意味であることを知っ ています。マルタとマリアという存在は、私たち一人ひとりの内にあって切り離す ことのできない不可欠な部分なのです。 それにしても、マルタは自分の不平不満をなぜマリアに向けなかったのでしょう か。聖書は、その疑問にはっきりと答えているわけではありません。けれども、マ ルタは自分の思いを主イエスに向けたことで、忙しく立ち働いていたその場から主 イエスのそばに近寄ることになりました。たとえその心は思い悩みに乱れていたと しても、マルタは主イエスのお語りくださる御言葉のもとに自分を置く者になって いたのです。それは、マリアだけでなく、このときのマルタからも取り上げられて はならないものだったのです。 (藤井和弘)
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