ロバート陽気

作者ディケンズの生涯
(1812 ∼ 1870)
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズは,
1812年2月7日,イギリスのポーツマス郊外の
ランドポートに誕生した.父ジョン,母エリザベ
スの間の8人の子どもの第二子として生まれ「
,身
体がかなり小さく,虚弱だったゆえ,そこそこ世
話のかかる子どもだった」と,ディケンズは自身
の幼少時代をふり返り,語っている.ディケンズ
家は裕福ではなかったが,とりたてて貧しくもな
かった.1817年,一家はケント州のチャタムに
転居し,チャールズはウィリアム・ジャイルズ学
校という,地元の私塾のような学校に入学した.
この当時から演劇に関心があり,幼いながら,劇
場によく足を運んでいた.シェイクスピアに親し
み,演劇から多くのことを学んだと,ディケンズ
はのちに語っている.
チャールズ・ディケンズ
「ストランドのロバート・ウォレン靴墨工場
10 歳のころ,海軍経理局の事務官だった父の
の近くを通りかかると,どうしても足が止ま
転勤にともない,一家はロンドンに移住した.父
り,踵を返して,工場から離れた.そんなこ
ジョンは経済観念に乏しく,浪費癖があった.結
とが何年もつづいた.靴墨用のコルクに塗る
果,多額の借金を抱えこみ,1824年,マーシャ
接着剤の,あの独特の臭いが耐えられなかっ
ルシー債務者監獄に収監され,家族もともに監獄
た.あの臭いをかぐと,工場で働いていたこ
で暮らした
訳注 1
.だが,チャールズだけはウォレ
ろの記憶がよみがえってしまう.時が過ぎ,
ン靴墨工場へ働きに出され,製品にラベルを貼る
自分の子どもが生まれ,言葉を話せるほどの
仕事をした.
歳になっても,あの界隈を通ると,涙が出た
ものだ」
数ヵ月後,ジョンの母親が亡くなり,その遺産
を借金の返済にあて,一家は債務者監獄から釈放
チャールズは 15歳で学校を出ると,リンカーン
された.その後,ジョンは海軍経理局を辞め,義
法曹院のモロイという弁護士のもとで,雑用係と
弟が編集長を務める「ミラー・オブ・パーラメント」
して働いた.まもなく,新聞記者になることを決
紙で,議会通信員として働きはじめた.それを機
意し,夜は速記術の学習に励んだ.習得後,民法
に,チャールズは靴墨工場を辞め,学校に戻った.
博士会館の法廷で速記記者として働きはじめ,以
だが,短期間ながらも工員として働いた体験は,
後,2年間つづけた.当時,民法博士会館訳注 2 とい
終生,チャールズの心に暗い影を落とした.それ
う組織は,時代遅れでばかげているというのが大
は,自身がのちに記した言葉からもうかがえる.
方の意見で,ディケンズも同様の考えだった.民
訳注 1 当時は,家族も債務者監獄で暮らすのが普通だっ
た.債務者監獄は 1869年の債務者法により廃止.
訳注 2 ロンドンの弁護士協会の一つ.
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「青年時代,新聞記事を書いたことが,格好
ディケンズにまつわる豆知識
「Dicken(ディケン)」または「Dickens(ディ
ケンズ)
」という名は,かつて,
「Devil(デビル:
悪魔)
」と同じ意味で使われていた.その表現が
の訓練となった.きつい仕事だったが,あの
とき培った力が,成功の礎となったと,私は
確信している」
現存する最古の文献は,シェイクスピアの喜劇
『ウィンザーの陽気な女房たち』だとされている.
本業のかたわらに書いた短編が,1833年 12 月,
月刊誌「オールド・マンスリー・マガジン」に掲
FORD:
Where had you this pretty weathercock?
(フォード:「このかわいい風見鶏はどこで見つ
けたんだい」)
MRS PAGE:
I cannot tell what the Dickens his name is
my husband had him of.
載された訳注 4.表題は『ポプラ通りの晩餐会』.は
じめて活字になった自分の作品を目にしたときの
ことを,ディケンズはこう記している.
「あのとき,ウェストミンスター会堂まで歩
いていき,中に入って,半時間ほど過ごした.
(ページ夫人:「いったい,名前はなんといった
喜びと誇りに目が潤んで,通りを歩けなくな
かしら.この子をうちの夫に貸してくれたお方
り,そういう姿を見られのも体裁が悪く,会
の」)
堂に飛びこんだのだ」
解説:What the Devil ∼ ? = What the Dickens
(Dicken)∼ ?の形で,「いったい,∼はなんだ」の
意味.
その後も,「オールド・マンスリー・マガジン」
に作品の投稿をつづけたが,雑誌社が原稿料を支
払えなくなったので,夕刊紙「イブニング・クロ
ニクル」の編集長ジョージ・ホガートの依頼に応
法博士会館という組織と,そこで働いた日々は,
『ボ
じ,同紙に連載を開始した.1835年,チャール
ズのスケッチ集』と『デイヴィッド・コパーフィー
ズはホガートの長女キャサリンと婚約した.翌年,
ルド』の中で,風刺たっぷりに描かれている.
4月2日に結婚し,夫妻は 10 人の子どもに恵ま
れた訳注 5.だが,ディケンズを研究してきた伝記
チャールズの初恋の相手は,マライア・ビード
作家たちによると,ディケンズが真に愛していた
ネルという銀行家の令嬢だった.二人は 1830年
のはキャサリンではなく,その妹のメアリーだっ
に出会い,3年後に別れたが,それは,マライア
たと言われている.メアリーはディケンズ家でと
の父母がチャールズを娘には釣り合わない男だと
もに暮らし,1837年,17 歳の若さで,ディケン
みなし,別れを望んだからだと言われている.
ズの腕に抱かれ,息を引き取った.ディケンズの
悲しみは深く,死後はメアリーの墓のとなりに埋
このころ,チャールズは記者として頭角を現す
葬してほしいと願うほどだったが,1841年にメ
ようになっていた.新聞記者となり,複数の新聞
アリーの弟が亡くなり,ディケンズの
訳注 3
予約席
.これらの経験
は占領されてしまった.ディケンズは親友で伝記
がいかに貴重なものとなったか,のちにこう記し
作家のジョン・フォースターに宛てた手紙で,当
ている.
時の心情をこう語っている.
社で腕を磨き,経験を積んだ
「メアリーの墓のとなりで眠るのをあきらめ
訳注 3 夕刊紙「トゥルー・サン」(1830∼ 1832),議会
報道紙「ミラー・オブ・パーラメント」(1832∼ 1834),
日刊紙「モーニング・クロニクル」(1834∼ 1836).
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訳注 4 原稿料はもらえなかった.
訳注 5 男7人,女3人.