ボーダレス時代のフロンティア精神 Ⅱ 北海道・ドイツの経済関係の事例から 渡部成人 編著 平成22年4月 表紙写真:Markt(市場)の八百屋で売られる北海道カボチャ (札幌市職員撮影) 1 はしがき 表紙の写真は、ドイツでよく見かける市場の八百屋のスタンドである。何故、 表紙にこの写真を使ったかおわかりだろうか?日本ではあまり知られていない が、ドイツ人にはすぐにわかる。写真中央のかぼちゃの手前をよく見ると、 「HOKAIDO」と書かれている。「HOKKAIDO」とはかぼちゃの銘柄で、ドイツでは 人気の高い銘柄である。 「北海道」と聞くと、ドイツ人はかぼちゃの銘柄だと思 うのだ。幼少期を札幌で過ごしたミュンヘン近郊在住の日本人が、1993 年に種 を日本から輸入したのが、Hokkaido Kürbis(Kürbis はドイツ語でかぼちゃの 意)の始まりとされている。その後 10 数年間でドイツ国内の人気銘柄となり、 今やかぼちゃと言えば、「HOKKAIDO」という程だ。 筆者は、平成 18 年 3 月にドイツに赴任し、平成 21 年 4 月末までの約 3 年 2 ヶ月間ドイツで仕事をしたことをきっかけに、北海道とドイツの経済関係につ いて調査し、前作をとりまとめた。帰国後も更に調査を続け、良好な事例が数 多く得られたことから、本続編を執筆することとした。 前作を知人・友人を中心に配布して以降、更にその知人等に拙稿を紹介して いただき、様々なご意見をいただいた。ドイツ人の読者からは、北海道に関す る基本的な情報を知りたいという要望があったので、本続編では、ドイツと北 海道に関する基本的な情報に少し触れることとした。また、筆者に関する情報 を知りたいという声も聞かれたことから、巻末で簡単な自己紹介を行った。 調べるほどに自分がいかに無知であるかを改めて認識しているところである。 当然のことながら、まだまだ探しきれなかった事例が多数存在している筈であ る。また、文化、芸術、学術分野での関係を含めるともっと多くの関係があり、 それが経済に繋がっている場合もあると思う。 本稿を通じて、国際関係を継続する上で経済的な関係が如何に重要であるか、 また、今後の北海道の経済を考えていく上で直接外国と繋がることが如何に重 要であるかなど、ドイツとの関係の事例を通じて感じていただければ幸いであ る。そして、2011 年の日独修好 150 周年にあたり、更にその先の未来に向けた 取り組みが北海道でも行われることを切に願っている。 本稿の執筆にあたり、ご協力頂いたみなさまに感謝の意を表したい。 2 3 ボーダレス時代のフロンティア精神 Ⅱ 北海道・ドイツの経済関係の事例から はしがき 2 目次 4 1.北海道とドイツ、ノルトライン・ヴェストファーレン州の地勢 5 2.日本初独大手製薬会社と大型契約したバイオベンチャー企業「イーベック」 8 3.独国外初のプラント輸出「木の繊維」 11 4.美瑛に根ざすドイツ人農家と日本農業とドイツ人との関係 13 5.幕末期七重町における日本初の西洋式近代農業と果樹栽培の歴史 15 6.果樹栽培の定着とビール原料栽培を支えたドイツ出身技術者 17 7.スウィーツ王国北海道とドイツ人模範農家 18 8.函館の本格ハム、ソーセージ 20 9.北海道の環境を活かした本物のハム・ソーセージづくり 23 10.経営者と技術者の情熱が創り出す本物の味 25 小樽ビール 11.旧産炭地で輝く世界シェア 7 割を誇るメーカー 北日本精機 12.世界の自動車メーカーが認めた品質と人を大切にする経営 27 ダイナックス 28 13.積雪寒冷な気候を活かしたテストコース「BOSCH」 30 14.赤平から世界へ「鞄のいたがき」 31 15.バーデン・バーデンと十勝川温泉のモール泉 32 16.十勝平野に佇むドイツ村「フェーリエンドルフ」と「ビュッケブルク城」 33 17.ドイツ健康靴リッツ、アルファ美輝、ベンハー 36 18.ドイツ料理レストラン、ドイツ菓子店、ドイツパンの店 37 19.日独修好 150 周年 39 参考文献等一覧 40 著者略歴 42 4 1.北海道とドイツ、ノルトライン・ヴェストファーレン州の地勢 日本は、北端を北海道択捉島カ モイワッカ岬(北緯 45 度 33 分 19 秒)、南端を東京都沖ノ鳥島(北 緯 20 度 25 分 31 秒)、東端を東京 都南鳥島(東経 153 度 59 分 11 秒)、 西端 を沖縄県与那国島西崎(東 経 122 度 56 分 01 秒)とする位置 に所在している。北端から南端、 東端から西端までの長さは、とも に 3,000km に及ぶ。国土は、本州、 北海道、九州、四国の大きな四島 日本周辺図 を含め、大小 6,852 島で構成さ (出典:DEMNIS World Map) れている。総面積は、377,946.46k ㎡で、地方自治体として 47 の都 道府県に 1,798 自治体(東京都 23 特別区及び 1,775 市町村(783 市、801 町、 191 村))が所在。人口は 127,917,702 人。 北海道は、北端を択捉島カモイワッカ岬(北緯 45 度 33 分 19 秒)、南端を渡 島小島(北緯 41 度 20 分 58 秒)、東端を択捉島(東経 148 度 53 分 59 秒)、西端 を渡島大島(東経 139 度 20 分 16 秒)とする位置に所在している。南北 450km、 東西 600km に及び、面積は 83,456.75k ㎡と日本の国土の約 22%を占め、180 市 町村(35 市と 64 郡内に 130 町 15 村)の他、北方領土内 5 郡に 6 村が所在。人 口は全国の約 4.4%の 5,517,449 人。(2009 年 10 月 1 日現在) なお、北方領土は第二次世界大戦以降、ロシアの実行支配下にあるが、いま だに我が国との間で領土問題が解決していない地域である。 ドイツは、北端をズィルト島のリスト(北緯 55 度 03 分 33 秒)、南端をバイエルン州のオーバース ドルフ(北緯 47 度 16 分 15 秒)、東端をザクセン州 のデシュカ(東経 15 度 02 分 37 秒)、西端をノルト ライン・ヴェストファーレン州ゼルフカント(東経 5 度 52 分 01 秒)とする位置に所在している。南北 の最長距離は 880km、東西では 640km に及び、面積 は 357,104.07k ㎡(ドイツ連邦統計局、2008 年 10 月 22 日現在)で、16 州(13 州、3 特別市)内に 111 独立市と 311 郡に 12,166 の自治体が所在し、合計 12,277 の基礎自治体が所在している。人口は 82,046,000 人(2008 年 11 月 30 日現在)。 ノルトライン・ヴェストファーレン州は、北端 5 ドイツ地図 (出典:Generic Mapping Tools) をミンデンリュベック郡のラーデン市(北 緯 52 度 32 分)、南端をアイフェル地区のヘ レンタール(北緯 50 度 19 分 22 秒)、東端 をヘクスター(東経 9 度 26 分)、西端をゼ ルフカント(東経 5 度 52 分 01 秒)とする 位置に所在している。南北 190km、東西 235km に及び、面積は 34,088.31k ㎡。23 独立市と 31 郡に 373 の自治体が所在し、合計 396 の 基礎自治体が州内に所在している。人口は 17,933,064 人(2008 年 12 月 31 日現在)。 このように、ドイツより日本の方がずっ 北海道と諸外国との位置・面積比較 と南に位置しているが、大陸の東側に位置 (出典:北海道開発局公式HP) しているため、北海道では西欧諸国よりも 比較的雪が多く冷涼な気候となっている。 また、日本は、東西・南北ともに 3,000km に及ぶ国土を形成しており、亜寒帯 から亜熱帯まで多様な気候帯を有している。面積も日本の方が小さいと思われ がちだが、ドイツよりも大きく、多くの島によって国土を形成しているので、 領海と排他的経済水域をあわせた面積は 4,479,358km²で、世界第 6 位である。 領土とあわせた面積では、インドに次いで世界第 9 位となる。1k ㎡あたりの人 口密度は、日本が 336.81 人に対しドイツは 229.75 人と日本が 100 人以上上回 っている。 同じく、北海道の 1k ㎡あたりの人口密度は 66.76 人、NRW 州は 526.07 人と 北海道の低密度、NRW 州の過密状況が際だっている。自治体数は、日本が 1,798 に対し、ドイツも過去に自治体合併を推進したが、なお 12,277 の小規模の基礎 自治体が多数所在している状況である。 一人あたり国内総生産はドイツが 44,700.65 ドルに対し、日本は 38,681.91 ドルと 6,000 ドルも水をあ けられている。北海道と本州を隔てる 津軽海峡には動植物の境界をなすブ ラキストン線があり、気候の違いと海 によって隔てられていることにより、 動植物も亜種として進化してきてお り、北海道は本州以南の地域と異なる 特徴を有していることがわかる。また、 今日に至るまでの歴史が他地域と大 きく異なっていることも北海道の特 日本の領海と排他的経済水域 徴である。 (出典:海上保安庁公式HP) 明治 2(1869)年に明治政府によっ て開拓使が設置されて、北海道の近代開発が始まった。それ以前は、主にアイ 6 ヌ民族が住む土地で、江戸時代に松前藩が置かれてからは、アイヌ人と交易を 行うなどしていたものの、 渡島半島の一部を除き、積 極的な開発は進められてい なかった。 他方ドイツでは、徳川慶 喜が大政奉還を行い、明治 政府が成立した 1868 年の1 年前である 1867 年に北ドイ ツ連邦が設立され、ビスマ ルクが連邦宰相に就任して ケッペンの気候区分図による日独の気候比較 いる。そして、1871 年ヴェ (Hydrology and Earth System Sciences : Updated world map ルサイユ宮殿において、プ of the Köppen-Geiger climate classification を元に作成) ロイセン王のヴィルヘルム 1世がドイツ皇帝となるこ とを宣言し、ドイツ帝国の統一がなされたのである。なお、日独関係では、1861 年に日本・プロイセン修好通商条約を締結している。 明治政府は、欧米の技術を積極的に取り入れて北海道の開拓を進めた。その 後、明治 15(1882)年の開拓使の廃止から明治 19(1886)年の期間に函館県、 札幌県、根室県が置かれていた期間を除き、第二次世界大戦後の昭和 22(1947) 年に地方自治体としての北海道が置かれるまで、一貫して国が北海道の開発を 行ってきたという歴史を有している。また、戦後も昭和 25(1950)年に北海道 開発法が制定され、同法に基づき国が策定する北海道総合開発計画が現在まで 続いており、その開発の歴史も他地域と大きく異なっている。 ドイツ帝国統一後、第一次世界大戦における敗北、1918 年のドイツ革命によ り、ドイツは共和制のワイマール共和国となった。その後第二次世界大戦を経 て、ドイツは分割統治されることとなり、1949 年にドイツ連邦共和国とドイツ 民主共和国が設立された。1990 年にベルリンの壁が崩壊し、ドイツ再統一がな され、現在に至っている。分割統治の歴史の中で、旧東ドイツ地域の経済は大 きく遅れをとり、社会インフラの整備も十分に行われてこなかった。こうした 西高東低の経済格差の解消はドイツ政府の課題の一つである。 7 2.日本初独大手製薬会社と大型契約したバイオベンチャー企業「イーベック」 21 世紀に入り、日本でもベンチャー企業がどんどん設立されるような社会に なってきている。しかしながら、ベンチャー企業が成功することは非常に難し く、大企業の中に埋没していく例も少なくない。 バイオの分野でも数多くのベンチャー企業が設立されている。地域によって バイオベンチャー企業の特性というものある。例えば、関西圏では、歴史的に ソーダを活用した化学品メーカーや医薬品メーカーが多く、こうした企業が出 資するバイオベンチャーが多く見られる。他方、北海道では、日本の中で特有 の植生を有している点に着目し、植物や海藻、魚介から抽出した有効成分を活 用したバイオベンチャーが多く見られる。 こうした中、資金力等で圧倒的に有利な関西圏のバイオベンチャーから大型 契約等の成功事例が出てくると誰もが信じて疑わなかった。しかしながら、日 本初のバイオベンチャーの成功例は、北海道の企業だった。 株式会社イーベックは、北海道大学遺伝子病制御研究所教授高田賢藏氏(同 社代表取締役会長)の 30 年間に及ぶ EB ウイルス研究の経験を活用し、「EB ウ イルスを利用したヒト抗体作製技術」の実用化を目的として 2003 年 1 月に設立 された。同社は、少しでも早く効果の高い薬品を市場に提供することを目標と して掲げ、それぞれの行程で強みを持つ企業とのアライアンスにより製薬化す る道を選択した。 マウスを用いて抗体を作製する技術は確立されているが、近年はマウス部分 を含まない完全ヒト抗体が開発の主流になっている。ヒト抗体遺伝子を導入し たマウスを用いる手法や大腸菌に感染するウイルスを利用した手法が完全ヒト 抗体を作製する技術として開発されている。同社では、人間の体内で抗体産生 を担っている血液 B リンパ球から完全ヒト抗体を 作製する独自の技術を開発した。それは、EB ウイ ルスの B リンパ球増殖活性を利用して抗体を作製 する手法である。EB ウイルス法は古くから知られ た抗体作製法だが、成功例の報告は少ないのが現 状だ。同社は、EB ウイルスに関する多くのノウハ ウを蓄積し、目的とする抗体を高い成功率で獲得 する技術を開発した。 これまでは、抗体作製技術特許のほとんどを欧 米の製薬会社が有しているため、多額のライセン ス料を支払って使用する必要があったが、同社が 確立した技術を用いれば、その必要はなくなる。 これにより、医療費の負担の軽減効果が期待され 完全ヒト抗体作製の概念図 ている。現在、同社が開発した抗体は、物質特許 (出典: (株)イーベック公式HP) としてすでに複数の特許を出願済み。 8 2009 年 8 月に筆者はイーベック社を訪問した。社長の土井尚人氏は神戸出身 で、大手信託銀行を退職し、札幌の会社に勤めながら小樽商科大学大学院の社 会人コースで瀬戸篤教授の下、アントレプレナーシップ論を学んだ。在学中に 同大学のビジネス創造センターでベンチャーの起業支援を行ううちにビジネ ス・インキュベーションが本業となった。2002 年に(株)ヒューマン・キャピ タル・マネジメントを設立し、本業はインキュベータである。イーベック社の 社長を兼務したのは、高田教授の技術が大変すぐれたものであり、この技術を ビジネスとして成功させ、社会に貢献することができると考えたからである。 土井氏は、次のように説明して下さった。 抗体作製の卓越した技術を活かすため、抗体医薬の原料作製メーカーとして 医療界に貢献する企業とすべくビジネスモデルを策定した。同社は自らが強み を持つ完全ヒト抗体作製工程に特化し、生産工程や臨床工程はその工程に強み を持つ製薬企業とのアライアンスによって行うこととしている。捨てる戦略に 徹しており、このことにより、ベンチャー企業のいわゆる「死の谷」のリスク を回避している。これは、リスクを回避するだけではなく、いわゆるインテル モデルでもある。コアコンピタンスに特化し、PC の CPU のように不可欠なパー ツを作ることで、PC が売れれば自社の製品が売れるという仕組みである。勿論、 優れた技術・製品であるから最終製品製造企業によって採用され、それによっ て、最終消費者に利益が還元されることが、イーベック社の目標であることは 言うまでもない。 平成 20 年 9 月には、国 内バイオベンチャーとし て初めて海外大手製薬会 社ベーリンガー・インゲ ルハイム(BI)社との契約 を実現した。これは、自 社開発した完全ヒト抗体 の1種類に関するライセ (株)イーベックのビジネスモデル概念図 ンス契約であり、これに (出典:(株)イーベック公式HP) よって、BI 社は本抗体の 全世界での開発および商業化の独占権を取得した。イーベック社は、前払金お よび開発ステージに応じたマイルストーンペイメントをあわせて 55 百万ユー ロ(契約時の為替で約 88 億円)を得るほか、医薬品として発売後は販売実績に 応じたロイヤリティを受け取ることとなっている。なお、今回の契約は一つの 抗体ライセンス契約なので、基本技術や他の開発済あるいは今後開発する抗体 の権利についてはイーベック社が保持している。 土井氏によると、ベンチャー企業が多くの大手製薬と提携することはなかな 9 か難しいが、BI 社はベンチャー企業であっても同等のパートナーとして扱って くれた。ドイツにはベンチャー育成の土壌がある。また、法体系の類似性から 米国企業よりもドイツの企業の方が、契約交渉にあたってもやりやすい面があ るとのこと。 筆者がドイツ在勤中に州のイノベーション省とも仕事をする機会があった。 ドイツにおいてもまた、大学が有している優れた技術をいかにしてビジネスに 結びつけていくかということが重要なテーマの一つになっている。同じ国内の 産学連携でも難しい中で、イーベック社のように日本の大学の技術と外国の企 業を結びつけたということは、大変な成果である。土井氏の手腕はドイツの産 学連携関係者にとっても注目に値するものであろう。 筆者の専門は法律学であったが、小樽商科大学大学院の出身なので土井氏に 親近感もあり、彼のような方に北海道経済のために益々活躍していただきたい と思っている。 10 3.独国外初のプラント輸出「木の繊維」 2008 年 7 月に苫小牧市で木 質繊維断熱ボード生産のため の工場建設が始められた。起 工式には、デア前駐日ドイツ 大使も出席した。2009 年 7 月 の竣工式典にも同前大使は出 (株)木の繊維苫小牧工場起工式の写真 席している。なぜ、ドイツの デア前駐日独大使、高橋北海道知事、メームケン博 大使が出席するのか。 士らが出席した。(出典:(株)木の繊維公式HP) 株式会社木の繊維(札幌市) が建設したこの工場で生産さ れる木質繊維断熱材の技術は、ドイツのホーマテルム(HOMATHERM)社(ベルガ 市)で開発されたものであり、プラント自体がドイツ国外に作られるのは、こ の時が初めてであった。 前作で少し紹介させていただいた日独コンサルタント会社のエコス(ECOS) 社(オスナブリュック市)社長のメームケン氏と木の繊維社長の大友詔雄氏と の間には、既にビジネスコンタクトがあり、2004 年 9 月にホーマテルム社の木 質繊維断熱材の紹介を大友氏が受けたことが木の繊維設立のきっかけとなった。 大友氏は、もともと北海道大学工学部の研究者であったが、大学発ベンチャー である(株)NERC(札幌市)を設立し、再生可能エネルギーなどの事業化を行 っている。 この木質繊維断熱材は、断熱性能の他、防音 性・調湿性・防火性・省エネ性・施工性にも優れ ていること、生産のために必要なエネルギーが他 の建材に比べて極端に小さいこと、100%天然素 材のためシックハウス症候群への不安がないこ と、生産・消費・廃棄のライフサイクル全体にわ たり全く廃棄物を作らないこと、国内生産するこ とができれば国内産木材の地産地消を通じて森 木質繊維担熱材 林再生・林業振興に資する可能性がある等社会的 意義も大きいものであるという特徴がある。この (出典:(株)木の繊維公式HP) 製品を取り扱うことは、NERC 社の設立理念に合致すると判断すると共に、この 様な製品が国内には存在していないという結論に達し、NERC 社の新規事業とし て位置づけることに決定した。2005 年1月にドイツの生産工場の視察調査を行 い、直ちに輸入契約を締結。2005 年 8 月から 10 月にかけて、40 フィートコン テナ 5 台分の輸入を行い、道内に 5 棟の新築住宅を施工した。 事業化にあたっては、中山組(札幌市)、中道機械(札幌市)、丹治林業(苫 小牧市)、ヤマオ(芽室町)等道内 5 社が中核として出資したことで事業化に弾 11 みがつき、ライセンス契約から 1 年足らずで新会社発足にこぎつけた。苫小牧 市の工場内で使用する機械は、産業機械メーカーのグレンツェバッハ (Grenzebach GmbH)社(アスバッハ-ボイメンハイム市)製を使用。 大友氏は、大学での研究者時代の研究を通じて得た知見を元に、自らの信念 に基づき行動し、NERC 社を設立した。そして、環境技術・再生可能エネルギー 技術で先行するドイツの ECOS 社メームケン氏とコンタクトを持つに至ってい る。単なる環境保護主義ではなく、現時点で活用可能な技術を用いて地域資源 を活用して産業化を図ることで、地域経済に貢献し、雇用の創出を図ろうとす る姿勢は、今後の北海道経済を考える上で大変重要である。今後も両氏のチャ ンネルを通じて、北海道とドイツの間で世界をリードする技術が相互に行き交 うことを期待したい。 12 4.美瑛に根ざすドイツ人農家と日本農業とドイツ人との関係 美瑛町で農業を営むドイツ人の方がいる。シュテファン・コスターヒロセ (Stephan Koester Hirose)氏である。コスター氏はドイツのギュータースロー 市出身で、建設会社で経営管理を行い、ドイツ開発サービスの職員としてネパ ール、ベトナム勤務を経験した。1995 年に来日し、中富良野で農業を始めた。 1998 年に美瑛町で自営農家となり、現在、無農薬野菜のランドマンとドイツ風 ファーム喫茶ランド・カフェを経営。滞在客の受け入れ、散歩道の整備などを 積極的に展開中である。 2009 年 11 月にランド・カフェを訪問した。 雪が降り、美瑛の丘も白くなっていた。入口 で犬の歓迎を受ける。 コスター氏と挨拶を交わし、お話をさせて いただいた。彼は、土木・建設関係の専門家 という経歴を持っているだけあり、美瑛の地 で農業を行いながら生活をしていく上で知恵 ランド・カフェ外観 を使って様々な挑戦を行っている。 筆者が 3 年 2 ヶ月生活したデュッセルド ルフ市から車で 15 分も走ると、うねった畑の景色が広がる。美瑛の丘の景色と そっくりである。このような地形と火山灰地故の水はけのよさ、気温の日内変 動が比較的大きい内陸性の気候特性を活かして、環境にあった作物を自然に近 い状態で栽培している。 地力を高めて良い作物を栽培するために、単位面積当たりの収量を上げたり せず、連作をすることなく休耕地をつくり地力回復を行うなど、先人の知恵を 借りながら、自然の一部としてその恩恵を受けながら共生していこうという良 い例ではないかと思う。 近年、自然林の再生手法として混幡という考え方が注目されているが、コス ター氏の畑では、相性の良い作物を近くで栽培するコンパニオンプランツとい う手法を採用することにより病害虫の発生を抑制している。奇跡のリンゴで知 られる木村秋則氏のリンゴ農園でもリンゴの下草をあえて生えたままにするこ とで完全無農薬のリンゴ栽培を可能とし たのとも共通しているように思う。多種 多様な植物、生物が共生している中で、 人間だけが自分たちの都合によって不要 と思ったものを排除しようとすることで、 それまで保たれていたバランスが崩れ、 それを解消するために莫大な費用を投入 しなければならなくなるということでは コスター氏と筆者(ランド・カフェ内にて) ないだろうか。 13 コスター氏はまた、北海道の気候に合っている作物とそうでない作物の話も してくれた。これもまた、農薬や肥料、エネルギーを大量に投入することで、 何でも作れるかもしれないが、気候や土地にあった作物を栽培することで、か けた手間やコストに見合った果実を持続的に得ることができるというであろう。 筆者はドイツ在住中にイタリアやスペインにも旅行で行ったが、それらの国 で口にした物は全て太陽の恵みが詰まっているという印象を受けた。北海道の 農業がイタリアやスペインのようになろうとする必要はなく、北海道には北海 道の、美瑛には美瑛の環境に応じた品種・手法を選定することが自然の摂理に 沿ったあり方であろう。比較的環境が似ているドイツの農業は北海道農業の参 考になる点が多い。 ランド・カフェでは、コスター氏がつくったジャガイモなどを使い、ドイツ の家庭料理やライ麦パン、ドイツのケーキなどをいただくことができる。調理 は、奥様の香代子さんが行っている。香代子さんがドイツに住んだのは1年ほ どとのことであるが、ドイツらしいしっかりとしたケーキを同行した家内がい ただいた。 ランド・カフェの周辺は、散歩道が整備されており、北海道の雄大な自然を 感じることができる。 コスター氏夫妻は、美瑛にもともといらした方達以上に、美瑛の良さを感じ て、それを活かしていこうとしているように思う。技術畑出身ということもあ り、再生可能エネルギーの導入についても検討しているなど、次に訪問させて いただく時が楽しみである。次回は、家族とともにコテージを借りてゆっくり とお話をしたい。北海道民は、身近にこのような良い例があるのだから、積極 的に学んで欲しいと思う。 14 5.幕末期七重町における日本初の西洋式近代農業と果樹栽培の歴史 今現在、北海道における農業の模範となるような取り組みをコスター氏が行 っているが、140 年以上前の幕末に日本で近代農業が始められた時に模範とな ったのもドイツ人だった。 徳川幕府による長い鎖国政策の中、日米和親条約の締結により安政元年(1854 年)に箱館港が開港した。文久元年(1861 年)、日本・プロイセン修好通商条 約を締結し、日本とドイツの公的関係が始まった。一方、日本における最初の ドイツ商社の 1 つであるクニッフラー商会(L.Kniffler & Co.)は、安政 6 年 (1859 年)に拠点のバタビア(Batavia、オランダ植民地インドネシアの首都。 現在のジャカルタ)から長崎に進出し、横浜には文久元年(1861 年)に出店す るに至った。文久 2 年(1862 年)に横浜支社代表としてコンラート・ゲルトナ ー(C.Gaertner)は来日し、商用で箱館と横浜を往来していた。このことは、1862 年以降の函館市の外国人居留記録として残っており、史実として確認されてい る。コンラートは慶応元年(1865 年)に在箱館プロイセン領事館の副領事 (Consuifortne North German Confeaeration)に任命され、貿易商と副領事の 職を兼務することとなった。コンラートの兄であるリヒャルト・ゲルトナー (Richard Gaertner)は、文久 3 年(1863 年)に来日し、生糸貿易のために箱 館に住むこととなった。 江戸幕府の箱館奉行を務めていた杉浦兵庫頭は、気候の似ているプロイセン の技術を用いて蝦夷地の農業開墾を進めようと考えていた。かねてから農場経 営をしたいと考えていたリヒャルトと利害が一致し、慶応 3 年(1867 年)に亀田 村近郊の土地約 1,500 坪の試作をリヒャルトに許すこととなった。これが、日 本における近代農業の最初とされており、初めて西洋式のプラウを用いた農耕 やリンゴ、サクランボ、ブドウなどの果樹栽培が日本で行われたとされている。 翌年の明治元年(1868 年)には、明治政府箱館裁判所の井上岩見箱館府判事 との間で耕地試作面積を 70,000 坪に増やす契約を交わした。明治 2 年(1869 年) には、蝦夷嶋総裁榎本釜次郎との間に「蝦夷地七重村開墾条約」によって、300 万坪の土地を 99 年間貸借するという契約を締結した。 明治 2 年(1869 年)、箱館戦争の終結により、 蝦夷共和国は消滅し、明治政府による蝦夷地の 統治が回復した。この際に、蝦夷地七重村開墾 条約の存在を知った政府は、1年以上の交渉の 末、明治 3 年(1870 年)に賠償金 62,500 両を支 払い条約の破棄に成功した。これは、既にアジ アにおいて欧米諸国が長期間にわたる賃借契約 を行い、実質的な植民地化に至っていた例を承 15 ガルトネルのブナの森 (出典:七飯町公式HP) 知しており、蝦夷地の植民地化を何としても避けたいという意図があったとさ れている。 かくして、リヒャルトは明治 3 年(1870 年)に家族とともに帰国した。明治 政府は、ゲルトナーが退去した後の農場を、明治2年に設置した開拓使により、 七重官園と改め、引き続き近代農法による開拓を進めた。 クニッフラー商会は、明治 13 年にイリス商会(C.Illis & co) と改称して今日に至っている。ちなみにイリス商会は明治 20 年代 の函館の水道工事用資材を受注したとのこと。 現在、七飯町には、「ガルトネルのブナの森」があり、函館ワイ ンでは、「ガルトネル」というシリーズが生産されている。ここで 言うガルトネルとは、ゲルトナーを日本国内の資料を調べた場合、 一般的にガルトネルと呼んでおり、リヒャルト・ゲルトナーを指し ている。 函館ワイン「ガルトネル」 前作で紹介したとおり、七飯町には「大沼ビール」も あり、アルトビールやケルシュを飲むことができる。そ (出典:函館ワイン公式HP) して、今回紹介したゲルトナーの農場の歴史、その後を 引き継いだ七重官園における近代農法による開拓、果樹栽培等の歴史がある。 日独の農業関係の起点として、地元の農産物とビールやワインにもっと関心が 高まることを期待したい。そして、日独両国の農業関係にとって重要な意味を 持つ地として、交流が盛んになっていくことを願いたい。 16 6.果樹栽培の定着とビール原料栽培を支えたドイツ出身技術者 ゲルトナーが去った後も、ドイツ人(正確にはドイツ系アメリカ人)が北海 道農業に多大な影響を与えている。開拓使に雇われたアメリカ人ホーレス・ケ プロン(Horace Capron)の名は有名であるが、そのケプロンが蝦夷の開拓を進め るにあたり雇ったのがルイス・ベーマー(Louis Boehmer)である。 ベーマーは、1843 年にリューネブルクに生まれ、宮廷庭師の下で造園を学ん だ。1867 年、普墺戦争の戦禍を避け渡米、園芸家として働き、米国に定住する こととした。1872 年にケプロンにより果樹園芸技術者として雇われ来日した。 ベーマーは、1874 年に調査のために来道し、植物相の調査を行い、沙流郡で 野生のホップをみつけ有望視した。これより先の 1871 年に既にアメリカ人地質 鉱物学者トーマス・アンティセル(Thomas Antisell)によって岩内町で野生の ホップは発見されており、アンティセルの功績はよく知られている。しかしな がら、1877 年に札幌ホップ園が開設され、ベーマーが栽培にあたったことで開 拓使麦酒醸造所の原料として用いられるに至る過程を考えると、ドイツ出身の ベーマーの功績を忘れてはならない。前作で紹介した中川清兵衛がベルリン近 郊 ヒ ュ ル ス テ ン ヴ ァ ル デ (Fürstenwalde) の テ ィ ヴ ォ リ 麦 酒 醸 造 所 (Tivoli-Brauerei)で学んできたドイツのビール醸造技術によってベーマーが 栽培したホップを使って開拓使麦酒醸造所のビールはつくられた。札幌ホップ 園は、現在の札幌駅前から時計台のあたり一帯に広がっていたとされている。 ホップ園開設の前年 1876 年に、ベーマーは青山官園から札幌官園に異動し、 果樹等の栽培を行うこととなった。調査の際に北海道の気候にはリンゴ栽培が 適していると考えたベーマーは、異動後リンゴ栽培の指導で力を発揮した。開 拓使は葡萄酒醸造所の開設も行ったため、ブドウ栽培もまたベーマーの重要な 仕事であった。ゲルトナーが七重の農場で始めた試みを、偶然にもドイツ出身 アメリカ人のベーマーが引き継ぐこととなり、1879 年には余市や札幌でリンゴ 結実が報告されたのである。また、ワイン用のブドウ栽培においても、前作で 紹介したとおり、北海道ワインの技術指導を現在も行っているのはドイツ人で あるグスタフ・グリュン氏である。ゲルトナーが北海道で始めた取り組みが北 海道の中に根付き、再びドイツとの関係に繋がっているということは非常に興 味深いことである。 その他、ベーマーの功績としては、洋風温室の設置・公開や偕楽園庭園(清 華亭前庭)建設があげられる。また、1880 年には、豊平館の建設工事が開始さ れるが、このとき庭園の設計を担当したのも彼である。 ゲルトナーやベーマーが伝えたドイツの農業を学ぶために、旭川市の古屋誠 氏が、 (社)国際農業者交流協会の事業によってボン市近郊のアルフターで研修 を行い、2010 年 3 月末に帰国した。農業に限らずドイツでの経験を活かして、 日独交流の架け橋として活躍されることを願う。 17 7.スウィーツ王国北海道とドイツ人模範農家 日本国内初の農作物が北海道で栽培されたのは、果樹類だけではない、砂糖 の原料である甜菜も北海道で初めて栽培された。明治 3 年(1870 年)に日本で 初めての甜菜栽培が札幌官園で行われた。世界における甜菜による製糖の歴史 は、ドイツの化学者アンドレアス・マークグラフ(Andreas Marggraf)が甜菜糖 の分離に世界で初めて成功したのが、1747 年のことで、1801 年に世界初の甜菜 糖工場が設立されている。 日本における製糖業としては、明治 14 年(1881 年)に西紋鼈(にしもんべつ: 現在の伊達市)で官営製糖工場が操業を開始したのが最初であるが、明治 29 年 (1896 年)には解散している。十勝の晩成社当緑農場の甜菜糖工場も試作の域 を出なかった。また、明治 21 年(1888 年)、札幌に製糖工場が建設されるも、 明治 34 年(1901 年)に閉鎖され、前作で紹介した開拓使麦酒醸造所の工場と して活用されることとなる。 その後、大正 8 年(1919 年)、北海道製糖工場や大正 9 年(1920 年)、日本甜菜 製糖清水工場の進出によるビートの作付け指導から本格的な栽培が始まった。 しかし、ビートは連作に向かず、多くの施肥が必要ということもあり、大規模 な作付は困難だった。 そこで旧北海道庁は、ビート農家の栽培技術の向上を目指し、甜菜作付を条 件とする十勝の十町歩模範農家を招聘することとした。人件費以外の土地、住 宅、家畜、畜舎、農業機械等の設備は、北海道製糖株式会社と明治製糖株式会 社によって無償で提供されて、その他の費用(人件費等)は道庁が支出した。ド イツのクラインヴァンツレーベン製糖工場(Die Zuckerfablik Kleinwanzleben) の推薦によって 2 農家の招聘が決まり、大正 12 年(1923 年)6 月に 5 ヵ年契約 の仮契約をしている。こうして、ドイツからフリードリッヒ・コッホ(Friedrich Koch)とヴィルヘルム・グラバウ(Wilhelm Grabau)の二農家が招聘されることと なった。グラバウは帯広で甜菜栽培の技術指導を行い、1928 年に帰国、コッホ は十勝清水で 1930 年まで指導を行った後に帰国した。 大正12年(1923年)、コッホとグ ラバウ一行は、ブレーメン港を出 航して、約2か月かけて神戸に到 着した。すぐに、グラバウは北海 道製糖株式会社所有地(帯広) 当時のコッホの住宅(左)と現存する住宅(右) に、コッホは明治製糖所牛機会 (出典:HOMAS ニューズレターNo.54) 社有地(十勝清水)に到着した。 両者ともに十勝で十町歩の甜菜 栽培を主とした混合農業経営にあたった。 コッホは小学校卒業後、製糖会社の甜菜部に勤務して、ビート栽培技術者とし て高い評価を得ていた。住宅・畜舎は、ドイツ農家の設計図を参考にして建て られた2階建(24坪)の立派なものだった。その住宅は、現在も保存されている。 18 コッホは、十勝の生活に馴染んで、契約期限を2年延長し、清水で8年間営農指 導を行い、昭和5年(1930年)に家族とともに横浜から帰国した。 コッホの次女は、酪農家で後に道議会議員を務 めた三澤正男と結婚し、北海道に残った。二人の 間に生まれた長男の道男氏(後に道議会議員を務 めた)は、八雲町で酪農業を経営している。十勝 清水でコッホが使っていたパン焼き釜を八雲町 に移設して家族で大切に使用しており、今現在も 三澤家とコッホ家の親族は交流が続いていると のこと。 グラバウも小学校卒業後、コッホと同じ製糖会 社に入社。甜菜の耕作に従事していた。彼は、製 糖工場の工員出身のため、営農技術はそれほど優 れていた訳ではなかったとされているが、農業従 事者であることに強い誇りを持っていたと言わ れている。グラバウは、昭和3年(1928年)秋に帰 (出典:HOMAS ニューズレターNo.54) 国した。 コッホとグラバウの甜菜栽培指導と十勝に有名な菓子店が多いという関係に ついて詳細に調べてはいないので、その関係性は不明であるが、十勝には現在、 六花亭、柳月をはじめとする菓子有名店が多数所在しており、スウィーツ王国 と言っても過言ではない。この他、札幌では現在、甜菜糖に限らず、北海道産 の乳製品、小麦、小豆、ジャガイモ等を活用して札幌スウィーツのプロモーシ ョンも行われている。 第一次世界大戦の際に捕虜として日本に来たカール・ユーハイム(Karl Juchheim)が、終戦後に日本国内で普及させたバウムクーヘンは、その後北海道 内の菓子店でも「柳月」、「北菓楼」、「石屋製菓」等から発売され、すっか り定着している。最近は、クリスマスの時期には「六花亭」、「きのとや」、 「ロイズ」等からシュトレン(木の実、ドライフルーツ等を用いた焼き菓子で、 産着を着た幼少のキリストを象ったとされている)も発売されるようになった。 白石にある洋菓子店「ビーネ・マヤ」では、ドイツ・スイス等のお菓子をいた だくことができる。 今日、我々が北海道の美味しいお菓子をいただくことができるのも、コッホ やグラバウ等の功績なくしては語れないのではないだろうか。 19 8.函館の本格ハム、ソーセージ カ ー ル ・ ヴ ァ イ デ ル ・ レ イ モ ン ( Carl Weidel-Raymon)は、1894 年にドイツ・ボヘ ミア地方(現在のチェコ共和国)のカール スバートで生まれた。代々食肉加工のマイ スターの家庭に育ち、5 歳でハム・ソーセー ジづくりに興味を持ち、8歳の頃には見よ う見まねでハム・ソーセージをつくってい たとされている。14 歳の時にマイスターを カール・レイモン記念館脇の胸像 志し、父の友人の親方について技術を修得 する一方、職業学校で勉強の日々を過ごし た。その後、職人として欧州各地で研鑽を重ねた結果、資格を得ることに成功 した。第一次世界大戦後は、ノルウェー、アメリカでソーセージの製缶技術を 修得した。 「細胞を一時的に眠らせる」レイモンのハム・ソーセージづくりの基 礎は、この時期に完成した。 3 年のアメリカ研修を終え、欧州に帰る途中、日本に立ち寄ることとした。 1919 年、レイモンは日本に到着した。来日後に知り合った東洋缶詰の重役に頼 まれ、1年間ハム・ソーセージの指導をすることになった。さらに翌年には、 東洋缶詰に缶を提供していた会社から製缶技術の指導と品質チェックの要請が あり、1920 年、当時 26 歳のレイモンは、カムチャッカ工場を統括する基地の あった函館に赴くことになる。 函館に渡ったレイモンは、宿泊先の勝田旅館の娘コウと知り合う。コウは英 会話ができ、レイモンと挨拶などをするうちに打ち解け、恋愛へと発展した。 しかし、当時既に国際的な港町であった函館でも、外国人との結婚は許されな かった。1922 年(大正 11 年)、駆け落ちし、レイモンの故郷カールスバートに 向かった。カールスバートに着くと、レイモンの家族に温かく迎えられ、結婚 式を挙げ、ハム・ソーセージの店も始めた。レイモンのハム・ソーセージは評 判を呼び、店も繁盛し、幸せな日々を過ごしていた。しかしながら、3 年後、 レイモンは突然、コウに日本に帰ると告げた。 3 年ぶりに函館に戻ると、勝田旅館はなくなっていた。前年に火事で焼失し ていたのだ。自慢のハム・ソーセージを多くの人に提供したい、日本人に栄養 をつけてもらいたいという願いから、1925 年(大正 14 年)に函館駅前に店と 工場を設けた。しかし、客はほとんど来なかった。開店当時、日本には肉やハ ム・ソーセージを口にする習慣が定着していなかったのである。 当初、取引先は外国人客の多い大都市のホテルくらいに限られていた。しか し、彼の情熱はしだいに受け入れられ、函館中に評判が広まった。経営が上向 き、五稜郭駅前に工場を完成させた。更に、事業が軌道に乗った 1933 年(昭和 8 年)、牛 35 頭、豚 310 頭、羊 30 頭を飼育する牧場をもつ 3,000 坪の大野町新 工場をつくり、夢に一歩近づいた。 20 彼の夢とは、ハム・ソーセージを多くの人に食べてもらうこと以外に、畜産 を主産業にした北海道の開発を行うというものであった。函館駅前に店を出し た年である 1925 年(大正 14 年)に「食料と自給体制について」、1931 年(昭 和 6 年)には「食料の自給体制」という開発プランを旧北海道庁に提出してい る。彼は、北海道の気候的特徴に着目し、欧州のノウハウを活かして畜産を基 礎にハム・ソーセージづくりの産業を展開する北海道開発を提案したのだった。 彼の案は道庁には採用されなかったが、大野町工場の成功を聞き及んでいた関 東軍と南満州鉄道が関心を示し、1935 年(昭和 10 年)から 2 年間、レイモン は満州各地に 10 ヶ所の畜産試験場を開設し、北海道開発構想そのものを実践し た。満州などでの 3 年間の指導を終えて帰国した 1938 年(昭和 13 年)、旧北海 道庁から仕事の禁止と大野町工場売却の命令が下された。そして、太平洋戦争 が開戦し、外国人のレイモンに対する風当たりは強くなったとされている。 日本の敗戦から 3 年が過ぎた 1948 年に、54 歳となったレイモンはハム・ソ ーセージづくりを再開した。自宅横の工場の入口には「北海道創始者仕事場 (HOKKAIDO PIONEER'S WORKSHOP)礼門」の看板が掲げられ、ドイツ伝統の製法 によるハム・ソーセージづくりを守り続けた。 そして 80 歳となった 1974 年(昭和 49 年)には、日本とドイツの友好に関す る貢献を称え、当時のハイネマン(Heinemann)西ドイツ大統領から「功労勲章十 字章」が贈られた。1979 年には、(財)サントリー文化財団が創設した第 1 回 地域文化賞の優秀賞を受賞した。1983 年(昭和 58 年)、当時の日本ハム・ソー セージ工業協同組合理事長の勧めもあり、彼の優れた技術を継承するために 89 歳で初めて弟子をとることとした。彼は最初で最後の弟子、島倉情憲氏と福田 俊生氏の二人に、ハム・ソーセージづくりのすべてを教え込んだ。 信頼できる後継者が育ったからか、1984 年(昭和 59 年)に現役を引退し、妻とと もに、既に結婚してミュンヘン在住の娘 フランチェスカと暮らすため、ドイツに 向かうことにした。しかしながら、数ヶ 月後に、レイモン夫妻は函館に戻ってき た。函館元町を永住の地としたレイモン に、1985 年、 「北海道新聞産業経済賞」と カール・レイモン本社工場・記念館外観 横路北海道知事(当時)から「産業貢献 賞」が授与された。さらに 1986 年、長 年の日本の畜産業への貢献により、「勲五等双光旭日章」を受章した。 友人たちは彼の功績を広く伝えるために記念館設立を進めることとした。 1987 年(昭和 62 年)12 月 1 日、記念館の完成を待たずして、コウや娘のフラ ンチェスカに見守られながら逝去した。しかし、レイモンのハム・ソーセージ にかける精神は、今なお「(株)函館カール・レイモン」の本物の味とともに函 館の地に息づいている。なお、福田氏は、「(株)函館カール・レイモン」退職 後、「シェーネフェルト」を開業している。 21 レイモンは、地元函館の人々はもとより、全国のファンから「胃袋の宣教師」 と呼ばれている。彼は、すべての人が食を通じて幸福を享受すべきだと考えた。 これこそが彼の、生涯を通じての思想・信念であった。 彼はまた、自らのハム・ソーセージの製造技術は、肉の細胞を一時的に眠ら すだけで、人間の胃に入るとすぐその細胞はよみがえると言った。彼は、細胞 が死なないように、防腐剤など必要のない添加物を使わず、余分な粉や水も使 わないとも言った。 レイモンの功績として伝えられているものに青地に黄色の12星の欧州旗が あげられている。第一次世界大戦の原因となったセルビアにおけるオーストリ ア皇太子暗殺の背景に、ハンガリーとセルビアの豚肉貿易の争いがあったとい う分析がある。彼はこの話を聞き、欧州各国の宗教・文化は尊重しつつ、経済 や産業を統一することを提唱し、欧州を回った。この際に、函館の空に輝く北 極星をイメージし、青地の中央に星一つというデザインの欧州旗案を持って行 った。斬新なアイディアであり、当時は相手にされなかったが、第二次大戦を 経て彼の理想は実現することとなった。1955 年にストラスブールの欧州評議会 事務局から、彼のアイディアを採用してブルーの地にゴールドの星をあしらっ た欧州旗を作るという手紙が届いたとされている。 22 9.北海道の環境を活かした本物のハム・ソーセージづくり レイモンが切り墾いたハム・ソーセージづくりは、彼の願いどおり、北海道 における畜産を中心に据えた産業として根付いている。 (1)札幌バルナバフーズ株式会社 1979 年(昭和 54 年)、ハム造りに適した気候特性をもつ北海道の大地で、 「本 物のハムを造りたい」という一心からバルナバハムの前身である「マツダ食品 (株)」が設立された。西ドイツから食肉加工マイスターを招聘し、ハム・ソー セージの伝統的製法を学び、職人気質をもって「本物・安全・安心の美味しさ」 を追求し続けている。1981 年、1988 年、1990 年にそれぞれ、シュツットガル ト地方、ミュンヘン市、フランクフルト市に従業員を研修派遣している。2000 年に「札幌バルナバハム(株)」に社名変更した。 2003 年に初めて、ドイツ農業協会(DLG)国際品質競技会で金賞 5 つ、銀賞 2 つを受賞し、その後 8 年連続金賞を受賞している(2010 年時点)。2007 年には、 北海道が主催する「北海道新技術・新製品開発賞」大賞受賞した。この年、合 併により「札幌バルナバフーズ株式会社」となった。2008 年には、北海道洞爺 湖サミットの朝食に製品が採用されるなど高い品質が認められている。ハム造 り 3 千年、ヨーロッパの職人たちが頑なに守り、みがきあげてきた伝統をしっ かり受け継いで本物を造り続けようとする職人の技がバルナバフーズの誇りと なっている。 (2)エフエフ 佐々木実氏は、酪農学園大学卒業 後、 「日高ユートピア牧場」でハム・ ソーセージ製造に従事した。その後、 ニュルンベルクで食肉加工技術を 習得して、現在、ニセコで本格ハ ム・ソーセージの店「エフエフ」を 開いている。 エフエフの外観 前作で紹介させていただいたニ (出典:エフエフ公式HP) アシュタインのワイン醸造家であ る浅野秀樹氏とは友人関係にあり、北海道内では珍しく浅野氏のワインも買う ことができる。 (3)ブロインリンゲン 札幌南区に所在する「ブロインリンゲン」のご主人の楢崎温氏は、大手ハム 加工会社に勤務後、ドイツのブロインリンゲン(Bräunlingen)という町で、伝統 的ハム・ソーセージ作りマイスターのもとで 4 年間の修行をした。修行を終え て札幌に戻り、1994 年に(有)黒い森 手造りハム・ソーセージのブロインリン ゲンを創設。現在、本場の味が認められて在札ドイツ人客も多く訪れている。 (4)ヴルストよしだ、とんでんファーム 23 新十津川所在の「ヴルストよしだ」のご主人は、ドイツの食肉加工協会主催 世界最高峰コンテンストで優勝した「グロースヴァルト SANO」(静岡県富士市 所在)で修行した後、開業に至った。 「とんでんファーム」がつくるハム・ソーセージもバルナバフーズ同様、ド イツ農業協会(DLG)国際品質競技会で 2008 年に金賞・銀賞を受賞している。 食肉加工に限らず、乳製品も北海道の貴重な資源となっているので、これら を活かした地域経済を構築していくことが今後ますます重要になると思料され る。 24 10.経営者と技術者の情熱が創り出す本物の味 小樽ビール ドイツ人ビール醸造技術者がビールの歴史等を説明する行事があると聞きつ け 2010 年 1 月に参加した。札幌市中心部で大手外食チェーン「アレフ」が運営 する「ライプシュパイゼ」(Leibspeise)である。定期的に小樽ビール倶楽部と いう行事が開催され、地ビールを手頃な価格で飲み放題できる上、ビールやド イツのことを直接ドイツ人技術者から聞くことができるというお得な行事であ る。 1994 年に酒税法が改正され、ビールの製造免許を受けられる条件が、年間最 低製造量 2,000kl から 60kl に一気に引き下げられ、全国各地に地ビール工場が 多数開設された。それから 16 年が経過し、2010 年現在、一過性の人気は沈静 化、経営上の都合から閉鎖された工場も少なくない。 このような状況の中、酒税法改正当時から本物のビールを提供したいという 想いから、ドイツにおけるビール醸造・工場経営等に関する最上位の国家資格 である「ブラウエンジニア」取得者を「アレフ」は招聘し、現在も開業当時か らかわらない本物のビールを提供している。 小樽ビールの醸造責任者ヨハネス・ブラウン氏(Johannes Braun)は、マー ルブルク市(Marburg)近郊の老舗のビール醸造所を経営する家庭に生まれ育っ た。同醸造所を継ぐ者がいなかったため、醸造所は閉鎖されてしまったが、ブ ラウン氏はビール造りの仕事に就きたいという情熱をもって、ビール職人育成 の名門であるミュンヘン工科大学ヴァイエンシュテファン醸造・食品品質研究 科(Das Forschungszentrum Weihenstephan für Brau- und Lebensmittelqualität der Technischen Universität München)に入学した。同期 100 名中ブラウエン ジニア資格を取得出来たのは彼を含め 1 割にも満た ず、資格取得者の中でも彼が首席で卒業した。 卒業後は、ウイスキー醸造を学ぶため、本場スコッ ト ラ ン ド の ヘ リ オ ッ ト ・ ワ ッ ト 大 学 (Heriot-Watt University)大学院に入学。1年間ウイスキー作りを 学んだ。卒業後、ドイツの大手ビール会社レーベンブ ロイ社のギリシャ工場設立に携わった後、スコットラ ンドのウイスキー蒸留所で働いていた。 2 年ほど経過した 1994 年秋、ブラウン氏はビール醸 造に戻りたいという想いが強くなっていた時、日本人 がビール醸造職人を探しているという連絡が舞い込 ヨハネス・ブラウン氏 んだ。その後2週間とあけずミュンヘンに赴いて面会 (出典:小樽ビール公式HP) することとした。 札幌市の外食チェーン「アレフ」のビールプロジェ クト担当社員が面会の相手だった。同社社長の庄司昭夫氏がこの前年、ドイツ 25 の小さな醸造所でビールのおいしさに感動し、オリジナルの安全なビールを造 りたいと決意し、醸造技術者を探していたのである。ブラウン氏は、担当社員 の説明を聞き、原料のうち麦芽、ホップ、酵母の調達は問題ないと考えた。残 るは、北海道にビール造りに適した水があれば問題ないと考え、水のサンプル の送付を依頼した。届いたサンプルは、ビール造りに適している良い水だった。 同年冬、彼は、庄司氏と半月間醸造所 まわり等を行い、相互に信頼関係を構築 し、アレフに入社することを決意した。 その後、ドイツで、新工場設立に必要な 資材調達、原料確保を行い、翌 1994 年 に来日した。 すぐに、小樽運河沿いのでビアホール 併設の醸造所の開設に着手した。そして 7 月に「小樽倉庫 No.1」がオープンした。 その後、より多くの人にビールを提供 するために瓶ビールを発売。1999 年、 小樽市銭函に年間 2,000kl の醸造と瓶 詰ラインを有する「小樽ビール銭函醸造 所」を開設した。小樽ビールの瓶ビール の特徴は、酵母を残す点である。大手ビ ールメーカーでは、賞味期限を長く設定 し、長距離輸送を可能とするために酵母 を取り除いている。しかし、ブラウン氏 は「栄養素を含む酵母を残さなければ味 小樽ビールの各種ビール 覚が落ちる」と考えているので、味覚を (出典:小樽ビール公式HP) 損なうことのない 4 週間を賞味期限と して設定した。ドイツの醸造所同様、本物の味を届けるために半径 100km 以内 でしか販売しない方針を貫いている。 筆者は、ドイツ駐在中に公職にとどまらず、私人としても積極的に地元の方 と交流をするため、パーティーやビジネス交流会等に積極的に参加した。中で も、ハインリッヒ・ハイネ大学の日本学科の学生が月に 1 回主催するシュタム ティッシュ(「いつもの席」という意味)は、とても楽しかった。誰にでも一人 の人間として接する外交官と、学生さんたちも心を開いて受け入れてくれた。 最高のビール技術者が作る本物のビールを提供する小樽ビールも、地元の方 達のシュタムティッシュになることを願う。 26 11.旧産炭地で輝く世界シェア 7 割を誇るメーカー 北日本精機 北海道内の旧産炭地である芦別市に世界シェア 7 割を誇るメーカーが所在し ている。北日本精機(株)である。 社長の小林英一氏は、東京都出身で、学校卒業後、江戸川区の小さなベアリ ング工場に入社し、営業職として働いた。入社後、北海道内の産炭地域を担当 することとなった。1950 年代当時の北海道は、石炭産業が盛んで、炭車、コン ベヤー等に小林氏が勤めていた会社のベアリングが使用されていた。しかし、 石炭から石油に主力エネルギーが転換されたことで、石炭産業の将来は決して 明るくはなかった。 1960 年に城北ベアリング興業(株)を設立し、すぐにベアリングの海外販売 を開始した。その後、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ等に販路を広げた。 1969 年には、旧北海道東北開発公庫など政府系金融機関の産炭地支援策を受け、 三井鉱山関連会社と共同出資で芦別市にベアリングの製造会社北日本精機(株) を設立し、炭坑労働者を積極的に雇用した。その後、1970 年に城北ベアリング 興業(株)を城北商事(株)に商号変更、1977 年に北日本精機(株)の製品を アメリカ、欧州向け輸出開始した。城北商事(株)は、1984 年にサッポロプレシ ジョン(株)に商号変更されている。 1980 年、販路開拓に訪れたスイスの腕時計メーカー で、内径1mm 程の超小形ベアリングが、手作業で組 み立てられていたのを見て、小形ベアリングが有望な 市場であると直感した。この分野は、技術を確立すれ ば物流コストが少なくて済む。2000 年には、内径 0.6mm の超小形ベアリングの量産化に成功するという 快挙を成し遂げた。 現在、北日本精機(株)は、特殊極小ベアリングの 世界シェア7割を有するに至った。商談スペースの 上:北日本精機のベアリング製品 ゲストハウスが本社に隣接して設けられており、国 下:超小形ベアリング (北日本精機(株)提供資料) 内外から商談相手企業が芦別を訪れている。ドイツ から商談に訪れたベアリングメーカー社長は、 「設備、品質、管理ともに文句な しに世界一だ」と絶賛したとのことだ。既に海外 36 か国に販売ルートを持ち、 世界の人々の暮らしを支えている。 社長の小林氏は、付加価値の高い製品を生み出すことで、地方に所在してい る企業でも競争に勝つことができると考えている。背景にある技術力は、小林 氏の人脈によって得られた協力があって支えられている。 また、地方都市における企業のあり方として、地域と企業が一体となること の必要性を強調している。ある年の新入社員 40 人全員が道内出身者で、その半 分以上が芦別市出身だった。採用後は、技術者個々人が問題意識を持つことの 大切さを協調し、人材育成に力を入れている。 27 12.世界の自動車メーカーが認めた品質と人を大切にする経営 ダイナックス 千歳市に、ドイツの自動車メーカーも採用して いるクラッチディスクを製造・販売している企業 がある。ダイナックスである。 1973 年に、米国レイベストス・マンハッタン(R M)社と(株)エクセディ(旧(株)大金製作所) の合弁により大金アール・エム(株)を設立した。 1989 年に合弁を解消し、単独資本となる。1990 (株)ダイナックスの製品 年に有名自動車メーカーが多数所在するドイツ のシュトゥットガルトに欧州駐在員事務所を開 (出典:㈱ダイナックス公式HP) 設した。翌 1991 年に社名を現在のダイナックスに変更した。 日本の工業地域というと、京浜、中京等集中している印象があるが、ドイツ では、比較的分散しているように感じる。しかしながら、歴史的経緯から、地 域ごとに特色のある工業が展開されている。例えば、ノルトライン・ヴェスト ファーレン州メットマン郡のフェルベルト市及びハイリゲンハウス市周辺では、 鍵の産業が発達しており、ドイツ国内の建築物用、自動車用の鍵のほとんどが この地域で生産されている。同様に、自動車の最終製品を生産している地域と いうのは、BMW の拠点であるミュンヘン市及びベンツの拠点であるシュトゥッ トガルト市周辺である。よって、自動車部品メーカーも両都市の周辺に集まる 傾向にある。ダイナックスもまた、その例に漏れずシュトゥットガルト市に拠 点を開設したということであろう。 設立当初 4 名であった従業員は、現在 1,100 人になった。また、設立から 4 年連続売上げが 0 だったのが、今や 447 億円(2008 年度連結)に及ぶ。千歳拠 点から北米、中国、欧州拠点に製品を輸出している。 フォード、ダイムラー、クライスラー、GM の海外自動車メーカー、トヨタ、 ホンダなど国内自動車メーカーに製品を納入し、高い技術力には定評があり、 国内外で高い市場占有率を誇っている。同社の技術力及び海外輸出の実績が認 められ、平成 17 年に政府が創設した「第 1 回ものづくり日本大賞」において経 済産業大臣賞を受賞し、平成 21 年には、「第3回ものづくり日本大賞」優秀賞 を受賞している。 ダイナックスもまた、人材を大切にする会社である。研修制度も充実してお り、大学生の研修も積極的に受け入れている。筆者の母校である小樽商科大学 の学生も多数お世話になっている。 現在、自動車業界は、ハイブリッド(HV)と電気自動車(EV)へのシフトが 顕著である。この傾向は、最終製品としての自動車メーカーにおける方針転換 に留まらず、部品を納入している川中、川上のメーカーに重大な影響を及ぼす。 28 自動車が完全に EV に移行してしまうと、燃料系統及びエンジンにかかる部品が 全く必要なくなり、結果としてそれらの部品メーカーは納入先を失うこととな る。部品納入メーカーも、今後の自動車業界の動向を見極めつつ、イノベーシ ョンを行うことが必要となってきている。ダイナックスが手がけている製品は、 HV や EV にシフトしてもなお需要が見込める分野だと思われるが、優秀な人材、 人を大切にする経営によって、今後も世界で認められるイノベーションを続け られることを願う。 29 13.積雪寒冷な気候を活かしたテストコース「BOSCH」 北海道は、積雪寒冷の気候的特性を 有しており、その特性に関連する知見 及び技術が蓄積されている。例えば、 北海道大学には低温科学研究所が設 置されており、所内では真夏でも -35℃の環境下での研究が行われてい る。 気候的特性と広大な土地を活かし た自動車のタイヤやブレーキ・システ ム等の開発のためのテストコースも 多数所在しており、その数は 25 コー スに及んでいる。ドイツ企業の日本法 人も北海道に研究拠点としてテスト コースを設置している。 (出典:ビジネスリンク北海道 No.27) 総合的機器メーカーであるロバート・ボッシュ社(Robert Bosch GmbH)は、1886 年にドイツでロバート・ボッシュ(Robert Bosch)が、精密機械・電気技術作 業場を設立したことに始まった。1911 年には、横浜のアンドリュース・アンド・ ジョージ商会と日本でのボッシュ製品の販売・修理に関する代理店契約を締結 している。 北海道にボッシュ(株)のテストコースが開設されたのは、1992 年のことで、 以来、ブレーキ用部品やシステムのさまざまな試験を実施してきた。 そして、2009 年に、女満別テクニカルセンターの拡張計画を決定し、第 1 段 階として現計画期間内に約 35 億円を投資することとした。 製造業が弱いとされる北海道であるが、気候的特性や広大な土地という長所 を活かして企業が研究拠点を置くということは、重要なことである。ボッシュ 社による 35 億円にのぼる投資が地域社会に対して行われるメリット、製造拠点 と比較すると従業員数はそれほど多くないかもしれないが、研究員が地域で生 活することに伴う地域経済への効果がある。 今後も、北海道の特性を有効活用した企業誘致の可能性を考える上で、自動 車関連テストコースは非常に参考になる例の一つではないだろうか。 30 14.赤平から世界へ「鞄のいたがき」 旧産炭地の赤平市とドイツのガルデレーゲン市(Gardelegen)のロクスフェ ルデ(Roxförde)をビジネスで往復している女性がいる。板垣江美氏である。 板垣氏は、有名な鞄メーカーである「鞄のいたがき」のデザイナーであり、 専務の職をつとめている。ドイツ人の方と結婚し、ガルデレーゲン市在住で、 現地には「鞄のいたがき」の事務所を構えている。ドイツで革を調達し、赤平 の工房で製品としているものもある。 そもそも「鞄のいたがき」は、江美氏の父親 である板垣英三氏が 1 代で築いた鞄工房である。 1935 年に横浜に生まれた英三氏は、1950 年、15 歳の時に、昭和天皇の渡航用鞄を手がけたこと で有名な皮革職人八木廉太郎に師事した。その 後、1954 年に二人の兄と共同で東京に三協鞄製 大型鞍ショルダー 作所を設立した。 (出典:鞄のいたがき公式HP) 1971 年に大手旅行カバンメーカーのエース ラゲッジ(大阪)の技術課長に抜擢され、赤平市に新設された、エース(株)の 工場の開発部長になった。工場では、「サムソナイト」の開発・製造をてがけ、 大量生産のベルトコンベアのラインを作った第一人者となった。1976 年に北海 道に移住し、1982 年に工房「いたがき」を創業した。 筆者が、ある行事に参加していた際に、いたがきの従業員の方と名刺交換さ せていただき、後日、ドイツ拠点の所在地が名刺に書かれていることに気付き、 連絡をとり、いろいろと教えていただいた。江美氏がデザイナー兼専務を務め ており、ドイツ在住であること、馬具メーカーであるソメスサドルに鞄の縫製 の指導をしたのは英三氏であるということ等である。 外国製や北海道外のメーカーが作った鞄も決して悪くはないが、ゲルトナー が先鞭をつけ、レイモンが目指した畜産による北海道の産業というものを考え た場合、肉牛や乳牛の副産物である皮を得て、北海道産のタンニンで鞣し、北 海道内で優れたデザインと技術で縫製された皮革製品をつくるこことができた ら、オール北海道メイドの製品が可能になるのだが。前作のニッタの項目で紹 介したが、北海道内ではタンニンの原料となる柏の木が減少しており、外国産 のタンニンに価格競争で勝てないこともあり、道産タンニンを用いた鞣しとい うのは難しいかもしれない。また、歴史的に皮鞣しは、関西圏で発達している ので、技術を移入しなければならないという課題もある。 既に優れたデザインと縫製技術の鞄は「鞄のいたがき」が生産しており、江 美氏が外国との情報の通り道の役割を果たすことで、赤平で生産された鞄が世 界中で使われることを楽しみにしている。 31 15.バーデン・バーデンと十勝川温泉のモール泉 温泉の泉質の中にモール泉というのがある。植物起源の有機物を含んだ温泉 であり、ドイツ語の湿地(Moor)に由来する。かつては、ドイツのバーデン・バ ーデンと北海道の十勝川温泉の 2 箇所しか存在していないとされていた。しか しながら、現在は、日本国内でも数カ所モール泉が確認されている。 ドイツでは、療養のための入浴制度が整備されており、療養目的でクアオル ト(Kurort)に滞在して入浴する場合、医療保険の対象となっており、長期間の 滞在療養が可能となっている。 日本は火山国で、比較的温泉資源に恵まれているためか、観光地としての価 値は認識されているものの療養地としての価値は忘れられているように思われ る。しかしながら、湯治という言葉が存在しているように、温泉の療養効果は 古くから認識されているところであり、戦国時代までは身分の高い人だけが温 泉に入ることができたとされている。温泉が庶民の間に広まったのは江戸時代 になってからのこととされている。 現在、日本国内では、フランス等の温泉療養に倣って地域づくりをしていこ うとする動きも始まっており、ドイツのクアオルトを参考としながら温泉保養 地と環境計画を創出してはどうかという研究も行われている。 温泉の活用手法などを地域づくりや観光と結びつけながら展開するために、 バーデン・バーデンを初めとして外国の例を参考とするために交流が生まれる ことを願う。 32 16.十勝平野に佇むドイツ村「フェーリエンドルフ」と「ビュッケブルク城」 中札内村にドイツ駐在期間中に見慣れた木組みの家が建ち並んでいる場所が ある。 「中札内農村休暇村フェーリエンドルフ」である。 「フェーリエンドルフ」 とはドイツ語で「休暇村」の意味だ。 1991 年に、ぜんりん地所建設社長の西惇夫氏が、中札内村にドイツ型農村休 暇村建設を提案し、1992 年に着工した。何故、西氏は中札内村にドイツの休暇 村を作ろうとしたのだろうか。2009 年 8 月に西氏を訪ねた。 西氏は、観光開発を手がけようと観光につ いて学んだ。その際に、ドイツの観光づくり に感心し、ドイツの周遊型観光と滞在型観光 を十勝に取り入れようと考えた。 周遊型観光の面では、足寄町から広尾町に 至るルートを「十勝幸福街道」、帯広空港から 岩内仙峡に至るルートを「古城街道」として、 フェーリエンドルフのコテージ 十勝観光の入口となる帯広空港のすぐそばに シンボルとして「グリュック王国」というドイツのテーマパークを 1989 年に開 業した。 「グリュック王国」のオープン記念式典には、三笠宮寛仁親王殿下、ド イツ連邦共和国からハーナウ市長等が出席し、盛大に式典が開催された。 他方、滞在型観光の面では、中札内村に中・長期滞在のためのドイツ休暇村 を手がけた。 1989 年から 1992 年というと、日本はバブル経済がピークに達していた頃で ある。西氏が感銘を受けたドイツ型観光の本質が受け入れられる時代ではなか ったように思う。そもそも、物見遊山という言葉が端的に表しているように、 日本人の観光は、珍しい物や新しい物を見たいという傾向がある。結果として、 1日に何カ所もまわり写真を撮ってお土産を買うだけのジェットコースター型 観光になりがちである。今なお、日本の労働環境では、1 週間以上の連続した 休暇を取得しやすい状況にはない。この点が改善され、1 週間以上の連続休暇 を年に複数回取得できる環境が整えば、周遊型・滞在型観光の素地が整うと思 われる。 フェーリエンドルフ に着工した年には、グリ ュック王国の顔となる ビュッケブルク城が完 成した。1992 年のビュ ッケブルク城のオープ ン記念式典には、リッペ グリュック王国ビュッケブルク城 (出典:グリュック王国とビュッケ ブルク城の旅) 33 ドイツ・ビュッケブルク城 (出典:グリュック王国とビュッケ ブルク城の旅) 侯爵、ビュッケブルク市長等が出席した。 残念ながら、他のテーマパーク の例に漏れず、経営が悪化し、 2003 年に休園となってしまい、今 現在もそのままになっている。 どうしても、経営がうまくいか ないと結果だけを見て批判的な 論評が目につく。確かに、ドイツ そのものを十勝に作ろうとした ことに無理があったのかもしれ ないが、ドイツの観光に学んで周 グリュック王国・ビュッケブルク城 遊型観光や滞在型観光を目指そ (2010 年1月撮影) うとした西氏の着眼点自体は筆 者個人としては評価に値するのではないかと思う。 現在、グリュック王国の敷地内にある建物は、手入れもされておらず、どれ だけ使えるのかは定かではない。しかしながら、ドイツからわざわざ運んだ木 組みの家や古い石畳、ビュッケブルク城の複製等、せっかく多大な労力、時間、 費用をかけて作ったものが、全く使われずに野ざらしになっているのは、勿体 ないし悲しいことである。テーマパークや遊園地という用途は無理にしても、 現在ある資源を活用して、イベント会場や研修施設等としての活用方法はない だろうか。十勝産の農産物を活かしたオクトーバーフェスト、オペラや音楽会 の会場として使用するにはこれ以上ぴったりとはまる場所はないのではないか。 筆者の知人で、著名なオペラ歌手であるアルフォンス・エベルツ(Alfons Ebertz)氏がグリュック王国のビュッケブルク城にふさわしいオペラを上演す ることができれば、どれだけ素晴らしいだろうと思ってしまう。帯広市内から のアクセスは、JR 帯広駅からシャトルバスを運行するなどすれば、不可能では ないし、フェーリエンドルフのコテージに宿泊して、馬車で揺られるというの も楽しいかもしれない。 グリュック王国に関係した方達の想いを考えた場合、話題として取り上げな い方が良かったのかもしれない。筆者自身も最初は、フェーリエンドルフだけ を紹介しようと考えていた。しかしながら、西氏の考えを伺い、頂いた資料を 読むうちに、多くの方達の想いが詰まったグリュック王国に対して、正確に理 解してもらいたいと思うようになった。 よって、読者の方達も、決して興味本位 で近づくことだけはしないでもらいたい。 他方、フェーリエンドルフのコテージは、 現在も手頃な料金で宿泊することができ るので、時間に追われる日常から抜け出 して、滞在型観光を体験してみては如何 フェーリエンドルフ内のレストラン 34 だろうか。朝は小鳥のさえずりで目を覚まし、敷地内の畑の野菜と平飼いの鶏 卵で朝食をいただく。森の中でリスを見ながら、ゆっくりとした時間を過ごし、 冷えてきたら暖炉に薪をくべて暖をとるというのも良いものである。そういう 時間の使い方、ライフスタイルの価値が、ようやく日本でも浸透しつつあるよ うに思う。 今現在、北海道内の自治体でドイツの基礎自治体と姉妹都市となっているの は、札幌市(ミュンヘン市)と別海町(ヴァッサーブルク市)である。この他、 帯広市商工会議所とカッセル市商工会議所が商工会議所レベルでの提携を結ん でいる。西氏は、今現在もグリュック王国を作ったときに構築したドイツ人と の関係を続けている。西氏を訪問した際に、シュパンゲンベルク(Spangenberg) 市との生徒・児童の相互訪問など友好関係を示す日独双方の新聞記事を綴った 資料を拝見した。 テーマパークに限らず、需要がなければビジネスが成立しないというのは、 単純な経済原則である。急速な経済発展、バブル経済の崩壊を経験し、現在、 全国各地で、一旦忘れられかけていた地域の資源に光をあてて再度活用しよう という活動が進められている。北海道は歴史が浅い土地であると言われている が、自然・文化・産業それぞれの面で多くの魅力を有している土地だと個人的 には思っている。西氏が手がけた十勝幸福街道、周遊型観光、滞在型観光が見 直されて、ドイツの観光施策に対する関心や理解が高まることを期待したい。 35 17.ドイツ健康靴リッツ、アルファ美輝、ベンハー (1)ドイツ健康靴リッツ ドイツ健康靴の専門店「リッツ」は、2002 年に開店。札幌市内の円山地区に 店を構えている。代表の井上亮氏は、イギリスの靴店で働いた経験を持つ。ド イツを中心に欧州4社の製品を輸入・販売している。販売に際しては、顧客の 足に合わせた調整を行っている。 ドイツでは古くから整形外科靴技術に基づく伝統工法で健康靴が作られ、購 入時に健康保険が適用になる制度もある。 「リッツ」の開業当時はドイツ人技師 がいたが、現在は、井上氏が技術を引き継いでいる。 (2)アルファ美輝 「アルファ美輝」は、1988 年に木田倫子氏が設立した靴店である。木田氏は、 20 年ほど前、東京に滞在していたときにドイツの整形マイスターによってつく られたサンダルを知った。ドイツの整形靴マイスター店には、必ずフットケア がある。カウンセリングによって足のトラブルを予防し、足にあう靴を選び、 調整する。 札幌に戻り、フットケア・整形マイスターがつくる靴を採用するよう有名靴 店に働きかけたものの、バブル好景気という時代背景もあり、木田氏の提案は 理解を得られなかった。そこで、木田氏自身が整形靴店を開業することとし、 「アルファ美輝」を開いた。 「アルファ美輝」では、オートベディ・シュー・マイスター(整形外科靴マ イスター)であるルッツ・ベーレ(Lutz Behle)氏に足と靴の相談会とスタッ フの靴づくりのために、月に2日来札していただき、多くを学んでいる。また、 靴の勉強と仕入れのために、メッセ・デュッセルドルフで春と秋の年2回開催 される「GDS(国際シューフェア)」を木田氏はスタッフとともに訪問している。 同社には、オートベディ・シュー・テクニカー(整形外科靴技術者)も誕生し た。全国で合計 16 名中、北海道で唯一のマスターオブシューフィッティングで ある木田氏が責任指導を行い、ベストフィッティングを心がけている。 木田氏によると、ドイツの保存的療法に基づく、今ある足の機能を最大限に 生かしきる理論と技術に脱帽しているとのことだ。 (3)健康靴ベンハー靴店 旭川市に所在する「健康靴ベンハー靴店」の菅野研一氏は、ドイツ国家資格 オートベディ・シューマッハ・ゲゼレ(整形外科靴職人:OSG)である。ゲゼレ とは、マイスター制度における「職人」にあたる資格である。また、菅野氏は、 日本小売商連盟シューフィッター・技術指導員、日本整形外科靴協会会員でも ある。 36 18.ドイツ料理レストラン、ドイツ菓子店、ドイツパンの店 狸小路にある「ノイ・ガ-デンコート」のオ ーナーシェフは、ドイツ、フランスに滞在した 経験を活かした料理を提供している。もともと ガーデンコートという名称のお店が、2002 年 11 月新装して「ノイ・ガーデンコート」になっ た。 「ノイ・ガーデンコート」の料理はドイツ料 理の中でもバイエルン地方の料理がメインだが、 ノイ・ガーデンコート店内 マウルブロンの名物であるマウルタッシェンと (出典:ノイ・ガーデンコート公式HP) いうドイツ風水餃子も食べることができる。 札医大のそばにある「ダンケシェーン」は、 オーナーシェフの遠藤定見氏が 2004 年 11 月に 開いたお店である。遠藤氏は、お隣にある「ラ ムハウスケケレ」も経営しており、 「ダンケシェ ーン」は昼のみの営業となっている。ドイツ、 スイス、スウェーデンで長年修行した経験を活 ダンケシェーン外観 かし、自ら市場で旬の素材を吟味し、無農薬野 (出典:ダンケシェーン公式HP) 菜を使った欧風料理を提供している。 千歳空港内にある「シェーン・ヴァッサー」もまた、ドイツ料理レストラン として開業した。今現在は、洋食を中心にソーセージ等を提供するレストラン である。シェーン・ヴァッサーとは、美しい水を意味するドイツ語(Shönes Wasser)を基にしている。同レストランでは、千歳市に所在するピリカワッカ(ア イヌ語で「美しい水」の意)という地ビールを飲むことができる。 「北海道ビー ルピリカワッカ」は、もともと、1998 年に「株式会社ビア・ワークスちとせ」 により「ちとせ地ビールピリカワッカ」として開業し、2005 年にブランド名を 「北海道ビールピリカワッカ」に変更、2006 年に「株式会社耕人舎」の経営と なった。この他、千歳市では、2008 年から、「オクトーバーフェストIN北海 道」が開催されているので、今年は参加してみようと思う。 ニセコに所在する「シェーンベルク」のオーナーシェフの村岸弘氏は、4年 間ドイツで修行を積み、その後、試行錯誤の末に日本人好みのソーセージを製 造している。平成 11 年には、北海道が主催した「第一回北の食材こだわりの宿 コンテスト」で、こだわり料理・準大賞を受賞した。 白石にあるスイス・ドイツ菓子の「ビーネ・マヤ」のオ ーナーシェフ岩川芳久氏は、吉祥寺の有名店「ポール・ ゴッツェ」で修行した。ドイツのコンディトライでよく 見かけたお菓子を手頃な価格でいただくことができる。 岩川氏の師であるヴォルフガング・パウル・ゲッツェ 37 ビーネ・マヤ外観 (出典:ビーネ・マヤHP) (Wolfgang Paul Goetze)氏は、ベルリン生まれでスイス、ドイツ、アメリカ、 日本でシェフとして活躍。 『現代スイス菓子のすべて』の著者で、日本の洋菓子 の技術向上に大きな影響を与えた方で、現在は講演等を中心に活躍されている とのことである。 札幌市内には、ドイツパンの店も複数ある。札医大のそばや東急百貨店にあ る「ブルク」のパンは、日本人にも親しみやすい。 新札幌に所在する「ベッカライ・ドルフィー」は、道産小麦とライ麦粉を使 用したパンを提供している。既に開店から 30 年が経過し、店頭に並ぶドイツパ ンは約 25 種類に及ぶ。 真駒内の「ベッカライ・コルプ」は、無香料・無添加で作る、ドイツパンと デンマークのデニッシュ・ペストリーを販売している。 稲積公園の「マイスタールッペル」のオーナーである大山ひすい氏は、40 年 前にドイツで食べたパンが忘れられず、 独学でパン作りを行っている。ルッペル のパンは、昔ながらのドイツパンであり、 ライ麦の風味がきいているしっかりとし たパンである。拙宅から比較的近いので、 割と頻繁に利用させてもらっている。こ れからも美味しいドイツパンを提供して マイスタールッペル外観 くれることを期待している。 札幌北高校裏の「ベッカライ島田屋」 は、東区に所在していた店が現在の場所に移転した。オーナーは、東京で修行 した後に札幌で開業したとのことである。 この他、道内各地にドイツパンの店があるが、残念ながら全てを把握してい ないので、札幌市内の一部紹介にとどめることとする。 本稿で紹介したように、北海道とドイツとは農業に関連する話題が多い。ド イツで感心したのは、肉を無駄なく美味しく食べようとしている点である。癖 のあるレバーもレバークヌーデルという団子にして美味しくいただくことがで きるし、ブルートヴルストという血のソーセージも美味である。 北海道には新鮮な水産品もあり、この点では敢えてドイツに学ぶこともない かもしれないが、食肉加工技術やジャガイモの美味しい食べ方等、互いの良さ を活かすことができれば世界が広がるように思う。前作で紹介したように、ホ ワイトアスパラをドイツ語を用いてシュパーゲルと呼び、北海道の乳製品を使 って調理し、ビールやワインとともに味わうというのも北海道に暮らす人の特 権となりうるのではないだろうか。 レストラン、お菓子屋さん、パン屋さん等は、食文化及び経済の交流チャン ネルであるので、今後もどんどん食文化・経済交流促進のために活躍していた だきたいと思う。 38 19.日独修好 150 周年 2010 年前後は、各国との修好 150 周年記念行事が連続している。徳川幕府末 期の開国で、欧米の列強と立て続けに条約を締結したからである。 ドイツとの関係では、非公式には 1690 年にレムゴ(Lemgo)市出身の医師であ るエンゲルベアト・ケンプファー(Engelbert Kaempfer)が、オランダ商館付き の医師として来日したという記録が残っている。公式には、1861 年に日本・プ ロイセン修好通商条約を締結したことに日独関係が始まった。 2011 年には、日独両国で 150 周年の記念行事が多数予定されている。前作と 本稿で北海道とドイツとの関係について筆者は数多く紹介してきた。交通機関 や情報伝達手段が高度に発達したボーダレス時代を迎え、1万㎞離れた異国の 情報もタイムラグなしに入手可能である。しかしながら、何十年も前は、交通 手段も通信手段も発達しておらず、情報一つ入手するにも多大な困難を伴う状 況にあった。そのような時代に外国にわたり、見聞を広め、多くのことを学ん で帰国後にその経験を活かしている先人達の功績には感服する。 内村鑑三の二つのJではないが、筆者が生まれ育った土地である道(北海道) と第二の故郷であるドイツという二つのDのために筆者自身も少しでもお役に たちたいと思う。 幸いにも、札幌市はミュン ヘン市と姉妹都市であり、 2002 年以降「ミュンヘン・ク リスマス市 in Sapporo」が開 催されるなど、年間行事の中 でドイツの文化が根付き始め ている。また、2010 年の札幌 ドレスデン聖母教会 雪祭りの大雪像には、ドレス 札幌雪祭り・ドレスデン聖母教会大雪像 デン聖母教会が作製されるなど、市民だけでなく全国(世界)各地から訪れた 観光客の方々にも楽しんでいただけたのではないだろうか。 2011 年の日独 150 周年記念に際し、北海道でも、今後の更なる両国の友好関 係が拡充されるような行事が行われることを願う。また、ゲルトナーが日本に おける近代農業・果樹栽培を始めた 1867 年から 150 周年にあたる 2017 年に日 独農業関係の行事が何かできたら面白いかもしれない。特に、本稿で紹介した 七飯町や札幌市、十勝地方などの縁の深い土地、ビール・ワイン醸造、食肉加 工、農産物を活かした食品等を融合させ、単発の行事にとどまらず、中・長期 的な視点での北海道・ドイツ両地域の発展につながることを期待したい。 39 参考文献等一覧 http://www.newsdigest.de/newsde/index.php?cucoaction%5B0%5D=edit&option=com_content &task=view&id=1530&Itemid=108 「ドイツの実情」ドイツ連邦共和国外務省 (株)イーベック公式HP (株)木の繊維公式HP ランド・カフェ公式HP 富樫倫太郎「箱館売ります」実業の日本社 http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition07/series.html http://www.pointplus.jp/2008/01/k.html 皆戸顕彦「農業研修生とドイツを歩こう② 道具の違いにも異文化を実感 旭川出身の研修 生」ニューカントリー2009.8 「北海道庁が招聘した北欧の外人模範農家-札幌真駒内種畜場のモーテン・ラーセンと札幌琴 似村農事試験場のエミール・フェンガー 十勝地区甜菜農家のフリードリッヒ・コッホ(十勝清 水)とウィルヘルム・グラバウ(帯広)―」HOMASニューズレターNo.54 http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/ http://ja.wikipedia.org/ http://www.raymon.co.jp/ http://www.ashir.net/plaza/shop/braunlingen/ 札幌バルナバフーズ株式会社公式HP エフエフ公式HP とんでんファーム公式HP http://www.nitten.co.jp/column/whats.html http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/kikaku/ http://www.pref.hokkaido.jp/keizai/kz-krkyt/blink/no27/no27_01.html 「北海道における自動車産業集積に向けて」日本政策投資銀行北海道支店(平成 18 年) 北日本精機㈱公式HP ㈱ダイナックス公式HP 鞄のいたがき公式HP http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000260911300001 アルファ美輝公式HP http://www.sapporoteku2.net/journal/02spot/post_65.html 健康靴ベンハー靴店公式HP ノイ・ガーデンコート公式HP ダンケシェーン公式HP シェーンベルク公式HP ビーネ・マヤ公式HP 40 41 著者略歴 渡部成人(わたなべ まさと) 国土交通省北海道開発局開発監理部開発調査課勤務 1969 年 11 月 札幌市に生まれる 高校卒業まで帯広市と音更町で過ごす 1995 年3月 小樽商科大学大学院商学研究科企業法学コース修了 修士(商学) 民間企業勤務を経て 1998 年4月 北海道開発局入局 2002 年4月 国土交通省(約 4 年間霞ヶ関勤務) 2006 年3月 在デュッセルドルフ日本国総領事館副領事 2009 年5月 現職 研究業績 「GATT/WTO システムと食品の安全性(上)」商学討究第 46 巻第 4 号 「GATT/WTO システムと食品の安全性(下)」商学討究第 48 巻第 1 号 講演等 2008年10月 「ノルトライン・ヴェストファーレン州内独企業及び日本企業の中東欧との関係 及び動向」中・東欧情勢説明会(於ウィーン) 2009 年8月 「札幌の観光を考える(ドイツの事例からみて)」札幌南ロータリークラブ 2010 年3月 「ボーダレス時代のフロンティア精神 特別編」札幌市議会日独友好議員連盟 この他、ドイツ在勤中に企業内研修の講師として招聘されている 現在は、3年2ヶ月にわたるドイツ勤務の経験を活かして、北海道とドイツの経済関係の拡 大及び北海道経済の将来像の創出をライフワークとして取り組んでいる。2009年1月には、 「ボ ーダレス時代のフロンティア精神 国境なき時代に挑戦する開拓者達(ドイツ・北海道に縁の ある企業活動の事例から)」を公表、同年4月に同稿の独語版「Der Pioniergeist eines grenzenlosen Zeitalters Von Pionieren, die sich den Herausforderungen einer grenzenlosen Zeit stellen (Konkrete Beispiele für Aktivitäten von Unternehmen mit Bezug zu Hokkaidô und Deutschland)」を公表した。 2009 年の帰国後間もなくドイツ駐在中に知り合った日本人女性と結婚、2010 年 3 月に第 1 子となる女児が誕生。手稲区在住。北海道日独協会会員。 42 C ○ 渡部 成人 2010 43
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