第五号2011

巻
頭
言
巻 頭 言
2010年、日本では政治の混沌状況が続き、衆参、そして国と地方の与野党捻じれ現
象の下で政策の揺れが続きました。2011年春には統一地方選挙が行われ、地方政治の
新たな勢力図が描かれることになります。一方で日本の経済は2008年秋の金融経済危
機による最悪期から脱却する過程にはあるものの、新興国の台頭など世界経済のパラ
ダイムが大きく変化する中で経済金融を通じたグローバル化への政策的対応はまだ途
半ばに過ぎません。また、アジア経済でのパワーシフトが進む下で日本経済をいかに
位置づけ政策展開するのかの海図をも未だ明確にできないでいます。そうした中でこ
れまで日本が蓄積しさらに進化し続ける科学技術を社会システムと一体化しアジア等
グローバル社会に展開する時代を迎えています。
混沌状態は、事の良し悪しを意味しません。混沌状態から脱し次の新たな経済社会の
秩序を生みだせるか、それとも混沌状態の長期化から経済社会が混乱へと陥るかは、政
治だけでなく国民を通じた公共政策議論の充実に大きく依存する分岐点に位置してい
ます。新たな経済社会を創造する過程において公共政策の議論が果たす役割は飛躍的に
高まっています。そこでは、政治、行政そして一定の業界を通じた限られた利害関係間
の閉ざされた調整ではなく、民間企業、市場、住民等多くのステークホルダー間での開
かれた高度な利害調整、そして個別のニーズを無秩序に受け止めるポピュリズムに陥る
ことのない明確な価値観を共有した創造的政策の展開が不可欠となります。
こうした創造的政策を生みだす場として弊学公共政策大学院は、法学研究科、経済学
研究科、工学研究科の協力の下で文理融合、理論と実践の架橋をテーマに北海道から日
本、そしてアジア、さらには世界の抱える今と将来の課題を見据えた教育、研究活動を
展開しています。加えて、地域との連携を深め実証的研究を積み重ねると同時に、思想、
歴史を深めることで普遍性のある政策思考の理論的研究を展開して行きます。
本年報もそうした創造的政策展開の広く開かれた場として位置づけています。本号も
2010年6月26日に(財)北海道環境財団の共催を頂いて開催したシンポジウム「北方の
文化と環境再生、生物多様化~北海道の環境政策~」をはじめとし、社会福祉、年金、
官民連携等の幅広い分野の論文を掲載したほか、麻生元総理大臣の秘書官を歴任され現
総務省自治大学校長である岡本全勝氏にも行政改革に関する論文を特別寄稿していた
だいています。多くの方々のご協力で本年報を刊行できたことに厚くお礼申しあげると
ともに、今後とも変わらぬご支援とご助力をいただきますようお願い申し上げます。
2011年 3 月
公共政策学研究センター長
宮脇
-1-
淳
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
シンポジウム:
北方の文化と環境再生、生物多様性 ~北海道の環境政策~
本年10月の名古屋における COP 10(生物多様性条約第10回締約国会議)の開催を踏
まえ、環境保全・野生生物保護についての監視が高まっている中、 COP 10にかかる国
際的動向を踏まえ、北方圏における環境と文明を基盤に置いた北海道の環境保全政策
を議論するため、2010年 6 月26日に、(財)北海道環境財団との共催で、
「北方の文化と
環境再生、生物多様性~北海道の環境政策~」と題するシンポジウムを開催した。本
シンポジウムにおいては、2 名による基調講演を行うとともに、2 名が加わり 4 名のパ
ネリストによるパネルディスカッションを行った。以下に、基調講演者の報告要旨と
パネルディスカッションの討論概要を掲載する。
・基調講演
「北方圏の環境と文明」
······················ 安田 喜憲 国際日本文化研究センター教授
P. 4
「生物多様性の保全をめぐる国際的動向と日本の取組」
······················ 黒田 大三郎 環境省参与
・パネルディスカッション ·········································
パネリスト
安田 喜憲
P.11
P.21
国際日本文化研究センター教授
黒田 大三郎 環境省参与
大島 直行
伊達市噴火湾文化研究所所長
五十嵐智嘉子 (社)北海道総合研究調査会 専務理事
司
会
深見 正仁
-3-
北海道大学公共政策大学院教授
年報 公共政策学
Vol. 4
■ 基調講演
「北方圏の環境と文明」
国際日本文化研究センター教授
安田
喜憲
ます。どうしても30年とか50年、ひどい
はじめに:“年縞”の研究と日本
所ですと100年というような統計上の誤
差が付いてしまいます。そうしますと、
今日は“年縞”の研究のお話をさせて
100年前と言っても、
「100年±50年」とは、
頂きます。
日本の秋田県の目潟や福井県の水月湖
150年前かもしれないし、50年前かもしれ
などの湖底を、近接した場所で深度を変
ない。そういう大きな誤差の範囲になり
えてボーリングし、引き上げたパイプを
ます。ですから、「1000年前」と言えば、
「本当に1000年前なのか?」と確認する事
二つに割ると、綺麗な縞模様が見つかり
がまず必要です。
ます。その際、堆積物の欠落がないかを
C-14年代という方法でチェックした上、
これに対し、この年縞は 1 年に 1 本ず
年代を測定します。このボーリングには
つ形成されますから、1000本目は限りな
1 回7000万円ぐらいかかるので、大変お
く1000年前に近く、1 万本目は限りなく 1
金がかかる作業です。
万年前に近い。そこに含まれているもの
この綺麗な縞模様を“年縞”といいま
を電子顕微鏡で見て分析すれば、理論的
す。この年縞を X 線で見ますと、白い層
には季節単位で過去の気候変動とか環境
と黒い層がセットになっています。白い
の変化を復元出来るのです。
層は春先に珪藻という藻が堆積したもの
このような年縞が湖底に残っている点
であり、黒い層は、秋から冬にかけて粘
で、日本は世界で最も優れています。日
土鉱物が堆積したものです。白い層と黒
本の湖は継続的に地殻変動で沈降してお
い層がセットになり、年輪と同じ物を形
り、埋まらないのです。しかも火山性の
成します。白い層は春材、黒い層は秋材
湖盆が多く、すり鉢のような格好をして
と同じものと言ってよいと思います。年
いて、波が立たない。バクテリアが発生
縞により、地球も自らの歴史を記録して
するとこの縞々を壊してしまうものです
いるのです。この年縞は DNA と同じよ
から、無酸素状態になるためにはすり鉢
うにバーコード状をしていますので、私
のような湖だと非常に良いのです。日本
は「地球の DNA」と名付けました。これ
は世界の中で最も年縞を形成する上で恵
を1993年に初めて福井県の水月湖で見つ
まれた所です。しかも、ラグーンという
けました。
潟湖があり、そこの年縞を分析すると過去
の海面の変動なども年単位で分かります。
今までの年代決定は、±50年とか±70
年縞は他の国にもあります。ドイツに
年とか±35年という統計上の誤差が付き
-4-
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
も、マールと言って火口湖がありますが、
ば、±50年とか±100年というような誤差
陸上にしかないのです。ところが日本の
無しにこの堆積物の正確な年代を特定出
場合は潟湖があります。青森県の小川原
来るのです。それで目潟の上の方の年縞
湖もボーリングしましたが、海と繋がっ
の花粉分析の結果によりますと、秋田県
ていますから、海面の変動がこの中に記
の目潟では西暦1150年頃に非常に大きな
録されているのです。
森林の破壊がありました。それまでは、
あるいは、今僕はエジプトから帰って
スギとかブナの森があったのですが、西
来ましたが、エジプトには、カルーン湖
暦の1150年に突然破壊されて、スギやブ
という、ナイル川と繋がっている湖があ
ナの花粉は減り、代わってマツの花粉と
ります。ナイル川に洪水が起こる時には
イネの花粉が急激に増えて来るのです。
上流からこの湖に有機物に富んだ黒い層
だから、西暦1150年に秋田県の目潟周辺
が運ばれ、洪水が終るとその湖の中で珪
では稲作農業が始まり、周辺のブナや杉
藻が繁茂して白い層が出来ます。同じよ
の森が大規模に破壊されたという事が分
うに白黒のセットで、ずっと 1 万年以降
かって来た訳です。西暦の1150年という
連続しています。ナイル川の水位の変動
所まで決定出来るのです。
がキチンとそこに記録されている訳です。
そして、更にそれに基づいて過去の気
だから、この我々の分析が終ると、エジ
候を復元しました。そうすると、西暦500
プト文明がどうして滅んだかを一年単位
年を中心にして、古墳寒冷期という非常
の気候変動との関係で分かるようになる
に気候が寒冷な時代があった事が分かり
のです。ところが、年縞のあるところは
ました。それから、西暦の980年から西暦
世界で非常に限られているのです。
の1150年の間、中世温暖期と言って今よ
これに対し、日本では幾つかの湖でそ
りも温暖な時代があるという事が分かり
ういう年縞が非常によく残っている。そ
ました。それから、
西暦の1650年から1700
こで、私は、
「これを研究すれば世界のト
年までの近くに、小氷期という寒冷な時
ップになれる!」と考えました。
代がある事が、ハッキリと分かってきた
その後、紆余曲折を経て苦労して研究
訳です。古墳寒冷期、中世温暖期、小氷
費を獲得して、目潟のボーリングをする
期が明白に日本列島にもある事が分かり
ことが出来たのです。
ました。ヨーロッパの、フィンランドで
も似たような年縞がありました。世界で
今この年縞の研究をリードしているのは、
年縞の分析によってわかってきた事
ドイツのポツダム研究所と、フィンラン
この年縞の中には、花粉の化石や珪藻
ドのトルク大学、そして日本では我々の
といった肉眼では見えない物が含まれて
研究所の 3 カ所だけです。そのフィンラ
います。これを分析する事によって、過
ンドのティモ博士がやはり年縞を使って、
去の気候変動や森林の変遷を年単位で復
西暦の980年から1150年という時代が、
中
元出来ます。年縞を一本一本数えて行け
世温暖期という温暖な時代の極期であっ
-5-
年報 公共政策学
Vol. 4
たという事を明らかにしています。その
いて、色々研究してきました。最近、篠
後、中世温暖期が終わった後、先ほど申
田さんという人が DNA を研究して、実
しました1670年から1780年、この間に非
は、アイヌがやって来た可能性が高いの
常に寒冷な時代、小氷期があるという事
は、紀元 5 世紀、西暦 5 世紀であり、こ
が分かって来た訳です。
の古墳寒冷期に DNA に多少変化がある
ということがわかりました。縄文からず
アイヌの人々の祖先はすでに5 世紀に北海道
っと DNA を分析すると、縄文の DNA が
に来ていた
アイヌに一部受け継がれているけれど
も、西暦の 5 世紀に発展したオホーツク
過去に中世温暖期とか小氷期という気
文化の時代、気候が寒冷化した時に、ア
候変動があって、これが北方の人びとの
イヌの人々の祖先になる人々が日本列島
暮らしにどんな影響を与えたのでしょう
にやって来た可能性があると言い出して
か?例えば、アイヌの人々について、ア
おります。中世温暖期と言われる温暖化
イヌ文化は、西暦13世紀に突然出現する
の時代に、目潟のある秋田県などでは大
のです。従来の北海道の考古学の時代区
規模な森林破壊が行われて、東北地方に
分では「旧石器時代から縄文時代、続縄
大和民族がやって来て大開拓が行われた
文時代、擦文時代、アイヌ文化」となっ
のですが、その時代に北海道では擦文文
ているのですけれども、13世紀からアイ
化が発展するのです。これがアイヌの文
ヌ文化がある、というのが北海道の定説
化が最も発展した時代であって、そして
なんですね。アイヌ文化が13世紀に突然
1650年前後から1670年という時代に小氷
出現したという事は、当然どこかからや
期という気候悪化が起こり、それを契機
って来たという事になる訳ですが、13世
として、アイヌの人々が急激に衰退をし
紀にアイヌの人々がやって来たという証
ていきました。
拠はどこにもないのです。13世紀からア
今までの考古学の編年では、アイヌの
イヌ文化という言う以上は、それまでは
人々が土器を放棄する。これが「交易の
別の人が住んでいたと考えることになり
賜物だ」――鉄の鍋など取り入れて土器
ますが、それはやっぱりおかしい。アイ
が要らなくなった。だから、そこからが
ヌが、縄文時代以来の文明の伝統を引き
アイヌ文化だという説が、今の日本の考
ずっている人々であるとすれば、それに
古学者の定説です。1380年から1420年の
替わるような新しい時代区分が必要じゃ
間に一時的な寒冷期があり、この寒冷期
ないか。そこで、北海道大学の小野有五
に北方からアイヌの祖先になるような人
先生は「縄文もアイヌとすれば、縄文ア
が来たとされています。
イヌ、続縄文アイヌ、擦文アイヌ、中世
しかし、今のところ DNA ではそこに
アイヌと言うべきだ」と言っています。
大きな異民族の移動があったという事は
私共は本当にアイヌがやって来た時
認められません。異民族の移動があった
代、アイヌの人々がどこから来たかにつ
のは、この古墳寒冷期と呼ばれる西暦の
-6-
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
500年。この時代に北方からたくさんの
「北海道に里山があるかどうか」ですが、
人々がやってきて、そしてアイヌの人々
秋田県の目潟では中世温暖期の西暦1150
の DNA に繋がるような血を残した。そ
年に大規模な森林破壊がありまして、ブ
うすると、その後に繁栄した擦文文化はア
ナやナラが無くなっていった後に、アカ
イヌの文化になる訳です。これまでは、小
マツの二次林が拡大しています。これが
氷期に入り、気候が寒冷化してアイヌの
里山の森を形成します。ところが、ポロ
人々の生活が苦しくなり、マイナーな状態
ト湖の場合は、西暦1900年を境にして大
になってからをアイヌ文化だと呼んでい
規模な森林破壊が起こるのですけれど
たというのが私の今日の提言なのです。
も、同じアカマツの仲間の、里山を構成
つまり、古墳寒冷期、5 世紀の寒冷期
するような二次林の樹種は増えていませ
の時に民族移動が起こり、北方から大量
ん。元々あった原生林が減り、森林の面
の人々、アイヌの先祖になるような人々
積が減って行くだけで、里山は北海道に
がやって来た。勿論、元々縄文の人々も
は今のところ形成された証拠は無いので
ここに住んでいた訳です。その縄文の人
す。1900年以降、明治以降に、こういう
とアイヌ・北方の人々が混血して、今の
ふうにして大規模な森林の破壊が北海道
アイヌのような人が出来た。それから中
では引き起こされていきます。
世温暖期になると、
北海道も温暖になり、
南の方から人々が北上して来ます。そし
倭人とアイヌの違いは和人と漢民族の違
て、アイヌの人々が文化的な大発展を遂
いよりはるかに小さい
げた。それがあの擦文文化である。とこ
ろが、小氷期になって再び気候が寒冷化
温暖期というのは、北海道が東京や南
すると、アイヌの人々の暮らしが弱体化
からやって来た人々にやられる時代であ
をしていった。こういうシナリオを描く
ります。最近判った事は、倭人の侵略は
必要があるんじゃないか。
明治になって引き起こされ、大規模な森
だから、縄文アイヌがあったと言える
林破壊が起こったということです。倭人
かどうか、今 DNA では結論付けられま
がやって来て、アイヌの人々を駆逐して
せんけれども、少なくともオホーツク文
いく訳ですが、今までは倭人とアイヌは
化以降はアイヌ文化が北海道にあったと
別人種だと我々は思っていた。ミトコン
言わざるを得ないのです。アイヌ文化が
ドリア DNA の中の M8a というハブロタ
13世紀に突然出現したと考える事は、極
イプを篠田氏が分析すると、アイヌの
めて大きな疑問があると私は考えており
人々は M8a という DNA を全く持ってい
ます。
ないのです。本土日本人は、約1.2%持っ
ていますが、1.2%の差です。ところが、
中国大陸に住んでいる漢民族の人々は、
北海道に里山はない
新疆のウイグル自治区では4.3%、あるい
は遼寧省では7.8%、これぐらいたくさん
それで後から黒田先生がお話しになる
-7-
年報 公共政策学
Vol. 4
持っている訳です。つまり我々は、アイ
交流しない。市場原理主義とはそういう
ヌの人々と倭人は、見かけ上違うし、ラ
ものなのです。お金さえ出せば、何でも
イフスタイルも違うから、別人種だと思
出来る。日本列島は、アジアの中で外国
っていたのですけれども、DNA を分析す
人が自由に土地を買える唯一の所です。
ると、我々とアイヌの人々の差はたった
しかも、日本の法律では、土地を持った
1.2%。それよりももっと大きいのは、ア
人間が最も強い権利を持っています。成
イヌと漢民族、倭人と漢民族との差なん
田空港がそうだったでしょう?三里塚闘
です。7.8%と 0 %。これほどの大きな差
争。小さな土地を持っている。それがあ
がある訳です。
るために、空港が出来なかったのです。
それは日本の法律のせいです。だから、
グローバル化と市場原理主義が北海道を
外国の人から見たら日本は天国なので
侵略する
す。とりわけ北海道は、天国です。広い
土地が安い。かつてアイヌは倭人がやっ
グローバル化と市場原理主義、そして
て来て追われて行って、そしていまや絶
地球温暖化の中で、北海道では何が引き
滅の寸前にある。しかし、その次は誰か?
起こされるのでしょうか。それはこのグ
それは北海道に住んでいる皆さんです。
ローバル化の中で、この漢民族の人々が
皆さんが、アイヌと同じ立場に置かれる
北海道にやって来るという事です。現に
という事です。アイヌの天才的女性知里
来ていますよね。昨日僕は吃驚しました。
幸恵さんが、
『アイヌ神謡集』にこういう
有名な言葉を書いています。素晴らしい
「ユウユウ」というバスが悠々と通ってい
人です。
ましたから。
「ユウユウ」というのは、こ
れは確実に中国語です。しかも 3 年前に
「その昔、
この広い北海道は私達の祖先
見た時の「ユウユウバス」はボロボロの
の自由の大地でありました。天真爛漫
バスだったけれども、今は物凄く立派な
な稚児のように美しい自然に抱擁され
バスでした。そして千歳の郊外のマンシ
て、のんびりと楽しく生活していた彼
ョンを中国の人が買っています。マンシ
らは、真に自然の寵児。何という幸福
ョンを買って、日本人の中に埋没してい
な人達であったでしょう。永久に囀る
ってくれるのは大歓迎です。しかし、千
小鳥と共に歌い暮らし、花咲く春は軟
歳の郊外に、中国の富裕者層を相手に別
らかな陽の光を浴びて、蕗をとり蓬を
荘を造った。今の日本の法では、何も悪
摘み、紅葉の秋は野分に稲揃うすすき
い事をしている訳ではないのです。でも
をわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷
その別荘は、中国の金持ちがたまに来る
間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に
だけで、日本人社会には溶け込まないの
夢を結び、嗚呼なんという楽しい生活
です。その別荘は、17戸造って完売した
でしょう。」
からあと300戸増やしたい。300戸の中国
これは倭人に追われたアイヌの人々が
人の村が出来る。しかもそれは、現地と
自分達の生活を思い出して書いた歌で
-8-
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
す。21世紀の北海道の皆さんには、私は
鼓を打ち、温泉に浸かりながら日本語
以下のメッセージを送りたい。
で団欒し、円かな月に夢を結ぶ。嗚呼、
「その昔、
この広い北海道は私達日本人
何という楽しい生活だったでしょう。
の自由の大地でありました。天真爛漫
でもそれがもう出来ないのです。グロ
な稚児のように、美しい自然に抱擁さ
ーバル化と市場原理主義の浸透の中
れて、のんびりと楽しく生活していた
で、北海道の美しい大地は中国人や韓
北海道人は、真に自然の寵児。何とい
国人のものとなってしまったのです。
」
う幸福な人達であったでしょう。永久
これが皆さんの未来に待っている生活
に囀る小鳥と共に歌い暮らし、花咲く
かもしれません。暗い話で申し訳ありま
春は山菜を摘み、紅葉の秋にはドライ
せん。どうも有り難うございます。
ブに出かけ、宵まで北海道の食材に舌
-9-
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
■ 基調講演
「生物多様性の保全をめぐる国際的動向と日本の取組」
環境省参与
黒田
大三郎
はじめに:COP 10と国際生物多様性年の
をしましょうという趣旨です。
2010年は、1 月にベルリン、パリでキ
一連の会議・行事
ックオフのイベントがある等、各地で
環境省の黒田です。今は自然環境局長
色々なイベントで普及・啓発が図られて
を辞めていますが、COP 10の関係で環境
います。5 月には、
「国際生物多様性の日」
省にデスクを置いて手伝っております。
である22日を中心に、植樹をしようとい
今日は「生物多様性の保全をめぐる国際
うグリーンウェイブに世界各地で参加す
的動向と日本の取組」というテーマでお
るなど、色々な行事が行われています。
話をさせて頂きます。
また、毎年 9 月の後半から国連本部で開
この10月に 2 週間に亘って愛知県名古
催される国連総会の最初にハイレベルの
屋市で生物多様性条約の第10回締約国会
首脳級会合がありますが、今年は生物多
議:COP 10が開催されます。主に局長や
様性に焦点を当てて開催されます。そし
次官クラスによる各国代表で会議をして
て、10月に名古屋でCOP 10があります。
いきますが、最後は 3 日間閣僚級会合を
更に12月には、1 年間世界各地で各国が
用意しています。COP 10の直前には、こ
色々な取組をした報告会として、世界の
の条約の下にある、遺伝子組み換え生物
クロージングを金沢市でやるスケジュー
の規制をする「カルタヘナ議定書」の専
ルになっています。ちなみに、2011年は
門の会合を 1 週間開催し、合わせると 3
国際森林年で、生物多様性と関わりが深
週間の会議になります。参加するのはオ
いので、12月の金沢市の会合は生物多様
ブザーバーを含めてだいたい 1 万人、少
性年のクロージングであると共に、国際
なくとも7000人ぐらいにはなるでしょう。
森林年のプレキックオフのイベントにも
EC を入れて193の締約国が参加し、国連
しようと国連と今話を進めているところ
の国際機関、NGO、研究者、企業など色々
です。
な立場の方々が参加します。日本からは
この 2 つ―COP 10と生物多様性年―
「 い の ち の 共 生 を 、 未 来 へ 」“ Life in
について、マークや標語を作って、連携
Harmony, into the Future”というスローガ
して広めています。先々週から、JAL が
ンで発信をしており、これが好評です。
10機持っているエコジェットのうち、1
それから、2010年は「国際生物多様性
機にこのマークを付けて貰っています。
年」です。生物多様性というと、難しく、
日本では、折り紙をモチーフとして色々
あまり知られていないので、普及・啓発
な生き物をデザインして、真ん中に人間
- 11 -
年報 公共政策学
Vol. 5
の親子がいるロゴマークを提案して、次
考えています。
今地球上で175万種ぐらい記録されて
第に知られるようになって来ました。
いる生物がいますが、それで全てではな
い。500万から3000万ぐらいはいるだろ
生物多様性とは
う、1 億は超える、いや 2 億いるとも言
生物多様性とは非常に分かりにくい言
われています。日本でも、自然環境保全
葉かもしれません。
昨年内閣府と一緒に、
基礎調査等の調査のデータを集計しま
環境に対する世論調査で生物多様性の認
すと、9 万種ぐらいの数はリスティング
識度・認知度を調べたら37%、3 分の 1 ぐ
されており、未記載のものを入れると、
らいしか知らないのです。
30万種ぐらいはいるというのが定説に
生物多様性条約でも生物多様性の定義
なっています。
があります。
「生物の変異性をいう」とい
う定義ですが、聞いても分かりにくいも
生物多様性条約の目的
のです。それぞれの地域に特有の自然が
あって多くの生き物がいるだけでなく、
21世紀に入ってすぐ、国連が「ミレニ
お互いにそういう生き物が繋がり合って
アム生態系アセスメント」という大プロ
いるという事が視点として大事だと言う
ジェクトを行って、生物多様性によって
ことです。
もたらされる恵みとは何かを議論してい
条約の中では「3 つのレベルの多様性
ます。それは色々なサービスを提供して
を含む」としています。その中心は種が
くれている大元である。その「生態系サ
いっぱいいるという「種の多様性」です
ービス」をタイプ分けすると、食糧や木
が、色々な生態系がある「生態系の多様
材などを供給するサービス、気候などを
性」のレベル、そして 1 つの種でも異な
調節する調整サービス、山に登って気持
った性質の遺伝子を持つものがいるとい
ち良いというようなものも含めた文化的
う「種内遺伝子の多様性」或いは「遺伝
なサービス、そして人類が生きるために
的多様性」の 3 つです。先ほど「お互い
必要な酸素をもたらしてくれる光合成や
に繋がり合っている」事が視点として重
土壌を作るという面での基盤サービス、
要だと言いましたが、これも意味合いが
この 4 つに区分される。それが複雑に絡
2 つあります。1 つは、それぞれの種ごと
み合う形で、人間の福利をもたらしてい
に繋がり合っている、相互に作用を及ぼ
る。豊かな生活や健康や安全なども生物
しているという繋がりです。もう一つは、
多様性・生態系に根ざしている、生物多
長い地球の生き物の歴史の中で元は1個
様性は人類生存の基盤である。こういう
の細胞だったのが、進化の過程を経て多
整理が今は広く受け入れられています。
様な生き物になったという意味で時間軸
生物多様性条約については、ほぼ20年
の中でも繋がり合っている。その事を頭
前、ブラジル・リオデジャネイロのリオ
の中に置きながら、我々は生物多様性を
サミットで、地球温暖化防止条約と同時
- 12 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
期に、
各国政府が署名を始めたものです。
が必要で、必要な 3 分の 2 までの議席を
日本もその時署名をして、その後各国の
民主党は持っていないので、簡単にはい
批准が進み、翌年の年末(12月29日)に
かないだろうと言われています。アメリ
条約が発効しました。条約の基本となる
カは、地球温暖化防止条約の下の京都議
目的は、生物多様性の保全と、その持続
定書も離脱をして、自分達の国益にプラ
可能な利用の 2 つであり、加えてこの条
スかマイナスかで、ハッキリ行動を決め
約は、
「遺伝資源の利用から生ずる利益の
てくるのです。
「国連海洋法条約」にはま
公正で衡平な配分」という目的に特徴が
もなく入るという話ですが、そういう優
あります。名古屋の会議でも重要なポイ
先順位もあり、COP 10までにアメリカが
ントになってきます。例えばアフリカ某
この条約に入ることは難しい情況です。
国のキノコから制癌剤を発明し、よく効
くので売れ、開発した会社は儲かった。
2010年目標と生物多様性国家戦略
そこで、そのキノコが無ければその薬は
出来なかったのだから、キノコがあった
この条約のキーワードの一つに「2010
国にも利益を分配すべきである。そうし
年目標」があります。2002年のCOP 6 で、
て利益の配分をしようということを目的
「条約が出来て10年経つが、色々なルール
の 1 つに掲げています。そういう仕組は、
を作る議論ばかりだ。生物多様性がどん
今でも任意のボン・ガイドラインがある
どん損なわれているので、それらを保全
のですが、それを各国に対して法的拘束
する、持続可能な利用を進めていくとい
力のある仕組にすべきだという意見があ
う方向性を出そう」という事で、生物多
り、これが名古屋での会議の大きな議題
様性の損なわれ方を減らしていく目標年
です。この議論の前提として、この条約
として2010年が掲げられた。こうしたこ
の中で「遺伝資源は、それぞれの国の国
ともあって、今年が国連の国際生物多様
家主権に帰属する」
と定められています。
性年になったという事も言えると思いま
す。
それからもう 1 つのキーワードとして
生物多様性条約の加盟国
「生物多様性国家戦略」。この条約は“枠
この条約は EC を入れて193が加盟し、
組条約”で、方向性を示している部分が
入っていないのはアメリカと、フランス
多いのですけれども、締約国に対して実
とスペインの間の小さい国アンドラの 2
施しなければいけない義務を課している
つだけです。アメリカは何故入らないか
事が 2 つだけあります。1 つは生物多様
というと、3 つ目の目的が気に入らない。
性に関する戦略を作りなさいという事。
アメリカも以前の民主党政権時代に署名
もう 1 つは、重要な生物多様性を特定し
まではしているのですが、共和党が慎重
て、それのモニタリングをしなさいとい
である。今アメリカは政府も議会も民主
う事です。
党優位ですが、条約ですので上院の批准
- 13 -
この国家戦略は、190あまりの加盟国の
年報 公共政策学
Vol. 5
中で既に170ぐらいは作っていますが、
こ
ければいけない――という事を力強く言
の分野では日本は優等生であり、定期的
いました。これを受けて、生物多様性条
に見直しています。見直しをした国は、
約だけではなくて色々な分野で取組が強
確かまだ15カ国ぐらいしかないのですけ
化されて来た状況にあります。また、生
れども、日本は 3 回作り、ついこの間ま
物多様性条約の事務局が、各国から出さ
た改定をしましたので 4 版目になります。
れたレポートを元に、
「生物多様性 現況
評価概要(Global Biodiversity Outlook 2)
」
を出しましたが、用いた指標のほとんど
生物多様性に関するこれまでの取組
がマイナスという悪い方に行っていた。
自然環境の分野でも、ワシントン条約
そのほか、色々な報告で「生物多様性は
やラムサール条約など様々な条約があり、
悪化傾向が著しい」
と指摘されています。
こうしたそれぞれの分野の条約は色々な
温暖化に関する IPCC の第 4 次報告書で
形で機能していますが、生き物と人間と
も、
「-1.5℃-2.5℃の気温上昇が進むと
の関係について、全体を纏める条約を作
2 割~3 割ぐらいの動植物の絶滅のリス
ろうという事で出来たのが生物多様性条
クが高まる」という指摘があります。あ
約で、
「アンブレラ条約」という言い方を
るいは、南米や熱帯アフリカで著しく森
します。この条約の下に、
「バイオセーフ
林が減少しているという指摘もあります。
ティーに関するカルタヘナ議定書」があ
それから海については、サンゴ礁や大西
ります。南米のコロンビアの都市カルタ
洋のタラで個体群が崩壊している状況に
ヘナで開かれた COP で採択されたもの
なっております。
です。
生物多様性に関しては、21世紀に入っ
日本の生物多様性国家戦略
て国連本部の呼びかけで、ミレニアム生
態系評価が実施されて、世界で1400人ぐ
日本では、生物多様性国家戦略につい
らいの専門家が参加をして色々な分析を
て、第 2 次戦略に当たる新戦略を作る時
しました。非常に立派なレポートがまと
に色々と分析をして、3 つの危機に直面
められ、各方面に示唆というかショック
しているように整理しました。
を与えた。
第 1 の危機は、人間が生態系を壊して
その中で、陸地面積の 4 分の 1 は既に
いること。乱開発や種を捕り過ぎて、そ
人間のために耕地になっている。それか
の結果絶滅が生じているという危機です。
ら、海では漁獲対象種は 4 分の 1 ぐらい
第 2 の危機というのは、里山などで、生
の種で資源が減少し資源崩壊の危機にあ
活域の周辺の自然環境と人間が取ってき
ると評価され、まとめとして、生態系サ
たバランスが崩れてきていることです。
ービスの役割が非常に低下していて危険
これは人の働きかけが減っているという
である。生物多様性と豊かな暮らしを回
事で、中山間地域などで耕作地が放棄さ
復させるためには、政策を替えていかな
れて、そこに鹿やイノシシが暴れまわっ
- 14 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
ている。あるいは、西日本を中心に竹林
党一致の議員立法で生物多様性基本法を
が凄い勢いで広まってきています。それ
作って頂いたので、この法律に基づく法
から第 3 の危機は、新たなものを人間が
定の国家戦略として策定されました。そ
持ち込むことによる問題です。外来種や、
して、10月の会議では、世界の生物多様
あるいは化学物質もこういう危機の中に
性の、2010年目標の次の目標が採択され
入れられています。
るはずなので、今度はそれに基づいて中
そして、第 3 次国家戦略を作る時に、
身を見直して、新たな次の国家戦略を作
それに加え温暖化による危機も認識をし
ることになります。おそらく2012年ぐら
ないといけない、となりました。
いになると思いますが、そんな道のりを
これらの危機については、色々な事例
考えています。
があります。
湿原や湿地、
干潟が戦後 4 割
第 3 次国家戦略というのは、今の国家
消滅したり、森林については、自然林は
戦略2010のベースになったものですが、4
国土の 2 割しかないのです。種の絶滅と
つの基本戦略を掲げ、生物多様性という
いう面で見ると、記載種は 9 万種います
言葉或いは考え方を皆に知って貰い、社
が、そのうち環境省のレッドリストに
会の仕組の中に浸透させようとしていま
3155種が搭載され、相当の率になってい
す。それから、人間と自然の関係を再構
ます。
少ない鳥類でも 1 割を超えており、
築していくということがあります。その
両生類など多いものは 4 割ぐらいが絶滅
際、ポイントとしては、例えば流域単位
の危機に直面しています。温暖化に関し
で、森・里・川・海のつながりを確保し
ては、昆虫などで分布域が北上している
ていくことで生態系ネットワークを作っ
というデータが出ていますが、生活や産
ていくプロジェクトを中心に置いていま
業に直接絡むものとしては、農業にも既
す。さらに、日本だけではなくて、地球
に影響は出ています。米を作るときに白
規模で国際協力、或いは途上国の支援も
化現象が酷くなっています。九州では相
取組んで行こうとしています。そういう
当の頻度で起き、最近では新潟でも白化
3 次戦略をべースに、
“2010”では、10月
が起きて、品質や収量にも影響が出てき
の会議を見通して、今までの内容をブラ
ている。或いは果樹などでも日焼けや膨
ッシュアップして、2050年の長期的目標
れてしまって品質が落ちるという問題が
を設定して取組を充実させたり、
起きています。
「SATOYAMA イニシアティブ」を国際的
そういう状況を踏まえるとともに、
2010年に愛知で第10回の締約国会議を開
なイニシアティブとして推進していく、
という中身を付け加えています。
く事を念頭に置いて、2007年の第 3 次戦
略第 3 次をベースに、会議に先立って 3
生物多様性基本法と地域戦略
月に国家戦略を見直しました。この見直
しした戦略は、第 4 次ではなく「2010」
を後ろに付けました。また、国会で与野
生物多様性基本法の中身について少し
触れておきます。
- 15 -
年報 公共政策学
Vol. 5
基本は、生物多様性条約を国内で実現
益配分」です。遺伝資源を使うことをア
するための法律であり、条約の目的を実
クセスと表現しているのですが、遺伝資
現するために進める施策の方向を整理し
源へのアクセスと、それによって得られ
た。従って基本原則は、保全と利用であ
た利益の配分について国際的なルールを
り、それに加えて予防的な取組、順応的
作ろうというものです。現在もボン・ガ
な取組という視点を採っています。また、
イドラインで運用しているのですが、そ
100年ぐらいを視野に入れた長期的取組
れを守らないケースが多いので、途上国
が大事であること、温暖化防止と連携を
側が法的拘束力のある仕組を作るべきだ
していくとされています。この法律を作
と強力に主張しています。遺伝資源を利
った意義は、今までは条約に基づいて政
用して、先進国が利益を得た場合、遺伝
府が対応していたが、それだけでなく、
資源の提供国―途上国が多い訳ですけれ
地方公共団体も事業者も国民も、それぞ
ども―に利益配分するということを国際
れの立場で取り組むという責務を位置付
約束として決めるという事で、この議論
けたことです。そしてより大きいのは、
は、もう何年も前に「2010年までに議論
国に戦略の策定を法律上義務付けただけ
を終結させる」という事は合意している
でなく、各地方公共団体に対し、地域戦
のですが、議定書を作るというところま
略を「作るように努力しなければいけな
では合意できていません。議定書を作ら
い」という努力義務規定を置いた事です。
ないといけないかどうかも、非常に難し
この地域戦略については、都道府県の
い議論になっていて、7 月のモントリオ
レベルでは取組む例は増えてきています
ールで最終の会合が決裂してしまうと出
が、まだ政令市までが多く、一般市だと
来ないかもしれません。今年の名古屋の
高山市など幾つかの市しか取組んでいま
COP 10では、日本は、こういう先進国と
せん。環境の豊かな北海道で、市町村に
途上国の意見が正面から激突している分
広めて頂きたいと思います。
野も、今の議長国として纏めないといけ
ないので、今各国との色々な折衝を始め
ているところですが、中々難しい点があ
COP 10における論点
ります。その難しい点というのは、この
最後に、条約の COP 10の話です。
生物多様性が出来る前に入手した遺伝資
一番大きな議論は、2010年が現在の目
源を使った製品開発をした時に得た利益
標年なので、次の目標を纏めないといけ
も遡って新たなルールに基づいて利益配
ない点です。今の目標は、
「生物多様性の
分すべきであるとか、そもそも遺伝資源
損失速度を著しく減少させる」ですが、
の利用によって得られた開発利益とはど
その後をどうするかという議論です。2
こまでを含むか…つまり遺伝資源の
番目が、条約の目的の 3 番目に関係する
DNA を解析した結果まで遺伝資源に含
分 野 で あ る ABS ( Access and Benefit
むべきだというような意見が途上国の一
Sharing)、
「遺伝子資源へのアクセスと利
部にあり、この辺りの議論が先進国と対
- 16 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
立しているので、うまく纏まるかどうか
この先のシナリオを提案しています。
予断を許さないところです。
2020年までに生物多様性が損なわれるス
去年の12月の温暖化の方のCOP 15で、
ピードを止めるのは難しいけれども、
世界のほとんどの国が合意しているのに
色々な行動に着手して、2050年には今よ
5 カ国が反対をして、そのために国際的
り生物多様性が豊かになるようにしまし
な合意が出来なかった、という経緯があ
ょう、そして更に100年後には、非常に大
りました。この生物多様性条約も基本的
きな恩恵を受けられるようにしていきま
に物事を決める時には「全会一致」でや
しょう―こういうシナリオを提案して、
るため、ABS の枠組についても、極端な
各国から受け入れられています。
事を言えば 1 カ国が「絶対反対」と言っ
たら採択されないので、どの辺で纏める
ポスト2010年目標とSATOYAMAイニシ
かに事について、これから残された時間
アティブ
の中で相当力を入れて調整する必要があ
5 月に10月の会議の作業部会が開かれ、
ります。
この 2 つの大きな議題以外にも、国立
公園や世界遺産などを含めた保護地域を
ポスト2010年目標に関しては相当論点が
整理されています。
どうするか、気候変動と生物多様性の政
構造としては、ビジョンとミッション
策をどうリンクさせていくか、海をどう
という言葉が使われていますが、
“ビジョ
するか、ビジネス界・企業をどうやって
ン”とは「長期的目標」
、“ミッション”
巻き込むか、持続可能な利用をどうやっ
は「2020年までの短期目標」です。この
て実現するか、都市或いは自治体と生物
ビジョンの中で、生物多様性の世界の将
多様性の関係をどうするか、保全や持続
来像として、
“「自然と共生する」世界”
可能な利用を実現するための資金メカニ
を目指すという事が明らかにされていま
ズムをどうするか、科学の政策との連携
す。これは日本から提案した事です。こ
基盤を創ろうなど、色々な事を議論し、
れまでの生物多様性、或いは自然環境に
結論を出さないといけません。頭の痛い
関する国際的な取組は、自然豊かなとこ
議題、非常に野心的な議題も含まれてい
ろは人間を追い出してもしっかり守る、
ます。
それ以外の所では自然を使っていくと、
さて、一番大きな議論である「2010年
分けていたのです。それに対して、保全
目標」の達成状況の評価ですが、
「駄目だ
と持続可能な利用のバランスをとってい
った」という結論が 5 月に出ています。
くことが重要だとして、世界共通のビジ
この目標は抽象的でよく分からない、指
ョンの中に「自然と共生する」という考
標の採り方もよく分からないといった面
え方が盛り込まれました。これは準備会
があるので、今度は行動志向的で測定可
合で採択されましたので、このまま10月
能な目標を作ろう、という事が既に概ね
に決まると思います。
合意されています。日本はそういう中で
- 17 -
その下の“ミッション”ですが、2020
年報 公共政策学
Vol. 5
年までの目標については、現実的なオプ
やヨーロッパにも、南米・アフリカにも
ションにするか野心的なオプションにす
ある。そういうものを皆で持ち寄って、
るかで、今揉めています。現実的なオプ
色々な所の伝統的な知恵を使って、自然
ションは、2020年までに生物多様性の損
をうまく保全しながら管理をしていく努
失を止めるために色々な行動を採るとい
力を重ねていこうという国際的なイニシ
うことを目標にするという事です。これ
アティブを形成して、COP 10の時に賛同
に対し、損失を止めることを2020年まで
する国や国際機関を集めて国際パートナ
に達成すると掲げるべきだと、EU を中
ーシップを作ろうと計画をしています。
心とした先進国が主張しています。この
主張に対してはブラジルが、そうするの
経済界、地方自治体、そして私たちがす
なら金が要る、100倍ぐらいの金を確保出
べきこと
来るのかと反論し、この点は10月まで持
ち越しという事になります。かなり大き
各国政府、研究者、自然保護団体、NGO
な根深い議論になると思います。その下
などでは色々な取組みが進んだのですが、
に 5 つの戦略目標があり、更に細かい個
まだまだ裾野が広がっていない。それを
別目標が20掲げられています。
広げないといけないということが、COP
この他日本からの発信として
8 ぐらいからの議論としてあります。
SATOYAMA イニシアティブを予定してい
1 つの方向性は、日本で言えば生物多
ます。これは、持続可能な利用という分
様性基本法でいう“地域戦略”を作る、
野の中で、
「守る所は守るがそれ以外は使
という形で、地方自治体に、足元で政策
えばいい」という事ではなく、保全する
を進めて貰うという事です。もう 1 つは
所でなくても色々な生き物がいる、つま
民間の企業・事業者に、色々な活動に生
り重要な生息地なので、人が影響を与え
物多様性を念頭において活動をして貰う
ている所もうまくマネージメントをして
事が大事だという点です。これも COP 8
いく必要があるという主張です。そうい
以来色々な決議があって、ドイツが非常
う 1 つのお手本が日本の里山である、こ
に熱心で優等生を育てようという取組を
ういう考え方を世界に広めていこうとい
していますし、日本でも経団連が中心に
うことで、専門家会合や各地域会合など
なって、生物多様性宣言を定めて、これ
で説明をしており、途上国・アフリカ諸
に署名して貰う企業を増やそうとしてい
国などから物凄く熱烈な支持を受けてい
ます。
今経団連傘下300社が既に署名をし
ます。むしろヨーロッパ辺りから、
「それ
ていますが、環境省もこれを応援して一
を進めるとお金が要求されるのではない
緒になって進めています。つい先ごろ、
か」などの色々な懸念も出ていて、まだ
経団連と日本商工会議所と経済同友会と
議論は続いているところですけれども、
いう我が国の主要経済団体が連合して
こういう例は日本の里山だけではなく世
「こういう事は進めていこう」となり、と
界各地に色々な例があり、インドネシア
りあえず国内で「生物多様性民間参画パ
- 18 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
ートナーシップ」を作って COP 10で立ち
何をすべきかよく分からない、とよく聞
上げようという動きになっています。こ
くのですが、この問いに対しては、子ど
ういう動きに関して、北海道の企業でも
もたちであれば、端的に「自然と遊んで
既に参加をしてくれる非常に熱心な企業
下さい」と答えます。野外に出ましょう、
がいますが、大企業だけでなく、農家や
動物園・水族館・植物園・博物館に行く。
八百屋さん、魚屋さんも含めて入って貰
あるいは生きものに実際に触れてくださ
いたいと思っており、これから色々な形
い。知った上で、生き物を守ろう、或い
で広めて展開させていきたいと思います。
は悪い影響を与えないようにしようと考
事業者の責務は、事業活動が及ぼす影響
えて行動を採って欲しいと思っています。
をキチンと把握し、配慮をした事業を行
更にそういう人々の輪を広げていくため
って、影響の低減、あるいは持続可能な
に伝えようと、― 知ろう・守ろう・伝え
利用を行うことです。使っている原材料
よう―この 3 つをキーワードにして取組
が適切なものかどうかを見極めることな
んで頂きたいと思っております。
私からの生物多様性条約の動きに関し
ども含めてやっていきなさい、というよ
てのお話というのは以上とさせて頂きま
うになっています。
最後は、それでは私達は生物多様性の
す。有り難うございます。
ために何をしたらいいのかという点です。
- 19 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
■ パネルディスカッション
パネリスト
安田 喜憲(国際日本文化研究センター教授)
黒田 大三郎(環境省参与)
大島 直行(伊達市噴火湾文化研究所所長)
五十嵐智嘉子((社)北海道総合研究調査会 専務理事)
司
会
深見 正仁(北海道大学公共政策大学院教授)
「開基100年」から40年も経ってしまっ
司会:深見
深見と申します。このパネルディスカ
たのに、これから北海道はどうしていく
ッションでは、まず大島所長と五十嵐専
んだという時に、まだ私達は軸足をそう
務理事に、基調講演を踏まえたコメント
いった所に置いていると思うのです。環
を語って頂きたいと思います。
境シンポジウムや地球温暖化のニュース
を耳にした時でも、
「果たして地球はこの
ままで良いのだろうか」という考え方に
大島:
私は北海道で生まれ育ったのですが、
中々なれないのです。これは、私は大変
北海道が発信するものの中によく使われ
な事だと思います。50年、100年とこのま
るキーワードとして、私は“開拓史観”
まで過ごしていった時に果たして北海道
と表現しておりますが、
“明治100年”
“開
に何が残っているのか、非常に不安です。
拓100年”
“開基100年”があります。北海
そこで今日私が申し上げたいのは、北
道に生まれて育った人達は、何かものを
海道の真の価値というのはどこにあるか
考える時に、
「開拓」という事に軸足を置
を、もう 1 度考えてみるべきだという事
きやすいのです。こうしたシンポジウム
です。多分、皆さん誰もが気付いている
が開かれるぐらい環境問題は大きな関心
事です。今日のシンポジウムを聞いても、
事であります。生物の多様性はそうした
納得がいくはずですよね。
私達にとって、
環境問題の中の、多分核心部分だと思い
自然環境は必要なものだという事を。で
ます。そうした時に、北海道に生まれた
もこれは、500万道民、1 億の日本国民が
人達が、環境問題に軸足を置けていない
全て皆そういう感覚になってくれるかと
のです。それは、やはり“開拓史観”が
いうと、そうはならないと思います。
あるからです。自然に対して、それは「開
ではどうするかという事が、今本当に
拓するもの」
「開拓されるべきもの」とし
急務だと思います。今日は公共政策大学
て、私達は考えてきたのではないでしょ
院の主催ですけれども、どうしても公共
うか。
政策というと「インフラ」といったもの
- 21 -
年報 公共政策学
Vol. 5
に結び付けますね。医療や福祉の問題か
事にしてきたのは、彼らの中の神話的な
らの公共の切り口もありますけれども、
世界観、言い換えればそれは怖さであり、
私はむしろ「教育」こそ公共政策の中で
畏敬の念だったのです。自然は怖い。そ
もっと取り上げられるべきではないかと
れは私達の言う怖さではなくて、
“畏れ”
思っています。その中で必要なのは二つ
です。ここに手をかけてしまってはいけ
あります。1 つは縄文教育、もう 1 つは
ないという節操を持っていたのです。つ
環境教育だと思っています。これは背中
まり、現代に生きる私達は、その気持ち
合わせなのです。縄文を教育するという
を取り戻さない限り、いくら色々な環境
ことは実は環境を教育するという事なの
政策を出しても森は復元出来ないし、本
です。縄文を学ぶ事で、私は環境の重要
日のテーマになった生物の多様性も回復
性が見えてくると思っています。縄文の
は無理だと思います。一人一人の人間が、
一番大切なところは、彼らが私達現代に
森に対する自然に対する神話的な世界観
生きている人達とは違って、独特の世界
を取り戻す事が、まず大事だという事で
観を持っている事です。それは一言で言
す。
ですから、今一番必要なのは環境教育
うと神話的な世界観なのです。
その神話的な世界観は何かというと、
です。小学校・中学校の中で一時は環境
森や海や川がなければ、神話は生まれて
教育が流行りましたけれども、今は英語
こないのです。縄文人ですとか、現代な
教育に変わってしまったりして、文科省
おも世界中には狩猟採集で暮らしている
も教育のテーマをころころと変え過ぎで
人達がおりますが、彼らには、理解出来
す。私は、日本の学校教育の中で、もっ
ないものを「超自然=神」として素直に
とじっくりと腰を据えて取り組むべき普
受け入れるという考え方があるのです。
遍的な価値を持つのは環境教育だと思い
山の奥に何がいるか分からない。虹がか
ます。そしてもう 1 つは古い時代の文化
かる。雨が降る。こういったものも彼ら
を学ぶことです。私達はどうしても弥生
は、全く科学的に理解出来ないのです。
文化・農耕文化を日本列島の基層文化に
それは不思議な世界なのでした。
だから、
しがちですけれども、そうではないです
自然には手をかけずに共有してきたので
よね。日本列島の最も古い文化、基層を
す。
成す文化はやはり縄文文化だと思います。
ところが、私達はそうした自然現象を
これの教育に力を入れるべきです。
全て科学的に理解出来たものですから、
それに手をかけることに「神」の怒りを
安田:
今、日本の小学校や中学校の教科書で、
感ずることなく、一気呵成に開拓してき
たのでした。神話的な世界も失われてし
縄文時代が消えたのですよ。考古学者・
まい、森や海や川はなし崩し的に破壊さ
歴史学者は自らの手で縄文時代の記述を
れてしまったのです。
削除しているじゃないですか。縄文時代
縄文人が少なくとも 1 万年間自然を大
が日本人の心の原点を形成しているにも
- 22 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
関わらず、何故縄文という記述を小学校
してやろうとしたのではないか。マッカ
や中学校の教科書で消したのでしょう
ーサーは、日本を共産主義に対する砦に
か?
したかったのですが、なぜか日本の歴史
学者がマルクス史観になることを野放し
にしていた。それは日本民族から歴史を
大島:
一つはやはり歴史観の問題だったと思
奪うためではなかったかと最近考えるよ
うのです。文科省のお役人は、縄文は私
うになりました。なぜならマルクス史観
達にとっては「取るに足らない文化だ」
の歴史学者は、戦前・戦中の日本の歴史
と考えた訳です。縄文人は、技術も未熟
を完全に否定し、日本民族の魂の原点で
だし思想的にも知恵もたいしたものでは
ある日本神話さえ否定していたからです。
ない。だから長い間縄文時代、縄文文化
それは日本民族から歴史を奪おうという
に留まったのだけれども、大陸から新し
マッカーサーには好都合だった。だから
い文化を入れる事によってようやく日本
歴史学者や考古学者がマルクス史観に転
列島の基盤をなす農耕文化に移ったんだ
向することを野放しにしていたのではな
という考え方です。ですから、教える側
いかと思うのです。
としては「日本は農業国であるし、その
基盤をなしたのは弥生文化だから、弥生
大島:
文化から教えればいいだろう」という事
同感です。加えて私が言いたいのは、北
で、10年ほど前に小学校の教科書から縄
海道のこれからの発展を考える時に、道
文の記載は消えてしまった訳です。私達
民も開拓史観のしがらみや呪縛から逃れ
考古学者もその責任の一旦を担わなけれ
ていかないとだめなんじゃないかという
ばいけないのですけれども、如何せん
「縄
ことです。観光にしても産業振興にして
文は日本列島文化の基層だ」と主張する
も、色々な分野が皆疲弊しています。疲
と、どうしても学界などから異端視され
弊の原因は、やはり本当の北海道が分か
てしまうところがありますよね。
っていないからだと思うのです。北海道
の本当の魅力は何なのか、北海道の一番
大切なものは何なのかという事を、北海
安田:
マッカーサーが日本に来た時に、マッ
道民が等しく共有していかないと、次の
カーサーは、日本民族を支配するのに最
ビジョンは描けないのではないかと思い
も効果的な方法は、日本民族の歴史を奪
ます。
特に100年にわたって繰り広げられ
う事だと考えたのです。アングロサクソ
てきた「開拓」を考える時に、どこにそ
ンがアメリカに渡った時に、アメリカ・
の根っこがあったのかを考えていく必要
インディアン(ネイテイブ・アメリカン)
があるんじゃないかと思います。
を支配する最も効果的な方法は、彼らか
ら伝統文化と歴史を奪う事でした。その
五十嵐:
同じ方法をマッカーサーは日本民族に対
- 23 -
私は、北大は経済学部を卒業致しまし
年報 公共政策学
Vol. 5
て、その後今のシンクタンクに入社しま
大の経済学者が随分早くから福祉を含む
した。独立系の民間のシンクタンクで、
社会保障、環境と経済の統合という事を
道庁の外郭でも銀行系でもない、独立独
唱えてらっしゃいます。先生によると、
歩です。私自身は自然環境派だと思って
経済活動を中心として考えた時の福祉と
いたのですが、どうしても経済という背
環境の位置づけは、とても似ているとこ
景で仕事をする事が多かったかと思いま
ろがある。福祉政策や社会保障論は、市
す。
場における富・所得の再配分である。私
また、私は、20年ほど前から介護保険
達は年金や医療保険の保険料を払ってい
制度の制度設計やケアマネジメントに関
ますが、社会保障に税金も投入されてい
わる調査研究をしてきております。私は
ます。65歳以上になると年金を受け取る、
福祉や医療の専門の人間でもないのです
生活が苦しくなった時に生活保護が受け
けれども、専門家ではなかったが故に見
られるという形で、富が再配分されるの
えて来た課題に取組めて来たと思ってい
です。一方、環境政策というのは経済学
ます。介護保険は高齢者に対する制度で
的な視点から見ると、経済活動・富の総
すが、介護保険の後、障害者の自立支援
量の問題、あるいは規制の問題なのです。
法が出来、障害者関係の自立支援の調査
というのは、環境問題が起こるのは、市
とか、それから発展しまして地域福祉、
場の失敗とか外部不経済、その不経済と
コミュニティ福祉の研究に携わり、それ
いうのは環境の破壊であったりするので
が発展して今度はコミュニティ・ビジネ
すが、経済学者は、その不経済を外部不
ス、ソーシャル・ビジネス、社会的企業。
経済と呼びます。それを内部化しようと
そして最近では貧困、子供の貧困、自殺
いう動きがあります。その良い例が、排
予防など、対人援助・対人支援を必要と
出権取引であり、これを経済の中に取り
するような分野の仕事がかなり増えてき
込もうという考え方です。
ています。最近では「パーソナル・サポ
今までの議論というのは、個人の活動
ート」という概念も出てきており、介護
と市場、そして、そこから生じる不利益
保険や生活保護などの縦割りの制度だけ
を再配分する政府という二元論だったの
では支援出来ない方々の横の支援をどう
です。ところが、その二元論だけではう
するかが、今福祉の世界の中では非常に
まくいかなくなってきた。日本の貧困率
大きなテーマとなっています。今日はせ
はますます上がり生活保護者はこの2年
っかく「環境」というテーマでございま
間急増しており、要介護高齢者も介護保
すので、環境と福祉というつながりを考
険だけでは救われないという事態が明ら
えながら少しディスカッション出来れば
かになってきた。その中に出てきたのは
「関係性とコミュニティ」という話です。
と思っています。
「コミュニティと関係性」
というキーワ
例を 1 つ。実在する人物ですが、多少脚
ードを中心にしながら少し考えていきた
色してお話をさせて頂こうと思います。
いと思っています。広井先生という千葉
K 市に住んでいる50代の男性が、病気を
- 24 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
患って、仕事が出来なくなっているので
だろうか、子供達と一緒に考えていく事
すが、その方には80代のお母さんがいて
を始めた。そうするとその50代男性は、
認知症が進んでいる。この二人の家庭は
その時は生活保護だったのですけれども、
地域とつながっていなくて、悲惨な事件
その後半年ぐらい経ちましてから正式に
が起こる直前という感じだったのです。
その NPO の職員となって、職を得たの
行政のある方がそういう家庭を発見し、
です。ここが“コミュニティ”で“関係
支援をしようという事になったのです。
性”なのです。今の時代、50代男性で失
行政の制度で、こういう家庭を支援する
業している方は、ハローワークに行って
場合、80代のお母さんの方は要介護認定
も仕事はありませんが、コミュニティの
を受けて頂き、介護保険制度で支援し、
中で関係性を作って、自分の居場所が分
50代男性の方は、生活保護を受けて頂く。
かると、その中で生活活動・経済活動が
生活保護を受けて頂くと、医療費がかか
出来るようになる。何故こうしたことが
る分だけ支給されるので、
病院に行って、
出来るかと言うと、そこにコミュニティ
病気を治して、保護費で生活を立て直し
がありそこに関係性があるからではない
ます。
制度はここまでなんです。
ここで、
かと思うのです。
この状態で暮らしていってハッピーか?
というと、そうではない。それでこの K
安田:
コミュニティと関係性を作ると、何故
市は次に、生活保護世帯に向けた新たな
就労支援活動として、市内で活動してい
人間は生き生き出来るのですか?
る NPO の方々の協力を得てボランティ
ア活動をして貰うという事業を始めたの
五十嵐:
です。この50代の男性は、ある NPO に
そこなんですね。人間は一人で生活・
ボランティアに出かけたのですが、そこ
経済活動をしている訳ではなくて、人間
で、同じ生活保護世帯の中学 3 年生を対
の弱い面、強い面を必ず持っているので
象にした勉強会をやっていたのです。
“貧
す。人間は社会的な生き物であり、人間
困の連鎖”と言われていますが、生活保
との関わりの中でしか人間性が発揮出来
護世帯のお子さんは、学習塾に行けず、
ないという事なんです。その事が、制度
高校への進学率も低いのです。それを何
だけでは出来なかった。ここが新しい公
とか解消しようと勉強会を開いた。その
共だと思うのです。公共政策大学院で是
50代の男性は、その勉強会の世話人を始
非これをやって貰いたいと。行政がお金
めたのです。すると、この50代の男性が
がかかり過ぎて出来ないから NPO に安
急に生き生きし始めた。要するに自分の
い単価で仕事をさせる事じゃないんです。
役割が見えて来た。中学 3 年生に勉強を
制度というのは非常に良く出来ているの
教える訳ではないのだけれども、勉強を
ですが、それ故に制度以外の人を排除し
する姿勢を教える事が出来る。分からな
てしまう。でもコミュニティとか関係性
い事をどうやったら分かるようになるん
は、人を排除しないで一緒にやろうとす
- 25 -
年報 公共政策学
Vol. 5
るのです。環境で何かを守ろうとする時
るんじゃないかと考えてきました。こう
に、そこから外れるものをどうやって関
いったものをこの100年間、
私達はキャッ
係しながら守っていくとか、それを使っ
チフレーズに使ってきたけれども、環境
ていくという事が大切だと思うのです。
問題を捉える時にそれは何の役にも立た
今福祉の中では、
「守られる福祉」
や「守
ないんじゃないかなと思うのです。安田
る福祉」でなく、福祉サービスを受ける
先生がおっしゃるように、もうちょっと
人達が自ら仕事をするとか、自ら福祉を
深く掘り下げて、北海度の根底にあるも
提供する事が出来てきている。それはま
のが何かを考えていくべきではないかと
さに、そのコミュニティとか関係性があ
思います。うまい空気と食材と雄大な大
るから出来ていると思います。これを環
地というけど、本当にそれが北海道の真
境に適用できるのではないかと私は考え
の価値なのかどうかということをですね。
ています。それはまた次の議論の中で出
多分、北海道の価値はそれだけではない
来たらと思います。
と思います。そもそも、北海道は全国的
に見ても、皆さんが考えているような高
い森林の保有率にはならないんじゃない
安田:
素晴らしい発言ですが、関係性とコミ
でしょうか。そういう事実だって、案外
ュニティのコアを形成するのは、やはり
道民の皆さんは知らないのではないでし
命の繋がりなんです。命は、触れ合い、
ょうか。
交流しないと輝かないのです。命の繋が
りがあるからこそ、
人間はコミュニティ、
司会:深見
関係性を作る訳です。その命を深く見つ
如何ですか、黒田さん。北海道で現場
める事が、現代の社会の中で出来ていな
を歩かれた経験から言って、北海道の自
いから色々な問題が起こる。命を深く見
然環境の現状をどのように評価しますか。
つめたのは誰か?それは縄文人です。縄
文にとって最高のものは命です。その命
黒田:
を見つめた縄文の文化が、北海道の根底
それは自然豊かな場所だと、僕は東京
にあるという事を大島さんが言っている
生まれなんですが、
やはり思っています。
のです。
北海道に 5 年いて見た中でも、数字で言
うと日本は世界的な森林国―国土の 3 分
の 2 が森林に覆われている。ただ中身を
大島:
北海道を紹介するような場面において
見て行くと、長い歴史の中で人が自然に
は、よく北海道というのは、
「空気はうま
対して働きかけをして来たので、純粋な
いし自然は綺麗だし……」という話をし
自然の山の率は低く、だいたい 2 割を切
てしまいますね。多くの北海道民もそう
っている。北海道から九州まで満遍なく
思っている訳ですよ。でも私はそれは違
2 割を切っているというのでなく、北海
うんじゃないか、もっと大事なものがあ
道・東北・中部地方の中心(山岳地帯)
- 26 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
辺りに固まっています。その中で北海道
私は「コミュニティのレベル」と言いま
は全国的に見ると自然の森林も残ってお
したけれども、コミュニティのレベルか
り、明治以降大きく変わって来ているけ
らグローバルなレベルまでの見通す視座
れども、西日本で何千年かかけて変わっ
は必要だと改めてお話を聞いて思いまし
てきたところまでこの100年で行ったの
た。コミュニティレベルで言うと、医療
かというと、まだ残っているという感じ
とかケアとか福祉と自然は、非常に近い
がします。ただ森の話をしますと、一方
分野があるのです。例えば「森の癒し」
で北海道にも人工林が多かったりカラマ
と先ほど皆さん仰って頂いていますけれ
ツの林がいっぱいあったり、そういう所
ども、森林療法とか園芸療法があります
を如何に回復させていくかというのが大
し、それからもっと身近で言うと、食糧
事で、その時に何を目標にするかよく考
問題とかエネルギー問題というのは、本
えないといけないと思います。
当はコミュニティレベルの問題なんです。
間伐材を利用したペレットストーブも出
来ていますし、今や小水力を活用した発
司会:深見
地元の五十嵐理事さんは、どのように
電機も出来、水田がある所では自家発電
が出来るようになってきています。そう
お考えでしょう。
いった食糧問題やエネルギー問題も含め
てコミュニティというもので、もう一度
五十嵐:
少し時間軸というものも入れていいの
考え直す事が出来るようになっていると
かなと思います。経済原則から言うと、
思います。次は国家レベル、アジア的な
今は非常に拙速過ぎるのです。金融工学
リージョナル、国際リージョナルなレベ
的思考の破たん―2 年前のリーマンショ
ルとそれからグローバルなレベルと、お
ック以来、そういう考え方は薄くなった
そらく 3 つ、4 つの段階があるのかなと
と思うのですけれども、それにしてもま
思います。
だ我々が今どんな時間軸でものを見てい
るのかという事は考える必要があると思
安田:
命は突然この世に生まれる訳じゃない
います。先ほど「短期的な目標:2020年」
と書かれていて、凄いなと思ったのです
んです。この命の前には、何千年・何万
が、福祉の社会でいくと短期目標という
年という命の連鎖があってこの一つの命
のはせいぜい 2 ヶ月ですから、要するに
が生まれて、その命を未来へ繋げるとい
今ここで困っている人がどういうふうに
う責務が我々にはある訳です。介護の対
なるのかは、待っていられない。今日の
象者であっても、やはり命を未来に伝え
宿をどうするかみたいな話が結構あるの
る責務がある訳ですね。
です。そうは言っても食糧や水をどうす
ところが現在の経済システム、市場原
るかというのは当然必要な事で、まずは
理主義は、過去に対して全く責任を持ち
時間の軸が必要だろうと。それから今日
ません。過去に感謝するどころか、未来
- 27 -
年報 公共政策学
Vol. 5
にさえ責任を持たない個人が原点になっ
経済学者は過去を分析出来ても未来は
て市場原理主義が生まれている。市場原
分からないのです。
ただそうは言っても、
理主義のコアを形成する個人は、如何に
やっぱり世界的な枠組は必要です。企業
すれば金儲けすればいいかということだ
経営者は、目先の事だけを追いかけてい
けを考える人間なんです。その市場原理
る訳ではなくて、世界の枠組の中での経
主義が今、グローバル化の中で蔓延して
済活動・法人活動は当然ある訳です。で
いる。だから小泉さんと竹中さんが頑張
すから、どこかの森林が切られてそれが
って、市場原理主義を日本に導入した時
どうなっていくかという事は、頭で分か
に最も疲弊したのは、過去に感謝し未来
っていても、一企業体だけでは対応出来
に対して責任を持って自然と共に生きな
ないので、実は公共が、国が規制するべ
ければならないと考えていた、地方の田
きところがあるのです。ですから、規制
舎の人です。北海道の人が最も大きな被
というのはある意味必要なところは必要
害を受けた訳です。
な訳ですので、人間は全知全能ではあり
このまま市場原理主義を続けていけば、
ませんので、自然から学ぶという事は非
命を見つめてこの美しい大地で数千年も
常に重要な事であっても、それがやはり
生き続け、過去に感謝し、そして未来に
枠組としての規制は必要だという事です。
対して責任を持ち、自然と共に生き続け
てきたこの北海道の暮らしがもう成り立
安田:
たなくなるのです。本当に時間がないん
エジプトのカイロで、友達のロンドン
です。必ず北海道は金持ちの国に支配さ
大学の教授の家に40日間泊めて貰って、
れます。これをどうするか?それは教育
自炊していたんです。彼の家はマンショ
から根本的に替えなければいけない訳で
ンで素晴らしい金ピカの家でした。自炊
す。学校の教科書から替えなければいけ
した生ごみを捨てようと思って、
「どこに
ない。ここには若者もいます。その若者
捨てたらいいんだ」と聞いたら「台所の
の未来を我々は守らなければいけない。
ドアの向こうを開けてみろ」と言う。そ
れでドアを開けた。そこは、このビルが
建ってから20年この方、一度も掃除した
司会:深見
市場原理主義を修正する立場からのコ
事のない真っ暗な世界でした。そこに階
段が付いていて、ポリバケツにゴミを入
ミュニティは、如何ですか?
れると翌朝なくなっているのです。金ピ
カのマンションとドアの向こうの真っ黒
五十嵐:
金融工学的な市場原理主義が行き過ぎ
な世界の対照性に驚きました。
たのであって、市場主義そのものが悪い
同じ経験を中国でもしました。僕の友
訳ではないのです。市場に任せるという
達が「ご飯に呼んでやる」と言ってマン
事の「市場」の意味は、もっと違う意味
ションの 5 階に行った。ところがその階
もあるのです。
段はゴミだらけ。エライ所に呼ばれたな
- 28 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
と思って彼の家のドアを開けたら、彼の
義と対決するしかないんです。これは本
家の中は金ピカ。ドアの内側の自分の家
当に我々日本人の生死をかけた事柄です。
は美しく磨きあげ、ドアの外側の公共の
階段がゴミだらけになろうと知ったこと
五十嵐:
ではない。これが彼らの公共性なんです。
“公共”という意味合いを、もうちょっ
ニューヨークのテレビ局から取材を受
とちゃんと定義した方が良いと私は思っ
けた。
「日本人は金持ちほどゴミの分別に
ています。
“公共性”とは public なんです
熱心だ。どうしてだ?」と聞くんです。
よね。日本で間違っているのは、公共性
アメリカ人は金持ちはゴミの事なんか一
とは国の事だと思っているのですが、そ
切気にしない。貧乏人がゴミを片付ける
うではないのです。我々の事なんです。
んだというのです。これが世界の市場原
公園も、国が管理しているのが公園なの
理主義の下における
“公共性”なんです。
ではなくて、皆のものというだけの事で
ところが日本人は、金持ちが一生懸命
す。公共というものの捉え方を我々は「公
ゴミの分別をやっている。これは、
「ヨー
共というのは国のもの、行政がやること
ロッパやアメリカや中国が階級社会だか
でしょう」というふうに捉え過ぎた。そ
らかな」と最初思った。ところが、江戸
うではないと。だから、コミュニティで
時代、士農工商という厳格な身分社会で
あり関係性であり、そういう理解を進め
あるけれども、江戸の街にはちり紙一つ
ない事には、自然に対してもそうだと思
落ちていなかったんです。これは階級社
うのですけれども、やっぱり関係性は出
会では絶対説明出来ない。
来ないという事です。
その後、私はアジアの最貧国カンボジ
アのプノンペンに行きました。ところが
安田:
道路にゴミ一つ落ちていません。あんな
他者を信じるかどうかという事が重要
貧しい国なのに。貧しいから汚いんじゃ
です。中国の友達のマンションの 5 階に
ないんです。そこには“公共性”という
は鉄格子が張ってあるんです。それは泥
人間の持っている本質があらわれている
棒が入って来るからです。ゴミを片付け
のではないかと思いました。
ないアメリカ人が、何故ピストルを手放
金持ちは何をしてもいい、汚いゴミは
せないのか。これは人を信用出来ないか
貧しい者が片付けるんだ―それに立脚し
らです。我々は、人を信用する事が出来
たのが市場原理主義です。これが世界に
るのです。人を信用すれば、その外側に
蔓延している。これを変えないと我々は
ある自然を信じ敬う事が出来る、これが
救われません。世界のシステムは市場原
我々の特技なんです。でも、中国人やア
理主義で動いているから、いくら私がそ
メリカ人は人を信用出来ない。中国人だ
んな事を言ったって、突然変えられる訳
って、友達になったら物凄く良いけれど
がない。しかし、日本人の心、日本人の
も、それ以外の他人は信用しない。でも
公共性を守ろうと思ったら、市場原理主
日本で、北海道の田舎に行って、鍵のか
- 29 -
年報 公共政策学
Vol. 5
かっている家なんかないでしょう。皆人
らす人々を守らなければいけないと思い
を信じている。人を信じていれば、その
ます。
外側にある自然も信じる事が出来るので
す。これが日本の、最も強い公共性なん
司会:深見
有り難うございます。1 つだけヒント
です。
公共政策大学院ではこういう事を研究
を出して黒田さんに投げようかと思いま
していないと思います。日本人の素晴ら
す。コミュニティを作り、しかもそれを
しさは、人を信じ、自然を信じる事が出
自然を管理する中で作っていこうと、そ
来る点です。他の国では真似出来ないん
れはコモンズという言い方をしたりしま
ですよ。この公共性が市場原理主義で今
す。日本は、それをまさに、SATOYAMA
壊されようとしているのです。会社で、
イニシアティブという形で世界に広げよ
今、四半期毎の成果主義が導入されてい
うとしています。それを多少解説して頂
るでしょう。人間は調子の良い時と悪い
いて、今日の議論の中の 1 つの方向性の
時があるから、成果を出せる時と出せな
ようなものとしてご説明頂くと有り難い
い時がある。それをトータルして、一生
と思います。
会社は保障したのです。それが日本型シ
ステムだった。ところが今は、四半期毎
黒田:
に成果をチェックされる。3 ヶ月に 1 回
SATOYAMA イニシアティブは、それ
ずつ成果を見られて、成果が出ていない
こそ縄文文化が礎かもしれません。特に
と翌日クビを切られるから、人の事など
近い山を上手に使って、農業と林業を組
かまっていられないのです。
み合わせ、安定した形で人と自然の関係
日本人の素晴らしい公共性は“利他の
を保って、方法として確立されて来てい
心”です。他者の幸せを祈り、そして自
る時代が長かったのです。ところが、今
然を大切にしていく。だから自然が守れ
もそうかと言うと、外人に「サトヤマは
たのです。でも四半期制の成果主義が導
いいな、見せろ」と言われても、どこに
入されて、どうして他人の幸せを考えな
連れていくか迷うのです。国内でもほと
がら自分が生きていけますか?こんな社
んど消滅しかかっています。昭和30年代
会を一日も早く変えなければいけないの
ぐらいに、燃料として炭や薪を使わなく
です。
なってきた、あるいは落ち葉かきをしな
北海道の人は皆他人の幸せを考えなが
くなってきて、所謂肥料革命の頃から疎
ら生きている。利他の心は、本土の人よ
遠になって来て、だいぶ変化をして来て
りずっと強く持っている。こんな美しい
いる。国内ではそれをどうやって取り戻
人の心、利他の心、公共性に満ち溢れた
すか。特に環境省が旗を振ってきている
この世界を、今我々の目の前で潰しては
のは、そういう所を主たる生息地にして
いけないのです。北海道の人が如何に素
いる生き物は結構いて、絶滅の恐れのあ
晴らしいか。この天国の大地とそこに暮
る野生動植物は3000種類ですが、その相
- 30 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
当数がそういう所にいるのです。だから
た文言のルールだけでなく、しきたりみ
そのために里山を何とかせんといかんと
たいなものも含めて作っていくことが必
いう事なのです。
要だろう。そういう事に関しては、本当
どうもついつい保全のアプローチとし
に意外なほどアフリカ諸国が賛成をして
て里山の話が出るのですけれども、世界
くれています。ヨーロッパでもイタリア
的に話をしていくと、
「日本の里山の話と
とか割合地中海に近い国とか、フランス
いうのは保全の話だ。そうじゃなくて、
もそうですね、そういう例はある。色々
やっぱりプロダクションとして、あるい
聞いていくと、特に暖かい所にそういう
は食料安全保障としてどう使うかという
例があるみたいですし、南米でもそれが
観点じゃなきゃいかん」と言われ、ここ
ある。それから、コメ作り文化と言うの
2 年ぐらい色々な議論をしています。だ
でしょうか、東南アジア、モンスーン地
んだんまとめてきて、絶滅危惧種が保全
帯ではそういう例が本当にたくさんある。
される事は、
結果として起こる事である。
そういう中では、例えば焼畑というのが
まずは目標としては、土地を上手に使っ
「環境を破壊する行為」とよく言われる訳
ていくこと、つまり、そこが持っている
ですけれども、無秩序な焼畑、無計画な
ポテンシャルをキチンと分析しながら、
焼畑はうまくいかないけれども、ちゃん
そこの生産性を維持していく。それは農
とサイクルを持った焼畑というのがある
業でも林業でも漁業でもそうです。その
訳です。単に焼畑という言葉でもって「悪
ためには、色々な情報を集め方向性を決
いんだ」というのではなくて、やっぱり
めないといけないので、出来るだけ地域
地元のルールの中で焼畑を位置づけると
で議論をして合意形成をする。その時に、
いうやり方がある。インドネシアの中で
地元だけではなくて専門家の意見も色々
もジャワ島は昔から稲作が非常に盛んで、
と入れて議論していくべきだし、行政も
焼畑も上手に組み入れてやっているので
入ってくる。
すが、スマトラは採集型の文化の集落が
そして、コモンズという話がありまし
多かったらしくて、そこの焼畑というの
たけれども、ヨーロッパに「コモンズの
は、どんどん焼いてしまうので、インド
悲劇」という話があります。ちゃんとし
ネシアの焼畑というと、スマトラ島に相
たルールがなくて、コモンズだと言って
当根深いものとして見られているという
勝手に皆が使っていると、そこの牧草地
話を聞いた事があります。それも一つの
としての生産、放牧地としての生産性が
文化で、そういう土地をどういうふうに
保たれないで、崩壊してしまうというよ
使うかを皆で決めていくという意味で、
うな事を指して「コモンズの悲劇」と言
一つのニューコモンズが出来ないか、そ
われているのです。それはルールがなか
れも一つの柱にしたいと。ただ、ニュー
ったからだ。そのルールをちゃんと保つ
コモンズに対して今度は逆に途上国の人
ためにはコミュニティが必要で、コミュ
達が懸念する声もなくはなくて、自分達
ニティが地域を管理していく。書き記し
の範囲をどこまでにするか、うるさい人
- 31 -
年報 公共政策学
Vol. 5
達が入って、俺たちのものだと言うのを
事業、アイヌの伝統的な社会を再生する
嫌がる人がいなくはないのです。
という国交省の事業が、今白老町で展開
されていますけれども、今そういう形で
やったとしても権利が伴っていないので
安田:
1 つ、黒田先生への意見があります。
すよね。せっかく伝統的なフキを植えた
ルールというのは、人を疑う社会で生ま
りワラビを植えたり、色々な役に立つ木
れるものなんです。日本は元々日本人に
を植えたりしますけれども、じゃあそこ
はルールはないのです。日本人は人を信
でイオルの中で鮭が獲れるか、自由に獲
用しているから、だから“しきたり”の
れるかと言っても獲れませんし、狩猟が
方が僕は嬉しいです。今どんどん日本の
出来るかと言ったら出来ない訳ですよね。
企業にルールを入れているでしょう?ル
そこはちょっと違うのかなという感じが
ールは、必ずそのルールを破る悪い奴が
します。だから、アイヌ民族の人達にと
出てくるんです。だからルールというの
って、その弥生以降の里山に相当するも
は日本の文化には合わない。せめて人と
のが可能かというとどうなのかなと思っ
人が信頼し合える中で作り上げた社会シ
ています。
それで 1 つ、私が躍起になって「環境
ステム―“しきたり”ですね。そちらの
教育を、縄文教育を」と言うのは、背景
方が嬉しいと思う。
があるのです。私は伊達市民になって16
年ですけれども、伊達市にやって来た時、
司会:深見
大島先生、SATOYAMA と言っても別
伊達火力発電所の問題があって、市民が
に弥生文化の里山を言っている訳じゃな
環境に対してピリピリしていました。そ
いですよね。縄文の森、アイヌの森も、
の以前に伊達市民は、実は全国に先駆け
ローマ字の SATOYAMA の一つだろうと
てゴミの有料化もやった街であり、全国
私は思うのですが、先生のご見解は如何
に先駆けてゴミの分別をやった街です。
でしょう?
伊達市民にとって環境問題は常に身近な
問題だったわけで、日常的に環境につい
て学習する意欲が身についていたのです。
大島:
私は伊達の最大の宝物は「伊達市環境
黒田先生の仰っている話はよく分かり
ます。それは現代の社会の中で、理念だ
基本条例」という条例だと思っています。
けではなくて実際に生かす事も多分可能
これは平成10年に全国に先駆けて全員公
だと思うんですよね。ただ、里山という
募の市民参加型で作ったものです。市は
制度は勿論背景には農耕があって初めて
一切素案を作らずに、いきなり20人の市
成り立つシステムですから、縄文には農
民が集まって議論をスタートさせたそう
耕がない訳で、彼らの社会の中に里山と
で、38回行われた会議は毎回ほとんど喧
いう概念はないんだと思います。ただ、
嘩だったそうです。私はその場に居た事
例えばアイヌ民族の人達のイオルの再生
はありませんけれども。そうやって作っ
- 32 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
た基本条例を見て、私はビックリしまし
司会:深見
場内から、何かご質問等ございました
た。その環境基本条例の中に、縄文遺跡
まで入っていたのです。それは、前文で
らお願いしたいと思います。
はなくて本文の中に入っていたのです。
縄文遺跡も環境の一つだから守ろうと。
質問者 1:
もっとビックリしたのは環境権が入って
黒田先生に実務上の話として、
“ビジネ
いたことです。これも前文ではなくて、
スと生物多様性基本法”という言葉がこ
本文の中に入っていたし、今日は生物多
の最後の所にありましたが、これが国内
様性の話ですけれども、実は生物多様性
法において現在、強制力を持つ法整備が
までその中に謳われていたのです。私は
できる見通しは少しはあるのでしょうか。
こんな素晴らしい条例を作ったんだとし
私が仕事をしている埋蔵文化財について
たら、ちゃんとこれを教育の中に活かさ
は、文化財保護法で、原因者負担、遺跡
なきゃいけないと言って、声を大きくし
を壊したら金を払いなさいといったもの
ています。私は縄文の専門家なので、縄
があるのですが。
文教育を徹底してやっています。今日も
おそらく伊達市の北黄金貝塚には500人
黒田:
ぐらいの札幌圏の子供達が訪れて、縄文
生物多様性基本法の中に、ビジネスの
教育を受けているのだと思います。私は
役割と事業者の責務というのが書かれて
教育は物凄く力はあるんだと思います。
いて、そういうのを考える企業を増やし
非常に遠回りかも分からないけれども、
ていきましょうという事で、経済団体等
ひとりひとりの人間に伝えていくことが
も色々な取組みが始まったところです。
大切ですし、そうした教育環境をつくる
いきなり「生物多様性を損なった企業は
ことが大事なのだと思います。
解散」とかそういうルールを作ろうとい
私は色々な人に聞かれます。
「伊達市は
う事ではなく、まずは生物多様性を配慮
どうしてそんなに移住者が多いんです
した活動、例えば原材料の入手とか、事
か?」と。そうすると、普通の人は大体
業所を作って自然を破壊する事がないよ
「うまいものと、うまい空気と自然がタッ
うに配慮をしますというボランタリーな
プリだ」と考えますが、それは違います。
取組を進めていきましょうという事です。
そんなことが魅力で伊達市に来ている人
いきなりペナルティを出す制度を基本法
はいないと思います。私は街がこれまで
を根拠に次の法律を作っていくという動
に培ってきたステータスに魅力があるの
きは今のところありません。
キチンと守らないとペナルティという
だと思います。環境問題にとてもうるさ
く、縄文教育にうるさいという市民堅気、
のは、国立公園の中とか、野生生物に関
それらが街を光らせているんじゃないか
する法律にそうした制度があります。
生物多様性基本法においては、事業を
と思っています。
やる時にちゃんと配慮しなさいという事
- 33 -
年報 公共政策学
Vol. 5
を、企業にとってのしきたりにしていこ
体何のための生物多様性なのかという理
うという意図があります。これからは、
念をもっとハッキリさせないとと思いま
倫理と経済と技術の 3 つをちゃんと融合
す。安田先生のお話に私は非常に刺激を
しないとビジネスとしては成り立たない
受けまして、こういう講義を是非学生さ
社会を作ろうというつもりです。
ん達にやって頂きたいと思います。反面
で、市場原理主義経済が発展する前から、
私は北海道の環境はどんどん悪化してい
質問者 2:
私は北海道の人間ではなくて、若い時
ると思っているのです。やはりそれは、
にワンダーフォーゲル部で北海道の山が
経済との関係において成る事だと思って
好きになって、それ以来北海道のファン
いますので、先ほど申しました“アイデ
になりました。ですが、例えば札幌の駅
ンティティ”を是非考えて頂きたい。
で「新幹線を札幌駅まで延伸」なんて見
それと世界との協調と言いますけれど
ると非常に寂しいのです。北海道はやっ
も、例えば私はオハイオに 3 年間行って
ぱり北海道アイデンティティというもの
いたのですけれども、あそこは本当に緑
を皆さんで共有化されて、この島は他と
が豊かなので、里山なんて概念が全然い
違って孤立してもいいから、こういう島
らないのです。例えば秋になると道路の
にしたいんだという事を、是非もっと議
道はアライグマの死体が延々と転がるん
論して頂きたいなと、まず個人的に思い
です。彼らはいっぱいて、それが餌を求
ます。
めて道路を横切るのですがはねられる。
もう 1 つ、この生物多様性とか環境の
そういう所と日本と、或いは今経済をも
問題は、経済との関係が非常に密接で、
っと発展させたい国と、一つの共通の目
リーマンショックが起こる前までは企業
標を持とうとすると、ギャップを埋める
は「環境重視」と申しておりましたが、
事が大変だと思います。そういう意味で、
一旦経済環境が反転しますと、もう誰も
先進国が失敗した経験を、これからやろ
そんな事は申しません。そういう意味で
うとしている国に対し教え、同じような
やはり、基底にある理念がないと、その
失敗をせずに地球環境を保存する取組を
時その時の経済環境で、特に社会で大き
考えて頂けるという事は出来ないのかな
な影響を持っている大企業の態度が変わ
と思いました。
ります。環境省による本当に実効のある
施策が必要です。色々な事を環境省や経
安田:
産省が仰り、目標値も決められます。企
北海道には、里山はないのです。です
業では、それを無視するような事はしま
から SATOYAMA イニシアティブという
せんが、上手く立ち回ろうとするのです。
のは本州以南ではやったら良いと思うの
法律違反はしていないけれど、積極的に
です。北海道はどうして里山がないかと
何か貢献しているかというと、ちょっと
いうと、これは牧畜が、乳牛がいるから
問題があります。そう意味で、やはり一
です。乳牛というのは西洋から導入した
- 34 -
シンポジウム:北方の文化と環境再生、生物多様性
もので、だから激しく自然も破壊された
賄えない。その後更に植民地からどんど
訳です。
ん色々な資材を持って来ているのです。
ですけども、北海道は、ある意味では
白人が行って自然が変わった地域という
先進的で伝統的な縄文の文化と、近代化
のは、オーストラリアだけじゃなくて各
以降の西洋文明の両方をうまくミックス
地にあって、アフリカ辺りも相当手を入
して成り立っているのです。右足を縄文、
れられた。その上で、これ以上手を入れ
左足を近代ヨーロッパの西洋文明に置い
るとまずいよと先進国が言う訳です。と
ている訳ですから、僕はこれが北海道の
ころが途上国は、
「いや、もっとお前らの
強みだと思うのです。ヨーロッパ人やア
ようになりたいんだ。それを我が国をこ
メリカ人の心が分かるのは、やっぱり同
んなに変えてしまったお前らに言われた
じようにミルクを飲んで牧畜をやってい
くない。言うんだったらもっと支援しろ」
る北海道の人なんです。だから今までは、
という構図になっています。そこのせめ
近代ヨーロッパの西洋文明だけを目指し
ぎ合いがあって、どこをとるべきなのか。
ていたたんだけれども、
“縄文”をキチン
先ほど、ポスト2010年目標というものを
と北海道の人が思い出して、右足を縄文、
言いましたが、断固生物多様性の損失を
左足を近代ヨーロッパの西洋文明におい
止めるべきだというアンビシャスな目標
て、その上に新しい文明の潮流を創って
を達成するために100倍金を寄こせとこ
いくことができるのではないか。それが
ういう話になって、どの辺で話をまとめ
北海道の強みなのではないでしょうか。
るのか、次の議長国は日本と分かってい
期待しております。
るので、各国から、日本は「どう言うん
だろう」と見られているのです。実は非
常に頭の痛いところで、我が国はこれか
司会:深見
有り難うございます。ほぼまとめて頂
ら10月の会議の議長国ですし、その後次
きました。せっかくですから一言ずつ、
の COP 11というところまで、世界の生物
残りの御三方にお願いします。
多様性を牽引していくリーダー役をしな
いといけないのです。そういう中で長い
日本の歴史を踏まえた経験がどこで役に
黒田:
先ほどのお話の中で
「先進国と途上国」
という構図はやはり中々難しくて、例え
立てる事が出来るかという視点を持ちな
がら頑張っていきたいと思います。
ば、ヨーロッパ諸国は生物資源を相当昔
に使い果たしています。トラファルガー
大島:
の海戦でスペインの無敵艦隊がイギリス
今、私達が最も力を入れて取り組んで
に敗れた時のスペインの軍艦は、ポーラ
いる縄文啓発・縄文教育の 1 つが、
「北海
ンドで切り倒したでかい木を凄い金で買
道縄文のまち連絡会」という組織の立ち
って作った船で、それが全部沈められた
上げです。菊谷伊達市長が発案者になっ
のです。その時代からもう自分の国では
て、全道179の市町村に呼び掛けています。
- 35 -
年報 公共政策学
Vol. 5
歌志内市などを除く176の自治体には縄
がったものを教えるという事ではなく、
文遺跡があります。そういう事もまずは
それは何故そうなったのかという背景を
知って頂こうという事です。もう 1 つは
一緒に考えるんだという事だと思います。
縄文文化の価値、北海道のかけがえのな
教科書に書いてある事ではなく、
その裏、
い遺産の 1 つなんだという価値観を共有
その背景、それがどうなって今に繋がっ
し、さらにそれを「まちづくり」に活用
ているか考える楽しみを教えて頂きたい
してゆこうという目的をもって立ち上げ
と思っています。もう 1 つ、信じるとい
ようとしています。残念ながら賛同して
う事です。信じるプロセスというのがあ
くれる市町村はまだ少のうございます。
って、それはコミュニティがあって、そ
今20の市町村が賛同して下さっています。
こで関係性を作るから信じるという事が
生まれるんだと思うのです。理解すると
か、話をするとか、関係を作る中で信じ
五十嵐:
2 つほど申し上げたいと思います。1 つ
は教育です。教育というのは何か出来あ
る社会が強固になっていくと思っていま
す。
- 36 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
行政改革の現在位置~その進化と課題
岡本
全勝
1. はじめに
政府は長年、行政改革を進めてきた。歴代政権が行政改革を掲げ、さまざまな改革
に取り組んできた。また、中央政府(国)だけでなく、地方政府(地方自治体)にお
いても、積極的に取り組まれている。しかしながら、これら改革の全体を鳥瞰した試
みは、ないようである。
本稿では、近年、主に中央政府で取り組まれた行政改革の見取り図を示したい。そ
のために、行政改革の成果を分野別に分類する。それによって、これまでの行政改革
の範囲の拡大と目的の変化を考察する。さらに、それらを導いてきた経済的社会的な
背景を考え、最後に残された課題を論じる。
結論を簡潔に述べれば、戦後の行政改革は、予算や人員の削減というスリム化から
始まり、近年は行政のあり方の見直し、すなわち社会における行政の役割の見直しと、
国民による行政組織の統治の見直しへと、目的が広がってきた。それは、先進国への
キャッチ・アップを達成したことによる、経済成長の低下と社会の成熟によるもので
あり、いわゆる官僚主導型社会からの変革を目指すものである。しかしながら、現在
のさまざまな行政改革の取り組みは、統一的な視点と全体を統合する仕組みを欠いた
状態にある。
2. 近年の行政改革の分類
2.1 分類の試み―量の改革とあり方の改革
まず、近年取り組まれた数々の行政改革を鳥瞰しよう。対象とする期間は、おおむ
ね1990年代と2000年代とする。それらを、その内容と目的と効果に従って分類しよう。
その試みが、「表 1

1)
行政改革の分類(目的別・効果別の歴史)」である 1)。ここで対
総務省自治大学校長
政府は、いろいろな本部や審議会を設置して、行政改革に取り組んできた。それぞれの経
緯や成果は、政府のホームページでも見ることができる。しかしながら、これら行政改革
の全体を把握している組織はなく、政府として全体像を示した資料はないようである。総
務省行政管理局が、政府の組織と定員を管理しているが、例えば経済財政に関する改革は
所管外である。そして、多くの審議会や事務局組織は、内閣官房あるいは内閣府に設置さ
れ、改廃されているので、これらを永続的に管理する部局もない。
政府のホームページで見ることができる「行政改革の全体像」の最近のものは、内閣官房
行政改革推進室による「行政改革~これまでの取り組み」
(平成21年 5 月)のようである(平
成22年11月20日閲覧)。そこには、公務員を変える取組(公務員制度改革、
「天下り問題」
- 37 -
年報 公共政策学
Vol. 5
象とする行政改革は、かなり広義のものである。行政の量の削減、すなわちその組織、
人員、予算の削減を目指す改革だけでなく、行政のあり方の改革にまで範囲を広げる。
ここにいう「行政のあり方」とは、次のような 2 つのものを含む。その 1 つは、社
会や市場に対する行政からの働きかけ(規制や誘導)という「行政機能のあり方」で
ある。もう 1 つは、行政組織をどう統制するかという「ガバナンスのあり方」である。
前者の行政機能は、行政から社会への作用であり、後者のガバナンスは、主権者であ
る国民から行政への作用である。このような視点で見ると、行政改革には、定数と組
織や予算の削減、組織の民営化や業務の民間委託といったスリム化だけでなく、地方
分権改革、規制改革、情報公開、政治主導を目指す改革など、いろいろなものが含ま
れる。
表 1 では、いま述べたような趣旨に沿って、大きく「小さな政府・財政再建」
「官の
役割変更・経済活性化」
「ガバナンス改革」の 3 つに分類した。そしてその中に、小分
類をつくった。
まず「小さな政府・財政再建」は、行政の量の削減、スリム化であり、従来行われ
てきた行政改革である。そこには、予算、組織、定員を削減し、財政再建を目指す「予
算組織定数削減・財政再建」と、行政の機構と業務を民間に切り出し、小さな政府を
目指す「官から民へ(民営化・民間委託)」の、2 つの小分類をつくった。
次の「官の役割変更・経済活性化」は、行政組織の縮小にとどまらず、行政機能の
あり方の改革を目指すものである。その中に、3 つの小分類をつくった。1 つは、「国
から地方へ(地方分権改革)」である。地方分権は、中央政府による地方政府への規制・
関与を縮小するものである。2 つめは、
「規制改革、市場の活性化、国際化への対応」
への取組み)、歳出の削減など、国の財政の健全化への寄与(総人件費改革、特別会計改革、
国の資産の圧縮、補助金等の交付により造成した基金の見直し、行政支出の総点検)
、官と
民、国と地方の役割分担の見直し(地方分権改革、規制改革、公共サービス改革)
、公的な
業務を行う法人の見直し(独立行政法人改革、政策金融改革、公益法人制度改革)
、公務の
基盤や基本ルールを変える取組み(電子政府・電子自治体の推進、政策評価の推進、行政
の基本的なルールの整備)、地方行革(地方公共団体における行政改革)が取り上げられて
いる。
http://www.gyoukaku.go.jp/siryou/souron/pdf/090610_panfuretto.pdf
また、平成18年に制定された「簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関
する法律」
(行政改革推進法)は、当時取り組むとされていた項目を並べている。そこには、
政策金融改革、独立行政法人の見直し、特別会計改革、総人件費改革、国の資産及び債務
に関する改革、関連諸制度の改革との連携(公務員制度改革、規制改革、競争の導入によ
る公共サービスの改革、公益法人制度改革、政策評価の推進)が挙げられている。
行政改革全体についての参考文献としては、田中一昭編著『行政改革〈新版〉
』(2006年、
ぎょうせい)が、当時の行政改革の全体像の解説を行っている。そこには、中央省庁再編、
独立行政法人制度創設と法人見直し、特殊法人等の合理化・民営化、公益法人の改革、政
策評価制度の創設、規制改革と官業の民間開放、財政再建の取組、国・地方の関係の見直
し、国家公務員制度の改革、定員管理、電子政府の推進、行政手続・苦情救済、情報公開
法、行政機関等の個人情報保護法制といった改革が含まれている。
- 38 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
表1.行政改革の分類(目的別・効果別の歴史)
時期と手法
小さな政府・財政再建
官の役割変更・経済活性化
予算組織定員
官から民へ
国から地方へ 規制改革、市場 事前調整から
削減・財政再建 (民営化・民間 (地方分権改革) 活性化、国際化 事後監視へ
委託)
対応
ガバナンス改革
公開と参加 政治主導
1980年代
(中曽根行革)マイナスシー 電電公社、国鉄
土光臨調
リング
民営化
日米構造協議
1990年代
消費税導入
(村山内閣)
地方分権推進
委員会
(橋本行革)
規制改革委員会
行政改革会議 財政構造改革法 PFI 制度
2000年代
(小泉行革)
経済財政諮問
会議
構造改革特区
国地方協議の場
市場化テスト
米輸入部分開放
規制緩和計画
携帯電話売り切
り制
金融ビッグバン
民事再生法(破 薬務局再編
綻から再生へ) NPO 法人制度
省庁再編(省庁 介護保険(措置 分権一括法(第 労働者派遣拡大 財金分離(金融
・局・課削減)から選択へ) 1 次分権改革) 民間職業紹介拡大 監督庁)
大店法廃止、電 日銀法改正
財投改革
独立行政法人
気通信網開放
骨太の方針
市町村合併
制度
タクシー参入・
ケインズ政策 指定管理者制度
放棄(公共事業 特殊法人改革、三位一体改革 料金規制緩和、 食品安全委員会
小中学校選択制、
・交付税削減)独法見直し
道路公団、郵政
1 円株式会社、 ADR 法
年金等改革
農業への企業参入 公益法人制度
国家公務員配 民営化
会社法抜本改正 改革(許可から
置転換、独法の 駐車違反取締
り民間委託・
金融商品取引法 登記へ)
非公務員化
特別会計改革 PFI 刑務所
官民競争入札
消費者庁発足
政策金融改革
行政手続法
地方団体へ外
部監査導入
パブリック・
コメント
情報公開法
省庁改革
官民交流法
(内閣官
政策評価
房強化、副
大臣導入、
政府委員
行政事件訴訟 廃止)
法改正
経済財政
諮問会議
裁判員制度
公文書管理法
である。規制改革は、官(行政)による民(市場経済活動)への関与を縮小しようと
するものである。これはまた、市場の活性化につながる。さらに、国際化への対応と
して行われたものもあるので、ここに入れる。3 つめは、「事前調整から事後監視へ」
である。これも、官による民間活動への任意の介入を縮小し、事前のルール設定と事
後の監視へと、行政の機能を変えようとするものである。
最後の「ガバナンス改革」は、国民による、行政組織の統治のあり方の見直しであ
る。ここには、
「公開と参加」
「政治主導」の、2 つの小分類をつくった。このうち「公
開と参加」は、主権者である国民が、行政組織の活動を監視し、また参加しようとす
るものである。
「政治主導」は、国民から負託を受けた内閣(政治家)が、行政機構(官
僚)を統制する、官僚主導から政治主導への転換である。
以上が、表 1 の分類の考え方である。もちろん、この大分類と小分類は便宜的なも
のであり、ある改革成果が 1 つの欄に収まるとは限らない。1 つの改革が 2 つ以上の
欄に含まれることもあるが、主な目的と効果という視点で、いずれかの欄に分類して
- 39 -
年報 公共政策学
Vol. 5
ある。たとえば民営化や民間委託は、市場の活性化につながるものが多いが、まずは
「官から民へ」に入れてある。
ここには、取り組まれた改革のうち、その全部または一部が実現した成果を上げて
いる。歴代政権は、さまざまな改革を表明したが、それらのすべてが達成されたわけ
ではない。審議会などで答申が出されたものの、実現しなかったものもある。ここに
は、それらは載せていない。また、主なものを網羅したものでなく、特徴的なものを
挙げてある。
以下、順次、表 1 に沿って解説しよう。記述の流れから、必ずしも年次順にならな
いことをお断りしておく
2.2 小さな政府・財政再建
行政改革の第 1 は、行政の組織と活動量を削減しようとするものである。スリム化、
効率化、アウトソーシングを行い、歳出削減と財政再建を目指す。また、民間企業が
不十分な時代に政府がサービスを提供し、産業を支援したことからの卒業もある。
2.2.1 予算組織定員の削減・財政再建
行政改革の出発点は、スリム化である。予算、組織、定員を削減し、あるいは増加を
抑制する。そして歳出を削減し、財政再建を目指すものである。石油危機(1973年)
以降の経済成長の低下、さらにはバブル崩壊(1991年)後の平成不況により、政府は
大幅な財政赤字に苦しんでいる。
これに対し、1981年に第 2 次臨時行政調査会(いわゆる土光臨調。鈴木善幸内閣、
中曽根康弘内閣)が発足し、その後の行政改革の出発点となった。予算要求の際のマイ
ナス・シーリングは、このときに導入された。組織や定数にあっても、引き続き厳しい
シーリングがかけられた。すなわち、すべての組織を対象に一律数パーセントの削減
をかけ、そこで出てきた定数を、強化が必要な部門に振り向ける。こうすることで、
必要な部門を増員しつつ、全体を削減しあるいは増加を抑制した。
1989年の消費税導入(3%)
、1997年の税率引き上げ(5%へ)は、税収構造を経済変
化に合わせ安定にするためのものであった。それぞれ、あわせて減税が行われ、実質
増収にはなってはいない。
橋本龍太郎内閣(1996~1998年)は、「6 大改革」を掲げ、行政改革と構造改革に取
り組んだ。1997年には、財政構造改革法(財政構造改革の推進に関する特別措置法)
を成立させた。これは財政健全化をめざし、歳出削減と赤字国債の発行額削減を法定
したものであった。しかしながら、直後に発生したアジア通貨危機などによる景気後
退のため、同法は執行が延期された後、停止された。
また、中央省庁等改革基本法を成立させ、省庁・局・課の数の削減を決めた。これは、
2001年の省庁再編で実現した。その結果、23府省庁は13府省に、127あった官房と局は
- 40 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
96の官房と局および16の分掌職に、1,166あった課と室は995に統合削減された。
2001年には、財政投融資改革が行われた。財投は第 2 の予算といわれ、郵便貯金と年
金積立金を原資に、特殊法人や特殊法人を通じて社会資本整備などの事業に、多額の
貸し付けを行っていた。この改革によって、入り口である郵便貯金などの資金運用部
資金への預託義務を廃止し、出口である投融資対象事業を大幅に縮小した。
小泉純一郎内閣(2001~2006年)は、構造改革を旗印に、強力に行政改革を進めた。
省庁改革によって創設された経済財政諮問会議を議論と決定の場として活用し、これ
までにない歳出削減や民営化に取り組んだ。特徴的なのが「骨太の方針」である。毎
年度の概算要求基準を設定する前に、
「骨太の方針」を決定することで方向を示し、聖
域といわれた分野に切り込んだ。そして、公共事業や地方交付税を削減し、ケインズ政
策を放棄した。医療、年金、介護と、毎年1つずつ社会保障財政を見直した。特別会計
についても、廃止統合の改革を決め、2006年度以降の予算において余剰金を一般会計へ
繰り入れた。
国家公務員削減についてはさらに踏み込み、余剰部局から不足部局への配置転換を
行うこととした。また、特定独立行政法人(公務員身分のある独立行政法人)のいく
つかを、非公務員型に転換した。
次に述べる民営化などの改革もあわせて、国家公務員数(自衛官を除く)は2000年
度末の84万人から、2008年度末には32.4万人にまで大きく減った。減少分の内訳は、
郵政公社化28.6万人、国立大学法人化13.3万人、独立行政法人化7.3万人、純減2.4万
人である。なお、その後の社会保険庁解体などにより、2010年度末には30.2万人とな
っている。
2.2.2 官から民へ(民営化・民間委託)
「小さな政府・財政再建」の 2 つめは、
「官から民へ(民営化・民間委託)」
、すなわ
ち官からの切り出し・アウトソーシングである。官の組織を民営化し、あるいは業務
を民間委託することで、業務の効率化と財政支出の削減を目指す。
「小さな政府」をス
ローガンとする、新自由主義的改革でもある。第2次臨調では、電電公社、専売公社、
国鉄の 3 公社が民営化された。これは大きな改革であったが、1990年代に入って、範
囲と手法が広がった。
まず、手法についてである。1999年に PFI 法(民間資金等の活用による公共施設等
の整備等の促進に関する法律)が制定され、国や地方自治体で PFI 制度が活用される
ようになった。これは、民間の資金とノウハウを利用して、民間に施設整備と公共サ
ービスの提供をゆだねる手法である。2007年には、PFI 刑務所が造られるまでになっ
た(美祢社会復帰促進センター)
。
2000年から開始された介護保険制度も、挙げておこう。従来は、介護サービスは措
置であり、市町村が提供するものであった。保険制度発足に際し、各高齢者の要介護
- 41 -
年報 公共政策学
Vol. 5
度認定は市町村が行うが、サービス提供は民間主体(企業や NPO)を認め、サービス
利用者が選択できるようにした。
2003年には、地方自治体に、指定管理者制度が導入された。公の施設(文化スポー
ツ施設や福祉施設など)の管理運営の委託先を、民間企業などにも広げるものである。
民間の手法を用いて施設の運営を行なうことで、経費削減とサービスの向上を狙って
いる。
2005年から、市場化テスト(官民競争入札制度)が導入され、2006年には「競争の導
入による公共サービスの改革に関する法律」
(公共サービス改革法、市場化テスト法)
が成立した。これは、国や地方自治体が行っている事務事業について、民間企業との間
で競争入札を行い、落札した事業主体がその事業を実施するという制度である。また、
2006年には、駐車違反の取締り(放置車両の確認事務)に、民間委託が導入された。
次に、対象組織についてである。2001年の省庁改革の一つとして、独立行政法人制
度が創設された。この制度は中央省庁の実施機能を別法人に切り出し、弾力的、効率
的な組織業務運営を目指すものである。その時点で90業務が対象となり、約63法人の
創設が予定された。その後、新たに独立行政法人に移行するものもでた。また、2004
年には、国立大学が国立大学法人に移行した。さらに、2003年からは独立行政法人の
見直しも開始され、統廃合、業務の廃止縮小、公務員型の法人を非公務員型に転換す
ることも行われている。
特殊法人については、163法人(2001年)を対象に、廃止17、統合 4、民営化等43、
独立行政法人化39、共済組合として整理45、現状維持 6 という改革が行われた。
道路公団の民営化と郵政事業の民営化は、与党の抵抗により大きな政治問題になっ
た。道路公団については、2004年に民営化関係 4 法が成立し、2005年に分割民営化さ
れた。郵政民営化については、中央省庁再編により、郵政省の郵政部門が総務省郵政
企画管理局と郵政事業庁に再編され、さらに2003年に郵政事業庁が特殊法人である日
本郵政公社となった。そして、2005年のいわゆる「郵政解散」を経て、関係法律が成
立し、2007年に民営化された。
2006年には、
「政策金融改革に係る制度設計」が決定された。それに基づき、住宅金
融公庫、商工組合中央金庫、日本政策投資銀行など、政府系金融機関の民営化や再編
が行われた。
2.2.3 業務の効率化
これらのほかに、
「業務の効率化」と分類できるものがある。政府組織を小さくする
だけでなく、政府の機能(業績)について、効率性の向上と住民の満足度を上げよう
とするものである。
電子政府は、国民の行政手続きを電子化し、行政サービスを効率化しようとするも
のである。行政組織内部の事務処理のコンピューター化は大きく進んでいるが、電子
- 42 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
政府は国民の手続きに着目したコンピューター化である。地方自治体では、2003年に
住民基本台帳カードが導入された。しかし、全国民に番号を振ることによって、社会
保障サービスや納税手続きなどを効率化しようとする試みは、実現していない。
NPM(New Public Management、新公共経営)の考え方は、多くの地方自治体で導入
されている。NPM とは、民間企業における手法を導入することで、効率的で質の高い
行政サービスを提供しようというものである。1980年代の財政赤字の拡大を背景に、
イギリスやニュージーランドなどで進められ、日本の地方自治体にも導入された。そ
の基本的な思想として、次のようなものが挙げられる。1 つは顧客志向であり、市民
を行政サービスの顧客と見て、顧客満足度を重視したサービスを目指す。もう 1 つは
成果志向であり、数値目標を設定し、行政評価による事業評価を実施する。そして、
市場機能を導入し、民営化や民間委託など民間活力を活用する。
2.3 官の役割変更・経済活性化
行政改革の第 2 は、官の役割の縮小であり、行政機能のあり方の改革を目指すもの
である。その 1 は中央政府と地方政府の関係見直し(地方分権改革)であり、その 2 は
政府と市場との関係見直し(規制改革)であり、その 3 は政府の民間への関与方法の
見直しである。
2.3.1 国から地方へ(地方分権改革)
行政機能の見直しの第1は、国から地方へという地方分権改革である。現在の地方制
度は、1947年に新憲法と地方自治法によってできた。地方自治は憲法で保障されたの
であるが、地方自治体が事務を実施する際に国による規制(義務付けや枠付け)が大
きいこと、また財源を通じた国による規制と誘導(少ない地方税に対し、大きい国庫
補助金への依存)が問題とされた。これらの課題を改善するために、地方分権は長年
の課題であった。
法律や指導、国庫補助金を通じた中央集権システムは、行政サービスの拡充や社会
資本の整備に、効率的な役割を果たした。しかし、日本の行政が欧米先進国へのキャ
ッチ・アップを達成した時に、
「制度輸入・中央集権システム」は使命を終えた。そし
て画一的な行政は、地域の課題に対処できず、財政効率も悪く、住民の満足度を高め
ることができなくなった。地方分権は、中央政府(各府省)による地方政府(地方自
治体)への関与を縮小し、地方政府の自由度を高めるとともに、責任を持たせようと
するものである。
1995年(村山富市内閣)に地方分権推進法が成立し、地方分権改革が動き出した。
地方分権推進委員会の勧告に従って、地方分権一括法(475本もの法改正)が成立し、
2000年に施行された。第 1 次分権改革である。これは、国と地方自治体の役割分担を
明確化すること、機関委任事務制度(知事や市町村長を国の下部機関として国の仕事
- 43 -
年報 公共政策学
Vol. 5
をさせる制度)の廃止、国の関与の見直しを内容とする。
他方、分権の受け皿となる市町村の行財政基盤を強化するため、市町村合併が進め
られた。1999年に3,232あった市町村は、2010年には1,727に統合された。
地方財政については、2002年から「三位一体の改革」が行われた。これは、国庫補
助金改革、国から地方への税源移譲、地方交付税改革の 3 つの改革を同時に進めるも
のである。2006年度までに、4 兆円の国庫補助金削減、3 兆円の税源移譲、5 兆円の地
方交付税抑制が行われた。
2.3.2 規制改革、市場の活性化、国際化への対応
1990年代から動き出した大きな改革に、規制緩和あるいは規制改革が挙げられる。
市場経済の規制は、企業活動を保護育成するためのものであり、国外からの参入を規
制し、また国内での業界内での競争を避けるための政策であった。しかし、日本が経
済大国になることで、国外からの参入規制は諸外国に認められなくなり、また国内で
の既存勢力保護は経済活性化の足かせとなった 2)。規制改革は、官による市場経済へ
の規制や関与を縮小しようとするものである。そして市場原理を重視し、自由な競争
によって経済を活性化しようとするものである。よって、規制改革の目的は、行政改
革を超えるものがある。これも、新自由主義的改革の一環である。
日米構造協議(Structural Impediments Initiative)は、日米貿易不均衡の是正を目的と
して、1989年から始まったアメリカとの 2 国間協議である。当時アメリカは大幅な対
日赤字に悩み、その原因は日本の市場の閉鎖性(非関税障壁)にあるとして、日本の
経済構造の改造と市場の開放を迫った。これにより、大規模小売店舗法が規制してい
た、大型店の出店規制の緩和などが行われた。また、世界の自由貿易体制を進めるた
めのガット・ウルグアイラウンド農業合意によって、1993年(細川護煕内閣)には米
の部分輸入自由化を受け入れた。その後 WTO(世界貿易機関)の下、1999年には関税
化に踏み切った。
1996年から橋本総理の下、金融ビッグバンが進められ、護送船団といわれた金融行
政が大きく自由化された。その際には、フリー(市場原理が機能する自由な市場)、フ
2)
八代尚宏教授は、規制改革の歴史を、その対象の違いから 3 つの段階に分けておられる。
第 1 は、市場への参入規制や煩雑な検査・検定等の企業活動に関する経済的規制である。
これは、特に外国企業から「国内市場の閉鎖性」と非難された結果、国際交渉を通じて大
きな改革が進められた。第 2 は、医療や教育等、主として国民生活にかかわる社会的規制
である。これは、国の関与の下で全国で画一的に提供される公共サービスに対して、より
質の高い内容を求める利用者ニーズとの間で、ミスマッチが生じている。しかし、改革の
進捗は遅い。第 3 は、郵政 3 事業の民営化等、国や地方自治体が自ら行う官業の民間開放
と、行政サービスを維持する必要があるとしても、民間に開放できないかを問う市場化テ
ストである。八代尚宏編著『「官製市場」改革』
(2005年、日本経済新聞社)。そのほか民営
化や規制改革については、八代尚宏著『規制改革「法と経済学」からの提言』
(2003年、有
斐閣)を参照。
- 44 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
ェアー(透明で公正な市場)、グローバル(国際的で時代を先取りする市場)の 3 つの
原則が掲げられた。
さかのぼると、規制緩和は、第 2 次臨調で主要分野の一つとされた。その後も経済
構造調整の観点から、規制緩和推進要綱などがつくられた。大きく進んだのは、1994
年の行政改革委員会からである。その下に、規制緩和小委員会が置かれ、対象項目を
網羅した規制緩和推進 3 か年計画をつくり、それを改定するという仕組みが定着した。
その後、規制緩和は規制改革と名称を変え、規制改革委員会など名称は変わるが、後
継の推進機関が仕事を引き継いだ。
規制改革の具体的成果としては、携帯電話のレンタル制から切り売り制の導入(1994
年)
、民間職業紹介事業の自由化(1997年)
、電気通信網の開放(2001年)、タクシーの
参入自由化と料金規制緩和(2002年)、公立小中学校の選択制(2003年)、いわゆる 1 円
株式会社の特例(2003年)、農地リース方式による企業の農業参入(2003年)、医薬品
の一般小売店での販売解禁(2004年)、労働者派遣対象業務の拡大(1996年)と製造業
などを除く原則自由化(1999年)、さらに派遣期間制限の緩和と製造業への派遣緩和
(2004年)などが行われた。大型店を規制していた大規模小売店舗法は、2000年に廃止
された。
「官製市場」
(官が自ら提供する、あるいは公的関与の強いサービス分野)の民間開
放、市場化テスト(官民競争入札制度、前掲)
、構造改革特区も、規制改革推進組織が
進めたものである。
構造改革特区とは、地方自治体の提案に基づき、特定の地域において、規制改革を
実験するものである。2002年から始まり、2003年には「構造改革特別区域法」が施行
された。株式会社による農業経営、幼保一元化、外国語教育などで試みられ、その後
全国に適用されたものもある。
2005年には、会社法が抜本改正された。これは、企業金融(ファイナンス)の規制
緩和、企業統治(コーポレート・ガバナンス)の強化、IT 化への対応、ベンチャー企
業の支援などを内容とする。その背景について、神田秀樹教授は『会社法入門』
(2006
年、岩波新書)で、会社法の役割についての認識の変化は、パラダイム変化が起きた
と、述べておられる。すなわち、会社法は伝統的には、関係者間の権利義務関係を規
定する基本的な私法の一つであった。しかし現在では、国の経済政策のひとつの重要
な制度的インフラとして、そのあり方が議論されている。先進諸国では、競争力を高
める会社法、IT 革命に対応した会社法、資本市場の拡大に対応した会社法を目指した
改正が行われている、と指摘されている。
2006年には、証券取引法が大改正され、金融商品取引法となった。この改正は、利
用者保護ルールの徹底、貯蓄から投資に向けての市場機能の確保、金融・資本市場の
国際化への対応を目指したものである。そのために、株式や社債などに限らず新しい
金融商品を横断的に対象とし、投資者保護、開示制度の拡充、取引所の自主規制機能
- 45 -
年報 公共政策学
Vol. 5
の強化、不公正取引等への厳正な対応を柱としている。
この企業法制改正と株式市場法制の大改正は、日本の企業が収益を上げていくこと
をサポートするためのものである(前掲『会社法入門』)
。
2.3.3 事前調整から事後監視へ
官の役割変更・経済活性化の 3 つめは、事前調整型行政から事後監視型行政への転
換である。すなわち、行政による民間活動に対する不透明な指導や調整をやめ、透明
な規制ルールを定め、国民の自由な活動に委ねる。そして、違反した場合や紛争を生
じた場合は、裁判によって決着をつける。行政の任務は、ルール違反を監視すること
に転換しようとするものである。先に述べた規制改革のさらに進んだものと、位置づ
けることができる。
民間活動が遅れていた時代にあっては、先進国で学んだ最新の情報を元に、官が民
を指導することは効率的であった。しかし、民間が力をつけた時に、官が民を指導す
ることに、合理性はなくなった。また、新しい事業主体や外国企業が参入する場合に、
不透明な指導は有害になる。
「事前調整から事後監視へ」という改革は、日本社会の成
熟にしたがって、官の役割を縮小しようとする改革の一つである。これも、行政の改
革であるとともに、日本社会の改革を目指すものである。
1998年に、
「特定非営利活動法人法」
(NPO 法)ができた。かつては、非営利かつ公
益的な活動を行う団体が法人格を取得するには、民法に基づく公益法人制度(社団法
人・財団法人)しかなく、官(国または県)の許可が必要であった。そして、主務官
庁の指導を受けた。NPO 法では、より簡便に認証という行為で設立ができるようにな
った。
さらに2008年には、公益法人制度が抜本的に改革された。許可制を廃止し、登記に
よって設立できるようになった。新しい制度は、法律に定められた基準を満たせば、
登記によって一般社団法人と一般財団法人を設立することができる。これによって、
官の関与なしで法人格を取得できるようになり、主務官庁制度がなくなるので行政に
よる指導もなくなる。ただし、税の優遇措置を受ける場合(公益社団法人、公益財団
法人)には、国または県による認定が必要である。
「事前調整から事後監視へ」に関する行政機関の改廃として、財金分離、薬務局解体、
食品安全委員会を挙げよう。かつて金融行政は大蔵省が所管し、証券局、銀行局、検
査部、保険部があった。金融行政は、「護送船団行政」として有名であった。しかし、
1991年に大手証券会社による損失補填などの不正行為が露呈し、
「金融業界を振興する
部局が同時に業界を取り締まっているのは、コーチとアンパイヤを同じ人が担ってい
ることでおかしい」との批判が出た。そこで1992年に、証券取引等監視委員会が設立
された。さらに、住専処理への批判や大蔵省の過剰接待への批判があり、財政と金融
を分離することになった(財金分離)
。1998年に、総理府の外局として金融監督庁が創
- 46 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
設され、大蔵省の金融部門の大半が移された。2000年には、残る大蔵省金融企画局が
金融監督庁に移され、金融庁ができた。
1997年には、厚生省薬務局が解体された。これは、薬害エイズの発生の際に、業界
の利益を優先し、患者発生を防げなかったという批判に答えるためであった。その結
果、研究開発と振興部門は健康政策局へ、審査安全監視部門は医薬安全局へ、医薬品
の審査は国立医薬品食品衛生研究所の医薬品医療機器審査センターへ分割された。
2003年には、BSE 問題の検証を受けて、食の安全のため、内閣府に食品安全委員会
が、農林水産省に消費・安全局が設置された(他方で食糧庁が廃止されている)
。BSE
問題は、イギリスで BSE(牛海綿状脳症、狂牛病)が発生し、世界的問題になったに
もかかわらず、日本では対策が甘く、BSE 発生を防げなかった問題である。WHO か
ら肉骨粉の輸入禁止勧告を受けながら、農水省は畜産農家保護のため行政指導で済ま
せた。
「BSE 問題に関する調査検討委員会報告」(2002年、農林水産省)は、生産者優先・
消費者保護軽視の行政、政策決定過程の不透明な行政機構、危機意識の欠如と危機管
理体制の欠落と、厳しい批判をしている。そこでは、次のように述べられている。
「市場競争の激化に伴い、先進国の法制度や農業政策は生産者優先の産業振興から次
第に消費者優先に軸足を移すとともに、国民の生命と健康の保護を最大の行政目的に
据えている。日本の法律、制度、政策、行政組織は、生産者優先・消費者保護軽視の
体質を色濃く残し、消費者保護を重視する農場から食卓までのフードチェーン思考が
欠如している。また、情報伝達の混乱に伴う風評被害を警戒して、遅滞なく情報を公
開し透明性を確保する努力が不充分なケースも見うけられる。」
また、その後の対策として国産牛肉を買い上げる事業が行われたが、その際、食肉
卸業者が輸入牛肉を国産牛肉と偽り、補助金をだまし取るという事件も発覚した。こ
のことも、確認が甘く、業者寄りの行政であると批判された。
2009年には、消費者庁が発足した。消費者庁は、食品安全や製品事故などのほか取
引や商品の表示など、消費者保護に関する行政を一元的に所管する。消費者が、行政
の対象として明確に位置付けられた。
金融規制については、その後さらに進化している。すなわち、金融庁は「ベター・
レギュレーション」という言葉を使って、規制の質的向上を目指している。検査マニ
ュアルや監督指針を公表し、行政の対応を透明化し、予測可能性を向上させる。それ
によって、金融サービス業の国際競争力を強化し、金融機関の自己責任を重視し自助
努力を促すとしている。
これら具体的改革と併せ、一般的な制度改革も行われている。例えば、事前調整の
象徴であった「行政指導」については、
「行政手続法」(後述)において、任意である
こと、求められた場合は書面を交付しなければならないことが定められた。国から地
方自治体への「通達」については、第1次分権改革で、強制力のない助言となった。あ
- 47 -
年報 公共政策学
Vol. 5
わせて、国と地方自治体との間に争いがある場合に裁定するために、国地方係争処理
委員会が新設された。
また、2007年に施行された「裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律」
(ADR
法)も挙げておこう。これは、当事者間の紛争を、民事裁判に持ち込む前に、より簡
便に処理しようとする制度である。
2.4 ガバナンス改革
行政改革の第 3 は、国民による、行政組織の統治のあり方の見直しである。その 1 は、
国民による監視と参加であり、その 2 は、選ばれた政治家による統治である。いずれ
も、官僚による行政の独占を改めようとする。よって、公務員制度の改革にも及ぶ。
2.4.1 公開と参加
ガバナンス改革の 1 は、主権者である国民が行政を監視するため、国民に行政の過
程を公開するという試みである。
1993年に「行政手続法」が制定された。これは、統一的な行政手続きを定めた一般
法である。行政手続きを透明に、かつ適正にすることで、行政の結果を適正にしよう
とするものである。
1997年には、地方自治体に外部監査制度が導入された。これは、自治体で不正な公
金支出が相次いで明らかになり、監査委員制度だけでは不十分だとの指摘を受けた改
正である。
「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」(情報公開法)が、1999年に成立し
た。これは、国の行政機関が保有する情報の公開を求めるための、手続を定めたもの
である。その名の通り、国民に行政機関の文書などを公開させるためのものである。
この動きは、地方自治体から始まり、国より先に各地で情報公開条例が制定された。
さらに、2009年には、「公文書等の管理に関する法律」(公文書管理法)が成立した。
これは、年金記録問題などずさんな公文書の管理が明らかとなったことなどがきっか
けとなり、法制化された。公文書を、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資
源と位置づけ、主権者である国民が主体的に利用し得ることを担保すると定めている。
2001年には、
「行政機関が行う政策の評価に関する法律」
(政策評価法)が成立した。
政策評価制度は、各府省が自らその政策の効果を分析して評価を行い、その結果を次
の企画や実施に役立てようとするものである。とかく予算獲得や法律制定に力を入れ、
その成果を評価することがなおざりになっているとの批判を受けたものである。
また、国民自らが、行政の意思決定過程に参加するという改革もある。1999年には、
パブリック・コメント(Public Comment、意見公募手続)が導入された。これは、規
制を設定しようとする際などに、事前にその案を示し、広く国民から意見を募集する
ものである。当初は閣議決定で定められたが、2005年には行政手続法に加えられた。
- 48 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
2004年に行われた行政事件訴訟法改正は、行政機関を相手とする訴訟を利用しやす
く、わかりやすくするものである。国民の救済範囲を拡大する目的もある。
2009年から始まった裁判員制度は、これまで裁判官が独占していた刑事裁判に、国
民が参加するものである。専門の公務員にすべてを委ねるのでなく、国民が参加する
ことで、司法をより身近なものにしようとする。
2.4.2 政治主導
ガバナンス改革の 2 は、国民の負託を受けた内閣が、行政機構を統制しようという
ものである。
2001年に行われた省庁改革は、内閣機能の強化を主たる目的としていた。内閣官房
の強化、内閣府の設置などが行われた。内閣官房と内閣府による総合調整が目指され
たが、これも官僚制に内在する組織の縦割りという弊害をなくすためである。省庁改
革の際につくられた「経済財政諮問会議」は、総理を議長とし、
「内閣の重要政策に関
して行政各部の政策の統一を図るために必要となる企画及び立案並びに総合調整に資
するため」のものである。小泉政権がさまざまな改革を進めるに当たって、大きな機
能を発揮した。
その際あわせて、
「国会審議の活性化及び政治主導の政策決定システムの確立に関す
る法律」によって、副大臣・大臣政務官の導入、国家基本政策委員会(党首討論)の
設置、政府委員制度(官僚が国会の委員会で議員の質問に答える制度)の廃止が行わ
れた。
もちろん、政治主導は、制度を改革すれば進むというものではなく、日々の運用に
よるものである。
2.4.3 国家公務員制度改革
官僚による行政の独占を改善しようとする試みとして、2000年に成立した「国と民
間企業との間の人事交流に関する法律」
(官民交流法)も上げておこう。この法律は、
国家公務員を民間企業に交流派遣し、民間人を国家公務員として交流採用しようとす
るものである。本来の目的は、業務の効率化であるが、閉鎖的と批判されてきた官僚
組織を改善しようとの試みでもある。
公務員の早期退職と再就職斡旋(いわゆる天下り)の是正も取り組まれている。た
だし、公務員制度改革は、なお道なかばにある。
3. 行政改革の進化と停滞
次に、これまでに見た行政改革を、簡単に評価しよう。すなわち、これらが戦後の
行革の流れの中で、どのように位置づけられるのか。また、どのような点が進み、ど
のような点が残されているのかである。
- 49 -
年報 公共政策学
Vol. 5
3.1 行政改革の歴史~スリム化からあり方の見直しへ
歴史をさかのぼって、戦後の行政改革の歴史を概括しよう。戦後改革以降の行政改
革は、大きく 3 つの時期に分けることができる 3)。
3.1.1 第 1 期:1960年代、組織人員の膨張抑制と総量規制の時代
国の組織と人員は、高度経済成長を背景に、昭和30年代と40年代に大きく膨張した。
1961年(昭和36年)には、臨時行政調査会(第 1 次)が設置された。1964年(昭和39
年)に出された答申は、内閣機能の改革、中央省庁改革、国と地方の事務再配分、公
務員改革などからなっていた。しかし、これらはほとんど実行されず、後の改革に引
き継がれた。このうち実行されたのが、部局の整理と新設抑制、公務員の定員管理で
ある。すなわち、官房と局については各省で 1 局ずつ削減され、国家公務員数につい
ては定員削減計画が閣議決定され、総定員法が成立した。
第 1 次臨調は多くのものを目指したが、実行されたものを見ると、この時代の行政
改革は「組織や人員の膨張抑制と総量規制」であった。
3.1.2 第 2 期:1980年代、小さな政府を目指した時代
1973年(昭和48年)に起きた第 1 次石油危機のあと、日本の経済成長は大幅に低下
した。国と地方自治体は、歳入にあっては大幅な税収不足で、歳出にあっては積極的
な景気対策を行うことによって、大幅な財政赤字に苦しむことになった。そのため、
大平正芳内閣は一般消費税の導入を計画したが、世論の反対に遭い、
「増税なき財政再
建」の途を歩むことになった。
1981(昭和56年)には、臨時行政調査会(第 2 次)が設置された。そこでは、財政
再建の見地から、歳出削減、行政機構の簡素化、行政の減量化に重点が置かれた。そ
の結果、国鉄、電信電話、たばこの3公社が、民営化された。予算については、要求段
階でのマイナス・シーリングが導入された(ただし一般会計のみ)
。しかしこの時も、
内閣機能の強化、中央省庁の再編、規制緩和、地方分権といった項目は、不十分に終
わった。
この時期の改革は、
「小さな政府を目指した時代」と位置づけられる。第 1 期は組織
や人員の総量規制にとどまったが、第2期は削減にまで踏み込んだ。当時の改革は、サ
ッチャー改革やレーガン改革に代表される、西欧諸国の「小さな政府」
「自由主義的改
革」と、歩調を合わせている。
3.1.3 第 3 期:1990年代から、行政のあり方見直しの時代
行政改革の第 3 期は、バブル崩壊後から現在にまで続く改革である。2 で対象とし
3)
拙稿「行政構造改革」第1章第1節、『地方財務』(2007年9月号、ぎょうせい)参照。
- 50 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
た範囲である。それは、スリム化や効率化にとどまらず、行政のあり方改革にまで広
がった。第 3 期の改革は、これまでの行政の仕組みが行き詰まっている、それととも
に社会のあり方が行き詰まっているという認識に立っている 4)。
もっとも、第 1 期と第 2 期の改革が、主に臨時行政調査会によって進められ、全体
像がはっきりしていたことに比べ、第 3 期は改革全体を統轄する組織はなかった。例
えば組織定員削減、規制改革、地方分権は、それぞれの担当組織があり、名称は変わ
ったがそれらの組織が引き続き改革を担った。さらに、
「事前調整から事後監視へ」
「公
開と参加」「政治主導」の改革は、明確に系統だって進められたわけではない 5)。
3.2 改革の進化-外延と内包
次に、近年の改革について、進んだ点を見よう。それは、対象と目的の広がりとい
う「外への拡大」と、改革手法の改善という「内への深化」である。
3.2.1 対象と目的の拡大-行政改革から構造改革へ
近年の行政改革は、行政組織と活動量の膨張抑制・削減から、行政活動のあり方の
見直しや行政活動の監視へと、対象と目的を広げている。行政のスリム化から、あり
方への拡大である。さらに視野を広げると、これら行政改革は、いわゆる「構造改革」
の一部に位置づけられる 6)。すなわち、日本を再び活性化するためには、行政にとど
まらず、日本社会を改革しなければならないという認識である。
構造改革は定義された言葉ではないが、日本の社会構造の改革を目指すものと理解
しよう。橋本龍太郎内閣は 6 大改革を掲げ、小泉純一郎内閣は構造改革を内閣の第1
の課題とし、多くの改革に取り組んだ 7)。
近年取り組まれた構造改革の項目を、整理してみよう(図 1 構造改革の体系)
。まず、
行政改革と対をなすのが、政治改革である。その一つは、政治主導を目指す改革であり、
内閣にあっては内閣機能の強化、副大臣・大臣政務官の新設であり、国会にあっては党
4)
中央省庁改革を提言した「行政改革会議最終報告」(1997年)、「Ⅰ行政改革の理念と目標」
が、「この国のかたち」という言葉を使って良くまとめている。
5) もちろん第 3 期に様々な改革が含まれているのは、筆者が行政改革と考える範囲を広く取
り上げたからである。
6) 拙稿「行政構造改革」第1章第1節、『地方財務』(2007年9月号、ぎょうせい)参照。
7) 橋本内閣の 6 大改革は、行政改革、財政構造改革、経済構造改革、金融システム改革、社
会保障構造改革、教育改革の6つである。小泉内閣の退陣直前に取りまとめられたパンフレ
ット『ここまで進んだ小泉改革』
(2006年8月改訂版)では、次のような項目が並んでいる。
公的部門改革(行財政改革、規制改革、税制改革、国と地方)、地域の活性化(構造改革特
区、地域再生、都市再生、観光立国)、産業・金融(産業競争力強化、金融活性化、起業応
援、グローバル化、物流サービス向上、農業改革)
、知識・技術(科学技術創造立国、IT化、
大学改革、知的財産)、暮らしと雇用(社会保障制度改革、再チャレンジ支援策、少子高齢
化対策・仕事支援、防災対策、治安の回復、司法制度改革、食の安全、環境)。
- 51 -
年報 公共政策学
Vol. 5
図1.構造改革の体系
首討論の創設、政府委員制度の廃止である。政治改革のもう一つは、選挙制度改革であ
る。政策本位の選挙とするため、衆議院の中選挙区制を、小選挙区比例代表並立制に変
更した。併せて、政治資金制度改革が行われ、政党交付金が創設された。
これら、政治と行政の改革と対をなすのが、社会経済システムの改革である。まず、
税財政の改革がある。財政構造改革(財政再建)、税制改革、社会保障制度改革である。
さらに、社会システムの改革として、行政改革で述べた地方分権改革、規制改革、市
場活性化、事前調整から事後監視へといった社会の改革につながるものや、司法制度
改革、教育改革、金融制度改革などがある。
- 52 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
3.2.2 改革手法の深化
近年の行政改革は、それぞれの分野の中で改革の深掘りが行われ、また手法も進化
した。内なる進化である。
まず、定数の削減にあっては、従来の各組織共通にシーリングをかけその範囲でメ
リハリをつける手法から、公務員の配置転換にまで踏み込んだ。予算の削減にあって
は、一般会計だけを対象としたマイナス・シーリングから、さらに特別会計や財政投
融資の改革にまで踏み込んだ。そして挫折はしたが、財政構造改革法をつくった。
組織のスリム化については、民営化を進めたほか、独立行政法人制度をつくり、民
営化にはなじまない業務と組織を切り出した。また、民間委託にあっては、PFI 制度
や指定管理者制度を導入した。
さらに特徴的なことは、改革の仕組みの設定である。霞ヶ関だけで議論するのでは
なく、外部の力を利用するのである。すなわち、地方自治体の意見を活用する構造改
革特区制度、民間と競わせる市場化テスト(官民競争入札)の手法である。行政改革
には、抵抗がつきものである。それを排除するために、改革の場として「経済財政諮
問会議」が活用されたことも挙げておこう。
3.3 進んだ改革と進まなかった改革-過程からの教訓
次に、進まなかった点を見よう。2 では、一定の成果を得た改革を列挙した。しか
し、取り組むと明言されたが、あるいは取り組まれたが、達成されていない改革も多
い。例えば、財政再建、税制改革、教育改革、農業改革は達成されていないし、地方
分権改革もその後の大きな進展はない。進んだ改革と進まなかった改革の過程を見る
ことで、どこに問題があるのかを見ておこう。
大きな行政改革は、通常、次のような過程を経る。まず、あるテーマが取り組むべ
き課題として設定され、政治日程に乗せられる。次に、具体案を作成し、政府案とす
る。最後に、与党の賛成を得て、必要であれば国会の承認を得る。当然、大きな行政
改革は、総理の判断によって、これらが進む。
改革が進まないのは、いずれかの段階で、抵抗勢力に負けるからである。参加者全
員が利益を受ける改革はなく、改革は必ずいずれかの既得権の剥奪、または誰かへの
負担の配分となる。すると、既得権を失う勢力や、負担が増える集団からの抵抗が避
けられない。それぞれの局面において、関係団体と政治家(族議員)、官僚(所管省庁)
の抵抗に遭う。それを押し切ることができるかどうかは、総理の力と進め方による。
3.3.1 課題の設定
改革は、内閣が政治課題として取り上げることで、着手される。取り組まなければ
ならない改革課題は、すでに、研究者、マスコミ、政治家、官僚から提示されている。
そのうち、どれを内閣の重要課題とするのか、そしてどのような政治日程に乗せるか
- 53 -
年報 公共政策学
Vol. 5
が、総理の判断になる。増税や農業改革は、政治日程に乗せることが先送りされるこ
とで、成就していない。
3.3.2 具体案の作成
具体案の作成に当たって必要なのは、設定した課題について、総理が方向性を示す
ことである。方向を示さず党内議論や審議会に審議を委ねては、内容ある結論は期待
できない。改革の具体的設計は、専門家の知見と官僚の作業によって行うとしても、
方向性は総理が示さなければならない。それによって、出口である具体案の骨子を縛
っておくことが、重要である 8)。
次に、具体案作成過程で、抵抗を排除する必要がある。具体設計をする場の多くは、
審議会と事務局である。その人選が重要になる。各省に設置されている審議会は、関
係者によるものであり、自らの業務の拡大や利益拡大を提言することはあっても、既
得権を大きく削減したり、自ら負担を増やす提言は期待できない。
負担の配分をできるのは、総理しかない。外部有識者からなる審議会や事務局を務
める官僚に正統性はなく、期待することはできない。それに成功したのが、経済財政
諮問会議であった。負担と受益の全体を、一つのテーブルで議論する。改革には負担
が伴うこと、そして誰かが引き受けなければならないことを示す。それによって、関
係者と国民に、負担の増を納得してもらうのである。また、その決定過程を国民に見
せることで、各大臣や与党の反対を封じ込めたのであった。審議会が、総理や大臣か
らの諮問に答える第 3 者機関であるのに対し、経済財政諮問会議は、総理が議長を務
め、総理が判断を下す場である。
3.3.3 与党からの抵抗を押し切る
審議会などの報告書を政府案とし、与党の賛成を得ることが、もっとも難しい。改
革の決定過程において、反対勢力は野党ではない。与党である。衆議院において、与
党は過半数を持っている。与党の賛成があれば、衆議院は通る。参議院においても過
半数を持っておれば、与党決定はほぼそのまま成立する。参議院は時には、与党が少
数というねじれ状態にあり、その場合は野党との協議によって、通過させる努力が必
要となる。抵抗する野党があれば、
「抵抗勢力」とのレッテルを貼り、改革を求める世
論を味方につけ、押し切ることも必要となる 9)
各省が抵抗し、大臣が反対することもある。しかし、大臣の任免権は総理にあり、
8)
9)
審議会を法律設置にするのか政令設置にするのか、その報告について政府に尊重義務を課
するかどうかの違いはあるが、その後の抵抗を排除する過程を考えれば、決定的な差異は
ない。
小泉総理は、郵政改革法案が参議院で否決された際、衆議院を解散することで、民意を問
うということを行った。
- 54 -
行政改革の現在位置~その進化と課題
場合によっては大臣を罷免することで、総理の意思は貫徹できる。与党内の抵抗を押
し切ることができるかどうかは、総理の党内での統率力、マスコミや世論の支持、そ
してそれらを導く総理の手順や演出力による。
3.4 課題
残された課題を、述べておこう。この20年間に、多くの改革が進んだ。しかし、ま
だ残された改革も多い。そして、行政改革にとどまらず、
「この国のかたちの改革」
(注
4 参照)となる構造改革に取り組む必要がある。
もう一つの課題は、行政改革の統合である。2 で見たように、いくつもの改革がそ
れぞれの場で行われている。しかし、多くの改革を実行するためには、全体を視野に
入れた取組みが必要である。それを国民に提示することで、国民の理解を得、個別の
改革を後押しすることができる。個別の戦術とともに、全体の戦略が必要である。
一部の利害関係者は、改革に反対している。しかし、多くの国民は、改革が避けて
通れないことを理解している。ただし、改革の全体像と各改革を進める工程が見えな
いことが、改革への国民の支持をもたらしていない。
それには、全体を通じた思想が必要である。併せて、各種の改革を統合する場が必
要である。それは全体像を明らかにし、思想として統一がとれたものとするとともに、
先に述べたように受益と負担を統合するためである。そしてそれは、総理が主宰しな
ければならない。その際には、与党を組み込むことも重要である。経済財政諮問会議
は、一時その機能を担った。ただし、与党の組み込みはなかった。
- 55 -
年報 公共政策学
Vol. 5
Current State of Administrative Reform
-The Progress and Further Problems-
OKAMOTO Masakatsu
Abstract
This paper examines characteristics of Japanese administrative reforms since the 1990s.
These reforms can be classified into three main subgroups. They include downsizing,
redefinition of government role, and strengthening internal control. The recent emergence of
the latter two types demonstrates that the goal of Japanese administrative reform has expanded
to include changes to the function of the government. This enlarged scope of reforms reflects
changes to the structure of Japanese society since the completion of “catch up” with advanced
economies.
Keywords
administrative reform, structural reform, deregulation, political leadership, the role of
government
- 56 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
佐野
修久
1. はじめに
PFI(Private Finance Initiative)とは、民間主体に公共施設等の設計・建設・管理運
営・資金調達を一体的に委ねることにより、民間主体のノウハウ・技術・経営能力・
資金等を活用し、少ない財政負担で質の高い公共サービスを実現すること(=VFM の
実現)を目指す手法である。
わが国においては、学校(小学校・中学校・高等学校・大学等)、庁舎、公務員宿舎
など、施設の整備と維持管理等を民間主体に委ねる「ハコモノ PFI」を中心に導入が
進んできたが、病院の整備・管理運営等に PFI を活用する「病院 PFI」は、施設の整
備・維持管理にとどまらず、検体検査、減菌消毒、食事提供、患者等の搬送、医療機
器等の保守点検、洗濯、清掃、医療事務など多岐にわたる運営業務を幅広く民間主体
に委ねる「運営重視型 PFI」の代表的存在であり、専門性をもつ多様な主体が携わり
つつ、民間主体のノウハウ・技術・経営能力等を存分に発揮することのできるものと
して、注目を集めてきた。
地方自治体(地方独立行政法人を含む)の実施する病院 PFI は、これまでに14件の
実施方針が策定・公表され 1)、このうち 5 件の供用が開始されている。しかしながら、
最も早い段階で実施方針を策定・公表し本格的な病院 PFI 事業に取り組んだ、高知県・
高知市病院組合の「高知医療センター整備運営事業」
、近江八幡市の「近江八幡市民病
院整備運営事業」の 2 事業は、いずれも契約期間の満了を待たずして PFI 事業契約が
解除され、自治体による直営事業への転換を余儀なくされている。
こうした状況に対し、マスコミや一部の書籍等の中には、病院事業に PFI を導入し
たことに失敗の要因を求める論調がある。本研究では、事業契約が解除された二つの
病院 PFI 事業の経緯・実態等を検証し、契約の解除に至った本質的な要因、すなわち
上記論調どおり病院事業に PFI を導入したこと自体に問題があったのか、PFI の導入
の仕方に問題があったのか、PFI 導入以前の問題として病院の整備計画等に問題があ
ったのか等について明らかにし、このことを通じ、病院事業に対する PFI 導入の課題
と課題解決に向けた基本方向について考察することを目的とする。

1)
香川大学大学院地域マネジメント研究科教授
E-mail:[email protected]
病院 PFI 事業としては、このほかに国立大学法人筑波大学における 1 事業がある。
- 57 -
年報 公共政策学
Vol. 5
2. 病院 PFI 事業の特徴
病院事業においては、医療法等の制約から、営利法人が診療業務を担うことはでき
ないとされており、PFI を導入する際にも、PFI が設計・建設・管理運営・資金調達を
一体的に民間主体に委ねる手法でありながら、管理運営のコアとなる診療業務を対象
範囲に含めることができないものとなっている。このため、コア業務たる診療業務を
担うのは行政(病院)となり、PFI 事業を担う民間主体(SPC)は、①医療法施行令で
定められた 8 業務、②医療事務、物品・物流管理など、その他医療関連業務、③医療
機器や医薬品・診断材料等の調達業務等、④維持管理・その他業務といった診療業務
周辺のノンコア業務を対象とすることになる(図 1)。このように、コア業務とノンコ
ア業務を担う主体が分離していることが、病院 PFI 最大の特徴の一つであり、病院 PFI
を円滑に進めるに当たっては、行政と SPC が密接に連携し病院サービスの提供に取り
組むことが重要なポイントとなる。
さて、PFI においては、行政と SPC との間で PFI 事業契約を締結し、行政がガバナ
ンスを確保 2)した上で SPC に公共施設等の整備・管理運営等を委ねる形をとるため、
ガバナンス機能を発揮する行政と SPC の二者間の関係になるのが一般的である。一方、
図1.病院事業と PFI の対象可能業務
(出典)著者作成
(注)PFI の対象とすることが可能な業務には色を付した。
2)
行政による民間主体(SPC)に対するガバナンスの確保は、後述するとおり、
「条件設定(メ
ッセージ)-モニタリング-ペナルティ」のメカニズムを活用する。
- 58 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
図2.病院 PFI の特徴
(出典)著者作成
病院 PFI では、診療業務を行政(病院)が担うため、行政サイドにはガバナンス機能
を担う管理部門と診療業務を担う医療現場という二部門が併存することになり 3)、こ
れらと SPC による三者間の円滑な連携が求められることになる(図 2)。
また、病院 PFI は、 SPC に高度で広範な業務が委ねられるため、高い専門性を有す
る多種多様な民間主体の参加・協力が必要となり(図 2)、SPC がこれら協力企業(委
託企業)を的確にマネジメントしていくことも要請される。
このように、病院 PFI では、行政(管理部門、病院)
、SPC、SPC から委託を受ける
多数の協力企業など多様な主体が参加することになり、これら関係者の高度で円滑な
連携が求められる。
3. 近江八幡市「近江八幡市民病院整備運営事業」
3.1 事業の概要
3.1.1 事業の背景・目的
旧近江八幡市民病院は、近江八幡市(以下、本章で市という)の総合医療機関とし
て、また東近江保健医療圏の中核病院として重要な役割を担ってきたが、施設の老朽
化・狭隘化が進み、その移転新築が求められていた。一方、移転新築に必要な財源、
特に国からの補助金と起債による調達以外の市単独負担分(30億円程度)を確保する
3)
この行政内部における管理部門と病院(医療現場)との連携が、必ずしも円滑に進んでい
ないことに留意する必要がある。
- 59 -
年報 公共政策学
Vol. 5
目処がたたず、移転新築に踏み出せない状況にあった。
こうした中、新しい公共施設等の整備手法として PFI が注目され始めたことを受け、
その導入について検討を行ったところ、民間主体に資金調達を含め病院施設の整備・
管理運営等を委ねることで、整備資金の調達と財政負担の平準化が可能になるととも
に、民間主体のノウハウ・技術・経営能力等の活用により、少ない財政負担で質の高
い病院サービスを提供できることが明らかになったため、PFI を活用して市民病院の
移転新築を行うことにしたものである。
3.1.2 当該事業の内容
当該事業は、㈱大林組を代表企業とするグループ(SPC として PFI 近江八幡㈱を設
立)が担うことになり、建設費128億円を投じ、延32.9千㎡、病床数407床を擁する病
院として近江八幡市立総合医療センターを整備している。当病院は、近江八幡市のみ
ならず、東近江保健医療圏(同市を含む 2 市 3 町より構成)の中核病院、他の保険医
療圏もカバーする救急医療や小児医療の拠点病院、また災害拠点病院、臨床研修病院、
地域周産期母子医療センター等の機能も併せ持つ病院として、滋賀県の医療体制の中
で重要な位置付けを占めるものとなっている(表 1)。
当該 PFI 事業においては、SPC である PFI 近江八幡(株)が、設計・建設・資金調
達に加え、管理運営のうちノンコア業務である①政令 8 業務(医療機器の保守点検に
ついては大型機器の一部のみ)
、②それ以外の医療関連事務、③調達業務等(大型医療
機器の一部の調達、医療情報システムの開発・整備・運用)
、④維持管理・その他業務
を担うこととしている(表 2)。一方、行政(病院)は、前記のとおり診療業務を担い、
あわせて、ノンコア業務のうち医療機器(大型機器の一部を除く)の調達・保守点検、
医薬品・診断材料の調達も担う分担となっている。
表1.近江八幡市
病院施設の概要
1.名称
近江八幡市立総合医療センター
2.所在
滋賀県近江八幡市土田町
3.施設規模・内容 土地:56千㎡
建物:延32.9千㎡
病床数:407床(一般403床、感染症 4 床)
診療科目(医療法に定める標榜診療科):17科目
4.総事業費
5.供用開始
676億円
[建設費:128億円、医療機器・備品等購入費:18億円、
管理運営費(支払利息を含む):530億円]
2006年10月
[実施方針:2001/5、特定事業の選定:2001/6、
入札公告:2001/11、事業者選定:2002/9、契約締結:2003/11]
(出典)近江八幡市資料をもとに著者作成(表 2 に同じ)
- 60 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
表2.近江八幡市
病院 PFI 事業の概要
1.事業方式
2.事業タイプ
BOT
サービス購入型
(利便施設運営・その他サービス業務:独立採算型)
3.期間
33年(建設:3 年、管理運営:30年)
4.事業内容
○設計
(SPC担当業務) ○建設
○管理運営
●医療関連業務【政令8業務】:検体検査、減菌消毒、食事提供、
患者等搬送、医療機器保守点検(一部大型機器のみ)、
医療用ガス保守点検、洗濯、清掃
●その他医療関連業務:医療事務、物品・物流管理、看護補助等
●調達業務等:医療機器調達(一部大型機器のみ)、
医療情報システムの開発・整備・運用
●維持管理・その他業務:建物・設備・備品等保守管理、清掃(敷地内等)、
警備、植栽管理、利便施設運営(売店・レストラン等)など
○資金調達
○その他:看護婦宿舎の設計・建設・維持管理・資金調達
5.事業者選定方法 公募プロポーザル
[資格審査→提案審査(確認審査→実質審査)]
*実質審査は加点方式(質:価格=5:5)
6.事業者
PFI 近江八幡㈱(㈱大林組を代表企業とするコンソーシアム)
7.VFM
特定事業選定時:8~11%、事業者選定時:14.4%
3.1.3 契約解除
こうして2006年10月に開院に至る一方、供用開始後の患者数は入院・外来ともに計
画を大きく下回り、2006、2007年度ともに大幅な赤字決算となり、資金不足を来たす
ことになった。こうした状況を踏まえ、市では外部委員を含む「近江八幡市立総合医
療センターのあり方検討委員会」
(以下、委員会という)を設置し検討を行ったところ、
市の普通会計と病院など公営事業会計を連結した実質赤字が多額にのぼり財政再生団
体に転落する恐れがあるとされ、PFI の見直しを含めた検討が求められることになっ
た(2008年 1 月)。
この提言をもとに市による検討、SPC との交渉がなされた結果、2009年 3 月に PFI 事
業契約の任意解除が成立することになり、開院後わずか2年半という短い期間で、当該
病院 PFI 事業は終了するに至っている。
3.2 行政等による当該 PFI 事業の評価
当該 PFI 事業については、上記委員会(2008)、院長である槙(2008)、市・近江八
幡市立総合医療センター(以下、センターという)
(2009)により、行政の視点にたっ
た評価がなされている。これら三者による主な指摘を整理すると以下のとおりである。
- 61 -
年報 公共政策学
Vol. 5
(1) 事業計画の甘さ
総事業費が大枠で決まり、その帳尻を合わせるために作成されたという印象を拭
いきれない事業計画であり、こうした甘く杜撰な計画のもとで事業が進められた結
果、予定した収入を確保し得ず、資金不足が急速に進んだこと 4)。その背景として、
多額の赤字が発生する危険性を多少なりは意識しつつも、一般会計や金融機関から
の調達により何とかなるのではないかという安易な認識があった可能性があること。
また、十分な検討を行ったとは言い難いまま、起債より金利の高い民間資金の活
用を容認し、その結果、金利負担が収支や資金繰りを圧迫していること。
(2) コア業務とノンコア業務の分離による弊害
ひとつ屋根の下に非営利性に基づきコア業務を担う行政(病院)と営利活動を前
提としながらノンコア業務を担う SPC という二つの異質な組織が混在することに
なり、その性質の違いからか両者間で円満な関係を築くことができず、コミュニケ
ーションも不足するなど、協働して病院の健全経営と医療の質向上を目指す状況に
なかったこと 5)。
また、行政(病院)が実際に医療関連業務等を担っている企業(=SPC からの委
託企業)に対し直接要望を伝えることができないなど、SPC の介在で指揮命令系統
が煩雑・非効率になり、リアルタイムでの進行や臨機応変な対応が阻害されたこと。
(3) SPC に対する支払い固定化による弊害
PFI 事業契約により総額(定額)契約が締結され、行政から SPC に対する支払金
額が事前に決まっていることで、
○病院事業全体としてみると変動費であるはずの経費の大部分が固定化してしま
うため、経営状況に応じた支出の抑制を図ることができず、却って経営の足枷に
なる
○ SPC にとってみれば一定の収入が保証されるため、病院と一蓮托生となって医
療の質と経営の質を追求しようというインセンティブが働かない
といった弊害が生じたこと。
(4) 長期契約による弊害
病院事業は、診療報酬の改定など短期的な変動が大きく、当初の要求性能が時代
に合わなくなることが多いため、30年を超える長期契約を結ぶ PFI とのミスマッチ
4)
資金不足に陥った他の要因として、①将来における大規模修繕費の平準化後の支払いにつ
いて、開院当初の資金繰りの厳しい時期に据置期間を設定しなかったこと、②もともと市
の一般会計からの繰入不足に伴い内部留保が不足していたこと、③事後的に、旧病院跡地
売却の先送り、三位一体改革に伴う補助金から起債への転換(→想定外の元利償還の発生)、
病院周辺整備事業の実施といった事象が発生したこと等についても指摘がなされている。
5) 委員会による評価では、SPC 側の「経営の主体はあくまでも病院側であり、(SPC 側では)
これまで病院の経営計画については検討したことがない」という発言を取り上げ、SPC に
病院経営の向上に向けた意識がなかったことを批判している。
- 62 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
が生じたこと 6)。
(5) モニタリングシステムの不備
モニタリング項目やペナルティによる減額の内容等が事前に確定しておらず、協
議も中断したままとなっているため、モニタリングシステムが機能せず、SPC のイ
ンセンティブを引き出せなかったこと 7)。
(6) リスクに対する認識の不足
行政(病院)サイドは、PFI においては SPC が総額契約に基づき包括的に業務を
担うことになるため、行政の追加的な財政負担はほとんど必要ないと認識するなど、
将来発生する支出・リスク負担に対する理解が不足していたこと。
3.3 契約解除を招いた当該 PFI 事業における課題の検証
これら評価の中には、経営計画の甘さ、モニタリングシステムの不備など、当を得
ている指摘がある一方、公表されている条件規定書等をみる限り事実として正しいと
は言い難いもの、PFI について十分な理解をしないまま評価をしているとみられるも
のも散見される。また、これらは行政サイドからの評価であり一面的なところもある。
本節では、上記の評価結果を踏まえつつ、第三者的な立場から、契約解除へとつな
がった当該 PFI 事業の課題について検証することにしたい。
3.3.1 PFI に対する正しい理解の不足と過大な期待
PFI は、民間主体のノウハウ・技術・経営能力・資金等を活用することにより、よ
り少ない財政負担で、行政の求める条件・水準以上の質を備えた公共施設等の整備・
管理運営等を実現するものである。
このため、PFI においては、行政が当該事業で求める条件・水準を官民対話を行い
つつ設定し、これをメッセージとして入札説明書、要求水準書、審査基準等により民
間主体に提示した上で、民間主体のノウハウ・技術・経営能力等を活かした提案を募
り、これら条件・水準をクリアし最も財政負担が少なく質の高い提案を行った民間主
体を選定することになる。当該民間主体と PFI 事業契約を締結した後は、設定した条
件・水準をクリアした提案・契約どおりに民間主体が設計・建設・管理運営等を行っ
ているかモニタリングを行い、実行されていない場合にはペナルティを課す形をとり、
こうした「条件設定(メッセージ)-モニタリング-ペナルティ」のメカニズムを通
6)
7)
なお、市・センターによる評価では、これらについて指摘しつつも、問題は、長期契約を
したことではなく、契約期間中に起こり得る変化の想定、変化した場合の対処・調整にか
かる検討が不足していたことであるという指摘も併記している。
一方、槙による評価では、行政によるモニタリングに関し、モニタリングやペナルティを
不要とする SPC との信頼関係がPFI法の理念であり委託の原点でなければならないと指摘
している。
- 63 -
年報 公共政策学
Vol. 5
じて行政によるガバナンスを発揮し、当該 PFI 事業をマネジメントしていくことに
なる。
病院 PFI においては、診療業務以外のノンコア業務を SPC が担うことになるため、
行政は、病院事業のコアとなる診療業務を担いつつ、PFI 事業の対象となるノンコア
業務に対するガバナンスを上記メカニズムを通じて発揮し、病院事業全体をマネジメ
ントしていくことが要請される。
したがって、委員会による評価で問題視された「経営の主体はあくまでも病院側で
あり、
(SPC 側では)これまで病院の経営計画については検討したことがない」という
SPC 側の発言は、PFI の基本的な考え方を示したものと捉えた方が適切である。また、
槙による「モニタリングやペナルティを不要とする SPC との信頼関係がPFI法の理念
であり委託の原点でなければならない」という指摘は、PFI における基本的考え方か
らみると妥当ではない 8)。加えて、槙や市・センターによる評価では、SPC が総額契
約に基づき包括的に業務を担うことになるため、行政の追加的な財政負担はほとんど
必要ないと考えていたという指摘もある。これらの指摘に鑑みれば、総じて、行政(病
院)サイドにおいては、PFI に関する十分な理解がなされていたとは言えず、PFI に対
し過大な期待感を有していたものと推察される。
こうした PFI に対する不十分な理解と過大な期待が、現実を前にして失望感・不信
感へと変質し、それが後述する民間主体との意思疎通・連携の齟齬に波及したほか、
制度設計の不備をも惹起するなど、契約解除を招く様々な課題を生み出す基根になっ
たものと考えられる。
3.3.2 官民間の理解・意思疎通の不足
病院 PFI では、コア業務とノンコア業務を担う主体が異なるため、管理部門の行政、
コア業務を担う行政(病院)、設計・建設・資金調達・ノンコア業務を担う SPC とい
う三者間の円滑な連携が必要とされる。
今次 PFI 事業の経過をみると、実施方針の公表や公募段階において、行政と応募す
る民間主体間による説明会の開催、数度にわたる質問や意見・提案の受付がなされる
など、一定の官民対話が行われている。一方、この段階で、提案内容を具体的に見据
えた踏み込んだ対話や、実際にコア業務を担う医療現場と民間主体との密接な対話ま
では実現しておらず、医療現場のニーズ等に十分に即した施設内容等の提案を行い得
る環境にあったとは言い難いものとなっている。
続く契約締結、設計・建設に至る段階では、質の高い医療を提供するという共通の
8)
行政と SPC 間の信頼関係は極めて重要であり、結果としてモニタリングやペナルティを不
要とするレベルの信頼関係に発展することを否定するものではない。
- 64 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
目的意識をもち三者が対話をしながら事業を進めている 9) ものの、病院が開院し本格
的な連携が求められる段階に入ってからは、前記評価における指摘のとおり、コミュ
ニケーションが不足し円満な関係を築くことができない状況に陥っている。これは、
○前記のとおり、特に行政側において PFI に関する十分な理解がなされておらず、
SPC に対する期待が過大であった分、その反動も大きかったとみられること
○SPC 側においては、代表企業が建設会社であり病院の運営面に長けていなかった
ことに加え、現場の体制に不十分な面もあったこと
○行政(管理部門)も、ノンコア部門を担う SPC に対するガバナンス機能の発揮に
加え、コア部門を担う医療現場を含めた病院事業全体のマネジメントが十分にで
きていなかったこと
等から、官民相互に不信感が生まれ、次第にそれが増長されていったことによるので
はないかと考えられる。
いずれにしても、高度で円滑な連携が求められる病院 PFI において、事前段階の密
接な官民対話が十分ではなく医療現場のニーズにマッチしきれていない施設内容等に
なったこと10)、管理運営段階に入り相互の理解や意思疎通に齟齬を来たし連携に問題
が生じたことが、契約解除に至った要因の一つとみることができよう。
3.3.3 制度設計の不備(行政によるガバナンスの不足)
当該事業においては、PFI に対する理解や官民間における対話・相互理解が不十分
であったことに加え、病院 PFI の特徴として、業務内容が広範で高度な専門性を要し、
関係者が多種多様で事業スキーム等が複雑になることもあって、行政が十分にガバナ
ンスを確保するための制度設計を構築し得ておらず、PFI が有効に機能していない面
がある。行政等による当該 PFI 事業の評価で指摘された、
○コア業務を担う行政(病院)とノンコア業務を担う SPC 間におけるコミュニケー
ションの不足
○行政(病院)から委託企業に対する要望の円滑な伝達の不足(指揮命令系統の非
効率性)、リアルタイムで臨機応変な対応の阻害
○SPC に対する支払いの固定化に伴う病院事業経営の硬直化と SPC におけるイン
センティブの欠如
○長期契約に伴う変動著しい環境への非適応
といった問題点も、この制度設計の不十分さによるところが大きい。
すなわち、PFI 事業では、前記のとおり、
「条件設定(メッセージ)-モニタリング
9) 近江八幡市立総合医療センター(2006)
10) 事業者選定後、事業契約を締結するまでの過程で、医療現場と事業主体間の対話が行われ、
その結果を反映させるべく修正が施されている。とはいえ、事前の対話とは異なり、現場
のニーズを反映した修正には自ずと限界があったとみられる。
- 65 -
年報 公共政策学
Vol. 5
-ペナルティ」というメカニズムを通じて、行政が民間主体(SPC)をガバナンスし
ていくことが求められているが、当該事業では、以下のとおり、このメカニズムが十
分に機能していない状況にある。
(1) 条件設定(メッセージ)
行政の求める条件(メッセージ)は、
「入札説明書(募集要項)
」、
「要求水準書」、
「審査基準」等で示されることになるが、当該事業の場合、例えば、行政等による
評価で指摘のあった「行政(病院)と SPC 間のコミュニケーションの確保」、「行
政から委託企業に対する要望の円滑な伝達とリアルタイムで臨機応変な対応」を図
ることについては、
「募集要項」
、
「要求水準書」等には何ら示されていない。一方、
「審査基準」
(全 8 項目)には、「事業実施体制」における審査のポイントの一つと
して、「選定事業者の担当する各種業務間の総合調整能力」、「PFI 導入対象業務と
対象外業務との連携・調整能力」が示されてこそいるものの、ここで審査される「能
力」の具体的な内容については要求水準書を含め示されていない。さらに、「審査
基準」において配点が事前に開示されていないため、基準(8 項目)間の重要度が
わからないなど、行政からのメッセージとしては不十分なものとなっている。なお、
「事業実施体制」は、審査後に開示された「審査基準」の配点で1000点満点中50点
しか付されておらず、当該事業における重要度は高くないと判断されても致し方な
い設定になっている。
また、「変動の激しい医療環境への対応」についても、起こり得る環境変化を想
定した上で、長期契約を結びつつ環境変化に応じ柔軟に業務を見直すことは一定程
度可能であるものの、このことを「募集要項」等で行政の求める条件(メッセージ)
として示すことは行われていない。
次に、行政等による評価で「病院事業経営の硬直化と SPC におけるインセンテ
ィブの欠如の原因として指摘された SPC に対する支払いが固定化していること」
については、施設の建設、調達等業務に対するサービス対価はアベイラビリティ・
フィとして固定化されている一方、運営に対するサービス対価は患者数等をもとに
変動させる仕組みが採用されており、当を得た指摘とは言えない。とはいえ、サー
ビス対価を変動させる基準や変動率等の妥当性については、当該病院事業における
柔軟な経営、SPC におけるインセンティブの促進につなげることができるよう検討
する余地はあったものと考えられる。
さらに、同じく行政等の評価で指摘のあった協働して「病院経営の向上を目指す」
ことは、前記のとおり、本来ノンコア業務を担う SPC の役割ではなく、病院事業
全体のマネジメントを担う行政の役割であるものの、行政が条件として設定するこ
とで SPC に一定の関与をさせることは可能である。しかしながら、当該事業で、
こうした条件設定は行われていない。
このように、当該事業においては、行政がガバナンスを発揮する前提となる条件
- 66 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
設定(メッセージ)が、
「入札説明書(募集要項)
」、
「要求水準書」、
「審査基準」等
で十分に示されているとは言えない状況にある。
(2) モニタリング、ペナルティ
前記のとおり、PFI 事業では、行政によるガバナンスを確保するため、行政の設定
した条件・水準をクリアした提案・契約に即して民間主体が実行しているかをモニタ
リングし、その水準に達していない場合にはペナルティを課すことが求められている。
当該事業においては、行政等による評価で指摘のあったとおり、モニタリング項
目やペナルティによる減額の内容等が事前に確定しておらず、その後の協議も中断
したままとなっている。また、ペナルティによる減額対象が、管理運営にかかるサ
ービス対価の範囲内とされ、施設の建設や調達等業務にかかるサービス対価には及
ばないため、ペナルティとしての効果は限定的になっている11)。
このように、当該事業では、条件設定に加えモニタリングシステムも十分に機能
しておらず、行政によるガバナンスが適切に発揮されていない状況であったと考え
られる。
3.3.4 事業計画の不備
当該事業が順調に進まなかったのは、行政等による評価で指摘されているとおり、
事業計画が不十分であったことも大きな要因としてあげられる。
今次病院施設の建設単価をみると、表 3 のとおり、1㎡当たり389千円、1 床当たり
31.4百万円であり、私的病院(平均:1㎡当たり236千円、1 床当たり14.3百万円)や
独立行政法人国立病院機構の定めた指針(1㎡当たり250~300千円)と比べれば高いと
はいえ、公立病院(1㎡当たり404~423千円、1 床当たり32百万円)としては平均的で
あり、これまで実施方針の公表された PFI 病院(1㎡当たり:361千円、1 床当たり33.4
百万円)と比べても、問題視するほど贅沢な施設内容とはなっていない。
一方、総額676億円、建設費だけでも128億円を投じた今次事業費は、近江八幡市の
財政規模(標準財政規模:137億円)や財政的な余裕度(経常一般財源等から経常経費
充当一般財源等を減じて試算した比較的自由に使える財源:31億円)に鑑みれば、他
の PFI 病院と比較しても明らかに過大である(表 3)。これは、近江八幡市のみならず
東近江保健医療圏の中核病院として、また他の保険医療圏もカバーする救急医療や小
児医療の拠点病院、滋賀県の医療体制の中でも重要な位置付けを占める病院として、
市単独で行うべき範囲を超えた過大な規模の機能・施設を求めたことによるところが
大きいと考えられる12)。こうした過大な設備投資は、償却・金利負担や借入金の返済
11) これでは、主に施設の建設資金に対し融資を行った金融機関の返済に影響を及ぼさないた
め、金融機関による当該事業に対するモニタリングが十全に機能しないものとなる。
12) 本来であれば、東近江保健医療圏等を構成する他の自治体や滋賀県など関連する自治体か
ら、一定の財政負担を得て当該事業を行うことが適当である。
- 67 -
年報 公共政策学
Vol. 5
表3.地方自治体における PFI 病院の建設単価と事業主体の財政状況
金額(億円)
事業主体
事業名
規模
延床面
総額 建設費
積
(㎡)
単価
病床数
1 床当たり延床面積
(床)
(㎡)
財政状態(億円)
1 ㎡当たり
1床当たり
建設費
建設費
(千円)
(百万円)
標準
経常収支
財政規模
比率
余裕
経常一般
財源等
県:2,726 県:88.8% 県:305
高知県・高知市病院組合
高知医療センター整備運営事業
2,132
337
67,000
632
106.0
503.0
53.3
近江八幡市
近江八幡市民病院整備運営事業
676
128
32,900
407
80.8
389.1
31.4
137
77.1%
31
八尾市立病院維持管理・運営事業
544
-
39,280
380
103.4
-
-
505
94.0%
30
89
-
16,131
242
66.7
-
-
2,489
86.8%
328
2,491
515
119,924
1,350
88.8
429.4
38.1
30,232
88.1%
3,982
1,862
228
72,821
801
90.9
313.1
28.5
33,762
85.3%
5,506
1,912
270
67,954
823
82.6
397.3
32.8
3,232
93.9%
198
1,024
272
82,803
640
129.4
328.5
42.5
3,801
96.6%
134
201
-
29,050
473
61.4
-
-
15,105
96.6%
455
735
190
69,813
897
77.8
272.2
21.2
39,117
84.5%
6,397
661
-
46,494
415
112.0
-
-
12,674
97.8%
251
-
21,500
548
39.2
-
-
3,542
97.0%
101
174
-
26,000
260
100.0
-
-
3,342
93.1%
226
164
98
37,888
500
75.8
258.7
19.6
998
96.5%
34
-
-
-
-
86.8
361.4
33.4
-
-
-
-
-
-
-
78.1
404.2
31.6
-
-
-
-
-
-
-
-
423
32.0
-
-
-
八尾市
島根県立こころの医療センター(仮称)
島根県
整備・運営事業
多摩広域基幹病院(仮称)及び
東京都
小児総合医療センター(仮称)整備等事業
がん・感染症医療センター(仮称)
東京都
整備運営事業
愛媛県
愛媛県立中央病院整備運営事業
神戸市
神戸市立中央市民病院
(H21/4:地方独立行政法人移行) 整備運営事業
地方独立行政法人
大阪府立病院機構
東京都
神奈川県
大阪府立精神医療センター
再編整備事業
精神医療センター(仮称)
整備運営事業
神奈川県立がんセンター
整備運営事業
京都市
京都市立病院整備運営事業
福岡市
福岡市新病院
(H22/4:地方独立行政法人移行) 整備運営事業
長崎市
長崎市新市立病院
整備運営事業
上記 PFI 事業単純平均
公立病院平均
市:732 市:88.3%
市:87
(出典)各事業の「金額」、
「規模」は各自治体の当該 PFI 関連資料、
「財政状態」は「決算カード」
(総務省)
(実施方針公表年度、なお福岡市と長崎市は公表時点の都合で公表前年度)、
「公立病院平均」の上段
は総務省「公立病院経営改善事例集」
、下段は㈱日本政策投資銀行「病院業界事情ハンドブック2010」
をもとに、著者作成。
(注)1.東京都(3事業)、愛媛県、長崎市については、事業費の内訳が公表されていないため、予定価格
として公表された総額に建設費が占める割合を求め、それを実際の事業費総額に乗じずることで、
建設費を試算した。
2.
「余裕経常一般財源等」は、経常収支比率をもとに、経常一般財源等から経常経費充当一般財源等
を減じた金額を算出した。
といった形で収支やキャッシュフローを圧迫し、赤字や資金不足に陥れることになる
が、
「総事業費が大枠で決まり、その帳尻を合わせるために作成されたという印象を拭
いきれない」とされた事業計画により糊塗され、事業が進められるに至っている。そ
の結果、案の定、資金不足を余儀なくされることとなり、上記財政のもとでは一般会
計からの繰入等で補填するには限界があるため、結局、病院事業の見直しに踏み込ま
ざるを得ない事態に陥っている。
また、病院 PFI は、コアとなる診療業務を対象としないため、病院事業全体の一部
分を構成するにとどまるものであり、当該 PFI 事業も、図 3 のとおり、金額ベースで
は全体の 4 分の 1 程度にすぎない13)。それにも拘らず、この PFI 事業にばかり注目が
13) 前記の行政等による評価では、SPC に対する支払の固定化など PFI 事業のあり方が特に問
- 68 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
図3.近江八幡市病院事業と PFI 事業の位置付け
(出典)近江八幡市立総合医療センター(2006)及び近江八幡市資料をもとに著者作成
集まることとなり、病院事業全体の事業計画の十分な検証が疎かにされてしまったこ
とも大きな問題である。
このように、当該事業の不振は、市の財政的な許容量を超えた過大な投資を、病院事
業全体の経営を見据えた検討が不十分なままに進めたこと、すなわち PFI の活用を検討
する以前の病院事業全体の事業計画に不備があったことが最大の要因といえよう。
3.3.5 その他
当該事業の経営悪化、契約解除を招いた要因としては、これらのほか、行政等によ
る評価でも指摘のあった、①資金調達方法や資金繰りの厳しい開院当初時におけるサ
ービス対価の支払い方法等にかかる検討の不足、②三位一体改革、病院周辺整備事業
の実施といった外部要因の変化に加え、開院後の市長交代に伴う政治リスクの顕在化
等もあげられる。
4. 高知県・高知市病院組合「高知医療センター整備運営事業」
4.1 事業の概要
4.1.1 事業の背景・目的
旧高知県立中央病院及び旧高知市立市民病院は、高知市を中心とする中央保健医療
圏のみならず高知県全域の医療を提供してきたが、共に施設が老朽化・狭隘化し、多
題視されているが、こうした構造にあることを踏まえれば、4 分の 3 を占めるコア部分を中
心とする病院事業全体のあり方について、十分に評価・検証される必要があったと考えら
れる。
- 69 -
年報 公共政策学
Vol. 5
様化・高度化する医療ニーズに十分に応えられない状況になるなど、病院を再整備す
る必要性が高まっていた。再整備に当たっては、高知県(以下、県という)と高知市
(以下、本章で市という)各々が単独で対応するより統合して整備を行った方が、スケ
ールメリットを得られ効率的に高度な医療を提供できることになるため、県と市によ
り一部事務組合「高知県・高知市病院組合」
(以下、組合という)を設立の上、県下の
基幹病院として新病院を整備することにしたものである。
病院整備に当たっては、PFI が新しい公共施設等の整備手法として全国的に注目さ
れ始める中、新病院の基本目標として掲げた「医療の質の向上」
、「患者さんサービス
の向上」、
「病院経営の効率化」を達成するために最も有効な手法であることから、そ
の導入を決めるに至っている。
4.1.2 当該事業の内容
当該事業は、オリックス㈱を代表企業とするグループが SPC として高知医療ピーエ
フアイ(株)を設立して担うことになり、延床面積67千㎡、病床数632床を擁する新病
院(高知医療センター)を建設費337億円を投じて整備している。当病院では、がんセ
ンター、循環器病センター、地域医療センター、救急救命センター、総合周産期母子
医療センターといった高度医療を柱に据え、一般の病院では対応できない分野を補完
する県の基幹病院として重要な位置付けを担うものとなっている(表 4)。
当該 PFI 事業においては、SPC である高知医療ピーエフアイ(株)が、建設・資金
調達に加え、管理運営のうちノンコア業務である①政令 8 業務すべて、②その他医療
関連業務、③医療機器や医薬品・診断材料の調達業務等(医療情報システムの開発・
整備・運用については、組合が別事業者を選定し、その後 PFI 事業に当該事業者が参
加)、④維持管理・その他業務を担う一方、行政(病院)が診療業務(コア業務)を担
表4.高知県・高知市病院組合
病院施設の概要
1.名称
高知医療センター
2.所在
高知県高知市池
3.施設規模・内容 土地:52千㎡
建物:延67千㎡
病床数:632床(一般574床、結核50床、感染症8床)
診療科目(医療法に定める標榜診療科):21科目
4.総事業費
5.供用開始
2,132億円
[建設費:337億円、医療機器・備品等購入費:151億円、
管理運営費(支払利息を含む):1,644億円]
2005年 3 月
[実施方針:2001/2、特定事業の選定:2001/9、
入札公告:2001/11、事業者選定:2002/8、契約締結:2002/12]
(出典)高知県・高知市病院組合資料をもとに著者作成(表 5 に同じ)
- 70 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
表5.高知県・高知市病院組合
病院 PFI 事業の概要
1.事業方式
2.事業タイプ
BTO(病院施設)、BOT(職員宿舎等)
サービス購入型
(一般サービス施設等の運営管理:独立採算型)
3.期間
30年
4.事業内容
○設計(VE提案のみ)
(SPC担当業務) ○建設
○管理運営
●医療関連業務【政令8業務】:検体検査、減菌消毒、食事提供、
患者等搬送、医療機器保守点検、医療用ガス保守点検、洗濯、清掃
●その他医療関連業務:医療事務、物品・物流管理、看護補助等
●調達業務等:医療機器調達、医薬品・診断材料調達、医療情報システム
の開発・整備・運用(別事業者を選定後、PFI 事業者に参画)
●維持管理・その他業務:建物・設備・備品等保守管理、環境衛生管理、
警備、利便施設運営(売店・食堂等)など
○資金調達(一部)
○その他:職員宿舎等の設計・建設・維持管理・資金調達
5.事業者選定方法 公募プロポーザル
[1次審査(資格要件・事業の基本的理解)
→2次審査(要件確認→質(上位2社選定)→価格)]
*2次審査(要件確認後)は2段階方式
6.事業者
高知医療ピーエフアイ㈱(オリックス㈱を代表企業とするコンソーシアム)
7.VFM
特定事業選定時:5%、事業者選定時:4.2%
うこととしている(近江八幡市のようにノンコア業務の一部も担うこととはしていな
い)
。他方、設計については、SPC に委ねず行政自らが担う(民間主体から VE 提案を
募集)ほか、資金調達についても、SPC による金融機関からの調達だけに依存せず、
起債によって調達した資金を SPC に支払う形も併存させることとし、金利負担の軽減
と金融機関によるモニタリング機能の活用という双方の利点を活かす形をとっている
(表 5)。
4.1.3 契約解除
開院後、医業収益は計画を上回る水準を確保した一方、材料費・経費・給与費など
医業費用が嵩み、2006年度以降、計画で想定した赤字を 4 億円ほど超える状況を余儀
なくされた。こうした状況を踏まえ、外部委員により構成される高知医療センター経
営改善推進委員会が設置され経営改善に向けた検討・中間提言がなされる一方、県議
会・市議会における経営改善を求める決議(2007年12月)、県知事と市長による SPC に
対する委託料等見直しにかかる協力要請(2009年 1 月)もなされるに至った。この間、
経営改善に向け、行政による検討、行政・SPC 間の協議及び両者による様々な取り組
みがなされたが、最終的に、SPC から契約解除の申し入れ(2009年 5 月)があり、2010
年 3 月に PFI 事業契約が解除されるに及んでいる。
- 71 -
年報 公共政策学
Vol. 5
4.2 行政等による当該 PFI 事業の評価
当該 PFI 事業に関し、上記委員会による中間提言や組合による評価結果は公表され
ていないが、院長である堀見(2009、2010)が、行政(病院)側の視点により、契約
解除を招いた当該事業の問題点を含めた評価を行っている。その主な指摘は以下のと
おりである。
(1) コア業務とノンコア業務の分離と SPC に対する支払い固定化による弊害
診療業務(コア業務)を担う行政(病院)とノンコア業務を担う SPC 間の連携
不足等により、電子カルテの入力がなされず医事業務の請求漏れが起こるなど、両
者の相互理解、円滑な連携が足りなかったこと14)。
また、コア業務とノンコア業務を担う主体が分離する中、行政から SPC に対す
る支払金額が固定化していることもあって、材料の調達や委託料の見直しには SPC
の協力が前提となり、病院全体の経営改善を行政(病院)独自の判断で行えないこ
と。その結果、「病院企業団が想定以上の赤字で、SPC の黒字が継続するという不
自然な」状態に陥っていること。
加えて、SPC に一定の収入が保証されるため、病院と一蓮托生になって病院全体
の利益のために取り組むインセンティブが働かないこと(前記、槙(2008)を引用
して指摘)。
(2) 長期契約による弊害
長期契約を締結することになるため、医療や経済環境の変化等に伴う新たな問題
に対し、柔軟な見直しができないこと。
(3) SPC のマネジメント能力の不足
SPC が、委託した協力企業に依存する体質にあり、これら企業の統括調整ができ
ていないこと。その結果、SPC から委託を受けた協力企業における業務の質の低さ
や無責任さも招いていること。加えて、SPC の職員が人事異動で交代し、長期契約
に伴う専門性の蓄積・発揮が実現されていないこと15)。
(4) 要求水準等の未達成
医業収益に対する材料費(薬剤費・診断材料費)の比率が30%を超え、契約で示
された水準(23.4%)を大幅に上回っていること。また、SPC に対するモニタリン
グ(毎月、900項目)を行った結果、契約時の提案水準に達していない業務があり、
開院後 3 年を経過しても改善されていないほか、当初の提案事項1,349件の26.5%
に相当する381件も未達成であること。
14) SPC サイドから「病院サイド、特に事務局は、SPC が提案する経営改善に耳を貸していた
だけない。このままでは高知医療センターの経営改善に対応できない」という発言があっ
たことも指摘されている。
15) あわせて、病院事務局の職員も県・市からの派遣で、人事異動により交代するため、事務
局側に専門性が蓄積されていないことも指摘している。
- 72 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
4.3 契約解除を招いた当該 PFI 事業における課題の検証
以下では、この堀見の評価結果を踏まえ、契約解除に至った当該 PFI 事業の課題に
ついて、第三者的な立場から検証することにしたい。
4.3.1 PFI に対する正しい理解の不足と過大な期待
病院 PFI においては、前記のとおり、行政が病院事業のコアとなる診療業務を担い
つつ、
「条件設定(メッセージ)-モニタリング-ペナルティ」のメカニズムを通じて
ノンコア業務に対するガバナンスも発揮し、病院事業全体をマネジメントしていくこ
とが求められる。一方、SPC は行政の設定した条件を遵守することを前提に、自らの
利益を求めて行動することが許容されている。こうした構造を踏まえれば、事業の性
格や役割分担如何の面があるとはいえ、堀見の指摘のように、事業全体が赤字で SPC
が黒字であるということが不自然と断じるのは適当ではない。
こうしたことを含め、行政サイドでは、PFI に対し正しい理解が不足しており、堀
見自身「SPC から『打ち出の小槌』のごとく何でも手に入るという甘い誤解もあった」
と指摘するように過大な期待があったとみられる。このような正しい理解の不足等が、
以下で指摘する多くの課題を生む要因になったと考えられる。
4.3.2 官民間の理解・意思疎通の不足
主に行政(病院)サイドにおける PFI に対する理解不足、過大な期待が叶わなかっ
た反動としての失望感に加え、
○SPC サイドにおいて、堀見の指摘にある①委託企業に対するマネジメントの不足、
②要求水準等を満たしていない項目の未改善、③契約にないことは応じられない
という硬直的な対応等があったこと
○行政(管理部門)
、SPC ともに人事異動により数年で担当者が交代するため、円滑
な意思疎通を行う関係が容易に構築し得ず、旁々、専門性も蓄積されないため医
療現場のニーズに十分に応えられなかったこと
○行政(管理部門)において、ノンコア部門を担う SPC に対するガバナンス、コア部
門を担う医療現場を含めた病院事業全体のマネジメントを十分に行い得なかったこと
等により、行政・SPC 各々において相手に対する不信感が増長され、それが相互理解
や意思疎通を図りつつ両者連携のもとで質の高い病院サービスを図ろうという積極的
な姿勢を失わせていくことにつながったと考えられる。
また、本 PFI 事業では、近江八幡市同様、実施方針の公表や公募段階において、行
政と応募する民間主体間による対話が一定程度行われている(説明会の開催、数度に
わたる質問や意見・提案の受付等)ものの、この段階で、提案内容を見据えた踏み込
んだ対話、実際にコア業務を担う医療現場と民間主体との密接な対話までは行われて
おらず、医療現場のニーズ等に十分にマッチした施設内容等の提案を実現できたか懸
- 73 -
年報 公共政策学
Vol. 5
念が残るものとなっている。
4.3.3 制度設計の不備
こうした PFI に対する理解の不足、官民間の対話・理解の不足に、病院 PFI の複雑
性等が相俟って、当該事業においても、PFI を有効に機能させるための制度設計(行
政によるガバナンスの確保、官民の適切な役割分担)が十分になされていない状況に
ある。これが、堀井の指摘する当該 PFI 事業の課題、すなわち、行政(病院)と SPC 間
の相互理解・円滑な連携の不足、SPC に対する支払いの固定化に伴う病院経営の硬直
化と SPC のインセンティブ欠如、長期契約に伴う変動著しい環境への非適応、SPC の
マネジメント能力の不足、及び要求水準等の未達成等を誘発し、契約解除を招く要因
にもなったと考えられよう。
(1) 行政によるガバナンスの不足
① 条件設定(メッセージ)
行政の求める条件(メッセージ)は、前記のとおり、
「入札説明書(募集要項)」
、
「要求水準書」
、「審査基準」等で示されることになる。ここで、堀井が課題として
指摘した点に関する条件設定についてみてみると、
「行政(病院)と SPC 間の相互
理解・円滑な連携」については、「要求水準書」の総則で「協働によるパートナー
シップの確立」を謳っているものの、請求漏れの問題が生じた「医療事務業務」な
ど個別業務の要求水準では十分な条件設定がなされていないところがある。また、
「審査基準」においても、
「事業計画」の審査項目「病院全体の経営に関する提案」
の中で「協働経営の考え方」が評価項目として記されているものの、その配点は、
1000点満点中80点の一部にすぎない。
「SPC のマネジメント能力」についても、
「要求水準書」の総則で適切な管理運営
を図るための留意事項として「業務全般のマネジメントを行うこと」、
「部門間の連
携を十分に行うこと」が謳われているだけで、個別業務の要求水準における条件設
定は特段なされておらず、
「審査基準」においても、このことを含む「業務実施体制」
の配点は70点にとどまるレベルにある。このように、上記「官民間の相互理解・円滑
な連携」ともども、これらを重視する条件設定としては不十分なものとなっている。
また、当該事業の二次審査における事業者選定方式は二段階方式、すなわち、先
ず提案内容の質で審査して上位 2 グループを抽出し、このうち価格(=行政の支払
うサービス対価)の低いグループを選定するという方式を採用している。この方式
は、提案内容の質が高くとも最終的には価格で判断されることから、一般に提案内
容の質より価格を重視する方式と認識されており16)、こうしたメッセージを提案側
に与えてしまった恐れもある。
16) 実際に当該事業では、提案内容の質で 2 番手だったグループが価格で逆転して選定されている。
- 74 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
さらに、「変動の激しい医療環境への対応」についても、起こり得る環境変化を
想定した上で、「募集要項」等において、長期契約を結びつつ環境変化に応じ柔軟
に業務を見直すことを条件設定し、民間主体から提案を求めることは行っていない。
次に、
「病院経営の硬直化と SPC におけるインセンティブの欠如の原因として指
摘された SPC に対する支払いの固定化」については、施設の建設、調達等業務に
対するサービス対価が固定化される一方、管理運営に対するサービス対価の多くは
業務量等に応じて変動させる仕組みが採られており、近江八幡市同様に的確な指摘
とは言えない。しかし、この業務量に応じてサービス対価を変動させる割合(=変
動率)については民間主体の提案によることとされ、この変動率にかかる提案内容
を含め総合的な観点から審査が行われることになるため、必ずしも変動率が妥当で
はない事業者が選定される可能性がある。したがって、変動率の最低ラインを示し
た上で民間主体の提案に委ねるなど、より当該病院事業における柔軟な経営、SPC に
おけるインセンティブの促進につながる条件設定を行う必要があったと考えられる。
② モニタリング、ペナルティ
要求水準の達成にはモニタリングとペナルティ設定が重要な役割を果たすこと
になるが、当該事業において行政のモニタリングにより要求水準の未達成が明らか
になりつつ十分な改善がなされなかったのは、ペナルティ設定の方法が十分ではな
かったことに起因する可能性がある。また、管理運営業務にかかるペナルティによ
る減額は、近江八幡市同様、管理運営分のサービス対価の範囲内で、施設の建設や
調達等業務にかかるサービス対価には及ばないため、ペナルティとしての効果が限
定的になっている点にも留意する必要がある。
(2) 不適切な官民の役割分担
PFI 事業における制度設計が不十分であることの要素には、行政によるガバナン
スの不足に加え、不適切な官民の役割分担もあげられる。役割分担は、「リスクを
最も適切に負担・管理できる者が当該リスクを負担する」ことが原則とされ、この
原則を超えて行政若しくは民間主体が過剰にリスクを負担することになれば、その
分、当該事業におけるリスク総量は増加することになる。
当該事業においては、「設計」を行政サイドが直接担ったことで、民間主体の知
恵・ノウハウ等を活かした建設費・管理運営費の抑制につながる設計を行うことが
できず、経済性への考慮を欠く過大な設備投資がなされて、経営悪化を招く結果に
なっている。
また、当該事業では医薬品・診断材料の調達業務を SPC が担うことになってい
るが、この業務は行政(病院)の担う診療業務との連動性が高いため、SPC がその
需要変動リスクをコントロールしにくい面がある。これが材料費率の抑制を難しく
した可能性もあり、当該業務を官民いずれが担うのが適当であるのか、よく検討す
る必要がある。
- 75 -
年報 公共政策学
Vol. 5
4.3.4 事業計画の不備
今次病院施設の建設単価は、表 3(前掲)のとおり、1㎡当たり503千円、1 床当たり
53.3百万円と、公立病院(1㎡当たり404~423千円、1 床当たり32百万円)や PFI 病院
(1㎡当たり:361千円、1 床当たり33.4百万円)と比べても大幅に高い水準にあり、建
設費総額にすると、一般の PFI 病院に比し100億円程度(延床面積ベース:95億円、病
床数ベース:126億円)もの負担増と試算される。こうした過大投資が、償却・金利負
担や借入金の返済の増加といった形で収支やキャッシュフローを圧迫し、大幅な赤字
等を招いた一因となっているが、病院事業の収支・資金計画が適切に策定されていれ
ば、今般の結果は容易に予想できたとみられる。このように、当該事業の不振は、病
院事業全体の事業計画の不備に起因するところも大きいと考えられる。
5. 両事例を踏まえた病院 PFI 事業の課題
ここまで、近江八幡市と高知県・高知市病院組合における病院 PFI 事業各々に関し、
契約解除を招いた問題点について検証してきたが、これらを総括的に病院 PFI の課題
として整理すると以下のとおりである。
(1) 事業計画の不備
公立病院の整備・管理運営には、多額の資金を要し、少なくとも開院後数年は赤
字を余儀なくされるのが一般的である。両事業のように、通常より施設規模が大き
いあるいは建設単価が高い病院施設の場合、その分の償却・金利負担や借入金の返
済負担が事業収支やキャッシュフローを一層圧迫し、赤字や資金不足を拡大させる
ことになる。こうした不足資金は、一般会計からの繰入等で補填せざるを得ないが、
一般会計等にその余裕がなければ、財政再生団体への転落、病院事業からの撤退を
招きかねない事態となる。
一方、当該病院事業の事業計画が、「総事業費が大枠で決まり、その帳尻を合わ
せる」形で作成されるなど適切さを欠いた場合、当該事業が大幅な赤字に陥らない
か、その赤字額は一般会計等から補填できる範囲か等のチェック機能が働かないま
ま事業は実施され、その結果、上記のような経営不振が顕在化することになる。
このように、PFI の導入以前の問題として、病院事業全体の事業計画が疎かな場
合には、過大投資等を未然に抑制できず、事業の失敗につながることになる。
(2) PFI に対する正しい理解の不足
両事業では、特に行政サイドにおいて PFI に対する正しい理解がなされないまま、
過大な期待のもとに PFI 事業が進められている。こうした正しい理解の不足が、以
下で示す課題を生む温床となり、当該 PFI 事業を失敗に導くことになる。
(3) 官民間の連携不足
両事業では、PFI に対する過大な期待感が現実を前に失望へと転化したことに加
え、SPC の能力不足と実施体制の不備、担当者の短期的な人事異動に伴う専門能力
- 76 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
蓄積の不足、行政サイドのマネジメントの不足等が相手に対する不信感を助長させ
ることにつながり、行政と SPC 間の相互理解や意思疎通に欠ける疎遠な関係を招
く結果を余儀なくされている。
病院 PFI は、コア業務とノンコア業務を担う主体が分離していることもあり、ガ
バナンス機能を担う行政(管理部門)、コア業務を担う行政(病院)、ノンコア業務
を担う SPC の三者による円滑な連携を図り得なければ、病院経営に齟齬を来たす
ことになる。
(4) 制度設計の不備
行政等が両事業における問題点として指摘している「行政と SPC 間のコミュニ
ケーションの不足」
、
「非効率な指揮命令系統に伴うリアルタイムで臨機応変な対応
の阻害」、「SPC のマネジメント能力の不足」、「病院経営の硬直化と SPC のインセ
ンティブ欠如を招く SPC に対する支払いの固定化」、「長期契約に伴う変動著しい
環境への非適応」等の問題点は、「条件設定(メッセージ)-モニタリング-ペナ
ルティ」というメカニズムを通じ、行政が当該事業や SPC を十分にガバナンスで
きていないことに大きく起因している。
加えて、官民の適切な役割分担がなされておらず、事業全体のリスクを拡大させ
ている面もある。
こうした行政によるガバナンス確保の不足、官民の不適切な役割分担など、PFI
を有効に機能させるための制度設計が十分に構築されていない場合には、当該 PFI
事業の失敗につながることになる。
6. おわりに
本研究では、病院 PFI の二つの解除事例について検証した結果、病院事業に対し PFI
を活用したこと自体に問題があったというより、むしろ、
○病院事業全体の事業計画に無理があったこと
○PFI に対する十分な理解の不足、官民間の連携の不足、PFI にかかる制度設計の不
備など、PFI の運用面で問題があったこと
が明らかになった。
こうした課題を解決し、効率的で質の高い病院サービスにつながる病院 PFI を実現
していくためには、先ず、PFI 導入の検討以前に、信頼性の高い病院事業全体の事業
計画を策定し、想定される赤字・資金不足額を明らかにした上で、その不足額(=一
般会計等による補填額)が財政的に許容できる範囲にあるかを検証し、これらを負担
することのコンセンサスを得て進めることが不可欠である。
その上で、
○PFI に対し過大な期待感をもつことのないよう十分な理解を図ること
○行政(管理部門、行院)と SPC 各々が相手の立場を理解・尊重し、円滑な意思疎
- 77 -
年報 公共政策学
Vol. 5
通を図りながら、効率的で質の高い病院サービスを提供するという共通の目標に
向け連携すること
○行政が「条件設定(メッセージ)-モニタリング-ペナルティ」というメカニズ
ムを通じガバナンスを確保するとともに、
「リスクを最も適切に負担・管理できる
者が当該リスクを負担する」という原則のもと適正な官民の役割分担を行うこと
で、PFI が有効に機能する制度設計を構築すること
が必要となる。
全国の自治体では、先行事例の反省をもとに、既に様々な工夫の施された病院 PFI が
検討・導入されつつある。今後、その中で蓄積される知見を共有しながら、ここで示
した基本方向を具現化する取り組みを進めていくことが求められる。
参 考 文 献
近江八幡市・近江八幡市立総合医療センター(2009)
「近江八幡市立総合医療センターにおけ
る PFI 事業の検証」
近江八幡市立総合医療センター(2006)
『PFI 方式による新しい病院づくりのこころみ』毎日
新聞社出版局
近江八幡市立総合医療センターのあり方検討委員会(2008)
「近江八幡市立総合医療センター
のあり方に関する提言」
尾林芳匡・入谷貴夫編著(2009)『PFI 神話の崩壊』自治体研究社
堀見忠司(2009)
「高知医療センターにおける PFI 事業の検証」
『日本病院会雑誌』Vol.56 No.7
堀見忠司(2010)「自治体病院 PFI のあり方-高知医療センターの取り組みから探る-」『地
方財務』ぎょうせい2010年 7 月号
槙系(2008)
「近江八幡市立総合医療センターにおけるPFI事業の検証」
『全国自治体病院協議
会雑誌』第47巻第 5 号
- 78 -
契約解除事例からみた病院 PFI 事業の課題
Issues for Hospital PFI Projects
in Contract Canceled Cases
SANO Nobuhisa
Abstract
In Japan, five hospital PFI projects have already started, but these two projects has been
canceled PFI contract.
The factors in these canceled cases is that, the management plan for hospital project was
incomplete, understanding to PFI was not enough, public sector and private sector partnership
was insufficient, it wasn't the framework to have effective function for PFI project.
Keywords
Hospital PFI Project, Public Private Partnership

Kagawa University Graduate School of Management
- 79 -
日本型高大接続の転換点
日本型高大接続の転換点
―「高大接続テスト(仮称)」の協議・研究をめぐって―
佐々木
隆生
はじめに
平成20年(2008年)10月から開始された文部科学省の先導的大学改革推進委託事業
「高等学校段階の学力を客観的に把握・活用できる新たな仕組みに関する調査研究(以
下、
「
『高大接続テスト(仮称)』に関する協議・研究」または「協議・研究」と略す。
)
」
(平成20年10月~平成22年 9 月)は、平成22年 9 月28日の第12回の協議・研究委員会に
おいて最終報告について合意し、9 月30日付けをもって文部科学省に報告を行った。
報告は、現在、文部科学省のホームページに掲載されている 1)。
「高大接続テスト(仮称)
」に関する協議・研究は、北海道大学(総長
佐伯浩、研
究代表 佐々木隆生)が委託先となり、事業開始から平成22年 3 月までは22名の委員
をもって構成された 2)。高等学校側からは全国高等学校長協会長(以下「全高長」と、
また、高等学校は「高校」と略す。)をはじめ公私立の高校長 5 名、都道府県教育長協
議会 1 名、全国高等学校 PTA 連合会 1 名を含む 7 名、大学側からは社団法人国立大学
協会(以下「国大協」と略す。)4 名、公立大学協会(以下「公大協」と略す。
)1 名、
日本私立大学連盟(以下「私大連」と略す。)2 名、日本私立大学協会(以下「私大協」
と略す。)2 名、大学入試センター 1 名を含む 9 名、これに初等中等教育研究者 2 名、
高大接続に関わる有識者 2 名である。
第 4 期中央教育審議会(以下「中教審」と略す。)の『学士課程の構築に向けて』
(平
成20年12月)の答申は、「高等学校と大学との接続に関するワーキンググループ」(座
長
荻上紘一 独立行政法人大学評価・学位授与機構教授)が平成20年 1 月23日に中
教審に提出した「議論のまとめ」を受けて、
「この中で提言している「高大接続テスト
(仮称)」に関しては、学力を客観的に把握する方法の一つとして一定の意義があると
考えられる一方、高等学校教育の在り方との関係上留意すべき点も種々あることから、

E-mail:[email protected]
1) 「高等学校段階の学力を客観的に把握・活用できる新たな仕組みに関する調査研究」報告
書(以下「協議・研究報告書」と略す。)
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/itaku/08082915/__icsFiles/afieldfile/2010/11/04/1298840_1.
pdf
2) 平成22年 4 月以後は人事異動の関係もあり 5 名が委員にこれに加わった。協議・研究報告
書、pp.44-45を参照されたい。
- 81 -
年報 公共政策学
Vol. 5
高等学校及び大学関係者間の十分な協議・研究が行われることを期待する」3)と述べ、
さらに「国によって行われるべき支援・取組」に「高等学校段階の学力を客観的に
把握・活用できる新たな仕組みづくりについて、高大接続の観点から取り組みを進
める。」4)とした。
「高大接続テスト(仮称)」に関する協議・研究は、これに対応して、
中教審答申の確定前から開始された。しかしながら、協議・研究が結論あるいは合意
に達するのは容易ではないと考えられていた。中教審委員を務めた郷通子お茶の水の
女子大学長(当時)は、『IDE 現代の高等教育』に寄せた一文において、
答申案のとりまとめに向け、もっとも労を払うことになった事柄の一つは、大学
と高等学校との接続(高大接続)の改善をめぐる諸問題である。審議の中では、
大学関係者と高等学校関係者との間の対話が容易でないことも痛感した 5)。
と述べていた。
北海道大学がこの研究の委託先として応募したのも、協議・研究の困難を理解した
上でのことであった。応募は、①平成19年(2007年)11月 5 日に国大協総会が、国大
協入試委員会報告「
『平成22年以降の国立大学の入学者選抜制度―国立大学協会の基本
方針―』について(以下「国大協入試委員会報告」と略す。)」を受けて決定した「平
成22年以降の国立大学の入学者選抜制度―国立大学協会の基本方針―(以下「国大協
基本方針」と略す。
)」が、今後の入学者選抜制度改革の基本方向として、
「適切な高大
接続を実現するべく、
『高等学校における基礎的教科・科目の学習の達成度を把握する
新たな仕組み』の構築に関して、文部科学省をはじめ関係者による検討を要請する」6)、
と述べていたこと、②当時国大協入試委員会副委員長を務めた佐伯浩北海道大学総長
が平成21年度から入試委員会委員長に就任する予定であったこと、並びに国大協の「報
告」と「基本方針」作成に入試委員会専門委員として北海道大学の佐々木隆生が関与
していたことによっていた。ボトムアップで問題提起を行った国大協の責任を負って
のことに他ならなかった7)。
協議・研究は、高大接続に関して高校関係者と大学関係者が直接に意見を交わし、
協力して調査を行い、その中から合意を形成するという、我が国の教育史上画期的な
試みであった。多くの困難や意見の相違が予想されたにもかかわらず、協議・研究は、
「高大接続テスト(仮称)
」のあるべき方向と基本的な骨格、さらに今後検討すべき課
題について合意を得るに至った。そうした合意形成の最も基本的な要因は、2 つあっ
た。その第 1 は、高大接続について国が提起する政策に受け身で検討するのではなく、
3) 中教審答申(2008)、p.32。
4) 同上、p.34。
5) IDE 大学協会(2008)、p. 7。
6) 国大協(2007 a)基本方針、p. 4。同時に、同報告の参考資料である国大協(2007 b)入試委
員会報告、pp.23-25を参照されたい。
7) 協議・研究の課題がボトムアップで提起されたことについては、前掲の協議・研究報告書、
pp. 5 - 7。
- 82 -
日本型高大接続の転換点
高大関係者が自らにつきつけられた課題として集合的に協力して検討するという委員
の姿勢である。協議・研究に参加した戸谷賢司都立文京高校長(当時全高長会長、全
国普通科高等学校長会理事長)が、平成21年 6 月に刊行された全国普通科高等学校長
会の『全普高会誌』第57号の「当面する課題について」で、協議・研究の経緯に触れ
ながら、
こうした経緯を踏まえ、また教育においてもグローバル化は必然であり、私たち
普通科高等学校関係者は受け身の姿勢ではなく、大学との現状認識や課題の共有
化を図りつつ、教育の質の向上に係る高大接続の問題について積極的に検討を進
めることが必要になってきていると考えています 8)。
と述べている。
「受身でなく」というこの表現は、戸谷委員に限らない協議・研究委員
の姿勢をよく示している。文部科学省や教育再生会議などからトップダウンで改革が
示されたのであれば、教育関係者は批判をするにせよ「受け身」から脱することはな
かったかもしれない。しかし、協議・研究は、高大関係者が直接に改革を検討する場
であり、その意味で、従来とは異なる検討への道が開かれたのであった。
合意に至った第 2 の要因は、日本型の高等学校と大学の接続の仕方が最早合理性を
失い、機能不全に陥っているとの認識の共有にあった。その認識が明確となり、協議・
研究の中で共有されたことから解決の方向は自ずと見えてきたからである。極論をす
れば、あとは技術的に検討可能な性格をもっていた。そこで、本稿では、日本型の高
大接続が転換点に立っているとの協議・研究の認識について、協議・研究報告書では
種々の事情から触れることのできなかった論点を含めて掘り下げることにしたい。
教育は、いかに「市場」や「民間活力」を利用することが可能で、またそれが望ま
しいとしても、依然として基本的な「公共財」であることは疑いえない。しかし、従
来の教育政策・制度の研究が公共政策研究として意識的に行われてきたとは言い難い
であろう。そこで、本『年報 公共政策学』第 4 号(2010)に先﨑卓歩(文部科学省
元大学入試室長)が「高大接続政策の変遷」について寄稿したことを受けて、
「高大接
続」問題という領域に限定されてはいるが、公共政策としての教育制度・政策研究を
喚起することをも本稿は意図している9。教育政策・制度の研究は、教育学や教育政策
の立案・実施機関において専ら行われてきたが、本来は融合的研究領域に他ならない。
より広い視野からの今後の教育政策・制度研究を願ってやまない。
1. 日本型の高大接続の特質
高等学校と大学の接続が教育上の課題とされるに至った最初は、平成11年(1999年)
8)
9)
全国普通科高等学校長会(2009)『全普高会誌』第57号、p. 7。
本稿は、先﨑卓歩(2010)と同じ領域を扱い、またそれから多くの教示を受けている。だが、
「四六答申」以来の教育政策の転変に関わる理解は異なる諸点を含み、ある意味で対照的なと
ころもあろう。それらを今後検討すべき論点として提示することも本稿の意図をなす。
- 83 -
年報 公共政策学
Vol. 5
12月の中教審答申『初等中等教育と高等教育の接続の改善について』であった。それ
は、以下のように述べていた。
初等中等教育と高等教育の接続を考えるに当たっては、とかく入学者選抜に焦点
が当たりがちである。しかし、高等学校卒業者の約 7 割が何らかの形の高等教育
を受けている状況の下で、これまでのようにいかに選抜するかという視点よりも
むしろ、学生がいかに自らの能力・意欲・関心に合った高等教育機関を選択する
か、あるいは大学が求める学生を見出すか、特に今後はいかに高校教育から高等
教育に円滑に移行させていくかという観点から、接続の問題を考えるべきであっ
て、入学者選抜の問題だけでなく、カリキュラムや教育方法などを含め、全体の
接続を考えていくことが必要であり、初等中等教育から高等教育までそれぞれが
果たすべき役割を踏まえて、一貫した考え方で改革を進めていくという視点が重
要である10)。
この叙述から、先に言及した先﨑(2010)は、高大接続は 2 つの構成概念から成り立
つと述べる。
この答申が示すとおり、高大接続は大きく二つの概念から構成される。一つは入
学者選抜の結果として生じる「進学」であり、もう一つは高校教育課程から高等
教育課程への円滑な移行、すなわち「学校教育の連続」である11)。
そして、この二分法を生かしながら、先﨑は、入学者選抜の主要な手段である学力把
握、すなわち大学入試は「集団準拠norm-reference」的性格をもち、それに対して学校教
育の連続面で必要な学力把握は
「学習目標準拠criterion-reference」的性格をもつという12)。
この指摘は、高大接続を考える際に、極めて重要な視角を与える。2 つの構成概念
あるいは 2 つの側面から国際比較を行う時、日本型の高大接続の特質が極めて明瞭に
なる。先﨑とは順序を入れ替え、まず、学校教育の連続面あるいは教育上の接続の側
面を取り上げてみよう。欧州では、フランスのバカロレア(Baccalauréat)がリセの卒
業資格と大学入学資格を与え、ドイツでもアビトゥア(Abitur)がギムナジウムの卒
業資格と大学入学資格を与え、イギリスでは GCE(General Certificate of Education)の A
レベルの試験が大学進学の前提とされる13)。フィンランドなどにも同じような共通試
験がある。アメリカには、高校卒業資格試験や大学入学資格試験は無いが、代わりに
SAT(1926年に Scholastic Aptitude Test として開発、94年に Scholastic Assessment Test と
10)
11)
12)
13)
中教審答申(1999)、p.20。
先﨑卓歩(2010)、p.59。
先﨑卓歩(2010)、p.59-60。
欧米の高大接続については、既存の研究成果のみでなく、協議・研究委員会が独自に調査
を実施した。協議・研究報告書には、参考資料として「募集形態からみる大学入学者選抜方
法の変化」
(竹永裕子、佐々木隆生)
、
「米国調査報告」
(濱名篤、松本亮三、高木克)
、
「欧州
調査報告」
(川嶋太津夫、柴田洋三郎、戸谷賢司、中津井泉)が添付されているが、本稿にお
ける欧米の高大接続に関する記述は、特に断らない限り、それらの調査を参考としている。
- 84 -
日本型高大接続の転換点
名称変更、2005年からは SAT Reasoning Test と名称をさらに変更)や ACT(1959年に
American College Testing Program として開始、1996年から ACT が正式名称)など共通
テストがあり、その成績が教育上の高大接続のための学力把握機能を果たしている。
換言すれば、教育上の接続は共通テストによる学力把握に基づいている。そして、い
ずれの共通テストも「選抜」に利用されることはあっても、直接それを目的としたテ
ストでないだけに、論述式かマーク・センス方式かは問わず目標準拠型のテストであ
ることを基本としている。これに対して、我が国には、そうした共通テストは無い。
現行の学校教育法第90条で、高校卒業をもって大学入学資格が与えられているが、高
校卒業に限らず学校卒業について学校教育法は定めておらず、高校長の権限となって
いる。大学入試センター試験(以下、「センター試験」と略す。)は、国公私立の大学
が利用する「共通テスト」であるが、あくまでもセンター試験利用大学が個別に入学
者を選抜するための試験にとどまっている。
次に進学あるいは選抜という接続のもう一つの側面を取り上げてみよう。欧米では、
ごく稀なケースを除くと、個別の大学入試は存在しない。フランスでは原則として選
抜なしに大学への入学が許可され、ドイツでは収容力に応じてアビトゥアの成績が選
抜に用いられ、近年はアビトゥアに加えて面接などを実施する方式が導入されている。
イギリスも同様である。一部の高等教育機関―イギリスではオックスフォード、ケン
ブリッジなど、それにフランス独自の高等専門教育機関であるグランゼコール
(Grandes Écoles)-では、選抜試験が実施されているが、共通テストで弁別不可能な
応募者の選抜のためか、あるいは通常の大学レベルとは異なる高等教育レベルへの進
学に際しての選抜のためであって、我が国の大学入試とはまったく異なる。アメリカ
では、選抜性の高い大学でも SAT もしくは ACT のスコアに高校での成績、推薦書、
面接などを加えて選抜するのが通例である。一部、ニューヨークのシティ・ユニヴァ
ーシティ(CUNY)のように英語と数学について CUNY 共通テストを補助的に加える
ことはあるが、それらだけで選抜を行うことはない。
無論、欧米においてこのような接続方式が近代学制のはじめから構築されてきたわ
けではない。しかしながら、共通テストによって教育上の高大接続のための学力把握
を行い、その上で別個の選抜試験を課さずに選抜がなされているのが一般的となって
いる。これと対照してみると、我が国の高大接続の特質が明らかとなる。教育上の高
大接続に必要な共通の学力把握は存在せず、代わりに各大学が募集単位ごとに選抜の
ための学力試験を課して高大接続を図ってき。言い換えれば、教育上の高大接続に必
要な学力把握は、選抜のための種々の試験に依存してきた。学力把握は学力選抜の成
績を意味し、その成績が合否を、つまり選抜を左右してきた。日本型の高大接続とは
入学者選抜に他ならなかったのである14)。
14) 「アドミッション・ポリシーが抽象的すぎる」という批判があるが、そもそも学力選抜が
- 85 -
年報 公共政策学
Vol. 5
2. 日本型高大接続への批判―戦後入学者選抜改革の基本論理
(1) 日本型高大接続の基盤
日本型の高大接続が継続してきた理由は奈辺に求められるであろうか。種々の理由
が考えられる。例えば、戦前から共通テストの導入が繰り返し試みられながら、高大
接続(旧制の中高接続)は旧制高校側が個々に学力入試を行うところに落ち着き、戦
後もそこから出発したことがある15。また、ここで詳しく立ち入ることはできないが、
戦後の大学と文部省の緊張関係がある。大学は、
「大学自治」に拠って教学事項として
の入学者選抜を「自治」の枠内にあると考え、文部省など外部からの「干渉」に消極
的であったし、学生運動も同じ方向にあった。
だが、協議・研究報告書が指摘するように16)、何よりも第 1 に、高校教育の修了資
格が高校長に委ねられ、かつ高校卒業資格が大学入学資格となる法の規定がある。こ
のため、教育上の接続を図るための共通の学力把握は教育制度の中に構築されること
はなく、同時に中等教育の達成度の判断は個別の学校に委ねられてきた。このため旧
制高校・大学予科から始まり今日に至るまで、高等教育機関は自ら選抜を目的とする
試験の中で学力把握を行ってきた。
第 2 は、日本型の高大接続が機能してきたことにある。それはまた 2 つの要因から
構成される。1 つは、小学校から始まる普通教育(general education)が高校段階で完成
し、そこから高等教育に移行するという理念の下に、教育課程が組まれてきたことで
ある。無論、
「高等普通教育」を授けるという旧制高校の教育を新制高校がそのまま引
き継ぐことは不可能であり、したがって普通教育の一部は新制大学の「一般教育」に
継承されたが、それでも1970年代はじめまでの高等学校学習指導要領は「普通教育の
完成」をめざし、基礎的教科・科目の普遍的学習を追求していた。
「普通教育の完成から大学へ」という教育上の接続理念を最も象徴するのは、「文部
省告示」として昭和35年(1960年)に公示され、
「団塊の世代」が入学する昭和38年(1963
年)度から実施された高校学習指導要領(昭和35年告示)である。卒業単位85単位以
上の内、普通科必修単位は「家庭」を除けば68単位以上であり、
「国語」では現代国語
と古典が、
「社会」では倫理・社会、政治・経済、日本史、世界史、地理のすべての科
目が、また「理科」では物理、化学、生物、地学のすべての科目が必履修科目となっ
ていた。
文部省にとっては、大学入試はそうした教育上の接続を反映するものでなければな
アドミッション・ポリシーをなしていた我が国大学にそれを求めるには限界がある。ここ
が理解されずにアドミッション・ポリシーの改善を求めても多くを期待しえないであろう。
15) 戦前の旧制高校・大学予科等の入試制度については、前掲、先﨑卓歩(2010)、pp.65-73が
すぐれたまとめを行っている。
16) 協議・研究報告書、p.15。
- 86 -
日本型高大接続の転換点
資料1.昭和 31 年度・国立大学出題科目数
受験科目数
大学数 募集単位数 募集人員
5 教科 8 科目
24
177 11,433
5 教科 9 科目
12
160
7,399
5 教科 7 科目
16
91
4,429
5 教科 5 科目
9
51
2,855
5 教科 6 科目
10
43
2,347
1 次【3 教科 3 科目】:2 次 5 教科 8 科目
1
5
2,040
4 教科 6 科目
8
39
1,586
5 教科 6 科目(実技)
4
7
1,447
5 教科 5 科目(4 教科 4 科目+実技)
4
9
1,080
4 教科 4 科目
2
24
909
5 教科 9 科目(実技)
2
24
837
5 教科 8 科目(実技)
6
7
614
4 教科 5 科目
3
17
570
1 次【2 教科 3 科目】:2 次 5 教科 7 科目
1
4
440
5 教科 8 科目+実技
4
8
396
1 次【1 教科 1 科目】:2 次 4 教科 4 科目
1
12
390
5 教科 5 科目(実技)
2
3
360
5 教科 9 科目+実技
4
9
330
5 教科 6(7)科目(5 教科 6 科目+実技)
1
2
290
5 教科 9 科目(5 教科 8 科目+実技)
1
2
280
5 教科 7 科目(5 教科 6 科目+実技)
1
2
200
3 教科 4 科目
1
2
160
5 教科 7(8)科目
1
5
150
5 教科 7 科目+実技
2
6
130
5 教科 8(9)(10)科目
1
5
130
5 教科 5 科目+実技
1
3
35
3 教科 3 科目
1
1
30
5 教科 6 科目(4 教科 5 科目+実技)
1
3
15
計
40,882
- 87 -
年報 公共政策学
Vol. 5
資料2.昭和 31 年度・私立大学出題科目数
受験科目数
3 教科 3 科目
4 教科 4 科目
3 教科 4 科目
3(4)教科 4 科目
4 教科 6 科目
5 教科 5 科目
5 教科 6 科目
3 教科 5 科目
2 教科 2 科目
4 教科 4 科目+小論文
3 教科 3 科目+小論文
2 教科 2 科目+小論文
3 教科 3 科目+実技
5 教科 5 科目+進学適性検査
3 教科 3 科目(2 教科 2 科目+実技)
3 教科 3 科目+文章による表現力の試験
5 教科 7 科目
3 教科 5 科目+面接・体検
1 教科 1 科目+面接
3 教科 5 科目+小論文
3 教科 3 科目+進学適性検査
1 次【進学適性検査(外国語)】:2 次学力能力テスト
3 教科 3 科目+実技・体検
総合科目
4 教科 5 科目
4 教科 4 科目+進学適性検査
4 教科 4 科目+実技・小論文
2 教科 2 科目+実技・知能検査
1 教科 1 科目
4 教科 6 科目+小論文
3 教科 3 科目+面接・体検
4 教科 5 科目+面接・体検
2(3)教科 3 科目
2 教科 2 科目+小論文・聖書・常識テスト
4 教科 4 科目+小論文
2 教科 2 科目+実技
計
- 88 -
大学名
46
24
12
2
5
9
6
4
5
1
2
3
5
1
2
1
3
1
2
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
募集単位数
296
79
41
18
17
18
14
8
18
1
6
3
7
10
3
1
3
1
4
3
1
4
4
3
1
1
5
1
2
1
1
1
1
1
1
1
募集人員
30,500
7,728
5,850
2,680
1,480
1,420
1,400
1,340
1,020
600
570
550
520
500
500
450
260
240
240
160
160
160
130
120
120
120
100
100
100
80
80
50
40
35
30
25
59,458
日本型高大接続の転換点
らなかった。文部省が昭和22年(1947年)に策定した「入学者選抜方法における留意
点」は、①問題は教育的価値の高いものの組み合わせで、記憶の如何に左右されない
こと、②教科目のなるべく広い分野にわたって取材され一教科目に偏しないこと、③
客観性を増すために各問題の形成を簡単にして多数出題すること、④採点基準が単純
であって採点者の主観が入らないこと、以上 4 点に留意するべきとしている。さらに
昭和24年(1949年)には、文部省は「進学適性検査・学力検査・身体検査および調査
書の成績を総合して入学者を判定するべきという「総合判定主義」を明らかにしたが、
同時に学力検査については主要5教科について「全教科群にわたって出題することが望
ましい」としていた17)。
協議・研究報告書の参考資料として文部科学省に提出された「募集形態からみる大
学入学者選抜方法の変化」
(竹永裕子、佐々木隆生)は、昭和31年(1956年)度入試に
おいて入試に課された教科・科目数を一覧可能な形で示しているが(資料 1 及び 2)、
文部省の方針が、教科・科目数に関して大学入試に反映していることを示している。
国立大学では、3 教科 3~4 科目入試の190人、4 教科 4~6 科目入試の3,455人を除く
37,237人(募集人員40,882人の91%)が 5 教科 5 科目入試を実施し、しかも最も多い
のは 5 教科 8 科目、次いで 5 教科 9 科目であった。私立大学は、募集人員59,458人の
内で、国立大学と同様の 5 教科を入試に課していた大学は3,580人で、3 教科 3 科目入
試が51.3%を占めるなど「少数科目入試」を実施していたが、それは高校段階で基礎
的教科・科目の履修がなされていたことを基盤とし、
「少数科目入試」と言っても、今
日とは比較にならないほど入試に課す科目数は多かった。募集人員59,458人の内で「2
教科 2 科目+実技」を含む 2 教科以下を課す募集人員は4,745人で、90%以上が 3 教科
3 科目以上であり、4 教科、5 教科を課す大学も珍しくはなかった。
もう 1 つの要因は、進学意欲の上昇にもかかわらず大学の収容力(進学希望者数に
対する入学者数の比率)が低く、大学入試の選抜機能が強く働いたことにある。
学校教育法によって昭和23年(1948年)度に新制高校に進学した60万人の生徒は同
一年齢人口の30%を下回るほどであり、そこから 4 年制大学にさらに進んだのはわず
か11万人程度であった。その後高校進学者と大学進学者は若干の曲折はあるものの増
加した。だが、高校進学者の増加に対して 4 年制大学の定員は相対的に抑制された。
わけても高校進学率が90%を超えるようになった段階の「昭和50年代前期・後期計画」
では、大学の入学定員は41~2 万に抑制された。文科省の調べでは大学・短大の収容
力は昭和47年(1972年)の70%台半ばから下がり続け、平成 2 年(1989年)には65%
を下回る状態となった。大学入学者が21万、短大入学者が 6 万程度の昭和38年、ある
いは大学入学者が30万前後、短大入学者が12万前後であった昭和40年代はじめと同じ
17) 昭和22年、24年の文部省の方針については、先﨑卓歩(2010)、pp.73-74。
- 89 -
年報 公共政策学
Vol. 5
水準となったのである18)。短大と専門学校への進学者が大学定員の抑制に基づいて増
加したのはこの時期である。
このため、我が国の 4 年制大学進学率は、昭和43年(1968年)度までマーチン・ト
ロウ19)が言う「エリート段階」(15%以下)にあり、その後「マス段階」
(50%まで)
に移行するが、平成 5 年(1993年)度まで30%を超えることがなかった。高校から大
学への進学に必要な教育上の達成度の把握を大学入試に依存する日本型の高大接続は、
上昇する進学率と関係する高い進学意欲と厳しい受験競争、つまり大学入試の選抜機
能の高さによって維持されたのであった。
(2) 大学入試批判と改革―共通第 1 次学力試験への道
大学入試の選抜機能に依存する日本型の高大接続は、エリート段階にあった頃から、
大学入試批判という形で問題とされていた。進学率の上昇に対して収容力が不足し、
厳しい受験競争を志願者は強いられたこと、ならびに 1 回の学力試験によって選抜が
なされたからである。昭和38年(1963年)の第19回中教審答申『大学教育の改善につ
いて』
(会長
天野貞祐)を一瞥すればよい20)。そこで特に問題とされたのは、
「各大
学が行う入学者選抜のための学力競争試験」がもつ「方法制度の欠陥」であった。就
中問題とされたのは、前に触れた総合判定主義の実現が「困難または不可能であるた
め」に「ただ 1 回の学力筆答試験」によって、
「主として集団的選考基準によって合否
を決する結果となっている」ことであった。
中教審は、高等教育機関の拡大など教育政策上の問題や「浪人の問題」への対処と
ともに、
「入学者選抜に関する技術的、制度的な問題」を取り上げ、まず「統一的入学
試験制度、入学資格試験制度、無試験入学後のような方法等」について欧米各国の制
度、事情をあわせて審議した結果、
「わが国の教育制度、社会事情から、ただちにその
ような方法をとることは適当とは考えられない」と判断する。言い換えれば、日本型
高大接続を肯定したのであった。それは、学校教育法の規定を前提としたこともある
が、
「高大接続」という問題意識が未だ形成されず、また「教育上の接続」と「選抜に
よる接続」の区別も明確ではなかった段階の認識に基づいたものであった。
ではどのような解決策が取られるべきか。
「志望者の学習到達度および進学適性につ
いて、信頼度の高い結果をうる方法を検討、確立し、この方法により、共通的、客観
18) 昭和39年(1964年)度は昭和20年(1945年)度生まれの人口が少なくなったために、昭和
40年度は大学定員の急増のために一時的に収容力は高くなるが、それを除けば収容力は大
きく変化しなかったとも言える。
19) トロウ(1976)。本書は、Trow, Martin A.の1971,73,75の論文の全部または一部を編集し、
翻訳したものである。なお、トロウの段階区分は高等教育全体を指しており、4 年制大学に
限ったものではない。
20) 中教審(1963)は、「V」において、収容力不足のほかに、①有名校と大都市への志願者の
殺到、②大学の専門分野別構成と社会の需要の不一致を挙げている。
- 90 -
日本型高大接続の転換点
的なテストを適切に実施することとする」というのが帰着点であった。後の「能研テ
スト」導入の試みである。その結果についてはここで触れる必要はないであろう。日
本型高大接続を前提にする限り、それは入試が 2 度行われるということを意味し、大
学が消極的であったこともあり、
「能研テスト」は実行困難となったのであった。無論、
それで問題が解決されるわけではなかった。また、大学入試に高校での学習の範囲を
超える問題、いわゆる「難問・奇問」が見られるようになったことも問題化するに至
った。こうした問題に取り組んだのが昭和46年(1971年)に出された「四六答申」、正
式には中教審第22回答申『今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的
施策について』(会長 森戸辰男)であった。
「四六答申」もまた、日本型高大接続と総合判定主義に基づいた改革を志向した。
「改
善の方向」として挙げられたのは、①高校の学習成果を公正に表示する調査書を選抜
の基礎資料とすること、②広域的な共通テストを開発し、高校間の評価水準の格差を
補正するための方法として利用すること、そして③「大学がわが必要とする場合には、
進学しようとする専門分野においてとくに重視される特定の能力についてテストを行
い、また論文テストや面接を行ってそれらの結果を総合的な判定の資料に加えること」
であった。
この構想に始まる改革については、国大協の『国立大学の入学者選抜【基礎資料集】
』
にある松井栄一「大学入学者選抜方法改善の歩み―共通第 1 次学力試験の理念を中心
として―」、ならびに熊谷信昭「入学者選抜制度の変遷について」21)、それに前掲の先
﨑卓歩(2010)22)が概観している。結果は、共通テストを「高等学校における学習達
成度の共通尺度による評価」として国立大学の入学者選抜試験の第一段階試験と位置
付け、国立大学が共通第 1 次学力試験を導入することとなった。
では、何ゆえに、共通第1次学力試験が高校調査書に基づく選抜を行う際に高校間の
評価水準の格差を補正するためのテストとはならなかったのであろうか。
「四六答申」
から始まる入学者選抜制度改革の中心になったのは国大協であったが、国大協が既に
国立大学の学力試験の一環としての統一テストを構想していたことが直接的要因とな
ったこと、国立大学において「Ⅰ期・Ⅱ期校制」の解消が課題とされたこと、また私
立大学がこうした改革に消極的であったことなどが指摘できる23)。
だが、より根本的な制約がそこには存在したというべきである。第 1 に、
「四六答申」
の考え方は、アメリカの高大接続に近い制度を部分的に導入しようというものであっ
た。アメリカでは、SAT や ACT のスコア、日本の高校調査書の評定値とも言えるハイ
スクール GPA(Grade Point Average)、それに高校のランキング、その他の資料にそれ
21) 国大協(2007c)、pp.405-416。
22) 先﨑卓歩(2010)、pp.78-80。
23) 前掲の国大協(2007)、先﨑卓歩(2010)、さらに IDE 大学協会(1993)の「座談会
後大学政策の展開』」、pp.18-25を参照されたい。
- 91 -
『戦
年報 公共政策学
Vol. 5
ぞれ異なる加重係数を乗じて志願者の評価を行っているからである。
「広域的な共通テ
ストを開発し、高校間の評価水準の格差を補正するための方法として利用」するなら
ば、共通テストの成績、調査書の評定値、高校ランキングなどに基づく総合判定選抜
が可能となるはずであった。無論、そうした道が開かれるためには、まず何よりも高
校調査書の作成基準について一定の合意が必要となる。だが、高校調査書は「校内尺
度」にとどまり、高大接続の視点から有効に利用できるものではなかった24)。
第 2 に、
「四六答申」の趣旨が生きるためには、何よりも教育上の高大接続に必要な
学力把握を大学入試の選抜機能に依存していた日本型の高大接続自体を問題とするべ
きであった。しかし、先に見た昭和38年の答申が日本型の高大接続を前提にしていた
と同じ道を「四六答申」も辿ることとなった。
「四六答申」の真意がアメリカに近い接
続を考えていたとしても、問題の所在自体理解されることはなく25)、
「1 回限りの試験
での選抜」や「難問・奇問」への対応策として受容され、日本型高大接続の構成要素
としての共通第1次学力試験の構築・導に向かったのである。そして、そのことが後の
議論に大きな影響を残すことになる。
(2) 問題の転換―「第 3 の教育改革」と高校教育・入学者選抜制度の変容
昭和54年(1979年)に導入された共通第 1 次学力試験は、国立大学の入学者選抜の
様相を大きく変えた。しかし、前に述べたように、大学収容力の低下は1980年代を通
じて下がり続け、1989年に最低点に達するに至った。昭和50年代の高等教育計画で 4 年
制大学の設置が抑制されたのに対して第 2 次ベビーブームの反映で1985年の156万人
から18歳人口が1992年の205万人まで急増し、しかも進学希望者数も上昇したからであ
る。受験競争が激化したことは言うまでもない。
それと同時に、1970年代後半から80年代前半にかけて日本社会の変容が大きく進ん
だ。石油危機を乗り越えた日本はもはや「小国」ではありえなく、同時に1960年代末
までのケインズ主義に主導された経済政策が国際的に終焉を迎え、供給サイドでの新
たなイノヴェーションに基づく成長が期待されるようになった。換言すれば「キャッ
チアップ」過程が終わり、社会の変化・変容を創造的に推進することが求められるよ
24) 高校調査書が「校内尺度」にとどまるのは、指導要録における評価方法が「絶対評価」と
される今日でも変わることがない。むしろ「相対評価」によって統計的に導かれないだけ
に、高校での評価基準は学校ごとに異なり、調査書の評定値等を外部が利用するにはあま
りに通用性を欠いている。近年の学習評価の改善の試みにあたって国大協入試委員会が中
教審の初等中等教育分科会教育課程部会の「児童生徒の学習評価の在り方に関するワーキ
ンググループ」あてに意見(http://www.janu.jp/examination/pdf/kankou/h210706.pdf)を出し
たのはこのためである。
25) 前掲の IDE 大学協会(1993)の座談会には、
「教育上の接続」と「選抜による接続」の区分を
意識した議論がまったく見られない。それほどまでに、日本型高大接続の制度的慣性は強
かった。区分への言及には、接続を問題とした中教審答申(1999)を待たねばならなかっ
たのである。
- 92 -
日本型高大接続の転換点
うになったのである。このような状況を背景に「第 3 の教育改革」が1980年代後半に
提唱される。
昭和59年(1984年)に中曽根康弘首相は臨時教育審議会を設置し、新たな教育施策
について諮問し、昭和60年 6 月に「臨教審第一次答申」が出された26)。答申は、教育
の現状について、
「我が国の教育は、教育の機会均等の理念の下に、教育を重視する国
民性や国民の所得水準の向上などにより著しく普及し、我が国社会の発展の原動力と
なってきた」としながら、
「記憶力中心で、自ら考え判断する能力や創造力の伸長が妨
げられ個性のない同じような型の人間をつくりすぎていること」などをはじめとする
諸問題があることを指摘し、
「制度やその運用の画一性、硬直性による弊害が生じてい
る」と結論している。そして、
「受験競争の過熱」とも関連して、
「いわゆる一流企業、
一流校を目指す受験競争が過熱し…いや応なく偏差値偏重、知識偏重の教育に巻き込
まれ、子供の多様な個性への配慮に乏しい教育になっている」こと、
「生徒の能力、適
性などが多様になったが、教育は、これに十分対応し得ず、画一性の弊害が現れてき
ている」こと、
「社会・経済の進展に伴う学校教育への要請の高まりとともに、教育の
内容が増加し高度化しがちであり、受験競争とあいまっていわゆる詰め込み教育とな
ったり、画一的な教育・指導に陥っている傾向があり、学業についていけない者がみ
られる」こと、等々を問題として挙げたのであった。
次いで、答申は、
「改革の基本的考え方」として、①個性重視の原則、②基礎・基本
の重視、③創造性・考える力・表現力の育成、④選択の機会の拡大、⑤教育環境の人
間化、⑥生涯学習体系への移行、⑦国際化への対応、⑧情報化への対応、以上を掲げ、
「当面の具体的改革提言」では、
「受験競争過熱の是正」に一節を割いて、
「入学選抜方
法の改善を図るためには、人間を多面的に評価し、選抜方法や基準の多様化、多元化
を図らなければならない」と主張し、
「国公立大学共通一次試験に代えて、新しく国公
私立大学が自由に利用できる『共通テスト』を創設する」としたのであった。その際、
新たな共通テストは、
「各大学での多様で個性的な選抜の実現に資することを目的とす
る」とし、「一科目のみの利用も可能とする」ものとして構想された。共通第1次学力
試験から「大学入試センター試験」への転換が図られたのである。また、これととも
に後に「受験機会複数化」や「職業科卒業生への配慮」などが盛り込まれ、さらに「六
年生中等学校」や「単位制高校」の創出が提起された。
臨教審第一次答申を反映する国立大学の受験機会複数化は、既に昭和62年度選抜か
らの「連続日程方式」で着手されていたが、さらに平成元年から「分離・分割方式」
の採用がなされ、平成9年度からは「分離・分割方式」での統一がなされた。また共通
第 1 次学力試験から大学入試センター試験への移行は、平成 2 年度選抜から実施され
た。こうした改革の中で最も注目するべきは、受験競争の激化に対して「選抜方法や
26) 「臨教審第一次答申」については、臨時教育審議会(1985)、pp. 8-33。
- 93 -
年報 公共政策学
Vol. 5
基準の多様化、多元化」が提唱され、その結果として、普通教育の完成度をみる従来
の多数科目学力入試が後退していったことである。既に、共通第 1 次学力試験が「受
験生には負担が大きい」との批判があり、同時に「Ⅰ期・Ⅱ期校制」が無くなったこ
ともあって私立大学への志願者が増加するという結果も生まれていたこともあり、国
立大学の入試科目数にも変化が生まれた。共通第 1 次学力試験では、国立大学は当初
5 教科 7 科目(数学Ⅰ、国語、英語、社会 2 科目、理科 2 科目)を、学習指導要領の
改訂への対応もあって、昭和62年度選抜からは 5 教科 5 科目を課していたが、センタ
ー試験になって以来、国立大学がセンター試験で課す教科・科目数は大きく変化し、7
科目を課す募集人員は平成14年前期日程で13.53%、後期日程で14.5%となっていた27。
臨教審が示した方向は、さらに平成 3 年(2001年)の中教審答申『新しい時代に対
応する教育の諸制度の改革について』28)で、より具体的に、またより鮮明となる。そ
れは、高校への進学率が95%に及んで、高校が「国民的教育機関」となった段階での
高大接続を問題としたものであった。平成 3 年答申は、学校教育が抱える諸問題の背
景として「学歴主義の成立と受験競争の激化、教育における平等と効率」に言及し、
95%が進学する「国民的な教育機関」となった段階での高大接続の在り方を、臨教審
第一次答申が明らかにした改革の基本的考え方を継承しつつ新たな方策を提示してい
るが、それまでの答申は異なり、問題の諸要因や背景に立ち入るとともに、情熱的と
も言える叙述を特徴としていた。
この答申が、高大接続に関係して示した方策は 3 点にわたると言える。最初の 2 点
は高校教育に関わる。答申は「高校教育の一番基本的な問題は、…その画一性にある」
とし、多様な生徒が高校に進学するのに対して、
「質的充実」、
「実質的平等」
、
「個性尊
重・人間性重視」を改革の基本的視点において、第 1 に、当時の普通科を中心とする
高校の配置を問題とする。その上で、
「普通科については、…大学進学型の教育課程が
編成されているところが多く、就職する者に対する職業教育は不十分」であり、他方
「職業学科においても、近年では進学希望者が増加しているにもかかわらず、…進学希
望者への対応が不十分なものとなっている」と指摘し、そこから、従来の学科区分を
見直し、総合学科や新しいタイプの高校設置を奨励する―いわゆる高校の多様化を提
起したのであった。
第 2 は、上のことを受けた教育内容・方法にかかる改革―既に開始されていたとも
言える「教育課程の弾力化」である。
「各学校の教育課程は、生徒の選択の幅が限られ、
大学進学型の画一的なものとなっている例が多い。今後は、このような状況を改め、
生徒のニーズに応じた選択中心の教育課程が編成されるよう各学校を促していく必要
がある」と答申は述べる。
27) 協議・研究報告書の参考資料 1、p.18ならびにp.28。本稿では後に掲載する資料 3 を見られ
たい。
28) 中教審(1991)。
- 94 -
日本型高大接続の転換点
高校進学率の上昇もあり、昭和45年(1970年)告示の高校学習指導要領から既に必
修単位の比率は低下していた。ただ、一方では「現代化」を掲げた指導要領改訂もな
され、学習内容は高度化したとも言える。その後、昭和53年(1978年)告示の指導要
領ではさらに必修単位が少なくなるとともに卒業必要単位数も従来の85単位以上から
80単位以上に少なくされ、臨教審答申と平成 3 年中教審答申にも関係する平成元年告
示の指導要領では必修単位はやや増加したものの 2 単位科目を含めた選択が大幅に導
入される。それは、高大接続に大きな衝撃をもたらすものであった。この学習指導要
領による教育を受けた学生が入学する時から、大学は「リメディアル教育」の必要性
に直面するに至ったからである。学校 5 日制を伴う平成11年(1999年)告示の指導要
領では再び必修単位が少なくなるとともに卒業単位数も74単位を最低とするまでにな
る29)。
第 3 は、大学入学者選抜方法の「改善」であった。そこで強く打ち出されたのは、
「評価尺度の多元化・複数化」であった。
「成績優秀で、頭は良いが、協調性に乏しく、
自己主張はするものの、責任感や忍耐心に欠け、既成の観念で物事を処理して自ら現
実にぶつかって解決を図ろうとしないタイプの青年が、いわゆる高学歴者の中に多く
なった、という実感をわれわれは抱いている」が、
「幼児期から駆り立てられている記
憶力競争は人間の創造性や自発性を奪い、成人したときには既に疲れた、精神の不活
性状態を引き起こすことは、経験上知られている。
」「集団的画一的思考に陥らない真
に個性ある人物の活躍」を必要とするこれからの日本では、
「入試という現在の選抜の
仕組み及びその方法、内容が、果たして個性ある人物の選抜と育成に適しているか否
かが、今緊急に問われている。」「高校教育の改革諸案も、何らかの形で「自由化」を
目指すものだが、タテ並び一直線の受験競争の実体に根本的な改変がなされない限り」
改革は実効あるものとはならない。そのためには、
「大学が多選択型に耐える構造を示
さなくてはならない。」これが答申の出発点であり、
「ヴァラエティに富んだ個性や才
能を発掘、選抜するため、点数絶対主義にとらわれない多元的な評価方法を開発する」
ために、①「調査書、面接、小論文、実技検査などを加味し、学力検査にのみ偏しな
いように配慮する」
、②「全教科の総合評価によるのではなく、秀でた特定教科や特定
分野に重点置く」
、③「部活動・生徒会活動・取得資格・社会的活動その他を参考にす
る」等が帰着点であった。これを受けて、その後、大学入試の多様化と選抜にあたっ
ての評価尺度の多元化が進行した。平成 9 年(1997年)の中教審答申『21世紀を展望
29) 「ゆとり教育」への批判が大学側から一斉に生まれたのは、既に進行していた教育課程の
弾力化に対する批判が、平成11年告示の指導要領を契機に噴出したことを反映していた。
しかも、こうした学習指導要領の改訂過程では、初等教育以来の教育課程改訂の影響が強
く作用し、次第に高校卒業時の達成度が低下せざるをえなくなっていた。平成11年告示の
それが大きな批判を浴びたのは、高校段階までの学習内容が「3 割減」と評されるように、
大幅に縮減されたからであった。
- 95 -
年報 公共政策学
Vol. 5
した我が国の教育の在り方につい(第 2 次答申)』、平成11年(1999年)の中教審答申
『初等中等教育と高等教育の接続の改善について』、平成12年(2000年)の大学審議会
答申『大学入試の改善について』などで示された諸政策や改革案は、この延長線上に
あると言って過言ではない。
(3) 臨教審以来の大学入試批判の帰結
臨教審第一次答申と平成 3 年の中教審答申が指摘する問題が存在し、また我が国の
大学入学者選抜が 1 点刻みの得点差―場合によっては1点以下のごく僅かな点差―が
もつ絶対的な公平性への依存から脱却する必要性があったことは疑い得ない。だが、
そこには、高等教育機関の配置問題などを別にして高大接続という狭い視点から見て
も、大きく 2 つの問題が潜在していた。
その第 1 は、改革が、教育上の高大接続を大学入試に依存し、したがって教育上の
学力把握の有効性を入試の選抜機能に依存していたこと自体を取り上げなかったこと
である。英米の高大接続では、教育上の接続ための学力把握が共通テストによってな
され、それに基づいて「総合判定主義」に基づく選抜が可能となっている。調査書の
信頼性については前に触れたとおりであって、共通の学力把握を欠いたまま「総合判
定主義」を行うことは困難であり、
「特定教科や特定分野」の能力重視や「部活動・生
徒会活動・取得資格・社会的活動」などの評価を選抜に反映させることも教育上大き
な欠陥をもつとしか言いようがない。AO 入試や推薦入試(最初は「推薦入学」と言
われた)等の「非学力選抜」は、このような致命的欠陥を胚胎したまま推進させられ
たのであった。
「四六答申」の共通試験構想が、日本型高大接続の根本的問題に触れる
ことなく、大学の学力選抜の一環をなす共通第 1 次学力試験の構築・導入に終わった
ことの影響をここに看取することができる。
臨教審以来の大学入試批判は、日本型高大接続の問題を看過しただけではなかった。
それだけであれば「四六答申」と同じだが、臨教審答申と平成 3 年答申での改革では、
「高校間の評価水準の格差を補正する」ために共通テストを構想した「四六答申」とは
大きく軌道を異にして、大学入試センター試験は1科目のみでも利用できるようになり、
また個別入試でも「特定教科や特定分野」の重視に見られるように少数科目入試の奨
励とも受けとめられる方向が提起された。そして、平成 9 年(1997年)の中教審答申
『21世紀を展望した我が国教育の在り方について(第二次答申)
』では、
「同一大学の同
一学部・学科における複数の選抜基準の導入」や「学力試験において課すべき教科・
科目の選択の幅の拡大や多様化」「日本型 A.O.の整備」が、平成11年(1999年)の中
教審答申『初等中等教育と高等教育との接続の改善について』では、AO 入試の奨励
が明記されたのであった。これらは、普通教育の達成の上で高大接続を構想し、入試
にあって「全教科群にわたって出題することが望ましい」とし、またそうしたことを
前提に総合判定主義を主張した従来の文部省の主張の大きな修正を意味した。言い換
- 96 -
日本型高大接続の転換点
えれば、学力試験自体の簡易化・容易化を推進したのである。
第 2 は、今述べたことと関係するが、臨教審以来の大学入試批判は、学力把握を学
力入試に依存した日本型高大接続の成否が、高校での教育課程と大学入試における基
礎的教科・科目の出題によって支えられてきたことを看過するものであった。
高校が国民的教育機関となる段階では、高校卒業者のすべてが大学に進学しないが
ゆえに教育課程を弾力化するべきだとの考えには合理性が存在する。また、画一的に
大学入試を目指す教育を改めることにも合理性が存在する。だが、その際に、日本型
の高大接続が高校の教育課程の在り方と入試の出題教科・科目に基盤をもっていたこ
とを、さらに学校教育法において高校卒業が大学入学資格を定めているということを
少しでも理解するならば、当然ながら「高大接続に必要な教育課程の在り方はどうす
るべきか」が問題となる。しかし、一般の教育課程を弾力化する中で高大接続に必要
な教育課程を別に設定するということは検討もされなかった。臨教審や中教審が直面
していた課題は、余りに厳しい受験競争とそれがもたらす弊害であり、高大接続に必
要な教育課程を問題とする必要性は当面無かったからである。
以上のことから明らかになるのは、臨教審第一次答申と平成 3 年中教審答申から始
まる種々の改革や施策が、皮肉なことに、普通教育の一定の達成を実現して大学につ
なげるという教育上の接続を、従来よりもはるかに強く、なお一層大学入試に、その
選抜機能に依存する結果をもたらしたことである。日本型高大接続への批判は、遂に
日本型高大接続が抱える問題を直視することなく展開され、最後に一層日本型高大接
続を強化し、受験に直接規定される高校教育をもたらしたと言うべきではないであろ
うか。
なお、従来の大学入試批判と改革を顧みるにあたり、一点注意するべきことがある。
個性重視や画一性の排除は、普通教育の追求と矛盾するものではない。個性の重視が、
生徒の嫌いな科目履修を排除することであれば、それは逆に生徒の可能性を閉じるこ
とにさえつながる。基礎的教科・科目の普遍的学習や入試でのそうした教科・科目出
題は、凡ての教科・科目に秀でることを目的とするわけでもない。現在使用されてい
る言葉を使うならば、
「生きる力」を支えるために人間が自由な営為の中で追求し蓄積
してきた知恵とその利用の仕方を学ぶことを育むためにある。逆に、知性を特定の方
向にだけ誘導するならば、つまり普通教育を追求しないならば、偏向した知性を生み
かねないであろう。海軍大臣として三国同盟を承認し、後に海軍大学校長となってい
た及川古志郎大将は、昭和18年に高山岩男京都大学教授と矢部貞吉東大教授、それに
海軍大学校教官の千田金二大佐を前に、
「米英を敵として戦っている事態を作りだした
主因の一つは、わが国軍人を教育するにあたってもっぱら戦闘技術の習練と研究に努
力し、政治と軍事との関係を考える教育を顧みなかったことだ」と語ったという30)。
30) 実松譲(1993)、pp.259-274。
- 97 -
年報 公共政策学
Vol. 5
また、専門教育機関で教授される知識や技術が、所詮その時代の知識と技術であり、
学校を卒業してから現実に直面する課題に対応するには広い教養と基礎を欠くことは
できないことも看過してはならない。
まして、現代の知識基盤社会では、一方では、これまで専門の学部や研究科に別れ
ていた諸領域の統合・融合が必要とされ、他方では、先端研究での異分野の学問の吸
収が進んでいる。サステイナビリティに関する研究と技術開発は前者を代表し、生物
学や物理学の成果の経済学への組み込みやナノ・レベルでの生物学研究は後者を体現
する。平成19年(2007年)の「国大協入試委員会報告」が指摘するように31)、高校で
の普通教育と大学での一般教育―ともに general education の訳語―を欠いた現代の専
門家育成は「二流の専門家」育成に帰着するしかない。真に個性的な人材、創造的な
人材の育成が、あたかも普通教育の否定から生まれるとするのは謬見と言うべきでは
ないであろうか。
3. 高大接続の転換点
高校での普通教育と大学入試での出題教科・科目の削減の上に展開した入学者選抜
の多様化・評価尺度の多元化は、教育上の接続に不可欠な学力把握を大学入試に依存
する傾向を強めたが、それが成功するには厳しい受験競争が不可欠であったとも言え
る。それなしには、入学者選抜の多様化・評価尺度の多元化は、高校での教育の達成
度の低下に帰着する危険を孕んでいたからに他ならない。そして、危険は平成 4 年を
ピークとした18歳人口の継続的減少と大学収容力の上昇の中で現実のものとなる。
平成4年(1992年)度の205万人を境に18歳人口は減少を続け、平成21年度には121
万人にまで落ち込み、10年後にはさらに110万人台になると見込まれているのに対して、
大学の入学定員は平成4年度の54万人から平成12年には60万人に達し、現在も大きな変
化はない。大学進学率は、平成 6 年度にはじめて30%を超えてから急速に上昇し、平
成21年度に50%を超えるに至った。今後も18歳人口の増加は見込まれず、低位で推移
し、ほどなく110万人台が定常的となると見込まれている。
高大接続が機能不全となっている状況については、協議・研究報告書に詳しく触れ
ているので、それに従いつつ、協議・研究報告書の参考資料で調査した結果を一部こ
こで紹介することにしよう。第 1 に、注目するべきは「非学力選抜」の増加である。
文部科学省によれば、平成 9 年度に、学力選抜は入学者58万3,000人余りの入学者の
72.1%、推薦入試は26.8%、AO 入試は未調査の段階でしかなかったが、平成20年度
の学力選抜は、59万6,000人余りの入学者のうち55.9%となっている。設置者別に見る
と、国立大学では学力選抜が84.4%、公立大学では75.6%を占めているが、私立大学
では48.6%にとどまる。私立大学の AO 入試は9.6%、推薦入試は41.2%を占め、両者
31) 国大協(2007 b)、pp.18-19。
- 98 -
日本型高大接続の転換点
を合わせると50%を超えている。
問題は、このような「非学力選抜」が、米英のような高大接続に必要な教育上の達
成度をみる共通テストなしに実施されていることである。そこから生じる問題を協
議・研究報告書は以下のように指摘している。
AO 入試や推薦入試は「完全情報」型入試と言える。そこで、それらの入試によ
って選抜された学生については、入学後の大学での適応度が学力入試によって選
抜された学生よりも本来は高くなると考えられる。だが、山村滋、鈴木規夫、濱
中淳子、佐藤智美『学生の学習状況からみる高大接続問題』
(独立行政法人大学入
試センター研究開発部、平成21年)、ならびに山村滋大学入試センター研究開発部
准教授(当時)の第 3 回協議・研究委員会での研究報告によれば、AO 入試によ
る入学者の大学への適応度は、入試偏差値でランク付けした場合の下位ランクの
大学では低くなっている。また、濱名篤(第 6 回協議・研究委員会報告)の特定
の私立大学を抽出しての調査によれば、AO 入試、推薦入試、内部進学など「非
学力選抜」からの入学者は学力入試からの入学者よりも入学直後の成績が低く、
大学不適応のリスクも高くなるとされている。学力把握を伴わない選抜が増加す
るとともに、本来は適応度が高くなるはずの AO、推薦、内部進学などからの入
学者に接続上の問題が生じている。入試の多様化や選抜にあたっての評価尺度の
弾力化を担った AO 入試などが、必ずしも所期の効果を生んでいないこと、また、
そのことが、アメリカのような共通テストを欠くことに関係していることなどが、
今日では明らかとなっている32)。
第 2 は、学力選抜が著しく少数科目を課す入試になっていることである。これにつ
いて報告書は次のように述べる。
平成21年度の私立大学入試ではセンター試験以外の学力入試が課された177,919
人の募集人員のうち、3 教科 3 科目以上を課す入試は50%をわずかに上回る
90,000人弱にとどまり、2 教科 2 科目入試が23.1%、1 教科 2 科目ないし 1 科目入
試が25.7%となっている(2 教科と 3 教科あるいは 2 科目と 3 科目の選択や 1~2
科目と実技、面接の組み合わせなどは含まない)。私立大学では41,844人をセンタ
ー試験のみで選抜しているが、国立大学が標準としている 5(6)教科 7 科目を課
しているのは 1%もなく、3 科目が41.24%、2 科目が31%を占め、センター試験
と個別試験を組み合わせている5,312人についてもセンター試験で 5 科目以上を
課している募集人員は10%を下回っている。
国立大学は、平成12年(2000年)に提言『国立大学の入試改革―大学入試の大衆化
を超えて―』をもって、大学入試センター試験については従来の 5 教科 5 科目から 5
(6)教科 7 科目を原則とすることとし、それに伴い資料 3 に見るように、大きな変化
32) 協議・研究報告書、pp. 9-10。
- 99 -
年報 公共政策学
Vol. 5
資料3.国立大学のセンター試験受験科目の変化
を実現している。しかし、私立大学では、資料 4-2 にみるように基礎的教科・科目の
出題が相対的には低下していると言わざるを得ない。
少数科目入試の増加は、それ自体問題であるが、なお重要なことに入試の教科・科
目のパターンを著しく増加させた点にも注目しなければならない。資料 2 と資料 4-1
を比較するならば、教科・科目数のみから見た個別学力入試の類型は、昭和31年度の
私立大学で36パターンであったが、平成21年度では159パターンに増加した。科目の組
み合わせを考慮すれば、パターンの数はより多くなる。それは、個性に合わせた選抜
というよりも、高校段階での選択に合わせた大学選択へと受験者を導き、ひいては高
校の進路指導と教育に大きな負担を負わせるようになっている。
- 100 -
日本型高大接続の転換点
資料4-1.平成 21 年度・私立大学入試教科・科目の組み合わせ
受験科目数
3 教科 3 科目
2 教科 2 科目
2 教科 2 科目 3 教科 3 科目
1 教科 2 科目 2 教科 2 科目
1 教科 1 科目
2 教科 2 科目+小論文
2 教科 2 科目+実技
2 教科 2 科目+面接
2 教科 3 科目 3 教科 3 科目
3 教科 4 科目
1 教科 1 科目 2 教科 2 科目
3 教科 3 科目+面接
3 教科 3 科目+小論文+面接
1 次【3 教科 4 科目】:2 次【小論文+面接】
1 教科 2 科目 2 教科 2 科目 3 教科 3 科目
1 教科 1 科目 2 教科 2 科目 3 教科 3 科目
1 教科 1 科目+小論文 2 教科 2 科目+小論文
1 教科科目+面接
1 教科 1 科目 3 教科 3 科目
2 教科 2 科目+実技 3 教科 3 科目
4 教科 4 科目
1 次【3 教科 4 科目+小論文】:2 次【面接】
3 教科 3 科目+実技
1 教科 2 科目 2 教科 2 科目 2 教科 3 科目 3 教科 3 科目
小論文+面接
1 教科 1 科目+小論文
1 次【3 教科 3 科目】:2 次【面接】
実技
2 教科 2 科目 1 教科 1 科目+実技
2 教科 2 科目+小論文+面接
2 教科 2 科目+小論文 3 教科 3 科目
2 教科 2 科目 2 教科 3 科目 3 教科 3 科目
2 教科 2 科目 小論文+面接
1 教科 1 科目 2 教科 2 科目 小論文+面接
1 次【3 教科 4 科目】:2 次【小論文+面接+適性検査】
1 教科 1 科目+小論文+リベラルアーツ学習適性
1 教科 1 科目+実技 2 教科 2 科目+実技
実技+面接
2 教科 2 科目 1 教科 1 科目+小論文
小論文
1 教科 1 科目+実技
2 教科 3 科目
1 次【2 教科 2 科目】:2 次【小論文+面接】
2 教科 2 科目 2 教科 2 科目+実技
3 教科 3 科目(+実技)
1 教科 2 科目+面接 2 教科 2 科目+面接
1 次【3 教科 3 科目】:2 次【1 教科 1 科目+面接】
実技+小論文+面接
3 教科 4 科目+小論文
1 教科 1 科目 小論文
2 教科 2 科目 1 教科 1 科目+面接 小論文+面接
1 次【2 教科 2 科目】:2 次【実技+面接】
総合問題
1 次【3 教科 3 科目】:2 次【小論文+面接】
1 教科 1 科目 1 教科 2 科目 2 教科 2 科目
- 101 -
募集人員(人/%)
85,868
48.3%
41,102
23.1%
8,458
4.8%
6,287
3.5%
4,584
2.6%
2,984
1.7%
2,626
1.5%
2,341
1.3%
2,062
1.2%
1,638
0.9%
1,526
0.9%
1,205
0.7%
753
0.4%
734
0.4%
653
0.4%
565
0.3%
550
0.3%
522
0.3%
483
0.3%
479
0.3%
469
0.3%
390
0.2%
374
0.2%
362
0.2%
345
0.2%
341
0.2%
340
0.2%
339
0.2%
326
0.2%
306
0.2%
291
0.2%
282
0.2%
275
0.2%
252
0.1%
252
0.1%
250
0.1%
249
0.1%
222
0.1%
219
0.1%
210
0.1%
207
0.1%
205
0.1%
191
0.1%
175
0.1%
162
0.1%
158
0.1%
155
0.1%
152
0.1%
146
0.1%
144
0.1%
140
0.1%
136
0.1%
129
0.1%
120
0.1%
118
0.1%
年報 公共政策学
Vol. 5
受験科目数
1 教科 1 科目+小論文 3 教科 3 科目
1 教科 1 科目+面接 小論文+面接
1 教科 1 科目 2 教科 2 科目 2 教科 2 科目+実技 3 教科 3 科目
3 教科 3 科目 2 教科 2 科目+実技 2 教科 2 科目+小論文
2 教科 2 科目+実技 2 教科 2 科目+小論文
2 教科 2 科目+総合問題
1 教科 1 科目 2 教科 2 科目 実技
2 教科 2 科目 小論文
1 次【3 教科 4 科目】:2 次【面接】
1 教科 1 科目+実技 1 教科 1 科目+小論文+面接
1 次【3 教科 3 科目】:2 次【1 教科 1 科目】
1 次【2 教科 2 科目】:2 次【実技】 【小論文+面接】
2 教科 2 科目 1 教科 3 科目 2 教科 3 科目 3 教科 3 科目
一般教養試験 一般教養試験+実技
1 教科 1 科目+実技 1 教科 1 科目+小論文
実技 小論文
4 教科 4 科目+面接
2 教科 2 科目 1 教科 1 科目+小論文 小論文+面接
2 教科 2 科目+実技 3 教科 3 科目+実技
1 次【2 教科 2 科目+資料読解】:2 次【面接】
1 教科 1 科目 2 教科 2 科目 小論文
1 教科 1 科目+小論文+面接 2 教科 2 科目+面接 小論文+面接
1 教科 1 科目+総合問題
1 次【3 教科 4 科目+小論文+適性検査】:2 次【面接】
2 教科 2 かもう+実技+小論文 3 教科 3 科目+小論文
1 日目【3 教科 3 科目】:2 日目【1 教科 1 科目+実技】 【実技】 【実技+小論文】
1 教科 1 科目+実技+面接 2 教科 2 科目+面接
1 次【2 教科 2 科目】:2 次【実技+面接】 【小論文+面接】
2 教科 3 科目+小論文+面接
実技+小論文
1 教科 1 科目 面接
2 教科 2 科目+面接 3 教科 3 科目+面接
1 教科 1 科目+実技 小論文
1 教科 1 科目+実技+面接(+小論文)
1 次【3 教科 4 科目+面接】:2 次【小論文+面接】
1 教科 1 科目+基礎学力能力試験
3 教科 3 科目 小論文+面接
1 次【3 教科 3 科目】:2 次【面接+基礎学力試験】
1 教科 1 科目+論述重点
1 次【4 教科 4 科目】:2 次【面接】
2 教科 2 科目 面接
2 教科 2 科目+実技 3 教科 3 科目+実技 実技
3 教科 3 科目+小論文
3 教科 3 科目+適性検査
2 教科 2 科目+実技 実技+小論文
1 教科 1 科目+小論文+面接 2 教科 3 科目+面接 3 教科 3 科目+面接
1 教科 1 科目+面接 2 教科 2 科目+面接 3 教科 3 科目+面接
1 教科 1 科目+面接 小論文
1 次【3 教科 3 科目】:2 次【小論文】
2 教科 2 科目 面接 小論文+面接
3 教科 3 科目 3 教科 3 科目+面接
面接
2 教科 2 科目 実技
1 教科 1 科目+面接 2 教科 2 科目+面接
実技 小論文 面接
1 教科 1 科目+講義理解力
2 教科 2 科目 1 教科 1 科目+プレゼンテーション
- 102 -
募集人員(人/%)
115
0.1%
111
0.1%
110
0.1%
110
0.1%
108
0.1%
106
0.1%
105
0.1%
105
0.1%
100
0.1%
80
0.0%
77
0.0%
72
0.0%
70
0.0%
70
0.0%
69
0.0%
67
0.0%
66
0.0%
65
0.0%
64
0.0%
62
0.0%
60
0.0%
60
0.0%
60
0.0%
60
0.0%
60
0.0%
58
0.0%
57
0.0%
57
0.0%
57
0.0%
55
0.0%
54
0.0%
54
0.0%
52
0.0%
50
0.0%
50
0.0%
48
0.0%
45
0.0%
42
0.0%
40
0.0%
40
0.0%
40
0.0%
40
0.0%
40
0.0%
40
0.0%
37
0.0%
35
0.0%
35
0.0%
35
0.0%
35
0.0%
35
0.0%
35
0.0%
34
0.0%
33
0.0%
32
0.0%
32
0.0%
30
0.0%
30
0.0%
日本型高大接続の転換点
受験科目数
2 教科 2 科目 実技 小論文
2 教科 2 科目 総合力試験
1 教科 2 科目
1 教科 2 科目 2 教科 2 科目 実技
1 教科 1 科目 2 教科 2 科目 3 教科 3 科目 2 教科 2 科目+小論文 2 教科 2 科目+面接
2 教科 2 科目 1 教科 1 科目+実技 1 教科 1 科目+小論文
1 教科 1 科目 総合問題
1 教科 1 科目+実技+面接 1 教科 1 科目+小論文+面接 面接+自己表現
1 教科 1 科目+面接 面接 小論文+面接
1 教科 2 科目+実技 2 教科 2 科目+実技
2 教科 2 科目 1 教科 1 科目+面接
2 教科 2 科目+面接+適性検査 面接 小論文+面接+適性検査
2 教科 2 科目 3 教科 3 科目 書道コースのみ 1 教科 1 科目+実技
実技+面接 小論文+面接
1 教科 1 科目 実技 小論文
1 教科 1 科目+実技(+面接)
1 教科 1 科目+実技 1 教科 1 科目+小論文 1 教科 1 科目+面接 実技+面接 小論文+面接
2 教科 2 科目+実技+小論文
2 教科 2 科目 2 教科 4 科目
1 教科 1 科目+実技 1 教科 1 科目+小論文 実技 実技+小論文
1 教科 1 科目+面接+小論文+聖書
1 教科 1 科目+小論文 小論文+面接
1 教科 1 科目+面接 2 教科 2 科目
書類審査
1 教科 1 科目 実技
1 教科 1 科目+面接+資料読解
1 教科 2 科目 2 教科 2 科目 面接
2 教科 2 科目+面接 小論文+面接
2 教科 3 科目 3 教科 3 科目 2 教科 2 科目+実技
実技 小論文+面接
小論文 プレゼンテーション
面接+自己表現力テスト
レクチャー方式
2 教科 2 科目+小論文 2 教科 2 科目+プレゼンテーション 小論文 小論文+プレゼンテーション
実技 実技+小論文
1 教科 1 科目 1 教科 1 科目+面接 小論文+面接
1 教科 1 科目+実技 面接
1 教科 1 科目+面接 実技 面接
1 教科 2 科目+小論文+面接 2 教科 2 科目+小論文+面接
2 教科 2 科目 2 教科 2 科目+面接
面接 小論文+面接
1 教科 1 科目+面接 実技 小論文
1 教科 1 科目+面接 実技+面接
1 教科 1 科目+面接 実技+面接 小論文+面接
1 教科 1 科目+実技 1 教科 1 科目+小論文 1 教科 1 科目+面接
1 教科 1 科目+面接+小論文
面接 基礎テスト
計
- 103 -
募集人員(人/%)
30
0.0%
30
0.0%
29
0.0%
27
0.0%
26
0.0%
26
0.0%
25
0.0%
25
0.0%
25
0.0%
25
0.0%
25
0.0%
25
0.0%
23
0.0%
23
0.0%
20
0.0%
20
0.0%
20
0.0%
20
0.0%
19
0.0%
17
0.0%
16
0.0%
15
0.0%
12
0.0%
11
0.0%
10
0.0%
10
0.0%
10
0.0%
10
0.0%
10
0.0%
10
0.0%
10
0.0%
10
0.0%
10
0.0%
8
0.0%
8
0.0%
5
0.0%
5
0.0%
5
0.0%
5
0.0%
5
0.0%
4
0.0%
3
0.0%
3
0.0%
3
0.0%
0
0.0%
0
0.0%
0
0.0%
177,919 100.0%
年報 公共政策学
Vol. 5
資料4-2.平成 21 年度・私立大学の学力選抜
受験科目数
3 教科 3 科目
2 教科 2 科目
2 教科 2 科目 3 教科 3 科目
1 教科 2 科目 2 教科 2 科目
1 教科 1 科目
2 教科 2 科目+小論文
2 教科 2 科目+実技
2 教科 2 科目+面接
2 教科 3 科目 3 教科 3 科目
その他
合計
募集人員(人/%)
85,868
48.3%
41,102
23.1%
8,458
4.8%
6,287
3.5%
4,584
2.6%
2,984
1.7%
2,626
1.5%
2,341
1.3%
2,062
1.2%
21,607
12.1%
177,919
100.0%
第 3 は、今述べたことにも関連するが、高校学習指導要領の改訂による度重なる必
履修科目の単位数の縮減と選択の幅の拡大、さらにこれに関連した大学側の入試の多
様化・評価尺度の多元化などに基づく学力試験科目の縮小が、大学での学習の基礎と
なるべき教科・科目を高校生が履修せずに入学するという状況を広くもたらしている
ことである。その結果、大学での教養教育や専門基礎教育に支障が生まれてきたのは
周知のところであろう。理系大学に進学するのに必要と考えられる物理Ⅱの教科書購
入率が12%にまで落ち込んでいるのをはじめ、生物Ⅱ、数学Ⅲ、数学 C も20%を下回
る状況となっており、物理を履修しないで工学部に、生物を履修しないで医学系の学
部に入学するという事態が例外ではなくなっている33)。
33) 「高大接続テスト(仮称)」の協議・研究は、データの不足に悩まされ続けた。高校での科
目履修の状況についての信頼しうる全国統計はない。学力低下について、統計的根拠のな
- 104 -
日本型高大接続の転換点
他にも指摘しうる点は多々あるが、これらを一瞥しただけで、高校段階で普通教育
について一定の達成度を得て、それを基礎に大学に進学するという我が国の高大接続
の理念が実現しえなくなっていることが明らかである。普通教育の縮減と科目選択の
幅の拡大が、少数科目入試や非学力選抜を生み出し、それがまた高校での普通教育の
目標達成を抑制するという「退行スパイラル」を生み出し、また志願者を集めるため
の「グレシャムの法則」にも似た大学の選抜形態の変化をもたらしている。日本型高
大接続が内包していた大学入試の選抜機能への教育上の接続機能依存が、臨教審答申
以来の入学者選抜改革によって一層強められ、それが18歳人口減少に伴って日本型高
大接続自体の危機を招いたことが明らかであると言わねばならない。
4. 高大接続の転換の必要性と「高大接続テスト(仮称)」
(1) 改革の基本的方向と「高大接続テスト(仮称)」の基本的在り方
日本型の高大接続がそれ自体危機に陥り、もはや維持しえない状態にあることは明
らかである。では、どのような方向に進むべきか。これまでの考察から導かれる方向
は、第 1 に、まず高校段階での普通教育を促し、かつその達成度を把握することによ
って教育上の高大接続を可能とすること、第 2 に、それを基礎にして大学入学者選抜
改革を図ることであろう。この両者を実現するためには、何よりも高校段階の基礎的
教科・科目についての教育の達成度を把握するための共通テストが必要となる。それ
が、「高大接続テスト(仮称)」に他ならない。
改革の基本方向がこのように定まるならば、「高大接続テスト(仮称)」が、
① 従来の入試やセンター試験などに見られる集団準拠型試験ではなく目標準拠型
試験であるべきこと、
② 達成度(到達度)テストであり、高校生それぞれの目標達成を励ますためにも複
数回受験可能なものであるべきこと、
③ そのためにも基礎的教科・科目の全般にわたるテストであるとともに、教科書な
ど基本的教材から出題されるテストであるべきこと、
④ 以上の条件を満たすために標準化されたテストであること34)、
いままに論争がなされ、また高校生の自宅での校外学習時間についても正確な統計がない
ままになっている。大学入学者選抜形態についても大学入試センターがデータを提供する
以前は、
『蛍雪時代』が唯一の一覧データでしかなかった。教育政策が立脚するべき基本的
データがないままにこれまで議論がなされてきたと言うしかない。理念と個々の経験に依
存した議論は、事実を直視しない期待に基づく政策の策定に向かう可能性がある。行政や
公的部門・国立大学等の研究機関で基礎的なデータを確保することは、我が国教育政策上
極めて重要な課題と言うべきではないであろうか。
34) 協議・研究報告書、pp.29-32を参照されたい。後にも触れるが、センター試験をはじめと
する従来のテストは、各問題に素点が配分された同一問題を同一時間に一斉に実施し、解
- 105 -
年報 公共政策学
Vol. 5
⑤ 適性試験ではなく、あくまでも教育内容に関するテストであるべきこと、
⑥ 多様な高校と大学が同時に利用可能であるべきこと、
以上が導かれる35)。
「高大接続テスト(仮称)
」の基本的性格や構造については、協議・研究報告書に詳
しいので、これ以上触れることにはしない。また、今指摘したことに対する異論もほ
とんど存在しない。だが、それに関わってなお言及しておく論点が幾つか存在する。
協議・研究に対して提起される疑問の多くが、日本型の高大接続の転換の意味を十分
理解しないだけでなく、ある誤解に基づく場合がある。それらについて以下で触れる
ことにしたい。
(2) 大学の適正規模
第 1 に、しばしば、
「新しいテストを導入するよりも大学を減らして適切な競争環境
を整えれば良いのではないか」という疑問が投げかけられる。この疑問の問題は、大
学進学率50%が過去に比して高すぎるという認識から生じている。だが、問題は過去
との比較ではない。
よく知られているように、我が国大学進学率は欧米に比してもアジア諸国、大洋州
諸国に比しても既に高いものとは言えない状態にある。無論、外国の進学率には日本
で言えば短大や高等専門学校などを含む場合もあり、専門学校まで含んで「高等教育」
を考えれば日本の高等教育レベルは十分高いとも言える。しかし、日本とほぼ同程度
の大学進学率となっているフランスやドイツでバカロレアやアビトゥアを通じて高大
接続が可能となっている状態と比較するならば、我が国の大学進学率が「高すぎる」
とは決して言えないであろう。大学進学率の評価は、高等教育においてなされている
教育の質を視野に入れてなされない限り意味をもたないのである。そこで、問題は、
国際的に見てそう高くない大学進学率にあるにもかかわらず、知識基盤社会を支える
答を素点の合計で表示する「古典的テスト」である。これでは、複数回の実施は実行不可
能であるし、また複数のテスト間の比較が困難である。このため、ACT や医学系共用試験
の CBT(Computer Based Testing)では、IRT(Item Response Theory)に基づいて、問題の標準化
がなされている。また、アメリカへの留学に普遍的に利用されている TOEFL では、さらに
CAT(Computer Adaptive Testing)が採用され、受験者の能力に応じた出題がパーソナル・コ
ンピューターによって可能とされ、広範な難易度での出題が可能となっている。後に触れ
るように、CBT は国際的にも普及してきており、長期的にみれば従来のテストよりもコス
トを低減しうる可能性をもつ。だが、当面直ちに CAT を用いる CBT でテストを行うのは
困難であり、PBT(Paper Based Testing)を導入するしかないであろうが、その際には難易度
をどの水準に設定するのか、また受験者層の能力に相当の開きが場合に 1 種類のテストで
達成度を測ることが可能かという問題などが生じる。
35) 「高大接続テスト(仮称)
」は、大学入学資格試験でも高校卒業資格試験でもない。学校教
育法の改訂を行わない限り、そのようなテストの導入は不可能である。まして「悉皆テス
ト」ではありえない。
- 106 -
日本型高大接続の転換点
大学教育が全体的に「やせ衰え」
、高校教育が一部の進学校を除いて「底が抜ける」状
態になっていることにある、と結論せざるを得ない。そうであるならば、大学進学率
を抑制するのではなく、大学進学に必要な教育の達成度を高校段階から高めることが
今必要だということが導かれる。
これに関連して、
「一部のブランド大学が生き残れば大丈夫ではないか」との声もあ
るが、教育がグローバル化し、大学自体が国際的な競争に直面していることを看過し
ているとしか言いようがない。一方では、グローバルな知的競争状態を見て国内の大
学ではなく外国の大学への入学志向が生まれ、他方でヨーロッパ共同体の教育改革に
基づいて大規模な学生の移動が国際化に生じ、国際的に高い評価をもつ米州や欧州の
大学への留学がアジア各国から生じていることを忘れてはならない。
(3) 大学入試センター試験と「高大接続テスト(仮称)」の関係
「高大接続テスト(仮称)
」に対する最も強い異論は、高校教育界にある「センター
試験があるのに、他にもテストをするのか」というものである。それと関連して「セ
ンター試験があるのだから、高大接続テストは不要である」という意見が出される。
第 1 に留意するべきは、センター試験がもつ性格である。センター試験は、
「高等学
校における一般的かつ基礎的な学習の達成の程度を評価する」ことを目標とした共通
第 1 次学力試験という目標準拠型のテストを継承した側面を有する。だが、同時にそ
れは、利用大学に対して公平な選抜のための資料を提供するという目的を有する集団
準拠型の試験である。利用大学は、種々の方法でセンター試験の得点を利用して選抜
を行う。大学の一部ではセンター試験の得点差だけで選抜を行っている。
基礎的学習の達成度を測るという目標準拠型テストの機能と集団準拠型試験として
の機能は、ごく簡単に言えば、基礎的な学習の達成度を測るに相応しい領域から出題
し、しかしながら得点の平均が60%前後となるとともに標準正規分布に近い単峰型(ベ
ル型)の成績分布が得られるように出題するという努力によって調和させられてきた。
だが、そこには自ずと限界が存在する。その時々の受験者集団を偏差値で評価すること
が可能となるような試験は可能となるものの、達成度評価に近い試験の実施は困難とな
る。このため、複数回の試験成績を比較することが困難という問題を抱えざるをえない。
集団準拠型の試験であることが求められるセンター試験は、さらに、もう一つの問
題を内包する。基礎的な学習の達成度を測ることを目標にしながら、教科書に掲載さ
れるような標準的な素材や問題を出題すると公平性が損なわれるという問題である。
それを端的に示すのが国語の素材文である。大学入試センターの調べによれば、平成
14年度の「国語Ⅱ」教科書31点中の30点に「源氏物語」が、26点に「枕草子」が掲載
されていたが、平成 9 年~17年のセンター本試験に両作品からの出題はなかった36)。
36) 協議・研究報告書、p.33。
- 107 -
年報 公共政策学
Vol. 5
全国的な公平性を確保しなければならない集団準拠型の試験では、教科書に掲載され
ている題材や問題、それに他の試験に出題された素材や問題を繰り返し出題すること
は公平性の観点から許されないからである。このため、国語古典の素材文は「擬古文」
から採択される傾向をもつこととなった。言い換えれば、センター試験は、高校生が
標準的に学ぶべき領域を励ますという機能を欠くことになったのである。現行のセン
ター試験を教育上の高大接続に必要な達成度を測るテストとして位置づけることに著
しい困難があることが以上から明らかとなる。
第 2 は、センター試験が、素点主義をとる「古典的テスト」であるという性格を有
し、また公平・公正な選抜に資料を提供するという性格をもつことから、全国一斉に
同一の試験を可能な限り同一の環境を整えて行う形式をとってきたことである。この
ように高いコストを伴うテストを年に複数回実施することは極めて困難である。かつ
て、平成12年(2000年)の大学審議会答申『大学入試の改善について』などが「セン
ター試験の年複数回実施」などを提唱したが、これが実現可能性をもたなかったのに
は、集団準拠型の受験者の差別化に重きを置く試験を複数回行っても比較が難しいと
いう問題とともに、こうした高いコストを要する試験を複数回実施することへの資源
制約があったというべきであろう。
このように見るならば、現行のセンター試験を教育上の高大接続実現のために利用
することができないことが明らかである。目標準拠型のテストを教育上の接続を確か
なものとするための学力把握に導入すること自体を否定するのでないとしたならば、
むしろ「高大接続テスト(仮称)
」の構築・導入を踏まえて、大学入試センターやセン
ター試験をどのように改革するべきかという検討を行うべきである。高校側から提起
される疑問が、
「
『高大接続テスト(仮称)』を導入するのであれば、既存のセンター試
験をそのままにするのではなくセンター試験の改革と入学者選抜制度改革も同時に行
うべきである」ということを意味するのであれば、そうした疑問は肯定されて良いで
あろう。
付言すれば、大学入試センター試験は、種々の限界はあっても「高等学校における
一般的かつ基礎的な学習の達成の程度を評価する」目標準拠型試験の側面を備え、良
問を蓄積してきている。従来の公平性を重視した集団準拠型試験としてのセンター試
験では、そうした蓄積を十分活かすことは困難であったが、それらを「高大接続テス
ト(仮称)」の構築の基礎にすることはそう困難ではない。大学と高校が、大学入試セ
ンターと協力して「高大接続テスト(仮称)」の研究開発にあたることが必要である。
5. 「高大接続テスト(仮称)」と今後の高校教育・大学入学者選抜
「高大接続テスト(仮称)
」の構築にあたっては、なお検討するべき諸点が残されて
いる。協議・研究報告書は、それらを、
- 108 -
日本型高大接続の転換点
① 出題教科・科目の範囲と括り、
② 期待される達成水準(CBT・CAT 導入までの過渡期間の在り方を含めて)、
③ テストの実施時期と回数、
④ 標準化に基づくテストの開発と適切なスコア(評点)の設定、
⑤ マークシート方式の弱点の克服、
⑥ 問題プールの形成と蓄積、
⑦ 試行テストなどによる十分な検証、
以上 7 点にまとめて示している。注意すべきは、これら 7 点は、これらが明らかにな
らないと「高大接続テスト(仮称)」に対する態度を決定できないという性格ではなく、
むしろ高校・大学の関係者によってそれぞれの利用法に適したテストの構築をする必
要性を示していることである。時に「まだ具体的な姿が明確でないので態度を決定で
きない」との意見もでるが、それは、根本的な問題への回答を保留していることを表
明しているに過ぎない。日本型の高大接続が最早機能し得ないという基本的認識を踏
まえて、その転換を図るために高校・大学関係者は協議し、協力して構築・導入を図
る段階にあると言わねばならない。
個別大学の学力選抜に教育上の高大接続機能を依存していた高校教育と大学の入学
者選抜は、基礎的教科・科目についての目標準拠型達成度テストの導入により大きく
変化を促される。本稿の最後に、その点に踏み込んで置こう。
高校での教育は、
「高大接続テスト(仮称)」の構築・導入によって、高校の多様化、
教育課程の弾力化、大学入学者選抜の多様化と評価尺度の多元化以来、はじめて安定
した高大接続の基準を獲得し、普通教育を再構築することに向かう枠組みを獲得する
こととなる。そして、余りに多様な大学の入学者選抜や受験に直接的に規定される高
校教育から、普通教育の基礎の上に高大接続を見据えた教育を行う基盤を獲得するこ
とにもなる。
大学では、第 1 に、教育上の接続に必要な客観的学力把握が可能となることから、
文部省が掲げてきた「総合判定主義」に基づく欧米型の選抜が可能となる。
注意すべきは、ここで「学力不問の AO 入試・推薦入試」の解消はもとより、現在
の学力選抜の弱点の克服も可能となることである。文部科学省の高等教育局大学振興
課大学入試室の調べによれば、平成20年に私立大学の志願倍率は6.9倍に、公立大学の
それは5.4倍に、国立大学のそれは4.4倍に至っている。実質倍率は無論それよりも低
くなる。そうした中で、学力選抜の機能は確実に衰えざるをえない。仮に成績分布が
正規分布にあるとして、分散(σ2)の値が低い場合には試験成績の弁別力は衰える。
σ2=1のときでも 4~5 倍以上の志願倍率がなければ合格最低点の近傍では学力面で
の相違が明確にならない可能性がある。3 倍を切るような志願倍率では、中央値に近
い山の中から選抜することになる。小論文試験などでは一般に分散が小さくなり、10
倍から20倍の志願倍率がなければ弁別力が大きく低下する。換言すれば、中央値に近
- 109 -
年報 公共政策学
Vol. 5
い山の中から選抜せざるをえなくなる37)。同じような質の受験者から選抜するのであ
れば、ごくわずかの学力試験の結果よりも調査書、高校での活動記録や面接によって
選抜する方がはるかに合理的である。
「総合判定主義」の意味はここにある。同じこと
は、センター試験のみによって選抜する一部の私立大学と国立大学の学力選抜にも言
える。したがって、大学の収容力が増加し、志願倍率が低くなる段階では、各大学に
特殊な学力試験によって選抜するよりも、「高大接続テスト(仮称)」のスコアに高校
調査書、高校での活動記録や面接を加えて総合判定する方が合理的である。このため
には高校調査書の記入により改善が加えられる必要があるし、面接や判定は選抜に通
じた専門の教員と職員で行うことになろう。また、このような選抜の導入は、現在の
学力選抜の入試問題に見られる「穴埋め」問題や「記憶力重視」の問題、さらにあま
りに特殊な「難問・奇問」の排除にもつながる。
第 2 は、大学の個別学力選抜の改革である。今、見たように「高大接続テスト(仮
称)」が導入されれば従来の学力選抜の多くが必要なくなる38)。しかしながら、
「高大
接続テスト(仮称)
」の高位得点者だけが志願するような場合や個別に必要な能力が求
められる場合がある。後者の例で言えば、実技が重視される芸術系大学や研究拠点大
学がそれにあたる。その場合には、イギリスのケンブリッジ大学やオックスフォード
大学が行っているように「高大接続テスト(仮称)
」に加えて別個の試験を行うことに
なる。ただし、その場合には、現在の入試のような個別学力試験ではなく、論述重視
の、しかも少数科目での学力試験を課すことが合理的である。また、そのような試験
についても、イギリスがそうであるように、共通の試験問題を大学入試センターのよ
うな専門的なテスト機関が大学と高校の協力を得て作成し、採点は各大学で行うよう
な形も考えられる。さらに、そのような試験を課す場合でも、高校調査書・活動記録・
面接など評価することが望ましいことは言うまでもない。いずれにせよ、大学の入学
者選抜は大きな改革へと向かうべきである。
第 3 は、「高大接続テスト(仮称)」のスコアを、初年次教育に利用することによる
大学教育の質の改善である。周知のように、アメリカの大学では、共通テストのスコ
アなどに基づいて初年次教育を実施している。残念ながら、我が国の入試関係記録は
初年次教育に利用するに適しているとは言い難く、さらに選抜以外に利用することが
できない。しかし、「高大接続テスト(仮称)」のスコアがあれば、大学での種々のコ
37) 従来、論理的思考や表現力を測るために、小論文入試が推奨されてきたが、小論文のみに
よって選抜を行うには高い倍率が必要とされる。このことは余り理解されていない。また、
この欠点を補正するために、センター試験と小論文を総合して評価する試みがなされたり
するが、そうした試みは実はセンター試験への依存度を高くし、小論文を課している意義
を損なう結果をもたらしている。
38) 「高大接続テスト(仮称)」が PBT(紙ベースの通常のテスト)で行われる場合には、高い
学力の弁別のために 2 種類のテストを設けることも必要とされる可能性は排除できない。
この点は、今後の検討課題となっている。
- 110 -
日本型高大接続の転換点
ースに入るための準備がどれだけできているかが学生にも大学にも明らかとなる。テ
ストは、日本型高大接続を転換するだけでなく、大学の教育の質の向上のインフラス
トラクチュア構築をも意味するであろう。
最後に
日本型高大接続を維持するならば、日本の大学教育が「やせ衰え」
、高校教育の「底
が抜ける」ことは明らかである。日本型高大接続の転換は、顧みれば、明治以来の「宿
題」とも言える課題であるが、もはや先送りをする状況にない。その際に重要なのは、
従来、文部科学省や国の政策には批判的であっても自らが協議し具体な解決策を提示
してくることのなかった高校と大学が、高校も公立・私立を問わず、大学も国立・公
立・私立を問わず、自らの責任において、しかも集合的に協力して改革に取り組むこ
とである。「高大接続テスト(仮称)」の構築・導入のための今後の検討諸課題は、い
ずれも高校、大学関係団体が協議検討組織を立ち上げて、知恵を出し合う必要を示し
ている。このような取り組みは公共政策としての教育政策の新たな在り方を示すこと
に通じる。「高大接続テスト(仮称)」の協議・研究報告書が提起した問題を関係者が
受けとめ、
「合成の誤謬」に陥らずに協力して改革に進むこと、それを国が適切に支援
することが期待される。
参 考 文 献
1.政府関係文献
協議・研究報告書[北海道大学(2010)「高等学校段階の学力を客観的に把握・活用できる新
たな仕組みに関する調査研究」報告書]、平成22年 9 月30日。
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/itaku/08082915/_ _ icsFiles/afieldfile/2010/11/04/1298840_
1.pdf
中央教育審議会答申(1971)
『今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策
について』、昭和46年。
同上(1991)『新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について』、平成 3 年。
同上(1997)『21世紀を展望した我が国教育の在り方について(第二次答申)』、平成 9 年。
同上(1999)『初等中等教育と高等教育との接続の改善について』、平成11年。
同上(2005)『わが国の高等教育の将来像』、平成17年。
同上(2008)『学士課程の構築に向けて』、平成20年。
大学審議会答申(2000)『大学入試の改善について』平成12年。
臨時教育審議会(1985)「第一次答申」、『文教時報』臨時増刊号、1299号、昭和60年。
2.大学団体関係文献
社団法人国立大学協会(2005)「平成20年度以降の国立大学入学者選抜改革に関する報告」、
- 111 -
年報 公共政策学
Vol. 5
平成17年。
同上(2007 a)
『平成22年度以降の国立大学の入学者選抜制度―国立大学協会の基本方針―』
、
平成19年。
同上(2007 b)
、入試委員会「報告『平成22年度以降の国立大学の入学者選抜制度―国立大学
協会の基本方針―』について」(上掲『基本方針』所収)、平成19年。
同上(2007 c)『国立大学の入学者選抜【基礎資料集】』平成19年。
国立大学協会(2000)「国立大学の入試改革―大学入試の大衆化を超えて―」
、平成12年。
社団法人日本私立大学連盟(2004)、教育研究委員会教育研究分科会『日本の高等教育の再構
築へ向けて〔Ⅱ〕:16の提言《大学生の質の保障―入学から卒業まで―》
』、平成16年。
同上(2008)『私立大学入学生の学力保障―大学入試の課題と提言』平成20年。
3.雑誌
IDE 大学協会(1993)『IDE 現代の高等教育』「戦後大学政策の展開」平成 5 年12月号。
同上(2008)「『学士課程教育』答申案を読む」平成20年11月号。
全国大学入学者選抜研究連絡協議会(2007)『大学入試研究の動向』第24号、「特集
各国の
入試制度」、平成19年 3 月。
全国普通科高等学校長会(2009)『全普高会誌』第57号、平成21年。
4.その他
荒井克弘、長澤成次、榎本剛、荻上紘一、佐々木隆生、松本亮三、髙木克(2010)
「公開討論
会
大学全入時代におけるこれからの大学入学者選抜制度の在り方―中教審答申『学士課
程教育の構築に向けて』をふまえて」
、全国大学入学者選抜研究連絡協議会『大学入試研究
の動向』第27号、平成22年 3 月。
荒井克弘、髙木克、佐々木隆生(2009)
「特集
高大接続」、河合塾全国進学情報センター『ガ
イドライン』平成21年 7・8 月号。
佐々木隆生、松本亮三、関根郁夫、青山彰、横山晋一郎(2010)「【シンポジウム】高大の接
続をめぐって」『月刊
高校教育』平成22年3月号。
佐々木隆生(2007)「私大型の複数受験・複数合格-国立大に導入
問題多く」『日本経済新
聞』平成19年 5 月21日。
同上(2009)
「『高大接続テスト』採用を
基礎学力
一定水準に導く」
『日本経済新聞』平成
21年 4 月20日。
同上(2010)「
『高大接続テスト』と教育改革」『月刊
高校教育』平成22年 1 月号。
実松譲(1993[1975])、『海軍大学教育―戦略・戦術道場の功罪』光人社
鈴木規夫、山村滋、濱中淳子(2009)
『大学入試の在り方を考える―高校側の視点・大学側の
視点』、独立行政法人大学入試センター研究開発部、平成21年。
先﨑卓歩、斉藤剛史、倉元直樹、中井浩一、髙木克、清水幹恵(2008)
「特集
- 112 -
これからの高
日本型高大接続の転換点
大接続を考える」、高校教育研究会『月間
高校教育』平成20年10月号。
先﨑卓歩(2010)
「高大接続政策の変遷」北海道大学公共政策大学院『年報
公共政策学』第
4 号、平成22年。
山村滋、鈴木規夫、濱中淳子、佐藤智美(2009)
『学生の学習状況からみる高大接続問題』
、
独立行政法人大学入試センター研究開発部、平成21年。
リクルート(2009)
「2008年高校の進路指導・キャリア教育に関する調査」、
『キャリア
ガイ
ダンス』リクルート、第25号、平成21年。
マーチン・トロウ(Martin Trow)
(1976)、天野郁夫・喜多村和之訳『高学歴社会の大学』
、東
京大学出版会、昭和51年。
- 113 -
年報 公共政策学
Vol. 5
A Turning Point of Articulation of Higher Education
with High School Education
SASAKI Takao
Abstract
Japanese articulation of higher education with high school education has depended upon
entrance examinations of each university. It is very particular compared with other
industrialized countries. As younger population has been decreasing since 1992, selective
powers of universities to applicants have declined. Japanese system of the articulation has
faced a turning point, and must introduce a new test to evaluate level of general education in
high school.
Keywords
articulation of university with high school, Japanese school system, university entrance
examination, norm-referenced test, criterion-referenced test, general education, new test to
evaluate level of general education in high school

Special Professor of Hokkaido University Public Policy School, Professor Emeritus of Hokkaido
University
- 114 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
これからの地域福祉における市町村及び
民間福祉団体の連携・協力の在り方について
西山 裕
1.
はじめに
近年、社会福祉については、従来の施設収容を中心とした「施設福祉」から、高齢
者や障害者が生まれ育った地域で生活できるよう支えていく「地域福祉」の考え方が
確立し、国においても地域福祉を推進する方向で施策が推進されている。
しかし、その地域福祉の中心とされている市町村については、様々な工夫や取組を
しているところも少なくないが、一般的には、厳しい財政状況の下で、また、福祉の
専門的人材もいない中で、取組があまり進んでいないところも多く、まだまだ課題を
抱えているのが実情である。
他方、地域においては、社会福祉法人も、従来の施設運営中心から、地域における
幅広い活動の展開に重点を移していくところが増え、さらに、高齢者、障害者、児童
等のニーズに個別に対応してきた従来の福祉事業とは異なる、地域の人々の相互扶助
とまちづくりの視点を持った、NPO 等の新しい担い手による新しい事業展開も出てき
ている。
本稿においては、こうした状況の中で、地域福祉を進めていく上で、市町村の役割、
NPO や社会福祉法人等の民間福祉団体の役割について改めて考察しようとするもの
である。
構成としては、まず、第二次世界大戦後の日本における社会福祉政策の大きな流れ
として、社会福祉基礎構造改革と地域福祉の動向について整理するとともに、そうし
た動向を踏まえ、福祉サービスがどのように変化していったか、について検討する。
その上で、日本における地域福祉の担い手としての民間福祉団体について、これまで
の動向と、近年における NPO 等による共生型事業等の新しい動きについて、見ていく。
そして、こうした検討を踏まえ、今後の日本における地域福祉の推進のために、市町
村はどのような役割を担い、民間福祉団体はどのような役割を担っていくことが適切
であるか、そして両者はどのように連携・協力していくべきかについて考察するもの
である。

北海道大学公共政策大学院教授
E-mail:[email protected]
- 115 -
年報 公共政策学
Vol. 5
2. 第二次世界大戦後の日本における社会福祉政策の動向
2.1 社会福祉についての国の責任と「措置制度」
第二次世界大戦後における日本の社会福祉施策の基本的仕組の形成は、占領時代に
遡る。
日本を間接統治した GHQ(General Headquarters : 連合国最高司令官総司令部)は、
日本の軍国主義を支えていた国家神道や超国家主義思想の政治的影響力の除去のため、
軍人優遇制度の廃止や見直しと、国民の最低生活を国家の責任で保障する政策を求め
た。
そうした要請を受け、日本政府は生活保護法や社会福祉事業法を定め、福祉の第一
線機関としての福祉事務所を各地域に設置するとともに、生活保護に関しては、国が、
費用の8割を負担し、事務は機関委任事務として、国の責任で実施されることとされた。
その生活保護の一環として、保護施設への収容についても、国の機関である都道府
県知事又は市町村長が行うこととされた。その際、民間施設(原則として、社会福祉
法人経営の施設に限定された)に収容する際には、行政が施設に収容を「委託」する
こととされ、委託に伴う経費は、行政が委託費として当該施設に支給した。
こうした施設入所の仕組みは、その後、児童福祉法、身体障害者福祉法等の福祉各
法の制定の際、それらの法律に基づく施設収容についても採用された。この都道府県
知事又は市町村長による、高齢者等の施設への収容は「措置」と呼ばれ、民間施設へ
の収容の場合の委託費は「措置費」と呼ばれた。これが「措置制度」である。
この措置制度により提供される福祉サービスは、当初は施設入所サービスだけであ
ったが、後から実施されるようになった在宅サービスも加えられるようになった。
2.2 措置制度の問題と社会福祉基礎構造改革
措置制度については、高齢者や障害者等の保護が必要な者への福祉サービスを、国
が自らの機関と財政で行う仕組みであるとして評価する関係者も多かったが、制度が
整備され、また、サービス対象者も、社会経済状況の変化の中で、従来の低所得者か
ら広く一般の高齢者や障害者等に拡大されていくと、様々な問題が指摘されるように
なった。
まず、サービスの供給量が絶対的に少なかった。福祉サービスの提供者が地方自治
体及び社会福祉法人に限定されていたことや、国の最低基準(入所定員、建物の構造、
職員配置等)を満たす施設の建設には多額の経費が必要であったこと等ハードルが高
かったため、施設入所を待つ多くの待機者の存在があり、在宅サービスについても、
サービスを受けることができる者は限定的であった。
また、措置制度は、行政の責任で施設に入所させる制度であり、いつ、どの施設に
誰を入所させるかは、行政の裁量とされていたため、入所申請をする手続きが定まっ
ていない、あるいは施設入所を福祉事務所に断られても不服を言えない、といった問
- 116 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
題もあった 1)。
こうした問題を抱えた措置制度による福祉サービス提供という日本の体制に対し、
大きな問題を突き付けたのが、世界中どこにも例のない人口の急速な高齢化を始めと
した、日本の社会経済情勢の大きな変化であった。
人口の急速な高齢化により、高齢者の数が急増し引退後の期間も長期化したにも関
わらず、都市への人口流入や核家族化により、従来家族や地域が担ってきた高齢者や
幼児等の養護機能は大幅に低下し対応できない。また、女性の社会進出・労働力化や
障害者の社会参加も進み、福祉サービスへのニーズは大幅に増加してきた。
このような事態に対し、行政と社会福祉法人が担ってきた従来の措置制度の下では、
財源面でも、サービス供給体制の点でも、ニーズの急増に迅速に対応していくことは
到底困難であった。財源面では、1970年代の石油危機後の国の財政状況の悪化から、
ゼロシーリングの実施により、従来から福祉行政の財源を担った税財源による一般会
計は非常に厳しい状況になった。また、供給体制については、従来の担い手である地
方自治体は厳しい財政状況の下で直営施設を抑制し、社会福祉法人についても厳しい
設立条件があること等から急増は見込めず、むしろ社会福祉事業は社会福祉法人によ
る事実上の独占ではないかとの批判も高まっていた。
こうした状況を打開するために実施されたのが社会福祉基礎構造改革と言われる一
連の改革である。
その代表格である介護保険制度を例にとって見ると、この制度においては、まず、
高齢者介護施策について社会保険方式を採用することにより、保険料という、税財源
とは別の財源を持つことができた。これにより、国や自治体に大きな財政的負担を課
すことなく、施策を推進する財政的基礎を持つことができるようになったのである。
今一つは、福祉サービスの受給資格の認定と、サービスの提供とを分けることによ
って、サービス提供主体を大幅に拡大したことである。すなわち、福祉サービスの提
供はあくまでサービス事業者と利用者との間の契約により行うものとし、行政は、こ
の福祉サービスの提供に対し、ⓐ公的支援が必要と認定(受給資格の認定)した者に
対し利用料を助成、ⓑ適切なサービスが提供されるよう、サービス事業者に対して規
制したり、関係者の間を調整、ⓒ地域計画の策定等により、サービス事業者を育成し
て、供給体制を整備、という役割を担うものとしたのである。この改革により、サー
ビス事業者は行政の委託を受ける者ではなくなるので、営利法人や NPO 法人などもサ
1) この制度の下では、社会福祉施設への入所の措置は、
「措置の実施者に課せられた義務であ
って、…希望者からの請求権に基づくものではない。したがって、措置を受けることによ
り老人ホームにおいて養護されることは、老人に与えられた権利ではなく、公的機関に措
置義務があることから派生する『反射的利益』であると考えられる」「老人福祉法の解説」
(厚生省老人福祉課編集。昭和59年)というのが、社会福祉制度を所管していた、当時の厚
生省当局の解釈だった。
- 117 -
年報 公共政策学
Vol. 5
ービス事業者になることができるようになるとともに、高齢者は、ⓐ行政に対しては、
保険者たる市町村に利用費助成を申請する被保険者として、行政の決定に不服な場合
は不服申し立てや行政訴訟を提起することができ、また、ⓑサービスの利用について
は、契約の当事者として、第三者機関に苦情を申し立てたり、事業者を相手に訴訟を
提起することもできるといった、福祉サービスを受給する権利の明確化が実現した。
障害福祉サービスについて、社会福祉基礎構造改革により導入された支援費制度に
おいては、上記のうち、社会保険方式は導入されなかったので、保険料という独自財
源は導入されなかったが、2 番目の「福祉サービスの受給資格の認定と、サービスの
提供の分割」は導入され、その意味で、障害福祉分野においても、サービス提供者の
拡大と、障害者の権利の明確化という点は実現した。
なお、地域におけるサービスの状況や契約に関する専門的知識がない高齢者や障害
者が適切にサービスを選択し契約を結ぶことができるよう、行政には地域の福祉サー
ビスの状況についての情報提供の義務が課され、また、福祉サービス契約にあたって
は、事業者には、契約内容を申込者に対して説明したり、契約成立時には利用者に対
し契約内容等について記載した書面を交付すること等が法律で規定された(社会福祉
法第 8 章「福祉サービスの適切な利用」
)
。また、知的障害者や認知症高齢者などで判
断能力が十分でない者が悪質な業者に騙されて不利な契約を結ばされたりすることの
ないようにするために利用できる仕組みとして、成年後見制度と日常生活自立支援事
業が実施されている。
2.3 地域福祉
日本の福祉サービスについては、もう一つ大きな転換の流れがあった。それが「地
域福祉」である。
この「地域福祉」が福祉の主流になっていった背景については、武川正吾によって
次のように整理されている 2)。
戦後まもなくの我が国は、農村部には伝統的な村落共同体(ムラ)があり、共同作
業や相互扶助が存在し、都市部でも、町内会が同様の機能を果たしていた。しかし、
1960年代の高度経済成長により、こうした伝統的地域社会に次のような革命的変化が
起こった(第一の変化)。第一に、労働力が農村から集められ、農村から都市への大規
模な人口移動が起きたこと、第二に、大規模かつ急速な人口移動により、都市の「過
密」と農村の「過疎」がもたらされたこと、そして、第三に、その結果、農村と都市
双方の共同体が崩壊したことである。こうした事態に対し、コミュニティの再生が叫
ばれ、国や自治体の政策も、公共施設等のコミュニティ形成の基盤整備が主要課題で
あった。
2)
武川(2005)p.15-34
- 118 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
そして、1970年代に、ポスト工業化(重化学工業中心からサービス業や知識産業中
心に)の流れの中で、地域社会も次のように変化していった(第二の変化)。第一に、
人口高齢化が始まり、中山間地域はほとんどの住民が高齢者になっていったこと、第
二に、人口の定住化が進み、新たな近隣関係が形成されてきたこと、そして第三に、
高齢化の進行とともに、介護問題が深刻化してきたことである。こうした状況の下、
地域において人々が生活を続けていくには、地域医療や地域福祉の存在が不可欠にな
っていった。
こうした背景の下に、武川は、次の 3 つの意味合いの「地域福祉の主流化」が進ん
だとしている。第一に、社会福祉、とりわけ社会福祉行政における地域福祉の主流化、
第二に、地方自治における地域福祉の主流化、そして第三に、地域社会における地域
福祉の主流化である。
社会福祉制度においては、この「地域福祉の主流化」の流れを受け、3 度にわたる
制度改正が行われている。
一つは「措置事務の団体事務化」である。当時、我が国の地方自治は「3 割自治」
等と言われていた。これは、自治体といっても、機関委任事務として、通知で国から
箸の上げ下ろしまで支持されている事務が多く、また、財源についても、国からの使
途が限定されている「ひも付き補助金」が多い現状では、せいぜい 3 割ぐらいの自治
しかできない、といった状況を指した言葉であった。
こうした状況を解消して、地方分権を推進するため、地方自治体関係者からは「機
関委任事務の廃止」が従来から主張されていたが、石油ショック後の国家財政の危機
的状況の中で、国においても、機関委任事務を地方自治体の事務にすれば、国庫負担
を減らすことができるとの発想が生まれ、国庫負担率引き下げの見返りとして機関委
任事務の団体事務化が進められた。そして、福祉関係事務についても、1986(昭和61)
年に、各行政分野の機関委任事務を地方公共団体の事務とする一括法で措置に関する
事務が団体事務化された。
二つ目は、市町村を福祉サービスの拠点としたことである(福祉八法改正)。福祉行
政については、
「最も住民に密着した基礎的な地方公共団体であり、住民の福祉需要を
最も把握し得る市町村においてできるだけこれを実施することとする必要がある」
(1989(平成元)年 福祉関係三審議会合同企画分科会意見具申)との考え方から、次
の改正が実施された。
・
老人福祉施設及び身体障害者施設について、町村部は、従来は都道府県が措置権
者であったのを町村に委譲し、知的障害者福祉についても、在宅福祉サービスを
法律上明記。
・
市の福祉事務所は福祉サービスの総合的な事務所に、県の福祉事務所は市町村に
対する広域的な調整・指導を行う事務所に。
この改正により、都道府県が、広域的な観点から各種サービスの総合的な調整を行い、
- 119 -
年報 公共政策学
Vol. 5
市町村段階で、在宅・施設を通ずる福祉サービスを一元的に提供する体制が実現した。
三つ目は、地域福祉を福祉関係の法律において位置づけたことである。社会福祉基
礎構造改革を実施するための社会福祉事業法改正(法律名も「社会福祉法」に改称)
においては、
「地域における社会福祉」の推進を同法の目的に追加(第 1 条)、市町村
地域福祉計画に関する条文を新設(第107条)等の改正が行われた。社会福祉法という、
社会福祉に関する共通事項を規定する法律においてこうした改正が行われたことは、
まさに、市町村を中心として地域福祉を推進していくという方向が、国の政策におい
て明確に位置づけられたものであるということができる。
3. 社会福祉基礎構造改革後の福祉サービスと市町村
それでは、社会福祉基礎構造改革後の福祉サービスの状況はどのようになっている
か、また、その中で、市町村はどのような役割を果たしているのだろうか。
3.1 福祉サービスの状況
社会福祉基礎構造改革によって、日本における福祉サービスの状況は、どのように
変化したか、この改革によって新しい制度が導入された高齢者福祉(介護保険)と、
障害者福祉(支援費制度)の 2 つの分野について、見てみることとする。
表2.介護保険施設・事業所における
利用者数、在所者数の推移
表1.介護保険事業所数・施設数の
推移
居宅サービス事業所
(訪問系)
訪問介護
訪問入浴介護
訪問看護ステーション
(通所系)
通所介護
通所リハビリテーション
介護老人保健施設
医療施設
(その他)
短期入所生活介護
短期入所療養介護
介護老人保健施設
医療施設
認知症対応型共同生活介護
特定施設入所者生活介護
福祉用具貸与
居宅介護支援
介護保険施設
介護老人福祉施設
介護老人保健施設
介護療養型医療施設
H16/H12
1.62
1.48
1.76
1.06
1.10
1.59
1.83
1.20
1.16
1.24
1.85
1.25
1.25
1.19
1.34
8.07
―
2.01
1.42
1.10
1.19
1.17
0.96
居宅サービス事業所
(訪問系)
訪問介護
訪問入浴介護
訪問看護ステーション
(通所系)
通所介護
通所リハビリテーション
介護老人保健施設
医療施設
(その他)
短期入所生活介護
短期入所療養介護
介護老人保健施設
医療施設
認知症対応型共同生活介護
特定施設入所者生活介護
福祉用具貸与
居宅介護支援
介護保険施設
介護老人福祉施設
介護老人保健施設
介護療養型医療施設
H16/H12
2.07
1.85
2.18
1.11
1.35
1.61
1.61
1.61
1.46
1.88
4.34
1.87
2.03
1.95
2.91
12.87
―
6.96
1.94
1.21
1.21
1.20
1.25
(出典)厚生労働省「介護サービス施設・事業所調査」
(注)特定施設入所者生活介護については、平成 16 年からの調査事項であるため、
「―」としている。
- 120 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
【高齢者福祉】
まず、2000年に介護保険制度が導入された高齢者福祉である。介護保険制度実施当
初、具体的には2000(平成12)年~2004(平成16)年における施設・事業所や利用者
の状況の変化の状況を、厚生労働省の「介護サービス施設・事業所調査」によってみ
ると、居宅サービス事業所数は、2004年は2000年の1.6倍に増加している。中でも増加
率の高い事業所は、訪問介護が1.76倍、通所介護が1.83倍、福祉用具貸与が2.01倍、
認知症対応型生活介護(グループホーム)が8.07倍である(一方、介護保険施設は1,
1倍の増加に留まっている)。
(表 1)
また、利用者数は、居宅サービス事業所についてみると、約 2 倍(施設は1.2倍)に
増加し、中でも、訪問介護(2.18倍)
、認知症対応型生活介護(12.87倍)、通所介護(1.61
倍)の増加率が高い。(表 2)
そして、こうした増加率の高い事業所について、経営主体別に見ていくと、営利法
人では、訪問介護が2.8倍(事業所全体に占める割合 30.3%→48.2%)、通所介護が
10.23倍(事業所全体に占める割合 4.5%→25.3%)
、グループホームが約18倍(事業
所全体に占める割合 21.2%→47.3%)に増加している。また、NPO について見ると、
訪問介護が 4 倍、通所介護が 7 倍、グループホームが 9 倍に増加している。
(表 3)
こうした状況をみると、介護保険の導入により、在宅サービス事業所の数が急速に
表3.介護保険事業所 経営主体別状況
①訪問介護
総数
平成 12 年
9833
平成 16 年
17274
H16/H12
1.76
地方公共
団体
652
6.6%
206
1.2%
0.32
社会福祉
法人
4250
43.2%
5324
30.8%
1.25
特定非営利
医療法人 活動法人
(NPO)
1023
208
10.4%
2.1%
1467
834
8.5%
4.8%
1.43
4.01
協同組合
452
4.6%
686
4.0%
1.52
営利法人 社団・財団法人 その他
2975
30.3%
8323
48.2%
2.80
3
0.0%
278
1.6%
92.67
270
2.7%
156
0.9%
0.58
②通所介護
総数
平成 12 年
8037
平成 16 年
14725
H16/H12
1.83
地方公共
団体
1787
22.2%
427
2.9%
0.24
社会福祉
法人
5302
66.0%
8110
55.1%
1.53
特定非営利
医療法人 活動法人
(NPO)
334
101
4.2%
1.3%
1226
712
8.3%
4.8%
3.67
7.05
協同組合
91
1.1%
283
1.9%
3.11
営利法人 社団・財団法人 その他
364
4.5%
3722
25.3%
10.23
3
0.0%
137
0.9%
45.67
55
0.7%
108
0.7%
1.96
③認知症対応型共同生活介護
総数
平成 12 年
675
平成 16 年
5449
H16/H12
8.07
地方公共
団体
24
3.6%
21
0.4%
0.88
社会福祉
法人
253
37.5%
1337
24.5%
5.28
特定非営利
医療法人 活動法人
(NPO)
210
37
31.1%
5.5%
1123
339
20.6%
6.2%
5.35
9.16
(出典)厚生労働省「介護サービス施設・事業所調査」
- 121 -
協同組合
2
0.3%
17
0.3%
8.50
営利法人 社団・財団法人 その他
143
21.2%
2575
47.3%
18.01
―
23
0.4%
―
6
0.9%
14
0.3%
2.33
年報 公共政策学
Vol. 5
増加していったこと、そして、その増加を担ったのは、営利法人や NPO であることが
わかる。
【障害者福祉】
次に障害者福祉について、同様に、社会福祉構造改革により2003(平成15)年に導
入された支援費制度における施設・居宅支援事業所の数及びその経営主体別の2003(平
成15)年~2005(平成17)年の推移について、厚生労働省の「社会福祉施設等調査」
によって見てみると、施設数が微増であるのに対し居宅支援事業所数は1.5倍以上と大
幅な伸びを示している。中でも、増加率が
表4.支援費制度関係施設数
・事業所数の推移
高いのは、知的障害者居宅介護等事業の
1.83倍と児童居宅介護事業の1.94倍、そし
て知的障害者デーサービス事業の1.57倍と
児童デイサービス事業の1.52倍であり、知
的障害者及び児童についての事業所数の伸
び率が高い。
(表 4)
そして、こうした増加率の高い事業所に
ついて、経営主体別に見ていくと、知的障
害者居宅介護等事業では、営利法人が2.95
倍(事業所全体に占める割合
30.2%→
48.8% )、知的 障害者 デイ サービ スで は
NPO 法人が3.21倍(事業所全体に占める割
合 6.6%~13.4%)と大幅に増加している。
(表 5)
居宅支援事業所
(居宅介護)
身体障害者居宅介護等事業
知的障害者居宅介護等事業
児童居宅介護事業
(デイサービス)
身体障害者デイサービス事業
知的障害者デイサービス事業
児童デイサービス事業
(短期入所)
身体障害者短期入所事業
知的障害者短期入所事業
児童短期入所事業
(地域生活援助)
知的障害者地域生活援助事業
身体障害者更生援護施設
知的障害者援護施設
H17/H15
1.55
1.71
1.50
1.83
1.94
1.37
1.17
1.57
1.52
1.20
1.17
1.18
1.26
1.49
1.05
1.08
(出典)厚生労働省「社会福祉施設等調査」
表5.居宅支援事業所 経営主体別状況
①知的障害者居宅介護等事業
国・地方公 社会福祉
社会福 医療法 社団・財団 協同組 営利法 特定非営利活
総数
その他
共団体
協議会
祉法人 人
法人
合
人
動法人(NPO)
平成 15 年
4516
93
1416
893
153
101
80
1365
348
67
2.1%
31.4%
19.8%
3.4%
2.2%
1.8%
30.2%
7.7%
1.5%
平成 17 年
8262
101
1507
1288
252
133
160
4033
661
127
1.2%
18.2%
15.6%
3.1%
1.6%
1.9%
48.8%
8.0%
1.5%
H17/H15
1.83
1.09
1.06
1.44
1.65
1.32
2.00
2.95
1.90
1.90
②知的障害者デイサービス事業
国・地方公 社会福祉
社会福 医療法 社団・財団 協同組 営利法 特定非営利活
総数
その他
共団体
協議会
祉法人 人
法人
合
人
動法人(NPO)
平成 15 年
580
29
52
398
4
16
2
17
38
24
5.0%
9.0%
68.6%
0.7%
2.8%
0.3%
2.9%
6.6%
4.1%
平成 17 年
913
38
63
595
7
11
1
38
122
38
4.1%
6.9%
65.2%
0.8%
1.2%
0.1%
4.2%
13.4%
4.2%
H17/H15
1.57
1.31
1.21
1.49
1.75
0.69
0.50
2.24
3.21
1.58
(出典)厚生労働省「社会福祉施設等調査」
- 122 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
こうした状況を見ると、障害者の支援費制度の導入についても、知的障害者や児童
へのサービスを中心に、在宅サービス事業所の数が急速に増加していったことが見て
とれる。
こうした状況は、社会福祉基礎構造改革の重要な狙いの一つが、日本における高齢
化の急速な進展に伴う高齢者介護ニーズの急速な増大への対応や、地域福祉の推進と
いった政策課題に対応していくために、福祉サービス、中でも在宅福祉サービスの供
給量の拡大及び多様なサービスの提供という点にあり、そのために、サービス提供者
の範囲を営利法人や NPO 法人等に拡大したことを考えると、まさにその意図通りの成
果が得られたということができる。
3.2 福祉サービス提供における市町村の役割
それでは、社会福祉基礎構造改革と地域福祉の推進によって、市町村は、どのよう
な状況になったか。
前出したように、市町村の役割は大きく変わった。市町村の役割については、社会
福祉法、介護保険法、障害者自立支援法等に規定されているが、それらを大きくまと
めると、①市町村地域福祉計画(介護保険事業計画、障害福祉計画)を策定し、それ
に基づき、地域に必要なサービス量に対応する提供体制を整備、②申請を受けて、サ
ービスの受給資格の確認及び支給量の決定(介護保険法では「要介護認定」、障害者自
立支援法では、「介護給付費等の支給決定」)を行い、サービスの受給に必要な費用を
支給、③その決定に基づいて、高齢者や障害者が自立した日常生活を送るのに必要な
サービスを受けることができるよう、情報提供、相談対応、関係機関との連絡調整等
を実施、の 3 点が、市町村の主な役割ということができる 3)。
措置制度の時代においては、市町村自らが、必要と判断する場合に、高齢者や障害
者を施設に入所させたり、在宅サービスを提供する(実際には、社会福祉法人が福祉
サービスを提供することが多かったが、それは、あくまで市町村の委託を受けて行う
ものであり、その意味で、制度的には福祉サービスの提供者は市町村自身であった)
ことが最大の役割であったことと比べると、その役割は大きく変化している。
このことをもって、公的責任の後退であるとして批判する議論もある 4) が、むしろ、
地域における福祉サービスの提供の仕組みの運営全体について責任を負うという意味
では、市町村の責任と役割はより大きなものになった、ということもできるのではな
いだろうか。
3) 介護保険法では、「保険」の仕組みを採用しているので、市町村には保険者としての役割、
すなわち保険料の徴収等の役割があるが、ここで念頭に置いているのは、福祉サービス供
給という点からの共通した役割の整理なので、保険者としての役割については触れない。
4) 芝田秀明(2001)p.45 - p.47等
- 123 -
年報 公共政策学
Vol. 5
3.3 市町村の体制
3.3.1 福祉部門の職員数
まず、市町村において福祉業務に従事している職員の数について見ていくことにする。
この点については、「平成21年地方公共団体定員管理調査結果の概要」(2009(平成
21)年 総務省)によれば、2009(平成21)年 4 月 1 日における市町村(特別区、一部
事務組合等を含む。)の総職員数は1,312,401人であり、その24.5%にあたる321,645
人が福祉関係部門の職員数とされている。2009(平成21)年 4 月現在の市町村数(特
別区を含む。
)は1,800なので、一市町村当たりの平均でみると、福祉部門の職員は約
730人になる。ただ、市町村には、人口数百万人の政令指定都市から、人口数百人の村
まで様々な規模の市町村がある。ちなみに、政令指定都市を除いた市町村における福
祉部門の総職員数は260,084人であり、一市町村あたりの福祉部門職員数平均は約145
人と、大幅に減少する。
なお、この調査における「福祉部門」は、民生部門だけでなく、衛生部門も含む数
字であり、狭い意味での福祉部門である民生部門だけをみると、北海道の場合、民生
部門の職員数は、市部については、政令市である札幌市を除く34市の平均は約96名、
町村分については、136町村の平均は約21名となる。また、市町村直営の保育所や特別
養護老人ホーム等の社会福祉施設を有する市町村については、そうした施設の職員の
数も職員数に含まれているので、支給決定や相談支援、関係者の連絡調整等の、市町
村における地域の福祉サービス全般に関する業務に従事する職員はさらに少なくなる。
さらに、近年の地方財政の悪化を背景に、地方自治体の職員数は急速に減少してい
る。1994(平成 6)年に328万人いた地方公務員数は、2009(平成21)年には286万人
にまで減少し、こうした中で、市町村の福祉部門の職員数も減少しており、1994(平
成 6)年の385,784人が2008(平成21)年には321,645人に減少している。
3.3.2 福祉専門職員の数
福祉部門の職員の中にも、大学等で福祉に関する専門教育を受け、福祉の専門職員
として採用された職員と、一般の行政職員として採用され、人事異動でたまたま福祉
部門に配属され、そこで従事している職員がある。
一般的には、支給決定や相談支援、関係者の連絡調整等の、市町村における地域の
福祉サービス全般に関する業務となると、やはり福祉に精通している専門職員が担当
した方が安心できるのではないか、と考えられる。
そこで、市町村における、福祉に関する専門職員としての「福祉職」の職員の数に
ついて見ていくこととする。
「平成21年 4 月 1 日地方公務員給与実態調査結果」
(総務省)によると、全国の市区町
村(一部事務組合を含む)における福祉職職員の総数は105,372人である。ただ、その
うち指定都市が14,776人、特別区が15.030人であり、それ以外の市は58,651人、町村
- 124 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
は14,192人に過ぎない(ほかに一部事務組合が2,723人)。
これを一市当たり平均でみると約77人、一町村当たり平均でみると約17人となるが、
ここで平均人数を見ることはあまり適切とは思われない。というのは、日本の地方自
治体は、警察、消防、教育といった特定の分野以外は、人事管理・処遇の観点から、
専門職職員の採用はできるだけ最小限に抑え(例えば、医師や保健師等法令上配置が
必要とされている職員に限る等)
、それ以外は、一般行政職員として採用された職員に
より対応することが一般的であるからである。そのため、市町村における福祉職の職
員は、直営の福祉施設を持つ市町村において、その施設運営や施設利用者の処遇のた
めに採用されることが多い 5)。
この点については、社会福祉法において、市には必ず福祉事務所を置くこととされ
(第14条。町村部では、町村には必置義務はないため、ほとんどの場合は都道府県の機
関として設置されている)
、この福祉事務所には社会福祉主事を置くこととされ、社会
福祉主事は、生活保護法、児童福祉法等に定める「援護、育成又は更生の措置に関す
る事務を行うことを職務とする」こととされている(第16条)。その意味で、少なくと
も市においては、直営の福祉施設がなくても、福祉専門職員としての社会福祉従事は
必要ではないのかという疑問がでてくる。ただ、社会福祉主事は、必ずしも福祉系学
部の卒業生や社会福祉士である必要はなく、大学等において、
「厚生大臣の指定する社
会福祉に関する科目を修めて卒業した者」であれば、その資格が認められている(第
19条)
。この「厚生大臣の指定する社会福祉に関する科目」としては、社会福祉概論や
社会福祉援助技術論等の直接社会福祉に関係する科目だけでなく、法学、民法、行政
法、経済学、社会学等も含めた科目のうちから3科目を履修していればいいこととされ
ている(いわゆる「3 科目主事」)ため、福祉系学部以外の学部を卒業し、一般行政職
員として採用された者であっても、社会福祉主事として任用できる職員は少なくない。
この点については、近年の地域福祉において市町村の役割が重要になってきたことを
踏まえ、これを問題とし、
「3 科目主事」の見直しや福祉事務所に社会福祉主事でなく
社会福祉士を置くこととすべき等の意見もある 6)。これらの意見については、地域福
祉の推進の観点からは傾聴すべき点も少なくないが、現在の地方自治体の厳しい財政
状況を考えると、あまり現実的とは考えにくいのではないだろうか。
5)
6)
このような、一般行政職員採用の人事異動により極力対応しようという人事の考え方は、
日本の地方自治体(あるいは官民を問わず日本の組織)の特色ではないだろうか。筆者の
乏しい知見の限りでは、欧州の地方自治体では、
「異動については、日本のように、2~3 年
毎に定期的に異動する制度はない。各事務職員の専門性を踏まえた採用が行われているた
め、同一地方自治体内の部局を超えた異動は少ない。」
(「英国の地方自治(概要版)-2009
改訂版―」(財)自治体国際化協会)のが一般的であると認識している。
「社会福祉士の活用に向けた提案」(2006年 5 月(社)日本社会福祉士会から厚生労働省社
会・援護局福祉基盤課長宛て)、社会保障審議会福祉部会(平成 6 年 9 月20日)における村
尾委員意見等。
- 125 -
年報 公共政策学
Vol. 5
4. 市町村当局と住民、福祉団体等との連携・協力の在り方(1)
~公的福祉サービスの提供において~
4.1 公的サービス提供における公私の役割分担
このように見てくると、市町村は、地域福祉と社会福祉基礎構造改革の流れの中で、
地域における福祉サービス提供体制の拠点という重要な役割を担うようになったにも
かかわらず、市町村における体制を見ていくと、福祉部門の職員は減少する傾向にあ
り、福祉専門職員も多くの市町村ではほとんどいないという状況にある。そうした体
制で、市町村は、地域福祉の拠点という重要な役割を今後とも本当に果たしていくこ
とができるのか、という疑問が出てくる。
実は、福祉サービスを提供する制度においては、そうした状況を踏まえた仕組みが
組み込まれているのである。
例えば、介護保険においては、要介護認定(要介護者であるか否か及び要介護度の
認定)という専門的事項を市町村が担うこととされているが、その認定については、
国において、判定の事項及び基準が定められているとともに、専門家による最終判定
という担保もされている。すなわち、市町村職員が行う訪問調査の結果に基づき、国
が定めた判定項目でのコンピュータ処理による一次判定が行われ、その結果を踏まえ、
学識経験者により構成される認定審査会が最終判定(二次判定)するというものであ
る。その意味で、判定は基本的に客観的(画一的)基準により行われているものであ
り、要介護認定を担当する市町村職員には、専門的知見は必ずしも必要ない。
また、要介護認定を受けた高齢者に対してどのようなサービスを提供していくかに
ついても専門的知見が必要であるが、この点については、居宅介護支援事業所の介護
支援専門員(ケアマネージャー)が介護サービス計画(ケアプラン)を作成するとと
もに、サービス実施状況を管理する。こうしたケアマネジメント業務を担当するケア
マネージャーは民間事業者である専門家である。
障害者自立支援法においても同様の仕組みが採用されており、介護保険法や障害者
自立支援法においては、福祉業務を担当する職員数がそれ程多くなくても、また、福
祉についての専門的知見がない職員でも、福祉関係業務を実施することができるよう
な配慮はされている(もちろん限度はあり、職務に習熟した一定数の職員は最小限必
要である)。
そして、公的福祉サービスの提供そのものについては、専門的知見を持つ社会福祉
法人や NPO 法人が大きな役割を果たすことができる。
その意味で、公的福祉サービス制度においては、福祉サービスの提供自体は民間福
祉団体(あるいは企業)が担当し、市町村の役割としては、利用者による選択が可能
になるようにサービス供給体制を整備することや、サービス提供が適切に実施される
ように、利用者と事業者の間を調整すること等が大きな任務であるというように、両
者の役割分担は制度上整理されている、ということができる。
- 126 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
4.2 包括支援・相談支援
介護保険制度、障害者自立支援法のいずれにおいても、法律制定当初は市町村当局
の役割とされていた業務の一部について、専門能力を持つ事業者に移される傾向も認
められる。
介護保険法においては、平成18年改正により「地域包括支援センター」が導入され
た。この地域包括支援センターの業務は、2 つに大別される。一つは、2006(平成18)
年改正で導入された「介護予防給付」についてのケアマネジメントである。いわば、
要支援者への予防給付について、介護給付におけるケアマネージャーと同様の業務を
行うものである。改正当初は、要介護基認定基準の改正に伴い要介護者から要支援者
に移る者が多かったため、この業務が地域他付支援センターの大部分を占めていたが、
最近では減少してきている。今一つは、高齢者虐待の防止・早期発見や権利擁護等の
総合相談・支援事業、ケアマネージャーの支援(支援困難事例への指導・助言)や地
域におけるケアマネージャーのネットワーク構築等の包括的・継続的ケアマネジメン
ト支援事業といった事業である。この 2 つ目の事業は、従来は市町村当局が担うもの
とされていた事業が、専門的知見が必要な業務として、地域包括支援センターの業務
とされたものである。
地域包括センターの業務のうち、前者については、制度改正に伴い新たに生じた業
務であるが、後者については、介護保険におけるケアシステムを円滑に運営するため
に必要な業務として、改正以前から存在した業務であるが、やはり専門的知見を必要
とし、前述のような福祉の専門性に乏しい日本の市町村当局では適切に対応すること
が困難であるため、地域包括センターという専門機関を新設するに至ったものである。
その意味で、地域包括支援センターの業務については、専門的知見を有する福祉団体
がその役割を担うのに適した業務であるということができる。
もちろん、地域包括支援センターを自ら運営する市町村もあり、特に町村等におい
ては、適切な民間事業者がないことや、当局との連携がし易く機動的な運営が可能に
なる(町村部では、センターは 1~2 か所が多い)等から直営とするところが多く、担
当者についても、保健センターとの併設により保健婦を活用したり、福祉に専門的知
見を有する者を新規に雇用することにより対応しているところが少なくない。これに
対し、市においては、地域ごとに設置することが必要で数か所にのぼることが一般的
であること等から、在宅介護支援センターの運営をしていた等の専門的知見を有する
民間事業者での委託が多い。
障害者自立支援法においても、同様のことがある。障害者自立支援法においては、
障害者に対する相談やケアマネジメントを行う相談支援事業者については、法制定時
は、法律上の事業として位置付けられてはいたが、あくまで、この事業者を利用する
場合はその費用を公的に負担するという、選択肢としての位置づけしかされていなか
った。しかし、その後、障害者が適切なケアを受ける上での相談支援事業の重要性が
- 127 -
年報 公共政策学
Vol. 5
認識され、2008(平成20)年の障害者自立支援法の見直しを踏まえて、政府が国会に
提出した改正法案においては、相談支援事業について、市町村におけるサービスの支
給決定が、相談支援事業者の作成したケアサービスプランを踏まえて行うという、支
給決定手続きにおける積極的位置づけがされる等、制度上重要な地位を占める事業と
して位置づけられるようになっている。この改正法案は国会解散に伴い廃案となった
が、2010(平成22)年10月開会の第176回国会において、同様の内容の法案が国会に提
出され、12月には可決成立した。このように、障害福祉においても、民間の福祉専門
事業者としての相談支援事業者は、今後育成支援していくべき重要な事業として認め
られるようになっている。
5. 市町村当局と住民、福祉団体等との連携・協力の在り方(2)
~地域福祉論の観点から~
公的福祉サービスの提供については、上述のように整理は比較的容易であるが、地
域における福祉問題は、それに限定されるものではない。むしろ、急速な都市化・過
疎化、あるいは少子高齢化といった社会経済環境の変化の中で、公的福祉サービスで
は対応が追い付かない問題に対して、どのように対応してくかといった問題、あるい
は、そうした問題に迅速に対応していく体制を作っていくために、地域において、市
町村当局と福祉団体、そして住民はどのような協力や役割分担の関係を持っていくべ
きなのか、といった問題が、近年、大きな問題として、指摘されるようになってきて
いる(例えば、一人暮らし高齢者の孤独死や買物難民、引きこもり、社会的排除の対
象となりやすい者等)。
こうした問題への対応において、市町村当局と福祉団体、そして住民は、どのよう
な協力関係、役割分担をしていったらいいのか。
ここでは、まず、地域福祉の在り方に関する議論から見ていくこととする。
牧里(2006)によると、日本における地域福祉研究において、
「1990年代の福祉関係
八法改正を契機として地方自治の福祉政策化を意識した地域福祉論としては、右田紀
久恵の『自治型地域福祉論』と大橋謙策の『主体形成の地域福祉論(参加型地域福祉
論)』が双壁をなすだろう」7) とされている。そこで、この 2 人の地域福祉に関する議
論を見てみたい。
まず、右田は、
「……地域福祉は地域社会における住民の生活の場に着目し、生活の
形成過程で住民の福祉への目を開き、地域における計画や運営への参加を通して、地
域を基礎とする福祉と主体力の形成、さらに、あらたな協働社会を創造していく、1 つ
の分野である。この点において地域福祉は『自治』と『自律』の同質性と共通項をも
つといえる。住民が地域福祉理念の理解と実践をとおして、社会福祉を自らの課題と
7)
牧里毎治(2006)p.31-32
- 128 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
し、自らが社会を構成し、あらたな社会福祉の運営に参画すること、すなわち、地域
福祉の内実化が、地方自治の構成要件の一つとしての住民『自治』に連動するものと
みることができる。一方での地域福祉を支える住民の力が地方自治を形成する主体力
となり、他方での、国との相対的関係における自治的組織体としての市町村・基礎自
治体の自治能力が、地域福祉推進の決め手ともなる。地域福祉を単位在宅福祉(在宅
福祉の実践体系)ととらえるのではなく、地方自治の在り方と連動させ、分権的社会
システムの創造の一環として位置づけるところに、あらたな社会福祉としての地域福
祉のもう一つの意味がある。」8)とし、住民が地域福祉の実践が地方自治を実現してい
くものとしてとらえている。
さらに、右田は、
「……行政機構がアプリオリに『公』として観念され、福祉国家の
名のもとに実質的にも『公』を独占し、国民・住民は『私』と位置づけられる関係が
固定してきた。しかし、このような位置と関係を固定するかぎり、
『公』『私』協働は
タテ型上下関係にとどまり、補充・代替の域を脱し得ず、
『私』の民間性そのものもお
のずから限界がある。これまで社会福祉における民間性には、補充、代替、開発、先
導などがあげられてきたことは周知の事実である。しかし、『公』(行政)だけではな
し得ない、あらたな『公共』の概念を創るという、創造的営為こそ民間性に該当する
のではないだろうか。…」9) と述べて近年の「新しい公共」論につながる議論を展開し
た上で、
「地域における社会生活問題への対応、すなわち、公私協働で処理するという
関係の全体を、
『地域的な公共関係』とみて、私的セクターの参入についても、あらた
な『公共』に基準限定を置くのである。そこにおける公共性を含んだ全体関係=地域
的な公共関係を新たな『公共』とみるのである。」10) とし、地域福祉に取り組む住民や
民間福祉団体の活動は、行政である市町村当局の補完ではなく、行政と同様の「公共」
活動であると位置づけている。
また、大橋は、
「地域福祉という新しい社会福祉サービスシステムが成立するために
は、少なくとも、①在宅福祉サービスの整備及びサービスの総合的提供システムの確
立、②在宅生活を可能ならしめる住宅の整備と移送サービスの整備、③近隣住民の参
加による福祉コミュニティの構築、及び個別援助に必要な社会的支援体制づくり(ソ
ージャルサポートネットワークづくり)
、④都市環境整備など生活環境の整備、がすす
められていなければならない。」11) と述べ、地域福祉の実現のためにはサービス提供シ
ステムと支援ネットワークが必要なことを強調しつつ、
「その際に重要なことは、それ
らの営みが行政だけではできず、各種諸機関のサービスのコーディネート(連絡調整)
が重要となること、また、地域住民がサービスの利用者として、地域生活の当事者と
8)
9)
10)
11)
右田紀久恵(1993)p. 7 - 8
右田 同上 p.11
右田 同上p.12
大橋謙策(1999)p.33
- 129 -
年報 公共政策学
Vol. 5
して参加する機能が重要になる。
」とし、民間団体も含めたサービスの連絡調整の重要
性に触れている。そして、
「新しい社会福祉サービスとしての地域福祉を展開するにあ
たっては……新しい人間観・社会福祉観に基づいたサービスとして提供される必要が
ある。それは一言で言えば『個人の尊厳と人間性を尊重した社会福祉観』でああり、
その具現化としての地域自立生活の保障である。」としている12)。
このように、福祉関係八法改正を契機として地方自治の福祉政策化を意識した地域
福祉論の代表的論者である右田と大橋のいずれも、地域福祉の推進において、住民や
民間福祉団体が、市町村の行政当局といわば同等の立場で連携して取り組むことの重
要性に言及していることに注目したい。
6. 市町村当局と住民、福祉団体等との連携・協力の在り方(3)
~政府の政策の方向から~
次に、地域福祉の推進における官民の連携について、政府はどのような方針を打ち
出して施策を進めているのであろうか。
6.1 社会福祉基礎構造改革後の施策の方向
6.1.1 審議会の報告書
まず、社会福祉基礎構造改革が立案・実施された当時における政府の審議会の報告
書から施策の方向について見ていくこととする。
【平成10年報告書】
まず、社会福祉基礎構造改革の基本的考え方を示したものとして有名な「社会福祉
基礎構造改革について(中間まとめ)」
(1998(平成10)年 6 月
中央社会福祉審議会
社会福祉基礎構造改革分科会。以下「平成10年報告書」という。)では、
「3 地域福祉
の確立 (1)地域福祉計画」の箇所において、次のように、住民を地域福祉の担い手
と位置づけ、市町村当局が住民の自主的な活動と連携する必要に触れている。
「地域住民の参加による活動が全国で広がりつつあり、また、特定非営利活動促進
法(いわゆる NPO 法)の成立など、こうした活動の基盤整備も進められている。
こうした状況を踏まえ、地域福祉計画においても、地域住民を施策の対象としての
みとらえるのではなく、地域福祉の担い手として位置づけるとともに、住民の自主
的な活動と公的なサービスとの連携を図っていくことが重要である。」
【平成12年報告書】
また、社会福祉基礎構造改革が始まった(介護保険制度が実施され、社会福祉事業
12) 大橋
同上p.34
- 130 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
法が改正された)2000(平成12)年に公表された「社会的な援護を要する人々に対す
る社会福祉の在り方に関する検討会」報告書(以下「平成12年報告書」という。
)では、
社会的に排除された「社会的に援助を要する人々」という新たな福祉課題に対応する
ための社会福祉の考え方として、
「新たな「公」の創造」を掲げ、次のように述べてい
る。
「今日的な「つながり」の再構築を図り、全ての人々を孤独や孤立、排除や摩擦か
ら援護し、健康で文化的な生活の実現につなげるよう。社会の構成員として包み支
えあう(ソーシャル・インクルージョン)ための社会福祉を模索する必要がある。
このため、公的制度の柔軟な対応を図り、地域社会での自発的支援の再構築が必要
である。特に、地方公共団体にあっては、平成15年 4 月に施行となる社会福祉法に
基づく地域福祉計画の策定、運用に向けて、住民の幅広い参画を得て「支えあう社
会」の実現を図ることが求められる。
さらに、社会福祉協議会、自治会、NPO、生協・農協、ボランティアなど地域社会
における様々な制度、機関・団体の連携・つながりを築くことによって、新たな「公」
を創造していくことが望まれよう。」
ここでは、
「社会的な援護を要する人々」という地域福祉の課題に対して地方自治体
当局と地域の様々な団体が連携して活動することが新たな「公」を創造していくとい
う、先述の右田の議論と同様の主張が認められる。
【平成14年報告書】
社会保障審議会福祉部会は、社会福祉法の地域福祉計画関係規定が2003(平成15)
年 4 月から施行されたことを踏まえ、2002(平成14)年 1 月に、
「市町村地域福祉計画
及び都道府県地域福祉支援計画策定指針の在り方について(一人ひとりの地域住民へ
の訴え)」
(以下「平成14年報告書」という。)を公表した。この報告書は、市町村が地
域福祉計画を、そして都道府県が地域福祉支援計画を策定する際の指針として、地域
福祉推進の理念や基本目標、地域福祉計画に盛り込むべき事項等について言及してい
るが、その中で、次のように触れている。
まず、
「地域福祉の理念」において、社会福祉法に新設された第 3 条及び第 4 条の趣
旨について、
「地域福祉推進の主体は『地域住民、社会福祉を目的とする事業を推進す
る者及び社会福祉に関する活動を行う者(以下「住民等」という。
)
』の三者であり、
地域福祉を推進することの目的とは、これらの者が相互に協力し合うことにより『福
祉サービスを必要とする地域住民が地域社会を構成する一員として日常生活を営み、
社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が与えられるようにする
こと』であり、こうした地域福祉推進のための方策として『市町村地域福祉計画及び
都道府県地域福祉支援計画』の策定を求めた」としている。
そして、今後における地域福祉推進の理念として、住民参加の必要性、共に生きる
- 131 -
年報 公共政策学
Vol. 5
社会づくり、男女共同参画、福祉文化の推進を掲げ、住民参加の必要性については、
「地域福祉とは地域住民の主体的な参加を大前提としたものであり、地域福祉計画の最
大の特徴は『地域住民の参加がなければ策定できない』ことにある」とするとともに、
共に生きる社会づくりについては、」地域福祉においては、差異や多様性を認め合う地
域住民相互の連帯、心のつながりとそのために必要なシステムが不可欠であり、例えば、
貧困や失業に陥った人々、障害を有する人々、ホームレスの状態にある人々を社会的に
排除するのではなく、地域社会への参加と参画を促し社会に統合する『共に生きる社会
づくり(ソーシャル・インクルージョン)』という視点が重要である。
」として、
「住民
参加による地域福祉計画策定」と「共生社会づくり」の理念が打ち出されている。
そして、「地域福祉推進の基本的目標」においては、
「地域住民も『福祉は行政が行
うもの』という意識を改めて、地域社会の全構成員(住民等)がパートナーシップの
考えを持つことが重要である。パートナーシップは、民間相互のパートナーシップの
みでなく、公私のパートナーシップとして行政及び地域社会の構成員が相互に理解し
合い、相互の長所を生かし、
「協働」することによって大きな想像力が生み出されてく
るものである(パートナーシップ型住民参加)
。」として、
「パートナーシップ(協働)
」
という理念が打ち出されている。
6.1.2 地域福祉計画策定の推進
厚生省は、この平成14年報告書を各都道府県に送付するとともに、
「貴職(「都道府
県知事」のこと……筆者注)におかれては、この報告の趣旨を踏まえ、地域福祉計画
を策定する場合においては、地域の実情に応じて適切な計画が策定されるよう都道府
県内部部局はもとより、管内市町村への周知及び支援方ご配慮を願いたい。」
(2002(平
成14)年 4 月厚生省社会・援護局長通知)旨の局長通知を出している。
関係審議会報告書において、上述のように、地域福祉推進の方策として地域福祉計
画策定が位置づけられ、法律において規定が新設されたにもかかわらず、地域福祉計
画の策定は、法律上市町村に義務付けられていない。
これは、
「地域福祉計画の策定は、地方公共団体の自治事務と位置づけられるもので、
地方公共団体の自主性及び自立性への配慮が特に求められるため、計画の策定は格地
「な
方公共団体に義務づけられなかった」13) という制度面の制約によるものであるが、
お、第6条(国及び地方公共団体の責務)により、地方公共団体には、社会福祉を目的
とする事業の広範かつ計画的な実施が図られるよう、各班の措置を講じなければなら
ない旨の責務が課せられている。このような意味で、法律上「地域福祉計画」という
有力な手段が用意されていることを考え併せると、地方公共団体には、自主的かつ積
極的に地域福祉計画の策定に取り組むべき『義務』が課せられていると解してもよい
13) 社会福祉法令研究会編(2001)p.324
- 132 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
であろう」14) というコメントが、上記通知を出した、当時の厚生省当局の担当者の姿
勢を表していると思われる。
こうした姿勢の下、厚生省においては、各市町村に対して強制はできないが、でき
るだけ多くの市町村において、住民参加により地域福祉計画が策定されるようにする
ための施策として、モデル地域福祉計画策定自治体として15市町村を選定し、モデル
市町村相互による意見交換会議や、取組状況の報告会(「地域福祉計画パイオニアカレ
ッジ」)の開催を行うとともに、厚生労働省ホームページに「地域福祉計画」欄を作り、
こうした取組についての情報を広めていった。
6.1.3 地域福祉の取組への支援
厚生労働省は、上述のモデル市町村の取組についての情報提供の他にも、地域福祉
への市町村の取組を支援する事業を実施してきている。
2005(平成17)年度には、既存の補助金を統合して新設した「セーフティネット支援
対策等事業費補助金」における補助事業の一つとして、「地域福祉推進支援事業」(市
町村が要援護者に対して行う自立・就労に向けた支援サービスや住民が相互に支え合
う地域社会づくりを総合的に支援するため、広域的見地からの福祉サービスの提供、
新たなサービスの創出等を行う事業)や、「地域安心確保ネットワーク事業」(市町村
が実施する、住民や福祉関係者等による小地域を単位とした見守り・訪問等の支援サ
ービスの実施、並びに関連して行うニーズの把握、ボランティアの養成、広報等の事
業)への助成事業が始まった。
また、2007(平成19)年度には、これらの事業を統合して「地域福祉等推進特別支
援事業」が創設された。この事業は、
「既存の制度のみでは充足できない問題」や「制
度の狭間にある問題」など地域社会における今日的課題の解決を目指す先駆的・試行
的取組に対する支援を通じて、住民参加による地域づくりの一層の推進を図ることを
目的とするものであり、市町村等を実施主体とする「小地域福祉活動推進事業」と、
都道府県や指定都市等を実施主体とする「広域福祉活動推進事業」の 2 つの事業を内
容とする助成事業であった。
なお、この事業については、平成20年度に、もう一つの流れが加わる。厚生労働省
の老健局は、都市部を中心に、地域から孤立した状態で高齢者が死亡することが社会
問題となっている状況を踏まえ、2007(平成19)年度に「孤独死防止推進事業(孤立
死ゼロ・プロジェクト)」を創設した。この事業は、①有識者、自治体、関係団体で構
成される「高齢者等が一人でも安心して暮らせるコミュニティづくり推進会議」
(以下
「推進会議」という。)を設置し、提言を策定するとともに、②モデル自治体において
孤立死の防止を目指した取組(孤立死ゼロ・モデル事業)を推進するものことを内容
14) 社会福祉法令研究会編
同上p.325
- 133 -
年報 公共政策学
Vol. 5
としていた。
推進会議が2008(平成20)年 3 月にまとめた報告書においては、「
『孤独』な一人暮
らしを解消して人の尊厳を傷つけるよう悲惨な『孤独死』を未然に回避するためには、
『孤立生活』をしている人に、その地域で何らかの社会関係や人間関係が築かれ、『孤
独』に陥らないようにしなければならない。そのためには、地域の低下したコミュニ
ティ意識を掘り起こし、活性化することが最重要である」と提言されている。また、
この「孤立死・ゼロ・モデル事業」は、2008(平成20年)度から、上記「地域福祉等
推進特別支援事業」の対象に含まれることとされている。
6.2 平成20年報告書とそれ以後の施策
6.2.1 平成20年報告書
2008(平成20)年 3 月には、
「これからの地域福祉の在り方に関する研究会」報告書
(大橋謙策座長。以下「平成20年報告書」という。)が公表された。
この報告書は、介護保険法や障害者自立支援法の制定、児童福祉法の改正等により、
公的な福祉サービスは整備されてきたが、現行の仕組みだけでは対応しきれていない
多様な生活課題があり、これらに対応する考え方として、地域福祉をこれからの福祉
施策に位置付ける必要がある」とし、公的サービスで対応できない課題への対応策と
して地域福祉を位置づけている。
そして、地域福祉を推進するための環境として、「情報の共有」
、「活動の拠点」
「地
域福祉のコーディネーター」、「活動資金」が必要であることに触れた上で、市町村の
役割として、
「市町村は、制度的に位置づけられた、公的な福祉サービスが適切に提供
されるよう責任を有するとともに、住民の福祉に責任を負っている主体として、市町
村全体を見て、地域福祉活動、市場による福祉サービスが相まって、住民が地域で普
通に暮らし続けることを可能にする責任も負って」おり、住民の地域福祉活動の基盤
を整備することは市町村の仕事であり、
「このような観点から市町村の役割を具体的に
列挙すると、地域福祉計画に住民の新たな支え合いを位置付ける、地域福祉計画の作
成に当たって住民が参画する仕組みを作る、地域福祉活動の内容にふさわしい圏域を
設定する、また、コーディネーターや拠点など住民の地域福祉活動に必要な環境を整
備する、といったことなどが挙げられ」る、としている。
6.2.2 それ以後の施策
2008(平成20)年度には、
「地域福祉活性化事業」が創設された。この事業は、住民
相互の支え合い活動を促進し、地域において支援を必要とする人々に対し、見守り・
声かけをはじめとする福祉活動を活性化するため、市町村等が地域福祉活動を調整す
る役割を担う者を配置するとともに、拠点づくり・見守り活動等の事業を行うことに
対し助成するものである。この事業は、まさに、上記の平成20年報告書の考え方を踏
- 134 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
まえて創設された事業と言う事ができる。
そして、2009(平成21)年度には、それまでの先駆的・試行的取組への支援と、平
成20年度に新設された、住民の地域福祉活動を活性化するための調整担当者配置への
支援の 2 つのタイプの事業に加え、新たな対応の新規事業が創設された。
「安心生活創造事業」と名付けられた、この新規事業は、市町村が、一人暮らし世帯
への基盤支援(「見守り」と「買物支援」)を行うことにより、一人暮らし世帯が、住
み慣れた地域で安心・継続して生活できる地域づくり行う事業に助成するものである。
この事業は、①基盤支援を必要とする人々とそのニーズの把握、②基盤支援を必要と
する人がもれなくカバーされる体制の整備、③それを支える安定的な地域の自主財源
確保への取組、の 3 つの原則を満たしたプログラム(「ひとり生活応援プラン(ton
plan)」
)を実施するものである。
厚生労働省は、この事業を実施する「地域福祉推進市町村」
(2009(平成21)年度52
市区町村、平成22年度52+6 市区町村)と協働して効果検証を行うとともに、取組の
成果を全国に普及することとしており、2010(平成22)年 5 月には、そうした検証及
び取組の成果の標準化及び普及方法について検討を行う場として、
「安心生活創造事業
推進検討会」を設置して検討を行っている。
なお、厚生労働省は、各地方自治体における地域福祉計画の策定状況について毎年
調査を行い、その結果を公表していたが、2010(平成22)年は、2020(平成22)年 3 月
末日現在で約半数の市町村(特別区を含む)において地域福祉計画の策定を終えてい
ないことに加えて、
「全国各地でいわゆる高齢者の所在不明問題が発生し、地域社会の
つながりの希薄化が改めて明らかになり、少子高齢化社会における高齢者等の孤立が
憂慮される」ことから、各都道府県に対し、管内市町村への地域福祉計画策定への働
きかけを強化するとともに、
「高齢者等の孤立の防止や所在不明問題を踏まえた対応に
当たり有効な計画になっているか等について、必要に応じて計画の見直しを行う等の
対策を講じるよう支援・働きかけを」依頼している。
6.3 政策の動向のまとめ
ここまでの厚生労働省における施策の動向を見ると、まず、社会福祉基礎構造改革
後しばらくは、地域住民や福祉団体の参加による地域福祉計画の策定を通じて、公私
のパートナーシップ(協働)により、社会の構成員として包み支え合う(ソーシャル
インクルージョン)地域福祉が形成できるとの考え方の下に、モデル市町村にかかる
情報の提供等により、各市町村における地域福祉計画策定の推進に重点が置かれてい
たと考えられる。
その後、介護保険や支援費制度等の公的福祉サービス制度の整備に伴い、施策の重
点は、公的サービスでは対応できない地域の福祉ニーズに対応するための先駆的・試
行的取組への支援に移っていった。
- 135 -
年報 公共政策学
Vol. 5
そして、最近では、地域で孤立化していく高齢者への見守り・声かけといった地域
の住民相互の支え合い活動の中心となる担い手自身がいなくなってきている状況に鑑
み、地方自治体自体が地域福祉活動の調整役の人を配置することにより、地域の支え
合い活動を再建していこうとする取組を始めた。
しかし、そうした中で、地方自治体自身が地域や家族から孤立化している高齢者そ
のものを把握できなくなってきているという更に厳しい状況に直面し、これに対応す
るため、孤立化した高齢者そのものの把握、そしてその人々のニーズ(買物やごみ出
し等)の把握とそれに対応できる体制の整備、さらにそれを支える財源作りといった、
いわば地域の支え合い体制そのものの再構築に向けて、取組を進めざるを得なくなっ
ている状況ではないか、と考えられる。
こうした地域社会そのものの再建を進める取組は、従来の、地域の自治会等がそれ
なりに機能している中で、それから排除されている人々を救っていこうという取組に
比べ、息の長い取り組みが必要である。市町村当局には、取組のベースを形成するた
めには、短期的・集中的な強い取組も必要であろうが、それに留まらず、地域の住民
や地域福祉に取り組んでいる福祉団体が、新たな支え合いの仕組みを地域で形成し継
続していくことができるよう、息の長い支援が必要になろう。
7. 市町村当局と住民等との連携・協力の在り方(4)~市町村における取組~
それでは、市町村の現場においては、市町村当局と住民、福祉団体との間でどのよ
うな連携、協力が行われているのか。
連携・協力の局面として、ここでは、市町村福祉計画の策定と、地域における福祉
サービスの提供との 2 つの局面に分けて検討することとする。
7.1 市町村福祉計画に関する協力・連携
前述したような、地域福祉が住民自治に連動し、住民や福祉団体の地域福祉に関す
る活動が市町村当局と共に新しい「公共」を形成するという視点からは、市町村福祉
計画についても、計画の内容が地域福祉の推進に言及しているか否かといった点に留
まらず、計画策定過程において、住民や福祉団体がどれだけ主体的に参加しているか
が重要である。
しかし、この点は、
「言うは易く行うは難」い問題である。市町村福祉計画の策定自
体は、従来のコミュニティが機能しなくなっている状況において必要なものであると
考えられるが、市町村当局自身が、この計画は国の指導により策定するものとの意識
を強く持っていては、住民参加といっても意見を聞くだけのおざなりになりかねない
おそれが強い。
そこで、市町村においては、住民主導による計画策定を前面に出し、当局は住民と
協働し、あるいはむしろ黒子に徹するという工夫をしているところが見られる。
- 136 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
例えば、住民参加への先駆的取組で有名な愛知県高浜市では、2001(平成13)年に、
「高齢者や障がい者といった当事者や将来のまちづくりを担う子どもたちが参加す
る『168人ひろば委員会』を立ち上げ、ワークショップによる住民自ら課題を見つけ
出し『活動』していく場を設けた。そして、参加した住民が自主的に会議を運営し、
従来の形式的といわれる会議から脱却した徹底した住民参加、住民主導で計画策定
にあたり」15)(「高浜市第二次地域福祉計画」第 1 章第 1 節 1)、2003(平成15)年の
高浜市地域福祉計画策定に結びつけている。
また、厚生省のモデル地域福祉計画策定市町村の一つである北海道の本別町におい
ては、国のモデル地区の指定を受けると、町内体制を整備した上で、地域座談会と住
民アンケートを実施した。地域座談会は、日常生活における課題を出し合い、地域課
題の共有化とその解決策を検討するため、町内21か所で開催し、871課題を集約した。
また、座談会に出席できなかった住民や幅広い年代からの意見集約を行うため、住民
アンケートも実施した。そして、それらの結果として出てきた地域の課題について、
町全体で地域福祉研修会を開催し、課題の種別に応じて 9 つのグループに分かれて、
問題解決のための議論が行われた。こうしたプロセスを経た上で、地域福祉計画の骨
子案が策定され、意見募集、意見を踏まえた計画案の算定・検討を経て、地域福祉計
画が2005(平成17)年に公表されている。
北海道については、もうひとつ、美唄市を挙げておきたい。旧産炭地域で少子高齢
が進んだ過疎のまちとして、近年財政破たんで話題となった夕張市と似た環境にあり
ながら、現在でも地域福祉計画が策定されていない夕張市と異なり、美唄市では、1990
年代後半から福祉のまちづくりが進められた。16)
1997(平成 9)年には、住民と行政との協働組織として設置された「福祉のまちづ
くり検討委員会」は、19人の公募委員と市職員19人の参加により38回に及ぶ会議を行
った検討推進グループにおける検討を踏まえ、幅広い分野について提言を行い、市の
行政に活かされた。それは、
「美唄市としての初めてに御本格的な市民参加の取り組み
だった。地域福祉計画に関しては、2003年に設置された、公募委員や、認知症高齢者
の家族会等の団体、保険・福祉・医療関係者等から構成される「地域福祉市民ささえ
あい推進委員会」(以下「推進委員会」という。)が中心となって、11か月の期間をか
けて策定された。事務局は、市の担当部局と社会福祉協議会により構成されたが、資
料準備・日程調整・連絡を中心とすることに留め、委員会主導による運営を阻害しな
いように努めた。推進委員会は、市民意識アンケート調査や、各小学校での地域懇談
会の開催、子ども懇談会等を実施し、これらの会議を通じて、ただ計画を作るだけで
15)「高浜市第二次地域福祉計画」第 1 章第 1 節 1
16) 美唄市の地域福祉計画に関する記述は、大内高雄「市町村地域福祉計画―美唄市の地域福
祉計画策定過程に学ぶ―」(島津淳・鈴木真理子「地域福祉計画の理論と実践」第 9 章 ミ
ネルヴァ書房)によった。
- 137 -
年報 公共政策学
Vol. 5
なく、様々な生活課題があること、そして、行政だけに頼らず、自分達が助け合い住
みよい社会を作っていくことが大事であることが市民の間で再認識された。
このような、市町村における地域福祉計画策定過程における住民参加は、身近な生
活課題である地域福祉について、住民自身が自らの課題として取り組むきっかけ作り
として、地方自治・住民自治の観点からも重要な取組であり、当該地域で活動する福
祉団体にとっても、市町村当局や住民の理解と協力を得て、自らの地域に行ける福祉
活動を更に展開していく上で、こうした計画策定過程への積極的参加は重要である。
ただ、こうした計画策定過程における住民参加は、策定当時においては住民の意識
向上や地域における支え合いの仕組みつくりに大きく貢献するものであるが、そうし
た取組を恒常的な仕組みに繋げていくことは難しく、また、仕組みを作っても、役所
の担当者の交替や地域での担い手不足により形骸化してしまう事が少なくないという
問題がある。
7.2 地域における福祉サービス提供に関する協力・連携
~「共生型」福祉サービスについて~
福祉サービスの中でも、公的サービスについては、既に前述の「3 市町村当局と住
民、福祉団体等との連携・協力の在り方(1)~公的福祉サービスの提供において~」
で触れたところであるので、ここでは、国の制度としては必ずしも認められていない
地域福祉サービス、その中でも特に「共生型」福祉サービスについて触れていくこと
としたい。
ここで「共生型」サービスとは、高齢者、障害者、児童等対象者を限定しないで受
け入れ、福祉サービスを提供する事業であり、1993年に富山市で始められた共生型デ
イサービス「このゆびとーまれ」が、最初の試みとして有名である。
「このゆびとーま
れ」は、
「誰でも、必要な時に必要なだけ利用できるサービスを」17) をモットーに、当
初全く公的支援を受けない事業としてスタートするが、その後富山県から県単独事業
として補助を受けるようになった。そして、
「このゆびとーまれ」の理念に共鳴した人々
が富山県内で次々と共生型デイサービス事業所を開設し、
「富山型サービス」と呼ばれ
るようになった。その後、宮城県、長野県等多くの県においても、県単独事業として、
共生型サービスに対して補助が行われるようになり、富山型サービスは各地で展開さ
れるようになっている。
これらの一連の富山型サービスといわれる共生型サービスについては、平野
(2005)18) が、これらを「共生ケア」と名付けて詳細な分析を加えているので、以下、
その分析を中心に見ていきたい。
17) 惣万佳代子(2002)p.12
18) 平野隆之(2005)
- 138 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
平野(2005)によれば、共生ケアには、デイサービスを核として推進するものと、グ
ループホームにおいて共生ケアを目指すものの 2 つに大別される、とされている。ま
た、
「このゆびとーまれ」における実践を踏まえ、①地域の中で当たり前に暮らすため
の小規模な居場所を提供し、②利用の求めに対しては高齢者、子ども、障害者という
対象上の制約を与えることなく、③その場で展開される多様な人間関係を、共に生き
るという新たなコミュニティとして形づくる試み、という 3 つの要素をもつものとし
て定義付けられている19)。この定義のポイントは、第一に、共生ケアにおいては、認
知症高齢者への対応も、問題行動のある認知症高齢者への専門的なケアとして行われ
るのでなく、地域で当たり前に暮らすための小規模な居場所の中で展開される多様な
人間関係を共に生きる中で行われるものであること、そして第二に、そうした多様な
人間関係の中で行われる共生ケアは「共に生きる」という新たなコミュニティを形づ
くる試みでもある、ということである20)。
さらに、平野(2005)では、2003年度において 9 県で共生ケアへの補助事業が実施さ
れている背景について、①当該県における共生ケアの実践や宅老所のネットワーク活
動に対する積極的評価が反映していること、②地域福祉の推進が県福祉行政の重要な
スローガンあるいはミッションとされ、そのための具体的なプログラムとして共生ケ
アが採用されていること、③施設福祉を転換する「地域移行」、
「地域分散」が政策の
方向として打ち出され、その文脈で共生ケアが提案されている、という点があるとし
て、積極的に評価している21)。
ただ、これらの県補助事業は、必ずしも富山と同じような展開をしていったわけで
はない。例えば滋賀県では、高齢者福祉担当課の所管する「ふれあいデイサービス・
ふれあいグループホーム整備事業」
(高齢者、障害者、児童のいずれも対象としてサー
ビスを行う施設への補助)と障害福祉担当課の所管する「ふれあいフループホーム事
業」
(知的障害者のグループホームを基盤に、身体障害者、精神障害者や高齢者、子ど
もが一緒に暮らすグループホームへの補助)の 2 つの事業が2001年度に開始されたが、
利用しずらさ等もあったため、前者はグループホーム整備のみについての事業に、後
者は、知的障害者グループホームに高齢者や児童が入居する場合に支援する方式に切
り替える等の措置が講じられるとともに、2003(平成15)年度には、地域で高齢者、
障害者、子ども等が交流できる拠点の整備及びコーディネーター配備への補助を行う
「みんなであったか地域ファミリーステーション事業」が実施された22)。この事業は、
2004(平成16)年度には、介護や子育てサービスに限らず環境や文化等とも協働する
まちづくりを推進する「あったかほーむづくり事業」に移行・発展した。そして、2006
19)
20)
21)
22)
平野
平野
平野
平野
同上p.13–14
同上p.29-31
同上p.33-36
同上p.184-185,p.195-198
- 139 -
年報 公共政策学
Vol. 5
(平成18)年度には、拠点整備及びコーディネーター配備に更に地域福祉ネットワーク
事業への事業費助成も加えた「“あったか”たうんづくり事業」も実施された。これら
一連の事業により、17か所の拠点整備が行われている(なお、これらの事業は2008(平
成20)年度には終了している)。
また、長野県では2002年度から、5 年間で290か所という小学校区単位ごとの整備を
目指して「宅幼老所(コモンズハウス)
」に対し、民家等の改修費を補助する支援を行
った結果、急速に宅幼老所が普及したが、利用者の 9 割以上は高齢者で、児童や障害
者の利用は伸び悩んでいる23)。
平野は、共生ケアの意義を高く評価しているために、こうした状況を課題としてい
るが、これは、むしろ、共生ケア事業がその地域にあった発展をしていっていると見
ることもできるのではないか、と思われる。前述の滋賀県や長野県においては、富山
方式に感銘を受けた県当局上層部の意志が強く反映して補助事業が実施された経緯が
あり、導入そのものは強いインパクトを与えたものとして評価されるが、その後は、
それぞれの土地に応じた形態でなければ事業継続はできない。その意味で、その後の
動向は、滋賀県は宅老所ネットワークの動向や、障害の種別を問わず対応していた共
同作業所の伝統等、滋賀県の特性を踏まえた発展と見ることもできる。また、長野県
については、5 年間で290か所という急速な整備が、地域や関係機関との連携や経営基
盤といった事業継続のベースを事業者がしっかりと持った形での整備となっていたの
か、疑問なしとしない 24)。富山における取組も、もともとは、共生ケアを広めようと
いうのではなく、
「誰でも、必要な時に必要なだけ利用できるサービスを」をモットー
に始められた事業が地域に根付き、共感者を生んで広まり、それを県や市が助成して
いった、という、まさに富山の地域の特性にあった事業を行政が支援していったもの
であり、他の土地から移入されたものではない。
なお、最近、現在筆者の居住する北海道でも、共生型施設整備に対する交付金事業
が行われている。これは、厚生労働省の「地域介護・福祉空間整備等交付金及び地域
介護・福祉空間推進交付金」の先進的事業支援特例交付金を、障害者、高齢者、子ど
もなどへの「共生型」サービスを行う施設の整備に活用したものである。筆者は、最
近、交付金の交付を受けたいくつかの共生型施設を訪問したが、そこでも、北海道と
いう地域の特色を反映した事業展開が見られた。
一つのパターンは、障害者等の施設が地域移行に向かうための拠点施設として、グ
ループホームや地域センター(デイサービス、喫茶、相談事業等を実施)を共生型・
地域開放型事業として整備する事業への交付金交付である。北海道は障害者施設数の
23) 平野 同上p.213-222
24) 長野県では、現在、宅幼老所整備事業は、
「地域福祉総合助成金交付事業」という県単独補
助事業に他の県単独の福祉事業とともに整理統合され、そのメニューの一つとして実施さ
れている(長野県ホームページより)。
- 140 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
多いことで知られているが、それらの施設の中でも地域移行に取り組もうとしている
ところも少なくない。それらの施設が、入所者の地域移行・他者との共生や、地域に
開かれた事業展開を行うことが、この事業により推進されている。
今一つのパターンは、共生型事業を地域で進めている NPO 法人等が更に活動を展開
していく際の拠点整備への交付金交付である。 従来行政依存型事業が多いと言われて
いた北海道においても、地域のニーズに応じて対象者を限定することなく支援活動を
自らの力で実施している NPO 等の民間福祉団体が、最近各地で活動を展開してきてお
り、こうした団体が、更に活動を大きく展開していく際に、その拠点となる施設(地
域開放型センターや雇用創出型・起業支援型活動を行うセンター)の整備に補助する
ことにより、そうした新しいタイプの地域福祉団体の今後の活動の推進が図られる。
このように、共生型事業は、地域の中で当たり前に暮らすための小規模な居場所を
様々な者に提供し、その場の多様な人間関係を通じて新たなコミュニティを形成する
試みを展開する場として、事業が実施される様々な地域における状況に対応した変容
を加えられながら、公的な福祉サービスでは対応できないニーズに対応したり、地域
社会における拠点として機能して、地域福祉の推進に貢献するといった役割を果たし
ている。
8. おわりに
本稿において、ここまで述べてきたことをまとめると、以下のように整理すること
ができる。
○日本の福祉制度が、国がその責任で全国一律に実施していた制度から、市町村を
福祉サービスの拠点として、民間企業や NPO 法人を含む幅広い担い手により多様
なサービスが提供され、市町村は、サービス提供体制の整備や関係機関との連絡
調整等を主な任務とする仕組みに転換したこと。
○日本の市町村における福祉担当部局や福祉専門職の体制が乏しく、その充実も期
待できない中で、市町村の役割とされてきた福祉サービス提供における連絡調整
についても、相談・支援事業や包括的・継続的ケアマネジメント支援事業等につ
いては専門的知見を有する民間福祉団体に委ねられる方向が認められること。
○従来の地域コミュニティがその機能を喪失していく中で、地域福祉を推進してい
くためには、住民や地域の福祉団体等が、地方自治体当局と対等の、
「新しい公共」
を担う主体として参加していくことにより、地域の支え合いを再建していくことが
必要であり、それにより、地方自治・住民自治が実現されていくものであること。
○地域コミュニティそのものを再構築していかなければならない状況に追い込まれ
ている日本において、共生型事業は、地域の中で当たり前に暮らすための小規模
な居場所を様々な者に提供し、その場の多様な人間関係を通じて新たなコミュニ
ティを形成する試みを展開する場として、公的な福祉サービスでは対応できない
- 141 -
年報 公共政策学
Vol. 5
ニーズに対応したり、地域社会における拠点として機能し、地域福祉の推進に貢
献するといった役割を果たしていること。
こうした状況を見ていくと、現在の日本の地域福祉においては、福祉サービスの提
供については、公的サービスであるかそれ以外の福祉サービスであるかを問わず、民
間福祉団体の担う役割は非常に大きいこと、また、それだけでなく、福祉サービス提
供の円滑な提供のための連絡調整においても、相談・支援事業等の専門的知見の必要
な事業については、民間福祉団体が担う部分が大きくなっていること等が認められ、
こうした民間福祉団体の役割は、今後、更に大きくなっていくことが予想される。
しかし、それは、市町村当局が地域における福祉サービスについて全面的に民間福
祉団体に委ねる、いわば「丸投げ」することを意味するものでは決してない。筆者が
これまで見聞したところでも、民間福祉団体が地域における福祉サービスについて積
極的な事業展開をしているところでは、市町村当局が、適切な補助金の紹介や都道府
県・国との調整等の制度面・財政面の支援、地域の他の団体や関係者との調整等、様々
な面でそうした福祉団体の事業展開をしっかりと支えているところが多い。
また、過疎町村等においては、民間福祉団体が存在しないあるいは存在していても
弱小なところも多く、そうした地域では、少なくとも当面は市町村当局自身が事業実
施主体としての役割を果たしていかざるを得ないと思われるが、そうした地域におい
ても、並行して、住民や民間団体の力をつけ、
「新しい公共」を共に担うことのできる
主体づくりを進めていくことは重要である。
なお、本稿においては、地域福祉を担う主体として、市町村当局、住民、民間福祉
団体等を挙げてきたが、民間福祉団体の中でも、社会福祉協議会については特に触れ
てこなかった。筆者も、社会福祉協議会がこれまでの日本の地域福祉に果たしてきた
役割の大きさについては認識しており、地域における高齢者のたまり場つくりとして
の「ふれあい・いきいきサロン」の全国的な展開や、町内会・自治会と連携した地域
福祉活動、前記の平成12年報告書を受けた、新たな福祉課題に対応していくための各
市町村社会福祉協議会の取組等、数々の実績を挙げてきたことについては、高く評価
するものである。ただ、反面で、社会福祉協議会の取組については、①担当者の意欲
の違い等により、市町村社会福祉協議会により取組に大きな差異があること、②行政
当局からの委託事業が事業の中心となり、独自事業の展開がおろそかになりがちなと
ころも認められること、③従来の町内会・自治会との連携による取組が中心で新しい
NPO 等の取組との連携があまり図られていないこと、等の問題も見受けられる。社会
福祉協議会が、今後とも地域福祉を担っていくためには、こうした問題に対応し、従
来の活動に安住しない、新たな取組を進めていくことが求められていると考える。
- 142 -
これからの地域福祉における市町村及び民間福祉団体の連携・協力の在り方について
現在、日本における地域コミュニティは非常に厳しい状況にある。そうした状況を
克服し、今後の地域における地域福祉を進めていくためには、ここまで触れたような、
民間福祉団体が、住民とともに「新たな公共」を担い、市町村当局がそれを支えてい
くという、新しい方向での民間福祉団体と市町村当局との連携・協力を進めていくこ
とこそ、必要なものであると考えられる。
参 考 文 献
厚生省社会局老人福祉課監修(1987)「改訂
老人福祉法の解説」中央法規出版
芝田秀明(2001)
「福祉サービスの公的責任」日本社会保障法学会編「講座社会保障法
巻
西山
第3
社会福祉サービス法』法律文化社
裕(2008)
「障害者自立支援法と障害福祉サービス-自治体の役割と障害福祉サービス
の体系を中心に-」『季刊社会保障研究』Vol.44
国立社会保障・人口問題研究所
武川正吾(2005)「地域福祉の主流化と地域福祉計画」
『地域福祉計画―ガバナンス時代の社会
福祉計画』(有斐閣)
「介護保険制度の解説―平成18年10月版―」(2007)社会保険法規研究会
障害者福祉研究会編(2007)「逐条解説
牧里毎治(2006)「2
障害者自立保険法」中央法規
地域福祉の思想と理論」
(日本地域福祉学会編集『新版
地域福祉事典』)
中央法規
右田紀久恵(1993)「自治型地域福祉の展開」法律文化社
大橋謙策(1999)「地域福祉」(財)放送大学教育振興会
社会福祉法令研究会編(2001)「社会福祉法の解説」中央法規
島津
淳・鈴木真理子編著(2005)「地域福祉計画の理論と実践」ミネルヴァ書房
平野隆之(2005)「共生ケアの営みと支援―富山型『このゆびとーまれ』調査から―」全国コ
ミュニティライフサポートセンター(CLC)
惣万佳代子(2002)「『富山型』デイサービスの日々―笑顔の大家族
水書房
- 143 -
このゆびとーまれ」
年報 公共政策学
Vol. 5
“How should the municipal government and the
non-profit organization cooperate in order to advance
the community welfare?”
NISHIYAMA Yutaka
Abstract
In recent years, the community welfare policy have promoted in Japan.
The
municipality ,such as cities towns and villages , came to bear the important role of the center
of the social-welfare-services in the area . But they have many problems ,for example, the
financial status is severe and the specialist of welfare are few etc. On the other hand, a new
welfare business is developed by new bearers, such as non-profit organization(NPO), in the
area. The municipal government should
evaluate the specialty in the welfare field of NPO,
and should support so that the activity of NPO may become easy.
Keywords
the community welfare ,
the municipality , non-profit organization , the specialty in
the welfare ,
- 144 -
皆年金実現の政治過程
皆年金実現の政治過程―台湾の国民年金制度の導入
林
1.
成蔚
はじめに 1)
2008年10月に、台湾において「国民年金制度」が実施されたことによって、ほぼ似
たような発展経路を辿ってきた韓国に比べて20年遅れて、皆年金が漸く実現された。
また、2008年 7 月には「労工保険条例(労働者保険条例)」の修正が行われ、「労工保
険(労働者保険)
」による年金給付およびそのポータビリティの実施が実現された。両
制度の改革を合わせれば、台湾における高齢者の所得保障制度がより充実化したとい
える。かつては一部の専門家から「残滓型福祉国家」として扱われてきた台湾にとっ
てこれらは重要な出来事であった。本稿はその前者の「国民年金制度」が導入された
政治過程を分析対象にしたい。
開発国家の典型である台湾の社会福祉・社会保障制度は、長い間研究の対象として
扱われるほどのものではなかった。しかし、民主化とともに急速に拡大した社会保障・
福祉制度は90年代初期から注目を浴びるようになり、台湾の研究者のみならず、欧米
の研究者も取り上げるようになった。今日において、台湾の社会福祉・保障制度を素
材に、政治学、政治経済学の視点から行われる分析は主として 2 種類に分別すること
ができる。一つは台湾における「福祉国家」の起源あるいは特徴などに焦点を当て、
福祉国家の一類型として分析を行うものである。そこには人口構成、家族の役割、経
済発展の水準、文化要因などの側面が注目され、マクロな視点が採用されている。第
二種類は、比較政治学によく使用される国家構造論や政治過程論の流れを汲む研究で
あるが、統治体制と社会福祉・社会保障制度の関係、或いは特定の制度(例えば公的
医療保険や年金制度)の形成をめぐる政治過程を分析対象としているものである 2)。
国民年金制度という特定の制度をめぐる政治過程に焦点を当てた本稿は、第二種類に
属しているといえよう。
90年代以降台湾の社会保障・福祉制度は民主化によって現れた選挙競争の中で、政
党の公約合戦によって拡大し続けた。それは階級同盟あるいは社会集団の連帯によっ
てもたらされた結果よりも、国家主導の再分配政策の拡大として認識されるべきであ
る。しかし、民主主義の定着によって開発国家における社会福祉・社会保障制度が拡
大するという論理は、一定の説得力を持つものの、拡大の「あり方」については新た

北海道大学公共政策大学院准教授
E-mail: [email protected]
1) 本稿は、林(2003、未刊)第五章、Lin(2005)の一部を抽出し、大幅に加筆したものである。
2) より包括的な既存研究のレビューは、林(1999)、林(2002)と池(2006)第一章を参照。
- 145 -
年報 公共政策学
Vol. 5
な示唆を与えることはできない。なぜなら、健康保険制度と年金制度を取り上げて比
較するだけでも興味深い違いが明らかからである。台湾においては両者とも普遍性(皆
保険・皆年金)が確保されるようになったが、健保に関しては保険加入者のリスク分
担が最大限確保されている保険者の一元化がなされ、給付の同一化が確保されてい
る 3)。それに対して、皆年金を実現した「国民年金制度」は、農民を除いた自由業、
零細労働者、主婦、学生など比較的所得が低く、雇用が不安定な社会集団のみを対象
とし「弱者の基礎年金」であり、その他の公務員保険、軍人保険、労工保険(労働者
保険)
、農民保険など給付がより充実した職域保険の年金制度は維持されたままである。
言い換えれば、台湾の健保制度は多くの研究者が指摘しているように、再分配機能が
高く、社会的平等を促す制度になっており、それは市民団体の連帯と財政体質の改善
という二つの理由が相まって可能にしたものである 4)。この健保制度は極めて「進歩
的」なものであるにもかかわらず、年金制度は「保守的」な体質を維持したままであ
る。このような違いを説明するためにはよりマクロ、あるいは比較的な視点が必要で
あるが、本稿は年金制度の拡大の「あり方」-「国民年金制度」の導入-をめぐる政
治過程に焦点を当て、メゾレベルの分析を行うことを目的とし、より包括的な比較分
析に寄与したい。
2. 台湾の高齢化社会
台湾の人口構成は90年代以降急速に高齢化が進んだ。理由の一つは、多くの先進国
と同様に経済発展によって価値観が変化し、女性の社会進出が増え、結婚制度をめぐ
る考え方が変化し、その結果として出生率が低下していることにある。1983年の2.05
パーセントをピークに、台湾の出生率は減少し続け、2009年には0.829パーセントまで
下がっている5)。このレベルの出生率は、ドイツとほぼ同じであり、世界的に最も低
いものである(聯合報(2010/2/6))。もう一つの理由は医療技術の進歩および医療制
度の整備によって平均寿命が上昇したことである。台湾においては1989年の平均寿命
が73.51歳であったのに対して、2009年は79.0歳に延びたのである 6)。
これらのことによって、1993年に台湾における65歳以上の高齢者は、すでに人口の7.1
パーセントに達し、台湾が高齢化社会として位置づけられるようになった。2009年に台
湾における65歳以上の人口は全人口の10.6パーセントを占め、この趨勢が継続すると、
2019年には高齢者人口が全人口の15パーセントを上回り、わずか26年間で高齢者人口が
倍増することになる(表 1 を参照)。このように日本や欧米諸国を上回る社会の高齢化
台湾の健康保険制度の改革については、Lin K.M.(1997)と Wong(2006)が最も包括的かつ
優れた研究である。
4) 台湾の健保制度をめぐる評価およびその改革は Wong(2001)を参照。
5) 台湾内政部戸政司 http:// http://www.ris.gov.tw/
6) 平均寿命に関しては、台湾内政部「中華民国人口統計年刊」の各号を参照。
3)
- 146 -
皆年金実現の政治過程
表1.台湾人口構成の変化
は、いうまでもなく様々な問
題を控えている。その中で最
も深刻な問題の一つは、高齢
者の所得保障である。
高齢化問題と同時に、台湾
では2010年に終戦直後に生ま
れた世代が退職するピークに
達する。台湾内政部の統計に
よると、40歳から60歳までの
人口は全労働人口の 6 割を占
めており、2010年前後には毎
年約40万人が退職することが
予想される(民主進歩党政策
週報第24期(2006))。したが
って、高齢者の所得保障は政
府にとって重要な課題である
年
0-14 歳
15-64 歳
65 歳以上
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
2010
2015
2020
2030
2040
2050
2060
20.5
20.1
19.7
19.3
19.0
18.6
18.2
17.9
15.7
13.2
12.0
11.4
11.0
10.8
11.4
70.5
70.8
70.9
71.1
71.3
71.4
71.6
71.8
73.6
74.3
71.8
64.5
58.5
52.6
49.2
9.0
9.2
9.4
9.6
9.8
10.0
10.2
10.3
10.7
12.6
16.2
24.2
30.5
36.6
39.4
労働人口対
高齢者比率
7.8
7.7
7.5
7.4
7.3
7.1
7.0
7.0
6.9
5.9
4.4
2.7
1.9
1.4
1.2
(出典)台湾経済建設委員会『2010年至2060年臺灣人口推計』
2000年 9 月、台湾内政部『中華民国人口統計年刊』各号
と同時に、民主化以降激化してきた政党競争においても、問題化されやすいものとな
っている。そのため、90年代から地方・国政選挙の度に議論されてきており、対策も
特定の地方自治体あるいは集団(例えば農民)に老齢手当金を配布するものから労働
者一般の退職金制度の整備などさまざまである。その中で一貫して注目を浴びてきた
のは「皆年金」を実現する「国民年金制度」の導入である。
3. 台湾の「国民年金制度」の実現をめぐる政治過程
「国民年金制度」が台湾において話題を呼ぶ契機となったのは、1992年に野党の民進
党が国会議員の増補選挙において「老年年金」の支給を公約として打出し、躍進した
ことにある。それを受けて、国民党政府は1993年から国民年金制度の政策企画を開始
し、2008年に実現されるまで、実に15年間の時間を要した。本節はその「国民年金制
度」が成立するまでの政治過程を分析することによって、最終的に執行される制度を
決定する要因をとらえたい。
3.1 制度的差別を持つ政策遺制
90年代の改革以前の台湾における老齢所得保障は、エスニック集団間の差異が顕著
であったため、それが選挙競争において問題視され、社会全体の注目を浴び始めた。
台湾における社会保障は長く総合型社会保険が主な制度であった。これら職域ベース
の社会保険には医療給付、労災給付、そして老齢給付が含まれていた。1995年に各保
険の医療給付を抽出し、さらに公的医療保険を受けていなかった国民を加えて、すべ
- 147 -
年報 公共政策学
Vol. 5
ての国民が加入する「全民健保」が発足することによって、公務員・教職員保険、軍
人保険、労工保険などの保険の最も重要な役割の一つは老齢給付になった。
しかし、このような状況には二つの問題はあった。一つは、中小企業が多い台湾で
は労働基準法に準拠した条件に基づいて雇用しない企業は比較的に多く、労働者が有
利な状況で老齢給付を受給するのは障害が非常に多かったことである。逆に、公務員・
教職員と軍人は職業自体が安定しており、老齢給付を受給できる上、政府による寛容
な退職金制度も設けられている。傅立葉(1994)の研究によると、たとえ労働者が労
保の老齢給付と退職金制度の給付を受給しても、それを年金に換算すると、所得代替
率の32.67パーセントであるのに対して、軍人・公務員がそれぞれの社会保険および退
職金制度から得られる給付の所得代替率は、90パーセントを超えていたのである 7)。
つまり、言い換えれば、多くの労働者は、自力で老後の所得保障を解決しなければな
らない状態であったのに対して、軍人と公務員は、政府によって手厚く保護されてい
たのである。
二つ目の問題は、農民をめぐる制度が欠如していたことである。農民を含む医療保険
自体が1989年に漸く発足したが、老齢所得保障に関しては皆無であった。表 2 に示され
ているように、1993年の時点では、非高齢者と高齢者のどちらにせよ、いかなる社会保
険にも加入していなかった農民が公的老齢所得保障給付非受給者の半分を占めていた。
言い換えれば、90年代の初期まで、台湾では軍人、公務員、教職員が公的制度によ
ってかなり優遇されていた一方、労働者に対してはかなり低いレベルの所得保障が行
われ、農民をめぐるそれがほぼ皆無であった状態であったことになる。この状況が一
層問題化される理由は、この職域間の格差が、実は台湾におけるエスニック集団間の
亀裂と一致していることである。それは、農民に関しては19世紀末までに中国大陸か
ら移民してきた「本省人」が多いのに対して、軍人・公務員は1950年前後に蒋介石と
表2.公的老齢所得保障給付非受給者の人口構成(1993 年)
職
種
農 民
中、大型企業雇用主
家庭主婦
失業者
学 生
合 計
25 歳から 64 歳までの人口
推計人数(万人) (%)
165.3
(51.3)
2.2
(0.6)
141
(43.8)
6.6
(2.0)
6.9
(2.1)
322.0
(100)
65 歳以上の人口
推計人数(万人) (%)
51.8
(50.3)
0.3
(0.3)
4.3
(4.2)
--(老齢)46.6
(45.2)
103.0
(100)
(出典)経済建設委員会 (1995) 17~8
(備考)65歳以上の「老齢」は、非農民高齢者で、元の職業が明らかでない人口
7)
さらに、一部の研究者は、軍人と公務員は利子率18パーセントの優遇貯金制度があり、そ
の経済的効果を計上すると所得代替率が100パーセントを超えると主張している(郭明政,
1998)。
- 148 -
皆年金実現の政治過程
ともに台湾に移転した「外省人」が多かったことである。しかしながら、中国大陸に
おける中国共産党との内戦に敗北し、国民党政権が台湾に移ってからすでに半世紀以
上を経ており、軍人・公務員にも多くの本省人が務めるようになったのは事実である。
そのため、現役の労働者と公務員・軍人の差異よりも、老齢所得問題に注目を集めた
所得保障をめぐる差異の論争は、退役軍人と農民の高齢者をめぐる処遇の違いである。
その退役軍人の殆どが、戦後国民党と共に台湾に移った外省人であることは、台湾社
会では一般的な認識とされており、対しての農民高齢者はほぼ間違いなく本省人であ
った。
しかし、台湾では職業別の出身地-省籍-についての正式なデータがないため、そ
れを実証することが困難である。本稿において、台湾の研究者が行った高齢者をめぐ
る経済的自律性のサンプル調整に依拠し、この職域間とエスニック集団間の所得保障
をめぐる格差が一致しているという印象が台湾社会において受け入れられやすい状態
であることを指摘しておきたい。表 3 は、1989年のサンプル調査から経済的自立でき
る老人の属性を、省籍と職種(農民、非農民)に基づいて整理したものである。表に
示されているように、仕事、退職金や手当金などの収入を含めて、60歳以上の高齢者
の42.7パーセントが経済的に自立できるとされていた。しかし、省籍別で見ると、調
査をうけた外省人の78.8パーセントが自立できるのに対して、本省人はわずか32.2パ
ーセントである。外省人の高齢者の方が、経済的に自立できる能力を持っていたので
ある。その原因は教育水準、健康状態、性別など他の要因にも影響されるが、外省人
の半分以上が老齢給付、退職制度、個人貯蓄などによって経済的に自立していること
は看過できない。つまり、勤労収入によって経済的自立している比率は省籍的に大差
がなかったのに対して、老齢所得保障制度や個人貯蓄によって経済的自立している老
表3.台湾―経済的に自立できる高齢者の属性(1989 年)
調査全体において経済的に自立できる高齢者の比率:42.7% →
調査全体において経済的に自立できない高齢者の比率:57.3% →
経済的に自立できる
調査
高齢者の比率(%)
サンプル数
(3)=(1)+(2)
1704 人
2286
経済的自立できる収入源
老齢給付、退職金、
勤労収入に依存
貯蓄などの収入に
している高齢者
依存している
の比率(%)
高齢者の比率(%)
(2)
(1)
年齢層
60~64
65~
1,542
2,447
58.6
32.6
41.3
16.4
17.2
16.2
省籍
本省人
外省人
3,099
891
32.3
78.8
23.7
34.5
8.6
44.2
職種
農民
非農民
その他不詳
1,291
2,037
662
29.7
58.2
20.4
23.6
33.1
9.4
6.1
25.1
11.0
(出典)張明正 (1996) 18~9、表 6 のデータに基づいて計算し、作成した。
- 149 -
年報 公共政策学
Vol. 5
人に関しては、省籍上の違いが歴然としており、外省人の方が圧倒的に比率的に高い
のである。さらに、(元)職種別にみると、経済的自立できる(元)農民の比率は、非
農民より一般的に低く、老齢所得保障制度あるいは個人貯蓄によって経済的に自立でき
る比率は6.1パーセントであり、非農民の25.1パーセントよりかなり低いものであった。
表 3 のデータは、上述の各種の社会保険、退職金制度と手当金制度をめぐる差異と
似たような傾向を示していると同時に、エスニック集団間の差異が存在することをあ
る程度裏付けている。従って、
(元)軍人・公務員が多い外省人がより恵まれていると
いう認識が、台湾社会においてもたらされることは、十分ありえることであった。
次のセクションにおいて述べられるが、老齢手当金という問題が急速に注目を集め
たきっかけとなった台南県では、まさにこの差別化が顕著な地域であった。台湾の南
部に位置する台南県は本来本省人が多く、そして今でも農業が中心的な産業である。
1993年の調査によると、1992年に同県の人口構成において、第一次産業(農漁業)に
従事する人口は、全体の38.6パーセントに達し、台湾全体(台北市、高雄市を除く)
の24.6パーセントより高かった(台南県政府,1996)
。民主化によって開放された選挙
競争において、野党の政治家は票を獲得するために、この状態に着目したわけである。
3.2 老齢手当金の政治化
1992年に台南県における野党民進党候補者の蘇煥智が、選挙キャンペーン中に老齢
手当金の不公平性を盛んに取り上げ、その結果、1 万余りの得票で惨敗した前年の国
民大会代表選挙とはうってかわって、10万余りの得票で大勝したのである。蘇の選挙
区の有権者の多くが本省人の高齢者かつ農民であり、老齢手当金を取り上げたのは、
社会保障制度など地方の老人にとって馴染みのなかった概念よりも、退役軍人(外省
人)が老齢手当金(月額 5 千元弱)で厚遇されていることから、高齢者の多い農民(本
省人)も同様な福祉を受けられるべきという主張のほうが老人達に浸透しやすいから
ことであった 8)。また、老齢手当金をはじめ、老人を対象とする政策を選挙公約に取
り入れた候補者は、それまで皆無であったため、蘇煥智陣営にとって老齢手当金は、
他の民進党候補者と自分達を差別化区別する格好の材料にもなった。
選挙の結果は前述のように、蘇煥智が10万票余りを獲得し当選した。この勝利は、
当時の民進党執行部において非常に高く評価された。なぜなら、民進党は同選挙区に
おいて他の 2 名の候補者が併せて約 9 万票を獲得し、伝統的に民進党が確保できる票数
であった。しかし、それが意味するのは、蘇煥智の10万余りの票が殆ど新たに獲得し
た票であることである。これをうけて、民進党は翌1993年 2 月の澎湖県県知事補欠選
8)
筆者による蘇煥智氏とのインタビューによる。蘇氏によると、選挙キャンペーン中、彼は
スピーチにおいて、聴衆に対して「退役軍人が毎月 5 千元ももらえるのに、なぜ我々は一
銭ももらえないのか?(老芋仔毎個月可以領到 5 千塊、我們為什麼一塊銭也領不到!)」と
呼びかけた。
- 150 -
皆年金実現の政治過程
挙においても同様に「老人年金」問題を掲げ、勝利を収めた。
選挙動員において大きな成果を収めた野党民進党は、この後国会、社会運動、そし
て選挙などすべての政治競争において、老齢手当金を中心に社会福祉を重要な政策と
してアピールするようになっていった。立法委員になった蘇煥智は他の民進党立法委
員と共に、1993年 3 月に最初の「国民年金法草案」を立法院に提出した。さらに、民
進党勢力は民間団体の連携によって、同10月23日(台湾の敬老の日)に 1 万人余りの
老人が参加した大規模の集会を開き、「老人年金」の実現を強く要求したのであった。
当時の台湾全体の老人が140万人前後であることから考えると、「老人年金」の動員力
がかなり強かったといえる。集会の成功を受けて、民進党執行部は同年12月の地方選
挙において、すべての候補者が「老人年金」や「老齢手当金」を公約に組み込むよう
に指導し、各候補者によって公約された老齢手当金の金額は、3000元から 1 万元と地
方 の 事 情 に よ っ て 異 な っ た (中 央 日 報 (1993/10/4 ); 中 国 時 報 ( 1993/10/24 ・
1993/12/28)
;台湾日報(1994/1/5)
)。そして、同12月の地方選挙において、民進党の
得票率は前回(92年の立法委員選挙)の31パーセントから41パーセントに増えた。老
齢所得保障制度の整備という訴えが果たして選挙にどれほどの影響を与えるかは微妙
である。一部の研究の回帰分析によると、年金政策の差異が直接投票行動に影響を与
えたとは断定できない(傅(2000))。しかし、選挙競合があるため、政府が老齢所得
保障制度の整備に取り掛かるプレッシャーを感じたのは間違いない。
3.3 補助金と「福祉手当金」としての国民年金制度
そのため、国民党政権の内政部長は、選挙キャンペーン中において野党の老齢手当
金をめぐる公約が財政的に無責任であることを批判しながらも、10月中旬になると国
民年金制度の草案が完成したと発表した(中国時報,1993/10/15)。そして、11月には
行政院長であった連戦が、内政部および関連部会の報告を受けて、総合的な計画作業
を担当する経済建設委員会に、「年金制度専案小組(年金制度企画委員会)」を設置す
るように指示し、より具体的な制度的設計に着手するようになった(経済建設委員会
(1995)、p169)。このように、国民年金制度の計画を推進している間に国民党政権は、
1995年 5 月に農民手当金制度を導入し、約40万人の老齢農民に月額3000元の手当金を
給付し、中低所得世帯老人に対する手当金制度と併せて、国民年金制度が実現される
まで、既存の高齢者の所得保障を手当金制度の導入によって対応していた。
一年余りの期間を経て、経済建設委員会は1995年 4 月に、
「国民年金保険制度整合規
劃報告」
(経済建設委員会,1995)を提出した。その最も重要な特徴は、近い将来に導
入される国民年金保険は社会保険式の皆保険であるが、既存の職域別の保険を維持し
ながら、新たな国民年金制度を発足させるという点にある。すなわち、新たな国民年
金制度を基礎年金としてとらえ、その上、既存の職域別の保険を付加年金として考え
る二階建て方式なのである。このような考え方は、1998年に発表された企画報告書に
- 151 -
年報 公共政策学
Vol. 5
おいても踏襲されている。当時の経済建設委員会の計算によると、これによってどの
職域別保険にも加入していない479万人(65歳以上の57万人を含む)の国民が新たに発
足する国民年金に加入できる(経済建設委員会(1998b)、p12)。
このような制度的設計の問題は、政府に莫大の財政負担が生じることである。まず、
これらの提案にはいずれも政府の補助金(政府による保険料の一部負担)が組み込ま
れている。98年の企画報告書では政府が、被用者の保険料に対して最高20パーセント、
雇用者およびその他(自営者や雇用者のいない職業組合に属する労働者)に対して最
高40パーセントの保険料一部負担を提供する予定となっている。さらに、既存の高齢
者-つまり拠出ゼロ-に対しては、
「福祉手当」を支給する。すなわち、基本的には既
存の手当金制度の受給者も、その他の社会保険から老齢給付を受給している者も2000
元から3000元の老齢手当が支給され、政府の推計によると、1997年度ではその人数が
約65万人に達していた(経済建設委員会(1998a)、pp.17,23,51)。表 4 からも分か
るように、1999年度に国民年金制度が発足すれば、政府は、最低限253億元の負担が要
求される。その内訳をみると、政府による保険料の分担と「福祉手当」が約半分ずつ
占めている。1998年度の全社会福祉の支出が2,895億元であることを考えると、国民年
金制度の導入によって、最低でも10パーセントの増加率になる。台湾は80年代後半か
ら既に財政赤字が継続しており、1994年の時点に累積公債がすでに GNP の13パーセン
トに達していたこともあって、政府にとって、国民年金制度を実施するためには、新
たな財源を確保する必要があった。経済建設委員会はそれについて当時 5 パーセント
の営業税(消費税)を 6 パーセントに引き上げることを提案した(経済建設委員会
(1998a)、pp.26-27,47)。
言うまでもなく、この営業税の引上げが経済界の反発を招き、国民党政府は懸命に
説明に回ったが、具体的な成果が出る前に、1999年 9 月21日に台湾が大震災に見舞わ
れてしまい、震災の復興を財政的に優先するために、国民年金制度の導入が先送りさ
表4.国民年金制度発足時の政府の財政負担
単位:億元
保険料の
分担
(a)
新たに加入する被保険人に対して
一律 20%
雇用者のない被保険人の半分が低所
得層であり、40%の共同負担が必要
雇用者のない被保険人の 2/3 が低所
得層であり、40%の共同負担が必要
福祉手当
行政 制度発足
コスト コスト
2000 元 3000 元
(d)
(b)
(c)
(e)
合
計
(a)+(b) (a)+(c)
+(d)+(e) +(d)+(e)
50.0
155.3
232.9
17.9
30.0
253.2
330.8
132.4
155.3
232.9
17.9
30.0
335.6
413.2
159.9
155.3
232.9
17.9
30.0
361.1
440.7
(出典)
経済建設委員会(1998 a)45
(備考)1. 国民年金保険料は、国民年金指導小組の推計である一人当たり毎月910元として計算。1999年の
最低加入賃金が16,315元であることを仮定し、その後年間成長率を 3 %とする。
2. すでになんらかの社会保険に加入している者に対しては同じ保険料負担率であるが、新たな加入
者には 20%を補助、雇用者あるいは被用者以外の被保険人に対しては状況に応じて最高 40%まで
保助する。
- 152 -
皆年金実現の政治過程
れたのであった。本節では老齢所得保障が政治化された後、国民党政府の対応につい
て検討したが、そこで明確にされたのは、国民年金制度の導入に当たって、これまで
の社会保険によって形成された慣習-政府による分担-が当然視され、また、様々な
手当金を受給している既存の高齢者が含まれているため、政府には厳しい財政負担が
課されることになり、それによって国民年金制度の導入が先送りされたことになった
のである。
3.4 税負担方式定額給付案の失敗
2000年 3 月に台湾では戦後初めての政権交代を成し遂げられ、それによって登場した
民進党政権は、それまで政府によって提案されたことのない税負担方式による定額給付
型の国民年金制度を新たに提出し、国民党政権の時に企画された社会保険方式と並列し
て、国家審議に臨んだのである。
権威主義への反体制運動から生まれた台湾の民進党は、本来より労働者団体、環境
保護団体、女性団体など様々な市民団体とより緊密な関係を持っていた。これらの団
体は社会保障制度の導入を医療や所得の保障のみならず、社会的連帯を促す重要な政
策道具として捉えていた(蕭、林(2000))。そのため、これらの団体は以前より、国
表5.民進党政権の国民年金案(甲案と乙案)
(2000)
加入資格
老齢給付受給資格
甲案
国民年金貯蓄案
既存各種の社会保険に
加入していない国民
一定加入期間を満たし、
65 歳以上の被保険者
乙案
税負担方式定額給付案
すべての国民
65 歳以上すべての国民
老齢給付受給資格に基づいて老齢年金を支給;金額は支
給開始前二年の一人当たり月間支出平均の 20 から 25 パ
ーセント、なお最低限月額 3000 元
主に保険料と政府予算、そ 主に消費税引き上げによって増加する税収および政府
の他国有財産の売却など 予算、保険料は徴収しない
既存の高齢者への 福祉手当を支給;金額は
所得保障の給付内容 一人当たり月額 3000 元
財
(出典)
源
経済建設委員会(2000)
(備考)1. 甲案は老齢給付の他に障害年金、遺族年金、葬礼手当などの給付が含まれている。乙案は、障害
年金、孤児年金を含まれている。
2. 中国語ではそれぞれ「国民年金貯蓄保険案」(甲案)と「全民提撥平衡基金案」
(乙案)となって
いる。甲案が 1998 年に示された社会保険型年金と異なる点は、社会保険と個人貯蓄型年金の要素
を両方含むものであること。具体的には、掛け金が相変わらず政府(20 パーセント)
、雇用主、加
入者によって分担されるにもかかわらず、掛け金の 80 パーセントは、個人口座に振り込まれ、そ
れが退職後の年金となり、残りの 20 パーセントは、年金保険基金にプールされることになる。ま
た、掛け金は、年金全金額(一人当たり月間支出の 50 パーセント)の 10 パーセントと定められ
ている。このような設計によって、個人貯蓄の要素をかなり高めたが、政府負担が存在すること
と、掛け金の一部を保険基金に振り込むことによって、多少の所得移転が確保され、また、最低
給付額(一人当たり月間支出の 50 パーセント)が保証されることによって社会保険的な要素を保
っている。詳細は、経建会の報告書(経済建設委員会, 2000)を参照。
民年金制度はすべての国民に最低限の所得保障を提供すべき、それが「皆年金」の実
- 153 -
年報 公共政策学
Vol. 5
現と同時に、一元化されたすべての国民が加入する税負担の制度であるべきだと主張
してきた。民進党政権の誕生はこのような主張が実現される可能性を大きくした。2000
年8月に経済建設委員会によって新たに提出された報告書には、従来の社会保険方式を
踏襲した国民年金貯蓄案(甲案)に加えて、税負担方式による定額給付型の乙案が新
たに加えられた(表 5)。報告書によれば、乙案における給付資格は、(既存の高齢者
にも適応する)65歳以上の全ての国民である。そして、財源は、専ら政府の一般予算
および消費税の引き上げによって確保され、保険料などは一切徴収しない。つまり、
これを基礎年金とし、既存の職域別保険(軍人・公務員・労工保険)の保険費を引き
下げることによって、被保険者の負担を軽減すると同時に、各保険がすでに支給して
いる老齢給付を調整し、それを付加年金にする考えが示されていた(経済建設委員会
(2000)、pp.15-19)。
このような制度設計においては財政負担増に伴われる営業税の引上げが要求される
と同時に、既存の職域別保険の改革が行わねばならなかった。つまり、同時に多数の
制度改革を成功させる必要があった。この議論をさらに複雑化したのは、民進党政府
が選挙公約を果たすべく、既存の高齢者に対して老齢手当金の給付を実現する法案を
同時に提出しようとしたことである。その老齢手当金の給付資格に対して一定所得水
準(年間50万元)によって一部の高齢者を排除したい民進党政府と、受給資格を大幅
に緩和したい野党に転じた国民党が国会において激しく対立した(中国時報
(2000/6/20))
。国民党案は、現役軍人、公務員、教職員および労働者のみを排除して
いるため、受給者数が140数万人に達していた(中国時報(2000/6/24))。そのため、
政府案では老齢手当金を実施するための予算が156億元と推計されていたのに対して、
国民党案は、500億元を確実に超えると言われていた(中国時報(2000/6/22))
。これ
は前年度の全社会福祉支出の20パーセントに相当する金額であり、民進党政府にとっ
て新たな財源を確保しなければいけないことになる。
老齢手当金と国民年金制度をめぐる与野党の国会における激しい対立を経て、民進
党政府は、老齢手当金関連法案を撤回する代わりに、民進党政権が提出する国民年金
関連法案の審議に野党勢力が直ちに応じる合意を取り付いた(中国時報(2000/8/2、
2000/8/3))。しかし、今度は甲乙両案の選択をめぐっての対立が起き、明らかに乙案
を支持していた民進党政権に対して、野党の国民党と親民党は、国民年金制度は必ず
実施すべきであると主張しながらも、一部の野党の立法委員は、国民年金の実現は、
個人貯蓄を中心とした制度設計によって、増税しないという前提で実現すべきである
と主張していた(中国時報,2000/8/29)。また、国民党政権の時代から国民年金の企
画を担当していた経済建設委員会の幹部は、マスコミを介して甲案を擁護し、乙案を
暗に批判し、自ら辞任の意向を表明し、野党勢力の反発も一層勢いづいた(中国時報,
2000/8/31; 2000/9/1; 2000/9/7)。
国民年金制度の法案をめぐる審議が国家において行き詰っていた頃、台湾経済の景
- 154 -
皆年金実現の政治過程
気後退が著しくなり、甲乙にせよ、新たな財政支出が要求される国民年金制度に対す
る世論の支持が失速しはじめた。その上、台湾の世界貿易組織の加盟に伴う農・産業
の構造調整には政府のさらなる支出が要求され、それまでに増して財政的な圧力を、
民進党政府は頭を痛めていた。これで世論がより具体的な景気対策を強く望むように
なったことにあわせて、民進党政府は、
「経済発展を優先させ、社会福祉は暫く棚上げ
する(優先経済発展、社福暫緩)
」という方針を明確にし、国民年金制度の実施を見合
わせる意見を表明した(中国時報(2000/9/17、2000/9/18))。
結果として、甲乙両案を提出したにもかかわらず、十分な財政計画と国会対策を事
前に準備しなかったため、民進党政権は2001年 1 月に国民年金の導入を放棄し、目標
を陳水扁総統の任期内に導入することに切り替えたことになった。
3.5 選挙競合と国民年金制度の実現
財政的な圧力と十分な合意を形成できなかったことを教訓に、民進党政府は2001年
あたりから国民年金制度を含む社会福祉制度一般の包括的な整備に取り掛かろうとし
た。2001年 5 月に当時の行政院長張俊雄は、社会福祉団体の代表との面会において、
政府、民間団体、専門家を一堂に集める「全国社会福利会議」
(全国社会福祉会議)の
開催を約束し、国民年金制度を含む様々な社会福祉・社会保障制度をめぐる政策調整
を行うことにした。実際、翌2002年5月に、中央政府、地方政府、立法委員、民間団体、
学者・専門家など300人を含めた大規模な会議が行われ、6 つの一般議題について、総
数100以上の合意がまとめられた。その第四の議題は、「より包括的な社会保障制度の
構築について」であったが、第 6 項において、
「国民年金制度の実施は社会保険方式が
好ましい。政府が国民の基本生活を保障するという責務を鑑み、世代間の公平性、リ
スク分担、社会全体の財政負担能力、基本生活水準の保障、人口高齢化の衝撃などの
要素を考慮し、持続可能な制度の発展を原則とする」と明記された 9)。これによって、
民進党政府は実質上税負担方式を放棄しことになる。その理由はやはり財政の負担増
による営業税の引上げが政治的に非現実的であったことである。また、かつて税負担
方式を要求していた労働者団体、民間団体なども、税負担方式に拘るあまりに国民年
金制度の実現が遠のいてしまうことを危惧していたと同時に、一部の立法委員と官僚
が押していた個人貯蓄方式を排除する代わりに、社会保険方式に消極的に合意した10)。
また、そのプロセスにおいては、社会福祉に関連する団体が著名な福祉運動家ととも
に、陳水扁総統と会見し、国民年金を完全な社会保険方式にするという公約を引き出
し、漸く話がまとまったのである(自由時報(2002/5/23))。
しかし、社会保険方式に合意し、具体的な法案が政府より国会に提出したものの、
9) 台湾内政部 http://www.moi.gov.tw/dsa/ 全国社会福利会議
10) 筆者による労働者団体へのインタビュー(2010年 9 月10日)。
- 155 -
年報 公共政策学
Vol. 5
その後の国民年金制度の成立が滞ってしまった。実際、2003年以降、二度にわたり国
会に優先的に審議する法案として提出されたが、2回とも審議されることなく、会期末
に廃案に追い込まれたのである。その理由はやはり既存の高齢者への給付および加入
者に対して政府が保険料の一部を負担しなければならないことによる財政的圧力が非
常に大きかったからと指摘されていた(立法院公報(2004年93巻48期)、p.192)。また、
表 6 に示されているように、90年代から繰り返されてきた選挙公約によって、2004年
当時の台湾においては中央政府によって様々な老齢手当金が給付されており、それら
の制度によってなんらかの手当金をもらっている高齢者は約185万人であり、全高齢者
人口の約87パーセントを占めるほどである。これによって既存の高齢者をめぐる所得
保障の圧力はある程度緩和されたこともあって、かなりの財政負担増を必要とする国
民年金制度の導入に急がなかったのである。
また、台湾は2004年に総統選挙が行われ、そこで最も議論されたことはナショナル・
アイデンティティをめぐる問題であり、社会保障政策ではなかった。そのため、国民
年金をめぐる議論はしばらく停滞していたが、それが再び動き出したのは2005年 2 月
であった。新たに行政院長(首相相当)に就任した謝長廷は、国民年金制度を実現す
べく、社会保障制度を専門とする社会学者を担当大臣(行政院政務委員、minister
without portfolio)に任命し、民間団体と行政組織の調整にとりかかった11)。しかも、謝
の発言によれば、新たに企画される国民年金制度は、すべての国民が加入する税負担
表6.2004 年当時に台湾の中央政府が支給していた様々な老齢手当金
制度名
敬老福利生活津貼
(敬老福祉生活手当)
原住民敬老津貼
(先住民敬老手当)
老農津貼
(老齢農民手当)
栄民就養金
(退役軍人老齢手当)
中低収入生活老人生活津貼
(中低収入老人生活手当)
中低収入身心障害者生活補助
(中低収入障害者生活補助)
合計
受給人数
給付内容
予算額
国民年金との整合性
(2004 年予定)
89 万人
3000 元
320 億元
完全合併
1.7 万人
3000 元
5.5 億元
完全合併
69 万人
4000 元
320 億元
完全合併
10 万 5 千人
13550 元
184.9 億元
完全合併
15 万 6 千人
3000 元~6000 元
90.4 億元
高齢者部分合併
21 万 2 千人
3000 元~7000 元
65 億元
高齢者部分合併
高齢者
185.5 万人
障害者
21.2 万人
--
985.8 億元
――
(出典)蔡(2008)p.122
11) 台湾の行政院院長(首相相当)は、総統の任命を受け、立法院(国会)の承認を受けずに
就任できる。
- 156 -
皆年金実現の政治過程
方式を考慮に入れ、営業税の引き上げも厭わない内容であった(工商時報(2005/2/28))
。
謝長廷が行政院長を務めたのは 1 年間であったが、その間この野心的な計画は、税負
担方式から再び社会保険方式に戻され、様々な問題をめぐって既存の公的社会保険の
担当部会(省庁)の強い反対に遭い、営業税の引き上げによる財源確保の調整も不十
分であった。それでも担当大臣らは最終的に当初の税負担方式の決定を覆し、社会保
険方式を採用し、既存の公的社会保険に加入していない国民と農民のみを対象に、国
民年金法の草案をまとめた。その財源は、国民年金制度が発足すると同時に様々な老
齢手当金制度が停止されることによってある程度確保したと考えられていた。この草
案はなんとか謝長廷が在任最後の日に閣議決定されたのである。しかし、労工保険(労
働者保険)の老齢給付機能を吸収しないこの草案に対して民間団体が強く反発したた
め、次に行政院長になった蘇貞昌は新たな草案作りに取り掛からざるを得なかった(聨
合報(2006/2/14))
。
蘇貞昌が行政院長に就任した時点(2006年 2 月)では、陳水扁総統の任期が残り 2 年
になり、翌2007年には各政党の総統候補を選ぶ予備選が行われることが予定されてい
た。有力総統候補の一人である蘇貞昌は、自らの政策能力をアピールするために、国
民年金制度を含む様々な社会保障・社会福祉制度の改革、統合を実行する「大温暖計
画」を打ち出したのである。さらには、2007年 7 月下旬に蘇貞昌内閣は与野党、政府、
民間団体、専門家などを含む「台湾経済永続発展会議」を開催し、経済発展、社会福
祉、環境保護など重要な政策課題をめぐる広範囲な社会的合意を確保しようとした。
言うまでもなく、行政院長交代によって仕切り直しになった国民年金制度も討論の対
象であった。
「台湾経済永続発展会議」では国民年金について、公平性と財政的な持続
可能性などいくつかの原則を再確認したが、最も重要なのは2007年に法案を必ず成立
させることと、国民年金制度の発足とともに既存の様々な老齢手当制度を廃止し、そ
して国民年金制度が発足するまで既存の老齢手当の引き上げを基本的に禁止すること
であった(自由時報(2006/7/28)
)。
蘇貞昌は就任早々謝長廷と同じく、社会福祉の関連団体と協力関係にあった、社会
保障・社会福祉を専門としていた大学教授を担当大臣に任命し、調整に当たらせた。
そこで、2006年 7 月の「台湾経済永続発展会議」に決定された原則に基づいて民間団
体と議論を重ねた結果、1998年にスウェーデンにおいて導入された確定給付型社会保
険方式(不足分は政府負担)を真似る国民年金制度に合意し、さらに既存の社会保険
制度との整合を考慮に入れ、草案が準備された。その内容は、前の謝長廷内閣が企画
したものとほぼ同様なものであったが、最も大きな違いは、他の公的社会保険におい
て老齢給付を受けたことのある者は、国民年金制度に再加入することが許されないこ
とであった。つまり、労働者が退職し、労工保険より老齢給付を受給してから国民年
金保険にまた加入し、一定年数を経てまた国民年金保険から受給することが許されず、
- 157 -
年報 公共政策学
Vol. 5
国民年金保険は事実上農民と雇用されていない者のための制度になったわけである12)。
一部の労働者・民間団体は、リスク分担の機能が税負担方式に比較して縮小したこ
のような制度設計に不満を感じていたが、社会保険方式は個人貯蓄方式に比べれば比
較的に受け入れられるものであった。また、労働者・民間団体は、国民年金制度の導
入によって、既存の老齢手当金が廃止され、予算上老齢手当金の膨張によって圧迫さ
れていたその他の社会保障・社会福祉政策をより充実させることを考えると、税負担
方式に拘るよりも、国民年金制度の早期実現のほうが重要であったと判断した13)。
2007年 5 月 2 日に行政院にて閣議決定されたこの法案は、その後すぐ国会において審
議されることになった(聯合報(2007/5/3))。既存の公的社会保険に対する影響が少
ない上、これらの職域保険によってカバーされていない国民が年金を受給できるとい
う制度設計は、潜在的な財政問題を除けば、損する集団はいないが、得する集団がい
ることによって、与野党による攻防はさほどなかった。さらに、翌2008年には総統選
挙が控えており、与野党とも財政圧力への対策よりも、社会保障制度の充実化という
意味を持つ国民年金制度の導入に反対な立場を取ることはありえなかった。社会福祉
関連の民間団体も、著名な社会福祉運動家であり、与党の比例代表として国会入りし
た立法委員と緊密に連携を取り、自己負担率や給付額についての細かい調整をしなが
らも、2007年会期内に実現させることに全力を尽くしたのである。結局、国民年金法
案は2007年 7 月20日に立法院において可決され、2008年10月より国民年金制度が実施
されることになった。14年間にわたって議論されてきた国民年金制度が漸く実現され
たが、その制度設計は紆余曲折を経て、社会保険方式になった。そして、対象として
は既存の公的保険制度に加入していない国民と農民のみであり、保険料は基本給の
6%になったが、被保険者の自己負担は60パーセントであり、政府による一部負担が40
パーセントになった(聯合報(2007/7/21))。
法案の可決によって国民年金制度の実施に取り掛かるところであったが、あれほど
議論された国民年金制度は、2008年の総統選挙キャンペーン中、野党による攻撃によ
って加入対象について改正が余儀なくされた。総統選挙キャンペーンにおいて野党国
民党は、新たに実施される国民年金はこれまでほぼ無拠出でも老齢手当金を受給して
きた農民に対して保険料を徴収することについて、農民にとっての負担増になると解
釈した。このような攻撃を繰り返し、多くの農民による反感を形成することに成功し
た。さらに、国民党候補者らは、自らが当選すれば、農民への老齢手当金を復活させ、
農民らによる国民年金制度への加入を取り消すことを公約した(林(2009)、p.286)。
その後、国民党は2008年 1 月の立法院選挙と 3 月の総統選挙に圧勝し、実際、政権交替
12) 謝長廷時代の草案においては労働者による国民年金の再加入が可能であったが、そのよう
な事例では労工保険(労働者保険)によって老齢給付(当時は一時金)と国民年金の年金
給付を二重給付する乱用に繋がりかねないと批判されていた。
13) 筆者による労働者団体へのインタビュー(2010年 9 月11日)。
- 158 -
皆年金実現の政治過程
表7.台湾の国民年金制度の概要
1.
2.
加入資格
3.
1.
2.
給付資格
3.
25 歳以上 65 歳未満、公務員保険、軍人保険、労工保険、農民保険に現在参加していない、
かつ公務員保険、軍人保険、労工保険の老齢給付を受けたことのないもの。
国民年金発足するまでに、労工保険老齢給付を除き、公務員保険、軍人保険、農民保険の
老齢給付を受けたことがない、かつ 65 歳以下のもの。
国民年金発足してから 15 年以内に労工保険の老齢給付を受け、労工保険加入期間が 15 年未
満、65 歳未満、かつその他の社会保険の老齢給付を受けていないもの。但し、労工保険の年
金制度が実施される前に労工保険老齢給付をうけたものは加入期間の制限を受けない。
満 65 歳の保険加入者あるいは本保険に加入したことのあるもの
国民年金制度が発足する時点において、すでに満 65 歳であり、かつ老齢手当金が支給され
る資格を有するものは、月ごとに給付される。
先住民については、満 55 歳から 65 歳未満のものは、国民年金によって月ごとに給付を受
ける。
1.
(1) 保険料計算に使用された基本給(一年目は 17,280 元)× 0.65%×保険加入年数
+3,000 元
給付額
(2) 保険料計算に使用された基本給(一年目は 17,280 元)×1.3%×保険加入年数
2. 老齢基本保障年金:3,000 元。
1.
保険料
2.
3.
4.
5.
6.
財
源
一年目は労工保険が定められる第一級基本給(17,280 元)の 6.5%、2 年後と 0.5%の引き
上げ、上限を 12%とする。
2 年目は消費者物価指数が 5%の成長に達する場合、その成長率にしたがって調整する。
一年目の保険料は 1,123(17,280×6.5%)であり、保険加入者の自己負担は 674 元(60%)、
政府負担は 449 元(40%)
低所得世帯は政府が全額補助、障害者は 55%から全額補助
柔軟的強制加入制度である。未払いに対しては罰さないが、給付は受けられない。
配偶者間は連帯納付責任が生じる。
保険料、公益宝くじ、政府予算、財政状態によって消費税を 1%引き上げ、国民年金制度にあてる。
(出典)林(2009)、p.284
(注) 老齢給付のほか障害給付、遺族年金給付、葬儀給付も国民年金保険に含まれている。
してから直ちに改正案を提出し、2008年 7 月に立法院においてその国民年金法の改正
を可決した。国民党が選挙キャンペーン中公約した通り、本来ならば国民年金制度の
発足によって廃止される農民保険が存続することになった。
台湾における国民年金制度は2008年10月に予定通り発足したが、加入しない国民に
対しては特に罰則を設けず、強制加入ではないため、加入者は当初予定されていた人
数より少なく、家庭主婦、学生、外国籍・中国籍配偶者、屋台従事者などを中心に約
410万人とされている。
4. むすびにかえて
野党の選挙戦略によって脚光を浴びはじめた台湾の「国民年金制度」は、14年の時
間がかかり、2 回の政権交代を経験し、漸く実現されたのである。台湾社会における
社会保障、特に老齢所得保障についての認識が今でも限定的であることが、一時的な
措置であった老齢手当金の配布が長く継続したこと、当初から高い財政的な圧力があ
ったこと、民主化によって労働者、福祉問題を扱う市民団体発言力が強かったことと
合わさって、これほどの時間がかかったのは当然であったかもしれない。しかし、そ
- 159 -
年報 公共政策学
Vol. 5
の政治過程をたどったことによって、我々はいくつか示唆にとんだ発見が得られたの
である。
まず、改革を促す契機となったのは、権威主義的な統治体制の下で形成された所得
保障をめぐる差異が社会的亀裂と一致したため、民主化以降、政治的動員を主とした
目的によって問題化されたことである。しかし、当初から「老齢年金」と「老齢手当
金」をめぐる議論が混乱し、
「年金」は即ち「手当金」であり、政府によって与えられ
る一種の福祉として認識されるようになった。民主化によって激しい政党競合にさら
される与野党とも、手当金の給付を公約に盛り込むことを繰り返し、その誤解の定着
を助長した。そのため、これらの手当金が新たな既得権益をもたらし、その規模がか
なり膨張し、他の社会保障制度を圧迫するようになったほどである。国民年金の実現
は、実は国民年金の問題化自体が生み出したこれらの手当金に対する改革でもあった。
このように、台湾においては「福祉国家の拡張」―国民年金制度の導入―が実は政策
遺制によって触発され、その改革の方向も大きく左右されたのである。つまり、近年
の研究においては財政危機などによって引き起こされる「福祉国家の縮小」をめぐる
政治は「福祉国家の拡張」のそれとは異なり、社会福祉・保障制度の遺制と政治制度
(行政組織内、行政組織と国会の関係、大統領による拒否権など)の特徴に大きく左右
されるといわれている。台湾の国民年金制度をめぐる分析から理解できるのは、新興
産業国においては「皆年金の実現」のような「福祉国家の拡張」も実は政策遺制およ
び政治制度に規定されることである。
次に政治制度の特徴が改革の成否に与える影響についてのインプリケーションにな
るが、台湾の憲法体制が特殊な半大統領制になっているため、総統を有する与党が国
会において少数派になりうるだけでなく、行政院長(首相)の任命が国会の承認を必
要としない。その結果、法案の審議が全体的に滞ってしまう可能性があり、与党が政
策を決定する能力が限定されてしまう。ただし、総統選挙に勝ちたい動機がそれまで
の法案の審議をめぐる停滞を一気に突破してしまう可能性もある。国民年金法はまさ
にこのようなボトルネックと選挙戦略によって長く実現されなかったが、総統選挙の
直前に与野党一致の支持で法案が成立したのである。このような政治制度的な要因は、
紙幅の都合により十分に検討することができなかったが、先進国における社会保障制
度や福祉国家をめぐる改革に関してはすでに多くの先行研究があり、台湾については
事例分析を増やし、今後の研究課題としたい。
最後は、本稿においては分析範囲に取り入れられなかった要素―グローバリゼーシ
ョン―について触れたい。先進国の経験においては、グローバリゼーションによる社
会保障制度への影響が重要な研究テーマとなっている。無論、台湾も世界貿易機関の
加盟などによって一層世界経済体制に組み込まれているが、グローバリゼーションに
よる影響については、市場統合度および資本流動性と、社会保障支出水準との相関関
係が検証されているが、そこにはグローバリゼーションが社会保障支出の減少をもた
- 160 -
皆年金実現の政治過程
らす傾向は観察されなかった。つまり、現時点ではグローバリゼーションによって台
湾の福祉国家の縮小をもたらしていない。福祉国家の見直しが先進国において取りざ
たされているにも関わらず、新興産業国である台湾ではある意味で逆の現象が起きて
いるのは興味深い。いうまでもなく、後発産業国であったため、もともと社会保障制
度の整備がかなり遅れており、そのため拡大する余地がまた残っているという極めて
シンプルな論理も考えられる。だが、市場統合と資本の流動性の増大が産業構造の転
換と相俟って、今後グローバリゼーションが台湾の社会福祉・社会保障制度にどうい
う影響を与えるかという問題は重要なテーマであるに違いない。
参 考 文 献
池炫周直美(チ・ヒョンジュ・ナオミ)
(2006)
『金大中政権における「現代化」と社会政策:
福祉政策とジェンダー政策に見る自覚と現実の間』北海道大学法学研究科博士論文
林成蔚(1999)
「もう一つの『世界』―東アジアと台湾の福祉国家」
『日本台湾学会報』創刊号
―(2002)「台湾の国家再編と進行福祉国家の形成」,宇佐見耕一編《新興福祉国家論:アジ
アとラテンアメリカの比較研究》,43~84頁,東京:アジア経済研究所出版。
―(2003)
『社会保障制度改革をめぐる政治過程:台湾と韓国の比較分析』東京大学総合文化
研究科博士論文(未刊).
―(2009)「台湾」萩原康生・松村祥子・宇佐見耕一・後藤玲子『世界の社会福祉年鑑2009』
旬報社.
Lin, Chen-Wei (2005), “Pension Reforms in Taiwan: The old and the new politics of welfare”, Bonoli,
G. and Shinkawa, T. (eds.), Ageing and Pension Reform Around the World: evidence from eleven
countries, Cheltenham, UK/Northampton, MA, Edward Elgar.
Lin, Kuo-ming (1997), “From Authoritarianism to Statism-the politics of National Health Insurance in
Taiwan.” Ph.D. dissertation. Department of Sociology, Yale University.
Wong, Joseph(2001),
“Democracy and Welfare-Health Policy in Taiwan and South Korea.” Ph.D.
dissertation. Department of Political Science, University of Wisconsin, Madison.
― (2006), Healthy Democracies: health politics in Taiwan and South Korea, Ithaca, Cornell
University Press.
郭明政(1998)
「國民基礎年金、公教年金與勞動年金配合之研究」行政院經濟建設委員會編『國
民年金制度委託研究報告彙編』台湾行政院經濟建設委員會
経済建設委員会(1995)『國民年金保險制度整合規劃報告』行政院経済建設委員会
―
(1998 a)
『国民年金制度規劃簡報』行政院経済建設委員会
―
(1998 b)
『國民年金制度委託研究報告彙編』行政院経済建設委員会
―
(2000)『國民年金儲蓄保險案與全民提撥平衡基金案簡報』行政院経済建設委員会
蔡宜縉(2008)
『理念、利益與制度:台灣國民年金規劃的政治分析』臺灣大學社會學研究所碩
士論文
- 161 -
年報 公共政策学
Vol. 5
蕭新煌・林國明編(2000)『台灣的社會福利運動』巨流圖書公司
台湾台南県政府(1996)『台南縣綜合發展計畫總體發展計畫』台灣台南縣政府
台湾内政部『中華民国人口統計年刊』(各年度)台湾行政院内政部
台湾内政部 http://www.moi.gov.tw/dsa/
台湾内政部戸政司 http://www.ris.gov.tw/
張明正(1996)
「台灣地區高齡人口結構之變遷與老人經濟之自立性」楊文山・李美玲編『人口
變遷,國民健康與社會安全』中央研究院中山人文社會科學研究所專書(37)
傅立葉(1994)
「台灣社會福利體系的階層化効果初探」伊慶春編『台灣社會的民衆意向:社會
科學的分析』中央研究院中山人文社會科學研究所
― (2000)
「老年年金、政黨競争與選擧」蕭新煌・林國明編『台灣的社會福利運動』巨流圖
書公司
民主進歩党(2006)『政策週報』(第24期)
- 162 -
皆年金実現の政治過程
Politics of Realizing Universal Pension System:
The Introduction of National Pension Program in Taiwan
LIN Chenwei
Abstract
This paper traces the process of how a developmental state like Taiwan came to realize the
universal pension system. Democratization and unique institutional legacies, ethnic cleavage
coincided with differences in old-age income securities in the existent public pension
programs had profound impacts on the manner public pension programs expanded.
Introducing a national pension program that covers, not every citizen, but mostly housewives,
students, and foreign-born spouses was the result of having to make sure that the program was
financially sustainable and still covers nearly half of those over the age of 65 from the onset.
During the planning process, many NGOs effectively utilized ties with political parties or
individual politicians to strategically block drafts not preferred by them. Another finding was
that old-age allowance were used as temporary measures but actually created vested interest
groups which made the introduction of the national pension program more difficult. After 14
years of prolonged planning and debates, the program was eventually realized due to pressures
to please the voters before the presidential election of 2008.
Keywords
Taiwan, national pension program, universal pension system, policy legacies, welfare
politics
- 163 -
Energy Crisis as Global Problem
Energy Crisis as Global Problem
NAKAMURA Kenichi
1. The Energy Crisis
• Floating on a Sea of Oil
At night the Japanese islands sparkle. Japan’s cities are very bright at night. Why, and when,
did we adopt a lifestyle in which we brighten the night? The answer to this is closely
connected to the energy crisis.
First let’s define “energy crisis.” High school students learn about the “law of conservation
of energy,” which teaches us that energy can neither be created nor destroyed. In that light, the
proposition that “we are running out of energy” is incorrect. Energy does not disappear, it
changes form. When energy does work, it changes from more-useful to less-useful forms, and
ultimately to the least useful form of all, heat.
The energy crisis derives from one other law, the “second law of thermodynamics,” which
teaches us that when energy is used, it changes to a less-usable form. Petroleum and coal are
“savings” of easy-to-use energy created by the Earth and sun. Humankind’s socioeconomic
system, however, has developed by depending on oil and coal, these versatile savings that are
easily used for a variety of purposes. These savings have been consumed at a ferocious pace
whose curve is greater than exponential growth, and changed into heat that is not useful. Here
we find the energy crisis.
The metaphor of “blood flow” in the human body is often used to describe the conversion
process of energy in society. All human actions consist in consuming energy and changing it
into less-useful forms. Energy consumption and conversion are integrated into the practices of
social life like the flow of blood, and for that reason people seldom have the perception that
we consume energy. With so many people thinking this way, it is seldom recalled that the
world as a whole is consuming a colossal amount.
People noticed energy consumption when the price skyrocketed. The first oil crisis of 1973
caused a panic in oil-consuming nations. In Japan people went around buying up detergent and
toilet paper, and the rise of land prices and inflation accelerated. In 1974 consumer prices
jumped 23%, GDP fell to −1.2%, and the 20 years of rapid postwar growth ended.
The 1979 second oil crisis happened because of political changes in energy-supplying
Mideast countries. In 1978 the Iranian revolution temporarily stopped oil production, and that
same year the Organization of Petroleum Exporting Countries (OPEC) announced an increase
- 165 -
年報 公共政策学
Vol. 5
in the posted price of crude oil. Due to this crude price rise, the expense of crude oil purchases
rose to 7.3% of GDP for the world as whole.
The price of crude, which in 2002 was about $20/bbl, subsequently started rising until in
February 2008 it blew past $100/bbl, and that July attained $147/bbl. That was the “Third Oil
Crisis.” It is true that in part a large inflow of speculative funds into the crude oil market
helped push up crude prices. The Iraq War and other instability among oil-producing countries
was also a factor. But the long-term cause was the rapid increase in demand. US consumption
of oil increased, and demand rose in China, India, and other NIEs, which pushed up oil prices.
Over the medium and long term, the rate of new oilfield discoveries is failing to keep pace
with the rapid rise in oil consumption. “Cheap oil” is already a thing of the past, and it is very
likely that oil will remain expensive over the long term. Further, people are starting to share
the sense of crisis that the “age of oil” is ending.1)
So, how much are we consuming? Table 1 shows oil consumption amounts. World oil
consumption in 2007 was 85,220,000 bpd ( this includes ethanol and biodiesel ).
A barrel is a liquid measure unique to the oil industry, and equal to 158.98 L. Its origin is the
large oil barrels used in the US state of Pennsylvania, where the world’s first oil well was
discovered. In one year each American uses 25 barrels of oil, which comes out to 11 L per day.
Americans alone use up about one-fourth of the world’s oil. Each Japanese consumes 15
barrels yearly, or 7 L per day (about four one-shou bottles). The consumption rates of other
developed countries are at levels similar to Japan and the US. We can describe these countries
as “floating on a sea of oil.”
The NIEs China, India, and Brazil have in recent years rapidly increased their coal and oil
consumption, putting them at about the same level, nationally, as the developed countries. But
because their populations are very large, per capita daily consumption is only 0.9 L per
Chinese and 0.4 L per Indian, putting them under 1/10th Japan and US consumption. The NIEs,
which desire to live as the developed countries do, will have greater and greater demand for
oil.
2. Oilfields — Savings Banks of Energy and Carbon
Oilfields are unevenly distributed in just a few regions, which contrasts with the wide
distribution of coal throughout the world. Oilfields, which are “savings banks” of energy, are
discovered only in specially chosen places. Oilfields require spaces that can trap large amounts
of organic liquids underground, which in turn requires movement of strata and surrounding
1)
Campbell, Colin and Laherrere, Jean, “ The End of Cheap Oil ”, Scientific American, March
1998,pp.59-65.
- 166 -
Energy Crisis as Global Problem
rock with special structures. For the trapped organic material to mature into petroleum, the
structure must satisfy appropriate temperature conditions, and must be at depths of 2,300–
4,600 m. For these reasons oilfields are found only in places that have all these special
conditions.
Countries with large oilfields are limited to a few including the five Persian Gulf states,
Venezuela, and Russia. Japan, the US, European countries, and others import much oil from
them.
The five oilfields in the world with exceptionally large reserves are shown in Table 2.
World’s Five Giant Oilfields
(1) Ghawar Saudi Arabia Discovered 1948 87.5 billion bbl
(2) Burgan Kuwait Discovered 1938 87 billion bbl
(3) Samotlor
Russia Discovered 1961 20 billion bbl
(4) Safaniya Saudi Arabia Discovered 1951 20 billion bbl
(5) Lagunillas Venezuela Discovered 1926 14 billion bbl
Source: Association for the Study of Peak Oil and Gas (ASPO) database.2)
The world’s biggest oilfield is Ghawar, which is under the desert in eastern Saudi Arabia.
Until drilling began, it was estimated to hold 87.5 billion bbl of oil. Its vast capacity is
matched only by the number two field, Burgan.
Ghawar is an oblong field oriented NNE to SSW, covering 280 km north to south and 50 km
east to west at its widest point. It is a stratum of carbonate rock called the “Arab D stratum,”
which averages 2,000 m in depth and 400–500 m in thickness.
This giant oilfield produced 1.5 million bpd in 1970. This figure itself is giant. Not only that,
the field dramatically increased its output to 5.2 million bpd in 1976 and 1977 just after the
first oil crisis, and to 5.7 million bpd at the time of the second oil crisis in 1981. The output of
this one field during elevated production exceeded Japan’s entire consumption in 2007 (5.05
million bpd). These facts bring home the astonishing supply capacity of this one oilfield.
Even more surprising is the colossal volume of world consumption (85.22 million bpd). The
world uses up the equivalent of the entire 87.5 billion bbl of Ghawar in only a little over 1,000
days. A giant oilfield of about 500 million bbl will last but a week. The world’s thirst for oil,
which advances at a fearsome pace while drying up one giant oilfield after another, is a giant
2)
APSO database http://www.aspo.org
- 167 -
年報 公共政策学
Vol. 5
threat.4)
We think of the “energy crisis” as if it is one problem, but instead of being singular, it is two
problem groups.
First, oilfields and coal seams are repositories sealing in carbon. They perform the role of
“carbon repositories” that enclose, deep in the ground, hundreds of billions of tons of carbon
that had previously been suspended in the atmosphere. The continued burning of coal and oil
by humans since the modern age began means that we are returning carbon in the ground to
the atmosphere as carbon dioxide. The US and China, which are number 1 and 2 in
consumption of mineral fuels, are also numbers 1 and 2 in carbon dioxide emissions. This
leads to global warming.
Second, oilfields and coal seams are “savings banks of useful energy.” The Earth has sealed
solar energy underground in forms such as oil and coal. As such, when we extract oil and coal
from the ground, we continue to rapidly withdraw past “energy savings” that the Earth saved
over a long time. Modern civilization has rapidly built affluence by using coal and oil. The
Ghawar and Burgan oilfields were in effect the largest and extremely rare “savings accounts”
that the Earth had built up. The world continues to make withdrawals from these deposits, and
each time supplies grow tight, we have withdrawn fistfuls of cash from the “savings” of giant
oilfields.
We are being attacked from two sides by these two problem groups — global warming from
one side, and energy constraints from the other. Solving one could very well aggravate the
other. For example, if we are able to discover an energy source to replace oil, it would create
the conditions for continued increase in energy consumption, which could accelerate global
warming. In other words, there is a trade-off between the goals of solving these problems, and
solving one cannot be called a solution. The rest of this chapter will focus on energy
constraints, and global warming shall be left to the following chapter.
3. Coal Eliminated the Limitation Imposed by Land Area
Humans appeared on Earth about 2 million years ago. They used fire. Ancient humans knew
of oil’s existence, but they used it for mortar, a preservative, lamp light, medicine, and
cosmetics. For most of human history, fuels were wood and charcoal. Humanity cut down
forests and used them as fuel to build premodern civilizations. Forests capture solar energy
and produce firewood, while fields produced organic raw materials such as cotton. But forests
and fields were limited, and above all there was limited land, which imposed a quantitative
4)
Wrigley, E. A., Continuity, Chance and Change: The Character of the Industrial Revolution in
England, Cambridge University Press,1988,chp.3.
- 168 -
Energy Crisis as Global Problem
ceiling on the energy resources and raw materials that can be extracted from the land. There
are also limits to the strength of humans and horses, which were also constrained because in
total they are supported by the food and feed produced by the land. In sum, the limits of the
land effectively held human activities in check. For that reason, land limitations were a
constraint on the development of civilizations. Premodern civilizations would either perish or
abandon their lands and relocate when they had completely destroyed their forests.
• Breaking Free of Constraints with Coal
Humankind first used coal to break free of this constraint. It was the British who first
produced and consumed coal in quantity. Their country was well endowed with coal, and
about the year 1600 the British were mining places accessible to open-pit mining and places
whose coal could be transported by river, selling the coal and even exporting it. In the 16th and
17th centuries the Netherlands used peat as an energy source, but as economic growth
accelerated their peat started depleting and the marginal cost of production rose, which is
contrasted with Britain.6) Because coal provides about twice the heat of wood by weight, it
was no longer necessary to cut trees for fuel. The work of growing forests by the land and sun
was replaced by people extracting coal, an underground energy savings account. In other
words, by withdrawing past energy savings, humankind broke free of land limitations and of
constraints on growth.5)
In 1769 the Englishman James Watt invented the steam engine. Coal mines were
overflowing with water, and pumps were needed to remove it. With the invention of the steam
engine, the heat of coal combustion boiled water, and the steam pressure was efficiently
converted into the kinetic energy for pumps. Coal was the mother of invention for the steam
engine, and at the same time its midwife.
People then started making locomotives and other machines that used steam engines. These
machines broke free of another constraint on growth by substituting the energy of coal for
human and horse power. Although there were constraints on the power delivered by humans
and draft animals, coal production was for the time being free of constraints. What’s more,
steam engines are far more powerful than humans and horses. Heavy labor by humans pulling
cargo boats through canals was replaced by steam ships, while the power of horses pulling
carriages was replaced by steam locomotives. It was a motive power revolution.
Using coal freed humans from the energy constraints of forests and fields. Extracting and
taking advantage of the coal stored underground made it possible to exponentially increase
6) Cipolla, Carlo M., The Economic History of World Population, London, Penguin,1979,p.56.
5) Ibid.pp.89-93
- 169 -
年報 公共政策学
Vol. 5
energy use. Humanity was also freed from the limited strength of human, horses, and the like.
The steam engine gave humans motive power incomparably greater than that of humans and
animals. Additionally, humans and domestic animals such as horses were liberated from hard
labor, which is to say that labor-saving was now possible.
The 19th-century British economist William Jevons observed: “Coal in truth stands not
beside but entirely above all other commodities. It is the material energy of the country — the
universal aid — the factor in everything we do. With coal almost any feat is possible or easy;
without it we are thrown back into the laborious poverty of early times.” 7)
Coal brought landmark changes to civilization. Except for food production, many other
products came to use mined minerals as their raw materials, and the proportion of organic
energy sources and organic materials grown in soil gradually diminished. Even agriculture,
which depends on the soil, raised its productivity by means of supplemental mineral energy
and the chemical fertilizers, pesticides, and machine power applied. As this shows, coal was
the indispensable energy source that underpinned the industrial revolution, a replacement for
human and animal power, supplementary power for agriculture, and a force behind the
division of labor.
This change triggered the creation of an international shipping route network for steamships,
and on land the building of railroad networks used by steam locomotives. This brought
together formerly scattered production elements, and the division of labor greatly broadened.
The pattern of British-led globalization had been created, and the globalized industrial
revolution got underway.
• New Constraints: Labor Unions and Environmental Deterioration
At the same time, new constraints began appearing. Coal mines required much human labor.
As all the coal near the surface was mined, it was necessary to dig it out from deep
underground. Deep mine shafts were narrow, hot, and full of water, and had frequent cave-ins
and explosions. Fine coal dust attacked the miners’ lungs. Work in the coal mines was hard,
dangerous, and turned the miners black from head to toe. Colliers did not live as long as
people who worked above ground. While the Earth does not resist the actions of humans
withdrawing its energy savings, as humans dug their way deep into the Earth, their work
became dangerous, harsh, and unhealthy.
To somehow mitigate the severity of their work, colliers organized unions with a strong
sense of camaraderie and created worker unity. Almost everywhere there were coal mines, the
7)
Thompson, E. P., The Making of The English Working Class, Victor Gollancz, 1963, Yergin, Daniel,
Prize, Simon & Schuster, New York, 1991, p.543.
- 170 -
Energy Crisis as Global Problem
Union of Mineworkers was organized. While colliers and union leaders were in a position to
share coal, which is an achievement of modern civilization, in many cases they were believers
in socialism, and generated political issues using combative language. Collective actions such
as the colliers’ demands for higher wages and improved working conditions served to slow the
rate of coal production. This was a source of concern to mine owners, capitalists, and consumers because it drove up the prices of coal and products made with it. The social resistance
spawned by this energy source had assumed the form of workers and labor unions.8)
Coal extraction worsened the environment. To begin with, digging much earth out of the
ground caused subsidence of the area, and the ROM coal extracted from mines left much rock
and low-grade coal after washing, which, when accumulated in piles, are known as tailings.
These burn readily because they contain sulfurous compounds, and they spewed hazardous
substances including hydrogen sulfide and sulfur oxides. When it rained on tailings, hazardous
substances leached out, made the water acidic, formed heavy metal ions, and contaminated the
water. What is more, as colliers dug mine shafts they would encounter underground water
veins, or groundwater would arise in the shafts, thereby creating a great deal of wastewater.
This threatened to dry up underground water veins and deplete groundwater sources.
Wastewater was expelled with gravel, which contaminated the water, made it acidic, and killed
agricultural crops. This depletion of water resources and water contamination were very
serious.9)
Further, coal combustion caused air pollution. The smoke contained soot and mortar-like
ash and residue; soot fell and turned everything black, and cinders filled every cranny. Because
coal contains sulfur and many other impurities, it polluted urban air with sulfur oxides,
nitrogen oxides, and other hazardous substances, and caused respiratory ailments. Additionally,
the carbon in coal was not completely burned, so burning coal emitted carbon monoxide. Even
with complete combustion, coal emitted the greenhouse gas carbon dioxide. One could say
that when humans withdrew these coal energy savings, the Earth imposed a sanction called
environmental degradation.
The working class and environmental degradation became visible warnings about
overcoming an energy limitation by means of coal.
4. Discovery of Oil and the Great Game
• Oil Gushers
In August 1859 Edwin L. Drake dug down about 20 m in a low area near Oil Creek in
8) Ophuls, William, Ecology and the Politics of Scarcity, Freeman, San Francisco,1973.pp.88-90.
9) Yergin, Prize, 7) , pp.26-34.
- 171 -
年報 公共政策学
Vol. 5
Titusville, Pennsylvania and struck oil. Until then he had spent a year and a half digging one
well after another, which people called “Drake’s folly.” It was believed that oil seeped out of
the ground, and no one thought that there were oilfields, which are spaces like underground
water veins.
This was the world’s first oil well, which earned Drake $600 a day. In time there were
countless wildcat oil drillers in the area buying up land and drilling. Instead of a gold rush,
Titusville was the scene of an oil rush. Refineries also sprouted like mushrooms. In the second
half of the 1860s this spread throughout the US and created a mad “oil bubble.” 10)
In the mid-19th century US society was distinctively different from those of Europe and
Asia because no constraints were imposed to limit human desires. For land, there was the
limitless frontier lying to the west, and therefore no limitation on land like that faced in Britain
and the Netherlands. Further, the mountains of Appalachia had much coal accessible by
open-pit mining. Additionally, class consciousness was weak, community controls were very
weak, and there was no traditionalism to fetter people’s pursuit of their desires. As Alexis de
Tocqueville observed, the US was the “republic of happiness,” which was a collection of
disconnected individuals who believed in material plenty, future growth, and the pragmatic
pursuit of happiness.11) And along came oil gushers.
Oil is a liquid, and this black liquid issues naturally from the ground while oilfield pressure
remains high. When a wildcatter struck oil, it would keep gushing out of the ground. Unlike
coal, which is a solid, people do not have to dig deep underground. All people needed to do to
be in business was put the oil that emerged into barrels and sell it.
Although there was pollution caused by crude oil runoff into surface water, unlike the coal
tailings that were left permanently, much oil waste was left deep underground, and that portion
did not cause aboveground pollution. What is more, heavy portions of extracted crude oil were
sold as tar. In this and other ways, oil was cleaner than coal. Constraints imposed by pollution
were clearly less with oil than with coal.
When people struck oil, they faced not scarcity, but plenty that was even excessive. A
problem that “oil king” John D. Rockefeller faced in the 1870s was not a lack of oil, but
overproduction. What lacked was not energy resources, but means for storage and transport.
But since oil is a liquid, it was easy to transport. The containers called “barrels” were
sometimes even more expensive than the oil they held,13) but later it became possible to
transport large volumes all at once by means of rail, tankers, and pipelines, which lowered
10) Tocqueville, Alexis de, De la democratie en Amerique, Japanese translation by Matsumoto Reiji,
Vol.2 No.1 Iwanami Book Publishers、2008, pp.222~244.
11) Yergin, Prize, 7) , pp.39-44.
13) Yergin, Prize, 7) , p.37.
- 172 -
Energy Crisis as Global Problem
transport costs.
The excess of oil lacked applications and consumers. 12) At first, oil was used in kerosene
lamps, which suddenly brightened nights in the US. Kerosene lamps were said to be the light
of the modern age, unrivaled by the dark of night, bright, and the world’s cheapest. It brought
great change to people’s way of living, which had previously drawn a sharp distinction
between night and day. 14) Starting in 1870 a spate of new applications appeared, yielding the
internal combustion engine, the automobile, aircraft, the heavy and chemical industries, and
more. Inventions were created, technologies were developed, and industries established to
pioneer applications for this excessive oil. These inventions, technologies, and industries
broadened applications and pushed up the price of oil.
The type of human brought forth by oil was “oil men,” that is, wildcatters, oil engineers, oil
sellers, and oil capitalists. They believed in growth and expansion, looked down on frugality,
and felt they had a mission to break free of constraints. This type of human was the exact
opposite of coal miners, who worked in the dark and dangerous underground. Oil attracted
physically stout young men with passion and ambition who gave their all to making money.
“Oil men” were individualistic and libertarian, and the most disconnected from the Christian
socialism that taught group unity and sympathy for one’s fellow man to the colliers.
In the last three decades of the 19th century in the US, which was an unconstrained society,
oil bubbled forth in excess and oil men ruled the day, and for US business this was the age of
business in the true sense of the word,15), i.e., it created a society of unconstrained competition
seeking wealth.
• The“Great Game”
John D. Rockefeller (1839–1937) was a giant among the oil men. In 1870 he founded
Standard Oil and built an oil refinery. He also created quality standards, and his company
name “Standard” meant assuring quality standards. He also negotiated with railroads to lay
long-distance pipelines, thereby building a nationwide distribution network and supplying
consumers with oil of consistent quality.
Rockefeller proceeded to buy and merge rival companies, and bought oil refineries
throughout the US. He set up a cartel to deal with overproduction of oil. Standard Oil had 90%
of all US refining capacity in 1879. Starting with oil refining, Rockefeller organized an
integrated company which combined everything from oil drilling on the upstream end to sales
12) Tugendhat, Christopher, and Adrian Hamilton, Oil : The Biggest Business, Deborah Rogers,
1975.Yergin, Prize, pp.26-28.
14) Yergin, Prize, 7) , p.37-39. Tugendhat, and Hamilton, Oil, 12), cpt.1.
15) Yergin, Prize, 7) . cpt.2, Tugendhat, and Hamilton, Oil, 12), cpt.2.
- 173 -
年報 公共政策学
Vol. 5
at the downstream end, with distribution in the middle.
Rockefeller maximized his profit by managing the production of oil wells scattered across
the land, worked around laws and regulations, which differ from state to state, and always kept
tabs on inter-city price differences and supply-demand gaps. The essence of his business was a
management system spanning everything from production to sales through rigorous numerical
data. The black liquid bubbling out of the ground was transformed into data minutely recorded
in the company’s books.
Rockefeller called this the “Great Game,” and he became the game’s winner. To Rockefeller
and the other oil men, the work of withdrawing the “energy savings” that the Earth had
accumulated and changing it into money was a business game of merchandizing oil and
dominating its price and amount. Oil was supposedly energy savings that the Earth had
accumulated, and a public good, but private enterprises controlled it monopolistically or
through market competition. That private control went by the name “great game,” which
Rockefeller gave it.16)
5. The Global“Great Game”
• The American Century
The 20th century was “the oil century” and “the American century.” In 1901 an oilfield that
dwarfed those of Pennsylvania was discovered at Spindletop, Texas. When its production
rapidly dwindled, fields were discovered in Louisiana and Oklahoma. Texas spawned the oil
companies Gulf and Texaco, which rivaled Standard Oil and later built themselves into the
large multinationals called majors. In the first half of the 20th century the US was the world’s
biggest oil producer, and the biggest oil exporter.
The consumption of oil grew with the development of machinery, the internal combustion
engine, automobiles, aircraft, and the like. In 1902 there were just over 20,000 automobiles in
the entire US, but that number exceeded 1 million in 1912. As the number of vehicles
skyrocketed, America’s ravenous demand for gasoline increased. In this decade of the 1900s,
boilers and ship engines also started switching their fuel from coal to oil. It was the beginning
of the “liquid revolution.” Big houses and sprawling cities developed on the assumption of
plentiful oil. Houses and urban spaces, which were the vessels for people’s day-to-day lives,
changed to become energy-intensive. Oil sprang from the ground, virtually free, and gave birth
to modes of production and consumption that considered mass consumption a merit.
The cultural value that found a home in the US was to consume a lot, which assumed an
16) Nakamura Ken-ichi "On Energy Crisis (Japanese)", in Ohnishi Hitoshi, Takahashi
Nakamura Ken-ichi, International Politics (Japanese), Token Shuppan, 1984, p.58.
- 174 -
Susumu &
Energy Crisis as Global Problem
excess of resources. Daniel Bell wrote that American culture primarily emphasizes satisfying
each individual’s personal consumption, and that the desirability of economic growth and
increasing economic goods for personal consumption gained the status of religious belief.18)
Growth became entrenched thinking, and with that the perversion that oil, which had been in
excess, is essential to livelihood was considered natural.
The monetary amount of oil worldwide expanded at an astonishing pace, doubling every 10
years over the century starting in 1870. In the 1950s after the Second World War, western
Europe and Japan, which had until then used coal as their main energy source, underwent the
“liquid revolution” and switched their energy source to oil. The mass-consumption lifestyle
and value perception which held that the more energy one consumes, the more affluent one
becomes, also took root in European countries and Japan.17)
• Globalization of the Great Game
Starting at the end of the 19th century, giant oilfield discoveries were made outside of the
US as well, and the global “great game” began. To discover oilfields and secure transport
routes, the petroleum men from the US and other countries visited all parts of the globe.
Rockefeller and his competitors and successors implemented the global great game in the
quest for world oil hegemony and vast profits.
Especially in the 1900s at the peak of imperialism, many oilfields were discovered in the
Persian Gulf coastal region. All powers focused on the economic importance of oil, and
militarily as well, they saw the importance of oil as a strategic resource to power their navies
and other forces. The political situation in the Persian Gulf coastal region was nebulous before
the First World War, and no Western power was able to gain hegemony there. As world powers
jostled for position in this region according to their intentions, in came the oil men and various
other types, who rubbed shoulders with local influential people and tried to gain their trust.
They offered a bridge between the locals and the Western companies and engineers who had
oil-drilling technology. At times such as when local rulers were in economic straits, oil
companies would, on the condition that they would pay fixed amounts as concession fees for
certain areas that might well yield oil, obtain exclusive rights to explore for oilfields, drill for
oil, refine it, and export it. This is called the concession contract system. Giant oil companies
such as Aramco and BP emerged after starting from one concession contract.
At the same time, in some ways the US great game can be applied in the global great game.
To the oil men who had played the great game in the US, the vast and diverse expanse of the
18) Hymer, Stephen H., The International Operations of National Firms and Other Essays (Japanese),
edited and translated by Miyazaki Yoshikazu, Iwanami Book Publishers, 1979, p.352.
17) Bell,Daniel,The Coming of Post-Industrial Society,Basic Books, 1973, pp.279-282.
- 175 -
年報 公共政策学
Vol. 5
US was a scale model of the world. Standard Oil’s successors and rivals developed into
multinational corporations that linked their production bases sprinkled worldwide with
markets around the world, slipped around laws and regulations, which differed from one
country to another, and maximized their profits amid inter-country price differentials and the
supply-demand gap. Stephen H. Hymer, a pioneering researcher on multinationals, writes that
multinational corporations are an American phenomenon,19) and the oil businesses of these
colossal oil companies were truly an enlarged version of this American phenomenon.
But the global great game was in ways different from the US great game. Indeed the people
who prospected for oil in the Gulf coast region were private persons, and the oil companies
were private enterprises after profits. But those whom they negotiated with for concession
contracts were people with political power, such as local governments or local rulers. Oil
concessions for oilfields and pipelines were determined through transnational negotiations
between private individuals/enterprises and political power. What is more, naked power
struggles often erupted among local people in power over oil and pipeline concessions, with
only those controlling the concessions surviving. Behind the oil prospectors and oil companies,
Western powers were intervening by pulling official and unofficial wires according to their
strategic intents.
For that reason, the winners in this game are alliances of private business and public power.
As such, the global great game consisted of a superficial business game, behind which the
participants engaged in mortal-combat power struggles at the same time. Confederations of
private and public actors arose, with the optimum alliances winning. For the global great game
to be called a business game, it had a heavy element of power struggle, and further the winners
were determined by not only chance and business acumen, but also by power.
Changes in the Oil Majors
Concession contracts accorded in the global great game were maintained under British and
American control during both world wars. After the Second World War they were maintained
under US hegemony, and supported a stable oil supply to the capitalist countries led by the US.
Oil was controlled by the majors, which grew into super-giant multinational corporations
using concession contracts. But after the two oil shocks in the 1970s, many oil-producing
countries nationalized the oil companies that had been created through concession contracts, or
gradually moved into capital participation. As a result, hegemony over oil shifted from the
majors to control of crude by the national oil companies (NOCs) of oil-producing countries.22)
19) “New Seven Sisters,” Financial Times, March,11,2007.
22) Ibid.
- 176 -
Energy Crisis as Global Problem
In the 20th century the biggest multinationals were the oil companies. From the second half
of the 19th century to the mid-1970s, giant oil companies controlled at least 70% of crude oil
production, oil reserves, and oil distribution. The main seven companies were called “majors”
or, owing to the similar way in which they did business, the “Seven Sisters.” Those seven
companies were, in their 1973 names, Exxon, Mobil, Chevron, Texaco, Gulf (these five are
American; the first three were created when Rockefeller’s Standard Oil was split up under the
Antitrust Act), British Petroleum, and Royal Dutch Shell (British/Dutch). It was also said there
were eight majors if France’s Total were included. Through repeated competition and
collaboration, the majors cooperated in determining oil-related rules. The majors symbolized
private rule over oil.
However, after the first oil shock the oil-producing countries which banded together into the
Organization of Petroleum-Exporting Countries (OPEC) strengthened their hold over oil. The
Seven Sisters adapted to political changes, and especially starting in the 1990s they proceeded
to streamline, reduced investment in the risky development of new oil fields, and merged a
number of times, consolidating into the four companies of Exxon Mobil, Chevron (name
changed from Chevron Texaco in 2005), BP, and Royal Dutch Shell. These four companies
still held a superior position in shaping rules on oil and in sales value, but by the end of the
20th century they had less than 10% of world crude production and the share of their reserves
declined to 3%. Meanwhile, oil-producing countries’ NOCs and other companies, such as
Saudi Aramco, Petronas (Malaysia), Petrobras (Brazil), Gazprom (Russia), PetroChina (China),
National Iranian Oil Company, and Petroleos de Venezuela came to have about 30% of crude
production and reserves. Journalists sometimes call these seven companies the “new oil
majors.” 20) The result of compromise between resource nationalism by governments of
oil-producing countries and rationalism in oil control is expressed by the lineup of the “new oil
majors,” which were created under national policies.
• The Winner Is Aramco
The hegemon in the global great game appeared in an unlikely place. The biggest hegemon
is Aramco, which was founded by an alliance between four US majors and the Saudi royal
family. In 1933 King Abpdul Aziz (commonly known as Ibn Saud) of the Kingdom of Saudi
Arabia, which was of little interest to anyone, awarded to Standard Oil of California (SoCal,
now Chevron), which was one of the US majors, albeit a small one, an exclusive concession to
drill for and produce oil across the whole of the country’s Eastern Province. The conditions
were that Saudi Arabia would receive a £50,000 loan and annual rent of £25,000 from SoCal,
20) Nakamura, "On Energy Crisis", 16) , p.58-62.
- 177 -
年報 公共政策学
Vol. 5
advance payment of £50,000 if oil were discovered, plus £1/t of oil. Owing to the depression
the number of pilgrims visiting Mecca had plummeted, and this deal was made because the
Saudi king, who is the protector of Mecca and Medina, was in dire economic straits.27)
A number of big oilfields were found in that area, thanks to which the small desert country
Saudi Arabia walked the path which led to becoming the world’s biggest oil producer. And
SoCal, which had obtained the concession, had such colossal prospects for production that it
sought joint investors for development. The first to join was Texaco (now Chevron) in 1944,
followed by Exxon and Mobil in 1946. These four US majors founded a company which in
1948 became known as the Arabian American Oil Company (Aramco). Oilfields developed by
Aramco included two noted in Section 1, the world’s largest field, Ghawar, and the
fourth-largest, Safaniya. The four US majors that managed these fields jointly owned Aramco
until the Saudi government gradually nationalized it over the 15 years from 1973 to 1988.28)
In 1988 the Saudi government changed the company’s name to Saudi Aramco. This national
company, which was under the command of the Supreme Council for Petroleum and Minerals
chaired by the king, still has the world’s biggest oil reserves. Saudi Arabia has much spare
production capacity, and has served as the swing producer because it stabilizes market prices
as by increasing production when oil supplies are tight and reducing production at times of
oversupply. It has hewed to a moderate line so as not to hurt the interests of the US, which
became the world’s biggest oil consumer. Aramco, which has the world’s largest crude
production capacity, has often had standoffs with other OPEC states, and, even if it sacrifices
its own profits, has responded to the oil wishes of Americans for a stable supply of oil. Even
after becoming Saudi Aramco, the company retained many American employees, and even
now the company has Americans carried over from the former Aramco, mainly in its
engineering division. This Saudi NOC sustains the international rule of oil.29)
6. The End of“American Oil”
• Peak Oil
Since 1970 the reality of oil in the US has been that oil production peaked, after which it
would become gradually more difficult to extract oil from existing fields, and the discovery of
new fields declined even as consumption increased. Already in 1956 the geologist M. King
Hubbert had predicted that US oil production would peak in 1971, that subsequently the
quality of extractable oil would decline, costs would rise, and the discovery of new fields
27) Yergin, Prize, 7) chp.21.
28) Simmons, Twilight in the Desert, 3), cpt.5.
29) Hasegawa Eiichi, The Struggle of Oil among Powers(Japanese), Minerva Shobo, 2009, pp.41-107.
- 178 -
Energy Crisis as Global Problem
would gradually decrease. He called this “peak oil.” 33) US oil production peaked in 1970, one
year earlier than Hubbert had predicted.
Hubbert’s calculations were very simple. He started with the previous year’s US crude oil
stock as X, and as a variable that increases X, he added A, the oil reserve amount discovered in
the US during the current one-year period. As a variable that decreases X, he subtracted B, the
amount of oil produced in the US during the current one-year period. This means that the
current year’s crude oil stock is X+A−B. Hubbert then aggregated his calculations for every
year from 1859 when oil was first discovered, and drew the famous “Hubbert’s curve.”
Meanwhile, the US pumped more oil out of the ground each year. With 1953 being the
reference year, the US oil production rate B/X grew 43% until 1969 in response to healthy
demand. In 1970 oil production peaked at 9 million bpd, and then gradually declined.
On the other hand, from 1953 to 1970 the US rate of new oilfield discoveries A/X dropped a
substantial 35%. What’s more, as the years passed the size of discovered new oilfields
diminished. From 1959 these two variables — oil production and the amount of new oil
discovered — crossed and became about the same, after which US crude stock leveled off
until in 1967 stock began to fall for the first time in US history. The US then started producing
more oil than its new discoveries, and its stock declined. It was the autumn of American oil.
Why did the rate of new oilfield discoveries decrease? Hubbert’s interpretation was as
follows. Oilfields that were large, with good quality oil, easy to drill, and whose oil could be
easily transported to consumer areas were already more or less all discovered, and therefore
such good oilfields were now hard to find. In other words, Hubbert was saying that the
undiscovered or undeveloped oilfields in the US were small, or had heavy low-quality oil, or
were hard to drill, or were in remote areas, and therefore many such oilfields would be
unprofitable at current oil prices.
In fact, for the 35 years after the first oil shock the US government wanted to raise the oil
self-sufficiency rate, so it put effort into new exploration and drilled exploratory wells in
offshore oilfields, the Gulf Coast, and northern Alaska. Further, big oil companies rolled out a
variety of enhanced oil recovery technologies in a bid to raise the oil recovery rates of already
discovered oilfields. But there have been no new discoveries or technological breakthroughs
that would significantly change Hubbert’s curve. Big oil companies now tend to avoid
exploration of risky oilfields.
The US rapidly withdrew its savings of crude oil stocks, and by about 1970 it had used over
half its total extractable oil stock, and it has now arguably used three-fourths. To express it
33) Klare, Michael, Blood and Oil: The Dangers and Consequences of America's Growing
Dependency on Imported Petroleum, Henry Holt and Company, 2004. Fig.1-2.
- 179 -
年報 公共政策学
Vol. 5
metaphorically, the US is now transitioning to the “second half of the second half,” or to the
“winter years.” 36)
• Continued Expansion of US Consumption
The US was formerly an oil power that boasted colossal oil reserves. In just 111 years since
the first oilfield discovery in 1859, oil is moving from autumn to winter, and the reason is
America’s extraordinary consumption, which is one-fourth of the world’s oil.
Moreover, the industry, lifestyle, and city types that consume much oil exist not only in the
US, because since the second half of the 20th century they have moved also to western Europe
and Japan. And since the 1990s China, India, and other emerging nations are attempting the
transition to such energy-intensive lifestyles. This increasing world consumption threatens to
exceed the point of peak oil.
Oil consumption data 37) indicate that worldwide consumption in 2007 was 85,220,000 bpd,
and in 1997 was 73,600,000 bpd, for an increase of about 27% in 10 years. In that decade
consumption growth was only 2% in Eurasia, while in Japan it decreased 12%. Over the three
decades since the oil shocks energy conservation for oil resources achieved advances in Japan
and Europe, so that they decreased energy consumption even if their economies grew.
However, the US, which was the cradle of oil consumption civilization, continues to
increase its oil consumption. In the decade from 1997 North American oil consumption grew
12%. Despite coming up against peak oil in 1970 and facing oil crises three times, the US kept
increasing its oil consumption. Of course since the oil crises there were eight presidents, and
energy policy changed somewhat with the changes in administrations, but as one can typically
see in the “New Energy Plan” report under George W. Bush, the US continued to choose the
oil consumption civilization, which necessitates expanding oil consumption.
What’s behind this consumption growth? First, from 1975 to 2006 US population increased
by a factor of 1.4. This differs from the stagnating populations of Japan and Europe, and is a
cause of rising energy use. However, the increase in oil consumption far outstrips the
population increase. Second, as an indicator of increasing oil consumption, the total distance
driven by the US motor vehicle fleet monotonically increased two-fold over the three decades
from 1975 right after the oil crises. In the 1980s per capita gasoline consumption decreased
temporarily, but again rose starting in the 1990s, for a 1.6-fold increase over the entire
three-decade period. The per capita number of registered vehicles increased from 0.6 to 0.8.
Instead of public transportation, Americans used automobiles more than ever. Moreover,
36) Hasegawa, The Struggle of Oil, 29), pp.174-205.
37) Ibid. p.175, Fig.3-1, & Fig 3-2. McQuaig, Linda, It's The Crude, Dude: War, Big Oil and the Fight
for the Planet, Doubleday, 2004. sct.7 at chp.5.
- 180 -
Energy Crisis as Global Problem
vehicles sold during the 20 years starting in 1987 got 900 pounds heavier, engine displacement
nearly doubled, and fuel economy worsened by 8%. Although sport utility vehicles (SUVs) are
heavy, get poor mileage, and have a high probability of fatal accidents, they are not subject to
the mileage regulatory standards which apply to other automobiles. Not only does the US not
try to quit the car, it also does not even try to make automobiles more fuel-efficient.38) This
shows that over the last 30 years Americans have made no serious effort to wean themselves
off oil, and in fact chose to continue living in the “sea of oil.”
• Dependence for Oil on the Gulf States
Like other oil importing countries, the US has depended mainly on imports from the Persian
Gulf. Its main suppliers have been Saudi Arabia, Kuwait, and other Gulf states. The US
government has maintained its hold on political leadership in the Gulf region by means of
unofficial alliances with the regimes of Iran’s Reza Shah, Iraq’s Saddam Hussein, and the
Saudi royal family. But the Gulf region, which holds two-thirds of the world’s oil, saw the
Fourth Middle East War in 1973–74, and the Islamic Revolution of 1979 in Iran. There was
also the Iran-Iraq war of 1980–88 and the Gulf War of 1990–91, one of whose causes was the
oil grab.
On each of these occasions the US exposed its weakness: dependence on oil from the
Persian Gulf region. Officially and unofficially the US intervened militarily, and in 2003 it
started the Iraq War. Because of the 1979 Islamic Revolution, Iran ceased to be a pillar of US
hegemony, as did Iraq because of the Gulf War. Saudi Arabia’s royal family was the only main
ally remaining after the Gulf War. In Saudi Arabia there are objections to depending on the US
for security while supporting the US with oil. The fact that many of the young men in the 9/11
hijackings were Saudi Arabian indicates the intrinsic instability of the unofficial alliance
between the US and Saudi Arabia.39)
7. The Arrival of Peak Oil and Peak Coal
Another focus is China, which achieved blistering economic growth and became “the
world’s factory.” 40) According to the International Energy Agency (IEA), China’s total energy
consumption (everything including oil, coal, wind, and photovoltaic) surpassed that of the US
in 2009 and became the world’s largest. Its 2007 oil consumption was second in the world
after the US, accounting for 9.3% of total world consumption. China criticized the IEA
38) Nakamura Ken-ichi, "War Strategy of Saddam Hussein(Japanese)," in Sekai, April 1991.
Klare, Michael, Blood and Oil, 33).
39) Hasegawa, The Struggle of Oil, 29), pp.206-299.
40) Ibid. p.265.
- 181 -
年報 公共政策学
Vol. 5
estimate claiming that it is inaccurate, but there is no longer any doubt that China’s energy
consumption is about the same level as that of the US, and that its energy demand continues to
grow.
The biggest factor behind increasing consumption is economic growth; over the 30 years
from 1978 to 2007, China’s GDP grew six-fold and its energy consumption doubled. With the
arrival of the 21st century China’s energy consumption increased at a faster rate, and oil
consumption in particular increased 1.6-fold in six years, from 4,920,000 bpd in 2001 to
7,855,000 bpd in 2007. Especially in 2004 oil consumption rose 17% over the previous year.
Around 2004 China surprised the world by conducting a flurry of diplomatic meetings
between heads of state around the world, especially in the Former Soviet Union and African
countries, to secure long-term contracts to supply oil and mineral resources. China rapidly
built giant tankers to import huge quantities of oil, and by the end of 2009 it built as many as
13 large oil storage bases.
• China Faced High Oil Prices on the Road to Development
China’s energy situation differs from that of Japan, the US, and other countries. In 2007
China’s per capita oil consumption was low, at 0.9 bpd. The “world’s factory” is being
squeezed between skyrocketing oil prices and environmental constraints just at the stage where
its oil consumption is low. Although energy consumption is rising rapidly, the main energy
source is coal, and not yet switched to oil. In 2007 oil accounted for only 19.7% (23% if
natural gas is included) of China’s energy, which is still 70.4% coal.41) Since 2004 China has
been hit by internationally high oil prices, and it is not easy to endure such high prices long
even with China’s deep pockets.
Gasoline for transportation is the main use of oil. For example, in 2007 China surpassed
Japan in the number of new automobiles produced, and in 2009 surpassed the US, but per
capita car ownership is 1/20th that of the US, and 1/10th that of other industrialized countries.
McKinsey estimated that by 2020 China’s fleet will triple, and one can see from this prediction
that China is at the stage where automobile and gasoline demand increases explosively. It is
predicted that if China’s oil consumption keeps increasing at the present rate, in 2025 it will be
about twice current consumption, and in 2030 China will depend on imports for 80% of its oil
consumption.42)
China has three large oilfields in its eastern region: Daqing, Shengli, and Liaohe, which
make up 70% of domestic consumption. Starting in the 1970s, China increased its oil
41) International Energy Agency, World Energy Outlook, 2007.
42) Hasegawa, The Struggle of Oil, 29), pp.265-272.
- 182 -
Energy Crisis as Global Problem
production as an oil-producing country, and until the 1980s it exported to Japan and Singapore.
China is the world’s fourth- or fifth-largest oil producer, and can produce nearly half of its own
oil consumption, which in that respect makes it different from India. Nevertheless, it could not
keep up with rising domestic consumption, and in 1993 became an oil importer. In 2008 China
was not only a crude oil importer, but also became a net importer of oil products.43) In 2009 its
dependence on oil imports exceeded 50%. Although China’s government has hopes for the
discovery of new oilfields in Xinjiang and other parts of the western region, even if quite large
oilfields were discovered, they would do little to help with spiraling demand.
The IEA predicts that China’s oil production will peak in the mid-2010s and then gradually
decline. Oil production in the second of the two largest oil-consuming countries will peak
when its demand is highest.
• Rapid Rise in Coal Demand
China’s engine of growth is energy-intensive industries such as steel, cement, metals, and
ammonia. Compared to the proportion of China’s GDP in the world as a whole, China’s
production of steel, cement, and ammonia account for 31%, 47%, and 43% of total world
production, respectively, which are very high percentages. Considerable portions of these are
exported, with much of the final consumption being in the US, Japan, and Europe. What is
more, energy efficiency in these industries is very poor because their energy-saving
technologies are outdated.
More than anything else, coal powers the energy-intensive “world’s factory.” While the shift
to oil has been making little headway in comparison with the economic growth rate, in the
second half of the 1990s the proportion of coal in energy consumption tended to decline for a
time, but from 2000 the proportion of coal again tended to increase, which pushed the
proportion of coal in energy sources up to 70.4% in 2007. And in just the subsequent five-year
period, coal production doubled.44) Coal consumption continued growing at an annual rate of
9% in 2008 and 2009, and the amount consumed in the first quarter of 2010 (which would be 3
billion t on a yearly basis) increased an amazing 28.1% over 1Q 2009 (“China’s coal bubble...
and how it will deflate U.S. efforts to develop ‘clean coal,’” Energy Bulletin, 4 May 2010).
Under a conservative estimate, China will double its coal consumption in just eight to 10
years.
43) Zhang Kunmin, "China in a Low-Carbon World; Its Role, Challenges and Strategies," Yoshida
Fumikazu and Ikeda Motoyoshi, eds, Sustainable Low-Carbon Societies, Hokkaido University, 2010,
pp.179-193.
44) Lafargue, Fransois, Etats-Unis, Chine et Inde: A la Conquete de l'or Noir Guerre Mondiale du
Petrole, Ellipses, 2008.
- 183 -
年報 公共政策学
Vol. 5
China has the world’s third-largest coal reserves, said by the World Coal Institute to be 110
billion t. This would enable China to maintain its 2010 coal consumption for 37 years, but if
Chinese coal consumption grows at an average of 10% yearly, it will use all its coal in just 16
years (Chinese authorities give 187 billion t as China’s official reserves, but it is clear that
even if that figure is used, the current exponential energy increase will be impossible in the
medium-term future). In the near future China will unavoidably face not only peak oil, but also
peak coal.
Energy demand grows exponentially and getting coal is difficult. Therefore if China takes a
path to rapid growth whose main energy source is coal, and coal consumption exceeds
domestic production, China will perforce depend on coal imports,45) and in fact China became
a coal importer in 2007. In 2009 it imported 75 million t, and in 2010 it is on track to double
that and import 150 million t, an amount equal to 60% of the total exports of Australia, the
world’s largest coal exporter. Is it possible to keep getting this much coal from abroad?
It is not, because India and other emerging nations going full speed ahead with development
likewise depend on coal. Because India has no domestic oil resources and coal reserves that
are only half those of China, its dependence on coal will probably become greater than China’s.
Both of these exponentially growing emerging countries are depending on coal imports in a
bid to overcome the energy constraints of domestic coal, but compared to oil, which is an
international commodity, coal accounts for much of domestic consumption, and the total
amount traded internationally is small. It is therefore a thin market. Enormous coal imports by
these two giants will likely soon push up the price of coal.46)
China’s rapid development and building of energy resources over the last 10 years has
worsened environmental problems. On July 16, 2010 a pipeline explosion at Dalian caused a
huge oil spill in the Yellow Sea. Chinese authorities say that in the first half of 2010
environmental accidents approximately doubled. As noted in Section 3, heavy consumption of
coal worsens the environment much more than does oil. Further, the large number of
coal-mining deaths (according to official 2009 statistics, 2,631 people died in coal-mine
accidents) is a serious problem in China.
Summary
• Energy Demand
Demand in recent years can be described by the following five statements.
1. Regarding the developed countries, which have consumed much oil, the US consumes
45) Hasegawa, The Struggle of Oil, 29), p.273. Zhang Kunmin, "China in a Low-Carbon World," 43).
46) Lovins, Amory B., Soft Energy Paths: Toward a Durable Peace, The Friends of the Earth, 1977.
- 184 -
Energy Crisis as Global Problem
one-fourth of the world’s oil and tends to increase its consumption, while Europe has
leveled off and Japan’s consumption is trending toward decline.
2. China, India, and other emerging nations have smaller per capita consumption than the
US, Europe, and Japan, but their oil demand is skyrocketing. This and the emerging
nations’ oil demand will elevate oil prices.
3. Coal is the main energy source in emerging nations. Their main energy source will not
switch from coal to oil, and coal consumption will rapidly increase. Their coal demand
will make coal prices rise.
4. Because of the above factors, consumption of both oil and coal will tend to increase, and
supply will be unable to keep up.
5. Rising energy consumption is leading to environmental deterioration.
• Energy Supply
1. Production in many existing oilfields has already peaked, extraction is becoming more
difficult, oil quality is declining, and the marginal cost of production is rising.
2. Oilfield exploration is no longer able to discover fields which are large, of good quality,
easy to drill, and near consuming areas. Many newly discovered fields are small, of poor
quality, hard to drill, and far from consuming areas.
3. For both oil and coal, the age of “cheap energy” is over. In the medium to long term,
energy prices will rise and fluctuate wildly.
4. Energy resources will transition from a non-zero-sum condition to a zero-sum condition,
and there are concerns that confrontations will intensify due to factors such as supply
instability and the scramble for resources.
5. Items 1 through 4 do not mean that reserves will physically run out. Considerable
amounts of recoverable reserves will remain, but society will become destabilized and
panic could readily occur.
• Soft Path
The idea behind the soft path is to hold energy consumption down to a level that can be
maintained comfortably. This was called the “soft path” by Amory Lovins, the person who
first proposed it.46) Lovins says the soft path has the following five characteristics.
1. The goal for the medium-term future is to rely on renewable energy sources such as
photovoltaic, wind, hydro, and tidal power. Unlike petroleum and other solar energy
“savings,” these are the flow of energy constantly coming to Earth from the sun,
46) Lovins, Amory B., Soft Energy Paths: Toward a Durable Peace, The Friends of the Earth, 1977.
- 185 -
年報 公共政策学
Vol. 5
regardless of whether humans use it.
2. Soft energy technologies are diverse. Instead of sending power over long distances from
the huge power stations of giant electric utilities, soft energy can work because power is
produced near demand and in response to the demand situation.
3. Soft energy sources are used by freely adapting natural energy existing everywhere. This
contrasts with oil resources, which have an uneven geographic distribution.
4. With soft energy, the quality of energy ultimately needed is matched to the application,
as with electricity for motive force, or for space heating or cooling.
5. Information on soft energy technologies is not monopolized by science and technology
experts.
- 186 -
Energy Crisis as Global Problem
Energy Crisis as Global Problem
NAKAMURA Kenichi
Abstract
・Energy demand and supply in recent years can be summarized by the following ten
statements.
1.
Regarding the developed countries, which have consumed much oil, the US consumes
one-fourth of the world’s oil and tends to increase its consumption, while Europe has
leveled off and Japan’s consumption is trending toward decline.
2.
China, India, and other emerging nations have smaller per capita consumption than the US,
Europe, and Japan, but their oil demand is skyrocketing. This and the emerging nations’
oil demand will elevate oil prices.
3.
Coal is the main energy source in emerging nations. Their main energy source will not
switch from coal to oil, and coal consumption will rapidly increase. Their coal demand
will make coal prices rise.
4.
Because of the above factors, consumption of both oil and coal will tend to increase, and
supply will be unable to keep up.
5.
Rising energy consumption is leading to environmental deterioration.
6. Production in many existing oilfields has already peaked, extraction is becoming more
difficult, oil quality is declining, and the marginal cost of production is rising.
7. Oilfield exploration is no longer able to discover fields which are large, of good quality,
easy to drill, and near consuming areas. Many newly discovered fields are small, of poor
quality, hard to drill, and far from consuming areas.
8. For both oil and coal, the age of “cheap energy” is over. In the medium to long term,
energy prices will rise and fluctuate wildly.
9. Energy resources will transition from a non-zero-sum condition to a zero-sum condition,
and there are concerns that confrontations will intensify due to factors such as supply
instability and the scramble for resources.
10. Items 6 through 9 do not mean that reserves will physically run out. Considerable amounts
of recoverable reserves will remain, but society will become destabilized and panic could
readily occur.
- 187 -
年報 公共政策学
Vol. 5
Keywords
oil,
coal, energy consumption,
energy supply, USA,
environmental deterioration.
- 188 -
emerging nations,
oilfield,
The Role of Social Support and Social Services for Refugee Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
The Role of Social Support and Social Services for Refugee
Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
OTAKE Yuko ・SAWADA Mai 
1. Background
Recently there has been a lot of interest in the state of mental health of refugees after a civil
conflict, and several studies about Posttraumatic Stress Disorder (PTSD) and posttraumatic
depression have been performed in post-conflict situations (Mollica et al. (1992), Carlsson et
al. (2006)). According to certain reports showing the prevalence of PTSD and depression in
refugees, researchers have concluded that about 50 percent of these symptoms was present five
years after the war (Kozaric-Kovacic et al. (2000), Mollica et al. (2001)), and 20 percent of the
symptoms would be still left 10 years after the war (Carlsson et al. (2006)). In addition,
alcoholism are frequent complications of stress symptoms, and it is reported that the
prevalence of alcoholism was about 60 percent in male refugees (Kozaric-Kovacic et al.
(2000)).
Meanwhile, some social factors such as social support and the social status of refugees are
investigated as alleviating factors against stress symptoms in post-conflict situations (Ryan et
al. (2008), Ghazinour et al. (2003)). It is supposed that social isolation would make symptoms
worse, however, social relationships within the family, between partners or friends, as well as
social services which provide refugees with status or access to medical care could reduce the
symptoms (Misic et al. (2005)).
In the present study, we have focused on the civil war in Yugoslavia and conducted research
on refugees in Croatia. There are several issues concerning refugees in Croatia. For instance,
elderly refugees are left in a refugee center and it is difficult to integrate them into the general
society. The social interest in refugees tends to decrease since almost 15 years have passed
after the war. However, demographic information concerning stress symptoms, the problem of
alcoholism, social support and social services is still lacking in Croatia.
Consequently, it is necessary to collect demographic data and explore which kinds of social
support or social services are important for the mental health of refugees in Croatia.


Doctoral course student, Department of Public Health Graduate School of Medicine, Hokkaido
University [email protected],
Master course student, International Policy Programme, Hokkaido University Public Policy School
- 189 -
年報 公共政策学
Vol. 5
2. Objective
The objectives of this study are (1) to collect demographic information concerning the
mental health status, alcoholism, social support, recognition of social services, and desire for
immigration in refugees 15 years after the civil war in Yugoslavia, and (2) to examine the
social support or social services which are important for the mental health of refugees.
3. Method
3.1. Study design
We conducted a cross-sectional research through home visits in the Mala Gorica Refugee
Center, Croatia from the 22nd to 28th February, 2010.
3.2. Participants
Eligible participants were 50 adult refugees who were over 18 years old and lived in the
center during this research term.
There were 160 houses in the center, 91 of them were vacant or with their residents absent
for a long time and 6 were occupied by neighbors, so that we visited 63 houses and asked 79
adult refugees to participate in the research (Table 1). In the end, we obtained 50 refugees’
consent to participate (participant rate = 63.3%), except for 8 who refused to participate, 4
who were not able to continue answering because of drinking or violence, and 17 who were
not at home.
3.3. Materials
We
used
three
globally
standardized questionnaires and
two original questionnaires in this
research.
3.3.1. Characteristics
We inquired about the age,
sex, ethnicity, the place of
residence
before
the
war,
traumatic experiences, the number of family members in the refugee center, the number of
children, and the length of living in the center in order to obtain background information
about the refugees.
3.3.2. Mental health
The General Health Questionnaire (GHQ) was applied to evaluate the mental health
- 190 -
The Role of Social Support and Social Services for Refugee Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
status of refugees. The GHQ was developed by Goldberg (Goldberg & Blackwell (1970)) to
measure the quality of life (QOL) focused on mental health problems and has been widely
used in post conflict studies. It is composed of 4 sub-scales: ‘Somatic symptoms’, ‘Anxiety
and insomnia’, ‘Social disfunction’ and ‘Severe depression’. The score range of each
sub-scale is 0-21 and the higher the scores, the severer the problem.
3.3.3. Alcoholism
The GAGE questionnaire developed by Ewing (Ewing (1984)) was used to evaluate
alcoholism. This questionnaire consists of 4 simple questions for detecting alcoholism. The
score range is 0-4 and the higher the scores, the severer the problem.
3.3.4. Social support
We used the Lubben Social Support and Network Scales (LSNS) to evaluate the
perceived social support by refugees. This scale is designed for measuring perceived social
support from family and friends in elderly people. It was originally developed in 1998
(Lubben (1998)) and was revised into a short version (Lubben & Gironda (2000)). We used
the short version with certain adaptations for refugees in order to measure the social support
of their family, their friends in the center and Croatians out of the center. Score range is 0-15
and the higher the scores, the stronger the social support.
3.3.5. Recognition of social services
We used the original questionnaire to inquire about the recognition of social services for
getting jobs, receiving education and medical services. Participants read the question ‘Do
you feel or think that you are disadvantaged because of being a refugee concerning the
social services listed below?’ and chose an answer between ‘yes’, ’cannot say yes or no’,
or ’no’. The social services listed after the question were: ‘Job’ (finding a job, being
employed, selecting the type of job), ‘Education’ (entering elementary school, going to
junior high school, going to high school), ‘Medical services’ (receiving sufficient medical
care, seeing a doctor, buying a prescription medicine). The higher the scores, the stronger
the feeling of disadvantage.
3.3.6. Desire for immigration
We also asked original questions about their desire for immigration, ‘Would you like to
live in Croatia permanently if possible?’, ‘Would you like to return to your home country if
possible?’, ‘Would you like to move to another country if possible?’, ‘Would you like to live
in the Mala Gorica refugee center for the rest of your life if possible?’, and participants
- 191 -
年報 公共政策学
Vol. 5
answered with ‘yes’ or ’no’. The last question was added halfway through the research
because we found a lot of people who have the desire to live in the center permanently.
3.3.7. Analysis
In order to examine the social
support and social services important
for mental health of refugees, we
focused on sub-scales ‘Anxiety and
insomnia’ and ‘Severe depression’ in
the GHQ, and divided the participants
into two groups above or less than the
average scores. We compared the
mean scores of characteristics, social
support, recognition of social services,
and also the percentage of desire for
immigration between high and low
groups.
4. Results
4.1. Characteristics of participant
refugees
The characteristics of participants are
presented in Table 2 and 3. The mean
age of participants was 60.3 (min-max =
18-80) years old and the number of over
60 years were 30 (66.0%). Participants
included 23 males (46.0%) and 27
females (54.0%), 39 (78.0%) refugees
with Croatian ethnicity and 38 (76.0%)
having lived in Bosnia before the war
(Table 2).
The
average
number
of
family
members in the refugee center was 0.9
(min-max = 0-6), and the average length
of living in the center was 6.6 (min-max
= 1-18) years (Table 3).
- 192 -
The Role of Social Support and Social Services for Refugee Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
4.2. Traumatic experiences
Traumatic experiences of refugees are shown in Table 2. The most common traumatic
experience was ‘Destruction of home’ listed by 42 refugees (84.0%), the second was ‘Lack of
food and water’ applied by 13 refugees (26%), followed by ‘Murder of family members or
friends’ reported by 12 refugees (24%). The average number of traumatic experiences was 2.7
(min-max = 0-10), presented in Table 3.
4.3. Mental health and alcoholism
The health status including mental health is presented in Table 3. The average score of
‘Somatic symptoms’ was 9.7 (min-max = 0-21), that of ‘Anxiety and insomnia’ was 8.2
(min-max = 0-18), ‘Social disfunction’ was 9.2 (min-max = 2-16), ‘Severe depression’ was 3.8
(min-max = 0-21). The most severe problem for refugees was ‘Somatic symptoms’ according
to the results. Especially for mental health, ‘Anxiety and insomnia’ was more serious than
‘Severe depression’.
For alcoholism, there was no problem in 42 refugees (84.0%), but 8 refugees (16.0%) had at
least one alcoholism problem and one refugee (2.0%) marked all the alcoholism problems
listed (Table 2).
- 193 -
年報 公共政策学
Vol. 5
4.4. Social support and recognition of
social services
The
score
distribution
of
social
support is also shown in Table 3. The
average score of ‘Social support by
family’ was 5.7 (min-max = 0-15), that
of ‘Social support by friends in the
center’ was 5.2 (min-max = 0-10), that of
‘Social support by Croatians out of the
center’ was also 5.2 (min-max = 0-15).
Results of the recognition of social
services are indicated in Tables 3, 4, and
Figure 1. The average score of feeling
disadvantaged in ‘Job’ was 6.5 (min-max
= 3-9), in ‘Education’ 1.5 (min-max =
3-9), in ‘Medical service’ 8.2 (min-max
= 3-9) (Table 3). Social services in which
over 50 percents of refugees felt
disadvantaged
were
‘finding
a
job
(68.2%)’, ‘being employed (65.0%)’,
‘receiving
sufficient
medical
care
(54.0%)’, and ‘buying a prescription
medicine (50.0%),’ shown in Table 4 and Figure 1. The social service in which refugees felt
disadvantaged the most was ‘Medical service’, while they have less to complain about
concerning ‘Education’ and ‘selecting the type of job.’
- 194 -
The Role of Social Support and Social Services for Refugee Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
Job : I fe el disadvan tage in…
being employed
finding a job
Yes
Cannot say which
No
Yes
Cannot say which
No
Yes
Cannot say which
No
30.0%
27.3%
4.5%
selecting the type of job
35.0%
68.2%
5.0%
60.0%
65.0%
5.0%
Education : I feel disadvantage in …
entering the elementary school
Yes
Cannot say which
going to the junior high school
No
Yes
going to the high school
Cannot say which
Yes
No
Cannot say which
17.6%
29.4%
No
17.6%
0.0%
5.9%
0.0%
70.6%
76.5%
82.4%
Me dical care : I feel disadvantage in …
recieving the sufficient medical service
Yes
Cannot say which
buying the prescription medicine
seeing the doctor
No
38.0%
54.0%
Yes
Cannot say which
46.0%
48.0%
8.0%
Yes
No
Cannot say which
48.0%
6.0%
No
50.0%
2.0%
Figure 1. The parcentage of recognition of social survices in participants
4.5. Desire for immigration
living in croatia permanently
Yes
Table 5 and Figure 2 present the
No
returning to home country
Yes
6.0%
desire for immigration of refugees. 47
refugees (94.0%) desired to live in
94.0%
Croatia permanently, 45 (90.0%)
No
10.0%
90.0%
desired not to return to their home
country, 40 (80.0%) desired not to
moving to another country
move to another country.
Yes
We asked the question of ‘Would
No
living in the Mara Gorica center parmanetly
Yes
No
20.0%
you like to live in the Mala Gorica
40.7%
center permanently?’ halfway through
80.0%
59.3%
reserch, and obtained answers from
27 refugees. 16 of them (59.3%)
Figure 2. The parcentage of desire for immigration
in participants
- 195 -
年報 公共政策学
Vol. 5
stated that they wanted to live in the refugee center permanently. However 11 refugees did not
desire to live there because the water is not safe, the market is far away, and there is no doctor.
4.6. Comparison of average scores for social support, recognition of social services,
and desire for immigration between high and low mental health groups
Table 6, Figures 3 and 4 present the results of the comparison for characteristics of refugees,
social support and recognition of social services.
4.6.1. Anxiety and insomnia
After dividing refugees into high and low ‘Anxiety and insomnia’, 24 refugees were
allocated to the low group and 26 to the high group. The differences of over 1.5 points
between high and low groups were found in age (the difference = 2.5 points, Low < High)
and the recognition of medical service (the difference = 2.2 points, Low < High). This
indicates that the high anxiety group was older and felt more disadvantaged in medical
services than the low anxiety group. (Figure 3)
4.6.2. Severe depression
After dividing the refugees into high and low ‘Severe depression,’ the low group included
33 refugees and the high group incuded 17 refugees. The differences over 1.5 points
between highly and lowly depressed group were indicated in age (the difference = 1.7 points,
Low < High), the number of traumatic experiences (the difference = 2.0 points, Low <
High), and the recognition of medical services (the difference = 1.5 points, Low < High). It
- 196 -
The Role of Social Support and Social Services for Refugee Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
Figure 3. Comparison of average scores for social support and social survices recognition between
high and low anxiety groups
Figure 4. Comparison of average scores for social support and social survices recognition between
high and low depressed groups
indicates that the highly depressed group was older, had more traumatic experiences, and
felt more disadvantaged in medical services than the less depressed group. (Figure 4)
4.7. Comparison of the percentage of desire for immigration between high and low
mental health groups
Table 7, Figures 5 and 6 show the comparison of the percentage of desire for immigration.
4.7.1. Anxiety and insomnia
Differences of more than 10 percent between high and low anxiety groups were found in
the desire for moving to another country (the difference = 17.7%, Low > High) and also
living in the Mala Gorica center permanently (the difference = 19.2%, Low < High). This
means that the high anxiety group wouldn’t like to move to another country but would want
to live in the center permanently. (Figure 5)
- 197 -
年報 公共政策学
Vol. 5
Figure 5. Comparison of the percentage of desire for immigration between high and low
anxiety groups
Figure 6. Comparison of the percentage of desire for immigration between high and low
depressed groups
4.7.2. Severe depression
Differences of more than 10 percent between highly and lowly depressed groups were
found in the desire for living in the Mala Gorica center permanently (the difference = 44.5%,
Low < High). It indicates that the highly depressed refugees have more desire for living in
the center permanently than less depressed refugees. (Figure 6)
- 198 -
The Role of Social Support and Social Services for Refugee Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
5. Discussions
5.1. Demographic imformation of refugees in the Mala Gorica center
As for the demographic information of refugees in the Mara Gorica center, it is described
that 78 percent of refugees have Croatian ethnicity and 76 percents are from Bosnia.
Considering that 66 percent of the participants were more than 60 years old and the average
number of family members was less than one, it seems that most of the refugees in the Mala
Gorica center are elderly people who live alone. The average of years spent in the Center was
6.6, the longest was 18, and a lot of refugees in this center tend to live for a long time.
As a result of the comparison of the characteristics of high and low mental health groups, it
is indicated that highly depressed refugees had more traumatic experiences than less depressed
refugees. It implies that the present severe depression is related to traumatic experiences from
15 years ago. In other words, posttraumatic symptoms are able to remain for a longer time as
depressive simptoms.
5.2. The role of social support for mental health in refugees
There were no sufficient differences between social support scores of high and low mental
health groups. However, the difference of the score ‘Social support by friends in the center’
between high and low anxiety groups was not small (the difference = 1.0, Low > High), which
implies that low anxiety refugees percieve more social support from friends in the center.
Therefore it is assumed that friendship within the refugee center is more important than the
other social relationships.
5.3. The role of social services for mental health in refugees
Refugees who have strong anxiety or depression felt more disadvantaged in medical
services in the current study, which indicates that medical services are significant for refugees
with low mental health. Since the Mala Gorica center is far from the hospital and there is not
enough means of transportation, it is hard for elder refugees to receive sufficient medical
sevices. Additionaly, in home visiting, some refugees complained that they are not able to buy
medicine because of low income. As most of the refugees are elderly and traumatized people,
it seems normal that they ask for medical services. If they have access to sufficient medical
care, anxiety and depression could be moderated.
5.4. Desire for living in the Mala Gorica center permanently
According to the present study, 94 percent of refugees wanted to live in Croatia permanently,
and 59 percent of refugees wanted to live in the Mala Gorica center permanently. As we
divided refugees into high and low mental health groups, we found that almost 20 percent
more refugees with high anxiety or depression had the desire for living in the center although
- 199 -
年報 公共政策学
Vol. 5
there was no difference of desire for living in Croatia between the two groups. Considering
that 84 percent of refugees carry the traumatic experience of the destruction of their houses,
they have been in the Mala Gorica center for a long time, and they are old, it should be
important to continue living in the same place especially for people with strong anxiety and
depression.
When we visited refugees, they said that they are under stress of the evacuation order. They
did’t know when and where they must go out, which made them stressful and worried. We
propose that refugees maintain relationships with friends in the refugee center and obtain good
access to medical services in order to protect their mental health, even if they have to evacuate
from the center.
Acknowledgement
This study was performed as a part of the Balkan Program by Hokkaido University Public
Policy School (HOPS). We appreciate that we were given the opportunity to challenge this
work and publish it as the achievement of the program. We also express our appreciation for
the cooperation of students of the University of Zagreb in conducting the research.
Reference
Carlsson JM, Mortenson EL, Kastrup M. 2005. A follow-up study of mental health and
health-related quality of life in tortured refugees in multidisciplinary treatment. The journal
of nervous and mental disease. 193(10):651-657
Carlsson JM, Olson DR, Mortenson EL, Kastrup M. 2006. Mental health and health-related
quality of life a 10-year follow-up of tortured refugees. The journal of nervous and mental
disease. 194(10):725-731.
Ewing JA. 1984. Detecting alcoholism: the CAGE questionnaire. JAMA. 252(14):1905-1907
Ghazinour M, Richter J, Eisemann M. 2003. Personality related to coping and social support
among iranian refugees in Sweeden. The journal of nervous and mental disease.
191(9):595-603.
Goldberg DP, Blackwell B. 1970. Psychiatric illness in general practice. A detailed study using
a new method of case identification. British Medical Journal. 1(5707):439-43.
Kozaric-Kovacic D, Ljubin T, Grappe M. 2000. Comorbidity of posttraumatic stress disorder
and alcohol dependence in displaced persons. Croatian medical journal. 41(2) :173-178.
Lubben JE. Assessing social networks among elderly populations. 1988. Family community
health. 11:42–52.
Lubben JE, Gironda MW. 2000. Social Support Networks. In: Osterweil D, Brummel-Smith K,
Beck JC, editors. Comprehensive geriatric assessment. McGraw Hill Publisher: New York;
- 200 -
The Role of Social Support and Social Services for Refugee Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
2000. pp. 121–137.
Misic Z, Mamic I, Krezo S, Plavec A, Vrdoljak S, Karelovic D. 2005. Delivery of medical
services to different national groups during the war: an example from Bosnia and
Herzegovina, 1991-2000. Military medicine. 170(9):810-813.
Mollica RF, Caspi-yavin Y, Bollini P, Truong T, Tor S, Lavelle J. 1992. The harvard trauma
questionnaire validating a cross-cultural instrument for measureing torture, trauma, and
posttraumatic stress disorder in indochinese refugees. The journal of nervous and mental
disease. 180(2):111-1116.
Mollica R, Sarajlic N, Chernoff M, Lavelle J, Vukovic IS, Massagli M. 2001. Longitudinal
study of psychiatric symptoms, disability, mortality, and emigration among bosnian refugees.
JAMA. 286(5):546-554.
Ryan DA, Benson CA, Dooley BA. 2008. Psychological distress and the asylum process a
longitudinal study of forced migrants in Ireland. The journal of nervous and mental disease.
196(1):37-45.
- 201 -
年報 公共政策学
Vol. 5
The Role of Social Support and Social Services for Refugee
Mental Health, Mala Gorica Refugee Center, Croatia
OTAKE Yuko・SAWADA Mai
Abstract
Objective: To explore the social support or services which are important for refugee mental
health. Method: The cross-sectional research was conducted on 50 refugees in the Mala Gorica
Refugee Center, Croatia. Mental health (the GHQ), social support (the Lubben Social Network
Scale), social services, and desire for immigration were inquired about. Results: Refugees with
strong anxiety and depression felt more disadvantaged in medical services and desired more to
live in the center permanently. Highly depressed refugees had more traumatic experiences.
Discussion: It is desirable for refugees to contine living in the center, provided they have good
access to medical services.
Keywords
mental health, immigration, refugee, social support, social service
- 202 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
中山
1.
厚
はじめに
1.1
問題意識
1992年にバブル経済が崩壊して以後のわが国経済の状況を俯瞰すると、バブル崩壊
のショックからの立ち直りに時間を要するとともに、1990年代後半からの根強いデフ
レの趨勢の中で、これまで著しく低調に推移してきた。これは「GDP 関連指標のすさ
まじい低下」1)に表れている。1992年以後2008年度までの実質 GDP 成長率 2)は年平均
約0.8%程度であり、名目 GDP においては、2010年度の政府見通し 3)は475兆円であり、
この水準は1992年度の483兆円に及ばない。1980年代の実質4.4%の成長と比較すると 5
分の 1 以下に低下している。他の主要先進国と比べても著しい停滞であることは、図
1 から明らかである。
また、ドル換算の一人当たり名目 GDP 4)では2008年わが国が3.8万ドルに対し、米
国4.5万ドル、イギリス、ドイツ4.4万ドル、フランス4.5万ドルである。1992年には首
位であったが、主要先進国中最下位に転落している。1990年代前半当時わが国の半分
の水準に満たなかったイギリスに大きく水をあけられている。
しかもこの間財政赤字は拡大を続
け、国、地方合わせての政府長期債
務残高は2010年度末に862兆円、GDP
の1.8倍と主要先進国中最悪の状況
である。負担は先送りして経済対策
を講じてきたにもかかわらず、成長
は最低、財政は最悪という結果はい
かにして生じたのであろうか。巨額
の財政赤字にもかかわらず成長を得
図1.実質GDP成長率比較(%)
1992年 - 2008年
られなかった要因と今後わが国の政
策的方向性を考察する。
(出典)国連データベース National Accounts Main Aggregates

北海道大学公共政策大学院教授 E-mail [email protected]
1) 岩田規久男(2010) p.12
2) 内閣府「平成20年度国民経済計算確報」93SNA、支出側、連鎖方式、平成12暦年基準
3) 「平成22年度経済見通しと経済財政運営の基本的態度」(平成22年 1 月22日閣議決定)
4) 国連データベース National Accounts Main Aggregates
- 203 -
年報 公共政策学
1.2
Vol. 5
先行研究の位置づけと本稿の要旨
先行研究である NIRA「家計に眠る過剰貯蓄」(2008.11)では、わが国の過剰貯蓄が
消費による効用を放棄していて経済が低成長から脱却できないこと、民間部門の貯蓄
超過が財政赤字をファイナンスしているが、今後家計貯蓄率の低下で金利上昇リスク
があること、そのため、財政再建を進めるとともに貯蓄を消費に回すメカニズムを考
えるべきとし、
「貯蓄から消費へ」を政策目標とすることを提案している。その方策と
して社会保障制度の維持可能性向上により将来不安を軽減することを挙げている。
それに対し、本稿は、わが国の低成長の要因を、わが国の根強いデフレに求め、デ
フレ要因として、世界的なディスインフレ圧力のほかに、恒常的な民間消費の弱さに
よる需給ギャップを挙げた。さらに厳しい財政事情からくる一律の歳出削減がデフレ
を促進することを指摘した。民間消費の弱さは先行研究同様高い貯蓄水準によるもの
であり、これは将来の可処分所得を維持しようとするもので、将来負担増大と将来給
付縮小への不安に起因すると考えた。このため、政策課題として、将来負担軽減策と
しての財政健全化、将来給付確保策としての社会保障制度の持続可能性維持を提案し
た。足元の負担増の影響については、リカードの中立命題が適合すると考え、中長期
的な成長阻害効果は低いと考えた。
さらに、低成長、巨額の政府債務をもたらした思想的背景には、新自由主義に基づ
く小さな政府があり、この考え方は、超高齢化・人口減の成熟した社会には不適合で
あり、政府を通じた資源配分が従来以上に重要であることを指摘した。財政健全化に
関しては、歳出削減より税収確保が重要であり、そのためには税制改革とともに経済
成長が必須であること、成長に関しては、潜在需要のある介護、医療、保育等社会保
障分野への政府支出により需給をマッチすべきであり、これが貯蓄活用にもつながる
ことを挙げた。
家計貯蓄率の低下は、先行研究同様国債の国内消費を困難にするとの立場から、そ
の問題点を挙げ、他の諸条件の悪化と相まって、財政健全化、社会保障の持続可能性確
保、政府支出を通じた成長という 3 課題への早急な取り組みが必要であると結論付けた。
2. デフレ
2.1 デフレの状況
わが国が諸外国と異なるのは1990年代後半から一貫してデフレ傾向に陥ったことで
ある。GDP デフレーター 5)の推移をみると、1994年度からマイナスに転じ、1997年度
(プラス0.9%)を除きこれまで一貫してマイナスである。1992年度を100とすると、2008
年度には88と大幅に低下している。図 2 からは GDP デフレーターがマイナスに転ずる
のに合わせて、名目GDP がほぼ横ばいになっていることが見て取れる。なお、2003年
5)
内閣府「平成20年度国民経済計算確報」
- 204 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
から2007年の GDP の伸びは、後
述するように、輸出の急増(外需
要因)によるものである。
この傾向は CPI(消費者物価)
に関しても同様である。1999年
度以来、2005年度まで7年連続の
マイナスであり、いざなみ景気
の間2006年度からの 3 年間よう
図2.GDPとデフレーター
2000年度=100
や く プ ラ ス (0.2 % 、 0.4 % 、
1.1%)に転じたものの、リーマ
(出典)
「平成20年度国民経済計算確報」
ンショック以降再びマイナスと
なっている。
資産デフレはさらに顕著である。日経平均株価は1989年末38915円を付けて以来急落
し、IT バブル等若干の浮きはあったが、現在の水準は10000円附近でピーク時の約 4 分
の1程度で推移している。地価に関しても、市街地価格指数 6)はピークの1991年147.8か
ら2009年61.4と 4 割程度に大きく落ち込んでいる。これらはいずれもバランスシート調
整は済んでいるものの、長らく逆資産効果を通じ消費・投資の低迷をもたらしてきた 7)。
2.2 デフレの影響
2009年11月の月例経済報告にあるように、わが国は緩やかながらデフレ状況にある。
デフレとは財・サービスの価格が継続的に低下する現象であり、実体経済に大きな
影響を与える。以下、企業、家計、政府、金融部門に分けて整理する 8)。
企業は、販売単価低下から収入が減少し、生産・投資を抑制する。さらに利益水準
を確保するためコストの削減にとりかかる。借金の名目値は変わらないため、実質金
利、実質債務負担が増加し 9)、投資抑制、借入抑制、返済優先となる。実質賃金負担
は増加となるため、人件費負担が重くなり、採用を抑制する。さらにそれを超えると、
名目賃金の引き下げを行い、雇用削減(リストラ)にとりかかることになる。
家計に関しては、財・サービス価格の低下は収入が一定なら購買力が上昇すること
になるが、企業の上記行動の影響を受け、給与等の収入が減少するとともに、雇用の
不安を抱えることになる。そのため、将来不安から貯蓄を確保し、消費を抑制するよ
うになる。また、金利が低下するため、利子収入は大幅に減少する。一方、住宅ロー
ンの実質債務負担は増加し、家計に重荷となる。企業・家計ともにデフレ下では債務
6)
7)
8)
9)
日本不動産研究所「市街地価格指数」2000年=100
杉本和行(2010) p.25
岩田規久男(2010) pp.72-78
経済財政白書 p.62
- 205 -
年報 公共政策学
Vol. 5
負担は不利であり、既存債務はできる限り返済し、新規借入は抑制するため、消費・
投資が行われにくくなり、経済活動の規模は縮小しがちである。
政府は、景気安定化装置が機能するため、税収は大幅に減少する。1990年度に60兆
円あった国の一般会計税収は減税も手伝って2009年度には37兆円と約 6 割に激減して
いる。この税収の大幅減こそが財政赤字の最大の要因である一方、社会保障支出の趨
勢的増加に加え、景気が悪化するため経済対策を余儀なくされて歳出は拡大する。財
政は急速に悪化し、1990年代後半から国債発行額は2006、2007年度を除き30兆円を突
破している。
金融部門では、企業業績の悪化から不良債権が増大し、銀行の自己資本比率が低下
し、金融仲介機能に支障が生ずる10)。一方企業の資金需要は落ち込むため、金融部門
に蓄えられた資金が国債購入に向かっている。日銀の金融政策は、名目金利は下限に
張り付き、実質金利は高止まりして流動性の罠の状態であり、伝統的政策の有効性は
低下している。
海外部門では、通貨価値の上昇から円の相対的価値は上昇し、円高に向かう。円高
は輸出競争力を低下させるとともに、輸入品の価格低下につながり、さらにデフレを
促進させている。
このように、デフレ経済は非常に経済成長しにくい環境にあるうえに、財政に大き
な負担がかかる。わが国の場合、激減する税収を前に歳入改革を放置したため、財政
のストック赤字は、前述したように近年先進国が経験したことのない巨額なものとな
り、財政の持続可能性が低下している。
2.3 デフレと GDP の推移
GDP デフレーターがマイナスに転じた1994年度からの名目 GDP11)の需要面の動き
を追ってみる。
内需のうち最大のものは民間最終消費支出であり、GDP 全体の約 6 割を構成する。
1994年度の民間最終消費支出は、269.8兆円、2008年度は288.1兆円であり、この間の
伸びは6.8%である。年平均伸び率は0.6%であり、1980年代に年平均 6%の伸びで経済
成長の牽引役であったのに対し、10分の 1 へと大幅に落ち込んでいる。所得低下と雇用
不安により家計が衰弱しており、民間消費は長期間にわたってその影響を受けている。
次に民間設備投資・住宅投資を見ると、1994年度98.4兆円に対し、2008年度は93.1
兆円と絶対額で下回っている。1996年度に103.9兆円へとバブル崩壊前の水準まで回復
した後、IT バブル崩壊で80兆円台前半まで大きく落ち込んだ。いざなみ景気で盛り返
したが、1990年代後半の水準には戻っていない。輸出の拡大はあるものの、民間消費
10) 法專充男(2009) pp. 3 -32
11) 内閣府「平成20年度国民経済計算確報」国内総生産、支出側、名目
- 206 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
が低迷したことから、この間の設備投資の伸びは限定されたものになっている。
政府最終消費支出は、1994年度72.7兆円、2008年度93.6兆円であり、28.7%と大き
く伸びている。これは、高齢化を背景に社会保障の実物給付が増加したことによる。
民需不振の中で経済を牽引する一方、財源確保が追い付かず、社会保障の持続可能性
低下と政府債務の増大を招いている。また、社会保障給付以外の歳出はそのあおりで
抑制されており、後述するようにデフレに拍車をかけている。
公的総固定資本形成は1994年度39.4兆円から2008年度は19.6兆円と半減している。
1995年度の42.0兆円をピークに一貫して減少が続いており、公共事業削減方針は現政
権にも引き継がれている。
次に外需はどうであろうか。輸出は、1994年度は44.2兆円、2008年度は78.3兆円で
あり、77.1%の大幅増である。2008年度の数字はリーマンショックによる輸出の急激
な落ち込みを受けたものであり、その直前の2007年度は史上最高値の92.2兆円に達し
ている。わが国の輸出依存度(輸出額/GDP)は2000年頃から急上昇し、10%台から2007
年度には17.8%に至っている。これは、グローバル化の進展の中で、非正規雇用拡大、
成果主義賃金導入等により、人件費の抑制が進み製造業の国内回帰が進んだこと、日
米金利差を利用した円キャリートレード拡大により円安が続いたこと、米国の不動産
バブルを背景にした過剰消費の恩恵を受けたこと等によるものである12)。
まとめると、①デフレは企業収益低下を通じ家計を衰弱させ、民間消費の停滞を招
いていること②設備投資は実質金利の上昇とともに、民間消費が低調であることから
基調として弱いこと③民需の弱さから政府消費支出が経済を支える構図となっている
が、歳入不足から財政の持続可能性が大幅に低下していること④内需が弱いため企業
は輸出に活路を見出してその依存度が高まっていること、である。
2.4 デフレ下の景気拡大―いざなみ景気
直近のいざなみ景気は、内需が低調な状況の中で、輸出を伸ばすことで戦後最長の
景気拡大を実現した13)。図 3 のとおり2003年度から2007年度にかけては輸出の寄与度
が消費の寄与度を上回っている。わが国は、GDP に対する輸出の割合は低いが、GDP
成長率に対する輸出の寄与度は大きい。内需が恒常的に不振なため、景気が輸出に左
右される状況になっている。また、図 2 から分かるように、この間もデフレーターは
マイナスであり、デフレは継続している14)。
小泉政権の構造改革路線の下で、公的資金の注入により金融機関の不良債権処理を
促進し、これまで成長の足かせであった金融機関の金融仲介機能が回復した。さらに、
企業のリストラが進展し、債務・設備・雇用の過剰の解消が進んだ。特に、労働法制
12) 野口悠紀夫(2010) pp.2-8
13) 野口悠紀夫(2010) p.41
14) 法專充男(2006) p.78
- 207 -
年報 公共政策学
Vol. 5
が緩和されたことにより、景気変動によ
る雇用調整可能な非正規労働が拡大す
るとともに、成果主義賃金導入で正規労
働者の賃金も抑制された。輸出が伸びた
原因は先に述べたとおりである。景気拡
大 の 間 、 労 働 分 配 率 15 ) は 2003 年 度 の
71.6%から2007年度69.4%と低下する一
方、失業率は同期間で5.1%から3.8%へ
図3.GDP 寄与度の推移
と大幅に改善している。
(出典)
「平成20年度国民経済計算確報」
家計の状況を見ると、この間名目賃金
は低下しており16)、さらに非正規雇用拡大により雇用不安を抱えることになった。こ
のため、家計の実質消費支出の伸び17)は2007年を除きマイナスとなっている。消費水
準指数18)で見ても、2005年を100として2003年99.6に対し2007年98.9と低下している。
GDP の民間最終消費支出の伸びも年 1%にも届かず、戦後最長の景気拡大にも関わら
ず、成長の実感がなく消費が牽引する本格的な成長には至らなかった19)。図 3 から GDP
成長に対する民間消費の寄与度は1990年代から大幅に低下しており、消費が脆弱である
さまがみてとれる。すなわち、デフレゆえに輸出主導の成長にならざるを得ず、成長の
恩恵が家計に及ばなかったことで、消費が低調でデフレが残存したものと考えられる。
輸出依存経済の問題点は、為替レートはじめ海外の事情に左右され、不安定さを抱
えることである。特にデフレ下では、通貨価値は相対的に上昇し円高要因になり、輸
出競争力を低下させる。特に経済成長に対する外需寄与度の大きな経済にとっては打
撃となる20)。企業は海外生産にシフトし国内産業が空洞化し、これがさらに雇用不安
と所得低下を通じ家計に打撃を与える21)。したがって、わが国が安定成長を図るため
には、内需主導による経済成長が望まれる22)。
反面、人口減で国内マーケットが縮小する中で、輸出はグローバル化の追い風を受
けてさらなる伸びが期待される領域である。わが国 GDP の輸出依存度は20%に届かず、
欧州、アジア工業国と比べると未だ小さく、伸びる余地は大きい。欧州の富裕国は例
外なく高い輸出割合となっている。わが国の輸出品は先進国向けの高付加価値商品か
15) 財務省「法人企業統計年報」
16) 厚生労働省「毎月勤労統計調査」2003年度から2007年度、-0.9%、-0.3%、0.7%,0.1%、
-0.7%
17) 総務省統計局「家計調査」2003年度から2007年度、0%、0%、-0.6%、-1.6%、0.8%
18) 総務省統計局「家計調査」2 人以上世帯、世帯人員調整済み
19) 内橋克人(2009) pp.33-36
20) 永濱利廣他(2010) p.82
21) 宇沢・内橋(2009) pp.37-44
22) 野口悠紀夫(2010) pp.244-246
- 208 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
新興国向けの素材中間製品が中心となるため、さらなる技術革新を進めるとともに、
国内雇用を確保するため、アジアの生産ネットワークによる工程間分業を促進する必
要がある23)。
政策的インプリケーションとして、わが国としては、まずは内需主導で安定成長を
図るとともに、需給ギャップを埋めるため、外需である輸出も活用していくことが望
ましい。そのためにも FTA、EPA 推進等輸出環境整備は避けて通れない。
2.5 デフレの背景―世界的ディスインフレ
わが国はデフレに陥っているが、世界的にも同方向の動き、インフレ率の低下(ディ
スインフレ)が進行している。その要因24)の一つはグローバリゼーションであり、中国、
ロシアはじめとして新興国が世界の供給市場に登場し、貿易シェアは2008年で世界全体
の 4 割を超え、世界経済の牽引役となりつつある。特に中国の輸出額はドイツを抜いて
世界第 1 位であり、規格型商品を中心に世界標準価格化が進行している。貿易財につい
ては輸入品との競合を通じ国内価格も低下し、これにつれて非貿易財の国内賃金も影響
を受ける25)。また世界的に市場経済化が進行しており、価格競争が激しくなり、同質な
製品は競争により世界的に価格が低下していく傾向にある。さらに IT 技術の飛躍的発展
により、世界規模で情報アクセスが拡大し、世界調達、世界販売が可能になっている。
FTA、EPA 他経済統合も進むなかで貿易障壁は年々縮小し、物流コスト、物流利便が大
幅に向上しており、輸送に伴う距離・時間が商品に与えるマイナス面は飛躍的に低下し
てきている。
図 4 は、主要先進国(統合により連続性のないドイツは除く)の消費者物価の前年比を
表したものであるが、各国ともに
インフレ率が大幅に低下してきた
ことが見て取れる。このような世
界的なディスインフレ状況の中で
わが国のデフレは生じている。い
ずれも実体経済が要因であり、日
銀の金融政策では影響を緩和する
ことはできても、デフレ自体を根
本的に解消することは困難と考え
られる。
図4.ディスインフレ状況
(消費者物価推移比較、年度)
(出典)IMF「World Economic Outlook」
23) 木村福成(2010) pp.235-237
24) 法專充男(2006) p.75
25) 野口悠紀夫(2010) pp.38-39
- 209 -
年報 公共政策学
Vol. 5
2.6 わが国のデフレ要因
図 2 でみたように、近年趨勢的にデフレに陥っているのは、先進国ではわが国だけ
である。なぜわが国がインフレ率の低下を超えて、デフレにまで至ったのかを考察する。
まず一つは、図 5 にあるとおり、1980年代からわが国のインフレ率は先進国の中で
格別低かったこともあり、世界的なディスインフレ圧力を受け、水面下に低下したもの
と考えられる。
わが国の貿易構造をみると、中国からの輸入の総輸入及び国民所得に占める割合が
高く、輸入を通じた価格低下の影響が他の先進国以上に大きいと考えられる。また、
経済財政白書平成22年度版では新興国向けの輸出割合が他の先進国以上に高いことも
物価押し下げ要因として挙げている26)。
また、2000年代に入りわが国はその出生率の低さから人口が横ばいないし減少して
いる。これが国内人口の増加する米国、イギリス、フランスと異なり、恒常的な需給
ギャップをもたらし27)、インフレ率をさらに低下させていると考えられる。
加えて言えば、わが国の物価水準は相当程度下がってきた感はあるが、いまだに世
界の物価比較28)によると、東京、大阪の生活物価水準は世界主要都市中2.3位と上位に
ランクされている。法專(2009)では元来高い物価水準に対しより強い物価低下圧力が
生じ、わが国のデフレは割高な物価水準が国際的水準に鞘寄せされる過程とみている。
これら以上に大きいのは、2.3で述べた GDP の需要面の動きからすると、恒常的な
家計の消費需要の弱さが需給ギャップを生み出し、わが国のデフレ構造を形作ってい
るとみられることである。
3. 弱い消費需要
3.1 消費と貯蓄
次に消費の不振原因を考察する。
消費=所得―貯蓄
消費は所得から貯蓄を引いて求められるので、所得を所与とすると貯蓄如何により
消費は左右され29)、逆に貯蓄を所与とすると消費は所得に依存することになる。実際
には以下のように消費性向が変動していることから、ある程度貯蓄の影響を受け消費
が左右されているとみるのが合理的である。また、収入が減れば、これまでの消費水
準を維持するため、貯蓄を減らすなり、取り崩すこともありうる。
家計調査30)によると、わが国の平均消費性向は、1980年78%、1990年75%、2000年
26)
27)
28)
29)
30)
経済財政白書平成22年度版 p.75
経済財政白書平成22年度版 p.57
米国の人材コンサルタント、マーサー社の世界主要都市物価比較2008
櫨 浩一(2006) p.34
総務省統計局「家計調査平成21年」
- 210 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
72%、2008年末71%と緩やかに低下し
ている。貯蓄残高31)は1980年579万円、
1990年 1353万 円、 2000年 1781万 円と
1980年代から年収の増加を追い風にそ
れを上回る率で大幅に伸びてきている。
図 5 にみられるように、1990年代後
半からは年収が低下しているにもかか
わらず、貯蓄残高は2000年まで伸び続
け、さらに貯蓄年収比は2005年まで上
昇し続けていることから、負の所得効
果を上回る相当の貯蓄圧力が加わって
いることがわかる。近年の貯蓄残高、
貯蓄年収比は、1980年、1990年頃と比
図5.貯蓄残高と年収
較するとはるかに高く、1980年の 3 倍
(出典)総務省統計局「家計調査」
近く、1990年の 2 割増の高水準にある。
これは、収入が低下する中で貯蓄を確保し、消費を抑制してきたことを表しており、
その結果が、消費不振による経済停滞と賃金低下による家計の収入減少を招いたと考
えられる。
最近は年収の減少を受けて貯蓄残高が減少しつつあるが、このことは消費が増加し
たことを意味しない。所得要因による貯蓄減であり、消費性向そのものはむしろ低下
している。収入が落ちたことにより貯蓄余力が低下するとともに、貯蓄取り崩しが増
加し、結果として貯蓄残高が減っているのである。
3.2 過剰な貯蓄―純金融資産の国際比較
次に、貯蓄残高の水準を他の主要先進国の貯蓄動向とも比較してみる必要がある。
わが国の個人金融資産を日銀の資金循環統計32)でみると、2010年 3 月末で1453兆円、
負債を除いた純金融資産で1079兆円である。これを一人当たりに単純に換算すると846
万円となる。他国の純金融資産33)も円換算すると、米国811万円、イギリス454万円、
ドイツ444万円、フランス472万円34)であり、わが国は一人当たり純金融資産が主要先
進国中最大であり、欧州諸国と比べると2倍近い高水準であることがわかる。これらの
諸国の一人当たり国民総所得35)は日本4.0万ドルに対し、米国4.6万ドル、英国4.4万ド
31)
32)
33)
34)
35)
2 人以上の世帯の貯蓄の推移「平成21年貯蓄負債の概況」p.35
日銀「資金循環統計2010年 3 月末速報」
他国は2008年ベース
永濱利廣他(2010) p.99
国連データベース National Accounts Main Aggregates2010
- 211 -
年報 公共政策学
Vol. 5
ル、ドイツ4.5万ドル、フランス4.5万ドルであり、わが国より一割以上高いことを勘
案すると、所得の割にわが国が明らかに多額の金融資産を蓄積していることが見てと
れる36)。このことは、わが国は他国と比べ貯蓄に回った分消費がなされてこなかった
ことを意味している。
すなわち、この過剰とも言える金融資産の蓄積が民間消費を抑制して、需給ギャッ
プを形成し、デフレを生み出している大きな要因と考えられる。一人当たり国民総所
得が大きい欧州諸国は、社会保障の充実等により個人レベルで貯蓄する必要性が低く、
消費に資金が回っており、デフレに至っていないものとみられる。OECD の統計37)に
よると、社会保護分野(雇用保険、老齢年金、疾病給付)の対 GDP 比率は、2006年で日
本12.2%に対し、イギリス15.9%、ドイツ21.2%、フランス22.3%とわが国の低さが
目立っている。わが国の高齢化がこれらの諸国より進んでいることを考慮すると、老
後の安心感において相当程度の差があり、貯蓄保有する動機に影響を与えているとみ
られる。以下、貯蓄保有動機を考察する。
3.3 貯蓄の動機―将来不安
所得対比の過剰な金融資産が温存される理由を考察する38)。
その際、家計の消費活動が企業の生産、投資活動に影響を与えているとの立場に立
つので、企業活動の停滞による雇用、所得に対する不安は、家計の消費活動の結果で
あり原因とは考えないものとする。
先行研究である NIRA「家計に眠る過剰貯蓄」(2008)において、貯蓄要因を①病気
長生き等の将来不安②公的年金への不信、知識不足③財政への不安(増税懸念)④家計
のリスク回避等を挙げ分析しているが、本稿では政策に起因するもの、特に財政上の
インプリケーションに繋がるもの(金銭的問題)を検討する。
日銀の「家計の金融資産に関する世論調査」39)によると、国民の貯蓄動機の最大の
ものは老後生活に対する金銭的不安である。不安を感じる家庭は全体の 8 割あり、し
かも60歳未満の稼働世代では 9 割に達している。不安な理由は、貯蓄がいまだ不十分、
年金が不十分との答えがそれぞれ 7 割(複数回答)と圧倒的に高い。この調査結果から、
国民は将来のフローの可処分所得低下を懸念して貯蓄しているものと考えられる。(不
意の出費への必要貯蓄は一定であり、政策に影響を受けないと仮定する。)
将来の可処分所得は、所得を所与とすると税・社会保険料等の負担と年金等の給付
に左右される。しかるにわが国の財政悪化は著しく、巨大な政府長期債務残高862兆円
は、将来必ず国民が利子分を加えて負担することになる。単純に人口で割っても一人
36)
37)
38)
39)
NIRA「家計に眠る過剰貯蓄」(2008)pp.1-5
OECD(2009)『図表でみる世界の行政改革』p.55
NIRA 研究報告書「家計に眠る過剰貯蓄」(2008)第 3 章
金融広報中央委員会「家計の金融資産に関する世論調査」(平成18年)p. 7、p.15
- 212 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
当たり675万円になるが、今後人口が減少するとともに高齢化が進行し、稼働世代が著
しく減ることから、将来の実質負担はこれよりさらに重い。
また、持続可能性のない社会保障制度は、将来の給付に対する不安をもたらしてい
る。将来の可処分所得不足分が不明な状況においては、必要な貯蓄額がわからず、国
民は安心して消費できない。
3.4 貯蓄資金の流れとその弊害
将来の追加的な負担により可処分所得の減少が予測される下では、現在の消費を抑
制することで貯蓄を確保し、これに備えることになる。また、将来の給付が減少ない
し期待できない状況においても、同様のことが起こる。
貯蓄資金の性格も必ず来たる負担増、給付減への備えであることから、大きなリス
クは取れず、安全資産として現預金保有が中心となる。デフレ下で企業の資金需要が
弱いので、金融機関に預けられた預金の相当部分が国債等政府債務のファイナンスに
向かっている。
こうした資金の流れがわが国経済の低成長と膨張する政府債務という本稿で講ずる
問題をもたらしている。国民の資金が将来の可処分所得不安から消費に向かわず貯蓄
され、これが高水準で温存されているため、民間消費支出は停滞し、需給ギャップを
生み出しデフレに陥っている。このため内需面から企業の活動は停滞し、生産・投資
を抑制するため、コスト削減効果から企業部門には資金余剰が生じている。わが国が
本格的なデフレに陥った1990年
代半ばから企業は資金余剰主体
となっている40)。国債は今のとこ
ろ潤沢な家計・企業の金融資産で
消化されるので、クラウディング
アウトは発生せず、国債金利は上
昇していない。経済活動が停滞し
て税収が大幅減となる中で、歳入
手段としての国債発行に歯止め
が利かなくなっているという構
図である。
図6.部門別資金過不足の推移
(出典)日銀資本循環統計、国民経済計算
3.5 デフレからの脱却-政策的インプリケーション
この資金の流れを転換しない限りデフレ脱却は困難である。どうしたらよいであろうか。
民間貯蓄を消費に向かわせるためには、将来の可処分所得に関する不安を軽減する
40) 日銀資金循環統計
- 213 -
年報 公共政策学
Vol. 5
ことが必要になる。将来不安は将来の負担の増大と給付の減少懸念に由来する。した
がって将来負担の増大を防止・縮小していくため、国債発行額を抑制し、その残高を
膨らませないことが必要になる。まずはプライマリーバランスを確保するようにしな
ければならない。短期的に景気を下押しするが、資金の流れを変えることにより経済
のトレンドが変わり(デフレ解消)、中長期的に経済成長にはプラスとなる。
わが国の場合、長らく負担を先送りしながら財政支出拡大を続けてきたが、これが
将来不安による消費低迷からデフレを生み、著しい低成長と債務残高の膨張につなが
っている。
〈国債発行による財政支出は現在の消費を抑制し経済的に中立である〉とい
うリカードの中立命題が相当程度に当てはまっていると考えられる。今後は、財政の
健全化を進めることにより、将来負担、将来不安の軽減に努める必要がある。足元の
景気下押し効果にこだわり、負担先送りを続ける限り、デフレトレンドからの脱却は
困難である。
特に消費が期待できるのは、高い貯蓄率を維持している稼働世代半ばの勤労者と金
融資産の大半を保有する富裕高齢者(勤労者含む)である。これらの者の不安感を払拭
しない限り、消費の活性化は困難である。社会保障の持続可能性については、将来の
給付の姿とそれに見合う持続可能な現在負担を示すことが必要である。その際現在の
負担は、当然先送りすることなく対応しなければならない。
4. 財政の持続可能性
4.1 貯蓄率の低下
国内資金による国債の安定的消化は長期的にも可能であろうか。
高齢化により GDP ベースで家計貯蓄率は低下しつつあり、今後国債消化は困難にな
っていくと予想される。高齢者の7割は無職で定例収入がなく、生活は年金に依存して
いる。無職世帯は、貯蓄取り崩しのため貯蓄率はマイナスであり、高齢化に伴い無職
世帯分のマイナス幅は年々拡大している。また、労働力人口比率と家計貯蓄率はほぼ
正の相関関係にあることから41)、労働力人口比率の低下に併せて家計貯蓄率全体も低
下する。
家計貯蓄率 42) は1981年17.5%であり、主要先進国で最も高かったが、2008年では
2.3%まで低下し、ドイツ11.2%、フランス11.8%に遠く及ばない。
なお、
〈高齢化が貯蓄率の低下を通じ消費を拡大する〉との誤解がないように説明する。
このフローの家計貯蓄率の低下は、高齢者世代の定例収入減少に伴う貯蓄取り崩し
によるものである。貯蓄残高のところで述べたように、従来の消費水準を維持しよう
と取り崩すのであり、消費を増やすものではない。貯蓄率が図 7 のように大きく低下
41) NIRA 研究報告書「家計に眠る過剰貯蓄」(2008) p. 3
42) 日本は内閣府「平成20年度国民経済計算確報」による
ドイツ、フランスは OECD「Economic Outlook 2010」
- 214 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
したからと言って、民間消費は
ほとんど伸びていない。
一方、稼働世代の貯蓄率は将
来不安から依然高止まりした
ままであり、このことは世帯主
の年齢別貯蓄率を示す「家計調
査」の黒字率(貯蓄額/可処分所
得)から明らかである43)。この
指標では、30歳代後半をピーク
図7.家計貯蓄率の推移比較
に稼働世代は20%台の高い貯
蓄率を維持している。
(出典)
「平成20年国民経済計算確報」、OECD「Economic Outlook」
ドイツ、フランスにおいても
わが国同様高齢化は進行しているものの(ドイツ2008年20.4%、フランス2010年
16.8%)家計貯蓄率に大きな変動はない。これに対しわが国は高齢化の影響をまともに
受け、家計貯蓄率が大きく低下している。これは年金等に不足を感じ、高齢化による定
例収入の減少が即貯蓄取り崩しにつながるわが国家計の構造によるものと考えられる。
格付け機関44)は、わが国の貯蓄率の低下を懸念しており、もはや日本の政府債務は
持続可能性を喪失していると警告している。
国内消化が困難となれば、海外の資金に頼らざるを得ないが、その場合は当然なが
らわが国の財政状況、返済可能性が問われることになる。現在の主要先進国中最低の
格付け(S&P、AA-)からして、長期国債が 1%程度という現在のような低金利で済むわ
けはない。国債金利が高騰することになれば、長期金利が上昇し企業活動が一層停滞
し、わが国経済に大きな打撃となる。また、海外資金に依存すると短期の資金移動の
脅威にさらされることになり、金利が変化しやすく、経済がより不安定なものとなる
ことも覚悟しなければならない。したがって、国内消化能力の低下に合わせて、早急
に財政健全化を進め、国債発行額を減らしていく必要がある。
4.2 財政破綻
ここで財政破綻について整理してみる。企業において破綻(bankruptcy)とは経営が行
き詰まり立ちいかなる状態をいう。形式的には、破産、生産、会社整理、会社更生等
である。つまり、債務の支払いができなくなること、デフォルトである。国債であっ
てもデフォルトはありうるし、2002年のアルゼンチンのデフォルトは記憶に新しいと
ころである。
43) 櫨 浩一(2006) pp.12-15
44) FITCH プレスリリース、2010年 6 月30日
- 215 -
年報 公共政策学
Vol. 5
わが国の場合、国債の保
有者は95%国内投資家であ
り、大半が金融機関のほか
政府、日銀等公共機関が保
有している 45) 。この状態で
デフォルトを行うと、ほと
んどすべての金融機関の経
営悪化、破綻懸念につなが
り、金融システムが崩壊す
る危険がある。民間企業向
け不良債権によるシステミ
図8.名目金利と名目成長率
(出典)国民経済計算確報、財務省資料より作成
ックリスクすら銀行救済し
ている経緯からしても、当然公的資金による救済がなされることになる。政府・日銀
の保有に関しては、国が補填することになるので言わずもがなである。結論として、
わが国の国債保有構造からしてデフォルトは取りえない選択になる。地方債も総務省
の言うように地方交付税で手当てすることになると、国債と同様である。
デフォルトが取りえないことは、返済可能性が喪失しないことを意味するものでは
ない。返済可能性が喪失するかどうかは国債残高が発散するか、収束するかで決まり、
これが政府債務の持続可能性である。国債残高の発散、収束を決めるのは、ドーマー
条件であり、名目金利と名目成長率の関係による。プライマリーバランスを確保して
も、
名目金利>名目成長率
なら国債残高の GDP 比は発散してしまう。
わが国の場合、他の先進国同様、図 8 に示されるように、1990年代の金利自由化後
は名目金利は名目成長率を常に上回っている46)。ドーマー条件が満たされていない47)
ことから、名目金利の高騰を招くと国債残高は発散し、財政破綻に陥る。逆に言えば、
財政破綻は金利の上昇で発現することになる。
4.3 国債金利の見通し
現在わが国の国債金利は、その財政状態にもかかわらず先進国中最低の水準にある。
日本国債は現在のところ購入者にリスクフリー資産とみなされたうえで、株・外債等
代替資産との短期的な比較から生じているものである。長期的なわが国の信用が評価
されているわけではない。財政・経済状態次第で返済に懸念が生じれば、いつ信用リ
45) 日銀「資金循環統計2009」
46) 法專充男(2006) pp.25-26
47) 岩田規久男(2010) pp.198-199
- 216 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
スクによる金利上昇が起きても不思議ではない。
金利上昇の可能性はどうであろうか
国債の低金利を支えてきた環境は以下のように年々悪化している。
・政府債務残高の GDP 比は拡大を続け、前述したように2010年度末には、1.8倍と
主要先進国が近年経験したことがない未知の水準に達する。
・一般政府総債務の家計純金融資産比も2008年度は91.4%48)まで上昇してきている。
政府債務を吸収する国内資金に余裕がなくなっている。
・GDP ベースで家計貯蓄率は前述したように、2008年に2.3%まで低下している。
国内資金としては企業の資金余剰はあるが、国債を企業の資金余剰で吸収しなけ
ればならないようでは、いよいよ経済成長は困難である。
現在国債金利は 1%内外で推移しているが、わずかの上昇であっても財政に与える
影響は大きく、格付け機関の評価も含めその動きは常時注意して見ていく必要がある。
5. 財政・社会保障負担
5.1 財政・社会保障の健全化と経済成長
1998年の橋本行革の失敗に懲りてわが国はこれまで負担を先送りしてきた。財政・
社会保障の健全化を図るため、税負担・社会保険料負担が増加することは、経済成長
を阻害するであろうか。
税負担・社会保険料負担を先送りして国債で資金調達することが、将来不安から消
費を抑制して経済成長を妨げていること、すなわちリカードの中立命題が当てはまっ
ているとの立場からすると、適時適切な負担が経済成長を阻害することにはならない。
成長の足かせとなっている根強いデフレから脱却するためには、将来不安を和らげる
必要があり、いずれ避けられない負担であるなら先送りしないことが必要である。そ
の前提として、負担に見合う現在の支出が適正であるか精査することは当然である。
5.2 低い国民負担水準
現在の国民負担は経済成長を阻害するほど絶対水準において高いのか検証してみる。
わが国の国民負担率49)を主要先進国と比較してみると、国民皆医療保険がなく国民負
担のうちの社会保障負担率が著しく低い米国50)を除き最低レベルである。
日本39%、米国35%、イギリス48%、ドイツ52%、フランス61%
であり、欧州諸国とは大きな差がある。このような低い国民負担率では、いかに事
業仕訳等で無駄を削減したところで、プライマリーバランスの確保は不可能である。
国民負担が小さければ成長するのなら、わが国はこれら欧州諸国より高い成長を実現
48) 財務省「わが国の財政事情」p.21、主要国における一般政府総債務/家計金融純資産2008年
49) 国民負担率=租税負担率+社会保障負担率、日本は2010年度見通し、諸外国は2007年実績
50) 米国の社会保障負担率8.5%(2007年実績)、日本17.5%
- 217 -
年報 公共政策学
Vol. 5
しているはずである。国民負担率を適正水準に引き上げることで経済成長が困難にな
るわけではない。
一方、国民負担率に財政赤字の国民所得比を加えた潜在的国民負担率51)は、わが国
は2010年度見通しで52.3%に達しており、イギリス51.7%、ドイツ52.6%とほぼ同水
準である。わが国の負担先送りは著しく、このようになすべき国民負担をしないこと
で、その代償として将来が不安となり成長できない状態に陥っていると考えられる。
先送りした負担は利子をつけて国民が払うことになる。国債金利は名目上低いもの
の、巨額の残高から国の一般会計利払い費だけでも2010年度は約9.8兆円に上り、一般
会計税収37兆円の 4 分の 1 に相当する。国債金利は 1%内外であっても、普通預金金利
0.04%、定期預金金利 3 年0.06%程度と比べ決して低いとは言えない。デフレを勘案
した実質金利はさらに高く、金利負担は重くわが国経済にのしかかっている52)。国民
の将来不安、生活防衛、消費抑制を招くのは避けられない。
諸外国との比較から見ても、利子負担の重さから見ても、適切な負担が経済成長を阻害
するものではなく、先の見えない負担先送りこそ経済成長を阻害していると言えよう。
5.3 歳出削減のデフレ効果
わが国は長年にわたり、足元の国民の負担増を忌避するあまり、歳入改革を放置し
負担の先送りを続けてきたが、これが需給ギャップ、デフレをもたらしており、経済
の著しい停滞の一因となっている。一方、財政は極めて厳しい状況にあり、これ以上
の財政悪化を防ぐため政府は歳出を抑制せざるを得なくなっている。年金・医療等の
社会保障支出は制度的経費であり高齢化により自然増で増えていくため、否応なく他
の経費を圧縮することになる。特別会計も含め一般政府支出の無駄を省くことは当然
であるが、無駄を超えて歳出を一方的に削減するとなると、経済に与えるデフレ効果
は無視できない。特に人件費と調達を抑制することは弊害が大きい。
民間給与の変動率を超えて公務員給与を引き下げるとなると、地方自治体、大学、
病院、研究機関等の独立行政法人はじめ、種々の公的機関の給与がそれに応じて下が
ることになろう。また、公務員給与を参考にしている民間企業等にも市場実勢を超え
た追加的な給与引き下げ圧力が加わる。そのため雇用者報酬低下を受け、民間消費が
一層低迷し、わが国経済にデフレ圧力が加わる。いざなみ景気が戦後最長の景気拡大
にかかわらず、給与の上昇を伴わなかったため民間消費に波及せず、実感のない弱い
成長にとどまったことからも、給与収入減少の影響は大きいと言える。
政府関係調達に関しては、できるかぎり一般競争入札による効率化を図ることは当
然であるが、予算を一律削減する場合には財・サービスの単価引下げにつながり、デ
51) 日本は2010年度見通し、外国は2007年実績
52) 経済財政白書平成22年版 p.62
- 218 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
フレを促進する。民間消費が弱い経済環境のもとで、業者はこれに対応せざるを得ず、
さらに下請等関連企業への価格低下を促し、デフレが深化していく。
公的機関が、人件費 1%、物件費 3%といった歳出削減を毎年続ける場合、わが国か
デフレから脱却するのは困難である。わが国において中央政府、地方政府、社会補償
基金を加えた一般政府支出の GDP に占めるウェートは、他の先進国と比べると低いと
はいっても、約 4 割弱の水準に達する。最大の経済主体である政府部門がデフレを促
進してしまっているところにわが国のジレンマがある。負担の先送りをやめ財政の健
全化を図らない限り、この状況から脱することはできない。
6. 小さな政府
6.1 政府と市場
公的資源配分は非効率であるとの認識から、大きな政府は忌避される一方、リーマ
ンショック以来市場経済に過度に依存した新自由主義に対しても厳しい批判が寄せら
れている。資源配分の中心は市場であることに疑いはないものの、市場が完全である
わけではない。公共財、外部性、独占等の「市場の失敗」53)のほか、そもそも情報の
非対称性があり、市場は不完全な存在である。市場は自然に成立するものでなく、構
築され、かつ管理されなければならない。また私企業が国民にとって、やるべきこと
をやる保証もない54)。私企業は市場の中で、採算の取れる限られたことだけを行うも
のであり、それ以外は新しい公共を巻き込むなりして政府の責任で確保する必要がある。
政府部門がその公共性ゆえに、公平性、適正性、形式性を重んじるため、効率性に
おいて民間部門に劣ることは事実であるが、上で述べたことから市場に委ねてうまく
いくとは限らない。例えば、わが国では貯蓄資金の性格から、民間においてリスクマ
ネーが不足しているが、リスクマネーはイノベーションを促し経済全体の成長に寄与
することから、政府がリスクマネーを供給するのが理にかなっている。
6.2 小さな政府規模、政府雇用
財政負担を低下させるとともに、経済の効率性を高めるために、政府支出を削減し
政府雇用を減らすべきであろうか。そもそもわが国は大きな政府なのか。公務員等政
府雇用者は多すぎるのか。
諸外国との比較で考えてみたい。
まず、政府の支出規模の大きさを示す「一般政府支出の GDP 比」と国民が受けるサ
ービス水準である「国民一人当たり政府支出」を他の主要先進国と比較する。
(ここで言う一般政府には、中央、地方政府のほか社会保障基金が含まれる。)
53) 伊藤隆敏・八代尚宏(2009) pp.4-6
54) ジョセフ・スティグリッツ(2006) p.77
- 219 -
年報 公共政策学
Vol. 5
図9.一般政府支出の GDP 比(2006年) 図10.国民 1 人当たり政府支出(2006年)
(出典)2006
OECD National Account
(出典)2006
OECD National Account
図 9、図10で明らかなように、政府の支出規模においても国民が受益しているサー
ビスにおいても、わが国は主要先進国の中では最も小さな政府となっている。
次に、公務員数の大小を示す「政府雇用の労働力人口比率」と公務員人件費のウェ
ートを示す「政府雇用者報酬 GDP 比」を他の主要先進国と比較する。
(ここで言う政府雇用は、中央政府、地方政府、社会保障基金を包括し、政府によっ
てコントロールされたエージェンシー、非営利主体を含んだ数字である。
)
わが国においては、行政改革の柱として、一貫して公務員数及びその人件費の削減
を続けてきた。公務員の絶対数が多く、その人件費が財政的負担となっていることが
根拠であるが、図11、図12を見る限り、政府雇用者数もその人件費もむしろ他の先進
国と比べて著しく少ない55)のがわが国の特徴である。
わが国の 2 つの問題点、著しい低成長と巨大な政府債務残高は、少なくとも政府支
図11.政府雇用の労働力人口比率(2005年) 図12.政府雇用者報酬 GDP 比(2007年)
(出典)The State of Public Service OECD
(出典)The State of Public Service OECD
55) 井堀利宏(2008)pp80-81
- 220 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
出規模や政府雇用者数が原因ではない。他の主要先進国は政府規模も大きく、政府雇
用者数ははるかに多いにもかかわらず、わが国より成長率は高く、一人あたりの GDP
水準も高いうえに、政府債務残高 GDP 比は小さい。むしろわが国の厳しい財政事情に
起因する小さな政府が低成長と財政悪化に関係しているとみるのが自然であろう。小
さな政府においては、負担面が強調されるゆえ負担は先送りされるとともに、国民に
安全・安心・安定を提供できずに、潜在的な成長活力を生かし切れていないのではな
かろうか。
6.3 公的支出と経済成長
今後成長が期待される分野を考えてみる。需要のないところに投資をして供給を整
備してもうまくいかないことは、リゾート法の失敗、テクノパークの造成、維持困難
な地方港湾・地方空港等で経験済みである。今後、潜在需要の存在する分野に注目す
る必要がある。
わが国の内需に関する限り、高齢化と人口減少が続くため消費財に大きな需要は期
待できない。2010年現在23.1%の高齢化率56)は2030年には31.8%に達する一方、人口
は1000万人以上減少する見込み57)である。労働力人口における女性の割合は年々上昇
しており、男性雇用者は減少するが、女性雇用者数は増えていくと見込まれる。
高齢化の進行と女性の社会進出の高まりの中で、介護、医療、福祉、保育といった
分野においては常に大きな潜在需要が生じている。これらは人的サービスであるとと
もに、社会保障分野でもあり、政府の関与、公的支出等によって支えられている。市
場経済に任せるだけでは、貧富の差によってサービスの受益に大きな差が生じ、公正
の観点から好ましくないからである。また、公的な配分であるが故に財政負担、保険
料負担、利用者負担いずれも抑制58)する力が働き、サービス提供者の料金や報酬が低
く抑えられ、需要に見合った供給がなされない状況にある59)。このため、常に需要超
過、供給不足に陥っており、製造業分野で、市場が縮小し供給過剰、需要不足となっ
ているのと対照的である。
これらの分野は、ある程度公的支出を引き上げることで、供給を促すことは可能で
ある。公的支出は納税者、社会保険加入者の負担にはなるが、有効需要を創出実現で
きることに注目すべきである。供給体制が整備され潜在需要を生かすことができれば、
雇用、所得をうみだし、経済成長につながる。育児、介護等で家庭に縛られていた女
性の就業をさらに促進し、労働力人口を増加させ潜在成長力を高めることができる。
従事者の給与所得、事業者の法人所得が増加し、税収増を通じ財政の健全化にも資す
56)
57)
58)
59)
総務省統計局「人口推計」2010年11月概算値、65歳以上人口比率
国立社会保障・人口問題研究所2006年12月「日本の将来推計人口」中位推計
井堀利宏(2008) pp.109-115
野口悠紀夫(2010) pp.251-262
- 221 -
年報 公共政策学
Vol. 5
る。また、子育て支援により出生率が上昇すれば、諸制度の持続可能性も回復する。
公的支出そのものは長期にわたり実質 GDP を押し上げる効果がある60)が、生産波及
効果、雇用創出効果の大きいものでなければ、経済政策としての有効性は乏しい。こ
の点、財団法人医療経済研究機構「医療と福祉の産業連関に関する分析研究報告書」
(2004)によると、社会保障分野の生産波及効果は全産業平均より高く、公共事業を上
回っている。また、介護、福祉を中心に、労働集約的であることから、全産業中もっ
とも雇用誘発効果は高い61)とされている。
現実に社会保障分野の就業者数は年々伸びており、介護福祉分野では2000年から
2005年で158万人増、医療分野では2000年から2006年で23万人増となっている62)。
したがって、医療、介護、福祉、保育といった社会保障分野は、今後内需型産業の
中核として育成していくことが求められる。政府の役割の縮小を求める「小さな政府」
では、この潜在需要を生かすことはできず、経済成長の機会を逸してしまう。また、
政府の役割として、これらの分野の規制緩和等を進め、市場を通じ資本、労働等の生
産資源が円滑に移動されるような環境整備が必要である。
6.4 選択の自由と経済成長
新自由主義によれば、市場を通じた個人の自由な選択こそが、経済の成長と安定を
もたらすと考えられている63)。政府の役割を防衛、外交、治安維持等に限定する夜警
国家が典型であるが、先に述べた市場の不完全さを考えると、市場が飛躍的に拡大、
複雑化した21世紀の現代においてもはやこのような国家は幻想でしかない。また、国の
在り方、政府の役割は主権者である国民が決めるべきでものであり、現実に国民が政府
に求めているのは、政府の役割を小さくして市場のなすがままに任せることではなく、
景気保つこと、社会保障を充実することである。実際、政府支出の中心は先進国におい
ては、防衛、公共の安全・秩序維持などの社会全体の便益になる「集合財」から、社会
サービス、保険、教育などの個々の国民の便益になる「個別財」に移ってきている。
政府支出の割合が極めて高い北欧諸国が高い成長率と豊かな生活水準を維持してい
る背景は、高齢化が進み成熟した社会においては、個人の自由な選択よりも、政府を
通じた個別財支出により個人の便益を図る方が、効率的かつ合理的と考えられている
からではないか。徹底した自己責任と個人の「選択の自由」の下では、将来不安から
個人の所得は貯蓄に回り消費は抑制され、経済は停滞してしまう。グローバル化によ
り供給面の不安が大幅に低下した先進国経済においては、成長のための貯蓄不足は従
来のように心配するには及ばない。特にわが国においては、先に述べたとおり民間は
60)
61)
62)
63)
小川英治他(2010) p.121
厚生労働白書平成20年 pp.8-29
厚生労働白書平成20年 pp.30-31
ミルトン・フリードマン(2008) pp.23-60
- 222 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
資金余剰状態であり、成長のための資金確保より、成長のための資金需要を促す必要
がある。結局は、個人のための支出を個人の選択にゆだねるか、政府を通じ提供する
かの問題である。そのためには、
〈政府支出は個人のためであり、国民負担も個人のた
めである〉という北欧のような政府に対する信頼が欠かせない。
しかるに、わが国においては「官から民へ」のスローガンの下、負担の先送りを続
ける中で民営化はじめ政府の責任範囲の縮小が行われてきた64)。この背後には、受益
は結構だが負担は免れたいというエゴイズムがあり、これが新自由主義に基づく「小
さな政府」と結びついたところに問題がある。この結果、負担先送りから将来不安は
増大し消費の低迷をもたらし、本来意図した経済成長が果たせなくなっている。また、
低成長ゆえに税収は減少し、先送りした政府債務残高は未曾有な水準に膨らんでいる。
消えた年金、所在不明高齢者、児童の虐待放置といった昨今の社会問題も、政府の役
割縮小、政府雇用の削減に由来する側面もあろう。
6.5 社会環境変化と小さな政府
人口減、高齢化で地域力が低下しているところに、自己責任、自助努力を求めるの
は無理がある。防災、福祉も消防団、民生委員などの高齢化で人員確保が困難となり、
実効性の低下は避けられない。自立した個人に基盤を置く新自由主義の広がりの中で、
家族・共同体は希薄化しているが、かといって家父長制等の伝統的結びつきの復活は
もはや時代遅れであろう。政府が中心となり、NPO、社会的企業、ボランティア等多
様な主体を巻き込んで従来の地縁血縁等の絆に代わる新たなシステム65)を構築する必
要がある。
こうした状況を顧みず、なお政府の役割の縮小を求める「小さな政府」はもはや幻想
であり弊害でしかない。他国を見て明らかなように、高齢化を迎える先進国には取りえ
ない選択であり、とりわけ高齢化の進展が最も顕著なわが国においては更に無理がある。
わが国は OECD の数値に見られるように、これまで米国に倣い小さな政府を志向性
してきた。しかし米国とわが国では、社会環境において大きな差異がある。まず高齢
化の程度が、わが国23.1%であるのに対し、米国は12.6%66)と主要先進国中最も低い。
出生率67)は、わが国1.37(2009年)であるのに対し、米国は2.12(2007年)と主要先進国
中最高であり、わが国が今後50年で人口が約 3 割減少する人口減少社会であるのに、
米国はいまだに人口が増え続ける若い社会である。また、米国は移民国家であること
から、建国以来自己責任・自助努力の根強い伝統がある。高齢化による社会保障コス
トや国民の国家観を無視して米国に追随する「小さな政府」路線は現実離れしている。
64)
65)
66)
67)
友寄英隆(2006) pp.35-37
財務総合政策研究所(2010)「経済社会の基調的な変化」報告書 pp.11-13
国連「世界人口年鑑2007」
合計特殊出生率 OECD Factbook 2010
- 223 -
年報 公共政策学
Vol. 5
わが国の社会環境に適合しないだけでなく、国民に不安を与え、経済を停滞させる原
因となっていると考えられる。
7. 終わりに
本稿の問題意識であるわが国の低成長と巨大な政府債務残高は、消費低迷によりデフレ
を深化させた負担の先送りと無理な「小さな政府」から生じたものと結論づけられる。
将来の負担見込みから、足元の消費にブレーキがかかり、恒常的需要不足が生じ、わ
が国経済は根強いデフレに陥っている。デフレは企業活動を停滞させ、家計所得の低下
と雇用不安で家計を衰弱させ、さらに消費が停滞するという悪循環を生み出している。
一方、政府債務残高の問題に関しては、歳出の過大な膨張というよりは税収の大幅
低下が原因である。一般会計に限ってみても、税収は1990年度に60兆円あったものが、
2009年度は 6 割の37兆円にまで減少している。高齢化により社会保障費の増加がある
程度避けられない中で、このような大幅な落ち込みは他の歳出で調整できるものでは
なく、また無理な調整はさらにデフレを悪化させる。この税収低下の原因は、経済の
著しい低成長、度重なる減税、景気に左右される脆弱な税体系にある。歳出増が避け
られない以上、よほどの成長がない限りプライマリーバランス確保すら困難であるこ
とから、本来は税制改革によるネット増税が必要である。それにもかかわらず、減税
によって経済が成長し税収が増加するとの幻想や無駄削減・埋蔵金活用で増税が避け
られるとの楽観的見通しに惑わされてきたことが問題である。歳出見直しそのものは、
無駄を省き歳出の効率化を図る観点から必要ではあるが、これによって税収確保が不
要になるわけではない。また、経済成長を図らない限り、税制改革だけで財政を健全
化することは困難である。さらに、今後不可避的に増加する社会保障財源を賄うため
には、消費税のような経済動向に左右されない安定した財源が必要である。
経済成長には、長期的な観点から潜在成長率を高めるサプライサイドの政策も重要
ではあるが、デフレ下のわが国に求められているのは、隠れた需要を表に出すことで
ある。社会保障を持続可能なものに再構築するとともに、この分野で雇用と生産を生
み出すことが期待される。幸い、わが国には、主要先進国中最大規模の一人当たり個
人金融資産が存在する。しかも、その大半は富裕な高齢者が保有しており、これを活
用しサービス消費に向かわせることができれば、ある程度の高い成長を達成すること
は可能である。わが国の低成長と政府債務残高はあくまで国内問題であり、国内で解
決可能である。この点、国内に資金が乏しく海外資金に頼らざるを得ないギリシャ等
の対外純債務国とは全く事情が異なる。
脱工業化社会と言われながら、わが国のサービス産業比率 68 ) は就業者ベースで
68) ILO LABORSTA「産業別就業者数2008」教育、保健衛生、社会事業、その他サービスから
計算 米国30.3%、イギリス27.1%、ドイツ23.0%、フランス22.8%
- 224 -
経済停滞と小さな政府に関する政策論考
19.5%と未だ低く、伸びる余地は大きい。市場に任せ放置するのではなく、政府が呼
び水を供給し需要を創出することが求められる。そのためにも、財源確保が必要であ
る。わが国がデフレから脱却して安定成長を果たすためには、財政の健全化、社会保
障の持続性確保とともに、
「小さな政府」の幻想から脱却し、政府が経済成長の責任を
果たすことが重要である。財政の現状に鑑みると、国債消化を支えてきた諸条件が変
化する中で、いつ市場が信用懸念を発しても不思議でない状況にある。長期金利が高
騰を始める前にとりかからねばならない、将に時間との競争である。
参 考 文 献
[国際機関・政府刊行物]
OECD(2009)『図表でみる世界の行政改革』平井文三訳、明石書店
内閣府(2010)『経済財政白書平成22年度版』
厚生労働省(2008)『厚生労働白書平成20年度版』
日本銀行金融広報中央委員会(2006)「家計の金融資産に関する世論調査平成18年」
[論文]
岩田規久男(2010)『不安を希望に変える経済学』PHP 研究所
野口悠紀雄(2010)『世界経済が回復するなか、なぜ日本だけが取り残されるのか』ダイヤモ
ンド社
伊藤隆敏・八代尚宏(2009)『日本経済の活性化』日本経済新聞出版社
法專充男(2009)『デフレとインフレの経済学』日本評論社
櫨 浩一(2006)『貯蓄率ゼロ経済』日本経済新聞社
NIRA 研究報告書
白川浩道他(2008)「家計に眠る過剰貯蓄」
ジョセフ・スティグリッツ(2006)『世界に格差をばら撒いたグローバリズムを正す』徳間書店
井堀利宏(2008)『歳出の無駄の研究』日本経済新聞出版社
財務総合政策研究所(2010)「変化する世界経済と日本経済・財政の課題に関する研究会報告書」
―杉本和行「日本における財政政策とその課題」
―永濱利廣他「世界金融危機が日本経済・財政に与えた影響」
―小川英治他「グローバル・インバランスと日本の経済・財政への影響」
―木村福成「いかにして東アジアの活力を取り込むか:日本経済再生に向けての課題」
財務総合政策研究所(2010)「経済社会の基調的な変化」報告書
ミルトン・フリードマン
村井章子訳(2008)『資本主義と自由』日経 BP 社
内橋克人(2009)『共生経済が始まる』朝日新聞出版
宇沢弘文、内橋克人(2009)『始まっている未来』岩波書店
友寄英隆(2006)『新自由主義とは何か』新日本出版社
- 225 -
年報 公共政策学
Vol. 5
Sluggish Economy and Small Government
NAKAYAMA Atsushi
Abstract
After the collapse of the 'bubble' economy, the economy of our country fell into remarkable
low-growth, and its domestic demand was dull and it had vulnerable economic structure
depending on foreign demand. Since postponement of the fiscal burden was continued, people
increased storage from uneasiness in the future, and held down consumption. As a result,
JAPAN is stuck in deflation and also it has caused the huge national-government-debts
balance.
We should advance healthier public finances and realize economic growth which utilized
abundant private savings by the official support of the social security field.
For that purpose, we should free ourselves from fantasy of "small government" and should
aim at government-function fullness just like other major industrialized countries.
Keywords
economic growth, deflation, public finance, social security, small government
- 226 -
地方議員向けサマースクールの開催について
地方議員向けサマースクールの開催について
北海道大学公共政策大学院教授
寺田
文彦
北海道大学公共政策大学院では、昨夏、地方議会議員向けのサマースクールを開催
した。
このスクールは、地方分権が本格化する中、自治立法権の担い手としてその役割が
ますます重要となっている地方議会の活性化に寄与することを目的に、大学・大学院
では全国初の試みとして、一昨年から実施しているものである。第3回目となる今回
は、折からの猛暑の中、各地から現職の市議、町議らが集い、大変熱気あふれるスク
ールとなった。
地域主権改革の動向や自治体が直面する諸課題について、講義を通じて理解を深め
るだけでなく、受講者自らが考え、情報・意見を出し合い、議論することで相互研鑽
を図ることを狙いとするもので、このような地方議会議員向け研修を、宿泊を伴う集
中講義形式で実施することは、大学・大学院の取組として他に類例を見ないものであ
る。
また、当大学院の機能を活用して実施するこのスクールは、当大学院自身が、公共
空間を担う諸主体の中の一つとして、積極的に社会的役割を果たしていこうとするも
のであり、当大学院の社会貢献活動の一環と位置付けることができる。
以下、今回のサマースクールを総括するとともに、今後のあり方を考えてみたい。
1 サマースクールの概要・日程
サマースクールの概要及び日程は次のとおりである。
概
要
1
主
催 : 北海道大学公共政策大学院
2
後
援 : 北海道市議会議長会
北海道町村議会議長会
3 開 催 期 間 : 平成22年8月18日(水)~8月20日(金)
開 催 場 所 : 北海道大学(札幌市北区北9条西7丁目)
4 対象・定員 : 地方議会議員及び地方議会議員を志す方。定員20名程度
5 受 講 料 : 11,000円(宿泊代含まず)
- 227 -
年報 公共政策学
Vol. 5
<北海道大学公共政策大学院(HOPS)2010地方議員向けサマースクール日程>
- 228 -
地方議員向けサマースクールの開催について
2 サマースクールの特色
今回のサマースクールの企画に当たり、次のような特色を持つものとなるよう意を
用いた。
①
当大学院の多彩な研究者教員と実務家教員を動員し、地方自治の本旨に関わる
問題から議員活動、議会運営の実務上の課題にわたる幅広いテーマを取り上げる
こと
②
当面する重要政策課題をタイムリーに取り上げること
③
全国初の「文理融合型」公共政策大学院として、
「理論と実践の架け橋」を重視
し、政策立案能力を有する有為な人材の育成に力を注いでいる当大学院の特色を
生かし、参加者が自ら考え、発表し、議論する機会を多く設けること
④
議会改革については、先駆的な取組に造詣が深いキーパースンを迎えての特別
講演・意見交換を行うこと
3 募集と応募状況
サマースクールの実施に当たっては、北海道市議会議長会と北海道町村議会議長会
の後援を受け、両団体が有するネットワークを活用して、受講者の募集に協力をいた
だいた。この場を借りて改めて感謝申し上げる次第である。
受講者の募集については、このほか、北海道大学及び当大学院並びに全国町村議会
議長会のウェブサイトに案内を掲示するとともに、マスコミへの資料提供を行った。
今回の募集定員は、初回と同じ20名とした。募集開始直後には多くの問合せが寄せ
られたが、第22回参議院議員通常選挙(6月24日公示、7月11日投票)の選挙運動期
間が近づくにつれて問合せが少なくなり、締切日(6月30日)の時点で応募者は16名
にとどまった。
その後、2名の辞退者(道内の町議会議員2名)が出たため、受講希望者は最終的
に14名となった。
4 受講者
受講希望者が定員に満たなかったことから、今回のサマースクールでは特別な選考
は行わず、希望者全員の受講を受け入れることとした。
受講者の属性を分類すると、次表のとおりとなる。
多くが道内からの参加者であったが、遠くは愛知県内からの参加もあった。団体の
区分別では、都道府県議会議員の参加はなく、市町村議会議員、とりわけ町議会議員
の割合が高い。
年齢別では、50歳以上の受講者が7割を占める。最も受講者数の多い年齢層は60歳
代及び50歳代と、年齢が高くなるほど受講者数が増える傾向が顕著に見られる。
男女別では、女性の応募は2割にとどまったが、地方議会議員全体に占める女性の割
- 229 -
年報 公共政策学
Vol. 5
合が1割であることを考慮すると、意欲的に応募いただいたと見るべきであろう。
議員経験別では、1期・2期のフレッシュな方々が過半数を占めている一方、ベテ
ランクラスの参加も多いことが特徴的である。この中には現職の議長も2名おられた
が、ベテランクラスでも、これまでの議会活動に限界や変革の必要性を感じ、改めて
勉強して、議会活動・議会改革に活かしたいとする意欲的な方が多かった。
(1) 職別・地域別
現職
道内
0( 0)
3( 10)
8( 6)
0( 0)
1( 0)
1( 1)
13( 17)
都道府県議会議員
市
町村
市町村議会議員
元職
都道府県議会議員
市町村議会議員
その他
計
道外
0(
1(
0(
0(
0(
0(
1(
0)
5)
0)
0)
0)
2)
7)
計
0(
4(
8(
0(
1(
1(
14(
0)
15)
6)
0)
0)
3)
24)
(注)括弧内は、前回の人数。
(2)性別・年齢別
男
1
2
4
4
11
30 歳代
40 歳代
50 歳代
60 歳代
計
女
0
1
1
1
3
計
1
3
5
5
14
(3)議員経験別
1期
2期
3期
4期
5期
6期~
都道府県議会議員
0
0
0
0
0
0
市議会議員
1
2
1
0
0
1
町村議会議員
3
2
1
1
0
1
計
4
4
2
1
0
2
議長経験
0
0
0
1
0
1
副議長経験
0
0
0
0
0
0
(注) これまでの議員経験を通算(例えば、町議1期を経験した現在2期目の市議は、市議3期として
計上)。
議長経験者2名は、いずれも現職の議長。
- 230 -
地方議員向けサマースクールの開催について
5 スクールの内容
スクールの内容については、1の概要・日程のとおりであり、目下の重要課題であ
る地域主権改革、議会改革、地域福祉、地球温暖化対策をテーマに、講義・討論を設
定した。
(1) 講義・講演
スクールでは、まず、当大学院の中村研一院長が開講の辞を述べたのち、当大学院
公共政策学研究センター長である宮脇淳教授が「議会改革に向けた政策の思考と議論」
と題して基調講義を行った。宮脇教授は、①現下の政治政策動向について、政策形成
プロセスが流動化し混沌状態にある中で、交付金をはじめとする国の直接政策の拡大
により中央集権がむしろ進んでいること、また、②地方分権・地域主権改革を本気で
進めるためには立法の充実が重要だが、立法を司る地方議会の姿が見えないことを指
摘し、政策議論の進化に向けた政策思考の必要性を強調した。特に、自己の思い込み
に気付くためには主張(討論)だけしていたのでは駄目であって、双方が自己の考え
方の根拠を示し、相互に検証し合う議論(対話)のステージを創り上げることが大切
であると述べ、これから3日間に及ぶ受講者同士の議論への期待を表明するとともに、
一層の奮起を促した。
続いて、特別講演として、「地方議会の政務調査費」「標準町村議会会議規則・委員
会条例詳解」など多くの著作があり、議会制度・議会運営や議会改革の分野における
第一人者である北海道町村議会議長会事務局長の勢籏了三氏より「北国発 議会改革」
と題してご講演をいただいた。大変ご多忙の中、快くお引き受けいただいた同氏には、
改めて深く感謝を申し上げる。
また、最終日には、当大学院特任教授より、地球温暖化対策と自律的な地域づくり
との親和性や、低炭素社会を実現するための政策が道内経済の発展に寄与する可能性
等について講義を行った。
受講者は終始熱心に耳を傾け、また、各講師にもできる限りの質疑の時間を確保し
ていただき、活発な質疑・意見交換が行われた。
(2) 分科会
「<ワークショップ>地域主権改革の影響と対応」
、
「地域課題解決討論」及び「<徹
底討論>地方政府にふさわしい議会に向けた議会改革」の3つの科目では、スクール
開講前に事前学習をしていただいた上で、スクールでは2つのグループに分かれ、分
科会形式で情報・意見交換、討論を行った。科目ごとにグループの入れ替えを行い、
受講者全員と交流ができるよう意を用いた。
このうち、
「地域課題解決討論」は、事前にそれぞれの地域が抱える課題・問題点の
中から討論してみたいこと、自身が考える解決策又はその方向性、他の受講者に聞き
- 231 -
年報 公共政策学
Vol. 5
たい事項等について提出していただき、当日は、その解決策について相互に情報提供
するなど、受講者自らが課題解決を探ることをねらいとして討論を実施した。受講者
が相互にアドバイスを与え合い、また、他団体の先進的、特徴的な取組を自らの地域
に当てはめて考えるトレーニングになったと思われる。
他方、
「<ワークショップ>地域主権改革の影響と対応」及び「<徹底討論>地方政
府に向けた議会改革」については、それぞれ、3日間及び2日間で議論を整理した上
で、最終日に全員が集まって、各グループから発表を行い、それに対する議論を行った。
「<ワークショップ>地域主権改革の影響と対応」では、事前学習課題として、①平
成22年6月22日に閣議決定された地域主権戦略大綱等に見られる地域主権改革の内容
のうちから興味・関心のある項目を取り上げ、②それが、地方に対しどのような効果・
影響を持つか、③それに対し地方はどのような対応をしていくべきか(すなわち、地
方はどう変わらなければならないか)を記載していただき、それを下敷きとして、2
つのグループに分かれてワークショップ形式で議論を行い、自治体の対応や国への要
請内容を検討した。
次に、
「<徹底討論>地方政府にふさわしい議会に向けた議会改革」では、同じく2
つのグループに分かれて、これからの地方議会を真に地方政府にふさわしいものとす
るためにはどのようなことが必要か、改革の方向性について議論を行い、その後、受
講者全員が集まって、各グループから発表を行い、全員でさらに議論を深めた。
受講者自身が進行を行い、課題を提起して、白熱した議論が交わされた。夕刻に始
まった議論は休憩も挟まずに3時間余り続き、受講者の考え方の違いや各議会が営々
と培ってきた文化・歴史に根差す「常識」の相違も浮かび上がって沸騰し、大いに盛
り上がった。
議論に先立ち、受講者には、所属する議会における議会改革の特徴的な取組、問題
意識・関心と併せて、議論したい内容を提出していただいた。その主なものは、次の
とおりである。
① 議会のあり方
・
議員定数、議員報酬の見直し
・
町村議会の低い議員報酬では兼業やむなし、議会活動と報酬のバランスをどう
考えるか
・
不本意な会派拘束をかけられた経験はあるか(地方議会に会派は必要か)
・ 会派制に代わる新しい考え方は(議会全体としての機能を最大限発揮するには)
・
中央政党からの自立
・
議会改革協議のあり方
・
議会改革に消極的なベテラン議員の意識を変える効果的な方法は
・ 「部分見直しで十分」との大多数の議員へのアプローチは
・
長老支配からの脱却(定年制が必要ではないか)
- 232 -
地方議員向けサマースクールの開催について
・
議会改革が議長選の公約に
・
議会基本条例が制定されている議会の実態は
・
積極的な議員間討論のための方法(本会議、委員会、全員協議会)
・
議員同士の議論を深め、政策提案のできる議会へ
・
議員の政策能力向上、公的位置づけとしての政策研究会の設置
・
独自条例の議員提案(定数条例以外)の事例は
・
議会の総意として議員提案条例をつくる場合、議論のテーブルをいかにセット
するか
・
議員提案を支える議会事務局職員の政策法務能力の強化
・
議会が自ら企業へ足を運ぶ企業誘致活動
・
短期的には不利益でも長期的視点で取り組むべき政策を限られた任期で実現す
るには
・
議会改革・議会活動に熱心な議員ほど当選しにくいという不条理の解決策は
・
議員は地区の利益代表という発想に止まっていてよいか
・
議員の倫理見直し
② 議会と住民
・
住民との信頼関係の構築
・
住民に開かれた議会、住民に親しまれる議会へ
・ 「住民の議会離れ」の実感とそれへの対応、いかに関心を持ってもらうか
・
住民と議会の接点、意見交換会・対話集会・出前トーク・議会報告会等の開催
・
住民の意思を汲み取るのは「議会の役割」
・
住民総会、裁判員制度のような抽選制で住民に議案の議論をしてもらい、議決
の参考に
・
住民によるまちづくり活動は議会軽視か
・
議会傍聴者アンケート、議会による市民アンケートの実施
・
議場コンサートの開催
・
議会広報(広報誌、ホームページ)
・
主権者である市民の政治参画機会の拡大
・
住民がいつでも議員になれるための情報の提供(議員予備軍としての住民)
・
市民に対する議会としての説明責任、情報公開
・ 市民が議員を的確に評価できるような情報提供の充実(議決の賛否の公開など)
③ 議会と首長
・
本会議における一問一答方式の是非
・
首長の反問権
・
答弁調整(事前すり合わせ)の実態
・
議会と首長が開かれた場で政策のすり合わせを行いベクトルを同じくしている
- 233 -
年報 公共政策学
Vol. 5
成功例は
・
総合計画のうち、基本構想のみならず基本計画を議決事項に
・
議決の実効性の確保(可決した請願・陳情の結果報告を求める)
・
一般質問のフォローアップ(その後、どのように市政に反映されたか)
・
予算の修正・否決について
・
議員はボランティアで十分か、執行部の提案をチェックするだけでよいか
・
条例の審査(条文を逐条的に審査しているか)
・
予算審議・決算審査を行う委員会(特別委員会か各常任委員会か)
・
決算審査のあり方や仕組みの工夫(裏付けの徴憑類の提示状況は)
・
行政監視の強化
・
議会による調査権の行使と限界
「<ワークショップ>地域主権改革の影響と対応」
、
「<徹底討論>地方政府に向けた
議会改革」では、当大学院教授がサポート役(助言・解説者)として各グループに付
いたものの、基本的に、受講者自らが進行を行う形とした。このような少人数による
ワークショップ形式は、住民参加や住民との意見交換を進めていく上で重要な手法と
考えられるが、今回の受講者は慣れている方が多いように見受けられた。皆がお互い
の発言を共感しながら傾聴し、絶妙なタイミングで合いの手が入るなど、終始話しや
すい雰囲気の中で建設的な議論が行われた。さらに、要所要所でポイントを整理する
など、現職議長はじめベテランクラスのリードもあって、各グループとも時間内に全
員が納得する形で意見集約を終えることができた。これについては、両テーマとも、
最終日に全体会議で発表を行うという目標が明確に設定されていたことも奏功したも
のと考えられる。
発表内容の詳細は省略するが、両テーマ・各グループの提言に共通しているのは、
住民と議会との距離を縮める努力が改革の出発点になるということである。すなわち、
「政策立案する議会」となるための第一歩として、まず、組織としての議会が住民ニー
ズをしっかり汲み上げるとともに説明責任を果たすことが大切であるとし、具体的に
は、議会の方から出向く形での住民報告会の開催が必要であるとされた。議会による
住民報告会については、既に取り組んでいる議会に所属する受講者の、
「最初は『皆で
恥を掻きに行こうじゃないか』という気持ちで臨んだ。それでも一歩踏み出すことが
大事である。行くと、感謝もされ、もっと勉強しようという気にもなった。」との発言
が印象的であった。なお、地域主権改革に向けた自己変革の一環として、さらなる男
女共同参画社会の推進を提言するグループもあったが、それによって、地域主権改革
という用語が、地方分権改革と比べて、主権者たる住民の政治参画の必要性・重要性
をより想起しやすいものであることに改めて気付かされた次第である。
- 234 -
地方議員向けサマースクールの開催について
(3) 情報・意見交換
「私のまちの誇れる保健福祉事業や住民の取組」の科目は、グループ分けを行わず、
全体会形式で実施した。保健・介護・福祉の分野における自治体の施策や住民の取組
の中から特徴的と思われるものを受講者が一つ選んで発表していただき、当大学院教
授によるコーディネートの下、長所や課題について情報・意見交換を行った。スクー
ル開講に先立ち、受講者には、次の項目について事前に提出していただいた。
・
事業の内容(規模、予算等も含め)
・
事業開始の時期及びきっかけ
・
開始以来の事業展開
・
特色ないしは誇れる点(先駆的・独創的な事業である、住民と行政との協力によ
る事業である、高齢者から子どもまであらゆる世代の参加による事業である等)
5 今後に向けて
サマースクールの終了後、受講者にアンケートを実施し、13名から回答があった。
アンケート結果を踏まえつつ、今後のあり方を検討してみたい。
まず、サマースクールの開催を受講者が知った手段(複数回答可)としては、新聞
記事が最多で8名であった。続いて、議会事務局を通じた応募が5名、知人からの案
内が2名、全国町村議会議長会及び北海道大学のウェブサイトが各1名であった。
2泊3日というスクールの期間については、「ちょうど良い」とする回答が10名で、
「やや短い」が2名(うち1名は5日間が適当と回答)、
「やや長い」が1名(1泊2日
で初日は9時開始が適当と回答)であった。開催時期については、
「ちょうど良い」と
する回答が10名で、他に5月、10月、11月頃が良いとする回答があった。受講者14名
という規模で開催したことについては、
「ちょうど良い」とする回答が7名、「やや少
ない」が5名(多くは、20名程度の規模が適当と回答)、
「やや多い」が1名であった。
受講者数の規模については、他の設問と比べて「ちょうど良い」とする割合が低くな
っているが、これは、募集定員どおりの20名規模での実施・交流への期待があったこ
とも関係しているものと思われる。定員の充足に向けて、今後、周知方法の工夫改善
に努めることに加え、開講期間の短縮等、より応募しやすいスクール運営について検
討する必要がある。
講義を含めた各企画の内容については、いずれも、
「良くない」とする回答は皆無で、
「やや良くない」も1割未満であった。また、分科会形式で行った3つの企画について
は、いずれも、「ちょうど良い」とする回答が9割を超え、「分けない方が良い」は各
1名であった。なお、自由意見欄には、自治体の規模の違いによるそれぞれの悩みが
よく分かり大変勉強になったという声があった一方、市議会と町村議会とを分けた方
がより良いのではないかという意見もあり、今後、分科会のグループ分けに当たって
考慮する必要がある。
- 235 -
年報 公共政策学
Vol. 5
今後については、全員が今後も開講すべきとし、2名は年2回程度必要と回答して
いる。
総じてみると、今回は、ワークショップ形式の導入等、前回と運営方法や内容を大
きく見直し、手探りの準備となったにもかかわらず、企画・内容ともに、概ね良好な
評価をいただくことができた。このことからも、地方議会議員の間で、受講者同士が
学び、情報交換し、議論することができる当スクールのような場が切望されている様
子が強くうかがえる。
近年の社会経済情勢の変化や地方分権改革の推進等により、各自治体においては、
ますます複雑化・高度化・多様化する住民のニーズに対して、的確かつ迅速に対応す
ることが求められている。住民の代表であり、自治立法権の担い手である地方議会に
対する期待そして責任も、これまでにも増して大きくなっており、議員一人ひとりの
企画力・創造力等の能力向上を図っていくことが急務である。
当大学院では、社会人の入学にも道をひらいており、修了後に議員となられた方等
を含め、これまでに7名の議員が当大学院で学んでいる(国会議員1名、道議会議員
2名、市町村議会議員4名)。引き続き社会人学生として地方議会議員及び地方議会議
員を志す方々を受け入れ、高度で専門的な能力を有する人材の育成に取り組むととも
に、意欲を持ちながらも長期にわたる履修が困難な地方議会議員に対して、学びの機
会を提供していく必要がある。今回の実績を踏まえて、より時代のニーズにマッチし
たスクールの企画・運営に努めたい。
地域主権に関しては、昨年6月に戦略大綱の骨子が発表されるなど、本格的に自治
体個々の政策形成力や実行力が試される時代を迎えている。今回修了したサマースク
ール3期生は、党派を超えて情報交換を図りながら、各地域で議会改革や地域の活性
化に取り組んでいくこととしており、当大学院としてもこのような取組をフォローし、
各地で改革や活性化の動きが芽生え、大きく育っていくことを期待したい。
- 236 -
活 動 報 告
注)肩書きは当時のもの。
1. シンポジウム(2010年度開催分)
森谷
賢
(環境省地球環境局 審議官)
●日
諸富
徹
(京都大学大学院経済学
時:2010年6月26日㈯
研究科
14:00~17:00
場
育研究棟
W203
ユニバーシティカレッジ 教授)
マーティン・イェニケ(ベルリン自由大学
テーマ:「北方の文化と環境再生、生物多様性
環境政策研究所 教授)
-北海道の環境政策-」
報告者・パネリスト:
安田
教授)
ポール・イーキンス(ロンドン大学
所:北海道大学人文・社会科学総合教
喜憲(国際日本文化研究センター
馬
中
(中国人民大学環境学院 教授)
蕭
代基 (中華経済研究院 院長)
金 一中 (東国大学環境経済学 教授)
教授)
黒田
大三郎(環境省 参与)
大島
直行(伊達市噴火湾文化研究所
吉田 文和(北海道大学大学院経済学
研究科 教授)
所長)
●日
五十嵐 智嘉子((社)北海道総合研究
時:2010年10月28日㈭
10:00~17:35
調査会 専務理事)
深見
正仁(北海道大学公共政策大学院
場
所:北海道大学学術交流会館 講堂
テーマ:
「再生可能エネルギー国際シンポジウム」
教授)
報告者・パネリスト:
●日
時:2010年7月10日㈯
場
13:30~
吉田 文和(北海道大学大学院経済学
所:北海道大学人文・社会科学総合教
研究科 教授)
W203
マーティン・イェニケ(ベルリン自由大学
育研究棟
テーマ:「21世紀 産業・企業・行政の構造
変化と政策-進路の先にある企
環境政策研究所 教授)
ジェームズ・ハインツ(マサチューセッツ
業・役所はどう変化するか-」
大学アマースト校 政治経済
報告者・パネリスト:
研究所 副所長)
白井
一幸(元日本ハムファイターズ
鍋山
徹
(日本政策投資銀行
宮脇
淳
(北海道大学公共政策大学院
馬
ヘッドコーチ・野球解説者)
中
鈴木
(中国人民大学環境学院 教授)
洋一郎(北海道経済産業局資源
エネルギー環境部 部長)
産業調査部長)
荒木
肇
フィールド科学センター
教授)
●日
教授)
時:2010年8月17日㈫
鈴木
亨
川口
直人(セントラルリーシングシステ
13:30~17:00
場
(北海道大学北方生物圏
(北海道グリーンファンド)
ム空港施設管理本部)
所:北海道大学学術交流会館 講堂
テーマ:「環境税と財政改革」
報告者・パネリスト:
春日
隆司(下川町 地域振興課長)
矢部
暢子(北海道大学大学院地球環境
科学研究院 博士研究員)
- 237 -
諏訪
竜夫(北海道大学公共政策大学院
2. 研究会(2010年度開催分)
●日
博士研究員)
場
●日
時:2010年5月20日㈭
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟 W409
時:2010年11月13日㈯
テーマ:「条例制定権拡充の理論と課題」
13:00~17:00
場
16:30~
報告者:
所:北海道大学高等教育推進機構 1 階
宮脇
大講堂
淳
(北海道大学公共政策大学院
教授)
テーマ:「働ける社会をめざして
~雇用の潜在的可能性を再考する~」
●日
報告者・パネリスト:
木村
勇介(㈱キムラ 代表取締役社長)
日置
真世(NPO 法人 地域生活支援
坂口
収
榎本
浩之(㈱ホワイトビジョン
場
時:2010年6月24日㈭
所:北海道大学人文・社会科学総合
テーマ:「高校と大学の接続をめぐって」
報告者:
(北海道経済部 部長)
佐々木 隆生(北海道大学公共政策大学院
教授)
代表取締役)
博昭(北海道大学公共政策大学院
●日
院生)
平田
場
智美(北海道大学公共政策大学院
時:2010年7月29日㈭
高石
テーマ:「年金記録問題と社会保険庁」
院生)
宮脇
淳
報告者:
(北海道大学公共政策大学院
西山
裕
教授)
●日
13:30~16:00
時:2010年10月6日㈬
場
エンレイソウ2階 第1会議室
W102
テーマ:「PFI の10年を振り返る」
テーマ:
「自治体議会が変わるためのヒント」
報告者:
報告者・パネリスト:
水澤
金谷
鳥越
●日
浩一(苫小牧市議会 議員)
弘之
志子田
宮脇
隆正(日本経済研究所 常務理事)
雅貴(NPO 法人 公共政策研究所
理事長)
辻
14:45~
所:北海道大学ファカルティハウス
所:北海道大学人文・社会科学総合教
育研究棟
(北海道大学公共政策大学院
教授)
時:2010年11月20日㈯
場
W409
教育研究棟
恭平(北海道大学公共政策大学院
16:15~
所:北海道大学人文・社会科学総合
院生)
●日
W409
教育研究棟
ネットワークサロン 理事)
勝田
16:30~
淳
時:2010年10月8日㈮
場
(登別市議会 議員)
育研究棟
徹(北海道新聞社 記者)
14:45~
所:北海道大学人文・社会科学総合教
W202
テーマ:「アフリカにおける資源・貧困・
(北海道大学公共政策大学院
教授)
紛争」
報告者:
白戸
- 238 -
圭一(毎日新聞外信部)
●日
時:2010年10月13日㈬
場
●日
14:45~
時:2010年10月22日㈮
場
所:北海道大学ファカルティハウス
教育研究棟
エンレイソウ2階 第1会議室
W202
テーマ:「社会的責任投資」
テーマ:「日本政治の現実」
報告者:
報告者:
河口
薬師寺
真理子(NPO 法人社会的責任
16:30~
所:北海道大学人文・社会科学総合
克行(朝日新聞
論説委員)
フォーラム代表理事・大和証券
グループ本社 CSR 室 室長)
●日
場
●日
時:2010年10月15日㈮
場
教育研究棟
報告者:
岸
邦宏
報告者:
昭久(衆議院議員
●日
時:2010年10月27日㈬
場
時:2010年10月18日㈪
場
(北海道大学工学研究院
准教授)
・前防衛大臣政務官)
●日
W517
テーマ:「道央都市圏の交通戦略」
W202
テーマ:
「民主党政権における安全保障政策」
長島
14:45~
所:北海道大学人文・社会科学総合
16:30~
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
時:2010年10月25日㈪
14:45~
所:北海道大学文系共同講義棟
5番
テーマ:「持続的な病院経営を目指して」
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
14:45~
報告者:
W517
テーマ:「北海道の開発行政について」
秋野
豊明(医療法人渓仁会 理事長)
廣畑
衛 (三豊総合病院企業団 企業長)
報告者:
渋谷
元
(北海道開発局開発監理部
●日
開発調整課 課長)
時:2010年10月29日㈮
場
教育研究棟
●日
時:2010年10月20日㈬
場
14:45~
16:30~
所:北海道大学人文・社会科学総合
W202
所:北海道大学文系共同講義棟
テーマ:「ロスジェネと新左翼」
5番
報告者:
テーマ:「三重県の議会改革」
鈴木
英生(毎日新聞文化部
記者)
報告者:
高沖
秀宣(三重県議会 事務局次長)
●日
場
●日
場
時:2010年10月21日㈭
教育研究棟
W517
テーマ:「過疎交通の計画策定における行
W409
政とコンサル、住民の役割と課題」
テーマ:「自治体病院の民間化手法の効果
報告者:
を考える」
東本
報告者:
石井
14:45~
所:北海道大学人文・社会科学総合
16:00~
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
時:2010年11月1日㈪
靖史(日本データーサービス(株)
計画調査部
課長)
吉春(北海道大学公共政策大学院
教授)
●日
- 239 -
時:2010年11月5日㈮
16:30~
場
報告者:
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
W202
行天
豊雄(国際通貨研究所理事長
・財務省特別顧問)
テーマ:
「内閣官房の政策決定の現実と課題」
報告者:
河村
●日
建一(河村建夫元官房長官
場
政務秘書官)
時:2010年11月20日㈯
所:夕張希望の杜
10:00~
会議室
テーマ:
「過疎医療を考える」
●日
時:2010年11月8日㈪
場
14:45~
報告者:
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
村上
テーマ:「高速道路料金のあり方」
●日
報告者:
岸
場
邦宏
智彦(夕張希望の杜 理事長)
W517
時:2010年11月24日㈬
(北海道大学工学研究院
エンレイソウ2階
准教授)
14:45~
所:北海道大学ファカルティハウス
第1会議室
テーマ:「農業振興の視点」
報告者:
●日
時:2010年11月12日㈮
場
16:30~
木村 秀雄(北海道農業振興課 課長)
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
テーマ:「食の安全と安心を考える」
W202
報告者:
テーマ:「世界経済の変化と中央銀行」
小野塚 修一(北海道食品政策課 課長)
報告者:
高橋
亘
(日本銀行金融研究所 所長)
●日
場
●日
時:2010年11月17日㈬
場
W409
教育研究棟
テーマ:「政治と経済の接点~
第1会議室
「事業仕分けと市民の参画」
テーマ:「事業型 NPO の展開」
報告者:
報告者:
小林
16:00~
所:北海道大学人文・社会科学総合
14:45~
所:北海道大学ファカルティハウス
エンレイソウ2階
時:2010年11月25日㈭
寺田
文彦(北海道大学公共政策大学院
董信(北海道 NPO サポートセンター
教授)
事務局長)
テーマ:「地域生活支援ネットワークサロン
●日
の活動」
場
時:2010年11月26日㈮
所:北海道大学人文・社会科学総合
報告者:
日置
教育研究棟
真世(NPO 法人 地域生活支援
報告者:
宇仁
場
時:2010年11月19日㈮
W202
テーマ:
「21世紀の資本主義はどうなるのか」
ネットワークサロン 理事)
●日
16:30~
16:30~
宏幸(京都大学大学院経済学
研究科
教授)
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
W202
●日
テーマ:
「G20と世界経済のマネージメント」
- 240 -
場
時:2010年12月3日㈮
16:30~
所:北海道大学人文・社会科学総合
W202
教育研究棟
●日
テーマ:「グローバル化と安全保障:
時:2011年1月5日㈬
場
日本のエネルギー戦略の見方」
エンレイソウ2階
報告者:
藤
和彦(内閣官房情報調査室)
時:2010年12月8日㈬
場
第1会議室
テーマ:「都市再生政策の現状と課題」
報告者:
榎本
●日
14:45~
所:北海道大学ファカルティハウス
平
14:45~
(UR 都市機構東日本支社
都市再生業務部 部長)
所:北海道大学ファカルティハウス
エンレイソウ2階
第1会議室
●日
テーマ:「写真の町の地域づくり」
時:2011年1月7日㈮
場
報告者:
松岡
W202
教育研究棟
市郎(東川町
町長)
16:30~
所:北海道大学人文・社会科学総合
テーマ:「日本の宇宙戦略とロケット開発」
報告者:
●日
時:2010年12月15日㈬
場
浅田
14:45~
正一郎(三菱重工宇宙機器部
部長)
所:北海道大学ファカルティハウス
エンレイソウ2階
第1会議室
テーマ:「北海道観光の新たな可能性」
●日
報告者:
鈴木
時:2011年1月12日㈬
場
宏一郎(北海道宝島旅行社
エンレイソウ2階
代表取締役社長)
報告者:
報告者:
潤
第1会議室
テーマ:「航空産業のこれから」
テーマ:
「知床の世界自然遺産の保全と活用」
小林
14:45~
所:北海道大学ファカルティハウス
小林
茂
(北海道自然環境課 課長)
(北海道国際航空㈱
代表取締役副社長)
テーマ:「北海道新幹線と地域経済」
●日
時:2010年12月17日㈮
場
16:30~
報告者:
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
高橋
功
W202
(㈱北海道二十一世紀総合
研究所
研究員)
テーマ:「日本の国境と海洋安全保障」
報告者:
山田
●日
吉彦(東海大学海洋学部 教授)
時:2011年1月19日㈬
場
エンレイソウ2階
●日
時:2010年12月22日㈬
場
14:45~
第1会議室
テーマ:「総合計画を活かしたまちづくり」
所:北海道大学ファカルティハウス
エンレイソウ2階
14:45~
所:北海道大学ファカルティハウス
報告者:
第1会議室
手島
旭 (芽室町役場産業振興課 課長)
テーマ:「北海道の医療問題」
報告者:
梅井
●日
治雄(北海道保健福祉部総務課
場
政策調整担当課 課長)
時:2011年1月21日㈮
16:30~
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
W202
テーマ:「為替を通じた世界経済の見方」
- 241 -
報告者:
浅川 雅嗣(財務省参事官・副財務官・
元総理秘書官)
●日
場
時:2011年1月27日㈭
16:00~
所:北海道大学人文・社会科学総合
教育研究棟
W409
テーマ:「民主党政権の温暖化政策の動向
について」
報告者:
深見
正仁(北海道大学公共政策大学院
教授)
- 242 -
『年報 公共政策学』編集委員会
編集委員長
宮脇 淳 (北海道大学公共政策大学院 教授)
編集委員
鈴木 一人(北海道大学公共政策大学院 准教授)
中山 厚 (北海道大学公共政策大学院 教授)
山崎 幹根(北海道大学公共政策大学院 教授)
「年報 公共政策学」 第5号
平成23年3月31日発行
編集兼発行人
宮脇
淳
発
行
所
北海道大学公共政策大学院
札幌市北区北9条西7丁目
TEL:011(706)3074
[email protected]
印
刷
所
北海道大学生活協同組合
印刷・情報サービス部
札幌市北区北8条西8丁目
TEL:011(747)8886
- 243 -