日本タイ学会第 18 回研究大会(2016) 報告要旨集 目次

日本タイ学会第 18 回研究大会(2016)
報告要旨集 目次
<個別報告要旨>
①「タイの日本語教育における ICT 活用の現状-
『日本事情』e ラーニング講座開講を目指して-」 吉嶺加奈子
p.1
②「タイにおける商業的代理出産の経緯と代理母の経験」 川谷真以
p.2
③「2000 年代の ASEAN と中国の貿易」
宮島良明・大泉啓一郎
p.3
④「近代タイにおける考古学行政の導入過程―第一次世界大戦と
『古物調査・保存に関する布告』(1924)を契機として―」 日向伸介
p.4
⑤「九州国立博物館とタイ芸術局の学術交流事業について」 原田あゆみ
p.5
⑥「タイのテレビ広告における家族像の変容」 ピヤ・ポンサピタックサンティ
p.6
⑦「不可視化のち分断―北部タイ農村における HIV/AIDS 感染者の
『再生』活動に見る移行プロセス―」 p.7
日野智豪
⑧「タイにおける非合法入国者子孫と無国籍者への国籍付与のための政策
―1992 年の国籍法改正と 2000 年以降の出生地主義適用要件緩和を中心に―」
尾田裕加里 p.8
⑨「排除から分割包摂へ:タイの社会保障制度の四層化」 p.9
浅見靖仁
⑩「タイの政治と社会のなかの左派の知識人―ジット・プミサクを中心として―」
ピヤダー・ションラオーン p.10
⑪「1890 年代に於ける岩本千綱の冒険的タイ事業:
渡タイ前の経歴と移民事業を中心として」
村嶋英治
p.11 i
< 分 科 会 1 在 日 タ イ 人 の 現 在 ―移 動 と 定 着 の 狭 間 で ―>
分科会趣旨: 在日タイ人の現在―移動と定着の狭間で― 齋藤百合子
p.12
「Finding their home in the host society: Identity construction of Thai diaspora in Japan」
Ratana Tosakul
p.13
「福岡における外国籍女性支援の現状と課題―タイ人女性への支援から感じるもの―」 柿原理香子
p.14
齋藤百合子
p.15
岩佐淳一
p.16
「変貌するタイ農村における区福祉基金の普及」
佐藤康行
p.17
「コミュニティづくり・居場所・ネットワーク―北タイ農村の事例」
馬場雄司
p.18
「タイ農村に根ざしたネットワーク論へのいざない」 尾中文哉 p.19
「タイ人移住女性と子どもたちの日本での多文化共生の課題」
< 分 科 会 2 ネットワークからみるタイ農村の変貌 >
「タイにおけるメディア改革運動とコミュニティ・ラジオ」
<分科会3 グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン 下 の 「 文 化 復 興 」 実 践 を 問 い 直 す >
分科会趣旨: グローバリゼーション下の「文化復興」実践を問いなおす
平田晶子
p.20
「文化継承と文字―リス語正書法の世俗化をめぐるポリティクス―」
綾部真雄
p.21
「民間医療復興における地域的特殊性とその要因について
―東北タイ・サコンナコン県の事例を中心に―」
古谷伸子
p.22
「タイ映画のニューウェイブにおける『イサーン』表象
―文化復興におけるローカリティの所在―」
坂川直也
p.23
「イサーン・ルネッサンス?―文化評価システムの確立とモーラム芸能者の
政治的・教育的活動の関係から―」
平田晶子
p.24
<分科会4 タイ新憲法草案と国民投票に関する解説と展望>
分科会趣旨:タイ新憲法草案と国民投票に関する解説と展望 玉田芳史・外山文子
p.25
ประชามติกบั เสรีภาพในการแสดงความคิดเห็น
กรณี การทําประชามติตอ
่ ร่างรัฐธรรมนูญ พ.ศ. ...ของไทย วรรณภา ติระสังขะ
p.26
พัฒนาการทีม
่ าของสมาชิกสภาผูแ
้ ทนราษฎรและสมาชิกวุฒสิ ภาและนายกรัฐมนตรีของไทย
ตัง้ แต่ รัฐธรรมนูญฉบับ พ.ศ. 2540 จนถึงร่างรัฐธรรมนูญฉบับมีชยั ฤชุพน
ั ธุ์ พ.ศ. 2559
บัณฑิต จันทร์โรจนกิจ
「タイ民主化と独立機関:1997 年憲法、2007 年憲法、新憲法草案との比較から」
外山文子
ii
p.27
p.28
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨① 2016/07/02
第 2 会場 13:30-14:00
タイの日 本 語 教 育 に お け る ICT 活 用 の 現 状 -『 日 本 事 情 』e ラーニング 講 座 開 講 を 目 指 し て -
吉嶺 加奈子(九州大学地球社会統合科学府博士後期課程)
ICT が発達するにつれ、世界的に e ラーニングの需要が高まってきている。タイも例外ではなく、
2000 年代より e ラーニング推進政策が取られており、ほとんどの教育機関にコンピュータが導入
され一部の教育機関では学生に対するタブレット配布が行われている。
しかしハード面の推進は盛んであるが、e ラーニングコースの開講や電子教材の開発等は遅々と
して進んでいない。特に日本語教育においては現在まで日本語学習者のための有効な e ラーニング
が存在しない状態である。
他方、日本語教育において日本文化や現代日本の諸事情について学習する教養科目(以下、『日
本事情』)ではしばしば日本文化概論としての役割を持つが、指導範囲が非常に多岐に渡りタイの
ような海外では実物に触れ実際に体験することは決して容易ではない。またタイの多くの大学で
『日本事情』に相当する科目が開講されているにもかかわらずカリキュラムが明確ではなく指導用
教材も不十分である。しかし日本文化への関心が高く将来日本語人材として活躍が期待される日本
語学習者から強い要望がある科目の一つであり、現地日本語教師にとって重要な科目であるといえ
る。
タイにおいて『日本事情』を開講するにあたり、動画や SNS 等の ICT 技術が実物との接点の代
替策となりうるため、海外での日本文化理解において e ラーニングが非常に有効であると考える。
無論 e ラーニングはインフラの安定性に影響され、また通信機器を用いる必要があるなど制約が多
い教授方法ではある。しかし学習管理が容易であり、時間や場所の制約なく自身が所有する通信機
器で学習できる e ラーニングは現場の日本語教師が抱える『日本事情』開講に係る諸問題を解決す
る手段となるのではないだろうか。
本研究ではタイ人日本語学習者を対象とした LMS 利用による e ラーニング講座『日本事情』の
開発から実施までを想定し、現地での聞き取り調査及び Web アンケート調査を行った。バンコク・
北部・東北部・南部の日本語高等教育機関より得られた回答結果からタイの日本語教育における e
ラーニングへの意向を分析する。また現在タイで行われている従来型の遠隔授業と比較することで、
タイの日本語教育において現時点で最適であると思われる ICT を活用した e ラーニングの教授形
態を探る。
1
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨② 2016/07/02
第 2 会場 14:05-14:35
タイにおける商業的代理出産の経緯と代理母の経験
川谷真以(大阪大学人間科学研究科)
報告者は、生殖をめぐるグローバル化とローカルな社会の交錯に生起する現象としてタイに
おける生殖医療技術に関わる実践を捉え、科学技術と文化の双方向的な影響のプロセスを探求
することに関心がある。本発表はタイの商業的代理出産に注目し、関連する政治社会的な要素
を時系列的に整理するマクロレベルな把握と、実際の代理出産現場を既存の調査の結果を整理
し特徴を抽出するミクロレベルな分析から、その実相を概観することを目的とする。
昨今、自国で子供を得られない先進国在住のカップルや個人が、規制格差や経済格差を利用
して医療技術の発達した新興国で医療サービスを受ける「生殖ツーリズム」が盛行している。
特に、タイ政府はアジア金融危機を契機に医療ツーリズムを国の基幹産業として奨励し、着床
前診断による男女産み分けや同性カップルへの医療提供など、他国では利用困難な医療サービ
スを「法的規制の欠如」によって提供可能にしてきた。
このような生殖補助医療技術の市場化は常に倫理的議論を呼んでいる。特に「富める依頼者
―貧しい代理母」の構造的関係を持つ商業的代理出産に関しては「女性の身体の商品化」、
「貧
困女性からの搾取」であると非難される傾向にある。タイでも 2014 年に代理母を巡る問題が
相次いで発覚し、女性と子どもの権利的側面から商業的代理出産に対する法整備を求める国内
外からの呼びかけに迫られた暫定軍事政権は、翌年 2 月に商業的代理出産を全面禁止する法案
を可決した。しかし、これがタイにおける商業的代理出産の実態を捉えた動きとは必ずしも言
えない。市場というマクロな視点に立つと臓器売買や売春行為と同義に見られがちな商業的代
理出産は、当事者である代理母の視点に立つとローカルな社会関係を構築・強化しแม่อ ุ ้มบุญ
(mee um bun 徳を抱える母)としての自己アイデンティティを近代の中に確立する実践であ
りうる。
2
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨③ 2016/07/02
第 2 会場 14:40-15:10
2000 年代の ASEAN と中国の貿易
宮島良明(北海学園大学)・大泉啓一郎(日本総合研究所)
2000 年代、ASEAN と中国の貿易額は急増した。
図表1 中国の対ASEAN の貿易の推移
(単位: 1 0億ドル)
中国の対 ASEAN 輸出額は、2000 年から 2010 年
300
までの 10 年間で 8.0 倍、同輸入額は 7.0 倍となっ
250
た(図表 1)。本研究では、この背景を探るため、
200
産業内貿易指数(貿易特化係数)を用いて、「水平
150
型」の分業と「垂直型」の分業の割合を算出する宮
100
島・大泉[2008]の手法を援用し、その構造変化につ
50
いて考察をした。
貿易収支
輸出
輸入
0
解析の結果は、図表 2 である。このグラフからは、
中国と ASEAN が、この 20 年間でその分業の構造
を大きく変化させてきたことが確認できる。1990
-­‐50
(出所)Global Trade Atlas より宮島作成。
(年)
2015
年代後半、中国と ASEAN では、「垂直型」の分業
2013
の割合が多かったが、その後、2000 年代に入り、
2009
貿易額の急増とともに、「水平型」の分業の割合が
増えた。とくに、
「④ASEAN がやや優位な品目(貿
易特化係数が-0.6 以上-0.2 未満)」と「③優位性
が見きわめにくい品目(同-0.2 以上 0.2 以下)」の
割合が高くなっているのが特徴である。この背景に
は、ASEAN と中国を含む、東アジア地域における
図表2 中国の対ASEAN貿易: 産業内貿易指数による5分類の割合の推移(%)
(HS4桁、貿易総額を100とした)
2011
2007
2005
2003
2001
1999
1997
1995
0%
10%
0.6超
20%
30%
0.2超0.6以下
40%
50%
-­‐0.2以上0.2以下
60%
70%
-­‐0.6以上-­‐0.2未満
80%
90%
100%
-­‐0.6未満
(出所)Global Trade Atlas より、宮島作成。
IT 関連製品の「水平型」分業体制の深化の過程があった。ただし、2010 年代に入り再び、「垂直
型」の分業の割合が高くなってきており、中国と ASEAN の貿易、分業構造を考える場合には、
「垂
直型」の分業についても軽視することはできない。
本研究は、2007 年度から東京大学社会科学研究所に設置された現代中国研究拠点において、10
年間行ってきた共同研究の成果の一部である。宮島、大泉は貿易データの分析を担当し、当初から
研究の問題関心は、東アジアの域内貿易にあった(宮島・大泉[2007])。
<参考文献>
l
宮島良明・大泉啓一郎[2007]「ASEAN4 と中国の競合関係:「アジア化するアジア経済」の深化過程を探る」
『東京大学社会科学研究所ディスカッションペーパーシリーズ』J-156。
l
宮島良明・大泉啓一郎[2008]『中国の台頭と東アジア域内貿易: World Trade Atlas (1996-2006) の分析から』
東京大学社会科学研究所・現代中国研究拠点・研究シリーズ No. 1。
3
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨④ 2016/07/02
第 2 会場 15:40-16:10
近代タイにおける考古学行政の導入過程―第一次世界大戦と「古物調査・保存に関する布
告 」( 1924) を 契 機 と し て ―
日向伸介(静岡大学)
本報告は、近代タイにおける考古学行政の導入過程を、これまで先行研究に看過されてきた史料
に基づき明らかにするものである。対象期間は、第一次世界大戦期から立憲革命の起こる 1932 年
までとする。以下、当時の国号にしたがい、「シャム」を用いる。
シャムにおける考古学行政及び文化財保護制度は、第一次世界大戦に始まる対仏関係の変化を背
景要因として成立した。まず、シャムが連合国側に立って第一次世界大戦に参戦したことから、ド
イツ人言語学者のオスカー・フランクフルターに代わり、フランス人考古学者のジョルジュ・セデ
スが 1917 年にバンコク図書館館長に着任した。セデスの着任により、シャムの文化行政は仏領イ
ンドシナのフランス極東学院との関係を強めた。その関係をもとに、1922 年 6 月 15 日、フランス
大使フェルナン・ピラは考古学行政部門の設置をシャム政府に提案した。続いて 1923 年 7 月 2 日
付の覚書において、フランス政府は両国の友好関係強化という名目で、考古学行政の整備をシャム
政府に公式に要求した。シャム初の文化財保護令「古物の調査・保存に関する布告」は、この要求
に対する回答としてダムロン親王が起草したものである(1924 年 1 月 20 日告示)。イギリス大使
館から本国への報告にみえるように、考古学行政を含むフランス政府の諸要求は、不平等条約改正
と引き換えに、シャムにおける文化的影響力を拡大しようという意図によるものであったと推測さ
れる。
フランス政府の思惑通り、文化行政分野におけるシャムとフランスの関係はより緊密になってい
った。特にダムロン親王による仏領インドシナ訪問(1924 年 11 月 10 日~12 月 13 日)は重要な
出来事であった。このときアンコール遺跡の保護や博物館行政を視察したダムロン親王は、文化財
保護の重要性を認識したからである。1926 年、ダムロン親王はピラの勧めにより初のタイ美術史
とされる『シャム仏蹟史』を刊行したほか、総合的な文化行政機関である王立学士会議を設立、文
化財の輸出に関する法令を整備、バンコク博物館の改革をおこなった。さらに、全 19 条からなる
タイ初の体系的な文化財保護法「バンコク博物館設立法」を起草した(1927 年 3 月 13 日告示)。
同法は、シャム全国から集められたバンコク博物館の収蔵品を、国王が定める「バンコクのための
御物」と規定した。絶対王政期のシャムにおけるダムロン親王の国家観と文化財保護の特徴をここ
に読み取ることができる。1929 年からは、立憲革命後の考古学・文化財行政を牽引するルワン・
ボリバーンブリーパンやマーニット・ワンリポードムらバンコク博物館の学芸員による全国的な考
古学調査が開始された。
以上、ごく基本的な事実すら不明のままであった近代タイにおける考古学行政の導入過程を、外
交・内政の双方を視野に含めながら跡付けることが、本報告のもつ意義である。
4
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨⑤ 2016/07/02
第 2 会場 16:15-16:45
九州国立博物館とタイ芸術局の学術交流事業について
原田あゆみ(九州国立博物館企画課特別展室長)
平成 29 年(2017)、日本とタイは修好 130 年を迎える。わが国とタイ王国とは古来、さまざま
な交流を重ねてきており、現代社会においても経済、産業はもとより、文化交流が活発に行なわれ
ている。本報告では、文化財の調査・研究・保存にかかわる両国の博物館の取り組みを紹介すると
ともに、両国の交流に関係する文化財の調査成果について概説する。
九州国立博物館は、平成 19 年(2007)からタイ王国文化省芸術局と、文化財保存や博物館活動に
関する連携事業を実施してきた。平成 23 年(2011)には文化庁アジア友好古美術展をバンコク国
立博物館及び九州国立博物館において開催し、この展覧会を契機として、平成 24 年(2012)に「日
本とタイ-境界を越えて:文化財と博物館事業を通して両国の文化交流を考える」というテーマで
共同研究を開始し、現在に至っている。
本研究の主要なテーマは、以下の通りである。1)在タイ日本文化財、在日タイ文化財の共同調
査(特に交易、文化交流によってもたらされた文化財)、2)文化財の保存修復と分析に関する共
同研究、3)博物館運営に関する共同調査(博物館危機管理、ボランティア活動、広報活動等)。
本発表では、1)と2)について紹介する。
まず、在タイ日本文化財については、タイにおける日本刀の受容とタイ国内でそれを模して製作
された日本系刀剣について報告する。タイへ日本刀が輸出された記録としては『歴代宝案』洪熙元
年(1425)条などにも記され、日宋、日明貿易同様にタイとの交易においても日本の刀剣類は主要
商品の一つであった。タイにおいて「日本刀」と称される刀剣が多数存在し、歴代国王や王族が「日
本刀」を所持していたことはこれまでも知られてきたことだが、工芸史的側面から調査されたこと
はなく、具体的な伝来の経緯についてもその大半が不明であった。本調査によって、現地で「日本
刀」と呼ばれてきたものは、1. 日本製の刀身にタイ製の外装を誂えたもの、2. タイ製の刀身にタ
イ製の外装を誂えたものの二種類があることが判明した。さらに現代における「日本刀」製作につ
いてもあわせて紹介する。
つぎに、在日タイ文化財については、これまで知られてきた茶の湯に取り入れられたタイの焼物
や砂張、シャム更紗のほかに、日本に将来された仏像、仏画、貝葉経について報告する。朱印船貿
易家が持ち帰った、もしくは日本に送り届けたタイの文物のほかに、その貴重さゆえに精巧に模倣
され、伝えられてきたものもある。また、明治 20 年(1887)、日暹修好通商宣言によって両国間
の人的交流が盛んになり、日本にタイの文物がもたらされた。本報告では特に仏教美術について、
美術史的側面から評価を行なう。
最後に、保存修復事業として進行中の二つの事例を報告する。一つは、第一級王室寺院ワット・
スタット仏堂大扉の修理である。国王ラーマ 2 世が彫刻をほどこしたことで知られる国宝であるが、
火災で一部が焼損を受け炭化、剥落が進んでいた。もう一つは、2013 年にサムット・サーコーン
県沿岸部で発見されたパノム・スリン難破船の木材保存についてである。
5
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/02
個別報告要旨⑥ 第 2 会場 16:50-17:20
タイのテレビ広告における家族像の変容
ピヤ・ポンサピタックサンティ(長崎県立大学 国際情報学部)
1.調査方法
本研究では、タイのテレビ広告における家族像の変容を分析するため、1979 年(8 本)、1980 年(11 本)、1981 年(10
本)、1983 年(14 本)、1984 年(17 本)、1985 年(16 本)、1989 年(28 本)、1990 年(31 本)、1992 年(23 本)、1993 年(35
本)、1994 年(43 本)、1996 年(36 本)、1997 年(40 本)、1998 年(36 本)、2000 年(60 本)にタイの TACT 賞を受賞した
テレビ広告(合計 408 本)から分析した。
タイでは、
1976 年から 2006 年までの毎年、
TACT 賞(Top Advertising Contest
of Thailand)が、優れた広告に対し与えられている。そこで、408 本の中、家族の関係がある 2 人以上の主人公が登
場する最終サンプル数は 83 本である(20.3%)
。その際、期待度数に関する統計的な問題を解決し、各期間の広告サ
ンプル数が同じようになるため、次に 3 つの期間に分けることとした。1) 1979 年から 1989 年(25 本:30.1%)、2) 1990
年から 1996 年(25 本:30.1%)、3) 1997 年から 2000 年(33 本:39.8%)である。
2.分析結果
計 83 本の 20 年間の家族像が見られるタイの広告サンプルの内容分析した結果、3 つの期間によって、家族構成、
そして、家族が登場する広告の背景には有意な違いが見られるが、それ以外(父親と母親の登場、父親と母親の年齢、
子どもの数、一番目の子どもと二番目の子どもの性別と年齢、広告の長さ)に対して、期間による変化が見られてい
ない。つまり、時代が変わっても、これらの 10 つの変数は変わっていないことがわかる。
第一に、変化のある項目の分析結果を説明する。まず、家族構成について、時代によって子どもを持たない夫婦の
登場は増加しているが、夫婦と子どもの登場と拡大家族などのその他の家族構成の登場は減少している。具体的に、
夫婦の登場割合は、1979 年~1989 年の 4%から、1990 年~1996 年の 28%、そして、1997 年~2000 年の 30.3%に
増加している。これに対して、夫婦と子どもの登場割合は、32%から、24%、21.2%までに減少し、拡大家族などの
その他の家族構成の登場割合も 24%から、12%、0%に減少している。そして、全体的な結果から見れば、母親と子
どもの登場割合(27.7%)が一番高く、次に、夫婦と子ども(25.3%)
、夫婦(21.7%)
、父親と子ども(14.5%)
、そ
して、その他(10.8%)となっている。また、1997 年~2000 年の期間に、母親と子どもの登場割合は一番高い(36.4%)
。
つまり、タイの広告における子どもが現れる家族像は、父親・母親・子どものような夫婦と子どものイメージが減少
し、父親が現れない母親と子どものみの登場が多くなっている。
さらに、家族が登場する広告の背景に関して、家庭内と職場の背景は減少しているが、旅行や遊ぶところの背景は
増加している。具体的には、家庭内背景の広告の割合は、80%から 64%、42.4%に減少し、職場背景の広告の割合も
16%から 8%、0%に減少している。これに対し、旅行や遊ぶところの背景は、4%から 28%、57.6%に増加している。
第二に、期間による変化のない 10 つの項目それぞれの全体的な分析結果を述べる。まず、父親と母親の登場につ
いて、父親の登場割合は 63.9%、母親は 77.1%である。また、父親の年齢に関しては、36-50 歳の父親の割合(47.2%)
が、18-35 歳(43.4%)と 50 歳以上(9.4%)の割合よりも高い。しかし、母親の年齢は、18-35 歳の母親の割合
(59.4%)が、36-50 歳(26.6%)と 50 歳以上(14.1%)の割合よりも高い。このように母親は、父親より多く登
場し、父親より若く登場しているといえる。
次に、子どものイメージについて、全体的に一人の子どもが登場する広告の割合は 47%、子どもが登場してない広
告の割合は 21.7%、二人は 14.5%、4 人以上は 10.8%、3 人は 6%である。統計的に時代によって、変化が見られてい
ないが、子どもが登場しない広告の割合は、4%から、28%、30.3%に増加している。
続いて、一人目の子どもが登場する広告の数は 65 本(全体の 78.3%)である。一人目の子どもは多く登場するの
が男の子(78.5%)である。年齢から見れば、3-6 歳の子どもは 44.6%、0-2 歳は 38.5%、16-18 歳は 9.2%、7-
15 歳は 7.7%である。統計的に時代の変化は見られていないが、0-2 歳(45.8%→30.4%)と 3-6 歳(50%→39.1%%)
の子どもの割合は減少しているが、7-15 歳(0%→17.4%)と 16-18 歳(4.2%→13%)の子どもの割合は増加して
いる傾向が見られる。また、二人目の子どもが登場する広告の数は 27 本(全体の 32.5%)である。二番目の子ども
は女の子(66.7%)が多く登場している。年齢的に見れば、0-2 歳の子どもは 51.9%、3-6 歳は 40.7%、7-15 歳
と 16-18 歳はそれぞれ 3.7%である。
以上の分析結果から、タイのテレビ広告における家族像の変容は、タイ社会における核家族化、少子化、都会化、ジ
ェンダー意識などを反映していると考えられる。
6
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨⑦ 2016/07/02
第 2 会場 17:25-17:55
不 可 視 化 の ち 分 断 ― 北 部 タ イ 農 村 に お け る HIV/AIDS 感 染 者 の「 再 生 」活 動 に 見 る 移 行
プロセス―
日野 智豪(東京福祉大学国際交流センター)
本報告は、北部タイ農村において、2002 年から普及した抗 HIV ウィルス薬にともなう
HIV/AIDS 感染者の不可視化されつつある身体に光を当てる。そして、感染者が農村で生きてい
くためにどのようにその身体をどのように利用するのか、または利用しないのか、その戦略の変
遷について明らかにする。なお、本報告において用いる資料は、報告者が 2004 年 7 月から 2016
年 3 月までの約 30 ヶ月間、断続的におこなってきた文化人類学的定着調査(参与観察、アクシ
ョンリサーチ、個別の聞き取り)によって得られたものである。
1990 年代の北部タイ農村において、HIV/AIDS 感染者は、体中に赤黒い斑点ができる、舌が
真っ白くなる、頬がこけ、痩せ細る、いつも咳をしている、などといった、非感染者とは明らか
に異なる、目に見える身体的特徴が、彼ら/彼女らを感染者として同定し、そのため、身体的特
徴を表出することを余儀なくされ、同じ病いと対峙する村人同士がつながることで、村内で病い
と共に生き抜いてきた。しかし、2002 年から農村に普及した抗 HIV ウィルス薬が感染者の身体
的状況を劇的に変化させた。すなわち、感染者の身体的特徴が抗 HIV ウィルス薬によって覆い
隠され、感染者は、見た目には、非感染者と変わらない身体を手に入れ、郡立病院と強固な紐帯
を築くことによって村内で生きることを選択することとなった。この 2002 年の医療をめぐる変
化を境にして、彼ら/彼女らは、自らの身体をどのように利用した、または利用しない戦略を取
っていったのか。
本報告においては、医療化された HIV/AIDS 感染者の身体的影響に加え、それが農村に与え
た影響を感染者の内的心情より考察し、彼ら/彼女らが村内で不可視化され、分断されていく過
程を追うことで、その原因について分析する。
7
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨⑧ 2016/07/03
第 2 会場 9:45-10:15
タ イ に お け る 非 合 法 入 国 者 子 孫 と 無 国 籍 者 へ の 国 籍 付 与 の た め の 政 策 ― 1992 年 の 国 籍 法
改 正 と 2000 年 以 降 の 出 生 地 主 義 適 用 要 件 緩 和 を 中 心 に ― 尾田 裕加里(日本女子大学大学院人間社会研究科 博士後期課程) 本研究の目的は、2000 年以降のタイにおいて進められてきた、一連の、
“出生地主義適用要件
緩和を含む、非合法入国者子孫と無国籍者への国籍付与のための政策“(以下、「政策」と記す)
を可能ならしめた要因について、各「政策」が対象とした人々に焦点をあてて分析と考察を行い、
それを明らかにする事である。 本研究の手法は、先行研究の文献研究と関連資料の分析であり、関連資料として、1992 年、
2008 年、2012 年に改正された国籍法の各条文、2000 年「高地民の住民登録における法的地位の
記載に関する中央登録事務所規定」の条文、2004 年、2012 年の内務省告示、2000 年、2005 年の
出生地主義に関する閣議決定議事抄録他それらの解説文書を用いる。そして、それら関連資料か
ら明らかになる、各「政策」が対象とした人々に焦点をあてて当該「政策」の分析と考察を行い、
結論を論じる。タイの国籍未取得者現況については、2014 年 8 月のタイ国内務省訪問によって
筆者が入手したデータを用いる。 そして、2000 年以降の一連の「政策」を可能ならしめた要因は下記①②として結論づけられ
た; ① 2004 年までは革命団布告 337 号の影響を受けた者を中心に、2005 年以降は拡大的な新基
準に該当する非合法入国者子孫と無国籍者にタイ国籍が付与されるようになった。その
要因は、国際的な人的移動の時代においては、長らくタイに暮らしてきた人々には合法
な法的地位を与える事が国家安全保障上 “より良い” と判断された事である。 ② 上記①の付与による国籍取得者については、後日の取消可能性規定の付加によって安全
性が担保され得る事も要因の一つとなっている。 特に上記①に記載される、2005 年 1 月 18 日に文民出身のタクシン政権下で閣議決定された「戦
略」と称する「政策」は、その後、2007 年に軍人出身のスラユット政権下、2009 年と 2010 年に
は軍の力で政権の座に着いたとされるアピシット政権下においても再度閣議決定された。また、
2012 年に文民出身のインラック政権下で更に広い範囲に適用されるよう修正が加えられて、2014
年 5 月の軍によるクーデター以降も継続して採用されてきている。その為、当該「政策」は、政
権交代とは異なるレベルのものである事が理解されるものである 8
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/03
個別報告要旨⑨ 第 2 会場 10:20:-10:50 排 除 か ら 分 割 包 摂 へ : タ イ の 社 会 保 障 制 度 の 四 層 化 浅見靖仁(法政大学) 社会保障制度研究の分野では、多くの国において社会保障制度は3つの層からなるといわれている。
第1の層は、保険料を支払う必要がない税金でまかなわれる社会保障制度、第2の層は、公的部門が運
営する保険料を支払う必要がある社会保障制度、そして第3の層は、民間の保険会社などが提供する各
種の保険サービスである。 保険料を支払う経済的な余裕のない極貧層には第1の層で対応し、所得に応じた保険料の設定が比較
的容易なフォーマルセクターの正規労働者には第2の層で対応するという多くの途上国で見られる構
図が、タイでも 1970 年代から 90 年代にかけて定着した。しかし経済の中進国化にともない、非正規労
働者(この報告では農民も非正規労働者に含めて考察する)の所得水準もある程度向上し、非正規労働
者に「極貧層」が占める割合が低下すると、上述したような社会保障制度の構図では、公的社会保障の
恩恵に浴することのできない者の数が増加することになる。有権者のかなりの部分を占める極貧ではな
い非正規労働者を公的社会保障制度の枠外に置き続けることは政治的に得策でないことが多い。 タクシン政権が導入した 30 バーツ医療制度は、1回当たり 30 バーツが徴収されるとはいえ、その額
が極めて少額で、支出のほとんどを政府予算で補填しており、第1の層に属する制度とみなされる。30
バーツ医療制度は所得レベルに関係なく非正規労働者全員に適用されたため、「極貧層」以外の非正規
労働者にも第1の層の社会保障制度を拡大する試みだったといえよう。公的年金の受給資格を持たない
高齢者を対象として、2010 年9月にアピシット政権が導入した高齢者手当(เบีย
้ ยงั ชีพผูส
้ งู อายุ)も、所得
レベルを受給条件としておらず、「極貧層」以外の非正規労働者あるいは元非正規労働者に第1の層の
社会保障制度を拡大するものとみなすことができる。 しかし受益者に負担を求めない第1の層の社会保障制度が提供するサービスは低いレベルで一律化
されることが多いため、数の増した「極貧」ではない非正規労働者の多様なニーズに十分に応えること
は難しい。また彼らに「相応」の自己負担を求める声が、税負担を重く感じている上層や中間層の間に
高まりやすい。こうした状況の中、2010 年以降のタイでは、
「極貧」ではない非正規労働者を対象とし、
受益者にも受益の質と量に応じて負担を求める公的社会保障制度の拡充が試みられるようになってい
る。インラック政権は、従来の3層構造を基本的に維持し、第1の層の社会保障制度を質量ともに向上
されるとともに、経済的に余裕のある非正規労働者は、従来正規労働者のみを対象としてきた社会保険
基金(กองทุนประกน
ั สงั คม)に加入させる政策をとったのに対し、プラユット政権は、第1の層の拡充に
は消極的で、そのかわりに正規労働者向けの社会保険基金とは別に、公的部門が運営するものの、受益
者に保険料を支払わせ、保険料に応じて受益の質や量が異なる新たな社会保障制度を非正規労働者向け
につくる(社会保障制度の4層化)政策をとっている。 本報告は、「極貧」ではない非正規労働者向けの社会保障制度のあり方をめぐるインラック政権とプ
ラユット政権の対応の違いについて分析し、そうした違いは、政策決定に関与する各アクターの選好と
力関係の変化によって生じたことを指摘する。またそうした考察を通じて、社会保障政策をめぐる対立
は、表面的にはタクシン派と反タクシン派の対立の構図と合致しているように見えるものの、実際には
両派の対立とは直接的には関係のない省庁間の権限・利権争いが複雑にからんでおり、そのことが、近
年のタイの社会保障制度改革を2つの異なる方向性の間で揺れ動かせていることを明らかにする。
9
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨⑩ 2016/07/03
第 2 会場 10:55-11:25
タ イ の 政 治 と 社 会 の な か の 左 派 の 知 識 人 ― ジ ッ ト ・ プ ミ サ ク を 中 心 と し て ― ピヤダー・ションラオーン(立命館大学) タイが絶対王権制から立憲君主制に変わって,まもなく 85 年目を迎えようとしている。周知の
ようにこの 84 年間というもの,とくに 1940 年代末期から今日に至るまで,タイの政治に於い
ては軍隊のクーデターによる政権交代が繰り返されてきた。そして憲法も軍事独裁政権によって
何度も破られ変えられてきた。そのなかで左派の知識人や共産主義者,そして 2001 年から 2008
年ごろまでの黄色シャツ派やその後の赤シャツ派といった様々な反政府派も台頭した。1940 年
代末期から 70 年代にかけて活発になったのが、反政府運動及び反アメリカ帝国主義運動であり、
1970 年代の学生運動の頃にピークを迎えていた。 本報告では,1950 から 60 年代にかけて活動したジット・プミサクという左派の知識人を中心と
した,反政府派の役割を検討する。ジットは数多くの著作,詩及び歌を通じて,ピブーンとサリ
ット政権、そしてアメリカの帝国主義に反対したマルクス主義者の一人であり,36 才という若
さで反共産党の準軍事隊員に殺された人物である。彼は,死後,とくに 1970 年代の学生の民主
主義要求運動に非常に大きな影響を与えた。当時,彼の他にもたくさんの左派の知識人や活動家
が存在したにもかかわらず,彼が突出してカリスマ的存在となり得たのは,数多くの著作のため
ばかりではなく,反体制派や学者など様々なグループによって彼のイメージが造り上げられたた
めであると考えられる。 彼の著作と彼に関する伝説については,今までたくさん研究がなされてきたが,本報告では特に,
今まであまり注目されてこなかった作品に焦点を当てながら,タイの現代社会と政治に対し,彼
がどのような影響を与えたのか,彼のイメージが時代とともにどのように変容してきたのか,そ
してそれは 70 年代から現代までのタイの社会と政治の変化をどのように反映しているのかにつ
いて考察する。 10
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 個別報告要旨⑪ 2016/07/03
第 2 会場 11:30-12:00
1890 年 代 に 於 け る 岩 本 千 綱 の 冒 険 的 タ イ 事 業 : 渡 タ イ 前 の 経 歴 と 移 民 事 業 を 中 心 と し て 村嶋英治(早稲田大学アジア太平洋研究科)
近代日タイ関係史は、どの時期をとっても、また何語においても詳細で精度の高い既存研究は
存在していない。この研究のためには、少なくとも日タイ両語の一次資料(例えば公文書、同時
代の新聞雑誌図書情報、個人文書や回想録等)を両国のアーカイブ、図書館等で徹底的に調査す
る必要があり、相当に長い時間を必要とる。一方、従来手軽には接近できなかった日タイ関係資
料を、この 10 年余のオンライン検索の充実のお陰で、容易に見つけることが可能になったこと
は、近代日タイ関係史の本格的な研究の進展ためには大きな光明である。
報告者は、上記の方法による資料収集に比較的長期間従事し、現在も続行中であるが、その成
果の一端を過去 6 年間、タイ国日本人会月刊誌『クルンテープ』に「バンコクの日本人」と題し
て連載してきた。また、この連載文を現在までのところ、①「戦前期タイ国の日本人会及び日本
人社会:いくつかの謎の解明」(『タイと共に歩んで:泰国日本人会百年史』2013 年 9 月刊、13
―49 頁)、②「バンコクにおける日本人商業の起源:名古屋紳商(野々垣直次郎、長坂多門)の
タイ進出」(『アジア太平洋討究』24 号、2015 年、39―69 頁)、③「1890 年代に於ける岩本千
綱の冒険的タイ事業:渡タイ(シャム)前の経歴と移民事業を中心に(上)」(『アジア太平洋討
究』26 号、2016 年、157―223 頁)の3論文に再整理して刊行した。この 3 点ともウェブ上で
簡単に入手可能である。特に③について事前閲覧をお願いしたい。
本報告では、上記③の論文をもとに、近代日タイ関係初期において、大きな役割があった岩本
千綱(1858-1920、高知県士族)について次の順序で報告したい。
1,タイに初渡航(1892 年 8 月)するまでの経歴
1873 年 2 月土佐旧藩主の在京洋学校(海南学校)入学、1874 年 6 月陸軍幼年学校入学、
1879 年 12 月陸軍士官学校旧 3 期卒 65 名の歩兵・騎兵中席次 6 位、1888 年 4 月停職命
令(保安条例との関係?)、1888 年 12 月依願退職、タイ情報の増加
2,日本におけるタイ殖民情報の錯綜と試行錯誤
新田開発とスラサックモントリー、1893 年 12 月熊谷直亮の殖民調査、津田静一の移民企
図と宮崎滔天「暹羅殖民始末」(1897 年7~8月記)の誤り
3,岩本の第 1 次移民事業(1894 年 12 月)とブカヌン金鉱山の惨状
移民取扱人小倉幸の山口県大島郡での募集、岩本と移民との現実離れした契約、1894 年
4 月調査の斉藤幹『暹羅国出張取調報告書』
(外務省通商局第二課、1894 年 9 月)と 1894
年 5-8 月調査の鈴木錠蔵「暹羅探検報告」(『殖民協会報告』18 号、1894 年 10 月)の暹
羅農業生産性への極端な過大評価
4,岩本の第2次移民事業(1895 年 10 月)と海外渡航株式会社(以上)
11
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 分科会1「在日タイ人の現在」要旨 2016/07/02
第 1 会場 13:30-15:30
【分科会趣旨】 在日タイ人の現在―移動と定着の狭間で―
代表者・報告者 齋藤百合子(明治学院大学)
2015 年末現在、在留外国人総計 2,232,189 人のうちタイ人は 45,379 人で全体の第 10 位で約2%である 1。し
かし、タイ人の日本への移動に関する以下の傾向を見ると、現代の日本におけるタイ人の移動と定着に関する課
題は決して小さくない。在留タイ人の男女比において女性が 70%以上を占めている移住の女性化傾向、観光等の
短期滞在タイ人の急増に見る日本観光ブーム、訪日タイ人増加に伴い 2014 年以降急増しつつある新たな非正規
滞在や非正規就労など出入国違反者の急増、地味だが微増傾向にあるタイ人技能実習生・研修生の微増傾向だ 2。
また日本で発生した人身取引事案では。2000 年以降の国籍別累計でタイ人被害者が最も多い 3。
国際移民研究は、まず移民の決定要因、移民過程と移民形態など類型の分析、次に移民が受入国の社会に統合
される過程についての考察という大きな二つの流れがあるとされる(Castles & Miller、2009)。タイから日本へ
の移住労働や移民の先行研究は、チュラロンコン大学にある Asia Research Center for Migration(ARCM)など
タイの研究機関を中心に Chantavanit(2001)などが在日タイ人の移民の要因や過程および形態に関して実証的
な調査研究を行った。日本の研修生や技能実習制度に関する研究は少ないが、鈴木(2001)
、ブドセン(2011)
がその課題を取り上げた。また 1990 年代センセーショナルにマスコミ等でも取り上げられた人身取引課題は、
たとえば女性の人権カマラード(1998)などの支援団体が編纂し、刑事事件の背景にある人身取引の実態を明ら
かにしているし、日本とタイの人身取引における人権や法的課題を Human Rights Watch (2001)が、日本から
タイに帰国後の女性たちの課題を Caouette & Saito (1999)が取り上げている。しかし、タイ人の日本への移動や
移住労働の調査研究が 1990 年代の性産業の苛酷な状態に送り込まれたタイ人女性に集中していることから、浅
見は「逆ジェンダー・バイアス」ではないかと指摘している(浅見 2003)
。
本分科会では主に移民の受入国への定着や統合(もしくは排除)の課題を取り上げる。Ratana 報告は、タイ
人移住者が定着する際にどのように自らの文化や慣習を保持しながら滞在国の国に適応し、定着していくのかを
ディアスポラの観点から報告される。
また柿原報告は、
福岡県および九州地区における外国人女性の相談や保護、
支援を実践している民間団体の活動から、とくにタイ人女性支援の経験から見える課題が報告される。齋藤報告
はタイ人の母親とその子どもたちの社会的排除と包摂を多文化共生の課題として取り上げる。
<文献>
浅見靖仁 (2003) 「国際労働力移動問題とタイ―研究動向と今後の課題」,大原社会問題研究所、
『大原社会問題研究
所雑誌』No. 530. 女性の人権カマラード編 (1998) 『タイからのたより:スナック「ママ」殺害事件のその後』
、現代書館。 鈴木規之(2001) 「日本におけるタイ人研修生の動向」
、琉球大学『琉球大学法文学部 人間科学』No.7, p129-160. ブドセン、タンヤボーン (2011)「外国人研修技能実習制度:在日タイ人研修生の現状と課題」
、
『人間文化創成科学論
叢』第 14 巻、お茶の水女子大学,p311-319。 Caouette. T & Saito,Y (1999) To Japan and Back: Thai Women Recount their Experiences, International
Organization for Migration (IOM), Geneva.
Chantavanit, Supang et al.(2001)Thailand’s Responses to Transnational Migration during Economic Growth and
Economic Downturn, Journal of Social Issues in Southeast Asia, Vol.14(1), Asian Research
Center of Migration. Bangkok.
Catsles S & Miller S.J. (2009), The Age of Migration: International Population Movements in the modern world
(Fourth Edition), Palgrave Macmillan.
Human Rights Watch (2000) Owed Justice: Thai Women Trafficked into Debt Bondage in Japan, New York. ―――――――――――――
1 法務省入国管理局 2015 年 12 月 http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001150236 (2016 年 6 月 4 日最終アクセス)
平成 27 年度『出入国管理』http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri06_00067.html (2016 年 6
月 4 日最終アクセス)
3 警察庁 「平成 27 年中における人身取引事犯の検挙状況等について」
https://www.npa.go.jp/pressrelease/2016/02/20160218_01.html (2016 年 6 月 4 日最終アクセス)
2 法務省 12
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 分科会1「在日タイ人の現在」要旨 2016/07/02
第 1 会場 13:30-15:30
Finding their home in the host society: Identity construction of Thai diaspora in Japan
Ratana Tosakul
(Tokyo Metropolitan University)
My presentation is based on preliminary findings of my on-going research project about lived
experience of Thai diasporic subjects in Japan. The study looks at processes of identity construction of
those Thai diasporic individuals. Identity construction of those Thais is not a one-way process of Thai
into the Japanese culture. I argue that what is transnational is actually embedded in the local.
Local/global relations do not cause the disappearance of local culture in the global context. Thai
diasporic subjects do maintain a strong sense of belonging to and connection with their home of origin.
Their lived experience plays out in relationships not only to inter-ethnic groups and boundaries
(Barthes 1969), but also to the connectedness and disconnectedness of other articulated fields of
identity- of class, religious, gender, and place.
Although a Buddhist center has served as their ‘imagined community’ where their collective
ethnic Thai identity is notably perceived and expressed, their multiple contested articulated fields of
identity persist. I investigate the intersection of personal subjective experience and the social, cultural,
economic dynamics of both home and host societies that have influenced the experience. Also, I have
observed that social media via cyberspace including Line, Skype and Facebook has increasingly been
used as a focal space linking Thai people to one another locally and internationally in such a way that
their collective identity has been formulated. A Thai restaurant has also provided a space for their
identity construction.
I have employed ethnographic field methodology for this research project. Primary data were
obtained from my preliminary anthropological fieldwork with different Thais in Tokyo, especially in
Hachioji, Hamura, Fussa, Kabe and Ome from April to September 2013, July 2014 and April 2016. In
addition, I interviewed some representatives and members of Thai networks and a group that are
primarily based in Japan. Also, data via internet where there are relevant websites organized by Thai
networks and groups were collected. Finally, a survey of relevant documents and statistical data was
also collected.
13
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 分科会1「在日タイ人の現在」要旨 2016/07/02
第 1 会場 13:30-15:30
福岡における外国籍女性支援の現状と課題―タイ人女性への支援から感じるもの― 柿原理香子(アジア女性センター 専任スタッフ) 福岡県の外国人数(外国人登録者数) 出典:法務省入国管理局「在留外国人統計」平成 26 年版 ・56,437 人=全国 9 位(2013 年 12 月末) 福岡県人口 5,092,851 人 ・留学(就学)25.2% 特別永住者 24.5% 永住者 19.3% 家族滞在 7.5% 日本人の配偶者等
5.1% その他 18.4% ・福岡県のタイ国籍者は緩やかに増加傾向 2004 年…249 人 2009 年…351 人 2013 年…420 人 当時者関係国 アジア女性センター(AWC の活動) ・1997 年に活動を開始した、民間のグループ。国籍、在留資格を問わず、困
難を抱えた女性と子どもへの支援活動 ・女性のためのホットラインを開設。日本語・英語は平日の毎日。中国語は
週 4 日、タガログ語は週 3 日、韓国語・タイ語・インドネシア語は月 1 日
で対応。面接相談も。 ・関係機関への同行支援、連携支援も積極的に行い、ソーシャルワークを実
践する。 ・女性相談等の支援現場への通訳派遣事業 ジェンダーの視点を大切に、アジア出身の女性と多文化の背景を持つ子どもた
ちへの支援活動を行う。一過性の国際交流ではなく、多文化共生社会の実現を
目指す。 14
14 年度 15 年度 フィリピン 507 442 タイ 40 12 中国・台湾 65 38 韓国 32 12 他アジア 27 60 中南米 6 1 東欧・ロシア 44 5 アフリカ諸国 11 0 日本 109 142 2 23 843 735 不明・その他 計(件) 日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 分科会1「在日タイ人の現在」要旨 2016/07/02
第 1 会場 13:30-15:30
タイ人移住女性と子どもたちの日本での多文化共生の課題
齋藤百合子(明治学院大学)
2016 年 12 月現在日本に中長期的に滞在する外国人は在 2,232,189 人で毎年微増しており、人口減少化
傾向にある日本人の人口動態とは対照的である。外国人の定住化が増加してきた背景に対応して、2006
年に総務省は多文化共生を「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関
係を築こうとしながら地域社会の構成員として共に生きていくこと」と定義(総務省 2006)し、地域社
会において居住する外国人の居住、教育、労働環境、医療・保健・福祉、防災など生活サポートを含む多
文化共生推進プランの策定を各都道府県および政令指定都市に促した。しかし、研究者らからは多文化共
生を促す地域社会での意識啓発活動の多くが 3 つのF(Food、Fashion、Festival)に象徴される一過性
の国際交流イベントとなる傾向やⅰ、日本の外国人政策の歴史的経緯を隠蔽する機能を果たし、また「共
生」を差別問題として政治化しない限りで使用している(樋口 2010 : 5)と指摘されている。 本報告は、まず日本に定住するタイ人女性とその子どもたちの属性や傾向をとらえ、それぞれのカテゴ
リーの人々が日本での多文化共生を享受できているのか批判的に検討する。そのうえで、自助的な同国人
組織やネットワークの形成は滞在国における市民性を醸成しつつある(齋藤 2010a、三浦 2015)ものの、
そうしたネットワークからも距離を置く(置かざるを得ない)周縁的な位置にある人々もいる(石井 2011,
齋藤 2010b)にも着目し、日本への移動と定住の狭間にいるタイ人(もしくはタイ出身のタイ国籍をもたな
い人々)とホスト国である日本の課題を検討する。 本報告は、2010 年に関東のタイ人とその子どもたちのコミュニティとネットワークの調査、2011 年の福
岡県でのタイ人とフィリピン人の女性子どもたちの多文化共生の調査、2015 年からの女子高校生支援団体
における子どもの貧困と虐待の参与観察からの考察である。 <参考文献> 石井香世子(2011)
「無国籍『在日タイ人』からみる越境移住とジェンダー:多文化共生から取りこぼされる人々」
、日本移民
学会編『移民研究と多文化共生』共著 御茶ノ水書房。 齋藤百合子 (2010 a) 『外国人を親にもつ児童の社会包摂に関する調査研究』平成 21 年度児童関連サービス調査研究等事業
報告書 こども未来財団、p1-64。 ―――――(2010b)
「見えない人身取引―過去の人身取引被害者の複合的な脆弱性」
、明治学院大学国際平和研究所『PRIME』
第 34 号。P71-80。 総務省 (2006) 『多文化共生の推進に関する研究会報告書』 http://www.soumu.go.jp/kokusai/pdf/sonota_b5.pdf(最終アクセス 2016 年 6 月 4 日) 樋口直人 (2010) 「
「多文化共生」再考―ポスト共生に向けた試論」
『アジア太平洋研究センター年報 2009 年』
、大阪経済法
科大学。 三浦綾希子 (2015)
『ニューカマーの子どもと移民コミュニティ 第二世代のエスニックアイデンティティ』
、御茶ノ水書房。 ――――――――――――――
ⅰ「外国人の受入れと社会統合のための国際ワークショップ」テーマ1分科会(外務省、神奈川県、国際移住機関(IOM)
主催)にて、コーディネーターを務めたアンジェロ・イシがまとめたペーパー「外国人を受け入れる地域社会の意識啓発に関
する課題」p3によるもの。
15
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/02
分科会2「ネットワークからみるタイ農村の変貌」要旨 第 1 会場 15:40-17:40
タイにおけるメディア改革運動とコミュニティ・ラジオ
岩佐 淳一(茨城大学)
1.本報告の目的
周知のように、1992 年のいわゆる 5 月流血事件以降、タイにおいては民主化・政治改革運動、市民運動が盛
り上がりを見せ、それらは 1997 年憲法の成立へとつながっていった。こうしたなかで、メディアの領域におい
ても改革運動が大きなうねりを見せていたことは、これまであまり紹介されてこなかった。本報告では 1990
年代後半から 2000 年代中期にかけて起こったメディア改革運動の概要について報告するとともに、
この改革運
動の落とし子であったコミュニティ・ラジオ(コミュニティ FM)の展開過程を追う。そのうえで、タイ農村に
おける情報ネットワーク媒体の一つであるコミュニティ・ラジオの地域的機能について展望したい。 2.タイにおけるメディア改革運動 タイにおけるメディア改革運動の遠因は 1970 年代の学生革命、1992 年の 5 月流血事件に遡ることができる
が、直接的には 1997 年憲法第 40 条の制定とその解釈に求めることができる。1997 年憲法第 40 条は、電波を
公益のための国家の通信資源と規定し、放送・通信を監督する「独立機関」を設置し、この独立機関が周波数
割り当てを行うことが明記された。電波行政を国家機関から切り離すというアメリカ型の制度が導入されよう
としたことはタイの放送において画期的なできごとであった。1997 年憲法第 40 条の条文の重大性に気づいた
学者や市民社会が、表現の自由を保障するために周波数へアクセスする権利を国家に認めさせること、放送・
通信の独立機関を設置する作業を監視すること=メディア改革の圧力団体として機能すること、タイの放送の
構造=メディア所有システムの改革などを目指して展開されたのがメディア改革運動だった。 3.メディア改革運動とコミュニティ・ラジオ メディア改革運動は、地方においてはコミュニティ・ラジオの置局として展開する。しかし、2000 年代を通
じて、タイのコミュニティ・ラジオは 1 時間 6 分以内の広告放送が許可された(2003 年)ことによる急速な商
業化と利潤を狙った大量開局(一時は全国に 7,000 局といわれた)
、電波送出ルールの無視による技術的混乱、
一部のコミュニティ・ラジオの政治化などによって、当初、メディア改革運動において想定されたコミュニテ
ィ・ラジオの理念から大きく乖離していった。その結果、
「市民の、市民による、市民のための」情報媒体とし
て、あるいは地方の住民にとって欠かせない情報媒体としての機能を十分果たせないまま今日に至っていると
総括できる。 16
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/02
分科会2「ネットワークからみる農村の変貌」要旨 第 1 会場 15:40-17:40
変貌するタイ農村における区福祉基金の普及
佐藤 康行(新潟大学)
2012 年と 14 年の日本タイ学会で報告した研究は、近年大きな変貌を遂げているタイ農村において、村落保
健ボランティアに新しい役割が与えられたことにともない、その仕事の効果を上げるために、どのような社会
的条件がコミュニティに必要かを事例の比較研究をとおして考えることであった。
2012 年における報告の暫定
的結論は、1村落保健ボランティアが担当する人が親族や日頃、行き来がある人、共同作業・共同組織がある
など、個人間の共同性が重層された、互いに信頼し合う関係があると効果的な活動ができるというものであっ
た。 2014 年の大会報告では、
以下の点を研究課題とした。
市民社会形成として市民意識の形成、
市民組織の形成、
市民のネットワークの形成の3つを挙げているコマートンは、今時の国家保健システム改革が市民社会形成を
もたらすと述べているが、先の3つの側面は実際に形成されているのであろうか。市民社会が形成されている
といえるならば、どのような点においてそう言えるのかを検討することを課題とした。
結論として、
「コマートンは、活動的な市民が医療・保健に関して熟議する過程こそが新しい公共空間の誕生
であるととらえているが、農村のなかでは熟議する公共空間はまだ出現していない。自律した個人の市民意識
や市民組織もまだ現れていない。新しい住民組織の形成はいずれも行政の指導にもとづいており、かならずし
も自発的ではない。むしろ、村落保健ボランティアの仕事が多くなり、ネットワークが拡大され深くなってい
る。なかでも町部以外の農村部において村落保健ボランティア委員長は、村や区の新しい委員会の委員になっ
ている。とはいえ、彼らは村長や区自治体委員のような権力をもっていない。見いだされる村落保健ボランテ
ィア委員長の役割として、人と人をつなぐノード(結び目)の役割が挙げられる。具体的には、区の保健基金
の委員として、各村とも村落保健ボランティア委員長が担当していることに、その一端が表れている。暫定的
に、ネットワーク形成において今時の保健改革は市民社会を促進していると言えるかもしれない」とした。こ
のように、以前の研究結果は、農村部における人びとのネットワークの形成・拡大に市民社会の一端がみられ
ることを指摘したにとどまっていた。次に、そのネットワークの性質それ自体を課題にしなければならない。
今回の報告は、現在、通称「1日1バーツ」と呼ばれている区福祉基金が普及している背景を考えることで
ある。村の中においては、人びとは主として親族や近隣関係によって結ばれている。それに対して、区におけ
る人びとの関係性は村と同じく親族や近隣関係で結ばれているわけではない。また、村落基金や協同店などに
みられるように、同じ村の構成員として組織しているわけではない。それでは、どのような関係性を介して区
福祉基金は拡大普及しているのであろうか。本研究は、この点をネットワーク論の観点から複数の事例研究を
比較考察することによって明らかにする。
調査した事例は、スリン県ムアンリン区においては仏教の理念を用いて普及拡大をすすめている、スリン県
ブックレーン区においては保健所の公的機関の職員がすすめている、チェンマイ県サンパトーン郡バーンクラ
ーン区においては高齢者のリーダーが中心になって利益があるという説得をすすめている。しかし、こうした
方法に頼らずに普及がすすめられている事例(スリン県シーカラプーム郡バーンテーン区)もあった。さらに、
チェンマイ県サンパトーン郡バーンクラーン町第2地区のような事例では、町全体にまで福祉基金が広がって
いないため、政府から資金援助が受けられないにもかかわらず、その地区だけで単独で加入していた。ほかの
地区では、村長が福祉基金に対して理解を示していないため区福祉基金に加入していなかった。村長が賛成し
ないと普及できないことが知られる。
結論としては、
人びとが区福祉基金に加入することで利益があることを認めることが重要であった。
これは、
村の中でおこなわれてきた協同店や貯蓄組合、葬式組など(村の外部の人も構成員に加入している)と同じく、
利益に基づいて加入する方法と同じである。また、特に村長など村のリーダーが区福祉基金に理解を示してい
ることが普及する上で必要とされることが知られた。普及において人びとの関係性、つまりネットワークが果
たす役割が重要であり、区福祉基金を円滑に普及させる上で潤滑油のような役割を果たしている
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日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/02
分科会2「ネットワークからみるタイ農村の変貌」要旨 第 1 会場 15:40-17:40
コミュニティづくり・居場所・ネットワーク―北タイ農村の事例
馬場雄司(京都文教大学)
アンドリュー・ウォーカーは、その著書 Tai Lands and Thailad : Ccommunity and State in Southeast
Asia において、モダン・タイ・コミュニティーという概念を提出している。これは、近年のグローバル化
の進展の中、東南アジア大陸部タイ族世界において立ち現れてきた近代/伝統の二分を越え、国家や市場と
共存しうる開かれたコミュニティである。コミュニティ文化論でいう「かつて存在した復活すべきコミュ
ニティ」は実在したものではなく創られた理想であるという批判の中で言及されているように、タイのコ
ミュニティは決して明確な境界とメンバーシップをもつものではない。ウォーカーは、コーエンのコミュ
ニティの象徴的構築(symbolic construction)の理論とアミットのコミュニティ実現(realizing community)
の理論に注目し、シンボルを共有することと個々人の日常的な行為が形作る開放的(境界のない)なコミ
ュニティという考え方を参照している。
以上の議論を念頭に、本発表では、19 世紀中国雲南省シプソーンパンナーから現在のナーン県たーワン
パー郡に移住したタイ系民族タイ・ルーの N 村の事例をとりあげる。N 村では、3年に 1 度、隣接する2
か村とともに故地ムアンラーの守護霊を祀ってきたが、90 年代以降、地域開発の進展により N 村を含む3
か村は、
村落間の対立による儀礼の分裂など様々な社会変化を経験した。
故地とのつながりが希薄になり、
バンコクなど村外への移住者も増加した現在、儀礼は故地とのつながりによって維持されるタイ・ルーの
アイデンティティというより、村落開発政策の中で強調された村落の特徴としてのタイ・ルー文化を目印
としたコミュニティ・アイデンティティーを紡ぎだす役割を果たす。村落はタイ・ルーという目印をもつ一
つの居場所(belonging)へと変化し、村落からの移住者は、移住先と故郷の二つの居場所を持ちつつ様々な
つながりのあり方を通して村人意識を維持する。そして、移住先のみが居場所になった時にタイ・ルー村
落への帰属意識は喪失する。ここには、移住という過去の表象である守護霊が象徴的中心として求心力を
もち、それにつながる人々の帰属意識はフレキシブルであるという、ウォーカーのいう「モダン・タイ・
コミュニティ」の性格を備えた明確なバウンダリーのないコミュニティのあり方がみられる。ここにみら
れる人々のつながりは、経済危機後の地域再生政策や福祉政策で強調された「家族」
「コミュニティ」とい
う想定された「あるべき全体性」よりも、村落という行制的なバウンダリーを超えて現実の相互扶助をつ
むぎだすフレキシブルなネットワークである。
また、守護霊というシンボリックな中心は、過去とのつながりをも象徴するが、つながりの永続を願う、
いわば未来への希求とむすびついた時、次世代への伝承の象徴となる。この意味で「つながり」は過去や
未来とつながることをも含めて考えられるべきであり、また、そのことが現在の「つながり」の在り方に
も大きく影響する点を考慮するべきである。
本発表では、以上の事例を中心に、コミュニティ、ネットワーク、居場所という概念とその相互関連に
ついて検討してみたい。
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日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/02
分科会2「ネットワークからみるタイ農村の変貌」要旨 第 1 会場 15:40-17:40
タイ農村に根ざしたネットワーク論へのいざない 尾中文哉(日本女子大学)
1. 目的
分科会提案趣旨に沿い、タイ農村を基礎としたネットワーク論のひとつを提示し、その有効性を主張す
るものである。
2. 内容
ネットワーク分析がタイ農村研究にもたらすのは、まず社会的ネットワーク論である。これは、頂点と
線分のみで社会関係を描こうとする発想にまずよっているが、より重要なのは、Pajek,Ucinet をはじめと
した数多くのソフトウェアが開発され、それを用いて具体的なデータを分析できるようになったというこ
とである。
タイ農村での長期滞在にもとづくフィールドワークで得られたデータをこれで分析しなおしてみた。今
回は H 村 1996 年 3 月~8 月の調査と N 村 1996 年 10 月~1997 年 3 月の調査における親族関係と日常的
な往来に関して社会関係のデータを作成し、作図してみた。そこで筆者が指摘できるのは、作図した上で
も、いくつかの意味でネットワーク的と捉えたほうがよいと考えられる。(1)密接に編み上げられた全体を
構成しているというよりは、密接な関係をつくっているいくつかの部分からそうでない部分へとゆるやか
に広がっている。(2)密接な関係をつくっているいくつかの部分も、完全に切り離されているわけではなく、
どこかにリンクがありつつ少し離れているということである。
このことは、タイ農村を「コミュニティ」という密接に組み上げられた実体を想定する概念(仮に境界が
あいまいなものを想定したとしても)より、古いタイプのタイ農村研究が「二者関係のネットワーク」と呼
んでいたネットワーク的イメージで論ずるほうが適切ではないかと予想させる。
筆者は、それに加えて、
「社会文化的ネットワーク」というものを考えるべきだと主張し実行してきた(尾
中 2015)。それは、上記の社会的ネットワークの枠組みを基盤としつつ、文化項目もノードとして考えて
ネットワーク図を描いてはどうかという提案である。これは、Bruno Latour のアクター・ネットワーク
理論や Andrew Walker の考える「ritual network」と発想は似ているが、この両者がもっぱら概念的に
考えられたものであるのに対し、社会文化的ネットワーク論は、社会的ネットワーク論と同様に社会関係
データの分析も含む点が異なっている。この分析方法をとることで、より鮮明にタイ農村のネットワーク
的編成を描き出すことができ、その「多元性」(北原)をつかみやすくなる、
「プロセス」(Onaka 2013)概念
とのつながりができるのもメリットである。
3. 結論
問題になっているのは、実態の記述と用語法の双方であり、いずれにおいても再び「ネットワーク」と
いう概念により組み直し二者関係および文化項目との関係を徹底してみていくことで「厚い比較」が可能
となると考えられる。そうすることで、タイ農村研究を現代的な社会科学の枢要な基盤のひとつとして提
示することができるのではないだろうか。
《参考文献》
Onaka, Fumiya. 2013. “Relating Socio-Cultural Network Concepts to Process-Oriented Methodology.”
Historical Social Research 38(2): 236-251.
尾中文哉.2015.『
「進学」の比較社会学―三つのタイ農村の「地域文化」との係わりで』ハーベスト社
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日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/03
分科会3「グローバリゼーション下の『文化復興』実践を問いなおす」 第 1 会場 9:45-11:45
【分科会趣旨】「グローバリゼーション下の『文化復興』実践を問い直す」
代表者・報告者 平田晶子(京都文教大学) 本分科会は、これまでタイ文化史の文脈からの包括的な検討がなされてこなかった 80 年代以降の
広義の「伝統文化」とその復興をめぐる諸相を、グローバリゼーションを視野に置きつつ、北部と東北
部の地方文化の担い手の諸営為からミクロに描き出すことに主眼を置いている。
これまでのタイ文化史において「伝統文化復興」に関しては、近代の歴史のなかで2つの段階がみ
られる。まず、その第一段階とは、19世紀末から20世紀初頭にかけての国民国家形成期で政策レベルに
ワッタナタム
みる 文 化 の思想啓蒙に始まり、西欧列強に劣らないものとして「文化復興」の動きが作りだされながら、
ピブーン政権下で「国民国家形成」のための重要な柱として打ち出された時期である。
しかしながら、この時期に図られた国民文化の創成から第2期とする20世紀後半から、インドシナ戦争、
アジア経済危機などの歴史的契機ごとに地域の文化状況を取り巻く環境は大きく変化してきた。
たとえば、
1970年代以降、国家主導のもと政治・経済のみならず文化的な中央集権化が進行する一方で、仏教や慣習
に根ざした自給自足的な共同体に支えられ、衰退しつつある「伝統文化」が再評価されるようになった。
さらには、80年代以降におけるグローバル化と急速な経済開発と冷戦終結、チャティップらの「共同
体文化論」言説の隆盛、90年代以降における地方分権の進展や「土着の智慧」言説の政策化、ASEAN
共同体との関わりなども、現代タイにおける文化復興を理解する上での重要な要素である。
本分科会の各報告が対象とするのは、少数民族の文化継承、伝統治療、映画、芸能と多岐にわたるが、
それぞれの領域において<文化>というものの経済合理性、社会関係資本としての位置づけ、存在論的な
基盤としての価値などが見直され、その復興や振興をはかる動きが急激に活性化されつつある点では共通
している。だが、これは必ずしもタイに限ったことではなく、いわば世界的な潮流でもある。では、そこ
に『タイ』というナショナルな文脈を持ちこむことにどのような意味を見出しうるのか、また逆に『タイ』
という文脈を外したときのグローバルな次元がどのように個別の事象と接合しうるのか、さらには両者が
どのように相関しているのかを議論の俎上に載せることは一定の意味を持っていると考える。
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日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/03
分科会3「グローバリゼーション下の『文化復興』実践を問いなおす」 第 1 会場 9:45-11:45
文化継承と文字―リス語正書法の世俗化をめぐるポリティクス―
綾部真雄
(首都大学東京)
本報告の目的は、タイ北部山地リスの間で近年繰り広げられている文化継承をめぐる種々の動きを正確
に捕捉するとともに、固有の文字を持たないかれらが、儀礼句や歌掛け(歌垣)の歌詞を文字として記録・
保存していくための正書法採用にまつわるポリティクスの輪郭を描き出すことである。
1990 年代以降、一部の危機感を持った山地民(近年、
「先住民(チョンパオ・プーンムアン)
」と呼ぶ局
面が増えている)の識者らがそれぞれの民族の文化振興/復興を目的とした文化イベントの開催に着手し
始めた。この動きは 2000 年代に入ってさらに加速化し、特に 2006 年にチェンマイ市のラーマ9世記念公
園内のオープンミュージアムで開催された「国王生誕 80 周年記念先住民大祭」以降、一気にその規模を
拡大させてもいった。
リスもまた例外でなく、やはり 1990 年代末に細々と開始されたリス文化大祭の規模は、2006 年~2008
年期に飛躍的に拡大し、今では1万人を超える参加者を動員するまでに至っている。しかし、ここにきて
リスの「文化」とその継承をめぐる 2 つの大きな問題が持ち上がっている。ひとつは、政治的な規制の緩
和により、他国の同胞との交流を許され始めた中国およびミャンマーのリスとどのようにネットワークを
形成し、また言語(方言)差を超えてどのようにコミュニケーションを深めていくかという問題である。
いまひとつは、近年目に見えて正確な知識を持った継承者が減りつつある様々な儀礼を、どのように次代
に遺していくのかという喫緊の課題である。現在、これらの懸念を同時に解消しうる方策としての「リス
語正書法」の導入がにわかに注目されている。中国やミャンマーでは定着して久しいフレイザー・スクリ
プト
(キリスト教宣教師が聖書のリス語への翻訳用に開発した文字)
をタイでも正書法として導入すれば、
コミュニケーションの問題も、儀礼句の記録の問題も同時に解消できるという論理である。
その一方で、タイのリスは、長年にわたる祖霊信仰系のリスとキリスト教系のリスとの間の確執という
問題を抱えてもいる。祖霊信仰系の人々の間には、
“クリスチャンの文字”としてのフレイザー・スクリプ
トを用いることへの強い抵抗感を覚える人々が今なお少なくなく、この心理的障壁を取り除くことに成功
しなければ、あるいは同スクリプトの「世俗化」の流れを定着させなければ、次に駒を進めることが難し
い。このような局面に登場したのが、リベラルな発想で両者を架橋しようとしている超教派のネイティブ
(リス)宣教師である。タイのリス・コミュニティにおいて長らく周縁的な存在であってきた彼らは、フ
レイザー・スクリプトに関する豊富な知識と、他国のリスとの教会ネットワークを資本とし、一躍その存
在感を高め始めている。だが、そのプレゼンスの高さゆえに、結果として新たな政治的火種を持ち込むこ
とにもなった。
本報告は、このネイティブ宣教師の存在を軸とした、リス語正書法の採用をめぐる諸アクター間のポリ
ティクスに関する試論である。
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分科会3「グローバリゼーション下の『文化復興』実践を問いなおす」 第 1 会場 9:45-11:45
民間医療復興における地域的特殊性とその要因について―東北タイ・サコンナコン県の事例を中
心に―
古谷 伸子(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・フェロー)
特に 1980 年代以降、タイでは知識人や NGO を中心にマッサージやその他の伝統医療が再評価される
ようになり、1990 年代、2000 年代には保健省内に設置されたタイ医療研究所そしてタイ医療代替医療開
発局によって、伝統医療の制度化や普及活動が進められるようになった。
そうした中央での動きと並行して、従来、国家による公的承認ではなく地域住民からの慣習的承認に基
づいて個別に治療を行ってきた地方の民間治療師もまた、
その実践を大きく変化させた。
彼らのなかには、
試験あるいは実績審査によってタイ医療の医療行為許可証を取得する者や保健所や郡病院などの政府系医
療機関で治療を行う者も現れ、民間治療師の一部は公的保健医療の一端に組み込まれてきた。さらに、外
部の人や機関との連携の下、各地で民間治療師のグループ化、ネットワーク化が進み、そこでの活動は治
療師たちに新たな知識と経験、そしてクライアントを得る機会を提供した。民間治療師のグループ化、ネ
ットワーク化は、行政や NGO などの側から見ても、関連事業を企画・実施する際に対象を明確化できる
という点で有益であり、その結果、そうした事業が増加することにつながったともいえる。
以上のように、過去 20 数年の間に民間治療師たちを取り巻く環境は大きく変化し、彼らの治療実践は
多様化してきた。本報告の目的は、そうした全国的な状況、グローバルな状況を視野に入れつつ、個別具
体的な事例に注目することによって、
民間医療復興をめぐる地域的特殊性を浮かび上がらせることにある。
地域によって異なる社会・経済・地理的条件や、例えばエイズ危機のような偶発的要因は、民間治療師の
組織化や治療実践にいかなる影響を及ぼしているのか。また、そこに国家の保健医療制度はどのように関
わってくるのか。本報告では、主に東北タイ・サコンナコン県の事例を取り上げ、プー・パーン国立公園
一帯の広大な森林の影響領域で複合農業(アグロフォレストリー)を基盤に始められた「インペーン・ネ
ットワーク」を中心として、そこに関わる個人や機関のあいだで展開した民間医療復興の実態について報
告し、地域的特殊性とその要因を検討する。
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分科会3「グローバリゼーション下の『文化復興』実践を問いなおす」 第 1 会場 9:45-11:45
タイ映画のニューウェイブにおける「イサーン」表象―文化復興におけるローカリティの所在―
坂川直也
(京都大学共同研究員)
本報告では、タイ映画のニューウェイブ(1997 年~)で、映された「地方」を取り上げる。なかでも、
イサーン(東北タイ)に焦点を当てて、地方性、ローカリティの表象の変化を明らかにする。イサーンは、
タイ映画のニューウェイブにおいて、バンコクに次ぎ、特別な地と言っても過言ではない。第一に、現在、
国際的に活躍する、アクションスターのトニー・ジャーの出身地(スリン県)として。第二に、今年、
『光
りの墓』が日本で公開された、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の故郷であり、撮影地として。イ
サーンは、タイ映画を世界に広めた、ふたりのスターを生み出した地域であるからだ。
ほとんどの国において、国民国家が成立した後、政府は大衆を国民化するために、国民としてのアイデ
ンティティーを確認させるためのナショナリズムの映画、すなわち、国民映画(National Cinema)を繰り
返し製作する。
差異より共通性が強調される国民映画において、
国民国家のイメージを一元化するために、
方言は標準語に吹き替えられ、各地方の独自性はナショナリティの影に隠されてきた。国民国家のイメー
ジが一元化され、ある程度、肥大化してくると、その揺り戻しとして、イメージと現実との齟齬を感じた
若い世代を中心に社会派リアリズム映画が製作され、国民国家のイメージの多元化が試みられる。タイ映
画においても、70 年代後半から、国家の周縁に生きる人々やその風俗文化に焦点を当てた、社会派リアリ
ズム映画が製作された。特に、イサーンに関するフィルムとしては、
『タクシー・ドライバー』
(1977)
、そ
の続編『トンプーン・コクポーの自由』
(1983)
、
『田舎の教師』
(1978)
、
『東北タイの子』
(1982)などが
ある。
タイ映画のニューウェイブにおいて、それまでの「イサーン」表象との違いは、脱・社会派、脱・リア
リズム、すわなち、不可思議と笑いにある。第一に、アピチャッポンに代表される、土地の精霊(ゲニウ
ス・ロキ)まで掘り下げた、マジックリアリズム。第二に、ヤソートーン県出身のコメディアン/俳優/
映画監督ペットターイ・ウォンカムラオ(マム・ジョックモック)による『イェーム・ヤソートーン』シリ
ーズ(2005~)や、
『愛してます サーラカーム』
(2011)
、
『イサーン・インディー』
(2014)に代表され
る、イサーン語による、ローカル・コメディの登場である。現在、イサーンの文化は、ニューウェイブの
映画人たちにより、不可思議と笑いを通して再発見されている途上で、今後も、さらなる作品が製作され
る予定であることから、ますます発見が進むことが予想される。
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分科会3「グローバリゼーション下の『文化復興』実践を問いなおす」 第 1 会場 9:45-11:45
イサーン・ルネッサンス?―文化評価システムの確立とモーラム芸能者の政治的・教育的活動の
関係から
平田晶子(京都文教大学)
1985 年、タイ王国文化省は「国家芸術家(sinlapin heang chaat)
」の文化勲章を開始した。以来、タ
イでは、芸術家としても知られるラーマ 2 世王の誕生日(2 月 24 日)を「国家芸術日」と定め、毎年「国
家芸術家」の受章者が決定される。1986 年の初代受章者には、音楽家、写真家、画家としての才能を評さ
れたラーマ 9 世プーミポン・アドゥンラヤデート王が「卓越した芸術家」として選ばれた。ほかにも、美
術、文学、建築・デザインなどの応用芸術、芸能の4部門に属する「芸術文化(sinlapa watthanatham)
」
の担い手たちが共に選出された。受章者には、福利厚生に相当する手厚い手当が支給される。
このような文化勲章の恩恵を、中部地方だけではなく東北地方に暮らす芸能者たちも享受している。た
とえば、トーンマーク・チャンタルーは、1986 年に東北地方で一番最初に芸能部門・大衆音楽の「国家芸
術家」を受章したモーラム・クローン(詩形をもった長編物語歌の名手)である。これを皮切りに、東北
地方の師範大学や国立大学出身の研究者・学生等によるモーラムに関する研究の学術的活動と連動しなが
ら、他のモーラム・クローンたちも受章者に入選していった。2000 年代に入ると、これに並行して、国連
UNESCO の無形文化遺産の目録にモーラムは登録されることになり、「イサーン文化復興(funfuu
watthanatham isan)
」事業下でモーラムは奨励対象の「イサーン文化」として受容されていった。こう
した文化評価の体系化は、ミクロレベルで活動するモーラムたちの芸能実践にも影響を与え、芸能活動自
体を大きく変化させた。モーラムのなかには「国家芸術家」の受章を意識しながら、政治・教育活動に一
層力を注ぐ者もでてきた。近年では、モーラムたちはプラユット政権下の「12 の価値観(kha niyom sip
song prakan)
」や村レベルで目指される「良き統治(thammaphiban)
」事業に歌詞創作を通じて参与す
る。また若者を中心に積極的にモーラムの芸能を伝授するなど、教育活動面から評価を高めるモーラムも
いる。
以上のように、文化勲章の制度化や無形文化遺産の選定作業などの動きを概観した上で、本報告では、
東北地方のモーラムが「イサーン文化復興」の動きの中で、政治的・教育的活動の方面にも参与しながら
芸能実践を行っている実態を明らかにし、制度と個である芸術家の関係性について考察する。
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日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/03
分科会4「タイ新憲法草案と国民投票に関する解説と展望」 第 1 会場 14:10-16:10
【分科会趣旨】タイ新憲法草案と国民投票に関する解説と今後の展望について
玉田芳史(京都大学)
・外山文子(京都大学)
本分科会は、今年 3 月末に発表されたタイ新憲法草案(通称:ミーチャイ版)と 8 月 7 日に予定さ
れている国民投票の特徴や問題点について解説を行い、今後のタイ政治の行方について検討を行うも
のである。 2014 年 5 月、タイで 13 回目となる軍事クーデタが起こった。2016 年 6 月現在、既に 2 年以上も軍
事政権による支配が継続している。1977 年クーデタ以降、軍事政権による支配は 1 年程度で終了し
てきたことを鑑みると、今回の長期支配は異常事態といえよう。また、2006 年クーデタ後に登場し
たスラユット暫定政権による支配と比較すると、プラユット暫定政権による支配の強硬さが目に付く。
プラユット暫定政権は、非常に厳しい情報統制を行っており、政権に対し批判的な知識人や学生らは
軍事法廷行きとされている。加えて、プラユット首相は、執政権、立法権、司法権の三権全てを首相
に付与する 2014 年暫定憲法第 44 条を頻繁に使用し国家行政を行っており、官僚の人事異動まで同条
文に基づいて行われている。長期軍事独裁政権であったサリット、タノームの時代でも、悪名高き暫
定憲法第 17 条を実際に使用した例は遥かに少ない。 このような状況下で、今年 3 月末に新憲法草案(ミーチャイ版)が発表された。昨年 8 月に発表さ
れた最初の憲法草案(ボーウオーンサック版)は、発表直後に国家改革会議での裁決により否決され
ている。今回のミーチャイ版は、いずれかの機関において裁決に掛けられることなく、直接、国民投
票に掛けられることになっている。ところが、憲法草案の内容は政治の民主化からは程遠いものであ
った。首相の資格は下院議員に限定されておらず、軍事政権が上院、憲法裁判所、独立機関などを介
して、自らの権力を温存することが可能となるような制度設計となっていた。また新たに制定された
国民投票法も、憲法草案に対する批判を禁じており、言論の自由が抑圧された状態で国民投票が実施
されることとなった。 現在、タマサート大学の教員や学生を中心としたグループが、憲法草案に対する否決を求めて活動
を行っている。これに対しプラユット首相は、憲法草案が否決された場合は新たに憲法を起草し直す
と話しており、草案が採択されても否決されても、現政権による支配や政治的影響力が長期に渡り継
続することは間違いない。果たしてタイ政治はどこに向かっていくのか。タイおよび日本の研究者が、
憲法草案と国民投票法の解説を行い、今後のタイ政治の展開について検討する。 25
日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/03 分科会4「タイ新憲法草案と国民投票に関する解説と展望」 第 1 会場 14:10-16:10
ประชามติกับเสรีภาพในการแสดงความคิดเห็น
กรณีการทําประชามติตอรางรัฐธรรมนูญ พ.ศ. ...ของไทย
ผูชวยศาสตราจารย ดร.วรรณภา ติระสังขะ
คณะรัฐศาสตร มหาวิทยาลัยธรรมศาสตร
การออกเสียงประชามติ (Referendum) เปนกลไกหนึ่งของการมีสวนรวมทางการ
เมือง
ตามหลัก
“ ประชาธิปไตยทางตรง”
มีเปาหมายเพื่อใหประชาชนสามารถมีสิทธิใช
อํานาจในกระบวนการตัดสินใจทางการเมือง โดย “ประชา มติ” ตั้งอยูบนรากฐานทางทฤษฎี
ที่สําคัญ 3 ประการ ไดแก หลักการปกครองที่อํานาจ อธิปไตยเปนของปวงชน (Popular
sovereignty) หลักการวาดวยความชอบธรรมทางการ เมืองแบบประชาธิปไตย (Democratic
legitimacy)
และหลักการประชาธิปไตยแบบมีสวน
รวมของพลเมือง
(Participatory
democracy)
การออกเสียงประชามติ
เปนหนึง่ ในกลไกที่สําคัญของระบบการเมืองการปกครอง
(Governing
referendum)
มีขึ้นก็เพื่อกําหนดความเปนไปของรัฐ
(State-defining
referendum)
และยังเปนเครื่องมือหนึ่งเพื่อหาขอยุติขอขัดแยงในประเด็นการตัดสินใจทาง
การเมือง (Deadlock-breaking referendum) ดวย
สําหรับประเทศไทย การออกเสียงประชามติที่มีขึ้นเพื่อรับรองการรางรัฐธรรมนูญนั้น
มีเงื่อนไขของการจัดทําประชามติที่แตกตางกับหลักการพื้นฐาน
และแตกตางกับการทํา
ประชามติที่รับรองรัฐธรรมนูญฉบับป พ.ศ. 2550 ที่ผานมา โดยเฉพาะในเรื่องขององคกรผูทํา
หนาที่ในการควบคุมกํากับดูแล คําถามรอง (คําถามพวง) เงื่อนระยะเวลา เงื่อนไขและวิธีการ
ในการนับคะแนน และที่สําคัญพื้นที่ในการแสดงความคิดเห็นของผูที่เห็นตาง ที่ขัดตอ “ หลัก
ความยุติธรรมตามธรรมชาติ” คือการรับฟงผูอื่น (audi alteram partem) อยางชัดแจง
ดังนั้นแลว
การออกเสียงประชามติจะเปนเครื่องมือที่มีประสิทธิภาพมากสําหรับการ
หาทางออกของความไมสมดุลยของการใชอํานาจรัฐ โดยประชามติจะเปนการสรางเจตจํานง
รวมกันของคนในชาติ
หรือประชามติจะเปนการหาฉันทามติรวมกันของคนในชาติ
หรือ
ประชามติจะเปนทางออกของความขัดแยงของคนในชาติที่สามารถตกลงรวมกันไดโดยไม
ใชความรุนแรง แตจะเปนที่นาเสียดาย หากวา “ประชามติ” โดยเฉพาะการทําประชามติตอ
รางรัฐธรรมนูญสําหรับประเทศไทย
จะถูกใชเปนเครื่องมือเพื่อสรางความชอบธรรมใหกับ
อํานาจเผด็จการ และนั่นกลับทําใหคุณคาของ “ประชามติ” ในนามของประชาธิปไตยสูญเสีย
คุณคาไปอยางนาเสียดาย
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日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/03
分科会4「タイ新憲法草案と国民投票に関する解説と展望」 第 1 会場 14:10-16:10
พัฒนาการที่มาของสมาชิกสภาผูแทนราษฎรและสมาชิกวุฒิสภาและนายกรัฐมนตรีของไทย
ตั้งแต รัฐธรรมนูญฉบับ พ.ศ. 2540 จนถึงรางรัฐธรรมนูญฉบับมีชัย ฤชุพันธุ พ.ศ. 2559
บัณฑิต จันทรโรจนกิจ
มหาวิทยาลัยรามคําแหง
บทความนี้มีขอบขายการศึกษาจํากัดที่พัฒนาการของระบบการเลือกตั้งสมาชิก
สภาผูแทนราษฎรและสมาชิกวุฒิสภาตลอดจน ที่มาของนายกรัฐมนตรีตั้งแตรัฐธรรมนูญฉบับ พ.ศ. 2540 จนถึงรางรัฐธรรมนูญฉบับ พ.ศ. 2559 ที่กําลังจะทําประชามติ
ในวันที่ 7 สิงหาคม พ.ศ. 2559 นี้ โดยเริ่มจากการอธิบายแนวคิดเบื้องหลังการออกแบบ
ที่มาของตัวแทนประชาชนในรัฐสภาที่ถือกําเนิดจากรัฐธรรมนูญ พ.ศ. 2540 ในอันที่
จะแกปญหาการเมืองไทยมาโดยลําดับ
จากการศึกษาเปรียบเทียบรัฐธรรมนูญ ฉบับ พ.ศ. 2540, 2557 และราง
รัฐธรรมนูญฉบับบวรศักดิ์ อุวรรณโณและฉบับมีชัย ฤชุพันธุแสดงใหเห็นวา ในมีการเ
ปลี่ยนแปลงสาระสําคัญในการไดมาซึ่งผูแทนราษฎรและสมาชิกวุฒิสภา ตลอดจนที่มา
ของนายกรัฐมนตรีตามรัฐธรรมนูญอยางมาก โดยเฉพาะฉบับรางนายมีชัยซึ่งกําลังอยู
ระหวางรอการทําประชามตินั้นมีสาระของการเคลื่อนตัวออกจากหลักการประชาธิปไต
ยที่ไดวางไวในฉบับ พ.ศ. 2540 อยางมากในหลักการอํานาจอธิปไตยและความชอบ
ธรรม ตลอดจนหลักการยึดโยงอํานาจรัฐกับประชาชน
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日本タイ学会第 18 回研究大会(九州大学) 2016/07/03
分科会4「タイ新憲法草案と国民投票に関する解説と展望」 第 1 会場 14:10-16:10
タイ民主化と独立機関:1997 年憲法、2007 年憲法、新憲法草案との比較から
外山 文子(京都大学)
2014 年 5 月 22 日、タイで再びクーデタが起こった。プラユット陸軍司令官率いる国家平和秩序維持団
(NCPO)により 2007 年憲法は破棄され、代わって 2014 年暫定憲法が公布された。2016 年 6 月現在も、
依然として軍事政権による支配が続いている。民政復帰の第一歩は新憲法(恒久憲法)の制定である。な
ぜならば新憲法が公布され関連法律が制定されなければ、新たな総選挙を実施することができないからで
ある。2014 年に開始された新憲法の起草作業は、昨年 8 月に発表された 1 本目の草案(ボーウォーンサ
ック版)と、ボーウォーンサック版が国家改革会議により否決された後に改めて起草され、今年 3 月に発
表された 2 本目の草案(ミーチャイ版)を生み出した。順調に進めば、今年 8 月 7 日にミーチャイ版草案
の可否を問う国民投票が実施されるはずである。本発表では、新憲法起草の目的、争点について、憲法裁
判所および独立機関に着目して検証を行う。
憲法起草委員会は、全く自由に新憲法を起草できる訳ではない。2014 年暫定憲法の第 35 条において新
憲法起草の基本方針が規定されており、憲法起草委員会は同方針に従って起草作業を行わなければならな
い。同条文は、新憲法の主要な目的として、国王を元首とする民主主義統治の維持、汚職取締りの規制、
ポピュリスト的な政策や予算執行の防止、タックシンら汚職判決を受けた政治家の政治職復帰の阻止、憲
法の大幅な変更の阻止などを挙げている。また第 35 条には明記されていないが、プラユット首相のスピ
ーチや政府キャンペーンからは、過去数年に渡って継続してきた所謂「赤シャツ vs 黄シャツ」による路上
衝突、国民の分裂を阻止したいとのメッセージが頻繁に流れており、国民対立の解消も重要事項の一つで
あると思われる。
これらの目的を果たす上で、重要な役割を担うのが、憲法裁判所と選挙委員会や国家汚職防止取締機関
といった各種独立機関である。これらの機関は、1997 年憲法によって創設され、2007 年憲法によって権
限を強化された。今回のミーチャイ版憲法草案においても、その権限は一層強化されている。一部の研究
者らからは、長らく国王が担ってきた政治の調整機能を、憲法裁判所に移そうとしているのだとの指摘が
なされている。しかし、2000 年以降の憲法裁判所および独立機関の動きを振り返ると、民選政権の打倒を
繰り返すなど、民主化の流れを逆行させるような働きを行ってきたように思われる。ミーチャイ版憲法草
案では、どのような点に変更が加えられたのか、またタイ民主化に対して如何なる影響を与えうるのか、
権限や人事に焦点を当てて検証を行う。
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