園部垣内古墳歩き - 同志社大学 英字新聞部OB会

2012年10月27日(土)実施
第14回「三島古道歩き」の御案内
主宰、耶馬台国を三島に探る会代表 梅鉢
明英
コース:紫金山古墳―新屋坐天照御魂神社(トイレ)―千提寺タタラ遺跡―亀岡市文化
資料館(トイレ・210円)―坊主塚古墳―南丹市立文化博物館(トイレ・300円)
―園部垣内古墳―(黒部古墳横の船越)
* コースの地図や、カラー表紙のパンフレットは、例によって「耶馬台国を三島に
探る会」のHM氏に作ってもらいました。
高槻市富田町を中心に、毎月末の月曜に配達されている月刊新聞「きつつき21」
の10月号に行事参加募集をしました。古道歩きのテーマは、「邪馬台国が三島にあっ
たことの証明」で、第1回から一貫して変わっていません。ただ今回は、最も確かとい
われる金石による証明、つまり銅鏡に彫られた模様や文字によって証明しようとしてい
ますから、荷が重すぎるのです。そこで、テーマを絞ることにしました。卑弥呼百枚鏡
と言われる銅鏡の中でも、もっとも確率の高い、景初三年銘鏡と正始元年銘鏡に共通し
て名の刻まれている「陳氏」の動向を追うことによって、邪馬台国の在り処を証明しよ
うと考えています。
先ず、茨木市の紫金山古墳を訪れます。12面の紫金山出土の銅鏡の中に仿製三神三
獣鏡が8面あるが、それぞれ僅かに変化している。その仿製神獣鏡の1面は大阪御旅山
古墳出土の仿製獣文帯三神三獣鏡と同型鏡だが、一点ちがうところがある。それが内区
主紋に刻まれて浮き彫りになっている「陳氏」という字で、しかも「陳」は鏡文字、つ
まり逆字になっていて、倭国で造られた鏡であると太鼓判を押されている鏡に「陳」と
いうサインを入れている訳で、倭国に来ていることを如実に証明していることになる。
それを始めとして「きつつき21」には、6月号の「三島古道歩記 その九十一」か
ら連続して10月号の「三島古道歩記 その九十五」まで、陳氏作鏡の多くが遥々東海
の倭国にまで来て作られたもので、世間で言われる舶載鏡ではないと書きました。そし
て、数多くのすぐれた銅鏡を残して最後は、これはまだ想像の域を出ませんが、この秋
津島大和の三島の地で亡くなっていったのではないかということも書いています。
日本に来ている陳氏が坊さんくさい「陳孝然」なのか、また日本名が「埴安彦」なの
かもまだ推測にすぎませんが、陳氏作鏡を通して、彼が仏教に造詣の深い人物であるこ
と、時には逆字を書いてしまうようなうっかり者ではあるが「埴彦」の称号を受けまた
愛称で呼ばれるにふさわしい人物であることは窺がえます。「安」=「安威」は入れ込
み過ぎかも知れませんが・・・。
陳氏が、自分の名前を刻み、更に自己の来歴をも挟み、更に魏王の命令による職責を
果たすために景初や正始の年号を入れた「同向式」鏡には、倭国の者にとって新しい意
匠がありました。それが、仏像です。
本日訪れる亀岡市の坊主塚古墳から出土した人物像のように、頭の周りに丸い光背
(頭光)があれば、一目で仏像と分かるのですが、ちょっと見ただけでは、仏像か神像
かの区別はつきません。坊主塚出土の四神四獣鏡といわれる鏡を亀岡の資料館で拝見し
て、当時はガラスケースから出して見せてもらいましたが、頭光があることを発見しま
した。学芸員の方にそれを指摘して、高槻市の古寺池図書館の講演で発表したり、『大
和の証明』第四号「女王卑弥呼の属国と末裔」p175~176に写真を入れて四仏四
獣鏡と書いたりして、もう14,5年になります。しかし、インターネットを見ると、
まだ四神四獣鏡とありました。新しくなって入場料も取るようになった亀岡市立文化資
料館ではどう書
いているか、楽し
みです。
本日最後に訪
れる園部の垣内
古墳出土の三仏
三獣鏡は、名前も
新しく南丹市立
文化博物館にな
って、6面とも本
物を展示してい
るそうなので、拝
見できるのを楽
しみにしていま
すが、それと見比
べてもらえれば、
神仏の区別がつ
くようになると
思います。この二
つの仏獣鏡につ
(上の写真が、亀岡坊主塚古墳出土の問題の銅鏡です)
いては、本日後半の案内
を私に代わってしてもらうことになっている石井道人氏の資料に載せてありますので
参考にしてください。石井氏は、垣内古墳出土の三仏三獣鏡以外のもう一面に「仏像」
を発見されたそうですから、それも楽しみです。
陳氏の景初や正始の年号を入れた「同向式神獣鏡」が「同向式仏獣鏡」であることの
証明に使った仏教意匠は、
「印相」であり「双獅子」
「双魚」といった小道具で、細かい
ことに拘るようですが、大きな違いがあるのです。例えば、印相。中国伝統の神仙は東
王父であれ西王母であれ基本的には手を出さない拱手のポーズをとる筈です。ところが、
陳さんの「同向式」(呉でいうところの三段重列式)鏡の二段目向かって右の人物は、
あきらかに右手を胸の前に出しています。しかも、袖から手が出て指が見えるものまで
あります。仏法で言うところの「施無畏」の印相と見るべきです。また、下段三段目の
獣の上に坐っている人物は中国の始祖の黄帝と説明されるようですが、腕を突きだして
いるようです。しかし、その獣は大抵の場合、鬣をなびかした獅子と考えられるのです。
正確には双獅子というべき像です。なぜなら、上段一段目の三人の人物、殆どの学者は、
伯牙弾琴図と言われますが、一介の歴史的人物とその友人をなぜ最上段に持ってくるので
しょう。しかも、黄帝を最下段にして。不自然と思われないのでしょうか。私は、三尊形
式の像、即ち琴を前にして説法する釈迦三尊像と考えます。三尊の下に乳を巻いた獣が侍
っていますが、角のある鹿であればサルナートでの初転法輪図であろうし、二角の龍であ
れば梵天勧請図と解釈できるのです。尤も、中国風にアレンジして龍虎になっているケー
スが多いようで、流石の仏教通の陳さんでもそこまで描き分けをされなかったようです。
実は、つい最近まで景初三年鏡や正始元年鏡の最上段の三尊中心像の真下の像は、獣
か渦巻模様と思
っていました。と
ころが戦前に編
集された『古鏡聚
英』の「周防国都
濃郡下松町字宮
洲出土」の七寸五
分の三角縁階段
式神獣鏡、つまり
三角縁同向式で
今説明したよう
に神獣ではなく
仏獣を見た時、度
肝を抜かれまし
た。(左の銅鏡で
す)最上段の釈迦
の真下の像は、何
と人物なのです。
しかも、その人物
の右肩に蓮華の
ようなものが描かれています。釈迦の前身の菩薩かも知れません。仏像ではなく神仙像
であると洗脳されていて改めることのできない偉い学者は、一笑に付して無視されるで
しょうが、陳一族が早くから中国の仏教導入に関わり、呉の紹興を拠点にして鏡作り職
に従事し、新しい意匠の仏像を画像にとりいれていることを確認した私は、七寸五分も
あるという、しかも日本で発掘された同向式鏡の中でも特に鮮明な
くだまつみやのす
「下松宮洲古墳出土鏡」の実物大の写真を見てみたいと思ったのです。
この宮洲鏡は、三段重列どころか四段いや五段の重列式鏡で、最下段の五段目には
たてがみ
鬣 をなびかした獅子の真上に施無畏像があり、獅子を挟んで両側に向かい合うような形の
人物座像がくっきり描かれていたのです。今、私が持っているのは白黒の直径10cmほ
どのしかも、高槻中央図書館の写りの悪いコピーですが、五段目の両脇侍と言える人物は、
椿井大塚古墳出土の鋳流れのある同向式崩れ鏡のモデルと分かるし、とにかく日本で見つ
かっている「陳氏作鏡」の鍵を握る鏡と直感したのです。
更に、実物大の鏡を見て知りたいと思ったのは、下段の二つの乳を巡る獣は龍虎と分か
りますが、上段の二獣は二角の龍と無角の獣ですが虎ではないようで、鬣のある獅子では
ないかと感じたからです。難しいのは二角の獣が龍と判断できないケースがあるのです。
後漢の尚方経験の鋳鏡師でも、龍の角は基部に3つの羽根状隆起をつけるが、雄獅子と雌
獅子から生まれたと推測できる二角獣辟邪と一角獣天鹿の区別はつけられなくなっており、
はなはだしいのは銘文に「辟邪、師子、天禄」と並べているのがあって混乱がおきている
からなのです。例の、福知山広峯古墳出土の陳作景初四年銘盤龍鏡の4匹の獣も二角獣と
一角獣と鬣のある獅子のようで「辟邪、天禄、師子」の銘と重なる危惧を感じたのです。
ともかく、山口県の下松市に行きました。それと、正始元年銘同向式仏獣鏡が掘り出
された御家老屋敷古墳のある徳山市(現在は周南市)にも足を延ばして行ってきました。
両市とも全く未踏の地で、行ってみて驚きました。さほど大きくない徳山湾の東と西の
砂洲の付け根に当たる小高い丘や島を利用して作られた共に80m級の前方後円墳で、
地元の人の感覚で言うと、向かい合っていると言えるほどの距離にあったのです。ただ、
宮洲古墳は地元では知っている人は誰もいなくて下松展示資料館に行って教えてもら
いました。宮洲古墳は石油基地となって跡形もないが、竹島の古墳は東ソ工場内にその
まま残されていました。どうやら銅の産地を背後に控える下松と徳山の境界に宮原遺跡
という弥生時代後期の大きな高地性集落があって、そこの見晴らしの良さから陳さんが
銅鏡を作った現場ではないかという感想を持ちました。
千提寺のタタラ情報が会員のKK氏からもたらされて、現地に2、3度通う内に銅鉱
石にも関心を持つようになって、銅鏡を作るのにそれほど大掛かりな装置は要らないの
ではないかと気付きました。銅滓が境内に転がっている新屋神社の神田宮司さんから化
学式を使った専門的な説明を聞いているうちにようわからんけれど身近に感じ出した
のです。私が勝手に「千提寺墓丸遺跡」と呼ぶタタラの千提寺を含め、北は大岩から泉
原、佐保そしてお膝元の福井、という広大な領域を氏地に持っていたのが、新屋坐天照
国照天火明御魂神社であったということで、千提寺タタラ跡のお払いをされている関係
もあって、何とか宮司さんからタタラとのつながりを聞きだそうとしたのですが、いつ
も化学式で煙に巻かれてしまい、「カナクソ」という字名が神社から福井高校にかけて
の地についているのはなぜか、いまだにその由来が分からないという始末です。
「フクヰの福は吹くではありませんか」ともち出しても誘いに乗ってくれません。酒に
絡めて攻めないとアカンのかも知れません。ただ今回は「名神大社」と「伴酒着神、伴
馬立天照神」の講釈をお聞きする時間がなく、紫金山古墳に行くために2台の車を境内
に置かせていただき、そのついでに参らせていただくという手順になっていて、これま
た誠に残念です。まして「日降丘」にフリ分ける時間は全くございません。できれば、
天照御魂神が降り下られた山上から、幣久良山、将軍山、紫金山を眺める余裕を持ちた
かったのですが、亀岡、園部は結構時間がかかりますので、先を急ぎます。
陳氏は景初三年(239年)に確かに倭国に来ている。その実感を持ったのは、佐賀
もく ろ
じ
の谷口古墳と杢路寺古墳を訪れ、それぞれの古墳の持ち主と膝を交えて長時間話をさせ
て戴いたからで、詳細は次回の例会に報告することにして、今日はポイントだけ揚げま
す。この二つの80m級の前方後円墳は松浦つまり魏志倭人伝の末盧国にあります。こ
の古墳から出土した三角縁三神三獣鏡は紫金山古墳の仿製獣文帯三神三獣鏡と形も大
吾○
作○
明 竟」は福岡県糸島二丈
きさも同じ類似鏡です。特に、谷口古墳の逆字だらけの「○
町の一貴銚子古墳(103mの前方後円墳)出土鏡と同笵とされており、他に大阪府柏
原のヌク古墳や兵庫県の勅使塚古墳出土鏡が同笵鏡となっていました。吾作となってい
ますが、私はまちがいなく陳作鏡と考えます。糸島二丈町は伊都国で、車ですが旧道を
使って距離も測り、魏志倭人伝の里数とほぼ合致することを確かめました。
この度の1812kmの旅の最大の成果は「不弥国を見つけた」ですが、それも次回
にして陳氏の足跡に絞ると、奴国からも陳作鏡が出ています。銅と錫があれば陳氏にと
って銅鏡作りは造作もなかったのではないかと考えます。ただ、百枚ともなれば相当の
銅と錫が要ります。景初三年中には製作が間に合わなかったと考えます。その鍵は福知
山広峯の景初四年銘鏡です。一旦は大阪まで来たのになぜ、福知山に行ったのか。錫が
足りなくなったのではないか、と推察されます。
あさご
や
ぶ
あけのべ
9号線を下ると、朝来と養父に銅・錫・鉛生産で飛鳥時代から名の知られる明延鉱山
があります。そこで、陳さんは景初4年はなく正始元年になったことを知り、卑弥呼に
献上する百枚鏡を揃えたのではないかと想像するのです。
保津川上流の園部から由良川上流へは船越を通ります。神崎川は干潮から満潮時には
川上へ逆流して汽水域が高槻番田まで達したと聞きます。古代の旅人にとって、干満の
差を利用すれば、川は高速道路だったのです。ほんの2,3kmの船越をするだけで、
彼らは日本海と瀬戸内海を想像できないほどの早さで行き来していたのです。
次の頁からの8頁は「第14回三島古道歩き」用冊子に会員のHM氏とIM氏からい
ただいたカラー表紙2枚と6枚の資料です。参考に載せましたので、ご覧下さい。
「第14回三島古道歩き」用に HM氏が作ってくださったカラー刷り表紙。
ここから2頁分は、石井道人氏が作ってくださった資料①とカラー刷り裏表紙。
今年も好天に恵まれた「第14回三島古道歩き」。最初の紫金山古墳の見学と併せて
駐車をお願いした新屋坐天照御魂神社の神田宮司様、七五三参りの応対でお忙しいのに、
幸いにも継体天皇と二つの福井のヒストリア(?)を話してくださったのを皮切りに、
最後の園部垣内古墳跡でも後円部の持ち主だった方に、柿泥棒と間違われたのか咎めら
れたのがきっかけで、思わぬ発掘エピソードが聞けるなど、ハッピーなハプニングで盛
り上がった一日でした。亀岡の資料館では残念ながら期待した「四仏四獣鏡」の表示は
されていませんでしたが、南丹博物館では実物銅鏡をガラス越に観察できて「三仏三獣
鏡」以外の仏像を見ることができました。発見者IM氏の説明も熱を帯びて、複数の仏
像鏡を副葬していたと分かった垣内古墳跡の八幡神社を後にしたのは夕闇も迫る十七
時過ぎでした。MI氏とMK氏の安全運転のお蔭で無事終えることができましたが、疲
れを知らぬ若いIM氏は、翌日も亀岡・園部に行かれたということで、同志社大学考古
学研究会発行の『垣内古墳詳報』の抜粋コピーをいただきました。他に、同会所属の中
村潤子氏の「三角縁神獣鏡における結跏趺坐像」という論文コピーもいただいたので、
その感想も含めて「第14回三島古道歩き」の報告を、改めて次にさせてもらいます。
「第14回三島古道歩き」実施報告
2012年11月例会 梅鉢
「第14回三島古道歩き」の冊子に収めた過去一番短い私の案内文に書きましたように、
今回のテーマは、卑弥呼鏡とほぼ衆目の一致する、陳作紀年銘同向式鏡は「神獣鏡では
なく仏獣鏡」であること、そして紀年銘通り「景初三年、正始元年にしかも倭国におい
て作られた」ことを証明するもので、「景初四年銘の陳作盤龍鏡」が由良川と保津川沿
い、即ち山陰道(今の9号線)の要衝地の福知山広峯から出土していることは何を意味
するのかを明らかにすることでした。それによって、邪馬台国がどこに存在していたの
かが自ずと分かるであろう(勿論「耶馬台国を三島に探る会」の会員は分かっていてく
ださるはずだが・・・)と考えた訳です。
池田でも茨木でも高槻でも摂津の特に三島から北に行く道は全て亀岡に通じるとい
う、その亀岡市の文化資料館の「神→仏」への書き換え無しはやはりショックでした。
亀岡というより丹波の桑田郡という方が古代歴史を語るには相応しいのでここでは丹
波の桑田と表現しますが、ずばり桑田郡の園部垣内古墳と、山城国だが桑田郡とも言え
る程微妙な境界の樫原百々池古墳と、桑田郡の名塩山の麓といえる寺戸大塚古墳から
「三仏三獣鏡」が出土していて、全国でまだ6面しかない「三仏三獣鏡」の半分が保津
川沿いの丹波の桑田に存在しているのです。いわば仏像鏡の聖地と言える桑田郡の中心
の亀岡の坊主塚で発見した仏像鏡が未だに認められていないのを見て残念に思いまし
た。しかし僅かに慰められたのは、園部垣内古墳の発掘に当たった同志社大学の森浩一
教授が『垣内古墳詳報』で「三仏三獣鏡」の保津川流域での集中性や製作地の可能性に
触れていることで、大いに励まされたのはIM氏の次の報告でした。
亀岡市篠町にある瀧ノ花塚古墳と桝塚古墳は、共に坊主塚古墳と同じ方形墓で築造時
期も同時代の5世紀後半で、しかも出土している銅鏡は仏像鏡だというのです。添付の
コピーには、其々の古墳出土鏡として一面ずつの全体像と仏像と分かる部分像が載せら
れていました。瀧ノ花塚の鏡には、「坊主塚の鏡と良く似ている。はっきりとした円光
がある。文様は(坊主塚)より鮮明である。」とIM氏のコメントが入れてあり、桝塚
の鏡には「円光背の仏の像が見える。」と少しボケて写りの悪い拡大写真の下にコメン
トが入っていました。桝塚の鏡は2ヵ所の割れがなかったら坊主塚の「四仏四獣鏡」と
同じではないかと思えるほど似ていました。ただ、拡大写真の方は見にくいので、ひび
割れか円光背なのか判断しにくいのですが、IM氏の目の確かさを信用します。
というのも、其々のコピーには両古墳の測量図と位置関係を示す地図も載せられ、更
に「(両古墳とも)墳丘は消滅している。白鳳時代の観音芝廃寺に近い。古墳の被葬者
と寺の造営は200年の年代差があるが無関係とは思えない。(坊主塚を含め)これら
仏像鏡出土古墳が方形をとるのも、ストゥーパを意識したものかもしれない。」という
IM氏のコメントが載せられていたからです。測量図によると、桝塚の方が少し大きく
約36m四方で二段築成、約200mほど北北西にある瀧ノ花塚は約30m四方で恐ら
く二段築成。今回の古道歩きの冊子に掲載した資料①の坊主塚・天神塚古墳と全くと言
ってよいほど極似した関係にあることが分かったのです。坊主塚も38m四方の方形壇
で二段築成。約200mほど西北西にある天神塚は約30m四方の方形壇状二段築成と
されています。
古道歩きの当日、インターネット引用の資料①の説明文を誤字はともかく、実は2ヵ
所大事な訂正をしました。「四神→四仏」と「背後に墳墓を従えた建物→背後の墳墓を
拝した建物」。特に後者は、IM氏も強調されたように、方形壇状の古墳の前方部に造
られていた古代建築物は古墳の埋葬者を敬い崇めるための宗教的儀式の行われていた
祭祀場で、一回きりではなく何度か継続して行われるための建物。この坊主塚の場合は
「寺」に相当するものではないか、と考えられるのです。この仏像鏡の聖地とも言える
亀岡の地の、仏教を公伝させた継体・欽明朝の直前の5世紀後半築造古墳に、仏像鏡を
副葬する人物とその人物を祀る「寺の最初形態」の建物があったとしても不思議ではな
いと考えます。
仏教ではなくヒンズー教寺院ですが「テラ」と発音する小さな寺院を、昨年インド旅
行をした時に見つけました。IM氏は埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘にある
「獲加多支鹵大王寺在」の「寺」はTempleと読むべきだとコメカミをプルプルさ
せて講演をされています。そして「わが国の(初期原始)仏教は祖霊祭祀の仏教であっ
たと考えている。ゆえに、祖霊祭祀の場としての前方後円墳の発生と仏教伝来は無関係
ではない。
」とまで最新の「卑弥呼が手にした仏像鏡」という私の最新の『大和の証明』
「卑弥呼が手にした仏獣鏡」に似た題で講演をされています。
野城下西浦の桝塚古墳と野城イカ(賀)の瀧ノ花古墳は削平され、今は京都エレクト
ロの工場と駐車場になっていますが実測してきました。200mでした。坊主塚と天神
塚は両方とも残っているのですが田圃を挟んでいるので目測ですが直線で200m近
くありました。地形的には、保津川右岸で亀岡盆地の東南高台にある篠町野城の方が水
害の心配がないので寺院建築には向いていると感じました。野城マツモト店の駐車場に
車を置いて歩くこと50m、小字瀧ノ花はかなり勾配のきつい坂が保津川のある北に下
っていて、観音芝廃寺は聞き取りできなかったけれど、保津川沿いの道からは見上げる
ような威厳のある寺と想像できました。IM氏によるとマツモト店の東側だそうです。
何を隠そう私は、IM氏の歳頃はもっと過激で、亀岡盆地の中心が湖であった弥生か
ら古墳時代、保津川左岸の元出雲と称される丹波一宮の出雲大神宮を「人間を神とする
信仰の最初期のモデル」と考え、『大和の証明』第2号に書いています。景初三年の魏
ケイト
ツ
シ ゴ
リ
ゆ
ご
り
の京都への次使、都市牛利を丹波大県主由碁理と比定し、その娘婿の開化天皇が奇なこ
とに庶母の伊迦賀色許売命に産ませたのがハツクニシラス崇神天皇で、その息子がこれ
また丹波と非常に所縁の深い第11代垂仁天皇であったので、丹波に注目し、亀岡盆地
の最高の陽の地にある出雲神社を19年前に訪れて書いた訳です。
神体山を崇拝するという古い信仰形態を持ち、そこから流れ出てくる水は今も聖水と
して飲まれていますが、私は御神体御陰山の麓にある古墳を含めた遥拝であることに関
心をもち、崇神天皇がその遥拝を再興したという大石に注目したのです。古い由緒書き
には御祭神の三穂津姫命は石神とあって、出雲神社は石神信仰と気付かされました。真
の信仰対象はここも古墳だと感じ、そこで「門前の夢」の示唆を受けていた私は「古墳
に埋葬された人物を祭祀する中で門前の起源となる寺社が生まれた」と書いたのです。
ただ、その古墳は、大和彦の墓と比定される千歳車塚と同じ時代の5~6世紀とされ
ていて不審に思い、桝塚と瀧ノ花塚の現場調査の時に再訪して権禰宜さんにお聞きした
ところ、新しい由緒書きには、成務天皇の時期で5~6世紀の横穴式古墳と考古学者の
意見を聞いて書いていると答えられた。しかし、成務天皇は13代で10代崇神天皇の
再興とは矛盾する。また、考古学的にも、崇神・垂仁を3世紀~4世紀の人物とすると
成務は4世紀と考えられる。100年ほどちがう。19年前に訪れた時は、崇神天皇よ
りも前の天皇の墓と書かれていたと記憶するが先代さんから聞いておられないかと食
い下がったところ、お払いをして墓前に一緒にお参りをして話をしてくださったのは、
「戦争直後、GHQや警察の圧力を受け、大本教本山同様、この神社も何か隠している
のではないかと強制捜査された時に、御神体の山の盛り土などが爆破され、その時に古
墳であると分かった。石室の中から三体の遺骨が見つかったと聞いている。初代から三
代の神官の墓ではないか。あるいはこの地を治めた豪族か。天皇の名前は先代の禰宜か
ら私は聞いていない。」ということでした。
やはり、御神体に石も、つまり墓石を覆う巨大な石を含め石神も、崇拝の対象になっ
ているという19年前の直感がまちがいではなかったと分かったのは成果でしたが、横
穴式、仮に谷口古墳と同じように横口式だとしても、今の考古学的知見からは4~5世
紀が限度で、桑田郡最古の古墳とは言えない。保津川最上流の黒田古墳や園部古墳が丹
波桑田の最古の祭祀場で、八幡(ヤハタ)神仏信仰が現在辿れる確かな「門前」なのか
と、少し気をおとして、下矢田(ヤタ)から樫原を通って帰ってきました。途中、原で
も新名神高速道路工事によって神宿る山々が酷くも削られているのを目撃して、心が沈
んでしまい、紅葉に被われた島上の神奈備山をまともに見ることができませんでした。
補遺:また、ピンボケのまま、実施報告書を終えるところでした。「魏志倭人伝」に丹
波国は載っていないものの、耶馬台国(三島)の北にあって、しかも一山越えた20k
m足らずの奥座敷といえる豊穣の地は、政経は無論軍事的にもその重要性は大和盆地に
引けをとらないことを指摘しておきます。崇神・垂仁の記紀の記録にある四道将軍や出
雲神宝(これは両天皇が重複して取り上げている点で特に重要)の話からも、日本海に
出るための要衝の地であることは明らかです。第14回三島古道歩きの本文にも書いて
いるように、銅鏡製作一つ取り上げても、丹波の銅・錫・鉛が欠かせないし、出雲神原
神社古墳の景初三年陳作鏡や豊岡古墳の正始元年鏡、島根大成鏡等からは出雲の銅・鉄
の重要性も透けて見えてきます。更には日本海ルートの朝鮮半島との取引の中継点とし
ての南丹波の大陸文化の先取性を勘案すると、陳作仏獣鏡のみならず仏教文化の先取地
の現われとしての「三仏三獣鏡」や「仏像鏡」副葬古墳の多い丹波桑田の実態、即ち銅
鏡製作地の一つであり仏教の聖地でもあったことが理解できるのではないでしょうか。
次の章では、園部垣内の仏像鏡を導入にして「耶馬台国の仏像鏡」と題した解説文を
書いてみることにします。
「耶馬台国の仏像鏡」第14回三島古道歩きを踏まえて
その2
2012年11月24日 第4土曜例会
丹波国の桑田郡は「仏獣鏡製作地の一つであり仏教の聖地でもあった」と結論したよ
うに「三仏三獣鏡」や「四仏四獣鏡」が多く出土している実態から、実は「耶馬台国の
仏獣鏡の真相はこれだ!同志社大学の森浩一教授や中村潤子講師の出されている結論
は生ぬるい!」と再び、母校同志社大学に批判的挑戦状を突きつけるつもりでした。た
だ、再びというと語弊があります。中村女史の論文は今回が初見ですし、“ウルトラマ
ン”森先生と電話で話しをさせてもらったのは3分間だけで、しかも批判的挑戦文を載
せた私の『大和の証明』4,5,6号を同志社大学に献本したのに不採用として 3 冊ま
とめて突き返されましたから、一度目はないのと同然です。ただ“ウルトラ忙し森教授”
と皮肉った文を載せた1,2,3号は同志社125周年記念の年に卒業生として献本し
て受け取ってもらっています。図書館や資料館に置いてもらえている筈です。
「仏獣鏡」の発想とその研究成果を雑誌に発表した文や、新聞社などに投稿した文を
載せた『大和の証明』は1999年印刷・発行の第3号ですが、1996年印刷・発行
の 100 頁足らずに絞った第2号に載せきれなかったものも含んでいます。森先生は別格
として中村女史の論文は、同期の感覚で読ませてもらいました。IM氏が「仏像鏡」の
スタンダードと言われ、参考にされているだけあって、三角縁神獣鏡に見られる結跏趺
坐像を徹底して観察研究されているのには感服し、頭が下がりました。仏教的要素を見
抜いて結跏趺坐像だけでも 80 枚、笠松形を蓮華座と看做せば 24 枚増えて総数 100 枚以
上になるし、肉髻を加えれば更に仏像鏡は増えると、心強い報告をされています。
ただ惜しむらくは「三角縁神獣鏡に見られる仏教的要素の多さは仏教的知識のある人
物の製作への関与があったことを示している」としながら、“仏教的要素の極めて多い
群馬赤城塚例にみる仏教知識は北方系”で“魏の官営工場で作られたはずの景初三年か
ら正始元年の銅鏡”に拘ったためか、その人物が「陳氏」であることに気づいていない。
だからせっかく「宮ノ洲古墳鏡」を手にしながら、おそらく笠松形だけ見て施無畏像や
蓮華を肩にする菩薩像を見逃されたのだろう、この三角縁同向式鏡を 100 枚の仏像鏡の
1 枚に入れるだけで済ましてしまっている。陳作仏像鏡と推察できていない。陳氏の手
になるもっとも精巧な仏像鏡と気付いていない。
そして信じ難いことに、園部垣内古墳の発掘報告書『垣内古墳詳報』に「三仏三獣鏡」
というれっきとした仏像鏡を報告分析しているのに、大きな炉即ち蓮華座と看做した笠
松形のある「三角縁銘帯四神三獣一炉鏡」の報告では仏像鏡の指摘が全くないのです。
大きさも20.5cmと20.0cmで、内区の主文様こそ違うが、外区は櫛歯文・鋸
歯文・二重波線文・鋸歯文・三角縁と全く同じ型。しかも、銅と錫の配合が同じなのか
同質に見えるし錆び方も似ている。(ガラス越しなのであくまで感覚だが、もしできれ
ばスプリング8で調べてもらいたい。中国には「三仏三獣鏡」の出土例はないというこ
となので、もし同質ならこの限りなく陳作鏡の特徴をもつ「三角縁銘帯四神三獣一炉鏡」
が舶載鏡ではなく仿製鏡であることが証明されることになる。尤も、彼女の師匠の森教
授に言わせれば、大型三角縁鏡は日本製、まして棺外に置かれていたので議論の余地な
し、かも。しかし、同志社大学所蔵の西山2号「陳作四神四獣鏡」は内区に王父・王母
銘もあって奈良黒塚古墳鏡と同笵の舶載鏡である、には反対されていないようだ。)
話を園部垣内鏡に戻すと、三仏三獣鏡すら“仏教の影響を受けて作られた道教像”と
解釈したがる指導教官のもとでは、蓮華と見なせる笠松形の仏像鏡のコメントなどは没
にされたのかも知れない。また、私と全く正反対に、擬銘帯神獣画像鏡を含む園部垣内
の 6 面の鏡は、丹波で作られた可能性はたいへん少ないとされる森教授の報告書。その
中でも一番気になって見過ごせない判定は、唯一舶載鏡とされた 6 号盤龍鏡です。棺内
のしかも頭部に置かれており、錫の含量が高く肉眼的観察でも舶載鏡と分かるというこ
とですが、南丹市立文化博物館で本物を見た後でも、舶載鏡判定に疑問を感じます。そ
もそも、あの 6 面本物だったのか。少なくとも銘文をガラスに顔をくっつけて読んだ2
号三角縁銘帯四神三獣一炉鏡は、報告書に拡大された銘文と違う字があるのです。
報告書の図版14には「吾作明竟 甚大好長 保二親宜 子孫浮由
天下・・・君 宜
長 保二親宜子孫 浮由天下敖四海
高官」となっていますが、私は「吾作明竟甚大好 ○
兮 」と読みました。図版では判読不明とされる3文字が「敖四海」とかろうじ
君宜高官○
て読めたのです。厳密に言うと、敖の字の旁の攵(ボク)は欠けていましたが、扁の下
部の方という字が見えたのです。四海は海の氵(サンズイ)が見えたような気がして推
ゴウ
ゴウユウ
量したのです。幻視かもしれません。なぜなら“敖という字を使って敖遊という熟語を
鏡銘に刻むのは後漢時代からの呉人の書き癖”という記憶が頭にあったからです。「敖
四海」はあやしいですが、最後の「兮」は確かです。図版の写真を見ても、逆字ですが
「兮」の字は官の下に読みとることができます。兮の字もまた呉人多用の助字ですから、
私はこの鏡は陳氏作にちがいないと嬉しくなって、初参加なのにニックネームを放浪子
とした女性に話したのです。敖という字はあちこちさまようとか放浪の旅をするという
意味があります。放浪記を長年演じた森光子さんが亡くなっていたというニュースを聞
長 の字も図版14に抜けていた○
兮
いたのも今日で、何か奇しき縁を感じます。そうだ、○
と同じく逆字でした。優れた鏡作り師だけれど、鏡字をつい忘れてしまうところも陳さ
んらしいと感じます。
とにかく、銘文でも「陳作鏡」と感じた2号「一炉鏡」や、IM氏が見つけたという
4号仿製三角縁三神三獣鏡の神像の頭の上の丸い点は「三仏三獣鏡」の仏像の頭の列点
5個に通じます。が、これは同笵鏡とされる双魚3つの奈良新沢鏡と見比べて確かめた
方が良いとアドバイスしました。それにしても双魚を含め仏教的要素の強い鏡2面を加
えると3面もの「仏像鏡」が出土しているのに、東向き棺内の頭近くにあったという点
を重視して盤龍鏡を舶載鏡と判定し、しかも自ら発掘したこの園部垣内古墳の築造年代
を4世紀後半と判定した同志社大学の森・中村師弟に、ここで反論したいと思います。
6号盤龍鏡は森氏の好きな平縁で、直径14.3cmと、私の好きな3面の三角縁の
ように20cm以上とバカでかくないところが先ず判断の基準となったと思われます。
で、肝心な内区は、“上方に二頭の龍が相対して向きあっているが、左側の図形の頭部
は不鮮明である。下方の空間には、さらに一頭の龍を入れており、三頭式の盤龍鏡であ
る。”としている。どこが、
“肉眼的観察でも舶載鏡と分かる”という鏡や!外区は錆び
てボロボロ、銘文帯も読める字はなかった。図版17を参考にしても、読めそうなとこ
ろは右側の図形で、実物大に拡大した二角龍の胴体の右横の字がかろうじて「吾」と読
めた。しかし、右回りにめぐるという39文字中の現存「氏作
四夷
節五穀熟長保 告
后世」のどれにも該当しなかった。まるで別の鏡の銘を見ている思いだった。そして、
現存13字によって復元された銘文の初めの字「孫」を見て首を傾げてしまった。孫の
字に?マークがついていたからではない。「孫氏作」銘鏡とするからには根拠となる類
似の盤龍鏡があるからなのだろうが、内区の龍の図形特に鱗の表現とか全体のバランス
から似ていると感じたのは、福知山広峯古墳出土の陳作景初四年銘盤龍鏡だったからだ。
福知山広峯古墳は9号山陰道を西に観音峠を越えるか、黒田古墳のある船坂越えか、園
部川船岡から山越えするか、とにかく船越によって由良川上流に出て、再び舟を使うなり
川沿いに歩くなりして園部から約40kmの距離にある。強脚の古代人なら丸一日の近さ
にある。景初四年という倭人では知りようのない中国魏の年号を銘に記す陳作盤龍鏡であ
るがゆえに私は、陳さんが240年にこの地に来ているという確信をもったのです。その
陳作盤龍鏡の4匹の獣は、園部盤龍鏡と同じく、上か下か知らないけれど、二頭の龍が相
対して向きあっているのです。園部鏡の左側の頭部は不鮮明だが広峯鏡は鮮明で一角獣
です。胴の長さは確かに園部鏡の方が長いけれど、バランスからいえば、二頭の獣の下
方の空間には、一頭の獣ではなく広峯鏡とおなじく二頭の獣と見てよいのではないかと
考えます。拡大図を見ても頭尾の区別がつかないので自信はありませんが、陳作広峯鏡
式の四獣鏡というべき盤龍鏡で、二角獣と一角獣と鬣のある双獅子のできそこないではな
いかと考えるのです。つまり、これは盤龍鏡ではなく「辟邪、天禄、獅子」の四獣鏡と名
づけるべき「仏像鏡」と考えます。4匹の獣は龍ではなく実は獅子と考えるのです。広峯
鏡の二角獣は鬣の中に両耳の目立つ雄獅子で「辟邪」、一角獣は鬣のない雌獅子で「天禄」
と呼ばれるようになった。元々は西域から中国へ連れて来られた雌雄つがいのライオンの
変形獣で、実物かもしくは仏画で仏教守護獣の双獅子を見たと想像される陳氏は、鬣のあ
る獅子と辟邪・天禄を区別して新しい盤龍鏡つまり私の名づける3種4頭式の「四シ獣鏡」
を作ったのではないかと考えます。また、これこそ「仏獣鏡」といってもよい卑弥呼への
新意匠の下賜鏡と考えます。
6号盤龍鏡は園部垣内唯一の舶載鏡で後漢時代の作ではあるが「三仏三獣鏡」や擬銘
帯鏡など倭鏡との同伴関係を考慮すると4世紀以降にしかもってこれないので、園部垣
内古墳の築造時期を4世紀後半と森教授は判断されたと推察します。勿論鏡だけで判定
したのではないにしても、盤龍鏡出土古墳として福知山の広峯古墳とヌクモ古墳にそれ
ぞれ1面の盤龍鏡があることからそれによって前期古墳と判断されているようで、この
権威ある考古学者の見解が、園部黒田古墳の年代特定に影響を与えたのではないかと考
えます。船坂との境の黒田で平成5年に発掘された全長52mの前方後円墳が全長82
mの垣内前方後円墳より約100年早い、即ち園部最古の3世紀後半の古墳とされた大
きな要素は、木棺の上下から割られた状態で副葬されていた1面の銅鏡であるようです。
中国後漢から西晋にかけて作られた希少な双頭龍文鏡で、ネットで見られる紋様は鮮や
かです。しかし、私の目には退化した紋様に見えます。なぜかというと上下の長方格内
に刻まれた銘文に疑問を感じるからです。片方は君宜官の3字でもう一方は位至三公
の4字で中国鏡らしくない上に、位と官は逆字です。官の逆字はよくあるようですが、
位の逆字は余りみかけません。意図的に割っているのも、頭上に大切に置くのと違って、
意味は分かりませんが、僅かに一枚しかない鏡の副葬の仕方として腑に落ちません。何
をもって黒田の方が垣内よりも100年も先に造られたとされるのか、その根拠をじっ
くりお聞きしたいものです。
更にもう一点、垣内古墳の前方部から後円部がベテランの森先生が見ても古墳と分か
らなかったほど崩れていた原因の一つは、八幡神社の鎮座するその丘から大量の鉄滓が
出土していたことから類推されるタタラで、それに関連する報告です。垣内古墳からは
82.1cmの長剣が出土しています。このような鉄長剣は前期古墳に稀に見られると
いうことで、60cmを越える長剣出土古墳がリストアップされていました。
福岡県一貴銚子古墳・奈良メスリ山古墳・新沢500号古墳・大阪黄金塚古墳東槨・
西槨(2)・滋賀安土瓢箪山古墳・福島県会津大塚山古墳北棺の名が挙がっており、景
初三年陳作鏡出土の黄金塚からは3本出土しているようです。奈良のメスリ山と新沢は
森教授が指摘されるようにズバリ大和政権のお膝元で難儀なのですが、私はここに挙が
った古墳は全て、大和政権よりも邪馬台国と深いつながりがあると考えています。詳し
い説明は、今回分量が多いので次回12月の例会に出す「不弥国が見つかった」という
文章に回しますが、今の日本の考古学者に指摘したいのは「前方後円墳は大和政権管理
下の築造」という条件反射で歴史を歪めている、ということです。
というわけで、陳氏が240年にこの桑田郡園部にきて、明延鉱山の銅・錫でなくて
手近の大谷鉱山の銅・錫(江戸時代に最盛期を迎えたらしいが、垣内には鉄もあるし自
前で銅鏡も刀も作れたと考える)を使って作った可能性の高い垣内古墳の銅鏡を100
年以上も伝承させたと解釈する森教授指導の考古学に異を唱えるものであります。
弥生時代終末期から古墳時代前期の年代考察に欠かすことのできない銅鏡、その中で
も特に重要な「卑弥呼百枚鏡」に仏像鏡(私個人としては仏教守護の獣を彫っている仏
像鏡という意味で【仏獣鏡】としています)を入れることができない、また、その渡来
コースも絞れないという甘い結論で終わっている師弟の報告書、それに一石を投じてみ
た訳です。私からいうと「再び」の挑戦状、今度は受けて頂けることを望みます。
平成12年(2012年)11月19日(月)
梅鉢明英
IM氏がインターネットから取り出してくれた丹波地域の古墳情報コピーを転載した。