■コラム リエゾンニュースレターNo.069 2008 年8月号 インドにおける携帯電話の普及について 神戸大学経済経営研究所 准教授 佐藤 隆広 [1] はじめに Vodafone が日本市場から撤退したのは,2006 年のことであった.Vodafone 日本法人を 買収したのが,ソフトバンクである.ソフトバンクは,自社同士の通話やメールを無料に するサービス(「0 円」広告が問題になったのは記憶に新しいだろう)を提供することで,新 規契約数を増加させただけではなく,2006 年 10 月に開始された携帯電話番号ポータビリ ティ(MNP)を通じて顧客をドコモから奪うことに成功した.とくに,2008 年 5 月現在で, ソフトバンクは 13 ヶ月連続で契約数の純増でみてシェアトップとなっている1.また,ソフ トバンクは,アップルと契約を結び iPhone の販売を 2008 年 7 月 11 日に開始したり,女 優の上戸彩(長女役),樋口可南子(母役),犬のカイ君(父親役),黒人モデルのダンテ・カー ヴァー(長男役)を起用したコマーシャルでは高感度調査でも 5 ヶ月連続の 1 位となっており, 調査が開始された 1989 年以降の連続トップ記録を更新したりして2,積極的な経営戦略を 打ち出している.成熟したとみなされてきた日本の携帯電話市場において,ソフトバンク の活躍は目覚ましいものがある. それでは,日本市場から撤退した Vodafone はどこに行ったのだろうか.実は,同社は 2007 年にインドに行ったのである.Vodafone は,インドでの携帯電話市場シェアで第 4 位の Hutchison Essar を 188 億米ドルで買収した.Vodafone は日本市場に見切りをつけ, 戦略的拠点として成長著しいインド市場を選択したわけである.2007-08 年度の実績をみる と,インド市場で Vodafone の売り上げは前年比で 50%も増加した.世界市場全体でみた同 社の売り上げの上昇率が 14%であったことと比較すれば,インド市場の売り上げ規模の拡 大は驚異的な数値であるが,依然としてインド市場は世界全体の収入の 5%を占めるに過ぎ ない3.日本からインドにシフトした Vodafone の経営戦略が正しかったのかそれとも間違 っていたのかは現段階ではわからないが,急激に拡大するインドの携帯電話市場が魅力的 であるのはまず間違いないであろう. http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0806/06/news058.html 『毎日新聞』2008 年 6 月 30 日(東京朝刊) ( http://mainichi.jp/select/biz/news/20080630ddm008020020000c.html). 3 The Business Line, May 28, 2008 (http://www.thehindubusinessline.com/2008/05/28/stories/2008052852260100.htm). 1 2 実際,インドにおける携帯電話加入者数の推移を示している第 1 図を確認すると,2005 年 9 月に 5000 万人を突破したあと,2006 年 11 月に 1 億人,2007 年 9 月に 1 億 5000 万 人,2008 年 5 月に 2 億人を突破している4.驚くべき普及スピードである.過去 1 年間の 1 月あたりの新規加入者数は 600 万人を超える.インドの携帯電話加入者数が 2010 年までに 5 億人まで増える,という大胆な予測もあるが,それも決して冗談ではなくなってきた. 第1図 携帯電話加入者数の推移 250000000 200000000 150000000 100000000 50000000 2008年3月 2007年3月 2006年3月 2005年3月 2004年3月 2003年3月 2002年3月 2001年3月 2000年3月 1999年3月 1998年3月 1997年3月 0 資料) The Cellular Operators Association of India (COAI) website(http://www.coai.in/)よ り筆者作成. 実際,筆者がインドに調査旅行に行くたびごとに,街中で携帯電話をもつ人の数がどん どん増えていることを実感する.とくに,2,3 年ほど前にオートリクシャー(インドの 3 輪 車バイクで,タクシーが使えない庶民の足)に乗った際に,運転手が携帯電話で通話してい たのは初めて見たときは大変驚いた.オートリクシャーの運転手の階層は決して高くはな 4 以上の数値は,携帯電話の事業者団体であるインド携帯電話事業者協会(COAI)の資料に よるが,公的機関であるインド通信規制局(TRAI)の資料によれば,すでに 2007 年 12 月末 時点で携帯電話加入者数は 2 億 3000 万人強となっている(後掲の第 1 表を参照). く,所得水準も低いからである.しかし,いまではオートリクシャーの運転手が携帯電話 を持っていることを驚かなくなってきた.それはもう特別なことではないからである.ま た,インドでの国際会議などにおいても,報告途中であるにもかかわらず,携帯電話音が 何度も鳴り響き,その場で話し込むマナーのないインド人研究者がたくさんいることも, あきれながらも随分慣れてきた.さらに,筆者自身は,残念ながらまだ目撃したことはな いが,乞食も,携帯電話を用いてベストな物乞いポイントを探している,という話を聞い たことすらある. さて,この小論では,こうしたインドにおける携帯電話の普及とそれがもたらす経済的 効果をごく簡単に議論したい.小論の構成はつぎのとおりである.次節では,インドの携 帯電話市場の概況を説明する.第 3 節では,携帯電話の普及がインドの漁業にどのような 経済効果を持っているのかを解明した 2 つの論文を紹介したあと,第 4 節で小論のとりま とめを行う. [2] インドの携帯電話市場の概況5 第1表 携帯電話事業者別の加入者数 2007年12月時点 農村加入者 農村加入 マーケット の加入者数(単 数(単位:100 採用技術 者比率 シェア 位:100万) 万) Bharti 55.16 13.31 24.13 23.61 GSM Reliance 40.96 7.46 18.22 17.53 GSMとCDMA Vodafone/Hutchison 39.96 11.38 28.55 17.1 GSM BSNL 36.81 11.63 31.59 15.76 GSMとCDMA Tata 21.74 1.05 4.83 9.31 CDMA Idea 21.05 4.45 21.12 9.01 GSM Aircel 9.43 2.82 29.88 4.04 GSM Spice 3.8 0.37 9.74 1.63 GSM MTNL 3.2 0 0 1.37 GSMとCDMA BPL 1.24 0 0 0.53 GSM HFCL 0.25 0.002 0.98 0.11 CDMA Shyam 0.1 0.001 0.54 0.04 CDMA Total 233.62 52.52 22.48 100 資料) Telecom Regulatory Authority of India, The Indian Telecom Services Performance Indicators October-December 2007, April 2008, table 2.1. 第 1 表は,携帯電話事業者別の加入者数を示したものである.2007 年 12 月時点で約 2 億 3000 万人が携帯電話に加入しているが,Bharti が 5500 万人でトップ,Reliance, 第 2 節を執筆するにあたって,中国における携帯電話市場を分析している丸川(2007)が大 いに参考になった. 5 Vodafone/Hutchison, BSNL が 3000 万台後半から 4000 万台強としのぎを削っているのが わかる.この先頭者集団に 2000 万人強の Tata, Idea の合計 6 社で携帯電話市場の約 90% を占めるわけである.日本市場から撤退した Vodafone が,シェア 3 位に躍進したのが注目 されるところである.シェア第 4 位の BSNL とシェア 9 位の MTNL が公企業である.あ とは,すべて民間企業である.外資系企業は,Vodafone のみである. 第 1 表をみると,農村での加入者数は全体のわずか 22%を占めるに過ぎない.インドに おける人口の 8 割近くが農村に住んでいるが,このことを踏まえるならば携帯電話加入者 は大きく都市部に偏っていることがわかる. 第2表 採用技術(GSMとCDMA)別でみた携帯電話事業者別の加入者数 GSM CDMA 2007年12月時点 の加入者数(単 マーケットシェア 位:100万) Bharti 55.16 32.03 Reliance Vodafone 39.86 23.14 Tata BSNL 32.72 19.00 BSNL Idea 21.05 12.22 MTNL Aircel 9.43 5.48 HFCL Reliance 6.00 3.48 Shyam Spice 3.80 2.21 MTNL 2.95 1.71 BPL 1.24 0.72 Total 172.23 100.00 Total 2007年12月時点 の加入者数(単 マーケットシェア 位:100万) 34.96 56.95 21.74 35.41 4.09 6.66 0.25 0.41 0.25 0.41 0.10 0.16 61.39 100.00 資料) Telecom Regulatory Authority of India, The Indian Telecom Services Performance Indicators October-December 2007 , April 2008, table 2.2. 第 2 表は,採用している通信技術別でみたものである.携帯電話加入者の 74%が GSM 規格を採用している.GSM は,日本と韓国を除くほぼ全ての国において圧倒的なシェアで 採用されている携帯電話通信規格のグローバルスタンダードである.インドもその例外で はなく,GSM のシェアが大きいことがわかる.CDMA の最大の事業者で,携帯電話市場 シェアでみても第 2 位の地位にある Reliance は,GSM ネットワーク建設のために 500 億 ルピー(日本円で 1250 億円)もの投資を行うことを計画している6.このことだけを捉えれば, インドにおいても GSM のシェアが高まることを予想させる.しかしながら,その一方で, Reliance は GSM の携帯電話事業者とは異なり,通信事業と携帯電話機販売を一括して行 っている.同社は,2007 年に 777 ルピーという最安値の CDMA 携帯電話機を発売し,わ ずか 1 ヶ月で 100 万台を売り切ったが,これは,携帯電話の販売に対して補助金を投入し た結果である(すなわち,通信事業からの収入によって携帯電話販売事業を内部補助してい The Business Line, November 02, 2007 (http://www.thehindubusinessline.com/2007/11/02/stories/2007110252080400.htm). 6 るのである) 7.インドにおいて,携帯電話規格をめぐる GSM と CDMA の角逐は,まだま だ続きそうである. 第3表 通話料,通話時間および月額通話料 通話料(1分当たり, ルピー単位) 通話時間(1月当た り,分単位) 月額通話料(ルピー 単位) GSM 後払い 先払い 平均 CDMA 後払い 先払い 平均 0.96 1.00 0.99 0.90 0.82 0.84 968 407 464 885 318 375 929 407 459 797 261 315 資料) Telecom Regulatory Authority of India, The Indian Telecom Services Performance Indicators October-December 2007 , April 2008, annex 2.2, 2.3, 2.4 and 2.5. さて,インドの携帯電話通話料はどの程度であろうか.事業免許地区によって幾分異な るが,第 3 表によれば全国平均はつぎのようになっている.GSM で 1 分当たりの通話料(レ ンタル料込み)でみて,後払い契約で 0.96 ルピー,先払い契約で 1 ルピー,平均で 0.99 ル ピー,CDMA では,それぞれ,0.9 ルピー,0.82 ルピー,0.84 ルピーとなっている.現在, 1 ルピーがおおよそ 2.5 円ぐらいであるので,1 分当たりの通話料はたったの 2.5 円前後の 水準である8.これは,世界で最も安価な通話料である,といってよい.それでは,加入者 の月額平均通話利用時間はいくらであろうか.GSM でみて,後払い契約で 968 分,先払い 契約で 407 分,平均で 464 分,CDMA では,それぞれ,885 分,318 分,375 分となって いる. 平均通話料と平均利用時間から概算すれば,月額 1 人当たり利用金額はおおよそ日本円 でみて 1000 円から 1200 円程度である.先進国の月額使用金額が 5000 円から 6000 円と言 われているので, 「客単価」としては,インドの場合,その 5 分の 1 ないしは 6 分の 1 程度 にすぎない.このことを踏まえると,Vodafone の戦略もよく理解できる.すなわち,日本 の「客単価」はインドの 5 倍から 6 倍あるが,インドの人口は日本の 11 倍もあり,先進国 と比較すれば携帯電話普及率がまだまだ低く,かつ,所得の急拡大が見込まれる.このこ とから,Vodafone は日本ではなくインドの将来性に賭けたのであろう. 以上,携帯電話事業者に注目して,インドの携帯電話市場の状況を記述した.つぎに, 携帯電話機の輸出入や生産に加えて,携帯電話機メーカーに焦点を当てることにしたい. 7 携帯電話機の生産自体は,ZET などの中国メーカーが行っている.この間の経緯につい ては,Asia Handset Shipment Quarterly Report, various issues (http://www.pacrimresearch.co.jp/)を参照した. 8 Telecom Regulatory Authority of India, The Indian Telecom Services Performance Indicators October-December 2007, April 2008, annex 2.4 and 2.5. 第4表 携帯電話機の輸出入(HC分類番号85252017)および生産台数 輸入 台数 2003 2004 2005 2006 2007(注1) 2008 15956150 18881950 45708790 47301800 32266570 - 輸出 金額(10万 単価(ル ルピー) ピー) 652888 4092 756996 4009 1280508 2801 1418067 2998 941164 2917 - 台数 14530 173570 293010 1303500 1682660 - 生産 金額(10 単価(ル 万ルピー) ピー) 870 5988 6687 3853 9340 3188 38609 2962 31591 1877 - 国内需要 推定生産(注2) 台数 台数 30100000 107000000(予測) 13466768 14871535 28167381 52237845 66793952 - 台数 -2474852 -3836845 -17248399 6239545 36210042 - 注1) 2007年のみ,1月から12月累計.その他の年は4月から翌年3月の累計を示している. 注2) 推定生産台数=国内需要+輸出-輸入. 資料) 輸入と輸出データについては,Department of Commerce, Export Import Data Bank (http://commerce.nic.in/eidb/default.asp). 生産台数については,Wireless Week , August 31, 2007 (http://www.wirelessweek.com/Mobile-Handset-ManufacturingIndia.aspx). 国内需要として,The Cellular Operators Association of India調べ(第1図を参照)の新規加入者数を代理変数に用いた. 第 4 表は,携帯電話機の輸出入および生産の統計をとりまとめたものである(残念ながら, 首尾一貫した生産統計を入手することができなかった).ここから,以下の諸点を指摘して おきたい.第 1 に,輸出入ともに,大幅に拡大していることがわかる.2007 年でみて,輸 入が約 3200 万台,輸出が約 170 万台となっている.台数でみても,金額でみても,携帯電 話機の貿易ではインドは著しい入超を計上しているが,最近の輸出の伸びは極めて顕著で あることは注目に値する.第 2 に,携帯電話機の単価が輸出入にかかわりなく,大幅に下 落していることがわかる.通話料金の低下とあいまって,電話機価格の下落が,インドに おける携帯電話需要を大きく刺激しているのであろう.前者については携帯電話事業者間 の競争が,後者については携帯電話機メーカー間の競争が重要な要因である9.第 3 に,生 産台数は,2006 年に約 3000 万台であったが,予測では 2008 年には 1 億台を突破する.こ れが実現すれば,貿易における携帯電話機の入超が劇的に変わる可能性がある.実際,主 要携帯電話機メーカーは,インドで大規模な設備投資を行い,国内生産能力を増強してい ることが,各種の新聞記事などからわかっている10.参考のため,推定生産台数を計算した が,2003 年から 2005 年にかけてマイナス値をとっており全く信頼できる値ではないこと がわかるが(マイナスの原因としては買換え需要を考慮していないことが挙げられる),それ でも 2006 年と 2007 年にかけて生産がプラスになり,2006 年の生産台数と 2007 年の推定 生産台数がおおよそ一致する値になっており,こうした計算からも 2005 年以降からインド 国内で携帯電話機生産が急拡大していることが確かめられる.また,新聞報道によれば, 9 Asia Handset Shipment Quarterly Report, various issues (http://www.pacrimresearch.co.jp/). 10 Asia Handset Shipment Quarterly Report, various issues (http://www.pacrimresearch.co.jp/)によれば,現在,Nokia, SonyEricsson, Samsung, Motorola の大手 4 社の携帯電話機メーカーすべてがインド国内で生産を開始している. 2005 年からインド国内で生産を開始した Nokia は,2008 年 3 月末までに単独で累計 1 億 2500 万台の携帯電話機を生産している11. 第5表 インドにおける携帯電話機メーカー GSMメーカー PALM ASUS FLY HTC INTEX LG MOTROLA NOKIA SAGEM SAMSUNG SONYERICSSON SPICE 合計 機種数 3 4 32 12 6 21 19 43 15 36 29 23 243 CDMAメーカー HAIER HTC HUAWEI LG MOTOROLA NOKIA PANTECH RELIANCE SAMSUNG VIRGIN 合計 機種数 1 2 4 12 7 8 1 9 9 5 58 資料) http://www.india-cellular.com/HandsetPrices.htmの携帯電話機種別価格統計から筆者作成. それでは,いま,インドではどのようなメーカーが携帯電話機市場に参入しているので あろうか.携帯電話機情報のポータルサイトから入手した資料に基づいて整理したのが, 第 5 表である(2008 年 7 月 14 日時点).世界の携帯電話機市場において,Nokia, Samsung, Motorola, SonyEricsson の 4 大メーカーのシェアが高い.インドにおいても,Nokia が GSM で 43 機種,CDMA で 8 機種,Samsung が GSM で 36 機種,CDMA で 9 機種,Motorola が GSM で 19 機種,CDMA で 7 機種,SonyEricsson が GSM で 29 機種,インド市場に投 入しているのがわかる.そのほかに,韓国系の LG とヨーロッパ系の FLY の投入機種数が 多いことが注目される. 11 http://business.techwhack.com/3601-nokia-india-mobile-phone 0 5 Frequency 10 15 20 第2図 携帯電話機種別価格のヒストグラム 0 20000 40000 Mobile Handset Price 60000 資料) http://www.india-cellular.com/Handset-Prices.htmの携帯電話機種 別価格統計から筆者作成. 携帯電話機種別の価格(2008 年 7 月 14 日時点)のヒストグラムを描いたのが,第 2 図であ る.横軸を,500 ルピー刻みでとっている.これをみれば,明らかなように,低価格帯に携 帯電話機種が集中している.このことは,先にみた輸出入単価が 2007 年でみて 2000 ルピ ーから 3000 ルピーであったことと符号している. 第6表 GSM携帯電話機メーカー別のマーケットシェア NOKIA SONYERICSSON SAMSUNG MOTOROLA その他 合計 2004年 2005年 2006年 2008年 10月 3月 2月 1月 3月 61.50 74.00 78.80 59.50 59.50 7.10 7.60 5.10 8.10 8.10 17.20 7.80 6.40 5.70 7.00 N.A. 4.50 4.60 6.70 5.90 14.20 6.10 5.10 20.00 19.50 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 資料) http://www.cellular-news.com/ story/31214.php, http://www.rediff.com/money/2006/may/02spec.htm, http://infotech.indiatimes.com/articleshow/1095845.cms 残念ながら,携帯電話機メーカー別のマーケットシェアに関する首尾一貫した統計資料 を入手できなかったが,新聞報道からおおよその状況を窺うことはできる.それによれば, 2008 年 3 月時点でみて,Nokia のマーケットシェアが 60%もあり,同社が圧倒的な存在で あることがわかる.そのあと,SonyEricsson, Samsung, Motorola の 3 社がシェア 6%から 8%台で鎬を削っている. [3] 携帯電話がもたらす経済効果:インド・ケララ州の漁業をケースにして これまで,インドの携帯電話市場の概況を解説してきたが,この節では焦点をぐっと絞 りこみたい.そこで,インド最南西にあるケララ州の漁業をケーススタディとして分析し た 2 つの論文(Jensen (2007)と Reuben (2007))を紹介することによって,携帯電話の普及 がいかなる経済効果を持っているのかを考えることにしよう. ケララ州の人々は,他州と比較すると魚を大量に消費している.Jensen (2007: 881)によ れば,ケララ州の成人の 7 割が少なくとも 1 日に 1 回は魚を食べている.ケララの人々に とって,魚が主要なたんぱく源である.ケララ州の漁業部門の規模も大きく,100 万人以上 もの人々が同部門に就業している. ケララ州において携帯電話サービスが開始するのが,1997 年のことである.Jensen (2007: 881)によれば,それ以前においては,洋上にいる漁師は海岸沿いにある鮮魚市場の 価格情報を入手することができなかった.また,漁を終えた漁師がアクセスできる市場は, 運輸コストが相当高く付くことと市場が開かれている時間帯が限られていることから,1 日 に 1 市場のみである.そのため,漁師は魚を寄港した当該市場ですべて売らざるを得ない. インドにおいては,魚を貯蔵することはコストが高くつくし,陸路で他市場に運ぶには道 路インフラが未整備であり,かつ運輸コストがあまりにも高すぎる. ここで,Reuben (2007: 8-9)にしたがって,ケララ州における漁業のサプライチェーンを 解説したい.それはおおよそ次のようになっている.漁船のオーナーが漁船を操縦する漁 師を雇用する(漁師または漁師組合が漁船のオーナーになっているというケースもある).多 くの場合,仲買人が漁船投資に資金を提供している.このことによって,仲買人は,漁で とった鮮魚を市場で売り捌く権限を持つ.仲買人は,最終消費者や卸売業者に対して,入 荷した鮮魚を入札にかける.仲買人は,販売手数料として販売代金の 5%から 10%をとり, その残りの代金を漁船のオーナーに支払う.オーナーは燃料費などの可変費用を支払った あと,その残りを漁師に配分する. 以上のサプライチェーンを前提とすると,携帯電話がケララ州の漁業にどのような影響 を与えるのかは予想が付くだろう.すなわち,複数市場における最終消費者や卸売業者た ちから鮮魚価格に関する最新情報を収集している仲買人と,洋上にいる漁師が,携帯電話 で連絡を相互に取りあい,最も高い価格で販売できる市場に直接寄港するのである. Reuben が行ったケララ州の現地調査(約 170 サンプル)の結果(Reuben (2007: 9-13))によ れば,80%の漁業関係者が携帯電話は有益であり,48%が携帯電話料金が仮に高くなったと しても携帯電話の使用を停止することがない,と回答している.また,80%以上が,携帯電 話導入後,市場間での価格差が縮小していることや日中の価格変動が減少していることに 肯定的に回答している.また,売れ残りや買いそびれが発生する頻度が少なくなっている と,73%が回答している.通常,売れ残りの鮮魚は,廃棄されるか,あるいは肥料の原料と して販売されるか,のいずれかであるが,その場合には価格があまりにも低くコストを回 収できない.携帯電話の導入によって,こうした無駄がなくなったわけである.また,74% が,事業リスクが軽減したと回答している. Reuben (2007)の現地調査に対して,Jensen (2007)のそれはより本格的なものである. Jensen (2007)は,ケララ州の 3 つの県における 300 か所の鰯漁場を対象にして,1996 年 9 月 3 日から 2001 年 5 月 29 日までの週次(毎火曜日早朝)鰯市場調査を行った. Reuben (2007)は,厳密な理論モデルの提示と手堅い実証分析を行っているが,そのエッ センスは次に引用する 2 つのグラフに集約されている. 第3図 ケララ州における携帯電話普及率の推移(1996 年-2001 年) 資料) Jensen (2007: Figure III). 第4図 ケララ州における鰯価格の推移(1996 年-2001 年) 資料) Jensen (2007: Figure IV). 図を Jensen (2007)からコピー・ペーストしたため,やや見づらいが,第 3 図の各グラフ は各地域における携帯電話普及率の推移をとったものである.横軸は週,縦軸は 0 から 1 の間をとる普及率を示している.2007 年から地域ごとに段階的に携帯電話サービスが開始 され,開始後おおよそ 15 週から 20 週の間に普及率が 70%から 80%の間に収束する様子が 観察できる.第 4 図は,第 3 図と横軸は同じで,縦軸に 1 キログラムあたりのルピー表示 でみた鰯価格の推移を示したものである.携帯電話サービスの開始直後,それまで観察さ れてきた価格の乱高下が一挙に落着き,各市場を通じて同一の鰯価格に収束していること を,はっきりと読み取ることができる. Jensen (2007)は,携帯電話の普及が域内市場にける価格の安定化・売れ残りの減少・各 市場での価格の収束を生み出し,結果として,生産者だけではなく消費者の厚生水準をも 改善したと結論付けている. これは,携帯電話をめぐるひとつのドラマといってよいだろう12. 12 インドの隣国バングラディシュの「グラミンフォン」をめぐるドラマも,実に感動的で ある.サリバン(2007)を参照されたい. [4] おわりに 小論は,インドの携帯電話市場の概況を説明したあと,インドのケララ州の漁業を取り 上げ,携帯電話の普及がもたらす経済効果を考察した. ここで,再び,日本市場から撤退した Vodafone に言及したい.2007 年に,Vodafone は インドでの携帯電話市場シェア第 4 位の Hutchison Essar を買収したことはすでに述べた. 実は,Hutchison Essar の身売り話は,日本の NTT ドコモにも持ちかけられていた.世界 の携帯電話事業者のなかで,NTT ドコモは,Vodafone,Deutsche Telekom,Telefónica などのライバル企業が巨額の債務を抱えているのに対して,事実上の無借金経営をやって いる.財務の健全性という点において,NTT ドコモは,他に抜きんでているのである.と ころが,割引キャッシュフロー法などで用いて「検討したが,高かった」との理由で Hutchison Essar の買収を断念した13.もちろん,今年度中か少なくとも来年度中には,イ ンド政府は第 3 世代(3G)携帯電話事業免許の入札を行う可能性があり,NTT ドコモはこち らで勝負するのかもしれない.しかしながら,インド政府が新規参入する外資に対して 3G 携帯電話事業免許を開放するのかどうかは,まだ確定しておらず,事態は極めて流動的で ある14.そういった不確実性を織り込んだうえで,3G 携帯電話事業免許入札に参加できる 資格を確実に確保できるというメリットを重視し,Vodafone は第 2 世代携帯電話事業分野 でインドに参入したのであろう. インドの携帯電話機メーカーはどうであろうか.日系企業では SonyEricsson が健闘して いるのみで,シャープ・パナソニック・富士通・東芝・NEC をはじめとする日本を代表す る携帯電話機メーカーはインドで全く存在感がない.実際,各社のインド法人のサイトを 確認する限りでは,いずれのメーカーも携帯電話機販売を行っていなかった(2008 年 7 月 16 日時点).わたしの友人が数年前にインドに留学していたときに購入した携帯電話機は, パナソニック製だったと聞いたが,パナソニックはインドでの携帯電話機販売を中止した のであろうか. インドの携帯電話加入者数が 2010 年には 5 億人を超えるという予測は,もはや冗談では なくなってきたが,そういう大きなビジネスチャンスを日本企業が自らのものにし切れて いないのを,わたしは歯痒く思う.繰り返しになるが,ケララ州の漁業における携帯電話 普及の事例は,携帯電話をめぐるひとつのドラマである(ソフトバンクが CM や iPhone な どで成熟した日本市場で健闘していることは,確かにそれはそれで立派なことではあるが, わたしはそこにいかなるドラマも見ることができない).こうしたドラマは何も漁業に限ら ず,貧困からの脱却を図っているインドでは普遍的に観察できるのであろう.携帯電話を めぐるドラマに,高い技術力を誇る日本企業が積極的にかかわっていないのが,わたしに はなによりも残念である. 13 14 『日本経済新聞』2008 年 7 月 5 日付け朝刊. http://www.asahi.com/business/topics/TKY200805170251.html <参考文献> 丸川知雄(2007)『現代中国の産業』中央公論新社. サリバン,ニコラス(2007)『グラミンフォンという奇跡』(東方雅美ほか訳)英治出版. Jensen, R. (2007) "The Digital Provide: Information (Technology), Market Performance, and Welfare in the South Indian Fisheries Sector," Quarterly Journal of Economics, CXXII( 3), pp. 879-924. Reuben, A. (2007) "Mobile Phones and Economic Development: Evidence from the Fishing Industry in India," Information Technologies and International Development, 4(1), pp. 5-17. 神戸大学経済経営研究所附属政策研究リエゾンセンター
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