アフリカの地域統合 - 東北大学法学研究科・法学部

2006 年度 国際関係論演習
アフリカの地域統合
4班
阿久沢祐子
木村元
武井哲郎
はじめに
2
I 植民地支配と地域統合:「世代」
3 国連と地域的機構
II パン・アフリカの理想と地域的機構
4 AU の安全保障システム
1 OAU の創設
ECOWAS の紛争への対応
V 紛争の態様と地域的機構の介在
a 設立の背景
1 コートジボワール紛争
b 目的と原則
2 ダルフール紛争
c 機構
3 その他の紛争
2 AU の設立
a 設立の経緯
b 目的と原則
c 機構の組織図
III 経済的統合
a 西サハラ紛争
b ソマリア紛争
VI アフリカの地域統合の展望
1 経済統合の展望
2 安全保障の展望
1 国際経済とアフリカ経済
2
製造業停滞の原因・経緯・アフリカのマ
ージナル化
3 CFA フラン圏~UEMOA
4
CFA フラン圏~CEMAC
5 南部アフリカ~SADC
6 西アフリカ~ECOWAS
7 東部アフリカ~EAC
8 経済統合の深度と貿易効果
IV 地域的安全保障
1 OAU の紛争への対応
参考文献
平田源吾
2006 年度
国際関係論演習
はじめに
日本では一般に「アフリカ」に対してどのようなイメージが共有されているだろうか。
雄大な自然、草原を駆ける野生動物たちの姿、民族の伝統的な風習や祭祀の様子かもしれ
ない。否、痩せ細った子どもたち、貧困にあえぐ難民キャンプの図かもしれない。破壊さ
れ廃墟と化した街、銃をかまえる少年 1 、絶えることのない内戦の映像かもしれない 2 。しか
し、なぜアフリカの貧困が解消されないのか 3 、今どこの国で何が原因で内戦が勃発してい
るのかについて考える人は多くはないであろう 4 。または、2006 年、サッカーのワールド・
カップに出場したチュニジア、コートジボワール、ガーナ、トーゴ、アンゴラといった国
名を思い浮かべるかもしれない。しかし、これらの国の位置を地図上に示すことができる
人はどのくらいいるだろうか。そして、地図帳を広げれば、山や川などの自然が境をなす
ことなく、直線による国境線が全体の 44 パーセントにものぼるいびつなアフリカの地図を
見ることができる 5 。
今日 21 世紀の国際社会は、急速な変化の波の中にあるといわれる。東西冷戦構造の崩壊、
2001 年の 9.11 テロ事件とその後の「対テロ戦争」、グローバリゼーションといった現象は政
治・経済のあらゆる側面に大きな影響を及ぼしている。こうした潮流にあって、アフリカ
は「グローバル市場の片隅へと退場した大陸」
(Lewis, 2000)と表現される。
アフリカは、近代以前においては奴隷貿易に供され、近代以降は大国のパワー・ポリテ
ィクス「対象物」あるいは「客体」として扱われてきた 6 。欧米列強による植民地支配は、
アフリカの民族、言語、宗教、文化を分断し、大地、そこに暮らす人々に大きな爪痕を残
した 7 。東西冷戦時代には、大国の戦略的な関与により多くの武器が流入して紛争が激化し、
冷戦終結後にはそれら大国は撤退するというようにアフリカは常に国際情勢に揺さぶられ
てきた 8 。1990 年代には、アフリカに対する国際社会の関心は低下し、アフリカに対する国
際社会の関心は低下し、民族紛争、権力闘争を含む地域紛争、内戦がいっそう激化・広域
1
P・W・シンガー(小林由香利訳)(2006 年)『子ども兵の戦争』
(NHK出版)
.
アフリカを舞台とする近年の映画も、紛争を背景とするものが多い。『ブラックホーク・ダウ
ン』
(2001 年、米)、
『すべては愛のために』
(2003 年、米)、
『ホテル・ルワンダ』
(2004 年、米)
など。
3
平野克己(2002 年)
『図説アフリカ経済』(日本評論社)にはアフリカ経済の厳しい状況が示
されている。
4
武内進一(2000 年)『現代アフリカの紛争-歴史と主体』(日本貿易振興会).
5
1884-1885 年のベルリン会議をきっかけに、アフリカは欧米列強によりまさに「分割」された。
6
片岡貞治(2004 年)
「アフリカにおける多国間協力-アフリカ連合(AU)とアフリカの自立」
国際問題 533 号、19 頁.
7
2001 年に南アフリカのダーバンで開催された人種差別撤廃会議では、奴隷制と奴隷貿易につい
ては、
「人道に対する罪であり、会議全体が心より遺憾の意を表明する」との表現が最終宣言文
書に盛り込まれた。
8
映画『ロード・オブ・ウォー』
(2005 年、米)では、実在した武器商人を主人公として、アフ
リカをはじめとする紛争地域が抱える現状と大国の関与が描かれている。
2
1
アフリカの地域統合
化しているといわれる 9 。
このような国際社会の変容を受けて新たな視点としてヨーロッパ連合(EU)に体現され
る「地域統合」というアプローチがアフリカについても提示され、2002 年に発足したアフ
リカ連合(AU)にその焦点が当てられることがある 10 。
本稿の目的は、AU の文脈で言及される「アフリカの地域統合」について網羅的に記述す
ることにある。まず、I では、現在のアフリカの状況にも深く根を下ろしている植民地支配
と地域統合の「世代」について若干の解説を行う。II では、このような植民地支配を脱する
ことを目的として創設されたアフリカの包括的機構であるアフリカ統一機構(OAU)につ
いて概説した後に、OAU の課題を克服するために設立された AU について概説する。次に
III では、アフリカの経済状況と各サブ・リージョナル機構について概説する。さらに IV、
アフリカにとって最重要課題である紛争問題と、地域的機構による安全保障、国連による
安全保障との交錯について検証する。その上で V では、具体的な事例研究として、主にコ
ートジボワール紛争、ダルフール紛争について、地域的機構が紛争解決にどのように介在
しているか、どのような役割を求められているかを分析する。最後に VI では、以上の議論
を整理し、アフリカの地域統合の展望・可能性を模索する。
I
植民地支配と地域統合:「世代」
1990 年代以降のアフリカの地域統合は、従来のパン・アフリカの動きとはその性質を異
にするといわれる。Mistry は、これを「世代」として分類し、OAU をはじめとする 1960 年
代から 1980 年代までのアフリカの地域統合を「第 1 世代の地域統合」
、AU に体現されるよ
うな 1990 年代以降のものを「第 2 世代の地域統合」として位置づけている(Mistry, 2000)。
「第 1 世代の地域統合」と「第 2 世代の地域統合」の動きの相違は、植民地支配の影響
という点にある。まず、
「第 1 世代の地域統合」においては、植民地支配に由来するものが
多くみられる。1967 年に東アフリカ 3 ヵ国が設立した東アフリカ共同体(East African
Community: EAC)は、イギリス植民地支配下にあった 1961 年に設立された機構を前身とし
ている。また、西アフリカにおける CFA フラン発券銀行である西アフリカ中央銀行
(BCEAO)は、植民地支配下の 1959 年に設立された機関であり、1966 年に設立された西
アフリカ諸国関税同盟(UDEAO)も 1959 年に設立された西アフリカ関税同盟を前身とし
ている。さらに、「第 1 世代の地域統合」は植民地支配に起源をもつというだけでなく、そ
の目的においても植民地支配の影響を色濃く反映している。すなわち、1963 年にアフリカ
における包括的機構として設立されたアフリカ統一機構(The Organization of African Unity:
OAU)は、アフリカ諸国の連帯とともに、植民地支配との対決を前面に打ち出している。
また、1980 年に設立された南部アフリカ開発調整会議(SADCC)は、南アフリカのアパル
トヘイトを非難するものであった。
「第 1 世代の地域統合」は、一方では植民地支配の中で
9
片岡(2004 年)
、前掲論文、註 6、19 頁.1990 年代以降、国連によって派遣された平和維持活
動(PKO)の実に 3 分の 1 がアフリカに集中している。
10
実際、AUのHPを開くと、最初に「Africa must unite」というメッセージが表示される。
2
2006 年度
国際関係論演習
設立された機構の枠組みを引き継ぐと同時に、他方では植民地支配からの脱却をはかる動
きとして展開されたのである。
このような「第 1 世代の地域統合」に対して「第 2 世代の地域統合」においては、植民
地支配の影響が薄くなっている。東西冷戦構造の崩壊や、南アフリカのアパルトヘイト体
制の終焉は、アフリカをして新たな地域統合の方向を模索させるものとなった。
II
パン・アフリカの理想と地域的機構
1
OAU の創設
a
設立の背景
19 世紀末から始まったアフリカ人およびアフリカ系人の解放と統一をめざすパン・アフ
リカ主義運動と、植民地の形式的独立だけではなく、旧宗主国が事実上の支配隷属関係を
維持しようとする新植民地主義を打倒する必要性が第 2 次世界大戦後に生じたことによる。
1963 年 5 月にアフリカ統一機構憲章が採択され、同年 9 月に発効、OAU が発足した。
b 目的と原則
OAU の目的は、(a)アフリカ大陸圏諸国の統一と連帯の促進、(b)諸国民の生活水準の
向上、
(c)諸国の主権、領土、独立の保全、
(d)アフリカ大陸からの植民地主義の一掃、
(e)
国連憲章、世界人権宣言に即した国際協力の促進(OAU 憲章第 1 条 1 項)である。
また、こうした目的追求のために、(1)加盟国の主権平等、(2)内政不干渉、(3)各国
の主権・領土・独立の尊重、(4)紛争の平和的解決、(5)政治的暗殺・他国への破壊活動
に対する無条件的非難、(6)アフリカ圏未独立地域の全面的解放への絶対的献身、(7)非
同盟、などの原則を採用している(第 3 条)。
c
機構
○ 首脳会議
最高意思決定機関。原則年 2 回開催。
…
○ 閣僚理事会
…
原則年二回開催。首脳会議の議題の準備、首脳会議の決定の執行。
○ 事務局
○ 仲介・調停・仲裁委員会
○ 解放調整委員会
…
…
1977 年に活動停止。一度も利用されず。
植民地主義、人種差別主義からの解放がほぼ完了したため 1994 年
8 月に廃止された。
○ 専門委員会
…
経済社会、防衛、労働、教育科学文化保健委員会、およびアパルトヘ
イト委員会。
○ 紛争予防・管理・解決メカニズム(MCPMR)
理機関。
3
…
中央機関 1993 年設立。常設紛争処
アフリカの地域統合
2
AU の設立
a
設立の経緯
1970 年代までには、OAUの最大の目的であった脱植民地はある程度達成された 11 が、一
方で内政不干渉原則によりOAUは紛争において適切な対応が取れなかった。また、世界の
変化により的確に対応できるようOAUを合理化する必要性が存在しており、これらの理由
から憲章の改正が必要となった。
1979 年
「憲章再検討委員会」を設立
1999 年
スルト宣言(Sirte Declaration)を採択
→
2000 年
アフリカ連合設立を決定(スルト宣言 8 項 i)
「アフリカ連合設立法(Constitutive Act of the African Union) 12 」を制
定(2001 年 5 月 26 日効力発生)
2001 年 7 月
ルサカ首脳会議
2002 年 7 月 9 日
ダーバン首脳会議
…
移行期間(1 年間)の開始を宣言
…
アフリカ連合(African Union: AU)の発足
b 目的と原則
AUの目的は(a)諸国・人民のより強固な統一と連帯の達成、
(b)加盟国の主権・領土・
独立を守ること、
(c)政治的、社会・経済的統合を早めること、
(d)アフリカ大陸・人民の
利害に関して共通する立場を促進し、守ること、
(e)国連憲章、世界人権宣言を尊重した国
際協力の奨励、
(f)大陸の平和・安全・安定の促進、
(g)民主的制度と原則、住民参加、グ
ッド・ガバナンスの促進、
(h)バンジュール憲章 13(地域的人権条約)などに従った人・人
民の権利の促進と保護、
(i)グローバル経済と国際交渉において大陸に正しい役割を果たし
うる必要な条件を確立すること、
(j)経済的・社会的・文化的レベルの持続可能な発展と経
済の統合の促進、(k)人民の生活水準を高めるために、人間活動のあらゆる分野での協力
の促進、
(l)連合の目的の段階的達成のために、既存・将来の地域的経済共同体間の政策の
調整、調和、(m)あらゆる分野、特に科学・技術における研究を促進することで、大陸の
発展を進めること、(n)防止可能な疾病の廃絶と健康の促進において、関連する国際パー
トナーとの協同(AU設立法第 3 条)である。
また、目的達成のための原則として、
(a)主権平等・相互依存、
(b)独立時の国境の尊重
14
、
(c)連合の活動へのアフリカ人民の参加、
(d)共通防衛政策の樹立、
(e)加盟国間の紛
11
OAU憲章第 3 条に示された原則のうち、
「アフリカ圏未独立地域の全面的解放への絶対的献身」
はAU設立法においては除かれている。
12
http://www.africa-union.org/root/au/AboutAu/Constitutive_Act_en.htmより入手。なお、日本語訳と
しては、高林敏之(2003 年)「
「アフリカ連合」の安全保障観とその課題-「設置法」の検討を
通じて」愛知大学国際問題研究所紀要 120 号、76-89 頁を参照。
13
1981 年 6 月 27 日にOAU首脳会議で採択され、1986 年 10 月 21 日に発効したアフリカにおけ
る地域的人権保障のための条約。正式には「人及び人民の権利に関するアフリカ憲章」という。
14
OAU憲章の「領土保全」原則には、植民地支配というアフリカの歴史的背景から、
「領土」と
は植民地化される前の領土を意味すると解釈され、それが領土紛争において援用されることがあ
4
2006 年度
国際関係論演習
争の平和的解決、
(f)加盟国間の武力の行使・行使の威嚇の禁止、
(g)内政不干渉、
(h)重
大な事態(戦争犯罪、ジェノサイド、人道に対する罪)に加盟国に干渉する連合の権利、
(i)
平和的共存、平和と安全に生存する加盟国の権利、
(j)平和と安全を回復するために連合の
干渉を請求する加盟国の権利、(k)自助の促進、(l)男女平等の促進、(m)民主的原則、
人権、法の支配、グッド・ガバナンスの尊重、(n)均衡の取れた経済発展のための社会正
義の促進、(o)生命の尊厳の尊重、不処罰と政治的暗殺、テロ行為・破壊活動の非難と拒
絶、(p)政府の非立憲的変更の非難と拒絶、を採用している(第 4 条)。
c
機構の組織図
総会
(連合会議)
司法裁判所
平和・安全
(未設置)
保障委員会
執行理事会
汎アフリカ
経済・社会・
財政機関
会議
文化理事会
(未設置)
賢人会議
専門技術
常設代表
(諮問機関)
委員会
委員会
委員会
○ 総会 - AU の最高機関。各国首脳により構成。少なくとも年 1 回開催。
○ 平和・安全保障委員会 ― 紛争の予防・解決にむけた取り組み強化のための機関。総
会の決定に従う。
○ 執行理事会 - 加盟国閣僚で構成。少なくとも年 2 回開催。
○ 汎アフリカ会議 - 各加盟国から少なくとも 1 人の女性を含む 5 人のメンバーで構成。
ただし、2009 年までは加盟国への勧告権限のみを有する。
○ 経済・社会・文化理事会 - 連合加盟国の社会的、職業的集団で構成される諮問機関。
○ 委員会 - 執行機関。AU を対外的に代表し、政策・法案の提案、決定事項を執行する。
III
経済的統合
1 国際経済とアフリカ経済
った。
5
アフリカの地域統合
列強による植民地主義によって、主に原材料の生産拠点としての役割を担ってきたアフ
リカ諸国であったが、1960 年代の相次ぐ独立宣言以後もそのような一次産品に依存する体
質は大きく変わってはいない。アフリカ諸国の新政府は大望を抱いて各々の宗主国から独
立したものの、有効的な経済政策をとることができず、地域の経済を停滞させることとな
った。先進国経済の低迷の影響も受け、アフリカ経済は現在に至るまで有効な打開策を打
つことができていない。WTO の統計によると、1998 年から 2002 年にかけてのアフリカの
商品輸出額・輸入額は世界全体の貿易取引額の 2%程度しか占めていない。それぞれの地域
に対する外国直接投資額(FDI)の世界全体に占める割合は東南アジアが 12%前後で推移し
ているのに比してアフリカ地域は僅か 2%、地域外へ向けての投資額は東南アジアが 6%前
後と積極的な状況にある中で、アフリカ地域は 0.5%にも満たない。また、外国資本会社の
設置数もアジア地域の躍進の影に隠れて、世界全体の 2%未満である。
このようにアフリカ地域はその利用可能な土地、豊富な資源と比較して経済的規模の小
ささが顕著である。また、今後の成長についても楽観的な見通しはなく、2006 年のIMFに
よる世界経済の見通し 15 では、2004 年から 2007 年までに途上国全体として 7%程度の成長
を見込んでいるのに対し、アフリカ地域では 5%程度の成長に留まるとしている。元々の母
数が小さい数値であるので、5%といっても実際の成長は微々たるものである。
2 製造業停滞の原因・経緯・アフリカのマージナル化
先にアフリカ諸国が一次産品に依存している、と述べたがそれはアフリカ諸国が工業化
への努力を怠ったという意味ではない。植民地時代には宗主国が製造する工業製品の原材
料を生産し、完成品との相互貿易を行う「垂直的な国際分業関係」が成立していたのであ
るが、むしろ独立後の新政府はこぞって工業化への道を目指したのである。ではなぜ現在
に至るまで、単一産品輸出経済構造が残存しているのだろうか。
一つは誤った貿易理論の推進にある。工業化の推進には外貨の獲得が不可欠であったた
めに、独立後のアフリカ諸国においては自由貿易推進派が主流であった。彼らが用いたリ
カードゥの「比較優位の原理」によれば、工業品と一次産品との間の貿易であっても、貿
易当事国双方に貿易利益をもたらすとされてきた(表 1 参照)。この例によれば、イギリス
は 0.125 単位分、タンザニアは 0.2 単位分の利益が発生するとこととなる。
ところが実際には国際貿易に寄って工業品輸出国とアフリカ諸国との経済格差は拡大す
る一方であった。大きな原因として、世界市場における一次産品の需要と価格が長期低迷
する「一次産品問題」が挙げられる。これは一次産品が持つ需要の所得弾力性(所得の変
動率に対する需要の変動率)が工業品の持つそれよりも低いことや、所得の変動率はGDP
の変動率に、需要の変動率は輸入の変動率に読み替えることができることを前提として、
15
World Economic Outlook September 2006 (IMF) よりジェトロが作成した資料に基づく。
6
2006 年度
国際関係論演習
(表 2)のように考えることができる(プレビッシュ=シンガー命題 16 )。この例が意味す
ることとしては、タンザニアがイギリスと同程度のGDP成長率を達成しようとすると貿易
赤字が発生してしまい(事例 1)、それを避けるためにはイギリスよりも低いGDP成長率を
設定しなければならない(事例 2)ということである。つまり前提として、一次産品と工業
品との間の自由貿易は、後者に有利となる仕組みとなっていると言えよう。
表 1 比較優位の原理――例解
特化前
イギリス
タンザニア
合
1 対 1 交換
特化後
消費量
貿易利益
0
1.125
0.125
0
1
1
0
0
0
1
1
0
220
2.2
1
0
1.2
0.2
390
4.325
4.325
0.325
労働量
生産量
労働量
生産量
輸出量
輸入量
綿織物
80
1
170
2.125
1
綿花
90
1
0
0
綿織物
120
1
0
綿花
100
1
390
4
計
4
出展:北川勝彦・高橋基樹(2005 年)『アフリカ経済論』(ミネルヴァ書房)122 頁
表 2 プレビッシュ=シンガー命題――例解
需要の所
GDP 成長
輸出増加
輸入増加
得弾力性
率(%)
率(%)
率(%)
工業品(綿織物)
1.3
3
3.9
2.4
黒字
周辺国(タンザニア) 一次産品(綿花)
0.8
3
2.4
3.9
赤字
中心国(イギリス)
工業品(綿織物)
1.3
3
2.4
2.4
均衡
周辺国(タンザニア) 一次産品(綿花)
0.8
1.8
2.4
2.4
均衡
輸出品
事例1
中心国(イギリス)
貿易収支
事例2
出展:同 124 頁
こうした理論的な問題に加えて、「信用の不足」がアフリカ国内の製造業を停滞させる大
きな要因となっている。企業経営者を相手に、アフリカの製造業発展を阻害する要因につ
いて訊ねた調査結果 17 では、工業用水・工業電力等の社会資本の不足らと並び、信用の不足
が上位に挙げられた。ここでいう信用とは、端的に言ってしまえば、製造業設立時におい
て必要となる多額の資本と継続的経営の際に必要となる中間財のことである。アフリカの
銀行業が寡占的立場にあることからもたらされる高利率と、銀行以外の非公式金融市場の
未整備が経営参入へのインセンティブを落としている。また、あくまでこの調査結果に基
16
この命題と表 2 について、詳しくは北川勝彦・高橋基樹(2005 年)『アフリカ経済論』(ミ
ネルヴァ書房)123-125 頁を参照。
17
7
詳しい内容は北川・高橋、前掲書、131 頁にて表が作成されている。
アフリカの地域統合
づけばだが、
「安全の不足」は上位の阻害要因として捉えられていないことがわかる。武力
紛争の絶えないアフリカ地域で安全と経営とを切り離して考えることは難しいが、社会資
本や政府による支援サービスなどの経済的なインフラ整備の重要性をここに見ることがで
きる。
つづいて、外部からの工業化支援政策として IMF と世界銀行の主導で行われた構造調整
政策について簡単に述べる。これはアフリカ諸国の十数カ国を対象に行われた政策で、主
な内容は貿易・為替・価格の各自由化と政府系企業の民営化が推進された。しかしながら
この政策はアフリカ諸国の原状と乖離したものであった。貿易の自由化により競争力の低
いアフリカ国内製品は打撃を受け、為替の自由化により国内通貨の国際的価値が下落した
ことで外貨の獲得が困難になり、価格の自由化によって政府や地方公共機関から出されて
いた各種補助金が撤廃されたことで、公共料金の値上げが引き起こされ、ひいては購買意
欲の減少へとつながった。汚職の温床と見られてきた政府系企業の民営化は外資系企業の
勢力を強める結果に終わった。受け入れ国側にも支援を有効活用できなかったという問題
があったものの、IMF・世銀がこの政策について成功だったと自賛しているのは疑問の残る
ところである。
以上のような国内の問題と合わせて、グローバル化が進む昨今の国際経済においてはア
フリカの置かれる位置はますます厳しくなってきている。貿易相手国は旧宗主国主体から、
アジア諸国が占める割合も増大してきたが、その南南貿易でさえも「垂直型貿易」の形を
とっている。なぜなら、国内工業を発展させるためには原材料や中間財を輸入せねばなら
ず、その外貨を獲得する手段として従来の一次産品輸出に頼るという負のサイクルが生じ
ているためである。
こうした状況において、アフリカ域内の相互貿易が拡大してきていることは数少ない好
材料である。また、国連等の公的機関からの投資や NEPAD に基づく先進国の支援を受ける
ことで、外貨不足を補いうる可能性もある。以上、アフリカ諸国の国内レベルの問題点を
概説したので、次からは域内の経済的統合を推進しようとするサブリージョナルな機構を
その設立経緯・目標に主眼を置いて、特に経済的統合に関わる分野につき簡単にではある
が紹介していく。
3
CFA フラン圏~UEMOA
独立以後も旧植民地通貨である CFA フランを使用している旧仏領アフリカ諸国は、西ア
フリカと中部アフリカの二つのグループに分けられる。それぞれ準地域的な銀行を中核と
して、1990 年初頭には事実上の経済通貨統合を完成させていた。うち、西アフリカにおけ
る準地域機構が 1994 年に発足した西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA)である。
UEMOA の前身は西アフリカ中央銀行を核とした西アフリカ経済共同体(CEAO)、西ア
フリカ関税同盟(UDAO)、西アフリカ通貨同盟(UMOA)であり、CFA フランの基軸通貨
であるフランがユーロへと変換されること、CFA フランの価値を実状に合わせるための兌
換レート切り下げ措置を契機として、これら三つの機構が合わせて改組されることとなっ
8
2006 年度
国際関係論演習
た。その大きな目的は域内で生産要素が自由に移動できることを意味する共同市場の設立
である。UEMOA において大きな影響力を持っているのがコートジボワールで、長期に渡る
内政の安定と加盟 8 ヶ国の総 GDP の 4 割を占める経済力でこの地域を牽引していたが、2002
年から勃発した内戦(詳細は次章に述べる)の影響を受けて UEMOA における統合の速度
は遅くなってきている。
4
CFA フラン圏~CEMAC
CFA フラン圏のもう一方のグループが、中央アフリカ諸国が加盟し、中部アフリカ諸国
中央銀行を核とする中部アフリカ経済通貨共同体(CEMAC)である。中央アフリカでは 1966
年に共同市場と関税同盟を目的とした中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC)が誕生してい
たが、制度の未整備や旧宗主国から離れた運営がうまくいってなかったことなどから 1996
年に CEMAC として姿を変えることとなった。
UDEAC による問題点として、具体的には対外共通関税の導入と地域の総合開発との間の
非連関、単一税制度による特定企業への排他的保護などが挙げられるが、CEMAC はそれを
解決すべく財政と関税の改革を目標としている。主な内容としては、密輸取り締まり等に
よる財政収入の正常化、特定企業への特権的保護廃止による諸企業間の競争力の強化、共
通対外税率に基づく関税制度の調整と一般特恵税率の採用による地域統合の促進、が挙げ
られる。
CEMAC の財政金融を補完する制度としては多数国間監査制度がある。これは中部アフリ
カ諸国銀行に加盟する 6 カ国が、四つの基礎的事項に関して相互に監査しあう制度である。
四つの事項としてはそれぞれ、通貨発行額の保証準備率を少なくとも公的在外資産の 20%
とすること、歳出をマイナスにしないこと、国内および国外における累積債務を生ぜしめ
ないこと、公的給与全体の増加は歳入増と同等かそれ以下であること、が揚げられている。
この機構は CEMAC の議会が設立されるまで暫定的なものであるが、その業務は CEMAC
事務局に引き継がれることとなっている。
5 南部アフリカ~SADC
サハラ以南アフリカの 14 カ国から構成されるのが南部アフリカ開発共同体(SADC)で
ある。前身である南アフリカ開発調整会議(SADCC)は、南部アフリカ諸国の特に南アフ
リカ共和国への依存から脱却することを主目的として域内の開発協力を行ってきた。1990
年初春に南アフリカ共和国が反アパルトヘイト組織の非合法措置を解除したことにより、
地域大国である同国が加盟する機構への変革が想定され、
同年 7 月に SADC が設立された。
SADC の主目的は経済統合の深化による共同市場の設立、共通の経済的・社会的価値によ
る貧困の撲滅、地域安全保障の強化である。このうち貿易面に関しては、南部アフリカ地
域を欧州型の自由貿易地域へとすることが目標とされており、独自にEUその他との自由
貿易協定を結んでいる南アフリカ共和国の主導の下で、その達成が期待されている。
9
アフリカの地域統合
また、SADC の構成的特徴は植民地時代の遺産と別離し、宗教的・民族的な繋がりが薄い
ことにある。CFA フラン圏など、他のアフリカの準地域機構が植民地時代からの連関等に
より結成されていることと比べて、SADC は SADCC の設立経緯にもよるが純粋に地理的な
枠組みで構成されている。大陸随一の経済大国である南アフリカ共和国が運営の舵をとっ
ていることと加えて、このように南部アフリカ地域を「運命共同体」として目している点
で SADC はアフリカの準地域機関のリーディングケースになるのではと注目されている。
6 西アフリカ~ECOWAS
ECOWAS は 1975 年に域内経済通貨同盟と経済統合の促進を目的とする西アフリカ地域の
準地域機関として発足した。加盟国 15 ヶ国のうち、8 ヶ国は CFA フラン圏の UEMOA の加
盟国となっている。域内の情勢不安もあり、数十年に渡って有効な政策を打ち出すことが
できていなかったが、1990 年より停戦監視団(ECOMOG)によって域内の平和維持活動へ
努め始め、1999 年に「紛争予防・管理・解決・平和維持・安全保障メカニズム」議定書が
批准されたことで安全保障の面で強く注目されることとなった。
経済統合の分野では、1999 年以降活動が再活性化し始め、その大きな目標である通貨統
合に関して、すでにCFAフランによって共通通貨が流通しているUEMOA以外の 7 カ国にお
いて段階的な通貨統合を目指すとしている。2003 年には、2000 年のコトヌー協定において
ヨーロッパ諸国を旧宗主国とするアフリカ・カリブ・太平洋(ACP)諸国に対する目標の一
つとして挙げられた、ACP諸国の域内経済統合推進のために、他地域に先駆けてEU-
ECOWAS経済パートナーシップ 18 が合意された。
通貨統合の大きな問題点としてナイジェリアを始めとする英語圏諸国と仏語圏諸国との
間の文化的差異があり、特にフランスによって兌換性が保証されている UEMOA 諸国は英
語圏通貨との統合に難色を示している。
7 東部アフリカ~EAC
東部アフリカにおいては、ケニア・ウガンダ・タンザニアの三国によって 1927 の段階か
ら関税同盟が結ばれていた。1967 年に東アフリカ共同体(EAC)として姿を変えたが、1977
年に加盟三国の意見衝突により一度消滅した。1996 年に同三国が新たな貿易合意に調印し
たことを契機にして 2001 年に復活し、2007 年にはルワンダとブルンジが加盟する見通しと
なっている。
EAC は関税同盟、共同市場、通貨同盟の設立を順次実施していき、最終的には経済共同
体として機能する機構を目指しており、すでに共同市場が設立され、域内の統合は深化し
てきている。特徴として、域内で利益を得た国から損失を被った国に対して適切な補償が
なされることが規定されており、これが統合の重要な成功要因になるのではないかと注目
18
原文は、http://acp-eu-trade.orgを参照。
10
2006 年度
国際関係論演習
されている。
8 経済統合の深度と貿易効果
この章の最後に、経済統合の種類について説明しておきたい。経済統合の段階はアメリ
カの国際経済学者ベラ・バラッサによると、統合の進度により、自由貿易地域、関税同盟、
共同市場、経済同盟、完全な経済同盟と分けられる。最も浅い統合である自由貿易地域は
域内の関税や貿易障壁を撤廃することである。次の段階である関税同盟は、域外に対する
対外共通関税も共通の政策をとる。つづく共同市場では、労働や資本など域内の生産要素
の移動を自由化する。経済同盟では経済関係機関の統合や経済政策の平準化がとられるこ
ととなり、最後の完全な経済同盟では政治的な統合も含むとされる。
アフリカ準地域機構では EAC が経済同盟を目指しているが、他の地域の目標は共同市場
の設立である。しかしながらほとんどの地域では、自由貿易地域の前段階である地域協力
に留まっている現状にあり、今後の経済統合の深化が嘱望されている。
地域経済統合がもたらす効果としては、大きく静態的効果と動態的効果に分けられる。
静態的効果としては域内関税撤廃によって域内外にプラスとなる貿易創出効果、域外生産
低コスト国から域内生産高コスト国へと輸入相手国が転換しマイナスの効果をもたらすこ
ととなる貿易転換効果、域外に対する域内の交易条件の改善により域内にはプラス、域外
にはマイナスの効果をもたらす交易条件効果が挙げられる。動態的効果としては、市場拡
大によって規模の経済を得る市場拡大効果と、市場開放により競争が発生し生産性が高ま
るという競争促進効果がある。
IV
1
地域的安全保障
OAU の紛争への対応
アフリカでは、大陸レベルでの集団安全保障は発達しにくい状況にあった。各国の様々
な外交的駆け引きはサブ・リージョナルのレベルで行われることが多く、安全保障に関し
てもサブ・リージョナルレベルでイニシアティブが発達していった。また、アフリカ諸国
の首脳は自国の内政に干渉されることを嫌い、平和維持や紛争予防の権限を有する大陸的
機関の構築に消極的だった。そのため、大陸の機関である OAU における集団安全保障はな
かなか発達しなかった。
OAUの安全保障問題に関する活動は、あくまでもOAU憲章の原則に基づいていた。特に
OAUの活動に強く影響を及ぼしたのは、憲章第 3 条 2 項の「国内問題への不干渉」、そして
4 項の「交渉、仲介、調停あるいは仲裁による紛争の平和的解決」の原則であった。OAU
は加盟国間の紛争処理に関する専門機関として「仲介・調停・仲裁委員会」と「防衛委員
会」(閣僚レベルで加盟国の防衛および安全保障政策の調整を行うことを目的とする)の二
つの機関を設置していた。しかし、前者は、自国内で強力な権限を有し、主権意識の強い
11
アフリカの地域統合
各国指導者が独立した専門家に紛争解決を委ねることを望まなかったやめに一度も機能す
ることなく 1977 年に活動を停止した。後者も実現性の低い決議を採択するなどの活動を行
うのみであった。どちらの組織も有効に機能しなかったため、OAUの紛争への対処は閣僚
理事会や首脳会議の本会議で、または必要に応じて首脳会議や閣僚理事会に設置されたア
ド・ホックな調停委員会の下で行われ、指導者たちがとりなすことによって事態の収拾を
図るというものであった。このような方法は、1970 年代半ばまでは紛争の根本的解決とは
行かないまでも当面の事態の収拾には成功していた 19 。これは、諸国の軍事レベルがまだ貧
弱であり、また、域内の紛争は自らの力で解決するという意志が強固だったためである 20 。
しかし、1970 年代半ば以降、加盟国内で域外勢力の介入をしばしば伴う大規模な内戦型の
紛争、大国の支援により強力な軍事設備を整えるにいたった加盟国間の大規模紛争が続発
するようになった 21 。上記のようにOAUは、平和と安全の維持に責任をもつ常設機関を実質
的に欠いており、その能力の限界を露呈するようになった。そのため、1980 年代初めには
OAUに安全保障理事会を創設することが検討されたが時期尚早として見送られた。それ以
降、OAUは従来の方針を転換し、国連との協力によって域内の紛争に対処するようになっ
た。
冷戦終結後、大陸における内戦型紛争の多発化・広域化、それに付随する社会経済危機
の一層の深刻化、難民や国内避難民などの諸問題が発生し、加盟国は内戦型の紛争への対
応が重要な課題であることを認識することとなった。1990 年 7 月、第 26 回OAU首脳会議に
おいて、「アフリカにおける政治的、社会経済的状況および世界において生じている変化に
関する宣言」を採択し、
「アフリカにおけるあらゆる紛争の平和的かつ遡及的解決を目指し
て全体で対処する必要」を訴え、紛争予防メカニズムの構築に動きだした。これ以降、OAU
は国連との連携や協力を強化しつつ、自らの危機管理能力の強化に着手していった。そし
て、1993 年 6 月の第 30 回首脳会議において、
「紛争予防・管理・解決メカニズム(Mechanism
on Conflict Prevention, Management and Resolution: MCPMR)創設に関する宣言」が採択され、
MCPMRが発足することとなった。MCPMRは、主権平等、内戦不干渉、主権および領土保
全の尊重といったOAU憲章の目的と原則(OAU憲章第 3 条)に従い、紛争当事者の同意と
協力に基づき活動するとされた。つまり、当事者の同意があれば国内紛争にも関与できる
こととなったのである 22 。その主要な目的は紛争の予防であり、紛争が発生した場合には平
和創設、平和建設活動を行い、これに関連して活動範囲と機関を限定した監視団を展開す
る。また、紛争が悪化し国際的集団的介入が必要な場合には、国連の援助、サービスを求
める。つまり、OAU自らが大規模なPKOを実施することは予定されていない 23 。機構として
19
モロッコ=アルジェリア紛争、ソマリア=エチオピア・ケニア紛争、ガーナ=近隣諸国紛争、
ルワンダブルンジ紛争など。
20
OAUにおいては、80 年代初めまではOAUと国連の関係は対立競合関係にあると考えられてお
り、域内紛争への国連の介入を拒む主張がなされており、国連もこれを尊重していた。
21
アンゴラ内戦、「アフリカの角」紛争、シャバ州侵攻事件、ウガンダ=タンザニア紛争、チ
ャド内戦、西サハラ紛争など。
22
OAU憲章の「内政不干渉」原則のため、OAU自身は内戦には極力関与しないようにしていた。
23
大規模なPKOが必要な場合には国連やECOWASにゆだねてきた。
12
2006 年度
国際関係論演習
は中央機関、首脳会議官房、事務局、「平和基金」が設置され、少なくとも首脳レベルで年
1 回、閣僚レベルで年 2 回、大使レベルつき 1 回開催されることとされた。MCPMRは、実
質的にはOAU初の常設紛争処理機関といえる。MCPMRは、さっそく同年 10 月から様々な
紛争 24 において積極的な活動を行うと共に、多くの大統領選に選挙監視団を派遣するなど一
定の役割を果たしてきた。特にエチオピア・エリトリア紛争においてOAUは主導的な役割
を果たし、国連と連携協力し国連ミッションの派遣への道筋をつけた 25 。
しかし、MCPMRも実際には紛争の調停と監視のミッションを派遣しただけで、やはり主
体的な役割を果たすことはできず、OAUは大湖地域および中央アフリカの虐殺や激化する
紛争を防げず 26 、リベリアやシエラレオネでの紛争再発を防ぐことはできなかった。
2
ECOWAS の紛争への対応
OAU が効果的な役割を果たすことのできなかったリベリアやシエラレオネでの紛争にお
いては、サブ・リージョナルな機構である西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)が介入
し、紛争解決をはかってきた。
1975 年にラゴスで署名された条約により ECOWAS は設立された。当初、ECOWAS は、
経済的、社会的および文化的な活動における協力と統合を促進することを目的とし、最終
的には、加盟国の国内経済の統合、経済・通貨連合を目指していた。1993 年には、修正条
約が採択され、経済的および政治的協力が拡大した。
安全保障の分野に関しても、1977 年に不可侵および防衛における援助に関する議定書の
枠組み合意がなされ、これに従って、1978 年にラゴスで不可侵に関する議定書、1981 年に
フリータウンで防衛における相互援助に関する議定書が署名された。しかし、これら議定
書も、加盟国間の安全保障について積極的な活動を行うものではなかった。1990 年には、
加盟国間の紛争解決のために常設調停委員会(SMC)が設立され、1997 年には、紛争予防、
管理、解決、平和維持および安全保障のためのECOWASメカニズムを創設する合意がなさ
れ、1998 年に決議が採択された。そして最終的に 1999 年 12 月 10 日、紛争予防、管理、解
決、平和維持および安全保障のためのECOWASメカニズムに関する議定書がロメにおいて
採択された。実際、ECOWASは、1990 年から 1997 年にかけてリベリア紛争 27 、1997 年から
1999 年にかけてシエラレオネ紛争 28 、1998 年から 1999 年にかけてギニア紛争に、ECOWAS
24
アンゴラ内戦、ブルンジ内戦、コモロ紛争、エチオピア=エリトリア紛争、ギニアビザウ紛
争、リベリア紛争、中央アフリカ紛争、コンゴ民主共和国内戦、シエラレオネ内戦、ソマリア内
戦。コモロ紛争以外では武力紛争発生後、紛争の平和的解決を支持する、小規模な監視団を派遣
するなどにとどまる。
25
1998 年 5 月、国境画定をめぐって両国が武力衝突。OAUを中心とする調停が進められ、2000
年 6 月、敵対行為の即時停止、国連PKO派遣要請等を内容とする休戦合意に署名。
26
ルワンダ内戦、ブルンジ内戦では暴力のエスカレート、大量虐殺の発生を食い止めることは
できなかった。
27
詳しくは、楢林健司(1995 年)
「リベリア内戦への西アフリカ諸国経済共同体と国際連合によ
る介入」第 22 巻第 2 号、99-137 頁を参照。
28
詳しくは、楢林健司(2001 年)
「シエラレオネ内戦に対する西アフリカ諸国経済共同体と国際
13
アフリカの地域統合
停戦監視団(ECOMOG)を派遣し、武力行使を伴う介入を行っている。
3 国連と地域的機構
アフリカで勃発する紛争は、国連のみで対処するにはあまりにも数が多く、その規模・
地域性も国連が実効的に紛争を解決することを困難にしている。ブトロス=ガリ事務総長
(当時)が 1992 年 6 月に提出した「平和への課題」の中では、国連と地域的取極または地
域的機関との協力について言及され、ソマリア、カンボジア、ニカラグア、バルカンにお
ける国連と地域的機構の協力関係を取り上げて、主に以下のように述べられている。
過去においては、地域的機構の活動が国連の有効性のために必要とされる連帯の意
識に反する場合も見受けられた。しかし、現在においては、地域的機構の活動が国連
憲章の目的と原則に合致してなされるならば、そして、地域的機構と国連安全保障理
事会の関係が第 8 章によって規律されるならば、地域的機構の有用性は高まるであろ
う。地域的機構は、予防外交、平和維持、平和創出、紛争後の平和再建といったすべ
てについて潜在的能力を有している。
ここに示されたように、リベリア紛争やグルジア紛争などにおいて、国連は地域的機構と
「並行」して活動を展開してきた(「平和への課題:補遺」
) 29 。また、1998 年 4 月のアナ
ン事務総長(当時)の報告書「アフリカにおける紛争の原因ならびに恒久平和と持続可能
な開発の促進」においても、国連はまず地域的機構による平和維持活動を支援するとの立
場が表明された。同報告書では、アフリカにおける国内紛争原因の分析を加えた上で、国
連がアフリカのすべての問題に対応するだけの能力も資源も有していないとの慎重な姿勢
が示され、国連は今後、OAUをはじめ、南部アフリカ開発共同体(SADC)、ECOWASなど
の地域的機構との協力を強化し、地域的機構の平和維持活動を積極的に支援すると述べら
れている。
4
AU の安全保障システム
平和と安全保障は、OAU 憲章前文でも言及されているが、AU 設立法では、
「アフリカに
おける紛争の災禍が大陸の社会経済的発展の主要な障害となっているという事実を認識
し」、「我らの発展と統合の課題を施行するための必要条件」であるとして、より重要な位
置づけを与えられている。
次に、第 4 条に示される原則のうち、安全保障に関するものを列挙すると以下のように
なる。
(a)連合加盟国間の主権の平等と相互依存(←
OAU 憲章第 3 条 1 項)。
連合による介入」愛媛法学会雑誌第 27 巻第 4 号、119-158 頁を参照。
29
なお、国連憲章第 8 章とアフリカの地域的機構については、斉藤健(2004 年)
「アフリカにお
ける地域的安全保障の変遷とその展望」学習院大学大学院法学研究科法学論集第 11 号、1-66 頁
を参照。
14
2006 年度
国際関係論演習
(b)独立達成時に存在していた国境の尊重。
(d)アフリカ大陸共通防衛政策の樹立。
(e)連合加盟国間の紛争の、首脳会議により決定される適切な手段を通じた平和的解決
(←
OAU 憲章第 3 条 3 項)。
(f)連合加盟国間の武力の行使、ないし武力を行使するとの脅迫の禁止(←
OAU 憲章
第 3 条 4 項を強化)。
(g)いかなる加盟国も他国の内政に干渉しないこと(←
OAU 憲章第 3 条 2 項)
。
(h)戦争犯罪、大量虐殺および人道に対する犯罪のような重大な事態に関して、連合が
首脳会議の決定に従い加盟国に介入する権利。
(i)加盟国の平和的共存、および加盟諸国が平和と安全のうちに生存する権利(←
OAU
憲章第 3 条 3・5・7 項に関連)。
(j)加盟諸国が平和と安全の回復のため連合からの介入を要請する権利。
(o)人命の神聖を尊重すること。犯罪の放任および政治的暗殺、テロリズム活動ならび
に破壊活動に対する非難と拒否(←
OAU 憲章第 3 条 5 項)。
(b)、(f)、(h)、(j)に見られるように、安全保障に関してAU設立法ではOAU憲章よりも
具体化され、(f)や(i)に見られるように、国連憲章の条文に近づいていることが指摘で
きる 30 。最も注目すべきは、(g)で内政不干渉の原則を維持しながらも、(h)、(j)では条
件つきながらAUが加盟国に介入することを認められている点である。すなわち、AUはOAU
とは方針を転換して、安全保障について委員会によって対処するのではなく、法的な強制
力を有する権限ある機関をもって対処しようとしている。その具体的な機能は「平和・安
全保障理事会」が果たすことが予定されている。AUとOAUの最大の違いは、この安全保障
システムにある。
AU 平和・安全保障理事会を設立するための議定書は 2002 年ダーバンでの第 1 回 AU 首
脳会議において全会一致で採択された。平和・安全保障理事会は、AU の原則と目的に従い、
以下の分野で役割を担うこととされる。
(1)アフリカにおける平和、安全保障、安定の推進
(2)早期警戒、予防外交、平和構築
(3)平和支援オペレーション、平和の定着、紛争後の再復興
こうした任務を遂行するために、平和・安全保障理事会は主に以下の権限を有している。
(1)対立や紛争、またジェノサイドや人道に対する罪に通ずる可能性のある政策に対し
て先に対応し、予防する。
(2)紛争が勃発した際に、その解決を容易にするために、平和構築活動、平和の定着活
動に着手する。
(3)平和支援ミッションの組織と派遣を許可する。
(4)加盟国に、国際法に照らして、戦争犯罪、ジェノサイド、人道に対する罪といった
重大な事態が生じた場合には、AU 総会に対して、設立法第 4 条(h)項に基づいて
30
15
高林、前掲論文、註 12、58 頁.
アフリカの地域統合
AU としての介入を要請する。
(5)AU 共通安全保障防衛政策を策定する。
平和・安全保障理事会は、議定書上、諮問機関として、賢人会議(Panel of Wise)、補助
機関としては、大陸早期警戒システム(Continental Early Warning System)、平和基金(Peace
Fund)、アフリカ待機軍(African Standby Force)、参謀本部(Military Staff Committee)、下部
機関としては、調停委員会、調査委員会を有する。
平和・安全保障理事会の構成は、モデルとなった国連安全保障理事会と同様に、総数 15
ヵ国であるが、国連憲章第 27 条 3 項に規定されるような常任理事国の拒否権といった理事
国間の差異はない。理事国は、任期 2 年で選出される 10 ヵ国と任期 3 年で選出される 5 ヵ
国とに大別される。また、国連安全保障理事会と大きく異なる点として、平和・安全保障
理事会の決定の実施およびフォロー・アップを確実なものにするために、AU の委員長に大
きな権限が与えられている。委員長は、平和・安全保障理事会の権限の下で、全紛争当事
国と協議の上で、紛争予防・管理および解決に適したあらゆるイニシアティブを取らなけ
ればならないと規定されている。
V
紛争の態様と地域的機構の介在
1 コートジボワール紛争
コートジボワールでは、1993 年にベティエが大統領に就任すると、その経済自由化政策
によって貧富の差の拡大し、対外債務の増加・国内経済の疲弊により政情不安に陥った。
これを受けて、1999 年 12 月、ゲイ元参謀総長がクーデタで実権を握り、2002 年 10 月 22
日の大統領選挙では、バグボがゲイを破り大統領の座についた。しかし、このバグボ政権
下において、2002 年 9 月のアビシャンで起きた暴動を契機として内戦が勃発した。
コートジボワールでの最初の暴動にいち早く反応したのが旧宗主国のフランスであった。
元々、防衛に関する協定を結んでおり現地に 600 名の部隊を駐留させていたが、2002 年 9
月 22 日には自国民とヤムスクロ空港にある軍事基地の保護を目的にさらに 200 名の追加派
兵を行い、西側諸国民の救出を行った。一方、バグボ大統領は、同協定を援用して軍事支
援を要請したが、フランスは同協定がコートジボワールを国外からの脅威から保護するた
めにあるとして断った。
アナン国連事務総長は、バグボ大統領が民主選挙により選ばれた正当な大統領であり、
それを武力で転覆しようとする反政府勢力の動きは間違っているとして積極的な対応を講
じることはせず、安全保障理事会もまた消極的であった。
ECOWAS はコートジボワールの暴動を受け、9 月 29 日に緊急サミットをアクラで開催し
てコンタクトグループを形成し、仲介に乗り出した。政府は当初、停戦合意に後ろ向きで
あったが、10 月 17 日には停戦合意が成立した。この停戦合意により ECOWAS 軍が現地に
駐留することが承認され、その間はフランス軍も駐留することが決定された(リコルヌ作
戦)。以上の流れと平行して ECOWAS により和平計画案が提案され、2003 年 1 月 15 日には
16
2006 年度
国際関係論演習
パリの郊外、リナ=マルクシーンで会合が開かれて同 23 日に和平合意(リナ=マルクーシ
和平協定)の締結に至った。リナ=マルクーシ和平協定締結に至る過程での国連のプレゼ
ンスは見つけ難い。実際、この和平協定の実施、とりわけ軍事活動に関わる点については
ECOWAS 軍とフランス軍の双方の支援に依拠することが考えていた。しかし、一方では同
協定が国連に期待している部分もあることがある。一つには、ECOWAS 軍とフランス軍に
対する武力行使の許可を安全保障理事会が下すことである。もう一つには国連事務総長に
和平協定の実施監視を支援する文民・軍事オブザーバーの派遣を勧奨していることである。
よって、国連は ECOWAS 軍とフランス軍をあくまでも補完する役割に限定し、国連 PKO
としてのオブーバーの派遣要請を断ったということになる。
しかし、和平協定後もコートジボワール国内の情勢が好転することはなかった。そのた
め、再び ECOWAS が仲介に入り、3 月 8 日アクラで、国家安全保障議会の設置やディアラ
首相による国防相・内相の候補者の選出などが和平協定当事者の間で合意された(アクラ
II 合意)。また、ECOWAS はアクラ II 合意を受けて、2003 年 3 月 29 日に ECOWAS コート
ジボワールミッション(ECOMICI)として正式に停戦協定の監視等の任務に当たった。そ
して、2003 年 3 月 26 日には国連事務総長がコートジボワール内戦の現状報告とこの内戦に
おける国連の役割について報告し、これを受け安全保障理事会は 2003 年 5 月 13 日に決議
1479 を採択し、和平合意の当事者による実施促進を任務とする国連コートジボワールミッ
ション(MINUCI)を正式に設置し、フランス軍・ECOWAS 軍の現地作戦本部並びに政府
軍及び反政府軍事勢力の本部に設置される軍事リエゾングループの展開を基礎に軍事部門
を導入してフランス軍と ECOWAS 軍の活動を補完することを目指した。
こうした中、11 月 11 日にアクラで開催された ECOWAS ミニサミットでは参加7カ国の
首脳が ECOWAS ミッションの強化を協議し、同ミッションを国連平和維持軍に置き換える
よう安全保障理事会にアピールする決議を採択し、同 24 日には、ECOWAS ミニサミット議
長であるガーナと ECOWAS 事務局長が ECOMICI を国連 PKO に編成しなおすよう安全保障
理事会に要請した。実際、ECOWAS は財政問題を抱えており、その活動を継続することが
困難であったため、ECOMICI 自身が PKO への移転を望んでいたのである。安全保障理事会
はこれらを受け、2004 年 1 月 6 日、MINUCI の任期と ECOWAS 軍への参加国とフランス軍
に付与した許可を 2 月 27 日まで延長し、その延長期間が切れる 27 日に MINUCI を強化し
た国連コートジボワール活動(UNOCI)の設置を正式決定し、ここにコートジボワールに
おける国連の活動は、UNOCI に一本化されることとなった。また、MINUCI におけるフラ
ンス軍との関係であるが、フランス軍と役割分担を行うことで国連 PKO の軍事要員を 6240
名に限定することを可能とする一方、フランス軍は即時対応能力を受けもつ軍として国連
軍司令官の戦術的コマンドの下に置かれるとするものであり、評価ミッションが支持する
方策であった。以上から ONUCI は、基本的に ECOMICI の任務内容を引きついで、フラン
ス軍と協力しながらその実現のために ECOMICI と同様に憲章第 7 章に基づく武力行使を許
可されるとともに、他方 MINUCI からは主として民生部門の任務を引き継ぐとともに人員
や任務の面でさらに強化されえているといえる。よって、ONUCI は ECOMICI からは軍事
的性格を、MINUCI からは民生面での性格を受け継いでおり、フランス軍とは任務の住み分
17
アフリカの地域統合
けと関係強化を果たす並列的展開を示した「多角的な」
「強化された」PKO であると評価で
きる。
しかし、コートジボワール情勢は、2004 年 2 月より急速に悪化しており、とりわけ、反
政府勢力のデモから生じた各地での散発的な小競り合い(3・25 事件)はその後の和平プロ
セスの停滞要因となっている。こうした流れを受けアクラ II 合意が事実上頓挫しているこ
とを考慮し、2004 年 7 月 30 日関係当事者を含めた交渉が始まり、アクラ III 合意の採択が
なされた。それによると、大統領候補資格の改定案の提出、首相への権限委譲といった事
項の実施をタイムテーブルに載せること、監視グループの設置などが決定された。だが、
アクラ III 合意は予定通りには実施されず、各地でデモ・襲撃、さらには停戦違反が頻発す
るなど騒然とした状況が続いた。そして、2005 年 4 月、AU に委託された南アフリカの仲裁
によって政府と反政府勢力の間で、敵対関係の解消・反政府組織の武装解除などが合意さ
れた(プレトリア合意)が、手続きは停滞している。
2 ダルフール紛争
スーダンは、東アフリカに位置し、アフリカ最大の面積をもつ国である。人口は主に北
部のアラブ系住民、南部の非アラブ系住民で構成され、宗教は、北部はイスラム教、南部
はキリスト教となっている。植民地時代に南北の交流が禁止されていたこともあり、独立
前から南北の違和感は大きかった。政府は独立時からアラブ化の姿勢とっており、北部の
支配拡大を恐れる南部との間に 1955 年に南北間で紛争が勃発し、2005 年 1 月和平合意が成
立するまで、アフリカ最長の紛争が継続していた。
ダルフール地域はスーダンの西部に位置する地域であり、アラブ系遊牧民とアフリカ系
住民(共にイスラム教)が暮らしており、ここでも非アラブ系住民が軽視されていること
に対して不満が鬱積していた。2003 年 2 月、非アラブ系住民(反政府集団、
「正義と平等運
動(JEM)」と「スーダン解放運動/軍(SLM/A)」)は、アラブよりの姿勢を強める政府
に対しダルフール地方の自治を求め蜂起した。スーダン政府はアラブ系によるジャンジャ
ウィードと呼ばれる民兵組織をつくり政府軍とともにこれと戦わせた(国際社会はスーダ
ン政府のジャンジャウィードへの関与を非難しているが、スーダン政府はこれを否定して
いる)。しかし、南北紛争に多くの兵力を割いていたこと、ダルフール出身の兵士の脱走が
相次いだことなどから政府は当初劣勢だった。そのため政府は停戦を提案し、2003 年 9 月
に SLM との間で停戦合意を成立させた。しかし、ジャンジャウィードや JEM はこの合意の
席に呼ばれていなかったため活動を継続した。2003 年 12 月に先の停戦期間が終了し、この
間に軍備を整えた政府は攻勢に転じた。政府軍とジャンジャウィードによる虐殺、暴行等
の深刻な人道的危機、国外避難民の発生により、2004 年 1 月に国連は人道危機に警鐘を鳴
らした。これを機に国際的非難が高まり、同年 4 年 4 月にジャンジャウィードと JEM を含
んだ和平合意(45 日間)が成立し、AU は治安改善のための部隊の派遣を決定した。2004
年 8 月以降、和平交渉が断続的に進行するが、状況は悪化の一途をたどった。国際社会の
懸念は高まり 2005 年 3 月に安全保障理事会はスーダン政府に対する制裁決議(武器禁輸措
18
2006 年度
国際関係論演習
置の拡大、渡航禁止、資産凍結)を採択した。また、人道危機の認定等の個人の罪に対す
る処罰を国際刑事裁判所(ICC)に付託することとした。ICC は、国連から提示された容疑
者リストに基づき調査を実施中である。同年 7 月、政府と JEM、SLM は停戦合意の遵守と
民兵組織の武装解除の実施に関する基本原則に合意した。これにより紛争当事者は停戦合
意の遵守、政府はジャンジャウィードの武装解除を行うこととなった。最終合意に向けた
交渉は反政府勢力の主導権争い等により遅延していたが、2006 年 5 月、政府と SLM の一部
でダルフール和平合意(DPA)が成立した。和平合意の主な内容は、
(1)民兵組織ジャンジ
ャウィードの武装解除、(2)反政府勢力の一部の国軍・警察への統合、(3)反政府勢力側
にスーダン政府の大統領補佐官のポストの配分である。しかし、SLM の残りと JEM は署名
を拒否しており、AU と各国による説得が続けられている。
これまでも国連機関、人道支援 NGO などが人道支援活動に従事していたが、2006 年 1
月段階で 30 万人が死亡、180 万人以上が難民となり、20 万人が隣国チャドへ非難したと推
定されている。現在も強盗、武力衝突、チャド国境沿いの緊張といった治安問題の悪化、
それによる支援活動継続の危機、支援の減少など問題は多い。
AU はこの紛争に対し、2004 年 4 月、治安改善のため平和・安全保障理事会でダルフール
への AU 部隊(AU Mission in the Sudan: AMIS)の派遣を決定した(AMIS は 2006 年 1 月ま
でに軍事監視員、文民警察、国際文民要員、停戦監視委員会要員、部隊など約 7000 人規模
となっている)。これに関し国連は、同年 9 月に政府が AU 停戦監視ミッションへの協力を
行わない場合、制裁措置を発動することを考慮するとする安全保障理事会決議を採択した。
さらに 11 月に国連加盟国に、AMIS 対し必要とされている支援を行うように強く要請する
とともに、AU と完全に協力することを要求した。また、2006 年 5 月、ダルフール和平合意
(DPA)を受け、安全保障理事会決議で AMIS を国連オペレーションに移行する準備を促進
することを決定した。同年 8 月に、2005 年から南北和平のために派遣されていた国連スー
ダンミッション(UNMIS)をダルフールに拡大し、AMIS への支援を強化し、併せて、右展
開に対するスーダン政府の合意を慫慂することを決定した。同年 10 月に、AU と国連の共
同展開が原則合意されたが、スーダン政府はダルフールにおける UNMIS の受入を拒否し、
スーダン政府、国連、AU 関係国との間で協議が行われていた。11 月 16 日、スーダン政府
は国連が AU とともにダルフールに展開することに合意した。これにより国連・AU 混成部
隊がダルフールに展開されることとなった。2007 年 1 月、UNMIS は AIMS 支援のために軍
事スタッフを派遣した。AU は国連と協力し、ダルフール和平実現のために動いている。
3 その他の紛争
a
西サハラ紛争
西サハラ紛争は、自治権を主張して独立を宣言したサハラ・アラブ民主共和国という名
のアフリカの一国と、その地域の歴史的領有権の主張に基づいてこれを分割・併合したモ
ロッコとモーリタニア(その後、領有権を放棄)両国間の武力紛争である。西サハラは 1934
年以来、スペインの保護領であったが、スペインが領有権放棄の動きを見せ始めると、隣
19
アフリカの地域統合
接するモロッコとモーリタニアがスペイン撤退後の分割・併合に関する秘密協定を 1974 年
に締結した。そして、1975 年に、国際司法裁判所の勧告意見を不満としたモロッコは、西
サハラへ向けて領有権をアピールのための「緑の行進」と呼ばれる大行進を行い、さらに、
スペインとモーリタニア、モロッコの三国がマドリッド協定を締結したことにより、西サ
ハラ住民と周辺諸国との間に摩擦が起き始めた。1976 年にスペインが撤退し、モロッコが
北部を、モーリタニアが南部を分割・併合し始めると、独立を求める住民で結成されたポ
リサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国(SADR)樹立を宣言し、紛争が勃発した。その
後、1979 年に戦闘を続けていたモーリタニアは、ポリサリオ戦線と和平協定を締結し、西
サハラの領有権を放棄し、モロッコが西サハラ全域の併合を開始した。また、1984 年に OAU
の首脳会議に SADR の代表が参加すると、これに抗議したモロッコが OAU を脱退した。そ
のような状況ながらも徐々に和平機運が生まれ、1988 年にモロッコと SADR が、住民投票
を骨子とする国連事務総長案を受諾した。そして、1991 年に国連の仲介により停戦が実現
し、国連住民投票監視団(MINURSO)が設立され活動を開始している。しかし、「西サハ
ラ住民」の定義をめぐり、住民投票は延期を繰り返し、現在に至るも実施されていない。
また、西サハラは現在においても市街地と幹線道路以外には地雷が敷設され、最近では 2005
年 5 月に大規模なデモや衝突が発生している。
1983 年に OAU は住民投票による解決を提案し、モロッコもそれを受け入れたが、1984
年に「植民地領域単位での自決」原則という OAU の領土・国境問題に対する原則に基づき、
SADR を OAU 加盟国と承認したため、結局モロッコが OAU を脱退し、解決への努力は失
敗に終わった。その後、OAU は、自力紛争処理能力の限界から国連の補助・協力機関とし
て活動を始めるようになった(合同仲介、合同提案、PKO 活動)。AU も、OAU と同様に国
連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)の補助活動を行っているが、未だ住民投票は実施
できていない。
b ソマリア紛争
ソマリアは、1960 年に北部がイギリスから独立、南部がイタリアから独立し、南北が統
合されソマリア共和国となったが、1969 年に軍事クーデタによりバーレ政権が発足して国
名がソマリア民主共和国に変更された。その後、バーレ政権の自分たちの所属する氏族の
みを重用する政策や、オガデン紛争による窮乏化が他氏族の不満を生み、反政府闘争が 1980
年代初めより始まった。そのような状況の中、特に北部で紛争が活発化し、1991 年 1 月に
は反政府組織「統一ソマリア会議」(USC)が首都を制圧し大統領を追放し、暫定政府を置
いた。しかし、USC の中で内部紛争が始まり、さらに、暫定政府自体を認めないソマリア
国民運動(SNM)という組織が「ソマリランド共和国」の分離独立を宣言するなど、内戦
は激化し、国内は混乱に陥った。そのような状況の中、1992 年 12 月には「国連ソマリア活
動」
(UNOSON)として多籍軍が派遣され、国連の仲介で「ソマリア和平会議」が開かれた
が成果はあげられず、また、1993 年の 3 月には国連憲章に基づき武力行使を認められた平
和執行部隊が展開されたものの、結局、国連側は多数の犠牲者出し、1995 年 3 月には完全
撤退するという結果に終わり、統一政府樹立のめどは立たなかった。しかし、その後、2000
20
2006 年度
国際関係論演習
年 5 月にジプチで氏族代表が集まり、3 ヵ月に及ぶ和平会議が行われ、暫定政府樹立の発足
が約束された。そして、任期つきながらもハッサン大統領が就任し、その後 2004 年にナイ
ロビで暫定議会が開かれユスフ新大統領が選出され、現在はユスフ大統領のもとソマリア
暫定政府がナイロビを拠点に活動している。なお、暫定政権といっても首都全域すら支配
できておらず、また、ソマリアからの分離・独立を宣言し、自治政府が治める地域も三つ
存在し、ソマリアは国家として統一されていない状態にある。
OAU は、西サハラのケースと同様に国連と協力して和平プロセスを進めた上で、相対的
に経験・資金・人材の豊な国連に PKO を委ね、OAU は国連を補助するという形がとった。
さらに、ソマリア内戦では、他の地域機関(IGAD など)との協力による仲介工作も行って
いる。また、1991 年に分離・独立したソマリランドが国家としての実質を着々と整えてい
るにも関わらず、OAU(AU)は加盟を承認しておらず、西サハラのケースと同様に「国境不
変更の原則」に基づき、行動している。また、2006 年 6 月、暫定政府の要請に対して、AU
と国連は平和維持部隊の派遣について検討している(1995 年には、要請に対して危険すぎ
るということで派遣を拒否した)。
VI
アフリカの地域統合の展望
1 経済統合の展望
アフリカ地域全体としての経済統合のメリット・問題点
まずはアフリカ地域全体を包括するような経済統合についてメリット、問題点を述べる。
最もわかりやすいメリットとしては規模の経済の獲得が挙げられよう。アフリカ 48 カ国中、
人口が 4000 万人を超えるのは僅か 4 カ国に過ぎないため、統合促進によって大規模の市場
が現れることは大きくプラスとなるはずである。他には、アフリカ地域の域内貿易が EU や
NAFTA と比べて伸びしろが大きく残されていること、地域統合によって自由貿易の恩恵を
受けることでアフリカ諸国の貿易への意識を変換させ、後々の世界的な自由貿易体制へ向
けての下敷きを作ること等が挙げられる。
経済統合によってこれらの利益を享受する可能性があるものの、問題点も多く挙げられ
る。一つは、文化的差異である。ECOWASの項で述べたように、アフリカ諸国のエスニッ
ク的な差異は域内通貨統合や共同市場設立を目指す際に足並みを乱す不安がある。次に、
統合効果について疑問の残るところがある。例えば、アフリカ諸国の域内財の少なさや生
産効率性が悪さのために、前述したプラスの働きをもつ貿易創出効果がマイナスの働きを
もつ貿易転換効果を上回らないのではないかという意見がある 31 。また、格差拡大への不安
もある。アフリカ諸国が全体的に似通った産業を主軸としているために、統合によって同
産業の競争が激化し、全体の生産性は向上したとしてもある特定の国が一方的な不利益を
被る恐れが出てくる。EACが一時崩壊した原因が正にこの格差にあり、統合の際には実効
31
21
大山道広(2001)『国際経済学』
(放送大学教育振興会).
アフリカの地域統合
的な補償措置がとられる必要性に駆られるだろう。
効果的な経済統合のための土台(アジアとの比較による貧困解決への道)
より効果的な地域経済統合を達成するためには上記のような統合の問題点に先駆けて、
アフリカ諸国の累積債務問題の解決、人間開発・社会開発の推進等、国内の貧困解決がな
によりも重要なものとなるだろう。ここでは、アジア諸国の成功例から学び、アフリカ諸
国が今後どのような政策によって貧困を解決していくべきか、一定の方向性を示す。
開発途上国において経済成長と並行して貧困の削減を実現するパターンを示す用語とし
てPro-Poor Growth 32 という語がある。Pro-Poor Growthの定義はいまだ一律に固定されてはい
ないが、ここでは端的に、貧困を持続的に削減する経済成長という意味で用いる。
1970 年代においては、東アジアと南アジアのGDPはサハラ以南アフリカのそれよりも小
さかった。しかしその後、東アジアは右肩上がりの成長を続け、対照的にサハラ以南アフ
リカは一貫して低迷し続けることとなった。東アジア地域がPro-Poor Growthを成し遂げた大
きな理由は、一次産業から製造業への移行である。相対的に保有面積の狭い東アジアでは、
相対的に土地集約的な農林水産業よりも相対的に労働集約的な製造業への潜在的な需要が
存在していた。労働集約的製造業品の中でもより労働集約的な繊維業などを輸出に充てる
ことにより、雇用創出の機会を拡大させ、さらに製造業のノウハウを国内に蓄積すること
で、資本・技術集約的産業への移行が円滑に進むこととなった。これは東南アジア地域に
おいても同様で、比較的保有面積の広いタイやインドネシアにおいても多額のFDI流入が輸
出指向型戦略を後押しする結果となった。また、製造業が未就学の貧困層に対して農林水
産業よりも雇用を創出する機会が大きい 33 ことも効果を上げた一因となっている。
アフリカにおいても人口あたりの労働面積が小さい国は労働集約型産業に適していると
見られ、現にモーリシャスは東アジア的な Pro-Poor Growth を達成している。ここで問題と
なるのが東アジア、東南アジアと異なって土地労働比率が大きいアフリカ諸国についてで
あるが、それらの国に関しても国内の労働面積を一律に捉えるのではなく、労働集約型産
業に適した地域においてはミクロ的な需要があると考えることができるため、労働集約型
産業の特化による Pro-Poor Growth を否定するには至らない。
効果的な経済統合への提言~農林水産業と製造業の並立
上記のような Pro-Poor Growth がアフリカにおいても進められていければ、それぞれの国
家経済力をある程度の水準まで引き上げることは可能である。だが単にアジアにおける
Pro-Poor Growth を模倣するだけでは、当時との国際的な状況の変化とを鑑みると抜本的な
貧困の解決へと繋がることは難しいと考えられる。ではアフリカ経済はやはり見捨てられ
た土地としてマージナル化しつづけるのであろうか。ここで、アフリカが国際経済の周辺
32
この語が初めて使われたのは、世銀のHP完成前からあった貧困削減戦略文書(PRSP)作成の
ためのSource Bookに章題として設けられていたことによる。
33
栗原充代、山形辰史(2002 年)
「開発戦略としてのPro-Poor Growth」
『第 13 回国際開発学会・
全国大会報告論文集』.
22
2006 年度
国際関係論演習
部から中心部へと移動するための手段として、農林水産業と製造業の並行的な発展を挙げ
る。農林水産業は前述したように価格弾力性には乏しいが、完全自由貿易下ではその広い
労働比率面積を活かして、国際的に比較優位に立つことのできる産品である。現在は EU や
アメリカ等の先進国が自国農業を強く保護しているために、需要が制限されてはいるが、
WTO が掲げるような完全自由貿易が近い将来に達成されると推測すればこれは問題となら
ない。そして危機が叫ばれる食糧問題を解決する意味でも、人口増加が著しいアフリカ域
内における域内貿易を活性化させるためにも、そしてまた労働集約型産業を推進するため
の外貨獲得手段としても農林水産業の発展は重要なものとなりえる。アフリカ諸国におけ
る農林水産業の現状は、焼畑農業など耕地面積の拡大によって生産を増大させる政策が目
立っているが、与えられた資源、土地をより有効に利用するために、これを生産効率性の
上昇を図る政策へとシフトさせることが必要である。農林水産業に比較優位のある地域で
は農林水産業に特化、労働集約型産業に比較優位のある地域では労働集約型産業に特化す
ることでアフリカ全体の国際競争力を高めることができ、そしてこれは地域経済統合によ
る分業によってのみ可能となる戦略ではないだろうか。統合に向けて様々な課題は存在し
ているが、それを乗り越えて(または無視して)地域分業が行われたとき、将来が悲観さ
れているアフリカ地域に一筋の光が見えるかもしれない。
2 安全保障の展望
次にアフリカの安全保障の展望について考察を述べる。この際、重要であるのは紛争へ
の関与における国連と地域機構との関係である。アフリカの紛争への国連や地域機構の対
応に関しては IV・V 章で説明したが、総じて言うと、アフリカの安全保障は、直接的な主
体が国連から AU(OAU)へ、そして AU(OAU)から準地域的機構へと移っていっており、
OAU の紛争処理の限界や国連によるソマリア・ルワンダ紛争への介入の失敗、紛争処理能
力の強化をはかった AU の設立、国際社会の「アフリカ問題に対するアフリカ自身の解決」
との認識などから、AU を中心に据え、国連および準地域的機構が AU による活動を補完す
るメカニズムの構築へと現状は向かいつつあるといえる。
たしかに、コートジボワール内戦においては、他の紛争にも軍隊を提供している ECOWAS
及びその加盟国の財政問題を解決するために、ECOMICI から ONUCI への移行が計られる
ことになり、その過程で任務と実施手段(国連憲章 7 章に基づく行動)が認められること
になっており、また、多国籍軍や地域的機構の軍が先行して展開し、治安維持を含めた展
開地域の安定化を進めた後、これを国連 PKO が引き継いだ過去の事例のほとんどにおいて、
こうした憲章 7 章に基づく行動そのものの移行が認められており、ONUCI の場合もこれに
倣ったということができるであろう。しかし、コートジボワール内戦においては、紛争開
始当初は国連が消極的な態度をとっており、ECOWAS の要請が国連を動かし ONUCI の創
設へとむかわせるなど準地域的機構である ECOWAS のイニシアティブが従来以上に強力で
あり、AU による直接的、積極的関与はほとんど見られていない、国連、ECOWAS、フラン
ス軍の三者により紛争解決がなされているなどの特徴が見られる。これは、アフリカにお
23
アフリカの地域統合
ける安全保障において、紛争解決のイニシアティブをとる主体が、国連から AU(OAU)へ、
AU(OAU)から ECOWAS など準地域的機構へと変化しているといえるかもしれない。実
際、アフリカ全土という広範な地域を組織する AU よりも紛争地帯により近く直接的に利害
関係を有する準地域的機構がイニシアティブをとる方が理想的ではある。
では、今後のアフリカの安全保障において、コートジボワール内戦への対応方法が特別
なケースとなるのであろうか、それとも、今後のアフリカにおける紛争関与のモデルケー
スとなるのであろうか。紛争解決において、準地域的機構は紛争当事者と密接な関係があ
り直接的な介入にアドバンテージを持っており、国連はその規模の大きさから、財政的能
力にアドバンテージを持っている。AU は国連より財政には脆弱であるが、国連よりも地理
的には近接しているので、準地域的機構の後方支援や準地域的機構と紛争当事者間を調整
することにおいてアドバンテージを持っている。よって、国連および地域的機構、準地域
的機構それぞれのアドバンテージを理解した上で明確な役割分担を行い、紛争管理メカニ
ズムを構築することが必要である。また、国連、地域的機構、準地域的機構の三者がいか
なる関係を構築し、いかなる役割を果たすべきかについては今後さらなる検討が必要であ
ろう。もちろん、今後のアフリカの安全保障において、コートジボワール内戦の対応方法
が特別なケースとなるか、それとも、今後のモデルケースとなるかは、今後の国連、AU、
準地域的機構がどのように発展するかに関わるのであるが、現状の AU では国連や準地域的
機構に比べ紛争解決におけるアドバンテージが低く、今後 AU の発展がなされなければ、コ
ートジボワール内戦の事例のように AU は国連および準地域的機構の補完を担うのみで、イ
ニシアティブをとり紛争解決に関与することはできないであろう。
24
2006 年度
国際関係論演習
参考文献
I 植民地支配と地域統合:世代
○ 家正治(2002 年)「アフリカの統一とアフリカ連合」姫路法学第 34・35 巻、87-113 頁.
○ 岡田昭男(2004 年)
『トピックス・アフリカ:アフリカ情勢分析 2-21 世紀に向かうアフリカ
連合』
(信山社).
○ 小田英郎(1989 年)『アフリカ現代政治』(東京大学出版会).
○ 小田英郎編(1991 年)
『アフリカの 21 世紀第 3 巻-アフリカの政治と国際関係』
(勁草書房).
○ 片岡貞治(2004 年)
「アフリカにおける多国間協力-アフリカ連合(AU)とアフリカの自立」
国際問題 533 号、19-32 頁.
○ 中村弘光(1982 年)『アフリカ現代史 IV-西アフリカ』(山川出版社).
○ 西川潤(1971 年)『叢書-現代のアジア・アフリカ 9-アフリカの非植民地化』(三省堂)
.
○ 吉田昌夫(1978 年)『アフリカ現代史 II-東アフリカ』
(山川出版社).
○ Percy S. Mistry (2000), Africa’s Record of Regional Co-operation and Integration, 99(397) AFRICAN
AFFAIRS.
II
パン・アフリカの理想と地域的機構
○ 家正治・川岸繁雄・金東勲編(1999 年)『国際機構(第三版)
』
(世界思想社).
○ 高林敏之(2003 年)
「
「アフリカ連合」の安全保障観とその課題-「設置法」の検討を通じて」
愛知大学国際問題研究所紀要第 120 巻、55-89 頁.
○ 松本祥志(2003 年)
「アフリカ連合(AU)設立の法的背景と意義-政治的解決と司法的解決」
山手治之・香西茂(編集代表)
『21 世紀国際社会における人権と平和:国際法の新しい発展を
めざして(下巻)現代国際法における人権と平和の保障』321-354 頁(東信堂)
.
○ 横田洋三編(1999 年)
『国際組織法』
(有斐閣).
○ アフリカ連合 [http://www.africa-union.org]
○ 外務省(アフリカ連合について) [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/oau/index.html]
III
経済的統合
○ 北川勝彦・高橋基樹(2005 年)『アフリカ経済論』
(ミネルヴァ書房)
.
○ (1997 年)
「南部アフリカ地域における域内協力/SADC を中心に」外務省調査月報 1997 年度
No3、27-48 頁.
i
アフリカの地域統合
○ 岡田昭男(2001 年)
「西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)における経済通貨同盟」外務省
調査月報 2001 年度 No3、33-54 頁.
○ 岡田昭男(2002 年)
「中部アフリカ経済共同体(CEMAC)の発足」外務省調査月報 2002 年度
No2、1-16 頁.
○ 外務省 [http://www.mofa.go.jp/mofaj/]
○ EU-アフリカ・カリブ・太平洋諸国経済パートナーシップ[http://acp-eu-trade.org/]
IV
地域的安全保障
○ 青木一能(2000 年)
「冷戦後アフリカにおける紛争対応メカニズム-OAU の展開を中心にし
て」国際政治 123 号、110-126 頁.
○ 勝俣誠(2003 年)
「アフリカにおける平和定着の基礎条件-西部および中部アフリカ地域を事
例として」国際問題 520 号、41-54 頁.
○ 勝俣誠(1999 年)「アフリカの地域紛争と予防外交」国際問題 477 号、50-66 頁.
○ 総合研究開発機構(NIRA)・横田洋三共編(2001 年)『アフリカの国内紛争と予防外交』(国
際書院).
○ 楢林健司(2001 年)
「シエラレオネ内戦に対する西アフリカ諸国経済共同体と国際連合による
介入」愛媛法学会雑誌第 27 巻第 4 号、119-158 頁.
○ 楢林健司(1995 年)
「リベリア内戦への西アフリカ諸国経済共同体と国際連合による介入」第
22 巻第 2 号、99-137 頁.
○ 則武輝幸(1996 年)
「国際連合とアフリカ統一機構の協力による西サハラ紛争の解決(1)国
際連合と地域的機関の関係に関する一考察」帝京法学第 19 巻第 2 号、87-129 頁.
○ 国際連合 [www.un.org]
V 紛争の態様と地域的機構の介在
○ 酒井啓宣(2005 年)「コートジボワール内戦における国連平和維持活動-ECOMICI から
ONUCI」神戸大学国際協力論集第 12 巻第 3 号,29-63 頁.
○ 佐藤章(2002 年)
「コートジボワール-和解フォーラム後の課題」アジ研ワールド・トレンド
82 号、24-27 頁.
○ 佐藤章(2000 年)「コートジボワールの政治危機」アジ研ワールド・トレンド 61 号、34-39
頁.
○ 佐野康子(2004 年)
「アフリカ地域内紛争に対する国際組織の関与」国際政治 139 号、159-174
頁.
○ 牧野久美子(2000 年)
「アフリカ-紛争多発地帯における「自前の安全保障」の模索」アジ研
ワールド・トレンド 61 号、13-15 頁.
ii
2006 年度
国際関係論演習
○ 外務省(スーダン概況) [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sudan/kankei.html]
○ 国連広報センター(毎日の動き) [http://www.unic.or.jp/mainichi/mainichi.html]
○ アフリカ・オンライン・ニュース [http://www.afrol.com]
VI
アフリカの地域統合の展望
○ 平野克己(2002 年)
「どうなる地域統合 アフリカ-「規模の経済」実現に求められる広域市
場創設」世界週報 83(6),10-13 頁.
○ 松尾圭介(2002 年)「AU は「アフリカ版 EU」になるか」世界週報 83(30),22-23 頁.
○ Daniel Bach (2005), The Global Politics of Regionalism: Africa, MARY FARRELL, BJÖRN HETTNE &
LUK VAN LANGENHOVE ed., GLOBAL POLITICS
OF
REGIONALISM THEORY
AND
PRACTICE 171 (Pluto
Press).
○ 栗原充代・山形辰史(2002 年)「開発戦略としてのPro-Poor Growth」第 13 回国際開発学会第
12 巻第 2 号.
○ 栗原充代・山形辰史(2003 年)
「アジアのPro-Poor Growthとアフリカ開発への含意-貧困層へ
の雇用創出-」国際開発銀行開発金融研究所報No17.
○ 国際協力銀行 [http://www.jbic.go.jp/japanese/index.php]
iii