遺跡から見える 鹿児島の歴史と文化

鹿児島県立埋蔵文化財センター
設立 20 周年記念フォーラム資料集
「遺跡から見える
鹿児島の歴史と文化」
主催 鹿児島県立埋蔵文化財センター
共催 霧 島 市 教 育 委 員 会
本
日
の
日
程
13:00
開場
13:00~13:30
受付
13:30
開会
13:30~13:35
あいさつ(鹿児島県立埋蔵文化財センター所長
寺田仁志)
13:35~13:40
プロローグ 「鹿児島の遺跡はおもしろい!」
(鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事
(鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事
國師
益山
洋之)
郁恵)
薩摩焼と輸入された陶磁器
(鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事
関
明恵)
境界に位置した南九州
(鹿児島県立埋蔵文化財センター 第一調査係長
東
和幸)
川口
雅之)
環境と共に生きた南の縄文人
(鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事
黒川
忠広)
火山灰台地に生きた狩猟採集民族
(鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事
馬籠
亮道)
13:40~14:50
遺跡が語る鹿児島の歴史
-1-
火山地帯に暮らした弥生・古墳時代の人々
(鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事
14:50~15:00
休憩
15:00~15:50
遺跡が語る鹿児島の歴史
15:50~16:30
対談
児玉
寺田
堂込
16:30
閉会
~どう活かす
-2-
鹿児島の遺跡~
ゆりえさん(遺跡サポーター)
仁志(鹿児島県立埋蔵文化財センター 所長)
秀人(鹿児島県立埋蔵文化財センター 調査第一課長)
ごあいさつ
本日は,鹿児島県立埋蔵文化財センター設立 20 周年記念フォー
ラムに,ようこそおいで下さいました。
20 年前の平成4 年4月,鹿児島県教 育庁文化課から,遺 跡の発
掘調査や整理作業,遺物の収蔵や活用を目的として独立した埋蔵文
化財センターが,旧姶良町重富に設立されました。それから 10 年
後の平成 14 年に,霧島市国分の上野原縄文の森に移転しましたが,
その契機となったのは当センターの発掘調査により,上野原遺跡が
9,500 年前の縄文時代早期前半の日本で最古級かつ最大級の集落跡
であることが判明し,遺跡の保存及び周辺の施設設備がなされたこ
とによります。
また,この他にも,様々な遺跡の発掘調査によって,県内各地域
の歴史や文化が明らかになってきました。もちろん,これらの成果
は市町村や大学が実施した発掘調査,さらに個人の研究者の方々が,
人文科学・自然科学を問わず,たゆまぬ探究を続けてこられた成果
でもあります。
本日は,遺跡の発掘調査と同様に,地表面の新しい時代から徐々
に古い時代へ掘り下げることによって,鹿児島の歴史や文化の成り
立ちがどの様なものであったのかを紹介するとともに,今後の課題
についてもお示ししたいと思います。また,対談では会場の皆さま
方から,発掘された遺跡の活用方策や今後の埋蔵文化財センターの
あり方等について御提言をいただきながら,一緒に考えてみたいと
思います。
本日の記念フォーラムが,私たちの足下に眠る歴史をとおして,
地域の未来を創る契機になればと願っておりますので,どうぞよろ
しくお願いいたします。
平成 24 年 11 月 17 日
鹿児島県立埋蔵文化財センター
所 長
寺 田
仁 志
資 料 集 目 次
年表
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第Ⅰ章
1
遺跡が語る鹿児島の歴史
薩摩焼と輸入された陶磁器(関 明恵)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
境界に位置した南九州(東 和幸)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
火山地帯に暮らした弥生・古墳時代の人々(川口雅之)・・・・・・・・・・・19
環境と共に生きた南の縄文人(黒川忠広)・・・・・・・・・・・・・・・・・27
火山灰台地に生きた狩猟採集民族(馬籠亮道)・・・・・・・・・・・・・・・33
第Ⅱ章
遺跡速報
調査遺跡地図(中村幸一郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
高吉B遺跡(富山孝一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
下原遺跡(長﨑慎太郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
前原和田遺跡(有馬孝一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
中津野遺跡(西園勝彦)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
芝原遺跡(関 明恵)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
天神段遺跡(黒川忠広)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
立小野堀遺跡(藤島伸一郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
荒園遺跡(中村耕治)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
田原迫ノ上遺跡(上床 真)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53
永吉天神段遺跡(川口雅之)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55
堀之内遺跡(抜水茂樹)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
山口遺跡(廣 栄次)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
河口コレクション(吉岡康弘)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59
第Ⅲ章
センターのあゆみ
沿革(中村幸一郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61
南九州西回り自動車道建設関係遺跡(西園勝彦)・・・・・・・・・・・・・・63
東九州自走車道建設関係遺跡(長野眞一)・・・・・・・・・・・・・・・・・65
九州新幹線建設関係遺跡(平木場秀雄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・67
農業開発総合センター関係遺跡(中村耕治)・・・・・・・・・・・・・・・・69
一般国道 220 号古江バイパス建設関係遺跡(國師洋之)・・・・・・・・・・・71
中小河川改修事業関係遺跡(万之瀬川)(富山孝一)・ ・・・・・・・・・・・73
地域高規格道路建設関係遺跡(上床 真)・・・・・・・・・・・・・・・・・75
川内川激甚災害対策特別緊急事業関係遺跡(有馬孝一)・・・・・・・・・・・77
開所記念・講演会(大久保浩二)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・79
壷形土器の発見(八木澤一郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
上野原遺跡現地公開(彌栄久志)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81
上野原への移転(鶴田靜彦)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82
上野原縄文の森と企画展(永濵功治)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83
震災復興支援(大久保浩二・平美典)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84
歴史のふるさと県民セミナー(黒川忠広)・・・・・・・・・・・・・・・・・86
お出かけ体験隊・出前授業(抜水茂樹)・・・・・・・・・・・・・・・・・・87
年 表 (1/4)
世紀
二
十
一
二
十
世
紀
十
九
世
紀
十
八
世
紀
十
七
世
紀
十
六
世
紀
十
五
世
紀
十
四
世
紀
十
三
世
紀
西暦
~2012
~2010
~2000
~1990
~1980
~1970
~1960
~1950
~1940
~1930
~1920
~1910
~1900
~1890
~1880
~1870
~1860
~1850
~1840
~1830
~1820
~1810
~1800
~1790
~1780
~1770
~1760
~1750
~1740
~1730
~1720
~1710
~1700
~1690
~1680
~1670
~1660
~1650
~1640
~1630
~1620
~1610
~1600
~1590
~1580
~1570
~1560
~1550
~1540
~1530
~1520
~1510
~1500
~1490
~1480
~1470
~1460
~1450
~1440
~1430
~1420
~1410
~1400
~1390
~1380
~1370
~1360
~1350
~1340
~1330
~1320
~1310
~1300
~1290
~1280
~1270
~1260
~1250
~1240
~1230
~1220
~1210
時代
平
成
昭
和
大正
明
治
鹿児
島
出来事
九州新幹線全線開通 東日本大震災 ロンドンオリンピック
アメリカ同時多発テロ 九州新幹線鹿児島ルート開通
湾岸戦争 ソ連解体 鹿児島大水害 阪神・淡路大震災 鹿児島県歴史資料センター黎明館開館 「バブル経済」発生 東西ドイツ統一
沖縄が日本に復帰する 列島改造ブーム 日中平和友好条約
オリンピック東京大会が,開催される ベトナム戦争 大学紛争多発
日米安全保障条約 奄美群島が日本に復帰する テレビ本放送が始まる
太平洋戦争はじまる ポツダム宣言を受諾し,無条件降伏 日本国憲法公布
満州事変おこる 日本,国際連盟を脱退する 日中戦争はじまる
関東大震災が起こる ラジオ放送が始まる 世界恐慌起こる
桜島大爆発で大隅半島と陸続きとなる 第1次世界大戦が起こる
紡
鹿児島-国分間,鉄道開通 日露戦争が起こる 韓国併合,行われる
績
日清戦争が起こる 第1回国際オリンピック開催
鹿鳴館ができる グリニッジ,標準時設定 第1回帝国議会が開催される 所
琉球が分離して琉球藩となる 西南戦争始まる エジソン,電球発明
生麦事件 薩英戦争 戊辰戦争起こる 明治維新
篤姫,鹿児島城に入る ペリー来航 磯御庭窯開窯 日木山皿山開窯
稲荷窯開窯 岩永三五郎,西田橋完成 南京皿山窯開窯 お由羅騒動(嘉永朋党事件)
アメリカ商船モリソン号山川沖に来航 大塩平八郎の乱 中国でアヘン戦争起こる
指宿 川辺 日置 川薩 出水 姶良 伊佐 曽於 肝付 熊毛 大島
雪
山
今
泉
島
津
家
墓
地
イギリス人,宝島に上陸 調所広郷に財政改革主任を命ず
スチーブンソンの汽車,試運転
ナポレオン,皇帝となる 伊能忠敬,薩摩藩領を測量
島津重豪,『成形図説』の編輯を命ず モーツアルト,没
平佐天辰に皿山窯,弥勒に皿山窯開窯 フランス革命,起こる
アメリカ独立宣言 桜島安永の爆発 明時館(天文館)設立
木曽川治水工事着手 大英博物館創立
公事方御定書制定
幕府,甘藷を試植
将軍綱吉の養女竹姫,島津継豊に入輿 スウィフト「ガリバー旅行記」出る
大岡忠相を江戸町奉行に任命
鹿
児
島
城
跡
この頃,笠野原窯開窯 前田利右衛門が甘藷をもたらす イタリア人宣教師シドッチ,屋久島に上陸 この頃,松尾芭蕉『奥の細道』 宮崎安貞『農業全書』刊
「生類憐れみの令」 碗右衛門が龍門司窯を開く イギリス名誉革命
碗右衛門が湯之谷窯を開く グリニッジ天文台設立 鹿児島大火
小野元立が元立院窯を開く 五本松窯開窯
徳川光圀,『大日本史』の編纂開始
田畑永代売買禁止令 郷帳・国絵図・城絵図の提出を指令 「慶安御触書」
室
町
時
代
出
水
地
頭
仮
屋
跡
堂
平
窯
跡
那覇に琉球在番奉行をおく 島原の乱おこる 鎖国の完成 山ヶ野金山発見 永野金山開掘
安
土
桃
山
犬追物を再興し,島津家のお家芸となる 琉球で黒砂糖の精糖に成功
大島奉行・徳之島奉行をおく 一国一城令 陶工を琉球に派遣する
鹿児島城築城開始 奄美・琉球の平定
御
里 下
窯 鶴
跡
文禄・慶長の役 朝鮮陶工が串木野島原・市来神之川・鹿児島前之浜などに上陸 関ヶ原の戦い
南甫文之を招く(薩南学派の全盛期) 島津義弘,豊臣秀吉に降伏
織田信長が安土城を築き,うつる スペイン人がフィリピンを征服する
ミケランジェロ没
倭寇盛ん 桶狭間の戦いで,織田信長が今川義元を倒す
種子島に鉄砲が伝わる ザビエルが鹿児島に上陸し,キリスト教を伝える
戦
ピサロ,ペルーのインカ文明征服
国
マゼラン,世界周航 インドにムガール帝国ができる コペルニクス,地動説を唱える
時
ルターの宗教改革 レオナルド=ダビンチ没
代
三浦の乱(庚午倭変)おこる
コロンブス,アメリカ大陸発見 ヴァスコ=ダ=ガマ,インドのカリカット到着
足利義政,東山に銀閣を建てる ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」
この頃,桜島の大噴火(文明ボラ・P3) スペイン王国成立
応仁の乱 雪舟・桂庵玄樹ら明に渡る
ビザンツ帝国滅亡 大田道灌,江戸城に拠る
グーテンベルク,活字印刷術発明 ハングル「訓民正音」として頒布
ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲
ジャンヌ=ダルク,オルレアン市を解放
ローマ教会,コンスタンツの宗教会議
明との勘合貿易開始
足利義満,南北朝を統一する 足利義満,北山に金閣を建てる
南
北
ローマ教会の大分裂(シスマ)
朝
高麗,倭寇の禁圧を要求 ティムール帝国がおこる
期
このころルネッサンスはじまる
後醍醐天皇王子懐良親王,谷山城に入る
内
城
指
宿
城
跡
清
水
城
跡
東
福
寺
城
跡
知
覧
城
跡
向
栫
城
跡
芝
原
・
上
水
流
・
渡
畑
メキシコにアステカ王国がおこる
ダンテ『神曲』
ローマ教会,教皇のバビロン捕囚
徳政令を出すが,御家人の生活は苦しさを増す オスマン・トルコがおこる
執
弘安の役(第2回蒙古襲来-元寇)
権
マルコ=ポーロ,東洋漫遊 文永の役(第1回蒙古襲来-元寇) 一遍,時宗を開く
政
北条時宗が執権となる
治
日蓮,法華宗を開く モンゴル,フビライ=ハン即位
神聖ローマ帝国,ハンザ同盟はじまる
御成敗式目ができる
承久の乱が起こり,後鳥羽上皇が流される 親鸞,浄土真宗を開く 道元,曹洞宗を開く
鴨長明『方丈記』
運慶・快慶,金剛力士像 チンギス=ハン,モンゴル統一
- 1 -
清
水
磨
崖
仏
建
昌
城
跡
虎
居
城
跡
『徒然草』,建武の新政,後醍醐天皇が吉野にうつり,南北朝の動乱がはじまる
鎌
倉
時
代
川
骨
川
辺
地
頭
仮
屋
跡
長田窯開窯 苗代川の藩窯御物窯を御定式窯と改める イギリス産業革命始まる
江
戸
時
代
栫
城
跡
来
迎
寺
石
塔
莫
禰
城
跡
平
泉
城
跡
恒
吉
城
跡
高
山
城
跡
楠
川
城
跡
赤
木
名
城
跡
稲
葉
崎
供
養
塔
群
年 表 (2/4)
世紀
十
二
世
紀
十
一
世
紀
十
世
紀
九
世
紀
八
世
紀
七
世
紀
西暦
~1200
~1190
~1180
~1170
~1160
~1150
~1140
~1130
~1120
~1110
~1100
~1090
~1080
~1070
~1060
~1050
~1040
~1030
~1020
~1010
~1000
~990
~980
~970
~960
~950
~940
~930
~920
~910
~900
~890
~880
~870
~860
~850
~840
~830
~820
~810
~800
~790
~780
~770
~760
~750
~740
~730
~720
~710
~700
~690
~680
~670
~660
~650
~640
~630
~620
~610
時代
出来事
鎌倉時代 源頼朝が鎌倉幕府を開く 「薩摩国・大隅国建久図田帳」
壇ノ浦の戦い 平氏,滅亡 源頼朝が諸国に守護・地頭をおく
法然,浄土宗を開く 俊寛ら,鬼界島(硫黄島)に流罪
平清盛,太政大臣となる
保元の乱,平治の乱
大隅国分寺の石塔(1142年銘) 「薩摩国司庁宣写」
院 阿多郡司平忠景,私領を観音寺に寄進 「八幡正宮牒」
政
奥州藤原氏,中尊寺に金色堂を建てる
曽於市大隅町月野下岡の経筒(1105年銘) この頃,『今昔物語』
鹿児島
指宿 川辺 日置 川薩 出水 姶良 伊佐 曽於 肝付 熊毛 大島
芝
原
この頃,平季基が島津荘を関白藤原頼通に寄進
藤原道長,摂政に就任
この頃,清少納言『枕草子』,紫式部『源氏物語』ができる
藤原道長,左大臣となる。藤原氏の全盛期
摂
関
政
治
左大臣源高明,大宰権帥に左遷(安和の変)
乾元大宝(皇朝十二銭の最後)の鋳造
性空上人が霧島山に入る
紀貫之『土佐日記』ができる 平将門,乱を起こす
延喜式の編集
上
加
世 犬
田 ヶ
原
不
動
寺
天
奈 平
良 文
時 化
代
曽乃峯の上に火炎立ちのぼり,沙石を降らす 長岡京に遷都
隼人の帯劔を停止 大隅・薩摩の隼人俗伎を奏す
鑑真,没 大伴家持が薩摩守に 和気清麻呂を大隅に配流す 道鏡事件
東大寺大仏開眼 遣唐使が鑑真らを伴って帰国 唐招提寺が建立される
国分寺建立の詔 開墾地の永代の私有を許す(墾田永年私財法)
736年作製の『薩摩国正税帳』の断簡現存す
宮
之
前
下
鶴 井
榎
手
崎
ノ
B
上
大
山 島
野
原
敷
領
中
岳
古
窯
群
榎
チ 崎
サ A
ノ
木
気
色
の
杜
市
ノ
原
菅原道真,大宰権帥に左遷 『古今和歌集』ができ
遣唐使の派遣を停止
開聞岳の爆発(紫ゴラ) (『日本三代実録』)
開聞岳の爆発(紫ゴラ) (『日本三代実録』)
隼人に調貢納の徹底を命ずる 平安京に遷都 坂上田村麻呂,征夷大将軍
新
田
カ
ム
ィ
ヤ
キ
古
窯
跡
群
外
園
鍛
冶
屋
馬
場
武
E
大隅国の吉多・野神の二牧を廃す
承和の変 薩摩川内市京田遺跡出土の木簡の年代
律 山城国人右大衣阿多隼人逆足に阿多忌寸の姓を賜う
令 多禰嶋司をやめて大隅国に隷属させる(824年) 政 大隅・薩摩二国蝗害により未納税を免除する
治 隼人の朝貢を停止する 朝貢してきた隼人の風俗の歌舞を停止す 最澄,天台宗 空海,真言宗 新
平
田
上
野
城 大
坪
前九年の役,起こる 平等院鳳凰堂が完成する
「大隅国司庁宣案」
平
安
時
代
成
岡
/
西
ノ
平
武
H
後三年の役,起こる 白河上皇,院政を開始
桑
幡
家
柳
ヶ
迫 山
下
岡
野
窯
大
坪
遺
跡
小
中
原
薩
摩
国
府
跡
宮
の
脇
大
隅
国 岡
府 野
跡
三世一身法 蝦夷反乱 多賀城をおく 大隅・薩摩両国はいまだ班田を行わず
宮
脇
『古事記』 大隅国設置 豊前国の民の移住 隼人の朝貢を6年相替 大隅国守を殺害 『日本書紀』
大宝律令完成 薩摩国を設置 和銅開珎を鋳造 平城京に遷都
飛
鳥
時
代
白 大隅・阿多に仏教を伝える 藤原宮遷都 多禰・夜久・菴美・度感等の人朝貢 稲積城修築
鳳 大隅・阿多の隼人が宮廷で相撲をとる この頃,開聞岳爆発「青ゴラ」
文 飛鳥浄御原宮に遷都 壬申の乱 多禰(たね)島人等を飛鳥寺の西で饗す 薬師寺が建立される
化 白村江 筑紫に防人 近江大津宮に遷都 金田城 はじめて戸籍(庚午年籍) 法隆寺火災 原
田
吐火羅国の男女と舎衛の女が,日向に漂着 阿倍比羅夫が秋田付近の蝦夷を討つ
久
飛鳥板蓋宮に移る 中大兄皇子ら蘇我氏を滅ぼす(大化の改新)
保
飛 将軍上毛野形名が蝦夷を討つ
鳥
中国の開元通宝初鋳 厩戸皇子が斑鳩宮で没 蘇我馬子没 第1回遣唐使を派遣
文
化 この頃,前方後円墳築造停止 推古天皇「馬ならば日向の駒」 掖玖(やく)人来朝の記事
冠位十二階を制定 十七条憲法をつくる 小野妹子を遣隋使 法隆寺が建立される
- 2 -
橋
牟
礼
川
大
島
田
尻
の
金
銅
仏
城
久
(
グ
ス
ク
)
遺
跡
群
亀
ノ
甲
横
間
古
墳
蕨
手
刀
小
六
広
月 後 田 湊
坂 ヶ 遺 フ
古 迫 跡 ヮ
ガ
墳
上
ネ
層
ク
年 表 (3/4)
世紀
六
世
紀
五
世
紀
四
世
紀
三
世
紀
二
世
紀
一
世
紀
前
一
前
二
前
三
前
四
前
五
前
六
前
七
前
八
前
九
前
十
西暦
~600
~590
~580
~570
~560
~550
~540
~530
~520
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~500
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~460
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~440
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~410
~400
~390
~380
~370
~360
~350
~340
~330
~320
~310
~300
~290
~280
~270
~260
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~240
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~220
~210
~200
~190
~180
~170
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~150
~140
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~120
~110
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~70
~60
~50
~40
~30
~20
~10
~0
~前50
~前100
~前150
~前200
~前250
~前300
~前350
~前400
~前450
~前500
~前550
~前600
~前650
~前700
~前750
~前800
~前850
~前900
~前950
時代
出来事
聖徳太子,摂政となる 四天王寺建立 第1回遣隋使を派遣
敏達天皇の殯宮(もがりのみや)を隼人が警護する 飛鳥寺建立
鹿児島
指宿 川辺 日置 川薩 出水 姶良 伊佐 曽於 肝付 熊毛 大島
白
松 尾 麦 金
之 ヶ 之 崎
尾 原 浦 古
墳
加羅(任那),新羅に滅ぼさる この頃,マホメットが誕生する
後 北アジア,突厥建国
笹
期
貫
百済から仏教伝来 蝦夷・隼人ともに衆を率いて,「帰附」(まうきしたがう)
紫君磐井の乱 トリボニアヌス,『ローマ法大全』編纂開始
都を山背の筒城に移す 倭国が伽耶の伴跛国に敗れる 都を弟国に移す
継体が越からむかえられ即位 この頃,日本列島に横穴式石室が普及する
時期不明であるが,雄略天皇(武)の葬送に際して,隼人が昼夜陵の側で哀号し,食事もせずに七日後には死ぬ
この頃の雄略天皇「ワカタケル」銘文入り鉄剣が九州と関東で出土
辛亥年銘鉄剣(埼玉県稲荷山古墳) 倭王武(雄略)が中国の南朝に使いを送る 古
墳
時
代
宋が興を倭国王に任命
中 5世紀中頃,畿内で横穴式石室の築造はじまる
期 倭,大伽耶攻撃 百済に敗退 済が宋に朝貢し,倭国王に任命さる
宋が珍を倭国王に任命
倭讃が宋に朝貢 424~倭の五王(讃・珍・済・興・武)の時代
倭国が東晋に貢物を献ずる 高句麗好太王の碑
5世紀前半,日本で須恵器が作られはじめる 5世紀前葉~中葉,古市古墳群,百舌鳥古墳群の形成
倭が百済と新羅を破るという 倭が高句麗に敗退する
4世紀後半,九州で横穴式石室の築造はじまる
泰(和)四年銘の七支刀(石上神社)
この頃,大和朝廷が日本を統一
前
期 ローマ帝国,ニケーアの公会議 インド,アジャンター石窟院
高句麗,楽浪郡を滅ぼす
(景行天皇,日本武尊,神功皇后などが熊襲を征討したとの記・紀の伝承あり)
元康元年銘神獣鏡
3世紀中頃,前方後円墳築造はじまる
この頃,卑弥呼死に,径100余歩の墓造る(『魏志倭人伝』)
邪馬台国の卑弥呼が,魏に使いを送る
ササン朝ペルシャ成立
ローマ帝国,カラカラ浴場完成 魏の建国
赤壁の戦い(孫権・劉備,曹操を大破)
奥
横 溝
辻
山
岡 下 萩 前
堂
横
古
古 古 原 畑
原
瀬
墳
墳 墳
神
嶺
飯
盛
鳥
山
農
越
業
古
開
墳 東
答 発
石 総
原
合
永
セ
ン
タ
山
ー
遺 外
川
中 跡
妻
江
群
津
山
・
野
元
楠
元
沢
目
辻
横
堂
不 瀬
原
動
寺
南
摺
ヶ
浜
・
橋
鹿 牟
児 礼
島 川
大
学
構
内
147~189頃 倭国大乱
この頃,静岡県登呂遺跡の集落ができる
後
期 この頃,中央アジア,クシャーナ朝カニシカ王即位 ガンダーラ美術盛ん
弥
生
時
代
南
丹
波
魚
見
ヶ
原
前500 ペルシャ戦争
前 前566頃,ゴウタマ=シッダールタ(釈迦)生まれる 前551 孔子生まれる
期 前612 アッシリア帝国滅亡
東
昌
ギリシャ・イソップ寓話
寺
前776 第1回オリンピア競技
早 前814頃 フェニキア人,植民都市カルタゴ建設
期 北部九州で本格的な水稲農耕の開始
晩
期 この頃,アーリア人ガンジス川流域に進出
- 3 -
東
田
鎮
守
ヶ
迫
高
付
京
田
番
所
後
新
番
所
後
岡
崎 上
唐 熊
仁 野
大
・
塚
広
塚 田
崎
古
墳
群
西
原
海
岸
・
ス
セ
ン
當
貝
塚
鳥 宇
之 宿
峯 湊
一
の
上
宮 成 寺
新
川 山 尾
田
ケ
原
北
麓
入 大
来 島
新
王莽,漢を滅ぼし新を建国
前4頃 キリスト誕生
中 前97 司馬遷『史記』の記述,この年まで
期 前108 楽浪郡ほか4郡の設置
前196頃 エジプト,ロゼッタ・ストーン建立
前221 秦の始皇帝,中国を統一
前272 ローマ,イタリア半島を統一
前330 ヘレニズム時代はじまる
縄
文
時
代
芝
原
・
松
木
薗
ローマ帝国の領土が最大になる
中国の蔡倫が紙を発明する 倭国王帥升ら後漢に生口160人を献上
ローマ帝国,五賢帝時代のはじまり
この頃,班固の『漢書』成る
イタリア,ヴェスヴィオス火山の噴火,ポンペイ埋没
ネロのキリスト教迫害
倭の奴国の王が後漢に使いを送る 「漢委奴国王」金印
光武帝,後漢を建国し,都を洛陽におく
小
牧 中
瀬 古 尾
ノ 墳
平
上
松
/
原
平
田 荒
園 立
小
野
堀
原
田
高 白
橋 寿 中
貝 ・ 町
塚 市 馬
ノ 場
原
下
下
原
柊
干
黒
河
迫
川
原
高 山 下
吉 ノ 剥
B 口 峯
長
永
浜
吉 吉
金
天 ヶ
久
神 崎
下 段
轟
木
阿
ヶ
迫
鶴
岳 サ
ウ
口
稲
チ
榎
輪
荷
木
野
迫
原
軍
上 原
中
段
片
野
榎
崎
年 表 (4/4)
年代
~2500年前
~2600年前
~2700年前
~2800年前
~2900年前
~3000年前
~3100年前
~3200年前
~3300年前
~3400年前
~3500年前
~3600年前
~3700年前
~3800年前
~3900年前
~4000年前
~4100年前
~4200年前
~4300年前
~4400年前
~4500年前
~4600年前
~4700年前
~4800年前
~4900年前
~5000年前
~5200年前
~5400年前
~5600年前
~5800年前
~6000年前
~6200年前
~6400年前
~6600年前
~6800年前
~7000年前
~7200年前
~7400年前
~7600年前
~7800年前
~8000年前
~8500年前
~9000年前
~9500年前
~10000年前
~10500年前
~11000年前
~11500年前
~12000年前
~13000年前
~14000年前
~15000年前
~16000年前
~17000年前
~18000年前
~19000年前
~20000年前
~21000年前
~22000年前
~23000年前
~24000年前
~25000年前
~26000年前
~27000年前
~28000年前
~29000年前
~30000年前
~31000年前
~32000年前
時代
弥
生
時
代
鹿児島
時期
出来事
東
前
前500ペルシャ戦争 前551孔子生まれる 前566頃,ゴウタマ=シッダールタ(釈迦)生まれる
昌
高橋式
期
寺
前612 アッシリア帝国滅亡 ギリシャ・イソップ寓話
早 刻目突帯文 前776 第1回オリンピア競技
期
前814頃 フェニキア人,植民都市カルタゴ建設
干河原タイプ 北部九州で本格的な水稲農耕の開始
晩
期 黒川式 この頃,アーリア人ガンジス川流域に進出
前1115 アッシリア帝国の形成
入佐式 この頃 甲骨文字 日本の集落は小規模になり,呪術や芸術は発達が停滞社会
フェニキア人,フェニキア文字(アルファベットに発展)発明
上加世田式 開聞岳・灰ゴラ噴出
ヒッタイト人,鉄器の使用 この頃 中国,殷王朝成立
若
ギリシャ,ミケーネ文明
中岳Ⅱ式
宮
メソポタミア,ハンムラビ法典
後
期
草
野
市来式
貝
塚
トロヤ第2市壊滅(シュリーマンの発掘) 中国,竜山文化 黒陶の使用
中
期
縄
文
時
代
インド,モヘンジョダロ ハラッパー
指宿式 開聞岳・黄ゴラ噴出(炭素年代4,000年前) 祭祀具が発達し,アク抜きや漁具が改良 山
ノ
岩﨑式 インダス文明おこる エジプト,クフ王のピラミッド
中
阿高式 霧島火山・御池ボラ噴出(炭素年代4,200年前)
春
並木式
日
ギリシャ,クレタ文明の前宮殿時代はじまる
町
春日式
深浦式
エジプト文明,メソポタミア文明おこる エジプト,神聖文字(ヒエログリフ)使用
集落規模,人口も増大し,土器も発達する
曽畑式 桜島・P5火山灰噴出(炭素年代4,900年前)
前
期
指宿 川辺 日置 川薩 出水 姶良 伊佐 曽於 肝付 熊毛 大島
高
南 橋 市
ノ
摺
ケ 下 原
浜 原
橋
牟
大
龍
上
水
流 市
仁
成
田
ノ
川
尾
原
仁
田
尾
奥
木
場
小
山
石
坂
上
後
期
水
迫
栫
ノ
原
仁
田
尾
鎌
上
野
原
建
昌
城
向
栫
城 床
跡 並
B
露
重 宮
ノ
上
上
場
小
牧
3
A
桜島・P15~P17火山灰噴出(炭素年代21,000年前)
最終氷期の最寒冷期
石刃技法・瀬戸内技法とナイフ形石器が盛行する
鬼界カルデラ?・種Ⅳ火山灰噴出 落とし穴群による狩猟中種子町大津保畑遺跡
局部磨製石斧,台形様石器が盛行する
- 4 -
轟
木
ヶ
迫
面
縄
貝
塚
中
一 甫
湊
松 高
山 又
上
平
城 塞 石
ヶ ノ 橋
尾 神 天
神
段
沖縄・港川人の出現(炭素年代18,000年前)
姶良カルデラ・入戸火砕流・シラス噴出(炭素年代24,500年前)
前
谷
岩
﨑
荘
貝
塚
前 小
原 牧 永 永
野
迫
平
ナイフ形石器とともに尖頭器が使われる
旧
石
器
時
代
宮
之
迫
大
花
里
西
之
薗
掃
除
氷河期が終わり,気候温暖化,新しい環境適応へ 土器・石鏃を使用 定住のはじまり 山
細石刃が日本列島全体に盛行する フランス,ラスコー洞窟
霧島火山・小林軽石噴出(炭素年代14,000年前)
宇
宿
貝
塚
藤
平 住
前 小 吉
田 田 貝
塚
瀬
桐 重
ノ
波 星 上
木 田
計 留 塚 日
神
別
志 貝
勝
野
加 塚
府
山
牧
里
南
田
代
中国,仰韶文化の開始 彩陶の使用 半坡遺跡 【黄河文明】
草
創
期
芝
原
江 中
内 原
貝
塚
鬼界カルデラ・アカホヤ(炭素年代6,400年前) 霧島火山・牛のすね(炭素年代6,500年前)
早
期
下
柊
迫
市 麦
田
来 之 出
大 中 貝
干 下
浦 水
渡 堀 塚
迫 鶴
貝 貝
塚 塚
池田湖・池田降下軽石噴出(炭素年代5,600年前)
苦浜式 中国,浙江省河姆渡文化(水田稲作 家畜)
塞ノ神式
平栫式 米丸マール・米丸スコリア噴出(炭素年代7,300年前)
手向山式 桜島・P11火山灰噴出(炭素年代7,500年前)
下剥峯式 中国,湖南省彭頭山遺跡(稲の出現)
石坂式
倉園B式 貝塚が形成され,集団墓地をもつ集落が成立する
吉田式 桜島・P13火山灰噴出(炭素年代9,400年前)
前平式
岩本式
桜島・薩摩火山灰(P14)噴出(炭素年代11,400年前)
隆帯文土器
下
鶴 上 軍
中
原
段
一
陣
片
長
黒 成
榎
妻
野
川 岡
崎 崎
山
鼻
元 下 入
大
殿 佐
坪
瀬
上
ノ
水
上
加
天
中
世
向 中
岳
田
里
轟式
小山タイプ 早期末から前期初頭に温暖化,南九州以外では,大規模集落を形成し,定住確立
大
島
帖
地
横
鐘 峯
付
常
前 牧
畑
下
剥
倉
園
B 益 日
畑
守
定
塚 ホ 園
東
黒
土
田
ケ
田
伊
敷
三
角
山
西
桐 丸
木 尾
耳
取
喜
志
川
前
山
上
場
立
切 天
城
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
薩摩焼と輸入された陶磁器
- 鎌倉時代から江戸時代 -
関
明恵
はじ め に
鹿 児 島 に は , 江 戸 時 代 のは じ め に 生 ま れ , 今 日ま で そ の 火 を 絶 や す こ とな く 続 く「 薩 摩
焼」 と 呼 ば れ る 伝 統 的 な 焼き も の が あ る 。 粘 土 で形 を 作 り 釉 薬 を か け て 焼く 技 術 は, 海 を
渡り 朝 鮮 半 島 か ら 伝 え ら れた 。 そ し て 幕 末 , 薩 摩焼 の 技 術 は , 日 本 の 近 代化 を 目 指し 進 め
られ た 集 成 館 事 業 の 一 部 を支 え る こ と と な る 。 しか し , そ れ 以 前 の 薩 摩 焼の 技 術 がな か っ
た時 代 に は , 先 進 地 の 中 国な ど か ら 陶 磁 器 を 輸 入し て い た 。 本 稿 で は , 埋蔵 文 化 財セ ン タ
ーが 2 0 年 間 に 行 っ た 発 掘調 査 ・ 報 告 の 中 か ら ,薩 摩 焼 と 輸 入 さ れ た 陶 磁器 に つ いて 関 連
する遺跡の成果,また新たにわかってきた発見を紹介したい。
1 日 本の 近 代化 は 薩摩 か らは じ まっ た
(1)島 津斉 彬 の集 成 館事 業
「日本の近代化は薩摩からはじまった」といっても過言では
なく,江戸時代,薩摩藩は琉球(沖縄)を通じ,中国をはじめ
とする海外とつながり,そのため幕末の欧米列強の動きをいち
早 く 知 る こ と が で き た 。 そ う し た 中 , 11代 藩 主 ・ 島 津 斉 彬 は 欧
米列強に対抗するためには,軍備を整え国力を強くし産業を興
し豊かな国にする(富国強兵・殖産興業)必要があると考え,
海外の進んだ技術を取り入れ,日本の近代化の一環となる集成
館事業を始めた。それは,単に海外の技術をそのまま取り入れ
るのではなく,薩摩にある様々な優れた伝統的技術も活用して
進められた。例えば,反射炉には耐火煉瓦や石組みが使用され
ており,これは薩摩焼や西田橋をはじめとする薩摩のものづく
りの 技 術が 生 かさ れ てい た 。
写 真 1 鹿児 島紡 績 所跡 検出 遺構
(2)近 代化 産 業遺 産 群の 調 査成 果
鹿児島における近代化産業遺産群の調査は,世界遺産登録推進事
業 と し て 平 成 2 4 年 度 に , 鹿 児 島 紡 績 所 跡 ( 鹿 児 島 市 吉 野 町 ),
祇園 之 洲砲 台 跡( 鹿 児島 市 清水 町),天保 山砲 台 跡( 鹿 児 島市 天 保山 )
の発 掘 調査 が 行わ れ た。
鹿児島紡績所は島津斉彬斉の遺志を受け継いだ島津忠義によって
建 設 さ れ , 1867年 ( 慶 応 3 ) に 操 業 を 開 始 し た 日 本 初 の 洋 式 紡 績 工
場である。遙か海を越えたイギリスから技師を招き,その技術を習
得した。発掘調査では,鹿児島紡績所と思われる建物の基礎部が発
写真 2 祇 園之 洲砲 台跡
見された。これにより紡績所の実際の位置をほぼ特定することがで
改 修が 分か る石 垣
きた 。( 写真 1)
また,イギリス人技師らの宿舎であった異人館も,
鹿児島市教育委員会により発掘調査が行われた。この
建物は,日本の技術によってつくられた当時としては
珍しい洋風建築である。2度にわたる調査で,異人館
の最初に建てられた場所を特定する上で重要な手がか
りと な る建 物 の基 礎 が発 見 され ,建 築当 時 の異 人 館は ,
現在地よりも南東方向に位置していたことが明らかに
なっ た 。
祇園之洲砲台跡は,島津斉興が稲荷川河口を埋め立
て て 藩 兵 の 訓 練 所 と し た 場 所 に , 斉 彬 が 1853年 ( 嘉 永
写真3 祇園之洲砲台跡
6)に築造した。薩英戦争時では激戦地となり,イギ
砲座の沈下防止のた めの敷石
ぼ
ぎ
お
ん
の
す
ほ
う
だ
い
あ
と
う
て
せ
ん
き
ぽ
し
ざ
よ
ん
あ
ほ
と
う
だ
い
-5-
あ
と
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
リスの最新式大砲威力で,壊滅的な打撃を受けた場所
である。発掘調査では,戦闘の激しさを物語る石垣や
砲座が置かれていた場所の硬化面,薩英戦争前と後の
石垣 や 土塁 等 が見 つ かっ た。(写 真2 ・ 3)
天保山砲台跡は,斉興が甲突川河口に川底の土砂で
埋立地をつくり築造した砲台で,薩英戦争はこの砲台
からの砲撃で火ぶたが切られたと言われている。発掘
調査では,砲座部分の石組や半円形に敷かれた轍の残
る敷石の軌条が発見された。また,甲突川に向かって
下る 石 畳( 荷 揚場 ) も見 つ かっ た。(写 真4 ・ 5)
幕末における近代化産業遺産群は,現在,世界遺産
登録に向けて鹿児島をはじめ九州・山口共同で推進事
業を 行 って い る。
わだち
き じ よ う
写真4 天保山砲台跡
砲座
2 薩 摩焼
(1) 薩 摩焼 の ルー ツ
薩摩焼の始まりは,韓国と日本の間に起こった不幸
な歴 史 から は じま る。1592~1598年( 文 禄元 ~ 慶長 3),
豊 臣 秀 吉 は ,「 焼 き も の 戦 争 」 と も 呼 ば れ た 文 禄 ・ 慶 写真5 天保山砲台跡 海へ続く石畳
長の役を起こし朝鮮半島に出兵する。千利休により大
成さ れ た 茶 道 が , こ の 時 期政 治 的 に 重 要 な 役 割 を果 た す よ う に な り 茶 道 具も 珍 重 され た 。
瀬戸 ・ 美 濃 地 方 で は , 平 安時 代 末 か ら ガ ラ ス 質 の釉 の か か っ た 焼 き も の が生 産 さ れて い た
が, 九 州 地 方 に は そ の 技 術が な く , 多 く の 武 将 らが 朝 鮮 半 島 に 侵 攻 し た 際, 朝 鮮 陶工 を 連
れ 帰 り , 領 地 で 茶 碗 な ど 焼 き も の を 焼 か せ た 。 唐 津 焼 ( 佐 賀 県 ), 上 野 焼 ・ 高 取 焼 ( 福 岡
県 ), 萩 焼 ( 山 口 県 ) な ど が そ れ に あ た る 。 薩 摩 で も 島 津 義 弘 に 連 行 さ れ た 朝 鮮 陶 工 に よ
り薩 摩 焼が 始 まる 。
(2) 堂平窯跡の調査成果
薩 摩 焼 の ル ー ツ が 朝 鮮 半島 に あ る こ と は , 古 くか ら の 文 献 や 伝 承 か ら わか っ て いた が ,
この こ とを 考 古学 的 に証 明 した 遺 跡が 「 堂平 窯 跡」 で ある 。
薩 摩 に 連 行 さ れ た 朝 鮮 陶工 ら に よ っ て 最 も 早 く築 か れ た 窯 は , 串 木 野 窯( い ち き串 木 野
市下 名 ) と い わ れ て い る 。昭 和 16年 に 発 掘 調 査 が 行 わ れ, ゆ る や か な 斜 面 に築 か れた 単 室
の登 窯 が 1 基 と , 失 敗 し た製 品 を 捨 て た 場 所 で ある 「 物 原 」 が 見 つ か り ,壷 ・ 甕 等の 陶 器
が出 土 し た 。 そ の 後 , 陶 工集 団 は 日 置 市 東 市 来 町美 山 に 移 り , 美 山 小 学 校の 付 近 に「 元 屋
敷窯 」 を 開 い た と 伝 え ら れて い る が , こ の 窯 の 正確 な 位 置 や 窯 体 は 分 か って い な い。 次 に
開か れ た窯 が,「堂 平窯 」 と言 わ れて い る。
こ の 窯 跡 の 発 掘 調 査 は ,平 成 10年 度 に 南 九 州 西 回 り 自動 車 道 建 設 に 伴 い 行わ れ た。 そ の
結果 , 伝 承 地 か ら 窯 跡 が 1基 発 見 さ れ た 。 見 つ かっ た 窯 跡 は ゆ る や か な 山の 斜 面 を利 用 し
た 単 室 の 登 窯 で , 斜 角 約 17度 , 検 出 全 長
31.2m , 窯 幅 1.2~ 1.4m を 測 り , 天 井 部
分は崩落していたが,残っていた側壁の
状況から,高さは1m弱程度であったと
考えられる。細長い蛇の形状に似ている
ため「蛇窯」とも呼ばれる。このような
窯 構 造 は , 串 木 野 窯 や 16世 紀 代 の 韓 国 の
登り窯にもみられ,朝鮮系の築窯技術が
導 入 さ れ て い る こ と が 判 明 し た 。( 第 1
図 , 写真 1 2)
窯の周辺や少し離れた斜面からは物原
が確認され,徳利・片口・擂鉢・甕・壷
第1図 堂平窯跡実測図
等のいわゆる「黒もの」と呼ばれる日用
ど
び
ら
が
ま
あ
と
も の は ら
か め
ち く よ う
と つ く り
-6-
か た ぐ ち
す り ば ち
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
雑器が大量に見つかった。特に窯跡近くから
は , 堂 平 窯 跡 の な か で も 古 い 時 期 ( 17世 紀 前
半 )と 考 え ら れ る 陶 片 が 発 見 さ れ た 。( 写 真 1
3)それらは作りが薄く,形がシャープであ
るという特徴をもち,粘土紐を巻き上げた後
タタキ成形で仕上げられ,内面には同心円状
のあ て 具痕 が 残る も ので あ った 。
( 写 真 14 )
同 様 の 特 徴 は , 串 木 野 窯 跡 の 陶 片 や 16世 紀 代
の韓国の陶器にもみられ,製陶技術において
も朝鮮系の技術が導入されていることがわか
った。さらに,ロクロ引きで碗や皿を作る技
術(紗器匠)と,粘土紐を巻き上げてタタキ
成形で甕壷をつくる技術(甕器匠)のある朝
鮮陶工集団の中で,薩摩焼のルーツとなる陶
工集 団 は甕 匠 であ る こと も 解明 さ れた 。
一方,窯から少し離れた物原からは,新し
い 時 期 ( 17世 紀 後 半 ) と 考 え ら れ る 陶 片 が 見
つかった。これらは厚くシャープさに欠ける
つくりで,タタキ成形による痕跡もナデ消す
な ど , 古 い 時 期 ( 17世 紀 前 半 ) の 陶 片 に は み
られない技術が見られ,これらの特徴は近代
の苗代川焼と共通する要素があることがわか
った 。ま た 白薩 摩 や贈 答 用の 高 級な 焼 きも の ,
鶴丸城の瓦など,地域の需要に答えるために 第 2 図 「 南 日 本 新聞 」よ り
作っ た 特別 な 製品 も 出土 し てい る 。
こ の よ う に 堂 平 窯 で は ,は じ め 朝 鮮 半 島 の 技 術で 陶 器 が つ く ら れ る が ,そ の 後 ,薩 摩 藩
内外 の 他 窯 と の 技 術 交 流 や需 要 に 応 じ て 変 化 し ,ま た 世 代 交 代 等 も 進 み ,次 第 に 朝鮮 的 な
特徴 を 消失 し て薩 摩 焼に 変 化し て いく 過 程が み られ る ので あ る。( 写真 6 )
堂 平 窯 跡 出 土 の 遺 物 は ,先 進 的 な 製 陶 技 術 が 海を 渡 り 日 本 に 導 入 さ れ ,そ れ が 日本 の 需
要や 経 年 変 化 な ど , 様 々 な要 因 か ら 次 第 に 変 容 し, 南 九 州 に 根 ざ し た 窯 業に 成 長 する 過 程
を 知 る こ と の で き る 貴 重 な 資 料 で あ る こ と か ら , 平 成 23年 に 県 文 化 財 に 指 定 さ れ た 。( 第
2図 ) 現在 , 窯跡 は 美山 の 陶遊 館 に隣 接 する 公 園に 移 設保 存 され て いる 。
(3) 火山 の 恵み
南九州は火山資源に恵まれた地域であり,その恩恵は自然景観や温泉など,現在もそこに生活
する人々や観光資源として生かされている。また,火山活動から生み出されたカオリンと呼ばれ
る白粘土等は,薩摩焼の原料として用いられており,薩摩焼の里である苗代川(日置市東市来町)
には,朝鮮陶工である朴平意が指宿や山川,加世田,鹿児島で白粘土やカオリンを発見する伝承
が残っている。上質な焼きものの原料として白粘土が発見され供給できたため薩摩焼は根付き発
展したのであり,これも火山の恩恵なのである。
一方,大隅半島の鹿屋市笠之原には,18世紀の初めに藩の命令により苗代川から陶工等が移住
させられ笠野原窯が開かれるが,その後は発展せず途絶えている。これは大隅地方には現在も温
17世紀前半
17世紀中頃
写真6
17世紀後半
時 期 に よ る 製 品 の変 化
-7-
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
泉が少ないように,火山活動によって生み出される焼きものに適した粘土が豊富になかったこと
も原因のひとつとして考えられる。薩摩焼をはじめ唐津焼,上野・高取焼,萩焼などは,その地
域に火山の恵みである良質な陶石や粘土が存在したことから,伝統的な焼きものの産地として現
在もその名を残しているといえる。
良質な陶石と粘土により発展した薩摩焼は,18世紀後半以降,薩摩藩内で大量に流通するよう
になる。特に鹿児島城下の遺跡である「鹿児島城跡(鶴丸城)本丸・二の丸」,その近隣の「垂水
・宮之城島津家屋敷跡」,「浜町遺跡」,「寿国寺跡」からは,「黒薩摩」や「黒もの」と呼ばれる甕
や壺,徳利,擂鉢,土瓶等の日用品が大量に発見されている。これらは藩主や上級武士たちが直
接使用するものではないが,調理用具や貯蔵用具として屋敷内で使用されていた。また藩主や上
級武士,また社会的階層の高い人々が直接使用した「白薩摩」や「白もの」と呼ばれる茶碗や皿
も数多く発見された。これらの焼きものは社会的身分が高いほど上質の製品を数多く使用してお
り,遺跡から発見される白薩摩の種類や数量により,その遺跡で生活していた人がどれくらいの
社会的階層の人であったかなどを推測する手がかりとなる。
は ま ま ち
じ
ゆ
こ
く
じ
あ と
3 輸 入さ れ た陶 磁 器
(1) 海外 交 易の 拠 点
薩摩焼が大量に流通していた時代においても,海外の珍
しい陶磁器は輸入されており,垂水・宮之城島津家屋敷跡
からは,イギリスのドーソン窯製の硬質陶器皿が出土して
い る 。( 写 真 7 ) 19世 紀 頃 の も の で ,「 ザ ・ サ プ ラ イ ズ 」 と
呼ば れ る図 柄 パタ ー ンは コ バル ト を用 い たプ リ ント で ある 。
高台内にはインプレスド・マークとプリンティッド・マー
クが施されている。このようなヨーロッパ製陶器の発見例
写真7 イギリスのドーソン窯
は県内でも3例しかなく非常に珍しいが,薩摩焼をつくる
製の硬質陶器皿
技術が伝わる以前は,どのような焼きものが普及していた
ので あ ろ う か 。 鎌 倉 時 代 から 室 町 時 代 に は , 古 墳時 代 に 朝 鮮 半 島 か ら 伝 わっ た 須 恵器 の 流
れ を 継 ぐ 「 中 世 六 古 窯 」( 愛 知 県 の 瀬 戸 焼 ・ 常 滑 焼 , 福 井 県 の 越 前 焼 , 滋 賀 県 の 信 楽 焼 ,
兵庫 県 の 丹 波 焼 , 岡 山 県 の備 前 焼 ) の 製 品 が , すで に 生 産 さ れ て い た 。 常滑 焼 の 大甕 や 備
前焼 の 擂 鉢 な ど は 広 域 に 流通 し て お り , 薩 摩 で も室 町 時 代 以 降 の 遺 跡 か ら多 く 見 つか っ て
いる 。 し か し , 焼 き も の の先 進 地 で る 中 国 に は ,青 磁 や 白 磁 , 青 白 磁 , 青花 等 の 釉薬 の か
かった美しい陶磁器があり,当時の権力者はそれらを
輸入 し て大 き な利 益 を得 て いた 。
九州は大陸と近い位置にあることから,古くから中
国や朝鮮半島との交流が盛んで,奈良時代の8世紀の
文 献 『 続 日 本 記 』 に は ,「 博 多 」 と い う 地 名 も 登 場 し
ている。博多は平安時代末には,平清盛が日宋貿易の
玄関口として活用し,その後も明との勘合貿易で繁栄
する 。
南 薩 摩 は ,「 博 多 」( 福 岡 県 ),「 安 濃 津 」( 三 重 県 )
と並んで日本三津の一つとされる「坊津」があり,古
くから交通の要所としての役割を果たしている。坊津
は日宋貿易や日明貿易の交易ルート上に位置し,寄港
地・中継地として薩摩の海外交易の拠点となってい
る。
ち ゆ う せ い ろ く こ よ う
た
ん
ば
や
き
せ
び
ぜ
ん
や
と
や
き
と こ な め や き
え ち ぜ ん や き
し が ら き や き
き
せ
あ
の
も つ た い ま つ
か
み
づ
か
ゆ う や く
つ
(2) 万之 瀬 川下 流 域の 遺 跡群 の 調査 成 果
万之瀬川(写真8)は薩摩半島の南西部を流れる川
で , 平 成 11~ 16年 に か け て 中 小 河 川 改 修 事 業 に 伴 い ,
そ の 下 流 域 に 所 在 し た 「 持 躰 松 遺 跡 」,「 渡 畑 遺 跡 」,
「 芝 原 遺 跡 」,「 上 水 流 遺 跡 」 の 4 遺 跡 の 発 掘 調 査 が 行
われ た 。
し ば は ら
い
わ た り ば た
る
-8-
写真8
万之瀬川中流
芝原遺跡
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
「持躰松遺跡」は最初に調査が行われた
遺跡で,平安時代末から鎌倉時代の中国産
陶磁器をはじめとする多くの輸入陶磁器や
国 産 の 陶 磁 器 が 発 見 さ れ ( 写 真 1 5 ), マ
スコミでも大きく報道された。当時は遺跡
の性格を坊津と同様の「中国貿易の拠点」
として捉え,考古学の分野だけでなく文献
史の分野からも注目を集めた。このような
写真 9 輸 入陶 磁器 (渡 畑遺 跡)
同左
見解は,その後,渡畑遺跡や芝原遺跡から
も大量の輸入陶磁器が見つかり,さらに確
証を 得 るこ と にな る 。
「渡畑遺跡」では,溝状遺構から青磁椀
2枚,青白磁椀3枚,青磁皿1枚が伏せら
れ た 状 態 で 発 見 さ れ ( 写 真 9 ), 縄 紐 等 で
6枚重ねで結んで荷造りしてあったと考え
写真11 ポルトガル
ら れ て い る 。 ま た , ポ ル ト ガ ル 王 家 の 紋 章 写真10 博多と同類の中国瓦
王家の紋章が
が上下逆さまに描かれた中国産青花の碗も
(渡畑遺跡)
えがかれた破片
見 つ か っ て お り ( 写 真 1 1 ), こ れ ら は 当
時の 交 易 を 考 え る 上 で 興 味深 い 資 料 で あ る 。 こ の他 に も , 芝 原 遺 跡 と 隣 接す る 地 域で は ,
3間 × 3 間 の 総 柱 建 物 跡 の周 辺 か ら , 中 国 産 の 瓦が 多 く 見 つ か っ た 。 平 安末 か ら 鎌倉 時 代
初め 頃 の 中 国 産 の 瓦 は , 今の と こ ろ , 福 岡 県 の 博多 と 箱 崎 , そ し て 渡 畑 ・芝 原 遺 跡で し か
発見 さ れて お らず , 日宋 貿 易と の 関連 を 示す 重 要な 発 見で あ る。
「 芝 原 遺 跡 」( 写 真 8 ) か ら は , 膨 大 な 数 の 建 物 の 柱 跡 が 確 認 さ れ , 少 な く と も 3 3 基
の掘 立 柱 建 物 跡 が 見 つ か って い る 。 こ の 建 物 群 と柱 穴 の 数 は , 万 之 瀬 川 下流 域 の 4遺 跡 の
中で は 群 を 抜 い て お り , 芝原 遺 跡 が 万 之 瀬 川 下 流域 の な か で 中 心 的 な 役 割を 果 た した 遺 跡
であ る こ と を 物 語 っ て い る。 ま た , 海 外 貿 易 の 拠点 で あ る 博 多 や そ の 消 費地 で あ る太 宰 府
と 同 じ 種 類 の 中 国 産 輸 入 陶 磁 器 が 見 つ か っ て お り ( 写 真 1 6 ), そ の 特 徴 は 規 模 こ そ 違 え
ども 「 ミ ニ 博 多 」 と も い える 様 相 で あ る 。 さ ら に, 国 内 産 の 焼 き も の で も流 通 量 の少 な い
畿内 産 瓦 器 椀 や 瀬 戸 産 瓶 子, 広 域 に 流 通 す る 以 前の 古 い 時 期 の 常 滑 産 大 甕や 備 前 産擂 鉢 な
ども 出 土し て おり ,東 海や 近 畿地 方 から も 珍し い 焼き も のが こ の地 域 に運 び 込ま れ てい た。
「 上 水 流 遺 跡 」 は , 4 遺跡 の な か で 一 番 上 流 にあ た る 遺 跡 で , 主 に 室 町時 代 か ら江 戸 時
代初 頭 に か け て の 陶 磁 器 が大 量 に 見 つ か っ た 。 芝原 遺 跡 に お い て は , こ の時 期 の 遺物 が 少
なく な って く るた め ,遺 跡 の中 心 地が 上 流側 へ 移っ て いっ た こと が 窺え る 。
万 之 瀬 川 下 流 域 付 近 に 残 る 「 当 房 ( 唐 坊 )」・「 唐 仁 原 」 と い っ た 中 国 人 商 人 の 存 在 を 窺
わせ る 地 名 の 問 題 や , 阿 多忠 景 な ど 12世 紀 後 半 ( 平 安 時代 末 期 ) に こ の 地 域を 治 めた 有 力
な在 地 領 主 の 関 わ り な ど ,考 古 学 だ け で は 解 決 でき な い 様 々 な 問 題 点 は 残る も の の, 万 之
瀬川 下 流 域 に は 大 規 模 な 海外 交 易 の 拠 点 が 存 在 した こ と は , 発 掘 調 査 で 発見 さ れ た遺 構 や
輸入 陶 磁 器 が 示 し て い る 。今 後 は こ れ ら の 新 し い調 査 成 果 を 元 に 研 究 を 深化 さ せ ,南 九 州
の中 世 史を 再 検討 し てい く 必要 が あろ う 。
み ぞ じ よ う い こ う
ほ つ た て ば し ら た て も の あ と
が
き
わ
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し
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ぼ
う
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うかが
おわ り に
以 上 , 埋 蔵 文 化 財 セ ン タ ー が 2 0 年 間 に 行 っ た 発 掘 調 査 ・ 報 告 の 中 か ら ,「 薩 摩 焼 と 輸
入さ れ た 陶 磁 器 」 に つ い て述 べ た 。 先 進 的 な 焼 きも の の 技 術 が 海 を 渡 り 朝鮮 半 島 から も た
らさ れ , 火 山 の 恵 み で あ る粘 土 を 用 い て 、 現 在 まで 連 綿 と 受 け 伝 え ら れ てい た 薩 摩焼 が 誕
生し た 。 薩 摩 藩 の 産 業 に も深 く 寄 与 し , 薩 摩 焼 の技 術 は 近 代 国 家 建 設 に も関 わ っ てい る 。
また , 薩 摩 焼 の 技 術 が な かっ た 時 代 に は , 中 国 など か ら 海 を 渡 り 優 れ た 陶磁 器 を 輸入 し て
い る 。 海 外 に 開 け た 鹿 児 島 の 地 形 を 活 用 し て ,い つ の 時 代 に お い て も , 海 を 越 え て 様 々 な
人の 交 易が あ り, 技 術や も の( 文 化)・ 情報 が 交錯 し て時 代 が築 か れて い る。
-9-
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
写真12
堂平窯跡
写真13
写真14
写真15
堂平窯跡
出土遺物
内面に残るあて具痕
輸入陶器器(持体松遺跡)
写真16
- 10 -
輸入陶磁器と国産陶器(芝原遺跡)
第Ⅰ章
境界に位置した南九州
飛鳥時代から平安時代
-
遺跡が語る鹿児島の歴史
-
東
和幸
はじ め に
鎌 倉 時 代 か ら 江 戸 時 代 まで は 武 士 を 中 心 と し た世 の 中 で あ っ た が , 飛 鳥時 代 か ら平 安 時
代は 天 皇お よ び貴 族 が政 権 を担 っ た時 代 であ る。平清 盛 を棟 梁 とす る 平家 の 栄華 と 滅亡 が,
ちょ う ど そ の 転 換 期 と な った 。 中 世 以 降 は 文 献 史料 に よ っ て 各 地 域 の 歴 史を 振 り 返る こ と
がで き た が , 古 代 ま で さ かの ぼ る と 文 献 史 料 が 限ら れ て お り , 考 古 資 料 との 相 互 活用 を は
かり な がら 歴 史を 復 元し な けれ ば なら な い。
こ こ 20 年 で , 本 県 に お け る 古 代 の 遺 物 に よ る 編 年 研 究 が 進 展 し , 1 世 紀 ご と の 遺 跡 の
様相 が 明 ら か に な る こ と によ っ て , 南 島 を 含 め 文献 史 料 と の 比 較 研 究 も 活発 化 し た。 両 者
の成 果 をと り 入れ な がら , 本県 に おけ る 古代 の 様相 を 概観 し てみ た い。
1 平 安時 代 後期 ( 11世 紀 ・12世 紀)
(1 ) 村落 周 辺の 風 景
海 に 開け た 鹿児 島 には ,11 世 紀 から 12 世 紀 にか け ての 陶 磁器 類 も中 国 から 多 く運 ば れ,
各地 域 の 遺 跡 で 出 土 し て いる 。 貿 易 が で き る ほ どの 有 力 な 人 物 が , 各 地 域に 存 在 して い た
こと が 理解 で きる 。こ れ らの 有 力者 は,伊 佐市 新 平田 遺 跡や 鹿 屋市 輝 北町 の 新田 遺 跡な ど,
鎌 倉 時 代 以 降 に 継 続 す る 例 が 多 く , 遺 構 が 重 複 し て い る た め 11, 12 世 紀 の 様 相 を 分 離 し
て み る こ と は 難 し い 。 そ の 中 に あ っ て , 平 成 11・ 12 年 度 に 九 州 新 幹 線 建 設 に 伴 っ て 発 掘
調査 し た出 水 市大 坪 遺跡 で は 11 世 紀 後半 の 一集 落 の様 相 を知 る こと が でき る 。
大 坪 遺跡 で は9 棟 の掘 立 柱建 物 跡が ,ほ とん ど 位置 を 変え ず に重 複 しな が ら検 出 され た。
最も 大 き な の が 4 面 に 庇 をも つ 2 間 × 3 間 の 建 物で あ り , そ の 周 り に 3 棟の 建 物 が配 さ れ
て い る 。 母 屋 の 柱 穴 の 直 径 が 25 ㎝ と そ れ ほ ど 大 き く な く , 溝 や 柵 で 囲 ま れ た 宅 地 で は な
いの で , 中 堅 ク ラ ス の 有 力者 で あ る と 考 え ら れ る。 興 味 深 い の は 建 物 の 方向 が ち ょう ど 東
西南 北 に 合 い , こ れ を 基 準と し た こ と が わ か る 。ま た , 平 野 部 に は 溝 状 とな っ た 道跡 が 続
き , こ れ も 東 西 南 北 軸 と な り 条 里 型 地 割 が 存 在 し た こ と が わ か る 。 少 な く と も , 11 世 紀
代に は 荘 園 と し て 開 発 さ れた 可 能 性 を も つ 地 域 であ る 。 武 士 の お こ り は ,荘 園 を まも る た
めと さ れ て い る の で , 南 九州 で も こ の 時 期 の 防 御的 な 集 落 が み つ か る 可 能性 が あ る。 道 跡
と考 え ら れ る 溝 状 遺 構 内 に残 る 連 続 し た 窪 み は 波板 状 凹 凸 面 と 呼 ば れ る もの で , 枕木 説 や
道路 工 事 基 礎 説 な ど い ろ いろ な 説 が あ る 。 筆 者 は現 在 の 牧 場 で も 同 様 な 連続 し た 窪み が み
られ る こ と か ら , 背 中 に 荷物 を 載 せ た 牛 や 馬 が ぬか る み を 歩 い た 時 に つ けた 痕 跡 と考 え て
いる 。
文 献 史 料 で は , こ の 時 期に 万 之 瀬 川 下 流 域 の 阿多 忠 景 , 万 之 瀬 川 上 流 の河 邊 氏 など , 有
力な 人 物 が 現 れ る こ と か ら, 遺 構 や 遺 物 な ど か らも 追 究 し て い く と 地 域 の見 直 し にも つ な
がる と 考え る 。大 宰 大監 で あっ た 平季 基 が, 島 津荘 を 開く の も 11 世 紀 であ る 。
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お
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り
(2 ) 寺社 と の関 わ り
土 地 の 開 発 に は 有 力 者 と寺 院 と の 関 わ り が 強 いこ と が 言 わ れ て い る 。 文献 史 料 にみ ら れ
る 式 内 社 に は , 鹿 児 島 神 社 ( 霧 島 市 隼 人 町 )・ 大 穴 持 神 社 ( 霧 島 市 国 分 )・ 宮 浦 神 社 ( 霧
島市 福 山町 )・ 韓国 宇豆 峯 神社( 霧島 市 国分 )・ 益救 神 社( 屋 久島 町)・枚 聞神 社( 指 宿 市)
・加 紫 久利 神 社( 出 水市 )・ 多布 施神 社 (南 さ つま 市 金峰 町)・志 奈 尾神 社 (薩 摩 川内 市 )
・ 白 羽 火 雷 神 社 ( 薩 摩 川 内 市 )・ 智 賀 尾 神 社 ( 鹿 児 島 市 郡 山 町 )・ 伊 爾 色 神 社 ( 鹿 児 島 市
伊敷 町 ) が あ る 。 ま た , 霧島 市 鹿 児 島 神 宮 正 八 幡宮 や 薩 摩 川 内 市 新 田 八 幡神 社 な ど, 八 幡
系の 神 社 が 勢 力 を 伸 ば す のも こ の 時 期 で あ る 。 さら に , 霧 島 市 国 分 の 台 明寺 や 南 さつ ま 市
金峰 町 の 観 音 寺 な ど も , 古代 ま で 遡 る 寺 院 と し て知 ら れ て い る 。 大 隅 国 分寺 跡 の 石塔 や 霧
島 市 隼 人 町 の 正 国 寺 跡 出 土 の 石 仏 2 体 に は , 康 治 元 ( 1142) 年 銘 が 刻 ま れ て い る 。 神 社 や
寺院 は 現 在 地 に 移 転 し て いる 場 合 も 多 く , 以 前 あっ た 場 所 を 調 査 す る こ とに よ っ て当 時 の
規模 や 構 造 を 明 ら か に す ると と も に , 地 域 の 核 とな っ た と 考 え ら れ る こ とか ら 周 辺遺 跡 と
お
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- 11 -
し
き
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
の関 わ りを 追 究す る 必要 が ある 。
平 安 時 代 の 終 わ り に は , 神 仏 混 合 が 広 が り 1052 年 か ら の 末 法 到 来 が 近 づ く 末 法 思 想 も
浸 透 す る 。 57 億 年 後 の た め の タ イ ム カ プ セ ル と し て 埋 納 し た 曽 於 市 大 隅 町 月 野 の 銅 製 経
筒 に は , 長 治 2 ( 1105) 年 の 銘 が 入 っ て お り ,「 京 塚 」 や 「 京 ノ 峯 」 な ど の 地 名 に も 注 意
し た い 。 山 岳 修 験 信 仰 と し て は , 950 年 ご ろ 性 空 上 人 が 霧 島 山 に 入 っ た 記 録 が あ る ほ か ,
金峰 山 や 冠 岳 な ど 多 く あ り, 神 道 や 仏 教 ば か り でな く 南 九 州 の 修 験 道 を 追究 す る 必要 が あ
る。
(3 ) 南島 の よう す
一 方 , 南 島 に 目 を 向 け る と , 11 世 紀 に な る と 徳 之 島 に カ ム ィ ヤ キ 古 窯 群 が 開 か れ , 北
は出 水 市 , 南 は 沖 縄 県 波 照間 島 ま で 幅 広 く 流 通 して い る 。 ま た , 長 崎 県 西彼 杵 半 島産 の 滑
石製 石 鍋 が 南 島 で も 使 わ れて お り , 海 を 介 し た 交易 の 活 発 化 が 窺 え る 。 喜界 島 の 城久 遺 跡
群 で は , 15 世 紀 か ら 8 世 紀 後 半 に 遡 る 陶 磁 器 や 大 宰 府 系 の 遺 物 な ど が 出 土 し て い る こ と
から , 南島 経 営の 拠 点と な って い たと 言 われ て いる 。 その 中 で, 12 世紀 か ら 11 世 紀 後 半
が最 盛 期 と な る が , 文 献 上は 化 外 の 時 期 で あ っ たと さ れ , 自 力 で の 生 活 力が 高 ま った こ と
と合 わ せ , 摂 関 政 治 の 衰 退と も 絡 み , 興 味 を 覚 える 。
こ
よ
う
ぐ
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く
2 平 安時 代 前期 ( 9世 紀 ・10世 紀)
(1 ) 文字 と 遺跡
11 世 紀 の 遺 跡 は 普 遍 的 に 認 め ら れ る が , 10 世 紀 後 半 の 遺 跡 は 減 少 し て お り , 要 因 を 追
究 す る こ と が 課 題 で あ る 。 10 世 紀 半 ば か ら 9 世 紀 前 半 に か け て は , 安 定 し た 数 の 遺 跡 が
みら れ , 暮 ら し や す い 環 境に あ っ た よ う で あ る 。た だ し , 火 山 活 動 は 活 発だ っ た よう で ,
霧 島 の 北 側 で は 宮 杉 火 山 灰 と 高 原 ス コ リ ア の 下 に , 10 世 紀 前 半 に 位 置 付 け ら れ る 土 師 器
が出 土 して い る。 885 年 と 874 年 に は開 聞 岳が 紫 ゴ ラを 噴 出し , 遺跡 の 状況 と 『日 本 三大
実録 』 にあ る 記述 が 一致 し てい る 。余 談 では あ るが , 開聞 岳 が 200 年 ぶ り に大 噴 火し た 貞
観 16( 874)年 よ り 5年 前 には ,東 北 地方 で 大地 震 が起 こ り津 波 の被 害 も大 き かっ た ので ,
現在も各火山の噴火活動には充分備えを
しておき,被害を最小限に食い止めたい
もの で ある 。
文 献 史料 の 少な い 時期 で ある が,現在 ,
鹿児島県内で出土している墨書土器や刻
書土 器 は,2,000 点 を 超え て 出土 し てい る。
平 成 12 ~ 14 年 度 に 九 州 新 幹 線 建 設 に 伴
って発掘調査した薩摩川内市京田遺跡の
嘉 祥 3 ( 850) 年 銘 が 入 っ た 木 簡 は 条 里 制
がしかれていたことをはっきりさせ,墨
書土器では珍しい仮名文字が書かれた霧
島市気色の杜遺跡出土例など貴重な発見
もある。地名を示す「阿多」は南さつま
市 金 峰 町 小 中 原 遺 跡 ,「 下 田 」 は 鹿 児 島 市
川 上 町 の 川 上 城 跡 か ら ,「 日 置 厨 」 は い ち
き串木野市安茶ヶ原遺跡から出土し,当
時の地域を知ることができる。なお,曽
於市財部城ヶ尾遺跡で出土した「桑原」
については,土師器が動いた可能性も指
摘されている。墨書土器は動くのでその
遺跡で書かれたとは限らないが,硯が出
土すれば,その遺跡で文字が書かれてい
たことがわかる。その様な遺跡は国府周
辺や郡衙周辺に限られており,役所や寺
県内唯一の木簡(薩摩川内市 京田遺跡)
院が あ った と 考え ら れる 。
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- 12 -
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
10 世 紀 前 半 に 編 纂 さ れ た 『 和 名 類 聚 抄 』 な ど の 文 献 史 料 に よ る と , 薩 摩 国 は 出 水 郡 ,
高城 郡 , 薩 摩 郡 , 甑 島 郡 ,日 置 郡 , 伊 作 郡 , 阿 多郡 , 河 辺 郡 , 頴 娃 郡 , 揖宿 郡 , 谿山 郡 ,
鹿児 島 郡 か ら な り , 大 隅 国は 桑 原 郡 , 菱 刈 郡 , 曽於 郡 , 姶 羅 郡 , 大 隅 郡 ,肝 属 郡 ,多 禰 嶋
は熊 毛 郡 , 馭 謨 郡 か ら な って い た 。 こ の 時 点 で は, ト カ ラ 列 島 以 南 の 奄 美諸 島 は 律令 体 制
下に な いこ と がわ か る。なお ,現 在 の曽 於 市お よ び志 布 志市 周 辺の 一 部は 日 向国 で あっ た。
推定される古代の官道
- 13 -
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
(2 ) 官道 を 探る
10 ~ 9 世 紀 に か け
ても中国大陸との関係
は認められ,県内の遺
跡から越州窯青磁が出
土しており,越州窯青
磁を模して国内でつく
られた緑釉陶器も出土
している。これらの希
少な遺物とともに,①
硯,②役人がベルトに
付ける石帯や帯金具,
③瓦葺きの建物があっ
た証拠となる布目瓦,
④海岸でつくった塩を
運ぶ焼塩土器などの官
衙的な遺物の分布をみ
ると,当時の道が浮か
び上 が って く る。
ベルトに付けた 飾り( 曽於市 高篠遺跡)
古代の道跡が検出さ
れて い る 例 は 大 小 多 々 あ るが , 官 道 と 認 め ら れ るの は 姶 良 市 船 津 に 所 在 する 城 ヶ 崎遺 跡 の
みで あ る 。 中 央 集 権 を 確 立す る た め に は , 地 方 との 連 絡 網 を 整 備 す る 必 要が あ り ,各 国 を
最短 で 結ぶ 道 が官 道 であ る。官 道 には 約 16 ㎞ご と に 駅家 が おか れ,薩 摩 国に は 市来 ,英 祢,
網津 , 田 後 , 檪 野 , 高 来 があ り , 大 隅 国 に は 蒲 生と 大 水 が 記 さ れ て い る 。先 学 に よる 駅 家
の比 定 地 は 多 々 あ る も の の, 考 古 学 的 な 検 証 に よっ て 確 定 さ れ た も の は 姶良 市 の 蒲生 駅 の
みで あ る 。 こ れ ま で , 発 掘さ れ た 官 衙 的 な 遺 物 の分 布 図 を 見 る と , 日 向 国- 大 隅 国- 薩 摩
国- 肥 後 国 を 結 ぶ ル ー ト は勿 論 の こ と , 大 隅 国 -肥 後 国 お よ び 薩 摩 国 - 日向 国 を 直接 結 ぶ
ルー ト も 想 定 さ れ る 。 大 水駅 に つ い て は , 大 隅 国- 肥 後 国 ル ー ト と 薩 摩 国- 日 向 国ル ー ト
が 交 わ る 地 点 と 仮 定 し て , 今 後 追 究 し て い く こ と も 課 題 で あ る 。「 水 俣 」 が 三 本 の 道 が 交
わる と こ ろ な ら ば , そ れ より も 多 い 四 本 の 道 が 交わ る 場 所 が 「 大 水 」 で あっ た と も考 え ら
れる 。 道 は 国 と 国 や 郡 と 郡を 結 ぶ 官 道 か ら , 集 落同 士 や 家 同 士 , あ る い は田 畑 や 山, 海 や
川な ど に 向 か う 踏 み 分 け 道な ど , 人 が 動 く 所 に 必ず あ る わ け な の で , 意 識し て 発 掘調 査 し
てい き たい 。
り よ く ゆ う と う き
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き
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お
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づ
た
じ
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き
い
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く
き
ね
お お む つ
(3 ) 住ま い と墓
10 世 紀 か ら9 世 紀に な ると 掘 立柱 建 物が 主 流と な り,配 置構 造 も明 ら かに な って お り,
領主 ク ラ ス の 市 ノ 原 遺 跡 第1 地 点 で は , 1 時 期 に7 棟 か ら な る 状 況 が 窺 える 。 掘 立柱 建 物
の柱 の 大 き さ は , 直 径 50 ㎝ で 深 さ 50 ㎝ 規 模の 大 きな も のも あ るが , 一般 的 には 直 径 30
㎝ で 深 さ 40 ㎝ 規 模 の も の で あ る 。 都 城 盆 地 の 同 時 期 の 柱 穴 と 比 べ て も , か な り 小 さ い 。
これ は 民 俗 事 例 に も あ る よう に , 台 風 に た び た び襲 わ れ る 南 九 州 で は , 家を 頑 丈 に建 て る
より も,もし 飛 ばさ れ ても 最 小の 被 害で 済 むよ う な構 造 にし た ので は ない か と考 え られ る。
雪の 重 み に 耐 え な け れ ば なら な い 北 の 地 域 と , 建物 に 対 す る 考 え 方 の 違 いが あ っ て当 然 で
あろ う 。
人 は 必ず 死 を 迎 え る が , そ の数 だ け 墓 が み つ か る か とい う と , そ う で は ない 。 古代 に お
いて は , 華 美 に な り す ぎ た古 墳 時 代 の 墓 づ く り の反 省 と 仏 教 の 浸 透 な ど から , 薄 葬令 が 出
され 火 葬墓 が つく ら れ始 め た。蔵 骨 器,周 溝 墓,石積 み 石室 墓,土坑 墓 など が 見ら れ るが ,
その 検 出 例 は 限 ら れ て い る。 一 般 の 人 々 は , 現 在の 発 掘 調 査 の 対 象 地 で はな い よ うな 場 所
に葬 ら れ た の で は な い か と考 え ら れ , 九 州 山 地 の民 俗 事 例 や 東 南 ア ジ ア のラ オ ス でみ ら れ
るよ う に , 山 の 中 に 人 知 れず 葬 る こ と も 視 野 に 入れ て お く 必 要 が あ る 。 なお , こ の時 期 に
は,南 さ つま 市 金峰 町 芝原 遺 跡や 姶 良市 小 倉畑 遺 跡な ど で仏 教 関連 の 遺物 が 出土 し てい る。
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- 14 -
第Ⅰ章
表
官衙的遺 物が出土した 遺跡
- 15 -
遺跡が語る鹿児島の歴史
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
(4 ) 当時 の 生業
古 代 に お け る 水 田 の 調 査事 例 と し て は , 指 宿 市敷 領 遺 跡 が あ る 。 地 中 探査 と 発 掘調 査 に
よる も の で あ り , 大 小 の 畦が 東 西 南 北 方 向 に 向 いて い る こ と が 明 ら か と なっ て い る。 紫 ゴ
ラの 下 に 検 出 さ れ る の で ,揖 宿 郡 で も 9 世 紀 後 半に は 律 令 体 制 が 整 え ら れて い る こと が 窺
える。はたけ遺構としては,霧島市溝辺町北麓原 D 遺跡や指宿市慶固遺跡などの例があ
る。
一 方 ,直 接 牧 を 示 す 遺 構 は みら れ な い も の の , 大 量 の焼 塩 土 器 や 「 牧 」 銘の 入 った 墨 書
土器 か ら 牧 の 存 在 が 考 え られ る 。 シ ラ ス 台 地 は 放牧 地 と し て 適 し て お り ,黒 色 土 が発 達 し
てい る の も 定 期 的 に 火 が 放た れ て い る か ら で は ない か と の 指 摘 も あ る 。 推古 天 皇 が「 馬 な
らば 日 向の 駒 」と 詠 んだ の は 612 年 で あ るの で ,大 隅 国と 薩 摩国 が 未だ 日 向国 に 含ま れ て
いた 時 期で あ り,当地 域 のこ と を指 し てい る とも 考 えら れ る。焼塩 土 器の 出 土す る 遺跡 が,
圧 倒 的 に 大 隅 国 に 多 い 点 は ,「 原 ( 台 地 )」 を 利 用 し た 牧 の 存 在 を 示 し て い る か の よ う で
ある 。 馬 や 牛 は 畜 力 を 利 用し た 運 搬 や 農 耕 の 他 に, 馬 牛 皮 の 献 上 や 「 隼 人の 楯 」 の馬 の た
てが み 利用 も みら れ るこ と から , 余す こ とな く 活か さ れた と 考え ら れる 。
動 物 や 魚 介 類 は 食 料 源 とし て 欠 か せ な い も の であ る か ら , 古 代 に お い ても 活 発 に狩 猟 や
漁労 が 行 わ れ て き た と 思 われ る が , 仏 教 の 「 殺 生」 思 想 で ひ か え ら れ た 地域 も あ った と 考
えら れ る 。 弓 矢 は 武 器 か 狩猟 具 か の 区 別 が つ か ない も の の , 射 切 る た め の雁 又 鏃 が発 達 し
た 。 落 と し 穴 の 出 土 例 と し て , 平 成 12 年 度 に 東 九 州 自 動 車 道 建 設 に 伴 っ て 発 掘 調 査 し た
曽於 市 財部 町 高篠 遺 跡や 平 成 13 ~ 15 年 度に 西 回り 自 動車 道 建設 に 伴っ て 発掘 調 査し た 薩
摩川 内 市 霜 月 田 遺 跡 な ど があ る こ と か ら , 罠 猟 も行 わ れ て い た 。 ま た , 漁労 具 と して は 鉄
製釣 り 針 が あ る 他 に , 網 に使 用 す る 土 製 の 錘 が 南さ つ ま 市 金 峰 町 芝 原 な どの 遺 跡 から 大 量
に出 土 して い るの で ,海 や 川を 問 わず 漁 が盛 ん に行 わ れた こ とと 思 われ る 。
奄 美 大 島 以 南 で は , 小 湊フ ワ ガ ネ ク 遺 跡 や 土 盛マ ツ ノ ト 遺 跡 な ど を は じめ と し てヤ コ ウ
ガイ が 大 量 に 集 め ら れ 加 工さ れ た 遺 跡 が み つ か って お り , 貝 匙 や 螺 鈿 に 利用 す る ため に 流
通 し て い た こ と が わ か っ て き た 。 特 に 螺 鈿 細 工 と し て の ヤ コ ウ ガ イ は , 12 世 紀 の 岩 手 県
中尊 寺 金色 堂 や 11 世 紀 の京 都 府平 等 院鳳 凰 堂に も 使わ れ た可 能 性が あ る。
な お , 10 世 紀 に は 専 門 集 団 も 発 展 し て い た よ う で , 薩 摩 川 内 市 鍛 冶 屋 馬 場 遺 跡 で は 大
量 の 鉄 製 品 や 鞴 の 羽 口 な ど が 出 土 し , 集 中 し て 鍛 冶 が 行 わ れ た こ と が わ か っ て い る 。 1000
年を 隔 てた 現 在で も ,地 名 とし て 残っ て いる 点 も興 味 深い 。
し き り よ う
あ ぜ
き た ふ も と ば る
け
い
ご
か り ま た ぞ く
た か し の
し も つ き で ん
か
じ
や
ば
ば
3 飛 鳥時 代 ・奈 良 時代 ( 7世 紀 ・8 世 紀)
(1 ) 隼人 の 時代
9 世 紀 に は 普 遍 的 に あ った 遺 跡 が , 8 世 紀 ま で遡 る と 極 端 に 少 な く な る。 国 府 や郡 衙 周
辺に は 8 世 紀 の 遺 跡 も み られ る が , 遺 跡 数 は 多 くな い 。 原 因 と し て は , 火山 活 動 の活 発 化
もあ ろ うが , それ ば かり と は考 え られ な い。 確 かに 788 年 には 霧 島, 768 年 に は桜 島 の火
山活 動 が 活 発 化 し た 記 録 があ り , 開 聞 岳 は 7 世 紀第 4 四 半 期 に 爆 発 し 青 ゴラ を 噴 出し た こ
とが指宿市橋牟礼川遺跡の出土品か
ら確認されている。8世紀代に遡る
竪穴住居は,薩摩川内市大島遺跡と
出水市大坪遺跡で検出されており,
両者とも竈を備えたものである。両
地 域 は ,『 天 平 8 ( 736) 年 薩 摩 正 税
帳』に記された非隼人郡の出水郡と
高城郡であることが興味深い。全国
的に竈付きの竪穴住居は6世紀には
一般的にみられるものであるが,南
九州では採用されていない。温暖な
本地域では,住居内に竈を備付ける
必要がなかった点も一因であるかと
思わ れ る。
カマドを備えた竪穴住居(出水市大坪遺跡)
さて,この時期には「隼人」とし
は
し
む
れ
が
わ
た て あ な じ ゆ う き よ
かまど
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第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
て南 九 州の 人 々が 登 場す る が,ど の 様な も のだ っ たの だ ろう 。9 世 紀初 頭 の 延暦 24( 805)
年に 隼 人 の 朝 貢 は 行 わ れ ず, 風 俗 歌 舞 が 停 止 し たこ と に よ り , 南 九 州 の 隼人 は 「 消滅 」 し
たと さ れ る 。 そ れ ま で は ,6 年 ご と に 隼 人 は 交 代で 朝 貢 し , 歌 舞 を 奏 上 した り 竹 製品 製 作
などを行っていた。東北地方で多く出土する8世紀の蕨手刀が,肝付町新富の横間
地下 式 横 穴 に 副 葬 さ れ て いた の は , 都 に お い て 両地 域 の 人 々 の 接 触 が あ った か ら とも 考 え
ら れ る 。 実 体 を 伴 っ た 隼 人 の は じ ま り は , 天 武 11( 682) 年 に 大 隅 隼 人 と 阿 多 隼 人 が 朝 貢
し, 飛 鳥 浄 御 原 宮 で 相 撲 をと り , 大 隅 隼 人 が 勝 った と い う 記 事 に も と め られ る 。 南九 州 に
住ん で い た 人 た ち が 自 分 たち の こ と を 「 隼 人 」 や「 熊 襲 」 と 呼 ん だ の で はな く , 中央 政 権
の人 達 が 南 九 州 に 住 ん で いた 人 々 の こ と を そ う 呼ん で い た こ と に な る 。 南九 州 で は独 自 の
生活 様 式 が 営 ま れ て い た こと や , そ れ を 守 る た めに 支 配 下 に 加 わ る こ と を拒 否 し たか ら だ
と考 え られ る 。
ち
か
し
き
よ
こ
あ
な
(2 ) 謎の 7 世紀
こ の 様 に 記 録 と し て は ある も の の , 生 活 痕 跡 とし て の 遺 跡 は 限 ら れ て おり , 特 に7 世 紀
代の 遺 跡 は 少 な い 。 編 年 の基 準 と な る 土 器 の 変 化が 顕 著 で な い こ と が 一 因と し て も, 7 世
紀の 南 九 州 に 人 口 減 少 を もた ら す 何 か が あ っ た こと は 確 か で あ る 。 自 然 災害 や 戦 い, ま た
は何 ら か の 圧 力 な ど , 遺 跡に 痕 跡 を の こ さ ず 人 口減 を 引 き 起 こ し た 原 因 を追 及 し てい く こ
とが 課 題 で あ る 。 た だ し ,奄 美 大 島 北 部 と 喜 界 島で は 8 世 紀 代 の 土 師 器 の出 土 が みら れ ,
中央 政 権 や 大 宰 府 に よ る 南島 経 営 の 拠 点 に な っ たと 考 え ら れ て い る 。 ま た, こ の 地域 を 除
く南 島 で は 兼 久 式 土 器 が 使わ れ て お り , 貝 符 の 使用 も 7 世 紀 ご ろ ま で は あっ た と 考え ら れ
てお り , 南 島 で は 常 に , 海と 共 存 し た 生 活 が 営 まれ た よ う で あ る 。 な お ,種 子 島 と屋 久 島
まで が 律令 国 家体 制 に組 み 込ま れ てい た こと は 郡の 設 置か ら わか り,トカ ラ 列島 以 南は「 化
外」 の 地 と さ れ て い た 。 南島 で は 律 令 国 家 体 制 に縛 ら れ ず 税 を 納 め る こ とな ど も なく , そ
れま で 続い て きた 自 然に 合 わせ た 独自 の 生活 を 営む こ とが で きた と 考え る 。
薩 摩 国 分 寺 と 大 隅 国 分 寺は 8 世 紀 末 ~ 後 半 の 間に 建 て ら れ て お り , 瓦 が焼 か れ た窯 跡 も
薩摩 川 内 市 鶴 峯 窯 跡 と 姶 良市 宮 田 ヶ 岡 窯 跡 と し て知 ら れ て い る 。 全 国 に 国分 寺 お よび 国 分
尼 寺 建 立 の 詔 が 出 さ れ る の は 741 年 で あ る が ,『 天 平 8 ( 736) 年 薩 麻 国 正 税 帳 』 で は 11
人の 僧 侶 の 記 載 が あ る こ とか ら , 国 分 寺 が 建 て られ る 以 前 に 寺 が あ っ た こと が わ かる 。 ま
た, 阿 多郡 に 仏教 が 伝え ら れた の は 692 年 と あ るも の の, 日 置市 吹 上町 田 尻に 伝 わる 飛 鳥
様式 の 金銅 菩 薩立 像 が注 目 され る。仏教 が 百済 か ら日 本 へ伝 わ るの は 538 年 の こ とで あ り,
早い 時 期に 薩 摩半 島 へ仏 教 が伝 わ った と すれ ば 興味 深 い。
つ る み ね が ま あ と
み
や
た
が
お
か
か
ま
あ
と
おわ り に
鹿 児 島 の 平 安 時 代 か ら 飛鳥 時 代 ま で , 各 遺 跡 や各 研 究 者 の 成 果 を 参 考 に述 べ て きた 。 こ
の時 代 の 南 九 州 は , 地 域 によ っ て 中 央 政 権 の 外 側や 内 側 と な り な が ら 時 を過 ご し た。 日 本
列島 の 南 端 に 位 置 す る こ とと , 海 お よ び 火 山 が つく る 地 形 が 中 央 政 権 側 から み る と, 大 き
な壁 と な っ た の か も し れ ない 。 し か し , 当 地 域 では 自 然 の 恵 み を 得 な が ら豊 か な 生活 を 送
って き た だ ろ う し , む し ろ中 央 政 権 の 内 側 に な るこ と に よ っ て 独 自 の 生 活が 翻 弄 され た こ
とに な る。 ど ちら の 方が 幸 せだ っ たの か ,考 え させ ら れる 。
古 墳 時 代 以 前 に な る と 急速 に 文 献 史 料 が な く なる の で , 古 代 が 文 献 史 料と 考 古 資料 を 補
完し 合 え る 境 の 時 期 で あ る。 ど ち ら か に 偏 っ た り, ま た 合 わ せ た り す る こと な く ,そ れ ぞ
れの 分 野か ら 成果 を 引き 出 しあ う こと に よっ て ,今 後 さら に 史実 に 近づ け てい き たい 。
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第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
南島に産するヤコウガイ(奄美市 長浜金久遺跡)
不思議な凹凸面(出水市 大坪遺跡)
建 物の 配置 状況 (いち き串 木野 市 市 ノ原 遺跡 第1地 点)
平安時代の日用品( 曽於市 高篠遺跡)
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第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
火山地帯に暮らした弥生・古墳時代の人々
- 弥生時代~古墳時代 -
川口
雅之
はじ め に
日 本 列 島 の 南 端 に 位 置 する 鹿 児 島 は , 弥 生 ・ 古墳 文 化 南 限 の 地 で あ る 。そ の 南 には , 弥
生・ 古 墳 文 化 が 到 達 し な かっ た 奄 美 ・ 沖 縄 諸 島 が連 な り , こ こ に 住 む 人 々は , 豊 かな 珊 瑚
礁で の 漁労 や 狩猟 を 中心 に 生活 し てい た。生活 ス タイ ル の異 な る奄 美 ・沖 縄 諸島 の 文化 は,
貝塚 時 代後 期 文化 と 呼ば れ てい る 。
鹿 児 島は , 貝 塚 時 代 後 期 文 化と の 境 界 に 位 置 し , 熊 毛諸 島 以 南 で 採 取 さ れる 特 産物 ( 貝
製品 ) を 九 州 や 西 日 本 各 地へ , そ の 見 返 り と な る金 属 製 品 や 米 な ど を 奄 美・ 沖 縄 諸島 へ 運
ぶ交 易 の窓 口 とし て 重要 な 役割 を 担っ て いた 。
奄 美 ・沖 縄 諸島 と の交 易 に有 利 とい う 地理 的 利点 に 反し て,火山 地 帯に 属 する 鹿 児島 は,
平野 が 少 な く , 広 い 面 積 の水 田 を 作 る の に 決 し て適 し た 土 地 で は な い 。 現在 見 つ かっ て い
る弥 生 ・ 古 墳 時 代 の 水 田 の多 く は , シ ラ ス 台 地 の湧 水 を 利 用 し た 小 規 模 なも の で ある 。 ま
た, 薩 摩 半 島 南 部 の 火 山 性扇 状 地 や 大 隅 半 島 の シラ ス 台 地 で は , 水 田 で なく 畠 作 を行 っ て
いた 遺 跡 も 発 見 さ れ て い る。 火 山 に 囲 ま れ た 環 境の 中 で , 田 畑 を 維 持 し ,耕 地 面 積を 増 や
して い くこ と は, 鹿 児島 の 人々 に とっ て 重要 な こと で あっ た と考 え られ る 。
鹿 児 島 の 弥 生 ・ 古 墳 時 代は , 南 に 広 が る 海 と ,災 害 が 多 く 農 耕 に 不 向 きな 火 山 に深 く 関
わっ て い る 。 県 立 埋 蔵 文 化財 セ ン タ ー が 発 掘 調 査を 行 っ た 遺 跡 を 中 心 に ,農 耕 と 海上 交 易
に関 連 する 遺 跡を 取 り上 げ,こ の 20 年 間で 明 らか に なっ た 人々 の 歴史 の 一端 を 報告 す る。
1
火 山灰 台 地に 暮 らし た 人々 の 遺跡
(1) 古 墳 時代 の 集落 と 畠作
平 成 20 年 , 指 宿 市 南 摺ヶ 浜 遺跡 で 101 基 の集 団 墓が 発 見さ れ た。 墓 の種 類 は, 土 坑
墓, 円 形周 溝 墓, 壺 棺墓 , 甕棺 墓 と様 々 で, 古 墳時 代 の 300 年 間 を 通し て 継続 的 に営 ま れ
たこ と が 分 か っ た 。 墓 に は, 鉄 器 を 中 心 に 多 く の副 葬 品 や 祭 祀 に 使 わ れ た土 器 が 残さ れ て
いた が ,特 定 墓に 集 中す る こと は なく , 顕著 な 身分 差 は確 認 でき な かっ た 。
み な み す り が は ま
写真1
南摺ヶ浜遺跡の墓(円形周溝墓)
南摺ヶ浜遺跡の墓(甕棺墓)
発 見 当 時 か ら , 集 団 墓 を造 っ た 人 々 の 集 落 跡 が話 題 と な っ て い た が , その 有 力 な候 補 地
とし て 遺跡 か ら 500 m 程離 れ たと こ ろに 橋 牟礼 川 遺跡 が ある 。遺 跡 は大 正 5年 に 発見 さ れ,
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第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
大 正 13 年 に は 国 指 定 , 平 成 8 年 に 追 加 指 定 が 行
われ 保 存が 図 られ て きた 。
こ れ ま で の 発 掘 調 査 に よ っ て , 多 くの 竪 穴 住 居
跡 や 鍛 冶 炉 , 道 跡 , 土 器 捨 て 場 , 貝 塚さ ら に 南 九
州 で は 出 土 例 の 少 な い 初 期 須 恵 器 や 子持 勾 玉 が 発
見 さ れ , こ の 地 域 の 中 心 的 な 集 落 で ある こ と が 明
ら か と な っ て い る 。 注 目 さ れ る の は ,馬 鍬 で 土 を
耕 し た 痕 跡 に 伴 っ て イ ネ , ア ワ , ヒ エ等 の プ ラ ン
トオ パ ール が 検出 さ れて い るこ と であ る。遺跡 は,
池 田 カ ル デ ラ や 開 聞 岳 の 噴 出 物 を 基 盤と す る 火 山
性 の 扇 状 地 に 立 地 す る た め , 周 辺 に 水田 稲 作 に 適
し た 場 所 は な い 。 弥 生 時 代 以 降 , 橋 牟礼 川 の 人 々
の 主 食 は , 陸 稲 や 雑 穀 で あ る と 考 え られ て い る 。
馬鍬で土を耕した痕跡
(2) 弥 生 時代 の 集落 と 畠作
約 2,000 年 前 の弥 生 時代 中 期後 半 に大 隅 半
島の シ ラス 台 地上 で は,集 落 遺跡 が 増加 す る。
その代表格として鹿屋市王子遺跡が有名であ
るが,東九州自動車道路建設に伴う発掘調査
でも,鹿屋市石縊・十三塚遺跡,田原迫ノ上
遺跡で集落跡が発掘されている。集落の特徴
は,日常生活を送る竪穴住居跡,倉庫と考え
られる掘立柱建物跡,祭りの場や家畜の施設
とされる円形周溝がセットとなっていること
である。これらの集落跡は,水田稲作に不向
きなシラス台地上に立地しており,畠作中心
の生活が考えられてきた。石縊・十三塚遺跡
では,住居跡から炭化したイネの種子が出土
しており,これが陸稲栽培であるのか検討が
必要 で ある ( 写真 2)。
この時期の集落遺跡では,凹線文土器と呼
ばれる愛媛県周辺で作られた土器が出土する
ようになる。鉄器が普及したり,土製勾玉,
掘立柱建物跡が出現するのもこの時期で,集
落の増加や新たな文化現象の出現背景には,
瀬戸内地域との交渉が背景にあると考えられ
てい る 。
ところが,これらの集落跡は,一時的に増
加するものの存続期間が短く,弥生時代後期
になると突如,姿を消してしまう。この原因
につ い ては , 解明 さ れて い ない 。
お
い
し
く
び
・
じ
ゆ
う
さ
ん
づ か
う
(日本の遺跡40「橋牟礼川遺跡」から転載)
じ
た
は
ら
さ
こ
の
う
え
写真2
写真3
- 20 -
炭化したイネの拡大写真
掘立柱建物跡(十三塚遺跡)
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
(3)火山 灰 と山 ノ 口式 土 器
弥生時代中期に大隅半島の集落遺跡で使用され
た土器は,山ノ口式土器と呼ばれ,大隅半島を中
心に分布する土器である。山ノ口式土器は,錦江
町山 ノ 口遺 跡 で発 見 され た 。約 2,000 年 前 に 降下 し
た開聞岳の火山灰によって覆われていたため,年
代の 分 かる 重 要な 土 器で あ る。
最近,桜島の降灰に頭を悩ませる日々が続いて
いるが,火山灰で遺構・遺物の年代を明らかにで
きる の は, 鹿 児島 な らで は の利 点 とい え る。
2
シ ラス 台 地に 築 かれ た 集団 墓 地
鹿児島の古墳文化の大きな特徴は,古墳と南九
州特 有 の墓( 地 下 式横 穴 墓,地 下式 板 石積 石 室墓 ,
写真4 山ノ口式土器
土坑 墓)が 共 存す る こと で ある( 第 2図 )。しか も,
(南大隅町谷添・出口遺跡)
前方後円墳は,志布志湾沿岸部の一部地域のみに
造られ,それ以外の大部分の地域では,地下式横
穴墓 , 地下 式 板石 積 石室 墓 ,土 坑 墓が 造 られ た 。
現 在 , 県 立 埋 蔵 文 化 財 セン タ ー に よ っ て 注 目 すべ き 地 下 式 横 穴 墓 の 発 掘調 査 が 行わ れ て
おり , その 成 果に つ いて 報 告す る 。
た
ち
ち
か
し
き
お
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り
よ
こ
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ぼ
ち
か
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み
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き
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つ
ぼ
鹿 屋 市 立 小 野 堀 遺 跡 は , 標 高 125 m の シ ラ ス 台 地 に 立 地 し , 東 九 州 自 動 車 道 路 建 設 に
伴っ て 平 成 22 年 度 か ら 発 掘調 査 を行 っ てい る 。 これ ま での 調 査に よ って , 総数 100 基 以
上の 地 下 式 横 穴 墓 が 確 認 され た 。 そ の 数 は , 県 内最 多 で , ま さ に 古 墳 時 代の 霊 園 であ る 。
地 下 式 横 穴 墓 と は , 地 面に 竪 穴 を 掘 り , そ こ から 横 穴 を 掘 っ て 遺 体 を 安置 す る 玄室 を 造
る ( 第 3 図 )。 鹿 児 島 県 と 宮 崎 県 に 分 布 す る 南 九 州 特 有 の 墓 で あ り , そ の 特 殊 性 か ら 隼 人
の 墓 と考 え られ て きた 。し かし ,
近年,研究が進み,南九州で独
自に発達した墓ではなく,その
起源は朝鮮半島にあることが明
ら か にな り つつ あ る。
さ ら に , 鹿 屋 市岡 崎 18 号 噴 の
ように,玄室が大きく立派な家
形で,豪華な副葬品をもつ墓が
存在する一方,玄室が小さく副
葬品が少ない墓が多数存在し,
地下式横穴墓に上下の階層差が
あることが分かってきた。立小
野堀遺跡は後者に該当する可能
性 が ある 。
お か ざ き
第2図
第3図
古墳時代の墓
- 21 -
地下式横穴墓模式図
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
立 小 野堀 遺 跡の 重 要な 点 を3 つ あげ て おき た い。
1 つ 目は , なん と 言っ て も墓 の 数が 多 いこ と であ る 。地 下 式横 穴 墓は , 約 200 年 間 に 渡
り継 続 的に 造 られ て おり ,地 下式 横 穴墓 の 発生 か ら終 焉 まで を 1遺 跡 で知 る こと が でき る。
2 つ 目 は , 墓 の 中 に 鉄 製の 剣 , 矢 じ り な ど 多 くの 副 葬 品 が 入 っ て い る こと で あ る。 副 葬
品の 内 容か ら,被 葬者 の 社会 的 地位 や,ど の地 域 と交 流 があ っ たこ と を知 る こと が でき る。
3 つ 目 は , 人 骨 が 残 っ てい る こ と で あ る 。 人 骨の 観 察 に よ っ て , 性 別 ,死 亡 年 齢, 死 亡
理由 が 分 か る 。 さ ら に , DN A 分 析 に よ っ て 親 族関 係 , 窒 素 同 位 体 分 析 によ っ て 食生 活 を
知る こ とが で きる か もし れ ない 。
地 面 の 下 に 玄 室 を 造 る 地下 式 横 穴 墓 は , 分 厚 い火 山 灰 が 堆 積 す る 南 九 州だ か ら こそ 構 築
可能 で あり , 火山 灰 地帯 な らで は の墓 と いえ る 。
立 小 野堀 遺 跡 を 造 っ た 人 々 の集 落 遺 跡 は , 発 見 さ れ てい な い が , 本 遺 跡 の調 査 成果 は 南
九州 の 古墳 時 代を 知 る上 で 非常 に 重要 で ある こ とは 間 違い な いで あ ろう 。
3
南 九州 の 水田 跡
(1)弥生 時 代の 水 田跡
朝鮮半島から北部九州に水田稲作が伝わって間も
ない頃,南九州にも水田稲作が伝わった。南九州で
いち早く水田稲作を行ったと考えられる地域は,南
さつま市金峰町に広がる田布施平野と宮崎県の都城
盆地である。田布施平野は,高橋貝塚や下原遺跡な
どの出土品から,いち早く水田稲作が伝播した地域
と推測されていたが,鹿児島で水田跡そのものは,
未発 見 であ っ た。
た
か は し か い
づ か
し も は ら
平 成 12 年 , 弥 生 時代 の 水 田 区画 が ,九 州 新幹 線 建
設に伴う薩摩川内市京田遺跡の発掘調査で鹿児島で
初 め て 発 見 さ れ た 。 水 田 跡 は 弥 生 時 代 後 期 ( 約 1,900
年前)のもので,シラス台地を浸食した小さな谷の
開口部に立地している。現在のように区画された水
田でなく,1区画が小さく不定形な水田である(第
2図 )。地形 の 傾斜 に 合わ せ て水 田 を作 っ てい る ため ,
区画は傾斜の強い場所で狭く,緩い場所では広い。
また,水路や井堰は設置せず,水源はシラス台地下
い
ぜ
き
第2図
写真5
貯蔵穴
京田遺跡の水田跡
(灰色部分が畦)
- 22 -
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
から 自 然 に わ き 出 る 湧 水 を利 用 し て い る 。 水 田 跡の 近 く で は , イ チ イ ガ シの 貯 蔵 穴が 発 見
されており,弥生時代においても木の実が重要な食料であったことを示している(写真
5)。
さかもと
南 九 州 最 古 の 水 田 跡 は ,都 城 市 坂 元 A 遺 跡 で 発見 さ れ た 弥 生 時 代 早 期 の事 例 で ある 。 こ
の水 田 跡 も シ ラ ス 台 地 に 近い 湿 地 に 立 地 し て お り, 水 源 は シ ラ ス 台 地 の 湧水 を 利 用し て い
る。
南 九 州 の 弥 生 水 田 は , 導入 段 階 か ら シ ラ ス 台 地の 湧 水 と そ の 周 辺 に 広 がる 稲 作 に適 し た
湿地 を 活 用 す る こ と が 大 きな 特 徴 の 1 つ で あ る 。大 幅 な 地 形 改 変 を 行 な わず , 自 然環 境 を
最大 限 に活 か した 小 規模 な 水田 経 営と い える 。
古 墳 時 代 の 水 田 跡 は , 指宿 市 小 田 遺 跡 の 事 例 以外 ほ と ん ど 発 見 さ れ て いな か っ たが , 先
月, 鹿 児 島 大 学 構 内 遺 跡 で古 墳 時 代 後 期 の 水 田 跡が 面 的 に 発 見 さ れ た 。 この 水 田 跡は , 水
路を 備 え , 集 落 の 立 地 す る微 高 地 ま で 広 が っ て おり , 弥 生 時 代 の 水 田 跡 に比 べ , 給排 水 の
技術 が 格 段 に 向 上 し て い る。 古 墳 時 代 後 期 は , 遺跡 数 が 増 え る 時 期 で あ り, こ の 背景 に は
水田 稲 作の 生 産量 の 増加 が ある の では な いだ ろ うか 。
お
だ
(2)水田 で 使用 さ れた 農 具
新 幹 線関 係 の 発 掘 調 査 で は もう 1 つ 大 き な 発 見 が あ った 。 そ れ は , 弥 生 時代 の 木製 農 具
が薩 摩 川 内 市 楠 元 遺 跡 , 京田 遺 跡 で 多 数 発 掘 さ れた こ と で あ る 。 木 製 品 は, 乾 燥 した 台 地
上の遺跡では腐るために残っていな
い。両遺跡は,低湿地にあるため木
製農具が水漬けの状態で腐らずに残
って い たの で ある 。
出土した木製農具の多くはカシの
木で作られた鍬で,水田跡周辺で出
土したことから耕作に使用されたも
のと考えられる。発見直後,その形
が西日本で見つかっている鍬とは異
なる こ とに 驚 いた 。
楠元・京田遺跡の鍬の多くは,鍬
の身と柄を紐で縛って固定する膝柄
鍬で,現在の鍬のように身に穴を開
けて柄を差し込む直柄鍬とは装着法
が 異 な っ て い る ( 写 真 6 )。 こ れ ま
での発掘調査では,薩摩川内市,南
さつ ま 市,都 城 市で 発 見さ れ てお り,
シラス台地の分布する南九州特有の
農具である可能性がでてきた。この
鍬の起源については,縄文時代まで
遡るのか,弥生時代になって南九州
の人々が作り出したのか,諸説ある
がよ く 分か っ てい な い。
弥生時代から古墳時代にかけて,
水田稲作の比重は高まり水田域も拡
大していくことが想定されている。
その度に,道具や灌漑施設の技術革
新があるものと考えるが,小規模な
湿田で使用された膝柄鍬は,いつ頃
姿を消していくのであろうか。水田
写真6 京田遺跡の木製品
稲作の普及や技術を知る上で重要な
問題 で ある 。
く す も と
く わ
- 23 -
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
4
海 上交 易 を担 っ た人 々 の遺 跡
(1)古墳 時 代の 「 貝の 道 」
古 墳 時 代 の 鹿 児 島 と 奄 美・ 沖 縄 諸 島 と の 交 易 に深 く 関 わ る 遺 跡 と し て 南種 子 町 広田 遺 跡
が あ る 。 広 田 遺 跡 は , 昭 和 30 年 の 台 風 に よ っ て 砂 丘 が 浸 食 さ れ 発 見 さ れ た 集 団 墓 地 で あ
る 。 こ れ ま で の 発 掘 調 査 に よ っ て , 150 体 以 上 の 人 骨 , 44,000 点 の 貝 製 品 が 発 掘 さ れ て い
る。 昭 和 30 年 代の 発 掘調 査 では ,「 山」 の字 を 刻ん だ 貝符 が 発見 さ れ, 大 きな 話 題と な っ
た。
広田遺跡の大きな特徴は,貝
製品 の 種類 ・ 量の 豊 富さ で ある 。
古墳時代の中では,飛び抜けて
多く,しかも,奄美・沖縄諸島
で採れる大型の巻貝(ヤコウガ
イ,ゴホウラ,イモガイ)を取
り寄 せ て製 作 して い る。
ゴホウラ,イモガイ製の貝輪
は,大隅半島の地下式横穴墓や
薩摩 半 島の 古 墳,そし て 東九 州,
関西の古墳に副葬品として運ば
れている。これらは広田遺跡の
人々を経由してもたらさたと考
えられ,貝製品の入手を目的と
し た 長 距 離 交 易 ル ー ト は ,「 貝 の
道」 と 呼ば れ てい る 。
広田遺跡では南九州の壺やそ
写真7 貝輪を付けた人骨
の影響を受けた土器が出土して
おり , 貝 製 品 の 入 手 に あ たっ て は , 広 田 遺 跡 と 交流 の あ る 南 九 州 沿 岸 部 の人 々 が 重要 な 交
渉役 を 果 た し て い た こ と を示 し て い る 。 こ の 「 貝の 道 」 の 歴 史 は , 弥 生 時代 に 遡 り, 鹿 児
島で は ,弥 生 時代 の 「貝 の 道」 に 関わ っ た遺 跡 がみ つ かっ て いる 。
ひ
ろ
た
(2)弥生 時 代の 「 貝の 道 」
薩 摩 川 内 市 中 町 馬 場 遺 跡 は , 甑 島 の 里 村 に 所 在 す る ( 写 真 8)。 遺 跡 は , 標 高 4 m 程
の古 期 砂 州 上 に 所 在 し て おり , 現 在 は 埋 め 立 て によ り 海 岸 か ら 少 し 離 れ てい る が ,弥 生 時
代 に は 海 辺 に 近 い 砂 丘 と 推 測 さ れ る 。 鹿 児 島 大 学 が 昭 和 59 年 に , 旧 里 村 教 育 委 員 会 と 県
立埋 文 セン タ ーが 平 成 15 年 に 発
掘調 査 を実 施 した 。 平成 15 年 の
調査では,弥生時代前期から古
墳時 代 の貝 層 や人 骨 が発 見 され ,
貝層では,多量の魚骨・貝殻・
獣骨(イノシシ,シカ)が出土
した。水田稲作に関わる石器の
出土はなく,漁労と狩猟を中心
に生活していたと考えられる。
な
か
ま
ち
ば
ば
注目される遺物として,ゴホ
ウラ 製 の 貝 輪 が あ る ( 第 3図 )。
ゴホウラは,奄美・沖縄の珊瑚
礁で採取される大型巻貝で,そ
の腕輪は,弥生前期の終わり頃
( 約 2,400 年 前 ) か ら , 北 部 九
州の首長層の間で権威を示すブ
第3図
- 24 -
ゴホウラ製の貝輪
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
ランド品として価値があ
った。この時期,多くの
貝輪が北部九州へ運ば
れ,古墳時代へと続く,
「貝の道」の土台ができ
あがった。奄美・沖縄で
は,南九州の影響を受け
た土器が多数出土してお
り,貝輪の未製品が出土
している南さつま市高橋
貝塚が貝輪交易の最前線
基地 と され て いる 。
甑島は,薩摩半島西海
岸から有明海と九州西海
岸へ航行する分岐点にあ
たる 。中町 馬 場遺 跡 では ,
弥生時代中期の熊本や北
部九州の土器が多数出土
しており,南九州と北部
・中九州を結ぶ海上交易
写真8 空から見た中町馬場遺跡
の拠点であった可能性が
●が中町馬場遺跡
高い。中町馬場遺跡は,
貝輪 の 運 搬 だ け で な く , 水田 稲 作 の 伝 播 に も 関 わっ た 可 能 性 が あ り , こ こに 住 む 人々 は ,
単な る 漁民 で はな く ,海 上 交易 を 担う 海 の民 で あっ た こと が 推測 さ れる 。
5
お わり に
海 と 火 山に テ ー マ を あ て , 関 連 する 遺 跡 を 紹 介 し て き たが , 本 格 的 な 農耕 が 始ま っ た
弥生 ・ 古 墳 時 代 に お い て ,や は り 火 山 と の 関 連 は大 き な 意 味 を 持 つ と 考 えら れ る 。噴 火 に
よる 作 物の 枯 死は ,農耕 の 比重 が 高ま る ほど ,人々 の 生活 に 甚大 な 影響 を 及ぼ す。さ ら に,
農業 用 水 の 確 保 が 難 し く ,生 産 性 の 低 い 火 山 灰 台地 で の 農 耕 は , 私 た ち の想 像 以 上に 過 酷
では な かっ た のだ ろ うか 。
農 耕 の 規 模 や 生 産 量 は ,集 落 規 模 , 定 住 期 間 ,人 口 と も 関 わ り , そ れ に伴 っ て 形成 さ れ
る地 域 社会 も 異な っ てく る と考 え られ る。南九 州 にお い て階 層 化社 会 が顕 在 化し な いの は,
火山 に 起 因 す る 地 質 環 境 によ り , 水 田 稲 作 ・ 畠 作の 生 産 性 が 阻 害 さ れ て いる 可 能 性を 考 慮
すべ き か も し れ な い 。 そ れで も , 数 少 な い 水 田 跡の 調 査 か ら は , 徐 々 に 耕地 面 積 を拡 大 し
てい く 人 々 の 姿 が 垣 間 見 える 。 時 間 は か か る が ,地 域 に お け る 農 耕 史 や 生産 遺 跡 の視 点 か
ら弥 生 ・古 墳 時代 の 鹿児 島 につ い て考 え てい く 必要 が ある 。
海 も 重要 で ある 。弥生 文 化は ,北か ら 九州 西 海岸 を 南下 し て伝 わ った し,鹿 児 島の 海 は,
奄美 ・ 沖 縄 諸 島 と い う 文 化の 異 な る 地 域 へ つ な がっ て い る 。 弥 生 ・ 古 墳 時代 を と おし て ,
鹿児 島 は 貝 製 品 の 交 易 に 重要 な 役 割 を 担 っ た 。 これ は , 鹿 児 島 の 人 々 が ,渡 航 技 術や 島 々
の情 報 を 熟 知 し て い た か らで あ り , 他 地 域 の 人 が直 接 交 渉 に 出 向 く こ と は難 し か った と 考
えら れ る。
貝 の 道に 使 わ れ た 渡 航 ル ー トは , 弥 生 時 代 に 開 拓 さ れた の で は な い 。 縄 文人 は すで に 奄
美・ 沖 縄 諸 島 へ 渡 っ て お り, 水 田 稲 作 の 伝 播 や 貝輪 交 易 は , 縄 文 時 代 以 来, 蓄 積 され た 航
海技 術 の上 に 成立 し たと 考 えら れ る。
- 25 -
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
シラス台地の集落遺跡(石縊・十三塚遺跡)
埋葬実験の様子(立小野堀遺跡)
広田遺跡の貝製品
シラス台地上の集団墓地(立小野堀遺跡)
南摺ヶ浜遺跡の出土土器
(大型の壺・甕は埋葬用)
京田遺跡の水田跡( 白い部分が畦)
- 26 -
第Ⅰ章
-
環境と共に生きた南の縄文人
縄文時代(13,000~2,700年前)
遺跡が語る鹿児島の歴史
-
黒川
忠広
はじ め に
氷 河 期 が 終 わ り 温 暖 化 が進 む と , 動 植 物 の 様 相も 大 き く 変 化 し た と 言 われ て い る。 こ の
気候 変 化 に 合 わ せ て , 小 動物 を 捕 る た め の 飛 び 道具 と し て の 弓 矢 や , 煮 炊き を す るた め の
土器 な ど が 発 明 さ れ , 人 びと の 暮 ら し も 大 き く 変化 し て い っ た 。 こ の 画 期こ そ が ,縄 文 時
代の 始 ま り で あ る 。 こ れ 以降 , 日 本 各 地 で 地 域 色豊 か な 縄 文 文 化 が 花 開 き, 稲 作 等の 農 耕
を生 活 の基 礎 とす る 弥生 時 代の 開 始ま で およ そ 1万 年 間続 く こと と なる 。
県 立 埋 蔵 文 化 財 セ ン タ ー が 開 所 し て 20 年 。 多 く の 遺 跡 が 発 掘 調 査 さ れ , こ の 中 に は ,
これ ま で の 定 説 を 覆 す よ うな 発 見 も あ っ た 。 霧 島市 国 分 上 野 原 遺 跡 の 発 掘調 査 に 代表 さ れ
る, 縄 文 時 代 初 頭 の ム ラ の相 次 ぐ 発 見 。 南 さ つ ま市 金 峰 町 芝 原 遺 跡 や 姶 良市 加 治 木町 干 迫
遺跡 な ど , 河 川 に 隣 接 す る遺 跡 で , 足 の 踏 み 場 のな い 程 の 多 量 の 遺 物 出 土。 こ れ らは , 当
時の 鹿 児 島 の 様 相 を 窺 い 知る 貴 重 な 遺 跡 と し て ,現 在 新 た な 研 究 材 料 と して 報 告 書に ま と
めら れ てい る 。
こ こ で は , こ れ ら の 中 から 代 表 的 な 遺 跡 を 抽 出し て 鹿 児 島 の 縄 文 時 代 を概 観 し てい き た
い。 な お , 大 ま か な 年 代 観は 較 正 年 代 を 用 い て いる た め , こ れ ま で 示 さ れて き た 年代 と 異
な っ て い る 。 一 例 を 挙 げ る と, ア カ ホ ヤ 火 山 灰 の 降 灰は 約 6,300 年 前と 言 わ れ て い た が ,
較 正 年 代 で は 約 7,300 年 前 と な り , 上 野 原 遺 跡 の 縄 文 時 代 早 期 前 半 の 集落 は 約 9,500 年 前
から 約 10,600 年 前 と な る。
ほ し ざ こ
1
万 之瀬 川 下流 域 遺跡 群 の調 査 成果 か ら
万 之 瀬 川 は , 鹿 児 島 市 錫 山 に 源 を 発 す る 総 延 長 36 ㎞ の 河 川 で あ る 。 平 成 6 年 か ら そ の
下流 域 に あ る 遺 跡 群 が 河 川改 修 に 伴 っ て 発 掘 調 査さ れ て い る 。 上 流 か ら ,上 水 流 遺跡 , 芝
原遺 跡 , 渡 畑 遺 跡 , 持 躰 松遺 跡 と 続 く 。 こ れ ら の遺 跡 は , 万 之 瀬 川 の 右 岸の 自 然 堤防 上 に
立地 し , 4 遺 跡 で 百 万 点 を超 え る 遺 物 が 出 土 し てい る 。 こ れ ら の 遺 跡 は ,す べ て アカ ホ ヤ
火山 灰 降 灰 以 降 の 時 代 に 属し , 各 遺 跡 の 最 古 土 器型 式 で 4 遺 跡 を 見 る と ,上 流 の 上水 流 遺
跡が 古 く , 下 流 の 持 躰 松 遺跡 が 新 し い と い う 傾 向が 窺 え る 。 こ れ ら の 遺 跡つ い て ,新 し い
時代 か ら紹 介 して い きた い 。
ま ず , 後 期 の 芝 原 遺 跡 と渡 畑 遺 跡 か ら は , 南 九州 を 代 表 す る 土 器 で も ある 市 来 式土 器 が
多 数 出 土 し て い る 。 こ の 中 に ,「 市 来 ら し い 市 来 」 と 呼 ば れ る 太 め の 凹 線 文 と キ ザ ミ 目 文
とを 施 す 土 器 が あ る 。 こ の土 器 の 分 布 を 調 べ る と, 南 九 州 は も と よ り , 奄美 諸 島 をは じ め
遠く は 沖 縄 ま で 出 土 し て いる 事 が わ か る 。 既 に ,県 本 土 か ら 熊 毛 → 奄 美 →沖 縄 へ と続 く 海
の道 が 開拓 さ れて い たこ と を示 す 事例 で ある 。
次 に , 中 期 後 半 か ら 後 期前 半 に か け て の 芝 原 遺跡 と 渡 畑 遺 跡 で は , 芝 原遺 跡 で 足が , 渡
畑遺跡から 踝 から上が出土して接合した足形土製品がある。施文手法などから阿高式土
器の 系 統 と 思 わ れ , 出 水 貝塚 や 長 崎 県 天 神 洞 穴 など に 類 例 が あ り , 九 州 西部 と の 交流 が 窺
える 。 ま た , 石 鋸 と 呼 ば れる 組 み 合 わ せ て 使 用 する 漁 撈 具 の 1 種 も 出 土 して い る 。主 に 西
北九 州 で 確 認 さ れ て い る 遺物 で , 南 九 州 で 出 土 する こ と は 希 で あ っ た が ,芝 原 ・ 渡畑 遺 跡
では 先 端部 や 側辺 部 が多 量 に出 土 して い る。
さ て , 当 該 期 で 主 体 的 に出 土 す る 土 器 に , 指 宿式 土 器 と 呼 ば れ る 土 器 があ る 。 現在 の 指
宿市 橋 牟 礼 川 遺 跡 で 発 見 ・命 名 さ れ た こ の 土 器 には , 指 宿 色 と 呼 ば れ る 特有 の 色 があ る 。
これ は,土 器の 素 材で あ る粘 土 の特 徴 が色 と なっ て 現れ た もの で,錦 江湾 を 中心 に 分布 し,
遠く は 南 種 子 町 で も 出 土 して い る 。 こ の 2 つ の 事か ら も , 当 時 の 人 び と の交 流 の 範囲 を 知
る事 が 出来 よ う。
くるぶし
い し の こ
- 27 -
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
写真1
上水流遺跡出土の曽畑式土器
通常のやじり
2
1
4
5
6
7
3
8
1 0
9
1 1
1~3先端部
4~10側縁部
11足形土製品
第1図
芝原・渡畑遺跡出土資料
- 28 -
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
前 期 で は , 上 水 流 遺 跡 にお い て 曽 畑 式 土 器 単 純層 が 見 つ か っ て お り , 当該 期 の 石器 組 成
が示 さ れ た 。 こ の 中 に は ,四 角 形 の 鉢 形 土 器 も 出土 し て お り , こ れ ま で に類 例 の 見ら れ な
い特 殊 な も の で あ る 。 こ の曽 畑 式 土 器 も 九 州 に 広く 分 布 し , 遠 く は 奄 美 ・沖 縄 に まで 広 が
って い る。
こ の よ う に 多 種 多 様 な 遺物 が 見 つ か る 背 景 に は, 遺 跡 の 立 地 条 件 が 深 く関 わ っ てい る も
のと 思 わ れ る 。 こ の 条 件 と出 土 し て い る 遺 物 や その 分 布 圏 を 考 え る と , 丸木 舟 や 艪な ど の
具体 的 な 資 料 こ そ 見 つ か って は い な い が , 川 か ら海 へ と 続 く 海 上 交 通 と 生業 活 動 とが 考 え
られ る ので あ る。
2 火 山灰 と 考古 学
(1 ) 地層 は 語る
今 な お 煙 を 上 げ る , 鹿 児 島 の シ ン ボ ル と も 呼 べ る 桜 島 。 昨 年 52 年 ぶ り に 噴 火 し た 新 燃
岳を 始 めと す る霧 島 連山 。 鹿児 島 は, 多 くの 火 山に 囲 まれ た 場所 で ある 。
こ の 環 境 は , 縄 文 時 代 も同 様 で , む し ろ , よ り大 規 模 な 火 山 活 動 と 共 に生 活 し てい た と
言っ て も 良 い 。 そ の 痕 跡 は, 数 多 く の 遺 跡 で 見 るこ と が 出 来 る 。 表 1 は ,南 九 州 の縄 文 時
代指 標 テ フ ラ の 略 年 表 で ある 。 早 期 以 降 , 約 千 年に 一 度 の 割 合 で 大 規 模 な噴 火 が 起こ っ て
いる こ と が わ か る 。 発 掘 調査 で は , こ の 地 層 に 含ま れ る 火 山 灰 を 時 代 検 証の 材 料 の1 つ と
して 活 用し て いる 。
(2 ) アカ ホ ヤ火 山 灰と そ の前 後 に関 す る研 究 の現 状
ア カ ホヤ 火 山灰 の 噴出 源 であ る 鬼界 カ ルデ ラ は,薩 摩半 島 南端 よ り約 50 ㎞ 南 方に あ り,
現在 の 硫 黄 島 や 竹 島 周 辺 の海 底 に あ る 。 南 九 州 に大 災 害 を も た ら し た と され る 鬼 界カ ル デ
ラの 大 噴 火 。 こ の カ ル デ ラの 噴 火 で は , 降 下 軽 石・ 火 砕 流 堆 積 物 ・ 降 下 火山 灰 か らな り ,
火 砕 流 や 火 山 灰 の 降 灰 な ど が 自 然 環 境 を 大 き く 変 え た と 考 え ら れ て い る 。 7,300 年 前 に 発
生し た この 出 来事 に つい て ,近 年 様々 な 角度 か ら研 究 が進 め られ て いる 。
噴 火 に 伴 う 大 地 震 の 発 生に 関 し て は , 本 年 度 の東 九 州 自 動 車 道 建 設 に 先立 っ て 調査 さ れ
てい る 大 崎 町 荒 園 遺 跡 と 川を 挟 ん だ 対 岸 の 永 吉 天神 段 遺 跡 と で 確 認 さ れ た。 下 層 にあ る シ
ラス が 液 状 化 し て 地 表 面 に湧 出 す る も の で , こ れが ア カ ホ ヤ 火 山 灰 層 に パッ ク さ れて い る
ので あ る 。 つ ま り , 火 砕 流発 生 か ら 火 山 灰 降 灰 まで の 間 に 地 震 が 発 生 し たこ と を 示し て い
ると考えられるので
ある 。
津波の痕跡も噴出
源 よ り 300 ㎞ 北 の 大
分県横尾貝塚で確認
され た。横尾 貝 塚は ,
現在の海岸線から約
7㎞ 内 陸に 位 置す る。
津波の痕跡は,水場
遺構の上位に堆積し
たア カ ホヤ 火 山灰 と,
更にその上位に堆積
した地層から高塩分
水に棲む珪藻の化石
が多く含まれて層の
関係 か ら指 摘 され た。
噴火の時期に関す
る研究では花粉分析
が注目される。横尾
貝塚のアカホヤ火山
灰層では,エノキ属
第2図 アカホヤ火山灰の降灰範囲
ムクノキの花粉が極
あ ら ぞ の
よ
こ
お
か
い
づ
な が よ し て ん じ ん だ ん
か
- 29 -
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
第3図
南九州のカルデラ
表1
南九州縄文時代の指標テフラ(略年表)
めて 多 く な る 事 が わ か り ,現 在 ム ク ノ キ の 開 花 時期 は 4 ・ 5 月 で あ る こ とか ら , この 頃 に
アカ ホ ヤ火 山 灰が 降 灰し た 可能 性 が指 摘 され て いる 。
(3 ) 桜島
上 野 原 遺 跡 の 時 代 考 証 に大 き な 役 割 を 果 た し た桜 島 火 山 灰 。 上 野 原 遺 跡で は , 大正 3 年
の大 噴 火を 1 番目 と して 古 い方 に 13 番 目の 火 山灰 ( P- 13) が , 竪穴 住 居跡 な どの 窪 地
に良 好 な 状 態 で 堆 積 し て いた 。 出 土 し て い る 土 器型 式 な ど か ら お お よ そ の年 代 が 示さ れ ,
こ の 火 山 灰 堆 積 物 の 分 析 に よっ て 9,500 年 前と 位 置 づ け ら れ た 。 こ の年 代 を 較 正 年 代 で 示
す と , 10,600 年 前 と な っ て い る 。 上 野 原 遺 跡に お け る 火 山 灰 堆 積 の 特徴 は , 遺 構 な ど の 窪
地に そ の 堆 積 が 認 め ら れ ,さ ら に 堆 積 状 況 を パ ター ン 化 す る こ と が 可 能 であ っ た 点で あ ろ
う。 こ れに よ り, 1 時期 の ムラ の 規模 な どを 検 証す る ため の 基礎 資 料が 提 示さ れ た。
縄 文 時 代 に お け る 桜 島 起 源 の 火 山 灰 は P - 5 ・ 7 ・ 11・ 12・ 13・ 14 の 6 つ が あ り , 特
にP - 14 は 薩 摩 火山 灰 と呼 ば れ, 早 期前 葉 の集 落 の多 く はこ の 層で 発 見さ れ てい る 。
おわ り に
1 万 年 続 い た 縄 文 時 代 を , 2 つ の 観 点 か ら 紹 介 し て き た 。 セ ン タ ー が 開 所 し て 20 年 の
間, 上 野 原 遺 跡 な ど の 発 見に よ り 鹿 児 島 県 の 縄 文時 代 が 全 国 的 に も 注 目 され , 多 くの 研 究
が進 め ら れ た 。 し か し な お, 未 解 決 の 問 題 も 多 く, そ の 謎 は 尽 き な い 。 これ か ら も縄 文 時
代の 遺 跡 の 発 見 は 相 次 ぐ であ ろ う 。 更 な る 発 見 が, 現 在 の 常 識 を 覆 す 可 能性 も 十 分に 考 え
られ る 。 鹿 児 島 で は , 先 に紹 介 し た 火 山 灰 層 の おか げ で 大 ま か な 年 代 を 知る こ と が出 来 る
全国 で も 数 少 な い 場 所 で ある 。 こ の 利 点 を 生 か しつ つ , 今 後 も , 縄 文 文 化の 原 動 力に 迫 っ
てい か なく て はな ら ない 。
- 30 -
第Ⅰ章
写真2
南の縄文土器①
- 31 -
遺跡が語る鹿児島の歴史
第Ⅰ章
遺跡が語る鹿児島の歴史
写真3
南の縄文土器②
- 32 -
-
火山灰台地に生き た狩猟採集民
旧石器時代( 14,000年 ~ 32,000年前)
-
馬籠
亮道
は じ めに
旧 石 器 時 代 は , 約 14,000 年 前 の 縄 文 時 代 の 開 始 か ら さ ら に 遡 る 時 代 で あ る 。 気 候 は 現
在よ り 寒 冷 で , 遺 跡 か ら は定 住 の 痕 跡 が な く な り, 土 器 も 姿 を 消 す 。 ヨ ーロ ッ パ など で は
木器 や 骨 角 器 な ど の 存 在 も知 ら れ て は い る が , 国内 で は , 基 本 的 に 遺 跡 から 出 土 する 道 具
は石 器 のみ で ある 。
こ こ で は , 遺 跡 か ら 発 掘さ れ る ほ ぼ 唯 一 の 道 具で あ る 石 器 か ら ど の よ うに 歴 史 を復 元 す
るの か ,ま た ,こ れ まで の 調査 成 果か ら 何が 分 かっ た のか を 紹介 し たい 。
1
火 山灰 と シラ ス 台地
縄 文 時 代 と 同 様 , 鹿 児 島を 特 徴 づ け る 火 山 活 動は , 旧 石 器 時 代 の 人 類 史を 語 る 上で 重 要
な役割を果たしている。発掘調
査においては,地層中に堆積す
る火山灰は異なる地域・遺跡間
で出土する石器群の新旧関係の
比較に役立ち,火山灰の年代を
調べることによって石器群にお
およその時間軸を与えることが
できる。旧石器時代における南
九州 の 代表 的 な火 山 灰と し ては ,
桜 島 に 起 源 を も つ P-15,P-17,そ し
て 約 28,000 年 前 に 噴 出 し た 姶 良 丹沢 火 山灰 (AT)が 挙 げら れ よう 。
な か で も 姶 良 -丹 沢 火 山 灰 は ,
巨 大 火 砕 流 (姶 良 入 戸 火 砕 流 )を
伴っている。火砕流は南九州の
ほぼ全域を覆っており,当時の
南九州の自然環境はほぼ壊滅的
な打撃を受けたに違いない。入
戸火 砕 流の 堆 積は 最 大 150m に も
達する地域があり,その後の開
析作用によって,シラス台地と
呼ばれる南九州独特の地形を生
み出すことになった。現在発見
される旧石器時代の遺跡の多く
はこの台地上に残されており,
姶 良 -丹 沢 火 山 灰 降 灰 以 降 , 旧 石
器時代の人類は,火山活動によ
る自然災害とその後の自然環境
の変化に適応しながら生きてき
たこ と が分 か る。
2
火 山灰 土 壌の 発 達と
石器群の変遷
鹿児島の旧石器時代調査で最
も重要なのは,火山灰によって
第1図
- 33 -
旧石器時代の火山灰と関連遺跡
第2図
大隅半島北部の旧石器時代層位の遺跡間対比
形成 さ れ た 分 厚 い 土 壌 堆 積に よ り , 石 器 群 の 変 遷を 層 位 的 に 明 ら か に で きる 点 で ある 。 特
に 1990 年 代 に 開 始 さ れ た 東 九 州 自 動 車 道 関 係 の 発 掘 調 査 で は , 土 壌 堆 積 が 良 好 な 大 隅 半
島北 部 の 遺 跡 が 次 々 に 発 掘さ れ , 現 在 の 石 器 編 年の 骨 格 と な る 重 要 な 調 査成 果 が 次々 と 挙
げ ら れ た 。 例 え ば 現 在 の 末 吉 財 部 IC に あ た る 桐 木 耳 取 遺 跡 で は , P17 よ り 下 位 で 韓 半 島
に由 来 する 剥 片尖 頭 器を 含 む石 器 群が 数 多く 見 つか り ,そ れ より 上 層の P15 上 位 の粘 土 層
中で は , 小 型 台 形 ・ 小 型 ナイ フ 形 石 器 群 の ブ ロ ック が 多 数 発 見 さ れ た 。 また , 霧 島市 福 山
- 34 -
町の 城 ヶ尾 遺 跡で は P15 上 位の 層 準で 角 錐状 石 器の 大 規模 な 製作 跡 が発 見 され , その さ ら
に上 層 で 桐 木 耳 取 遺 跡 と 同様 の 小 型 台 形 ・ 小 型 ナイ フ 形 石 器 を 含 む 石 器 群が 見 つ かっ た 。
大 隅 半 島 北 部 で 判 明 し た一 連 の 石 器 群 の 層 位 的変 遷 は , そ れ ま で の 旧 石器 時 代 研究 を 劇
的 に 変 え た と い っ て も 過 言 で は な い 。 そ れ ま で 3 期 に 区 分 さ れ て い た 編 年 は 10 期 に 細 分
され , 他 地 域 と の 石 器 群 との 比 較 を よ り 細 か く 行う こ と が で き る よ う に なっ た 。 石器 群 の
変遷 過 程 の 解 明 や , 地 域 間関 係 の 整 合 な ど 研 究 課題 は 残 っ て い る も の の ,こ の 地 域の 調 査
成果 が 研 究 上 重 要 な 位 置 を占 め る こ と に は 変 わ りは な く , ま だ ま だ 目 が 離せ な い 地域 と い
って よ いだ ろ う。
3
石 材利 用 の多 様 性
鹿 児 島 の 旧 石 器 時 代 を 特徴 づ け る も の と し て 忘れ て は な ら な い の が , 多様 な 地 質環 境 に
根ざ し た石 材 環境 で ある 。石 器に 使 用さ れ る石 材 の代 表 的な も のと し ては 黒 曜石 が ある が,
これ 以 外 に も 安 山 岩 , 玉 髄, チ ャ ー ト , 頁 岩 , 水晶 , ホ ル ン フ ェ ル ス な ど, 鹿 児 島県 内 で
は実 に 多 く の 種 類 の 石 材 が産 出 さ れ る 。 例 え ば ,黒 曜 石 や 安 山 岩 は ガ ラ ス質 に 富 む溶 岩 が
地表 近 くで 急 速に 冷 えて で きた も ので あ り,い ち き串 木 野市 上 牛鼻 や 伊佐 市 日東 ・ 五女 木,
鹿児 島 市 三 船 な ど に 分 布 する 。 玉 髄 は , 主 に 流 紋岩 が 発 達 す る 地 域 で 地 下の 熱 水 活動 に よ
り形 成 さ れ る も の で あ り ,喜 入 か ら 指 宿 , 枕 崎 にか け て の 南 薩 地 域 や 伊 佐市 大 口 ,い ち き
串木 野 市 , さ つ ま 町 穴 川 など に 分 布 す る 。 こ の 他に 石 器 に よ く 利 用 さ れ る石 材 と して は ,
四万 十 層群 に 由来 す る頁 岩,チ ャ ート 等 の堆 積 岩,高 隈山 で 産出 す る水 晶 等が あ る。ま た,
薩摩 半 島 の 金 峰 山 や 大 隅 半島 の 高 隈 山 周 辺 で は ,も と も と 堆 積 し て い た 四万 十 層 群に マ グ
マが 貫 入し ,そ の熱 で 頁岩 が 変成 作 用を 受 けて で きる ホ ルン フ ェル ス など が よく み られ る。
黒 曜 石 や 安 山 岩 は , 噴 出地 点 に よ り 見 た 目 の 特徴 や 成 分 が 異 な る た め ,分 析 す ると ど こ
から 運 ば れ て き た も の か が分 か る 。 ま た , 玉 髄 の一 部 や 頁 岩 ・ チ ャ ー ト など も 同 定は 難 し
いが 地 域 に よ っ て あ る 程 度特 徴 が 異 な る 。 旧 石 器時 代 の 石 器 に は , 他 地 域で 産 す る石 材 を
利用 し たも の がし ば しば 見 られ る が,これ ら 原産 地 の特 定 も,重要 な テー マ の一 つ であ る。
石 器 を 主 な 道 具 と す る 旧石 器 時 代 の 人 び と に とっ て , 石 材 は 生 活 に 直 結す る 重 要な 資 源
であ っ た は ず で あ る 。 石 器研 究 で は 遺 跡 か ら 出 土し た 石 器 の 形 状 や 製 作 技術 を 分 析に よ っ
て人 々 が ど の よ う な 生 活 を営 ん で い た の か , ど の地 域 と 交 流 を も っ て い るの か 等 を検 討 す
るが , 多 様 な 石 材 環 境 は ,当 時 の 資 源 利 用 状 況 を考 え る 上 で 有 利 な 条 件 を与 え て くれ て い
る。 そ れ に し て も , 数 万 年前 の 人 々 が , こ れ だ け多 く の 石 材 資 源 を 見 つ け, た く まし く 利
用し て いた こ とに は 驚か さ れる 。
4
姶 良丹 沢 火山 灰 以前 の 旧石 器 時代 文 化
姶 良 丹 沢 火 山 灰 は , そ の後 の 自 然 環 境 の 変 化 に適 応 し て 生 き た 人 類 の 歴史 を 考 える に は
必要 不 可欠 な 存在 で ある が,28,000 年 を 確実 に 遡る 古 い石 器 群を 探 すた め にも 有 益で あ る。
残 念 な が ら 分 厚 く 堆 積 した 入 戸 火 砕 流 の た め ,鹿 児 島 県 本 土 で は 姶 良 丹沢 火 山 灰よ り 下
位の 旧 石器 時 代遺 跡 は, い くつ か の遺 跡 が見 つ かっ て いる に 過ぎ な い。
例 え ば鹿 児 島市 帖 地遺 跡 では ,AT 以 前 と 考え ら れる 小 型ナ イ フ形 石 器が 出 土し て おり ,
同市 松 元 町 の 前 山 遺 跡 で も, 剥 片 の 一 部 に 加 工 を施 し た 不 定 形 石 器 が 出 土し て い る。 姶 良
丹沢 火 山灰 降 灰以 前 にこ の 地域 に 人類 が 生活 し てい た のは 間 違い な い。
九 州 の 南 方 に 位 置 す る 薩南 諸 島 で も , こ の 時 期の 遺 跡 が い く つ か 発 見 され て い る。 種 子
島 で は , 中 種 子 町 立 切 遺 跡 で 約 30,000 年 前 の 種 Ⅳ 火 山 灰 の 下 位 か ら 国 内 最 古 ク ラ ス の 落
し穴 が 発 見 さ れ , 全 国 的 に注 目 を 浴 び た 。 立 切 遺跡 で は そ の 上 層 に も 砂 岩の 大 型 石器 を 主
体と す る 石 器 群 が 発 見 さ れて い る 。 こ の 時 期 の 遺跡 は 宮 崎 県 や 静 岡 県 な どで も 多 く見 つ か
って い る 。 尖 頭 器 や ナ イ フ形 石 器 な ど 比 較 し や すい 石 器 を 持 た な い た め ,他 地 域 との 比 較
は難 し い が , 黒 潮 に 沿 っ て発 達 し た 温 暖 な 気 候 に適 応 し た 石 器 文 化 の 広 がり が 考 えら れ て
いる 。 薩南 諸 島に お ける AT 降 灰 以前 の 石器 文 化の 広 がり は ,鹿 児 島の 多 様性 の 一つ と 言
って よ いだ ろ う。南の 台 湾に も,礫 器を 主 体と す る旧 石 器文 化 の広 が りが 確 認さ れ てい る。
海上 交 通 の 様 相 は 不 明 だ が, こ れ ら の 石 器 文 化 との 関 係 も ま た , 興 味 深 いテ ー マ であ る 。
- 35 -
第3図
九州東南部の石器群変遷
- 36 -
第4図
南九州の地質環境と主要な石材原産地
- 37 -
写真
東九州 自動車道関係 遺跡の調査成 果(曽於市末 吉町桐木耳取 遺跡)
- 38 -
第Ⅱ章
2 4 年度
遺跡一 覧
- 39 -
遺跡速報
第Ⅱ章
遺跡速報
高吉B 遺跡( た かよしび ーいせき)
1
所 在地
志布 志 市志 布 志町 安 楽
2
起因事業
主要地方道志布志福山線
(有 明 志布 志 道路 ) 道路 改 築事 業
3
調 査年 度
平 成 22~ 24年度
4
主 な時 代
旧 石 器時 代
縄 文 時代 早 期
弥 生 時代 中 期
5
遺 跡の 概 要
高 吉 B 遺 跡 は , 標 高 約 80m の 台 地 の 縁 辺
部に位置し,遺跡の西側には安楽川が流れ
ています。主要地方道(高規格道路)の改
築 事 業 に 伴 い , 平 成 22年 12月 か ら 平 成 24年
9月まで調査が行われました。弥生時代中
たて あな じゆう きよ
期の竪穴 住 居跡や,縄文時代早期の土器
れん けつ ど こう
を伴った連穴土坑など,数多くの貴重な発
空から見た遺跡
見が あ りま し た。
6
注 目さ れ る成 果
(1 ) 弥生 時 代中 期 の竪 穴 住居 跡
弥生時代中期の竪穴住居跡が6軒
発見されました。平面の形が花びら
のように張り出していることから
か べん がた
「花弁型住居」といわれています。
住居跡の大きさは約5~7mで,柱
の跡も確認できました。住居跡の中
からは,地元で作られた土器ととも
に,瀬戸内地方や北部九州地方の特
竪穴住居跡群の様子
徴をもつ土器も発見されました。こ
れらの遺構や遺
物は,当時の集
落の様子や他地
域との交流につ
いて考える上で
大変貴重なもの
です 。
平成23年度現地説明会の様子
- 40 -
竪穴住居跡調査の様子
第Ⅱ章
(2 ) 横穴 を 土器 で ふさ い だ土 坑
弥生時代の竪穴住居跡の近くで,片側の壁に土
器が集中して埋めてある土坑が見つかりました。
土器を取り上げて見ると,横に穴をあけて土器で
ふさいでいた様子が分かりました。志布志市松山
きようのみね
町の京ノ峯遺跡でも,横穴を石でふさいだと思わ
れる土坑が発見されています。この土坑は,発見
例が少なく,どのような目的で,どのように使わ
れて い たの か 興味 は つき ま せん 。
土坑の状況
横穴断ち割り状況
横穴を塞いでいる状況
(3 ) 土器 を 伴っ た 連穴 土 坑
くん せい
縄文時代早期の遺構として,燻製をつくる
施設と考えられている連穴土坑が4基発見さ
れました。そのうちの1つは,ちょうど火を
焚いたと思われる場所に,土器がほぼ完全な
形で発見されました。発見された土器には綾
杉状の文様が施されており,縄文時代早期中
いし ざか しき
頃の石坂式土器の系統と思われます。連穴土
坑の中から土器が発見された例は少なく,連
穴土坑の使われ方や,使われていた時期につ
いて 知 る手 が かり と なる 貴 重な 資 料で す 。
( 富 山孝 一 )
連穴土坑内の土器
連穴土坑半裁
- 41 -
遺跡速報
第Ⅱ章
遺跡速報
下原遺 跡(し も はらいせ き)
1
所 在地
志 布 志市 有 明町 伊 崎田
2
起 因事 業
主 要 地方 道 志布 志 福山 線 (有 明 志布 志 道路 ) 道路 改 築事 業
3
調 査年 度
平 成 24年 度
4
主 な時 代
縄 文 時代 , 弥生 時 代, 近 世, 近 代
5
遺 跡の 概 要
下原遺跡は,大隅半島東部の菱田川と安楽川に開析
さ れ た 標 高 約 100mの シ ラ ス 台 地 上 に 位 置 し , 遺 跡 近 く
で は 県 道 63号 線 沿 い に 杉 並 木 が 残 さ れ て い ま す 。 本 年
度から始まった調査では,縄文時代から近代までの遺
構・ 遺 物が 確 認さ れ てい ま す。現在 の 県道 に 平行 し て,
近世と近代とみられる2条の道路跡が検出されていま
す。近代の道路跡からは蹄鉄が出土し,また,大正3
年 (1914)の 桜 島 大 噴 火 の 火 山 灰 が 約 10㎝ 堆 積 し た 状 況
が確 認 され ま した 。
( 長 﨑 慎太 郎)
近代の道路跡(左)と近世の道跡(右)
調査の様子
近世の道跡
縄文時代の集石
道路跡に堆積した大正火山灰(断面)
- 42 -
第Ⅱ章
遺跡速報
前原和 田遺跡 ( まえはら わだいせき)
1
所 在 地
霧 島 市福 山 町佳 例 川
2
起因事業
一般地方道大川原小村線道路改良
3
調 査年 度
平 成 24年 度
4
主 な時 代
旧 石 器時 代 ,縄 文 時代
古 墳 時代 , 中世
5
遺 跡の 概 要
前原和田遺跡は,旧福山町の北部に位置し,北
に黒石岳,東に白鹿岳,南に荒磯岳といった山地
に囲まれた西北西から東南東方向に細長い台地・
丘陵 部 に位 置 しま す 。
県 道 改 良 工 事 に 伴 い , 本 年 度 8 月 か ら 10月 の 3
ヶ月間調査を行いました。せまい範囲の調査でし
たが,中世の畠跡や古墳時代の竪穴住居跡,縄文
時代の竪穴住居跡,旧石器時代の遺物などが確認
され ま した 。
6
注 目さ れ る成 果
(1 ) 古墳 時 代
調査の風景
古墳時代の竪穴住居跡は全部で3軒発見されま
した。この地区で当該期の集落はあまり見つかって
おらず,当時のムラのあり方を考える上で貴重な発
見と 言 えま す 。
(2 ) 中世
文 明 ボ ラ (約 550
年程前の桜島噴出
物)で埋 もれた畠
の畝跡が見つかり
まし た 。
うね
畝が高い状態で
残っているので,
降灰直前まで耕作
されていた可能性
があ り ます 。
(有 馬 孝一 )
中央に炉跡がある竪穴住居
中世の畠跡
- 43 -
第Ⅱ章
遺跡速報
中津野 遺跡( な かつのい せき)
1
所 在地
南 さ つま 市 金峰 町 中津 野
2
起因事業
国 道 270号 (宮 崎 バ イ パ ス )改 築 工 事
3
調 査年 度
平 成 18~ 21年度
4
主 な時 代
旧 石 器時 代 ~中 世
5
遺 跡の 概 要
中津野遺跡は,薩摩半島南西部に流れる万之瀬
川と そ の支 流 に挟 ま れた 地 形の 南 側に 位 置し ま す。
国 道 270号 宮 崎 バ イ パ ス 建 設 に 伴 い , 標 高 約 25m の
シラス台地から河川の氾濫でできた河岸段丘,標
高 約 6 m の 低 地 ま で を 一 つ の 遺 跡 ( 約 30,600㎡ )
と し て , 平 成 18年 度 か ら 4 次 の 発 掘 調 査 を 行 っ て
います。これまでの調査で,旧石器時代から中世
に至るまでの幅広い時代の遺構・遺物が出土して
おり,本年度は,これまでに出土した遺構・遺物
の整 理 作業 を 行っ て いま す 。
6
空から見た中津野遺跡
注 目さ れ る成 果
中 津 野 遺 跡 の 発 掘 調 査 は完 了 し て い ま せ ん が ,こ れ ま で の 発 掘 調 査 で ,多 く の 遺物 と と
もに 弥 生 時 代 の 竪 穴 住 居 跡や 中 世 の ム ラ , 多 量 の木 材 を 敷 き 詰 め た 時 代 不詳 の 道 路跡 と 考
えら れ る遺 構 を検 出 して い ます 。
中世の建物跡3棟
弥生時代の竪穴住居跡
中世のムラ
低地部分では木材を敷き詰めた遺構とともに
木製の農具や生活用具なども出土しました。現
在,時代を調べるために科学的な分析を進めて
います。
(西園勝彦)
木製農具
- 44 -
木製農具出土状況
第Ⅱ章
芝原遺 跡(し ば はらいせ き)
1
所 在 地
南 さ つま 市 金峰 町 宮崎
2
起因事業 中小河川(万之瀬川)改修事業
3
調 査年 度 (発 掘 調査 ) 平成 11~16年 度
(整 理 作業 ) 平成 17~24年 度
4
主 な時 代
縄 文 時代 ~ 近世
5
遺 跡の 概 要
芝原遺跡は,万之瀬川中流の右岸,標高約
4mの自然堤防上に位置し,縄文時代から近
遺跡遠景
世までの遺構・遺物が発見されました。報告
書は,今までに『芝原遺跡1
編 』,『 芝 原 遺 跡 2
遺跡3
縄文時代遺構
縄 文 時 代 遺 物 編 』,『 芝 原
古代・中世・近世編』が刊行され,
本年度は,この事業の最後となる『芝原遺跡
4
弥生・古墳編』の刊行に向けて整理作業
を行 っ てい ま す。
6
注 目さ れ る成 果
(1 ) 縄文 時 代
縄文時代では,多くの土器・石器が出土し
ましたが,中でも県内でも珍しい中期の竪穴
状遺構が発見され,その中から西北九州でよ
ぎよ ろう
くみられる漁撈具の一種である黒曜石製の鋸
歯尖頭器が見つかりました。棒の先端と側面
に埋め込んで,獲物を突く「もり」として使
用さ れ たと 考 えら れ てい ま す。
(2 ) 弥生 時 代
縄文時代の土器と石器
こ がた ぼうせいきよう
弥 生 時 代 で は ,「 小 型 仿 製 鏡 」 と 呼 ば れ る 日
はき よ う
本製の鏡と「破鏡」と呼ばれる中国製の鏡が4
点発見されました。弥生時代の終わり頃のもの
さ い し
で,祭祀に使用されたのではないかと考えられ
ています。このような鏡の所有者は,この地域
の支 配 者層 の 人々 で あっ た と思 わ れま す 。
弥生時代の鏡
- 45 -
遺跡速報
第Ⅱ章
遺跡速報
(3 ) 古墳 時 代
古 墳 時 代 で は , 完 全 な 形 に近 い 土 器 が 集 中 し て 発 見さ れ ま し
た 。 水 辺 の 祭 祀 を 行 っ た 場 所で は な い か と 考 え ら れ てい ま す 。
(4 ) 古代
古 代 で は , 今 か ら 約 1.000年 前 の 土 師 器 に , 墨 で 「 酒 井 」・
「 福 」・「 宅 」 と い っ た 文 字 を 書 い た 墨 書 土 器 や ヘ ラ で 書 い た
ヘ ラ 書 き 土 器 が 200点 以 上 発 見 さ れ ま し た 。 こ れ ほ ど 多 く の 墨
ほつたてばしらたてもの
書土器やヘラ書き土器は珍しく,また,掘 立 柱 建 物跡も多く
見 つ か っ て い る こ と か ら , この 地 域 を 治 め る 役 所 な どが 置 か れ
た こう へい
て い た の で は な い か と 考 え られ て い ま す 。 ま た , 多 口瓶 と 呼 ば
れる 須 恵器 の 瓶や 大 型の 壺 など も 見つ か りま し た。
古墳時代の土器集中遺構
(5 ) 中世
中世では,大量の輸入陶磁器や国内産陶
器が発見され,博多や坊津と並んで,この
遺跡が万之瀬川下流域における海外貿易の
拠点 で あっ た こと が わか り まし た 。
中世末から近世にかけては,製鉄関連の
遺構・遺物が発見され,鉄製品を生産する
過程である製鉄→精錬→鍛冶のすべて工程
がこの地域で行われていたことがわかりま
した。
(関明恵)
墨書土器・ヘラ書き土器・多口瓶
中世の輸入陶磁器国産陶器
大型の須恵器
- 46 -
第Ⅱ章
天神段 遺跡( て んじんだ んいせき)
1
所 在地
曽於 郡 大崎 町 野方
2
起因事業
東九州自動車道建設
3
調 査年 度
平 成 19年 ~
4
主 な時 代
旧 石 器時 代 ,
縄 文 時代 ,
古 代 ,中 世
5
遺 跡の 概 要
天神段遺跡は,大隅半島中央部の
標 高 約 200m の 北 東 と 西 側 に 大 き く
落ち込むシラス台地の縁辺に位置し
ます。東九州自動車道建設に伴い,
平 成 19年 度 か ら 発 掘 調 査 が 実 施 さ
れ,本年度で調査は6年目を迎えま
す。これまでに,旧石器時代から中
世に至るまで幅広い時代の遺構・遺
物が発見されています。本年度は,
空から見た遺跡
延 べ 17,520㎡ を 対 象 に , 5 月 8 日 よ
り調 査 を開 始 しま し た。
6
注 目さ れ る成 果
(1 ) 縄文 時 代早 期
こ れ ま で の 調 査 で , 早 期 前 半 の 竪 穴 住 居 跡8 軒 や 連 穴
土 坑 10基 以 上 が 見 つ か っ て い ま す 。 ま た , 早期 全 体 で 集
石 は 300基 以 上 見 つ か っ て お り , 長 期 間 に わ た り 人 び と
が生 活 して い たこ と がわ か って き まし た 。
調査風景
連穴土坑完掘状況
遺構撮影風景
- 47 -
遺跡速報
第Ⅱ章
遺跡速報
(2 ) 縄文 時 代前 期
平 成 24年 度 の 調 査 で , ア カ ホ ヤ火 山 灰 層 上 で 縄 文
せつ けん
けつ がん
時 代 前 期 の 石 剣 が 出 土 し ま し た 。頁 岩 素 材 で , 最 大
長 35㎝ あ り 全 面 が 研 磨 さ れ て い まし た 。 し か し , 先
端 部 や 側 面 を 鋭 利 に 加 工 し て お らず , 狩 猟 等 に 用 い
る 実 用 品 と は 言 い 難 く , 祭 祀 な どの 儀 式 に 用 い ら れ
た と 考 え ら れ ま す 。 こ の よ う な 特徴 は , 東 日 本 で 見
ら れ る こ と か ら 何 ら か の 交 流 が あっ た 可 能 性 も 考 え
られ ま す。
こ の 石 剣 は , 現 段 階 に お け る 西日 本 最 古 級 の 石 剣
石剣出土状況
で あ り , 東 日 本 と の 関 わ り も 考 えら れ る 貴 重 な 資 料
と評 価 され て いま す 。
(3 ) 中世 の 土坑 墓
平 成 19年 度 の 調 査 で は , 2 基 の土 坑 墓 が 並 ん で 発
見 さ れ て い ま す 。 ど ち ら も 南 北 方向 を 向 い た 長 方 形
の 墓 で , 特 に 下 の 写 真 手 前 の 土 坑墓 か ら は , 多 数 の
完全 な 形の 副 葬品 が 発見 さ れま し た。 ( 黒 川忠 広 )
土坑墓1(右)・2(左)の様子
四方向からみた石剣
土坑墓1出土の輸入陶磁器
土坑墓1出土の古銭
- 48 -
土坑墓1出土のハサミ・紡錘車
第Ⅱ章
立小野 堀遺跡 ( たちおの ぼりいせき)
1
所 在地
鹿屋 市 串良 町 細山 田
2
起 因事 業
東 九 州自 動 車道 建 設
3
調 査年 度
平 成 22年 度 ~
4
主 な時 代
古 墳 時代
5
遺 跡の 概 要
立 小 野 堀 遺 跡 は , 串 良 川 流 域 の , 標 高 12 5
mの笠野原台地北東縁辺部に位置します。東
九 州 道 建 設 に 伴 い , 平 成 22年 度 か ら 発 掘 調 査
が 実 施 さ れ , 本 年 度 で 3年 目 を 迎 え ま す 。 こ
れ ま で に , 約 1, 50 0 年 前 の 古 墳 時 代 に 造 ら れ
た 「 地 下 式 横 穴 墓 」 が 1 20 基 以 上 発 見 さ れ
( 10 月 中 旬 , 現 在 も 増 加 中 ), 大 規 模 な 共 同
墓地であることが明らかになりました。これ
遺跡全景(北東方向から)
ほどの数の地下式横穴墓を調査することは県
内では初めてであり,鹿児島県の古墳時代を
考え る 際の 重 要な 遺 跡で す 。
6
注 目さ れ る成 果
げ ん しつ
148号 墓 は 玄 室 の 天 井 が 崩 落 し て い ま し た
ど か い
が,崩落した土塊の下から全身を赤色顔料で
遺跡の地形
着 色 し た 人 骨 の 周 り か ら 青 銅 製 の 鈴 5個 , 鉄
てつぞく
剣 1 振 , 20本 以 上 の 鉄 鏃 が 発
見 さ れ ま し た 。 こ の 人 骨 は 20
代の女性で,多くの貴重な遺
物が 副 葬さ れ てい る こと か ら,
この地域で強い権力を持つ一
族の一員であり,若くして亡
くなったのではと考えられま
す。なお,本遺跡では副葬品
は剣や鏃(や
じり)等の武
器がほとんど
で,装身具は
大変珍しいで
148号墓
発見された鈴
す。
- 49 -
玄室内の様子
遺跡速報
第Ⅱ章
遺跡速報
9号墓平面図
9号墓玄室内の様子
9号 墓 で は 3体 の 遺 骨 が 埋 葬 さ れ , 15
本 以 上 の 鉄 鏃 , 3振 の 鉄 剣 , 長 さ 104㎝
の鉄刀が副葬されていました。また,
大変貴重な初期須恵器の大甕の破片
たてこ う
が,竪坑埋土の中や当時の地表部に散
乱 し て い ま し た 。 竪 坑 埋 土 に は 2回 の
掘り返された跡があり,副葬品に年代
ついそ う
差がみられることから,追葬が行われ
たと考えられます。副葬品の豪華さや
周囲の墓から離れていることなどか
ら,立小野堀遺跡の中でも最も権力を
持つ一族の墓ではないかと思われま
す。
●遺 構 配置 に つい て
ま だ 調 査 中 で す が , 24年 10月 初 旬 現
在,右の図のような配置になります。
遺 構 の 切 り 合 い は 1箇 所 で し か 見 ら れ
ず,地表部になんらかの標識をもって
い た と 考 え ら れ ま す 。( 藤 島 伸 一 郎 )
- 50 -
第Ⅱ章
遺跡速報
荒園遺 跡(あ ら ぞのいせ き)
1
所 在 地
曽 於 郡大 崎 町仮 宿
2
起 因事 業
東 九 州自 動 車道 建 設
3
調 査年 度
平 成 24年 度 ~
4
主 な時 代
縄 文 時代 , 古墳 時 代
5
遺 跡の 概 要
荒園遺跡は,志布志湾から約4㎞西側へ入った位置で,
西 側 に 持 留 川 が 流 れ る 標 高 約 40m の 二 次 シ ラ ス に よ る 段
丘状に立地します。東九州自動車道建設に伴い発掘調査
が実施され,古墳時代の竪穴住居跡2軒,縄文時代早期
の土 器 や石 器 及び 集 石遺 構 3基 が 出土 し てい ま す。ま た,
7,000年 以 上 も 前 に 鬼 界 カ ル デ ラ が 大 爆 発 を し た 時 に 発 生
した 地 震に よ る液 状 化現 象 の跡 も 発見 さ れて い ます 。
現地説明会の様子
調査風景
石蒸し調理の跡と思われる集石遺構
6
注 目さ れ る成 果
(1 ) 液状 化 の跡
今 か ら約 7,300年 前に ,現 在の 硫 黄島 の あた り に大 き な火 山( 鬼
界カルデラ)が大爆発を起こしたことが地層の観察で知られてい
ます 。
か
大きな爆発では最初に軽石が飛んできて堆積します。その後火
さい りゆう
砕 流 が起こり,最後に火山灰が降り積もります。荒園遺跡で発
見 さ れ た 液 状 化 の 跡 は ,最 初 に 積 も っ た 軽 石 層 を 切 り 裂 い て シ ラ
スや砂を含んだ水が噴き出したようです。その後アカホヤと呼ば
- 51 -
液状化の跡1
第Ⅱ章
遺跡速報
れる火山灰が降り積もっています。吹き上げられた白っぽい砂は
噴砂 と 呼ば れ て厚 い とこ ろ では 1 mも 堆 積し て いま す 。
(2 ) 古墳 時 代
古 墳 時 代 ( 約 1,500年 前 ) の 調 査 で は , 竪 穴 住 居 跡 が 2 軒 が 発
見されました。1号住居は3×3mの大きさで,住居の中には完
形の 土 器が た くさ ん 残さ れ てい ま した 。
2号住居は5×5mの大きな住居で,中には炭になった木材が
たくさん残っていました。このことから火事で焼けた住居ではな
いかと考えられます。また,住居内で溝が確認されたことで,内
部 は 壁 な ど で 仕 切 ら れ て い た こ と も わ か り ま し た 。( 中 村 耕 治 )
液状化の跡2
土層断面を剥ぎ取りの様子
1号竪穴住居跡
2号竪穴住居跡調査状況
2号竪穴住居跡(炭化物残存状況)
2号竪穴住居跡(間仕切りの状況)
- 52 -
第Ⅱ章
田原迫 ノ上遺 跡 (たはら さこのうえいせき)
1
所 在地
鹿 屋 市串 良 町細 山 田
2
起 因事 業
東 九 州自 動 車道 建 設
3
調 査年 度
平 成 22年 度 ~
4
主 な時 代
縄 文 時代 , 弥生 時 代
5
遺 跡の 概 要
田原迫ノ上遺跡は,笠野原台地の北側
縁 辺 部 に 位 置 し ま す 。 標 高 は 約 1 20 m で ,
北側の斜面を下ったところに串良川が流
れています。遺跡と川との標高の差は約7
0m で す 。 東 九 州 自 動 車 道 建 設 に 伴 い , 平
成 22年 度 か ら 発 掘 調 査 が 実 施 さ れ , 本 年
度で調査は3年目を迎えます。これまで
に,縄文時代と弥生時代の遺構・遺物が
発 見 さ れ , 本 年 度 は 延 べ 15 ,7 50 ㎡ を 対 象
空から見た田原迫ノ上遺跡
に, 6 月6 日 から 調 査を 開 始し ま した 。
6
注 目さ れ る成 果
(1 ) 縄文 時 代早 期
こ れ まで の 調査 で は,早期 中 頃の 竪 穴住 居 跡,集石 ,
連穴 土 坑な ど や石 坂 式土 器 が発 見 され て いま す。特に ,
けむり
連穴土坑には 煙 出しとみられる穴が両側2か所あるも
のが発見されています。調査の結果,作り替えである
調査の様子
こと が わか り まし た 。
(2 ) 弥生 時 代中 期 後半
この時期では,竪穴住居跡,
掘立柱建物跡,土坑,円形・方
形周溝などの多くの遺構群が発
見されています。これらの遺構
は,多くは山ノ口土器の時期で
す。
この時期の集落遺跡は大隅半
島では多く発見されています。
いいもりがおか
例えば,王子遺跡,飯盛ヶ岡遺
い し くび
跡,石縊・十三塚遺跡などがあ
連穴土坑
り,田原迫ノ上遺跡はその中で
- 53 -
遺跡速報
第Ⅱ章
遺跡速報
も大 集 落の ひ とつ で あっ た 可能 性 があ り ます 。
ま た ,本 遺 跡の よ うに 多 様な 遺 構か ら なる 集 落遺 跡 は類 例 が少 な く, 注 目さ れ ます 。
( 上床 真 )
弥生時代の竪穴住居跡①
弥生時代の竪穴住居跡②
土坑①
土坑②
円形周溝
円形周溝(二重)
- 54 -
第Ⅱ章
遺跡速報
永吉天 神段遺 跡 (ながよ してんじんだんいせき)
1
所 在地
曽 於 郡大 崎 町永 吉
2
起 因事 業
東 九 州自 動 車道 建 設
3
調 査年 度
平 成 24年 度 ~
4
主 な時 代
旧 石 器時 代,縄 文時 代,弥 生 時代 ,
古代
5
遺 跡の 概 要
永吉天神段遺跡は,持留川と田原川に挟まれた
標高 50m程 の シラ ス 台地 上 に立 地 して い ます 。
平 成 23年 度 に 確 認 調 査 を 行 い , 平 成 24年 度 か ら
本調 査 を実 施 して い ます 。
本 調 査 で は , 縄 文 時 代 早 期 ( 約 7,300年 前 ) の 地
震に 伴 う 液 状 化 現 象 の 跡 ,縄 文 時 代 前 期 ( 約 6,000
年 前 ) の 土 器 や 石 器 , 弥 生 時 代 ( 約 2,100年 前 ) 及
び 平 安 時 代 ( 約 1,200年 前 ) の 集 落 跡 が発 見 さ れ ま
した 。
6
作業風景
注 目さ れ る成 果
(1 ) 縄文 時 代早 期 の地 震 痕跡
約 7,300年 前 の 地 震 に よ る 液 状 化 現 象 の
跡( 噴 砂跡 )が発 見 され ま した 。噴 砂跡 は,
アカホヤ火山灰層の降下軽石と火山灰の間
に存在するので,現在の三島村近海にある
鬼界カルデラの噴火に伴う地震によって起
きたと考えられます。液状化現象は,震度
5以上の揺れで起きるとされており,当時
これに相当する揺れがあったことが分かり
ます 。
墳砂後の写真
南海トラフに伴う地震では,震度6が想
定されており,この地域の減災・防災を考え
る 上 で重 要 な資 料 です 。
新聞記事
- 55 -
第Ⅱ章
遺跡速報
(2 ) 縄文 時 代の 生 活跡
鬼界カルデラの噴火後しばらくして,縄文人が
生 活 を 始 め ま し た 。 遺 跡 で は , 約 6,000年 前 ( 縄 文
そばたしき
時代前期)の曽畑式土器と呼ばれる縄文土器や黒曜
石の破片,石皿・磨石などの石器が見つかっていま
す。縄文人は狩猟・採集を中心に生活していたと考
えられますが,土器・石器の出土量が少なく,竪穴
住居跡も発見されていないことから,滞在期間は短
かっ た よう で す。
縄 文 時 代 の 終 わ り 頃 ( 約 2,700年 前 ) に な る と 再
竪穴住居跡
び縄文人が帰ってきます。竪穴住居跡が1軒発見さ
れており,その周辺では土器や木材加
工用の石斧,土掘り具,石鏃,石錐な
どが多数出土しました。一定期間の定
住が 始 まっ た こと が うか が えま す 。
雑穀などの栽培を行っている可能性
があり,現在,住居跡の土を調べてい
住居周辺で出土した土器
土掘り具
ます 。
(3 )
平 安 時代 の 集落 跡
9 世 紀 頃 の 掘 立 柱 建 物 跡が 6 棟 発 見 さ れ ま し た。 建 物 跡 は , 建 物 の 方 向か ら 2 ~3 棟 が
同時 に 建 っ て お り , 重 な りが み ら れ る こ と か ら 立て 替 え が 1 回 行 わ れ た よう で す 。周 辺 か
は
じ
き
す
え
き
てつせい と う す
ぼ う すい しや
らは , 土 師 器 , 須 恵 器 , 鉄製 刀 子 , 土 製 紡 錘 車 ,焼 塩 土 器 が 出 土 し ま し た。 建 物 規模 や 出
土品 か ら, 一 般的 な 農村 で ある と 考え ら れま す。(川 口雅 之 )
平安時代の掘立柱建物跡
遺物の出土状況
- 56 -
第Ⅱ章
堀之内 遺跡( ほ りのうち いせき)
1
所 在地
薩摩 川 内市 青 山町
2
起 因事 業
南 九 州西 回 り自 動 車道 建 設
3
調 査年 度
平 成 21~ 24年度
4
主 な時 代
旧 石 器時 代 ~近 世
5
遺 跡の 概 要
堀之内遺跡は,薩摩半島の北西部,薩摩川
内 市 青 山 町 の 標 高 約 45mの 舌 状 台 地 状 の 丘 陵
地に位置します。遺跡の北側には木場谷川が
流れ,南側には隈之城川が流れており,遺跡
の南北端は両河川に向かって急峻な崖になっ
遺跡の遠景
ています。ここは南九州西回り自動車道川内
隈 之 城 道 路 建 設 に 伴 い , 平 成 21年 11月 か ら 発
掘調査が実施され,本年8月に全ての調査が
終了 し まし た 。
6
注 目さ れ る成 果
弥生時代から古墳時代の調査では,土坑や
柱穴等の遺構が確認され,この時代の土器も
多量に出土しました。また,古代から近世に
かけても掘立柱建物跡をはじめ,炉跡や落と
し穴などの遺構が確認され,青磁や白磁とい
調査の様子
った 輸 入陶 磁 器も 多 数出 土 して い ます 。
(抜 水 茂樹 )
古墳時代の土坑
古代の炉跡
近世の陥し穴
- 57 -
遺跡速報
第Ⅱ章
遺跡速報
山 口遺 跡(や ま ぐちいせ き)
1
所 在地
薩 摩川 内 市都 原
2
起 因事 業
南 九州 西 回り 自 動車 道
川 内 隈之 城 道路 建 設
3
調 査年 度 (発 掘 調査 ) 平成 21~23年 度
(整 理 作業 ) 平成 23~24年 度
4
主な時代
旧 石 器 時 代 ~ 縄 文時 代 草 創 期 ・ 早 期
後 ・ 晩期 , 弥生 時 代~ 近 世
5
遺 跡の 概 要
山 口 遺 跡 は , 薩 摩 川 内 市 都 町 に所 在 し , 川 内 川 の
支 流 ( 木 場 谷 川 ・ 都 川 ) に 挟 ま れ た 比 高 差 30m の 舌
状 台 地 に あ り ま す 。 現 在 の 西 回 り自 動 車 道 の 都 イ ン
ター 近 くで す 。
6
調 査の 概 要
山 口 遺 跡 で は , 細 石 刃 期 ~ 縄 文草 創 期 の 細 石 刃 製
か み う しば な
作 に 伴 う 上 牛 鼻 産 や 霧 島 系 黒 曜 石の 石 器 製 作 跡 や ,
れきぐん
落 し 穴 状 遺 構 , 土 坑 , 礫 群 が 検 出さ れ ま し た 。 縄 文
掘立柱建物跡等の柱穴群
時 代 早 期 に お い て は , 深 鉢 の 口 縁部 が 「 く 」 の 字 に
せ の か ん
屈 曲 す る 特 異 な 塞 ノ 神 式 土 器 が 出土 し た の が , 注 目
さ れ ま す 。 打 製 石 鏃 な ど の 石 器 の製 作 跡 や 落 し 穴 状
遺構,土坑,集石
遺構なども検出さ
れました。細石刃
期 ~ 縄文 時 代ま で,
狩猟生活をしてい
た 様 子が 窺 えま す。
塞ノ神式土器
中世においては,掘立柱建物跡を中心に,墓跡,土坑
が セ ット 関 係で 4 つの エ リア に 集中 し て検 出 され ま した 。
初代の先祖を守り神として家の敷地内に祀る「屋敷墓」
を も つ屋 敷 群が ,複 数存 在 した 可 能性 が 捉え ら れま し た。
同じ時期に,木棺墓や石塔墓,墓の上に屋根を設けるタ
イプなど,4つとも異なる形態で埋葬していたことが分
かり,他に類例を見ない珍しい様相が見えてきました。
(廣栄次)
木棺埋葬後,再葬した
と思われる石塔墓
- 58 -
第Ⅱ章
遺跡速報
河 口コ レクシ ョ ン
1 河口コレクションとは
故河口貞徳氏が,昭和20年代からの学術的な発掘調査によっ
て,得られた膨大な資料のことです。河口コレクションは,鹿
児島県の歴史・文化を知る上で大変貴重です。特に,上加世田
遺跡・黒川洞穴・高橋貝塚・山ノ口遺跡など土器編年の標識資
料も多く,学史的に高く評価されます。また,十島村宝島の浜
な か ふ
坂貝塚や沖永良部島の中甫遺跡など,南北600㎞に及ぶ多様な資
料が含まれており,文化的な価値も高いものです。さらに,山
が んぐん
しもしようじ
あわせぐちかめかん
ノ口遺跡の軽石製岩偶や下小路遺跡出土の合口甕棺などの希少
資料もあり,これらの実物資料や発掘調査の記録などは,本県
のみならず,日本考古学会の宝とされます。
魚見ヶ原遺跡現地指導の様子
2 埋蔵文化財活用整理事業について
河 口 コ レ ク シ ョ ン を , 遺 族 の ご 厚 意 に よ り一 括 し て 県
が受 け 入れ ま した 。本年 度 は特 に,こ のコ レ クシ ョ ン の,
散 逸 を 防 ぎ , 適 切 な 整 理 を 行 い な が ら , 他 の埋 蔵 文 化 財
と 併 せ て 県 民 ・ 国 民 に 展 示 ・ 公 開 を 行 い , 鹿児 島 県 の 個
性的 な 歴史 や 文化 を 広く 県 内外 に 発信 す る事 業 です 。
玉龍高校にて
植平遺跡にて
【業績等】
S29~30
宇宿貝塚(奄美市 S61.10.7 国指定)
明治42(1909)年 鹿児島市生まれ
S32
住吉貝塚(知名町 H19.7.26 国指定)
昭和17年 立正大学卒業
S42~45
薩摩国分寺(薩摩川内市 S19.11.13国指定)
昭和25年~42年 鹿児島市立玉龍高校教諭
昭和24年 鹿児島県考古学会設立
等の発掘調査を行う
S51~54
九州縦貫道関係発掘調査に調査員として参加
昭和28年 鹿児島県文化財保護審議会委員 (〜平成7年)
昭和41年 南日本文化賞(南日本新聞社)
【主な著書】
昭和45年 文化財功労者(文化庁)
1982 『奄美列島の文化」『縄文文化の研究』6 雄山閣出版
昭和46年 鹿児島県考古学会会長(~平成23年)
1982 「南九州」『三世紀の考古学』下巻 学生社
昭和54年 勲五等雙光旭日章
1985 『鹿児島県石坂上遺跡,出水貝塚,黒川洞穴遺跡,
平成12年〜17年 『先史・古代の鹿児島』県教委刊行監修委員
宇宿貝塚」『探訪 縄文の遺跡』有斐閣
1988 『日本の古代遺跡 鹿児島』保育社
【主な発掘歴】
S27,S40 黒川洞穴(日置市 H16.4.20 県指定)
平成23(2011)年1月10日 死去 満101歳
- 59 -
第Ⅱ章
遺跡速報
山ノ口遺跡
所在地
錦江町大根占山ノ口
調査年度
昭和33〜36年
主な時代
弥生時代中期後葉
遺跡の概要
山ノ口遺跡は大根占町と根占町の水田地帯の中間位
置し,産地が背後に迫った地峡地帯にあります。当時の
海岸線に沿って幅20m,長さ60m程の範囲に10基余の
祭祀遺構が検出されました。遺構は,砂浜に軽石礫を用
いて環状配石を設け,そのかたわらに立石,石棒,陰石,
岩偶などを立て,環状配石のまわりに土器や石鏃,軽
石製勾玉や呪具を配置して供献したものです。石棒,
陰石,岩偶は軽石製で,石棒は長径39.5㎝,陰石は長
径34㎝。大きい岩偶(男性,30.5㎝)は耳栓をはめた
山ノ口遺跡出土品
様子を示しています。小さな岩偶(女性,26.5㎝)は
髪を2カ所で結束し乳房があります。いずれも基部を砂
に埋めて立てたものと思われます。
上加世田遺跡
所在地
南さつま市加世田川畑上加世田
調査年度
昭和43〜47年
主な時代
縄文時代晩期
遺跡の概要
上加世田遺跡は加世田の中心街より東わずか800mに
位置している。万之瀬川,加世田川がつくった沖積低
地にのぞむ低い洪積台地の末端部にあり,標高20m,
上加世田遺跡出土品
沖積低地からの比高は約8mである。
縄文時代晩期の集落地の北西に隣接してつくられた集
会場遺構が検出されました。長径23m短径16mの鍋底状
の窪地で中央の最深値では2.15mあり,遺構内には,配
うめがめ
がんぐん
石遺構,炉跡,埋甕,岩偶をおさめた甕,軽石を入れた
甕などがありました。配石遺構のなかには石棒を立てた
ものが2基あり,遺跡一面に配置した岩偶,石棒,ヒス
軽石加工品など
イの勾玉,管玉,小玉,岩偶内蔵の甕などとともに性器
信仰が重要な位置をしめていたことを示しています。
(吉岡康弘)
- 60 -
異形石器など
第Ⅲ章
センターのあゆみ
沿革
昭 和 48 年
仮収蔵庫(鹿 児島市本港新 町)の設置
昭 和 50 年
保養院隣接地 (姶良町平松 )に鹿児島 県教育庁埋蔵 文化財収蔵庫 設置
平 成 元年
埋蔵文化財セ ンター建設予 定地(姶良 町平松)の地 質調査・基本 設計・実施設 計
平成 2年8月8日
埋蔵文化財セ ンターの建設 工事着工
平成 3年6月20日
埋蔵文化財セ ンターの建設 工事竣工
平成 3年9月30日
収蔵庫から埋 蔵文化財セン ターへの移 転完了
平成 3年12月10日
収蔵庫の解体 撤去(保健環 境部で施工 )
平成 4年3月27日
鹿児島県立埋 蔵文化財セン ター設置条 例公布
平成 4年4月1日
鹿児島県立埋 蔵文化財セン ターの発足 ,設置条例の 施行,開所
平成 4年5月8日
鹿児島県立埋 蔵文化財セン ター落成, 開所式典実施
平成 6年11月1日
鹿児島県立埋 蔵文化財セン ター所旗( シンボルマー ク)制定
平成6年 シンボルマーク制定
平成4年 旧センター開所
平成9年 新発見考古速報展
平成 7年10月1日~
平成7年~ 阪神淡路大震災復興支援
阪神・淡路大 震災復旧・復 興対策事業 に係る埋蔵文 化財発掘調査 職員派遣
平成 10 年 3 月 31 日
平成 8年4月1日
鹿児島県立埋 蔵文化財セン ターの組織 整備(調査課 3 係制)
平成 9年5月26日
上野原遺跡( 4 工区 )発掘調査 について記者 発表
平成 9年7月29日
新発見考古速 報展’97 鹿 児島展
平成 9年11月1日
南日本文化賞 特別賞受賞( 上野原遺跡 の公開と啓発 ・普及)
平成 10年6月30日
上野原遺跡(3 工区)の 出土品 767 点 が重要文 化財に指定
平成 11年1月14日
上野原遺跡(4 工区)国 史跡に指定
- 61 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
平成14年 霧島市に現センター開所
平成11年 上野原遺跡国史跡指定
平成 11年3月
「上野原縄文 の森(仮称)」基 本計画策定
平成 12年4月
「上野原縄文 の森(仮称)」整備着 工
平成 13年3月31日
「上野原縄文 の森(仮称)」整備完 了
平成 14年4月1日
姶良町から国 分市の鹿児島 県上野原縄 文の森に移転
平 成15年 紀要 創刊
南の縄文調査 室設置
平成 14年10月5日
鹿児島県上野 原縄文の森オ ープン
平成 14年10月5日
埋蔵文化財情 報管理システ ム稼動
平成 15年3月
研究紀要「縄 文の森から」 創刊
平成 17年4月1日
組織改編 ( 複数次長制,調査課を調 査第一課と調 査第二課とし,各2係を設 置)
平成 22年4月
「まいぶん出 前授業」及び 「まいぶん キット貸出事 業」を開始
平成 22年12月
埋蔵文化財図 書管理システ ム稼働
平成 24年4月~
東日本大震災 復旧・復興対 策事業に係 る埋蔵文化財 発掘調査職員 派遣
平成 24年6月
民間調査組織 の導入
平成 24年9月6日
前原遺跡の出 土品 266 点 が重要文 化財に指定
平成 24年11月17日
鹿児島県立埋 蔵文化財セン ター設立 20 周 年記念フォー ラム開催
指定 文 化財 ( 埋蔵 文 化財 セ ンタ ー 関係 分 )
指
定
日
指
定
遺
跡
平成 10 年 6 月 30 日
上野原遺跡(重要文化財)767 点
平成 14 年 4 月 24 日
京田遺跡(県指定文化財) 1 点
平成 16 年 4 月 20 日
城ヶ尾遺跡(県指定文化財)4 点
平成 20 年 4 月 22 日
耳取遺跡(県指定文化財)203 点
平成 20 年 4 月 22 日
前原遺跡(県指定文化財) 22 点
平成 21 年 4 月 21 日
三角山Ⅰ遺跡(県指定文化財)29 点
平成 22 年 4 月 23 日
堂平窯跡遺跡(県指定文化財)155 点
平成 23 年 4 月 19 日
宮ノ上遺跡(県指定文化財) 107 点
平成 24 年 9 月 6 日
前原遺跡(重要文化財)
合計
平成 24年 東 日本 大震 災 復興 支援
266 点
重要文化財
2遺跡
1033点
県指定文化財
6遺跡
499点
- 62 -
平 成24年 前 原 遺跡 重文指定
第Ⅲ章
センターのあゆみ
南 九州 西回り 自 動車道関 連遺跡
1
遺 跡の 概 要
平成3年,南九州西回
り自動車道建設に伴う発
掘調査が始まりました。
発掘調査は,鹿児島西イ
ンター~伊集院インター
間か ら 始め ま した 。
鹿児島西インター~伊
集院インター間では,9
南九州西回り自動車道鹿児島西IC~伊集院IC間の遺跡の位置図
遺跡の調査を行い,旧石器時代から中世まで多くの
成果が得られ,鹿児島市福山町(旧鹿児島市松元町
まえばる
福 山 ) 前 原 遺 跡 の 縄 文 時 代 早 期 の 出 土 品 は 平 成 24
年 9月 , 国の 重 要文 化 財に 指 定さ れ まし た 。
また , 86 頁 に ある 県 民セ ミ ナー や 現地 説 明会 , 学
校との連携など遺跡の公開や体験学習なども積極的
に 行い ま した 。
平 成 7 年7 月 29 日 に県 民 セミ ナ ー発 掘 体験 学 習
体験学習風景
平 成 8 年 7 月 27 日 に 県 民 セミ ナ ー発 掘 体験 学 習
平 成 8 年 8 月 10 日 に 現地 説 明会 ( 約 140 名 )を 開 催
2
主 な成 果
①
山 ノ中 遺 跡
鹿児島市西別府町山ノ中に所在しま
す 。 縄 文 時 代 後 期 前 半 の 竪 穴 住 居 跡 17
基が検出され,指宿式土器や高知県でみ
られ る 松ノ 木 式土 器 が出 土 しま し た。
②
仁 田尾 遺 跡
鹿児島市石谷町仁田尾・高塚に所在
し,旧石器時代(ナイフ形石器文化,細
石 器 文 化 ), 縄 文 時 代 の 各 時 期 , 古 代 の
遺構・遺物が発見されています。ナイフ
形石器文化ではシラスの直上から多数の
前原遺跡縄文時代早期の遺構群
れきぐ ん
ブロック,礫群とそれに伴う多量の遺物
さいせつき
A区
が出 土 しま し た。 細 石器 文 化で は 多数 の ブロ ッ ク, 礫 群, 落 し穴 と 9 万 点 を上 回 る遺 物 が
出土 し まし た 。縄 文 時代 で は, 晩 期の 掘 立柱 建 物跡 が 検出 さ れて い ます 。
- 63 -
第Ⅲ章
③
センターのあゆみ
前 原遺 跡
鹿児島市福山町前原・鬼ヶ迫上に所在します。
地 形 か ら ABC の 3 地 区 に 分 け て 調 査 を 行 い ま し
た。旧 石器 時 代( ナ イ フ形 石 器文 化,細石 器 文化 ),
縄文時代の各時期の遺構・遺物が発見されていま
す。
縄 文 時 代 早 期 で は , A, B 地 区 そ れ ぞ れ か ら 2
れんけつどこう
支群に分かれた竪穴住居群,連穴土坑を含む土坑
まえ びら
と集石,道跡が前平式土器,吉田式土器,石坂式
土器とそれに伴う遺物と出土しました。C 地区か
らも竪穴住居跡,連穴土坑を含む土坑と集石が検
出されています。前原遺跡の縄文時代早期の出土
品 は , 平 成 24 年 9 月 国 指 定 重 要 文 化 財 に 指 定 さ
れま し た。
縄文時代早期土器(国指定重要文化財)
NO
3
1
遺跡名
山ノ中
所在地
鹿児島市西別府町
調査年度
H6,7
2
仁田尾
鹿児島市石谷町
H5,6,7
3
4
前山
前原
鹿児島市石谷町
鹿児島市福山町
H7,8
H3~8
5
6
7
宮尾
フミカキ
山下堀頭
鹿児島市石谷町
鹿児島市福山町
鹿児島市福山町
H5,8
H6,7
H6
主な時代
縄文時代後期
中世
旧石器時代
縄文時代
旧石器時代
旧石器時代
縄文時代
縄文・古代
縄文時代
弥生時代・古代
主な遺構
竪穴住居跡,土坑,炉跡
土坑,軽石集石
落し穴,礫群,ブロック
落し穴,集石,掘立柱建物跡
礫群,ブロック
礫群,ブロック
竪穴住居跡,連穴土坑,集石
落し穴,掘立柱建物跡
集石,連穴土坑
竪穴住居跡,円形周溝墓
主な遺物
縄文時代中期後期土器,玉類
須恵器,土師器,陶磁器
ナイフ,台形石器,細石器
縄文時代各時期の遺物,
ナイフ,台形石器,細石器
ナイフ,台形石器,細石器
縄文時代各時期の遺物,石槍
塞ノ神式土器,須恵・土師器
縄文時代早期の遺物
弥生土器,鉄剣,須恵器
そ の後 の 発掘 調 査
南 九 州 西 回 り 自 動 車 道 建設 に 伴 う 発 掘 調 査 は ,鹿 児 島 西 イ ン タ ー ~ 伊 集院 イ ン ター 間 の
発掘 調 査 以 後 , 順 次 北 へ と進 ん で い ま す 。 現 在 ,出 水 市 で 発 掘 調 査 を 行 って い ま す。 各 区
間の 概 略は 以 下の と おり で す。
伊集 院 IC~ 市来 IC
なが さこ びら
どびらがまあと
むかいがこいじよう
永 迫 平遺 跡( 日 置市 伊 集院 町 下谷 口),堂 平窯 跡( 日 置市 東 市来 町 美山 ),向 栫 城( 日
いちのはら
置 市 東市 来 町伊 作 田), 市ノ 原 遺跡 ( いち き 串木 野 市市 来 町大 里 ・湯 田 )等 合 計 16 遺 跡
市来 IC~川 内 都IC
あんちやがはら
かこいじようあと
安茶ヶ原遺跡(いちき串木野市川上)栫 城 跡(いちき串木野市上名)等の合計5遺跡
川内 都 IC~ 高 江IC
やまぐち
か みし んで ん
山 口 遺跡 ( 薩摩 川 内市 都 町), 上新 田 遺跡 ( 薩摩 川 内市 青 山町 ) 等の 合 計 6 遺跡
高江 IC~出 水 IC
なかごおり
中 郡 遺 跡( 出 水市 野 田町 屋 地) を はじ め とす る 遺跡 を 発掘 調 査中
みやこ
高 江 IC ま で の 調 査 は 終了 し , 川 内 都 IC ま で の 区間 は ,す で に西 回 り自 動 車道 が 開
通 し てい ま す。
( 西 園勝 彦)
- 64 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
東 九州 自動車 道 関係
1
遺 跡の 概 要
国 分 IC~ 志 布 志 IC間 の 東 九 州 自 動 車 道 建 設 に 伴 う
発 掘 調 査 は , 平 成 9年 開 始 以 来 , 現 在 も 引 き 継 が れ ,
平 成 26年 度 の 開 通 を 目 指 す 鹿 屋 串 良 ICま で に , 多 く
の発 掘 調査 を 実施 し てき ま した 。
最 も 古 く は 2.5万 年 の 旧 石 器 時 代 か ら , 細 石 刃 文 化
期,縄文時代草創期,縄文時代早期の集落跡や落と
し穴群,東九州や瀬戸内との交流を物語る縄文時代
中期の土器群,古代の建物群や鎌倉時代の屋敷群と
それに伴う屋敷墓,文明3年や安永8年の文献と符
合する桜島噴火で埋没した畠跡等,数多くの遺構・
遺物が発見され,多くの貴重な成果が明らかになり
まし た 。
遺跡位置図
遺跡リスト
No
遺跡名
所在地
調査年度
主な時代
主な遺構・遺物
1
城ヶ尾
霧島市福山町
H10,11年
旧石器,縄文早期,古墳
ナイフ形石器,塞ノ神式,集落
2
前原和田
霧島市福山町
H10,12年
旧石器,縄文早期
ナイフ形石器・礫群,手向山式
3
供養之元
福山町
H10,11年
縄文早期
塞ノ神式・手向山式
4
永磯
霧島市福山町
H9,10年
旧石器,縄文早期
細石刃,手向山式
5
高篠坂
曽於市財部町
H10,11年
縄文早期
前平式・手向山式
6
高篠
曽於市財部町
H12年
古代
建物群・落とし穴・土師器
7
九養岡
曽於市財部町
H11,12年
旧石器,縄文早期
ナイフ形石器,手向山式
8
財部城ヶ尾
曽於市財部町
H11年
古代
建物群・蔵骨器
9
踊場
曽於市財部町
H12,13年
縄文早期,中世
塞ノ神式,畠跡
10
九日田
曽於市財部町
H8,9年
縄文早期
石坂式
11
桐木耳取
曽於市末吉町
H11,12年
旧石器,縄文早~晩期
ナイフ・細石刃,吉田式,条痕文,黒川式
12
関山西
曽於市末吉町
H17年
縄文早期,中世
石坂式・塞ノ神式,建物跡・溝
13
関山
曽於市末吉町
H17年
旧石器,縄文早期,近世
礫群,落とし穴・埋納土器
14
唐尾
曽於市末吉町
H16年
縄文晩期,古代
竪穴住居・入佐式,建物跡
15
西原段Ⅰ
曽於市大隅町
H18,19,21年
縄文中期,中世
春日式・阿高式,畠跡
16
野鹿倉
曽於市大隅町
H19年
旧石器
ナイフ形石器・細石刃・礫群
17
建山
曽於市大隅町
H17~19,21年
旧石器,縄文早期,古代
ナイフ・細石刃,落とし穴,建物跡
18
狩俣
曽於市大隅町
H18,19年
縄文早期,古代~近世
石坂式,畠跡
19
高古塚
曽於市大隅町
H18年
縄文早期,古代
集石,建物跡
20
定塚・稲村
曽於市大隅町
H16,17,18年
縄文早期,古代~近世
集落跡・前平式・吉田式,道・溝・畠跡
21
中之迫
曽於市大隅町
H16年
縄文早期
岩本式・石坂式
22
鳥居川
曽於市大隅町
H17年
縄文早期,縄文晩期
塞ノ神式,黒川式
23
チシャノ木
曽於市大隅町
H18年
縄文早期
集石
24
宮ヶ原
曽於市大隅町
H19~22年
縄文早期
平栫式
25
天神段
曽於郡大崎町
H19~
調査中
細石刃,石坂式,石剣,中世土坑墓
26
野方前段
曽於郡大崎町
H19,20年
縄文早期
右京西式
27
加治木堀
曽於郡大崎町
H19,20年
縄文中期,弥生中期
落とし穴,山之口式
28
椿山
曽於郡大崎町
H20年
縄文中期
落とし穴
29
柿木段
曽於郡大崎町
H20~22年
縄文晩期,古代
石斧埋納・入佐式,竈・溝
30
石縊・十三塚
鹿屋市串良町
H20~22年
弥生中期
集落跡
- 65 -
第Ⅲ章
2
センターのあゆみ
主 な成 果
じようがお
①
福山 城 ヶ尾 遺 跡
せ の か ん
意 図 的 に 埋 め ら れ て い た 4点 の 塞 ノ 神 A 式 土 器 ( 壺 形 土
器 3点 と 深 鉢 形 土 器 1点 ) は , 縄 文 時 代 早 期 中 後 半 の 土 器 製
作技術や固有の生活様式を解明するに欠かせないとして,
平 成 16年 県 指 定 文 化 財 に 指 定 さ れ ま し た 。 ま た , 塞 ノ 神 B
式土器で構成する環状ブロックからは,破棄された土器片
や廃棄された集石遺構等から,環状ブロックの形成過程を
読み 取 るこ と が可 能 とな り まし た 。
②
桐 木 耳取 遺 跡
ほうがんそう
埋設土器(城ヶ尾遺跡)
10時 期 を 越 す 遺 物 包 含 層 が
はくへんせんとうき
だいけいようせつき
重 複 す る 複 合 遺 跡 で , 2.5万 年 前 の 剥 片 尖 頭 器 や 台 形 様 石 器
は 寒 冷 期 の 大 型 動 物 猟 に 順 応 し た 石 器 文 化 で ,「 耳 取 ヴ ィ ー
ナ ス 」 と 共 に , 礫 群 90基 と 51ブ ロ ッ ク 18エ リ ア の 集 中 域 を
形 成 し , こ れ ら を 構 成 す る 276点 の 石 器 は , 平 成 20年 県 指 定
文 化 財 に 指 定 さ れ ま し た 。 一 方 , 1.8万 年 の 石 器 群 は 急 激 に
小 型 化 し , 1.5万 年 前 の 石 器 群 は は さ ら に 小 型 の 細 石 刃 で あ
ることから,狩猟対象動物が小型化していく様相が読み取
耳取ヴィーナス
れます。このように,全く異なる時代や環境でも,本遺跡
を 人 々 が 繰 り返 し 利 用 し て い る 様相 が 明ら か にさ れ まし た 。
③
定 塚遺 跡
南九州特有の縄文時代早期の集落遺跡で,発
見さ れ た97軒 の竪 穴 住居 と 257基 の土 坑 から は,
本遺跡が最大であり、この時期の拠点集落の1
つであったことを示しています。今後は,集落
の存続期間や集落形態,集落の変遷,同時期の
住居数等の解明を試みることにより,先進性と
される南九州の縄文文化の実態解明が期待され
ます。
(長野眞一)
縄文早期前葉土器(定塚遺跡)
旧石器時代該当層の調査風景(桐木耳取遺跡)
- 66 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
九 州新 幹線関 連 遺跡
1
遺 跡の 概 要
九 州 新 幹 線 鹿 児 島 ル ー ト は , 平 成 23年 に 全 線 開
通 し , 福 岡 と 鹿 児 島 を 最 速 1 時 間 19分 で つ な ぐ 九
州の大動脈として多く県民に利用されています。
平成4年,鹿児島県教育委員会文化課は,事業予
定区内の埋蔵文化財の有無について,分布調査を
実 施 し , 21ヶ 所 の 遺 跡 を 確 認 し ま し た 。 発 掘 調 査
は平成5年の鹿児島市武遺跡を皮切りに,平成8
・ 9 年 の 薩 摩 川 内 市 大 原 野 遺 跡 , 平 成 9 ・ 10年 の
同市前畑遺跡について,本調査が行われました。
そ の 後 , 平 成 11~ 13年 に か け て 出 水 市 大 坪 遺 跡 ,
け
し
か
り
か
じ
や
ば
ば
薩摩川内市計志加里遺跡,大島遺跡,鍜治屋馬場
やまのわき
じゆこくじあと
遺跡 ,日置 市 山ノ 脇 遺跡 ,鹿 児島 市 寿国 寺 跡な ど,
出 水 市 か ら 鹿 児 島 市 の 事 業 予 定 区 内 に 所 在 す る 17
遺 跡 の 本 調 査 が 実 施 さ れ , 平 成 13年 5 月 の 京 田 遺
跡を 最 後に 全 ての 調 査を 終 了し ま した 。
遺跡位置図
№
遺跡名
所在地
調査年度
主な時代
1
茶屋ノ元
出水市
H10,11
縄文早・前
塞ノ神式,轟式,磨製石斧
主な遺構・主な遺物
包含層確認されず
2
鳥越平
出水市
H8
時期不明
3
鎧・安原
出水市
H11
縄文晩,平安
4
榎木田・見入来
出水市
H11,12
縄文晩,平安,鎌倉
H11,12
時期不明
包含層確認されず
包含層確認されず
・大坪
研磨土器,土師器,黒耀石
埋 設 土 器 ,竪 穴 住 居 跡 ,溝 ,上 加 世 田 式 ,入 佐 式 ,黒 川 式 ,
石鏃,玉類
5
宮野脇
出水市
6
松ヶ迫
出水市
H8
時期不明
7
小松
出水市
H10
縄文早
8
前畑
薩摩川内市
H9,10,11
旧石器,縄文早,近世
9
計志加里
薩摩川内市
H11,12
縄文晩,平安,中世
10
京田
薩摩川内市
H11,12,13
弥生,平安
11
大島
薩摩川内市
H11,12
弥生,古墳,平安
12
鍜治屋馬場
薩摩川内市
H11,12
古代,中世,近世
13
楠元・城下
薩摩川内市
H10,11
縄文後,弥生,古墳
竪穴住居跡,炉跡,溝,市耒,西平式,弥生土器,木製品
14
上野城跡
薩摩川内市
H11,12
旧石器,古墳,中世
掘 立 柱 建 物 跡 ,竪 穴 建 物 跡 ,溝 ,畠 跡 ,剥 片 先 頭 器 ,土 師
15
大原野
薩摩川内市
H8,9
旧石器,縄文,古代
掘立柱,竪穴建物跡,古道,ナイフ,吉田式,轟式
16
東下原
日置市
H10
旧石器,縄文,古代
土坑 , 細石刃核,土師器
17
上ノ平
日置市
H11,12
旧石器,縄文後,中世
竪穴住居跡,集石,溝,細石刃核,指宿式,磨製石斧
18
山ノ脇,石坂,西原
日置市
H11,12
縄文草,縄文早,中世
集石,掘立柱建物跡,溝,船元式,土師器,陶磁器
19
梅落
日置市
H11,12
縄文早
20
尾崎
鹿児島市
発掘調査せず
21
武ABC
鹿児島市
H5
縄文前,縄文中,弥生
22
寿国寺
鹿児島市
H11,12
近世
土器,黒耀石
落とし穴,大型掘立柱建物跡,ナイフ,細石刃,石坂式
土 坑 墓 ,円 形 周 溝 遺 構 ,掘 立 柱 建 物 跡 , 押 型 文 ,打 製 石
斧,土師器,須恵器,刀子
弥 生 水 田 跡 ,杭 列 ,古 代 水 田 跡 ,弥 生 土 器 ,三 又 鍬 ,板 状
木製品,土師器,曲物
竪 穴 住 居 跡 ,土 坑 墓 ,掘 立 柱 建 物 跡 ,弥 生 土 器 ,石 庖 丁 ,
土師器,須恵器,石製丸鞆
鍛冶 炉 ,土 坑,掘立 柱建 物跡 ,炉 跡,土 師器 ,陶 磁器 ,鉄 製
品,古銭,薩摩焼
器,須恵器,白磁,青磁
集石 , 塞ノ神式,スクレイパー
遺跡は工事に触れず残存
- 67 -
住居跡,溝,轟式,深浦式,春日式,船元式,山之口式
寿国寺跡のはん池,陶器,時期,瓦,木製品,金属製品
第Ⅲ章
2
センターのあゆみ
主 な成 果
九 州 新 幹 線 関 係 遺 跡 の 発 掘 調 査 で は ,数 多 く の 成 果
が 得 ら れ ま し た 。 特 に こ れ ま で 本 格 的 な発 掘 調 査 が 少
な か っ た 市 街 地 の 調 査 で は , 貴 重 な 発 見が 相 次 ぎ ま し
きようでん
た。そ の 中か ら 薩 摩川 内 市の 薩 摩国 分 寺跡 に 近い 京 田
遺跡 , 大島 遺 跡の 成 果に つ いて ご 紹介 し ます 。
①
京 田遺 跡
京 田 遺 跡 は , 薩 摩 国 分 寺 跡 の 東 に 近 接す る 低 湿 地 に
位 置 し て い ま す 。 南 九 州 で 発 見 例 の 少 ない 弥 生 時 代 の
水 田 跡 や 農 具 の 発 見 は 当 時 の 稲 作 技 術 を知 る 上 で 貴 重
もつかん
な 発 見 と な り ま し た 。 ま た , 平 安 時 代 の木 簡 は , 県 内
初 の 古 代 木 簡 と し て 注 目 さ れ , 平成 14年に 県 指 定 文 化
財 と な り ま し た 。 こ の 木 簡 は , 古 代 の 地方 行 政 の あ り
方 や 土 地 支 配 の 実 態 を 考 え る 上 で , 貴 重な 資 料 と な り
京田遺跡出土木簡
まし た 。
②
大島 遺 跡
大 島 遺 跡 は , 薩 摩 国 分 寺 跡 の 南 西 約 700m の 川 内
川の自然堤防上に位置します。特に注目されたの
は,一般的な古代の遺跡ではあまり見られない
えつしゆうようせいじ
りよくゆうとうき
おびかなぐ
てんようけん
越州窯青磁や緑釉陶器,帯金具の石帯,転用硯,
ふ う じ に め ん け ん
風字二面硯などが出土したことです。薩摩国府・
国分寺にも近く,特殊な遺物も多いことから,国
大島遺跡出土風字二面硯
3
分 寺 に関 係 の深 い 人々 の 居住 地 とも 考 えら れ ます 。
調 査成 果 のま と め
九州新幹線関係遺跡の特徴としては,これ
まで調査機会が少なかった,市街地平野部の
本格的な調査を行ったことです。出水駅周辺
の大坪遺跡,川内駅周辺の楠元遺跡,鍛冶屋
馬場遺跡,鹿児島中央駅周辺の武遺跡,寿国
寺跡の成果は,将来これほど大規模な調査は
期待できないことから貴重な資料になると思
われます。特に,低湿地の調査では水田跡や
木製 品 など の 成果 を 得ら れ まし た 。
また,計志加里遺跡,京田遺跡,大島遺跡
計志加里遺跡空撮
など の 成 果 は , 律 令 体 制 確立 後 の 薩 摩 国 府 ・ 国 分寺 周 辺 の 生 活 環 境 を 知 る上 で 大 変重 要 な
資料 で あり , 今後 の 学術 的 な発 掘 調査 や 研究 に 役立 つ でし ょ う。( 平木 場 秀男 )
- 68 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
農 業開 発総合 セ ンター遺 跡群
1
遺 跡の 概 要
農業開発総合センターは鹿児島県の農業技術
の開発と担い手育成を総合的に推進するため,
南さつま市金峰町と日置市吹上町に建設されま
し た 。 標 高 約 45m の 大 野 原 台 地 に 位 置 し , 敷 地
面 積 は 約 180haと 広 大 で , 遺 跡 数 は 24か 所 に も 及
びま す 。
遺跡一 覧
番号
遺跡名
主な時代
1
窪見ノ上
縄文早期
2
馬廻
縄文早期
3
三反牟田
縄文後期
4
吹上小中原
旧石器 。縄文早期・ 古墳・中世
5
建石 ヶ原
旧石器 ・縄文早 期
6
古
里
中世
7
西
原
縄文早期
8
諏訪牟田
遺跡位置図
2
縄文草創期・早期・晩期・弥生・
①
主な 成 果
吹 上 小中 原 遺跡
吹 上 小中 原 遺跡 は ,日 置 市吹 上 町に 所
古代 ・中 世
9
諏訪前
縄文晩期 ・弥生 終末
在 し ,旧 石 器時 代 ・縄 文 時代 早 期・ 古 墳
10
馬塚松
縄文早期・ 弥生・ 中世
時 代 ・中 世 の遺 構 ・遺 物 が発 見 され て い
11
尾ヶ 原
縄文早・ 前・中 ・晩期・ 弥生中期 ・
ま す 。主 な 遺構 ・ 遺物 に つい て みる と ,
せきそう
縄 文 時代 早 期で は ,古 い タイ プ の石 槍 が
古墳
12
諏訪脇
縄文晩 期・中 世
3 本 まと ま って 出 土す る 集積 遺 構が 見 ら
13
宗円堀
旧石器 ・縄文晩 期
れ ま す。 古 墳時 代 では , 竪穴 住 居跡 が 7
14
大門口
縄文晩期
軒 と 土器 溜 まり が 発見 さ れて い ます 。 4
15
市
中世
号 住 居跡 か らは , 初期 須 恵器 が 出土 し ,
縄文早期
尾 ヶ 原遺 跡 の須 恵 器を 伴 う住 居 跡と も 併
せ , 南九 州 特有 の 成川 式 土器 の 年代 観 を
16
堀
頭無迫田
17
頭
無
縄文早期
18
神
原
旧石 器・古代
19
桜
谷
旧石器・ 縄文早期・弥生
20
荒
田
旧石器 ・縄文早 期
21
秋
葉
旧石器 ・縄文早 期
22
中
尾
縄文草創 期・縄文 早期
23
南原内堀
縄文中 期・晩 期
24
加治屋堀
縄文晩期
考 察 する 貴 重な 資 料で す 。
4号住居(吹上小中原遺跡)
- 69 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
中世では遺物は少なかったが掘立柱建物跡
が9棟発見されており,他の中世の遺跡との
関連 を 考え る 資料 と なっ て いま す 。
須恵器は大阪府堺市にある陶邑窯跡群で作
られたものと思われ,盛り付け用の「高坏」
と酒等を入れていたと推測される「はそう」
です 。
4号住 居出 土初 期須 恵 器
4号 住居 出土 初期 須恵 器
う まつ かま つ
②
馬 塚松 遺 跡
馬塚松遺跡は,南さつま市金峰町に所在
し,縄文時代晩期・弥生時代前期・中世の
各時期の遺物が出土しています。弥生時代
前期では,高床倉庫と思われる2間×2間
の総柱建物跡1棟が発見されました。中世
で は , 掘 立 柱 建 物 跡 15棟 と 溝 状 遺 構 3 条 が
発見されています。農業開発総合センター
遺跡群では,本遺跡の他に吹上小中原遺跡
・古里遺跡・諏訪牟田遺跡・諏訪脇遺跡・
宗円堀遺跡・市掘遺跡等で建物跡が発見さ
れ,この周辺に村が分散していたことがし
られ て いま す。これ ら の中 で 馬塚 松 遺跡 は,
青磁や白磁等の出土量も多く,中心的な集
落で あ った も のと 想 像さ れ ます
3
調 査成 果 のま と め
調査の結果,旧石器時代から中世まで各
時代の遺物・遺構が発見されました。主な
ものとして,神原遺跡では旧石器時代のブ
遺構配置図(中世 馬塚松遺跡)
ロック5基,中尾遺跡では縄文時代草創期
の集 石 遺 構 10基 ・ 連 穴 土 坑 13基 。 縄 文時 代 早 期 , 晩 期 は 多 くの 遺 跡 か ら 発 見さ れ まし た 。
尾ヶ 原 遺 跡 ・ 諏 訪 前 遺 跡 等で は 埋 設 土 器 も 多 く 出土 し ま し た 。 弥 生 時 代 中期 で は ,桜 谷 遺
あわせくちつぼかん
跡で住居跡が検出され,農業開発総合センター遺跡群尾ヶ原遺跡では小児用合 口 壺 棺が
出土 し ま し た 。 弥 生 時 代 終末 で は 諏 訪 前 遺 跡 の 住居 か ら 「 龍 」 が 線 刻 さ れた 壺 が 出土 し ま
した 。 古 墳 時 代 で は , 吹 上小 中 原 遺 跡 と 尾 ヶ 原 跡で 集 落 が 発 見 さ れ ま し た。 古 代 では , 神
原遺 跡 で V 字 状 の 大 溝 が 発見 さ れ ま し た 。 中 世 では , 馬 塚 松 遺 跡 を 中 心 に7 遺 跡 から 掘 立
柱建 物 群が 発 見さ れ まし た 。
( 中 村耕 治 )
- 70 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
一 般 国 道 220号 古 江 バ イ パ ス 建 設 関 連 遺 跡
1
遺 跡の 概 要
一 般 国 道 220号 古 江 バ イ パ ス は , 鹿 屋 市 白
水 町 か ら 垂 水 市 新 城 に 至 る , 全 長 約 8 kmの
国 道 220号 バ イ パ ス で す 。 現 在 は 鹿 屋 市 古 里
町 か ら 終 点 の 垂 水 市 新 城 ま で 約 5 kmが 開 通
して い ます 。
現 在 開 通 し て い る 区 間 内 で は 10 か 所 の 遺
跡が発見され,鹿屋市根木原町に所在する
中 野 西 遺 跡 ( 位 置 図 No.① ) を 皮 切 り に 平 成
9 年 度 か ら 平 成 22年 度 に か け て 発 掘 調 査 が
行 わ れ ま し た 。 発 掘 調 査 の 結 果 , 10か 所 の
遺跡からは旧石器時代から中世にかけての
第1図
遺構 や 遺物 が 数多 く 発見 さ れま し た。
2
遺跡位置図
主 な成 果
(1) 松 山田 西 遺跡 ( 位置 図 No.② )
中野西遺跡との境にある谷部を挟んで南
側の台地に所在します。調査の結果,遺構
は旧石器時代の礫群,古墳時代の竪穴住居
跡などが発見されました。また,主な遺物
は縄文時代早期~晩期の土器や石器,古墳
時代 の 成川 式 土器 が 出土 し まし た 。
第 2 図 の 竪 穴 住 居 跡 は , 大 き さ が 約 4.5m
第2図
すみまるほうけい
× 約 4m で , 形 は 隅 丸 方 形 を し て い ま す 。 ま
古墳時代竪穴住居跡(松山田西遺跡)
た, 住 居 跡 の 南 側 に は 半 円状 の 浅 い 土 坑 が 突 出 して い て , 土 坑 に は 4 個 の礫 が 置 かれ て い
まし た 。
さら に ,住 居 跡内 か らは 成 川式 土 器の 甕 や壺 な どが 多 数出 土 しま し た。
わしがさこ
(2) 鷲ヶ 迫 遺跡 ( 位置 図 No.③ )
旧石器時代~縄文時代,古墳時代の遺構・遺物が発
見されました。遺構は,旧石器時代の礫群・落し穴,
縄文時代早期の落し穴,古墳時代の竪穴住居跡・溝状
遺構などが主に挙げられます。また,主な遺物は旧石
さんりようせんとうき
器時代の三稜尖頭器,縄文時代中期の春日式土器,晩
期の黒川式土器,古墳時代の成川式土器・軽石製品が
出 土 しま し た。第 3図 は 縄文 時 代中 期( 約 4,500年 前)
第3図
春日式土器(鷲ヶ迫遺跡)
の春日式土器です。春日式土器は九州南部を中心に分
- 71 -
第Ⅲ章
番号
①
②
センターのあゆみ
遺跡名
中野西
所在地
鹿屋市
根木原町
調査年度
H9年
松山田西 鹿屋市
H 10年
根木原町
③
鷲ヶ迫
鹿屋市
花岡町
④
北原中
鹿屋市
花岡町
⑤
領家西
鹿屋市
花岡町
⑥
天神平溝下
⑦
宇都上
⑧
早山
鹿屋市
花岡町
鹿屋市
花岡町
花岡町
⑨
稲荷山
鹿屋市
花岡町
⑩
鎮守山
鹿屋市
古里町
主な時代
旧石器
礫群
古墳
土坑
古代
縄文
集石
古墳
H 1 0 ・ 1 1 ・ 1 6 ・ 旧石器
18 年
縄文
古墳
H 11 ~ 15年 縄文
古墳
中世
H 12 ~ 14・ 縄文
1 6 ~ 1 8年 古墳
中世
H 1 5・ 1 6 年
縄文
古墳
H 17 ・ 1 8・
縄文
22 年
古墳
H 20 ・2 1 年
H 20 ・21 年
縄文~弥
生
古墳
H 20 ~ 22年 縄文
古墳
主な遺構
主な遺物
ナイフ型石器・細石刃核
成川式土器
土壙鉄剣・鉄鏃・須恵器・土師器
石鏃
竪穴住居跡・土坑
成川式土器
落し穴
落し穴
竪穴住居跡・溝
集石
竪穴住居跡
円形土坑・溝
集石・土坑
竪穴住居跡・溝,
掘立柱建物跡・配石遺構等
集石・土坑
竪穴住居跡・道跡
集石
溝
遺構・遺物なし
三稜尖頭器等
春日式・黒川式・石鏃等
成川式土器・軽石製品等
塞ノ神式・黒川式・石鏃等
成川式土器
須恵器・土師器・石帯
入佐式・黒川式・石斧等
成川式土器・石庖丁・鉄器等
石鍋・陶磁器・古銭
市来式・石鏃
成川式・勾玉等
市来式・丸尾式・黒川式等
成川式土器等
竪穴住居跡・土坑
黒川式・組織痕・突帯文・石鏃等
竪穴住居跡・竪穴遺構・土坑 成川式土器・軽石製品
集石
竪穴住居跡・土坑・溝,
黒川式・組織痕・石鏃・石斧等
成川式土器・軽石製品
布す る 土器 型 式で ,鹿児 島 市春 日 町遺 跡 を標 式 遺跡 と して い ます 。器面 に は「 貝 殻条 痕 文」
りゆうたい
うず もん
が施され,文様は無文または沈線や隆 帯の渦文や曲線文が描かれているのが特徴です。
図の 土 器 は , 口 径 が 23.2cmで , 口 縁 部 に 4か 所 の 突 起 が あ り ま す 。ま た , 突起 に は貝 殻 を
押し 当 てて 文 様を つ けて い ます 。
ち んじ ゆや ま
(3) 鎮 守山 遺 跡( 位 置図 No.⑩ )
遺構は縄文時代早期の集石,古墳時代の
竪穴住居跡・溝状遺構などがあります。ま
た,主 な 遺物 は 縄文 時 代晩 期 の土 器 ・石 器,
古墳 時 代の 成 川式 土 器等 が 発見 さ れま し た。
な か で も , 竪 穴 住 居 跡 は 20軒 発 見 さ れ , 住
居跡の主な内部構造は,貼り床,地床炉を
第4図
古墳時代の竪穴住居跡(鎮守山遺跡)
伴っ て い る こ と が 特 徴 的 です 。 第 4 図 は 住 居 跡 の調 査 風 景 で す 。 3 軒 が 互い に 重 なり 合 っ
てい る こと か ら, 同 じ場 所 に住 居 が建 て 直さ れ たこ と がわ か りま す 。
3
調 査成 果 のま と め
一 般 国 道 220号 古 江 バ イ パ ス 建 設 関 連 の 遺 跡 で 特 に 注 目 さ れ る の は , 古 墳 時 代 の 竪 穴 住
居 跡 と 成 川 式 土 器 で す 。 竪 穴 住 居 跡 は 10遺 跡 で 計 106軒 が 発 見 さ れ , 土 器 も 多 数 出 土 し た
こと か ら , 当 時 の 人 々 が この 地 で 集 落 を 形 成 し て, 生 活 を 営 ん で い た こ とが 調 査 の結 果 か
ら伺 え ます 。( 國師 洋之 )
- 72 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
中 小河 川改修 事 業(万之 瀬川)
1
事 業の 概 要
万 之 瀬川 の 河川 改 修事 業 に伴 い,南 九州 市 川辺 町,
南さつま市金峰町の万之瀬川流域に存在した6遺跡
の発掘調査,整理作業が行われました。平成5年度
に 分 布 調 査 が 行 わ れ , 平 成 6年 度 か ら 平 成 17年 度 ま
で 確 認 ・ 本 調 査 が 行 わ れ ま し た 。 整 理 作 業 は 平 成 17
年 度 か ら 行 わ れ , 平 成 25年 3月 に 『 芝 原 遺 跡 4 』 を
刊行し,本事業は一旦終了する予定です。分布調査
から 数 える と 20年 に も及 ぶ 長期 間 の事 業 でし た 。
遺跡位置図
2
主な 成 果
①
上水 流 遺跡
縄文時代前期から近世までの遺構,遺物が
出 土 し ま し た 。 古 墳 時 代 の 遺 構 と し て 11件 の
竪穴住居と,それに伴って初期須恵器や鉄製
つみ が ま
の摘鎌が発見され,新聞で報道されるなど注
目を集めました。その他にも,縄文時代前期
の曽畑式土器や,中近世の国産・輸入陶磁器
な ど の貴 重 な資 料 が多 数 出土 し てい ま す。
上水流遺跡空撮
№
遺跡名
所在地
1
古市
2
南田代
3
上水流
南さつま市
金峰町花瀬
4
芝原
南さつま市
金峰町宮崎
5
渡畑
南さつま市
金峰町宮崎
6
持躰松
南さつま市
金峰町宮崎
南九州市
川辺町永田
南九州市
川辺町永田
調査年度
主な時代
主な遺構
主な遺物
H13~H15
弥生・古墳・中世
竪穴住居跡,溝状遺構,掘立柱建
物跡
弥生土器,石包丁,成川,砥石,
土師器,須恵器,白磁,青磁
H13~H15
縄文・弥生・古墳・古代
・中世
集石,磨石集積,石斧,黒曜石埋
納
縄文・弥生土器,成川,土師器,
須恵器
縄文・弥生・古墳・古代
・中世・近世
集石,土坑,焼土,ピット,集
積,竪穴住居跡,竈跡,大溝
縄文・弥生土器,成川,初期須恵
器,土師器,陶磁器
縄文・弥生・古墳・古代
・中世・近世
竪穴住居跡,溝状遺構,掘立柱建
物跡,製鉄遺構,木棺墓
縄文・弥生土器,鋸歯状尖頭器,
小型傍製鏡,成川,陶磁器
縄文・古墳・古代・中世
・近世
竪穴住居跡,溝,掘立柱建物跡,
青磁集積,木棺墓,土坑墓
縄文土器,足形土製品,鋸歯状尖
頭器,陶磁器,薩摩焼
縄文・弥生・古墳・古代
・中世・近世
竪穴住居跡,土坑,溝状遺構,掘
立柱建物跡,畝間状遺構
中津野,篦書土器,刻書土器,陶
磁器,カムィヤキ,薩摩焼
H12
H15~H17
H11~H16
H12
H15~H16
H9~H12
- 73 -
第Ⅲ章
②
センターのあゆみ
芝 原遺 跡
南さつま市金峰町宮崎に所在し,縄文時代中期
から近世にかけての遺構,遺物が発見されていま
きよしじようせんとうき
す。縄文時代の鋸歯状尖頭器,弥生時代の竪穴住
ぼうせいきよう
居から出土した小型仿 製 鏡,古代の墨書土器,
多口瓶,中近世の陶磁器,近世の製鉄遺構,木棺
墓など,数多くの注目される遺構,遺物が発見さ
れま し た。
多口瓶(芝原遺跡)
③
渡 畑 遺跡
南さつま市金峰町宮崎に所在し,芝原遺跡の
下流側に隣接しています。縄文時代中期から近
世の遺構,遺物が発見されています。全国でも
珍しい縄文時代後期の足形土製品や,重なった
状態で出土した青白磁碗などは,大きな話題と
な りま し た。
足形土製品(芝原・渡畑遺跡)
も つた いま つ
④
持 躰松 遺 跡
南さつま市金峰町宮崎に所在し,縄文
時代後期から近世までの遺構,遺物が発
見されました。県内では例を見ないほど
の多種多様な輸入陶磁器と,東海地方や
近畿・瀬戸内地方から流入したと考えら
れる国産陶磁器などが豊富に出土し,当
時の流通を解明する上で貴重な資料とな
って い ます 。
3
中世陶磁器(持躰松遺跡)
調 査成 果 のま と め
こ の 事 業 で は , 河 口 付 近の 大 規 模 な 河 川 敷 調 査が 行 わ れ ま し た 。 縄 文 時代 か ら 近世 ま で
の遺 構 ・ 遺 物 が 発 見 さ れ ,現 在 セ ン タ ー 内 で 最 も多 く の 遺 物 を 収 蔵 し て いま す 。 古く か ら
交通 の 要 衝 に 立 地 し た こ れら の 遺 跡 で は , 国 内 外各 地 か ら も た ら さ れ た 遺物 も 多 く発 見 さ
れて い ま す 。 こ れ ら の 資 料は 地 域 の 歴 史 の み な らず , む か し の 流 通 ル ー トの 解 明 にも 大 き
な成 果 をも た らす も のと し て注 目 され て いま す。(富 山孝 一 )
- 74 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
地 域高 規格道 路 (一般県 道飯野松山都城改修事業)関連遺跡
1
遺 跡の 概 要
一般県道飯野松山都城線(地域高規格道
路)は,宮崎県都城市から鹿児島県志布志
市をつなぐ道路です。現在開通している区
間では,8か所の遺跡が発見され,志布志
市松山町に所在する山ノ田遺跡を皮切りに
平 成 12 年 度 か ら 平 成 16 年 度 に か け て 発 掘
調査が行われました。発掘調査の結果,8
か所の遺跡からは旧石器時代から近世にか
けて の 遺構 ・ 遺物 が 発見 さ れま し た。
2
主 な成 果
①
西 原遺 跡
西原遺跡は,東・西・南側を谷に囲まれ
せつじよう
た舌 状台地の先端部に立地する遺跡で,旧
石器時代・縄文時代早期及び後期・古代~
遺跡位置図
中世 の 遺構 ・ 遺物 が 発見 さ れま し た。
旧石器時代では三稜尖頭器の製作跡と考
えられるブロックが2か所発見されていま
す。当該時期の石器製作に関する重要な資
料 で す。
縄文時代後期後葉に位置づけられる中岳
式土器期に該当する竪穴住居跡も1軒発見
さ れ ま し た ( 第 2 図 )。 形 状 は 略 円 形 で ,
直 径 265 ㎝ で あ る 。 住居 跡 内 か ら は , 中 岳
式土器のほかに管玉も出土しています。当
該時期の竪穴住居跡は類例が少ないので注
西原遺跡空撮
目 さ れま す 。
わらびの
②
蕨 野B遺 跡
蕨野 B 遺跡は,東北側から延びる尾根上
に立地しています。旧石器・縄文早期・縄
文中~後期・弥生中期の遺構・遺物が発見
され ま した 。
特に,縄文時代早期の集石が多く発見さ
れており,その数は38基にのぼります。
縄文時代早期竪穴住居跡(西原遺跡)
- 75 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
主に 縄 文 時 代 早 期 中 葉 の 石坂 式 土 器 期 を 中 心 と する も の で , 礫 の ま と ま りが ま ば らな も の
がほ と んど で す。
縄 文 時 代 早 期 の 出 土 遺 物の 中 で は , 石 鏃 が 注 目さ れ , 完 形 の も の が 多 いこ と が 指摘 さ れ
てい ま す。
No
遺跡名
所在地
調査年度
主な時代
主な遺構
主な遺物
1
山ノ田B
松山町新橋
H12年
縄文早期
集石遺構・土坑
吉田式・塞ノ神式・石匙・磨石など
2
蕨野B
松山町新橋
15,16年
礫群・ブロック・
ナイフ・三稜・前平式・吉田式・塞ノ神
集石遺構・土坑
式・阿高式・指宿式・入来式など
縄文早期・縄文
集石遺構・溝・掘
3
松ヶ尾
有明町伊崎田
H15年
晩期・古代・近
世
立柱建物跡・古道
跡
4
谷ヶ迫
有明町伊崎田
H15年
縄文後期・晩期
5
西原
末吉町檍
H13年
旧石器・縄文早
6
牧ノ原B
松山町新橋
H16年
期・縄文中~後
期・弥生中期
前平式・塞ノ神式・黒川式・磨製石斧・
土師器・焼塩土器・陶器など
指宿式・黒川式・夜臼式・磨石など
旧石器・縄文早
ブロック・集石遺
期・縄文後期・
構・竪穴住居跡・
古代~中世
溝
旧石器・縄文前
~中期・縄文後
落とし穴状遺構
ナイフ形石器・中岳式
集石遺構・土坑
石坂式・塞ノ神式・指宿式・夜臼式・弥
生土器
三稜・ナイフ・押型文・塞ノ神式・異形
石器・中岳式
~晩期
7
原村Ⅰ
末吉町南之郷
H14年
縄文早期・縄文
後~晩期・弥生
~古墳
8
3
原村Ⅱ
末吉町南之郷
H14年
縄文早期
前平式・平栫式
調 査成 果 のま と め
一般県道飯野松山都城線(地域高
規格 道 路)の調 査 成果 の 特徴 と して ,
縄文時代早期の遺跡が多いことがあ
げられます。多くの遺跡で集石や落
とし穴が検出されており,当時の生
活を知る上で重要な資料となってい
ます 。
また,縄文時代後期では中岳式土
器が多く出土し,当該時期の様相を
明らかにするうえで重要な資料とな
って い ます 。
縄文時代早期集石遺構(蕨野遺跡)
(上床
真)
- 76 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
川 内川 激甚災 害 対策特別 緊急事業関連遺跡
1
事 業の 概 要
川内川激甚災害対策特別緊急事業に伴う
発掘 調 査 は , 平 成 18 年 7 月 ,梅 雨 前線 の 停
滞に伴う豪雨のため,北薩地方を中心に川
内川流域で多大な被害を受けた災害を起因
と し て 同 年 12 月 か ら 行 い ま し た 。 分 布 調
査に よ り 18 カ 所 が 発 掘 調 査 の必 要 性が あ る
ことが明らかとなり,埋文センターでは下
激特関連遺跡位置図
ノ原 B 遺跡,下鶴遺跡,虎居城跡ほか7遺
跡の 発 掘調 査 を行 い まし た 。
2
主 な成 果
①
下 ノ原 B遺跡
下ノ原 B 遺跡は,伊佐市大口下殿の川内川中流域右岸の
標 高 約 190 m の 河 岸 段 丘 か ら 丘 陵 に か け て 立 地 す る 縄 文 か
ら古代までの複合遺跡です。この地域では古墳時代の墓の
研究は進んでいたのですが,生活を示す住居跡はほとんど
確認されていませんでした。その中で当遺跡で見つかった
古墳時代の竪穴住居跡8棟は,住居内出土遺物も豊富で住
居の形態と時代を検討できたという点で大きな成果と言え
るで し ょう 。
下ノ原B遺跡古墳時代竪穴住居
No
1
遺跡名
下ノ原 B 遺跡
所在地
伊佐市大口下殿
調査年度
平成 19 年
主な時代
主な遺構
主な遺構
縄文時代早・前・後・晩期,弥
縄文 土坑,焼土域
貝殻条文土器,曽畑式,深浦式,西平式,辛川式,入佐式,
生,古墳,古代
石器制作跡
黒川式,須久式,成川式,ガラス製小玉,土師器,須恵器
平成20年
古墳 竪穴住居
古代 掘立柱建物跡
2
3
4
坂ノ下遺跡
後ヶ原遺跡
二渡船渡ノ上遺跡
5
山崎野町跡 A 遺跡
6
虎居城跡
7
下鶴遺跡
薩摩川内市東郷町南瀬
薩摩川内市東郷町南瀬
薩摩郡さつま町二渡
薩摩郡さつま町山崎
平成 21 年
平成 21 年
平成 19 年
中世 集石遺構
曽畑式,辛川式,西平式,黒川式,スクレイパー,磨石,石
世,近世
溝状遺構
皿,成川式,土師器,須恵器
縄文,弥生,古代,中世,近
平成 21年
平成 22 年
平成 20 年
屋地字城ノ口
平成 21年
平成 21 年
平成22年
スクレイパー,石核,磨石,軽石製品,黒髪式,須久式,土
世
師器,滑石製品
縄文中・晩期,弥生,古墳,古
縄文 埋設土器,土坑
船元式,上加世田式,滋賀里式,入佐式,黒川式,刻目突
代,中世,近世,近代
古代 土坑,ピット
帯文土器,成川式,土師器,須恵器,白磁,青磁
平成 21年
薩摩郡さつま町宮之城
伊佐市大口下殿字下鶴
縄文,弥生,古墳,古代,中
中世~近世 礫集積
縄文早・前・中・後・晩期,弥
縄文 集石
押型文,塞ノ神式,曽畑式,条痕文土器,並木式,西平式,
生,古墳,古代,中世,近世
古代~中世 掘立柱建物跡
黒川式,刻目突帯文土器,高橋式,成川式,土師器,須恵
縄文早期,古墳,古代,中
縄文 集石
前平式,吉田式,押型文土器,成川式,土師器,青白磁,青
世,近世
中世 土塁,空堀,虎口,掘立柱建物 花,木製品,鉄滓,染付,薩摩焼
跡,ピット
縄文早・中・後・晩期,弥生,
近世 石切場
阿高式,市来式,鐘崎式,北久根山式,西平式,三万田式,
古墳,古代,中世,近世
縄文 竪穴住居,土坑
台付皿,刻目突帯文土器,高橋式,市来式,銅戈,免田式,
弥生 土坑,壷棺
銅鏡,成川式,石包丁,砥石,土師器,黒色土器,陶磁器,
古墳 竪穴住居跡,土坑
古代 掘立柱建物跡
中近世 掘立柱建物跡 竪穴建物跡
炉状遺構 溝状遺構
- 77 -
青白磁,青花,滑石製品,薩摩焼
第Ⅲ章
②
センターのあゆみ
虎 居城 跡
虎居城跡は,埋文センターとさつま
町教 育 委員 会 とで 発 掘調 査 を行 い まし た。
遺跡は薩摩郡さつま町宮之城屋地の北西
側に位置し,大きく蛇行した川内川が三
方を囲む半島状に突出した河岸段丘上に
立地します。深い空堀や土塁などが確認
され,強固に守られた山城であったこと
がわ か りま し た。また ,土師 器 や陶 磁 器,
木製品など当時のものと思われる遺物も
多数 出 土し ま した 。
虎居城跡空撮
③
下鶴 遺 跡
下鶴遺跡は,伊佐市大口下殿字下鶴に所在
し , 羽 月 川 右 岸 の 標 高 約 171m の 河 岸 段 丘 に
立地する縄文時代から近世までの複合遺跡で
す。墓と考えられる土坑内から弥生時代の武
どう か
器形青銅器である銅戈が出土したことでマス
コミにも取り上げられました。さらに,大量
の 遺 物 と と も に 古 墳 時 代 の 竪 穴 住 居 が 93 基
虎居城跡検出横堀
見つかり,周辺遺跡も含め当時の集落景観を
復 元 する 上 で重 要 なも の とな り まし た 。
下鶴遺跡検出花弁形住居
3
調 査成 果 のま と め
下鶴遺跡出土石斧・銅戈・破鏡
川内川流域に住まわれる地域住民の生活と安全のた
めに 行 わ れ た 河 川 改 修 工 事に 伴 う 発 掘 調 査 。 大 規模 な 発 掘 調 査 で し た が ,激 甚 災 害ゆ え に
調査 期 間も 十 分に は 確保 で きま せ んで し た。しか し,調 査か ら 多く の 成果 が あが り まし た。
下鶴 遺 跡 の 武 器 型 青 銅 器 の発 見 ・ 虎 居 城 跡 で の 大規 模 な 空 堀 跡 な ど , 災 害対 応 で あり な が
ら, 有 意義 な 発掘 調 査と な りま し た。( 有馬 孝 一)
- 78 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
開 所記 念・講 演 会
旧 姶 良 町 重 富 に 新 設 さ れた 県 立 埋 蔵 文 化 財 セ ンタ ー の 落 成 ・ 開 所 記 念 式典 は , 平成 4 年
5月 8 日 , 多 数 の 来 賓 参 列の も と 盛 大 に 挙 行 さ れ, 新 装 の 施 設 ・ 設 備 の 見学 や 祝 賀会 も 行
われ ま し た 。 ま た そ の 年 の7 月 か ら 9 月 に か け て, 県 内 外 の 研 究 者 を 代 表す る 方 々を お 迎
えし , 開 所 記 念 講 演 会 を 三回 実 施 し ま し た 。 毎 回多 く の 参 加 者 が あ り , 埋蔵 文 化 財セ ン タ
ーへ の 期待 の 大き さ をう か がう こ とが で きま し た。( 大久 保 浩二 )
開所記念講演会
第1回
第2回
「旧石器文化における南九州の特色」岡村道雄
先生
文化庁文化財調査官
「縄文文化における南九州の特色」
先生
名古屋大学教授
「道具と人間~斧を中心として~」佐原
「南九州の古墳文化の特色」河口貞徳
第3回
渡辺
誠
眞
先生
先生
奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター長
鹿児島県考古学会会長
シンポジュウム「考古学から見た南九州の特色」
小田富士雄
先生
福岡大学人文学部教授
中村明蔵
先生
鹿児島女子短期大学教授
上村俊雄
先生
鹿児島大学法文学部教授
新田栄治
先生
鹿児島大学教養部教授
高島忠平
先生
佐賀県文化財課長
松下孝幸
先生
山口県豊北町社会教育課主幹
西健一郎
先生
九州大学文学部助手
※職名は当時
挨拶する土屋知事(当時)
テープカットの様子
第1回開所記念講演会(岡村道雄氏)
第3回開所記念講演会(シンポジウム)
- 79 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
壺 形土 器の発 見
平 成 6 年 3 月 。 国 分 ・ 上野 原 テ ク ノ パ ー ク 造 成工 事 に 先 立 っ て 発 掘 調 査が 進 め られ て き
た上 野 原 遺 跡 で , ア カ ホ ヤ火 山 灰 層 下 位 か ら 完 全な 形 の 壺 形 土 器 が 発 見 され ま し た。 こ の
ふたごつぼ
出来 事 こそ , 後に 国 の重 要 文化 財 に指 定 され る こと に なる 通 称「 双 子壺 」 の発 見 です 。
こ の 双 子 壺 は , 見 つ か った 層 位 か ら 縄 文 時 代 早期 後 半 に 属 し , 土 坑 と 呼ば れ る 穴の 中 に
ほぼ 同 時 に 埋 め ら れ た と 思わ れ ま す 。 こ の 2 点 の壺 形 土 器 の 口 縁 部 に は 特徴 が あ り, 1 つ
は上 面 観 が 円 形 , 1 つ は 上面 観 が 方 形 を な し て いま し た 。 こ の 内 , 先 に 発見 さ れ たの は 方
形の 壺 形 土 器 で , 発 見 当 初は 四 角 の 浅 い 皿 か と 思わ れ ま し た が , 掘 り 下 げる と 完 形土 器 に
なり 驚 き で し た 。 こ の 発 見に よ り , 上 野 原 遺 跡 は一 躍 全 国 に 知 ら れ る よ うに な り まし た 。
上 野 原 遺 跡 で は , こ の よう に 埋 納 さ れ た 壺 形 土器 が , 他 に も 多 数 見 つ かり ま し たが , 台
地 の 最 も 高 台 に 集 中 す る と い う 特 殊 な 出 土 状 況 が 見 ら れ ま す 。 さ ら に , 10 万 点 を 超 え る
遺物 が 発 見 さ れ て い る に もか か わ ら ず , 壺 形 土 器の 周 辺 か ら は 他 の 遺 物 がほ と ん ど見 ら れ
なか っ た こ と と , 異 形 石 器が 集 中 し て い る こ と 等か ら , こ の 地 で 壺 形 土 器を 用 い た祭 祀 が
行わ れ た可 能 性が 考 えら れ ます 。
そ の 後 , 南 九 州 で は 相 次い で 縄 文 時 代 の 良 好 な遺 跡 が 発 見 さ れ , 南 の 縄文 文 化 が大 き く
見直 さ れる き っか け とな っ てい っ たの で す。( 八木 澤 一郎 )
※「 東 京 に 壺 形 土 器 の 写 真を 持 っ て 行 き , 縄 文 時代 早 期 ! と 言 っ て 見 て もら い ま した が ,
信 用 さ れ ま せ ん で し た 。」「 ア カ ホ ヤ 火 山 灰 の 下 か ら 出 土 し た 事 実 を 告 げ る と , 皆 び っ
く り して い まし た。」(中 村耕 治 )
埋納壷(手前)と双子壷(奥)
双子壷
- 80 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
上 野原 遺跡現 地 公開
平成8年,上野原遺跡に縄文時代早期前葉(約1万年前)の集落が発見され,その翌年
に遺 跡 を保 存 する こ とが 決 定し ま した 。上 野原 遺 跡の 現 地公 開 は平 成 9年 5 月か ら 始ま り,
上 野 原 縄 文 の 森 展 示 館 が 開 園 す る 平 成 14 年 ま で は プ レ ハ ブ の 仮 設 事務 所 を 設 置 し , 当 セ
ンタ ー の職 員 が年 中 無休 , 交代 で 見学 者 の案 内 ・説 明 にあ た りま し た。
現 在 入 園 者 は 1 2 0 万 人を 越 え て い ま す が , 初日 の 見 学 者 は 記 者 発 表 の次 の 日 であ っ た
こと も あ り 6 0 0 0 人 を 越す 大 盛 況 で , 遺 跡 の 横に 設 け た 駐 車 場 も す ぐ に満 車 と なり , 隣
の工 場 団 地 の 空 き 地 を 使 い対 応 し た こ と を 思 い 出し ま す 。 こ れ ら の こ と が引 き 継 がれ , 開
園に こ ぎつ け るこ と がで き まし た。(彌 榮久 志 )
見学者への説明のようす
ヘリコプターからのテレビ撮影もありました
展示室にも行列ができました
排土でつくった展望所もありました
- 81 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
上 野原 縄文の 森 への移転
平 成 14 年 4 月 1 日 , 新 埋蔵 文 化財 セ ンタ ー への 移 転開 始 の日 で す。 す ぐに 業 務が 始 め
られ る よ う に と , 前 日 ま でに 物 品 の 配 置 に つ い て業 者 と 打 合 わ せ を し , 総務 課 , 調査 課 ,
その 他 の部 屋 と, 順 次荷 物 の搬 出 を行 い まし た 。
大 変 だ っ た の が , 収 蔵 庫で す 。 数 万 ケ ー ス の 遺物 を 運 び 出 さ な け れ ば なり ま せ ん。 裏 口
の ガ ラ ス を 外 し 、 1 日 数 十 台 の ト ラ ッ ク で 新, 旧 の 埋 蔵 文 化 財 セ ン ター で 搬 出 と 搬 入 の 歩
調 を あ わ せ る こ と が 大 事 で す 。 新 セ ン タ ー で 荷 物 が 滞 っ た ら ト ラ ッ ク は 国 道 10 号 線 を 走
らせ , 余裕 が 出た ら 高速 道 路で と 時間 調 整を し なが ら 遺物 を 運搬 し まし た 。
も ち ろ ん , 上 野 原 遺 跡 出土 の 重 要 文 化 財 に つ いて は , 細 心 の 注 意 を 払 い, 美 術 梱包 の 専
門家 が 梱包 し ,美 術 品専 用 運搬 車 で搬 出 しま し た。
全 て が 空 に な っ た の は ,2 週 間 後 で し た 。 旧 埋蔵 文 化 財 セ ン タ ー に 最 後の 鍵 を かけ た と
きの こ と は 今 で も 忘 れ ま せん 。「10 年 間 , あ り がと う 」 と 。
( 鶴 田靜 彦 )
空になった旧センターの特別収蔵庫
新センターの特別収蔵庫
搬入中の新センター収蔵庫
まだほとんど収納されていない新センター収蔵庫
- 82 -
第Ⅲ章
センターのあゆみ
上 野原 縄文の 森 と企画展
平 成 14 年 , 埋 蔵 文 化 財 セ ン タ ー は 姶 良 市 ( 旧 姶 良 町 ) 平 松 か ら 霧島 市 ( 旧 国 分 市 ) 上
野 原 縄 文 の 森 へ 移 転 し , 展 示 や 普 及 ・ 啓 発 活 動 は (財 )鹿 児 島 県 文 化 振 興 財 団 上 野 原 縄 文 の
森展 示 館が 中 心と な って 行 って い ます 。縄 文 の森 展 示館 に は常 設 ・企 画 展示 室,シ アタ ー,
レ ス ト ラ ン 等 が あ り , 復 元 公 開 区 と 合 わ せ て 10年 間 で 120万 人 を 超 え る 見 学 者 が 訪 れ ま し
た。 ま た, 春 ・秋 ま つり や 様々 な 体験 活 動, 講 座等 も 定期 的 に実 施 して い ます 。
埋 蔵 文 化 財 セ ン タ ー と 縄文 の 森 展 示 館 は 各 種 イベ ン ト や 出 前 授 業 等 で 互い に 連 携・ 協 力
し , 活 動 し て い ま す 。 そ の 中 で も 企 画 展 は 年 に 3 回 実 施 し , 現 在 35 回 目 の 特 別 展 を 行 っ
てい ま す 。 ま た , 年 に 1 回は 前 年 度 の 発 掘 ・ 報 告書 作 成 遺 跡 の 成 果 を 展 示し , そ の年 の 最
も新 し い成 果 を公 開 し, 講 演会 も 行っ て いま す。(永 濵功 治 )
第25回企画展講演会のようす(H21.8)
第1回企画展リーフレット( H4年10月)
10周年特別展オープン当日(H24.10)のようす
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第34回企画展(速報展)ポスター
第Ⅲ章
センターのあゆみ
震 災復 興調査 支 援
阪神淡路大震災復興調査支援(平成7年~9年)
平成 7 年 1 月 1 7 日 未 明 に起 き た 兵 庫 県 南 部 の 地震 は , 阪 神 淡 路 地 区 に 甚大 な 被 害を も た
らし ま し た 。 そ の 復 興 事 業に 関 わ る 埋 蔵 文 化 財 保護 の た め , 全 国 か ら 延 べ9 6 名 の支 援 職
員が 兵 庫 県 に 派 遣 さ れ , 鹿児 島 県 か ら も 3 名 の 職員 ( 7 年 度 立 神 次 郎 , 8年 度 東 和幸 , 9
年度 大 久 保 浩 二 ) が 復 興 調査 に 携 わ り ま し た 。 早期 の 復 興 を 祈 り つ つ , 被災 し て 建て 直 す
個人 住 宅 や マ ン シ ョ ン な どの 建 設 予 定 地 , 国 道 2号 線 地 下 の ラ イ フ ラ イ ン整 備 , 震源 と な
った 野 島断 層 のあ る 淡路 島 の再 開 発な ど の調 査 にあ た りま し た。
あ れ か ら わ ず か 1 6 年 。悲 し い こ と に 再 び 東 日本 大 震 災 と い う 未 曾 有 の大 災 害 に見 舞 わ
れま し た が , 阪 神 淡 路 大 震災 で の 復 興 支 援 の 経 験が 生 か さ れ , そ の 復 興 のた め に 再び 全 国
から 派 遣さ れ た支 援 職員 が 活躍 し てい ま す。
( 大 久 保浩 二)
兵庫ノ津遺跡(神戸市)
明石城武家屋敷(明石市)の現地説明会
排気ガスと騒音の中の鉄骨を組
鹿児島弁での説明が好評! ?
んで国道2号線の地下を調べる。
明石城武家屋敷(明石市)の調査
支援職員の絆は続く
慣れない地層に戸惑いつつ・・・
鹿児島での同窓会(南州墓地にて)
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第Ⅲ章
センターのあゆみ
東日本大震災復興調査支援(平成24年~)
2011 年 3 月 11 日, 東 日本 を 襲 った 巨 大津 波 とそ の すさ ま じい 惨 状に
ついては,皆さんも記憶に新しいことと思います。私は現在,岩手県
教育委員会で東日本大震災の復興に伴う調査支援にあたっています。
このような支援は阪神淡路大震災の際に初めて実施され,今回も全国
から 20 名 の 職 員 が 東 北被 災 3県 ( 岩手 10 名 ,宮 城 9名 , 福島 1 名)
へ4 月 から 派 遣さ れ てい ま す。
私の派遣された岩手県では復興班が組織され,復興道路関係の分布
調査や試掘調査,高台移転等に伴う試掘調査や本調査,さらに市町村
平 美典 文化 財専 門員
支援 な どが あ りま す 。
復 興 道 路 関 係 の 分 布 調 査 で は , こ れ ま で に 約 120km を 踏 査 し ま し た 。 ク マ を 警 戒 し な
がら 三 陸 の 起 伏 の あ る 山 中を 調 べ て 回 る の は 大 変で す が , 緑 豊 か な ブ ナ の森 や 時 々姿 を 現
すシ カ やカ モ シカ , リス の 姿が 疲 れを 癒 して く れま す 。
試 掘 調 査 で は 壊 滅 し た 集落 で 調 査 を 行 っ た こ とも あ り , 全 員 で 黙 祷 を して か ら ガレ キ の
残る 家 の 基 礎 の 脇 を 掘 っ たこ と も あ り ま し た 。 被災 さ れ て 仮 設 住 宅 に 暮 らす 方 々 と一 緒 に
作業 す る こ と も あ り ま す 。皆 さ ん 大 変 な 被 害 に あい な が ら も , 将 来 へ 向 けて 力 強 く歩 ん で
いこ う とさ れ てい ま す。
ま た , 調 査 に 必 要 な 重 機や 作 業 員 が 確 保 で き ない こ と も あ り ま す 。 し かし , 岩 手県 の 職
員や 全 国 か ら 集 ま っ た 派 遣職 員 と 知 り 合 え た り ,東 北 の 豊 か な 自 然 ・ 歴 史・ 文 化 など を 知
る こと が でき る のは 貴 重な 経 験で す 。
震災から1年半がたちました。少しずつ仮設の店舗等が増えてきてい
るものの,被災地には未だにガレキがうず高く積まれ,倒壊した堤防,
基礎だけの家々など荒涼とした風景が広がり,仮設住宅では今でも4万
人の方々が生活しています。復興へ向けてまだまだ多くの課題がありま
すが,震災前よりも安心して暮らせる日が一日でも早く訪れることを願
ひら
よしのり
い なが ら ,日 々 調査 に 励ん で いま す 。(平 美 典 )
打ち合せのようす
基礎だけ残った家屋の横を試掘するようす
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第Ⅲ章
センターのあゆみ
歴 史の ふるさ と 県民セミ ナー
歴 史 の ふ る さ と 県 民 セ ミ ナ ー は , 平 成 5 年 度 か ら 平 成 13 年 度 に か け て 実 施 し た 事 業 で
す 。 平 成 5 ~ 7 年 度 は , 年 6 回 の 講 演 会 と 発 掘 体 験 を 実 施 し , 平 成 8 ~ 10 年 度 は , 考 古
巡回 展 と し て 県 内 各 地 で テー マ に 沿 っ た 展 示 及 び講 演 会 及 び 発 掘 ・ 生 活 体験 を 実 施し ま し
た。 そ して , 平成 11 ~ 12 年 度 は,『 南 の豊 か な縄 文 文化
上野 原 遺跡 へ の招 待 』と し て
パネ ル 巡回 展 及び 発 掘・ 生 活体 験 を行 い,平 成 13 年 度は 発 掘・ 生 活体 験 を実 施 しま し た。
講 演 会 や 展 示 会 に は 多 くの 方 々 の 参 加 が 得 ら れ, 夏 休 み 期 間 中 に 実 施 した 発 掘 体験 で は
子供 た ち も 多 数 参 加 し , 募集 定 員 を 上 回 っ た 年 もあ り ま し た 。 埋 蔵 文 化 財を 広 く 紹介 す る
こと が 出来 た 取り 組 みの 一 つだ っ たと 言 えま す。(黒 川忠 広 )
平成5年度のようす
平成10年度のポスター
考古巡回展でのオープニングセレモニー
平成11年度講演会のようす
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第Ⅲ章
センターのあゆみ
お 出か け体験 隊 (出前授 業)
平 成 22 年度 か ら開 始 した 出 前授 業 は, 初 年 度に 19 校 と 1 公 民館 で ,23 年 度は 14 校 で
実施 し , 毎 回 児 童 や 生 徒 達に 大 変 好 評 で す 。 今 年度 か ら 上 野 原 縄 文 の 森 の事 業 と なり , 名
称も 新 た に 「 お 出 か け 体 験隊 」 と な り ま し た 。 上野 原 縄 文 の 森 と 埋 蔵 文 化財 セ ン ター 職 員
が学 校 等に 出 向き , 授業 を 行っ て いる 。 今年 度 は 10 月 終 了時 点 で 10 校 と 6 団 体 に対 し て
授業 を 行 っ て い ま す 。 今 年度 に 入 っ て か ら , 学 校以 外 の 諸 団 体 が 夏 休 み 中の 体 験 活動 に 取
り入 れ ると こ ろが 増 えて き てい る よう で す。
ま いぶ んキッ ト 貸出事業
平 成 22 年度 か ら開 始 しま し た。 初 年度 に 6 校 , 22 年 度 は 11 校 , 今 年度 は 10 月 終 了 時
点で 4 校が 利 用し て おり , 埋文 セ ンタ ー 在職 経 験者 を 中心 に 利用 が 盛ん で す。 い ずれ の 学
校で も 本物 に ふれ た 感動 が 多く よ せら れ ,成 果 をあ げ てい ま す。( 抜水 茂 樹)
お出かけ体験隊での授業風景
実物を触ってみよう
授業で実物を活用
火おこし体験
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