古 代 と 現 代 の 交 差 点 ―中国の歴史上の英傑は神も自然も運命も畏れない。人間すなわち 自己が天下の中心であり、皇帝になることも、自然を改造すること も可能である。大中華が復活する今、世界の未来は中国に左右され るであろう。中国の歴史が現代にどのように反映しているかを知る ために、中国の歴史を学習しつつ、遺跡を訪ねる旅行に出かけた。 そこで見たもの、考えたことを綴ったのがこの報告書である― 2009 年 6 月 寺岡伸章 目 次 <第1部> 古代遺跡紀行 チベット系民族羌族の過去を追う 1 紂王は暴君だったのか、さらに、太公望は釣をしていたのか 12 山東省臨淄の今と昔 16 中国のイデオロギー・儒教の誕生 22 呉越同舟せず 26 合従連衡 30 祖国とともに死んだ天才詩人の政治家-屈原 33 殺される側の論理と殺す側の論理 37 匈奴の属国だった漢帝国 43 司馬遷が後世に遺したミステリー 47 中国と朝鮮の「歴史認識」の現場を行く 52 理想の多民族国家をつくろうとした北魏孝文帝 61 大国に最初にノーと言った日本人-聖徳太子 63 中国開封まで迫害から逃れて来たユダヤ人 67 国賊と英雄 75 近代まで世界一だった中国の科学技術 78 コロンブスやバスコ・ダ・ガマよりも凄かった鄭和 81 清朝建立に貢献した豊臣秀吉 84 日本帝国主義よりも恐ろしい英国植民地主義 89 <第2部> 歴史エッセイ 実験小学校の授業風景 96 日本とここが違う中国の「歴史」教科書 99 中国の歴史を概観する 106 野蛮と文明 113 <第3部> 北京とカシュガル紀行 北京のゴールデンウィーク 116 僕はカシュガルで考えた 145 編集後記 168 <参考文献> 170 チベット系民族羌族の過去を追う 四川省の成都、殷墟(いんきょ)で有名な安陽、始皇帝生誕の地の邯鄲(かんたん) をかけあしで廻ってきた。現地に行けば、想像力が喚起されると踏んでの旅行である。 中国という国の成立ちを考えるのに適しているはずである。 2008 年 9 月、搭乗した飛行機が濃い霧の成都空港に到着すると、四川大学の国際合 作交流処の徐晶が出迎えに来てくれた。成都出身者は小柄と思い込んでいたが、北方人 のように意外と背が高く、英語を流暢に話す美人である。2008 年 5 月に発生した四川 大地震の被害について尋ねると、 「成都では被害はほとんどありませんでしたが、観光客が激減しました。今では戻りつ つありますが」 と元気のない答が返ってきた。 国内ランキング 16 位程度の名門四川大学に着くと、少し遅れて国際担当の石堅副学 長が現れた。物腰が柔らかい。石副学長は四川大学訪問に対し歓迎の意を表すと、大学 の沿革と現状について、簡単に説明してくれた。特長についても抜かりなく強調した。 中国西南開発の拠点大学だと何度も繰り返していた。 それが終わると、筆者の方から、訪問受入れに対するお礼と訪問の目的について簡潔 に述べた。そして、独立行政法人理化学研究所の歴史と活動概要について説明後、本論 に移った。 「理研は四川大地震の被害者に対して大変心を痛めている。自然科学を専攻する大学院 生を理研に招待し、3 ヶ月間研究室に配属して研究の実習をやらせたい。被災の悲劇を 乗り越えて、将来への希望を取り戻し、科学者や技術者を目指すきっかけとなって欲し い」 実は、四川大学には教育部を経由して要件を伝えてあった。官から下達するのは中国 流の仕事のやり方である。幹部は忙しいため、要件が明確でないと、面会を断られるケ ースがある。 副学長より、提案の承諾と感謝の意が述べられた。優秀な学生を選抜すること、大学 院生派遣プログラムをきっかけに両研究機関が一層緊密な関係になることを期待する 旨の発言があった。 会合は若干の質疑応答を伴いながら、順調に終了した。その後、キャンパス内の民族 博物館を見学した。チベット族、羌(きょう)族、苗(みゃお)族などの少数民族の文 化や風俗、漢民族の衣装などが展示されていた。四川省は少数民族が多く、またチベッ トへの入口であるため、少数民族の文化研究が盛んである。纏足(てんそく)用の靴が 展示してあった。十数センチ程度の大きさであろうか。痛々しい。纏足の靴を履いて、 よろよろ歩く姿が風流で色っぽいと当時の男性は考えていたのである。現代との美的価 値観の違いは大きい。古代中国文化の負の面の代表例である。 歓迎夕食会は午後 6 時に始まった。石副学長は夜間に講義を行うために午後 7 時に失 礼させていただく、と前もって丁寧に言った。四川の辛いがおいしい料理を味わいなが ら、ホスト側 5 人全員と白酒で杯を交わした。中国のしきたりである。懇談は四川人の 誠実さを感じさせるものであった。 筆者が成都は“天府の国”と呼ばれ、いいところと聴いていますと水を向けると、 「成都は住むのに最適な場所であるため、人々が努力しないのが問題なのです。女性は 綺麗だし、食事は美味しく、生活費も安いですよ。茶館でのんびりとお茶を飲むのは最 高です」 と石副学長が滑らかに話す。何百回も同じ説明を来賓にしているのであろう。 成都の特長を並べるのに、女性を最初にもってくるとはと思っていると、国際合作処 1 の女性の副処長が、 「石教授の古代人類学の授業は学生に非常に人気があって、いつも教室の外まで学生が 溢れ出しているのです。特に、女性に人気があります」 と補足した。 しばらくすると歓迎会は終わり、ホテルに戻った。茶館の雰囲気を知りたくなって、 ホテルのなかの茶館に入ってみた。雰囲気はリラックスできるように工夫してあるが、 ホテルなかであるため現代風である。歴史を感じさせない。お茶の値段は日本円で 600 円程度と中国の物価を考えると安くはないが、少し呑むと何回でもお湯を注ぎに来る。 気がおけない仲間と何時間でもおしゃべりをするのが至福の時であろう。 部屋に戻り、シャワーを浴びて、床に就いた。外からは車のクラクションの音が間断 なくきこえてきた。しかし、1600 キロの移動の疲れと白酒のせいで、騒音にぶつぶつ 文句を言っている間に寝入ってしまった。 何時であろうか。工事中のような音がどこからともなく聞こえてくる。深夜に工事を 行うホテルとは何であろうかと思いつつ起き上がり、電灯をつけて時計を見ると午前 1 時 30 分だ。寝ぼけているからであろうか。コツコツという音がどこから聞こえてくる かまだ分からない。洗面所にいって顔を洗うと、どうやら自分の部屋のドアを誰かがノ ックしていたようだ。 小窓から外を覗くと、女性が下を向いて立っている。誰なのか。美女なのか。石副学 長が言うように、やはり成都は美女の街なのか。誰かが派遣したのであろうか、それと も公安のハニートラップなのか。なぜ。胸が躍ってきた。そう思いつつ、もう一度小窓 に眼を当てると、人影は消えていた。顔は見なかったため、美女かどうかを知るすべは ないが、一体誰であったのであろうか。深夜に人の部屋をこっそり訪ねて、ドアをコツ コツと叩いて客を起こすとは何の目的があるのであろうか。色々と想像を逞しくしてい るうちに、すっかり眼が覚めてきた。安眠薬を飲んでも眠れなくなった。 次の日は、寝不足の頭を抱えて、西安交通大学を訪問することになる。しかし、眠気 が吹き飛んでしまう日になってしまうとは思ってもいなかった。 西南交通大学は、西安交通大学、上海交通大学、台北交通大学と源を同じくする南方 学堂という大学である。そのため、“本家はうちである”という議論が絶えない。西南 交通大学は、機械系や土木系が強い大学のようだ。打ち合わせの前に、実験室を見学さ せてもらった。四川大地震後、地震防災関連の予算がかなりついたため、橋梁、トンネ ル、建物、土砂の構造や強度を調べる研究が盛んに行われるようになったという。 西南交通大学の国際合作処との協議では、 「うちの大学の地震被災大学院生のなかで最も優秀な者を理研に派遣したい」と熱く語 ってくれた。今後の日程と窓口を確認して、会合は終わった。 昼食後、中国最古の堰が現存する都江堰(とこうえん)に向かった。地震の被災地の 実態を見ておきたいという気持ちと都江堰の歴史的な意味を考えてみたかった。都江堰 は、道教の聖地の一つである近辺の青城山(せいじょうさん)とともに 2000 年にユネ スコの世界遺産に登録されている。 都江堰に近づくに従い、地震の被害を受けた建物が目立つようになった。建物の一部 や壁が崩壊したり、窓枠が歪んでいる。建築中の高級アパートも大きな被害を受け、手 付かずのままだ。人は住んでおらず、利用もされていない。放置してあるのは、撤去の ための費用が嵩むからであろうか。ある通りに面する建物の被害は深刻であるが、通り を曲がると、隣の通りの被害はそれほどでもない。テレビで見るのと違い、実際に眼の 辺りにすると、地震の怖さが身にしみる。睡魔も吹き飛んだ。重点文物財などの世界遺 2 産も相当な被害を受け、立ち入り禁止になっている。昼食時に、西安交通大学の食堂で 会った、早稲田大学の災害復旧の専門家は、重要文化財の復旧のために、日本の匠を連 れて来たいと言っていたが、その意味を理解した。 都江堰は、岷江(みんこう)が龍門山脈を抜けて成都盆地に出るところに建築された 堰である。古代、春の雪解け水が殺到し、岷江の流れが緩やかになるところで川幅が広 くなり、毎年洪水を引き起こしていた。また、岷江の水を乾燥した成都盆地に引くと、 広大な農地に変えることもできる。つまり、治水と利水の両方が達成できないかと考え た者が古代にいたのである。紀元前 3 世紀、戦国時代の秦国の蜀郡の太守李冰(りひょ う)である。李冰は昭襄(しょうじょう)王から銀十万両を与えられ、数万人を動員し て難工事に挑戦した。川の中に堤防を建設するために、石を詰めた竹かご、つまり現代 で言うテトラポットを川のなかに投入させた。また、盆地への運河を切り開くために、 岩盤を火で温めた後に水で冷まして岩盤に亀裂を入れて岩山を崩していった。気の遠く なる大工事である。 李冰は紀元前 256 年から紀元前 251 年に原形となる堰を築造したが、 工事の完成を見ることなく没し、息子の李二郎に工事を引き継ぎ、やっと完成させた。 この親子は近くの二王廟に祀ってあるが、二王廟も骨組みだけの無残な形を呈し、入場 が制限されている。 都江堰の構造は次のようになっている。川のなかに中州を建造し、本流と灌江(灌漑 用水)に分離する。灌江は下流で、さらに盆地へ流れ込む内江(用水路)と飛沙堰に分 けられている。なぜか。水量が適量であれば、水は灌漑用水路に流れるが、洪水になり 水嵩が増すと、飛沙堰から余分な水や土砂を本流側に戻すように設計されているのだ。 灌漑用水の上限は毎秒最大 730 立方メートルに自動的に制限される。多すぎると農地が 洪水の被害にあう。飛沙堰のお陰で、内江に流れ込む土砂は上流から来る土砂の 8%で しかない。2000 年以上もの間、洪水調整、灌漑、土砂排出を自然に行ってきたのであ る。灌漑用水は総長 2 万キロの水路ネットワークを形成し、成都盆地を「天府之国」に 変えた。成都の人々が豊かな生活を送れるのは李親子の業績のためである。 都江堰の完成から 30 年を経たず、秦の政王が戦国時代を勝ち抜き、中国を統一し、 始皇帝と名乗るようになった原因の一つは後背に豊かな穀倉地帯を有していたからで ある。戦国時代の 7 ヶ国のうち統一の可能性があったのは、農地の開墾という観点で見 ると、西に農地拡大の可能性があった秦と江南の穀倉地帯を切り開いた楚の二ヶ国であ った。実際、秦の滅亡後、楚漢戦争に移行するが、通常の戦いをしていれば、楚が勝ち 残り次の王朝を開いていたはずである。しかし、楚の項羽は庶民出身の劉邦に敗れてし まう。項羽と劉邦の戦いのゆくえは司馬遷の『史記』のみでなく、後世の多くの人々の 議論の的となった。両者のリーダーシップの違いに勝負の原因を求める考え方が多い。 部下の意見を聞かないわがままな項羽が墓穴を掘ったようなものだ。今でも自己中心の リーダーは後を絶たない。 「岷江の上流を見てください」 都江堰まで送ってくれた運転手が指を差した。指先には、山肌が無残に切り崩されて いるのが見えた。大地震による大規模な地滑りである。 「あの山の向こうが、震源地の汶川だ」 運転手がそう言う前に、筆者は察知した。 汶川は、大地震の際に報道されたように、少数民族の羌族(きょうぞく)が多く暮ら す地区である。羌族とはチベット系の遊牧の種族である。羌族が山岳地帯に住んでいる 理由は、歴史の過程で漢民族に追いやられたからである。羌族は不幸な種族のようだ。 殷代は神聖王朝で、祭祀を重視していたが、同時に奴隷社会でもあった。奴隷となった 異族とは、実は羌族のことであった。殷王朝は時々、中原で遊牧をしていた羌族を生け 捕るために狩にでかけていたようである。羌族は王朝の主君が亡くなると、近臣や妻妾 3 とともに殉死させられた。当時は、神と人が一体となっていた特異な時代であったため、 殉死する方も喜んで死んでいったのかも知れない。現代の価値観で殷朝を評価すること はできない。 殷は精巧な青銅器で有名であるが、それを作成したのは奴隷であった羌族である。羌 族の業績は現代でも人々を感服させる出来栄えである。紀元前 221 年、政王は中国を統 一するが、彼の陵墓からは数千体の兵馬俑が発見されている。恐らく、生贄の羌族の人 数が減少し、青銅器をつくる匠として使用した方が得という発想に変わっていったので あろう。合理性の芽生えである。 また、殷が周に滅ぼされると、羌の一部は山東半島に逃れ、莱(らい)という小国を 設立する。それを討ったのは、その西に位置した斉(せい)の将軍安弱(あんじゃく) である。晏弱はその息子晏嬰(あんえい)とともに、斉公に仕え、親子ともに死後晏子 (あんし)と呼ばれるようになる。諫言を厭わぬ臣下として中国の歴史に名を残すこと になる。 「羌族か」 筆者はつぶやいた。 運転手は観光はもういいだろうと言いたげな表情をしたので、車に戻った。車は来た 道を戻って進む。都江堰を見下ろせる丘の上で、車が停まった。降りてみると、運転手 がコンクリートのダムの方を向き、 「ソ連が途中まで建設し、突然やめて帰っていった」 と語る。 その未完成のダムは都江堰の上流僅か数百メートルのところに、静かに立っていた。 筆者の勘では、現代中国において、古代に建造された都江堰よりも効率的なダムをソ 連の技術者を招いて造りはじめた。しかし、中ソ対立のため 1960 年に中国に滞在して いたソ連技術者が一斉に帰国しているが、このダムもその残骸の一つではあるまいか。 近代技術でダムが完成していれば、都江堰は水没している。そうなれば、都江堰が世界 遺産に認定されることはなかった。現代技術が古代技術に勝つとは限らない。 翌日の午前、筆者は金沙(きんさ)遺跡を駆け足で見学した。出土品の多くは商(殷) 代後期(紀元前 17 世紀から前 11 世紀)から西周(せいしゅう、紀元前 11 世紀から前 771 年)のもので、黄金の仮面、金帯、精巧な玉器などが展示されていた。成都には、 目が飛び出した青銅の仮面で有名な三星堆(さんせいたい)遺跡があるが、これら二つ の遺跡の出土品は酷似しているものの差異もあるという。また、黄河文明や長江中下流 文明との差異や類似性を考慮すると、中華文明はかなり多元性を持っていたと考えられ るようになっている。なお、これらの文明は川の氾濫によって滅亡したとの説が有力と 聞いたことがある。 筆者は午後のフライトで北京に戻り、1 日おいて河南省の安陽(あんよう)行きの“新 幹線”(とは言っても在来線を走る)に乗り込んでいた。殷墟(いんきょ)を訪れるた めである。羌族と殷墟の青銅器の関係は深そうである。殷墟に行ってみたい。興奮を覚 えた。 巨大な北京西駅から河南省の安陽駅まで 3 時間半しかかからなかった。最高速度は 206 キロ。車内は満員である。 午後1時 22 分、定刻通りに安陽駅に着くと、構外に出て視線が合ったタクシーの運 転手に殷墟と投宿のホテルまでの時間を訊いた。 「どちらも 15 分。大差ない」 殷墟までは遠くなさそうなので、まずホテルにチェックインすることにした。 「そこのホテルはサービスが悪いぞ。同じ 4 星であれば、こちらの方がいいぞ」 4 と運転手がホテル名をあげた。運転手の言うホテルに行けば、彼はキックバックを受け 取るのであろう、と思った。しかし、後で分かることであるが、ホテルの部屋は掃除が 行き届いておらず、イガイガがあちこちに落ちていて、危なくて裸足で歩ける状態では なかった。さらに、午後 11 時頃には、部屋に電話がかかって来て、 「特別服務(セックスの意味)は要らないか」と女の露骨な声が聞こえる。 「不要(いらん) 」 と言ってぶっきらぼうに切ったが、ほとんどの男性客の部屋に電話をかけているらしい。 これでは売春宿に泊まっているようなものである。中国のホテルはどこも同じような状 態になっている。毛沢東が泣くというものだ。 午後、このホテルにチェックインして、部屋を確保すると、すぐに殷墟へと向かった。 殷墟のある小屯(しょうとん)までは 4 キロ程度の距離だった。予想通り、殷墟は蛇行 する幅 30 メートル程度の河の両側に広がっていた。やはり古代都市の発展には河川が 不可欠である。入場券を買って殷墟公園のなかに入った。小奇麗な公園であった。 青銅器、玉などの発掘物が展示してある博物館を除くと、他の発掘場所は屋根やガラ スのカバーをかぶせ、発掘したままの姿を参観者にみせてくれているか、あるいは風化 しないように元通りに埋め戻してある。参観者に対して最大の配慮をしている。世界遺 産の面目躍如だ。 博物館に向かった。入口は地下にあるが、そこまでの緩やかなスロープには、現代か ら古代までの王朝の名前と成立年が記されている。入口がちょうど殷王朝の滅亡年であ る。これから先の空間は殷時代という訳である。チケットをチェックしている係員に訊 くと、室内の写真撮影は可能であるとのことである。館内には、土管、壷、家畜の骨、 青銅器、宝貝、玉、甲骨文字を刻んだ亀甲などが展示してあった。 展示品をみると、当時の文化の高さが窺い知れるが、ひとつだけ気になった。殷墟は 戦前から発掘が開始されているが、戦前のものはない。蒋介石が台湾に亡命する際に、 故宮の至宝とともに、全て持ち去ったのであろう。1928 年から発掘の指揮をとったの は、中央研究院歴史語言研究所である。中央研究院といえば、現在台北市の東寄りの地 域に位置し、自然科学と人文科学の総合研究所である。発掘隊長の梁思永(りょうしえ い、清末の啓蒙思想家梁啓超(りょうけいちょう)の息子)は大陸に残ったが、研究者 の何人かは、発掘物やノートとともに台湾に去っている。 13 年前、筆者が台北の故宮博物院を訪問した際、強い衝撃を受けたものが二つある。 ひとつは宋代の青磁器で、もうひとつは殷墟から発掘された青銅器と甲骨文字であった。 現在、戦前発掘されたものは台北に展示され、戦後のものは殷墟に展示されているので ある。 殷墟博物館の出口近くに、海外に流出した発掘物の写真と流出先が記されているが、 日本、米国、英国の名前はあるが、台湾の名前は一切ない。台湾は中国の一部であると いう政治的配慮ではあるが、台湾省にも文物の一部(実は大部分)があると書いていて もいいではないかと思う。 博物館を出ると、馬車が眠る展示場に向かった。馬車のみでなく、馬の骨まで一緒に 発掘されている。王の死後、王とともに生き埋めにされたのであろう。馬は身もだえ、 身体をよじっている。躍動感や血の温もりがまだ残っている。動き出すのではないかと さえ思える。 公園内には、甲骨文字と漢字を併記した場所もある。同じ文字がしばしば出てくるの で、甲骨文字の特徴を覚えると、漢字が思い浮かび、読解力が増してくるのが分かる。 「俺も考古学者になったみたいだ。本気で勉強すれば、甲骨文字くらい簡単に読めるよ うになるかも知れない」 とバカなことを考えていた。 5 司馬遷の『史記』には殷王朝の記載はあったが、殷は存在しないと言われていた時代 もあった。小屯(しょうとん)での殷墟の発見により、さらに『史記』の信頼性が高ま った。その内容は、甲骨文字の記載とほとんど同じであったことも専門家を驚かせた。 中国には三皇五帝の伝説があるが、司馬遷は三皇を書かず、五帝から書き始めている。 五帝の最初は黄帝で、現代の中国人も自ら黄帝の子孫だと信じている。五帝の最後の二 人は、尭(ぎょう)帝と舜(しょん)帝である。中国人はこの時代を「尭舜の治」と呼 び、古代の黄金期と讃えている。舜帝を引き継いだのは禹(う)帝であり、夏(か)王 朝という世襲王朝がここに始まったとされている。中国人は夏王朝の存在を信じている が、海外の専門家は証拠となる遺跡はまだ発掘されていないとして、断定まで到ってい ない。 その夏王朝を倒したとされる殷王朝はどのような政権だったであろうか。 殷王朝は紀元前 1600 年から 500 年続いた政権と言われている。8 度遷都し、最後に 落ち着いたのが小屯(しょうとん)で、その後二百数十年間、殷は都を遷さなかった。 しばしば遷都した前半の殷王朝は、遊牧や焼畑農業を主な生活手段としていたのかも知 れない。殷は王が占いをしながら農業や戦争に関係する重要事項を全て決定していく、 祭政一致の神権政治が行われていた。殷人は神とともにあり、占いは神の意思の反映で それに従っていた。奴隷は人間扱いされず、しばしば雨乞いのために神への生贄になっ た。神とともにいるため、殷人は死を恐れず勇敢で、戦争に勝ち諸部族を略奪していた。 そのため、殷王朝は奴隷にされた羌族や諸部族から怨みをかうことになる。 その殷を倒したのは周の文王である。文王は谓水(いすい)の畔で釣をしていた老人 と語り合い、その才能を見出し、そのまま車で連れて帰った。そのひとの名は呂尚で、 後世太公望と呼ばれるようになる軍師である。殷の最後の紂(ちゅう)王は 70 万人の 大軍を動員するが、牧野(ぼくや)の戦いに敗れる。太公望は諸部族に根回しを行い、 兵の派遣を要請するとともに、殷軍内の不満分子を取り込んでいったと思われる。『史 記』「周本紀」には、殷の軍隊はことごとく寝返り、総崩れになったと記してある。 紂王は妲己(だっき)を寵愛し、離宮で酒池肉林の歓楽の限りを尽くし、それが原因 で殷王朝は崩壊したと言われている。しかし、崩壊の真の原因は殷王朝のシステムの寿 命であるというのが現代の科学的で合理的な考え方である。 『史記』 「列伝」は司馬遷の ひととなりを理解するのにも役に立つが、夏王朝の最後の桀(けつ)王も妹喜(ばっき) を愛して国を失ったと書いている。殷と夏の崩壊はストーリーだけでなく、王がうつつ を抜かした美女の名前まで似ている。これが夏王朝は伝説で、存在しなかった理由とさ れている。 周は 800 年も続く長命王朝だった。しかし、紀元前 771 年、幽(ゆう)王が殺され、 翌年洛陽に遷都後は東周と呼ばれ、政治的な権力を失った象徴的な存在となった。その 後、秦の始皇帝が紀元前 221 年に天下を統一するまでの 550 年が春秋戦国時代となる。 周は農業重視の礼楽王朝であった。殷朝時代には、神と人の距離は近かったが、周代 には神とは一線を画し、礼楽を重んじた。殷滅亡後、武王は 2 年で亡くなり、周の基盤 を作ったのは周公旦とされている。孔子は彼を聖人として尊敬し、儒教を中国思想の主 流にしていく。なお、武王が羌族から妻を迎えていることを考えると、羌族に対する扱 いは殷朝とは比べることのできない位置にまで上昇したのである。 周王朝は一族や殷を滅ぼすのに貢献した臣たちに領地(封土という)を与え、これを 世襲の諸侯とし、封土内の政治を自由にまかせ、その代わりに、貢納(税金)と軍隊派 遣の義務を負わせていた。これを封建制度という。封は邦(くに)と同じであるので、 封建制度とは、そもそも国を創るという意味である。諸侯は天である周王を尊重し、外 敵から周を守ろうとした。つまり、当初、尊皇攘夷の思想は生きていたのだ。諸侯は周 朝に対して義理があるので、封建制度は秩序を作る上で機能していたが、何百年も経つ 6 うちに諸侯同士は赤の他人になっていき、システムが揺らぎ始める。 春秋時代までは、「春秋の五覇」と呼ばれる名君が、周を尊重しつつ勢力争いを繰り 返す時代であったが、大国晋(しん)が魏、趙、韓の 3 国に分裂する紀元前 403 年を境 に、その後は戦国時代に突入する。鉄の発見により生産力が拡大するに従い、実力で国 の拡張を図る勢力が台頭してくる。諸国が合従連衡の戦略によって覇権を競うことにな る。 日本の封建時代は鎌倉時代から江戸時代である。その期間、各藩は殿様の統治下で国 の五穀豊穣につとめてきている。藩の運営を通じて、人々は独自の文化や経済の発展に 参加しているという当事者意識に目覚めていく。これが次の時代の民主主義の基本とな っていく。中国の周や春秋時代に日本人がノスタルジアを感じるのは、封建制度という 類似のシステムが古代中国でも機能していたからである。だが、中国は戦国時代を経て 始皇帝により統一されると、その後の歴史は皇帝型統治が 2000 年続くことになる。 筆者の見るところ、中国の歴史は殷の神聖王朝、周の礼楽王朝、秦以降の皇帝支配の 三つに分けられると思う。現代の中国は殷代からモノを動かして儲かる商(商は殷の別 称)人以外には何も引き継いでいない。その意味では、殷周革命は歴史を断絶させた真 の意味の革命であった。周王朝が残したものは中国人の思想のバックボーンともなる儒 教である。全ての権力が皇帝に集中する皇帝支配のメカニズムは現代中国でも生き続け ている。中国では、1840 年のアヘン戦争あるいは辛亥革命以降が近代社会と言われて いるが、2000 年に及ぶ皇帝支配は中国の国のありようや人々の生き方に色濃く反映し ているように筆者には思えてならない。 日本人が中国や中国人を理解する際、封建時代に生まれた儒教が日本に伝播して、武 士道として昇華された経緯があることから、儒教的価値観に対しては比較的理解がしや すい。上下関係や年配者や面子を大切にするのは共通点である。だが、天下統一後の中 国の政治システムは日本とは根本的に異なった歴史を持つため、相互に理解するには歴 史的経緯を含めた解析が必要である。 殷墟の見学を終えた後で、出口付近の売店でたむろしている人々に声をかけた。 「殷墟の周辺は土ばかりかと思っていましたが」 「ほとんどの墳墓は元通り埋め戻され、周囲は林檎畑になっているよ」 「緑が多いのには驚きました。安陽は静かで、いいところですね」 と多少大げさに筆者は言った。 「そうだよ。ところで、どこから来たの?」 と訊かれたので、経緯を説明した。数分間やり取りをしていくうちに、日本語を教えて 欲しいということになり、簡単な単語を教えた。最後に、 「ここではタクシーが捕まりにくいので、大通りまで送ってやるよ」 と、そのうちの運転手がミニバスに乗せてくれた。 ミニバスから降りる時、筆者が「ありがとう」と日本語で言うと、彼は覚えたての日 本語で、 「どういたしまして。ありがと」と応じた。 安陽市は人口 100 万人の都市であるが、彼らの心情はよき田舎に住む人々のそれであ った。 翌日、安陽から邯鄲(かんたん)に向かった。55 キロ北にある都市だ。ホテルに待 機していたタクシーに乗り込み、邯鄲行きのバスの発着センターに行くように言うと、 このタクシーで邯鄲まで行かないかと誘う。 「高速道路を使えば 40 分で行ける。200 元でどうか」 7 と言う。自分はゆっくりとした旅をしたいので、必要ないと返事すると、 「バスでは 2 時間(実際は 1 時間 30 分だった)もかかる」 「道路が悪いので揺られて疲れる(これは本当だった)」 「おじさん、金持ちだろう。じゃ、150 元でいいよ。高速代がかかるので、これ以上は 下げられない」 殷(商)の末裔らしく、商人ぶりを発揮するが、筆者は頑として受けつけなかった。 邯鄲発北京行きの新幹線は午後 8 時 10 分に出発する。それまで時間は嫌になるくらい あるので、急ぐ旅ではない。 運転手は途中から説得するのを諦めた。 バスセンターに着くと、10 分後にバスが出るとチケットの窓口は言う。バス乗り場 を探すために構内をうろうろしていると、係員がこちらだと、案内してくれた。中国語 の発音から外国人と分かったのであろう。中国は地方に行くと、遠来の客に親切にして くれる。ミニバスに乗り込むと、売り子が次々と乗り込んでくる。新聞、雑誌、地図な どを買わないかとしつこく食い下がる。俺は外国人だから雑誌は読めないよ(実は読め るが)と言っても席の近くから離れようとしない。 バスは満員の客を乗せて、出発した。途中、省の境界を越える際に運転手が“通行料” を払った。安陽は河南省であるが、邯鄲は河北省に所属する。 午前 10 時 30 分、邯鄲のバスセンターに到着した。 文字通り、右も左も分からない。売店に入り、地図を買った。邯鄲は春秋戦国時代の 趙の首都であり、また秦の始皇帝の生誕地でもある。さらに、『邯鄲の夢』に出てくる 道士呂翁が祀られている祠がある。邯鄲に来た目的は簡単に言うとこれらを見学するこ とだ。しかし、何が市内のどこにあるか分からなくては、旅程の立てようがない。 売店の売り場の前で地図を広げて、趙王の遺跡と呂翁祠と博物館の位置を売り子に訊 いた。前の二つはすぐに教えてもらったが、博物館は聞いたことがないと言う。 通りでは、タクシーが長い列を作っていた。先頭の運転手に、趙王城遺跡と行き先を 伝えると、運転手の顔は一瞬曇り、首を縦に振った。 運転手は一度しか行ったことはない。何もないところだと再三強調する。 「チケット売り場もないのか」 「ない」 「城壁くらいはあるだろう」 「ない」 「何か遺跡はないのか」 「何もない。毛沢東時代の文化大革命の時に紅衛兵がすべてを破壊してしまった」 二千年以上も過去のことであるので、遺跡はほとんど残っていなかったのであろう。 その遺物を過去の文化は全て悪と言う単純な発想で、紅衛兵が破壊してしまった。何も ないのを見たいという理由で運転手を説得した。タクシーは 20 分走ると、舗装道路か らでこぼこ道に入り、丘を登り始めた。走れるところまで行くと、クルマは停まった。 運転手に帰られては、市内に戻れない。 「少し待っていてくれ。散策してくる」 と筆者が言うと、運転手は俺も行くと言って、ついてきた。好奇心豊かな男のようだ。 遺跡は本当に何もない。自然の丘を利用して、人工的に段差を設けているのがやっと 認められる程度だ。遺跡の跡には、トウモロコシ、綿花などが植えられている。畑と化 している。高台まで行くと、なぜか一軒の農家があった。市内を見下ろすことができる。 敵の攻撃から守るために適した場所のようだ。地図で確かめる限りでは、東西 2 キロ、 南北 1.2 キロの城壁があったようである。 戦国時代は、 「合従」 (大国秦に対して 6 つの小国が連合して当たるという政策)と「連 8 衡」 (秦が六ヶ国の一国ずつと和睦条約を締結し、彼らの連合を阻止する政策)を策し、 奔走する謀略家、つまり縦横家(しょうおうか)が活躍する時代であった。人質の交換 も日常茶飯事であった。秦の昭王の孫の子楚(しそ)は趙(ちょう)都の邯鄲に人質と して送られていた。秦と趙の関係は悪かったため、子楚はいつ殺されてもおかしくはな かった。希望が持てない毎日を過ごしていた。諸国を往来していた商人の呂不韋(りょ ふい)が子楚に会うと、 「これ奇貨なり。居くべし」と言ったと伝えられている。 商人の呂不韋は子楚に投資することに決めた。様々な手法を使って、子楚が秦に帰国 し、権力の座につく戦略を考えた。ある時、子楚が呂不韋の絶世の美女の愛妾に惚れた ため、呂不韋はやむなく子楚に与えた。その時、彼女は呂不韋の子供を孕んでいたと、 『史記』「呂不韋伝」に書かれている。これについては異説もあるので、確定はできな い。いずれにしても、生まれた子供は政と名づけられた。後の秦の始皇帝である。中国 の歴史の節目には必ずと言っていいほど、美女が登場する。中国人は美女が大好きなの であろう。 秦の昭王が亡くなった後、趙は子楚と妻子を秦に還した。呂不韋の根回しがうまくい き、子楚は秦の荘襄王となるが、わずか 3 年で死に、太子の政が後を継いだ。13 歳だ った。呂不韋は宰相に登用された。まさに、“奇貨居くべし”の本領発揮である。秦は 法家商鞅(しょうおう)の改革から百年がたち、全体主義的法治国家として強国となっ ていた。勿論、都江堰(とこうえん)の建造により経済的にも豊かな国となっていたこ とは先に述べたとおりである。 政王は 24 歳の時に、太后(母親)の不倫の相手を誅殺し、太后を追放している。政 王はこれを機に大きな政治的影響力を張ってきた呂不韋を粛清している。本当の父親で あったかも知れない呂不韋を排除したのである。政王には絶対的権力を確保するには手 段を選ばない姿が認められる。この始皇帝の考え方が、中国の皇帝の歴史を決定づける ようになったと言うのは邪推であろうか。 秦は厳格な法治国家であるため、刑罰を緩めると社会秩序が乱れると考えていた。そ のため、民意におもねってはならないとし、礼楽を重んじる儒教を否定していた。現代 民主主義が民意を神意と捉えていることと比較すると、正反対の考え方である。その国 の歴史は、スタート時点の性格を後世まで引きずっていく。民意は聞くが、おもねらな いという発想は現代中国でも生きているように思えるが、いかがであろうか。 秦は紀元前 230 年、趙(ちょう)都の邯鄲(かんたん)を落としている。始皇帝は趙 を滅ぼした後に邯鄲に入城し、生母の敵たちを皆生き埋めにして殺した。秦の破竹の勢 いは止まらず、紀元前 221 年、斉都の臨淄(りんし)を陥落させて、中国を始めて統一 する。始皇帝が死んだ次の年に、陳勝・呉広(ちんしょう・ごこう)の乱が起こり、趙 が復興するが、秦の将軍章邯は邯鄲占領後に都市を徹底的に破壊した。邯鄲はその後衰 退し、唐代以降は単なる鎮(ちん、村のこと)になった。 秦の法家思想家李斯(りし)は封建制を廃止して、郡県制の実行を始皇帝に求めた。 全国を 36 の郡に分け、郡の下に県を置き、それらの長官は全て朝廷から派遣した。勿 論、封建制と違い、長官の世襲は認めなかった。皇帝の意志が全国すみずみまで及ぶよ うなシステムを確立したのである。秦は短命に終わるが、三国時代を経て王朝を建てた 漢は、秦の失敗から学び、当初、封建制と郡県制を敷いていたが、次第に封建制を廃止 し、郡県制を強化していった。 中国の王朝の交代は、北方民族による政権樹立を除くと、王朝内部の実力者に乗っ取 られることによる。また、中央集権体制である郡県制による地方や農民の搾取、それに 反発し、反旗を翻す農民暴動によって王朝の基盤が揺らぐ歴史を繰り返す。 9 秦の将軍によって徹底的に破壊されて以来、この遺跡は放置されたままになったので あろう。始皇帝は生まれ故郷を滅ぼしたばかりでなく、父を自殺に追いやり、親類も滅 ぼしたことになる。凄まじい。「魔の人」である。大国の天下統一という大事業は多く の犠牲の上に成り立つが、それは人間を超越した者によってしか達成されないのだ。日 本は限りなく自然国家に近い。天皇みずからが春に稲を植え、秋に刈りとられるのどか な国である。この両国の差異を認識するにつけ、相互理解は絶望的に近いと感じざるを 得ない。だが、共存のためにはそれが空しくても努力し続けなければならない。それが 我々の逃れられない宿命かも知れない。 趙王城(ちょうおうじょう)遺跡に来たという証拠写真を撮り終えると、運転手とク ルマに戻った。 この運転手は話せるひとだと思ったので、貸し切ることにした。彼によると、邯鄲は 中国で最初に石炭が発掘された場所で、それを利用して鉄鋼の生産も盛んだと言う。ま た、太極拳の楊式を発明した、楊氏の生誕の地でもあると言う。これは意外であった。 筆者は太極拳を習っているが、このことを後日、先生に話すと、そうだと喜んでくれた。 「邯鄲には博物館はないのか」と筆者が訊くと、 「あることはあるが、展示物がないので、閉鎖されたままになっている」との返事であ った。 邯鄲の目抜き通りを走っていると、馬氏歓迎の垂れ幕がところどころに掲げてあった。 「邯鄲は最初の馬氏の出身地でもある。世界から馬姓の人々が集まってくる。邯鄲政府 は彼らに投資してもらおうと歓待するのさ」 ちょうど四つ角を通る時に、警察に行く手を遮られた。しばらくすると、数台のバス が警察車を先頭に通り過ぎていった。 「このような歓待を受ければ、邯鄲に投資したくなるという訳だ」 筆者が言うと、 「そうだ」と運転手は応える。 「邯鄲の金持ちはどんな仕事をしている人々か」と尋ねると、 「鉄鋼会社の社長」と応えた。 「その次は」 「公務員」 「なぜ」と質問すると、 「腐敗しているから」と運転手は声を小さくして言った。 筆者が手を広げながら、どうして中国はそうなのか、と詰問する。 「それは古代からの中国文化だ」と言い、 「仕方がないさ」と呟いた。 そうこうするうちに、街の北のはずれにある黄梁夢呂仙(こうりょうむろせん)祠に 着いた。黄梁は栗を指す。唐代の沈既済(ちんきせい)の小説『枕中記』の故事のひと つに「邯鄲の枕」がある。 趙の時代に、呂翁という道士(仙人)が邯鄲の旅舎で休んでいると、みすぼらしい身 なりの盧生(ろしょう)という若者がやってきて、身上の不平を並べ立てた。やがて、 盧生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。 盧生は名家の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり出世していった。時の宰相 に妬まれて左遷させられたが、しばらくして宰相に上り、天子を補佐して賢相の誉れを 高くした。しかし逆賊として捕らえられ、僻地に流された。冤罪であると分かると、盧 生は呼び戻され、子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送って死んだ。 ふと目覚めると、それは夢であることが分かった。寝る前に火にかけた栗粥はまだ煮 上がっていなかった。盧生はつかの間に人生の栄枯盛衰全てを見たのだった。盧生は呂 翁に対して、 10 「先生は私の欲を払って下さった」 と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。 栄枯盛衰の極めてはかないことを例えて、「邯鄲の夢」、「黄梁の夢」という言葉が生 まれた。 黄梁夢呂仙祠を訪れる客は少なかった。 筆者は入口で買わされた線香に火をつけて、祠に捧げた。人間は欲を捨てることは難 しい。欲の達成が人生の成功と信じられてきている。欲を捨てようと欲すると、心に葛 藤が生じる。欲は競争を煽り、それが社会を活性化していくと思われている。ありのま まに生きよ、自然に帰れ、古今東西何度も言われてきたが、人間は発展や進歩をやめよ うとしない。 境内の池には蓮の花が咲いていた。盧生は故郷で幸福な人生を終えたのであろうか。 「邯鄲には他に観光スポットはないのか」との筆者の質問に、 「丛台(ツォンタイ)公園」と運転手は応えた。 そこに着くと、 「ここを見学して、あとはぶらぶらして時間を過ごして北京に戻るよ」 筆者は述べて、タクシー代を支払った。3 時間位貸し切ったことになるが、82 元しか しなかった。 お礼を言って別れた。運転手も嬉しそうであった。 「また、邯鄲に来いよ」 とも言ってくれた。 丛台公園は市の中心に位置する市民憩いの場である。高台に登り、公園内の土産物屋 を覘いてみた。経営者一家が筆者を日本人客と認めると、次々と質問してきた。 中国語を何年勉強したのか。楊貴妃は中国で死なず日本に行ったのは本当か。始皇帝 は不老不死の仙薬を求めて東海に童男童女 3000 人を派遣し、それが日本人の起源にな ったというのは本当か。中国人の祖先は北京原人であると知っているか(北京原人は現 代人の祖先でないため中国人の祖先ではないと、答えておいた)。日中両国は、政府レ ベルでは仲が悪いが庶民レベルでは理解し合えるのではないか。トヨタの社長の給与は いくらか。お前の年収はいくらか。年齢はいくつだ。日本語を教えてくれ。お前は学者 か。東京と北京はどちらが生活しやすいか。中国の輸入食品に毒が混入されているとい う日本の報道は過激すぎではないか。などなどと脈絡もなく質問してくる。 庶民は気さくで、好奇心が大盛である。 馬氏の観光客が大勢入ってきたので、会話は終わった。 高台から階段をゆっくり下りていると、馬氏集団が登ってくる。すれ違いになった。 高齢者が多いなかで、引率者と思われる若者と眼が合った。彼は筆者のために道を譲っ てくれた。 「謝謝」と筆者はお礼を言った。 彼は外国から来た華人なのかも知れない。物腰が柔らかかった。道を譲られることが ほとんどない中国での初めての経験である。気持ちが暖かくなった。慌しい旅の清涼剤 となった。 11 紂王は暴君だったのか、さらに、太公望は釣をしていたのか 「酒池肉林」といえば、商(殷)王朝の最後の紂(ちゅう)王の代名詞として有名であ る。酒池肉林は、酒を池のように大量に満たし、羊肉や牛肉をあたりの木にかけ、その 間を一糸纏わぬ男女に追いかけっこをさせる遊びである。飲み、食い、ドンちゃん騒ぎ の毎日だったに違いない。想像するだけで、退廃の臭いが漂う。「酒池肉林」という漢 字の表現は描写が生々しく強烈である。しかし、男なら、不謹慎であるかも知れないが、 一度はやってみたい気がしないでもない。 殷の側からすると、酒池肉林は大がかりな神に捧げる祭典であった。帝や神を地上に 降下させるためには、肉や酒だけでは不充分で、髪の長い男女や若く美しい裸体の女は 神をおろしやすかったと考えられていた。古代中国の神も美女が好きだったに違いない。 紂王は有蘇氏を討伐したとき献上された妲己(だっき)を寵愛し、彼女の喜ぶことは 何でもやったと伝えられている。炮烙(ほうらく)の刑は、油を塗った銅柱を横に吊る し、下から火を焚き、受刑者にその上を渡らせる処刑法だ。落ちれば死を免れない。受 刑者の必死の形相を見て、妲己は大いに喜んだという。 紂王の叔父にあたる比干(ひかん)は遠慮なく紂王を諌めたため、紂王は怒って殺し てしまった。 「聖人の心臓には七つの穴があるというが、調べてみるか」 と、比干を解剖して、その心臓を観察している。 さらに、妊婦の腹を裂いたこともある。話は脱線するが、中国が日本の侵略をことの ほか批判する理由は一つには中国共産党の存在意義とのかかわりであるが、もうひとつ は日本軍の中国大陸での蛮行である。中国の学校では、日本軍人は妊婦の腹を裂いたと 教えられている。中国人には、日本人は紂王の暴君ぶりとイメージを重ね合わせて理解 されていることであろう。 紂王の補佐をしていた諸侯の娘たちは、紂王の言うことを聞かないと言って殺された り、ついでに父親の諸侯も殺されて、肉のつけものや干し肉にしたと伝えられている。 周の文王は紂王に長男を殺されただけでなく、そのスープを強制的に飲まされた。当時、 ひとの肉を食べることは特別なことではなかったとはいえ、想像するだけで嫌悪を感じ るのは筆者だけではあるまい。 地上 200 メートルにも及ぶ高層建築物の鹿台(ろくだい)という楼閣を建造するため に、羌(きょう)族を狩して、奴隷として働かせ、完成に 7 年を費やした。その楼閣に 財宝を集めたため、税金が高くなった。さらに、钜橋(きょきょう)という倉に穀物を 満たし、沙丘(さきゅう)の離宮に珍しい動物を放し飼いにして自然動物園にしている。 これらは、紂王が妲己を喜ばせるためにしたことである。なお、庶民はまだ竪穴式住居 に住んでいた時代のことである。 紂王のやりたい放題の放縦は諸国から恨みを買い、周の文王の子である武王が動員し た諸国連合軍はついに決起し、紂王を殷の南郊の“牧野の戦い”で破った。紂王の軍 70 万の兵に対して、連合軍は 35 万の兵であった。連合軍の将軍は、太公望である。 『史 記』は牧野の戦いを以下のように記している。 「紂の軍団多しと雖も、皆、戦う心無く、心に武王のすみやかに入らんことを欲す。紂 の軍団、皆、兵器をさかしまにして戦い、以って武王を開く。武王、之に馳す。紂の兵、 皆、崩れて紂に背く。紂、走りて返り入り、鹿台の上に登り、其の珠玉を蒙り着て、自 ら火に焼けて死す」 紂王のあっけない最期だった。 このように極悪の王で暴君のように書かれていると、常識のある者には不思議に思え てくる。紂王はそれまでの殷朝の王と比較して特別な存在であったのであろうか。そも 12 そも誰がどのような意図をもって紂王の歴史を書き残しているのであろうか。 言うまでもなく、殷朝を倒した周が書き残したものである。周の立場から言うと、殷 は滅びるに値する悪行を行っていたとしなければならない。さらに、周王朝は儒家にと って理想とされる時代であったため、なおのこと殷の最後の紂王は討伐すべきものとし て描くべきだったのである。紂王の兵は 70 万がことごとく寝返ったというのも、奴隷 や討伐した諸侯の兵が主であったとしても、不自然である。周を中心とする連合軍は少 数ながらも、殷の大軍と奮闘して勝ち抜いたという美しい物語に仕立てる必要があった のではないのか。 司馬遷は『史記』を書くに当たって、各地を遍歴して歩いたが、彼が生きていた時代 は武帝が儒教を国教と定めた時であったため、ヒアリングの相手はほとんどが儒者で、 紂王を親の敵のように罵倒したに違いない。 戦国末期の荀子は、夏の桀(けつ)王と殷の紂(ちゅう)王は長身で、かつ美貌でも って、天下に傑出していた、と記している。司馬遷も一方で、紂王は弁舌さわやかで、 決断力も行動も速く、また、見聞きしたことを認識するのも速く正確であったとも記述 している。才能も体力も優れていて、素手で猛獣を倒すことができたという。つまり、 名君の素質を十分身に着けていたのである。紂王は自信家で、臣下が愚か者に見えたこ とであろう。何も恐れるものがなかったことが、彼の最大の弱点であった。 なお、甲骨文字は殷の時代の貴重な“生きている証拠”であるが、妲己(だっき)と いう名前はまったく出ていない。紂王はそれまでの王よりもずっと熱心に祭祀を行って いたことが分かっている。伝統に対して非常に敬虔であったと思われる。これらの証拠 は、『史記』などの書物が伝える実像とはかなり異なっている。 筆者は 12 月中旬の快晴の早朝、牧野の戦いが行われたという牧野公園に行った。当 時の殷の首都朝歌(現在の殷墟)から南へ約 100 キロのところにある。古代には、街で ある邑(ゆう)の外を郊(こう)、郊の外を野(や)と呼んでいた。牧野は街からかな り離れていたのだ。当時、牧場があったのであろう。その公園は、隋朝に開発され、現 在の新郷市のほぼ中央に位置している。牧野の戦いを偲ばせる記念碑も何もない。中国 人が好きな噴水があるが、冬は稼動していない。水溜りの水は氷と化している。牧野公 園は日本の基準では広い公園であるが、中国では特別に広いという訳ではない。公園内 には、太極拳やダンスの練習をする人々を見かけた。紀元前 11 世紀、ここで 100 万人 の兵士が激突したとはまったく想像できない。のどかで平和な雰囲気に包まれている。 文王の徳を慕って遠方よりやってきた伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟が 紂王を討とうとする武王を諌めて、 「父(文王を指す)が死んでまだ葬っていないのに戦争をしようとしています。これは 孝といえるでしょうか。周は殷の臣ではありませんか。臣が君を殺すのは仁といえるで しょうか」 と言ったが、武王は無視する。伯夷と叔斉は周の穀物を食らうのを潔しとせず、飢えて 死んだ。『史記』列伝の最初に登場するのは、伯夷と叔斉である。司馬遷は紂王を暴君 と描写しながらも、何かしっくりこないため、彼らを列伝の重要な位置において、複眼 的視点を後世の読者に与え、判断させようとしたのではあるまいか。これは筆者の勝手 な想像であるが。 屈原の作とされる『天問』で、周の武王はなぜ急いで紂王を殺したのかと問うている。 武王は急死した文王の葬儀をまだ終えていない。当時は足掛け 3 年喪に服する必要があ った。戦車に位牌を乗せたまま、出陣したのだから、相当急ぐ必要があったのだろう。 『天問』は謎をかけているだけでその答えを出していない。屈原は理由を知っていたの だが、それを敢えて言わなかったのだ。 13 史家の間では、紂王の精鋭部隊が東方に出陣した隙を狙って、周連合軍が殷を攻めた というのが定説になっている。紂王は牧野で迎え撃ったのだ。紂王からすると、信頼し て西方の統治を任せていた武王に騙し討ちされたというのが本音だろう。では、なぜ東 方に遠征隊を出す必要があったのか。巨大構築物建造のために、奴隷を狩る必要があっ たこと、当時通貨として使用が始められていた貝を確保する必要があったこと、生活必 需品である塩を確保する必要があったことのどれかが原因であろう。 作家の宮城谷昌光は大胆な仮説を唱えている。 鹿台(ろくだい)のなかは銭が満たされ、钜橋(きょきょう)は穀物で満たされてい た。紂王は貨幣経済を発想し、実行しようとした、デフレやインフレの対策のために、 物価の安定を狙った銭や倉庫が必要だったのではないかと想像力を逞しくしている。さ らに、彼は大量殺人を要求する王朝の宗教色を薄めるための宗教改革を行おうとしたと いう仮説を唱えている。聖職者に諮問して神託を仰ぐのではなく、妲己に神力があると 喧伝して、紂王と妲己が相談して命令を下そうとしたのではあるまいか。大胆な仮説で ある。もし、そうであれば、紂王は革命的な立派な王であり、既得権を失う勢力に内外 から邪魔をされたと解することもできよう。歴史は想像力を掻き立てる。 紂王に殺され解剖された比干(ひかん)については、前述したが、周の武王は比干の 墓をていねいに土もりした。その墓は牧野公園から北に約 30 キロ行ったところにあっ た。立派な廟である。説明書きには、比干は中国史上の第一の忠臣で、林姓の始祖とあ る。全国の林姓の人々が寄付金を出し、石碑を建造しているのだ。また、後世、君主に 恐れずに諫言したとして儒家に尊ばれる人物になった。北魏の孝文帝が廟を建立し、清 の乾隆帝も祀ったとも記録されている。 さて、筆者がこの地を訪れた理由はもうひとつあった。文王に才能を見出され、文王 を継いだ武王とともに紂王を倒した太公望の生誕地を訪れることである。そこは太公村 と呼ばれる小さな村のはずれにあるはずだ。村の入口には「歓迎姜太公鎮」と書かれた 石碑が建てられている。事前にネットで得た情報によると、生誕地には、太公望が釣を している銅像が建てられ、近くには太公望を祀った祠があるという。 実際に行ってみると、居住地と小麦畑が広がる境に、太公望の威風堂々たる銅像が釣 竿を目の前の池に伸ばしている。池にはアヒルが楽しげに泳いでいた。近くの畑では、 山羊が草を食んでいた。太公望は渭水(いすい)の畔で釣をしていた際に、周の文王が 太公望と出会い、その才能を認めて、馬車に乗せて連れ帰り、師と仰いだと記録されて いる。夏(か)の最後の桀王を破った湯王は料理人の伊尹(いいん)を訪れ、賢人と認 め、馬車に乗せて帰ったと言われている。伊尹の才能ゆえ、夏は滅んだのだ。この二つ の話は酷似している。違いは釣人と料理人の違いくらいである。創作の臭いがぷんぷん する。 いずれにしても、太公望はここで釣をしていた訳ではない。太公望の釣の印象が強い ために、そのような銅像を建てたのであろう。太公望の物語は日本にも伝わり、釣好き は太公望と呼ばれるようになったが、中国ではそのような呼び方はしない。 さらに、考えてみると太公望は本当に釣をしていたのであろうか。彼は遊牧民族の羌 族である。太公望に関する残された情報は少ないが、肉屋をやっていたという記録もあ り、こちらは信じることができるが、遊牧民族が釣をしていたとは考えにくい。おそら く釣をしていた際に、文王に才能を見出されたと後世に創作されたのであろう。では、 なぜ釣をしていたという物語が作られたのであろうか。また、太公望が文王と会ったの は、70 歳であったという。銅像をよく見ると、体格は壮年であるが確かに老人の顔を している。太公望はその後、文王とその後を継いだ武王に仕え、諸国を東奔西走して、 君主を説得し、紂王打倒網を構築していく。70 歳を超える年齢でそのようなハードな 仕事ができるはずがない。200 歳近くまで生きたというのも不自然である。太公望は壮 14 年期であったと考えるのが妥当である。 兵法書『六韜(りくとう)』に書かれている説話で、太公望が周王に語った言葉は次 のとおりである。 「糸が細く、餌がはっきりしていれば、小魚がそれを食べます。糸が中くらいで餌が芳 しければ、中魚がそれを食べます。糸が太く、餌がゆたかであれば、大魚がそれを食べ ます。そのように禄をもって人をとりつくすことができ、家をもって国をとろうとすれ ば、国を奪うことができ、国をもって天下をとろうとすれば、すべてをとることができ るのです」 「天下はひとりの天下ではありません。天下の天下です。天下の利を民と共有する者が 天下を得て、天下の利を独占する者は天下を失うのです。仁のあるところ、徳のあると ころ、義のあるところ、道のあるところに天下は帰するのです」 文王は聖人を得たと思って、太公望を師と仰いだのである。では、この場面は何を意 味しているのであろうか。太公望は少数民族羌(きょう)族の代表者であり、文王は天 下をとるために彼らの力を必要としていた。釣場での両者の面会は連合のための密会で あったのだ。権力奪取後の太公望と羌族の処遇や土地の取り分についても話し合われた にちがいない。後世の人々はこの密会を美しい物語に仕立てたのだ。敗れた殷王朝に対 する配慮であろうか。 現地で予期していなかったものを発見した。それは太公望の銅像から 1 キロくらい離 れた畑の真ん中にあった。太公望の墓である。太公望は殷朝討伐の業績のために、現在 の山東省あたりの斉(せい)の国に封じられている。斉の初代の君主である。そのため、 太公望の墓は斉の首都の臨淄(りんし、現在の淄博)にあると筆者は思い込んでいた。 彼の遺言か何かの理由で生誕の地に葬られたのであろう。墓は質素であった。墳墓のよ うな感じである。周連合軍の軍師という大役を果たし、斉国が春秋時代の覇者となった ことを考え合わせると、意外な扱いである。小麦畑のなかに小高い丘がぽつんとあるだ けである。姜太公の墓という石碑が建っていなければ、見逃してしまいそうである。不 思議である。いずれにしても、太公望の出身地に墓が作られ、もっとも近いところにあ る池の畔に銅像と祠(ほこら)が建立されたのだ。 比干の墓と比べると、太公望の墓は格段に小さく、前日に投宿したホテルの観光案内 にも比干の墓の説明は書いてあるが、太公望にかんする情報はない。比干は周の敵であ る殷の知識人であったに過ぎないが、太公望は歴史を作った大物である。 筆者の想像は以下のとおりである。比干は後世に中国思想のバックボーンとなる儒家 に君主を諌めた行為が評価されることになったからである。つまり模範とすべき体制派 知識人として扱われるようになる。一方、太公望は少数民族であったことが、漢民族中 心主義に合わなくなり、歴史上疎んぜられるようになったのではなかろうか。 2008 年 5 月発生した四川・汶川大地震の震源地は、羌族自治区の近くである。羌族 は殷時代、中原に住んでいて、王朝に人狩りにされ、神への生贄として殺されたり、巨 大構造物建造のために奴隷として酷使されたのである。現在の羌族は中原から追放され、 チベットなどの山岳地帯に住んでいる。太公望は羌族の英雄で、彼は民族による差別を なくすために、封ぜられた国の名前を「斉(ひと)しい」からとり、斉にしたのである。 事実、斉は多民族国家として新しい文化や経済を創造し、栄えていった。 太公望は千年も神に支配され、人々を苦しめていた殷朝を倒し、人間中心の国家を建 設した。その意味で、太公望は真の宗教改革者であったのだ。 15 山東省臨淄の今と昔 8 月 24 日、筆者は作夜の北京五輪閉幕式のテレビ放送に感嘆し、興奮気味で、睡眠 導入剤でやっと眠りに落ちたと思いきや、夜はもう明けていた。 「だるい」 そう思った。しかし、このまま寝入ってしまっては、新幹線に乗り遅れてしまう。 インスタントの五目御飯を熱湯で温めて胃袋にかき込んだ。下着類と最新号の『文藝 春秋』をリュックサックに入れると、北京南駅に向かった。車中、中国人作家による芥 川賞作品を読もうと考えていた。道路はまだ五輪の車両規制が続いているため、空いて いた。発車時間より 45 分も前に到着した。駅舎の入口で手荷物をX線検査機にかけて、 なかに入った。 時間があるので、駅構内を見学することにした。広い、だだっ広い。そして、天井が 高い。中国政府が北京五輪のために、威信を賭けて北京と天津間の新幹線を開通させた 北京の南の玄関口である。中国政府の北京五輪開催にかける決意がこの駅舎にも現れて いる。 発車の 20 分前にホームへの改札が始まった。 車両の先頭は、かものはしの口みたいで、新幹線にそっくりである。中国政府は独自 技術と国民に説明している。列車の名前は「和諧(わかい)号」で、時刻表には中国語 で“動車”と掲載されている。決して新幹線とは言わない。「和諧号」の命名者は、和 諧社会(日本語では調和社会)を目指す胡錦濤主席であろう。 「和諧号」は 8 両編成からなり、うちファーストクラスが 1 車両だ。車両のなかは新 幹線よりも広い。座席のスペースもゆったりとってある。室内の雰囲気や電光掲示板や 車内販売も新幹線を模したようなものだ。トイレも似ている。お陰で、日本国内旅行を しているような安心感を得ることが出来た。違いは弁当の加熱とミネラルウォーターの 無料配布である。30 元と 20 元の二種類の弁当を売店で売っているが、電子レンジで加 熱してくれる。中国では冷えた弁当は「冷や飯を食わせる」として、お客に大変失礼に なる。 北京南駅から淄博(しはく)駅まで 4 時間。ファーストクラスが 225 元で、二等席が 187 元である。ファーストクラスの座席は、飛行機のファーストクラス並みの広さがあ る。速度は、北京と天津間が 240 キロ、その後 205 キロになり、160 キロまで減速した。 北京と天津の間以外は高架の専用線路ではなく、既存の鉄道を走っているため線路の基 盤が緩いところでは時速 200 キロを切ってしまう。改良は徐々に進んでいくであろう。 今でも北京から瀋陽まで 4 時間、鄭州まで 6 時間しかかからない。列車の運行もほぼ時 間通りであった。国内の線路を改修して高速化すれば、物流はかなり改善され、地域間 の経済の融合が一層進展すると思われる。 時速 300 キロの“動車”が専用線路で東西南北を駆け巡るようになれば、次のステッ プはリニアモーターカーの開発と運転である。狭い日本よりは広大な中国で、リニアモ ーターカーの能力が発揮されるに違いない。日本の技術を導入するか、ドイツの技術か でまた議論が起こることであろう。いやそのころは、中国は独自技術で走っているかも 知れない。北京と上海が 3 時間、北京と香港が 7 時間で結ばれるような時代がもし来れ ば、世界の人々はその乗り物に乗るために、中国を訪れることであろう。 あまり変わらない車窓の景色に飽きると、9 月号の『文藝春秋』をリュックから取り 出して、楊逸の『時が滲む朝』を読み始めた。外国人による初めての受賞ということで メディアが盛んに取り上げたものだ。選考委員の評価は真二つに割れた。その書評も掲 載されている。作品は、主人公の学生たちが大学受験を経て都会にやってきて天安門事 件と遭遇し、敗北して国内外に散らばり、最後に再会するという青春群像である。文章 16 は普通の日本人よりも遥かにうまく、著者自身の経験もうまく表現されている。 芥川賞に推した選考委員は、現代作家にない迫力あるテーマを書けると評し、反対の 者は特段新しいテーマを深く書き込んだものではないと主張している。筆者が選考委員 であれば、推さなかったであろう。確かに楊逸氏はまだまだ書けるテーマを持っている。 芥川賞を登竜門とみるのであれば、今後に期待する意味で授賞してもいいが、この作品 に関しては、既存の挫折した青春小説の域をでていないと思われる。特に、評者の石原 慎太郎も述べているが、天安門事件の政治の不条理を書き込んでいないのは残念である。 いくら小説とは言っても、中国の政治史上重大な事件であるので、踏み込んだ記述が欲 しかったと考える。次の作品に期待するしかない。 なお、この日本の名誉ある小説賞の受賞は中国でも大きく報道された。しかし、作品 が天安門事件を扱ったものとは一切報道されていない。1989 年の天安門事件はタブー である。 『文藝春秋』は、がんで亡くなった戸塚洋二のがん闘病記も掲載していた。ノーベル 賞学者の小柴教授は、 「もしあと 18 ヶ月、君が生きていたら、日本中が大喜びしたであ ろう」と、来年のノーベル賞受賞の有力候補としてその死を惜しんでいる。戸塚洋二は、 がんが自分の身体を蝕んでいく闘病記を科学者の目から客観的に解析し、ブログに記載 している。あくまでも冷静な立場で死への恐怖が抑えられているところに戸塚洋二の凄 みを感じる。しかし、これほどまでに科学者としての態度を貫く必要があるのだろうか と、凡人の筆者は考えてしまう。 「死にたくない、是が非でも助けてくれ」 と泣き叫んではいけないのであろうか。人間の最高頭脳を持ち合わせて生き、最後まで 科学に奉じる必要があるのであろうか。客観的視点を持ち続けることにどれほどの意味 があるのであろうか。なぜ感情を素直に出し、とり乱してはいけないのか。 むしろ、筆者は戸塚洋二の科学的な分析描写に気が滅入った。もちろん、戸塚洋二に とって、読者が気を滅入らせるかどうかは眼中にない。 「それはあなたの勝手である」 と言われて、終わりである。 しかし、感動する場面があった。病院から家路へと急ぐ夫人を制して、「もう少しゆ っくりしていっていいじゃないか」 と戸塚洋二は言う。そして、 「もうがんばらないことにするよ。ありがとう」 と夫人に感謝する。 夫人は返答する。 「じゅうぶんがんばったから、もういいのよ」 夫人は、その時涙が止まらなかったと記している。 客観より主観がしばしばひとを感動させる。 偉大な業績を上げた戸塚洋二は永遠の眠りについた。冥福をお祈りします。 列車は淄博(しはく)駅に到着しようとしている。車内アナウンスは、停車時間が1 分しかないため降り遅れないよう、繰り返し放送している。まだ、乗客が“動車”の運 行に慣れていないのだ。降り遅れる乗客が多いに違いない。 駅を出ると、白タクが寄ってきた。白タクは中国語で「黒車」と呼ぶ。日中で白黒が 逆転している。ホテルは近いため流しのタクシーを探し、初乗り料金の 6 元で到着した。 淄博飯店は 4 ツ星ホテルで1泊 360 元。 淄博はどんな都市かを説明する前に、淄博にやってきた理由を説明する必要がある。 筆者の出身地の熊本県八代市は、かつてイ草産地として有名であったが、最近は中国か 17 ら廉価なイ草が輸入されるようになり、農家はイ草を生産しなくなってきている。そん ななかで、農場経営者A氏は、美味しいトマトやメロンを開発し、大手スーパーに卸す までに成長してきた。日本では人手を集めるのが困難なために、中国の農村から若い労 働者を研修生として受入れるようになった。現在では二十数名を受け入れているという。 彼女たちは非常に真面目に働き、2~3 年の八代滞在中は 200 万円以上も貯金し、故郷 に錦を飾っている。それらの稼いだおカネは父母の家の改築に使われるという。親孝行 ものだ。 70 歳を超えるやり手のA氏は人生最後の仕事として、中国の農園で美味しい野菜を 作り、中国人に食べさせたい。また、研修生として受け入れる前に、その農園で事前教 育をすれば、もっと早く仕事に慣れるはずである。帰国した研修生のなかで経営センス のある者には農園の経営をやってもらおうとのアイデアである。 この話を 3 年前八代市の居酒屋で聞いた時、 「中国での農場経営は易しくはないですよ。いいカウンターパートに恵まれればいいで すが、普通の中国人は相手を騙すことばかり考えていますから、コンサルタントなどを 使って十分調査した上で慎重にやった方がいいですよ」 と筆者は応じていた。 その後音沙汰がないため、このプロジェクトは中止になったとばかり思っていた。突 然、知り合いの八代市のB氏から届いたメールには、「A氏が日本から山東省の農園に 来ると言ってきた。五輪を観戦した後で、一緒に行かないか」と書いてあった。中国の 農村に行ったことはなかった。いい機会だと思い、五輪の閉幕式の翌日早朝、やって来 たわけである。 午後 1 時前、ホテルのロビーでB氏と落ち合った。B氏によると、A氏は福岡空港か ら青島空港に飛び、借り上げのタクシーで淄博にやって来るのは午後 7 時頃だそうだ。 それまでの時間、観光することにした。 筆者は淄博という街がどんなところかまったく知らなかった。ネットで調べてみると、 春秋戦国時代の斉(せい)の首都ということが判明。当時は、臨淄(りんし)と呼ばれ ていたという。 都城は大きな城と小さな城からなり、大きな城の南北の長さは 4.5 キロ、東西 3.5 キ ロで、卿、官人、軍吏、商人、工人が住んでいた。その西南に隣接する小さな城は、南 北は 2 キロ、東西は 1.5 キロあって、斉王の宮殿があった。両城合わせて 19 平方キロ だった。城内の居住区には、幅 20 メートルもの道路が東西南北に走り、3 キロ離れた 淄河とつなげられた運河の幅は 30 メートルもあった。 城門は 13 もあり、そのなかには、天下の学者たちを招いて、自由に討論させるため の邸宅もあったという。彼らには大臣や次官級の給与が与えられていた。特別待遇であ る。臨淄は 2500 年前、7 万戸で 60 万人以上が住んでいた当時世界最大の都市である。 斉は秦によって最後に滅ぼされた国だ。臨淄が落ちた年は、始皇帝が天下統一を果たし た紀元前 221 年である。 斉という国は数々の著名人が輩出していることが分かってきた。自分の不勉強をただ 恥じ入るばかりである。斉の始祖は、太公望の名で知られている呂尚である。呂尚は周 の軍師として文王の子武王を補佐し、殷の紂王を「牧野の戦い」で打ち破り、後に斉に 封ぜられる。呂尚はあの殷を倒したのである。紂王は 70 万の大軍を動員したにもかか わらず、敗れてしまう。『史記』には、殷の軍隊は戦う気力がなく、ことごとく寝返っ たと書かれている。400 年の歴史を持つ殷は滅びたのだ。 殷の政治は国内の人々からも見放されていたのだろう。システムの崩壊だった。『史 記』には、紂王は妲妃(だっき)を寵愛し、彼女のために離宮で酒池肉林の歓楽のかぎ りを尽くしたのが殷王朝崩壊の原因のように書かれているが、これは現代の科学的な発 18 想からみると間違っている。お話としては面白く、また事実であるが、司馬遷の時代と 現代人の発想の違いを認識しておく必要がある。 呂尚が斉に封ぜられると、昔別れた妻が縒りを戻そうとやって来たが、呂尚は盆の水 をひっくり返して、同意せず、「覆水盆に返らず」という諺のもとになった。これは、 後の時代の創作であろう。『史記』にも書かれていない。周の文王が渭水(いすい)で 釣をしていた老人と語り合い、それ以来師と仰いだ話は超有名だが、これも冷静に考え れば、貧乏で身寄りのない者がなぜ軍師となって活躍することができたのであろうか。 過去経験や経歴がなくては、70 万もの軍隊を打ち破る方策を持てるはずがない。奔走 し根回しをして諸侯に召集をかけたに違いない。 名宰相管仲(かんちゅう)は君主桓公(かんこう)に仕え、諸改革を断行し斉の繁栄 に貢献した。実は、管仲は桓公に仕える前に、桓公のライバルに従っており、その際桓 公を暗殺しようとしたことがある。激怒した桓公は管仲を捕まえて、殺すように命じた が、腹心の鮑叔(ほうしょく)は「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも 宰相が務まりましょう。だが、公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲 でなければなりません」と言ったという。桓公はそれに従い、管仲を呼び寄せて宰相に したのだ。実際に、管仲は才能を発揮し、斉を強国にしたのである。 管仲は「倉廪(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」との方針から 民生の発展と安定を第一に心がけた。経済発展第一主義である。また、外交においては、 信用を重んじたとされる。管仲も立派であるが、管仲を許した桓公も大人であり、さら に、管仲に宰相を譲って身を引いた鮑叔(ほうしょく)こそ真の大人である。このよう な物語のために、春秋戦国時代の登場人物は面白いし、長く語り継がれてきたのである。 また、管仲と鮑叔は若い頃から親しく交わっていた。カネを出し合って商売して失敗 しても、鮑叔は管仲を無能だとは思わなかった。利益が出たとき管仲がほとんど独占し ても、鮑叔は管仲を強欲だとは思わなかった。管仲も鮑叔の好意に感じ入っていたとい う。これらの深い友情は、後世「管鮑(かんぽう)の交わり」と呼ばれるようになった。 晏嬰(あんえい、晏子)は、周の霊公(れいこう)、荘公(しょうこう) 、景公(けい こう)の三代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った名宰相として有名である。 『史記』 列伝には以下のような記述がある。 「斉の宰相となった後も、食事に肉は二皿つかわず、下女には帛(きぬ)をきせなかっ た。かれは朝廷にあっては、主君にことばをかけられれば、まっすぐに言い、ことばを かけられなければ、自分のおこないをまっすぐにしていた。国の政が道理にかなってい れば、ただちに君命にしたがい、道理にかなわなければ、君命を衡量していた」 主君よりも国家を第一と考え、君主に直言していた稀な人物であった。 晏嬰が霊公に仕えていたとき、街の女性の間で男装が流行していた。原因は、霊公が 妃に男装させていたからである。晏嬰は、「君のやっていることは牛の肉を看板に使っ て馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は収まります」と 諫言した。これは「牛頭馬肉」の言葉を生み、その後我々が知っている「羊頭狗肉」に 変貌する。 宰相崔杼(さいじょ)が荘公に妻を寝取られたことを恨み、荘公を殺した。現場にか けつけた晏嬰は、「君主が社稷(国家)のために死んだのならば私も死のう。君主が社 稷のために亡命するのならば私もお供しよう。しかし、君主の私事のためならば近臣以 外はお供する理由はない」と言い放った。君主よりも社稷(しゃしょく、社会や国家の こと)を大事にしたのである。崔杼の家臣は晏嬰を殺すようにすすめたが、晏嬰は人望 があるので、殺さないで民心を得ようとした。晏嬰は、司馬遷の『史記』でも非常に高 く評価されている。司馬遷は晏嬰の御者(ぎょしゃ、運転手のこと)として仕えてもい いとさえ言っている。 19 晏嬰の身長は六尺に満たず、つまり 1 メートル 35 センチ以下の体躯だった。それに 比べて、魯の孔子は九尺六寸(2 メートル 16 センチ)の長人であった。二人の巨人は ほぼ同時代に生きたが、会うことはなかった。孔子は晏嬰が礼をないがしろにしている として、批判したこともあった。理想主義を唱えた孔子に対して、晏嬰は死を覚悟で君 公に諫言し続けた。中国の歴史上、君主に諫言して殺された家臣が数多いのも事実であ る。古今東西、上司への諫言は普通の人が容易にできることではない。晏嬰も最初の諫 言で殺されていたら、彼の名前は歴史から忘れ去られていたであろう。 名宰相を得た斉の君公は幸運であった。名君が名宰相の能力を発揮させて、国を盛ん にするというのは中国歴史のひとつのパターンである。現代では、毛沢東と周恩来そし て胡錦濤と温家宝のペアがそれに相当しようか。胡・温体制後の指導体制は中国の伝統 を引き継ぐことができるのであろうか。 現代の中国でも、日本でもなぜ晏嬰のような大物が出現しないのであろうか。魂胆が 見え透いた政治家がつばぜり合いをしているように見受けられる。近代的な合理主義や 民主主義、あるいは保身が人間を小さくしてしまったのかもしれない。 ホテルの前のタクシーにB氏と案内の中国人と乗り込み、斉国博物館に行くように告 げた。博物館は市内から車で 40 分も離れた郊外にあった。実はそこが、かつて斉の都 があったところである。博物館は城内のほぼ中央に位置しており、城壁で囲まれていた が、城壁はほとんど残っていない。临淄(りんし)は淄河のほとりに位置していたよう だ。古代には灌漑用の水は不可欠だったのである。 『史記』には临淄(淄博の当時の名前)は蹴鞠(けまり)が流行していたと記されて いる。つまり、サッカーの発祥の地であるという訳だ。FIFA の証明書みたいなものも 展示されていた。蹴鞠は日本に伝わったのは事実であるが、中国からイギリスに伝播し て、現代サッカーになったとは考えにくい。そういえば、古代中国でゴルフも行われて いたという記事が発見されたとどこかで聞いたことがある。ゴルフも中国が発祥の地と 主張するつもりであろうか。 車中で運転手が日本語を教えてくれと頼んできた。日本人の観光客やビジネスマンは ほとんど淄博に来ないにもかかわらず、日本語を知りたいという。熱心な運転手であっ た。 淄博(しはく)は、今では陶器の産地として有名であるという。街には約 200 万人が 住む大都会である。開発区で電池を生産しているシーメンスとポンプを生産している荏 原製作所の工場を見かけた。 ホテルの部屋ですやすや眠っていたが、1 時間ほどで電話に起こされた。B氏からで ある。A氏とお供の二人は経費削減のために格安のホテルに投宿しているという。だが、 夕食は日本食を食べようと誘ってくれた。淄博には、日本食レストランが 2 件、豚骨ラ ーメンを出す味千ラーメンが 3 件もあるという。中国人にも日本式豚骨ラーメンの人気 があるのだろう。日本の第二次産業の投資が一段落した後、サービス業の第三次産業の 中国進出が進展している。 「日本のビールがおいてないのは残念だ。日本語が話せる服務員がいないのはおかしい。 なぜ日本円で支払いができないんだ」などと各自不平を言いながら、食事を済ませた。 翌日午前 9 時、A氏がいつも使っている運転手のタクシーに乗り込んで、目的の農園 に出かけた。工場が立ち並ぶ開発区を抜け、人の背丈以上もあるトウモロコシ畑が広が る真ん中にその農園はあった。到着すると、運転手はさっさと降りて、ビニールハウス で働いているひとを探し出し、我々が来た旨を知らせてくれた。我々を誰かに引き渡す 20 までが仕事だと考えているようであった。 農園の入口の鳥居のような門には、農園の名前と両国の国旗が印刷されていた。鳥居 の柱には、農園の目的、由来などが日本語と中国語で丁寧に説明してあった。 A氏が社長を務める会社の 100%出資の会社が経営する農園である。3 ヘクタールに 及ぶと思われる土地にビニールハウスが一面に建てられている。ビニールハウスはすべ て日本から持ち込んだという。中国製はまだ性能が悪すぎるためである。メロンとトマ トの種も日本から持ってきている。肥料と農薬は現地産だ。 中国人スタッフと日本の指導員がビニールハウスのなかで黙々と働いている。トマト の苗の葉を間引きしたり、肥料用の穴を地面に掘ったりしている。のどかだが、作業は 着々と進んでいく。 A氏が作業服姿でビニールハウスから現れた。開口一番、 「肥料はいっちょんアカン」 A氏が熊本の方言でいう。肥料が効かないらしい。 メロンの初出荷はどうでしたかと訊ねると、A氏はとうとうと話し始めた。 1年間に 10 回もここに足を運び、着々と準備をしてきた。世界で一番おいしいメロ ンを栽培し、出荷するはずであったが、共同出資者の日本人が手を抜いたため失敗した。 ビニールハウスには温度を調整するための開閉の窓がついているが、その日本人は窓を 開くべきときに、女の尻ばかり追いかけ、仕事に来ていなかった。女に熱を入れていた のだ。その結果、ハウス内の気温が上昇したため、メロンの葉に病気が発生し、伝染し てしまった。形が悪い満足のいかないメロンができてしまったという。 そのため、当初卸す予定であった日系スーパーとの契約を破棄してしまい、一部は上 海の市場に出し、残りは農場で現地販売をすることにした。上海の卸業者の韓国人は、 糖分が足りない、腐っているものがあるなどとケチをつけて、契約の価格を値切ってき た。そんなはずはないと思ったが、上海に行く時間もないので、相手のいう価格で取引 した。ところが、相手の言い分はウソであることが後で判明。消費者からは、こんなに 美味しいメロンを食べたことはないという絶賛の声が上がっていた。その韓国人は利益 を上げようと買い叩いてきたのであった。このようなペテン師とは二度とつき合わない。 現地販売も大成功で、あっという間にメロンは売り切れてなくなった。噂を聞きつけ た青島のテレビ局が取材をしたいと申し出てきたが、そのときにはメロンが残っていな かったので断らざるを得なかったそうだ。 「中国ではみんな俺を騙そうとやってくる。日本人も足を引っ張ろうとする。本当に疲 れてしまう。あと 1 年はきちんとやるが、その後は分からない。本当に疲れてしまう」 横で聞いていたB氏は、 「日本にいると、ナイトクラブ通いに精を出し、酒で身体を壊してしまう。ここで農作 業をやっていた方が運動になり、健康にいいのではないか」 と、からかう。 A氏も否定しない。 山東省は隣の河南省の次に人口が多い地域である。それだけ豊かだ。でも、農業用水 は河川水ではなく、汲み上げている。A氏の農園では地下 80 メートルの深さから汲み 上げている。農園まで送ってくれたタクシーの運転手は、黄河の伏流水や雨水が浸み込 むので心配ないと言っていたが、そのまま信じ込む訳にはいくまい。 淄博は 2500 年前の斉の首都から延々と栄えてきた地域だ。名宰相を生んだ古代より も現代人が賢いという保証はない。地下水が枯渇する前に、世界一美味しいいメロンと トマトを中国人に食べさせてあげたいというA氏の夢が実現することを強く願う。 21 中国のイデオロギー・儒教の誕生 池袋の中華料理屋で酒を飲みながら中国人数人に対し、現代中国で儒教がどの程度生 きているか訊いたことがある。儒教の思想は、仁、義、忠、孝、礼に集約される。彼ら の意見はこうだ。 「仁は、愛とも言い換えることができるが、四川大地震の熱烈な募金運動にみられるよ うに、まだ生きている」 「義は、豊かになるとなくなるもので、現代中国で次第に弱まりつつある」 「忠は、地方役人の腐敗をみると分かるが、あるとは思えない。日本人のように所属組 織に対する忠誠心もない」 「孝は、まだ健在する。特に農村地域での親子の結束は強い」 「礼は、豊かになった者にはあるが、一般大衆にあるとは思えない。最近、絶対謝らな いといわれてきた中国人が『対不起(ドゥイブチー)』 (謝罪の言葉)を言うようになっ たのはいい変化だ」 これらの意見は現代中国の変化を言い当てているように思える。孔子は礼の実践を通 じて仁に到達しうると考えたが、ある程度豊かにならなければ、礼を実行できない。儒 学は徳治主義といわれる所以である。 一方で、人民を治め、国を発展させるには法治主義に頼らざるを得ないという正反対 の考え方もある。春秋戦国時代には諸子百家といわれる様々な思想家が現れたが、当時 儒家はその一派でしかなかった。儒家は人間至上主義をとり、わが身を修め、家庭をと とのえ、国を治め、天下に及ぼして世界平和をきたすという理想を掲げていた。当初、 儒教は革命思想として為政者に嫌われていたが、下級役人に次第に浸透していった。だ が、中国で最初に天下を統一した秦の始皇帝が採用したのは法家の思想であり、儒教で はなかった。始皇帝はむしろ儒教を嫌ったのである。 儒学がイデオロギー性を帯びてくるのは、漢の武帝が儒教を国教に指定してからであ る。科挙の試験の合格にも四書五経の暗記が求められるようになり、儒教は為政者の道 具として利用されるようになる。たしかに、忠、孝、礼を生活規範として守っている人 民は権力に従順であるので、統治しやすい。その意味において、儒教を 2000 年に及ぶ 官僚性国家のイデオロギーとして、その封建制を基礎づけたのは孔子であったといえる。 しかし、歴史が下るにつれて儒教は本来のものとは変質していった。歴史上、政治改 革を試みた政治家たちの基本理念は“儒教の原点”に復帰することであった。前漢を簒 奪(さんだつ)した王莽(おうもう)、唯一の女帝の唐代の則天武后、宋の名政治家の 王安石などが現実の政治改革の拠り所としたのは、儒教の経典である『周礼(しゅらい)』 であった。彼らの改革は、過去の理想社会「周(しゅう」に戻ることであった。過去に モデルを求めたのである。 中国の近代化を急ぐ孫文や毛沢東は、儒教の否定や超越が新中国を建設する基盤にな ると信じていた。毛沢東は孔子こそ封建主義を広めた中国史の悪人と決めつけたことも あった。現在の中国のモデルは西欧文明が生んだ社会主義を中国化(中国の特色のある 社会主義)したものとされており、今日に至っている。 中国の歴史は儒教なしには語ることが出来ない。原点に返って儒教を考えてみたい。 まず、孔子が夢にまでみたという聖人周公旦(しゅうこうたん)の生涯をみてみよう。 周公旦は孔子よりも 500 年も前に現れ、周を築いた立役者のひとりである。周の文王 (ぶんおう)の子の武王(ぶおう)は、太公望呂尚(りょしょう)を参謀として従え、 殷の大軍が都を留守しているのを見計らって紂王軍を討ち、殷を滅ぼす。周公旦は文王 の第四子で、かつ武王の弟であり、次兄武王の存命中は兄の補佐をしていた。周が成立 22 すると、曲阜(きょくふ)に封じられて魯公となるが、天下が安定していないので、魯 に行かず、自らは中央で政治に当たっていた。 周の建国間もない時期に、武王は病に倒れ、崩御する。武王の子の成王(せいおう) が位に就くが、幼少であるため、周公旦が摂政となる。周公旦の兄弟たちは、周公旦が 成王の摂政についたのは王位簒奪(さんだつ)の目論見があると疑い、殷の紂王の子を 担いで、乱を起こす(三監の乱)が、周公旦はこの乱を治めて、共謀者を処罰する。そ の後、成王が成人した 7 年後、周公旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻る。周公旦 は文王、武王に次ぐ、三代の王の役割を実質的に果たし、周政権の基盤を築いたのだっ た。 また、周公旦は礼学の基礎を形作った人物で、周代の儀礼、儀式について書かれた『周 礼』、 『儀礼』を著したとされている。中華思想の役割は中華文明の栄光を辺境地域まで 行き届かせることである。中華文化を受入れた地域は中華の一部となる。中華文化の根 幹は“礼”である。礼を通じて通行国交が可能となる。礼を布けば、そこはじわじわと 中華となっていく。この礼の重要性を最初に指摘したのが、いうまでもなく周公旦であ った。 周公旦は周の基礎を形成し、孔子が彼を敬慕したことから、後世の人々は周を理想国 家と考えるようになった。前述したように、中国史上、政治改革者が現状に行き詰ると、 古代の理想国家の周に模範を求めるようになったのだ。 孔子は儒教の根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、 道徳が保たれると説いた。しかし、中国伝統の先祖崇拝が根底にあるため、儒教は礼と いう家父長制を軸とする身分制度の側面も持っている。仁と礼が儒教の中核である。た だ、儒教は認知されていない危険な思想とされていたため、孔子は当時の支配者に彼の 思想が採用されることはなく、諸国から追われ放浪の旅を繰り返さざるを得なかった。 孔子は晩年、師弟の教育に没頭するものの、愛弟子を相次いで亡くし、不遇の生涯を閉 じた。 中国近代化の失敗は、封建主義社会との決別ができなかったのが原因と考えられるよ うになり、その思想的基盤を作った孔子に批判の目が向けられるようになった。 そして、1949 年、新中国が成立すると、中国は社会主義国家建設への道を突き進む ようになる。その革命路線が行き詰ると、鄧小平により改革開放路線が選択され、海外 からの資本と技術の導入の道を歩むことになる。改革開放から 30 年間、中国は驚異的 な発展を遂げ、世界の大国として再び台頭しているが、一方で社会主義の求心力は衰え、 カネ万能主義の様相を呈してくる。マルクス・レーニン主義は必須科目であるため、学 生は暗記に努めるが、それを座右の銘として心に刻むことはなくなってきている。人々 は社会の発展より自分の利益を優先するようになっている。80 年代に生まれ、豊かな 中国しか知らない“80 後(バーリンホウ)”世代は親の世代とは全く異なる価値観を有 するようになってきている。 このような物欲主義が社会の隅々まで行き渡るなかで、精神主義の見直しが行われ、 知識人の間で古典が読まれるようになっている。孔子、孟子、孫子の読書ブームはその 現れである。 中国は巨大な国家であるため、人々の求心となる教義のようなものが必要である。そ れなくして、全国を統治していくのは至難の業である。古典ブームが人心安定の支えに 十分でなければ、中華の偉大な歴史や文明という抽象化された「中華帝国復活」が人々 の共通の目標になる可能性も高い。 孔子廟は東洋のバチカン市国サン・ピエトロ大聖堂である。儒教の総本山であり、メ ッカである。東アジア人を東アジアたらしめているのは儒教によるところが大きい。孔 23 子廟のある曲阜に行くには、北京から「和諧号」(中国の新幹線)に4時間乗車して、 兖州(えんしゅう)駅に到着し、バスに 20 分揺られると曲阜(きょくふ)に着く。筆 者が乗った「和諧号」は北京と上海をつなぐ一日一本の新幹線である。在来線を走るた め、北京から上海まで 9 時間 44 分もかかるが、専用鉄道が完成すればその半分の時間 で着くはずである。現在、急ピッチで建設工事が進められている。 兖州駅でも曲阜のバスターミナルでも、タクシー、白タク、三輪車、ホテルの呼び込 みでごった返している。呼び込み屋は、どこに行くのかと訊きながらいつまでも、観光 局の後をつけてくる。予約したホテルに歩いて向かう途中でも、ホテルやお土産物やの 前に差しかかると声をかけてくる。観光地であるため客の奪い合い競争は激しいようだ。 孔子廟近くのホテルにチャックインし、夕食のために外を歩くことにした。また、お 土産物屋の店員が盛んに声をかけてくる。10 分程ぶらついたが、適当なレストランが 見つからない。すると、湯気が立ち昇っている店に出くわした。小籠包(ショウロンポ ー)の店である。店は小さいが客はそれなりに入っている。美味しそうである。小龍包 2 皿とワンタン 1 碗で満腹になって、8 元払った。 次の日、まず曲阜三大名所の孔子廟、孔府、孔林に行った。孔府は孔子の子孫が暮ら していた邸宅で、孔林は孔子一族の巨大な墓苑である。日曜日ということもあるが、ど こも中国人観光客でいっぱいだ。通路をすれ違う際に、ぶつからないように気をつける 必要がある。 若い人々の「チエズ」という大きな声があちこちからあがる。中国人は写真を撮る時、 「チーズ」ではなく、 「チエズ」 (直訳すると、茄子)と叫ぶ。ちなみに、韓国人は「キ ムチ」と言う。 孔子廟は当初三つの部屋だけだったが、明清時代に増築が繰り返され、今では部屋数 は 466 となっているそうだ。すべてが木造建築である。 サン・ピエトロ大聖堂は石の巨大な建造物で、壮大でかつ華麗である。訪れる人々を 圧倒する。大聖堂のキリスト像の前に立つと、信仰深いカトリック教徒は更に神に帰依 し、無心論者は居心地が悪くなる。神が天上から人々を見おろしているのだ。 それに比べると、孔子廟は木造建造ということもあるが、規模は小さく、古びたよう な感じで、迫力に欠ける。第一、祀ってある孔子像も歯を出し、目も笑っている。儒家 には悪いが、ひょうきん者そのものである。さらに、孔子廟に儒家が住み、その教えを 伝道している訳でもない。この東西文明の差は歴然としている。 ヨーロッパでは、キリスト教が支配していた中世をカントなどの大哲学者たちが終わ らせた。聖なる世界と俗世界を切り分け、俗世界で物的欲望や金儲けに走ることを正当 化した。科学の進歩もそれを後押しした。近代の始まりである。神は俗世界から追放さ れ、近代以降、神の居場所は聖なる世界のみとなった。 一方、中国では殷(商)の占いによる神権政治が周によって否定され(殷周革命)、 人間は神の束縛から解放され、奴隷も神への生贄にされなくなった。周は宗教改革を実 行し、中国は人間による人間の支配の時代に入る。周の建設に尽力した周公旦は“神” に代わって、“礼”を持ち出し、人々の行動の模範にしようとした。500 年後に生まれ た孔子は周公旦を聖人と崇め、儒学を体系化していく。 その後、儒学は前漢の武帝時代に国教化され、中華世界のイデオロギーとして強化さ れていく。しかし、儒教は近世においてキリスト教のように聖と俗に分けられることは なかった。儒教は周の時代に宗教革命を経験していたためである。ヨーロッパの近代化 は宗教改革と産業革命によって成就されたが、中国では宗教改革によって人々の魂の救 済を行う必要がなかった。その意味から、孫分や毛沢東らが中国の近代化の失敗を儒教 に負わせるのは酷というものである。むしろ、ヨーロッパの急激な近代化の方が奇蹟的 な出来事だったように筆者には思える。 24 歴史は長い視点で見る必要がある。ヨーロッパが産業革命に突っ走りつつ、アジア・ アフリカの植民地化を進めるなかで、中国は皇帝支配と官僚主義を打破できず沈滞して いた。東西の力関係は逆転し、中国は列強によって半植民地化されていく。その後、共 産主義の旗の下で農民が団結し、日本という列強を排除する。新中国成立後、行きすぎ た共産主義運動が人民を再び苦しめることになる。誤解を恐れずに言えば、共産主義の 採択は列強の排除に必要だったのだ。毒をもって毒を制したようなものである。だが、 その後、その毒に中国人民は苦しめられたことになる。 1978 年の改革開放政策後、中国は“通常の歴史”の軌道に戻ってきたのだ。中国は 阿片戦争後の異常な 130 年の歴史を終えて、再び黄金の世紀への道に向かって進んでい る。 屈託ない中国人観光客を見ながら、そんなことを考えた。 孔子の墓は巨大な孔林の林の墓苑のなかにあった。その墓は意外に小さい丘であった。 観光客が盛んに写真を撮っている。 三輪車で周公廟に向かった。孔林の喧騒さと比べると静かである。30 分の見学中に 見かけた観光客はわずか 2 名であった。 「観光客がいませんね」 筆者が入場券を売っている男に話しかけた。 「周公は孔子の先生なのだが・・・」 彼は苦笑した。 周公旦は孔子が聖人として崇め、毎晩夢にまで見たそのひとである。周公廟は周公旦 を祀ってはあるが、彼の墓はなかった。彼は魯に封じられていたが、新しい国の周の基 盤を築こうと都で忙しく働いていた。 ここで意外のものを発見した。文化革命時代の四人組を激しく非難する文章が彫られ た石碑である。「万悪四人組」でその文章は始まっていた。当時、四人組は毛沢東の権 力を背景に紅衛兵を動員して、貴重な文化財を破壊していた。周恩来も敵視されていた。 周公廟は周恩来を姓が同じだという理由で攻撃の的になった。貴重な文化財に遺された 傷跡は今でも無残に残されている。文革は数千年の文化財を消し去ったのである。蛮行 だ。 筆者は苑内で絵を描いている中国人とその石碑の前でしばらく語り合った。彼は何度 も、「残念だ!」と繰り返していた。最後に、どちらからともなく握手をして別れた。 筆者は昨日行った小籠包の店で昼食をすませると、北京への帰途についた。 25 呉越同舟せず 春秋時代の終盤、諸国は生き残りを賭けて激しい戦闘を繰り返すようになっていた。 文明発祥の地である中原から程遠い楚、呉、越の三国はかつて蛮地と呼ばれた長江諸国 であった。紀元前五、六世紀、中原文明が南へ押し寄せ、地殻変動が起こりつつあった。 今回は“呉越同舟”で有名な呉と越の物語である。 呉の首都は現在の蘇州、越の首都は現在の紹興である。越は呉よりも南に位置してお り、呉より後進国であったが、范蠡(はんれい)という天下最高の人材を得て、富国強 兵につとめていた。 一方、楚に伍子胥(ごししょ)という男がいた。楚は激情家が多い地方であり、後世 でも多くの革命家を生んでいる。楚の平王は悪知恵の臣下の費無極(ひむきょく)の讒 言(ざんげん)を信じ、伍子胥の父と兄を紂殺した。伍子胥は平王への復讐を誓い、楚 を去り、諸国を放浪する。諸国を動かして、楚を討ち、平王を殺そうという訳である。 最後に流れ着いたのが呉であった。呉の公子光(こう)は乞食のような身なりの伍子胥 であったが、彼を用いることにした。越の伍子胥といえばその名は通っていたからであ る。 「父と兄の仇を討ちたい」 と、伍子胥(ごししょ)は明言したが、公子光(こう)は取り上げなかった。このとき、 光は呉王僚(りょう)から王位奪取の機会をうかがっていたのだった。伍子胥は光のク ーデターの計画を知ると、専諸(せんしょ)という剣の達人を推薦した。 そうこうするうちに、楚の平王が死んだ。伍子胥は復讐を果たすべき相手がいなくな った。彼は平王殺害から楚を討つことに人生の目標を変えた。 楚の平王が死に、幼少の昭王が立つと、呉王僚(りょう)は絶好の機会とみて、楚に 出兵した。王自身は国内に留まった。楚は迎え撃つふりをして、主力を迂回させ、呉軍 の退路を断った。 「これぞ好機」 と、混乱した国内情勢を読み、喜んだ公子光はクーデターを決意する。呉王僚を殺害し ようというのである。 伍子胥が推薦した専諸(せんしょ)は焼魚を盆にのせて、呉王僚の前にまかり出た。 焼魚を献上するふりをして、魚腹に手をつっこみ、隠していた匕首(あいくち)をつか み出し、王の胸を刺して殺した。荆轲(けいか)は始皇帝となる前の秦王の暗殺に失敗 するが、専諸は眉一つ動かさぬ折り紙つきの刺客であった。 光は即位した。これが呉王阖闾(こうりょ)である。刺客専諸(せんしょ)の業績に より、その子は上卿(じょうけい、大臣)にとり立てられ、伍子胥は行人(こうじん、 宰相)に任命された。 それから 9 年後、呉王阖闾は楚を破った。五戦五連勝であった。伍子胥は 10 年前に 死んだ平王の墓を暴き、棺から平王の屍体を取り出して、手に鞭を握り締めて、三百回 鞭打った。屍体は見る影もなくばらばらになった。父と兄が殺されて 16 年目のことだ った。伍子胥はやっと復讐を遂げたのである。 かつて、伍子胥が必ず楚を滅ぼしてみせると、豪語していた時、彼の親友の申包胥(し んほうしょ)は、それなら俺は必ず楚を興してみせると答えていた。 申包胥は楚を助けるために、勢力を次第に伸ばしていた秦に行き、援助を乞うた。し かし、あっさり断られた。理由が弱いから当然である。 申包胥(しんほうしょ)は秦の宮殿前広場で、7 日の間、夜も昼も哭き続けた。飲ま ず食わず号泣したのである。古代人の心情の凄まじさが分かる。 秦の哀(あい)公はそれを聞くや感動して、楚を救うために軍を出動させた。稷(し 26 ょく)での局地戦ではあったが、楚は呉との六回目の戦いでようやく勝ったのである。 呉の敗戦は背後で軍の増強を進めていた越を勢いづかせた。 復讐鬼伍子胥(ごししょ)は肉親の仇を討つと、その執念を今度はちょっかいをだし てくる南方の越に向けた。 ここから呉越戦争のドラマが始まる。 越は名臣范蠡(はんれい)の指揮下で軍事力を伸ばしていた。 呉王阖闾(こうりょ)は、越王允常(いんじょう)が死に、その子の勾践(こうせん) が王位を継いだのを契機と捉えて、軍隊を動かして越に進入した。呉は後進国の越に簡 単に勝てると思っていたが、両軍が睨みあう長期戦の様相を呈してきた。 越王勾践は事態を打開するために、范蠡(はんれい)に奇策を委ねた。この時、越軍 は危険な仕事をやらせるために、死刑判決を受けた重罪犯 60 名を従軍させてきていた。 范蠡は彼らを集めて言った。 「諸君の命をもらいたい。そのかわり、諸君の家族に大きな恩賞を与えることを約束し、 文書にも記録しておきたい。諸君の命で越を救い、諸君の父母や子供を豊かにできるの だ」 范蠡は彼らに策を授けた。20 人を一隊とし、囚人は三隊に分けられて、ひとりづつ 鋭利な剣を与えられた。やがて、越軍の勇壮な行進曲にあわせて、20 人の重犯罪者が 横になって、呉の陣地に向かって行進をはじめた。呉軍は何が起こるのか分からず、き ょとんとしている。 「しばらくようすを見よ」 阖闾(こうりょ)が兵に命令した。 楽団が鳴りやむと、20 人はぴたりと停まった。呉の陣地のすぐ前である。 立ち止まった 20 人は呉軍に最敬礼し、声をそろえて、 「この場で死んでお目にかける!」 と叫ぶと、一斉に抜刀し、自分の首を刎(は)ねとばした。見事な最期であった。 呉軍にどよめきが起こった。全員呆然としていると、再び越の陣地から次の 20 人が 足並みをそろえて、行進してきた。第二隊もおなじように首を刎ねた。第三隊が首を刎 ねた直後、呉の陣営の左右に喊声があがった。呉軍が奇妙な光景に気をとられている間、 越軍は兵を秘かに動かし、呉軍を横から急襲したのである。呉軍は総崩れとなった。こ のような小説の世界みたいな戦争が起こるから、中国の古代史は面白い。 范蠡の奇策は成功し、呉軍は戦いに敗れ、撤退した。呉王阖闾は足の指に敵の槍を受 け、それがもとで逃亡中に死んだ。阖闾は死ぬ前に、息子の夫差(ふさ)を枕元に呼び、 「夫差よ、越王勾践(こうせん)がわしを殺したことを忘れるな」 と言って息絶えた。 即位した夫差は宮殿の庭先に家臣を立たせ、自分が出入りするたびに、 「夫差よ! 越王勾践がおまえの父を殺したことを忘れたのか」 と叫ばせた。史書には、夫差は父の怨みを忘れないために、薪(たきぎ)のうえに横た わったと記録されている。これは我々が学校で習った「臥薪(がしん)」である。夫差 は、王位を奪った父阖闾とは異なり、幼少より王の後継者と認められ、おっとりと育っ ていた。そうでもしないと、父の復讐のことは忘れたのであろう。この点は復讐の鬼伍 子胥と随分異なる。 夫差は父との約束どおり 3 年目に越を破った。越王勾践は残兵五千とともに故郷の会 稽山(かいけいざん)に追い上げられた。呉の大軍は山を包囲した。絶体絶命のピンチ である。勾践は越の国宝すべてを呉王に献上し、勾践みずから呉王の奴隷になると申し 出て、命を乞うしかなかった。さらに、范蠡はとっておきの策を勾践に提案した。絶世 の美女西施(せいし)を呉王夫差に献上しようというのである。西施は年少より夫差好 27 みの女に育てられていたのだ。 ひとの復讐心の恐ろしさを身にしみている伍子胥は、夫差に一気に越を滅ぼすようす すめたが、夫差は首を横に振った。もう復讐は果たされたではないか。江南人の心根の 優しさがもたげた。だが、用心深い伍子胥は、策士の范蠡を越王勾践から切り離し、呉 の人質にするよう夫差に強く要求し、受入れられた。 はたして、夫差は西施を得るや夢中になった。心がとろけてしまったのだ。 越王勾践は死を免れたが、夫人とともに夫差の僕(しもべ)となった。彼は部屋のな かに胆をつるし、それを嘗(な)めた。会稽の恥を忘れないようにするためである。こ れが「嘗胆(しょうたん) 」のいわれである。 勾践は墓の番人をしたり、草取りなどをして機会がくるのをじっと待っていた。夫差 は越を属国とするや、北方の中原への進出の機会をうかがっていたが、伍子胥は南方の 越の巻き返しを恐れていたのだった。 西施(せいし)は寝床で夫差に甘えてみせた。 「范蠡(はんれい)さまは可哀想なお方。国に帰してあげたいわ」 夫差はそう言われると、拒絶できなかった。夫差は西施にメロメロである。西施は越 のために働くよう教育されていることを呉王夫差が知る余地はなかった。 伍子胥は范蠡を帰国させようとする夫差に強く諫言した。しかし、受入れられなかっ た。 西施はさらに愚王夫差の耳元でささやいた。 「わたくし、伍子胥さまがおそろうしゅうございます」 夫差は最近、伍子胥の諫言が疎ましくなっていた。ついに、夫差は使者を伍子胥のも とに派遣し、名剣を下賜した。その剣で自殺せよという意味である。士大夫は弁解しな いのが中国古代のしきたりである。君主に疑われたら死ぬしかない。 「王につたえよ」 伍子胥は激しい語調で言った。 「王はわしを疑って殺そうとしているが、まだ越王勾践や范蠡の狙いが分からぬのか。 たわけめ!」 つぎに、伍子胥は一族に向かって言った。 「わしの墓には梓(あずさ)を植えよ。それで呉王夫差の棺桶(かんおけ)が造れるよ うにな。それから、わしの目玉をくりぬいて、呉の都の東門にのせてくれ。越兵が攻め 込んで、呉を滅ぼすのをこの目で見とどけてやる!」 伍子胥は言い終わると、名剣で果てた。楚の人らしい、激しい死に方だった。だが、 伍子胥の遺骸はバラバラにされ、河に投げ捨てられたため、彼の眼球が呉の終末を捉え ることはなかった。 呉には伍子胥亡きあと、もはや諫言の臣はいない。 その後、呉と越の国力は逆転していった。ついに、呉は越との戦いに敗れた。 追い詰められた夫差は、 「あの世に行って、伍子胥に会わせる顔がない」 と言って、自刃(じじん)して果て、呉は滅びた。 後日談がある。 呉の滅亡の時、范蠡はひそかに西施を救い出し、彼女を愛した。范蠡は彼女を伴って 斉(せい)で、事業に励んで大資産家になった。斉の人は有能な彼に宰相になるよう懇 願したが、彼は断った。そして、財産をすべて知人に分け与え、陶(とう)という国に 行った。そこでも彼は巨万の財産を築いた。 范蠡は宮仕えしては宰相になり、その位人臣(くらいじんしん)をきわめ、下野して は大財産家になり、さらに西施のような美女を得たのだから、最高の人生であったとい 28 えよう。 でも人生はそんなに単純には割り切れない。激情家の伍子胥の生き方にむしろロマン を感じる男性も多いはずである。 越はその後、長江上流の楚に滅ぼされ、楚はさらに上流の秦に滅ぼされることになる。 上流の国は、大軍を疲労させることなく、一気に下流の地域に運搬することができる。 これは下流の国に非常に大きな圧迫となっていたに違いない。 「越王勾践(こうせん)の剣」が 1965 年、湖北省江陵(こうりょう)で発掘された時、 剣はきわめて鋭利で、腐食もしていなければ、錆にもおかされていなかったという。春 秋時代、長江域の文明は中原の黄河文明に匹敵するほどまで発展していたことを物語っ ている。中国人専門家の調査によると、剣が二千年以上も経て錆びない理由は、合金技 術が優れていたこと、剣身に特別の処理がなされていたこと、地下水に浸っていて空気 から完全に遮断されていたことがあげられている。現代の技術でこの剣の腐食や錆の進 行を阻止することは不可能とのことである。 この名剣は武漢の湖北省博物館に保存されている。 呉と越の戦いを巡る人間模様は、 「越王勾践の剣」と同様に不滅である。 29 合従連衡 西安郊外の咸陽(かんよう)に秦の始皇帝の陵墓がある。その陵墓を守るようにつく られたのが、地下軍団“兵馬俑(へいばよう)”である。あの世の始皇帝を守るために、 7000 体とも言われる兵士と馬車の俑が整然と並べられている。筆者は既に6、7回訪 問したことがある。何度行っても、その迫力に圧倒される。飽きが来ないのである。始 皇帝が建造しようとした阿房(あぼう)宮は未完に終わったが、どのような構想だった か観てみたいものだ。なにしろ、アホウの語源になったのだから。 中国を最初に統一した始皇帝は特筆すべき能力の持ち主であったであろう。 今回は群雄割拠する戦国時代において、参謀達が繰り広げた権謀術数を見てみたい。 参考文献は『史記』列伝のなかの「蘇秦(そしん)列伝」と「張儀(ちょうぎ)列伝」 である。蘇秦は大国秦に対して、他の国々が連携して対抗すべきだと主張したもので、 その策は“合従(がっしょう)”と呼ばれる。一方、張儀は秦の立場で、各国が秦と協 定を締結することで安全が保てると説いた。いわゆる、 “連衡(れんこう) ”である。蘇 秦と張儀は各国を遍歴し、国王を説得しようと試みたのだ。 これら列伝の記述の長さは、孔子と弟子の問答を描いた「仲尼弟子列伝」の 3 倍近く になっている。司馬遷が如何に参謀の動向に関心を示していたかを如実に現している。 蘇秦は洛陽の貧しい農村の出身であったが、郷里を出て東に向かい斉(せい)の国に 入った。兵法を学んだが、門下生として頭角を現すことができなかった。斉を離れ、謎 の思想家鬼谷子(きこくし)のもとへ向かった。縦横家の祖とも言われているが、蘇秦 は彼の下で弁論術を学んだと思われる。鬼谷子は古代アテネのソフィストのような存在 だったのかも知れないが、歴史家には彼の存在自体を疑う者もいる。 蘇秦が鬼谷子に師事した際、同門にひとりの異才がいた。張儀である。蘇秦は張儀を 評して、「とてもあの男にはかなわない」と思っていた。 鬼谷子に薫陶を受けた蘇秦は、諸国遊説の旅に出るが、彼の論述に耳を傾ける者もお らず、面談を許す君主はひとりもいなかった。蘇秦は傷心のまま帰郷した。兄弟や兄嫁 や妻までもが、 「私たち周のものは、土地の風で、農業だの、細工仕事や商売に励んで、二割の儲けを あげることが務めなのさ。それがお前さんは本業を放り出し口先の技をするんだもの。 それじゃ貧乏は当たり前じゃないか」 と、蘇秦を詰問した。それでも彼は読書を続けた。そのうち『周書陰符(しゅうじょい んぷ)』というのを見つけて読みふけった。この本は殷朝を倒した太公望が書いた兵法 書である。そして、丸一年たって、揣摩(しま)の術を完成した。揣摩とは、君主の心 を見抜き、それを抑えたり、持ち上げたりして、思いのままに操る法、つまり読心術で ある。これで、蘇秦は弁論術と読心術を会得したことになる。 蘇秦は「よし、こいつで今の君主たちを説き伏せることができるはずだ」と自信を持 ち、周の顕王に面謁を求めたが、顕王の側近は前から蘇秦を知っており、ばかにし信用 しなかった。そこで、彼は西に向かい、秦の国の恵王に進言した。 「秦国の士や人民の多数うえに戦の調練をしこみますれば、天下を一呑みにし、帝と称 したまうこともできましょう」 つまり武力により天下統一を説いたのだ。当時は徳による政治という考え方がまだ強 く、武力行使の正当性は認められていなかった。 恵王は、「羽や毛も生え揃わぬ鳥は、高うは飛べぬ。国の文教がととのわぬうちは、 他国を併合することはできぬ」 と、蘇秦の意見を退けた。 30 蘇秦の先見の明は確かであった。結局は秦によって天下は統一されることになるのだ から。この時、恵王が蘇秦の進言を受け入れていれば、統一はもっと早かったことであ ろう。蘇秦は、恵王は暗愚と思いつつ、秦を去り東へ向かい趙の国に入った。しかし、 そこでも厚遇されなかったため、北へ向かい燕の国に滞在した。1 年余りしてから燕の 文侯に目通りでき、秦は危険な国であると説き、それに対抗するために燕と趙との同盟 を進言した。 文侯は「おぬしの言うことはもっともじゃ。さりながら、わしの国は小さく、西は趙 に接し、南は斉に近い。斉も趙も強国じゃ。おぬしがそれらの国々と合従して燕を安ら かにしてくれようならば、予は全国を率いて言わるるとおりにしよう」と言い、蘇秦に 馬車と金や絹布を与えて趙へやった。初めて馬車に乗った蘇秦は、燕への恩義を生涯忘 れなかった。こうして、蘇秦は歴史の表舞台にデビューしたのだった。 蘇秦は燕王の使者として趙に乗り込み、趙王を説いた。趙王はいたく感心して、 「予は年若く、位に就いて日も浅い。国家長久の計を聞いたこともなかった。このたび お客には、天下の秩序を維持し、諸侯を安んぜんとのお心とみえた。予は謹んで全国を 率い言わるるとおりにしよう」と言い、馬車百台、黄金千溢、白玉の壁百対、ぬいとり の錦千純をととのえ、諸侯との盟約をはからせた。これで燕と趙との合従は成立した。 趙を発った蘇秦は韓に行って説き、魏へ引き返し、東行して斉に入り、南下して楚で も熱弁をふるって説得に成功し、燕、趙、韓、魏、斉、楚の六国の合従を成立させた。 これら六国対秦一国という対立の構図が出来上がった。蘇秦は六国の宰相を兼ねたとも 言われている。 蘇秦は故郷の洛陽に帰国した際には、周の顕王は人を出し郊外まで迎えて労を労った。 蘇秦の兄や妻は眼を伏せて彼を仰ぎ見ることさえできなかった。蘇秦は千金を散じて親 族や友人に与えた。 蘇秦は六国合従の同盟を結んで趙に帰ったのち、趙の粛侯は彼を武安君に封じた。そ れから同盟の約定書を秦へ送り届けた。これより秦の兵が函谷関より外に打って出よう としないこと十五年であった。 蘇秦の合従に激しい対抗心を燃やし、その瓦解を企てたのが張儀である。前述したよ うに、張儀と蘇秦は鬼谷子の門下生であった。成績は張儀の方がよかった。 張儀は学を終え、諸侯に遊説した。ある時、楚の宰相と酒宴しているうちに、宰相が 璧(へき)を紛失した。家来たちは張儀に疑いをかけ、捕らえて鞭で数百回打った。や っと家にたどり着いた張儀に妻は、「遊説なんかおよしなさい。こんな恥ずかしい目に 合わなくて済むじゃありませんの」と言うと、張儀は妻に向かい、「俺の舌を見ろ。ま だあるか」と訊いた。妻が笑って、「舌はありますよ」と、答えると、張儀は「それで 充分さ」と言った。この時、彼は楚に対する復讐を心に誓う。 張儀は出世して秦の宰相となると、檄文(げきぶん)をつくり楚の宰相に告げた。 「前にわしは貴様と飲んでいた時、貴様の璧を盗んだのじゃなかったのに、貴様はわし を鞭で打たせた。お前の国をしっかり守っていろ。わしはやがて貴様の城を盗んでやる ぞ」 張儀は秦のために魏の宰相となり、魏王に秦に服従するように説得するが、聞き入れ られなかった。そこで、張儀はひそかに秦が魏を討つようにさせ、魏は秦に敗れた。張 儀は再び魏王に秦に服従するのが得策と進言した。魏王はやがて合従の盟約から脱退し て、張儀を仲介として秦へ和睦を申し入れた。合従の一端が崩れたのである。 張儀は楚に行き、懐王にささやいた。 「大王が斉との国交をお絶ちになれば、商・於の六百里を差し上げましょう。さらに、 秦の王女を大王の側女として仕えさせましょう」 31 群臣の一人が危険な罠だと反対するが、懐王はうまい話だと信じ、斉との盟約を破棄 してしまった。斉王は激怒し、今までの態度を改めて秦へ腰を低くし、秦と斉の国交は 回復した。張儀は楚の使者に六里の土地を献上すると言うと、その報告を聞いた懐王は 約束違反だと激怒し、秦を攻めるべく出兵しようとした。臣下は口を開き、 「秦と協力した斉を攻める方がましです」 と、進言するが、懐王は再び聞き入れず、秦を攻めたが、秦と斉の連合軍に大敗してし まう。懐王は二度も戦略に失敗している。暗君と言わざるを得ない。 張儀はまた、親斉反秦派の領袖である屈原に対しても手を打っておくことを忘れなか った。懐王の側近と寵姫を抱き込んで讒言(ざんげん)させ、屈原を失脚させる。用意 周到である。 その後、張儀は韓王、斉王、趙王、燕王にそれぞれ謁見し、合従を断念し、大国秦と の連衡を進言し、了承を取り付けていく。蘇秦が諸国を訪問し、合従を唱えたのと同じ ようなやり方である。蘇秦が先に死んで、張儀がその欠点を暴露し、連衡の方策を成功 させたのである。 司馬遷は『史記』列伝で、二人は本当に危険極まりないが、張儀がやったことは蘇秦 がやったことより一層ひどいと記している。蘇秦と張儀は弁舌さわやかに、諸国の王た ちを説得して廻った。そのせいで、王たちは謀略に乗せられ、国運を危うくしていくこ とになる。春秋時代までは、正義、天、礼、徳など利益を超えた価値観が通用した時代 である。しかし、彼らの出現により、強い者が正義という価値観が蔓延し、勝つために は何をやってもいいという野蛮な時代になってしまった。司馬遷は戦国時代の不安定な 時代を招来した彼ら二人の行動に手厳しい評価を下している。 蘇秦と張儀の行為を西洋の歴史になぞらえると、東洋のソフィストと呼んでもいいか も知れない。西洋の歴史では、ソフィストによるギリシア社会混乱の教訓として、理想 主義者プラトンが登場し、彼はイデアつまり絶対原理の存在概念を発明する。その後、 彼の発想はキリスト教と合体し、西洋文明の根幹を形成していく。一方、中国では、正 義や徳の優位性が失われると、パワーつまり権力と強い軍隊のみが正当性の拠り所とな っていった。中国にはプラトンが出現することはついになかった。始皇帝がパワーで権 力を奪取すると、後続の皇帝たちはそのやり方に倣っていった。絶対原理の非存在が中 国文明と特質を規定することになる。 それでは、 『史記』の果たした役割は何であろうか。 『史記』は司馬遷以前の歴史を記 述するばかりでなく、知識分子や皇帝は『史記』を読み、歴史を鑑として、自らその後 の中国の歴史を形成していったことであろう。そういう意味で、現代中国人エリート層 の発想を知るには、『史記』は不可欠であると言える。司馬遷は中国の未来の歴史も作 ったことになる。 32 祖国とともに死んだ天才詩人の政治家-屈原 5 月 5 日の端午の節句には日本でも粽(ちまき)を食べる。中国の戦国時代、祖国楚 の首都が大国秦により陥落したと聞いた屈原(くつげん)は祖国の将来に絶望し、石を 抱いて泪羅江(べらきこう、現在の長沙の北)に身を投じて死んだ。旧暦の 5 月 5 日の ことであった。人々が屈原の無念を鎮め、また亡骸を魚に食べられないようにするため に、魚の餌として笹の葉にご飯を包んで川に投げ込むようになった。これが粽の由来で ある。今でも、旧暦の端午の節句には、屈原の魂を鎮める祭が開かれる。 筆者は、2 月最後の週末を利用して、景勝地の武漢東湖の西にある屈原記念館を訪れ ることにした。往きは在来線を走る新幹線「和諧(わかい)号」に乗り、北京から中原 を南下していった。武漢までの 1205 キロの距離を 8 時間 43 分かけて走る。時刻表より 4 分早く着いたが、平均時速は 140 キロまでとどかない。翌日の帰りは飛行機に乗り、 1 時間 40 分で北京空港に到着した。 日曜日の午前 8 時 20 分、ホテルを出発する頃、外は運悪く雨が降っていた。3 ヶ月 間ほとんど雨が降らない北京に住んでいると、雨傘の存在さえ忘れてしまう。どうにか なるだろうと楽観視し、まずはタクシーで東湖に向かうことにした。東湖は巨大である。 入口を間違うと、目的地に行き着けない。運転手は屈原記念館を知らないらしい。東湖 方面に向かいつつ、無線で屈原記念館の場所を確認している。メーター通り、10.2 元 を払おうとすると、10 元でいいと運転手は言う。中国人は細かいことにはこだわらな い。 入口で屈原記念館への行き方を確認して、歩き始めた。雨脚はひどくなる。どうにか なるだろうと、傘を差さずにコートの襟を立てて指示された方に向かった。 「左に行って、三つの橋を渡ったところがそこだ」 東湖は想像以上に大きい。雨に霞んで対岸が見えない。 途中、屈原の像にぶつかった。後方には、行吟閣が建っている。屈原の作品「漁夫」 からとって命名されたものだ。彼は東湖にやってきたことがあるのだ。行吟閣には、屈 原の一生が絵とともに分かりやすく説明してある。 屈原は楚の王族三家の昭、屈、景の屈姓に生まれた。出身は申し分ない。彼は幼少よ り聡明利発で、曲がったことが大嫌いであった。奔放であるが、政治的手腕を発揮して、 妥協したり、反対派をまとめることが苦手であった。典型的な激情家の楚(今の湖南省 と湖北省)のひとの性格である。激情家は革命家になりたがる。毛沢東主席も失脚した 劉少奇も湖南で、死んだ林彪が湖北なら、党長老の董必武も湖北出身なのだ。このよう な楚人の性格が後になって、屈原と楚の運命を決めることになる。 司馬遷の『史記』列伝から文章を拾おう。 「(屈原は)博学で記憶力にすぐれ、治乱のあとを知り、辞(ことば)をつづることに 習熟していた。国内においては王と国事の計画をめぐらして、命令を出し、他国とのあ いだでは、賓客に応接し、諸侯と対面して議論をかわした。懐王(かいおう)はひじょ うにかれを信任していた。上官大夫はかれと同列であって、王の寵愛を争い、心中かれ の有能をねたんでいた」 「屈原は王がひとのことばを聴きわける耳がなく、讒言(ざんげん)しへつらう者が明 察をおおいかくし、よこしまな者が公平をそこない、正しい者が容れられぬのを心から にくんだ」 屈原は頭が切れるが、筋を通す剛直なひとだったのだ。この頃、屈原はまだ 20 歳代 後半である。古今東西どこにもいそうな人物であるが、周囲との関係が悪くなっていく。 楚国のトップである懐王(かいおう)が有能であれば、屈原の能力も活かせたはずであ 33 る。しかし、王はどうしようもない暗君であった。 時代は戦国時代末期。春秋時代は周王の威光や正義が重んじられていたが、戦国時代 はルールのない下克上の時代であった。スパイが横行し他国を撹乱し、強い軍事力のみ が頼りであった。戦国七国のなかで、厳格な法治統制を樹立し、大規模な灌漑工事で蜀 の農地開拓に成功し、実力主義で軍隊の士気を上げるなど急速に国力を増強してきた秦 が警戒されるようになっていた。秦は中原から離れ田舎と蔑まされていたが、無視でき ないほど台頭してきたのである。秦以外の国は、他国と連携して秦に立ち向かう「合従」 と秦の属国となって生き延びる「連衡」の選択を迫られることになった。秦は合従を切 り崩そうと懸命になる。その役割を担わされるのが張儀(ちょうぎ)である。 楚では親秦派と合従派とも呼ぶべき親斉派が対立していた、屈原は親斉派である。斉 は山東半島を領土とする国で、歴史や文化のある文明国であると屈原は考えていた。 張儀は楚を混乱させるために、屈原に狙いを定めてくる。楚の高官や王の妃に賄賂を 贈り、屈原を孤立させようとする。暗君懐王は鄭袖という女を溺愛しており、彼女の言 いなりであった。親秦派の上官大夫の靳尚は屈原のライバルであった。張儀は靳尚のと ころに代理人を派遣して、懐王に対して屈原を讒言(ざんげん)するよう忠告した。 「屈原は王から命令され、作成した法律を自慢し、俺ができないものはないんだ、と言 っております」と靳尚は王に言上した。 王は立腹し、屈原を疎んじるようになり、漢北に追放した。 当時最高の文章家であった屈原は、そこで、『天問(てんもん)』、『離騒(りそう) 』、 『九歌(きゅうか)』などの名作を残した。才能が爆発したのである。北方の『詩経』 は四言句という定型化されたなかで、詩を読むため表現が限定的であった。しかし、屈 原は人間の感情を強く表す新しい詩の様式を発明した。それは『楚辞』と呼ばれる。30 歳代後半のことである。 『天問』は天地創造以来の歴史のなかで、不思議と思われる出来事に対して疑問を呈 している。『書経』など公式記録とは異なる説を唱えているようにもみえる。楚は黄河 文明と異なる長江文明を継承しているためであろうか。歴史は中原に咲いた黄河文明の 視点で書かれているため、屈原はそれに一石を投じたかったのではなかろうか。 例えば、以下のような疑問が提出されている。 「呂尚(太公望)が屠殺場の店にいたとき、文王はどうしてこれを見分けて用いたので あろうか」 「武王が殷の紂王を殺したのは、何を心配したのであろうか」 「父文王の葬儀も済まないのに、位牌を車に載せて会戦したのは、何を急いだのであろ うか」などなど。 太公望は釣をしていた時に面会し、文王にその才能を見出されたと、史書には書かれ ている。武王が殷の紂王を攻めたのは、殷の大軍の留守を狙ったと現代の歴史家は唱え ている。屈原の疑問は根拠があったと考えられている。彼は正統な歴史観に対する反骨 精神が旺盛である。 このような問いかけは、公式記録に頼らず、真実は何かを追究する精神の重大さを示 している。このような人物は政治家には向かない。 一方、『離騒』は、現実の楚国の政治に対する屈原の憂国の情を表したものである。 2490 字に及ぶ詩の最後は、「国にすぐれた人がいないので、私を本当に知る者がない。 この上どうして故郷を思い慕おうか。もはや一緒に立派な政治をするに充分な人物がい ないのだから、私は 彭咸(ほうかん)のいるところに行って供に住むことにしよう」 で締めくくられている。彭咸は屈原が最も尊敬していた殷の時代の賢者である。「彭咸 のいるところ」とはあの世のことを意味する。 屈原は、最後には泪羅江(べらきこう)に入水自殺するが、『離騒』が辞世の句では 34 ない。あたかもそのように説明している書物も多い。このような素晴らしい詩を書き上 げたからには、即入水自殺した方が絵になるが歴史はそのように単純ではないらしい。 彼も単なるパフォーマンスではなく、死ぬつもりでいたのかもしれないが、しばらくす ると復活のチャンスがやってくる。 張儀(ちょうぎ)は楚にやってきて、懐王(かいおう)にささやいた。 「大王が斉との国交をお絶ちになれば、商(しょう)と於(お)の地六百里さしあげ ます。秦の王女を大王に仕えさせます」 懐王はうれしさのあまり、信じて斉と絶交してしまう。 張儀は帰国したが、約束の土地は献上されない。 「六百里はとんでもない。私の領地六里を差し上げます」 この報告を聞いた懐王は、かっとなって秦を攻めてその六百里の領地を取ろうとした。 側近は諌めた。 「こうなったからには、秦と同盟して斉を攻めるべきです」 そもそも楚一国では秦に対抗できないため、斉と同盟を結んだのである。それが破綻 したのであれば、秦とともに斉を討つのが合理的である。 聞く耳を持たぬ懐王は秦と戦って大敗し、領地を割譲して和睦することになる。秦の 思う壺である。 ところが、屈原は突然王に帰ってくるよう呼び出される。斉との国交を回復するため である。自殺するより、祖国のために頑張らなくてはならない。やはり、生まれつきの エリートなのだ。この時、屈原は 41 歳。現代の同世代よりは年をとっていると思われ るが、もうひと仕事はできる年齢である。 屈原は斉と関係を修復して帰国すると、懐王(かいおう)は再び張儀(ちょうぎ)に 騙されていたのである。懐王は、領土を割譲する代わりに張儀の身柄を引き渡してもら うことに成功するが、首を切ることをせず、側近の靳尚(きんしょう)や寵愛していた 鄭袖(ていしゅう)に説得され、張儀を解放してしまう。靳尚も鄭袖も張儀から賄賂を 受け取っていたことは言うまでもない。屈原は激怒するが手遅れである。 そして、秦王は和睦のために、秦の地で懐王と会見したいと提案してくる。屈原は、 秦は信用ならないと強硬に反対するが、懐王は秦に向かい、抑留され、身柄と引き換え に、領土を要求される。懐王は三年後、秦の地で客死した。哀れでバカな王の最後であ る。 屈原は楚の政治闘争に敗れ、江南に放逐される。十八年の放浪生活の間、『招魂(し ょうこん) 』などの作品を書き続けた。秦の大軍が楚の都を降したという情報を聞くと、 屈原は祖国の将来に絶望し、石を抱いて泪羅江(べらきこう)に入水自殺した。享年 63。彼の死後、数十年で楚は秦に滅ぼされた。 さらに雨脚がひどくなった。筆者はコートの襟を立てて、小走りで、屈原記念館に入 った。入口の最初の説明文は、毛沢東が屈原を愛国者として絶賛している。毛沢東は東 湖の風景をこよなく愛し、しばしば武漢まで出かけてきたという。そのとき主席が滞在 したところは、現在はホテル「東湖賓館」として使われているそうだ。 屈原記念館には、屈原の作品や経歴、戦国時代の青銅器などが展示してある。放浪の 途上、東湖に立ち寄った屈原は何を思ったであろうか。 司馬遷は、屈原と漁夫の会話を『史記』に掲載している。 屈原:世の中すべてが濁りきっている。そしてわたしだけが清い。衆人みな酔いしれ ている。そしてわたしだけが醒めている。それだから放逐された。 漁夫:聖人といわれるひとは、物事になじまないで、世の中といっしょにうごいてい 35 くものです。世の中すべて濁りきっていれば、その流れのままに波をあげ、衆人みな酔 いしれていれば、その糟(かす)をたべそのうすざけをすする、そうしたらどうですか。 なぜ心の美玉をだきしめてわざわざ放逐される目におあいになる。 屈原は信念を曲げるくらいなら、死んだ方がましと信じていたに違いない。 粽の話は前述したが、5 月 5 日にドラゴン・ボート・レース(ペイロン競争)が行わ れるのは、入水した屈原を救おうと近くの猟師たちが競って助けようと舟を出したと言 い伝えられている。ペイロンは日本の長崎にも伝わっている。 屈原は誰も自分を理解してくれないと絶望し、楚辞にその気持ちを記して自殺した。 彼は政治家ではなかった。清濁併せ呑むことができるような人物ではなかった。だが、 偉大な詩人であったのだ。両者の能力を兼ね備えることは難しい。 しかし、屈原は毛沢東から愛国者と絶賛され、現在の中国人からも尊敬されている。 そして、粽(ちまき)を食べる子供たちも、ペイロン競争に参加する人々もあなたの生 き様を知ると、あなたの魂が安らかになるように祈るに違いない。 筆者は雨の降るなか、東湖に小船で乗り出した。屈原のように祖国に絶望し、入水自 殺するためではない。対岸の磨山(マシャン)の岩に刻まれた毛沢東直筆の『離騒』を 見るためである。磨山は霞のなかにあった。 筆者は屈原の魂を鎮めようと思った。 「屈原よ。我々は懐王や張儀の名前を忘れても、あなたの名前と精神を決して忘れるこ とはない。あなたは政治闘争には負けたが、歴史に勝ったのである。あなたは史書のな かだけでなく、後世の我々の心にも刻まれているのだ。安らかに眠れ」 なお、この小文に記した屈原の年齢は、郭抹若(かくまつじゃく)の説に従った。 36 殺される側の論理と殺す側の論理 風萧萧(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し 壮士 ひとたび去って復た還らず 戦国時代、荆轲(けいか)は今の北京近辺で栄えた燕(えん)の国境の易水(えきす い)でこの歌をうたった。易水の歌である。彼の任務は秦王(のちの始皇帝)の暗殺で ある。刺客、今でいうテロリストである。成功しても、失敗しても生きて還ることはな い。壮士は荆轲自身である。太子丹(たん)と彼の知人は白装束で彼を易水のほとりで 見送った。男たちは皆泣いていた。荆轲は馬に乗ると、一度も振り返ることなく去って 行った。紀元前 227 年のことである。 当時、七国のなかで秦は天下統一に向けて次々と諸国を滅ぼしていた。紀元前 230 年 に韓を、228 年に趙を滅した。燕、魏、楚、斉(せい)は秦の侵攻に戦々恐々としてい た。追い詰められた諸国は刺客を派遣し、秦王を殺害しようとした。実際、暗殺計画は 3 回あったと史書は記録している。 荆轲はどんな人物だったのであろうか。司馬遷の『史記』刺客列伝にはこのように記 されている。 「荆轲は酒飲みの連中とつきあってはいたが、しかしその人柄は沈着で、読書を好んだ。 かれの歴訪した諸国では、どこでもかれはその地の賢人・豪傑・長者(人望ある人)た ちと交わりを結んだ。燕におもむくと、燕の処士の田光(でんこう)先生がまたかれを てあつく遇したが、それは荆轲が凡俗な人間でないことを理解していたからである」 当時、剣術と読書の両方を兼ねる者は少なかった。荆轲は交際範囲も広かったようで ある。そしてなにより、刺客には相手に気づかれない沈着さが必要条件であった。 燕の太子丹(たん)は幼いころ、のちに秦王となる政(せい)とともに趙で人質にな っていた。同じ境遇にあるためか、この二人は仲がよかった。政が秦に帰国し、秦王と なってから、燕の太子丹は秦に人質となって行ったが、彼に対する秦王の待遇は悪く、 それで丹は怨んで、燕に逃げて帰って来た。紀元前 232 年である。荆轲(けいか)が秦 王暗殺に送り出される 5 年前のことである。 燕の太子丹は秦王を竹馬の友と思っていたため、秦王の思わぬ冷たい扱いに裏切られ たと感じたのであろう。秦王は天下統一という大事業を完成させようと策略を巡らして いたのだが、太子丹は燕と秦の両国関係を友人のそれになぞらえていたのである。人生 の目的や夢が異なる二人が意思疎通できるはずがない。さらに言うと、辛酸をなめた秦 王は人に対して執念深くなっていたのである。天下統一はどんなことがあっても果たさ なければならないと信じていたのである。そんな彼が野望を抱かぬ太子丹を軽く見てい たのは当然であった。 一方、太子丹は秦王の悪い待遇に対して報復しようと考えていた。刺客を探していた のだ。本来であれば、丹は超大国秦の勢いを止めなければ、祖国が滅ぶと発想すべきで あった。だが、『史記』には悪い待遇に対する報復のために刺客を送ったと記録されて いる。燕の君臣には秦の勢いには歯が立たないとして、和平派や妥協派が多かったが、 太子丹は主戦派の筆頭であった。秦王に対する個人的な怨みがその原因であった。丹(た ん)は暗君といわないまでも、やはり感情の次元で政治を行っていたのである。政治家 として失格である。 侍従長の鞠武(きくぶ)は「侮られたくらいの恨みで、どうして秦の逆鱗にふれよう となさいますか」と太子丹を諌めた。 しばらくして、秦の将軍の樊於期(はんおき)が秦王の咎めを受けて、燕に亡命して きた。太子丹は彼を受け入れることに決めたが、侍従長の鞠武は、「秦王の燕に対する 37 怒りを増幅させることになります。『肉を積んで餓えたる虎の通り道に当てる』という ものです。樊(はん)将軍をすみやかに匈奴の地へ送り込み、燕侵攻の口実をなくして くださいませ。そして、西は趙・魏・韓と同盟し、南は斉・楚と連合し、北は単于(ぜ んう)と講和をなさってください」と諌めて言った。 太子丹は反発して言った。 「そちの計画は時間がかかりすぎる。わが心は憂い乱れ、少しも待つことができぬ。そ れに、樊将軍は天下のだれも手をさしのべぬ窮地にたって、このわしを頼って身を寄せ てきたのじゃ。見殺しにはできぬ」 鞠武は食い下がった。 「ただ一人の新しい交わりを大切にして、国家全体の大難を気にかけないのは、『怨み を増大して、禍を助長する』ものです。猛禽のごとき秦がその凶暴な怨みと怒りを爆発 させると、その結果は申すまでのことではありますまい。燕に田光(でんこう)先生と いう知恵深く、勇敢沈着なかたがおられます。ご相談されるのがよいでしょう」 田光は御殿にやってきた。 太子はいんぎんに案内し、床に膝をついて田光の座席の塵をはらった。異例ずくめの 接待である。田光が座におちつくと、太子は懇願した。 「燕と秦は並び立ちません。先生、いいお考えはありませんでありましょうか」 田光は答えた。 「わたくしは、老人になり駄馬と同じで役に立てません。もう精気消耗してしまい、国 の大事には当たれません。お役に立ちますのは親友の荆轲でしょう」 太子は言った。 「どうかその荆轲を紹介していただけませんか」 太子は田光を門まで見送って、最後に言った。 「これは国の一大事です。どうか先生、他言なさいませんように」 田光は頭を下げ、ほほえんで答えた。 「たしかに」 田光は荆轲のところに出かけて、太子丹とのやりとりを話した。 「私はあなたを推薦した。太子の宮殿に行ってくださるでしょうな」 荆轲は答えた。 「お言葉通りにいたしましょう」 田光は言った。 「太子は『他言なさらぬように』と言われた。どうかいそいで太子さまのもとへ行って ほしい。そして、 『田光は他言いたさぬ証としてすでに死にました』とお伝え願いたい」 そう言いおわるや、首をかききって死んだ。田光は大夫つまり知識人である。古代中 国では、ひとに疑われるのは義侠の男でないということである。田光は名がすたったと 感じ、自害して秘密を完全に守ったのである。このような任侠な中国人は現在いるだろ うか。 荆轲は太子に会い、田光はすでに死んだと語り、田光の言葉を伝えた。 太子はそれを聞くや茫然として、床に膝をついたまま前に進み出て、涙を流した。し ばらくして口を開いた。 「口外せぬようにと言い添えたのは、国の大事である策略を成しとげたい心からであっ た。田光先生が命にかえて他言せぬとあかしをたてられたのは、それがしの本意ではな かった」 太子丹は自分の言葉が相手にどう受け取られるかを思い巡らすことができないのだ。 小心者であったのであろう。 太子は自分の考えと計画を話し始めた。秦のあくなき野心や貪欲を責め立てた。楚や 38 趙が秦の大軍の前で風前の灯火になっていることを訴えた。 「秦王の首に匕首(あいくち)をあて、脅迫して諸侯から奪った土地を返還させるので す。もしそれができなくても、すきを見て秦王を刺し殺すのです。秦の国内で混乱がお これば、君臣は疑いあいましょう。そこで諸侯が合従できれば、秦を打ち破ることは絶 対確実です。それがしにはこれが何よりの念願なのです。この使命を誰にゆだねるもの を見いだせずにおりました。どうか、荆轲どの、この件ご考慮くだされますか」 諸侯の合従うんぬんの下りは相手を説得するためのつけたしである。要は、太子は秦 王に対する個人的な怨みを果たせれば満足である。 しかし、荆轲は辞退した。 「わたしはつたないものでして、国家の一大事には当たれまいと存じます」 太子は頭を床につけて最敬礼し、ぜひとも辞退しないでほしいと懇願し、そこではじ めて荆轲はひきうけた。最初に辞退するのは古代中国の礼儀である。ほんの少し前の日 本にもこの習慣は残っていた。 荆轲は一度辞退したが、当初から最後には受けるつもりであったに違いない。尊敬す る田光先生に国の重大事を果たすよう依頼され、先生は自刎(じふん)されたのである。 受けない訳にはいくまい。太子丹は土下座までして荆轲に懇願した。もはや、荆轲は逃 げられないとして承諾したのであった。この時、荆轲の死が確定したと言ってよい。 荆轲(けいか)は衛(えい)の出身で、先祖は斉(せい)の人である。燕(えん)は 彼の祖国ではない。外国のため、いや太子の自己の怨みを晴らすために死地に赴くので あるから、心中穏やかであるまい。だが、逃げることはできない。有能な刺客に生まれ たからには宿命だ。天下が強国秦による統一へと向かうなかで、抵抗勢力は苦悩してい たのだった。 荆轲は、上卿(じょうけい)の官位と高級住宅が与えられた。太子は毎日その宿舎に 行き、最高の料理でもてなし、財宝を差しいれ、車や美女を提供した。食べて、抱いて の贅沢のやり放題にさせた。中国の歴史の節目にはしばしば美女が登場する。 時間がたったが、荆轲は出発しようとしなかった。紀元前 228 年、秦は趙を滅ぼし、 軍が燕の南端まで迫ってきた。太子は恐れおののき、荆轲に催促した。 荆轲は言った。 「今すぐに出かけましても、手ぶらでは秦王の謁見は叶いませぬ。秦王が喜びそうなも のをあれこれと考えておりました」 荆轲は一呼吸おいて、静かに言った。 「樊於期(はんおき)将軍の首と燕の督亢(とくこう)の地図を秦王に献上できれば、 謁見が許されるでありましょう」 樊於期将軍の首と聞いた太子は、 「ならぬ。考え直してくれ」と狼狽した。 秦を脱走した樊(はん)将軍の首には、金千斤と一万戸の領地がかけられている。秦 王は是非とも得たいものであった。督亢は肥沃な燕の土地である。地図を献上すること は、古代中国では領土を割譲することを意味していた。太子は天下で唯一自分を頼りに して、燕に亡命してきた樊於期将軍を憎い秦王に差し出すのが耐えられなかった。 荆轲はひとりで樊於期将軍を尋ねた。将軍は秦王と意見が合わないことが理由で、父 母・一族は皆殺しとなり、財産は没収されたので、秦王を非常に怨んでいた。 「この於期(おき)はそれを思い出すたびに、骨の髄まで痛みをおぼえる。しかし、そ れを雪(そそ)ぐにどんな策があるか考えもつかない」 将軍は涙を流しながら言った。 そこで、荆轲は言った。 「燕国の憂いをなくし、将軍の仇を討てる策がありまする」 39 樊於期(はんおき)は身をのりだして、訊ねた。 荆轲は答えた。 「将軍の首をいただき、秦王に献上いたしたい。秦王は喜んでわたしを引見するでしょ う。わたくし左手で秦王の袖をつかみ、右手で胸を刺し通してくれます。将軍どのの仇 は討て、燕は恥辱を雪ぐことができましょう」 樊於期は興奮し、膝をのりだして、 「それだ。日も夜も歯ぎしりして心を砕いておった。今やっとよい言葉が聞けたわ」と 言うと、たちまち首をかき切って果てた。 太子丹はこれを聞くと、急いで馬車でかけつけ、死体に身をなげかけ、声をたてて泣 いた。丹はよく泣く男だ。しかたなく、荆轲は樊於期(はんおき)の首を函(はこ)に 収め封をした。 荆轲は徐夫人(じょふじん)という名の匕首(あいくち)が百金で入手できた。その 刃に毒を塗り、ためしに人を刺すと、傷口から糸すじほどの血がしみでるだけで、たち どころに絶命した。 太子は秦舞陽(しんぶよう)なる勇士を荆轲の添え役としようとした。旅装を整え、 出立の準備ができた。しかし、荆轲はまだ動こうとしなかった。ひとを待っていたので ある。13 歳で人殺しをしたという秦舞陽がそれだけで荆轲の補助役を担えるとは思え なかったのである。 太子はなかなか出立しない荆轲を命が惜しくなって心変わりしたのではないかと疑 い、 「秦舞陽を先につかわそうと思うが・・・」 と言うと、荆轲は激怒した。プライドを傷つけられた。 「いっしょに行く友を待っているのでござる。太子さまが遅いと言われるのであれば、 さっそく出立申そう」 樊於期(はんおき)将軍の首は函(はこ)のなかに詰められたままである。冷蔵庫な どがなかった当時、悪臭で周りが困ったのではないかと考えられるが、実際どうしたの であろうか。筆者はこの点をうまく解説したものを読んだことがない。 太子丹は落ち着きがない。この太子の急きたてが結局暗殺失敗の大きな原因となる。 太子は古代のKY(空気が読めない)のひとであったのだ。最後の詰めでしくじる原因 をつくってしまった。 太子と関係者は喪礼の服装でふたりを見送った。男たちはみな涙をこみあげて泣いた。 冒頭の歌を荆轲がたかぶった音調で歌ったとき、男たちはみな目を怒らせ、髪は逆立 って冠をつきあげた。司馬遷は『史記』で別れの情景をそのように表している。 易水(えきすい)河が流れる河北省易県は北京市の南西 150 キロに位置する。春分の 日に出かけた。北京の最高気温は 2 日前に 29 度と 3 月としては観測史上最高温度を記 録していた。この日も揺り戻しがあったとはいえ、20 度に達する暑い日であった。荆 轲が易水河を渡って行ったのは 2200 年前の冬のことである。風萧萧(しょうしょう) というイメージはまったく湧かない。今の易水河にはほとんど水が流れていない。川底 にはブルドーザーやトラックが入り、護岸工事を行っている。 易水河を見渡せる小高い丘の上には、煉瓦造りの荆轲塔が立っていた。荆轲を祀るた めである。荆轲の霊を鎮めなければならない。 秦王は燕の使者が樊於期(はんおき)の首と督亢(とくこう)の地図を献上しにやっ て来たと聞くと、いたく喜び、朝廷での正装をつけ、最高の礼で、燕の使者を咸陽宮(か んようきゅう)で引見することにした。 40 荆轲は樊於期(はんおき)の首をいれた函(はこ)をささげ、秦舞陽(しんぶよう) は地図を納めた小箱をささげ、順に進み出て、秦王の玉座の前まで至ると、秦舞陽(し んぶよう)は顔色が変わってふるえおののき、居並ぶ臣下たちはいぶかしく感じた。こ の時、荆轲はやはり秦舞陽を連れてくるのではなかったと思ったに違いない。しかしも う遅い。どうにか取り繕わなくてはならない。 荆轲はふりむいて秦舞陽のさまを笑い、前に出てあやまった。 「この男、北方の田舎者、天子さまに拝謁したことがござりませぬので、おののき恐れ ておりまする。大王さま、しばらくご辛抱願いたてまつる」 。 秦王は荆轲に命じて、督亢(とくこう)の地図を持ってこさせた。荆轲は地図を取り だしてさしだした。秦王が地図をひろげていくと、 ―図きわまりて、匕首(あいくち)あらわる。 荆轲は予定どおり匕首を右手でつかむと、左手で秦王の袖をつかみ、右手で突き刺し た。しかし、とどかない。秦王は驚き、身をひいて立ち上がった。秦王は剣を抜こうと したが、すぐには抜けない。剣が長すぎるのである。周りで見ている臣下たちは武器を 持つことが許されていないばかりか、命令がなければ昇殿できない。荆轲はずっと秦王 を追いかけている。秦舞陽はわなわなとふるえているだけで、立ちすくんでいる。荆轲 が待っていた友人が来てくれていれば、秦王を後ろから羽交い絞めにしたことであろう。 そうすれば計画は成就したのだった。そのはずだった。現実は、ふたりの追っかけっこ が続く。 お付のものが叫んだ。 「王さま、剣を背中へ!」 慌てている時の長い剣の抜き方である。 王はやっと剣を抜き放つと、荆轲の左ももを切り裂いた。荆轲は足を引きずりながら も、匕首を秦王めがけて投げつけた。しかし、当たらなかった。少しでもかすっていれ ば、秦王は死に中国の歴史は変わっていたであろう。秦王はさらに荆轲を切りつけた。 荆轲は死に際に言った。 「失敗したのは、王を生かしたままでおどしつけ、約束をとりつけようとしたからだ」 言い訳であった。 こうして秦王暗殺は果たせなかった。 この事件で秦王は激怒し、燕を討った。十ヶ月で燕の都は落ちた。太子丹らは遼東に 逃げた。燕は秦王の怒りをおさめるために、太子丹の首を献上したが、秦はさらに軍を 進めた。効果がなかったのだ。五年後の紀元前 222 年、秦は燕を滅ぼした。秦が中国を 初めて統一する前年のことであった。 秦の軍に殺された人々は秦王を強く怨んだ。機会があれば、報復したいと誰もが考え ていた。戦国時代、天下統一をかけて多くの人々の命が落とされた。血で血を洗う戦い が続いた。 一方、秦王は他国の趙で人質の子供として生まれた。秦と趙の政治状況において、い つ殺されてもおかしくはなかった。ひとを信じない子に育ったのであろう。さらに秦王 に衝撃的であったのは、彼自身秦王朝の血を受け継いでいないと知ったことである。 “奇貨居くべし”で有名な豪商呂不韋(りょふい)が妾に産ませた子供が秦王であった。 幼少のときの名は政(せい) 。母は男なしでは一晩も生きていけない女であった。政(せ い)は、母が毎晩違う男と寝る姿を見て育ったと考えられる。 政は秦王となると、天下統一に向けて突っ走る。天下統一の意義は何であったのであ ろうか。人々に怨まれようと平和到来のためにやらねばならない。天下統一によって戦 争を終結させ、人々を苦しみから救おうとしたのであろうか。現代人の立場からは、個 人の名誉からでなく、そう信じたい。 41 五百年にわたる春秋戦国時代を終わらせる巨大事業は普通の者にはできない。冷徹非 道極まりない心で決行しなくてはいけない。政治的業績を基準にすると、冷たい心をも つ君主が優れた仕事をするものである。人民に愛される王には偉大な仕事はできない。 荆轲は、現代中国ではテロリスト扱いされているので評判は極めて悪い。中国人為政 者は、歴史を変えるのは小手先ではなしえないと考えるからである。 だが、荆轲に感情移入する現代人は多い。 司馬遷も刺客列伝の最後を次の文章で締めくくっている。 「曹沫(そうかい)から荆轲までの五人の刺客、義侠の行ないを成しとげた者も成らな かった者もいる。けれどもその心ばえは明白であって、志にそむきはしなかった。名声 が後世に及んだのは、けっしていわれのないことではない」 殺される側と殺す側の論理は常にすれ違うのだ。 42 匈奴の属国だった漢帝国 北京の西隣に位置する山西省の大同市は、世界文化遺産の雲崗(うんこう)石窟寺院 遺跡と石炭の巨大産地として有名である。鮮卑族が建国した北魏は 398 年から 494 年に かけて大同に都を定め、仏教の信仰に篤い王が建てたのが雲崗石窟寺院である。世界遺 産として世界中の観光客を集めている。 一方、石油資源に乏しい中国はエネルギーの大半を石炭に頼らざるを得ないが、大同 は有数の炭田地帯としても有名である。炭鉱都市であるため空気が非常に悪い。 筆者は 1994 年に雲崗石窟寺院遺跡を見るために一度大同を訪れたことがあるが、二 度と訪れたくないと思っていた。その時出会った中国語のできない西洋の女性観光客が ハンカチで口を押さえながら、「この街から一刻も早く出たいがどうすれば汽車やバス の切符を入手できるか」と嘆願するように筆者の目を覗き込んできたことをよく覚えて いる。以前は、汽車の切符を購入するには、争うように窓口に殺到するなど相当な苦労 をしたのである。今は、汽車もバスも切符を比較的簡単に購入できるようになった。 さて、今回再び大同を訪問するようになったのは、別の要件からである。 中国人はほとんど知らないが、漢の高祖劉邦は大同の郊外の白登山(はくとうざん) で、匈奴軍に取り囲まれて九死に一生を得たことがある。漢軍は劉邦解放の交換条件と して、大量の貢物と皇族の娘を匈奴に嫁がせることを約束する。つまり、漢帝国は匈奴 帝国への朝貢を受入れたことになる。分かりやすく言えば、漢は匈奴の属国であった。 この屈辱を雪(すす)ぐには武帝による匈奴討伐まで待たねばならなかった。 筆者は立春過ぎの週末、北京から列車に乗って大同に向かった。白登山戦遺跡を見る ための1泊2日の小旅行である。列車は 374 キロを 6 時間もかけて大同まで走る。標高 500 メートルの大同高原まで山地を河に沿ってくねくねと駆け上るため時間がかかる。 コンパートメントには、河北省の保定で働き、内モンゴルの実家に一時里帰りするとい う中年夫婦が乗り合わせていた。主人は昼間から酒を飲みご機嫌であるが、奥さんはそ んな姿を見て、ご機嫌斜めである。 筆者は時間つぶしに色んな話をした後で、別れ際に何度も保定に遊びに来るよう招待 された。中国人はお客の接待が好きである。日本人は外交辞令として、「今度近くにお 越しの際は、我が家にも立ち寄って下さい」というが、中国人は本気である。こんな時 に、外交辞令は使わない。中国人は生の感情で接してくれるため、彼らとうまくつき合 えば、日本人と以上に気持ちが安らぐことがある。中途半端な言い方は迷惑をかけると 思い、「あなたの気持ちには感謝するが、保定に行く機会はないと思う」と言って、電 話番号を交換しなかった。笑顔で、握手をして別れた。 大同駅に着くと、空気が意外にきれいなのに驚いた。以前嫌な思いをした煤煙や炭鉱 の臭いがしない。タクシー乗り場に向かうと、数人の運転手がどこに行くのかと尋ねて くる。 「白登山に行きたい」と言うと、「それはどこにあるのか」と彼らは口々に質問してく る。 ネット上のホームページからコピーしてきた、白登山遺跡の住所とそこへの行き方を 示すが、4、5 人の運転手は誰も行ったこともないし、知らないと言う。早速、一人の 運転手がどこかに電話し、訊いてみるがそれでも分からない。何事かと、警察官が寄っ て来たが、状況が分かるとすぐに去って行った。すると、男が寄ってきて、あたかも行 ったかのような口ぶりで、こう行けばいいと指示をする。大体の方向が分かると、ひと りの運転手が俺のクルマに乗れと言う。タクシーは大同市から出て東の郊外に向かって 走り出した。 運転手が車中で「運賃は 100 元でどうか」と言うので、「高すぎる」と回答すると、 43 大同駅のタクシー乗り場に乗り入れるだけで 10 元取られるなどと理屈を並べ立てる。 筆者は交渉が面倒になり、また冷静に考え直すとそんなに高くないと思い、ついに折れ ることにした。 市内から 3 キロほど郊外に出ると、運転手はクルマを停め、民家の女性に道を訊くが、 知らないと答える。ちょうど出てきたその家の主人が白登山はこっちの方向だ。あそこ に見えるのが何々だという風な会話が耳に入る。意を強くした運転手は指示通りの方向 にクルマを飛ばした。しばらく行くと、バイクの男性に追いつき、また同じ質問を繰り 返して訊く。訛りが強くてよく分からないが、俺の跡についてこいと言っているようだ。 バイクの先導で白登山戦の遺跡の方に行くことになった。この時点で本当に行き着ける のか不安であった。 バイクは途中から舗装していない山道に入り、山を登り始めた。我々のタクシーはそ れを追いかけるが、デコボコがひどく速く走れない。バイクとの距離は開くばかりだ。 途中左右に分かれているところがあり、どっちに行ったと運転手が何回も筆者に訊く。 高度は次第に高くなっている。周りは墓地であるようだ。墓標が立っている。最近供え られた葬式用の白い花輪も見かける。気色が悪い。まだ陽が高いのが救いだ。バイクは 途中で、我々が来るのを待っていてくれた。バイクの男は山の遠くを指差し、「あれが 白登山だ。その頂上に石碑がある」と言う。最後に、 「遠いぞ」と繰り返す。 確かに、稜線伝いの向こうの山頂に立っている石碑が見える。嬉しくなった。2 キロ くらい先であろうか。ここまで来れば何としてでも、行かなくてはならないと筆者は決 意する。我々はバイクの男にありがとうと言って、山頂を目指すことになる。運転手は 予想外の悪路に機嫌が悪い。遠くて、道が悪いと何度も繰り返す。筆者は急ぐと危ない から、ゆっくり走れと言い返す。大同駅前のタクシー運転手の誰も知らない理由がやっ と分かった。余程の歴史愛好家でなければ、こんなところに来るはずはない。日本人で やってきたのは筆者が初めてかも知れない。そう思うとうれしくなったが、運転手が嫌 なことを言う。 「こんなにひどい道を行くのだから、50 元プラスしてくれよ。旦那」 無視していると、聞こえなかったと思ってか、また同じことを繰り返す。 中国人というのはまったく駆け引きが上手だと思いつつも、仕方なく同意する。目標 直前で引き返すと言われても困る。彼らは足元を見るのに長けている。 白登山の頂上に立った。西方の大同の市内は煙とガスに覆われている。白登山は大同 高原から標高 300 メートルであろう。クルマで登ってこられたのだから、なだらかな山 である。山腹までよく見渡せる。 約 2200 年前の紀元前 200 年の厳冬、劉邦がこの山で匈奴軍に包囲されたのだった。 当時、森林が生えていたかどうかは分からないが、劉邦精鋭軍は匈奴の 40 万の騎兵に 包囲され、突破できなかった。当時の模様を頭の中で再現しようと思ったが、うまく劉 邦軍や冒頓単于の大軍が浮かび上がってこない。 筆者がその現場に立ったのは 2 月 8 日午後 4 時。暖かい日であった。石碑の他には当 時を偲ぶものは何もない。石碑は 1992 年大同市政府によって建てられたものである。 比較的新しいのは、漢民族にとって屈辱的な敗戦を目立たせたくないからであろう。 「白 登山戦遺跡」の石碑の裏には、当時の模様が書かれているようであるが、ペンキが剥げ ていて彫られた文字がよく読めない。 現代人が歴史を認識するには、残された史書や遺跡などから解釈するしかない。漢民 族は歴史の記録に熱心であったが、匈奴は記録にほとんど無関心であったため匈奴側か らみた歴史の真実がよく分からない。我々は漢民族が残した史書に頼らざるを得ないた め、知らず知らずのうちに漢民族の論理に偏った視点で歴史を解釈してしまう。 44 歴史の真実に迫るには複合的視点が必要であることは論を待たない。以上の視点を大 切にしつつ、まずは司馬遷の『史記』匈奴列伝を読んでみよう。 「高祖(劉邦のこと)は自身で兵をひきつれ、匈奴討伐に出かけた。折りしも冬の寒さ がもっともきびしいときで、雪が降っていた。凍傷のため指を腐らす兵卒が十人に二、 三人いるありさまだった。このとき冒頓単于(ぼくとつぜんう、匈奴を統一した王)は 負けたふりをして逃走し、漢の兵を誘った。漢兵は冒頓の軍を追撃した。冒頓単于は精 鋭部隊をかくしておき、やせて弱そうなものだけが目につくようにした。そこで漢は全 軍歩兵三十二万をこぞって、逃げる敵を追って北に向かった。高祖は先に平城(今の大 同)に到達し、歩兵部隊はまだ後方にあった。そのとき冒頓単于はかくしていた精鋭の 騎兵四十万をくり出し、白登山において高祖を包囲すること七日に及んだ。漢軍は分断 され、包囲の内と外とで互いに救けあうことも食糧を送ることもできなかった。 (中略) 高祖はそこで使者をやって阏氏(あつし、単于の正妃の称号)に手厚い贈り物をした。 阏氏はやがて冒頓単于に向かって言った。 『君主同士は、互いに苦しめあわないものです。いま、漢の領地を手に入れなさっても、 単于さまはけっきょくのところ、そこに住むわけにはゆかないでしょう。それに漢王に も加護の神霊がありましょう。単于さま、よくお考えなさいませ』 。 冒頓単于は阏氏の言葉をとりあげ、包囲の一角を解いた。そのとき高祖は兵士全員に 命じ、弓をひきしぼり、矢をつがえて外側にねらいをつけさせ、解かれた一角から抜け 出して、やっと大軍とあうことができた。冒頓単于もそのまま兵をひきいて去り、漢も 兵をひきいて撤退した、そして劉敬を使者として講和条件を締結した。(中略) 高祖は劉敬を使者として一族の娘を公主(内親王)にしたてて単于のもとに送り阏氏 とした。毎年、匈奴に綿や絹物、酒・米・その他の食物をそれぞれ一定数量納めること とし、兄弟の約束をとりかわし、講和した。冒頓単于はやっと侵略をひかえるようにな った」 これは漢民族側の記述である。実際は、漢王朝はもっと屈辱的な状況だったと想像し てもおかしくはない。余談であるが、 「満を持す」という表現は、 『史記』の記述中の「弓 をひきしぼり、矢をつがえて外側にねらいをつけさせ」た状態を指していたのである。 現代では意味が変わっている。この脱出の瞬間、劉邦はほっとしたことである。 皇帝の座を争う項羽との戦いで優れた知略を働いた劉邦が冒頓単于の罠に簡単に嵌 まるとは、劉邦は一世一代の失敗をやらかしたことになる。間抜けと言わざるを得ない。 漢は、以降公主や後宮の美女を匈奴に嫁がせるとともに、毎年、大量の絹、酒、米など を匈奴に奉納している。実質的に、漢帝国は匈奴の属国に近かったのである。 『史記』には、講和条約締結後も、匈奴はそれを破り、長城を越えて南下し、略奪し たり、多くの人々を連れ去り、その度に皇帝は講和条約を締結せざるを得なかったと繰 り返し記述している。両者の本格的な戦いが 50 年近くも続いた。漢の側の論理では、 匈奴は約束を守らず、略奪を繰り返す野蛮人であると断定しているようなものである。 その後、武帝の時代に国力が増し、皇帝は衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい) を匈奴討伐のために北方に派兵している。劉邦後の属国に近い扱いを受けてきたことに 対する恨みを雪ぐかのように匈奴を討とうとしている。この時、漢が講和条約を破った とはどこにも記されていない。勝手なものである。衛青は長城の外に遠征し、匈奴との 戦いに勝ったのは、秦の蒙恬(もうてん)が匈奴を討った後、じつに 80 年ぶりのこと だった。 また、武帝は匈奴を東西から挟み撃ちにしようと、西域に張騫(ちょうけん)を使者 として派遣している。匈奴が内紛などで弱体化すると、武帝は西域(さいいき)の征服 に積極的に乗り出す。シルクロードが開通し、東西の文物の交易が盛んになり、漢は莫 大な富を得ることになる。 45 宣帝の時代に、単于が漢に入朝し自ら臣と名乗ると、皇帝は大いに喜び、後宮の美女 王昭君(おうしょうくん)を単于に嫁がせている。王昭君は中国四大美女の一人として 歴史に名が残されたのは美貌もさることながら、匈奴を屈服させた象徴としての意味が 大きいと、筆者は考えている。中国の中学生の教科書にも王昭君は漢と遊牧民族との融 合の象徴として記されている。 朝廷内で出世を目論む武官らは弱くなった匈奴をしばしば討っている。劉邦以来、戦 功を上げない武将は出世できないという規則があったため、勝てると分かっていた匈奴 との戦によく出兵したのである。 匈奴の正体はよく分かっていない。トルコ系ともモンゴル系とも言われる。匈奴は民 族名ではなく、政治集団の名前であるという説もある。匈奴という名前からして、差別 的な呼び名であるが、匈奴自身が歴史上記録を残していないので、匈奴側からの視点を 知るのは大変困難である。 匈奴が中国の史書に登場するのは、戦国時代の後期、紀元前 3 世紀中葉、趙と交戦し た時である。匈奴は優れた騎馬技術と武器を持っていたが、それまで中原の諸侯は馬に 乗る技術を知らなかった。馬車といえば、数頭の馬に 3 人乗りの馬車を引かせていたの だった。戦闘のスピードに格段の差があったと考えられる。趙は騎馬技術を最初に取り 入れた諸侯となり、戦国時代に勢力を増大していく。 『史記』は、匈奴では「若くて強い者が重んじられ、老人は軽んぜられる」と書いて おり、儒教の精神に反するとしているが、匈奴の価値観に立つと、常に草原を移動し、 遭遇した部族や異民族と戦わねばならなかったため、壮健な若者が重視されるのは当然 のことであった。また、史書は、「一家の長が亡くなると、その跡を継いだ子は自分の 父母以外の父の妃達を受け継ぐ」との記載も儒教の倫理からすると野蛮であるが、匈奴 は一族の繁栄のためには残された強い男が女を受け継ぎ、子孫を産ませていったのだ。 人口の少ない遊牧民族にとって人口増加は死活問題であった。これらの特徴は、匈奴の みでなく、遊牧民族に共通のものである。 その後、匈奴は紀元 48 年、内紛によって北匈奴と南匈奴に分裂し、南匈奴はまもな くして漢王朝に降る。紀元 91 年、北匈奴は漢との戦いで大敗すると、西方に追いやら れ、現存の史書から名前を消してしまう。 4 世紀に南ロシア草原に出現したフン族が匈奴の末裔であることはほぼ間違いがない ようだ。南シベリアで発見された遺跡は匈奴のものと思われる文物が多く残されている。 このフン族はゲルマン民族の大移動を引き起こし、「死なぬ(476 年)はず」の西ロー マ帝国滅亡の原因となる。漢人が匈奴を破ったことで、彼らは西に去り、数世紀の時間 を経て、他の民族を玉突きし、最後に西ローマ帝国を地中海に落としたのだった。 多くの遊牧民族を育んだのはモンゴル高原であった。匈奴、東胡、鮮卑、柔然、突厥、 ウイグル、キタイ、モンゴルなど世界史に名を残す遊牧民族は、世界最大で、肥えた大 草原であるモンゴル高原から興った。モンゴル高原を穀倉地帯に開発すれば、アジアの 食糧問題は解決するという農業学者もいるという。 モンゴル帝国は侵略した都市で略奪と殺戮を繰り返したため、遊牧民族は野蛮で残虐 だという印象を人類史に残してしまった。さらに、彼らは歴史の記録に関心を示さなか ったため、彼らの習慣や行いは記録が残された国の史書を通じて理解するしかない。し かし、記録が残っているから文明国であるとは限らない。文字を発明したから文明国で あるとは限らない。相手の価値観を無視し、自らの論理や価値観に盲目に従い、他の民 族を無差別に殺戮してきた民族が最も野蛮である。 匈奴には匈奴の文明と価値観があったはずである。それを史書から知ることはできな い。彼らが何を考えていたかに思いを馳せることは我々の想像力を刺激する。中央アジ アの遊牧民族の視点は、世界の歴史を描き直す機会を与えているように思われる。 46 司馬遷が後世に遺したミステリー 春秋時代、山東半島にあった斉(せい)国で起こったことである。 斉のトップである荘公(しょうこう)は臣下の崔杼(さいじょ)の妻に通じていた。 妻を寝取られる男は現代でも“間抜け”の代名詞であるが、面子を重んずる当時、崔杼 (さいじょ)はひどい屈辱感に悩まされていたことであろう。荘公は崔杼がいないころ を見計らって、しばしば崔杼の邸内に忍び込んで、美人妻と関係していた。ある日、崔 杼は家来に命じて、忍び込んできた荘公を殺害させた。 そこで、斉の大史は、 「崔杼、その君を弑(しい)す」 と公式な記録に記した。事実は事実である。すると、崔杼は怒ってこの史官を殺してし まった。史官は歴史を曲げることはできない。殺された大史の弟は筆をとって記録を続 けた。崔杼はこれを殺し、なおも記録を残そうとするその弟をも殺した。第四の弟も使 命感からそのことを記録したので、崔杼もこれを承認せざるをえなくなった。史官の執 念というほかない。背景や理由やまた誰であれ、歴史的事実をそのまま記録に収めるこ とが史官の任務であった。まさに命賭けの仕事であった。古代中国ではそれほど事実や 歴史の記録に対する重要度が高かった。 中国の歴史をつくったと言われる司馬遷はそのような古代に、史官の家系に生まれた のである。実は、もう一人、中国の歴史をつくった男がいる。武帝である。彼ら二人の 歴史的役割を考えてみたい。『史記』は大変面白い。歴史書であるだけでなく、壮大な 歴史小説でもある。筆者はデスクワークだけでは、彼ら二人を理解するのに十分ではな いと思い、歴史探訪の旅にでかけた。行き先は司馬遷が生まれた陝西(せんせい)省の 韓城(かんじょう)である。武帝が眠る西安郊外の陵墓の北 240 キロに位置する。 北京から韓城までの 997 キロの鉄道の旅は 18 時間を要する。平均時速 55 キロ程度の 旅行である。2009 年 4 月 4 日午後 7 時 10 分、韓城行きの列車が予定より少し遅れて静 かに北京西駅のホームを出発した。筆者が乗り込んだ 2 等寝台はどこも満員だった。列 車は北京から南下し、黄土高原の山西(さんせい)省を南北に縦断するルートをとる。 途中、省都の太原や世界遺産の平揺(へいよう)の町を経由する。平揺は清代の町並み がよく保存されていることから、世界文化遺産に登録されている。ここで多くの観光客 が下車した。欧米の留学生とおぼしき集団がいる。翌朝午前 7 時 30 分ころだった。 2 等寝台はカーテンがなく、プライバシーがないが、広くて意外に快適だった。7時 間くらいの睡眠をとった。到着までまだ 6 時間ある。黄土高原の上は平坦である。雨水 に抉られて、河川となったところは、急峻な谷になっている。列車は平坦地を選ぶよう にゆっくり走る。速度が遅いのは地盤が緩いためであろう。4 月の最初の日曜日は、暖 かく、晴天に恵まれている。桃や油菜の花も満開になっている。美しい。南に行くほど、 小麦の丈は高くなり、ポプラの緑葉も多くなっていく。子供たちが遊んでいる光景にも 出くわす。老人が孫をあやしている。ぼうっとして列車を見物している者もいる。畑の 隅の墓地には、ところどころ極彩色の花輪が飾られている。昨日は、先祖を供養する清 明節であったためだ。何もかもが春本番という装いである。のどかである。眠気が襲う。 でも退屈しない。少しずつ旅客が去っていく。いつまでもこの気分に浸っていたいと思 う。 山西省は石炭の産地として重要な地区である。火力発電所があちこちに立ち並び、噴 煙を勢いよく上げている。あとで聞いたが、石炭王は随分贅沢な生活をしているという。 河津駅はその名のとおり、黄河に接する街であるが、石炭の大生産地でもある。火力 発電所も多い。石炭の臭いが車内にも入り込んでくる。この街を過ぎると、黄河を越え、 陝西(せんせい)省に入る。最初の街が韓城(かんじょう)市というわけだ。黄河は現 47 在の山西省(さんせい)と陝西(せんせい)省を隔てている。この二つの省は日本語で も発音が似ているが、中国語でも似ているので、時々聴き間違える。春秋戦国時代には、 黄河が秦(しん)と晋(しん)の国境であった。鉄道は黄河の最も狭い箇所を横切った。 ここが竜門と呼ばれる場所だ。この下流は黄河が急になだらかな流れになる。黄河を登 る鯉が急流の竜門を昇りきると、竜になると言い伝えられている。登竜門もこの故事か ら来ている。 司馬遷は『史記』のなかの自伝とも言える「太史公(たいしこう)自序」のなかで、 「遷は竜門で生まれ(紀元前 145 年)、黄河の北、山の南で農耕・牧畜をしていた」と 述べている。竜門は現在韓城市に併合されているが、この地こそ司馬遷が生まれ、6 歳 まで過した土地である。黄河がいにしえの過去から途絶えることなく流れ、黄土高原は 鋭く切り裂かれ、しかし肥沃な土壌に恵まれた土地柄である。雄大な地形は幼い司馬遷 の心に深く刻まれたことであろう。 司馬家は代々周室の記録をつかさどっていた。その後、司馬家は周の都を去り、晋(し ん)におもむくが、一族は各地に分散する。子孫は将軍や製鉄監督官や市場の長などに なっている。姓の司馬から分かるように、将軍としての才能を発揮した者がいたことは 間違いない。戦争がないときは、文官として活躍していたと推察される。現代的に言う と、司馬家は知識分子の家系であった。 父司馬談(だん)が太史令(たいしれい)になると、6 歳の遷も一緒に華の都長安に 移住し、さらに茂陵(もりょう)に移った。転勤である。10 歳の時に、師について、 『春 秋左氏伝』などの古文を暗誦している。これで、司馬遷は歴史の基礎学力を身につけた のだ。20 歳の時に、父の命を受けて、2 年間各地の伝統や風俗を探訪し、戦国諸侯の記 録を収集して廻っている。秦の始皇帝は天下を統一すると、秦以外の諸国の書物を焼き 捨てさせている。司馬談からみて、貴重な史料が多く紛失したに違いない。そのため、 息子遷を地方に遣わし、残された史料や地方に伝わる伝承を聞き集めたりさせたのであ ろう。中央で失われたものは、歴史の現場で掻き集めるしかない。この時、司馬談は中 国で初めての正史を書こうと決心していたに違いない。 遷は長安に戻ると、その経験を買われ、郎中(官僚見習い)として武帝に仕えること になる。35 歳の時、巴(は)、蜀(しょく)、昆明(こんめい)などの遠征に加わり、 都に帰ってくる。 遷の父談は太史令(たいしれい)として、天文と暦法をつかさどっていたため、本人 は武帝の封禅(ほうぜん)の儀式に当然参加できるものと考えていたが、どうした訳か 参加が許されなかった。その不平不満が極に達し死にかけていた。古代人の思いは計り 知れない。日本に例えると、天皇の侍従長が天皇の即位式に出席できなかったとして、 怒りの余り健康を害するようなものである。司馬談は滅多に行われない封禅の儀式への 出席を心の底から願っていたのであろう。司馬談は見舞いにやって来た遷の手をとって、 涙にくれつつ言った。 「今の天子(武帝のこと)は千歳の伝統をうけて、泰山(たいざん)において封禅がお こなわれるというのに、わしは随行できなかった。運命というものだ、運命というもの だなあ。わしが死んだら、おまえは必ず太史になれ。太史になって、わしの論じ書きし るしたいと思っていることを忘れるな。(中略)明主賢君および忠臣と節義に死んだ士 (ひと)の事跡を、わしは太史でありながら記録にとどめることができず、天下の史文 をすててしまうことを、わしはいたく恐れとする。おまえは心にとめておけ」 遷は頭をたれ、涙を流して応えた。 「わたくしは不敏ですが、わが先祖より書き伝えられた事のあとを、決して失われぬよ うにいたします」 遷は父が亡くなって 3 年目、38 歳で太史令になった。この時、司馬遷は『史記』執 48 筆の決意を述べている。 「亡き父がよく言ったことは、周公が亡くなって 500 年たって孔子が出た。孔子が亡く なってのち今まで 500 年になる(実は 375 年が正解。聖人は一定の間隔を経て現れると 言いたいのだ)。よくこれをうけつぎ明らかにして、『易』の伝を正し、『春秋』をつい で、 『詩』 『書』 『礼』 『楽』の範囲にもとづけることは、おもうに今こそその時であろう。 今こそその時であろう、とあった。わたくしはこの仕事を人に譲ろうとは思わない」 司馬遷の自信と使命感が溢れている。飛ぶ鳥を落とす勢いがある。 そして、42 歳で『史記』の執筆を開始する。司馬遷は 20 歳の時、父に命じられて出 かけた旅行を合わせると、合計 5 回も各地を歩き回っている。当時の中華文明の全範囲 と言ってもいいくらい広い。 「わたしは天下の散らばり、すてられた旧き伝聞をもれなくあつめ、王者の跡の興った ところについては、始めをたずね、終わりをみきわめ、盛んなときを見たし、衰えたる をも観察した」 と彼は記している。 執筆開始 5 年後、予期せぬ不幸が司馬遷を襲う。 紀元前 99 年、部下 5000 を率いて匈奴に出陣した李陵(りりょう)が匈奴の大軍 8 万 と遭遇し、刀折れ矢つきるまで激戦した。命が助かった者が 480 人で、李陵は捕虜にな ってしまった。朝廷では、李陵一族を滅亡すべきという議論もあったが、正義感が強い 司馬遷は、ひとり李陵の忠節と勇敢ぶりを賞賛した。この弁明は武帝の憤怒をかい、司 馬遷は投獄される。この時、武帝は 58 歳になり、明晰さが失われ、感情的になる傾向 があったのであろう。老化現象である。 当時、死刑を逃れる道はふたつだけ。大金を積むか(これは現代中国でも似たような ものである) 、それとも宮刑(きゅうけい)を受けて宦官になるかである。富裕でなく、 誰からも金銭的援助を得られなかった司馬遷は後者を選ぶしかなかった。 司馬遷は『史記』のなかでこの事件については詳しく書いていない。 「太史公(自分のこと)は不運にも李陵の事件に会い、幽囚の身となった。そこで、 『そ れは私の罪だ。私の罪だ、身体はそこなわれ用にたたなくなったのは』と深いため息を ついたが、家にこもって、深く考えこんだ」 だが、遷が友人の任安(にんあん)に宛てた手紙で心情を露呈している。 「本来自分は死を恐れない、あの李陵事件の時、死を選ぶのは実に簡単なことだったが、 もしあの時死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。死 ぬのが難しいのではない、死に対処することが難しかったのだ。自分が死んでしまえば 史記を完成させることができない、仕事が途中のまま終わるのを自分はもっとも恥とす るところだ。そもそも宦官として生き恥を晒している自分が賢人(任安のこと)を推薦 するなど滅相もないことであった。今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生き ながらえている身であり、この本を完成させ原本を名山に納め、副本を世に流布させる ことができたなら、自分は八つ裂きにされようとも構わない」 この手紙が書かれたのは、宮刑から 5 年後、『史記』完成の 2 年前であった。最後の 力をふりしぼって、 『史記』を書いている司馬遷の姿が眼に浮かぶ。 司馬遷は紀元前 91 年、ついに『史記』を完成させる。 「あらゆることの大要をのべ、おとしたことを拾い欠けたことを補って、一家の言を完 成する(これは諸学派に盲従しない独自の著述であることの表明)。それは六経(りく けい)の解釈がまちまちであるのを調和し、百家のくさぐさの学説をととのえんとした ものである。この書を名ある山におさめ、副本は都(みやこ)にとどめて、後世の聖人 君子の議論を待ちたい。太史公(自分のこと)曰く、わたしは黄帝よりこのかたを、つ ぎつぎと述べて、太初(たいしょ)にいたり、百三十編を書き終えた」 49 任務を果たし、満足感に浸っているような筆致である。書き始めて 13 年、司馬遷は 55 歳になっていた。その偉業達成の 5 年後、司馬遷はこの世を去った。 司馬遷は小高い山の南側斜面に建てられた墓に眠っている。雄大な黄河を見下ろして いる。見晴らしは素晴らしい。参道はかつて長安へと続く石畳を兼ねている。二千年前 の馬車や牛車の車輪の跡が石に残されている。墓は高さ 3 メートル、周囲 18 メートル と意外に小さいものであった。これは清の乾隆帝が改築したものであるが、当初のもの は地元の庶民が司馬遷を偲ぶために、寄付を集めて建立したという。もっと小さい墓だ ったに違いない。皇帝の陵墓と比べものにならない。次元が異なる。武帝の墓は自然の 丘のように巨大である。 祠に安置された司馬遷の塑像はなぜか髭が生えている。子孫が意図的に生やしたので あろう。宮刑を死ぬほど恥じ入っていた司馬遷を慰めるために髭を生やしたと筆者は想 像した。司馬遷は男のなかの男であったのだと後世の人々は誇りに思っていたに違いな い。 『史記』は司馬遷の死後、すぐ世に出た訳ではない。『史記』は皇帝ごとの「本紀」 と諸臣を記述した「列伝」、および年表などの書表や文化史の記述、諸侯の事績からな っている。武帝は自分に関連する記述が気に入らず、書き直させたと言われている。司 馬遷の子孫は『史記』が武帝の怒りをかい、葬られることを最も恐れていたに違いない。 ひとまず、司馬遷と同時代の武帝に話題を移そう。 武帝が中国の歴史に果たした役割は始皇帝よりも大きい。武帝は中国文明の基礎をつ くった人物である。前漢の 7 代皇帝である武帝は高祖劉邦の曾孫(そうそん)にあたる。 高祖が漢王朝をひらいて以来、大きな戦争はなくなり、人々は平和を享受していた。こ の休息の期間に、農作物の収穫も増加し、人口も増え、年貢米は腐るほど大量に倉庫に 保存されていた。漢帝国飛躍の条件が整っていたとき、出現したのが積極策の好きな武 帝であった。 武帝は諸侯王の力を削ぎ中央集権を強化するために、諸侯王の領土を細分化した。儒 教を官学として認定し、儒教の国教化の基礎を築いた。武帝の時代には儒教は強大では なかったが、官吏任用試験に儒教の教養を取り入れるなどで、儒教のイデオロギー化が 次第に強化されていった。武帝以降、中国の思想は儒教に単純化されていくのである。 これは国のあり方の多様性を失わせるように作用した。 武帝は外征にも積極的に取組んだ。宿敵匈奴には反抗作戦を展開した。長城は匈奴の 侵入を防ぐのが目的であったが、長城を超えて匈奴を討つようになった。中原の歴史上 初めてのことであった。長安の人々は出陣する将軍らに拍手喝采を送った。武帝は衛青 (えいせい)、霍去病(かくきょへい)の両将軍を登用して、いくどとなく匈奴を打ち 破り、西域を漢の影響下に入れた。 また、武帝は張騫(ちょうけん)を大月氏に派遣して、北西部の情勢を知ることがで き、対匈奴戦に大きく影響した。さらに、李広利(りこうり)に命じて、大宛(たいえ ん、中央アジアのフェルガナ地方)を征服し、名馬の汗血馬(かんけつば)を獲得した。 ベトナムに遠征し、群県に組み入れ、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡など四郡を朝鮮におい た。これにより、前漢の版図は最大に広がった。武帝は領土膨張主義の基礎を築いたの だ。武帝は死後つけられた名前であるが、彼の業績を端的に物語っている。 イデオロギー支配と領土膨張主義の精神は現在の中国にも脈々と続いている。その意 味で武帝は中国歴史の運命を決定つける役割を果たしたと言えよう。 再び、司馬遷に戻る。 彼が命を賭けて『史記』を完成させた理由は何であろうか。 “天道、是か非か”が彼の歴史に対する疑問の出発点である。つまり、正しいものごと を増長し、悪いものごとに罰をくだす天の道とは、あるのだろうか、ないのだろうか。 50 もっと分かりやすく言うと、 “正義は滅び、不義が栄える”のはなぜか。 『史記』列伝の書き出しの「伯夷(はくい)・叔斉(しょくせい)列伝」において、 司馬遷は以下のように語っている。 「世の中では悪行の限りを尽くした人間が天寿を全うし、行いに気をつけて、正しいこ とを正しいと言う人物が突然不幸な目に遭って死んでしまうことが数限りない。一体全 体、天が示す正しい道などこの世にあるのだろうか。いやない。善行を行った人物で歴 史に残らなかった人物は数限りない、これらの人物は孔子のような人物に紹介されてや っと後世に名前を遺してもらえるに過ぎない」 司馬遷が歴史を書き遺そうとした意図が明確になっている。義を抱いていながら無念 にも死んでいった人々の代弁者として、司馬遷は『史記』を書いたのである。実際、 『史 記』列伝には様々な人物が登場する。当時卑しいとされていた商人や遊侠(ゆうきょう) の人、さらには暗殺者である刺客まで生き生きと表現されている。 司馬遷は義に従って李陵を擁護し、それが原因で武帝に宮刑に処せられてしまう。さ らに、皇帝の歴史を書いた武帝本紀も書き直されてしまう。彼は武帝を批判することは 一言も書いていないが、武帝に対してライバル意識を抱いていたと筆者は考えている。 ただし、それを武帝に気づかれないように、そして後世の人々が気づくような書き方を している。 武帝は皇帝の歴史こそ正式な歴史と信じていたに違いない。「列伝」などは歴史の端 に過ぎないと考え、真剣に読まなかったと考えられる。司馬遷はそこまで見通していた のだ。後世の人々が熱心に読むのは「列伝」であって、「本紀」ではないと、司馬遷は 考えていて、実際そうなった。「列伝」の登場人物は生き生きとして面白いからだ。 すると、司馬遷が最も伝えたかったことは「列伝」の前の方に書かれているはずであ る。 「列伝」の最初は「伯夷(はくい) ・叔斉(しょくせい)列伝」で、その次の項目「管 仲(かんちゅう) ・晏子(あんし)列伝」である。これらの二つの列伝に登場するのは、 伯夷、叔斉、管仲、晏子の四人である。詳しくは書かないが、彼らには共通点がある。 彼らは全て君子に諫言(かんげん)したが、それを理由に殺されなかった歴史上の優れ た臣下(しんか)である。 司馬遷は彼らを非常に尊敬していたし、彼らと同様に君子(この場合、武帝)に諫言 したのであるが、武帝は死より恐ろしい宮刑で司馬遷を苦しめたのである。司馬遷の武 帝に対する抗議と復讐がここに見事に表現されているのであろう。司馬遷は後世の歴史 家は自分をより高く評価すると信じて、この世を去ったのに違いない。司馬遷の墓は武 帝のそれに比べようもなく小さなものである。しかし、彼の歴史観は中国の歴史に燦然 と輝き、後世に多大な影響を及ぼしている。司馬遷は正に“歴史の父”である。 ただ、現代中国において、司馬遷の精神が廃れているのは誠に残念である。彼が唱え た“義“が中国で復活することを強く願っている。 51 中国と朝鮮の「歴史認識」の現場を行く 日本と中国の間で「歴史認識」問題があるように、中国と朝鮮(韓国を含む)との間 でも「歴史認識」を巡る問題は存在する。中朝両国の歴史問題を理解することにより、 日中両国の「歴史認識」を少しでも相対化できないだろうかと筆者は考えてみた。相手 の論理を相対化できれば、より客観的に冷静に日中関係を見ることができるはずである。 まず、向かったのは遼寧省の丹東(たんとう)市である。北京からの飛行機は 1 日 1 便しかないと聞いて驚き、人口 241 万の都市であるにもかかわらず到着した飛行場の貧 弱さにあきれた。気温は 4 月下旬というのに 8 度と北京の 20 数度に比べると肌寒い。 丹東市は鴨緑江(おうりょくこう)を境に北朝鮮と接している。鴨緑江会戦といえば、 日本陸軍が鴨緑江を渡って満州へ行く途中、待機していたロシア陸軍と衝突した戦いで あった。北京から平壌行きの国際列車は丹東駅を経由して、中朝友誼鉄橋を渡って北朝 鮮領域に入っていく。あまり行ってみたいという感じがする国ではない。 空港から乗り込んだ乗り合いバスが都心に向かうに従い、新しい高層ビル群が見える ようになった。予約したホテルに到着すると、中朝友誼橋がすぐ前にあった。鴨緑江の 向こう側は北朝鮮である。鴨緑江を境にコントラストが激しい。中国側は護岸がしっか りなされ、その上の道をクルマがひっきりなしに通過する。さらに、鴨緑江に沿って平 方メートル当たり 4000 元の高層アパートが建ち並んでいる。新築中のアパートもある ので、都市化はまだ進行するであろう。 河の向こう側は農村地帯である。クルマは見かけない。せいぜい農民がトラクターに 乗っているのが遠くに見えるだけだ。夜になると、中朝友誼鉄橋は、中国側半分が色と りどりにライトアップされているが、向こう半分は真っ暗である。まるで資本主義と社 会主義の違いを絵に描いたようなものである。おっと。中国は資本主義ではなく社会主 義の国であるが、誰もそんなこと信じていないので、そう書いても怒る中国人はいない であろう。 筆者が丹東までわざわざ 1 泊 2 日の旅にやって来たのは、北朝鮮を見るためでもない し、将軍様のチュチェ(主体)思想を勉強するためでもなく、ましてや好んで北に拉致 されるためでもない。 「万里の長城」 (中国では単に「長城」と呼ぶ)の東端があると聞 き、それを確かめに来たのである。日本人の常識では、河北省と遼寧省の省境に位置す る山海関(さんかいせき)が長城の東端の要塞である。日本の観光ガイドにもそう書い てある。 中国側の言い分はこうだ。 1989 年、空から遼寧省の長城を調査すると、明書のとおり丹東の北 20 キロの虎山(ふ ざん)から始まり西へ撫順、瀋陽、遼陽、鞍山、綿州を通って河北省との境界の山海関 までつながっていることが確かめられた。1990 年、専門家は虎山の約 600 メートルの 長城の遺跡を発掘し、明の時代の長城の東端と認定した。それまで山海関が長城の東端 とされていたが、この発見により長城の長さは約 1000 キロも延長されて、虎山を東端 と言い換えた。この長城は女真族の侵略を防ぐために、明の成化帝の時代の 1469 年に 造られたというのである。実際に、現地の説明書にも堂々とそう書いてある。中国東北 部は古来より中国の不可分の領土であることを宣伝誇示するために、虎山を長城の東端 とする必要があったのではなかろうか。仮にそうであれば、歴史の改竄であろう。 しかし、異論もある。 虎山より東側に平壌まで伸びる燕(えん)の時代の長城の遺構があり、虎山長城も春 秋時代の燕の長城との説もある。明と燕の時代はかなり隔たっている。現代技術であれ ば、その程度のことはすぐ分かるはずである。胡散臭い。 さらに、漢民族の明の建造物ではなく、高句麗が築いた「泊灼城(はくしゃくじょう) 」 52 の遺構とも言われている。そうであれば、高句麗が漢民族や他民族の侵入から守ろうと した山城ということになり、目的があべこべになってしまう。 648 年、唐が攻めてきたとき、「泊灼城は山を使用して要塞を築き、鴨緑江にしっか りと守りを固めていたから、落とすことができなかった」との記録が中国の史書にある そうだ。また、日本の専門家は虎山長城の近くで虎山山城を発掘している。城壁は高句 麗城法で築かれており、また高句麗山城にはどこにでも必ずある「高句麗井戸」も発見 されているので、高句麗遺跡に間違いがないという。これが真実だとすると、虎山長城 の遺構は泊灼城の山城の可能性が高い。 虎山は標高 146 メートルもある地形が険しく、堅牢な要塞があったと思われる場所に あった。鴨緑江の上流と下流が一望に見渡せる適地である。驚いたことに、現代の立派 な長城が虎山の頂上を縦断するように建造されている。 筆者が作業しているひとに元々の長城はどこにあったのかと訊くと、 「この長城が古い長城を修復したものだ」 と当然のように答えて寄越した。素人でも明代に辺鄙な地の果てに北京郊外の八達嶺と 同じ規模の長城が築かれたはずはないと分かる。良識的に解釈すれば、観光客招致のた めに派手な長城を建造したのであろうか。 最高地点からは北朝鮮の村がよく見える。虎山長城は山腹を急に下り、鴨緑江の畔に 博物館が建てられている。ここが長城の東端の起点と博物館の入口に書かれている。 虎山遺跡は中国領内にあるので、中国がそれをどのように解釈するかある程度自由で あろう。だが、過去の国境線は目まぐるしく変遷したのである。中国と朝鮮の専門家が 協力し合って、遺跡の発掘調査を行っていれば科学的な視点で歴史の実像が解明されて いたはずである。一方的に実地調査し、長城の東端と決めつけるのは科学的態度とは思 えない。 筆者は現代の虎山長城を頂上まで踏破したが、東方に広がる北朝鮮の景色は余り感動 的ではなかった。貧しいのだ。中国人は北朝鮮と聞くと、貧しいと即答し、蔑んだよう な表情をする。虎山の頂上から望む貧しい北朝鮮の人々にかえって同情したくなった。 重い足取りで北京に戻ってきた。 2 週間後、吉林省通化(つうか)まで夜行列車で向かい、翌日、集安(しゅうあん) の世界遺産を見た後、その日の夜行列車で北京に戻るという強行スケジュールを計画し た。 集安市は高句麗(こうくり)時代の古墳が点在する地域である。北朝鮮は 2000 年頃 から平壌市と南浦市の高句麗後期の遺跡の世界文化遺産登録を働きかけていて、2003 年登録予定であったが、中国が待ったをかけ、集安市の高句麗前期の遺跡の追加登録申 請を行った。その結果、前期と後期の両遺跡は 2004 年同時に世界遺産として登録され た。 高句麗は、紀元前 37 年、初代王朱蒙(ちゅもん)が五女山城(ごじょさんじょう) に都城を築くことで設立された国である。紀元 3 年、都城を五女山城から 300 キロも離 れた現在の集安市内の国内城に遷都し、209 年に付近の丸都山城(がんとさんじょう) へ遷都、さらに 427 年、平壌に遷都する。しかし、668 年、唐と新羅の連合軍に滅ぼさ れる。 高句麗は中国史の一部か、朝鮮史の一部かを巡り両国の歴史学者の議論のみならず、 中国と韓国の政治的問題にまで発展してしまう。なぜか、北朝鮮は論戦に参加していな い。同盟国の中国に遠慮しているのであろうか。 事の発端は東西冷戦体制の崩壊にさかのぼる。イデオロギーを対決軸としていた冷戦 が終わると(極東アジアではまだ終わっていないが)、それまで抑圧されていた民族主 義が台頭してくる。実際、ソ連はそれで崩壊した。中国政府は民族主義が中国国内に波 53 及することを恐れ、過去に存在した民族を中国民族史のなかに包摂してしまおうと目論 んだと思われる。その対策として、1997 年、中国東北部の歴史研究を目的としたプロ ジェクト「東北工程(とうほくこうてい)」がスタートする。中国政府がこのように地 球規模の歴史の動向を敏感に予知し、即座に対処しようという態度に驚かされる。さら に、北朝鮮と韓国の統一後の「大朝鮮国」との間で発生すると思われる国境線問題に対 して有利な状況をつくりだしておこうという意図も見えている。 その東北工程のなかで、高句麗と渤海を中国史の地方政権とした中国に対して、韓国 内で激しい抗議運動が発生した。高句麗も渤海も朝鮮人の祖国と信じてきた韓国人のプ ライドが大いに傷つけられたのである。韓国の学会は、「中国の高句麗史歪曲対策委員 会」を組織したほどである。2006 年、穏健派のノムヒョン大統領も国内メディアの政 府批判に抗しきれなくなり、同年 9 月、中韓首脳会談の公式の場で温家宝首相に抗議を 行った。 高句麗初代王の朱蒙(ちゅもん)を主人公としたテレビドラマ『朱蒙』は、2006 年 5 月から 2007 年 3 月まで韓国国内で放送されると、平均視聴率歴代 1 位を記録した。さ らに、『冬のソナタ』の人気俳優ぺ・ヨンジュン(ヨン様)が主役を演じるドラマ『太 王四神記』が 2007 年 9 月から 12 月まで放映された。ぺ・ヨンジュンが演じるタムドク は幾多の苦難を乗り越えて、高句麗の最大の繁栄を築く好太王に成長していく姿を描い た時代劇である。フィーバーを呈した。韓国の民族主義に火が点いたのである。民族の 歴史の原点が否定されたのだから、韓国人が怒るのはやむを得ない。これらのドラマは 明らかに、中国の「東北工程」の歴史捏造に対抗する国民運動であった。 筆者は、今度は北京から集安(しゅうあん)に行くべく、北京駅から通化(つうか) 駅行きの夜行列車の一等車両に乗り込んだ。4 人用のコンパートメントに最初に入って いると、親子と思われる二人が入って来た。40 歳前半と思われる身なりのいい男性が 80 歳近くの母親を見送りに来ている。男性は、 「何かあったら電話(当然、母親には携 帯電話を持たせている)するように」と何度も言っている。母親の方は、「大丈夫だか らもう帰っていいよ、クルマの運転にはくれぐれも気をつけるのだよ」と繰り返してい る。列車のなかでよく見られる中国人の親子の熱い会話である。 男性が筆者の方をちらっと見て、話しかけてきた。 「どこまで行くのか?」 「終点の通化」 筆者の中国語の発音に訛りがあると分かると、彼は、 「朝鮮族か?」 通化は朝鮮族が多く住む都市であるので、そう思われても不思議ではない。 「いや、日本人だ」 と答えると、彼の顔が輝いた。 「私は明日、東京に出張に行く。でも日本語は少ししかできない」 と彼は言って、知っている日本語を並べ立てた。品のいいサラリーマンである。母親の 顔は深い皺が刻み込まれているが、若いころ美形であったと思わせる顔をしている。 男は「もう帰っていいよ、運転には気をつけるのよ」と母親にせかされると、下車し て行った。筆者が、 「いい息子さんですね」 と言うと、彼女はにっこり笑って、何かまくし立てた。でも、強い訛りが強いため、ほ とんど聞き取れない。 しばらくすると、上司と部下と思われる男性 2 人が我々のコンパートメントに乗り込 んできた。 彼らは筆者が日本人と分かると、色々と質問してくる。中国人は好奇心に溢れる民族 54 である。彼らは通化出身であるが、現在珠海(じゅかい)で綿製品を海外に輸出する企 業を経営しているという。上司の方は会社の社長のようだ。 「俺は心臓が悪いため、飛行機には乗れない。血圧は 180 もある。珠海から北京まで列 車でやってきて、北京発のこの列車で故郷まで帰るのだ」 中国人は初対面でも、プライベートなことを結構話す。彼らは文字通り、中国を南北 に縦断する旅を行っているのだった。 「通化は汚い街だ。何もかもが滅茶苦茶だ。それに比べて、珠海は海に面していて非常 に美しくて、いい街だ。今度、来たときに連絡してくれ。案内するよ」 と言いながら、名刺を差し出す。中国人はお客が大好きだ。初対面のひとに外交辞令で 言っている訳ではない。 「俺は日本に何度も行った。東京、大阪、福岡、北海道。日本は素晴らしい国だ。どこ に行っても綺麗だ。食べ物もうまい。新幹線は速く、かつ実に快適だ。日本人は礼儀正 しく、よく働くし、技術レベルが非常に高い。中国は、30 年間は日本に追いつけない」 日本を褒めちぎる。彼は日本の大ファンであるようだ。このような中国人は少なくは ない。一方、中国を好きな日本人は減少し続けている。日中両国の一般国民の意識の格 差は深刻である。 会話がひと段落すると、筆者は『古代と現代の交差点』の原稿を取り出して、校正を 始めた。5 月末の印刷完成まで 1 ヶ月を切っている。10 ヶ月かけて書いた原稿用紙は 600 枚を越える量に達する大作になった。その見直しには、執筆以上の骨が折れる。中 国の発展が急激すぎるため、実情に合わない表現も書き直さなければならない。 珠海の社長が食堂車に行こうと誘って来た。午後 6 時 30 分になっていた。社長の部 下も含めて 3 人で食事をしながら、会話を弾ませた。部下と筆者はビール(残念だが冷 えていない)と白酒を飲みながら中華料理に箸を走らせた。味は結構いける。今まで食 堂車を敬遠していたが、考え方を変えねばならない。社長は健康上の理由でアルコール が飲めない。社長は再び、日本のことを褒め始めた。彼がひとりでしゃべり、我々はひ たすら飲み、かつ食べるという構図である。 「お前は学者か、作家か?」 突然、社長が質問して来た。 原稿を校正している様子を見ていたらしい。筆者は正直に、 「自分の仕事は中国との自然科学の交流の促進であるが、今回の旅行は仕事とは関係な い。中国の歴史に関心があるので、遺跡を廻っている。明日、集安に行き、高句麗の世 界遺産を見学したい。その報告書はインターネットで公表するつもりだ」 「やはり、学者だな」 社長が呟くので、 「いや、趣味でやっている」 中国人をバカにする訳ではないが、中国では歴史遺跡巡りをセミプロのレベルでやっ ている者はまだいないのではなかろうか。さらに豊かになり、余裕が出てくれば、歴史 マニアも出現してくることであろう。社会が急速に発展しているなかで、一般の中国人 は“持てる者(金持ち)”の仲間に早く入りたいと必死に働いている。目の前の生活を 追う者にとって、歴史は過去のものに過ぎない。 「いままで中国をどのくらい廻ったのか?」 「100 都市まではとどかない」 筆者がそう答えると、 「俺より随分多いな」 と社長は感心したような表情をみせた。 食堂車の宴会は、5 皿の料理がほぼ空になっていた。 55 「これでしめて 130 元だ。安いものだ」 費用は社長が当然のように支払った。我々はコンパートメントに戻った。 白酒が効いたようで、急に眠気が襲ってきたので、横になり寝入ってしまった。 目が覚めたのは午前 6 時前だった。 「目が覚めたか? 随分長時間寝ていたな」 社長の部下が声をかけてきた。9 時間も寝ていたことになる。でも眠りが浅いせいか、 疲労感が残っている。筆者は窓の外を見た。遠くにのどかであるが、貧しそうな農村が 見えた。 「あそこの村は北朝鮮か?」 「いや、中国だ。北朝鮮は更に貧しい」 と社長は笑いながら言った。続けて、 「東北地方が貧しいのは投資をしないからだ。まだ開発の波が押し寄せていない」 と社長らしいことを言った。 「この鉄道は単線ではないか」 筆者が驚いたような表情を浮かべると、 「この鉄道は“日本”が建設した」 日本軍ではなく、日本と言っている。彼の表情から日本の満州侵略を非難しているの ではないのがうかがい知れた。日本が戦前に建設したとは言え、複線化が済んでいない のだ。しかし、中国の他の地域が開発の波を受けて一変したように、この東北の奥地も 急速に変わる可能性は高い。 「3 年後に飛行場ができる」 社長は胸を張った。3 年では遅すぎると筆者は思ったが口には出さなかった。 午前 7 時 20 分、列車は時刻表どおり通化駅のホームに滑り込んだ。外気が冷えてい た。北京とは気温がかなり違う。 駅の外は、タクシーの運転手とホテルの呼び込みの人々でごった返していた。社長は、 集安行きのバスが出る 200 メートル先のターミナルを指差すと、 「タクシーの運転手に構うな。いいか、必ずあそこのバスに乗るのだぞ。何か問題が生 じたら、名刺の携帯電話に電話しろ。気をつけて行きな」 筆者は昨日の北京駅での中年男と母親の会話を思い出していた。似てるよな。 バスターミナルで 1 時間以上待ち、集安行きのバスは出発した。満員である。バスは 北朝鮮との国境の街の集安に向けて南下していく。空模様が次第に怪しくなり、雨が降 り出してきた。雨のなかの世界遺産訪問か。雨傘も持って来なかったし・・・・。 結局、集安のバスターミナルに着くまでに 2 時間 40 分もかかったが、その頃には雨 も止んでいた。ほっと安心。しかし、帰りのバスのことを考えると、4 時間ですべてを 見終える必要がある。 バス停から降りるや、ひとりの男が「韓国人か」と声をかけてきた。それを無視して、 「帰りのバスの切符はどこで売っているのか」 筆者が訊くと、彼が切符売場まで案内してくれた。午後4時出発のバスの切符を購入 したので、ひとまず通化経由で北京に帰る手段は確保されたことになる。次はどうやっ て遺跡を廻るかである。その男は観光地図を広げて、遺跡の見所を説明する。彼はまだ 筆者を韓国人と思っているらしく、ハングル文字の説明文を指差す。 筆者が日本人だと分かると、観光地図の橋を指し、 「北朝鮮との国境のこの橋は日本が建設した」 と彼は言う。彼はタクシーの運転手で、観光の案内をしたいという。 「4 ヶ所の世界資産をすべて廻れば 100 元、少し離れた日本人が造った国境の橋を含め ると 120 元だ」 56 北京でタクシーを 4 時間借り上げると、少なくとも 400 元はかかる。安すぎる。何度 も確かめるが聞き間違いではなさそうだ。 最初に連れて行かれた「好太王碑」の入口で、4 ヶ所の世界遺産の通し券を 100 元で 購入し、なかに入った。これも安い。うれしくなる。 この旅行の最大の目的であった好太王碑は、風化を防ぐためにガラス張りの建物に入 れられている。好太王は 4 世紀末に即位した第 19 代の高句麗王で、朝鮮半島の南部な どを征服し、高句麗歴史上空前の繁栄をもたらした。高さ 6.39 メートルの碑文は 1775 字の漢字で記述されているが、判別できる文字は 1590 字という。1600 年も前に造られ た碑文の文字がほとんど読解できているのは奇蹟に近い。ただ、素人の目には一見して 判読できる漢字は半分に程遠いように思えた。 碑文の説明員に訊いた。 「私は日本人だけれど、日本の記述はどこに書かれているのか?」 彼女は顔色ひとつ変えず、つかつかと歩いて行って、石碑の下の方を指差した。 「倭(ヲ) 」 と彼女は発音する。 「よく分からないのですが・・・」 説明員は「倭」の漢字を人差し指でなぞってみせた。すると、文字が浮かんで来た。 「見える、見える」 筆者は声をあげて、喜んだ。 後ほど、土産屋で資料を買って読んでみると、石碑には「倭」が 9 回出てくることが 分かった。 石碑の内容は三つの部分に分かれている。 第一部には、高句麗の建国の神話伝説が記述されている。天帝の息子と河伯神の娘は 出合って結ばれ、卵を産んだ。それを切り開くと、男の子がなかから飛び出した。この 子は小さい時に、馬術も弓術も上手で、聡明で人並み以上にすぐれていた。扶余(ぶよ) の人は馬術と弓術が上手なこの子を“朱蒙(ちゅもん)”と呼んだ。 朱蒙は南下の途中、洪水に行く手を遮られ、後ろにも追いかける敵兵がいて、危機的 状況にあった。朱蒙は弓で水を撃ち、「私は、父は天帝で母は河伯神の王だ。私に浮き 橋をかけてくれ」と言った。その声が終わると、水のなかの魚とスッポンが水草を載せ て、水面に浮いて、浮き橋になった。王は順調に河を渡った。 第二部には、好太王の一生に東や南を征伐したことや領土を切り開いたことを記述し ている。主に、百済と倭の討伐、つまり新羅を救援する戦争である。百済と新羅は朝鮮 半島の南部にあり、洛東江の西の国と洛東江の東の国であった。当時、倭人は海を渡っ て朝鮮半島に来て新羅に侵入して騒乱を起こし、百済と連合して高句麗の南部の国境を 侵犯した。好太王は自ら大軍を率いて、倭寇を打ち負かし、百済を征服した。 第三部には、碑文には好太王時の教えや墓守制度などが記述されているため、高句麗 の社会生活及び王族の葬儀制度の研究に重要な意義がある。 「北朝鮮はどの方向か」 筆者は運転手に訊いた。彼の指の方向を見ると、高い煙突が聳えていて、もうもうと 煙を排出している。公害の原因になっていそうだ。 「あの工場は練炭をつくっている」 筆者は借り上げのタクシーに乗ると、将軍墳(しょうぐんふん)に向かった。将軍墳 は好太王の息子の長寿王と皇后の陵墓とされている。1000 を超える花崗岩を 20 キロ離 れた山地から切り出し、ここまで運搬して積み上げたという。1 辺 31.6 メートル、高 さは 12.4 メートルもあるピラミッド状の墓だ。ほぼ完全な形で残されている。実際、 東方のピラミッド陵墓とも呼ばれる。棺はピラミッドの上部に納められているので、そ 57 れを見学するには特別に造られた木製の階段を登らなくてはならない。 説明員 2 名が棺室の入口で暇そうにおしゃべりしていた。観光客は少ない。 「韓国語は話せるのか?」 筆者は彼らに訊いてみた。 「いや」 視線を外した。そんなの話せるはずがないという雰囲気である。韓国からの観光客は 多いはずである。韓国語のできる説明員くらい配置しておくべきではないか。 タクシーに戻って、運転手に、 「高句麗の歴史の位置付けについて、中国と韓国で歴史認識問題が発生している。中国 側は高句麗を東北地方の政権のひとつ、つまり中国史の一部と考えているが、韓国は朝 鮮史の建国神話にかかわる原点だという認識だ」 と言うと、彼がうなづくので、 「東北工程によって中国側の歴史認識が変わったのが問題の発端だ」 筆者が指摘すると、 「あなたは東北工程のことを知っているのか」 運転手は驚いた表情で訊いた。 「知っている」 「あなたは学者か」 彼が質問したが、説明が面倒になるので、 「ま、似たようなものだ。今回の視察概要は日本のネット上に公開するよ」 と答えておいた。 次に案内されたのは、6 世紀末の禹山(うざん)貴族の墳墓群である。ひとつだけ公 開されている地下の石室に中国人観光客 10 数人と一緒に案内された。なかはヒヤリと していた。石室の壁に描かれた絵を見て驚嘆した。 説明員の懐中電灯が照らされると、壁画に描かれた生き物が浮かび上がってくる。青 龍、白虎、玄武、朱雀が見事に写実的に描かれている。色彩もほぼ完璧に残っている。 龍がからみついている様はまるで生きた蛇のようである。中華文明の辺境の地である東 北地方で、6 世紀末にこれほど高い芸術力を持っていたとは、改めて中華文明の影響力 の強さに感心した。 日本人の古代史ファンであれば、ここまで見に来る価値は十分にある。一緒に石室に 入った中国人は説明員の話が終わらないうちに、半分が外に出て行った。この芸術性の 高さが分からないのか。筆者は説明員に急かされるまで、石室に残って壁画に見惚れて いた。 高松塚古墳もほぼ同時期に作成されているが、こちらの方の壁画は抽象化され、また 柔和で日本化されているように見受けられる。筆者は古代史の素人なので、確証はない が、壁画の基本コンセプトは日本に早くから伝わり、独自の発展をしていったと思われ る。 世界遺産に魅せられて興奮に包まれていたが、午後 2 時過ぎると、おなかも減ってく る。運転手に美味しいラーメン屋に連れて行ってもらった。途中、鉄道を通る時に、運 転手は、 「この鉄道は日本が建設した」 と言った。口には出さないが、日本のお陰と言おうとしている風に見えた。 「俺ら若い者は過去の歴史に興味がない」 彼の言っている“歴史”とは日本軍の中国大陸侵略も指している。 ラーメン 1 杯の値段は 6 元だった。 「もう食べ終わったのか」 58 運転手は驚いて言う。 「日本人は食事も速い。仕事も速い。旅行も駆け足だ。夜の夫婦の生活も速い」 筆者は冗談を言ったつもりであるが、運転手は笑わない。真面目に受け取ったようで ある。 最後の訪問地は丸都山城(がんとざんじょう)である。当時の城壁の長さは 7 キロに も及ぶ。平地にある内城は平時の時に使い、戦時には丸都山城に避難して敵と戦ったよ うだ。周囲を山に囲まれており、入口は鴨緑江(こうりょくこう)に面している。自然 の形をうまく利用した要塞となっているのだ。宮殿は破壊され当時の石が四方に並べら れているだけだった。 外国人の筆者にも分かりやすく説明してくれた説明員に、最後に、東北工程のことを 尋ねてみたが、知らないと言っていた。 雨がまた降り出したので、タクシーに戻り、バスターミナルまで送ってもらった。予 定通りバスは出発し、6 時過ぎに通化に戻ってきた。4 つ星ホテルのサウナで汗を流し、 鉄板料理を食べた。台湾系の店だとコックが言っていた。鉄板料理の腕前は東京と比べ ても遜色がなかった。人材の急激なレベルアップにまた驚かされた瞬間であった。冷え たビールを 2 本飲んで、261 元を支払った。昼食は 6 元と簡単だったので、夕食は自分 への褒美と考えた。 北京駅行きの列車が午後 9 時 8 分にホームを出ると、筆者は 2 等車の中段の寝台に潜 り込んだ。疲労と酔いのため、安眠薬に頼らずにすぐに寝てしまった。充実した旅であ った。 さて、歴史認識問題に移ろう。中国、韓国、日本の歴史家の言い分に耳を傾けてみる ことにしよう。 中国側の主張はこうだ。 「高句麗は中国東北地方に住んでいた扶余(ぶよ)系民族が建てた中国の地方政権の国 である。中国史書には、扶余族は穀物には適しているが果物は余り育たない土地に定住 し、勇敢だが他国への侵略はせず、歌舞飲酒を好み、慎み深く誠実であったと記録され ている。古朝鮮の衛氏朝鮮は春秋時代の燕(えん)の亡命者が造った国家であり、それ を前漢が滅ぼして楽浪郡など四郡をおいた。前漢武帝の時代には、高句麗は玄菟郡の管 轄であった。高句麗は中原の王朝から冊封(さくほう)を受けていた。高句麗の遺跡は 中原文化の影響を受けており、中原で使われていた硬貨が高句麗で発掘されている。ま た、高句麗の全盛期を築いた好太王碑文は漢語で書かれており、中原文化が高句麗で定 着していたことの証左である。さらに、高句麗・渤海と新羅の間では民族的・言語的に 隔たりがある。現代の朝鮮人は新羅を祖とすることは認められるが、高句麗、渤海はそ れらの国民の多数が満州族であり、むしろ満州族史つまり中国史の系列に組み込むほう が妥当である」 次に韓国の主張。 「中国歴代王朝の史書では、高句麗は数千年間外国として記載されている。北京大学の 教授が 1998 年に執筆した『中韓関係史』で、高句麗を中国王朝に対応する朝鮮史の王 朝としており、歴史学科で教材として使用されているではないか。高句麗は満州と朝鮮 半島北部を領有した国家であり、高句麗人の多くは後世に朝鮮人を形成する母体となっ たのである。また、満州が漢民族化したのは清朝中期以降であり、高句麗を中国の政権 とするのはまったく不適当である。周恩来も 1960 年代に、朝鮮史である古朝鮮、高句 麗、渤海を中国史と歪曲しようとしていると中国の歴史学者を批判しているではないか。 「東北工程」の発足を契機に、2003 年頃から高句麗が中国の一部であると唐突に言い 出すのは、政治的意図があるとしか思えない」 日本の学会の一般的な学説は以下のとおり。 59 「高句麗・渤海史は朝鮮史であるが、中国史とは言いがたい。渤海(紀元 698 年~926 年)についても高句麗同様に中韓の間で、帰属問題の論争が起こっている。韓国は、渤 海は高句麗を継承して、新羅(紀元 698 年~926 年)と対立して北に興った朝鮮民族系 の王国と主張し、渤海と新羅が並列した時代を『南北国時代』と呼んで歴史教育を行っ ている。渤海の支配層には高句麗遺民が含まれ、渤海滅亡後には渤海遺民は高麗(こう らい)へ帰属しており、その継続性は認められる。しかし、渤海の被支配層は満州系住 民であった点も考慮する必要がある。朝鮮・高句麗系の支配層と満州系民族との混成国 家であったと言えよう。高麗期に各民族が混交し、朝鮮民族が形成されていったという 見解が自然ではないか。ただし、渤海は言語、生活習慣、民族のすべてにおいて、中原 の農耕社会とは本質的に異なっているため、中国の地方政権という言い分は妥当ではな い。五代諸王朝、遼、金のように漢語が日常的に使用される地域があったこともない」 筆者は日本の学者の見解が最も妥当と考えるが、どうであろうか。 なお、高句麗は 778 年、唐と新羅の連合軍に滅ぼされるが、その遺民の一部は唐に強 制移住させられたが独立して渤海を建て、一部は新羅に高句麗王として冊封され、一部 は再興の失敗後高句麗の後継を掲げる高麗に亡命し、旧領に残ったものは勃興してくる 女真族の金に吸収された。さらに、高句麗遺民の一部は日本に逃亡し、現在の埼玉県日 高市や飯能市に住んだといわれており、高麗神社、高麗川などにその名残を留めている。 高句麗をつくった扶余族の文化や風習が日本とかなり近く、また高句麗語と日本語の 類似性、発掘された遺跡などを根拠に天皇家朝鮮渡来説や騎馬民族征服王朝説が唱えら れることになる。ここまで話が進んでいくと、中国と朝鮮の歴史認識問題の議論に日本 が参戦する余地が出てくる。いずれにしても、冷静な議論が必要であることは言うまで もない。 さて、歴史認識の議論の際に誤っていけないポイントは、現在の国境線に固執するあ まり、国境内の民族は過去の歴史においてもその国の起源であるとする考え方である。 つまり、現在の国家や民族の概念を歴史的なものと同一視する点は避けなければならな い。現代の尺度で過去を判断してはいけないのである。中韓の歴史認識問題は、現在の 国家の正当性と将来予期される国境線の正当性を政治的観点から議論しているように 思われる。その意味において、日中と日韓の歴史認識問題と比較すると、中朝のそれは 民族のアイデンティティーに関わる非常に根が深い問題であり、相互理解には相当の時 間がかかるであろう。 国境線の画定が比較的容易で、歴史上民族の混交が比較的少なかった日本は幸運だっ たのである。一方で、陸で国境を接する国の苦悩に鈍感であることは否めない事実であ る。 60 理想の多民族国家をつくろうとした北魏孝文帝 中国の歴史は統合と分裂を繰り返しつつ、その版図を広げてきている。始皇帝は文字 や度量衡の統一や焚書坑儒など強行的政策を行ったものの、天下を最初に統一した人物 として歴史上の評価は高い。血で血を洗う長い戦国時代を集結させたのは、法家による 中央集権体制の整備であり、灌漑による農業生産物の増強による富国強兵政策であった。 しかし、秦はわずか 15 年で滅び、楚漢戦争が続くが、漢帝国の出現により中国文明は 大いに栄える。人々は概ね 440 年の天下統一の平和な時代を享受した。 だが、その後、黄巾の乱を契機に歴史は分裂期に突入する。三国時代、五胡十六国、 南北朝と 370 年間の分裂期を経て、隋によって天下は再統一され、中国文明は隋、唐の 世界帝国としての繁栄期を迎える。この長い分裂期を終わらせたのはどんな思想だった のか。どこからそれが生まれてきたのかを探ってみたい。 黄巾の乱と三国時代の戦乱により漢民族の人口は十分の一まで減少し、その空白を埋 めるように北方や西方から異民族が中原に侵入してくる。その結果、異民族による小国 が現れては、消えていく不安定な時代、つまり歴史上、五胡十六国と呼ばれる時代がや ってくる。これは漢民族も含めて様々な少数民族が激しい攻防を繰り返した時代である。 北方少数民族の欠点はカリスマ的なリーダーが現れると民族の興隆が起こるが、リー ダー不在時には国力が急に衰える。一方、漢民族は官僚機構などの組織をつくるため、 指導者が無能でも国力の衰退が少ない。組織をつくる方が安定で進歩的である。少数民 族のなかで漢文化の優位性を認め、民族の発展のためにそれらを導入しようという機運 が生まれてくる。 このような状況から、民族が融和して戦争のない天下をつくろうとする優れた指導者 が現れた。 チベット系の民族国である前秦の符堅(ふけん、338~385 年)は、五胡十六国時代 の北方をほぼ統一すると、 「四海混一(しかいこんいつ)」の考えを打ち出す。今でいう 「人類皆兄弟」のノリである。一種の理想主義である。しかし、前秦は皇帝符堅が亡く なると再び分裂してしまい、彼は理想を実現できなかった。 その考えを、北魏の鮮卑族の孝文帝が受け継ぐことになる。彼は 5 歳で即位したため、 冯太后(ふうたいこう)が政権を握り、三長制、均田法などの各種改革を実施し、北魏 は強国となっていく。三長制は、5 家を隣、5隣を里、5里を党とし、それぞれに長(隣 長、里長、党長の三長)をおき、彼らに戸籍の作成、租税の徴収を行わせる一方で、三 長に免役の特権を与えた。この村落制度を前提として、均田制が実施された。均田制は 国家が国民に土地を給付し、そこから得られる収穫の一部を国家に納め、一定期間が過 ぎれば土地を返却するというシステムである。農民を豪族から解放し、国家が管理する という画期的な制度だ。これらの改革は漢化政策でもあったが、鮮卑族の冯太后は強行 実施する。 孝文帝は 22 歳で即位する。孝文帝は 493 年、平城(今の大同)から洛陽への遷都を 強行した。中華を治めるには大同は北に寄り過ぎると判断したためである。孝文帝は住 みなれた大同を捨てて洛陽に遷都するのは反対されると予期して、一計を案じ、南朝の 斉(せい)への遠征であるとして大勢を率いて洛陽に至った。そこで将軍に南征を諌め られるが、それに従う交換条件として洛陽に都を移し、落ち着いてしまった。 孝文帝は中原洛陽で漢化政策を大胆に進めていく。彼には全ての人々は人種民族を問 わず、最高の文明で統一され、それを享受すべきだという信念があった。鮮卑の姓を拓 跋(たくばつ)から中国風の元(げん)に改姓し、臣下にも中国風の姓を与えた。鮮卑 語の使用や鮮卑風習の禁止などを進めた。民族の言語を禁止しようというのだから、よ ほどの破格の理想主義だったのであろう。鮮卑族と漢人の融和と人種的偏見の解消を図 61 るため通婚も推奨した。儒学も振興した。 しかし、これらの急激な漢化政策は鮮卑族国粋派の反発を招き、旧都の大同で叛乱が 起こった。これらの改革が北魏の早期崩壊の要因となったのだ。鮮卑族の質実剛健・尚 武の気風が失われ、惰弱な貴族化の道を突き進んだためである。孝文帝は 499 年、33 歳の若さで崩御する。 漢民族の学者の孝文帝に対する評価は高い。漢文化の優位性を認め、漢化政策を推進 したからである。当時、華夷思想はあまり強くなく、孝文帝は世界帝国の建設に向けて 突っ走ったのである。 結局、鮮卑族北魏が行った三長制、均田制、民族融和政策は隋、唐へと引き継がれて いき、中国は世界帝国への道を歩むことになる。 少数民族の符堅(ふけん)と孝文帝の世界帝国の夢は、隋、唐によって実現された。 隋と唐の皇帝には鮮卑族の血が流れている。皇帝も民族融和の結晶である。そういう意 味では少数民族も中華帝国の建設に積極的な役割を果たしたのである。 時代が下ると、モンゴル族や満州族による少数民族による支配の時代が再び巡ってく るが、同じような漢化の道を辿る。漢民族は異民族を漢化する能力が漢文化にあると主 張するが、多民族融和による世界帝国の建設の発想は、漢民族からでなく少数民族から 生まれたことを忘れてはならない。漢民族は優れた異民族に囲まれて、むしろ幸運だっ たと言えよう。 孫文の時代も現代中国でも、中国の多民族融合(実際には、漢化政策)は変わってい ない。その後の歴史をみると、符堅の「四海混一」の理想は果たされたことになる。大 同郊外の小高い丘の陵墓に眠る孝文帝もおそらく満足していることであろう。歴史的使 命は成就されたからである。 現在、上海や北京は多くの外国人が行きかう国際都市に変貌している。また、巨大な 市場を求めて中国に進出してくる外資系企業も後を絶たない。中国が 21 世紀の超大国 になることを見越して、中国語を学習している外国人も急激に増加している。中国は 21 世紀の多民族国家として、 外国人や外国企業を積極的に受入れる政策を続けている。 唐の都・長安の華やかな国際社会を再現しようとしているかのようだ。 符堅と孝文帝の理想は時空を越えて、上海と北京で実現されたと考えるのは誇張であ ろうか。多民族が共存する大都市の形成に成功した国が次の世界帝国として君臨するこ とであろう。 62 大国に最初にノーと言った日本人-聖徳太子 日本人は歴史の授業時間に、聖徳太子は小野妹子を超大国の隋に遣わし、煬帝を激怒 させたと教わっている。これを知らない日本人はいないと言っても過言ではない。 「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。恙無きや」 煬帝が激怒した理由は二つと言われる。ひとつは、小国である倭が中華の皇帝と対等 な天子を名乗るとはなにごとだということ。もうひとつは、隋王朝を日が没するとは無 礼千万ということだ。 しかし、ここに疑問がある。聖徳太子ともあろうものが意図的に煬帝を怒らせるつも りだったのか。聖徳太子のこの国書の狙いは何だったのか。そして、中国の史書『隋書』 の「煬帝が激怒した」という記述は事実かということである。 『随書』 「倭国伝」にはその決定的瞬間を次のように記している。 「大業三年(607 年) 、其の王多思比孤(たりしひこ)、使を遣わして朝貢す。使者曰く、 聞く海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝排せしめ、兼ねて沙門(僧 侶)数十人、来たりて仏法を学ばん、と。其の国書曰く、日出ずる天子、書を日没する 処の天子に致す、恙無きや云々、と。帝(煬帝)、之を覧て悦ばず、鴻胪卿(こうろけ い、外交・儀典担当大臣)に謂って曰く、蛮夷の書に無礼なる者有り、復た以って聞す る勿れ、と。明年、上(煬帝)文林郎の裴清(はいせい)を遣わして倭国に遣わしむ」 この記録には色々な意味が含まれている。少しづつ解析したい。 まず、多思比孤(たりしひこ)とは聖徳太子を指すと一般に言われている。 「使を遣わして朝貢す」とは、小野妹子を遣わしたのであるが、倭国が朝貢する意図が 聖徳太子にあったか疑問だ。それは以降の文を読めば推測できる。 使者を派遣した理由は、菩薩天子(仏教を信仰している煬帝を指す)は世界宗教であ る仏教を振興していると聞くが、同じ仏教国である倭国も仏教勉学のために僧侶を派遣 したいとしている。つまり、仏教を信じる国同士としては、平等であると主張している のだ。聖徳太子は当初から倭国と中国は対等につき合うべきだと考えており、当時の世 界宗教であった仏教を持ち出し、仏教の下では両国は平等だと主張している。煬帝はフ ンと不満であったかも知れないが、反論はできにくい。 小野妹子が携えた国書には、「日出ずる天子、書を日没する処の天子に致す、恙無き や云々」と書かれていた。きっと、日本語ではなく中国語で書かれていたはずだ。この 部分をどう解釈するかはポイントだ。 天子がこの世に二人いるはずはないので、煬帝は「ふざけるな」と思ったに違いない。 「何も知らない野蛮な国だ」と冷笑したかも知れない。さらに、隋を日没する処の天子 と書かれていたため、小野妹子は平身低頭して、「特別の意味はありません。だが、西 にある国という意味です」などと冷や汗をかきながら弁明したことであろう。ただ、隋 はわずか 38 年間で滅亡するため、期せずしてこの記述は正しかったことになるが、聖 徳太子がそこまで意図したと考えるのは考えすぎである。 また、 「書を日没する処の天子に致す」の主要部分を取り出すと、 「書を致す」になる が、この表現は国書には使わない。国書の形式は、上級の国には「敬問」、下級の国に は「問」という表現を使うのがしきたりであった。聖徳太子がそれを知っていたかどう か分からないが、仮にそれを知っていて、対等な立場を強調する意味で、「致す」を使 用したとすると、傑出した国際政治家というべきであろう。 さらに、「煬帝、之を覧て悦ばず」とあるが、不快に思っただけで、激怒したとは書 かれていない。煬帝が激怒したと多くの日本人が思っているのは、きわどい外交文書で あったと認識しているからであろう。大国に攻められては敵わなかったのだ。 煬帝は「蛮夷の書に無礼なる者有り、復た以って聞する勿れ」、つまり、 「こんな野蛮 63 な国の無礼な書が来れば、これから報告しなくてよい」と鴻胪卿(こうろけい)に言っ たのである。どうやら、煬帝は、倭国は華夷の国際ルールを知らないからこのような無 礼な国書を送ってきたのだと考えたようだ。聖徳太子の意図とのずれが垣間見える。 最後に、「明年、煬帝、文林郎の裴清(はいせい)を遣わして倭国に遣わしむ」とあ る。翌年、小野妹子一行の帰国に裴清を同行させている。煬帝は、本音ベースでは、倭 国を重視していたのである。煬帝は高句麗討伐にてこずっていたからである。なお、余 談であるが、古代中国では中華は秦、漢、隋など一文字で、夷の国は匈奴、鮮卑、朝鮮、 越南など二文字で表現していたが、倭国の使者が倭と一文字で名乗ったため、不自然に 思われていたようである。だが、その後、日本と二文字で自称するようになると、中華 帝国も「やはり」と思ったようだ。華夷思想はこんなところにも反映されていたのだ。 『隋書』 「倭人伝」には、倭国について以下の記述がある。 「新羅・百済、皆な倭を以って大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恒に使 を通じ往来す」 隋人の認識では、倭国は新羅と百済より大国で、尊敬されていた国であったのだ。高 句麗は新羅と百済より北方の国であるが、高句麗打倒のために、倭国を大切にし、うま く利用できないかと煬帝が考えていたのかも知れない。さらに、聖徳太子も朝鮮半島の 事情をよく把握しており、煬帝は倭国に無理難題を押しつけないはずだと読んでいたの であろう。そういう読みが、聖徳太子の煬帝への国書に現れている。それから、当時の 日本は「邪馬台国」や「卑弥呼」と呼ばれていたように、邪や卑のような悪い文字を使 われており、漢人に対等な関係とは思われていなかった。自立した国になるというのが 聖徳太子の願いであったと思われる。 小野妹子は煬帝の国書を持参したが、百済で検問を受け、取られたと報告している。 実際には、その国書には倭国を属国扱いにしたことが書かれており、帰国後問題を起こ すのを小野妹子が恐れたためと言われている。さらに、再びすぐに隋に渡った小野妹子 は「東の天皇、敬しみて西の皇帝にもうす」と書かれた国書を持参している。これは『日 本書記』に記録が残っているが、この国書に関する記述は中国側の史書に残されていな い。つまり、小野妹子は二度も国書を廃棄した可能性が高い。 煬帝を不愉快にさせた前の国書より一歩進んだ関係の国書を持参したため、小野妹子 は今度は殺されると思ったのかも知れない。あるいは、この国書は煬帝に渡されたが、 中国の史書には記録されていない可能性もある。少なくとも日本側は、その後も遣隋使 は続けられたのだから、天皇という言葉が皇帝に受入れられ、対等な立場でつきあうと いう誇りが日本人に宿ったことであろう。 隋の煬帝は天下でただひとりの天子と信じ、倭国はそれを認めていないので、両国の 国書は矛盾を来たすことは避けられない。国書を破棄した小野妹子の判断は正しかった のであろうか。単なる保身のためか、それとも両国の対立激化を避けるための懸命な措 置であったのか。小野妹子は聖徳太子の影に隠れているように筆者には思える。 なお、小野妹子が持参した国書は実はひとつであり、 『日本書紀』の作者が、 「日出ず るところの天子、書を日没するところの天子に致す」を「東の天皇、敬しみて西の皇帝 にもうす」と書き換えたという説もある。この後、天皇という称号が日本で使われるこ とになる。これが真実であれば、国内外のダブルスタンダードである。日本国内向けに、 中国の皇帝に「天皇」という言葉を認知させたと宣伝したのである。この説は、日本が 歴史を改竄したことを認めるものであり、日本人のプライドを傷つけるため、日本の学 校では教えられていない。 天皇という字は天空の北極星を中心に多くの星が周回するように、天に存在する中心 のイメージから来ている。一種の中華思想に似ている。日本という国名も“太陽の元” の意であるから、やはり中華思想の香りがする。日本は歴史的に中国から思想や技術を 64 導入する過程で中華思想の影響を多少なりとも受けている。それは朝鮮より際立ったも のにはならなかった。中国から輸入した文化を日本化する努力を継続してきたため、中 華思想の影響が弱くなったのだった。しかし、太閤秀吉のように明朝を打倒し、それに とって代わろうとしたり、日本帝国主義が大陸を侵略してきた歴史的意図のなかに、中 華思想への歪んだ憧憬があるように筆者には思われる。日本は独自性を持つためにも、 中国から導入された中華思想の遺伝子が発現しないようにしていくことが大切である。 もうひとつ日本人が認めたくない説がある。小野妹子は 607 年及び 608 年に隋の煬帝 に派遣されているが、中国の史書には 600 年にも遣隋使が派遣されていると書かれてい る。その遣隋使が面会したのは、隋を開いた文帝である。日本の政治システムを問われ た使者は、大和政権には法令もなく未成熟だったので、天皇の権威を全面に出すために 古来の日本神話を得意になって話した。文帝は神話と現実の混同にあきれ果て、倭国の 政治は道理にかなっていないとして、外交関係を結んでもらえなかったという。この失 態は屈辱であるため『日本書紀』には記載されていない。 その後、聖徳太子は国家の建設に発奮し、603 年冠位十二階を制定、604 年十七条憲 法制定などの改革を行い、律令国家の建設を急いだ。これで隋の皇帝にバカにされない と思い、607 年小野妹子を隋に派遣したというのだ。 中国に限らず、日本でも為政者の都合のいい記録しか史書に残されていない可能性は ある。自国の歴史は自国の史書を基に記述されるため、客観性に欠けることは十分あり 得る。真実を知っているのは、聖徳太子そのひとだけである。 煬帝の話に戻そう。 煬帝は言うまでもなく、ヨウテイではなく、ヨウダイと読む。意図的に慣用されてい ない呉音(ごおん)を用いて、帝をダイと読ませている。煬帝のような暴君な皇帝は二 度と出現してはならない、皇帝の名に値しないという意味を込めて、隋を引き継いだ唐 王朝が悪い名前をつけたのだ。唐は建国の正当性を主張するために、煬帝を貶める必要 があった。中国の歴史の特徴の一つは、前政権を過度に悪く表現していることである。 日本が歴史認識を巡り中国政府から非難される理由のひとつは、日本旧陸軍と国民党が 実質的に中国共産党の前政権であったからではなかろうか。現在、中国共産党は台湾国 民党との間で和解が成立しつつある。日本旧陸軍は中国の歴史の法則に従うと、いつま でも非難され続けられるかも知れない。 煬帝は華北と華南を結ぶ大運河の建設、数千の豪華な竜舟を伴う南方への豪遊、数回 に渡る高句麗への大遠征、各地での豪華宮殿の建設ラッシュなどやりたい放題にやって いるように思える。倹約家の父文帝に反発するように、奢侈に励んだようにも見える。 国家財政は急速に悪化し、各地で叛乱が起こり、煬帝は部下に殺され、隋はあっけなく 滅びた。その後、唐は隋が建設した長安城や政治体制をそのまま引き継ぎ、世界帝国の 繁栄を謳歌することになる。 隋文帝は約 370 年ぶりに天下を統一したことで誉れ高いが、煬帝は典型的な暴君のよ うに思われている。しかし、華北と華南を繋いだ大運河は万里の長城に匹敵する大事業 であるが、後世に残した財産といえば、大運河建設の方が効果的であったであろう。中 国の南北地方の一体化を推進した歴史的意義は非常に大きい。中国の歴史上、南方が人 口のみでなく、食糧生産などでも上回るようになる時代に差しかかりつつあったため、 先見の明があったともいえる。 北京市の西の通州区を流れる京杭運河は大量の水をたたえている。かつて、北京と杭 州の間を大型の多くの舟が行き来し、食料などを大量に運送していたのである。その脇 の「運河遺跡広場」と呼ばれる公園では、親子連れが凧揚げやローラースケートや散歩 などで楽しく遊んでいる。 「俺が小さい頃は、運河に飛び込んで泳いだものだ。今の子供は泳がない」 65 近くに住む 60 歳過ぎの男性は当時を懐かしむように話してくれた。今は水質汚染も ひどくなったのだ。 唐王朝が編纂した『随書』にどう書かれていようとも、煬帝の偉業を見落としてはな るまい。そして、その煬帝と対等に渡り合った聖徳太子から日本は多くのことを学べる はずである。 第二の聖徳太子よ! 現れよ。 66 中国開封まで迫害から逃れて来たユダヤ人 2009 年 4 月 15 日、筆者は 2000 年のG8 サミット会場で開催された「日中科学技術政 策セミナー」に出席した後、東京大学総長と文部大臣を経験した有馬朗人とともに羽田 行きの飛行機を待つ間、那覇空港の沖縄ラーメン屋にいた。筆者は縄恩納村の美しいサ ンゴ礁の海の感動にまだ浸りきっていた。 食事の注文が終わるや否や、有馬氏が口を開いた。 「いつか行ってみたい都市がある。開封(かいほう)だ」 偶然なことに筆者も開封にはいつか行ってみたいと思っていたが、機会が巡って来な かった。開封はかつて漢民族の北宋とそれに続く女真族の金の首都であった。当時は、 汴京(べんけい)とも東京(とうけい)とも呼ばれていた。黄河に近い中原の代表的な 都市である。 筆者は耳をそば立てた。 「千年前、開封にユダヤ人の集落があったそうだ」 「ユダヤ人? なぜ?」 筆者は訊きかえした。 「キリスト教十字軍のエルサレム奪還などで迫害を受けたユダヤ人の一部がはるばる 中国まで逃げてきて、当時の首都の開封にたどり着いたという。証拠の石碑がある。そ れを見たい」 これは面白そうだと思った。有馬氏は 1968 年にイスラエルを訪問した際に、友人か ら開封のユダヤ人の話を聞かされたという。 羽田空港にタッチダウンし、深夜に自宅に着くや、グーグルで「開封のユダヤ人」で 検索すると、ある本がヒットした。『中国・開封のユダヤ人』小岸昭著(人文書院)を ネット注文し、数日後に届いた本書を読むうちに、是非行って、ユダヤ人の足跡を辿っ てみたいと思った。なぜ、わざわざ開封までやってきたのであろうか。ユダヤ人の末裔 も開封にいるらしい。会えるのであれば会って話を聞いてみたい。それに、この旅を契 機にまだ気づいていない新しい中国の歴史観が見えてくるのではないかとも期待した。 1096 年から約 200 年間に渡って、カトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸 国から奪還することを目的に派遣された遠征軍は十字軍と呼ばれている。この運動のな かで、中世ヨーロッパにおいてキリスト教徒によるユダヤ人の迫害の嵐が吹き、ユダヤ 人はそれから逃れるように世界各地に離散していく。あるユダヤ人の集団が当時、地中 海東岸のペルシアの土地からシルクロードを経て、遥か中国中原の都の汴京(べんけい、 今の開封)までさまよい、子孫たちがそこに一千年も定住したという。ユダヤ人は何千 キロの苦難なシルクロードの旅行をやり遂げて、まったくの異国である中国に渡り、し かも、一時数千人規模のユダヤ人社会を形成するまで繁栄していた。なんという生命力 だろうか。 日本人は東南アジアのタイのアユタヤやベトナムのフエに渡り、日本人町をつくった が、現在まで末裔が残っていると耳にしたことがない。ユダヤ人と日本人では、民族の 求心力の“核”の強さが根本的に異なるのである。 北宋は汴京を首都とし、紀元 960 年から 1126 年まで栄えた王朝である。汴京は当時 世界で最も栄えた百万都市であった。『開封のユダヤ人-黄河南岸の中国系ユダヤ人』 によると、迫害から逃れるためペルシアなどヨーロッパ周辺国からやって来たユダヤ人 は宮殿で皇帝に謁見し、西洋の綿織物を貢ぎ物として贈ると、皇帝は旅人たちを手厚く もてなし、彼らに言った。 「汝らが我が支那に来たからには、汝らの先祖の習慣を尊崇・遵守し、ここ汴京にてそ れらを子々孫々伝えよ」 67 疲れ果てた旅人は定住と宗教の自由を皇帝から与えられたのである。 その後、ユダヤ人は漢族姓を与えられ、ある者はユダヤ教教会・シナゴーグのラビ(聖 職者)になりユダヤ教を守り続け、ある者は部族外結婚や科挙合格により漢民族社会に 適応していった。通常離散したユダヤ人は移住先の文化と隔離して(あるいは隔離され て)、生きていくケースが多い。開封のユダヤ人は他の民族や宗教集団と同じ平等の権 利を享受し得た。中国の寛容な風土が影響している。各民族の共存が重要という考えが 漢民族の主流であったのであろう。日本からの留学生のなかにも阿倍仲麻呂のように科 挙に受かり、漢民族社会で出世していった者もいることを考えると、古代中国は少数民 族のみならず、海外の民族に対しても同様の待遇を与えていたことになる。ヨーロッパ では、ユダヤ人はすべての経済的・政治的・文化的な枠の外におかれ、差別され、時に は迫害されていたので、開封のユダヤ人の状況は特異である。 ただ、世界有数の独立性を誇るユダヤ人でさえ中国に定住して、次第に漢化されてい ったのを理由に、中国文明の普遍性やレベルの高さを強調する中国人学者も存在する。 『中国・開封のユダヤ人』によると、開封に住むことを許されたその後のユダヤ人の 足跡は以下のとおりである。 1163 年、南宋第二代皇帝孝宗(こうそう)の時代、開封のユダヤ人はシナゴーグを 始めて建てた。 1286 年、フビライに仕えて中国に滞在していたマルコ・ポーロが北京で数人のユダ ヤ人に会った。 1489 年、シナゴーグが再建され、開封ユダヤ人共同体の最初の石碑が建造される。 書かれた文字はユダヤ語でなく、漢語だった。 1605 年、イエズス会宣教師マッテオ・リッチは開封のユダヤ人の艾田(がいでん) と北京で会い、その出会いをマカオとローマの上司に伝えている。 艾田は 18 歳で科挙に合格し、役人として出世していくが、彼はヘブライ語の読み書 きができなかった。艾田は北京に西洋人がいると聞き、開封のユダヤ人を代表して、域 外のユダヤ人との交流を求めてマッテオ・リッチに会いに来たのである。ユダヤ人が最 初に開封にやってきて、すでに 500 年から 600 年が過ぎていた。最盛期に開封に 3000 人も住んでいたユダヤ人も兵火や黄河の氾濫で開封は衰退し、ユダヤ人共同体も当時 10 家族から 12 家族まで縮小していた。マッテオ・リッチも当初艾田がキリスト教徒で あることを期待していた。しかし、二人は話すうちに、相手が同じ神を信仰する者でな いことを悟る。マッテオ・リッチがローマ宛に書いた書簡はヨーロッパのカトリック教 社会に驚きを与えた。 なお、マッテオ・リッチは今、北京市内の墓地に眠っている。 1642 年、黄河の大洪水で住民の溺死者が 30 万人に達し、ユダヤ人社会も壊滅的な被 害を受け、200 家族が辛うじて死を免れた。 1704 年、イエズス会宣教師ジャン・パウル・ゴザニが開封ユダヤ人共同体を訪問し、 イエズス会本部宛に調査結果を報告すると同時に、1489 年建造された石碑の拓本もロ ーマに送った。ゴザニは当時開封には 7 家族しか残っていないと書いている。さらに、 彼は中国に最初に姿を現したユダヤ人は後漢の明帝(めいてい)の時代であったと開封 のユダヤ人は信じていると報告している。明帝の死亡が紀元 75 年、エルサレム第二神 殿崩壊によるユダヤ人離散が紀元 70 年であるので、時代がぴったり合うが、証拠はな い。仮にこれが事実であれば、ユダヤ人貿易商人を通じてヨーロッパと中国は相当早く から交易を行っていたことになる。 1724 年、清の雍正帝(ようせいてい)がキリスト教禁止令を出し、中国からの宣教 師の追放を断行し、開封のユダヤ人も外部のユダヤ人世界から孤立した。 1849 年、黄河の氾濫により、開封のユダヤ人社会が壊滅的な被害を受ける。 68 1850 年、太平天国の乱が起こり、太平軍が開封を通過した 1857 年、ユダヤ人も多数 の住民とともに他の地方に離散する。 1914 年、開封のユダヤ人共同体がシナゴーグ跡地の所有権をカナダの英国系聖公会 に売却する。 1938 年、日本軍が開封に進駐し爆撃し、英国系聖公会のカテドラルは全壊するが、 石碑は奇跡的に難をのがれた。日本軍は罪なことをしたものだ。 現在、当時のユダヤ人街は「南教経胡同(なんきょうけいこどう、聖典を教える横丁) 」 という小路の名称に遺されているだけで、ユダヤ人と称する人はほとんどいなくなって いる。また、シナゴーグ内にあったと思われる井戸が第四人民病院の裏に残されている という。1489 年建造され、字がすべて磨耗した石碑は開封博物館に保管されているら しい。さらに、開封ユダヤ人の子孫と自認する石磊(せきらい)という中国人がユダヤ 教徒として認定され、イスラエル国籍を取得し、現在開封で旅行ガイドとして働いてい るとも聞いた。世界からやってくるユダヤ人の案内役をするためである。 南教経胡同、古井戸、石碑、石磊。この 4 つを探し出すために、筆者は開封に旅する 計画をたて、北京から開封行きの夜行列車の切符を事前に購入した。中国の国内旅行は 何が起こるか分からない。事前に調べていても、現地では話が異なることが多い。3 以 上に会えれば成功と言える旅であると考えた。 まず、石磊(せきらい)が勤めているという開封の旅行会社に電話した。 「石磊は正式のガイドではありません。必要な時に説明を依頼することはありますが。 最近、あまり関係していませんので、電話番号も分かりません」 先方はそう言ったが、会いたいので再度電話番号を調べてくれないかと依頼した。30 分後かかってきた電話に飛びついたが、やはり連絡先が分からないとのことであった。 何か手がかりはないものかと、小岸昭著『中国・開封のユダヤ人』を読み返すと、ユ ダヤ人末裔の石磊と同姓同名の日本語のできる石磊に会っていることが分かった。こち らの石磊は鄭州の旅行会社で日本人相手のガイドをしているらしい。早速電話、旅行会 社に電話したが、そのような者は現在働いていないし、消息も分からないという。ガイ ドの仕事は引っこ抜きが激しく、流動的である。少しでも条件がいい会社から声をかけ られると、すぐに移ってしまう。これでユダヤ教徒の石磊に会う道は閉ざされた。70 万都市の開封でどうやって彼を探し出せるのか。もしかしたら、何かの都合で石磊はも う中国には住んでいないのかもしれない。 重い足取りのまま、筆者は午後 9 時 50 発の夜行列車の一等車両に乗り込んだ。先週 末の吉林省の集安(しゅうあん、高句麗の世界文化遺産の街)の旅の疲れも癒されてい ない。 コンパートメント内の男と視線が合うと、話しかけてきた。 「韓国人か?」 車掌が身分証明書の提示を求めに来た時、筆者がパスポートを出すのを見ていたので あろう。外国人と思ったようだ。ベッドに入る前の 30 分と翌日の開封駅に着くまでの 30 分を合わせて 1 時間、 中国語と英語とタイ語の三ヶ国語を使ってその男と会話した。 彼はオーストラリアとタイに仕事で住んでいたことがあるという。また、偶然にも我々 は生まれた年が同じであった。 彼の話の内容の概要は次のとおりである。 「韓国人は日本製品のコピーばかりしているが、日本人はどう思っているのか。自分は 大阪と東京に行ったことがある。富士山はとても綺麗だった。 現在、政府系のモバイル通信会社で、第三世代のシステムの導入のための設計を行っ ている。大変忙しいが、モバイルは中国の成長産業のひとつなので結構儲かっている。 69 北京から鄭州まで「和諧号(中国の新幹線)」を使えば、5 時間で着くが、時間がもっ たいないのでこの夜行列車に乗った。部下の数は 100 人を超える。毎日起案文にサイン する仕事が多い。鄭州には母親に会うためと仕事のために行く。鄭州にも支所がある。 タイ人は仕事を急かされるのが嫌いなようで、日中韓の三ヶ国の文化と違っていると 感じた。バンコクの日本料理は安くて美味しいが、北京は高くてまずい。 小さい頃、陝西省の山奥に住んでいて、とても貧しかった、電気は 1 日 2 時間しか使 えなかった。 開封を見学したあとで、鄭州に来ないか。会社のクルマをあなたの観光のために提供 するよ」 我々は別れ際に名刺を交換した。 「家族名はテラオカの方か?」 「そうだ。カラオケと覚えておくといい」 彼は笑った。機会があったら、北京で食事しようと言いあって別れた。筆者は先に開 封で下車した。 列車が少し遅れて午前 8 時前に開封駅に着くと、開封市内の地図と帰りの列車の切符 を購入し、タクシーでホテルに向かった。運転手は、 「そのホテルは市の中心から離れていて場所が悪い」 とぶつぶつ言っていたが、無視した。 チェックイン後、部屋でシャワーを浴びて、すぐに出かけることにした。 開封博物館は無料開放中だった。いやな予感がした。鑑賞すべき価値の展示品が少な いのではないか。急ぎ足で入館し、一階のホール中央にある館内の案内図を見た。四階 にあるはずの“ユダヤ歴史文化陳列室”がない。そもそも四階が表示されていない。こ れはいったいどういうことなのであろうか。筆者はだめだったと諦めかけた。 館内の入口が資料の売店になっているので、まず男女二人の服務員に訊いてみること にした。 「開封にやって来たユダヤ人の資料はないか?」 筆者は祈るような気持ちで、男に訊いた。すると、彼はすぐに本棚から一冊の中国語 の本を取り出し、ページをめくった。彼が開いたページには、「開封ユダヤ教シナゴー グの考述」のタイトルの文章が掲載されていた。 「シナゴーグの石碑の拓本はないか?」 「ない」 そっけない返事が女の服務員から返ってきた。 「この博物館にユダヤ教歴史文化陳列室があると聞いて、やって来たのだが・・・」 筆者はすがるような気持ちで女に訊いた。すると、 「有料になっている」 彼女は申し訳なさそうに、小声で言った。 「見られるのだな。いくらだ」 筆者は彼女の三倍くらいの声で訊いた。 「50 元」 「払うよ」 と言うやいなや、100 元札を財布から出した。 男の服務員が管理人を呼んできて、三人で階段を上がっていった。三階まで来ると、 管理人が鍵で木製のドアを開けた。四階に上がる階段が目に入った。階段を登ると、途 中、鉄格子のドアがあり、管理人が別の鍵を取り出して開けた。 四階まで来ると、入口に“ユダヤ教歴史文化陳列室”と書かれている。ここだ。 部屋に入ると、石碑二つがガラスケースに入れられているのが目に飛び込んできた。 70 開封のユダヤ人は記念に石碑二つを建造したとされている。1489 年に建造された石碑 は無残にも風化で表面がすべて剥がれ落ちていて、まったく文字が残されていない。 1512 年の石碑は下の五分の一に漢字が残されているが、上部は同様に文字が落ちてい た。そしてなんと、二つの石碑は背中で糊付けされたように重ねられ、あたかもひとつ の石碑の表と裏になっている。実際は、両面とも表であるが。 1489 年の石碑の最初は、 「それイスラエルの立教の祖師アブラハムは、すなわち盤古 アダム十九代目の孫である。天地開闢以来、祖師は代々伝統を伝授して、形像をつくら ず、鬼神におもねらず、邪教を信じることがなかった」で始まり、宋にやってきて皇帝 に面会したこと、定住を許されたこと、シナゴーグを建立したこと、子孫が中国社会で 活躍したことなど彼らの歴史が記されている。そして最後は、「聖なる天子の万年にま でいのち長く、皇土の強固ならんことを祈り、天長地久、雨風順調にして、ともに太平 の福を受けんことを願う。これを金石に刻み、よって永久に伝えんとする」で終わって いる。 部屋の壁にはそれらの石碑の拓本が掲げられていた。文字は美しい漢字で書かれてい た。開封に逃れてきてから 500 年が経過している。ヘブライ語を書ける人もいなくなっ ていたと推察される。清の名君の乾隆帝がユダヤ人を偲んで作らせたという石碑もあっ た。さらに、1722 年、開封を訪れたイエズス会宣教師が書いた当時のシナゴーグの外 形図と内部のスケッチも壁に掲げてあった。ユダヤ教で神聖とされるモーゼの椅子もき ちんと書かれている。18 世紀までシナゴーグは健在だったのである。 儀式の際、手を洗ったと思われる大きな青銅の器も展示されている。 石磊(せきらい)のことを突然思い出した。この男の服務員は何か知っているかも知 れない。 「石磊を知っているか?」 「会ったことはある。ガイドをやっている。近くに旅行会社があるから、そこで訊くと いい」 彼は答えた。 「先日電話したが、もう辞めていて連絡がとれないとのことだった」 筆者少しがっかりして言った。 「彼はイスラエルの国籍を取得し、ユダヤ教徒になっているが、彼が開封ユダヤ教徒の 末裔という証拠がある訳ではない」 服務員の発言はもっともだった。石磊は小さい頃から、母親にユダヤ教徒の子孫と言 われて育っていた。本当のユダヤ教徒の血を引くかどうかの真偽はともかくとして、彼 の心境を訊いてみたかった。 服務員は筆者の職業をしつこく尋ねてきた。 「自然科学の日中交流の推進の仕事をしているが、歴史学者ではない。だが、中国の歴 史に興味がある。ユダヤ人はヨーロッパで迫害されたが、1000 年前の中国で暖かく迎 え入れられ、定住も信仰も許された。古代中国人は非常に寛大だった。それを書いてネ ットに載せようと思っている」 筆者がそう述べると、彼は安心したような表情を浮かべた。この陳列室の存在はユダ ヤ人かユダヤ人研究の学者以外には知られていないはずだから、彼の疑問は当然だった。 彼によると、世界各地のユダヤ教徒が聞きつけて見学にやってくるという。予想はして いたが、写真撮影は一切許されなかった。 博物館を出ると、三輪車の運転手が待ってましたとばかりに声をかけてきた。60 歳 過ぎの日焼けした男だった。 「どこへ行くのか」 「第四人民病院」 71 「その病院は合併して、名前が変わった。今は中医病院だ」 「そこまでいくらだ?」 筆者は訊いた。 「6 元だ」 「5 元にまけてくれ」 「乗れ」 男は言った。 「どこから来た?」 「東京だ」 「ここも東京だ」 運転手は応えた。 東京は日本の首都であり、北宋の首都でもあった。名君の趙匡胤(ちょうきょういん) が宋(のちに北宋と呼ばれるようになる)を建て、その都を東京開封府と称したのだ。 北宋の東京は日本語ではトウケイと発音されている。日本の東京との混同を避けるため であろうか。だが、中国語の二つの東京の発音は同じである。 「私は東京からやってきて、東京に到着した」 と筆者が言うと、彼は笑った。かわいい笑顔だった。 「俺たちは同じアジア人さ」 運転手が言った。 三輪車といっても、電動自転車の後部に二人がけの座席を取りつけた程度のものだっ た。時間は多めにかかるが、市内の様子を眺めながら移動しようと思った。30 分して 目的地につくと、筆者が意地悪く、5 元札と 1 元札の 2 枚を手の上に広げてみせた。彼 はまず 5 元札をとり、そして恥ずかしそうに 1 元札をとった。 「遠かったからな」 彼は言い訳しながらも、うれしそうだった。 中医院の門を入り、左右に診察棟と入院棟が建つ中庭にでた。古井戸はシナゴーグの ボイラー室のなかにあるはずである。『中国・開封ユダヤ人』の本を取り出して、場所 を確認しようとしていると、近くにいた中国人が近づいてきた。中国で相手から話しか けられるのは珍しい。困ったような顔をしていたのであろう。 「ボイラー室を探している」 筆者は言った。彼は何も言わず、奥の方を指差した。そこに行くと、病院の裏庭で、 作業室やボイラー室が並んでいる。筆者は制服を着た守衛を見つけると、素直に訊いて みた。 「私は東京から来た日本人だ。ユダヤ人の古井戸はどこにあるのか?」 彼は慣れた様子で、ひとつの建物を指した。筆者はなかに入った。床は新しくコンク リートが打たれていた。古井戸を探してみるが見つからない。筆者は外に出た。 すると、ひとりの作業員がいたので、同じ質問をした。彼は着いて来いというしぐさ をし、筆者は彼に従った。再び建物のなかに入ると、男は中央の四角い鉄板を指し、 「この下に古井戸がある。今は使っていない」 と言った。筆者は今、このような状態になっているのかと驚いた。 彼は筆者をユダヤ教徒と思ったらしく、 「井戸に水はない。この部屋は重要な場所だ」 彼は古井戸の保存にあまり手をかけられないと言いたげだった。 「鉄板を開けてもいいか?」と訊くと、「いいよ」と言って、その作業員は去っていっ た。 筆者鉄板を開けた。なかは丸い古井戸であるらしいが、暗くて底が見えない。デジカ 72 メで写真を撮った。フラッシュが光った。撮った画像を見ると、1 メートル下に水面が 光って映っていた。まだ、水があるのだ。ユダヤ人の信仰の深さが水を涸らせていない のだと思った。12 世紀に開封最初のシナゴーグが建立されて以来、敬虔なユダヤ人た ちがこの井戸水で身体を清めてきたのである。 このボイラー室の裏のレンガの建物は取り壊し作業の最中だった。作業員たちの叫ぶ 声が聞こえ、そして壁が崩れる音が聞こえた。筆者は鉄板をもとに戻し、その場を去っ た。 シナゴーグが洪水で壊されたあと、跡地はキリスト教徒に売られ、その聖堂は日本軍 に爆撃された。その後、病院が建てられたが、中国人はこの古井戸を取り壊さなかった。 彼らもこれは重要なものと分かっていたのである。古井戸が残される限り、ユダヤ人の 中国人に対する感謝の気持ちは続くに違いない。筆者はそう確信した。 病院の出入口に戻ると、守衛に“南教経胡同”の場所を訊いた。南教経胡同はかつて ユダヤ教徒が住んでいた集落の小路である。 「すぐ近くだ。そこを左に曲がった小路だ」 守衛は親切に教えてくれた。 実際、そこから 20 メートル足らずの曲がり角が南教経胡同の入口だった。近くでた むろしている老人にここが南教経胡同かと確認した。彼は何も言わず前方を指差した。 金メッキされた金属板に、中国語と英語おそらくヘブライ語で「開封ユダヤ人居住区(趙 宅)」と赤字で書かれていた。趙宅はこの胡同の最後のユダヤ人教徒の趙平宇が住んで いた家だ。今は漢族の未亡人が住んでいるはずである。開封のユダヤ人の末裔は 618 人 とされており、その多くは開封を離れ、新疆、蘭州、西安、成都、南京などに散ってい る。 その老人は筆者に質問した。 「お前はカナダ人か?」 カナダ国籍の東洋系のユダヤ人とでも思われたのであろう。 「いや、日本人だ」と応えると、近くの老人たちが口々に「日本人だ」という声が聞こ えてきた。 筆者は胡同のなかを歩いて進んだ。すぐに大通りの喧騒が消えた。静かな小路である。 奥行き 100 メートルくらいのところに、趙宅があった。先ほど探し当てた古井戸のあっ たボイラー室と丁度接している。家の二階には漢字の看板が誇らしげに掲げられていた。 「ユダヤ教シナゴーグ跡」と記されていた。筆者はその場を静かに離れた。表通りに戻 った。先ほど会った老人に会釈した。 表道路を渡ると、博物館のような建物が目についた。入口まで行くと、なんとそこは、 劉少奇が文革時代に四人組の一派に迫害されて殺された場所であった。彼の病室や遺体 放置の場所が当時のまま保存されている。火葬申請書には偽名でかつ年齢も 31 歳と記 されている。証拠隠滅のために、劉少奇はすぐに灰にされたのである。革命に捧げた 71 歳の人生であった。 筆者は黄河が見たくなった。いくたびも氾濫し、開封の街とユダヤ人社会に壊滅的な 被害をもたらしてきた河である。タクシーを拾い黄河に向かった。市内の 20 キロ北を 西から東へと流れている。運転手が「これが大堤防だ」と言ってから、1 キロ先に黄河 の岸にたどり着いた。 筆者はクルマから降りた。黄色い水がゆっくりと流れている。対岸は遠くてよく分か らない。数名の釣人が釣り糸を垂らしている。のどかである。大堤防と黄河の間には、 小麦が生い茂っていた。もうすぐ収穫が終わると、次に稲作を行うという。1997 年の 大洪水の時には、濁流が大堤防まで押し寄せてきたと運転手が説明する。黄河の川底は 開封市より高いと聞いていたが、それは確認できなかった。だが、この河の濁流がユダ 73 ヤ人社会を直撃し、彼らは再び離散していく運命にあった。 石磊には会えなかったが、石碑、古井戸、胡同の三つは確認できた。それでも十分意 義のある旅であった。 ユダヤ人はキリスト教徒とは異なり、多民族への伝道という使命をわが身に課するこ となく、迫害の嵐が吹き荒れる離散地で、極めて不安定な状況に置かれながらも、先祖 からの言葉と信仰を胸に抱いて生きてきた。そもそも、イエスを殺害したのはユダヤ人 だという理由で、ユダヤ人は新興宗教のキリスト教徒から長期にわたり迫害を受けるこ とになる。母親は我が子に先祖の教えを厳しく教え込んできた。そうした精神生活の持 続性が、思想や芸術、あるいは科学や経済の分野で彼らは目覚しい業績を残してきた。 ノーベル賞受賞者に占めるユダヤ人の数はかなりの数字に上る。 そういう意味で、ユダヤ人は多民族に嫉妬される運命にあり、ユダヤ人が世界を牛耳 っているという神話が生まれてきた。世界中のユダヤ人の総人口は約 1400 万人で、イ スラエル及び米国にそれぞれ 530 万人が住み、残りのユダヤ人は世界各地で居住してい る。ユダヤ人は長期間の迫害や苦難に耐え、消滅することなく生存してきた偉大な民族 である。 一方、北宋の時代、ユダヤ人を特別扱いせずに、他の民族と同様に扱ってきた漢民族 の寛容さも評価されるべきと思う。「一視同仁」政策は異民族も同等に待遇しようとい う中国の伝統的な政策である。昨今、中国の周辺地域で起こっている少数民族に対する 圧制の報道に接すると、過去にユダヤ人に対して行った漢民族の寛容な措置が忘れられ てしまったのではないかと残念に思える。中華民族は懐が深い民族であるはずだ。知ら れざる開封のユダヤ人の歴史を学んでもらいたいものである。 74 国賊と英雄 中国人は朝食に“油条”という細長い揚げパンを豆乳に浸けて食べるのを好む。レス トランで 4 元も出せば油条と豆乳の組み合わせで胃袋を満たせることができる。油条の 由来は、南宋の時代に、敵国であった金と密通して無実の将軍岳飛(がくひ)を殺害し た宰相秦檜(しんかい)夫婦に見立てて小麦粉で二本の棒を作り、油で揚げて「釜茹で の刑」にすることで恨みを晴らしたと伝えられる。つまり、中国人は秦檜が国賊で、敵 国と勇敢に戦った岳飛は英雄で、愛国者だと信じている。 この二人を巡る時代背景を探り、彼らの運命の意義を考えてみたい。 岳飛が少年であった頃、中国は、中原には北宋、北西地域にはタングート族の西夏、 モンゴル高原には契丹族の遼、東北地方には女真族の金が並び立つ状況にあった。岳飛 は、『春秋左氏伝』と「孫呉の兵法」を勉学しつつ、弓や弩を射るなど文武両道に優れ ていた。一方、秦檜は科挙に合格したエリート官僚で、岳飛より 13 歳年長であった。 北宋は金の勃興を見て、金と同盟を結び南北から遼を攻めることになった。しかし、 北宋は軍勢派遣の約束を守らなかったため、金は激怒し、1126 年、北宋の首都開封(か いほう)を攻略した。1127 年、北宋の徽宗(きそう)と欽宗(きんそう)は金に拉致 され北方に送られた。これは“靖康(せいこう)の変”と呼ばれ、これで北宋は滅びる。 金は華北統治のために傀儡国家楚を誕生させようとするが、秦檜が猛反対したため、彼 は金に北へ連れて行かれた。 1127 年、岳飛は 25 歳の時、開封流守の下で北宋の首都開封を金軍から守ることを命 じられていた。流守は金に降伏するが、岳飛の戦いは評価され、1130 年、朝廷より通 州と泰州(江蘇省長江北岸の地)を鎮撫する正式な官に任じられた。折りしも同年 11 月、秦檜は金の軍から脱走し、宋に戻った。この時既に、北宋は首都を臨安(りんあん、 今の杭州)に移し、南宋となっていたが、強敵金に対する和平派と抗戦派の争いは激し くなっていた。抗戦派は「秦檜は金の和平論者ダランとの内々の約束の下で帰国を許さ れた」と非難していた。これが、後世に秦檜が金と密通していたと言われる原因となっ た。なお、臨安に都をおいたのはその名のとおり臨時と考えられていたためだが、その ままとなり、南宋の首都として栄え、風光明媚な都市杭州へと受け継がれていく。 将軍たちが国内各地の混乱を治めていた時、秦檜は 1131 年、宰相に任命された。一 方、岳飛は、1134 年、古来中国の南と北を結ぶ交通の要衝である湖北の襄陽(じょう よう)を奪還したので、高宗(こうそう)は岳飛の戦いを賞賛した。同年、彼は節度使 を授けられた。32 歳の若さであった。さらに、スピード出世したため、他の武将から 嫉妬の眼を差し向けられるようになった。また、学問もできる学者肌の面もあったので、 他の将軍とそりが合わなかった。 1139 年正月、宰相秦檜は宋金和平交渉をまとめ、河南と陝西地方が南宋に返還され、 その代わりに南宋は毎年、金に歳幣(さいへい)として銀 25 万両、絹 25 万匹を贈るこ とになった。ところが、金朝内で政変が起こり和平派のダランが殺され、和平は破綻し た。 さらに、岳飛は「願わくは謀を立てて全勝を期し、黄河以北の地を収め、手に唾して 燕雲(北京と山西の地)を回復し、仇を報じて国に報いん」と上奏し、秦檜の憎悪をか った。 和議が破れると、金軍が一斉に南下して洛陽や開封を占拠すると、南宋もまた抗戦派 の将軍が応戦した。岳飛は岳家軍を率いて北上し、洛陽を回復、開封郊外にまで及んだ が、和平を模索する秦檜は南宋軍に引き上げを命じ、岳飛も 1140 年、武昌に引き返し た。その時、岳飛は「我が 10 年の努力は 1 日にして廃された」と嘆いた。 秦檜は和平を実現するために抗戦派の力を削がねばならないと考え、節度使の軍事力 75 を削減させる策をとることにした。つまり、将軍を高官に転任される交換条件として、 彼らの私兵を国家に没収していった。しぶる将軍に対しては、賄賂を使った買収もあっ た。清廉な岳飛が買収に利かないとみると、秦檜は岳飛と息子の岳雲(がくうん)に根 拠のない罪を着せ、投獄した。そして、秦檜は妻の進言に従い、1141 年 12 月に処刑し てしまう。岳飛は 39 歳で、岳雲は 23 歳であった。翌年、南宋は金との第二次の和議を 成立させたのだった。 その後、岳飛の冤罪が証明され、彼を弔うために杭州の西湖のほとりには岳王廟が建 立された。岳王廟の岳飛と岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦が縄でつなが れて正座させられ、頭を垂れている石像が並べられている。中国人観光客には、その石 像に向かって唾をかける者もいる。国賊というわけである。 結局、南宋ははよく抵抗するがチンギスカンに滅ぼされ、モンゴル族の支配に下るこ とになる。元の時代に、岳飛は異民族の金と戦ったとして語り継がれ、歴史上の英雄と 呼ばれるようになる。 さて史実は以上のとおりである。中国の歴史の教科書でも岳飛は英雄で、秦檜は悪者 と断定した記述となっている。歴史の事実は見る時代によってその評価が変わっても仕 方がない。一方的で断定的な記述は、生徒から多角的で柔軟な発想を奪うのではないか と筆者は恐れる。 ここではもう少し冷静になって彼らを評価してみたい。 まず、秦檜は宰相に過ぎず、南宋のトップではない。彼は宰相として高宗の意向を受 けて、精力的に和平工作を行ったのだ。臣下としては当然である。和平が間違った政策 と言うのであれば、先ず高宗を非難すべきである。高宗も和平派と抗戦派の抗争下で方 針が変わっていった。 また、当時の金と南宋の国力の差を考慮すると、金と戦争を起こし、華北を奪還する ことは不可能であったと言えよう。そもそも、太祖趙匡胤(ちょうきょういん)以来、 宋は文治主義の国家であったはずだ。宋は科挙による官僚体制を整備するとともに、商 業や文化の発展に尽力した王朝であった。北方民族の圧力に対して、お金で平和を買っ ていたのである。平和を守り、国家の繁栄と人々の安全を第一とするのであれば、それ をなぜ非難することができようか。 このように考えると、秦檜と岳飛の物語は、後世の人々が漢族は強国であるべきとい う当時としては“叶わぬ夢”を追い、作り上げたものとも言えよう。 宋は漢民族による他の王朝と比較すると、やはり平和と経済重視の特異な時代だった のである。国にあり方が現在の日本と似ている。しかし、筆者は宋代を高く評価してい る。印刷術、火薬、羅針盤の三大発明は宋代のものであるし、宋代の磁器は最高傑作の 段階まで進歩している。 『三国志演戯』、『西遊記』、『水滸伝』の原型もこの時代につく られている。宋は比較的小さい国であったが、庶民は豊かで夜遅くまで酒や歌に興じた 幸せな時代であったのである。 中国人学者に疑問を率直にぶつけてみた。 「宋は文化的に成熟し、発展した時代であったが、これは皇帝が庶民にも自由な生活を させたからではないか。文化や科学技術の発展には自由が不可欠である」 と筆者が主張すると、彼は、 「あなたの言うことは正しい。しかし、権限を臣下に降ろしたがために、和平派と抗戦 派、改革派と保守派の激しい抗争がおき、宋は強い国家にはなれなかった。それが、異 民族女真族に領土を奪われ、さらに、その後勃興してくるモンゴル族の元に滅ぼされて しまう原因になったのだ」 中国という大国の運営の困難さを感じた次第である。日本は本来自然国家であるため、 76 特段の努力をしなくても国家は成り立ってきた。しかし、中国は国の統一に莫大なエネ ルギーを投入しなければならないし、そのために思想や教育の均一化、秘密警察による 引締めを行わなければならない。それらの政策は、国民から自由闊達な議論を奪い、文 化や科学の発展の阻害要因となってきた。この基本原理は今でも変わらないように思え る。 いずれにしても、国家のプライドか、それとも庶民の幸せが大事かの選択が秦檜と岳 飛の評価の分かれ道である。 杭州の西湖の夕暮れは美しい。特に、霞がかかった時に小舟から眺める景色は幻想的 である。湖畔の廟の岳飛は英雄と讃えられているが、果たして安らかに眠っているので あろうか。岳王廟の奥まったところに、石碑がひっそりと立っており、そこには岳飛が 言ったとされる言葉が彫られている。 「文官が金銭を愛せず、武官が死を恐れなければ、天下が太平でないことはあり得ない」 古代から現代まで賄賂社会であり続けた中国において、これは国を救う遺言である。 その意味において、岳飛は真の英雄であったと筆者は思う。 77 近代まで世界一だった中国の科学技術 天安門の前を東西に走る長安街が旧城壁と交差するところに、かつて建国門があった。 その建国門の西南地点に「北京古代気象観測所」がある。 冬の寒い週末の早朝、筆者はこの観測所に地下鉄ででかけた。15 年ほど前に行った 時、入場費は有料であったが、無料開放されていた。他に見学客はいない。お土産物や も閉まったままだ。 この観測所は西暦 1442 年に設立され、気象観測、天文観測などを行っており、当時 使用していた天体儀や日時計などの観測機器が復元されて設置されている。さらに、併 設している博物館には、古代中国の天文学の業績が並べられている。 自然現象のなかで日食は古代の人々を最も恐れさせたものであったと思われる。殷代 に占いに使用された甲骨文字に日食の記録が残されている。紀元前 12 世紀から紀元前 14 世紀も前のことであった。 紀元前 140 年頃に編集された『淮南子(えなんじ)』には太陽の黒点に関する描写が 残されている。中国人はその前の紀元前 4 世紀には、黒点は太陽面の現象であることを 既に知っていたと推定されているが、西洋人は 16 世紀まで他の天体が光を遮っている と考えていた。 西洋でハレー彗星観察されたのは 11 世紀であるが、中国では紀元 66 年に観測された 彗星の形状が残されている。長沙で出土した馬王堆(ばおうたい)三号漢墓に描写され ている。 中国人は 6 世紀以前に、太陽風の存在を仮定し、そのために彗星の尾が太陽と反対の 方角に流れると仮定していた。 フランシス・ベーコンは三つの発明、紙と印刷術、火薬、羅針盤をとりあげ、それら がどんな宗教的信念や占星術の感化力や征服者の偉業よりも大きな力として、世界を完 全に近代へ転換させ、古代・中世から切り離したと考えた。だが、彼はこれら全てが中 国人の手による発明と知らずに死んだ。中国は紙と印刷術、火薬、羅針盤の三大発明の 発祥地として有名であるが、中国人が発見・発明した科学技術はそれに留まるものでは ない。 鉄の製造には鉄を叩いてつくる鍛鉄法と溶かした鉄を流し込んでつくる鋳鉄法があ る。後者の方が技術的に難しいのは、高温にしなければ鉄が溶けないためである。中国 人は、鉄混合物にリンを 6%まで加えると、融点が通常の千百度から九百五十度に下が ることを知っていた。この技術が中国で普及するのは 6 世紀である。一方、西洋で鋳鉄 が広く使用されるようになるのは、1380 年以降である。 漆(うるし)は柔軟なワニスだが、保存力、強度及び耐久性が極めて強い。いわば、 最古のプラスチックといえる。漆が使用されているのが発見されたのは、殷代の皇后の 棺の漆塗りである。漆は少なくとも、なんと紀元前 13 世紀に中国で使用されていたの だ。 人類最初の全身麻酔による手術は後漢時代に中国で実現されており、西洋よりも 1600 年も早い。 魏晋時代の祖沖之(そちゅうゆき)は、世界で初めて円周率の数値を小数点以下7桁 まで計算した人物で、この記録は約千年後アラビアの数学者に破られたのであった。 中国が西洋の発明・発見より先んじていたものはもっとある。 回転運動と往復運動の相互転換の方法、植物地理学と土壌学の創始、皮膚=内臓反射 作用、種痘の発見、近代農業、十進法、紙幣、傘、多段ロケットの原型、銃、水雷、毒 ガス、熱気球、強い醸造酒、将棋などだ。 さらに、グーテンベルグは活版印刷術を発明しなかったし、ハーヴェイは体内の血液 78 循環を発見しなかったし、ニュートンは運動の第一法則を最初に発見したひとではなか ったということになる。これらの偉業を最初に達成したひとは、中国人である。 産業革命の土台となった西洋の農業革命は、発明や工夫が中国からもたらされた結果 可能になった。畝による作物の育成、鍬を使う除草、種まき機、鉄製の犂(すき)、効 率的な馬具は中国から西洋に伝えられたのだった。 自国を賛美する傾向のある中国の歴史教科書の中で、科学技術の業績については、信 用がおけるのである。 2005 年 3 月 24 日、ひとりの偉大な学者が 94 歳の生涯を終えた。英国ケンブリッジ 大学のジョゼフ・ニーダム名誉博士である。ニーダム博士は、生涯をかけて、名著『中 国の科学と文明』を著し、西洋知識人に大きな衝撃を与えた。筆者も 30 年前、大学生 であった時、彼の著作を読み、科学は西洋発祥と教えられていた頭脳に大きな刺激を受 けたことを思い出す。中国でも独自に科学技術が発展していたのである。 さらに、彼はユネスコの創設を手助けして、自然科学部を組織したひとでもある。 UNESCO の S は科学の意味であるが、ニーダム博士の献身的努力がなければ、異なった 名前になっていた可能性もある。ニーダム博士は、ケンブリッジ大学に入学後、生化学 と発生学の接点を専門としていたが、同時に科学史にも興味を抱いていた。 ニーダム博士の研究室にいた中国人科学者と交流するうちに、中国が歴史上達成して きた科学技術上の偉業に注目するようになった。その後、1942 年、英国王立協会派遣 の使節として、重慶にあった英国大使館の科学顧問として第二次世界大戦が終了するま で中国に滞在した。そして、帰国後も、中国の科学史の調査研究を継続し、隠された歴 史が明らかとなっていった。 『中国の科学と文明』は、西洋に蹂躙され、自信を喪失していた中国人が誇りを回復 する機会を与えた。そのため、ニーダム博士は中国のリーダーから非常に高く評価され ている。 ニーダム博士は古代及び中世の中国人の並外れた創意工夫と自然に対する洞察力に 敬意を表しつつ、なぜ現在中国は遅れた国になってしまったのかと疑問を呈している。 そして、自らの問いに対する回答は、中国の官僚組織はその初期では科学の発展を大い に援助したが、後期になると、官僚組織は科学がさらに発展するのを強力に押さえ込み、 飛躍的な進歩を阻んだためとしている。 また、ドイツ帝国の宰相であったビスマルクは、日本及び中国からやってきた留学生 の行動を評価し、「日本人は機械や大砲の原理まで理解し、もっと優れたものを開発し ようとするが、中国人は廉価なものを購入するだけの態度に終わっている」と述べてい る。祖国の近代化に向けた留学生の意識の差が、その後の両国の運命を大きく変えるこ とになった。近代以前の科学技術で世界一であった中国は、なぜ自ら創意工夫をしなく なったのであろうか。 ニーダム博士は官僚組織に中国科学技術の発展と停滞の原因を求めているが、筆者は 官僚組織も含めた政治体制及びそれを支えてきた思想が原因であると考えている。つま り、皇帝に全ての権力が集中する皇帝制度及び人々の行動規範となったイデオロギーと しての儒教が元凶であると思う。自由な発想や創意工夫を重んずる気風がイノベーショ ンには不可欠である。 政治的及び経済的に台頭する中国が 21 世紀の科学技術強国になれるかどうかは、ま さに皇帝制度と類似の共産主義体制及び支配の道具に堕落した儒教の克服にかかって いる。 「中華の復興」は中国の新文明の興隆であり、それはイノベーションの成否に依存する。 コピー産業の体質を変えられなければ、世界の人々の尊敬を得ることはできず、成長も 79 早晩行き詰まることになろう。 中国のリーダー達と科学者の葛藤は当分続くに違いない。 80 コロンブスやバスコ・ダ・ガマよりも凄かった鄭和 コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは 1492 年、バスコ・ダ・ガマのインド到着 は 1498 年だった。バスコ・ダ・ガマの航海成功は、アフリカ東海岸でアラビアの航海 家の水先案内を得たことに大きく依存している。当時、インド洋はアラビア人、インド 人、東南アジア人、そして中国人が行き来する内海のような場所であった。インド亜大 陸を巡る交流は日常茶飯事であった。 世界の歴史は残念ながら西欧人の視点で書かれている。アメリカ大陸やインド大陸発 見はあくまで当時遅れていた西欧人にとって、“初めて”の体験であったに過ぎない。 コロンブスが大西洋を横断した時の乗員はわずか 88 人で、長さ約 19 メートルの 3 隻 の小船に分乗していた。また、バスコ・ダ・ガマの航海も 4 隻の船舶と船員 148 人から 構成されていたに過ぎない。 一方、明朝の第三代皇帝永楽帝の命を受けて、西方に航海した鄭和(ていわ)は 100 ないし 200 隻の船舶に 2 万 7 千人(2700 人の書き間違いではない)もの船員、技術者 などが分乗していたのだ。全長が 100 メートルを超える宝船と呼ばれる船舶も 40 隻か ら 60 隻も含まれていた。まさしく、西欧人とは桁違いの航海であった。それも最初の 航海は 1405 年であったので、コロンブスよりも半世紀も前のことであった。当時の中 国は造船技術のみでなく、航海技術、天文学、医学などもヨーロッパより圧倒的に進ん でいたのである。 鄭和は 7 回、合計 30 年近くをかけて、2 万 7 千人の大艦隊を率い、アジアのみでな くアフリカの 30 余国を訪問している。第 5 次と第 6 次の航海では、アフリカ東海岸の ケニアのマリンディまで到達している。ギャヴィン・メンジーズ著『1421:中国が新大 陸を発見した年』によると、鄭和はコロンブスより 70 年も早くアメリカ大陸に到達し ていたという。メンジーズは英国海軍の潜水艦の潜水士の経歴を持つが、歴史の専門家 ではないので、彼の説が定説となっている訳ではない。だが、我々の常識を塗り替える 壮大なノンフィクションになる可能性があるかも知れない。 南京市の長江と接する地域に当時の造船ドックの跡地が残されている。全長 1500 メ ートルもある 6 本のドックは発掘が終わり、現在残っている 3 本のドックには水が満た され、高級住宅街に囲まれた憩いの公園となっている。1本のドックで7隻の船舶を同 時に造ることができたという。船舶が製造されると、長江の水が引かれて、巨大船舶は 長江に流れるように進み出て行ったであろう。現在ドック跡は一見すると、運河のよう だ。 筆者は、寒さが緩んだ冬に公園を一周廻ってきた。鄭和艦隊の数分の一の大きさの船 も建造され、観光客が乗り込めるようにしてあった。長さ 50 メートル超のこの船でも 十分に航海に耐えられそうである。公園内の展示室には、ドックから発掘されたマスト などが並べられていた。公園の一番奥には、世界地図が描かれ、鄭和の航海を示した石 壁が掲げられていた。心地よい散歩であった。 2005 年には、鄭和航海 600 年記念式典が大々的に挙行され、急速に経済発展する中 国人に誇りと未来への自信を与えたことであろう。 鄭和は雲南の回族の出身の宦官であった。のちに永楽帝となる燕王(えんおう)のク ーデター挙兵に従い功績を認められ、宦官の最高職である太監(たいかん)に抜擢され た。永楽帝が鄭和を大航海に出した理由は、自らの政治的地位を強固にし、中国の富強 を世界に誇示することにあった。面子のために大艦隊を組織できるほど当時の中国は豊 かであったのだ。鄭和が携帯した物品は、金銀、銭幣、磁器、絹製品、鉄器などで、大 半は礼品として訪問した各国に贈与された。持ち帰った物は、キリンなどの珍獣と現地 の無名宝物に過ぎない。珍獣は皇帝や貴族の奢侈品となった。完全に赤字の巨大プロジ 81 ェクトであった。航海のたびに出費がかさみ、財政上の困難を増加させた。 一方、バスコ・ダ・ガマの航海は当初より経済的な利益を目的としており、1499 年、 彼がインドから持ち帰った貨物の総額は、航海に要した費用の 60 倍にも及んだ。そも そも西欧列強の海外貿易の目的は、植民地確保や海外市場の開拓であったのだ。 永楽帝亡き後で、鄭和の遠征は“弊政(へいせい)”と指弾され、渡航が中止された のみならず、大型船舶も建造されなくなり、鄭和の航海公文書は焼かれてしまった。明 朝はその後、海外渡行禁止令が出され、鎖国化への道を歩むことになる。 当時の西欧列強と中国人の発想はこのようにまったく異なっていた。中国の皇帝は見 栄と好奇心に動かされて、大艦隊を遠くアフリカまで派遣したが、ヨーロッパ人は植民 地支配と経済的利益の追求のための海外航海であった。ヨーロッパでは、啓蒙思想が起 こり、未開の人々にキリスト教文明を教示することが正義と信じられていたのである。 中国人とヨーロッパ人は未開地に対する考え方が根本的に異なっていたのである。 冷静に見ると、当時ヨーロッパは先進諸国でなかったのだが、そういう風にいつの間 にか歴史が書き換えられてしまった。西欧文明の偉大さを喧伝するために発明された歴 史は、西欧文明の起源はギリシア文明であり、ルネッサンスは人間主義のギリシア文明 への回帰とされたのである。これは歴史の塗り替えであるが、歴史家はそう唱え、教科 書に掲載されてしまうと、“真実”となってしまう。現在では世界中の人々がそのよう に信じている。うそは偉大なほど見破られにくいのだ。 今の中国はその急速な発展のため世界から恐れられているが、当時の中国人はひとが よかったというべきであろう。あるいは、中国の歴史は皇帝の考え方ひとつで変わった とも想像できる。仮に、永楽帝が中国の豊かさに満足せず、西方の国々を占領し、西欧 諸国のように略奪行為をしていたら、世界の歴史は大きく変わっていたであろう。中国 は世界文明の中心と皇帝は信じ、非文明の地域にさほど関心を示していなかった。キリ ンやライオンやサイのような珍獣を観賞して、喜んでいたに違いない。おめでたい人々 であった。 なお、キリンは王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物である「麒麟」と して紹介された。現地のソマリ語の発音「ゲリ」が麒麟の発音に似ていたからである。 現代中国語ではキリンを「長頸鹿」と呼ぶようになったが、日本ではこの故事にちなん で今でも麒麟と表現する。キリンの雄姿を想像すると、麒麟麦酒会社に媚を売るわけで はないが、麒麟の名前の方がロマンチックに感じられる。 もし、永楽帝亡きあとの皇帝たちが海外遠征を継続していたら、中国の世界への影響 力も大きく異なったに違いない。ヨーロッパ人がインドで如何に搾取するかという現実 を知っていたならば、中国もそれに倣ったと思われる。 中国の歴史は皇帝そのものの歴史であるとつくづく思う。皇帝の戦略や好みで歴史が 動くのである。始皇帝の中国統一以来、権力は皇帝に集中された。それにより、国家の 求心力は増したが、暗君が立てば国家も急速に傾くようになった。現代の中国は前衛政 党たる共産党が国を率いている。かつての皇帝の役割は共産党中央政治局常務委員 9 名 が担っている。個人の能力に頼らない統治メカニズムへの移行の模索が続けられている。 鄭和は訪問国に中国人街を建設したと伝えられている。東アフリカのある国に住む自 称“鄭和艦隊の子孫”たちは中国政府から奨学金を得て、中国の大学に留学している。 中華文明は異民族を吸収しつつ、領土を拡大してきたという一面がある。だが、なぜ 航海という手段を使って、中華文明を飛び地に形成しなかったのであろうか。中国は資 源外交と称してアフリカに影響力を及ぼそうとしているが、鄭和航海の失敗の原因を明 確にできない限り、中国の海外戦略はうまくいかないのではなかろうか。 拡大膨張で近隣諸国をじわじわと飲み込んでいくという漢化戦略こそが中国が得意 とするものであろう。価値観の異なる遠方の国々との外交戦略がうまくいくかどうか見 82 守っていきたい。それがうまく行く時が、鄭和の精神の復活であり、世界帝国への足が かりとなろう。 83 清朝建立に貢献した豊臣秀吉 中国東北地方の遼寧省の瀋陽(満州時代の奉天)を訪問するのは実に 14 年ぶりであ る。前回は北京から寝台列車に揺られて行ったが、今回は和諧号(わかいごう、中国版 新幹線)に乗り 4 時間余りで着いた。最高時速は 247 キロを記録していた。 筆者の瀋陽に対する最初の印象は悪いものだった。瀋陽駅に到着するや、工場のばい 煙が空を覆い、空気も悪臭を放っていた。東北地方は重工業が集中する地域と聞いては いたが、こんなに大気汚染がひどいとはと絶句した。 その後、瀋陽出身の中国人に、「瀋陽は変わりましたよ。是非来て下さい」と言われ ていたが、二の足を踏み続けていた。そんな折、和諧号で 4 時間しかかからないことを 聞き及び、また清朝建立の状況を知りたいと思い始めていたため、思い切って週末を利 用して出かけることにした。10 月下旬の小旅行は冬将軍の到来の前で心地よいものと なった。 後に清の初代皇帝となるヌルハチは 1559 年、女真族(じょしんぞく)として生まれ た。当時の女真族は、建州女真 5 部、海西女真 4 部、野人女真 4 部に分かれ激しく抗争 していた。一方、明朝は分裂統治(中国語では、分而治之)で女真族が統一しないよう にしていた。また、モンゴル族に対する牽制策として、女真族を懐柔するために毛皮や 朝鮮人参を積極的に購入した。この政策は、夷をもって夷を統治する(中国語では、以 夷治夷)と呼ばれていた。 しかし、明朝も無視できないほど武力抗争が激しくなると、制御できる程度の勢力を 作り、その後ろ盾になることで女真族を治めようと方針を転換した。その時の明朝の遼 東司令官は李成梁で、彼が目をつけたのが建州女真のヌルハチであった。ヌルハチは、 1589 年建州女真 5 部を統一した。明朝の戦略はある程度うまくいき、李成梁(りせい りょう)にはヌルハチから大量の賄賂が贈られ、ヌルハチの制御を怠った。李成梁は、 1591 年汚職を弾劾され更迭されている。 ヌルハチ率いる満州軍は、1593 年海西女真と野人女真の連合軍と激突し、完勝する。 これで、女真族は統一されることになる。 一方、丁度この時期、朝鮮半島は大動乱に陥っていた。豊臣秀吉による 1592 年から 1598 年までの朝鮮出兵である。明朝は文禄・慶長の役への対応に忙殺され、ヌルハチ 台頭への危機感を持っていなかった。あるいは軽視していたのかも知れない。 明の征服を意図していた秀吉は、1587 年九州征伐に際し、対馬の領主宋氏を通じて 「李氏朝鮮の服従と明遠征の先導」を命じた。だが、明の冊封国であった李氏朝鮮には その意志がないと分かると、秀吉は先ず朝鮮の制圧を決め、1592 年 4 月、16 万の大軍 を朝鮮半島に送った。なお、この年に、ヌルハチの後継者となる八番目の息子のホンタ イジが生まれている。李氏朝鮮王朝では、戦争は近いという日本派遣の使節の報告が無 視された。李氏朝鮮では 200 年も戦争らしい戦争をおこなっていないため、平和ボケに 陥っていたのであろう。一方の日本軍は戦国時代を生き延びた精鋭軍であった。勝負は 明白であった。日本軍は敵は明とばかりに、李氏朝鮮に何度も服従を促すが、降伏を拒 否された。 日本軍は、4 月 12 日釜山に上陸し、小西行長、加藤清正、黒田長政の率いる隊が半 島に急進し、5 月には首都漢城(現在のソウル)を占領した。その後、平壌まで制圧し、 加藤清正隊は国境を越えて、明領まで攻め入った。朝鮮の民衆は王や大臣を見限り、日 本軍に協力する者が続出した。また、奴婢は日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台 帳を保管する掌隷院に火を放った。7 月、援軍に来た明軍は最前線の平壌を急襲したが、 小西行長が撃退し、戦況は膠着する。一進一退の状況が続き、1593 年になって戦線が 行き詰まると、和平交渉が始められた。 84 秀吉は明が降伏したという報告を受け、一方、明の朝廷は秀吉が降伏したという報告 を受けていた。双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした のだった。1596 年、秀吉は来朝した明使節と謁見したが、事実を知ると激怒し、使者 を追い返し朝鮮への再度の出兵を決定した。秀吉は、1597 年 1 月、14 万の軍を朝鮮に 送った。 戦役は庶民まで巻き込み、食糧の確保を巡り全土を荒廃させ、人口が激減した。両軍 に厭戦気分が蔓延していた 1598 年 8 月、秀吉が死去すると、戦役を継続する意義が失 われ、日本軍は退去して帰国した。秀吉の画策は成功に到らなかった。なお、朝鮮への 派兵を免れた徳川家康は隠然たる力を持つようになり、天下をとる要因の一つとなった。 秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮人に日本憎悪の感情を植え付けた。今でも秀吉を知らない朝 鮮人はいない。一方、南蛮貿易で日本にもたらされた唐辛子は日本軍によって朝鮮に運 ばれ、キムチなどの朝鮮料理の基礎となっていく。また、朝鮮人儒学者の学問、書画、 磁器の製法などが日本にもたらされた。 いずれにしても、明軍は朝鮮援軍で莫大な出費が嵩み、財政は悪化した。さらに、明 朝にとって不運であったのは、暗君万暦帝が 1572-1620 年まで 48 年も在位したが、後 半の 25 年は朝廷にも出なかった。政治に関心を持たず、ひたすら個人の蓄財に走った。 官僚に欠員が出ても補充しないという吝嗇家であった。一方で、子供の結婚式には凄ま じい贅沢をしたのだ。後代、“明朝は万暦に滅ぶ”と評価されるようになる。秀吉の朝 鮮出兵、満州族の台頭の国事多難な時期に、皇帝が仕事をしないのでは国が滅ぶのは当 然である。 万暦帝は北京郊外の十三陵の一つである定陵に葬られており、観光客にも公開されて いる。余談であるが、文化大革命の最中、旧文化破壊を掲げる紅衛兵により墳墓が暴か れ、王妃の亡骸とともにガソリンをかけられ焼却されてしまった。 明朝が朝鮮半島に気を取られている間、ヌルハチは明朝への恭順を装いつつも勢力を 拡大していた。明朝は海西女真を後押しすることでヌルハチに対抗しようとしたが、時 既に遅かった。ヌルハチは、1616 年国号を金、元号を天命とした。ヌルハチ女真族は 文殊菩薩の信者となり、自分たちを“文殊(もんじゅ)の徒”と呼ぶようになった。そ こで文殊に似た漢字を当て、“満州”と自称するようになった。ヌルハチは満州文字を 定め、八旗制を創造して国家の基礎を打ち立てた。 明朝は満州を討伐するために、47 万と号する軍隊を送り出し、1918 年撫順近くのサ ルフで 10 万を号する満州族と激突した。数ではヌルハチ軍が不利であったが、夕方に 大砂塵が吹き覆い、明軍が松明をたいたのが、ヌルハチの軍の格好の目標となり、明軍 は大敗を喫す。サルフの戦いが明朝の滅亡と清も興隆の端緒となった。秀吉の朝鮮出兵 撤退からわずか 20 年後のことである。 勢いに乗ったヌルハチ軍は、1621 年瀋陽に遷都した。ヌルハチは、1626 年寧遠城を 攻めた際に、ポルトガル製の大砲“紅夷大砲”の砲撃を受け、敗れた。ヌルハチは負傷 し、その後病死したとされている。遺体は瀋陽市の東 10 キロ郊外の小高い丘の福陵に 葬られている。ただ、ヌルハチが紅夷大砲に斃れた 5 年後、満州軍はすでに紅夷大砲を 鋳造できたのだった。信長の鉄砲隊を彷彿させる。満州族は日本人と似た気質を持って いるのかも知れない。 澄み切った晩秋の日、筆者は福陵を訪ねた。公園内には当時植えられた松林が青々と 茂っている。観光客は少ない。世界遺産に登録されている福陵は、傷んだ構造物や壁画 の修復が行われていた。小さい商店に入ると、満州族の売り子がお土産物を買わないか と声を掛けてきた。筆者は福陵の簡単な写真集を買った。 「君は満州語を話せるの?」 85 「いいえ」 「満州語を読めるの?」 「いいえ」 しばらくして、 「満州語を話せたり、読める人はごくごくわずかです」 と屈託もなく、その若い満州族は答えた。 「それより、私は英語や日本語に興味があります。ねえ、日本語を教えて」 筆者は簡単な日本語をいくつか教えた。発音が難しいらしく、何度言わせても、きれ いな日本語が口から出てこない。 「ゆっくり勉強すると、きっといつか話せるようになるよ」 筆者は商店を去った。百メートルも離れていない、陵墓で眠るヌルハチが子孫の話を 聞いたら、どう思うであろうか。いずれにしても、68 歳まで生きたヌルハチは満州族 の歴史的使命を十分に果たしたと自信を持って言える。 ヌルハチの死後、同年第八子のホンタイジが即位した。ホンタイジはヌルハチ同様に 瀋陽の宮殿“盛京”に住んでいた。彼らが建てた満州族とモンゴル族と漢族の建築様式 が融合した建物は現存している。今では、瀋陽故宮と呼ばれている。 筆者が見学していた時、偶然、金大中元韓国大統領の一行と出くわした。金大中はヌ ルハチが建てた八角形の建物の大正殿の前で、満州族の民族衣装で着飾ったお嬢さん達 の出迎えを受け、説明を聞いた後で、訪問記念のサインをして去っていった。わずか 15 分たらずの出来事だった。瀋陽故宮の規模は北京故宮の 12 分の 1 であり、見学して 廻るには手ごろな広さである。大建築物に圧倒されるということがない。 ホンタイジは朝鮮に兵を進めて宗主権を認めさせ、内蒙古を平定し、1636 年国号を 清とした。南宋をいじめて歴史の悪役と漢族に認識されている“金”を用いるのは、漢 族圏に版図を広げるのに不利とホンタイジが考えたと考えられる。 ホンタイジは、即位の前後から兄や従兄である重臣たちを失脚させ、権力を集中させ ていた。中原を征服し、明を倒すには、中華的な中央集権帝国への移行が不可欠だと思 っていたにちがいない。そういう意味では、ホンタイジは、満州族の独立を第一に考え ていたヌルハチとは随分違う。東北部を掌握したホンタイジは明の領内への侵攻を目指 すが、万里の長城が海と出会う山海関の要塞の守りは堅く、明征伐の夢を果たせぬまま、 1643 年に急死する。「無疾而終」(疾病なく死去)と記録されているので、心臓発作か 脳出血であったのであろう。52 年の生涯であった。彼は瀋陽市内の北の昭陵に葬られ ている。ヌルハチの福陵よりもひと回り大きい。陵墓の小高く積み上げられた盛り土の 上には、なぜか一本の木が植えてある。 明朝を亡ぼしたのは清ではない。 陝西(せんせい)から始まった叛乱軍を率いる李自成(りじせい)は、1641 年洛陽 と南陽を落とし、翌年開封(かいほう)を陥落させている。1644 年、ホンタイジの 6 歳の弟の福臨が順治(じゅんち)帝として即位する。李自成軍は抵抗もなく北京城内に 入城した。この時期には、明朝を守ろうとする者はいなく、命運は尽きていたのだ。明 朝の最後の皇帝崇禎(すうてい)帝は紫禁城の北の景山で首をつって死ぬ。276 年の明 朝の歴史はあっけなく終わった。 李自成は皇帝即位の準備をしていたが、山海関にいた明の呉三桂は絶世の美女の愛妾 陳円円(ちんえんえん)が李自成の武将に奪われたと知り、私怨を晴らすためになんと 敵である清に援軍を頼んだ。また、美女が歴史に登場する。李自成は、辮髪の大軍隊が 攻めてくると知るや、即位の大典を挙げると、恐れをなして翌日北京から退出し、その 翌日清軍が北京に入城した。李自成は皇帝を名乗ると、戦わずして逃げ出したのだ。皇 帝の資格なしと断定できる。 86 順治帝は苦労もなく紫禁城の主となった。清は康熙(こうき)帝と乾隆(けんりゅう) 帝という二人の名君の治世がそれぞれ 60 年に及び繁栄を誇った。わずか 200 万人の満 州族による数億人の漢族支配は 300 年近くに及んだ。清朝では暗君は出現していない。 次の皇帝候補の皇太子を立てず、息子たちに能力開発競争をさせたためであろう。いつ の時代でも競争は必要である。 だが、現在満州族は漢民族に統合されている。三代皇帝すなわち北京紫禁城の最初の 皇帝となる順治帝は、幼少から漢文化に陶酔していた。清末期には満州語を話せない皇 帝さえいたという。今の満州が満州語を学ぼうとしないのも非難できない。 歴史には偶然がつきものである。秀吉の朝鮮出兵がなければ、満州族清の建立は困難 だったであろう。あるいは逆にこう発想できないだろうか。朝鮮出兵がもう数十年遅く 行われていれば、明の国力は衰えていて、日本軍は朝鮮半島のみでなく、大陸まで進出 できたかも知れない。その際には、清軍と激突していたであろう。その場合の勝敗を予 測するのは困難であるが、仮に日本軍が勝ち、中国の王朝の一翼を担っていたらどうな っていたであろうか。最終的には、日本は漢化され、独自性を失い、日本列島に帰って 行ったと筆者は予想する。その場合、現在の日本は中国領土の一部になっていたかも知 れないし、独立を維持できたとしても、中国色の濃いものになっていたと思う。現代の 日本は中国との協力に積極的だとは言えない。その原因は、大陸への過度な関与は日本 の運命を揺るがすほどになるという“恐怖心”が日本人の心の中に刷り込まれているか らではなかろうか。 明治時代、朝鮮併合が実現した際、初代総督寺内正毅は「小早川、加藤、小西の諸将 が今生きていれば、朝鮮を日本のものとしたこの夜の月をどのような気持ちでみられる だろうか」と歌を詠み、小松緑外務部長はこれに返歌し、「太閤殿下を蘇らせ見せ申し 上げたいものだ。朝鮮の山々に高く翻る日の丸を」と歌っている。秀吉の夢が叶ったと 喜んでいる。しかし、国際法が制定されていたその時代にあっては、この朝鮮併合は侵 略戦争であった。秀吉の時代に出来なかったことを後世にやったからと言って、秀吉は 喜ぶことはないであろう。人生において、青年期にやるべきことをやらなければ、それ に相応しい老年期が待っているように、民族にあっても、設立期や成長期に成したこと や成さなかったことに、その後の運命が決定づけられてくるのだ。 更にもっと視野を広げてみよう。ユーラシア大陸の東西に浮かぶ小さな国の日本と英 国の歴史を比較すると、両国とも高度な大陸文明の光を受けて成長してきた。英国はア ジア・アフリカへと植民地拡大を行い、大英帝国を建設した。一方、日本は徳川幕府時 代に鎖国制度を導入し、世界への進出を諦めてしまった。種子島への鉄砲伝来以降、信 長はあっという間に世界最強の軍団を作るが、それが海外で生かされることはなかった。 英国と日本の文明は大陸の瀟洒で爛漫なものではなく、海洋性の質素で誠実な特徴を持 つ。自己の鍛錬を尊ぶ騎士道と武士道も似ている。両国の実際の近代における歴史は大 きく異なったが、その相違は実は僅かな判断の差によるのであろう。歴史上の登場人物 がどう判断したかがその後の運命を大きく変えたと思う。 秀吉の朝鮮出兵は無謀であったと大方の日本人は考えている。その発想は、実は第二 次世界大戦に敗れ、国土を廃墟にされたその反省と同じ地平に立っている。関東軍の大 陸への進出は失敗であったという歴史観が、秀吉の野望も無謀であったと思わせるため である。 近代の国民国家の成立後の国際協定は、他国の領土を侵略してはならないという原則 に立っている。そういう意味では、関東軍の大陸進出は間違いであったといえる。しか し、秀吉の時代にはそのような国際的な取決めは存在しない。近代の歴史観で古代や中 世の出来事を評価することはできない。だからと言って、秀吉の朝鮮出兵を美化すれば、 87 朝鮮人の人々に不快な思いをさせるであろう。 歴史の事実は見方によって評価が分かれることは当然である。しかし、様々な視点か ら歴史を俯瞰することが我々の想像力を逞しくさせるに違いない。 88 日本帝国主義よりも恐ろしい英国植民地主義 日中間の貿易額が日米間のそれを上回り、お互いになくてはならない関係になりつつ あるが、両国の国民の心のわだかまりは一向に晴れないように思える。日本政府の世論 調査によると、日本国民の中国に対する印象は最悪の状態にある。約7割の日本人が相 手国に悪い印象を持っている。毒餃子事件、北京五輪中継のやらせなどで、日本人は中 国を特別の変な国と感じ、中国への好奇心が薄まってきている。中国関係本の売れ行き も悪い。両国は重要な関係にありながら、相互の関心が弱くなると、誤解が生じやすく なり、つまらない衝突に発展しかねない状況にある。 一方、中国人から見ると、旧日本軍の大陸侵略の記憶及び記憶が呼び起こす不愉快な 感情がなかなか癒されない。中国をここまで発展させてきた共産党は、設立の経緯から その正当性を日本帝国主義との戦争勝利においている。そのため、庶民レベルにおいて も、日本への思いは複雑である。日本に留学しようとする者は親戚や友人に対して説明 責任を果たさなければならない。日本が気に入って帰化しようとする中国人には“叛徒” の罵声が浴びせられることもあるという。この 20 年で 20 万人の中国人が中国国籍を捨 て、日本に帰化したが、筆者はそのなかのひとりから思い悩んだ心を打ち明けられたこ とがある。 日本留学帰国組は他の国からの帰国組よりも中国での処遇が悪いため、それを隠そう とする者もいる。これらの根本は日本帝国主義が大陸を侵略し、中国人の心の傷跡が完 治していないからである。 日本の蛮行を弁護する気持ちはさらさらないが、中国の近代史を眺めると、列強国が 大陸で何をやってきたかが理解できる。中国史の近代は阿片戦争の勃発から始まる。近 代史そのものが列強による半植民地化の過程とそれへの抵抗、そして新中国成立後の苦 悩と発展の歴史である。輝かしい古代中国文明を誇る民族からすると、恥辱以外のなに ものでもない。中国の苦悩の出発点となった阿片戦争を巡る英中間にいったい何が起こ っていたのであろうか。今回はそれを考え直してみたい。 阿片戦争が勃発する 1840 年以前の状況まで歴史を遡ろう。 当時、清政府は朝貢体制の維持は当然のことと考えていた。つまり、対外貿易は平等 互恵ではなく、中国が一方的に相手国に恩恵を与えるという考え方である。恩恵は従順 に対する報酬であるので、外国が従順でなければ、清は一方的に貿易を停止してもよい と考えていた。しかし、清との貿易をほぼ独占していた英国はこのような不安定な関係 では、膨大な額に膨れ上がっていた英中貿易を支えきれないと危惧していた。朝貢貿易 を対等の通商関係に変えられないかと虎視眈々と狙っていたのである。 さらに、広東には両広(りょうこう)総督、広東巡撫(じゅんぶ)、海関監督などの 政府高官が派遣されていたが、外国商人と直接接触することは許されていなかった。巡 撫は一省の長官として民政を所管する皇帝直属の地位である。 そのため、外国商人と貿易できるのは行商(ほんしょう)という特別に許可を得た商 人であり、彼らの組織を公行(こんほん)と称していた。外国の商人が中国政府と接触 したいときは、公行に文書を提出し、公行はその監督機関である海関に取り次ぐことに なっていた。取り次ぐかどうかは公行の判断であったため、外国の商人や政府から見る と、歯がゆい限りだった。 また、英国軍艦の乗組員が中国人と格闘し、死傷させた事件が発生し、清国政府が犯 人引渡しを要求したのは、公行を通じた英国東インド会社経由であった。英中間には政 府間協定がなかったため、それぞれの国が民間組織を間に介する必要があった。英国の 立場から言うと、このような煩わしく、不自由な通商の状況が阿片戦争の遠因となって 89 いく。もちろん、英国の一方的な戦争開始がそれによって正当化されることは決してな い。 有名であるが、当時の英中貿易状況を見てみよう。英国は上流階級が中国産の茶、陶 磁器、絹を欲していたため、英国の大幅な輸入超過であった。また、英国は米国独立戦 争の戦費調達や産業革命の資本蓄積で、銀の国外流出を抑制する政策をとっていた。そ こで、英国が問題解決として注目したのが阿片である。英国植民地の印度で栽培した阿 片を中国に密輸入し、銀の流出を相殺しようとしていた。英印中の三角貿易である。 清国政府は既に 1796 年、阿片輸入の禁止令を出していたが、密輸入は止まず、阿片 吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者も増加し、風紀も乱れていった。1731 年 に 200 箱(一箱 60 キロ)だった阿片の輸入量は、半世紀後の 1790 年に 4 倍増の 4,094 箱、1830 年には 19,956 箱に達した。阿片の密輸入の増加のため、英中の実際の貿易収 支が逆転し、清国内の銀の保有量が激減し、銀の高騰を招いた。清政府は税金を銀貨で 納付するよう要求していたため、農民は納める税金が数倍に跳ね上がっていた。 役人は阿片密輸を取り締まれなかった。収賄が横行していたためである。役人は商人 が持ち込む阿片の数%を商人に届けさせ、自分の取締りの業績としてそれを上部に報告 し、残りの阿片の密売を黙認する、といった具合である。広東の役人は相当腐敗してい たと考えられる。今の役人も似たようなものかもしれない。賄賂は中国の文化とうそぶ く中国人もいる。 このような事態を打開するために、まず許乃済(きょだいさい)が“弛禁論”を道光 帝に上奏した。阿片を薬剤と見なして課税する。取引は物々交換とし、銀による決裁を 認めない。さらに、中国国内にケシの栽培を認める、というものであった。阿片を貿易 商品として認め、関税収入を期待するという考えである。阿片中毒患者は自業自得とし て切り捨てるという発想だ。 これに対して、黄爵滋(こうしゃくじ)が“厳禁論”を唱え、“弛禁論”の論拠を一 つづつ論破していった。 「阿片流入を絶つためには、国内の吸飲者を根絶することが最大の課題である。1 年間 の猶予期間をおき、それでも阿片を吸う者は死刑とする」という厳しいものであった。 道光帝は、中央の高官や地方の総督、巡撫(じゅんぶ)に対して、“厳禁論”への考 えを述べるように要求した。皇帝はもっとも意にかなった者を欽差(きんさ)大臣に任 命しようとしていたのである。欽差大臣は、特設の官職で、勅令によって特定の権限を 与えられ、特定の事件を処理するために、臨時に派遣される大臣をいう。その問題につ いては絶対的な権限を持つ。道光帝を最も感動させたのは林則徐の意見であった。 「もし、これ以上阿片問題を傍観すると、数十年後、国内に敵と戦う兵士がいなくなり、 軍費に充てる銀もなくなる」 これは清王朝滅亡の予言であった。林則徐は湖北省と湖南省を監督する湖広総督とし て、その地方の阿片禁止の成果を挙げていたことも有利に働き、欽差大臣に任命された。 1838 年 11 月 15 日のことである。しかし、林則徐は皇帝の信頼を得ているとはいえ、 宮廷に政敵が多く、いつどのような理由で失脚するか分からない状況下で、阿片禁絶の ため、蛮勇ふるう覚悟で広東に向かった。 林則徐は福建省出身で、科挙に受かって、27 歳で進士(しんし)となり、皇帝の面 接を受けて合格し、皇帝の秘書室で書物の編纂や詔勅の起草に携わった。超エリートコ ースである。頭脳も人格も優れていた。 林則徐が広州に到着したのは、1839 年 1 月 25 日のことだった。彼は到着前に阿片密 輸関係者を逮捕するように要求している。大量逮捕の騒ぎで、阿片厳禁の雰囲気は濃く なっていた。林則徐は本気であるというメッセージを事前に出しておきたかったのであ ろう。 90 林則徐はさっそく公行(こんほん)を通じて、欽差大臣の名で外国商人に以下のよう に伝達した。 「阿片を全て提出すること。今後は永遠に阿片を持ち込まないこと。持ち込んだ者は死 刑、阿片は全て没収するので、3 日以内に阿片を持ち込まない旨の誓約書を提出するこ と」 約束の期限は 3 月 21 日までだったが、外国商人からの返事はなかった。欽差(きん さ)大臣林則徐の出方をうかがっていたのだ。英国商人は林則徐が本気だと悟ると、翌 日 22 日、阿片 1037 箱を供出すると伝えてきた。誓約書のことには触れられていない。 林則徐はこの申し出を一蹴した。自ら調べさせた結果、約 2 万箱はあると知っていたか らである。 林則徐は次に阿片商人デントの逮捕状を出した。英国側はこれを拒否した。強硬路線 主義者で知られる英国の貿易監督官のチャールズ・エリオットは、自国民の保護のため に広州の外国人居住区に入ってきた。それを知った林則徐は、期限内に阿片供出と誓約 書を提出しなかったのを理由に、外国船の封鎖、外国商人との売買の禁止、貨物の積み 卸しの禁止などを命じた。強気の姿勢である。そして、林則徐は千人の官兵で外国人居 住区を包囲したのだった。エリオットは水や食料のストックがなくなったために、2 日 で屈服した。エリオットは英国人が所有している阿片 20,283 箱を供出すると公行経由 で通告してきた。 林則徐はこれらの阿片を虎門に集めさせた。正味の重量は 1,425 トンもあった。当初、 林則徐は北京に持ち帰って処分したいと考えていたが、朝廷は現地で処分せよと命令し てきた。彼は虎門の海岸に 50 メートル四方の人工池を2つ作らせた。人工池に水を引 き大量の塩を投じ、箱から取り出した球状の阿片を切って池に投げ込ませた。それから 焼石灰の塊を大量に投入すると、化学反応がおこって煙をあげて沸騰するようにみえた。 しばしば使われる、 「阿片を焼却した」という表現は、この様子を誤解したものである。 そして、海に面する側の水門を開き、海に流した。阿片の処分に 6 月 3 日から 6 月 25 日までかかった。 筆者は阿片が処分された人工池を見るために、東莞(とうがん)市の虎門に行ってき た。虎門まで広州から高速バスで 1 時間 30 分かかった。人工池は林則徐記念公園を入 るとすぐ左にあった。藻が生えた人工池では、小さな魚が泳いでいた。観光客は少ない。 3 月中旬であったが、日差しが強く、現地の人々は樹木の陰で昼寝をしている。のどか な風景である。人工池は当時、珠江の下流域に面していたが、今は干拓が進み、平地に 取り残されている。 林則徐記念公園には阿片戦争博物館があり、林則徐直筆の文書や阿片戦争の経緯が展 示されているはずだが、閉鎖されていた。建物の名前も消されている。中国全土の反日 博物館は次々と“新装開店”され、愛国教育に使われているが、どうした訳か、列強の 植民地支配の発端となった阿片戦争の教育に対して、中国政府は余り熱心でないようで ある。日本人から見ると、不公平ではないかと文句をいいたくなるが、それによって日 本帝国主義が犯した罪が軽減される訳ではない。中国政府は阿片戦争博物館の閉鎖が何 を意味するかに思いを致さないようだ。 怒ったチャールズ・エリオットは抗議するために英国人を一斉に退去させた。関税の 収入が減れば清朝も困るに違いないとの判断であった。しかし、清政府は税収をそれほ どあてにしてなかった。一方で、広州に残った米国商人は清との貿易を独占し、巨額の 利益を得た。米国商人は阿片を持ち込まないという誓約書を提出していたのだ。 エリオットは、清国は敵対行為を中止すべきであるという要望書を提出してきた。当 然、清国から回答はない。誓約しない英国に非があることは明らかである。 エリオットは、誠意ある返答が得られなかったとして、突然戦艦から砲撃を行った。 91 無茶苦茶である。戦闘は 2 時間続いた。11 月 3 日のことであった。 清側の被害の方が大きかったが、林則徐は戦勝と北京に報告している。道光帝はびく びくするな、蛮勇を奮えと激励している。 巨利の商売種を失うことを恐れた広州帰りの阿片商人は、英国で軍隊の清国派遣を政 治家に働きかけた。ウィリアム・メルボーンを首班とする自由党内閣が清国遠征を決定 したのは、翌年 1840 年 2 月のことだった。議会で戦費の支出が認められたのは 4 月だ った。賛成 271 票、反対 262 票というわずか 9 票の差であった。民主主義社会だから侵 略戦争を起こさないという議論は成立しない。民衆や政治家が自国に利益があると思え ば、侵略戦争は今でも起こる可能性はある。 英国議会の反対派は、 「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的な不名誉となる戦争を、私はかつて知ら ないし、読んだことさえない」 と演説している。 現在でも、英国帝国戦争博物館にはこの阿片戦争の展示は一切ないし、博物館内のネ ットで阿片戦争を検索しても、何もヒットしない。英国民も忘れたいほど不名誉な戦争 であったことは間違いがない。 パーマストン英国外相は、英国民の生命と財産の安全が脅かされているということを 出兵の理由に挙げている。欺瞞である。印度の植民地維持と清の支配のために、武力を 用いたのである。世界史上、最も恥ずべき戦争である。 英国艦隊は、英国民の生命と財産の安全が脅かされているのが広東であるにも関わら ず、広東を素通りして北上し、杭州湾沖の周山(しゅうざん)列島を占領し、さらに北 上して天津沖に現れた。朝廷は恐慌に陥り、慌てて林則徐欽差大臣を解任してしまった。 愚かな決定といわざるをえまい。阿片撲滅のために蛮勇を奮えとさとした道光帝でさえ、 英国艦隊を前にして動揺してしまったのだ。 後任の欽差大臣に任命されたのは、琦善(ちしゃ)だった。彼は相手のご機嫌をとる ような姿勢で臨んだ。英国の最大の要求は香港の割譲であった。当時マカオはポルトガ ルに割譲されていなかったが、ポルトガルはマカオを植民地とみなし、総督を派遣して いた。清国もマカオの長官を派遣し、両者はことを荒立てないようにやっていた。琦善 は、香港を第二のマカオにできないかと考えていた。朝廷に対しては香港を英国に割譲 していないと報告し、英国に対しては実質支配を認めるというやり方である。琦善は、 暗に割譲を認めるという「暗割(あんかつ)」で事態の打開を図ろうとしたが、英国は 明文によるはっきりした割譲、つまり「明割(めいかつ)」を要求してきた。広東での 交渉の実情を知った道光帝は、琦善に交渉の打ち切りを命じた。そこで、英国側はすべ ての要求が拒否されたという理由で、武力行使に踏み切った。 そして、英国は有利な戦いを背景に、欽差大臣が口頭であろうが、香港の割譲を約束 したのだから、割譲は既定であるとし、香港の領有を宣言した。 琦善欽差大臣は罷免され、北京に帰って裁判にかけられた。かろうじて処刑だけは免 れた。清国にとってみると、無能な琦善が香港割譲の最大の責任者であろう。 その後、英国艦隊は中国各地を攻撃し、長江に侵入し、鎮江(ちんこう)に達した。 占領地では、英国兵士は、殺人、略奪、淫虐の限りを尽くした。恐怖政治を行い、清朝 を屈服させようとしたのである。ついに、皇帝は屈服し、南京条約を締結させられるこ とになる。これにより、英国は香港の割譲、没収された阿片の賠償を得たのみでなく、 英国商人は清国の誰とでも自由に通商ができるようになった。別の言葉で言えば、中国 植民地化の基礎が築かれたのである。その後、米国、仏国が相次いで中国と同様の通商 条約を締結し、中国は西欧列強による半植民地化の道を歩むことになる。 中国の中学 1 年生の歴史教科書にはどのように記されているのであろうか。少し長く 92 なるが翻訳し、引用してみたい。 林則徐は虎門で阿片を焼却した 18 世紀の末期から、清の国力は衰退し、人民の反抗があちこちで起こった。その頃、 英国は既に強大な資本主義国家に発展し、海外市場を開拓し、商品を売りつける必要が あった。英国は東方の古い大国中国を狙った。英国の商人は毛や綿織物を中国に送り、 売るつもりだが、なかなか捌け口がなく、かえって大量の銀を払って中国から茶とシル ク製品を買った。こういう赤字の状況を変えるために、英国は卑劣な手段を取り、中国 に阿片を密輸し、暴利を貪った。 阿片の大量輸入は中国に深刻な災難をもたらした。 阿片の密輸の増加につれて、阿片の危害は東南沿海一帯から内陸の十数省に拡大した。 1835 年の統計によると、全国に渡って阿片を吸う人数は 200 万に達した。 阿片の害によって、大量の銀が流出し、国庫の銀準備は不足になった。政治が益々腐 敗し、軍隊の闘志も緩慢になった。大臣から庶民まで、多くの人は阿片中毒になった。 社会の風習は堕落し、民衆の心身ともに踏みにじられた。「一本のキセルは多くの英雄 豪傑を血見えずに殺した。一つの灯火は屋敷や土地を灰燼見えずに焼却した」。阿片が 中国人民に犯した罪は数え切れない。 阿片の重大な危害に対して、湖広総督の林則徐は厳重な禁煙を主張した。彼は道光帝 に上書し、阿片厳禁は一刻も猶予できないと非難した。放任すれば、数十年後「中原に は戦う兵士がなくなり、俸給の銀もなくなる」と指摘した。間もなく、道光帝は林則徐 を欽差大臣に任命し広東に派遣し、阿片の取締りに当たらせた。 1839 年 3 月、林則徐は広州に着くと、すぐに阿片の取締りを果断に実行した。彼は 外国商人たちに命令して買いだめしていたすべての阿片を提出させ、さらに今後、一切 阿片を密輸しない旨の誓約書の提出を要求した。 6 月 3 日、彼は没収した約 200 万斤 (1000 トン)の阿片を虎門の海岸で焼却処分するよう命令した。 林則徐は部下に命じ、虎門の砂浜で長さ、広さそれぞれ 15 丈の大きい池を掘らせた。 焼却の時、まず海水を池に導入し、阿片を池に投げ、水に浸した後生石灰を池に投入す るとすぐ沸騰水のようになった。阿片を溶解させるように鉄の鋤でよくかき混ぜ、引き 潮になると、水門を開けて潮水とともに海に流した。阿片の焼却は 20 日以上も続いた。 毎日、歓喜に満ちた人の群れは潮のように虎門に押し寄せた。 虎門の阿片焼却は国内外を震撼させ、中国人の侵略に抵抗する強い意志を見せつけ、 中華民族の尊厳を守った。林則徐は民族の英雄の名に恥じない。 国境が開けられた 中国の阿片焼却のニュースがロンドンに伝わった後、英国政府はこれを口実にして侵 略戦争を発動した。1840 年 6 月、英国の艦隊は広東周辺の海域へ赴いて戦争を挑発し たことで、阿片戦争が勃発した。広東沿海から侵入した英国の侵略者は中国軍隊や民衆 の勇敢な抵抗にあった。広東水師提督の関天培、定海鎮総兵の葛雲飛、鄭国鴻、王錫朋 が国のために戦死し、中華民族が侵略に抵抗した慷慨の悲しい歌を歌いあげた。 1841 年の初め、虎門に危険が迫っていた。還暦の年を超えた水師提督関天培は国の ために身を捧げる決意を固めた。彼は自分の落ちた歯、古い服、一つまみの髪を木箱に 入れ、故郷に運ばせ、親戚との決別を示した。英国軍隊は虎門の砲台を激しく攻撃した。 関天培は負傷し血染めになったにもかかわらず、落ち着いて軍隊を指揮し、自分で大砲 に点火して戦った。英国軍は上陸して砲台を包囲した。関天培は先頭に立って敵と取っ 組み合いになり、衆寡敵せずに砲台を守っていた 400 人余りの中国人兵士は全員戦死し た。 定海は美しい舟山群島にあり、自然の海防の重要地点で、中国を東から守った。定海 93 の地理的位置は非常に重要なので、英国の侵略者はやっきになって長く定海を狙ってい た。1840 年 7 月、英軍は艦船 20 隻と 4000 人をもって舟山に大挙して侵入し、定海を 占領した。舟山の人民が奮戦して抵抗し、陣地を固めて地上物を敵に利用させないよう に取り除き、水源を汚したことで、英軍は新鮮な食物や衛生的な飲用水がなく、疫病が 流行し、死亡人数が十分の一を超えた。 1841 年 2 月、家で喪に服した定海鎮総兵の葛雲飛は戦いに参加し、増援に来た処州 鎮総兵の鄭国鴻、寿春鎮総兵の王錫朋と一緒に兵を率いて失地回復を勝ち取った。同年 の秋、英軍は再び舟山を攻め、三人の総兵は英軍を迎撃した。喪服を着た葛雲飛は陣地 の兵士の前で「ずっと城と一緒、定海に離れずに必死に戦う」と誓った。戦いは六日連 続し、大砲から肉弾戦まで行い、最後に三人の総兵と兵士 5800 人は全員戦死した。今 日、舟山阿片戦争遺跡公園に「三忠祠」があり、総兵三人の彫像が山の頂上に聳え立っ ている。三本の剣は空を刺し、祖国を守っている。 清はやむなく屈服して講和を求め、阿片戦争が終結した。1842 年 8 月、南京水面の 英国軍艦で、両国の代表は屈辱的な『南京条約』に調印した。主な内容は:香港の割譲、 賠償金 2100 万元銀貨の支払い、広州、アモイ、福州、寧波、上海の五港の開港、英国 商人の貿易貨物税の協議、つまり自由貿易の承認。これは中国近代歴史上の初めての不 平等条約である。その後、中国の門戸が開かれ、主権や領土が完全に破壊され、中国は 封建社会から一歩一歩半植民地・半封建の社会に変わった。阿片戦争は中国近代歴史の スタートであった。 英国の卑劣さと中国人民が如何に勇敢に戦ったかを感情を交えながら述べている。実 際には敵前逃亡した将軍もいたが、そのような事実は恥ずべきことであるので一切触れ られていない。中国人民はすべて愛国者であるべきと考えられているからである。それ にしても、英国が一方的に始めた阿片戦争には一切正当性がないことは明らかである。 2009 年 3 月 2 日、ノーベル賞学者の野依理化学研究所理事長は北京で、万鋼中国科 学技術部長(大臣)と会見し、アジアが抱えるエネルギー不足、食糧不足、環境破壊、 食品安全などの問題解決のために、日中両国の科学技術大国が協力し合っていくことが 必要であるとの認識で一致した。野依理事長は、原理の追及という西欧型の科学技術か ら問題解決に直結するアジア型の科学技術への転換を促し、アジアの時代をともに切り ひらいていこうと主張したのである。万鋼部長は同意すると発言している。 だが、科学技術はもはや“経済の奴隷”であってはならないとする野依氏と科学技術 は経済発展の原動力とする中国政府との認識の差は残っている。さらに、日本人は欧米 対アジアという図式で世界を捉えがちであるが、中国人は中国とその他世界という設定 で発想する。両国の世界認識が異なっているため、日本人が唱えるアジアの時代の意味 が中国人に理解されにくいのではないかと思う。さらなる議論が必要である。 林則徐の話に戻ろう。 彼は広東在任中に、外国に関する法律、新聞、雑誌などを翻訳させて読んでおり、海 外の状況を的確に把握していた。これらの資料はのちに友人の魏源(ぎげん)に贈られ、 魏源は大著『海国図志』を上梓した。「外国の特技に学んで外国を制する」というのが 『海国図志』の主旨だった。つまり、西洋化への転換を促したのである。この書物は日 本にも伝えられ、幕末の志士吉田松陰、橋本佐内、西郷隆盛などが熱心な読者となった。 清国の惨状や海外の情勢を理解した志士は、明治維新へと突き進むのである。林則徐が 日本の近代化に及ぼした影響は決して小さくはない。 林則徐は新疆イリに追放され、原野の開墾事業を援助している。その後、帰京を許さ れ、各地の巡撫(じゅんぶ)や総督で活躍する。病気が悪化し、1849 年に一度辞職が 受入れられるが、1950 年に洪秀全の太平天国の乱が勃発すると、再び欽差大臣を命じ 94 られる。任地に赴く途中病死した。享年 66 であった。清国は最後までこの優秀な人材 に頼らざるを得なかったのである。林則徐欽差大臣が解任されなければ、中国の近代史 は大きく変わっていたと考える中国人は少なくない。超現代化への突き進んでいる現在 の中国。地方政府の役人は賄賂で堕落している。優秀で清廉潔白な第二の林則徐の登場 は中国国民の願望であるに違いない。 95 実験小学校の授業風景 北京市内の大使館街は静かである。その近くで和平実験小学校 6 年生の歴史の授業が 始まろうとしている。中国語の“実験小学校”とは、エリート校を指す。優秀小学校と 名称すると、国民の反発を招くので、“実験”小学校と呼ばれている。国民の妬みは怖 いので、政府が配慮しているのはどこでも同じである。 ベテランの胡召民(こしょうみん)先生が口を開いた。 「今日は、日本のことを勉強します」 教室がざわついた。 「先生、日本のことを勉強して何の役に立つのですか」 「日本人は秦の皇帝が不老不死の薬を探すために送り込んだ 3000 人の男女がもとでで きた国でしょう。日本人は中国人を祖先にしていて、文化も技術もすべて中国から導入 したのでしょう」 そうだそうだ、と数人の男子生徒が叫んだ。 最前列の最も成績のいい王明明が立ち上がって、 「日本はものまね国家です。中国から何でも学んだコピーの国です。現在なぜひとつの 国なのか理解できません」 別の子が立ち上がって興奮気味に大声で発言した。 「私は日本が中国を侵略し、大勢の人々を殺したことを許しません。中国は多くのこと を日本に教えてあげたのに、日本人はまったく感謝していません」 胡召民先生がこれ以上の発言を遮って、 「日本は現在先進工業国と言われていますが、すべて海外から知識や技術を導入し、そ れを元に工業製品を作り、世界に輸出しているのです」 ずるいずるいと、また騒がしくなった。 「日本は中国の1つの省の人口と面積しかないのでしょう。なぜ、そんなところがひと つの国家なのでしょうか」 今度は、いつもは大人しい生徒が高いトーンで発言した。 胡召民先生は、「皆さん日本のことをよく知っていますね」と褒めつつ、これ以上議 論がエスカレートすることを恐れているようだ。 「では、授業を始めます」と前置きして、話し始めた。 「中国はアジア大陸の文明を形成してきました。文明は中国から発生し、野蛮な周辺国 に広がっていきました。北方民族、朝鮮、日本、ベトナムなどは文明の栄光を享受する ことができたのです。中華民族の身体には想像性豊かな血が流れているのです。周辺国 は模倣が得意な民族です。黄河文明と長江文明を源に持つ中華文明は漢民族が発展させ たものですが、北方民族や朝鮮民族やチベット民族やベトナム民族も融合してきました。 1840 年の阿片戦争以来、中国は欧米諸国や日本に侵略され、蹂躙されました。中国は 一度も海外を侵略したことがない(「嘘言え」という筆者の声。だが、彼らには聞こえ ない)にもかかわらず、彼らは中国を侵略したのです。この戦争以来、1949 年の新中 国の設立までの 100 年間は中国の歴史にとって最も屈辱的な時代です。日本は中華文明 の恩恵を受けているにもかかわらず、中華文明を侵略、破壊しようとしたのです。恩を 仇で返すというのが日本人の本性です。 皆さん、決してこのことを忘れてはいけません。現在、中華の復興を目指して偉大な 中国の時代に戻ろうとしています。皆さんの時代には、中国は以前のような世界で光り 輝く国になります。一生懸命に勉強し、それに貢献して下さい」 生徒達は静まり返って、一言も聞き漏らすまいと先生の説明に耳を傾けている。 すると、王明明が手を上げて質問した。 96 「日本が中国を侵略したのは、中日戦争前の過去にも沢山あったと思いますが」 「そうです。明明はよく知っていますね。記録に残っているだけで少なくとも2回あり ます。明代末期の倭寇は沿海部の都市や運行する船を荒らしました。悪いやつらです。 日本人の学者には、倭寇の大半は中国人だったと主張していますが、これは彼らの捏造 です。中日戦争時の南京虐殺についても日本の歴史学者は虚構だと言っています。彼ら は謝罪するどころか、虐殺がないとさえ言っているのです。30 万人の市民が殺害され たのですよ。日本人は歴史を捏造する民族ですので、よく覚えておきましょう。 また、幕府の将軍であった豊臣秀吉は朝鮮半島を侵略しています。明朝は大軍を朝鮮 に派遣して、退けました。豊臣秀吉の目的は中国を乗っ取り、皇帝になろうとしていた のです。日本人に心を許してはいけません。彼らはひとの前で自分の意見を言ったり、 余り話をしたりしません。しかし、ひとの言うことにしっかり耳を傾けていて、何かも のまねができないかとそればかり考えています。また、工場の見学に行き、重要なハイ テクの溶液を見つけると、こっそりとネクタイをそのなかに垂らし、帰ってから溶液を 分析するのです。日本人は賢い民族ではありませんが、ズルイですので油断してはいけ ません」 先生が話し終わるや否や、ひとりの生徒がすっと立ち上がり、 「中国人は平和を愛する民族で、日本は好戦的な民族と思います」 と言うと、教室中から拍手が湧いた。 先生は続けて話した。 「そうです。中国人は平和を愛してきた民族です。宋代の三大発明を知っていますね。 印刷技術、火薬、羅針盤です。中国人はこれらの技術を経済の発展のために使用しまし た。しかし、宋代にこれらの技術はイスラム商人によってヨーロッパに伝えられ、ヨー ロッパの近代化の基盤になったのです。ヨーロッパ人はこれらの技術を戦争の道具とし て利用しました。羅針盤はアジアやアフリカへの航海として利用し、火薬は鉄砲や大砲 として利用し住民を殺し、植民地を拡大してきました。ヨーロッパ人も非常に好戦的で す。中国は十数カ国と国境を接していますが、いつ敵国が攻めてくるか分かりません。 軍事費を増大し、中華文明と中華民族を守らなければなりません。いつも注意深く、外 国人の動向を監視する必要があります」 「先生、質問があります」とひとりの生徒が手を上げた。 「日本人は賢くないのに、なぜ中国よりも豊かですか」 先生は、「いい質問ですね」と言いながら、どう答えるべきか考えているようであっ た。 「米国は中国と直接対峙したくないため、日本を盾にしています。その見返りとして、 米国は日本製品を購入しているのです。そのために、日本経済は発展し、一瞬の繁栄を 享受しています。日本は米国の了解なしには何も決められない国家なのです。米国の属 国みたいなものです。米国帝国主義は必然的に衰退しますので、日本も米国とともに衰 えていきます。もうすぐ、日本は世界の歴史から忘れ去られるでしょう。そうなったと き、中国のひとつの省として暖かく迎えてあげましょう。大和族は中華文明の繁栄の恩 恵を受けて、再び栄えていくことになります。それが文明の中心国としての義務です」 授業時間が終わろうとしている。 「最後に、今日の授業に対する皆さんの感想を聞きたいですね」 と先生が発言を促した。 生徒は口々に発言した。 「日本はやっぱり、たいした国ではないな。将来留学するとしたら米国を選びます」 「日本人は米国帝国主義に洗脳されているみたい。はやくマインドコントロールを解い てあげたいです」 97 「今日の授業を聞いて、中華文明の偉大さを再認識しました。日本人ではなく、中国人 に生まれてほんとうによかったと思います」 授業終了のベルが鳴った。 級長が大声で言った。 「起立!」 生徒たちは一斉に立ち上がり、「先生、ありがとうございます」と叫んで、深々と頭 を下げた。一糸乱れぬ動作だった。 胡召民先生は満足そうに教室を出て行った。 最後にお断りするが、以上の物語はフィクションである。騙されましたか? でも、一部の日本人はこのような教育が行われていると思っているようだ。そんなこ とは決してないのだが。 98 日本とここが違う中国の「歴史」教科書 中国政府は日本の歴史教科書をよく読んでおり、内容の書き換えなど“不穏な動き” があれば、強烈に抗議をしてくる。その度に、日本のマスメディアが騒ぎ、野党が同調 し、政府が謝罪したりして、事態の沈静に努める。日本の保守家勢力は自虐的歴史観を 改め、母国の歴史と伝統に誇りを持ち、祖国と郷土を愛する日本人を育てるべきだと主 張する。一方で、両国の歴史認識の“刺(とげ)”を抜くために、日中間の歴史学者が 集い、両国の学生が学ぶに適した“客観的”な歴史教科書の作成を検討している。 歴史観は国家のアイデンティティーに深く関わる問題であるので、非常に重要である。 筆者の考えを先に述べると、各国は独立している限り、独自の歴史観を持っているため、 隣国が共通の歴史観を有することは不可能である。隣国の境界線を破る戦争は、侵略戦 争とも言えるし、抑圧民の解放戦争とも、聖戦とも呼ぶことができる。立場や価値観の 違いによって、その戦争の歴史的意味は異なってくる。 その意味から、隣国が共通の歴史観を持つ歴史教科書を作成することは大きな困難が 伴う。仮に、共用の教科書が出来たとしたら、それは事実を述べただけのつまらないも のになるであろう。ただ、日中関係の将来を考慮すると、日中の歴史学者の議論を通じ て、相手の歴史観からその論理や価値観を学ぶことは可能である。相手国の立場が認識 できれば、少なくとも誤解に基づく紛争や衝突は避けられるはずである。 一方、多くの日本人は中国の歴史教科書には“偏向”があると思っている。しかし、 どのような価値観に立ち、具体的にどんな記述がなされているかは余り知られていない。 相手の教科書の内容を知らないから、抗議しようとしても抗議ができない。無論、相手 の欠点や瑕(きず)をとやかく言うのは、日本人の美徳に反するのでやろうとする人は 少ない。行動を起こすかどうかはともかくとして、中国の歴史教科書の内容を知ってお くことは非常に重要である。 このような発想のもとに、北京市義務教育課程改革実験教材「歴史」中学 1 年生(北 京出版社、北京師範大学出版社)の内容について論評することにした。 1. 読みやすい工夫 社会主義国の教科書でるため、文字が多く、読むのに骨が折れると思っていたが、写 真、図、絵などがふんだんに使われているばかりでなく、エピソードも挿入されていて、 学生が取っつきやすい工夫が施されている。中国でも、一般に若者には歴史の勉強は古 臭く思えて、人気がないので、学習意欲を持たせるために配慮しているようだ。 2. アヘン戦争以降の記述が半分 中国の歴史は長い。西洋の歴史観による大まかな時代区分は、古代、中世、近代であ る。教会が支配した時代を中世と呼び、市民革命以降を近代と称しているために、この ような区分になっている。中国にも、日本にもキリスト教による支配の時代がなかった ため、自国の歴史をこのような時代区分にすることは不可能なはずである。 中国では、西洋流の時代区分を避け、古代と近代に大別している。近代の始まりは、 英国の侵略戦争とも言えるアヘン戦争である。これが原因かどうかはっきりしないが、 中学1年生の歴史教科書の上巻と下巻に別れており、下巻は英国の中国侵略から始まる。 つまり、明示されていないが、上巻が古代で、下巻が近代という分け方である。ただ、 アヘン戦争の勃発は 1848 年であるので、近代の記述の比重が非常に増すことになる。 陳舜臣著の『中国の歴史』全 7 巻では、アヘン戦争以降の近代史は最後の第 7 巻のみで ある。つまり、古代と近代の比率が 6 対 1 である。通常の書き方をすればこのような比 率になるように思われる。アンバランスな教科書とも指摘することもできる。 99 なお、今回の論評は上巻の古代史を対象とすることにした。 3. 北京原人の出現 北京原人の発見場所の周口店は世界文化遺産にも登録されており、中国人の誇りであ る。多くの中国人は北京原人が現代中国人の直接の祖先と考えている。北京原人は猿人 であり、現代人へとつながる新人類ではない。つまり、北京原人は中国人の祖先ではな いのだが、そのような記述はない。政府の意図的なミスリードではないかも知れないが、 新人類はアフリカ起源であるという科学的事実も合わせて真実をきちんと教えるべき である。 4. 黄河文明と長江文明 長江流域の河姆渡(かぼと)や半坡(はんぱ)で農耕遺跡が発見されると、長江文明 が注目されるようになってきた。従来、黄河文明が中国の正統な文明と考えられてきた が、長江文明の意義が中国でも見直され、それを反映するように、この教科書でも中華 文明の基礎は黄河文明と長江文明と記述されている。 ただし、黄河文明には文字の形での記録が多く残されているため、黄河文明の価値観 に立った歴史の記述にならざるを得ないという宿命を中華文明は担っている。中華の中 心の「中原」は黄河中流域であると長い間言い伝えられてきたのは、そのような記録に 基づくものである。 長江遺跡の発掘調査が進み、長江文明から見た黄河文明とは何かという視点が中国人 に芽生える時、中国人は歴史観を一層深化させることになろう。そのときには、中華思 想の根源である華夷思想にも何らかの変異がもたらされることであろう。 5. 伝説と歴史 どの民族も起源である伝説を持つものである。また、伝説のなかにこそ、民族のアイ デンティティーが隠されているため、為政者は民族の求心性を増すために、伝説を教科 書に記載したがるものである。 日本は第二次世界大戦で負け、皇国史観が否定されたため、教科書には伝説は書くべ きでないという考えが広がり、歴史として実証される記述から日本の歴史は始まってい る。意図的かどうか分からないが、日本の歴史は、隣国の書物である『後漢書』の倭国 の記述から始まる。国の起源が自国の書物や遺跡でなく、別の国の書物に依存するのは どうかと筆者は思う。歴史とは事実を優先するのか、歴史観を優先するのかによって編 集の仕方が異なってくるはずである。 中国の教科書ではどうか。中国ではむかしから三皇五帝の言い伝えがある。この教科 書では、伝説と断りながら、五帝の黄帝(こうてい)が炎帝(えんてい)と同盟を形成 し、他民族を滅ぼし華夏の祖先になったので、世界中の華人は自ら「炎黄帝の子孫」と 認識していると記述されている。実は、炎帝は阪泉の野で黄帝との戦いで大敗をきして いるが、それについては触れられていない。「炎黄帝の子孫」というイメージが破壊さ れるからであろうか。 歴史の記述をどこから始めるかは大きな課題である。司馬遷は『史記』で、五帝から 記述しているので、この教科書でも黄帝から書き始めているのかも知れない。 五帝の最後の二人が堯と舜で、最初の王朝の夏を開いたのが禹と書かれている。実在 したという記述である。この点については、中国の歴史学者と外国の歴史学者の間で考 え方に大きな隔たりがある。海外では、堯と舜は伝説上の人物であり、禹の存在も疑わ しいとされている。 また、夏についても、中国の歴史家は遺跡(河南省二里頭遺跡)が発見されており、 100 疑うべくもないとしているが、海外ではその存在を断定するには証拠不十分としている。 どの国でも、祖先の起源を遠い過去に求めるのは自然のことであろう。それ自体は否定 できないが、学問上の論争は客観的であるべきだ。自然科学と異なり、実証のコンセン サスが取りにくい人文科学では議論は平行線になる傾向にある。 議論を元に戻すと、伝説と歴史の両方を学生に教えるのか、それとも、歴史のみを教 えるのかは、著しく政治的な課題である。少なくとも、その判断において、別の国がク レームをつける筋のものではない。 6. 貫かれている中華思想の一方で、漢民族と少数民族の融合を強調 どの民族も自分らは平和を愛する善良な民族で、周辺の野蛮な民族に侵略されたり、 略奪されたりしてきたと考えがちである。ソウル市の「軍事歴史記念館」の歴史の説明 は、韓国の歴史は、周辺の中国、モンゴル、日本からの侵略に対する民族闘争の継続で あると言わんばかりである。隋の煬帝の朝鮮侵略の失敗が原因で隋は滅んだと記述し、 朝鮮民族が豊臣秀吉の大軍といかに戦ったかを褒め称えている。 さらに、高句麗のみでなく、渤海国も朝鮮民族の祖先の国であると韓国(恐らく、北 朝鮮も)が主張し、中国政府との間で歴史認識問題を生じている。中国から見ると、高 句麗も渤海国も中国国内の地方豪族の政権であるという認識である。瀋陽の遼寧省博物 館でもそのように記述されている。 中国の歴史教科書の話に戻ると、漢民族は北方民族からの侵攻で略奪を受けたという 記述が目立ち、中華文明を守るためにやむなく北方や西域に兵を出したとの印象を受け るように書かれている。漢民族は平和を愛する民族であると国民に浸透させているよう に見受けられる。冷静に考えれば分かることだが、漢民族だけが平和を愛する民族であ ると考えるのは不自然である。欧米人も日本人も己の生存と勢力拡大に懸命に生きて来 たのである。世界平和という概念はフロンティアが消失した著しく現代的なものである。 中国の周辺国は中国の拡張姿勢に戦線恐々としていることが中国人に理解されていな い。 また、幾多の戦いによって、漢民族は少数民族と融合し、お互いの特徴が生かされ文 明が高められていったとしている。漢民族による少数民族の征伐という露骨な表現はさ れていない。これは多くの少数民族を抱えるなかで、漢民族が優秀性であるとの記述は 憚られたのであろう。しかし、周辺民族が中原の文明に憧れていたという記述は随所に 見られる。 実際の歴史は、生きるか滅びるかの血生臭い戦いの連続であったはずである。教科書 からは、平和的な歴史の進展しか伺われなくなり、学生はかえって歴史のダイナミズム から何も学ばずに、歴史に関心を失う恐れがあるのではなかろうか。 なお、最近の研究では隋と唐の王朝には鮮卑族の血が色濃く入っていると指摘されて いるが、教科書には隋と唐は当然漢民族の王朝としているため、このような説には一切 踏み込まれていない。 7. 皇帝の座を巡る醜い争奪戦が描かれていない 中国の皇帝は全ての権限を一人で掌握していると言っても過言ではない。天下の全て が皇帝個人の私有物のようなものである。そのため、皇帝候補にとっては、皇帝になる かどうかが非常に重要である。当然、その座を巡り醜い争奪戦が繰り広げられている。 兄弟や親子が殺しあったり、貶めたりすることはむしろ当然なことであったと思われる。 外戚も簒奪できないかと常に機会をうかがっていた。 皇帝の権限が絶大であるため、官僚や宦官はその権威を利用して、権益の拡大を図ろ うとした。官僚と宦官との争いも頻発している。ところが、これら皇帝の権力周辺の醜 101 い争いがほとんど教科書に記述されていない。皇帝制度は中国歴史の最大の特徴であり、 皇帝の為政者としての能力や人格がその王朝の命運を決定つけてきた。名君か暗君かで 庶民の生活にも多大な影響が及んだ。 皇帝の座を巡る醜い争いは、中国の歴史の本質に迫る問題であるので、是非その例を 示し、中国人の生徒にその理由を考えさせる授業が必要ではなかろうか。歴史が暗記科 目と捉えている間は、過去の失敗から何も学ぶことができない。 8. 朝鮮やベトナムへの侵略の記載がない 北方や西域への出兵は書かれているが、漢武帝、隋煬帝などの朝鮮やベトナムへの侵 攻の事実は書かれていない。朝鮮やベトナムは中国に千年も統治されたことがある。筆 者はハノイのある古い寺院を訪問した際、科挙の合格者の氏名が漢字で石碑に残されて いるのを発見して、驚いたことがある。当時、ハノイは中華文明の支配下にあったので ある。 このような記述がないのは、現在の朝鮮やベトナムに対する配慮とも考えられるが、 同時に自国民に対して中華民族は平和的な民族であるという印象を植え付けるためで はないかと、筆者は想像してしまう。歴史上、欧米も日本も侵略国家であったが、中国 だけは違うという歪んだ歴史観を中国国民に教え続けると、間違った方向に国を導くの ではないかと心配する。どの国や民族にも穢れた歴史があり、それを繰り返さないよう に努力していると教えた方が健全である。中国が世界と協調して生きていくためにも、 世界共通の認識に立って歴史を編纂すべきであろう。 また、中国では食人肉の習慣は古代だけでなく、近代まで行われていたが、この記述 もない。筆者は想像性を逞しくして、近代の夜明けに白話文を生み出した魯迅が『狂人 日記』で食人肉の習慣を中国後進性の典型例として、鋭く批判したためではないかと思 っている。当時と現代とでは価値観が異なる。人肉を食して悪いというのは現代的価値 観であって、古代人の精神を正確に理解しようとすると、厳粛な事実に直面せざるを得 ないのである。歴史を学ぶことはその当時の人々の生き様を知ることであり、それは現 代を相対化してみる鑑識眼を養うことでもある。現代人の考えが普遍的でないと知るこ とから、人類の未来の構想が湧いてくる。 中国人は米国のイラクやアフガニスタン介入をひどく非難する。自分たち中国人は世 界平和を希求する平和的な民族だと信じているように見受けられる。これが愛国教育の 一つの成果だとすれば恐ろしいことだ。国際社会は異なる価値観を持つ国々の競争と共 存の場である。各国は自国と他国の相違を客観的に理解し、どうすれば共存できるかを 模索しており、歴史教育はこのような基本的な発想に立って編集されるべきであろう。 複雑な人類社会の生存戦略を描くには人類の最高の英知が必要である。善と悪に単純に 区分する発想は、自国だけでなく他国にも大きな損害をもたらすことになるであろう。 9. 倭寇の意外な記述 日本のことを悪く言いたがる中国であるが、明時代に、沿海域を荒らしまわった「倭 寇」については、「中国の密貿易の商人や不法や有力者とぐるになって・・・」と、中 国人の関与を認めている。中国の歴史書の記録にもあるように、後期倭寇のほとんどは 中国人であったのが事実である。上記の記述は中国人の犯罪も認めた点で評価できる。 翻って考えると、明の初期、鄭和が東アフリカまで遠征するなど中国人の意識は外に 向いていたが、皇帝が代わると急に鎖国体制を敷いたのが倭寇発生の元凶である。自由 な貿易活動を認めなければ、海賊がはびこるのは当然の成り行きであろう。 10. 台湾とチベットは固有の領土 102 台湾の記述は以下のとおり。 「台湾は昔から中国の領土である。明の末期、オランダの植民主義者は明の沿岸防衛が 緩んでいたのに付け込み、台湾を占領し、自分の植民地にした。1662 年、民族英雄の 鄭成功はオランダ植民主義者を負かし、台湾を回復した。オランダに不法占拠された 36 年後、台湾は中国に復帰した」 「台湾は昔から中国の領土である」と書いてあるが、いつからかは明示されていない。 中国という国が認識されたのは、ずっと後になってからであり、このような記述は意図 的かどうかは別としても、誤解を学生に与える。少なくとも秦の始皇帝が天下を統一し た時には、台湾は天下の一部とは考えられていなかったはずである。文明の光が差す中 原地域から野蛮な地域への拡張が中国の歴史であるとするならば、中国の領土は古来か ら画定したものではないはずである。 今後領土が縮小することがあるか予測はできないが、民族のエネルギーが内側に向か うとき自壊するのではないかと思える。中華文明の運命が膨張にあるとすると、こんな に危険な国はない。中華文明は華夷思想から始まったが、北方民族のエネルギーを取り 入れて文明の寿命を延ばしてきた。モンゴル族や満州族に中華の支配権を委ねて、領土 を拡張しつつ、少数民族を取り込んできた。この時点で、華夷思想の限界にぶつかって いたのであろう。漢民族は中華民族と名前を変えて、周辺への影響力を強めている。21 世紀には、海外の資金と技術力を吸収しつつ、世界帝国への道を歩む可能性があるかも 知れない。しかし、人類の生存が危ぶまれるなかで、一国膨張主義は世界との間で深刻 な摩擦を生じるであろう。世界に貢献する新しい中国の誕生を期待する次第である。 教科書からチベットに関する記述を引用しよう。 「吐蕃(とばん)族はチベット族の祖先で、大昔からチベット高原に生活していた。 7 世紀初期、吐蕃族の首領松賛幹布(ソンツィン・カンポ)はチベット高原を統一し、 都を邏些(今のラサ)に置いた。松賛幹布は中原の文化に憧れ、唐朝と婚姻を結ぶこと を何回も提案した。唐太宗は文成公主を彼に嫁がせた。 640 年、松賛幹布は使者の禄東賛に命じ、彼に 5000 両の黄金と数百件の宝物を持た せ、唐と婚姻を結ぶことを願って長安に行かせた。(中略) 文成(ぶんせい)公主の一行は長安から出発し、二年間の長い旅の苦労を経て、つい 吐蕃に到達した。松賛幹布は自ら軍隊を率いて文成公主を迎えにきた。文成公主は中原 地域の農具製造、建築、製紙、医学などの科学技術を持って行き、中原の紡績や刺繍技 術を吐蕃の婦人に伝授した。松賛幹布は貴族の子弟を派遣し、長安に詩経や書経の勉強 に行かせた。唐と蕃の関係は日々親密になってきた。 チベット医学は中国の伝統医薬学の一部である。伝説によると、チベット医学は3世 紀に出現した。文成公主と一緒にチベットに入った漢族の医者韓信杭(かんしんこう) は、吐蕃人のために医学書を吐蕃語に翻訳し、チベット医学を発展させた」 チベット族が唐との交流を望んだので、文成公主を嫁がせると同時に、先進技術や文 化を提供したという記述になっている。 また、1652 年チベットのダライは清の皇帝に朝貢し、翌 1653 年順治帝は彼に「ダラ イラマ」を授け、その後チベット駐在大臣を設立し、ダライラマと共同でチベットを統 治したと記述されている。 この時代には既に、チベットは中国の領土の一部になったという認識である。これら の記述をチベット族はどう考えるであろうか。 11. 日本は中国の模倣国 「唐朝時代、日本は何回も遣唐使や学問僧を中国へ派遣し、唐朝の制度や文化知識を学 んだ。これらの人々は帰国した後、積極的に唐の文化を宣伝し、日本社会の改革を推進 103 した。日本の古都の平城京は唐朝の長安城をまねて造ったものであった。 その時、日本は唐朝をまねて中央集権制度を確立し、儒家学説や仏教文化を提唱した。 日本は元々文字がなく、結縄で事柄を表現していた。唐の時代、日本人は漢字をまねて 文字を作り出した。日本人の生活において、唐服を着て、唐式のお辞儀をし、唐の食器 を使用し、唐の音楽を聞き、踊りを観賞するのが流行った。 唐の時代、日本の僧侶は唐朝の鑑真和尚の学問を敬慕し、彼を誘い、日本へ仏法の伝 播に行かせた。鑑真は十年間に五回日本へ渡海しようとしたが、全部失敗し、両眼も失 明した。六回目にようやく成功裏に日本に着き、大歓迎を受けた。 鑑真は日本で十数年間生活し、仏教を広く伝播した。彼によって、唐の建築芸術や医 薬学などの文化が日本に広く伝わった。鑑真が参加して修築した唐招提寺は、現在まで 完全に保存された」 教科書の古代における日本の記述はこれだけである。一読すると分かるが、日本は唐 の文化をまねてすべてを作ったかのような印象を読者にもたらす。中国人の日本に対す る認識はこのようなものであると判断できる。もちろん、日本人は、唐の先進文化を学 びつつも、日本に合った文化へと昇華させていったのであるが、彼らの目にはそれが映 っていない。日本の独自性と強さは、中国や西洋から優れたものを学びつつも、日本の 本質に合わせるべくたゆまない改良を重ねてきたことである。中国人やアメリカ人に何 と思われようが、日本人はこの特性を磨いていくべきである。 12. 塗炭の苦しみを経験した近代中国 前に書いたように、「歴史」教科書の後半は阿片戦争から始まる。近代史の記述が長 いのは、現体制の正当性を謳う必要があるためと考えられる。後半の出だしはこうだ。 「中国の近代史の第一ページは屈辱から始まり、血と涙に満ちた歳月である。2度のア ヘン戦争、日清戦争、八ヵ国連合軍が行った侵略戦争では中国はすべて敗北した。主権 を失い、国を辱める条約を締結し、国土が占領され、人民が塗炭の苦しみを受け、中国 は一歩一歩半植民地・半封建の社会の奈落の底に落ちた。 中華民族がこの時に骨身に浸みた苦痛を炎黄の血を引く子孫は忘れてはいけない。 中国人民の侵略や覇権への抵抗も忘れてはいけない。 林則徐は虎門でアヘンを焼却、太平軍は外人傭兵部隊に抵抗し、左宗棠は新疆を復帰 させ、鄧世昌は殉国し、義和団が八ヵ国連合軍に抵抗したのは中国人の屈服しない精神 と侵略に反対する決意を表した。八ヵ国連合軍の最高司令官のワドルシは『欧米諸国で あれ、日本であれ、この世界人口の四分の一を占める大国を統治する知力や兵力がない』 と嘆いた。中国人民の抵抗は、強国たちが中国を分割しようとした望みを粉砕した。 古代の中華民族は輝かしい歴史を創造し、世界文明に貢献した。中華民族の復興を熱 望している人々は、近代歴史から何の教訓を汲み取るか、祖国のために自分は何をすべ きなのかを考えるべきだ」 列強国から受けた苦痛を書き、果敢に抵抗して戦った人民の勇気を賞賛し、中華民族 復興を熱望している。この発想が中国近代史教科書を貫く基本パターンであり、愛国主 義教育もこの延長戦上にある。客観的に歴史の事実を読み解き、複眼の柔軟な思考方法 を学生に身につけさせようという態度は感じられない。 19 世紀末に起こった義和団の運動は、教科書では「扶清滅洋」 (清を助け西洋を滅亡 させる)というスローガンを掲げて運動を起したので、「反帝国主義の愛国運動」と記 されている。しかし、宗教結社である義和団は民衆を惑わし混乱に落としいれ、また清 朝政府が保身のために、義和団運動を利用したのである。教科書で書かれているほど、 歴史は「法則」どおりに動いているのではなく、政治的勢力の駆け引きのなかで歴史の 動向が決められていく。 104 13. 南京虐殺の犠牲者数は 30 万人 中国人は日本軍が南京で 30 万人の同胞中国人を虐殺したと皆知っており、疑う者は いない。中国では議論の余地のない事実である。教科書には、「日本外相の広田弘毅が 30 万人以上の中国人を虐殺したと証言している」と書かれている。 南京虐殺の信憑性については、日本の学者の間でもかなり真剣に議論されているため、 ここで再度述べるつもりはないが、専門家には引き続き証拠に基づき議論していただく としても、両国は文化、経済、科学技術などの分野での交流を促進することが信頼関係 を築き、未来志向の関係へと発展していく唯一の道であると思う。 日本人は中国が嫌いな者が多いが、中国人は日本製品も日本のポップカルチャーも日 本の洗練された文化も、そして日本人も基本的に好きなのである。彼らの日本への片思 いを思いやる心があるかどうかが日本人に試されている。 105 中国の歴史を概観する 中国の長い歴史を概観し、その特徴及び現代における意義を考えてみたい。 中国の歴史がいつから始まるかを規定することは非常に重要なポイントである。中国 の伝説には三皇五帝の物語があり、五帝の最後の舜帝は禹に皇帝の座を譲り、禹から世 襲王朝の夏王朝が始まるとされている。 三皇五帝までは神話の時代と考えてよい。しかし、夏王朝が存在したかどうかについ ては、中国国内外で意見が別れる。中国の考古学学会は、洛陽郊外で二里頭(にりとう) 遺跡が発見されたのを根拠に夏王朝は存在したとしているが、日本や欧米の学者は証拠 が不十分として夏王朝の存在は実証されていないと主張する。夏王朝が存在したかどう かは今後の遺跡発見と研究を待つとしても、その後に起こった商(殷)の文明の成熟度 から考慮すると、商の前に何らかの文明が存在したことは疑うことはできない。ひとつ のまとまりのある王朝であったのか、それともいくつかの諸侯の街が並存したかのどち らかであろう。 中国古代史の時代区分を決定するために設置されたプロジェクト「夏商周断代工程」 では、夏王朝の期間を紀元前 2070 年から 1600 年と断定している。もし、夏王朝を中国 の歴史の始まりとすると、中国の歴史は 4000 年になる。 一方、出土した土器から、紅陶を基本とする仰韶(ヤオシャン)文化、その後の黒陶 を基本とする竜山(りゅうざん)文化が存在したことは明らかであるが、その移行期が 5000 年前と考えられている。中国の歴史は 5000 年というのは、これが根拠であるが、 仰韶文化の期間を加えると、中国の歴史は更に長くなる。 こうなると、「歴史」とはいったい何であるのかという、定義の問題になってくる。 人間が作った土器などの発見まで歴史を遡るのか、それとも文字による記述をもって歴 史の始まりとするのか、さらに現代のその国家の本質の原点までさかのぼって歴史の出 発点とするのかで、歴史の長さは随分異なる。土器などの発見に依存すれば、中国の歴 史は 7000 年以上ということになり、記述を重視するのであれば周王朝又は夏王朝から 数えることになり、歴史は 4000 年から 3600 年ということになる。だが、現代中国との 関係を重視するのであれば、秦の始皇帝による中国統一(紀元前 221 年)を起点とし、 中国の歴史は 2000 年ということになる。定義によってこれほど違ってくる。 そういう意味では、中国の古代史『史記』を書いた司馬遷は偉大といわざるを得ない。 司馬遷個人が中国の歴史を最初に書くばかりでなく、その後の歴史の有り様にも多大な 影響を及ぼしたと言えるからだ。皇帝たちは後世の「歴史」を意識しながら、国家の統 治を行ったのであるからだ。 さて、ここでは、これらの議論を前提として、始皇帝による中国統一の前と後で時代 を大きく区分することとする。始皇帝以降の歴史をみると、中国は統一と分裂を繰り返 す。大まかな時代区分は以下のとおりである。 王 朝 中国統一以前の時代 (紀元前 221 年:秦による中国統一) 秦、前漢、後漢 (220 年:後漢滅亡) 三国時代、五胡十六国、南北朝(北魏、宋) (589 年:隋による中国統一) 隋、唐 (907 年:唐の滅亡) 106 期 間 440 年 370 年 (分裂期) 320 年 五代十国、南北朝(金、南宋) (1276 年:元による中国統一) 元、明、清 (1912 年:清の滅亡) 中華民国、中華人民共和国 370 年 (分裂期) 640 年 100 年 このように中国の歴史を概観すると、以下のことが分かる。 まず、統一時代と分裂時代を繰り返している。分裂期間は、黄巾の乱が引き金になっ た漢滅亡後の三国時代、五胡十六国、南北朝の 370 年及び唐滅亡後の五代十国、南北朝 の 370 年。同じ期間であるのは偶然の一致か。一方、その他の統一期は合計 1500 年に なるので、分裂期 740 年と比較すると、2 対 1 の割合になる。なんと秦の統一後中国の 歴史の三分の一は、分裂期である。さらに、統一期の元代と清代は異民族による統一で あるので、仮にその期間 340 年を差し引くと、漢民族による統一期間はさらに短くなり、 1160 年になってしまう。つまり、漢民族による中国統一の期間は中国の歴史の半分に なる計算だ。 中国は極めて不安定な歴史を経験してきており、それは戦争や紛争が如何に多かった かを如実に反映している。特に、黄巾の乱後は、中国全国が荒廃し、人口が十分の一ま で減少したとされている。純粋な漢民族はこの時に滅亡し、その減少を埋めるために、 北方から異民族が移住して来て、中国の北部は異民族に占拠されたと言ってもいい。 前漢代の人口まで回復するのに、隋統一までの 400 年を要した。この時代の分裂と人 口減少がなければ、朝鮮半島も日本も中国に飲み込まれてしまっていたであろう。もっ とも、中国の王朝は国土が膨張すれば、ある時期に分裂するという運命を背負っている とも言えるから、その後の日本の運命は不明であるが。 三国時代、五胡十六国、南北朝の 370 年を経て、隋により中国は再統一されるが、隋 もその次の唐も鮮卑族を先祖とする王朝であるので、漢民族と北方民族の混合はかなり 進んだと言える。漢民族の視点に立つと、野性味のある北方民族を取り込み文明の活力 としつつ、漢化を進展させていったのだ。日本の歴史学者には、中華帝国の膨張と揶揄 する者がいるが、多民族の混交で純粋な漢民族は遺伝子を絶やしたが、文化としての漢 民族の概念は拡大していったのだ。 辛亥革命により皇帝制度は終焉するが、孫文は中華民族の復興を唱える。この中華民 族という概念は、漢民族と少数民族を含んでおり、歴史の過程から推測すると、少数民 族の漢化が本音であると言えないこともない。 ○ ○ 次に各王朝の特徴について述べよう。 秦 秦が中国の統一を成し遂げたのは、成都平野の豊かな穀倉地帯の開墾と富国強兵策の お陰であった。相互監視体制の強化、徴兵制や徴税の徹底、度量衡の統一などを強行し た。また、地方の支配体制については、周の封建制を廃止し、郡や県の役人を朝廷から 派遣し、その世襲を認めないという中央集権体制を取り入れた。さらに、字体の統一も 中国は一つであるという意識を人々に植え付けた。このような天地がひっくり返るよう な革命をしなければ中国は統一されなかったであろう。歴史の創造には人智を越えた制 度改革が必要であった。秦の思想的基盤を形成した法家の商鞅、韓非子、李斯はいずれ も非業の死を遂げた。反動は大きかったのである。 急激な変化は人々の反発を買い、秦王朝はわずか 19 年で滅んだ。 漢 107 項羽との戦いに勝った劉邦が漢王朝を建てた。秦の時代に評判の悪かった郡県制の一 部を封建制に戻し、いわゆる郡国制を採用するが、漢王朝の勢力の伸張とともに郡県制 が再び強化されていく。この時代の思想の主流は老荘思想であった。漢王朝の栄光の時 代は、建国の 60 年後の武帝と景帝の治世で「文・景の治」と称されている。武帝は朝 鮮に大軍を派遣し、難儀しつつも直轄領としている。また、司馬遷は父の遺言どおり、 大著『史記』を著し、後世に多大な影響を及ぼしている。 漢を儒教体制の国にしたのは文帝である。儒教は理想主義とされており、多くの儒者 が登用され、理想的な政治を行おうとした。塩鉄専売は儒の精神に反するとして廃止さ れ、国家財政が危機に見舞われた。 外戚の王莽(おうもう)は漢の帝位を乗っ取って「新」を建てる。だが、王莽は聖天 子が天下を統治した「周」に復帰することを目指し、社会を大混乱に陥れた。 まもなく、新は滅び、漢王朝が復活するが、首都を長安から洛陽に移し、その後を「後 漢」と呼ぶ。後漢は、皇帝の権限を元に戻すために、官僚機構が複雑になっていた前漢 とは異なり、小さい政府を目指した。仏教が伝来したのは、明帝の時代である。朝廷が 宦官に牛耳られるようになると、宦官に高位の役人を推薦してもらうには賄賂が必要に なり、拝金主義が蔓延する。官僚選考の基準がお金になり、官位がお金で売買されるよ うになる。 搾取された農民の一揆の“黄巾(こうきん)の乱”が勃発すると、国土は戦乱に陥り、 漢王朝は滅亡する。 ○ 隋 589 年、隋は南朝の陳を亡ぼして中国を再統一した。秦による天下統一が法家商鞅の 政治改革の成果の上に成っているように、隋による統一は、北朝の政治的業績の上に立 っている。北魏太祖による部落首長制から郡県制への転換、均田法による政治改革、諸 族通婚奨励による人権的偏見の解消などの改革に依存している。隋は秦と同じように強 引な政治改革を実行したため、短命に終わったが、唐王朝の基盤を作ったとも言える。 隋は科挙を創設し、隋体制の求心力を高めた。朝鮮の高句麗に 3 回も出兵し、最初の 2 回は大敗している。中国は強力な政権が誕生すると、かならず遼東に進出している。 秦の始皇帝は燕を遼東に追い詰め、漢の武帝は朝鮮半島に出兵し、三国時代の魏も司馬 仲達が遼東に出兵している。 また、南北を結ぶ大運河の建設も隋によるものだ。煬帝は遊興のために豪華な竜舟を 何千艘もつくらせている。 ○ 唐 隋も唐も鮮卑系の皇族であったが、人種民族を問わず、高度な文明により統一される べきだという考え方から唐は世界帝国への道を歩き始める。この発想は元、明、清に引 き継がれることになる。つまり、中国は華夷統合を経て世界帝国へと発展していく。 玄宗皇帝の治世 40 余年は「開元・天宝」と呼ばれ、中国史上の全盛期と言われてい る。この時の人口は四千九百万人で、前漢の人口六千万人に比べると少ないが、過剰人 口を抱えていなかった分、安定していたともいえよう。 唐時代には科挙制が定着し、律令国家を形成し、官僚至上の社会になる。日本も遣唐 使を通じて、積極的に制度を導入し、自立性を失わないように配慮しつつ懸命に律令国 家建設に励んだ。 玄宗皇帝が楊貴妃に惚れ込むようになると、楊貴妃の親戚を登用し、政治が乱れ、 “安 史の乱”が起こる。唐は自ら乱を制圧できず、ウイグルの力を借りてやっと秩序を回復 するが、9 世紀末、塩の密売人・黄巣(こうそう)による“黄巣の乱”には無力となっ 108 た。907 年、唐は滅亡し、再び分裂の時代を迎える。 唐代には、李白、杜甫、王維などの文学の巨匠が現れ、豪放で力強さに満ちた文化を 生んだ。 ○ 宋 宋は中国の南半分しか治めることができなかったが、庶民が幸福であったかどうかは 別である。宋の市民は長安の市民より裕福で自由であった。長安は日没後には、城門の みならず「坊」とよばれるブロックの門までは閉じられていたが、宋の開封の盛り場は 不夜城だった。貴族が独占していたものに庶民でも手が届くようになった。宋代は官吏 の数が最も多く、官吏の給料が最も高かった。 印刷術、羅針盤、火薬の三大発明も宋代のものであるし、焼き物は宋代に極点に達し、 宋磁に匹敵するものはその後も出現していない。中国の奇書の『三国志演義』 『西遊記』 『水滸伝』の原型は宋代の盛り場で生まれた。 一方、宋は武力的に弱い国であったため、遼や西夏に莫大な歳幣(さいへい)を贈り、 お金で平和を買っている。また、漢文化に免疫性のなかった北方の女真族は、固有の言 語、習慣をすぐに失い急速に漢化していった。 なお、作家の陳舜臣は、宋の建国の父趙匡胤(ちょうきょういん)を中国史上最高の 名君としている。 ○ 元 モンゴル族は文字通り人類史上空前絶後の大帝国を築いた。征服王朝の北魏、遼、金、 元、清のなかで、元が最も漢化されなかった王朝である。彼らは中国を征服する前に、 西方の高度な文明に接していたからである。この視点は中国との交流を進めていく上で 重要なポイントである。中国から見ると、北方民族は新しい血を輸入し、それによって 中国の活力を蘇らせてくれたのだ。 元の文化は重商主義的で搾取的であった。元は文治主義、進士至上主義の宋の伝統を ひっくり返したため、四書五経や修辞の勉強に縛り付けられていた知識人は、他の分野 で才能を発揮し、戯曲が発展した。また、偏見なしに科学技術を取り入れ、優れた学者 が招聘されたので、科学が発達した。 マルコポーロが『東方見聞録』を書き、ヨーロッパ人を東方への憧れに掻き立てた。 ○ 明 仏教の一派である白蓮教の叛乱から登場し、明王朝を創設したのが朱元璋(しゅげん しょう、後の洪武帝)だ。彼のように貧農から皇帝になった者は中国史上にいない。地 獄を見た人間が冷酷になりやすいように、洪武帝は側近の大粛清を断行している。 前朝の正史は長い冷却期間をおいてから書くべきとされているが、洪武帝は元が滅び た翌年に『元史』を編んでいる。改竄が多くできが悪いため、五百数十年後に『新元史』 が作られている。 明の文化は、野生的で実利的という元朝の要素を抱え込んでいる。宦官の人数を百人 以下に制限し、宦官の政治関与を厳しく禁じた。 明代は農本主義的で、商人が蔑視された。また、宋代にみられたような知識人や文化 人の気質が極めて稀薄だった。明朝は漢民族の宋朝よりも、異民族の元の特徴をより多 く引き継いでいた。 永楽帝は元王朝と同じく、世界帝国を志向し、宦官の鄭和に命じて、インド、アラビ ア、アフリカまで大艦隊を派遣している。だが、洪武帝と永楽帝が強い光を放つと、そ の後の皇帝は小粒で王朝は次第に衰えていく。 109 1592 年の豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して、 明は朝鮮救済のために莫大な戦費を費やす。 1625 年、徐々に力を蓄えていたヌルハチは瀋陽に国都を建て、1636 年に清が建国され る。豊臣秀吉の朝鮮出兵は無謀であったという議論が日本には多いが、日本よりも国力 が弱かった満州族が明を亡ぼすのに、半世紀も経過していない。朝鮮出兵の時期がよく、 戦略が奏功していれば、東アジアの歴史が大きく変わった可能性があるのだ。歴史は偶 然性に大きく影響されている。 ○ 清 女真族は文殊菩薩の信者となり、自分たちを文殊(ウェンジュー)と似た発音の“満 州(マンジュー)”と呼んでいた。康熙帝と乾隆帝は名君として誉れ高い。清朝は暗君 がいない王朝であった。康熙帝は朱子学に傾倒し、漢文化にどっぷりとつかった。末期 の皇帝は満州語を話せなくなっていった。1840 年のアヘン戦争を契機に西洋列強の干 渉が始まり、清朝の権益は削がれていく。康有為らが日本の明治維新やロシアのピョー トル大帝の改革をモデルとして唱えた戊戌(ぼじゅつ)変法は挫折する。清朝は 1995 年、日清戦争に敗れると、中国の古い体質が強国になるのを妨げているとして、近代化 に踏み切る決断をする。日本に留学生を大量に派遣し(20 年間に 10 万人)、近代国家 への道を歩むことになる。 辛亥革命の翌年の 1912 年、清朝は滅び、中国は皇帝の支配から解放されることにな る。 以上、中国の歴史を概観してきたが、その特徴を以下に記しておきたい。 1. 国家統一の条件 紀元前 221 年の秦の始皇帝による天下統一以来、中国は分裂と統一を繰り返している。 広い国土と多数民族を考慮すると、分裂は回避できないであろう。当然、統一には多大 なコストがかかることになる。皇帝中心の中央集権制、強大な軍事力、農民の搾取、イ デオロギー性の強い政治思想、ライバルの粛清が不可欠であった。 日本は中国から社会制度や技術を学んだが、この点が均一性の高い日本との決定的な 差異を生んだ。そして、歴史の違いは現在の日中両国の関係の底に流れている。その意 味で、歴史の相互学習は非常に重要である。 新王朝の創業期が終わったあとの安定期が人々にとって最もよい時代であった。この 時期に繁栄を迎え、次第に制度の矛盾が拡大し、社会秩序が弱まり、混乱期に向かう。 2. 皇帝継承の条件 皇帝継承は夏王朝を創設したとされる禹以来、世襲制の伝統に依っている。だが、世 襲制原則にもかかわらず、しばしば体制内の実力者に乗っ取られている。例外は、元や 清などの塞外民族による王朝樹立期である。体制内権力闘争は官僚、宦官、外戚を巻き 込み、激しさを増すが、その原因は皇帝に権力が集中しているためである。広大な国土 を治めるためには、強権が不可欠であったが、それは皇帝周辺の者から見ると、その権 力は魅力的であると同時に、いつか皇帝に粛清されるかも知れないと恐怖心を与えてい たことであろう。皇帝の座を巡る戦いは必然的に激しいものにならざるを得ない。これ は大陸文明の大きな特徴である。 3. 塞外民族の漢化 漢人による王朝は、漢、宋、明など意外に少ない。隋と唐は鮮卑系の王朝と言われて いる。前にも書いたが、漢王朝滅亡後、混乱期を経て人口は十分の一まで減少し、漢民 族の遺伝子は滅亡したとさえ主張する学者さえいる。 110 漢民族は塞外民族を漢化し、勢力を拡大してきたように見える。中華帝国の膨張とし て世界に恐れられている所以である。漢民族の視点では、華夷思想の下で周辺の野蛮人 の文明化を図ってきたように見えるが、実際には、むしろ華夷統合により、中華文明は 活力を失わずに発展してきたのだ。北方や西方の異民族の野生の血を輸血することによ り、文明の発生・成熟・衰退のサイクルを繰り返してきている。中華文明は塞外民族を 利用し、世界帝国へと眼を開かせられていったのだ。そういう意味で、北魏孝文帝の理 想的な多民族国家形成の努力は注目すべきである。 特に、モンゴル帝国による中国支配の歴史的経験は大きかったと思われる。明は漢民 族の宋からではなく、元から多くの制度を引き継いでおり、文化の性格も元に近い。文 化的に発展したが、こじんまりした宋よりも、世界帝国を目指したモンゴルが支配する 元を模範として、明は発展してきたのだった。 4. 衰退期に現れる宗教秘密結社 王朝の末期に社会が混乱すると、宗教秘密結社が流民を信者として囲い込み、勢力を ふるうようになる。秘密結社が道教系、仏教系、キリスト教系など多種多様な宗教をも つのは面白い。皇帝をトップに頂く権力構造のなかで、庶民(=農民)は朝廷が地方に 派遣する役人に搾取されていた。中央の王朝が交代すると、税制が異なってくるし、戦 費がかさむと重い税金を課せられる。政権が崩壊すると全土が無秩序になり、餓死者が 続出し、農民が救いを求めて宗教に走っても不思議ではない。次の皇帝を狙う者は、そ のような宗教秘密結社をうまく利用したのである。 現代において、中国共産党が法輪功の動きに敏感になっているのは、このような歴史 的経緯があるからであろう。宗教集団の爆発的拡大は体制を揺るがす恐れがあるからだ。 5. 美女が果たした王朝滅亡 中国の歴史にはしばしば美女が現れ、王朝崩壊の原因となっている。夏、殷、周、唐 の滅亡期には、有名な美女に狂う皇帝の姿がコミカルに描かれている。実際には、特定 の美女がその原因となるはずはない。美女は、むしろ後宮の代名詞ではなかろうか。為 政者は政治を疎かにし、美女や酒に耽ってはならないという戒めと考えた方が自然であ る。ただ、皇帝に権力が集中しすぎていると、暗君の出現が王朝を傾ける可能性は高く なる。 6. 歴史の現代への問いかけ 中国の歴史は皇帝の歴史であり、国土統一のためには中央集権の強権が必要であった。 また、文明の活力維持のために、塞外民族の野生の血を吸収しつつ、華夷思想を克服し、 唐、元、明、清の世界帝国へと発展していった。中国文明の本質は、強い中央集権の維 持と周辺国の活力導入による拡大志向である。中国の欧米並みの民主化は夢物語である。 辛亥革命により皇帝制度は崩壊し、それを受け継いだ中華民国も中華人民共和国も中 国の古い政治体制を改革しようと努めてきた。試みはある程度成功したと評価していい と思われるが、皇帝制度の長い経験を通じて払拭できていない点もあり得る。 中国政府は“中華の復興”を唱えているが、それは世界に燦然と輝いていた過去の栄 光への復帰である。外資及び技術という“現代の活力の源”の積極的導入は、過去の塞 外民族の野生の血の導入と同意語であると思われる。台湾や韓国は、彼らが生き残るた めに、中国に積極的に進出し、投資を続けているが、それを歴史的に見ると、華夷統合 理論のプロセス上にあるのかもしれない。北京五輪開幕式で、世界のリーダー達が北京 に集ったのは、中国のリーダー(皇帝)である胡錦濤からすると、中華帝国への“入朝” に見えたことであろう。 111 改革開放路線後、中国人民は共産主義体制の禁欲から解き放たれ、消費欲望を駆り立 てられている。世界の石油と食糧を飲み込んでしまう危険性すら感じられる。マグロが 食べられなくなる日は意外に早いかもしれない。 日本は 7 世紀の建国以来、中国に対して留学生を派遣しつつも、入朝したことがない。 これは中国文明に対する底知れぬ恐怖心や違和感または不信感があったためであろう。 それは現在でも、日本人の心の底に色濃く残り、払拭されていないのではなかろうか。 一方、中国は世界のシステムのなかに組み込まれているので、諸外国との協調以外に は生き残るすべは持たない。中華の復興は、伝統的な皇帝システムに回帰することでは 決してないはずである。中国はどこへ行こうとしているのか。中国人でさえ、分からな いまま驀進しているように思える。中国は、内なる皇帝制度と世界システムのなかの中 国という矛盾をどのように克服するのであろうか。 世界中の国々は、中国の歴史の特徴を学び、台頭する中国と向き合う上での自らの行 動の指針としていくべきであろう。 112 野蛮と文明 筆者の経験では頭の動き方は、どこにいるかその場所に大きく依存する。北京に長く 住んでいると、中国人の見方が自然と理解できるようになる。都市は文化を規定し、文 化は発想を規定しているように思える。例えば、 「鹿児島」は九州の南に位置する県で、 一種の記号であるが、漢字の意味を大切にする中国人には、「鹿の子供(小鹿)が住む 島」に思える。大衆食堂で飲む常温のビールもそれなりに美味しく飲めるようになった。 このようにして中国駐在員は中国文化に染まり、知らずしらず「漢化」されていく。中 華パワーはやはり侮れない。 一方で、マンネリ化すると新しい発想やアイデアが生まれにくくなる。日本のマスメ ディアはボケ防止策を盛んに宣伝しているが、外国旅行は脳を活性化し、気分を一新す る効果があると言われている。場所が変わると、五感が活性化され、その結果脳も刺激 を受ける。バンコクへの旅は、かつて住んだ経験があるだけに、一層リフレッシュ感が 蘇ってくる。バンコクの空港に降り立つだけで、理屈抜きに「サバーイ(気持ちいい)」 なのだ。 タイはコン・イープン(日本人)だけでなく、コン・ファラン(西洋人)も、コン・ ガオリン(韓国人)も、コン・ジーン(中国人)も皆好きなのだ。なぜなのか。これは 単純な質問であるが、大げさに言えば、人類の本質に迫る可能性のある問いかけでもあ る。さらに、この回答の先に、人類の未来の方向性が隠されており、タイと日本の協力 のあるべき姿が浮かんでくるのではないかと考える。少し大げさだけれど、筆者は真面 目なのだ。少なくとも、タイに行くと、日ごろ使っていない脳の根幹が刺激され、大そ れたことを考えてしまう。それが地に足のついた議論かどうかは別にして、そのような 幻想を滞在中の少しの間味わうだけでも、「サバーイ」なのだ。あっ。また言ってしま った。「サバーイ」と。 ゴルフで汗を流し、ビア・シン(シンハー・ビールのタイ語)で喉を潤し、タイ料理 を堪能した後で、タイマッサージで疲れた筋肉を癒し、綺麗な子に微笑を振りまかれる と脳幹が溶けてしまいそう。ついチップを多めに払い、他のコンイープンから白い眼で 見られてしまう。 「マイペンライ」 。日本では横並び意識が強調されるが、タイは国名の 意味がそうであるように、自由で気ままなのだ。実際、古女房などすべてを捨てて、タ イを目指す外国人は多い。目的は卑しくても、タイはこの世の天国なのだ。 タイの話はひとまず脇に置き、人類の「歩み」についておさらいしてみよう。 30 億年前、地球に生命が誕生すると、エントロピー増大の法則に打ち克ち、生命は 試行錯誤をしながらも進化を遂げてきた。我々の直接の祖先であるホモサピエンスは約 20 万年前にアフリカを出て、世界中に広がっていった。彼らは 4、5 万年前に中国や日 本にもやって来た。そして、人類は当時氷で陸続きだったベーリング海峡を渡り、アメ リカ大陸に進出し、遅くとも 1 万年前までにはアメリカ大陸の南端まで達したと言われ る。その後、運よく地球の気候は間氷期に入り、本格的な温暖化が進行する。その後、 地球は小さい寒冷化を経験しつつも、四大古代文明を育んでいく。寒冷化・乾燥化が人々 を大河領域に集結させ、都市と権力を生み、ピラミッドなどの大建造物プロジェクトの 建設を可能にしていった。都市文明のはじまりである。 人類は文明の甘い蜜を覚え、それを一層発展させることで、各民族は勢力範囲を拡大 していった。勢力拡大は富と権力の増加に直結する。そのため、文明は技術開発と権力 構造の強化とみなされるようになり、自己発展するようになる。文明や進歩を拒否し、 自然な遅れたままの野蛮な民族や社会は文明に滅ぼされるようになった。文明は野蛮よ りも価値があると人々は認識するようになる。 そもそも、文明と野蛮の違いは何であろうか。一番分かりやすく言うと、野蛮は欲望 113 に従って行動することであろう。「人生はしょせん、女と酒と食い物さ」という言い方 は動物としての生き方に忠実な感覚である。歴代の中国皇帝の酒色を見よ。女に溺れ政 治を疎かにし、国を傾けた皇帝や王がいかに多かったか。これが人間の本性なのであろ う。 では、文明とは何か。文明は動物としての欲望を矮小化し、それよりも価値があるも のが存在すると人間に信じ込ませることによって、文明それ自体を正当化してきた。つ まり、動物を超えた新しい「人間」の誕生である。その人間は本来有する欲望よりも高 価なものや高度なものを認識できなくてはならない。それは抽象的なものにならざるを 得まい。理性、正義、自由、孝、忠などの眼に見えない抽象概念は文明を支えるために 必要なものであったのだ。それらの抽象概念の極端な例は、絶対的な観点を生み出した ことであった。その発想は人間を超越し、宇宙全体を俯瞰できる観点が存在すると信じ ることである。それは理想や宗教やイデオロギーとなって結実していく。 人間の欲望から遊離した理性は、抽象概念を後押しし、神の創造へと到る。人間精神 は神を創造すると、その神に帰依することで安楽を得ようとする。皮肉なことに、一神 教を奉じてきた西洋文化では、人間は神に支配されるようになる。絶対的視点や価値観 が存在するという発想は一つの文明の特徴であるが、それは人間の支配の道具に使われ るようになる。宗教しかり、イデオロギーしかり。洋の東西にかかわらず、大陸の文明 では、大プロジェクトのために多くの人間を動員する必要があることから、単純なイデ オロギーが重視される傾向にある。原理主義、共産主義、民族主義、儒教などはその典 型例である。人間が本来持っているはずの欲望を否定し、極端な場合には、人間性その ものを否定するようになる。 このような特性を持つ文明は野蛮よりも高度なものであるのか。人間を幸福にするも のであるのか。文明は時として、野蛮よりももっと野蛮である可能性がある。野蛮より も恐ろしい。 筆者個人は、西洋文明と中華文明は強いイデオロギー性を有し、強い権力を志向する という意味で同類の文明と考えている。タイなどの南洋の途上国では、欲望を前面に出 し正当化する自然な社会を形成してきたのだ。当然、抽象観念が育たないが、強権で抑 圧的な政府も育たない。一方、日本は本来豊かな自然環境に恵まれていたため、人間性 を大切にする自然な社会を形成しつつ、中華大文明の文明の粋を吸収し、野蛮と文明の 中庸を歩いてきた。強い権力構造の社会を構築しなかったため、中国や西洋と比べて、 戦争や権力闘争は比較的少なかった。 万病を克服したとされる先進国社会の最大の病気は、がんや心臓病などの成人病であ る。その原因は、過食とストレスである。人類の悲願であった貧困を脱した先進国では、 これらは万病のもととさえ言われる。過食は途上国からの搾取が原因で、ストレスは理 性重視による過剰な管理に起因する。 以上のように考えると、人類の未来が見えてくる。つまり、過激な一神教や過度なイ デオロギーを捨て、人間の本来持つ自然な欲望を見直すことである。さらに、途上国と の共存を目指すことである。もちろん、その欲望は他人の財産を侵害するものであって はならない。日本は一つのモデルとなると思う。 タイは欲望を素直に正当化する社会であるため、権力者や富豪には非常に快適である。 しかし、それらのない貧しい人々には面白い社会には映らないであろう。タイのエリー トから見れば、国が破綻しない限り、熱心に働く必要性はない。仏教や王室という文化 をタイの固有の文明と認識し信ずれば、先進国から蔑まされることはない。先進国のい う文明の発展は、タイに進出してきた外国企業に任せればいい。タイ人自ら物質文明の 発展に手を染め、ストレス社会の到来を招く必要はない。タイのエリート層はそのよう に考えているのではなかろうか。 114 文明の最先端を走っていると言われる米国でサブプライム・ローンに端を発する金融 危機が世界経済の秩序を揺るがせている。支払いが困難と思われる人々に家や高級車を 買わせ、その債権を金融工学で証券化し、AAA の優良証券として世界に売りさばいてい た。有り体に言えば、詐欺である。文明や最先端科学の美称の下に普通の人々を騙し、 人生をめちゃめちゃにしている。誰も責任を取らないし、罰せられることもない。これ はもはや文明とは言えない。野蛮そのものである。現代人は敵の見えないジャングルに 生きているようなものだ。このような文明の罠から逃れるには、大きな欲望に惑わされ ないことである。豪華な家や車を拒否し、慎ましく生きることではなかろうか。 野蛮と文明の軸で考えると、日本はそれらの中心よりも文明の方にいくらか近く、タ イは野蛮の方に近いのだ。多くの日本人の目からみると、タイは今のままでは先進国に ならないと考えている。しかし、人間の幸福が人類の目的であれば、タイそのものは一 つの選択である。問題なのは、汚職、腐敗、格差などの不平等である。近代の人類社会 の発展の目的は、自由の実現と不平等の克服であった。だが、それらは日本を一つの例 外として、まだ地球上に実現されていない。タイ人は文明化に必要な抽象的発想を嫌悪 してきたきらいがある。だから、タイ人は新しいアイデアを生み出したり、議論を通じ て真理を追究する能力に乏しいように思われる。科学という文明の高級な華には憧れる ものの、それを支える忍耐や途方もない努力から目を背けようとする。科学はタイでは 一種の高級ファッションなのだ。 「タイは遅々として進む」 。 科学の発展にはまだ長い時間がかかるであろう。そんなタイとあせらずに、長くつき 合うことが大切ではなかろうか。人類には理想社会は永遠に訪れることがない。人間は この世に生まれ、結婚し、子供を生み、少しだけ他人や社会にいいことをして、死んで いく。それでいいではないか。多くのいいことをしようとするから、人間は過ちを犯す のだ。進歩をするから、その副作用に悩まされる。 天才バカボンも癒してくれる。 「それでいいのだー」 。 自然な人間性の重要さをタイは教えてくれているような気がする。人類は「サバーイ」 に秘められた文明と人生の意味を学ばなければならない。 115 北京のゴールデンウィーク 新緑が眩しく輝き、爽やかな風が舞う 2003 年 4 月下旬。東京はベストシーズンだ。 4 月 29 日からゴールデンウィークが始まるというのに、私は成田空港へと向かってい る。勿体無い。こんな素晴らしい季節であれば、私の住む官舎のすぐ隣にある林試の森 公園を散歩するだけでも、至福を味わえたのに。林試の森公園は盛夏には鬱蒼と茂る森 に変貌する。森は今その準備に追われている。木々が我先にと天に向けて、さらに横へ と葉や枝を伸ばそうとしている。生命が躍動している。 私は 30 歳代の半ばの 2 年半を北京で過ごした。駐在中、頭で考える以前に、中国と いう世界を、そして北京という生活を感じてみようとしていた。帰国後、北京での経験 が身体のどこに残ったのかはよく分らない。少なくとも言えることは、普通のひとが一 生に食べる量の中華料理と強い白酒(はくしゅ、強い蒸留酒)を堪能したことである。 何が残ったかって? 体重が 4 キロ増えた。宮廷料理や北京ダックが私の体の中で贅肉 と化した。 北京駐在後 8 年経過したが、その間バンコク駐在時に 1 度北京を訪問しているため、 正確に言うと北京は 4 年ぶりである。北京の変貌振りを見たかった。かつて酒を飲み交 わした友人たちと再会したかった。が、それ以上に中国人の内面の変化を覗いてみたか った。中国の可能性と後進性を肌で感じてみたかった。中国人の真実と虚偽を知ってみ たかった。少なくとも、その糸口だけでも掴めないかと切に望んだ。 このリポートはそのための体当たりノンフィクションである。 我々を乗せた満員の NW19 便は午後 9 時 5 分、北京空港に到達した。時差 1 時間と飛 行時間3時間半の旅だった。飛行機がターミナルに到着してもしばらく降りられない。 ドアが開かないようだ。理由はいつもの通りアナウンスされない。立ったままでドアが 開くのを待っていると、前列で女の子二人とおしゃべりをしている西洋人男性の手に抱 えられている本がふと目に止まった。英語で話し掛けてみることにした。 「村上春樹を読んでいるのですか」 「ノルウェーの森」 と言いながら、英訳本を私に見せた。 「この小説は 80 年代の日本でベストセラーになった」 上下二巻の長編小説は、1987 年に出版されるや、上巻だけでも 240 万冊も売れたの である。 「推奨しますか」 と隣の女の子が私に質問する。 「ええ。恋愛小説ですよ」と言って、言葉を継ごうとするが私の英語力ではその内容が うまく説明できず次がでてこない。2 秒の沈黙があり、ネイティブ三人は彼らの世界に 閉じ込んでしまった。 主人公の僕は、飛行機に乗っている時、急に胸が苦しくなり、驚いたスチュワーデス が寄って来て心配そうに声をかける場面から、この小説は始まる。僕は過去の恋愛経験 を回想するのだ。この内容を沈黙の 2 秒の間に、英語で発想しつつ、口に出せなくては、 ネイティブとは自由自在に意思疎通ができない。 村上春樹はどこかで「恋愛小説は 40 歳超えると書けなくなる」と言っていたが、そ の一線を超えると人間は purity を失い、ずるく醜い大人に変貌するのであろうか。恋 愛は心を purity にしなければ完成しない女と男の儀式である。 『ノルウェーの森』は透 明感のある美しい物語に仕上がっていて、恋愛願望の女の子を魅了する小説である。 村上氏は米作家フィッツジェラルドの翻訳を手がけているが、彼と同様にロストジェ 116 ネレーションに分類されている。『ノルウェーの森』の読了後、彼の作品を読み漁った が、暫く村上氏から遠ざかっていた。ひさしぶりに、2001 年に彼の新作『海辺のカフ カ』を読んでみた。心地よい透明感とニヒルな虚脱感を味わってみたかった。しかし、 ショックを受けた。どの登場人物にも今の自分を重ね合わせることが出来ない。共鳴で きない。空から大量の魚が降ってくる骨董無形な話が、違和感もなく物語に溶け込んで いる。登場人物は誰も彼も人間の匂いがしない。彼らは恋愛にさえ希望を持っていない。 死さえ絶望からの脱出口でないし、誰も死を恐れない。無論、通常の人間が努力し、成 功を収めるという汗や血の匂いは微塵も感じさせない。村上春樹が進化したのか、私が 退化したのか定かでないが、今の私には、この小説は薄気味悪ささえ感じさせる。 当時の評論家の批評も賛否両論であったが、私はこの小説の本質を突いた評論にはつ いに出くわさなかった。『海辺のカフカ』は外国語にも翻訳され、オーストリアで最近 かなり売れているという。あのカフカの小説に似た何かが、カフカの子供たちを魅了し ているのであろうか。村上氏は 2002 年、サリンジャーの『麦畑でつかまえて』を 40 年 振りに翻訳し直し、 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を出版した。思春期の 16 歳少年 ホールデンを巡る他愛のないお話であるが、純真な子供の心に映る大人達の醜さを描い ている。この小説を読んで、心がときめかなくなったら大人の仲間入りと言ってもいい だろう。それが幸か不幸かはそのひと次第であるが。 それしにしても、Tokio、NY、ウィーンのような成熟社会の若者に好んで読まれる村 上氏の小説は、成長著しく、将来に大きな夢のある中国人の若者にどう受け止められて いるのであろうか。若者文化の同時代性は他のファッションと同じように、北京や上海 でも進行しているのであろうか。大いに興味のある課題である。 この時、5 年後の 2008 年 2 月、村上春樹の小説の名前がついた台北の喫茶店にコー ヒーを1杯飲みにいくために、北京からわざわざ香港経由で台湾まで出かけるとは夢に も思わなかった。今では、村上春樹はカフカ賞を受賞し、毎年ノーベル文学賞の候補者 に名前を連ねるようになっている。 私は入国審査のために長い列を作っている外国人の列を避け、半分の長さの中国人列 に紛れ込んで、早々と荷物受けのターンテーブルに着くと、もう既にスーツケースがタ ーンテーブルの上で寝転んでいるではないか。何と素晴らしいことか。10 年前とは随 分違うぞ。中国人よ、君達はやろうと思えばできるのだ。能力はあるのだ。かつて経験 した、友誼商店の売り子らの「没有(メイヨウ)」という忌々しい言葉が一気に吹き飛 んだ。この旅は素敵なものになるかもしれない。そう予感させた。税関をスルーパスで 抜けると、そこは出迎えの中国人が待ち受ける出口だ。私の名前が書かれた紙を広げた 中国人を見つけて、 「黄金の黄、健康の健の黄健さんですね」 と私が中国語で訊ねると、 「対(そうです) 、歓迎北京」 彼は答える。 「黄金健康運転手」 私が何度も呼ぶと、彼もまんざらでもなさそうに顔を崩す。 車中、仕草や話し方が日本的なので、経歴を聞くと、かつて JETRO や日本企業に長く 勤めていたという。日本人ボスの下で働くと、日本的になるのか、それとも日本的な穏 やかさを持つから日本企業で長く働けるのか。よく分らない。 ホテルにチェックインし、出迎えにきてくれた日本人駐在員二人(A 氏と B 氏)と一 緒にカラオケに向かった。 NW19 便が北京国際空港にタッチダウンしてからジャックダニエルで喉を潤すまでに かかった時間はわずか1時間 20 分。中国の急激な進歩の一面だ。 117 この店は、4 年前の北京訪問の際にも来たことがある。その時との違いを 3 点紹介し ておこう。 まず、小嬢(ホステス)が美しくなった。競争激化で“老板”が綺麗な子を選抜する ようになっているということもあろうが、化粧の仕方や服の着こなしに慣れてきている のが大きな要因と思う。なお、老板は中国語で、経営者やボスという意味だ。 次に、雰囲気に余裕が感じられる。膨大な人口を抱える中国国内では競争が非常に厳 しい。学生でも企業でも生き残るためのサバイバルゲームは凄まじい。でも、未来に希 望を見出しているのであろう。最近の高度経済成長をみれば、西欧列強や日本に蹂躙さ れた屈辱の 150 年からやっと解放されつつあるのを肌で感じていることであろう。偉大 で輝かしい歴史を擁する中国人民が世界へと羽ばたく実感がここにある。給与袋が厚く なり、モノを買える喜びに浸っているようだ。 第三番目は、サービスの質がよくなっている。これは老板の教育による所が大きい。 老板の評判をハルピン小嬢に訊くと、 「仕事には大変厳しいが、それ以外の時は冗談ばかりを言う楽しいひと」 と返ってきた。日本人と韓国人と中国人では、客が求めるサービスに違いがある。日本 人にはきめ細かいサービスをしなくては、客は離れていく。小嬢はウイスキーの濃さや グラスの置き方まで気を配らなくてはならない。常に客が何を考えているか察知してお かなくてはならない。 それともうひとつ。中国人は日本人の名前を呼ぶ時、中国語の発音で呼ぶ。日本語の 発音が分らないから仕方ないかも知れないが、やはり本来の発音で呼ばれた方が気持ち はいい。私の場合、中国語ではスー・ガンと言われるけれども、自分の名前であるとい う気が起こらない。この子は違っていた。テラオカさんと言われたのは、老板がそのよ うに教育しているに違いない。この老板はまだ 30 歳代であるが、サービス産業界では 大きな成功を収めると思う。その後、この業界で成功を収め、店を売って別の業界に移 っていったと数年後に聞いた。 ふと 24 時間前のことを思い出した。新橋の居酒屋で北京駐在経験者の C 氏と飲んだ ときの話題だ。 C 氏も 2 度の北京駐在を経験したチャイナスクールのメンバーのひとり。 彼は少し興奮気味に話し始めた。 「原子力で起きたことが宇宙開発でも繰り返されようとしている」 私は話を催促するように、わざと怪訝な表情をしてみせた。 「原子力分野における日中協力、いや正直に言えば、日本企業の中国への市場進出では フランスや米国に大変出遅れた・・・・・・」 C 氏は、日本政府は核兵器の拡散を防ぐ NPT 条約や対共産圏へのハイテク製品の輸出 を規制するココムを真面目に守りすぎたがために、したたかな他の先進国に先を越され てしまい、日中協力が停滞したことを悔やんでいる。 「次は宇宙開発か?」 「そう、ミサイル輸出規制条約が障害になり、両国の研究機関の協力はそれとは関係の ない人工衛星の分野でさえほとんど進展していない」 C 氏は憤懣やるかたなしの表情をみせた。 この問題の謎を解くには、米国という因子を一つ加える必要がある。日本政府は安全 保障を日米同盟に依存しているため、米国の意向に過敏にならざるを得ない。勝手に中 国との協力を進めて、親分である米国から非難されたら一体誰が責任をとるのか。研究 機関や役所レベルで、中国との協力に積極的になるという方針を立てられないのだ。官 邸か、少なくとも自民党の有力者の合意を取り付ける必要がある。政官ともに親米派が 権力の中枢を占める構図の中で、多角的外交を展開しようという機運が生まれるのは容 易でない。 118 数ヶ月前には、日本人の対中国観を変える出来事が起こった。中国人の有人宇宙飛行 のショックである。経済援助を施している国が宇宙技術で追い越して行ったのでは、日 本人として面白くはない。国内からは経済成長著しい中国に対する警戒感に加えて、こ のイベントの成功のため、対中 ODA(政府開発援助)削減の大合唱があがった。今後 ODA 削減の傾向は止まらないであろう。 しかし、冷静になって考えれば、軍事大国である中国は、ロシアなど外国との戦争に 備えてミサイル技術開発に早くから取り組んでいる。自分の力で自国を防衛するという 決意をした以上、豊富な予算と優秀な人材をミサイルやロケットに投資するのは自然で あり、日本の宇宙技術に追いつき追い越すのは時間の問題である。 国産ロケットの打ち上げ失敗が起こると、メディアが騒ぎ、国会議員が役所や研究機 関を非難し、打ち上げが延期されるような国柄では、技術開発が遅れるのは致し方ない。 民主主義で、しかも、政府が弱い国で、リスクの高い宇宙開発プロジェクトを順調に推 進するのは容易ではない。それにしても、現場で汗を流す真摯な技術者が気の毒である。 有人宇宙飛行のみならず、近年、日本のメディアの対中国の報道振りは迷走している。 思い起こすがいい。1999 年頃は、日本のメディアの論調は中国崩壊論一色であった。 銀行の不良債権や非効率な国有企業がクローズアップされていた。今世紀に入ると、一 転して中国脅威論に華が咲く。不況からの脱出が思うにまかせない日本人の心情を反映 したものだった。ところが最近また論調が変わった。中国への好調な輸出に牽引されて、 日本経済の不況脱出の可能性が見えてきた。中国礼賛論の登場だ。10 年も経過せずに、 猫の目のように変わる中国への思い。まったく感情論に流されている。日中関係の最大 の不安要因は、相手を冷静に見る目を失うことである。2008 年 2 月、毒入り餃子事件 が発生すると、日本人の対中国感情は悪化の一途を辿った。嫌中国感情の拡大である。 多くの日本国民は中国が嫌いであるが、日本企業は中国依存を高めつつある。もう日中 両国は切っても切れない関係になっている。切られて困るのは日本の方かもしれない。 もうひとつ、国際核融合実験炉(ITER)の問題をあげておこう。日本の首相経験者が 北京を訪問し、ITER の日本誘致への協力を依頼した際、対日本関係窓口の大物が 「小泉首相の靖国神社訪問が、ITER の日本誘致と北京・上海間の新幹線建設問題のネ ックだ」 と漏らしたとの報道があった。国際共同核融合実験炉の誘致と政治問題が一緒に議論さ れるようでは、中国側も対日本戦略に変調をきたしていることをうかがわせる。ITER の日本誘致に対して中国側は不支持を表明していたが、その見解も揺れている。ある時 は、専門家に技術的に検討させた結果、フランス誘致が適切という結論に到ったかと思 うと、別の場では、日本は地震が多いため、実験炉の建設に不向きと答えている。今回 は、靖国神社問題と絡められたことになる。中国側の流動的な態度を批判しても日本誘 致に有利に働く訳ではないが、悔やまれるのは、十数年前に中国が ITER 参加に関心を 示した時、日本が中国をうまく誘導して、国際社会のグループに参入させていれば、ITER の日本誘致への中国の支持を得られていたはずである。日本に科学技術外交は存在しな かった。 対応が悪いのは政府だけではない。1970 年代末、中国側は日本の自動車技術の移転 を乞うため、大代表団を組織し、訪日した。 「日本の最大の自動車メーカは、副総理が膝を折って頼んだにもかかわらず、拒否され た」 と中国では語り草になっている。 80 年代初頭、 日本国内のクルマ製造台数は米国を抜いて世界一になった時期だけに、 日本メーカの鼻息は荒かったのであろう。その後、中国首脳はドイツを訪問し、フォル クスワーゲン社の門を叩く。80 年代前半には、中国で VW 車の生産が始まる。今でも中 119 国の政府高官や富裕層が VW に乗りたがるのは、最初に見た外車の VW がずっと彼らの憧 れの的だったからである。 “三顧の礼”を尽くしたが受け入れられなかったという屈辱が今でも中国人の口から でる。面子が潰されたのだ。当時を振り返れば、友好国の日本こそ改革開放政策の目玉 である自動車技術導入策を理解してくれると思ったにちがいない。その日本メーカは出 遅れた中国市場進出を取り戻そうと今躍起になっている。 後日、このクルマを巡る三顧の礼の話をその大手自動車会社の中国担当課長にすると、 「この噂が広まっているということは知っている。我が社も隅々まで調査したが、我が 社に限ってそんな事実はない!」 と強調された。彼の言うことが本当だとすると、このような神話が作られる程、日中関 係はよくなかったと言えよう。 ただ、私が言いたいことは、たかが 10 年程度先のことさえ、見通し戦略を立てる能 力が日本民族には欠落しているのである。聖書は語る。「戦略なき民族は滅びる」と。 西安で稼動している日系企業の幹部の愚痴を聞いたことがある。 「我々は中国に進出する予定ではなかった。当時の常務が中国側から提案された案件は 潰してやると勇んで中国に出張したが、接待攻勢にあい、帰国した時には、『いい案件 じゃないか、中国進出決定だ』と翻意した」 と嘆く。中国人の接待術は黒を白に塗り替えることができるが、それにしてもこの常務 は情けない。 2日目。 予定よりも1時間早く、日本時間に合わせて自然に目が覚めた。 今日金曜日はビジネスデイだ。スーツを着て、迎えに来たクルマに乗ってホテルを出 発。 最初の訪問は、中国科学院。傘下には約 100 機関を擁する高等研究機構である。モデ ルはソ連のアカデミー。 私の旧友の D 氏が会議で遅れるというので、途中まで E さんが私の相手をしてくれた。 E さんは、研究者である夫とともに、日本、米国、カナダで 8 年間研究し、「海亀」と いう中国政府の頭脳呼戻し制度を利用して、帰国したという。外国での生活に話が及ぶ と、日本での生活が一番楽しかったという。東洋文化を共有しているため心が通じる。 両国民ともに、仕事の延長線上でプライベートな付き合いが自然にできるが、米国では 仕事と個人の生活が分離されているため、なじみにくかったと残念そうな表情を浮かべ る。さらに、帰国のきっかけを訊くと、子供の教育問題を挙げた。中学入学を前にして、 英語しか話せない子供を見て、今帰国しなければ、子供は漢字を読めないし、書けなく なってしまうと危機感をつのらせたという。帰国後子供たちは漢字が大好きになったと、 E さんは満足そうに笑顔を浮かべる。母親の顔である。 実は我が家も似たような問題を抱えていた。バンコク駐在中にインターナショナルス クールに通っていた娘は、帰国後も調布のアメリカンスクールに通学させた。ものの考 え方や態度が次第に日本人的ではなくなり、明らかに米国文化の影響を受け始めていた。 広島への原爆投下は真珠湾攻撃のせいであると、12 歳の娘が言い切ったときに、私は 戸惑った。被害を受けた日本側にも言い分は沢山ある。 「二度と過ちは繰り返しません」 と被害者に向かって謝っても、そう言っているひとは一体誰なのか。人類か、日本人か、 日本政府か、米国政府か。日本側の曖昧な議論はさりとて、米国の先生は生徒に明確な 教え方をしている。米国には誤謬はない。悪いのは日本だと。現在、娘は日本の高校で 元気に活躍している。2009 年 7 月、イタリアで開催される G8 サミットに合わせて、世 120 界 15 ヶ国の高校生が当地に集まり、世界の諸問題を議論し、結果を主宰者であるイタ リア首相に報告することになっている。彼女は日本代表のひとりとして選ばれ、出席す る。私は米国人と中国人との議論では決して負けるなと言っておいた。 中国政府は海外留学組が帰国し始めたと胸を張るが、統計によると、それ以上の留学 生が海外に流出している。中国の名門・清華大学の学部卒業生の 3 分の 1 が留学すると いう。その大多数の目的地は米国だ。残り 3 分の 1 は国内の大学院に進学し、残りは卒 業するそうだ。ただし、IT 関連の学部では、8 割もの卒業生がスカラーシップを獲得し、 米国に留学するというから、話は穏やかではない。中国政府首脳にとっても痛し、痒し であろう。 D 氏が現れた。彼は、私が書いた本やリポートを引用しては、誉めたり批判したりし てきた。私の方も歓迎する。異なる文化や情況のなかで仕事をしているため、意見が合 わないのは仕方がない。 意見交換は統計から始めた。 「昨日、日本政府の政策研究所から公表された指標によると、中国人研究者による論文 数は、米日独英仏に継いで 6 位となっているが、中国科学院の発表では 5 位となってい るが・・・」 と私が尋ねると、彼はすかさず、 「台湾を加えると 5 位になる」と答える。 訪中前に、中国ウォッチャーの一人から聞いたのでは、 「論文数の数え方にもよるが、中国は5年で日本人の書く論文数に追いつくが、引用数 のような論文の質を考慮すると、5 年では難しいかもしれない。でも、10 年で日本に肩 を並べるだろう」 といとも簡単に話す。10 年はすぐだ。有人宇宙飛行のショックに日本が襲われた以上 の激震に見舞われること必至である。日本人の心の中には、モノつくりや経済力では近 い将来、中国に抜かれるという思いはあるが、創造性や研究開発能力は当分先の問題で あると、漠然と考えている。 これも後日談になるが、予想を上回るスピードで 4 年後の 2007 年、中国人の発表論 文数は日本を上回り、世界 2 位となった。最近得た信頼できる筋からの情報によると、 化学のトップクラスの研究レベルで、日本はすでに中国に抜かれているという。 論文審査のお手伝いもやっているEさんが横から真顔で、 「論文数の伸び以上に、中国人研究者の実力は進展している。私の夫は毎日身体を壊さ んばかりに研究に没頭している」 と言う。 日本の役所の中で、中国の研究開発力の急激な進展に警戒感を持つ者は増加している。 今何か対策を打たなくては抜かれてしまうと、口を揃える。私はこの議論には組みしな い。中国に早晩抜かれることは避けられない。その際の精神的ショックを恐れていては、 何も解決しない。マラソンレースで後方の走者に抜かれる瞬間は嫌であろう。だが、そ れは新しい現実を受け入れるまでの精神的動揺期間でしかない。すぐ慣れてしまう。む しろ、中国の研究開発力が日本とほぼ同等レベルになった際、未来志向でどのような関 係を築いていくかが鍵である。 今、日本政府も大学の研究者もその準備ができていない。前にも述べたが、我々日本 人は、来るべき未来を構想し、その新しい現実にうまく適応する仕組を事前に準備する ことが、大の苦手である。その分、現実が目の前にくれば、一致団結して適応してしま う能力に優れているが。 「中国科学院の若い幹部達はほとんど欧米留学組になっている。日本にシンパシーをよ せる者は極めて少なくなっている。残念だ。日本の大学が受け入れる留学生の 6 割、一 121 流大学の大学院の 3 分の 1 は中国人ですが、旧 7 帝国大学の教授で中国人国籍を持つ者 はいない。日本のアカデミック・ソサイエティーで偉くならなければ、帰国してからも それ相応の処遇しか得られない。米国で大学教授になった者は中国科学院でしかるべき ポストを得られる。だから、日本に留学しようという優秀な中国人研究者は少ない」 驚いて返答に窮している私を尻目に、彼は続ける。 「最近では、ドイツのマックスプランク研究機構も中国国内に基金を設けし、韓国でさ え、中国科学院に共同研究センターを建設中だ」 日本はまたもや後手の後手に回っている。いや、中国が視野に入っていない。視野に 入れることが恐くて、現実を直視しようとさえしていないように見受けられる。ただ一 方で、中国人は海外の研究機関が中国に進出してくることを当然のことと思っている。 「ただし、日中間の SARS 共同研究協力の調印式は直前だ」 とD氏が言う。 「それはめでたい。日中間の人材交流で、人民大会堂のホールを貸し切り、偉い人達が 大声で演説を交換しあう時代はすでに過ぎている。中国式宴会の場で日中友好のために 何度も乾杯したところで一向に進展しない」 と私は持論を言う。 「そうだ。研究者間の交流が必要だ。ノーベル賞受賞者ではなく、これからノーベル賞 を受賞するようなトップの研究者間の交流が大切だ」 彼が付け加える。さらに、 「貴国の政策に対して意見を言わせてもらえれば、米国追従の競争政策はいかがなもの かと思っている。研究者や大学を競争に駆り立てているが、本当に日本人や東洋人に合 うかどうかという文明史観的考察がないように思われる。アジア人が価値をおく調和、 ひとの和、長期的視点がないがしろにされているような気がする。中国科学院は日本の 動向に注目している。うまくいくか、失敗するかを見極めたいと思っている」 科学は真理の追究活動であるため、そのアプローチには研究者の民族性や文化的背景 は影響しないと一般には言われる。果たしてそうなのか。日本人やアジア人にはその伝 統や歴史や文化から培われる独特の科学や技術が創出されても不思議ではないのでは ないか。科学も人間が生み出すものである以上、それに携わる科学者の思想や感情が吹 き込まれなくては、何の意味があるのだろうか。記録を更新するスポーツと同じような 競技であるとしたら、人間の尊厳なんてないのも同然である。勝ち負けばかりが注目さ れていては、科学を進歩させる根源的な意味が喪失されてしまう。 以上の議論を認めたと仮定して、それでは一体、アジア的な特色のある科学とは一体 何なのか、という問いかけになる。もっと言うと、近代科学を創出してきたヨーロッパ の精神は何か。さらに、中世から近代社会を生んできた哲学的背景とは何だったのであ ろうか。“個人”を正当化する思想はなにか。そもそもキリスト教でいう神と個人との 契約とは? これらも重要な課題である。西欧の近代の秘密を宗教的側面に焦点を当て て解明しようとしたのは、マックス・ウェーバーであるが、その秘密をもっと単純に「数 量化」に求めた学者がいる。クロスビーは、13 世紀後半から西欧社会では、さまざま な知的・芸術的領域で計測化・数量化を加速させたと主張する。数学の代数化、貨幣経 済、音楽の記譜法、絵画における遠近法、精密な地図、複式簿記等々を挙げている。関 心のある読者は、 『数量化革命―ヨーロッパの覇権をもたらした世界観の誕生―』 (A.W. クロスビー、紀伊国屋書店)を読むことを薦める。 D 氏と一緒の記念写真を 3 枚撮ってもらい、出席者とそれぞれ握手して別れた。中国 人は通常 3 枚記念写真を撮る。 次の国家海洋局への訪問は、予定より 20 分も遅れたが、関係者が玄関先で待ってい てくれた。国家海洋局極地考察事務室は日本極地研究所のカウンターパートであり、南 122 極と北極への観測隊派遣の予算管理、隊員選考、訓練実施などを行っている。海洋局傘 下の中国極地研究中心は上海にあり、設営、観測船運航、観測研究などを実施している。 日本は、両方の機関と分け隔てなく付き合っていくのが要諦である。2003 年 3 月、上 海の極地研究中心で、“日中両国の極地設営合同会合”を開催したばかりであるので、 バランスをとるために、今回は北京で極地考察事務室との関係を深めることにした。 中国極地研究中心は、南極基地の設置のノウハウを獲得するために、日本極地研究者 や昭和基地に多くの研究者や設営隊員を派遣してきており、両者の関係は緊密である。 南極観測で各国が競争を繰り広げているホットな話題は、南極大陸を覆う氷床の深層コ ア掘削である。3000 メートルの深さの厚い氷の中には 80 万年から 100 万年前の大気が 閉じ込められている。このコアを解析すれば、過去の気候変動や火山爆発の証拠が得ら れる。未来の大気変動を予測するには過去を知る必要があると言う訳だ。 地球温暖化が人々の関心事になっているが、長期的には人類は氷期への入口に立って いる。ホモサピエンスはアフリカを 20 万年から 10 万年前に脱出し、3、4 万年前に東 アジアに到着し、当時氷で陸続きになっていたベーリング海峡を渡り、南アメリカ大陸 の南端に到達したのが1万年前である。1万年前から始まった間氷期の温暖化がエジプ ト、メソポタミヤ、インダス、黄河の古代文明を育み、それが人類の歴史の出発点とな って、現代まで到っている。もし、間氷期の到来が 5 千年遅れていたら、我々人類はま だ 5 千年前の生活をしていたことになる。人類も文明もかくもはかない存在である。 日本南極観測隊は 2005 年、人類史上初めて 3000 メートルを超える厚さの氷を掘り抜 いた。中国は南極に長城基地と中山基地を持っているが、先進国の仲間入りを果たすた めに、海岸沿いの中山基地から内陸 1500 キロ入った標高 4100 メートルのドーム A に新 たな基地を作り、そこで氷床の深層掘削を予定だ。日本は構想から実施まで 10 年余か けている。中国は予算さえつけば半分の 5 年程度で実施しようという勢いである。特殊 なドリルを使った掘削技術のみでなく、内陸旅行用の雪上車や極低温耐性軽油の開発な どノウハウの習得が必要であるのは言うまでもない。日本極地研究所へのアプローチに 熱が入るのは予想どおりである。 中国極地研究中心も他の国に違わず、日本側の協力を担保に中国政府から予算を確保 したいところである。両研究所の実力は、私の判断では 10 年以上の開きがある。頭脳 があっても予算がなくてはこの差はなかなか縮まらない。 私は、極地考察事務室主任に表敬訪問し、交流の深化を確認し合った。2003 年 6 月 長野県菅平で開催する次期派遣観測隊の夏期訓練に対し、中国人研究者 2 名の参加を要 請し、訓練のプログラムを手渡した。国際協力には人的交流が最も効果がある。信頼で きる関係を築くことから、win-win の国際交流が始まる。話が終わると、主任はうれし そうに笑った。またひとり中国人の知り合いができたのである。 会議に陪席していた観測船「雪竜(せつりゅう)」の元船長ら 3 名が昼食に招待して くれた。 「ドーム A への 1500 キロの内陸旅行を侮ってはならない」 私は忠告しておいた。なにしろ、中国側が使用しようとしている雪上車は厳しい仕様 が要求される内陸旅行用のものではなく、もっぱら基地周辺で使われるものであり、実 績に乏しい。中国極地研究中心はドーム A への夏期旅行を成功させ、その実績を元に中 国政府から深層掘削関連の予算を確保しようとしている。 その数年後、ドーム A 基地建設の予算がつき、中国は深層掘削に挑戦することが決ま った。これも予想を超えるスピードである。 次に、中国科学技術部へと向かった。迎えてくれたのは、在東京中国大使館で科学ア タッシェとして勤務していたことがある国際合作司の F 氏である。私服で現れた。明日 123 から始まる「黄金周(ゴールデンウィーク)」に合わせて、今日の夕方発の列車で故郷 に帰省するという。F 氏はいつも屈託なく対応してくれる。こちらの気持ちの緊張感も 解ける。 二日前に日本政府が発表した科学技術指標の中で中国に関連するものを説明しつつ、 「この傾向では、5 年後には論文数など一部の指標で中国は日本に並び、10 年後には対 等の実力を持つようになるのではないか」 と議論を差し向けた。彼は浮かぬ顔をした。 「中国の人口は日本の 10 倍だから天才も 10 倍いる。中国の科学技術の将来は明るい」 と私が追い討ちをかけると、 「中国の有効人口は 1 割で、残りは“無効人口”だ」 私は意外な答えに戸惑った。 「中国は北京、上海、広州など極一部の都市が科学技術の発展に寄与するが、他は農民 の地域だ」 中国の科学技術力の急激な進展は余り期待できないと示唆する。 中国も政府部内のスリム化が急激に進んでいる。かつては、国際合作司に日本処(課 レベル)があり、処長以下 3、4 名のスタッフが働いていた。今はアジア・アフリカ処 に吸収され、日本担当は F 氏ひとりとなっている。処長は欧米留学組が占める。 「科学技術部の外郭団体に出向すれば、給与は 5 割増以上になるが行くものは少ない。 官僚のままでいれば、処長クラスでも、地方出張の際に副市長並みの接待を受ける。外 郭団体員ではそうはいかない。他にも“特典”があるため役所に残ろうとする」 “特典”という言葉に中国官僚のうま味が隠されている。 F氏は、改革の中での迷う気持ちを語ってくれた。中国の改革のスピードは激しく、 かつ速い。 以前にこういうことを聞いたことがある。既存の官僚組織を融合し、情報産業部を設 置する方針が国務院で決定され、担当部長(大臣)が改革案を当時の朱鎔基首相に説明 に行ったところ、「人員を数分の一にした案を持って来い」と言われ、部長がそれは困 難だと抵抗すると、大声でどなりつけられたそうだ。定員削減は首相の思惑どおり行わ れ、その部長の首はつながったという。中国政府幹部の危機感と改革にかける情熱は強 い。 中国には、“上有天堂、下有蘇杭”という言い伝えがある。天空に美しい天国がある ように、地上には同じように美しい蘇州と杭州がある、という意味である。これをもじ って、“上有政策、下有対策”とひとびとは言う。北京政府が政策を打ち出しても、地 方には抜け道はいくらでも作れる。中国幹部はこのような中国人特質をよく知っている ので、改革特に腐敗撲滅にかける思いは強い。 中国では歴史的に権力者の力が強く、どんな改革も遂行してしまう。文化大革命が典 型的な例である。国内を混乱の極みに陥れることをいとも簡単にやってしまう。社会が 左右に振れれば、それを適正化しようとする逆バネが働くのが普通の社会であるが、中 国は動き出したら止まらない。破滅するまで突き進んでしまう民族のエネルギーは凄ま じい。 世界的ベストセラーになった『ワイルド・スワン』(ユン・チアン著)の訳者は、そ の本のあとがきで、「著者が語る中国に向きあうとき、あまりの事実に言葉を失う。中 国人とはなんとすさまじい、なんと底知れぬスケールを持った民族なのであろう」と述 べている。 進展中の経済急成長はその現れのひとつであると思う。私のみるところでは、中国の 歴史は興隆と没落を相互に繰り返したに過ぎないのではないか。西欧の歴史は、古代、 中世、近代と区分され、歴史の変遷期には世界観の革命的転換を経験し、次の世代へと 124 発展していく、いわゆる「進歩史観」に貫かれている。中国社会には西欧で指摘すると ころの進歩がみられない。お断りしておくが、進歩がみられないから劣った社会である と言っている訳ではない。西欧はその特性上、進歩史観を選択せざるを得なかったが故 に、進歩が早く訪れ、それが故に、行き詰まっていると考えられる。 なお、日本社会の特性は何と聞かれれば、盆栽社会又は庭園社会と答えよう。全くの 自然社会でもなく、合理的で無機質な人工社会でもない。適度に人間の意志が加えられ た“適度な社会”と言えるのではないか。中国は人間の欲望が剥き出しの自然な社会の ような気がする。人間と人間が激突する厳しい競争社会。生き抜くためには、親戚や知 人の結束が大切であるし、人間関係ネットワークの形成に血眼になる。中国は過酷な自 然社会であり、日本のような人間関係の緊密な暖かい“村社会”ではない。 清華大学は緑に覆われた静かな大学であった。大学キャンパスは学生達が遊び、談笑 する穏やかな雰囲気で、未来へ放つ希望を宿している若者が頼もしく、また凛々しく見 える。清華大学は理工系大学であるが、中国指導層が多数輩出している名門校でもある。 日本の 10 倍の人口の中から選ばれたエリートが日本の 23 倍の国土から集まってくる。 卒業生の 3 分の 1 は更なる夢を追いかけて米国へと旅立っていく。ある中国人が私に教 えてくれた。 「北京人愛国、上海人出国、広州人売国」 北京人は政府所在地であるからか、国を愛する。上海人は海外に成功への道を求める。 広州人はアヘン戦争前夜繰り広げられたように自己の利益のためには国を売ることも いとわない。中国は広い。中国人とは何かを議論すると、現実とのギャップを拡大する ことになるので、注意しなければならない。国家を信用せず、個人や家族の栄達しか考 えない者も多い。いやむしろ、近代において出口の見えない混乱期を 150 年以上も続け てきたのである。お上や政府への信用は全くないのではなかろうか。漢民族としての誇 りはあったとしても。 優秀な人材であれば、米国に渡れば栄光が得られるかもしれないが、中華文化との隔 絶は覚悟しなければならない。中華文化を捨てられない、あるいはそれに最大の価値を おく人々は早晩帰国するであろう。中華文化の吸引力や魅力がどれだけ強いかが中国の 将来を占うであろう。米国は世界中から優秀な知的な人々を惹きつけ、新しい知識や技 術や文化の創造に貢献させてきた。 中国は特有の強烈な文化を擁する国である。それを愛せるかどうかは、中国人ばかり でなく、外国人でも意見が分かれる。中国人や中国文化に惹かれた外国人は、その強烈 さゆえ、頭脳が破壊される可能性がある。有り体に言えば、バランス感覚がおかしくな り、悪化すると、自らの文化さえ否定してしまいかねない。日本文化は中国文明の“亜 流”という発想がそれに当たる。 3日目は、メーデーの日だった。 中国語では“労働節”という。テレビは労働者を尊ぶ番組を流している。A 氏の運転 するクルマに乗って、変わりつつある北京市内の見学にでかけた。 北京のシリコンバレーと呼ばれる中関村。ソフトウェア・ハイテク地区や生命科学ハ イテク地区は整然と区画化され、真新しく、品のいいデザインの建物が建ち、そのなか では、国内外のベンチャー企業、インキュベータ、電子部品製造工場、研究所、コンサ ルタント会社などが活動を繰り広げている。日本企業の存在感は余り感じないが、A 氏 によると 10 社程度のソフトウェア関連企業が進出してきているという。 生命科学ハイテク地区の近くには、広大な航天(宇宙)ハイテク地区があり、ロケッ トや人工衛星など国内の宇宙関連研究機関が結集されていて、関係者の入場が規制され 125 ている。A 氏のクルマのナンバーには「使」という大使館のマークがつけられている。 助走しつつ研究所の内部をうかがっていたため、守衛が不審者でもみるような目つきで、 我々のクルマを監視しているように感じられた。急発進して立ち去った。 中関村には、清華大学が設立したハイテク地域もある。教授達がその成果を企業化す るために、次々とベンチャー企業を設立し、大学もそれを後押しする。上場を果たし大 企業に生まれ変わったものも多い。かつて経営者に会うと、会社幹部と教授ポストの2 枚の名刺をもらったことが思い出される。実は当初、大学は教授たちに給与を払う余裕 がなかったし、政府も親方日の丸の体質に馴染んだ国営企業を改革し、ハイテクを習得 させる手法に思いあぐねていた。中国人は学者でも商才がある者が多い。大学も教授達 も一斉に起業を始めた次第である。清華大学の影響下にある企業の建物が次々と立ち上 がっているが、まだグランドデザインは完成に至っていない。中国の巨大な底知れぬエ ネルギーを感じる。 「知識人を徹底的に弾圧した文化大革命が終わって、まだ 25 年しか経っていない」 と A 氏が自家用車のハンドルを切りながら言う。 「あの悲惨な情況を知っている者は、今でも大多数現在の中国に住んでいる」と私が応 答する。 文革の時代、知識分子は反動勢力として地主、資本家などよりも最も打倒すべきもの とされた。教授は「越教、越痩」と言われた。教授の「授」は「痩」と同じ発音である ことをもじって、本来業務である教育をするほど貧困になってしまう、と揶揄された。 人民の実態を学習すべきとして、農村に派遣されるいわゆる“下放”によって、知識人 はプライドを大きく傷つけられ、ある者は絶望し、ある者は命を落とした。 内戦と言ってもいい文革が終わると、中国は 1978 年から一転して“改革開放”に向 けて大きく舵を切る。走資派として非難された企業家は、今や“三つの代表”のひとつ として、中国共産党大綱でその構成メンバーに正式に位置づけられた。台頭する資本家 や企業人を体制に取り込むことで、共産党体制の維持を図ろうというわけだ。 やっと知識人にもチャンスが訪れた。しかし、中国の歴史の激動を考慮すると、確か で磐石なものとはいえない。いつまた政策が変わるか分らない。千載一遇つまり千年に 一度しかない機会は生命を賭けて勝ち取らなければならない。地下に潜んでいたマグマ が吹き出たのである。中国人は自分が小さいとき味わった苦痛は決して忘れず、現世で 借りを返そうと燃えているように思える。 「知識分子よ、奮い立て。中国社会を高度知識社会立国に変貌させるのだ」でも一方で、 「中国人には、中庸という発想がないのかも知れない」 と私は思った。逆に、日本人は中庸という社会の安全装置が強力に効き、改革が遅々と して進まない。中国の変化のスピードに日本人の意識がついていけない。日本人は 5 年 から 10 年後、GDP で中国に追いつかれると言われても、現実のものとなるまで、信じ ることができない。 中国は世界から資金や技術ばかりでなく、資源までも飲み込んでしまおうとしている。 日本政府は戦後、外資の国内進出を極端に恐れる政策をとり続けてきた。中国はまず外 資を飲み込み、逃げられないようにしてしまおうという政策だ。外資は中国でしか生き ていけないと覚悟した瞬間、自社の発展、ひいては中国の発展のために猛烈に働くはず だ。しめしめとエリート中国人は、ほくそえんでいることであろう。大胆不敵。日本人 は戦略的発想が苦手なのだ。それは政治家や役人の責任ばかりではなく、日本人の遺伝 子のなかに組み込まれているように私には思える。 北京の北の郊外を走る地下鉄 13 号線に乗ってみた。地下鉄といっても、ほとんど地 上を走る。駅前にはお洒落なアパート群が林立している。一戸 600 万円という看板もみ かけた。だが、駅と駅の間は北京っ子が住む、昔ながらの家並みである。古代と近代の 126 並存。これは単なる形容ではなく、西欧社会とは異なり、中国は社会の本質が変化して きていないような気がする。 中国には、今も孟子や劉備や始皇帝が生きている。歴史が直線的に進化するのではな く、ぐるぐると回転しているに過ぎないようにみえる。皇帝だけが変わる。共産党政権 であろうが、人々の考え方や社会の根本が変わることはない。そう考えると、米国が信 じる「民主主義と市場経済が人類の終局的なゴール」という解釈は成り立たないのでは ないのか。フランシス・フクヤマ氏は、人類の歴史は「民主主義、自由尊重、人権、個 人主義、市場経済」をもって終わりと主張する。もはや将来の歴史に“大きな物語(革 命のこと)”は起こらない、これらを実現していない地域、すなわちイスラム諸国、中 国などが早晩彼らの社会に追いつくという解釈である。高度に発展し安定した欧米や日 本で、社会の大変動や人間の意識が根本的に変わると予想することは困難だ。国民は満 足した消費社会を送っているようにみえる。改革のエネルギーはもはや失われてしまっ たのではないか。 9・11 のテロリズムをブッシュ大統領は文明と野蛮の戦いと位置付けた。経済力と軍 事力を有する先進国は自らを文明社会と称しているため、テロとの戦いで味方につける には都合のいい論理であろう。野蛮とはテロリストを指す。これは正しい。文明の名の 下に破壊活動を容認することはできない。問題は、ブッシュの言う文明の中身だ。彼も 本音では文明の本流は西欧社会と信じているはずだ。日本や中国や韓国は、その民族に 特性があるにしても、人類社会の発展において、民主主義と市場経済へと収斂していく、 と欧米人は思っている。今の対テロリズム戦争はどう展開するか予断を許さない。また、 文明間の衝突というような相対主義で捉えることも難しい。全ての文化が同じ価値があ るという認識では、人類に対する評価軸を喪失してしまう。 ブッシュ政権を支える新保守派(ネオコン)は、西欧文明の原動力である自由と倫理 観の希求の継承者を自ら任じている。この基本原則の下では戦争は単なる道具でしかな い。戦争による人間の死はその過程にすぎない。東洋的な曖昧な感覚では、ついていけ ない。日本政府が米国に追従するのは、ネオコンの思想に賛同するからではなく、安全 保障上の都合であり、お付き合いという村社会の掟の意識が働いたためではなかろうか。 テロリスト達がどのような思想的戦略を展開するか見えていないが、欧米中心で動いて きた人類の歴史に大いなる転換を図る意図がテロリストにあるならば、ネオコンの本質 を暴き、 「文明」側メンバー間の根本的な価値観の相違を突いてくるのではなかろうか。 文明側の足並みが乱れれば、ホットな大規模な戦いが起きるかは別にして、世界規模の 文明の衝突の時代に入る可能性はある。そうなれば、「歴史は終わった」という議論は 振り出しに戻ってしまう。 2008 年のオリンピック開催を目指して、北京は建設ラッシュに覆われている。人民 大会堂の西には、通称オペラハウスと呼ばれる国立劇場が建設中だ。フランス人による 設計で建設費 3 億ドルをかけ、2005 年の完成を目指していた。企業事務所誘致のため に新しく建てられ、拡張中の SOHO 現代街は日本人による設計。何にでも漢字を使いた がる中国人であるが、SOHO という英語を看板に掲げていた。一部では営業を始めてい る。建物のデザインがシンプルすぎて、重厚さがない。地震が来れば、崩壊するのでは ないかと不安になる。 SOHO 街の一角の喫茶店に入ると、ウェイターが英語で注文をとりにきた。カフェラ テを飲みながら、A 氏と語り合った。 「ほんの 1、2 年前まで海外留学組は、持てはやされ“海亀派”と呼ばれていたが、帰 国しても職にありつけない者は、今や“海帯派”と言われている」 と A 氏。海帯とはコンブの意味でもある。海底に張り付いていて、自由に泳げないから 127 その名がついたのだった。 A 氏は続ける。 「日本企業は上海デルタ地域に結集している。数万人の日本人が働いている。上海の日 本人学校は急速に拡大し、教室も増設が急ピッチで進められている。バンコクの日本人 学校が最大で 1900 人の小中学生を収容しているが、それを抜くのは時間の問題。最近、 青島に日本人学校が新たに設置された。日本人学校設立と企業進出は卵と鶏の関係に似 ている。これで青島への日本企業進出に弾みがつくであろうが、青島には韓国人が既に 5 万人も住んでいる。蘇州の工場団地には台湾人 30 人から 40 万人の街が突如現れたと いうほど変化が激しい」 と彼は待っていましたとばかり、流暢に話す。 2002 年、古くから中国に進出している関西の電器メーカーの本社を訪問した際の幹 部の声を思い出した。 「中国企業とわが社の技術力の差は縮まるばかりだ。並ばれるのはそう遠い話ではない。 今後、並走する時代が長く続くことになろう。技術革新よりも心配している問題は、意 思決定のスピードである。わが社の場合は会議を積み重ねてやっと決まる。中国企業は 即決だ。社長がその場で決める。日本企業はそうはいかない」 「日本企業は時間をかけて議論するため、誤った決断に陥る恐れは少ないのではない か」 と私が尋ねると、 「時間をかければ正しい結論に到るとは限らない」 と彼は苦笑する。 大阪でこの話を聞いたときには、実感があまりなかったが、北京の雰囲気のなかで話 を聞いていると、頭だけでなく身体で理解できる。日本は急速に変わる社会ではないの だ。 2003 年 4 月に開店したばかりというセブン・イレブン北京1号店にも見学に行った。 中国語でコンビニエンスストアは「便利店」と言う。英語からの直訳だ。物珍しいので あろうか、結構混雑している。お客の多くは、わざわざクルマで来ているように思えた。 日本から派遣されたと思われる日本人 2 人が売子や中国人スタッフに熱心に指導して いる。 便利店の成否の鍵は工場の確保や商品の流通・管理システムにかかっている。目に見 えないところのサポートがしっかり機能するかが問題。上海では、国内外の大型ディス カウントストアやコンビニが市場獲得競争にしのぎを削っている。その競争が北京に波 及するのはすぐそこだ。中国人はそもそも日本人と違い、競争が嫌いな民族ではない。 ルールが明確であれば、むしろ競争を望む。 試しにボトルに入ったお茶を買って飲んでみたら、甘い。糖分が含まれていた。日常 茶飯であるお茶をそのまま売っては、客はお金を払わない。付加価値を付けるために考 えたのが、甘くするというアイデアだ。果たして、中国人に甘いお茶が受け入れられる のか。事の是非はともかくとして、試行実験と思って暖かく見守りたい。 北海公園北側の湖の周りには、オープンカフェがずらりと並んでいる。外国人観光客 の憩いの場やカップルのデートスポットになろうとしている。これも新しい中国の顔だ。 夕食は A 君の案内で、周恩来のコックが開店したという「無名居」で夕食をとった。 服務員の接客態度も随分と洗練されてきている。1990 年代半ば、不愉快な思いをさせ られた服務員は一体どこにいったのか。同じ民族とは思えない。中国人はすさまじいエ ネルギーと能力を具備しているのだ。それを発揮するかどうかは、合理的な判断にかか っている。中国人の性格は本来共産主義の理念に合っていない。働いても働かなくても 給与が同じであれば、誰が働くものかと割り切る。今は働いただけの見返りがある。だ 128 から客に親切にするのだ。 一方では、中国人は朝貢外交の長い歴史を持っているため、外国人を接待することに かけては天賦の才がある。 4日目。 5 月 2 日。テレビをつけると、EU 拡大のニュースを繰り返しやっていた。通貨統合し た EU はかつて敵対していた東欧とソ連の一部を加えて、さらに拡大した。EU 発足のそ もそもの発想は仮想敵国のソ連への対抗策であったが、今はスーパーパワー米国への対 応へと変わった。それにしても EU を底辺で支える共通の基盤とは何であるのか。 EU 設立の歌はベートーベンの「歓喜の歌」であるという。この曲はベートーベンが 苦しんだ末に生み出した最高傑作。人間の最高の歓喜は何か。それは抑圧などの苦しみ からの解放であり、解放された人々の連帯である、とベートーベンは歌い上げる。病苦、 戦争、古い因習、差別、政治的抑圧など人間を苦しめるものから解放された人間は人格 を持つ「個人」となる。個人になっただけで、幸福になれるとは限らない。それら個人 同士の連帯まで成就されて始めて、人間は歓喜の声を発するのだ。 「私は、この世に生まれてきてよかった」 仏陀も発想の原点は同じで、「人生は生、病、老、死の苦である」と考える。仏陀は 苦からは逃れられないとの発想に向かったが、西欧人は逃れられるのだと考えた。そこ から文化の違いが生じる。人間の苦痛の解決へ向けて、西欧文明は果敢に取り組んだの に比べ、仏教文明は「無常」の思想を発見する。この違いが両文明のその後の形成に根 本的な影響を与える。 西欧文明は、古代、中世、近代に区分されるが、ここで議論したいのは、中世の崩壊 から近代誕生の過程である。キリスト教の神を中心とした世界認識が 14 世紀半ばから 崩壊し、300 年の思想的混乱期を経て「個人」が生まれ、市民革命、産業革命、科学革 命を特徴とする近代が誕生する。また、中世は宗教的秩序社会、近代は世俗的秩序社会 と呼ばれる。中世から近代への変遷を加速したのは、宗教改革である。 ルターが「95 箇条の論題」を発表するや否や、立ち行かなくなっていた神中心の中 世ヨーロッパは百年戦争に陥る。17 世紀半ばに締結されたウエストファリア条約は戦 争終結宣言であると同時に、国境線を明確にする主権国家の始まりである。主権国家は 世俗的秩序体制の容認の上に生まれる。絶対的存在である神が主権を人民に授ける、つ まり「人権神授」の実現であり、主権を持つ個人は市民になり、市民が選挙などを通じ て権利を委託する代表者が権力者としての正当性を初めて獲得する。 市民革命を完成させたヨーロッパに個人が生まれ、人権の概念が生まれる。中世から 近代へのパラダイムの転換は見事である。中世の神が死に、かわって市民が統治の正当 性を獲得する。 一方、中国は新しく天下を征服した皇帝が天の命が下されたと宣言するだけで、権力 の正当性が確保される。日本は神話の時代から続く天皇制を絶対化、あるいは無謬性化 しつつ、権力者は天皇の名によって統治者としての正当性を保障されてきたと言えよう か。権力と権威の二重構造である。 西欧人は、世俗支配の正当化という革命を果たした西欧文明こそ、人類文明の正統性 を引き継ぐものであるという認識が強く、西欧人のアジア人に対する優位性や優越感の 源泉はここにある。この問題の克服なくして、アジアの黄金時代は決してやって来ない。 経済や科学技術がどんなに進んでも、文明の中核を確保できない。シンガポール人の所 得はとっくに英国人を抜いているが、話題にすらならない。経済力は人間存在にとって 大した意味はないのだ。 私がかつてバンコクに住んでいた時、東アジア人もアフリカ人も中東の若者もなぜ、 129 西欧文明に惹かれるのか。なぜ欧米に留学しようとするのか。そんなことばかり考えて いた。結論はこうである。西欧文明には独特の魅力がある。それは、華やかさであり、 透明性であり、可能性であり、自由である。つまり、人間が他者から冒されたくないも の、神聖なものである個人の人格を、そしてその可能性を尊重してくれるからである。 若者は正直である。人々の欧米志向の流れはなかなか変えられない。中国古典の名言 選を読むと、確かにリーダーや経営管理や自己研鑽にとって誠に示唆に富むし、有益な ものが多い。ただ、支配者の視点で述べられたものが多く、不安が一杯で心を震わせて いる個人に優しく語りかけるものは少ない。 中国の歴史は連続する戦乱の歴史であり、政治の安定が人民個人の幸福への道の前提 であると発想されるため、リーダー達に対する治世の言葉が多いのであろう。問題は、 中国人が社会秩序安定への文明思想的努力をなぜ怠ってきたかである。西欧人は 100 年 の血で血を洗う宗教戦争を経験し、新しい秩序体制を模索し、実施した。 しかし、それが中国人には出来なかった。日本は人々の心のなかに秩序を尊ぶ態度が 叩き込まれているため、世俗権力のなかに秩序構成要因を組み込む必要がなかったと私 は見る。中国は清朝以降、混乱から抜け出せず、西欧列強に蹂躙される。かつては中国 文明の熱心な“生徒”であった日本にまで侵略されてしまう。他国を侵略することは許 されるべきでない。 しかし、冷静に歴史を眺めると、国内の政治や経済の運営をうまくやっていれば、秩 序は維持でき、外国から侵略される糸口を与えないのである。西欧の歴史観で言うと、 中国は自らの近代社会の形成に失敗した。 偏見を恐れず言えば、中国は古代社会のままの状態である。これが中国の魅力であり、 可能性である。 村上春樹らのロストジェネレーションの小説が読まれるのは、先行きが見えない焦り のみならず、近代が確立した「個人」の否定、あるいは自己融解や自己存在の透明化に よって、人生の意味を問い直そうと読者が考えているからと私は推測する。日本人も自 己規制が強いし、それが社会の安定の原動力だ。中国では人民は自由だが、自由である がゆえに競争が厳しい。まるで、古代社会の奔放さを感じさせる。ただ、ここで言う自 由は、西欧文明が生み出した政治的自由の意味ではなく、現世での富の争奪戦への参加 意欲である。 それにしても、EU の実験は大胆だ。国家の枠を越えて、人間が連帯しようとしてい る。各国の既得権を失う政治家や役人の反対を押し切ってのヨーロッパ統合である。 一方、東アジア地域を見ると、日本と中国が ASEAN 諸国を自陣の自由貿易圏内に囲い 込もうという競争をしている。その動きを促進しているのは、経済便益だけで、理念も 理想も全く感じられない。東アジアは、地理的にも民族も宗教も多様性は大きいため、 EU のように単純ではないというのは理解できるが、経済的な発展という地域共通の目 標に向けて結束を固めつつも、その先にある理想は見えていない。 米国、EU への対抗措置として東アジアも連帯すべきであるという議論では弱すぎる し、早晩行き詰まる。企業が自己の利益拡大に走り、役所も自己の体制維持にのみ苦心 するのであれば、日本の将来は明るくない。世界経済第 2 位の地位から滑り落ち、ほど なくして韓国、台湾、タイ並みの普通の国になってしまうのにそう時間はかからない。 中国人の G 氏夫婦がホテルまで迎えに来てくれた。今日一日、北京市の案内を買って 出るという。奥さんを H さんとしておこう。彼らとは、10 年近くの付き合いである。 東京の我が家で食事したり、香港に旅行に行ったり、バンコクで再会したりの家族ぐる みの付き合いだ。今は香港に住んでいて、貿易商の仕事をしている。 借り切ったタクシーで出発することにした。一日の借上げは 600 元。 130 「まず、オリンピック村に行きましょう」 G 氏が言う。 1989 年世界を震撼させた天安門事件後、中国政府が汚名を雪ぐべく、面子をかけて 開催にこぎつけたアジア大会の会場だ。連休中にも関わらず、観光客は少ない。次に、 2008 年の世界オリンピック会場の建設現場に行こうとしたら、オリンピック村の三環 路を挟んだ真向かいに中国民族博物館が目に入ったので、訪問順番を入れ替えることに した。この博物館は 54 の少数民族の代表的な建築物や住居が復元されている。本物の 少数民族が伝統的な民族の踊りを披露しているものもあった。ポタラ宮の前で、山羊の 乳と茶を混ぜた飲物を賞味した。H さんは「まずい。まずい」と勧めてくれたチベット 族の女の子の前で、遠慮せずに言う。私の口にも合わなかったが、「まあまあだよ」と 中国語で答えた。 中国には省、自治区、政府直轄市を合わせて 31 ある。現在は重慶市が加わって 32。 私は北京駐在時に 31 を全て訪れるべく、あくせく出かけたのを懐かしく思い出す。ラ サでは軽い高山病に罹ったし、北朝鮮国境の長白山登山の途中に雪に見舞われて登頂を 断念したし、新疆では三蔵法師も見たという正に燃えているような「火炎山」を眺めて は古代に夢を馳せ、内モンゴルでは強い酒を飲まされながらモンゴル族の民族の歌に聞 き入った。中原を支配する漢民族、辺境に生きる少数民族はともに一つの壮大な中国と いう世界を形成している、としみじみ感じた。日本や東南アジアやヨーロッパとも異な る別世界がある。新疆ウイグル自治区とチベットを除けば、ほぼ中国語が通じる。中国 政府は辺境への中国人の入植を推奨しているのは、文化の基本である中国語という言語 を中国領土の隅々まで浸透させ、中国の一体化を急ぎたい考えだ。 米国は表向き台湾の独立の動きを歓迎しないと主張しているが、本音はそうとも限ら ない。台湾海峡で米中が軍事衝突すれば、中国は敗退し、辺境地域の少数民族の独立運 動に火がつきかねない。中国は中原だけの漢民族による小さな中国になってしまう。そ の動きを封じ込めるためにも、少数民族の中華文明への同化を急ぎたいところだ。北朝 鮮の核問題も中国がカードを握っている。中国が恐れる最悪のシナリオは、北朝鮮の内 部崩壊や米韓との戦争勃発によって朝鮮北部に新米政権が誕生することである。そうな ると、米中緊張が一気に高まり、高度経済成長は冷え込み、明るい将来を期待していた 人民の不満が噴出する。そうなれば共産党政権はもたなくなる。 結局のところ、唯一のスーパーパワー米国との対立は避ける戦術に出ざるを得ない。 中国は最終的には台湾の独立を容認しても、広大な大陸の安定と発展を優先せざるを得 なくなると思う。面子をとるか、実利をとるかの正念場に近未来、中国は立たされるか もしれない。 だが、6 年前のこの予測は全く当たらなかった。2008 年、台湾で国民党が政権をとる と、中国と台湾の経済の一体化は急速に進むようになった。 内陸の中国人が海産物を食するようになれば世界から魚が消失しよう。先進国のよう な消費文化が西部奥地まで浸透すれば世界から石油が枯渇しよう。中国人が海外に自由 に出かけられるほど豊かになれば、スポーツ、芸術、科学技術の分野で中国旋風が吹く のではなかろうか。 韓国が半導体分野で日本に追いついたのは、韓国企業がかつてシリコンアイランドと 呼ばれた九州の半導体技術者を週末に韓国に呼んで、キーセンパーティで接待し、見返 りに技術を教えてもらったからと噂されている。日本の稲、茶、イ草、梅などの農産物 技術はどこからともなく、中国に渡り、日本へ輸出攻勢がかかってくる。ブーメラン効 果だ。 G 氏の携帯電話が鳴った。天津からの電話という。昼食を接待したいから、会ってく 131 れないかという私への誘いだった。今回の中国訪問時に何回も天津への訪問を誘われて いたが、ある事件を理由に断り続けていた。事件は 2003 年3月、上海出張中の出来事 である。 上海に着くと G 氏と夕食をとることになっていたが、天津からも新しい友人が来て参 加するという。天津の I 氏と J さんもわざわざ上海までやってきた。宴会はいつもどお り白酒を飲みながら楽しく過ごした。その後、I 氏が泊まる豪華な 5 つ星のホテルの部 屋に案内され、雑談し、帰る際に渡されようとしたのが分厚い封筒だった。中身は中国 人平均給与数年分の 1 万円札の束だった。私は 4 人の中国人に囲まれていて、えらいこ とになったと思った。 「今日はお土産を買う時間がなかったので申し訳ない。これで我慢して下さい」 とI氏は稚拙な日本語で言う。さらに、 「筑波には、いくつかのハイテクの研究所がありますよね」 I氏はにやりと笑った。品のない表情だった。日本のハイテク情報が欲しいという意 図は明確だった。 「我々の機関は予算が十分あるのです。心配していただかなくても結構ですよ」 欲しければいくらでもお金はありますよ、と言っている。 香港のG氏は驚いたような表情をした。彼はグルではなさそうだ。 国際探偵映画ではあるまし、自分がこんな目に合うとは思わなかった。 勿論、私は受け取らなかった。でも目の前で断っても、相手は納得してくれまい。相 手はわざわざ天津から“仕事”でやって来ているのだ。そこで一計を案じた。受け取っ た振りをして、トイレに入り、封筒を目立つところに置いて、握手をして逃げるように ホテルの外に出て、携帯でJさんに電話した。 「受け取れない!」 とはっきり言った。怒りが込み上げて来てその夜は一睡もできなかった。 帰国後、冷静になって考えてみた。中国国内はバブル景気のため、現金が地面から湧 いてでてくる。その現金は地方政府や共産党幹部らの格好の標的になっている。コネ= 関係を利用した便益供与は後を絶たない。つまり、贈賄、収賄の横行。これが腐敗とし て人民の怒りをかっている。このような風潮が中国国内のみならず、外国人に対しても 普段に行われるようになっているのであろう。特定の目的がなくても、その際にはよろ しくと、関係を強化し維持しておきたい。しかし、どんな理由があるにしても、買収さ れる訳にはいかない。 後日、この話を日本大使館員に話すと、彼も似たような経験をしたと告白していた。 この数年後、上海領事館の電信官や海上自衛隊員に対する賄賂攻勢やハニー・トラップ の問題が日本のメディアを賑わすようになる。2000 年代の初頭、かつて魔の都市とい われた上海において、日本人駐在員や出張者をターゲットとした罠がかなり広範囲に仕 掛けられていたのではなかろうか。自殺者の発生やイージス艦の秘密まで流出するスキ ャンダルに発展した。当時の小泉首相もメディアが騒ぐまで、外務省から報告が来なか ったと激怒したことがある。国会議員や経団連幹部で、エージェントの罠にかかったの も少なくはなかった。元々は日本人の innocent に起因するが、中国エージェントの情 報操作やスパイ行為に対して、全く備えていなかったことが問題である。カウンター・ インテリジェントの組織的対策が必要であることはいうまでもない。 なお、日本大使館は電信官の自殺事件に懲りて、職員に対してホステスがサービスす る飲み屋への出入り自粛令を出している。この対策で次の事件が防げるか疑問である。 G氏は私が天津の友人に会わないとG氏の面子が立たないという表情をするので、最 後には劉邦の気持ちになり、「鴻門(こうもん)の会」に出席することにした。出席者 132 は、G 氏とその奥さんの H さん、天津からやってきた I 氏とその部下の若い女性の J さ ん。場所は、前門の北京ダック専門店。 I 氏が言う。 「先生は北京の新名所にご関心があるとのことですが、天津も以前に比べて随分発展し ていますよ。天津にも来て下さいよ」 と誘ってくる。 「次には、行きますよ」 と気のない返事をする。相手は納得せず、話題の間にこの問いをたびたび挟んでくる。 「天津の海鮮料理は美味しいですよ。白菜も有名なのです。白菜は百財と発音が似てい ますから、これを食べると金持ちになれるのです」 「食べられる本物の白菜の方が食べられない偽物の白菜よりも値段は安いですよ」 と私が言うと一堂爆笑。H さんは、中国製品は偽物ばかりだと不満たらたら。本物は必 ず偽物よりも高いと信じている。しかし、白菜の場合、食べられる本物よりも大理石で 作ったものの方が断然高価であるのだ。大理石の白菜はしばしば賄賂贈答品として使わ れていたのだった。 「私は白酒が好きで、飲み過ぎで頭が白髪になってしまいました」 と白にかけた洒落を言ったが、これは受けなかった。中国人は白髪を老いの象徴として 嫌うのだ。政治指導者を見よ。白髪はいない。みんな染めている。そして、不自然に黒 い髪の下の顔は不自然な表情をしている。 「白喫ばかりやっていて、白痴になりました」 白喫はただ飯を食うこと、白痴はばか。両者の発音は全く同じ。誰も笑わず、さらに、 場が白ける。白は中国では縁起が悪い。 G 氏が私を“中国通”と誉めつつ、 「自分は香港人だが、黄金“周”の存在を知らなかった。お“粥”なら知っていたが」 と駄洒落を言う。笑いが少し出た。説明が必要だ。周と粥の発音は全く同じ。 「鶏頭牛尾(けいとうぎゅうび)という成語がありますが、中国人は、組織は小さくと もリーダーになることを好みますが、日本人は安定した大組織の一員になることを選択 します。両国民の性格は随分違いますね」 と私が言うと、 「牛尾でなく、牛後が正解ですよ。もっとも牛鞭は両国民問わず男性にとっては重要で す」 と香港の G 氏が言うと、I 氏は笑ったが、女性二人は笑わない。当然だ。牛鞭とは牛の ペニスのことを指す。私の言い間違いに乗じた G 氏の悪ふざけである。中国人は単語の 発音うまく利用した駄洒落を実に好む。 「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)はどちらが好きですか」 と私が I 氏に問う。 「難しい質問ですよ。項羽は信義を重んじ、英雄ですが、最後は負ける。劉邦は最後に は勝つがその途中の戦略が堂々としていない。強いて言えば、劉邦です。先生は?」 と聞くので、 「私も劉邦の方が好きです」 と私が答える。 「鴻門の会で、劉邦は危機を迎えます」 と G 氏が続ける。 「劉邦は皇帝になりたいという野心を現せば、その場で項羽に斬られます」 と言って、中国語の成句を並べる。それを日本語訳すると、ひとは本心が現れるのを恐 れるが、豚は太るのを恐れる。豚は太ると斬り殺される。劉邦の心情を豚に喩えたもの 133 だ。 次の皇帝を決める項羽と劉邦の戦いのクライマックスは、鴻門の会と言ってよい。劉 邦軍十万に対して項羽軍は四十万であったため、正面から対決すれば勝負は明らかだっ た。劉邦は先に咸陽(かんよう)に入り、宮殿の庫に封印し、後宮三千の美女にも手を つけずに項羽の到来を待っていた。項羽が城門に入ろうとすると、外で待たされてしま い、激怒する。 そこで、劉邦は一か八かの賭に出る。項羽が陣を張っている鴻門へ行って釈明するこ とにしたのだ。項羽の軍師の苑増(はんぞう)は、劉邦を殺すように進言した。女好き の劉邦が美女に手をつけなかったのは野望、つまり皇帝の座を狙っているからだと苑増 は主張する。しかし、名門出身の項羽は庶民出身の劉邦を見くびっていた。こんな田舎 者が俺に勝てるはずがない。項羽は劉邦殺害を決断しようとしない。 一方、劉邦も張良(ちょうりょう)という優れた軍師を得ていた。この張良は項羽の 叔父の項伯(こうはく)の命を助けたことがあるため、彼を通じて項羽陣営の情報を得 ていた。優柔不断な項羽に業を煮やした苑増は、宴会の席で項羽の従弟の項荘(こうそ う)に剣舞をしながら、劉邦を斬るように命じる。しかし、剣舞が始まると、項伯も剣 を抜いて剣舞を演じつつ、劉邦の命を守ったのだ。劉邦は厠へ行くと言って席をはずし、 陣地に無事に戻った。苑増はチャンスを失したとして悔やんだが、項羽は気にしていな かった。 劉邦と項羽のその後の戦略はかなり異なっていた。劉邦は関中に入城した際、自分が 王になれば法律は三つだけで、他の秦の法律は廃止すると宣言し、人々の喝采を浴びた。 しかし、項羽は関中に入ると降伏した秦の子嬰(しえい)を殺害し、封印された宝庫の 財貨を略奪し、宮殿に火を放った。咸陽は三ヶ月も燃え続けた。さらに、項羽の論功行 賞は不公平であった。平民の心が離れるのみならず、陣中の不満も高まっていく。両者 の形勢は逆転し、項羽はついに垓下(がいか)で、劉邦軍に包囲される。劉邦は漢軍に、 項羽の故郷である楚の歌を歌わせると、項羽は楚軍が漢軍に寝返ったと判断し、絶望す る、これが「四面楚歌」のいわれである。 項羽の最後の言葉は、「天の我を亡ぼすなり。戦の罪に非ざるなり」だった。自分の 過ちを認めず、天のせいにしている。最後まで我儘であった。 『史記』「項羽本紀」には、項羽が垓下を脱出する前に、愛人の虞美人(ぐびじん) と別れる時の歌を記載している。 力は山を抜き、気は世を蓋う 時に利あらず、騅(すい)逝かず 騅逝かざるを奈何せん 虞や虞や、汝を如何せん 項羽は自分の力を自讃し、敗戦を時の利や愛馬のせいにしている。勝てる試合に勝て なかったのは、項羽の責任であるはずなのだが。 『史記』の著者である司馬遷は漢王朝に仕えていたため、敗れた項羽を必要以上に悪 く書いているとも言える。劉邦は権力を奪取してしばらくすると、粛清を始めている。 庶民から皇帝になった明王朝を開いた朱元璋(しゅげんしょう)も権力を得ると、大粛 清を実行する。庶民出身は庶民の気持ちを理解できる反面で、劣等感が凶暴性となって 現れることがある。新中国の毛沢東も農民出身であるが、文化大革命の惨事を見るにつ け、劉邦と朱元璋の姿と重なって見えてしまう。 「私は白酒が大好きなので、中国人の友人は私のことを武松(ぶそん)と呼ぶのです」 と私が話題を進めた。武松は水滸伝に登場する豪傑のひとりで、酔って人食い虎を退治 したことで有名。それを受けて、私より年上で、背の低い I 氏が言う。 「私は背が低く、ハンサムでないから武松の兄さんの武大郎ですよ」 134 「中国の指導者は背が低いです。背が低いひとは偉くなれるんです。鄧小平を見なさい」 と G 氏がサポートする。 「J さんは美人だから武松のお姉さんだ」 私が言うと、Jさんは急に顔を赤らめる。 「美しいと誉めたから赤くなったのではない」 と G 氏が説明する。J さんが武松のお姉さんの藩金蓮(はんきんれん)だとすると、J 氏の夫は武大郎(ぶだいろう)、つまり I 氏になる。部下と上司が夫婦になってしまう。 I 氏も満更でもなさそうだった。これは意図的に言ったのではない。G 氏は散会した後 でも、うまく機転を利かせたと、私のことを聡明だと褒めちぎっていた。 I 氏はまた、私の天津への訪問を催促した。私は行きますと口では言ってはみたもの の、上海での例の事件のため天津には二度と行かないと心に決めていた。それを眼光鋭 い I 氏は見破っていた。劉邦は本心をばらすことなく項羽からうまく逃げたが、私の方 は全くダメだった。戦国時代に生きていたら真っ先に殺されていたであろう。 それにしても私は彼らのトラッピングから脱したものの、似たような経験をした者も 多くいるのではなかろうか。言うまでもないが、海外の研究機関で働く中国人のなかに は、ハイテク情報の入手が目的で派遣されている研究者もいるはずである。米国では 時々露見し、海外追放されているが、なぜか日本ではあまり話題にならないし、実態を 掴むことさえできていない。 繁華街「王府井」の大きな書店に向かった。本屋はひどく混雑している。役人の腐敗 を扱った本がどれほど売ってあるか知りたかった。でも見当たらなかった。H さんはし きりに、香港では大陸の腐敗問題の本は沢山出版されていると言う。声を潜めて、政府 が許さないのよと付け加えた。その後、腐敗の蔓延に危機感を募らせた中国共産党は取 締りを強化していく。 英語学習書コーナーはかなりのスペースを割いてあった。米国留学熱が英語学習を煽 っている。日本語コーナーは英語の 10 分の1のスペースしかない。気のせいか、日本 語の学習書を手にとって読んでいた学生は頼りなさそうな風貌をしていた。 私は、村上春樹の『海辺のカフカ』の中国語訳と劉暁慶(りゅうぎょうけい)の自伝 を買い求めた。劉暁慶は文化大革命時代、知識分子の娘として弾圧を受けたが、その後 生来の美貌を武器に映画スターとして活躍し、六人の男性との結婚・離婚を繰り返しつ つも、実業家としての才覚で億万長者になったが、脱税疑惑で逮捕、保釈という、まさ に波乱万丈の人生を送っている。私が彼女に関心を持ったのは、彼女の生き方が、中国 の歴史と中国人の生き様を反映しているように思えるからである。この疲れを知らない エネルギーは一体どこから来るのか。 彼女は文化大革命の時代のことを思い出し、『我在毛沢東時代』という自伝を書いて いる。それを中国語で読んだのが、彼女に興味を持ち始めたきっかけである。文革時代、 彼女は入隊した軍隊支部で真面目に働き、共産党に入党しようと努力する。入党申請書 には、長い文章は書かず、形容詞も使わず、わざと字も書き間違える。知識分子の出身 を隠すためである。掃除、洗濯、食事の準備など一所懸命にこなすが、共産党への入党 は認められない。それどころか、遅れて入党した者に先を越されてしまう。うまく入党 を果たした者にその秘訣を聞きにいくと、リーダーの見ているところで働かなくてはダ メだと諭される。そして、リーダーの前で猛然と働くが、見ていないところでは働かな い。今でも、この労働観が中国に残っているのは残念である。 豚の飼育で糞まみれになったり、幹部達が食事している時、パフォーマンスとしてそ の前を豚の屎尿を運んでいく様は、本人は本気であるが、実におかしい。朝早くから夜 遅くまで身を粉にして働くが、なぜか入党は受入れられない。しかし、吉報は思わぬと 135 ころからやってくる。映画撮影所での仕事である。 1976 年、唐山地震の余波のなか、彼女は初出演作『南海長城』の完成を目指して日 夜奮闘する。毛沢東主席に観てもらうためである。その夢はかなわず、毛主席は他界す る。劉暁慶は毛沢東を芯から敬愛していたのだった。彼女は毛主席が眠る毛沢東記念館 を訪れたときの様子を自伝に書いている。 「私は毛主席に別れを告げた。私の最も大切な宝物で、青春真っ只中で、最も輝いてい て、好奇心旺盛であった 20 余年の人生に別れを告げた。私たちは太陽が燦然と輝く天 安門広場に向かって歩いた。毛沢東の写真は掲げてあるが、毛沢東はもはやいない天安 門の城楼に向かって歩いた。現在に到るまで、私が最も多く歌い、記憶に深く刻まれて いて、最初から最後まで歌える歌はやはり毛主席を称えた歌である。詩人のなかで全て の作品を暗唱できるのもやはり毛主席である。私は毛主席の言葉を引用しないではおら れない。私は分っているし、また確信している。毛沢東は私の心のなかで永遠に不滅で あることを」 劉暁慶の毛沢東に対する気持ちを追体験したく、毛沢東記念館を訪れようとしたが、 あいにく黄金周の期間は閉館されていたのでそれは果たせなかった。閉館の理由は分ら ない。 次は自由市場「秀水」の見学。衣服や絨毯や偽物のブランド品を売るところだ。売子 はほとんど南方から来ているようだ。商品も南で作っているのであろうか。客は中国人 に混じって西欧人が目立つ。日本人観光客は見かけなかった。中国語がしゃべれずかつ 交渉がうまくなければ、ここでショッピングするのは避けた方がいい。ちょっと寒かっ たため、私はコートを買うことにした。気に入ったものを見つけたが、値札は 3980 元 と書いてある。いくらなんでもこれは高すぎる。 「いくらか」 と売子が聞くので、250 元と私は答えた。 「ふざけんな。そんな値段で売れるか・・・・」 と言うので、私はその場を去ろうとする。 「ちょっと待て」 と言いながら、電卓を片手に追いかけてくる。電卓を叩くが、その額には目もくれず、 250 元と私は譲らない。売子はぎゃ―ぎゃ―がなりたてる。G 氏と H さんも戦闘に参加 し、まるで喧嘩をしているような雰囲気になってきた。結局、20 元ほど譲歩し、270 元 で購入した。最初の提示額の 30 分の1以下で買ったことになる。 次に、 “四合院(しごういん) ”と呼ばれる中国式の旧い住宅が並ぶ街をA氏のクルマ のなかなら見学することにした。人力車の運転手が近寄って来て、盛んに人力車で回っ たらどうかと勧めるが、1時間 20 元は高すぎると思い、断った。この住宅街を抜ける と、后海公園の屋外喫茶店街に出た。昔の住宅街を人力車でゆっくり廻った後に、喫茶 店でコーヒーかお茶を飲むのが外国人観光客の人気コースになっているのである。 夕食は、G 氏の友人が経営するレストランでその経営者を含めて、4 人で席を囲んだ。 上海近郊の南方料理専門店で、四つ星ホテルの二階にある。味付けは甘く、あっさりし ている。上品だ。経営者 K 氏はこの店の味は日本人に向いていると自慢する。中華料理 には白酒なくしては進まないと、G 氏は特別に入手し、持参してきたという「今世縁」 を披露する。マオタイと同レベルだという。賞味してみると、あっさりしている。吟醸 造のように口に含んだと思いきや、すぐに味が消える。私はもう少しこくのあるものが いい。この白酒は 42 度というが、私の好きな五糧液は 54 度。アルコール分が高ければ いいとまではいわないが、ある程度の濃さは欲しい。 K 氏は老北京だと言う。つまり、北京育ちだ。中国語のアクセントがきつく、発音が 136 よく聞きとれない。盃を飲み干す時、わざと空気も一緒に吸って音を立てる。ガボガボ という激しい音がする。これが北京の古くからの飲み方と言うが、彼以外にそのような 飲み方をするひとにあったことがない。私も真似をして音を立ててみたが、それに気を とられ白酒を賞味する余裕がない。G 氏は K 氏と2年振りとのことで話にもお酒にも熱 が入る。盃を干しては、両者ともなぜか顔をしかめる。 「なぜ顔をしかめるのか」 と私が訊くと、強すぎるからと答える。いくら親友との再会とはいえ、そんなに苦労し てまで飲まなくてもいいのではと思うが、そうはいかないらしい。それが中国人の付き 合い方であり、不合理であってもしきたりは必要なときがある。日本人に帰化した元中 国人から、中国人との付き合いは緊密すぎて、うっとうしく疲れる、と聞いたことがあ る。このような習慣も次第に変化していくことであろう。 宴の最後に、自家製の黒ビールが運ばれてきた。味は期待していなかったが、予想に 反して美味しかった。海外から技術を導入すると、すぐに同じレベルのものを作ってし まう。中国人の学習能力はすこぶる高いことが、ここでも証明された。しかし、なぜか 独創的なものは造ろうとしない。 このレストラン経営者の K 氏の名前は「鄭和」と聞いたとき、偶然の悪戯に驚いた。 訪中前に、鄭和の本を読み、彼の偉業に対する感想を中国人に聞こうと準備していたか らである。鄭和氏の中国語もアクセントがきつく聞き取れないため、彼に明朝時代の鄭 和に対する感想を聞くことはできなかったが、私は勝手に心の中でこれは愉快だと叫ん でいた。白酒と鄭和の取り合わせ。人生は面白い。 米国の知識人が過去 1000 年の歴史で世界の歴史に重要な役割を果たした人物ベスト 100 を選出したという。日本人はやっと 86 位にヨーロッパの印象派美術に大きな影響 を与えた葛飾北斎が登場するが、東アジア人で最上位に選ばれたのは 14 位の鄭和であ る。 米雑誌 US New & World Report は、2003 年 3 月 1 日号の記事は、鄭和らは各国との 通商には熱心であったが世界の探検や調査には関心を持たなかったことや、もし当時の ヨーロッパ人のように非文明国の植民地化に務めていれば、豪州やアメリカは中国のも のとなっていたと予測している。現実は、永楽帝の没後、中国は内政が不安定化し、海 外への関心が薄れてしまう。 そもそも中国は歴史的に大陸国家であり、海洋国家ではない。海洋を通じて外国への 道を本格的に開こうとしたのは明朝の最初だけだ。中国はその持てる能力を十分発揮で きず、海外渡航が規制され、再び内乱の時代を迎える。でも鄭和の残したのは大勢の中 国人を貿易の相手国に連れて行ったことだ。今、世界中に 3、4 千万人と推定される彼 らの子孫、すなわち華僑が各地で活躍している。現代の中国にとって人的ネットワーク となり、あらゆる情報が行き交う。 「大起大落」 。 栄える時は盛大で華やかに、混乱時はそれをきわめる。中国人庶民にとっても、周辺 国にとっても中国王朝の動きは心配の種。今、中国文明が新たな大起に向かいつつあり、 周辺国の日本も関心を持たざるを得なくなっている。日本が長い経済不況から脱しよう としているのは、中国への輸出が好調なためだ。経済面だけでなく、政治や文化や科学 技術の分野でさえ巻き込まれていくであろう。自国の底知れぬパワーの制御装置を近代 国家として内在していない中国は、いい意味でも悪い意味でも古代社会のままだ。 三里屯のバー街にも様子を窺いに、G 氏と二人で行った。百件はあろうかというバー が道路の左右にずらりと並んでいる。北京の新名所だ。学生や若いサラリーマンや西欧 人やカップルで賑わう。店への呼び込み競争も激しい。ポン引きがずっと後をついてく 137 る。 一軒のバーに入った。ウイスキーをストレートで注文した。60 元。値段は先進国と 変わらない。でも、客は多い。ステージでは、中国人の若者がギター片手にポップスを 歌っている。充満した紫煙が嫌いな G 氏は、早く出ようと誘う。 店を出ると、日本式スナックへ G 氏と行くことにした。ジャックダニエル1本の封を 開け、水割りをつくってもらって飲んだ。やはり、日本式のスナックの方が安らぐ。G 氏はひっきりなしにかかってくる奥さんからの電話にいらいらしている。早く帰って来 いというコールだ。私は中国語の歌を、G 氏は日本語の歌をそれぞれ数曲歌った。今日 買った村上春樹の中国語版『海辺のカフカ』を美術大学生のアルバイト嬢に見せると、 「その本はまだ読んでいないが、『ノルウェーの森』は読んだことがある」と言う。 私はテーブルを掌で叩いて喜んだ。感想を尋ねると、美大生は言葉を選ぶようにして 丁寧に語るが、単語が難しくてよく分らない。中国語バージョンの本の帯の宣伝文を指 すと、「ま、そう言うことね」と頷く。彼女の雰囲気は何となく村上小説の登場人物に 似ているように思えてくる。 「心は希望と絶望の狭間でぶつかり、世界は現実と虚構の間を行き交う」と本の帯に記 されている。 この著作に対する私のイメージとは随分異なる。登場人物達は絶望に落ちてもがいて いるのではなく、希望さえあてにしていない。人生なんて葛藤する価値さえない。名誉 も金銭も自己実現も、恋愛さえ意味を喪失している。生きている自分は透明な心を抱き、 運命のままに死ぬ存在でしかない。カフカの思想に通じるところがある。 全体主義や独裁、専制の権力や抑圧、強制から個人を解放してきた近代化は、確かに それを実現したが、一方では、市民は自立して規則正しく生活し、社会的規範を遵守し て生きることになり、市民社会を守るために国家権力を代行して自己を抑制せざるを得 なくなる。西欧文明が追い求めてきた個人の解放は成功したものの、行き着く先は自己 による自己の支配という形で終焉する。この達成感の後に来る無力感、脱力感がヨーロ ッパを覆う。「確かなもの」を得られなくなった市民は、刹那的な快楽を享受すること を求め、大量消費社会がその受け皿として登場する。快楽の享受に満足できる者はいい が、「確かなもの」を真面目に探そうという人々は、ニヒリズムに陥るか、海辺のカフ カになってしまう。現代はそういう時代だと思う。これから 3 年後、村上春樹はカフカ 賞を受賞し、ノーベル文学賞の候補になっていく。 5 日目。 今日は実質的に北京旅行最後の日だ。 昼食と夕食を中国人ととりながら話すという以外に予定は入っていない。午前中、中 国のテレビを見ながらのんびり過ごした。黄金周で混雑する観光地の模様や娯楽番組を 伝えている。コマーシャルも随分洗練されてきている。ある米国人は、advertisement は現代の偉大な芸術だとさえ言い切る。商業市場主義のメッカの発想だ。 約束の 5 分前にロビーまで降りて行くと、がっしりした体格の日焼けした顔の L 氏が 待っていた。彼は昨日台湾から帰国したばかりで、家族サービスは後回しにして会いに 来てくれた。4 年前に北京で再会して以来である。その当時は、「年とった。身体のあ ちこちが痛い」と弱音を吐いていたが、顔色はよく、声の張りも元に戻っていた。安心 した。ホテル1階の日本料理店で食事をすることにした。 彼は日中共同カラコルム登山隊に通訳として参加する予定であったが、替わりに参加 した別の通訳は遭難し命を落とした、とこともなげに言う。 また、L 氏は文化大革命が発動された時に、農村に下放され、辛酸をなめている。し かし、彼は文革を非難したり、その体験を否定することもなく、いい人生経験になった 138 と語る。相当の葛藤があったであろう。彼がそう告白して以来、私からその話題を取り 上げていない。辛い毎日のなかで、彼を精神的に救ったのは、日本語の学習である。熱 心に真剣に学んだという。近くて遠い、まだ見ぬ国に恋しつつ、言語の勉強に励んだそ うだ。 文化大革命が終焉すると、彼は日本との友好促進のために活躍すると決意する。通訳 としてだけではなく、両国の科学技術交流の橋渡しとして両国を往復する。だが、数年 前の人事異動で、日本担当から外され、台湾、香港、マカオ担当にまわされる。大好き な日本担当に戻りたいと希望しているが、組織内の欧米派に押され、日本を含むアジ ア・アフリカ処への返り咲きはかなっていない。そういう情報を事前に入手していた。 2009 年の現在でも事情は変わっていない。 人事の件は私からは話題にしなかった。 「先生のために漢詩と印鑑を作りました」 と L 氏は黄色い布に包んだ自作の詩と私の名前が彫られた印鑑を取り出した。ちなみに 黄色は皇帝を象徴する色彩。 「勤務時間後に作りましたよ。楽しかったです」 と愉快そうに笑う。 身体の表面をジーンとするものが走り抜けた。私は丁寧にお礼を述べた。 「大陸と台湾との交流は随分進んでいるでしょう」 私は興味深げに聞いた。 「今回十数名の代表団を結成し、台湾の成功大学などを訪問しましたが、成果はあまり ありません」 中国政府は台湾の独立への動きにピリピリしているため、出発の直前になるまで許可 が下りなかったこと。硝子材料の物性に関する基礎的研究であっても、台湾側が大陸で の成果の軍事転用を恐れるあまり共同研究の合意が得られないこと。台湾側は海外生活 5年以上経験した大陸人でなければ、台湾の大学教授として受け入れないこと。大陸と 台湾間の交流は、教授、研究者、学生のレベルでほとんど行われていないことなど新鮮 な情報を得た。中国と台湾との関係は科学技術分野に限らず、外国人の目からその実像 が分かりにくい。 「米国科学財団は、来年北京に事務所を開設する予定と聞いているが、中米関係には大 きな懸案事項はないのか?」 と私が質問すると、 「9・11 後、中国人研究者の米国のビザ取得が面倒になってきているので、円滑な取得 方法を巡った意見交換を期待している」 と回答。 「科学技術力を構成する幾つかの指標で、中国は数年後に日本に追いつくでしょ う・・・・・」 私が言い終わらないうちに、彼が口を挟む。 「とんでもない。日本と中国の技術力の差は縮まっていない。中国側は口だけだ。惑わ されてはいけない。冷静にみることが大切。大田区には世界最大・最強のクラスター工 場群がある」 「ちょっと待て。大田区の工場数は 1993 年からの 10 年間に、9000 から 3 分の1へ急 減した。3Kの仕事は若者に嫌われ、後継者がいない。中小企業が培った先端基礎技術 は消滅するか、中国及び東南アジアへ移転している。日本側には危機感が強い」 私がまくし立てた。 「危機感を持つのは日本人の特性で、大法螺を吹いて自慢するのは中国人の特性。この 違いのため、議論が噛み合わず、ある時には誤解さえ生じる。例えば、日本人と中国人 139 それぞれが成し遂げた発明の比較展を開催すると、その差は歴然とする。日本人の発明 精神は素晴らしい」 L 氏の弁は熱を帯びる。 「清華大学の優秀な学生が米国に雪崩れ込んでいるが、中国人の頭脳流出をどう考えて いるのか?」 私が話題を転換する。 「まったく心配していない。そもそも頭脳流出は個人がより豊かな生活を求めて行うも のだから、個人の問題だ。阻止できない。また、一方的なひとの流れはいずれ平衡状態 へと収斂していく。米国に移住する者もいようが、帰国する者もいる。国内でさえ、田 舎から都会に移り住む者もいるが、そのうち田舎でも知的人材へのニーズが現れ、Uタ ーンする者も出る。中国政府は表面上では問題視するし、帰国促進策を出しているが、 本音は楽観しているのではないか。世界レベルの高度な知識と技術を持ち帰るメリット は大きい」 彼は自信たっぷりに語る。文革の苦悩の経験が迫力になっているとふと考えた。 「人間の豊かになりたいという欲望は決して変えられない。それは愛国心、愛社精神、 宗教帰依、文化帰属意識などよりも強烈なものだ」 と彼は付け加える。私は聞き手にまわろうと思った。今まで思索してきた中国人論や文 明の原動力や目的とも関係があると思えたからだ。 「日本は明治時代、脱亜入欧の政策を遂行し一見成功したかに思えるが、私には間違っ た政策であったと思う。西欧文明は分析的で東洋文明は総合的であり、今その融合が求 められている。日本はその実現に向けてリーダーシップを発揮すべきと思う」 類似の議論は中国科学院の D 氏からも聞かされていた。この議論は新しいものではな い。彼は例として、西洋解剖医学では存在しないとされる経絡は、針灸の東洋医学の世 界では存在するし、実際的で効き目がある場合が多い。米の雑誌を読んでいると、東洋 の神秘に迫ろうとする努力も垣間見ることができる。2002 年 5 月 19 日号の Newsweek は、 “Taking a New Look at Pain”と“Ouch. That Feels Better”の記事のなかで、 科学的にまだ説明不可能であるが、西欧医学で治療できない痛みを東洋医学で癒そうと いう動きを紹介している。 また、2002 年 8 月 4 日号の TIME 誌は、 “Just Say Om”瞑想が高血圧症、心臓病、が んの予防や治療に役立つと、最先端の研究現場からリポートしている。瞑想中の名僧の 頭脳の動きを MRI で分析しようという発想には違和感を覚えるが。祈りの健康への影響 については、Newsweek の 2002 年 11 月 17 日号は“Faith & Healing”というリポート で祈りや瞑想が米国各地で静かなブームになりつつあると紹介している。このような研 究は欧米で真面目に取り組まれているが、日本では胡散臭いものとして、まともな研究 者は取り組もうとしない。心底、「脱亜」してしまったのか。治療効果があれば、その 謎解きに挑戦するのが科学者であると信じたい。 L 氏は、今度は陶磁器の例を挙げながら、その美しさの謎を語り続ける。西欧式の分 析的な発想では絶品の作品は作れないと言う。中国人が発明した火薬や羅針盤は西欧人 によって戦争の道具に利用されたが、西欧人は磁器を戦争に利用できなかったと、愉快 そうに笑う。 「米国は人権が最重要と唄いながら、イラクの収容所で米軍によるイラク人への虐待が 日常的に行われていたことが明らかになった」 L 氏は追い討ちをかけてくる。彼の米国人への不信感は根深い。 中国政府が真剣に取り組んでいる腐敗問題に私が言及すると、 「賄賂や収賄は東洋の悪い習慣だ。日本でも、会社のカネで職員が飲み食いしている」 と L 氏は指摘する。彼が言いたいことは、会社接待のことだ。日本の会社接待費は米国 140 の 2 倍。GDP や人口を考慮すると、日本の接待費は米国の 4 倍という換算になる。でも、 会社接待は制度化されたもので、それを腐敗というジャンルで括れるかは私には疑問で ある。大分以前であるが、日本の役人の“天下り”を日本の腐敗の典型であると、断言 する中国人に会ったことがあるが、両国で言う「腐敗」の定義は随分ちがう。 私が鄭和の話題を持ち出すと、宦官の功罪へと話は飛んだ。皇帝の権勢を壟断し、輝 かしい中国の歴史に泥を塗った宦官の罪は大きいと、明朝末期の王振を例に挙げて、彼 は説明する。彼の歴史談義に半分耳を傾けながら、私は中国が宦官をなぜ政治権力シス テムから排除できなかったのかと考えていた。宦官の罪を並べてもしかたがない。人間 が社会の主人公として人間らしく生きるために、ヨーロッパは近代社会システムを創造 する。神の絶対権力を人間個人に授与することで、近代社会への道が切り開かれる。 中国最後の宦官が亡くなってまだ数年しか経過していない。文革終結後わずか 30 年 だ。中国の現代にも古代の面影や混乱の傷跡はまだ残されている。 中国では、市場メカニズム下の経済の急成長が展開しつつ、封印されたかに見える過 去の歴史上の罪が解決されずに、古代と現代の歴史が並行して動いている。なんという 国だ。道路では、馬車と自転車とベンツが同じ道路を我が物顔に走っているが、それは 象徴的であるのだ。 L 氏との議論は2時間 20 分に及んだ。 「今から家族サービスに行く」 と言い残して、彼は去った。good guy である。 この日の夜は某新聞社の国際副部長 M 氏と意見交換することになっている。初対面で ある。彼との会合も予想をはるかに上回り、4 時間を越える懇談になった。 中日青年友好記念中心の真向かいのデパートに併設されている広東料理店の隅の席 に、我々は着席した。M 氏は 40 代前半のようだが、記者らしく見えず筋肉質だ。 話題は、中国の頭脳流出、目まぐるしく変わる日本人の対中国観、鄭和、中国国内の 腐敗問題、劉暁慶、小説『赤いコーリャン』、靖国神社、日米中関係、イラク戦争、宦 官などに及んだ。 その中で印象に残っているものをピックアップしてみる。 清華大学卒業生の 3 分の 1 が米国に流失しているという私の指摘に対して、彼は 「本来、清華大学は中国人の優秀な人材を海外で活用しようという発想で設置されたも のである。そのような歴史的背景があるから、清華大学は海外との関係が深く、従って 留学生も多い」と説明する。 「米国がイラン戦争を始めた本当の理由を知っているか」と L 氏は私に尋ねる。 「原油の確保」と私が答えると、 「違う。ユーロ通貨の破壊」 と彼が断言する。EU が中東との関係を強めているため、米国はイラク攻撃により中東 を混乱させ、ひいてはユーロ通貨の信用をなくすという戦略。初めて聞く説である。5 年後の今となっても、これは事実ではない。 靖国神社問題では、両国の認識の違いが明確になった。日本側は、東条英機ら戦犯で あろうと、兵士であろうと、一般国民であろうと、あの戦争で命を落とした人々のお陰 で、我々の現在の豊かな生活があると理解し、合同で祀るのには大きな違和感がない。 中国側は、戦争責任者と戦争被害者は明確に区別すべきだ、一般国民は戦争被害者であ る、戦犯とともに祀るのは理解できない、という論理。 このすれ違いが、日中間の認識の差になり、両国民の親密化に水を指している。両国 民の相手国へのイメージに対する世論調査は最悪の状態である。瀋陽の日本領事館侵犯 問題、西安の大学での日本人留学生による中国人侮辱事件、尖閣諸島への中国人上陸事 141 件など認識のすれ違いを越えて、誤解が生まれ、嫌悪感は増加するばかりだ。それらの 感情の根本になるのは、日本軍の中国侵略であり、それを巡る両国の認識が靖国問題と して顕在化している。トゲである靖国神社問題を解決するか、棚上げにするかしなくて は、未来志向の関係が生まれないのではないかとさえ思える。 1998 年は日本のアジア外交の分水嶺となった。日本政府は来日した金大中大統領に 対し日本軍の朝鮮半島侵略に関し、文書で、相手国名を挙げ、謝罪するという 3 点セッ トを決定し、戦争責任問題の幕引きを行い、その後、ワールドカップ同時開催、日本サ ブカルチャーの韓国への輸入制限解除、韓国映画の日本での大ヒットなど両国間の国民 感情は大きく改善され、未来志向のパートナーとして歩み出す。 それに比べ、同じ年に訪日した江沢民主席も日本政府に対し 3 点セットのお詫びを要 求するが受け入れられず、訪日の間に日本の戦争責任問題を再三蒸し返し、結局それが 日本国民の感情を害し、対中国嫌悪感が急上昇する。当時の小渕総理は、外務省幹部や ブレーンと「中国は信頼できるか、ここでカードを切ると歴史問題に決着がつけられる かどうか」を相談した結果、3 点セットの決定を見送ったようだ。妥当な結論である。 次は日米中関係。これも難題。 「日本の外交は米中と等距離にはなく、米国との同盟関係優先である」 とまず私が言うと、 「日本は米国の国益のために相当利用されている。もっと主体的な外交を行ったらいか がか」 「日本外交の覇権国追従は歴史的教訓から来ている。1902 年、日本は当時の覇権国で ある英国と同盟を締結し、第一次世界大戦では戦勝国側につくことができた。だが、1922 年、日英同盟が破棄されると日本は外交の機軸を失い、ドイツとの同盟に踏み込むとい う過ちを犯し、太平洋戦争へと突入してしまう。この国家存亡の危機から学んだことは、 覇権国追従路線から逸脱しないことが安定と繁栄への道ということである」 私は日本外務省の見解を披露する。 「日本はもっと主体的な道を選ぶべきである。米国だけでなく、他の国との友好外交も 展開すればいい」 と彼は不思議そうな顔をする。 「日本人は戦略的発想に向いていない。覇権国追従をやめた瞬間、常に世界情勢を的確 に判断し、外交政策を展開しなければならなくなる。能力や体質に合わないことをすれ ば、国内世論が不安定化し、国内政治が混乱するであろう」 私自身は必ずしもそうは思わないが、現政権の方針に沿って言い訳をしておいた。主 体的な発想をするのが当然と考える中国人にとって、この日本側の発想は理解を越えて いることは十分想像できる。 「また、日本には、『中国の対日本戦略の目的は日米同盟の破壊である』と思っている 勢力もいる」 と私が述べると、M 氏は驚きを隠さなかった。日本人の常識は中国人の常識ではない。 歴史の話題のなかで、M 氏「日本にも宦官があったのか」と質問する。 「日本は中国から莫大な文化的影響を受けたが、輸入しなかったものもある。宦官はそ のひとつだ」 宦官は中国では、皇帝や夫人たちの生活の世話をするためにもうけられた制度である。 後宮の美女に悪さをしないようにと生殖機能を失わせているが、反面、金銭欲や権力欲 で皇帝の権力体制を内部から混乱させ、時に崩壊させてもきた。 「もうひとつ日本が輸入しなかったものがある。それは革命思想」と私。 天皇家の存在を否定しかねない革命思想は拒否された。innocent に受け入れていれ ば、今の日本の形があったかどうか分らない。日本は近隣の大国・中国から流入する思 142 想、文化、技術などの影響を直接受けないよう苦闘してきた国ともいえる。戦後 60 年 間は、日中両国は相手の動向を気にせず生きてこられたのである。そういう意味で稀な 時代だったといえるであろう。再び台頭する中国と日本がどうやって付き合っていくの か、日本の方に戦略があるわけではない。あるのは、大量消費社会の恩恵の継続を願う 小市民たちと事なかれを願う役人と政治家たちだけだ。 中国人に実在しなくて日本にある有名なものは切腹。中国古代の故事で「切腹」を読 んだ innocent な日本人が中国人も切腹するのだと思い込み、日本でも忠君の証として やり始めたという。中国語は何でも大げさに表現する傾向があることを、当時の日本人 は知らなかったのである。 こうやって長時間話し合っても問題点の整理も満足にできなった。でも、93 年~95 年の北京駐在時と比べると隔世の感がある。政治問題を話し合おうものなら、すぐ「そ れだけは止めてくれ」と中国人に叱責されたものだった。当時、中国人はまだ周辺の目 を気にしていた。台湾という言葉さえ嫌悪感を示した中国人もいた。時代は変わった。 少なくとも、議論はできるようになったのだ。初対面でもこれほど話せたのだ。大きな 進歩と認識しつつも、今後これらの両国間のトゲをどうやって抜いていくのかが課題だ。 彼にホテルまで送ってもらい、再会を誓って分かれた。午後 10 時を過ぎていた。明 日早いため、ホテルの精算を済ませた。 6日目。 午前5時に目が覚めた。 急いで、帰国の準備をし、ロビーに降りると、守衛が「ホテル代を払わずに去るので はないか」という顔で私の方を見る。 「昨夜、勘定は済ませた」 と中国語で言うと、にっこりしてドアを開けてくれた。タクシーを拾い、空港へ向かっ た。 空港へ着いてから搭乗するまで 6 回もパスポートの提出を求められた。警戒は厳重だ。 空港内では、二度も中国語で話しかれられた。1 週間もたたないうちに、容貌は中国人 に変わっていたのかも知れない。 飛行機は突風が吹き荒れる成田空港にアプローチしているが、機体が左右に大きく揺 れる。一部の乗客から溜息が漏れる。無事に着地すると、機内から拍手が起こった。こ の日、成田空港は 10 便近くが着陸をやり直すという管制官泣かせの一日だった。 機体から降りて、入国し、荷物が出てくるターンテーブルのところに行っても、テー ブルはまだ回転していない。眠け眼に、北京空港では既にスーツケースが今かと私が来 るのを待っていたのにと愚痴った。かつては中国のサービスの悪さに悪態をついたのに、 もう逆転しようとしている。中国の変化のスピードは信じられないくらい速い。 東京に向かう電車内で、私は眠りこけていた。大きく船を漕いで隣人に倒れかかろう とすると、隣の女性の乗客がサッと避けた。「ごめん、ごめん」とつぶやきながら、ま た寝入ってしまった。北京でのゴールデンウィークは、夢か幻ではなかったのかとも思 った。 この旅行から 3 年後、私は再び北京で駐在員生活を送ることになった。近年の中国の 発展はさらに加速している。商品が溢れて、中国人の生活は豊かになった。科学技術の 発展も予想以上のスピードである。中国の発展は誰も止められない。共産党も止められ ない。一方では、世界の人々の中国に向ける視線は厳しく、メディアも中国の負の面を 強調して報道している。中国の世界への影響は巨大になりつつあり、中国の世界での位 置や役割が予想できず、世界の人々は不安に陥っている。それが“中国叩き”として表 面化している。 143 中国は分裂もせず、大きな困難に陥ることもなく、超大国になっていく可能性が次第 に増してきている。世界の知識人やメディアは中国を含めた新しい世界秩序を真剣に議 論すべき時にきている。 144 僕はカシュガルで考えた 第1日。 カシュガル。何と異国情緒に溢れた響きであろうか。しかし、僕が最初に耳にしたの はいつの頃だったかよく覚えていない。高校の歴史の授業であったかも知れないし、中 国に関心を持つようになったあとのことかも知れない。カシュガルは、名前を聞くたび に、いつか行きたい場所になり、カシュガルと唱えるうちに、行かねばならないところ になってしまった。カシュガルの意味は、ガイドブックによると、 「玉の集まるところ」 (ペルシア語)であるとか、緑色の屋根を持つ建物(モンゴル語)など様々な説がある そうだ。 2007 年 5 月 1 日から始まる労働節休暇を利用して、カシュガルに行くことに決めた。 旅程は 4 泊 5 日。ただ、片道の移動だけで 1 日を要するので、実質的には 3 日しかない。 日常を忘れて、色々な人々と交流し、また、自由に思索してみたい。乾燥地帯で飲むビ ールやワインも美味いはずだ。酒が飲める、酒が飲める、酒が飲めるぞ、と歌いたくな る。僕はこの時点で、トラブルに巻き込まれるとは露知らなかったのだ。 カシュガルは、中国最西の新疆ウイグル自治区の西の果てのオアシス都市。人口 37 万人で、そのうちほとんどをウイグル族が占めている。シルクロードの交易で栄えた街 である。日本の面積の 2 倍もあるタクラマカン砂漠の北側のルート・天山南路北道と砂 漠の南側のルート・天山南路南道が交差する都市がカシュガルである。カシュガルを南 下すると、5000 メートルを超えるパミール高原を経て、パキスタンに至る。仏教はイ ンドからこの高原を経て、中国に入り、大陸を横断して、日本ヘと伝播してきたのだ。 世界地図を見ると、カシュガルをその経度に沿って南下すると、ニューデリーに行き 着く。このオアシスの街に到達するには北京からウルムチまで 3 時間 40 分。ウルムチ からカシュガルまで 1 時 30 分の空の旅が必要である。古代には、歩いて 3 年間もかか ったそうだから、速いといえば速いのだが、それでも随分遠い。 旅行にはテーマが大事である。無目的の旅は、若者の特権であるが、それなりの人生 経験を積んできた者、例えば僕には、無目的な旅はムダに思えてならない。人生に何ら かの意味を見出そうとするのは、人間の宿命であり、根源的な不幸であるのかも知れな い。そんな哲学的な問いが生まれること自体、旅には意味があるのかも知れない。 昨日の日本の衛星テレビで、呆けないようにするために、右脳を鍛えるべし。そのた めには、旅に出かけて未知の経験をするのが一番効果的であると、専門家が言っていた。 誰もが若々しく長く生きるのが幸せと信じているように見える。少なくとも先進国では。 果たして本当にそうであろうか。なぜ、そのようなあがきを人間はするようになったの であろうか。このような問い自体が、現代社会では不謹慎であるのかも知れない。 話はさっそく脱線してしまった。今度の旅に何らかの意味を持たせるために、テーマ を 3 つ設定することにした。いや自分に課した宿題と言ってもいいのかも知れない。 最初の宿題は、カシュガルにはどのような人々が住んでいるのかである。中国人は住 んでいるのであろうか。もしそうであれば、彼らはどこから来たのか。何を考え、何を 感じているのか。人生が楽しいのか。 二番目の宿題は、オアシスの街にカラオケはあるのか。カラオケは日本人の偉大な発 明である。日本では高く評価されないが、人間の文化に与えた影響は大きい。その日本 発の文化がユーラシア大陸の真ん中まで伝播してきているのであろうか。ウイグル族の 美人と「銀恋」がデュエットできれば、それだけで今回の旅行は成功であったといえる かも知れない。バカげているが、僕は大真面目である。 三番目は、カシュガル人にとって科学技術はどのような意味があるのか。大切なもの か。どうでもいいことなのか。科学技術の振興にたずさわる者として、これくらいの宿 145 題は背負わなければならない。 これら三つの質問に旅の終わりに答えることにしよう。うまく答えられるかどうか分 からない。頭が冴えなければ、ワインを飲んで、木陰で昼寝でもしながら、夢のなかで 考えることにしよう。夢のなかで考えても、カンニングにはならないだろう。 さて、ここまで読んでいた方に二つお願いしたいことがある。ひとつは、長い旅行記 になるので、あなたが今仕事中であれば、読むのを止めて、業務に専念していただきた い。家に帰ったあとで、読めばいいのである。あなたの貴重な時間を潰したくないのだ。 他人の旅行記なんて何の役にも立たないものだからである。 二つ目は、旅行中の人物は全て仮名である。理由は、本人に迷惑がかかるのを怖れる ためである。中国でのウイグル族の位置は“微妙”である。ひとはそれぞれ他人にはう かがい知ることのできない宿命を背負って生きている。精一杯生きている。それを邪魔 してはいけない。迷惑をかけてもいけない。一緒に笑うことはあっても、一緒に泣くこ とがあってはいけない。 午前 11 時 50 分発のウルムチ行きの飛行機は予定通り北京空港を飛び立った。10 分 もたたないうちに、窓の下は砂漠になった。黄色い砂漠が永遠と続く。砂漠は、中国語 で「沙漠」と書く。砂漠は、石が少ないのではなく、水が少ないのである。中国人は漢 字そのものの持つ意味を大切にする。彼らのアイデンティティーに関わってくる問題だ からである。漢字は本来一字で具体的なモノを指す。モノの数に合わせて、漢字が増え てきた。具体的な事物の表現には向いている。訛りのある漢民族や言葉が違う異民族の 間でも、漢字を書いて並べれば、大体の意味が捕まえられる。モノの売買には複雑な言 い回しは必要でない。中国語が全く話せない日本人でも、漢字を並べれば中国人に大体 の意味を理解してもらえる。日本人は中国人としての立派な資格がある。中国人の定義 は、漢字を媒体に意思疎通を図ることができる人々であるからだ。 古代の日本人は中国の支配下に入ることを極度に恐れ、平仮名やカタカナを必死にな って生み出し、中国文化の侵略を防ごうとしたのである。遣唐使を通じて大陸から先進 の技術や社会制度を吸収しつつも、中国の特徴のある文化は輸入しなかった。官僚制度、 宦官、易姓(えきせい)革命を断固拒絶した。日本の文化の本質と相容れなかったから である。 漢字はモノの表現には便利であるが、抽象的な概念の表記には向いていない。抽象概 念の表記の漢字が少ないため、抽象概念を表記するには、何々のようなという表現をす る必要に迫られる。 矛盾。臥薪嘗胆。五十歩百歩。背水の陣。前門の狼、後門の虎などなど。これは大し た意味のないことに思われるが、実は中国が近代化に失敗した要因に関わっている。ヨ ーロッパが中世から抜け出て、近代化を成し遂げるなかで、中国は歴史の転換がうまく できずに、苦悶する。そもそも、近代化とは概念の抽象化である。権利、義務、国家、 政府、科学、自由、愛等近代を支えている概念は全て抽象的である。抽象概念を表現す る手段を持たなかった民族は近代化に遅れる。抽象概念を自国の言語のなかで表現する 時間が必要であったからである。漢字は古代の交易には適切な文字であったが、近代化 を支える概念の表記には向かなかった。 中国人に同様の発想をする学者がいる。1982 年に中国の科学出版社から世に出され た『中国科学技術史』は、マルクス主義の視点で中国の科学技術の歴史を分析した書物 であるが、その結語で、中国の科学技術が近代に至って立ち遅れた原因を分析しており、 その要因の一つに漢字を掲げている。文字は文化の基層をなす非常に重要な表現手段で ある。 現代の中国人の発想にも漢字の影響が色濃く出ている。抽象化された普遍的論理に弱 い。彼らは、事象や制度を理解するために、「事例」を示せと要求する。事例が分かれ 146 ば、彼ら独自の発想で自分の世界で理解することが可能なのだ。中国人は海外の政府や 会社を視察すると、組織図や規則をくれないかと要求する。外国人は、そもそも組織の 存在理由や目的は何かを思考し、それに合った組織や規則を構築していく。中国人は実 態の組織から運営哲学を類推していく。海外の製品を分解して、その原理を理解するす る能力に非常に長けている。ニセモノ作りに元来長けた能力を有している。コピーをや めるはずがない。 飛行機の隣の座席に座っているのは、張さんという中年の男性である。4 月 27 日か ら 5 日間の北京旅行を終えて、ウルムチの家族のもとに帰る途中という。漢民族である ため子供は一人で、その子はウルムチの農業大学に通っているとのこと。仕事はメータ ーの修理工をしているという。旅行が好きで、北京以外では、上海、海南、雲南、さら にはソウルにも行ったことがあるという。本人は「労働者」と笑いながら言うが、一般 労働者ではそんなに旅行はできない。飛行機にだってしばしば乗れるはずがない。ただ、 安っぽい背広を着ているのはどうしてだろうか。僕は、北京ウルムチ間の片道のフライ トに 2060 元払ったが、彼も 1580 元も払っている。北京市民の平均月給を超える額を意 図も簡単に支払えるのは、中流以上の階級に属する。 「お前は華僑か?」 こう聞かれたのは初めてのことである。僕の中国語の発音もきれいになったのかも知 れない。 「いや違う」 「どこの国から来たのか?」 「日本だ」 話はこうやって始まったのだ。 「君の趣味は何だ?」 僕が質問する。 「酒と旅行だ」 これはどうかと、小指を立てると、いやらしそうに笑う。暇さえあれば、酒を飲み、 カラオケで女の子と歌を歌って過ごしたり、旅行をしているようだ。悪い奴ではないよ うだった。 「カラオケは日本人の発明だ」 「そうだ」 と僕が応える。 「日本製品はどれも素晴しい」 日本製品の良さはどこに言っても聞かされる。日本人を嫌いなひとでも、日本製品は 好きなのである。ある日本駐在員の家庭に泥棒が入り、持っていかれたのは全て日本製 ばかりで、中国製の家電類はそのままであったという話を聞いたことがある。 「ウルムチの生活はどうか? 夏は暑く、冬は寒すぎるのではないか?」 彼はぴんと背筋を立てて、 「今年の冬は、零下 20 度を下回ったのは1度しかなかった」 と言った。暖冬の影響だ。 「夏には、新疆は緑が多くていい」 と言いながら、地名を並べるのだが、ほとんどの名前を僕は知らない。 「北京は車が多くて嫌だ」と言いながらも、「北京オリンピック会場を見て来た」と2 度も言った。よほど嬉しかったのだろう。 離陸後、3 時間が過ぎて、機体は高度を下げ始めた。ウルムチの気温は 14 度で、天 気は雨という放送が流された。張さんと笑顔で別れた。 147 ウルムチ空港に着いた。13 年ぶりである。当時の面影は全く覚えていない。乗換え までに 3 時間の待ち時間。カフェで時間を潰すことにした。コーヒー1杯が 50 元。高 いが、席を立つのも面倒なので、コロンビアコーヒーを頼んで、新書を読みながら、不 味いコーヒーを少しづつすすった。隣の席に座った 3 人組の中国人は、価格表を見るや 否や去って行った。 カシュガル行きの飛行機も満員である。漢民族は半分に減り、ウイグル族と外国人が 急に増えた。特にアメリカ人が多い。漢民族もアメリカ人もしゃべるのが大好きだ。周 りのひとのことなんかこれっぽっちも考えていない。機内がうるさくて仕方がない。世 界の縮図だ。 離陸に向けてエンジンががなりたて始めると、僕の隣に座っていたウイグル族の携帯 電話がなり、ボタンを押して話を始めた。彼の後部座席のアメリカ人女性が携帯のスイ ッチを切れと英語で叫ぶ。英語で話したって通じるはずがないではないか。バカなアメ リカ人め。僕は事態の推移を見守っていたが、機体が走りだしても、スイッチを切ろう としないウイグル人に、僕が中国語で「話を止めるよう」に言うと、やっとスイッチを 切った。すると今度は、なにやらお祈りをぶつぶつと唱え始めた。 「落ちませんように」 と祈っているようにも聞こえる。僕は急に心配になってきた。大丈夫だろうか、この飛 行機。家族のことがふと頭をよぎった。このお祈りは、イスラム教徒の午後 8 時の定例 のお祈りであるということを知ったのはあとからだった。 彼の名前はモハメット。年齢は 38 歳で、ウルムチで車の運転手をしている。家はカ シュガルにあり、妻 2 人、子供 8 人。月収は 2000 元。僕の月収も聞かれたので、1 万 元と答えておいた。 2000 元で家族 11 人をどうやって養っているのかと疑問に思ったが、 突っ込まなかった。妻 2 人を持つのも、それなりの苦労があるのだろう。 「お前はウイグル族か」 と彼は訊いてきた。どこからそんな発想が生まれるのだろうか。僕のどこがウイグル族 に似ているというのか。あとで聞いたのだが、ウイグル人は世界には中国人とウイグル 人しかいないと思っているらしい。中国人以外であれば、ウイグル人という訳か。 「東京」から来たと言うと、「どこにある」とマホメット君は聞く。彼は東京も知らな い。 「日本だ」 すると、彼の顔が輝き始めた。 「日本人は中国語を話すのか?」 「違う。日本語を話す。中国から漢字を輸入し、平仮名やカタカナを発明した。このよ うな文字だ」 とウルムチ空港で読んでいた新書を差し出すが、彼は全く理解できないらしい。中国語 は話せても、漢字は全く読めないのだ。 「日本製品は素晴しい。トヨタ、ホンダ、スズキ、カワサキ」 と企業の名前を挙げる。 「中国製品は全てニセモノだ。日本製品は全て本物だ」 と何度も大声で言う。周りの漢民族に聞かれたらどうなるかと、思うと心配になった。 マホメット君は一向に気にしていないようだ。 「この飛行機はどこの国のものか」 「米国のボーイング社だ」と僕が答えると、「米国か」と彼は確認する。 「そうだ。中国政府は最近、自家製の旅客機の開発を決定し、2017 年の実用化を目指 すそうだ」 と僕が説明するが、全く関心がないようだ。 「後ろに座っている外国人は米国人か」 148 と尋ねるので、そうと肯定すると、初めて欧米人を見たような顔でじろじろと米国人の 旅行団を眺める。 お前だって、インド・ヨーロッパ語族の顔立ちをしているではないかと、思ったが口 に出すのは止めにした。 今度は、僕が両手に抱えていたジャンパーを見るや、「いくらだ」と尋ねる。 「かなり前に買ったので、よく覚えていない」 と正直に言うと、 「日本製か」と畳みかけてくるので、 「日本で買った」と答える。僕に とっては、どこの国の製品でも関係ないのだ。そもそもブランドに興味はない。人間の 見栄と虚栄心を利用した、ぼったくり商売に過ぎない。ブランドなんか糞食らえ。もっ と上品に言おう。グッチの社長よ、ウンコ食べろ。 「日本製は全て本物だ」 「中国製は全てニセモノだ」 何回も繰り返す。 「そのジャンパーはいくらだ」 とまた聞く。黙っていると、 「それを売ってくれ。いくらだ」 と催促する。 「僕はカシュガルに到着した後、海抜 3600 メートルのカラクリ湖まで行く。寒いので このジャンパーは必需品だ。売り物ではない」 「友達ではないか。お願いだ。売ってくれ」 「僕が凍えてしまったらどうする」 「カシュガルは暑い。カラクリ湖も暑い。そんなものは必要ない」 とモハメット君は断定調で言う。 僕は不安がよぎる。3600 メートルの高地に行くのだ。カシュガルが海抜 1200 メート ルで摂氏 20 度と仮定すると、カラクリ湖は 2400 メートル上空だから、カシュガルより も 14 度低いはずである。そうすると、気温 6 度。雨が降れば、気温はもっと下がり、 みぞれか雪が降ってもおかしくはない。僕は咄嗟にそう計算した。やはり、ジャンパー は渡せない。 「ダメだ」 僕は答える。 彼は観念したような顔をすると、今度はポケットから 100 元札の束を取り出し、これ でどうだ、と言う。5000 元位はありそうだ。月給 2000 元の運転手にとって 5000 元は 大金のはずである。僕が今度の旅行に持参したお金は、2000 元と 4 万円の現金のみだ から、僕よりも多い現金を持ち歩いていることになる。 「好きなだけ取れ」 「はっはぁ。こいつ、気でも狂ったのか」 使い古したジャンパーに日本円換算で 8 万円近いカネを出すとはバカか、アホウだ。 漢民族であれば、最後まで相手に現金を見せないはずである。交渉でいくら持っている かを相手に知られたら、商売には必ず負ける。少数民族のひとのよさが表れている。も っとしたたかにならなければ、大陸では生きていきにくい。 彼が必死になって、カネを受け取れと言っている間、僕は冷静に考えた。彼は日本製 品に非常に憧れていて、日本製品は何でも欲しい。日本製品を持っているのを友達に自 慢してやりたい。一方、彼は中国製品が嫌いだ。漢民族も嫌いだ。中国製品はニセモノ ばかりで、漢民族はうそばかり言う。そういう心情だろう。 モハメット君のそのような幻想に悪乗りして、ジャンパーを高価で売るということは、 間接的に彼を騙したことになるのではなかろうか。カシュガルに着けば、現地のものが 149 手に入るだろう。寒さを防ぐだけだから、質の悪いものでも構わない。半日の辛抱だ。 「分かった。上げるよ」 僕は、覚悟を決めてジャンパーを彼の腕に押し込みながら言った。 「カネを受け取れ。好きなだけ受け取れ」 と彼は真顔で言う。 「お金は受け取れない」 月収 2000 元で子供を 8 人抱える男からカネを受け取れるはずがない。 「タダではダメだ」 彼は札束を僕の目の前に近づける。 言い合いが続く。応酬が続く。 最後に、彼は、小さく一度謝謝と言って、ジャンパーを大切そうに広げて、確かめた。 これでいいのだ。おカネの問題じゃない。感謝されたのだから、それで十分だ。彼の 心の中に、タダでくれた日本人のことがいつまでも残るに違いない。トラブルに巻き込 まれた日本人に会えば、きっと救いの手を差し伸べてくれるに違いない。そう思えば、 ジャンパー1着は高くない。 僕は沈もうとしている太陽の方を指しながら、 「メッカに行ったことはあるのか」 と彼に呟いた。 マホメット君は、今は子供を育てるのが自分の役目だ。子供が結婚したら、おカネを ためてメッカに行きたい。それが自分の夢だ。父も母も行ったことがある。その顔は希 望に満ちていた。 飛行機から降りると、モハメット君は、 「現地のジャンパーを買ってあげるよ。食事も奢るよ」 と言い寄ってきた。 「残念だ。ガイドが迎えに来ている」 僕は頭を横に振った。 彼は、僕のジャンパーを大切そうに両手に抱えて、足早に去っていった。 迎えに来てくれたのは、アディディという中年の男性だった。北京の旅行代理店は、 「カシュガルでは若くて美人のウイグル人に案内させます」 と言っていたのに、がっかりだ。また漢民族に騙されたと思った。 しかし、あとで分かることであるが、このアディディは魅力的なウイグル人であった。 誠実で、ひとの気持ちが理解できる人間である。目も澄んでいる。車に乗るや、独学で 学んだという日本語を機関銃のように発射する。しかも、カシュガルの概要を要領よく まとめて話してくれる。頭もよさそうだ。 午後 10 時になろうというのに、気温は 20 数度もありそうだ。むっとする。聞くとこ ろによると、今日の最高気温は 36 度だったという。北京の中国人からカシュガルの 5 月上旬は肌寒いと聞いていたのに、何たることか。マホメットが言っていたことは本当 だったのか。 ウイグル族は 744 年、東突厥(ひがしとっけつ)を滅ぼしてモンゴル高原に王国を建 設したトルコ系の騎馬民族だ。8 世紀半ば、玄宗皇帝が楊貴妃に惚れ込んだのが発端で 発生した「安史の乱」で追い詰められた唐を、ウイグルが援助したことで、唐から経済 援助を引き出し強力な国家になった。しかし、まもなく内紛が激しくなり、840 年にト ルコ系キルギスの侵入を受けて滅亡する。滅びた後、南方・四方に散り散りになり、そ の一部は中央アジアに移住する。9 世紀頃、トルコ人はアラブ商人やイラン系サーマー ン朝と接触して、イスラム化していく。その影響を受け、トルコ系のウイグル族もイス ラム化していった。 150 空港から市内までは、6 車線はあろうかという立派な舗装道路が続いている。国家の 近代化には、道路網、鉄道網、光ファイバー網を全国に張り巡らすのが基本と中国政府 は考えたのであろう。1989 年に始まった高速道路網はすでに 3 万キロを超えているは ずである。日本の高速道路の全長に匹敵する 6 千キロを 1 年で建設した年もある。日本 の道路族議員も真っ青である。 案内されたホテルはカシュガルで一番いいというホテル。四星ホテルだ。 「値段は五星ホテルで、サービスは三星ホテルだろう」 と僕が冗談を飛ばすと、アディディもフロントの服務員も笑っていた。 部屋に入った時、午後 10 時をまわっていたが、まだ外は明るい。北京とは実質的に 3 時間の時差がある。こんなに広い国土だが、時間は北京時間ひとつしかない。理由は 公然の秘密だからあえて言わない。いや言おう。政府が分裂を恐れているからだ。 シャワーを浴びた。温水が出たのでひとまず安心。昨日までの仕事の疲れと長旅でひ どく疲れているが、寝つきが悪い。今日は色々な事件が起こった。色々な人々との交流 もあった。安眠薬を1錠飲んで、睡魔が襲って来るのをベッドのなかでじっとして待っ た。遠くから、コーランの唱ではなく、カラオケの歌が聞こえて来た。いや、もしかし たら空耳だったのかも知れない。 第2日。 いつもどおり午前 6 時に目が覚めた。外は真っ暗である。眠気覚ましにシャワーを浴 びた。まだ、温水が出ていた。よかった。中国ではどこに行っても安心してはいけない。 朝食はロビー横の食堂で 8 時 30 分からだ。1階のお土産物屋の前を通り過ぎようと すると、なかから「おはようございます」という声が聞こえる。きれいな発音である。 旅行は交流が大切である。なかに入ってみることにした。狭い部屋にびっしりと土産物 が並べてある。カシュガルは玉が産出するホータンから西 500 キロに位置するためか、 玉で作ったペンダントや置物が多い。日本語のガイドブックも売っている。不思議に思 ったのは、ウイグル族に関連する土産物がない。 「この店は、漢民族のお土産しか売っていないのよ」 20 歳代の売り子は当然のような顔をして言う。僕は買物には興味がない。 「君は漢民族なの?」 「そうよ」 「出身地はどこ?」 「甘粛省の蘭州」 「一人でカシュガルに来たの?」 「こちらに親戚がいるの」 漢民族に会うたびに、同じような質問を投げかけてみた。どういう訳か、みんな親戚 がいるから来たという。出稼ぎのようなものだろうか。 「月収はいくらもらっているの?」 この手の質問は、初対面でも中国では余り失礼にならない。 「600 元」 絵葉書やガイドブックを買えと熱心に勧めるが、断って店を出た。 食堂に行くと、観光客で混雑していた。米国人が多い。 僕と同じテーブルに座りに来た中国人の若いカップルに早速話しかけた。 「旅行者みたいだけど、どこから来たの?」 「ペキン」 と女性の方が訛りのない日本語で答える。青森の弘前で 5 年間留学したという美しい女 性だ。今は、凸版印刷の子会社で働いているという。従業員 65 人、うち日本人は 5 人 151 だそうだ。月給は 5000 元。さっき会った売り子のそれの 8 倍だ。 「安いね」 と僕が同情すると、彼女は同意しながらも仕事は面白いと言っていた。同伴の夫は、証 券会社に勤めているという。日本語は全く話せない。 「中国の発展のスピードは凄いね。もうすぐ、日本を追い抜いてしまう」 彼はそんなことはありっこないと言いたげな表情で、首を横に振った。 その後、旅行情報を交換して別れた。20 数名の旅行団に参加しているようである。 今日の観光はカシュガル市内のみである。ガイドのアディディは、突然 「友達の結婚式に行かないか」 と誘う。午前 9 時を廻ったばかりなのに、結婚式? 訳が分からないまま、どうせ旅は仕事ではないし、予期せぬことが楽しみだと思うこ とにした。ガイドブックに書かれたことを確認しに行くのであれば、大金を払って飛行 機に揺られる意味がない。 「面白そうではないか。行こう。行こう」 二つ返事をした。 ウイグル族の結婚式とはどんなのであろうか。朝から踊ったり、歌ったりするのであ ろうか。花嫁は美人型に違いない。想像は大きくなる。ガイドブックを取り出して、ウ イグル語で「こんにちは」は何と言うか調べた。 「ヤクシミシス」 今回の旅の文字通りのキーワードである。ヤクシミシス、ヤクシミシスと覚えようと 何度も呟いた。 ある建物の 2 階のレストランに案内された。 入口の横に、手洗い場が用意されている。 「手を洗わなくていいか?」 アディディは尋ねる。僕は理由が分からないまま、汚れていないからいいよ、と答え た。 レストランのなかは、多くの中高年の男たちが何やら食事をしているようである。鼻 をつく匂いがする。香辛料と体臭が混ざったような感じだ。花婿も花嫁もいそうにない。 アディディに詳しく聞くと、このようなことであった。 花婿も花嫁も来ない。レストランで親類や友人にポーラというお祝いの特別の食事が 提供される。米と人参と羊肉を鍋で煮たものである。大きな鍋で数十人分の食事を一度 に作るという。男性の客人は午前中、女性は午後 2 時から 5 時にレストランにやってき て、ポーラを食べる。花婿は女性の食事が終わる午後 5 時頃に来るそうだ。 ポーラが大きな皿に入れられて運ばれてきた。食べろとアディディが促す。 「たった今、朝食が終わったばかりで食べられるはずがないではないか」 僕が言うと、 「それでも食べろ」 と言う。食べないと大変失礼になるそうである。アディディも先ほど朝食を終えたばか りなのに、右手の指でポーラを摘んで食べ始めた。なるほど、さっき手を洗えと言った のは、こういうことだったのかと合点した。 僕も右手の指でポーラを摘んだ。暖かいというよりも熱いという感じだった。出来立 てのほやほやなのだ。ひと口食べると、おいしいことはおいしいのであるが、満腹の胃 袋にはもう入りそうもない。ウェイターが、僕が手では食べられないと思ったのか、ス プーンを運んできてくれた。アディディがまた促す。仕方なく、もうひと口食べること にした。今度はスプーンで。 手を洗って、レストランを出た。以前は、結婚式は家庭で行っていたが、現代ではレ 152 ストランを貸し切って行われるという。日本もかつては家で結婚披露宴を開催していた のだ。日本では、大家族制が崩壊し、家庭内のことがアウトソーシングされるようにな った。娯楽も食事も勉強も洗濯も。これを進歩というのか、それとも人間疎外の過程と 呼ぶのか。ユーラシア大陸の少数民族でさえ、合理的になってきたというのだろうか。 香妃墓に向かった。いやその途中で人民広場に立ち寄ってみることにした。 毛沢東の巨大な像が天高く聳えている。右手を高く上げて、南を向いている。視線の 先には何があるのだろうか。文革時代に、元サッカー場を潰して、人民広場に改造し、 毛沢東の巨像も立てた。このような大きな毛沢東の像は中国には三ヶ所しかないという。 中国辺境の 37 万人の小都市で毛沢東がウイグル族に睨みをきかせている。なるほどそ うかフンヌン、と心の中で思った。 香妃墓は中国語名で、ウイグル語ではアパクホージャ墓と呼ぶ。なぜか。16 世紀末 のイスラム教の指導者アパクホージャとその家族 5 代 72 人の陵墓であるため、ウイグ ル族はそのように呼ぶ。しかし、漢民族は、乾隆(けんりゅう)帝のウイグル族妃子の 香妃がここに葬られているため、香妃墓と言う。香妃は葬られていないという説もあり、 異教徒の僕には判断のしようがない。 陵墓は、緑色のタイルを張り詰めた円形アーチ屋根をもち、四角に建つ尖塔のモザイ クが美しい。円形アート屋根のほとんどのタイルが剥がれていたのは残念であった。地 震のためという説もある。礼拝堂の壁に描かれた楽園はまるで日本の自然の風景である。 森林が繁茂し、渓流が流れ、空が澄んでいる。砂漠の民であるイスラム教徒は全く対照 的な場所を空想したに違いない。それが日本の田舎の姿に似ているとは。僕は苦笑した。 日本こそイスラム教徒の天国の姿であるのだ。イスラム教徒と友達になるのは案外簡単 なことかもしれない。ゆめゆめ、日本人は欧米キリスト教徒のイスラム教徒像を鵜呑み にしてはならない。彼らも我々同様に凶暴でも野蛮でもないのだ。 礼拝堂は、ポプラの柱で支えられている。カシュガルの街角のみでなく、中国中の街 路樹のほとんどはポプラだ。乾燥に強く、成長が早いので、ポプラが重宝がられている。 理研は、南京林業大学との間でポプラの分子育種共同研究を始めた。成長が速いポプ ラや乾燥に強いポプラを遺伝子組換え技術で作ろうというプロジェクトである。南京林 業大学のある江蘇省はポプラの大植林計画を遂行中である。高速道路沿いは勿論のこと、 小麦との農林兼用農場でもポプラの植林を試みている。成果があれば何でも試してみる という中国人だから、理研との共同研究で新しいポプラの開発に成功すれば、開発した ポプラの苗を江蘇省の大地に植えてくれるかも知れない。 「カシュガルのポプラは一番成長が速い」 とアディディは自慢する。香妃墓の建物の装飾も礼拝堂もほとんどポプラの材木で造ら れている。ポプラを巡り色々議論しているうちに、ポプラの材木の集積場に行くことに なった。 「ヤクシミシス」 と僕はいいながら、社長とおぼしきウイグル族と握手した。ポプラの材木は、個人の家 で大きくなったものを切って集めているとのこと。植林場がある訳ではないらしい。1、 2 年前に1立方メートル 450 元であった材木の値段は、今では 600 元に高騰しているそ うだ。広東省の商人が大挙してやってきたのが原因だという。ポプラは住宅の柱や壁に 使われる丈夫な樹木であるためだ。 次は土産物屋さんに連れて行かれた。売り子は漢民族、ウイグル族、回民族が混ざっ ていた。トイレを使っただけで、執拗な販売人から逃げるように去った。なお、回民族 とは漢字を母語とするイスラム教徒のことである。 日差しがだんだん強くなってきた。30 度近くまで気温が上昇しているようだ。結構 眩しい。目の保護のためにサングラスを買いに行くことにした。言い値 140 元を 105 元 153 まで値切って、買った。相手が漢民族であれば、もっと値切ったかもしれない。高いの か安いのかよく分からない。 なお、漢民族の運転手の王君は安全運転を心がけている。マナーがよすぎるほどよい。 カシュガルの旧市街地ともいうべき「老城」に着いた。今日最も楽しみにしていたス ポットである。老城は、1500 年前の起源をもつレンガを積み上げて造られた迷路のよ うな小都市である。不案内な者がなかに入り込むと、迷ってしまいそうである。800 家 族 4000 人のウイグル族のみが住んでいる。モスクがところどころにある。土塀沿に道 を歩くと、子供たちが遊んでいるのがみえる。ハローと声をかけてくる。僕が外国人に 見えるからではなく、ウイグル族以外にはハローという言葉を言えば、挨拶として通じ ると思っているからであろう。実際にハローは万国共通語であるが。僕はできるだけ、 ヤクシミシス(ご機嫌いかがですか?)と言うようにしているのであるが。ヤクシ(ご 機嫌いいですよ)と返事する子供はほとんどいない。 ウイグル族の子供でも最近はウイグル語で授業を行うウイグル族の学校にはあまり 行かず、漢語(いわゆる中国語)で教える漢民族の学校に行くのが増えている。大学に 入る際、少数民族には得点に下駄をはかせてくれるが、それでも漢語で授業を受けた方 が大学に入りやすいそうだ。漢民族の学校に入るということは、漢語が母国語のように マスターできるようになるため、漢語で書かれた書物からの知識の吸収が早い。 漢語を母国語にし英語や日本語を第一外国語として勉強するか、漢語を第二外国語に するかの差も大きい。ウイグル族の両親は子供の将来を考慮すると、漢民族の学校に入 れたがるのも頷けないことはない。 1500 年前の先祖が遊んだ同じ道で、子供が遊んでいる。自動車は滅多に通らない。 路地裏のような舗装されていない道がくねくねと続く。レンガを積み上げて造った家は 壊れると、また次の世代のウイグル族が泥をこねて焼いてレンガを造り、積み上げて、 家を再生する。ほとんど発展していない。循環するだけだ。ひとは子供を産み、育て、 結婚させ、おカネを貯めて、メッカに巡礼する。メッカから帰ったら、家族に囲まれて 静かに老いて、そしてこの世から去っていく。それの繰り返しだ。 真夏のような暑さだ。昼食は元ソ連の領事館であったというレストランで、冷たいビ ールを飲みながら、ウイグル族の料理を食べた。美味しかった。 ホテルに戻って、地下のマッサージ室で足裏マッサージをやってもらった。マッサー ジ師は河南省出身の若い男だった。45 分で 38 元のはずだが、35 元にまけてくれた。理 由は不明のまま。自分の部屋に戻ると、クーラーをつけたまま、昼寝をした。凄く深い 眠りだった。起きたあとも、頭の芯がまだ覚めていないようだった。 次の参観場所は、新疆最大のイスラム寺院で、市の中心に位置するエイティガール寺 院。創建されたのは、西暦 1422 年で、明の永楽帝の時代である。礼拝堂は意外に小さ い。 「数百人程度しか入れないではないか」 と言うと、アディディは少しむっとしたような表情になり、 「信者は礼拝堂のなかだけでなく、庭や寺院の前の広場で、持参した絨毯を広げてその 上でお祈りをする」と主張する。 「1万人のイスラム教徒が集まる。この寺院もポプラの材木で造られている」 とガイドは自慢そうに繰り返す。 まだ、眠気から回復しない。それに暑い。 エイティガール寺院の横に並んでいる職人街を覗いてみることした。金物、帽子、家 庭内の小道具、楽器、ペンダントなどをウイグル族の職人が造り、販売している。イラ ク、北朝鮮などのお札まで売っているのは驚きだ。革靴は沿岸地域の温州から運んでき ている。花瓶や金細工は隣国のパキスタン商人が持ち込んだものだそうだ。何件かの店 154 に入ったが、先方も余り熱心に売る気はなさそうだった。暑すぎるため、ウイグル語で 「こんにちは」は何と言うのかも忘れた。 「クーラーの効いているお店はないの?」 僕は暑さと眠気で頭がくらくらする。 「夏の暑さはこの 2 倍になる」 とアディディが茶化すので、 「今 30 数度だ。8 月には 60 度を越すのか?」 僕は不機嫌な言い方をした。答えはない。 アディディは運転手の王君を携帯で呼び出すのだが、彼はなかなかやって来ない。 僕は日陰の階段に座り、道行く人々を眺めていた。中央アジア諸国には行ったことが ないが、光景は似たようなものであろう。目が大きく、鼻の高い人種が行きかっている に違いない。シルクロードの華やかな時代からずっと人々は交易していたのであろう。 10 分ほどしてやってきたクルマに飛び乗り、バザールに向かった。 「バザールとマザールは違います。マザールはお墓のことです。間違えないように」 アディディは面白くもない冗談を言っていた。バザールでは、冷たいアイスクリーム や飲み物を売っているのだが、お腹を壊したら、旅が地獄に変わるので我慢した。 「安全なお茶を飲みに行きましょう」 とアディディが誘う。 行き着いた先は、絨毯や玉の土産物屋だった。早速、冷たいお茶が出されたのだが、 どうやって買わずに帰ろうかと、そればかり考えていた。 漢民族と回族の売り子二人が僕の右と左に寄り添って、これは安い、日本人はみんな 買っていくと、流暢な日本語で説得しにかかる。 「お金ない」と僕。 「カードでも払えるよ」と漢民族。 「何も欲しくない」と僕。 「奥さんは欲しがっている」と回族。 「僕は北京に一人で住んでいる」と僕。 「ガールフレンドにプレゼントすると喜ばれる」とまた回族。 そんなのいるかいな。 僕は店の外に出た。 バザールは体育館のような大きなテントの下で、様々なお店が軒を並べている。衣類、 雑貨、漢方薬、果物、肉、野菜、小物などを売っている。お茶、安い、帽子、見て、見 るだけと日本語が僕に向かって飛んでくる。おかしな発音は訂正してあげた。 シルクロード好きな日本人が多く押しかけてきたのだろう。売り子たちは少しでも売 ろうと、日本語の単語を覚えたに違いない。だが、2006 年チベットのラサに陸路でた どり着く青蔵鉄道が開通するや、日本人はそちらに向かい、カシュガルに来る旅行者は 減ったと聞いた。 買わなければならないモノを突然思い出した。ジャンパーである。明日行くカラクリ 湖の標高 3600 メートルを考えると、カシュガルは猛暑でも、万一のために防寒具は必 要である。ウイグル族の経営する衣料品店に飛び込み、言い値 140 元のジャケットを 100 元にまけてもらった。さらに、アディディに万一のために酸素を用意しておいてく れと頼んだ。 「100 元するけどいいか?」と聞くので、 「命には代えられない」と僕は答えた。 夕食は中華料理だった。まずは冷たいビールをごくり。 二十歳くらいの服務員二人に出身地を聞いた。 「四川省」 155 「甘粛省」 中華料理店の服務員は漢民族、ウイグル料理を出す店の服務員はウイグル族だ。住み 分けはできている。バザールはほとんどウイグル族だが、外国人が来る店は漢民族とウ イグル族の服務員の両方がいる。マッサージは漢民族の伝統だから、経営者も服務員も 漢民族。公安は漢民族。これは当然か。きちんと仕分がなされている。 四川省の男性服務員が運んできたスープが小椀からこぼれ、僕のズボンを濡らした。 僕はビールでご機嫌になっていたので、いいよ、いいよと気にしなかったが、すぐに店 長らしき人間がやってきて、 「どうも申し訳ありません」 と中国語でちゃんと謝った。 北京でもレストランで似たような経験をしたことがあるが、店長が謝りに来たことは ない。僻地のカシュガルで予想外の経験をし、妙に感心してしまった。中国もよい方向 に変わりつつある。 ホテルに戻ると、アディディが推薦する漢民族のマッサージ師を呼んでもらった。つ ぼをしっかり押さえていてうまかった。蘭州からやって来たという。 「今年は 4 月初旬から暑い日が続き、平年の 6 月の暑さだ」 彼が愚痴をこぼす。雪解け水も近年減少している。 「地球温暖化の影響だ」 と僕が応じる。最初の 30 分間は会話が成り立っていたが、次第に気持ちよくなって眠 くなった。会話が途切れた。睡魔が襲ってきた。気分も悪くなった。このまま眠ってし まったらまずい。やっとの思いで我慢し、150 元を財布から取り出して払った。彼をド アまで見送ると、シャワーも浴びずにベッドに倒れこんだ。軽い熱射病だったのかも知 れない。午後 10 時を廻ったばかりで、外は明るかった。しかし、すぐに寝入ってしま った。何かの夢をみたはずだが、思い出せない。 第3日。 午前5時に目が覚めた。シャワーを浴びた。爽快であった。 朝食をとりに、午前 8 時 30 分に食堂に行った。今日の隣席者も漢民族のカップル であるが、どうも年齢が不釣合いだ。男性は 50 歳くらいだが、女性は 30 歳代であろう か。これも美型。 「旅行ですか。どちらから来たの?」 僕は話しかけた。 答えは意外だった。貴州省の貴陽から来たという。彼らも旅行団の一員だ。でも、貴 州省と言えば、最も貧しい地域ではないか。平均所得は上海の 10 分の 1 以下だ。 「貴州省の東アジアで最も大きい滝に行ったことがある」 僕は中国語で言った。地方のひとと話のきっかけをつかむには、僕の経験上その地方 の自慢話に触れるのが効果的だ。彼らの顔が和らいだ。 「どんな仕事をやっていますか?」 「政府」 と男が短く答えた。目が光ったようにみえた。 「僕は今日、カラクリ湖に行くのですが、もう行きましたか?」 「ああ、行ったよ。海抜 6 千メートルの峠まで行ったよ」 男が自慢気に答えた。 「高山病にかかりませんでしたか?」 「少し頭がくらくらしたわ」 今度は女性が答えた。 156 「今日は海抜 4 千メートルの氷河に行くのだ」 男が強い口調で言った。雰囲気から察するに、地方政府の幹部なのだろう。中国政府 は、役人の腐敗撲滅のため、愛人をかこった公務員は即解雇という方針を打ち出した。 愛人と旅行するのは珍しくなくなった中国。改革開放政策の名の下で、すき放題、やり 放題の中国人。女性の不倫も多いと聞く。悪い面もあるが、日本人固有の倫理観に惑わ されることなく、冷静、冷徹に中国を観察することが大事だ。 「僕は来年カナス湖に行こうかと思っているのですが」 カナス湖は新疆ウイグル自治区の北端の湖でアルタイ山脈のふもとにある。美しい湖 として中国人に人気上昇中だ。 「俺は昨年の 10 月 1 日に行ったよ」 男が言った。 「寒かったでしょう」 僕が尋ねる。 「夜は零下になる」 そんなたわいのない話をしていると、彼らの添乗員がもうすぐ出発すると呼びに来た。 「一路平安」 と言って、彼らと別れた。 僕は王君が運転する車に乗り込む前に、酸素ボンベが積んであるかどうかを確かめた。 頑丈なビニールに酸素がパンパンになるくらい詰め込んである。僕は満足であった。よ し出発だ。 アディディによると、カラクリ湖まで 200 キロで、その先 100 キロ南下すると、タジ ク族 2 万人が住むタシグルガン、さらに 100 キロ行くと、パキスタンとの国境のコンジ ュラブ峠に至る。パキスタン領を更に南下すると、長寿の村で有名なフンザにたどり着 く。このルートは仏教伝来の道でもある。三蔵法師や孫悟空や八戒も通過したのだ。実 際は、三蔵法師はターミネーターみたいな屈強の男で、ひとりでインドまで往復したの であるが。 道路は 314 号線。ウルムチからカシュガル経由でパキスタン国境までを結ぶ。カシュ ガルから国境までの道路は、2 年前に舗装された。その前は砂利道。四川省から来た出 稼ぎ労働者が工事を担当したという。 「こんないい道を 200 キロ走るのに、なぜ 4 時間もかかるのか?」 僕はアディディに尋ねた。勾配のきつい山道だからかかるのだと、彼は説明するが、 その理由がすぐ分かった。 王運転手は時速を落とした。なぜだと聞くと、 「標識を見ろ。制限速度 40 キロだ」 と答える。彼は真面目に交通規則を守っている。他の自動車に抜かれる。大型の観光バ スにも抜かれる。ついには、トラクターにも抜かれる。 「なぜ、お前だけ制限時速を守っているのか」 僕はイライラして詰め寄る。 「違反は罰金 500 元だ。お前が払うか」 今度は彼が僕に詰め寄る。500 元と言えば、カシュガル人の月収に匹敵する額だ。相 当高い。僕が困惑していると、アディディが説明してくれた。道路の舗装が終わるや、 スピードの出しすぎによる事故が絶えない。昨年は 30 数人が死んだ。警察は居住地で の制限速度を 40 キロと決めた。王君は真面目だから規則を守っている。しかし、中国 で時速制限を糞真面目に守る運転手に会うのは初めてである。後ろの車が追い越す際、 対向車線に出ざるを得なくなるので、かえって正面衝突の危険性が増すのではないか。 周りの車のスピードに合わせたほうがスムーズに走れて、事故の起こる可能性も少なく 157 なるのではないか。そう思ったが、口に出すのをやめた。王君の生まれつきの性格だ。 変えられない。漢民族にも色々な性格の人間がいるのだ。 クルマがスピードを増した。制限速度の区域を脱したからである。よっしゃ。だが、 10 数分も走ると、次のオアシスの街に入り、王君はクルマを減速させた。 イスラム教徒のお墓が見えた。アディディは僕に向かってウイグル語で何と言うかテ ストした。 「バザール」 僕はふざけて言った。正解はマザールだ。彼は微笑む。 オアシスは豊かだ。小麦、綿花、西瓜、メロン、ナツメなどを育む緑の多い大地だ。 ウイグル族の寿命は都市化に連れて、病気も増え、短くなったという。先祖が受け継い できた自然の恵みを忘れ、外から入ってきた食物ばかり摂るようになったのが原因とい う。知識が伴わないからそうなるのだ。栄養学の知識が決定的に欠乏しているに違いな い。カシュガルの街は、病院と歯科医院がやたらと多い。子供はやたらと甘いものをた べているのであろう。親はそれが何を引き起こすか分からない。気づいたときには、歯 が虫歯で真っ黒になっているのではないのか。都市化で生活が便利になっても、病気が ちで、寿命が短くなったのでは意味がない。進歩ではなく退歩である。 今日は、風の影響でタクラマカン砂漠からの砂が上空を覆っているため、視界が悪い。 空が黄ばんでみえる。 1 時間くらい走って、最後のオアシスで水の補給だ。僕は「紅牛」という精力飲料1 本を買って飲んだ。6 元。キルギス族とウイグル族との見分けは、僕にはまったくつか ない。キルギス族は山の民で、ウイグル族は平地の民と、アディディは説明する。ウイ グル語もキルギス語もアラビア文字を基本として、特殊な文字を加えているそうだ。発 音は違うが、文字がさほど違わないので、50%くらいはお互いに通じているようだ。 ウイグル族は 744 年モンゴルを統一し、ウイグル王国を建国したが、キルギスとの戦 いに敗れて、南下し 866 年西ウイグル王国を建国した。10 世紀に入ると、イスラム教 が西域から浸透し、18 世紀までには民族のほとんどがイスラム化した。ウイグル族は 本来キリスト教、マニ教、仏教を信仰していたが、イスラム教徒になった。酒も飲まな い、豚肉も食べない敬虔なイスラム教徒である。ウイグル族の故郷は、モンゴル高原に 建国したウイグル王国であるが、彼らの心のオアシスはモンゴル高原ではなく、メッカ である。メッカに巡礼することが彼らの人生の目的であり、最大の喜びである。宗教と 言うものはそういうものだ。 仮に、日本人が全員イスラム教に改宗したとしよう。その日本人の故郷は、出雲大社 や伊勢神宮や靖国神社ではなく、メッカになる。改宗した瞬間に、新生日本民族の歴史 は変貌し、元来の日本民族は途絶える。 小さな女の子が二人、僕を外国人と思ったのか、近づいてきた。聞くと、5 歳と 6 歳 というが、日本人と比較すると随分大きい。肌も白い。赤ん坊の肌は白人のように白い。 明らかにモンゴロイドではない。デジカメを向けると、恥ずかしそうに笑った。どこに 行っても子供は可愛い。 カラクリとは、ウイグル語で「黒い湖」という意味。ウイグル族でも、黒よりも白が 美しいとされているのであるが、美しさの余り言葉が逆転してしまっている。 四川人の出稼ぎ労働者が舗装した 2 車線の道路は、ギーズ川沿いに徐々に高度を上げ ていく。川幅は五百から千メートルはあろうか。雪解け水が黒い泥とともにカシュガル 方面に流れていく。道路はところどころで水に浸食されているが、その分、山の斜面を 削り、迂回道にしている。真夏になると水嵩は増し、激流が道路の側壁に襲いかかるの だ。緑は全くない。木一本も生えていない。 カシュガルから 120 キロの地点に検問所がある。パスポートの提出が義務付けられて 158 いる。僕のうしろで待っていたイタリア人男性二人に中国語で話しかけると、中国語で 返事が返ってきた。標高約 1600 メートル。涼しい。砂塵で覆われた空を凝視すると、 すぐそこに雪山が見えるではないか。 運転手は時速 80 キロで快調に飛ばしている。途中、広い草原に出くわした。この一 帯は夏には、大きな湖になるという。草原の彼方には白い山が見える。 「あれは白い砂山ですよ。雪ではありません。どうやって砂山ができるのかよく分かっ ていないようです」 アディディはもの知り顔で話した。 「ちょっと下車してみましょう」 そう言うと、アディディは運転手に停車場所を指示した。 僕が下車すると、すぐにキルギス族の大人や子供が玉や水晶を持って集まって来た。 関心があるかどうか、僕の顔を覗き込むが、僕は無視して、水場まで降りていった。手 を水に浸した。冷たかった。 土手を戻る際、息が切れた。 「標高 3200 メートルですよ。もうすぐカラクリ湖です」 ガイドが言った。 「あと 400 メートルか。ジャンパーも酸素も要らなかったな」 僕は安心した。両方とも万一のための保険だったのだ。でも冬場は雪と氷に覆われ、 国道 314 号線は通行止めになる。交易も中断される。三蔵法師の時代も現代も同じだ。 カラクリ湖は富士五湖のような普通の湖に見えた。カッシーという恐竜が住んでいる という噂を耳にしたが、そんなに神秘的には見えなかった。湖の対岸には、標高 7649 メートルの万年雪で覆われたコルガール山が見える。こんなに高い山をみるのは初めて だが、神秘的な感じは余りしない。気温が高いからであろうか、それとも相変わらず砂 塵で空が黄色になっているからであろうか。 午後1時 30 分になろうとしていた。腹が減った。ウイグル族の経営するレストラン に入って、冷たいビールを注文した。旅行の楽しみの一つは、昼からビールが飲めるこ とだ。空気はうまい。景色は申し分ない。 僕は中華料理を食べながら、ビールを堪能していた。アディディと運転手は離れたテ ーブルで仲良く食事をしている。すると、日本人らしき男性と中国人女性が日本語と中 国語のチャンポンの会話をしながらレストランに入って来て、僕の隣のテーブルに座っ た。僕は中国語で日本人男性に声をかけた。彼らは上海から来ているという。本物の夫 婦か、また愛人連れか、判断が付きかねる。女性の方は 40 歳前後か。別に羨ましいと いう美形ではない。 食事を終えて外に出た。ガイドが湖畔に立ててあるパオのキルギス族の家族を訪れよ うと促す。パオのなかに入った。家族 3 人が出迎えてくれた。乳茶が出された。老人は 100 歳近いという。かくしゃくとしている。顔は強い紫外線のせいだろうか、肌は黒く、 深い皺が刻まれている。老人らしい立派な顔立ちである。先進国は不老不死の医療に向 けて、遺伝子レベルでの研究に莫大な資金が投資されようとしている、人類のためでは ない。儲かるからだ。富を得た人間の考えることは、健康でいつまでも生き続けること だ。老いは忌むべきものであり、いつまでも若々しい心と肉体を維持することが理想的 な生き方とされている。本当に正しい思想なのであろうか。日本に老いを嫌う風潮が出 現して以来、いい顔の老人を見かけることが少なくなった。子供のような顔の老人が増 えた。子供のまま年齢を重ねたような大人が多くなった。老化を拒み続けたからだ。 僕は老人と一緒に写真を撮ってもらい、チップを払ってパオの外に出た。ここにも資 本の論理が蔓延っている。周囲にあるのは、岩と雪と水と空気しかない。生命らしきも のと言えば、観光客のみだ。観光客を除けば、何万年もの間変わらない風景がそこにあ 159 ったはずだ。変わらないということは悪で、変わることが進歩と決め付けた時、文明は 発達し始めた。しかし、それを人間の理性が制御できなくなってきている。いや、理性 というものは、感情を蔑視し、自分が最も頭がいいと思い上がっている奴に違いない。 傲慢な奴だ。 アディディがそろそろカシュガルに戻ろうと言う。今日は、市内で夕食を摂ったあと で、100 キロ離れた砂漠の街まで行くことになっている。ハードなスケジュールだ。僕 は車に乗り、使わなくて済んだ酸素ボンベを取り出して、バルブを緩めて酸素を吸った。 少しだけ心地よい気持ちになった。 王運転手は 100 キロ近いスピードで来た道を戻っていった。検問所は顔パスで通過し た。途中の道端でトイレ休憩すると、どこからか三人のキルギス族が土産も持って出現 した。 「スイショウ。600 元」 と日本語で言った。ニセモノだった。本物がそんなに美しく、かつ安いはずがない。 オアシスの街に入ると、車はまた時速 40 キロまで減速した。カシュガルのレストラ ンに到着したのは午後6時過ぎだった。客は誰もいない。早すぎるのだ。 僕は冷たいビールとワインとカバブなどをアディディに注文してもらった。赤ワイン もカバブも美味しかった。酔って気持ちがよくなってきた。時間をかけてカシュガルま で来た意味はあったとこの時思った。ワインの勢いだったのかも知れない。でも、思え るということはいいことだ。感じている僕は確かに存在する。 「我感ずる故に我有り」 何がまちがいだ。文句あっか。理性の馬鹿やろう。 トルファン製のワイン代1本 120 元を払って外に出た。半分飲み残したワインの瓶も 道連れだ。 レストランの中庭に大きなキャンピングカーが停まっている。西洋人の家族がクルマ の前で寛いでいる。 「どこから来たのか?」 僕は英語で話しかけた。フランス人だ。イラク、パキスタン経由で中国に入ってきた という。キルギス、ウズベキスタンなどの中央アジアを経由してフランスに戻る途中だ った。夏休みでないのに、就学時の 4 人の子供も一緒だ。 「学校に行かなくてもいいのか?」 「インターネットで学校とつなぎ、勉強している。時々先生の評価を受ければ旅行を続 けることができるのよ」 夫人が説明してくれた。キャンピングカーの屋根で遊んでいる子供もいる。凄く楽し く、幸せそうな家族だ。現在版の遊牧民族だ。日本人にはできにくいだろう。学校や文 部科学省が許してくれそうもない。日本は規律が大切な文化であり、アイデンティティ ーであるからだ。みんなで一緒に知恵を絞って頑張り、誰にも真似できない製品を作り 上げることに、日本の生命線がある。少なくとも、日本人はそう考えている。このフラ ンス人にそんな話をしたら、火星人か何か宇宙人と思われてしまうであろう。自分がど う生きるかが重要なのよと言われそう。 僕らの車は、タクラマカン砂漠のはずれにある、ダワクン砂漠へと向かった。100 キ ロの道のりだ。2 時間もあれば着くはずである。でも、王君は制限時速を死守しようと するので、オアシスに入ると減速する。周りも次第に暗くなり寂しくなってきた。 「あとどのくらいかかるのか?」 僕が何度も訊くと、運転手の怒りが爆発した。 「あと1時間はかかる。早く着いても、ホテルにはカラオケもマッサージも何もないの だ。急いでも意味がない。事故にあったらどうする。安全が第一だ」 160 長時間の運転で、王君も疲れていたのであろう。彼の言うとおりかも知れないが、早 くベッドで横になりたいとも思った。僕はそのまま黙っていた。すると、王君は、クル マの前をバイクが棒若無人に通り過ぎるのをみると、罵声を浴びせながら睨みつけた。 バイクのおじさんは一向に気にしていないようだった。ああ、怖い。真面目な人間を怒 らせると、何をしでかすか分からない。触らぬ神に祟りなし。彼の怒りが収まっていな い様子が後ろ姿からも伺い知れた。 今夜はダワクン砂漠のホテルで泊まることになっているが、路上のクルマからは、砂 漠の気配はまったくない。砂塵のため午後 10 時過ぎると、かなり薄暗くなってきた。 まだかな、と思う頃、「風情園」と書かれた看板の入口に着いた。粗末だ。一抹の不安 がよぎる。どんな部屋に泊まらせられるか。1泊 480 元も払っているのだと、心の中で 叫ぶ。ガイドが詰め所で何かやり取りしている。埒が明かない、入口も開かない、と冗 談言える余裕はなかったのだが。 クルマは敷地に入っていった。200 メートル進んだあたりから前が開けてきた。うっ すらと白い。砂漠が見えるぞ。いや少し変だ。商店では浮き袋や水着が売っている。そ んな馬鹿な。あやー。白く浮かんでみえたのは、湖であったのだ。砂漠の中の湖。これ ぞタクラマカン、これぞ中国。期待通りには決してことが運ばない。しかし、なぜ砂漠 の中に湖があるのか。自然にできたのか、人工のものか。夢でもみているのだろうか。 僕はぽかんとしているが、アディディは別に関心はなさそうだ。 現実に戻り、まずはねぐらを探さなければならない。敷地内の招待状と言う看板の前 でクルマを停めて、アディディが従業員らしい者と何やら交渉をしている。すぐに戻っ てくると、 「ここは一般客が泊まるところ。最上級の部屋は別のところにある」 「どこだ」 僕はひどく疲れてイライラして大きな声を出した。 彼は運転手に何かを言うと、クルマはまた風情園の入口まで戻った。最上級の部屋の 場所を聞いているらしい。クルマが再び停まったところは一見、高級そうな平屋の建物 である。だが、全く明かりは点いていないし、人影も見えない。幽霊屋敷のように薄気 味悪い。アディディがクルマから降りて、何やら叫ぶと、建物の裏からひとが出てきた。 4、5名が出てきた。鍵を持っている者もいる。一つの部屋の鍵を開けて、なかに招き 入れた。 部屋は広い。ベッドは高床の上だ。壁や天井は彫刻の装飾が施されている。材料はポ プラである。アディディがにこりと笑う。室内はウイグル族風の部屋だ。赤や緑や黄色 の豆電球も点滅できるようになっている。ラブホテルのように明りがどぎつい。シャワ ーとトイレは部屋に付帯しているが、あまりきれいとは言えない。温水は、天日で温め た温水を利用できるようだ。テレビはない。 「空調が壊れているではないか?」 「作業員は食事に行っている。もうすぐ帰ってくる」 でたらめを言っていると、すぐ分かる。 「この部屋でいいか?」 と訊くので、もう疲れているため妥協することにした。 「好(ハオ) 」 これでいいと僕は答えた。 男たちは去っていた。アディディは、 「明日の朝、日の出を見に行きましょう。午前7時 15 分に来ます」 と言ってどこかに去っていった。 今日はクルマに 10 時間も乗っていた。疲れた。しかし、憧れのカラクリ湖を見れて 161 よかった。人々との新しい交流もあった。部屋はひんやりとしていて気持ちがいい。で も広すぎで、落ち着かない。シャワールームはきれいでないので使わないことにした。 床に就いたが、なぜか眠りにつけない。持参した安眠薬を 1 粒飲んで、ようやく本当の 眠気が襲ってきた。 第4日。 午前 7 時に自然に目が醒めた。外は暗い。部屋の明りを就けると、待ち構えていたか のように、部屋をノックする音が聞こえる。アディディだ。 ドアの前に立っていたのは、中年の漢民族の女性である。何の用だろうか。今から外 に遊びに行くのかなどと質問をする。適当に返事をしていると、部屋代を払えと要求し てくる。カネを払わずに、出かけると思ったのであろう。 「部屋代はガイドが払うことになっている」 と僕が言うと、管理人風の女は去っていった。彼女は僕の隣の部屋に宿泊していたよう だ。 約束の 7 時 15 分になってもアディディはやってこない。仕方ないので、ひとりで湖 を見に行くことにした。涼しくて、気持ちがいい。でも、ジャンパーが要るくらい寒い。 カシュガルで買ったのが、ようやく役に立った。誰もいない。レストランの屋外の棚の 上で、毛布に包まって寝ている者もいる。次第に明るくなると、湖の向こう側は砂漠が 広がっているのが見て取れた。後ほど聞いた説明によると、湖の名前は岳普湖で、そも そも小さいものであったが、雪解け水を引き、大きくしたという。泳げるし、ボート漕 ぎ、駱駝に乗っての砂漠漫遊などの総合レジャーセンターとして、2002 年に開業した という。湖では魚の養殖もやっている。新鮮な魚料理を提供するという。 部屋に戻ると、王運転手がクルマを丁寧に掃除している。アディディの部屋を聞き出 して、ドアをノックするが返事がない。お祈りの時間かも知れないと思い、これ以上ノ ックするのをやめた。しばらくして、アディディが部屋から出てきた。7時 15 分に来 なかった理由をアディディに訊くと、曇っていたため、日の出は見られないと思い、起 こしに行かなかったと言い訳する。僕はアディディの目を覗き込んだ。うそは言ってい ないようである。 朝食は、マントウ、お粥、漬物の簡単なものだった。部屋のテーブルと椅子を野外に 出し、新鮮な空気を吸いながらの朝食である。美味くないはずがない。 朝の最初の活動は駱駝乗りである。ハネムーンの時にエジプトのピラミッドのそばで 駱駝に乗って以来、2回目である。駱駝が脚を伸ばして立ち上がる時と膝を曲げるとき に、前後に大きく揺れる。駱駝が歩き出せば、乗り心地はまずまずである。 “月の~砂漠を~はる~ばる~と” 僕は、月の出ていない朝からご機嫌であった。駱駝は砂漠のなかに入っていく。20 分程歩くと、駱駝は膝を折って、僕を砂漠に降ろした。砂漠は砂の山がうねっている。 僕は小さい山を登ったり、谷を下ったりと、砂漠と戯れた。持参したミネラルウォータ ーをひと口飲んだ。そして、砂漠の彼方に目をやると、やはり砂漠であった。タクラマ カン砂漠の西の端から砂漠の中央を見ているのだ。日本の面積の2倍と言うから、東端 がみえるはずがないが。 文字通り不毛な砂漠にロマンチックを抱く日本人は非常に感性が豊かであると思う。 砂漠=無あるいは不毛、あるいは苛烈さにさえ、浪漫を思い起こせられるのは何と想像 力が豊かであることか。新中国の父の孫文は、中国人は砂のようにばらばらで団結心が ないと嘆いた。現在、共産主義が魅力や求心力を失いつつあるが、それでもマルクス・ レーニン主義は大学の必須科目である。教える者も教わる者も、教義を信じてはいない。 単位を採るのに必要だから勉強している。暗記している。心が熱くならなければ、身に 162 はつかない。図書館で何時間も座っていても、将来役に立つことは学べない。彼らの心 まで砂漠化しないかと心配である。 例えば、このように教えたらどうであろうか。 レーニンは「帝国主義列強は世界市場の争奪が至上命題であるため、戦争は不可避で ある」と喝破した。事実、20 世紀の前半は、帝国主義列強国の市場争奪のために、世 界規模の戦争が2度発生した。このような時代に国際協調主義を唱えるのは、夢想家以 外のなにものでもなかった。実際の歴史はどう動いたか。第二次世界大戦後の世界秩序 は、自由貿易堅持と通貨政策協調を柱とする IMF と GATT 体制として形成される。この 構想は、米国のエリート数人がその骨格を作り上げたものである。この体制のために、 世界は戦後、大規模な戦争を回避し、長い平和と繁栄を享受することになる。レーニン の資本主義戦争不可避論は、米国人エリートの自由、互恵、繁栄というシンプルな発想 に敗れた。もちろん、この世界秩序体制は世界の人々の利益というよりは、アメリカの 利益の最大化のために不可欠であった。新システムの考案者が最大の利益受益者となる。 中国人学生よ、歴史を疑え、常識を疑え、権威を疑え。そして、地平線の先にある新 思考を模索せよ。自らの頭で考えよ。人類のために新しい世界秩序を自ら思考し、構築 せよ。僕はそう言いたい。 僕は駱駝で来た道を戻った。午前 11 時が過ぎていた。暑くなり始めていた。もうこ こには用はなさそうである。クルマでカシュガルに引き返すことにした。帰りも、40 キロの制限速度の地域ではクルマの動きが急に鈍くなった。 外をみると、レンガ家の壁にペンキで、女の子 2 人を育てると 60 歳で 600 元をもら えると、書いてある。女の子を産むように奨励している。しかし、この地域では嫁入り させるには、7 千から1万 5 千元がかかるという。600 元の額では、インセンティブは 働かないであろう。突然思い出したのであるが、第一日のウルムチ発カシュガル行きの 飛行機の隣の座席に座っていたモハメット君は 2 人の妻と 8 人の子供を 2000 元の給与 で養っていると言っていたが、これはやはり変である。うまく騙されたのかも知れない。 でも、彼の憧れの日本製のジャンパーをただであげて後悔はしていない。騙されるのも 旅行だし、人生である。いちいち怒っていたのでは精神状態が破壊されてしまう。 僕はうとうととしていた。他にやることはない。考えることもない。だが、食べるこ とと飲むことが最大の楽しみになっていた。 「赤ワインを飲みながら、カバブとウイグル式うどんを食べたい」 僕は最大のわがままを言った。アディディは空港に迎えに来たとき、要望は何でも言 って下さい。実現できるよう最大の努力をしますと、真剣な表情で言ってくれた。好意 は正直にいただこう。それが彼の真摯な態度に対する僕の誠実だと、勝手に解釈した。 市内に入ると、今日は 5 月 4 日であると思い出した。中国では「青年の日」と呼ぶ。 なぜか。五四運動と言えば、戦前の中国で日本排斥運動が始まった日である。若者たる もの、祖国のために、命を投げ出せ、屈辱を忘れるなと、政府は言いたいのだろう。北 京にいなくてよかった。不快な思いはしたくない。少数民族に囲まれていると、不思議 と心が安らぐ。少数民族同士の連帯感があるのであろうか。 昼食は野外のテントの下のレストランで、瓶に半分残ったトルファン産の赤ワインを 飲みながら、ウイグル料理を楽しんだ。気持ちよい風が頬を撫でる。埃っぽい街である が、次第に愛着がでてきたのを実感する。 前に宿泊した市内のホテルにチェックインし、シャワーを浴びてスッキリし、クーラ ーをつけたまま昼寝した。よく眠れた。2 時間ほど熟睡した。 午後 6 時にアディディがホテルに迎えに来た。ひとりだ。王運転手はいない。昨日は 相当機嫌が悪かった。非常に疲れていたのであろう。アディディの気遣いで、王君を休 みにしたのだ。 163 「歩いていきましょう」 「どこへ?」 「友達の家です。普通のウイグル族の家庭に案内しますよ」 僕は嬉しかった。そうこなくちゃ。観念よりも実践が重要。理念より感情が大事。議 論より交流が大切。アジア人はそうでなくっちゃ。 その家は、迷路のような道の奥にあった。ひとりで行けと言われても、二度と行けな いであろう。門を開けて入ると、中庭があった。三世代が同居しているウイグル族の家 庭である。子供4人、孫2人の幸せそうな家族である。ご主人と奥さんにウイグル語で 挨拶をすると、部屋のなかに招き入れられた。靴を脱いで絨毯の上を踏みしめた。置き 時計は北京時間よりも2時間遅く設定されている。生活時間は 2 時間遅めになってしま うのが実態であろう。お天道様には勝てないのだ。部屋は天井が高い。夏は涼しく、冬 は暖かくする工夫である。テーブルの上には食べきれないほど沢山の食べ物が並べられ ている。絨毯は立派である。こうやって絨毯の上に座ると、ウイグル族の生活に絨毯が 如何に重要であるかが実感できる。 カシュガルでは、20 年前から日本製品が洪水のように街に入ってきたそうだ。その 後、日本のドラマが放映され、日本文化とウイグル族の文化の類似性が見出されると、 日本贔屓が急に多くなったという。ウイグル族は自分たちの将来を先進国日本とイメー ジをダブらせているのかも知れない。両者とも男性中心社会。男性は、家で何もしない。 料理もダメ、家事一つ手伝わない。でも、子供を結婚させるまでは、父親の責任という。 それが終われば、残すはメッカ巡業のみ。メッカから帰ってきたら、みんなから尊敬さ れながら後世を過ごす。 しばらくすると、カバブと当地のうどんが運ばれてきた。アディディが手配してくれ たのだ。昼と同じメニューになったが美味しい。ご主人と奥さんはいつまで待っても顔 を出さない。恥ずかしがっているのであろうか、それともアディディと僕の会話が弾ん でいるので遠慮されたのであろうか。少数民族は海外留学や研修の機会は、漢民族と比 較して少ないそうである。アディディは日本留学を藩民族の書記に認めてもらえなかっ た。 カシュガル出身でウイグル族のT氏(検索を避けるために実名を書かない)は、将来 を嘱望された優秀な共産党員として東京大学に派遣され、博士号を目指してウイグル族 の歴史や文化を研究していた。数年たつと、彼は中国政府のウイグル族に対する圧政に 疑問を抱くようになる。一時帰国したT氏が新疆の公文書館で歴史資料目録をコピーし たことが国家分裂扇動罪などに問われて懲役 11 年の判決を受けた。彼は 11 年の服役を 終えた今年 2 月 10 日、自由の身になるはずであったが、依然として当局の管理下にお かれている。昨年、胡錦濤主席の訪日の際、元首相らとの朝食会において、安部元首相 がT氏の冤罪問題を取り上げたが、中国当局の態度は硬化したままである。私は、T氏 が解放されると、ウイグル独立運動の象徴として担ぎ出されることを当局が極度に恐れ ていると考えるている。さらに、彼が元共産党員で共産党を裏切ったとの反感が共産党 内にあるのではなかろうか。 僕は、庭に出ると北京から持参したチョコレートとアメを奥さんに渡して別れた。静 かで幸福な家族である。 さて、最後の視察地を訪れることにした。カラオケである。日本の偉大な発明は、中 国の辺境でどのような姿に変貌しているのであろうか。興味津々である。アディディが 最初に案内してくれたのは、ウイグル族経営のディスコである。ダンスだけで歌えそう もない場所だ。午後8時になっているのだが、外は明るく、客はゼロ。カウンターの天 井には、発光ダイオードが輝いている。これも日本人の誇る偉大な発明。僕は興奮しな がら、 164 「これは日本人の発明だぞ」 とウイグル族のマスターに言った。彼は余り関心を示さない。 「歌えるところに行こう」 僕はアディディに催促した。 店の外に出たら驚いた。砂塵が吹き荒れていて、前方 100 メートルの視界しかない。 風が強く、タクシーの窓を閉めても、砂が内部に入ってくるかのようである。周りが砂 漠に囲まれたオアシスであると実感させられた瞬間だ。 「漢民族経営の店でいいか」 「いいよ。カラオケがあれば」 僕は言った。 連れて行かれたカラオケは、北京のそれと余り変わらない。日本流に言えば、スナッ クに近い。ホステスが、お酒をついでくれたり、一緒に歌ってくれたりする。いや、正 確に言えば、お客が注文した歌でも、自分が選択した歌でも、歌えるひとがマイクを受 け取って勝手に歌うのである。人類みな兄弟。みんなで楽しもうという世界である。歌 声スナックみたいで非常に健康的である。ただ、北京のカラオケとの違いは、カシュガ ルではビールと赤ワインを混ぜて飲むのである。何だか悪酔いしそう。アディディはお 茶を飲んでいる。 カラオケの曲の選択は、リモコン。ほとんどが中国語の歌であるが、ウイグル族の中 国語版の歌もインストールされている。日本の歌は 10 曲程度入っていた。演歌を歌っ ていたら、途中から突然別の演歌に変わった。ダビングの失敗であろう。面白い。 ホステスは全て漢民族。地元出身者はいない。湖南、甘粛のみならず、東北地方や海 南島から来ているのもいる。海南島出身者は中国語の発音がきれいだ。将来は香港で店 を出したいそうだ。人々の流動性はかなり進んでいることをうかがわせる。 アディディが日本語を勉強したいというので、 「北国の春」を一緒に 2 回歌った。日 本語の飲み込みが速い。 僕は 700 元を支払って外に出た。ホテルの売子の月収が 600 元だから、現地では相当 高い価格であろう。外はまだ強い風が吹いていた。ホテルに戻ってベッドに入った。心 地よい眠りであった。 第5日目。 いつもどおり 8 時 30 分の朝食を終えると、ホテルをチェックアウトし、外に出た。 王運転手とアディディが待っていた。次回カシュガルに来たときには、ヤルカンド、ホ ータン、ニヤを見学した後、タクラマカン砂漠を縦断し、クチャまで旅行しようと提案 してきた。北京の旅行代理店を通すと高くなるので、直接電話するようにとも言った。 王運転手はあいかわらず、制限速度を死守している。空港で別れる時に、王君は大き な笑顔を作った。いい奴だ。少しからかい過ぎて悪かったなと心のなかで思った。 搭乗手続きを簡単に済ませ、2 階の出発ロビーへ向かった。電子チケットのため、切 符を持ち運ぶ必要がなくなったのはありがたい。アディディは別れ際に軽く頭を垂れた。 ウイグル族の存在感のある奴だった。 中国は世界で生き残るためには、儒教を復活させなければならない。ただし、儒教の マイナス面を削除し、アジアのひとびとに向けて、その教えを普遍的な言葉で表現する ことが求められている。そうすれば、日本は中国と真の意味で連帯できる。 アジアの役割は、不自然な一神教からの脱却であり、人間性の復活である。金融資本 主義と共産主義と言う二つの毒を拒否することである。そのためには、仲間との連帯が 必要である。人間らしく生きたいと願う人々との連帯が必要である。美しい田園を後世 まで残さねばならない。自然との協調を忘れてはならない。漢民族、ウイグル族、日本 165 人は価値観の根底において、暖かい家族、信頼の絆で結ばれた人間関係を強く求めてい る。理解し合えるはずである。 西欧文明に毒されない、アジア人の身の丈に合った共同体を作ることが、西欧列強か らの攻撃から身を守る手段と僕は思う。還元主義の科学を克服し、全体主義の科学を創 造しなければならない。その意味で、価値観を同じくする東アジアの地域に、共同体を 形成する意義は大きい。日本はアジアの先進国として、アジアのために働かねばならな い。アジアの埋もれた人材を育成しなければならない。国家という枠組を超越し、各民 族や地域の特性を生かした共同体を形成しようではないか。 アジアのエリートの役割は、ヨーロッパ学の全面的な見直しである。現代社会は、ヨ ーロッパ文明が生み出した学問の上に成立している。哲学、歴史学、政治学、社会学、 経済学、科学などの学問を基盤に人間活動が規定されている。ヨーロッパ文明の基礎は キリスト教と言う一神教であり、多神教あるいは道徳律を基本とするアジア諸国の文明 とは根本のところで相容れないものがある。 “発展や変化は善”という価値観のもとで、 科学は急激に発達している。人間の潜在的な能力の一部だけが“酷使”されているよう に思える。ひとびとは本来欲求もしていないような消費に駆り立てられ、エネルギーと 資源を浪費している。地球環境は著しく破壊された。競争こそが発展の原理だとヨーロ ッパ学が教えるからだ。競争が必要というのは、家族共同体や村落共同体が崩壊され、 自律を失い、アトム化されたひとびとに、神がささやく言葉に過ぎない。 「競争をするのだ。勝ち残った者のみが天国に召されるのだ」 僕は、北京行きの飛行機に乗り換えのためにウルムチ空港に降り立った。空港では新 疆の美しいリゾート地域の宣伝の大きな写真が掲げてあった。そのなかに、今度行って みたいという美しい写真があった。地名をみた。愕然とした。あのダワクン砂漠ではな いか。また騙されたか。でも、この写真を先に見ていたら、もっと落胆したに違いない。 そう思うと、何だか愉快になってきた。 さて、最後に3つの宿題に対する私の回答を示さなければならない。 最初の宿題。カシュガルに住んでいる者は誰。カシュガルに住んでいるひとびとは中 国人であるが、その定義だけで十分ではない。ウイグル族、キルギス族、回族それから 内地からやってきた漢民族、国境を越えてやってきたパキスタン人商人。彼らはそれぞ れの文化を持ち、生きがいを求め、平和に共存しているようにみえる。そして、東方よ り来た旅人を非常に暖かく迎えてくれた。マホメット君とのやりとりは面白かった。あ のジャンパーは大切に扱われていることであろう。ジャンパーも幸せであるに違いない。 僕のズボンにスープをこぼし恐縮していた四川省出身の 19 歳の少年は今もあの中華レ ストランで修行を積んでいるのであろうか。 二番目の宿題はカラオケ。リモコン式のカラオケはあったが「銀恋」は歌えなかった。 日本の歌を歌える女の子もいなかった。店にはウイグル族の女性もいなかった。でも、 日本発の文化はユーラシア大陸の中央でしっかりと根付いていた。漢民族の商売道具と して。 最後の宿題。つまり、カシュガル人にとって科学技術の意味は何か。ウイグル族の職 人は、伝統的な技を生かして、金物、装飾品、小道具、楽器などを器用につくっていた。 楽器を演奏してくれた職人もいた。これも科学技術の一部である。彼らは日本製品を買 い、使ってみて大きな感銘を受けた。そして、その日本人の文化に自らの文化や価値観 との類似性を見出した。近代技術とウイグル族の文化をつなぐ希望を日本を通じて体得 できたのである。これは日本の貢献である。さらに重要なことは、彼らの関心を外の世 界に向けたことであろう。ウイグル族は子供の将来を考えると、漢民族の文化を積極的 に受け入れざるを得ない。それは同時にアイデンティティーの危機を孕む。カシュガル 市内のウイグル族の寿命が伝統的な農村のひとびとの寿命よりも短いという事実が、ウ 166 イグル族の文化のおかれた危機的立場を如実に物語っている。彼らは漢民族のみでなく、 外界の多様な文化との交流に将来を託すしかないのではないか。物欲に惑わされること なく、異邦人たちの心のなかに類似の文化や価値観を発見し、絆を深めていくことが民 族の精神を失わない処方箋のように思える。 飛行機は晴れのなかを順調に飛行していたが、北京市内の上空に差し掛かると、急に 黒い雲に突入した。いや変だ。巨大なスモッグだった。この黒い雲が日本に移動し、光 化学スモッグの原因となっている。日中協力はやはり必要である。意地の張り合いをし ている場合ではない。 僕は空港に到着するや、いきつけのマッサージ店に行き、疲れた体をほぐしてもらっ た。今回の旅で、今まで見えなかったものが見えてきたと自信を深めた。よい旅だった。 地方から出稼ぎにきている「民工」は真面目に働き、誠実に生きている。ユーモアを解 する柔軟性もある。彼らと接していると、中国の将来は明るいと確信できる。連帯が重 要である。漢民族、ウイグル族、日本人が織り成す新しい歴史は始まったばかりである。 人間の本来の姿を大切にする新しい世界の構築に向けて、なすべきことは山積している。 希望を失わずに、人間らしく生きていこうと、僕は思った。 生活に困らない年収一千万円稼ぐアジアのひとびとは、新しい文明の構想力を鍛え、 “他者のために生きる”覚悟をする必要がある。 マルクスは共産主義成就のため、 「万国の労働者よ、団結せよ」と叫んだ。そして今、 人間の復活のため、「アジアの中産階級と知識人よ、他者のために連帯せよ」とアジア の中央のカシュガルで僕は叫びたい。 この旅行から 10 ヶ月が過ぎ、2008 年 3 月 14 日にラサで反政府運動が発生し、中国 政府は国家分裂活動だとして弾圧した。チベット族のこの運動は、ウイグル族の多いカ シュガルにも飛び火し、大勢のウイグル人が拘束されたとニュースは伝えている。マホ メット君とアディディのことが思い出された。彼らとはその後、連絡を取っていないし、 取る手段もない。彼らの安全とウイグル族の幸福を願うばかりである。 167 編集後記 『古代と現代の交差点』を書き始めたきっかけは二つある。ひとつ目は拙著『創新中 国』(イノベーション・チャイナ)の脱稿後、浮かんだ自然な疑問である。 「現代中国でイノベーションが進まない真の理由は何であろうか。自分は、赴任国の中 国や中国人のことをどれほど深く理解しているのであろうか」 その国を真に理解するには、歴史を勉強しなければならない。一見遠回りのように見 えるが、過去を把握しておかなければ、現代中国の問題の本質を見誤ってしまうのでは ないかという恐れを感じた。 二つ目は日本の対中国の基本認識や基本戦略が分裂し、定まっていないことに対する 危機感である。政治家、官僚、学者、メディアの各界において、中国と協力していくべ きとする派と中国とは一線を画しておくべきとする派が存在する。これは日本にとって 不幸な状況である。だが、なぜ正反対の考え方が同じ日本人に宿っているのか。その原 因は中国人や中国文明に対する認識が定まっていないからであると考えた。ここにも、 中国の歴史を振り返ってみようという動機があった。長くつき合ってきた隣国中国でさ え、日本人はその本質を理解していないのではなかろうか。 中国の歴史は長く、登場人物は莫大な数に達するが、それを理解するための時間と手 間を省くには案内役となる書物が必要である。それは間違いなく司馬遷の『史記』であ ろう。日本では、中国の歴史と言えば『三国志』(中国では『三国志演戯』という)が 取り上げられるが、三国時代の歴史的意義や登場人物の思想を考えると、中国の歴史を 理解する上で適切なものとは筆者には思えない。参考書は、その国の歴史を衝き動かし てきた思想や論理の枠組みを表現したものでなければならない。そういう意味では、中 国文明を理解する上でも『史記』に勝るものはないと考えた。ちなみに、西洋文明はヘ ロドトスの『歴史』と『聖書』 、日本文明は『古事記』と『日本書紀』、米国文明はジェ ファーソンの『独立宣言』にそれらの文明の本質が封印されていると思う。歴史を勉強 することの現代的意味はまさにここにある。 この報告書で取り上げた人物は紂王、太公望、孔子、始皇帝、司馬遷、煬帝、劉邦、 孝文帝、ホンタイジ、林則徐など多数にのぼる。筆者が彼らを選んだ明確な基準はない。 ただ、面白いと思ったからである。時代を切り開いた彼らでも時代の波に翻弄された者 である。彼らの価値観、人格、才能を考慮せずに中国の歴史を語ることはできない。歴 史は人間が形成するのである。 中国のイノベーションに対するコメントを書き残しておこう。 筆者の理解では、中国の歴史を単純化すると、国家と人々を私物化しようとする皇帝 と正義を貫こうとする知識人が織りなす戦いであった。前者は国家の拡大と繁栄を目指 し、後者は人々の安心と幸福を願った。皇帝にとっては“義”があるかどうかはさして 重要ではなかったが、本物の知識人は“義”を重視してきた。 極論すると、現代においてイノベーションを推進する者は“義”に生きる人々であり、 それを拒む者は“不義”を働く者である。中国のイノベーションの成否は、“義”に人 生を賭ける人々がどれだけ出現するかにかかっていると思う。 米国シリコンバレーの上空はいつも“青い空”が広がっている。そこの科学者や技術 者は青い空のように澄んだ心で、知的好奇心の赴くままに、面白いことをやり遂げよう としている。挑戦者としての心の躍動、湧き起こる創造性に身をゆだねている。自由な 発想を縛るものはなにもない。このような環境はイノベーションの基本である。 心に広がる青い空を中国の歴史になぞらえると、 “義”を求める心のような気がする。 本田宗一郎、松下幸之助、湯川秀樹が中国で出現するかどうかは、“義”がこの国で 168 復活するかに依存しているように思えてならない。そういう意味では、海外で最先端の 知識や技術を学んだ元留学生の役割は中国の将来にとって非常に重要である。彼らの奮 起に心から期待したい。 中国文明はひとつの小宇宙である。歴史上中心的な役割を担ってきた漢民族は他の民 族に対して時には寛容性を発揮し、時には暴力性を示してきた。また、中華文明は政治 的・現実的であると同時に、超世俗性という面ももっている。多民族国家の苦しみを知 らない日本人の視点からは、中国は矛盾に満ちた不思議で、不気味な存在に見える。あ る日本人は体質の違う中国を嫌い、また別の日本人は大陸的な異質性に惹かれるのであ る。想像力をたくましくすると、それはまるで、南方からやってきた人々の子孫の日本 人か、大陸からやってきた人々の遺伝子を多く持つ日本人かの違いであるようにも思え る。いずれにしてみても、日本の対中国観の不統一は今後、日本の運命に大きな影を落 とす恐れがある。 中国の歴史の特徴は同じ事象の繰り返しであるようにみえる。成功も失敗も過去の事 例をまねているかのように再現される。新しい王朝は前の政権を否定し、新しい文明を 築くが、やがて衰退が始まり、農民の叛乱により文明が崩壊する。中国人は歴史から学 ばないのではなかろうかとも思える。ヨーロッパ文明は絶対神の存在をその基礎におく が、中国の歴史は、むき出しの人間による人間のための人間の歴史である。人間の欲望、 義、裏切り、名誉が渦巻く何でもありの世界である。人間の体臭が史書からただよって くる。 中国の歴史は中国人を現実主義者に仕立て上げた、彼らは人間の本質をよく知ってい る。中国の台頭により、米中の文明観が衝突する可能性が出てきた。二国間の覇権をめ ぐる戦いは、経験の差、つまり歴史の長さに左右されるかもしれない。生まれながらに 自由を与えられてきた米国人、権謀術数に鍛えられてきた中国人の勝負は明らかであろ う。ただ、中国人が負けないための条件がひとつある。それは過去の失敗を繰り返さな いことである。農民の搾取禁止、知識人の重視、権力者の腐敗防止の三つが実現できれ ば、中国は世界帝国として再び君臨するに違いない。 本報告書を作成するに当たり、『史記』を始めとして、多くの書物を読み、またネッ トでウィキペディアに幾度となくアクセスした。基礎情報を入手するためである。北京 五輪開催の成果のひとつがウィキペディアへのアクセスが可能になったことである。こ のアクセスが不可能であったならば、報告書の内容は少し寂しいものになっていたであ ろう。中国当局にお礼を申し上げたい。 なお、最後に、本報告書を書き上げるにあたり、多くの遺跡を訪ねて歩いた。多くの 人々は好奇心に溢れ、筆者に非常に親切に接してくれた。ぼられたこともない。彼らは 日本人と同様に、優しい心を持つ民族であるのだ。また、列車のなかで、若い娘や息子 たちが両親を非常に大切に労わる姿に何度も出くわした。日本ではあまり見られなくな った光景だ。孔子が教える孝行は、大陸の大地に根強く生きていると感じ入った。いず れも人間としての資質の高さには驚いた次第である。ここに彼らの親切心に対して心か らお礼を述べたい。彼らもやはり中華文明の末裔であるのだ。 さらに最後に一言。中国の発展は誰も止められない。まじかに迫るアジア黄金時代の 波に、衰退期の日本は“乗るか反るか”まだ覚悟をしていない。 これが本当に最後。歴史の勉強に没頭すると、金融危機や新型インフルエンザのニュ ースに左右されている自分がバカに見えてくる。世の中はいいこともあれば、悪いこと もある。マスメディアから発せられるつまらない刺激に惑わされることもなく、自然の 大循環に身を委ねて、平安で充実した生活をこれからも送っていきたいものである。 169 <参考文献> 『史記列伝』一~五、司馬遷著、小川環樹、今鷹真、福島古彦訳(岩波文庫) 『中国の歴史』上中下、貝塚茂樹著(岩波新書) 『中国五千年』上下、陳舜臣著(講談社文庫) 『中国の歴史』一~七、陳舜臣著(講談社文庫) 『小説十八史略傑作短篇集』陳舜臣著(講談社文庫) 『小説十八史略』陳舜臣著(講談社文庫) 『阿片戦争』上中下、陳舜臣著(講談社文庫) 『中国文明の歴史』岡田英弘著(講談社現代新書) 『中国意外史』岡田英弘著(新書館) 『帝国としての中国』中西輝政著(東洋経済) 『国民の文明史』中西輝政著(産経新聞社) 『史記の風景』宮城谷昌光著(新潮文庫) 『春秋名臣列伝』宮城谷昌光著(文春文庫) 『戦国名臣列伝』宮城谷昌光著(文春文庫) 『晏子』一~四、宮城谷昌光著(新潮文庫) 『太公望』上中下、宮城谷昌光著(文春文庫) 『異色中国短編傑作大全』宮城谷昌光他著(講談社文庫) 『孔子伝』白川静著(中公文庫) 『周公旦』酒見賢一著(文春文庫) 『中国宰相・功臣 18 選』狩野直禎著(PHP 文庫) 『遊牧民から見た世界史』杉山正明著(日経ビジネス文庫) 『早分かり世界史』宮崎正勝著(日本実業出版社) 『ナビゲーター世界史B2』鈴木敏彦著(山川出版社) 『図解世界史』 (成美堂出版) 『科学で見る世界史』 (学習研究社) 『疑史世界伝』清水義範著(集英社) 『1421:中国が新大陸を発見した年』ギャヴィン・メンジーズ著(ソニー・マガジンズ) 『中国科学技術史』杜石然等著、川原秀城等訳(東京大学出版会) 『図説・中国の科学と文明』ロバート・テンプル著、中山輝代監訳(河出書房新社) 『中国の科学文明』藪内清著(岩波新書) 『中国古代天文学成就』北京天文館編(北京科学技術出版社) 『千年の祈り』イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳(新潮社) 『中国・開封のユダヤ人』小岸昭著(人文書院) 『離散するユダヤ人』小岸昭著(岩波新書) 『世界の歩き方 中国』 (ダイヤモンド社) 『歴史』北京市義務教育課程改革実験教材(北京教育科学研究北京出版社、北京師範大 学出版社合編) 『中国歴史』許海山主編(線装書局) 『中国为什么不高兴』贺雄飞主编(世界知识出版社) 『ウィキペディア』 (フリー百科辞典) 170
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