平成19年1月10日発行

狭山ヶ丘通信
狭山ヶ丘高等学校
第 34 号
平成 19 年8月 25 日発行
第 35 号
平成 19 年9月 11 日発行
(第 35 号特別折り込み号(3))
第 36 号
平成 19 年9月 25 日発行
第 37 号
平成 19 年 10 月 10 日発行
第 38 号
平成 19 年 10 月 25 日発行
(第 38 号特別折り込み号(4))
・雄鳥のごとく
第 39 号
平成 19 年 11 月 10 日発行
(第 39 号特別折り込み号(5))
・沖縄の心
第 40 号
平成 19 年 11 月 25 日発行
・「いじめ」ひとつ根絶できなくてどう
する(1)
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
目 次
・朝鮮人の思いで(1)
・いわゆる「水増し合格」報道をめぐる
真相
・「貴種」の思想と嫉妬、世襲
・朝鮮人の思いで(2)
第 18 号
平成 19 年1月 10 日発行
・肌を温め合う育児
第 41 号
平成 19 年 12 月 11 日発行
・「沖縄の心」その 2
第 19 号
平成 19 年1月 25 日発行
・体罰「絶対」禁止への疑問
第 42 号
平成 19 年 12 月 25 日発行
第 20 号
平成 19 年2月 10 日発行
・中東への畏敬の思い (1)
・「いじめ」ひとつ根絶できなくてどう
する(2)
第 21 号
平成 19 年2月 25 日発行
・中東への畏敬の思い (2)
第 43 号
平成 20 年1月 10 日発行
・人は何故キレルのか
第 22 号
平成 19 年3月 10 日発行
・廃墟の悲哀
第 44 号
平成 20 年1月 25 日発行
・暗記の大切さ(1)
第 23 号
平成 19 年3月 24 日発行
・偉人の伝記に親しませよう
第 45 号
平成 20 年2月 10 日発行
・流しとシンクそれに有毒餃子
第 24 号
平成 19 年4月 10 日発行
・日本語の深さについて
第 46 号
平成 20 年2月 25 日発行
・暗記の大切さ(2)
第 25 号
平成 19 年4月 25 日発行
・尊敬するから厳しく要求する
第 47 号
平成 20 年3月 11 日発行
・暗記の大切さ(3)
第 26 号
平成 19 年5月 10 日発行
・長崎市長殺害事件の再発を許すな
第 27 号
平成 19 年5月 23 日発行
(第 27 号特別折り込み号(1))
第 28 号
平成 19 年5月 25 日発行
・特攻隊員は何故死んだのか
第 29 号
平成 19 年6月 10 日発行
・「川の国埼玉」に寄せる思い
第 30 号
平成 19 年6月 25 日発行
・拙速に過ぎる安倍内閣の文教政策
第 31 号
平成 19 年7月 10 日発行
(第 31 号特別折り込み号(2))
第 32 号
平成 19 年7月 25 日発行
・盆踊りへの郷愁
第 33 号
平成 19 年8月 10 日発行
・「北方綴り方」の衰退に思う
・高校進学説明会のご案内
・ひとりで行った入学式
・学校見学説明会のご案内
・初めての喧嘩
平成19年1月10日
狭山ヶ丘通信
第18号
狭山ヶ丘高等学校
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肌を温め合う育児
小川義男
国会議員の皆さんと、議員会館で話し合う機会が多いが、あるとき私は、若い国会議
員が、産院で出産することのマイナス面を指摘していることに衝撃を覚えた。彼による
と、昔は産婦の 98 パーセントが自宅で出産した。ところが現在では逆転し 98 パーセン
トが病院乃至産院で出産している。これが「いじめ」の遠因になっているのではないか
と、彼は心配するのである。
病院は、出産すると直ちに母と子を切り離し、赤ん坊は赤ん坊で、親とは別な部屋に
「保管」する。出産後すぐ別々にするような生き方をさせるから、死ぬときも別々にな
る結果を生むのだと、彼は主張するのである。
赤ん坊は、おそらく極度に衛生状態の良い部屋に寝かされているのだろうから、目く
じらを立てて憤慨するのはおかしいのかも知れぬ。しかし、生まれた途端から母と子を
引き離すという考えは、いかにも現代医学の考えそうなことだと、苦笑せざるを得ない。
病院は、出産後間もなく赤ん坊だけ集めて「管理」すれば、確かに便利なのではあろ
う。無菌室にして衛生に万全を期することもできる。しかし、生まれた途端から母と引
き離されることの、人間形成に及ぼす影響は十分に研究されているのであろうか。
胎児は、母の体内にいるときにも外部の音を聞いているという。彼らの耳に一番大き
く響くものは、母親の心臓の音であろう。母の心音を録音しておいて、出産後、赤ん坊
がぐずったり泣いたりしたときに、これを聞かせると泣きやむという話を聞いたことが
ある。赤ん坊に取り、母親の胸に抱かれて、その体温に温められ、「聞き慣れた」心音
を聞いているときこそ、至福のひとときなのであろう。
生まれた途端からの数日は、人間に対する信頼感を獲得させる最高のチャンスだと私
は思う。絶対的に安心できる看護を受けられるとは言え、私には、医学の持つ合理主義、
学問特有の傲慢さが感じられてならないのである。
私は残念ながら、我が子を育てた経験がない。しかし生き物がどれほど、その親を慕
うものであるかと言うことについては、いささかの体験がある。
私が青年教師の頃だから、ずいぶん昔の話である。理科の先生が孵卵器で鶏の卵を孵
化させようとしていた。卵は温めているだけでは雛に孵れない。時折孵卵器のふたを開
-1狭山ヶ丘通信
第 18 号
狭山ヶ丘高等学校
発行
けてひっくり返してやらなければならないのである。理科室では行き届かぬと思ったの
であろう。理科の先生は、孵卵器を職員室に持ち込んできた。
やがてひよこが生まれるというのだから、私は早くその姿を見たいものだと思い、毎
日卵をひっくり返すのを手伝った。やがてそれは完全に私の仕事になってしまった。
孵化させるというのは、なかなか難しい仕事である。結局卵は一個しか雛に孵らなか
った。ひよこが生まれたとき、そばにいたのは私であった。殻をつついて出てくる雛の
懸命な努力は、涙が出てくるほど感動的なものであった。彼(後に分かるのだが、雛は
雄であった。)を私は箱に入れて、職員室の自分のデスクの上で育てることにした。
ひよこは生まれて直ぐに、そのあたりを自由に歩き回ることができる。私は運動不足
になってはいけないと思い、職員室の中を散歩させることにした。ところが彼は、決し
て私のそばを離れない。私が動けば必ずその後についてくる。デスクで事務を執ってい
ると、絶対に私のそばを離れない。どうやら彼は、私を親だと信じ込んでいるらしいの
である。
後に「刷り込み」、プリントインという言葉があるのを知った。雛は卵から生まれ出
たときに、「目の前で動く最初のもの」を親と信じ込むように、その心に「刷り込み」
がなされるらしいのである。最初に見たものが親である可能性は百パーセントに近い。
悲しいことに、彼は孵卵器で孵化したから、身近に親がいるはずもない。結局四六時中
彼を見守っている私を親だと信じ込んでしまったのである。
彼は、職員室中を、移動する私の後について歩き回った。授業に行くときにもついて
くる。こんな「子連れ男」は、一般会社ならはじき飛ばされるところだが、そこは学校
である。「優しさ」に対しては、思いやりが特別に尊ばれる世界だ。雛鳥と私との「甘
酸っぱい関係」に、校長も教頭も文句は言わなかった。
彼は階段だけは上ることができなかった。そこで私が抱き上げて、出席簿の上に載せ
て運んだりした。成長するにつれ彼は、教室の中では私を離れて一人歩きするようにな
った。ドラマはまだまだ続くのだが、雛について語るのが主眼ではないので、このくら
いにとどめよう。
しかし、自然界に生きて行く上で、動物の親と子がどれほど深い愛情に結ばれている
ものかを、私はしみじみと味わった。
雌鳥と雛の関わりでさえこうである。増して人間の母と子の間柄が疎遠であって良い
訳がない。スキンシップという言葉には、いかにも戦後アメリカ的な意図が感じられて、
私は好きになれないのだが、母と子の関わりにおいて「肌を温め合う」ということの重
要性は、どれほど強調しても強調しきれないほどに重要だと思うのである。
どうも今日の育児政策、出産奨励政策は、親と子を引き離すように、引き離すように
する傾向を有しているのではないだろうか。病院が出産後、母と子を別々に「管理」す
るばかりではない。ゼロ歳保育を奨励する小泉内閣以来の「福祉政策」にも、この気配
が感じられてならない。我々はどこかで道を間違えてしまったように思えてならないの
である。
-2狭山ヶ丘通信
第 18 号
狭山ヶ丘高等学校
発行
平成19年1月25日
狭山ヶ丘通信
第 19号
狭山ヶ丘高等学校
h t t p : / / w w w. s a y a m a g a o k a - h . e d . j p /
体罰「絶対」禁止への疑問
校長
小川義男
誤解しないで頂きたい。私は生徒を殴って良いなどと考えているので
はない。代用教員をやっていた頃の「弟子達」に会うことがあるが、彼
らの言によると、四年の在勤期間、私は生徒を絶対に殴らなかったそう
である。私はもともと暴力否定論者なのである。
だが昨今の教育委員会や校長、さらには文部科学省の役人達の言動に
接していると、この「体罰絶対禁止」の原則が、異常なまでに強調され
過ぎているように思う。
昔、小学校長を勤めていた頃、教育委員会のある指導室長の講演に接
することがあった。彼は教育相談の「大家」である。私はもともと、こ
の「教育相談」なるものに大きな疑念を抱いている。そもそも「相談」
とは、誰と誰の相談なのか。親と教師の相談なら十分に理解できる。し
かし、いわゆる「教育相談」は、親と教師のそれではなく、教師と生徒
との相談を意味するものらしいのである。しかし、教育とはそもそも相
談であろうか。
実はこの「相談」は、「押しつけではなく、威圧ではなく、生徒に理
解させ納得させ共感させる方向で指導がなされなくてはならない」との
前提に立つものらしいのである。
昔 None Directive Method(ノ ン
デイレクティフ
メ ソ ド )と い う 教 育
の一流派があった。直訳すれば「指導でない指導」と言うことになろう
か。青年教師時代の私は、「指導でない指導などは、所詮指導たり得な
いではないか」とせせら笑っていたが、今もその思いは変わらない。
要するに指導することを恐れたのである。指導することに伴う師弟間
の緊張状態を恐れたのだ。理解し合い、納得し合い、相手の了解を得た
上で人間的な成長を遂げさせるという、本来不可能な極楽とんぼ的教育
論は、このようにして我が国に定着したのである。
実はこれには歴史的背景がある。第二次世界大戦が始まった当時、世
界のほとんどは欧米列強の植民地であった。白人がアジア、アフリカに
対して、どのような専横、暴虐を働いたかは、白人文化全盛の今日、今
なお明確にされてはいない。
私はこれを、いずれ著書にもしたいし、できれば「欧米列強植民地化
の歴史博物館」を世界各地に設立したいものだと願っている。その残虐
非道は言語に絶するものであったらしい。
- 1 -狭山ヶ丘通信
第 19 号
狭山ヶ丘高等学校
発行
無人の空を行く感のあったアジア、アフリカの一角に、白人の心胆を
寒からしめるほどの抵抗力を示す国家が「出現した。言うまでもなく我
が日本である。しかし、その外交政策の拙劣さ、軍事戦略の拙さもあっ
て 、我 が 国 は 1 9 4 5 年 8 月 1 5 日 、こ の 戦 争 に 敗 れ た 。勝 利 し た 白 人 列 強 、
特にアメリカが、この「極東の危険民族」を軍事的にだけでなく精神的
に も 武 装 解 除 し た い と 考 え た と し て も 無 理 は な い 。か く し て ア メ リ カ は 、
我が国の歴史、文化、伝統のすべてを侮蔑し、傷つけ、辱めた。それを
端 的 に 示 し た も の が 、当 時 の「 進 駐 軍 」司 令 官 マ ッ カ ー サ ー 元 帥 の 、「 日
本 人 は 12 歳 」 と い う 言 葉 で あ る 。 建 国 日 も 浅 い ア メ リ カ 人 に 「 12 歳 」
と 言 わ れ て は 、た だ た だ も う「 恐 れ 入 る 」の ほ か は な い が 、白 人 列 強 は 、
それほどに日本人を恐れていたのである。
彼 ら は 、 「 軍 国 主 義 的 傾 向 」 の 名 の 下 に 、 5,211 名 の 教 師 を 公 職 か ら
追 放 し た 。さ ら に 11 万 5,778 名 の 人 々 は 、ア メ リ カ 軍 の 手 に な る「 教 職
員適格審査」を受けることすら拒否し、教育界から去っていった。その
ようにして、学校のアメリカ化をはかる動きは急ピッチに進められた。
その中で、これまでの我が国の教育が、「教師による威圧、生徒の畏怖
の下に進められてきた」という虚構がでっちあげられたのである。
実は明治以来の我が国教育は、決してそのように威圧的なものではな
かった。開戦の年に小学校三年に在籍し、敗戦当時中学一年生だった私
でさえ、教師に殴られたというようなことはほとんどない。目撃するケ
ースも極めて稀だったし、そのケースも、むしろ私が教師の側に共感を
抱けるようなケースばかりであった。
しかしアメリカは、とにもかくにも日本の歴史、文化、伝統、教育の
すべてを否定する必要があったから、それまで行われていた、比較的伸
びやかな教育をも否定し、その延長上に、体罰はいかなるものであって
も断じて許さないという姿勢を貫いたのである。
文部省、大学教育学部の教授達、教育行政に携わる人々、校長、指導
主事達のすべてが、「我遅れじ」とばかりこれに追随した。彼らのほと
んどは、常にアメリカの要求以上にアメリカ的であろうと心がけたもの
である。
私の中学一年から高校卒業までの六年間は、このように見苦しく身の
安全を図ろうとする教師達に囲まれて過ぎた。許し難いと思うのは、彼
らが身の安全をはかるばかりでなく、少しでも優位な、有利な地位を獲
得しようと、先を争ってアメリカの要求に忠実であろうとしたことであ
る。まさにアメリカの要求以上にアメリカ的であろうとする、これら醜
い日本人、醜い教師達に、私がどれほどの憎悪を抱いたか、今日、若い
方々にはご理解頂けないのではないだろうか。
ともあれ、そのようにして、ぶっては駄目、怒鳴っては駄目、立たせ
ても駄目、睨んでも駄目というような奇妙な風潮が我が国教育界に猖獗
を極めるに至ったのである。
叱ったり怒鳴ったり、時に軽くゲンコツを張ったりすることが時に必
要である。特に小学校にその傾向が強い。しかるに「体罰絶対禁止」の
原則が、あまりにも杓子定規に要求されるので、教育現場には「何もせ
んければいいんだろう。何もせんければ。」と言った雰囲気が生まれて
しまいがちなのである。
さてこの「体罰」は、我が国教育百年の流れの中で、どのように位置
づけられてきたものなのであろうか。又、現在どのような問題を含んで
いるのであろうか。次回はこの点を詳しく論じてみたい。
- 2 -狭山ヶ丘通信
第 19 号
狭山ヶ丘高等学校
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平成19年2月10日
狭山ヶ丘通信
第20号
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中東への畏敬の思い
(1)
校長
小川義男
人類の歴史は中東に始まった。粘土板への文字記載、壁画という形での文字記載等の文明は、およ
そ五千年前に、この地域で始まったものと考えられる。
中東の文明は、ふたつの大河を中心にして起こった。ひとつはチグリス、ユーフラテス川であり、
今ひとつはナイル川である。チグリス、ユーフラテスの両河は、最後には一本の川にまとまるが、こ
の地域に栄えた文明が、現代のイラクに継承されている。いわゆるメソポタミアは現代のイラクなの
である。
「エジプトはナイル川の賜なり」とは、高校時代にしばしば聞かされた言葉だが、ナイル川の周辺
以外はほとんどすべて砂漠である。ナイルのほとりだけ、帯のように緑が続き、その外側に広大な砂
漠が広がっている。水が、この世界最古の文明を生み出す上で、どれほど大切な役割を果たしてきた
かを実感することができる。
メソポタミア、エジプトに世界最古の文明が形成された当時、ヨーロッパは完全に未開の地域だっ
た。ただ一寸気になるのは、イギリスのストーンヘンジである。これは最近の報道によると、およそ
4,500 年前に作られた物ではないかとのことである。事実とすれば、人類史を書き換えるほどの問題な
のかも知れない。
忘れてならないのは、我が国の「三内丸山」の遺跡である。この遺跡には、およそ五千年前に、巨
大な木造建造物が存在したとの報告がなされている。栗、ヒエなどを栽培していた形跡があり、翡翠
が出てくる。翡翠は、我が国では糸魚川周辺でしか出土しない。当時、我々の祖先が、全国を周航す
るだけの航海技術を持っていた事が推測される。エジプト第一王朝の時代に、すでにそれだけの文明
が、我が国に生まれていた事実も見落としてはなるまい。
今アメリカは、「イラク問題」で手こずっている。我が国でも、知能程度の低い防衛大臣が軽率な
発言を繰り返して顰蹙を買っているが、これもイラク問題の深刻さを反映したものだと言うことがで
きよう。
いずれにせよ「バクダット」が、世界最古の文明を象徴する誇り高い地域であることを忘れてはな
るまい。
フセイン処刑に関わる非人道的扱いが問題になった。絞首刑を実行する場に多数人が入り込み、フ
セインを辱める言動を繰り返し、携帯カメラにその映像を収めたというのだから、我々日本人の理解
を超える話である。
-1-
狭山ヶ丘通信
第 20 号
狭山ヶ丘高等学校
発行
これに対し、フセインの態度は、まことに「一代の英雄」たる名を辱めぬ従容たるものであったらしい。このこ
とが、イラクの内政を一層複雑にさせるのではないかと憂慮される。処刑当時私はエジプトにいた。処刑は「犠
牲祭」の初日に行われたのだが、現地人のガイドが、「フセインは悪い人ではあったが、その処刑を祭りの初日
に行うというのは許せない」と私に訴えたのが印象的であった。実際には、イラク政府自身の強い要望に基づく
ものであったらしいが、それとても、この日に処刑を実行した点で、アメリカを免責するものではあるまい。
忘れてならないのは、中東に生きる人々、エジプト人にせよ、イラク人にせよ、彼らが極めて誇り高い人々だ
という事実である。彼らの文明の歴史に比べれば、欧米の歴史などは、まさに「昨今駆け出し」の若者に過ぎな
い。大量殺戮兵器が実際に存在したかどうかより、ブッシュ氏が、何より考えなくてはならなかったのは、中東
に生きる人々の、この誇りの高さだったのではないだろうか。
今ひとつ忘れてならぬ重大な問題がある。中東の人々は、「アメリカ的デモクラシー」などに一片の価値も認
めていないという事実である。アメリカ人は、彼らの西欧的デモクラシー、人権、多数決原理等が、全世界に通
じる普遍的原理だと確信している。これは、彼らのキリスト教的一神教に基づく独善性にほかならないと私は思
うのだが、アメリカ人は、これを固く信じて疑わないから始末が悪い。
イラクにデモクラシーが定着することなど絶対にない。それは、一時アメリカ文化の圧倒的影響を受けたかに
見えたイランにも定着しなかった。イスラム教徒が大多数を占めるインドネシアにすら定着してはいない。イラ
クの人々に受け入れられる筈がないのである。
イラクの人々は、国家よりは部族に根源的価値を認めている。彼らは「イラク」の繁栄ではなく、自らの部族
が、国家内において支配的であることを求めて止まない。そして、その信念を内面から強く支えているものがイ
スラム教である。しかもその宗教的信念は、部族ごとに様々であり、部族の利害関係と一体を成すものとして形
成されている。
それを、多数決原理などという西欧的価値観で統一しようなどと言う考え自体が、そもそも間違っていたの
である。中東の人々に対する畏敬の念を失っていたところに、ブッシュ氏の根本的間違いがあった。(以下次号)
カリスマ校長が教える勉強好きな子どもに育てる 8 つの約束
小学校低学年のときに学校の勉強につまずくと、それは、小学校高学年・中
学・高校と、将来にわたって尾を引いてしまいます。当たり前のことかも知れませ
んが、何事も最初が肝心です。勉強の場合は、特にそうなのです。
そこで、本書は、子どもたちが、「勉強きらいにならず、勉強好きになるため
に、小学校低学年のときに何をすべきか」をじつにコンパクトにまとめています。
特に、「家庭で親子で実行して欲しい8つの項目」がありますが、これをきちん
と実行すれば、子どもたちは必ず勉強好きに、少なくとも、勉強嫌い・学校嫌いに
はなりません。
実行すべき8つの項目は、本書を読んでのお楽しみです。
2
狭山ヶ丘通信
第 20 号
狭山ヶ丘高等学校
発行
平成19年2月25日
狭山ヶ丘通信
第21号
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中東への畏敬の思い
(2)
校長
小川義男
イラクに限らずイスラム圏の人々は、国以上に部族を大切に考えているのではない
だろうか。
最近イラク内部において、シーア派、スンナ派相互間に爆弾攻撃が繰り返されてい
る。以前の攻撃が、アメリカを敵としていたのに比し大きな変化である。外国を対象
としてではなく、自らに敵対する部族、宗派相互間に攻撃の重点が移っている。
スンナ派は全人口の三分の一程度であるのに比し、シーア派は三分の二を占めてい
る。選挙において、すべての人が、自分が属する宗派の代表を選ぶのではないにして
も、スンナ派が、投票総数の過半数を制して権力を掌握することは先ず難しい。
では、シーア派を中心とする政権が生まれたとして、スンナ派の人々は、たやすく
政府の指示、命令に従うであろうか。事はそのように単純ではない。デモクラシー的
「多数決原理」など、てんから受け付けない人々が数多く存在しており、そのような
人々は、自分の宗派がイラク全体を支配することだけを求める。それが純粋な宗教的
信念に裏付けられているだけに、解決は極めて難しいのである。
二つの勢力が互いに敵対し、しかも多数決原理に従うことを拒否するとすれば、両
者を和解させることはできない。
先日イラクの元大統領フセイン氏が処刑された。私はもともと、大統領というよう
な最高権力にあった人物を処刑することには反対である。現在の目から見て彼の権力
行使に「違法性」があったにしても、彼が大統領であった時代にも、それが本当に違
法であったかどうかには疑問が残るからである。フセイン処刑に私は、むしろ「極東
国際軍事裁判」にも似た、強烈な復讐の臭いを感じる。
そのフセインはスンナ派であったから、イラク国内において、彼は疑う余地もなく
少数派であった。彼は「民主的な選挙」において、「多数決原理」に基づいて権力を
掌握したのではない。ではいかにして少数派の彼が、多数派のスンナ派や少数派のク
ルド族などを支配することができたのであろうか。おそらくそれは、徹底した暴力に
よって初めて可能になったものであろう。
イラク情勢を、アメリカは今、明らかに持てあましている。だが、この内紛をたち
どころに解決する方法がある。一つは拷問である。徹底した拷問を用いれば、人間は
その内面に秘めた情報を秘匿し通すことができない。これはスターリンの「体験的信
念」であり、社会主義体制が、幾百万人の実験によって確証した真実である。この方
法を用いれば、アメリカは、あるいは「大量殺戮兵器」を発見することさえできたか
も知れないのである。
- 1 -狭山ヶ丘通信
第 21 号
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発行
自爆攻撃に対処する極めて有効な方法がある。それは連座制を採用することである。
すなわち、自爆攻撃を行った「勇士」が出た場合、その一身眷属ことごとくを殺戮す
るか投獄するのである。自爆攻撃は、その布告のあった瞬間から停止されることであ
ろう。
私はアメリカにそのようなことをやれと言っているのではない。アメリカ的近代刑
法理論から考え、そのような蛮行は絶対に不可能である。デモクラシーなどを認めず、
政治と宗教は一体であると考え、自らの部族、宗派以外のすべてを否認する人々に対
して、キリスト教的一神教に基づく「民主主義思想」など通用するものではない。そ
れが、世界のどこでも通用すると考えたところにブッシュの誤りがあった。この「ア
メリカ的理想主義」は、政権が民主党に移っても変わるまい。
おそらくフセインは、上記したような拷問、殺戮の限りを尽くして、暴力的にイラ
クを支配し、彼なりの「秩序」を確立したものであろう。悲しいことだが、このよう
に荒っぽい手段を取る以外に、イラクに平和を確立することは不可能だったのであろ
う。
そんな荒っぽい手段を、いかなる外国といえども用いることは許されない。イラク
に、いかなる手段で、いかなる平和を確立するかは、イラク人自身が決すべき問題な
のである。地球の裏側に位置するアングロサクソンごときが考えるべき問題ではない。
だから、アメリカは、すべてイラクに住む人々に任せて、さっさとイラクから撤兵す
べきなのである。イラクの現政府が、いかなる手段でイラクを統一していくか、それ
はイラク人自身の問題であって、外国人が口を出すような問題ではない。撤兵の後に
もアメリカは、つまらぬところで、妙な理屈を述べ立ててはならない。人権とか民主
主義とか、自分たちだけに通用する、身勝手な理想論など振り回さぬ事だ。
イラクがどうなろうと、そこに住む人々がどうなろうと、それはイラク人自身の問
題であって、他国が口を出すような問題ではない。
1949 年、アメリカの「好意的静観」によって革命を成し遂げた中国の毛沢東は、史
上稀に見る悪政によって、同胞七千万を殺した。その中国は、今や資本主義大国とな
って世界支配を狙っている。しかしアメリカは、それに対し終始沈黙を守っているで
はないか。それで良い。それで良い。「民族自決権」とは、他国、他民族のこのよう
な抑制を求める理念なのである。
「アメリカ外交失敗の歴史」という本が書けるくらい、アメリカは外交的失敗を重
ねてきた。今アメリカが何よりも噛みしめなければならない教訓は、「他国のことに
は口を出さない」という原理なのではないだろうか。
カリスマ校長が教える勉強好きな子どもに育てる 8 つの約束
小学校低学年のときに学校の勉強につまずくと、それは、小学校高
学年・中学・高校と、将来にわたって尾を引いてしまいます。当たり前
のことかも知れませんが、何事も最初が肝心です。勉強の場合は、特
にそうなのです。
そこで、本書は、子どもたちが、「勉強きらいにならず、勉強好き
になるために、小学校低学年のときに何をすべきか」をじつにコ
ンパクトにまとめています。特に、「家庭で親子で実行して欲しい8
つの項目」がありますが、これをきちんと実行すれば、子どもたちは必
ず勉強好きに、少なくとも、勉強嫌い・学校嫌いにはなりません。
実行すべき8つの項目は、本書を読んでのお楽しみです。
- 2 -狭山ヶ丘通信
第 21 号
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平成19年3月10日
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廃墟の悲哀
小川義男
私 は 18 歳 の 時 に 、 熊 が 出 る よ う な 田 舎 の 中 学 校 に 就 職 し た 。 正 式 に 言 え ば
助教諭、いわゆる代用教員である。四年間勤め、その後大学に進学した。しか
し、農村で過ごした四年間が、人生でもっとも充実した期間だったのではない
か と思う。
その村も人口が十分の一以下に減少し、昔日の面影はない。勤務していた中
学校も今はなく、併設されていた小学校も廃校になった。今は校舎の土台すら
残っておらず、当時のグランドが、ただ広い空き地となって残っている。校庭
一 杯にさん ざめいて いた子供 らの賑や かさも 、それを 偲ぶよす がとてな い。
こ の ほ か に も 、 私 は い く つ も の 都 市 が 廃 墟 と な っ て い く 姿 を 見 て き た 。「 故
郷の廃家」という歌を聴いて育ったせいか、私は廃墟に特に強い関心を抱いて
い る。
北海道の赤平市は、石炭産業の城下町とも言うべき大都市であったが、炭坑
が閉鎖された後は、開発以前の大自然に立ち返ってしまった。今は訪れる人も
少 ない。
炭坑ではズリ山が町の象徴である。地中から掘り出した石炭には、いわゆる
「炭ガス」が混じっている。そのカスと石炭とを選別しなくてはならない。カ
ス を捨てた 山がズリ 山なので ある。
30 度 の 三 角 定 規 を 伏 せ た よ う な 形 の 山 で あ る 。 緩 や か な 方 の 斜 面 か ら ト ロ
ッコが上っていき、頂上付近から急斜面の側へ炭カスを落とす。ズリ山全体が
真っ黒だし、自然発火する箇所も多く、あちこちから煙が上がっている。一目
で 分かる炭 坑町の象 徴、それ がズリ山 の姿な のであっ た。
しかし数十年を経て赤平市を訪れたが、幾つもあったズリ山が一つもなくな
っ て い る 。 よ く よ く 辺 り を 見 回 し て や っ と 分 か っ た 。 30 年 の 間 に 、 ズ リ 山 は
大木に覆われてしまっていたのである。山の形をよく見つめると、すっかり緑
に 覆 わ れ て し ま っ て い る の だ が 、 形 が ど う や ら 「 30 度 の 三 角 定 規 」 に 似 て い
る 。それが 大自然の 緑に包ま れてしま ったズ リ山の姿 なのであ った。
たん じ ゅ う
あれほど沢山あった炭坑住宅、俗称 炭住 も、その跡形さえ伺うことができ
な い。すっ かり大森 林と化し てしまっ ている 。
炭 坑 が 次 々 に つ ぶ れ 始 め た の は 、 昭 和 35 年 頃 か ら で あ る 。 そ の 頃 し き り に
「エネルギー革命」ということが叫ばれた。つまり石炭よりは石油の方がコス
トが安いから、エネルギーは次第に石炭から石油に変わっていくというのであ
る 。「左翼」 は強く これを否 定した。
私は当時年も若く、赤平市立赤間小学校教職員組合の分会長をしていた。い
く つもの炭 坑 、特に赤 間炭坑の 労働組合 には 、し ばしば激 励の演説 に出かけ た 。
その頃、炭労(日本炭坑労働組合)は、このエネルギー革命を否定する立場を
取っていた。日本共産党・日本社会党(今の社民党)の活動方針に追従する結
果 そうなっ たのであ ろう。
彼 ら の 主 張 は は っ き り し て い た 。「 エ ネ ル ギ ー 革 命 」 と い う の は 、 ア メ リ カ
に従属する日本独占資本のデマ宣伝である。彼らは、アメリカ石油資本の利益
に 迎合する ために 、石炭を 犠牲にし て石油を 取り入れ ようとし ている のである 。
アメリカの植民地政策さえはねとばすことができれば、炭坑閉山などは行わず
に済む。政府並びに独占資本は、むしろ労働者の賃金を切り下げるために「エ
ネルギー革命」を唱えているのであって、そのデマ宣伝さえ打ち破れば、炭坑
閉 山など爆 砕するこ とができ る。それ が彼ら の主張で あった。
対米従属という主張は理解できないわけではなかったが、私は「エネルギー
革 命 」を否定 する彼ら の主張に は根拠が ないと 考えた 。液 体で出て くる石油 と 、
時には地下数千メートルから掘り出さねばならぬ石炭では、喧嘩になるわけが
な いからで ある。
事実は冷厳であった。特殊の原料炭を除き、我が国全域にわたって、炭坑は
ほ ぼ完全に 閉山され てしまっ たからで ある。
私 は イ デ オ ロ ギ ー が 、 い か に 無 責 任 な も の で あ る か を 身 体 で 味 わ っ た 。「 墨
で 書 い た 嘘 は 、 血 で 書 い た 真 実 を 消 す こ と は で き な い 。」 と は マ ル ク ス の 言 葉
であるが、皮肉にも、そのマルキスト諸君が、いかに空疎なイデオロギーをも
て あそぶ存 在である かを、私 は身を以 て実感 せざるを 得なかっ たのであ る。
農村人口、炭坑人口のほとんどが、必ずしも生産的とは言えない都市に移動
してしまった。都会の夜空は不夜城の感を呈しつつある。その一方で、食料自
給率四割に満たない我が国の農地は荒廃しつつある。まさに政治の無責任と言
うべきであろう。政治家諸君の脳裏には、国家百年の計など、全く存在してい
な いのでは ないだろ うか。
農村にも漁村にも炭坑にも廃墟が目につく。炭坑では、既にその廃墟すら失
たんと
われつつある。炭都夕張の悲劇は、夕張市の歴代市長の精神的荒廃を示すばか
り ではなく 、我が 国政治そ のものの 荒廃をも 象徴して いるので はない だろうか 。
人々は「荒城の月」を愛唱する。それは廃墟が人生の悲哀を象徴するものだ
からなのであろう。私は旅するごとに廃墟をカメラに収めている。廃墟は、人
生そのものの深さや悲哀を示すばかりではなく、我が国そのものの、あるいは
現 代文明そ のものの 荒廃を示 している ように 思われて ならない のである 。
平成19年3月25日
狭山ヶ丘通信
第23号
狭山ヶ丘高等学校
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偉人の伝記に親しませよう
校長
小川義男
「世の中に偉人などというものは存在しない。それはすべて架空の話、国家権力に
よって作り上げられた美談に過ぎない」このような考えが、戦後六十年間、日本を支
配し続けて来たのではないだろうか。小学校の道徳などに登場する人物も、
「向こう三
軒両隣にチラホラする普通の人間」ばかりのように思われる。だから子供たちは、並
はずれて偉大な人物になろうなどとは考えず、こじんまりとまじめに生きれば良いと
するスケールに乏しい人間に育ってしまいがちなのである。しかし、世の中に偉人が
存在しないのではない。少し注意してみれば我が国の歴史は、常人の予測を遙かに超
える偉大な人物に充ち満ちているのである。
西郷隆盛は、当時我が国でただ一人の陸軍大将であった。彼の月給は五百円だった
そうである。言うまでもなく当時、大変な高給であった。金に関心のない西郷は、こ
れを太政官に返そうとしたが、法律的にそれは不可能である。明治の体制にあっても、
政治家、官僚の「政治寄付」は、厳しく禁止されていたからである。
彼は下男と共に六畳二間の借家に住んでいた。二人の生活費としては十五円あれば
十分であった。維新の元勲と下男が、秋刀魚でも焼いて食っていたであろう姿を思い
浮かべると、ひとりでに口元が綻んでくる。一月の給料で一年は暮らせた訳だから、
残りの給料は封も切らずに棚の上に投げ上げられ、そのままほこりをかぶっていたそ
うである。治安の良い時代の事とて、泥棒の手合いに盗まれることもなかったらしい。
西南戦争における西郷の死は、滅び行く武士階級への「心中」だったと私は考えてい
る。
「公あって私なし」の西郷にして初めて為し得る事だったのであろう。この「心中」
を以て西郷は、盟友大久保の志を遂げさせようと考えたのではあるまいか。西郷は、
それほど桁外れに大きい人物だったのである。
大久保利通は、明治政府最高の権力者でありながら、若干四十八歳で兇刃に倒れた。
大久保の馬車が太政官庁舎に入っただけで、太政官全体が足音も忍ばせるほど静寂に
なったと言われるくらいだから、権勢の程も偲ばれると言うものである。紀尾井坂で
不平士族に暗殺されたときも、その暗殺は予想されていた。しかるに彼は特別の護衛
も連れずに出勤していたのだから、元勲たちの死生観は我々の想像を超えるものだっ
たのであろう。
面白いのは、その死後である。大久保が死んだ後には天文学的な金額の借金が残さ
れていた。大久保夫人は、日常の米を買うにも困窮する始末であった。見かねてその
一部を、明治陛下の皇后であられた、昭憲皇太后がお払いになったというのだから、
借金の額も桁外れである。最高権力者だったのだから、賄賂などどのようにも提供さ
せられる立場であった。しかし大久保は私財の蓄積などということには無縁の男であ
った。
「公あって私なし」ここでも私は、西郷に共通するスケールの大きさに驚嘆する
のである。
戦後教育は、このような偉人をすべて否定し、身辺はすべて日々の暮らしにあくせ
くする小人物に充ちているという雰囲気を子供たちに押しつけがちであった。最近の
政治家は、惨めなほどに、スケールが小さい。日本における偉人の存在を否定したい、
アメリカ教育使節団の教育勧告が、このような惨状を将来するに至ったと私は考える
のである。
来るべき東京都知事選に、石原氏と別に何人かの候補が名乗り出ている。その一人
は当選後知事の給与を辞退すると言ったり、大幅な減額を主張したりしている。天下
の東京が都知事の給与をけちったりなどするものか。当選を目指すためとは言いなが
ら、このように貧しい政治主張が為されるにつけ私は、しみじみ戦後教育が、どれほ
ど人間を矮小化してしまったかを考えさせられるのである。
第二次世界大戦は、我が国にとっても英雄輩出の時代であった。
硫黄島における日本軍の抵抗は、米軍をしてすら驚嘆と畏敬の念を抱かせるもので
あった。水不足、食糧不足と、ガス、熱水の岩山で、全滅することを覚悟の上で将兵
は最後の一兵まで戦った。それは抵抗が一日延びれば、その一日分本土空襲が遅れる
ことを彼らは熟知していたからである。
一般に司令官は本部に残り、いかなる場合も突撃しないのが原則だそうである。突
撃すれば敵弾に負傷し、捕虜になる可能性があるからである。しかし栗林中将は最後
の突撃に参加した。彼は部下にシャベルを持って随行する事を命じた。自分の死骸を
米軍に渡さないためである。おそらくその軍曹は、中将が傷ついた場合には殺害する
ことをも命じられていたのであろう。今日に至るも栗林中将の遺骨は発見されていな
い。
関西で小学校に侵入した兇漢が一年生多数を殺害したという事件があった。その際、
担任の中年の教師は子供たちの先頭に立って逃げたそうである。教室には椅子もあれ
ば机もある。それをぶつけ、振り上げて戦えば、ほとんどの生徒は逃げ延びることが
できたであろう。しかし彼女はそうはしなかった。後に新聞記者に尋ねられて「私に
も子供がありますから」と語ったと言う。私はそのセリフに接して抑えがたい怒りを
覚えた。自分の子と人様の子と、一体どっちが大切だと言うのか。まさに「師道、地
に墜つ」と言うべきであろう。
教え子の生命身体に危険が迫り、他に助けを求める道がない場合、死なねばならな
いのが教師である。昔、遠足などで子供が水に溺れた場合、泳げぬ教師までが水に飛
び込むのが常であった。そのために「にじゅう遭難」を生み事態が一層深刻化した。
だから校長は、安全を保つべく厳しく指導すると共に、泳げぬ教師は絶対に飛び込ん
ではならぬと言い聞かせたものである。それでも教師たちは飛び込んだ。それが師道
というものである。
英雄の存在を否定し、小人物だけが「真実の人間」なのだと教える卑小な思想が、
教師のあるべき姿まで否定した。
私は小中高等学校の図書室に、もっと多く、また面白い偉人伝を多くすべきだと思
う。そしてこのような本に数多く触れるよう、子供たちを指導すべきである。
私も近く、三笠書房から「親が子に伝えたい偉人の話」を出版する。また、さらに
一年を要するとは思うが、「公に殉じた人々 1945 年を中心に」という本も出版する
予定である。
人間は本来エゴイストではなく、愛する者のために死ぬことのできる気高く、偉大
な存在である。それを自らの人生で証してくれた、偉大なる先人の生き様を、明日の
世代にしっかり継承しなくてはならないと思うのである。
平成19年4月10日
狭山ヶ丘通信
第24号
狭山ヶ丘高等学校
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日本語の深さについて
校長
小川義男
卒業式、入学式などに永く歌われてきた歌をご紹介しよう。明治文語文に近
い歌詞だが、内容は深く、日本語の豊かさをも感じさせる歌である。
蛍の光
蛍の光
窓の雪
ふみ
文読む月日
重ねつつ
とし
いつしか歳も
杉の戸を
い
明けてぞ今朝は
別れ行く
止まるも行くも
限りとて
ちよろず
形見に思う
はし
千万の
ひとごと
心の端を
一言に
さき
うと
幸くとばかり
歌うなり
蛍 の 光 や 窓 の 雪 の 明 る さ で 「 文 読 む 」、 即 ち 勉 強 す る こ と が で き る も の だ ろ
うか。実はそれができたのである。昔の書物は筆の字を版木で刷ったものが多
たきぎ
かったから、今の活字に比べると文字が特段に大きかった。二宮金次郎が 薪 を
背負いながら勉強したと伝えられるが、昔の本ならそれも可能だったのかも知
れない。
と こ ろ で「 蛍 の 光 」は ど う や っ て 集 め た の だ ろ う 。私 に も 経 験 は な い の だ が 、
実は沢山の蛍をネギの中に詰め込んだのだそうである。すると蛍の光でぼうっ
と明るくなる。実際にそれで本が読めるものかどうか私にも確信はないが、少
なくとも美しいものだったのではないかと想像される。今のビニールの袋だっ
たらもっと明るかったろうと思うが、でもネギの筒の方がロマンがある。
あんどん
昔も行灯その他の光源はあった。多くは菜種から絞った菜種油を使う光源で
たやす
ある。しかし菜種油は値段が高い。それに大切な食料でもある。容易く明かり
として用いることは許されなかった。
とし
「いつしか歳も
杉 の 戸 を 」 の 部 分 に 注 目 し て ほ し い 。「 い つ の ま に か 、 歳
月が過ぎていったので」という意味なのだが、それなら「いつしか歳も
過ぎ
ぬとお」と書くべきではないだろうか。それに「スギノトオ」では言葉として
もおかしい。
実はこれが日本語特有の「かけことば」というものなのである。昔の体育館
の扉は、木造校舎だから杉の木で造られていることが多かった。今日の鉄筋コ
ひきど
ふぜい
ン ク リ ー ト の 体 育 館 の ド ア は 多 く 鉄 製 で あ る 。「 杉 の 引 き 戸 」、 何 と 風 情 の あ る
体育館、講堂だろうか。
まなびや
卒業生はその杉の引き戸を開けて、住み慣れた学舎を後にすることになる。
「明けてぞ今朝は
て
別 れ 行 く 」 こ れ も 同 じ で あ る 。 勿 論 意 味 は 、「 夜 が 明 け
今朝は別れゆく」と言う意味なのだが、これに「杉の戸を
開けて」とい
う意味が重ねられているのである。
「心の端を
一 言 に 」 と い う の は 勿 論 、「 思 い の た け を
一言にまとめて伝
え た い 」 と い う 意 味 な の だ が 、 私 は こ れ に 「 人 ご と に 」、 つ ま り 、 ひ と り ひ と
りにという意味が込められていると思うのである。
「幸くとばかり
何と素晴らしい言葉だろうか。
歌 う な り 」、
別れといえば「蛍の光」と「世の相場」は決
ま っ て い る 。 書 店 や デ パ ー ト な ど で も 、 閉 店 間 際 に な れ ば こ の 曲 を 流 す 。「 蛍
の光」が流れ始めると、人々は買い物を少し急いで、閉店の最終時間に遅れた
り、店に迷惑をかけたりしないように心がけるのである。美しい心遣いと言う
べきだろう。
それなのに最近の学校では、卒業式に蛍の光を歌わせるところが少なくなっ
てきた。その理由は、敗戦にある。昭和二十年に我が国はアメリカとの戦争に
敗れた。占領軍は、それまでの我が国の伝統や文化を根こそぎ否定しようと強
制力を働かせた。日本人の中にも「バスに乗り遅れまい」と、アメリカ占領軍
の要求以上にアメリカ的であろうとする卑しい傾向が目に付いた。言わば「敗
戦 利 得 」 に あ り つ こ う と す る 、「 醜 い 日 本 人 」 の 群 れ 群 れ だ っ た と 言 え よ う 。
こ の よ う な 影 響 か ら 、「 蛍 の 光 」「 仰 げ ば 尊 し 」 な ど 、 民 族 的 慣 習 と も 言 え る
美 し い 曲 が 、 学 校 の 卒 業 式 か ら 放 逐 さ れ て し ま っ た の で あ る 。「 君 が 代 」 に 至
っては、歌うこと自体が禁止された。
「文部省唱歌」にも、ずいぶん美しい歌が多かったが、それらの多くも放逐
され、現在の音楽教科書で、その影はまことに薄い。
これらの事情から、音楽に関して、国民の間で、世代間の断絶が形成される
に至った。音楽の自然な変遷という域を越えて、民俗の音楽は連続性、一体性
を失ってしまったのである。
十年、世代が違えば異邦人、というような奇妙な社会現象が出現した。その
う ち に 、「 蛍 の 光 」 や 「 仰 げ ば 尊 し 」 の 歌 詞 を 、 正 し く 解 釈 す る こ と の で き る
人さえ少なくなってしまった。
四月は入学式の季節である。この年度が卒業式を迎える頃、全国どこの学校
でも「蛍の光」や「仰げば尊し」が、感動と共に斉唱されるようにできないも
のだろうか。
世代の断絶は「文化の継承」の中でこそ初めて克服できると思うのである。
平成19年4月26日
狭山ヶ丘通信
第25号
狭山ヶ丘高等学校
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尊敬するから厳しく要求する
校長
小川義男
PTA の会合の折に、生徒達(今年の一年生)が、この学校は良い学校だと口々に語る
という話を聞いた。教師として嬉しからぬ筈がない。理由は色々あるのだが、その一
つに「授業中騒がしくないから」というのがあった。実はこれが最も多かったのであ
る。すべての中学校ではないのだろうが、「自分は勉強したいと思っても、仲間がおし
ゃべりをし続けるので先生の話が聞き取れない」のだそうである。授業は、もともと
それほど魅力的なものではない。私など、この歳で大学院に通い、水曜日の六時から
九時までの演習に参加している。しかし、一番嬉しいのは演習が終わったときだし、
その途中でも、時々時計をのぞき込んだりする。勉強、学問とは、もともと面白くて
たまらないというようなものではないのである。
ある生徒は、「あんなに騒がしくても、一応理解できるのは、自分が塾に通って、学
校で教わるところを前もって勉強しているからで、塾に行っていない人だったら、ほ
とんど分からないのではないだろうか」と語っていたそうである。
驚いた私は、居合わせた保護者にいろいろとお尋ねしてみたが、多くの学校で、そ
のような騒がしさが放置されているという声がほとんどであった。さらに驚いたこと
に、小学校でも騒がしいのだそうである。そこに居合わせた保護者のほとんどが、そ
う語った。
参観日等で学校に行った折に、後ろで見ていると、私語はし放題、いたずら、立ち
歩きも珍しくない。それでも先生は、注意するため、そばに行って、ひとりひとりに
語りかけたりはするが、全体を静粛に保つことはできない。「参観日で、親たちがいる
から、先生も遠慮なさっているのではないでしょうか。」とある母親は語った。
信じられないような話だが本当のようである。小学生の子供のいる本校教職員に尋
ねても、そのようなケースは珍しくないという。どうやら我が国の教育荒廃は、回復
に向かいつつあるのではなく、一層深刻になりつつあるかも知れないのである。
「狭山ヶ丘」で、そのようなことは全くない。始業式、終業式等に際して、校長の
話が 20 分を過ぎることはしばしばである。生徒は、水を打ったような静けさの中
で話に耳を傾ける。静粛である。針を落としたら、一番後ろの生徒にまで聞こえるか
も知れない。授業や、朝ゼミの折などに私語するケースは絶無ではないが、それとて
も極めて稀である。私語する場合も、勉強に関する話がほとんどのようである。
原則としてこれも禁止している。生徒も実に良く協力してくれる。だから「時代が悪
いからだ」とは言えないと私は思う。おそらく生徒が悪いのでもあるまい。生徒にき
ちんとした態度を求める毅然とした姿勢が教師に欠けているからではないかと思うの
である。
青年時代私が尊敬していた教師にマレンコという学者がいた。
「愛と規律の家庭教育」
という本で有名になったロシヤの教育者である。彼は次のように言っている。「君たち
ならできる。その可能性を僕は尊敬する。尊敬するから厳しく要求する。」
教室で静粛を保つくらいのことは、どの生徒にだってできる。問題は、生徒の有す
る、そのような可能性を教師が認め、尊敬するかどうかということだと私は思うので
ある。それを信頼せず、教室内で生徒を獣のように野放しにすることは、結局生徒を
小馬鹿にすることに通じるのではないだろうか。
私が小学校の校長を務めていた頃、生徒を(子供を児童、生徒、学生などに「分類」
する手法を私は用いない)野放しにする教師がいた。一年生の担任であったが、子供を
完全に野放しにするのである。幼稚園などに「自由保育」という「教育方法」がある
と聞いたが、彼のやり方はさだめし「自由教育」ということになるのであろうか。こ
のクラスでは、参観日にも、子供達は上履きのまま机の上に立ったりして授業に「参
加」した。驚いたことにこの教師は、親たちにも人気があった。一年生の親は学校の
ことなどあまり知らないから、「本当の教育とはこういうものなのだろうか」くらいに
考えたのかも知れない。この教員は、ある事情で間もなく退職せざるを得なかったが、
やはり現代は「教育哲学」混乱の時代だと思うのである。
しかし、教師の話を集中して聞くこともできないような現状を放置して、子供を健
全な人間に育てることはできない。もともと我々は、生まれた途端から人間らしい人
間だったのではなく、周囲のすべての人々のお力で、
「人間に育てて頂いた」のである。
だから、育てる側では、この「人間に なるのではなく人間に するのだ」ということを
深く自覚しておかなければならない。
教師には授業を静粛に保つ絶対の責任がある。教師の指示に従わず、授業を妨げる
行為を続ける生徒に対しては、十分な指導と叱責を繰り返さなくてはならない。それ
でもなお執拗に妨害を続ける生徒があったら、高等学校であればこれを退学処分に付
す。中学校は義務教育だから、そのようなわけにも行くまいが、しかし妨害分子を放
置するようなことがあってはならない。学校全体で取り組めば、必ず解決方法は見つ
かる筈である。
小学生が私語や立ち歩きを続け、教師に打つ手がないなどと言うのは嘘である。気
力においても体力においても、教師が妨害生徒に対抗できないなどということがある
ほうし
はずはない。問題は、生徒のそのように放恣な言動を制止することについて、教師の
側に思想的確信、教育的確信があるかどうかなのである。戦後教育、ゆとり教育は、
生徒の自主性に過大な期待を寄せるあまり、教師からこのような確信をうばってしま
ったのかも知れない。
粛然と授業に耳を傾ける本校生徒の中で授業を進める喜びを日々味わいながら、こ
れがどうして日本のすべての学校に広がって行かないのかと、不思議でならないので
ある。
平成19年5月10日
狭山ヶ丘通信
第26号
狭山ヶ丘高等学校
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長崎市長殺害事件の再発を許すな
校長
小川義男
長崎市長が射殺された。原水爆問題などと言う、広島、長崎に特有な問題ではなかった
らしい。事の本質は、行政周辺に群がる、ゆすり、たかりの問題のようである。全国の自
治体に及ぼす影響は甚大であろう。数百億、時には千億に達する自治体財源の行使につい
ゆすり
ては、この種強請たかりが日常化しているのではないだろうか。談合その他様々な不正が
行われる中で、このような暴力分子に対する妥協も頻繁に行われている可能性がある。長
崎市長は、極めて志操堅固な英傑だったのかも知れない。今回の射殺事件に接して、自治
体首脳が、一層暴力に妥協的になるのではないかと憂慮される。
つと
総会屋のたかりも 夙 に有名な我が国である。これに対処して商法の改正も何度か行われ
たが、本当に実効性があるのか憂慮される。事実、何人かの会社首脳が、この種圧力をめ
ぐるトラブルで射殺されている。このことが総会屋との関係に影響を及ぼしていないはず
はない。
ばっこ
そもそも総会屋が跋扈するに至った背景には、企業そのものが自らの不正を隠蔽する手
段として総会屋を「活用」したという歴史的事情がある。企業と総会屋とは、実は不倶戴
天の敵ではなく味方同士だったのである。
長崎市長射殺の犯人は死刑に処せられるであろうか。これまでの経過から言って、精神
に異常があるとか、立腹した前後にも酌量すべき情状があるとかの理由で、十年にも満た
ない刑で済まされるのではないだろうか。事は民主主義の根幹を脅かす事件である。この
男が微罪で済まされるなら、多くの自治体首脳の一部には、
「自分の金ではないのだから」
と、暴力に対し様々な融和手段を取る者も出現するかも知れない。
仮に死刑になるとしても、控訴、上告、再審請求が繰り返される中で、この男が処刑さ
れるのは二十年くらい後のことであろう。死刑であっても、執行まで二十年は生き続けら
れるという可能性があれば、死刑の威嚇力など吹っ飛んでしまう。この種の残虐な犯罪、
悪質な犯罪に関しては、遅くとも半年以内に処刑するくらいの、裁判の能率性が確保され
なくてはならない。我が国の司法制度は、人権尊重の名の下に、犯罪者の人権は尊重され
るが、市井の善良な国民の人権が次々に侵される危険性を残している。政府や与党は、ど
の程度司法の効率化を考えてきたであろうか。
死刑廃止論という立場がある。死刑は残酷だから廃止しろと言うのである。議論として
もっともではあるが、この立場を取る人々は、自分や家族が被害者になった場合にも、同
一の見解を維持することができるであろうか。
えんざい
「百人の真犯人を逃しても、一人の 冤罪 を出してはならない」このような美辞麗句があ
る。冤罪を出してならぬ事は当然だ。我々は何としてもこれを防圧しなくてはならぬ。だ
が、この場合、「百人の真犯人を逃す」事の危険性がどれほどのものであるか、真剣に考慮
されているであろうか。
かって東京都に「ばらまき福祉」で有名になった知事がいた。彼は気も遠くなるような
赤字を残し知事の座を去った。その後を受けた高齢の辣腕知事が、命がけでその赤字を克
せりふ
服したことは、今も記憶に新しい。その「有名知事」が好んだ台詞に、「一人でも反対する
住民がいる間は、橋は架けない」と言うのがあった。民主主義とは価値の多元性の社会で
ある。一つの都市に、橋を架けることに反対する人間が一人もいないなどと言うことは絶
対にない。それなのにこの知事は、日常好んでこの言葉を用い、都民の人気を博した。
「橋の論理」にしろ「冤罪の論理」にしろ、どうして我が国では、このように軽薄な「名
文句」が、軽々しく流行するのであろうか。
しかし冤罪は恐ろしい。何としても防がねばならぬ。死刑に処してしまえば、後で冤罪
ふえん
と分かっても取り返しが付かない。しかしこの論理を極端に敷衍すれば 死刑は絶対に行っ
てはならないことになる。だが、その結果多発する犯罪、そのために失われる罪なき人々
の生命に対しては、どのように対処するのか。
私は、死刑を制度として廃止するのも一つの手法であるとは思う。それも一つの知恵で
ある。だが、それならそれで、死刑が無くとも、秩序を維持できるだけの行刑が工夫され
なくてはならぬ。
現在の懲役制度では、例え無期懲役であっても、十数年も経てば「社会復帰」できる。
中には出獄後に「お礼参り」に行き、告訴した女性を殺害したという例もある。これでは
国民は司法制度を信頼することができず、リンチや仇討ちが復活する危険もある。
私は「終身重労働刑」を制度として作り出してはどうかと思う。8 時間労働は、健全な勤
労者の働く時間としては結構である。しかしこれを、人殺しをした囚人にも及ぼすという
のはどうであろうか。これでは、とても「重労働」と言えたものではない。私は重労働と
は、少なくとも日に 12 時間は働かせるものでなくてはならないと考えている。暖冷房設備
などを備える必要はない。テレビを見せるなど論外である。もともと残虐な手段で人を殺
してきた人間なのだ。重労働に服して、生涯、罪を償い続けるなど当たり前の話である。
十年間、服役態度の良好な者は、労働時間を 8 時間に軽減するというような手段も一つ
の方法であろう。七十を過ぎたような場合は、禁固刑に替えても良いのではないだろうか。
「終身重労働刑」は、絶対に出獄を許すものであってはならない。本来死刑に処せられ
るべきものが生かして頂いているのだ。再び娑婆に出られないなど、当然すぎるほど当然
な話である。暑さ寒さで死なない程度の衣類は与えなければなるまいが、快適な生活環境
を保障してやる必要など全くない。死に勝る苦しみを与えねばならないのだ。
だがこのような私の主張に対して、雨あられのように、人権を名とする抗議が寄せられ
るに違いない。私はここに、我が国、国民の精神的衰弱を見る。
長崎市長を殺した犯人を、6 ヶ月以内に処刑するのが望ましい。しかし現行法制から考え
それは無理である。それならば、前記したような「終身重労働刑」を可及的速やかに確立
することが、今求められているのである。国民精神の強靱性が失われたところに、治安悪
化の本当の原因が潜んでいるのではないだろうか。
平成19年5月23日
平成18年度 大学合格実績
着実に上がる進学実績
60
早稲田大学合格者推移
[合格者数]
狭山ヶ丘通信
35
180
30
160
第27号
25
<特別折り込み号
(1)
>
200
[人]
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp
10
5月26日
(土)14:00 ∼ 16:15
∼ 本校 小講堂 ∼
テーマを「高校進学」として、本校に入学することを勧めると言うより、中学生の
皆さんが高校進学を考える上でご参考になる情報を提供致します。
118人
100
31
81人
80
60
40
5
0
158人
140
20
15
187人 182人
149人
120
狭山ヶ丘高等学校
◇ 高校進学説明会のご案内 ◇
■ 国公立 ■ 早慶上智東理科
■ MARCH
(明治・青山・立教・中央・法政)
■ 日東駒専
10 11
55人 52人
46人
50人
41人
28人
20
0
平成16年度 平成17年度 平成18年度
平成16年度実績
平成17年度実績
平成18年度実績
本校の進学実績はここ数年、飛躍的に伸びてきています。特に、早稲田大学の合格者数は、
今年、30名を越えました。また、MARCH(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)
の合格者数は日東駒専(日本大、東洋大、駒澤大、専修大)の合格者数を上回り、187名に
上りました。「入れる大学ではなく、入りたい大学」にこだわらせる本校の進学指導が実り始
めた証と言えます。
◆内容◆
☆ 高校進学について知っておくべきこと . . . . . . . . . . . . . . . . 教頭
☆ 本校の入学試験について . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 渉外部長
☆『苦労せずに英語の実力をつける方法』. . . . . . . . . . . . . . . . 校長
☆ 開始前1 3 :2 0 頃から、吹奏楽部による定期演奏会の模様をビデオ上映いたします。
☆ ご予約の必要はありません。
ご予約の必要はありません。
〈交通のご案内〉
★当日はスクールバスの運行があります。
(西武新宿線入曽駅東口案内有)
バス運行時間 13:15発 13:30発 13:45発
( 駐車スペースがないため、車での来校はご遠慮ください。)
〈 お問い合わせ先 〉
狭山ヶ丘高等学校
TEL 04-2962-3844(代表)
入試相談コーナーはありません。
※ 7月・9月・11月・12月の各10日の「狭山ケ丘通信」はインターネ
ットの他、折り込み新聞としても配布致します。
※ 毎月、10日と25日にインターネット上で「狭山ケ丘通信」を更新
しております。毎回、多くの方々にお読みいただいております。
是非インターネット上の「狭山ケ丘通信」もご覧下さい。
ひとりで行った入学式
ともあれ私は校長の話に耳を傾けた。眼鏡をかけた校長であった。校長は、くどい
くらい繰り返して「教育は本当に難しいものだ」と語った。少し繰り返しすぎたよう
に思う。私は「そんなこと嘘だあ。一年生に勉強を教えることが難しいわけがあるか。
大人が一年生に勉強を教えるんだから、易しくてたまらないだろう。それを難しい、
狭山ヶ丘高等学校長 小川義男
難しいと何回も言うんだから、この校長先生は変だよなあ。嘘を言っているよなあ。
何でこんな嘘を言うんだろう。」と考えていた。
そのあと、どんな経過を踏んで帰宅したのかは記憶にない。しかし、小学校の一年
18歳、高等学校を卒業すると同時に中学校の英語教師になった。4年の後、大学に進
学したが、学生時代の4年間を除いても51年間教壇に立ち続けたことになる。今も授業
を続けているという点では、この国で私が一番古いのではないだろうか。「戦後教育の
ゆえん
シーラカンス」と呼ばれる所以である。
そんな私にも幼い日はあった。小学校の入学式にひとりで行ったのだから、相当変
わった子どもだったのだろう。
生が、あのような批判性を持って校長の話を聞いていたりするものだということは、
心に銘記しておかなければならないと思う。
また、先輩にくっついてとは言いながら、ひとりで入学式に出かけるとは、私も相
当変わった子どもだったに違いない。「人間に生まれながらの能力差はない」とは、私
の信念だし、狭山ヶ丘高等学校の根本理念ではある。しかし性格や個性となると、生
まれながらの違いというものは、相当色濃く存在しているのではないだろうか。
新しいランドセルを買ってもらってよほど嬉しかったのか、私は家の前でランドセ
私の場合、衆に流されて行動するということはほとんどなかった。人に好かれない
ル姿で遊んでいた。母のいない私には、姉が入学式に同行してくれることになってい
という方でもなかったが、仲間と行動する以外に、私には絶対にひとりで行動すると
たのだが、上級生の子ども達が学校へ行くと言うのを聞いて、私もそれについて行っ
いう側面があった。学校を隠れ休みする時にも、
「不登校仲間」と群れて行動すること
てしまった。
はなかったし、悪さをするときも、絶対に仲間と一緒に行動することはなかった。
姉は周りを見回したが私の姿がない。聞くと上級生達ともう学校に行ってしまった
当時の子どもの悪さの代表としては、農協の鰊カスの「窃盗」がある。鰊カスと言
と言う。それならそれで良いと言うので、姉は学校へ行くのを止めてしまった。姉は
っても、今の方には分かるまい。当時留萌や増毛の浜には、湧く程に鰊が捕れた。と
19歳だった。ひとりで入学式に出かけた私も私だか、
「それなら」と言うのでそのまま
ても食いきれるものではない。そこで鰊を五右衛門釜のような釜で煮て、加圧器で絞
に放置した姉も姉である。今考えてみれば、もの凄い家庭環境に育ったものである。
るのである。そこから魚油が豊富に取れたし、絞りカスは乾燥し、それを円形に整形
学校に行くと白いエプロンを着たお母さん達が多数、受付の仕事をしていた。今な
して乾燥させる。真ん中に子どもが入れる程の穴の空いた、暑さ30センチくらいの固
らPTAの人たちというところであろうか。当時は「国防婦人会」のお母さん達であっ
まり、それが鰊カスである。完全に乾燥しきっている。これを崩して畑の肥料にする
た。お母さん達は、いつも白いエプロンを身につけていた。それが彼女たちの「制服」
と、トマトでもイチゴでも、素晴らしくうまいものが取れた。
だったのかも知れない。
受付のあたりをうろうろしていると、「お母さんは?」と訊かれた。
「母ちゃんは死ん
ところがこの鰊カスが、口いっぱいに含んでかじっていると、もの凄くうまいので
ある。農協に鰊カスが積んであるという情報は、その日のうちに悪童達の耳に入る。
だよ」と答えると、婦人会の人々の間にどよめきが走った。見る間に私は五、六人の
彼らは大挙して農協に出かけ、自慢の「肥後の守」(折りたたみナイフ)で硬い鰊カスを
お母さん達に取り囲まれた。中に事情を知った人がいたらしく、私の母が去年の11月
ほじくり出し、学生服のポケット一杯に詰め込む。大人数で食うのだから、結局農協
に死んだことを告げたらしい。以来半年も経っていないのだから、哀れに思ったのか、
のおじさんに見つかり、ビンタを張られることになる。だが私はそうではなかった。
お母さん達は涙ぐんだ。人の輪の中に取り囲まれながら私は、「俺の母ちゃんが死んだ
私は群れには入らず、積み上げられた鰊カスの裏側からよじ登り、鰊カスの穴の中に
ら、よそのおばさんが泣くのか」と不思議でならず、おばさん達を見上げていた。
入り込んだ。一番底まで入り込み、そこでゆっくりとほじって食うのである。仲間が
入学式も終わり、新入生は教室に行って担任の先生のお話を聞くことになる。しか
おじさんに見つかって叱られている気配を「鰊カスの塔」の中で聞きながら、おじさ
し私だけは、
「小川さんはこっちに来なさいね」と、先生らしい人に手を引かれて、保
んの勤務時間の終わるのを私は待った。身動きできぬくらい鰊カスを詰めたポケット
護者と一緒に校長の話を聞くことになった。私の席は一番前、校長の真ん前である。
を押さえながら、月光の下を帰路についたものである。
保護者向けの話を一年生に聞かせるとは、学校も馬鹿なことをしたものだと今の私は
思う。
振り返って、まことに個性的な、自我の強い子どもであったと思う。生徒達に接し
ながら、そのひとりひとりが、それぞれどのような個性を与えられてこの世に生まれ
てきているのかを考えさせられるのである。
平成19年5月25日
狭山ヶ丘通信
第28号
狭山ヶ丘高等学校
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
特攻隊員は何故死んだのか
校長
小川義男
「君のためにこそ俺は死んで行く」という映画を見た。石原慎太郎氏の創案、作成
になるものだが、意外にさらっとして涼やかな感じの映画であった。見終わった後、
ロビーで語り合っている声を耳にしたが、若い人たちが率直に「良い映画だった」「感
動した」と語っていたのには驚いた。
実は最近、鹿児島へ講演に行った折に、知覧の「特攻追悼記念館」に立ち寄ってき
たのである。特攻隊員の中には十七歳の少年もいたそうである。十七歳といえば高校
二年生だ。自分が直接お預かりしている生徒達の年齢であるだけに、私の思いは複雑
であった。
館長が付き添って詳しく説明してくださったが、毛筆で書かれている立派な遺書は、
みな一週間くらい前に書いたものだそうである。前日になると、どれほど剛胆な人物
したた
でも、丁寧に長い遺書を 認 めることなどできるものではない。前日にはみな、十行程
度の簡潔な遺書を残しているだけなのだそうである。「覚悟の死」を、まざまざと感じ
させられ、身の引き締まる思いがした。
非常時とは言え、私には十七歳の青年を死地に送り込んだ事実には、違和感を禁じ
得なかった。それは私が同年齢の生徒達を預かっている教師だからなのかも知れない。
帰りの車中色々考えたが、はたと思い当たることがあった。当時我が国はアメリカ
との戦争の末期である。この戦争をどのように評価するにせよ、我が国が戦争のまっ
ただ中にあったという事実である。
東京大空襲が行われた。昭和 20 年 3 月 9 日 22:30 警戒警報発令、2 機のB 29 が東京
上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、都民が安心した 10 日 00:08 に第一弾が
投下された。東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らな
じゅうたんばくげき
い。00:15 空襲警報発令、それから約二時間半にわたって波状 絨毯爆撃 が行われた。
各機平均 6 トン以上の焼夷弾を搭載した 344 機の B29 の大群が、房総半島沖合から単
機または数機に分散して低高度で東京の下町に浸入した。B29 の先発部隊が江東区・
墨田区・台東区にまたがる 40 k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁
を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。その後から約 100 万発(2,000 ト
ン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、
逃げ惑う市民には超低空の B29 から機銃掃射が浴びせられた。折から風速 30m の強風
が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、火の玉のような火の粉が舞い踊り、強風に
捲かれた炎が川面を舐めるように駆け抜け、直接戦争とは関係の無い一般市民は次第
に迫ってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化す
まで焼き尽くされた。
これが東京大空襲の真実である。ハーグ条約は非戦闘員に対する攻撃を禁じている
が、予め退路を遮断した後に爆撃を加えるなどは、残虐といわれる近代戦争にもその
例を見ないものである。
サイパン島は 1944 年 7いさぎよ
月 9 日、日本軍全滅の後、アメリカ軍に占領された。その際、
米兵に辱められることを 潔 しとせず、多くの日本人女性が崖の上から身を投じた。
その場所は今も「万歳クリフ」という地名として残っている。翌年(昭和 20 年)2 月に
硫黄島が、栗林中将以下の将兵の徹底抵抗、全滅という激戦の末占領された。敗れれ
ばここを基地にして同胞への爆撃が行われることを熟知する彼らは、最後の一兵まで
戦ったのである。事実米軍は、ここを基地に東京大空襲を行った。
8 月 6 日、広島、次いで 9 日長崎に原爆が投下された。
その残虐さを、最前線の兵士達は、つぶさに耳にしていたに違いない。自分たちの
同胞が米軍の手によって灼かれ殺され辱められようとしている。兵士達がそう自覚し
たとしても、決して無理なことではあるまい。そのような危機意識の中で、若者達は
愛する者を守るという強い使命感を抱いて死地に赴いたのではあるまいか。
展示を見て回っているうちに、私は驚くべき事実を知った。その中のある中佐は、
特攻出撃の日に二十九歳であった。彼は中隊長である。隊長であるから彼は部下を特
攻隊員として死地に送り込まなくてはならない。出撃者を見送る度に彼は、「俺も必ず
後で行くから」と語ったそうである。
しかし彼は飛行機を操縦することができない。そこで、複座戦闘機の後ろに乗って
出撃することを嘆願したが許されない。三度目は血書を認めて嘆願したがやはり駄目
である。さりとて簡単に操縦技術を身につけられるものではない。そこで彼は猛勉強
の末、モールス通信の技術を習得した。そして通信兵としてパイロットの後ろに乗り
特攻出撃したのである。
彼は中隊長であるから、事前に家族に会うことができたのかも知れない。彼は死の
決意を若妻に語った。その妻は夫の覚悟を知ると、三歳と五歳の子と一緒に 1 月の荒
川に身を投じて、夫の出撃の前に自ら命を絶った。その遺書には「私たちはひと足お
先に行って、あの世でお待ちしております。ですからあなたは、後のことは一切気に
せずにお役目を果たしてください」とあったと言う。出撃を明日に控えての、亡くな
った幼子二人と妻への遺書も読ませてもらったが、私にとっては衝撃的な体験であっ
た。
まとめ
司令官であった板垣 纏 中将も特攻出撃している。もうひとりの司令官大西滝次郎中
将は、敗戦を知ると同時に官邸で割腹自殺している。「若者多数を殺した俺には、楽に
死ぬ資格はない」と言い残し、介錯を拒否して、苦闘六時間の末、血の海の中で絶命
したと言う。
特攻隊に関し、六十年後の今日、様々な見方があることであろう。それぞれ尊い意
見であろうが、戦争という限界的緊張状態の中で、愛する者達を守ろうとする自覚の
中に、あえて死を選んだ数千の人々があったことを忘れてはならないと思うのである。
平成19年6月10日
狭山ヶ丘通信
第29号
狭山ヶ丘高等学校
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
「川の国埼玉」に寄せる思い
校長
小川義男
「彩の国」という言葉は好きになれない。どこかしら無理をした感じがあり、我が埼玉
との関わりも薄く、何となく好きになれないのである。
上田知事は、埼玉県を「川の国」と位置づけることにしたようである。全県の面積の二
割近くを川が占めていると言う。この川の存在と、その美しさに着目して、これからの県
政を進めようというのだから、政治家の発想としては異例なくらい優美である。彼の今後
の活躍に期待したい。
パリを訪れたとき、私の何よりの楽しみは、セーヌ川のほとりを散歩することである。
ロンドンではテムズ川だ。橋のたもとのあたり、橋を下から見上げる川岸には、無数の画
家がたむろしていて、絵を売ったり、似顔絵を描いたりしている。
その昔、人類の交通手段は海と川であった。北海道の漁村を訪れたりすると、陸上交通
の全くなかった地域に集落が発達している。彼らは海からやってきた人々なのだ。鉄道や
道路は、後からできたものなのである。
フランスやイギリスでも、これは同じである。我が国の江戸川、隅田川も、かっては交
通の重要な手段であった。だがイギリスやフランスと日本との間には大きな違いがある。
イギリス、フランスでは、川を最大限に活用し、川を表玄関とするような形で町並みが形
成されている。その岸辺は、イギリス、フランスの、特筆すべき美しい場所と言えるので
はあるまいか。
だが我が国の場合、川はやむを得ず利用はしたが、それは裏口として、「台所」として
位置づけられたに過ぎない 。「表座敷」は川に瀬を向ける形で形成された。海と川を美し
く取り組むことに失敗した都市は、その都市本来が獲得すべきであった優美さを失う。今
や東京湾は、どす黒く汚れた運河であり、東京湾と言われて、直ちにヘドロを連想する人
も、少なくないのではあるまいか。
「美しい日本」、それは、理念的な面での美しさも大切ではあろうが、見た目の美しさ
も見落してはならない。何しろ子ども達は、そこで育つのだから、環境を美しく保ってや
ることが大切なのである。
埼玉県は美しい「国」である。私は昭和四十五年に埼玉に住み着いた。以来四十年にな
る。途中東京に転出した時期も少しあるが、埼玉が人生で最も長く定住した地域というこ
とに変わりはない。その埼玉の川を、美しく保つことに政策の重点を置くと知事が言うの
だから、それは、埼玉の明日に新しい希望を芽生えさせるものだと言えよう。
北海道で、川を、ためらう色もなく汚染した物は炭坑であった。炭坑は石炭を水で洗う。
どの炭坑にも「選炭機」という工場があった。厖大な設備を持った工場である。ベルトコ
ンベアーを挟んで、それぞれ向かい合う形で娘さん達が並ぶ。石炭は地中から掘り出して
ばん
くるものだから、中には「磐」と言って、燃えない石も混じっている。これを取り除くの
である。娘さん達は、軍手をして磐が来ると、これを取り除き、後ろの穴に投げ込む。穴
と言っても長方形の、コンベアに平行したとてつもなく長い穴である。下には特殊な貨車
が列を成して待っている。一杯になると、列車は機関車に曳かれて行って、最後はズリ山
に捨てられる。
選び残った良質の石炭は、コンベアの行き着く先に待っている貨車に落し込まれる。そ
してどういうものか、この石炭は水洗いされるらしいのである。水洗いされてピカピカに
光る石炭は、良質の炭として、高価に売られる。何故あんなに経費をかけてまで洗炭する
のかは、今も分からない。薄汚れていたのでは売れ具合が悪くなったのかも知れない。
さて石炭を川の水で洗い、それをそのまま川に戻すのだから、当然川は真っ黒になる。
「夕
張川」など、その名はまことに美しいが、水は真っ黒である。周辺の景色が美しいだけに、
川を見る度に「少年」の心は傷ついた。
川は真っ黒いものだと思いこんでいた小学校一年生の頃、大人達が川でエビをすくって
いるのを見た。バケツの中を覗くと、無数のエビが入っている。そのエビが、はっとする
ほど透明で美しいのに驚いた 。
「あんな真っ黒な川に、こんなにきれいなエビが住んでい
るのか」私には驚きだったのである。
らいじょうがわ
北海道芦別に住んでいた頃、裏を頼 城 川と呼ぶ川が流れていた。岩だらけの川で、背
も立たぬところがあるくらい深い所もあった。遊ぶには最適であった。高校一年生の私は、
日曜になると必ず頼城川に下りて行き、そこで泳いだ。完全に泳げるようになったのは、
この川でである。学校にプールがあるなどという時代ではなかった。水は深く、美しく澄
み、泳ぎながら喉が渇いてくると、そのままがぶりと飲み込めばよいというような水であ
った。
ところが川上の頼城炭坑に選炭機ができた。数週間も経たぬうちに、頼城川は炭で真っ
黒い川になった。勿論、泳ぎに来る子どもの影も完全に途絶えた。私は弁論大会に夢中な
時期だったので
、この川べりで演説の練習をしたが、誰も来ないから好都合とは言う物の、
わび
何とも侘しい思いがしたものである。
公害などという言葉を、人々が思いつくような時代ではなかった。石炭に重点投資をし
て、国家財政を立て直そうという「傾斜生産」の時代だったから、それも仕方のないこと
だったのかも知れない。
狭山ヶ丘高校の西側を流れる不老川は、全国的にも有名な汚染河川だそうである。エビ
はいないが、鴨がやってきて水中の餌をつついている。真っ黒いわけではない。だがこの
水が、化学的にどれほど危険なものであるかを思えば、岸辺に咲く花々に対して、申し訳
ない思いがするのである。
セーヌもテムズも、政治の努力で、エビが住めるような川に変わりつつある。我が国の
政治家に、私は是非川を美しく保つことに力点を置いて頂きたい。川の浄化は私の年来の
願いであり、折あるごとに身辺の政治家にお願いをし続けてきた。しかるに今度は上田知
事が、川を美しく保つことを重点に県政を進めるという。心強い。「川一つ美しく保てず
に、何の政治か」これは中央政府に対する多年にわたる私の不信であるが、
「川の国埼玉」
を日本一美しい県にするため、知事のご健闘に期待するのである。
平成19年6月25日
狭山ヶ丘通信
第30号
狭山ヶ丘高等学校
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
拙速に過ぎる安倍内閣の文教政策
校長
小川義男
参議院選挙も近いので、政治的な話題はできるだけ控えたい。
但し強調して置きたいが、私立学校の教師や校長が政治的見解を述べてならないので
はない。一部に、校長は政治的発言を控えるべきだとの考えもあるようだが、それは法
的根拠もなく、不当に校長あるいは教員の参政権を抑制しようとするものである。確か
に公職選挙法は、教員たる地位を、選挙目的に利用することを禁止しているが、それは
生徒や保護者を選挙目的に動員したり、学校で特定候補者支持の文書を配布したりする
ことを指すのである。校長が政治的話題で見解を述べる事を、一般的に禁じるものでは
決してない。デモクラシー国家体制において、表現の自由は「瞳のように」守られなく
てはならないのである。
孫子は「兵は拙速を聞く」と述べている。戦争の際には果断な措置こそ望まれるので
あって、のんびり小田原評定を繰り返していたのでは戦機を逸してしまう。拙速のそし
りを招こうとも、敏速果敢に戦闘態勢を展開しなくてはならないという意味である。
政治においても拙速を恐れていては、変化する情勢に対処することができない。今日
の教育荒廃は、尋常な荒廃ではないのだから、次々に石を打ち続けて行かねばならない。
安倍内閣が、この課題に誠実に取り組もうとしている事実は否定できない。しかしそれ
にしても、打ち出してくる「改革案」が、拙速に過ぎるのである。
政府の「教育再生会議」は、生徒の学力低下に対処するために、授業時数を一割程度
増やすと言っている。しかし、その時間を、どのようにして捻出すると言うのか。既に
公立学校は完全5日制を実施している。土曜の4時間が減らされたわけだから、以前に
比べて、年間では 140 時間が少なくなったことになる。
さらにこの少なくなった授業時数に、
「総合学習」が食い込んでくる。3,4 年について 105
時間 5,6 年について 110 時間である。だから 5,6 年では 250 時間、3,4 年では 245 時間
が「普通の授業」から削減されてしまったことになる。ちなみに、小学校6年の国語の
授業時数は 175 時間である。算数は 150 時間だ。仮に学校5日制で失われた 140 時間と
「総合学習」の時間 110 時間、計 250 時間を、半分ずつ国語、算数に分けて投入すれば、
6年生の国語は 295 時間、算数は
275 時間の授業を行えることになる。現行学習指導要
は な
領で学力が低下することは当初から分かり切ったことだったのである。
しかるに「再生会議」は 、「総合学習」にも手を触れず、学校5日制はそのままにし
て、授業時数を一割程度増やすと言う。この人々は、時間を生み出す「キリシタン、デ
ウスの魔法」(北原白秋 「邪宗門」より)でも心得ていると言うのか。
結局夏休みを短縮したり、日々の学校生活からゆとりを奪うような形で「改革」が進
められることになる 。「ゆとりを生み出すために、学校生活からゆとりを奪う」これで
は、落語にもなるまい。
「駄目教師」を追放するため、教員免許状を更新制にすると言う。これは既に立法化
が進んでいる模様である。駄目教師は追放しなければならない。しかし、そのためどう
して免許状を更新制にしなければならないのか。地方公務員法には、懲戒免職、分限免
職という制度がはっきりと設けられている。
懲戒免職とは、犯罪その他職責を辱めるような非行があったときに用いられるもので
ある。免職だけでなく、戒告、停職その他幾つかの段階がある。
分限免職とは、非行ではないが、心身の故障その他の事情のため、到底その職責を果
たせないと考えられる場合に適用される解職である 。「駄目教師」に何故これらを適用
しないのか。
その理由は簡単である。労使紛争を生ずるからである。教職員組合が、理不尽な抵抗
闘争を組んでくる場合も考えられる。それで良いではないか。教育委員会は、労使交渉
において、あるいは法廷において徹底的に争えばよいのである。
ちゅうちょ
だが教育委員会も校長も、この紛争を戦い抜くことを躊 躇する。紛争を免れたいとの
気持ちから、北海道教育委員会のように、教職員組合と、耳を疑うような合意事項を協
定する場合もある。これを一言に尽くせば、事なかれ主義である。我が身さえ無事平穏
に時を過ごすことができれば、国民や子どもの幸せなど二の次だとするような利己主義
が、その根底に潜んでいる。
安倍内閣が先ず何よりも先に克服しなければならないのは、このような事なかれ主義
ではないのか。免許更新制は、このような組合や駄目教師との衝突を回避して、何かあ
うろ
まり揉めずに解決する抜け道はないかと模索した迂路にほかならない。
私は昭和 26 年以来教壇に立ち続けている教師である。その私も、10 年を経るごとに
免許を更新しなければならないというのか。総理は教員免許状と運転免許を混同してい
るのではないのか。
更に問う。医師免許は更新しなくとも良いのか。医術は日進月歩する。最近ではその
進歩の速度は、特に急激である。また問う。一級建築士免許こそ、更新しなければなら
ない筆頭ではないのか。かくして世の中の免許という免許すべてが更新されなければな
らないことになる。それはおかしい。一旦医師や建築士のような高級資格を取得した人
々は、必ずその資格に相応しい研修を続け、時代に遅れないよう努力している筈なので
ある。教員も同じである。弁護士もそうだ。
安倍内閣の教育改革は拙速に過ぎる。これでは私も又、この内閣を守るために参議院
選を戦うというよりは、このあたりで内閣を変えた方がよいのではないかとの気持ちに
なったりもするのである。
平成19年7月10日
★ 教科別学習法ガイダンスでは・・・
英語学習法ガイダンス!
狭山ヶ丘通信
第31号
<特別折り込み号
(2)
>
狭山ヶ丘高等学校
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp
狭山ヶ丘通信はインターネット上で、毎月10日と25日に更新しております。
是非、29号(6/10)、30号(6/25)などもお読みください。
英語は苦労せずに実力をつけることができます。いや、苦労しては実力がつかないので
す。そんな方法が本当にあるのでしょうか。それを本校校長小川義男が、楽しく面白く説
明します。担当者が校長ですから、入試に関するきわどい話が飛び出してくることもあり
ます。彼はどんなに力のない人でも2ヶ月あれば狭山ヶ丘に合格させることができると確
信しているのです。さてその秘法とは、苦労せずに英語で抜群の力をつける方法とは、是
非そのコツをこのガイダンスでつかみ取ってください。
国語学習法ガイダンス!
国語の入試対策はしていますか。英語・数学にはかなり自信がある人も多いと思います
が、国語となると……という声をよく耳にします。国語の勉強は“意識改革”することか
らすべてが始まります。しかも国語は「すべての教科の土台」です。実は国語の読解力が
英語力向上にも繋がるのです。その詳細はガイダンスの時に「こっそり」伝授いたします。
数学学習法ガイダンス!
図のように、AB=AC, AD//BC, BC=BD,
学校見学説明会では本校の教育方針を説明致します。また、説明会の後、教科別学習法ガ
イダンスと個別相談会も行います。学習法ガイダンスでは、英語・数学・国語の効果的な学
習法のアドバイスを行います。英語は校長自らが短期間に英語の力を伸ばす学習法を説明し
ます。受験勉強で悩みのある生徒の皆さんはぜひ参加してください。
個別相談では、本校の推薦受験についての相談はもちろん、受験についての様々な相談を
お受けします。個別相談を希望する方は、相談の参考になるような資料をお持ち頂ければ、
なお詳しくお話し致します。狭山ヶ丘高校を知る良い機会になります。ぜひ、ご参加ください。
多く方のご来校を心よりお待ち申し上げております。
∠BAC=90゜のとき
∠ABDの大きさを求めなさい。
D
A
X°
B
C
※8/25(土)、解答&解説をします。
◇ 本年度の学校見学説明会日程 ◇10:00∼11:30
★ 予約の必要はありません。上履きも必要ありません。
★ 学校説明会後、入試個別相談も行います。
受験生の良い面をアピールできる資料などがあればご持参ください。
★ 教科別学習法(英・国・数)ガイダンスがあります。
★ 校内外の見学は、自由にできます。
★ スクールバスを運行いたします。西武新宿線入曽駅東口下車( 9:00 9:15 9:30 9:45 )
※ 駐車スペースがありません。車での来校はご遠慮ください。
(お問い合わせ先)
狭山ヶ丘高等学校
〒358-0011
埼玉県入間市下藤沢981
TEL 04-2962-3844(代表)
www.sayamagaoka-h.ed.jp
ご予約の必要はありません。
入試相談コーナーがあります。
※次号(9/10)の特別折り込み号(3)は新聞休刊日のため、9月11日(火)に発行致します。
初めての喧嘩
ところが、翌日は学校に行かなければならない。昨日は「サプライズアタッ
ク」で勝利しただけであって、大滝君は、私が互角に戦える相手ではない。怯
えながら学校に向かった。幸い大滝君には会わずに登校することができた。も
狭山ヶ丘高等学校長 小川義男
しかすると、少し早めに登校していたのかも知れない。
だが、授業が終われば学校からは、帰らなければならない。その時刻は遂に
生来おとなしい性格だと思うのだが、人と争ったことがないわけではない。
今日は、私の記憶に残る一番古い喧嘩の記憶に触れたいと思う。
相手は大滝君という二年生。私は一年生であった。古い記憶だから前後の脈
絡は分からない。斜面の上に建てられた炭坑長屋の前庭でのことである。前庭
と言っても、別段広い庭があるわけではない。その少し向こうは急峻な崖であ
来た。私は、「今日は大滝君にやっつけられる」と思った。学校は坂道を下っ
ていった所にあった。怯えきった私は、その坂道の崖下にある草むらを通るコ
ースを選択した。坂の上の方を振り返り、振り返り歩いていったのだが、何度
か振り返るうち、大滝君の姿が、そこに現れた。彼も私を認めた。
何と彼は、雑草の生えた崖を斜めに駆け下り、私の方に走って来るではない
る。落ちると困るので、簡単な垣根がしつらえられてあった。その狭い場所に、
か。あのときの恐怖を私は今も覚えている。とっさに私は、草の根本に露出し
茣蓙を広げて大滝君と三人くらいの女の子が遊んでいた。私もそれに加わる形
ている手頃の石を拾い身構えた。
で茣蓙の上に座っていた。
大滝君は生来我が儘な子のようであった。いつも無理を言って女の子や小さ
な子を泣かせていた。その時も大滝君は、幼い私の判断では絶対に許すことの
できない我が儘な言動を取っていたらしいのである。二年生だし背も高く体力
もある。とても戦って勝てる相手ではない。しかし、その内容、理由は覚えて
いないのだが、「これは許せない」と全身の血がたぎり立った。
実はその時、大滝君の頬の右下には、大きな「おでき」ができていた。それ
ところが何と大滝君は、いきなり「義男ちゃん、昨日ごめんな。俺悪かった
んだ。」と謝ったのである。私は後ろ手に隠した石を、大滝君に分からないよ
うに苦労して捨てた。
「感情は力関係に従属する。」長く人生を生きてきて掴んだ私の実感である
が、その萌芽はこのときの体験に起因しているのかも知れない。
その後も、いろいろな場面で葛藤に直面せざるを得なかったが、私は、大滝
君との人生初めての喧嘩で、幾つかのことを学んだように思う。
が治りかかり、厚みのある、直径5センチくらいのかさぶたになっていた。北
ひとつとして私は、己自身が不利益に扱われたというようなケースでは、滅
海道では、これをガンベと言う。アイヌ語なのか、北海道で発生した方言なの
多に憤慨しないことを知った。これが個性というものであろう。他人が理不尽
かは分からない。
に扱われたときにのみ、著しい憤慨を覚えるという、この個性は、果たして良
私の怒りは頂点に達した。「こいつは絶対に許せない」強くそう感じた。そ
いものなのかどうか、それは今も分からない。
の瞬間、私の右手は大滝君の大きな「ガンベ」を、かきむしった。大きなかさ
今ひとつ、「感情は力関係に従属する。」ということを、私は人生の様々な場
ぶたが取れ、そこから血が流れ出た。「大変なことをした。」そう感じつつ、幼
面で体験した。葛藤では、負けないことが大切なのであって、勝利した後、相
いながら私は格闘に入る態勢を取った。
手と感情的にまずくなると言うようなことは心配する必要がない。これは私の
ところが何と大滝君は、「カアチャアン」と泣きながら自分の家に駆け込ん
個性と言うよりは、何人も否定できない人生の真理なのではないだろうか。
だのである。大変なことをしでかしたのだから、私も家に帰り、父にその顛末
「人間に生まれながらの能力差はない」これは私の、現場実践に裏づけられ
を報告した。炭坑は三交代の制度になっていたから、非番の父は家にいたので
た信念であるが、個性となるとそうはいかない。どうも人間は、生まれながら
ある。「良くやった。これからもその調子で頑張れ」それが父の言葉であった。
に様々に異なる個性を持って、この世に送り出されてきているものらしいので
なんともはや、荒っぽい家庭教育もあったものである。
ある。
私は、あの強い大滝君が、私の「攻撃」に屈したことに驚いた。その驚きは、
その後の私の人生に、大きな影響を及ぼしたのではないかと思う。
それぞれが、いかなる先天的個性を持つ存在であるのか、そのあたりを深く
理解することから出発しなければならないと思うのである。
平成19年7月25日
狭山ヶ丘通信
第32号
狭山ヶ丘高等学校
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
盆踊りへの郷愁
校長
小川義男
北海道の盆踊りは、八月の二十日まで続いた。いつから始まったのか記憶がはっきり
しないが、十日を超える長い期間だったように思う。見よう見まねで私も太鼓を叩いた。
今でも可成り上手に叩けるのではないかと思う。
村人のほとんどが、小学校の校庭にしつらえられた櫓の周りに集まった。病人以外は
ほとんどが出てきていた。娘達はみな美しい浴衣姿で、うちわ片手に現れた。農事を終
えた若者も、思い思いの衣裳で踊りの列に加わった。踊り手と見物人は適宜入れ替わっ
た。見物だけしている人もいたようである。踊り手はどういうものか、見物衆に踊りの
群れに入ってもらいたいらしい。それは、次のような北海盆歌の一節にも表れている。
踊り見に来て アドシタドシタ 踊らぬコラ奴はよ
豚になああ 豚に蹴られてこりゃあ
あれさなあ 死んでしまえよ
そして文句が終わるごとに、
エンヤーコラヤット ドッコイジャンジャ コラヤット
はばか
オシテコイオシテコイ と囃しが続くのである。中には紹介を憚るような元気なセリフ
もあった。まことに力強く勇壮な雰囲気であった。そのリズムの中に、ひとりひとりが
発する絶妙な野次、アドリブが加わった。内容の面白さに群衆は爆笑した。アドリブを
発した者も満足した。
太鼓を叩く若衆の中で、娘達に人気のある男は、娘達が提供した女物の浴衣を着てい
た。私もひそかに、彼らを羨ましく思ったものである。
北海盆歌のほかにソーラン節も加わった。八木節にも比肩できるほど力強いこのソー
ラン節は、北海道の盆踊りに一段と色彩を加えた。
ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン
男度胸なら 五尺の身体
どんと乗り出せ はあ波の上
ホイ
ヤサエー エーヤーンサノ ドッコイショ
アー ドッコイショ ドッコシイョ
ソーラン
ソーラン
ハイハイ
その雰囲気は北海道の大自然そのもの、野卑、勇壮、素朴、荒々しさ、実に何とも言え
ないものであった。
今私が住んでいる地域でも盆踊りは行われている。しかし参加者が何とも少ない。大
人の楽しみのためというよりは、子ども達のために盆踊りを維持しているというのが本
当のところであろう。
昔盆や祭りが盛んであったのにはわけがある。当時農村では人口の八割が農民であっ
はんげ
た。農民の労働は厳しかった。土曜、日曜なども厳しい労働が続いた。夏に半夏と言っ
て午後だけ仕事の休みの日が年に一回あった。半日だけの休みとは言っても青年たちに
とっては大きな喜びである。近くの街に遊びに行く人もいたが、大抵は私が勤めていた
中学校にやってきて、卓球を楽しんだり、ソフトボールをしたりした。その後は、結局
教員住宅に流れ込んできて、三室しかない住宅が若者で一杯になったものである。
だが盆と祭りだけは、休みが三日間あった。旨い物もふんだんに食べられる。考えて
みれば、盆、正月、祭りが、あれほどに活況を呈したのは、それ以外の日が、労働の厳
しさと生活の貧しさの連続だったからかも知れない。
今は日曜どころか週休二日の時代である。それ以外にも祝日その他休みの日がふんだ
んにある。生活が苦しいと色々言うが、それぞれの家庭は、相当豊かな食事を取ってい
る。年中が祭りのような生活だから、本当の祭りや盆がやってきたときにも、昔のよう
に嬉しくはない。盆踊りも、ついつい廃れていってしまいがちなのである。
この日々の生活の快適さ、毎日の食事の豊かさが続く限り、人々はそれぞれの毎日を
楽しく生きるのであって、別に盆や祭りなどを楽しみにしなくとも良くなってしまった。
こうなると盆踊りの衰退も、一概に嘆くべきものではないのかも知れぬ。世の中の変
化に伴い、文化も慣習もそれに伴って変わっていく。それを淋しく感じるのは 、「自分
も昔を懐かしむ老人の世代に入っているからなのかなあ」と考えさせられてしまう。
それにしても、不夜城のごとき都会の明るさに接していると、豊かできらびやかでは
あるが、そんな中で人類は、この先も生き続けられるのだろうかとつい考えてしまう。
豊かさは良いことに違いないが、比べてみれば、貧しく苦しかった私たちの青年時代、
盆踊りに踊り狂ったあの頃の方が、何となく本物に近かったように思われてならないの
である。
平成19年8月10日
狭山ヶ丘通信
第33号
狭山ヶ丘高等学校
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「北方綴り方」の衰退に思う
校長
雪がコンコン降る
人間は その下で
小川義男
暮らしているのです。
文集「山びこ学校」の巻頭を飾る詩である。次のような作品もある。
あの汽笛 田んぼに聞こえただろう
もう あばが 帰るよ
八重蔵 泣くなよ
父と兄が 山から帰ってきて
「ああ疲れた」と言いながら
囲炉裏に
どたりと足を投げ出すと 夜です。
「山びこ学校」が出版された当時、私は 19 歳の中学校英語教師であった。山形県山本
村の中学生達の作品の、珠玉のような美しさは、当時の私にとり衝撃であった。
それ以前にも、我が国の東北地方や北海道を中心に「北方綴り方運動」が盛んであっ
た。国分一太郎氏や東井義雄氏など、多くの指導者がいた。私の若かった頃は、今井誉
次郎氏が中心になって「日本作文の会」が結成され、
「綴り方運動」が隆盛を極めていた。
印刷するにも、パソコンはおろか、便利な装置が全くなかった時代である。若い方に
は想像もつくまいが、当時はガリ版、あるいはヤスリと呼ばれる鉄製の下敷きの上に「ロ
ー原紙」を載せ、その上で作文の原稿を、そのまま鉄筆で書き込んで行ったのである。
「原
紙を切る」
「ガリを切る」などという言葉が用いられた。その「切り終わった」原紙を「謄
写版」に貼り付け、表側から、油インクを塗りつけたローラーを手で転がして印刷する
のである。テストも同様にして作った。当時の教師達の中指には「鉄筆だこ」ができて
いたものである。一枚切り終わるのに 90 分くらいかかった。そのようにして文集が作ら
れていったのである。私の手にも、まだこの鉄筆だこが残っている。
今はパソコンで文集など、まことに手軽に作れる時代である。だが我が国の子ども達
の間で、作文運動にかっての勢いはない。都会の子ども達は文章が書けなくなってしま
ったのであろうか。
いや決してそんなことはない。今の都会の子ども達だって、北方綴り方に勝るとも劣
らぬ文章を書いているはずなのである。それが何故今日のように世の中から評価される
ことがなくなってしまったのだろうか。
昔我が国には地主制度が残っていた。農民は取り入れの頃に、高額の地代を地主に払
わなければならなかった。肥料代、農機具代等の借財もある。だから農民は、その日の
糧にも窮するくらいに貧しかった。六年生が終わると、遊興の巷に身売りさせられるよ
うなケースも珍しくはなかった。地主に地代を払って耕作する農民を小作と言った。小
作は例外なく貧しかったのである。
その貧しい農家に育つ子ども達の作文には、生活の苦しさを率直に描いたものも少な
くなかった。ところが、その子ども達の作品を評価、鑑賞する人々は、実は都会に住む
人たちだったのである。
また北方綴り方に登場する子ども達の作品は、すべてその地域特有の方言で書かれて
いた。都会に住み、その生活も農民とは比べものにならないほど豊かな人々が、北方綴
り方を評価したのである。
都会人の多くも、かっては農村の出身者であったから、田舎に対する郷愁はひと通り
のものではなかった。また田舎の貧しさに対する、都市居住者の後ろめたさもあったに
違いない。文集に登場する貧しさや方言は、この後ろめたさやノスタルジーを、いやが
上にも強めたのではないだろうか。
方言 貧しさ 文化のローカリティー、こう言ったものに対する都会人の後ろめたさ
と郷愁が、北方綴り方に対する評価を、その実存以上に高めてしまっていたのではない
かと私は思う。ある意味で北方綴り方への過度の評価は、ひとつの虚構であったとすら
私は思うのである。
前記した、「八重蔵の詩」についても、田んぼ 汽笛 あば 八重蔵などという方言や
文化のローカリティーを捨象したら、この詩に、果たしてどれだけの魅力が残るであろ
うか。
かって隆盛を極めた北方綴り方運動ではあるが、これに対する過度の高い評価に、私
は都会人特有の奢り、傲慢さが働いていたと思うのである。
現在都会に住む子ども達だって、その生きる日々に様々な悩みを抱えている。生きる
喜びや感動だって、昔の子ども達に比べ決して劣るものではない。その意味で我々は、
子ども達の作文の隠れた素晴らしさを見落としてはならないと思うのである。
本校の生徒達の文章にも、はっと驚くほど素晴らしいものがある。いずれ私はこれを
一冊の本として出版したいと考えている。
国分一太郎先生には、学生時代に一度だけお目に掛かったことがある。彼はあの頃四
十代だったであろうか。まことに魅力的な方であった。一度お訪ねしたいと思いつつも、
その機もないまま時を過ごし、先生は少し前に亡くなられた。もし生きておられたら先
生は、最近の「綴り方運動」の衰退をどのようにご覧になるであろうか。我々は今、改
めて温かいまなざしを、次の世代たちの文章に向けなくてはならないと思うのである。
平成19年8月25日
狭山ヶ丘通信
第34号
狭山ヶ丘高等学校
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朝鮮人の思いで(1)
校長
小川義男
アメリカとの戦争が終わったのは 1945 年 8 月 15 日のことである。私は当時旧制中学
の一年生であった。この頃に私は大変な失敗をやらかした。
授業も終わり帰宅すべく私は駅に向かっていた。沼田という親友と一緒である。沼田
は、後年小樽商科大学で数学の教授を務めた。学校一番の秀才であった。二人ともまだ
背も小さく幼かったから、悪戯をしながら下校することが多かった。
ちょうど雨上がりで、道路の諸所に水たまりができている。舗装道路などというもの
は身近には存在しなかった時代である。大きな石を拾い、それを水たまりにぶち込んで、
その飛沫を相手に浴びせかけようとする他愛もない遊びである。互いに飛沫を浴びない
ように用心し、素早く体を交わす、そんないたずらであった。
何度か飛沫を浴びせられた私は、眼前にひときわ大きな石を発見した 。「これなら沼
田をびしょ濡れにしてやれる 。」そう思った私は、素早くそれを拾い上げ、ざんぶとば
かり水たまりに投げ込んだ。ところがその飛沫を、肩のあたりまで、したたかに浴びた
のは、朝鮮人の紳士だったのである。
真っ白な背広を着ていた。当時日本人でそんな高級な服を着ている人はいない。それ
に長髪である。頭がポマードで塗り固められている。その頃日本人は例外なしに丸坊主
であった。だから一目で朝鮮人だと感じたのである。
敗戦と共に「勝利者」の立場に立った朝鮮人については、様々な噂が流れていた。肉
屋に行列を作っていたら、朝鮮の青年がオートバイでやってきて、行列など無視して、
あらかた肉を買い占めていったという事実は私の姉が確認している。姉は盲腸で入院し
ているときに、その朝鮮人の青年と親しくしていたのである。
「朝鮮人は怖い 」、そんな思いが私の心に、いつしか形成されていた。それにしても
大変なことをやらかしたものである。心臓が凍るというのはこんな時だろう 。「ごめん
なさい。僕がきれいに拭きます」そんな言葉を口走ったのではないだろうか。当然何発
も殴られると覚悟した。
その朝鮮人の紳士は、勿論怒り心頭に発したようではあるが、決してつかまえたり、
殴ったりはしなかった。朝鮮なまりのある日本語で 、「駄目でないか。学校先生、こん
なことをやれと教えたか 。」それが彼の怒りの表現であった。幾度も幾度も平謝りに謝
ったが、彼は後ろを振り向くこともなく、すたすたと私達を離れていった。
あの方はどういう方であったのだろう。私より二十くらい年上であったろうから、今
生きておられる筈はない。あんな悪さをされて、あのように抑制すると言うことは、並
わざ
の人間にできる技ではない。相当教養のある、地位も高い方だったのかも知れない。改
めてお会いしたかったと思うが、勿論果たせる夢ではない。
1910 年(明治 43)年、いわゆる日韓併合以来、朝鮮は日本に編入された。当時朝鮮、台
湾、南樺太、マーシャル群島、千島列島は日本の領土となっていた。だから朝鮮人は日
本国民だったのである。
しかし、一つの国が他の国に併合されると言うことは、様々に困難な問題を孕むこと
になる。日本の支配に服することをめぐって、朝鮮人には様々な思いがあったであろう。
学校では、民族的差別意識を持ってはならないことが、繰り返し指導されたが、やは
り小学生の間にあっても、朝鮮人の子どもに対する感覚には、独特なものがあったよう
に思う。
但し私は、そのような差別意識を全く持っていなかった。かえって朝鮮人の子どもに
意地悪されたこともあるくらいである。総じて子ども同士は仲良くおおらかであった。
近所に S 君という朝鮮人の子がいた。お父さんは「雑品屋」と言って、今で言う廃品
回収業のような仕事をやっていた。金持ちである。
あるとき S 君と私は、親切な馬車追いのおじさんに馬車に乗せてもらって下校した。
遠くに「サッポロミルク」という看板が掲げられていた。ところが「サ」の字だけ落ち
て取れてしまっている。カタカナをようやく覚え終わった頃の私は、その看板を「ツポ
ロミ」と拾い読みした。滑らかに読めないわけではないが、その時の私は、何気なくそ
れを一文字ずつ区切って拾い読みをしたかったのである。ところがそれを S 君は聞いて
いた。彼は、私が拾い読みしかできないとでも思ったのであろうか 。「 『 ツポロミ 』 でな
いか」と早口で読み、私を批判したのである。
子供心にもやりきれない思いがした 。「これだから朝鮮人は嫌だ」とも思った。しか
し S 君は家が一番近い通学仲間だったし、その後も仲良く通学した。小学校の一年生の
一学期に二回も転校した私に取り S 君は大切な友達でもあったのである。大人になった
今思い返すと、魅力的な性格の持ち主だったように思う。 S 君は今も健在であるかも知
れない。あるいは大変な成功を収めているのではないかとも思うのである。
この先を私はバンクーバーのコンドミニアムで書いている。三週間のの滞在だから自
炊である。同じビルの二階三階にスーパーが入っている。朝鮮人の経営である 。「朝鮮
日報」が大量に積まれ、無料であるから、韓国系の店なのかも知れない。日本の物、日
本的な物がいくらでも手にはいる。味噌もあれば「ほんだし」さえ買えるという始末で
ある。初めは韓国文字の書かれた商品は「不気味」だったが、食べてみるとまことに質
がよい。実感として韓国の製品は信頼できるのである。ヒュンダイの車も時折見かける。
カナダ人はブランド志向があまりないから、韓国の製品に対する信頼は篤いのだそうで
ある。
ある時期朝鮮も日本であった。様々な思いから彼らは独立していったが、私には彼ら
に対する「同胞愛」のようなものが根強くある。世界的規模での韓国人の活躍に、心温
まる思いを禁じ得ないのである。
北朝鮮は、今も圧政と貧窮に苦しんでいる。しかし、もともと優秀な人たちだから、
必ず自由と繁栄を獲得することであろう。隣国の友として、朝鮮の人々の未来が幸多き
ものであるよう切に願うのである。
平成19年9月11日
狭山ヶ丘通信
第35号
<特別折り込み号
(3)
>
狭山ヶ丘高等学校
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いわゆる「水増し合格」報道を
めぐる真相
狭山ヶ丘高等学校長 小川義男
昔、西武池袋駅に「狭山ヶ丘高等学校」と大書した電飾看板がつり下げ
られていた。武蔵藤沢駅には、壁面にだが、同様の看板が貼り付けられて
いた。他にもあったのだが、これらの看板に要する総経費は、年間およそ
700万円に達した。しかし胃腸薬の宣伝ではないのだから、学校の場合は、
「ちらと見たから入学する」というようなことはない。私はこれを全廃さ
せた。そして、その一部を成績優秀な生徒の大学受験料として支出させる
ことにしたのである。言わば特別な形での奨学金と解することができる、
というのが私の考えであった。私が決め、指示、命令したことであり、す
べて私の責任である。
ところが一部新聞は、これを狭山ヶ丘高等学校が、合格者数を水増しし
て発表したかのように報道した。本校は合格者数を水増しして発表したこ
となど一度もない。何しろ、その年度の大学合格者については、正門前の
合格者表示板に実名で掲示しているのだから、水増しなど、やろうにもで
きる筈がないのである。勿論本人の同意も得てある。
最近の高校生は、ひとりで10くらいの大学を受験する。長い教壇経験か
らの実感だが、テストでは、同じ人の成績が一割程度上下するのが普通で
ある。競争試験にあって一割というのは、合否を左右する数字である。そ
れが生徒の生涯に決定的影響を及ぼす場合もあるのだから、学校としても、
できるだけ受験の機会を多くするよう勧めている。
合格者数を発表する場合、それがダブル合格を含むものとなることは避
けられない。発表しているのは〇〇大学の「合格者数」である。これは予
備校や学習塾、進学関係の週刊誌等すべてに共通する傾向である。確立さ
れた慣習と言っても良い。
本校の場合、本年度のGMARCH(学習院 明治 青山 立教 中央 法
政)の合格者196人と日東駒専合格者182人、これに最難関の早慶上智東京
理科大の56人を合わせれば、それだけで434となり、卒業生徒数を遙かに
超えてしまう。
今年は東大合格者の出ることが期待されるが、国公立大学の受験者が私
立をも受験することは当然である。その場合、例えば東大と早稲田、慶応
に、すべて合格した場合、東大のみを発表し早稲田、慶応を無視しろと言
うのは無理な相談である。
最近はセンター試験の成績のみで受験できる大学も少なくない。受験料
も1.5∼1.9万円と安いが、実際に入試を受けに出かけることなしに受験す
ることが可能なのである。そのような場合、受験生ができるだけ多くの大
学に合格し、その中から自分の進路を最終的に決定したいと考えるのは人
情というものである。
ある卒業生は、学校の奨学金で多くの大学に合格していたので、それを
背景に、明らかに自分には無理と思われる大学に挑戦することができた。
学校の配慮に深く感謝しているとの電話を寄せてきた。
今後の問題であるが、本校としては、この受験料に関する支援を、奨学
金制度のひとつとして制度的に明確化し、学園の正式機関にかけた上で、
その内容を世間並びに全校生徒に公示して行きたいと考えている。また、
いかに優秀な生徒であろうとも、一人あたりの受験大学数は、妥当な範囲
に限定するよう配慮する。
私学は県からの助成金を頂いている存在である。このあたり、奨学金制
度そのもののあり方も考慮し、県、文部科学省の指導も仰ぎつつ、慎重に
検討を深めていきたい。
さらに又、大学進学に関しては、「読売ウイークリー」にも明らかにし
たように、合格者、当該大学に合格した生徒の実人員、実際にその大学に
進学した生徒の数も、すべて明らかにする。
更に今後は、現役ならびに浪人の区別等も明らかにし、狭山ヶ丘高校に
対する世間の一層の信頼を獲得できるよう努力する考えである。
平成19年9月25日
狭山ヶ丘通信
第36号
狭山ヶ丘高等学校
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「貴種」の思想と嫉妬、世襲
校長
小川義男
安倍総理が、憲政史上例を見ないやり方で政権を投げ出した 。「美しくない日本」
の極限の姿である。我が国は総理大臣の慮外な行動により、恥を世界にさらした。
ところでこの安倍総理は、岸信介氏以来三代に及ぶ政界名家の出身である。小泉元
総理も、著名政治家の家系に生まれた。この文章を書いている今、麻生、福田の両氏
が自民党総裁の座を争っている。その麻生氏の祖父は吉田茂、福田氏の父は元総理福
田赳夫氏である。どうやら我が国では、政治家の世襲家族の一員でなければ総理には
なりにくいものらしい。それどころか、野党のリーダーですら「政界二世、三世」で
あるケースが珍しくないのである。
古来我が国には「貴種」の思想があった。
源頼朝は平治の乱に敗れた源義朝の子である。平氏全盛の中で伊豆に流され不遇を
かこっていたが 、やがて清盛に反旗を翻す 。頼朝挙兵に当たって 、関東の武士達は「 貴
種」を得たとして、その傘下に集まり、ついには平家支配を打倒する。この際、関東
の武士達は何故 、海のものとも山のものともつかぬ頼朝の下に結集したのであろうか 。
「源家の嫡流」となれば、その傘下に多くの武士が集まるに違いない。ならば一刻
も早くその勢力に加わっておこうとする先物買いもあったかも知れぬ。しかし「源家
の嫡流」ならば、どうして先物買いを生むほどに人が集まるのであろうか。
「貴種」を貴ぶ背後には、嫉妬が潜んでいると私は思う。つまり、仲間の誰かの
勢力に加わり、その家来となるのは面白くないが、源家の嫡流となれば「そもそも
我々とは異なる貴種」である。このようなアプリオリ (生得的 )に高い身分の人であれ
ば、その下で家来になっても嫉妬心など湧いてこない。だが仲間となるとそうは行
かない。自分と同じ「仲間」の家来になるのだけは我慢がならない。このような嫉
妬が、頼朝挙兵の背後に潜んでいたのではないだろうか。
小渕総理が急逝されたことがあった。あの場合も、後継者は三十歳未満のお嬢さ
んということに決まった。小渕氏ほどの人である。その周辺に有能な人物が多数い
たに違いない。しかしそれが、経験、能力共に未知数のお嬢さんに決まったと言う
ことは、ここにも「貴種」の思想が働いていたのだと思う。つまりお嬢さんという
「貴種」ならば嫉妬も湧かないが、仲間の誰かが選ばれるということになれば、許
し難いとする嫉妬心が作用していたのであろう。
必ずしも家系、血統とは限らない。学校卒業時における成績序列などという、後
からではどうすることもできないような事実も、ある種の「貴種」を形成する。例
えば陸軍大学を卒業する当時主席であった、次席であったというような事実も、疑
似生得的身分を形作るらしいのである。いわゆる「銀時計組 」「恩賜の短剣組」に対
する独特の従属意識がこれであろう。
成績が良かろうとも、軍の指導者として優秀とは限らない。それなのに、軍の人
事は、卒業当時の成績に大きく影響を受けた。私はそれが、第二次世界大戦におけ
る我が国の敗北、おろかな軍事戦略に大きな影響を及ぼしたと思うのである。考え
てみれば、嫉妬とは怖いものである。
このところ、ひどい大臣が続発した。大臣には有能な人物を選ぶべきである。だ
が現在の大臣任命は 、その政治手腕によってではなく 、誰からも文句の出ない理由 、
即ち国会議員の当選回数によって決定されているらしい。そのようにして選ばれた
「駄目大臣」が、東大卒の優秀官僚を指導、統制することなど、できるわけがない
のである。これもその根底には、政治家の抱く嫉妬心が作用しているのであろう。
自民党では、国会議員にも「定年制」を設けているようである。これも若手の人
材を登用すると言うよりは 、
「 年寄りを追い出して 、少しでも早く大臣に就任したい 」
という嫉妬心の効果であると言えるのではないだろうか。小泉氏が老練かつ国に功
績のある中曽根氏を国会から「放逐した」事などは、その極限の姿と言えるであろ
う。
国の政治を改善する第一の道は、先ず我が国政界から世襲の慣習を放逐すること
だと私は思うのだが、間違っているだろうか。
平成19年10月10日
狭山ヶ丘通信
第37号
狭山ヶ丘高等学校
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朝鮮人の思いで(2)
校長
小川義男
八月十五日は、我が国が英米との戦争に敗れた日である。これに先立ちロシアは、日
ソ不可侵条約を一方的に破って八月八日に戦闘行為を開始した。私は中学一年生だった
が、敗戦の日の悔しさは今も忘れない。
食糧事情がもの凄く悪かった。米は需要に追いつかないので配給制であった。全員が
公平に食べられるようにと、国から出る切符を持って米屋に買いに行くのである。ひと
り二合五勺(375g)が割り当量であった。月に 11.25 キログラムだから、随分多いように
思う人もいるかも知れない。
しかし当時は副食が極めて少なく、飯が食卓の栄養源の主力だったのである。野菜に
漬け物、それにみそ汁とご飯というのが、ごく普通の食事であった。だから月 11,25 キ
ロではとても足りない。それに配給は建前で、米が届かないこともあった。遅配、欠配
が珍しくはなかったのである。
農家は生産した米を全部「供出」しなければならない決まりになっていた。しかし政
府の買い上げ価格は極めて安いから、全部供出したのでは生きていけない。そこで、こ
っそり米を隠すのである。どのように隠したのかは分からないが、それぞれの家に、絶
妙な隠し方があったらしい。
その米をこっそり高値で売りに出す。供出価格の十倍にはなったのでないだろうか。
やみまい
これが「闇米」と言われる物である。それをこっそり買って運ぶ人を闇屋と言った。警
察に捕まれば没収されるが、うまく隠しきって運び切ると莫大なもうけになる。このよ
かつぎや
うにして運ぶ人を闇屋とか「担ぎ屋」と言った。高齢の女性が、米一俵を担ぐなどと言
うのはざらであった。私たちの通学列車にも、三分の一くらいはこの「担ぎ屋」が乗っ
ていた。やくざな商売である。彼らにとっては、時折「手入れ」に入る警官が天敵であ
った。食糧事情の悪さは、敗戦から十年は続いた。ここに語るのは、敗戦から三年後の
話である。日本人の闇屋とは別に、朝鮮人の「同業者」がいた。同じ闇屋だが、朝鮮人
には、独立したという誇りがある。これまで「苛められた」という恨みもあったろう。
だから同じ闇屋でも、ぐっと戦闘的なのである。
すでに中学三年になっていた私は、たまたまこの朝鮮人の闇屋集団が、警察の手入れ
に遭うところに居合わせた。駅のホーム、停車中の列車での出来事である。事件の詳細
は記憶に薄れたが、取り締まりを逃れるためか、中にまだ運び切れていない米があった
ためか、一人の朝鮮人が、石で列車の窓ガラスを何枚も割ったのである。
恐ろしい雰囲気であった。警官と駅員が、その朝鮮人を捕まえようとした。明らかに
朝鮮人側が悪い。だがそのとき、二十人はいたであろうか、朝鮮人全体が結束して、一
斉に反撃の声を上げたのである。乱闘直前の雰囲気であった。
相手は今は「外国人」である。駅員も警察官もたじたじとなった。朝鮮人に正当性は
全くない。しかし彼らは、朝鮮人としての一体感から、炎のような激しさで抵抗した。
私はこれを見ていて 、「なるほど、喧嘩はこうでなくてはならぬ。『この場合、君が間
違っている』などと、したり顔でいたりしてはならないのだ。一度戦いが始まった以上、
良い悪いの問題ではない。仲間を守ることこそ何物にも優先する 。」私はそう感じた。
先輩たちは、朝鮮人がいなくなってから、口々に朝鮮人を批判したが、私はそうは思わ
なかった。むしろ彼らの、筋も道理も離れた仲間意識に、ある種の精神的昂揚を感じ、
「喧嘩は朝鮮人のようにやらなくてはならぬ」と胸中深く思い固めたのである。
私は十八歳から十年間くらい、反体制的思想を抱くことになった。それも可成り著名
なリーダーとしてである。その思想的影響も、思えばあのとき、その下地が形成されて
いたのかも知れない。二十七歳の時、自分なりの研究の末、このような傾向と絶縁した
が、喧嘩が朝鮮人のようでなければならないとの考えは今も変わらない。
三十五歳の頃、私は明治大学法学部二部の学生であった。勤務しながら夜通っていた
のである 。「一号館」の五階に法律の研究室が五つあり、私はそのひとつ「法科特別研
究室」の一員であった。日曜の朝、五時半に、新入室員は掃除をしなければならない。
日曜が私の当番であった。
ところが、守衛が我々を玄関から入れない。五つのうち二つの研究室の室員はもう来
ていて、全部で五人、中へ入れてくれと頼むのだが、守衛はどうしても承知しない。
事情を聞くと 、「昨夜五階の水道を開け放した者がいる。階段を滝のように水が朝ま
で流れ続けた。その犯人が分かるまでは何人も通さない」と言うのである。
室員たちは困った。そのうち女性の室員が激しい性格で、それは責任転嫁ではないか
と激しく詰め寄った。責任転嫁と聞いて、怒り心頭に発した守衛は 、「責任転嫁とは何
事だ」と逆に詰め寄った。その勢いに押され、さすがの彼女もたじたじとなつた 。「そ
うだ責任転嫁だ。これが責任転嫁でなくて、どこに責任転嫁があるか」私は反撃に出た。
すると、「法学研究室」の室員が 、「僕は守衛さんの気持ちも分かります。僕たちは一方
的な考えにこだわっては駄目だ」と言い出した。私が頭に来るのは、このような時であ
る。私は直ちに攻撃をこの室員に集中した。「君は一体どっち側なんだ。守衛の側なら、
くだん
君はそっち側に立ち給え」と彼を守衛側に押しやった。 件 の 女性も、これに勢いを得
て、「そうよ。それならあなたはお帰りになればいいんだわ」と言った。私も「そうだ、
帰ればいいんだ」と追い打ちを掛けた。
さらに私は守衛に 、「我々を入れるなと指示した人の名前を言いなさい。そのあたり
を曖昧にすると、学園紛争の新しい芽になりますよ。我々が立ち上がったら、三派全学
連の動きなどとは桁が違うよ」と凄んだ。結局怯えて守衛は我々を通したが、そのとき
にも私は、少年時代に見た、あの朝鮮人たちの 、「戦いの連帯性」に思いを馳せていた
のである。
すでに私も高齢の身ではあるが、葛藤場面に際しては、いつも私は朝鮮人の戦い方を
おんどり
想起することにしている。それから私の葛藤の師は、もうひとつある。それは雄鳥 であ
る。これについては次号で触れよう。
老人にとって最大の危険は「丸くなる」ことだと思う。分別くさい年齢であるだけに、
分別は敵である。朝鮮人のごとく、雄鳥のごとく、激しく戦い続けなければならないの
が老人だと私は思うのである。
平成19年10月25日
狭山ヶ丘通信
第38号
<特別折り込み号
(4)
>
狭山ヶ丘高等学校
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雄鳥のごとく
狭山ヶ丘高等学校長 小川義男
鷹を保護するなどとやかましい昨今であるが、北海道の開拓当時、鷹は大変な害鳥であ
った。人間の隙をねらって雌鳥や雛を襲い、巣に運んで食うのである。
鷹は高空を旋回しながらチャンスを狙う。それに気づくと雄鳥は、必ず雌鳥を縁の下な
どに隠し、自らは切り株の上に上がって、けたたましく叫び声を上げる。鷹の注意を自分
に集めようとするのである。当然鷹は襲ってくるが、「一族」を守るため、毛を逆立てて
雄鳥は捨て身の抵抗を試みる。
そのけたたましい叫び声に、人間が駆けつけてくるのだが、時には力つきて雄鳥が犠牲
になることもある。
この情景を目の当たりにして私は、「男はこのようでなければならない」と感じつつ大
人になった。
余談であるが、雄鳥がこのように命がけの戦いを展開しているとき、雌鳥はどのように
しているのであろうか。実は雌鳥たちは安全な床下などに隠れ、土をほじくり返して、み
みずなどを漁っているのである。雄鳥を信頼していると言えば、それもそうだが、考えて
みれば男とは悲しい生き物である。寅さんに待つまでもなく「男は辛い」のである。
雄鳥のような男が身近にいた。私の父である。
小学校一年生のある日、私が下校すると、家の周りに荒縄が張り巡らされている。二戸
建ての借家だったのだが、中に入ると、姉と隣のおばさんが抱き合って泣いている。母の
いない私にとって、姉は母代わりであった。
近所の、たちの良くないおじさんが、家主との権利関係のもつれから、店子である我々
二軒の家の周りに縄を張り、「出入り禁止」を申しつけたのである。
幼いとは言え、私は長男意識が強かったから、責任感がぐっとこみ上げてきた。だが幼
児の身にはどうすることもできない。
隣のおじさん、菅野さんと言ったが、が帰ってきた。おじさんは鍛冶屋である。腕は足
ほどにも太い。おばさんと姉は、菅野さんのおじさんに取りすがり、泣きながら訴えた。
息詰まる一瞬であった。その場の雰囲気に、ある種のなまめかしさを感じたのだから、私
もませていたのかも知れない。
意外や意外、おじさんの口から出たのは、「俺ひとりではどうすることもできない。小
川さんが帰って、相談してからにしよう。」という言葉であった。女ふたりの失望の色は、
今も私の記憶に鮮明である。私は「頼りにならない男だ」と情けなくなった。
間もなく、自転車を押しながら父が現場から帰ってきた。大工だから、後ろには道具箱
が積んである。われ鐘のような声で、「誰だ、こんな所に縄を張った奴は」と父は叫んだ。
叫ぶなり彼は、地下足袋の足でポンポンと縄を蹴とばした。縄はぷつんぷつんと切れてい
った。
女二人からあらましを聞いた父は、菅野さんを誘いもせず、道具箱から、ピカピカに研
ぎ澄まされたまさかりを取り出した。それを右手に提げて、「義男ついてこい」と言うな
り彼は、お向かいの「犯人の家」に向かった。父を絶対に信頼していた私は、大股にその
後に続いた。
相手のおじさんは、よほど怖かったのか、押入の中に隠れた。隠れる瞬間を私は確かに
見た。奥さんが、「主人は今おりません」としきりに謝るのだが、まさかりを下げている
にしては冷静な父は、奥さんと争いに来たのではないから、ご主人を出しなさいと「説得」
する。「いきなり殺したりはしないから」と言うのである。恐怖に震えているのか、押入
の戸がかたかた鳴った。それに気づいて父は、私を見て微笑んだ。それはもう、かっこい
いものであった。
結末は平凡な相手方の陳謝で終わったらしいのだが、私は菅野さんを誘ったりしない父
の瞬間的決断力に男を見たと思った。
雄鳥ばかりではない、人間の世界にも、家族と権益を守るためには命も惜しまない男が、
少し前には存在したのである。
パソコンでの「狭山ヶ丘通信」の簡単な出し方
「狭山ヶ丘通信」は、毎回すべて、新聞折り込みにしているわけではありま
せん。しかし、インターネットでは、折り込み配布した分も含め、月2回発行、
掲載しております。新聞折り込みをお読み下さると同時に、インターネットの
ホームページでもご覧頂ければと存じます。
今日は極簡単な「呼び出し方」をお知らせします。
インターネットで「狭山ヶ丘高校」と日本語で入れます。これだけで本校のホ
ームページが出てきます。
探すと、その中に「狭山ヶ丘通信」という項目が、左側に出てきます。これ
をクリックして下さい。
「狭山ヶ丘通信」が出てきます。
バックナンバーも、すべてお読みいただく事ができます。
勿論プリントアウトする事もできます。よろしくお願いします。
平成19年11月10日
狭山ヶ丘通信
やる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。私は人格高潔な指揮官で
ある貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を、救助せられる事を勧告します。
明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待機させます。貴軍に於か
れても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望
みます。
第39号
<特別折り込み号
(5)
>
狭山ヶ丘高等学校
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沖縄の心
狭山ヶ丘高等学校長 小川義男
「軍命令による自殺強要」が行われたかどうかを回って国論が揺れている。
この点については学説に争いがあるので、教科書に登載することは自粛すべき
だとの検定委員会の指摘があった。これに抗議して、沖縄で十一万人の集会が
もたれたと報道された。しかしこれは「主催者発表」であって、実数は一万八
千百七十九人だったと讀賣新聞「とれんど」が指摘している。東京の大手警備
会社の社長が、県民大会の俯瞰写真で実際に印を付けて数え上げたのだそうで
ある。(「
『11万人』数字の錯覚」讀賣 07.
10.27.)
今日私が論じたいのは、教科書検定を回る論争ではない。沖縄問題そのもの
である。
以下は沖縄戦当時の、米上陸軍司令官 サイモン・バクナー中将が日本側の
最高司令官牛島中将に宛てた文書である。サイモン中将は、この後間もなく戦
死している。牛島中将も間もなく指令部員と共に自決した。沖縄戦は、双方に
取り、それほどの激戦だったのである。
第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ
牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。貴下は歩兵戦術の大
家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。私も貴下と
同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の
理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。
然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の、使用する所となりま
した。この上貴下が、戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追い
兵力は圧倒的にアメリカが優勢であった。日本軍の兵員116,400人に対し米軍
は548,000人である。空母は4対98 戦艦は1対23 航空機は16,227対107,000であ
る。とても戦になるような力関係ではない。
糧食弾薬共に尽きた日本軍が、最期の斬り込み攻撃を掛けようとするとき、
十代の少女多数が、自分たちも斬り込ませてくれと志願してきたという。米兵
の毒牙に辱められるよりは、日本軍と共に死にたいと考えたのかも知れぬ。牛
島部隊は、流石にこれは辞退して最期の攻撃を行うのだが、牛島中将が本国に
送った手紙はこの事に触れ、「沖縄県民、かく戦えり。後世沖縄県民に対し特
別の配慮あらんことを」と結ばれている。
その後我が国はポツダム宣言を受諾し、「本土決戦」は避けられた。だが考
えてみれば、沖縄戦は「本土決戦」にほかならなかったのである。「本土」だ
けは決戦を避けて、同じ「本土」である沖縄を、ガダルカナルやルソン島のよ
うに扱った。そんな思いが沖縄の人々の胸を去来しても無理ではあるまい。
「沖縄で『決戦』をやらせてはならないが、やらせた以上、本土でも同じ戦い
を展開するのが義理というものだ」私などはそう考えたが、本土は決戦を回避
し、自分たちだけが塗炭の苦しみを味わわされたところに、沖縄人の不信が存
在しているのではないだろうか。
確かにポツダム宣言は受諾せねばならなかったであろう。しかし何故それが
沖縄戦の前にできなかったのか。非戦闘員ぐるみで、あれほど深刻な戦いを展
ば ん し
開させてしまった所に、政府並びに軍部の重大な責任がある。まさに「罪万死
にあたる」と言うべきであろう。
琉球列島の人々は、薩摩藩による統治の時代以来、様々な思いを重ねてきた。
歴史的沿革もあり、「本土」に寄せる思いも複雑であろう。しかし彼らは、そ
の地理的、歴史的位置にもかかわらず、一度として沖縄独立とか、中国への帰
属とかを主張したことがない。アメリカに占領された時代に、彼らは本土復帰
を求めて立ち上がった。その運動の象徴が日の丸であったことも、忘れてはな
るまい。
今何よりも大切なのは、このような「沖縄人の思い」を深く理解することで
ある。次の世代を担う諸君には、何故我が国がこのような戦争に巻き込まれた
のか、何故深い心の傷を沖縄の人々に負わせてしまったのか、そのあたりを深
く考えて貰いたいのである。
平成19年11月25日
狭山ヶ丘通信
第40号
狭山ヶ丘高等学校
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「いじめ」ひとつ根絶できなくてどうする(1)
校長 小川義男
「2006 年度に全国の小中学校が把握したいじめの件数は約 125,000 件にのぼる
ことが 15 日、文部科学省の調査でわかった。」(讀賣朝刊 2007.11.16.) タイ
トルは「虐め把握 6 倍 12 万件」である。一見すると、いじめが 6 倍に急増し
たかのような印象を与える。それが、いじめを更に加速する結果を生まねば良
いがと私は憂慮する。
しかし仔細に読むとこれは少し変である。
「虐め調査」なるものの調査対象、
調査基準が大幅に変更されているからである。今回の調査では、先ず調査対象
が「公立校のみ」から「国立、私立を含むすべての学校」に拡大された。また、
いじめの定義も、前回の「一方的、継続的に攻撃され、深刻な苦痛を受けたケ
ース」から「いじめを受けたと子どもが感じたケース」に変更されているので
ある。つまり、客観的にいじめがあったかどうかではなく、子どもが虐められ
たと感じたなら、それは直ちにいじめになってしまうというふうに、調査の根
底がすっかり変えられてしまっているのである。
これでは「前回より 6 倍」などと比較する方がおかしい。文科省が故意に、
いじめを深刻に描きたがったとは思わないが、このような、調査条件の根本的
変更が、社会的にどれほど深刻な影響を招くかを文科省は考えなかったのであ
ろうか。施策の拙劣さが感じられてならない。
渡海文部科学大臣は、小中学校の生徒数が大量に減少するというのに、教員
の数を 4,000 人増員するよう予算措置を要求している 。「今の教員は忙しすぎ
る。いじめに苦しめられている子どもの悩みをじっくり聞いてやっているゆと
りがない。だから、教員数を増大させ、そのゆとりを以ていじめ克服に専念さ
せたい」というのが、増員の狙いのようである 。「教職員組合」は、これに大
賛成であるに違いない。
しかし、教育にもコストという発想を忘れてはならない。少人数学級どころ
か、私の小学校時代には、50人学級が当たり前であった。55人だったこともあ
る。教室内に通路を設けることが難しいため、一部の子どもは、机の上を歩い
て出入りした。しかし、その頃に今の10倍、20倍のいじめがあったであろうか。
先輩達は、そのような悪条件の下で数多くの優れた人材を輩出させたのである。
恵まれた条件が望ましいことは言うまでもないが、教育条件には、学級定数や
教員の勤務のゆとり等の外に、様々な「人間的」要素が含まれていることを忘
れてはならない。まして今は、国家財政が破綻に瀕しているときである。教育
だけが聖域であってはならない。文科省は今こそ、時代に逆行する予算要求を
する前に、これまでの教育活動のどこにいじめの本当の原因があったかを、深
く探求しなければならないのではあるまいか。
そもそも今なお学校におけるいじめを根絶できないとは、一体何と言うこと
であろうか。遠く隔てた山奥や砂漠に、盗賊が出没するというような話ではな
い。賊は学校に出没して、罪科のない子ども達を迫害しているのである。教師
が存在し、日々熱心に教育活動に当たっている筈の学校で、このような「犯罪
行為」を根絶できないとすれば、学校にその存在価値を認めて良いものであろ
うか。
これが公立学校ではなく学習塾だったらどうであろうか。いじめが行われて
いるという噂が微かにでも広まったら、通塾生は激減する。日ならずしてその
塾は潰れるであろう。だから競争原理にさらされている学習塾では、絶対にい
じめのような「テロ分子」の蠢動を許さないのである。
ところが公立学校には、この競争原理が働かない。いじめがあろうが、為に
生徒の人権が著しく侵害されようが、公立学校の存在基盤はびくともするもの
ではない。否、むしろ、いじめが多発すれば、それを理由に教員定数の増員さ
え企図される。教師にとってこれほど暮らしやすい環境はない。かくして教室
内には、今日も悪質ないじめが横行するのである。。
「教師は忙しすぎる」という言葉をしばしば耳にする 。「こんなに忙しいの
は、校長が悪いのだ。国や政治が悪いのだ」というような見解もしばしば聞か
れる。私は公立の校長時代に「時間は俺も作り出すことができないんだよ」と
反論したものだが、一体、世間のどこに、忙しくない職場があるであろうか。
校長職も忙しい。担任時代の私も多忙であった。だがそれを不満に思ったこと
はない。多忙さの中で、様々に工夫を凝らし、日々の課題を克服していくため
全力を尽くすことが私の生き甲斐だったのである。
次号に続く
平成19年12月11日
狭山ヶ丘通信
第41号
<特別折り込み号
(6)
>
狭山ヶ丘高等学校
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp
「沖縄の心」その2
狭山ヶ丘高等学校長 小川義男
先月の本紙に「沖縄の心」と題する文を掲載いたしました。軍命令による自
決の存否を回って争いがある中で、これを教科書でどう扱うべきかという問題
に関する文章でした。
私が強調したかったのは、
その論争の是非以上に、
当時沖縄の人々が、
どれほど
の惨害に直面させられたかを深く理解することの方が重要だということです。
しかし、その文中に二ヶ所重大なミスがありました。ここに慎んで訂正申し
上げます。
ひとつはポツダム宣言の時期に関する問題です。ご承知の通りポツダム宣言
は、我が国と戦っていた米英中三ヶ国首脳の名前で1945年7月26日、日本に対
し発せられた無条件降伏要求文書です。従って沖縄戦当時には未だ発せられて
おらず、これを受諾することは不可能でありました。この点、沖縄戦開始以前
にポツダム宣言を受諾すべきであったという私の主張には、ミスがあったこと
になります。慎んで訂正いたします。
但し私が言いたかったのは、政権担当者、陸海軍首脳には、これほどに軍事
力に開きがある場合には、戦闘を回避する責任があった。しかるに「玉砕」の
名の下にこれを継続したという責任は、否定し難いものであるという点です。
また「沖縄県民かく戦えり」の一文は、司令官牛島中将ではなく、沖縄根拠
地隊司令官大田実少将からの 海軍次官宛の電報でありました。この点にもミ
スがありましたので、訂正いたします。電文をここにご紹介いたします。
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ、県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ、
残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ、家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ、僅ニ
身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難、尚砲爆撃ノガレ□中風雨
ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ。
而モ若キ婦人ハ、卒先軍ニ身ヲ捧ゲ、看護婦烹炊婦ハ元ヨリ、砲弾運ビ挺身切
込隊スラ申出ルモノアリ。
所詮敵来リナバ、老人子供ハ殺サルベク、婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ
供セラルベシトテ、親子生別レ、娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ。
看護婦ニ至リテハ、軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ、身寄無キ重傷者ヲ助ケテ
敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ。
更ニ軍ニ於テ、作戦ノ大転換アルヤ、夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定
セラレ、輸送力皆無ノ者、黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ。
是ヲ要スルニ、陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来、終止一貫、勤労奉仕、物資節約ヲ
強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテ
ノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ、遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期
ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン。
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
文中の□部分は不明
電報の現代語訳
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県は
すでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思
われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこの
まま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し
上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のこと
に関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、
県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された
老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の
砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦
の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつ
つも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾
運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去
られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍
営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない
重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に
駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ
移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩
いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕
や物資節約を強要させられたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではな
いが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥
(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にし
て草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように立派に戦い抜いた。
県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。
以上
私の不注意によるミスに関して、一人の方から電話で、二人の方から文書で
ご指摘をいただきました。お三人とも丁重な表現でミスを指摘してくださった
ものです。ここに深く感謝し、慎んで訂正申し上げます。
このようなご指摘に接しますと、「狭山ヶ丘通信」が、多くの皆様に読んで
いただけていることが分かります。校長として喜ばしい限りです。読者の皆様
に改めて感謝申し上げます。
ただ折り込みで配布するには、月間100万円程度の経費を要します。学園の
PR紙とは言いながら、年間1,000万円を超える「宣伝費」を支出することには
無理があります。そのため、折り込みを隔月程度に止め、その他はインターネ
ットでの掲載に止めさせていただいているわけです。その代わり、従来の、月
1度から月間2度の発信に代えさせていただきました。
「狭山ヶ丘高校」と入れるだけで「狭山ヶ丘通信」に到達できます。是非折り
込みだけでなく、
インターネットでもお読みくださいますようお願い申し上げます。
小川義男校長による講演会は、PTA父母教室として、去る12月1日13時半よ
り、本校小講堂で行われました。ほぼ満席の盛況で、進路指導の重要性、具体的
な指導方法等に関し、ユーモラスで密度の高い講演が行われました。数分おきに
爆笑が起こるような熱気に富む講演でした。
講演終了後は熱心な質問が出され、予定を遙かにオーバーして、皆様がお帰り
になったのは15時半過ぎでした。
本校の保護者ばかりでなく、一般市民の皆様、高校進学を控えた中学生の保護
者の方々も多数お見えになりました。
小川校長は、「これほど多数の方にお出でいただけるとは思いませんでした。ま
ことに有り難いことです。この次は「『お子様を国語の天才に育てる方法』という
テーマで講演会をやりましょうか」と語っています。
学校見学説明会も、12月8日に第5回を行い、すべての日程を終了いたしました。多数のご来
校をいただきありがとうございました。今後は下記の日程で行われる入試個別相談会を残すの
みとなります。
ここまでの学校見学説明会、外部会場での説明会等を通して、「この成績で、狭山ヶ丘高校
を受験することはできるでしょうか?」という声をよく耳にしました。これは全く心配する必
要はありません。確かに相談の中で、現在の成績などを拝見いたしましたが、今後の勉強方法
をアドバイスするためのものであって、ある一定の成績がなければ本校を受験することができ
ないというわけではございません。どなたでも受験することができます。
入学試験は行いますが、本校が最も重視しているのは「本校に来て学びたい」という生徒の
強い意志です。現段階で成績が伸び悩んでいても、入試当日までの1ヶ月半で十分に入試を突
破出来るだけの学力が身につくと私たちは考えています。
入試個別相談会では、今後とも勉強方法のアドバイスも行います。少しでも本校に興味のあ
る方は、ぜひ来校いただき相談会に参加してください。引き続き多数のご参加をお待ちしてお
ります。
午前の部 9:00∼11:00 (受付最終時刻 10:30)
午後の部 13:00∼15:00 (受付最終時刻 14:30)
午前の部 9:00∼11:00 (受付最終時刻 10:30)
午後の部 13:00∼15:00 (受付最終時刻 14:30)
午前の部 9:00∼11:00 (受付最終時刻 10:30)
午後の部 13:00∼15:00 (受付最終時刻 14:30)
午前の部
午後の部
9:00∼11:00 (受付最終時刻 10:30)
ありません。
☆ 予約の必要はありません。上履きも必要ありません。
☆ 成績、自己PR資料等ございましたらご持参ください。
☆ 混み具合によっては、多少お待ちいただくこともございます。
※ 入試個別相談会当日のスクールバスは運行しません。
※ 駐車スペースがありません。
(お問い合わせ先)
車での来校はご遠慮ください。
〒358-0011 埼玉県入間市下藤沢981
狭山ヶ丘高等学校 TEL 04-2962-3844(代表)
・西武池袋線 武蔵藤沢駅 徒歩15分
平成19年12月25日
狭山ヶ丘通信
第42号
狭山ヶ丘高等学校
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
「いじめ」ひとつ根絶できなくてどうする(2)
校長 小川義男
いじめは教師の存在感が希薄であるところに発生する。小学生も、先生がど
んなに怒ったところで、自分たちに対してどうすることもできないということ
を熟知している。あまり怒鳴ったりすれば、暴力的、威圧的教師として指弾さ
れる。叱らねばならない場合も教師は「教育相談的手法」とやらで、先ず子ど
も(犯人)の理解と納得を獲得するよう全力をあげる。しかし、我が儘だから
いじめ行動を取るのであって、
「しみじみ話し合い」
「互いの理解を求めて努力」
してみたところで何の役にも立ちはしない。いじめはエゴイズム、サディズム
が表出した、高度に利己主義的な我が儘である。どれほど真剣に語り合ったと
ころで、彼らの身勝手な自己主張を抑制することはできない。このようなエゴ
イズムとは話し合っても無駄である。いじめ対策とは、罪科のない子どもを守
るために展開される、犯罪分子、テロ分子との苛烈な戦いである。そしてこの
場合、このような戦闘的姿勢こそ、あり得べきただひとつの教育なのである。
フェアな喧嘩ではなく、仲間に対し理不尽に、陰湿あるいは露骨な攻撃を加
える者に対しては、一発ひっぱたくのが当たり前である。だが教育委員会は体
罰絶対禁止の原則を教条的に強調する。保身に明け暮れる校長も、体罰禁止の
原則を必要以上に重視する。学校というような聖域で、仲間を虐めるような悪
童は、叩きのめしてしかるべきである。だが歴然たるいじめを目前にしても、
教師はひたすら説得と話し合いとに明け暮れる。その教師の無力ぶりをクラス
の子ども全員が見ている。かくしてボスやいじめの中心人物は 、「結局一番強
く恐ろしいのは俺らしい」と自覚し、自らの「権力」への自信を強めるのであ
る。いじめが蔓延する本当の原因は、このような教師の存在感の希薄性に存す
る。
これが中学校ともなれば、事は一層難しくなる。いじめを恣にする暴力分子
は、自己のテロ権力に自信を持ち、自らの非行を教師に「チクル様な奴」に対
しては仮借のないテロや、メールによるいじめ、脅迫を繰り返る。恐喝された
り、脅迫されたりしても、これを教師に告げても、教師にはこれを制圧する何
の手段もないのだから、
「テロ分子」の仕返しはとどまることなく熾烈化する。
恐怖による支配は一層エスカレートして行く。力のない教師には一切の情報が
提供されない。
「よくしたもの」で、暴力中学生に関しては、少年法の徹底的に分厚い保護
の手が伸ばされる。仲間を殺したところで、死刑はおろか、刑罰さえ受けるこ
とはない。最悪の場合でも少年院に一年も過ごせば良い。却って貫禄をつけて
凱旋する結果になる場合も少なくない。
だから学校における悪質少年ほど恐ろしいものはない。いじめを告発すれば、
殺されるかも知れない。親も学校に情報を提供することは慎めと我が子に言い
聞かせざるを得ない。学校はテロ分子に舐められ切っているのである。教師を
四千人増やせばよいなどという甘ちょろい話ではない。
今や学校は、教育以前に治安が問題になるような、危険な場になってしまっ
ているのである。男子生徒が暴力に怯えるような学校環境で、女生徒に性的被
害が及んでいないという保障はない。
高等学校になると事情は変わってくる。高校は義務教育ではないから、虐め
犯人を退学処分にすることが可能である。中学校にはこれがない。いじめ犯人
どもを震え上がらせるために、行政は何をすることができるか。文部科学省が
何よりも先に考えなくてはならないのはこのことだと思うのである。
私は中学校は義務教育から「解放」すべきだと考えている。保護者が渋るか
ら義務教育という制度がとられたのである。高校は義務教育ではないのに百パ
ーセントに近い生徒が進学している。義務制を外した所で、中学校への進学率
は変わるまい。しかし義務教育でなければ、悪質分子は退学処分に付すること
が可能である。この可能性は、悪質分子を劇的に改悛させる結果を生むと私は
確信する。そのくらい思い切った措置をとらなければならないほど我が国の学
校教育は危殆に瀕しているのである。
今ひとつ、全国の中・高等学校を民営化することである。郵便局の民営化は
著しい弊害を生み出した。今やそれは許容の限度を超えている。それは「民間
ではやるべきでないことを民間にやらせた」結果である。しかし中・高等学校
においてこそ、「民間でできることは民間に」任せるべきである。そうすれば
確実にいじめを根絶することができる。それは学力面も含めて、我が国教育を
革命的に改善すると私は確信する。これについては次の機会に譲りたい。
平成20年1月10日
狭山ヶ丘通信
第43号
狭山ヶ丘高等学校
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人は何故キレルのか
校長
小川義男
防衛医科大学の一次試験に合格者が出た。最終結果は二月にならぬと分からぬが、天下
の難関である。一次を突破しただけでも大変な出来事である。防衛大学に 11 人の合格者
が出ている(一次)。
今年は東大にも複数現役合格が期待できそうである。狭山ヶ丘は、
師弟うち揃って、大きな夢を抱き新年を迎えた。
私自身も健康に留意して、その夢の実現に貢献できるよう頑張り続けたい 。「今年は身
体を鍛える歳」そう思って、六日の日曜に御岳山への小登山を試みた。今年はスキー、登
山に明け暮れする一年にしたいと考えている。
御岳から下りてくる途中である。急な坂道を下っていく親子三人のグループを追い越し
た。若い父と母、それに五歳くらいの男の子である。男の子は父を追い越し、私の後ろか
らついてきた。父親が「ポケットから手を出しなさい」と注意する。何度も注意している
から、どうも息子は言うことを聞かず、ポケットに手を入れたままであるらしい。私は歩
調をゆるめた 。「 息子 」は 、ポケットに手を入れたまま 、猫背になり私を追い越していく 。
急坂の事だ。何とも危なげである。父は重ねて注意した 。「転ぶと危ないからポケットか
ら手を出しなさい 。」しかし息子は無視したままである。重ねて同じ言葉を発し、父は注
意を繰り返すが、効き目は少しもない。
見れば聡明そうな「若き父」である。しかし私は気になった。ポケットから手を出させ
るときに 、「転ぶと危ないから」などと理由を説明しなければならないものであろうか。
いや、無論説明はして良い。その方が説得力を増すであろう。しかし、そのような理由を
説明しなければ、ポケットから手を出せと指導できないものであろうか。息子は父を無視
し、ポケットに手を入れたまま押し通した 。「こら、お父さんがポケットから手を出せと
言っているんだ。さっさと出さんか」そう言って、一発ひっぱたいてやろうかとも思った
が、他人の子にそういうわけにも行かぬ 。「そうか、ああいうふうに育った子どもが、や
がて高等学校に入ってくるのだな」そう思いつつ私はケーブルカーの山頂駅に向かった。
ポケットから手を出させるのに説明などいらぬ。お父さんが出せと言ったら、さっさと
手を出せばよいのである。しかるに現代の親は、そこでくどくどと理由を述べ、説得を試
みる。そこには相手を理解させ、納得させるのでなければ「教育」を行ってはならない。
規範意識は、子どもの内面から、子ども自身の力によって芽生えさせるのでなくてはなら
ないとの理念が潜んでいる。だが幼児期から、小学校三年生くらいまでの発達段階では、
判断力そのものがまだ定着していないのだから、教育には問答無用の要素もなくてはなら
ない。人間としての基礎を身につけさせる、それが躾けと言うものである。
この頃「キレル生徒 」「かっとなって親兄弟を殺害する親族」のニュースが跡を絶たな
い。女房にさえ用心しなければならぬ時代である。
最近「 面白い 」講演を聞いた 。人間の脳には時に空洞があったり 、病変があったりする 。
そのような病理現象が「キレル」事件、家族に対する殺害事件等の背後に隠されている。
最近、脳科学の分野で、それらの研究が飛躍的に前進した 。「このような脳科学の成果に
立って考え合っていけば、我々はイデオロギーの壁を乗り越えられるのではないか」とそ
の講師は語ったのである 。「はて、イデオロギーの壁などというものは、乗りこえるべき
ものなのであろうか、葛藤を避けるのではなく、真正面からのイデオロギー闘争を展開す
ることによってこそ、より正しい方向へ到達できるのではないか」と私は思ったが、その
ことは今は問うまい。
しかし「キレル人間」の犯罪的行為、没価値的行為を、脳科学の成果で、脳における病
理現象の研究で、説明できるものであろうか 。「そんな病変なら、俺の脳には数々ありそ
うだわな」講演を聞きながら私は苦笑した。私も、どちらかと言えば「キレヤスイ」人間
である。しかし、さしたる間違いもなくここまで生きてきた。それは親の躾け、先生方の
躾けのおかげであったと思う。
「脳の病変」などは、そもそもそれ自体個性だと言えるのではないだろうか。同じよう
な病変、同じような「空洞」を持っているとしても、人は高度に個性的な存在である。そ
れまで身につけた様々な生きる姿勢や礼儀作法、自己抑制力によって、人はそれぞれ危機
を乗り越えて今日に至っているのである 。脳科学の成果は尊いが 、それに跪いてはならぬ 。
教育学が 、特に現場における教育実践が 、脳科学に拝跪するようなことがあってはならぬ 。
戦後「欲求不満」という心理学用語が教育現場を風靡した。子どもの非行、没価値的行
為は、その抱く欲求が充たされないところに本当の原因がある。それを充たしてやること
なしに、一方的に叱りつけたのでは、子どもは一層悪くなる。かくして、子どもの内面か
らひとりでに芽生えるものに過剰な期待を寄せ、教え込んでいくことにアレルギー的警戒
心を抱く戦後教育の潮流が形成されたのである。我々は「脳科学の成果」をめぐって、再
び同じ過ちを犯そうとしているのではないだろうか。
幼児期には徹底的に厳しく育てるべきである。自我の芽生えにつれて、教師も親も、じ
りじりと後退して行かなければならない。しかしその道すがら、礼儀、人として踏み行う
べき道はしっかりと身につけさせていかなければならぬ。そのような、人としての道、礼
儀作法をしっかりと身につけた人間は、たとえ身体的にどのような弱点を抱えていようと
も、修羅場に直面して、大きな過ちを犯すことなく人生を全うする事ができるのである。
御岳で出会った可愛い坊や、彼が適正な服従精神を身につけ、長ずるに及んでは人とし
て生きる上で必須の要件たる礼儀と克己心、自己抑制力を身につけた大人として育ってく
れるよう、切に祈るのである。
平成20年1月25日
狭山ヶ丘通信
第44号
狭山ヶ丘高等学校
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暗記の大切さ
(1)
校長
小川義男
戦後教育で目の敵にされたものは数多くあるが 、「暗記」は、もっとも厳し
く攻撃されたもののひとつではないだろうか。初めに、昔アメリカ占領軍が、
日本の教育や思想を全面的に否定するに至った経過を考えてみたい。
原爆投下
東京大空襲
日本との戦争に勝ったアメリカには、アジア、アフリカを植民地として支配
し続けた、白人列強一員としての後ろめたさがあった。
中国との戦争に関して我が国に釈明の余地はない。しかし太平洋地域での戦
争に関しては、日本は現地の人々と戦ったのではなかった。我々の敵は、すべ
て白人であった。おかしいではないか。アジアの各地域で、どうして白人はそ
んなところに存在していたのか。日本にも非があったかも知れぬが、白人列強
が、世界のほとんどの地域を植民地支配していた事実そのものも、そもそも容
認しがたい問題だったのである。アメリカは後ろめたかったに違いない。
アメリカは広島、長崎に原爆を投下した。大量の非戦闘員を対象とする無差
別殺害は、明らかに国際法違反である。
東京大空襲は昭和20年3月 10 日夜であった。都民が寝静まった0時8分
に第一弾が投下された。00:15空襲警報発令、それから約二時間半にわた
って波状絨毯爆撃が行われた。その後平均6トン以上の焼夷弾を搭載した34
4機のB29の大群が、分散して低高度で東京の下町に浸入した。
B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲にナ
パーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて
退路を断った。その後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、
黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下されたのである。
逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられた。折から風
速30 m の強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、火の玉のような火
の粉が舞い踊り、強風に捲かれた炎が川面を舐めるように駆け抜け、直接戦争
とは関係の無い一般市民は次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいなが
ら、性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされたのである。
これなども明らかに国際条約に違反する犯罪的行為である。アメリカは後ろ
めたかったろう。
我が国を占領したアメリカ占領軍は、このような事実を隠蔽する意味もあっ
て、すべては日本側の責任であるかのごとく宣伝に狂奔した。何しろ完全な報
道管制の下に行われる宣伝だから、どんな無理も押し通すことができたのであ
る。教育も例外ではなかった。それまでの我が国の教育は根本的かつ全面的に
間違っていたかのような宣伝が行われた。
実は戦時中の極端な例は別として、明治以来の我が国教育は、外国の成果を
も取り入れた相当程度のびやかなものであった。明治初年の国語教科書が、ア
メリカの教科書の直訳だった時期もあるくらい、我が国は外来文化を肯定的に
受け入れたのである。大正時代には 、「八大教育主張」と言われるほど、外国
の影響も受けた様々な教育思想が論議された。
それなのにアメリカ占領軍と、アメリカ以上にアメリカ的であろうとする醜
い日本人達によって、日本の教育、日本の思想、日本の文化、日本の歴史は徹
底的にけなされたのである。その後遺症は六十年後の今日にも及んでいる。
知識は創造性の源
私 は 旧 制 の 中 学 校 に 入 学 し た の だ が 、 朝 礼 の 折 な ど に 校 長 は 、「 無 為 に 時 間
を過ごすのではなく、英語の単語を一つでも多く、幾何の証明問題をひとつで
も多く覚えろ」と語った。私は幾何は学年最高と言われるくらい得意だったの
だが、校長の話を聞いていたので、幾何の勉強とは証明問題を覚えることだと
「素直に」考えていた。
斉藤という名の校長であったが、彼の言葉は今なら間違いなく袋だたきに遭
うに違いない 。「知識の詰め込みからは創造性も思考力も育っては来ない。そ
んなやり方で 『本当の学力』が 身に付くものではない」と。
ご高説もっともであるが、私自身の経験では、証明問題を多く覚えれば覚え
るほど、問題を前にして補助線を引く閃きが鋭くなってきたのである。当時の
私は 、知識は身につければ身につけるほど 、思考力や閃きが鋭くなるものだと 、
素直に考えていたのである。
以下次号に続く
平成20年2月10日
狭山ヶ丘通信
第45号
狭山ヶ丘高等学校
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流しとシンク
それに有毒餃子
校長
小川義男
風呂は朝に入ることにしている。しかし毎日では無駄である。朝風呂に入ら
ぬ日は、シャンプー式ベイスンとやらで、洗面、ひげそりを行わなくてはなら
ない。毎朝シャンプーできるようにするためとかで、我が家に異常に大きな洗
面器がある。ハイカラに言えば、ベイスン( basin ) と呼ぶものらしい。
ところがこれが実に始末に負えない。洗面に適当なだけ湯を貯めようとすれ
ば 、えらく時間が掛かる 。ひげを剃った湯で顔を洗い直すわけにも行かぬから 、
栓を抜いてひげ混じりの湯を捨て、スポンジで洗った後、また湯を貯め直さな
くてはならない。勿体ないこと甚だしい。おまけにベイスンを洗うにも、どこ
からどこまで洗えばよいのだか、その境目がはっきりしない。使う度に、何と
馬鹿げた洗面器だろうかと腹立たしくなる。
実は昔は、洗面は「流し」で行ったのである。台所には大きな流しがついて
いた 。畳一枚とは言わぬが 、それに近いほど大きな流しがどこの家にもあった 。
流しは貝がらなどを塗り込んで磨き上げたコンクリート製のものもあった
し、木製の底つきの木の枠にブリキを張った物もあった。そこにボウルや洗面
器をおいて顔を洗ったり食器を洗ったりする。それが昔の普通の台所の姿だっ
たのである。
流しに洗面器を置き、そこで洗面するのだから、どんなにじゃぶじゃぶやっ
ても、飛沫は流しの枠内に飛ぶ。余計な心配をしなくて良い。昔の「流し台」
は良かったなあとつくづく思う。
今はステンレス製のシンクとやらがキッチンに鎮座ましましている。これが
まことに使いにくい。シンクとは、そもそも沈むという意味だから、シンク一
杯に水や湯を貯め、そこに食器を沈めて洗うというのが本来の使い道なのであ
ろう。
これもまことに使いにくい。ほとんどの人は、狭いシンクの中にボウルを入
れ、そこに水や湯を貯めて食器を洗っている。つまり昔の「流し台」のような
使い方をしているのである。
何でこんな不便な物が日本中の家庭に行き渡ったのであろうか。見てくれの
良さか、それともひとつの流行になってしまったからか。本来の便利さを離れ
て、西洋風のものを取り入れるのがハイカラだとする、明治以来の舶来万能の
思想の表れなのであろうか。
ヨーロッパに行って往生するのは、シャワレットがないことである。せめて
ホースつきのシャワーがあると助かるのだが、ただ壁に固定されているだけの
シャワーの場合は困ってしまう。
尾籠な話で恐れ入るが、私は痔の原因は、肛門を清潔に保たないことにある
と思っている。シャワレットは、まさに見えないところで国民の健康維持に貢
献した。誰が、どこでどのように研究したのかは分からぬが、日本人でなけれ
ば果たし得ない大発明であると私は思う。
それがヨーロッパに普及しないのは何故か。それこそはヨーロッパの人々の
保守主義と言うものであろう。私は、いずれシャワレットが全世界に普及する
と確信している。
ヨーロッパのバスには洗い場がない。すべてバスタブのなかですませてしま
わなくてはならぬ。腰掛けに座り、おもむろに垢こすりできる日本式風呂は何
と素晴らしい物であろうか。この日本式バスも、必ず全世界に普及する物と私
は思う。
薄型テレビ 録画装置 自動車 製鉄 果物 カメラその他の光学機器 刃
物 衣類等々、日本製に勝る外国製品は探すのに苦労するほど少ない。我々は
日本及びそれが生み出した工業製品に、もっと自信を持って良いのではないだ
ろうか。その点についての世界向けの宣伝が、まだまだ不足しているのではな
いだろうか。
中国製の餃子に毒物が混入していたと伝えられる。先日「くずきり」をスー
パーで買ってきた。半透明で、乾燥した状態でも、うっとりするほど美しい。
実はそれが中国の製品であった。そのことに気づいた私は、勿体ないとは思っ
たが捨てた。中国製品は、これほどの警戒心を日本人に抱かせている。
国並びに業界は、中国に調査団を派遣して原因究明に当たっているようであ
る。しかしこれが 、「日本人が中国のあら探しをしている」との敵意を中国人
に抱かせないであろうか。
現地調査はしなければならぬ。しかしそれは中国製品を排撃するためではな
く、絶対の安心感、信頼感を作りだして、中国製品をより多く購入できるよう
にするためなのだと言うことを、政府は今の千倍の熱意と経費をこめて宣伝す
べきではないだろうか。すぐれた製品を有しながら、それを外国に宣伝できぬ
我が国の弱さは 、中国製品を回る調査活動にも表れていると私は思うのである 。
平成20年2月25日
狭山ヶ丘通信
第46号
狭山ヶ丘高等学校
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暗記の大切さ(2)
校長
小川義男
国際感覚の重要性が指摘される今日である。食糧自給率 38 %の我が国だ。
豊かな国際感覚なしに生き残っていくことはできない。しかしどのようにすれ
ば国際感覚は育つのであろうか。
今朝の読売新聞に旧ユーゴスラビアが、現在どのような小国に分化されてい
るかが地図で示されてあった。旧ユーゴは、スロベニア、クロアチア、ボスニ
ア・ ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの六ヶ国に分化し
ている。このような事実に対する知識なしに、バルカン半島をめぐる情勢など
論議することができるものではない。
高校生に、
「中国に隣接している国家の名前を挙げなさい」と尋ねたところ、
どの生徒も適切に答えることができなかった。精々北朝鮮、ロシアを挙げられ
る程度であった。この通信を読んでくださる方々も、どのくらいを覚えておら
れるであろうか。
私は校長デスクのガラスの下に世界地図を挟んでいる。毎朝これを見つめる
ことから一日の業務を開始することにしている。その地図によると中国には、
次のような国々が国境を接しているのである。
ロシア
ブータン
北朝鮮
インド
カザフスタン
ミャンマー
パキスタン
ラオス
キルギスタン
アフガニスタン
ネパール
ベトナム
これを見れば、中国がいかに巨大な大国であるかをうかがい知ることができ
る。この大国と円満な関係を維持することなしに、我が国の安全も繁栄も考え
られない。
例の「毒入り餃子事件」を見ても、我が国メディアの報道には、中国の民衆
に対する気配り心遣いがあまり感じられない。私は、このことがさらに一層中
国人の反日感情をかき立てるのではないかと憂慮するのである。
毒入り餃子事件の真相を究明しようとするのは、あくまでも中国の優れた商
品を大量に購入したいからなのであって、その底には日中永遠の友好を願う気
持ちが息づいているのだと言うことを、今の千倍の言葉を以て繰り返すべきで
あろう。このような気配り、心遣いも、中国に対する地理的、歴史的に正確な
知識を保有することによってこそ可能になるのである。
知識もないくせに、国際感覚の重要性を一方的に叫び立てたり 、「詰め込み
勉強」の弊害を一方的に強調することは、極めて危険ではないだろうか。
イスラム教徒の中には、コーランを全部暗誦できる人が少なくないそうであ
る。このような教典を一冊丸暗記している人は、体系的に物を考えることがで
きるようになる。またこのように大部な物を暗記してしまうと、その人の頭脳
には、大量に記憶する経絡が形成されるという。そのことが、次の新たな大量
記憶につながるとも言うのである。
昔アメリカ映画で、新入生に対し教授が次のように語るのを見た。彼は猛烈
に分厚い医学書を重そうに手に取り「この本を覚えてください。大体ではあり
ません。全部を記憶するのです。」
我が国では、知識を覚えるのは罪悪であるかのような雰囲気が形成されてい
ち し つ
る。その実、生徒達は 、「学力とは記憶した知識の総量のことである」と知悉
している。彼らは、期末試験の折にも、大学受験の折にも、問われるのは所詮
記憶した知識の総量でしかないことを悟りきっている。だから「詰め込み教育
否定」の建前とは別に、彼らはせっせと暗記に励むのである。
建前に明け暮れる学校とは別に学習塾も徹底的に知識の吸収を重視する。か
くして我が国には、本音と建前との奇妙な「住み分け」が実現されてしまった
のである。
ゆとり教育は、今や抜本的に検討され直そうとしている。高等学校段階での
学校五日制は、数年内に廃止されることであろう。私が著書「学校崩壊なんか
させるか」で十年前に指摘した通りに事態は進行している。徳育重視を名とし
て、ごり押しされてきた知育軽視、知識軽視の時代風潮も根本的に見直される
ようになるであろう。加工貿易国である日本にとっては、国民の賢さだけが唯
一の拠り所である。そのことを深く自覚し、国家百年の計を確立していかなけ
ればならないと思うのである。
平成20年3月11日
狭山ヶ丘通信
第47号
狭山ヶ丘高等学校
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暗記の大切さ( 3 )
校長
小川義男
歴史に名高い吉田松陰は、幼い頃叔父玉木文之進の厳しい指導を受けた。文之進は松陰
の兵学教育に当たったのであるが、山鹿流兵学、免許皆伝の人物であった。玉木文之進は
自宅で松下村塾を開いた人物である。松下村塾は松陰が初めに開いたものではなく、叔父
玉木文之進の創出になるものだったのである。この玉木文之進の教育は、甘えや妥協を許
さない、極めて苛烈、厳格ななものであった。
玉木文之進の厳しい薫陶を受け、松陰は11歳になったとき、藩主毛利敬親の前で講義
をすることになった。彼は山鹿流『武教全書』戦法篇を朗々と講じ、その講義は、藩主を
はじめ居並ぶ重臣たちも目を見張るほどのものであったという。その日から「松本村に天
才あり」と松陰(大次郎)の名は萩城下に知れ渡ることになる。
11 歳と言えば今で言う小学校の四年生である。当時武士階級の知的水準は高かったか
ら、彼らを感銘させた松陰の天才は驚くべきものだったと言えよう。松陰の天賦の才、刻
苦勉励はもとよりのことであるが、それにしても何が幼い彼を、これほどの天才に育て上
げたのであろうか。
松陰に限らず、当時の教育は素読と手習いを中心とするものであった。素読とは「文章
の意義の理解はさておいて、先ず文字だけを声を立てて読むこと」である。(広辞苑)
江
戸時代の、論語その他漢籍の学習は大部分この方法によるものであった。教師の範読に従
い、生徒は、その口まねをするように音読を行うのである。斉読だから、今で言うコーラ
スリーディングである。
このような、意味内容も分からぬまま教師の口まねをするような教育は、現代の学校教
育においては、ともすれば白い目で見られがちである 。「子どもは教育の主体であって客
体ではないのだから、常にその意味内容を考えながら学ぶのでなければならない」とする
思想が、今日支配的だからである。
しかし子どもは、このような素読を繰り返していく中で、いつしか文章全体を暗記して
しまう。幼いなりに、その意味内容についてもおぼろげに考える。やがて人生経験を積む
中で、その本当の意味を深く洞察するようになる 。「詰め込み勉強」を恐れる余り、古文
漢文の知識もないままに年を取っていった世代は、人生の峠に立って、色々思い悩むこと
があっても、洞察に至る基礎知識がない。悩みの中から深い教訓を汲み取ることもできな
いままに人生を過ごしてしまう。
アメリカとの戦争に敗れ、いわゆる新教育が続いた、この六十年間、知識は創造性を阻
むものであるかのごとく、敵視されがちであった。そのようにして、知識もないが、思考
力も独自性も創造力もない世代が育ってしまったのである。
天才松陰は、その後19歳で、玉木文之進らの後見人を離れ、藩校・明倫館の独立師範
(兵学教授)に就任する。素読で育った彼には、既に確乎たる哲学が確立されていた。素
読の力、また必要な知識を暗記するほど習熟することが、どれほど大切であるかが痛感さ
れるのである。
「新教育」においては、音読そのものも軽視されがちであった。小学校の廊下を歩いて
いても 、どこからも音読の声が聞こえてこない 。学校全体が不気味に静まりかえっている 。
私の小学校時代には、国語では、今とは比べものにならないくらい音読が重視された。授
業の三分の一は朗読、音読に費やされていたのではないだろうか。
だから今でも、小学校六年生の国語の教科書のほぼ全部を記憶している。いつでも直ち
にすらすらと全文を暗唱することができる。
しばしば言うことだが、書き言葉は話し言葉に百倍する豊かさを持っている。話し言葉
に習熟するだけでは、国語の持つ本当の深さを知ることができない。それは読書による以
外に道がない 。それも 、まず最初は音読を中心とするところから出発しなければならない 。
音吐朗々と音読を繰り返す中で、読み言葉が話し言葉のように肉体化していく。このよう
に肉体化された豊富な語彙が、実は読書を底深い部分で支えていくのである。
これもしばしば強調していることだが、読書は面白さと難しさとの競争である。難しす
ぎる本は直ぐに投げ出されてしまう。面白さが難しさを追い越せば、子どもは仕事を言い
つけられても、本を手に、読みながら移動するくらい本に熱中してしまう。要はどれだけ
豊かな語彙を身につけているか、どれだけ読書の底力が身についているかなのである。
文章を書く上でも、音読の繰り返しによって豊かな語彙が肉体化されていれば、筆はす
らすらと運ばれるようになる。
英語も同じである。近頃の高校生は、おそらく中学生もそうなのであろうが、音読を避
ける傾向が強い。英語も言語である。もともとは話し言葉から発生したものである。その
言語を、声に出して反復することを怠れば、英語の力など決して定着するものではない。
そのようにして豊富な単語知識が頭脳に定着して初めて、大学入試のような難問にも対処
できるようになるのである。
「詰め込み勉強」は好ましくないという建前で、知識を軽視しがちであったことが戦後
教育最大の欠陥だったのではないだろうか。
そもそも「詰め込み」という言葉自体が、ずいぶん先入観を込めた表現である。私が知
る限り、戦前の我が国には、大正時代の一時期を除き、あまり使われなかった言葉である
ように思う。
「詰め込み」と言うが、弁当に飯を詰め込むことはできる。しかし人間の頭脳にどのよ
うにして知識を「詰め込む」ことができるのか。
受験生や学習塾は、このあたりの呼吸をよく心得ている 。「詰め込み反対」という建前
は尊重しながら、彼らはせっせと必要な知識を吸収させること、自ら吸収することに専念
するのである。
「ゆとり教育」が今見直されようとしつつあるが、ゆとり教育の本質とは、実は知育に
対する軽視ないし偏見だったのではないだろうか。