【経営学論集第 86 集】自由論題 (53)人間行為力と起業・起業家教育 明海大学 嶋 根 政 充 【キーワード】人間行為力(human agency) ,起業(starting a business),起業家教育(entrepreneurship education), KAE 理論(KAE theory),制度的起業家(Institutional Entrepreneurship) 【要約】「なぜ日本では世界的に起業が少ないのか」の理由として,「起業のキャリアとしての価値の低さ」,「日本 人のリスク志向」 ,「起業自体を持続させる困難さ」が挙げられる。そのうえで,「 『起業家』は自然と生まれ出ずる ものか,つくられるものか?」という命題に関して,分析枠組み構築のために,パイロット調査と理論研究のサー ベイを行った。「日本で起業を増やすにはどうしたらよいと思いますか」という自由回答文の共起分析から,「子供 たちへの教育」 ,「社会的環境」が重視され,「起業経験がない」 ,「女性」ほど「子供たちへの教育」が多く, 「社会 的環境」に帰属させない傾向が強いことがわかった。そのうえで, 「起業家は自然と生まれ出ずるものか,つくられ るものか?」という問いに関連して。山城章の「KAE 理論」や「制度的起業家」と,自らの目標に向けて積極的に 意思決定を行い,自らの生活を組織化する「人間行為力」の起業家教育につながる概念比較を行った。 1.日本の起業をめぐる実態 日本は世界的に起業が少ないし,ベンチャー促進優遇策を実施して「起業を増やそう」と政府が成長戦 略を提示して制度を整えても,実際に今後起業に結びつくかどうかはわからない。これまでもベンチャー ブームは何度か起き,現在は第 4 次ブームとも言われるが,これまでは一過性で萎んでしまっている。文 化的な違いやリスクに対する感度など,他国との違いがあるために,日本の開業率が米国や英国の水準の 半分程度にとどまっているのである。2013 年の GEM(Global Entrepreneurship Monitor)が行った国際的 な起業に関する意識調査の結果によると,米国の起業率は 9.3%,英国が 7.1%,フランスでは 5.3%であ るのに対し,日本では 3.9%であるとされる。起業希望者は減る傾向で,若干上向き傾向にあるものの創 業者の数はほぼ横ばい,廃業率は高まっている。 「なぜ日本では世界的に起業が少ない(日本の開業率が世界的にみても少ない)のか?」 このことに関して,2014 年の中小企業白書では, 「我が国は,欧米諸国と比べて,周囲の起業家との接 点が少なく,事業機会や知識・能力・経験も乏しい」 。さらに, 「起業家の地位や職業選択に対する評価も 低く,自営業者を選好する者の割合や起業家精神が低い」ことが,我が国の開業率が欧米諸国の半分また はそれ以下であることの一因であると推察している。 また,中小企業庁が三菱 UFJ リサーチ&コンサルティング(株)に委託した「日本の起業環境及び潜 在的起業家に関する調査」 (2013 年 12 月)によると,我が国の開業率が低い理由として考えられる課題と して,下記の 3 点が挙げられている。 第 1 に起業意識が挙げられ,「教育制度が十分ではない」, 「安定的な雇用を求める意識が高い」 , 「起業 を職業として認識しない」といったことがあり,第 2 に起業後の生活・収入の不安定化が叫ばれ, 「生活 が不安定になる不安」 , 「セーフティーネットがない」 , 「再就職が難しい」などが挙げられている。第 3 に, 起業に伴うコストや手続きであり,「起業に要する金銭的コストが高い」,「起業にかかる手続きが煩雑」 (53)-1 といった内容が上位に挙げられる。一言でいえば, 「起業家のモデルなし」で「現状満足」も多いために, 不安定な生活を望まない背景があるのだろうか。 図1 起業の担い手の推移( 『中小企業白書』2014) さまざまな既存の調査データを横に並べて整理しても,主に 3 つの原因に大別されると考えられる。一 つは, (1)世間体の意識の中でそもそも「起業」の価値が低く見積もられ,キャリアの選択肢としてそも そも認知されない。次に, (2)起業自体のリスクが高いとみなされ,自身の考えるリスクを超えてまで起 業に結び付けようとしない。そして三つ目として, (3)新設会社の創業 10 年後の生存率は 20%以下とい われているが,起業自体が長く続かない。 (1)に関していえば,これは日本社会全体の中の問題と考えなければならない。 「起業に対する意識そ のものが低い」 , 「職業としての起業の社会的価値が低い」ということである。その背景には,“「周囲に起 業をしている人が少ない」”,“「起業をして成功をしている人を見たことがない」”ために,起業自体が環 境的に認識されないことがある。 (2)に関していえば,個人として行う意志はあっても,周囲の反対やメンター不在のなかで踏み切れ ないという要因が働いていると考えられる。広い視野でみると,日本人はリスクを回避する傾向があり, 認知バイアス(他人を見て育つネガティブ志向の日本人は,“コンパラティブバイアス”や“損失回避バイアス”等 の社会心理学的要因が働く?)の影響が考えられる。 (3)に関していえば,ある種の起業に対する見通しの甘さや認識の甘さがあるために,結果として長 く続かないことにあると考えられよう。 しかし,起業に対する制度的支援は整いつつある。2006 年に会社法が施行されたことにより,資本金 が 1 円でも会社が設立できるようになっているし,手続き上もワンストップで創業支援をしてもらえる仕 組みもある。公的融資はもちろん,クラウドファンディングのようなこれまでにない支援の仕組みも整い つつある。 したがって, 「産むは易く,育てるのは難しい」環境にあるといわれる。 そこで,起業の仕組みが整いつつある現在,起業社会の実現のために何が必要なのか。 「日本の起業割合が世界で最も少ない国の一つである要因」は,前述のように,起業そのものに対する リスク意識が高いかどうかにあるが,利益の追求を志向する促進焦点は,損失の回避を志向する予防焦点 よりも,リスクテイキング志向,長期的展望,コストよりも利益の重視などを高めることが指摘されてい (53)-2 る。要するに,われわれの生活が「起業」的であるかどうかという原点に立つことで,職業としての起業 は価値が低いかどうかが決定してくるわけである。 そこで第 1 に,「われわれは,そもそも起業をキャリア目標として考えたことがあるだろうか」,「キ ャリアモデルとしての起業を考えたことがあるか」という問題意識が生じる。そこで本稿では,そもそも (1)起業というキャリアとは何か, (2)起業と起業家教育の関係はどうなっているのか,そのうえで(3) 起業家教育をどのような視点で捉えればよいかという問題を取り上げたい。 日本の調査・研究では,実態の記述とそれに関する意識の表層的な研究にとどまり,その根本的な問い からの記述があまり見られない。すなわち,成功した企業家や失敗した企業家の分析にとどまらない,大 きな一般の広い層から起業を捉える必要性(起業人と非起業人,起業で成功した人と断念した人等といった具合) に細分化していくことである。それにより,非正規社員のなかで起業向きか否かも明らかになってくるで あろう。 近年は,開業に対する垣根が低くなり起業自体も増加しつつある。ただ,起業希望者(あるいは胚胎期の 準備者)がいても,それがそのまま創業に結びつかないということもあろうし,創業に関わる教育を受け 起業したが,スタートアップから 3 年でリタイアとか,資金繰りに苦しみ,結局破産してしまったといっ た事象がしばしば見られる。今回は「起業志向」の有無に着眼し,全体としての起業にどのようにつなげ ていけばよいかを論じることとする。 そこで,先般の熊本学園大学での全国大会での発表でいただいた質問のうち,そのうちの,特に 2 点に 関して一定の答えを示すものにしたい。 (a)「起業家」は自然と生まれ出ずるものか,つくられるものか? 「起業は育てて増えるものかどうか?」,「教育によって,起業家を増やしていけるように変えること ができるものかどうか?」,「そもそも起業に教育は必要か?」という根本の問いがある。松下幸之助や 本田宗一郎が起業家教育を受けていたかといえばそうではないが,他方で著名米国大学の NBA を取得し た起業家として,ソフトバンクの孫正義や楽天の三木谷浩史ほか現代のベンチャー企業家が多数いること も知られている。 出生の段階から数奇な人生をたどったスティーブ・ジョブズや,ビル・ゲイツなどの 海外の企業家も,また然りである。言い換えれば,「ヒューリスティックな帰納法による教育効果」V.S. 「制度による教育効果」とでも言えようか。 その問いに対して,私たちは 3 つの考えを示すだろう。 1 教育によって起業を増やすことができる。 2 教育によって起業を増やすことはできない。 3 ある面では教育効果はあるが,そうでない面では教育効果は低い。 そのうえで, (b)「起業家教育」を“マインドセット”と“スキルセット”に分けた場合,マインドセ ットとして効果のある要素は何か? リスクとの向き合い方か?,クリエイティビィティか?,人脈?, 誠実さ?,道徳的態度?などといった具合である。この 2 つ目の問いは,スペースの関係上別稿にて記す ことにしたい。 本稿では,すでに日本の起業の現状に関しては,『中小企業白書』などを利用して現状を述べたが,更 に筆者自身が行った WEB 調査(仮説やモデルの構築に向けたプレ調査)と,先行研究のうち,考え方の枠組 みを固める理論研究について整理し,展開していくことにする。 2.一般人の起業や起業家教育の取り組みに対する意識 筆者が 2014 年 7 月に行った約 10,000 人を対象とした WEB 調査によれば,次のようなことが明らか になっている。ここではそれの自由記述の一部を紹介する。 設 問:日本で起業を増やすにはどうしたらよいと思いますか。 教育面を中心に自由にお書きください。 回答数:10,066 件 有効回答:5,533 件 (「わからない」,「特になし」などの回答を除外し,品詞ごとに出現頻度の高い語を抽出) (53)-3 図2 一般人の考える日本で起業を増やすための要素(自由記述) (共起ネットワーク図は,kh-corder を利用) この共起分析は,言葉同士の結びつきの強度から用語の関連性をネットワーク化して強さに応じて網の 目でつなぎ,タイプ化していく内容分析の一方法である。これを基に,①子供たちへの教育,②社会人へ の教育,③人間性について,④社会的環境,⑤その他の 5 つに分けて分析を行った。 その結果,以下のような傾向が認められることがわかった。 ・子供たちへの教育を最重視し,社会的環境がそれに続く。 ・「起業経験がない」,「女性」ほど「子供たちへの教育」が多く,また女性は男性と比して「社会的環 境」は少ない。 表1 共起図から読めるタイポロジー カテゴリ 回答数 構成比 ①子供たちへの教育(幼児~高校生) 2,439 44.1% ②社会人への教育 1,034 18.7% 676 12.2% 1,991 36.0% ③人間性について(チャレンジ・行動・精神面) ④社会的環境(経済・資金・支援・情報) ⑤その他 429 合 計 6,569 (53)-4 7.8% - 図3 起業状況からみた起業家教育の内容①(起業の有無別) 30.4% 現在起業している 16.6% 34.3% 現在起業準備中である 29.6% 過去に起業経験がある 14.0% 13.5% 38.0% 起業経験はない 0% 10% ①子供たちへの教育 13.1% 20% 13.3% 30% 40% 10.1% 30.1% 13.5% 15.7% ②社会人への教育 29.7% 8.4% 33.6% 9.9% 50% 30.2% 60% ③人間性について 9.9% 70% ④社会的環境 6.2% 80% 90% 100% ⑤その他 図4 起業状況からみた起業家教育の内容①(男女別) 男性 33.5% 女性 15.0% 41.1% 0% 10% 20% ①子供たちへの教育 9.9% 16.6% 30% 40% 50% ②社会人への教育 33.9% 10.7% 60% ③人間性について 7.8% 26.4% 70% ④社会的環境 80% 5.2% 90% 100% ⑤その他 3.教育か,境遇や状況に影響を受けたマインドか 松下幸之助もスティーブ・ジョブズも起業家教育を受けてきたわけではない。自己の経験や学習を発展 させるなかで,境遇や状況に応じて自身の起業センスを磨いてきた。これを「ヒューリスティックな帰納 法による教育効果」とでも名付けておこう。そのため,「起業家教育」はそもそも必要なのかという根本 的な問いが投げかけられる。それでは,果たして「起業家教育」は必要なのか。このことを考えるに当た って,「起業家教育」と「起業教育」とを分けて考える必要がある。「起業家教育」は“アントレプレナ ーシップ”を身につけるためのもの,「起業教育」は,「起業」に至るまでのスキルやノウハウ,能力の 向上,知識を学ぶためのスキルセット中心のものといったくらいに定義しておこう。そもそも「起業家精 神(アントレプレナーシップ)」を学ぶためには,子供の頃からの教育にあるとみなすことも考えられるが, 後者は必要に応じて後天的に学ぶことも可能である。後者は短期的に解決可能であるのに対して,前者は 長期的な観点から育成が必要で,ある種のキャリア教育の一環としても捉えられる。 もしも,フォーマルな起業家教育を受けていない成功した起業家の成功体験から,必要な行動特性(コ ンピテンシー)を導けるとしたらどうであろうか。その行動特性を磨くための手法を実践すれば実際に起 業家になれるのだろうか。いわば,特性論としての起業家論は古くから調査・研究がなされてきたが,こ の分析から抽出されてきた要素・経験から起業家に結びつくマインドを醸成できるのだろうか。ただ,松 下幸之助や本田宗一郎といった著名な起業家の伝記を読んで,それによって起業家が増えていくかどうか は疑わしい。 これに関連して,「人間行為力」と呼ばれる概念を後で解説するが,この「人間行為力」を説明する前 に,それと比較される概念と考えられる「KAE 原理」と「制度論的起業家論」について述べ,これらを 比較した対照表を表2に示す。 (53)-5 4. 「人間行為力」 (ヒューマン・エージェンシー)を軸にした,発達的起業家教育論の提唱 4-1.KAE 原理 辻村(2009)によれば,「KAE」原理というのは,一般の経営学を学んでいる人々には聞き慣れない言 葉であるが,「経営道」という実務家である経営者が守るべき道筋ややり方 (学問・技芸)であり,「その 目指すところ=経営の『あり方』 『理念』とそこに至る過程の追求」 ,そして「その具体的内容=自己の経 験(E)と利用可能な知識(K)を踏まえて自ら開拓し能力(A)を高める,すなわち自己啓発のこと」で あるとし,経験と知識の積が能力であるという。自己の経験(E)と利用可能な知識(K)を踏まえて自ら 開拓し能力(A)を高める,これが山城章(1970)が提示した実践経営学であるという。また,経営者は 経営者論が好きであって,例えば「到知」のような人間学を学ぶ雑誌もその点にフォーカスを当てている のであろうと思われる。 さらに辻村は,その研究パラダイムとして,「①誰が,②誰に,③何を,④いかに教えて,⑤何を習得 させ得るか」となるものを「経営教育学」と称し,「経営実践の教育」実践についての学と,二次元の実 践性を有する学であるとする。そして,中心的命題として「『経営教育学』が経営者の育成を目指すので あれば, 『経営学教育』ではなく, 『経営手腕という個別総合的な経営者アートを学習者に教育するための, 方法についての,指導者向けの学』であらねばならず,その質は『経営手腕』概念にいかに迫るかという ことである」と捉える。そのうえで,経営手腕と「既存の経営理論の適用行為」とは似て非なるもので, 前者は,経営者が苦悩を伴いながらも非再現的な全体最適を目指して自らの経営理論(持論)を築く, 「個 別総合」的行為と理解されなければならない,とする。 それに対して,森本(2006)はその考えに共鳴しつつも, 「具体的な教育方法論を十分に示していると は言い難い」とし,5 つの思考様式(mindset):a.省察,b.分析=対人管理=分析する心構え,c.世間 知,d.協働,e.行動の重視,の提示をしている。このことは,「経営教育学」が事前に対象者が定まっ ていて,指導者のための“学”であるという。 しかし,稲盛和夫の人生・仕事の成果の方程式に当てはめてみると,人生・仕事の成果=考え方×熱意 ×能力であって,この場合の KAE は,能力でマインドセットというよりは手腕であり,ある種のスキル セットである。また,KAE 原理の統制範囲・守備範囲は,そこに社会なり,文化なり,法則,なりとい った要因を持論のなかで特殊化していて,ある種の個別のケース・スタディのようなものであるというこ とになるのではないか。 さて,これらの考え方を起業家教育になぞって考えてみるが,現在の MBA 教育で欠落している点を補 完している点は評価できる。他方で,指導者の個別総合的行為を示さなければならず,すでに起業経験を 有しているものにとっては有益であるかもしれないが,正直,松下幸之助の「水道哲学」がこれこれこう だ…とか,ジョブズのスタイルはゲイツと違うといっても,これから起業しようとする者にとってはベン チマークにもならないのではないか。ただし,すでに実践を経験している起業した人たちにとっては,起 業の個別経験は有意義に働くものと思われるし,そこではむしろトレーナーがテレーニーにどのようなテ キストをつくるかのメタレベルでのスキルを必要とする。 4-2.制度論的起業家論 制度派の見方もさまざまだが,ここでは近年徐々に研究されてきた「制度的起業家」論を取り上げたい と思う。 制度とは,Meyer and Rowan(1977)によれば, 「制度とは正当性を帯びた『規範として社会的事物と して捉えられるがゆえに,われわれに眼前する制度的環境として,行為するときに常に考慮に入れるべき 存在であると強調してきた。しかし,制度と主体とは必ずしも分離できるものではなく,むしろ相互に影 響しあっているものと考えられる。 そこで,「制度的起業家」とは,特殊な動機と能力を持つ制度から超越した主体ではなく,諸言説を前 提とした制度的実践を通じて,動機と機会を獲得し,自らの正当化と資源動員を図る主体であると捉え直 すことができるとする。また入江(2015)は,法規制がそのベンチャー企業の制度的障壁になるどころか, 資源になりえることを示している。逆に強い意志やコミュニケーション能力は必ずしも結果につながるも (53)-6 のではないし,必要条件ではあっても十分条件とはいえないと考えている。 高橋(2007)によれば,制度的アプローチは,埋め込みアプローチと制度的起業アプローチという二つ のサブカテゴリーで構成されているとする。前者は,埋め込まれた共有する規範を軸に,特定の地域や集 団において,起業が連鎖的に生じる現象について,ミクロ(動機)とマクロ(社会的コンテクストの構築)の 両面から捉えた点で,非常に優れた分析枠組みであると主張する。他方で,制度的起業アプローチは,新 技術/新サービスの普及のために行政や学会,教育機関など顧客や業界関係者に強い影響力を持つ制度当 局との関係作りを通じた正統性の構築プロセスが,制度的起業という概念の下で描かれるもので,このア プローチは,業界レベルでの制度の生成や変更(時には崩壊)と起業との関係を捉えた点で,きわめて高 い理論的貢献を企業家研究にもたらしていると指摘している。ただし,形成された歴史的経緯や利害など の因果を忘却することによって,独自の論理を持つに至った社会的事物としての制度と,研究者によって 説明される「主体に共有された認知的な因果」との論理的ギャップが存在するとされる。高橋自身,人々 の主観的世界を捉えていく方法論の開拓の重要性を指摘している。そして,「制度的アプローチは,起業 家の意思決定行動や個人の意思決定プロセスを認知構造や行動を分析するだけでは,マクロレベルのイノ ベーションを説明し得ないという問題意識から出発したが,個人レベルの人々が制度をどのように捉える かの視点まで踏み込む必要性がある」ことを指摘している。例えば,「1 円でも起業できるサポートのあ る手厚い環境が速やかな活動を促すのとは対照的に,認知されて機会があって起業に動かない事態も考え られる。“制度的起業家”論も認知主義的行動に依っているとみられるが,一方で行動の側面にフォーカ スを当てて,資源としての制度を強調している。 「 『制度的起業家』論は,そもそも成功した起業家が“制度”を資源として利用した後づけではないの か」という素朴な疑問が浮かび上がってくる。制度的キャリアの軌道は,「制度」という仮構物から除外 された“制度的非企業家”の説明がどこまで可能か,あるいは,“非制度的企業家”の存在は考えられるの かという問題に行き着く。 しかしながら,制度による実践の学であって,制度を仮構することによる制度ロジックがつくり出す実 践レベルでの多様性と軌道に着目している点で,その意義は大きい。 4-3.人間行為力(ヒューマン・エージェンシー) KAE 原理や制度的企業家論をみてきたが,残念なのはキャリアに対する時間意識,あるいは,経験・ 時代精神や文化を背景としてそれらが成立している点を忘れている点にある。「若い頃からの経験や学習 の蓄積が,主客を一致させた起業意識にどのように関わるのか?」という根本的な問いである。ここで登 場してくるのが,「起業」と「起業家教育」を媒介する「人間行為力」 (ヒューマン・エージェンシー)とい う概念である。 その前に,その流れを組む,杉谷(2012)による社会的認知理論(Bandura 1986)の説明である。「人 間の適応と変容の過程においては,認知的,代理的,自己調整的,自己内省的な要因が大切な役割を担う。 この相互決定論の概念が社会的認知理論の核に存在するのである。これは,個人要因(認知,感情,生物学 的事象),行動要因,環境要因が相互作用を生み出し,相互に規定し合うという前提に基づいている概念で あり,「結果期待」(その行動がどんな結果を生み出すか)と「自己効力感」(その行動をうまくやれる自信) からなる。期待理論はその代表例 であるが,短期的な起業行動にも見られるものである。 Bandura(2006)は,社会的認知理論の改良版の“human agency”のなかで,より長期的な環境との 共進化を“entrepreneurial intention and self-efficacy”として,多様な生活・文化システムを伴ったヒ ューマン・エージェンシー論を展開している。ここで登場する“ヒューマン・エージェンシー”(人間行為 力)の研究は,ライフコース研究をはじめとして,これまでの研究の蓄積がある。 嶋崎(2011)によれば,「個人や集団は,自らの目標に向けて積極的に意思決定を行い,自らの生活を 組織化するが,そうした力を人間行為力(ヒューマン・エージェンシー)であるとする。これは,個人のそ れまでの経験や,個人の能力や努力,意図などの影響・作用を指している。種々の外的要因からの影響を 強く受けつつも,その相互作用のなかで自らの人生軌道をデザインし,それを追及するものであると捉え られている。筆者がさまざまな起業家インタビューをしたり,起業家教育の一環として学生にインタビュ ーをさせた時に決まって出てくるのが, 「危機」とその後の「危機の乗り切り方」である。人間行為力は, (53)-7 特に危機的場面,すなわち制度化の程度が低い場合に,個人が持っている物質的資源,社会的資源,個人 の能力(短期的な意思決定をする際に,長期的な計画に合致するように合理的な行為を選択する能力)に依存する からであるという。筆者の起業家インタビューの分析(2011)によれば,自殺未遂や火事,病気といった 負の遺産が精神的な意味でも成長させ,視野が拡がり,起業や新たな事業を起こす契機になるという。こ れは,前述の「ヒューリスティックな帰納法による教育効果」であって,フォーマルな起業家教育とは異 なるプロセス・ルートで形成される。メソッド型の制度的アプローチから導き出せる起業家教育とは対置 されるが,プロセス型の人間行為力アプローチから導き出せる起業家教育(アントレプレナーシップ生成プ ログラム)の必要性を示唆する。具体的には, 「知的投資」 (自己に対する内省性と自己認知能力,環境選択能力) , 「自信」 (自己に対する信頼感・感情コントロール・社会的知性), 「信頼性」(計画性を維持するに当たっての動機 づけとなる,さまざまな状況における行為の対処能力・弾性)の 3 つである。 このアプローチは,起業におけるジェンダー問題にも応用できる可能性も示唆している。例えば「人間 行為力」をめぐるジェンダー比較として,男性と女性とで人間行為力(ヒューマン・エージェンシー)に差 があった場合,なぜ,男女差が生まれるのかという点である。 Fiona Wilson(2007)らによれば,初等教育時では男性の方が起業志向性が高く女性の方が低いが, MBA の起業プログラム受講者では,修了後女性の方が高くなり,実際に起業に結びつく割合が高いとい う。筆者の調査結果も起業経験のない女性が子供たちの教育を重視する傾向にある。そもそも MBA の起 業コースで学位を取得しようとする女性は,男性以上に意識が高いがために自己効力感も高いということ も考えられるが,女性の方が若年時の計画的能力が重視されない傾向にあるため,メソッド型の MBA と いう制度を利用することで,正当性を獲得しているとも考えられるのである。ここでは,「女性は男性よ りも,起業志向は低いが教育効果は高い」という仮説も導き出せる。 表2 これまでの特性論 KAE 原理 制度的起業家論 ヒューマン・エージェンシー 焦点 行動特性 経験・持論 制度とのダイナミズム キャリア 対象 成功した経営者 経営教育者 企業家と制度 起業予備軍 クローズド クローズド オープン オープン 主客分離 主客分離 主客未分離 主客未分離 △ △ ○ ○ 環境に対して 主体と客体 起業家教育への応用? James Surowiecki(2015)は,「起業家は『豊かになるために何が必要か』だけでなく,『どのような 人生を送りたいか』を考える必要がある」と説く。キャリア教育の基本は「どのような未来をつくってい くかということ」,そして「自分で目標を立て,仲間と協調しながら,何かの業をなすこと」であるとい う。そのなかで必要な要素は,繰り返しになるが,「そもそもキャリアとして認知されているかどうか?」 ということにつながる要素であり,起業をした人や起業して失敗した人の経験を分析しただけでは語れな い。 これは,病気に対する診察と似ているかもしれないが,さまざまな既往歴やライフスタイルと制度を含 む環境との相互作用のなかで,今後は,統合的なモデルや分析枠組みの構築に向けて,これらの実態や意 識,理論的枠組みを踏まえて構築し,研究を進めていきたい。合わせて,MBA 教育に代表されるフォー マルな起業家教育の効果の比較については,別稿に譲ることにしたい。 <参考文献> Bandura, A. (1986) Social foundations of thought and action: A social cognitive theory, Englewood Cliffs NJ: prentice-Hall. ―――― (1989) Human agency in social cognitive theory, Am Psychol, 44(9): 1175-1184. ―――― (2006) Toward a Psychology of human agency, Perspectives on Psychological Science, 1:164-180. James Surowiecki(2015)「イノベーションと起業家」『フォーリン・アフェアーズ・リポート』株式会社フォーリン・ アフェアーズ・ジャパン。 (53)-8 Meyer, John W. and Rowan, Brian (1977) ‘Institutionalized organizations: Formal structure as myth and ceremony’, American journal of sociology, 83: 340-363. Obschonka, M. (2013) Entrepreneurship as 21st Century Skill: Taking a Developmental Perspective Psycho-social Career Meta-capacities; Dynamics of contemporary career development, Switzerland: Springer International Publishing, 293-306. Wilson, F., Kickul, J. and Marlino, D. 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