人格形成を促すための運動部活動の役割 ―野球指導者の

平 成 26 年
12 月
平 成 26 年 度 卒 業 論 文
人格形成を促すための運動部活動の役割
―野球指導者の事例から探るー
国士舘大学文学部教育学科初等教育専攻
11‐ 5c033
高橋
修平
指導教員
河野
寛
先生
6日
概要
運動部活動は、生徒のスポーツ活動と人間形成を支援するものである。しかしながら、
体罰のような様々な問題点が存在しているのも事実である。本研究は、部活動における部
員 数 、設 置 率 の 高 い 野 球 を テ ー マ に 、プ ロ 野 球 の 名 監 督 3 人 の「 人 物 像 」
「野球界に残した
実績」
「 監 督 と し て の 理 念 や 指 導 法 」を 比 較 し 、運 動 部 活 動 の 指 導 者 の 役 割 や あ る べ き 姿 に
ついて明らかにすることを目的とした。その結果、以下のことが明らかとなった。
・野 村 克 也 氏 は 弱 い チ ー ム が 勝 つ た め に は 、頭( 知 恵 )を 使 う べ き だ と い う 考 え の も と で 、
自分の理論を選手に植え付けようとした。
・ 落 合 博 満 氏 は 選 手 た ち を 迷 子 に し な い た め に 、「 日 本 一 に な る 」 と い う 成 果 論 と 、 12 球
団で最も厳しい 6 勤 1 休のキャンプなどで方法論を示した。
・権藤博氏は選手をプロとして扱い、扱う以上は自主性に任せ、任せる以上はダメだった
ら責任を取ってもらおうとした。
本研究から、指導者のあるべき姿は「選手を同じ方向に導く意識改革を通じて、選手と
の信頼関係を築き上げ、人間的な成長や技術的な進歩に貢献できる人物」であることがわ
か っ た 。さ ら に 人 格 形 成 と い う 観 点 か ら「 選 手 が 自 立 し た 人 生 を 送 れ る よ う に 、
“ 思 考 ”を
始めるきっかけを与え、自分で物事を考え、判断する大切さに気付かせることができる人
物」が求められることも明らかとなった。
目
次
はじめに
第 1章
・・・1
中学校の運動部活動の役割と問題点
・・・3
第 1節
運動部活動の基本的意義
・・・3
第 2節
生徒にとってのスポーツの意義
・・・4
第 3節
運動部活動における問題点
・・・5
第 2章
代表的な野球指導者の特徴
第 3章
代表的な野球指導者の比較
・・・8
・ ・ ・ 18
第 1節
人物像
・ ・ ・ 18
第 2節
野球界に残した功績
・ ・ ・ 19
第 3節
監督としての理念や指導法
・ ・ ・ 20
第 4章
運動部活動の指導者としてあるべき姿
・ ・ ・ 26
第 5章
人格形成を促すための指導者の役割
・ ・ ・ 30
終わりに
・ ・ ・ 33
引用文献、参考文献
・ ・ ・ 35
謝辞
・ ・ ・ 35
はじめに
人はこの世に命を授けられて生まれてくる。そして、子どもから大人へと成長し、その
うち誰しもが幸せを望んで生まれてきたと気付くようになる。幸せの要素というものは人
それぞれ違うと考えられるが、
「 健 康 な 体 」で あ り 続 け る だ け で も 幸 せ だ と よ く 言 わ れ た り
する。特に、歳を取れば取るほど、その重要性は増してくる。健康な体を維持し活力ある
生活を送るために、
「 ス ポ ー ツ 」を し て 体 を 動 か す 習 慣 を 付 け る こ と は 極 め て 重 要 な こ と で
あ る 。し か し 、社 会 人 に な る と 、多 忙 に な っ て 時 間 に 制 約 が あ る 可 能 性 が 高 く 、
「スポーツ」
を す る 機 会 は 決 し て 多 く は な い (1)。
では、スポーツをしないと自分にどんな悪影響が及ぶのだろう。一つは、肥満の原因 に
なったり、生活習慣病(動脈硬化、高血圧、心臓病など)という病気のリスクが高まった
りすることが挙げられる。また、仕事の効率が悪くなったり、うつ病や精神疾患などの心
の病に陥ったりすることもある。さらには、疲れやストレスを感じやすくなってしまう こ
ともある。このように、運動不足が原因で様々な悪影響があることが分かる。運動 をしな
いと健康な体を維持することもできず、逆に体や心の病気が起こるリスクが高まる。しか
し見方を変えれば、定期的に運動をすることで、病気のリスクを軽減できると捉えること
が で き る ( 2)。
社会人にとってのスポーツ習慣の重要性と運動不足がもたらす問題点 について触れてき
たが、そもそも学生時代のスポーツ習慣はどうだったのだろうか 。幼少期、小学生の頃か
ら、地域のクラブチームや習い事でスポーツを行ってきた人もいるが、中学の部活動に入
部して、本格的にスポーツを始めた人も多いと考えられる。文部科学省の運動部活動の在
り 方 に 関 す る 調 査 研 究 報 告 に よ る と 、 全 体 で 73.9% ( 男 子 83% 、 女 子 64.1% ) の 生 徒 が
何 ら か の 運 動 部 活 動 に 所 属 し て い る と 報 告 し て い る (3)。約 4 人 中 3 人 の 生 徒 が 運 動 部 活 動
に所属し、その数の多さからも分かるように、部活動は生徒にとって身近な存在だと言え
る。
海外の青少年スポーツ活動に目を向けてみると、地域のクラブチームが青少年スポーツ
の中心になる国が多く、学校の部活動がない国も珍しくない。また、日本のように学校の
部活動が中心となる国は実は少数で、例えば韓国や中国がそれに当たる。しかしながら、
二つの国もごく少数のエリートしか部活動に参加できず、規模自体は日本に比べてはるか
に小さい。このように、海外では必ずしも部活動を重視する国ばかりではなく、ドイツや
1
北欧など地域のクラブチームが青少年スポーツの中心になっている国もある。 また、部活
動が盛んな国でも規模が小さく、それほど活発ではないことも分かる。
以上を踏まえると、青少年スポーツの中心が学校の運動部活動にあり、 かつその規模
が 大 き い 日 本 は 、 国 際 的 に 見 る と 珍 し い 国 な の で あ る 。で は 、日 本 で 青 少 年 ス ポ ー ツ の 中
核を担っている運動部活動がどのような役割を果たしていて、生徒にとってどのような意
義があり、そこにはどのような問題があるのかを次章で探っていく。さらに、本研究にお
いて、日本の青少年スポーツ活動を支え、その発展に注力を注いでいる運動部活動の指導
者の役割やあるべき姿を明らかにしていく。
2
第 1章
中学校の運動部活動の役割と問題点
第 1節
運動部活動の基本的意義
人 の 人 生 や 寿 命 と い う も の は 、近 年 医 療 技 術 の 発 達 な ど に よ り 著 し く 伸 び て い る( 4)。
一 般 的 に 、 男 女 共 80歳 前 後 ま で 生 き 延 び る こ と は 、 普 通 の こ と に な り つ つ あ る 。 そ の 長 い
人生の中でも、人には発達段階があり、乳児期、幼児期、遊戯期、児童期、青年期、初期
成 人 期 、成 人 期 、お よ び 老 年 期 の 8つ の 段 階 に 分 け ら れ る 。そ の 中 で も 12歳 頃 ~ 22歳 頃 ま で
の期間に当たる青年期は、心身ともに大きな変化を迎える。
その青年期の前半である中学校期は、子どもから大人へと移り変わる境界線であり、身
体的成熟だけでなく、人間形成から見ても大切な節目である。この時期に、豊富なスポー
ツ経験を持つことが、その後のライフステージにおけるスポーツ習慣の形成に大きな影響
を及ぼすものと考えられる。また、中学校期は、親しい友人や仲間を積極的に求め、種々
の活動をともに行う中で楽しさを経験する時期である。そのような時期であるため 、学校
内外を通じて、興味・関心等にあった様々なスポーツを体験したりして、スポーツに関す
る理解を一層深め、スポーツ習慣を形成することが期待される。
このようなことから、学校教育活動の一環として行われる運動部活動は、スポーツに興
味と関心を持つ児童生徒が、教員等の指導の下に自発的・自主的にスポーツを行うもので
あり、より高い水準の技能の修得や記録に挑戦する中で、文部科学省は下記のような様々
な 意 義 や 効 果 を も た ら す も の と 発 表 し て い る ( 5) 。
・スポーツの楽しさや喜びを味わい、生涯にわたって豊かなスポーツライフを継続する資
質や能力を育てる。
・体力の向上や健康の増進につながる。
・保健体育科等の教育課程内の指導で身に付けたものを発展、充実させたり、活用させた
りするとともに、運動部活動の成果を学校の教育活動全体で生かす機会となり、他の生
徒にも広めていくこともできる。
・自主性、協調性、責任感、連帯感などを育成する。
・自己の力の確認、努力による達成感、充実感をもたらす。
・互いに競い、励まし、協力する中で友情を深めるとともに、学級や学年を離れて仲間や
指導者と密接に触れ合うことにより学級内とは異なる人間関係の形成につながる。
ま た 、 中 学 校 学 習 指 導 要 領 第 1章 総 則 第 4の 2で は 、 「 (13) 生 徒 の 自 主 的 、 自 発 的 な 参 加
3
により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向
上や責任感、連帯感をゆっくりと養い育てること等に資するものであり、学校教育の一環
として、教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際、地域や学校の実態に応
じ、地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運
営 上 の 工 夫 を 行 う よ う に す る こ と 」 と 述 べ ら れ て い る ( 6) 。
このように、運動部活動は生徒のスポーツ活動と人間形成を支援するものであることは
もちろん、その適切な運営や指導は、生徒の楽しい学校生活を保障し、生徒や保護者の学
校 へ の 信 頼 感 を よ り 高 め 、さ ら に は 学 校 に 一 体 感 が 生 ま れ る も の で も あ る 。 ま た 、各 学 校
の教育課程での取組と一緒になって、学校教育が目指す生きる力の育成、豊かな学校生活
を実現させる役割を果たしていると考えられる。
第 2節
生徒にとってのスポーツの意義
近年、社会の様々な分野において、技術の高度化、情報化等の進展が著しく、生活の利
便化など、私たちに恩恵をもたらしている。しかしその反面、生徒を取り巻く生活環境の
変化によって、日常生活における身体的活動の機会や場が減少している。また、生徒の意
識や価値感の変化、人間形成に必要な社会性、仲間同士での思いやりや忍耐力等が失われ
る な ど 、生 徒 の 心 と 体 の 健 康 を め ぐ る 様 々 な 問 題 が 生 じ て い る( 5)。こ の よ う に 、社 会 が
発展する中、生徒にとってのスポーツを行う環境は必ずしも整っているわけではなく、 失
われているものも多いことが分かる。
文 部 科 学 省 の 「 運 動 部 活 動 の 在 り 方 に 関 す る 調 査 研 究 報 告 書 」 に よ る と ( 5) 、 ス ポ ー
ツは、スポーツ基本法に掲げられているとおり、世界共通の人類の文化であり、人々が生
涯 に わ た り 心 身 と も に 健 康 で 文 化 的 な 生 活 を 営 む う え で 不 可 欠 な も の と さ れ て い る 。特 に 、
心身の成長の過程にある中学校や高等学校の生徒にとって、体力を向上させるとともに、
他者を尊重し他者と協同する精神、公正さと規律を尊ぶ態度や自制心を培い、実践的な思
考力や判断力を育むなど、人格の形成に大きな影響を及ぼすものである。運動部活動にお
いて生徒がスポーツに親しむことは、学校での授業等での取組、地域や家庭での取 組と一
緒になって、スポーツ基本法の基本理念を実現するものとなる。
ス ポ ー ツ 基 本 法 ( 平 成 23年 6月 24日 法 律 第 78号 ) の 第 二 条 の 2に は 「 ス ポ ー ツ は 、 と り わ
け心身の成長の過程にある青少年のスポーツが、体力を向上させ、公正さと規律を尊ぶ態
度や克己心を培う等人格の形成に大きな影響を及ぼすものであり、国民の生涯にわたる健
4
全な心と身体を培い、豊かな人間性を育む基礎となるものである…(以下略) 」とある。
ま た 、ス ポ ー ツ は 、体 を 動 か す と い う 人 間 の 本 源 的 な 欲 求 に こ た え る と と も に 、爽 快 感 、
達成感、他者との連帯感などを得ることができる。さらには、スポーツをする楽しさや喜
びをもたらすなどの精神的充足等、心身の両面にわたる健全な発達に欠かせないものであ
り 、子 ど も た ち が 生 涯 に わ た っ て 健 康 で 明 る い 生 活 を 送 る た め に 重 要 で あ る 。ス ポ ー ツ は 、
社会が急速に変化していく中で、生徒たちから失われる傾向にある人間形成に必要な社会
性、仲間同士での思いやりなどを取り戻すような役割を担っている。
第 3節
運動部活動における問題点
学校現場や部活動の現場での体罰問題は年々減少してきてはいるが、それでも完全にな
く な っ た わ け で は な く 、問 題 視 さ れ る こ と も あ る 。指 導 者 の 立 場 か ら す れ ば 、
「あれは教育
の一環だった」
「 ミ ス を し た か ら 、気 合 い を 入 れ る 意 味 合 い で 行 っ た 」な ど 加 害 者 と し て の
意 識 は 薄 い 。一 方 の 生 徒 の 方 も「 自 分 が 、悪 い か ら 仕 方 な い 」
「 監 督 は 、自 分 の 為 を 思 っ て
やってくれている」などこれまた体罰をされたという意識は薄いようだ。上記はほんの一
例であるが、運動部活動は様々な効果が期待できる反面、体罰のような様々な問題点が存
在しているのも事実である。そこで、文部科学省は下記のような問題点があげられると発
表 し て い る ( 3) 。
○ 活動量の問題
長時間、長期間にわたる行き過ぎた活動は、生徒の心身に疲労を蓄積し、過激な練習等
で心身ともに燃え尽き、その後のスポーツ活動を敬遠するようになることも考えられる。
さらに、生徒のバランスのとれた生活や成長を考えたとき、運動部活動に極端に偏ること
は望ましいことではない。
また、勝利至上主義的な考え方から、過度な練習を強いて、生徒の生活や成長に支障を
来している場合がある。このことは、本来楽しいはずのスポーツ活動から遠ざかる原因に
もなり、「生涯スポーツの推進」の観点からも好ましいことではない。スポーツである以
上勝利を目指すことは当然だが、そこに至るまでの過程も重視する必要がある。
○顧問の実技指導力の問題
顧 問 の 指 導 上 の 悩 み で「 自 分 の 専 門 的 指 導 力 の 不 足 」と 答 え た 者 が 多 か っ た( 中 学 校 40.
0% 、高 等 学 校 35.3% )
( 3)。こ れ に つ い て は 、あ る 程 度 実 技 の 指 導 力 を 有 し つ つ も な お 一
層向上させたいと感じている顧問が相当数含まれている一方、名目的に就任している顧問
5
も一定程度含まれているものと思われる。ある運動部にその競技の経験があまりない顧問
が就任する場合があることは当然あり得ることだが、顧問が実技の指導力を向上させて生
徒のスポーツニーズによりこたえていくことも望まれているところである。
○ スポーツ障害の問題
生徒の発育・発達の特性を無視したハードで単調なトレーニングを繰り返すだけの非科
学的な練習等のやり過ぎは、様々なスポーツ傷害の要因になるとともに、精神的な問題を
引 き 起 こ す こ と に も な り か ね な い 。傷 害 は 、本 来 の 運 動 部 活 動 の 目 的 を 損 な う も の で あ り 、
指導者は、発育・発達特性を考慮するとともに、科学的根拠に基づいた練習方法等を工夫
することが大切であり、量より「練習の質」を重視すべきであろう。
以上のような問題点を挙げたが、結局の所、それを防ぐのも防がないのも全て指導者で
あり、責任の大部分も指導者にある。また、運動部活動の生徒の人格形成は、指導者の影
響が大きいことは言うまでもなく、無責任な指導の仕方はあってはならないはずだ 。では
中学校の運動部活動の指導者はどのような人物であるべきで、どのように生徒と関わって
いくべきなのか。
ここで中学校運動部活動の設置状況の割合と競技別の部員数を見てみる。実は男子中
学 生 の 部 活 で 部 員 数 が 最 も 多 い の が 軟 式 野 球 で あ り 、 全 国 で 29 万 の 部 員 が お り 、男 子 中
学 生 の 16%が 軟 式 野 球 部 に 所 属 し て い る ( 図 1) 。ま た 、 日 本 体 育 協 会 の 調 査 に よ る と 、
男女問わずに中学校の運動部の設置状況の割合が最も高かったのが、軟式野球部であっ
た 。今 回 調 査 対 象 と な っ た 全 国 384 校 中 349 校 で 設 置 さ れ 、割 合 と し て は 約 91% に 上 る 。
第 二 位 は バ レ ー ボ ー ル 女 子 の 324 校( 約 84% )で 、第 三 位 は 女 子 バ ス ケ ッ ト ボ ー ル の 292
校 ( 約 76% ) と な っ て い る 。 因 み に 男 子 の 二 位 ( 共 通 5 位 ) に は バ ス ケ ッ ト ボ ー ル が 入
り 、 285 校 ( 約 74% ) と な っ て い る ( 7)。
6
軟式野球
サッカー
バスケットボール
卓球
ソフトテニス
陸上
18.00%
16.00%
14.00%
12.00%
10.00%
8.00%
6.00%
4.00%
2.00%
0.00%
2
0
0
2
図 1
2
0
0
3
2
0
0
4
2
0
0
5
2
0
0
6
2
0
0
7
2
0
0
8
2
0
0
9
2
0
1
0
中学校運動部活動競技別部員数の割合
上から順に軟式野球、サッカー、バスケットボール、ソフトテニス、
卓球、陸上を示している。
このように、野球は中学校の中でも特に大きな存在になっている。野球の歴史に目を移
す と 、早 慶 戦 は 今 年 で 114 年 目 、プ ロ 野 球 は 80 年 目 を 迎 え る 。最 近 は 4 年 に 一 度 開 催 さ れ
るサッカーワールドカップで日本代表が注目されるなど、サッカー人気はすさまじいが、
プ ロ リ ー グ が で き た の は 21 年 前 の こ と だ 。そ う 考 え る と 、野 球 の 歴 史 は 大 変 長 く 日 本 の 国
民 的 ス ポ ー ツ と 言 え る 。プ ロ 野 球 チ ー ム の 監 督 と い う の は 80 年 以 上 の 歴 史 の 中 で 数 多 く い
たが、シーズンの優勝を経験した監督は多くなく、数年で辞任する人も少なくない。それ
だけ、ペナントレースを制するというのは難しく、監督の手腕が問われるのだが、 今から
登場する 3 人はそれぞれ独自の哲学でリーグ優勝日本一を達成し、コーチ時代も含めると
8 年以上の指導者経験がある。彼らのような実績と経験を積んできた名監督と呼ばれる指
導者を例に、中学校の運動部活動指導者のあるべき姿を追求していく。
7
第 2章
(ア )
代表的な野球指導者の特徴
野村克也
○どんな人物
野 球 選 手 と し て の 現 役 生 活 は 1954 年 か ら 1980 年 の 27 年 間 に わ た り 、 南 海 ホ ー ク ス 、
ロ ッ テ オ リ オ ン ズ 西 武 ラ イ オ ン ズ で プ レ ー し た 。 引 退 後 は 1990 年 か ら 1998 年 ま で ヤ ク ル
ト ス ワ ロ ー ズ 、1999 年 か ら 2001 年 ま で 阪 神 タ イ ガ ー ス 、2003 年 か ら 2005 年 ま で 社 会 人 野
球 の シ ダ ッ ク ス 、2006 年 か ら 2009 年 ま で 東 北 楽 天 ゴ ー ル デ ン イ ー グ ル ス の 監 督 を 務 め た 。
2010 年 か ら 2012 年 ま で 東 北 楽 天 ゴ ー ル デ ン イ ー グ ル ス の 名 誉 監 督 。 ま た 、 出 身 地 の 京 丹
後市名誉市民(京都府)となっている。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や
駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。
自著で何度か「何よりも自分は働く人間」と述べている通り、幼少の時から老年に差し
掛 か っ た 現 在 ま で 、仕 事 に 対 す る 執 着 心 は 非 常 に 強 い 。第 一 線 を 退 く こ と な く 野 球 を 続 け 、
オフや休日にも講演やテレビ出演、自著本など数え切れないほどの仕事をこなす。現役時
代 は 捕 手 と い う 負 担 の 大 き い ポ ジ シ ョ ン で 歴 代 選 手 1 位 の 出 場 数 ( 3017 試 合 ) を 記 録 し 、
プ レ イ ン グ マ ネ ー ジ ャ ー ま で 務 め て お り 、 監 督 と し て の 試 合 出 場 も 通 算 3204 試 合 と 3000
試合の大台に乗せている。これも歴代 1 位記録である。
自 分 か ら 野 球 を と っ て し ま っ た ら 何 も 残 ら な い と い う 意 味 で 、自 ら「 野 村 克 也 -野 球 = ゼ
ロ」と語っている。夫人も「主人は野球以外は何もできない人」とテレビ出演時に言った
こ と が あ る 。 彼 の 人 生 の ほ ぼ 100% は 、 野 球 に 費 や し た と い っ て も い い だ ろ う 。
母子家庭に育ったこともあり身内への情が深く、南海兼任監督時代には選手や裏方のこ
とを常に気にかけていた。猛打賞等でもらったアンダーシャツや ソックスをダンボールに
山ほど積んで選手や打撃投手・ブルペン捕手によく配り、スーツをよく裏方スタッフに譲
っていた。また生来の性格に環境も手伝ってか、とび抜けた「負けず嫌い」である 。
○野球界に残した功績
(選手時代)
バッターとして打席に立てば、通算試合出場数、通算打席数、通算打数は日本プロ野球
歴 代 1 位( 実 働 年 数 は 歴 代 2 位 )、通 算 の 安 打 、本 塁 打 、打 点 、塁 打 数 は 歴 代 2 位 で 、い ず
れもパ・リーグ記録である。球史に残る名選手だが、現役時代は長嶋茂雄・王貞治ら人気
のセ・リーグのスター選手の陰に隠れた存在であった。
タイトル
8
・ 三 冠 王 : 1 回 ( 1965 年 )
・ 首 位 打 者 : 1 回 ( 1965 年 )
・本 塁 打 王: 9 回 ( 1957 年 、1961 年 - 1968 年 )※ 9 回 獲 得 、8 年 連 続 獲 得 は い ず れ も パ ・
リーグ記録。
・ 打 点 王 : 7 回 ( 1962 年 - 1967 年 、 1972 年 ) ※ 7 回 獲 得 、 6 年 連 続 獲 得 は い ず れ も パ ・
リーグ記録。
・ 最 多 安 打 ( 当 時 連 盟 表 彰 な し ) : 1 回 ( 1965 年 ) ※ 1994 年 よ り 表 彰
表彰(主要なもののみ)
・ MVP: 5 回 ( 1961 年 、 1963 年 、 1965 年 、 1966 年 、 1973 年 )
・ ベ ス ト ナ イ ン : 19 回 ( 1956 年 - 1968 年 、 1970 年 - 1973 年 、 1975 年 、 1976 年 )
※ 通 算 19 回 受 賞 は 、 史 上 最 多 。
・ 日 本 シ リ ー ズ 敢 闘 賞 : 1 回 ( 1973 年 )
・ オ ー ル ス タ ー ゲ ー ム MVP: 2 回 ( 1972 年 第 1 戦 、 1977 年 第 2 戦 )
・ 野 球 殿 堂 入 り ( 競 技 者 表 彰 : 1989 年 )
(監督時代)
代 名 詞 と も 言 え る デ ー タ を 駆 使 す る ID 野 球 は プ ロ 野 球 の 進 化 に 大 き く 貢 献 。 ま た 選 手
兼監督時代に江夏豊をリリーフ投手として抜てきし、投手分業制を確立したり、盗塁を阻
止 す る 技 術 と し て 投 手 の ク イ ッ ク 投 法 を 開 発 し た り し 、日 本 の 盗 塁 王 福 本 豊 に 土 を つ け た 。
メジャーより日本のクイックが発達しているのはその為である。
南海の選手兼任監督時代に在任 8 年間で 6 度の A クラスとリーグ優勝 1 回。ヤクルトの
監督時代には在任 9 年でリーグ優勝 4 回、日本一 3 回とヤクルト黄金時代を築き上げる。
特に他球団から放出された選手を復活させる手腕は「野村再生工場」と呼ばれた。社会人
野球の弱小チームシダックスの監督に就任してからは、僅か数ヶ月でシダックスを全国制
覇 に 導 い た 。 2004 年 に は ア テ ネ 五 輪 金 メ ダ ル の キ ュ ー バ 代 表 に 完 勝 し 、「 シ ダ ッ ク ス こ そ
が 世 界 最 強 」と 言 わ れ た こ と も あ る 。ま た 、監 督 と し て の 3、204 試 合 出 場 は 日 本 プ ロ 野 球
史 上 2 位 で あ り 、MLB で は 3000 試 合 以 上 の 監 督 は 17 人 い る が 、選 手 ・ 監 督 双 方 で 3000 試
合出場は世界プロ野球史上、野村ただ一人であり、記録にも記憶にも永久に残る偉業と言
えよう。
○周りのコメント
元 ヤ ク ル ト ト ー マ ス ・ オ マ リ ー 「 監 督 、 大 好 き ね 。 リ ス ペ ク ト し て い る ん だ 」「 と に か
9
く色々教わった。データから相手の強み、弱み。すべて理解し準備した上で試合に臨むこ
と が 重 要 だ と ね 。」
元ヤクルト石井和久「自分のチームだけでなく、野球界全体を考えて人材を育ててきま
した。それが古田敦也さんであり、宮本慎也さんであり、稲葉篤紀さんであり…。そうい
った方々は、監督から教わったことをとどめずに、自分たちの“次”を育てている。だか
ら、自分も監督からもらったものを、何らかの形で返していかないといけない。今自分に
できることをまっとうして野球に恩返しをする。これが、僕にできる監督への恩返し」
元 ヤ ク ル ト 宮 本 慎 也「 野 村 監 督 に は プ ロ と し て 生 き て い く 術 を 教 え て い た だ い
た」
元楽天山崎武「準備をしっかりやっておけば、マイナスになることはない。とにかく野
村監督の 4 年間は『準備をしっかりしろ!』と叩き込まれた。僕自身もそうだったし、田
中にしても嶋にしても、今もその影響を受けているのは間違いないです」
元 阪 神 桧 山 進 二 郎「 野 村 さ ん が 監 督 だ っ た と き は 、 言 っ て い る こ と が よ く 理 解 で
き な か っ た の で す が 、い ま に な っ て や っ と わ か っ て き ま し た 」
「 場 面 、場 面 で 、
“あ
っ、野村さんはこういう場面のことを言っていのか”というのを思い始めた」
○筆者の評価
選 手 と し て も 監 督 と し て も 、こ れ ほ ど ま で 長 く 活 躍 し た 人 は 他 に 見 当 た ら な い 。し か も 、
キャッチャーという最も厳しく、最も野球を知ることを求められるポジションで、最多出
場記録を打ち立てたことは大変価値があることであると考える。このように野球界に、数
え 切 れ な い ほ ど の 財 産 を 残 し た と い う 点 で 、か な り 評 価 さ れ る べ き 人 で あ る と 考 え ら れ る 。
その中でも私は、野村監督の代名詞ともいえる「人間教育」に注目した。
「1 人の選手(野球人)である前に、1 人の社会人である」これが、野村の選手を育成
する上での基本理念の一つであり、欠かせないものである。野球の技術云々ももちろん重
要だが、それよりもまず精神的な面を含めた人間的な成長を選手に求めたのだ。人間的に
素 晴 ら し い 人( 当 た り 前 の こ と を 当 た り 前 に で き る 人 な ど )は 、野 球 の 技 術 の 吸 収 も 早 く 、
また実践の中で自分の力を発揮しやすいという。少し考えてみれば、上司が部下に教育を
行うというのはごく自然なことであるが、プロ野球の世界ではあまり聞かれない。という
より、そこまでしようとする意欲がある監督がいるほうが珍しいのかもしれない。技術的
な指導や戦術の理解などはもちろんすると思うが、
「 人 と し て 、社 会 人 と し て 、一 人 前 に 育
て て や る 」と い う 人 間 的 な 教 育 は 、
「 勝 利 が 絶 対 」の 監 督 に と っ て は 二 の 次 な の か も し れ な
10
い。
この人間教育は、野球を通して様々なことを経験してきた野村であるからこそ、行える
やり方であり、若くて人望があまりない監督であったら、そう簡単に上手くはいかなかっ
ただろう。また選手にとって、野村は「学校の先生」のような存在ではないだろうか。私
みたいな若者としては、野村監督のような人生の大先輩に、社会を生き抜く術を教えて頂
き た い も の で あ る 。単 な る 名 監 督 と い う よ り 、
「 人 生 の 名 監 督 」と 呼 ば れ る よ う な 、人 を 一
人前に育てられるという点で私は高く評価できると考える。
(イ )
落合博満
○どんな人物
ロッテオリオンズ・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ・日本ハムファイターズで活躍
し た 元 プ ロ 野 球 選 手 で あ り 、 2004 年 か ら 2011 年 ま で 中 日 ド ラ ゴ ン ズ を 率 い た 元 監 督 。 現
在 は 中 日 ド ラ ゴ ン ズ の ゼ ネ ラ ル マ ネ ー ジ ャ ー( GM)。三 度 の 三 冠 王 を 達 成 し た プ ロ 野 球 史 上
に 残 る 大 打 者 で あ り 、中 日 ド ラ ゴ ン ズ の 黄 金 時 代 を 築 い た 名 将 で あ る 。2011 年 野 球 殿 堂 入
り。
選手時代は生活の全てを野球に捧げており、その尋常でない練習量に関する逸話も数多
くある。ただ本人は努力を人に見せることを嫌い、カメラの前でそういった姿を見せるこ
とはほとんど無かった。また、プロとして年俸での評価を何よりも重視した姿勢を見せ、
何かと物議を醸した。
監督としては「勝利こそ最大のファンサービス」という立場をとり、勝てる試合は確実
に勝ちにいく采配に徹した。ただその分、明らかな捨て試合を作ることもあり、プロ野球
の「興業」としての側面を軽視しすぎである、という批判を受けることも多かった。また
選 手 の 情 報 (特 に 故 障 な ど )を 公 開 し な い な ど 徹 底 し た 情 報 管 理 の 体 制 を 取 っ た 。
ボヤキ節で有名な野村克也とは違い、監督時代は滅多に選手を責めることはなかった。
ただし褒めるわけでもなく、基本的には寡黙。負け試合では試合後に コメントを残さない
ことも多かった。しかし、外野守備のエキスパートである英智が凡フライを落球した際に
「 あ い つ が 捕 れ な い な ら 、誰 も 捕 れ な い さ 」と 発 言 し た エ ピ ソ ー ド や 、2006 年 に タ イ ロ ン・
ウッズが優勝を決める満塁弾を放ったときの号泣する姿など、ときおり見せる選手への信
頼や愛情に溢れた言動から、ツンデレ監督と呼ばれた。自己流を貫き派閥的なものを嫌う
性 格 や 、そ の 言 動 か ら 、球 界 で は 何 か と 褒 め ら れ た り 、逆 に け な さ れ た り す る こ と も 多 い 。
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○野球界に残した功績
(選手時代)
80 年 、 シ ー ズ ン 後 半 に レ ギ ュ ラ ー を 掴 む と 、 81 年 に は 打 率 .326 で 首 位 打 者 を 獲 得 。 翌
82 年 に は 打 率 .325、32 本 塁 打 99 打 点 で 史 上 最 年 少 の 三 冠 王 に 輝 く 。86 年 の シ ー ズ ン オ フ
に 日 本 人 選 手 と し て 初 め て の 年 俸 1 億 円 プ レ イ ヤ ー と な っ た 。生 涯 通 算 打 率 .311 は 日 本 人
右 打 者 の 歴 代 最 高 打 率 。鈍 足 の 右 打 者 で あ り な が ら 圧 倒 的 な 打 撃 成 績 を 残 し 続 け た こ と で 、
「プロ野球史上最高の右打者」に挙げられることも多い。
タイトル(主要なもののみ)
・ 三 冠 王 : 3 回 ( 1982 年 、 1985 年 、 1986 年 ) ※ 史 上 最 多
・ 首 位 打 者 : 5 回 ( 1981 年 - 1983 年 、 1985 年 、 1986 年 ) ※ 右 打 者 の パ ・ リ ー グ 記 録
・ 本 塁 打 王 : 5 回 ( 1982 年 、1985 年 、1986 年 、1990 年 、1991 年 )※ 両 リ ー グ 本 塁 打 王 は
史上初
・ 打 点 王 : 5 回 ( 1982 年 、1985 年 、1986 年 、1989 年 、1990 年 )※ 両 リ ー グ 打 点 王 は 史 上
初、現在も唯一
・ 最 多 勝 利 打 点 : 5 回 ( 1982 年 、1985 年 、1988 年 、1989 年 、1993 年 )※ 受 賞 5 回 は 史 上
最 多 、 1989 年 と 1993 年 は 特 別 賞
・ 最 高 出 塁 率 : 7 回 ( 1982 年 、 1985 年 - 1988 年 、 1990 年 、 1991 年 ) ※ 受 賞 7 回 は 歴 代
2 位、右打者歴代 1 位
表彰
・MVP:2 回( 1982 年 、1985 年 )※ 優 勝 チ ー ム 以 外 か ら 2 度 以 上 の 選 出 は 王 貞 治( 1964 年 、
1974 年 ) に 続 い て 2 人 目
・ ベ ス ト ナ イ ン : 10 回 ( 1981 年 、 1982 年 = 二 塁 手 1983 年 、 1988 年 、 1990 年 、 1991 年 =
一 塁 手 1984 年 - 1986 年 、 1989 年 = 三 塁 手 )
・ 月 間 MVP: 6 回 ( 1985 年 9 月 、 1986 年 5 月 、 1988 年 8 月 、 1989 年 8 月 、 1990 年 5 月 、
1991 年 8 月 )
・ オ ー ル ス タ ー ゲ ー ム MVP: 2 回 ( 1983 年 第 3 戦 、 1995 年 第 1 戦 )
・ 日 本 プ ロ ス ポ ー ツ 大 賞 : 1 回 ( 1982 年 )
・ 野 球 殿 堂 入 り ( 競 技 者 表 彰 : 2011 年 )
・ 最 優 秀 監 督 賞 ( セ ・ リ ー グ 連 盟 特 別 表 彰 : 2011 年 )
(監督時代)
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在任期間の成績は優勝→2 位→優勝→2 位(日本一)→3 位→2 位→優勝→優勝(連覇)
と 、歴 代 の 中 日 監 督 の 中 で も 最 長 政 権 と な り 、最 高 の 成 績 を 残 し た 。中 日 球 団 の 70 年 以 上
の 歴 史 の 中 で 、優 勝 9 回 の う ち 4 回 が 落 合 政 権 で あ る 。8 年 間 全 て A ク ラ ス 入 り( し か も 3
位 は 一 度 だ け )、ク ラ イ マ ッ ク ス シ リ ー ズ は フ ァ イ ナ ル ス テ ー ジ 皆 勤 賞 。唯 一 、リ ー グ 優 勝
からの日本一だけは果たせなかったものの、名将の称号を確かなものにしてグラウンドを
去 っ た 。 2011 年 は 、 最 大 10 ゲ ー ム 差 を ひ っ く り 返 し 、 球 団 史 上 初 の 連 覇 を 成 し 遂 げ た 。
チ ー ム 打 率 、 チ ー ム 総 得 点 と も 12 球 団 最 下 位 で の 優 勝 は プ ロ 野 球 史 上 初 の 記 録 。
○周りのコメント
元中日の愛甲猛「入団してしばらく投手として伸び悩んでいた私に打者転向をすすめ、
コ ー チ ン グ し て く れ た の は 、 現 役 時 代 の 落 合 だ っ た 」「 ま さ に プ ロ 野 球 界 の 師 匠 」
元巨人軍監督長嶋茂雄「自分は天才じゃない。本当の天才は王さんと落合さんの 2 人だ
け」
「 フ ィ ー ル ド に 監 督 が も う 一 人 い る よ う な も の 」と 語 り 、投 手 へ の 声 掛 け の タ イ ミ ン グ
や的確な指示内容などを高く評価していた。
1980 年 の 対 阪 急 戦 で 2 安 打 し た 落 合 を 見 た 山 田 久 志 は 、若 手 投 手 に「 凄 い 打 者 が 出 て き
た。あいつは三冠王を獲るかも知れない」と話したという。経てして、落合はその 2 年後
の 1982 年 に 初 の 三 冠 王 に 輝 く 事 と な っ た 。
プロ野球界最高の賞である正力松太郎賞選考委員長川上哲治「正力さんはいつも『勝負
に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝敗に徹して、そうい
う強い信念が感じられた」とコメント。指導者像に厳しい川上が監督を高評価するのは異
例のことである。
○筆者の評価
落合は中日ドラゴンズ史上最も記憶にも記録に残る監督になったのではないかと思う。
2004 年 の 就 任 か ら 、 8 年 間 で 4 度 の リ ー グ 制 覇 と 一 回 の 日 本 一 も さ る こ と な が ら 、 一 度 も
B ク ラ ス 入 り が な く 、尚 且 つ CS で は 全 て フ ァ イ ナ ル ス テ ー ジ に 進 出 し て い る 。実 績 か ら 見
たら、全く文句のつけ所がないように見えるが、実はその裏で落合は多くの犠牲を払って
いる。
例 え ば 、2009 年 の WBC 日 本 代 表 に 中 日 の 選 手 が 誰 一 人 入 ら な か っ た の は 有 名 な 話 で 、批
判の矛先は落合に向いた。実際、代表候補に選ばれた中日の選手は、皆怪我もしくは体の
どこかに痛みを抱え、万全の状態でなかったことは確かである。しかし、プレーできない
かと問われれば、決してそういうわけでもなかっただろう。それでも落合は選手に「代表
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を 辞 退 し ろ 」と 指 示 し 、案 の 定 他 の 11 球 団 の 不 信 感 が 募 っ た の だ 。落 合 に も 彼 な り の 考 え
があった。
「 選 手 は 契 約 社 員 で あ る 。 1 年 1 年 生 活 が 懸 っ て い る 。だ か ら 、シ ー ズ ン を 万 全
な状態で迎えるのは当然のことだ」と述べている。私は、この考え方に妙に共感した。も
し 仮 に 、 WBC で シ ー ズ ン を 棒 に 振 る よ う な 怪 我 を し て も 、 そ れ は 自 己 責 任 で あ り 、 各 球 団
には何の保証のないのだ。一見、協調性がなく自分勝手な行為と判断されてしまうかもし
れないが、何より選手のことを大事に想い、その先には「勝利」という絶対的な目標があ
った。
「そんなこと誰が決めたの?駄目なんて決まりはないよね」という風に常識にとらわれ
ない、
「 俺 流 」な 考 え 方 を も つ 彼 に 好 感 が も て る 。た と え 、周 り か ら の 批 判 が あ ろ う と そ ん
なものは無視して、自分の考えを曲げるようなことは決してしないのだ。上記のように自
分 の 判 断 や や り 方 を 信 じ 、自 分 を 犠 牲 に し て で も 、
「 勝 つ こ と が す べ て 」と い う 信 念 の も と
に結果を残した点はもっともっと評価されるべきであると考える 。
(ウ )
権藤博
○どんな人物
権藤博(ごんどう ひろし )は元プロ野球選手(投手・内野手)・監督、野球指導者、
野球評論家である。現役時代は流行語が生まれるほど連日のように登板し、新人としては
歴 代 最 多 勝 と な る 35 勝 を 記 録 す る も 、多 投 が た た り 現 役 生 活 は 短 命 に 終 わ る 。現 役 引 退 後
は 、 中 日 、 近 鉄 ・ ダ イ エ ー ・ 横 浜 で 投 手 コ ー チ を 歴 任 し 、 数 々 の 投 手 を 育 て 上 げ た 。 1998
年 か ら 2000 年 ま で 横 浜 の 監 督 を 務 め 、 就 任 1 年 目 で チ ー ム を 38 年 ぶ り の リ ー グ 優 勝 、 日
本一に導いた。
コーチとしては球界関係者からも高く評価されていたが、何にでも一言言わないと気が
済まない人で、たとえ上司(監督)であっても、間違いだと思う意見には徹底して異論を
唱えることもあり、オリックスコーチ時代には仰木彬と、ダイエーコーチ時代には田淵幸
一 、 中 日 コ ー チ 時 代 に は 高 木 守 道 と の 不 仲 説 も 噂 さ れ た 。 特 に 中 日 コ ー チ 時 代 ( 2012 年 )
には高木監督と投手起用などで持論をぶつけ合い、また当時の高木はマスメディアの前や
チーム内部で自軍の選手を厳しく批判・叱咤することが多く、そのことに対して「かばっ
てくれるはずの味方に怒られるほど、つらいことはない。何十年もコーチをやって いて、
怒って選手が良くなった試しはない」「打たれた・打てないはコーチの責任。勝った負け
たは監督の責任」と諭したこともあった。
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横浜監督時代は自らを「監督」ではなく「権藤さん」と呼ぶように指示していた。これ
は監督を退いた後を見据えていたのと、肩書きを捨てることで部下との壁をなくすことも
目的だった。このルールは選手・スタッフ一同だけでなく、取材陣も対象とされ、違反し
た 場 合 は 罰 金 1000 円 を 支 払 う こ と に な っ て い た 。 座 右 の 銘 は 「 Killed or be Killed( 殺
る か 、 殺 ら れ る か )」。 横 浜 監 督 時 代 、 開 幕 ベ ン チ 入 り 投 手 全 員 に こ の 一 文 を 入 れ た サ イ ン
ボールを渡したという。
○野球界に残した功績
(選手時代)
権 藤 は ル ー キ ー 時 代 の 1961 年 チ ー ム 試 合 数 130 の 半 分 を 超 え る 69 試 合 に 登 板 し 、 429
と 1/3 回 を 投 げ 、 新 人 最 多 記 録 と な る 35 勝 を 挙 げ 、 防 御 率 1.70 と 310 奪 三 振 は い ず れ も
この年一位、さらに新人王と沢村賞を同時受賞するなどタイトルを総なめにした。
タイトル
・ 最 多 勝 : 2 回 ( 1961 年 、 1962 年 )
・ 最 優 秀 防 御 率 : 1 回 ( 1961 年 )
・ 最 多 奪 三 振 : 1 回 ( 1961 年 )
表彰
・ 新 人 王 ( 1961 年 )
・ 沢 村 賞 : 1 回 ( 1961 年 )
・ ベ ス ト ナ イ ン : 1 回 ( 1961 年 )
(指導者時代)
権藤の現役時代の投手コーチでのちに中日・横浜などで監督を務めた近藤貞雄は権藤
の 登 板 過 多 を 目 に し た こ と で 投 手 分 業 制 の 必 要 性 を 痛 感 し 、82 年 の 優 勝 時 に は 中 日 の 投
手コーチとなっていた権藤と共にそれを確立させた。
1998 年 に ベ イ ス タ ー ズ の 監 督 に 就 任 。こ の 年 の ベ イ ス タ ー ズ は バ ン ト・エ ン ド ラ ン な
ど を あ ま り 用 い ず に 積 極 的 に 打 ち ま く り 、こ の 年 の 打 線 は「 マ シ ン ガ ン 打 線 」と 称 さ れ 、
バッテリーコーチ時代から鍛え上げた投手陣三浦大輔・野村弘樹・斎藤隆がローテーシ
ョ ン を 守 っ て 二 桁 勝 利 を 挙 げ 、 そ し て こ の 年 MVP に 輝 い た 絶 対 的 な 守 護 神 で あ る 佐 々 木
主 浩 の 活 躍 で 見 事 就 任 一 年 目 に し て 横 浜 を 38 年 ぶ り に 優 勝 に 導 い た 。日 本 シ リ ー ズ で は
西 武 相 手 に マ シ ン ガ ン 打 線 が 打 ち ま く り 、 特 に 第 五 戦 で は 20 安 打 17 得 点 と 西 武 投 手 陣
を 滅 多 打 ち に す る な ど 、最 終 的 に 4 勝 2 敗 で 日 本 一 に も 輝 い た 。横 浜 の 監 督 は 2000 年 ま
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で 3 年 間 務 め 一 度 も B ク ラ ス に 落 ち る こ と の な い ま ま 退 団( 2014 年 現 在 、前 身 球 団 を 含
め 横 浜 の 監 督 在 任 中 に B ク ラ ス 経 験 の な い 監 督 は 権 藤 の み )。 2012 年 に は 、 中 日 ド ラ ゴ
ンズの一軍投手コーチに再び就任。日本プロ野球球団の現役監督・コーチでは最高齢と
な る 73 歳 で 、 12 年 振 り に 現 場 へ の 復 帰 を 果 た し た 。
○周りのコメント
元近鉄加藤哲郎「当時、投手陣はみんな権藤さんの事は慕っていました。僕の野球人生
の中で恩師と呼べる人がいたら、それは唯一、権藤さんですね。現役時代、登板過多で肩
を 壊 し た 経 験 が あ る の で 、 ピ ッ チ ャ ー の 立 場 に な っ て 考 え て く れ る 人 で し た 。」
元阪神江夏豊「名監督は数多くいても、名コーチは少ない。その中で打つほうの名コー
チは中西太さん、投げるほうの名コーチは権藤さん」
元 横 浜 助 っ 人 ロ バ ー ト・ロ ー ズ は「 権 藤 が 監 督 で い る 間 は 引 退 を 考 え な い よ う に す る よ 」
「自分たちをプロとして扱ってくれるのでやりがいがある」
元横浜阿波野秀幸「権藤さんは環境を整えてくれて、あとは何も言わない。これは、少
年時代の勉強と同じで、やろうかなと思っているときにやれと言われると、やる気がなく
な り 、 何 も 言 わ れ な い か ら 、 自 分 で や ろ う と い う 気 持 ち に な る 。」
○筆者の評価
横浜ベイスターズの監督として、いくら前年 2 位でそれなりに成熟しつつあったチーム
だ っ た と は い え 、38 年 間 優 勝 と は 縁 が な か っ た チ ー ム を 優 勝 に 導 い た 功 績 は 高 く 評 価 で き
る 。し か も 、監 督 就 任 一 年 目( コ ー チ 経 験 の み )で 早 々 と 結 果 を 残 す と い う お ま け 付 き だ 。
私は、権藤の「監督らしくない行動や言動」が優勝の大きな要因になったと推察する。ま
た 、そ の よ う に「 監 督 ら し く な く 」、選 手 と 対 等 に 渡 り 歩 こ う と す る 姿 勢 は 大 変 好 感 が 持 て
る。
春 季 キ ャ ン プ 初 日 の 挨 拶 。「 あ な た た ち は 選 ば れ て こ の 世 界 に 入 っ て き た プ ロ な の で 、
プ ロ ら し く 行 動 し て く だ さ い 」挨 拶 は た っ た こ れ だ け で あ る 。普 通 の 監 督 な ら 、
「こんなチ
ー ム を 作 っ て 、優 勝 を 目 指 す 」
「 こ ん な こ と を 重 視 し て 、戦 っ て い こ う と 思 う 」な ど 、一 年
間の方向性をしっかり示すだろう。しかし、権藤はレギュラー選手に最も脂が乗っている
20 代 後 半 ~ 30 代 前 半 が 多 く 、あ る 程 度「 野 球 を 知 っ て い る 集 団 」で あ る と 捉 え て い た 。そ
のため、練習中にコーチにも「選手から寄ってこない限り、余計なことを口にするな」と
指 示 し 、放 任 主 義 を 取 っ て い た 。選 手 た ち も 、徐 々 に 権 藤 の や り 方 に 慣 れ 始 め 、
「自由に何
でもやらしてもらえる分、しっかり結果を残さなければ」という責任感も芽生え始めたの
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だ。これこそが、権藤の狙いであり、目指すべき方向であったのだ。私 が最も感心したの
は、この放任主義がベイスターズナインに合うかどうかしっかりと見極めたことだ。弱小
集 団 ま た は 若 い 集 団 で あ っ た ら 、こ の ス タ イ ル が 当 て は ま る こ と は な か っ た だ ろ う 。
「今自
分が何をすべきか、分かっている集団」であったからこそ、このやり方がぴたりと当ては
まり、優勝までたどり着いたのではないかと推測する。
選手をプロとして認め、自由にやらせることで責任感を芽生えさせ、モチベーションを
上 げ る 。そ し て 、
「 結 果 」が 出 る こ と で 、選 手 た ち は 自 分 た ち の や り 方 が 間 違 っ て な い と 確
信し、自信を持って一年間戦うことができたのだ。このサイクルこそが、権藤監督の強み
であり、他の監督には決してない部分で、評価できる点である。
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第 3章
代表的な野球指導者の比較
前章で、3 人のプロ野球監督の特徴について紹介したが、本章では様々な観点から 3 人
の違いや共通点について比較をしていく。そして、三つの具体的なリーダー像(型)を創
る た め に 、 彼 ら の 「 人 物 像 」「 野 球 界 に 残 し た 功 績 」「 監 督 と し て の 理 念 や 指 導 法 」 か ら 比
較していく。
第 1節
人物像
一 人 目 の 野 村 は 、誰 よ り も 野 球 に 対 し て 長 く 、そ し て 思 い を も っ て 取 り 組 ん だ 人 で あ る 。
野村は自分の不器用を自覚し、とにかく人一倍努力して、成功を収めた人なのだ。そんな
努 力 で 這 い 上 が っ て き た 野 村 と 重 な る 部 分 が 、 落 合 に も あ っ た 。「 私 は 野 球 が 楽 し い と か 、
面 白 い と 思 っ た こ と は 10 数 年 の 現 役 生 活 で 一 度 も な い 」元 プ ロ 野 球 選 手 の 発 言 と は 思 え な
いが、実は「楽しいとか言っていられるほど甘くない世界」だと落合は考えていた 。野球
を「 職 業 」と し て 捉 え 、現 役 時 代 は 自 分 の 生 活 の 全 て を 野 球 に 注 い で プ レ ー し て き た の だ 。
このように野球への取り組み方という点では、二人には重なる部分がある。 一方権藤はと
いうと、2 年目までの右腕の酷使により、選手としての生活はそう長くはなかった。しか
し、その時の経験が指導者になってからの自分の考え方に大きく影響したという。上記の
二人と異なり投手出身監督ということも影響したかもしれないが、自分の失敗から特に投
手の起用には気を配り、選手を大切に扱ったという。
次に性格的な部分を見てみよう。野村は、母子家庭で育った環境も影響し、飛び抜けた
負けず嫌いで、監督時代の試合後のぼやき節は有名であり、よくチームの選手を皮肉って
いた。そんな口数が多い野村に対し、落合は基本的に寡黙で、選手を責めるような発言は
滅多になかった。かといって、褒めるわけでもなく、周りからは何を考えているのか全く
読めない人と思われていた。口数が少ないという点では、権藤も似ている面がある。勝利
試合後の監督インタビューでも「やったのは選手です。選手に聞 いてあげて下さい」など
と自分から語ることは、少なかった。権藤と落合にはもう一つ性格的な部分で重なる点が
ある。それは、誰に何と言われようと自分で決めた考えを最後まで貫くような性格であっ
たことだ。権藤は、特にコーチ時代監督と言い争ったように上司にも、自分の意見をはっ
きり言うこともあった。落合は、派閥的なものを嫌う性格でもあり、唯一名球界入りの誘
いを断った話はその性格が顕著に表れている。
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彼らの人間性について触れてきたが、どんな性格が監督として良いのかは選手との相性
もあり、一概には言えない。しかし、権藤や落合のように自分の意見を貫くとか、誰にで
もはっきり伝える性格は、指導者にとって重要なことである。これは野村監督の考えにな
るが、
「 上 に 立 つ も の は 、物 事 に 動 じ た り 、考 え が ぶ れ た り し て は い け な い 」と 述 べ て い る 。
さらに「上司がいちいちぶれてしまったら、部下は何をすればいいのか分からず、迷って
しまう」と落合も述べている。自分の性格というものは、そう簡単に変えられるものでは
ないが、彼らの人間性は少し見習うべきかもしれない。次に、彼らが「野球界に残した功
績」というものを、数字で比較してみる。
第 2節
野球界に残した功績
野村は通算試合出場数、通算打席数は日本プロ野球歴代 1 位など、球史に名を残す数字
を 次 々 と 叩 き 出 し て き た 。特 に 選 手・監 督 双 方 で 3000 試 合 出 場 は 世 界 を 見 渡 し て も 、野 村
ただ一人で、大変価値がありその偉大さが伺える。また、落合も史上最年少の三冠王に輝
く な ど 、3 度 の 三 冠 王( 落 合 の み )を 獲 得 し 、目 に 見 え る 記 録 を 打 ち 出 し て き た 。さ ら に 、
生 涯 通 算 打 率 .311 は 日 本 人 右 打 者 の 歴 代 最 高 打 率 で あ り 、鈍 足 の 右 打 者 で あ る こ と を 踏 ま
えると、
「 日 本 プ ロ 野 球 史 上 最 高 の 打 者 」と 言 わ れ て も 何 ら お か し く は な い 。一 方 権 藤 は と
いうと、期間は短かったが 1 年目から新人王、沢村賞などを獲得しタイトルを総なめにす
る な ど 、 群 を 抜 い た 成 績 を 残 し た 。 特 に 、 1 シ ー ズ ン で 429 回 ( プ ロ 野 球 記 録 ) を 投 げ た
記録は、これからも打ち破られる可能性は極めて少ない。振り返ってみると、野手の二人
は長きにわたって活躍し続け、一時代を築いた記録に残る伝説の選手と言える。権藤は数
年ではあったが、確かに超一流選手として活躍し、記録よりも人々の記憶に残る選手だっ
たと言える。このことから、彼らは並みの選手ではなかったとわかる。簡単に現役時代の
活躍や功績について比較してきたが、ここからは指導者になってからの実績をみていくこ
とにする。
ま ず 、野 村 は 現 役 時 代 と 同 様 に 3000 試 合 の 大 台 に 乗 せ る ほ ど 監 督 と し て の 経 験 が 豊 富
で 、 そ の 年 数 は 19 シ ー ズ ン で 4 球 団 に 及 ぶ 。( 選 手 兼 任 時 代 は 除 く ) そ の 中 で も 、 ヤ ク
ルト監督時代の 9 シーズンで 4 度のリーグ優勝 3 度の日本一は、監督として最も輝いた
時代である。また、阪神や楽天監督時代はそこまで目立った成績は残せなかったが、そ
の後を引き継いだ監督(偶然にもどちらとも星野仙一)がリーグ優勝を収めるなど、チ
ームの土台作りをする手腕には定評があった。権藤は、実は監督よりコーチとしての経
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験 の 方 が 長 く 、17 年 で 4 球 団 を 渡 り 歩 い た ほ ど だ 。し か し 、そ の 長 い コ ー チ 経 験 が 、 後
の監督就任一年目で優勝という結果をもたらしたのだ。しかも、大胆な改革を次々と打
ち 出 し た こ と で 、38 年 間 暗 闇 の 中 に い た 球 団 を た っ た 一 年 で 蘇 ら せ て し ま っ た の だ 。就
任一年目でリーグ優勝を達成したという点では、落合も同じである。また、球界の常識
を覆すような改革をやってのけた点でも似ている部分がある。何より、 8 年間の長期政
権で一度もBクラス入りがないのが、同じ長期政権の野村と異なる点である。
まとめると、野村は監督としての経験は最も長く、権藤はコーチを含めた指導者とし
ての経験が最も長い。常に結果を残したという面から見ると、落合が二人を圧倒してい
るのが分かる。ただ、権藤も 3 年と監督としての任期は短いが、全て A クラス以上であ
り長期政権になっていたら、落合のようになっていたかもしれない。以上を踏まえると
このように考えられる。
・「 経 験 と 育 成 の 野 村 」
・「 実 績 の 落 合 」
・「 経 験 と 実 績 の 権 藤 」
では、本章のメインテーマにもなる「監督としての理念やリーダー像、指導法」につい
て触れていく。
第 3節
監督としての理念や指導法
○監督としての理念
野 村 は 監 督 や 指 導 者 に と っ て 、最 も 重 要 な も の は「 信 頼 感 」だ と い う 。信 頼 と は 、
「こ
の監督についていけば大丈夫だ」
「 こ の 監 督 の 言 う と お り に す れ ば 勝 て る 」と 思 わ せ る こ
とであった。選手や部下に好かれる必要はないが、監督が頼りにされなければ、何を言
っても本当には聞いてもらえないし、選手たちはついてきてくれないと野村は考えた。
そこで彼は、選手との信頼関係を構築するためには、なにより選手の意識改革に取り組
む こ と が 大 切 だ と 考 え た 。そ し て 、監 督 と し て 最 も 大 切 な 仕 事 は 組 織 の 意 識 改 革 で あ り 、
選手の人間教育だとも述べている。人間としてどうあってほしいと望んであるか、選手
たちに徹底的に理解させる。繰り返し、繰り返しミーティングを行い、信じることを説
き 続 け る こ と で 、少 し ず つ 結 果 が 出 る よ う に な る 。そ こ で 初 め て 、
「この監督について行
こう」という監督への信頼感が生まれてくるというのだ。また、野村は監督と選手の信
頼関係を構築するのには、重要な理由があると述べている。選手を育てるというのは、
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結局のところ、選手に自信をつけさせることで、そこで大事になってくるのが、信頼関
係 だ か ら だ 。「 こ こ は お 前 し か い な い 」「 お 前 に す べ て 任 せ た 」 と 信 頼 し て グ ラ ン ド に 送
り出せば、選手もこれに応えようとし、責任や自覚も生まれてくると彼は考えた。
方法は違うが信頼関係の構築から、選手に責任や自覚を芽生えさせようとした点は権
藤も同じである。まず、権藤は選手にやりやすい環境を整えていくことから先に手を付
け、選手からの信頼を得ていった。また、彼は自らが行動を起こし、自分で命令を下し
てしまうのは実に簡単だと考え、それを我慢していた。それは選手を信じ、選手に託す
勇気を持ち、やるのは選手という原則原理を大切にしていたからだ。 権藤は決して、選
手をけなすことをしない。人は生まれながらに、必ず何か一つは、それなりの良い所つ
まり長所を持っているはずと考えている。その良さを発見し、引き出そうとすることが
権藤の基本方針なのだ。選手たちに何をやれ、これをやれとは指示をしない。その上で
「 好 き 勝 手 さ せ る 」の で は な く 、
「 き み の 人 間 性 を 認 め て い る ん だ 」と い う 権 藤 の 姿 勢 が
あり、選手の自主性を重んじている。つまりやらされている練習は無意味、自分からや
る練習ならば、自分の身に付くという考えである。何をやっても怒られないし、束縛さ
れ な い の で 、選 手 は 感 性 の ま ま に 思 い 切 っ た プ レ ー を 繰 り 返 す( 感 性 野 球 )。逆 に 、何 で
も 自 分 た ち で や ら せ て も ら え る 分 、自 分 の プ レ ー に は 責 任 が 生 ま れ て く る と 彼 は 考 え た 。
落合は監督や指導者になった者は、まず部下たちに「こうすればいいんだ」という方法
論 を 示 し 、そ れ で 部 下 を 動 か し な が ら 、
「 や れ ば で き る ん だ 」と い う 成 果 論 を 見 せ て や る こ
とが大切だと考えた。それがドラゴンズの場合は前年も 2 位になっているチームだけに、
優勝することが「やればできる成果」として必要だった。また、6 勤 1 休という球界では
常識はずれのキャンプを行い、
「 こ れ だ け 練 習 す れ ば 負 け る わ け が な い 」と 選 手 を 一 本 立 ち
させ、常に優勝を争えるチームに成熟させた。重要なのは、自信を付けさせ、それを確信
に変えてやることだと考えた。自信を付けても、結果が伴わなけ れば「ここまでやっても
ダ メ な ん だ 」と な っ て し ま う 。部 下 が 、
「 あ の 人 の 言 う 通 り に や れ ば 、出 来 る 確 率 は 高 く な
る」という上司の方法論を受け入れるようになれば、組織の歯車は目指す方向にしっかり
と回っていく。何事も最初が肝心といわれるが、組織力を高めていくには、現場を預かっ
た第一歩が大切であると落合は考えていた。
彼らが監督として最も大切だと考えること(理念)について話してきたが、3 人に共通
した点がある。それは、手段は 3 人とも異なるが選手の内面に革命を起こすようなこと、
つまり意識改革をまず実行したのだ。選手のやる気を引き立て、確かな自信を付け、全員
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が迷わず一つの方向へ向かっていくようにした。逆に手段の違いという相違点は次のよう
に示すことが出来る。
・弱いチームが勝つためには、頭(知恵)を使わなければならないという考えのもとで、
自分の理論を選手に植え付けようとした野村
・ 選 手 た ち を 迷 子 に し な い た め に 、「 日 本 一 に な る 」 と い う 成 果 論 と 、 12 球 団 で 最 も 厳 し
い 6 勤 1 休のキャンプなどで方法論を示した落合
・選手をプロとして扱い、扱う以上は自主性に任せ、任せる以上はダメだったら責任を取
ってもらおうとした権藤
彼らはそれぞれ自分なりの手段を用いて選手の意識改革を進めていったことが見て取
れる。では彼らは選手に対してどのように関わり、どのような具体的な指導をしていった
のだろう。
○指導観
野村はメジャーリーグから「教えないコーチが名コーチ」という言葉を発見した。 その
言葉の裏には、人は失敗して初めて、自分の間違いに気づくと彼は解釈した。失敗する前
にあれこれ指示を出しても、選手は耳を貸さない。だから、教えるよりもまずは、選手に
やらせるのだ。始めから教え過ぎると、選手は依頼心が強くなり、自分で考えようとしな
くなる。思考力が止まれば、そこで進歩もなくなる。まずは、自分の頭で悩み、考え抜か
なくては、何事にも気付かない。何でもかんでも初めから教えてしまうと、結果的に選手
の た め に は な ら な い と 彼 は 判 断 し た 。現 在 の 若 者 は 自 ら 考 え よ う と し な い「 指 示 待 ち 世 代 」
と言われたりするが、考えるには、まず感じなくてはいけない。思考力の無さは、感じる
力、すなわち感性の欠如から始まると彼は述べる。感じるというのは、ちょっとした変化
や移ろいに気づくことだ。そのためには、自分自身で感じる力を養わなくてはならない。
始めから、答えを用意してあげたり、教え過ぎたりすることは、鈍感人間を増やすだけと
彼は考えた。
ま た 、 同 じ よ う に メ ジ ャ ー リ ー グ の 考 え に 影 響 を 受 け た の が 権 藤 で あ っ た 。「 余 分 な こ
とをいうな、喋るな、教えるな」というのをポリシーにして、黙って選手を観察し、ぎり
ぎりまで口をはさむのを我慢するのが彼のスタイルであった。そして、選手がアドバイス
を求めに来た時だけ、
「 私 の 考 え は 一 つ の 例 だ が 、い ろ い ろ あ る 選 択 肢 の 一 つ と し て 聞 い て
欲しい」と必ず前置きをおいて、きちんと指摘するのであった。これはアメリカマイナー
リーグのコーチの考えを真似たのである。つまり、問われたことには 何でも答えられる能
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力を持ち合わせながらも、決してそれを自分の方から押し付けない、大リーグの流儀を日
本のプロ野球で実践していた。また、教えすぎは自分でコツを習得する邪魔になると彼は
述べる。「教えられて覚えた技術はすぐに忘れてしまうものだ。それとは逆に自分で掴ん
だコツというのは忘れない。だからコーチは、選手がそのコツを掴むまでじっと見守って
いてやらなければいけないのだ」と述べている。
メジャーリーグの考え方を受けたわけではないが、面白いことに落合も同じような指導
の考え方を持っていた。
「 指 導 者 と は 教 え る こ と が 仕 事 じ ゃ な い 。見 る こ と が 仕 事 だ 」と 言
っ て い る 。「 見 て 、 判 断 す る 」「 見 て 、 決 断 す る 」 の が 、 監 督 の 仕 事 だ と 述 べ て い る 。 各 球
団のキャンプは、練習、実戦練習、オープン戦、公式戦と段階的に進んでいくのが常識で
ある。しかし、落合就任 1 年目のキャンプは全く違っていた。キャンプ初日から、いきな
り紅白戦を始めたのだ。
「 だ っ て 俺 、選 手 の こ と ま だ 何 も 知 ら な い も ん 。選 手 を 知 る の は 試
合 が 一 番 い い 。 100 の 練 習 を 見 る よ り も 1 の 試 合 を 見 れ ば 選 手 が わ か る 」 と 述 べ 、 落 合 は
本当に選手をよく観察し、その視線で選手のやる気と勇気をどんどん高めていったのだ。
3 人とも、練習中は選手に教えたり、話しかけたりすることに重点をおか ず、基本的に
は黙って選手の動きを観察しながら、見守っていたことが分かる。ただし、何も言わずに
黙っていたかというとそうではない。必要に応じて、褒めることや叱ることももちろんし
ていた。
○選手を褒めること・叱ること
野村は褒めることは難しいと言っている。本人が褒めたつもりでも、褒められた側が、
冗談、ばかにされたと受け止める可能性もある。あるいは、その相手が慢心したり、自分
を実力以上に過信してしたりするかもしれない。そこで、良い褒め方とは、まず、相手が
自分に下した評価よりも、少し上の評価をしてやることだと彼は主張する。そうすれば自
信ももてるし、よく見てくれていると感激し、ますます頑張ろうとする気持ちになると彼
は 考 え た 。た だ 、
「 褒 め る 」と き に は 注 意 点 も あ る と 野 村 は 指 摘 す る 。出 来 る だ け 簡 潔 な 言
葉で、さりげなく褒める。その方が印象に残るし、むやみやたらと褒めることは、本人に
とって何のプラスにもならない。タイミングを考え、ここぞという時に褒めれば、その相
手に深い感動ややりがいを与えられると彼は考えた。
落合はというとそもそも褒めるということを滅多にしなかった。それは、選手を見ると
きに、自分の現役時代の能力を基準にしているからだ。打つことに関して、現役時代の自
分 を 超 え る 選 手 は い な い と 考 え 、多 く を 期 待 し な い の だ 。
「 俺 以 上 の 実 績 を 作 っ た ら 、褒 め
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て や る 」 と い う の が 、 口 癖 だ っ た 。 ま た 、「 褒 め る よ り 給 料 を 上 げ ろ 、 次 の 仕 事 を 与 え ろ 」
「 で き な い や つ は 褒 め る な 」と い う 考 え も 落 合 は 持 っ て い た 。そ れ は 、
「小学生とかだった
ら、褒めてやるということも必要かもしれない。でも、いい大人だし、お金ももらってい
る」
「 仮 に 何 か が で き た の な ら 、次 は こ っ ち を や ろ う っ て 方 が 、得 策 だ ろ 」彼 は 褒 め る こ と
をせず、次の課題を与え選手のレベルアップに努めた。
権 藤 は「 褒 め て こ そ 選 手 は 伸 び る 」と 考 え て い る 。
「 体 罰 を 与 え た 方 が 伸 び る か 、褒 め た
方 が 伸 び る か 。こ れ は も う 褒 め た 方 が い い に 決 ま っ て い る 。そ れ が 私 の 40 年 あ ま り の 指 導
経 験 に よ る 結 論 だ 。」 と 述 べ る 。「 教 え て う ま く な る や つ は い な い 」 は 言 い 方 と し て は 極 端
だけれども、指導者はこういうかけらでいいから、持っていた方がいいのではないか。そ
れが指導者としての心のゆとりにもつながると彼は考えた。
「プレーするのは監督でもコー
チでもなく選手だ。いくら手取り足取りしても、マウンドに上が った投手がいい球を投げ
てくれなければダメ」指導者が自分の無力と教えることのむなしさを自覚したときに、選
手を尊重する気持ちが生まれるという独自の理論を彼はもっていた。
以上を踏まえると、野村と権藤は褒めることに対して肯定的で、落合は否定的な見方を
取っていることがわかる。ただ、褒めることに肯定的な二人も、いつも褒めていたわけで
はない。野村はタイミングを考えろと言い、権藤は基本的に寡黙なので、褒める機会は限
られていた。落合のように、褒めないという姿勢はないにせよ、褒めすぎも選手のために
はならないといえる。
野村は最近増えている叱れない上司とは、結局嫌われたくないという、自己保身しか考
えていないと解釈する。本気になって部下を一人前にしたいと思ったら、ときには本気で
叱ることも必要である。褒めることだけが愛情ではない。叱られることで初めて、人は自
らの間違いやいたらなさに気付いて反省する。また、叱られたことをばねにして、反骨心
で頑張ったり、どうすれば上手くいくか自分で考えたりするようになる。その 姿勢や取り
組みが、人間としての成長に欠かせないものだと彼は考えた。
また、野村は「叱る」と「怒る」を混同してはならないと指摘する。叱るというのは愛
情に基づいたものである。その根底には、叱られる相手の成長や将来をおもんばかる心が
ある。その思いがあれば、叱られる側も本気になってその言葉を受け止め、素 直に反省す
る。一方怒るは、単なる一時的な感情の爆発で、ただ怒っているだけなのだ。怒られてい
る 側 は 、当 然 、
「 な ん だ よ 」と 心 の 中 で 反 発 し 、言 わ れ た こ と に も 反 省 し な い 。こ の 違 い を
明確にするために、
「 こ う い う こ と は だ め で あ る 」と い う 一 定 の 基 準 を も ち 、叱 る 、叱 ら な
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いという判断をするべきだと野村はいっている。
落合はミスそのもの、またミスをどう反省したかが間違っていなければ、選手を叱るこ
と は し な い 。で は 、選 手 を 叱 る の は ど う い う 場 面 か 。そ れ は「 手 抜 き 」に よ る ミ ス を し た 、
つまり自分のできることをやらなかった時である。打者が打てなかった。投手が打たれて
しまったということではない。投手が走者の動きをケアしないで、盗塁された。野手がカ
バーリングを怠った。一般社会に置き換えれば、取引先との約束に遅れたり、 必要な連絡
をしなかったりした場合である。一人のミスは自分で取り返せることもあるし、チームメ
イトがフォローしてくれることもある。しかし、注意しなければ気付かないような小さな
も の で も 、「 手 抜 き 」 を 放 置 す る と チ ー ム に 致 命 的 な 穴 が あ く の で 叱 る と 彼 は い う 。
権藤はコーチ時代の経験から、結果だけでものを言っては駄目だと考えた。プロである
以上結果が全てかもしれないが、それ以上に彼が求めているのは積極性だった。そして、
「積極的なミスに関しては目をつぶる」と本人も認めているが、いつも許せないのが、結
果を気にして守りに入った時のミスであった。そんな時は、指揮官として烈火のごとく叱
る 。 だ が 「 叱 っ た 後 の フ ォ ロ ー は 必 要 」 と も い う 。「 や ら れ た ま ま チ ャ ン ス を 与 え な い と 、
そ の ま ま に な っ て し ま う 。叱 っ た 選 手 に は チ ャ ン ス を 与 え 、必 ず 使 い ま す 。」と 述 べ て い る 。
選手と本音で付き合うというのが権藤のポリシーで、叱ることに遠慮はない。選手も本 気
でいってくれていると思うから、感情的になったり、萎縮したりすることもなく、 少々の
ミスをしても、もう一度チャンスをくれるとわかっているから思い切ってプレーができる
ようになる。本気で叱ることでプレーが積極的になり、組織も活性化させていった。
褒めることとは異なり、三人とも叱ることには肯定的であることがわかる。落合と権藤
はやや考えが似ていて、手を抜いたプレーや消極的なプレーをしたとき、つまり全力でプ
レーしなかったときに、叱るということだ。そして、叱ることを通じて組織を活性化させ
る 狙 い も あ っ た の だ 。野 村 は 選 手 を 叱 る こ と で 、選 手 の 人 間 的 な 成 長 に つ な が る と 考 え た 。
感情に任せて怒るのではなく、選手の気持ちに寄り添って叱ることは、指導者として欠か
すことができないといえる。
25
第 4章
運動部活動の指導者としてあるべき姿
前章で、プロ野球の代表的名監督 3 名の人物像、功績、監督としての理念や指導法など
について比較してきた。本章では、その比較結果を踏まえて、指導者としてどう在るべき
なのかを人間性や性格的な面、実績や功績の面、指導者としての理念や指導法の面から考
察していく。
一般的に性格は人が子どもから大人へと成長する過程において、形成されるものであり、
大 人 に な っ て か ら 変 え る と い う の は 難 し い こ と で あ る 。こ れ を 踏 ま え る と 、指 導 者( 大 人 )
に適した人間性や器をもつ人間になるということも、困難なことであると考えられる。し
かし、指導者として備えておくべき資質というものは、この研究から解明することができ
たと考える。それは、一言でいうと「信頼される人」であることが必要なのだ。好かれる
人である必要はない。どんなに素晴らしい実績があっても、どんなに優れた考え方があっ
ても、どんなに効果的な指導法を知っていても、選手が耳を傾けてくれなければ、何も伝
わらない。そのために選手からの「信頼」を得て、より良い関係を構築し、それを継続し
ていける人物であることが不可欠と考えられる。
次に、実績や功績の面から考察していく。結論から言うと、自分の競技実績はあるに越
し た こ と は な い が 、指 導 者 に な っ て か ら は そ れ 以 上 に 経 験 が も の を い う こ と を 導 き 出 し た 。
運動部活動の指導者はチームの勝利のために選手を技術的に強くするということだけでな
く、自立した人間に育てる、成長させるという立派な役目も担っている。その具体例とし
て挙がるのが「経験と育成の野村」である。選手を人間的に成長させたり、何人も一流選
手に育て上げたりした育成の手腕という点では、非常に高いと言われる。それは、彼が選
手時代自分のことを不器用だと自覚し、人よりも何倍も努力した経験があるからだ と考え
られる。彼はなぜ、できないのか、どうすればできるようになるのか、という問題意識を
もった努力を通じて、器用な人間が経験できないことを経験したのだ。そのプロセスが、
人間形性という意味でも役立ってくると彼は考えた。その経験が思想や哲学になって、野
村を支える土台となり、将来、指導者になった時も役立ってきたのだ。このことから、実
績よりも経験や努力を積む大切さを認知していることが重要だといえる。
ここからメインテーマでもある、指導者としての理念を考察していく。監督として、最
も大切なことは最初に行うべき仕事でもある、選手たち全員を同じ方向に導く意識改革で
あると考えられる。ただ、その手段としては様々な方法があり、人それぞれやり方が違う
ことも明らかになった。自らの人生経験を基にして創り上げた理論を、徹底的に選手に叩
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き込もうとした者。大きな目標を掲げ、それを達成するために厳しい練習を課し、選手を
迷子にさせないよう努めた者。選手のモチベーションを上げるため、練習などは選手の自
主性に任せ、その代わり結果が出なかったときは自ら責任を負わせようとした者。選手た
ちの意識改革を実行するために、以上 3 つの手段や考え方が挙がってきたが、その時代や
選手たちの個性、指導者の特徴などを考慮して選択することが不可欠だと考えられる。い
ずれにしても、選手の「感情」を動かして組織に貢献するための動機づけを通じて、最終
的に選手との信頼関係を築き上げ、やる気や自信、自覚などをもたせることは、指導者と
しての使命であるといえる。
次に、監督としての指導観について考察していく。彼らの指導スタイルは、選手が練習
中は基本的に余分なことを教えたり、喋ったりせず、黙って選手の動きを観察することだ
と解釈した。ただ、選手の方からアドバイスを求めてきたときは、それに対してきちんと
答えられるようにする。そして、その考えを決して押しつけず、あくまでも指導者のアド
バイスを取り入れるか取り入れないかは、選手の判断に任せるという考えだ。中学生とな
る と 、そ の よ う な 判 断 力 や 自 分 の 欠 点 を 把 握 す る 能 力 な ど に 欠 け て い る 選 手 も 少 な く な い 。
選手個々に応じて、繰り返し練習のポイントを伝えるなど、指導者の方から近づいてアド
バイスを送る場面も増えると考えられる。また、教えない教えに対して、始めから何でも
かんでも教えるやり方は、選手たちが自ら考えることを止め、自分でコツをつかむ機会を
奪う恐れがあるといえる。それは感じる力、つまり感性の欠如につながり、新たな発見や
少しの変化に気づかなくなってしまう。以上を踏まえると、教えることだけが指導者の役
目 で は な く 、「 見 て 、 判 断 す る 」「 見 て 、 決 断 す る 」 こ と も 指 導 者 の 仕 事 だ と 証 明 で き る だ
ろう。
最後に、選手への褒め方・叱り方(褒めるとき、叱るとき)について考察していく。落
合 の よ う に 全 く 褒 め な い と い う 意 見 も 存 在 し た が 、そ れ は 現 実 的 に は 困 難 だ と 考 え ら え る 。
プロならそれまでの道のりを、散々褒められて歩んできた者ばかりで、口で評価せず目に
見えるもので評価しろと主張するだろう。しかし、アマチュアの中学生の場合、全く褒め
られないと自分の価値が否定された気になり、最悪その競技から離れてしまうことも考え
られるため、褒める機会は設けるべきであると考える。だが、むやみに褒めると選手が自
分を過大評価してしまうなどの恐れもあるため、褒めるタイミングを考えることも重要で
ある。選手に自信をつけさせるために、思っているよりも少し上の評価をし、選手の印象
にも残るように、短く端的にまとめることがベストな褒め方だといえる。
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叱るとは、その叱られた個人だけでなく組織の活性化を図り、さらには自らの過ちやい
たらなさに気づき、人間的な成長に欠かせないものであるとわかった。さらに、選手の将
来や成長などを考えて行われるものであり、たとえ厳しい言葉が放たれても、選手の心に
響き素直に反省することが多いと明らかになった。逆に、怒るとは、自分の感情に任せて
自らのために行われるものであり、指導者に対して不信感を抱き、信頼関係にも悪影響を
及ぼすものだと示唆できる。また、自分の感情やエゴなどで怒った場合、選手を傷つける
だ け で 何 も 生 ま れ は し な い と 考 え ら れ る 。従 っ て 、感 情 的 に 接 す る こ と が な い よ う 、
「これ
をやったらだめ」という判断基準をもち、それに則って叱るべき時には叱ることが重要で
ある。
本章の最後に、文部科学省が述べる運動部活動の効果的な指導のための指導者の役割に
ついて確認しておく。
①生徒が主体的に自立して取り組む力の育成
②生徒の心理面を考慮した肯定的な指導
③生徒の状況の細かい把握、適切なフォローを加えた指導
④生徒と指導者の信頼関係づくり
⑤科学的な裏付け等及び生徒への説明と理解に基づく指導の実施などとある。
実はこの 5 つの項目は、本研究で取り上げた監督たちの理念や指導観と似通っている部
分 が あ り , ま と め る と 以 下 の 表 の よ う に な る ( 表 )。
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①生徒が主体的に自立して取り組む力の育成
→主体的に自立して取り組む点で、権藤の「やらされている練習ではなく、自分からやる
練習ならば、自分の身に付く」
②生徒の心理面を考慮した肯定的な指導
→心理面を考慮したという点で、野村の「ここぞという時に褒めれば、その相手に深い感
動 や や り が い を 与 え ら れ る 」「 一 時 的 な 感 情 の 爆 発 に 任 せ て 、 怒 る の は 選 手 の た め に は
ならない」
③生徒の状況の細かい把握、適切なフォローを加えた指導
→細かい状況の把握という点で落合の「ある試合中ただ一人主審の体調の異変に気付き、
交 代 さ せ た 洞 察 力 」ま た 、フ ォ ロ ー を 忘 れ な い と い う 点 で 権 藤 の「 消 極 的 な プ レ ー を し
てミスをした選手を叱った、後のフォローは必要」
④生徒と指導者の信頼関係づくり
→信頼関係という点で野村の「指導者にとって、最 も重要なものは“信頼感”であり、選
手との信頼関係を構築するためには、なにより選手の意識改革に取り組むことが大切
だ」
⑤科学的な裏付け等及び生徒への説明と理解に基づく指導の実施などとある。
→ 生 徒 へ の 説 明 と 理 解 に 基 づ く 指 導 と い う 点 で 、 落 合 の 「 選 手 が 、“ あ の 人 の 言 う 通 り に
や れ ば 、出 来 る 確 率 は 高 く な る ”と い う 上 司 の 方 法 論 を 受 け 入 れ る よ う に な れ ば 、組 織
の歯車は目指す方向に回っていく」
以上のように 5 つの項目が 3 人の理念や指導観におおよそマッチしていることが見受け
られる。このように、プロ野球名監督の考え方は、中学校の運動部活動指導者の在り方を
追求する上で現実的に参考になる点も多いと考えられる。そして、3 人のプロ野球名監督
の理念から導き出した、運動部活動における指導者のあるべき姿とは「チームの方向性を
明確にする意識改革を通じて、選手との信頼関係を築き上げることを前提に、選手の動き
の観察から、愛情をもち時に褒め、時に叱り、選手の人間的成長や技術的な進歩に貢献で
きる人物」であると考えられる。
29
第 5章
人格形成を促すための指導者の役割
2~ 4 章 で 3 人 の プ ロ 野 球 監 督 の 事 例 を 挙 げ 、そ の 特 徴 を 比 較 ・ 検 証 し た 結 果 、一 つ の 運
動部活動の指導者像というものが浮かび上がってきた。その結果を踏まえて本章では、人
格形成を促す指導者ということに焦点を当て、掘り下げていく。そのために、3 人の名監
督の人格形成および人間教育の考えについてまとめ、人格形成を促すために運動部活動の
指導者が成すべきことを検証していく。
まず、
「 人 間 教 育 」の 代 名 詞 的 存 在 の 野 村 の 考 え を ま と め て い く 。実 は 野 村 が 、キ ャ ン プ
の最初に学ばせる勉強内容は「人間教育」である。人間教育とはどんなことをするのかと
い う と 、特 に 就 任 一 年 目 の チ ー ム や 新 人 選 手 た ち に 毎 年 次 の よ う な 問 い を ぶ つ け た 。
「お前
は何のために生まれて、何のために野球をしているのだ?」当然、ほとんどの選手はそん
なことを考えたことがないと推測できる。しかし、野村監督は「この世に生まれてくる意
味」を話しかけ、それがきっかけで「思考」が始まればよいと考えている。連日 1 時間以
上「人間教育」に基づく講義をおこない、人として生きていくうえで、何が重要でどうす
れば成長していけるのかなどを監督自ら話すのである。
さらに「人間的成長無くして技術的成長無し」という根本的な考えを彼はもっている。
感じる力、考える力を養っていなければ、行き詰った時に抜け出す術は見つからない。ど
んなに素晴らしい技術を持った選手でも行き詰らない人はいないため、その時にいかに考
え ら れ る か が 重 要 だ と 彼 は 述 べ る 。そ の よ う な プ ロ セ ス を 形 作 る 中 心 に は「 思 考 」が あ る 。
思考が行動を生み、習慣となり、やがて人格を形成し、運命をもたらし、そして人生をつ
くりあげていく。要するに、思考即ち考え方は人として生きていく上での起点となり、教
育し経験を積ませることでその重要性に気づかせることが「人格形成」および「育成」の
基本であると彼は考えている。
一方落合は、野村の人間教育についての考え方に真っ向から反論している。 野村の言っ
た「 人 間 は 、『 思 考 と 感 情 』に よ っ て『 行 動 』が 左 右 さ れ る 」 に 対 し て 落 合 は 、「
そ れ で も 今 の 子 は 動 か な い も ん 。だ っ た ら 、体 で 憶 え な き ゃ 」と 反 論 し た 。野 村 の「 『 人
間 の 行 動 原 理 』は『 思 考 と 感 情 』で あ る 」と い う 説 は 、昔 か ら あ る 理 論 だ 。し か し 、落
合の「 それでも動かないもん 」は、真理だ。『人間の行動原理』は『 思考と感情 』で
はなく『 衝動(欲動) 』にあると落合は理解しており、それを呼び起こすには、体で自
ら発見させるしかないと考えている。
30
このように、落合は野村とは対極の考えをもっていて、結論から述べると彼は選手に対
する「人間教育」を行っていたとは言い難い。野村のように「思考」や「感情論」を重要
視せず、野球をする能力や成績要するに「結果」で選手のことを判断していた。「チーム
の勝利が全て」という落合の頭の中に、「まずは選手の人間的成長が先」という考えはほ
と ん ど な か っ た と 言 い 切 れ る 。就 任 1 年 目 の キ ャ ン プ で は 、
「やったものだけが生き残る。
やらなければ落ちていくだけ」というようなサバイバルレースを展開し、完全実力主義の
考え方を顕わにした。常に冷めていて、そこに一切の感情はなく、「野球の実力」だけで
選手を見ていた落合は、野村に比べてより現実的なアプローチをしていったともいえる。
権藤はというと、はなから人を育てようという気はなく、自分は戦い方を教えているだ
けだという意識があった。彼は「やられたら、やり返せ」「ミスを恐れずに大胆にいけ」
などのグラウンドでの戦う姿勢を選手に植え付けていたのだ。また、 選手の味方でいたい
という気持ちは常にもっていたが、選手をプロとして認め、対等な関係であり続けようと
したため、人格形成という発想が出てこなかったと考えられる。さらに、レギュラーには
今が絶頂期の選手が多く、ある程度成熟したチームであったため、特に野手陣には、練習
を自分の責任の下で自由にやらせていた。このように、選手のことをプロとして認め、自
主性を重んじていた権藤に、結果的に選手が人間的に大きくなったケースはあるかもしれ
ないが、意図的に人を育てようとした側面はなかったと考えられる。
以上を踏まえると、「人間教育」を行ったとはっきりいえるのが野村 1 人であったとわ
かる。第 2 章周りのコメントの中に、「野村さんは、野球界全体を考えて人材を育ててき
ま し た 。そ れ が 古 田 敦 也 さ ん で あ り ‥ ‥( 略 )。そ う い っ た 方 々 は 、監 督 か ら 教 わ っ た こ と
を と ど め ず に 、自 分 た ち の“ 次 ”を 育 て て い る 。だ か ら 、自 分 も 監 督 か ら も ら っ た も の を 、
何 ら か の 形 で 返 し て い か な い と い け な い 。」と あ る よ う に 、教 え 子 が 指 導 者 に な り 、新 た な
“次”を育てるという良い循環が生まれつつある。野村の人間教育は、その場で終わるよ
うなものではなく、次へ次へと受け継がれようとしている。
そういう意味では、運動部活動の指導者も、選手の将来を見据えた人間教育を行うこと
は非常に重要だ。そして、人間教育を行う上で指導者は、この言葉を頼りに指導すべきだ
と考える。
「 心 が 変 わ れ ば 行 動 が 変 わ る 。行 動 が 変 わ れ ば 習 慣 が 変 わ る 。習 慣 が 変 わ れ ば 人
格 が 変 わ る 。人 格 が 変 わ れ ば 運 命 が 変 わ る 。運 命 が 変 わ れ ば 人 生 が 変 わ る 。」こ れ は 野 村 監
督の言葉である。一度は耳にしたことがある人も少なくないだろう。その人の思考や考え
方の変化で、その人の人格、ひいてはその人の人生まで変えてしまうという意味である。
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従 っ て 、選 手 の 思 考 す な わ ち「 生 き て い る 意 味 」
「 ス ポ ー ツ を す る 意 味 」な ど を 深 く 考 え さ
せることが、人格形成のための第一歩となると考えられる。そして、選手が将来壁にぶち
当 た り 、大 き な 挫 折 に 直 面 し た と き に 、
「 自 分 の 考 え は 本 当 に こ れ で い い の か 。も っ と 違 う
考えがあるんじゃないか」と自らの思考を見直し、自らの力で自分を良い方向に導くこと
が で き る と 考 え る 。こ れ か ら の 運 動 部 活 動 の 指 導 者 は 、
「 選 手 が 自 分 の 手 か ら 離 れ て も 、自
立した人生を送れるように、どのような物事に対しても自らの考えをもち、判断する重要
性 や 人 と し て 生 き て い く 上 で の 在 り 方 を 伝 え ら れ る 人 物 」で あ る こ と が ベ ス ト だ と 考 え る 。
32
おわりに
本研究は、人格形成を促すための運動部活動の指導者の役割や意義について、プロ野球
の代表的名監督の事例を基に進めてきた。はじめに、本研究の限界点は事例がプロの世界
の 考 え 方 で あ り 、甲 子 園 常 連 校 の 指 導 者 の 考 え も 参 考 に で き れ ば よ か っ た と い う 点 で あ る 。
さらに、野球という一競技の指導者の考え方だけでなく、同じく中学生の競技人口が多か
ったサッカーやバスケットボールの指導者の理論についても、解き明かすことがベストで
あったかもしれない。
しかし、以上のような限界点があったにもかかわらず、本研究では一つの指導者像が明
ら か に な っ た と 考 え る 。プ ロ 野 球 の 名 監 督 の 特 徴 を 比 較・検 証 し た 結 果 、簡 潔 に 述 べ る と 、
「選手を同じ方向に導く意識改革を通じて、選手との信頼関係を築き上げ、人間的な成長
や技術的な進歩に貢献できる人物」であることがわかった。また、人格形成という観点か
ら 述 べ れ ば 、「 選 手 が 自 立 し た 人 生 を 送 れ る よ う に 、“ 思 考 ” を 始 め る き っ か け を 与 え 、 自
分で物事を考え、判断する大切さに気付かせることができる人物」が求められるとわかっ
た。
本研究を通して、第 1 章で挙げた体罰などの中学校運動部活動の問題点を解決する糸口
が、指導者の観点から見えてきたと考えられる。それは、体罰が指導者・選手の信頼関係
により捉え方が大きく変わってくるということだ。依然として殴る蹴る叩くなどの暴力的
な体罰はあってはならないという考えは変わらない。人格形成という観点から見れば、暴
力的体罰は完全に子どもの人格を無視した行為であり、指導者としてやってはいけないこ
との一つであると考えられる。しかし、言葉で気合いを入れるやり方は、ある程度容認さ
れてもいいのではと本研究を通して考えるようになった。それは 、体罰になりそうな選手
に対しての厳しい一言も、信頼関係が成立していれば存在してもいいのではないかという
こ と だ 。選 手 に「 こ の 監 督 に つ い て い け ば 大 丈 夫 だ 」
「この監督は自分たちをしっかり 見て
くれている」と思わせた状態であれば、厳しい一言も選手の刺激になり、練習に対しての
取り組み方が変わるなど、良い方向に導くことができるとわかった。
また、運動部活動を中心とした青少年スポーツの発展や推進という面から考えても、一
つの指導者像が明らかになったという点は大きいと考えられる。 本研究で明らかになった
ような指導者に教えを受けた中学生にとって、スポーツは楽しく、面白く、熱中させられ
るものであり、なくてはならない存在になると考えられる。そして、中学校運動部活動で
のスポーツ経験をもとに、社会人やそれ以後のステージでもスポーツに親しむ人が増え、
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さらに一人でも多くの人が「生涯スポーツ」を実現できれば、本研究を行った価値が一層
深まると考える。
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引用文献
(1)ス ポ ー ツ 振 興 基 本 計 画 の 在 り 方 に つ い て - 豊 か な ス ポ ー ツ 環 境 を 目 指 し て - ( 答 申 )
2000 年 8 月
(2)健 康 作 り の た め の 身 体 活 動 基 準 2013
(3)文 部 科 学 省 「 運 動 部 活 動 の 在 り 方 に 関 す る 調 査 研 究 報 告 」 1997 年 12 月
(4)心 理 教 育 相 談 室
(5)文 部 科 学 省 「 運 動 部 活 動 の 在 り 方 に 関 す る 調 査 研 究 報 告 書 」 2013 年 5 月
(6)中 学 校 学 習 指 導 要 領 第 1 章 総 則
2012 年 4 月
(7)日 本 体 育 協 会 「 学 校 運 動 部 活 動 指 導 者 の 実 態 に 関 す る 調 査 報 告 書 」 2014 年 7 月
参考文献
「 な ぜ 日 本 人 は 落 合 博 満 が 嫌 い か ? 」 テ リ ー 伊 藤 , 2010 年 5 月 10 日 , 角 川 書 店
「 落 合 博 満 采 配 」 落 合 博 満 、 2011 年 11 月 21 日 、 ダ イ ヤ モ ン ド 社
「 人 生 で 最 も 大 切 な 101 の こ と 」 野 村 克 也 、 2011 年 7 月 30 日 、 海 竜 社
「 勝 つ 管 理 私 の 流 儀 」 永 谷 脩 , 1999 年 1 月 10 日 , 小 学 館
謝辞
本論文を作成にあたり、ご支援やご指導を頂いた卒業論文指導教員の河野寛講師に深く
感謝致します。その時々で、厳しくご指導頂いたこと、また、優しく励ましていただいた
ことを通して、私自身のいたらなさに気づけたことを、今後の糧にしていきます。また、
前年度までご指導をいただいた卒業研究体育教員の中野紀明教授にも感謝の意を示します。
そして、日常の議論を通じて多くの知識や示唆を頂いた卒業研究体育 研究室の皆様に感謝
します。最後に、ここまで育ててくれて、大学まで進学させてくれた両親にも深く感謝し
ます。
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