こ う づ き たい せい めい し か ん た功績は大きい。 ぜん ほん ぽ う ほん やく をPRして観光都市山鹿の発展に尽くし の復興に尽力し、機会あるごとにふるさと ご き ょうこう 八歳。終生山鹿を愛した上月晃が八千代座 な感動を与え風のように去った。享年五十 は人の命の尊さを歌に託し、ファンに大き で無念の死を遂げる。―神様お願い―上月 熟期に差し掛かった平成十一年に志半ば も ワ ン マ ン シ ョ ー を 成 功 さ せ た。だ が、円 ルに主演し、パリのミュージックホールで にかけて主要な劇場で数々のミュージカ も 大 ス タ ー と し て 七○年 代 か ら 九〇年 代 を開花させた。上月は宝塚歌劇団を退団後 合格し、タカラジェンヌとして天性の素質 の大好きな少女は難関の宝塚音楽学校に 山鹿温泉を産湯にして育った歌と踊り な か の ぼ る 上月 晃 山鹿を愛した宝塚出身の大スター(一九四〇〜一九九九) 近代の山鹿の 偉人たち シリーズ 029 YAMAGA 山鹿を愛した宝塚出身の大スター NOBORU KOHDUKI 1940 〜 1999 上月 晃 生い立ち み こ おど あい しょう ~歌や踊りが好きな少女時代~ き 2 貴美子は温泉祭 み そら の時に温泉広場 で得意の美空ひ ばりの歌を歌っ こうづき のぼる 上月晃(本名原口貴美子)愛称ゴンチャン。彼女は昭和十五年 たこともありま たつ き ち すじ となり (一九四〇)四月六日、写真店を営む原口辰起とカメコの三女と すえひろ した。一度見た うぶ ゆ して生まれました。自宅が末廣温泉の隣にあったことから、彼女 り習ったりした まり はこの温泉を産湯にしていました。原口家は、男二人女三人の五 りょう ものはすぐ自分のものにし、毬つきやお手玉、なわとびなど何を き 人兄弟姉妹でした。器量よしの両親の血筋を受けた原口家の女の ~体操との出会い~ やっても器用で元気な女の子でした。 だったといいます。 まい ご 幼い貴美子は活発な子でよく迷子になるので、迷子札をつけら 昭和三十一年(一九五六)四月、貴美子は山鹿中学を卒業して どろ れていたこともありました。ある日、姿の見えない貴美子を家族 が心配して探し回った時のことです。温泉旅館の階段に小さな泥 山鹿高校に進学し、徒手体操部(のちの新体操部)に入部しまし 同年十月に国体準優勝の成績を収めています。その一方、貴美子 に成長し、女子体操部は昭和三十二年八月にインターハイ準優勝、 と しゅ たい そう んこの足跡を見つけて後を追ったら、なんと大きな部屋の真ん中 た。そのころ山鹿高校徒手体操部は九州の実力校で、常に全国大 み で昼寝をしているではありませんか。小さい時から大物と、みん ゆ 会で優勝を争う名門校でした。二年生になると体操部の中心選手 おうせい ま 通っていました。八千代座で踊りの発表会に出たこともありま は声が大きく歌も得意なので、人の足りない時に合唱部から参加 たか の けい こ 笑 い を 誘 った の で し ょ う 。 さそ さてもその ギャップが一層 いっ そう うです。色白で美人の彼女、 友 達 を よ く 笑 わ せて い た そ エテ 公 の 物 ま ね で ク ラ ス の ば、彼女は得意のゴリラや の 親 友 高 野 勍 子の 話 に よ れ スの人気者でした。体操部 高 校 のころ 貴 美 子 は ク ラ けん ぶ す。いわば彼女の初舞台は八千代座だったのです。父の辰起は家 ひ ろう を頼まれ、兼部している時期もありました。 「なぜ、私を呼ば に友人が来ると、よく貴美子を呼んで踊りを披露させていました。 貴美子は小学生の時、町内の日本舞踊の先生に姉の眞由美と ぶ よう な大笑い。物おじせず、好奇心旺盛な女の子でした。 山鹿中学から山鹿高校へ 子は、美人三姉妹として山鹿の町では知らないものはいないほど 姉、弟と (上から 3 番目が貴美子) 昭和 32 年 5 月 城北体操大会にて団体1位 ずに貴美ちゃんの踊 りばかり見せるのか おさな ごころ な、と幼心に不思議 に思っていたけれど、 きっと妹の方が上手 だったからでしょう ね」と、眞由美は笑 います。歌もうまい 七五三(右が貴美子)山鹿市大宮神社にて 近代の山鹿の 偉人たちシリーズ 029 今 も 昔 も 変 わ り ま せ ん 。し か し 、貴 美 子 に は 何 の 準 備 も あ り ま まん じゅ しゃ げ そこでついたあだ名が「ゴリちゃん」をもじった「ゴンちゃん」 せんでした。あるとすれば、子どものころから歌や踊りが大好き きた はら はく しゅう だったようです。(北原白秋の詩「曼珠沙華」で、「ごんしゃん、 だったことくらいでした。まさに無謀ともいえるような挑戦でし む ぼう ご ん し ゃ ん 、何 処 へ 行 く … 」と い う く だ り が あ り ま す 。柳 川 地 た。 じょう 彼女は後に雑誌社の取材で語っています。 やな がわ 方の古い方言で「お嬢さん」のことを「ごんしゃん」とよぶので、 それから転じてつけたという説もありますが、家族は「ゴンタク 思って受けた宝塚、私はラッキーだった」レオタードを着こなし 「落ちてもともと。友達へのみやげ話くらいにはなるだろうと 彼女は男子生徒にもよくモテたといいます。友人が覚えている たお嬢さん受験生の中に交じって一人、貴美子は「山鹿」と書か レ」から来たあだ名と確信していました。) だけでも七、八人の男子生徒が貴美子の自宅や学校の下駄箱にラ れ た 高 校 の 体 操 服 で 試 験 を 受 け ま し た 。天 真 爛 漫 で 物 お じ し な かいきょ 来の快挙でした。 宝塚音楽学校 てん ご じつ だん じょう しました。彼女はグラフ雑誌で紹介されていた憧れの宝塚歌劇寮 りょう 昭和三十三年(一九五八)四月、貴美子は宝塚音楽学校に入学 ~水を得た魚~ です。田舎の県立高校から宝塚音楽学校へ、山鹿高校始まって以 して山鹿へと戻ります。ところが後日…合格の知らせが届いたの てしまった。受かるなんてとても無理だわ」貴美子は自信をなく なきらびやかで華やかな舞台。私はとんでもない無謀な受験をし う失敗の後、初めて宝塚のレビューを目にします。「ああ、こん 入ってしまい、途中で気付いて宝塚歌劇団の劇場に入り直すとい 塚 歌 劇 を 見 る こ と に し ま す 。最 初 に 間 違 えて 隣 の 古 い 演 芸 場 に えん げい 試験の終わった貴美子は、帰りの汽車まで時間があるので、宝 す。 ではそれが「おもしろい子だ」と試験官たちの目を引いたようで 言われ、曲に合わせて即興で踊り、バック転をしました。後日談 そっ きょう しょう。居並ぶ試験官を前に「何か得意なことをしてみせて」と い なら い貴美子とはいえ、おそらく会場では浮いてしまっていたことで てん しん らん まん ブレターを届けま し た 。し かし 封 も 切らずに家 族や友 人に返 事を頼 んだ こ と も あ り 、この とりこ ころの 彼 女 を 虜 に していたの は ダン ス だ け だった よ う です。 宝塚との出会いと旅立ち はな 貴美子は高校二年のある日、華やかな宝塚を紹介する『毎日グ ラフ』の記事に目を留めました。「歌と踊りと芝居ばかりできる 学校があるなんて、私に合っているかも。」これが宝塚との出会 いでした。父親は反対しましたが、母がお金を工面して宝塚音楽 学校を受験しました。昭和三十三年(一九五八)春のことです。 たん しん 山 鹿 高 校 の セ ー ラ ー 服 に 身 を 包 み 、貴 美 子 は 姉 や 友 達 に 見 送 られ単身兵庫県宝塚市に向かいました。一般に宝塚音楽学校へ入 学するために、小さいころから血のにじむような努力をする姿は、 3 山鹿高校徒手体操部のメンバーと (後列右端が貴美子) 山鹿を愛した宝塚出身の大スター NOBORU KOHDUKI 1940 〜 1999 上月 晃 みやこ 宝塚歌劇団へ ~上月晃誕生~ 昭和三十五年四月、貴美子は宝塚音楽学校を卒業し宝塚歌劇団 (研一)のメンバーとしてデビューしました。デビューはしたも ふ たん のの一、二年は月給も少なく生活は大変でした。しかし、宝塚は ゆう 自分で選んだ道ですから、親に負担はかけられません。貴美子は が 親からの仕送りを断りました。優 雅 な 生 活 を 送 る 同 期 生 が 多 い 中で 、 彼 女 は 切 り 詰 め た 日 々 を 過 ご して いました。 げい めい 宝塚音楽学校の生徒は、初舞台 ばなりません。山鹿にいる家族か 4 ( 現 ス ミ レ 寮 )に 入ったので す 。同 期 生 は 五 十 人 。そ の 中 には 、のちに 宝 塚 こう 「 3 K ト リ オ 」と し こ しろ て人 気 を 競い合 う甲 にしき、古 城 都の姿 もありました。 にち ぶ 音 楽 学 校 で は二 年 せい がく 間 、声 楽 、日 舞 、バ レエ、モ ダン ダンス な どの ほ か 、一般 学 語、社会も学びます。 らも、それらしい芸名をいくつか を前に自分の芸名を付けなけれ 音楽学校の生徒はお互いライバルでもあります。ほとんどの生徒 送ってきましたが、どうもしっく 校 と同 様 に歴 史 や 英 が入学前から歌や踊りの英才教育を受け、入学後も家族の援助で りきません。あれこれ悩んでいる お 寸暇を惜しんで個人教授に通います。貴美子は英才教育も個人教 うちに同期生で自分が最後に残っ すん か 授も受けたことはありません。あるとすれば幼いころから「原口 とう ろう てしまいました。そんな時、新聞 きた のキミちゃん」と近所の人に可愛がられ、温泉祭や灯籠まつりで を見ていたら「上月」という文字 これだと思い「晃 」という好きな が目につきました。「月 が昇る」 のぼ 踊っていた経験と、山鹿高校体操部で鍛えた体力です。彼女は音 楽学校での日々を楽しく過ごしました。 なま 文字を自己流に「のぼる」と読む しかし、彼女を悩ませた問題が一つありました。熊本訛りです。 演 出 家 か ら 訛 り を 直 す よ う 指 導 さ れ た 翌 日 に すっか り 直 して き ことにしました。「 上月晃(こう 和三十五 年(一九 六 〇 )「 春の踊 タ カ ラ ジ ェ ン ヌ 上 月 晃 は 、昭 かがや たというエピソードもあるのですが、実はさすがの貴美子もずい づきのぼる)」月が輝いて上り始 とっ くん ぶん苦労したようです。音楽学校では東京出身の同期生に「いな す がお ひょう じゅん ご める。貴美子が宝塚での決意を込 な かっぺ」と怒鳴られながら標準語の特訓をしてもらったといいま め、自らつけた芸名です。 ど す。舞台を下りれば、彼女は素顔の「原口貴美子」に戻るのです が、家族の前でもなるべく訛らず話すようにずっと努力を続けて いました。 楽屋にて 公演のようす(昭和 38 年) 宝塚音楽学校時代 (入学4ヶ月、昭和 33 年 7 月) 宝塚歌劇団に入団したころ (昭和 35 年 12 月) 近代の山鹿の 偉人たちシリーズ 029 り」で宝塚の初舞台 さん もん を踏みました。同年 五月の公演「三文ア つか ムール」で代役を掴 み、翌年九月「三銃 なん やく 士」では難役を見事 しょう 宝塚からの羽ばたき またた ~さらなる飛翔へ~ デビューから瞬く間に八年が過ぎました。上月は今や人気を不 どんよく 動のものとしていました。しかし、彼女は決して現状に満足せず 貪欲に自分の可能性に挑戦したかったのです。昭和四十三年、上 う よ きょくせつ へ しょう 月は劇団に退団を申し入れました。ところが宝塚のドル箱スター か てっかい にこなしてその月の ばっ てき となった上月の退団がすんなりと認められるはずもなく、一度は かね 新人努力賞をさらいました。ソロで歌った歌唱力が認められ、昭 それを撤回せざるを得なくなりました。紆余曲折を経て退団が承 にん 和三十六年のミュージカル「明日に鐘は鳴る」では主役に抜擢さ 認されるまでにはそれから二年という時間を要したのです。 ま だい ち み はな よ す こ しじ ふぶき ち ぐさかおる せん か かんぱくひでつぐ けん ぎ そくしつ まん し かた しょう ぜっさん いつ わ よろず わ や きん の 見事に演じ、お茶の間の話題をさらいました。上月は、日本を代 介主演)では、関白秀次の側室お万の方役で芯の強い戦国女性を すけ 昭和四十六年放送のNHK大河ドラマ「春の坂道」(萬屋錦之 たい が うのに「俊敏で覚えが早い」と剣技の師匠から絶賛されました。 しゅんびん 郎主演)の女忍者お蘭役では、本格的な立ち回りは初めてだとい らん した。本格的にテレビ出演した大型時代劇「大忠臣蔵」(三船敏 み ふね のタカラヅカ 故・上月晃さんとの思い出」平成十四年) やくどう 退団後の上月は、自由に大空を羽ばたく白鳥のように躍動しま んで見てみたかった」と述べています。(日本経済新聞「我が心 の しい。ただ、残念に思うのはあのオスカル役を今は亡き上月晃さ じゅん 昭和四十五年(一九七〇)五月、上月はようやく退団を認めら 宝塚音楽学校は二年制の宝塚歌劇団団員養成 な したが、同期生の中では異例の出世でした。その後、昭和三十九 い れい れました。音楽学校ではそれほど目立った存在ではありませんで はじめてのブロマイド (昭和 36 年) る。 れ独立しました。デビューからすでに十年の歳月が流れていまし 占められ、 「タカラジェンヌ」の愛称で親しまれて しょうれい 劇団。団員は例外なく宝塚音楽学校の卒業生で つい おく 所。大正二年(一九一三)宝塚歌唱隊として発足、 け しょう きょう ち る。八千草薫、越路吹雪(故人)、寿美花代、大地真 や 表する時代劇の大スター三船敏郎、萬屋錦之介と共演し、お茶の 間の人気スターとしても活躍したのです。 得意のミュージカルでは、「マイ・フェア・レディ」のイライ 5 くろ き ひとみ お しん 央、黒木瞳など多くの人気スターを生み出してい 年 芸 術 祭 奨 励 賞 を 受 賞 し 、「 ラ・グ ラ ナ ダ 」「 オ ク ラ ホ マ ! 」 (東京都千代田区)を中心に公演を行っている。 た。サヨナラ公演「ザ・ビッグ・ワン」(新宿コマ劇場)では、 宝塚音楽学校と宝塚歌劇団 ぜっ さん いる。宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)、東京宝塚劇場 「追憶のアンデス」「シルクロード」など宝塚の歴史に残る舞台 み こん ファンが買い占めたため都内の花屋から花が消えたという逸話が 宝塚歌劇団は未婚の女性だけで構成された歌 に名を残します。中でも「オクラホマ!」で、上月の演技はアメ 験競争倍率は約二十倍で「東の東大、西の宝塚」 残るほど、宝塚ファンに愛されていました。タカラヅカファンで といわれる難関である。 き 迎えた。 「清く正しく美しく」 を校訓に、舞台人として ふん い の基本と女性としての教養を学ぶ。近年の入学試 リカから来ていた演出家デ・ラップから絶賛され、化粧も男っぽ 変更し、平成二十五年(二〇一三)創立百周年を 知られる浜村淳は新聞で「『ベルサイユのばら』はそれは素晴ら 昭和二十一年(一九四六)宝塚音楽学校に校名を い雰囲気にしてそれまでの宝塚の男役とは一味違う新境地を開い 花、月、雪、星、宙の五つの組と専科に分かれてい そら たと言われます。 ちょっとコラム① 山鹿を愛した宝塚出身の大スター NOBORU KOHDUKI 1940 〜 1999 上月 晃 じょう スター上月晃として帰ってきた感動の再会です。しかし上月はス 6 ぼ ザを皮切りに「慕情」「シカゴ」「ナイン」など数々の作品に出 ター気どりなど全くなくて、リサイタルの幕間に友人が灯籠踊り まくあい 演します。中でも「屋根の上のバイオリン弾き」のゴールデ役、 を練習中の教え子を伴って楽屋へ訪ねても「あくびでもするよう ひ 「ラ・マンチャの男」のアルドンサ役はまさに上月の当たり役で に、伸び伸びと唄えばよか」と気さくに歌い方のレッスンをして チャップリンなど) も多数出演した。 たず した。「ラ・マンチャの男」では、昭和五十四年(一九七九)に くれたといいます。 きく た かず お 文化庁・芸術祭優秀賞を、昭和五十八年(一九八三)に菊田一男 演劇賞を受賞しています。 である。往年の世界的スター(ジャン・ギャバン、 ジョセフィン・ベーカー、チャリー・ ~なつかしきふるさと~ フォリー・ベルジェール(Folies Bergère)はパリのミュージック・ホール。マネや 愛する山鹿 ロートレックの画題になるなど、パリのナイトシーンを代表する伝説的なホール 上月はその名のとおり、夜空に輝く満月のように光り輝きまし フォリー・ベルジェール劇場 た。昭和五十年(一九七五)から三年間、パリの伝統あるミュー ジックホール「フォリー・ベルジェール劇場」で東洋人として初 けいあい めてワンマンショーを開き、満員の観客の大きな拍手を浴びまし た。 帰国後は、敬愛するフランスのシャンソン歌手エディット・ピ ねっ しょう アフの曲を全国百八十のステージリサイタル「ピアフ・命燃え尽 かげ きて」で熱唱し、ファンを感動させました。 そのような活躍の陰で上月の おん し お ちょっとコラム② ピアフ公演(郵貯ホールにて) 写真提供 柴田洋一 山鹿市制 30 周年記念八千代座 復興チャリティリサイタル 写真提供 柴田洋一 フォリー・ベルジェール劇場 (NOBORU KOZUKI GON CHANのネオンが輝く) 心にはいつも愛するふるさと山 すん か 鹿があり、家族、恩師、友人が すい か いました。上月は寸暇を惜しん で山鹿に帰り、大好きな西瓜を なつ かじりながら家族や友人と昔を 懐かしみました。 平成七年、上月は熊本県立 劇場でリサイタルを開きまし た。無名時代を知る友人達から 見れば、旧友の原口貴美子が大 ザ・ビッグワン公演 近代の山鹿の 偉人たちシリーズ 029 運命 ~命燃え尽きて~ じゅく き むか 歌う時間をください もう一度命を燃やすため… (ピアフ「私の神様」原題MON DIEU) 思えば、上月が歌ったエディット・ピアフの歌がそのまま上月 えん 上月は今や芸能界のあらゆるジャンルで活躍する大スターと の命の叫びでした。それはまた、生きたくても生きられない人の く びょう ま たたか こうれい もり ともに静かに眠っています。 き き しば い ふるさと山鹿にかける思い らくせい ち よ ざ ~上月晃の功績~ や て復活し、今では観光のシンボルとなっています。 山鹿では取り壊しの危機にあった芝居小屋八千代座が修復され こわ 上月晃、愛称ゴンちゃん。今彼女は原口家累代の墓に、両親と るいだい 命への願いと尊さを歌い上げた、上月晃のメッセージでもあった とおと して、円熟期を迎えていました。平成十年(一九九八)には のです。 ま おお 「フォーティーセカンド( 42nd )ストリート」のドロシー・ブ ロック役で、演劇評論家たちが選ぶその年の日本のミュージカル こう じ わずら ごく ひ 女優賞一位に選ばれました。しかし、好事魔多しというにはあま か こく がん りにも過酷な運命が上月を待っていたのです。 平成十年(一九九八)二月、上月は癌を患い極秘で手術を受け としゆき ます。しかしコンサートも舞台もキャンセルせずにすべてこなし ていました。九月には「屋根の上のバイオリン弾き」で西田敏行 の演じる主人公テヴィエの妻ゴールデとして一ヶ月間舞台に立ち さと ました。不調をおして演じきった舞台ですが、関係者に病気のこ ゆ けつ とを悟られることは一切ありませんでした。上月は病魔と闘い、 十月に再手術。医者の友人に輸血をしてもらいながら年末恒例の プリンスホテルのディナーショーで変わらず熱唱し、それが最後 の舞台となりました。 平成十一年(一九九九)三月二十五日、上月は二十一世紀の夜 明けを待たずにまるで風のように去りました。享年五十八歳。全 つうこん 国の上月晃ファン、ふるさと山鹿にとっても痛恨の出来事でした。 ふ ほう 人は亡くなって初めてその人の真の価値がわかるという言葉が ろう きゅう か ご らく た よう か あい 明治四十三年に落成した八千代座は、昭和五十~六十年にかけ いた ありますが、訃報を聞いて真っ先にお悔やみの葉書を下さった森 こくべつしき て老朽化が進み、娯楽の多様化と相まってほとんど利用されなく しげひさ や 繁久彌をはじめ、告別式の後にも彼女の死を悼んで自宅にお参り なっていました。この時期、八千代座は解体か保存かが議論され あらた みずか に来る人が絶えませんでした。その中の一人、坂東玉三郎も自ら ていました。昭和六十三年(一九八八)上月晃は、八千代座復興 ばんどうたまさぶろう を「上月さんの宝塚時代からの大ファン」と言っていて、これほ のために舞台に立ちました。小学校の時以来三十八年ぶりの八千 おどろ たの いっしょ のお手伝いをしてほしいと永六輔に頼み、一緒に舞台に出てもら えいろくすけ 代座出演でした。その時上月は、八千代座の価値を伝えて、復興 ふっこう ど各界の多くの人から認められ、慕われていたことに家族も改め て驚かされました。 神様どうぞどうぞお願い 7 森繁久彌から遺族にあてたハガ キ(惜しい方をなくしました / こ の悲しみは御身内ばかりではな く / 私どもひいきの連中も同じ / かなしみに泣いております / 御 霊前に拝礼 / 森繁久彌) いました。東京の文化庁にも何度も足を運び、八千代座の復興 に力を尽くしました。 坂東玉三郎の公演などを経て今や全国的に有名になった八千 りゅうせい 代座は、上月晃をはじめとする多くの人々の努力で保存され存 昭和二十二年▼ 山鹿小学校入学 (一九四七) 昭和十五年 ▼ 原口辰起とカメコの三女として生まれる (一九四〇) 昭和六十三年▼ 八 千 代 座 復 興 支 援 の た め 八 千 代 座 舞 台 出 演(平 成 二 年 に 二度目の出演) (一九八八) 昭和五十八年▼ 「ラ・マンチャの男」で菊田一男演劇賞受賞 (一九八三) 昭和五十四年▼ ミ ュ ー ジ カ ル「ラ・マ ン チ ャ の 男」ア ル ド ン サ 役 で 文 化 庁芸術祭優秀賞受賞 (一九七九) 続したことで、今日の隆盛を迎えているのです。 昭和二十八年▼ 山鹿中学校入学 (一九五三) 平成七年 ▼ エディット・ピアフ「命燃え尽きて」、熊本県立劇場「上 月晃リサイタル」公演 (一九九五) 〒861-0501 熊本県山鹿市山鹿 156-3 TEL 0968 - 43 - 1691 山鹿市教育委員会 教育部 文化課 昭和三十一年▼ 山鹿高校入学、徒手体操部入部 (一九五六) 平成 26 年 3 月 発行 平成十一年 ▼ 大腸がんのため死去、五十八歳 (一九九九) 主なテレビドラマ出演 翌 [ 年萬屋錦 (石坂浩二主演) 昭和四十四年▼ NHK大河ドラマ「天と地と」 (一九六九) (中村錦之助 昭和四十六年▼ NHK大河ドラマ「春の坂道」 (一九七一) 之介と改名 主 ] 演) (三船敏郎主演) 昭和四十六年▼ 「大忠臣蔵」 (一九七一) 昭和五〇年 ▼ 「水戸黄門」(東野英治郎主演) (一九七五) 上月 晃 八千代座の舞台に立ち保存を訴える上月 昭和三十二年▼ 徒 手 体 操 部 イ ン タ ー ハ イ 団 体 準 優 勝、静 岡 国 体 準 優 勝 な (一九五七) ど主力選手として活躍 昭和三十五年▼ 宝塚歌劇団に入団、 「春の踊り」で初舞台 (一九六〇) 昭和三十九年▼ 「日本の旋律」の歌で第十九回芸術祭奨励賞受賞 (一九六四) 昭和四〇年 ▼ 「ラ・グラナダ」で星組トップスターになる (一九六五) 昭和四十五年▼ 新宿コマ劇場「ザ・ビッグワン」を最後に宝塚歌劇団退団 (一九七〇) 昭和六十三年▼ 「暴れん坊将軍」 (松平健主演) (一九八八) 那須 照弘 宮崎 歩(山鹿市教育委員会) 昭和三十三年▼ 山鹿高校三年時に宝塚音楽学校入学 (一九五八) 年表 History 昭和五〇年 ▼ パ リ の フ ォ ー リ ー・ベ ル ジ ェ ー ル 劇 場 で 東 洋 人 と し て 初 (一九七五) 主演(三年間) 山鹿を愛した宝塚出身の大スター 参考文献 上月晃『ふりむかないで』報知新聞社、1971年 上月晃『エディット・ピアフ~愛の叫び~』 キング・レコード、1993年 ファンクラブ会報 『新補山鹿市史』2004年 那須照弘 『痛快!番長署長一代望郷編』書肆侃侃房、2012年 近代の山鹿の偉人たち 029 取材協力、写真提供(敬称略・50 音順) 片柳木の実、柴田洋一、清水眞由美、高野勍子、友澤登喜子、原口了子 執筆・編集 山鹿を愛した宝塚出身の大スター JUNZO NAKAHARA 1940~1999 上月 晃 近代の山鹿の 偉人たちシリーズ 029
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