怪物マ ル ゼ ン ス キ ー

怪物マルゼンスキー
1974年7月、月曜の某日
この頃の私は毎年、夏の1カ月間は出張で、札幌競馬を取材していた。厩舎全休日の月
曜日は毎週、牧場廻りをして、タイムリーな記事を送るのが仕事だった。
この日は早来の社台ファームへ代表の吉田善哉さんを訪ねていた。取材を終えたあと
「生
まれたばかりのニジンスキーの牡の子が評判になっていますね」と話題をかえると、善哉
さんは「私も見てみたい。これから一緒に見に行こう」。
怪物マルゼンスキー
気が短くて即行動の善哉さんは、自らがベンツのハンドルを握って、同じ早来の橋本牧
場へ向かった。
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子馬の父は英3冠馬ニジンスキー。母シル、母の父バックパサー。母系は重賞馬がズラ
リと並ぶ超一流のファミリーだ。
前年の米キーンランドのセリ市で、橋本善吉さんと本郷調教師がニジンスキーの子をは
らんだ繁殖牝馬シルを、 万ドル(当時の換算で9600万円)の高額で落札した。
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翌年の5月 日に生まれたのがその牡馬で、まだ2カ月くらいしかたっていない乳児に
1億円を超すシンジケートが組まれようとしていたのだ。
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あいにく橋本さんは不在だったが、善哉さんは応対した若い牧夫さんに繁殖厩舎の場所
を聞いて「案内はいらんよ」と馬房をひとつづつ覗きこんでいった。
す る と 母 シ ル の プ レ ー ト が 貼 ら れ て い な い 馬 房 の 前 で 止 ま り、
「うん、この子に間違い
ない」とうなずき、じっと黙ったまま見つめていた。
「ありがとう。善吉さんによろしくな」と牧夫さんに礼をいい、きびすを返したあとで、
めったによその牧場の生産馬をほめない善哉さんがつぶやいた。
。善哉さんの表情はちょっと複
「いい馬だ。ひょっとすると凄い馬になるかもしれんぞ」
雑そうだった。新米記者の私の目にも、その子馬は光り輝いてみえた。
3歳(現2歳)になり、東京競馬場の本郷厩舎に入厩した日、待ちに待った私は、3年
ぶりに再会し、担当厩務員さんに「当歳の夏に吉田善哉さんがほめた」ことを伝えた。競
怪物マルゼンスキー
走馬になったニジンスキーの子は、それは素晴らしい馬体に成長していた。
「触ってもいいですか」という私のおねだりに厩務員さんは馬房の中に一緒に入れてく
れた。ビロードのような薄いヒフを私は何度も何度も撫でまわした。
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「凄い馬になる」という吉田善哉さんの予言が本当に現実になる、そのサラブレッドを
マスコミで最初に取材できたのは競馬記者冥利に尽きるといっていい。
その名はマルゼンスキー。
デビューして8戦全勝。つけた着差は大差→9馬身→鼻→大差→2馬身1/2→7馬身
→7馬身→ 馬身。なにもかもがケタはずれだった。
当時は妊娠している牝馬を輸入した場合、その子は日本で生まれたにもかかわらず、ク
ラシックに参戦できなかった。
主戦の中野渡騎手はダービーに参戦できない無念をこう語った。
(当時は 番枠)
でいい。他の馬の邪魔は一切しないし、賞金もいらないから、
「枠順は大外
ダービーに出走させてほしい。この馬の能力を確かめるだけでいいんだ」
引退後も種牡馬として大成功した。ダービー不戦の無念を産駒のサクラチヨノオーが果
たし、ホリスキーとレオダーバンが菊花賞を勝った。ブルードメアサイアー(母の父)で
はスペシャルウィーク、ライスシャワー、ウイニングチケット、メジロブライトなどを輩
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出し、さらに評価を高めた。
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