「因幡のシロウサギ神話」の不思議

「因幡のシロウサギ神話」の不思議
調査メンバー:居組祐介
大塚真央
川島紗耶香
衣笠優子
小松原理恵
伊久元気
下田将大
武田有紀
中村緑
小童谷友紀
指導教官
山口勇太
山中俊樹
:門田眞知子
豊田久
目次
①<因幡のシロウサギ神話>のストーリー
②
白兎神社
③<うさぎのイメージ>
④<八上姫と賣沼神社>について
⑤<御熊の神の橋かけ伝説>
⑥<大国主とはどんな神か>
⑦<大国主と出雲大社>
Mars 2006
2005年度
①
地域文化調査成果報告書
<因幡のシロウサギ神話>の
ストーリー
中村緑
②
白兎神社
居組祐介、伊久元気
ある時、因幡の気多の岬で毛を毟られ、赤裸
になったウサギが苦しんで砂浜に伏せていま
した。そこへ因幡に住む八上比売のもとへ求婚
しにやってきた八十神(やそがみ)が現れまし
た。八十神たちはウサギの姿を見ると「海水を
浴びて風に吹かれていれば治るだろう」と、か
らかい半分に嘘を言いました。それを信じたウ
サギは八十神の言う通りに実行し、当然ながら
その傷は悪化しました。あまりの痛さに泣き伏
していると、そこへオホアナムヂがやってきま
した。オホアナムヂが事情を尋ねると、ウサギ
は自分の身の上を話しはじめました。「私は、
もとはオキノ島に住んでいて、ここまで海を渡
ってくるのにワニを利用したためにこんな姿
になったのです。私はワニにこんな話をもちか
けました。『なぁワニさん、ウサギとワニの一
族、どっちの数が多いか比べてみないか。オキ
ノ島から気多の岬までずっと並んでみてくれ。
私が上に乗って数を数えよう』と。私はそうし
てワニの背を渡り、ここまで辿り着きました。
しかし渡れた瞬間、嬉しさのあまり、思わず「お
まえ達は私に騙されたんだよ」と言ってしまい、
騙されたと知ったワニは怒って私に噛みつき、
皮を剥いだのです」。この話を聞いたオホアナ
ムヂは「川の水で身体を洗い、蒲の花の上で横
になっていなさい」と言って正しい治療法を教
えてやりました。そうするとウサギの傷はたち
まちにして癒えました。ウサギはとても喜びオ
ホアナムヂに「貴方さまこそ八上比売を得るこ
とになるでしょう」と予言を残しました。そし
て本当にオホアナムヂが八上比売に選ばれた
のでした。
下田将大
山口勇太
オホアナムヂと八上比売との結婚を予言した
シロウサギ神、兎神を祀った所である。千五百年
代の終わりの頃、鹿野のお殿様、亀井武蔵守の夢
枕にシロウサギが現れ、自らを祀った神社がなく
なり住むところがなく悲しいと訴えたという。そ
れにより現在の白兎神社の場所に亀井氏がこの
神社を建立した(『因幡民談記』)。昔はどこにあ
ったのか。恐らく現在の位置からそう遠くない場
所であろう。今から五百年ほど前の話にすぎない。
一方、鳥取の地形的な象徴でもある大山の麓に
も白兎神を祀った中山神社がある。ここにも別の
〈シロウサギ伝説〉が存在する(『旧中山町誌』
など)。
さらには、『古事記伝』を長年かけて記した江
戸時代の国学者、本居宣長が紹介するのはこちら
の中山神社である。
大山の周囲には縄文文化の遺跡が多く発掘さ
れている。古墳も多い。山陰古代文化のさらなる
故郷はこちらなのであろうか。
白兎神社 (白兎海岸)
この神社は十六世紀の終わり頃、鹿野城の殿様、
亀井武蔵守により建立された。
-2-
「因幡のシロウサギ神話」の不思議
お き のしま
於岐 島
お
き のしま
白兎海岸の目の前に於岐 島 がある。兎が岸に向かうような形。そして岸まで続く板状の玄
武岩は、ウサギに騙され列を作ったワニの背を彷彿させる。
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2005年度
地域文化調査成果報告書
③<うさぎのイメージ>
大塚真央
私は兎について、赤田光男さんの『ウサ
ギの日本文化史』を中心にまとめてみまし
た。前にあげられた因幡の白兎のほかに、
兎は数々の神話に登場しています。
インドの仏教説話では、空腹の老人を
もてなすものが何もなかった兎が、自分を
食べるようにと火の中に飛び込みました。
それをみた老人は帝釈天の姿に戻り、兎を
月に上げたというものです。この話は日本
の『古今和歌集』にも載せられています。
中国の神話は、太陽に三本足の烏が、月に
兎が棲んでいると言うものです。月には同
時に不死のヒキガエルも棲んでいます。
また、別の話では西王母の元で不死の薬
草をせんじているそうです。アフリカの神
話では、ウサギは月に命じられて人間達に
「不死」を伝えに来た使者でした。
日本・アイヌ民族の民話では、昔、月で
雪合戦をしていた王子が雪玉の1つを地球
に落としてしまいました。それを見た神様
が雪玉に命を吹き込み、それが兎になった
そうです。
『和漢三才図会』から、兎の音読みはト、
漢音はトウ、和名は宇佐木とし、明視、娩
子、舎迦と言う異名があります。兎の薬用、
効能も書かれています。兎の肉は、身体を
補強して気を益す、熱性による渇きを止め、
子どもの疱瘡を治す。8月から10月の間
は、ショウガ、カラシ、橘、鶏肉と一緒に
食べてはいけない。兎の血は熱性の病気で
血が上がっているのを冷まし、血を生き返
らせる。出産を安くし、胎毒をおろし、か
つ疱瘡にはかからない。兎の脳髄も安産の
妙薬でヒビ、しもやけにも効く。兎の皮毛
は12月に取り難産に良く効く。余血、乱
心、腹痛などに極めてよく効く、等々。
野うさぎは本州、四国、九州に生息しま
す。毛の色は西日本ではずっと黄褐色、東
日本では冬季のみ白色です。したがって西
日本で白兎が出現すると、とても珍しいと
して大切にされました。通常の色である黄
褐色の兎や、黒いカラスに対して、異常で
ある白い兎やカラスは霊魂の象徴とみなさ
れていました。白は霊のシンボル、再生の
シンボルなのです。兎は仏教や道教にも取
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り入れられた聖獣であり、宗教思想の伝来
とともに、日本の貴族層には逸早く兎は聖
獣であるという考えが広まったと見られて
います。白兎は因幡の神話です。西日本で
は白兎はなおさら珍しいので、ここに白兎
がいるならば、それは突然変異、もしくは
実在する生き物ではなかったのではないで
しょうか。
兎は月、山、水の神、またはその使いと
されています。山の神は、春になると降り
てきて田の神になり、秋には山に帰って山
の神になると言う去来信仰が特長的です。
東日本から中部日本にかけては、山の神は
一年に十二人の子供を産むと伝えており、
山の豊饒性を山の神の多産性として象徴化
しています。兎も多産性ということから同
一視されるようになりました。兎は山の中
で出会っても、すばしっこく、すぐに逃げ
てしまいます。足の速さは時速 80kmもあ
り、その現れてすぐに消えるという神秘性
も山の神とされる要因のひとつなのです。
月と兎は、始めに述べた神話のように兎
が月に棲んでいるというものです。これは
東アジアでは月の影が元になっているので
はというものがいくつか見られます。月の
満ち欠けは不死と再生を暗示するもので、
兎の不死の薬草と共通点が出来ています。
日本の月の兎は餅つきをしているというこ
とですが、これは望月がなまってこのよう
になりました。また、月は水の属性を持っ
ているとされています。中国の神話では月
は陰気(水気)から出来たもので、潮の満
ち引き、洪水などの水を支配します。これ
は、月の満ち欠けと潮の満ち引きが対応し
ていることから生まれたという説です。そ
のほかに、
『万葉集』から、月には変若水が
あると詠まれています。この水と月、月と
兎の関連から、水と兎が結び付けられたの
でしょう。
「因幡のシロウサギ神話」の不思議
④
<八上姫と賣沼神社>について
衣笠優子
八上姫とは「因幡のしろうさぎ」神話に
登場する主人公、オホアナムヂ(後の大国
主命)とその兄弟八十神たちの求婚相手で
すが、八上姫とはどのような人物だったの
でしょうか。
江戸時代後期の因幡地方の地誌『因幡誌』
によると、八上姫の親は用瀬の安蔵長者で、
八上姫は昔の八上郡の有力者だったのでは
ないか、と書かれています。八上姫の名前
でもある「八上」という郡の名前は古代か
ら明治期までありました。八上姫は大国主
命と結婚後、出雲へ行きますが、スサノオ
の娘である須勢理姫の嫉妬に心を痛めて再
び八上の地へと戻ってきたともいいます。
そして八上姫が祀られているのが売沼神
社です。売沼神社は鳥取市河原町の曳田と
いう場所にあります。売沼神社は式内社で、
平安時代の延喜式において神名帳と呼ばれ
る全国の神社台帳に載っている当時の朝廷
公認の神社です。
神社名については、 『延喜式』神名帳の
八上郡十九座のうちに「売沼神社」と見え、
『延喜式』諸本はヒメヌと訓み、『因幡誌』
も「売の字の上に比の字ありしを延喜式に
脱したりと見ゆ」とする。現在一般には、
メヌマと呼んでいるが、社伝には「八上姫
神社」と見え、寛政元年(一七八九)藩主
寄贈の額にも「稲羽八上姫神社」と書かれ
ているという(『式内社調査報告・第19
巻』) というように、いろいろな見解があ
るようです。
めぬま
売沼神社は『日本の神々 神社と聖地7
山陰』によると、 当社は『古事記』の「稲
羽の素兎」伝説に登場する八上比売を祀っ
た神社。
『因幡誌』は「曳田村氏神西ノ日天
王 当社は八上姫の霊神也。大己貴、兄の
八十神と兄弟各稲羽八上姫を婚らんとて、
出雲国より来たり玉ふ。大己貴神は従者と
なりて袋を負い玉ひしが、つひに八上姫と
婚し玉ふ事、旧古二記(注)にも委しくみゑ
たり。先代旧事本記に上皇初代八上姫出生
の地なるを以て祭祀すと。凡国中大小の神
社多くありと雖、神書に其神源を明に記せ
るは当社の外未だこれを聞かず。あがむべ
し。国中最初の神廟なり」と述べている
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と、あります。このように『因幡誌』にお
いても売沼神社は大きくとり上げられて神
聖視されていること、
『因幡誌』の時代に神
社の名称は「西ノ日天王」だったことがわ
かります。
「西ノ日天王」の「西ノ日」につ
いては、
『八頭郡の地名 八上姫』によると、
「西は出雲、日は日女の日、つまりオホア
ナムヂと結婚後に出雲より帰ってきたから
か、日は輝く光など、姫を賞賛した言葉か」
といわれています。
河原町の町誌、昭和 61 年に発行された
『河原町誌』によると、「売沼神社 曳田。
延喜式に載っている小社である。八上姫の
神跡である。中世から西ノ日天王といって
いたが、元禄年間に旧号売沼に復した。明
治元年字原山の熊野神社・稲荷神社・諏訪
神社・貴布弥神社を合祀し、同五年郷社と
なった。同四十年新撰幣帛料供進社に指定
された」と記録されています。新撰幣帛料
供進社とは明治政府から指定を受けた神社
のことを言うようで、明治期の神社の合祀
によりイザナミノミコト、タカオカミ、ク
ラオカミ、ウケモチノカミ、タケミナカタ
ノカミの5神が現在、売沼神社では八上姫
とともに祀られています。
また、神社境内にある大きな杉の木が中
世末か近代初めのものということで、神社
は古くは神社の川向いにある簗瀬山の中腹
に鎮座しており、それが中世末から近世初
めに曳田川沿いの現在地よりも少し小高い
場所へ、さらに近世に入って現在の場所へ
と移ったのではないか、というようにも考
えられているようです。そのため簗瀬山の
先端尾根では八頭郡内で最大級の嶽古墳と
いわれる全長 50m、高さ 3〜4mもの前方後
円墳が発見されていますが、地元ではこの
古墳は八上姫、または八上姫を中心とした
豪族の古墳ではないか、とも伝えられてい
ます。
そして現在、売沼神社の隣には「曳田川
八上姫公園」という公園が整備されていま
す。そこには八上姫と大国主命の物語が描
かれた「石の紙芝居」が設置されており、
訪れた人々が「因幡のしろうさぎ」神話に
親しむことのできる場となっています。こ
のように、八上姫の地元においても売沼神
社の存在などから「因幡のしろうさぎ」神
話はよく親しまれ、伝わっていることがう
2005年度
地域文化調査成果報告書
⑤<御熊の神の橋かけ伝説>
川島紗耶香 小松原理恵
かがえます。
(注)古事記・旧事本記の二記のことと思
われる。
昨年 7 月 8 日に琉球大学名誉教授であり、
民俗学者の小島瓔禮先生をお招きし、
「<因
幡の素兎>を因幡で考える」というテーマ
で講演をしていただきました。ここで小島
先生はアジア諸国に伝わる、橋かけに関す
る伝承を紹介され、その中には高句麗に伝
わる王者の橋かけ伝説のお話もありました。
これについて好太王碑文では高句麗の始祖
である朱蒙は敵に追われ逃げる最中に淹滞
水という舟も橋もない大河の畔で追兵に追
いつかれてしまいますが、朱蒙がもってい
た鞭で天を指し救いを求めると河面に多く
の魚や亀が浮き出し,たちまち橋をつくり
朱蒙が河を渡り終え、追兵がその橋を渡り
始めたところ,忽然として橋は消滅し,す
ぐに橋上にいた者は溺死し、その後,朱蒙
は国造りを始めたということが書かれてい
ます。そして鳥取にも白兎海岸の近くに橋
かけにまつわる伝承が残っており、その伝
承が白兎神話の根元であるという可能性を
示されました。
そこで私達はその白兎海岸の近くの橋か
けにまつわる伝承についての調査をするこ
とにしました。
白兎海岸の奥の御熊村は出雲から神様が
そのお供を連れてやってきて住み着いた地
だといわれているそうです。御熊神社は式
内社で、古くから重要な神社として認めら
れていました。通称は御熊神社ですが、正
式名は、阿太賀都健御熊命神社(あたかつた
けみくまのみことじんじゃ)と言います。祭
神は健御熊命(たけみくまのみこと)であ
り、そして明治元年に天目一箇命(あまのま
ひとつのみこと)、と木花開耶姫命(このは
なさくやひめのみこと)が合祀されていま
す。
今回私達はこの地に残る島根県の隠岐島
へ橋をかけそこねた神様の伝説を、そのお
供の子孫である岩田耕治さんから聞く貴重
な機会を得ました。
大正 14 年生まれの岩田耕治さんは、元郵
便局長で、御熊神社のある山の麓にお住ま
いになられ、古くから語り継がれてきた御
熊の神様に関する伝説や歴史を現代に伝え
る役割を果たしていらっしゃいます。私達
参考文献
『式内社調査報告 第十九巻』(式内社研究
会、1984 年)
『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』
(谷川健
一 編、白水社、1985 年)
『八頭郡の地名 3 そして八上姫』(小谷五
郎、1993 年)
めぬま
「売沼神社」(鳥取市河原町)
「曳田川八上姫公園」の「石の紙芝居」
-6-
「因幡のシロウサギ神話」の不思議
は 2005 年 7 月 27 日に岩田さんにお会いし、
約 1 時間、御熊の神様に関する話をうかが
いました。
御熊神社の近辺には玄武岩が神社の社殿
から山麓に広がっています。それが隠岐島
に橋をかけるために使った石だといわれて
いるそうです。その昔、御熊の神様は、隠
岐島まで一夜にして橋をかけたいというこ
とで、近郷近在からたくさんの人を集めら
れて、一晩のうちに隠岐の国に橋をかける
ために作業に取り掛かられました。
そのために事前に準備が必要だというこ
とで橋に使う石を用意する作業というもの
があったそうです。その作業をするために、
石を砕く鉄の道具が必要ということで、現
在も鍛冶屋谷という地名があり、その場所
で石を砕くための金具や道具が作られたと
いわれているそうです。それからその道具
を使って石を砕いた谷を大工谷と現在呼ん
でいるそうですが、この谷は、元は細工谷
と呼ばれ、そこには石くずも散乱している
といわれているそうです。そして堀谷とい
う谷があり、ここは石材を掘り出した所で
はないかといわれているそうです。こうし
た地名が残っているので御熊の神は橋をか
けるために事前の準備をされていたという
風に考えられているそうです。
そしていよいよ事前の準備ができたので
ある日、一晩のうちに隠岐島まで橋をかけ
ようということを御熊の神様が決めて、作
業に取り掛かられました。皆一生懸命に作
業をしたので仕事もどんどんはかどり、こ
れなら朝までに橋をかけられるのではない
かなと思って神様も喜んでその作業の進み
具合を見ておられたそうです。
ところがその御熊の神様の計画を聞いた
あまのじゃくが、邪魔をしようと考え、農
作業に使う 箕(みい) という、竹で編んだ
ざるのような穀物を掬う入れ物を利用して
御熊の神様を騙そうと考えたそうです。
その方法とは、箕を裏返して叩くとバタ
バタと鳥の羽ばたくような音がするので、
あまのじゃくは鶏の羽ばたきの真似をして、
コケコッコー という鶏の夜明けを告げ
る鳴き声を真似れば御熊の神様も夜が明け
たと勘違いして作業を止めてしまうのでは
ないかと思いついたのだそうです。そして
作業が進んでいる夜中を過ぎた頃に、箕を
-7-
裏返して叩きバタバタ音を立て、繰り返し
鶏の夜明けを告げる鳴き声を真似たそうで
す。
そして御熊の神様はそのあまのじゃくが
あげた、鳴き声を聞き、夜はまだ明けない
と思っていたが、もう鶏が鳴き出したので
夜明けは近いと考えられて、一夜にしてそ
の隠岐島まで橋をかけるということを断念
し、作業をしておられた人達に中断すると
いうことを告げられました。あまのじゃく
の方は御熊の神様を騙したということで得
意満面な顔で満足をしたと、御熊ではこう
いう話が言い伝えられてきたそうです。
玄武岩と御熊の神様の関係についてどう
考えておられるかお尋ねしました。すると
岩田さんは、玄武岩は御熊の神の気持ちの
表れではないか、御熊におられる地域の
人々の幸せのために、現在の御熊地方であ
る阿太賀を開く一つの手段として橋をかけ
るということを考えられたのではないかと
お話くださいました。御熊は山間の地形な
ので、交通の便が悪く、昔は山で木を切っ
て薪を作ったりして生活をしていたそうで
す。しかしその褒賞は少ないものであり、
やはりこの土地を開発して土地の方々を幸
せにしてあげなければいけないと御熊の神
様が考え、その一つの手段として橋をかけ
ることで交通の便がよくなり、土地の人々
が外との交流ができるようになっていけば
自然とみんなを幸せにすることができるの
ではないかというような発想をされ、御熊
の神様はこのような隠岐の国へ橋をかける
という夢を見られたのではないかと岩田さ
んはお話くださいました。
あまのじゃくとは一体何であるかについ
ては、岩田さんによると、はっきりとした
ことは分からないが、神様や化け物ではな
くただの人間ではないかということです。
例えばこの場合、新たにその地に統治者と
して来た御熊の神に対して敵対心を抱いた
元々その土地に住んでいた人があまのじゃ
く、ということも考えられるそうです。
御熊神社の山にある玄武岩の柱状節理は
昭和 49 年 4 月 4 日に地質鉱物の天然記念物
として鳥取市の文化財に指定されています。
この柱状節理は直径約 50 センチ、長さ 150
〜200 センチの玄武岩で形成されており、
その数及び範囲については正確には分かっ
2005年度
地域文化調査成果報告書
⑥<大国主とはどんな神か>
ていません。参道や民家の石垣などにはこ
れらの玄武岩が多く利用されています。玄
武岩の産地は鳥取市内にもいくつか見られ
ますが、そのほとんどが縦型柱状節理のも
のであって、御熊神社にみられる横型のも
のは珍しいのだそうです。
『稲場民談記』には三蔵社として、
『因幡
誌』では御熊村の記述の一部として、御熊
神社に伝わる伝説が書かれていました。こ
の2つに共通していたのは、簡潔に言うと
「石の橋を作って、隠岐国に一夜で橋を架
け渡そうとした」という部分でした。
このように御熊神社に伝わる柱状節理を使
った 橋かけ 伝説と、白兎のワニを使っ
た 橋かけ 神話。それぞれ内容に違いは
あるものの、これほど近い場所に、同じ 橋
かけ がテーマになっている、二つの伝承
が残されていることに、私たちは非常に興
味を持ちました。
小童谷友紀
シロウサギを助けた大国主命とはどのよ
うな神なのでしょうか。大国主命は天照大
御神の弟であるスサノオの六代目の子孫で
あり、多くの別名を持っています。その別
お お な む ち の かみ
あ し は ら し こ お の かみ
名 に は 、 大穴牟遅 神 、 葦原色許男 神 、
やちほこのかみ
うつしくにたまのかみ
おおものぬしのかみ
八千矛神 、 宇都志国玉神 、 大物主神 、
おおくにたまのかみ
うましくにたまのかみ
くにつくりおおなむちのみこと
大国玉神 、美 国 玉 神 、国 作 大 己 貴 命 とい
うものがあります。別名を多く持っている
ということは、その神の活動の多彩さや性
格の複雑さに通じています。
鎌倉・室町時代の頃に、民間信仰の七福神
の一である大黒天と結び付けられ、大国主
も福の神として奉られました。
「因幡のシロウサギ神話」で八上比売と
結婚した大国主は、その後スサノオの娘、
す
せ
り
ひ
め
た
き
り
ひ
め
ぬ な か わひ め
須勢理毘売 や、多紀理毘売 、沼河比売 らと
も結婚し、縁結びの神としても奉られるよ
うになりました。
また大国主は、傑出した英雄神でもあり
や そ が み
ます。八上比売と結婚したことで八十神た
ちから恨まれた大国主は、赤いイノシシと
偽った焼け石を抱かされて死にます。この
時は母神のサシクニワカヒメの願いでカミ
きさがいひめ
うむがいひめ
ムスビ神が派遣した蚶貝姫と蛤貝姫によっ
て蘇生します。次に八十神たちは大木にく
さびを打って木の股を作り、そこへ大国主
を入れてはさみ殺します。この時も母神が
助け出して蘇生します。命の危険を感じた
大国主は根の国に逃れました。そこでも
様々な厳しい試練を課せられて何度も死に
そうになりますが、スサノオの娘
(いずれも鳥取大学付属図書館蔵)
す
せ
り
ひ
め
須勢理毘売によって救われます。
このような数々の試練は、未熟な若者が
一人前になるための成人儀式だと考えられ
ています。試練を克服した大国主は、全国
の国津神の総元締めとして、国づくりとい
う重要な事業を行いました。イザナギ・イザ
ナミの国生みが国土そのものの創造である
のに対し、大国主の国づくりは、国土を人
間の生産活動に適したものにつくり替える
というものでした。
ところで、ギリシア神話に出てくるアド
ニスの話には、大国主と共通点がたくさん
-8-
「因幡のシロウサギ神話」の不思議
⑦<大国主と出雲大社>
あります。
アドニスは愛の女神アフロディーテの恋
人でしたが、アフロディーテの昔からの愛
人である戦いの神アレスの策略により、イ
ノシシに襲われて刺し殺されました。大国
主はさきほども挙げたように、八上比売と
結婚したことで八十神たちに恨まれ、イノ
シシそっくりの焼け石を抱いて焼き殺され
ました。このように、大国主とアドニスは、
どちらも美しい女神から熱愛され、その女
神を独占しようとしていた他の神様に恨ま
れて、イノシシによって殺されたというこ
とです。
また、どちらも木の幹の中から取り出さ
れたという共通点があります。大国主は、
これもさきほど挙げたように、木の幹に挟
まれて死んでしまいますが、母神が木を裂
いて中から取り出して生き返ります。アド
ニスは木に姿を変えた母親から生まれたと
されています。
アフロディーテは、アドニスを死者の国
に隠します。しかし死者の国の女王である
ペルセポネもアドニスの美しさに夢中にな
り、二人の女神の間で激しい争いが起こり
ました。その結果、アドニスはアフロディ
ーテのいる地上とペルセポネのいる死の国
とを交互で暮らすことになりました。大国
主は殺されて生き返った後、八十神から逃
す
せ
り
ひ
武田有紀
社伝によると、出雲大社のご本殿の高さ
じょうこ
たけ
ちゅうこ
たけ
は、上古32丈(96m)、中古16丈(4
8m)だったといわれる。また、江戸中期
造営の現在のご本殿は、8丈(24m)。9
6mの社殿は、建築学上からも不可能とい
われ、48m説にも終止符が打たれたとい
う。ところが、2000年、4月、境内の
発掘調査の結果、巨大な柱が発見された。
これが、出雲国造千家家に伝わる「金輪御
造営指図」にある、三本の巨大な杉を鉄の
輪で引き締めて固定した宇豆柱(棟持柱)
であることが判明。また、同年の十月には、
同じ構造を持つ柱(心御柱と南東側柱)が
さらに二箇所から発見された。これによっ
て、48mの巨大神殿の存在が浮上し、考
古学上の大発見となった。これは、出雲大
社造営に至るまでに描かれる、「国引き神
話」つまり、大国主の命が、国土を天照大
神の皇孫にそっくり謙譲し、出雲など諸国
の神々が天照大神に服従を誓い、大和朝廷
の全国平定が象徴的に描かれるものという
世界を裏付けるものとなった。また、出雲
大社には、祭礼・神事は、年間72回もあ
る。神と人とがこんなに多く日常的に交歓
する例は、全国でもまれであり、また、出
雲の縁結びの神様、商売繁盛の神様は、人々
にとって、力強く、霊威に満ちた具体的存
在であるそうだ。祭神は、大国主大神で、
全ての祭祀に奉仕する出雲国造(出雲大社
宮司)は、千数百以上も連綿として続く名家
である。時には、祭神大国主大神として祭
られる側に立つ神事があり、出雲人の尊敬
を集めている。また、旧暦十月を一般に神
無月と呼ぶが、全国の神々が出雲に参集す
るため、出雲では神有月である。また、出
雲大社に伝わる神宝には、社殿立て替えを
行う遷宮に際して奉納されたものが多い。
『日本書紀』に語られる天日隅造営以後、
659年(斉明天皇5)に正殿式が定めら
れ、1036年(長元9)、1067年(治
暦3)など、しばしば、遷宮造営が行われ
た。時の朝廷、為政者たちは、この遷宮の
たびに、加護と神威の高揚を祈り、品々を
寄進したそうだ。そして、多くの古文書・
発掘出土品も多く保存されている。
め
れるために根の国に降り、須勢理比売に一
目ぼれをされて、一緒に地上に戻ります。
つまり大国主は、死んでは生き返り、地下
に降りては地上に帰るという事を繰り返し
ています。ペルセポネが死の国に留まった
のに対して須勢理比売は大国主と一緒に地
上に帰ったという違いはありますが、この
点も地上と死の国とを交互で暮らしている
アドニスと、とてもよく似ています。
出雲大社の大国主命とウサギの銅像
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2005年度
地域文化調査成果報告書
そして、なぜ、このように出雲大社は、
を振る、物を切る擬音に発する言葉である
ことから、大国主主神の心の鎮めたる心の
巨大な神殿でなければならなかったのかと
いう疑問から、出雲大社の中の宮居に、高
御柱の前で守るのが、この神の本来の神格
であることから心の御柱に寄せられた形而
橋・浮橋・打橋の三つが存在していること
に着目して調べると、一般に「橋」は、異
上の伝統を伺わせるものである。これらの
ことから、出雲大社の現象としての心の御
なった世界を結ぶ境の空間を呈し、ある種
の霊のこもる空間、特殊な開放された聖空
柱は、地下〜天上を貫いて見えるが、前回
に述べたことを考えると、地下、地上、天
間と見られていたそうである。すると、天
日隅宮、出雲大社における三つの橋は、何
上、そして海上のあらゆる世界を象徴的に
統一して、この神の神格たる「神事」の深
をつなぎ、何を境とするのかと考えると、
高橋・浮橋は、往来して海に遊ぶ具え、つ
遠さを表現していると考えられるのではな
いでしょうか。また、これが、神殿巨大化
まり、祭祀儀礼などの神事に端を発するも
のと考えられ、浮橋は、これに属するもの
への素因を感じます。
今回、この出雲大社について調べ、また
が「天鳥船」であることから海浜との関わ
りを示唆し、高橋は、
「金輪御造営図」によ
実際に見学して、やはり、出雲大社は、他
ると、地上への階段(きざはし)との関わ
と区別される異質な聖空間、神ごとの象徴
的空間であり、それが打橋―心の柱に収斂
りを示唆していることから、これらの橋の
意味する形而上性は、海上他界、地上世界
されているのではないかと感じさせます。
との境世界ということになると考えられる。
次に、打橋は、天安河との関連で登場し、
参考文献:
天安河とは、国譲りのための相談が最初に
・
『古代出雲大社の復元』増強版 大林組プ
八百万の神たちが集まった舞台であり、橋
ロジェクトチーム 学生社
をもって天を結ぶという観念の存在が認め
・ 日本の美術1 No.476 出雲大社 浅川
られ、こうしてみると、出雲大社の宮居は、
滋男 至文堂
「地上」「海上」「天上」の世界を結ぶと考
えられる。
ほか
また、古代には、天上世界へとつなぐも
のをハシラとする観念もまた存在した。そ
こで、出雲大社の本殿内の真中の最大の柱
である「心の御柱」に着目すると、まず、
この柱は、御祭神大国主主神のお心の鎮め
である。神を数える時、一柱、二柱と称す
ることが想起される。しかし、この心の御
柱の意味するところは、これにとどまらず、
この心の御柱は大社造りの社殿以外では、
今日、伊勢神宮、貫前神社(群馬)でしか
みることができない。出雲大社は、心の御
柱は、天井板を突き抜けて梁まで達し、構
造上の不要性を指摘されるが、最近の研究
出雲大社
では社殿構造自体が巨大であればあるほど
構造上の機能性も当然に生じてくることが
指摘されている。また、遷宮造営時の柱立
てにおける特殊儀礼の残存は、出雲大社の
巨大径の心の御柱のもつ形而上性を認める
ことができる。加えて本殿内の心の御柱の
許には、牛飼神像と呼ばれる大国主神の
わ
か
ふ
つ
ぬ
し のみこと
和加布都奴志 命 の像が鎮座しているが、
神名の「布都(フツ)」は、邪悪なものに剣
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「因幡のシロウサギ神話」の不思議
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