9平和と繁栄のなかでlローマ人の日常生活

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9平和と繁栄のなかでlローマ人の日常生活
アウグストゥス帝
オクタウィアヌスの凱旋
からもれてくる。それはそれとして、この笑い話に描かれたアウグストゥス帝の姿はなん
いたるところで笑い声が聞こえる。広場や街角ではたわいもない冗談や酒落が人びとの口
しゃれ
レオパトラの死は平和な時代の到来を告げる。老若男女を問わず、人びとは喜びにあふれ、
支配の天才ローマ人はどうやら機知をとばす天才でもあったらしい。アントニウスとク
マにいたことがありません。でも、父ならローマにいたことがあります﹂。
みる。﹁おまえの母親はローマにいたことがあるのか﹂。男は答えた。﹁いいえ、母はロー
似ていたのである。それは誰の目にも明らかだった。皇帝は男を召し出して問いただして
を訪れていた。ところが、男のことが町中でしきりに話題になる。男はあまりにも皇帝に
皇帝アウグストゥスの前に一人の男が歩み寄る。男は属州出身であり、そのころローマ
桜井万里子・本村凌二
(2010)
『世界の歴史5:ギリシャと
ローマ』中央公論新社。
平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
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ともほほえましい。病弱で気難しかったと伝える向きもあるが、それとは異なる一面もあ
ローマの名所スペイン広場の正面にまっすぐのびるコンドッティ通り。グッチやフェラ
ったのだろう。
ガモのようなブランド品の店舗がずらりと軒を並べる。その通りをちょっと歩いて右斜め
れいびょう
に折れると、テヴェレ川の堤が見えてくる。その右手前に大きな円形の古墳のような遺跡
アウグストゥスとは﹁尊厳なる者﹂の意をもつ称号である。前二七年、それは一○○年
が下層の地面上にどっしり姿を現す。それが初代皇帝アウグストゥスの霊廟である。
にわたる内乱を平定したオクタウィァヌスに与えられた。そのアウグストゥス帝は紀元一
四年七十六歳で死去するにのぞんで、遺書を残している。そのなかで彼は、自分の業績録
たが、さいわいなことにその写しが各地に残存していた。この﹁神皇アウグストゥス業績
を青銅板に刻んで霊廟の入口に置くように指示している。原本そのものは失われてしまっ
録﹂は皇帝自身による記録という比類のない重要さのために、﹁ラテン碑文の女王﹂とし
六度目および七度目のコンスル職の年に、余はすでに内乱を終結し、万人の合意にも
ても名高い。その長大な碑文の結論部で、皇帝はみずからの地位について述べている。
に委ねた。このような余の功績に対して、余は元老院決議によってアウグストウスの
とづいて全権を掌握していたが、国家を余の権限から元老院およびローマ国民の裁定
称号を授かり、我家の門柱は月桂樹によって飾られることが公認され、市民の冠が我
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たて
けいけんたた
家の戸口に付設され、また、黄金の肖像楯がユリウス議事堂に安置された。元老院お
であり、このことはその肖像楯の碑銘によって明らかである。これ以後、余は権勢に
よびローマ国民がこれを余に与えたのは、余の勇気、慈愛、正義、敬虐を称えるため
よりもすぐれた何ものをも保持することはない。
おいて万人にまさることがあっても、権力に関しては余とともに公職にある同僚たち
がいせん
前三○年、オクタウィアヌスは軍隊とともに、エジプトの富をかかえてローマに帰って
きた。翌年、凱旋式の祝賀が盛大に執り行われたが、お祭り騒ぎのなかでも、元老院貴族
たちは内心穏やかならぬものがあった。軍事力と財力を一身におびた三十三歳の若輩者は
再びカエサルのごとき独裁者になるのではないだろうか。しかし、そんな懸念はすぐに吹
き飛んでしまう。軍隊の大半の解散、退役兵への土地の分配はすぐに実施される。オクタ
そう
ウィアヌスはプリンケプス︵元首︶と称えられたが、なんのことはない、元老院議員名簿
めい
の最初にあげられるだけ、つまり筆頭ローマ市民であるにすぎないのである。しかし、聡
ケプスの統治する元首政と呼ばれている。さらに、前二七年、オクタウィァヌスはこの世
明なオクタウィアヌスはこうした事態を巧みに利用した。このために、彼の支配はプリン
に並ぶ者なき権勢を誇ることができるのに、全権の返還を申し出る。もはや、元老院も国
民も脱帽せざるをえなかった。かくしてオクタウィァヌスはアウグストゥスになる。
平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
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権力の底にあるもの
ローマ皇帝権力の成立については、いろいろ面倒な議論がある。権限の在り方に目をや
れば、以下の三つの段階をふむことになる。
前二七年には、プロコンスル︵属州総督︶としての命令権を付与されている。それによ
って国政の責任を元老院と分担することになり、ほぼ半数の属州の命令権が委ねられた。
司令官となった。
元首みずからは軍隊による警備の必要な属州を統治したので、事実上、ローマ全軍の最高
次に、前二三年の護民官職権および上級プロコンスル命令権の獲得は、この年重病で生
命を危ぶまれた折にコンスル職を辞任したことにともなうものである。護民官の全権限を
首の権力はより堅固な形をとる。
行使できる職権によって、また、ほかのプロコンスルに優越する上級命令権によって、元
最後に、前一九年に、元首の命令権がコンスルと同等であり、帝国全土におよぶものと
ここに、国家における卓越した実力者の地位は確定したのである。これらの段階のどれ
された。これによって、辞任によっていったん失ったコンスル職権を回復する。
三年の段階にアウグストゥスの権力がその基盤を固めたと考えているのである。
を大きな転機と考えるか、それは論者によって異なる。あえて言えば、多くの学者は前二
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いしゆく
被護関係︶を吸収して統合したのである。それ以後は保護者たる元首と被護民たる兵士お
族の影響力は衰えだし、偉大なる保護者としての元首は恩恵を通じて民衆と直接に結びつ
よび国民とのクリエンテーラ関係が宣誓によって毎年再確認される。萎縮した元老院貴
ヘの忠誠の誓いであったという。
くのである。その契機となったのが、前三二年のイタリア全住民によるオクタウィァヌス
いずれを重視するか、完全な意見の一致はみられない。しかし、アウグストゥス体制が
てつ
共和政の復興をたてまえとしていたことに異論はないだろう。独裁者と疑われたカエサル
の轍をふまないように何事も控えめに行動しなければならない。共和政を尊重するかぎり、
元首はその公職体系の枠内にあるべきなのだ。したがって、崩御の年にアウグストゥスの
369平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
じんぎ
官・コンスル一三回・最高司令官の歓呼二○回・謨民官職権行使三七年目・
正式の肩書は﹁最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祗
国父﹂であった。これらの肩書は名誉称号をのぞけば、いずれも共和政の公
けなのだ。共和政国家の枠内での一人支配。それは元首の独裁政を上手に覆
職として慣例に従っているにすぎない。元首はただそれらを兼任しているだ
い隠すものであった。そして、とりわけ元老院を尊重することによって、ア
じゆげむ
ウグストゥスは無事にそれを成し遂げたのである。
ところで、落語の寿限無ではあるまいし、元首の正式の肩書をいちいち呼
んでいるほどローマ人も暇ではない。元首つまり皇帝に呼びかけるのには、
最初の最高司令官と訳されたインペラトルか、次の称号カエサルが用いられ
が目立つ。
ン。ょろずの神を祭る万神殿の正面に、細長く刻まれた碑文
ローマ市街のただ中にあって人だかりの絶えないパンテオ
アウグストゥス帝の人となり
ザーはカエサルに由来する。
るようになる。英語のエンペラーはインペラトルに由来し、ドイツ語のカイ
!
カメオのなかのアウグストゥス女神アテナに
ならって楯と胸当てをおびていることから、
神々にも等しい者とみなされている。黄金の王
冠は中世に付加されたものである。ロンドン、
大英博物館蔵(CBritishMuseum)
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ルキウスの息子マルクス・アグリッパが三度目のコンスルのときに建立した。
現在の円堂形式のパンテオンは、ハドリアヌス帝時代に作り直されたものである。しか
し、もともとは碑文にあるように前二七年、アグリッパによって建てられている。このア
の妻ユリアは帝の実娘であるから、帝の信頼がいかばかりのものであったかがしのばれる。
グリッパこそはアウグストゥス帝の幼なじみでもあり側近中の側近であった。彼の三人目
アクティウムの海戦をはじめ、幾多の戦いの実際の統率者であり、彼の軍事手腕がなけれ
ばアウグストゥス体制もできあがっていたかはおぼつかない。しかし、彼は凱旋式を拒み、
ス帝とはいかなる人物だったのだろうか。
アウグストゥスに柔順に奉仕した。これほどの人材があくまで謙虚に仕えたアウグストゥ
思えば、養父カエサルはあけつぴろげで誰からも好まれた人物であったようだ。しかし、
この﹁わが友﹂カエサルはじっのところ親友がいたとは思えない。彼はいったい誰に心の
内を見せていたのだろうか。これに対して、アウグストゥスは愛想がよかったわけではな
く、どことなく近寄りがたいところがある。それにもかかわらず、彼にはアグリッパのよ
うな親友がおり、妻リウィアにも恵まれている。この両者の差はいったいどこから生ずる
おそらくカエサルは大スター型の人物であり、アウグストゥスは黒幕型の人物だったの
のであろう か 。
ではないだろうか。誰からも﹁わが友﹂でありながら、誰をも﹁わが友﹂とは思わなかつ
平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
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たカエサル。それに比べて、アウグストゥスは誰もが﹁わが友﹂と親しめる相手ではなか
ったが、少数の﹁わが友﹂と真の友情で結ばれていた。世界史の上で比類ないほどの大政
られるような気がする。
治家であった二人を比較するとき、そこには大スターのさびしさと黒幕のぬくもりが感じ
晩年の悩み
このころのローマでは離婚も再婚もありふれていた。スッラもポンペイウスも五回は結
はんりよ
婚し、カエサルも四人の妻をめとっている。アウグストゥスは三人目の妻リウィアを生涯
の伴侶にしたが、二人は子供に恵まれなかった。しかし、彼には前妻との間に娘ユリアが
勝ち気で才色兼備のユリアは最初、マルケルスに嫁いだ。アウグストゥスの姉オクタウ
いた。この一人娘ユリアこそアウグストゥスの悩みの種だった。
ィァの息子である。しかし、すぐに若くしてマルケルスが死んでしまう。ユリアの再婚相
あさ
手は皇帝の親友アグリッパであった。二人の間には八年の間に五人の子供が生まれている。
このころから始まったわけではないようだ。もっとも﹁船荷がいっぱいのときじゃなきや、
五人ともアグリッパに似ていたらしい。だからというわけではないが、ユリアの男漁りは
せりふ
ほうとう
ほかの水夫を乗せないわ﹂と妊娠時の密通をほのめかす名台詞をはいているから、真偽の
ほどは定かではない。前一二年アグリッパと死別。ユリアの放蕩が目立ってくる。三人
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いんせい
目の夫ティベリウスは帝の妻リウィアの連れ子であり、後継者と目されていた。気難しく
陰気な夫だから、まったく肌が合わなかった。ティベリウスはロドス島に隠棲してしまう。
もはやユリァはやりたい放題だった。だが、陰謀までもがからむ情事が暴露され、ついに
アウグストゥスは風紀の粛正に熱心だったから、身内から出たこのサビは頭がいたかっ
前二年、アウグストゥスは実娘を流刑に処すほかはなかった。
たにちがいない。それに、アウグストゥス自身がどこまで公序良俗に反するところがない
のか、それははなはだ疑わしい。醜聞作家スエトニウスによれば、アウグストゥスがせっ
せと間男したことは友人も認めているという。もっとも、それは情欲にかられてというよ
り、政敵の情報を女性を通じて探り出すためだったと弁解しているが。権力者は常に自分
びもく
のしたいことを大衆に禁じるものだし、自分が犯すときにはもっともらしい大義名分があ
ストゥスの印象からはほど遠い人間臭さが感じられる。本章冒頭の笑い話もアウグストゥ
るものである。しかし、ここには、眉目秀麗にして冷静沈着という人間ばなれしたアウグ
時代に恵まれ空前の大帝国を築いた男にも、治世晩年には予期せぬ災いが降りかかって
スのそんな一面をもじったものかもしれない。
きか
いる。とりわけ、アウグストゥスの心をかき乱した出来事は、後九年のトイトブルグの森
における屈辱的な敗戦であった。将軍ウァルス塵下のローマ軍がゲルマン人によって全滅
させられたのである。以後、この惨敗の日は毎年喪に服して哀悼の意を表していたという。
3 7 3 平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
おい
また、もうひとつ恵まれなかったのは後継者である。姉オクタウィアの産んだ甥マルケ
ルス、アグリッパとユリァの間に生まれた孫ガイウスとルキウスに若くして先立たれ、血
を引く身内がいなくなった。もはや後継者はティベリウス以外にいなくなってしまったの
紀元一四年八月、カンパニァのノラで生涯を閉じる。妻リウィアの両腕にいだかれなが
である。
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ら、﹁リウィァよ、結婚生活を忘れずに生きておくれ、さようなら﹂と、こときれたとい
第一人者の血族支配
二代目のティベリウス帝
かなた
ナポリ湾の彼方にかすむカプリ島。この島を思い浮かべるとき、私はいつも皇帝ティベ
リウスに思いいたる。その治世の後半をこの島の別荘で過ごし二度とローマに帰らなかっ
たというから、よほどこの島が気に入っていたのだろう。しかし、実情はもっと複雑だっ
名門貴族クラウディウス家に生まれ文学や哲学にいそしんだティベリウスであるが、前
たにちがいない。
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ス個人への信望は薄く、創建者の先例と権限を受け継いだにすぎなかった。頼るべき友人
帝の権威はあまりにも大きかった。即位のとき五十五歳にもなっていたのに、ティベリウ
もほとんどいなかったので、いきおい密告者をあてにせざるをえなくなる。
かんばつ
甥のゲルマニクスはティベリウスの後継者に指名されていたが、赴任先のシリアで死亡
ねた
うわさ
してしまう。才気煥発にして勇気あふれる美青年で民衆にも人気抜群だったから、皇帝の
妬みをかって毒殺されたという噂が広がった。二三年には息子ドルススも怪死する。さ
ったし、陰謀のうずまく宮廷内に猜疑心をつのらせるばかりだった。そんなことが重なり、
さいぎ
らに知人の裏切りや身内の告発が続々と出てきた。もともと権謀術数の政治には不向きだ
隠棲したティベリウスは、信用すべき親衛隊長セイヤヌスだけに命令を託す。皇帝暗殺
ローマの政治に嫌気がさして、二七年以後カプリ島に隠棲してしまうのである。
の陰謀をあばいてくれたというが、陰謀が事実だったかどうかはすこぶる疑わしい。この
かんさく
のはてに帝位裳奪すら狙うようになっていた。なにしろ、息子ドルススを好策にはめて毒
さんだつねら
男こそくわせ者だった。皇帝の絶大な信用を悪用して、権勢をほしいままにする。あげく
逮捕する。もはやその一味には残酷な拷問も処刑も遠慮容赦しなかった。カプリ島の処刑
殺していたのも、この男だった。老帝もやっと事態の深刻さに気づき、逆臣セィャヌスを
ベリウスはセイヤヌスの横暴を排除し実権を回復した。このことは、皇帝権力が国政の基
場は一○○年後の今でも公開されている、とスエトニウスは語っている。かくして、ティ
375平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
あか
軸としてしっかり根づいていたことの証しとなる。
このティベリウスの時代に、ローマ帝国の東方辺境にナザレのイエスという男がいた。
男は﹁カエサルのものはカエサルへ﹂と言って納税義務を否定しなかったという。このと
き彼が手にしていたデナリウス銀貨には、おそらくティベリウス帝の肖像と銘が刻まれて
イエスの説教のおかげだといえばお笑い草だが、ティベリウス帝治世の国庫財政は健全
いたであろう。
したのだろう。経費のかさむ土木建築や遠征はほとんど行われなかった.あまりにも節約
だったという見方がある。もっとも収入の豊かさよりもティベリウス帝の倹約策が功を奏
財政引き締めや属州の平穏を評価するかぎり、ティベリウスの管理能力は必ずしも悪く
しすぎて、属州では貨幣が不足することにもなったという。
なかった。しかし、この皇帝の内省気質や高慢で冷酷な性格には、当時のローマ人はほと
やから
ほと嫌気がさしていたようである。三七年、、ティベリウス逝去の報が入ると、民衆は小お
どりして喜び、﹁ティベリウスをティベリス川へ﹂と叫ぶ輩もいたらしい。もちろん、陰
いか一い○
謀疑惑や密告に悩まされた元老院議員たちこそが誰よりもほっと胸をなでおろしたにちが
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カリグラの狂気
陰謀と粛清の嵐のなかで、ゲルマニクスの子がたった一人だけ生き残っていた。兵士
たちからカリグラ︵幼児用の軍靴︶という愛称で呼ばれていた弱冠二十四歳のガイウスで
ある。なにしろ、人気絶頂で変死した父親の人気は死後もまったく衰えなかった。だから、
いんうつ
その血を引くカリグラヘの期待は並々ならぬものがあった。カリグラも帝位を継いだ直後
みやげ
は、その期待に応えている。その若さは前代の陰篭な空気を吹き飛ばし、勢いがあった。
かっさい
政治犯を釈放して元老院を喜ばせる。さらには減税あるいは見世物やお土産の大盤ぶるま
いで、民衆は拍手喝采を惜しまない。
ちほう
しかし、それはつかの間の幻想にすぎなかった。まもなく重病でたおれたが、その回復
る。残虐行為へのすさまじい情熱、露出的なサディズムを見れば、精神を病んでいたとし
後、精神疾患が明らかになる。現代の学者のなかには、早発性痴呆症だと診断する者もい
か思えない。こんな事例には醜聞作家スエトニウスがうってつけである。
むち
カリグラはユピテル大神と並んで立ち、悲劇役者アペレスに、﹁お前にはどちらが偉
く見えるか﹂と尋ねた。答えをためらっていると、カリグラは鞭で肌を裂かせながら、
て、感心していた。
季﹂
その間ずっと、役者の情けを乞う声が悲鳴の中すら甘美をたっぷり含んでいると言っ
平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
377
カリグラは自分はすでに神になっていると主張する。さらには妹ドルシラを熱愛する。
で、傍若無人の暴政に突っ走る。国庫を浪費してしまい、理由なき有力者の処刑や窓意的
しい
その彼女が死んでしまったので、狂気はますます高じていった。元老院を無視するばかり
な財産没収がくりかえされた。そんな皇帝がいつまでも君臨できるはずがない。ついには、
侮辱されたことに恨みをいだく親衛隊将校の手で殺害されてしまう。そのときカリグラは
まだ二十九歳にすぎなかった。
クラウディウスの四人の妻と官僚
カリグラ帝を経験したことはローマ人にはたいへんな衝撃だった。元老院では共和政へ
の復帰が真剣に討議される。そうこうするうちに皇帝を護衛する任務にある親衛隊が黙っ
ていなかった。カリグラの叔父でありゲルマニクスの弟でもある五十歳のクラウディウス
が探し出され、すぐに帝位に担ぎ出される。
クラウディウスは誰の目にも第一候補と思える人物ではなかった。肖像をみれば、クラ
さげす
ウディウスの顔は不機嫌そうで、重苦しく、悲しそうな表情をしている。自分の一族から
もしれない。しかし、彼は学問に専念し、﹃エトルリァ史﹄や﹃カルタゴ史﹂を書いたと
もずっと蔑まれてきたらしいから、権力者の威厳を保てない欠陥がどこかにあったのか
伝えられている。そのため学者ぶった奇人のように思われているが、行政実務においては、
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クラウディウス帝は、属州行政にも関心を示し、トラキアとともにブリタニアを属州に
むしろ思盧深く、目配りのきく常識人であったと言えなくもない。
にも敏感であり、解放奴隷たちを国政に重用する。解放奴隷とは、自由人ではあってもか
加えている。彼は属州出の人材が重要なことを熟知していたのである。また、出自や身分
つて奴隷であった経歴のために差別されていた人びとである。表面上は元老院を尊重した
が、政治を補佐するのは解放奴隷身分の者たちだった。彼らは元首金庫を管理し、請願審
査・裁判調査・帝室図書館の運営などをつかさどっていた。なかでも、財務担当秘書官パ
ラス、文書担当秘書官ナルキッスス、請願書担当秘書官カリストゥスらは名高い。こうし
て元首に組織や情報が集中することになり、請願や裁判、あるいは財政問題が効率よく処
こうした解放奴隷の側近たちは有能な官吏であるが、ともすればたんなる公務をこえた
理されるようになる。ある意味での官僚制が整備されたのである。
は、自分の見識よりも、妻や解放奴隷の勝手気ままな考えに従って、指示した﹂とスエト
ところにまで口を出すようになる。﹁元首としての全治世のほぼ大半を、クラウディウス
ニウスは伝えている。さらに、﹁男色の気などまったくなかったが、女への情欲は際限が
なかった﹂クラウディウスのことだから、妻たちにふりまわされる。やがてそれは悲惨な
いんらん
最初の妻ウルグラニラとは不名誉な淫乱と殺人の嫌疑で離婚し、二番目の妻パエティナ
結果を招くことになる。
平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
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とが
とはとるに足らない答なのに離婚する。三番目の妻メッサリナは売春婦のなかに交じって
で結婚までしてしまう。堪忍袋の緒を切らして、クラウディウスはメッサリナを処刑にす
春をひさぐほどに破廉恥だったという。あげくの果てにほかの男と証人の立ち会いのもと
めい
る。そして、もう二度と結婚しないと宣言したが、舌の根もかわかないうちに再婚するこ
とになる。四番目の妻は魅力的な姪のアグリッピナだった。彼女は自分の連れ子ネロを帝
位に就けるためにだけ結婚したふしがある。やがて他人の意見に心を動かされやすい六十
四歳の夫を毒殺したというのが、通説になっている。
ネロー 暴 君 と 芸 能 人
ローマ皇帝の知名度調査でもすれば、きっとネロこそ第一位になるにちがいない。数多
ィス﹄はノーベル文学賞の栄誉をになっている。かくもネロが名高いのも、母親殺しとキ
くの小説や映画がネロ帝時代をとりあげ、とりわけシェンキェヴィッチ作﹃クォ・ヴァデ
五四年即位の当初、十七歳のネロは心根のやさしい少年だった。アウグストゥス帝の遺
リスト教徒迫害のために、残忍な独裁者つまり暴君の代名詞にもなっているからであろう。
訓に従い、寛容と仁慈を旨とし、愛想よくふるまっている。罪人の死刑執行宣告の署名を
求められると、﹁字の書き方を知らなければよかったのに﹂と嘆いたという。それにスト
ア派の哲人セネカや親衛隊長プルスの十分な補佐を得ていた。最初の五年間ほどは、かな
380
母アグリッピナの血を引いていたから、もともとネロは
りの善政をしいていたと言えよう。
やかましい母親がだんだん疎ましくなってくる。とうとう
好き嫌いの激しい性格だったのかもしれない。なにかと口
ネロは五九年に愛人ポッパエァにそそのかされて母親を亡
えん
き者にしてしまった。ついでに妻オクタウィアをも追放し、
罪をきせて処刑してしまう。それ以前にもネロは腹違いの
ざい
愛人を妻の座にすえる。前妻への同情が寄せられると、冤
弟ブリタニクスを殺害していたのだから、身内の邪魔者は
こうなると、もはや自分のしたい放題にやりたくなるも
皆殺しにしたことになる。
政治の混乱はいうまでもない。こうした間に派手な乱費が重なり、国家の財政は危機に
腹いせに身重の妻を踵で蹴り殺してしまったともいわれる。
かかとけ
貌の妻ポッパエアも怪死してしまう。真相は不明だが、一説によれば、ネロがなじられた
ぼう
露された陰謀に加担していたという疑惑で自害を強要された。同年、こよなく愛された美
ぴ
に出すようになってくる。プルスが死に、セネカは引退する。そのセネカも六五年には暴
のだろうか。ネロはセネカやプルスの助言にも耳を傾けなくなり、独善的な性格をあらわ
ネロの青銅貨月桂冠をおびたネロ帝の治世
末期の鋳造貨幣。裏側にはローマの外港オス
テイアが記念されている。64∼66年ごろ。パ
リ、フランス国立図書館蔵(◎B、N.F.,Paris)
3 8 1 平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
おちいる。その穴埋めに、富裕な有力者を追放したり処刑したりして、財産の没収で償う
ぜい
ことになる。もっともこうした乱費も民衆の目には必ずしも独善的に映ったわけではない。
ネロの賛をつくした大盤ぶるまいは民衆の共感を呼ぶものだったらしい。
もし二十世紀の代表的な経済学者ケインズがネロ帝の同時代人であったならば、彼はネ
ロの経済政策の熱烈な支持者であったかもしれない。いわばローマ帝国改造計画とでも呼
ぶべき積極的な財政支出によって有効需要が喚起され、景気の浮揚がつくりだされたと指
摘する向きもある。したがって、民衆の間にはネロに対するある種の根強い人気があった
ネロは十分な教育を受け、学芸のたしなみも浅からぬものがあった。スエトニウスはこ
のである。
ネロは詩を愛し、なんの苦もなく楽しんで韻文を創作した。ある人々が考えているよ
諺フ語っている。
冊子を入手した。この中には非常に有名になった何編かの詩も含まれていて、それは
うに、ネロは他人の詩を自分のものとして発表したことはない。私はネロの手帳や小
ネロ自身の筆跡である。一見してこれは他の詩を転写したとか、他人の朗読を書きと
めたものではなく、自分で考え創作した人が書いたとすぐわかるほど、たくさんの書
き消しや字句挿入や行間の加筆がなされている。ネロは絵画や彫刻にも、並々ならぬ
関心を抱いていた。
382
ネロはこうした学芸愛好を趣味の範囲におさめていることができなかった。彼は芸術創
はだしいものがあった。十九世紀イタリアの一詩人は﹁ネロの心はローマ人で、頭はギリ
作者として野心に燃える。こうした学芸のなかでも、とりわけギリシア文化の愛好ははな
やがて、とりまき連中の誉めそやしだけでは満足できず、さまざまな競技会を開催する。
シア人である﹂とさえ言っている。
天才きどりの素人臭い趣味人にすぎない。心理分析家の指摘するところでは、ネロは偉大
しろうと
そしてネロみずから舞台に出演して民衆の喝采を求めるのであった。しかし、しょせんは
ネロはあまりにも元老院と軍隊を無視しすぎていた。六八年、暴君の支配に対する軍隊
な作品を創作したいという衝動を昇華できなかったから、偉大な犯罪者になったという。
の反乱が各地に起こり、失脚したネロに元老院は公敵と宣言した。追手の迫ったネロは観
偉大なる芸術家が消え去ることか﹂だった。もっとも原語︵画昌貯閏︶を見れば、芸術家よ
念して自害し、三十二年の生涯を終える。最期の口から出た言葉は﹁この世から、なんと
ス・プレスリーをめぐる噂のように、その死後、帝国の各地に﹁私はネロだ﹂と名のる男
りも芸能人と訳したほうがいいのかもしれない。じっさい、偉大なるロック歌手エルビ
が跡を絶たなかったという。
383平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
パンとサーカス
剣闘士興行
ネロ帝治世の五九年、カンパニア地方
ンン
ペペ
イイ
でで
暴暴
動動
がが
起起
ここ
っっ
てて
いい
るる
︽。血相を変
方の
の都都市市ポポ
の住民は大半が傷を負い、手足をもぎとられた
であったポンペイの市民が強かった。ヌケリア
に剣を抜き交わすにいたった。見世物の開催地
ののしり合っているうち、石を投げだしあげく
中のことで、彼らは地方町の人らしく無遠慮に
合いが起こった。︵中略︶剣闘士の見世物の最
ポンペイの両植民市の住民の間に、残酷な殺し
同じころ、ささいなきっかけから、ヌケリアと
ている。
家タキトゥスの﹁年代記﹄を通じて今日まで伝わっ
え怒り狂った男たちが円形闘技場のあちち
らら
ここ
ちち
らら
でで
武武
器器
をを
片片
手手
にに
戦戦
っっ
たた
。。
そそ
のの
一事情は歴史
テラコッタの剣闘士民衆に人気のあっ
た剣闘士の試合はさまざまな工芸品の題
材とされた。ここでは素焼きにより剣闘
士の戦闘場面が造形されている。ローマ、
国立考古学博物館蔵
384
あお
る。でも、この日はさらに殺気立っていた。誰かに煽られ、争いの渦はだんだん大きくな
る。とうとう収拾がつかなくなり、暴動にまでなってしまった。やがて元老院に報告され
た事件の調査結果にもとづき、ポンペイの市民には向こう一○年間、剣闘士興行の開催が
この暴動の様子はタキトゥスの筆のみならず、ポンペイの壁画にも描かれ、今日に伝わ
禁止されることになる。
っている。かくもローマ時代の人びとが熱中した剣闘士の見世物とはどんなものであった
のだろうか。
385平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
そもそもローマは戦士たちの国家である。度重なる征服戦争の過程で、おびただしい数
の戦死者や捕虜が犠牲になってきた。戦争に勝利するためには、戦士たちは訓練され規律
に服さなければならない。そこで、ローマ人の間にデキマティオと呼ばれる慣習があった
○人につき銭で選ばれた一人が処刑されるというものだった。デキマティオはたんなる軍
くじ
という。それは、ある戦闘部隊が命令に従わなかったり臆病だったりしたときに、兵士一
う。流血と殺裁は征服者の栄光と表裏一体をなすものであった。
さつりく
事訓練上の脅しではなく、とりたてて言及する必要もないほどしばしば実施されたともい
征服戦争に終止符が打たれ、ローマの平和︵パクス・ローマーナ︶が訪れる。しかし、
征服者の気風は捨て去るわけにはいかなかった。戦士の伝統を忘れないように、ローマ人
猛心を刺激する。ローマのコロッセオをはじめとして、ポンペイ、ヴェローナ、アルル、
は多くの都市に人工の戦場を作り出す。その壮大な装置と舞台は大衆娯楽として民衆の勇
ニームなどに残る円形闘技場の威容を目にすれば、剣闘士の見世物がいかに人気があった
かが理解される。
穀物の無料配給
アウグストゥス帝治世のある年、大凶作のために穀物の確保がままならなかった。貧民
が暴徒と化す恐れがあったので、奴隷や剣闘士あるいは外人がローマから退去させられる。
食糧確保のために施設を充実させ、管理組織を整備することは、元首の最高指揮権を根拠
い。またテヴェレ川の沿岸や市域北部にも大規模な穀物倉庫が建てられている。こうした
物倉庫が建設されている。その一部しか現存しないので、貯蔵の規模はまったくわからな
前二○年ころ、フォロ・ロマーノの一角にアウグストゥスの側近アグリッパの指導で穀
れは為政者の重要な任務であった。
一世帯三人として家族を考慮すれば六○万人に無料で穀物を配給しなければならない。そ
民に安定した価格で穀物を供給するだけでなく、ときには、二○万人の成人男子市民に、
蕊”
386
平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
387
地中海沿岸の都市国家は狭苦しい丘陵地帯にある。豊かな穀倉地帯ではないから、もと
としてのみ果たされる大事業だったのである。
て、穀物への配慮は為政者たるものの不可欠の要件であった。ローマ国家は、征服地の拡
もと生活の基本となる穀物の確保と供給はなによりも急を要することであった。したがっ
大につれて、大量の穀物を確保するようになる。それらの穀物は低価格あるいは無料で給
前一二三年、ガイウス・グラックスは低価格で穀物を売ることを提案した。こうした穀
付される。
物法案はその後もとりわけ市民権拡大論者の手で提出されている。穀物の無料配給が実現
するのは、前五八年の護民官クロディウスのときからである。カエサルの子分だったクロ
ディウスは貧民の気をひきつけることで自分の勢威を増そうとした。やがて無料の配給は
制度として整えられ、前四四年カエサルは穀物担当官を常設することになる。
民衆は配給券︵テッセラ︶と引きかえに穀物を手に入れた。もっとも、現金欲しさにこ
の配給券を他人に売り渡してしまう者も出てくる。これを買い取って解放奴隷の扶養にあ
てる者もいたらしい。アウグストゥス帝のとき、民衆がしばしば仕事を休んで出頭しなく
てもいいように、年に三度、まとめて配給券を渡すことに決めた。しかし、民衆は古い慣
例どおり毎月配給券を受けとることを希望したという。これなども、なまじ数ヵ月分の配
給券をもらうと他人に売りかねないという、民衆の自己規制だろうか。
388
・た
マO
ク化・恥
スし〃
キ渦く
恩恵施与慣行としての﹁パンとサーカス﹂
ルと師イエスが﹁人はパンのみに生きるのではない﹂と語
る垪蔵ったころ、まさしくパンのみに生きるのではない人び
鯨諏癖とがいた。ローマの民衆は神の言葉を傾聴するかわり
ふうし
癖興率に、この世の娯楽に興じてわれを忘れた。このような
|ツつ、ノ
マシた
つのことばかりに気をもんでいる。パンとサーカ
でいた市民たちも、いまでは萎縮して、たった二
かつて権力や勢威や軍事などのすべてに力を注い
遮趣藷ローマ社会について、弧刺詩人ユウェナリスはため息
やゆ
数競、をもらすかのように椰楡する。
半車ノ
の戦リ
衆のォ
民jう
のモ・
。もり
ロマあ魂スだけを。
鯲鯛人館鮎眺淵碑垂↓赤純職吋誕蝿鞘
緬釧鋤叩祁誇隷峰森韮艫恥恥鉦辨碓唖誌和搾眠衆生活の堕落ぶ
車シ走川
戦ク競即さて、パンの意味するところは、民衆への穀物の
389平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
だえん
配給である。それとともにぶどう酒や貨幣が分配されることもあった。サーカスは今日で
は曲芸を指すが、もともとその由来は、円形競走場の楕円形コースを意味するキルクス
︵g壗呂印︶である。そこでは戦車競走が催され、それは大都市の民衆にとって最大の娯楽で
ローマのパラティヌス丘とアウェンティヌス丘の間には、今日チルコ・マッシモと呼ば
あった。
§鰹
チルコ・マッシモ背景に皇帝の宮殿がある
パラテイヌスの丘をのぞむ大競走場の跡。発
掘は回周コーナー付近の一部しか行われてい
ない(撮影・本村凌二)
らずかもしれない。映画のクライマックスの一つに、
ハー﹄を思い浮かべれば、当たらずといえども遠か
その興奮の鉗渦の様子は、たとえば映画﹃ベン・
るつぼ
ばかりではなく、熱狂的に賭けていたらしい。
か
チームが加わる。民衆はひいきのチームを応援する
と白の二チームに分かれていたが、後に緑と青の二
頭立ての戦車で七周するのが通例だった。古くは赤
容し、一周がほぼ七○○メートル、二頭あるいは四
囲をとりまくスタンドには四○万人ほどの観客を収
が、こここそ帝国最大規模の大競走場であった。周
瞭然である。発掘作業は一部しか行われていない
りょうぜん
れる大きな広場がある。丘上からなが〃
めめ
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、、
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﹃二宮壬L7
…
390
迫力ある戦車競走の場面がある。
は属州ユダヤに設定されている
もっとも、映画のなかの競走場
このような戦車競走の熱狂に
のだが。
かぎらず、円形闘技場での剣闘
士競技や猛獣の格闘、劇場での
演劇やパントマイムなどの見世
と都市国家は農耕市民の戦士団
物にも人気が集まった。もとも
として生まれたのだから、催し
物は軍事や収穫に関連する祝祭
と結びついていた。やがて、し
日が設けられ、下って二世紀後
だいに祭日つまり見世物の開催
の時代には、一年のうち一三五
半のマルクス・アウレリウス帝
391平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
日にまで増加したと伝えられている。こうした見世物の開催は、穀物給付よりもさらに広
範に多くの地方都市でも見られたのである。
ところで、いわゆる﹁パンとサーカス﹂は繁栄期の民衆の堕落を象徴する、たんなるあ
いる。フランスの古代史家ヴェーヌは、民衆に恩恵を施すという行為そのものがいかに為
だ花にすぎないのだろうか。この問題は今日もっと広がりのある視野のもとで考察されて
392
ゲテースに由来する造語である。いささか思弁的な趣がしないでもないが、﹁パンとサー
カス﹂はローマ社会の根深い問題の一つとして大きな注目を浴びている。
3 9 3 平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
ポンペイ・グラフィティ
ヴエスヴィオ山大噴火、プリニウスの死
ローマ人のなかでも最大のもの知りといえば、この人をおいてほかにない。軍人として
官吏として高位公職にありながら、学者としてあくなき探究心を生涯いだいたプリニウス
いる。前人未到の自然誌であるが、質実剛健の農業国の古き伝統が讃えられる。とりわけ、
たた
である。膨大な著作のなかで古代の百科全書ともいえる﹃博物誌﹂だけが今日に伝わって
やなぎたくにお
あちこちに散りばめられた植物によせる愛着には目をみはるものがある。有能な官吏とし
やすいだろうか。
て公務にたずさわりながら民俗学の基礎を築いた柳田国男のような人といえば、わかり
その刻苦勉励ぶりのすさまじさは、甥の小プリニウスがタキトゥス宛の手紙のなかで記
ばんさん
している。
すごい速さでした。そういえば思い出すことがあります。朗読者がある箇所を誤って
晩餐のただ中でも、奴隷に本を朗読させ、自分はメモをとります。しかもそれはもの
発音したとき、ある友人がそれを読み直させたのです。その友人に伯父は﹁ともかく
394
君はわかっていたのだろう﹂と言いました。友人がうなずいたとき、伯父はこう言い
行以上も損をしてしまったじゃないか﹂。
ました。﹁それでは、なぜ呼びとめたのかね。君が中断したせいで、われわれは一○
ローマにいれば、公務中をのぞいて、あらゆる時間を惜しまず、休暇中はそれこそ朝か
ら晩まで、研究に没頭する。﹃博物誌﹄の序文のなかで、プリニウスは二○○○冊の書物
を読み、二万項目を拾い出したという。しかし、これは控えめな数字であろう。彼の目録
プリニウスがミセヌムの艦隊提督であったとき、遠方に見えるヴェスヴィオ山が大噴火
には四○○○人以上の著作家があがり、事項総数は三万五○○○ほどにもなっている。
を起こした。あまりにも研究熱心であったから、好奇心をおさえることができない。この
異常な自然現象の観察に赴き、火山灰の降りしきるなかで死んでしまう。悦楽に興じる現
か。
代人の目からすれば、もの好きも休み休みやれ、とからかいたくなるといっては酷だろう
プリニウスの著作には、およそ科学的とはいえない事項が方々に散らばっているので、
に目を向け、克己と禁欲のストア哲学にのっとって、現実の世相を糾弾する。その意味で、
たんなる知識の寄せ集めと椰楡する向きもないではない。しかし、理論よりも実際の事例
である。やはりそこには時代の知の総合精神が息づいていたのである。
彼はローマ古来の農耕軍人にもっとも近い人物であり、知識人としても頂点をきわめたの
平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
395
ポンペイの落書き
七九年のヴェスヴィオ山の大噴火は知の巨人を死にいたらしめたが、同時に歴史のなか
に奇跡を残した。繁栄のまっただ中にあった古代都市が火山灰に埋没し、やがて十八世紀
ナポリから湾沿い東南方に電車で三○分も進めば、ポンペイに着く。周壁にかこまれた
になって再び姿を現したのである。
市街地はおよそ東京の上野公園全域の広さぐらいはある。中央広場心市場・神殿・役所・
劇場・円形闘技場・教練場・公衆浴場などの公共建築物がほぼ三カ所にまとまってあり、
わだち
そのほかの空間を富豪の邸宅や庶民の住宅がうめつくす。敷石で舗装された道路には車の
の水槽が設けられている。
轍の跡が刻まれ、踏み石の並ぶ横断歩道もある。上水道も整備され、街角には共同水栓
そうした建物や設備に胸打たれ、邸宅の随所を飾る壁画に目をうばわれながら、もう一
つわれわれの心をひきつけてやまないものがある。それは、屋内屋外を問わず、壁に書き
つけられた落書きである。ポンペイにある落書きは今日確認されているだけでも一万点を
くだらない。一口に落書きと言っても、大まかに二種類ある。一つは、専門の職人が掲示
街を歩けば、まず所どころに公職選挙の推薦文が目につく。
用に書いたポスターであり、もう一つは狭い意味での落書きである。
396
マルクス・ルクレティウス・フロントを造営委員にするように隣人たちにお願いする。
造営委員とは建物の管理や治安警察をつかさどる公職である。それはポンペイの都市行
政にあって有力者たらんとすれば、まず通過すべき登竜門であった。若きフロントは周囲
の人びとに推されて、この公職に就任したのだろう。それを直接に証明する証拠はない。
しかし、彼は後に都市行政の責任者たる二人委員の候補に推されているのだから、造営委
員を務めたことは疑いがない。
しゆくじゆう
推薦ポスターのなかにしばしば登場するのが、同業者の団体である。なかでも毛織物業
では多くの職工たちが働いていた。織物に圧力を加えて密度を高める縮絨工の声が響く。
いふつくつ
ホルコニウス・プリスクスを二人委員として、縮絨工全員が推薦する。
ポンペイの選挙ポスターを一瞥しただけでも、二十数種の同業組合をあげることができ
る。しかし、職業団体ばかりが公職候補者推薦文を書いていたわけではない。なかには首
をかしげたくなるものも出てくる。
ブ︵勺O
マルクス・ケッリウス・ウァティアを造営委員として、すべての深夜飲酒族は推薦す
一晩中開いていた居酒屋もあったというから、いったい深夜も明け方もどこに区別があ
ふらち
ったのだろうか。深夜飲酒族などとすましているより﹁夜更けの飲んくえ﹂とでも呼んだ
ほうがぴったりするのかもしれない。こうした不埒な連中の推薦は公職候補者にとってあ
397平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
ボンベイ市街|
フユ公公ア
け、こんな推薦文はそのきわみでもある。
りがたいものだったかは疑わしい。とりわ
仲間は推薦する。
ウァティアを造営委員として、こそ泥
まるでかっぱらい連中に推薦される警察
じようとう
署長という趣である。こうした宣伝は対立
候補をおとしいれるための常套手段だっ
たのだろうか。そこからは、公職選挙の実
態よりも、冗談に興じる民衆のおおらかな
こうした公職選挙をめぐるポスターや落書
肉声を聞きとるべきであろう。ともあれ、
きが二八○○点も残っている。
酒さえあれば
娯楽としての見世物のなかでも、ポンペ
イではとくに剣闘士興行が人気があった。
その開催が決まると、広告が出される。広
398
告は通りに面した住宅や公共建築物の壁に赤いペンキで塗書きされている。
リウス・ウァレンスによる二○組の剣闘士の戦いと、彼の息子デキウス・ルクレティ
カエサル・アウグストゥスの御子ネロの終身神官デキウス・ルクレティウス・サトゥ
ウス・ウァレンスによる一○組の剣闘士の戦いが、四月八日、九日、十日、十一日、
十二日にポンペイで開催される。公認の野獣狩りがあり、天幕も張ってあるだろう。
アエミリウス・ケレルが月明かりで単身これを書く。
時節は春先、野外の快適さが感じられるようになったころである。五日間で三○組の戦
いがあるから、均等分すれば一日で六組の対戦になる。午前中は野獣狩り、午後には剣闘
命を賭けて戦うたくましい剣闘士は人気があった。とくに女性たちのまなざしは熱い。
士試合になる。広告の最後にポスター書き職人の売り込みがあるのは笑いを誘う。
娘たちのため息であるトラキア闘士ケラドゥス
網闘士クレスケンスは少女たちの御主人様
こうして剣闘士たちは民衆の声援を浴び、女性たちのあこがれの的になる。闘技場は興
奮の増墹と化してしまう。
人びとが集まる所にはやはり落書きも絶えない。とくに居酒屋は落書きの材料に事欠く
酒神崇拝者の飲んべえいわく。このカウンターでは一アスで飲める。もっといいもの
ことはない。
3 9 9 平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
ならニアスを払えばいい。ファレルヌス酒なら四アスを払えば飲める。
い
居酒屋の店先には、だいたいL字型のカウンターがある。そのなかにぶどう酒を容れる
つぼ
壷がはめこまれ、それをすくって個々の容器に盛る。ぶどう酒は濃縮された原液のような
同じようなインチキであんたもだまされるように、居酒屋の旦那よ。あんたは水を売
だんな
ものであり、それを好みに応じて水で薄める。だから、こんな落書きも出てくる。
って、自分は生酒を飲んどるんだ。
なにかの腹いせなのか、あてつけがましい落書きである。しかし、盗人まがいや詐欺師
まがいがいても、酒さえあれば、おおかたはことなく太平に過ぎ去っていった。
愛欲の街角
こんせ営
数多いいたずら書きのなかでも、なんといっても愛をめぐる落書きが目につく。ポンペ
イのどこを見渡しても、あらゆる場所に愛の痕跡が残されている。なかでも、生きる力と
やつ
若者でありながら女性を愛さぬ者がいれば、そんな奴はけっして美しくない。
希望にあふれた若者ならば、愛することこそふさわしい。
若者ばかりでなく、愛することは生きているかぎり誰にでもふさわしいのだ。
誰であれ愛する者はすこやかであるように。
愛することを知らぬ者は死んでしまうように。
100
患
い匙だ
その気がない。でも、あいつはあの娘にお情けを願っているってわけだ。書いたのは
しつと
あいつの恋敵さ。あばよ﹂
て
︵男B︶﹁お前さんは嫉妬ではち切れんばかりでいるからといって、水もしたたる粋な伊
達男のあら探しをするな﹂
︵男A︶﹁もう言うことは言ったし、書くことは書いた。お前はイリスに惚れているけど、
4 0 1 平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
あの娘はお前に無関心さ﹂
居酒屋の女給をめぐる二人の男の言い争い。どこにでもありふれた光景であり、そこは
きな戦乱のない平和な時代であった。しかし、平和が訪れても、
とがより鮮明な意識をいだく契機が生まれる。まして、治世は大
はより正確になり、より広がりをもつことになる。そこには人び
民衆の読み書き能力が高ければ高いほど、文字による情報伝達
を下回ることはないように見える。
くともイタリアの地方都市については成年男子の三○パーセント
断しかねているふしがある。この材料を手がかりにすれば、少な
以下にしか評価しない学者も、ポンペイの落書きにはいささか判
て高いと考えられている。しかし、はるかに低く一○パーセント
繁栄期の古代地中海世界の識字率は前近代社会のなかでもきわめ
ら、民衆の読み書き能力を測る絶好の手がかりになる。これまで
ところで、こうした落書きは内容のおもしろさもさることなが
愛欲の街角とも呼べるのではないだろうか。
ポンペイの落書きウェヌス(英語名ヴィーナス)
を守護神としたポンペイは、愛の讃歌が飛び交う
にふさわしい街だった。図の文句は前ページにあ
げた愛をめぐる落書きである
心の安らぎをえるために
譲織
侭I也塑
402
に目を向け、不安をつのらせる。人びとが求めるのは真善美をめぐる思弁ではなく、それ
人びとの心に安らぎはやって来ない。否むしろ、平和であればこそ、人びとは自分の内面
ればいいのか。それは民衆の願いでもあり、識者の希求するところでもあった。
ぞれの人間の心の平安であり幸福であった。心の安らぎを得て幸福に生きるには、どうす
ヘレニズム期に芽をふいたストア派の哲学は、エピクロス派と並んで、ローマ帝政期の
人びとの心をとらえている。生きることの意味、すこやかに老いること、安らかな死を迎
えることなどへの問いが人びとの心に波立つ。そうした問いかけに答えて、ストア派の哲
われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。
人セネカはこう語る。
できるほど豊富に与えられている。︵﹃人生の短さについて﹄︶
人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、もっとも偉大なことも完成
断に依存しているからである。亀余暇についてご
われわれは欲望と悔恨の間に右往左往している。それはわれわれがまったく他人の判
金銭や名誉を求め、他人の目を気にしながら、俗事の雑務にあくせくして生きる。それ
がいかに無益なことであるか、セネカはそれを問題にする。しかし、そのセネカこそネロ
帝の顧問を務め、南海貿易などで巨万の富を築いたといわれている。その思想と実生活の
食い違いはともかく、ストア派の人びとはなによりも心をかき乱されない状態でいること
日
しかし各人の心の良い状態にとってもっとも有害なのは、ある種の見世物に熱中する
を勧告する。
やすやす
ことをおいてほかにはありません。なぜなら、そのときには悪徳が快楽の道を通って
安々と忍び込んで来るからです。︵這徳書簡集ご
蛇大衆の悪徳がきわみに達する剣闘士競技への熱狂を嘆いたのはセネヵだけではない。し
常かし、彼らにはある弁解があった。なるほど剣闘士競技は非情で残忍であるが、それだけ
川に苦痛や死から目をそらさない精神が鍛練される。それは戦場における心がまえにとって
マなによりも必要なのだ。そうした風潮がただようなかでも、ひとりセネカだけがこの見世
ロ物を非難した。セネカには残虐さに耐える精神の鍛練などという口実はありえない。彼は
一剣闘士の試合そのものを徹底的に否定した。
な
加ポンペイの剣闘士の営舎。その食堂の壁には、この哲人の名前﹁ルキウス・アンナエウ
と
のス・セネカ﹂が書きなぐられている。剣闘士もまたストア派の教えのなかに一抹の救いを
職見出していたのかもしれない。そのセネカは、ネロ帝に陰謀加担の疑いをかけられ、入浴
平
和しながら血管を切り開いて命を絶った。
403
404
新興家系の皇帝
激動の年、六九年
歴史家タキトゥスはネロ帝治世の初期に南フランスで生まれた。騎士身分の家柄にもか
かわらず、首都では元老院身分の公職経歴を順調に歩んでいる。九七年、四十歳のころに
コンスルに就任し、二二年にはアシア州知事になった。こうした公職を務めるかたわら、
彼は著述にいそしむ。コンスル就任の翌年には岳父の伝記﹃アグリコラ﹄およびドイツの
一つは、一○五年から一○八年に出版された﹃歴史﹄であり、もう一つはそれ以後に公け
風土と民族を論じた﹃ゲルマニア﹄を公刊した。やがて彼は歴史叙述の大作に挑んでいる。
﹃歴史﹄全一二巻は六九年以後の出来事をあつかっているが、第五巻の途中までしか現存
になる﹁年代記﹄である。
しない。そこにはネロ帝死後の年月をめぐる最高の歴史記述がある。といっても、正確に
三人の元首が殺されている。まさしく六九年は激動の時代であった。
は六九年という年のたった一年の物語なのである。しかし、この一年に、内乱が度重なり
六八年六月ネロが自殺した後、ヒスパニア総督ガルバが首都に迎えられ、十月から帝位
4 0 5 平 和 と 繁 栄 の な か で − ロ ー マ 人 の 日常生活
に就く。六九年一月一日、ゲルマニァの軍団はガルバヘの忠誠を拒否し、自分たちの総督
ウィテッリウスを帝位に担ぎ出した。一月十五日、ガルバの後継者を自負していたオトは
元老院はオトの帝位を承認したので、もはやオトとウィテッリウスの対決は避けがたい
親衛隊を手なずけてガルバを裏切り、殺害する。
はみずから命を絶つ。七月半ばにローマに入場したウィテッリウスは元老院で帝位を認め
ものになった。四月十六日、北イタリアの戦闘で自軍が敗北した知らせを受けると、オト
すでに七月一日には、アレクサンドリアの軍隊がウェスパシァヌスを帝位に祭り上げて
られた。しかし、彼の天下もほんの数ヵ月にすぎなかった。
いたのである。穀倉のエジプトを押さえていたことは、ウェスパシアヌスには有利であっ
いる。ウェスパシァヌスは数年前からのユダヤ人の反乱を鎮圧するにあたって功をなして
アの戦いでウェスパシァヌス軍が勝利し、十二月二十日ウィテッリウスは殺されてしまう。
た。やがてイタリアに進軍し、ウィテッリウス軍と対戦することになる。同じく北イタリ
ウェスパシァヌスは元老院とすべての軍隊から承認され、翌七○年初めに元首としてロー
マに迎え ら れ た 。
小便税とコロッセオ建設
内乱を勝ち抜いたウェスパシアヌスは、これまでの元首との家系上のつながりをもたな
406
い帝位就任者である。ユリウス氏族とクラウディウス氏族、つまりアウグストゥスとティ
ベリウスの血を引かない元首は、権力の継承をなんらかの形で正当化しなければならなか
神皇アウグストゥス、ティベリウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥスおよびテ
った。このウェスパシアヌスの最高指揮権に関する法が、青銅板に刻まれて残っている。
ィベリウス・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスに対して認
められていたのと同様に、望むところの者との同盟関係の締結が認められるべきこと。
以下同様の文面で、元老院の招集権、公職候補者の推薦権、ローマ市聖域の変更権など、
その起原も性格も異なる諸権限が一括してウェスパシアヌスに付与されている。この継承
かいま
によって単一の元首権力が誕生したと言ってもいい。それにしても、元老院によって暴君
見る思いがする。
と見なされたカリグラ帝とネロ帝の名が記されていないところに、この時代の一面を垣間
六十歳で皇帝になったウェスパシアヌスは武勲に目立ってはいても、貴族の血筋ではな
かった。素朴で実直な感じがしても、およそ高貴な香りのする人柄ではなかった。彼への
た
批判中傷のなかでも金銭欲に関する噂はどうしても消えなかったらしい。いろいろな課税
った。そのために公衆便所が発明される。だから、現代のイタリア語でも市中の公衆便所
を思いつき、搾取の才に長けた官吏を優遇する。そんななかで思いついたのが、小便税だ
はヴェスパシアーノと呼ばれている。
生
活
の
日
常
マ
人
ロ
で
の
か
な
と
栄
繁
和
平
7
0
4
彼の強欲さが生来のものか、それとも財政再建のためか、同時代人の評価も分かれてい
る。というのも、彼はすべての人に対して気前よく散財することもあった。なかでも、今
408
財ら”
す元コロッセオの復原図円形闘技場の横にはネロの顔立ちをした
ぐ老巨像(コロッスス)があったが、ウェスパシアヌアス帝はその
れ院頭部を本来の太陽神に替えたという。コロッセオの名はこの巨
た議像に由来する(Ro"'2-P"rα"aPre3e"r,ViSionPubliCationsol962)
成員
果のならがいも皇四苛かな善差布しず
を任反れらたい帝弟一酷そほ帝し告いつ
あ免感なも。れでド年でどにので疫と
げををい、父ばあミのあ民ほべ民病燃
てもかと猜兄、るテ生つ衆かて心のえ
いてうこ疑の見・イ涯たにないを流つ
るあころ心堅た不アを。愛らるい行づ
。そとがが実目格ヌ終八さな・たがけ
ぶにあ強なも好スえ一れかまわ起た
こなつく行いなはて年たつさりこロ
とるた感政い暴設きし、皇たし、つ1
も。。情原名君誉よま突帝。<全たマ
あたその則君と褒胃う然にし危力の市
つしの高をと決艇え。の、か機ででの
たかたぶ受讃めに熱天し管援あ大
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平和と繁栄のなかで−ローマ人の日常生活
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とくに平和外交は特筆されるのだが、それはドミティァヌスの不幸でもあった。タキト
ゥスの敬愛する岳父アグリコラがブリタニア総督として国境を北のスコットランドまで拡
遇な晩年は、娘婿タキトゥスの胸を痛めた。タキトゥスの筆はドミティァヌスを悪辣非道
あくらつ
大しようとしたとき、帝は彼をローマに召還し引退に追い込んでしまう。高潔な武人の不
統治者としてすぐれた手腕をみせながらも、なぜドミティアヌスに対する悪評の風潮が
な姿に描き出す。
つくられたのだろうか。それは治世末期の恐怖政治にある。たとえば、ドミティアヌス帝
家人はたとい立派な動機からにせよ、保護者を殺すような大胆な振舞いはすべきでは
にもっとも公平中立なスエトニウスすらも、こんな事例を持ち出す。
ほうじよ
ないと教え諭すため、嘆願受理係エバプロディトゥスを断罪し死刑に処した。ネロが
見捨てられて、自刃し果てたとき、エバプロディトゥスみずから、請助したと考えら
れんびん
れていたからである。
そのくせ、自己憐潤は人一倍強かったのか、﹁元首の境遇は、哀れなものだ。元首が暗
おび
ていたという。猜疑・密告・告発・弾圧があいつぎ、ついには后までもが不安に脅えた。
きさき
殺されないかぎり、陰謀がたしかにあったと信じてもらえないのだから﹂としばしば言つ
ヌスの暗殺を冷静に受けとめた。しかし、欣喜雀躍した元老院は彼に関する記憶をこと
きんきじゃくやく
彼女は側近や親衛隊長らと共謀して、九六年、皇帝を殺害してしまう。民衆はドミティァ
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ごとく抹殺することを決議する。彼の肖像楯や彫像は引きはがされ、碑銘のなかの彼の名
前は削り落とされてしまう。