日中両国の対アフリカ政策の比較

243
2010 年度
人文科学研究所共同研究 研究報告
日中両国の対アフリカ政策の比較
研究代表者:青木 一能(総合文化)
研究分担者:日吉 秀松(総合文化)
林 幸博(生物資源科学部教授)
六辻 彰二(人文研研究員)
李 安 山(北京大学教授)
潘 華 瓊(北京大学准教授)
呉 氷 氷(北京大学准教授)
はじめに
国際社会のなかで長く周縁的な地位に在ったアフリカは,近年,世界の強い関心を惹きつ
ける大陸になっている。その背景には,まず冷戦後世界のグローバリゼーションの下で国際
的ネットワークの稠密化が生じたことにある。それはすなわち,従前の中心―周辺という国
際関係の構造を変貌させ,突如周辺諸国が国際社会の主要な争点に浮上するというパラダイ
ム変化がある。
次に,市場経済の「地球化」によって世界経済が拡大するなかで,アフリカのもつ資源と
市場価値は重要な意味を占めている。
世界の資源の三分の一を占めるといわれるアフリカは,
ここ 10 年来の好調な輸出の伸張を背景に世界で最も高い経済成長を記録する大陸になって
いる 1)。さらに,アフリカ諸国の政治・経済面での安定化と相俟って,多くの外資が流入す
るとともに,国内に中間所得者層が登場し,彼らの購買意欲はアフリカを魅力的な市場にさ
せている。まさにアフリカは近い将来にアジアをも凌駕するほどの「動き出す市場」に変貌
しているのである 2)。
そして第三に,資源と市場価値の高まりは,BRICs などの新興諸国を先頭に多くの国をア
フリカとの関係強化に乗り出させ,アフリカ諸国との二国間および多国間の協力フォーラム
を設けるなど,いわば一大「アフリカ・ブーム」を引き起こしている。なかでも目覚ましい
勢いでアフリカに存在感を高めているのが中国であり,その速度と勢いの激しさから,旧権
益保持者たる欧米諸国に脅威感すら与え,同諸国から「中国新植民地主義」と批判されるま
でに至っている。
244
日中両国の対アフリカ政策の比較
こうした状況のなかで,日本もまた 20 年来にわたってアフリカの開発に主導権を発揮し
てきた。しかし,近年の多くの協力フォーラムの設置の下で,日本の対アフリカ政策とその
有効性も影響を受けざるを得ず,早晩,その再検討を余儀なくされると思われる。つまり,
欧米諸国との協調の枠内で行われてきた日本政府の対アフリカ・アプローチは,欧米とは一
線を画した新興諸国,とりわけ中国流のいわば「なりふり構わない」アプローチの前に,現
状維持を困難にさせている。すなわち,アフリカ諸国が積極的に中国流のアプローチを取り
込んでいる現実に鑑みれば,日本にも独自な手法を模索・構築する重要な契機と映っても不
思議ではない。
そこで本稿では,まず日中両国の対アフリカ政策を比較検討することを目的にし,その政
策姿勢と相違点を明らかにする。その出発点としてまず,日中両国の政策フォーラムであ
る「東京アフリカ開発会議」
(Tokyo International Conference on Africa Development: 以下,
TICAD とする)
と「中国・アフリカ協力フォーラム」
(Forum of China-Africa Cooperation: 以下,
FOCAC とする)を中心に言及し,次に日中両国の対アフリカ・アプローチの変化を冷戦終
結前後から時間を遡って検討する。そして最後に中国のアプローチのなかで最大の特徴であ
り,近年の欧米諸国の批判が集中する「内政不干渉原則」について触れることにする。
1. 日中両国の対アフリカ政策フォーラムの枠組み
1) TICAD
歴史的に遡れば,日本はアフリカに対して長く「ひ弱な関係」を維持するに留まっていた
といえる 3)。むしろ日本にとってのアフリカは希少資源を多く輸入する南アフリカが中心で
あって,その他の多くの国々とは極めて希薄な関係を維持するに留まっていた。
しかし,長期にわたり「遠い大陸」であったアフリカに対し日本は「突如」として 1993
年 10 月開催の TICAD を通してアフリカの開発協力に主役たらんことを明らかにした。
それはまさに,権益保持者たる欧米諸国が冷戦終結後に著しく戦略的重要性を失ったアフ
リカに対して消極姿勢を取ったのと対照的なものであった。むしろ,日本は欧米諸国の後退
と入れ替わるように,さらには同諸国に後事を託されたかのようにして,アフリカの「最前
線」に躍り出たといえる。そこにはアフリカ諸国への接近を通じて,日本の戦後の「外交悲
願」たる国連安保理常任理事国への集票活動,そして「大国・日本」の存在感を示すうえで
の波及効果を期待していたともいえる。
しかし,多様な 50 を超えるアフリカ諸国の国情は日本の接近意図を実現させるどころか,
複雑かつ困難な問題を日本に提示することになった。すなわち,アフリカ諸国の多くが抱え
る貧困とそこから連鎖的に生ずる社会的病理現象への取り組みが,日本の最重要課題として
眼前に現れたといえる。そこではもはや日本の思惑や意図を超えた政策姿勢が求められ,ア
フリカにおける人権や人間開発が中心的な関心事になっていったといえる。
5 年に一度の開催をみる TICAD は,
93 年の第一回から 2008 年の第四回の開催に至るまで,
日中両国の対アフリカ政策の比較
245
多くのアフリカ諸国の代表,主要先進国・機関,さらには各国の非政府機関(NGO)など
の参加があった。TICAD は日本国内で開かれる最大規模の国際会議であることは間違いな
いが,世界においても今日のアフリカ開発に関する最大の政策プラットフォームの地位を占
めているといえる。各 TICAD の内容については,下の表にまとめており,回を重ねる毎に
質量ともに,その存在感を高めてきたことは間違いない。
TICAD で議論される開発協力は,国連の「ミレニアム開発目標 :MDGs)やアフリカ内部
の「アフリカ開発のためのニュー・パートナーシップ:
(NEPAD)
」へなどの合意と連動し,
確実にアフリカの開発問題に関する国際的な枠組みとして認知されているといえる。
その点において他の協力フォーラムが主催国の国益重視の傾向が窺えるのに対して,
TICAD はいわば人道主義や人間開発といった観点から「アフリカ問題」の改善と解消を目
指したものといえる。ここでいう「アフリカ問題」とは,依然として「貧困大陸」たるアフ
リカの種々の社会的病理を総称しており,絶対的貧困,飢餓,感染症などの疾病,幼児死亡
率の高さや近年顕著になっている平均寿命の低下などに象徴される社会環境の劣悪さなどを
意味している。
こうして日本は TICAD を通して懸命に問題に取り組んできたといえる。しかし,近年の
アフリカの著しい成長,さらには一種の「アフリカ・ブーム」は日本の真摯な取り組みに必
ずしもプラス効果を与えていない状況がある。
2)「成長すれど,発展せず」というアフリカの現実
一般的に,一国の経済成長はその国の発展に寄与し,国民生活にもプラス効果を与えると
想定できる。しかし,アフリカの場合,そうした単純な図式は描けないようである。つまり,
近年の高い成長は専ら資源輸出によるものであり,その利益は企業やその労働者が居住する
都市部に集中し,平均して 3 分の 2 の人口が居住する農村部に行き渡らない。南アフリカを
除くアフリカの一般的現象といえるが,要は成長の果実が極めて不均等に配分される状況が
ある。
その結果,豊かな層が登場するのとは対照的に,貧困に喘ぐ人々は現状維持あるいは更な
る貧困状態に陥っていくことになる。まさに共同社会から格差社会への出現がアフリカで顕
著になっている。市場競争主義による世界的な格差が進行しているとはいえ,社会的なセー
フティ・ネットワークが不備なアフリカでその深刻度は高いといえる。
その一例を示すものとしては,国連の『人間開発報告書』
(09 年版)によれば,調査対象
182 カ国中,最低ランクの 159 位から 182 位まででアフガニスタンと東ティモールを除く全
ての国はアフリカが占めている。
また,国連アフリカ経済委員会(UNECA)の『アフリカ経済報告 2007 年』では,アフリ
カ大陸全人口中,一日一ドル以下で生活する人々は 90 年の 44.6%,04 年には 44%とほぼ横
ばい状態で推移し,15 年時には 42.3%の水準にあると予測されている。サハラ以南アフリ
246
日中両国の対アフリカ政策の比較
第 1 表 TICAD プロセス
開催年(場所)
参加国数
主たる内容
TICAD Ⅰ
1993年10月
(東京)
アフリカ 48 カ国
先進 12 カ国と EU,8 国際機
関,45 の国・機関・NGO から
約 1000 名(オブザーバー)
アフリカ支援の拡充の基本合意
日本の役割目標(①政治・経済改革
の積極支援,②人造り支援と環境問
題への配慮,③交流促進・相互理解
の増進)
南南協力の促進
TICAD Ⅱ
1998年10月
(東京)
アフリカ 51 カ国,
アジア 11 カ国
北米・欧州 18 カ国
NGO22 団体
40 のアフリカ地域機関・国際
開発機関
「アフリカ開発東京行動宣言」採択
(グッドガバナンスの強化と紛争予
防,警察治安部隊のキャパシティビ
ルディング,地雷除去に関する情報
交換,難民受け入れ国のインフラ復
旧支援など)
TICAD Ⅲ
2003年9月
(東京)
アフリカ 50 カ国,アフリカ外
の国 39 カ国,47 の地域・国際
機関,多数の NGO・市民団体
NEPAD への国際社会の支援,アジ
ア・アフリカ協力を通じたパートナ
ーシップの拡大
TICAD Ⅳ
2008年5月
(横浜)
アフリカ 51 カ国
アフリカ外の国 34 カ国
74 の地域・国際機関
『横浜行動宣言』の採択
TICAD フォローアップ・メカニズ
ムの構築
日本の支援表明(今後 5 年間の対ア
フリカ ODA 倍増計画,道路・電力
を含めたインフラ整備,緊急食糧援
助,中長期的な生産向上を目指す農
業支援,CARD(米増産計画)の実
施など)
カで実数を上げてみると,世界銀行の資料では,90 年の 2 億 4,100 万人(世界全体では 12
億 3,700 万人)
,2000 年の 3 億 2,300 万人(同 11 億人)
,そして 15 年予測では 3 億 6,600 万
人(同 7 億 3,400 万人)と増大するとしている。
そうした状況は,教育の普及の遅れ,栄養失調と病気の蔓延,不十分な上下水道設備と不
衛生な生活環境,さらには HIV/AIDs など感染症の蔓延に連動していることは指摘するまで
もないだろう。
こうした状況は資源保有の有無にかかわらず存在しているといえる。とりわけ資源保有国
では,成長と発展のギャップという不可思議さが際だつが,資源があるからこそギャップの
存在は奇異な感じすらする。そうした状況を近年では「資源の呪い」と表現することもある。
加えて,日本の進める TICAD の取り組みからすれば,成長に伴って一層解決困難な状況
がアフリカ内部で醸成されることになる。この点に関して,近年とみにプレゼンスを高めて
きた中国は内政不干渉原則を掲げており,偏にアフリカの資源と市場の確保に邁進している
かの観を否めない。その中国がいまアフリカ諸国との関係強化のプラットフォームにしてい
るのが FOCAC である。
日中両国の対アフリカ政策の比較
247
3) FOCAC
FOCAC は 2000 年から開始されたフォーラムであり,日本主催の TICAD に参加すること
なく,中国独自の協力の枠組みとして今日まで維持されてきた協議機関である。
中国とアフリカの関係は極めて古く,今日のような活発な外交関係をとる以前は人的な
交流や大量のアフリカ人留学生の受け入れなどを通して,むしろ堅実かつ着実な関係維持を
行ってきた 4)。それは中国の国力を反映したものでもあり,経済的な支援関係にはいまだ多
くの制約があったことを背景にしていた。しかし,近年の著しい経済成長と国力の増進は中
国に積極的な外交関係強化を促し,アフリカにおける存在感を一気に高めさせた。その両者
の関係を内外に強く印象づけたのが,FOCAC であった。
FOCAC は 3 年毎に開催され,開催地を中国とアフリカに替えながら行ってきた。しかし,
その内容に関しては基本的に非公開であり,ネット上に一部紹介されているが,実際の協議
内容が公開されることはない。とくに 1 回,2 回の開催に関して情報量は少なく,3,4 回と
回を重ねる毎にフォーラムの実態が知られるようになってきたといえる。
まず FOCAC の設立に関しては,マダガスカルの外務大臣の提案を受けたかたちで唐家璇
外交部長(当時)がアフリカ局にその可能性について分析を行うよう指示し,纏めた報告書
を国務院に提出し許可されたとされる 5)。それに基づき中国・アフリカ局を中心に設立準備
が行われ,第一回サミットが 2000 年 10 月に北京にて開催された。同フォーラムへのアフリ
カ参加国は 44 カ国を数え,中国国家主席の他,トーゴ,アルジェリア,ザンビア,タンザ
ニアから大統領が出席している。
第二回 FOCAC は,2003 年 12 月にエチオピア・アジスアベバで開催され,アフリカ側か
ら 45 カ国が参加している。第三回は 2006 年 11 月北京で開催され,アフリカ 48 カ国が参加
している。第三回 FOCAC では,
「北京サミット宣言」と「北京行動計画(07 ∼ 09 年)
」が
採択されている。具体的には,援助規模として 09 年の対アフリカ援助額を 06 年の倍額とす
る,特恵借款は 30 億ドル,バイヤーズ・クレジットを 20 億ドルとする,中国企業の投資促
進のために「中国・アフリカ発展基金」を段階的に 50 億ドルとする,05 年末までに期限切
れの債務の免除,15,000 名の人材訓練,など多岐にわたる支援を行うとしている。そのほか
にアフリカ連合(AU)センターの建設なども謳われていた 6)。
さらに第四回は,09 年 11 月にエジプト・シャルムエルシャエイクで開催され,これまで
の最高の 49 カ国がアフリカ側から参加している。ここでは,第三回の際に触れることが少
なかった分野での協力の強化が謳われ,とくに気候変化(100 のクリーンエネルギー・プロ
ジェクトの建設援助)
,科学技術協力(
「中国アフリカ科学技術パートナー計画」:100 の中
国アフリカ共同科学技術研究プロジェクト,100 名のアフリカ人ポスト・ドクターの受け入
れ,など),最低開発国の製品の 95%を無関税,
農業分野では技術模範センターを 20 に増やし,
アフリカに 50 の農業技術組を派遣,2,000 名の技術者を訓練,病院およびマラリア予防と治
療センターに 5 億人民元相当の医療設備とマラリア予防と治療の関連物資の提供,3,000 名
248
日中両国の対アフリカ政策の比較
の医者および看護師の訓練,50 の中国・アフリカ友好学校の提供など,多岐にわたっていた。
こうしてみると,FOCAC での協議項目が次第に経済分野だけでなく,社会的分野に拡大
してきていることが窺える。そうした関係強化が中国のアフリカにおける存在感を高めてい
ることに間違いないが,その高まりの速度が急であるために,旧権益保持者たる欧米諸国か
ら多くの批判を招いていることも確かである。
4) 中国の影響力と欧米諸国の批判
中国とアフリカの貿易額は,1960 年に僅か 1 億ドルであったが,2000 年には 100 億ドル
に上昇し,その後年平均 30%を超える勢いで拡大し,08 年には 1,000 億ドルを突破して 1,148
億ドルを記録した 7)。10 年に 911 億ドルに落ち込んだものの,11 年には 1,300 億ドルに回
復した。まさに中国は米国を抜いてアフリカ最大の貿易相手国になったのである。
それら貿易の著しい伸長とともに中国の対アフリカ投資も年々増加しており,その内訳は
採鉱業(29.2%)
,製造業(22%)
,建設業(15.8%)
,金融業(13.9%)が中心を占めている 8)。
こうした中国の膨張する存在感に対して,既得権益の喪失を危惧する欧米諸国は危機感を
募らせてきた。
「外国人がアフリカにやってきて,
天然資源をもち去り,
指導者にお金を払い,
立ち去っていく。現地を離れる際,アフリカの人々にはあまり多くを残さない。アフリカで
新たな植民地主義が現れることは望まない」
(2011 年 6 月のアフリカ訪問に際するクリント
ン米国国務長官の発言)として,新植民地主義を振りかざす危険な国家として中国を非難す
るまでに至った。さらにクリントン長官の発言に代表されるように,欧米諸国側は「中国政
府によるアフリカへの援助・投資は常にアフリカの人々の利益を考慮しているものではなく,
中国当局が主張する他国の内政に干渉しないなどの政策はクリーンな政治体制の実現にマイ
ナスの影響をもたらす」とも批判する。
こうした批判は自らの権益を脅かされるとの危機感を反映しているが,現実に欧米諸国と
異なるアプローチをとる中国の行動に対応できないもどかしさを現している。そのために近
年では,G8 は中国などの対アフリカ関係の分析を行う一方,09 年からは OECD の「開発
援助委員会」(DAC)が中国との間で研究グループを形成するなど,中国のアフリカ戦略に
関する認識および国際的な枠組みへの中国の参加を促す試みが行われている 9)。
それら欧米諸国における中国の対アフリカ進出の分析は,主に以下の 8 つの動機付けが指
摘されているといえる 10)。すなわち,①農産物を含めた資源供給を確保する,②中国産品
およびサービスの市場を創造する,③農業生産を目的とする土地を確保する,④中国人移民
のための道筋を拓く,⑤アフリカ諸国からの外交上の支持を獲得する,⑥欧米型に代わる発
展モデルを提示する,⑦欧米型の開発協力に代わる選択肢を提供する,⑧超大国としての地
位を獲得(強調)する,である。
これらはいずれも的を外れたものではないと思われるし,現実にそれらの発現状態がア
フリカ内部で見られることも確かである。しかし,いずれにせよ,中国の行動はアフリカ諸
日中両国の対アフリカ政策の比較
249
国の合意無くして行われたものではなく,むしろ欧米に代わる支援者として歓迎する国があ
ることも事実である。
浙江師範大学の劉鴻武教授が指摘するように 11),中国の対アフリカ支援の主軸はアフリ
カの能力構築(Capacity Building)にあり,まずは国家としてのパワーを構築することが重
要である,とするのは理解できないことではない。アフリカ諸国のなかには,そうした中国
の支援はアフリカにもプラスの効果を与え,両者がいわゆる「ウィン・ウィン」の関係を構
築できると考える国も少なくない。
無論,国力増進という大義名分の下で,
中国はアフリカの資源と市場を確保する行動をとっ
てきたことも看過できない。しかも,すでに述べたように,
「資源の呪い」状況が醸成され
ている現実は,やはり一部中国も責任を認識すべきであろう。加えて,そのことは日本が推
進するアフリカ問題の改善・解消を遅延させる要因にもなっており,やはり中国もそうした
分野への配慮も怠るべきではない。しかし,今日の中国の対アフリカ・アプローチが上記の
8 つの指摘に集約されるとはいえ,09 年の FOCAC では民生分野への協力に裾野を広げ始め
ており,次第に日本や国際機関が推進する「アフリカ問題」解決に力点を置いていくことも
期待できなくはない。
そこにアフリカの支援関係において日本と中国が協力を促進していく可能性があるといえ
る。
注
1) 2000 年からの約 10 年間でアフリカの GDP(国内総生産)成長率の平均は 5.2%(サハラ以南ア
フリカでは 5.5%)を記録している。これは前進国(G8 を含む 33 ヶ国・地域)の 1.7%を遙か
に上回っている。
2) ヴィジャイ・マハジャン『アフリカ - 動き出す 9 億人市場』
(英字出版,2009 年)
3) この点に関しては,青木一能他著『21 世紀の中東・アフリカ世界』
(芦書房,2006 年),とくに
pp315 ∼ 318。
4) この点について詳しくは,青木一能「中国の対アフリカ関係」
『中国総覧』
(霞山会)の各巻を
参照されたい。
5) 劉海方「从可持续发展的角度看中非合作论坛」
(これは 2011 年 12 月 9 日に日本大学で行われた
ワークショップ “ 中国の対アフリカ政策の分析 ” における報告)
6) 劉海方,上掲書。
7) この点については『中国経済貿易白書』,UNCTAD Handbook of Statistics 2009, を参照。
8) 中華人民共和国国務院新聞力公室『中国与非洲経済合作』,2010 年 12 月を参照。
9) G8 関連の分析では,Tom Cargill, Our Common Strategic Interests: Africa’s Role in the Post-G8
World, A Chatham House Report, 2010. さらに Lt. Col. JS Kahli, The Dragon on Safari, China’s
Africa Policy, IPCS Special Report, 86, Oct. 2009.Axel Harneit-Sievers,Stephen Marks and Sanusha
Naidu (eds.), Chinese and African Perspectives on China In Africa, Pambazuka Press, 2010, Julia C.
Strauss and Martha Saavedra(eds.), China and Africa: Emerging Patterns in Globalization and De-
250
日中両国の対アフリカ政策の比較
velopment, Cambridge Univ. Press, 2009. など多数ある。
10) とくにこの点に関しては,Padraig Carmody, The New Scramble for Africa, Polity Press, 2011,
pp65-68.
11) 劉鴻武「国家能力建設与非洲発展前景―如何克服非洲国家発展中的主要障碍」
(2011 年 12 月 9
日開催のワークショップ提出論文)
2. 21 世紀における日中の対アフリカ・アプローチ
2000 年代に入り,アフリカに対する域外国の関心は,大きく二つに収斂しているといえ
る。第一は「アフリカ問題」と総称される,貧困,飢餓,紛争といった諸問題である。2001
年以降の「テロとの戦い」で一般化した「貧困がテロの温床になる」という考え方は,この
関心をさらに増幅させた。第二は,豊富な天然資源と約 10 億人の人口に由来する,
「最後の
フロンティア」としての経済的関心である。これら二つの関心に基づき,先進国は 1990 年
代に減少させた対アフリカ援助の増加に転じている。他方,主に第二の関心に基づいて,中
国を筆頭に新興国もやはり,二国間援助を含めたアフリカへの関与を強めている。域外大国
が競ってアフリカ進出を図る構図は,
「新たな争奪戦」とも形容される 1)。
1) 日本の対アフリカ関係
冷戦期の日本は,長くアフリカと疎遠であったといってよい。しかし,石油危機を契機に,
資源供給地の多角化を図る目的から,それまで日本の ODA 全体の 1%前後であったアフリ
カ向け援助は段階的に増加し,1980 年には約 11%に達した。また,1981 年にはアフリカ向
け援助に占める無償資金協力が政府間貸付を初めて上回り,
これはその後ほぼ一貫している。
とはいえ,アパルトヘイト体制下の南アとの貿易をめぐり,日本は 1988 年にアフリカ諸国
から国連総会で名指しで批判されたこともあり,両者の関係は総じて緊密なものとはいえな
かった。
しかし,1989 年の冷戦終結後,日本の「中心化」とアフリカの「周辺化」を背景に,両
者は急速に接近する 2)。TICAD 開催は,その象徴であった。しかし,第 1 回 TICAD が開催
された 1993 年以降も,
図 1 で示すように,
日本のアフリカ向け援助額にほとんど変化はなかっ
た。TICAD 開催以降も,日本によるアフリカへの関与には,少なくとも物質的側面において,
従来と大きな変化が生まれなかったのである。
この関係に変化の兆しが生まれたのは,2003 年であった。図 1 からは,2003 年を契機に,
アフリカ向け援助において無償資金協力が急激に増加する一方,政府間貸付が激減したこと
が看て取れる。これは同年開催された TICAD Ⅲで掲げられた,
「5 年間で 10 億ドルの無償
資金協力」と「30 億ドルの債務放棄」の目標に沿うものである。
その後,2006 年には初めてアフリカ向け援助額が東アジア向けを上回り,全体の約 39%
251
日中両国の対アフリカ政策の比較
無償資金協力
技術協力
政府貸付等
3000
2000
1000
0
20
07
20
05
20
03
20
01
19
99
19
97
19
95
19
93
19
91
19
89
19
87
19
85
19
83
19
81
19
79
19
77
19
75
19
73
19
71
19
69
−1000
−2000
(出所)外務省『政府開発援助(ODA)白書』各号より作成。
図 1 日本の対アフリカ援助額(億円)
に達した。この時期に日本が対アフリカ援助を強化した背景には,国連改革と日本の安全保
障理事会常任理事国入り問題や,従来日本の主たる援助対象であったアジア諸国の経済成長
だけでなく,2000 年代の援助トレンドによる影響も看過できない。
1990 年代の後半から,欧米諸国は援助の主たる関心を「貧困削減」に集中させた。これ
は,1980 年代以降の IMF・世界銀行による構造調整計画が,アフリカの貧困層に大きな負
の影響を及ぼしたことへの国際的な批判に由来する。これを受けて 1996 年の DAC 報告『新
開発戦略』では,教育や医療といった,貧困層が直接アクセスする基礎的社会サービス拡充
が援助の機軸として確認された。さらに,やはり 1996 年には IMF・世界銀行が融資放棄と,
その放棄分を基礎的社会サービスに振り分けることを目的とする「重債務貧困国(Heavily
Indebted Poor Countries: HIPCs)イニシアティブ」の導入を決定した。
「貧困削減」を主軸
とする援助枠組みは,
2000 年国連総会で採択された MDG で一つの完成型をみることとなる。
当初,日本政府はモラルハザードの懸念や返済義務が発展を促すという論理に加えて,他
表 1 日本のサブサハラ・アフリカ向け無償資金協力の内訳(億円)
一般
ノン・ 草の根・ 日本 コミュ 貧困
環境
水産
プロジ プロジ 人間の NGO ニティ 削減戦
プログラム
ェクト ェクト 安全保障 連携 開発支援 略支援
文化
緊急
食糧
援助
貧困
農民
支援
総計
2006年
273.16 85.47 12.92
1.51
38.32
(33.8) (35.2) (12.0) (5.5) (100.0)
4.05
3.76
15.62 77.85 17.84 530.5
(8.9) (18.1) (6.4) (64.5) (36.9) (29.6)
2007年
272.61 104.65 15.8
3.04
60.58
9.68
(40.9) (36.8) (13.3) (16.9) (64.1)(100.0)
7.54
1.02
9.42
126.9
27.9 639.08
(16.4) (5.1) (22.4) (79.5) (48.8) (39.4)
2008年
5.61
42.27
8.7
36.83
20.4
1.03
10.95 189.9
27.4 678.88
242.33 74.51 18.95
(40.2) (27.3) (15.9) (19.4) (61.9)(100.0)(75.2) (43.9) (5.3) (22.7) (72.2) (46.3) (40.1)
2009年
271.06 128.66 16.85
3.88
57.49
3.36
211
11.62
2.67
13.97 140.8 17.98 879.34
(44.3) (39.8) (14.3) (8.9) (67.8)(100.0)(36.9) (25.3) (13.8) (15.4) (71.7) (42.8) (39.0)
(注)カッコ内は当該項目全体に占めるアフリカ向けの比率。
(出所)外務省『政府開発援助(ODA)国別データブック』各号より作成。
252
日中両国の対アフリカ政策の比較
のドナーと比較して有償援助の比率が高かったこともあって,債務放棄とセットになった
「貧困削減」アプローチに消極的な姿勢を崩さなかった。しかし,結果的には,2002 年に新
ODA 大綱が発表され,その重点項目に「人間の安全保障」が,さらに重点課題に「経済成
長を通じた貧困削減」が盛り込まれた。これに合わせて,債務返済分を無償資金協力とし
て提供する枠組みに基づき,日本はアフリカ諸国への無償資金協力を増加させたのである。
2003 年以降の「貧困削減」を援助の中心に据える方針と,アフリカへのシフトはこのよう
な援助トレンドの推移に対する,日本の一つの反応であったといえよう。
2) 日本の対アフリカ援助における「貧困削減」
それでは,「貧困削減」を掲げた日本の対アフリカ援助には,いかなる特徴を見出すこと
が出来るか。以下では,2000 年代に急速にその比率を高めた無償資金協力に焦点を絞って
検討する。
表 1 は,2006 年以降の無償資金協力の内訳を示している。プロジェクト単位で使途を限
定する「一般プロジェクト」は,40%以上がアフリカ向けによって占められているが,より
小額のプロジェクトに対応する「草の根・人間の安全保障無償」や「貧困農民支援」といっ
た項目でもアフリカの比率は高く,特に前者は 100%がアフリカ向けである。すなわち,日
本はアフリカに対して,他の地域以上に,レシピエントの負担が小さく,小規模のプロジェ
クトを中心に援助を行っており,貧困削減の主たる対象地域としてアフリカを捉えていると
いえよう。
しかし,その一方で,2000 年代の日本政府が対アフリカ援助の機軸として掲げる「貧困
削減」に,欧米諸国における援助のメインストリームである「貧困削減」との差異を見出
すことができる。第一に,プロジェクト援助の比重が高いことがあげられる。表 1 で示した
ように,2000 年代の日本のアフリカ向け無償資金協力では,ほぼ一貫して一般プロジェク
トがノン・プロジェクトを上回っている。2000 年代に入り,従来のプロジェクト単位での
援助が重複したり,国内全体の福祉向上に寄与しないといった考え方から,IMF や世銀の
表 2 一般プロジェクト無償資金協力の内訳(億円)
医療・保健
教育
農林水産業 通信・運輸
水・環境
エネルギー
計
2006年
62.63
(34.8)
71.20
(65.3)
2.69
(5.2)
63.50
(27.5)
56.74
(36.6)
16.10
(37.8)
273.16
(33.8)
2007年
59.26
(44.5)
31.94
(53.4)
12.69
(24.7)
87.75
(41.6)
54.67
(40.3)
26.30
(47.3)
272.61
(40.9)
2008年
74.34
(60.4)
21.80
(49.2)
6.86
(27.8)
76.27
(31.9)
48.78
(35.9)
14.28
(100.0)
242.33
(40.1)
2009年
57.55
(42.9)
4.12
(11.9)
–
92.90
(40.3)
90.70
(52.9)
25.79
(100.0)
271.06
(44.3)
(注)カッコ内は当該項目全体に占めるアフリカ向けの比率。
(出所)外務省『政府開発援助(ODA)国別データブック』各号より作成。
253
日中両国の対アフリカ政策の比較
PRSP をはじめ,欧米諸国の多くがセクター・プログラムを重視している。これに対して,
アフリカには PRSP 策定への先進国への関与が,内容に関わらず外部から開発方針が半ば強
制される点において構造調整計画と同様であるという批判がある 3)。従来,日本政府は相手
国の内政への関与に消極的であり,これがセクター・プログラムへの消極姿勢につながって
いるといえよう。これに加えて,従来行ってきた技術協力との連携において,プロジェクト
援助の方が容易であるという事情も考えられる。
第二に,基礎的社会サービスの比重である。先述のように,2000 年代の国際協力におけ
るキーワードとなった「貧困削減」では,貧困層が直接アクセスできる教育や医療への拡充
が援助国に求められるようになった。しかし,表 2 で示したように,日本のアフリカ向け一
般プロジェクト無償資金協力において,医療や教育の援助額が 2000 年代に横ばいか減退し
ているのと対照的に,通信・運輸や水などの分野では援助額の増加傾向が見て取れる。なか
でも通信・運輸分野はそれが顕著である。これは「経済成長を通じた貧困削減」という標語
に表れているように,経済成長を促す経済インフラの整備を所得向上の前提と捉える日本政
府の立場を反映したものといえよう。
これに加えて,
「貧困削減」の理念とは異なる援助提供も看過できない。図 2 と図 3 は,
一人当たりGDP
(ドル:2000年平価)
2005 年および 2009 年の日本の国別対アフリカ無償資金協力の散布図である。ここから,
10000
8000
6000
4000
2000
0
0
20
40
60
80
100
120
無償資金協力提供額(億円)
(出所)外務省『政府開発援助(ODA)国別データブック』より作成。
一人当たりGDP
(ドル:2000年平価)
図 2 日本の対アフリカ援助供与先の散布(2005 年)
10,000
8,000
6,000
4,000
2,000
0
0
20
40
60
80
100
120
無償資金協力提供額(億円)
(出所)外務省『政府開発援助(ODA)国別データブック』より作成。
図 3 日本の対アフリカ援助供与先の散布(2009 年)
254
日中両国の対アフリカ政策の比較
2000 年代後半にかけての時期に日本の援助対象国が分散する傾向と同時に,特定の国に援
助が集中する様相も見て取れる。2009 年の数値では,資源産出国のスーダン(102 億 9,200
万円)とコンゴ民主共和国(100 億 7,200 万円)向けのそれは突出しており,やはり大規模
な資源輸出国であるガボン(25 億 8,500 万円)やボツワナ(11 億 3,000 万円)は,一人当
たり所得が約 4,000 ドルと比較的高いにもかかわらず,日本からの無償資金協力額が急速に
増加している。また,ケニア(71 億 9,400 万円)やエチオピア(71 億 700 万円)といった,
従来から大規模な援助供与先であった国への援助集中も目立つ。すなわち,2000 年代後半
の日本の対アフリカ援助は,
「貧困削減」を掲げながらも,一人当たり所得が低い国が優先
されているわけでない。その一方で,後掲の図 4 で示すように,日本の対アフリカ貿易の増
加はわずかであり,これらの援助が
「資源外交」
の手段として効果をあげているとは言い難い。
以上から,2000 年代の日本は,欧米諸国における「貧困削減」のトレンドと,新 ODA 大
綱で示された「経済成長を通じた貧困削減」の理念,
さらに自国の経済的利益の三者の間で,
対アフリカ援助の方向性を模索する状況にあるといえよう。
3) 中国の対アフリカ関係
中ソ論争以降,冷戦期にやや孤立しがちだった中国にとって,対アフリカ援助は自らの政
治的立場を保障するための手段でもあった。そのため,中国は 1960 年代以来,多くのアフ
リカ諸国への援助を行ってきたが,
それは留学生を招聘して思想教育や軍事訓練を行うなど,
政治的な協力が中心で,経済協力も無償援助が多かった。
しかし,1980 年代の改革・開放以来,中国は経済面でのアフリカ関係強化に転じる。
2000 年開催の中国・アフリカ協力フォーラム(FOCAC)で,債権放棄が確認されたことは,
その狼煙と呼べるものであった。これ以降,中国はアフリカ向け援助を急速に増やしている
とみられる。D. ブラウチガム(Deborah Brautigam)は,2006 年の中国による対アフリカ
二国間援助額が 550 億ドルにのぼり,他方で 1957 年から 2006 年半ばまでの援助累計額がお
よそ 57 億ドルであると試算している 4)。中国自身の透明性の低さのため,この数値を額面
どおりに受け入れることは難しいが,少なくとも 2000 年代における中国の対アフリカ援助
の規模の大きさをうかがうことができよう。
その一方で,新興ドナー(emerging donor)としての中国の対アフリカ援助は,先進国の
それと異なり,一方的な経済的負担ではなく,FOCAC で確認された「ウィン・ウィン」の
原則によって貫かれている点が,大きな特徴としてあげられる。2000 年代における中国の
対アフリカ援助は有償援助が柱となっており,その対象はアンゴラ,赤道ギニア,ジンバブ
エといった従来の友好国だけでなく,ボツワナやコンゴ民主共和国といった大規模な資源産
出国に広がりをみせている 5)。例えば,サブサハラ・アフリカで第 2 位の原油産出量を誇る
アンゴラは,中国が特に関与を強めている国の一つであるが,
両国が 2003 年と 2004 年にパッ
ケージで合意した公共投資プロジェクト向けの 20 億ドルの有償援助には,1.5 パーセントの
255
日中両国の対アフリカ政策の比較
金利がかけられた 6)。
また,中国による援助は道路,橋,ダムといった大規模なインフラ整備に関するプロジェ
クトが中心であるが,その実施において現地との合弁企業を設立する手法が広く確認されて
いる。これにより,中国輸出入銀行(China Export-Import Bank)や中国建設銀行(Chinese
Construction Bank)といった金融機関のみならず,中国水力(Shinohydro)などの国営企
業が事業に参入することとなる。すなわち,中国による対アフリカ援助は,投資や融資と渾
然一体となっており,少なからず中国自身にとっての利益を前提としているのである。これ
は,かつての東アジア諸国向けの日本の援助形態を取り入れたものともいわれ,欧米諸国か
ら批判があるものの,中国政府は自身が開発途上国であることを強調し,相互利益が当然と
の姿勢を堅持している 7)。
4) 援助を通じた貿易の加速
その一方で,中国による対アフリカ援助は,両者の間の貿易額の増加とも無縁でない。ま
ず,中国の対アフリカ貿易について確認すると,2003 年の FOCAC は,中国が対アフリカ
輸入において 440 品目を無関税にすることが打ち出されるなど,双方の経済協力を一層緊密
化させる契機となった。これを反映して,図 4 から看取されるように,2003 年以降,輸出,
輸入のいずれにおいても,中国の対アフリカ貿易は急激に増加した。2009 年段階の中国の
対アフリカ輸出額は 335 億ドルを超えており,これはアメリカ(約 151 億ドル)やフランス
(約 136 億ドル)を凌ぐ規模である 8)。
中国の対アフリカ輸入額が,これとほぼ並行して増加していることは,中国によるアフリ
カとの「ウィン・ウィン」の関係構築を強調する一因となっているが,その貿易の内訳をみ
ると,中国の輸出と輸入におけるパターンを見出すことができる。2009 年段階の中国のア
フリカからの輸入額は約 370 億ドルであったが,
このうちアンゴラ(約 147 億ドル)
,
南ア(約
87 億ドル),スーダン(約 47 億ドル)の 3 カ国で約 76 パーセントを占める 9)。また,同年
日本の輸出額
日本の輸入額
中国の輸出額
中国の輸入額
50,000
40,000
30,000
20,000
10,000
0
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
(出所)IMF, Direction of Trade Statistics Yearbook より作成。
図 4 日中の対アフリカ貿易額(100 万ドル)
256
日中両国の対アフリカ政策の比較
の中国の対アフリカ輸入品目の 81.4 パーセントは化石燃料など地下資源であった 10)。すな
わち,中国のアフリカからの輸入は,概ね資源に特化しているのである。アンゴラやスーダ
ンといった大規模な資源輸出国への援助が,これらとの良好な二国間関係を保つ大きな手段
になっているといえよう。
これに対して,2009 年の中国側の輸出を確認すると,輸出品目の約 95 パーセントは各種
工業製品であった 11)。輸出額の約 75 パーセントは南ア,ナイジェリア,アンゴラ,ベニン
など 9 カ国で構成され,輸入と比較して相手国の分散傾向が顕著である 12)。その全てが純
粋な商業取り引きではなく,中国輸出入銀行の融資によるプロジェクトの場合,事業に必要
な資材のうち,少なくとも 50 パーセントは中国から輸入することになっている 13)。これも
やはり,中国による対アフリカ輸出の増加に結びついている。したがって,中国による援助
は,アフリカとの貿易額を増加させる梃子の役割を果たしているといえよう。
5) 中国の対アフリカ援助への批判
以上にみてきた,投資,融資,貿易による経済的利益だけでなく,2000 年代の中国によ
る対アフリカ援助は,国内向けの公共事業という側面も併せもつ。1990 年代以来,爆発的
な経済成長を続けてきた中国でも,失業問題は深刻化しつつある。アフリカに進出する中国
系企業は,大部分の労働力を中国から連れてくることで知られる 14)。援助に関しても同様で,
一例をあげれば,2007 年に中国は 6 億 2200 万ドル規模のブイ・ダム(Bui Dam)建設に関
してガーナ政府と合意したが,このプロジェクトを受注した中国水力は約 600 名の中国人労
働者を現場に投入している 15)。このように,中国の対アフリカ・アプローチは,
「ウィン・ウィ
ン」の原則のもと,自国にとっての経済的利益のみならず,失業対策の効果をも内包してい
るといえよう。
しかし,自国の利益を隠さずに対アフリカ援助を展開する中国の手法には,欧米諸国のみ
ならず,アフリカ内部からの批判もある。一例をあげると,ガーナでは 2008 年に海底油田
が発見され,それを契機に中国による大規模な援助,投資,融資が相次いでおり,そのなか
で 2011 年にガーナ国営石油公社(Ghana National Petroleum Company: GNPC)が中国輸出
入銀行と 18 億ドルの融資契約を結んだ。将来の原油収入による返済を念頭に置いたこの融
資契約は,原油収入の使途は政府によって決定されるというガーナの国内法に反するもので
あり,さらに油田の地図などに関する知的所有権を GNPC が放棄する内容も含まれていた。
そのため,GNPC だけでなく,監督責任のある政府,さらに中国も野党からの批判を受ける
こととなった 16)。
大規模な資源産出国が,豊富な資源収入があるが故に,財政規律の弛緩だけでなく,汚職
の蔓延,他分野の産業育成の遅滞,さらに資金の過剰流入によるインフレなどの弊害を招く
様相は「資源の呪い」と呼ばれる。ガーナの事例のように,いわばなりふり構わず進出を図
る中国の手法が,アフリカ諸国における「資源の呪い」に拍車をかけている側面は隠せず,
日中両国の対アフリカ政策の比較
257
欧米諸国のみならずアフリカ内部での中国批判を招く一因となっているのである。
6) 日中の差異と共通性,そしてその意味
日本と中国の対アフリカ・アプローチには,多くの差異を見出すことができる。なかでも,
援助と他の領域の連関の多寡は,双方のアプローチにおける大きな差異を示している。日本
は 2000 年代のアフリカにおいて,特定の資源産出国を中心に,無償資金協力や小規模プロ
ジェクトを増加させているが,貿易量はほとんど増えていない。これは,少なくとも結果的
には,援助が商業取り引きからほぼ独立した領域としてあることを示す。
これに対して,中国は援助を梃子に貿易や投資を増加させている。中国政府も自ら「ウィ
ン・ウィン」を強調し,アフリカへの関与から利益をあげることを否定していない。すなわ
ち,援助の目的が曖昧な日本と対照的に,中国の対アフリカ援助は極めて明確に自国の経済
的利益とリンクさせたものであり,この点において日中両国には大きな差異がある。
しかし,両者の援助には,共通項も確認される。なかでも,IMF・世銀や欧米諸国の援助
トレンドとなった「貧困削減」アプローチに対する消極性は,その濃淡はあるにせよ,両者
の最大の共通項といえよう。日中両国ともに,セクター・プログラムなど援助対象国の政策
レベルへの関与には消極的である。また,経済インフラの整備をはじめとする,プロジェク
ト単位の援助が中心である点も共通する。
両者に共通するこのような援助スタイルは,特有の問題を孕んでいる。アフリカ諸国の政
策決定に対するアプローチが希薄であることは,場合によっては権威主義的な政権の延命に
寄与することにもなり得る。また,基礎的社会サービスと異なり,経済インフラの整備が貧
困層の生活改善を直接的に促すとは限らない。ガバナンス改善を含めて,アフリカ諸国政府
への働きかけが弱いことに,日中両国の援助における課題を見出すことができる。
翻ってその一方で,欧米諸国で一般的な「貧困削減」アプローチもまた,万能ではない。
セクター・プログラムを前提とする PRSP が,1980 年代の構造調整と同様に,援助対象国
の意思を超えて開発方針を半ば強要される構図であることは既に述べた通りである。さらに
また,個人が経済的に自立できる前提条件を整える基礎的社会サービスが充実しても,それ
が雇用機会や生産性の向上といった経済的便益と結びつかなければ,返って社会的不満を増
幅させる危険性すら孕んでいる。
援助のキーワードとして,
「オーナーシップ」がいわれるようになって久しい。アフリカ
諸国は独立以来,輸入代替工業化,市場経済化,貧困削減と,外部の開発トレンドをほぼそ
のまま受容することに終始してきたと言っても過言ではない。それはアフリカが置かれた国
際的な立場の脆弱さとともに,まさにオーナーシップの欠如によるところも否定しがたい。
アフリカが自身で将来を選択するためには,複数ある選択肢を選び取れることが必要であろ
う。その意味で,日中が先にあげた課題を修正し,アフリカ諸国から内政干渉の批判を招か
ない方式を模索するなかで,欧米諸国のトレンドとなった「貧困削減」アプローチと異なる
258
選択肢を提示することは,
アフリカ自身のオーナーシップを発揮する一助になるといえよう。
注
1) Pierre Abramovici (2004) “United States: the New Scramble for Africa,” Review of African Political
Economy, pp.685-690.
2) 青木一能(1996)
「冷戦終結以後の日本のアフリカ政策―中心化と周辺化のなかで―」
,林 晃
史編『冷戦後の国際社会とアフリカ』,アジア経済研究所,27-64 頁。
3) 例えば,以下を参照。Bartholomew Armah (2008) “From SAPs to PRSPs: A Tale of Two Paradigms
or Simply a Tale?” in Joe Amoako-Tuffour and Bartholomew Armah eds., Poverty Reduction
Strategies in Action: Perspectives and Lessons from Ghana, Lanham: Lexington Books, pp.73-91.
4) Deborah Brautigam (2008) “China’s foreign aid in Africa: What do we know?” in Robert I. Rotberg,
ed., China into Africa: Trade, Aid, and Influence, Brookings Institution Press/World Peace Foundation, pp.197-216.
5) Paul Hubbard, “Chinese Concessional Loans,” in Rotberg, ed., ibid. pp.217-229.
6) May Tan-Mullins, Giles Mohan and Marcus Power (2010) “Redefining Aid’ in the China-Africa
Context,” Development and Change, 41(5), pp.851-881.
7) Ibid., pp.861-862.
8) UN (2010) International Merchandise Trade Statistics 2010, Table D.
9) IMF (2010) Direction of Trade Statistics Yearbook 2010, pp.155-156.
10) WTO (2010) International Trade Statistics 2010, p.216.
11) Ibid.
12) IMF, op.cit.
13) Tan-Mullins, op.cit., p.869.
14) Joseph Y. S. Cheng and Huangao Shi (2009) “China’s African Policy in the Post-Cold War Era,”
Journal of Contemporary Asia, 39(1), 2009, pp.87-115.
15) Tan-Mullins, op.cit., p.873.
16) Africa Research Bulletin: Economic, Financial and Technical Series, 48(3), March-April 2011,
p.19056.
3. 中国の対アフリカ関係の拡大と内政不干渉原則
1) 中国の関係強化の手法
改革開放政策を実行して以来,中国の外交は経済発展を主な基本としており,国内経済の
発展を図るための全方位外交,特に先進国との関係を強化した。この時期の中国は,他国の
内政に介入することを好まず,
外交とイデオロギーの分離を図っていた。中国のこの外交は,
世界革命のために一切のコストを惜しまず,盟友に援助を惜しまずとする過去の手法と打っ
て変わっており,対外政策を調整しつつ経済援助を減少することになった。
日中両国の対アフリカ政策の比較
259
そのなかでアフリカ諸国を含む一部諸国とは疎遠となった。しかし,90 年代には,台湾
による「弾性外交」や「札束外交」が展開され,中国と国交を結ぶ一部の国が対中国交を断
絶し,台湾との国交を樹立するに至った。それにより中国が強く主張する「一つの中国」原
則は未曽有の危機に直面した。
そのため中国はアフリカ諸国との関係を強化し始め,とりわけ日本で TICAD が開催され
た後,2000 年に中国は定期的に行う「中国アフリカ協力フォーラム」
(FOCAC)を北京で
開催し,アフリカとの全面的な関係を強化し始めた。
そうした政治的背景とともに,グローバル化の進展は世界の経済的結合を生じさせ,その
流れのなかで中国は新たな資源供給地と製品市場を求めざるを得なかった。その格好の対象
がアフリカであり,先のフォーラムを中心に積極的な関係強化の姿勢をとってきた。
しかし,そのアフリカは冷戦後に政治的経済的安定化を図りつつあるものの,いまだ状況
は流動的であり,国によっては激しい内戦状態や政治腐敗に陥っている場合もある。なかで
も,ジェノサイドなどの深刻な人道上の危機は,国際社会をして人道面での向上や人権擁護
といった観点からの関心をアフリカに向けさせることとなった。
このような状況の下で,中国はかねてからの平和原則の主柱の一つである「内政不干渉」
原則を堅持して,アフリカの内政に拘泥されることなくその地歩を固めていくことになった。
こうした中国の姿勢は,国際社会とくに欧米諸国から強い批判に晒され,その利己的な行動
を「新植民地主義」として非難されたのである。しかし,欧米諸国の批判にもかかわらず,
中国の「内政不干渉」原則は複雑な内政問題を抱えるアフリカ諸国にとっては,人権や人道
上の配慮といった「うるさい」要求を唱える欧米諸国より,むしろ「好ましい」ものとさえ
映った。それはなによりも,中国の進出をアフリカ側が積極的に受け入れていることに反映
されている。
しかし,中国がこのような原則を堅持することは,アフリカ諸国内の諸問題を無視するこ
とである。なかでも,中国が欧米諸国から批判を受ける象徴的な事例としてスーダンのダル
フール危機がある。
2) ダルフール危機と内政不干渉原則
中国のアフリカのおける影響力が大きくなるにつれ,これに対する国際社会からの批判も
多くなっている。これに関してはさまざまな原因がある。最近の中国は,アフリカにおいて
は急速に台頭する新勢力であり,経済分野において,アフリカ各国と非常に密接な関係にあ
り,これはアフリカにおける他国の権益にとって当然影響があり,脅威である。まさに青木
一能がその著書の中で指摘しているように,
「中国の存在の急激な高まりは,長くアフリカ
に権益を保持してきた欧米諸国に不安を抱かせ,同盟国で従順な日本の行動はともかくも,
1)
権益を奪取しかねない中国に対して一斉に批判的姿勢を強めた」
のである。また,人権問
題などを問わない中国のアフリカ政策は欧米諸国に批判されている。たとえば,
「国連はスー
260
日中両国の対アフリカ政策の比較
ダンの人権問題から派生する内乱状態を理由に,制裁まで議論する現状にもかかわらず,中
国は強引に関係強化を図っています。さらに,中国のアフリカ援助では,衛生対策や貧困撲
滅対策は度外視されており,アフリカの一般市民にとって利益を及ぼす可能性は少なくない
ともいえます。現地に進出した中国系企業が成功し,大量の中国製品が市場を席巻すること
2)
で地場産業が倒産し,大量の失業者が出るケースも少なくありません」
。
そのため,2011 年 9 月に就任したザンビア大統領サタは選挙のとき,強く中国を非難し,
非合法な中国企業をザンビアから追い出すと公約した。
南アフリカの前大統領のムベキも
「中
3)
国の行動はアフリカを新たな植民地にする危険性すらある」
と警告を発した。アフリカ諸
国の一部を含んだ国際社会における中国のイメージは楽観できるものでないことが分かる。
特にスーダンのように重大な人道上の危機が起こっている国において,中国が一方では「内
政不干渉」を理由に,深刻な民族衝突問題を放置し,一方では「なりふり構わぬ」手段で資
源獲得に走ることは明らかに不適切である。この点から見ると,欧米諸国にいかなる意図が
あるにせよ,その批判に中国は弁明できないであろう。
3) ダルフール危機と中国政府の態度
ダルフール問題は遊牧業を営むアラブ人と農業に従事する非アラブ人が土地を巡り対立
し,それによって起こった深刻な人道上の危機である。外国で発生したいわゆる内部の問題
に対して,中国はできるだけ関与を避け,
中立を保つのである。
ダルフール危機が発生した後,
中国政府は「内政不干渉」を大義名分に,不関与という立場をとった。しかしながら,中国
は当該地域で石油採掘権を取得し,スーダン政府との関係も緊密であった。ルワンダのジェ
ノサイドとコソボ紛争等の悲劇が記憶に新しい国際社会は,金儲けのみを考え,当地の人権
問題を顧みない中国の「内政不干渉」の姿勢を非難した。
ダルフール危機が起こった後,中国政府の立場は以下の四つにまとめることができる。①
この内乱はスーダンの内政であるため,干渉すべきではない,②スーダンへの制裁ではなく,
政治解決を図るべき,③当該危機はジェノサイドではない,④危機発生の原因は当該地域の
経済開発の遅れにある。
中国は,制裁はダルフール危機の解決に何ら資するものではないと考え,国連がスーダン
政府を制裁することや圧力を加えることに反対し続けた。国連安全保障理事会においてダル
フール問題についての 1556 号と 1564 号決議に対して,中国は棄権票を投じた。その原因は
決議が制裁を含んでいたからである。スーダン政府が同意したうえで,ダルフール地域に国
連平和維持部隊を派遣すると国連安全保障理事会が決定した 1706 号決議に対しても,中国
は時期の不適さを理由に棄権票を投じた。中国は拒否権を行使してはいないにも関わらず,
その態度は国際社会に非難され,さらにはスーダン国内の反対勢力にも厳しく批判された。
それ故,2007 年 10 月 27 日にリビアのスルトの和平会議で,ダルフール地域の反政府勢力
の一つである「正義と平等運動」の交渉代表はアフリカ連合,国連,EU,アメリカ,カナダ,
日中両国の対アフリカ政策の比較
261
イギリス,ノルウェーなどの国際機関と国々の特使に感謝を表明したが,中国はその対象に
挙げられなかった 4)。中国は自身では努力したと考えていたが,ダルフールの反政府勢力に
は認められなかったことが分かる。
実際に,国連安全保障理事会においての中国の棄権はスーダン政府を怒らせたくない反面,
欧米諸国との関係悪化も恐れていたということである。なぜならば,中国にとって欧米は中
国製品の重要な市場であり,スーダンは石油の重要な提供者であるからである。そのため,
両方の機嫌を損ねることを避けたいのは中国の本音であったといえよう。
ではダルフール危機の性質とは一体どういうものであろうか。国連事務総長アナンに任命
された 5 名からなるダルフールに関する国際調査委員会が 2005 年 1 月 25 日に提出した報告
中に,ダルフールにおいて,ジェノサイドに類似した行為があると考えるが,スーダン政府
が実施している行動に意図があるとは見当たらないとある。しかしながら,ダルフール地域
に発生した問題は,ジェノサイドではなくとも,確実に人道主義の危機である 5)。
この危機に対して,中国はジェノサイドではないと強く主張し,同危機の最大の原因は発
展の遅れにあると強調した。これによって,多くの人々に中国政府がこの危機を解決するた
めの姿勢について疑いを持たせることになった。当然,ダルフール危機の責任はスーダン政
府にあるが,このような状況の下,スーダン政府と密接な関係を図った中国政府の姿勢に国
際社会からの厳しい目を向けたことは当然であったといえる。
なぜ,このような厳しい状況の中で,中国は一貫にして「内政不干渉」を盾にスーダン政
府への制裁をかたく拒み続けてきたのか。それは,スーダンにおける中国の権益との関係が
あるからである。つまり,もし国際社会がスーダンに対して制裁をするならば,スーダンに
おける中国の経済権益,特に中国石油公司のスーダンでの活動に影響を与えるのは必至であ
る。これは,中国政府が懸念するところである。
当然,中国のこの態度は国際社会やスーダンの反政府勢力の理解を得ることは難しい。そ
れ故,「スーダン政府との特殊な関係を持ち,スーダン政府に無条件の支持をし,……当該
地域に蔓延する暴力活動を止めさせることを目的とした国連決議を阻害する中国を非難する
声はスーダン国内にも,国際的にもある」6)。
ダルフール危機の根源は発展の遅れによるものであると強調した以上,中国には制裁を実
施することはできず,さらにスーダンの経済発展を援助する必要がある。しかしながら,国
際社会のダルフール危機に対する見方と中国の姿勢は異なり,とりわけ,アメリカを代表
とする欧米諸国は制裁を通じてスーダン政府に圧力をかけることを主張した。2007 年 6 月,
アメリカ大統領ブッシュは「もし国連がこの問題に対して有効な行動を取らない場合,アメ
リカは独自の行動を取る」7)と明言した。
しかし,その主張とは裏腹に,事実上,ダルフール危機において,中国は「内政不干渉」
の原則に従っていなかったようである。
「中国政府はスーダン政府に大量の資金,物資の援
助を提供し,スーダン政府が反政府武装勢力に対抗する援助をした。まさに中国政府が弛ま
262
日中両国の対アフリカ政策の比較
ず援助を行ったおかげで,スーダン政府は長期にわたり国際社会の圧力に対して反発するこ
とができた」8)という指摘がある。それが事実だとすれば,
中国が最初からこの危機に介入し,
スーダン政府に肩入れしていたといえる。さらに,中国政府は多くの問題において,スーダ
ン政府の見解に同調し,その政策を弁護し,さらにはそのスピーカーにさえなった。
例えば,ダルフール紛争での死亡人数について,中国政府はスーダン政府の公式発表に依
拠していたことがその例である。このために,
「大部分のウォッチャー及びスーダンの西部,
北部のほとんどの反対勢力には,2003 年にスーダン西部で武装蜂起が始まって以来,中国
はずっとスーダン政府の立場を守り,スーダン政府のダルフールに関する見解を受け入れて
9)
いたように見える」
。さらには,中国はずっと国連安保理のスーダン政府に圧力をかける
関連決議を妨害した 10)。
のみならず,スーダン政府は中国から輸入した武器を使用しダルフールの反政府勢力を攻
撃している。これも国際社会が注目したことであり,中国はこのことに関しても国際社会か
らさらに非難を受けた。 中国はスーダン政府に多くの支持を与えたが,スーダン政府は国連安全保障理事会で中国
が棄権票を投じたことに不満をもち,つまり,中国は曖昧な外交を行っているとスーダン政
府は見ている。そのため,スーダン政府はスーダンにある中国石油公司の活動を厳しく制限
することを通じて,中国政府に圧力をかけた 11)。
また,2004 年 3 月 14 日,中国政府の姿勢に不満をもったスーダン解放運動 (SLMA) が 2
人の中国人労働者を誘拐したが,それは反政府側からも中国が敵視されていることを示して
いる。このように中国はスーダンの諸政治勢力から圧力を受ける一方,国際社会からも巨大
な圧力を受けることになった。
そうした圧力の下,2004 年下半期から中国は自身の政策を調整し始め,特使や外交官を
スーダンに派遣し,ハルツーム政府を説得し,さらには「スーダン政府がダルフール地域の
人道主義の状況を改善し,殺戮を止め,危機を解決するために努力し,急進的或いは暴言を
12)
発するなどの方法で国際社会と対抗するのを避けるよう促した」
。また,中国はスーダン
政府の同意があれば,アフリカ連合部隊に代わり国際平和維持部隊がダルフールに進駐する
ことを支持すると主張した。同時に,中国はスーダン政府に難民キャンプの状況を改善し,
アナンの三段階計画を受け入れるように説得した。
このように,中国はダルフール問題について,ある程度打開のための行動をしたが,欧米
諸国はいまだ中国が十分な役割を果たしていないとみている。なぜならば,
「①国連の安全
保障理事会において,この危機について討論した際,中国は制裁に反対した,②中国はスー
13)
ダン現政府と協力関係にあり,スーダンに対する圧力が十分ではない」
からである。
それ故,国際社会は中国に対する非難を緩めなかった,さらに,2006 年末から,国際社
会はダルフール危機をオリンピックに結びつけ,中国に一層の圧力をかけた。
2007 年 3 月 28 日,アメリカのハリウッド女優であるミア・ファローは『ウォールストリー
日中両国の対アフリカ政策の比較
263
ドジャーナル』に寄稿し,ダルフール問題で中国を非難し,北京オリンピックと結びつけて
中国に圧力をかけることを呼びかけた。文中,彼女は特にスピルバーグを非難し,もし彼が
北京オリンピックの開幕式・閉幕式の芸術顧問に就任するならば,彼は中国がオリンピック
を利用して自己のイメージを美化しようとするのを手助けすることになるとした 14)。その
批判を受け,4 月,スピルバーグは,胡錦濤国家主席にダルフール紛争を収拾させるため,スー
ダン政府に圧力をかけるよう書簡を送った。
5 月初め,下院外交委員会委員長ラントス及びその他アメリカの議員 106 名が連名で国家
主席胡錦濤に書簡を送り,中国が即時に行動を起こし,ダルフールの流血をともなった衝突
を止めることを求めた。書簡に,
「もしダルフールの状況に改善が見られない場合,この問
題に関心を持つ各団体と個人が中国とダルフール地域の暴行を結びつけることは避けられな
いであろう。もし,これによって抗議運動が起こった場合,2008 年の北京オリンピックに
15)
も影響を与えるであろう。これは中国にとって一つの災難である」
と警告した。6 月 5 日,
アメリカ下院で中国とスーダンの経済協力関係を非難する決議が採択されたが,これはダル
フール問題と北京オリンピックを結びつけたものである。オリンピックを開催することは中
国人の夢であったことはアメリカなどの国々は知っており,それ故,このスポーツの祭典を
盾にして,中国に圧力を加えたのである。
これと同様の事例には,ソ連によるアフガニスタン侵攻の際に,西側諸国と中国は共同
で 1980 年のモスクワ・オリンピックをボイコットしたことがあげられる。こうした圧力が
中国政府に政策を変更させる決定的な要因になったとは断じきれないが,国際社会でオリン
ピックをボイコットする声が聞こえ始めると,中国政府の態度に大きな変化が生じたことは
紛れもない事実である。
2007 年 2 月,胡錦濤はスーダンを訪問し,ダルフール問題解決に関する四原則を打ち出
した 16)。それらは「①スーダンの主権と領土保全を尊重する,②対話と平和的協議などを
継続し,問題を平和的に解決する,③アフリカ連合,国連はダルフールの平和維持問題に建
設的な役割を担う,④地区の情勢の安定を促し,人々の生活環境を改善する」17)であった。5
月 10 日,中国は元・南アフリカ大使劉貴今をアフリカ事務特別代表に任命し,主にダルフー
ル問題の処理に当たらせた。
中国がダルフール問題についての対応を準備したと考えられる。
その一方で,
「内政不干渉」に基づく中国のダルフール問題への消極性は,その後も目立っ
た。中国政府の劉貴今アフリカ事務特使は 2007 年 6 月 21 日に新華社の記者の取材を受けた
際,胡錦濤国家主席の四原則を基礎として,ダルフール問題解決の三原則を打ち出した。す
なわち,①ダルフール問題の政治的解決を堅持する。現在,ダルフール問題は前向きの兆し
が表れている中,制裁や圧力では問題は決して解決できるものではないばかりか,かえって
問題を複雑にし,スーダン政府に間違ったシグナルを送ることになる。②有効であると証明
された三者協議の体制,即ち国連,アフリカ連合,スーダン政府の間の協議体制を支持する。
三者協議の枠組みの下で,スーダン問題におけるアフリカ連合の指導的役割とアラブ連盟の
264
日中両国の対アフリカ政策の比較
独自の役割が発揮される。国際社会やその他の提案や助言は三者協議という主要なルートと
一致させるべきである。③ダルフール問題を解決すると同時に,スーダンの主権と領土保全
を尊重し,同時にその他の政治勢力への配慮する必要がある。国際社会はスーダン政府が示
した積極的な態度を支持すべきであり,スーダン政府の合意がなければ,ダルフール問題を
18)
適切に処理するのは難しいこととなる」
。
しかし,同時に劉特使はダルフール問題の解決には 3 つの事項を重視するべきだと表明し
た。「彼は,現在ダルフール問題の解決に 3 つの重要な事項があり,国際社会は共同で努力
し推進させなければならない。①アナンの三段階案を取り急ぎ実行する。②政治の進行過程
を推進し,ダルフール地域の平和協定にサインしていない政治党派を交渉の席に座らせる。
③国際社会はダルフール地域の人道と安全状況を速やかに改善するためにより多くの支援を
提供すべきである。
」19)これは中国政府が斡旋をはじめただけではなく,具体的な方法を打ち
出したことを物語っている。
中国の態度が明確になりはじめた後,2007 年 7 月 31 日,国連安保理でダルフールの危機
に関する決議 1769 (UNSCR1769) が全会一致で採択された。当決議は,ダルフール危機を打
開するために,既存の 7,000 人規模のアフリカ連合ダルフール派遣団
(AMIS)
に代わって,
スー
ダン平和活動のため,26,000 人規模の国際連合・アフリカ連合ダルフール派遣団(UNAMID)
の設置を決定したものである。
同決議の内容は中国政府の立場を反映している。中国の賛成について,アメリカのブルッ
キングス研究所の中国センター長ベイダー(Jeff Bader)は肯定的に評価したうえで,
「同時
に国際社会はスーダン政府への圧力を継続していかなければならない。
国際社会,
とくにスー
ダン政府と関係の密接な国の政府は言行一致を遵守しなければならない。なかでも中国の役
割は重要である」20)と改めて中国に注意を喚起した。
一方,中国は平和維持活動のためにスーダンに 2007 年 5 月に 300 名の工兵隊の派遣を決
定した。ダルフール危機を速やか解決するための中国の態度の変化は,当然肯定的な役割を
果たしたものとして評価されるべきである。ただし,この決定が国際的な非難を集めた後に
行われたことにみられるように,ダルフール危機における中国の態度変化は,あくまでも,
国際社会から圧力を受けた結果であると考えられる。
4) 中国外交の課題
中国の「内政不干渉」原則はアフリカ諸国政府において魅力的であり,特に「政治条件を
つけない」という援助方式はアフリカなど発展途上国には人気がある。しかし国際的な大国
として,自身と関係が緊密な国の内部で人道上の危機が発生した時,
「内政不干渉」を理由
として,袖手傍観するべきではない。適時に介入し,極力危機の解決に努め,大国としての
責任を担うべきである。ダルフール危機においても,
中国は当初よりそうするべきであった。
当初は「内政不干渉」でダルフール危機に対応したが,後になって国際社会からの各種圧
日中両国の対アフリカ政策の比較
265
力の下,従来の立場を変更していった。これによって国際社会の非難を和らげることはでき
たが,当事国国民の信頼は損なうことになった。
また,「内政不干渉」原則はしばしば国際社会の批判に対して中国が反論する道具であり,
自己防衛性格が強いといえる。今後,中国が国際社会において大国の役割を果たそうとする
ならば,中国自らに存在する人権問題などを改善する努力をしなければならない。同時に
「ダ
ルフール危機を通して,アフリカにおける外交戦略と経営理念を検討し,さらに理性的で,
21)
責任のある政策を用いて,
中国の国際的イメージと経済権益を保護するべきである」
。また,
「保護する責任」という理念が重要視されている今日において,中国の「内政不干渉」原則
も人権擁護と係わっていく必要がある。それこそが将来的に見て中国外交の重要な課題であ
ることは間違いないように思われる。
注
1) 青木一能 『これがアフリカの全貌だ』かんき出版,2011 年 10 月,p.58。
2) 青木一能,上掲書,p.67。
3) 青木一能,上掲書,p.68。
4) Gaafar Karar AHMED「試析中国在蘇丹西部達爾富爾地区冲突的立場」
『国际展望』2009 年第 2
期,p.112 参照。
5) “Report of the International Commission of Inquiry on Darfur to the United Nations Secretary-General”
参照 http://www.un.org/News/dh/sudan/com_inq_darfur.pdf
6) Gaafar Karar AHMED,前掲書,p.105。
7) 「布什称美国可能在達爾富爾問題上採取単独行
http://news.xinhuanet.com/world/2007-06/07/content_6212988.htm
8) 馮淑娟「達爾富尔危機背後:大国博
」
『財経文摘』2008 年第 1 期,p.79。
9) Gaafar Karar AHMED,前掲書,p.106。
10) Gaafar Karar AHMED,前掲書,p.106。
11) 馮淑娟 前掲書,p.79。
12) Gaafar Karar AHMED,前掲書,p.107。
『西亜非洲』2007 年第 11 期 p.9 - 10 。
13) 賀文萍「達爾富爾問題梓中国的作用」
14) 劉俊「掲開反奥運組織的真相」
『中国経済網』
http://www.ce.cn/newSports/2008/dt/200802/ 19/t20080219_14564760_2.shtml
15) “ 百名美議員呼吁中国出面阻止蘇丹流血冲突 ”『網易新聞中心』
http://news.163.com/07/0512/ 00/3E8KFFPQ000112M.html
16) 余建華 王震「中国在解決蘇丹達爾富爾問題上的外交努力」
『環球視野』
http://www.globalview.cn /ReadNews.asp?NewsID=15389
17)「胡錦濤同蘇丹総統巴希爾会談」
『新華網』
http://news.xinhuanet.com/world/2007-02/02/content _5688877.htm
18)「劉貴今:解决蘇丹達爾富爾応注重三領域三原則」
『新華網』
http://news.xinhuanet.com/world/2007-06/22/content_6276882.htm
266
日中両国の対アフリカ政策の比較
19) 上掲書 18)
。
20) 王雅平「中国和達爾富爾問題」
『中国透視』
http://chinese.carnegieendowment.org/chinaNet/?fa=44075
21) 馮淑娟,前掲書,p.80。
追記
本稿は平成 22 年度人文研究所共同研究費の成果報告の一部にあたる。この報告では,本文の 1. に
あたる部分を青木が担当し,以下 2. は六辻,3. は日吉が各々執筆している。他のメンバーは各自研
究成果をまとめており,近い将来に全体の成果報告をまとめる予定になっている。