節分とバレンタインデー

2 月の歳時記
節
分
節分は、各季節(春夏秋冬)の始まりの日(立
春・立夏・立秋・立冬)の前日のことです。
文字通り季節の分かれ目のことですから1年に
4回あります。
このうち、立春が1年の初めと考えられること
から春の節分が最も重視され、一般には単に
「節分」と言えば、春の節分を指します。
そうすると「立春(春分)=新年」となります
ので、昔の節分は大晦日でした。
大晦日の夜、悪鬼を祓い、厄災を除いて、新年
を迎える宮中の年中行事。
これが現代の節分のルーツです。
節分のルーツは中国から渡来した「追儺の儀式」
「儺」・・・疫鬼を追い払う行事。追儺(ついな)。鬼遣らい。
「儺豆」・・・節分の夜、悪鬼を追い払うのにまく豆
「追儺」・・・「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」「厄払い」
「厄おとし」「厄神送り」と呼ばれます。
中国では大晦日に追儺(ついな)の儀式を行いました。
古代中国の文献「周礼」によりますと、追儺(ついな)の儀式に登熊の
皮をかぶり、四つ目の黄金の目の面をつけ、黒衣に朱の裳をつけた方相
氏(ほうそうし)という呪師が登場し、手に矛と盾をもって疫鬼を追い
出したそうです。
追儺の儀式は日本に渡来して宮廷の年中行事になりました。
最近、北九州市南小倉区の城野遺跡で、九州最大級の方形周溝墓が発見され、周りに溝を
巡らせた墓にあった子供用の石棺内側に描かれていた「右手に武器、左手に盾のようなも
のを持った人物像」が、その特徴から「方相氏」ではないかと指摘されました。
胴体には格子模様、顔には複数の目のようなものが描かれたそれは、棺の内側、顔に当た
るところに描かれており、「墓の中で邪霊をはらうもの」ではないかと言われています。
そうなりますと「方相氏」は弥生時代に日本に渡来してきたことになります。
文武天皇の世、慶雲3年(706)に疫病がはやり多くの百姓が死んだため、「土牛」を作
って疫気を祓ったという記事が続日本書紀に出ています。
これが日本での追儺の行事の始まりであるとされています。
この土牛を使う儀式は中国の礼記に「土牛を作りて寒気を送る」とあることを参考に
したものと思われ、これを陰陽師たちがやり方を整え、やがて平安時代の頃には一つ
の型ができあがりました。
平安の追儺の儀式
①大寒(12月節)の日に宮中の十二の門に十二組の「土牛童子」を立てます。
(土牛童子は童子が牛を引く形の人形です。)
東の陽明門・待賢門には青い土牛童子、
南の美福門・朱雀門には赤い土牛童子、
西の談天門・藻壁門には白い土牛童子、
北の安嘉門・偉鑒門には黒い土牛童子、
②そして残りの、東の郁芳門・南の皇嘉門・西の殷富門・北の達智
門には黄色い土牛童子を立てました。
③そしてこれを立春(1月節)の日の前夜(節分)半時に撤去しました。
土牛童子が置かれない東側最北の「上東門」と西側最北の「上西門」は、当初は物資の運搬
などに使う通用門として他の門よりも後に作られたものらしく、「宮城十二門」のうちに数
えない掖門です。
「宮城十二門」が瓦葺きで、門号を示す額が架けられているのに対し、築地を切り拓いただ
けの、屋根も額もない単なる土門で、「土御門〔つちみかど〕」とも呼んでいます。
上東門は、この門を出て東に続くのが「土御門(上東門)大路」で、有力貴族の邸はこの道
沿いに多くあったため、宮城の入退出に際しては、多くの公卿がこの門を利用しています。
掖門・・宮殿・神社・寺院などの主要な門のわきにある小さな門。旁門(ぼうもん。脇門。
平安時代の宮中の追儺の儀式は大晦日戌の刻(午後八時頃)か
ら始められました。
追儺が行われている間は、禁中の所々に燈火を灯しま
す。
皇は紫宸殿に出御されます。
まず所司が承明門を開き公卿が参入します。
そして黄 金 四つ目 の怖い仮 面を被 り玄衣朱裳をまと
い、右手に桙(ほこ)、左手に楯を持った方相氏が※子
(わらわべ)二十人(後には八人)を率いて反閇(へん
ばい)で南庭に参入します。
王卿は侍従 、大 舎 人を率いおのおの桃の弓 、蘆の矢
を持って方相氏の後ろに列します。
反閇・・・陰陽道で使われる特殊な歩行方法。神事で「場を清める」意味で使われることが
多くルーツは道教にあるといわれています。
もともと中国では禹歩という特殊な歩行方法があり、夏王朝を打建てた禹が治水
事業に奔走したため足が不自由になり、その不自由な歩行の仕方がもとであると
の言い伝えがありました。
(現代ではこの反閇そのものを目にすることはほとんどありませんが、意義的に近
いものは神社でみることができます。拝殿内奥の神前の階段を昇降する神主さん
が一歩一歩丁寧に足を運びます。その歩行法です。)
陰陽師は齋郎(さいのお、祭の時、雑務を取る人のこと)を率いて月華門より入り祭文
を読みます。
土牛童子と陰陽道
陰陽道においては「土牛」=「 十二支の丑」=「五行では土」となります。
「12月」=「十二支の丑の月」=「陰陽でいうと陰」です。
また「鬼」=「おに」=「おん」=「陰」です。
「童子」=「易でいうと艮(山)という卦」=「方角としては東北(丑寅の方位)」
「丑月」は12月、
「寅月」は1月=「12月から1月への時間の遷り替わり」です。
「丑寅の方位」=「鬼門(鬼の出入りする方角)」
「土牛童子」は、時間軸では 12 月から1月の推移を、空間的には悪鬼・邪気の来る東北
(丑寅)を、それ自体は「陰」を現した邪気清浄機のようなものとでも言うのでしょう
か、邪気を集めて、それを捨てて邪気を祓うということになります。
陰陽師の祭文が終わると、方相氏は「鬼やらい、鬼や
ら
い」と大声を発して桙で楯を三度打ちます。
その後、方相氏(ほうそうし、主役・祓い役)は矛と盾を持
ち、その矛を地面に打ち鳴らし唱えながら、宮中を歩き回り、
目に見えない疫鬼を内裏の四門に追い回し退散させます。
群臣は方相氏に呼応して東西南北に別れて、
桃の弓を射、振り鼓(でんでん太鼓みたい
なものだな)をバラバラと鳴らしながら宮中を巡り、疫鬼を駆逐するのでした。
方相氏の姿は、もともと追儺の中で邪気を
駆逐する立場から鬼も怖がるほどの形相に
なっているのですが、事の次第が時と共に
不明になるにつれ、後世にはその姿から、
むしろ方相氏自身が鬼と見なされるように
なっていってしまいました。
そうなると、儀式の中で方相氏の後ろに付
き従った群臣は、見ようによ れば、むし
ろ鬼より怖く見える方相氏を追い回すよう
に理解されたのかもしれません。
これらは正規の祭りごとの中の儀式なので、枕草子
や源氏物語にもその行事の様子が記されています。
また追儺式は日本各地の一般の神社仏閣でも執り行
われ、節分の夜に豆まきが行われるようになりまし
た。
やがて江戸時代にはいると、武家から商家、町家な
ど民間で広く行われるようになりました。
追儺の儀式は各地のお寺で修二月会とかと呼ばれる
合体(混同)
が行われています。奈良東大寺二月堂の「お水と
り」が有名な修二会は各地のお寺で新春に執り行われていますが、これが追儺の儀式の
名残ともいわれ、法隆寺の修二月会は平安時代の宮中の追儺の儀式に一番近い形を残し
ていると言われ現在でも見ることができます。
豆まき
豆まきはこのように追儺の儀式が形を変えて一般民衆の催事の中に定着してきた風習
と言われます。
また節分の日に自分の年より一つ多く豆を食べるというのは年越しに
行なわれていた、新春を無事に迎え心新たに1年をはじめる行事であ
った名残のようです。
また迎春の儀式、追儺式の名残に加えて、豆が「魔が滅す」に通じて
災厄を祓うためというような意味も混ざりあっているようです。
豆を撒く際には掛け声をかける。掛け声は通常「鬼は外、福は内」ですが、地域や神
社によってバリエーションがあります。
たとえば
「鬼は内、福は外」(京都府福知山市の大原神社)
「福は内、鬼も内」(奈良県の蔵王寺)
「鬼は内」
(岐阜県可児郡の鬼岩福鬼まつり)
家庭での豆まきで、「鬼」の付く姓(鬼塚、鬼頭など)の家で「鬼は内」の掛け声が多
いそうです。
豆まきと五行
硬い豆まきの豆は「木火土金水」の五行では「金」に属します。
古来より疫病や災厄は金気に属するものと考えられていましたので、大豆は煎ることで火気にあてられ 「火
剋金(火が金を打ち負かす)」原理で剋されて、「鬼は外」と言いながら 外にまかれて捨てられたり、「福は
内」といってまかれてから人々に食べられたりして祓われるのです 。
豆は鬼をやっつける道具でありながら、祓われるものである鬼そのものにも見立てられるのです。
豆まきというのは実は邪気を祓うとともに、「金(豆)気」を剋することで 「金剋木」で金気に剋されるはず
の「木」の気、つまり春の気を助け、春を招く行事なのです。
豆=「魔目(マメ)=鬼の眼」
魔目(マメ=鬼の眼)が生き返らないように、豆を炒り芽(目)が出ないようにします。
豆=「魔滅(まめ)=鬼を滅する」
日本人 には大豆は味噌、豆腐、醤油など生活に欠かせない大切な作物です。この大豆の持つ力に魔滅の言葉
を充てて霊力を与えます。豆は祓われる魔眼であると同時に鬼をはらう魔滅なのです。
門守り
鰯の頭やヒイラギの葉を門のところに挿しておくことを、門守りといいます。
鰯の悪臭、ひいらぎの葉のとがった先で、鬼を追い払い、邪気を家に入れない
ためと伝えられています。
旧暦から新暦へ
暦が陰暦から新暦にかわり、節分は大晦日ではなくなりました。
節分の追儺の儀式も豆まきも、年の変わり目に出てくる邪気を退散させる意味合いは
なくなりました。
それでも節分当日の夕暮れ、豆をまいて鬼を家から追い払う行事は残りました。
京都の四方参り
京都では節分に「四方参り」と云って北東の吉田神社、南西の壬
生寺、南東の伏見稲荷大社、北西の北野天満宮へお参りする風習
があります。
今では表鬼門の吉田神社、裏鬼門の壬生寺へお参りする人が多い
ようです。(京都市内の他の多くの社寺でも節分行事は行われて
います。)
また平安神宮では節分行事として今年も時代考証にもとづいた
「大儺之儀(だいなのぎ)」が2月3日(節分日)に行われます。
これは平安時代、宮中で行われていた年中行事「追儺式」を再現
した儀式で、式、作法、祭具、衣裳にいたるまで綿密に再現され
ており、平安京の正庁朝堂院を模した平安神宮の社殿にて行われ
ます。
恵方巻き
「節分の夜にその年の恵方を向いて、太い巻き寿司を丸ごと銜え、大笑いしながら無
言で食べる」と、その年一年に幸福が訪れると言う風習があります。
恵方(えほう)というのは、その年に神がいる幸運の方角(2011年は西南西)の
ことで、巻き寿司は「福を巻きこむ」からで、まるごと食べるのは「縁を切らないた
めに包丁を入れない」ということです。
恵方巻きは、もともとは関西の一部(大阪の商家?)で縁起担ぎのの習慣として行われ
ていました。
最近は各業界の普及活動により大いに喧伝され、新しい習慣として全国的に節分の前
にはコンビニやスーパーなどでも太巻が販売されるようになりました。
鬼から入ります
当、大阪市中央卸売市場本場(「ほんじょう」と読みます)のある大阪市福島区の由緒
ある海老江八坂神社(海老之宮)では、毎年節分には通ると幸せが来るというおめでた
い鬼とお多福さんが飾られます。
こちらから入って
こちらから出ます
バレンタインデー
現在では年中行事の一つとして老若男女を問わず 国民のお祭りといえるほどに盛んになっ
たバレンタインデー。でもこの日はいったいどこからきたのでしょうか?
聖バレンタインデー(Saint Valentine's Day)
西暦270年頃、アイルランドのカトリック教徒バレンティヌス
(英語読み、バレンタイン)がローマ皇帝クラウディウスにより
捕らえられ処刑されました。
処刑された日付は2月14日です。
この人は17世紀に入りカトリックの宗教会議において「聖人」
の列に加えられ、「聖(セント)バレンタイン」と呼ばれるように
なりました。
ローマ皇帝の結婚禁止令
当時、若者が戦争へ行きたがらない風潮に手を焼いていたローマ皇帝クラウディウスは、
その原因が、若者が家族や恋人、妻たちと離れるのが嫌だからだと考え、若者の結婚を
禁止する法律を作ってしまいました。
インテラムナ(イタリア中部にある町で、現在のテラモ)のキリスト教司祭であるバレ
ンチノ(英語読みではバレンタイン)は、かわいそうな兵士たちをみかねて、内緒で結
婚をさせていました。それが皇帝の知るところとなりました。
当時のローマではキリスト教は迫害されており、皇帝はバレンチノに罪を認めさせてロ
ーマの宗教に改宗させようとしましたが、バレンチノはそれを拒否しました。
その結果彼は投獄されましたが、バレンチノは、獄中でも恐れずに看守たちに神の愛を
語り、目の不自由な看守の娘と親しくなりました。
ある時バレンチノが彼女のために祈ると、奇跡的に目が見えるようになりました。
聖バレンタインはついには処刑されてしまうのですが、2月14日の処刑の当日に「あ
なたのバレンチノより」と署名した手紙を彼女に残しました。
この事跡の後、毎年2月14日、男性が自分の好きな女性に、愛の気持ちをつづった手
紙を出すようになり、時と共にこれが次第に広まって行きました。
ルペルカーリアという祭
また、ローマではルペルクスという豊穣(ほうじょう)の神のために、毎年2月14日、
ルペルカーリアという祭が何百年ものあいだ行われていました。
祭の夕方になると、若い未婚女性たちの名前が書かれた紙が入れ物に入れられ、祭が始
まる翌15日には男性たちがその紙を引いて、あたった娘と祭の間、時には 1 年間も付
き合いをするというものです。翌年になると、また同じようにくじ引きをします。
このくじ引きが、先の聖バレンチノの事跡と重なり合うと共に、次第に、恋人たちの贈
り物やカードの交換に変わっていきました。
現存する最古の手紙は、14世紀初頭にロンドン塔に幽閉されていたフランスの詩人が
妻に書いたもので、大英博物館に保存されています。
やがて手紙よりもカードがよく使われるようになり、現在ではお互いにバレンタイン・
カードを出すようになりました。バレンチノがしたように「あなたのバレンタインより」
( From Your Valentine ) と 書 い た り 、「 わ た し の バ レ ン タ イ ン に な っ て 」( Be My
Valentine)と書いたりすることもあります。
現在アメリカでは、クリスマス・カードの次に多く交換されているそうです。
イタリアのバレンタイン
イタリアのバレンタインは日本ほど盛り上がりません。
ハートのチョコレートなどは売っていますが、チョコレートだけではなく、花やほかの
お菓子、またはカードなどをプレゼントします。
日本と違い、男性が女性に贈り物をする場合が多いです。
外食を楽しむカップルもあり、バレンタインデーの特別メニューを設けているレストラ
ンもあります。
バレンタインにはチョコレートを
これはチョコレート会社の販売促進戦略の結果、戦後の女性の社会進出やライフスタイ
ルの欧米化と複合してこのように花開きました。としか言いようがありません。
つまり
1958年に「バレンタインデーにはチョコレートを贈ろう」と東京都内のデパートで
行われたキャンペーンが発端だそうです。そしてこの習慣は今でも日本独自なものだそ
うです(最初の年は2枚しか売れなかったとも)
バレンタインデーがお菓子屋さんの陰謀、恵方巻きはお寿司屋さんの陰謀、とか様々な説
が喧伝されていますが、陰謀だけではここまでの広まりは無かったのではと思います。
バレンタインデーを通じて背中を押したり押されたりするきっかけが生まれ、そのきっか
けを待っていたり楽しもうとする多くの人達の気持ちが時代と共に広がったのではないで
しょうか。
日常の中で何か一つ印(お祭り)を設けて、その日に様々な思いを込めてお祭りに参加する
という事は生きていく上での知恵で、新しい年を迎えた1月、春を迎え生命の萌え立つ3
月にはさまれた、日本では雪と寒さの中に閉じ込められる2月にこのようなイベント Day
があるというのは、1つの良い意味でのアクセントではないかと思います。
神様に願いを込めて、美味しい巻きずしを丸かぶりする。
普段でも巻きずしを丸かぶりすることはあまりありません(と思います)。
つまらないと思って、ばかばかしいと思いつつ、誰かが買って来た巻寿司を、(丸かぶり
にしなくても)食べるのは何か心の中に「!」というものが無意識でもあるのではないでし
ょうか。
好きな人にチョコレートをあげる。今では当たり前ですが多分戦前はそんなことはありま
せんでした。少なくとも昭和の中ごろまでは恥ずかしかった人の方が多かった。
多分最初は小さなバタフライエフェクト(蝶の羽ばたき)だったのでしょう。
そしてそのように始まったささやかなバレンタインデーというイベントで、自分の背中を
押した人がいたのでしょうね。冗談半分で、冷やかしで、ダメもとで。
そういう意味では、(言い過ぎかもしれませんが)陰謀に乗せられ、宣伝にうまうまと乗り
ながら、ある程度はだました陰謀家を許しながら、騙され乗せられている自分を大目に見
ながら皆さんイベントに参加しているのではないでしょうか?
協会のキャンドル・クリスマスの讃美歌を聞いた後、百八つのお寺の鐘の音を待って、神
社に初もうでし、中国渡来の陰陽の流れの末の節分を祝って、バレンタインデーにチョコ
レートイベントに参加する。
今の日本はとても○○な国ではないでしょうか?(○○には好きな言葉を入れて下さい)
それにしてもコンビニの恵方巻きのチラシは早いですね。
土牛童子の配置と色の関係
五行(陰陽道)では、万物は「木」「火」「土」「金」「水」の5つによって成り立ち、様々な要
素はこれによって分けられ関係づけられています。
色の違う「土牛童子」が置かれるのも五行思想に基づいている様です。
五行
木
火
土
金
水
五色
青(緑)
紅
黄
白
玄(黒)
五方
東
南
中
西
北
五時
春
夏
土用
秋
冬
五節句
人日
上巳
端午
七夕
重陽
五獣
青竜
朱雀
黄麟
黄竜
白虎
玄武
そう考えますと宮中の追儺式の「土牛童子」の色と配置は、上の関係図に符合している様で、
図式化するとこのようになります。(各門の色は置かれた童子の色です。)
秋
殷富門
西
藻壁門
白虎
談天門
玄武
北
冬
安嘉門
偉鑒門
達智門
大極
皇嘉門
朱雀門
美福門
夏
南
朱雀
陽明門
青竜
待賢門
東
郁芳門
春
置かれた「土牛童子」の配置はそれぞれ五行に照応していますが、「東西南北四方」なので
黄色の「土」は、四方に放たれて配置されています。
本来中心(大極)に「土」を置いたとすると、上の図のように卍の様になんとなく見えなくも
ないというこじつけですが、精緻な構造の中にこれらは成り立っているのだと感心します。
(多分もっと高度な、深遠な、奥義とか、一子相伝的なものがその奥にも、又その奥にもあ
るのかもしれません)