2012年11日17日

小 野 国 際 交 流 ク ラ ブ 第 87回 例 会( 平成24年11月 ) 次 第
Ⅰ 日
時:平成24年11月17日(土)
Ⅱ 話
題:「 南アフリカ・ダーバンへの訪問 ∼日本文化紹介・国際協力を目指して∼ 」
(村田和繁会員)
Ⅲ 話題提供:
1 今回の旅行に参加したきっかけ
2 日程等(別紙資料Ⅰの通り)
3 今回の旅行の特徴
(1) 大手旅行会社との違い
① ホテル5泊、機内3泊 (9日間の旅)
② 旅行企画者
(2) 旅行団構成メンバーの多彩さ(73名(男性9,女性64)
① 高野山無量光院 前官 グループ(僧侶数名)
② 創作日舞と太極拳のコラボグループ
③ 琉球舞踊グループ
④ 日本舞踊グループ
⑤ 柔道・空手(現地参加)
⑥ 日本髪結いあげパフォーマンスと日本舞踊グループ
⑦ 花帯結びパフォーマンス
⑧ 日本舞踊と三番叟(独演)
⑨ コーラスグループ
⑩ ソログループ
⑪ おにぎりグループ
⑫ その他のグループ
⑬ 一人ぼっち
(3) サファリ(早朝、夕方)体験
4 村田の行動
(1) (誰とでも交わる)Lone wolf
(2) 何でも屋(買い物手伝い、買い物での値切り応援、ポーター、ビデオ撮影、通訳)
(3) ビデオ撮影と編集(帰宅後)
5 感想
(1) とてもユニークな旅
(2) アフリカの自然の強い印象
(3) 人間とはどこへいっても「同じようなもの」という共通点がある(当たり前のこと)
−違いがあるのも当たり前−
Ⅳ 質疑応答
Ⅴ 世話人からの連絡、会員からの情報提供等
小 野 国 際 交 流 ク ラ ブ 第 8 7 回 例 会( 平成2 4年1 1月 )資 料
資料Ⅰ −1
村田会員提供
<南アフリカ旅行> 「ジ ャ パ ン フ ェ ス テ ィ バ ル・南 ア フ リ カ の 旅」
旅行期間:平成24年9月5日(水)∼13日(木)
旅行企画: なごみ会・株式会社SUCINO・トンプソンジャパン
旅行手配: ケイライントラベル株式会社
旅 程 等:
1 集合場所:関西国際空港 4階国際出発ロビー
2 集合時間:9月5日 21:00
3 旅程
<第1日> 9月5日(水)
エミレーツ航空317便(E-317)関西国際空港 23:40発 →
ドバイ(飛行時間10時間10分)
−機内泊−
<第2日> 9月6日(木)
ドバイ着04:50
ドバイ発10:25 (EK-775) →
ダーバン(南アフリカ共和国)着17:10 (飛行時間 8時間45分)
−SOUTHERN SUN ERANGENI泊−
<第3日> 9月7日(金)
朝食後、ホテルをチェックアウト。専用車でシュシュルウェ国立公園へ。
午後、世界遺産セントルシア国立公園のボート・クルーズ →ホテルへチェックイン
オープンランドローバーでサファリドライブ体験、ロッジで夕食 →
−PROTEA HOTEL UMFOKOZI 泊−
<第4日> 9月8日(土)
早朝サファリドライブ、ロッジにて朝食、ホテルチェックアウト →
専用車でダーバンへ。
ホテルへチェックイン。 午後、ジャパンフェスティバル2012準備(関係者のみ)→
市内レストランで夕食
−SOUTHERN SUN ELANGENI泊−
<第5日> 9月9日(日)
ホテルにて朝食。終日、第6回ジャパンフェスティバル2012(9:00∼17:30) →
ホテルで夕食
−同上ホテル泊−
<第6日> 9月10日 (月)
朝食後、ドラケンスバーグ国立公園観光 → 市内レストランで夕食
−同上ホテル泊−
<第7日> 9月11日(火)
朝食後、ホテルをチェックアウト →
ダーバン近郊のズールランド観光。観光後、専用車で
ドバイ空港へ。18:40 EK-776 エミレーツ航空にてドバイへ (飛行時間 8時間45分)
−機内泊−
<第8日> 9月12日(水)
05:25 ドバイ着 ドバイのホテルで休憩又は市内観光(9:00出発)。買い物、モスク外
観を見学 →
夜、23:00発、専用車で空港へ。(この間、ARABIAN COURTYARD HOTEL and
SPAで仮眠程度)
ドバイ空港発03:00 EK316 にて帰国の途につく。(飛行時間 9時間10分)
<第9日> 9月13日(木)
17:10 関西国際空港着、解散 (関空→空港バスで三の宮→神戸電鉄で小野)
帰宅21:40頃
小 野 国 際 交 流 ク ラ ブ 第 8 7 回 例 会( 平成2 4年1 1月 )資 料
資料Ⅰ −2
<ダーバン> (2012.6.11)
(ズールー語:eThekwini、英語: City of Durban)は、南アフリカ共和国クワズール・ナタール
州エテ クウィニ都市圏にある地区。2000年までは単独の市であった。
<概要>
ヨハネスブルグに次ぐ人口の都市であり、重要な外港である。2010年の都市的地域の人口では
322万人であり、同国ではヨハネスブルグに次ぐ第2位である。ズールー族が多く、英語よりも
ズールー語が話されている。またインド系移民の人口が極めて多く、約80万人ほどいるといわ
れている。
古くから高級リゾート地としても知られており、海沿いには大型のリゾートホテルが立ち並ぶ。
このためスポーツ施設やインフラが整っており、毎年のようにラグビーや水泳などスポーツの
世界選手権や、国連の各機関が開催する国際会議の開催地として選ばれている。2010年にはFI
FAワールドカップの会場の一つになった。
なお、他の南アフリカの都市同様、治安の急速な悪化は問題となっている。近年では、浜辺で
散策中の観光客が襲撃されるなど、リゾート地として致命的な事件も発生しており、観光地と
して大きな課題を抱えている。
< 友好都市>
エイラート(イスラエル)
高雄市(台湾)
広州市(中国)
リーズ(イギリス・イングランド)
リオデジャネイロ市(ブラジル)
<ドバイ>
アラブ首長国連邦を構成する首長国のひとつ。また、ドバイ首長国の首都としてアラビア半島
のペルシア湾の沿岸に位置する都市。
中東屈指の世界都市並びに金融センターである。首長はムハンマド・ビン・ラーシド・アール・
マクトゥームであり、アラブ首長国連邦の副大統領と首相も兼任している。
物館の一部漁業や真珠の輸出を産業の主とする小さな漁村だったこの地に、アブダビの首長ナ
ヒヤーン家と同じバニー=ヤース部族のマクトゥーム家が、1830年代にアブダビから移住。こ
れに伴ってドバイ首長国が建国され、ここに今に至るドバイの歴史が始まりの時を迎えた。18
53年に他の首長国と同時にイギリスの保護国となる。
<近代>
統治を担ったイギリスはこの地を、東インド会社に到るための貴重な中継地とした。20世紀に
なると、歴代の首長の推進をもとに自由貿易の政策を採ったことで、周辺地域の商人達の拠点
となりゆく流れのなかで、中継貿易港としての色合いを濃くしてゆく。
一方で、もうひとつの経済の柱であった真珠採取は20世紀初頭に日本で御木本幸吉が養殖真珠
の開発に成功したことから産業として成立しなくなり、ドバイの経済に打撃を与えた。これに
当時の世界不況が重なって社会不安が高まり、1938年には首長派がクリーク南岸のバール・ド
バイ地区に、反首長派が北岸のデイラ地区に陣取って一触即発の危機を迎えた。この事態を収
束させるために首長は地元有力者による議会の開設に同意し、議会は行政改革を行ったものの、
やがて首長と対立して議会は解散させられた。
<勃興>
第二次世界大戦が終結し、20世紀も半ばに迫った頃、この地を近代的な都市にすることを夢見
た当時の首長ラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥーム(英語版)の推進により、1
959年のクウェートからの借金をもとにして社会資本の近代化が図られてゆく。ラーシドはこ
の借入金でドバイ・クリークの浚渫工事を実施し、中継貿易港としての基礎固めに成功して、
以後の大発展の基礎を築いた。
1958年のアブダビにおける油田の発見に続く、1966年のドバイ沖の海底油田の発見はこの動き
に大きな力を与えた。
<独立>
1971年のイギリス軍のスエズ以東からの撤退に伴って、同年の12月2日、他の6の首長国ととも
にアラブ首長国連邦をこの地に結成。その副大統領兼首相となったラーシド首長を指導者に据
え、原油依存経済からの脱却の取り組みと産業の多角化を進めてゆく。
その流れのうえで1981年(1985年)に開設に至った『ジュベル・アリ・フリーゾーン (JAFZ) 』
という名の経済特区と大型港湾、およびナショナル・フラッグ・キャリアとしてのエミレーツ
航空の就航開始は、国外資本や外国企業の進出とあわせて『人』と『物』の集積地としての発
展を急速に促していった。
<繁栄>
21世紀に入る頃には、従来からの近代化の波を経て、中東における貿易・商業の最大の中心地
と呼ばれるまでのメトロポリスに変貌していた。
1970年代からわずか約20年のうちに起こった変化は、都市外観のそれのみならず、経済の石油
依存率は半分以下に減じ、GDPの伸びは30倍に達するなど、『中世から近代への急変』との表
現をもって語られる激変そのものである。
2003年以降の発展は特に凄まじく、2004年の後半から続く原油高がその発展を更に後押しして
いる。2005年度の経済成長率は 16 % と高い成長率を見せており、2007年の実質GDPは1980
億ディルハム(約6兆円)にまで達している。人口も220万人を超えたドバイは摩天楼の連なる
幻惑的な都市国家として中東でも随一の繁栄を誇っている。
<アフリカの歴史>
< 歴史> (アフリカの形成)
中生代初期、アフリカは他の大陸と同じく超大陸パンゲアを形成した。・・・
初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なって分布し、南部で多く露頭する。しかし化石層は南
部では少なく、北に行くほどその数は優勢になってゆく。ジュラ紀には、アフリカでは竜脚下
目や鳥脚目などの恐竜が広い範囲で隆盛を極めた。
< 先史時代>
ほとんどの古人類学者は、人類はアフリカで生まれたという説を採っている。アフリカは大陸
移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰り返していた。人類の発生は約4000万年前に遡る
東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。・・・
南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる。20世紀中頃に
は、人類学者たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、
いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、・・・
アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循
環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていたサハラ砂漠は、12000年前頃には縮小に
転じ、森林地帯の広がりとともにチャド湖など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリカ
の「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈また牛の牧畜なども行っていた。
しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり、沙漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は
熱帯性気候の西[22]や南、ナイル川流域などに移住した。
< エジプト・地中海文明の発生>
アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、
東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカがコプト教のエチオピアとイスラム教のインド
洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特なアニミズムの伝統が濃厚に残ってき
たにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。・・・
< 西アフリカ・北アフリカ>
西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる土偶と製鉄技術をもったノク文化がナ
イジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあた
えた。ナイジェリアでは、9-10世紀のイボ=ウクゥ文化、10-13世紀のイフェ文化、14-18世紀
のベニン王国が繁栄し、優れた青銅製品で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年
頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトやヌビア、エチオ
ピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの青銅器が西アフリカで発掘されている。
これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す。この交易を背景に繁栄したのがセネガル
川上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼるといわれるガーナ王国であり、11世紀後半ま
で岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸に伴って、マリ帝国がニジェー
ル川上流のニアニを首都とし湾曲部のトンブクトゥを版図に含んで13-15世紀前半まで繁栄、
ソンガイ帝国が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北
部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西スーダンを統
一する広大な版図を誇った。
一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの隊商による交易に利害のあった北アフリカ
西部、マグリブにもベルベル人によって11世紀中葉-12世紀中葉にムラービト朝、12世紀中葉13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀にマリーン朝という強力なイスラム王朝が建てられた。
特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1590年に、1
6世紀中葉にモロッコで興った強力なサアド朝(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。イフリーキ
ヤと呼ばれたチュニジアも、909年にアグラブ朝を倒して、ファーティマ朝が興ると、926年に
は西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、
北アフリカの統一を完成し、新首都カイロに遷都(973年)して、カリフを称した。西カリフ
国と呼ばれたイベリア半島の後ウマイヤ朝に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトではそ
の後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、アイユーブ朝のもとで実力をつ
けたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国されたマムルーク朝が続く。一方、イフリ
ーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力な王朝の
もとで優れたイスラム建築が多数建設され、町並みが世界遺産に登録されているものも数多い。
しかし、1517年にマムルーク朝、1574年にハフス朝がオスマン帝国によって併合される。
モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国はマグ
リブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によ
ってはリビアやモーリタニアも含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西スー
ダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は西アフリカに区
分される。
< 東アフリカ・南アフリカ>
東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀にコプト教を国教としたアクスム王国が、
ギリシャ、ローマ帝国、そして東ローマ帝国との交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世紀頃
にザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。沿岸部では、
イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、モガディシオ、キルワ、マリンディなどの港湾
都市が繁栄した。交易路は、モザンビーク南部の港町ソファラからジンバブエのザンベジ川流
域、リンポポ川流域にまで及び14-15世紀にショナ人によるモノモタパ王国が金や象牙の輸出
で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目されるグレート・ジンバブエ遺跡からは、中国(宋、
元、明代)の青花などの陶磁器、インドの綿製品、インドネシアの数珠玉、ペルシャの壺など
の出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語っている。モノモタパ王国が衰退する
と、ロズウィ王国が19世紀半ばまでジンバブエの地を支配した。
< 奴隷貿易>
長い間アフリカは、奴隷制度に蝕まれてきた。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への奴
隷貿易(en)は継続して行われ、1800万人がサハラ交易やインド洋貿易で取引された。大航海時
代を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成
されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた。15世紀から19世紀までの500年にはア
メリカ州向けの奴隷貿易(en)が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出された。
1820年代、西アフリカは大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。
ヨーロッパや新世界における奴隷制度廃止運動の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部でのイ
ギリス海軍駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から186
0年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊(en)は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリ
カ人を解放した。
また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「ラゴス
の略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ
50カ国以上の国々で締結された。この動きに、国力があったアシャンティ王国、ダホメ王国、
オヨ王国(en)は順応する動きを取り、アシャンティやダホメはパーム油やカカオ、ランバー材
(en)や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ
王国は適応できず、内戦の末に崩壊した。
< アフリカ分割>
19世紀後半には、アメリカ開放奴隷が建国したリベリアと第一次エチオピア戦争で独立を維持
したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が行われ、西アフリカの小王国
が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の民族紛争の
原因ともなった。
< 脱植民地化>
ヨーロッパ列強の帝国主義は第二次世界大戦以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の
独立への機運が高まった。1951年にはリビアがイタリアから、1956年にはチュニジアとモロッ
コがフランスから独立を果たした。翌年にはガーナが続き、サブサハラ初の脱植民地を成した。
1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生した
が、独裁政治の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、
新植民地主義への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し1963
年5月に発足したアフリカ統一機構(OAU)が、2002年7月9日には発展解消してアフリカ連合
が成立した。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛
争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している。
< 民族>
イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。現在
も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。
< 言語>
アフリカは言語の種類が多い。系統分類では4語族に大別されるが、部族毎に異なる特徴を持
つために多くの言語数に分岐し、世界の言語数のうち30%程度を占めるとも言われる。また、
同じ人々が使う言語にも、部族語と地域共通語、さらに公用語と状況に応じて使い分けられる
垂直型の多層言語が存在し、総言語数を多くしている。
< 宗教>
アフリカには、過去からの土着宗教と、イスラム教スンナ派、キリスト教のローマ・カトリッ
ク、プロテスタントの各派が分布している。伝統的な土着宗教は、祖霊信仰や自然崇拝に加え、
サブサハラでは創造神の概念も存在する。また、呪術信仰も根強く、これを担うシャーマニズ
ムも健在である。
世界宗教のアフリカ伝播は、ローマ帝国の領土拡大に伴うローマ・カトリックが最初に当たり、
これは4-5世紀に北アフリカで最盛期を迎える。しかしこれは同帝国の衰退とアラブ人の進出
によって衰退した。19世紀のアフリカ分割に伴うヨーロッパ列強の植民地化によって再びロー
マ・カトリックは広まったが、この地域は中央アフリカに場所を変えていた。イスラム教スン
ナ派は北アフリカを中心に人口の30-40%を占める。その伝播経路は、ナイル川に沿ったアラ
ブ人の進出、サハラ交易による伝播、海上貿易による東海岸沿岸への伝播の3つがある。プロ
テスタントもまたアフリカ分割とともに広まったが、その地域は南部が主流となった。南アフ
リカにはいち早くアフリカ人によって教会が建設された。その特色は聖書中心主義があり、ま
たペンテコステ派と土着宗教が融合した精霊教会という形態も存在する。
< 教育>
アフリカの教育は世界の中でも未発達で、特にサハラ以南の多くの国々で就学率が低い。学校
は基礎設備に欠き、アフリカの大学は生徒の増加と、教職員がより高い給料を求めて西側諸国
に移住する為の不足が問題となっている。ユネスコ2000年の調査「Regional overview on subSaharan Africa」では、児童就学率は58%に止まった。
アフリカでは出生登録が充分に行われず、親が子供に教育を受けさせようとする意識が低い。
これらに貧困が加わり、教育現場からの脱落のみならず、児童労働や人身売買、育児放棄や犯
罪、子供が戦場へ狩り出されるなど様々な問題が生じている。
小 野 国 際 交 流 ク ラ ブ 第 8 7 回 例 会( 平成2 4年1 1月 )資 料
資料Ⅱ 竹内英晃世話人提供
【討論!】中国の「日本直接・間接侵略」の実態[桜H24/11/3]
パネリスト:
梅原克彦(前仙台市長・国際教養大学教授)
河添恵子(ノンフィクション作家)
砂澤陣(工芸家・ブログ「後進民族アイヌ」管理人)
坂東忠信(元警視庁刑事通訳捜査官・外国人犯罪防犯講師)
三井田孝欧(新潟県柏崎市議会議員)
鳴霞(月刊「中国」編集長)
惠 之介(ジャーナリスト・拓殖大学客員教授)
司会:水島総
-----------------------------------------------水島: 中国によって直接的、間接的に行われつつある日本侵略の実態を、具体例を挙げて解説
してもらう。特に問題なのは、中国人による対日工作に積極的に協力する日本人がいる
ことだ。
鳴霞: 中国は85年に南京虐殺記念館を建て、日本軍による30万人虐殺を主張。
90年代に抗日記念館を中国全土に100カ所建設。
2000年代初めに中国近辺の無名の島嶼を中国領であると宣言し、「中国領土」と刻
んだ石碑をそれらの島の近くに沈めた。その中には日本領である島も10カ所含まれて
いた。
2003年∼2004年 中国の軍事ネットで25歳から38歳の高学歴者に対して、
戦争が起こった場合の対応についてアンケート調査した。このアンケートに答えた8
6%が、日本・米国・インド・べトナム等敵国の国民に対して、相手が女性や子供・捕
虜であっても虐殺すると答えた。
2005年から反日暴動が始まった。
従って、今回の反日暴動が野田首相による尖閣国有化に端を発するという見方は大間違
いで、71年尖閣の中国領宣言以来着々と準備されてきたものである。中国が狙ってい
るのは尖閣沖縄だけでなく、北海道も危ない。
砂澤: 4年前まで北海道新聞の中に人民日報の記者が研修と称して駐在していた。
水島: NHKはじめ各メディアに。中国勢力が浸透している。
坂東: 尖閣沖に沈めた「中国領土」の石碑には、 2004年1月11日の日付が刻まれてい
て、この石碑を投棄した工作員の活動日誌には1月13日に尖閣沖で海保に見つかった
ので、この石碑を投棄して帰ったと記してある。従って 尖閣問題を中国側が棚上げに
していたなんて真っ赤なウソである。
河添: 近年民事再生法にかけられた北海道の巨大なゴルフ場が、中国共産党の息のかかった中
国系帰化人に買われている。雇用を創出するとの触れ込みで土地を買うのだが、全くそ
んな実態は無い。北海道の人たちは 土地に対する愛着が薄いため、狙われやすい。
恵: 沖縄もよく似ている。沖縄では不動産会社が名義貸しする。沖縄県民が土地所有を認め
られたのが1905年以降であるため、土地への愛着が薄い。そこを巧みに狙われてい
る。沖縄のブローカーの中に斡旋するやつがいる。去年の11月に沖縄県が主催して上
海で「沖縄土地投資セミナー」を開催した。特に米軍用地は安全確実な収益物件だと宣
伝している。まさに売国奴だ。
砂澤: 北海道には老齢化した不在地主の土地がたくさんある。それを狙われるのだが、行政が
その実態を全く把握していない。それどころか行政は中国に買ってもらえれば、税収が
増えてよいとの考えで、全く危険性を感じていない。そこが大問題だ。
水島: 国家意識の欠如だ。国家の一員であるという意識が無い。
河添: 国土は唯一無二の物で取り返しが利かないという意識がないことと、地方自治体の財政
が窮乏しているので、中国が相場以上の金で買って、雇用を創出するとか、多数の人数
を集客して莫大な売り上げが見込めると言われると、今までそんな実例はどこにもない
のに皆だまされてしまう。
砂澤: 健全な企業なら、一坪300円∼500円の土地をまとめて買う場合は、普通値下げ交
渉する。ところが北海道の場合は300円の土地を1000円とか2000円で買おう
とする。
河添: 中国のやり口は2種類ある。一つは安く買いたたいて二束三文で買う。もう一つは高く
買って、その企業や周辺住民を手なずける。自分たちは金持ちで、これから手厚く養う
と信頼させておいて、そのあとで裏切る。北海道の場合は、多くの場合地価より高く買
っている。潰れたゴルフ場を非常に高い値段で買っている。
砂澤: 北海道では現在分かっているだけで820ヘクタールが外資に買われている。それも実
態がよくわからない会社が多い。自衛隊の砂川駐屯地のすぐそばとか、泊原発のすぐそ
ばが買われている。
河添: ニセコは長江財閥が買っているが、長江財閥と温家宝はツーカーの仲だ。
梅原: これまでの話から、この数年で事態が深刻化していることが分かった。私は7年前の市
長就任時、仙台市のチャイナタウンプロジェクトを阻止した。新潟でも現新潟市長が音
頭をとって、チャイナタウンや中国総領事館の土地取得が進められていたが、2年前の
尖閣沖追突事件後、市民や県民が反対して公有地については撤回させた。しかし民有地
の売却については、今なお計画が進んでいる。名古屋では公務員住宅跡地(国有地)が
狙われた。
以上のような公的な事例は、分かりやすいので、なんとか食い止めることができるが、
ここで紹介されたような隠れた事例はくいとめるのが難しい。是非この番組の視聴者か
ら一般の方に広めてほしい。
三井田: 新潟の中国総領事館は、現在民間所有の音楽専門学校跡地にあるが、これは5年契約
で5年以内に出て行く。県庁近くの5000坪民有地をすでに売約済み。その土地を所
有してた国内のA社が国内のB社に売った後、海外の複数の会社を経て総領事館が取得
している。
河添: この転売に一瞬かかわった国内の会社社長は、現新潟市長の同級生だ。
水島: 土地を転がしてその差額を取っていく。ひどい話だ。
三井田: 現行制度で、外国人の土地取得にストップをかけられるのは農地だけだ。
砂澤: 現行法では、農作物のうち米以外は輸出規制をかけられない。水その他、有事であって
も輸出を止められない。
北海道の大学に留学した中国人が、卒業後すぐ日本国籍を取得し、不動産売買の免許を
取って土地売買のブローカーになる。そういう中国系ブローカーが、土地を買うと見せ
かけて地価をつり上げたり、行政に買わせて、後で買い戻させる。
水島: 以前網走の方にある水源地が1億5千万で中国人に買われようとしているので、これを
防ぐためになんとかしてほしいという連絡があった。詐欺かもしれないと思い試しに
「すぐに払えない」というと、「6千万でいい」「3千万でいい」とどんどん値が下が
った。調べてみたらやはりウソだった。これは単純な詐欺だが、先ほどの新潟の話は、
計画的で非常に狡猾だ。
坂東: 中国人は、本能で動いている場合が多い。大きな企業が土地を買ったというのは目立つ
が、もっと深刻なことが起こっている。都内で一般の一戸建ての家が中国人に買われて、
普通の2階建てが中国人のアパートと化している。言葉が通じない中国人が入れ替わり
立ち替わり出入りしていて、周囲の日本人からは不安がられている。
鳴霞: 同様のケースがカナダで起こっている。カナダでも、ルールやマナーを守らない中国人
に大変手を焼いている。
坂東: 中国人は日本人とは違う料理を作るので、残飯のにおいも違う。その残飯を部屋にため
て捨てない。当番を決めて捨てたらどうだと言うと、そんなことをしたら誰が当番をす
るかで喧嘩になるというので、なるほどそういう文化の国民なのだと納得した。
砂澤: 北海道は観光に力を入れ、中国人を呼び込もうとしている。しかし中国人観光客はイナ
ゴといっしょで、大挙して押し寄せて、何でも持って行ってしまう。最近ホテルでは、
テレビにチェーンをつけて、持ち去られないようにしてある。
河添: バスローブは必ず取られてしまうので、中国人が泊まるホテルにはバスローブを置かな
い。
砂澤: 中国人はうるさいし汚いので、地元の観光客は中国人がよく来る観光地を敬遠して来な
くなっている。
鳴霞: アメリカ、カナダ、オーストラリア、どこでも同じことで困っている。中国国内での話
だが、中国人は窓から何でも捨てる。最近2階の窓からフライパンを落として、下にい
た80歳のおじいさんの頭に当たり大怪我した。警察が調べたが、誰が捨てたか分から
なかった。
河添: 北海道の旅行社を取材した。バスを一台借りると8万円するのだが、中国人の観光ツア
ーの場合、それを3万円にしろと値切る。
砂澤: ある業界が、中国人の就労ビザや運転免許の規制を緩和せよ、中国の免許を日本国内で
も使えるようにしろと主張している。ルールや道徳観が違う日本でそんなことをすれば、
間違いなくトラブルが増えるだろう。
鳴霞: アメリカでは、観光バスの中国人運転者が、定員以上に客を乗せて事故を起こした。
坂東: 中国人に北京語で学科試験を受けさせて、合格したら自動車免許を与えようとする自治
体が多数ある。
北海道、青森、宮城、富山、石川、福井、静岡、愛知、大阪、京都、滋賀、和歌山、鳥
取、島根、山口、熊本各府県が北京語で学科試験をしている。栃木県は現在検討中。議
会ではなく、現場の実態を知らない警察のトップと公安委員会が人道的配慮でこの方針
を決めている。中国語しか分からないと、事故が起きた時110番通報できないし、バ
ス事故が起こった際 日本人の避難誘導ができない。
鳴霞: 中国人犯罪者は、日本語が分かっていても分からないふりをして交通違反を免れようと
する。
坂東: 外国人の侵入窃盗のうち、中国人は85%を占める。中国人は複数でチームを組んで侵
入し、家に人がいれば強盗になる。そこに車があれば、窃盗が大変楽になる。一番犯罪
率の高い連中に、なぜ自動車免許を優遇して渡すのか。
水島: 一般マスメディアでは、そういう事実がほとんど報道されない。もし民主党がこの臨時
国会に提出しようとしている「人権委員会設置法案」が通ったら、ここに出演している
パネリストは全員パソコンを取り上げられ、取り調べられるだろう。一般には知られな
いように、しかし長期にわたる計画が着々と進んでいる。20年後には北海道は中国の
領土になっていると公言する中国人がいるそうだ。
砂澤:「アイヌの居住空間の再生」という100億円規模の予算がついた事業が始まっている。
そこに今年の4月唐家せんが視察に来ている。
鳴霞: 北海道独立と沖縄独立は連動している。
梅原: 2年前新潟でシンポジウムがあった時、唐家せんは、芸術交流という名目で佐渡にまで
足をのばした。
砂澤: 北海道には、映像特区がある。文化交流の名目で中国人の国費留学生をどんどん北海道
に呼んでいる。
水島: 一種の屯田兵だ。
小 野 国 際 交 流 ク ラ ブ 第 8 7 回 例 会( 平成2 4年1 1月 )資 料
資料Ⅲ 土本茂治会員提供
オピニオン誌「正論」を(月刊誌)購読しておりますが、今月発売されました記事の中に
興 味深い記述がありましたので写し取りました。是非ご一読下さい。
折節の記
ヒトは心にある強欲とか怠け心とか下品とかを営々と削り落としてまともなヒトになろう
とした。
よこしま
そうやって削り落とされた邪(よこしま)邪 さが固まって今の支那人が出来たという説がある。
それがいまや人類の5人に2人を占める。恐ろしい時代に入ったものだが、そんな支那人に
も一つだけ能力はあるとT・フリードマンがニューヨーク・タイムズに書いていた。「彼ら
はrote(丸暗記)屋で、創造力はないが真似はうまい」。新幹線も見事なコピーをさっさ
と創った。ただ安全を考えるまとも心がないからすぐ脱線転覆した。
日本人がそんな支那人に初めて会ったのは明治十九年八月一日だった。荻生徂徠は大川橋
から品川に転居した。徳の国・支那に少し近づいたと喜んだ。支那人はみな鑑真か西施だ
と日本人は思い込んでいた。
しかし、その日、長崎港に入った戦艦「定遠」「鎮遠」の乗組員は鑑真には似ても似つか
なかった。彼らは大声で喚きながら丸山遊郭に繰り込み、先客を押しのけて上がろうとし
た。今ではすっかり馴染みの支那人の割り込み癖を初めて見て日本人は呆れた。
彼らは行儀を教えに来た警官にも逆らって一人が逮捕された。支那人に反省はない。三百
人が街に繰り出し、報復の略奪を始め、日本人も応戦して双方に死者一人ずつを出す騒ぎ
になった。
よその国に来て非道を働く。非は支那にあったが、そこは屑で出来た国だ。今の北京政府
で言えば温家宝に当たる李鴻章が出てきて「無抵抗の乗組員を日本側が襲って五人を殺し
た。賠償しろ」という。死者はいつの間にか五倍になった。「いや、事実はこうで」と日
本側が説明しても聞く耳も持たない。李は「軍艦を増派する」と脅す。もう戦争だと。
日本側は折れて賠償交渉に入ると支那の主張は「死者八人」に増え、併せて「狼藉を働い
た日本人」の処罰を要求した。日本側はそれを呑み、今の金で数億円の賠償を払い、日本
人四人を禁固刑に処した。
事実など糞くらえ。政府トップ自ら嘘を言い立て、恫喝する。この手法は江沢民が言う南
京大虐殺や今の尖閣騒ぎにも通じる。
日本人は長崎事件から八年、日清戦争で再び支那人にまみえてもう一つの性格を知る。残
忍さだ。司令官の山県有朋は開戦から二ヶ月目、平壌陥落後に緊急の訓示を出している。
「支那人は性、残忍にして一旦生擒(捕虜)されれば死に勝る苦痛を受け、野蛮惨毒の所
いけどり
為をもって殺害される。生擒になるより潔く一死を選べ」と。
惨毒の所為とは秋山好古の副官が別の戦場で報告しているが、耳と鼻を削ぎ、目をくり抜
き、陰茎を切り落とし、口に押し込んで窒息死させる。何人かを連行するときは針金で生
身を刺し貫き、繋いでいく。
針金使いも支那人の特徴で、それから四十年後の通州事件でも使われた。このときは強姦
された日本人女性の鼻に針金を通して処刑場に引き立てている。子供にも使っている。手
足の指をすべて切り落とした児童の顔を針金で貫いて、局部に箒を突き刺されて殺された
母親に縛り付けてあった。
その十年後、満州で日本人三千人が虐殺された通化事件でも氷原を連行する際、針金を脛
に通してつないで歩かせた。
さらに半世紀たった今も満州・吉林省で脱北朝鮮人を連行するときに手錠代わりに手の甲
に針金を通す。時代を超える残忍さはもはや支那人の国民性とも言える。
そんな支那と関わった何十万もの日本人が自らの血で「危険な支那人」を訴えてきた。
しかし戦後、日本人は有朋の訓示も同胞の遺訓も忘れ、松下幸之助は「支那人はみな鑑真」
と信じ、彼らに家電の工場をノウハウごとそっくり与え、武村正義は半生を支那の植林に
かけて日本人に錯覚をすり込んだ。
一方の支那は周恩来、ト小平が李鴻章に倣って日本人をたぶらかして尖閣諸島は俺たちの
モノと言い出した。
日本が歴史的事実で反論すれば、あの略奪と焼き討ちによる反日デモだ。井戸をほった松
下幸之助の工場が焼かれ、日本人が各地で襲われた。
西安では日本車に乗っていた同じ支那人でも半殺しにした。上海ではわざわざ日本料理店
にきて日本人客を探して袋叩きにした。
長沙のデモではプラカードに掲げられた野田首相の目をくり抜いていた。彼らが日本人を
殺すときの形がそこに窺える。
そんな国に日本企業は儲けるために進出し日本人社員を家族ごと駐在させる。社員は危険
な空気に震える。せめて家族を帰国させたいと社に願えば、支那に失礼だと左遷されてし
まうから社員は黙っている。
この次に騒ぎが起きれば彼らの子供は指を切られ針金を鼻に通されて川に放り込まれる。
妻は強姦され局部に棒杭を突き立てられて殺される。
経団連の米倉弘昌は支那が大事、支那を怒らせるなと野田に文句を言う。それなら自分の
孫を上海に置いて次の反日デモではまず我が孫を暴徒の前に立たせると約束するがいい。
それができないなら、支那からの撤退を本気で考えろ。
マッカーサーは本間雅晴中将に追われてコレヒドールに逃げ込んだが、彼は極度の閉所恐
怖症だった。今に残るマリンタのトンネルに籠ると恐怖で毎晩失禁していた。潜水艦なら
すぐに脱出できたが、閉所恐怖症ゆえに結局、魚雷艇で逃げた。
この報復に彼は本間中将を処刑した。臆病なくせに執念深いのは米国人の特性だ。その米
国が今、何が何でも報復したがっているのがイランだ。理由は今から三十年も前のタバス
の復讐だ。
このときホメイニ師のイランはテヘランの米大使館を占拠して館員五十五人を人質に取っ
ていた。米国は国威をかけて人質救出作戦を実行した。
ただ五十人以上を救出するのは大作業で、まずヘリ八機と救出部隊をイラン中部タバスに
送り込む。ここで給油をしてテヘラン近郊に移動、潜伏する。ヘリの足が短いためだ。
翌日夜、ヘリ部隊の一派が人質を救出。もう一派が近郊のイラン空軍基地を制圧する。な
ぜならヘリはのろく、輸送力も小さい。そのために脱出用の大型高速輸送機を着陸させる
場所が必要だったからだ。
ところがタバスに着いたところでヘリ三機が砂嵐で故障する。おまけに乗員満載のバスを
目撃されてしまう。作戦は中止され、撤収中に一機のヘリがC130輸送機にぶつかり炎上、
八人が死亡、その遺体も収容できないまま逃げ帰った。
小学生だってもう少しましにやれると世界はそのお粗末を笑った。ベトナム戦争に負けて
間もないころだ。米国は二度のしくじりに大いに落ち込んだ。
ただマッカーサーと同じで米国は己の失敗を棚上げして他人のせいにする。
この時も自分の無能はさておいてイランを逆恨みして経済制裁を科し、今もイランの核平
和利用に執拗に嫌がらせを続ける。
タバスも忘れない。あの失敗からヘリの自在の行動力をもち、それでいて大きな輸送力と
高速移動能力もある新型輸送機の開発に取り組んだ。開発費用と人員は月に人類を送り込
んだ「アポロ計画並み」(タイム誌)とも言われる。
それで出来たのが日本訛りでオスプレイと呼ばれるV22アスプリーだ。
これがあればテヘランに直に乗り込んであっという間に人質を救出できた。
米国の自慢の新型機は尖閣を睨んで沖縄に配備されたが、それに地元民は欠陥機だ、危な
いから飛ぶなと騒ぎ立てる。挙句はそのV22の唯一の弱点、離着陸時に彼らは凧を揚げて妨
害している。明らかなテロ行為だ。
しかし沖縄タイムスはもっとやれと囃し、規制するはずの宜野湾市も動かない。ここは普
天間基地が航空法で言う空港でないのをいいことに滑走路前に危険な鉄塔を建てるのを認
可した過去がある。
支那人を祖先に持つ仲井眞もそんなテロ行為を黙認してきた。
こんな犯罪県になぜ何千億円もの交付金や基地対策費を出す必要があるのか。宜野湾市に
限って米国に返還して彼らの手でテロを封じさせるとゆうのもアイデアではないか。
カンボジアのシアヌーク国王が北京の病院で亡くなった。日本が負けたとき、世界中の強
欲国家が集まってきた。戦いもしなかった永世中立のスイスが賠償を要求し、三国同盟の
仲間のイタリアも途中寝返って連合国だからとやはり賠償金を取りに来た。スイス以上に
あくどかったのがフィリピンのキリノ大統領で、彼は日本に高額賠償を呑ませるためモン
テンルパに囚われたBC級戦犯十四人を一晩で吊るした。人間の屑だった。
そんな中でシアヌークだけは「フランス人の支配を終わらせてくれた。寧ろ感謝している」
と賠償要求を放棄した。
彼はその思いを後に映画「ボコールの薔薇」で表現した。ボコールはかってフランス人が
住んだ高原都市で、それを背景に白人支配を駆逐する日本人将校と現地女性との淡い恋を
描いている。ヒロインにはモニク王妃。日本人将校はシアヌーク自身が演じた。
映画ができてすぐ冷戦から距離を取ってきたこの平和な国の様相が一変する。米国の差し
金でロンノルがクーデターを起こし、国王は追放された。この国からベトナムの背後を衝
こうというわけだ。
一方、支那もベトナムを牽制する意図でポル・ポト派を育て、やがて百七十万人虐殺が起
きる。カンボジアの悲劇は一部分米国が、大部分支那によってもたらされた。
シアヌークは子供や孫を殺され、自身も支那に囚われ、ことの真相を明らかにできないま
ま波乱の人生を閉じた。享年八十九歳。
毎日新聞記者で「百人斬り」の与太話を書いた浅海一男は事の真相がかまびすしくなりか
けたころ娘と一緒に支那に匿われた。それで「百人斬り」の真相は闇の中に消えた。
支那は誰を隠せば支那の嘘がばれないで済むか、実によく心得ている。
地政学上隣国とは付き合わなければ致し方ないところですが、
福沢諭吉の「脱亜論」のごときに従うのが良と考えております。
読書の秋 文春新書 渡辺利夫著「新脱亜論」がおすすめです。
2012年11月7日
土本茂治
複写
小 野 国 際 交 流 ク ラ ブ 第 8 7 回 例 会( 平成2 4年1 1月 )資 料
ダーバン (2012.6.11)
(ズールー語:eThekwini、英語: City of Durban)は、南アフリカ共和国クワズール・ナタール州
エテクウィニ都市圏にある地区。2000年までは単独の市であった。
<概要>
ヨハネスブルグに次ぐ人口の都市であり、重要な外港である。2010年の都市的地域の人口では
322万人であり、同国ではヨハネスブルグに次ぐ第2位である。ズールー族が多く、英語よりも
ズールー語が話されている。またインド系移民の人口が極めて多く、約80万人ほどいるといわ
れている。
古くから高級リゾート地としても知られており、海沿いには大型のリゾートホテルが立ち並ぶ。
このためスポーツ施設やインフラが整っており、毎年のようにラグビーや水泳などスポーツの
世界選手権や、国連の各機関が開催する国際会議の開催地として選ばれている。2010年にはFI
FAワールドカップの会場の一つになった。
なお、他の南アフリカの都市同様、治安の急速な悪化は問題となっている。近年では、浜辺で
散策中の観光客が襲撃されるなど、リゾート地として致命的な事件も発生しており、観光地と
して大きな課題を抱えている。
< 友好都市>
エイラート(イスラエル)
高雄市(台湾)
広州市(中国)
リーズ(イギリス・イングランド)
リオデジャネイロ市(ブラジル)
< 歴史>
(アフリカの形成)
中生代初期、アフリカは他の大陸と同じく超大陸パンゲアを形成した。その状況下で、獣
脚類や竜脚形亜目また原始的な鳥盤類が、三畳紀終わり頃まで繁殖していた。これらの化
石はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる。三畳紀とジュラ紀
を分ける地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない。
初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なって分布し、南部で多く露頭する。しかし化石層
は南部では少なく、北に行くほどその数は優勢になってゆく。ジュラ紀には、アフリカで
は竜脚下目や鳥脚目などの恐竜が広い範囲で隆盛を極めた。中期の研究はあまり進んでい
ない。後期も発掘は遅れている[12]が、数少ない例外に当るタンザニアのテンダグル層(en)
では、北アメリカ西部で見つかったモリソン層(en)の古生物学的様相(en)と非常に近似した
ところが見られた
1億6千-1億5千年前の中生代中頃、ゴンドワナ大陸には後のインド亜大陸とマダガスカルが
繋がっていた。そのため、マダガスカルからはアベリサウルス(en)やティタノサウルス上科
(en)の化石が発見される。 その後、白亜紀初期にインドとマダガスカルは分離を始め、後
期にはこの2つの陸塊も分離して現在に至る。中生代、マダガスカルとアフリカ大陸の相対
的な位置には変化が無かった。その一方でパンゲア大陸そのものの変化は進行し、白亜紀
後期の始まり頃には南アメリカがアフリカから分離し、南大西洋が形成された。この出来
事は海流の変動を呼び、地球規模の気候形成に影響を与えた。
この白亜紀には、アロサウルス類(en)や最大の肉食恐竜として知られているものを含むスピ
ノサウルス類(en)などが繁栄していた。ティタノサウルス属(en)は当時の生態系の重要な草
食動物であった。アフリカでは、発掘された白亜紀の遺物は多いがジュラ紀のそれは少な
く、今後の調査が待たれる。
< 先史時代>
ほとんどの古人類学者は、人類はアフリカで生まれたという説を採っている。アフリカは
大陸移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰り返していた。人類の発生は約4000万年
前に遡る東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。
「イーストサイド説」では、豊かなコンゴ盆地の森林から一部のサルが乾燥したサバンナ
へ分かれ、進化が始まったという。
南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる。20世紀中
頃には、人類学者たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。
化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、放射年代測定から紀元前390-300
万年頃に生きたと考えられるアウストラロピテクス・アファレンシスや紀元前230-140万年
頃のパラントロプス・ボイセイ(en)、紀元前190-60万年頃のホモ・エルガステルが人類へ進
化したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、国家を持たず、
現代のコイコイ人やサン人のように狩猟採集社会の集団をつくって生活していた。
アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するとい
う循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていたサハラ砂漠は、12000年前頃に
は縮小に転じ、森林地帯の広がりとともにチャド湖など湖水の面積も大きくなった。この
北部アフリカの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈また牛の牧畜なども行っていた。
しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり、沙漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人
類は熱帯性気候の西や南、ナイル川流域などに移住した。
< エジプト・地中海文明の発生>
アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化
圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカがコプト教のエチオピアとイスラム教
のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特なアニミズムの伝統が濃
厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。
最古の史料が残っているのはファラオによる支配が始まったナイル川流域の古代エジプト
王国であり、紀元前3300年頃の文字記録が発見されている。これは世界最古の文明の一つ
で、紀元前2900年頃、メネス王が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれたピ
ラミッドによって世界的に知られている。紀元前1000年頃には製鉄技術が北アフリカにも
伝播し、急速に広がってブラックアフリカ北部まで鉄器が使われるようになった。
一方、チュニジアでも紀元前800年頃にフェニキアの植民都市としてカルタゴが築かれ、経
済大国となった。紀元前146年にカルタゴは共和制ローマに滅ぼされ、ローマ支配下のアフ
リカ属州となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、ゲルマン民族の大移動の時代に、チュ
ニジアでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地にヴァンダル王国を建設したが、地
中海世界の再統一に燃える東ローマ帝国によって534年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝
国の北アフリカ支配も長くはなく636年、パレスチナのヤルムク河畔で、日ののぼる勢いの
イスラム帝国(正統カリフ)に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカはウマイヤ朝時
代にイスラム勢力の支配下に入った。アッバース朝時代に勢力争いで、ハールーン=アッ
ラシードに敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、フェズにイドリ
ース朝を開いた。9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアのアグラブ朝、8
68年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエ
ジプト総督を世襲して事実上エジプト独自のイスラム王朝となったトゥルーン朝、トゥル
ーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えると
ともに大幅な自治を認め、イフシード朝の建国(935年)を許すなど分裂傾向を強めた。
< 西アフリカ・北アフリカ>
西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる土偶と製鉄技術をもったノク文化が
ナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響
をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀のイボ=ウクゥ文化、10-13世紀のイフェ文化、1
4-18世紀のベニン王国が繁栄し、優れた青銅製品で知られている。また西アフリカでは、
紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトや
ヌビア、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの青銅器が西アフリカで
発掘されている。これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す。この交易を背景に
繁栄したのがセネガル川上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼるといわれるガーナ
王国であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸
に伴って、マリ帝国がニジェール川上流のニアニを首都とし湾曲部のトンブクトゥを版図
に含んで13-15世紀前半まで繁栄、ソンガイ帝国が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェ
ール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈服させてその
版図の大部分を奪い、ほぼ西スーダンを統一する広大な版図を誇った。
一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの隊商による交易に利害のあった北アフ
リカ西部、マグリブにもベルベル人によって11世紀中葉-12世紀中葉にムラービト朝、12世
紀中葉-13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀にマリーン朝という強力なイスラム王朝が建て
られた。特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1
590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力なサアド朝(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。
イフリーキヤと呼ばれたチュニジアも、909年にアグラブ朝を倒して、ファーティマ朝が興
ると、926年には西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシ
ード朝を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都カイロに遷都(973年)して、カリ
フを称した。西カリフ国と呼ばれたイベリア半島の後ウマイヤ朝に比して、中カリフ国と
呼ばれた。エジプトではその後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、
アイユーブ朝のもとで実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国された
マムルーク朝が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立した
ハフス朝があり、これらの強力な王朝のもとで優れたイスラム建築が多数建設され、町並
みが世界遺産に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、1574年に
ハフス朝がオスマン帝国によって併合される。
モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国は
マグリブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と
場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴
史的に西スーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常
は西アフリカに区分される。
< 東アフリカ・南アフリカ>
東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀にコプト教を国教としたアクスム王国が、
ギリシャ、ローマ帝国、そして東ローマ帝国との交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世
紀頃にザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。沿岸
部では、イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、モガディシオ、キルワ、マリンデ
ィなどの港湾都市が繁栄した。交易路は、モザンビーク南部の港町ソファラからジンバブ
エのザンベジ川流域、リンポポ川流域にまで及び14-15世紀にショナ人によるモノモタパ王
国が金や象牙の輸出で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目されるグレート・ジンバブエ
遺跡からは、中国(宋、元、明代)の青花などの陶磁器、インドの綿製品、インドネシア
の数珠玉、ペルシャの壺などの出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語って
いる。モノモタパ王国が衰退すると、ロズウィ王国が19世紀半ばまでジンバブエの地を支
配した。
< 奴隷貿易>
長い間アフリカは、奴隷制度に蝕まれてきた。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への
奴隷貿易(en)は継続して行われ、1800万人がサハラ交易やインド洋貿易で取引された。大航
海時代を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易
路が形成されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた。15世紀から19世紀までの5
00年にはアメリカ州向けの奴隷貿易(en)が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出
された。
1820年代、西アフリカは大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られ
た。ヨーロッパや新世界における奴隷制度廃止運動の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸
部でのイギリス海軍駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。18
08年から1860年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊(en)は約1600隻の奴隷船を拿捕し、1
5万人のアフリカ人を解放した。
また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「ラ
ゴスの略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はア
フリカ50カ国以上の国々で締結された。この動きに、国力があったアシャンティ王国、ダ
ホメ王国、オヨ王国(en)は順応する動きを取り、アシャンティやダホメはパーム油やカカオ、
ランバー材(en)や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。
しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した。
< アフリカ分割>
19世紀後半には、アメリカ開放奴隷が建国したリベリアと第一次エチオピア戦争で独立を
維持したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が行われ、西アフリカ
の小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後
の民族紛争の原因ともなった。
< 脱植民地化>
詳細は「アフリカの脱植民地化」、「:en:Decolonization of Africa」、および「アジア・ア
フリカ諸国の独立年表」を参照
ヨーロッパ列強の帝国主義は第二次世界大戦以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸
国の独立への機運が高まった。1951年にはリビアがイタリアから、1956年にはチュニジア
とモロッコがフランスから独立を果たした。翌年にはガーナが続き、サブサハラ初の脱植
民地を成した。
1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生
したが、独裁政治の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統
合をして、新植民地主義への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上など
を目指し1963年5月に発足したアフリカ統一機構(OAU)が、2002年7月9日には発展解消し
てアフリカ連合が成立した。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割
を担い、今日でも紛争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目
指している。
< 民族>
イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。
現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。
< 言語>
アフリカは言語の種類が多い。系統分類では4語族に大別されるが、部族毎に異なる特徴を
持つために多くの言語数に分岐し、世界の言語数のうち30%程度を占めるとも言われる。
また、同じ人々が使う言語にも、部族語と地域共通語、さらに公用語と状況に応じて使い
分けられる垂直型の多層言語が存在し、総言語数を多くしている。
< 宗教>
アフリカには、過去からの土着宗教と、イスラム教スンナ派、キリスト教のローマ・カト
リック、プロテスタントの各派が分布している。伝統的な土着宗教は、祖霊信仰や自然崇
拝に加え、サブサハラでは創造神の概念も存在する。また、呪術信仰も根強く、これを担
うシャーマニズムも健在である。
世界宗教のアフリカ伝播は、ローマ帝国の領土拡大に伴うローマ・カトリックが最初に当
たり、これは4-5世紀に北アフリカで最盛期を迎える。しかしこれは同帝国の衰退とアラブ
人の進出によって衰退した。19世紀のアフリカ分割に伴うヨーロッパ列強の植民地化によ
って再びローマ・カトリックは広まったが、この地域は中央アフリカに場所を変えていた。
イスラム教スンナ派は北アフリカを中心に人口の30-40%を占める。その伝播経路は、ナイ
ル川に沿ったアラブ人の進出、サハラ交易による伝播、海上貿易による東海岸沿岸への伝
播の3つがある。プロテスタントもまたアフリカ分割とともに広まったが、その地域は南部
が主流となった。南アフリカにはいち早くアフリカ人によって教会が建設された。その特
色は聖書中心主義があり、またペンテコステ派と土着宗教が融合した精霊教会という形態
も存在する。
< 教育>
アフリカの教育は世界の中でも未発達で、特にサハラ以南の多くの国々で就学率が低い。
学校は基礎設備に欠き、アフリカの大学は生徒の増加と、教職員がより高い給料を求めて
西側諸国に移住する為の不足が問題となっている。ユネスコ2000年の調査「Regional overv
iew on sub-Saharan Africa」では、児童就学率は58%に止まった。
アフリカでは出生登録が充分に行われず、親が子供に教育を受けさせようとする意識が低
い。これらに貧困が加わり、教育現場からの脱落のみならず、児童労働や人身売買、育児
放棄や犯罪、子供が戦場へ狩り出されるなど様々な問題が生じている。
< 運動>
NEPAD's E-school program, インターネット・コンピュータ設備を大陸全学校に備える事を
目的としている。
ブリティッシュ・エアウェイズ はユニセフと共に "Change for Good in Africa" プロジェク
トとして、 モデルスクール・Kuje Science Primary Schoolをナイジェリアに建てた(2002
年)。
< 保健>
アフリカは栄養・医療・衛生面でさまざまな問題を抱えている。2008年度世界の栄養不足
率が高い10位(同率があり12カ国)はハイチを除いてアフリカ諸国に占められ、、1位のコ
ンゴ民主共和国は76%の国民が相当する。このような環境は乳幼児にも悪影響を及ぼし、
サブサハラ全体で5歳未満の死亡率は15-20%で推移している。これも、下痢やはしかなど医
療環境が整っていれば助かるものだが、世界保健機関 (WHO)が定める最低医療体制である
人口10万人あたりの医師20人・看護師100人・その他医療従事者228人という基準を満たす
サブサハラの国は南アフリカのみである(2007年度)。
また、後天性免疫不全症候群(エイズ)の蔓延も大きな問題となっており、国家予算の半
分近くがエイズ対策に費やされる国家すら出現している。特にサブサハラではひどく、15
歳以上の感染率はスワジランドでは26.1%、ボツワナでは23.9%にのぼる(2008年)。感染
者数最大は医療体制が比較的充実している南アフリカの570万人である。世界中のエイズ感
染者のうち2/3がサブサハラに集中している。この蔓延には女性の社会的地位が低いことも
一因であり、レイプの多発や一夫多妻制などが影響していると考えられ、実際に感染率は
女性の方が軒並み高い。これらの要因から中南部諸国における平均寿命は著しく低下し、1
0カ国以上で50歳を下回っている。
< 文化>
エジプトからモロッコまでの北アフリカ諸国は、アラブ文化と関わりを持つ人々がいる。
< 食文化>
アフリカの食文化は、狩猟民族的特長が強い。すなわち、肉やイモ類などをそれぞれ単一
で料理し、複数の食材を混ぜて調理することは少ない。また、米を除く穀類のほとんどを
挽いて粉食する点も特徴である。この代表が、イネ科穀物の粉を用いる西アフリカの「ト
ー」や東アフリカの「ウガリ」が代表的である。
酒では西部から中央部で作られるヤシ酒、熱帯地方のバナナ酒などの特色がある。トウモ
ロコシ類からビール、もろみやバナナ酒から蒸留酒も造られる。ワイン醸造も行われ、現
代では南アフリカが盛んな地域に当る。
< 音楽>
特にサブサハラのアフリカ音楽は儀礼と結びつきが強く、ダンスに伴って演奏される。体
鳴楽器や膜鳴楽器は独自のものが多様に存在し、前者ではラメラフォーンやコラ、後者で
は様々なドラムが知られる。中には伝達手段に用いられるトーキングドラムなどもある。
< 美術>
アフリカ美術のうち、古代文明を築いたエジプトは独自の美術体系を発達させた。神聖文
字と組み合わせた形式の連続性は、やはり独自の形式であるピラミッドや寺院および墳墓
などのエジプト建築と組み合わされ、壁画や彫刻類、そしてツタンカーメンに代表される
棺などで複雑かつ華麗な体系を持った。この芸術の系統は、紀元前30年にローマによる征
服を受けて途絶えた。
サフサハラの芸術は民俗学と美術史の両面から論じられるが、その分析は未だ途上にある。
大きな特徴は多様な造形分野であるが、これは美術品として単独で成り立つものではなく、
生活および宗教と深く関連している。木材を好んで用い、仮面など身体装飾や彫刻など、
また宗教や祭祀用道具および日用品なども彩色されたものなど種類も多い。その一方で建
築分野ではあまり見るべきものがない
◎ アフリカ(日本比較)資料
陸地面積(世界との比率) 人口(世界との比率)
日
本
37.8万平方㎞
127,799 ,000
アフリカ(約80倍)3.020平方㎞(20.4%)
10億(14.7%)
言語
宗教
部族
ヨーロッパ列強の帝国主義は第二次世界大戦以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の
独立への機運が高まった。1951年にはリビアがイタリアから、1956年にはチュニジアとモロッ
コがフランスから独立を果たした。翌年にはガーナが続き、サブサハラ初の脱植民地を成した。
1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生した
が、独裁政治の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、
新植民地主義への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し1963
年5月に発足したアフリカ統一機構(OAU)が、2002年7月9日には発展解消してアフリカ連合
が成立した。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛
争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している。
(北アフリカ)
(西アフリカ)
ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガル人アンタム・ゴンサルヴェス
が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したこと
に始まる。これらの人々は全てベルベル人で黒人ではない。
ベルベル人(ベルベルじん)は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・
アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占め
るようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的
にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。
大航海時代(15C半ば∼17C半ば)のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、
奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。
(中部アフリカ)
(東アフリカ)
◎人類発生の地:エチオピアから20万年前のhomo sapiensの化石発見
(南部アフリカ)
ヨハネスブルグから700万年前の人類の化石発見
◎ アフリカの主要言語
<北アフリカ>
1 アルジェリア (アルジェ) :アラビア語、フランス語
2 エジプト (カイロ) :アラビア語
3 スーダン (ハルツーム): アラビア語、英語
4 チュニジア (チュニス) :アラビア語、フランス語
5 モロッコ (ラバト) :アラビア語、フランス語、スペイン語
6 リビア (トリポリ) :アラビア語
7 南スーダン(ジュバ): 英語
< 西アフリカ>
1 ガーナ (アクラ): 英語
2 カーボベルデ (プライア): ポルトガル語
3 ガンビア (バンジュール:) 英語
4 ギニア (コナクリ): フランス語
5 ギニアビサウ (ビサウ): ポルトガル語
6 コートジボワール (ヤムスクロ)、(アビジャン): フランス語
7 シエラレオネ (フリータウン): 英語
8 セネガル (ダカール): フランス語
9 トーゴ (ロメ): フランス語
10 ナイジェリア (アブジャ): 英語
11 ニジェール (ニアメ): フランス語
12 ブルキナファソ (ワガドゥグー): フランス語
13 ベナン (ポルトノボ): フランス語
14 マリ (バマコ): フランス語
15 モーリタニア (ヌアクショット):アラビア語、フランス語
16 リベリア (モンロビア): 英語
< 中部アフリカ>
1 ガボン (リーブルヴィル): フランス語
2 カメルーン (ヤウンデ): フランス語、英語
3 コンゴ共和国 (ブラザヴィル): フランス語
4 コンゴ民主共和国 (キンシャサ): フランス語
5 サントメ・プリンシペ (サントメ): ポルトガル語
6 赤道ギニア (マラボ): スペイン語、フランス語、ポルトガル語
7 チャド (ンジャメナ): フランス語
8 中央アフリカ (バンギ): フランス語
9 ブルンジ (ブジュンブラ): フランス語
10 ルワンダ (キガリ): フランス語
< 東アフリカ>
1 ウガンダ (カンパラ): 英語、スワヒリ語
2 エチオピア (アディスアベバ):アムハラ語
3 エリトリア (アスマラ) :ティグリニャ語、アラビア語
4 ケニア (ナイロビ): 英語、スワヒリ語
5 ジブチ (ジブチ市): フランス語
6 セーシェル (ヴィクトリア): 英語、フランス語
7 ソマリア (モガディシュ):ソマリ語、アラビア語
8 タンザニア (ダルエスサラームおよびドドマ): 英語、スワヒリ語
< 南部アフリカ>
1 アンゴラ (ルアンダ): ポルトガル語
2 コモロ (モロニ) :フランス語
3 ザンビア (ルサカ) : 英語
4 ジンバブエ (ハラレ): 英語
5 スワジランド (ムババーネ): 英語
6 ナミビア (ウィントフック): 英語、アフリカーンス語
7 ボツワナ (ハボローネ): 英語
8 マダガスカル (アンタナナリボ): フランス語
9 マラウイ (リロングウェ): 英語
10 南アフリカ共和国 (プレトリア)、(ケープタウン)、(ブルームフォンテーン):
英語、アフリカーンス語他
11 モーリシャス (ポートルイス): 英語、フランス語
12 モザンビーク (マプト): ポルトガル語
13 レソト (マセル): 英語
奴隷海岸(どれいかいがん、Slave Coast)は今日のトーゴ、ベナン、およびナイジェリア西部
の海岸地帯のヨーロッパ勢による呼称。ベニン湾に沿った西アフリカの大西洋岸である。16世
紀初頭のポルトガルの到来から19世紀初頭の奴隷貿易の公式廃止まで、大西洋岸の全域から多
くの黒人奴隷が、奴隷商人を介して西欧や新世界(南北アメリカ大陸)に運ばれる船に乗せら
れた。他の黄金海岸及び象牙海岸、胡椒海岸と並び「主要産品」に因んでそう呼ばれた。
奴隷商人は現地の黒人の部族に旧式の武器などを渡し、他の部族を襲わせ、武器の対価として
奴隷を獲得した(三角貿易)。その数は1000万人とも2000万人とも言われており、大多数が働
き盛りの男性だったことから、アフリカの人的・経済的・文化的な損失となり、現在までの貧
困の原因の一つとされている。
ドバイ
(アラビア語: ‫、دﺑ ﻲ‬Dubayy、英語: Dubai:ドゥバイ)は、アラブ首長国連邦を構成する首長国の
ひとつ。また、ドバイ首長国の首都としてアラビア半島のペルシア湾の沿岸に位置する都市。
中東屈指の世界都市並びに金融センターである。首長はムハンマド・ビン・ラーシド・アール・
マクトゥームであり、アラブ首長国連邦の副大統領と首相も兼任している。
物館の一部漁業や真珠の輸出を産業の主とする小さな漁村だったこの地に、アブダビの首長ナ
ヒヤーン家と同じバニー=ヤース部族のマクトゥーム家が、1830年代にアブダビから移住。こ
れに伴ってドバイ首長国が建国され、ここに今に至るドバイの歴史が始まりの時を迎えた。1
853年に他の首長国と同時にイギリスの保護国となる。
近代 統治を担ったイギリスはこの地を、東インド会社に到るための貴重な中継地とした。20
世紀になると、歴代の首長の推進をもとに自由貿易の政策を採ったことで、周辺地域の商人達
の拠点となりゆく流れのなかで、中継貿易港としての色合いを濃くしてゆく。
一方で、もうひとつの経済の柱であった真珠採取は20世紀初頭に日本で御木本幸吉が養殖真珠
の開発に成功したことから産業として成立しなくなり、ドバイの経済に打撃を与えた。これに
当時の世界不況が重なって社会不安が高まり、1938年には首長派がクリーク南岸のバール・ド
バイ地区に、反首長派が北岸のデイラ地区に陣取って一触即発の危機を迎えた。この事態を収
束させるために首長は地元有力者による議会の開設に同意し、議会は行政改革を行ったものの、
やがて首長と対立して議会は解散させられた。
勃興
第二次世界大戦が終結し、20世紀も半ばに迫った頃、この地を近代的な都市にすることを夢見
た当時の首長ラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥーム(英語版)の推進により、1
959年のクウェートからの借金をもとにして社会資本の近代化が図られてゆく。ラーシドはこ
の借入金でドバイ・クリークの浚渫工事を実施し、中継貿易港としての基礎固めに成功して、
以後の大発展の基礎を築いた。
1958年のアブダビにおける油田の発見に続く、1966年のドバイ沖の海底油田の発見はこの動き
に大きな力を与えた。
独立
1971年のイギリス軍のスエズ以東からの撤退に伴って、同年の12月2日、他の6の首長国ととも
にアラブ首長国連邦をこの地に結成。その副大統領兼首相となったラーシド首長を指導者に据
え、原油依存経済からの脱却の取り組みと産業の多角化を進めてゆく。
その流れのうえで1981年(1985年)に開設に至った『ジュベル・アリ・フリーゾーン (JAFZ) 』
という名の経済特区と大型港湾、およびナショナル・フラッグ・キャリアとしてのエミレーツ
航空の就航開始は、国外資本や外国企業の進出とあわせて『人』と『物』の集積地としての発
展を急速に促していった。
繁栄
21世紀に入る頃には、従来からの近代化の波を経て、中東における貿易・商業の最大の中心地
と呼ばれるまでのメトロポリスに変貌していた。
1970年代からわずか約20年のうちに起こった変化は、都市外観のそれのみならず、経済の石油
依存率は半分以下に減じ、GDPの伸びは30倍に達するなど、『中世から近代への急変』との表
現をもって語られる激変そのものである。
2003年以降の発展は特に凄まじく、2004年の後半から続く原油高がその発展を更に後押しして
いる。2005年度の経済成長率は 16 % と高い成長率を見せており、2007年の実質GDPは1980
億ディルハム(約6兆円)にまで達している。人口も220万人を超えたドバイは摩天楼の連なる
幻惑的な都市国家として中東でも随一の繁栄を誇っている。
現代 2008年後半に起きたアメリカのサブプライムローン問題に端を発した世界経済の低迷に
より、これまで急激な勢いで伸び続けてきたドバイにも影響があった。
外国企業からの投資引き上げや地元企業の資金繰り悪化と、それに伴う多数の建築工事や計画
の中断が報じられており、またその結果起きた外国人労働者の失業や経済低迷報道を受けた観
光客の減少などの影響をうけるものの、2010年度の海外からの観光客も前年比9.2%増の8,294,
132人を記録するなど中国をはじめ新興国からの観光客の増加を見ている。。
「ドバイ・ショック」 さらに2009年11月には、ドバイ政府が欧米系の金融機関に対して、政
府系不動産開発会社の「ナキール」社とその持ち株会社の「ドバイ・ワールド」社の債務約5
90億ドルについて支払い猶予を求めると発表したため、「ドバイ・ワールド」社並びにドバイ
政府自体の債務不履行と併せ、欧米系銀行の債権焦げ付きが懸念され、ユーロが売られるなど
「ドバイ・ショック」と呼ばれる事態となった。ドバイ金融市場の株価も大幅に下落しており、
2010年1月現在、時価総額は380.9億ドル(約3.5兆円)にまで落ち込んでいる。東京証券取引所
やロンドン証券取引所の1%程度の時価総額規模である。
その様な状況下にあるものの、「中東の金融センター」としての地位はゆるぎなく、2020年に
は中東初の万国博覧会と2020年夏季オリンピックの開催地になることを目指している。 なお
シティグループの試算によると、ドバイの2010年の GDP は2540億ディルハム(約6兆円)で
あり、ほぼ滋賀県と同じ経済規模である。また2012年には2828億ディルハム(約6.6兆円)に
なると予測している。
2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総
合的な世界都市ランキングにおいて、世界第29位の都市と評価されており、特にビジネス分野
での評価が高かった。中東の都市では第1位である。
地理 [編集]中東地域のほぼ中央、ペルシア湾に面した平坦な砂漠の地にあり、面積はアラブ
首長国連邦の構成7首長国中第2位にあたる約3,885km²。北でシャルジャ首長国に、南でアブダ
ビ首長国に、東で国境を隔ててオマーン国に接する。
街は東西に流れる運河を軸として大きく2つに分かれる。『ハウル・ドバイ』(ドバイ・クリ
ーク、 awr Dubayy)というこの川を軸として、北側を『デイラ』 (Deira) といい、南側を『バ
ール・ドバイ』 (Bur Dubai) という。ドバイはこのクリークを港として使用することで成立し
た都市であり、この2地区はドバイ成立時からの市街地として旧市街を形成している。
ドバイの北はすぐにシャルジャ首長国との境界線となるが、南のアブダビ首長国との境界線は
市街からかなり南に位置する。このため、ドバイでの大型開発はこの地域で行われることが多
い。バール・ドバイの南にはUAEを貫く幹線道路であるシェイク・ザーイド・ロードが走って
おり、道の両側には2012年現在世界一の高層ビルであるブルジュ・ハリーファをはじめとする
高層ビルが林立している。市街の南西にはリゾートエリアであるジュメイラ・ビーチ地区が開
発され、高級ホテルブルジュ・アル・アラブや、「パーム・アイランド」や「ザ・ワールド」、
「ジュメイラ・アイランズ」といった人工島群が建設されている。さらにその南西にはジェベ
ル・アリー港が建設され、工業地帯となっている。
ドバイ市街の西と南には砂漠地帯が広がるが、西端には山岳地帯があり、ハッタなどのオアシ
スが点在する。
気候 [編集]亜熱帯気候にして夏冬の二季。夏季には、気温が50℃を超えることもあり、雨が
まったく降らないにもかかわらずしばしば100%の湿度を観測する。逆に、年のおおよそ11月
から3月にあたる冬季にはしばしば肌寒くもなる。また、冬季は砂嵐が発生することもある。
しかし、冬季の平均気温は20度前後で非常にすごしやすく、観光業においてはハイシーズンと
なっている。なお、ケッペンの気候区分では砂漠気候に相当する。
小 野 国 際 交 流 ク ラ ブ 第 87 回 例 会( 平成24年11月)の ま と め
<日
時>
平成24年11月17日(土) 16:00∼18:00
<会
場>
小野市うるおい交流館エクラ 2階サークル室
<今月の話題> 「南アフリカ・ダーバンへの訪問∼国際協力・日本文化紹介を目指して∼」
(村田和繁 会員)
<配 布 資 料> 小野国際交流クラブ第87回例会(平成24年11月)次第(別紙の通り)
「小野国際交流クラブ第87回例会(平成24年11月)資料」
(別紙(1∼10頁)の通り)
資料Ⅰ:村田和繁会員提供
資料Ⅱ:竹内英晃会員提供 資料Ⅲ:土本茂治会員提供
Ⅰ 村田会員による説明(+本人が現地で撮影し編集したビデオ上映)
1 今回の旅行は「日本文化紹介+国際協力」の趣旨であったので、万難を排して参加した。
2 大手の旅行会社の企画とはかなり異なる日程等であり、色々な意味で得るところが大変多か
った。
3 機内3泊、ホテル5泊の9日間の旅であり、初めてのアフリカ旅行であった。
4 旅行団73名(男9人、女64人、高齢者が多かった。)の構成グループは多彩で、一人だけで
参加したのもあわせて13グループであった。
5 日本文化紹介(ジャパンフェスティバル)はダーバン市文化ホールを借りて行われた。和服
の着付け、日本の歌(コーラス、ソロ)、現地の学生多数参加の合唱、日本髪結い(現地人
も参加)、柔道・空手、日本舞踊と三番叟、琉球舞踊、太極拳、高野山の僧侶たちによる日
本仏教のお祈り等の上演並びに盆栽・和服・帯、等々の展示が行われた。
6 握り飯を現地で作って食べてもらったり、安い値段で売って東日本震災の寄付金にしようと
したが、事前に打ち合わせてあったにも関わらず、フェスティバル当日の朝になって、宿泊
したホテルに出店している和食店から(自分の店以外で日本食を売られては困ると)強い抗
議が出され、この事業は中止となり、事前に船便で送っていた米は、高い山の麓にある原住
民部落の人々に贈呈して、感謝して戴いた。
7 ある意味では一人飛び込みの参加だったので、買い物(値切り)援助、ポーター役、ビデオ撮
影、ダーバン市役所職員との交渉、通訳等々、色々な点で協力・援助を行い、多くの方から
感謝して戴いたことは幸いであった。
8 朝と夕方のサファリはとても珍しい初体験であった。日本製のランドクルーザーが道ならぬ
岩のかけらだらけの道を時速6キロ程度の速度で前後左右にゆれながら(現地ガイドは「ア
フリカン・マッサージ」と言っていた)2,900メートルほどの山頂に向かって進んだ。原住民
の大人や子どもとも話をした。
9 広い原野を走る1本の非舗装道路をサファリ車は走った。野生動物としてはキリン、犀、象、
野牛、禿鷲等がいたが、はるか遠方なので認識するのに参加者は皆苦労した。運転手兼ガイ
ドは目の病気のために視力が6.0しかないが、普通の現地人なら7.0か8.0はあると言っていた。
10 現地はイギリスの植民地であった関係もあり、英語の通じない場面には出くわさなかった。
11 アフリカの自然、特に独特の形をした岩山は印象的であった。
12 日本人とアフリカ人との相違点は当然あるが、一方では「人間とは世界のどこに行っても合
い通じる共通点がある」という当たり前のことを改めて感じた。
Ⅱ 意見交換
1 ダーバンは、白人系の人が多く、人口はヨハネスブルグに次いで多い。資料によると、英語
よりズール語が話されるようだが、私は英語で話して不自由はなかった。古くからのリゾー
ト地だが、近年治安が急速に悪化している。
2 ドバイは、第二次大戦後、首長ラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥームが、いい
3
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6
7
8
9
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12
13
14
意味での独裁者として近代化を推進。30∼40年前は砂漠だった地に超近代的都市を築い
た。大きなキャリーバックを持った人が10人以上乗れるような大きなエレベーターにはと
ても驚いた。
今回の旅行を企画した「なごみの会」の代表は、ダーバンに、いろんな国の人たちが集い、
宗教にこだわらず語りあえるような お寺を何十年かかってもいいから建てたい、との思い
で今回のツアーを企画した。
「ジャパンフェスティバル」と銘打った催しだったが、看板も何もないので、私が会場の外
で客寄せをした。
豊田家は、奥さん方がクリスチャンで、けっこういろんな文化活動をしている。
ホールの横で、着物や帯、盆栽、和服の写真3枚セットなど販売する準備を前日に手伝った。
フィリピンでは、日本の折り紙が普及している。そろばんも普及すればいいと思う。
40年ほど前は、アパルトヘイトが厳しくて、黒人は貧しい人が多く、暴動がおこることも
あった。
ダーバンの治安は、聞いていたほど悪くなかった。旅行責任者は、トラブルを警戒して、う
るさく注意したのだと思う。
ダーバンは、もともと奴隷を海外に送り出す港だった。
中国人のアフリカ進出の話はよく聞くが、今回の旅行で具体的な実例を見ることはなかっ
た。
日本は、ODAを中国に回さずに、アフリカに投資をするべきであった。
南アフリカでは、水の心配はなかった。岩山で湧水を飲んでみたが、問題はなかった。
中国では、水の絶対量が不足している。その上、足りない水を優先的に工業に回しているの
で、農 業は壊滅的だそうだ。
資料Ⅱについて
1 この討論会で述べられているさまざまな実例は、長野の聖火リレーの事件のことを考え合わ
せても、十分考えられることだと思う。日本の国会議員が、なぜこのような中国の脅威に対
して、切実な危機意識を持たないのか疑問だ。
2 ごく一部には、中国の脅威を表明する議員がいるが、大勢は知っていてもあえて表明しよう
とはしない。中国の利権があるのか、何らかの弱みを握られているのか。
3 国家意識の希薄な政治家が多いとすれば、そんな議員を選んでしまった我々国民の責任が問
われるべきではないか。
4 自民党の党是が自主憲法制定であったが、これまでそれを本気でやろうとした内閣はないに
等しい。それは、選挙の票にならないからだ。
5 今日の日本の体たらくの原因のひとつは、マスコミの偏向報道にある。NHK職員の3分の
一は、半島系だと言われる。またNHK職員が起こす不祥事は、他の企業に比べて格段に多
い。
6 李明博大統領の無礼な発言以来、韓流ドラマの放送が減ったのかと思いきや、今なお毎日ど
こかのチャンネルで放送されている。
7 一日中朝から晩までどこかのチャンネルで韓流ドラマが放送されるように電通が仕組んで
いる。
8 日本の放送局なのに、キム・ヨナが優勝したら韓国国歌を放送するが、浅田真央が優勝して
も「君が代」を放送しない。気をつければ、韓国系企業のTVコマーシャルが頻繁に流れて
いることが分かる。
9 日本に帰化しているからといって心底日本人になっているわけではない。単に金儲けに都合
がいいから日本国籍を取っているだけだ。
10 何をもって中国の脅威というのか。中国の領土的野心、経済的圧力、反日主義、日本国内に
おける中国人人口の急増等。極論すれば、数十年後、日本はチベットや内モンゴルのように
中国の一部になってしまうのではないかという脅威を感じる。
資料Ⅲについて
1 多くの日本人に、この資料に書かれている程度の日中・日朝の歴史的事実を知ってもらいた
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い。福沢諭吉が『脱亜論』で述べているように、中国人や朝鮮人との付き合いは、ほどほど
にする方がよいと思う。
鳩山元首相が東シナ海を友愛の海にしたいと提案したが、中国人からはカモにされただけで
あった。日本の政治家は、このことを しっかり認識し、これからの国の舵取りをしてもら
わないと困る。
しかし、外交についてはっきり本当のことを表明すると、選挙の票に響く。今の選挙制度で
は、当たり障りのないことを言うほかない。だから政治家が信念を持って、国家の進むべき
方向を主張できない。
日本の国会議員の中に96人帰化人がいると言われている。彼らが本当に、日本の国家・国民
のための政治を志すのならよいが、日本のためと言いながら 日本の弱体化をたくらむとし
たらとんでもないことだ。国が亡びるのは、他国から攻められるからではなく、国の内側か
ら壊されることによって亡びるのだ。
日本の国内では、日本人は性善説で生きていけるが、中国ではそうはいかない。もちろん来
日した中国人も、日本人のように振る舞うわけではない。その点は注意が必要だ。しかし、
処世的な問題と、歴史問題は分けて議論すべきだと思う。
このクラブは、学問的に厳密な議論をする場ではなく、気軽に感想を述べ合う場であればい
いと思う。