ビートルズの経済学

The Extension Course of the BEATLES Part2
Instructor : Toshinobu Fukuya
(Ube National College of Technology)
The 3rd Session : The Business Management of the Beatles
8/24 2006
1
黎明期のビートルズのバンド・マネージメント
ビートルズはドイツのハンブルグでプロとしての活動をスタートさせている。ヨーロッパ最大
の歓楽街、ハンブルグのセント・パウリ地区で幾つかのナイト・クラブを経営していたブルー
ノ・コシュミダーは、安くてワイルドな演奏をするバンドを探していた。そういうバンドは、ロンド
ンのバンドよりもリバプールのバンドであることが常であった。ロンドンほど音楽ビジネスが確
立していないだけリバプールのバンドのギャラは安価で、ハンブルグと同じ港町ということで
気質の荒いファンの扱いに慣れていたのであった。
コシュミダーのリバプールの連絡先は、「ジャカランダ」というコーヒー・バーを経営していた
アラン・ウイリアムスという男であった。そのバーは、貧乏なビートルズが一杯のコーヒーで何
時間も暇をつぶしていた場所でもあった。彼らは、コシュミダーがバンドを探していることを聞
きつけ、ウイリアムスに、是非自分たちにチャンスをくれと頼み込んだ。ウイリアムスは、ビー
トルズのキャリアに不安を感じながらも、他にバンドが見つからなかったので、自分の小さな
バンにビートルズのメンバーと楽器を押し込み、自らハンドルを握って、バンドをハンブルグへ
送り込んだ。1960 年のことであった。
ハンブルグ行きのフェリーに積まれるウイリアムスのバン
このように、ビートルズのプロとしての活動は、正規のバンド・マネージメントと言うには程
遠い、ある意味で「やくざな」エセ・プロモーターたちとの関わりからスタートしている。しかしこ
こで重要なことは、高校を卒業したばかりのビートルズが、如何わしさ漂う異国の地に対する
不安を払拭して、自分たちの夢に賭けてみようとした「必死さ」である。ジョンの当時の口癖は
"I'm desperate."「俺は必死なんだ」であったという。
ビートルズがライブ演奏を展開したのは「カイザーケラー」というナイト・クラブであった。週
給15ポンドという金銭的条件の良さ(ポールは「父親の稼ぎより上だった」と後に述べている)
がハンブルグ行きの決め手の一つではあったが、労働条件は過酷を極めた。夜、5-6時間
演奏するのが常であり、土曜の夜などは8時間に及ぶこともあったという。睡眠時間は、当然
のことながら慢性的に不足し、目を覚ましておくための薬に頼ったのも無理からぬことであっ
た。ビートルズの最初のドラッグ体験であったが、それは、現実から逃避するためのものでは
なくて、目の前に突きつけられた厳しい現実に立ち向かうための選択であった。
「カイザーケラー」の主な客層は、船乗りや港湾労働者であり、彼らのお目当ては、ビート
ルズの演奏と交互に繰り広げられるストリップ・ショウであった。それでもビートルズは、クラ
ブ・オーナーのコシュミダーの「マック・シャウ!」(「ショウを盛り上げろ!」)という命に必死に
答えようとした。客をのせるためには何でもやった。ブーツでステージを踏み鳴らし、ときには
便器の蓋を首にぶら下げて演奏したこともあった。しかし、この過酷な条件は、ビートルズに
真のショウマン・シップとミュージシャン・シップをもたらした。演奏は荒々しくかつタイトになり、
客の放つ卑猥な野次さえも逆手にとって切り返す余裕が生まれていた。ジョンは、バンドとし
ての「僕らを育ててくれたのはリバプールじゃない、ハンブルグだよ」と語っている。
2
カイザーケラー
カイザーケラーでマック・シャウするポールとジョン
最初のマネージャー、ブライアン・エプスタインとの出会い
ハンブルグでプロとしての必要条件をしっかりと身につけたビートルズは、活動の本拠地
を生まれ育ったリバプールに移し、マシュー・ストリートにある「キャバーン・クラブ」を根城にす
る。同じ「キャバーン」の看板グループ、スゥインギング・ブルージーンズのメンバーは、「ある
日、キャバーンにリハーサルのために入ろうとしたら、もう客が並んでいた。俺たちの人気も
かなりのものになってきたなと思ったら、並んでいる客は次のビートルズが目当てだと聞いて
びっくりした」と、当時を振り返っている。
「キャバーン」からワン・ブロック先の角を曲がった場所に、リバプール最大のデパートがあ
った。そのデパートは、「ビートルズの育ての親」と言われるブライアン・エプスタインの実家が
経営していたもので、一画に、楽器やレコードを扱う「ノースエンド・ミュージック・ストア」
(NEMS)が店先をひろげていた。レコードの品揃えが北イングランドでは一番であったというミ
ュージック・ストアは、息子のブライアンに任されていた。
ブライアンがビートルズの存在を知ったのは、店の客の一人が「リバプール出身のビート
ルズのレコードはないか」と尋ねたときであった。ビートルズという名前すら聞いたことのなか
ったブライアンであったが、興味半分で調べてみると、客の欲しがっていたのは、トニー・シェ
ルダンとシルバー・ビートルズの「マイ・ボニー」であったと判明した。ハンブルグ時代にビート
ルズがバック・バンドとしてレコーディングしていたシングル・レコードであった。ちなみに、この
「マイ・ボニー」は、日本でもポリドール・レコードから発売されている。
ビートルズとミーティングするブライアン(中央)
ブライアンは、ある日、目と鼻の先の「キャバーン」に出かけて行った。彼は、ビートルズの
荒々しさをむき出しにしたステージに違和感を覚えながらも、抗しがたい動物的感性を見て取
った。その日の帰りには、マネージメントをしたい旨を申し出ている。成功するには凄腕の実
3
務家が必要だと痛感し始めていたビートルズの方も、ブライアンの申し出は渡りに舟であった。
以後、ビートルズのマネージメントの一切は、ブライアンが設立した「ネムズ・リミテッド」
(NEMS Ltd.)が取り仕切ることとなる。
ブライアンの音楽業界でのキャリアは、ロンドンに拠点をおくレコード会社と実際の取引を
行っているということ以外、これといったものはなかった。しかし彼には、溢れるばかりの野心
があった。加えて、ロード・マネージャーとなったニール・アスピノールは、ビートルズがリバプ
ールでテディ・ボーイ(不良少年)を気取っていた頃からの友人である。つまり、形が整った直
後のビートルズ軍団は、バンドのメンバーを含めてノン・キャリアで構成されていたと言える。
これは、階層社会イギリスにおいては、無謀とも思えるほどの階級闘争でもあった。
ブライアンが、ビートルズを売り出すために最初にしたことは、クリーンなイメージ作りであ
った。レザー・ジャケツトにドレインパイプ・ジーンズというテディ・ボーイ風のいでたちのビート
ルズに、ソフィスティケイトされたイタリアン・スーツを着せた。これは、ビートルズがファンの両
親からも容認されるという現象に大いに貢献した。当時ビートルズとティーンエイジャーたちの
人気を二分していたローリング・ストーンズが、徹底して不良のイメージを前面に押し出したの
とは対照的な戦略であった。
辣腕プロデューサーから受けた通過儀礼
ブライアンは、ビートルズにレコード契約をもたらそうと、何度もロンドンへの売り込みをか
けた。リバプール・サウンド、あるいはマージー・ビート(マージーとはリバプールを流れる川の
こと。ハーマンズ・ハーミッツ、デイブ・クラーク・ファイブ、サーチャーズ、アニマルズ、ハニーカ
ムズなどがマージー・ビートの代表格)という言葉がマスコミを賑わすのは、ビートルズの出現
後のことであり、それ以前のリバプールは、イングランド北部の錆びれた労働階層の街でしか
なかった。要するに音楽産業と呼べるほどのものは存在しなかったのである。
ブライアンは、はじめデッカ・レコードに売り込みを図り、オーディションにまでこぎつけたが、
レコーディング契約にまでは至らなかった。ブライアンの持っていたデモ・テープに興味を示し
てくれたのは、EMI 傘下のパーラフォン・レーベルのプロデューサー、ジョージ・マーティンであ
った。彼には時代の音を聞き分ける「耳」があった。彼はこの後、ビートルズ・サウンドを作っ
た男として、「5人目のビートルズ」と呼ばれるようになる。マーチンのサウンド・プロデュース
力とブライアンの献身的貢献によって創りあげられたビートルズ現象(Beatlemania)がイギリ
ス中を席捲したとき、金の卵を指からすべり落としてしまったデッカ・レコードは、対抗馬として
ロンドンのアンダーグラウンド・シーンで活動していたローリング・ストーンズとあわてて契約し
ている。
ジョージ・マーティン
ジョージ・マーティンのプロデュースのもとでレコーディングが決まったビートルズであった
が、マーティンは、ビート・ベストのドラムがいまひとつであることをブライアンに告げる。辣腕
4
レコーディング・プロデューサーとしての研ぎ澄まされた耳が妥協を許さなかったのである。ブ
ライアンは、ジョン、ジョージ、ポールの3人を呼び、マーティンの意向を伝えた。このとき3人
は、あえて何も言わずマーティンの指示に従ったというが、ハンブルグ時代の苦労をともにし
てきたピートを切り捨てざるをえなかった苦しい心底は、容易に推し量れる。
しかし、客観的に見て、マーティンの判断は正しかったと言える。ピートの後釜にすわった
リンゴ・スターは、ポールのドライブするベースに絡みつくようなドラミングで、ビートルズ・サウ
ンドの要を構築していったからである。
一方、悲しい通告を受けたピートは、こみ上げる怒りを押し殺して現実を受け止めたという。
自身の音楽的才能が他の3人より劣ることを認識していたピートは、恨み言の一つも言わず、
荷物をまとめてロンドンをあとにし、リバプールに帰っていった。そこには、ピートのプライドと
バンドマン・シップが見え隠れする。以後彼は、リバプールのとあるベイカリーでパン職人とし
て働いているという。
この交代劇に関してビートルズを責めるのは酷である。もしビートルズの3人がプロとして
の技術より友情をとっていたら、ビートルズの人気は、リバプールでのローカル・センセイショ
ンにとどまっていたかも知れないのである。その意味で、ピート・ベストからリンゴ・スターへの
ドラマーの変更は、世界制覇を目論むビートルズにとって避けて通れない「通過儀礼」であっ
たと言えよう。そしてこの儀礼は、プロのバンド・マネージメントの厳しさをビートルズに叩き込
んだ。
昨年、NHK でピートの特集番組「アナザー・ストーリー・オブ・ザ・ビートルズ」が放映され、
加えて、今年9月22日には、DVD『ビートルズ誕生秘話・ピート・ベスト・ストーリー』が発売予
定である。遅ればせながら、「ビートルズになれなかった男」、ピート・ベストにスポットが当たり
つつある。
ハンブルグ時代のピート・ベスト
デビュー曲「ラブ・ミー・ドゥー」秘話
いよいよデビュー曲のレコーディングにこぎつたビートルズに、ジョージ・マーティンはもう
一つの提案をしている。確実にヒットを狙うため、プロの作曲家の手による「ハウ・ドゥー・ユ
ー・ドゥー・イット」をデビュー・シングルに推したのである。当時、バンドやシンガーは、プロの
作曲家が作った楽曲をいかにして獲得するかに奔走していただけに、マーティンの提案は、
妥当性と説得力があった。ちなみに、マーティンの推した「ハウ・ドゥー・ユー・ドゥー・イット」は、
ジェリー&ペースメイカーズによって、イギリスのヒット・チャートの1位に輝いている。
しかしビートルズは、自分たちの作曲した「ラブ・ミー・ドゥー」をデビュー・シングルにするこ
とを主張し、この件に関しては、一歩も譲らなかった。結果は、イギリスのヒット・チャートの17
5
位どまりであったが、そこには大きな意味があった。音楽好きな近所の仲間が集まって曲を
作り、その曲で全国的なヒットを狙えるんだという夢を、イギリス中の若者に実践して見せた
のであった。今日、世界中で自作の曲に夢を託す若者たちがあとを絶たないが、彼らとて、ビ
ートルズが切り開いた新しいバンド・マネージメントの延長線上に位置すると言えよう。「自分
の夢は自分で作る」。ビートルズが教えてくれたことは、まさにその潔い姿勢であった。そして
それは、音楽の世界に限定されない普遍性を持っていた。
デビューの際、ブライアンは、「ラブ・ミー・ドゥー」を2万枚ほど買い取った。レコード・デビュ
ーと同時にある程度の枚数を製作側が買い取ることによって、まずはヒット・チャートに登場さ
せ、人気に弾みをつける手法をブライアンは取ったのである。これは、おそらく現在も、どこか
で繰り返されている手法に違いない。
さらにブライアンは、セカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスでナンバー・ワ
ンになった後も、際どい策を仕掛けている。ビートルズがロンドン・パラディアムでの公演を終
えて出てきた際、ファンに追いかけられている写真をカメラマンに撮らせ、それをマスコミに流
したのである。記事は、「ビートルズ現象」の始まりとして大きく扱われたが、実際その日ビート
ルズに嬌声を上げていた女の子は8人であった。文化評論家のクリス・モスデルは、この事象
を "Stardom often travels in the shadow of such strategy."と表現している。
ブライアンは、ビートルズの総所得の25%という分け前に与り、その努力は十分に報われ
た。だがブライアンがバンドに尽くした心遣いと献身は驚くべきものであり、あきらかに彼は、
ビートルズを千載一遇のビジネス・チャンス以上の存在として捉えていた。ビートルマニアの
初期には、ブライアン・エプスタインの名はビートルズと同義語であった。グループの大成功
の立役者となったブライアンは、「ネムズ」をイギリスの音楽シーンに大きな影響を及ぼす強
力なマネージメント・カンパニーへと育てあげた。
スタジオ内でのマーティンとビートルズ
ファンに追いかけられるビートルズ
アメリカ制覇~世界制覇
ビートルズの次なる戦略は、ロックン・ロールの生誕地アメリカを制覇することであった。し
かし、これは大きな賭けであった。それまでに、本当の意味でアメリカで成功を納めたイギリ
スのロックン・ロール・バンドは皆無だったからである。
案の定、ビートルマニアのアメリカへの上陸は、紆余曲折を経なければならなかった。イギ
リスでナンバー・ワンに輝いたヒット曲が、どうしてもアメリカではトップに立てなかった。問題
は、アメリカにおける EMI 傘下のキャピトル・レコードが、ビートルズのレコード発売をためらっ
たからである。しかたなく、スワン、ヴィー・ジェイといったマイナー・レーベルから「プリーズ・プ
リーズ・ミー」、「フロム・ミー・トゥー・ユー」、「シー・ラブズ・ユー」を発売したが、プロモーション
6
力の不足で大して売れなかった。しかし、ヨーロッパのビートルマニアがアメリカにも届き始め、
キャピトルもビートルズの曲を出さざるを得なくなった。このような経緯でキャピトルから発売さ
れた「抱きしめたい」は、ついにナンバー・ワン・ヒットとなった。満を持していたビートルズは、
この期を捉えてアメリカへ進出して行った。彼らが出演したテレビ番組『エド・サリバン・ショウ』
は、7300万人に見られ、アメリカ史上最高の視聴率をあげた。ナンバー・ワン・ヒットが出て
からでないとアメリカには行かないというビートルズの慎重な戦略は、みごとに功を奏したの
であった。それは、「いつの日か、エルビスよりもビッグになってやる」というビートルズの夢が
実現した瞬間でもあった。ビートルズの世界制覇は、上記のような粘り強くしたたかなブライア
ンの計画のもとに成ったのである。
なお、ブライアンには失敗もあった。それは、ビートルズの名を冠したキャラクター商品の
アメリカにおける版権の使用料を10パーセントに設定したことである。1964 年、ブライアンが
そういう取り決めを結んだとき、リバプールという田舎町でレコードの販売をしていた30歳の
マネージャーは、弁舌巧みなニューヨークのビジネスマンの敵ではなかった。彼は、ビジネス
に関する視野の狭さによって、アメリカでのビートルズのキャラクター商品の版権を実質的に
プレゼントする形になり、ビートルズに何百万ドルという収入源を失わせた。
しかし、ブライアンに対して公平を期せば、当時、彼のような新参者は言うまでもなく、音楽
業界のプロフェッショナルでさえ、ミュージシャンのキャラクター商品が「金のなる木」になり得
るという発想は、ほとんどなかった。交渉術に優れていたとは決して言えないが、ブライアン
の真の強みは、十分に培われた組織構築力、ゆるぎない実直さ、そしてビートルズの財産管
理職としての堅実さと信頼度の高さにあった。
「ネムズ」から「アップル」へ
アップルのカタログ
「ネムズ・リミテッド」は、会社の利益から莫大な法人税を払い続けることに疑問を感じてい
た。ちなみにビートルズは、所得の90%を税金として徴収されていたという。そこで、どうせ税
金に持っていかれるのなら、何か有益な事業に投資しようという案から生まれたのが「アップ
ル」であった。すなわち、「アップル」の構想は、そもそも税金対策だったのである。
そこにビートルズが様々なアイデアを持ち込み、たんなる税金逃れの抜け道ではなく、は
るかに野心的な対象として青写真を描き始めた。しかし、ビートルズが温めていたであろうす
べての試案は、ブライアン・エプスタインの急死によって一度頓挫する。
ブライアンは、ロンドンの自宅で死体となって発見された。享年32歳であった。所見では、
誤って致死量の睡眠薬を服用したとされている。しかし、その背後には、ビートルズがアイド
ルからアーティストに変身する過程におけるブライアン離れがあったことは否めない。ブライア
ンは、手塩にかけたビートルズが自立して、自分のもとから飛び立っていくという現実を前に、
やるせない孤独を味わっていたに違いない。
7
「アップル・パブリシング」
ビートルズは、ブライアンの死を乗り越えて、1967 年の秋には、ベイカー・ストリート 94 番
地に所有していたビルを新生「アップル」のオフィスに改築した。誕生したばかりの「アップル・
オーガ二ゼーション」の専務取締役には、ロード・マネージャーだったニール・アスピノールを
据えた。ニールは、1962 年、ビートルズのフルタイム・スタッフになる以前、実業家を目指して
通信教育で会計学を学んでいた。しかし、彼が選ばれた理由は、もって生まれたビジネス・セ
ンスというよりもビートルズに対する忠誠心であった。ニールは、ビートルズの著作・出版を管
理する、「アップル・パブリシング」を立ち上げ、現在も、ビートルズ関連のプロジェクトを抱え、
少人数のスタッフとともに、仕事に追われている。
ニール・アスピノール
「アップル・ブティック」
やがてビートルズは、野望をさらに膨らませ、「アップル・ブティック」をオープンする。ビート
ルズがアパレル業界に革命を起こし、世界的チェーンを展開するためのヴェンチャー・ビジネ
スになるはずだった。ビートルズは、高い理想を掲げ、店を「洗練された人々が洗練された品
物を買う」ための場として捉えた。事実「アップル・ブティック」は、サイケデリックな小物、衣類、
レコードや書籍のどれをとっても、他では手に入りそうもないグッズに溢れていた。
ブティックに陳列する一連の派手な衣服に加えて、民家や商店が立ち並ぶ落ち着いた町
並みにおいて存在感を示すために、ビルの側面を巨大なサイケ調の壁画で飾ることにした。
描かれた鮮やかな色彩のインド風女神の壁画は、何にも増して人目を引いた。しかし、地元
の評議会や周辺のビジネス・コミュニティの圧力に屈し、間もなく壁を塗り替えるよう強いられ
る。そうして白く塗り替えられた壁の中央には、"Apple"の文字だけが綴られていた。
アップル・ビルの壁に描かれたサイケな女神
8
「アップル・ブティック」の運営にはピート・ショットンを起用したが、この抜擢は、ビートルズ
のある種の意図を反映するものであった。彼らは、「アップル」の開けたビジネス・システムに
よって、若く、型にはまらない人間がビジネスの分野で名をあげるチャンスを提供したいと考
えた。さらにビートルズは、実業家としての新鮮な高揚感から、ビジネスがイギリス社会の上
流階級、私立学校で教育を受けた階級によってのみ独占される分野ではないことを示すため、
彼らと同じリバプールの労働者階級出身の友人にチャンスを与えようとした。
ビートルズの理想に反して、「アップル・ブティック」は、観光客、昼食時の立ち読みや万引
きばかりが目立ち、本当の顧客を得るには至らなかった。それでも、一つのコンセプトのもと
に生活雑貨を売る店のさきがけとなったことは、記憶されてしかるべき貢献であった。
「アップル・レコード」
「アップル」で最も成功した部門は、何といっても音楽部門であった。デビュー当時からミュ
ージック・ビジネスが課してくる数々の制約と戦ってきたビートルズは、才能溢れる若手ミュー
ジシャンに、何の制約もなく自由に自分たちの個性を表現できる場を与えたいと考えた。閑静
な高級住宅街、サビル・ロウにオフィスを移し、そこにレコーディング・スタジオも用意した。そ
して、下のような広告を出した。
リバプール出身のジャッキー・ロマックスは有望な新人であった。彼の曲は玄人受けする
タイプが多く、ビッグ・セールスには結びつかなかったが、息の長い活動を展開した。
ジャッキー・ロマックス
9
アメリカはノース・キャロライナ出身のジェームス・テイラーは、才能を高く評価され、レコー
ド・セールスも伸びた。彼は 70 年代のシンガー・ソングライター・ブームの代表格にまで成長し
ていくこととなる。
ジェイムス・テイラー
ウェールズ出身の若いフォーク・シンガー、メアリー・ホプキンスもまた、「アップル・レコー
ド」が創成期に発掘した新人の一人であった。ファッション・モデルのツィッギーが、テレビ出演
していたメアリーを見て、「アップル」に紹介したのがきっかけであった。プロデュースはポール
が担当した。ポールは、彼女のシンガーとしての才能にほれ込み、「何年もこの曲に手をつけ
ずにいたんだ。『ゾーズ・ワー・ザ・デイズ』という曲だ。さあ、これに取りかかろう!」とメアリー
を励ました。その「ゾーズ・ワー・ザ・デイズ」は、ビートルズ以外のアーティストが「アップル」か
ら放った最大のヒット・シングルとなった。
メアリー・ホプキンス
ミニ・スカートの元祖ツィッギー
「アップル・レコード」の理念を世に伝える役は、広報マンであるデレク・テイラーによって担
われた。彼もリバプール出身で、「アップル」入社以前から、ビートルズとは長い付き合いがあ
った。彼は、「アップル」を代表して、「ここでは、誰でもがアイデアを語れる。そしてそのアイデ
アが素晴らしければ援助を受け、仕事をするうえでのアーティスティックな自由が与えられる
だろう」と呼びかけた。
「アップル」のオフィスで声明文を読み上げるデレク・テイラー
10
後に「アップル・レコード」は、財政的にも人員的にも新人発掘、そしてそれにともなうプロ
モーションなどに手が回らなくなり、ビートルズだけのレコード会社になって行く。しかしその掲
げた理想は、70 年代の「バージン・レコード」や「アサイラム・レコード」に受け継がれ、大きく花
開くこととなる。現在無数に存在するインディーズも、ルーツを辿れば「アップル」に行き着く。
ピーター・ブラウン
ブライアン・エプスタインの死後、「アップル」がビートルズのマネージメント業務を処理する
こととなる。たが「アップル」は、ビートルズのビジネス面での活動に関しては対処し得るもの
の、個人的な諸問題までは解決できなかった。そこでそのような職務も遂行できる人材の必
要性が浮き彫りになってくる。
ビーター・ブラウンがその職務につくことは歴然としていた。ブライアン亡き後、「ネムズ」に
いる頃からピーターは、公私に渡ってビートルズの相談にのってきた。1969 年から 1970 年ま
でピーターの秘書をしたビル・オークスは、次のように言っている。「ピーターはブライアンのア
シスタントであり、恋人であり、ブライアンの情熱を継承する人であった。正式に任命されたわ
けではなかったが、ピーターが自然にブライアンの椅子に座った。ジョンがピーターについて
『ジョンとヨーコのバラード』で歌っているように、彼はビートルズの私生活に深く拘っていた」。
ピーター・ブラウン
アラン・クライン
1969 年初頭までは、ビートルズのマネージメントやビジネス・パートナーは、何らかの形で
リバプールと関係があり、そのローカルな絆の上に生まれた信頼が重要視されてきた。けれ
ども、ビートルズ産業が巨大化して行くにつれて、厳密な意味でのプロフェッショルな財政管
理者が必要になっていた。そこで、リー・イーストマン(ポールの妻、リンダ・イーストマンの父
親)が雇われ、「アップル」の経営を司っていたが、ポール以外の3人は、このことをあまり快く
思っていなかった。
ジョンは、ローリング・ストーンズがビートルズよりもはるかに恵まれたレコーディング契約
を結んでいたことに悔しい思いを募らせており、ストーンズにそのような契約をもたらしたアラ
ン・クラインにビートルズのマネージメントを任せようとした。クラインの怪しげな取引は、音楽
業界では周知の事実であったが、同時に、アーティストに破格の契約をものにする辣腕家とし
ても名を馳せていた。ジョンが自分のビジネス管理をクラインの任せたと発表したのをきっか
けに、クラインが「アップル」内での発言力を増して行った。
ピーター・ブラウンは、クラインが「アップル」で権力を持つに至った状況を回顧し、「結局、
他の3人には、ポールがアップルを支配しすぎているという思いが少なからずあり、それが彼
らにイーストマンではなくクラインを選択させる動機であった」と語っている。
ミック・ジャガーは、ビートルズに会って、クラインの正体を話したいと申し出た。しかし、ジ
ョンは聞く耳を持たなかった。ミックは非常に頭のいい男で、ジョンやポールよりはるかにビジ
ネス・マインドを持っていた。だから、友人として、自分に起こったことを話しておくべきだと思っ
たのであった。
11
アラン・クライン
崩壊への序曲
1969 年3月、ビートルズと「アップル」は、クラインと3年間のマネージメント契約を結んだ。
しかし、ポールは調印式に出席しなかったし、契約書にも署名しなかった。ビートルズのなか
に生まれた不協和音が公になったのはこのときが最初であったが、ビートルズ解散の序章は、
これより以前にすでに始まっていた。
1969 年1月、アルバム『レット・イット・ビー』の録音のために、ビートルズはスタジオに入っ
ていた。事件はそこで起きた。フィルム『レット・イット・ビー』に捕えられたポールとジョージの
口論は、ポールがギター・パートの弾き方をジョージに指示したことに端を発した。口論はエス
カレートし、ジョージはスタジオを後にし、車を飛ばして家に帰ってしまった。この事件は、当時
のポール主導のレコーディングに反発を感じていた他の3人の感情を象徴していた。
こうした険悪な雰囲気は、ビリー・プレストンをキーボード奏者に迎えたことで、多少の和ら
ぎを見せた。そして、映画のフィナーレとしてライブ・パフォーマンスを行うという案がまとまっ
た。チュニジアの古代ローマふう円形劇場や大洋航海船でのパフォーマンスを撮影するとい
う計画まで遡上にのったが、結局「アップル」の屋上で演奏することに落ち着いた。
サヴィル・ロウの屋上で演奏するバンドの姿は、ほとんど誰の目にも見えなかったが、
荒々しいサウンドは周辺一帯に鳴り響いた。その間、撮影班は、人々が 1966 年以来の生演
奏を少しでも見ようとして、近くのビルの屋上へ、あるいは非常階段を駆け上がる様子をカメ
ラに収めた。この屋上セッションは、前触れなく行われる屋外ライブの最初のケースとなった。
ビートルズは、1970 年、ポールの脱退宣言によって、実質上解散してしまうが、その原因
の一つに、バンドのビジネス・マネージメントの問題があったことは否定できない。ビートルズ
は、ずっとリバプールの仲間との信頼関係を最重要視しバンドを維持してきたし、それが「自
分たちの夢は自分たちで作る」という理想にも適っていた。しかし、勝つか負けるかの厳しい
ビジネス・マインドにさらされたとき、その理想は崩れた。そうした厳しさのなかを半世紀近くサ
バイバルしているローリング・ストーンズとは対照的である。それでも、ビートルズが「アップ
ル」に込めたピュアな理想主義は、現在も、いろんな形で、いろんな場所で継承されている。
スタジオ内でイニシアティブを取るポール
アップルの屋上で演奏するビートルズ
12