“大牧者”の前に立つ小牧者たち

“大牧者”の前に立つ小牧者たち
第一ペトロ書の福音 13
“大牧者”の前に立つ小牧者たち
5:1-6
「大牧者」は 4 節に出る言葉です。間もなくその「大牧者」であられるお
方が、お見えになる。もし、本当に牧者に適わしい務めを果たしていたら、
あなたは「牧者」の原型である方から栄光の冠を受ける、とペトロは教えま
した。「牧者」というのは、つまり「羊飼い」のことです。新共同訳の見出
しにありますように、これが「長老たちへの勧め」であることに注意してく
ださい。
「牧師」とか「長老」という呼び名は、ヨーロッパとアメリカで始まって、
教会用語としてそれぞれの宗教団体特有の意味合いを持つようになりました。
特に日本ではお寺の習慣などとも重なりまして、牧師は言わば「住職」のよ
うな宗教家で教師で教会の主宰者、そして長老は「信徒総代」みたいな信徒
側の代表兼世話役を考えている人が多いかも知れません。牧師の方が宗教の
神聖な権威の側で、長老に代表される信徒の側は「権威に服する側」また「利
益と祝福を受ける側」という理解は、いつまでも過去の幽霊のように残って
いて、抜け切れないようです。
いま、日本のお寺と申しましたけれど、西洋でも千五百年の間に出来上が
った「お寺」的なセンスは根強くて、聖職者と平信徒という区別は、ギリシ
ャでは“クリリキ”(聖職者)と“ラオス”(一般信徒)とい
う呼び名で固定しています。カトリック教会の方では、今でこそ「教会とは
キリストを信じる人たちの群れを言う」と書いてありますけれど、一昔前ま
では“教会"と言えば、教皇様を頂点とするピラミッド型の司教・司祭の組織
を“教会”と言ったものです。
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「そうではない!」という主張を掲げて戦ったのが、宗教改革の筈でした
が、これもいわゆる「プロテスタント」諸派が宗教団体として基礎を据えま
すと、やはり、按手礼を受けた司祭や牧師と平信徒は違うものだという伝統
がまた出来てしまいました。
確かに、キリストの福音を伝える仕事に一生かけて召されるということは
あります。これは神聖な事実で、私には体験から分かります。けれど、これ
は、教会の中の権威・役職とは関わりなく、その人と神との間に厳然とある
もので、ちょうど昔のイスラエルの預言者たちの場合のように、だれが権威
を認めなくてもその人は神の前に厳然として「福音の使者」「キリストの使
者」であるという、神聖な事実としてあるだけです。特定の教会での指導権
や威信とは関係のない、もっと別次元のものです。
牧師という名の正体は、先程申し上げた「牧者」つまり「羊飼い」のこと
ですが、もちろん、これは比喩でありまして、牧畜業に携わらねばならない
訳ではありません。羊の群れを大事にして、弱い者がいたらカバーもして、
群れの羊の一頭も見失わないように、みんなの配慮をする大人の信者を、パ
ウロやペトロはユダヤ流に「長老」と呼びましたが、その長老
のアダ名が「牧者」だったのです。「羊飼いをする人」ですね。こ
れが牧師の正体です。教会の羊飼い職は原則として複数制、つまり集団指導
制でした。近代の西洋流の教会とは違い、牧師(牧者)が三人とか、五人と
か、十人とかいた訳です。その中には、「御言葉を伝える仕事に召し出され
た」人も(1テモテ 5:17)交じっていましたし、また、牧者の中に入って
いなくても預言者の使命を受けた伝道者も(エフェソ 4:11)いたのです。
私たちの教会の広報プリントを御覧になった方は、右下の欄に「家長会」
と書いて、五人の兄弟の名が並んでいるのをご存じでしょうが、あれは、私
共の理解では「五人の牧師」のリストです。もっとも、“キリストの教会”
というグループでも、そこらへんを分かって下さる方が少ないので、私のこ
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とだけを「大東教会牧師」と言われたり、書かれたりすることが多いのです
が、一々説明して訂正するのも億劫で、相手に失礼にならぬよう、大方の習
慣を尊重してこだわらずにいます。「牧師は教会の主管者」という現代教会
の通念とは食い違いますけれど、五人の名を列記したあのリストには、本当
は私と同じ意味で外の四人が「牧師」であり、同じ重みを持った「長老」で
あることを、主の前に各人意識して頂きたいという私の願いがこめられてい
ます。
誤解は無いと思いますが、私は決して、神聖な責任を逃げているのではあ
りません。主の僕として、福音の使者としての任命に関するかぎり、(狂信
的に聞こえるかも知れませんが)、私はこの教会の牧者たちのリストに入っ
ていようがいまいが、イエス・キリストの福音の使者でありまして、たとえ
ば、アモスやエレミヤと同じように独立の使命を受けていると確信していま
す。パウロが言ったように、「人々からでもなく、人を通してでもなく」イ
エス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによっ
て、この福音のために召された者です。そういうヘンなのが一人、長老会の
中に紛れ込んでいるだけじゃなく―もし田中志郎さんが主から受けたもの
について、私に思い違いがないとすれば、長老会の外にも存在し得るのです。
これは人間がやる按手礼の御愛嬌とは別にです。ただ、お互いホンモノであ
るかどうかは、裸で、人間の資格証明など無しに、召した方御自身が証明し
てくださるのに待つ外はありません。
さて、長老が「牧者」であり、羊の命を守ってカバーする「羊飼い」であ
ることを言うために、前置きがいつもの倍の長さになりました。この話をも
し忘れないでいて下さるなら、この教会のプリントの「代表者(家長会)」
という字は、「この教会の牧師はこの五人」という字幕をスーパーインポー
ズして読んでいただきたいのです。さて、ペトロは長老たちに何を命じたか
……。
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1.神様の大事な羊を委ねられていることを思え。
:1-2.
1.さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やが
て現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
2.あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されて
ではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにで
はなく献身的にしなさい。
「卑しい利得のためにではなく」というような一句が、どうして必要だっ
たのか、理解に苦しむこともあります。ヤコブ書に出てくる教会のように、
そこまで罪の世界から古いしがらみを持ち込んでいたのか……? それとも、
牧者としての長老たちは貴重な主のお金を管理したり、受けたりする立場に
あったための戒めか……? よくは分かりません。この《》と
いう語は、私の理解ではもう少し広い意味で、「自分か得をして威信を高め
る」ことも含めて言っているものと思います。あなたは、自分が輝くために
羊を飼うのではない。任命を受けたから、義務感からするのでもない。この
羊の群れを心から愛さずにはいられないから、主の貴い血で贖われた宝を、
特に後に続く若い人たちを大事に思うその心から溢れて、ただその思いから
羊の魂を見取る務めに励め。これが、ペトロの趣旨だと思います。
それにしても、この勧めを伝えるのに、「イエス・キリストの使徒として
命じる」とか、そういう重々しい権威づけの言葉をここで使わずに、「私も
諸君と同じ『長老』の一人として、仲間として言う」というところが、私は
好きですね。ヨハネ伝の最後の章を読んだ印象も強いのですが、この人には、
キリスト御自身から『私の羊を大事に守ってやってくれ』と言われた経験が、
その生き方すら考え方まで全部、捕らえてしまっていたのです。
2.権威や威信で武装せず、羊飼いのキリストをまねよ。
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:3-4.
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3.ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むし
ろ、群れの模範になりなさい。 4.そうすれば、大牧者がお見えになるとき、
あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
「大牧者」と訳したは、牧者の頭領とかピラミッドの頂点
という意味よりも、牧者の「走り」、羊飼いの「原型」と言いましょうか、
「良い羊飼いとはこの私だ」(ヨハネ 10:11)と言われたイエス・キリスト
を指し示しています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のため
に命を捨てる」と、言葉でおっしゃっただけではなく、本当にその通りに、
羊のために命を注ぎ出されたのです。その真実の牧者の前に、同じ愛から出
た務めを果たすことだけを考えよ。主がおいでになる時に、栄光の冠を頂け
るような牧者・長老であれ。「しぼむことのない」というのは、オリンピア
の月桂冠のような萎れるものと対照して、神の国で輝き続ける栄光を描いて
います。
「委ねられている魂」という言葉にも、ペトロへの主のお言葉が
反響しています。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。……私の羊
の世話をせよ。」キリストの愛を本当に受けた人は、後からその同じ愛に触
れた幼い者たちを、羊飼いのように守ってやる「配慮者」になります。教会
では「主教」とか「司教」とか“bishop”とか訳すようになった言葉「エピ
スコポス」は元々「配慮者」という意味です。地位や威信にもの
を言わせる人ではなくて、一人一人のために心を砕く人です。
「委ねられている大事な人たちを、権威で圧倒して指導者顔をするな。む
しろ黙って、みんながそうなりたいと思う位の『ひな型』になれ。」
ここでペトロが使った「権威で支配する」という言葉-は、
ペトロがイエス御自身のお口から聞いた同じ言葉です。「異邦人の間では、
……偉い人たちが権利を振るっている。しかし、あなたがたの間で偉くなり
たい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の
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僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多
くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ 10:
42-45)。これを本気で聞いた人は、もうどんな理由でも権威を振り回す気
にはなれないのです。これが、羊を飼う長老の姿です。
3.神の愛に触れた者だけが真の謙遜を知る。 :5,6.
それ以外の謙遜は「謙遜ごっこ」です。お芝居です。
5.おなじように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着
けなさい。なぜなら、
「神は、高慢な者を敵とし、
謙遜な者には恵みをお与えになる」
からです。
6.だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの
時には高めていただけます。
この部分の 7 行は、まず若い人たちに対して、「牧者である長老たちに服
せよ」と教えます。この「若い人たち」というのが誰かについては、
二つの異なる見方があるようです。ドイツの学者シュナイダー Johannes
Schneider は、青年会に近いような若手のグループと見て、次のような推測
をしています。
「青年たちが集会での仕事について独立した考えを持ち、自分で獲得した
認識に基づいて、集会の中に多くの改革を持ち込もうと試みるようなことが、
起こったのであろう。」その結果、長老たちとの議論や好ましからぬ論争に
至ることもあった……と。もちろん、これはシュナイダーさんの想像ですけ
れど、教会での霊的なことがらの判断は、やはり信じて生きてきた霊的生活
の年輪を尊重することが大事になる。だから、「羊の配慮者」である長老た
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ちを尊重して服従せよ……と。もちろん、シュナイダーは何でもかでも、年
の功に負けよと言っているのではなくて、神の前に霊的な判断を正しく下す
必要がある場合、その応用問題の解き方は長老―の信仰で生
きてきた歴史に敬意を表して従うことが何より大切だ。若者たちはそこで謙
遜を学べ、というのがペトロの趣旨であろうと説明します。
これに対して、英国の学者スティッブズ Alan M. Stibbs は、「若い人たち」
は青年会ではなく、長老たちの経験にはまだ及ばない霊的な意味での後輩を
まとめて指しているのだと言います。つまり、長老たちに「委ねられている」
羊たちのことを「若い人たち」と呼んだと見るのです。その人たち
は、今は、主が備えて下さった貴重な先輩たちから学ぶことに専念せよ。や
がて、あなたが牧者の務めを果たす日がやって来る。その日のためにも、今
は自分を低い位置に置いて神の憐れみの器である長老たちに服することで謙
遜を身に付けよ。そう教えていると見ます。
私も、後の方の説明が自然であると思いますのは、この 5 節以下の 6 行は、
その前に 3 節にあった「長老たちは権威主義で反り返るな。むしろ自分の威
信など顧みずに羊飼いの努めに徹せよ。回りが『私もああなりたい』と思う
ようなものであれ」と平行しているからです。真ん中の箴言(3:34)からの
引用部分を除けば、「その時には牧者の原型であるキリストから栄冠を受け
る」という 4 節と、「かの時には神の御手で高めて頂ける」という 6 節とも、
きれいに対になってバランスが取れています。ペトロは牧者である長老たち
に謙遜を教えただけでなく、牧者に委ねられた羊の群れにも謙遜を教えたの
です。6 節の結びは、ですから、単に「若い人たち」への戒めにとどまらず、
教会全体への厳かな宣言になっているわけです。
5 節 2 行目の謙遜を「身に着けなさい」は、原文ではとても面白い単語を
使っています。エンコンヴォサステは訳文の漢字の「着」の
字が表すように「身に纏う」意味ですが、は「結び目」のことで、日
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本なら羽織りとか「ちゃんちゃんこ」みたいに紐がついた衣類などを、結ん
で身に着けることをと言ったものです。謙遜を「結びつけて身
に纏え」です。この言葉を使った著者の目に鮮烈な印象を残していたもの…
…彼の目の前で「身に結びつけた」形で見たものは何だったと思いますか。
「主よ、あなた様が、この私の足を洗って下さるおつもりですか!」……そ
うです。イエス御自身が腰に巻き着けて結んでおられた、手拭の前掛けです
(ヨハネ 13:4)。このという一語で果たしてペトロ書の読
者に、「前掛けを着けた僕のように、身を低くして仕えるのだ」という意味
が伝わったかどうかは分かりませんが、語学の研究家はたいてい、「これは
あれだ」と言っています。
ペトロは、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」と言いました。
空しい誇りと威信に気をとられる悲しい人間が本当に謙遜になれるのは、
「神の御手に」触れて心の底までショックに打たれる時だけです。それ以外
の謙遜はすべて、作りものの謙遜、でなければ、単なる作法としての謙遜の
域を出ません。
《 結 論 》
長老という言葉は「年寄り」という意味と、「兄貴」という意味とが混ざ
って溶け合ったような言葉です。「あの人は確かに私たちの兄貴だ!」
今まで何度か引用させて頂いた先代のクラークさんの言葉にもありました
が、「長老はだれが作ったか? ……職務としての長老職は教会が投票した時
に決まって、使徒たちが手をおいて祈った時に作られたけれども、本当は、
その長老の実質を作られたのは聖霊であった」のです。キリストを仰いで信
仰で生きて行くときに、長老は長い時間をかけて、「神の力強い御手が」文
字どおり、「手塩にかけて」お作りになるのです。
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最後に使徒パウロのテモテ書からほんの 1 行あまりを読んで結びの言葉と
いたします。第1テモテ書 3 章の冒頭、「監督の資格」という小見出しの付
いている所です。
「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」これ
は、新共同訳の訳文ですが、何か教会での地位への野心みたいに取られなく
もありません。その上「監督」という漢字も、権威と威信みたいな匂いがい
たします。本当はもっと温かい優しい言葉で、「配慮者の務」を指します。
テモテ書を読んだとき、ここはこう訳した方が良いと申し上げたのを、覚え
ていらっしゃいますか……。
「いつか群れの配慮者に成長したい。そう心から願う人は、まさに立派な
仕事を目指している。」配慮者としての長老の素材はあなたなのです。材料
はお粗末でも、「力強い神の御手の下で身を低くする」ことを学んで行くう
ちに、お粗末なものが羊飼いになるのです。あの時は、こんな風にも言い直
しました。
「みんなを守ってお世話ができる兄貴になる日を夢見ているなら、それは、
信仰者の目標としては“イイ線行ってる!”」
聖書の訳文としては、やや乱暴でしょうか……。
(1991/09/29)
《研究者のための注》
1.五人の名を「長老」と明記せずに、「家長会」の名で呼んでいるのには、理由があり
ます。一つにはテモテ書とテトス書に記された長老と奉仕者(執事)
 の機能分野が私たちの場合にはまだ分化していないため、五人の配慮者
は恐らくその両方の務めを果たしていること、一つには「長老」は本来尊
称であることから、自称するよりも主がこれを事実として下さるのに任せる方がよい
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と考えたこと、そして基本的には、初代教会が使った全く同じ呼称をまねるよりは実
体を再現することの方が大切と判断したことと、この三つの聖書的呼び名の慣例的訳
語に満足できないことです。
2.三つの訳語のうち「長老」はユダヤ会堂の指導者に与えられていた呼称
~ynIqez>
をギリ
シャ語に訳したで、これはどちらかと言えば尊称、機能を示す本来の呼
び名が(普通「監督(者)」と訳される)「配慮者」、比喩的描写的呼び名
が「牧者」であったと言えます。三つの呼称は、使徒言行録 20:17-38 に、
明らかに同じ職務の別名として並列されて(だけが動詞の不定詞形)い
ます。このペトロ書では「長老」が 1,6 節に名詞形で、2 節にが動詞形
の命令法、が動詞形の現在分詞で使われて、初代教会にはこの三つの
別名で呼ばれた世話役による集団指導制が行われていたことを推測させます。「使徒
言行録の福音」第 47 講「長老たちへの言葉」でもこのテーマを扱いました。
3.集会を治めて兄弟たちに仕えるこの務めとは別に、「預言者」と福音使(伝
道者)と教師の職務が置かれていたことが、エフェソ 4:
11 などから分かります。これらの職務が主の召しと聖霊の賜物により(教会による選
挙や任命とはある意味で別の形で)与えられたであろうという理解は、ローマ 12 章、
1コリント 12,14 章から得たものですが、同時に福音のために召された自分の霊的体
験にも基づいています。
4.私 自 身 が 大 東 の 群 れ の 中 で 占 め る 位 置 に つ い て は 、 私 は 第 1 テ モ テ 5 :
17…… に基づいて受け
止めていると言ってよいでしょう。基本的にはエフェソ書の示すとし
て召しを受けたと信じますが、五人の「配慮者」に選ばれていることが私を「御言葉
と教えに労する長老」の立場に置いているという理解です。本文中言及した田中志郎
氏は、この時点では福音をもって立つべく聖書の学びと習練に専念していますが、も
し教会がいつか彼を「家長会」の一員として選ぶなら、同じような「福音伝道者兼“教
える長老”」の立場になるのでしょう。
5.ペトロが主から受けた「牧者」としての委任は、ヨハネ福音書 21:15-19 に記録され
ています。16 節のとこのペトロ書の 2 節がつながります。「結
び付けて纏え」(:5)から連想したのは、ヨハネ 13:4 のイエスの姿
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ですが、動詞はではなくです。
6.「兄」の意味でのの用例は、ルカ 15:25 に見られます。
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