1 評伝・井上房一郎―都市文化を創り続けた男の物語― 熊倉 浩靖 (目

評伝・井上房一郎―都市文化を創り続けた男の物語―
熊倉
(目
浩靖
次)
はじめに ...............................................................................................................................2
第1節
ただこれいっせい
父・井上保三郎―「只是一誠」を貫いた地域産業資本家...................................... 2
1.1 高崎の明治維新の子 ................................................................................................. 2
1.2 産業資本家としての出立とエートス ........................................................................ 3
1.3 市制施行・市是具現にかけて ................................................................................... 3
1.4 発揮された本領―商工業都市高崎の建設 ................................................................. 4
1.5 高崎副業会の思想―社会公益の達成 ........................................................................ 5
1.6 昭和 4 年―保三郎父子の転機................................................................................... 6
第2節
房一郎の人間形成と戦前の活動 ............................................................................. 7
2.1 房一郎の原点―少年期における実母との死別 .......................................................... 7
やまもとかなえ
2.2 生涯の師・山本 鼎 との出会い.................................................................................. 7
2.3 パリ―セザンヌと自我の発見 ................................................................................... 8
2.4 帰国―工芸運動の日々と房一郎の構想..................................................................... 9
2.5 タウトとの協働―「招聘」の真実 .......................................................................... 10
第3節
戦後 3 枚の絵―群響・音楽センター、美術館、哲学堂 ....................................... 11
3.1 群響―物がなくても人々の心に灯を ...................................................................... 12
3.2 群馬音楽センター―戦後高崎における文化活動の金字塔 ...................................... 13
3.3 美の托鉢行―ファウンデーション・ギャラリーという思想................................... 14
3.4 戸方庵井上コレクション―寄贈を最初から目的とした蒐集................................... 14
3.5 高崎哲学堂の構想と到達点..................................................................................... 15
結びに代えて―文化遺産としての井上房一郎 .................................................................... 16
1
はじめに
平成 5(1993)7 月 27 日に井上房一郎先生が亡くなられてから早 10 年以上が経つ。ご自宅
が「高崎哲学堂」として市民の預かるところとなり、内外の方々に公開されて高崎市や多
おお
様な市民団体に利用され始めたこともあって、「棺を蓋いて事定まる」(『晋書』劉毅伝)
の言のとおり「群馬地域文化の先覚者」としての重みと輝きは日増しに高まっている。と
くに、没 5 年の 1998 年に生誕 100 年を記念して開催された「パトロンと芸術家―井上房一
郎の世界―」展(群馬県立近代美術館・高崎市美術館共催)は、目に見える形で、井上先
生と彼を取り巻いた人が生み出す社会と芸術の銀河を人々に実感させた。
その図録のなかで、私は、先生の生涯を客観的に伝え先生が達成されたものを市民の共
有財産として育くんでいく材料を提供させていただいた。ここに紙面を与えられたことを
僥倖として、図録掲載の拙稿に加筆・補正を加えるとともに、井上先生の足跡をご父君・
井上保三郎翁にまで遡って明らかにすることを通して、井上先生が示された道程を、都市
の世紀、21 世紀の分権型社会における地域づくりに結ぶ方向を整理しておきたい。なお、
本書の性格から、先生、保三郎翁はじめ全員非敬称としたことを許されたい。
第1節
ただこれいっせい
父・井上保三郎―「只是一誠」を貫いた地域産業資本家
こ
う
たかさきちょう あらまち
井上房一郎は、明治 31 年(1898)5 月 13 日、井上保三郎・戸ウの長男として高 崎 町 新町(現
やしまちょう
高崎市八島町5 番地)に生まれた。高崎に市制が施行される 2 年前のことである。父・保三
郎は、高崎−群馬を代表する地域産業資本家として、高崎白衣大観音の建立者として知ら
れるが、房一郎の足跡を確かめる一歩として、まずは保三郎の一生を鳥瞰しておこう。
1.1 高崎の明治維新の子
たかさきえき
1868 年、
慶応 4 年が明治元年と改元されてまもない 11 月 20 日の朝、上州高崎駅の住人、
井上平次郎・ツネ夫妻は一人の男子を儲け保三郎と命名した。さかのぼること 6 年の昔(文
ご て ん ま
久 2 年)、御伝馬事件の主犯格として入牢させられてよりこのかた不遇をかこっていた平次
郎夫妻にとって待ち遠しい慶事であった。高崎の明治維新は、この御伝馬事件と明治 2 年
の農民蜂起、五万石騒動を外して語れないが、井上保三郎はまさしく高崎の明治維新の子
として生まれたのである。だが、保三郎誕生後も平次郎の苦境は続き、義太夫語りの義兄
のもとに身を寄せ、異郷での日々をおくることになる。やがて平次郎は高崎へ戻ることに
なるが、保三郎の出身が、士族でも富裕商人でも豪農でもない、地域のリーダー的な中堅
の町民であり、明治維新を前後する変革期の大波の中に生を享けたことは興味深い。
こうした幼児体験の中で、保三郎は明治 6 年(1873)小学校の門をくぐる。保三郎は、士族
や富裕商人の子弟しか通わぬ高等科へと進み高崎第一小学校高等科第 1 期卒業生僅か 14 名
中の 1 人となる。高等科を卒業するや、保三郎は、他家に丁稚奉公に出ることを説得詰め
とおりまち
で拒否し、家の手伝いを丁稚同様に勤めるかたわら、駅内 通 町の高崎漢字学院に通うこと
2
になる。この丁稚奉公拒否は、保三郎の生涯を決定づける上できわめて重大な意味を持っ
ていたと思われる。丁稚から出世して暖簾分けを許され、ある範囲内で蓄財するという古
いパターンの町民のあり方を拒否したのだから。
1.2 産業資本家としての出立とエートス
そのような両親の理解と教育の中、明治 17 年(1884)、上野・高崎間鉄道高崎駅が新町郊
外に開業した。駅舎から新町への道が高崎の、群馬の表玄関となる。
まもなく土地の有志の手によって鉄道を利用する魚市場がこのメインストリートに開か
れた。だが、この計画は、鉄道で新町付近が便利になるだろうという程度の考えで始めた
ため、すぐに行き詰まり取締までいなくなってしまった。それに反して、信越方面から来
る商人は馬や牛を連れて来て高崎で仕入れした商品を背負わせて帰りかなりの利益を上げ
ていた。保三郎はそこに目をつける。保三郎は人の見捨てた市場に立てこもり、東京の河
岸に買い出しに出、朝 6 時上野発の汽車に荷を積み込み、正午頃に高崎に荷を下ろし、そ
れを長野方面に売って儲けた。だが、この成功を単なるエピソードと扱ったり、保三郎の
実直さや働きぶりにのみ帰したりしてはならない。魚河岸事業の成功は、鉄道が圧倒的な
輸送力で、競合する旧来の人馬輸送を沿道から駆逐し、街道とその輸送業者を急速に没落
させていくとともに、その近傍に鉄道貨物の集配を中心とした新しい輸送需要を作り出し
ていくことを見抜き、それを事業としてやり抜いたところにあるからである。
やがて保三郎は、明治 21 年(1888)、流通業者としてさらに大成しうる可能性を捨てて、
近代社会の一つの基盤である鉄道敷設事業、建設事業を志す。両毛鉄道桐生・足利間工事
の請負である。製造業と建設業は近代が生み出した新しい産業だが、近代的視点からの流
通業の革新、魚市場の成功と、それを見限っての建設業者への転身は、産業資本家井上保
三郎の出立を雄弁に物語る。そのように出立したものの、元手もなく、建設業者としての
技術も充分でなかった。その苦労と克服の努力について、保三郎について書かれた幾つか
の書物や彼を知る人々は多言を重ねる。しかし元手なしで始めることは産業資本家の本質
である。ここで注目すべきは、彼の一生を語る人の多くが「信用と誠心」が保三郎の精神
ただこれいっせい
だったと語っていることである。保三郎自身、晩年最も好んで揮亳した書は「只是一誠」
だった。表現こそ前近代以来の口吻ながら、この精神、エートスこそ、西欧にあって近代
産業資本家を支えたプロテスタンティズムに匹敵する精神と言えよう。
1.3 市制施行・市是具現にかけて
保三郎と高崎の歩みに即せば、明治 33 年(1900)という年が最初の画期となった。この年
の 4 月 1 日、高崎に市制が施行されたからである。時に人口 32,467 人、戸数 5,924 戸、初
代市長矢島八郎というスタートだった。時に房一郎 2 歳。房一郎は保三郎 30 歳の子である。
保三郎を「高崎の明治維新の子」とすれば、房一郎は「高崎市制の子」とすることができ
3
る。この年、保三郎自身も 6 月の選挙で初代市会議員の一人に選ばれ、大正 6 年(1917)ま
で前後 16 年間市議を勤めた。ほとんどトップ当選だった。また、この年正月高崎商業会議
所議員にも当選し、以後、会頭も勤めて昭和 6 年辞任するまで 31 年間勤続した。
市制施行から 5 年経った明治 38 年(1905)、矢島市長は総合計画に当る市是を発表した。
市是は 2 期に分けられ、第 1 期として①水道敷設②教育設備の完成③市役所・伝染病院改
築④道路改修⑤商工業の発達⑥財源の強固化⑦公園地の完成を発表し資金 73 万円を内外資
に仰ぎ長期償還となすとした。今日的に見ても実に模範的な施政方針であり高崎近代化の
基本レールとなった。議場で矢島の演説に全神経を集中していた保三郎には何をなすかが
はっきりした。御伝馬事件の関係者として、居町を同じくする人間として、様々な薫陶を
受けてきた矢島の口から発せられる言葉がこの時ほど保三郎の心を射貫いたことはなかっ
たのではないか。保三郎の近代産業資本家としての確立と終生を貫いた地域、高崎への奉
仕の思想には矢島の影響が大であったと推察される。
事実、保三郎は、彼の下に集まった人々と共に市是を実現することに全力を懸けていく。
①・②・⑦としては明治 43 年(1910)の剣崎浄水場・南尋常小学校・高崎公園の完成、大正
6 年(1917)の高崎公会堂が、④としては駅前凱旋道路のアスファルト舗装や橋梁の永久橋化
みなみちょう
が挙げられる。房一郎自身の回顧によれば、
「最初は 南 町 の愛宕様の所にあった小学校に
通ったが、6 年になった時、家の前の、親父が造った、今の南校に行った」。そして⑤・⑥
においては、産業資本家の本領を発揮して、建設事業から一歩踏み出して高崎水力電気株
式会社と高崎瓦斯株式会社に関係したことを嚆矢として、高崎板紙株式会社、上毛製粉株
式会社、龍栄社製糸場を頂点とする 30 以上の会社の設立、経営に携わり、高崎の商工業都
市化を成し遂げていった。
改めて注意すべきは、保三郎の事業の成功が、投機的思惑や金儲け主義からではなく、
進んで市是を具現化するところにあったことである。資本の市民化作用とでも言うべき行
為として事業を推進したことである。言い換えれば、後年の大観音建立に至る近代産業資
本家井上保三郎の思想は、市是に結晶した市民社会の実現そのものをどこまでも目標とし
原点としていたと言えよう。後述するように、この精神は房一郎に継承され、房一郎の活
動を導くものとなる。
1.4 発揮された本領―商工業都市高崎の建設
かくして保三郎が本業たる土木・建築の面で「高崎の井上」
「関東の井上」を確立した頃、
つまり明治という時代が終わって大正という時代が始まった 1912 年頃、高崎は伝統的な商
業都市から商工業都市への脱皮、成長を迫られていた。かかる課題を目前にして、保三郎
は決意を固める。『高崎商業会議所六〇年史』(1955 年)は次のように記している。
「井上保三郎の頭の中には高崎を近代的な工業都市に形造る構想が根づよく生まれてき
たのである。有望な金儲けの事業が一つあるから計画してやってみるという考えだけでは
4
ない。どうしたら高崎を工業都市に出来得るかを出発点としている。それにはまず関西地
方をはじめ各地の工業をつぶさに視察し慎重に研究している。この先進地の調査の結果、
高崎でどんな工業が適当であるかの結論を得た。その結論は、板紙製造、製粉、製糸、紡
績を立地条件と経済情勢に適合したものと明敏な頭脳をもって断定している。あるいはこ
の見透しは当時の工業技術者にも一応簡単につけられたかもしれないが、驚くべきことに
その後数年間の間にこの四つ仕事を順々にはじめている。その的確な逞しい実行力には驚
嘆せざるを得ない。井上氏の頭の中、そして体の中には近代工業都市高崎建設の熱情が充
満していったのである。冷徹な頭脳の中には高崎は商業都市から工業都市に変質しなけれ
ばならないという考えが全く泌みこんでいた。商業都市より工業都市へ!
のスローガン
は当時の氏にとっての全生命であった。」
この大変革のただ中、房一郎は高崎中学から社会へと巣立っていく。そのことが房一郎
の思想形成、自己形成にどのような意味を持っていたかは後半で議論していきたい。
1.5 高崎副業会の思想―社会公益の達成
保三郎はまた、地域の資本主義化によって生起する新たな問題、労働者とその家族に対
する社会保障の充実という課題に対して、私立高崎幼稚園(大正 8 年=1919)と高崎副業
会の創立(昭和 4 年=1929)をもって解決策を求めた。最善の解決策を行政当局に代わっ
て一個人が実現しようとしたのである。昭和恐慌の真只中、保三郎は昭和 6 年(1931)発行の
関東日日新聞編『大高崎建設論集』に「家庭の内職を普及奨励して失業者を救済し経済力
を増進しろ」の一文を寄せている。保三郎のエートスと仕事の形を直接に物語る数少ない
資料である。引用しておこう。
「産業立国とも申すが自分の考えでは出ることをあとにして入ることを前にする経済主
義で進まなければいかに理想を唱え口々に大高崎市をさけんでもいつになってもその実現
は覚束ぬと思うのである。これすなわち自分がここに副業の奨励普及を要すると主張する
所以であって大工業政策の前提としてまず家庭工業の普及を計って貧民の救済に努め下層
階級の購買能力を増進し従って本市の経済力を増大することが目下の急務と信ずるところ
なり。…故に自分は今回陣頭に立って匿名組合組織をもって自費約二万円ばかりを投じて
原料の買入れをなし歴史上本市の家庭工業として認められつつある真綿の仕事を職業難に
苦しむ各家庭に普及して遊民のないようにしたいと計画を始めた次第であるが目下八島町
高盛座裏に事務所を建設中であるが、来春早々これが事業を開始したいと思うのであるが
市当局を始め各有志の方々におかれてもここに着眼せられた以上是非犠牲を払って各思い
思いの副業の奨励家庭工業の普及に努めもって本市の経済能力の増進を計り大高崎市の現
実に向かって歩を進められん事を一言を述べて参考とする次第である。」
この思想と事業が形になっていく間、房一郎は東京・パリに遊学しており、昭和 4 年(1929)
の末に帰国する。まさに思想形成、自己形成のただ中であり、房一郎が私をはじめ多くの
5
方に度々「親父からの手紙は金だけを抜いて読まなかった。読んでも何もできないし、そ
れで自分の気持ちが変わるわけじゃあない。国に帰ることがあったら改めて読もうとため
ておいて、帰りに重い思いをして持ち帰ったが、帰ったら不要なのでみんな燃やしちゃっ
た。親父はどう考えていたんだろうね。」と語っているが、帰国後の保三郎の采配と房一郎
の行動とを考え合わせると、親父の考えと事業、計画は伝わっていたようである。
1.6 昭和 4 年―保三郎父子の転機
昭和恐慌は保三郎の本業たる土木・建築業にも厳しい風として吹いていた。受注量の急
減はすさまじい過当競争を生み、仕事を取るためだけに予算の半額近い金額で落札される
ことも珍しくなかった。昭和 3 年(1928)、高崎駅本舎並びに機関庫拡張工事を施工するが、
直後、高崎税務署から請負工事完工高の急増を理由に膨大な課税を課される。すでに保三
郎の直接国税納税額、市税納税額は高崎市内で群を抜いていたが、恐慌の中でようやく獲
得した利益を吐き出すというレベルを超えていた。そこで遂に昭和 4 年(1929)8 月 8 日、個
人商店井上保三郎商店(井上組)を井上工業株式会社に改組する。節税、企業合理化から
すれば当然の措置だが、なぜ、次々と株式会社を興した産業資本家井上保三郎が、本業、
企業活動の中核を最後まで個人商店に留めておいたのか。おそらくは、本業だけは、最後
までひとりの人間として全責任を取らねばならぬという意志ゆえではなかったろうか。
そして、この年の末、12 月 20 日、房一郎はシベリア鉄道経由で敦賀港に帰国する。まさ
に昭和 4 年(1929)という年は、保三郎父子とって転機となる年であった。年齢的にも保三郎
61 歳、房一郎 31 歳。当時とすれば世代交代にぴったりの年であった。
保三郎自身に即して言えば、ひとりの人間として、高崎の明治維新の子として、高崎、
群馬の近代化に全てを賭けてきた人間として、全責任を追うべき次の大きな課題に挑戦し
ていくことになる。それが、巨大な私費を投じての白衣大観音建立、高崎市への寄贈では
なかったか。白衣大観音建立は、保三郎自身の言明、関係者の証言から、幼い日からの観
音信仰と昭和 9 年(1934)の陸軍大演習に際しての単独拝謁からくると考えられてきたが、そ
の発端は昭和 4 年に遡るのではなかろうか。事実、昭和 8 年 2 月の日付を持つ「観音山公
園保勝会設立趣旨」によれば、保三郎は、昭和 9 年の単独拝謁以前から、観音山をより多
くの人々に開放し近代的に整備しようと考え、市に働きかけていたことが伺われる。
市街地を中心とする高崎の商工業都市化につぐ事業は商工業都市高崎を基礎とした観光
文化都市高崎の建設であり、それを実現し抜くことが自らの社会的責任であると保三郎は
確信していた。そこには地域に根ざして産業と社会を発展させようとするひとり人間の哲
学が息づく。保三郎が白衣大観音建立の出撃拠点とした市内の別荘、観水荘二階のガラス
障子を通して保三郎の目には夢の観音山大公園が見えていたのであろう。しかし保三郎は、
この夢を残して白衣大観音建立の 2 年後の昭和 13 年(1938)11 月 17 日観水荘で静かに息を
引き取った。満 70 歳の誕生日まであと 3 日という日であった。
6
第2節
房一郎の人間形成と戦前の活動
父・保三郎について縷々述べてきたのは他でもない。そこに房一郎の営みと相通ずる思
想と事業、地域人としての戦略が見られるからである。そして、それは、保三郎―房一郎
という傑出した人物を輩出した高崎という都市の都市としての普遍性と可能性に繋がって
いるからである。以上の準備の上に、房一郎の足跡を年を追ってみていこう。
2.1 房一郎の原点―少年期における実母との死別
保三郎 30 歳、高崎市制直前の年に生を享けた房一郎だが、6 歳の時、実母戸ウが 33 歳
の若さで死去する。幼くして実母を失ったことは、房一郎の人格形成、社会・文化活動の
一つの原動力となったと見られ、房一郎自身、
「父は仕事で家にいず、おっかさんは死んじ
まった。自分は辛い境遇にあった。だから、自分の視線、活動は自ずと外部、社会へと向
かっていった」と、度々述べ、最晩年、親族に実母の写真を配っていた。
母の死の翌年、高崎市立南尋常小学校に入学。学籍簿によれば、1 年生から 4 年生まで 1
等賞、5・6 年生優良賞、4・5 年生皆勤賞と、極めて優秀な成績だった。
母とは死に別れたが、父の仕事の成功と人望は、房一郎が社会に活動する基盤を準備し
て行く。大正 5 年(1916)、保三郎の勧めで、群馬県立高崎中学校から早稲田大学入学の手続
きを取ったが、房一郎本人の回顧によれば「当時は大隈さんや福沢さんと親交のある地方
の家は家族を早稲田や慶応に出せた。ぼくは、もともと行く気がないから、門さえ潜った
ことがない」
。しかし東京に出られたことは、房一郎にとっては水を得た魚の状態。早速東
京美術学校の学生達と付き合うようになる。日本画科学生の白井壮太郎とは特に親しくな
り、白井の居宅近くの目黒に下宿。白井の親戚が開いていた「共益商社」を通じて輸入レ
コードを買い集める。
大正 7 年(1918)帰郷。高崎市公会堂で「群馬最初のレコードコンサート」を開く。コンサ
ートを手伝った高崎商業学校生徒の石原寅三郎(後、伊勢崎信用金庫理事長)、関根政巳(後、
群馬テレビ社長)は終生の友人となった。社会への関心は芸術に止まらず、同年冬、高崎
中学校先輩の蝋山政道(後、東京帝国大学教授)、住谷啓三郎(後、高崎市長)らと高崎新
人会を結成し、吉野作造、大山郁夫らを高崎に招いた。郷里の先・後輩と東京等の先人・
知己を合しての活動というスタイルは、後年の文化活動の原型となったと言える。
やまもとかなえ
2.2 生涯の師・山本 鼎 との出会い
そのただ中で、房一郎は生涯の師・山本鼎と出会う。山本鼎は大正元年渡仏し、帰路の
モスクワ滞在中に「児童の自由画奨励と農民美術の建業を使命と感じ」、大正 8 年(1919)、
ちいさがたぐん
長野県 小県郡 神川村(現、長野県上田市)神川小学校で第 1 回児童画展覧会を開き、同年、
同村に「日本農民美術研究所」を設立した画家だが、星野温泉にある井上家の別荘のすぐ
近くに山本鼎のアトリエができたからである。房一郎 21 歳、山本鼎 37 歳のことであった。
7
山本のアトリエは、当時原合名会社富岡製糸場場長だった大久保佐一から贈られたものだ
ふるさわ こ さ ぶ ろ う
が、その縁故で、母・戸ウの実家青木家縁続きの富岡町長古澤小三郎の肖像を山本が描い
たことも、房一郎との縁を深めたものと見られる。
早速大正 10 年(1921)2 月、房一郎が中心となって高崎市公会堂で自由画教育の展覧会
と講演会を開催する。しかし、募集要項にクロポトキンの教育論が引用されていたことか
ら県学務課の介入があり、出展は高崎市内小学校だけとなったが、9000 枚近い出展と 5000
人近い観衆が集まった。ただし教師の参加は少なく、積極的に参加した「たった一人の学
校の先生」が森銑三だった(当時南尋常小学校代用教員。後、近世学芸史研究家)。
大正 11 年、山本からパリ留学を薦められ渡仏を決意する。保三郎は難色を示したが、山
本らの説得で同意を得た。その高揚した気分の中で、房一郎最初の論文「美の価値に就て」
が『上毛新聞』に発表される(8 月 31 日・9 月 2 日号)。論旨必ずしも明確ではないが、社
会と芸術、芸術家と鑑賞者の社会的関係、芸術家の真の苦しみなどについての考察であり、
生涯にわたって房一郎が追求、実現しようとした課題が提起されている。
2.3 パリ―セザンヌと自我の発見
翌 12 年(1923)の 2 月、24 歳の房一郎は足立源一郎と共に鹿島丸で横浜から出港。4 月初
旬にパリ到着。パリに居た小山敬三の示唆で絵画の実技を学ぶためアカデミー・コラロッ
はざまいのすけ
まごしちゅうたろう
みやさかまさる
シに通い出す硲伊之助、馬越舛太郎、青山義雄、 宮坂勝 らと親しくなる。13 年 3 月にはモ
せんばきんぺい
ンマルトルに仙波均平のアトリエ、「レ・フューザン」を譲り受け、アカデミー・ド・ラ・
グランショミエールにも通い出す。絵画に加えて彫刻が学習の中心に入ってくる。彫刻の
指導者はブールデル。ジャコメッテイ兄弟と深い親交を結ぶ。高崎ではこの年、保三郎が
なみえまち
中心となって群馬県工業試験場高崎分場が並榎町に開設される。後に群馬工芸所と名を変
えて、帰国後の房一郎が工芸運動を進める拠点となった施設である。
続く 14 年(1925)、パリで「現代装飾美術産業美術国際博覧会」(アール・デコ展)が開
催される。アール・デコとの出会いは房一郎の美意識、創造形式の上に大きな意味を持ち、
学習の対象を絵画・彫刻から建築・工芸へと広げる。冬頃から体の不調を訴え南仏エスタ
ック近辺に保養滞在。房一郎自身の述懐によれば「人生で一番辛かった時」。
翌年の夏頃、パリに戻るが、そこで、渡仏に先立ってフランス語を学んだアテネ・フラ
かつのきんまさ
ンセの勝野金政(直後フランス共産党入党)と再会し、勝野の誘いで昭和 2 年(1927)の春に
はサッコとヴァンゼッチの処刑反対デモに参加し拘留される(一晩で釈放)。ラジカルな自
由主義者として生涯を貫いた房一郎らしい。
この頃から関心は理論に向かいセザンヌに傾倒する。昭和 58 年(1983)自ら刊行した『社
会・芸術・建築』(後、
『私の美と哲学』所収)によれば、
「『我想う。故に我在り』に凝縮
されているように、自我の発見をもって外界に接触して初めて外界が存在するという近代
哲学の核心を、セザンヌは絵画理論の基本理念にしていた。ここに、セザンヌが近代絵画
8
の父と呼ばれる核心がある。野獣派も立体派も、新しい表現主義の諸潮流も、すべてセザ
ンヌの影響によって生まれたものであることを私はつかんだ。自我に基づく認識と表現、
それを結ぶ手段(科学性・合理性)の重要性についても、私は、セザンヌに教えられた。
そしてまた、セザンヌのこの偉大な創造は、絵画のみならず、彫刻、建築、全ての造形美
術に通じるばかりか、多様な社会関係にも成り立つことに私は気づいた。私は、セザンヌ
と出会い、セザンヌに学ぶことで自我を確立し、外界を観察し、社会的創造をなしうるこ
とに勇気を持つようになった。」
2.4 帰国―工芸運動の日々と房一郎の構想
かくして房一郎は帰国を決意する。シベリア鉄道で日本へと向かい、昭和 4 年(1929)12
月、敦賀に帰国した。昭和 4 年が保三郎にとっても画期なす年であったことは先述したが、
大正 12 年に保三郎らの力で開設された群馬県工業試験場高崎分場を商工省が組織した工芸
指導所体制に対応できるものへと充実させたのもこの年であった。年末には世界恐慌が勃
発し不況が深刻化するなかで、翌 5 年(1930)房一郎は井上工業取締役に就任すると共に、保
三郎の勧めで群馬県工業試験場高崎分場の嘱託となり、「日本の伝統的工芸を欧米諸国の
生活様式に応じたデザインとする」
(昭和 57 年執筆「私の工芸歴」)工芸運動を高崎から興
すこととなる。房一郎の意向を汲みながらの保三郎の見事な采配である。
まず工業試験場高崎分場漆工部の一室に「井上漆部」が創設されジャン・デュナンの弟
つ の だ こうさく
みはらとくげん
子・角田耕作や水原徳言が製作に当った(後、井上工業に隣接して建てられた高崎副業会
の 2 階に移った)。水原の証言によれば「漆をやろう」と言い出したのは保三郎とのことだ
おざわしゅうせい
が、房一郎とシベリア鉄道で同席した小澤秋成の滞欧洋画展に房一郎デザインの漆仕上げ
からさわ と し き
の額縁が使われたことは特筆される。小澤は房一郎を唐沢俊樹(当時内務省警保局長、後
すぎはら は る こ
に法務大臣)に紹介し、6 年(1931)7 月、唐沢の義妹・杉原春子が房一郎に嫁いだ。仲人は
有島生馬夫妻だった。唐沢を核とした交友関係は房一郎の活動に新たな視角を開く。
その 6 年には家具の製作者と使用者が一つの協同体となる発想のもと高崎木工製作配分
組合を設立する(昭和 7 年の実績で組合員数 450 人、職工 25 人)。廉価に販売することが
可能なユニットデザインを基本に、洋服ダンス、椅子と机のセットが中心をなすが、希望
に応じて良質な材を使った特注にも対応し、アントニン・レーモンド設計の聖パウロ教会
(軽井沢)にも納品された。工業試験場の体制では職工の修業年限は 2 年と決まっており、
その後の訓練や就職は保証されていなかったので、木工製作配分組合には「就職先である
と共に訓練の場」(前述「私の工芸歴」)とする意図もあった。
7 年(1932)には、高崎絹の改良、捺染や伊勢崎絣の服地広幅化のためタスパン株式会社を
設立。水原徳言の証言によれば、保三郎の「高崎絹は裏地に使われるだけで付加価値がな
い」との指摘に対し、房一郎のアイデアのもと、新しい染色デザインや手織により独自の
洋服地への格上げを図ったもの。
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8 年(1938)には、製品を外国人に販売するため軽井沢に「ミラテス」を出す。「ミラテス」
の名は布地を鑑賞する(アドミィラ・ティシュウ)という意味のラテン語から硲伊之助夫
人アデリアが命名したもの。ミラテスには、人形制作クラブ「プッパ・モール」の同人、
小畑雅吉(後淡島姓、ガラス作家となる)、三澤操(建築家)、小川洋吉(川島織物東京店
のテキスタイル・デザイナー)などが頻繁に出入りする。レーモンドとの出会いも、夫人
でインテリア・デザイナーのノエミ・レーモンドが小川洋吉が連れられて軽井沢の「ミラ
テス」を訪れたことに始まる。
実はレーモンドとの出会いの方が、タウトとの出会いよりも古く、ミラテスの名もタウ
ト以前に遡る。時に房一郎 35 歳。レーモンド 45 歳であった。若き日の学びの場がパリで
フランス語を話せたこと、セザンヌとピカソを最高の画家と評価し目標に絵を描いていた
こと、音楽の好みが合ったことなど、2 人は直ぐに共鳴し、生涯の友となっていく。
房一郎の活動は工芸に止まらず、帰国直後の昭和 5 年「従来個別的に分散していた私生
活機能を社会的観点に集中させて、高崎市を中心にした諸々の文化現象に対して清新な雰
囲気を醸成することを目的」に「夫々の専門研究とその実際運動」を行うため、石原寅三
く ぼ た そ う た ろ う
、住谷啓三郎、小山長四郎、浦野芳雄らと
郎、関根政巳、久保田宗太郎(当時の高崎市長)
新生会を設立した(後、新人会と改称)。房一郎の考えは「数年居った仏蘭西から帰って疲
れた高崎の姿を見たから、之を数字的に研究したいと思った。それには先づ都市と農村(高
崎市と近接農村)の関係をはっきりさせたい。より良く生きて行く道を考へたい。更らに
東京と高崎との産業的関係を研究し、もっとはっきりした高崎の立場をみつけ度い」とい
お
だ うちみち とし
うものであり(『新生会会報』昭和 6 年 2 月号の小田内通敏論文)、この考えは以後の活動
のバックボーンとなる。そしてその実践として高崎駅前通りのアスファルト舗装と連動す
る街並み整備、乾式木造建築「トロッケンバウ」建築の普及と施工を積極的に牽引した。
2.5 タウトとの協働―「招聘」の真実
ブルーノ・タウトは、こうした運動のさなか、「亡命」できずに日本を彷徨せざるをえな
い状況ゆえに高崎に「招聘」されることになる。房一郎は、昭和 9 年(1934)5 月沼田出身の
く め ご ん く ろ う
久米権九郎を介して銀座でタウトと初めて会い、7 月井上工芸研究所顧問としてのタウトの
高崎行きが決まる。契約期間 3 ヶ月。報酬 1,000 円。契約期間が切れた後は月 180 円をタ
ウトの生活費として支払うこととなる。生活経費一切は房一郎の責任となった。タウトの
住居としては軽井沢・星野温泉の井上家別荘を予定していたが、保三郎が難色を示したこ
ひろせだいちゅう
ともあり、浦野芳雄、沼賀博介、広瀬大蟲らの協力を得て少林山達磨寺境内の洗心亭に決
定。8 月 1 日タウトは洗心亭に引っ越した。房一郎 36 歳、タウト 54 歳の時である。
浦野芳雄『ブルーノ・タウトの回想』によれば、洗心亭への決定は「井上房一郎君から、
ドイツ人を世話してみたい。水のよい涼しい所はないかと云ふ手紙があった」ことに始ま
るが、晩年、房一郎自身から、「会ったこともない、しかし、これでドイツに返されたら死
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刑になるかもしれない人をお世話をする。しかも『お招き』する形にする。顧問料など出
ないのに県の顧問のように扱う。並大抵ではなかった。それなのに、後で公になった日記
にいろいろと文句が書かれていてやりきれなかった。戦後、安部能成先生にそのことを申
し上げたら、
『何もしなければ何も言われない。お世話をして何か言われたら、それは人間
としての交流がきちんとあったから。財産だよ』と言われ、やっと胸のつかえがとれた。」
と告白されたことが私の胸に印象的に残っているが、客観的に見てタウトが井上に託され
た理由は 3 つあると思う。第 1 は房一郎が警保局長唐沢俊樹の義弟であり、タウトという
「危険人物」を監視下に置けること。第 2 は井上家の財力。第 3 はタウトの能力を「日本
の伝統工芸を欧米諸国の生活様式に応じたデザインとする」デザイナー兼プロデューサー
として発揮させること。一石三鳥の目論見は当たったと言ってよい。
10 年(1935)2 月には東京・京橋区銀座西六丁目・滝山ビルの1階に「ミラテス」を開店
する。タウトがデザインした看板が掲げられ、商品には「井上−タウト印」が捺された。
同月房一郎は雑誌『帝国工芸』に「農村工芸に関する私達の計画及びタウト教授の指導方
法」を発表。11 月には東京・日本橋の丸善本店で「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧
会」開催した(翌年 4 月には大阪・大丸でも「ブルーノ・タウト指導工芸品展」開催)。
11 年(1936)に入ると群馬県工業試験場高崎分場は群馬県工芸所に改称された。タウトは
引き続き顧問となり房一郎との工芸運動に磨きがかけられていくが、タウトは体調を崩し
て、10 月少林山を去ってトルコに旅立った。保三郎も同月の白衣大観音の建立を見届けて
11 月隠居届を出し房一郎は家督を相続することになる。時に房一郎 38 歳、保三郎 68 歳。
翌年タウトのいない中で房一郎は新たな工芸運動として高崎毛織株式会社を興す。県内
各地で進められていたホームスパンの育成を足場に「満州」産の羊毛を高崎で糸にし、伊
勢崎で仕上げることを目指した。そのため房一郎は「満州」へも足を伸ばしているが、こ
れが最後の運動だった。同年 7 月日中戦争が始まり、職工達は戦役に取られていった。
迎えた昭和 13 年(1938)は別離の年となる。11 月 17 日の保三郎死去(享年 69 歳)に続
いて、12 月 24 日にはタウトがトルコで客死(享年 58 歳)
。レーモンドもアメリカに帰っ
た。以後終戦までの間、高崎市翼賛壮年団長として音楽挺身隊を組織し慰問活動を行った
以外は目立った文化活動はなく、父の跡を次いでの会社経営に専念した。
第3節
戦後 3 枚の絵―群響・音楽センター、美術館、哲学堂
やがて昭和 20 年(1945)8 月 15 日。住谷昇三の証言によれば、国民服もゲートルや敬礼も
似合わない自由主義者の房一郎が正座して玉音放送を聞き涙したと言う。房一郎の人柄が
偲ばれるが、房一郎が自らの成果を「社会というキャンバスに 4 枚の絵を描いたようなも
の」と述べていることを踏まえれば、1 枚目が工芸運動とタウトとの協働、2 枚目が群響と
群馬音楽センター、3 枚目が県立近代美術館と戸方庵井上コレクション、4 枚目が高崎哲学
堂と文化都市高崎の建設ということになろう。戦後の 2 枚目以降を鑑賞していこう。
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3.1 群響―物がなくても人々の心に灯を
平和国家・文化国家の掛け声の中で、房一郎は「物がなくても人々の心に灯を点けられ
る運動であり世界の言葉でもある」音楽運動に早速着手する。戦時中の音楽挺身隊と疎開
していた音楽家達とを合流させての高崎市民オーケストラの設立である。創設にあたり、
房一郎は「これからの日本人は、一人ひとりの質を高めて、世界のどこに行っても一個の
人間として歓迎され、尊敬されなければならない」と述べた(『群馬交響楽団 50 年史』よ
り)。房一郎の仲人有島生馬の甥、山本直忠が指揮者に就任。時に房一郎 47 歳の秋。
翌 21 年(1946)5 月、高崎市民オーケストラは群馬フィルハーモニーオーケストラと改称
され会長に就任(24 年に財団法人を認可)。そして 10 月房一郎が中心となって出資を仰ぎ、
熊井呉服店から借りていたオーケストラ練習場(2 階)の 1 階に喫茶店「ラ・メゾン・ド・
ラ・ミュジック」(音楽の家)が開店する。店舗デザインは東京美術学校(現東京芸術大学)
こ
い
ど せいざぶろう
出 身 の 小井戸 清三郎 が 当 た り 、 飾 り 棚 に は 房 一 郎 の パ リ 時 代 の 友 人 で あ る 彫 刻 家 ・
し み ず た か し
清水多嘉示制作の等身大よりやや小さいギリシャ風の女性像が置かれラ・メゾンのシンボ
ルとなった。カルテットの演奏やレコードコンサート、室内演劇なども行われ、3 階の集会
所では詩人の会、絵画研究会(現代美術研究所と称し昭和 37 年まで続く)も開かれ、ラ・
メゾンは高崎の新しい文化の根城となったが、そこには 2 つの特質があった。
第 1 に、音楽を中心としながら、しかし、様々な分野の文化・芸術を求める人々が集い
磨きあう場、まさしくサロンであった。第 2 に、ラ・メゾン開店資金の大半は房一郎が持
ったが残りは出来るだけ多くの市民からの拠出を求め、全ての権利を平等にした。「人々に
夢と理想を語り、同志的な仲間に引き入れて、同じ夢を見る楽しさを分かち合った」(黒田
亮子「井上房一郎の眼と精神」『パトロンと芸術家―井上房一郎の世界―展図録』
)。
基金づくりのこの思想と手法はその後の房一郎の文化活動に共通しており、房一郎が真
のパトロネージュを体現し続けた人物と評価される一つのポイントともなったが、同時に、
この 2 つの特質は、房一郎に牽引された高崎文化の特質とも言えるものである。つまり、
房一郎という偉大な先覚者なしにはありえなかった文化運動ではあるが、房一郎が孤立せ
ずに活躍できる都市としての空気、精神があったということである。現に房一郎を取り巻
く人々の中に同じ精神が脈打っていなかったら、彼の構想は定着しなかっただろう。この
空気が戦前から戦後にかけて、高崎をして全国に名を馳せさせた最大の要因である。戦後
の混乱の中で高崎商工会議所が 5 大都市に次ぐ商工会議所として日本商工会議所再建の中
核となり、当時 10 万人ほどの都市が市立の 4 年制大学を持ち、群馬音楽センターと同時期
に我が国初の問屋団地を完成させたのは全て同じ市民精神の賜物である。
22 年(1947)には最初の移動音楽教室が開かれるが、「当時、交響曲を演奏する場所などど
こにもなかったのと、小・中学生を中心として、できるだけ多くの県民に本当の音楽を聞
かせたかったからである。」((財)高崎哲学堂設立の会『よろこばしき知識』95 号)。この
12
様子が映画「ここに泉あり」に活写されて感動を誘ったが、敗戦の貧しさのただ中から市
民の情熱が文化を創っていくというシナリオの性格と、房一郎自身が「周りからいろいろ
言われ、ぼくもモデルになるのは嫌だから映画にはかかわらないようにした」結果、かえ
って房一郎と群響との関係を見えにくくしてしまったことは残念である。
3.2 群馬音楽センター―戦後高崎における文化活動の金字塔
昭和 27 年(1952)3 月 10 日房一郎自宅は全焼。直ちにレーモンドの事務所兼自宅を参考に
新築した(レーモンドとの再会は昭和 24 年)。房一郎邸は、レーモンドの居宅がなくなっ
た現在、レーモンド・スタイルの到達点を知る最良の建築物であり、高崎哲学堂として市
民の共有財産、公開財産となったことは、まことに喜ばしいことである。
また、この年の 4 月、母校群馬県立高崎高等学校(旧制高崎中学校)の奉安殿・大麻奉
斎殿跡地を「指月庭」と名づけ、校庭の一大造園化を立案、実施。以後、自ら校庭にバラ
園を作庭し、その手入れを行うため毎朝高崎高校まで歩き、後輩たちにバラの手入れを手
伝わせながら、社会や芸術に関しての指導、誘導を続けた。さらに 29 年以降は、毎年のよ
うに高崎高校に講師を招聘し、これが哲学堂講演会の前身となる。また、弁論部、サッカ
ー部等の名誉顧問となって後進の奮起を促すとともに、弁論部機関誌『セルリアン』に度々
特別寄稿を寄せ続けた。
こ の え ひで まろ
まるやま かつひろ
そして 29 年(1954)の秋頃から、近衛秀麿、丸山勝広らと「音楽センター」建設を提唱。
音楽センター建設・音楽モデル県指定の国陳情が官・民一体となって進められることにな
る。房一郎は、設計者にレーモンドを推薦し、群馬音楽センターは昭和 36 年(1961)完成し
た。群馬音楽センターはレーモンドの最高傑作であると共に、市民の拠金、全市挙げての
運動による建設という意味でも戦後高崎における文化運動の金字塔と言える作品である。
金銭的に言えば、当時の高崎市予算 9 億 5 千万円に対して音楽センター建設事業費は 3 億 5
千万円。そのうち 1 億円が市民の醵金で賄われた。各家庭では月 10 円の積立が行われ、『高
崎市民新聞』には毎号寄付の町内会や市民団体・企業が紹介された。21 世紀は市民と都市
自治体との協働の世紀と言われるが、我が国協働の最も端的な先駆例であろう。
それだけにレーモンドは『自伝』に書いている。「1961 年に建設された群馬音楽センター
は、独自の想像と、独自の問題提起を持ち、かつまた独特な解決でもあった。2,000 人を収
容する劇場は、古代の大扇形劇場を思い起こさせるのだ。しかし時として、あるいは同時
にシンフォニー・ホールとして、バレー劇場として一般劇の舞台として、また伝統的な歌
舞伎劇場にもなり、ワイド・スクリーンを用いた映画館ともなり得る。建築のマイル・ス
トーンとして、ヨーン・ウッソンのシドニー・オペラ・ハウスのように『技術の驚異』と
よばれる建築の範疇にはいるであろう。」
房一郎邸と音楽センターに関して建築史から語るべきことはあまりに多いが、私の手に
余る。ただ、1960 の座席と 1 つのステージ。世界最大の 1 つに入るレーモンド自筆の 2 階
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ホワイエ・フレスコ画。
「ときの高崎市民
之を建つ」と記された碑は長く歴史に刻まれる
にちがいない。現に群馬音楽センターは、ICOMOS(ユネスコ国際記念遺跡会議)及び
DOCOMOMO(近代運動に関わる建築及び周辺環境の記録調査及び保存のための国際組
織)選定の「文化遺産としてのモダニズム建築日本の 20」に選ばれている。
3.3 美の托鉢行―ファウンデーション・ギャラリーという思想
音楽センターが完成するや、翌昭和 40 年(1965)、房一郎は(財)群馬県美術館設立準備会
を設立する。趣意書に言う。「フランスの国内旅行をしますと、前橋や高崎ほどの地方都市
に必ず美術館があります。フランスの人は、地方文化に、美術館のあることを常識として
いるようです。地方美術館は、その国の地方の美術に親しみをもたせ、地方人の情操教育
にどれほど役立つか知れません。また、旅行者にとっても地方の美術館において郷土出身
の美術家の作品に接することは、作家の研究によい機会を与えます。明治時代から日本の
政治家や教育者は図書館の必要は外国から学びましたが、美術館については、忘れていま
した。これは昔から日本が美術の国であって、美術品がそれぞれ個人の所有として所蔵さ
れていたからといえましょう。地方美術館が極めて少ないのはこのためです。図書が人間
形成に必要なように美術館による情操教育は一層大切なことと思います。」
ひじかた ていいち
こうした理念を抱いて房一郎は美の托鉢行に出る。そして土方定一神奈川県立近代美術
まつしたりゅうしょう
館長、松下 隆 章 京都国立博物館長やレーモンドの協力を得て旧井上工業ビル 3 階に群馬県
ファウンデーション・ギャラリーを開設し、10 年近くも 2 ヶ月に 1 回程度の割で展覧会が
開催された。房一郎の理想に基づくコレクションと郷土作家達、湯浅一郎、山口薫、鶴岡
政男、福沢一郎などの絵や彫刻が展示された。
かんだこんろく
いよいよ美術館建設の青写真が引かれる日が近づいてくる。房一郎と土方は神田坤六・
群馬県知事を故人の自宅に招き、計画のあらましを考え合う日が続いた。そこで、県の明
治百年事業の一つとして、高崎市郊外の岩鼻の森(旧軍火薬庫の森)を「群馬の森」とし
て整備する中で美術館を建て、自然に囲まれた理想的な文化センターを創る計画が生まれ
ていった。「群馬の森」には当初、美術館、博物館、文学館の 3 施設が予定された。
そして計画の第 1 案として若い磯崎新が近代美術館の設計にあたることになった。立方
体を設計の基本にすえ、コンクリートとアルミニウムを十分に使いこなし、人造と自然と
が本当に調和する美術館が生み出された。現代世界を代表する建築家となった磯崎新のあ
る意味では最初の大仕事だった。県立近代美術館は昭和 49 年(1974)に開館を迎え、翌年度
の日本建築学会賞に輝いた。時に房一郎 76 歳。磯崎新 43 歳。
3.4 戸方庵井上コレクション―寄贈を最初から目的とした蒐集
そうした形で美術館建設の県民合意を図る一方、自らも、美術館への寄贈を最初から目
的としたコレクションを始める。この仕事は昭和初年の帰国後(1930 年代)からすでに始ま
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っていたが、埋もれたままの日本の古い美術品や郷土の作家の作品を蘇らすために山間に
分け入り古蔵の中を探しまわった。しかも、その収集は、房一郎の考えへの共鳴者が増え
て県立美術館ができた時の寄贈を目的としていた。個人のためのコレクションでなはなく、
公共のコレクションを個人が進めたのである。そのことは、なぜ、西洋美術の収集ではな
く、日本を中心とする東洋古美術の収集だったか、近代絵画では郷土関係作家のものに限
定したかによく表われている。房一郎はインタヴューに答えて度々語っていた。
「セザンヌ
によって確立された近代絵画は普遍性を持ち哲学がある。だが、それは描き続けられてい
て、誰もが収集可能だ。他方、日本画や東洋美術は優れた内実と、同時に近代絵画を、し
たがって近代哲学を乗り越える要素を孕んでいるが、残念なことに人々の関心は向いてお
らず、急速に失われつつある。欧米人は、そのことが分かっているから、明治維新の時や
戦後の混乱期にそれを集めまわった。肝心な日本人がそのことを忘れ、作品と共に心を捨
て去ろうとしている。今、自分が集めなければ大変なことになってしまう。」
こほうあん
230 余点に上るコレクションは戸方庵井上コレクションと名づけられた。命名者は 11 代
こひつりょうしん
こ ぼ り えんしゅう
古筆了信で、「小堀 遠 州 にちなんで房を戸と方に分けて」与えられたというが、「戸方(こ
ほう)」の文字と音には、幼くして死別した実母・戸ウ(こう)への思いが重なる。
3.5 高崎哲学堂の構想と到達点
続く房一郎の活動は高崎哲学堂の設立運動に収斂されていく。
昭和 44 年(1969)の 1 月、「哲学とは、私たちが、私たちの社会に賢明に生きようとする
願望の学問です」「高崎哲学堂は、現在の政治や教育の手の届かないことを勉強する高崎の
寺子屋です」をモットーに高崎哲学堂設立準備会を組織し講演会を開講する。もっとも哲
学堂の構想は昭和 40 年前後から持たれていたと見られ、昭和 40 年 11 月発行の小冊子『私
の現代の宗教・社会教育観』で、房一郎は「社会教化研究所(仮称)及び国分院(仮称)」
の設立を提起し、「私の国分院の構想を地方の自治体から着手する場合」として「財団法人
高崎国分院哲学堂(仮称)」を提案している。考え方は後の哲学堂設立運動に繋がるものだ
が、葬儀の簡略化を意図し、そのための施設を一つの核としていたところに特色がある。
これには、新生会以来の同志であり、房一郎亡き後高崎哲学堂設立の会理事長となり房一
はらかずお
郎邸を公売の危機から救い高崎哲学堂として再出発させた原一雄らの異論があり、それに
房一郎も同意して純粋な形での哲学堂設立運動へと結晶していった。
セザンヌの背後にデカルトを見たことで自らを確立したように、あるべき社会・芸術を
創造するには市民レベルでの古今東西の哲学・思想の共有が不可欠との考えである。錚々
たる講師陣が並ぶ月例講演会は 400 回近く、56 年から出し始めた月報『よろこばしき知識』
誌上で毎号房一郎が示した思想や提案は、21 世紀に向けての最高級のよすがとなって、人々
の心の中に、高崎―群馬の社会の中に運動としての哲学堂はその姿を確立していった。
うめはらたけし
みなもと
また、運動当初から房一郎を支え続けた梅原 猛 (国際日本文化研究センター顧問)、 源
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りょうえん
了圓 (東北大学名誉教授)などは後に世界的な哲学者、思想史家となるが、最初に登壇し
ありま
あきと
た時は皆 40 代だった。後に文部大臣となった有馬朗人も、原子核物理学者にして俳人とい
うことで東大総長就任前から招かれ続けた。ここに房一郎の眼力が象徴されているが、房
一郎は、坂東玉三郎や山田かまちなどの才能を本当に若い時から見出し抜擢していった。
ここで玉三郎とかまちに触れれば、房一郎が直接かまちに会ったのは、44 年(1969)9 月、
かまちの担任で、高校時代に房一郎に絵の手ほどきを受けた竹内俊郎が当時小学校 3 年生
のかまちの絵に驚き房一郎に見せたのをきっかけに家に呼んだ、その 1 回だけである。か
まち一人に踊りを舞って見せ、親には「大切に育てれば、山口薫どころか光琳・宗達を凌
ぐ画家になる」と伝えた。その後、かまちの消息を知るのは悲劇的な事故死の直後だが、
まもなくかまちの遺作展を一人の作家を遇する形で開催する。それがかまちブームの点火
だった。玉三郎についても、しうかの芸名の時からその才能を見出し、芸父守田勘弥の依
頼もあり最初の後援会長を務めている。あるいは現在最高の尺八奏者の一人であるクリス
トファー遥盟に対しても、彼が全くの無名で、外国人が尺八なんてと思われている頃、新
聞の小さな記事を頼りに武蔵野の外れまで演奏を聞きに行き、彼の出世を支え続けた。
人と芸術を見抜き、その人が社会に活動できる環境を整える真の名伯楽であった。
哲学堂運動に戻れば、51 年(1976)からは会を市民財団とするため、基金 1 億円を目標に、
市民個々人に 1 年 1 万円ずつの積立を提案する。昭和 55 年(1980)5 月 13 日、奇しくも房
一郎 82 歳の誕生日に(財)高崎哲学堂設立の会は認可された。基金積立は房一郎の没後も続
き1億 3,000 万円弱に達し、この積立が房一郎邸公売の危機を救うことになる。
結びに代えて―文化遺産としての井上房一郎
はからずも房一郎邸が哲学堂となったが、房一郎の描いた完成図にはほど遠いのも事実
である。市民と行政の協働の形として、もっともっと活用され運営も安定するものになる
必要があろう。しかし、哲学堂運動を託した原一雄に対して房一郎は語った。「全ては途中
で終わることを覚悟しなければ、どんな運動もできない。真摯な想いを貫くなら必ず人々
の賛同を得て運動は続けられていく」。房一郎がその活動を運動と呼び、ある到達点に達し
た時、惜しげもなくそれを譲っていったのはこの考えからであろう。
若き才能を一瞬にして見ぬき、彼らの成長の中に、自身の生命が途中で終わろうとも生
き続く文化、芸術の発展を信じていた。房一郎は、自身優れた芸術家にして経営者である
と共に、社会に必要な文化の形を思い描き、それを体現しうる才能を見出し、それらの人々
の成長を見守り、大衆に運動の未来を託し続けた人だった。
最晩年になって、房一郎は、自然や人々に対する感謝の気持ちを常に口にし、病床に就
いてからも、訪れる人々の手を強く握り締め「ありがとう」を繰り返した。はからずも辞
世の句となった「明るさを
おがみて暮らす
夏木立」の句に流れていたものは、感謝と
信頼であった。それに微力ながらも答えようと努めることが我ら後進の途であろう。
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