「諸身分規定」をめぐる動向を中心に

宗派対立期上オーストリア貴族による身分秩序の形成
—「諸身分規定」をめぐる動向を中心に—
発表者氏名:石井大輔
所属名:神戸大学大学院文化学研究科
メールアドレス:[email protected]
概要:(200 字程度)
本発表では、16 世紀後半から 17 世紀前半にかけて、領邦上オーストリアにおける貴族の身分秩序の変化
を辿る。
「諸身分名簿」や「諸身分規定」から見られるこの変化は、貴族身分に関して、貴族と非貴族との峻
別、そして「新しい貴族家門」と「古い貴族家門」という区分の導入によって、既存の有力貴族層が自らの
優位を確保した過程であった。このような貴族身分秩序の形成は、再カトリック化を推進するハプスブルク
君主に対する対抗策であったが、1620 年以降はハプスブルク君主との関係を保つことに寄与した。
キーワード:(5 つまで)
「貴族身分」、「再カトリック化」、「古い貴族家門」
1
はじめに
「諸身分名簿」から読み取れる。この名簿におい
これまでの研究から 16 世紀後半から 17 世紀前
て騎士身分として記載されたのは「領地を有する
半までのオーストリア貴族史を概観すると、以下
すべての者」であった。つまり、領地を有する者
のようになる。ハプスブルク君主(カトリック)
であれば、貴族でない者(都市民)も騎士身分と
と貴族(プロテスタント)の宗派対立の中で、ハ
して記載されたのである。
プスブルク君主は貴族位や官職授与によって、自
こうした騎士身分に見られる混乱を整理する
らの意に添うカトリック貴族を増やしていく一方
ために作成されたのが、1585 年の「諸身分名簿」
で、旧来のプロテスタント貴族を排除した。この
であった。この名簿における騎士身分家門数は、
過程で生み出されたカトリック貴族が、様々な領
1566 年と比べると激減しており、「貴族である」
邦を統べる近世ハプスブルク君主国の中心となっ
ことの証明を求められる例をあった。つまり、
「騎
た。
士身分=貴族」ということが改めて確認されたの
宗派対立期のオーストリアにおける、このよう
である。
な貴族層の変化を各領邦で同様に考えることは妥
当なのであろうか。本発表では、身分秩序の変化
3
「諸身分規定」における貴族身分
を軸に、上オーストリア貴族における変化を見て
いく。
1593 年の「ルドルフ 2 世の席次規定」によって、
「子孫が 3 世代に達するまで、貴族家門の末席に
2
二つの「諸身分名簿」と貴族身分
位置する」とされ、ヘレン身分・騎士身分に属す
る貴族の中に、それぞれ「新しい貴族家門」と「古
上オーストリア諸身分で中心的な役割を果た
い貴族家門」という区分が生まれた。先の貴族と
していた貴族身分は、ヘレン(領主)身分と騎士
都市民との関係や、貴族身分の区分を踏まえて制
身分という二つの身分から構成されていた。しか
定されたのが、1596 年の「諸身分規定」であった。
し、上級貴族であるヘレン身分とは異なり、16 世
「諸身分規定」は実質的に 2 つの貴族身分を規
紀後半には下級貴族である騎士身分の定義が曖昧
定するものであった。したがって、「諸身分規定」
となっていた。このことは、1566 年に作成された
のねらいは①貴族と非貴族を峻別すること、②諸
身分自身が諸身分資格の獲得をコントロールする
こと、③既存の「古い貴族家門」が新たに諸身分
資格を得た「新しい貴族家門」に対して優位性を
維持することであった。すなわち、貴族に関する
身分秩序を改めて明文化・制度化したのが、
「諸身
分規定」であった。
者の範囲を絞り込んだ。
そして、第二段階(1593~1620 年)は、貴族を
「古さ」という基準で区分したことである。この
身分秩序を「諸身分規定」によって規定すること
によって、プロテスタントであった「古い貴族家
1615 年には、
「諸身分規定」の修正が行われた。
門」が領邦内において優位な立場を占め、ハプス
この修正は、総じて「古い貴族家門」の優位性を
ブルク君主による「再カトリック化」に対抗した。
強調するものであった。諸身分への加入決定に関
最後に、第三段階(1620 年~)において、敗戦
わる者を「古い貴族家門」に属する者に限定する
とその後のバイエルン占領下という苦境にあって
ことや、
「3 世代」の解釈を長期間となるように変
「古い貴族家門」の優位性に腐心しながらも、逆
更することで、これまで以上に「古い貴族家門」
に他のオーストリア諸邦に対して門戸を開放した。
が領邦内で影響力を持つようになった。
「古い貴族家門」に属する大貴族を受け入れ、彼
1600 年前後の上オーストリア貴族の家門数を
らを架け橋とすることで、上オーストリア貴族は
見てみると、確かにヘレン身分の増加が見られる。
ハプスブルク君主との関係を維持することを目指
しかしこの増加のほとんどは、長く上オーストリ
した。
ア騎士身分であった貴族がフライヘル(男爵)位
を得たことによって、ヘレン身分に昇格した例で
参考文献
あった。したがって、彼らは「古い貴族家門」に
属していた。逆に騎士身分においては、既存の騎
士身分が減少し、代わりに親ハプスブルクのカト
リック貴族たちが騎士身分となったが、当然彼ら
は「新しい貴族家門」に属する者として制限され
た。このように、上オーストリア貴族は、再カト
リック化政策に対抗した。
1620 年のハプスブルク君主の勝利が、貴族の身
分秩序にも影響を与えた。1620 年以降、「古い貴
族家門」に属する者として多くの貴族が、上オー
ストリアにやって来るようになったため、1644 年
に「諸身分規定」は改定された。上オーストリア
貴族は、
「古い貴族家門」に属する者だけが正式な
諸身分であるとした一方で、他のオーストリア諸
領邦の「古い貴族家門」に上オーストリア領邦議
会への参加を認めた。つまり、領邦内において「古
い貴族家門」が独占的な立場を築いたが、他領邦
の「古い貴族家門」に属するような大貴族を受け
入れることも認めた。
史料
[1] OÖLA. Landschaftsakten, Bd. 1561-1563.
二次文献
[2] Adel im Wandel. Politik - Kultur -Konfession
1500-1700, Wien: Amt der niederösterreichischen
Landesregierung, 1990.
[3] Heiligensetzer, Georg, Zwischen Bruderzwist und
Aufstand in Böhmen. Der prostetantische Adel des
Landes ob der Enns zu Beginn des 17. Jahrhunderts,
In: Messerschmitt Stiftung (Hrsg.), Schloss Weinberg
im Lande ob derEnns, Linz: Landesverlag Linz, 1991,
S. 73-119.
[4] MacHardy, Karin J., War, Religion, and Court
Patronage in Habsburg Austria: The Scial and
Cultural Dimensions of Political Interaction,
1521-1622, London: Palgrave Macmillan, 2003.
[6] Winkelbauer, Thomas, Krise der Aristokratie? Zum
Struktur der Adels in den böhmischen und
niederösterreichischen Ländern im 16. und 17.
Jahrhundert, in: MIÖG 100, 1992, S. 346-353.
図表など
表 オーストリア貴族の家門数の変化
4
まとめ
ヘレン身分
家門数
身分という観点からは、領邦諸身分としての貴
族が大きく変化していたことが分かる。その第一
段階(~1596 年)が貴族と非貴族の峻別である。
「貴族である」ことを基準に諸身分資格を有する
騎士身分
人数
家門数
人数
1566 年
18
34
133
207
1585 年
21
-
53
-
1620 年
23
48
54
74
出典:OÖLA. Landschaftsakten, Bd. 1562, M. I. 64/7, 9, 14.より作成。