斎藤実関係文書目録 書翰の部 2

斎藤実関係文書目録 書翰の部 2/国立国会図書館/1999.7/GK123-E100
一一一四、 内藤虎次郎
1 昭和八年一〇月四日 外務省文化事業部より江戸書記官を遣され派遣員事件を説明 京都大学羽田文学部長と打合の上確答 満
洲国要人の電報もあり決心致し十一日頃出発
2 昭和八年一二月四日 十月十一日満洲国出張 日満文化協会組織 清朝実録出版費につき鄭総理より申出あり 同月廿二日帰朝
満洲国に関する鄙感を尊聴に達したく面会希望
3 昭和九年三月二五日 日満文化協会の件は辱申上候 満洲国帝政も首尾克成立鄭孝胥修好使の来朝は両国の為慶賀の至 満洲国
登極の最大礼たる先祖配天の儀式を大使館より差止めるは日本軍部の不学無術の暴露
一一一五、 内藤類次郎
1 明治二〇年九月二四日 機関学校を廃し兵学校に機関課目設置 樺山次官欧行本日発令 竜驤艦も新嘉坡より南豪州を廻り本月
品海着 大和葛城の艤装終り大砲公試の際に損傷 摩耶落成
2 明治年四月二六日 滞留中の御厚情感謝明後日桑港を出帆 ラムスボルグ両嬢・同宿の老婆各位に御致声願
3 年四月一八日 小生今夕当地出立 公使・三崎君・西江君へ小生出立の事御伝声奉願 デニソン氏の周旋により鉄道も程能く参
り候 此カードをMiller・チャンヅラル氏・Brown氏へ郵送奉願
一一一六、 内藤秘書官
1 大正一二年九月四日 (電報)九月二日内閣更迭新内閣人事報告
一一一七、 中井喜太郎
1 大正一〇年九月一九日 崇神教会の件に付き御趣旨を体し役員会に臨み説諭 会長・副会長の李完用天照大神・明治天皇の奉
祀に同意 反対派の崇神組合が頻に金銭徴収し教会に警察の圧迫あり御取締願上
2 年二月二二日 開墾法を朝鮮にも実施する様御賢慮を煩はしたし
一一一八、 永井柳太郎
1 昭和四年一〇月一一日 ウェンライト博士叙勲につき此上御厚配賜りたし
2 昭和五年一〇月一日 ウェンライト博士叙勲の件二十七日外務省に於て伝達 同博士在日四十年紀念会も盛大に行はれ同博士
の門下生一同を代表して感謝の意を表し候
3 昭和年七月一一日 八紘学園に対する同情者の長尾謹弥氏御引見願上
一一一九、 長尾耕作
1 明治年九月二九日 御申越に相成候ディ氏の義は多分米国海軍ケピテンディ氏の義と存候 目下精養軒に滞在十一月迄在京
一一二〇、 長尾泰辰
1 年三月一五日 立替の御返却正に落掌
一一二一、 長岡外史
1 明治三二年八月三一日 小生先般出発の際の御見送感謝
一一二二、 長岡護美
1 明治年四月二五日 清国公使より留学生のことに付き内談あり 小生代理同文会幹事柏原氏参省に付き御面談希望
一一二三、 中川小十郎
1 大正一一年八月二四日 加藤首相重態にして辞任止むを得ず 現勢に鑑み穏健なる中立内閣の出現緊要 閣下の大決心を願う外
なし 岡野敬次郎内相沢柳政太郎文相等の閣僚候補・綱紀粛正・政府及自治体の整理・産業奨励等の政策進言(付)新聞記事
切抜「第二中間内閣 政変説と政友会の希望」「財界期待ー現閣には愛想を尽かす」
2 大正一二年八月二六日 多数党の力により進捗を期する外なしとの園公の意見 岡野法相首班の延長内閣説は問題外 政友会幹
部会も猛進することに一決 多数党内閣を予測
3 昭和七年六月一九日 嶺八郎君より品川鉄治君を満鉄総裁採用方相願ひ居るとの由 右実現の上は嶺君も其下に一位置を得候
黙契も有之候由なれば二君親友として其実現を懇請
4 年一二月二日 本多仙太郎氏御督励のほど願上
一一二四、 中川豊吉
1 昭和一一年一月一四日 左の用紙写は男爵田中義一閣下御在世中差出したる書翰に有之 今一度閣下の膝下まで陳述 岡田啓介
閣下と御面会の節は宜敷御伝声願上 (付1)中川豊吉書翰写 田中義一宛 昭和三年七月二十五日付 不戦条約に対し加盟せられ
たる当局の措置に敬意を表するもの 昭和参年八月廿七日調印されますことは平和殿堂の建設であると正視(付2)中川豊吉書
翰 斎藤実宛 昭和十一年一月十四日付 不戦条約の尊重進言(付3)中川豊吉書翰写 田中義一宛 昭和三年七月二十五日付「昭和
十年九月十三日 奉仰平和的不戦条約案」
一一二五、 中川望
1 大正四年二月二六日 同気倶楽部の会合に白石・嶺・西山・藤崎及菅原が出席 内務部長を理事に選任の上支部長に指名を仰
くこと但し他日寄附行為の規定を改正するとの決議・理事及監事の役員決定を報告
2 大正九年八月一〇日 特別議会に於て予算を始め重要なる諸法案可決の段御安神の事と奉存候地方制度に於ける諮問機関設
置も民心融和の上結構の事 洪水被害気の毒
3 大正九年九月九日 貴府道長官会議参列方御配慮への御礼 内地より二個師団位を移屯・人物養成のため中央報徳会の如き団
体組織・『斯民』朝鮮版の刊行・青年会善導・『帝国青年』の朝鮮版利用進言
4 大正一〇年一二月一三日 村上唯吉氏企画中の鮮人保護の件御来示の趣敬承 下関署長よりの回答によれば同氏未た具体的案
件を得るに至らず
5 大正一一年七月二八日 御揮毫御恵投御礼
6 大正一四年一二月一四日 政務総監後継の件菅原君御詮議に洩候事同君の為め御気毒なるも湯浅君御抜擢の段は小生旧き親
友の一人として厚く御礼申上候
7 大正一五年八月六日 大阪府にて調査計画致居候大博覧会開設の件は別紙計画の下に実現をはかる事に決定 御高覧賜はりた
し
8 昭和二年一二月一日 御引篭の趣につき御見舞
9 昭和三年七月五日 田中光顕伯訪問の結果は高橋是清様並後藤子に報告 高橋様は自分に代り三土蔵相・望月内相へ陳情方御
依頼 田中伯建白書の複写は後藤子に差上 昨日蒲原行の報告会あり諸件評議
10 昭和三(カ)年八月一八日 伊達家陞爵歎願書署名廿七日迄に取纏め仙台へ廻送 田中光顕伯は一木宮相に此事の実現を見
ざれば自分にも覚悟ありとの言あり 関屋君も宮内省に於て非認は困難との言あり
11 昭和一〇年一一月二四日 勅選候補に御推薦の件につき重ねて御厚配煩し岡田首相に宜敷御推挙下されたく梱願
一一二六、 ナカガワ
1 昭和七年五月二六日 (電報)元新竹州知事古木章光この際御考慮賜りたし
一一二七、 中島清太郎
1 大正一五年三月三一日 朴烈夫妻の減刑につき別状若槻首相まで御配慮願
一一二八、 中島久万吉
1 昭和年五月八日 団男爵伝記編纂事務専任の三井合名会社調査部長玉木懿夫御引見賜はりたし
2 年一一月二九日 古河家当主虎之助今般西郷侯爵妹不二子と結婚御披露の案内
一一二九、 中島善太郎
1 大正一四年一月二五日 (一木喜徳郎宛 )皇室国家の為め来二月節分終りて摂政宮殿下御代拝の許に成田山にて献身の業に
入りて玉体の御安泰を祈願申したし
2 大正一四年三月二三日 普選問題に関し三月四日以来十四日間断食の行を修て貫徹を祈願(付)中島善太郎書翰 貴族院議員
普選委員宛 大正十四年三月十三日付「国家重大時機と普選断行 大正の御代茲に十有四年」
3 昭和六年二月五日 (封筒は二月四日と自書 消印は二月三日)閣下御在職中に京城の支部設立希望に付き御指導仰ぎたし
(付) 昭和六年度身上の霊示
4 昭和九年九月八日 日吉問題幹事正義の為め入獄 別書法相小原氏の許へ依頼
一一三〇、 永島忠重
1 昭和六年六月四日 仙台藩士故新井奥邃の遺著出版 御興味あらば全五冊取揃へ進呈
2 昭和八年一月七日 謹賀新正 熱河争奪戦の彼我人命の損害を思ふて痛心
一一三一、 中城虎意
1 年 月 日 「第十三潜水艇工事現状並に将来の予定」
一一三二、 中田敬義
1 明治年一一月二日 何か御願申上候事あらば海軍省迄御届 陸奥伯は平生大磯の別荘に住居
一一三三、 永田秀次郎
1 昭和五年六月二一日 小生再ひ東京市長となりたるにつき御懇書に接し感佩
2 昭和六年一月三日 後藤伯爵伝記編纂委員会長として尊台に御願申上くる外なく御懇請
3 昭和六年四月二五日 後藤伯伝記編纂会に付き理事全部承諾 第三回忌を以て趣意書を公表会員募集に着手 伝記編纂会並梼霞
会共同主催の追悼会並遺墨遺品の展観は成行裡に終了
一一三四、 中西嘉太郎
1 大正一四年一二月一三日 政務総監後任至極適当の人御選抜大阪と神戸にては鮮人の生活状態並に労働状況等の視察の為め
関係の諸工場諸協会より鮮人の部屋迄も詳しく御巡回遊ばされ内鮮協会にては学童にも御引見を許され内鮮人共に感激
2 年七月二五日 会社の大決算に際会 五月には朝鮮京城の出張所を支店に昇格の為め出張 彼の騒擾事件も噂の程には無かりし
やに聞き及候
3 年一〇月二二日 結構の御品御恵贈 御厚志千万難有拝受
一一三五、 中野正剛
1 大正一四年六月二六日 権生暢び暢び育ち居候 別封「我観」巻末「進藤喜平太翁」なる一文は小生の筆御一読下されたし
2 大正一四年八月七日 浦塩・ハバロフスク・北京・漢口・上海一巡のため金参千円御恵投を懇願
3 大正一四年八月一七日 (電報)確に受取った感謝す
4 大正一四年一二月二三日 我観の件金壱千金又権生への学資弐百金御預かりに付き御礼 村井生の件御配慮御願
5 大正一五年六月一一日 農学士古川不可止君紹介 産米増殖計画に農業上の専門家を要せらるヽ趣き聞及び御採用を切望
6 大正一五年一二月二一日 権煕昌学資御送り頂き難有御礼 権君も真面目に勉強致し居り来三月は第五中学卒業の筈
7 大正年一一月二一日 三宅雪嶺主監の雑誌「我観」に就き御願申上候処御考慮辱うし恐縮「我観」の内容組織等に関し委曲
御諒解仰ぎたく理事岡野就一君の御聴問煩すを得ば仕合の至
8 昭和二(カ)年一〇月二〇日 姜昌基君御紹介
9 昭和三年一月一六日 御見舞申上げたく乍存議会を控へて忙はしく失礼 権君への御送金一百五十円也確かに拝受
10 昭和四年四月一四日 中野太三郎近日中に参邸に付き御指教奉願 小生の演説集出版「南洲翁五十年祭典に臨みて」の一節
御閑読の栄を得ば仕合せ
11 昭和四年九月 日 小生前経営の九州日報・馬関毎日新聞・佐賀毎日新聞儀朝鮮博覧会を機に京城支局を開設 吉村直亮君担
任に付き御厚誼と御同情賜りたし(付)九州日報社・馬関毎日新聞社・佐賀毎日新開社の挨拶状 昭和四年九月付
12 昭和四年一〇月三一日 太三郎に関する非難は大半は当らず中傷なりしとか 何卒御詮議下されたし 御起用相叶はず候はヾ
閣下より現閣方面に御推挙懇願
13 昭和四年一一月一四日 権煕昌の身上に就き閣下の援助中止以後小生が援助 今回御就任と共に今後の学資御恵投御願
14 昭和四年一二月一六日 権煕昌君の為め御送附の金五拾円拝受の御礼
15 昭和五年一〇月二〇日 権煕昌君学資御送附に付き御礼
16 昭和六年一月二〇日 権煕昌君の学資御送附に付き御礼
17 昭和六年二月三日 中野太三郎の就職に付き中野を斥け第二第三候補を御推薦なされ候由実に慮外千万 東拓藤原君に対し
中野の事御取りなし下されたし
18 昭和六年二月四日(電報)東拓就任に付き閣下より菅原氏へ改めて中野の御推薦頼む
19 昭和(カ)六年七月一九日 権煕昌君の学資七月分より九月分まで御送付頂き難有拝受
20 昭和六年八月二一日 長男克明遭難の際の御同情御供物御礼
21 年三月七日 権煕昌の学資三・四・五参ヶ月分として金百五十円御送付難有御礼
22 年三月二四日 権命相君就職に就き東亜勧業専務の佐々木藤太郎氏にあて閣下の御紹介状をたまはりたし
23 年四月六日 江陵中学の問題に付き崔準集君に拝謁を賜はりたし
24 年四月一五日 雑誌我観の経営者松田雪堂君紹介
25 年四月二〇日 権煕昌君学資四月分より七月分迄金二百円送金下さり難有
26 年六月二五日 権煕昌生の実父権命相氏御引見下されたし
27 年七月一五日 小生実弟にて朝鮮関係の実業に少しく努力致し居る中野泰介紹介
28 年八月一四日 剣道家斎村五郎大陸に遊歴に付き御引見依頼
29 年一〇月二〇日 長谷川了君御引見依頼
30 年一二月三〇日 野溝伝一郎君御引見下されたし
一一三六、 中野太三郎
1 昭和三年九月一日 成鏡南道新興郡東上面内に起工中の朝鮮水力電気会社事業に伴ふ火田民の整理牧畜農事計画の件に付き
国友尚謙君より下問の趣敬承別紙概況報告書記述の通り会杜農林部に於て先づ発電用貯水池区域住民三百余戸の移民を完成
し漸次附近林野内の火田民整理収容に着手(付)朝鮮水力電気株式会社農林部事業報告 昭和三年九月一日付
2 昭和六年一月一八日 菅原通敬氏東洋拓殖会社総裁に就任せられ理事役員の交迭を行ふことに相成り小生も任用の筈が松田
拓相より安達房次郎君を採用せよとの紹介に接し迷惑 適宜の御配慮依頼(付)中野太三郎電報斎藤実宛 昭和六年一月十日付
手紙御覧の上御配意を願う
3 昭和六年一月二〇日 東洋拓殖会社入社の件に付き昨日安達内相と松田拓相との間に協議の結果菅原総裁に一任し総裁より
閣下の御高見を伺ひ決定に相成との趣 宜敷御取成悃願
4 年四月一四日 間島奥地一帯不逞鮮人懐柔救済の件に付き第一次計画に基き耕作地を選定中の処土地買収の為め至急支払を
要し四千円至急御交付相受けたし(斎藤実メモ)六月十五日金壱万円中野氏手交
一一三七、 中野直枝
1 大正二年五月一〇日 軍艦金剛航海に付きマダガスカル寄港取止め 本艦好成績に進捗も魚雷発射の成績面白からす炭費予想
外に多き様に相見へ候 田中中佐の客死誠に遺憾
一一三八、 長野直孝
1 昭和五年八月二日 八月二日発行の東京日々新聞の「朝鮮総督管掌の司法権を中央に移管」と題する記事に感激 内鮮同治の
施政方針に画時代的進展を標示せられたるもの 尚封中の拙文御一瞥を給はりたし
2 昭和六年五月三日 政府及与党が児玉政務総監の退任希望 今日総督が尚一徹総監更迭を阻まるヽに於ては総督が総監に殉ず
るが如き結果を招来するも已むなしとの意見与党の大勢と取沙汰 朝鮮統治の大任は固より死命を致さるべき大義にて部下を
庇う御意中畢寛小節に過ぎず
3 昭和 年一一月一日 (角田広司宛)斎藤総督の不評は事実にて近因は獅士身中の虫の放送遠因は宇垣氏に阿附する者の「斎
藤子が民衆に飽かれてゐる」との言国民協会の前身協成倶楽部の組織には多年尽力せしも閔元植の背後に僕が居たことを知
る者は極めて稀れ
一一三九、 中橋徳五郎
1 大正九年一一月一四日 (朝鮮総督府出張員事務所秘書係宛)林檎御恵贈御礼
2 年九月二六日 小生親友浅見又蔵君御紹介
一一四〇、 中原光
1 昭和一一年二月二〇日 (差出人名は公平無私散人)総選挙の結果政局安定の出来さることは明瞭 安達謙蔵の重用が政界党
界刷新の第一義 安達に大命降下不可能なれば彼を副総理格に推す積りにて御考慮切望
一一四一、 中俣永盛
1 明治二七年一二月四日 中村軍楽隊よりの依頼宜敷御賢察願上
一一四二、 中溝徳太郎
1 明治三二年五月一六日 京都鉄道会社長浜岡光哲拙宅へ来訪同工事困難の旨陳情 国庫補助を仰ぎ工事の速成を計らんとす 不
日上京運動着手に付き状況一応内報
2 明治 年六月二七日 高雄洋角灯六個増備の件は数個不足の義に付き今一応何分の御考慮煩したし
3 明治 年九月六日 本日高雄艦長に補せられ候 事務引継・発艦の御定めに付き御一報下されたし
4 明治 年九月二六日 勤務中より其噂は承知 明朝帰艦の上御相談申上べし
5 明治 年 月九日 本艦修理の義に付き御面談致したし 明早朝帰艦八時半まてに相伺申上べし
6 年二月二六日 御配慮を仰ぎ候郵便局状況御報導
一一四三、 中村兼次郎
1 昭和九年九月二七日 揮毫依頼
一一四四、 中村正治
1 年九月八日 果物御受納下されたし
一一四五、 中村〓
1 昭和七年五月二四日 内閣組閣に際し国民安定愛国の実を上げ支那と停戦することなく上海戦争を再開し中華民国全土を攻
略し米国と開戦膺懲し世界大戦を開き東洋に於ける欧米領国を独立せしめ国際連盟脱退を希望す
一一四六、 中村景清
1 明治四二年一〇月二二日 永々の御無音御海容願上
一一四七、 中村健太郎
1 大正一〇年二月二八日 劉猛翁の要務も緒に就き小官来三月十日前後より地方視察に決定 今回の使命は施政方針宣伝と民情
視察に付き多少時日の余裕を見る必要あり
2 大正一〇年五月一三日 (大塚常三郎書翰 斎藤実宛 五月十一日付)在満在露の鮮人は邦人発展の先駆・補助たる事を認め別
紙愚見供高覧候
3 大正一〇年一一月一九日 劉猛氏は調査事項終了し二十三日頃全羅南北道視察の予定 同光会幹部入城 京城支部の設置に活動
信用ある人物を相手として事を為さざれば不成功に終ること憂慮
4 昭和六年五月一五日 九州医専学生金成燮君の学資借用の件は詮衡の結果貸費出来ず 田村育英社の本年度の貸費予算・貸費
申込者・貸費学生と其事情の顛末説明
5 昭和六年六月一八日 閣下突然の御辞任に関する当地世論として児玉伯が累を老総督に及ぼせりとの非難や朝鮮人側の落胆
の状況報告 今一度御来鮮を希望
一一四八、 中村是公
1 明治四三年二月八日 南満洲鉄道株式会社東亜経済調査局に於て起稿印刷仕候「植民地に於ける特殊銀行に就ての研究」同
封 御一瞥を賜はりたし
2 年八月一七日 東亜経済調査局嘱託チース博士の満洲視察旅行報告「満洲に於ける海外貿易発展策」一部同封
一一四九、 中村覚
1 明治二七年九月一二日 (斎藤・川嶋宛)宮城より新橋迄総て侍従にて守護 侍従武官は汽車中のみ守護
2 明治二八年三月九日 小生二月廿七日帰朝 貴官御転任祝詞 希望の御伝言は川嶋君より敬承 川嶋君南方出張拝命赤井少佐着任
陛下御風気も其内全快
3 明治 年一一月二日 御配慮御礼 費用の義は官等に応し拙分負担の事御取計御願
一一五〇、 中村静嘉
1 明治二二年六月七日 螺旋摩擦管の中心に紙製管はガッシリ入る位にて御好の装置は出来得べし 電気爆発信管採用可否或は
手続承知致したし ゴストン氏号火の見本どこにある乎御教示下されたし
2 明治二五年七月二二日 官報によれは高雄の副長さんになられ結構と存候 墨国旅行に附き御註意下さり御礼申上
3 明治三五年六月二日 (消印は三五年六月一日)東宮殿下御発程後御予定通り被為成候処郡山福島仙台盛岡等には麻疹病あ
り 青森より軍艦に召され北海道又は敦賀に御決定相成べく御内報
4 明治三七年一月一六日 厳島の改造に着手せず今日に至るも御心配に及はず 第三艦隊の五六戦隊には名艦長揃に候 対手の腕
前は先つ満足 下士卒の照準稽古同様将校も稽古すべし
5 明治三七年一月一七日 大演習中海岸に石炭運出機は必要のものには相違なしスプリンターネット・マントレットは先つ戦
艦・一等二等巡洋艦の分を取附る必要 明後日艦隊運動・射撃等を長官御覧相成る筈
6 明治三七年一月二四日 第五第六戦隊は既に宜敷候得共平遠はあてになり申さず 此頃の練習艦は常備艦隊にマケルモノカと
云ふ考はなし 精肝の気性ある乗員必要 第六戦隊の射撃は中々上手なるも三艦は下手
7 明治三七年三月二日 今日の処第一隊を旅順に第二隊を浦塩に宛て得る余裕は充分 第三隊は編制の必要なし 金を節する事可
然 用のなきもの解散し英炭の用なきは和炭にして差支なし
8 明治三七年四月五日 旅順閉鎖されて御仕舞と相成る事と存候 此度水雷艇雑座礁致し残念 乗員は造船廠へ預けて仕舞ふ事得
策 水雷艇の乗り方はドーも無理が多し
9 明治三七年四月一三日 水雷艇雑子の艦長下条転乗の事誠に都合宜敷有難
10 明治三七年四月二五日 朝鮮海峡第一集合地点に来り申候 第三艦隊の松本も中々マメ 秋山・殖田いつれもよき人物御撰抜
目出たし 第三艦隊は最早有力なる敵に出会する事有之間敷 肩身せまき感あり
11 明治三七年五月一七日 吉野・初瀬・八島・竜田の件等引続きの事にて大臣も御心痛と拝察 今回の事春日より衝きしとの
事残念至極 水雷艇乗りはドーも不要心 霧及潮流は最も失敗を来す様被存候
12 明治三七年六月一三日 中将進級御喜ひ申上候 仁礼戦死の弔詞 戦務例の如く掃海に全力を入れ居る有様 宮古引上員として
牧村中佐一行来り居候得共着手の事に至り申さず
13 明治三七年九月一三日 昨日官房機密第一一三四号拝見 小生は艤装上のみならず人事教育等心附候ものを相認め居り伊集
院次長の所へ発送 御一覧の栄を得は幸極る儀
14 明治三七年九月二七日 八重山汽缶破烈の件は単純に過熱と認る事出来ざる点もあり 厳島砲毀損の件は其所理方山岡司令
官へ依托 処分済の上報告する事と相成べきかと存候
15 明治三七年一〇月二八日 竹内日進艦長熱度充分に降りさる様子 万一竹内の代りを請求するに至らは誰でも宜敷候得共丹
羽丈は御見合せ可然 秋津州の汽缶修理は総攻撃か延びる事になれは決断すべし
16 明治三七年一一月八日 細谷司令官長官へ解職の事をそれとなく御申込長官は静養なされては如何それとも解職を御願ひな
らは手続願ひたしと御回答 細谷の私信の要領はレシテリヌイ事件の責任は我(細谷)にあり脳病増進もあり解職して若手の
敏腕家を据へる事得策と信すとのこと
17 明治三七年一一月九日 細谷の件万事孤立 特に此度は大連湾にて三浦・細谷・坂本が部下を率ひ三角鼎立 一方陸軍か旅順
にかかると云ふ事に相成候てもグズグズして「やる気があるのかしら」と思ひし事もあり前途を悲観し居るやと存候
18 明治三七年一一月二七日 愛宕遭難の責任は艦長に在り 査問は必要なしと雖も待命休職にする外なし 査問会を御開きに相
成る事に候はヽ委員中に造船家を加えらるヽこと必要
19 明治三八年四月一〇日 本日新聞を見れは米国海軍少将フオージヤ氏横浜に向へりとの電報あり 同氏は外交官議員等に大
分交際しある人物 会見なし置かるヽ事便利かと存じ申上候
20 明治四〇年一二月三日 御申越の趣委細承知 小生未に誰にも漏し居り申さず御安心下されたし
21 明治四一年一月二四日 光村の東京工場は見合せるより外なしと雖も神戸工場は之を引受るの工業力充分なり
22 明治四一年三月一三日 昨夜陸軍大学校にある者来り其話の内に陸軍大学の反古は高価に売れ列国大公使館の筋へ廻るもの
なる由聞き及ひ候
23 年一月一四日 発光信号の起信符には赤白同時に用ひては如何
24 年二月四日 井上鍬吉不在の義承知 わざわざ御出むき厚く御礼 別影は小生の誕辰二月一日のもの御笑覧下されたし
25 年二月一九日 運動程式改正急には出来申さず 島村氏の報告に依れは英国にては群陣編制を除きたる由に候
26 年二月二四日 各艦とも出入港は上手にて心配せし事もなき有様 我等日々警戒線に出張 敵か来らす無益の石炭費と思ふ事
もあり 哨艦丈出し他は碇泊し居りても宜敷かとも思考
27 年二月二七日 本所教育の事大体満足 掌水雷兵并に教員の教育適当 水雷工の教育少し遺憾 モリナリー回転計測器の実物な
き為め之が説明修理等の点少し遺憾
28 年四月五日 結構なる御品下さり御礼申上 伊太利の一件も物にはなり申すまじく米国の事なれは金でも払ふて済む事承知
29 年五月二二日 石炭積入の配置は戦時配置可然 島村に御面談あらは好材料も得らるへし
30 年五月三〇日 我海軍の御計画中必すあるへしと思考するスカウト艦に就き意見
31 年一一月一二日 部内将校中信号施行上帆播の順序ある事始めて聞く人もあり 島村よりの報告中要用を抜粋し御注意
一一五一、 中村清一
1 明治二一年一月六日 本月末或は来月より大陸旅行 樺山次官一行当府に滞在 元旦の夜に海軍連中一同園田領事宅に集り次官
より日本食事の馳走あり甚だ盛ん
一一五二、 中村貞作
1 昭和九年一月一日 全世界・全人類を救ふべき新たなる宗教神真教とその教の一部分として新日本医学が生まれたること御
報知
一一五三、 中村寅之助
1 大正一二年二月二八日 先般発表の大異動は好評 李王職次官本日午後李王殿下に拝謁長官後任につき言上 建碑問題の始末並
に職員の更迭一段落を告げ政務総監は三月二日出発五日着京予定
2 大正一二年九月五日 (電報)内閣総理大臣より総督宛電報あり 九月一日大地震後状況報告 各種風説誇張して間隔地に伝播
の恐れあり貴管下において治安に遺漏なきを期せられたし 貴管下の状況報告ありたし
3 昭和六年六月一七日 御蔭を以て預金部との交渉も順調に進行 加俸減率も速急には決定を見ざる模様
一一五四、 中村弥六
1 大正一二年一月一八日 御身上に関し種々の世評あり 御熟慮御自重を祈候
2 年二月一三日 朝鮮人学生姜仁遠に関する件其他に関し拝謁の日時御垂示願
3 年八月一四日 小切手拝受御礼(付)中村弥六書翰 斎藤実宛 八月十三日付 御見舞品御礼 帰京のための金子拝借願
4 年一二月六日 在東京朝鮮青少年善導の為には寄宿舎設置が一策 杉浦重剛氏の称好塾と同人の住居を寄宿舎に応用し監督に
開寧郵便局長巌崎厚太郎の採用を企図 資金に付き御引見願
一一五五、 中村雄次郎
1 明治三五年八月九日 高雄石炭剰余を出し御省御所属艦船用に御使用の件特に御配慮御願
2 明治三五(カ)年八月一二日 鎔鋼炉も漸く点火送風開始 頃日は毎日六七拾噸の銑鉄製出
3 明治三六年一月二九日 炭山変事への御見舞御礼
4 明治三六年七月七日 御厚遇御礼 何れ当所製品御採用の事に関しては又御配慮相願候
5 明治三七年六月三日 戦闘艦並一等巡洋艦用鋼材入用噸数弐万九千四百噸中厚板の噸数調査の上御送附依頼(付1)近藤基樹
書翰 斎藤次官宛 鋼板其他合計二万九千四百噸(付2)近藤基樹書翰 斎藤次官宛 厚板総量は約八千噸
6 昭和三七年六月六日 厚板の件に付き今一応御調査御願
7 昭和三八年四月七日 ピッチ代価の事に関しては坂谷氏相当の代価申受け可然との意見に付き三十五円と申上候次第
8 明治 年一月二四日 昨日差出の書類御返下さり正に落手
一一五六、 中村秘書官
1 大正一三年二月一二日 (電報)桐花大綬章拝受せられ同慶に堪へず
一一五七、 那須太三郎
1 大正一四年一月一七日 今般朝鮮憲兵服務規程制定により行政司法警察に関する職域并に警察官と協力すへき事項等明確と
相成深く感謝
一一五八、 鍋島直大
1 大正四年一二月二六日 来る二十八日午後三時より大正二年度本会決算報告評議員会開催 御臨席下されたく通知迄(付)東
亜同文会大正二年度決算
2 大正五年一二月一三日 大正三年度東亜同文会決算報告評議員会開催通知
3 大正六年四月 日 大正六年度本会予算の儀は去る三十一日評議員会に於て予算案の通り決定(付)東亜同文会大正六年度予
算
4 年六月二九日 東亜同文会の事業拡張計画に関する会合に御臨席下されたし
一一五九、 滑川政蔵
1 大正五年一〇月三一日 限閣倒壊を祝し粗花贈呈
一一六〇、 奈良武次
1 昭和 年一月三〇日 過般御依頼の七生報国広瀬中佐伝献方取斗ひ置候処宮内大臣よりの挨拶状到達に付き御送付
2 年一〇月七日 御恵贈の朝鮮漫談小生も未だ披読の暇なし 御来示に従ひ差控へ置き可申候
一一六一、 奈良原繁
1 明治 年一一月九日 佐敷湾石炭庫地の外塀防腐松今般大風にて破損に付き今度は竹の植林希望 アルコール製造の為倉庫内建
添の儀申出に付ては川口鐸蔵氏より御開取下されたし
2 明治 年一一月二八日 海軍依托生の儀は多年の志願に付き豚児を御世話下されたし(付)奈良原繁書翰 斎藤実宛十一月二十
八日付 肝付少将来県にて教育上実業上に付き時勢必要の御演説下さり御礼
3 年八月二八日 本県食品製造会社豚肉類販路拡張の為め同社長上運天愚直と申す者上京 御面会願上
一一六二、 成川義太郎
1 年五月二八日 在新育中の御厚情感謝
一一六三、 成田勝郎
1 明治三三年八月一〇日 去月下旬以来英国主力の各国軍艦集中 上海呉淞間の軍艦隻数は蓋し未曾有 匪徒の蜂起の如きは万々
無之とするも事態は既に単純なるものに非ず 海上の関係は直隷海頭より南進して揚子江に移すべきと思考
一一六四、 成田兵介
1 大正八年九月二三日 虎列刺病今尚猖獗を極むるは全く鮮人間の衛生思想の欠乏に基因 家屋入口に虎の字を三字書きたるも
のを貼付し又は向亜水を家屋の周囲に繞らす始末にて当局の科学的措置も効を奏さず
2 昭和四年一二月二〇日 病状報告
一一六五、 名和又八郎
1 明治二六年五月二日 海軍改革の声新聞紙上に喧しく遠隔地は皆々勝手の想像を抱き発表を待居模様 当地寄港の厳島去二十
五日入港昨日長崎へ回航
2 明治二七年一月一日 御栄進祝詞
3 明治三二年一〇月一六日 御退庁後別封の報告到来に付き御送附
4 明治三二年一二月二日 特命検閲順延の義御協議に応ずる旨軍令部長より来電あり
5 明治三三年三月一八日 宮殿下随行は大沢中佐に内定
6 明治四五年七月一九日 母堂様逝去に対する弔詞
7 明治 年三月一五日 海軍大臣の回航委員選抜方針を以ては大沢中佐は該当せず 独乙皇太子結婚に付き威仁親王差遣の際は大
沢中佐を是非随行せしめたし
8 大正二年七月一八日 広東福州等も独立を宣告致し宗社党響応の報あり排衰潜勢力強勢 北方援助は後来不利を来すは必然に
て不即不離は雷同性の人民に対する唯一の良策 黎元洪の猜疑に対しては領事を通し確と懸合すべく新高艦長に申遣
9 大正三年一月一三日 張勲処分問題も兎に角落着 新高等五艦隊を上海に下江せしめ千早も来月除隊の予定 本艦は領事館の後
始末・馮都督との応酬を済ませ十八九日頃南京出発の予定
10 大正八年一一月六日 名和次郎死去に付き弔詞御礼
11 年六月一八日 小笠原書記の宿所報知
12 年六月二五日 朝鮮行の軍艦は八重山に決定本日発令 浪速琉球行も本日発令
13 年一〇月一日 御来示の書記の件は田中副官より委細承知の上取計ひ申すべし
一一六六、 南波登発
1 大正一一年一〇月七日 九十月分金三百円御送附御礼来る十二三日同光会の幹事葛生能久・小幡庸太郎附き添ひ憲政会荒川
五郎・無所属副島義一・政友会代議士一名渡鮮して総督政治に対する意見を直接鮮人より聞き取る予定につき小生賛同せざ
ること(付)領収証 大正十一年十月七日付
2 大正一二年三月二〇日 此間出版致候朝鮮学の暁鐘の代価につき小生知人峰村某引請けの約束なりしも手違ひの為め都合附
かず援助依頼 督学部寄宿舎に万歳騒ぎの時処分請けたる者十二三名居る哉に候
3 大正一二(カ)年三月二七日 御依願御承引御礼 然るに不足に候間有吉氏よりも都合 あと八百円程要し他に交渉中 目下警務
局に居る黄再洛の生活方法御講じ下されたし
4 大正(カ)一二(カ)年一〇月一八日 東京医専第三学年趙寅植の儀につき御礼 震災当時内地人に害せられたる出来事を鮮
人が将来悪用し朝鮮統治上嚮影を及ぼさん事は研究を要する問題
5 大正(カ)一三(カ)年四月二七日 本年は朝鮮よりの上京学生従来の十分の一位ひにて震災を恐れる事・不景気の為めの
学資困難・旅行券の事が主要原因
6 大正一三(カ)年一二月一五日 四ヶ月間以上病気にて家賃等支払困難 金壱千円援助懇願 督学部の主任の件も至急御決行煩
はしたし
7 年二月二七日 閣下無事帰任慶賀 御出迎に出る筈の処終始不快にて引寵中に付き欠礼
8 年四月四日 督学部の方も大体引払 現今在舎の三四十名も不遠引越 新らしく上京の学生宿泊所もなく止むなく拙宅に十五六
名在宿致し居り閉口
9 年一二月三一日 越年に当り借金依頼
一一六七、 南部甕男
1 大正一〇年三月二四日 「貴族院男爵議員補欠選挙人確定名簿」(大正一〇年三月二四日調)
2 大正一〇年三月二四日 貴族院男爵議員補欠選挙人確定名簿・投票用紙交付並に貴族院男爵議員補欠選挙投開票日時場所通
知
一一六八、 二木幸子
1 年 月 日 午後二時迄に是非御光来下されたし
一一六九、 西紳六郎
1 明治三一年一〇月一〇日 今回当艦々長に御栄転恭賀の至り 当艦の現状概略報告
2 明治三三年三月一九日 桑港滞在中ユニヲンアイランヲーク造船所及びメイヤアイランド海軍造船所を視察
3 明治三三年五月三一日 過日ノーフォク海軍々港及びニウポートニウム私立造船所及びリッチモンド・リッグス造船所を視
察 米海軍参謀本部の議案容易に探知し得ず甚だ残念
4 明治三三年七月五日 今回Requlation of Navy U.S. 1900 出版相成壱部進呈
5 明治三四年三月一〇日 三月十四日接受の訓電の赴き其筋の人に問合せするも其要領を得ず 米海軍省次官と会食し記章贈与
の経緯に付き懇談 当地Indian Head Proving Ground の視察絶対的拒絶
6 明治三八年一月三一日 二日基隆に着 台北に山県中佐に面会守備軍司令官訪問其他事務打合せ後基隆臨時布設隊視察
六日無事馬公要港部に到着 新設蒸溜器・製氷器・船渠新設・病室復旧・電灯新設の件は速に御認可相成たし
7 昭和五年六月三〇日 小生姻威の高久敏男につき御高庇を仰ぎたし
8 昭和五年七月二六日 朝鮮殖産銀行理事高久敏男氏の重任懇願
9 昭和六年七月一九日 妻死亡の節の御供物御礼
10 年一〇月二一日 隣邦支那事件も一段落 目下外交官手腕を要し陪償問題は随分研究すべき大問題と思考 今回在京石川嶋造
船所長進経太氏欧州より帰朝途次当地立寄ホーランド潜行水雷艇の製造を日本にて受負たく希望
一一七〇、 西武三
1 昭和二年一〇月一四日 別紙の趣旨に御賛助仰ぎたし(付1)大日本神仏信順会大阪総本部の事業として無縁無怙の内鮮人死
者の為め無縁塔を建設する件への賛助願(付2)無縁塔見取図
一一七一、 西徳二郎
1 明治三七年八月一八日 清国事変海軍戦史抄御贈与御礼
一一七二、 西沢義徴
1 昭和二年八月二九日 軍縮会議よりの御帰朝祝詞 黄楊細工一個御笑納下されたし 支那の政情は再転 孫軍既に渡江南京上海方
面奪還の情勢 蒋下野後は革命政府本来の素盾を曝露
一一七三、 西沢公雄
1 昭和四年一月九日 先般所属長官より独立会計後俸給費節減若くは後学者に進路を開く必要云々を諷せられ過去丗弐年間の
支那生活隠退を決心 来三月辞表提出につき挨拶
一一七四、 西田宮士
1 昭和七年八月二日 閣下に拝顔の光栄に浴したく石川島造船福社長「松村菊勇提督」に紹介方を頼むも折悪く叶わず用件は
経済思想問題でしたが今般インフレッション政策の弊害と民族主義運動及びファッシズムに就いて些しく愚見を提出したい
と思い卑翰に及んだ次第
一一七五、 西野
1 大正一二年九月三日 (電報)御邸御無事の由 御自愛祈る
一一七六、 西納勝平
1 明治 年一〇月二四日 今村氏の紹介により御応接下さり幸栄 其後仰に従ひ松本少将に願出聴き届けらる事に相成謝意を表し
候
2 大正一〇年二月一六日 米国スタール先生御地方視察 便利計り上げ下されたし
3 昭和七年一月一八日 香筒記念品として拝呈 支那扇子に目出たき語御揮毫願上たし
4 昭和九年九月八日 御美事なる硯器を賜り御礼
一一七七、 西林梅三郎
1 明治三八年一〇月二七日 去る廿三日未曽有の凱旋御観艦の御盛式を行はせられ候へ共職員にも欠員あり大に遺憾 海陸軍の
御高恩に報ずるの地位に進歩せしめたく御式の写真等御下附懇願
一一七八、 西原亀三
1 大正九年四月二六日 昨夜総督閣下御説話の中に朝鮮に於て自治的施設実行案のあるか如く拝察 新附の民皇化の為には国費
と機関の巨大を要せず 確乎たる信念と整然たる組織にして一貫するあらば易きこと
一一七九、 西原広見
1 昭和六年二月三日 皇国中心護国教化運動の為め別冊趣意書の通り昨年発会 大日本不動会の趣旨に御賛成相願たし
一一八〇、 西巻豊佐久
1 明治 年 月一〇日 明日午後六時疎飯差上たく協同会舎へ御来遊下されたし
2 年一〇月二四日 ウォーターリザルブラルに関し過日東京の一友人より取調方依頼に付き御尽力願上
一一八一、 西村保吉
1 昭和四年八月一九日 又々朝鮮総督御就任 御自愛第一に遊ばされたし
2 年一月二六日 当地現物市場の件二十三日具体案を作成新本一派を呼出し商工課長より説明 翌二十四日李允用閔泳綺を官邸
に招き別紙覚書提示 彼等も異議なき旨断言 小官は本日内地の新聞社通信社を招集し事件経過説明
3 年二月三日 現物取引市場の件処分決行 李允用は罪を通訳に嫁し申候得とも黒幕内地人の小策と推定 追加発起人指定 取引市
場設置の手続遂行
4 年二月二五日 朝鮮関係の予算全部衆議院通過 早害救済食糧輸入計画に付ては取敢ず共益社を最初の指定商人に選定 東拓理
事松平直平氏より東拓目下京城以外の出張所を支店に変更する意向の旨内話あり
5 年三月二八日 御尊翰難有拝誦 東拓支店の件は何等異存なし 韓相竜等の保険会社の件に付ては御帰任を待ち詳細申上げ御指
揮相受けたく希望
6 年六月一日 昨日御下問の土地改良特設機関設置に関する件につき愚案の概要別紙の通り相認め候に付き御一覧賜りたし
7 年七月一八日 朝鮮関係の予算衆議院通過 貴族院方面は一向安心出来申さず 井上に対する反感の外に理論上の反対説もあり
真相を披瀝して同院の公明正大なる良心に訴へ候覚悟
8 年八月二二日 土地改良計画に付ては根本理念を明かにし説明の統一を保つの必要もあり 別冊解説書を起案御高覧を希望
9 年九月二八日 愚息死去への御吊詞及御供物への御礼 石炭試験に関する官制改正の件は大体通過すへき形勢土地改良会社に
関する件に付ては大蔵省方面の諒解を求め次官大臣総理大臣と面会
10 年一一月一七日 今朝兼二浦の松田貞次郎氏来訪閣下にも木炭代用品の概略申上げ御試用御願ひ申上げたき存念有之候に付
き此用品一箱差出候
一一八二、 二条基弘
1 明治四〇年五月二五日 (高木兼寛・島津忠充と連名)官幣大社宮崎宮への大砲御奉納願
2 大正四年三月 日 (柳原義光・森林太郎・三上参次と連名)大典の記念として京都市図書館長外有志相謀り京都の風土記記
念出版致したく御賛成切望
3 年九月二〇日 (柳原義光・東久世通禧・亀谷聖馨と連名)名教学校建設に関し来る十月二十四日を期し一大画会を開催御
賛成の上御入会下されたし
一一八三、 西四辻公堯
1 昭和二年一二月一三日 朝鮮総督御辞任の趣全員惜別の情に堪へず
2 昭和一〇年一二月二七日 内大臣就任祝詞(付)西四辻公利書翰 斎藤実宛 内大臣就任祝詞
3 昭和四年八月三日 待命により予備役に編入 上官の思召により嘱托の名義にて附属庁舎に勤務議員として議席に列したく希
望研究会尚友会幹部の方々に御吹聴御援助懇願
4 昭和一〇年一二月二七日 子爵議員補欠選挙投票委任状同封御送付申上候
5 年三月三日趙家整理に関し御厚情御礼
6 年六月四日別冊は魚津少将の過去経歴筆記したるもの御高覧を乞う
7 年一一月一七日揮毫願
一一八四、 新渡戸稲造
1 年五月二日 姜世襲氏来る五日二荒伯同伴にて渡欧に付き出発前に閣下に面会希望 同氏一人のためのみならす鮮人一般の奨
励とも相成べくに付き数分間の時を御割き下されたし
一一八五、 仁礼栄助
1 年五月一二日 英国人に対する信用程度の調査 確たる事相分り申さず甚だ恐懼
一一八六、 仁礼景雄
1 明治三五年二月一〇日 (春子宛)御母上も今日は暖かき処起臥あそばされ大に御満悦
2 明治四三年五月三〇日 本月十五日当港着 ボルトミリタール・Bahia Blanca・ボエノスアイレスの様子等御知らせ
3 大正九年六月一二日 留守宅にても斉様御別条なし 錦地降雨少なく農作物の為め憂慮に堪ざる御様子誠に心痛 王世子殿下と
方子女王殿下御成婚の折不敬の行為企んとせし不逞の輩ある由 何卒一日も早く不逞鮮人輩を閉塞し統治の実績の上らんこと
を祈り居り候
4 大正九年六月二二日 留守宅も別条なし御安心遊ばされたし 豊川様御逝去残念
5 年六月四日 無事御帰任の由御悦び申上候 留守宅にても変りなし
一一八七、 仁礼景範
1 明治二一年一月二六日 景一儀過般御高配に因り海軍大学校入学 別書礼状送呈 相変らぬ御心添希望
2 明治二八年二月一六日 拙者一同元気 御安心下されたし 威海衛全く陥落国家且海軍の名誉 就ては計画の通り南洋航もあるべ
く海軍の役務益々多端の事と想像
3 明治二九年二月一六日 今般朝鮮事件に付て御地の模様相伺たし
4 明治二九年二月一八日 明日当地出発帰京に付き馬車を迎ひに差出候様御伝へ下されたし
5 明治三一年一月一八日 御見舞御厚情御礼
6 明治三二年一月二五日 曽根俊虎なる者今般福岡県鞍手郡大野村大字御徳則海軍省予備石炭山区内に鉄鉱発見同人の試堀願
達候様御取計依頼
7 明治 年七月一二日 豚児修学の為め御地差遣 御引立御依頼
8 明治 年八月一五日 海軍大臣一列出張に付き御配慮の処愚息儀に付ては諸事御教誡懇願
9 年二月七日 伊地知氏英国へ渡航に付き猟銃の儀依願
一一八八、 仁礼景一
1 明治二〇年九月一六日 小生の写真・エキスプレスよりの物は来月先め本校へ転し申すべく候間小生申越すまで御贈りなき
様御願
2 明治二〇(カ)年九月一七日 写真六枚を国本に贈り一枚は貴君へ進上 三枚はノイス氏へ御贈り下されたし 野間君には後よ
り進上致すべし
3 明治二〇年九月二五日 エキスプレスよりの贈物は小生申上るまて貴所に御止め居き下されたし野間君へ写真進上 亦た後よ
り写真出来上り候は御報知下されたし
4 明治二一年一月二九日 試験終了今年の便船のテイブル御贈り下されたし 野間君其他公使館諸君・御宅の婦人に宜しく御凰
声下されたし
5 明治二一年七月二四日 (英文電報)Do not come to see me
6 明治二一年九月二七日 ジョウジタウンよりの物を御贈り下されたし 樺山次官十月頃には御渡米の由
7 年一月一日 先日御贈りの書状并に金子落手 面会致したく存候得共他行を不免甚だ失望
8 年三月二〇日 小生明日ハンプトンロードに到着 貴書并にペン落手 神宮司氏は近々到着 馬場大尉も今月初旬出発
9 年四月一三日 御地へ罷出御面会致したく御帰国の日御報知下されたし
10 年四月二〇日 十六日御認めの御書状拝見費用の儀は貴所より御計ひ下されたし
11 年四月二七日 銀行券之に差入に付き御落手下されたし
12 年五月一〇日 貴書只今落手 御面会能はず此段御返事
13 年五月二八日 御地罷出御面会の儀は来る金曜日午前九時に試験相終り申候間至急御取計ひ下されたし
14 年六月一一日 fountain or stylographic penを小生に御贈り下されたし 別紙を神宮司へ御贈り下されたし
15 年七月二一日 エキザキチブヲヒサーに面会 御帰国前は再ひ御面会致したし亦此事件も御話し置きたし
16 年七月二一日 先日ワシントン篭出の事に付き不都合を生し申候 其れには種々事情あり 公使館に実事を報知致し曲直を正
したし
17 年七月二三日 神宮司到着の報を下さるや否や他行願を認め翼朝汽船に乗り動き初めし時不免との事なれど船は本艦を去り
不得止上陸 ワシントンより帰校後直に校長に面会 帰後艦長より禁身を申付けられ先日不当の旨を上申
18 年七月二四日 本国より贈物種々ある由 然しながら今度の航海は入用品の外は持つこと能はず 校長へ差出せし弁明書未た
反答なし
19 年七月二四日 彼の一件に付き今少しく委細申上たし 艦長に面会の免しを問ふ時の状況と電報接受から帰艦命令に至る経
緯を説明
20 年七月二四日 彼の一件に付いて先日校長等へ弁明書差出し届き候得共反事なし 御帰国前再ひ尊体を拝するを不得遺憾 御
厚意の程憾謝
21 年七月二五日 艦長の免しなくして校長を見し一件・bath-deckを出よとの命令後数分間居し一件に付き説明
22 年七月二八日 彼の一件に付き御教意の程難有必ず忘れ申さず 帰国前御面会致したし
23 年 月 日 去る十四日ワシントンに罷出し時に出せし件に付き三件を以て罪せられ禁身を申付けられ候ことに付き分明なる
様に申上
24 年 月 日 艦長の免しなくして校長を見し一件に付き説明 此の一件に付て罪点十点を与へられたるは不満も無く他の二件は
小生甚だ不満
一一八九、 根津一
1 年一月一二日 禅と思想界の関係・危険思想自滅案御一覧賜りたく希望
2 年一二月四日 御垂示得安心候儀御盛情之程不堪
一一九〇、 野口定次郎
1 明治一七年七月二一日 (英文)先月五日付書翰昨日拝受 先の日本文で言及したもの送付願
2 明治一八年一月六日 明日より乗船の筈 両三日中Spainに発艦
3 明治一九年三月三一日 御依頼の書冊既に落掌一読 本邦の景況大平無事 海軍部内多少変革ある由 浪速号多分明朝出帆 来月
四日仏国に於て畝傍号進水式の由坂本老人より通知
4 明治 年六月一一日 四月三十日英国帰着 魯英葛藤の事件に対しホンベー氏指揮で演習施行浪速号請取の為に伊東大佐以下数
名来臨の筈
5 明治 年一二月四日 早崎氏より写真代価請取り此にてブラシー書買求 迂生も英海峡艦隊に暫時乗組たき心底
一一九一、 野崎武吉
1 明治三〇年一二月一五日 一昨日軍艦拝艦での御優待の御礼
一一九二、 野副猪一郎
1 昭和六年八月一六日 御救助にて一時相凌ぎ候 重ねて十円丈追加願上候
2 昭和六年八月一八日 重ねて借金依頼
一一九三、 野田卯太郎
1 明治三六年六月三〇日 鎮守府見学御礼
2 明治四三年一一月四日 亡妻葬送の際の弔電御礼
3 大正八年八月一一日 宋秉〓君御紹介
4 大正九年二月八日 朝鮮人蓼御贈与御礼
5 年六月一六日 (松浦五兵衛・渡辺修・菅原伝・秋岡義一・牧野耕三・上埜安太郎・村野常右衛門と連名)懇親の為め粗餐
差上たく御案内
6 年一一月一八日 荒木陸太郎所有船と水雷艇衝突事件に付き嘆願の為め出願 本人の願意御聞取下されたし
一一九四、 野田清
1 大正一三年七月二二日 海軍大臣官邸の談話会費序での節に御送金相願
一一九五、 野田豁通
1 明治一八年二月一〇日 朝鮮事件に際し我輩軍人社会は頻りに開戦を希望致居候へ共熟考致候へば今日の国力にては会計上
の維持法に至り極て至難
2 明治三三年一一月一八日 智利硝石の義に付き早速調書御示し下され御礼
3 明治 年月三日 赤松男の投票及委託証状受領 小生一昨日同男邸へ出張 同氏も心好く承諾を得好都合
一一九六、 野田和三郎
1 昭和九年九月一日 剣道練養年齢に対して十数年間研究 本年末迄に小学校教授法及訓育者の養生案提出すべし
一一九七、 野中清
1 大正一三年二月一二日 今般朝鮮銀行総裁拝命御挨拶勇々粗餐差上たし
一一九八、 野間清治
1 昭和三年七月二日 今回大日本雄弁会講談社より計画の「修養全集」並に「講談名作全集」の賛助員に御奉戴の栄を御願申
上候
一一九九、 野間
1 年五月二九日 紐育よりパナマを経て日本迄の荷物の運賃御教示願
2 年七月一三日 明夕神宮寺海軍少佐御一行を招待晩餐を供したく御来会を仰ぎたし
一二〇〇、 野問口兼雄
1 明治三八年八月一三日 横須賀及呉海軍工廠の設備の件は本日大臣閣下の捺印を得閣議に提出 本件は至急を要し候趣経理局
長より申出られ候間其旨内閣書記官長へ閣下の御名を以て依頼仕候
一二〇一、 野村吉三郎
1 大正二年一二月二三日 (真田鶴松書翰 野村吉三郎宛)大臣閣下へ鎮海の現状に関し小生私見を言上致したし大臣引見御許
可相成候はヽ貴下に於て其日時場所を御伺下されたし
2 大正三年 月 日 閣下御引責御退任予期致さざりし処 衆愚に媚び自ら自分の四肢を断ち自ら弱むるが如き拙策
3 大正八年九月三日 京城御着の際の暴行につき御見舞
4 大正八年九月二八日 出張中の御懇情御礼 朝鮮の新しき事情の一端を知るを得て帰来大臣部長次官次長あたりへ口頭報告致
置候
5 大正八年一二月二五日 (春子宛)マーシュ大佐十一月二十四日付書簡によればエバンス少将未亡人同日朝遠逝の由(付
1)C.C. Marsh書翰 野村吉三郎宛 大正八年一一月二四日付(英文)Mrs. エバンズ今朝死去(付2)斎藤実書翰草稿ヵ マー
シュ宛 (英文)私の妻はMrs. エバンズ死去を知り悲嘆私はソウルにいるが状況はかなり深刻 このような時に当地へ来たくは
なかったが赴くことを強いられた
6 大正一一(カ)年四月一三日 御親切なる御高配誠に感謝 早速ワシントンの久田氏に通報
7 大正一三年六月一二日 北境巡視中匪徒より射撃を蒙られ御無難御悦び申上げます
8 大正一五年六月一一日 最近貴方面より種々不穏の情報紙上に現はれ御心配申上居候処国葬儀も無滞終了一般民心も概ね平
穏の報道にて心安く感じ申候
9 昭和二年一二月八日 御辞任の由に付き無限の感想を催ふし申候 今日の治績を挙げられ候事邦家の慶事 唯閣下の後継の人撰
に就ては君国の為め遺憾
10 昭和四年一〇月三一日 朝鮮総督に御再任慶賀の至り 当隊も万事円満に経過 在留同胞や米国官民歓迎
11 昭和五年二月二三日 三菱より申参候条御取斗依頼 今回の選挙の国民の審判は概ね公平にして国民の自覚に対しては意を
強ふするものあり
12 昭和五年四月一三日 軍縮の結果帝国の国際的地位は寧ろ向上 軍部の不平も漸次静まり申すべく政治上の問題は紛糾とも
想像
13 昭和五年五月六日 軍縮に関し愚見御参考となし下さるれば幸甚 アンチ政府者中には軍令部長を辞職に至らしめ内閣に致
命傷を与えんとしつつある者あり 部内には不平の声ある様なるも直ちに鎮静すべく極端なる一二脱線者に対し警戒の必要 枢
府は軍事参議院が絶対的に、“NO”と云わざる限り結局批准の外なし
14 昭和五年六月一七日 呉鎮守府栄転への祝電御礼
15 昭和五年一二月一二日 海軍問題も補充問題の解決と共に一段落 工廠方面は二割見当の陶汰を必要軍縮の主張に忠実なる
は結構なるも聊か泥合戦的醜態をも演ぜし者なきにしもあらず
16 昭和六年四月二〇日 艦隊は第一期訓練を了へ呉所属のもの帰港 広工廠にて新造の艦艇は出発迄広にて諸試験施行過日財
部大将来呉満足なりし様子
17 昭和六年六月一日 御不例御全快の由伝承 慶賀不過之
18 昭和八年七月三〇日 暑中見舞
19 年五月一三日 小生の帰朝追々切迫あと二ヶ月後には親しく御目に懸り当国の近情を御報道致し御指教得たし
20 年七月二日 御注文の品米国より直接総督邸へ送付方取計ふべし
21 年一一月一七日 プラット少将は多年の知人にて識見卓越し常に公正穏健の態度を持しfair & rightの人格者
一二〇二、 野村直邦
1 昭和二年八月一八日 高松両宮殿下御来伯中 今次軍縮会議の所感 一、最悪の場合に処すべき準備こそ必要 一、総括七割は首
席全権又は海軍大臣の腹中丈けに収めて置くべき 一、軍縮会議の要求に対し防禦線を沢山構成して置く必要
一二〇三、 野村益三
1 大正一一年一〇月二七日 実業界方面の人の御紹介を願上
一二〇四、 野村秘書官
1 大正二年五月四日 大臣舞鶴北陸旅行予定
一二〇五、 野元綱明
1 明治二九年九月八日 強圧通風全速力試験を挙行するか否に付き公試委員中種々の意見生じ決定せず 小生挙行の愚なるを陳
述多分其方に決定すべし
2 年一二月二六日 此般の任務は平素の希望にて研究の得ること多く心中大に愉快 旅順寄港の際毎旦三食共に招待されしには
頗る難有迷惑
一二〇六、 野元盛幹
1 明治二九年二月一七日 武官名簿は別製の分あり 本日迄異動報告掲載の分は修正いたし差上
一二〇七、 野依秀市
1 昭和一〇年一一月六日 (電報)発止の多しを国家の為め悲しむ 横田千之助氏を呼び大いに善後策を講ぜられたし閣下の総
理を望む
一二〇八、 芳賀亀太郎
1 明治三一年八月六日 本年四月静岡県浜松尋常中学校に転じて奉職の処先月廿日より暑中休暇に相成 上京の上至誠学院に入
学致し独乙語習居り候
2 明治三一年一〇月二二日 今度清水港へ御出の事新聞にて承服 御尋致したく候
3 明治三一年一〇月二四日 八島副長への御紹介状により同行者一同懇切なる案内の下に拝観御礼
4 明治三三年四月一七日 今度愚妹を他に遣り小生他に出張の際母のみ一人置き不安のため奈七郎を他に置きたく存居候
5 明治三三年四月二五日 愚弟奈七郎今度帰省の際の御懇篤なる御教訓と多分の旅費の御礼
6 昭和五年五月一二日 平壌に於ける外人計画の会社に入社につき公私共御引立の程御願申上候
一二〇九、 芳賀奈七郎
1 明治三一年一〇月二二日 海軍ボーイ志願の手続御一報依頼
一二一〇、 萩谷籌夫
1 大正一〇年五月一〇日 楠田の件当人一身に関し御憐察を賜はりたく尚一度拝謁仰せ付けられたく依頼
一二一一、 萩原彦三
1 昭和七年五月三日 本日陰画フヰルム四巻鉄道便にて発送 尚活動写真に関する事務は文書課所属と相成候に付き御遠慮なく
小生まで御下命下されたし
一二一三、 橋本弥充
1 昭和六年六月一日 (千葉常治と連名) 前町長の墓碑への揮毫御礼
一二一三、 橋本清之助
1 昭和年八月一二日 「粛軍に関する意見書」御届申上候
一二一四、 橋本徹馬
1 昭和五年六月(カ) 日 (電報)(前半欠)反省を望む
2 年五月二七日 台湾視察報告を兼ねて御挨拶のため面会希望
一二一五、 橋本与兵衛
1 大正九年六月一日 過日の御光臨と御品頂戴御礼
2 昭和九年九月八日 吉沢文男紹介
3 昭和九年九月八日 女婿吉沢文男就職斡旋依頼
一二一六、 蓮沼門三
1 昭和八年一〇月六日 大阪・名古屋にて修養団の大会・講習会を開催
2 年三月一六日 国難打開の根本方策として(I)外交戦に優勝すること(II)国民の総結束を固むることにつき拝顔の栄を得
て申述希望
一二一七、 長谷川清
1 大正一三年四月一日 三年半ぶりに米国に再来 社会の変化・次期大統領候補等政界の状況報告
一二一八、 長谷場純孝
1 明治三八年三月一七日 旅順港沈没艦船引揚の儀に付き別葉氏名の者出願御許可依頼(付)願人(石井千太郎・岩崎次三
郎)の氏名・住所
2 明治 年二月二五日 熊本県友人福島政太郎氏紹介 面会依頼
3 明治 年五月七日 紹介状御礼
4 年九月四日 小生親族東勝熊御引見依頼
一二一九、 畑俊六
1 昭和五年一〇月一六日 朝鮮師団対抗演習中貴地での御配慮寵遇感謝
一二二〇、 波多野貞夫
1 昭和七年四月二八日 予備役仰付けにつき在役中の御懇情御礼
一二二一、 八条隆正
1 昭和四年一一月一日 朝鮮旅行の際の御厚情感謝 子爵議員補選での梅園篤彦氏への投票依頼
2 昭和四年一一月一一日十四日 施行の議員補欠選挙投票御送付御礼
3 昭和四年一二月三日 貴族院子爵議員補選に於て植村家治氏への投票依頼
4 昭和四(カ)年一二月一六日 子爵議員選挙は植村家治君辞退に付き三嶋通陽子推薦
5 昭和五年七月二七日 子爵議員補欠選挙での植村家治君への投票依頼
6 昭和五年九月一八日 子爵議員補欠選挙での岡部長景君・毛利元恒君への投票依頼
7 昭和五年九月二一日 議員選挙投票用紙送付
一二二二、 蜂須賀敬八郎
1 昭和五年六月四日 興国義会ポスター「財部海相此の怪行為?彼れは何時自決する気か」
一二二三、 蜂須賀正韶
1 年八月二一日 病傷兵療養地及ひ人員の義取調御礼
2 年九月九日 北京負傷兵到着の件に付き御書面御礼
一二二四、 八田裕二郎
1 明治一八年四月二三日 キング氏著のウォー・シップス・ヲフ・ヨーロップ一冊并にSoley on Naval Education 一冊郵送依
頼
一二二五、 服部伊勢松
1 昭和六年一二月一四日 京城西大門署長に補せられ候 任官に際し官吏生活上の信条となるべき御玉筆依頼
一二二六、 服部一三
1 明治三八年六月一日 日本海海戦での捕獲艦を兵庫港に差廻して修繕し内外人に観せしめることを提起
2 明治四一年一一月五日 市民の厚意を表し且多日の労を慰する為め各艦に清酒贈りたく希望
3 明治四一(カ)年一二月二二日 神戸港での観艦式挙行に付いての御高配御礼
4 明治年一二月八日 港川改修会社の件につき社長秋山恕郷の御面謁依頼
一二二七、 服部宇之吉
1 大正一〇年九月二三日 工藤宇野両氏出張に関し御願ひ御聞入下さり御礼 御優待に対し斯文会幹部一同謝意を表し居候
2 大正一四年一二月二一日 京城帝国大総長として京城に常駐する事は東宮職御用掛とは並び立ち難し此際新に京城帝国大学
総長たるに適する人を御選定希望
3 大正一五年二月七日 小生進退につき御上京の際拝晤の上決定としそれ迄は時間を与へられたく希望
一二二八、 服部金太郎
1 昭和七年六月一七日 朝鮮書道菁華御恵贈御礼(付)領収証 昭和七年六月十七日付
2 昭和七年六月 日 精工舎製懐中時計御試用下され候はゝ仕合に奉存候
一二二九、 服部捨郎
1 昭和八年三月二三日 大神都経営に就て経費醵出や諸設備に関し提案陳述
一二三〇、 服部暢
1 昭和四年八月三日 黄鉄喜の身上気にかけ下さり御芳志御礼 近来元気回復の様子にて須永氏宅へ避暑の為め罷越の筈
一二三一、 鳩山一郎
1 昭和六年一二月二三日 本年度の教化運動への援助御礼 謝金差上
2 昭和八年一月六日 年賀及び猪の肉御恵贈御礼
一二三二、 花田浩太
1 昭和三年一一月一八日 大日本協会創立協議中につき何卒御引見の栄を与えられたく希望(付)花田浩太書翰 昭和三年十月
二十七日付 大日本協会創立内相談会通知
一二三三、 花田仲之助
1 大正九年六月一七日 一昨夜一一会を開催 名和海軍大将と伊集院彦吉両君の加入を願ふことに相成候
2 昭和六年一月一日 年頭の御祝勇報徳会現況報告
3 昭和七年一月四日 勅語普及実行に関し別紙印刷進呈 宮内省にても報徳会の講話を聴かせて行らせたしとの事にて閣下御高
配御礼
4 昭和七年八月一八日 地方長官会議及び全国教化団体代表者会に於て教育勅語捧読せらるは一般民心に偉大なる影響本日宮
内文部内務各大臣に対し国民更生運動に当り各省も率先して勅語を捧読し地方へも奨励すべき旨願上置候
5 昭和九年三月二一日 一一会開催につき御臨席希望 教育勅語普及徹底に関し閣下文相兼摂中に是非国民の向ふべき処を明ら
かにして頂きたく切望
6 昭和九年一〇月一八日 鹿児島県連合報徳会開会に際し御来会御礼
7 昭和一〇年七月二二日 新京にては各大臣とも面会満洲国と報徳会に付き相談申上賛同を得 報徳会も四十ヶ所に組織目下朝
鮮各道巡演中
8 昭和一〇年八月二一日 (前半欠)帝塚山学院大講堂の額のため揮毫依頼
一二三四、 花房義質
1 明治三二年九月二八日 日本赤十字社総裁殿下四国地方御巡臨に際し軍艦便乗の御取計御礼
2 明治三六年一〇月九日 早速御内報下さり拝謝
3 明治三七年九月九日 晩餐延引通知御礼
4 明治年九月九日 皇族講話会への財部少佐出席談話依頼
5 大正三年一二月五日 御尊父様逝去吊詞(付)(斎藤実覚書)紀尾井町斎藤満平の死に際し其子斎藤実と氏名同しき為め各
方面より悔状を受く 此書其の一例に属す
一二三五、 花山実
1 昭和三年一月一七日 京城にて帝国在郷軍人会大会を開催し併せて満洲戦跡視察を実施する事と建議致したく閣下の御高教
希望
一二三六、 馬場〓一
1 昭和四年八月一九日 朝鮮総督栄転の祝詞
2 昭和九年七月一〇日 内閣総理大臣退官に際し在官中の御懇情御礼
3 昭和九年一二月二七日 結構なる御品拝領御礼
4 昭和一〇(カ)年一二月一七日 御饗応御礼
5 昭和一〇(カ)年一二月二一日 結構なる品御贈恵拝謝
6 年 月 日 先般結構なる品物御恵贈恐縮 台湾産樟にて工作の臼を茶箪笥様のものに拵へしもの御笑納下されたし
一二三七、 馬場恒雄
1 大正一一年九月 日 現今幾分劣験あるは行政警察事務にて局長を始め一巡査に至る昔時より品位学識下落 戸口調査を欠略せ
るの疑なしとせす充分実施せされは民情にうとく必ず事物の惹起せる時は机上の報告の免れ得べからず
2 昭和五年二月九日 斎藤への献歌 東拓裡里支店長・裡里小学校長より御染筆懇願につき揮毫依頼
一二三八、 馬場練兵
1 明治一九年三月一日 参謀本部海軍部人事及び露伊支への在外駐在武官人事の内報全国防禦の方按定まり五ヶ所に鎮守府設
置
2 明治一九年六月一五日 醇親王十五隻の艦隊を率ひ遼東湾に蟻集中 仏艦五隻英艦十隻も徘徊視察中 支那の進歩は支那の為め
賀すべく我国の為には果して如何なるものに候や 朝鮮国は目下仏国より宣教申込に付き国情困難
3 明治二一年五月一八日 六月一杯の御滞米拝承 実は交代派遣の内命相受け驚愕 渡米の後は貴官の遺栄に頼り勤務候外なし
4 明治二一年六月八日 本日米国公使館附拝命 廿日頃の便にて出発 神宮司少佐・桐野少監欧行の途次米国を経て赴任の趣
5 明治二一年六月一九日 出発延引相成候処三十日横浜出発桑港を経て赴任の筈 嶋村吉松両官も紐育まで同伴
6 明治二一年七月一五日 昨日当港安着 明十六タ或は明後日 朝の汽車にて嶋村・吉松と同伴チカゴ・紐育を経て御地へ赴任の
予定
7 明治年九月二六日 山口海軍大佐随行の海軍砲兵大佐石井隼太君へ在米中の御配慮を仰ぎたし
一二三九、 浜尾新
1 大正年一二月一五日 紅蔘御恵贈御礼
一二四〇、 浜田国太郎
1 昭和六年五月八日 昭和六年度本組合大会は別紙決議を採択 就ては不日本問題に関し組合代表者が参上のこと(付)「日本
海員組合昭和六年度大会議案」
2 昭和八年一〇月一八日 現内閣の施政は財閥政党特権階級の為す処と異らず 速に引責自決闕下に骸骨を乞はれん事を進言
一二四一、 浜田国松
1 大正年 月 日 (名刺)今夕帰途に就き欠礼
一二四二、 早川千吉郎
1 大正六年九月一七日 軍事協会の事は随分多忙にて此の任務に尽す自信もなく御断申上候
2 大正二年七月一五日 御紹介の日統氏と面会講演会を依頼致したし
3 年九月二二日 拙宅新築 十月一日松方老侯夫妻御案内に付き同日奥様同伴御来臨願上
4 年六月一日 朝鮮の山林地払下経営希望の広瀬謹次郎紹介
5 年九月二三日 (斎藤実・春子宛)(早川里子と連名)晩餐呈上の案内
6 年一〇月一五日 大捷報頗りに到来快絶 来十七日午後五時三十分頃より築地にて会合小宴 御来会下されたし
7 年一一月七日 明八日午後五時三十分頃より築地に於て福沢捨次郎氏の催にて特に老台の出席依頼
8 年一一月一八日 御陞進目出度奉賀上候
9 年一一月二九日 瓜生君日本倶楽部入会の義賛成 原浩一と申す人物産に採用の件御示通りに取計
一二四三、 早崎源吾
1 明治二〇年三月四日 (大久保領事宛)(英文電報)野口死亡 ロンドン埋葬通知
2 明治二〇(カ)年一〇月二二日 樺山次官ら米欧に向出発の噂につき発着其他御通報依頼
3 明治二一年三月二六日 今般帰朝の命あり 不日出発に決定
4 明治 年三月一〇日 野口君病勢悪化から死去埋葬に至る状況報告
5 明治年 月 日 三笠工事延引甚だ心外 試験の結果会社はNNC板に対する誤信を自覚し只管恐縮善後策に孜々務めつつあり 前
後実際の情実を酌量相成相当の延期御許し相成可然
6 年一一月六日 山階宮其後疵は何の故障も無之候得共指の運動力回復せず去月十日開切治療致し大方平愈 御真影難有拝受
一二四四、 林甕臣
1 昭和四三年五月二三日 「外人土地案」に就ては鄙見案御一覧の上破棄否決を願上(付1)林甕臣「護国慨言」 明治四三年
三月二八日付(付2)巌井義恭「外人に土地所有権を許与する利害に就ての鄙見書」 明治四三年五月付
一二四五、 林久治郎
1 昭和五年六月二六日 旅行の途次に招宴に預り深謝
一二四六、 林空水
1 昭和八年一月六日 年賀状
2 昭和八年一月一三日 近日日本学術振興会理事長に御決定との由 国家の為めに無上の御事に奉存上候
3 昭和八年五月一八日 人心的には蓋し大内閣大軍艦のやうな大総理で大日本帝国は着実に進まねばならぬ 日本学術振興会は
『人の心の大問題』この大研究をやるものへ第一番に助成せられて可然
4 昭和八年六月一二日 政友会と文部省と帝国大学とそれぞれ現実暴露の地金丸出の大醜態 文部省や大学の推薦にばかり重き
を置かず活人の活眼に真価を認めて真実の奨励補助助成をせらるるが大日本帝国学術振興会の真の御仕事
5 昭和九年九月九日 『投書』を通じ被教育者・教育者を動かして大与論を引出しそれをピックアップして活案を得之を審議
会等を通らしめ実現する事が文政の得策
6 昭和一〇年一月一七日 元老級・首相級・大臣級らによる内閣から独立の天皇直隷「国策審議院」の機関の出現こそ最重要
事
一二四七、 林健太郎
1 昭和二年四月二日 (斎藤実・春子宛)李王同妃両殿下主催の晩餐案内
2 昭和三年四月二五日 二十七日李王同妃両殿下御催の晩餐の節の婦人着服は白襟紋付にても差支なし
一二四八、 林権助
1 明治三七年一一月一七日 英国公使館護衛海兵隊長たりしCapt. Jones(大尉)日本留学につき滞在中の御世話依頼
2 明治三七年一一月二二日 漢城病院については新築の計画も和田軍医をして成功せしめたく同軍医を尚引きつゝき在勤せし
める様依願
3 明治四〇年三月二四日 在清国日本公使館海軍武官に関し小生の所見は諸事控目に引込勝の外は何等不都合無之候
4 明治 年三月二九日 (三浦大佐・斎藤少佐宛)明日謁見は正一時三十分公使館出車のこと
5 明治 年四月三日 七月には凡一、一〇〇名斗来るものと御覚悟下されたく候 英国人の物すきには一驚致候
6 明治 年五月二九日 本日午後一時デオシー氏招き午餐に付き東京クラブへ御光来下されたし
7 大正九年一月九日 過日は済愚教の者御名刺を持して来訪 其云ふ所聴取し侠援を与ふへく存居候
8 大正九年七月一三日 小生十七日東京発十九日神戸出帆 内外共随分多事努力仕る外無之と存候
9 昭和六年一月八日 荒井栄吉氏紹介
一二四九、 林茂樹
1 昭和六年二月二一日 欝陵島にて飼育の肉用牛の枝肉進呈(付)「欝陵島産牛概況」
一二五〇、 林繁蔵
1 昭和六年二月九日 (電報)有賀殖銀頭取辞任は断じて不可にて特に注意あるべしと大蔵大臣より懇談あり
一二五一、 林重蔵
1 大正六年一一月四日 願書に斎藤実外三名出願地と記入願上 図面に別紙の如く記入署名捺印願書に添付下されたし(付)書
式
2 大正一三年二月二日 農村発展の計画や事業に付き差支なくぱ閣下上京前に拝眉願上
3 大正一三年六月九日 責任案を差上候 別紙記載計画案に於て御了解されたし(付1)実行案(一日の製造高として麦粉壱袋
あたりの純益等を記載)(付2)収支計算方法(付3)一万五千円領収証
4 大正一三年六月三〇日 別紙財産目録御一覧に供す(付) 大正十三年六月廿九日現在の不動産及備品調書・現在営業状態略
記
一二五二、 林十郎
1 昭和四年一二月二〇日 万朝報社による軍縮全権後援挙国一致国論統一の運動への援助依頼
一二五三、 林省三
1 大正一五年一月一日 年賀状
一二五四、 林董
1 昭和四〇年三月二日 日露協商に付き政府方針を決定し在露公使訓令のため明三日午前十時総理大臣官邸へ御来駕希望
一二五五、 林民雄
1 明治三二年一月二八日 三原君は本日正午着浜の筈 本人に面接の節相尋ね早速御通知可申上候
2 大正九年五月 日 (林直衛と連名)母敏子死去の際の弔購御礼
一二五六、 林包明
1 大正二年 月 日 迂生雑誌発行の計画中 漸く事業の緒に就かんとする運と相成 初号は来る四月中に発刊せん筈に候
一二五七、 林昌雄
1 大正八年八月一八日 郵送の書面并に床次内務大臣宛写書御一覧下されたし 朝鮮牛移入の件に付き御配慮下されたし(付
1)林昌雄書翰写 斎藤実宛 大正八年八月十五日付 米穀肉類殊に牛肉は容易に朝鮮から移入せらるべき処従来法律慣習の為其
の移入防遏せられ甚だ遺憾 朝鮮総督より政府当局者へ交渉然るべく願上(付2)林昌雄書翰写 床次竹二郎宛 大正八年七月二
三日 付当地当業者を統合一大団体を組織して朝鮮牛を其の一手を以て直接買入・販売に当りたき所存 此際鉄道及汽船の運賃
減額に付き御配慮下されたし
一二五八、 林弥三吉
1 大正一一年一月一四日 (横山勇・林菊太郎・小畑厳三郎と連名)御地公務旅行中の御芳志拝謝
一二五九、 林有造
1 年一月一四日 今回西郷・川村・仁礼三君の銅像建築に御関係の趣 後藤・品川の銅像を成就せし本山展吉なる者西郷を是非
引請けたく希望
一二六〇、 林充胤
1 昭和二年四月一五日 子爵閣下の時運を草せしもの献呈(付1)斎藤実に対する姓名診断書 昭和二年四月(付2)林充胤
「『近代花押藪』刊行に就いて」
一二六一、 林田亀太郎
1 明治三七(カ)年六月一八日 朝鮮政府にて長森藤吉郎氏に森林山沢荒地を五十年間改良開墾せしむべしとの由につき御開
施を依頼
2 明治四二年一月二二日 嘉悦氏房先生小伝編纂の為め性行逸話等蒐集仕りたく寸話なりとも与えられたく依頼
3 明治年一二月二三日 此書携帯の衆議院議員沢田佐助氏は満州丸の件の熱願者にして是非閣下に直願致さんと申出候
4 大正八年八月三一日 今般朝鮮総督就任につき偏に閣下の御自重を祈り候
5 大正八年一一月二日 茲に封入の履歴は女婿三条と申す者にして閣下の驥尾に附して働きたく申出候
6 大正一二年一二月三一日 下生金在文に震災前には月弐拾円の学資を支給し来るも今日到底其儀相叶不申 総督府に於て御立
更相叶候はゞ難有
7 大正一三年一月三一日 金在文に対し月々三十円御補助との御書面を金に示し候 軍費の見込なき為に立候補断念は残念につ
き御補助仰きたく希望
8 大正一三年二月一七日 過般の件に付き両三日中拝芝希望(付)『関東日報』大正十三年二月十六日付切抜「林田対高橋両
氏の血戦」
9 年二月八日 斎藤久三郎遺児養育の為に月々御恩金を蒙り以来三年に相成 遺児成長し前途に光明を認め得られ候 此機会に友
人総代として又未亡人に代り御礼申述候
10 年三月二七日 斉藤久三郎遺族の件につき御補助依頼
11 年四月一日 金在文今回大学を卒業し朝鮮総督府奉職につき閣下の鴻恩に感泣致居候
12 年六月一一日 議院事務と建築に関する件取調の為め十五日横浜出帆欧米巡回の途に上り候に付き告知の為め参上せしも閣
下出張中にて其儀を得す遺憾
一二六二、 林田竜一郎
1 大正一〇年一一月八日 変態内閣を造り普選実行経済策の転換の希望を有する国民を失望せしむることないよう御考察の上
憲政会勢力を考慮し時局収拾されたき旨進言
一二六三、 原耕
1 昭和七年八月八日 大阪に於ける議員の人選を見るに明らかに政党の腐敗が認められ閣下の内閣に於て改革希望
一二六四、 原静雄
1 大正一一年六月二七日 河川改修案を来年度新事業予算として提出の義に付き理由書を提出
一二六五、 原敬
1 明治年一二月二日 (封筒は 昭和九年一二月二七日付馬場〓一より斎藤実宛 書翰は原敬より原田一等技師・斎藤大将・吉井
大将・片岡大主計宛)麁餐予定通知
2 大正八年一二月二一日 李世子婚儀の事明春決行 李〓公の事今回は一時不逞の徒に誤られたりと甲事に致し寛容の方却て内
外に対し宜敷 議会の方は必ずしも会期中滞京の必要はなし 議会より請求もあり今回よりは各惣督自身説明の労を執る方人心
にも好影響に付き電報にて御相談
3 大正九年八月一五日 宋秉〓招致し色々聴取俄に行はれさる事多し 帰鮮の上は万事惣督を助力可致惣督も君を労する事可有
之と申遣 北海道開墾地の事は宋に断念不致方可然と相勧 陞爵の事は本人も小生に一任
4 大正九年九月二二日 英国人ショーに関しては英国との関係上旅券規則違反位の事にて処罰放逐することを提起
5 大正一〇年九月一〇日 宋秉〓差出の意見書は内鮮人無差別を望むとの趣旨 宋より朝鮮農民北海道移住に就き五ヶ年間毎年
一万円つゝ惣督府より補助支払の旨希望 又宋より伊藤家より大磯別荘を王世子に寄贈し宮中より伊藤家に十万円下附ありた
しとの内話
6 大正一〇年九月三〇日 (高橋光威代筆)水野君より送付の分は直に処理 野依秀一氏紹介
7 年三月二九日 熊本神宮に関する義に付き大竹・品川二代議士か衆議院に提出したる質問書新聞紙に発表 小官その弁を別紙
の通り発表
一二六六、 原夫次郎
1 昭和七年五月二八日 我民政党より政務次官に推薦の事有之候はゝ奉公の誠を竭す所存
一二六七、 原守
1 昭和六年六月一日 (電文)今般陸軍省軍事調査員を拝命
一二六八、 原嘉道
1 昭和一二年二月二七日 (斉宛)実相院殿一周忌の御品御礼
一二六九、 原田金蔵
1 昭和六年一二月二九日 請求書申上候処早速御送り下さり正に落手
一二七〇、 原田熊雄
1 年三月一日 御約束の書物呈上
一二七一、 原田啓
1 明治二七(カ)年七月一三日 海兵団迄直接順路の外多少他道に入る旅費も加算して支給せられたしとの義に付き貴局長よ
り当局長へ同議取計下されたし
一二七二、 伴資健
1 明治二七年一一月二日 天長節奉祝の為め広島市内有志の者祝宴の御案内
一二七三、 半沢玉城
1 昭和五年二月二五日 次回木曜会への出席依頼
2 昭和八年九月一五日 今回の軍部事件に関し東郷元帥閣下に対し別紙卑見拝陳(付)半沢玉城私信要旨写東郷元帥宛昭和八
年九月十二日付 五・一五事件判決確定の暁には帝国軍人に対する聖諭の降下を拝することで軍紀粛清を進言
3 昭和八年九月二二日 (大角海軍大臣宛書翰要旨写 昭和八年九月一七日付)海軍内の喧囂を伝聞し軍紀粛清を進言
4 昭和九年一〇月一八日 在満機構問題に就て事態の容易ならざるを認め別紙声明を発表(付)中央満蒙協会幹事の書翰及び
声明案 昭和九年一〇月一五日付 在満機構に関する事態の紛糾につき本日緊急委員会を開き声明書を起草
一二七四、 半田実
1 昭和一〇年一月二〇日 当地方の名産栗送付
2 昭和一〇年一月二一日 栗は焼くよりもゆでた様よろしき旨先便にて失念に付き取急御通知
一二七五、 日置黙然
1 明治四四年五月三日 護国塔への御写真贈与及び除幕式での赤松男代理祝辞への御礼
2 明治年九月二四日 護国塔建設賛成人名簿への記帳依願
一二七六、 槍垣喜美輔
1 昭和四年八月二九日 皇太子殿下御降誕慶事敬祝文御揮毫御礼
2 年八月二八日 記念標面分御揮毫御礼
一二七七、 東久世通禧
1 明治 年一一月九日 志村輝一郎閣下に面謁希望御引見下されたく依頼
2 明治 年三月二四(カ)日 鳥海経吉御紹介
一二七八、 東山家雄
1 昭和八年九月九日 洋李栽培満十年の祝賀会開催のため御揮毫依頼
一二七九、 久橋海軍大佐
1 明治三八年八月三〇日 ペンスウェット旅順にて浮揚後回航に堪ゆるか否やを調査する余暇なく旅順出港 汽缶等に故障多く
大に困却せるも幸に佐世保へ入渠 横須賀到着後本艦天覧の栄を仰ぎたく切望
一二八〇、 土方久元
1 大正二年三月 日 帝国博物館による英文日本美術史発行援助への賛同依頼
一二八一、 飛鋪秀一
1 大正一五年一月四日 木浦の築港事業実施の模様に拝承 上水道拡張事業に対する国庫補助も十五年度予算案に計上の趣にて
有難き仕合
一二八二、 肥田景之
1 昭和六(カ)年一月一七日 六年度の道庁舎移築費予算は成鏡南道又は江原道に振り向けられたし 以上困難の場合は今後五
六年後迄移転を延期せられたし
2 昭和年一月一六日 (頭山満と連名)忠清南道公州郡公州面市民会長丸山虎之助・副会長宮本善吉・評議員田口一の三氏来
訪 今回道庁移転問題に付き小生よりも可然御願申呉と依頼 希望の条件別紙の通にて可然御高配願ひたし
一二八三、 比田井鴻
1 昭和三年一月五日 朝鮮法書精英編纂への補助金御下附御礼
2 昭和六年四月一一日 朝鮮書道精華出版に取かかる為め中枢院出仕金敦煕氏の都合照会せし処別紙の如く申出 先日武田中将
より御注意もあり価格を高くして少部数の印刷と致すべし(付)金敦煕書翰比田井鴻宛ヵ 四月三日 付書道精華出板の事感銘
五月中旬頃は鮮展あり準備に従事
3 年一〇月二六日 朝鮮書道精英編纂のため再度渡鮮可致か金敦煕氏に嘱して調査可致か考慮
一二八四、 日高壮之丞
1 明治二七年一二月五日 陸上の激戦も二ヶ所位又四十五分位にて殊に戦闘上の戦死者少く竄潜したる兵を引出し殺したる者
多くあり 十八日に我士官兵士を惨殺いたし憤慨の結果多きに候哉とも聞及
2 明治 年二月五日 本所教官の義は差し当り奥山大尉より他になし御尽力依頼
3 明治 年一二月九日 新聞記事虚構云々の義は同感 好機に於て弁明云々の義は小官之迄新聞記者に面会時局談致せし事なきも
説諭致すべし
4 大正一〇年六月一〇日 有終会発行「海事参考年鑑」買上願(付)広告 海軍参考年鑑大正九年号
5 大正一〇年八月二七日 有終会発行海事参考年鑑(大正十年版)御買上御礼
6 昭和三年一二月一三日 熊の貴重品御恵与下さり御礼 別途送付の薬袋是非御試用下されたし
7 昭和四年四月一一日 御申越の薬差上候 是非御服用下されたし
8 昭和四年五月四日 御下命の件承知早速阪田医師へ来意の趣相通し候処快諾
9 年一一月一〇日 沈没船イルチース号島根県の事業として引揚希望の儀に付き同県知事が過日来艦 準備金壱万円の用意あり
是非尽力致呉との依頼に付き別紙願書御吟味賜りたし
一二八五、 日高秩父
1 年一一月五日 陛下御肖像の件は閣下より直接宮内大臣へ御話し遊ばされ候はゞ相運可申歟との答に御座候
一二八六、 日高丙子郎
1 大正九年五月一四日 間島方面の不逞鮮人過激化を憂慮し別紙在外鮮人案並に侍天教に対する愚考につき御尊覧を給はりた
く奉願候
2 大正九年六月四日 宋秉〓を往訪宋氏は侍天教に対する愚案には異論これ無くも小生への誤解あり甚だ不機嫌小生鈴木商店
との往復書面等を提示せし処疑念氷解の模様
3 大正九年七月四日 一日大磯に赴き宋子に閣下・水野閣下の思召を相伝へ帰鮮して侍天教布教に尽力せらるべき旨申進みし
結果宋氏近日水野閣下に拝晤仕りたしとの事にて昨日水野閣下に宋氏との対話逐一上申
4 大正九年七月七日 一日も早く引上げ侍天教布教準備に着手すべく相すすめ候結果宋子帰城の決意一層確実宋子内田良平氏
には已前より信用を置かず 又杉山氏が帰城を留めても動揺せぬ意志を小生確認
5 大正九年七月二九日 宋氏去る廿五日首相を拝問 今春日高が侍天教に関し上申已来の顛末を具陳し坊主になり帰鮮の考を申
述
6 大正九年八月一二日 宋氏も月末迄には帰鮮に決定 杉山氏の連邦合邦請願の協議を拒絶して単独にて意見書作成首相始め要
路に提出の所存に見受けられ候
7 大正九年一〇月二五日 明廿六日 発程琿春より間島を一巡仕り来月廿日頃帰城の予定通知
8 大正一〇年一月二三日 (前半欠)間島唯一の独立教育の策源地なりし明東学校の向背は一般の耶蘇学校に及ぼす影響不動
と存じ今後とも此等耶蘇人を指導仕りたく苦慮罷在候
9 大正一〇年五月二〇日 月初より老母病気の処此の両三日軽快に向ひ候につき近日中出発 着手の上は一意奮闘の覚悟
10 大正一〇年七月二六日 琿春方面の森林権の用務の交渉延引と相成間島の事懸念に不堪 対鮮人施設必要と相信候ため成る
べく円満に進捗せしめたし
11 大正一〇年七月三〇日 早速御返電下さり拝謝
12 大正一〇年八月一〇日 領収証送付(付)教化準備費の領収証 大正十年八月十日付
13 大正一二年二月二六日 今朝交渉署長に面陳の処王省長には一両日中に面会方取計らはん巡閲使には其の上にて決定すべし
との回答あり
14 大正一二年三月一日 廿八日張総司令・王省長に面会の処援助をすと言明 吉林督軍も奉天交渉署長より光明会の件話され
し処大に賛成の由
15 大正一二年三月一八日 昨日三浦子爵に拝謁し私の企図の概略説明 外務省の諒解を得置きたく外務大臣への御紹介依頼
16 大正一二年五月二三日 (封筒は六月一日付)光明会経営の事業中語学校以外は日支人の志願者を収容すること能はざるた
め事業資金の御支給方懇願(付)光明会組織主意光明会現状今後の計画 費用概算
17 大正一四年一月一五日 永新の件御蔭様にて決定御礼申上候
18 大正一四年五月九日 渋沢子爵・井上準之助氏より尽力せんとの申述あり 永新学校移譲に関し尹和洙より告訴提起間島に
累積せる悪思想切開のため帰間後は全生徒全教師を失ふてもとの覚悟にて徐々断行の所存
19 大正一五年一月一日 年賀状 光明会諸事業に関し元間島中央学校長市川庄五郎氏を不在中の代理人とする旨通知
20 大正一五年五月一三日 基本金の件につき渋沢子爵・鈴木朝鮮銀行総裁と面会
21 大正一五年六月一五日 当地基本金募集の件は其後渋沢子爵・鈴木総裁・池辺東拓理事の御尽力に依り援助決定につき御礼
22 大正一五年六月二七日 安田保善社から千円は日鮮懇話会に二千円は直接交附との由 懇話会の方は全員の半数位は集まら
ず目下極力諒解に努力明日も渋沢子爵・鈴木鮮銀総裁に拝晤の上何分決定 渡辺総裁・結城氏等に間島の事紹介賜はりたし
23 大正一五(カ)年八月一日 渋沢子爵御配慮下され候御援助金の件に関し昨日午後鮮銀秘書役より全部完了につき来行せよ
と連絡あり
24 大正一五年八月三日 目鮮懇和会援助金壱万四千二百六十六円六十六銭昨日頂戴 直に間島の管理委員へ送金
25 大正年六月六日 此れより事業の第二期に入りたしと存じ産業組合・畜産組合等組織実現の上は事業内に遁竄中の首領を入
れて安定せしめたし 家庭婦人・学齢経過女子の教育及幼稚園は家庭の中心より同化融合せしむる最も緊急案件と愚存
26 大正年八月一六日 かねて出願の文化事業費の件につき出淵局長より光明会の現状からは其の処置執り難きこと・一般に募
集の際は自分も協力すること等の回答あり
27 昭和三年七月二一日 揮毫の御礼
28 昭和三年一二月一七日 事業の基礎を相立て第二歩に進みたしと存居候際に朝鮮総督御退任を承り落然 一日も速に御快愈
相成候よう御見舞申上候
29 昭和五年一月二五日 光明会の件につき本日外務省有田局長・三浦課長より土地代経費等援助の内示あり
30 昭和五(カ)年二(カ)月一四日 支那側は間島協約にて押し切らんとの決意にて帰化問題の解決は時機宜しからず 警察
力増加の件は土地所有・自由居住・耕作権確保等の権益と交換にと存候
31 昭和五年九月五日 支那側の対日感情硬化朝鮮人在住民圧迫に対し光明会による緩和のため奉天官憲と懇談の処援助の言明
を得候
32 昭和五年九月二六日 昨廿五日大毎杜相訪ね候処本山社長は廿八日九州旅行より帰社につき当地出立は来月三四日と相成西
岡氏より電気熔接材の満鮮一手販売権を私に与へ利益は事業に使用せよとの好意申出
33 昭和五年一〇月三日 昨日本山大毎社長・楢崎東亜調査会専務理事と会見 光明会名誉会長として御力添え賜はりたきこと
等申入
34 昭和五年一〇月四日 大阪毎日社より重役会議の結果本山社長は光明会顧問承諾 私は東亜調査会東三省調査委員嘱託・富
民協会嘱託に御命じ下さる旨伝達
35 昭和七年五月二七日 満洲国務総理鄭氏に多年師事の太田外世雄氏御引見依頼
36 昭和七年七月二六日 長春より別紙暗号電報到着 太田氏代理斎藤正身と申す人明夜着京(付)(電報)駒井長官飛行機に
て廿七日貴地に着く 執政及び鄭総理は諒解を得居るものにはあらず
37 昭和七年一〇月三一日 満洲国精神問題に対し仏教の高徳を迎へ満洲を道の国として育てるため禅宗本山当局と協議
38 昭和七年一一月九日 山本玄峰老師一行満洲駐錫経費概算
39 昭和七年一一月九日 鄭国務総理・武藤大使・満鉄総裁への御名刺御紹介依頼
40 昭和七年一二月一日 鄭総理と会見朝鮮人教育問題等に御下問あり武藤大使からは光明会に賛成を求むとして満人側要人歴
訪仕るべく御同意を得候
41 昭和九年一二月三〇日 多年御高配に浴し候光明会現財産を生前寄附としてさる十一月一日 付財団法人光明学園として成
立
42 昭和一〇年一月一〇日 満洲皇帝御来京の際満洲国成立を奉体し満洲皇帝に自覚を感得せしむるよう皇室の御待遇析願
43 昭和一〇年一〇月七日 植田朝鮮軍司令官に在満鮮人特に帰順匪類の処置等につき申上たく御紹介書依頼
44 昭和一〇年一〇月二七日 南軍司令官より鄭総理辞任張総理後任を要望 林陸相出立の前日張総理新任 皇帝は渡日にていだ
かせられし感謝好感を破壊 一般国民上下不満を内蔵 閣下の御力添え切望
45 昭和一〇年一二月五日 宇垣閣下に間島を基点とする朝鮮人対策・満洲国内の実情・朝鮮内に於ける民心・地方自力更生運
動等につき意見開陳 松岡満鉄総裁にも光明会を紹介の程希望
46 年一月一〇日 支那人の対日感情冷却 光明会及び其の事業に対しては昨夏の関税附加税問題の際居中調停仕候已来官民と
も好感を加ふ
47 年一月二八日 琿春より先年の損害賠償請願のため代表委員来阪協議の処大略片附 一両日中に参趨
48 年二月一日 寄附金の件につき朝鮮銀行等より援助あり 満鉄久保氏は旅行中 李完用侯朴侯爵等は未決定
49 年八月一一日 支那側の教育権回収の行動・土地売買への警戒により東満一帯への朝鮮人移住発展の余地狭はまり行く状勢
につき対策の確立を希望
50 年八月一九日 奥様御令弟様御他界につき御悔み
51 年九月二九日 本山社長昨日帰阪せられ明午後又は明後一日には時間あるべき旨通知
52 年一一月一日 語学校・女学校・幼稚園の事業の経営を開始従来排日者と目せられし人等も子弟を送り障碍なく進行ただ経
営に疑念を惹く恐れあり内鮮有志に援助を仰ぐ事と致したし
53 年一二月三〇日 土地の件につき大塚閣下より救済会金借用の御内示いたゞき間島総領事に手続
54 年一二月三〇日 土地の件は私の希望は第一は竜井の枢要地点を一まとめとして総督府又は満鉄外務等か或は特志個人にて
所有相願ひたし 第二案として石本恵吉氏の御配慮の案を検討
55 年 月二八日 経営困難の雑誌「朝鮮仏教」が継続出来候よう配慮希望
一二八七、 ヒノニシ
1 大正一二年九月二日 (電報)東京震災御見舞
一二八八、 百武三郎
1 大正一二年二月四日 御帰城の途次奥様同道鎮海に御一泊の栄を賜はりたく懇願
2 大正一二年四月一七日 今回の御来遊は花と申し天候と申し申分なき好都合にて御両所を御迎へ申上るは嬉しき限り 野菜恵
与御礼
3 大正一二年五月二四日 仁川に於ける海軍貯炭場は遊園地並に満鉄浴場開業の暁には対照不釣合に付き適当の代地を得て移
転する方得策 釜山牧の島の海軍用地も不審の点あり本用地も整理する方可然
4 大正一三年三月一三日 朝鮮航路開始に当り舞鶴町長の懇願もあり海軍整理の結果衰微を来せる新舞鶴を寄港地に指定する
ことを依頼
5 大正一三年五月二一日 閣下国境方面巡視中匪賊の襲来に遭遇の御様子驚愕の至 幸に御障もなく大慶至極
一二八九、 平岩八称
1 年一一月三日 宿の都合により昨日引払 今日御願ひ申出
一二九〇、 平賀譲
1 大正一五年一二月三日 造船中将就任祝詞への御礼
一二九一、 平田東助
1 明治三六年(カ)四月一二日 豚児昇御引見万事御垂教を依頼
2 明治三六年九月六日 拙児昇兵学校試験の儀に付き御内報御礼今後の御引立の程依願
3 明治三六年一二月一一日 拙児兵学校入学につき御厚配御礼 小遣費用校長に委托に付き迂生より為換を以て依頼致したく右
旨予め老兄より御頼み置き下され間敷や
4 明治三六年一二月二〇日 拙児入校の始末に付ての御厚配御礼(付)東郷正路書翰斎藤実宛 一二月一六日 付平田昇義に付き
不都合なく取斗ひ可仕候 小遣金は一般に一ヶ月二円五十銭 それ以上は監事にて預り
一二九二、 平沼騏一郎
1 昭和四年一二月一五日 御土産御恵投御礼
2 年三月八日 御上京を機とし歓迎の微を表し小宴相催たく御光臨の栄を得たく候
一二九三、 平沼淑郎
1 大正一〇年一月二〇日 先般臨時教育調査会列席の為め京城出張中の御高配への御礼
2 大正一一年一月二六日 朝鮮教育令の儀先般調査会決議の通可決の趣御同慶の至と奉存候
3 大正一三年一月一六日 大邱府参与官金英鎮の知事昇任を小生よりも希望
4 昭和三年九月一九日 韓乙との御面会御礼
5 昭和四年五月一九日 韓永昌及尹念広両人の拝謁再応願上
一二九四、 平野助三郎
1 昭和九年四月一〇日 閣下の健全と長寿福徳を奉祈 八百比丘尼の祈祷札・御守り其他送致 受納賜はば幸甚(付1)八百比丘
尼略縁起(正覚寺・寛政一二年四月)(付2)八百姫大神御縁起(付3)副申(平野助三郎の身元参考)・青海山及近傍名勝
地案内
一二九五、 平松亮卿
1 昭和九年九月五日 第廿三回忌法要御案内(付1)乃木山道場呼訴文 乃木大将二十三回忌を記念とし摂心団南天棒揮毫会・
銅像建設会の各会員は道場正会員に加盟し目的事業に努力せられん事を望む(付2)乃木山道林寺広告「第廿三回乃木忌法
要」
一二九六、 平山政栄
1 昭和七年五月 日 (斎藤邸方関戸辰馬宛)政友会・陸軍に働きかけ組閣妨害を為すものあり老婆心までに水野氏・久原氏・
望月氏等の斡旋を進言
一二九七、 平山政十
1 年四月二〇日 拙者の計画日本切支丹殉教史の映画化に就て高官らに説明し御賛同の栄を給らんことを希望
2 年四月二四日 在子馬太伝第十六章二十六節の聖句を依頼
一二九八、 平山成信
1 大正一三年(カ)七月二二日 人蔘御恵投御礼
一二九九、 平山藤次郎
1 明治二八年八月一〇日 十日午前七時に到るも総督より御指令なし
2 明治二八年八月二三日 司令官命により長崎にて修理に着手する事と相成職工を督し工事 過日来五名乃至拾名の新患者発生
の処下士卒上陸戦制限により漸く両三名に止まる義にて遠らず撲滅
3 明治二八年一〇月六日 栃寮上陸点運送船碇泊位置別紙略図の通り改定に付き各運送船へ示達相成たし
4 明治 年六月二九日 海軍予備員条例発令への御礼
一三〇〇、 広池千九郎
1 昭和四年九月一二日 朝鮮総督再任にあたり内鮮親和の根本策として聖人の御教へによって鮮人の精神開発を為すことを進
言
2 昭和四年一二月二三日 李〓公御待遇に関し御意を得ざる哉の風聞につき閣下御仁徳発揮下さる様懇願
3 昭和七年五月二三日 小生は政治産業経済教育の四項目につきて経綸を抱懐 就ては何卒一度御招き下さりたく愚見申上げた
し(追白)財政経済の打開と人心の安定は道徳の振興に待つの外無之候
4 昭和九年七月三〇日 拙著道徳科学の論文増補訂正第二版発表につき御高覧に供し候(付)道徳科学の論文要点
一三〇一、 広岡宇一郎
1 年一一月二九日 政友会愛知県支部常任幹事高橋克親氏紹介
一三〇二、 広瀬勝比古
1 明治三六年四月二三日 天皇陛下第五回勧業博覧会行幸の際呉造兵廠出品に玉歩を止せられ御言葉を賜はり幸栄至大
一三〇三、 広瀬博
1 昭和八年九月二〇日 満州国見聞に依る感想御一覧を賜はりたし(付)広瀬博「満州国視察感想」 昭和八年九月十五日付
一三〇四、 広海惣太郎
1 年九月八日 茶杓に銘を給はり御礼
一三〇五、 福井正義
1 明治 年九月六日 艦隊来韓決行 仏露に倚りて事を為んとする李容翊は想像外巨大なることに吃驚の様子 今後も時機あらば時
に艦隊をして回航せしめられんことを切望
一三〇六、 福沢桃介
1 昭和九年九月二日 病気少しく快くなり御挨拶申上たく拝光願上
2 昭和一〇年二月二〇日 拝光願
3 昭和一一年一月三一日 別入御清覧を賜りたし
4 年七月二日 予て御願申上候御尊影態々御届下さり恐縮
5 年一〇月一九日 揮毫御礼
一三〇七、 福島太明
1 年一〇月二一日 商業の販路拡張仕りたく主計長・経理局長へ御紹介懇願
2 年 月一七日 キバストボリの件に付き野口氏と面会 本人は斯業の専門家なること 一日も早く御決定下さる様懇願
一三〇八、 福島荘平
1 昭和二年九月三〇日 総督代理一派が一部官吏と操觚界の礼付者を使嗾し斎藤総督の批政の材料を調査との風評あり権藤四
郎助・石森久弥などの輩窃かに東西奔走 藤原君の総督を私せし傾向への反感・政務総監と警務局長が其力に乏しき感を与ふ
る事・操觚界における副島京口社長への反感などが真相の一部と小生推断
一三〇九、 福田徳太郎
1 昭和八年四月二七日 願は現内閣の長命 鳩山文相は蔵相やめれは自らもやめると宣言 現職大臣として不忠実 蔵相病退の止む
なきに至らは三土氏を以て補充 国民歓迎大改革実行希念 三宅福馬氏著「帝国逓制の改造精神」御精読を願ふ
2 昭和八年六月八日 満州軍を教育して興安嶺に備へ一方暹羅の華僑二百万と提携 暹羅国の疲弊を回復せしめてこれを第二の
満州たらしめ以て南北より支那を導き欧米の野心を断念せしめ亜細亜は亜細亜人の土たるを実現すること半世紀の大仕事の
第一歩 中川総督へ台湾と暹羅の交通頻繁なる様内命を希ふ
一三一〇、 福田徳久
1 昭和三年六月一五日 衆議院選挙立候補以来国粋会館の維持に関して困却 木村氏御紹介の上御援助賜はりたし(付1)立候
補宣言書(福田徳久 昭和三年二月)(付2)「福田徳久君後援の趣旨」(衛藤文雄編輯 昭和三年二月一〇日)
一三一一、 福田紀雄
1 昭和六年五月二四日 五月二十一日附為替入御手紙落手御礼
2 年九月五日 御揮毫御礼
一三一二、 福地由廉
1 昭和九(カ)年九月一日 神都の大問題に付き御心を懸け給ひ御蔭を以て九年度予算に調査費計上内務省の手により現在調
査 御礼申上候
一三一三、 福永吉之助
1 年三月一日 来五日御案内を恭ふし拝謝 当日拝趨可仕通知
一三一四、 福原信三
1 昭和七年四月 日 弊店のヘヤートニック・フローリン御試めしの程希ひ上げ
一三一五、 福原俊丸
1 大正八年一二月一八日 両江松林鉄道事業の件は財界有力者と熟議 漸く取纏め過日十七日貴府へ設立許可を申請 創立の上は
北朝鮮の開発・間島方面への我国勢力の移入・朝鮮同化の精神宣伝に貢献致すべく覚悟
2 大正一一年一月一日 両江松林鉄道につき御上京の際協議申上たし
一三一六、 福本誠
1 大正六年九月二九日 全国青年団統一の企図当路者の間に貫徹 当路者より具体案提示の際改めて御高示仰ぎ申すべし
2 大正八年八月一七日 総督赴任への祝詞
3 年四月一八日 荊妻病中の御考慮感謝 別品進呈御笑納下されたし
4 年九月一四日 止若地方にて青年団組織結成 発会の紀念に御来臨御願申上候
一三一七、 福山類三郎
1 昭和七年九月一二日 衛生不凍栓の数種完成第一回全国水道協会に実験品携帯 閉会後は奉天新京にも出頭の上発表を切望
2 昭和九年九月八日 老母より郷里産出の梨二十世紀軽少御送附に付き御笑納下されたし
3 昭和九年九月一七日 予て御高配を辱し完成仕候水量メートル商工大臣よりの製作免許下附を申請 郷里老母に閣下御写真御
下賜願
一三一八、 藤井織之助
1 昭和八年八月二七日 政民両総裁の無任相入閣は屋上屋の感 此際御勅令を以て国策審議制度機関を特設し国家百年の大計を
樹立すべきこと請願
一三一九、 藤井寛太郎
1 大正一五年四月二五日 不二農村も漸次整頓 宮崎徳太郎翁の信託を受け小生監督の干拓事業地へ御立寄を願上 土地改良会社
着々相運びつつあり
2 昭和三年一一月二〇日 叙位の恩命を拝し候 閣下朝鮮御治下の援助による事業の継続により今日の光命に浴するを得たるこ
と且つ閣下の御推挙によるものと恐察感謝
3 昭和四年四月一九日 不二興業事業一覧表送附 干拓事業が如何に困難なるやを確証する次第にて干拓地を内地農民移民収容
地とする意味でも総督府の御援助仰きたく希望
4 昭和四年八月一八日 朝鮮総督再任への祝詞奉呈
5 昭和四年一二月一一日 多獅島に築港・埋立せば極めて経済的に立派なる土地を造り得べく製鋼所は是非此地を利用方御配
慮願上 資本金増加を得ば仁川開拓事業も潮汐利用の発電事業を兼ぬる事にて有利なる見込あり 別冊米穀法改善論御高覧賜は
りたし
6 昭和五年八月一三日 昭和製鋼所鮮内設置問題も有利に転還致候趣深く感謝 満州が帝国法権の下に置かる時に至り鞍山に移
すも遅からず 製鋼所は鴨緑江以南たらざるべからず
7 昭和六年六月五日 大蔵省内朝鮮産米増殖計画に対し抑圧を加える傾向の由拝聞 俗論を排し国費により水利事業地の測量設
計・干拓事業を進めるべし
8 昭和六年八月一日 御配慮相煩し候土地改良代行機関統一の件は先般菅原氏来鮮の節一切の協定相済せ本日より社員も土地
改良会社へ引継
9 昭和九年二月四日 米穀問題につき別冊「米穀問題の重要性」記述の通り肥料を国営として調節する事最良 国立倉庫による
需給調節・台鮮米の元地大量買上の決行を上申
10 昭和九年三月五日 農林省は台鮮米の法的制限を主張 台鮮米買上の規模を大にして是れを徹底せしむれば移入数量の調節
は自由自在 本年の豊作は籾貯蔵の絶好機会
11 昭和九年七月二五日 首相在任中満洲移民事業及米穀問題に関し尊慮を相煩はし恐縮千万 別紙肥料を国営とする生産制限
及び貯蔵米貸附くる社還米等に附き愚見を述べ米穀国策確立を熱望せる次第に付き御瞥見を賜はりたし
12 昭和九年一二月二日 国立倉庫を全国に建設して過剰米を買上げ或は肥料を国営として生産を制限するなどの米穀根本大策
と満洲大移民とは是非断行せられたし
13 昭和一〇年一月一日 閣下御在任中の米穀資金決定は実に米穀国策上画期的大英断なるにも拘はらず農民及び農林当局が其
効果を自覚せず遺憾千万
一三二〇、 藤井賢就
1 年九月一日 御写真大形一枚だけ頂戴 小形の分は後日にても送附下されたし
2 年九月一一日 小園栽培の品贈呈
一三二一、 藤井憲三
1 年九月七日 今回父より閣下の御写真を頂戴致し書斎に掲揚し遥拝 本年入隊可致 部隊の定りの上御挨拶申上候も茲に御懇情
を感謝
一三二二、 藤井一
1 昭和六年五月三一日 御東上中御病気の由に付き自園生産の梨御見舞の印として御送り申上候
一三二三、 藤井
1 明治二〇年一〇月二七日 九鬼公使帰朝の途中当港に於てユニヲン・アイヲン・ライク御一覧希望に付き御来示の趣承知今
朝同会社より回答あり諸事御申越通り取計
一三二四、 藤川利三郎
1 年七月二〇日 東海岸に於ける漁港修築の件に就き明年度に於て国庫御補助の御詮議相成べきこと及び慶州雁鴨池外三ヶ所
古蹟地に接続せる民有地買収の趣につき整頓のこと御願申上
一三二五、 藤沢幾之輔
1 大正元年八月二日 故御尊母様四十九日の御忌品拝受の挨拶
2 昭和(カ)八年七月二九日 過刻御話申上候十月の任期は先きの菅原氏か前任者の残任期に入り現在の富山氏はその又残任
期を襲へしに依るものゝ由
3 昭和九年二月八日 何時ぞや御話申上候件に付き原嘉道氏が入り元田肇氏が入り水野連太郎氏が交渉を受けたりとの説あり
余りに片寄り過ぎる感なしとせずとの言説聞込(付)切抜「島田君の人物論」
4 昭和年七月一日 過般来新聞に勅選候補者の名前が散見 田口衆議院書記官長の名が現はれず心配御考慮を煩はし上げ候
5 五年八月三日 松嶋の瑞厳寺住職より御届可致呉旨依頼に付き御届
6 年一月一日 年賀状
一三二六、 藤瀬雅夫
1 昭和九年八月二八日 態崎健翁著「皇道の生命」一部拝呈
一三二七、 藤田経孝
1 明治 年一〇月九日 船内食事は麦飯が主食 当船只今の下士卒便乗者は九十六名にて此百名の生霊が無通風の艙内に起臥する
の有様は一種の旁観
一三二八、 藤田尚徳
1 昭和 年一月一七日 「動力」の件につき渋川氏・清水氏其他関係者一同と会談の結果海軍としては本実験に必要な技術上の
援助を供与する事に考慮
一三二九、 藤波大円
1 昭和七年六月二八日 全鮮学校に対する教化運動も第四回巡講を終了 閣下の高慮と小林源六翁の奉仕に感謝 就ては御報告と
将来一層の援助を仰ぎたく御引見賜はりたし
一三三〇、 藤波義貫
1 昭和 年七月一四日 御高教の件は李泰浩に伝達 東上中止方申入候処別封の通回答(付)季泰浩書翰 藤波義貫宛(漢文)前総
督斎藤子不意賛位 斎藤子早晩還次東京別即当進拝伏計
一三三一、 藤波言忠
1 年五月二日 過日出願通り許可相成御礼申上たく一書奉呈
一三三二、 藤沼庄平
1 昭和(カ)八年九月二一日 (関赤坂表町警察署長書翰 村地官房主事宛)乃木神社内案内人にして不穏の言動あるやに付き
内偵するに特に無し 歩兵予備中佐日比重遠にあらさるやの疑あり引続内偵中
2 昭和九年九月一日 警視総監辞任に付き五一五事件後の帝都に於ける不安の除去及び人心の緩和の目的を達し官制の改正完
成せられ小生といたし候ては去るへき好適の時期 茲に御礼申上
一三三三、 伏見文雄
1 昭和一〇年一二月 日 城西研労会主催の無料ぞうに接待会に御同情懇願
一三三四、 藤村義朗
1 大正一五年八月一三日 清浦子爵来月中旬朝鮮経由支那漫遊に付き御示教仰ぎたし
一三三五、 藤山雷太
1 大正八年九月二二日 (原田望之祐と連名)(斎藤実・水野錬太郎宛)予て朝鮮産業鉄道会社の名を以て出願の軽鉄敷設の
件に付き一日も早く会社を成立せしめ急速に鉄道布設致したく特別の御詮議を以て許可の儀賜りたく懇願
2 大正一〇年八月一六日 朝鮮産業鉄道会社株式売渡希望者の持株買収を了し株主総会を招集解散取消其他別紙の通り可決小
生儀取締役を辞し相談役として同社の発展に尽力仕るべく挨拶
3 大正一三年二月一三日 旭日桐花大綬章御加授への御祝詞
4 五年三月六日 午餐の案内通知(付)藤山雷太行出欠通知葉書
5 年一二月一〇日 聖心学院に金壱肝円寄附御承知下されたし
一三三六、 藤原銀次郎
1 大正一四年七月二〇日 京城並南鮮方面未曽有の出水による被害への御見舞
2 昭和四年六月二五日 日露協会々頭御就任慶賀に不堪弊社傍系の日露木材会社対露干係に大利害を有する次第 一夕晩餐会相
催し露大使并に商務官御招伴申上たく切望
3 昭和四年六月二九日 日露協会会頭就任に就き粗餐差上たく御案内
4 年一〇月二四日 京城の竈にて作成の花瓶一対御恵賜御礼
一三三七、 藤原敬一
1 昭和八年一二月八日 自力更生は現在のまゝにては至難愚生の考える所を以てすれは自作をして米生産同業組合を組織せし
め政府の監督指導の許に最低価格を定めしむべし(付)米生産同業組合規程
一三三八、 藤原喜蔵
1 大正一〇年一二月二九日 警察の活動により成鏡南道国境方面は静穏を得ており進んで人心緩和に努めたし 警察を巡視の李
圭完知事は小生に人心を緩和せずして教育・勧業を奨励するとも時局を徒に紛糾せしむると思ひ居りたる折柄警察官の態度
を人民に聞くに殆と苦情を聞くことなしと申述
2 大正一四年九月二四日 (電報)(春子宛)総督到着通知
3 大正一四年九月二五日 (電報)(春子宛)総督出発通知
4 大正 年月二八日 御成年式各大臣の御祝品の内容並価格内報方電報にて東京出張所今野属に照会関 庭植に関する件は李王職
より何人も差向け難き事実ある由にて京幾道より東高等課長を派遣することに決定日高丙子郎来訪何等か心付を要するかと
も考へしも其の侭に致置候
5 昭和三年三月一八日 仙台閥一掃大正八年組は本府内に一名も置くべからずとの宣伝あり 庁内は異動の噂で持切にして異動
は生田内務局長等の献策にて大体内定の由 小生としては朝鮮に踏止まる考動き居らず
6 昭和三年四月一日 小生事丗日付平南内務部長に転出七日頃赴任別紙の通り松田学欧氏より送附 費用負担の件に付き内々丸
山氏と相談せしも別に妙案無之次第 留守様御一同菊池並三浦の一家至極健在愛国婦人会への御礼状未発送に付き御投函願上
7 昭和三年一〇月一一日 雑子の父嘉太郎死去の節の御厚配御礼 京城にては総督久しく病床につき役人等の心を益々暗くする
か如き傾向あり 三浦製糖・松井府尹・小生にてゴルフリンク新設を計画目下工事中
8 昭和四年八月五日 宗冬様平壌御視察の報告 山梨総督の後任として地方官民の間に高橋是清・一木喜徳郎・平沼騏一郎氏の
下馬評あり 要之政府は朝鮮統治を軽視することなく一流人物を挙用すべきとの意見であること(付)学習院旅行日程
9 昭和四年八月二八日 人事刷新は官民一般の空気にて之を断行なくば成績を挙揚すること能はず別紙国友尚謙の手紙御参考
と相成べく此の際目立たさること肝要(付)国友尚謙書翰 藤原喜蔵宛 人心を新しくすること自重して言動を慎み軽挙なき様
苦言
10 昭和六年六月一八日 山梨勝之進中将来鮮の節御質問あり更迭を要する事情なき旨を以て答ひ申候 併し今日の結果と相成
遺憾 宇垣総督は山梨半造さんと違ひ無理な人事もなすまじと存じ官界方面も衝動は無し
11 昭和七年二月六日 崔は朴経錫の姻戚にて「書」一枚御遣はし下されたし 御仰付の写真別途送付満州事変・上海事件と関
連する朝鮮人の思想は憂慮すべき程のものなし 噂によれは事務官級の行政整理計十三四名に上ぼる由
12 昭和七年五月二三日 (電報)組閣大命降下への祝詞
13 昭和九年九月二七日 小生今月初め感冒にて臥床併し順潮に快復 又喜代志も経過良好朝鮮の人事更新の様子もなく暫く御
奉公のつもり 但し転職の機会有之候時は馳せ参する心組 掛軸十幅・半折物三十枚に揮毫願上
14 年二月一三日 児玉部長の推挙を受け理事官に内定内報申上候 一月分金八円甚だ遅延に候へ共御送付
15 年三月四日 二月は各地講習会並講演会に臨み民心の奮起に努め時局に関する軍事講話会も開催致し民心を啓発 管下の農
家は惰民にあらずも労力の分配及労力の効果など研究を要すべき事項あり 二月分五円為替にて封入
16 年三月一三日 県理事官に転任 職務は庶務課長 県財政の調整と郡部町村の監督が主たる事務 岩木川改修鮫漁港修築及高等
設置等の問題も加はり候 二月分送金八円乍遅延同封仕候
17 年四月六日 児玉内務部長への御紹介御礼 寺垣中将御来青面晤の栄を負ひ申候も秋田県出張不在のため御高話拝聴するを
得ず遺憾 東北地方と他の地方との負担の均衡に尽力致したし 雑誌「東北」にて久方振りに御抱負の一端を伺う 三月分金五円
封入
18 年一一月一九日 本月上旬郡物産品評会を油川村にて開催 併せて統計展覧会も開催 乍遅延十月分金八円同封
19 年一一月二六日 目下県会開催中 小子主管の歳入問題は賑ひ居候 尤も税制の改正に着手の結果不平不満は無之ことと存居
候 朝鮮統治漸時進捗は誠に慶賀の至 干鱈・金員御送附
20 年一二月三〇日 封入の菊地代議士原稿は平壌毎日新聞へ掲載方取計置き候 当地商議会頭問題は知事宮川両氏の尽力も空
しく不成功 大橋氏の優柔不断と一部策士の誤解に起因 当分成行に放置して機を熟するを待つ方針 奥田進之助の如き就任希望
をする者もあり
21 年 月 日 京城学校費評議会議員辞職の件は李完用氏・李恒九氏の寄附申出により辞表返戻 モーア氏御招待午餐明後十日の
予定にて準備方可然や
一三二九、 二荒芳徳
1 昭和四年五月一日 少年団日本聯盟機関雑誌「少年団研究」故後藤総長追悼号へ御感話頂きたく御面接願上
2 昭和六年九月一八日 (三島通陽・柳生俊久と連名)少年団日本聯盟に御援助を仰ぎたく聯盟本部員高瀬栄之御引見願上
3 昭和七年三月二八日 少年団日本聯盟十周年の挨拶
4 昭和七年一一月一九日 少年団日本聯盟第四回総会の案内・式次第
5 昭和 年五月一〇日 満洲国文教部総務司長西山政猪氏御引見願上
一三四〇、 舟木錬太郎
1 明治一九年六月三〇日 海軍大臣欧米国行は今度決定 来月十二三日桑港へ出発 小生も隋行員の一に加り候間着府の節は諸事
御尽力願ひたし
2 明治二〇年五月二一日 大臣一行二月十六日伯林府出発 露国・伊国・瑞国・巴里・白義・和蘭巡覧につき報告
3 明治二〇年八月一一日 大臣初一統無事にて六月三十日帰朝 東京の模様は変るなし 貴兄の御意見は海軍部に区々の論あり未
決 世良田亮清国公使館附に就任 条約改正中止は遺憾
4 明治二〇年一〇月八日 綿火薬製造に就ての取調方御報相成たし イングリス氏来朝の途に就き同官に属する事務は小官に於
て取扱ふべしとの命あり大に困却
一三四一、 船越衛
1 明治 年一一月二八日 度々相願の港の義は如何御評議に御座候や 速に相運候様御配慮願ひたし
一三四二、 船田中
1 大正一二年一二月一三日 鮮満地方出張の節御教示を恭うし紀念品を頂き深謝
一三四三、 船津辰一郎
1 大正一五年八月二一日 御品恵与御礼
一三四四、 古市公威
1 明治 年八月一一日 過日の閣議に於ては鉄道建設費は他日の評議に譲ると決定 公債募集のこと御加勢を希望
2 大正一四年九月二四日 中島博士記念事業日本水道史編纂への御出資御願(付)大正十四年九月十五日現在 中島博士記念事
業資金申込現況
一三四五、 古橋卓四郎
1 大正一二年一〇月二三日 鮮人救済の概況に付て東京市より青山バラック四棟の譲与を受け労働宿泊所及人事相談所を建築
すべく進行中 鮮人の犯罪及内地人の鮮・支・内地人に対する犯罪に付て本月末頃発表の予定なりしが小官へは何等通告なく
廿日午後一時発表に決定 昨日各関係官庁協議にて各方面の連絡統一に欠くる処あり今後十分留意すべく打合
2 昭和五年二月一七日 光州学生事件の余波成鏡北道にも及び普通学校児童の妄動を見るに至り遺憾千万 新幹会等の暗躍を油
断なく注意警戒中 背後に思想団体の煽動あるは事実なれど教権の弛緩も其の一因 此際厳乎たる教権確立の為め教員組織を改
善し教職者を緊張せしめ学父兄の自覚を促し又私立学校及私設学術講習所への取締対策を講しつゝあり
一三四六、 降旗元太郎
1 大正一一年八月六日 先般貴地参上の節調査上格別の便宜御与へ下さり奉謝
2 昭和四年八月二二日 小西恭助氏に付き京城在住の知合に問合せ封入の如き回答あり閣下の御手元にて真相調査の上御採否
を希望(付)発信者不明書翰 (前半欠)小西恭介氏は釜山府尹・江原道内務部長を歴任し功績顕著 慶尚南道・江原道知事と
して最適
一三四七、 古谷敬二
1 昭和六年八月一九日 震災記念日に於ける会長閣下御講演及ラジオ放送の内容の立案を急ぎ居り出来の上御高覧に供すべし
中部方面の教化問題座談会左記の通り決定
2 昭和六年八月二一日 九月一日震災記念日当日の御講演の要旨原稿作製致し候間御高覧を賜はりたし
3 昭和七年五月一一日 教化事業調査委員の委嘱につき加藤常任委員及松井理事とも内議の上別紙の通り顔振を列記十三日調
査会終了後和歌山より上京の巽英賢御面会希望のこと
4 昭和七年五月二〇日 廿六日理事会開会に関し別紙の通り各理事宛通知 松井常務廿三日午後四谷の御邸へ相伺ひ申すべし常
務理事進退に関しては辞表却下が適当と愚考
5 昭和七年六月九日 加盟団体長等よりの祝電御目通し願上 岐阜県連合会長伊藤武彦氏よりの建議書御高閲相仰ぎたし(付
1)祝電十一件(付2)伊藤武彦「建議書」昭和七年五月三一日付 中央教化団体連合会に於ては速かに全国教化機関に愛国的
大運動を提起せられたく建議
6 昭和七年六月一六日 来る十七日教化事業調査会を開催今回は新委員御委嘱後の初顔合せにも有之御臨場を賜はることを得
ば一同の幸慶に有之候
7 昭和七年九月二九日 関西方面に於ける講演会及協議会に臨み途中岡山の老父母を訪問 兄弟の果樹園の二十世紀梨を別送
8 昭和七年一一月四日 松井博士に辞意翻し従前通り常務理事の任務を執られ候様閣下より御一言御慰留下されたく御願
9 昭和八年二月四日 会務も急なく進行殊に近畿及九州の講習会は十三日より開講致すべく準備 仙台より切抜の如き更生美談
あり御目におかけ申上たく御送り申上候
10 昭和九年二月二三日 本日松井・加藤両理事と共に台湾に向け出発致し三月十日頃帰京の予定につき御暇乞ひの挨拶
11 昭和九年一二月二七日 先日御申聞けの青年御紹介の御名刺持参相訪ね来り候 履歴書を提出せよと申し帰宅せしめ置候何
れ給仕として採用可致様取運びたし
12 昭和一〇年一二月一四日 十九日午後二時東京会館に於て教化事業調査会を開き既往における大本教の実情に付き藤谷庄平
氏より聴取御臨場のほど御待ち申上候
13 昭和一〇年一二月三一日 内大臣就任の祝詞本年も御鞭撻御指導を賜はり御礼
14 昭和 年九月一一日 教化団体連合会理事会十八日開催に決定教化五ヶ町村の中二ヶ村の宣誓式情況は本日発行の「教化運
動」紙上に詳記 御高覧を相仰ぎたし
一三四八、 北条時敬
1 大正一〇年八月二〇日 朝鮮の教育及宗教の現況視察の為め旅行の際の御優遇御礼 視察の結果今に当て人事を推窮し方策遺
算なく後来の万全を期することに拙意の眼目あり
一三四九、 坊城俊章
1 明治三八(カ)年六月一五日 伯爵会に於ける講話の件に付き佐野伯の御示教を蒙り御礼
一三五〇、 保阪久松
1 昭和三年七月二一日 財団法人日本家産会理事一同閣下を総裁に推戴決議致し候につき御承諾願上(付)日本家産会五万円
造成貯金勧誘趣意書・日本家産会寄附行為他
2 昭和七年五月一七日 朝鮮放送事業に就ては聴取者一万五千五百余名に達し十キロ二重放送実施も進捗 朝鮮放送協会第六十
七回理事会にて閣下を特別社員に推薦決議
一三五一、 星健之介
1 大正八年一二月八日 「朝鮮共和国」大統領李承晩・巴里講和会議委員長金奎植連名の独立宣言中に日本人は人類学的・言
語学的・気質的にも朝鮮と共有する何者もなしとあり日本朝鮮の同人種同語を立証すべく総督府に於て二三万の資金を以て
私研究御援助希望
2 大正一二年五月一六日 日鮮人種の同一なるを立証し外国人支配という朝鮮人の無智に対し蒙を啓きたし付ては先般願出置
候件御詮議下されたし
3 大正一三年一二月一六日 朝鮮人種研究費御下附の件不相叶様御決定申開を蒙り其際御手元より金壱百円御恵賜感銘 外務当
局との交渉要領を得ず阪谷男・鎌田栄吉氏・森村氏と面会報告 外国人の間に伍し得る学者は私あるのみ
一三五二、 細井肇
1 大正九年三月二四日 「最近の朝鮮事情」(三月二十四日報告)
2 大正九年三月二七日 「最近の朝鮮事情」(三月二十七日報告)
3 大正九年四月三日 木浦新報主筆長野虎太郎君御引見依頼
4 大正九年四月二六日 過激思想防遏の対策の著述に約半年没頭仕りたく御侠情に訴へ申候
5 大正九年四月二八日 前信を以て御願申出候所今月より御恩恵に預り恭く御坐候
6 大正九年五月一一日 高義駿よりの書参考まで御目に懸け申候 高ら一味をして独立派に対抗すべき団体を組織せしむる事も
徒爾ならざるべし朝鮮会館の件に付き石塚総裁まで御助言被下候はゞ幸甚に御坐候
7 大正九年五月二七日 朝鮮議会開設運動は邦人有志が其の鍵を握る方好都合にして菊地謙譲氏は鎮撫の役目には最も恰当と
存候
8 大正九年六月四日 朝鮮会館の相談役人選など進捗情況報告 儒者両班対策に菊地謙譲氏起用を進言
9 大正九年六月一三日 朝鮮会館は寄附にて纏まり候様ならば株式会社組織を廃するも可にて総督府の寄附金捻出相願はれ候
べきや
10 大正九年六月二一日 菊地謙譲氏は京城日報を加藤氏と共同にて経営せしめ他方両班儒生等と折衡応酬せしむれば適材適所
かと存居候
11 大正九年七月三日 菊地謙譲氏とは何卒隔意なく御談合の上然るべく御指令相成様拝望 朝鮮会館の件につき閣下より井上
角五郎氏へ尽力を乞ふ旨一筆御出状相願はれまじく候哉
12 大正九年七月二二日 朝鮮会館については菊地謙譲氏に反感を有する一部人士の批難の為め計画変更すべく苦心
13 大正九年七月二三日 朝鮮会館につき本日左記書面水野総監に拝呈 営利を目的とせざる日鮮融合機関の創設に候へば総督
府の御尽力相願たし(付1)発起人・賛成人名簿(付2)五月一日刊行第一輯内容
14 大正九年八月一一日 朝鮮会館は閣下若しくは総監により財団法人組織で成立を期せざるべからず 小生著述脱稿後国境遍
遊 在外朝鮮人の動静視察を希望
15 大正九年八月一九日 国難時弊を救ふの御思召を以て中央への御出馬千祈万祷
16 大正九年九月四日 原稿執筆の近況報告
17 大正九年九月一七日 過般来朝鮮の統治執筆中に有之統治上の私案確定仕候
18 大正九年九月二四日 例月のもの御恵送御礼
19 大正九年九月二四日 見舞状御礼 近著「朝鮮の統治」梗概申述候
20 大正九年一〇月二〇日 宣伝文案明日 より専心着手 両三日中に脱稿御目に懸け申すべし
21 大正九年一〇月二〇(カ)日 宣伝文漸やく脱稿仕候 公文書としての頒布よりも小生主宰の自由討究社名を以て官民に頒
布仕候方(諺文訳を添付して)可なるにあらずやと存居候
22 大正九年一一月五日 拙稿に対し御快諾を賜はり光栄之に過ぎず候其後鮮人数名(主として第二課長に転職せる李覚鍾)の
意見を聴き増補改訂仕候原稿御送付仕るへく候
23 大正九年一一月八日 増補改訂の原稿別便を以て本日発送 御指定の武断侵略主義は日本政府の真意にあらずとの一項は積
極的には記述無之も平和主義亜細亜文化主義の説明あり更に記入の必要有之候べくや
24 大正九年一一月九日 過般拝送の文書は広く一般官民及び警務官上下全体へ頒布致候方よろしかるべく水野総監にも申出で
置候 新聞政策の件に関し河野広中氏の如きを京城日報社長としては如何
25 大正九年一一月二六日 宣伝文邦字の文出来仕候に付き二千部丈け取敢えず丸山事務官御手許まで御届仕候 朝鮮文庫刊行
の件に関しては次便にて計画等詳述
26 大正九年一二月六日 実業家招待席上の御演説は朝鮮統治の一大宣伝にして其の効果絶大 小冊子『内鮮人の本務』二万部
増刷諸方面へ配本仕りたく御下僚まで取計方御下命下されたし
27 大正一〇年一月一日 通俗朝鮮文庫刊行案内
28 大正一〇年一月二日 帰京の車中で伊藤痴楽と避逅自由討究社にて旅費を給し全道を講談せしめ候事効果あるべしと愚案
29 大正一〇年一月九日 牧民心書の言文一致訳三月一日に刊行の予定 前信拝願の件如何に候べきや御内意御洩し下されたく
希望
30 大正一〇年一月三〇日 通俗朝鮮文庫に関し守屋秘書官より御趣意敬承若し牧民心書丈けなりと再応御詮議の余地あらば御
再考の程伏て拝望
31 大正一〇年二月一日 牧民心書配本方再考相願たく二千部御買上の件認諾相願たし 牧民心書は朝鮮の政治・社会の縮図に
て現在の官吏は勿論今後朝鮮に於て官吏になるべき者の必須不可欠の古書
32 大正一〇年二月一八日 早川千吉郎氏招待の湖頭山・寺尾・内田三氏と御会談要望京城日報社長は今村靹君適材と存ぜられ
候 (付)細井肇「牧民心書の訳述について」大正一〇年二月
33 大正一〇年二月二五日 例月のもの御恵送御礼
34 大正一〇年三月一四日 太陽又は中央公論に小生執筆の論文を視聴を惹き得べき人物の名を籍り発表若くは講演其の他の方
法で政治家に朝鮮の事物を通ぜしむるの要ありと存候
35 大正一〇年四月一日 精彩を欠く京城日報東京支社の支社長として長野直彦君起用進言 中安信三郎君熱望の国粋会員を以
て満蒙西伯利の不逞鮮人を取締らしめる事御指令待望 牛丸潤亮と云ふ浪人金策を依頼し来り候が御救ひ置き願はれまじく候
哉
36 大正一〇年四月六日 牛丸潤亮君の儀は水野総監閣下より御援護相受け候由今朝入電有之候に付き御報告申上候
37 大正一〇年四月九日 併合前親日に努力したる鄭雲復遺族困窮に付き長男鄭民沢御引見依頼
38 大正一〇年四月二五日 鄭民沢其後窮状を訴へ来り御引見相願たし 内田良平氏過日の会見未遂を遺憾とする口吻あり何卒
彼等一派を御包容御指導悃願
39 大正一〇年四月(カ)日 金五万円拝受により第三輯予定通り四五日中製本出来御礼
40 大正一〇年五月一三日 大和与次郎・大村友之丞・青柳綱太郎・小生の四名にて鄭家族後援に一決 高義駿東洋文化主義の
見地から一運動を生起し青年の独立思想を笑殺し内鮮人の覚悟を促したしと主張 経営持続の困難や家族を朝鮮へ引取る事の
可否などで目今苦慮(付)広告「通俗朝鮮文庫の刊行」
41 大正一〇年七月五日 自由討究社維持に関し菊地謙譲氏閣下まで出資方御願申出は菊地氏の独断につき御諒恕のほど願上
42 大正一〇年七月一八日 小生の希望は在外鮮人と国境不逞鮮人との状況を審らかにし根本対策に努力したきことに有之閣下
の御高配相仰ぎたく候
43 大正一〇年七月二四日 疆外不逞鮮人の件に関し大連にて相談せんとの早川先生の御言葉のまま随行 旅順にては山県長官
とも御目に懸りたき存念に御座候
44 大正一〇年八月二四日 今回の金建問題に対する山県長官の態度は私を以て公を紊るもの 小生は関東庁に対して何事の提
言も仕らざる決心
45 大正一〇年八月二五日 拙著目次御尊覧に供し申候
46 大正一〇年九月一六日 国民協会を利用して独立論の謬妄を世界的に公宣せしめる事急務にて此儀進行重ねて悃願
47 大正一〇年一〇月一(カ)日 独立論の駁文並びに鄭翰景の論拠粉斎に関する案文は喜んで執筆可仕原著 一冊御送付を得
ば幸甚民造の宣伝局を東京にも開設し東京の新聞記者に朝鮮を正解せしめ又太平洋会議の場合臨時措置活動を試みたし
48 大正一〇年一〇月二四日 自著出版のため印刷費の半額千五百円丈け買上げ(三百冊)依頼
49 大正一〇年一一月五日 国家の柱礎として御奮発是祈申候
50 大正一〇年一一月二〇日 小著『鮮満の経営』・朝鮮文庫第八輯印刷の援護依頼
51 大正一〇年一一月二三日 昨日守屋秘書官殿より一千五百円拝受 おかげ様にて鮮満の経営出版など万事八方適順に進行御
礼申上候
52 大正一〇年一一月二六日 小著鮮満の経営に閣下の序文(又は題字)頂戴の光栄に浴したく悃願
53 大正一〇年一二月二日 御揮毫を使の者まで御交手依頼
54 大正一〇年一二月四日 題字御揮毫御礼
55 大正一〇年六月七日 西北青年会に重望ある鈴木福次郎君御引見依頼 内田氏らの同光会朝鮮総支部につき意見開陳仕りた
く御面会希望
56 大正一〇年 月 日 間島における軍や下級官吏の乱暴なる処置聞捨てならざる節あり 閣下に直属する暗行御史特設の必要を
進言(付1)通俗朝鮮文庫既納未納一覧表(付2)細井肇宛払込票
57 大正一〇年 月 日 荘陸志と謝氏南征記合本出来仕候に付き拝呈
58 大正一一年一月一日 閑静の地で朝鮮古書翻訳のため年頭欠礼 東方文華大学事業援護依頼
59 大正一一年一月一六日 上海より帰来したる鈴木福次郎君の報告を徴するに仮政府一味の者を吸引すること必らずしも難事
に候はずと存候 疆外自由村を吉林か奉天に創設し内地にては朝鮮会館様のものを常設して留学生を慰撫する中間機関に充て
たし
60 大正一一年一月一九日 小著に対し御言葉を頂戴し恐懼の至りに存候
61 大正一一年二月二一日 例月のもの御恵送御礼
62 大正一一年二月二四日 病気平癒次第拝趨仕りたし
63 大正一一年二月二五日 朝鮮館建物処理に関する件は閣下御高見通り李起東・朴春琴両君へ御下付を得ば能き機関を得る事
と愚案罷在候
64 大正一一年三月六日 御帰任までに一度鳳眉拝接卑見陳述仕りたく希望
65 大正一一年三月一〇日 鮮満叢書刊行援助依頼
66 大正一一年三(カ)月 日 閣下御帰任の後新聞記者招待の機会でも有之候はゞ日鮮・不逞鮮人の文字を廃し内鮮・不良
(不平)鮮人と改め候様御言葉添依願(付)細井肇書翰新聞社編輯局首脳者宛 日鮮人の用字全廃など実行依頼
67 大正一一年四月二日 グチ漁出願者金子克己氏御引見悃願 例月の御援助打切りと相成候哉伺
68 大正一一年四月四日 長野虎太郎君より聞込の全羅南北道海辺の〓漁により得たる収益を以て平生の宿願の資源に充当仕り
たし 本月十四五日頃渡鮮申上たし
69 大正一一年四月一三日 グチ漁の件につき四五日中に渡鮮 多分大連よりも金子克己君入城(付)断簡(坂本司令官より斎
藤参謀長への手紙の一節との付箋添付)此れか二三ヶ月早なりしならば何も彼もメチャクチャ
70 大正一一年四月一四日 石首魚漁の件に関し内地人船長の他は支那人を一切の事に膺らしむる状況に対し問電来着 大正二
年九月府令第九二号を開放主義に更改すべきと愚考
71 大正(カ)一一(カ)年五(カ)月二七(カ)日 (封筒では五月二七日 書翰には七月二五日と記入)朴君の件金二千円
御援護賜はり厚く御礼申上候
72 大正一一年六月七日 彊外一帯馬賊に対抗せしむべき馬隊の編成に関し卑見陳述 朝鮮人儒者を当対する文化事業のため長
井〓(金風)氏を総督府嘱托に登用依頼
73 大正一一年六月一三日 菊池謙譲氏通信社経営に関し同氏の願望御聴納悃願 後任総監の任命は政党関係者以外より選任し
局課長の移動も学閥学歴を問はず起用すべし
74 大正一一年六月二三日 次代内閣は穏健中正なる文化政策を標幟としその内閣は是非閣下の手において作られざるべからず
国家本位の内鮮結合を精神とする記事の行はるるため菊池謙譲氏の通信社実現を希望
75 大正一一年七月一六日 疆外一帯の対策は根本的講究必要 内田良平氏は同光会の支部を間島・吉林・奉天・ハルピンに開
設し異時は義勇団としての活動をなさしめんことを欲する旨申居候
76 大正一一年八月一一日 七月一日より鮮満叢書の発行のところ購読者八百名に満たず 月二三百円の高利借入れを免かれざ
る実状具申 御救護依頼
77 大正一一年八月一三日 出版事業は現在の如く購読者八百名にては累月債務を加ふる実状具申 (付)「鮮満叢書出版事業
概要」
78 大正一一年八月一九日 本月分御下金及び馬越恭平氏御紹介御礼
79 大正一一年八月二八日 鄭鑑録を全道へ配布致さば行政上良き結果を得孔子の金像を拝する儒学運動よりも余程有効全道局
所長面長まで五六千冊配布の事如何に候哉
80 大正一一年一〇月二三日 大学講義録発行趣意書・規定等概略のもの出来候に付き御高覧に供し申候
81 大正一二年一月一七日 中央政局に御乗り出し相成候御雄姿を想像し快心休み難きものあり 御奮闘の程祈申候
82 大正一二年一月一八日 来春御婚儀御挙行の機会において日韓併合当時の裏面に功労ありし七人に対する表彰の件は京城日
報をして主催せしむるも可 菊池謙譲・大垣丈夫・菊地忠三郎・高義駿・李甲等をして発企せしむるも可 故武田範之の年忌等
の機会に之を行ふも可 講演旅行に関し御高配希望
83 大正一二年一月二三日 朝鮮内赤化対策に関し成業を得候に付き大綱丈なりとも執筆仕りたく存居候
84 大正一二年二月七日 本書は唯だ一通を作製して閣下に覧するのみと致し御参考に資する点も有之候はゞ総監閣下丸山局長
に丈け御回付相願たく希望
85 大正一二年二月一二日 昨日第六回の手術を行ひ当分休養代筆を以て御詫申述候
86 大正一二年二月一五日 退院通知を兼ね御礼
87 大正一二年二月二六日 李商在の民立大学への牽制計画として東方文華大学を利用致候事如何
88 大正一二年三月七日 支那側の満蒙利権回収の運動に連れて在満朝鮮人の跳梁一層甚だしきに至るべく之が対応策として浪
人利活の機関設置・鮮人自治団の結束力促進に着手の必要痛感
89 大正一二年三月一四日 東方文華大学設立の件・鄭鑑録頒付の件に関し御高見如何に候哉
90 大正一二年三月一八日 東方文華大学の件につき川村満鉄社長へも援助方申出居り問合はせの場合然るべく御応答の程奉万
祈候
91 大正一二年五月三日 (消印には六月三日の日付)今月中に家族全体を岡山県井原に移し小生のみは単独自由の境涯に在ら
しむるやう決意 官場に御用命有するを得ば微力を竭尽するの存念
92 大正一二年五月九日 大学教育の事業中止の手続きを執り申すべし 小生の誤算の為め前後四千円の御出費を相懸け申訳無
之候
93 大正(カ)一二(カ)年一一月二六日 講演事業報告 来年の講演続行については読売新聞社と交渉中 事業の意義を痛感し
来年も必ず遂行の心算
94 大正一二年 月 日 巡回講演に関し有吉総監より二百円下附 山之内鉄相との会見報告
95 大正一二年 月 日 巡回講演報告小生の講演を官吏又は情報部員の特派として御取扱願上
96 大正一二(カ)年 月 日 講演要旨報告
97 大正一二(カ)年 月 日 東方文華大学につき事業独歩の可能の状態に成長し得る六ヶ月の資費五千円援助依願
98 大正一二(カ)年 月 日 東方文華大学の件御援護の程悃願
99 大正一三年一月一八日 二十三日中に拝晤の機会御与へ相願たし 同日客年以来拝願の件に関し御決裁を賜はるを希望
100 大正一三年一月三〇日 松村秘書官より三百円拝受御礼
101 大正一三年一月三一日 (松村松盛秘書官宛)(前半欠)巡回講演の件について三百円拝受 受領証送付
102 大正一三年一月三一日 本日大毎本山社長を訪問し歴遊日程等打合たき存念 尚御序も有之候はゞ本山社長へ閣下より一筆
御下状を賜はらば此上の仕合はせなし
103 大正一三年一月三一日 閣下より本山社長まで御下状下され候由 御礼申上候
104 大正一三年二月六日 大阪府内講演報告(付)朝鮮問題講演会入場券
105 大正一三年二月一二日 八日夜の講演は先づ成功の方かと少々意外の感あり 本日より午前と午後二回づつ講演の筈にて大
阪気質を知れば知るほど熱力を加ふるの必要を痛感
106 大正一三年二月一五日 二十一日御帰任の趣新聞紙上にて拝見 講演のため或は御目に懸る事を得ざるやも知れず御賢諒願
上
107 大正一三年二月一七日 講演事業報告
108 大正一三年三月三〇日 講演に関し大毎内で幹部が小生が社長の殊遇を受くるは快らざるものの如く一昨日本山社長と会
見事情を具陳
109 大正一三年四月六日 四・五両日大毎本社にて打合の結果約一ヶ月九州各地巡遊決定
110 大正一三年七月一〇日 朴尚僖は本山社長と会見の上大毎にて採用決定の由 大毎との関係断絶後に備へ内務文部朝鮮銀行
東拓へ交渉 入手したる金額は大毎よりの前借・寄贈文書発送費に充当仕りたし鮮満叢書と大学講義録残本を各地学校青年団
に寄贈回読せしめたく既に千五百冊を寄贈完了
111 大正一三年一二月一三日 「朝鮮文学傑作集」御買上依頼 渋沢子爵へ閣下より一通出状依頼
112 大正一四年一月一五日 (前半欠)意見書並びに最近開始致候通信と本日一部分製本出来の朝鮮における講演集別便を以
て相送仕置候
113 大正一四年一月二〇日 御戒諭の数々心肝に徴し小生は宏量なる閣下の大腹中に入りて静かに冬眠仕るべく候 単り書面通
信のみは既に着手致し居るに付き材料の御給付を総督府に仰ぐか或は蒐集し得たる材料の御内覧を乞ふこと望み申候
114 大正一四年一月二三日 書面通信材料中是非閣下に相伺すべき一項あり 両三日中に拝候仕りたく存念
115 大正一四年四月一一日 友人小村俊三郎君三千円提供 近々二十五坪の家を新築
116 大正一四年五月二日 松浦淑郎君来訪 鶏林荘経営の困難について実状を述へ候に付き愚案一通り開陳 服部暢君に新たに此
種の計画あるやにて明日会見し卑見詳述の心算
117 大正一四年五月五日 小村氏宅寄寓の尹万重君御紹介 只今松浦君来訪 鶏林荘立直しに関し過日拝述の旨御採納依頼服部暢
君にも会見服部君を補佐して裏面より尽力致候事誓ひ置候
118 大正一四年七月三日 小生滞城費用稔出に付き逓信局の嘱託として給付を受くる事としては如何と思付き申候
119 大正一四年七月八日 令夫人と御同写の御写真恵与悃願 李王は本年末まで健康保たざるべしとの事に有之 李王職制廃止を
愚案罷在候
120 大正一四年七月一一日 鶏林荘の件に関し美和作次郎氏より同封書面来着御尊覧に供し申候
121 大正一四年七月一三日 李容九墓地に牛丸潤亮君と参詣 李容九の三字は毀損せられ周囲の石垣は殆んど倒壊せられ一種陰
惨の感 瑞竜寺浪人塚移転の議も日高丙子郎君を中心に進行
122 大正一四年九月一〇日 四十日間旅を続け四日帰京仕候 鶏林荘の件は松浦君明夜来訪の筈に御座候 本月末か来月初め渡鮮
の上年来の宿望たる李容九中心の著述に専心没頭仕りたく候
123 大正一四年九月一七日 李容九未亡人の生活費用は一時的よりも継続的生計の安全を図る授産的施設等望ましく存じ申候
代地移転等の決定は留保致候様切に奉熱望候 鶏林荘の件に付き松浦・平塚両君を呼び付け事情聴取小生は断然手を切る事に
申し渡し候
124 大正一四(カ)年一〇月一三日 岩間徳也氏の満蒙対策並に山川早水氏の植林意見具申のため別々に御引見奉願
125 大正一四年一〇月一五日 岩間・山川両氏御引見御礼 宣伝文頒布につき印刷の実費援助依願
126 大正一四年一一月一〇日 久津見蕨村集刊行会発企人中に御芳名を列するの依頼
127 大正一四年一二月一八日 (封筒は昭和五年四月三日)憲政会選挙費用の焦点が朝鮮の利権に注かるべきは自明の勢 副島
伯爵の「朝鮮統治の根本義」は伯爵の口述を丸山主筆が筆記したるものにして幹部全体の責任反対論旨は幼稚不徹底を極め
三浦理事官の如く姓名・婚姻其他一切の日本化が果して朝鮮及朝鮮人に合理なるや否やは重大問題にて無理解の内地延長主
義は百害あるも一理なし
128 大正一四(カ)年月一九日 近今留学生寄宿舎中止の様子に候が留学生の監督には十分其人を選むの要あり 茂原氏の如き
は好適任
129 大正一五(カ)年一月二五日 杉山氏の意見にては宋秉〓生存中ならば李と武田と両氏のみを眼目とするも宋も死去せる
以上合祠すべきものなりとの事に候
130 大正一五年一月二八日 逝去した加藤高明首相の後継として閣下進んで此の難局に挺身し玉はんことを千祈万祷
131 大正一五年二月一日 方洛画伯の寒梅大幅奉呈
132 大正一五年二月九日 家計を整理してやや半永久の素地を朝鮮に定めたき希望あり 御高教相賜はりたく候
133 大正一五(カ)年二月一二日 方洛画伯入城後画伯を主賓とする小会を閣下御名で行はるるを得ば光栄 御内願の件いづれ
も不可能なれば府内官有地処分箇所や李王家の土地も尠からず何卒御尽力の程奉願
134 大正一五(カ)年二月二二日 方洛画伯御引見御礼 東大門の東廟は迷信も手伝ひ払下希望者多く大紛糾を免れざる様子 尚
熊本利平氏名義にて払下を出願すべきかと愚考
135 大正一五年三月八日 四月中旬頃方洛画会開催希望閣下の帰城と同時に方洛・山川老の入城を乞ひたし 呉佩孚の赤賊討伐
やや進行に付き是等閑人物も何かの役に相立申すべき時機到来するやも図り難し
136 大正一五年三月一七日 例月の御下金恵送感謝 方洛画伯を主賓として内鮮諸名士会同を願ふ場合(中欠)等の諸氏御招を
賜はらば無上の仕合
137 大正一五年四月三〇日 朝鮮研究叢書既刊の分拝呈
138 大正一五年五月二日 撫順県水田の義に付き急遽東上 旭町草間局長官舎前空地を自由討究社に払下げ希望
139 大正一五年五月一〇日 著述朝鮮物語を本山彦一先生に送呈 大阪毎日紙上掲載を希望につき閣下より本山先生まで御助言
依頼
140 大正一五年五月一九日 原稿既に約五分の一脱稿致候得共京日は掲載を好まず 雑誌朝鮮又は警務彙報連載方如何かと存居
候
141 大正一五年五月二〇日 拙稿に関し昨日三矢局長にも愚見開陳も掲載困難との事に有之 東京又は大阪へ交渉 南米倉町地所
下付切望
142 大正一五年六月三〇日 撫順における山川早水老の朝鮮人との関係を示す崔生よりの来状御尊覧に供し申候
143 大正一五年七月一〇日 朝鮮物語を脚色し映画に撮り全国に上映の事業を希望
144 大正一五年七月一一日 細井肇「朝鮮物語著述の精神」
145 大正一五年七月一五日 武田範之和尚墓地の件につき内田良平氏らと協議 不日頭山・杉山・内田他連名で総督府に土地貸
下げの請願書拝呈
146 大正一五年七月一七日 御懇書の件は早速山川老人に相伝へ置申候 昨今内務文部両省に交渉朝鮮物語だけは何とか普及を
熱望
147 大正一五年八月一日 (封筒は大正十五年九月二日)昨夜柳氏と会見 本人復活の暁は必ず積極的活動に入らしめ申すべく
何卒御採納賜はりたく悃願に及び申候
148 大正一五年八月六日 閣下より浜口内相に対し内務省としても援助されたき旨御助言希望 今村靹氏につき東京市に適当な
椅子もあるべく丸山氏まで御助言希望
149 大正一五年八月一一日 内務文部省と交渉するも全国約二千五百校への配本は困難総督府よりの援助切望
150 大正一五年七月三日 小方壷斎輿地叢鈔閲覧の機会を得たく総督府で買入要望
151 大正一五年九月六日 漢江里土地に関する文書拝見 軍に於て地価騰貴の暁換地を行ふ意向ありとせば払下は不可能朝鮮物
語は組版に着手も内務省・文部省の援助が理想の五分の一に止まり計画縮小 土地収入を以て理想実現の胸算
152 大正一五年九月一六日 衷心よりの感激を以て閣下伝記の編纂を熱望
153 大正一五年一〇月八日 朝鮮研究叢書及び朝鮮物語大院君の巻買上げ依頼 閣下伝記執筆許可材料下付の程切望
154 大正一五年一一月二一日 秦学文君困窮の模様に付き閣下の御慈悲懇願 京城日報は丸山鶴吉氏に依って経営し副社長には
今村靹君起用進言
155 大正一五年一二月一六日 関妃の巻執筆の為め帰東の期を早め四五日中に出発 閣下御伝記材料は明春東京において御下付
を願ふを得ば幸甚
156 大正一五年一二月二二日 京城御出発の砺は御繁用中にも拘はらず御通知を拝し感激仕候
157 大正 年二月五日 朝鮮内赤化対策の提言に御一顧を賜はりたく候 李商在の民立大学の首脳者中の一二に今より鉄槌一下の
必要無之るべきか御一考を煩はしたく候
158 大正 年二月一五日 檀木の根本方針御開放方寧ろ利得と愚考 李容九墓地の件につき日高丙子郎君と相談
159 大正 年月一四日 朝鮮問題に関する私見御尊覧に供し申候 山本首相御手元まで同封の意見書相届き候様御高配希望
160 大正 年 月一五日 (中欠)御婚儀を一新紀元とする当面の対策に関し愚案を陳述御一読下されたし
161 大正 年 月二五日 不肖は近今政局の形勢に鑑み必らず閣下の大命拝受を促すべき機運の到来を確信 首班に立たせ玉はん
こと熱祷誠祈
162 大正(カ) 年 月二七日 大阪より同封の電報来着大谷ニヘイと申す者を設立者として会社を設立し教科書出版に膺りたき
旨申来り候 御高覧に供し申候
163 大正 年 月二七日 恒産を得る手段として朝鮮米販売を試みる事検討
164 大正 年 月三一日 入手すべき金員未着の為め金六百円御恩借拝願
165 大正 年 月 日 元山府尹今村靹統治意見を徴されたし
166 大正 年 月 日 第一輯刊行につき重ねて援護希望
167 昭和二年一月七日 木浦海岸埋立願書写し御内覧に供し候 本件御聴許を賜はるにおいては小生事業も適順に進行し毎月御
恩情の御下金を拝するに及ばず候 本年四月以後朝鮮全道に巡回出張講演を試みてもよろしくと存じ平井課長まで申送り置候
168 昭和二年二月九日 『朝鮮物語』英訳及び『女王の悩み』買上頒布拝願 以上二件につき朝鮮協会の活動を切望
169 昭和二年二月一九日 本月分御下金御礼
170 昭和二年二月二二日 安昌鎬・孫貞道両名吉林において逮捕せられたるやに灰聞 安を刑獄に下すより我れに有利なる或る
使命に服さしむる様進言
171 昭和二(カ)年三月二九日 閣下伝記につき朝鮮協会の事業として細井に執筆御下命を拝願
172 昭和二年四月三日 閣下御伝記編纂につき阿部充家氏と懇談決定 資料となるべきもの一括御付与依願
173 昭和二年四月七日 昨日青柳君来訪小生は閣下の御伝記を営利の目的とする事の非なるを説き結局手を引くことを青柳君
に明言
174 昭和三年九月一四日 木浦埋立の件につき飛島組の条件提示・当地有力者との商議など報告
175 昭和二(カ)年一〇月二七日 朝鮮の山河何となく懐かしく旬日後渡鮮仕りたしとも存居候 帝通は漸く富田幸次郎・竹村
良貞氏の確執半ば和解せられ候得共末輩の反目深刻
176 昭和二(カ)年一一月六日 昨五日朝鮮奨学会に臨み座談 また過般来「朝鮮及朝鮮民族」を翻読し之が駁論として朝鮮青
年の蒙を啓くの論著を決心
177 昭和二年一一月二〇日 「三国会議の真相」を海軍大臣出淵次官へ相当数買上げの意味にて援助の御言葉添希望 秦学文帰
国の旅費援助拝願小生執筆企図の「朝鮮青年に講ゆ」も朝鮮人たる柳君の名において発表せしむる方効果大なるにあらずや
と被存候
178 昭和二年一二月六日 丸山氏入閣の儀御採納拝願 アジア会館につき内田外相まで陳述仕りたく御紹介依頼
179 昭和二年一二月九日 辞表拝呈に対し御胸中を拝察し朝鮮の前途を想ふ熱涙傍沱を禁じ得ず候
180 昭和二年一二月一五日 朝鮮総督退任にあたり大正八年以来の御恩情御礼 木浦埋立の件に付き鄭晒朝は再び権利を主張し
始め候由
181 昭和二年一二月二二日 木浦埋立の件につき本日免許の御指令を拝する事に進捗 朝鮮問題に関しては山梨大将への民心不
平早くも示され憂心に堪へず
182 昭和二年一二月二六日 木浦埋立は未決着のまま後任者に引継がれたる由にて決済ずみの電報は何等かの誤謬
183 昭和三年二月一〇日 木浦埋渠に関し東亜土木取締役死亡 津田専務と交渉を繰り返す次第
184 昭和三年二月一六日 長野虎太郎未亡人への揮毫依頼
185 昭和三年二月一九日 太陽光線療法推奨 御写真御恵送御礼
186 昭和三年二月二五日 五万円出せば道知事になれる等の流言あり 山梨総督の人事に対し人心一層惶惑の状に有之候(付)
細井肇書翰 昭和三年二月十五日付 故下岡総監伝記資料御恵送願
187 昭和三年二月二七日 木浦埋立の件につき不相変鄭〓朝は前言を食んで所有権皇張致居候得共本府にては本日の官報を以
て免許の御恩命を拝し謹しんで御礼申上候
188 昭和三年四月七日 サイモンズ氏の論冊御恵送御礼 免許指令書再度本府より発送し始めて道にて許可
189 昭和三年六月一三日 木浦埋築の儀は飛鳥組主人実地視察と相成 両三日中主人自身出発 事業一両月後に卒業せば直ちに東
亜時局に関する著述公けに致したし
190 昭和三年六月二三日 故下岡総監の三ケ条の就任付帯希望申出の内容響教悃願
191 昭和三年七月四日 草稿に関し過日特に御教書を賜はり御礼 木浦の件は飛島氏視察帰京後能度一変 昨日提示の条件甚だ酷
なりとの第三者の評あり (付)岡政治「木浦埋立に関する協議事項組長より聞取書」
192 昭和三年6月一日 木浦の件は其の後地元の空気緩和せられ別紙の如く有利に展開仕候得共飛島氏は依然十五万円提供を小
生に求めて休まず閉口(付)「木浦港埋立築港に関する最近の経過概要」
193 昭和三年一一月四日 木浦埋渠の件につき菱川組の工事請負書を本府に急送一覧を求め置申候
194 昭和三年一二月六日 木浦の件は多田栄吉氏の侠力に待つの外なし 同氏拝訪の砌は御助言相仰ぎたし
195 昭和三年一二月一三日 過日多田栄吉氏に会見し権利譲渡並に氏名変更書類を渡し一切を多田氏に一任 (付1)井上亀六
他十名書翰 昭和三年一二月付 東方問題巡回講演会案内 (付2)北崎房太郎・村田懋麿「細井肇氏の東方問題巡回講演につい
て」
196 昭和三年一二月一五日 木浦の件につき横井氏と会見再応飛島組に話し見ては如何との事に候
197 昭和三年一二月二三日 数回に亘り飛島氏と打衝も昨夜を以て全く絶望に終り大川平三郎氏か浅野組に再応話し見るの他
なく運を天に委ぬるの覚悟
198 昭和四年一月一〇日 東邦通信にて巡回講演にと存居候ところ同社は久原逓相などに援助を求める事判明し別に活動小生
友人犬飼時男御揮毫熱望
199 昭和四年二月六日 御紹介を拝したる長谷川氏とは懇談 大川社長と直接会見の段取りまで執運び候得共多忙の故にてその
ままと相成居候
200 昭和四年二月二三日 (国民外交協会書翰 奮闘の殊勲者宛)方今の危局に対し一方ならざる御心労感謝本協会より研究会
諸賢に呈したる書簡同封 (付1)国民外交協会書翰研究会員宛 昭和四年二月二三日付昨二十二日首相問責案通過 御尽力に感
謝の熱意を表すると共に一層の御自重を望む次第 (付
)国民外交協会書翰研究会員宛 昭和四年二月一八日付 不純なる動機に依る行動あるにおいては断じて許さず予め申入
201 昭和四年二月二四日 政友会は解散を断行せんとの形勢にて何卒此を阻止するやう閣下の御尽力願上 更に政局の中心に立
たせ玉はん事を切望
202 昭和四年四月二日 内閣の存続は国家の不祥事に御座候 枢府の態度は現内閣死活に関するものに有之 何卒閣下におかせら
れても田中内閣の不誠意に対し徹底的御弾劾相願たく候
203 昭和四年四月五日 済南事件についての田中首相の過失正に万死に当り申候 是非とも十日の枢府会議にて御反問相願たく
御悃願申上候 下中弥三郎小村俊三郎両氏も御力にすがるの他なしと申候
204 昭和四年六月三日 閣下の御勇断を賜はらば浜口床次氏を左右翼とし宇垣氏も又来り投ずべく実に鞏固有力なる内閣出現
し真に 昭和新政を断行するを得べきこと我等話頭に上り居申候
205 昭和四年六月二四日 木浦埋立に関し鈴木穆氏が殖銀有賀氏と交渉中につき側面より御声援依頼
206 昭和四年七月一三日 民政党内閣より懇請あれば朝鮮総督に御再任賜はりたし また政変毎の更迭は政務総監に止めて御在
任を希望
207 昭和四年八月一九日 (「斎藤閣下に上るの書」)総督御再任にあたり朝鮮浮浪の徒をして字典編纂・編史事業など所を
得させ玉ふこと進言「ムダを省け」の新標語を掲ぐると共に国産奨励必要大院君伝拝呈
208 昭和四年八月二三日 鈴木穆・深尾道恕両氏先頃木浦の件に関し尽力致しくれ候得共事業に無理あり投資家も手を退ける
有様御高配相仰ぎたく希望
209 昭和四年八月三〇日 今春商科大学本科尹万重君ハルピン領事又は領事館勤務を切望御高配相仰ぎたく奉伏願候
210 昭和四年八月日 村井政善著和洋料理大系購読申込依頼
211 昭和四年九月五日 鮮人登用の門戸解放として石鎮衡氏最適任 官民みな児玉総監の更任を待望
212 昭和四年一〇月七日 木浦の件等にて渡鮮 何卒御援引の程奉伏祷候
213 昭和四年一〇月二八日 木浦の事業につき投資家の件など鈴木氏と協議経過報告
214 昭和四年一一月二日 木浦の件も最後解決の日追々近寄り候様子にて解決の上は約一年間を閣下の御伝記編纂と朝鮮物語
第二巻執筆に専心
215 昭和四年一一月六日 鈴木三郎助氏訪問の節深尾君の意見に依ると貴下に株を頒つ事は不可との話あり群山に熊本利平氏
を訪問し序を以て予め埋立権譲渡書類への捺印を懇請致候 (付)大家七平に関する調書
216 昭和四年一一月一二日 御伝記の件御認許を得ず失望仕候 木浦の件は鈴木穆氏の一本槍にて進むに決し本日会見
217 昭和四年一二月二日 大橋漱一瓶別便にて拝送
218 昭和四(カ)年一二月四日 本日鈴木氏土木課長と御相談のところ旅費など御貸付の由 多分明夜あたり出発 土木課長に御
都合相伺致候やう藤村に打電
219 昭和四年一二月一六日 鈴木氏の談話要領を譲渡書類写しと併せて御尊覧に供し申候
220 昭和四年一二月二〇日 鈴木穆氏陳情の件につき御出発までに一度拝訪希望
221 昭和五年一月一六日 光州問題に端を発する騒暴の鎮圧・朝鮮の長計大策確立のため丸山鶴吉の総監起用進言
222 昭和五年一月二二日 木浦の件は熊本利平氏に代り福田有造氏を以て一切を地元に提供し小生も関係を一断
223 昭和五年二月四日 (封筒宛名松村松盛を消し総督閣下と記入)樺山資英氏を京城日報社長とする事について老子爵へは
丸山警視総監より申し上ぐる事に相談纏候が予め内意の程窺ひ知るを得ば好都合との事に付き一書拝呈
224 昭和五年三月八日 丸山総監樺山京日社長について御裁納を得ず遺憾 今村靹君に適所物色依頼朝鮮問題研究所開設のため
援助願
225 昭和五年五月七日 李容九に対し宮内省より御沙汰を拝し遺族に重ねての御高配相願はれまじく候哉
226 昭和五年六月一八日 尹万重君につき御寛恕の上再び御採用の恩命を拝したく悃願
227 昭和(カ)五年(カ)七月一九日 尹万重君今一回是非閣下の御宥恕を仰ぎたしとの申出あり 同人御引接依頼
228 昭和五年九月二六日 木浦埋立の件につき昨日津村重舎氏に会見 同氏渡鮮の際の御言葉添依頼 女王閔妃の巻出版援助依頼
229 昭和五年一一月一七日 過日著書の件に関し一金千円御恵贈を賜はり厚く御礼申上
230 昭和六年三月一八日 宇垣大将後継の場合所謂党輩の政党政治論が勃発せずと限らず 安達内相は之を制止せざるべく民政
党も分裂の危機せまれるやに観測致され候
231 昭和六年五月五日 元来児玉総監は断じて総監の器にあらず 何故に閣下が斯る人物を曲庇し玉ふやを怪ぶむ者すらあり朝
鮮当面の時勢問題尠からず 丸山氏野に在り御擢用相成りて治鮮の大業を御完成の事尤も為すべき事と確信
232 昭和六年六月一八日 御在任中は一方ならざる御恩情を恭ふし小生のみならず家族一同感銘罷在候
233 昭和六年八月二一日 三十年来の友人佐々井一晃君来訪 閣下に教化団体の御指導相仰ぐこととなれりとて大喜び致居候今
後の御厚情願上 (付)細井肇書翰 宇佐美勝夫他四名宛 八月二一日 付斎藤閣下御慰労会打合案内
234 昭和六年八月二七日 発企人諸賢へは御書面の趣を伝達
235 昭和六年九月一九日 去る十七日 月旦倶楽部にて議を凝らしたるもの同封 (付)「対支根本策の提唱」(参謀本部影佐少
佐らの講演録)
236 昭和六年一一月二四日 細井肇「未曽有の危局に直面して政民両党諸賢に檄告す」(昭和六年十一月二十二日 於月旦倶楽
部)
237 昭和七年三月一一日 山田忍太郎氏は何日にても差支なし 電話の上御拝臨の程奉願上候
238 昭和七年五月三〇日 満州新国家の現状並びに将来に関し講演筆記の結論のみ概記
239 昭和七年六月一五日 興亜の大業編述・朝鮮物語第三部執筆を切望し御高配悃願
240 昭和七年七月一日 満州問題解決の為め満鉄総裁に樺山資英氏を統一機関の政務総監として丸山鶴吉氏を起用進言対支関
係好転の為め非公式に江口完条氏特派進言
241 昭和七年七月二五日 菊池謙譲氏次男昨日死亡 同氏上京延引の事と存候
242 昭和七年八月一八日 青年読本出版援助依頼
243 昭和七年八月二二日 満州国鉱土採掘に付ては煕沿其他の要人に紙幣を贈呈し更に溥儀氏の心服せる宮島大八先生に渡満
を乞ひ満州国鉱土の採掘経営を日本に委ねるべく勧説する所あれば容易に目的実現と確信
244 昭和七年九月三日 小著目次別便を以て拝送
245 昭和七年九月一九日 小著講談社にて拙稿検閲中にて丸山氏も同社にて出版方取計 李容九息李碩奎法政大学入学金窮迫に
付き学資援助依頼満蒙問題に尽瘁せる浪人に慰労の言葉下賜ないし金一封下付願上
246 昭和七年九月二五日 講談社より出版の著書への序文依頼
247 昭和七年一〇月一四日 山田氏御引見と其の主張意見御聴取切望小著「日本の決意」を教化団体等へ頒布の援助願
248 昭和七年一〇月二一日 小著二千部御買上げ御礼 ガス問題にて商工大臣のなせる違法行為を司法当局が獲まへ内閣の基礎
ゆらぐべしとの説あり丸山氏入閣の進言
249 昭和七年一〇月二二日 本日講談社に一千万円を交付に付き受領証御覧に供し申候
250 昭和七年一一月六日 現内閣の手にて亜細亜会館創設の意見具申
251 昭和七年一一月二八日 紫田堀切両氏にては断じて閣下の手足たる能はず丸山氏を閣内御擢用切望樺太東海岸を探険し海
苔と昆布を発見したる山口千代女史御引見依頼
252 昭和七年一二月五日 山口女史の事業に関し御奥様の御発唱による援議依頼
253 昭和七年一二月七日 山口女史より同封書面来着資金に手づまりがある様子に有之同事業の御援護依頼(付1)山口千代書
翰ヵ マンノン事業説明 (付2)マンノン製造予算 (付3)山口商事株式会社定款
254 昭和七年一二月九日 アジア会館の儀不同意の理由拝聴まで内田外相拝訪は中止 一両日中参趨
255 昭和八年二月四日 知友よりの秘信によれば満州全土今や匪賊化せんとするの状を報じ来り憂心にたえず
256 昭和八年二月一七日 満州国の治平を得るため支那特派大使派遣の御決行を切望
257 昭和八年三月七日 大石正已先生より斎藤首相に是非御目に懸りたいとの御言葉あり 願意御聴納伏願
258 昭和八年三月一四日 今の住居増築に約一千円を要し何とか御侠援奉願候 小生当面の奉公的一面は日本主義の宣揚に従へ
る学者評論家の大同団結・国際反共聯盟の二事を主とし明日の亜細亜執筆に志し居り候
259 昭和八年三月一五日 大石正已先生閣下との御会見に対し非常に感謝の言を表し尚其節申し忘れたこととして思想善導に
宗教家を利用すべくその際各本山を率ゐて全国に号令し得るは京都の木辺孝慈和尚の他に無きことを伝言
260 昭和八年四月七日 日華関係打開のため頭山・江口完条ら派遣を進言 政友会閣僚が去らんとならば今回こそ丸山氏の入閣
を切望
261 昭和八年四月九日 福原周平氏来訪大石先生発唱・千葉県主催の思想善導大会開催当日は首相による地方長官招待日に相
当するに非ずや岡田知事に千葉に向ひて差支なしとの御言葉を閣下に賜はりたしとの由に付き御聴納賜はりたし
262 昭和八年四月一一日 御引見相賜り候山口千代氏昨日来訪 藤原銀次郎氏に御目に懸りたく御紹介依頼
263 昭和八年四月一二日 三井三菱その他土木関係の財閥巨頭を支那に赴かしめ日華関係打開の道を講じたくそれには治水の
大業を協力して実行必要
264 昭和八年五月二〇日 大廟真景頒布会小幡俊中君紹介
265 昭和八年六月四日 株式取引所の国営を閣下の御手にて断行を進言 日本主義者の大会同を目的とする日本会館設立のため
援助依頼
266 昭和八年六月二九日 雑誌我等の日本刊行頒布の儀実現仕りたく閣下より服部金太郎氏へ援助出費方御懇話依頼
267 昭和八年八月七日 国谷豊次郎氏閣下の御高配に依り所論実現邁進仕りたしとの事につき紙中を以て拝願 (付)国谷豊次
郎「日本親善促進に関する一提案」 昭和八年八月付
268 昭和八年八月二日 粉末昆布について国谷氏の計らひにてケート氏と米大使会談 米大使の意向は同封国谷氏の書面写しの
通りに候 (付1)国谷豊次郎書翰写 細井肇宛 八月一〇日付 (付2)「米国大使との問答要領」
269 昭和八年九月一二日 日米外交につきいづれは杉山氏とフレザー氏と会見具体的プランに入る事と相成申すべく其節は御
尽力の程拝願 九月十八日を期し青年将校間に不穏行動企画の懸念
270 昭和八年一〇月一七日 服部暢氏遺族への侠助依頼
271 昭和八年二月三日 兼て菊池武徳氏より拝願の件につき中間御報告 月旦倶楽部を今回国策倶楽部と改称 此に全力を傾注の
所存
272 昭和八年一二月一四日 服部氏遺族の件御礼申上候 小幡虎太郎君他に一宮房次郎・清水銀蔵両氏遺族の件に関係致居候に
つき内に意をお洩し下さらば幸甚 植民通信社の件永井拓相より内状聴取閣下への御悃願は小生において撤回
273 昭和八年一二月二四日 御歳暮金壱百円御恵与御礼 内藤順太郎氏御引見依頼
274 昭和九年一月一五日 国策倶楽部援助拝願
275 昭和九年二月八日 江口完条氏に依るアジア会館設立計画に付き閣下の御助力依頼
276 昭和九年三月一五日 五・一五事件余類の対策・国士浪人対策・言論対策は是非とも閣下の御工夫相煩はしたし 満州国総
理鄭孝胥来朝に付き国策倶楽部にて歓迎宴催す事と相成援助を賜はりたし (付)満洲国総理歓迎の辞
277 昭和九年四月一〇日 丸山鶴吉氏入閣により浪人国士を抱容し同時に操觚界にも諒解を経て挙国一致実現を切望 服部遺族
につき小幡君より相談あり三百円位にても御恵投願上
278 昭和九年四月一二日 服部家・秦学文への金二百五十円御恵贈御礼
279 昭和九年四月一七日 平沼・荒木の対立は林陸相辞表提出・内閣総辞職の観測に伴い苟合の趨勢にありたるも陸相留任に
て戸惑ひの態との由 一時怪文書頒布せられ大半は宇垣総督を目の仇とする悪罵に終始し一半は直接行動を推奨せる文面
280 昭和九年四月二二日 服部家遺族より御礼状来着 川合良成が斎藤首相へ二万円提供したりと自白の噂 (付)服部周二書翰
細井肇宛 昭和九年四月一八日 付今回多大の御援助御礼
281 昭和九年四月二四日 服部君礼状尊覧に供し申候 (付)服部周二書翰 小幡虎太郎宛 昭和九年四月十九日付 父暢死去後困
窮罷在候処多大の御援助御礼申上候
282 昭和 年一月三日 小山法相の件は飛州木材問題にて面倒なる事態を惹起するにあらずやと存居候
283 昭和 年七月七日 九日御引見の儀御快諾鳴謝 金鉱記事掲載誌御届け仕候 かつて内密に日本除外の満蒙金鉱会社設立画策
の事実あり金鉱丈は確実に把握致置きたく切望
284 年一月二四日 過日願意御聴納を恭ふし厚く御礼申上候(中欠)
285 年一月二七日 山川老人より来翰の中呉佩孚より閣下に敬意を表したく特に呉天民君を奉天に差遣したる旨記入しある書
翰尊覧に供し申候
286 年二月三日 森川氏より漆種子到着侠を以つて奉呈
287 年三月三日 山田忠太郎氏の官窯する磁は全世界之を求めて得ざる絶品是非一度御一覧推奨
288 年三月一五日 講演につき兵庫県岡山県の感想批評を寄せたるもの一括御尊覧に供し申候
289 年三月一九日 本月分御下金御礼
290 年四月三日 李碩本主は宋家よりの送金杜絶の為め学業も中途に破棄し具然寿未亡人共々生計窮迫宋伯には李碩奎救援の
意思絶対になしとの趣 何とか総督府又は政府にて李容九遺族に生活援護を悃願
291 年四月二〇日 佐藤知恭氏渡支御侠援依頼 (付)佐藤知恭書翰 細井肇宛 四月一七日付 道を朝鮮に取り奉天に赴き北平南
京の行程のため一通の介函を斎藤総督に賜ひ且共に談るべき人士に二三通の薦函を給ふこと希望
292 年四月二〇日 福岡県下講演報告
293 年五月二日 巡回講演福岡県下の分入手のもの丈け報告に代へて御尊覧に供し申候
294 年六月五日 「鮮使始末」御内示御礼
295 年六月五日 「朝鮮の文化と生活」著者村田懋麿君御引見の上適所を与へること進書
296 年六月五日 (封筒は昭和二年一〇月二七日付)李容九を中心とする併合当時の裏面史伝執筆のため援助要望
297 年六月一一日 鶏林荘立て直しの事に膺る韓長錫君夫人同伴上京につき御引見依頼
298 昭和五年六月二四日 金三百円御恵送御礼
299 年七月一二日 御写真並びに御書御礼
300 年七月一九日 大水害避難民中宿舎を得ざる者の宿舎として空屋利用など進言
301 年一〇月二日 御揮毫御礼
302 年六月五日 本日榛葉課長に会見 鉄道局との間に折衡の結果一の成案を得たる趣にて説明拝聴
303 年一〇月二四日 予算面の示す如く全学期の終りには約四万円の純利と相成 不合理な事業には候はず篤志の実業家へ御下
命相願くれまじく候哉
304 年一〇月三一日 京城日々新聞経営難にて行づまりの様子 今村靹君を起用し継続刊行社会民生に貢献し得べき一機関たら
しむ任に当らしめたし (追伸)長野直彦君は朝鮮及朝鮮人の社長に決定 山副昇君は丸山鶴吉氏関係雑誌の朝鮮支局長にと交
渉中
305 年一二月一〇日 前信を以って御願の二件に関し校長の書面整理出来 清水鍵吉氏の履歴書調製に付き同封
306 年一二月二五日 警保局の巡回講演援助額が毎月百五十円との内示のため総督府において三十五円支給依頼
307 年 月七日 石鎮衡の手にて日鮮青年連盟を結成する強ち不可能に候はずと愚案
308 年 月一〇日 歳末年始の閑を利用し半島視察を思いつき 若し危険の虞なくば間島辺まで国境の朝鮮人についても一観察を
加へたき存念に御座候
309 年 月一三日 全国遊説の件は朝鮮総督府・文部省・内務省の三官庁にて嘱托名御付与を願ひ費用も三官庁にて御負担希望
310 年 月一八日 (断簡ヵ)九州巡回講演報告
311 年 月一九日 講演場に内鮮課の刑事二三名毎回臨席 御序に御内訓奉願候
312 年 月二一日 講演事業につき同封の記事の為め福岡山口二県は仮りに該記事が訂正されたりとするも心象悪しく今後京阪
神東京近県に全力を傾注
313 年 月二三日 熊本利平氏は利権を漁らんとするものにあらず内鮮結合の事業を補佐促進したしとの侠気より出発致候 李世
信・李益謙両氏の中村組の件の陳情書同封
314 年 月 日 菊池謙譲氏の大陸通信社閉鎖は是非実現希望 菊池氏に対し大陸社と絶縁後の生活安定方法を講ぜられたく悃願
雑誌「朝鮮」の民間一任・情報部廃止・毎日申報廃刊等言論政策更新の必要
315 年 月 日 長野君は才気煥発木浦に置くは惜しき人材と存居候 小生研究を遂げんと欲するは気候と地理の朝鮮人の心性に
及ぼせる関係 特に迷信の解説を望み居候
316 年 月 日 自由討究社の事業に付き馬越恭平氏と会見 朝鮮紡織会社の権益勘定に終始しさる余力なしとの馬越氏の返事に
小生其侭辞去
317 年 月 日 馬越恭平氏会見を避くるものの如く閣下より「細井に会見しやれ」と一通御書面御出状を希望
318 年 月 日 小生の亜細亜文化連盟本部にて原稿買入を装ひ崔南善氏の窮迫を救ふては如何と存候得共之は閣下の下命を待つ
て行動 小生講演小冊子と相成候上は宣伝用各道へ配本仕りたく援助依頼
319 年 月 日 宣伝文は諺文訳出来に付き邦文の分既に印刷に着手 矢張り小冊子として調製仕りたくゲラ摺のままなから封入
供覧 宣伝部の常設に関しては明朝鳳眉の上書上 新聞対策私案をも同封
320 年 月 日 十月以降の活動の天地を国境一帯に求め外務省状報局伊集院大使の賛同を得べく意見書提出
321 年 月 日 木浦新聞新年号に閣下の題字又は御高見掲載依頼
322 年 月 日 昨日御願の題字につき木浦新聞は木浦新報が正しく候
323 年 月 日 友田陽国君御紹介
324 年 月 日 小著拝呈 御受納奉願候
325 年 月 日 鄭重なる御見舞を下し賜はり厚く御礼申上候
326 年 月 日 金弐百円御交附御礼
327 年 月 日 送金御礼
328 年 月 日 御内示の金員毎月御恵与を賜はらば夫れにて読書執筆を続け得る次第に候へば何卒御高配願上
一三五三、 細川潤次郎
1 明治三〇年一二月二一日 英国海陸軍絵入雑誌三冊献上供覧
一三五四、 細野六郎
1 昭和七年九月三日 非常時に当り半福米常食を目下運動中 政府より日本医師会に命令下さらば成功致すべし 九月七日試食会
開催 政府払下米より実行のこと(付1)細野六郎書翰 日本医師会長北島多一宛昭和七年九月三日 付国民の所有する金を政府
に集め金貨の準備を充分にする事国防の目的に飛行機或は其の他の軍事品を献納する事 我国民は半揚米を常食とするやう努
力する事(付2)新聞切抜「細野氏の第二時局匡救」
2 昭和九年八月二九日 当地産の鮎献上致したく漁師仲間に命じ置き候 持参仕るべき処多忙につき新宿駅留に御送り申上候
3 昭和九年九月二日 本日当地産の鮎愚妻に托し持参 蚕村の状態につき時期を見て言上致したし
4 昭和九年九月一四日 一昨日十二日御体面の栄に浴し教化運動の書籍を賜はり感激 翌十三日頭山満先生と面会別紙の通り武
道会を建設 (付)「武道場建設趣意書」 昭和九年九月付
一三五五、 細谷資氏
1 明治年四月二日 アームストロング社射的場に於て実行致し候成績表進呈
2 明治年一一月五日 Armourer's Instruction 1855 一冊送付
3 明治年一二月七日 御申越の書籍送附に付き米国ナイアガラ滝の写真一葉御送附希望 米国製コカ火薬成績表御送附願ひたし
一三五六、 穂積陳重
1 明治年四月一四日 海軍法官に付き先頃清水市太郎氏に面会 自分にても就職致したき様の希望を漏し候
2 大正一〇(カ)年一二月五日 朝鮮名産の人蔘恵賜御礼
3 大正一二年一〇月六日 二男律之助錦地へ罷出の節寵招の光栄を辱し真六郎夫妻まで陪宴の恩に浴したることへの御礼
4 大正一四年七月三〇日 老妻より御揮毫を願出候所御下賜の御礼
5 大正一五年一月一四日 朝鮮古版四書五経四函恵贈御礼
6 大正一五年一月二〇日 朝鮮古版四書五経過日拝受 御恵贈の分も到着 御厚意の趣相伝へ候所老人も御礼状差出べしと申居候
7 年二月六日 岸和島の産物エソの焼蒲鉾拝呈
8 年三月四日 過般御話有之候東国通鑑の恵贈御礼
一三五七、 洞岡三之丞
1 年一二月二六日 今般斎藤文弥様御下りに付き衣類并御菓子色々有難拝受 私義日増全快御安神願上
一三五八、 堀吉彦
1 昭和二年三月二七日 小生無事帰任 此度は町重なる御招待を賜り衷心より拝謝
一三五九、 堀進
1 昭和一二年二月二七日 (斉宛)御法要御営みに際して御品御恵贈御礼
一三六〇、 堀内文次郎
1 大正元年一〇月二四日 御昇進奉賀
一三六一、 堀尾茂助
1 昭和三年一〇月六日 久々一度拝謁に参邸致したく御都合御伺
一三六二、 堀川重治
1 大正一四年七月二七日 羅南中学校校舎建築の用地取得につき円満進捗仕候様悃願
一三六三、 本郷房太郎
1 昭和二年一一月三〇日 大日本武徳会につき京城に朝鮮本部を各道に支部を設置し統一の事への御高配懇願
2 昭和四年一〇月二七日 貴地へ罷越候砌の御高配御礼
一三六四、 本宿宅命
1 明治一八年四月二五日 参謀部員の進歩遅々せり 埃及戦記恵送御礼 日清韓交渉の件種々の風評ありしも遂に平和に帰したり
清国に軽悔を受けざる様海軍拡張を怠らざるべしと確信
2 明治一八年一一月二九日 将官会議・兵官会議・造船会議を開く規則は出来たれども議員一人も命ぜられず貴兄を欧州に派
遣すれはよかりしかと部長の心中に考ふるやと拝察
3 明治一九年六月三〇日 貴兄の欧州転任は仁礼部長も追々同意せらるへし 縦令欧州転任六ヶ敷も帰路欧州旅行等は容易なる
ものと考ふ 西郷大臣一行出発決定 米国を始とする故待受御尽力下されたし
4 年八月一七日 御申越の公使館附心得の事次長も同意故多分御捌け申すべし 出張中公使館附心得の辞令書を渡す事に致した
し 旅費の件は会計吏員の迂遠且スローなるに当惑 明日出省し鞭撻を加へ送付
5 年 月 日 日当と旅舎料との精算書は不要 日当は出張者の滞留日数に応し渡すへきもの又旅舎賄料は出張在勤に関せず相渡す
べきもの故実費の精算を要せず 内地の日当とは少しく差違あり
6 年 月 日 書籍代二円貴兄の御要用のものあらば買入て送ること如何
一三六五、 本庄繁
1 年一月七日 帰奉後御高話の一端相語候処作森感謝の意を表し別翰敬呈 閣下御話の列国に対する声明の如きは作霖を落着か
しむる方案と被存申候 江岸警備の件につき重なるものに話し申置候
一三六六、 本田常吉
1 昭和一〇年一二月一〇日 (封筒に朝鮮起業株式会社埋立地に関する件と添書した貴族院議員鈴木捻兵衛の名刺添付)「釜
山鎮埋築地無償譲渡の件申請」(釜内発第二九五二号)(付)朝鮮起業株式会社への追加命令書 大正元年一〇月七日付
一三六七、 前川善吉
1 年一月一日 十一月廿一日満鉄に辞表提出 橋立新聞社・和泉電気株式会社より取締役就任の交渉を受け居るも小生としては
総督官房勤務か私設鉄道会社の相当なる地位に御推薦下されたく願上
2 年八月二日 附属地行政権の所属・公費・納税と代表の三項目に亘り調査研究のため内地出張と決定
3 年一〇月一三日 閣下の現職辞任元帥府入りの噂あり 事情如何に候や内々貴意を得たし
一三六八、 前田利定
1 大正 年七月一〇日 関西実業界の新人新井栄吉氏御地にて無線電話に付き出願中の由御引見願上
一三六九、 前田昇
1 昭和二年一二月二三日 閣下退官邦家の為め誠に遺憾 (付)前田昇書翰 斎藤実宛 一二月二三日付 仏教団事務にて渋沢子爵
に対し御懇書を賜はりその後子爵に面会 内鮮懇話会に対する諸般の報告並に感謝を併せて本団に対する一層の理解を要請 同
子爵より種々の御口添へ下さり万事頗る好都合に相運び帰鮮
一三七〇、 前田彦一
1 昭和六年一月二〇日 貴電を拝し御礼
2 昭和九年九月一日 国光観音像の為め御染筆御礼 (付)国光観音御霊像説明書
一三七一、 前田正名
1 明治四〇年七月二七日 朝鮮の拝借地の件御添助願ひたし
一三七二、 真木長義
1 明治四二年六月一三日 (松平正直・千家尊福・船越衛と連名)華族懲戒委員選挙候補者の儀は小沢武雄・細川潤次郎・前
島密・久保田譲の四名を選挙致したく御同意願上
一三七三、 牧野忠篤
1 年五月一七日 来三十一日子爵選挙管理者選挙会挙行 就ては子爵在東京首席者として司会依頼 右選挙に関する決議・執行書
類に捺印願上
一三七四、 牧野伸顕
1 明治四三年一月二〇日 繁忙中特に御配慮下さり書類取纏め送附御礼
2 大正四年五月一六日 書類山之内一次君へ御許を得ず廻覧 同君より御手許に返却
3 大正五年三月一八日 御来書の趣早速秋月へ申通置候 同人より直接一報申上ぐ事と存候
4 大正六年六月二三日 財部中将より御願の件幸ひ御許仕合の至 スコットは本国にても政府筋其他有力者の後援あり目的は帝
国にも利益あるに付き御引見下されたし
5 大正一〇年一一月九日 煙草二千本・苹果一篭・栗一篭天皇へ華果一篭・栗一篭皇后へ献納被致候に付き御前に差上(付)
牧野伸顕電話内容斎藤実宛 大正一〇年一一月二五日 本日皇太子摂政就任の詔書発表
6 大正一二年一〇月二二日 世子殿下永久的御帰韓は一部為にする輩乗すべき機会を作り統治上に影響致すべく又世子・妃両
殿下御生活上にも大関係あり出来る丈け避けたし 内聞致す処両殿下共御帰韓は御厭嫌の趣に付問題に相成らさる様致したし
7 大正一四年四月一七日 子爵昇爵への祝詞
8 大正一四年六月三日 先般御願の儀事情御聞取御都合の趣来示に預り感謝 時機及手続に付ては関屋次官より御通知
9 大正一四年七月一八日 Japan Advertiser 紙上 Santaro の名の下一擱々々を埋め居る秋元俊吉氏御引見下されたし
10 昭和八年五月二三日 粗餐差上たく御光臨願上
11 年四月九日 陸戦隊引揚の件御通知御札
12 年五月二六日 李王職高事務官より世嗣殿下の成長及養育に付き詳細聞知 閣下には御聞知下されば此度の問題に参照すへ
き事柄と思考
13 年一一月二三日 吉田奉天総領事来訪し満州土地問題に付き陳述 閣下に拝晤委曲御聞取希望につき御引見願上
14 年一二月二二日 封入名刺の人物御引見願上
一三七五、 牧山耕蔵
1 大正一二(カ)年 月 日 (石森電報写 牧山耕蔵宛)這時の政局転換に対し政友会は遮二無二乗取主義に出つること牧野子の
推薦人物は山本伯・斎藤男
2 昭和四年八月二三日 小西恭介氏事実無根の中傷により辞表提出 何とか復活致させたく書中懇願
3 昭和五年二月二二日 衆議院議員当選挨拶
4 昭和五年六月四日 曽祖父牧山忠平贈位記念碑建立 来る六月八日除幕式に付き長崎県壱岐郡香椎村小生宛に祝電賜はりたし
(付)斎藤実祝電文案
5 昭和七年一月二五日 今回立憲民政党公認候補者として六たび衆議院議員総選挙に臨む事と相成(付1)牧山耕蔵公認推薦書
(若槻礼次郎他一〇名連名 昭和七年一月)(付2)牧山耕蔵推薦書(山川端夫他五名連名 昭和七年一月)(付3)牧山耕蔵推
薦書(林田金次郎・山口均四郎連名 昭和七年一月)(付4)牧山耕蔵名刺(付5)「マキヤマ」短冊
6 昭和九年六月二五日 政友会の政局観を質したく党同異閥の外に在る長老望月圭介君と本日秘密会見 要旨を取急ぎ手記し御
高覧に供し申候
7 昭和九年六月二九日 岡田啓介・南次郎大将を訪問 両氏の得たる情報によれば大命再降下の外なしとの観測 大命再降下と組
閣の間に余地を与へず間髪を入れざる組閣にて民心に安堵を与ふることを切望
8 昭和九(カ)年六月三〇日 別紙極秘を以て尊覧に供し奉候 何かの御参考ともなれば幸甚
9 昭和九年七月一日 望月圭介氏及南・岡田両大将の政局観極秘を以て高覧に供し候 (付)「岡田啓介大将との会見談」
10 昭和九年七月二日 民政党幹部も一致せる候補として八木逸郎勅選願上
11 昭和九年七月三日 大命再降下の場合は拝受せられんことを望む 民政党は一致結束して支持することを保証 閣僚人事意見
無任所大臣並国策審議会(親任待遇)等を設置し貴衆両院の有力者を網羅すること
12 昭和九(カ)年七月六日 岡田大将の密使として山本条太郎・望月圭介氏に政友会との斡旋を求め訪問 今夜政友会幹部会
にて総裁一任の形式をとり互譲妥協に依り成案を得て明朝鈴木総裁・岡田大将両氏正式会見となり従来の行詰りは打開さる
ると確信
13 昭和九年七月一〇日 「望月圭介氏との会見談」(K・M)(付1)「堀切善兵衛氏との会見談」(付2)「床次逓相との会
見談」
14 昭和九年七月一一日 「政府対政友会関係につき島田俊雄君との第二回会見記」(牧山耕蔵手記)
15 昭和九年七月一二日 「政府対政友会関係に就き島田俊雄君との会見顛末記」(牧山耕蔵手記)
16 昭和九年七月一三日 「政府対政友会の疎通に関し山本条太郎氏との会見記」(牧山耕蔵手記)
17 昭和九年七月一四日 「藤井蔵相の健康問題」(M)(牧山による付箋)この件に就いては先日岡田首相へ研究方を注意致
置候
18 昭和九年七月一五日 「安達国同総裁との会見記」(牧山耕蔵手記)(付1)「床次・町田両相の宮中席次に就て」(牧山
耕蔵) 昭和九年七月一六日 (付2)「政府対政友会関係につき島田俊雄君との第二回会見記」(牧山耕蔵手記)
19 昭和九年七月一六日 「政友会対策に関する意見書」(牧山耕蔵)
20 昭和九年七月一六日 「政友会の督軍久原房之助氏との会見記」(牧山耕蔵手記)
21 昭和 年 月 日 「黒田事件に関する観測」
一三七六、 馬越恭平
1 大正二年一一月二五日 近火の御見舞御礼
2 大正五年七月一五日 十三日 伯爵閣下御来訪の上微力に対し過分の御品頂戴恐縮 同日午後より当地へ旅行
3 大正五年八月三日 根津氏は新聞を根拠に札元川部利吉へ普化禅師掛物の代金相渡さず不得止小生弐万七千円にて引請 (付
1)差入申一札之事(川部利吉・山澄力蔵)大正五年八月三日付 (付2)普化禅師画幅代金領収証(川部利吉)大正五年七月
三一日付
4 大正六年八月九日 一日より軽井沢方面へ罷出おり一両日には帰京 御下命の海軍協会発企人に加入の儀は寺垣閣下に然るべ
く御取計願上
5 大正八年八月一三日 朝鮮総督御拝任祝詞
6 大正八年八月二四日 西瓜献呈
7 大正九年一〇月一九日 錦地罷出候節御巻頭を蒙り拝謝
8 大正一一年六月一五日 (斎藤吉十郎と連名)朝鮮紡織株式会社補助金の件本日十日付を以て御指令書御下附拝受
9 大正一一年九月二日 (斎藤吉十郎と連名)朝鮮紡織株式会社第九期決算に属する補給金の御指令書御下附の御礼
10 大正一二年二月五日 九州中国辺へ旅行に付き欠礼の御詑として粗品献呈
11 昭和六年一一月一六日 渋沢翁寛に十一日逝去 此度朝鮮に罷越の要点は釜山紡績会社の独歩の御礼・ビール会社永登浦工
場の建設延引の御詫・金剛山鉄道会社暫定社長引受の挨拶の三件
12 昭和六年一一月一七日 粗餐献呈の案内
13 年二月一八日 寺垣中将の御令息の儀は閣下の御依嘱に付き常務取締役高杉晋へ打合 目黒ビール会社へ電話致せしに付き
御面晤下されたし
14 年二月二二日 来る三月三日午後六時粗餐差上たし
15 年七月三日 鮮魚一台献呈
16 年一二月二八目 黒ビール弐ダース等贈呈
一三七七、 正木直彦
1 大正一五年四月一〇日 小場恒吉氏楽浪出土品整理事務打合の為め渡鮮 今後の整理に付き御指図依頼
一三七八、 増島六一郎
1 大正九年八月二八日 友人Mrs. H.B. Sarrod 朝鮮へ渡航に付き御配慮願上
2 昭和三年六月一五日 不戦条約文中「各自の人民の名に於て」の文句に対する一方的諒解の権威なき声明のみにて御批准奏
請を揮らざるは暴慢の極 此の如き原文が帝国憲法第十三条に違反し国体を毀損するや言を待たざるべし
3 年一〇月七日 御厚待御礼
一三七九、 増田一之
1 大正一三年三月八日 『運輸之日本』発刊に付き「祝発刊」との御揮毫を願ひたし
一三八〇、 益田孝
1 明治 年七月二五日 台湾黒岡少将・英国チャンバーレン卿の親友フランク・ハクサム氏同席の午餐へ御招待
2 明治 年一一月二四日 若し瓜生氏十日間休暇を賜り候義に候はゝ帰京の内命賜る事は出来申間敷哉
3 明治 年一二月三日 天津の聯合軍使用綿糸の義に付き御懇示御礼
4 年四月二三日 晩餐招待
5 年六月一六日 忠勇顕彰会に付ては三井に於ても賛成
一三八一、 増田雅太郎
1 昭和七年一〇月一一日 鶴松君慰霊の意味にて閣下が青少年時代の事を追懐されん事を希望
一三八二、 桝富照子
1 昭和一〇年一月一九日 御書御送り頂き御礼
一三八三、 枡富安左衛門
1 昭和九年一月三日 我半島に小作令制定との由に就き閣下に御面接の上愚見申上げ御考慮願上たき所存 別便にて絹地を送付
昭和九年新年の感想を御揮毫願上
一三八四、 増本光
1 昭和九年一月一日 年賀状
一三八五、 町田経宇
1 昭和七年五月二三日 大命拝受への祝詞
2 昭和九年六月七日 東郷元帥死去痛惜の余り別紙一文を起草封入 御一覧の栄賜りたし
3 昭和 年五月一五日 海軍力問題につき別紙の通り卑見開陳 御照覧願上
一三八六、 町野武馬
1 大正八年一〇月一九日 御地出張の際の御配慮御礼
2 大正九年六月一五日 錦地出張の際の御厚情御礼
3 年一〇月三〇日 満蒙事情に通暁致し居る石橋貞男君紹介 御引見願上
一三八七、 松井茂
1 昭和二年九月二八日 御帰朝祝詞
2 昭和二年一二月二一日 朝鮮総督御勇退に際し小生旧部下御信任を辱くし厚く御礼憲兵制度を警察制度に復活したことは喜
悦の至り
3 昭和四年一月二二日 財団法人設立登記申請の為め別紙に御捺印の上御送付煩はしたし
4 昭和四年七月二三日 中央教化団体連合会本年度事業中九州地方に於ける教化事業関係者懇談会並国力振興講演会は予定通
り開催
5 昭和四年八月二六日 来る九月一日 関東大震災第六週年に相当 中央教化団体連合会は東京府教化団体連合会と協鉄し各種事
業を展開
6 昭和四年九月一一日 中枢院劉猛君の意見も参考にされたし 朝鮮にも教化団体連合会設立計画の由何よりの事に存候国友尚
謙君御引見依頼
7 昭和六年六月七日 朝鮮青年問題は特に昨年の朝鮮座談会に於ても内鮮人間の与論につき宜しく御尽力依願 小生皇民会を引
受微力致居候
8 昭和六年六月一九日 総督御辞退の趣新聞紙上に於て拝誦 山梨氏の跡の就任は総督政治の信用恢復の為にて御迷惑と存たる
次第 在職中の御厚情御礼
9 昭和六年一〇月八日 田中文部大臣・大蔵大臣・一木氏に意思を申述 首相へは明日面談致したし 岡田理事・荒井監事も相当
運動
10 昭和六年一〇月三一日 中央教化団体連合会の事に就ては注意を払ひ居り何とか喰ひ止める事が出来得べきかと存居候
11 昭和七年五月一〇日 来十三日の調査会に御出席の節は調査委員の解嘱依頼の人々に付き別紙の如くしては如何にや御考置
下されたし
12 昭和七(カ)年五月二三日 内相に適当なる人物としては湯浅・床次・水野・三土・町田・俵・高橋・山本・川崎卓吉・有
吉丸山君の翰長は今更申上る迄もなし
13 昭和七年七月一七日 四男正の出来事につき小生も痛切に家庭と社会の関係の容易ならざる点に思い到り此際教化の上より
も常務理事辞職を御許容されたし
14 昭和七年一一月一七日 過般突然御伺致し長時間妨をなし御馳走迄頂戴の御礼 先般の御手紙拝誦将来共御指導相願候結構
なる品への御礼
15 昭和七年一二月一日 昨日は府下農村御巡視の趣 座談会の事もあり出席致したく存居候処土産披露の会合あり欠礼
16 昭和八年一月二二日 教化事業の刷新は共産党の事と相侯って愈重大と相成御指導の程依願 先般全国の社会主事会合の席
上中央教化団体連合会の近状を申述
17 昭和八年一月二八日 文部省より中央教化団体連合会へ公民教育講習会依頼により二月十三日より奈良県佐賀県へ出張途中
名古屋に於て社会教育委員会総会に出席予定 五明忠一郎君地方より依頼ありたる時には推挙致したし
18 昭和八年二月一〇日 明日より愛知・奈良・広嶋・佐賀に中央教化団体連合会として出席国民厚生運動に努力 仙台は禁酒
と貯金にて好成績を得申候
19 昭和八年二月一一日 連盟問題切迫の場合重臣会議の御高見と存候へとも尾崎行雄氏は広く各方面よりの合同を催させ国論
の統一を期す必要ありと小生に申述
20 昭和八年二月二四日 奈良県・佐賀県教化講習会各七十人位会合 名古屋市の教化委員会も千五百人出席 何れの場所も国民
更生の空気は漲り居り候
21 昭和八年六月二二日 教化のため静岡・鹿児島・大分・富山等へ出張 岡山県監査の失態は内相も御心痛と拝察 来月早々中
央教化団体連合会より福島県に参り四ヶ所で指導の筈
22 昭和八年八月一四日 関屋君と面談 中央教化団体連合会理事就任を承諾
23 昭和八年八月二八日 政党は種々勝手の手段を講する事の少からさる故内閣は内閣として政党の外に立ち独立して国策を樹
立し政党が之に反抗せば解散すべし
24 昭和八年九月二五日 拙著警察読本御披読願上
25 昭和八年九月二七日 宮内省に於ては教化に関する団体に対しての御沙汰もなき事故詔勅十年を紀念として考慮中中央教化
団体連合会の実情を十分に宮相に開陳すべし
26 昭和八年一二月二二日 叔父米寿の為の御染筆感激 中央教化団体連合会に年末に際し御手当頂戴について御礼
27 昭和八年一二月二七日 別紙の如く和歌山県及大阪府に於ては全国に呼掛け居候こと通知
28 昭和九年二月一〇日 中央教化団体連合会に対し地方より支出金の件照会 高知県の教化座談会・岡山県香川県での講習会
を盛会裡に開催 地方出張の節は警察官消防人に奨励し政党の弊害目下中止
29 昭和九年三月二八日 台湾より帰京 御面談御報告致したし
30 昭和九年四月一三日 司法警察官を司法省に独立して設くる事は内務省と統一を欠き能率を沮害するので中止を切望公娼廃
止問題・全国警察官の教養問題につき革新急務
31 昭和九年五月二二日 長官会議警察部長の会議を傍聴 鄙見は尊宅迄「自警」御送附申上候間御披読相願候
32 昭和九年五月二八日 山口県及広嶋県の教化懇談会に一週間斗り出張 宇部市で視察をなし十一日 教化振興会で講演の予定
学務部長御召集の節中央教化団体連合会の為に尽力方御口添依頼
33 昭和九年六月二一日 大日本報徳社及中央教化団体連合会主催の町村民有志の教化講習会結了 今日は中央教化団体連合会
の理事会開催明日より秋田県岩手県樺太の教化座談会及講習会に出席
34 昭和九年八月一八日 御殿場に於ける六日間の全国教化講習会を終了し十日午後帰京 今朝高野山に於ける近畿教化講習
会・奈良県の近畿教化懇談会に出立
35 昭和九年九月三日 頃日は古谷君御伺ひし中央教化団体連合会に就き御高見拝承 米川君にも御発状の趣万謝一両日中に面
談致したし 来二十二日久振りにて理事会開催
36 昭和九年九月二二日 近畿二府五県の講習会及近畿地方懇談会何れも熱心に挙行 広島県知事より日清戦争の時明治天皇行
幸以来今年は四十年に相当し遺頒の人心上に及ぼす影響を申し述べ閣下御来臨を乞ひ来り候
37 昭和九年一〇月一五日 教化奨励の為め態々九州出張の段万謝 満洲の機構問題に付き小生も大に苦慮 松尾為作(関東庁内
務部)外二人紹介御引見の上事情御聞取下されたし
38 昭和九年一一月九日 明日小笠原子爵等と精神作興運動の為め大阪及神戸に出立 火災警報機御一覧万謝
39 昭和九年一二月二二日 大崎健一氏及織田万博士の紹介にて同和会入会 佐藤氏は大崎倉知両氏の紹介にて入会松平頼寿伯
より中央教化団体連合会へ出金方依頼あり三土氏ついで伯と面談
40 昭和一〇年二月二一日 佐藤信太郎君二男掛川中学二年生病の為め目下休学中 同君より不取敢中央教化団体連合会参与并
に調査委員の辞表提出
41 昭和一〇年二月二三日 佐藤君令息の件は一木男も大に苦心中
42 昭和一〇年八月八日 池田君の件宜敷御考慮の程相願候
43 大正一〇年八月二八日 貴地訪問の際の御好遇御礼 民衆一般に総督政治の宣伝を試み多数の来会者あり 将来も鮮地事業に
誤解なき様生徒を訓育 総督政治の真相を紹介致したく存居候
44 昭和一〇年九月一四日 朝鮮の方は十月三日午前杜会事業協会発会式挙行 三井の方は島田理事に面談致したく審議会の席
上池田君へも御一言願ひたく存居候 兵庫県寄附金の儀は順境
45 昭和一〇年九月一五日 警察官講習所生朝鮮見学旅行の際の御配慮御礼
46 昭和一〇年一一月二七日 講演会無事終了 秋田県の三教化村より今朝帰京
47 昭和一一年一月一〇日 関屋・横田・香坂・横山等の各理事に相談 閣下に御面談の結果を申述候処牧野伯に願ふ事を希望
48 昭和一一年二月一二日 関屋貞三郎君より牧野伯へ内意承り候件は乍残念思ふ様に参らず 丸山加藤諸氏とも懇談の上後日
御伺候て御指揮相仰ぎたし
49 昭和一一年二月一八日 昨日講習終了者に対し奨励の御辞を賜はり御礼
50 年一〇月六日 過般申上の件に就て私案出来候につき一応御内覧に供し候 委細帰京の上申上げたし
一三八八、 松井民治郎
1 昭和一〇年二月九日 閣下御西巡の際平安南道庁に於ける宮川五郎三郎氏の演説言説激越に亘り不快の念催させ候事遺憾 寛
厚なる御諒解を切望
一三八九、 松井春生
1 昭和一〇年一一月一八日 雑子御恵投御礼
一三九〇、 松浦厚
1 昭和六年四月 日 亡父松浦詮伯年譜此程完成一部贈呈
一三九一、 松浦兼太郎
1 昭和八年七月一日 (大阪市一実業家「壮青年諸君に告ぐ」)宇垣一成次の政変に組閣を夢想し策動許すべきにあらず天皇
中心政治を守らねはならん
一三九一、 松浦鎮次郎
1 昭和六年七月二三日 京城帝国大学総長拝命の挨拶
一三九三、 松浦寅三郎
1 大正九年一〇月二一日 華果一篭・栗一篭雍仁親王・宣仁親王へ献上被致候に付き供御覧候条此段申進候也
一三九四、 松浦靖
1 大正一五年六月一六日 故李王国葬儀に関し勅使として小官貴地に差遣はされ候際の御高配御礼
一三九五、 松浦淑郎
1 大正一三年三月二四日 荘舎設計通り進捗 一般学生との間は漸く親密と相成 政治を離れて内省を要求する小生の主張が多少
認められ来りしものと思椎
2 大正一四年四月 日 鶏林荘儀今般東京府より委託を蒙り宿舎を建設し朝鮮人苦学生及労働者の救護に従事 朝鮮関係の新聞雑
誌を備付けたく御寄贈方依頼(松浦による付記)本文は朝鮮各新聞雑誌社に宛たるものにして予想外に申込あり 官房調査課
よりも頂戴仕居候
3 大正 年四月一〇日 高田方面の土地賃貸違約の件は子弟教育に弊害ある等と口舌を以て悪徳新聞記者団が跋扈せる内情永田
先生御下附の蒲団百組み分の運搬費雑費等予想外に要し調金に奔命 二年前就職せしめし鮮人来訪せるに逢ひ自己溢悦
4 大正 年四月二〇日 鶏林荘建設に関し内務省社会局より材木毛布交付と相成 朝鮮文庫・労働学校及授産場増設に着手
5 大正一二年一二月三日 鶏林荘荘舎建設の件につき知事閣下よりバラック材料下附 土地は警視庁内鮮係の御厚誼により本日
内定 建設費は内務省機密費より下附
6 年一〇月二二日 鶏林荘の経営方法を更改 生産機関の確立・宿泊収入の確立・職業紹介の解決・融和費の確立の為め各方面
の諒解を得るために渡鮮致したく旅費御援助願上
7 年一二月二〇日 現在の家屋を鶏林荘学舎とし貸与バラックを鶏林荘宿舎に充当決定 総督府出張所員小野某氏紹介により当
荘宿泊の金宗鎬横暴なる振舞あり目下荒療治中 近隣小学校より朝鮮民情の講話行脚を開始
一三九六、 松尾臣善
1 明治四〇年一〇月五日 (高橋是清と連名)来る七日三井集会所に御光臨下されたき旨案内せるも差障あり延引
一三九七、 松尾小三郎
1 大正一四年二月二七日 局子街より琿春に通する『吉東日報社』経営の自動車運転開始の由にて氷上利用の点大に注目此際
豆満江自由港の開設最大急務
2 大正一四年四月八日 日 支露各国人を会員とする協会としては運河の開鑿にも支那人の参加を希望 英米資本家が支那人を教
唆して反対せしむるやも計り難きに付き御認可を急ぎ五月より着手出来る様願ひたし
3 大正一四年一一月六日 豆満江運河開鑿に関し土木課に於て冬期中実地研究調査に付ては技術的並に経済的の研究を重ね且
つ支那側商人と折衝を試み来春早々運河利用の準備を致したく金三千円御援助願上
4 大正一四年一一月一六日 豆満江問題も次第に一般の注意を蒙り幸慶至極 穏城慶源間の鉄道を速成する為め図們鉄道延長し
琿春局子街の連絡を策する事目下最大急務
5 大正一五年二月四日 豆満江運河開鑿資金の件につき三菱・大倉組に説明 久原家に明日参上 何れの御意見も資本家の組合経
営とするが宜しかるべしと申され多大の御賛成 斯かる方面へ御勧誘の御紹介依頼
6 大正一五年七月二三日 豆満港運河問題に付き豆満港が地形地質港質の上に於て他の浦塩大連羅針其他に比し経済的優俊の
中心港たるべき点諒解致し下さりたし 総督府又は地方庁直営の下に運河丈け着手の事願上
7 大正一五年八月一八日 懸案の運河問題に付き門野重九郎と面談 同氏も閣下に御面謁希望 運河問題は藤原銀次郎氏と門野氏
を中心に進展すべく至急御認可願上
8 昭和五年五月二六日 同封の願書並陳情書成北知事経由提出につき御採用願上候 (付1)陳情書及び理由書(豆満江運河工
事費国庫補助の件)昭和五年五月二六日 (付2)工事延期願(豆満江運河工事完成期日に関する件)昭和五年五月二六日
9 昭和八年五月二日 東京実業組合連合会会長・日本実業組合連合会会長の星野錫氏を勅選議員候補者として御考慮願上
(付)松尾小三朗名刺
10 年 月 日 「失業救済対策産業振興対策」(豆満江協会松尾小三郎)
一三九八、 松尾鶴太郎
1 明治二七年一一月一六日 此度の事件の起るを聞き工事を取急ぐ様命令ありたる竜田の工事も力の及ぶ限り督促 海軍にて清
国の一地方に艦船修理の工場設置の風聞あり小生の同工場への派遣を志望
2 明治二七年一二月六日 工作部主幹に補せられ候 貴下の御引立に感謝
一三九九、 松岡均平
1 昭和一〇年二一月二七日 内大臣就任についての祝詞
一四〇〇、 松岡新一郎
1 年三月五日 私案書写一通差上申候 奈良陸軍中将出発の前日取急ぎ手記致し候もの
一四〇一、 松岡開
1 年二月一四日 紐育主計官に一刻も早く送金致さざれば如何なる結果に相成候か誠に心配 一時立替方御配慮懇願
2 年二月一七日 一時立替御内議御礼
一四〇二、 松岡真
1 大正(カ)九年七月一三日 朝鮮統治に付き吾人の責務は重大 閣下の御訓辞を賜りたく御教示の御言葉染筆下されたし
2 大正(カ)九年九月一六日 此度は不遜不快なる御願を御快諾 御鄭重なる御直送に預り感泣
一四〇三、 松岡正男
1 昭和二年五月二八日 京城ロータリー倶楽部創設委員会にてチャー夕ーメムバー十六名を推薦 京城日報・毎日申報とも順調
に発展発行部数増加のこと (付)A.B. Pilot 書翰 Baron Saito 宛 一九二四年八月一四日付 (英文)秋に朝鮮を訪問副島・斎
藤と会うことを楽しみにしている
2 昭和二年一〇月二〇日 本日副島社長より辞職思ひ止りたりとの電信に接し安心 京城日報の前途に対する卑見は別にあり帰
城を待ち言上可仕候
3 昭和二年一一月八日 昨夕御寵招の御礼 植民地に関する概著二冊献上 ロータリー倶楽部現在会員名簿同封
4 昭和二年一一月二五日 去る十月十三日 京城日報社長に自薦したる小生が廿三日ありがたき御思召に接しなから態度の煮切
らざる事情説明 当初の意志通り京日の経営に最善の努力を致すべきこと
5 昭和二年一二月三日 本日小生京城日報社長の恩命に浴したる事を拝承 社の使命のために力を致し御恩に添ふ覚悟次年度予
算・毎日申報改善につきては総督府当局と篤と御相談の上決定
6 昭和二年一二月一六日 本日午後三時副島伯邸訪問御申付の件伝達 山梨大将は半沢玉城氏を使者として副島伯を訪問せしめ
諒解を求められたり 丸山幹治氏より伯に対する当路者の風評を耳にせられ憤慨
7 昭和二年一二月二〇日 (電報)湯浅政務総監は本日官民を招き茶話会開催 辞表奉呈離別の辞を陳述
8 昭和二年一二月二三日 小生十七日夜山梨総督と梅田駅にて同車 十八日朝の連絡船にて下関発 同夜新総督は釜山に一泊 小生
はその夜釜山出発 翌朝帰城 池上新総監は人格者たるは承知 朝鮮のために誠に結構
9 昭和三年一月一四日 丸山幹治氏の京城日報社特別慰労金問題の概略説明 丸山君もかかる事柄を以て老台を煩はし奉るとは
誠に遺憾 朝鮮統治につき同封の論文作成し山梨総督に提出
10 昭和三年二月二六日 京城日報社の現況を報告 昭和三年度予算は毎日申報減紙の方針 人件費は副社長主筆の予算分を整理
大体において予算励行 社員志気横溢 毎月十日前後に月次報告差上申すべし
11 昭和三年二月二七日 廿四日 総督秘書より「プロ政友会」の記事掲載を依願されたりとの事を聞き辞表を懐に山梨総督を
訪問 注文は総督の意に非ずとの事実諒解 斯の如くしては統治の前途を暗示する事夥しと痛嘆 (付)昭和参年十月分収入予算
対実収高比較表・同支出予算対実支出高比較表
12 昭和三年三月一四日 本朝山梨総督訪問 池田殖産局長休職・安達土地改良部長更迭等松村君の人事に関する助言も割引さ
れつつあり 米人ロータリアンスの一人オブライエン総督と面会種々談話 (付)昭和参年二月分実収及予算対照表・同支出及
予算対照表
13 昭和三年三月二一日 京城日報社二月分実収及予算対照表御高覧に供し報告
14 昭和三年三月二九日 ロータリアン一部別封にて御送り申上候 京城ロータリー倶楽部設立につき老台の厚き御思召を掲載
15 昭和三年四月一三日 本杜三月分実収及予算対照表同封報告 去る十一日仁川入港米船乗客中四人のロータリアンあり京城
ロータリークラブの午餐に招待
16 昭和三年六月二〇日 本社五月分実収及予算対照表同封報告 噂によれば老台には来月御来鮮との由事実に御座候ふべきや
伺 (付)昭和参年五月分実収及予算対照表・同支出及予算対照表
17 昭和三年六月二三日 セウルプレッスの報導により在鮮外国人を彼等の本国人に対し情報機関として利用するを得べしと考
へられ存在の必要大に有之ものと愚考
18 昭和三年七月三一日 京城日報社本年度上半期決算報告同封 幸に若干の利益を計上 その内に負債を脱却する事難事に非ざ
るべし 大正十年度以降未収金を欠損処分に附し申候
19 昭和三年九月二五日 本月十月一日 より四日間東京に開かるる太平洋ロータリー大会には小生出席 一日も早く親しく拝眉
の栄を得たし京城日報社八月分実収及予算対照表御高覧に供し申候 (付)昭和参年八月実収及予算対照表・同支出及予算対
照表
20 昭和三年一二月三日 京城日報社長就任仕り候てより一年 負債は四万三千四百十円八十八銭を減少 老台の御厚情の段厚く
御礼
21 昭和四年二月一八日 本社昭和三年度営業報告鮫島支配人より申上候ところ御ほめの御ことばを賜り恐縮 積極的進出の陣
容整はず守勢を持するの外なし
22 昭和四年四月二一日 拓殖務省問題その他を伺ひ申上たく奉存候ところ機を逸し残念 鮮人有力者(主として同民会及国民
協会)間にセンセーションを捲き起しつつあるは事実 二千五百万新附民のため拓殖省の設置有意義
23 昭和四年六月二二日 池上総監逝かれて後任の決定せず民心不安のところ本日新総監親任式を挙げ御芽出たき次第児玉伯御
引受けこれまた大に安心 京城日報今年上半期の成績大体目途相つき申候
24 昭和四年八月九日 本日午後七時半山梨総督の御仰に従ひ参邸のところ辞職の決心を物語られ十五日帰京の由 後任者は首
相級の人物望ましく現内閣も老台の御指導を待つ事多かるべし
25 昭和四年八月一四日 (副島道正宛)朝鮮統治に関する外人の批判御送り下さり拝謝 難有拝読御返送申上候間御落手下さ
れたく願上
26 昭和五年二月二〇日 山口君遺子本日より校正部に入社 毎申副社長に朴錫胤君就任以来例の流言蜚語並に社内の動揺収ま
らず候へども結局の帰着点は決定
27 昭和五年四月一〇日 槿花事件に関係と称せられたる小島清友氏調査の結果京城日報との関係を断絶拓相推薦の高森君につ
いては両三日後改めて相談
28 昭和五年七月三日 御来旨の趣き拝承 水原の写真夕刻までに御送り可申上候
29 昭和六年二月一七日 山下源太郎大将病勢急変後の様子報告 忠南道庁移転問題に関し政党政治家の腐敗堕落を憤慨
30 昭和六年五月三日 児玉伯より副島伯に御手紙御差出しの儀は警務局長の同意を得て総監の御手許に差出し置き候念の為右
案文奉供高覧候 (付)案文ヵ 御依願の佐藤東京支社長の件につき松岡と談合 主幹又は副社長は設置せざる方針に付き不取敢
支社長として優遇
31 昭和六年七月一六日 七月三日に端を仁川に発せる鮮支人の衝突は誠に残念 当局御苦心の事と恐察 本社半期の仮決算は京
城日報社創立以来の額に達し全社員に感謝
32 昭和六年八月二七日 宇垣総督より面会申込あり この際勇退を希望後任に池田秀雄君を推挙し昨日内務大臣の承認を得た
る次第と懇談 池田君着任の上辞去の次第にて京城日報社在職満四ヶ年十ヶ月の御礼申述
33 昭和七年五月二三日 この度大命拝受の由 切に御自愛奉祈上候 愚見は昨日丸山・松村両氏へ手紙差上置候
34 昭和七年六月一一日 政友会の平価切下は暴論に付き社説にて反対する事に決定 満洲移民問題は嘗て台湾総督府の東部台
湾内地人官営集団移民同様失敗に終るべきは明瞭 満洲国建設に対し一部国民間には陸軍々閥の運動の如く解せられ遺憾に付
き国民士気の動員が今日急務
35 昭和七年七月二五日 組閣完了慶祝の至り御自愛奉祈上候
36 昭和一〇年一〇月一四日 廿一二の両日滞京の予定に有之 久方振りに拝趨仕りたく御都合伺
37 昭和一〇年一一月二六日 時事新報社取締役会長就任の挨拶
38 年二月一二日 鮫島君は本日づけにて依願解職 これにて京城日報の関する限り今回の事件は落着 留守中は桑原主筆小生代
理として執務仕るべく社内の動揺なし
39 年三月二四日 ロータリアン誌に閣下京城ロータリークラブに御臨席の御写真掲載 御覧に入れ申上候
40 年四月三日 御揮毫御礼
41 年一一月一四日 副島社長より来信にて総督招待会において権藤が上席に据り丸山主筆を招待せざりしにつき云々とあり
小生より当日の事情を説明報告せば万事氷解
一四〇四、 松岡康毅
1 大正一〇年一二月三日 御品贈恵御礼
2 年三月二五日 池田藤七郎紹介
3 年四月二一日 別紙一小冊案下に奉呈
一四〇五、 松岡洋右
1 昭和三年二月一三日 十二月廿一日 附尊書持参の鮮人高世衡当社情報勤務に試用のこと
2 昭和九年四月二日 昨春倫敦にて托せられ候ドレーグ氏の名刺今日迄失念御海容奉仰候 名刺封入差進申候
3 昭和九年四月一三日 (電報)林陸相今回の進退感泣の他なし 世道人心の為め快く陸相の辞表御執奏あるよう切望
4 昭和九年四月一四日 (電報)世道人心に影響する所甚大なる問題に付き敢て再電す
5 年四月一七日 (前半欠)奉天に赴き鉄道問題の具体化に取掛る覚悟 経過如何に依りては近く一寸帰連仕るべく其際下見氏
の事も直接聞合はせ申すべく候 留守宅への珍菓頂戴御礼
6 年二月六日 御垂示の斎藤氏の件海務局関係の者に問合はせ候も採用の余地無きこと通知
7 年一〇月三〇日 長広舌を揮ひ御迷惑相掛け御寛恕奉祈候 尚挑斉線承認(北京中央政府の)問題は絶対に之を秘し居候につ
き御含み下されたし
一四〇六、 松岡林造
1 昭和八年六月一三日 大日本愛国義団は非常時打開の為「大日本皇国民に告ぐ」と題する檄文十万枚を飛ばし目下活躍中 熱
烈なる後援を懇願 (付)「大日本皇国民に告ぐ」(『愛国義団報』昭和八年四月八日)
2 昭和一〇年一月一二日 「亡国的メーデーの件」につき会合案内
一四〇七、 松方巌
1 年一二月一二日 御高話拝聴旁々晩餐差上たく御案内
一四〇八、 松方乙彦
1 大正九年五月八日 当日は御示の時刻に参上
2 大正一五年五月二八日 (藤原秘書官宛)総督閣下よりの新興鉱山施業に関し御親書御照会御手数恐縮 都合にて未だ採鉱着
手の運びに至らず 株式会社の義急ぎ居申候 本年五月七日御許可の施業案に拠り採鉱開始致し経営相進めたく努力 何れ私共代
理人久保熊彦拝趨委曲上申仕るべし
3 昭和四年九月二二日 金山失敗により朝鮮銀行に御迷惑汗顔の至り 同行・当局の好意を以て先般の和議により整理も一段落
金山に対する小生持分を同行に譲渡借入金の大部分を返却致事と相成
4 年三月二三日 書類捺印の上御送付を願上
一四〇九、 松方幸次郎
1 明治一九年三月三日 紐育新聞にて九鬼公使夫人と貴兄フィッスアベニゥーホテールに御滞留の事周知 九鬼夫人の様子如何
一筆投函願上
2 明治二一年三月一八日 来月初旬御帰朝の由 分袖の時あるを悲み申候 紐育府にて御面会致したく一筆御申送願上
3 明治二一年四月三日 何日頃紐育府御出の御積に御座候哉 一筆御報知願上
4 明治三二年八月三日 御帰京後早速御送書下さり正に拝受 (中欠)水雷艇明後日引渡 一週間の後跡一艘回航の心算
5 明治三六(カ)年一〇月一六日 東京号の件に付き松波博士に面会 請求額がヲースギルと申され承知せず茂木船長は船価の
三分一以内なれば宜しく服従すると申居候 全く小生一人の失策
6 明治三七年五月二〇日 仁礼子爵戦死への弔詞
7 明治三七年一一月三日 先日上京中の御配慮御礼 御恵与の帝国国防論を神戸新聞社にて出版希望
8 明治三八年五月一八日 委細拝承 成工期日甚延引恐縮の至 一日も早く御引渡仕りたし 竹下中佐御書面封入御返上
9 明治三九年一二月二七日 鶴田氏は何時御来社下さり候ても差支なしとの事 月給は中監位の御手当にて如何なるものや
10 明治四〇年一月三一日 弊社もカーチス氏と契約今後御引立の程願上 閣下御叙勲に付き祝詞
11 大正一四年七月二三日 管下の水災に付き御見舞
12 昭和三年三月二四日 別紙捺印の上御送呈下されたし
13 昭和七年五月一二日 粗餐差上たく御案内 当日駐日露国大使閣下御来席の筈
14 年三月二九日 特別艇に付き御高配感謝 延引只管恐縮のこと
15 年五月一〇日 只今日本軍艦如何程御座候哉 一筆御恵与下さりたし
16 年一二月三〇日 去る廿七日海外出張より帰社 不在中艦政本部より一等水雷艇二隻建造方弊社へ御下命を蒙り御厚礼申上
候
一四一〇、 松方五郎
1 年一二月二二日 一昨夜無事帰朝挨拶
一四一一、 松方正義
1 明治三九年一〇月二日 故金次郎五十日祭執行に付き御来臨願上
2 大正三年一月二一日 (渋沢栄一・大岡育造と連名)東北九州災害救済会寄附金募集に関し午餐会開催
3 大正一一年一〇月三〇日 米寿記念の祝賀会を起し奨学資金を集め「松方記念」の名を冠し帝国学士院に寄贈せられ御厚意
拝謝
4 年八月六日 御願仕候件に付き御取調下さり御礼
一四一二、 松倉清次郎
1 大正八年九月二日 謹奉祝安着候
2 大正八年九月二二日 今般制度改正に当り隊員一同に対し多額の特別慰労金給はり御礼
3 昭和二年一〇月二四日 竜岩浦の西北方鴨緑江中に在る黄草坪(一小島)及此小島と竜岩浦間の水面の占用貸付を朝鮮河川
令により若くは国有地処分法により特に御許可を得て開拓希望
一四一三、 松島親造(カ)
1 昭和五年五月八日 (警務局長宛電報)財部全権今日著哈 出発未定決定次第総領事より政務総監宛に電報の筈
一四一四、 松島剛
1 大正九年四月六日 別紙兵役報償の急務なる鄙見は日露戦争当時より懐抱 今や世界の大勢に顧みて黙視すべき秋にあらずと
信じ今回之を発表してその実行を切望
一四一五、 松田源治
1 昭和五年一月一四日 朝鮮参与官の問題は枢密院にて反対意見あり否決覚悟にて争うことは如何 老閣上京の際懇談の上最後
の決定致したく枢密院の方は其迄懸案として留保
2 昭和五年八月三一日 果物恵送御礼
3 昭和五年九月八日 代議士山田毅一氏より別紙北鮮直通定期航路補助請願書提出あり御送付
4 昭和六年三月三〇日 忠清南道新営費与党削除せし裏面の真相として児玉総監への反感等三点列挙 児玉総監を民政党代議士
会にて罷免の決議を為さんとするも幹部穏かならざるとして漸く中止 与党関係円満に運行の為め至急総監更迭を願上 (付)
忠清南道庁舎新営費復活に関する覚書
5 昭和七年四月三日 妻久子死去の折の供物への御礼
6 昭和七年一二月二五日 朴泳孝侯を貴族院議員に奏請勅任あらせられたる事は朝鮮統治上絶大の好影響を与へたる義と存じ
候
7 昭和九年七月九日 粟屋長官辞表提出 後任は愛知県知事三辺長治君に決定
8 昭和 年五月一〇日 朝鮮運送合同の問題は既に中央の政治問題化 本件最後の御決定の際は一応本官へも御内示に預りたし
一四一六、 松田源治
1 昭和五年六月一三日 民政党の手先になるな恥じを知れ
一四一七、 松田正久
1 明治四一年四月二〇日 別冊財政に関する質問要領一部送付 御査収下さりたし
2 明治四一年五月二七日 外遊中の阪谷芳郎男より電報到着致候条供高覧候
3 明治 年七月二一日 貴衆両院議員の艦隊従軍に付き新聞通信社員等も同様の御取扱と推想 自由通信社社長渡辺勘十郎及び其
主筆原田十衛御差加下さりたく奉願候
一四一八、 松田通一
1 昭和二年八月一一日 岡本代理大使よりの通報によれば来る廿二日ナポリ発箱根丸に御乗船の為め羅馬へ御旅行の趣拝承御
通過の節に拝眉の栄を得たし
一四一九、 松平直平
1 昭和五年 月 日 「貴族院子爵議員補欠選挙人確定名簿」(昭和五年七月三十一日調)
一四二〇、 松平正直
1 年 月一〇日 荒川教官に北白川宮輝久殿下への漢籍の御教授願いたく貴省にて御承諾下さり大臣より荒川教官に御内諾下さ
る様願上
一四二一、 松寺竹雄
1 昭和三年一一月一日 全州朴永根刑事事件は鄭晒朝の利益を計り朴父子を起訴したる儀には万々なし 起訴事実の主は鄭との
土地問題にして予審は今月中に結審
一四二二、 松永雄樹
1 明治二八年一〇月二三日 修理竣工以前より準備を整へ十四日出艦の心算なりしも前日に突然出艦見合の命令あり 必寛此度
の朝鮮事変に起因することにて実に遺憾
一四二三、 松波仁一郎
1 明治三二年(カ)四月二〇日 只今は文部省の費目にて洋行 今後の調査の為「海軍に関する法律制度の取調」を命すとか嘱
託とかの辞令を戴き御補助を仰ぎたく希望
2 明治四三年一二月六日 七日御欠席実に遺憾 戸田伯の御招待の後にても御出向の程御願申上
3 昭和七年一月三〇日 海軍協会副会長辞任の通知
一四二四、 松野英太郎
1 明治 年一二月一三日 衆議院予算委員査定方針会に於て別紙の通り決定 参考のため差上
2 明治 年一二月一五日 本日予算三分科会に於て原案通決議
一四二五、 松野鶴平
1 大正一四年五月二〇日 過般熊本県会議員桧垣・野尻の両人総督府に出頭干拓事業問題に付き御高配相煩候 小生も書類総督
府に提出致置候に付き土地改良課に便宜取計方願上
一四二六、 松林義一
1 昭和九年九月一六日 揮毫御礼新窯にて焼成品献上
一四二七、 松村純
1 昭和二年四月二三日 謹祈前途之御安康御健康
一四二八、 松村真一郎
1 大正一〇年九月二七日 此度産業調査委員拝命の光栄に浴し会議出席の節は御迷惑相掛け深く漸愧 滞在中御厚遇御歓待深謝
一四二九、 松村清吉
1 年一〇月一日 今村幸成氏の御紹介を以て今度拝芝を得置たく明日二日御面晤下されたく依頼
一四三〇、 松村松盛
1 大正九年七月二〇日 暑中見舞
2 大正一〇年一一(カ)月一一日 原首相薨去は惜しみても余りある次第 太平洋会議について学生青年の不穏行動を注意致居
候へ共空気極めて平穏 過般忠清北道儒林団内地視察につき可然御一言下されたし
3 大正一一(カ)年月七日 鎮海高等女学校設置の件は認可の方針にて取運ぶ事と相成
4 大正一一年月一八日 柴田学務局長殿及守屋秘書官殿より小生義秘書官に御任命の御間議あり 何卒御鞭撻下されたし
5 大正一二年九月三日 (大阪発京成電通宛電報)松方老公危篤に陥りたり
6 大正一二年九月三日 (上田逓信副事務官発 逓信局長宛電報)犬養逓信大臣横浜港内碇泊コレや丸に来り執務広島逓信局よ
り災害地へ多数出勤
7 大正一二年九月三日 (大阪逓信局長発朝鮮逓信局長宛電報)静岡以東の電話回線全部不通 復旧の見込たたず 各省中海軍・
陸軍・外務・司法の外全部焼失
8 大正一二年九月三日 (大阪発京城帝国宛電報)横浜刑務所囚人三万脱獄逃走
9 大正一二年九月三日 (広島逓信発朝鮮逓信宛電報)沼津以東の列車は同地より折返し運転の趣
10 大正一二年九月三日 (大阪発京城電通宛電報)海軍次官より横須賀鎮守府司令官宛無電に依ると横浜無警察の状態貴下及
機関学校其他各部より一隊を治安維持のため派遣せしめられたし
11 大正一二年九月三日 (上田副事務官発小官宛電報)一、沼津以東の鉄道の状況 二、親任式二日午後五時挙行 三、震災救
護に関する臨時閣議緊急勅令にて戒厳令を布告
12 大正一二年九月三日 (下関発京城帝国宛電報長野電話)海軍大臣の公報に依れば東京に於ける死亡者は十五万人東宮殿下
無事 内務大臣より大阪府知事宛に非常徴発令発布(付1)(大阪発京城帝国宛電報)松方公重傷を負い危篤(付2)(大阪発
朝鮮新聞宛電報)震災に付き米大統領クーリッジ氏天皇へ電報 米国民の衷心同情を示す
13 大正一二年九月三日 (金沢郵便局長発 小官宛電報)束京逓信・高輪・青山・四谷・九段・牛込・小石川電話分局は難を
免る 逓信省は焼失の由
14 大正一三年二月二日 (電報)宮内大臣より午餐招待李綱公も臨席
15 大正一三年二月八日 (電報)東洋協会長後藤子爵より十五日午餐差上たしとの御案内あり御都合伺あり
16 大正一三年二月一〇日 朴泳孝は勲一等瑞宝章に尹徳栄は勲一等旭日大綬章に決定誠に遺憾 趙大鎬への下賜金昨日拝領智
異山大学演習林借受の件に付き古庄大学総長及事務官に面会種々陳述 (付1)松村松盛書翰二月一〇日 付佐々木氏渡鮮就職
の件は慶南の小学校又は普通学校に採用し得る趣 (付2)山添昇電報松村秘書官宛 大正一三年二月九日付 閣下の御高配深謝
然るべく御取計を請ふ
17 大正一三年二月一一日 (電報)旭日桐花大綬章授与に対し祝詞
18 大正一三年二月一一日 (電報)閣下は本日旭日桐花大綬章を授け賜はる
19 大正一三年七月二一日 (電報)十八日以来南鮮地方に多少の降雨あり植付をなしたる所あり 植付不能の地方は督励
20 大正一五(カ)年三月五日 李王世子一行入城 今朝ゾルフ大使通過 三月八日には海路米国観光客六五〇名仁川着九日京城
見物 陸軍大異動に付き官邸招待の事も準備 鉄道局の地方営業事務所長会議出席者も朝鮮ホテルへ招待
21 大正一五(カ)年八月八日 御令息様有馬伯爵令嬢と御婚約祝詞
22 昭和二年二月七日 韓相竜氏来訪し財務局長が同氏に不利益なる事柄を財界有力者間に流布しつつありとの注意あり先般
フォード氏京城に於て汎太平洋会議開催方慫慂に付き京城大学服部総長との会見の機会に意見を徴されては如何
23 昭和二年八月三〇日 御留守中何等異変なし 閣下の御方針に依り政務運行 宇垣閣下は各道巡視九月十二日京城引揚の予定
本府としては目下予算編成中の処財源涸渇て新規事業は殆んど見込なし
24 昭和三年一月二日 御下命の局部長への御下賜物は京都にて購求夫々御届
25 昭和三年一月一六日 出淵外務次官と面談 ウェルチ監督叙勲の件は本人帰国前に瑞宝三等として至急取運ぶ旨申され候 佐
分利大使館参事官は昨夜帰朝二週間後再渡英
26 昭和三年二月二〇日 息子への病気見舞御礼 野島林蔵氏採用の件は学長より推薦方必要の旨直接本人へ通知 過般贈物横田
法院長分不足の為め三越にて買求御贈
27 昭和三年四月二三日 五山学校維持の件につき関係方面と協議の上解決致したし 漢城銀行整理について韓相竜氏憤懣の態
度にて小官に縷々申述 同行整理は私財提供の幾部分かを救済する方可然
28 昭和三年七月三一日 水利組合設置計画も昨年よりは多く予定年度割以上に着手 動もすれば農家経済を脅かす虞あり充分
慎重に認可する方針 目下予算審議中財源涸渇して新事業至難
29 昭和三年月一一日 韓相竜氏所有不動産提供申出 今後銀行側の謝意何らかの形に於て表明せらるる事の内議有之趣内報加
藤荘蔵氏岩手県新町局長任命発令決定
30 昭和四年一月一九日 客臘鮮産華果閣下宛御送附申上候処御受納下され候や伺
31 昭和四年三月二日 大垣丈夫氏葬儀 東京よりの情報に依れば内閣も断末魔 主管事業も進展 農事奨励技術員を組合に設置す
る等組合経済の改善に努力 平南安州平野及地先干沢地を併せ昭和水利創立決定東拓にて代行引受実施設計に着手
32 昭和四年三月九日 石川・守屋・碓井諸氏より揮毫願出あり御聴許下されたし 李夏栄の葬儀は独立門外の広場にて本日挙
行 同家の財政整理は焦眉の急
33 昭和四年四月一六日 石川・碓井・守屋諸氏及私より御揮毫御願の処御送附に付き御礼
34 昭和四年四月二三日 土地改良事業御蔭に依り昨年度は別表の成蹟を収め軌道に乗り来る感あり 学務局長李軫鎬氏失脚を
放置するは民心離反に付き中枢院顧問に起用御高配願上 拓殖省設置問題への朝鮮人側の運動に対し上部は放任し居る様子
(付)土地改良事業実蹟
35 昭和四年七月一六日 伊達宗英様御渡鮮の件敬承 朝鮮総督に首相級の人物を差向けらるるやう国家の為め願上 拓務省当局
行政上の干渉を試みんとする傾向顕著 本年度予算深憂に不堪
36 昭和四年八月一二日 過般伊達様御来鮮 山梨総督より御別れの宴会に招待 尾間等の予審調書も出来総督の疑雲も一掃され
る事に相成 総督の威望地を掃ひ被治民族は之を軽悔する風潮顕著
37 昭和四年一一月二五日 鮮米移入制限の件好転 水野閣下より児玉伯が朝鮮自治を計画中の趣御話あり今日の新政策中に考
慮なしと申上 湯浅閣下より浅利氏の身上に付ては尽力致したしとの発言あり
38 昭和四年一一月二七日 丸山氏に面会の際川崎氏が朝鮮行を辞するに至りたる事情を承知 丸山氏は後藤文夫氏を推薦而し
て氏自身大いに色気ある模様 白上氏は永田秀次郎氏を守屋氏は菅原氏を支持 中川復興局長官も希望ある如きこと
39 昭和四年一一月二八日 拓相よりの伝言 一、総監最近朝鮮議会設置の意見を洩し世間に広く洩れる事にならば由々敷事態
二、総監先般上京の節決定せる人事持込みたるも事前に協議して上申願ひたし
40 昭和五年二月一二日 殖産銀行有賀頭取任期満了に際し草間前財務局長後任たらむと待望せるも大多数は有賀氏重任を切望
東拓理事一人朝鮮支店に増員急務を痛感 小作令の制定に努力 取引所令も在職中に実現致したし
41 昭和五年七月二〇日 拙子罹病に付き御見舞御礼 病名硬脳膜炎と判明
42 昭和五年七月二九日 新聞に依れば昭和製鋼所問題も朝鮮に有利に転向の趣同慶 最近鮮地風水害は誠に痛心の至(中欠)
御蔭に依り漸時良好の経過をたどり意識も明に相成
43 昭和五(カ)年月二一日 殖銀頭取についての情報と社会各方面の輿論は有賀氏重任が無難とのこと 殖銀理事につき府内
より一人位出されたしとの希望もあり 修養団新会館は来る廿四日 献堂式廿三日 より全鮮大会挙行の予定
44 昭和六年四月三〇日 取引所令案来月上旬には公布を見る事と存候 政府与党は政務総監の更迭を熱望総督勇退の場合宇垣
大将を推す様子 尻尾をつかまへられぬやう御用心のこと
45 昭和六年五月二日 取引所令案来週の閣議にかけ予定通上旬公布の見込 東拓理事人選の件につき総裁は中野太三郎氏から
渡辺忍氏への変更頗る困難とし交渉打切
46 昭和六年五月三一日 減俸問題も静謐に帰し加俸減率が今後残されたる問題として官吏一般憂慮 取引所問題に付て過般仁
川側京城側共に発令の謝礼に参り候 重油〆粕統制の件三菱の逡巡に依りて難関に出会 春繭共同販売に付き標準価格協定の件
は去る廿九三十両日にて成立
47 昭和六年七月一四日 東洋筆山水画御恵投御礼 新総督本夕着任 支那人事件は異常なる衝動を起し本府の人事異動に依る不
安と絡みて穏かならざる空気
48 昭和六年月四日 近藤秘書官の談に依れば総監は必要なるに於ては何時にても辞職の旨総督に申上げられたしとの事を話さ
れし由 武内法制局長官帰京に付き取引所令案に付て説明致すべし
49 昭和七年五月三一日 秘書官の件に付き予て中川氏御推薦の成田一郎氏御採用進言 政友会熊谷総務守屋氏を訪ね内務次官
紛糾せる際君を推薦したしと申出の趣報告
50 昭和七年六月二七日 人事異動に干し所謂朝鮮党を起用以て政民の対立を緩和し官界の結束を固うする極めて緊切に付き御
高配懇願
51 昭和八年七月二四日 小生総督秘書官拝命当時不引継機密費拾万円也の件は守屋氏知る処なく小生も関係なし 朝鮮取引所
令発布に干し小生に対する悪声もあり 此件は賄路買収等はなし
52 昭和七年八月三日 別紙履歴書御届申上候間宜敷御考慮懇願 林総裁御赴任前御紹介の御名刺頂戴仕りたし
53 昭和七年九月五日 臨時議会好成績もて閉会同慶に堪へず
54 昭和七年九月八日 柴田翰長の談によれば理事問題は形勢逆睹しがたく寧ろ帰農せんかなど考居次第 本件は園田寛氏の義
弟生駒氏の発議の事と拝察
5 昭和七年九月二九日 予て御発願の観音奉安の趣朝鮮統治の高所より見て真に永久不滅の御記念として霊験顕はす事確信
6 昭和七年一〇月二〇日 韓相竜氏より別書の通り申越御閲覧願上候
7 昭和七年一〇月二八日 日 満の政治的関係の円滑を期し産業開発の為め池田秀雄君を満州政府の政治顧問に加ふることに付
き御高配懇願
8 昭和七(カ)年 月 日 一、政友入閣者指名は結局高橋・三土・鳩山にて水野邸は憤慨 二、水野氏へは閣外の要職を与へ緩和
必要 三、丸山氏に快からざる白上・赤池両氏重用相成均衡を保つ事 四、内務大臣・翰長・警保局長・警視総監等人選を民政
派に報告せしむれば政友会は益々離反
9 昭和八年一二月一〇日 志賀医学博士の錦鶏間伺候御推薦につき御忘れなく御取計下されたし
0 昭和九年三月五日 勅令行政命令の別なく凡て法令に依り鮮米移出制限するは朝鮮統治の根本方針に抵触内閣更生の為め一
致結束一心同体となり得る人材の網羅を願上守屋氏新翰長として最適任
1 昭和九年三月九日 外地米移入統制問題は買上資金増額に依り大難関突破の趣外地当局をして経済機構の動員により従来よ
り真面目に月別平均的移出の実行緊切
2 昭和一〇年一〇月一五日 埼玉県下栄養改善施設御視察の件につき生憎佐伯博士は出張中にて廿二日 帰京の趣御帰京後更め
て御指図仰ぎたし
3 昭和 年一月二四日 中枢院参議に欠員を生じたる場合朴〓煕・石明〓御考慮願上
4 昭和 年三月四日 過日の御寵招御礼 御揮毫依頼
5 昭和 年三月二五日 菅原通敬氏枢府顧問官に推挙懇願
6 昭和 年七月二八日 東西仏教協和会副会長の李元錫氏御引見依頼
7 昭和 年 月一三日 道庁移転問題は政務総監に対する反感が手伝ひ目下の情勢不利 閣僚・民政党最高幹部に於ては本件否決の
結果総督に対する感情を憂慮
8 昭和 年 月一六日 税関倉庫は僅に二千坪にて現に商業的調節倉庫として使用し得るは八十四坪のみ
9 昭和 年 月二一日 昨夜新聞協会大会の宴会場に於ける清浦会長の御挨拶は閣下の御功績と御再任に依る朝鮮の安定に付き熱
誠溢るものあり感服
0 昭和 年 月 日 三枝外務省書記官の意見「最大の『ステーツマンシップ』(何そ『マグドナルド』に学ひ米国に使せさる)」
1 年二月五日 口ーマにて求めしギリシャの政治家デモスセネスの大理石像御受取下されたし
2 年二月五日 地方公共団体に関する功績者選奨に関し御決裁願上
3 年二月一二日 取引所問題に付き単純なる経済合併に関する商工課長の電照あり別紙の通り返電 尚同課長並永井書記官の書
翰御参考迄御高覧下されたし
4 年三月二四日 揮毫依頼
5 年三月三一日 木村末一氏より御揮毫願出に付き依頼
6 年六月九日 閔子爵家人洪〓泳氏鉄道局に職を得たしとの依頼に付き御引見御高配願上
7 年八月二三日 釜山上陸の際のステートメントに付き御参考の為め拙文御送付
8 年 月一五日 ウェルチ氏十八日午後三時首相官邸へ通訳付にて来訪相成たき旨電話返事あり 浜名寛祐氏の面会十七日午前九
時頃に変更 東西勧業の倉知氏及佐々木氏へは十七日午前八時半頃面会の旨返事
9 年月一七日煙草会社の件本日総代より専売局長迄松井の問題消滅せるに付き国策に順応して会社創立に進み来る廿六日創立
総会開催の旨申出あり松井の辞表却下の報告
0 年月二〇日松井府尹進退に関し平壌公職者中に種々の説をなす者有之候趣 伊国大使婦人及令嬢を令夫人の命に依り食道園
に招待 中野知事東西勧業入社決心も閣下に御目にかかりたき旨申出候
1 年 月 日 釜山瓦電問題に付き閣下釜山上陸の際府協議会員が大挙陳情の倶あり 顛末発表は御着任の上文書を以てせらるる可
然 政策更新人事刷新等の問題に付ては記者連に対し余りに落胆せしむる御言葉なき様せられたし
一四三一、 松室致
1 年七月三一日 人参御恵贈御礼
一四三二、 松本学
1 一〇年九月一三日 岡山名物の粗茶贈呈
一四三三、 松本和
1 明治二八年八月二一日 小生宇品に出張致し還送輸送に従事 運送船はドッグに相手にされず上海・香港にて修繕中又来月下
旬開始の第二師団輸送計画に従事 海軍は陸軍より少し割の悪き方なり
2 明治三二年一〇月一三日 九月廿七日投函の書翰拝読 例の件小生の力の及ぶ事は何れなり共御申越下され候金子御入用の節
は貴夫人より愚妻迄御話下されたし
3 明治三二年一二月二三日 石炭費二千六百七十円要求仕り其の精しき計算は加藤山本両課長に申送り候 御訓令の区域だけは
巡航致したし 汽鑵の故障修理致し置候得は航海も差支なし
4 明治三三年一〇月二三日 十月一日付にて艦隊司令長官より懲罰の宣告実に警き申候 御取調べもなく宣告とは如何にも軽率
の御取計ひと存候
一四三四、 松本剛吉
1 年三月八日 満州昌図にて炭鉱経営せる人見義平太氏紹介
一四二五、 松本順
1 昭和 年四月一五日 内閣の不正閣僚の辞職を命じ所信断行を勧告 面談の上所信披瀝致したし
一四三六、 松本烝治
1 昭和一〇年一二月二五日 参館年末の御挨拶申上べき筈の処一昨日来風邪引篭居候為め以書中御左右伺候
一四三七、 松本虎之助
1 明治一七年六月二一日 私共十七日 午前リバプール港に着 汽車に乗り五時三十分当処着 本日坂本伊東仏国に発途山内は佐双
宮原一同とニューカイワルに昨朝出立 過日来御厄介御礼
2 明治一八年一月九日 貴君公使館付御拝命の由 宮は負傷の為め右手指手術施行 拙生等ロンドンに転居
3 年一月二八日 御申越の書籍の内二冊丈け買入拙生への帰朝命令に対し宮の御乗艦迄滞在希望の旨申越も返辞なし(後半
欠)
4 年二月八日 御依頼の書籍郵送海陸雑誌壱冊手に入れ別に郵送
5 年一一月八日 書面と共に英貨弐磅為替券落手 天朝節は当地在留の諸君公使館に参賀随分盛会 坂本君渡英山内君澳国に参り
居候
一四三八、 松本誠
1 昭和三年九月二日 烟草配給直営問題も予定通り去る七月一日より実施爾来経過順調 朝鮮烟草元売捌株式会社跡始末も円満
裡に解決
一四三九、 松本吉晴
1 昭和九年九月八日 小冊子「お伊勢さん」改訂増補の上再版を決意本旨に対する御高見御筆跡を賜り掲載の栄を得たし
2 昭和九年九月二五日 来月中旬頃伊勢大神宮御参拝の趣 御来県の際鳥羽位で一泊なされ一巡下され間敷候や
一四四〇、 間所鉄帚
1 昭和三年二月 日 (漢文)陶印・濡額注文受付
2 昭和四年九月二五日 木額頒布趣意書
3 年九月二七日 松茸栗御風味賜りたし
一四四、 馬野精一
1 昭和四年一二月二七日 去る廿二日着任 光州学生事件の真相調査に没頭 略ぼ外廓を諒得 学生事件の近因は教権空しく地に墜
ち生徒図に乗りたると共産党の存在を探知し得ざりしと警察の処置手緩かりしに由来
2 昭和五年三月一日 光州学生事件は共産党関係と妄動事件とに分離し差当り妄動事件を急速解決する事に相成 当地の製糸工
場工夫を煽動し騒擾を計画せる不良輩ある由にて数名を検束 本道評議会従来稀に見る平静裡に閉会
一四四二、 丸山幹治
1 大正一四年(カ) 月 日 京城日報毎日申報発行数対照表・大正十三年度決算予想表
2 昭和二年四月一六日 全権の御大命を拝せられ候ことに付き祝詞
3 昭和二年一〇月一七日 京城日報に関し愚意の存する所を陳述 副島社長への社内外の批判は誤解中傷にして副島伯の留任を
飽く迄希望 やむを得ずんば松岡氏を後任に御採用を願う
4 昭和三年一月二日 小生京城日報退社慰労金に付き副島伯より懇願の処松岡京日社長は小生が自然的に辞職せるにより支給
し難しとのことに付き御高配を仰ぎたし
5 昭和三年一月一一日 御懇切なる御言葉を頂戴し恐縮の情感激の念充満 小生は固より公式に松岡氏に対する御声掛りを御願
申上げたる次第に無之候つもり
6 昭和三年二月一日 小生身上に関し過日副島伯より御願申上候処早速御配慮を辱うし御礼申上候
7 昭和三年三月一二日 副島伯より御願申上候釜山日報の件は故社長の養子某氏経営の衝に当ることに決定 事情已むを得ざる
ものと諒解
8 昭和三年三月二七日 京日慰労金の件今以て解決致さず 先日松岡氏と面会 同氏の談にいずれ帰社の上相談すべし云々と有之
その儘となり居り候 今一応松岡氏に御言葉下さるまじく候哉
9 昭和三年四月三日 慰労金問題につき佐藤京日支局長に依頼し松岡氏と直接面会 同氏は最善の努力を約束 御一言を松岡氏に
賜はりたく依願
10 昭和三年六月二〇日 京日慰労金の件円満解決に付き御礼
11 昭和三年一〇月二三日 大阪毎日新聞客員として入社の挨拶
12 昭和九年七月一八日 非常時の荒浪を突破せられ宮中府中粛清の実を挙げ政治機構整備の御功績を私の如きも礼讃 此点に
つき過日牧野内府にも申置候 何れ御引見を希望
一四四三、 丸山鶴吉
1 大正一一年一月九日 浦塩出張出発昨夜元山に着し内鮮官吏有志懇親会に列席 対岸偵察隊の樋上警視より復命聴取今夜出発
清津より乗船の予定
2 大正一三年四月(カ) 日 朴春琴一昨夜聯盟を脱退したる柳文煥に暴行 過誤なき様直ちに手配
3 大正一三年六月二〇日 平北の鼠賊此侭放任致難く知事警察部長と協議南鮮地方の定員を割き二百名を増派極力掃蕩と決定
メルラン総督遭難の件詳報に接せず八月在鮮満五周年を一顧として骸骨を乞はしめ下されたし
4 大正一三年七月二日 平北国境今尚掃蕩に到らず憂慮 昨日福田特命検閲使に面謁 憲兵側に於て警察の欠陥を報告し居るが神
経過敏ならしめたる様の感あり小生後任に梅谷光貞君推挙
5 大正一三年七月七日 鮮手甲が閑庭植事件に関し警察部警部収賄の風説を流布したる結果京城憲兵隊は関係者を留置取調開
始再び憲兵制度となす要あり警察腐敗の事実を語れと訊問する等言語同断 最近軍司令部にて出入記者団を組織し国境方面の
視察計画あり
6 大正一三年八月八日 (田中事務官電報案 丸山警務局長宛)昨日副島社長の失言に対し京城記者団協議決議を為し明日紙上
より攻撃計画の由
7 大正一三年一〇月一六日 去る八日朝着京 後藤子爵よりの東京市助役就任方の御勧誘固辞 昨夜下岡総監の招宴に列席先日水
野赤池両閣下に面会 大日本青年団の御手伝承諾(付)丸山電報 斎藤実宛 大正一三年一〇月九日付 昨日着京御懇情深謝
8 大正一三年(カ)月八日 小官の論文雑文等を集めた「在鮮四年」の巻頭の題字のため揮毫依頼
9 大正一三年(カ) 月 日 朴春琴如何なる計画ありとするも今夜は外出すべからず明朝来訪すべき旨申渡し承知せし由
10 大正一四年六月四日 先般国境御巡視紀念会に付き往事を回想して感慨無量 横浜警察官憲の外人取締態度に就て警保局長
に懇談 朝鮮神宮の件調査会数日中に成立との由 伊勢神宮皇学館に入学の朴東至長男学資の件御高配願上 日本青年館に揚くべ
き扁額のため揮毫依頼
11 大正一四年九月二日 本日は思出深き日に有之 六年前を想起して感慨無量 小生退鮮後修養研鑽の希望達する事も出来ず青
年指導に微力赤誠をささげて東奔西走
12 大正一五年四月二九日 李王殿下薨去痛惜の至 就ては種々の流言浮説もあり御心労の御事と恐察 昨日は又昌徳宮前に於て
変事有之御見舞申上
13 大正 年 月一七日 京城日報の電気会社攻撃に関しては記事を慎む様警告 秋月社長帰城と同時に中止と決定の次第に聞及候
記事を痛快として国粋会関係者京日支配人を訪問し市民大会開催への援助申込あり
14 昭和二年 月一八日 小生市役所退職後身上に関し迷ひ居候 京城日報は民間有力者との理解欠けたる点改革を要す石黒君台
湾新設の文教局長として推薦
15 昭和二年 月 日 米国の観察せる如く英国が五・五の比率承認する時は日本が三の比率を破ること困難 此点も林中将など焦
心も外務省側は比率に冷胆 プレス側楽観説を打電
16 昭和三年二月一六日 建国祭跡始末後御伺上たく存居候処鶴見祐輔君応援の為め富山県へ参り序でに老母見舞 香川県下青
年団に巡講六七日頃帰京の後伺上たし
17 昭和四年六月一二日 早速打合せ会社にて小林氏に委細申進 本件は大体に於て有理と存じ昨日正式に稟請する様返事致し
置かれ候由
18 昭和四年一〇月一九日 政務総監の件拝承 総理及内務大臣拓相も博覧会終了後退任と信じ居候 朝鮮の少壮官吏一層総監排
斥 児玉氏を引退せしめ川崎氏又は後藤文夫君の採用を進言
19 昭和五年三月二八日 服部氏と御話相成候件につき金参旺円也謝して受領 御手許へ差送り候条同民会幹部に御下命下さり
趣旨徹底相願たし金券同封
20 昭和五年一一月二四日 御容態日増に良好にて休会明の議会に奮闘出来申すやも不計 犯人の関係は捜査進行中 煽動者は愛
国社関係の同人に有之 社主岩田は首相を斃す事によって政変を招来せむとの手段たるは間違無之も背後の人物は不明
21 昭和六年三月二九日 議会中忠清南道庁問題に関しては遺憾千万 本問題に関連して総監の進退を決せらるる事なきやう切
望 閣下御再任の成果を挙け御帰京天下に重きをなす地位に復帰を希望
22 昭和六年六月一三日 御手紙により明日にても訪問致すべきの処他に御来客もあるべし 明後十五日午前中に御訪ね申上た
し
23 昭和六年六月一六日 若槻首相に御下命の件御伝へ申候処首相は衷心より憂慮 総督の更迭は国家の為ならずと申されこの
事を秘密にされたしと申され会見を終り申候
24 昭和七年(カ)六月一三日 (入間野秘書官宛)対満州等の国策確立の為め外交調査会様のもの設置は各方面の議に上る事
と相成 中央満蒙協会に於て具体案着手の様子 関税率改正の問題貴院に於ける空気面白ろからさる形勢あり
25 昭和七年六月二五日 (入間野秘書官宛)別紙は満州国承認基礎的協案にて阪谷男爵案に有之御一読置下され候様首相に申
上げ下されたし
26 昭和七年六月二五日 (入間野秘書官宛)別紙は満州国青年満人官吏の告白にて日本官吏の事情を知る参考に御一覧置下さ
れ候様首相へ申上げ下されたし (付)「満州国政府に奉職中の支那青年官吏よりの通信」
27 昭和七年七月八日 (入間野秘書官宛)明九日国民大会の日比谷警察署の干渉の件円満に遂行 国民政府の連絡員阪西中将
等と会食国民政府の希望聴取 大川周明取調につき司法権の威信擁護熱望
28 昭和七年七月二〇日 地方の青年将校入京・国民政府連絡員と懇談 阪西中将荒木陸相会見・満鉄総裁問題・最高の国策審
議機関.政友会の動向・宇垣氏の態度に関する情報を首相の御耳に達し置き下されたく候
29 昭和七年七月二一日 御下問の朴春琴君の件実は選挙後種々なる失費にて窮状に陥り選挙違反の罰金等に苦慮 此際御援助
下されたし
30 昭和七年八月一五日 (入間野秘書官宛)紐育河上清君の意見封入 考慮を要するものあり
31 昭和七年八月一七日 (入間野秘書官宛)対米使節問題はジネーブ全権松岡洋右君を説きこの必要を首唱せしめるも実現の
方法と存候 万一派遣困難なれば松岡君米国経由大統領国務卿と会見も一策権藤成卿一派動き出し警戒を要し候
32 昭和七年八月一八日 (入間野秘書官宛)小生知人山田忍太郎君が参謀本部方面に提出した意見書御覧に入れ置き下された
く候 (付)多賀宗之書翰 昭和七年八月七日付「満州国鉱産行政に関する急務に付て」は山田忍太郎氏の所見なり御参考に供
す
33 昭和八年二月一日 蔵相辞任の場合は政友会と絶縁の覚悟必要 後継内閣問題にて種々の策動 平沼内閣・鈴木内閣は共に欠
格 陸軍部内に根拠を有する宇垣氏の外なし
34 昭和八年四月五日 高橋蔵相辞意堅く万一政友会閣員連袂辞職の挙に出すれば閣下改造内閣にて議会に臨み解散を決行して
国民の意志により進退を決すべし
35 昭和八年五月五日 高橋蔵相翻意を促しこの迷雲を一掃致されたく切願 政友会結束も宣伝の如くには無之 万一高橋蔵相隠
退の節は床次氏就任を総裁に交渉せば一大波欄を惹起と申居候
36 昭和八年五月三一日 高橋蔵相留任決定同慶至極 政友会内部抗争は収拾し難き実情 改造を以て進み議会解散断行すべし 上
海より帰朝の船津君による黄郛一派の者の説報告
37 昭和八年七月一九日 御懇書を辱ふし且つ御芳志を頂き厚く御礼申上候
38 昭和八年八月一二日 無任所大臣問題につき政友会民政党一部政客貴族院議員などの意見報告 閣下として慎重受働的の立
場に立たれ候方適切
39 昭和八年八月一八日 今朝正力君来訪 鈴木政友会総裁は無任所大臣としての入閣強硬に反対 政策協定に関しても我慢致し
難き情勢濃厚
40 昭和八年一二月一日 宮中の御声かかりにて予算問題解決の方法は邦家の将来の為め深憂 一層の御努力切願水野氏の枢府
入実現せは十一名の欠員 松井茂博士勅選せられ可然
41 昭和八年一二月二三日 昨日は御町重なる御贈与に興り御高情誠に難有御厚礼申上候
42 昭和九年五月二六日 大蔵省内の不祥事件は正力氏に進み中島前商相・鳩山前文相への波及も疑問の余地なきに立到り総辞
職決行致され候方内閣の為めであり国家の為めなりと愚考
43 昭和九年六月三日 岩手の石黒君一時慰留致され候も至急転任の実現を見たく文部省の民部局長後任に最適任かと存候 勅
選の補充に松井茂博士推挙 関大阪市長も候補者の一人と存候
44 昭和九年六月一一日 広島文理科大の問題に付き西博士昇格断行せられ候方機宜を得たる処置 文部省関屋民部二局長を喧
嘩両成敗とし粟屋次官退去後新人を入れて改革さる事肝要
45 昭和 年四月六日 同志先輩松村介石氏よりの書簡御参考迄同封 (付)松村介石書翰 丸山鶴吉宛 三月六日付 日本を救ふの
道は内閣を改造し議会を解散し政党をブッ潰し数年間軍部と政治を行ふに在り
46 昭和 年一二月二四日 (入間野秘書官宛)政友会硬化の説流布 平沼内閣説台頭 鈴木総裁も平沼主班に賛成を勧奨軍部金銭
をばらまき居る風説も有之候 政友会幹部中より民政党を起つ能はさる状態に追込むとの揚言あり 首相玉砕主義を固持さるる
外なし
47 昭和 年 月二二日 (入間野秘書官宛) 昨夜御下命の件に関し今朝阪西中将に会談 已介石以下凡て友人関係なるを以て別に
費用を要することなし旅費滞在費個人交際費丈けで足るとのことに付き参千円位差出され候はば結構かと被存候(中欠)
48 昭和 年 月 日 (入間野秘書官宛)貴族院結局政府支持に立つべき形勢 最後的決心が必要 それのみが政友会を転換せしむ
る要道と被存候(中欠)柴田氏に申上置候条は慎重に御考慮賜はりたし
49 昭和 年八月二九日 (入間野秘書官宛)二法案に対する農相の決意堅く誠意誠心政府案支持 政友会愈々硬化も最後迄頑張
るや否や疑問結局閣内の動揺防ぐを第一義と存候
50 年二月二〇日 鄭安立の件御高配難有 三百万円也丈け藤原君を通して渡し申候
1 年 月六日 国民新聞の有力者瀬尾君朝鮮視察の為め出張につき御引見依頼
2 年 月一一日 副島社長問題今夜あたりけりがつき申すべし 同和警保通信経営遠島なるもの来訪 水平社問題其他にて警視庁・
警保局なと利用 二百円位やり置き下されたし
3 年 月一七日 依頼の件につき本人は恐縮 出来上り候節電話賜はりたく拝受に参上致され申すべく候
一四四四、 マルヤマ
1 大正一三年二月一二日 (電報)御賞勲の恩命に浴せらる御祝申上ぐ昨日上京本日より会議
一四四五、 三浦謹之助
1 九年三月一一日 過日願上候件急ぎ候事にも無之宜敷願上候
一四四六、 三浦荒次郎
1 明治三二年五月二〇日 仏人レヤール・ドレフィウ病気の為め秋津洲艦便乗相願たき旨仏国領事より申越 (付1)シャル
ル・ドレフユス書翰(仏文) 秋津洲宛 一八九八年五月付 (付2)三浦荒次郎名刺 蘭人一名乗船許可依頼 (付3)R. Mehant
(フランス領事)名刺(付4)D. Pientkosky 名刺 (付5)D. Pientkosky 紙片
一四四七、 三浦常雄
1 昭和二年四月一八日 毎月の小使松村様より戴く事承知 今月分の小使御送付下され候が先頃官邸にて戴き居り候へば来月分
に致し置き候
2 昭和五年五月二〇日 昨十九日大工参り見積書及図面持参 価額も張り田舎にはもったいない様に思はれ見積仕直 全部で一千
円以内で出来上る見込
3 八年一一月二六日 金壱百円有難拝受 毎月藁の運般致し居り工場倉庫も間も無く完成
4 一〇年四月二八日 金壱百円有難拝受 又寿雄に初節句の御祝ひも戴き厚く御礼
5 年一〇月二三日 役所の都合で今月始めから合宿所に入り本日は合宿の障子張りで一同大騒ぎ
6 年一二月二四日 本日御送付の金壱百円拝受 当方夜業致して二貨車分製造 本年は全国的米作不良にて藁も昨年より約五割高
縄も約四割高
一四四八、 三浦東輝
1 昭和五年四月二四日 小生は去る一月内地人に昇格以来気性も晴れて総て感謝と悦びの中楽しく勤務
2 昭和五年五月一七日 当地港起工式に御台臨の由楽しみ申候次第 其後結婚相纏り近日出発結婚式挙行の予定 帰鮮の節は御挨
拶に参上も致すべく候
一四四九、 三上参次
1 昭和四年一月一六日 数日を争うほど急ぎ候事にも無之 御全快の上願上たく候
2 昭和四年二月五日 御来局並に朝鮮漫談御寄贈御礼
3 昭和四年三月八日 御講話御礼
一四五〇、 三上兵吉
1 明治三二年一月一日 年賀状
一四五一、 三崎亀之助
1 明治三二年一〇月九日 甥三崎市太郎の海軍兵学入学許可に付き御高配を仰ぎたし
2 明治三八年二月一三日 旅順出張所へ赴任致すべく会計主任へ夫々御紹介状下附への御礼 御廻はし下され候書類の綴洩れの
分更に廻附下され難有
一四五二、 三沢人事課長
1 明治二九年一一月二一日 別封二蒲委員長宛は着英の節御転送依頼 木村軍医少監富士軍医長に補せられ回航委員命せられ候
一四五三、 三島誠也
1 年九月一〇日 揮毫御礼
一四五四、 三島弥太郎
1 明治四〇年九月二二日 男爵受爵祝詞
一四五五、 水上梅彦
1 明治年七月一九日 (井出謙治海軍秘書官宛)在米金子男爵より同男演説極東大勢論送附に付き御覧に奉供候 御高閲後大臣
次官へも御歴示下さり候得ば幸栄の至
一四五六、 水谷叔彦
1 大正七年一二月九日 (田中盛秀と連名)来る十七日午後六時半築地三丁目花本へ御光臨の程願上
一四五七、 水野禎三
1 大正一二年二月一九日 揮毫依頼
一四五八、 水野錬太郎
1 大正八年一〇月三〇日 本年度予算問題に付き努力交渉中 上海方面の事未た具体的の話は聞取申さず 機密費の件呂運享呼寄
の費用なるやに申居候か首相とも相談の上更に御指揮を受け候様に致すべし
2 大正八年一一月六日 古賀の計画に付き小生は在外鮮人の懐柔策に関しては総督に於ても計画あり両辺不統一あらば却て不
利益の旨申出 原首相も古賀は何をするか分らすとの事にて将来打切るべしとの御意見(付)水野錬太郎書翰 斎藤実宛 李王世
子御結婚問題に付き本日宮内大臣と面会 大臣に於ても一年内の御結婚か却て朝鮮の紛争を生し候様にては相済まざるに付き
二年延期もやむを得ずとの事
3 大正八年一一月一五日 李王世子御結婚明後春迄延期に付き宮内大臣と協議同大臣も全然同意 在外朝鮮人の懐柔其他の件の
機密費に付き首相賛成蔵相も此主意に賛成も此際一般会計剰余金よりの支出に懸念あり寧ろ朝鮮特別会計剰余金より支出し
置く方可然とのこと
4 大正八年一一月二二日 李王世子結婚問題に付き過般御電報によれば来春喪明後に決行可然旨の御意見申越原首相としては
総督が内外の情勢より判定して断して紛争等は無之との責任上の上申なれば不可なきも果して差支なきかと甚だ懸念 呂運
享・張徳秀に小生面会只朝鮮内政の実情を視察し総督の温容に接せよと申述 (追伸)河上清をして米国人に対するプロパガ
ンダ的書物を出さしめたらば如何
5 大正八年一二月三日 呂運享の問題は首相も始めより承知なく気の毒 古賀を呼付け警戒を与へられる一方善後策に苦心 予算
は大蔵省の意見にては千万円以上は六ヶ敷とのこと 李〓公の件に付き首相は内地在住方取締上好都合との由李王世子結婚の
事首相も総督の意見か差支なしとの事なれは決行の外なしと同意
6 大正八年一二月二三日 十二日夜より感冒に罹り発熱 当地転地療養 年内には帰任
7 大正八年一二月三一日 昨日伊丹博士の診断を受け候処帰鮮は絶対に不可なりとの事にて帰任は見合 用務は守屋秘書官に話
し置候に付き同人より御聞取下されたし
8 大正九年一月六日 小生辞任説は意に介するに足らず 予算問題に関しては首相に強硬に主張し首相も其意を了せられ候事 呂
運享問題に対し朝鮮の事は総督に一任の旨を首相に申候 宋秉〓と面会も当方より相談する事致さず
9 大正九年二月八日 御心配に預り候か熱も大体に於て平熱に復し御安心なされたし 各局部長報告も何等の異状なし是亦御安
心下されたし
10 大正九年二月二四日 昨日具然寿参り宋秉〓の待天と天道両教の併合の企てに付き伺あり 小党分立にて互に争はしめ置く
方宜敷 議会は農事会社補給か問題に相成哉の趣
11 大正九年二月二八日 (二月二七日付)予算不成立 朝鮮に於ても齟齬あり 本日部局長会議に於て善後の処分策相談特赦の
具体案作成 三月一日には何か騒擾起るべしとの風説濃厚にて警務局にては対抗に十分手配を為し先手を打つ考 (付)水野錬
太郎書翰 斎藤実宛 大正九年二月二八日付 朝鮮人に対する恩赦の件別紙案文作成に付き御閲覧依頼
12 大正九年三月二日 三月一日の状況報告 万歳を唱へ候学校に処分を要すとの学務局長の意見にて調査中 宮内大臣より李綱
公の書状の出所に就き調査方依頼あり宮内大臣には千葉第三部長の復命を添へて差出李王世子結婚の期日四月廿八日に決定
ならんとの事
13 大正九年四月三〇日 王世子御結婚当日何等の事故なし 恩赦も大体に於て喜居候様に存候 只出獄者感謝改俊致候やは疑問
教育令是非通過御尽力煩したし
14 大正九年七月二日 故李太王殿下建碑に付き宮内省にては別紙意見に有之 前韓国の文字・陵名・碑陰記事文に付き李王職
とも御協定の上御意見の程御伺申したし
15 大正九年七月二日 廿二日着京後首相に面会朝鮮の状況報告 教育令問題に就ては本府提案通り進行致すべし 太皇帝墓誌に
付き御回答を煩したし 移入税撤廃の期限本年度限り 就ては来年度予算財源を考へ置候方可然
16 大正九年七月一二日 故李太王墓碑の件に就き本日宮内省出頭 石原次官に面会詳細申述の処尚今一応其侭致すべしとの事
17 大正九年七月一六日 故李太王墓碑の件に付き本日宮内次官に面会 宮内省の意見としては前韓国皇帝の文字を入れる方可
然 一応総督の意見確かめられたしとのこと
18 大正九年八月一日 細井肇よりの朝鮮会館の件相断り申すべし 宋秉〓帰鮮の旨申居り原首相も総督府より一万円位与へて
は如何との話あり 内田良平渡鮮報告書諸方面に配布も総督府の悪口を申述 幸に宋は内田の手に乗り居らさる様見受られ候
19 大正九年八月一〇日 原首相に面会 宋秉〓・李完用陞爵に付き総督の意見確かめ呉れとの事に付き報告
20 大正九年一一月四日 天長節は極めて平静 京城の如きは国旗は鮮人町の隅にまて掲揚愉快に堪へさる次第アツペゼラーの
件はウエルチも全然了解 英字新聞買収至極結構取計切望 (付1)水野錬太郎電報 斎藤実宛 大正九年一一月四日付 新聞の件異
議なし (付2)守屋秘書官書翰 斎藤実宛 一一月四日付 水野総監への御手簡直ちに発送
21 大正一〇年一月一九日 井上代議士より宋秉〓金に困り候と申すに付き井上を通して彼の希望通り出金方取計申すべく候間
御返電願上
22 大正一〇(カ)年一月二八日 間島警察問題大体に於て閣議承認 支那側の感情もあり急激に警察拡張は困難との意見あり
総領事の人選を条件として警察を引受くる積にて談判致すべし 京城日報の件に付き頭本氏より別紙の通り申来に付き供覧
(付)頭本元貞書翰 水野政務総監宛 一月二三日付 京城日報改革を小生に御任せ下されたく希望 且山県五十雄君の協力を得
ば同紙の面目一新は容易
23 大正一〇年二月一〇日 間島警察問題閣議の状況を鑑みるに本府希望通りの警察配置は実行覚束無く時期を待つの外なし京
城日報適任の後任を得ること肝要にて秋月氏適当 産業鉄道の事重役の奔走に注意
24 大正一〇年一一月一六日 本日出発帰任 教育令の事は川村長官に話し候処大体承知し其侭提出の旨申述
25 大正一一年二月三日 御心配を煩はし候荊妻の病気も御蔭にて其後大体に於て良好に有之 御礼旁御報申上
26 大正二年九月三日 荊妻病気についての御厚配御礼 (付)水野錬太郎書翰 斎藤実宛 九月三日付 来年度予算は緊縮の方針に
決定 只今の処未た目鼻か付申さず 特別会計の審査は今月末か来月 白上佑吉氏内地転任の希望に付き其事に決定 宋秉〓の辞
表は其侭小生手許に預り居るも兎に角御手許に送付
27 大正一三年五月八日 松村秘書官より五万円切手下さり御礼
28 大正一五年四月二九日 貴族院より万国議会会議出席の勧誘を受け欧米外遊を決定十七日出帆 李王殿下御薨去に付き御配
慮の段拝察
29 大正九年三月一五日 宗教学校校長認可取消の件に付き学務局長は校長処分案を提出し外事課長・警務局長も同意見にて結
局此の処分に致せし次第 外事課長を米領事ミラーに遣し此の処分に付き領事も十分諒承の由 アッペゼラーも悔悟の情あるも
只今直ちに復職せしめるは困難 現物市場の株の官吏割当の件司法側の捜査着手は総督府の威信にも関することなれは司法処
分は無論押ふべし
30 大正 年一〇月二五日 入江領事石黒第三部長入城 ショー事件に付き承り候 彼を此侭に致置き不逞鮮人を援助せしむるか如
き事ありては朝鮮統治上由々敷事 安東より退去せしめられ候様外相にも御話置き下されたし
31 昭和三(カ)年 月 日 渋沢栄一閣下の米寿を記念する為め青淵回顧録刊行会に於て編纂の子爵の回顧録御推挙申上候
32 昭和四年一〇月二二日 過般錦地へ出向の節の御高配御礼
33 昭和四年二月三日 人事の事が新聞に洩れ憂ふへき事と存候 併し記事通と存候か刷新上不得止事かと愚考 地方制度改正致
候事必要 朝鮮議会は慎重の研究を要する事に存候
34 昭和五年一月二三日 守屋栄夫君立候補につき御手許より御援助御願
35 昭和五年一月 日 今回総選挙に於て小生は守屋栄夫君を推挙 同君は小生多年の友人に有之 内務省朝鮮総督府に於て共に国
務に従事移植民政策社会問題に見識あり 御後援を切望
36 昭和五年五月二日 娘康子結婚に就て御祝の御品御贈与に預り御礼申上候
37 昭和五年八月二二日 瓜御恵与の御礼
38 昭和五年八月二二日 瓜御恵与の御礼
39 昭和七年五月二四日 鈴木総裁は固より協力 閣僚入閣を党より指名するか閣下の指名かは問題 高橋蔵相は留任と推察 内閣
書記官長・法制局長官の人選大切なること
40 昭和七年五月二七日 人事に付き朝鮮にて辛酸を共にし今日浪人のものの採用願上 白上佑吉を拓務次官に松村松盛は局長
に守屋栄夫を政務次官に御採用依願
41 昭和八年六月二日 太平洋会議に対する政府よりの補助額増加御願
42 昭和八年一二月五日 勅選の御詮考に井上孝哉も候補者の中に御加へ下されたし
43 年二月一五日 朝鮮学生の教育を目的とせる団体力行社の姜昌基紹介
44 年四月二日 選挙にて随分費用も要し鮮人保護懐柔等の費用も相当相懸り御憫察の上可然御考慮下されたし
45 年四月五日 丸山技師身上に付き適当の場所なき旨御来報拝謝 尚ほ将来の御心添依願
一四五九、 水町袈裟六
1 明治 年二月一七日 詳細なる御取調物唯今拝受 以書中奉表万謝之意候 多分十八日一杯には相済申すべし
一四六〇、 三田峻策
1 昭和八年八月一九日 小冊子「世界平和と日本精神」を刊行 御一読の上御高教賜はりたし「教育勅語」を「聖勅」と更め早
朝のラジオを通して全国に放送することを建言
一四六一、 三田亮太郎
1 昭和七年五月二三日 組閣に付き彼の鈴木喜三郎一党には決して御手を御就なき事願上
一四六二、 三田村忠国
1 明治 年一〇月二七(カ)日 師団長殿下御病気に付き甚だ相済さる次第なるも失礼仕候
一四六三、 三井熊太郎
1 昭和七年五月二五日 組閣に付きリベート事情に通ずる第一人者を中島久万吉男に求められたるは大に成功 中野正剛君を内
閣書記官長に武藤山治氏を大蔵大臣に登用進言
一四六四、 三井八郎右衛門
1 大正元年一〇月一六日 大将御昇進の御祝意としてシャンペン酒贈呈
2 大正二年五月三〇日 晩餐会への招待
一四六五、 満川亀太郎
1 大正九年四月一五日 月刊雑誌『雄叫び』発刊の挨拶 (付)満川亀太郎書翰 大正九年二月付 雑誌『大日本』と関係を絶ち
『雄叫び』と題する雑誌を発刊することの通知
2 大正一二年七月一〇日 離城後南北満洲に旅行 内地に於て満鮮といひ殆ど同一の土地なるかに連想致居るに拘らず在満邦人
の殆ど朝鮮に無関心なることに小生意外の感 在京朝鮮学生・労働者の群集するのあり朝鮮問題は一層の重功を加ふること疑
なき所
一四六六、 光谷栄松
1 昭和九年八月三〇日 松田男爵に御引見を得て塩田関係の事情御聴取頂き申候 松田閣下の案実施を見ば技術日本の誇りと強
味とを添へたる事に相成べし
一四六七、 三土忠造
1 年一〇月九日 満鉄総裁として梶原伸治氏推薦との由 梶原氏は民政党員とも申すべき人物にして且つ財界人として日銀正金
の外何等の経験なし 万一採用の場合は紛糾惹起を憂慮 篤と御賢察仰ぎたし
一四六八、 光村利藻
1 昭和六年八月四日 愚息利之本日木村様に委曲御願に罷出候処此際業務上の事は便宜致候へ共其以上御援助は出来兼との儀
に有之 当方営業計画打立兼ね進退に窮する次第 最後の御報告旁々御考慮願上
2 昭和六年一二月二九日 愚息併小生松本様に両三回詳細申上 小生現状の儘越年出来兼候事情あり
3 昭和七年一月一三日 松本様へ切迫せる事情申上御指図を仰ぎ候処其後閣下より御沙汰なし御懇諭頂きたく御高配懇願
4 昭和七年四月一三日 御配慮を蒙り候雑誌海軍省及海防義会よりの補助確定 全く閣下御援助の賜
5 昭和七年一二月二八日 松本様とも相談相願候事と相成に付き何分御援助願上 松本様御高話中の渋谷工場移転の件に付き御
高配懇願
6 昭和八年七月五日 東京府の工場移転補償に関して至急解決方御口添願上
7 昭和八年七月八日 工場の移牒目下取調中にて完了次第詳細言上仕るべく候
8 昭和一〇年一月一四日 御品拝領御礼 一昨日松本様に拝顔切迫せるに付き此際何分御配慮賜りたし
9 昭和一〇年四月一日 井出様へ御口添頂き御指図通り一両日中拝呈御懇願申上候
10 年二月二四日 本日木村氏に依願書差出閣下よりも御一書木村氏へ下されたく懇願
11 年五月二七日 去る廿二日川崎様に面会 株式を担保に川崎銀行にて当分額面全額御融通願出候処一応銀行支配人と御協議
回答致すべき旨申越
12 年 月七日 チヤボ卵進呈
一四六九、 三矢英松
1 昭和九年八月二八日 御染筆の儀御願申上候処墨痕鮮かなる額面拝受感銘の至りに堪へず御礼 粗品御受納下されたし
一四七〇、 三矢宮松
1 大正一四(カ)年二月九日 結局内乱罪として令状を出すこと便宜と存候 日露国交恢復に伴ふ用意として追加予算案に機密
費十五万円計上 永進学校引継のため日高氏の金策援助依頼 在満朝鮮人帰化問題小生国籍法朝鮮施行を当然と考へ居候へ共間
島を視るに左様に簡単に参らぬ事了解
2 大正一四年一一月一八日 延吉道尹への御返礼の儀相心得申候 阿部充家君と懇談 崔麟との話もきき宗鎮禹引入れにつき様子
を見てくれと申おき候 丸山・権藤・金性洙・申錫禹等と阿部氏歓迎の懇談会開催
3 昭和二年四月二三日 愈々御目出たく御出発 御高齢の上の御長途殊に御自愛の程願上
4 昭和六年七月二日 御退官につきては小生事情も弁へす只遺憾 御健康御恢復の上此上御貢献遊ぱされ候様願上
5 年 月 日 (名刺に書込)内務大臣は湯浅氏最上
一四七一、 南次郎
1 昭和四年一一月一八日 本日大演習終了 此の機会に御機嫌伺申上候
2 昭和五年五月二九日 (児玉秀雄宛)陸相留任に就ては総長殿下に累を及さざる様深甚の御留意必要 此の点は首相にも含ま
れ置かれたし
3 昭和六年一月一二日 在鮮中は御厚誼を恭し御蔭にて大過なく経過 厚く御礼
4 昭和六年六月三日 本日は篠田次官今村武部両局長の御来光を得て朝鮮関係の軍人等と共に懐旧談を致し閣下の御全快御帰
京を切望
5 昭和七年六月一〇日 福田大将の後に鈴木荘六大将を推挙 目前の国策は満州国の独立承認と在満機関の一元化に在るべく確
信
6 昭和一〇年一二月二七日 内大臣の重職御拝命の由に付き祝詞
一四七二、 南弘
1 明治四一年四月二四日 樺太庁長官更迭の件に就き御花押御願候処陸軍内務両大臣協議の結果楠瀬司令官先以て樺太庁長官
を辞任したる上転任のことに相成御了承願上
2 明治四一年七月四日 本日首相参内各大臣の辞表捧呈の処御沙汰有之候迄従前の通執務可致旨御綻有之候
一四七三、 嶺八郎
1 大正二年一一月三〇日 本年末は東洋拓殖会社総裁副総裁の改撰期 小生会社創立の首唱者として幹部の一人に昇任あるべく
山本首相・原内相には閣下より御話合懇願
2 大正七年一〇月一五日 (大沢隆ほか一六名と連名)仙台出身者今夕会食 茲に閣下の御健康を祈上
3 大正一二(カ)年一二月二五日 海外発展方策の成案東洋協会に提出し加藤正義・藤田四郎・浅田徳則と共に実行方法も研
究進行の処大震災と相成 結果東洋拓殖会社を改造実行方最も捷径にして又便宜なるべしとの意見 閣下より山本首相に対し御
推挙願上
4 大正 年六月一四日 日英合資に係るビール会社にて英独米の技師来社九月中には製品を市場に出し得べき事と存候フォン
カーライ総督在職二十八年間の拓殖的経営に付て東洋協会の機関紙東洋時報に数回に分ち連載する事と相成
5 昭和四年九月一七日 フォン・カーライ総督の統治方針並に施設に関する一般論御閲覧賜はりたし 昨日若槻前首相に大要を
懇話申上候 嘱托の件特別の御配慮賜はりたし 七年余東京郊外瓦斯事業計画に日夜奔走今回東京商業会議所会頭藤田謙一氏と
協定資本金一億円にて一大瓦斯会社新設
6 昭和五年八月四日 金千円御融通を辱ふし御懇情御礼 (付)念書 嶺八郎 昭和五年八月三日付
7 昭和五年一一月二三日 市来乙彦氏総代の郊外瓦斯会社・松方乙彦瀬川弥右衛門氏総代の近郊瓦斯会社・植村俊平氏小生等
総代の大都瓦斯会社悉く大合同を断行 近影一葉御恵与御願
8 昭和六年二月二日 先般願上の東拓関係に就き香椎氏常務監事として同社の整理並に発展に尽瘁せらるることに相成従て小
生は右に対する希望を絶ち申すべく恐縮の至
9 昭和六年二月五日 香椎氏常務監事たること菅原総裁も内諾の趣 小生多年の辛酸と困難を排し今の東拓を成立せしめたるも
報ゆらるるもの僅か 特に閣下の御配慮を煩したし
10 昭和六年四月二六日 篤志家より今後の運動資金に資すべく書画の提供あり 御閲覧の上多少に不拘御買上下されたし(付
1)若槻礼次郎他二六名連名書翰 昭和六年四月付 嶺八郎の事業に対する賛助依頼(付2)展観陳列次第
11 昭和六年五月三一日 高田力蔵氏及び福沢大四郎氏御引見願上 光村利藻に於て我美術を欧米に宣揚する事業は今回朝鮮京
城南山大神宮宮司谷村新尚氏に於て支配先般小生の後援会設立につき御帰京の節戌辰倶楽部に於て若槻首相と御歓談願上
12 昭和六年六月二七日 其節御願の満鉄入の件前内相鈴木喜三郎氏前鉄相小川平吉氏等にも御心配有之 閣下より江口副総裁
へ御書面にて御懇嘱依頼
13 昭和六年七月二七日 林伯爵新総裁就任に当り満鉄の新幹部さなくとも高級嘱托として採用方閣下より御話下されたし
14 昭和七年八月二日 閣下より林満鉄新総裁に高級嘱托への推薦の御一言を賜はる様願上
15 年一月二三日 今回の特許は金属防腐剤として世界的大発明に相成べく価額も従来の三分一内外にして効力は数倍 此上更
に十分の調査を遂げ翁を助け其の志業を成就せしめたし
16 年二月一七日 広沢伯に御紹介方内願早速御快諾下さり難有 新塗料に付ては目下原料を取寄せ製剤に着手する準備中
17 年二月二四日 育英会役員の件に付ては昨夜協議致し白石元治郎・今井彦三郎・志賀潔・菅原通敬・中川望・鈴木邦義・宮
城県書記官・玉虫一郎一・新保徳寿を予撰
18 年三月二七日 閣下御取計の結果豊川様には辻村氏を御延見下さり難有 辻村氏に於ては事業其物は特に支那開発機関とし
て有望且つ必要と認められ更に一歩を進めらるの御内意
19 年四月九日 豊川氏・辻村氏会談結局要領を得るに至らざる儀に付き小生等尽力致すべき関係もなく其侭に致したる次第
菅原通敬氏の日米信託会杜の件は小生も出来得る限り尽力致すべく奔走
20 年五月三〇日 菅原氏六月十六日桑港発帰朝の旨電報あり 菅原氏及び小生へ御後援御願
21 年六月九日 第三十八議会に提出の軍艦製造費時価・十六尹拾門を主砲とする戦艦の噸数・最新型戦巡の噸数・目下建造中
の艦艇種及隻数に関し御垂問につき拝答
22 年一一月二七日 海上保険会社の件にて益田孝氏に御紹介状一通拝受願上
一四七四、 嶺岸気四郎
1 年九月二四日 先般御巡社の由承り時已に御乗船の后にて残念 小子当社奉職以来岩本閣下を始め坂本林両幹事殿に御愛顧を
蒙り身に過きる待遇を辱くし居り精励御恩に報ゆる考に御座候
一四七五、 箕浦勝人
1 年七月二四日 金玉均氏伝記出版計画の金振九氏等紹介
一四七六、 美濃部俊吉
1 大正九年四月 日 朝鮮銀行創業十週年に付き謝恩の微志として屏風一双並に朝鮮過去十年間財政金融の状況と弊行治業概要
を記述の別冊贈呈
2 大正一二年四月二八日 御下命の趣問合の節は御趣旨に従ひ然るべく回答致すべし
3 大正一二年九月二五日 掛井理事は二十八日東京へ出張の趣 (付)和田財務局長書翰 斎藤実宛 九月エハ日付 朝鮮銀行支払
概算調査結果報告
一四七七、 三室戸敬光
1 昭和六年五月二九日 癩病根絶期成同盟会への御協賛依頼
一四七八、 宮井鐘次郎
1 大正一四年七月二七日 神道会の籍を離脱し「亜細亜新聞」を発行
一四七九、 宮尾舜治
1 昭和五年一月日 東洋拓殖会社事業地忠清南道論山産米多摩錦御試食下されたし
2 昭和七年一二月四日 貴族院入と資源局の二兎を獲るは不都合なる事情有之候はば貴族院の方のみ御心配願上候
一四八〇、 宮岡直記
1 大正一二年一月二〇日 三月廿日馬関発渡鮮の予定通知 総務局官房属員関戸辰馬君をして手前にて各地交渉方尽力を煩した
し 鮮地巡回の期限内パースの恩典に預りたし
一四八一、 宮川五郎左衛門
1 年一二月二二日 発電機の件は機算并に発電器一切取揃合計千五百キロ 今村知事初め当局にても賛意を表し居られ候も何分
衆議纏まりかね候状況にあり
一四八二、 三宅米吉
1 大正一四年一二月 日 全国中等学校地理歴史科教員視察団が貴管下の視察旅行に就て御配慮を煩し御礼
一四八三、 宮治民三郎
1 昭和六年四月八日 原耕氏と別紙の通り契約を締結 (付)契約書写原耕・宮治民三郎 昭和六年四月八日付
2 昭和六年四月二二日 原耕氏の件に付き御懇切に御指導を賜り感銘 爾後井出大将・井上雅二氏の援助を得て香椎氏の処に原
氏と共に出向
3 昭和(カ)六年一二月三日 原耕氏に付き御配慮相煩す儘にて打過ぎ御寛容願上 多年の素志実現の輪廓相整い経過と計画を
説明せる冊子を井出大将に御閲視 同氏より閣下へ転送に付き御一読賜りたし
4 昭和六年一二月三〇日 此度拙案を御精査賜り御厚情の程全く感銘 今後共御指導賜りたく奉願候
5 昭和七年五月一四日 外務省の小谷淡雲氏拙案に共鳴し通商局主務課長へ疎通の外大阪の野村徳七氏を拙案参与の資本家と
して勧説せんとの手順を致呉居候 同時に高橋蔵相へ御配慮を御願申置候
6 昭和七年五月二二日 組閣に当り松岡洋右氏を内閣書記官長に青木周三氏を鉄道大臣に御起用相成たし
7 昭和七年五月二六日 組閣完了の祝詞 拙案につき御高配を賜りたし
8 昭和七年九月二三日 海防安全保障の宿見御覧に供し候 後藤農相も松岡洋右氏の熱烈なる拙案支援に共鳴 日米漁業同盟を外
交に運用の件は既に拙計画を基礎とする日米太平洋漁業提携に対する外務所見を起草し通商局長の決裁を経て外相に提示の
機会を待居る状態 岡田海相にも十九日会見拙稿閲読を願上
9 昭和 年五月一八日 海防特種意見も大体の結論に到達 其大要を記録し本日別便にて送附 別冊は井出大将とは意見一致 支那
との事は水野梅暁氏に願居候 八代大将にも御示し申し岡田大将に御覧を得置き候
10 年四月五日 (中欠)閣下の高配の下に在朝鮮水産資本家原氏へ援助依頼 (付)斎藤実覚書 投資問題は六ヶしかるへきも
香椎は近く東拓総会に上京 御面会を依頼し置くべし
一四八四、 宮手敬治
1 大正七年八月二一日 米価暴騰の結果の暴動に対し政府は辞職の模様なし 憲政会の安達・浜口両氏が山県公を訪問し公も十
月迄には内閣は辞表提出と観測 後継についての官僚政党の動向報告
2 大正九年六月二二日 国際貿易博覧会出品者予想外に少なき由 尼港に於ける邦人虐殺問題は一般国民は冷淡後継内閣に後藤
男・牧野男斎藤男・田男の説 光永星郎日本電報通信社長が京城支局を牧山耕蔵氏より奪ひ取らんとのこと 閔元植氏総督府よ
りの補助運動を光永氏に依頼
3 大正一一年一二月二一日 高橋総裁に於ては来る十三年の総選挙は現在の加藤内閣の下に行って貰った方が政友会の為め得
策との意嚮あり 閣下の元帥説に関し記者仲間に誤解ある模様
4 大正一二年五月二〇日 対露問題をめぐり後藤子爵と水野内相との関係険悪 井上角五郎氏より私設鉄道社債保証否決は加藤
首相からの依頼との話あり 山路一善氏に対し海軍部内の評判宜しからず
5 大正一二(カ)年八月一一日 加藤首相の病状に関する医師・秘書官の話内報 病気と地租移譲問題を理由に首相辞職説があ
り後継内閣として第二次高橋内閣や中間内閣として閣下等が話題に上り居候
6 大正一二年一二月二六日 後藤内相対政友会の関係険悪 田農相辞職問題をめぐる田男の行動と政友会横田一派の行動とは政
界において問題の一ツ 後藤内相が大杉栄に金を与えたとの答弁に批難の声高し
7 大正一三年一月一一日 憲政擁護運動の裏面には横田一派介在併し党内の清浦内閣援助の主張を無視して反対の行動を執る
ことは不可能 殊に高橋総裁の辞職問題も起り一致行動は困難
8 昭和四年九月一九日 小生経営のアドヴアイス社の事業援助の意味にて一口加入と五ヶ月分の前金五百円御拝借依頼
9 昭和七年五月 日 山本男入閣を承諾せざる場合には永田秀次郎氏を内相に任命することが適任 内閣書記官長は丸山鶴吉氏は
不適任 柴田善三郎氏は政党色薄き点に於て優るものと存候
10 昭和七年八月一九日 パンフレット『国を挙げて困難打開へ』を枢密顧問官・貴衆両院議員・地方長官等へ発送
11 昭和八年三月一四日 柴田書記官長辞任に対する貴族院方面の意見を御参考迄に申上候 一、政府の寿命を縮めた結果を露
呈 二、小山法相・鳩山文相の責任問題も惹起 三、堀切新翰長は首相の為めに献身的に努力するとは思はれぬ 四、斎藤首相の
真意が判からない
12 昭和八年五月五日 浜田国松氏の意見御参考迄に申上候 斎藤首相が此の際三党首を招き合同して挙国一致内閣を組織して
貰ひたい その意思がないならば内閣を改造し難局に当ると披歴すれば国民は共鳴するであろう
一四八五、 三好徳三郎
1 大正一五年八月五日 小生台湾に永年在住し各方面より観察の結果である別紙御笑覧下されたし (付)大正十五年七月記
「(極秘)植民地総督に対する所感」
2 昭和八年八月一五日 揮毫依頼
3 昭和九年八月二三日 記念帖完成に付き御礼 別紙芳名録御送付 (付)厚誼記念帖芳名録
4 昭和九年八月三一日 台湾総督府評議会員辞任の挨拶
一四八六、 向井忠晴
1 明治四五年二月一九日 石炭人足英国全体に亘り罷工の決議出来て一大事と相成べき模様 日本にも何れ同様の労働問題相起
り申すべく注意必要
一四八七、 向井哲吉
1 明治二〇年五月一三日 哲吉の備忘記に付ては御断申上候 水雷試射検査表は会社のものと海軍に送付のものと同一 目今は硬
山大学の夏期学課に日々登校
2 明治二〇年六月一九日 御地海軍拡張の事は大に注目 本日日本より先年水雷伝習の為め伯府に在留の坂東氏より出信あり水
雷製造の事に付き数語ありき
3 年一一月六日 過年小銃銃身素鋼製造の重大なる責任を帯び製鋼所に転任以来煩悶に堪へざる折柄本年二月漸く各種検査に
合格すべきものを製出し欣喜雀躍
一四八八、 向井虎吉
1 昭和九年三月二日 大正八年三月一日より本年は正に満十五ヶ年 此日は各種の学校を通して多少学校騒動のなき年は無之 本
年は隣邦満州国帝政実施の日に当り之に刺激を受け鮮内不良分子の策動もあるべしと懸念し警務学務等は相当の注意を仏ひ
警戒仕り居候 学校に於ても暴動の心配仕り居候処全鮮各道とも此日極めて平静に過ぎ十五年来始めての一快事
一四八九、 向井弥一
1 大正八年一二月四日 御献上品服部敬一氏持参 目録相添へ原侍従と共に献上 (付)斎藤実献上品目録写
一四九〇、 陸奥広吉
1 大正八年一一月二〇日 侍従伊達多件身上の儀に付き御高配御礼
2 大正九年一月二六日 伊達多件義に付き御高配御礼
3 大正一四年九月四日 貴地方水害被害に対し雨潤会一千円の寄附を決議 為替にて封入
一四九一、 武藤山治
1 大正一三年一月一九日 国家の為め御尽力の閣下に愚衷の存する処を具陳し御諒知を請ひ置きたく別冊を贈呈
一四九二、 武藤信義
1 昭和七年一一月六日 御申越の多田氏引見の件拝承
一四九三、 村井吉兵衛
1 明治二七年一二月三一日 大将閣下無事御凱旋に付き桜樹壱体奉呈
2 大正一二年四月一八日 此度慶南道昌原郡進永所在小生所有の村井農場へ態々御光臨を賜り感謝に不堪
3 大正一四年四月一三日 御陵爵祝詞
一四九四、 村井知至
1 昭和 年九月一日 揮毫御礼
一四九五、 村上格一
1 明治二四年一〇月一日 水雷日誌改正草稿の乙号返付方御取計希望
2 明治二七(カ)年三月一二日 吉野号水雷兵払底にて閉口 東京湾着の上増員の上申致したし
3 明治二九年八月一〇日 (前半欠)予定航路表至急御通知願ひたし
4 明治三六年一一月一五日 十月一日仁川に於ける我居留民と露国水兵と争闘に関し公務として不面目なる点ありワザと私信
を以て報告 遺憾乍ら右紛議に就ては我居留民の方に比較的同意し難き行為多し
5 明治三七年二月五日 仁川に露艦隊陸兵連れ来る場合の処理法につき指揮を乞う暇なきときは上陸を拒む可きや否や此事ま
だ御指令に接せず 領事一時傍観するより手段なしとの意見 常識ある軍人の忍んで為し能はざる所
6 明治三七年六月二〇日 出征艦隊へは恤兵金を以て砂糖葛粉配付により口腹を充たさしむるも必要なれども一方神心の快楽
を与える蓄音器・幻灯機械の如きものは如何
7 明治三七年七月二八日 二十二日の不測の災害に付き遺憾に不堪
8 明治三八年八月一五日 教育本部第一部長赴任の挨拶
9 大正二年一月二五日 内地製銑鉄の購買規格を改正 大館造兵総監後任に関し小粟大佐より内聞し来るに付き瀬戸総監が宜し
からんと拝答 本部長は依田少将再起の意見なる旨
10 大正一三年二月一二日 旭日桐花大綬章授与の通知
一四九六、 村上鎌三郎
1 昭和五年八月二二日 会社解散に依り空地百八拾坪御下領の趣感謝
一四九七、 村上敬二郎
1 明治二一年四月二一日 仏国・伊太利・澳国での鎮守府・軍備・制度等についての巡回調査所感
一四九八、 村上敬次郎
1 明治 年 月一一日 別紙の通申越に付き御面会願上 (付)発信人不明書翰 村上敬次郎宛 一一日付 小生も臨時県会迫り帰県の
不得止儀もあり次官に可然御取持願はれ間敷や
2 明治 年 月 日 鉄道敷設法中改正法律案・予定鉄道線路中私設鉄道会社敷設許可の件に関する法律案ともに握り潰しに相成や
にあり 徳島線は倒るるにせよ舞鶴線は是非成立することに海軍大臣閣下に上申致したく御意見拝承希望
3 大正元(カ)年一二月八日 勅選議員平山氏卒去 補欠御奏薦の場合渡辺氏希望
一四九九、 村上俊蔵
1 明治四四年三月 日 白瀬中将一行南極に進航 南極探検後援会会長大隈伯指導の下に民間の義金に依り事業の遂行を期すも到
底義金にては貫徹を期するに困難 大隈伯より直接桂首相に宛て陳情書提出 国庫補助金御下附に付き御配慮懇願
一五〇〇、 村上唯吉
1 大正九年三月二〇日 朝鮮総督府より経済方面の嘱托を受けハルピンに於て国家の為め御奮励の加藤巡吉君紹介
一五〇一、 村野常右衛門
1 大正二年一二月二一日 芝公園三緑亭に於て本会議員懇親会開催に就き御来臨仰ぎたし
2 大正一一年八月二四日 大日本国粋会総本部後継会長に大木伯より磯部四郎を通して相勤むべき旨相談あり辞退するも高橋
光威氏副会長承諾に付き会長に就任の次第
3 大正一五年七月一〇日 細田貞行氏朝鮮に於て水晶発見採堀に着手 御引見願
一五〇二、 村山竜平
1 昭和四年九月一一日 内地と朝鮮及満洲とが始めて定期飛行機によって連絡されるに当り第一便に托して御喜び申上げます
一五〇三、 室田義文
1 昭和四年一〇月二四日 朝鮮鉄道会社の件は何等記録もなく前総督総監自から高等政策的案として取扱 総督府の至高の断案
が何等か不明事由にて有耶無耶に葬らるるは頗る遺憾 (付)斎藤実電報写ヵ 山梨総督公然調訂を試みたる事実認め難く立入
交渉し難し
一五〇四、 目賀田種太郎
1 大正一〇年一二月六日 朝鮮の葡萄は該酒製造に適したるもの 三輪善兵衛氏御引見該趣旨徹底の機を得候時は朝鮮の一産物
と相成べし
2 大正一四年六月二〇日 海軍協会第八回定時総会案内
3 年一〇月九日 永年米国在勤の来栖総領事現今は書記官拝命御紹介
一五〇五、 物集高見
1 昭和二年三月一日 御面倒申上候ところ早速御承諾下さり御礼申上候御下命に依り絹地持参御序の節宜しく御願
一五〇六、 持地六三郎
1 大正九年三月一四日 今回朝鮮統治非常の難局に当せられ鮮地官民一同感佩謝恩
2 大正九年六月一九日 今回小子退官に際しての賞与御下賜御礼 入京以来省巣選定に奔走漸やく表記の処に決定
一五〇七、 望月小太郎
1 明治三九年九月七日 英文通信を相試み目下内外に発送中 御通覧の栄相蒙候はば幸甚
2 明治三九年九月一二日 大要英文発刊万一不都合の点有之候はば印文訂正
3 明治四〇年五月二六日 拙著「現時の日本」両陛下に奉呈御下賜金拝戴 閣下御後援の結果と御礼
4 明治四二年八月二日 実業家一行と共に米国へ配送候英文『日米』一部供尊覧候 尚スペリー提督事務の記事は御一瞥切望
5 大正二年八月六日 (封筒は大正十年九月五日付)先帝陛下に対する世界の評論を蒐めた「世界に於ける明治天皇」拝読の
栄を蒙りたし
6 大正一〇年九月五日 別呈『軍備制限と日米関係』の趣旨を米国に徹底致したく渡米の覚悟に就き御一読御指教願上
7 大正一二年二月七日 日露通商開始速進に関する建議案提出致置候 政友会革新倶楽部も多数共鳴者あるべく確信鮮人救済の
為には必要 非公式に打明話賜りたく希望
8 大正一二年二月二〇日 御高説拝承感謝 御返事不申上候段御海容下されたし
9 大正一三年二月一五日 帰京の節拝訪の事切望 外交問題卑見一読の栄賜はりたし
10 大正一四年九月二二日 明治天皇御紀事に関する原文は一部もなし 邦訳一部有之侯由にて帰京の上尚心当り相探候(付)
望月小太郎電報総督宛 大正一四年九月二一日付 原文東京に無し探し次第送る訳文だけ送った
11 年九月八日 「日米」紀念号今回第二版附録として内外諸新聞の評論を集め印刷一部進呈
一五〇八、 望月滝三
1 昭和五年五月六日 小生退官後始末完結大に安意 今後も御看顧御叱責を願上
一五〇九、 望月保
1 大正(カ)一〇年一二月二〇日 閣下何卒あの哀れな乙女を救ってやって下さい 私が一生懸命働ゐてきっと御恩返しはいた
します
一五一〇、 餅原平二
1 明治一八年一一月一二日 八月上旬より欧洲大陸巡回 スウェーデンにてノルデンヘルト氏発明の水中潜行水雷艇の試験一見
の後去る七日ニューカススルへ帰着 御送付の水雷書籍湯地氏より請取
2 明治一九年一月三一日 水雷事件に関する事御通知下さり万謝 浪速艦工事も渉取り大砲試射施工ありしもビーム折れ修復中
拙者帰朝の上も水雷に関する米国の書籍御送付希望
一五一一、 元田肇
1 明治年一〇月三一日 弊党政務調査部に於て第一期第二期軍艦製造成功の順序等取調たく閣下に相伺たく懇願
2 昭和八年一月五日 衆議院議員根本正氏に特典を以て叙位の恩命に浴せしめ候事願出
3 昭和 年一一月三〇日 宮尾舜治の経歴鄙見にては国務に貢献したること少からず 僚友は多く貴族院に列し同人は未だ恩命を
拝するに至らず御一顧を希望 (付)(メモ)元京都府知事京都市長現今錦鶏間祗候済生会理事長馬淵鋭太郎 (付2)(木辺
孝慈名刺)勅選希望
4 年七月一八日 小生知人高橋〓洋御引見の栄を賜りたく申出
5 年一一月八日 小生知人川崎已之太郎氏紹介
一五一二、 本野一郎
1 大正七年四月一二日 「在本邦新任外国大使訪問並に答訪に関する件」 (付)「内外人主催の集会に於ける席次改定に関す
る件」大正七年二月一五日付
一五一三、 本山彦一
1 大正九年一〇月三〇日 友人平川清風著「支那共和史」贈呈
2 大正九年一二月二二日 過日は御鄭重なる御饗応に預り御厚志深謝
3 大正一一年一〇月一三日 貴地にて御招待御饗応に預り奉謝視察上便宜を得御礼
4 大正一四年六月八日 今般京城毎日新聞支局長更迭に付き大森一多就任 閣下に拝謁を懇願
5 昭和二年一二月二〇日 今般総督御勇退は国家のため一大損失 閣下の善政が内鮮融和の上に貢献大なりしは万人の認むると
ころ 閣下には枢密顧問官御任官との事大慶至極
6 昭和四年一〇月二一日 大田・裡里より木浦・麗水・晋州を経て明日帰途 今関氏支那事情通信御示し下さり深謝
7 昭和五年二月一四日 朝鮮名器神仙炉・螺鈿菓子器御恵贈御礼 旧臘英文社説の儀に付き御申越下さり恐縮尊書拝見の前日既
に取消訂正の社説を掲載 大毎本紙の社説の訳者が朝鮮の事情に暗く斯る間違を生じたる次第
8 昭和五年一〇月六日 日高丙子郎を東亜調査会委員居留民協会事務嘱托に取極 光明会事業や日高一身上に付て充分御指導御
援助懇願
9 昭和五年一二月一五日 今関寿麿氏と懇談し東亜調査会関係に付き諒解を得置候 今関氏の事は東久邇宮御附へも申上先般御
指示の日高氏の件は一段落付き近々交渉相重ね申すべし
10 昭和七年一一月一七日 別便を以て御届の柿閣下の御賞味を得ば幸甚
11 昭和八年二月一日 先代本山彦一忌明の挨拶
12 昭和八年二月一日 先代彦一の忌明につき挨拶 満中陰志を廃し慈善団体社会事業団体病院学校等の公共機関へ寄附
一五一四、 茂原鋭一
1 大正一四年五月一〇日 委任状拝受手続完了 土地組合解散の総会本日内には決定の運 宅地契約は希望満員の状態ウリマクの
部分贈与並に故放地変更の手続昨日完了 当農場隣接地に飛行場出来村内紛糺
2 大正一五年二月一七日 二十三日当地発道庁造林会社長を訪ひ二十七日中に着京仕りたし ウリマク農場の件も解決吉村課長
へ追徴金納附の告知書並に指令早速送付を依頼 (付1)吉村電報 茂原鋭一宛 大正一五年二月八日付 許可せらる弐百八拾六円
(付2)吉村書翰 茂原鋭一宛 二月九日付 指令発送は二三日遅候哉も難斗こと
3 大正一五年五月九日 農場売却の噂に小作人十ヶ年賦にて売払方請願 今後相当運動致すものと思はれ候 二日附尊翰価格参拾
万円は折衝困難 偽電偽書の使用者なしとも図られず本便より文書に番号を附し電文に当日の日附を暗字にて挿入
4 大正(カ) 年一月二一日 (前半欠)収支決算表及証拠類(小包にて)提出 十五年度予算書並に事業予定書は数日後に提出
仕りたし ウリマク未墾地放牧地変更許可見込にて本年検査に合格せば全農場御所有権確定道庁技手来訪邸宅南方の樹林地帯
を民有保安林に編入すべく実測致したしとの由
5 昭和二年四月七日 (前半欠)職印は閣下御手許に有之候哉伺 下士幌土地組合誓約書は私代人として提出音更土地組合は二
月廿七日附解散認可の指令あり 道路寄附の書類は土木事務所にて作成送達の由 音更農場分劃売却に就ては未た具体的に交渉
進まず ウリマク購売地は価格に就き折衝を重ね債権者に交渉も致し奮闘中 (付1)購売せんとする土地等の略図 (付2)斎
藤実覚書 金壱万四千参百八拾七円弐拾壱銭二年四月廿一日渡
6 昭和二年六月一〇日 連隊移転運動の為め上京 親族会議の結果の思召にて移転登記終了 ウリマク買入地に就ては一切の登記
を終り全金渡済 音幌小作料引上問題は案外故障なく進捗 千葉隆様より粟種御送附相受け直に播種 拓殖鉄道役員改選大に面目
を一新
7 昭和二年一〇月二四日 来る十一月二十五日音更市街へ転住の上旧住宅拝借御許可願上 明廿五日第一回小作料を徴収すべく
本年は一厘の減免を許さず (付)小作証書
8 昭和二(カ)年 月 日 閣下近く御渡欧の趣御受諾の御決心につき感泣 故景雄様名義地を会社名義に書換は下記書類必要 当
方にて作成可能のもの以外御調製煩したし(後半欠)
9 昭和三年七月二一日 倉庫会社定款草案並必要書類仰裁仕りたく御叱閲願上
10 昭和三年七月二八日 農場畑地買受希望者として役場勤務土地組合吏員来宅 或程度迄は候補者と認めて宜敷からんかと愚
存 倉庫は茲週日中に全部完成仕るべくも田近氏が道会議員選挙の運動員となり欠勤勝にて誠に迷惑千万
11 昭和三年八月一九日 倉庫経営資金難有拝受作況に付き報告 昨日畑地売買問題にて役場土地組合吏員交渉開始致し七分通
進捗 (付)郵便物配達証明書 昭和三年八月一九日付
12 昭和三年九月二一日 (郵便物配達証明書)前記郵便物は三年九月二十一日配達を了し候
13 昭和三年九月二一日 (千葉隆書翰)十二日附御尊書拝承 会杜払込済金額は合計拾五万六千弐百五拾円貸借対照表及損益
計算表別紙の通 遅植の分は収穫見込なき分に対して地税免除の模様 (付1)昭和二年度損益計算表・貸借対照表 (付2)茂
原鋭一ヵ書翰 朝鮮に本社を有する当社への地方税賦課は不合理 (付3)斎藤実覚書ヵ 朝鮮に於ては本店を朝鮮に置く会社に
は所得税を課せられる
14 昭和(カ)三年九月二二日 金参肝円御直送御礼 本月中旬頃営業開始の見込 天候気候に依る減免余儀なし 税金に関し御命
達賜りたし 戸沢博士よりの朝鮮松栽培心得御恵送御礼
15 昭和三年一〇月二五日 武村の詐欺的行為に泣かされある附近農家及小作人が担保の土地買入を嘆願も言下に拒絶 音幌農
場収支報告 林業試験場戸沢様より松の実御送附を受け苗畑を築成 倉庫は本月一日開業の運び (付)戸沢又次郎書翰 茂原鋭
一宛 昭和三年一〇月一五日付 先に送達の朝鮮松は恵山鎮産にて後より御送りしたるは抱川郡産 埋蔵播施共区別して施行下さ
れたし
16 昭和三(カ)年一〇月二八日 土地売買問題にて別種の人物来宅十八万九千円を以て契約出来候はゝ其様に致したし 倉庫
合名会社の建築物備品什器は之等を下飯坂様出資分に含め該建築物を合名会社にて買受と致し置き差支なき哉 寺院寄附地登
記に付き書類に捺印願上 (付)「覚書」昭和三年七月一七日
17 昭和三年一〇月二七日 本年ウリマク成績は昨年度に比し梢良好 従来貸金小作料未納の者も大部分入金拓殖鉄道去る本月
十日新得より鹿追市街迄開通 昨年斎藤金助氏外二名への高台未墾地土地売却残金本月五日受領 既墾地第一年分は四日に受領
18 昭和四年一月一八日 別紙拝呈仕候間御査閲を願上 決算資料受取書類は明日小包を以て発送
19 昭和四年一月二一日 本日領収書類一括御送附 元景雄様御名儀より会社名儀に変更せし畑五町歩購買申込を受け申候処壱
千七百円にて決定
20 昭和四年二月一日 倉庫経営詳報其内必ず御高閲相仰候 北海道拓殖鉄道会社昨年十二月新得駅鹿追市街間開通別に帯広駅
と音更駅の中間なる木野駅より鹿追市街に至る新線敷設を其筋に請願し許可を得たる由該線開通と相成らば貨客は激減し音
更市街は一層の不振を惹起するは明らか (付1)『十勝毎日新報』昭和四年二月一日付記事「木野鹿追間鉄道と十勝拓殖鉄道
の計画」 (付2)鉄道線略図
21 昭和四年四月七日 倉庫・農場の状況報告 東北海道産業共進会への寄附金壱百円位は止むを得ず 消防番屋並ポンプ倉移新
築の寄附金として壱百円醇出御允許願上 農産物検査所移転をめぐり移転派並に村長等の策動陰険卑劣 (付)市街地略図
22 昭和四年六月五日 鹿追役場並同地主会より回附の委任状に捺印願上 音幌農場五町歩売買を終え壱阡七百円受領戸沢林業
試験場長より拝受の松種昨今発芽 倉庫は近来寄託物激減 農産物検査所移転問題につき生産者大会を開催し受検組合を組織
23 昭和四年七月五日 前便に十日頃上京拝顔御願申出候処倉庫の精算復雑を極め拝顔の儀は十八日頃に御差許を蒙り申したし
24 昭和四年九月一五日 中村理三郎より依托せられし安田辰吉郎と交渉に移り十四日を以て別紙契約書の如く締結(付1)茂
原鋭一電報 斎藤実宛 昭和四年九月一五日付 昨日契約終え明日一部取引(付2)茂原鋭一電報 斎藤実宛 昭和四年九月二七日付
契約コウセイを終えました
25 昭和四年九月一八日 (電報)本夜発二一日音更着の予定
26 昭和四年九月二〇日 御指令の津軽ヒバ売約仕り小館木材株式会社より製材の上御邸宛運搬致させ候様指示
27 昭和四年九月二二日 (電報)只今帰着御届す
28 昭和四年九月二五日 書類早速御送附恐懼 廿七日には手金の授受公正の履行完了 廿四・廿五日には土地処分に対する方針
経過等につき小作人に説明 暫くは対小作人問題にて波欄も覚悟 (付1)茂原鋭一書翰斎藤実宛 二六日付 (追伸)十勝新聞に
別紙記事掲載 右は事実らしく有之 (付2)十勝新聞ヵ記事切抜「音幌農民組合創立」 (付3)茂原鋭一ヵ書翰 (追啓)本社
本年が存立期間満了御調査の上御一報願上 (付4)茂原鋭一書翰 斎藤実宛 報酬金頂戴の仰出給はり感激
29 昭和四年九月二〇日 郵便物受領証(付)郵便物配達証明書 昭和四年九月二五日付
30 昭和四年一〇月七日 土地売却問題につき此間小作・帯広のブローカー・三文記者・農民組合十勝支部員等躍動致し其の紛
煩極度に達し居れり 昨日買人安田・私・小作代表・高等主任派出所巡査部長等拙宅に会し折衝の結果第一段解決 (付1)斎
藤実覚書 第八千四百六拾五号 公正証書正本 公証人蝦名熊
三 (付2)茂原鋭一電報 斎藤実宛 昭和四年一〇月一四日付 総裁の話にて金融不能の理由諒解したる故明日帰途につき途中札幌にて
拓銀に交渉入間野様の紹介を願ひました
31 昭和四年一〇月三一日 銀行借款運動につき勧銀は見込相立ち申さず拓銀にて借入計画 御返送の電報・陳情書・決議書は
昨二十日の会見の際小作代表に手交 無智蒙昧なる彼等の所置実に唾棄すべきもブローカー式運動費稼ぎの煽動の術中に墜り
たる彼等も亦憫れむべきもの
32 昭和四年一一月七日 本売買に関し特高部長・小作側・安田側・私等にて協定協調に立到るも本日小作側は契約より買受要
望に転化 小作代表者上京の風聞に付き可然処理願上 小作側は売買契約破壊方有利となしブローカーは演説会新聞買収により
私へ中傷誹諺恐喝
33 昭和四年一二月九日 農場処分に対する小作人の妄動並に取巻連の策動唯々呆るゝ許 電信暗号改正 安田よりの入金一時倉
庫の方へ拝借 二十九日出発一日着京に付き御都合伺 (付)千葉隆書翰 茂原鋭一宛 一二月四日付 農場処分をめぐる小作側・
買入側との交渉の経過報告 別紙委任状への捺印返送願
34 昭和五年(カ)二月二一日 本日上野発渡道第一回整理完了を期し居申候 市街地処分五万円以上に処分致したき方針 ウリ
マク農場も二万二千円以上に相纏まり候模様の際は処理致すやも不図
35 昭和五年三月一日 安田との折衝の結果は予想よりも不首尾 此際余りに強硬に契約破棄を仄めかすことも如何と考へられ
安全確実と認め得る程度にて先方の嘆願を容認
36 昭和五年三月六日 折衝にて安田側は報酬金の減額を懇請し一銭の金すら提出せす余りに不徳義の仕打のため音更へ引返
契約に係る残金支払の催告状発送し一般経過に対する鑑定を弁護士に乞ふ積
37 昭和五年三月一八日 ウリマク農場は寧ろ御処分如何かと存候 市街地宅地につき坪当五円にては到底折衝困難 合資会社解
散に伴ふ従業員の処置も其の執務状況其他を斟酌の上愚案提示 戸沢又次郎様に昨十六日御目に懸り詳細申上
38 昭和五年三月三一日 安田側との契約書記載の条件中一万円は受領済にして三千円は本日受授致し該二千円は四月十五日支
払と約束 市街の一括処分は稍困難の模様
39 昭和五(カ)年四月一四日 安田側が三千円入金不履行につき内容証明督促の結果昨日漸く入金 市街宅地に関し借地人組
合代表と会見愈具体的折衝開始 ウリマクにつき山田小太郎再々来宅大体の見積を提出
40 昭和五年四月二〇日 御提案に同意 ウリマクの方も具体的に進めは承りたし
41 昭和五年五月一二日 安田との売買関係は本月中に全額完納との先方の懇願止むを得ず承諾 市街地の方は借地人側にて迚
も問題にならさる廉価分譲を希望致し交渉に腐心 ウリマク処分につき池田長官に拝顔御願等致したく紹介状御下賜願上
42 昭和五年五月二九日 安田側の件進捗仕らず焦慮 市街地借地人組合との折衝は村会議員選挙のため一時停頓 ウリマク全農
場は最低額確定の見込もつき運動並に処分に取懸りたし 村役場が安田に対し取得税不納を以て差押との噂あり 会社解散は尊
示の通御決行願上 拝借の土地売上代金決算期迄に御返済
43 昭和五年六月五日 長官に御都合伺置き御返事次第出札 安田と拓銀の関係内探のため拓銀本店に参り調査 北門銀行出張所
設置運動中絶残念 市街地に就ては総会にて無利子三円五十銭以上には絶対不買の決議
44 昭和五年六月一八日 ウリマクに就いて開墾課畑長松氏円子定氏と打合評価額四万円を降ること無き模様 鹿追役場よりの
申越に関し戸籍謄本一通御送附願上 市街地の件別紙切抜の如く借地人意見百出の由 安田側拓銀に土地台帳提出 会社名儀変更
の分は昨日分筆登記を終了 (付1)昭和五年六月十七日付 新聞記事「最後の協定を図るべく借地人大会を開く」 (付2)畑
長松書翰 茂原鋭一宛 六月一〇日付 過日の御高配感謝 土地は全部採用可能と打電
45 昭和五年七月二日 道庁に対しウリマク全農場売却承諾の旨回答 今回の処分は最適最良 市街宅地は細目の協定を終へ仮契
約書作成 安田につき愈々の場合は契約破棄の上担保地を当方に帰せしむる考
46 昭和五年七月六日 本日入間野様分印鑑拝受 本日より拓銀鑑定員調査 八日には道庁よりウリマク処分地の分割実測のため
技手人夫等来場 十日には審査委員等来場視察価格等審査
47 昭和五年七月一三日 ウリマクに就ては道庁審査員現地視察心証頗る良好にて九分通迄確定 市街地は本月十日契約締結 手
金として受領の金員御送附申上候哉御指令奉願(追伸)ウリマクに付き池田閣下へ宜敷御配慮御願下されたし (付1)茂原鋭
一書翰 斎藤実宛 七月二二日付 審査委員会は反当平均七円三十七銭に落着と考えられる旨開墾課長の談あり 安田を拓銀に同
伴の上前後の経緯立会聴取市街宅地は二十五日頃公正証書作成の積 (付2)茂原鋭一書翰 七月二三日付 (追伸)今朝管理組
合長より未契約の宅地買人決定との報告あり
48 昭和五年七月三〇日 借地人組合代表者と共に公証役場に参り五日頃売買双方調印の事に取極 ウリマク分割実測は本日終
了 安田関係も八月末迄には完了を確認
49 昭和五年八月一七日 本日千葉隆様より精算人印鑑証明書拝受 ウリマクに就いて道庁より通知あり承諾書提出 田近村上両
氏に解職辞令相渡し候 安田の方も本月中には解決
50 昭和五年八月二六日 十一月末宅地移転登記の際委任状・印鑑証明書調整御捺印等御願の所存 安田の方は拓銀にて書類を
帯広支店に回附の趣にて近く取引完了 村会議員並に有志来訪し故仁礼中将の記念碑建設の為め邸内並に周囲の土地家屋の村
への寄附を申出
51 昭和五年九月一五日 宅地売買契約公正証書去る十二日作成調印 元小作人中九名自作農創設低利資金借入方道庁に請願の
処今回三万一千円貸付確定 邸宅並に敷地原野畑に就ては山田小太郎が竹中祥皓を同伴し一括買受を口約 ウリマク立木は未た
買人出来ず焦燥
52 昭和五年九月二三日 邸宅其他の売買契約本夜締結 安田方面に就ては拓銀より各買受人に対し貸附価格通知あり
53 昭和五年九月二九日 安田方面は不遠完了の見込 ウリマク立木並に事務所の処分に付ては名案考究中 仁礼中将閣下記念碑
建設も当邸内建物敷地無償寄附の好餌に過ぎざること明らかと相成り唾棄の外なし 松苗に付き御懇示拝承 上京の際鉢植に致
し御目に懸けたし
54 昭和五年九月三〇日 去る二十五日岩発谷汲観世音御分身請祀運動並に交渉等の為め岐阜県楫斐郡谷汲村を訪問 当邸宅並
に土地買受人なる竹中祥皓氏より来電あり其経過内容は不明なるも大略成功の様察せらる
55 昭和五年一〇月二日 一昨日藤村・平山来宅し元小作人九名安田とは別箇に貸附金到達迄支払方猶予を申出 相当の利息を
附し猶予致しやらさるへからさるかと考居 安田側より右肩替の方法願出の節は御指令願上
56 昭和五年一一月九日 閣下・斉様・入間野様の白紙委任状各二通宛頂戴致したし 安田関係は幾度督促せしも五日待て十日
待てと嘆願 市街地第一回支払金に付ては月末迄は止むを得ず猶予と愚考 竹中との売買も土地代金入金延期方嘆願申出あり
(付)茂原鋭一ヵ書翰 斎藤実宛ヵ 御願の委任状拝受 ウリマク立木に就き昨日来買人と交渉開始も到底予期の価格を以て売買
困難(後半欠)
57 昭和五年一一月二〇日 (前半欠)安田の残金利息並未登記残地処分に関し山本・山崎に催促 市街の方は周囲の農家の支
払なく大窮乏 倉庫に付て今後の処分方針御高示相仰ぎたし 竹中関係も関係者に四月末迄に入金方強硬に厳談
58 昭和五年一一月二二日 病気回復の経過報告 ウリマク立木並家屋二千円にて売買成立 ウリマク小作人来宅小作料半納願出
竹中には四五千円年内又は四月頃迄に入金せしめ不能ならば二千円の手金没収のこと山田小太郎と相談 安田の件も東部十勝
浦幌の資産家と売残り地買受の交渉稍色気ある趣
59 昭和五年一二月一日 ウリマク民有未墾地登記委任状に御実印頂戴御願 小作料の徴収等に関し小作人と六時間許交渉方策
相附き申さず 安田残金納入遅滞小作人九名の納入金は本年内に授受済と相成かは稍疑問竹中に関する土地邸宅売買に就ては
本月迄に解決困難の際は観音関係者と更に契約の愚存(中欠ヵ)
60 昭和五年一二月四日 私儀疾病への御懇配御礼 ウリマク立木買売契約書拝受 精算人身分抄本・精算後の金員送附天井板並
に戸扉等御届に付き連絡
61 昭和五年一二月一二日 ウリマク処分に就て入地の方針並金員につき道庁と協定年内完了取引済の様努力を慫慂 差金徴収
は重大不祥事を惹起するの虞あり差金取方絶対禁止を事務担当の杉山に厳命し道庁より買人へ差金要求に断然不応の事発牒
を要請
62 昭和五年一二月一六日 私儀疾病に付き御仁情深謝 委任状拝受 十四十五両日小作人並に買受人招致閣下の御思召宣明分筆
登記の年内処理につき税務署長に面会懇願漸く十三日完了 安田の件年内未了の節は適宜の処置を取りたし
63 昭和五年一二月一七日 土地売買委任状百拾通拝受 千葉隆様よりも会社登記抄本百拾通拝受 天井板並に戸扉二枚尊示に依
り直に発送の段取
64 昭和五年一二月二八日 安田辰次郎より残金の利子・税金立替並に特別贈与を一万円に減額の願出 ウリマク許可指令に付
き聞合はせ候処明年一・二月中に完了の様努力と返電
65 昭和五年 月 日 東北拓殖倉庫合名会社「第二期決算報告書 自昭和四年七月一日至昭和五年六月丗日」
66 昭和六年一月八日 昨年度決算別紙の通につき御叱閲願上 倉庫は買人の捜索困難にて其の方法も亦慎重を要するにつき唯
今より種々画策 倉庫会社の現状にては流動可能の資金微少につき拝借の金員暫らく御猶予給はりたし
67 昭和六年二月一〇日 安田関係・ウリマク経過・市街残地並に邸宅は一向に進展の模様なし 暫らく御寛仮願上
8 昭和六年四月二三日 道庁開墾課より立木売買に関し当方の権益を高飛車的に躁躪せんとする照会文並に土地売買契約に附
属の附帯契約を強要 音更村長伊福部利三氏並に舎弟より自作農資金中安田よりの債権譲受の取引完了の旨電報あり (付1)
伊福部電報茂原鋭一宛 昭和六年四月二一日付 資金授受完了 (付2)発信人不明電報茂原鋭一宛 昭和六年四月二一日付 取引無
事済んだ (付3)茂原鋭一電報 斎藤実宛 昭和六年四月二二日付 音更村長舎弟より自作農資金の授受終る旨電あり (付4)茂
原鋭一電報 斎藤実宛 昭和六年四月三〇日付 資金音更よりつきました
9 昭和六年五月三〇日 別紙道庁より来信あり御高覧仰ぎたし
0 昭和六年六月二〇日 (前半欠)既許可の廿六名分の登記は本月末までに終了せしめ私参庁代金受取り未決十五名分は七月
中に取引完了せしむること決定
1 昭和六年六月二五日 蕨少々御目に懸け申したく御吟味願上ウリマク買人未定の分は札幌にて促進方依頼猶支庁にても依頼
谷汲観世音分身勧請に就ては唯今の処御分身の当地奉安は絶望の状態
2 昭和六年七月二七日 音幌ウリマク両農場整理の大業思ふ様に進捗せず事態一段の困難を増すの折柄閣下の御健勝を唯々至
願
3 昭和八年八月一四日 札幌にて那須氏訪問詳細説明依頼し那須氏は今後の捜索方快諾 丹陽趙星九より書面到着同地方水害に
て田畑相当の被害ありとの旨申来 当地に於ては観音御分身奉迎の気分昂進の趣
4 昭和八年一二月一八日 税公課に充て候金員拝受 剰余は取得税又は出張費等に振向 西氷庫鉄道構内借地の件に付き委任状に
御捺印依頼 平沢秋収十日を以て終了趙星九の報告に依れば丹陽本月末徴収完了の由御紹介の吉田鉄道局長には月末又は新春
訪問と愚存
5 昭和九年七月九日 別冊趙星九・李容玉との舎昔契約書尊閲を給はりたし趙星九との契約による昭和八年度舎音報酬御裁許
給はりたし 舎音契約期間は趙星九四年李容玉三年迄と致し李容玉の報酬は産出せる藁の半量を以て充つることと致し候(後
半欠) (付)斎藤実覚書 昭和八年分趙星九報酬金茂原氏へ送金平沢肥料代李容玉氏へ支払の為め茂原氏へ送金
6 昭和九年九(カ)月 日 丹陽郡庁移築に関する寄附金弐百円は丹陽郡守張〓氏宛に御送附冀上 李容玉より要請の肥料代金追
加金は御承認を給はり李容玉氏宛御送附願上(後半欠)
7 昭和一一年一月七日 丹陽土地買却如何至急御指図冀上 平沢小作料は昨年度に比し実石数増加 農地令より蒙る地主の損失相
当あり 三坂通土地契約につき委任状御送付給はりたし 西氷倉庫・上仁川土地に関し御尊示願上(中欠ヵ)平沢籾売却如何御
指令願上 (貼付1)斎藤実電文写 茂原鋭一宛 一月一一日付 丹陽処分の件御意見通り取計を乞う(貼付2)斎藤実電文写 茂原
鋭一宛 一月一二日付 北海取引済につき御礼五千円貴下に送る 平沢籾この際処分
8 元年一二月二六日 斎藤金助外四名と売買移転登記並に抵当権設定登記を終了 民有未墾地関係につき道庁迄書類到達指令発
送は来月に相成 ウリマク新買入地の小作料納入 本年度決算書は拝顔の砌提出 宅地解放に申込殺到
9 三年九月二二日 (電報)拝受 篤く御礼申上ぐ
0 年三月一九日 委任状参拾通御手許迄拝呈に付き実印御押捺給はりたく願上 安田関係につき残金全部支払迄抵当権を設定し
買人又は安田側の奸策を予防するため直接登記所へ書類提出を指示
1 年七月三一日 暑中見舞
2 年一一月八日 本府と道庁の方針を体し丹陽郡守は地主を招集し地税公課金の地主負担などを通達 従来より年収千四五百万
円の損耗にて一に小作擁護に堕するものと呆然自失 今回の小作関係問題に関し東洋拓殖会社の対策調問の為め誰か御紹介を
希望
3 年 月 日 昨日第一回交渉大体意見の一致を見申候 第二次会見は三日と定め五日迄に締結と取極本件は現状より見れば九分九
厘迄成立致すべし
4 年 月 日(追伸)十月中旬帯広営林区署長来宅し五葉松の実物視察並に戸沢博士よりの播種心得書等謄写希望につき説明並
に謄写の便を与え置き候
一五一五、 森忠二郎
1 昭和五年七月一七日 慶北江原両道に水害相当の被害 拓務大臣より移牒し外務大臣間島総領事間の往復文書写御命に依り御
送附 間島地方状況視察名目の下に二十三日頃田辺通訳官を出張致さすべく候
2 昭和五年七月二九日 昭和製鋼所問題好転は偏に閣下の御尽瘁の賜 端川暴動事件漸次鎮静し再発の虞は無し 京城日報社に対
するパンフレットは法制上如何とも致し難く此種印刷物に対する取締法の講究必要
一五一六、 森正隆
1 明治四〇年五月七日 山田玄叩明治三十七八年戦役に於ける茨城県上中妻村出身兵士の戦歴等を編纂して関係者に寄贈の趣
旨を以て閣下の御題辞を賜はりたき旨請願 特別を以て下賜相成たく添申
一五一七、 森岡秀太郎
1 明治四一年二月二四日 広島県新市町小学校校舎を改築し運動場に日露戦役紀念の一大碑を建設 閣下の御揮毫御下賜の栄を
給はりたし
一五一八、 森田耕一
1 昭和五年五月六日 御芳墨賜り難有小生大田にて開催の教育会総会に出席の為め出張につき上城致兼候
一五一九、 盛田暁
1 大正一〇年六月二三日 扶余にて王興寺復興の提唱者の郡守金昌洙氏と意見を交換 王興寺再建につき再建事業・再建後の維
持経営・白馬江海戦の記念碑などの要領申進御内示仰ぎたく希望
一五二〇、 森友彦六
1 明治一七年一〇月三日 佐双氏出立の節見送りに参りグラスゴー・エデンバラーを見物 当地製造中の浪速艦は来年九月高千
穂艦は来年十二月迄に完成の予定
2 明治一九年一月一日 謹奉賀新年 新艦の諸君無事着英 一同ニューカスルに滞在中にて今月の末か二月の初旬には出帆との事
3 明治一九年四月二二日 先月十八日浪速号の進水式執行高千穂号も来月中旬に進水式と相成 当国とロシアの関係にて大騒動
特に海軍の用意は非常なる事にて海軍省より諸会社へ鋼鉄艦など注文の由
一五二一、 森村市左衛門
1 昭和一〇年一二月二二日 修養団後援会費満期に相当致し居り候処継続御援助依頼
一五二二、 森村竹軒
1 昭和 年八月五日 洗心学堂としては圏外に差措き候様との御高諭再度拝誦 圏外の二字を以て御辞退は小生深く落胆 学堂の資
金未た法人を組織するに至らさるに付き今暫く圏外に在りても御力を御貸与下されたし
一五二三、 守屋栄夫
1 大正八年一一月七日 李王世子の結婚の件は政務総監に於ても宮内省と打合せ 政務総監の下命に依り朝鮮統治に関する件と
称する印刷物約二〇部作成各大臣と懇談の際提供 寺内伯の葬儀は本日増上寺にて執行
2 大正八年一一月一九日 在朝鮮軍隊増置の件陸軍大臣及総理大臣は難色あり これより三・四日は古賀長官か呂運享と面会す
る事に相成各方面より苦情あり 京城及平壌の新聞の件は平壌の方は許可の旨通牒 平和協会・米国宣教師及警察側の意思疎通
会明日開催
3 大正八年一二月六日 総督府の予算目下大蔵省にて研究中 長谷川総督夫人葬儀の日は総督の名刺持参し参加 李〓公内地居住
の件は首相・宮相に於ても異議なき模様 呂運享の件総督に面謁の機会を失したるは千載の恨事 閔元植小生紹介の要路に面会
し新日本主義を高唱
4 大正八年一二月二〇日 水野政務総監熱を出し熱海へ転地療養 小官も滞在病状を監視の外なく存候総監の御意思復命京城の
状況等承はり伝言のため年末にても帰鮮仕りたし
5 大正九年一〇月二八日 明治神宮に関する件は根拠なき風説とは存ずるも明治神宮には六十名余の警察増派し昼夜兼行取締
に従事との由 塩川一太郎に関する件は石井高等警察課長の帰国を待ち決定
6 大正一一年五月二六日 朝鮮銀行の問題は本日の重役会議の結果により発展致すことと存候 法制局に聚留せし諸案につき水
野総監に御願して馬場長官との懇談依頼 内閣改造に関し首相は時期にあらずと一時を糊塗したるも近きうちに所思開陳の由
宮手君斡旋の拓殖関係の記者朝鮮視察の計画につき壱千円補助取計
7 大正一一年六月二〇日 有吉氏本日兵庫へ赴かれ来月十日前後御帰任 鮮銀の問題は水野内相廿五日帰京予定につき財務局の
具体案に依り御交渉を依頼 官営保険の方は有吉総監も農商務大臣・内相と相談の模様 財務局長後任は富田書記官に白羽の矢
を立て大蔵次官に依頼
8 大正一一年六月二九日 来年度予算の朝鮮総督府の補充金に関し水野内相へ援助依頼 朝鮮銀行整理の件は七分配当とし損失
補充の年限延長方宣しからむとの由 伊達伯御令息御三方御渡鮮の御話あり 水野内相の紹介にて河上清君に旅費千円御渡置候
鈴木文治も渡鮮仕りたき旨申居候
9 大正一一年七月一日 朝鮮銀行整理の件は水野内相より美濃部氏に意見談示に対し美濃部氏当惑し辞職許容の旨申出あり前
内相に於て懸案と成り居りたる官制は行政整理の意味にて再審査に相成法制局へ一応戻されたる由
10 大正一一年一一月一七日 仙台にて育英会のことは学務の課長より承はり候 高城君入院中東北女子実業学校長三島郎治君
静養中の由 有吉総監に依れば予算の方は二三百万円位の補充金削減にて落付らしく結構上海北東奉天等に於て外務省其他の
人々と歓談の必要あり
11 大正一一年一二月一日 閑院宮及東伏見宮殿下へ御礼は丗日に相済 宇都宮氏より御申入の件は赤池警視総監へ依頼 宋伯の
水害救済資金の件は要するに北海道の問題の関係上看板として利用したるものに候 柳泰慶が朴春琴を訪ねて金を要求し遂に
朴に斬られ入院中の由
12 大正一一年一二月三〇日 加藤首相到底永く其の職に堪へすとするもの多く後任首相をねらふもの一にして足らす 憲政会
加藤総裁や後藤子爵が運動 兎に角加藤首相の健康今後注目を値するものと存候
13 大正一二年一月一〇日 鮮銀総裁辞職問題は総監は即時断行を主張し大蔵大臣は反対 加藤首相後任問題につき田台湾総
督・加藤総裁・後藤子爵の風評あり 私は閣下が総理として大政に参与せらるる日を切望
14 大正一二年一月一八日 加藤首相後継に閣下を推す方妥当との意見に付き御上京相成水野内相・高橋政友会総裁・赤池総監
と御懇談方得策 宋伯・李章董氏・朝鮮の事務官と内地の事務官の更迭・牧山代議士・鈴木文治君のことにつき御高配御願
15 大正一二年一月二三日 鮮銀総裁は鈴木副総裁は小野義一氏に決定したる様に有之 鮮銀の内部の動揺は免れすと奉存候
16 大正一二年一〇月三日 先月十九日庶務部長の辞令ありたる旨の電報に接し御高配に感銘 紐育にて山本忠義君夫妻に面会
し既に二三箇所視察独逸の事業報告 米国加奈陀を視察し十一月末日迄には帰国
17 大正一二年一〇月一〇日 紐育にて今村通訳官に逢ひアイランド氏を訪問 その詳細は有吉総監に報告米国にて桑港震災の
善後策に関するレポート発見送附 加奈陀地方旅行加奈陀の状況報告
18 大正一二年一二月一日 小生の外遊も無事終了 去月廿七日帰宅 本月中旬には帰鮮 白上君警視庁に転任鮮人の取締懐柔等に
ついて好都合と存候
19 大正一二年一二月六日 東拓総裁後任として菅原通敬先生御推挽方好都合と愚考 後藤内相への反感深まり同氏を引退させ
田氏に代らしむる運動あり これ等の中心は水野前内相赤池前警視総監との風評あり
20 大正一四年一〇月四日 朝鮮の治水治山産米増殖計画は閤下自ら御出馬なされる方よろしくはないかと愚考 朝鮮人労働者
の内地移住取締につき内務省より総督府の方に厳重なる照会ありし様なるも回答せられず其の侭にして置く方却て適当 朝鮮
協会は組織に付き考慮せぬと実効をあげ得ず
21 大正一四年一一月二二日 下岡総監後任に菅原通敬氏を御推挙下さいますやう御願
22 大正一五年五月四日 李王殿下哀悼の民衆の哀号は許さるる方よろしからむかと愚考 李王垠殿下内地御引上につき尹徳栄
子の意見察知 李〓公への相当待遇・貴族役人の使用人への手当支給・一般民衆の福利増進に財産投与など進言
23 大正一五年六月九日 鮮人内地移住の問題・内地人朝鮮移住の問題等を調査研究の目的を以て先月末内務省より大野書記官
を派遣につき御引見依頼
24 大正 年二月七日 宮内省の大谷庶務課長・徳川宗秩寮総裁に詳細申上候処了承 大谷君に依れば二つとも二月十一日に発表
とのこと 朝鮮より申請の杜会事業団体に対する宮内省の御下賜金も計八千五百円丈御下賜相成様賛成を得置候
25 大正 年二月二三日 宋伯より現地の王世子御用邸を李鋼公の御子様方に賜はる様にしたらば好都合・宋伯経営の新聞株募
集本年一パイ位に延長希望・東拓より一万円位貰ふ様総督よりお話をしていただきたいとの事など御話あり
26 大正 年五月一九日 石塚東拓総裁に面会小山氏を京城の支店長とするは詮議困難との事 李知事が総裁に対し東拓より職名
を貰ひ総督府施政の宣伝実施の為め旅費・随行者支給希望については機会を見て解決いたしたき旨の話あり
27 大正 年一一月一四日 別紙駅屯土払下処分に関する件御決裁総監の希望に有之
28 昭和二年三月二二日 御揮毫御礼 中央朝鮮協会への御高配御願 李夏栄子爵負債の善後策につき閣下の御配慮を蒙りたき旨
申越あり 権泰容氏中枢院の這回改選に御考慮下されたし 李王職長官の人選閔丙〓氏妥当 軍縮会議御出馬相成候様切望
29 昭和二年九月二三日 有賀頭取いよいよ辞職決行 其の諒解を閣下より得ることに関しては渡辺老に依頼 御帰朝を待ち居る
ものの様に有之 申出の節は詮議致し難き旨御返事すべきこと進言
30 昭和四年五月一六日 拙母逝去の際の香奠の御返礼にかへ金壱千五百円を長照院本堂建築資金等へ献ずることに取計
31 昭和四年九月三〇日 政友会後任総裁は結局床次氏を起用し水野先生と共に清党の実を挙げる外なしと存候 中央朝鮮協会
の総会を機として水野先生渡鮮につき旅程連絡
32 昭和四年一一月二〇日 知事以下の異動につき大邱の申鉉求を参与官に平壌の専売支局長武井秀吉君を勅任に起用並に朴重
陽氏の起用依願 李〓公殿下よりの書類の内容等について御指図蒙りたく考居候
33 昭和四年一二月三〇日 議会は解散回避運動台頭し正月となれば具体化と存候 総監問題については東京の空気険悪にして
児玉氏を勧説する役として阿部氏渡鮮 小生此の度政友会に入党
34 昭和六年一月九日 斎藤文也君の方は金策目鼻つき出発準備の処昨夜同行すべき有力者拘束 仁川の有志による保釈出願に
対し御配慮願上
35 昭和六年四月二一日 施設の方針を一任すへき有為の総監を挙用すべし 仁川取引所問題は総督府及道庁か仁川側に将来の
発展策について誠意を披瀝すべし 成興水力の問題は民心を察して善処 (付)「京、仁取合併問題解決案」
36 昭和六年七月二五日 愚母卒去の際の御香奠返りに菩提寺長照院本堂建築費へ献金 本年六月丗日工事完了落成式並に法要
を営むに付き御案内
37 昭和七年五月二四日 鳩山君入閣は軍部の反対を惹起し林大将就任を困難ならしむる懸念あり山本氏に内相交渉の報に接し
政友会の党情険悪 水野先生の起用伏して御再考奉願候
38 昭和七年五月日 小川・望月・床次・久原・岡崎の諸氏集合し鈴木総裁の態度に関し協議 斎藤内閣援助・大臣の候補者選
定は総裁に委嘱と決定 森書記官長の動向注意必要
39 昭和七年五月日 斎藤子爵に大命降下につき少壮将校連に反対の気運濃厚 陸軍側は短命との見越をつけ林軍司令官を推し
て一時を糊塗との情報報告
40 昭和七年五(カ)月 日 陸軍は斎藤内閣に諒解を与へさる趣につき白上君をしてたたしたる所事実無根と軍の人より話あ
りたる趣に有之候
41 昭和七年六月一五日 拓務省次官に御推挙の趣拝承に対し感涙 行掛の為に御役に立ちかね残念 初閣議以前に明治神宮に御
参拝御願 水野先生入閣に御配慮賜はりたし 李王職長官に閔子爵御推挙依願
42 昭和七年八月二六日 明早朝鈴木総裁を御訪問下さらば好都合 会期延長とその日数についても諒解を得られ候はゝ各政党
の首領及貴族院幹部と会見の上決定可然
43 昭和七年一一月二一日 此の間御揮毫を拝受いたしたる村上勝衛氏より柿一樽送附につき御届
44 昭和七年一二月五日 仙台白菜歳暮のしるしまてに御届
55 昭和八年八月二一日 木下氏は本日鈴木総裁と会見し現内閣を支持することの必要を力説したるに鈴木総裁も諒としたる由
に有之 従って鈴木総裁の提言と政府の所懐喰違無之と存候
56 昭和八年一二月二日 仙台白菜御歳暮の印まて御贈申上たし
57 昭和八年一二月二五日 首相御買上の御承諾を得たる彫刻持参
58 昭和八年一二月二六日 皇太子御降誕の恩赦の範囲は出来るたけ広く政治犯たると思想犯罪たるとを問はす既決未決を論せ
す恩典に浴せしむる様進言
59 昭和八年一二月二六日 御揮毫有難拝受 御高諭の程は決して忘却仕らずいよいよ献身報国の道に進みたし
60 昭和八年一二月二七日 政民の主要幹部の招待会は後継内閣準備行動 清浦内閣実現の可能性なし 政友会の鈴木系の幹部及
宇垣派の連中は現内閣攻撃にいづるらしくこれに対し現内閣支持の同志集まり相談
61 昭和九年一月一七日 本日幹部会に於いて政府支持の態度を明にすること更に議会の切抜について政府に親切に進言すべき
ことに意見をまとめその意味を明にする為め床次顧問を立たしむることに落付きたる趣
62 昭和九年一月三一日 政友会の内部は必すしも床次顧問の如き態度を採るに至らす 本日の総務会にて穏健説大勢を制し候
政友会主張の要点報告 可然御対応願上
63 昭和九(カ)年二月八日 白上君に依れは柳川次官は更迭の考あるにしてもその後任は建川中将ではないやうに承知致居候
との事にていづれ林陸相と面会回答申上べしと申居候 中島商相問題は深入せられぬやう奉願
64 昭和九年二月九日 昨夜白上君より回答あり林陸相に於ても建川氏起用の考は無之趣に付き御報告
65 昭和九年二月一八日 鳩山氏への攻撃は結局内閣に致命傷を与ふと共に政友会を窮地に陥らしむる策戦 綱紀問題更に進展
あれは総辞職断行可然 大命再降下せられ候はゝ強力内閣再組織の方策進言
66 昭和九年五月二一日 鈴木総裁は単独内閣組織夢想 政策協定は次期政権獲得のカモフラージュ 恐らく大命再降下その際は
水野床次の両先生入閣御願
67 昭和九年五月二五日 後継内閣について我党単独内閣・宇垣内閣・清浦内閣・平沼内閣の諸説につき御報告政党の真面目な
分子や実業界官界は大命再降下希望 木下成太郎氏再三首相激励の電文打電
68 昭和九年六月二五日 閣下の後をつくべきは床次水野二先生か尤も国家の為となるべしと存候 総辞職断行候ても大命再降
下か辞表却下と拝察 其の際は内閣の陣容を改め床次水野二先生起用を奉願候 貴族院議員補充につき依願
69 昭和九年一二月二七日 過日珍しきもの御恵送を恭けなうし厚く御礼申上候
70 昭和九年(カ) 月 日 大命に御奉答ある様奉願 高橋蔵相・平沼先生・水野先生は閣僚中に御加へ相成ること万全の策と愚
考
71 年三月六日 福島・仙台にて活動写真及講演会を開催し総計五千人以上に朝鮮事情を紹介し相当の効果 仙台にて女子職業
学校を視察し三島校長の申出の事項につき協議
一五二四、 森山慶三郎
1 大正六年九月二五日 御希望の秘報封入御送付
一五二五、 茂呂泰定
1 昭和四年一〇月二日 就任祝詞の御礼状感謝 音幌農場の件茂原君より御報の通り決定
一五二六、 諸鹿央雄
1 昭和六年四月六日 今般入城の節は過分の恩寵に預り感佩 引続き黒板博士に随伴平壌へ出張一昨夜帰宅 耳飾並に小玉類別途
拝送につき御叱留下されたし
2 昭和八年八月一三日 事案は或る方面の策動にて野生の遺物散供防止の目的にて蒐集の事実を恰も博物館の充実との美名に
籍口し私利私欲を営み居るものの如く当局を誤認せしめ検挙に着手したるもの 詐欺横領等の嫌疑は免訴となりたるも遺物購
入に付ては駐物故異罪に問はれ有罪判決 目下控訴中
3 昭和一一年一月二九日 軍縮脱退議会解散等内外時局多端の折柄邦家の為め一層御自重を奉祈
一五二七、 諸戸清六
1 大正一五年八月一二日 御令息様華燭の御盛典の御趣拝承 御祝の微意を表したく粗布御届
一五二八、 矢島功
1 明治 年二月二六日 戦争陸戦用意・グードボード号の配置及士官の配置拝見致したく借用願上
一五二九、 矢島大尉
1 明治二八年一一月一三日 本艇遭難の際応急修理の主任者一等機関手三宅十助の機関師職務心得昇格方上申も制規上取扱ひ
難き旨承り候特別の御詮議願上
一五二〇、 八代六郎
1 明治二七年一一月一五日 全州大連攻撃陥落 露国とは遠からず一戦必至其時清が露に与みする事も予期 此度は清をメチャメ
チャに遣つ付け十年十五年は国力恢復の出来ぬ程になし置かざるべからずと愚考
2 明治二八年一月一日 北京攻撃用の兵員輸送に軍艦必要に付き威海衛攻撃は一日も早く御決行あるべし 戦後海軍拡張は兵器
独立の為め製鉄所設置兵器製造が第一にて次に朝鮮・大陸進行に備へ舞鶴軍港設備急務朝鮮東北岸より露領沿岸内の港湾調
査必要(付)山本権兵衛書翰 斎藤実宛 二一日付 八代大尉よりの別紙御承知下されたく御査収ありたし
3 明治二八年二月二二日 北洋艦隊殲滅室に大慶の至り 大兄和泉副長就任の噂 分隊長に御取持ち下され間敷や
4 明治二八年一二月三一日 来る一月二日御寵招参館仕るべし
5 明治二八年月一二日 近衛師団よりの最近情報御廻付の事参謀長に願ひ置き候
6 明治三三年七月八日 北清事件は我国に好機 小生の所存を吐露 満洲政府を倒すを目的とすべし南清地方豪傑と結托し連邦共
和主義を鼓吹し我に依頼せしめ北清を制すること
7 明治三三年七月八日 北清事件は我国の為め好機 今度は名は四億民衆救済等欧米人の飛付く美はしきもののみ 事ならば南清
富饒の民衆の人望を得将来我が富国の基となるべし 旨く行かば露を東洋より追払ふこととも成りぬべし
8 明治三三年九月五日 清国事変以来一度も清国地方へ派遣なきは宮古一艦のみにて適当な任務も御命じなき場合もあり艦長
が其任務に堪へざる故か御一報候はゞ幸甚
9 明治三六年七月一七日 浅間は戦闘に耐へ得べしとの見込に候へ共故障多々あり 修理に要する時日は二ヶ月との事二ヶ月猶
予与べきか否か
10 明治三六年一一月一八日 今日露との平和協商は他年の禍となるべし 以後は全力を教育に注ぎ先ず艦隊指揮官次に射手砲
火指揮官を錬り次には駆逐艦及一等水雷艇を急造する必要
11 明治三八年六月一八日 時局講話会での講話の義は折角の御依頼に候へ共御断り下されたし
12 明治三八年六月一九日 昨日御来臨の処小生不在恐縮の至
13 明治三八年六月二三日 講和使節海軍側随行員として小生を御遣はし下されたし 譲地たるべき沿海州又はサハリン島の事
は海軍軍人中小生が知り居る筈 昨日井上長官に陪し葉山御殿に伺候皇后陛下に戦況報告
14 明治三八年七月六日 艦船修理案外早く終了 小生義伊集院閣下に独乙派遣希望の旨内願 貴兄の御尽力願上
15 明治三八年八月五日 ウヒッテ氏の言説若し土地割譲を肯んせずとあらば談判不調 大国の体面の故なるに付き割譲の字を
避けては如何 珍田次官に御話し下され間敷や 金は十億円程も取り候はゞ沢山 体面尊重するも肯かざるに於ては戦争継続の外
なし
16 明治三八年八月一一日 戦利艦引揚修理費膨大に付き全部露国へ相当価格にて譲渡し其償金を以て新艦製造費に充当すべし
戦後海軍改良等愚見口頭にて申上 小生進退名和氏より返事なし閣下にも達し居候や
17 明治三八年八月二〇日 一ヶ年在京研究の代りに一ヶ年在外研究の方可然との御高見拝承 独語研究・内国事情研究等によ
り彼の国力を計算する比較の材料を得たしとの希望から一ヶ年と申したる次第
18 明治三八年八月二五日 講和談判延引の由 満洲軍に海軍重砲隊加勢・海軍を以て浦潮略取の気勢誇示・第一第二艦隊を以
て波省海侵入準備などは如何
19 明治三八年九月二二日 山座・デニソン両代表条約正文携帯し上陸後護衛の手順に付き珍田次官に伝達願上
20 明治三九年一月六日 海軍大臣就任内定奉慶賀候
21 明治四四年一一月二三日 別紙愚見御一覧の栄を賜はりたし
22 明治 年七月一日 加藤次官御巡視の節閣下より御伝言拝承 小官の真意は過般加藤寛治氏に開陳 海軍の為め功労ありたる人
の為め穏かなる解決希望 山内氏を移らしむる様の御処置願上
23 明治 年一〇月一七日 四五日前政治的憂乱を起んと日本人五六名当地に上陸 若し東亜同文会・国民同盟会の関係者とせば
政治攻撃の材料に供する為ならむと愚考 福建省は或は日本領になるやも難計良民の憤怒を買ふは不得策に付き彼等日本人に
説諭の上退去を策せらるゝ必要ありと室田公使に意見
24 明治(カ) 年一〇月一八日 一昨日の朝日新聞を見るに黒竜右岸の露領帰嘱したる事を公定せりとの意を載せたり 我政府
より抗議申し出でられ候や
25 明治 年月二七日 支那軍艦叛乱地より出で来り賊将を庇護するの嫌疑ある場合には如何に処分して可然候や
26 大正二年一〇月二三日 近頃部内にて懲罰令の精神貫徹せず 参考までに筧博士の「懲罰論」送付
27 大正三年二月四日 海軍補充問題議会にて協賛無論の義と愚存 君国の為め御尽粋千祈万祷
28 大正八年九月三日 新聞にて御遭難の趣承知御見舞申上
29 年七月三〇日 艦船修理の状況報告 舞鶴測器庫主管の中川中佐を今一度艦長に補せられ候様御高配仰ぎたし
30 年一〇月二三日 (前半欠)丹波栗本日葉山中将に托し差上
31 年 月九日 広瀬大尉同伴帰宅食後貴館へ拝趨
一五三一、 安井利作
1 明治三七(カ)年三月一九日 義勇艦隊組織の件につき御引見の程切望
一五三二、 安永義章
1 明治二〇年一〇月二日 小生も本年末又は来年米国へ渡り小銃製造所を見たく渡米次第見る事出来候様依頼
2 明治二〇年一一月二四日 米国駐剳公使の紹介なくては小生の事に付き米国政府へ掛合難相成 小生の名前等通知
3 明治二〇年一二月二三日 来一月十四日リヴァプール出帆渡米と決定
4 明治二一年一月二八日 米国政府より許可相成由小生仕合 早速スプリングフィールドに罷越事に致候
5 明治二一年二月七日 小銃製造所視察甚た仕合 書籍購入依頼 (付)斎藤実書翰草稿ヵ 既に余冊なく其後政府古書類売買店に
於て壱部見当り購入
6 明治二一年四月一〇日 二月廿九日の貴書拝誦 小生儀も先月十六日帰京
一五三三、 安広伴一郎
1 大正一三年六月二四日 今回南満洲鉄道株式会社々長就任 粗餐敬呈仕りたく御枉駕願上
2 昭和二年四月一日 満鉄創立二十周年記念として二十年略史及花瓶送付
一五三四、 柳宗悦
1 大正一一年一〇月一八日 李朝陶磁器展覧会へ御光来深く感謝 小田内通敏より貴下併びに政務総監からの百五拾円御寄付受
取 御厚誼に対し御礼
一五三五、 柳沢保恵
1 年二月二七日 今回南米へ御省より御派遣の軍艦へ便宜の件御厚志の段深謝の至り 東京市々勢調査国政調査準備委員会事業
の都合上今回は一先づ中止と決心に付き御取消願置候
一五三六、 柳田浜子
1 昭和九年一一月一三日 伊東洋裁研究所の速成科へ入所並に伝馬町パブテスト女子寮への入寮が決定 十二月初めに上京予定
一五三七、 柳原吉兵衛
1 昭和五年二月一三日 李王家御慶事紀念会にて本年四月廿八日の御成婚記念日をトし朝鮮全道女子教育家を御招待申上たく
両回に亘り総督府御当局に御斡旋方御依頼未だ御返事なく御繁多なる事と拝察(付1)柳原吉兵衛言翰 武部欽一宛 昭和五年
一月一六日付 卒業生就職の件等依頼(付2)柳原吉兵衛書翰 武部欽一宛 昭和五年二月四日付 女学校最優等卒業生賞の賞牌等
御受取依頼 一月十六日附書面にて依頼の諸件に対する回答催促
2 昭和五年四月二三日 女教員一行一昨日無事大阪着 昨日廿二日午前中は知事官舎にて柴田・半井両夫人が歓迎の招待視察団
一行は廿七日東京着廿八日は李王邸に伺候の予定 朴東吉東北大学卒業御引見あられたし(付)李王家御慶事十週年奉祝記念
女教員内地視察団名簿
3 昭和六(カ)年一二月八日 去る十一月六日李鍵公殿下御結婚の御悦びに参上候際御訪問申上候処御不在 遺憾に存じながら
帰堺
4 昭和九(カ)年七月九日 円満に御退職 過去二年有余の御足跡に対し満腔の敬意 尚銃後に御活動遊され益々の御健康を祈上
候
5 昭和一〇年八月四日 湯浅閣下並に鄭閣下御三方の詩文の表装出来上り候間関西御来訪の際御高覧の程御願
一五三八、 柳原博光
1 昭和四年五月一五日 (古賀峯一・小林宗之助・藤本喜久雄・山形衛・小松隆と連名)寿府三国会議懐旧談話会相催たく御
出席願上
一五三九、 矢鍋永三郎
1 大正一二(カ)年二(カ)月 日 朝鮮私設鉄道補助法改正案明日午後衆議院に於て上程予定 同法改正案理由説明書同封送付
一五四〇、 矢野恒太
1 大正(カ) 年一〇月二〇日 事務員松野君御配慮に預り深謝
2 昭和四年八月二〇日 朝鮮総督再任の由御尽力願上候
一五四一、 矢野倫重
1 昭和八年八月二九日 日露戦争当時の如く日満共通の軍票発行して資金に充て新兵器を完成し外敵に偉力を示すこと急務
一五四二、 矢野文雄
1 明治 年三月一七日 頃日進水の宇治を知人の雑誌に掲載致したく写真御貸附願上
2 明治 年四月四日 写真御貸与下さり御礼観艦式に付き博文館其他雑誌日報へ便宜与へられたし
3 明治 年九月二七日 山内万寿治大佐の東京宿処御教示願上
一五四三、 藪篤麿
1 昭和三年九月二一日 子爵議員補欠選挙に付き御投票并御委託状御送付拝受
一五四四、 山内卯助
1 昭和五年三月二二日 廿一日御見送り叶はざりしは遺憾千万御寛恕下されたし 広浦湖の方御認可下されたし
2 昭和五年五月一七日 成興に廿五日間滞在し実地調査 事業計画を樹て昨夜出城 最初の願書にては道も郡も認可の申請をなし
得ざりしとのこと 今回の訂正願に対し至急御認可賜はらんことを祈上
一五四五、 山内健吉
1 昭和七年四月一〇日 山本条太郎満鉄総裁十中八九就任の由 理事以下相当変動ありと承知 就ては小生の推薦方至急是非閣下
の御一筆願上 尤も地位は理事なれは結構なれど時節柄何にても差支なし
一五四六、 山県五十雄
1 大正九年四月一六日 外国人宣教師残留の者新政に対し好感 外人校長処分問題につきアッペンツェラー氏訪問自己の立場弁
明 ジャパンクロニクル不相変意地悪き論評 知名の外人に朝鮮事情了解せしむるに努め居候 ソウルプレス拡張計画中(付1)
『ソウルプレス』 大正九年四月八日付 「Japan andAmerica」(付2)『ソウルプレス』 大正九年四月九日付「The Truth
about Chosen」
2 昭和九年九月三日 御引見及村井氏への揮毫送付御礼
3 大正九年一一月一〇日 無期停刊の東亜日報に対し速に解停の恩命願上 ジャパンアドヴァータイザー紙幹部記者の山内義弘
御引見依頼 国際通信社ケネデー氏とはいまだ面会の機を得ず 外務省情報部松岡洋右氏と面会し朝鮮に関する宣伝につき多少
進言
一五四七、 山県伊三郎
1 大正一〇年四月三日 御招きを辱し出席可致ところ流感を得乍遺憾御断り申上げたし
2 大正一五年四月二一日 昨冬以来馬場阿部君等朝鮮に関係を有する先生方朝鮮研究会を発企し本年中央朝鮮協会組織 就ては
寄附金要請に対し宜敷御願
3 年四月二七日 先般御催促の写真差出失念申訳なし
一五四八、 山県三郎
1 昭和六年二月九日 (近藤秘書官宛電報)総督よりの書面書記官長に御渡の事聴取 一昨夜総監牧山氏と会合懇談
2 昭和六年八月一日 (電報)恩命を受け故国を離るるに当り閣下の御健勝を祈上げ御礼申上ぐ
一五四九、 山県悌三郎
1 大正一〇年九月二六日 太平洋協会支部朝鮮設置に方り内地人側と朝鮮人側とが各別に創立するは対外関係上不得策 南監理
派は十分親近今のところ心配なし
2 大正一〇年九月二七日 汎太平洋協会支部設立に付き昨夜尹致昊氏と往来の結果満足すべき密約を結び候
3 大正一〇年一〇月一六日 汎太平洋協会設立の件尹致昊副会長と相談の上先づ鮮人側のものを一時創設のまま流して了ふこ
とに致し候 柴田学務局長へ成鏡南北道管内宣教師懐柔策提出し其の同意を得て先づ咸北地方視察好結果を得候
4 大正一二年三月一日 スミス博士に面会エビソン博士叙勲の結果宣教師及鮮人の心理に与ふる影響の悪しかるべきを深憂 三
好重彦氏セウルプレス社長引受条件として過大の要求提出の場合高橋一知氏御考慮願上
5 大正一五年四月二九日 御間合せの人物御引見の価値なし 自分此程朴煕道に勧めて免囚保護会を創設せしめ会長には尹致昊
氏理事や顧問には申興雨氏李商在氏を挙げ彼等不平の徒と接触理解に努め候事肝要
6 大正 年一月一三日 独立騒擾にて入監の免囚一人に就ては友人の米国宣教師の書記に雇用結婚斡旋し懐柔成功 延禧専門学校
教授盧正一紹介 中央青年会附設の講習会にて定期講演を委嘱
7 大正 年三月三〇日 「毎日申報」対「東亜日報」の件は今朝伝承 京城日報社としては公正明大堂々と事業拡張の道を取らし
めたく希望 内地における外国人経営学校巡視御開届け下さり感謝
8 大正 年一二月二二日 死刑囚の刑執行期に関して一部鮮人の秘密運動あり愚見をも内申致しましたが自分としては彼等一部
鮮人と当局者の周旋は好まず実は迷惑至極 已むを得ず奔走の次第は御諒察願上
一五五〇、 山県初男
1 昭和一〇年四月一日 劉氏夫妻御引見御礼
一五五一、 山県
1 大正九年七月一一日 (電報)懇電謝す 父は数日来風邪気味なるも大事なし (付)電報訳文
一五五二、 山川健次郎
1 昭和三年七月一一日 中央教化団体連合会第二回定例理事会決定事項通知 (付)会計規則・昭和二年度中央教化団体連合会
歳入歳出予算科目追加並予算更正内訳書
2 昭和三年一〇月四日 山梨県教化事業協会加盟承認に関する件御同意依頼
3 昭和三年一二月二四日 中央教化団体連合会理事として御尽力を賜はり拝謝粗品進呈
4 昭和四年五月三日 財団法人中央教化団体連合会寄附行為第五条中一部改正方承認に関する件御同意依頼
5 昭和四年九月七日 第四回社会教化講習会開催通知 (付)「第四回社会教化講習会の栞」
6 昭和五年二月八日 衆議院議員選挙に際し選挙廓清教化強調の為リーフレット五万枚を教化関係者に配布・ポスター
二十万枚各市長村役場警察諸官署並各教化団体其他に掲示依頼・著名新聞社四七社紙上に標語公告等の施設を講じたく御承認願上
7 昭和五年五月一〇日 中央教化団体連合会理事会開催通知
8 昭和五年九月六日 第五回社会教化講習会開催通知 (付)「第五回社会教化講習会時間割」
9 昭和五年一一月二五日 (松井茂と連名)貴府社会事業協会回教育会並に中央教化団体連合会の共催を以て教化事業関係者
懇談会及社会教化講演会開催に付き御高配御礼
10 昭和六年六月二日 中央教化団体連合会理事会決議事項通知 (付)活動写真「フィルム」貸付規定第四条改正原案
一五五三、 山川浩
1 昭和七年五月二四日 欧州大戦時各国共暴利取締 然れとも文部大臣某は数十万円の製糖株を家族の名で所有 大蔵大臣農商務
大臣又同じ
一五五四、 山口諌男
1 大正一〇年一月二〇日 小生一昨年九月南大門爆弾事件で不具者と成り大阪毎日新聞を非職 総督政治内地宣伝機関として月
刊「朝鮮事情宣伝新聞」発行許可及総督府より保証金二千円低利貸附願上
2 大正一〇年一月三一日 新聞刊行に付き御賛成御垂教を賜り保証金便宜御取計ひ下さり感謝
3 大正一〇年四月二九日 予て計画の新聞の儀創刊号奉呈 (付)朝鮮事情新聞創刊号発送の写真
一五五五、 山口千代
1 昭和二年一二月二二日 朝鮮人参事業不振に付き四千円貸附願上
一五五六、 山口正定
1 明治三〇年一一月一八日 黒屋勇三郎捕獲の鷹壱羽献上の儀承知
一五五七、 山口素臣
1 明治二〇年一一月一五日 米国視察中御庇護にて目的を達す チカゴ演習会の記事概略御発送願上
2 明治二〇年一一月二〇日 去る廿八日来着 梶山次官の病気は如何
3 明治二一年一月二六日 独乙伯林府に滞在 貴地にて頂戴の米国国防委員の報告書も本邦へ発送
4 明治二一年六月一四日 欧地巡視を終り去月上旬帰朝
5 明治二三年七月二日 依頼品致着通知
6 明治 年 月 日 老兵院・米国の義民兵・士官及下士の養成・婦人救護隊につき滞在中調査依願
一五五八、 山座円次郎
1 明治 年二月二五日 (前半欠)海軍予備下士卒及後備水兵全体召集か佐世保鎮守府限りか返電を乞ふ旨在ホノルル斎藤領事
より電稟あり至急回報下されたし
2 明治 年四月一二日 其節各兵の汽車賃車賃等相分兼候に付き仕仏不致候処面倒なから総額至急御知らせ下されたし其内岩
本・野間口両兄と共々当地に御出の節は御案内仕るべし
3 明治 年四月一五日 明後土曜日及ひ月曜日は約束あり其他の日に御光来下され候はゝ幸甚
4 明治 年四月二五日 各国東洋軍艦表今一葉御贈与下されたく御願
5 明治 年五月一七日 別紙電報御用済の上御返附下されたし
6 明治 年一〇月一九日 小生先輩小野隆助御面会下されたし
一五五九、 山崎真雄
1 年一〇月二四日 劉猛参議及鄭雨影嘱託の両氏に対しては本日直ちに御旨のあるところを伝達 閣下の進退に対し種々の風説
あり 閣下を朝鮮から失ふ事は実に我帝国の一大損失
一五六〇、 山崎光明
1 昭和七年五月三一日 現総裁内田伯は閣下御推挙に依り外相就任 満蒙事情に対する充分の知識と経験・満鉄社員畏敬の的と
なり彼等を手足の如く奉公せしめ得る大器・軍部との協調に鑑みれば後任総裁は樺山英資伯は正に其第一適任者
一五六一、 山崎秘書
1 明治三一(カ)年一一月二日 (前半欠)別紙案内に対し参会の有無を御一報煩したし (付1)浅田徳則書翰 斎藤実宛 明治
三一年一一月一日付 天長節奉祝の為め来十一月三日伊勢町官邸にて醜宴開催 (付2)斎藤実書翰草稿 浅田徳則宛 明治三一年一一月
二日付 遺憾なから罷出兼候
一五六二、 山路一善
1 大正七年一二月一日 中将陞進閣下の御恩顧に御礼申述
2 大正八年四月一三日 海軍提出諸件議会通過慶賀此事 併し国際連盟も将来の平和を保証し得るか甚だ不安我海軍今後大に発
展改善を要する点多し
3 大正九年七月一三日 海軍目下急務は独り補充案に対する政策 今日の如き経過誠に憂ふへし
4 大正一〇年一一月五日 (電報)鎮西線敷設に付き尽力を賜りたる閣下に敬意を表す
5 大正一一年一月一三日 鎮海軍港境域内漁業問題弊害を一新致したく希望 (付1)大正十年鎮海軍港域内第一種漁業免許状
交付者調 (付2)第一種免許漁業関係鎮海軍港境域内測量許可件数調
6 大正一一年一一月一六日 小生十二月一日将官会議議員に補せられ十五日に待命
7 大正一二年三月三〇日 本日予備役編入 此以上は如何に今後出るべきや目下考慮中
8 大正一三年一月一一日 中将の恩給にては維持困難御助力懇願
9 昭和五年四月二二日 倫敦会議大失敗 財部氏統帥権を無視し政治解決 閣下より辞職の諭示を願上 彼辞職されは内閣瓦解し倫
敦会議も破れ一挙両得
10 年一二月一日 入京の際御懇情を蒙り又帰宅後花瓶贈答感泣の至
一五六三、 山下浅太郎
1 昭和五年八月二九日 沖縄産養豚特製御笑納下されたし
2 昭和五年一二月二〇日 重て御願申上候儀は尚御一考下さり松岡局長殿と御協議特別御許可相叶申間敷哉
3 年四月二八日 朝鮮製人参難有拝領 不取敢御厚礼迄
一五六四、 山下千代雄
1 明治三五年一月二四日 来る一月二十九日午後一時本会へ御出席御説明相成たく議院法第四十四条に依り此段及請求候也
一五六五、 山田揆一
1 大正八年五月二八日 仙台市長退職大過なく任を果し御礼
一五六六、 山田善之助
1 年三月一二日 鉄道院倉庫問題の件に付き御配慮御礼 留守氏手形の義に付き本日差押の為め小生代理人を現場に派遣 尊台様
の同意書入用に付き別紙捺印の上使者へ御渡し下されたし
一五六七、 山田子雄
1 昭和九年八月三〇日 揮毫の儀御礼
一五六八、 山田信夫
1 昭和九年四月一七日 陰陽調和にて国本樹立及培養実行 予算編成国防第一主義に偏重遺憾 東大名誉教授井上哲次郎・三上参
次を文相に任命し議会制度撤廃専制政道確立を進言
一五六九、 山田彦八
1 明治四四年一一月一一日 梁啓超九日大連入港十日旅順に来り白仁民政長官を訪問 北京に於て今回反乱の善後策を講せんと
す伊集院公使に面会助力を仰ぎたく紹介状差出呉れと申出 白仁は真意に付き疑を懐き居れり
2 明治 年九月三〇日 少将進級候補者名簿提出 当地方例年通り赤痢発生 大連方面コレラ終息 改築中船渠予定通南満鉄道沿線
巡視愉快
一五七〇、 山田久徹
1 明治三四年四月九日 (月島丸遭難学生父兄総代八名連名)月島丸遭難弔慰金文庫設立記念碑建設費等に使用の趣 遺族の大
部分は困窮の者に付き救恤専一願上
一五七一、 山田昌寿
1 年一二月一三(カ)日 友人大内暢三借用中の全羅南道木浦高下島処理御決定の由 特別の御詮議仰ぎたき旨同人切願
一五七二、 大和与
1 昭和四年九月八日 (漢詩)息遊年半我爺帰 白髪童顔貌不違 槿域重胆山海徳 恩威偏願定封畿
一五七三、 山梨勝之進
1 明治四四年八月二八日 (電報)西園寺侯爵から急用あり海軍大臣に帰京来訪を希望する旨の電話 財部次官の名で取敢ず通
知
2 明治四四年九月四日 (電報)シモセの病気益々重し 叙勲は「瑞二」との内意も「旭日」が穏当 返電を請う
3 大正元(カ)年一一月二九日 西園寺秘書官より来信 首相より海軍大臣に「今日の閣議にては別に事態に変化致さず 御病気
御大事に」
4 大正九年六月八日 野村君に会合の節伊達伯の世話人要望の談を致候処同君自分の推挙中止に尽力願ひたしとの事万事後援
の下に将来の安心と自信を有せしむる必要
5 大正九年一二月一三日 数日前佐世保工廠長木村中将より野村機関中佐来談 待命後は上京の上邦宗公の御用を御務しても宜
敷尤も斎藤閣下より依嘱の希望とは大なる相違ある為め木村中将より総督に申上願ひたしとの願あり 木村中将も小生を介し
たる方好都合なるべしとの事にて小生に来信
6 大正一四年四月一九日 御昇爵の光栄に接せられ候事自分達迄其光栄に預かりたるか如き心地 小生今回横須賀工廠長に転補
小生次男開成中学校に入学
7 大正一五年六月一一日 数日前斎藤七五郎中将を御見舞 血行調整療法と称する揉療治を致し此以前御目に掛りたる時よりは
余程宜敷相成りたる如く見受申候
8 昭和二年三月一九日 (電報)十六日付 海軍大臣よりの電報受領の上でもなお貴電の通りの思召なるや伺いたし
9 昭和二年三月二五日 明廿六日大臣に報告予定 若し御受けになる場合現職の侭御出発あるを必須条件と小生は確信
10 昭和二年八月二九日 今回の会議実に大成功一般の極めて欣快とする所 先達出淵外務次官と汽車にて偶然同車 巴里の媾和
会議華府会議にては日本は犯罪者・準犯罪者扱なりしか今回の会議に於ては初めて立派に堂々としたる立場にて終始との談
話あり
11 昭和四年一〇月一日 立派なる御写真拝受感激の至 御用掛後任の件は不取敢人事局長に内談決定せば其内追々申上べし 木
村中将突然急死にて一同驚愕
12 昭和五年二月二〇日 三月四日海軍大臣官邸に於て粗餐差進たく御案内
13 昭和五(カ)年五月一日 軍縮の経過の内情問題の本質頗る機微 財部大臣の立場も又至難復雑慎重に内外諸般の情勢・国
の立場・政府の立場・海軍の立場等各方面より洞観点検するの要あり 総督より大臣にも御力添を仰きたく浜口事務管理も同
様の希望
14 昭和五年六月二八日 軍縮問題の経緯に関しては折衡開始前と決算時機とは各々戴然たる区分あり 海軍の専門的見地より
充分満足とは申兼候得共今日の場合此辺にて協定相結ふは已むを得ず
15 昭和五年一二月四日 一ヶ月以上に亘る支那観察にて此際我国朝野一致して対支政策実行するの焦眉の急なるを痛感今回佐
鎮長官の重任を拝命 首相の遭難も経過意外に順当にて世間に於ても皆安堵 斯かる不祥事の根絶せん事切望 故斎藤七五郎中将
次男黄疸病にて逝去
16 昭和六年二月一一日 当府参謀長河村少将は広島県の人にて鮎ウルカ特産あるを聞込み候折柄御手許迄製造先より直接発送
17 昭和六年三月四日 御恵贈の書籍弐部拝受深謝の至 清河君来訪清談一夕十年の苦衷を医する想
18 昭和六年五月二八日 小官過般貴地方出張の節は種々御高配を忝し感謝の至り 無事予定用務を終へ帰任
19 昭和六年八月一九日 急に悠々たる御境界に相成られ彼是気掛り 小生儀も西陞の地に独り収まり居候 十月末には進級会議
にて上京の予定
20 昭和七年四月一日 今般海軍大将に親任 偏に閣下御春顧の賜に外ならず
21 昭和七年八月三日 当地下士官兵家族共励会の為め揮毫御送付に預り不取敢御礼迄
22 昭和八年一月一五日 伊達家養嗣決定の件に関し某氏に依頼し夫となく徳川君の内意を聴取 別紙高覧願上 (付)某氏報告
書写
23 昭和一〇年一月一七日 御紹介の松岡開氏令息と色々面談 海軍省の当務者たる谷村造兵少将の許に依頼委托学生は多数志
願者ある場合は採用も相当に面倒
24 年一月二九日 横須賀鎮守府機関大佐吉沢作造十一月一日を以て平壌鉱業部長に転補 公務上に就き率直なる指導・訓戒を
賜りたく又総督府の関係諸官等よりも万事御世話相成たし
25 年六月二三日 岳無会電話架設の件今年は成功念願 差支なき範囲に於て御声援賜りたし
26 年七月九日 出雲派遣に関する第二予備金支出の儀は裁可済の旨大蔵省より電話ありと次官から報知
27 年八月一一日 佐賀料理ごま豆腐差上申候
28 年一一月一〇日 送付の書類一式に夫々捺印返却申上候
29 年一二月九日 (山口中佐電報 山梨勝之進宛)一行予定の通着万事好都合に決了 午后四時十五分にて帰京せり(註)本件
は森岡氏一行を云ふ
30 年 月八日 興津より帰りたる外波大佐より井上候爵容体少しく快方の旨大臣閣下に申上けられたしとの電話あり 英艦四隻
元山を経て松田湾に入港の旨電報あり
31 年 月一一日 伊達勝子死去に付き代理として品川に参り吊辞を申述 野元少将・石橋大佐・花房少佐懲罰申渡書夫々送届 財
部氏の葬儀には名刺を持て会葬
一五七四、 山梨半造
1 昭和二年一二月一五日 証・金五万参百八拾七円五拾銭右機密費正に引継候也 (付)斎藤実メモヵ李王家・言論出版法等
一五七五、 山之内一次
1 大正三年五月二五日 昨夜代々木葬場に於て陛下より山本伯爵へ前内閣員の写真御纏めて差出旨御沙汰 裏面に位勲当姓名并
に生年月日御自書の上小生の手許に御送付下されたし
2 大正三年六月二日 先日御写真の件に付き御示の趣敬承出来次第御送付御願 念の為一葉頂戴仕りたし 来る五日山本伯爵前内
閣員を案内午餐会開催に付き御出席下されたし
3 大正三年六月八日 先日の分拙者へ頂戴方御許下され候由御礼
4 大正一四年一二月九日 朝鮮国有林野貸下願の件御示候通本日郵便を以て総督府官舎宛願書送出 御許可下され候際惟樹以上
の樹木払下方并借地料金方等に付き掛員に於て御手加減もあり 便宜の御取計願上
5 大正一五年一月一八日 国有林野貸下願書は薩摩興業株式会社社長和田世氏名義を以て直接御手許へ送出 洪原道庁内知人の
内報に依れば同所は数年前河村政任奥平昌恭の両氏より既に出願 是非島津家の方御許可下され候様御尽力下されたし
6 大正一五年二月一九日 薩摩興業株式会社よりの国有林野貸下願の件其後尚取調候処に依れば右川村氏は既に他の場所に許
可を得植林事業に従事中又奥平氏は他の場所に七千町歩貸付下提出相成 是非島津の方へ御許可下され候様御尽力下されたし
7 大正 年四月一〇日 元帥海軍大将伯爵伊東祐麿薨去の為め議定官一名欠員 補欠に関し御意見の有無承知致したし
8 昭和三年一一月一三日 (消印は十一月二十三日付)岩崎男爵へ御相談の件は可成早目御達下され間敷哉
9 昭和五年九月一九日 倫敦条約も結局御批准の事に決定の模様 済州島に有数なる榧の純美林あり木材商須川久喜名義にて二
十本程払下出願に付き可成速に御許可願上
10 昭和六年二月七日 京城帝国大学医学部解剖学嘱託岡田信利氏研究費を啓明会より御援助希望にて御紹介の趣敬承鶴見左吉
雄氏専務理事にて採否の調査致居候に付き一度同氏の鑑定を請ひ御返事申上べく候(付1)岡田信利書翰 斎藤実宛 二月一九
日付 何分研究費に不足 偏に御拝察願上候 (付2)岡田信利の研究事項・略歴・予算
11 昭和六年三月二三日 (前半欠ヵ)本年の議会は実に醜体 忠清南道庁舎移転予算は遂に復活致し慶賀の到 浜口首相の病勢
如何に依ては何時閣下の一大奮発を願はさるを得さる事に相成候哉と難斗
12 昭和六年三月二五日 昨日封入すべき鶴見氏の言面忘却に付き送付 (付)鶴見左吉雄書翰 山之内一次宛 三月一六日付 斎藤
総督御紹介の岡田信利氏の研究補助の件一項目に限り金額も減額して補助相成候ては如何
13 昭和六年六月二二日 岡田氏より啓明会へ御請求の件は研究項目の一部分丈御補助申上候積に付き左様御諒承下されたし御
辞職の趣邦家の為め遺憾
一五七六、 山内繁雄
1 昭和六年六月一五日 米国人類学者フレデリックスタール去二月シカゴ市にて講演しロンドン会議に於ける本邦代表の体度
に同情閣下御統治につきては賞賛 昨年秋大連にて仙石満鉄総裁に会見し当大学同僚五名満鉄沿線視察の希望申出快諾得候も
来年夏に延期
2 昭和七年六月一三日 南満上海の本邦民保護の為め兵を送りしも当然云々と当大学同僚其内意を洩しくれ候 FrederickStarr
シカゴに参り日本のとれる体度には一も非難すべきなしと講演 Starr に御懇命を垂れ遊ばされたし シカゴ大学教授六名満鮮
拝観希望
一五七七、 山内万寿治
1 明治一七年七月一五日 ダヰナマイト砲の事委細通報万謝 墺国新発明水雷舟の儀は明日当国陸海軍両省長官へ面謁追々交際
開始
2 明治一七(カ)年八月一一日 御恵贈のResearches on Fired Sunpowder 書落 手大山参議一行明日魯国より帰府 澳国士官発
明水雷の儀はキール港に赴かねば鑿穿不可 小生 Organization Education の二項は是非研究を尽くして置きたく砲術の一方者
Theory丈けなりとも学得たし
3 明治一七年一〇月三日 廿日大山参議の差図に任せエッセン府クルップ氏造砲場一覧 クルップ社旧套を墨守余り繁昌とも見
受けず 万寿治も去月已来当地兵学校砲科教頭某氏等に就て講求
4 明治一七(カ)年一一月二一日 ブラウン火薬の事承知 夫の火薬に関しては海軍部内にても巨細を知る者甚た尠く徒に空に
善火薬なりとて誇言をたたくのみ 御用に立つべき新書もがなと不断心掛も何分見当らず
5 明治一八(カ)年二月二二日 大久保氏一月初旬より当地に来られ目下万寿治と同寓 万寿治は客歳十一月下旬より開業の当
地海軍大学校に首を入れ四月迄にて閉業の筈 維廉港の砲術艦訪問 独海軍士官数名清国に加はり仏は清艦二艘を水雷にてブ
ローアップ 我々在欧中仏独間事あれかし左すれは意外の実地経験
6 明治一八(カ)年六月七日 清仏相談も相調ひ定遠鎮遠も程なく支那の物と可相成 支那は目下も矢張軍備に汲々たる様子先
般仏との交戦中独政府は海軍武庫内の旧砲克社に下げ支那に輸入せしめ其利を以て新砲買入吾国の砲は三十五口径長のみ故
是等の恐れは無き筈
7 明治一九年一月一二日 客歳英国ニューカッスルに滞在 前海軍卿川村伯より澳西太利亜海軍に入り海軍学術研究可致旨電信
出張年限は三四年以上になしてもらひたし
8 明治二〇年三月二八日 (早崎宛)大臣一行も昨夕伊太利に出発一安心 柴山先生四月末には竜動に赴かるべしとの事 維也納
には十一日間滞在ポーラには三日半 何にも見せぬとの声耳朶に上り候始末
9 明治二一(カ)年五月三日 三月下旬より樺山次官一行に随ひ伊太利・澳太利亜・仏蘭西等を周遊 大概にして切り上けと致
したく候へ共今更手も引き難く尚ほ少しの間滞在 是よりは実地研究に従事
10 明治二五年八月八日 来香已後一週日心神共に快よし 妻も快方に赴き居候
11 明治三〇年三月一七日 新旧大砲比較図面出来別途送付 来年度は経費不足の覚悟此際大英断を以て東京造兵廠を廃し失費
冗費を減削するは如何
12 明治三〇年一一月三日 本廠殊に水雷術に熟する上等機関兵長一名欠員 貴艦水野上等機関兵長を本廠へ転勤の事御承諾を
得たし
13 明治三〇年一一月五日 水野上等機関兵本廠へ転任の儀は一等下士に候はば心得として転任の儀御承諾を得たし 上申は本
廠に於て凡て取計可致
14 明治三二年五月四日 大蔵大臣視察も無滞相済 東宮行啓は見合せの由 小生上京発途の準備可致と考候野村少将病没驚くの
外なし
15 明治三四年七月二三日 和田氏演説要領交附の旨奉謝安広農商務総務長官当廠立寄の由敬承
16 明治三四年八月二七日 例の甲鉄鈑一件non=cemcudedと申す者出頭 此の最高の材料今すぐ本部にて充分の品見出し能は
ず実際に探究仕置たく地方出張御下命下され間敷や
17 明治三四年一〇月一二日 大臣閣下へ内申仕候件に付き却て卑意に関し縷々御回報に接し望外の幸せ 殊に大島技師報告書
も御受附の由厚く御礼
18 明治三四年一一月一〇日 昨日試製六尹甲鈑射撃試験執行結果は頗る良好 堀田正養氏一行未だ来らず議員の乗艦一条昨九
日の中国新聞に見えたり何れより漏れし候や
19 明治三五年三月二八日 (長谷部小三郎書翰 北古賀竹一郎宛)御下問の甲洲産タングラスヲンヲーアの義は性質頗る善良
も未だ試験仕らず タングステンはセルフ・ハーデニングスチール製造に必要に付き試装する考なるも原料なき為め延引
20 明治三五年四月二九日 五月三日頃リバプール着の見込 各地工場視察は日本人の出入を厳重 彼等は最早吾邦海軍の軍艦製
造を受負ふことてもせさる見込なりや奇怪至極 建築材料の如きは福井技師の書類を見るに総代価四万円の予算超過 装甲鈑用
諸機械代価も概して二割乃至四割方騰貴
21 明治三五年五月六日 (山本権兵衛宛)四月一日ウァンクーバー着 紐育に出で五月三日リバプール着 松方伯とは紐育府に
て一回面談ノーブル老翁にも面会 横田・桧山の両技手は残らず実業を修得 米国建築材料は非常なる謄貴に付き英国又は欧州
の大陸に注文する方利益
22 明治三五年五月二〇日 建築材料に付ては米国にて承り居候代価よりも廉直 小生担当の機械購入略終了 総て予算囲範内に
て充分支弁し得べき見込確立
23 明治三五年五月二七日 建築材料の件は福井をして彼のドルマニロニグに就き実際の取調べしむる必要あり 小生負担の買
物は案外廉価 不量も昇進の栄を辱し実に難有
24 明治三六年二月四日 三重県代議士の件に関し御来書の赴拝承 返電に拠れば「談話の必要なし」との御注意彼れは第一議
会以来大に勢力を有し是非共彼を立たせたく何卒尚一応大臣へ御噺し下されたし
25 明治三六年二月一二日 例の十二栂砲四門四七軽四門の件何等命令に接せず 憶ふに銀旁問題が又一頓挫の種となりし事な
らんか 三重方面の問題は本人より一書到来単に政見発表に止め敢て出馬は試みざる由
26 明治三六年二月二四日 甲州産マングステン砿石は欧米にても一噸に付き三百円内外に取引する者あるやの風説 精製品乃
ちメタリック・タングステンは竜動若くはリバプール取引一噸に付き英貨百五十磅内外
27 明治三六年三月二三日 過日は行賞云云に付き御尋申上候処速日に回報に接し恐縮 下級末端の者に対しては何とか満足を
与へ向来奮励のために相成候様致したし 貴電に対し十尹砲五十口径にて可然と信すと返信
28 明治三六年三月二六日 御配慮に拠り鴻大なる恩賞を蒙り一同歓喜
29 明治三六年四月二一日 帰廠後英国より返電クレーン代価八千百五拾ポンドとあり予想より高価にして大に困却 何卒右の
代価を差加へ御吟味を附せられたく切望 北古賀氏微志にて此段直接に御内願
30 明治三六年四月二二日 過日の申付の写真有坂大技士の分丈け小包にて差出
31 明治三六年四月二三日 本廠第九工場原動機去十三日試運転 六月下旬か七月上旬には同工場は全部運転 十工場も廿五噸熔
鋼炉に点火五月初には熔鋼開始の見込 新設ピット用の起重機高価にて閉口 節約するの方針にて予算改訂中
32 明治三六年六月四日 御精励の結果大問題通過 吾等も廉直且つ産出高増進勧告の心算 拡張案通過を待ち万事発展の事と思
考 北古賀大佐より問合に付き種々調査の上回答
33 明治三六年七月二八日 太冶製鉄業報告書拝見 府員をして議案せしめ候件は早速具申可仕 尤も九月末又は十月頃好都合 佐
双氏来呉も本廠へは顔を見せず今朝帰京
34 明治三六年八月一日 七月中二回の大雨にて造船廠裏下水脇崩壊の実況写真供一覧
35 明治三六年八月七日 両廠条例の件に付き当府各方面に於て下馬評発生 軍務局筋又は経理局筋より漏洩 過日梶川大佐に面
会し太冶の談 当地暑気酷烈兵員は大部よわり込候模様
36 明治三六年八月一二日 艦政本部より五十口径十尹砲一門注文愈々工事着手 博覧会の方も全部片附相済 改正条例発布の暁
には小生艦政部兼任が好都合 同時に同部を本廠内に移し条例施行方準備可仕考に候
37 明治三六(カ)年一〇月一〇日 米国電気工場へ職工差遣に付き多田大技士に同行せしめたく二三人撰抜 渡米の旅費例の
機密費より頂戴出来間敷や
38 明治三六年一一月三日 製管の件村上局長来港の機会に内議を遂ぐべし 改正条例十日頃実施見込の旨敬承 実は造船の方不
整頓に付き第一には造船工務規程の改造し第二には会計官の良材配付を熱望 造兵廠の加藤・材料府の斉藤両人其侭据置きと
なし両三年の後を待て工務の整頓を期したく希望
39 明治三六年一二月一六日 十四日附紙面拝受 チューブメーキングプラントの件に関しては手続相運び申すべし 又基金一条
に就ては臨時議会の成績次第 閣下声言に信頼し一陽来復を待つより外なし
40 明治三七年一月二日 アンナルド軍艦二隻も入手の由 リピッチング其他の工事呉に於て施工御下命下されたし 対馬も進捗
呉製水雷に対しては苦情を聞かず
41 明治三七年一月二三日 艦政本部一部に於て串岡氏へ御申付相成候由にて当廠内光景の写真入用に付き送付可致旨同人より
申越有合の写真十二葉御手元迄差出
42 明治三七年二月一八日 北古賀大佐より問合十一尹砲予備廿門製造は呉に於て是非引受たき存念 オイルタンクピット并ク
レーン装置大至急設備下され候様致したく右設備に要する費用も此際支出の道相開く様致したし
43 明治三七年三月二九日 昨廿八日夜九時半貴電に接す 四月初旬出港の広崎丸に海軍大臣よりの上酒搭載し送附方取計
44 明治三七年四月一四日 今回上京の水谷大監を以て申上候難題は事実難止次第に付き成効候様相煩したし 御申越に依り取
計候香港丸積の酒の費用は会計部より請求致候
45 明治三七年五月一九日 昨日柴山長官より極秘として彼の惨事を耳にし驚骸措く能はず 二大艦亡失の補充は目下最大の急
務一等巡洋一万三千五百噸の者を此際直ちに着手を切望 満二ヶ年以内を以て竣工せしめんこと確たる見込あり
46 明治三七年五月二七日 本廠所掌造船材料としては外板・アングル・ヂロイスト等は全く手を下すこと能はず此際必要の機
械増備適当と愚考
47 明治三七年五月三〇日 去廿七日発御書本日拝受書中の要点敬承 夫々手配致すべく将又事は総て極秘を厳守致居候
48 明治三七年六月四日 御下命に基き二隻引受の場合には如何なる手段を取るへきや 又駆逐艦を他へ譲るの配慮等に付ても
内々取調 春日工事は装甲板の取付終り次第出渠
49 明治三七年六月一五日 満洲丸一行予定通り本日当工廠縦覧 内外人共非常に満足の有様 曽我子爵も始めて了解の模様
50 明治三七年七月二日 本廠電気部人材養成は最も緊急 多田大技士欧州諸工業場を見学せしめたく御願
51 明治三七年七月八日 多田大技士の件早速御聞済下さり奉謝 本日は大山大将着広に付き柴山長官に同行し広島へ罷越序に
予備病院も尋ね彼の蟻坂大尉を見舞
52 明治三七年七月一一日 本廠も造機は人材欠乏 技術官配置につき大臣・艦政本部長と懇談 造船事業は一般に中央集権にし
て人事となると情実纏綿 為めに老朽淘汰も出来ず新進の人物も顕れず四方に怨嗟
53 明治三七年七月一九日 昨十八日伊藤侯一行来廠 大満足の様子
54 明治三七年七月二三日 有馬本部長来港 水谷大監も帰廠 人事并に工務とも目的に近つき洵に幸せ厚く御礼
55 明治三七年八月二日 清人并にネパール人等来廠の件は一行来観の日取一報煩したし 旅順口も愈々形勢切迫 予しめ分捕品
の後送の方針を定め同時に分捕役として技術志想ある者を捜査隊中に加へ下されたし
56 明治三七年八月六日 本日コーフン氏来廠 各部順覧大に満足の模様 今夕は宮島に一泊 明日神戸へ向け出発の由
57 明治三七(カ)年九月一九日 弾丸買入の一方には之が研究の必要 野田大技士に非ざれば此使命を果たし得べからずと愚
考に付き御断定願上 岩本大佐持病増進に付き帰朝命ぜられ候ては如何
58 明治三七年一〇月一日 予て注文の一等巡洋材料搭載船リラ号の事今朝佐双氏へ電報にて問合の処去月廿八日に到着の由始
て安堵 伊集院信管の義甚た良結果 岩本大佐後任の事は北古賀氏よりの意見に拠れば松見大監 小生に於ては何等異存なし
59 明治三七年一二月二二日 在港諸艦修理工事案外進捗 電気工樋口の負債償却の件本人へ申聞候処感泣拝謝 昨夕寺垣来訪
60 明治三八年一月五日 客臘帰任の途次大磯に伊藤侯を訪問 一等巡洋艦竜骨備付と駆逐艦吹雪の進水も本月十五日已後廿一
日頃と吹聴仕候処侯爵其頃皇太子殿下の呉行啓を取計ひたきものなりとの事
61 明治三八年一月一九日 昨十八日新聞上に『呉工廠にて巡洋艦工事に着手』と記され居り世人の注目を惹起 三笠艦長より
六尹砲交換方に付き閣下に御考慮を煩せしは汗顔の至り
62 明治三八年二月一九日 横須賀より種子田大監来廠予て貴部より本廠へ注文の新造戦艦巡洋艦の一部を分割して横須賀にて
製造希望を以て造兵部員と何か相談の様子 当方よりは是々は出来ぬ故願下げをなすといふ事は致さぬ覚悟に候
63 明治三八年二月二二日 田中技師賞与の件上申書提出 又船田・今村両技手も随従として賞与願出置候 安全発火装置の発明
者館技手賞与の件も同様提出 何れも可然御配慮の程願上
64 明治三八年三月六日 有坂・吉田両人委員となり出張の事 両人目下新造艦の兵装設計地図に大多忙 両人不在ては本務上故
障 此度は吉田を免し代りに依田大佐を委員に命ぜられ候様願上
65 明治三八年三月七日 渡英の田中盛秀氏より着英の報と共に別紙の如く申越 元来造船造兵監督官事務処問題は已前より両
監督官の間に彼是論争 御配慮の上田中氏の希望を容られたく切願 (付)田中盛秀書翰 山内万寿治宛 明治三八年一月二七日
付 ロンドン事務所を軍艦製造所たる当地かバウロウに移転したらば好都合
66 明治三八年三月一五日 子丑両艦会計変更の儀は目下研究 英国監督官事務処の義は御考究下され候由難有 当廠職工共済会
規約新しき印刷物未だ不出来 病院規則も次便にて可差出
67 明治三八年三月一七日 (本部長・局長宛)戦艦・巡洋艦製造費予算内より器械費支弁の事同意を得たしとの本部長・局長
連名電報に対し別紙電文の通り拝答 尤も製鋼炉・クレーンは何等関係なしと確信
68 明治三八(カ)年三月二一日 田中技師已下三名へ賞与の儀本日辞令書拝受深く御礼申上
69 明治三八年三月二九日 過日御清聴を煩し候竜動事務の件は多少相談相纏り候者と見え田中中佐より別紙の如く申来 御参
考の為め御一読に供し候 (付)田中盛秀書翰 山内万寿治宛 明治三八年二月二一日付 当分の内当方に購買本部を据置き浅
岡・藤井の内一人宛は当事務所に出勤の事に相定候
70 明治三八年五月三日 今回旅順派遣の片野技師藤田技手に付ては本廠ヒ免の事なく単に派遣と拝見 何卒転籍の上補充方吟
味を願上 又旅順大連行の書記二名も指定 派遣にては甚だ閉口に付き転勤の事と御命令下されたし
71 明治三八年五月八日 昨七日重量品陸揚中百噸起重機破損し修理には約三日間を要すべき見込 製鋼部事業も逐次進捗愈々
装甲鈑のローリングを開始し巡洋のスクリーン・アーモーアを製造予定 (付)呉工廠長電報 斎藤艦政部長宛 五月八日付 起
重機原動機破損修理三日間を要す
72 明治三八年五月二七日 田中十熊(盛秀の弟)先年米国より英国へ転じ竜動のコレーヂにて電気工学専攻卒業の期近きに在
りと別紙の如く申来 何卒技士若くは技師に御採用下されたく可相成は当廠へ御配付願上(付)田中十熊書翰 山内万寿治宛 四
月一三日付 電気事業は米国にて実地に研究 学理応用も一通り修業 斯業の製造事業に従事致したく希望
73 明治三八年六月六日 四日深更帰着震災後の実況巡視報告 田中盛秀より別封の如く申来り伍堂大技士御派遣下されたし
(付)田中盛秀書翰ヵ 山内万寿治宛 造兵監督官一人増派願
74 明治三八年六月九日 地震の為め破損せし暖炉の内一台復旧 熔鋼炉一台も危険に付き停業 昨日技師来り別段異状ありとの
報告もなし (付)呉工廠長電報 艦政本部長宛 六月九日付 暖炉復旧
75 明治三八年六月三〇日 旅順口はバーヤンに引続きベンスヰットも浮上り誠に結構千万 岩本大佐赴任に際し縷々御申聞の
段拝承 来る五日頃出発上京の心算 昨今伊藤大技士来廠相談中なるも到底其希望の如く急速には出来難く謝絶致すの外なし 別
紙田原大技士報告供御一覧 (付)田原造船大技士「大坂鉄工所駆逐艦製造現況」 明治三八年六月三〇日付
76 明治三八年七月三日 捕獲艦アリヨール回航員として舞鶴出張中の重村大機関士より水谷造機部長に別紙の如く申来り御参
考の一端として供一覧 同艦附属品等を悉皆陸揚して同鎮守府に収容 舞鶴の処置は如何にも其宜を得ず可然御配慮を煩したし
(付)重村義一書翰 水谷大監宛 明治三八年七月二日付造機部に関する修理材料は蒸汽管を要する位 烟突の新規取替又は大修
理位にて沢山 戦艦アリヨールは弾痕破裂の状を其侭に港内を圧す
77 明治三八年八月二七日 北古賀氏帰京 八尹砲を中央に存在せしむる事は余程奮発せざれば六ヶ敷 ベスレヘムのマシウ氏来
港し各部長談話種々注文 亜米利加丸復旧工事は本日全部終了
78 明治三八年八月三一日 工廠改善整理の義は夫々調査せしめ略ぼ出来上り候へ共大に査定を加ふるの必要あり延引 陸軍処
要砲材の義は可成同時に提出仕りたし 艦本一八五四の製作予定をインゴットの重量にて予算を立つるに一ヶ年には六千噸に
して破甲弾の材料要求には其高一万噸にも及ぶべし (付1)呉工廠長電報 斎藤次官宛 八月三〇日付 (付2)呉工廠長電報 斎
藤次官宛 八月三一日付
79 明治三八(カ)年九月四日 呉工廠戦後に於ける改善整理并に戦艦建造に対する設備増置に要する費用は合計約一千七百万
円平和談判の結果如何に関せず我海軍工業上の改善修理は英断に依り遂行を要す 次回議会には是非予算提出相成たく熱望
80 明治三八年一〇月九日 捕虜所持品買上の件は早速夫々手配 図書目録は魯文にして其写さへ得難きに付き其侭返戻致候由
村上局長より佐双君容体に関し来電あり実に気の毒の次第 (付)呉工廠長電報 斎藤次官宛 一〇月九日付 至急御送付を乞ふ
81 明治三八年一〇月一五日 御下命の捕虜所持品買入の件に付き本日岩本大佐より別紙の如く内報あり (付)岩本耕作書翰
山内万寿治宛 明治三八年一〇月一三日付 富田通訳官へ交渉 ジェームスへは電信通ぜず 明日参謀長に面会可致筈
82 明治三八年一一月五日 寺垣・北古賀御蔭を以て其所を得大に安定 神戸丸・西京丸解装の件に付き両舩の内一隻丈にても
解装に先だち医務局・艦政本部・当造船部立合の上議論を定め置候方可然かと思惟 造船技手高島某不遠依願免官の沙汰の外
なし
83 明治三八年一一月二二日 進水式来客の件御垂示に従ひ取計申すべく本省にて選定の来客人名相分り次第御一報煩したし献
品は「日本海々戦之紀念」とする方可然 右文字は東郷大将か山本大臣に御揮毫を願ひたし
84 明治三八年一一月二三日 水谷大監昨夜帰港タービンも愈々カーチスと纏りの由 右御採用の結果として此際は米国へ注文
し次回よりは是非共自製に致したし 今回注文の折には水谷を同国へ派遣方御一考願上
85 明治三九年一月一六日 今朝内田中将を再度訪問致し予備編入の事・掖済会へ貸下の船舶に関し談話 十三日夕刻呉発の電
報接手呉工廠火災の事を承知し大に驚き
86 明治三九年三月七日 英国貴賓一行当工廠諸工場巡覧 殿下を始め諸員一同大満足且案外規模広大なりとの感を与へしは蓋
しノーヱル大将の時已上なりし様に認められ候
87 明治三九年三月一四日 伊国皇族来廠に付き生駒進水には行幸仰出されず皇太子行啓内定の旨敬承 行幸なき時は皇后にて
も行啓願上たく切望も健康上叶ふ間敷 せめて皇太子・妃同列にて行啓は如何にや
88 明治三九年五月二七日 井上港医部長辞意の事は承諾の由 後任者未決定ならば何卒待命中の成川兄を御採用願上
89 明治三九年六月一日 宮岡兄昇任有難 成川兄の事は後任者既定
90 明治三九年八月一二日 予て御下命の戦利品に付き紀念物一二点は已に工廠に竣工致居候処荷造等の為め過日は携帯上京仕
らず 小田切氏の件も敬承
91 明治三九(カ)年八月二〇日 職工工事に対する割増給与法改正より水雷製造工場の一部に紛紙発生 職工同盟罷工との憲
兵の報告は針小棒大 焦点は寧ろ造兵部員・部長間の意志齪齬にありと愚考
92 明治三九(カ)年八月二一日 前便申述候工廠内紛紙は已に鎮定 業務毫も平常と異ならず遂行 御安意下されたし
93 明治三九年八月二二日 昨は造兵部内鎮定の旨内報も又々造機部内製缶工場に不穏の状態 是亦一時的の動作と認められ已
に廠内秩序常の如くに相成候
94 明治四〇年一一月一〇日 岩本の義本人に直接内話北海道事業ならば従事すべき旨快諾 山田を検査官に転用することは到
底相談にならず ニッケル使用今後五ヶ年間は毎年五百屯を要す
95 明治四〇年一二月一一日 軍艦筑波修理改造の着手・軍艦生駒竣工の御希望拝承 工事当局者よりの誤謬なき報告を御一覧
に供し置候 電気工事の不評判は強ち呉のみの罪にても無之 岩本の進退の義交迭丈は速に願上造船部長小橋の事一年間位を欧
州の視察に消したしとの様子
96 明治四一年三月三日 伊集院及原田等見舞発熱なく食欲もあり此より已上を望むこと能はずとの医見 筑波石見修理改造費
用支出取計候様致したし 艦政本部の一部の人達は修理局長の意見を誤解
97 明治四一年三月二四日 明日山中参謀を上京せしめ候間同官より御聞取下されたし 長谷部技師出張辞令発表前御一電を賜
りたく願上
98 明治四一年四月一七日 御蔭を以て長谷部技師も愈々出張の事に相運び申候 坂本技師進退の件は小生より説諭の結果本人
承諾
99 明治四一年五月一四日 ゼームス氏去る十二日来呉 井上角五郎氏より坂本技師の件申出の由 瀬戸大監を部長に据へ中島を
補助役に致候ては如何 郡司氏より千円入用と申来り閉口
100 明治四二年二月一三日 艤装中の伊吹の艦長に当てられし藤本大佐は医者の言に拠れば胸の病に相違なき様 愈々と極まり
候はば其代に石橋を充てたく希望 伊藤統監には来十五六日頃宮島に来着の模様
101 明治四二年三月一七日 富士常磐事件実に慚傀不能措 畢竟小生が予備艦隊の行動を慎ましむるの制御不充分御処置を待ち
進退を決するの覚悟 富士艦長石橋大佐・野元少将の身分に付き懇請
102 明治四二年五月一〇日 軍艦筑波一日も速かに復旧せしめたし 本艦第一艦隊に編入後漸次進境頗る有望 当工廠検査官河田
を伊吹副長に御採用願上
103 明治四二年五月二一日 河田中佐の件万謝 筑波動揺防止の事は山田造船部長考究 潜水艇引揚の件は井出大佐及ひ造船部長
をして考究せしめ置候 日本製鋼処内殊に日英人の間融和と意志疎通を欠き紛々たる小問題断へず
104 明治四二年五月二四日 米艦ガルヴヱストン号シヤフト新造の件引受製造の事に致置候も松方氏よりも出願書到来更に協
議中 昨日井上角五郎来港山本大将の意を受け社内紛争の事情を談話
105 明治四二年五月二六日 今回井上角五郎より当工廠長谷部技師を室蘭へ申受使用致したき旨申出 井上如何様申出候共御採
用なき様奉願上候
106 明治四二年一一月二三日 部内交迭の前にボイルを御召寄せ小生に対しては絶対的信用を以て万事一任するに非ざれば事
業の成立は見込なきこと御申聞下されたし
107 明治四二年一二月二一日 ノーブル翁は依然十三尹半には不同意 英国海軍新ドレッドノート型には同口径の砲を装備する
こと事実ノーブル翁一個の定見としては尚ほ之れに左袒せざる者と存候
108 明治四三年二月二三日 御来示の問題は洵に重要なる事柄にして是非共拝謁の上御教示を仰ぎたし
109 明治四三年四月六日 十五六日を期し上京の心算 艦型会議相開かれ候事は如何相成候哉
110 明治四三年五月五日 本日の重役会議も殆と不得要領に終り遺憾 松本中将を訪問閣下の思召を伝へられ大に意を強するが
如くに感ぜられ芳情深謝 尊意に基き小生伊地知氏と協定の上夫々取計の旨承知 ヘンソン氏明日午前十一時には伺候の筈可然
御諭示下されたし
111 明治四三年五月三一日 今朝当地着直に工場巡視 室田氏よりノーブルの来朝を促すことに決定 小生はノーブル氏を召喚す
るにしても彼の提案が有望なりと云ふが如き所感を彼に与へられたりとは信せず (付)Newcastle on Tyne 製鋼所発電報 五
月二八日付 (英文)英国民は日本政府あるいはアームストロング・ヴィッカースの保証なしには製鋼所社債に応募せず
112 明治四三年六月二日 スペンサー及びゼームスウヰツカー両人来朝の由 両人は此回の如き大問題を解決し得る人物に非ず
(付1)Newcastle-upon Tyne 発電報一九一〇年五月二八日付 (英文)我々は山内提督を会長として歓迎する (付2)室田
義文書翰 斎藤実宛 五月二九日付 御気付御尤に付き訂正
113 明治四三年六月五日 日本製鋼所を代表せる渡辺千冬・ボイル別紙の如く申越候へ共断り置候 財政の全権を掌握せんと言
ひ技術部に容嘴せんとす日本人としては面目次第もなき有様
114 明治四三年六月六日 スペンサーなる者の来朝に付き自分より英国へ発信 本日英国よりスペンサー派遣を取止むる旨電報
小生の邪推かボイルなる者が怪敷き様
115 明治四三年六月二日 去る五日夜半より大風雨 六日は当地一帯一時大騒動小生とヂョン・ノーブルとの間に数回電報往復
同人は昨今国元を離れること甚だ困難万事小生に委頼する旨申越甚だ困却
116 明治四三年七月二四(カ)日 同地試検も前後良好なる成績を以て結了 本社重役問題は株主の一部への対策も確定 小生の
就職公表は二週間已上の目子を費ざるべからず 今朝桂首相に面謁を得ずヘンソンをニュートラル・ダイレクターに撰挙する
ことに決心 首相推挙の人物ありとすれば監査役へ向けたし
117 明治四三年八月一日 此度首相より推挙の人名御申聞下さり奉謝 ヘンソン問題も本月十五日株式総会前に上京取極め申す
べし
118 明治四三年八月五日 首相推薦の小林氏の件は来十五日株主総会に附し決定の筈 本日電報を以て本人経歴書送付方願出 来
る十三日未明出京の予定 同日本人と会見致したし
119 明治四五年五月三一日 五月廿九日附貴翰拝受 例の人物の義に付き御垂示を蒙り難有 入社承諾の上は一時は嘱托名義にて
当地模様を視察せしめ直ちに英国へ派遣し造兵工場巡視帰朝の上改て其位置を定めたし 岩本氏は人望地に墜つ 此度の人は決
して左様なる不手際は有之間敷と確信
120 明治(カ) 年一月九日 巡洋艦キールに付き尚一般に秘密を守るの必要ありや 職工動揺始末善後の為めに職工をして安心
せしむる事第一 大艦製造公表も有効
121 明治 年二月三日 大臣の方へ御見舞旁一寸参り候 議会の問題心配 小松宮様の義御答申上(中欠)右御注文は大臣よりの
命なれば兎に角御聴に達し置候
122 明治 年二月三日 昨夜は無礼申上 今朝頗る不快にて閉口 大臣方迄参り其後の形勢承り来り稍や愁眉早速の御飛報御芳情
忝し 小生も本日は充分に治療を加へ明日は必す出勤仕りたし
123 明治(カ) 年二月五日 前代議士出居光華旧撰挙区民に対し檄文を立案し配布する考案の由 此文中には大に海軍拡張を主
張
124 明治 年二月二七日 愾鑵変形の件は総検査を行はしめたる末終に十一缶の内九缶迄は同様の変形にて大に驚骸 今回上申書
中にも記せし通り平常保存法に於ては充分に手を尽したるも時局切迫已後は昼夜を分たず激励せしめ漸々にして需要を充た
したる次第
125 明治(カ) 年三月四日 野口君ポーツマスに於て一昨二日午後死去
126 明治 年三月一九日 佐双書状にて三十七年度計画変更承知 当廠は九隻迄御引受の余地あり 春日二三日間に修理の見込 日
進春日より工事後れ居候
127 明治 年三月一九日 本廠出品に付き御高見忝く奉謝 已に広瀬中佐にも之と殆と同様の注文を致し置候 監守は交代の人撰
次第差出候事に取計 旅費増額は余程少に経理部迄提出
128(カ) 明治 年四月一七日 早速御返電給はり拝謝 工事日数四ヶ月間の見込
129 明治 年五月一一日 米国駐在官多田大技士今後製図工場へ入業せんと竹下少佐に相談も少佐は難色 右に付き可成修業の出
来る方針を御授け下され間敷や 工廠条例改正も大臣の決裁を待ち発布との旨出羽閣下より通報 其先きは如何なる模様にて候
や伺ひたし
130 明治 年五月二八日 水雷試検視察の為め十日間トリヱスト港出張 アナポリス海軍協会へ Associate Member に推挙雀躍の
至 当国の騒動は政府出境の兵四千人に引揚を令せん由にて実戦観察も最早出来難し
131 明治 年六月一〇日 タングステンの儀御蔭を以て好都合に運び申すべしとの模様拝承 秋山参謀の書面に改正信管云云と拝
見 信管の鋭鈍を決するは更に必要の大問題 秋山氏の砲身の弱点云々は俄かに同意を表し難く尚一層考査を遂げ申述べし
132 明治 年六月一一日 高桑病気に関する西軍医少監(工廠軍医長)の所見只今到着 供御一覧 (付)西工廠軍医長書翰 山内
工廠長宛 六月八日付 高桑大佐病状所見
133 明治 年六月一四日 本日鎮守府より電話にて小生兼務解かれ岩本を造兵部長に阪東を製鋼部長に補任の旨通知承知又伍堂
大技士英国派出の件も早速相運び好都合
134 明治(カ) 年六月二六日 菊名某来訪タングステン鉱石持参も甲州産に比し劣等にて有望には無之 御問合の瀬戸中佐の事
同人を一時呉に転せしめ候には別段異存なく造兵官に転せしむるに就ては何等異存なし 当工廠設備の義に関し来月中上京致
したく又其季を利用し北海道の鉄砂産地の模様を視察仕りたし
135 明治 年七月四日 重村大機士より水谷造機部長へ第二報別紙の如し 前便の分と些か関連に付き供一覧アリヨール写真一組
昨郵送
136 明治 年七月二四日 チューブ・メーキング・プラント起業費見積り取調に対し岩本大佐よりの電報御承知下されたし
137 明治(カ) 年七月三一日 安保長官には昨世日工場縦覧の上帰京 大体に於ては満足の様に見受られ申候
138 明治(カ) 年八月一七日 御談示の外沢近附鉱山并に持主の名つひつひ失念 御手数乍ら御一報願上
139 明治(カ) 年八月二二日 鉱物問題は農商務の実地調査の結果を待ち自ら手を下す事に可致 村上局長へ申進置候弾丸工場
の義に付ては現今連合艦隊・新艦に徹甲弾を供給する必要あり差当り臨時費を以て之れが設備を致したく御了解を願上 本廠
整理改善の問題に付き機械の設備は是非共必要
140 明治 年九月二日 軍艦三笠の艦体に受けたる弾痕の箇所御一覧に供したし 大臣・艦政本部長へも御伝覧下されたし
141 明治 年九月二八日 廿五日附貴墨正に拝見 是非追加相成候様切望 献品の義十月四日前後に大宮司に面会の心組
142 明治 年一〇月二六日 慰労の思召を以て旭日の加叙位は心配願はれ間敷者にや御依頼申上候出来得るならば来年御大礼前
に御沙汰蒙り候へば幸
143 明治 年一二月一一日 有坂より別紙の如く申来り候 川島の申す処も固より一理あるには相違なかるべきも此際は何卒万事
有坂を御助け下さる様御配慮奉願上候 (付)有坂中監書翰 山内万寿治宛 一二月九日付万一武藤を一部の製図者と雇ひ換へせ
らるる様の事有ると大打撃 閣下の御高配を以て先日差出候組織の完全に行はるる様此際御実行願上
144 明治 年月二〇日 昨十九日大磯に伊藤侯を訪問 同夜国府津発夜車にて帰任 製鋼所と百五十噸のことは帰港後上申可仕
145 大正三年五月一七日 久し振に専らは摂養 ヘンソン義は未だ帰国不仕 過般居を鎌倉に移し築地には在らず
146 大正八(カ)年四月一九日 会社創立に付ても法律問題財政問題交々相生し終に期日差迫り創立の事は最早断念の外無な
し北古賀対鈴木の係争和解に付き口を切るへき約束の大久保子の動静及ひ其成績如何に付き北古賀より小生へ報告未着
(付)斎藤実メモ四月二〇日付 別紙山内君より回答あり回覧の上周尾より返却願う
147 大正八年四月二二日 昨日入京北古賀氏とも面談 前便申上候已外別段御聞に達すへき義もなく伺候不仕
148 大正八年四月二四日 会社は特種鋼製造会社と併合の話来る廿五日頃には何とか確定すへき模様 解散の場合に於ける返金
云云の事に付ては取付け又は訴へらるる人達は創立委員中の富豪三四人の外には相手にする者は無之との事 北古賀を直接鈴
木と逢はせ感情の融和丈けでもと試み候
149 年四月一三日 在京中不一方御懇命を蒙り御礼 当地の形情は渡辺技師より御閉取の趣
150 年五月二〇日 松本中将も既に帰京の由諸般の事も解決と奉存候 トレベリヤン已下数名の者共一昨日着に付き登省御紹介
致す筈の処只今の姿にては公然登省も如何やと存候
151 年六月一八日ブリンクリー本日午後四時と五時の間に貴邸へ御伺の旨返答 小生宛英国老ノーブル及ひ英国側株主惣代よ
り二通の電報到来 ブリンクリーへ御談示の節右の旨御承知あらば一層好都合 室田義文氏唯今参られ懇談の末小生進退の件に
関し閣下に拝顔を得たく明日参館
152 年七月一八日 二三者より耳にする処に拠れは松方幸次郎氏が製鋼処払下に関し頻に運動致居候由 右の件若くは之に類す
る事柄に付き何か御聞込相成候儀は無之候哉
153 年七月二二日 本廿四日法要の趣を以て御寵招を蒙り御礼 生憎豚児百日咳に罹り臥床中に付き両名遠慮
154 年一一月二五日 例の野元少将の事は此際何卒御配慮を蒙りたし
155 年一二月二五日 弊社室蘭工場写真一面拝呈
一五七八、 山辺勇輔
1 年一月二四日 拝謁願
一五七九、 山室軍平
1 大正八年九月四日 此度不慮の異変に御遭遇の報に接し驚愕 茲に謹て御見舞申上候
2 昭和六年八月一〇日 今般財団法人中央教化団体連合会々長に御就任の趣 御重任の上に神の御祝福豊ならんことを奉祈上候
3 昭和九年 月 日 本年度感謝祭募金の季節と相成候 此度も是非是非御援助下され候様御願申上候 (付)救世軍感謝祭ビラ
一五八〇、 山本五十六
1 昭和五年四月一四日 第一艦隊仁川入港に就ては御高配を蒙候のみならす丁重なる御招待に預り拝謝
一五八一、 山本英輔
1 大正六年九月二二日 欧州戦況視察より得たる感想今般調査会の資料として印刷に附し候につき御目にかけ候
一五八二、 山本権兵衛
1 明治一八年一二月三〇日 内閣海軍大臣并に将官は常に目を海外に開き内に之れが計画を為さざれば海軍拡張の日なし
2 明治一九年一月二八日 御纏めの合衆国々防政策に関する別冊送附希望 本邦の防禦計画上了解せざるの点は是迄の諸製造品
海陸軍拡張に給する材料の国内製造方貫徹候様尽力の心組
3 明治一九年三月一七日 欧州派遣近況報告
4 明治二一年四月二四日 次官始め同行の諸氏在紐育領事館粟屋君に嘱し飾り時計数個本邦へ送附方依頼 如何相成候哉
5 明治二二年五月二九日 御申越の件に付き今朝造兵廠へ問合の処機砲は当廠の管する処に非ず造船所の主管との事なり
6 明治二二年六月一八日 ホヰルは昨日許可あり 水雷発射管は未だ海軍省内に到着せず不都合のいたり
7 明治二三年一月五日 帰港後入渠其他に付き鎮守府へ具申も何たる命令なく佐双造船部長より具申に対し御指令あり
8 明治二三年六月一二日 機関修理中に付き出港の運にいたり兼候
9 明治二五年一月三一日 荷物運搬日限の儀は先方の懇願により来月三日午後と御承知置き下されたし
10 明治二五年月一三日 借家一条は土蔵・座敷等とり片付
11 明治三〇(カ)年一〇(カ)月 日 横須賀着の時日問合の処在香港三浦から軍務局長宛の返電あり
12 明治三〇年一一月二日 宮古進水式挙行に付き出張 松島厳島破損等の電信に接し驚愕 昨日は三浦艦長・山本機関長等と面
会
13 明治三〇年一二月一三日 御内談いたし置きたき儀あり十五日御来局下されたし
14 明治三二年三月二一日 沼津御殿伺候東宮殿下に陪食露国提出万国平和会議の事等に付き言上 平和会議問題に関し首相・
外相等と御面会の節は衝突せざる様御注意
15 明治三二年三月二二日 佐双総監外遊の件は六ヶ月の間造船監督の名義にて巡視の事に心組
16 明治三二(カ)年六月五日 阪本大佐からの電報に関し軍令部軍務局の諸氏を会し意義解釈の儀急務 (付)斎藤実覚書 列
国挙て同意を表するに於ては現に製造中のものを除くの外はラムシップを造らざることに加盟すと雖も時日を定むるの必要
あらば成るべく早き方を望む
17 明治三二年七月三一日 山口造船廠長より相川本人退官懇請の由致方なし 河上智組長から技手に抜擢可然
18 明治三二年八月八日 留学生藤井の希望は英国滞在機関に関する諸制度取調 グラスゴー大学等へ派遣方都合宜敷
19 明治三二年八月二二日 塘沽附近の軍艦繋留用地の議に付き臨時軍時費より流用は大臣閣下異議なし 地面代価調査に付き
両省次官と御協議可然 高砂擱座も船体異状なし 八嶋機関破損調査
20 明治三二年八月二六日 伊藤侯爵申入の大臣官舎借用御断り 清徳炭山採掘の件に付き相原課長に別紙廻付依頼
21 明治三二年一二月一〇日 衆議院の勅語に対する奉答案に付ては議員をして反省せしむる必用 機密費八千円程調算願
22 明治三三(カ)年五月二五日 匪徒取締の為め列強北京政府に申入 軍艦天津に集結の模様 之に備ふるの計画御注意ありた
し
23 明治三四年八月六日 ベンデマン中将招待の議に付き諸事御配慮の趣大に安心
24 明治三六年八月六日 東洋派遣の英国艦隊増加の件に対し在英玉利大佐より注意喚起の旨別紙申来
25 明治三六年八月一四日 桂首相より別紙申来に付き行政整理のケ条等当省過日来取調の分首相邸に差遣相成たし
26 明治三六年一一月六日 府県廃合に関する法律案来期議会に提出決定海軍省にて之に随伴すべき法律案あれは極秘に御取調
相成たし
27 明治三七(カ)年二月三日 阪元少将東宮附御用掛被免に就ては適任者なき場合は暫時欠員の侭に置く外途なし 軍令部の
命令書中陸兵仁川附近護送云々の字句なし御取調相成たし
28 明治三九年三月一五日 松平男より別紙依頼に付き湯地と同様西園寺首相へ御申出依頼 (付1)松平正直書翰 山本権兵衛宛
一五日付 貴族院議員補欠に石黒五十二を勅撰議員として推薦する事首相と御約束及海相へ御取計依頼 (付2)斎藤実覚書 行
賞問題は従軍徽章条例発布次第具申 貴族院議員問題は湯地を第一とし次に石黒と首相承諾済 両人同時は困難
29 明治三九年一二月一一日 審査会議予想より早目に進行 属官へ両三日の休暇を賜はりたく御熟慮願上
30 明治四〇年一二月一一日 川崎正蔵叙勲の議は充分御説明の上西園寺首相の賛成を得られたし
31 明治四一年二月一九日 造兵廠処分の議は競争入札にて御処分方穏当
32 明治 年一月四日 皇太子御注文の字書米国より送付方御取計願上 葉山方面旅行貴衆両院代議士便乗の議は可然願上
33 明治 年一月一一日 計画書案脱稿送附に預り大に仕合 明日の仏国公使館附武官と面会の儀一時間繰上の事を同武官へ申遣
候様御命相成たし
34 明治 年二月一七日 英国皇帝戴冠式に軍艦派遣の議は是非御詮議相成たし 財務当局へ其意貫徹に尽力方桂首相へ御伝あリ
たし 内々阪谷氏と御打合可然
35 明治 年二月一七日 沈没露国軍艦を片端から取り脱しては引揚に際し容易ならぬ故障生ずる事予め先方へ訓令方御取計相
成たし
36 明治 年二月二一日 英国派遣軍艦二隻に対する予算は最も急を要す事件
37 明治 年四月一七日 大里主計少監佐世保より本省へ転勤の議村上経理局長より人事課長へ御申伝相成たし 煉炭買入の議御
詮議御取計依頼 主理任用に関する本行勅令案首相異存なし至急発布方安広書記官長へ御申込依頼
38 明治 年五月三日 過般は粟屋氏に関し早速御照会下さり御送附に預り御礼
39 明治 年五月一七日 機関砲其他の件は其筋へ廻送済 雨強く工夫不足を生しレーサー据付方に大閉口
40 明治 年五月一八日 山内大佐出張に付き佐双総監同様機密費より同額支給方御取計相成たし
41 明治 年五月一九日 佐世保経理部長は断然変更 人事課長より将校職名簿携帯の上宮城御参殿方通知
42 明治 年五月二〇日 本日他用あり出務難致 可然御助務下されたし
43 明治 年五月二八日 今朝前田・沢に面会し水雷発射管の件督促 かまど并に鉄板の件も原按のかまど削除
44 明治 年五月三〇日 高雄事務所をふじやまに移転方御申越に付き今朝山崎大佐に面会し事務所のため借用の義談判
45 明治 年五月三〇日 八代中佐来訪今回の配置上に関し海軍一般利益のシステム上に於て自己の利益を棄損せられたと誤解
彼の決心気の毒 今回の配置も充分有望の位置にあり 至急八代邸を訪ひ御懇談願上
46 明治 年六月二四日 五時までに御来艦依頼
47 明治 年七月三〇日 本艦高雄は諸事整頓来月三日解績いたしたし 八月九月分俸給前借方便利
48 明治 年八月一六日 赤十字社病院船演習旅行拝観の為め船舶を請け候得共目下避暑中
49 明治 年八月一九日 井上長官何日迄御滞在か御教示下されたし
50 明治 年八月二二日 本艦十七日遭難に罹り修理に余念なし 廿三年国会開設の懼れよりも尚一層の注意を灑ぎ海軍のため充
分研究討議必要
51 明治 年八月二四日 昨日暴風雨にて警戒 下士官已下学術試験御採用相成たし
52 明治 年八月二四日 皇太子御残務の件に関し本日奉伺 坂本大佐よりの報告書伊藤侯爵へも御渡依頼
53 明治 年八月二七日 常盤と敷島接触の件報告書一覧驚愕 徴罰令の範囲内にて処分すべきものなるか甚だ疑問 大艦に適任者
乗艦必要に付き人事局長と談合の上予め人名御取調依頼
54 明治 年九月一五日 英国艦隊の挙動一週間に一回は港外に於て終日演習 自由党改進党騒しく国会開設の準備と挙動は静穏
又は乱暴
55 明治(カ) 年一〇月一日 別冊案に付き内々調査相成御意見御記るしありたし
56 明治 年一二月三一日 別紙報告書実に遺憾 当直将校より一層の注意方可然御取計ありたし
57 明治 年一二月三一日 曩日暴風にて軍艦破損今亦猟帆船の衝突あり 別紙外務よりの二通電報誠に意外油断ならざる次第 東
宮殿下葉山拙邸御立寄の節注文依頼の書御探し下されたし
58 明治 年 月二日 実殿昨日佐世保着 六日頃帰京に付き此段通知
59 明治 年 月一〇日 高千穂も十二日迄舞鶴在港直に青森に向け出発
60 明治 年 月一五日 呉造兵廠拡張問題は世間に風説あれど緊急の事柄に付き通過方御配慮煩はしたしとの旨平田東助・松平
正直へ御申出相成たし
61 明治 年 月一五日 財務条例並賞賜内規査定の件至急相運候事に御督促ありたし
62 明治 年 月一七日 別紙海軍省立案通りに無之候はば直に藤田氏と御協議御取計相成たし 主務省之に応ぜず前提議通り押通
すならば閣議書は老生の許に御廻はしある様御申添下されたし
63 明治 年 月二九日 借用の書籍既に用済に付き返却
64 明治 年 月二九日 予てペルタン氏海軍大臣に黄海々戦に関する推問あり軍令部にて答案出来 貴君の御意見伺ひたく別紙書
面相添へ御相談
65 明治 年 月三一日 伊国製造軍艦艦名発表の儀外務省と合議の旨同大臣へ談話 林公使より確報可有之事と待兼居候
66 明治 年 月 日 瓜生司令官より確報得て大安心 本官より祝電方命じ置たり 勅語必用に付き御取計願上
67 明治 年 月 日 清国汽船徳和号の大同江行は我軍行動に面白からざる結果を生ずべく軍令部に御申遣相成たし
68 明治 年 月 日 玉利大佐へ発電の趣委細承知 艦名発表の儀は該書面の通御取計相成たし (書翰裏)斎藤実書翰 草稿ヵ 山本
権兵衛宛 一二月三一日付 別紙の通玉利大佐へ発電方可然
69 明治 年 月 日 (山本権兵衛宛斎藤実書翰の封筒裏に記入)本日相浦・鮫島出頭の儀電話申遣置候
70 明治 年 月 日 別紙閣議書海軍省にて調査方可然 交戦中病院船数隻随件は不都合の場合もある哉と存ぜられ候
71 明治(カ) 年 月 日 南摩より別紙の通り申来に付き御参考までに送付
72 大正三年六月一日 華族会館にて午餐差上たく御案内
73 大正六年八月八日 御内談致したき儀あり委細は面晤に相譲りたく御倚頼
4 大正六年八月一一日 井上との対話は極内密にて井上より東郷へ御申談の事は本人の発意 其当時部下に於て海軍の基礎を破
るべき重大犯罪人を出すに非ざれば長官現役引退の必要なしと確信 閣下と予の対話を第三者に移すときは我等の心意吐露方
却て先方の刺戟と決心を促がす基
5 大正六年九月一六日 過日御来訪の際に御話の趣もあり一昨日井上氏を訪ひ例の書類を手渡 東郷を訪問熟議の上一両日中に
東郷より先方へ相談致すべき事に相成候由
6 大正一〇年三月二日 池田某惣督府へ転勤の儀早目に御採用下されたし
7 年 月二日 本日中先方より御承諾を得たく今夕もしくは明朝御来会如何
8 年 月九日 (前半欠)別紙仁礼氏より申来に付き宜しく御取計願上 御老母様同導にて推参希望
9 年 月一六日 皇太子本日沼津へ到着に付き今朝一番汽車にて伺候 石黒技師派遣の書類不取敢荒助へ提出相成たし
0 年 月一六日 仁礼氏より紋入用の旨申来に付き御老父様の羽織暫時借用願ひたし
1 年 月二二日 書式中左の件必用に付き御記入相成たし
2 年 月二三日 御申遣の義は先方へも伝へ申すべし
3 年 月二三日 仁礼氏へ推参写真借用
4 年 月二六日 明朝八時半頃迄に推参
5 年 月三〇日 御依頼の書換の儀先方へ相談済
一五八三、 山本犀蔵
1 昭和六年一二月二八日 朝鮮に於ける電力統制方策計画案の通決定 企業形態に付ては電気事業調査会の答申を採用 政務総監
より発表適当
一五八四、 山本条太郎
1 大正一一年四月一九日 芳賀氏の件採用取計 財界の近状頗る険悪にて株式募集不振 政府多大の援助決定期待 母国の食料調節
に就き朝鮮の関係等御高慮の一端に御加へ下されたし
2 昭和三年六月一八日 満鉄調査課露西亜係訳「露国に於けるボリシエヴイズム発達史」上下二巻配付通知 (付)満鉄庶務部
調査課書翰 昭和三年六月一五日付 本書大坂毎日新聞社発行版は原文削除あり 但し贈呈の分は原文の儘印刷 厳秘に御取扱下
されたし
一五八五、 山本信次郎
1 明治四五年六月二九日 菊児終々此程薨去の由 誠に御同情に堪へず (付)郵便物受領証 明治四五年七月九日付
2 大正五年九月一九日 帝国は此際政争を避け益々国富増進を図ると同時に媾和に際し要求すへき事項の予定・媾和談判の際
特派さるへき全権大使の予撰最も肝要
3 大正九年五月七日 晩餐会に御寵招大謝 当日指定の時刻に参上可仕
4 昭和二年一〇月二二日 献上品の件は関係事務官に伝達 堀川杰吉御引見願
5 昭和二年一〇月二二日 堀川杰吉君は年来監獄部屋の改善に従事 御引見下さり候へば難有
6 昭和六年一二月一五日 義兄吉原重成今般予定の事業も完成 水力電気に対する総督府の大方針も確立致候は全く御高庇に依
る儀と感銘 今井田総監へ御一書を忝ふし平素十分ならざりし手当に対し幾分の考量を促し下されたし
一五八六、 山本唯三郎
1 年二月一〇日 岡山産あみ並うるか献呈
2 年八月一六日 メロン三個御高覧に供し候
3 年八月一八日 長尾半平氏後藤子より勧誘に対し努力を吝まざる旨快諾せし趣に付き浅野氏の交渉断絶致したし
4 年八月一九日 今夕徳山練炭製造所へ参上 開平炭は練炭の原料としては最適と確信
一五八七、 山本忠美
1 昭和二年四月一九日 ジュネーブ会議に際し在独仏の鮮人等には御注意願上 大坂朝日特派員黒田礼二(本名岡上守道)は共
産的思想を有し朝鮮独立論を唱へ当局より片山潜以上に警戒され居る由
一五八八、 山本達雄
1 明治 年四月一六日 軍人援護に付き御省に於ける諸軍人の遺族又負傷者等に対する諸給与規則類一部当会に備置たく御許諾
願上
2 昭和四年九月三日 朝鮮総督御拝命国家の為め慶賀 京城に於て新聞協会の大会有之に付ては中外商業新報社参事波津久清臨
席の為め出発 本人相伺候節は御引見下されたし
3 年九月二七日 粗食差上たく来る十月二日午前十一時に富士見町官舎に御光臨下されたく御案内
一五八九、 山本久顕
1 昭和九年月一五日 遣米使節として石井子爵に決定の由誠に結構至極 高橋蔵相も遂に辞意を表明閣下の内閣の総辞職は燎火
を見るよりも明なるもの 本日永井拓相と会見の折本問題に及ひ是れか対応策工夫する愚案を直接総理に申上呉れとの事に付
き数十分間割愛相叶候はは幸甚
2 昭和 年 月一〇日 最近米国政府より世界の経済復活討議のため吾国にも出席を要請 就ては出淵大使の如き人物の代りに一流
の経済家として現鉄相三土忠蔵を派遣遊ばされ候ては如何
一五九〇、 山屋他人
1 大正元年一二月二六日 寿令決裁案御手許迄提出(木村秘書官に託し)仕候に付き概略の説明陳述 少佐松山広助入院後継者
として原道太を当嵌中佐平井正慶現時休職三月諭旨の予定 江頭軍務局長後任には佐藤銕太郎また四班長には森義太郎適任
2 大正二年八月七日 対馬砲術長転補の件は上海の秋元少佐を此方に廻はし跡釜に対馬砲術長津田大尉を据ると云ふ趣向 第三
艦隊参謀の件は小松直幹少佐の参謀格別不都合なし 比叡副長の件は山梨少佐適任かと確信
3 大正二年八月三〇日 別紙決裁案に就き市川教授依願免官の件は来月初旬発令可然 機械教授補欠は嘱托の上村清治を採用の
筈 太尉山口一郎待命の外致方無し 鈴木・市丸諭旨の件は両人例のトロール船警務志願に付き予備編入必要
一五九一、 山脇延吉
1 昭和九年九月一日 『大日本農道新聞』を発刊に付き初刊号に御祝辞又は御感想依頼
一五九二、 湯浅倉平
1 大正一五年二月七日 望要なる案件二三経過御報告申上御指揮相仰ぎたし 李王世子殿下御洋行及高事務官交迭問題王公家軌
範議会提出の気運高揚決定の上は充分奔走尽力 服部博士快諾を得ること或は不可能に非ずやと存候(中欠)
2 大正一五年二月九日 服部博士より別紙の如く申来候間御高覧に供し候 同博士の推挙は有吉氏の趣に付き有吉氏に面談此経
緯を報告 有吉氏勅選の件若槻首相の答は今直に補充の考なし
3 大正一五年三月一八日 朝鮮事業公債法案本日貴族院通過の事と存候へとも木材関税の方は到底通過困難の見込大学総長候
補者として服部氏より文学博士松本亦太郎氏を推薦 他に適任者発見不致候に付ては同人に交渉相試み可申か
4 昭和二年四月二四日 内閣更迭に引続き内地銀行一斉の休業と相成候上は支払猶予令の施行適用を見ざれば全鮮の銀行は悉
く取付を受くる事と相成べきは予想に難からず当分細心の注意を要す 前文認め候後昨日午後六時閣議を開き決定今朝九時迄
に公布即日施行と云ふ事に相成一先安心
5 昭和二年九月七日 上山台湾総督を其地位より逐はんとする手段は実に悪辣にて此主動者は鳩山書記官長と信せられ候 内閣
の不統一世間では予算の編成に臨み大衝突を免れまじとさへ臆測 対支外交殊に対張作霖は空前の大失敗ならずやと憂慮
6 昭和二年一二月一一日 後任総督は山梨大将に決定致候由国家の為に痛恨に不堪 馬場〓一氏有賀頭取を動し意中の人を殖銀
に入れむとする策動激烈 朝鮮の金融機関迄喰物にせられる事は可憂限 渡辺定一郎も今夜上京致候由
7 昭和二年一二月一五日 新総督着任迄は平常通り執務可致其後は直に引上たしと存居候処小生の留任を強要の内意ありとの
秘電を寄する者あり 付ては田中首相に対し至急小生退官の御聴許相成様取計方御交渉下され候はゞ幸甚の至
8 昭和三年一月一〇日 湯浅為之進葬儀の慰問御礼 香奠返を故人の遺志により省略 郡山市の社会事業団体に寄付
9 昭和三年一〇月二九日 折角の御寵招是非共参上可仕筈に御座候処明三十日は明治三十一年大学卒業満三十週年記念宴会を
催候事に先々月頃より決定約定 特に御考察相仰ぎたし
10 昭和四年二月一五日 浅利前警務局長の身上に関し内地転出は真に容易の事なりし様存ぜられ候処既に各方面の議纏まり抜
差ならさる迄に進捗 同一内閣の下に一度罷めたる者を直に再起するは如何との世間体を憚る気味あり其のみ懸念 小生会計検
査院長拝命実は議会も離れたき感は少しもなく未練不尠
11 昭和四年一二月二日 果物の恵賜を蒙むり感銘の至に不堪 欠礼誠に申訳無之偏に御海容奉願上候 過日はからず会計検査院
長拝命 閣下の誘掖の結果に因るものと存し何卒向後も可然御指導奉願上候
12 昭和五年一月一日 謹奉賀新年
13 昭和五年六月二七日 殖産銀行理事中満期相成候者一両名有之候趣 交迭等も有之候へば草間秀雄氏を其跡に推選方格別の
御高配相仰ぎたし
14 昭和五年八月二一日 成歓甜爪贈与御礼
15 昭和六年二月五日 浅利三郎氏再起の運と相成 忠南道庁移転計画来年度予算に掲上相成趣 朝鮮の実情に通ぜざる人多く牧
山輩の反対意見に傾斜する者不尠油断出来難き情勢に側聞
16 昭和七年七月一九日 過日満鉄理事三名退職 其補充候補者としては朝鮮との密接なる関係より見て生田清三郎氏を御推挙
下されたし
17 昭和八年三月二六日 帝国議会閉会の慰労として清酒一樽交魚一折下賜
18 昭和八年一〇月二六日 清酒一打果物一篭下賜
19 昭和九年七月九日 時局に関し尽力候に付き三鞭酒一打下賜
20 昭和一〇年二月一九日 来二十八日粗餐差上たく候に付き同日午後六時三番町官邸へ御光臨下されたく此段御案内
21 昭和一〇年一二月二六日 御用有之候条本日午後二時三十分通常礼服着用参内可有之候也
22 昭和一〇年一二月三〇日 御面倒の儀御願申上恐縮仕候 委曲は拝眉の節御伺可申上候
一五九三、 由井正衛
1 年七月二一日 閣下の御染筆を拝受仕りたし
一五九四、 油井行郎
1 昭和二年三月二七日 閣下の御染筆を拝受仕り子弟指導の一助となし精神修養の資料と致したし
一五九五、 結城豊太郎
1 大正一五年七月三日 錦地視察の節の御懇情御礼
2 昭和一〇年一〇月一五日 来春卒業生御推挙感謝 結果は御引受致兼候
一五九六、 湯川寛吉
1 昭和二年一二月二〇日 此度枢密顧問官御拝命慶賀の至に不堪 謹て御祝詞申述たし
一五九七、 湯河元臣
1 大正九年五月二八日 義勇艦隊義金整理に関し調査結了 報告の為め来る六月二日委員会開催
2 大正九年六月一日 委員会都合により来る七日に延期 御出席下されたく通知 (付)帝国海事協会宛参不参通知葉書
一五九八、 行弘糺
1 昭和六年五月二九日 日本海々戦記念祭執行に付ては不肖の懇請を容れさせられたる段感謝に不堪
一五九九、 弓削幸太郎
1 大正 年三月二二日 私設鉄道会社々債保証案不決に相成洵に申訳なし 裏面の事情として今回のことは井上角五郎の土地会社
に対する反報・山本悌二郎氏に対する三土忠造氏の反感の結果なりと申候 尚大蔵大臣の此政策に対し高橋政友会総裁は不満
にて反感を有する由に候事も本件に影響
一六〇〇、 湯沢三千男
1 昭和九年九月三日 今秋明治二十七八年戦役広島大本営四十周年記念式典並講演会開催 御貴臨の御快諾御礼
2 昭和九年九月 日 史蹟明治二十七八年戦役広島大本営に於て明治天皇行幸記念展覧会別紙要項に依り開催 御所蔵の関係資料
御出品依頼
一六〇一、 湯地丈雄
1 明治三六年八月一三日 此檄文各地方長官へ配布 此会を以て御奨励下されたし 神戸に於ては連隊区司令官古沢陸軍歩兵少佐
も熱心尽力中 阪谷大蔵総務長官へ御内議の件如何 (付1)護国幼年会保護奨励会委員名簿 (付2)護国幼年会拡張檄文 明治
三六年二月 (付3)『讃岐実業新聞』 明治三六年三月
一八日付 切抜
一六〇二、 湯目補隆
1 昭和五年一月 日 襲賀春禧
一六〇三、 与倉喜平
1 明治四一年一月一日 恭賀新年
一六〇四、 与倉
1 明治 年一一月二八日 小生本年二月欧州派遣命ぜられ研究調査 貴地農務省千八百八十六年の年報送付依頼
一六〇五、 横尾純正
1 明治 年七月二四日 済生会職員空地有之候得ば御採用懇望
一六〇六、 横川美〓
1 昭和九年八月三一日 閣下御近影拝受以来額とし掲げ人格を敬慕 揮毫御許容御願
一六〇七、 横田五郎
1 大正八年一二月二六日 法務局長の重職を拝し感激挨拶申上
2 大正九年五月一日 李王世子殿下御成婚恩赦朝鮮一般の人心に好影響を与へ施政上に効果と被存候
3 大正九年一一月二六日 英国人ショウの件に関し同人安東退去せさるに於ては非常の障害生すべく退去履行につき外務大臣
に御交渉願 履行得ざるに於ては裁判所は予審決定し公判を開始 (付)ショウ書翰写 永沼判事宛 大正九年一一月二日付 (英
文)私の拘留は不当に長く正当な理由なし
4 大正 年四月二一日 人類学者フレデリック・スタール博士の監獄来観の議は大に歓迎 崔南善は目下京城監獄に服役中に有之
其際面会の許可の議も取計ひ可申
5 大正 年一一月九日 今般内閣に提出致候裁判所令民事令及刑事令の各改正案は法務局に於て多少の辞句を修正して全部通過
尚去六日御高裁の監獄官制外六件は上奏案到着の上直に提出し可成速に同局の審議を受くる様に内交渉を遂げ候
6 昭和四年五月三日 司法官会議の為め上京時御面接を辱ふし光栄至極
一六〇八、 横田茂
1 大正 年五月一七日 (守屋秘書官宛)烏線に関する権利確得の為め鮮銀支店にて総督の了解を以て横田茂に保証金担保を呈
給されるとの意味の電報を大至急御打電願上 立花司令官閣下宛紹介状頂戴御願
一六〇九、 横田千之助
1 大正八年八月一三日 親任祝詞
一六一〇、 横田晴雄
1 昭和九年九月九日 東郷元帥立像贈呈 御感想賜らば幸甚の至
一六一一、 横溝光暉
1 昭和七年一一月二七日 徴兵制六十周年当日の勅語案宮内省にて改訂の趣に付き別紙供高覧 (付)徴兵制六十周年勅語案
一六一二、 横山功
1 昭和九年五月二一日 吾人は現内閣の成立を希望 組閣以来使命遂行祝福 蔵相辞意は遺憾 別紙は高橋蔵相に呈上せし速達
一六一三、 横山健堂
1 昭和九年一一月一六日 御染筆二枚拝受 南浦侯の人物・挿話に就て御引見願上
一六一四、 横山三郎
1 昭和三年九月五日 「日本聖典と共産党」ポスター及憂国社主義綱領送付 (付1)憂国社「共産党事件に鑑みて我が有産階
級に要望す」 (付2)「憂国社公款」
一六一五、 横山助一
1 昭和九年一一月四日 (斎藤邸執事宛)揮毫御礼 広島師範学校への揮毫願
一六一六、 横山大観
1 昭和五年八月二八日 日本美術展覧会報告書送付
一六一七、 横山隆俊
1 大正一三年二月 日 (横山章と連名)書画諸道具売却仕りたく御高覧の栄を賜りたし
一六一八、 横山正恭
1 明治三八年一一月一〇日 戦後経営の為め機関局を設け機関部整理・機関官統率等戦闘技術を研究練磨等せしめ部員の行為
を監督処理せしめられん事希望
2 大正八年八月一三日 朝鮮総督就任祝詞
一六一九、 横山正好
1 明治三九年一月二〇日 海軍大臣就任祝詞
2 明治四〇年一〇月一二日 受爵祝詞
一六二〇、 吉井幸蔵
1 明治二九年一月一一日 昨年台湾表に於て御世話に相成り御礼 帰朝後例の病気再発職務御免を出願目今養生 米国のジックス
君近頃東京へ来着の由に付き近々の内病気を推し出京面会致したき考に御座候
2 明治三七年一一月二一日 廿七日総会及び評議員会開催の通知
3 明治三七年一一月二一日 廿七日総会開催の通知
4 大正一五年六月一日 帝国水難救済会評議員再選通知 (付)第三十四回総会改選評議員名簿
5 年七月一三日 西園寺より願上の件は浅野帰京次第会合を催し旧鉱主へ最後の決答を与へ候事に相成 同人帰京後直に御勧告
願上
一六二一、 吉岡範策
1 明治二九年一一月一二日 横須賀に事務所移転の際の家屋の事は海兵団門前の酒屋二階貸与可能の様子 御回答御報知願上
2 明治 年 月 日 井上司令長官へ御逓送の国防論其他列国海軍勢力比較に関する諸表は長官閣下の手許に差出
3 大正一三年二月一四日 旧臘より海軍省内にて海軍砲術史編纂に従事 閣下には谷火薬試験所創立事項以外御教示を仰ぎたく
拝眉願上
一六二二、 吉川力
1 明治四四年一一月一九日 清国湖北鉄製局長李維格と面談 同氏当分摂政王を大統領とし其間新大統領の適任者を見出さば現
状適当ならずや各国合同決定の上清国政府並革命軍に向て実施方至急取計はれたしと申され候漢口に於ける司令官・総領
事・寺西歩兵中佐・居留民間の関係思はしからず
一六二三、 吉里良雄
1 昭和九年九月 日 論説並に同様意味の御揮毫書画を京華社文芸通信部に御下附切望
一六二四、 芳沢謙吉
1 昭和六年六月八日 米人シリエル将軍寄稿論文の校正刷持参 文中朝鮮の植林事業の成蹟推賞 右論文送附 (付)Charles H.
Sherrill 「English Mandate in Palestine」『レヴュー・オブ・レヴユース』六月号
2 昭和一〇年一二月二七日 内大臣就任祝詞
3 昭和二(カ)年二月二一日 朝鮮総督御在職中の御功績に対し敬意を表し謝意申述たし
一六二五、 吉島辰寧
1 明治二四年四月二〇日 露国皇太子殿下御着の節の祝砲につき伺
一六二六、 吉田茂
1 大正一五年七月二六日 (警務局長宛電報)領事へ形式的に移す懸案解決弁法に関し平安知事が将来三矢協定破棄の原因を
為さんと危倶につき莫省長も同意差控の次第 本官は総督側の同意を得たりと申し置けり
2 昭和七(カ)年一〇月一六日 過般任地伊太利より帰朝 山本権兵衛伯より閣下に面謁致す様にとの御話有之に付き御都合伺
3 年一月三〇日 貴地罷出の節御歓待を蒙り感佩
一六二七、 吉田茂
1 昭和六年八月二〇日 中央教化団体連合会会長御就任の儀御承引を賜り恐縮
一六二八、 吉田正平
1 大正一三年八月一一日 朝鮮に新聞社設立の件に関し御紹介を辱ふし難有 然るに主唱者病気の為め設立中止 小生多年易学研
究 本年の国家の運気を占盤に質し候処本年擾乱の年にして多少の兵力用ゐる事あるべく頗る多事なれども国家の気運は仲秋
より発展向上
2 年四月二日 陳情書を栃内閣下に差上申候 此際老閣下の御助力を御願
一六二九、 吉田二郎
1 昭和七年五月二四日 内相・文相として永田秀次郎先生の入閣必要
一六三〇、 吉田千秋
1 昭和 年一〇月一三日 真正日本精神日本精神普及部への後援及拝顔希望 (付1)日本精神に関する吉田千秋意見書(付2)真
正日本精神普及会趣意書 (付3)添付書 祖国の為の進言御一覧を乞ふ
一六三一、 吉田吉武
1 大正一四年三月三一日 焼物事業今日窮迫の始末に就き陶土採蒐の件・窯増修の件・当分支持の件懇願
一六三二、 吉野作造
1 三年二月三日 同封書面差出人は在桑港帝国総領事に有之 先方の希望御聞届下されたし
一六三三、 吉野信次
1 昭和一二年三月四日 (斉宛)故閣下を御偲ひ申上くへき御品を賜はり深謝
一六三四、 吉原重時
1 大正二年二月一日 当地ヤロー会社駆逐艦二隻注文に付き下級監督官として小官御採用歎願
2 年三月一日 アスベストの件別紙調書送付
一六三五、 吉松茂太郎
1 明治一八(カ)年三月八日 日本の形勢海軍部内の模様替等は新聞紙上報道で承知 朝鮮一条は千載の遺恨失敗 海陸軍聯合対
抗運動相催す 陸兵派遣は実に困難 在欧州の諸君も時々報告
2 明治一九年一月四日 浪速艦回航委員拝命新城府安着 当地出帆は来月中旬頃
一六三六、 吉見勇助
1 昭和七年一一月二五日 御染筆賜りたく悃願
2 昭和九年九月九日 私立羽衣高等女学校・府立天王寺師範学校懸額への揮毫依頼
一六三七、 吉村太五郎
1 年七月二二日 身体検査証無之も本人の試験を進行 再交付の義は其の内交渉
一六三八、 四本万二
1 昭和八(カ)年七月一五日 藤田次官への紹介状御送付感銘 本日早速拝眉の上陳状仕候処黒瀬市長案一天張に推進方有益な
りとの御意見
一六三九、 米内光政
1 昭和六年二月二〇日 過日御厚遇御礼 速に御回復の事を祈上候
2 昭和九年四月一八日 蔵原海軍大佐閣下の御揮毫希望に付き御海容下されたし
3 昭和一七年一月一六日 (斉宛)珍酒贈答御礼
一六四〇、 米田甚太郎
1 大正一〇年九月一三日 忠清北道御巡視に就き御礼
2 大正一〇年一一月七日 駅屯土に関する権相道の不平は採るに足るべきもの無之も両班として相当勢力ある人物故懐柔を心
掛け居候 二男はコスモ倶楽部に入り共産主義宣伝 (付1)「堤川郡寒水面寒泉里権道相に対する杵駅屯土売仏に関する調査
顛末」 (付2)堤川郡寒水面寒泉里駅屯土関係書類綴
3 昭和二年一二月八日 病気静養の為の御退任を惜み自身も休養致したく家族と相談 有力鮮人も退任を惜み後任者を疑惧 湯浅
総監も御退任にて部内不安定
4 昭和三年七月七日 朝鮮早天続きにて五割の植付も出来居り申さず 大正八年以上の旱害を被らずやと心痛
5 昭和四年一月一五日 辞職諭示諒承 当分当地にて生活決心
6 昭和四年四月一八日 枢密院での拓殖省官制に関する質問は鮮内に大衝動 同民会鮮人幹部連盟辞職し国民協会に於ても種々
協議 政府原案通りの可決は意外の結果を生ずべく懸念 山梨総督側近口にさへするを恥ぢるの行為多し
7 昭和四年七月二日 浜口内閣成立の上は地方官大異動当然 迂生御推挙御願
一六四一、 頼永徳次郎
1 大正六年五月二六日 愚息五朗の就職御配慮依頼
一六四二、 陸軍大臣秘書官
1 昭和五年二月二一日 宇垣大臣来る 総督御招待の御都合伺
2 昭和五年二月二二日 宇垣大臣来る 総督御招待の御都合伺
一六四三、 李家隆介
1 明治三九(カ)年一一月二〇日 過般宮崎貴族院多額納税議員より清水港附近の三保村地内に海軍用地所要の趣にて土地代
価の義に付き地元村長より取調提出致候間県庁に於ても諸事配慮希望との話あり 別紙取調代価書を以て貴意を得たし
一六四四、 利府良司
1 大正九年七月一九日 不肖転官志望の義に就ては模様如何 将来の心得までに芳墨拝接仕りたし
一六四五、 留守景福
1 大正八年九月一日 山田氏の亜炭鉱区所分方の委任状相渡し候事申上たく候も別条次第故拝趨致兼候
2 大正(カ)九年一一月九日 知人杉本の朝鮮総督府営林廠への御採用依頼
3 大正一〇年一〇月七日 十月分生計費受取 目下専心治療中
4 大正一一年一〇月一三日 転地は中止し療養丈に尽し居り候
5 大正一一年一〇月二三日 今度邦太郎結婚方に付き御高配御礼 小生八月下旬より危篤に陥るも昨日余程廻復療養中
6 年五月二〇日 就職の件に付き尊台今村課長へ命示の趣小生へ通知 未た採用相成訳には無之も御配慮の段御礼
六月分の生計費本月中に手許迄送付願上
7 年一〇月二五日 逗子町の元仁礼子爵所有の別荘定測図送付 (付)別荘地図
一六四六、 留守邦太郎
1 年四月二八日 農園の経済状態も平沢水田による生活財源の状態も不安きはまり無き次第 来月七八日頃帰京の途御面会致し
たし
2 年七月二四日 御郵送の書類捺印の上御送附に付き御検閲賜りたし
一六四七、 若井源治
1 昭和一一年二月七日 御閣下始め皆々御一統様御健康と御幸福とを御祈り旁々厳寒御見舞
一六四八、 若槻礼次郎
1 明治四一年一二月一七日 明治四十二年度予算総要出来に付き参考の為め差出 明日の内示会にて発表迄は秘密に致されたし
2 大正一三(カ)年七月二八日 代議士平井光三郎氏御引見の程願上
3 大正一五年一〇月一日 今般講道館の事業を助くる目的を以て講道館後援会を 組織御協力御依頼
4 昭和四年一二月一日 (電報)貴電を謝す 閣下の蒔れたる種を収拾せんことを期す
5 昭和五年六月二二日 (電報)新聞紙にて卓見をうかがい敬意を表す
6 昭和六年四月二五日 此度叙爵の恩命を拝し尚又内閣組織に付き御祝辞を賜はり御礼
7 昭和八年一一月二七日 片岡直温氏重体と相成候由 是非陞位陞勲の恩命を拝せしめたく御高配願上
8 昭和 年五月六日 代議士原夫次郎氏に付き御高配に預りたく願上
9 年四月一三日 臨時煙草製造準備局に於ける執務の梗概を記述せる成蹟一班一部送呈
10 年四月一六日 横浜税関海面工事施行の梗概を記述せる報告書一部送呈
11 年一一月四日 行違にて失礼御詫申上
一六四九、 若松兎三郎
1 年九月八日 愚息身上に関し御配慮を煩はし恐縮 然るに海軍次官に面会相伺候処官費委託生は困難 種々考慮の末三菱鉱業会
社に銓衡依頼 事情御諒察御海恕願上
一六五〇、 鷲沢与四二
1 大正一三年九月一二日 金参千円旅費として御恵送御礼早速辜老に相通じ候処非常に喜び一週間内に出発すべしと返電の次
第
一六五一、 和田一郎
1 大正九年(カ)二月二五日 鮮鉄出資問題感激の至り 総督府の直営近き将来に実行必要 満鉄設備充実を期す必要 土地調査残
務終了「土地制度及地税制度調査報告書」送付
2 大正一一年九月一一日 朝鮮予算の経過報告 拓殖局の方は本月始め無事経過 西野次官の意見に対し行政整理繰延移入税撤廃
及新規事業は一括して問題とすと説明 大蔵省の具体的要求は十月下旬
3 大正一三年五月二三日 追加予算審議の件殖銀資金充実の件支払元金繰替払の件報告 大正十三年度予算経理の予想に依れば
約百五十万円の不足 三月末整理意見を総監迄提出
4 大正一三年五月二八日 繰替払の件は未だ決定せず中々困難 殖銀資金預金部融通の件進行を図り居り候 殖銀外債保証の件治
水事業公債要求の件要求書提出
5 年一月二五日 衆議々員山道襄一君外一名提出関東州及朝鮮に対する施政方針に関する件質問に対する答弁書別案を以て協
議 修正の上発案
6 年二月一五日 殖産銀行資金充実方に関して別紙昨日政務総監及水口理財課長に送付
7 年二月一七日 鮮鉄出資問題に付ては本日政務総監宛御電信拝承御高慮感激 菅原麻生両氏より羅津浦訓戎間鉄道至急許可希
望の電報来り目下手続中 鉄道補助案御配慮依頼
8 年四月二二日 大学予算は諒解済後再燃閉口 支払元金立替折衝急ぎ居候 朝鮮銀行整理草案脱稿 殖銀資金充実に付き御東上交
渉の方好都合 追加予算協議を進め置く必要
9 年四月二六日 朝鮮銀行理事補欠の件は総督閣下より書面有之候はゞ事の進行に極めて好都合 御取斗懇願
10 年四月二九日 本日山田昌寿氏面会 同氏願意は会寧上三峯間の鉄道に総督府より補助相願たしとの事 希望山々に候へ共到
底困難なること回答
11 年四月三〇日 朝鮮銀行日本銀行人選大蔵大臣の考に任せ居る由 大蔵大臣に対して御懇書御願する事は好都合小官の身上
に付て閣下より大蔵大臣に対しても御懇書ありたるものゝ如く合点し軽信の罪恐入候
一六五二、 和田維四郎
1 明治 年七月八日 昼餐差上たく御案内
一六五三、 和田三造
1 大正一二年一月二九日 壁画主題に関し学者間の意見を徴し候処反対にて当惑 一度拝顔の栄を得たく希望
2 昭和二年二月二日 過日は御多忙中長居致し失礼 更に学者方に面会の上相談 改めて閣下の御裁可を得たし
一六五四、 和田純
1 昭和二年一二月一一日 閣下御退官の電報に接し感懐無量 一日も早く御病気御恢復あらせられんことを祈願
2 年一〇月二六日 鎮海湾内鱈漁業権者漁業令違反の数名に対し今回行政処分を以て免許取消 十分調査の結果庁議を決定 何卒
可然御含み置き下されたし
3 年一二月二〇日 今回会議御指教を賜り感謝 昨今当地方民心も大に鎮静 有志者に於ても善後策講究 此機に於て十分協議 南
江架橋も此際実現を見る様願上
一六五五、 和田彦次郎
1 明治四〇年一二月一日 (武井守正・寺内正毅・清浦奎吾と連名)本月十日故品川子爵銅像除幕式挙行御案内
2 年二月二七日 大東文化協会終身会員として御入会下さる様切望
一六五六、 和田衛
1 昭和九年一二月一九日 斯文会の件に関し同封小紙御高覧の上貴見御一報懇願 (付1)『縦横評論』昭和九年十二月廿日号
(「松田文相の文辞に関し文相及び斯文会会長副会長顧問の諸公に進言す」) (付2)社会春秋社主幹和田日東宛葉書
一六五七、 渡辺忍
1 昭和九年一二月一九日 鄭煕燦氏出願に係る三清洞所在国有林払下に関する貴墨拝誦 右林野は保安林を解除致し難し
一六五八、 渡辺四郎
1 明治四一年八月五日 外務省局長面会拒絶し要領を得ず 下飯坂氏も本月中旬頃大由各要件を了し候義に付き旅券受領も取り
急き居り候 寺内大臣又は石井次官へ御談話又は御書面懇願
一六五九、 渡辺清次郎
1 年四月 日 今一艘新船を求めたく謂所規則書御所蔵相成候はゞ暫時御貸与下されたし
2 年五月六日 新船買入の儀に付き小生支那地方へ出張概略決定 過日御伺申置候事柄御一報依頼
一六六〇、 渡辺千秋
1 明治四五年七月二八日 今廿八日七時(岡・青山・三浦)拝診甚た御危険の御状態
2 大正二年一一月八日 十三日千葉県下新浜鴨場に於て鴨猟仰付候旨御沙汰候条同日午前九時迄に同所へ恭入可有之申入
(付)海軍省副官森山慶三郎発「鴨猟被仰付候件」大正二年十一月十一日付
3 年六月一九日 過日拝晤御面倒の事願上候処御懇配感謝 遺憾ながら此上御願の余地なし
4 年六月二八日 儀礼の件御礼
5 年七月一五日 沼津行幸は御見合 十八日は筑波にて近海御出港希望の思召
6 年一〇月一四日 今朝山本大将より承候事あり鮫島大将叙位資料等の都合もあり一寸御尋申上候
一六六一、 渡辺千冬
1 年五月一七日 本日日本製鋼所幹事近藤輔宗呉より帰京 今回御下命の件承知 重役一同深く感謝
一六六二、 渡辺定一郎
1 昭和年 月 日 石井氏辞職せば有賀氏辞職と相成べし 有賀氏はどうしても朝鮮を去らしめたくなきものなり辞職とせば河内山
氏より後継者無し
一六六三、 渡辺豊日子
1 昭和六年一月二一日 釜山消防組の正月出初式宴会に対し寄附請要の件御注意に接し御高配煩し恐縮 管内各警察署長に対し
通牒を発し釜山署長に対し注意
2 昭和七年四月二一日 第一回府邑面の選挙御蔭を以て予期以上の成果を収め慶賀に堪へさる所 別冊選挙誌御参考迄に御送附
3 昭和七年一一月七日 統営郡統営に於ける太閤堀運河堀鑿工事及同運河を横断する海底道路工事来る十一月二十日竣功式挙
行 是れ偏に閣下御高配の賜と深く感謝
一六六四、 渡部義顕
1 大正七年一〇月一八日 陸羽鉄道要覧今般出版 壱部贈呈
2 大正八年八月一九日 国家の為め朝鮮の研究仕りたく拙者御使用相成候はゝ閣下の御参考となるべき事柄陳上し得べし拙者
身上御詮議の材料として左に申上 土建業の経験あり西洋酒類の製造実地の経験を有す
3 昭和九年七月一四日 内閣御辞職の御見舞 脳病を起して入院 万一病死仕ても貞山公の刊行業は責任を以て発行
4 昭和九年九月六日 伊達政宗別紙見本刷りの通り印刷中の処曩に拝受の顕字石版見当り申さず 恐入候次第なるも此前御揮毫
の通り御寄書依願
5 昭和年九月一六日 筆墨料御贈与礼詞
6 年一〇月二二日 (消印は八年八月三日)伊達政宗外三名小伝御送付可致旨仰越の趣拝承 右は近刊予告せしものにして未発
刊のこと
一六六五、 渡辺嘉一
1 大正一三年四月二〇日 朝鮮鉄道会社の借款に就ては別紙の通り 朝鮮鉄道会社より小生に対し正式に委任状を提出する様御
配慮奉願
一六六六、 愛国同志会
1 昭和三年一二月二二日 (ビラ)民政党の諸君の反省を促す 其党名及綱領を改正せよ
一六六七、 永平寺
1 大正二年九月一日 高祖大師御忌大法会御案内
一六六八、 回向院
1 昭和九年九月 日 関東大震災に諸堂烏有に帰す 再建御賛助特志寄付希ふ次第 (付)本堂再建資金寄付募縁趣旨昭和九年一月
付
一六六九、 川島氏遺子学資後援会
1 昭和六年五月三一日 川島清治郎氏遺子学費後援資金募集の儀は別紙精算書の如く相成り予期の目的を達し各遺子も学業を
続行 御報告を兼ね御礼 (付1)川島氏遺子学費募集収支決算書(昭和六年五月二十五日現在)(付2)川島清一・秀二・静子
書翰 斎藤実宛 昭和六年五月三十一日付 父清治郎歿後の御後援感謝の挨拶
一六七〇、 貴族院男爵互選議員同志
1 大正一一年四月 日 公正会員中同会の態度を以て貴族院議員の本領を没却するものと為し突然退会の挙に出られしもの有之
趣意書なるものを見るに全々事実に反して理由を為さず 不取敢事情を具し奉得貴意候(付1)協同会趣意書・会規 (付2)公
正会趣旨・会則
一六七一、 共栄会本部
1 昭和一〇年一〇月 日 朝鮮施政廿五周年祝賀の意を表し兼ねて本会の目的達成事業資金調達の為め「講演と音楽舞踊の夕
べ」を開催 会員券買上御願 (付1)共栄会顧問頭山満書翰 斎藤実宛 昭和十年十月付 御講演を賜りたく御願 (付2)「講演と
音楽舞踊の夕」趣意書 昭和十年十月付 (付3)プログラム (付4)会員券
一六七二、 協同会幹事
1 大正九年六月一五日 貴族院議員男爵中川興長君薨去に付き其補欠として男爵伊達宗曜君を推挙
2 大正一〇年三月二五日 男爵議員補欠選挙には周布兼道君を御推選下されたし
3 大正一一年七月三一日 貴族院議員男爵伊達宗曜君逝去 補欠として本会は鍋島直明君を推薦
4 大正一一年八月七日 (公正会幹事と連名)尚友会幹部又は研究会領袖の中傷的宣伝事実に反し居り候 (付)協同会幹事書
翰 大正一一年八月一日付 尚友会協定申込に付き協同会幹事の所見報告
5 大正一二年六月一六日 貴族院男爵議員選挙高木男当選に付き御礼
一六七三、 宮内省爵位寮
1 明治四一年二月一八日 叙位相成候参内可有之 (付)参内心得
一六七四、 宮内省宗秩寮
1 昭和八年五月五日 子爵議員補欠選挙人名簿別冊の通配付す (付)貴族院子爵議員補欠選挙人名簿 昭和八年五月五日調
2 大正一〇年三月四日 貴族院男爵議員補闕選挙人名簿別冊の通配付す (付)貴族院男爵議員補闕選挙人名簿 大正一〇年三月
四日調
一六七五、 軍事研究会有志
1 大正元年一一月 日 朝鮮二箇師団増設は緊急の必要なし 現下の急務海軍充実及民力休養
一六七六、 軍事内局
1 明治二七年一一月三〇日 (侍従武官宛)陸軍武官名簿御返し下されたし
一六七七、 建国会三河島道場
1 昭和八(カ)年八(カ)月 日 (ポスター)「血盟団五一五関係者減刑嘆願民衆大会」「既成政党を葬れ」
一六七八、 元山毎日新聞社
1 年三月五日 御下命の金剛山写真帳本日五拾部官邸に発送
一六七九、 合資会社桜組
1 明治三二年一〇月一八日 桜組創業三十年の御礼旁聊祝意を表する為め来る二十九日園遊会相催たく御案内
一六八〇、 国際時局対策大会委員
1 昭和一一年一月二四日 英国皇帝の訃音に接し大会延期
一六八一、 国体擁護連合会
1 昭和八年一月 日 斎藤首相に呈す 罪を闕下に請ひ宜しく決するところ無からざるべからず (付)国体擁護連合会声明 昭和
八年一月二五日付 共産党に対する態度を明にして運動の大方針を声明す
一六八二、 国民協会水原支部
1 年 月 日 奉迎者名簿
一六八三、 国民国防協会
1 昭和七年九月一五日 国民国防協会創立会御案内
一六八四、 国民同志会一同
1 昭和九年四月四日 (封筒の発信人名は愛国同志会)白仁武氏文部大臣に詮議あらんことを提唱
一六八五、 護国同志会
1 昭和四年四月七日 不戦条約ポエプル(ピープル)なる語は人民に非ずして「国家」と訳すこと至当国家威信の為め公明な
る判断願
一六八六、 五城寮々生一同
1 昭和七年五月一四日 佐藤寮母退職慰労金御申込依頼
一六八七、 故鈴木天眼氏・故中野天門氏追悼会世話人
1 昭和五年五月五日 両氏追悼会に付き右発起人たること御承諾下されたし
一六八八、 国境毎日新聞社
1 昭和九年八月三〇日 新聞代金別紙振替御送附申上候間宜敷く御願申上候 (付)払込票
一六八九、 金光教徒婦人之友社
1 年九月一三日 教祖大祭に付き記念号発刊 御筆染を頂きたし
一六九〇、 金剛山協会
1 昭和七年四月一三日 本会顧問を委嘱す
一六九一、 斎藤内閣後援会満鮮有志
1 昭和七年八月二五日 斎藤内閣後援会宣言行きかゝりの感情を打破し現内閣を後援し時局匡救に驀進すべし
一六九二、 至誠殿事務所
1 昭和九年八月 日 至誠殿に関する祝詞・祝文・和歌・漢詩等を取纏め冊子編纂 貴台の玉詠を頂戴致したし (付)至誠殿建設
旨趣書 昭和八年一〇月一日付
一六九三、 施無畏聖浄協会
1 昭和四年九月 日 正法観音像頒布を願う (付1)「観世音菩薩大悲願一万八千体」 (付2)「観音様信仰者には此功徳有
り」 (付3)「現代を救ふは正法耳也」 (付4)観音像写真
一六九四、 尚友会男爵幹事
1 大正一一年七月三一日 補欠選挙に付て協同会自会所属の候補者を推挙するに至りしは遺憾 今後の成行につき御配慮を賜は
りたし (付1)尚友会男爵幹事書翰 協同会幹事宛 七月二九日付 候補者の選定は協議の上決定致したし (付2)尚友会男爵幹
事と協同会幹事との交渉書類
一六九五、 信愛相互富強団
1 明治四〇年一二月 日 別紙『統一公報』第二十二号に記述せる「五円にて年千円 勿怪人世之大元締」と題する記事御
一読下されたし
一六九六、 震災同情会
1 大正一二年九月二六日 震災同情会趣旨書 (付1)震災同情会規約 (付2)寄附金申込書 (付3)添書 寄付申込は十月十五日
限
一六九七、 仁川公職者連合会
1 昭和六年五月二八日 朝鮮取引所令公布御同慶の至り 米豆取引所の京城移転及ひ仁取と京城株式現物取引市場との合併に今
後共反対
一六九八、 仙台同郷将校会員
1 明治三七年一月一日 謹賀新年
一六九九、 鮮満警備殉職警察官慰霊祭準備事務所
1 昭和九年九月 日 鮮満警備殉職警察官の慰霊祭を十月十五日をトし靖国神社外五ヶ所に於て挙行 御支援願上
一七〇〇、 相愛会総本部
1 大正一五年七月 日 (相愛館と連名)暑中御見舞申上候
一七〇一、 曹谿寺
1 昭和五年一〇月一七日 屏風壱双御寄贈御礼 (付)山崎良夫メモ 一三五阿難と摩登伽二曲屏風一双 (斎藤実書込)昭和五年
十月曹谿寺へ贈る
一七〇二、 大衆国威連盟
1 昭和九年一月二日 昭和九年一月一日発行『大衆国威』付属「今議会で搾取網を粉砕せよ」
一七〇三、 大東出版社
1 年九月一〇日 加藤咄堂「菜根譚講話」拾五部御届け
一七〇四、 大日本昭和連盟京城支部
1 年一月二八日 奉祝為君国閣下御健康
一七〇五、 高千穂学校
1 明治四二年五月二〇日 来る二十九日実地授業・談話会開催 御来校相成たく通知
一七〇六、 武田範之李周会法会発起人
1 年六月 日 黒竜会葛生能久氏入城を機に来る十四日武田範之・李周会氏の法会相営み候間御参拝下されたし
一七〇七、 田中内閣糾弾有志懇談会発起人
1 昭和四年二月一九日 田中内閣糾弾有志大懇談会御案内 (付)出欠葉書
一七〇八、 男爵会幹事
1 大正四年四月五日 昭憲皇太后渡御の儀に付き通知
2 大正四年一二月二〇日 決議御大礼に関し尽力せられたるに付き前任幹事へ物品を贈与 (付1)男爵会庶務報告(自大正三
年十一月二十二日至大正四年十一月三十日)(付2)同会々費収支決算報告(自大正三年七月至大正四年六月)
3 大正五年一二月二六日 決議 男爵議員数増加相成たき旨を其筋へ申出つへき事他一件 (付1)男爵会庶務報告(自大正四年
十二月至大正五年十一月)(付2)同会々費収支決算報告(自大正四年七月至大正五年六月)
4 大正一一年一月七日 総会にて左の通決議 庶務及会計報告承認の事他二件 (付1)庶務報告(自大正九年十一月至大正十年
十月)(付2)男爵会会計報告(自大正九年七月至大正十年六月)
一七〇九、 忠愛会本部
1 大正一〇年一一月一五日 忠愛会発会式挙行 御賁臨仰付けられたく御案内 (付1)忠愛会設立の趣旨・忠愛会会則・発起人
及賛成諸氏氏名 (付2)忠愛会事務所行葉書
一七一〇、 東亜調査会
1 昭和六年九月二五日 今回の満洲における帝国軍隊の行動は自衛権の発動として最小限の範囲 現時支那における排日排貸の
如きは帝国に対する敵対行為政府が断乎たる決心をもって臨まんことを希望
一七一一、 東亜同文会
1 明治四一年一〇月一二日 当会副会長清浦子爵は東亜同文書院長細川侯爵及本会幹事小川代議士と共に来る十五日午前八時
新橋発の汽車にて渡清
2 大正四年一二月三〇日 大正弐年度本会決算の儀は去る弐拾八日評議会に於て決算書の通り決定
3 大正五(カ)年 月 日 『会報』
4 昭和六年一月一九日 東亜同文書院副院長岡上梁氏今回辞任 本会理事大内暢三氏当分院長代理に決定
5 昭和七年四月二七日 五月二日評議員会開会 御出席賜りたし
6 昭和七年五月二日 本日弊会評議員会欠席の旨電信を以て御通知下さり謹謝
7 昭和七年五月一〇日 二日の評議員会に於て本会昭和五年度収支決算・貸借対照表・財産目録及昭和七年度予算は原案の通
り承認
一七一二、 東昌会事務所
1 年 月 日 大東学生連盟の名称・目的・会員・役員 (付)東昌会趣意書・東昌会会則
一七一三、 同仁会
1 昭和七年一月二日 敵誌「同仁」への御芳名御寄稿御礼
一七一四、 東邦協会
1 年二月一二日 規約改正案中第二条は原案者に於て撤回 更に福本評議員副島幹事より左記の案提出の筈
一七一五、 同民会
1 昭和六年六月二四日 本会は閣下多年公私の勤苦に対し敬意と感謝を禁ずる能はす
2 昭和七年一月九日 声明書 一不逞漢が一大不敬を敢てし内閣は総辞職 吾等は這回の不祥事は狂人の狂態とし内鮮融和の精神
普及に徹底
一七一六、 十勝公論社
1 昭和四年一〇月二六日 昭和四年十月二十五日発行『十勝公論』第九年第三号(「悪ブローカーに禍せらるゝ音更斎藤農場
の小作人」の記事含む)
一七一七、 内鮮融合会創立事務所
1 大正一〇年四月 日 内鮮融合会創立趣意書三八、 日満中央協会
1 昭和七年五月一〇日 満洲国建国祝賀青年使節報告会を開催 報告出版物発行致筈に候へば御指導御助力御願 (付1)丸山鶴
吉他四名連名書翰 昭和七年五月一〇日付 青年使節一行今後日満中央協会を設立 (付
2)日満中央協会設立趣意 昭和七年五月一〇日付 (付3)日満中央協会事業概況
一七一九、 日本ショフワー交友会
1 大正四年七月二五日 来月八日会合の為め会員近藤竹次郎に対し一日公休賜はりたし
一七二〇、 日本体育会
1 明治三八年四月二一日 兵事講習拡張に付き御賛助依願
2 明治三八年五月二日 兵事講習拡張に付き御賛助願上
一七二一、 久田船長建碑会
1 昭和九年九月一〇日 輪島塗一基進呈
一七二二、 報徳会総務所
1 昭和六年一二月 日 報徳学校本校舎と武道仮道場并に寄宿舎新築の御挨拶 (付)桃山報徳学校案内
一七二三、 松浦玉圃翁七十七歳祝賀会
1 大正四年六月七日 松浦玉圃翁七十七歳の祝宴に御来会下されたし
一七二四、 馬淵テフ子後援会
1 昭和九年九月 日 飛行士馬淵テフ子嬢在満皇軍将士慰問・日鮮満親善・故朴敬元嬢追善の為め飛行計画切に支援を祈る
(付)皇軍将士慰問・日満親善飛行計画
一七二五、 三越争議団本部
1 昭和四年四月(カ) 日 三越呉服店に惹起しました労働争議に付き私共の苦衷に御同情を賜はり三越本店の反省を促すため
に御協力依頼 (付)「三越労働争議に関して市民諸君に訴ふ」
一七二六、 三中井呉服店
1 年一二月二〇日 仏教徒が鮮人教化の為め設立の向上会館産業部の製品即売会に御来臨賜りたし
一七二七、 蒙古同好会
1 大正一一年四月一日 今般蒙古事情を研究調査し之を社会に紹介する目的の下に蒙古同好会組織 賛助員たること御承認懇願
(付)蒙古同好会発起の趣旨規約 大正一一年四月付
一七二八、 木曜会幹事
1 明治三八年二月四日 旅順海戦当時の実況御演説御礼
一七二九、 The Argus Pressclipping Bureau
1 年 月 日 (英文)新聞切抜サービス広告
一七三〇、 International Press cutting Bureau
1 年 月 日 (英文)新聞切抜会社会員募集の広告 (付1)契約書 (付2)切抜サンプル(一九二七年六月二
八日付 ロンドンDAILY MAIL)
一七三一、 尹英烈
1 大正一三年一月二六日 (漢文)客冬恵賜の額及聯の諸幅は鎮家の宝と為し永く子孫に遺して高意の万一に報いんと欲す
(付)訳文
一七三二、 尹甲炳
1 昭和四(カ)年 月 日 疑獄事件で一般民心が疑を持つ此際光州事件が起き不逞の徒の煽動の為に各地学生が動揺 主謀者以下
学生の全部釈放が一般の希望
2 年三月三一日 朝鮮仏教青年会運動基金の調達等の為め常務理事を派遣につき御引見依頼
3 年一一月六日 別紙意見書送付御一覧下されたし (付)尹甲炳意見書 施政大方針八個条の中第三条の実行及内務部長・警察
部長・警察署長・平北知事への朝鮮人の登用を懇望 大正十三年十二月一日附を以て行政整理小生一代の遺憾 復職の恩命に浴
したく閣下の御斡旋に預りたし
一七三三、 尹昌錫
1 昭和 年八月二九日 閣下の御紹介で渡辺学務局長に拝謁 小生の希望を申述
一七三四、 尹相弼
1 昭和四年一二月六日 十月十二日頃許可願を咸南馬野知事宛提出 然るに今日迄許可成否に対する指示なし 救済事業は国家的
社会的のもの 知事宛御下令願
2 昭和五年一月二二日 元山朝鮮水難救済会に於て今回御許可を得難きときは救済船に対する借入金の償還にも大困を感ずる
は勿論経費関係上救済事業の目的を達し得す 御詮議相煩したし
一七三五、 尹大永
1 昭和四年一二月一九日 (漢文・七言律詩)君再ひ到るの年を望む
一七三六、 尹致昊
1 大正一四年六月八日 (英文)祖先の埋葬され居る丘での金鉱試堀中止に御助力願
一七三七、 王〓斌
1 年五月九日 (漢文)招待佳品下賜御礼
一七三八、 汪材根
1 昭和九年九月二(カ)日 御辞職の際の御苦衷を御察し申し上げます
一七三九、 汪翔
1 年 月 日 (漢文)巡閲の際の御優待御礼 屏一幅綿花棹囲一床玉石図章一方奉呈
一七四〇、 郭昌鉉
1 大正一三年一月一一日 例の建議案に対する具体案件御召命を待受居り候間御東上前面謁の機会を賜はれたし
2 大正 年三月二三日 儒林会組織及不良青年派郡民友会懐柔策は焦眉の急務 大正十三年度の新政策新事業として実施を願う 小
生中枢院嘱託に任命相成たし
3 昭和五年四月一八日 (漢文)次兄郭漢宗履歴書二通呈上
4 昭和五年五月八日 (漢文)方今中枢院参議改選詮考に際し御下命望む
5 昭和六年一月一四日 (漢文)郭漢鳳李王職典祀補御採用依頼 (付)郭漢鳳履歴書 昭和六年一月付
6 年三月三日 (漢文)中枢院書記官より家兄漢倬復職の件内務局長に提案
7 年七月二八日 暑中見舞
一七四一、 菅恂
1 大正一三年一月一日 奉賀新年
一七四二、 関定保
1 大正一二年五月八日 (漢文)新義州鉄道旅館にて御姿を拝し又恵賜珍品を蒙り感謝
一七四三、 韓圭復
1 昭和二年一一月二八日 今夏渡欧中の心労及帰朝後の繁務等の為め健康に支障の事と拝察 御静養の上全快の程祈上
2 昭和二年一二月一三日 閣下俄に御退任の趣拝承 小生一大の霹靂にして遺憾此上なき次第
3 昭和三年六月二九日 管内水稲は約八割植付完了 養蚕・煙草の成績も良好 近く御来鮮の節は是非御光臨の程願上
4 昭和四年六月六日 揮毫拝受御礼
5 昭和五年一月一八日 今般知事会議の為め出府の際は懇篤なる訓示を賜り且種々厚遇に預り深謝
6 昭和五年七月二六日 先般来全鮮に亘る風水害の惨状は甚大 黄海道管内は被害程度軽微にて天候は豊作に申分なき状況
7 昭和六年五月一日 管内長淵郡産防風御笑味下されたし
8 昭和六年五月一八日 本道窮民救済事業の内西江改修工事起工式挙行御案内
9 昭和六年六月四日 先般の邑面会議員の選挙は無事終了 西江改修工事も過日起工式を挙行
10 昭和六年一〇月二〇日 公務多忙の為め未た失礼執れ拝眉の栄を得たし 梨一箱御送付
11 昭和六年一二月四日 先般当地迄御光臨を忝ふし厚く御礼 其節撮影の写真別便送付
12 昭和七年一一月七日 竜塘浦港修築工事竣工式去る十月二十四日盛大裡に終了
一七四四、 韓準錫
1 昭和四年九月七日 (漢文)総督再任奉迎
一七四五、 韓潤東
1 昭和七年三月一八日 検事局から呼出状あり詐欺罪として告訴され応訴する決心 法廷に於て陳述事項の中に閣下の不名誉な
る事でも言論紙上に出やせんかと思ふ 別紙趣旨及綱領の下に一大活動も小生入獄する様になりましたらこの運動に打撃
(付)朝民会趣意書・綱領 昭和七年一月付
一七四六、 韓昌洙
1 昭和二年四月一六日 故李王一年祭へ鏡餅御供へ相成 李王より御厚志を深謝
2 昭和三年三月一日 昌徳宮より閤下・令夫人に差進の記念品製作 今回出来につき東京邸迄発送
一七四七、 韓相竜
1 大正九年一月二四日 昨廿三日株主総会相開き内地人も株主たる事を得る件及増資の件其他何れも原案通可決
2 大正九年一二月一九日 家内の手製に掛る朝鮮綾緋布団壱枚差上仕り候
3 大正一二年二月一〇日 這回宮内省当行株式御買上 閣下の甚大なる御高庇の賜と感佩
4 大正一二年九月一五日 漢城銀行東京支店の支払準備に付ては今回朝鮮銀行より融通を受くることに御詮議下さり御礼
5 大正一三年二月一六日 今回勲三等陞叙の恩典に浴し光栄の至 偏に閣下の指導と庇護の賜ものと御礼
6 大正一四年二月七日 愚兄韓相鶴今回の李王職々員整理を機会に御採用の栄を蒙りたく申居り閣下より李王職長官へ御懇書
寄せ下され候こと希上
7 大正一五年七月二七日 今回弊行経費節減・能率増進の為め行員整理を断行 南大門支店勤務柳洪珪も退職に内定
8 昭和二年四月一四日 軍縮会議全権大使の重任を拝せられ候趣邦家の為め慶祝 臨時総督代理宇垣閣下に小生及漢城銀行の紹
介を賜り候様懇願
9 昭和二年一二月七日 今回閣下辞表奉呈の趣実に驚愕 公私共多大なる御愛顧を辱ふし御懇情の程感銘に不堪御後任の方へは
当行並不肖の事に付き宜しく御引継御紹介を相願たし
10 昭和三年二月二一日 漢城銀行整理に付き大蔵省及び日銀にて審査 二三日前草間局長一案携帯帰任 減資案困難 小生如何な
る対答なすへきか御指示下されたし (付)斎藤実書翰草稿 三月一日付 政府及日本銀行の援助に依り整理を遂行し得るものと
せは総ての事情は放棄せられさるべからす
11 昭和三年三月一二日 漢銀整理問題に付き本日総督に会見の結果整理案は小生に於て取纏め総会に通過せしむる事に諒解
総会後の小生の進退は総督に一任
12 昭和三年三月一七日 漢城銀行整理方法は誤解を招く点多にあり鮮人の心理状態多少変動 小生の進退に就きては内地及朝
鮮の恩人先輩友人親戚等に種々の見解あり実に進退困難 閣下の退職は実に大打撃
13 昭和三年四月四日 臨時株主総会に於て引責辞職を声明致し其許否を整理委員会并ひに重役会に一任 而るに小生留任不可
能を自覚致し総督并ひに財務局長へ陳情 顧問として留任御指導の程願上
14 昭和三年六月六日 漢城銀行整理一件着々進行 小生の宅地建物を提供立退期間猶予されたき旨申出の処草間局長より迅速
に立退けと申付けられ最初の御話と相違
15 昭和四年八月一八日 閣下再ひ朝鮮総督に御就任の趣 我々鮮人一同感泣 小生再ひ実業界に於て愉快の活動する様御配慮願
上
16 昭和六年六月一九日 今般静養の為め御退官の趣拝承遺憾至極
17 昭和七年五月二八日 内閣首班就任国家の為め慶賀 信託会杜一件に就いては会社の創立を一般鮮人大に期待 閣下より今井
田総監・蔵相・拓相等に御鞭撻を賜りその設立を完成せしむる様懇願
18 昭和七年一二月二一日 朝鮮名産の胡桃別途送附
19 昭和八年一月九日 水町閣下よりの御来状に依れは閣下には小生目下の実状に深き御同情の言葉を賜はり候趣御礼申上 小
生再び愉快の活動する様御配慮懇願
20 年三月二六日 今回東上の際度々拝謁を賜り御礼申上
21 年五月五日 御下命に依り閣下の当座預金残額より七千円払出別紙小切手封入送付
一七四八、 魚允迪
1 昭和三年四月一五日 (漢文)小生経営の大東斯文会閣下の御愛顧を以て財団法人認可 閣下に本会顧問就任要請
一七四九、 姜麟祐
1 大正一四年一月一七日 去年十二月二十五日付長津郡守の恩命拝受 在任中は当地方の為め尽力 従来の希望は在満窮民を救済
し日支親善を図る可き政治外交民間方面の補助役 地方官として生活寂莫の感不尠
一七五〇、 金允福
1 昭和五年四月二五日 黄海道方面に猪狩に出掛け六十余頭捕り候 乾肉御笑納下さらば光栄
2 昭和七年一月一二日 先般朝鮮人同胞中より不逞漢を出し恐懼措く所を知らさる次第 黄海道へ狩猟猪を民政政友本部へ各一
頭贈呈
3 昭和九年九月二日 荊妻金貞子死去の節弔詞・供物を賜り難有 忌中法要滞りなく相済
一七五一、 金永敦
1 昭和七年九月二一日 十七日上城講習会の状況内地の諸相について報告 毎日申報朴兄寿府特派せらるゝ事に至り十九日午餐
を共にし激励 講習会体験に基き青年等とともに開墾の予定
2 昭和八年二月二六日 農村振興運動の実況を見るに精神方面を閑却 朝鮮も地方自治を見ることになりたるも現今の如き総督
の状態にては如何と愚考
一七五二、 金益昇
1 大正一五年六月二五日 京城府楼上洞山一番地の国有山を払下相成たし
一七五三、 金寛鉉
1 大正九年一〇月七日 今回勲三等を賜はり感激
2 大正一〇年七月二六日 暑中見舞
3 大正一〇年九月一七日 過般当地巡視の際は万事不行届にて恐縮 当官舎・警部巡査一同・古蹟保存会等に対し金品恵与感謝
4 大正一一年七月二一日 暑中見舞
5 大正一二年二月一四日 過日は宗魚に関し御懇書を忝し感佩 貴意に副ひ別紙宗魚代請求書御一覧下されたし 前山技手水産業
視察旁上京
6 大正一四年七月一四日 御申越の東洋英和女学校卒業の朝鮮婦人Fen sang(or Chun Changーsin)と称するものは金昌信に
て同人は大正八年姜鳳羽より独立騒擾企画に勧誘を受け費用金五円寄附の廉にて懲役四ヶ月に処せられたる事実あり 現在は
時局其他不穏の言動なく本人は今も永生学校教員に奉職熱望
7 大正一五年七月二八日 暑中見舞
8 昭和四年七月二九日 暑中見舞
9 年九月一六日 本道新興郡産松茸別途送付
一七五四、 金基浩
1 昭和七年一二月一七日 (漢文)今満洲に於て天下抗衡 外国の人と雖も之を用うれば勲業大成 何ぞ内地の人を用うるに限ら
ん
一七五五、 金九河
1 昭和四年九月 日 (漢文)閣下の朝鮮総督再臨は朝鮮の大幸福也
一七五六、 金三民
1 昭和六年五月二三日 在満朝鮮人問題の調査研究準備 『至誠感天 勤勉は成功の母』をモットーとして経済的向上を為さんと
する人々の助力を為し善人を造り出すこと宣伝 御指導を切望『在満朝鮮人の窮状と其の解決策』御一読を乞ふ
一七五七、 金周益
1 昭和五年八月二九日 奥地朝鮮人状況調査の節楊在河氏に面会し在満朝鮮人問題に関し意見交換 一万人以上居住の領事館に
朝鮮人の副領事・書記生配置が最も緊切の施設にして居住民に絶大の信頼を与へ彼等の実情を知るに最も便宜の方法
一七五八、 金潤昌
1 年 月 日 (漢詩)餞春祝 (添付書翰)金山寺住持就任せらる様紹介願
一七五九、 金性洙
1 昭和二年一二月三〇日 今般閣下退任は遺憾の至 閣下在鮮中は殊に京城紡績会社の為め特別の御愛顧を賜はり感銘に不堪厚
く御礼 紀念として器局一個御笑領下されたし (付)斎藤実書翰草稿 昭和三年一月五日付貴翰并に器局寄贈感謝の至
一七六〇、 金成燮
1 昭和七年九月一〇日 総督府に農林局新設 小生も履歴書提出 閣下より渡辺農林局長宛紹介状御下付願
一七さ、 金世東
1 昭和八年八月三〇日 (漢文)三陟郡林野還付の事まだ決定せず 証拠確実
一七六二、 金素雲
1 昭和八年六月五日 朝鮮口伝民謡の集稿今春東京より上梓 朝鮮民族の情緒的蓄積の記録に候はゝ一本を座下に献呈
一七六三、 金沢鉉
1 大正九年一月三一日 閣下仁視の下に済愚教去る二十八日済愚教本部として看板相掛 其趣意書数板参考の為め奉上(付)済
愚教趣意書 大正九年二月付
一七六四、 金達河
1 年一二月二五日 (漢文)達河先日辞退甚だ恐縮 三種品茶郵包
一七六五、 金南柱
1 昭和七年一一月二六(カ)日 盧正一氏の意見書は悉く小生の創意草案精写せるもの 盧氏昨年四月閣下の金三万円を以て家
の購入・遊興奢移に費し小生忠言以来疎隔 昨今中外日報発刊せしも盧氏は収入を私費し三月より月給不払にて五月四日休刊
社員及支局の保証金を支払はず目下係争中 盧氏は今閣下の尽力により毎日申報副社長就任の風聞盛なるも閣下は御手を御引
き下されたし
一七六六、 金秉〓
1 昭和五年六月二三日 (漢字ハングル文)全国父老国是会を創設 人をして天命行五倫を知らざるを得ざらしめば全国上下疑
雲は散去し人心は自然融和
一七六七、 金鳳起
1 昭和五年四月一〇日 (漢字ハングル文)金時習先生の詩集閣下の出版許可の典を蒙り剞〓に付し広く伝うる事執れか優客
黙認の徳を仰がざらん乎 報答の沈として墨竹弐幅を奉呈
一七六八、 金明秀
1 昭和五年五月 日 小生故李完用の実甥にして旧韓国内閣総理大臣秘書官として日韓併合の重要機務を専心執務併合後何等の
恩命なく鮮人間の交際も杜絶し常に脅迫侵害暴行を受く 皇室の叡慮を仰ぎ特別の恩典に浴せしめられたく陳情 (付)金明秀
履歴書・家系
2 昭和五年一一月 日 小生首相李完用の影に形に添ひ併合の枢に参与し所期の達成に努力 多数の鮮人は小生を乱臣或は第二世
の李完用と侮り寂莫と危険の生涯を送りつゝあり到底忍び難く本年五月陳情書を提出致したる次第 何卒御詮議賜はりたく重
ねて悃願
一七六九、 金有鐸
1 昭和四年九月一八日 小生昨年平壌へ転宅し箕城妓生養成所へ書画教師として勤務 朝鮮在来の雅楽維持普及の目的で二絃琴
を習得 小生の目下は芸術事業 将来は養老恤窮の社会事業を進行するに万般便宜を与へてくれる旨平南知事・平壌府尹・平壌
警察署長へ御下嘱相煩はしたし (付)写真四葉
一七七〇、 金用柱
1 大正一一年六月二一日 (英文)総督の厚情父子ともに感謝 父を全羅北道又は京畿道の知事として登用を御考慮願上
2 昭和五年二月二日 (英文)警務局保安課長田中氏去る木曜日訪問せられ学生問題に付き国外のみならず国内の外国人にも
学生問題の真実伝達の要ありと希望 警務局作成の手引受取英訳を施しソウルプレス日曜版にて配布非講読者に加へ別紙の諸
外国新聞社にも配布 (付)諸外国新聞社一覧
3 昭和九年九月二三日 (英文)首相を成功裡に務め終えられた機に際して御機嫌を伺う 父の金鉱事業失敗のため負債多額将
来を憂う 給与・退職金増加見込まれる為めソウルプレスを独立させ政府の補助金にて運営致したし
一七七一、 金□明
1 年三月一〇日 (漢文)吉林省額穆県の荒地買収には土地価・開墾費等十万元必要 借金は軽利息か二十余年償還か至急御電
回覆願
一七七二、 具然寿
1 年 月 日 鶏・人参・モチコメ・棗時節柄味の替りやすいから今夜中奥様と御分服下されたし
一七七三、 元応常
1 大正一二年二月二七日 全羅南道の基督教宣教師ノックス私立学校教員採用認可の件本道学務課の精査・校長との懇談の後
採用認可
一七七四、 元鼎三
1 昭和四年一一月七日 (漢字・ハングル文)平北楚山郡南面長元鼎三 御再任を祝し写真を賜りたる御礼 無窮の幸福を祈り億
兆民の為に治平を致さんこと祈る
一七七五、 玄俊鎬
1 年八月二三日 (封筒の発信人名は玄基奉)(漢文)別包品湖南土産送付(付)目録
一七七六、 呉国煥
1 昭和五年一月一日 (漢字ハングル文)新年賀状
2 昭和八年一月一日 (漢文)伏賀新年
一七七七、 呉国東
1 大正(カ)一三年二月二九日 (呉国東書翰訳文ヵ)殖銀海州支店よりの回答は京城本店へ提出も本店の命令延滞
2 大正一三年七月二八日 (漢文)御機嫌伺
3 大正一五年六月二四日 (漢字ハングル文)朝鮮の民心四分の三は不服 先ず士族を悦服せしめれば皆風に従い帰順 其方法は
一、明倫会の拡張 二、儒覧の院祠尊重 三、忠孝烈の褒賞 四、文廟司成の増置 五、郷校財産の直員への一任 (付)海州明倫
会趣旨書・規約
4 年一一月一八日 (漢文)家蔵李朝正宗大王御画四幅奉呈
一七七八、 呉台煥
1 昭和五年五月五日 小生先年官界退職も再度中枢院の嘱託・参議を拝命 小生身体頑健にて未た劇務に駆馳し得べく国内外を
問はず活動し得る地位に抜擢せられんことを切望
一七七九、 呉泰淳
1 大正八年一二月八日 本朝大連到着 野村社長に面会 東清鉄道へ出張の満鉄社員・鉄道院方面の方々への紹介状を野村社長よ
り頂戴
一七八〇、 辜顕栄
1 大正一〇年六月六日 今般従兄辜鴻銘と貴地訪問の節御清待に与り感謝千万
2 昭和九年七月一〇日 今般拙者貴族院議員の重任を拝し感激
一七八一、 高世衡
1 昭和八年一月一二日 全南宝城郡朴泰奎の東拓債務整理の件に付き東拓本社の関係課長及係主任・木浦支店より責任ある言
質を得て余す所朝鮮支社の諒解のみ 御紹介の中野太三郎理事に近日中陳情を致し断案を期し居る次第
一七八二、 洪〓杓
1 大正九年一〇月 日 「我が朝鮮青年学生に警告す」御参考迄御覧入申候
2 大正一三年一月九日 中枢院賛議鄭丙朝を御紹介 御招致の上相談下されたし
3 昭和五年五月五日 最近児玉殿東京市長に丸山氏政務総監に栄転する噂あり
4 昭和六年二月二日 御機嫌伺
5 昭和六年五月一日 療養見舞
6 昭和六年五月四日 総督・政務総監の重大な地位を一部分の与党が感情的に左右せんとするは朝鮮統治の為め多大の憂 閣下
強固に在らせられ現状保持致さん事を希望 (付)新聞切抜「児玉政務総監問題を愈々正式に切り出す 原拓相からの申込みに
よって八日斎藤総督と会見」
7 昭和七年九月一三日 外人間の説を別紙に記し上申 参考に御覧下されたし (付)「在留東京欧米人の東亜問題に対する観測
的批評」国際連盟調査団の報告書は関係者一同に利益を持たすものにて日本の国際連盟脱退を切諌せんとする意図に出ず
8 年五月七日 金石山先生の事早速御容認下さり難有御礼
9 年 月 日 今回怪写真怪文書問題に対しては不肖朝鮮将来統治上大多の憂禁じ能はず 不逞の徒に気勢を増長せしむる等痛嘆の
至
一七八三、 洪承均
1 昭和五年一月二四日 学校騒擾問題に付ては本道清州公立高等普通学校及同農業学校生徒の一部に於て月並の行動 生徒の行
動に付ては引続査察警戒
2 昭和年八月九日 朴永根氏対殖銀債務整理の件に付き殖銀全州支店長三宅氏と朴氏に閣下の手紙を提示 双方恐縮し至急解決
すべく非常に努力 数日前本店より回付の最後の整理案を朴氏に提示したる処朴氏之を拒絶し交渉決裂 (付1)殖産銀行本店
の整理案 (付2)朴永根氏貸付金整理交渉顛末概要
一七八四、 洪承助
1 昭和五年九月一九日 任勝煥の件に付き御高配を煩し恐縮 本人は大正八年大韓独立万歳の際主謀者の一人として懲役
一年に処せられ六ヵ月服役 本年三月錦山郡正書記試験に合格せるものゝ受験証明に前科を隠匿平素の行動今尚穏健ならざる点あり
不採用に決定
一七八五、 洪〓泳
1 昭和九年八月一八日 篠田李王職長官宛の閣下の書面を持参し面会せんと致せしも同氏入京週日を要する旨に依り其の儘帰
鮮
一七八六、 洪祐彰
1 昭和五年七月二日 (漢文)本人は明治二十六年大東合邦を軍国機務処に発論する時大鳥公使渡鮮 本人の身分に暇瑾なし 目
下仏教の拡張と内鮮融和を急先務 仏法を慈悲愛顧せられんことを願上 (付)訳文
一七八七、 権煕昌
1 年九月二日 書幅二部御恵投に預り万謝
一七八八、 権煕穆
1 大正一〇年一〇月一日 (漢文)拝謁願 (付1)権命相履歴書 (付2)斎藤実メモ 権仲観 権煕穆方
一七八九、 権泰軾
1 昭和四年一一月一五日 (漢文)閣下再鎮藩邦を悦び祝賀詩を献上
一七九〇、 権命相
1 大正一五年一月一一日 小生就職問題は未だ解決に到らず 今春は東亜勧業の佐々木専務に御紹介の程希望
2 昭和七年四月一〇日 賎息煕昌は今春を以て最終学習を畢了 閣下よりの御指導諸般学費の恵与の温情に預り御礼申上
3 昭和七年一二月一四(カ)日 煕昌の件に付て今回今井田総監上京中に就き御指導降されば事順完
4 昭和九年八月二九日 小生就職の件今回渡辺農林局長に〓々依頼せしも今日迄延引 何卒御下書ありたし
5 昭和九年九月三日 門生渡辺農林局長に就職依頼せしも荏苒歳月を送り心理上の苦しさを痛感 生を鮮内て労勤させる様指導
して下さいませ 遠藤保安課長の部下或は図書課の検閲係にても採用すれば率直精勤
6 年一〇月九日 今回東亜勧業の専務吉稙氏拝謁に付き御序に小生の待遇問題に就て御一言の下命希望(追伸)小生の妻弟金
鳳圭京城府財務係勤務以来昇格を得ず 児玉様に依頼せしも何等処分なく遺憾 何卒御一命下されたし
一七九一、 崔允植
1 大正一五年七月一三日 小生帰鮮後京城師範学校講師兼徽文高等普通学校教員と相成 最初の理学士として帝大まで出でたる
者を以て中等教員とは朝鮮青年の前途を悲観せしむる所莫大 先づ大学予科教授位に相成たし
2 昭和六年四月五日 新学年度より高工教授に兼官命ぜらるゝ由の処何等の消息に接せず困惑 今一度山村高等工業学校長に御
依頼下され間敷哉
3 昭和六年四月一一日 四月八日附京城工業学校教諭兼任高等工業学校助教授の辞令拝受 全く閣下の御引立によると深く感銘
4 昭和九年八月三〇日 揮毫依頼
5 年一月二九日 前便陳情の如く今年度は京城大学予科又は専門学校に御周旋下されたし 学務局長又は学務課長迄に御推薦下
されたし
6 年八月一一日 去月七日帰鮮約二十日間は理科教育普及の為め全鮮主要都市に巡回講演 昨十日帰京
一七九二、 崔永年
1 大正一一年六月二八日 (漢文)小生積年の抱懐書面を以て伝達 (付)「朝鮮文芸社再興計画」 (漢文)大正三年京城内の
文人詩士百余人を綜合し金允植を総裁と為し朝鮮文芸社設立 同八年騒擾以来衰退不振に付き小生社主と相成独自で維持 社屋
を新築せば地方文士文芸社再興を知り必ず奮然追興 詩文書籍刊行・青年志願者への詩文書画教授・各地方文化講演巡回等実
行せば文化宣伝上一大機関となり且維持の一使法
一七九三、 崔華疇
1 大正一三年一〇月二〇日 大日本帝国朝鮮総督府総督斎藤男爵閣下頒徳表
一七九四、 崔達斌
1 昭和六年一月三〇日 (漢文)小生挽近以来各地宣伝教育勧興学生騒擾鎮撫地方自治促進等日夜奔走 身無公職ゆえ民信従せ
ず且十年以上自費自当の活動ゆえ家族餓死難免 道参与官・中枢院参議の職を切願
2 年四月二八日 (漢文)御機嫌伺(追伸ヵ)今回中枢院京城人参議に採用依頼
一七九五、 崔秉律
1 昭和六年一月二七日 (漢字ハングル文)金解禁による金融の苦痛朝鮮に於て尤も甚し 公課金減額・朝鮮行政に内地人官吏
を使用せざる事等緩和策を講究せられたし この富貴成功の期会に金壱千万円を貸付下されたし
一七九六、 崔松雪堂
1 大正一五年九月六日 (漢文)普段の眷顧感謝
一七九七、 朱念祖
1 大正一二(カ)年六月一八日 (漢文)十七日午后七時無事燕京到着 招待賜物感謝 (付)朱念祖名刺
一七九八、 秋泰鎔
1 昭和五年五月四日 (漢字ハングル文)夢で藤公の魄なりと称し左の如く読示せり 藤実荐任 鮮人幸福 児伯保佐汝亦達観
一七九九、 徐漢旭
1 大正一三年一月一日 謹奉賀新年
一八〇〇、 徐成烈
1 年三月八日 鄙生昨年暮閣下の大賜金にて南満州地方の巡回講演及鮮人の状況視察を終へ帰京 引続き北鮮地方へ参り多大な
る感申得候
一八〇一、 申錫麟
1 昭和二年一〇月四日 閣下には遠く海外にて御任務を果し芽出たく帰朝遊ばされ茲に庁員を代表し御機嫌拝伺
2 昭和二年一二月八日 意外にも今回朝鮮総督の大任御辞任の報に接し慈母を失ふか如き感あり落胆
3 昭和七年五月一八日 (谷多喜麿と連名)申錫麟・谷多喜麿両名同民会副会長に就任
一八〇二、 申泰游
1 昭和二年一一月八日 (漢字ハングル文)一朝にして中枢院参議失職痛恨の至り 何等かの生活維持の特典施与を伏望(付
1)申泰游陳情書 宇垣一成臨時総督宛 昭和二年六月一二日付 生活維持の特典施与を伏望(付2)申泰游略歴
一八〇三、 沈衡鎮(カ)
1 年 月 日 奉呈皐水閣下 将軍年老ひたるを惜しむ 願くは願と期との選寿を享る且つ健康を祝す
一八〇四、 沈相完
1 昭和三年七月一六日 (漢文)経学院司成の事に付き家兄沈相光の戸籍謄本及履歴書各一通送付
2 昭和六年五月二七日 御臥床中御親筆にて手紙下さり金子送恵戴き恐縮
一八〇五、 沈天風
1 大正一三年一月一五日 仁川崔応三氏満洲開拓の資金引出の為め東亜勧業会社及係の人に御紹介下さる様取図希望
一八〇六、 沈友燮
1 昭和二年六月八日 朝鮮語辞書編纂の計画は愈々六月一日より開始 尚啓明倶楽部の総務理事に尹致昊氏が就任 例の朝鮮文化
研究に関する出版事業も社会で好評 阿部先生は今月末か来月初頃来鮮の由 (付)『朝鮮思想通信』 昭和二年六月八日付切抜
「朝鮮語辞典編纂の計画(東亜日報社説)」
2 昭和六年八月一日 小生先月以来朝暮は雑誌「朝鮮」の翻訳 昼は同民会にて消光 最近同民会諸理事の協議の結果今後一切の
政治問題とは手を離して全く教化事業団体とし先生を総裁に戴き陳容を整えると云ふ事が幹部全体の一致した希望意見 この
交渉委員としては第一次に小生を予定
3 昭和七年四月一日 同民会講義録改訂は昨今講師たる各中等校の教諭連の移動整理にて蹉跌 親友咸錫泰君は姜宇奎の孫娘を
現在馬山普通学校嘱託教員になる迄世話し今春君の世話にて蔡丙錫との婚約相成
4 昭和八年一月三日 同民会唯一の看板事業たる講義録改訂事業は大概一段落 農業教育中心の講義録発行を決心し高橋浜吉・
坪内京農教喩と共に編纂の範囲・読者の種類・執筆講師を研究資本は先年先生恵与の二千五百円を活用 見本巻頭に載せるべ
き御書を戴きたし
5 年 月九日 尹慎栄氏の麺子製造販売及酒素販売許可申請昨日 京城府へ提出 同日道庁の税務課長三木氏を訪問 氏は頑固冷淡
なる態度にて道の税務係が一つの障害かと心配 (付)沈友燮書翰 五月一六日付 尹慎栄氏の麺子製造出願は一昨日京城府より
道庁へ上申の由 秘書課長よりでも道の財務部長及課長に予め諒解せしむる様願上
一八〇七、 石鎮衡
1 大正一〇年八月四日 此地は雨降り続きにて水田作は宜敷き様に候得共本道唯一の物産たる綿作は如何かと憂慮
2 大正一一年七月一二日 小官今回陞級の恩沢に預り御礼
3 大正一一年九月二一日 小官共の経営来りし東大門外の製糸会社に一度御視察下さる事御願 本道も産繭増加の議起り調査実
行 本年は養蚕の当り年
4 大正一三年五月三〇日 先般国境方面御巡視の際の出来事誠に遺憾 紙上にて御見舞申上
5 大正一五年二月七日 金顕玖の意見書拝受 二三日前金氏道庁に来り閣下よりの御意思伝へ申候処深く感泣 漢江の人道鉄橋の
古鉄材を以て錦江へ橋を掛けることに致し候へば金の掛り方低減
6 大正一五年八月七日 本道水害激甚を極め心痛に不堪 小包を以て本道の儒生申鶴善の書物御送り申上たる次第
7 大正一五年一〇月二一日 十八日付親翰拝受 納税義務者・公売に至る迄の間・落札関係・転売関係等の事実報告 本道主催共
進会御臨場願上
8 昭和四年四月七日 御下命の尹致昊氏告訴に係る鉱業令違反事件に関する件は公州地方検事局に於て本年二月十七日起訴猶
予処分 温陽署長は発掘を防止し署の処置公平を欠く行為全然なし
9 昭和四年四月一七日 枢密院本会議に於て朝鮮総督の地位問題に関し閣下御質問の内容誠に意義深き議論 日韓併合は欧米諸
国の異人種征服の如き意味はなし
10 昭和六年一〇月二〇日 坂本君歓迎会も欠席 病気小康の暁には一度参上
一八〇八、 鮮于鉉
1 昭和八年八月三〇日 伯兄鮮于〓死去の際は弔電・供物料を賜り拝謝 亡伯兄の事業(大東同志会・大東新報・社団法人育英
会)を継承主義貫徹に遭進する覚悟 閣下より総督・政務総監に補助継続方御取計懇願
一八〇九、 鮮于甲
1 大正(カ) 年三月一六日 三月一日は大分騒擾の預兆あれど警察当局の充分なる警備に依り警察の根本目的を実現 渡米の件
は未だ旅行券下附せられず困却 小生旅費・学費問題は御尽力の程切願
一八一〇、 鮮干〓
1 大正九年七月一一日 大東民報発行決心も確なる見込なく当惑 発行する運に至る様指導援助希望 新聞発行不可能とすれは毎
日申報ても改革して小生に編輯及記者進退の権限を与へて入社する様にして貰ひたし
2 大正九年一〇月二三日 先日以来大東同志会の勧喩より邪蘇教会の鮮人牧師有力者四五人団結して排米運動を暗々裡に計画
近日中倶体的運動に係る案を申上る心組
3 大正九年一一月三日 大東同志会開会式並講演会去る一日午后七時平壌第一公普通学校にて開催 (付)「大東同志会開会式
及講演会の報告」
4 大正一〇年八月七日 先刻秋月京日社長を訪問 小生をして毎日申報社員として提携すべき旨洩し居り閣下の御意見を伺ひ其
後確定する事迄言明
5 昭和六年三月二日 貴族院の方には蜂須賀侯爵其他有力者を歴訪 忠清南道庁の移転費削除の如き朝鮮の一小問題を以て政争
の道具に利用せらるは朝鮮人として忍ひ難し
一八一一、 宋世玉
1 昭和五年四月二一日 (封筒署名は宗世玉)御上京の節御引見の光栄に浴し欣喜 不肖の事業一端に賛辞を賜り願意採納を忝
ふせしは感泣
2 昭和六年四月一日 昨年三月二十四日田中舎身氏を経て願出の事に就き特別の御詮議の上御取計下されたし
一八一二、 宋秉〓
1 大正九年一一月三日 杉山・内田等は小生営利に没頭し旧一進会救済方策に付き間却したると誤解し近日小生の立場は窮地
貴地の事を御知せ下されば幸甚
2 大正一〇年一二月三〇日 (水野錬太郎宛)老生病気の為め中枢院顧問の職を退きたく別紙辞任願封呈 (付)宋秉〓辞任願
高橋是清宛 大正一〇年一二月三〇日付
3 年四月七日 御垂示の趣拝誦 早速御聴許拝謝
4 年七月二四日 朝鮮女子教育会学舎建築敷地の件別紙略図封呈 其中一〇八番地と記入せる空地御下付方特別の御配慮懇願
5 年 月 日 御下命の趣拝誦 本日王殿下洪陵参拝随伴に付き御指示の時間に参趨致兼 明日にても御伺可致
一八一三、 〓秉相
1 昭和 年六月二三日 先般拓殖省問題に付て東上の節は種々御指導御援助を仰ぎ深謝 同問題に付て御懇篤なる御援助を賜りし
顛末を一同に詳細伝達
一八一四、 孫永暾
1 昭和八年四月九日 (漢文)明倫会を以て政務参政方伏望
一八一五、 池雲英
1 年二月一九日 (漢文)閣下の百歳退寿成就は天下の大事業 赤松老仙図一幅並びに赤松図讃一篇を呈す (付)池雲英書翰
(漢文)試みに均商共産比較論他一篇を録して奉呈に付き詳覧伏望
2 年五月一六日 (漢文)陳白せざるを得ざる事あり敢て録呈す (付)池雲英意見書(漢文)騒擾首領の幾輩かは秘密に優遇
慰撫すべき旨の治安策献策 恩威並行こそ光輝の大政治
3 年九月七日 (漢文)均商法の献議書を用い国金一億万円支出を以て均商銀行を設立すべし 閣下速に内地に駕し政府及国会
にて開論せば安邦定国
4 年九月七日 (陶山武二郎宛)(漢文)均商法書編上書中の修正依頼
5 年一〇月四日 (漢文)我今窮絶 我に金三千円賜りたし
6 年一〇月一〇日 (漢文)古より英雄機を見るに敏にして以てその功を成す 今日閣下英雄の姿を以て政功の地を処す 国家無
上の利・政府不労の利・閣下天与の利の三利之を行はば得行はざれば得ず
7 年一〇月一五(カ)日 (漢文)神宮の一心剣の事施行せば震災補助巨額入量のみならず日本是神国と百姓は信望し東西洋
は畏れ敬し朝鮮民族は民心鎮按 閣下東上前御引見伏願
8 年 月 日 (漢文)拙記三件奉呈
9 年 月 日 (漢文)閣下雲英の献議に従へば伊呂を凌駕し従はざれば一時の朝鮮総督に過ぎざるのみ
10 年 月 日 (漢文)一億万円を以て均商銀行を朝鮮に創設し窮民救活すべき旨の献策採用伏願
一八一六、 張寅源
1 大正一五年一一月二五日 当地国境民心安定に伴ひ各種商業開発 実母逐年老衰に付き交通不便なる当地にて万一の不幸を案
じ寂莫 閣下の推断に依り御地参与官任用或は現職のまま平南鉄道沿線転勤御詮議下されたし
一八一七、 張宇根
1 大正八年一二月一〇日 当地鮮人教育の件は日鮮士多数の賛成を得て近日開校 誤解者等の件は先輩との相議の上各方面に研
究
一八一八、 張憲植
1 大正八年一〇月二二日 先日上府の節御訓諭を賜り且つ御寵招に預り御礼
2 大正八年一一月三〇日 過般東京出張の任務無事参了 明治四十年内地見学より十有余年其間変りたる事大なりと感得尤も著
く感じたる点別記にて申上 (付)張憲植所感摘記 朝鮮留学生監督部及寄宿舎寂莫 留学生去三月頃一際退宿して交通断絶
3 大正九年一月七日 流行性感冒にて参与官・会計課長の不幸引続 閣下には参与官陸等位賞与等の為め天陛に伝奏優渥なる御
沙汰下賜の旨遺族へ伝達
4 大正九年七月一三日 先般降雨の為め京城附近出水被害不尠趣 当地方に於ては旱魃中沛雨を得農耕上適当の湿潤を得被害も
軽微
5 大正一四年六月一二日 揮毫早速御下付感謝の至 本日学校へ伝達
6 大正一五年三月二〇日 本道管内特産物別途小包にて送付
7 大正一五年七月一六日 管下莞島郡所在莞島国有林野処分の件は八日附を以て二千余町歩を道地方費模範林に譲与御許可相
成 道地方費基本財産造成上遺憾なき様経営致したし
8 大正一五年七月二六日 当地ては連日大雨にて今の分てば順調豊作の前兆にして一般安意
9 大正一五年八月四日 (藤原喜蔵秘書官宛)本道羅州郡守安鍾哲君参与官候補者に推薦 人事移動の際採用の恩典に浴せしめ
られたし今回小生内命により辞表奉呈各位に御礼
10 大正 年七月八日 先般当方巡行を賜はり引続会議の際御訓示を垂賜ひ恐感
11 大正 年九月一一日 過般会議の為め上府の際御指導御厚遇を賜り感謝
12 昭和元年一二月二六日 国哀普痛図極奈何御機嫌伺
13 昭和三年一月八日 旧年末は御静養中御染筆の名刺を賜はり恐縮の至
14 昭和三年二月一日 当方は一般に別状なし閣下の健康を専一に祈上
15 昭和三年四月一二日 当地一般生業界は依然はなばなしく見へず漸く昨今往来活動頻繁
16 昭和三年七月一三日 当地依然旱魃気味にて本年は到底減収免れ能はざるべく推察
17 昭和三年一一月三日 小生別状なく一般においても各自安意其業に勤め居候
18 昭和三年一一月一三日 至崇聖典輔弼奉祝の際御懇翰を賜はり感激当方に於ても全山河挙て奉祝
19 昭和四年一月二三日 小生別状なし 御機嫌伺申上たし
20 昭和五年八月三日 茲に内命により辞表呈上
21 昭和七年二月三日 小生無事罷居候 時節柄御機嫌伺
22 昭和七年八月一九日 中枢院参議継続仰付の御沙汰に浴し感泣
23 昭和八年一月一七日 寒中見舞
24 昭和八年七月二五日 暑中見舞
25 年一月一三日 本道産林檎御覧に入れ候
一八一九、 張興秀
1 大正一〇年一〇月二五日 不肖最近職を辞し今は徒食の身なるも朝夕忘れられぬは教育の事 学校増設の儀は急中の急を要す
るもの 尚朝鮮にも最高学府を設置せられん事を希望
一八二〇、 張作霖
1 年 月 日 (漢文)閣下東上の際は当局に詳細陳説の上閣下の所懐と一致せしむべく切祷
一八二一、 趙義聞
1 大正一〇年一二月二六日 歎願者の祖先買入の私有地は李容翔が内蔵院の所属に帰せしめて奪取 其後も還付請願容れられず
隠忍今日に至る 折角の善政に浴するを得ざりしは甚だ痛恨 特別の御詮議を以て右私有地還給の処分下されたし (付1)土地
の表示
一八二二、 趙興烈
1 昭和九年七月三〇日 汽船底洩網漁業経営拡張すべく本月二十七日附願書を提出済 免許の獲得に付き本道李知事・穂積殖産
局長・西本水産課長其他に右事情御垂示下されたし
一八二三、 趙石元
1 昭和五年一二月一五日 (漢文)閣下再任以来水旱・学生事件突発・世界的不景気・内鮮事業腐敗にて人々落胆 朴泳孝侯爵
を登用せば上下一心利莫大
一八二四、 趙大鎬
1 大正一三年二月一四日 此度皇太子御慶事に際し巨額の恩賜金を拝領致し厚く御礼 (付)趙大鎬電報 斎藤実宛 大正一三年二
月一四日付 下賜金拝受御礼
一八二五、 趙東一
1 昭和二年二月一一日 (漢文)軍政府・義烈団・共産党等は常に間隙を窺い一朝東西有事あらば内乱喚起 東洋平和日鮮融和
の趣旨を以て肥田景之氏を名誉会長に東昌会創設 閣下の督助と指導を希望
一八二六、 陳奉璋
1 大正一二(カ)年五月九(カ)日 (漢文)義州にて趨謁の際の御厚遇鳴謝
一八二七、 鄭安立
1 大正一一年五月二八日 (漢文)京城滞在の折の垂庇〓護感銘 某会々員鮮人小生を中国警庁に誣告し公司事業を破壊し小生
を陥んと欲す 中国官憲の対公司方針は決裂の境
2 大正一二年六月一〇日 (漢文)小生新聞刊行以て穏健思想・経済自立精神を鼓吹すべく親戚権輔相を編輯・発行責任者と
して当局の認可を申請 格外の恩諒を以て速に認可下されたし 申請内容奉呈(付)権輔相「大東時報」発行内申書 大正一二年
六月八日付
3 年四月二二日 小生東上の際内務局長及警務局長に面会 満洲開墾事業は実に在満鮮人三百万の死活問題 本日首相に面会陳情
政府として当然借款すへき成算あるも閣下と打合の必要ありとの御話
4 年五月八日 (古賀廉造宛)(漢文)農資五千元謹領感激
5 年一〇月八日 (漢文)中国帰化者の代表奉天城に来会し自治加入を求め中国官民の賛成を得て進行 創設経費浩大につき金
壱万元乞う (付)束省地方自治墾民加入等籌会宗旨文(附・簡章草稿)
一八二八、 鄭煕燦
1 昭和一〇年一月一三日 三清州所在国有林払下の件に就きては係課当局間にて考慮され近々許可の運び閣下の御加鞭に預り
愈々有望
一八二九、 鄭孝胥
1 昭和七年一一月二日 (漢文)此間匪災の後民は蘇官吏に苦しみ紀綱未粛 武藤大使新京に移駐につき提携の効を冀うのみ
2 昭和七年一一月二日 (漢文)満洲航空会社開幕挨拶
3 昭和 年一月七日 (漢文)春祺敬賀 (付)鄭孝胥書翰訳文
4 昭和 年一一月六日 (漢文)満洲全国実業視察団十五人貴国往訪に当たり国情御教示願
一八三〇、 鄭震基
1 昭和四年三月一一日 (金秉圭他一二名と連名)今般慶尚南道評議会にて予算返上の動議に賛成との理由に基き下名十
四人は本月九日附解免 吾等を道議政の圏外に駆逐せんが為め制度の欠陥を盾に事実にあらざる理由を附会したるに外ならずと断言
一八三一、 鄭道元
1 年一月一日 謹奉賀新年
一八三二、 鄭秉源
1 大正一三年一月一日 謹奉賀新年
2 昭和五年一二月六(カ)日 (漢文)小生重病の余り回復遅々
3 年二月八日 (漢文)小生去月十三日婿の李偵作を同伴上京も連日会議にて拝謁を得ず事件及処分を電話にて上達後退還 死
後地下魂豈に閣下の恵沢を忘れん乎
一八三三、 陶彬
1 昭和二年三月一六日 (漢文)先般管内通過の際案内を附せられ且つ御目に懸り結構なる賜物を拝し感謝 (付)陶彬書翰訳
文
一八三四、 南宮営
1 昭和三年一月五日 閣下在任中は御寵愛を被り感謝 伊大利産瑚俳茶碗一揃別途小包郵便にて送付
2 昭和三年二月六日 先般粗品進呈の処早速丁重なる御礼状を賜り結構なる珍品を御送り下さり恐縮の至
3 昭和六年一一月一二日 本道産クリスタル一箱並道内江外普通学校生徒作品香炉一個別途鉄道便にて送付
一八三五、 白興基
1 大正一〇年七月三日 過般地方改良講習会出席の砌御董陶を賜はり新智識を授り難有 講習事項の実施徹底に全力
一八三六、 潘敦植
1 年 月 日 (漢文)小生軍人解散後下郷落拓 幸に恩沢を蒙り閣下の愛顧に感肺 (付)賜与金百円受領証昭和七年九月二七日
付
2 年 月 日 (漢文)仁港御別荘にて小生親しく教誨を得感銘
一八三七、 閔泳徽
1 年六月一日 (漢文)聞くに中央道路を改正し李王家宗廟内に挿標せんとす 王家宗廟の重なるは士民の神理にて必ず正に帰
せられんこと懇祷
一八三八、 閔泳〓
1 昭和五年二月一九日 (英文)シモダ氏は私の提案を拒絶 残念至極総督の御助力を願う
一八三九、 閔丙〓
1 昭和二年一二月八日 閣下今般辞表捧呈の趣 多年朝鮮統治に心血を注がせられ候御蔭にて今日の盛運を見るに到り感激
2 昭和三年一月一五日 閣下辞任後は山梨閣下に御世話に相成り居るも常に閣下の事のみ追慕の情禁し難し
3 昭和三年八月一二日 暑中見舞閣下には九月頃来鮮との噂にて一度是非御来鮮下されたし
4 昭和六年七月二九日 閣下の退官残念至極 当地官界異動に伴ひ松村松盛氏も退官となり小生落胆 李王職長官問題放置は朝鮮
統治上にも影響不尠
5 昭和六年一一月二日 (漢文)閣下渡鮮も鄙家整理につき周旋を得ぬまま突然還渡 洪〓泳派遣につき詳教を乞う
6 昭和七年五月二三日 (漢文)組閣祝詞
7 昭和七年五月二八日 (漢文)組閣祝詞
8 昭和七年六月一八日 (漢文)守屋君来鮮
9 昭和七年一一月一七日 (漢文)洪〓泳を派遣につき御引見願
10 昭和七年一二月二二日 (漢文)頃日洪〓泳還来閣下の健康を憑聞 鄙家整理にて小生多忙
11 昭和年 月 日 今般小生の代理として洪〓泳氏参邸の処御引見を賜り其状況洪氏より詳細聴取 御厚情に感謝
12年一二月八日 当地の情勢を眺むるに愈機到来 一段の後援を仰ぎ多年の希望実現致し王家百年の為め奉公申上げたし
13 年 月 日 (朝鮮総督府中枢院顧問子爵閔丙寅名刺)(漢文)洪〓泳差送に付き事情採聴を乞う
一八四〇、 文鳳儀
1 昭和五年二月八日 目下の急務は農民負担の税金納入・官吏俸給の支給を米半分金銭半分として米価の調節・農民生活の安
定を図り欧米の奢移品厳禁・国産品奨励を以て自作自給の方法を講ずる一途のみ
一八四一、 文鳳梧
1 昭和五年三月二八日 昨日近藤常尚秘書官を訪問 私の御府就職の事に付き言上 近藤・山県は権力を以て私の人格を侮辱
一八四二、 方煥亀
1 昭和三年九月八日 目下我等は生存難 山梨閣下の独制政治は我等を見殺すもの 産業第一主義を我等〓喝望 参政権を早めて下
さいませ
一八四三、 方台栄
1 大正一四年一月二四日 鮮銀の件実は哈市支店長の内諾もあり業務拡張上着手せし今日本店の承認は支障あり大に狼狽
2 大正一四年一月三〇日 鮮銀の件御高配を蒙り恐縮佐々木氏も京城にて昨夕会見 不取敢三十三戸丈今春収容し模範的農村に
建設する考に御座候
3 昭和二年一二月一二日 辞任の由拝承誠に惜別の情に堪へず
4 昭和四年七月一〇日 児玉新総監は礼賛の声多くその推挽は閣下がなされたとの説伝はり歓迎せられるのであります
一八四四、 方洛
1 年八月一四日 (漢文)大阪方面に九月中旬出発予定 大阪方面の有力諸公に紹介希望
一八四五、 朴泳孝
1 昭和二年四月七日 過日朴泳好死去に際し吊電并供物を賜はり奉謝
2 昭和二年一二月一三日 職を辞させられたる事国家のため痛恨の至
3 昭和四年七月二五日 (漢文)政務総監は即ち朝鮮の枢 重かつ大なる任に児玉伯が当たられるは我衆庶欣喜せざるなし
4 昭和七年二月五日 今回結構なる書籍御恵送に預り難有拝受
5 昭和九年一一月二三日 此度全朝鮮三十一本山の発起を以て大本山五台山月精寺釈尊頂骨塔廟復興の儀計画 不肖等讃仰会を
設立し資金造成致したき存念 同寺住持李鍾郁御引見の上御賛助賜はりたし
6 昭和一〇年四月一九日 今回孫女の婚事愈々確定謹謝
7 昭和一〇年五月二〇日 今回孫女の婚儀に付き祝品恵贈下さり御厚情鳴謝 別便にて粗品呈上
8 年四月一四日 今般方台栄君総督府嘱託として出張の便宜を与へられ種々御高配の程感謝 西欧殊に丁抹の研究は朝鮮に取り
て最も急務
一八四六、 朴永根
1 昭和七年六月二日 殖銀側は近来益々強烈なる態度にて宅地周囲の立木伐採工作物の破壊等暴圧を加へられ事情急迫
2 昭和一〇年三月三一日 (漢字ハングル文)既定年例の三月三十日祝賀式実施挙行 詳細は松村様への送書中に多少備陳
(付)朝鮮京城銅像奉安所保存任員名簿
3 年八月一九日 (漢文)小生今日着京別封蚊帳進呈
一八四七、 朴栄〓
1 大正一五年五月二〇日 李王殿下国葬の儀間近く相成 閣下には御自重遊ばされたく祈上 当管内は些も異常あるを認めず至極
平穏
2 大正一五年一二月一三日 小生管内視察も一通終了 各般施設の普及民智の発展全く括目 対岸地方に一部の馬賊未た跡を絶ざ
るも憂慮すべきものになし
3 昭和元年一二月二五日 聖上陛下崩御の悲報拝承道民と共に遥拝奉悼痛哭の至
4 昭和八年八月二八日 過日知人より仁川の閣下別荘処分に関し相談 近来家産全部を朝鮮信託会社に委嘱し田舎の不動産は漸
次整理する予定に付き御断り申置候 元全南参与官朴〓煕君中枢院参議として適任
一八四八、 朴禧沃(カ)
1 年 月 日 (漢文)地主と小作は車の両輪鳥の両翼の如き也 (付箋)朴嬉沃土木其の他慈善事業に尽せり
一八四九、 朴経錫
1 昭和六年一二月 日 (漢文)土産紬壱匣送納
一八五〇、 朴重陽
1 大正九年一〇月三〇日 朝鮮人如何に愚なれども朝鮮の開発を図り民人の幸福を増進する政策には之に悦服 一部不逞徒輩に
対し地方官憲は単に蛇蝎視せず温情を以て導化すれば悉くが総督政治破壊反対せんとするものにあらずと思考
2 大正一〇年三月二〇日 去十四日十五日各郡守を召集し各郡状況を聴取 予想よりも意外に存する処多く有り 小官本日より戴
寧・安岳・鳳山・黄州・兼二浦等を巡察
3 大正一〇年九月一四日 本府構内の不祥事誠に遺憾 太平洋会議へ朝鮮問題を喚起せんとする不逞徒一派の凶行かと思考
4 大正一〇年九月三〇日 目下黄海道管内農作物は何れも平年以上 今月十四日より牛疫発生尚蔓延の虞あり
5 大正一一年三月二八日 土地改良事業の計画不成立は遺憾 例へ私設会社をしても出来得る限り着手するは不為よりは優るこ
とゝ思考道評議会は評議員も熱心に意見を述へ多少聴く可き価値あり
6 大正一一年八月二六日 今回黄海道に於ける水害は数十年以来曽てなき事 道路橋梁の破損農作物の被害甚大
7 大正一一年五月七日 江原道管轄地域一部を忠清北道へ委嘱せしめたく意見書一部差上 寧越・平昌・旋善各郡は交通・経済
関係江原道と没交渉の感あり 本月一日鳥致院忠州鉄道開通式にて小生参列 朝鮮地方民は凡ての程度明治初年頃に相当 忠州は
将来有望の地にて漸次施設を為す必要あり
8 大正一三年四月二一日 江原道寧越・平昌・旋善・原州・江陵・蔚珍・三陟七郡を忠清北道に合併問題是非決行下されたし
政務総監主務局長等も其の必要を是認せらるゝ事と信ず
9 大正一三年七月一〇日 有吉政務総監は朝鮮に何事も遺すなく去られたるは残念 閣下には為すへき仕事を思切って為す様新
政務総監へ御注意ありたし 内地より初めて朝鮮に来る若き事務官連は参考書類を先に論究する為め仕事の精神を忘れ居るか
如き状況
10 大正一三年一一月二四日 小官道郡属官警察官整理案作成終了 一般官吏の心裡に動揺を来したるは事実 (付)「行政整理
に付て」 朴重陽 大正一三年一一月二四日付 今日朝鮮統治の方針に影響を及ぼす整理を為すは得策にあらす
11 大正一三(カ)年 月 日 (下岡忠治宛ヵ)庶務部の廃止・鉄道部の逓信局又は土木部への合併・土木部の土木局への改
称・学務局の内務局への合併参考迄に愚見呈上 守屋氏を内務局長に推挙
12 大正一四年三月五日 昨夕大塚内務局長を訪問 大塚氏は辞表提出の外に詮方なかるべし云々 小官は来五月に休職の恩典希
望を陳述 特別の思召を以て休職の上中枢院にても御廻し下されたし
13 大正一四年一一月九日 小生身上に付き今回東上の好機会に解決し得る様特に御配慮下されたし 加藤総理大臣へも別紙の
如く書面提呈 (付)朴重陽書翰写 加藤高明宛 大正一四年一一月二日付 小生休職中中枢院参議となるは不合理と法制局に於
て異議ありと聞くも朝鮮統治上政治方面より見れば其れ程解決困難の問題にあらず 支那問題に就ては支那を三四個国に分割
し南方を孫派に四川省等を呉佩孚等に北京に清帝の復辟遼東半島を日本に割与する方得策
14 大正一五年一月一一日 帝国議会も兎角国内政争に没頭し支那問題の如き国家大策を樹立し能はさるは遺憾 張作霖東三省
に幡拠横暴を極め日本人の利益を沮害 張作霖を膺懲改悔せしめ新しき人物を東三省に入るるを希望期待 満州地方に流浪する
百万の朝鮮人を徹底的に保護するは総督府の重要責務
15 大正一五年一月一五日 副島伯爵朝鮮自治説其程騒く必要もなし 理屈を以て理屈を戦ふより朝鮮人をして生活を向上せし
め子弟を教育し得る様朝鮮に富力を充実せしむる方朝鮮統治上急務
16 大正一五年二月一〇日 中枢院の件は総監東京滞在中可然交渉ある様御配慮下されたし 法制局の彼是法規解釈上異議を主
張するは朝鮮を理解せさる結果 毎日申報の件は無給理事嘱託の名義にて江原・咸南・平南・平北支局の仕事を引受希望
17 大正一五年二月一五日 李完用侯別世は哀悼に不堪 李侯は統監府設置以来新政施行後に至るまて国家の為め尽したる功は
偉大
18 大正一五年三月一五日 帝国議会にて互相構陥醜態を見せるは恰も韓国末年朋党の弊害貽毒に酷似 当地昨日慈恵病院に失
火 小生希望の件御在京中実現する様御願
19 大正一五年五月三日 毎日申報江原・咸南・平南・平北支局を小生に於て引受たく希望 小生意見に対し副島社長・宮部副
社長も共鳴賛意 土地改良会社へ参加の件は有賀・松山・藤井氏に希望陳述 中枢院入の件は可成早く発表方御配慮下されたし
20 大正一五年五月一八日 副島道正及藤井寛太郎氏より別封書面あり 毎日申報の件は総督府との現在の関係を有する其の儘
引受希望 土地改良会社へ参入の件は閣下に一言賜りたし
21 大正一五年六月一八日 咸鏡南道知事金寛鉉君辞表提出の由 小生希望の支那行の件・毎日申報の件急に実現する見込なき
に付き咸南知事復職御配慮賜はりたし
22 大正一五年八月二二日 小生身上の件に付き速に実現する様御願 副島氏京城滞在中例の毎日新聞の件協商進捗を見る様御
配慮賜はりたし 今回知事異動に全北参与官金英鎮の陞進を見ざるは遺憾
23 大正 年八月九日 忠清北道管内水害は清州郡を除き大したる被害なし 併し本年も一二三等道路百万円近き被害あり 高等普
通学校問題にて地方有志内務部長同伴上京につき宜しく御配慮下されたし
24 昭和二年一月一七日 統監府設置以来我等三寸の舌は軍隊警察の武力より勝る場合あり 既往の功労官等経歴より中枢院顧
問位はなり得るものと思考 李王職次官後任に書記官山崎真雄を推薦
25 昭和五年一月二五日 学生事件に付き殊に武装せる警吏が学校構内に乱入し男女学生を恋に捕縛するが如きは統治上一大恥
辱 達観的超越的に対策を講せらる様祈上
26 昭和六年四月一一日 浜口総理の再度入院誠に気毒 江木・松田氏等内閣諸公及若槻礼次郎・山道襄一等へ別紙の如く送書
(付)朴重陽意見書 昭和六年四月 浜口内閣の緊縮政策が目下不景気の一因たるは否認する能はざる事実 内閣更迭空気一新を
切望
27 年八月六日 小生三日東京着到 朝鮮を開拓するに急務は土地改良事業にして先立つものは灌漑事業 財務機関分立問題はそ
の計画中止する様御取計希望 昨日首相官邸にて首相外相蔵相の訓示あり経費節約主義を力説 この消極主義の影響を朝鮮に迄
及ぼす事は残念
28 年八月八日 昨日内相官邸にて文相・陸相の訓示と長岡中将の講話あり午後四時長官会議閉幕 会議中大臣・局長は活版刷
の朗読大多数の知事は一言も発せす黙然 此の会議に誠意あるやを疑はるゝ位
一八五一、 朴春琴
1 大正一一年八月一日 暑中見舞
2 昭和五年七月一七日 (李起東と連名)粗餐拝呈 御賁臨下されたし
3 昭和六年一月一七日 今般李〓公問題に関し種々御〓念鳴謝 只管殿下の御反省を仰ぐを条件と仕り漸く取り鎮め候間御休神
下されたし
4 昭和七年二月二三日 不肖今回衆議院議員当選は貴台の厚情と声援の賜と深謝
一八五二、 朴承章
1 大正八年八月一四日 今回朝鮮騒擾原因たる鮮人の感情一部及将来の希望を御参考迄に謹陳 (付)朴承章陳情書 内地人官吏
は鮮人官吏不信任の廉多く鮮人官吏は悉く憾情を有し反目悪視 実に国家の為め誠意忠実を以て勤むる者一人もなし人 民も不
平を以て鮮人官吏に同情する者あり又は鼻に掛ける者ありて一般行政徹底せす一方人民に対し恥心を有す
一八五三、 朴勝軾
1 年 月 日 (漢文)新年祝賀
2 年 月 日 (漢文)一首の詩奉呈
一八五四、 朴貞
1 昭和五年八月三一日 私を四平街又は通遼公医に採用方穂積外事課長に御下命御願 差支の時は夫鄭錫鎔共に哈爾浜公医に採
用下さらば幸甚
一八五五、 朴〓煕
1 大正一三年一月一日 謹賀新年
2 昭和五年八月二七日 家伝の文書整理 其中大院君より従祖父に宛たる文書御高覧願上
一八五六、 朴東俊
1 年 月 日 (漢文)明倫学院入学希望
一八五七、 朴普峰
1 大正一三年一月一日 (漢文)新年洪禧
一八五八、 朴陽九
1 昭和五年四月二七日 (電報)全北参与官を拝命御礼
一八五九、 明麟華
1 昭和九年九月九日 近々郡守の移動も有之由 此際京城若しくは京城付近へ転勤する様御尽力願
一八六〇、 兪鎮明
1 大正一〇年八月三日 先般当地御巡視の際失礼仕り恐縮
一八六一、 楊肇嘉
1 年八月二五日 (漢文)小生曩に台湾問題の為め上京も公務既に畢り帰台
一八六二、 羅重錫
1 昭和五年一月一日 (漢字ハングル文)民仁政に飢へる 閣下仁政を行へば民は心悦誠服すべし
一八六三、 雷〓(カ)
1 昭和七年一二月五日 (内封筒署名は中国各省人民公意団代表)(香港工商日報記事に書込)(漢文)中国軍賊地盤を争い
相残 大日本帝国人民に出兵討賊を邀求 香港に宣伝機関設立必要
一八六四、 李允用
1 昭和二年一月一二日 (漢文)大行天皇陛下崩逝臣民痛惜 今次李王職長官採用を伏乞
2 昭和二年九月三〇日 (漢文)帰朝祝詞
3 昭和三年一一月二五日 (漢文)御大典慶祝
4 昭和四年七月六日 (電報)児玉伯朝鮮を理解 更迭せらるることあれば人心に及す影響甚大 伯の地位安定全朝鮮人の世論
5 昭和四年八月一四日 (金衡鎮・張弘植と連名)先般御地参与の節御指導を蒙り御礼
6 昭和六年七月六日 (漢文)閣下上京調治憧慮に堪へず
7 昭和一二年三月四日 (斉宛)御尊父様一周忌に際し御品御恵送に預り御礼
一八六五、 李完求
1 大正一二年一二月二七日 義州郡古津面弥勤洞国有地未墾地請願許可閣下より御尽力を戴きたし 私の長男次男三男及〓等は
不逞鮮人に撲滅され糊口なき次第
2 昭和二年五月一八日 五月十七日平北知事に会見許可し難くの有様御答あり小生の希望挫折 小生は総督閣下朝鮮に御帰りに
なり小生の希望を満たしめん事祈り候
一八六六、 李煥昇
1 昭和八年三月 日 小童は今般明治薬学専門学校及び東京薬学専門学校に入学願書提出 御諒承下されたし
2 昭和一〇年一月一日 謹賀新年 二五九四年も過ぎ去り危期近づきつゝあり 東洋人のみの東洋建設の機到来を確信
一八六七、 李漢福
1 昭和(カ)二(カ)年九月二八日 重大なる任務を果たされ御帰朝感激に不堪 御帰任御待申上候
一八六八、 李喜侃
1 年六月七日 (漢文)御下書拝見 明八日午後八時進拝
2 年一〇月二五日 (漢字ハングル文)玉観彬を追踪説諭すれば利用価値も大 小生路程変更し先ず上海にて玉君を帰順せしめ
李東寧・李始栄・曹成煥等所在の北京を経て直に吉林・哈爾浜・露領各地を歴訪
3 年一〇月二八日 (漢字ハングル文)昨日警務局長宛に電信 仏政府より在滬鮮人放逐朝刊禁止の由新聞掲載 其動揺に乗じ帰
順の策尤も必要の時
4 年一一月一七日 御面会の上御相談申すべき用件あり 今朝電話にて御面会を求めたる処謝絶 当地にて面会不得出来たる場合
東京迄でも出掛る予定
一八六九、 李箕紹
1 昭和七年一一月二二日 (漢文)救済策抄本・履歴書奉呈(付)李箕紹意見書 開城府儒林中年五十以上の官職経験者・経明
行修の模範者・法律政治等の学問修業者の三条の倶備者を面試採用すべし
2 昭和一〇年九月六日 (漢文)今八月明倫学院より評議員及講師に心田開発方法如何諮問あり 箕紹の陳述明倫学院の意向に
合はず留案 心田開発の方法並に決意案同封 (付1)李箕紹「文廟を中心とする心田開発の方法如何」(漢字ハングル文) 明
倫学院総裁宛 昭和一〇年八月付 (付2)「決議案・注意事項」昭和一〇年八月三〇日付
一八七〇、 李喬栄
1 大正一五年一一月一日 (漢文)書を賜はり惶感の極
2 昭和五年五月一四日 (英文)病気による出張中止残念 回復を願う
一八七一、 李勲求
1 昭和六年三月二四日 先達は御多忙の際に不拘御引見を賜はり感銘
一八七二、 李圭完
1 大正一三年一月二四日 洪原郡守尹相鶴の身上に関し御書面を戴き恐縮 閣下に対する投書は洪原邑在住田代松太郎の所為 本
人は常に中傷的投書又は言行を為し同地の官憲を苦しむること不尠
2 大正 年七月二四日 今回山蒼嶺及名岱山の両国有林御譲与の御指令に接し難有深謝 模範的経営を為し目的達成を期し申候
一八七三、 李鎬吉
1 昭和五年(カ)五月八日 毎日申報紙上閣下夫婦が天長節奉祝の宴会を主催し門頭に立ち一般来賓を歓迎する光景の写真を
見て感服
一八七四、 李潤基
1 昭和四年一〇月二〇日 (漢詩)斎藤総督閣下御葎歓迎
一八七五、 李鍾韶
1 昭和六年二月五日 (漢文)一視同仁の下に内地人は昌盛し朝鮮の民は衰頽 仁心を以て薫陶厚くせば鮮民の心を得るべし
一八七六、 李昇薫
1 大正一五年六月九日 (漢文)下生衰朽と雖も吾民族の為め毫末の益あらんことを一念
2 昭和三年一月一〇日 (漢文)本校理事一同粗品書屏聊達
一八七七、 李鍾浩
1 大正一五年五月二六日 亡祖父李容翔より第一銀行支店に預金したる別紙列記の金額返還請求に付き一日も早く賢明なる御
処断に預りたく哀願 (付)第一銀行支店に預金した年月日并に金高
一八七八、 李尚鎬
1 昭和六年六月一日 (漢文)閣下の快復新聞にて承知慶祝至極 小生三女宿病により頓没
2 年一月一〇日 (漢文)源慶儀本府及道庁の要任に就職希望に付き閣下の口添を賜はりたし 権寧煕儀京城高等商学校長より
殖産銀行に推薦あるも志願者多数に付き閣下より殖産銀行の林茂樹理事へ一書下しおかれたし
3 年一月二四日 (漢文)御機嫌伺
4 年九月二六日 (漢文)李尚鎬名義での酒醸造の許可を得たく閣下より内務局長・咸南北税務監督局長に一書を下しおかれ
たく希望
5 年一〇月六日 (漢文)閣下辞任後乳児を疾病で失い伝世の薄土も銀行の差押により没収 閣下尚総督府に臨まばかゝる境遇
に至らざること必せり
6 年一〇月一三日 (漢文)閣下辞任後私心落望今番一度拝謁を欲す 粗品人蔘二封奉呈
一八七九、 李象〓
1 昭和六年一月三〇日 (漢文)中枢院白衣参議三南を視察し詩を韻す 一覧を願う
一八八〇、 李鍾徳
1 年四月五日 (漢文)今倫綱大道紊乱 京城に明倫大学校を道庁所在地に明倫中学校を設け全鮮普通学校の名称を明倫小学校
と改称し半島人心の教化を懇願
一八八一、 李章丙
1 昭和八年五月二五日 本件に就て国務御繁忙にも不拘御配慮感銘 今度宇垣総督東上の際中央参議ても特典に浴し候様御嘱託
下されたし (付)発信人不明書翰 斎藤実宛 御紹介の李章丙氏諸種の点を考慮乍遺憾推薦せざりし次第
一八八二、 李軫鎬
1 明治四一年一月一日 (漢文)新年の挨拶
2 大正八年一〇月二九日 私儀二級俸に昇給 閣下御配慮の賜もの御礼申上
3 大正八年一一月二四日 本月十一日より十三日まて管下警察署長会議を同日より十六日まて府尹郡守会議を催し閣下の御趣
旨徹底
4 大正九年一月七日 東京府外三県出張の命を拝し来一月十五日当地発上京
5 大正九年七月五日 叙勲三等瑞宝章を授けられ感激 全く閣下御高庇に外ならす御礼申上
6 大正九年一〇月一一日 今般上府の節種々御厚情に預り感謝 小官身上の事に付ては御帰朝の前に御決定御願
7 大正九年一一月一八日 小生身上に関し近く拝芝の機を得て更に御指図相仰可申宜敷御願申上候
8 大正九年一二月三一日 此度は御懇願を蒙り拝謝 農林学校設置の件に関しては帰任後直ちに画策に着手
9 大正一〇年三月六日 東拓の件は此際本社へ御交渉相蒙りたく懇願
10 大正一〇年七月二四日 過般上府の節不一方御芳情を辱ふし感謝 今後の身上に関して格別の御眷顧悃願
11 大正一〇年八月一一日 此の度休職の御恩命を拝受 多年間御庇護御配慮御礼
12 大正一一年二月一二日 日々議会御出仕御繁忙中のことゝ拝察 御障も無御座候哉
13 大正一五年二月一四日 旧督学部土地売却に就き支那公使館立退きの必要相起り公使の回答を待つことを第一案とし不成立
の場合大蔵省の方に取り懸ることに致すの外なき状態
14 昭和二年四月一三日 閣下には愈々軍縮全権を御受諾の由 必らずや上陛下に対へ奉り下国民の与望に副はるゝ御事と確信
平安に往復祈上
15 昭和二年九月二三日 閣下大任を果され不日神戸へ御安着の由邦家の為め慶賀の至
16 昭和二年一二月七日 辞令捧呈の趣 多年朝鮮統治の為め御心労を預き誠に感激 私としては万感胸に廻るものあり
17 昭和三年二月一七日 宋伯爵家の事件は閣下御指示に依り宋君に伝達 各事件終了次第直に御指示の通り取計可仕候趣に御
座候
18 昭和三年四月二一日 朴錫胤君の件大学総長と交渉不遠採用 魚江の給費生の件は七月頃採用 小官将来三菱会社設立と同時
に閣下御紹介を辱ふし現状の関係を分離仕りたし
19 昭和四年一月一四日 御下命の経学院司成の件は 昭和四年度より二名増員 小官儀初等教育の改正来年度より実施に就き此
際勇退する必要ありと考へ辞表差出
20 昭和四年四月二四日 先頃東上の際二度面会御高配を辱ふし感銘御礼申上
21 昭和四年六月二三日 政務総監児玉伯親任誠に慶賀に不堪 小生身上に付いてよろしく閣下より御依頼下されたし
22 昭和五年二月二〇日 昨今又復市内二三校同盟休校 理由は光州事件公判への同情との事にて寒心に不堪 無智なる青年の誤
解を一掃せしむる様父兄側へも手配
23 昭和五年二月二三日 御親書賜り多額の金円御恵贈下さり感激に不堪 例の事柄は一昨日以書面申述候如く着々進行
24 年五月一日 電気会社の件は今回御東上の際直接大橋社長にも御面会の際可有之御相談御依頼の訳には出来間敷候哉
25 年七月二八日 (漢文)暑中見舞
26 年一〇月二日 今般小官儀高等官一等に陞叙 謹て御礼
27 年一二月二四日 猟師の野鹿射獲せるに会申候に付き謹て献上御嘉納下されたし
一八八三、 李盛園
1 昭和五年一二月一七日 (漢字ハングル文)一九三二年世界競争大会の期会に擲〓を供給せん為め野外運動に適用する様研
究し米国特許局に手続 タイヤの発明に一万五千弗希望
一八八四、 李泰浩
1 昭和二年一二月二五日 (漢文)閣下朝鮮総督受命以来鮮民を視ること日民の如く日鮮民の間に差別なく鮮人不逞者に寛大
閣下退任は嬰児の慈母を失うが如し 小生閣下と交うるは栄禄の心や利益を以て交うるに非ず (付)鳳兮歌
2 昭和三年一月七日 (漢文)崇体健康を祝す (付)鳳歌
3 昭和三年五月一七日 (漢文)武力を以て支那に逼れば其衆心服困難にして我帝国の仁義道徳の化に帰順せしむる必要崇体
健康伏祝 李禎基の本府転任の事消息なく小欝 (付)忠北槐山郡仏頂面牧渡里堤防工事費の概算及図面
4 昭和四年四月九日 (漢文)客年冬の忠北線鉄道貫通を機会に閣下の忠北枉駕を伏望(付)観化山翁「東亜策 山翁漫談」 昭
和四年二月一八日付
5 昭和九年一二月一四日 (西園寺公爵宛)(漢文) 皇太子降誕 真の済世主也世界の慶也
6 昭和一〇年一〇月二日 (漢文)昨年冬国防義会より皇太子殿下御写真一枚送付感激
7 昭和一〇年一〇月二五日 (漢文)小生南鮮視察 其の豊富の気色は東洋の沃野と称すべく此れ皆閣下在鮮十余星霜の勤労功
績の致す所
8 昭和一〇年九月日 (漢文)始政二十五年紀念式に感するところあり漢詩七首を作る
9 年 月 日 (漢字ハングル文)虞世子と改名(付)漢詩二首
一八八五、 李東華
1 昭和六年六月一日 今回朝鮮子弟のために学生合宿黄人荘を建設 諸名家各位より直筆書画の寄贈を賜り一般に公開資金に替
へ資金の一部に充当仕りたく尊堂にも揮毫懇願
一八八六、 李範益
1 昭和六年六月一二日 選挙事務故障なく終了 水害罹災民の救済事業遂行 文幕水利組合解散進行地主も満足 繭価安直の見込農
家利益僅少 鰯豊漁なるも人気薄
2 昭和六年一〇月一〇日 (電報)管内御来遊の趣拝承 迎送申し上ぐるを得ず遺憾 御機嫌よろしく御旅行祈上申上ぐ
一八八七、 李範圭
1 大正一一年一月三一日 (漢文)慶源竜堂の事藤波君より転承 李王職所有が総督府に既属なれば負債も移属との説に驚訝土
地山林費用の支払は李王職にあるのみ
2 昭和四年八月二四日 (漢文)閣下御碩輔慶祝 閣下御高齢にて此の多事の時精力損ひ易き事など三憂あり
3 年一二月三一日 (漢文)閣下宜しく自ら謀り賢に親しみ小を遠ざけ忠言の路を開陳し能く憂を解せば万事順風東土帰化
一八八八、 李範昇
1 昭和四年八月二二日 閣下再度朝鮮総督の大命を拝受 今日朝鮮人達熱望する所は自治制断行・内地人加俸全廃・在鮮官吏と
内地官吏入替・鮮人道知事の下に内地人内務部長内地人道知事の下に鮮人内務部長を置く事・警察界の廓清が主なるもの
一八八九、 李範来
1 年 月 日 「土地表準」現今買売に付き相談中にあるもの総価格一七〇〇〇円
一八九〇、 李炳憲
1 年 月 日 (漢文)「大東治安説」 経学院で教授の権利か当局の保護の下隠棲か当局の指導により内地にて講義か三項中一を
御採用伏願 (付1)「補空秘鑰」 (付2)「震雹解」
一八九一、 李邦協
1 大正八年九月八日 (厳亨仁と連名)閣下着任の日一狂漢危害を閣下に致さんとするあり 該狂漢朝鮮民族より出づたりとせ
ば遺憾 在満三百万を代表し遭難の凶事を傷み将来の御健康を祈る
一八九二、 李容稙
1 年 月 日 (漢文)杜富箴屏風奉呈
2 年 月 日 (漢文)賜品の酒により健康良好
一八九三、 陸鍾允
1 昭和四年八月二九日 唯文化標榜のみにては曽て閣下の威徳に馴狎したる朝鮮人を悦服せしむるに足らず 全体の空気を一新
せられ閣下の威力徳望を増進して日鮮融和共存共栄の実を挙げれん事を切望
2 昭和五年五月六日 先般詳陳仕候通一日も速かに生活の安定を得る様御考慮懇願 伊藤公以来原敬氏等との関係の結果今日の
境遇に立至る事情御含みの上御賢慮懇願
一八九四、 柳一宣
1 昭和八年一〇月二三日 一年有余東京に蟄伏 現下時局の一隅を背景として過去の清算と将来の方向が決定 一書を啓上(付)
柳一宣論文 第一、私の『有る』の観 第二、私の『断つか』の観 第三、私の東京一年 第四、私の日本精神観(梗概) 第五、
私の決意 附、終りの御言葉
一八九五、 柳洪珪
1 大正一四年一月一七日 (漢文)漢銀の内容将来の望なし 今回鉄道局官制裁定を機に郡守若くは鉄道局内の一処希望
2 年八月三日 (漢文)閣下諸般方針始立の際は何所か要職に御下用願 形式上本人の使用資格なくば判任以上の嘱托若くは満
鉄京城管理局希望
一八九六、 柳来禎
1 年三月二〇日 閣下再び神経痛の為め御就蓐との由充分御療養遊ばされたし
2 年四月八日 御機嫌伺
一八九七、 劉英俊
1 年三月一日 京城と東京にて御引見下さり恐縮 御出発に際し結構な下され物を戴き御礼
一八九八、 劉鎮淳
1 昭和五年五月二二日 管内公州郡鶏竜面事務所移転の件に就き地方民より閣下に対し陳情書提出 陳情書は地方的利益を弁護
せむとする一部民の誇称にて地方庁当局に不当の挙措なし 何卒御省慮仰ぎたし
2 昭和五年六月二六日 管内礼山郡大興面金谷里所在の金駿圭一族の墓地を成元慶外二名試掘したる件其後実地調査 鉱業権許
可前の土地使用鉱物採掘は法令違反にして朝鮮風習よりも甚だ遺憾の事 本件拒否に関しては道知事権限外に属する為め御配
慮煩したし (付)嘆願書 金駿圭他一五名 昭和五年六月一
一日付 (漢文)成元慶等の申請却下を伏乞
3 昭和八年四月四日 先般宇垣総督の命令に依り自力更生運動並農村振興の状態を視察の為め平安南道管内へ出張 当局の指示
に依り牛舎等の改良・冠婚葬祭の費用節約・禁酒禁煙励行・養鶏養豚等の副業励行等農村振興の気分濃厚
一八九九、 劉定邦
1 大正一三年一二月一日 (漢文)恤生貴地滞在時特に優対を蒙り多謝
一九〇〇、 劉猛
1 大正一二年五月二五日 (漢文)大蔵省の告示により国債償還の為め抽籤執行 本券当籤し元利金五千六十二元三十二銭償還
一九〇一、 林震燮
1 昭和五年八月六日 南原広寒楼に関する漢詩一律を賜はりたし (付)南原吟社第一回漢詩懸賞募集広告 昭和五年三月付
一九〇二、 林鼎燮
1 昭和五年一〇月六日 (漢文)凶豊の差異あるは皆在上人の行政の善否に由るもの 四年間凶荒の余り憂喜病蘇 何れも盛徳に
感激 閣下此土を棄てず此位に久留なされば一国人民の幸として折欣 (付)訳文
一九〇三、 盧正一
1 昭和五年七月二〇日 今般製鋼所敷地問題は閣下の奔走に依り朝鮮側に有利なる情報頻々 諺文紙中外日報は論説「政治家の
変節」と題し時代と境遇に依り政治運動は須らく方向転換をなすべきを示し新幹会より取消を要求 穏健なる右傾思想の抬頭
は看取し得べし
2 昭和六年八月一六日 十余次折衝し遂に何の条件無しに中央日報版権を譲受し会社は解散すべく株主総会の召集状発送本館
の設備は侍生の住宅を入質して調達之を以て編輯営業の準備出来 (付)新聞切抜 昭和六年八月一五日付「前総督の置みやげ
/窮民救済の事業/まだ序幕ながら成績はよい」
3 昭和六年九月三日 (電報)版権既に提出 会社は昨日総会にて解散決議し今日投記
4 昭和六年九月三日 当局より便を与へられ六十日間の休刊延期届を安煕済名義にて提出 侍生株主を説得し百十四名中七十二
名の同意を得て昨二日円満に解散決議成立
5 昭和六年九月一一日 (電報)進行不可能により立場は大困難 如何にしてよろしいでせうか
6 昭和六年九月一二日 (電報)会社既に解散し版権下かる約束 本館には社員執務今は工場色々設備に急ぐ 資金なき為窮す
7 昭和六年九月一六日 工場の建築七千円・暖房電気水道ガス等三千八百五十円・電話千四百円・機械買入活字改鋳千五百
円・保証金千五百五十円以上が三ヶ月以内に必要 殊に緊急のものにて特に御考慮下されたし(付1)盧正一電報斎藤実宛 昭
和六年九月一九日付 事を九分まで進め今挫折するは死を選ぶに如かず(裏 斎藤実電報案文 盧正一宛 昭和六年九月一九日付
何ともしがたし遺憾ながら御断す) (付2)盧正一書翰 斎藤実宛 九月二一日付 侍生此に処して弥縫の途なく諸般の費用調達
の為め財産差押 事情火急にして総ての廉恥を忘れ閣下の御慈情を仰ぎたし
8 昭和七年一月八日 今日の発行部数は有価紙の実数一万五千三百七十五部 今の状態では欠損を続けるも若し五月迄穴さへ見
えざれば経営の前途は有望 当局は侍生の薄資に同情はするも袖手傍観
9 昭和七年四月一一日 (電報)初めから経営困難を続け二月の月給も払えず紙も買われぬ状態に至り今週中日経営中止
10 昭和七年七月一二日 去三月末中央日報は経営中止 事業着手当時より資金難 一ヶ月俸給未払を導火線として罷業起り貸借
関係破綻を来し休刊 一部有志間にて中央日報更生運動起り会社組織新聞社成立 侍生出資能力なき為め新聞経営の素志を抛棄
一九〇四、 郎鑒(註1)
1 年 月 日 (漢文)天図路は依然運輸力微弱 本路の営業は農産物の歳熟如何に左右
一九〇五、 Anderson, Phanes L.
1 明治一七年一二月二六日 (英文)クリスマス・ギフトへの御礼
一九〇六、 Appenzeller, H.G.
1 昭和二年一二月二二日 (英文)総督辞任を惜しみ健康の恢復を願う (付)斎藤実返信写 昭和三年一月一四日付(英文)過
去八年間のユニオン・チャーチとの温かい関係を想起しつつ辞任の挨拶
一九〇七、 Avison, O.R.
1 昭和二年一二月三一日 (英文)総督辞任に際し謝意 (付)大阪の日刊紙に寄せた総督の業績を讃える英文原稿写
一九〇八、 Bagg, Leonora L.S.
1 昭和二年七月五日 (英文メモ)七月七日斎藤夫人午餐招待
2 昭和二年七月一九日 (英文)斎藤夫人晩餐招待
3 昭和二年七月二二日 (英文)“The New Corea”読み興味を覚える 朝鮮における困難な問題も早々に解決されることを望
む (付)Bagg 書翰 斎藤子爵夫人宛 昭和二年七月二二日付 (英文)御品恵贈御礼
一九〇九、 Baylor, T.G.
1 明治一七年八月四日 (英文)Sandy Hook Proving Grounds 号行きの勧誘
一九一〇、 Beare, Leila
1 明治一八年一二月二六日 (英文)クリスマス・ギフトへの御礼
2 年 月 日 (英文)クリスマス・ギフトへの御礼
一九一一、 Berry, Arthur D.
1 大正一五年一二月六日 (英文)青山学院卒業生張竜河朝鮮にて教員志望公民権回復に助力を願う (付1)張竜河 特赦状所
持証明案 (付2)斎藤実返信写 昭和二年一月一七日付 (英文)公民権回復通知
一九一二、 Billings, Bliss W.
1 昭和二年一二月三〇日 (英文)総督辞任痛惜
一九一三、 Blackmore, I.S.
1 大正一四年四月一日 (英文)Chun Chang Sin に教員免許交付願
一九一四、 Boaz, H.A.
1 昭和三年一月二四日 (英文)病気見舞
一九一五、 Bowless, Gilbert
1 昭和三年一月三日 (英文)帰国前に朝鮮在任中のことに関し謝意を申述
一九一六、 Bowles, Minnie P.
1 昭和三年一月三日 (英文)総督退任帰京を喜び枢密顧問官就任を祝す
一九一七、 Boyle, Edward D.
1 明治三八年四月一〇日 (英文)旅順到着通知
一九一八、 Brinkmeier, Hatsu and Mr.
1 昭和(カ) 年 月 日 (英文)年賀状御礼 朝鮮を去られること残念
一九一九、 Browning, S.
1 大正元年一〇月一五日 (英文)海軍大将昇進祝詞
一九二〇、 Brown, Arthur J.
1 昭和三年二月二三日 (英文)総督辞任痛惜に堪へず (付)斎藤実返信写 昭和三年四月六日付 (英文)来翰御礼
一九二一、 Bunker, Annie Ellers
1 昭和二年七月一八日 (春子宛)(英文)藤原・松村夫人と共にジュネーブ来訪を知り叶わぬ願いながらお会い致したし当
方のインド旅行に付き概要を記す
一九二二、 Carstens, Vilh
1 大正一四年六月二七日 (消印は六月二六日)(英文)切手コレクション送付御礼 “Petty farming”に付き説明
2 昭和二年七月一六日 (英文)イマムラ氏よりジュネーブ滞在中と聞く オランダに御立寄の際は御訪問歓迎致したし
一九二三、 Cecil of Chelwood (Viscount and Viscountess)
1 昭和二年八月三日 (英文メモ)午餐招待
一九二四、 Cook, Philena
1 明治一九年六月一八日 (英文)ワシントンにての宿舎手配依頼
2 明治一九年六月一九日 (英文)宿舎手配感謝
3 明治一九年七月九日 (英文)旅行報告及び旅行より無事帰着の旨通知
一九二五、 Crowe(Mr. and Mrs.)
1 大正一〇年一一月二四日 (英文メモ)一二月三日の招待受諾
一九二六、 Cullen, Orlan Clyde
1 明治三七年一二月二九日 (英文)Associated Press記者 Sam B. Trissel 氏紹介(付1)Trissel 氏履歴及名刺
2 明治三八年一月三日 (英文)Capt, John Wale 氏をImperial Marine Association の終身会員として推薦
3 明治三八年一月八日 (英文)Jacob Smith Wood 氏をImperial Marine Association の終身会員とすること提案
4 明治三八年一月八日 (英文)James Dunsmeier 氏をImperial Marine Association の終身会員として推薦提案
5 明治三八年一月九日 (英文)James Dunsmeier 夫人をImperial Marine Association の終身会員として推薦提案(付)O.C.
Cullen の名刺
6 明治三八年一月二〇日 (英文)Imperial Marine Association の終身会員推薦者リスト及び推薦理由
7 明治三八年一月二五日 (英文)John B. hobson氏とその夫人をImperial Marine Associationに推薦提案
8 明治三八年三月二七日 (英文)Imperial Marine Association へ推薦する人々のリスト同封推薦理由説明 (付)推薦者名リ
スト
9 明治三八年四月六日 (英文)Cullen 氏へ送金の件に付き電報控綴 (付1)『The Daily Colonist(Vancouver)』紙
一九〇五年一月二三日付号外 ロシア「血の日曜日」 (付2)『The Egptian Morning News』紙一九〇四年一〇月一日付切抜 ボール
ベアリング・ライフルに関する記事 (付3)ボールベアリング・ライフルの図解
10 明治三八年五月一一日 (英文)Edward B. Webster 氏をImperial Marine Association へ推薦提案
11 明治四〇年七月三日 (英文)ミネソタ州で最も裕富で力のある叔父 OraL O. Cullen シナノ丸にて女性達と日本へ向かうに
あたり紹介 (付1)『The St. Paul Daily News』紙一九〇七年六月二九日付切抜ジョンソン・ミネソタ州知事がAmerican
Arm of the Russian Guard より大統領立候補への支持を取りつける (付2)O.C. Cullen の名刺
一九二七、 De Rosales, Louise
1 年 月 日 (英文)御品恵贈御礼
一九二八、 De Rosales, Mardelsa
1 年 月 日 (英文メモ)七月七日斎藤夫人午餐招待受諾
一九二九、 Dousset(Madomoiselle)
1 大正一一年六月二一日 (英文)Nice御越しの機会には面会致したし
一九三〇、 Dulles, Clover
1 昭和二年(カ)七月二〇日 (英文)切絵恵贈御礼 (付)斎藤春子書翰草稿ヵ Dulles夫妻宛 (英文)御花恵贈御礼 御返し
として切絵も贈呈
一九三一、 Dyer, M.L.
1 年一月八日 (英文)葉巻送呈
一九三二、 Eliot, Charles
1 大正九年一一月二三日 (英文)一二月三日夕食招待致したし
2 大正一〇年一一月二四日 (英文メモ)一二月七日晩餐招待受諾
3 昭和二年三月二六日 (英文)再来日の通知 日本にて今秋面会願いたし
4 昭和二年一二月二九日 (英文)総督辞任痛惜に堪へず
一九三三、 Erdman, Charles R.
1 昭和三年一月一八日 (英文)総督辞任痛惜に堪へず
一九三四、 Evans, Charlotte Taylor
1 明治三七年三月二日 (井出謙治宛)(英文)日露戦争の戦況や日本にいる友人を気遣い戦果を祈る
一九三五、 Fairfield(Mrs.)
1 年 月 日 (英文メモ)七月七日斎藤夫人午餐招待受諾
一九三六、 Fischer, Paul
1 大正元年一〇月一七日 (英文)海軍大将昇進祝詞
一九三七、 Flement, C.
1 昭和三年一月六日 (英文)総督辞任痛惜に堪へず
一九三八、 Ford, A.H.
1 昭和二年五月一二日 (英文)新聞切抜記事送付 朝鮮にてPanーPacific Union の活動が早々に開始されること希望(付
1)Walloce R. Farrington ハワイ州知事書翰 写朝鮮総督宛 昭和二年五月一二日付 (英文)PanーPacific Union 主催 Panー
Pacific Women's Conference へ朝鮮より女性の代表派遣願(付2)Ann Y. Satterthwaite 書翰写 朝鮮総督宛 昭和二年五月一
三日付 (英文)PanーPacific Women's Conference へ朝鮮より代表派遣願 (付3)『Honolulu StarーBulletin』紙
一九二七年五月九日付切抜 ハワイJunior Science Council 設立 (付4)『Bulletin of thePanーpacific Union 』誌一九二七年五月号
一九三九、 Gale, James S.
1 昭和三年二月一八日 (英文)総督辞任に際し朝鮮における御懇情に対し謝意申上
一九四〇、 Gathenhaus, W.
1 昭和二年三月二一日 (英文)Mr. Churchill の最新の戦争に関する著書送呈 (付)斎藤実書翰 草稿二通 昭和二年三月二一
日付 (英文)上記書籍恵贈御礼ジュネーブ軍縮会議全権として赴任の旨通知
2 昭和二年六月三〇日 (英文メモ)七月一日の昼食招待受諾
一九四一、 Gibson, Hugh
1 昭和二年七月五日(英文)ジュネーブ軍縮会議議長より資格審査委員会開催通知
一九四二、 Goodrich, C.F.
1 大正一四年九月一七日(英文)The GovernmentーGeneral of Chosen's Annual Report(一九二二ー一九二三)を読了プリ
ンストン大学図書館へ寄贈 統治に不満の住民は日本に対する羨望に基づいており取るに足らず 現在の統治を続けられたし
一九四三、 Greely. A.W.
1 大正一四年一一月二七日 (英文)日本の式典の場所・性格についての情報教示に感謝プロレタリアートの支配は中国より
も悪い専制となり得る 日本が有効な方法でこれを食い止めんことを望む (付)英字新聞切抜五枚 朝香宮ロサンゼルス到着
ニューヨークのホテルで働く朝香宮学友 車夫として働く貧しい朝鮮貴族 洞穴に住む朝鮮人 新駐日米大使を迎えて駐米日本大
使による晩餐
2 大正一四年一二月三一日 (英文)雑誌別送 明治天皇に関する拙稿一読批判を願う (付1)原稿草稿 JAPAN 一八ー
二二ページ (付2)斎藤実書翰草稿 大正一五年二月七日付 (英文)送付物拝受 (付3)松田よりのメモ
3 大正一五年七月一〇日 (英文)最近の年報を読み感銘を受ける (付1)斎藤実書翰草稿 (英文)ジュネーブへ出張の通知
(付2)若槻首相写真切抜
4 昭和二年七月七日 (英文)ジュネーブ軍縮会議全権に貴殿のような人物を日本が派遣されたことを喜ぶ 米国内事情により
会議難しきもどのような結果にせよ貴国が東洋の支配的国家として認知せられるよう願う
一九四四、 Haguenauer, M.C.
1 大正一五年一一月九日 書籍御恵贈御礼 (付1)(M.C. HAGUENAUER 名刺)斎藤実覚書 朝鮮図書解題 十五年七月寄贈 (付
2)斎藤実覚書 大正一五年一一月七日付 朝鮮図書解題及三国遺事は入手して交付(付3)朝鮮総督府図書館長荻山秀雄名刺
一九四五、 Hardie, R.A. and Mrs.
1 昭和二年一二月三〇日 (英文)総督辞任痛惜に堪へず
一九四六、 Helmss, Birch
1 大正一五年八月四日 (英文)米国帰国通知
2 昭和二年四月一九日 (英文)ジュネーブ軍縮会議全権任命を国Japan Advertiser で知り喜ぶ
3 昭和三年一月九日 (英文)総督辞任を新聞で知り今後の活躍を願う
4 昭和三年一月一七日 (英文)総督辞任痛惜に堪へず
一九四七、 Hensel, H.C.
1 昭和六年八月六日 (英文)八年前の連邦準備制度が世界を救済するという自らの主張の正しきこと力説 (付)Hensel 論文
切抜「Federal Reserve System May Save World」等五点
一九四八、 Hepburn, Louise Lonncles
1 昭和二年六月三〇日 (春子宛)(英文)七月二日午餐招待
2 年 月 日(英文メモ)七月七日斎藤夫人午餐招待受諾
一九四九、 Hobbs, Thomas
1 昭和二月四月五日 (英文)ジュネーブ軍縮会議全権任命への祝詞
2 昭和二年一二月一四日 (英文)総督辞任を痛惜
一九五〇、 Holdcroft, J. Gordon
1 昭和二年一二月三〇日 (英文)朝鮮長老派教会を代表して総督辞任に対し痛惜の念を表明 (付)斎藤実返信写 昭和三年一
月一四日付 (英文)手紙への御礼
一九五一、 James, L.(Captain)
1 明治三七年二月二一日 (英文)機密保持のためHaimaru に士官配置すべし (付1)Captain L. James 名刺
一九五二、 James, Neile
1 昭和四年七月二一日 (英文)ロンドン来訪の際面会を願っていたが本日出発のため叶わず
一九五三、 Jaques, W.H.
1 明治一九年五月一八日 (英文)帰国前に面会できず残念 衣服立替分の金額及び花瓶の名前に付き連絡を乞う
2 年 月 日 (英文)明日訪問できず御詫
3 年 月 日 (英文)両日中にもう一二品差上げたし
一九五四、 Jennnings, Sam. A.
1 大正一三年五月二二日 (英文)鴨緑江下航中狙撃されたことへの見舞
一九五五、 Jones, Hilary P.
1 昭和二(カ)年七月五日 (英文)アメリカ代表団への独立記念日の祝詞に対する御礼
2 昭和二年七月二一日 (英文)御品恵贈御礼
一九五六、 Joyner, Sterling J.
1 大正一五年九月二五日 (英文)時候の挨拶 (付)斎藤実書翰草稿 (英文)ジュネーブ行きの通知
2 昭和二年六月一五日 (英文)朝鮮より米国へ帰国 直ちに貴翰に接し感謝御礼
3 昭和七年五月二二日 (英文)時候の挨拶及び近況報告
4 昭和七年五月三一日 (英文)首相就任の祝詞 (付)Sterling J. Joyner 名刺
一九五七、 Kerr, William C.
1 昭和二年一二月九日 (英文)総督辞任を痛惜
2 昭和四年八月二四日 (英文)朝鮮総督再任祝詞 (付)Grace K. Kerr 書翰 斎藤子爵夫人宛 (英文)朝鮮再来訪を喜ぶ
3 昭和六年七月三日 (英文)総督辞任を痛惜
一九五八、 Larr, Helen R.
1 昭和三年二月五日 (英文)東京帰国を喜ぶ
一九五九、 Lay, Arthur Hyde
1 昭和三年二月七日 (英文)辞任通知の書状への御礼
一九六〇、 Leursdes (Miss)
1 年 月 日 (英文メモ)七月七日斎藤夫人招待受諾
一九六一、 Lotiunty
1 昭和二年七月二八日 (仏文)ルーマニア国王逝去通知
一九六二、 Mac Donald, Claude M.
1 明治三七年一一月七日 写真贈呈 旗恵与御礼 (付)軍艦写真五葉
一九六三、 Mackenzie, J. Noble
1 昭和六年七月一八日 (英文)総督辞任を痛惜 貧しきライ病患者への支援に感謝 (付)釜山ライ病報告書 一九三一年六月付
一九六四、 Marriott (Captain & Mrs.)
1 大正一〇年二月二四日 (英文)(英国東京大使館メモ)一二月三日の招待は先約により御辞退致したし
一九六五、 Marsden (Major and Mrs.)
1 大正一〇年一一月二六日 (英文)(英国東京大使館メモ)一二月三日招待受諾
一九六六、 Mason, Theo B.
1 明治一七年一二月二六日 (英文)クリスマスカードへの御礼
一九六七、 Miller, Frank A.
1 昭和七年六月一五日 (英文)不必要な軍事力行使をはばむ保障として首相就任を祝う (付)『Riverside California』紙一
九三二年六月一三日付切抜 全米にて満州国の支持を呼びかけるオバタ・キュウゴロウ博士の講演会旅行
2 昭和二年七月二三日 (英文)ジュネーブ軍縮会議における貴殿の尽力に謝意
一九六八、 Miller, Hugh
1 昭和二年一二月一四日 (英文)総督辞任を痛惜義弟の死亡記事を読み吊詞
一九六九、 Miller, Raurford S.
1 昭和二年三月二六日 (英文)ジュネーブ軍縮会議全権を受諾すべしとの意見開陳
2 昭和二年三月二九日 (英文)駅にて見送に出向く予定なりしも新聞記者に発見されうるさき故出向かざることと再考
3 昭和二年四月一五日 (英文)ジュネーブ軍縮会議全権就任受諾を喜ぶ
一九七〇、 Moffett, S.A.
1 昭和二年一二月一九日 (英文)総督辞任を痛惜 (付)斎藤実返信写 昭和三年一月一四日付 (英文)健康上の理由にて辞任
したとの旨説明
一九七一、 Moore, B.N.
1 昭和二年八月一三日 (英文)帰路の安全を祈る
2 昭和三年二月二日 (英文)東京帰国を喜ぶ過去の回顧
一九七二、 Mutel
1 昭和二年一二月三〇日 (仏文)閣下并に令夫人との別離の悲哀を痛感 (付)書翰訳文
一九七三、 Naufeld, N.A.
1 昭和三年一月二七日 (英文)枢密顧問官就任への祝詞
一九七四、 Newell, Horatis B.
1 大正一三年一〇月二二日 (英文)A.W. Palmer 博士京城滞在中の夫人の厚情並に総督府の配慮への御礼
2 昭和二年一二月三日 (英文)Miss Alice Adams と一一月二三日公邸にて面会いただいたことへの御礼
一九七五、 Noble, Mattie Wilcox
1 昭和六年五月三一日 (春子宛)(英文)子爵の健康回復を祝う
一九七六、 Noble, W.A.
1 昭和二年四月二二日 (英文)朝鮮を長期離れられるのは残念なるもジュネーブ軍縮会議全権就任を喜ぶ
2 昭和一一年一月二日 (英文)内大臣就任祝詞
一九七七、 Norris, Geo. A.
1 明治二三年四月一五日 (英文)フクシマ艦のFlag Licer の名を報知願いたし
一九七八、 Owens, H.T.
1 昭和三年一月四日 (英文)総督辞任を痛惜
一九七九、 Paget, A.O.
1 大正五年四月一四日 (英文)Robert Hadfield よりの書類回送
2 昭和二年一二月二九日 (英文)Robert Hdfield 卿へ手紙回送 枢密顧問官就任祝詞
一九八〇、 Parlett(Mr. and Mrs.)
1 大正一〇年(カ)九月二五日 (英文)(英国東京大使館メモ)一二月三日の招待受諾
一九八一、 Rea, Geo. Bronson
1 大正一三年九月二四日 (英文)(中欠)The Far Eastern Review の記事増訂のため一〇項目の必要な情報の入手を希望
一九八二、 Rodger, R.P.
1 明治一七年一二月二五日 (英文)クリスマス・プレゼントへの御礼
一九八三、 Romer, T. Anselm
1 昭和二年一〇月三一日 (英文)St. Benedict's Abbey 一同総督辞任を痛惜
一九八四、 Sayer, Edith A.
1 昭和二年三月二一日 (英文)書翰への御礼
2 昭和七年五月九日 (英文)御品恵贈御礼
3 昭和七年六月四日 『Bobson Evening Transcript』『The Bobson Herald』紙切抜四点 日本政府の対満州政策関連記事
4 昭和七年三月三一日 (英文)先の日中戦争に関する私への書翰を国務長官Henry L. Stimson に転送国務省による受け取り
確認の書翰を同封 当地新聞和平困難と報道(付)Maxwell M. Hamilton 書翰 Edith A.Sawyer 宛 一九三二年二月二九日付
(英文)国務省にてコピー・ファイルす オリジナルは返送す
一九八五、 Schneder, D.B.
1 大正八年一二月二九日 (英文)年賀状
2 大正一四年六月一七日 (英文)“ Annual Report on the Administration of Chosen ”拝受 総督の朝鮮における業績は歴史
に残る成果と確信
3 昭和二年一二月一五日 (英文)総督辞任を痛惜
4 大正七年一二月二九日 (英文)年賀状
一九八六、 Schofield, Frank W.
1 大正八年一二月一四日 (英文)宣教師の態度を批判した貴殿のJapan Advertiser のインタビュー拝見記者が曲解せるとこ
ろ見受けられるに付き私自身にてのインタビュー許可希望 YMCAでの火曜日の会合延期(付)斎藤実書翰草稿 (英文)イン
タビュー受諾 本日午後もしくは明日四時以降来訪願いたし
一九八七、 Scott, A.P.
1 大正一三年九月一〇日 (英文)Annual Report 拝読御礼
2 大正一四年五月一日 (英文)日の出石油マキノシマ工場の件に付き滞京中に御相談願上たし
3 大正一五年二月九日 (英文)釜山工場の件に付き御面会以来音信無し 今回の帰京の際再び面会願上たし
4 大正一五年四月七日 (英文)現在地への貯蔵タンク増設不可の電報拝受 御考慮感謝
5 大正一五年四月一四日 (英文)釜山工場の貯蔵量増量の件につき添付の資料を御覧の上今一度御考慮願上 (付)貯蔵タン
ク増設計画概要
6 昭和二年三月二二日 (英文)件の質問に付き地方当局へ照会の御手数感謝
7 昭和二年一二月二七日 (英文)朝鮮総督辞任痛惜 枢密顧問官就任祝詞
8 年 月 日 (英文メモ)御招待受諾
一九八八、 Scott, E.W.
1 昭和二年六月二五日 (英文)昨日欧州に居られることを知り思い出に浸る 共通の友人の近況を報告
一九八九、 Seidmore, Eliza R.
1 昭和二年六月(カ) 日 (春子宛)(英文)六月二八日午餐招待
2 昭和二(カ)年七月二七日 (英文)賜物御礼
3 年 月 日 (英文メモ)斎藤夫人の午餐招待受諾
一九九〇、 Shiller, Ransford
1 昭和二年一〇月七日 (英文)Gibson 氏の貴殿を讃える手紙の内容紹介
一九九一、 Shimpson, E.
1 明治一七年一二月二日 (英文)午餐招待
一九九二、 Sinclair, H.A.
1 明治一八年一二月三〇日 (英文)クリスマス・ギフト御礼
一九九三、 Smith, Frank Herron
1 昭和二年三月二三日 (英文)排日移民法についての自分の講演録送付 (付)「The Methodist Episcopal Church
ThePacific Japanease Misson」
2 昭和六年七月一八日 (英文)総督辞任を痛惜 サンフランシスコの近況報告 (付1)Nichiーbei 一二九三一年七月六日付切
抜 宇垣朝鮮総督着任記事 (付2)「Methodist Episcopal Pacific Japanease Misson Conference」 (付3)
「Superintendent's Report」一九三一年六月二九日付
一九九四、 Spiro, Lee D.
1 昭和二年六月二二日 (英文)揮毫依頼
一九九五、 Starr, Fredrick
1 昭和三年一月一一日 (英文)総督辞任痛惜 枢密顧問官就任祝詞 (付)『Unity(Chicago)』紙一九二八年一月九日付 切
抜 Alleyne Ireland 著 The New Korea 紹介記事
一九九六、 Train, May
1 年 月 日 (英文メモ)七月七日斎藤夫人午餐招待受諾
2 年 月 日 (春子宛)(英文)七月八日御茶招待
一九九七、 Underwooe, Herald H.
1 昭和二年一二月三〇日 (英文)総督辞任を痛惜 枢密顧問官就任祝詞
一九九八、 Underwood, Herald H.
1 大正一五年五月一日 (英文)拙著Modern Education in Korea 献呈
一九九九、 Vail, Aaron(Mrs.)
1 昭和二年七月五日 (英文メモ)七月七日斎藤夫人午餐招待受諾
2 昭和二年七月一二日 (春子宛)(英文メモ)七月一六日午餐招待
二〇〇〇、 Wadhams, A.V.
1 明治一八年一二月一四日 (英文)晩餐招待
二〇〇一、 Wainright, S.H.
1 昭和三年一月七日 (英文)クリスマスの挨拶状への御礼
二〇〇二、 Wambold, Katherine
1 昭和三年一月六日 (英文)朝鮮における総督の業績に感謝 辞任を痛惜
二〇〇三、 Warem, Richard
1 昭和三年一月三一日 (英文)総督辞任を痛惜
二〇〇四、 Webster, Edwin B.
1 明治三八年五月一一日 (英文)Imperial Marine Association 終身会員となるを感謝 (付)Edwin B. Webster 略歴
二〇〇五、 Welch, Herbert
1 昭和二年七月六日 (英文)手紙拝読 パリにて共通の友人に面会できることを願う
2 昭和二年一二月二〇日 (英文)新総督を駅まで出迎えたものの心躍らず 貴殿の辞任を痛惜
3 昭和六年八月一二日 (英文)総督辞任後静養希望 米国来訪を望む
4 大正八年一一月一〇日(英文) 会議のため御招待辞退致したし
二〇〇六、 Wesh, Issackville
1 明治二一年八月二〇日 (Adminal Jyons宛)(英文)本書状の持参者斎藤の紹介
二〇〇七、 Kesller, Hellman
1 明治四一年二月二二日 帰国に際し従来特別の御懇命を蒙り御礼
二〇〇八、 市助
1 年一〇月一八日 今朝ボチモア発午後当府到着 クック氏訪問の際貴兄より一室用意致し置候旨承知致し御周旋感謝
二〇〇九、 勝比古
1 年一月二八日 昨夜加藤高明氏へ面晤致し閣下よりの御返詞伝達 同氏より尚宜敷御尽力下されたしとの事
二〇一〇、 久三郎
1 大正一五年一月一日 小生は今回五級に昇給 丗一日附を以て鉄道局辞表の筈 右は偏に閣下の御高配の賜と感銘
二〇一一、 敬太郎
1 年一二月九日 三田村海軍病院長よりストリムヘル氏著内科書壱冊購入致したく仲介依頼
二〇一二、 源六
1 明治三三年四月二二日 大蔵省台湾総督府の申込に対して決して耳を傾くる事なく良好なる成績を以て卒業致候様奮発致す
べく海軍省の方へは御世話相成たく懇願
二〇一三、 幸二
1 明治三五年一一月一七日 潜水水雷艇問題に付き英国ソーニクロフト会社と交渉 同社にて図面等供給弊社にて製造の事に相
談 同会社総支配人カロウェー氏此度来日に付き御面会下されたく願上
2 年二月一三日 本日潜航艇二号電気力にて試運転 明日は第一号試運転の筈にて好結果の程一心に祈念
二〇一四、 権三郎
1 明治三四年八月二三日 基隆の地処の件に付き大兄より便益の方針を加えられ下さる事と常に信し居る次第 篤と御推察の上
只管懇願の至に堪へず
二〇一五、 勝平
1 年三月八日 製草の件私終生の御願として御詮議を煩したし 若様縁談に就ては岡部長景子爵様は斎藤様に御異存なくば久子
を貰てほしいとのこと故御邸にて御一考煩したし
二〇一六、 四郎
1 昭和七年七月二七日 元台湾新竹州知事古木章光今以て閑地に罷在 此際特別の御思召を以て然るべき地位に御採用歎願
二〇一七、 信太郎
1 大正八年三月五日 李王家国葬は無事結了も一部鮮人間に朝鮮独立運動の開始あり 彼等の多数は青年学生にして中心はミッ
ションスクールの者らしく裏面には米国宣教師ありとの噂
二〇一八、 尊文
1 明治 年四月二三日 (前半欠)魯艦カムラン碇泊の如きは随分日本を馬鹿にしたる仕打
二〇一九、 武二郎
1 昭和二年四月一日 尊台不日平和会議御出席と当地の新聞に掲載あり遠路十分用心されたし 私事渡航後変りなし 四月末か五
月には帰朝の途に就きたし
二〇二〇、 武次郎
1 年 月九日 帰省の際の御香料御礼
二〇二一、 正
1 年六月四日 今朝参館の処御不在に付き山本君に参謁企望の次第申述候処御快諾下さり来る七日海軍省へ出頭方申され候 宜
布御願申上候
二〇二二、 忠朝
1 明治 年二月一三日 山口海軍大佐宅に是非御来訪を希ふ
二〇二三、 千代吉
1 大正五年一一月一三日 小生今回別紙の如き装置を以て発明として特許を出願希望 付ては御教訓を仰ぎたく来る日曜頃拝眉
の光栄に預りたく希望
二〇二四、 透一
1 年一一月二〇日 地方の海軍及明年度の企画も已に確定のことと存ずれど彼是御高見に接せんが為め一両日中に拝趨希望
二〇二五、 藤次郎
1 年一二月二八日 御下命に係る朝鮮日報記事に関する調査の件大要別紙の通り 北栗面に於ける小作農の救済に付ては資金貸
付・生活改善・東拓との関係等目下慎重に研究中
二〇二六、 直次郎
1 年二月二七日 本日は滬田君宅にて池田君よりアラスカ魚業の様子など談話 尊兄よりも同君に然るべく御取計願う
二〇二七、 なほき(カ)
1 年 月 日 此度荒井・加藤・小生三名少尉候補生実地演習のため此地へ出張 プナマ・タヒチ等の地を経て来年七月頃帰朝の予
定
二〇二八、 彦次郎
1 明治一八年一〇月一一日 目下虎刺列病流行にて長崎から遂に横浜に波及も当港は壱人も伝染なし 近年無暗に西洋をマネル
風起り婦人の束髪論世にかまびすしくDancing は柳橋芸者辺迄波及
二〇二九、 秀雄
1 年五月三日 我艦諸試験悉皆終了
二〇三〇、 ひて雄
1 明治一八年二月二二日 扶桑艦朝鮮事件の為め客年十二月中旬以来馬関港滞泊 談判相済み品川に帰着修覆に相掛居候
二〇三一、 英吉
1 年 月一〇日 小官今度海軍大学校教授兼海軍省参事官に任命 偏に閣下の御蔭のいたす処 只ただ頓首再拝
二〇三二、 誠
1 年五月三日 藤井中監より熊井泰助なる者技手採用上申の由 間断なく御採用希望
二〇三三、 政二
1 年 月一七日 小生は普選はカペンターの議論を至当と信し其のやうの意見を懐抱 然るに首相も近来は拡張の方の意思乎と察
せられるも小人気に拘泥せず裁然と道理に遵拠せられたきもの
二〇三四、 稔
1 年 月二二日 巴調鴨緑江御笑覧下されば幸甚
二〇三五、 里一
1 年一一月二五日 小生暫時出張 不在中御用の場合は拙宅へ一電相成れば直に宮原惣一なる学者が御伺申上ぐべし
二〇三六、 亮祐(カ)
1 年一月二四日 本日御送の新手形及小切手正に落手 茲に旧手形御返送
二〇三七、 和太郎
1 年六月一日 水沢藩士も漸く復族相成昨今行政訴訟の準備中 幸に復禄の恩典を得は幸福之に過ぎざる次第
二〇三八、 愛民仙人
1 昭和七年五月二三日 白仁入閣あらんことを希望
二〇三九、 一国民
1 昭和五年六月二日 一財部の言のみ信じ倫敦会議に於ける彼か行動の真相や内地に於ける回訓方針の真相等を究めざる貴下
が軽々に意見を発表するは世を誤らしむる事甚し 国家のため慎まれたく切望す
二〇四〇、 一憂国民
1 昭和八年九月一日 農村対策問題として国営農業保険法の必要を進言
二〇四一、 吉林知名者
1 年九月四日 (漢文)生活に窮すること焼眉の急にあり糊口の計の為め万元借用を悃乞
二〇四二、 蔵
1 年一二月八日 侍従と御打合の上然るべく取計を乞ふ
二〇四三、 源平大和尚
1 年九月三日 Naval Progress とやらは如何にも必要の本と認むるも未だ通読致さず不日中にDictionaryを右手に閣下の厚志
を賞味致すでござる
二〇四四、 国民大代者
1 昭和七年五月 日 (斎藤首相・山本内相・柴田内閣書記官長・若槻民政党総裁・荒木陸相・小松司法相宛)柴田内閣書記官
長昇進心から嬉しく祝酒を頂戴 悪い知事部長は左遷してやりなさい
二〇四五、 島
1 大正一二(カ)年一〇月一〇日 大陸への発展は朝鮮を足掛りとせざるべからず 釜山を自由港とし免税市を認むる等根本的
大施設必要
二〇四六、 城東農夫
1 昭和八年一一月九(カ)日 総理大臣閣下に申上げます 貞操観念確立最重要と思います 官吏俸給は物価と平準する様出来ま
せんか
二〇四七、 湘南愛邦生
1 昭和八年一〇月五日 米価の調節は現時の農家に取り必要 濁酒の自由製造を許すこと綿耕作に適当の奨励保護を与ふる事実
行を希む
二〇四八、 仁川一府民
1 昭和五年一二月二九日 (封筒署名は仁川市民)仁取問題は一日の安寧を許さす 本日の総会当局は何故中止を命せられさる
や
二〇四九、 信頼生
1 昭和八年八月二九日 政友会総裁が米価引上を御進めの趣ですが引上る必要は無いのです
二〇五〇、 誠忠なる一国民
1 昭和八年四月 日 現内閣が総辞職の必要なし 蔵相を補充して勇往邁進せられよ
二〇五一、 青年将校一同
1 年七月一三日 国家として又国民として信頼に足るべき人物を以て満鉄総裁たらしめん事懇願 子爵井上匡四郎を推選
二〇五二、 瀬川弥右衛門
1 昭和八年二月一五日 (差出人仮名)無智横暴なる軍部を膺懲せよ 軍備軍拡に用ふる金額を産業教育社会事業に用ひよ世界
の平和国民生活の安寧は国際協調共栄共助にあり
二〇五三、 台湾在京有志一同
1 昭和七年五月二五日 (電報)組閣決定を祝す 福田雅太郎氏を台湾総督に願う
二〇五四、 朝鮮人同情者の一人
1 大正八年九月六日 (春子宛)本日国民新聞紙上にて御話拝見感激 朝鮮民族教化の第一要事は其心底の蟠りを解き呉れる事
鮮語を学んで朝鮮婦人と交際実行は此上なき緩和剤 外国宣教師の夫人等と交際願上
二〇五五、 東菴埜生
1 昭和四年九月(カ) 日 (漢文)再臨を祝い詩一首を呈す
二〇五六、 布衣憂国
1 昭和五年(カ) 月 日 彪洋へ行て成猫 総督撫是韓虎たらしめんとす 帰来徒に吠へ野犬の如し 総督亦曰く加藤・末次小児輩
何する者ぞと 以て狂踏を演せしむ 速に桂冠して罷て天下に謝せ
二〇五七、 憂国士
1 昭和八年四月一八日 上条梅次郎多年国家の為め奮闘努力につき援助願
二〇五八、 若槻礼次郎
1 昭和八年八月二四日 (差出人仮名)牧野辞職の後任倉富枢府議長平沼同副議長東郷元帥頭山満翁以外になし
二〇五九、 E
1 大正一〇年一一月二五日 (英文メモ)御招待辞退致したし
二〇六〇、 不明
1 明治一七碑一二月一〇日 シュワルスコフ製造所へ注文の魚形水雷の行為監督の命を受け去月廿四日倫敦よりベルリン出張
2 明治一八年四月一日 昨日は鉄骨船かつらき艦の進水式あり 小艦隊の演習に随行中々面倒くさき事 三艦に魚形水雷備附方・
檣楼機砲備附方に付き兄の御意見も承りたし
3 明治一八年五月二〇日 キング氏の書は再版あり新き方を御送り下されたし 高千穂艦も去る十六日進水式(後半欠ヵ)
4 明治一九年六月二九日 金三百円紐育の商社より貴君の当にてチェック可仕 御落手の上はタミヤ君に御届願上
5 明治二〇年五月二〇日 本日英国に向け出発滞米中の厚志御礼
6 明治二〇年七月二七日 海軍会計整理及給与方法等改正書類御廻送切願 旧調度局より貴兄へ依頼の書籍代未払の件は該局よ
り参謀本部海軍部へ渡済に付き会計官より照会
7 明治二〇年九月二六日 過般呉佐世保出張 呉鎮守府竣工せしては世界第一の鎮守府なるべしと想像 近日の内官制多少改正の
趣にて目下会計方法改正案取調中
8 明治三八年四月六日 (INTERNATIONAL BANKING CORPORATION の用箋)(英文)Cullen 氏メキシコ支店より$一六〇の
送金依頼ありよって 三二三円二三銭送金せり 領収証署名の上返却されたし(付)茂木鋼之領収証 斎藤次官宛 明治三八年四
月八日付
9 明治四一年一〇月三日 後藤男爵大臣就任祝と郷古潔卒業祝とをかね懇親会開催致したく後藤男の御都合御聞取り通知致さ
れたく依頼
10 明治 年三月一四日 別に成案も無之 大体論なれば草案の解釈総論とも申すべく議題の逐案に対するものなれば昨日議定の
ケ条にて可然 両者を併せて閣議に於て起案作成が宜からん
11 明治 年八月二一日 九・二尹砲に関し昨日北古賀兄と協議の上左の箇条問合の事に相成 然るべく御願申上
12 昭和二年 月 日 公家財産整理に付き殿下は心細く感せられしも御認可あり次第直に実行着手の心組 仏教団愈々明年より全
道一斉に活動開始 付ては来春本団と中央教務院共同主催にて朝鮮仏教大会を開催し内鮮仏教家代表者の握手を為さしむるべ
く考慮
13 年二月二九日 米国物品購買規則の抜粋御郵送下さり謝意
14 年八月九日 去る三十日紐育発昨八日リバプール入港同日午後無事論敦到着
15 明治一九年一〇月一一日 朝鮮の騒動に引続き英露の葛藤東洋の天地を攪乱 今日の急務こそ海軍拡張などと民間にも論出
我国の造船は未だ独り立ちが出来さる儀にて残念なる次第(中欠)
16 年一〇月一八日 (透一書翰)近時の海軍につき御高見を拝したく一両日の内に拝趨希望
17 明治 年月二八日 首相より貴官へ御談示の予算に関する件出来得る限り迅速に御尽力下され候様との首相下命
18 年 月二九日 山内氏より貴兄寄贈の「大砲実験の解」を得て読了 当地到着以来語学研修に苦労
19 明治二五年三月八日 (松本為之助書翰)(英文)結婚祝品贈呈
20 明治一八年 月 日 伊藤参議欧州帰朝より我国の制度風俗に改革 一両年の間に我国古来の風慣泰西文明国の習俗に化せしは
驚入 今回の朝鮮事変の為めに朝野の差別なく海軍拡張の念昂揚
21 明治一八年一二月三日 去月十日London着ニューカッスルヘ帰府 伊東大佐一同無事勤励
22 明治一九年三月一九日 当国に神戸と類似の桟橋を架設し株主を利し世の公益を輔助するものあるべきや考慮 付ては海軍
省辺にて取調べ御報道の義相叶間敷哉
23 明治二〇年七月一九日 今回は頓んた御迷惑頗る御厚情御厄介をかけ奉謝
24 明治三四年一二月一八日 舞鶴雷品庫事務も整頓の緒に就き来一月一日より一般艦船の供給にも差支なき迄に進捗(末尾
欠)
25 大正一四年一〇月二一日 政友会内部は高橋総裁並に幹部不信任問題にて分裂の形勢 政友会は後藤内相を傷つけ内閣に打
撃を計画 田中大将を朝鮮総督に児玉秀雄氏を政務総監に任命せしめやうと臼井哲夫氏画策
26 昭和五年四月二四日 一柳村五郎・盛岡二三は選挙意犯行意を以て商業会議所議員に当選につき疑惑一掃希望 広田に対す
る事件に付き歎願書を石田警察部長・柿原検事に提出も握潰の状態につき退廃思想洗浄上申
27 昭和七年六月一一日 シーメンス三井があり床次が黒幕にて若尾次官を採用 今や内田を大臣にする事が亡国の兆
28 昭和七年 月 日 御参考迄申上 外部との交渉は直接秘密裡にせられたし 平沼氏を度外視せられぬ事 菅原通敬氏・石塚前台
湾総督入閣希望あり 児玉伯・丸山氏の調和必要
29 昭和七年 月 日 満鉄総裁内田康哉辞任後任に辻村主計総監推挙
30 昭和年 月 日 閣員選定の件は今更変更困難に付き御諒承願いたし
31 年四月二七日 (英文)算定結果は排水量一四三〇トン外装八六〇〇フィート四方速力四〇〇〇馬力で時速十七マイル
32 明治年六月一四日 去る九日佐双・宮原両君の周旋にて無事竜動着 不日ニューカッスルへ趣き候心得
33 年一〇月二〇日 宮嶋行を取止め呉港へ同行致す事に昨夜取極 今晩五時頃より御誘引相成候様御伝へ下されたく差支なく
ば人名御知らせ下されたし
34 年一一月二日 (漢文)各面千戸以上とし負担軽減 一面一校以て義務教育とする可き事
35 年一一月九日 斎藤氏入来の日限に付き十一日夕刻御出下さらば仕合の至り
36 年 月二一日 御定約のガットリング砲の草按書は已に赤松海軍少将宛に差出も違約甚た残念 中艦隊司令官より御布達中の
通常火筴は英語にて何なるや御教示懇願
37 年 月 日 乗艦中直接の命令服従の関係などより生じたる事項については刑法中より削除し懲罰令に入れる方至当とす 観艦
式終了後舞鶴軍港視察致したく御取計方依頼
38 年 月 日 捕獲船の内五艘に艤装命令相成 海員は既に出発
39 年 月 日 朴重陽滞京運動に就き探知する処に依れば警務局長又は学務局長なることを猛烈に運動 水野文相系と後藤新平男
系は朴君に対する気乗りは余り致さぬ様子
40 年 月 日 松方公に李起東氏同伴伺候 鮮人が斎藤総督永久在任を希望との回答に公も満足 李朴両氏は素志に基き其筋の補
助・他の寄付も仰がず進行致したしとの精神なるも彼是負債いたし随分困却に付き幾分御援助相成たし
41 年 月 日 (前半欠)臨時議会開期切迫 加藤高明総裁排斥の意味にて企図せし今回の非政友会同は一部政権餓鬼の為めに此
功労者を隠居せしむるか如きものにて嘆息同情
42 年 月 日 四月二日御邸のすぐ下の方に火事 火の用心に注意 毎日の書簡等は仁礼様の奥様と相談の上処置 日枝神社の寄附
金の事御意見承りたし
43 明治年 月 日 過日差上の機密費に関する報告書は重に元西海艦隊のもの 残金を常備艦隊へ引継くの許可さへあれば凡て相
済との事に付き其辺伊東主事へも可然御話し下されたし
44 明治一八年五月二〇日 此度御行幸事件に付ては損耗多し 英国製造中の難波号受取方として伊東大佐・山本権兵衛等廿六
日出発
45 年 月 日 此に別冊の新説を提唱し我海軍拡張の大計に稗補あらんことを希ふ
46 年 月 日 (覚書)「伊達行朝の事歴に就て」
47 明治二七(カ)年 月 日 軍艦乗艦あるいは最高事務取扱官庁に勤務希望に付き御高配依頼(後半欠)
48 明治三二年一〇月三日(前半欠)貴族院書記官兼任の儀に付き諾否回答依頼(末尾欠)
49 明治 年六月二〇日 台湾地処一件に付き星氏より帰京後に山本大臣に拝芝を得たき旨小生迄申伝 斎藤次官迄宜敷御取計下
されたし(末尾欠)
50 大正三年月二四日 証人として御出廷御陳述を求むる事と存候に付き御注意申上げたく二十六日参趨(後半欠)
51 大正年 月 日 (前半欠)尹致昊・李商在・金弼秀の発起で基督教伝道団を組織し連夜講演会を致して六日間の献金二千四
百万余 三月一日は裏面には穏かならず培花学堂の女生六人が逮捕 不穏分子に於ける組織的計画は未発前に阻止(後半欠)
52 昭和九年 月 日 (前半欠)三井三菱産業奉還に同意せるも荒木前陸相は数々の放言にて野に下り荒木大将によって一挙に
特権階級財閥政党を抹殺すべく意気込みたる銃殺組余類十数名の失望譬ふるに物なく其の詭激なる思想は一層詭激を加へ今
は一種の革命手段に訴へて成敗を決せんと策謀をすすめおれる如し(後半欠)
53 昭和 年 月 日 にくみてもあまりある丸山如きが出ては一大事にておどろきました
54 年二月一一日 参館の節は種々御世話戴き御礼 帰途各駅軍人を見送る為め皆万歳と唱え誠に面白くにぎやかに帰宅(後半
欠)
55 年月一四日 (中欠)此際上村中佐に回航委員仰付尤も適当(末尾欠)
56 年月二六日 本日内務省の方は通過致し大蔵省の方へ回り候由 兼て御配慮願上の件は如何にやと御伺ひせしも御不在に付
き明朝御伺ひ申すべく(末尾欠)
57 年 月 日 昨年不慮の政変により閑散の身となられし段同情の至 小生昨冬予備役編入(後半欠)
58 年 月 日 今朝面会の節依頼の御用船の儀日清丸では如何(末尾欠)
59 年 月 日 (覚書)注文の時期・両社へ注文の割合・注文の方法等の要領(後半欠)
60 年 月 日 沈天風君昨夜来訪 東京に於て朝野の諸名士と腹蔵なき意見を吐露し頗る得意にて緩和剤の効能充分あり 朝鮮側の
意向は新官制に就ては遺憾とする向あるも内地延長の統治方針に就ては賛成者少からさる模様(後半欠)
61 年 月 日 (前半欠)軍令部長同次長両閣下に八時半まてに登省方大臣より御注文あり 昨日差上の書類御戻し願上(末尾
欠)
62 年 月 日 ローズレー号去る十六日引渡を受け目下佐世保に於て艤装中(末尾欠)
63 年 月 日 富倉林蔵捕獲船運転請負出願に付き御高配の程依頼(後半欠)
64 年 月 日 当地にても動員令ありて兵員出発等混雑 小生も軍令部に御採用下されたし(後半欠)
65 年 月 日 雇員として採用依頼(後半欠)
66 年 月 日 皮革支店システム改革により各支店主任更迭 漸々御高訓に副う組織と相成り活動の基礎を得来るにより海軍の御
用勤めたし(後半欠)
7 年 月 日 官文書偽造事件審問の進行に従ひ連累者発見 独り海兵団病院水雷団のみあらず呉全体の空気腐敗し居る結果なりと
思料(後半欠)
8 年 月 日 (前半欠)経理規程改正に付き給与関係事項は簡単の修正以外不用 現成案の侭通過候様嘆願被服条例成案の通至急
提出希上(後半欠)
9 年 月 日 フローチンググレー舞鶴回航 巡航予定変更致し難し(後半欠)
0 年 月 日 (前半欠)航海業始めたく戦後御払下相叶候節は御高示依頼(末尾欠)
1 年 月 日 (前半欠)是等改正の好機に際し前述の件々御参照の上尊意を以て御決行願ひたく愚考(後半欠)
2 年 月 日 先夜は参趨失礼(後半欠)
3 年 月 日 水交社増築に付き当評議員会一回建築決定も長官の不同意にて決裁も無効となり遺憾 愚案製図御熟覧御熟考下され
たし(後半欠)
4 年 月 日 過般の水害にて盛岡市は実に惨憺たる光景 市政紛擾の責を負ふて辞職の大矢馬太郎氏市長固辞政友派が自派の党員
中より撰出せんとする為め盛岡市長選挙難産(後半欠)
5 年 月 日 官文書偽造行使詐欺事件は海兵団の厨宰の摘発する処となり海軍の為め奉賀 市前主理・林主理の如きは呉の司法事
務を取る人物ならずと愚考(後半欠)
6 年 月二二日 此朝帰京に付き明二十三日御面謁願上 三菱の豊川氏より明朝拝話希望の旨伝言あり(末尾欠)
7 年 月 日 豊川氏より御伝言承り候次第もあり明二十三日拝謁願上(末尾欠)
8 年 月 日 其節育英の某任務に従事せよとの御仰せ拝承 過日恩命に対し違反的言にて御別 帰来御手に縋る外は無之と決心に
つき可然御取計下されたし(末尾欠)
9 年 月 日 昨日全国新聞記者大会に出席致し聊か閣下の厚意に報酬する所もあり 本日中に拝謁を忝ふしたし(後半欠)
0 年 月 日 去る四月中出羽重遠より日本総本部退会の申込あり 今回の委員会に於て留会勧誘 閣下可然御取計下されたし(末
尾欠)
1 年 月 日 (追伸)已に羅馬にて早崎氏と会ひ此度は墺国にて山内氏に会ひ実に思ひ掛なき対面にて快事御推察を請ふ
2 年 月 日 (覚書)主謀者検挙重罰の事及び「院長は拡張反対なるも官庁の都合にて実施」の旨声明方神尾部長へ警務局長よ
り指示の事に政務総監の内命を受く(後半欠)
3 年 月 日 小子本年四月より韓都から当地へ転勤し韓民に親接民情窺知を得申候 稲作は近年稀なる豊作にして活気を帯び居れ
ど下層韓民に於ては 遊惰安逸を得策と為すの通弊あり(後半欠)
二〇六一、 斎藤省吾
1 年一一月二五日 (千田男爵宛)御申置の件は内閣より宮内省に照会
二〇六二、 茶山豊也
1 昭和一二年一一月二日 (原静吾宛)小生目下何等の記録もなく古日記古き手紙も焼却 斎藤子爵厳島艦長時代は小生鎮遠乗
艦時にして正に植村永孚艦長時代 斎藤子爵厳島御乗艦間もなく次官に御転職の議もかすかに記憶
二〇六三、 Avison, O.R.
1 昭和二年四月二〇日 (Imamura宛)(英文)別紙資料送付の通知 (付)Avison 書翰 斎藤実宛 (英文)北部長老派伝導者
京城支部による一九二七年四月一二日の決議文の内容紹介
二〇六四、 Bosanquet, Day H.
1 年 月 日 (宛先不明)(英文)来日歓迎の書翰に対する御礼
二〇六五、 Bridge, A.Y.
1 明治二〇年一〇月二二日 (Seki宛)(英文)海軍の任務今後も精励されたし
二〇六六、 Capron, Horace
1 明治一七年一二月一〇日 (Kuki宛)(英文)大山巌中将の親戚死去につき弔意伝達の依頼
二〇六七、 Edward, R.
1 年 月 日 (写)(英文)エドワード国王の弔意声明覚書
二〇六八、 Fisher, J.A.
1 年 月 日 (Admiral宛写)(英文)昨日不在の御詑 ジブラルタルへの航海に便宜供与
二〇六九、 Fisher, Joh
1 明治三五年五月二九日 (英文)海相及びJoh Fisher 提督への礼状覚書
二〇七〇、 Ingles, John
1 明治三五年七月二四日 (Capt, Tamari 宛写)西郷侯爵死去の通知感謝 逝去を悼む(付)Salmon Nowell 書翰写
CaptTamari 宛 明治三五年七月二三日付 (英文)西郷侯爵死去弔意
二〇七一、 Roosevelt, Theodore
1 明治四四年一月一〇日 (Mrs. Nitobe 宛写)(英文)雑誌中の佐久間艇長の話に感動 日本陸海軍に敬意を表す
二〇七二、 Studley, F.M.
1 明治三八年二月一四日 (日本郵船社長宛写)(英文)石炭緊急搬出の件承諾 Mr. Cullen の仲介は取引相手に好印象を与え
ず 日本郵船にて運賃支配を願う
二〇七三、 Welch, Herbert
1 大正一二年一二月八日 (Dr. North 宛写)(英文)朝鮮事情に関する米国の報道事情報告
二〇七四、 Willian, L.P.
1 明治四三年九月九日 (加藤高明宛写)(英文)天皇よりの勲章授与感謝 (付)Harding, William Joshua 書翰写 駐英大使
加藤高明宛 明治四三年九月六日付 (英文)天皇よりの勲章授与光栄に存ず
二〇七五、 Woods, Harry F.
1 昭和二年一一月五日 (Matumura宛)(英文)The Oriental Missionary Society はジュネーブ軍縮会議における総督の尽力
を讃えるとともに朝鮮帰任を歓迎する
二〇七六、 Wright, Quincy
1 昭和四年七月三〇日 (副島道正宛写)(英文)十月下旬京都にて太平洋問題調査会会議へ参加予定
二〇七七、 不明
1 昭和七年一一月二二日 (樺山愛輔宛)今日ラモントに面会 日米関係改善のため特使派遣大統領と直接会談の企図につき懇
談
二〇七八、 不明
1 明治三五年七月二二日 (Noble 書翰 Tamari 宛写ヵ)(英文)西郷侯爵死去弔詞
二〇七九、 斎藤実
1 昭和三年七月四日 (浮田郷次宛草稿)朝鮮在住予備陸軍少佐堀野信吉の農園にて栽培のメロン四個送付
二〇八〇、 斎藤実
1 年一〇月二七日 (置田宛草稿)昨日御願の件に付き代理として相沢太蔵差遣
二〇八一、 斎藤実
1 明治一七年八月七日 (黒岡帯刀宛草稿)(一部英文)リュテナントジャッキスへの御取計依願
二〇八二、 斎藤実
1 昭和六年六月 日 (児玉秀雄宛草稿)熟考の末重任拝辞 各局部長各位へ御伝下されたし
2 昭和六年六月一六日 (児玉秀雄宛草稿)熟考の末重任を拝辞 右の事情を各局部長其他各位へ御伝下されたし
二〇八三、 斎藤実
1 明治四二年四月(カ) 日 (西園寺公望宛草稿)駿河台御邸に御寵招の栄を辱ふし仕合奉存候 然るに誠に遺憾に候得共参邸
仕兼候
二〇八四、 斎藤実
1 明治二八年一月二一日 (西郷従道宛草稿)撃沈の敵艦引揚方の儀に付き築山海軍大尉の意見供高覧候 (付)築山書翰斎藤
実宛 一月一四日付 黄海之海戦致遠経遠覆没大に研究の価値あり引揚に中り探究すべし
二〇八五、 斎藤実
1 年一一月三〇日 (坂本嘉治馬宛草稿)西洋全史一部御寄贈御礼
二〇八六、 斎藤実
1 年四月二八日 (柴田宛草稿)本日仁礼子爵の結婚式に付き御手伝賜りたく依頼
二〇八七、 斎藤実
1 明治四〇年六月一〇日 (下飯坂権三郎宛草稿)展墓の為め帰省の際は歓迎会御催下さり深謝
二〇八八、 斎藤実
1 大正一三年九月五日 (副島道正宛草稿)這般京城日報御主宰下され候儀望外の倖 不偏不党を声明独立独歩の方針真に結構
2 昭和二年一二月二日 (副島道正宛草稿)京城日報社長辞任の儀は諒承老生も辞表を捧呈
二〇八九、 斎藤実
1 年八月一三日 (多木宛草稿)大塚秀之丞氏より寿像送来当惑 寿像台石の題字は椰楡の一端と心得頂戴仕候事に決心
二〇九〇、 斎藤実
1 明治四〇年九月二六日 (伊達邦宗宛草稿)今回男爵拝受に付き祝詞賜物を辱ふし深謝
二〇九一、 斎藤実
1 大正九年四月二八日 (伊達伯爵宛草稿)瑞典に関する英文書籍壱冊を送呈
二〇九二、 斎藤実
1 昭和二年三月一八日 (田中義一宛電報草稿)海相の意見には同意し難く愚見陳へ置きたり御聞取願う (山梨宛電報草稿)
愚意のある所を内話したく御都合如何
二〇九三、 斎藤実
1 年一一月三〇日 (俵長官宛草稿)岩手県人の団体移住志望者興産団十勝国にて告示の未開地に移住の儀出願中に付き願意
御許可依頼
二〇九四、 斎藤実
1 明治四〇年九月二五日 (千葉胤昌宛草稿)今回男爵拝受に付き祝詞を処せられ深謝の至り
二〇九五、 斎藤実
1 明治四三年八月二九日 (寺内正毅宛草稿)韓国合併事業円満迅速に御遂行邦家の大慶此事 予て御協議済の御委任権限伝達
書茲に封入
二〇九六、 斎藤実
1 年一一月一七日 (中島宛草稿)先般の御郵書中に山本伯宛のもの同封あり御取次御希望と解し驚入 御取次は迷惑に存じ御
返却
二〇九七、 斎藤実
1 年八月一八日 (名和副官宛草稿)平部中監を委員に加るの件は取調上同人の説を聞くこととする方穏当
二〇九八、 斎藤実
1 年七月二六日 (仁礼景一宛草稿)艦長の許なくして校長に面談の義は順序違 責めは免かれ難し副長に幾回も寃を訴ること
得策ならず 校長に小生面会の節弁明可仕
二〇九九、 斎藤実
1 昭和七年四月二九日 (野村吉三郎宛草稿)上海にて不慮の遭難驚入御見舞申上たし
二一〇〇、 斎藤実
1 年 月 日 (藤原知事宛草稿)今夜貴地通過 送迎者等絶対無き様御願 ホテルにて官民諸君に会見致したく御配慮願ふ
二一〇一、 斎藤実
1 年二月一二日 (本野久子宛草稿)外務大臣官舎に於て御催の慈善音楽会感冒の為め罷出兼候
二一〇二、 斎藤実
1 昭和 年九月二日 (安田寛宛草稿)二曲屏一双入御覧候 御使用下され候はは本懐
二一〇三、 斎藤実
1 年 月 日 (山本英輔ヵ宛草稿ヵ)御熱情ある両度の御書難有拝誦 最善の注意を以て御奉公仕候(付)メモ 内大臣府先代使
用机の引出中にありたるもの
二一〇四、 斎藤実
1 明治三六年一二月二六日 (山本権兵衛宛草稿ヵ)竹内大佐より別紙電報到達に付き在英公使をして購入契約命令済 貴下は
帰任命を待てと申遣 (裏)竹内への返電中契約済云々申遣に付き御注意申上
2 明治二八年六月二四日 (山本権兵衛宛草稿ヵ)台湾北部略征定も南部は依然抵抗 艦隊各艦汽缶機関の故障多く懸念
二一〇五、 斎藤実
1 明治四二年一月一〇日 (遊田研吉宛草稿)某村に建設の忠魂碑揮毫の報酬を小生にて受領云々は誤伝 御取糺の上御取計希
望
二一〇六、 斎藤実
1 昭和六年六月一七日 (若槻礼次郎宛草稿)児玉政務総監辞職申出 辞表は十五日付にて郵送
二一〇七、 斎藤実
1 明治四一年一一月 日 (暁星中学校宛草稿)斎藤斉病気は全快候得共転地静養 本月下旬より登校(付)暁星中学葉書斎藤斉
宛 病気欠席中其後如何
二一〇八、 斎藤実
1 年 月 日 (大日本国防義会宛返信葉書)欠席通知
二一〇九、 斎藤実
1 年一二月二二日 (朴〓煕宛草稿)碧栖楼額壱面寄贈御礼 本年新築の鴨緑亭に掲揚
二一一〇、 斎藤実
1 年 月 日 (李時栄宛草稿)御苦志の趣内務局長より通知あり 蜂蜜正に領収感謝
二一一一、 斎藤実
1 昭和三年一月二三日 (李昇薫宛草稿)屏風壱双御寄贈感謝 五山学校理事へ宜敷御伝下されたし
二一一二、 斎藤実
1 明治二〇年八月二〇日 (Mrs. Baird 宛草稿)(英文)御主人逝去弔詞
二一一三、 斎藤実
1 昭和七年 月 日 (Dr. Bates 宛草稿)(英文)五月二十三日付首相就任祝詞に対する御礼(裏 英文)五月二十九日付書翰返
答遅れ申訳なし 写真同封の上送付
二一一四、 斎藤実
1 大正一四年八月一五日(Charles 宛草稿)(英文)最近の朝鮮における洪水に対する同情に感謝 年末に帰国残念 妻は母の
看病の為め在京 お目に掛かれぬこと懸念
二一一五、 斎藤実
1 大正九年(カ) 月 日 (Mrs. Condon 宛草稿)(英文)十二月六日付書翰への返信 先に送付したロシア戦艦写真の説明 私
の秘書官であった加藤は皇太子に随行し渡欧 ロンドンにて貴殿訪問の予定
二一一六、 斎藤実
1 年 月 日 (Dr. Daland 宛草稿)(英文)六月三日付首相就任祝詞御礼(裏 Mr. Miller 宛 英文)友情あふれる手紙御礼
二一一七、 斎藤実
1 大正元年一〇月一八日 (Fischer 宛草稿)(英文)海軍大将昇進祝詞への御礼
二一一八、 斎藤実
1 昭和七年 月 日 (Fleisher 宛草稿)(英文)五月二十四日付首相就任祝詞への御礼(裏 英文)横浜にて面会希望
二一一九、 斎藤実
1 昭和一一年 月 日 (Sir. John 宛草稿)(英文)ジョージ五世逝去への弔詞
二一二〇、 斎藤実
1 昭和 年 月 日 (Dr. Newell 宛草稿)(一九二七年辞任挨拶状の裏面に書込)(英文)首相就任祝詞に対する御礼議会の為め
返事遅くなり御詫 国際平和を祈る私の気持を理解願いたし
二一二一、 斎藤実
1 昭和七年 月 日 (Dr. Rae 宛草稿)(英文)五月二十四日付首相就任祝詞に対する御礼(裏 英文)朝鮮における友人の理解
や協力に感謝
二一二二、 斎藤実
1 年 月 日 (Miss. Sawyer 宛草稿)(英文)手紙及び新聞切抜の御礼(裏 Dr. Palmer 宛 英文)六月三日付朝鮮での面談礼状
に対する返書
二一二三、 斎藤実
1 年 月 日 (貴大臣宛草稿)給与法改正七月一日より実行 合衆国海軍主計総監ゼームスフルトン氏に照会の末書類申受け候間
供高覧候 (裏 英文)帰国歓迎 後任者を待つ間七月一日から十五日の間に訪問希望
二一二四、 斎藤実
1 年三月一日 (蔵相宛草稿)天図鉄道工事中の処資金欠乏 東洋拓殖会社を経て低利資金融通を願出 特別の御詮議願上
二一二五、 斎藤実
1 年 月 日 (忠南北道知事宛電報草稿)三日貴地着 官民諸君に御挨拶出来る様御計ひを請ふ 今夜夜行にて大邸に向ふ 絶対に
見送り等なき様御配慮願ふ
二一二六、 斎藤実
1 年 月 日 (Admiral 宛草稿)(英文)松村艦長を通して頂いた写真への御礼 松村・安保艦長と共に夕食
二人とももう少し演習を希望
二一二七、 斎藤実
1 明治二六年九月五日 (宛先不明草稿)(斎藤孝至・島村速雄と連名)今般回航予定地なる択捉島には報効義会員及其家族
の多数当冬越年の見込 義指金を取纏め物品積載致したく及協議候
2 明治三八年 月 日 (宛先不明草稿)来る拾四日尊宅に御招待のところ軍艦安芸進水式に出張の為め罷出兼候
3 明治四五年三月四日 (宛先不明草稿)老母重患に際し見舞を辱し難有其後経過も良好 不取敢御挨拶
4 明治 年 月 日 (宛先不明草稿)先般日本郵船会社創立に付き農商務卿命令書第拾五条に政府は海軍卒業生を其会社の船舶に
乗組み其業を取らしむことあるべしとあり 此くの如き甚だ不可削除冀望
5 大正九年六月二二日 (宛先不明草稿)水野氏の件に付き今回日高氏に面会 同氏上京の際御話御交換依頼
6 大正一〇年一月二七日 (宛先不明草稿)総領事人選首相外相に篠田知事適任と申し置きたり 本府より領事推薦の件は固執
する限りにあらすと雖も現状の侭にて単に警察官増加で事足れりと為すは間島の平和を維持する所以にあらす
7 大正一三年二月一二日 (宛先不明草稿)(英文)昨年八月十九日付書翰中の御提案当地商業会は評価致さず Takeda 氏訪
米に付き報知
8 大正一三年三月二八日 (宛先不明草稿)国境警備に関して丸山警務局長を御地へ差出し御教示を受け候上出張
9 大正一三年 月 日 (宛先不明草稿)殖民地補給金是非共前年度通に願上たし 補給金は朝鮮人一般に対する鎮撫剤大なる効力
を有す
10 大正 年 月 日 (覚書)帝国政府は東洋平和を維持する為め満蒙に対する意見を内外に宣明せられたきこと 理由奉直戦を戒
め他日万一の場合に対する保障たらしむ
11 大正 年 月 日 (宛先不明草稿)朝鮮に於て来年度に咸鏡線の或部分を進工せしめたく御立替を得候金員は十四年度の予算
を得て償還十三年度は其の利子払込程度に於て御承認下されたし(末尾欠)
12 大正 年 月 日 (宛先不明草稿)宋秉〓御懇情の旨を体し好意を以て動くへき模様にて旧一進会等に対する杉山・内田等の
計画より脱し居候 十年度予算本府に於て成案を得す 警察費及教育衛生等地方費も民力貧弱の為め悉く国庫支弁を仰くことが
予算膨脹の主因
13 大正 年 月 日 (宛先不明草稿)李王世子御結婚時機問題ば閔尹辞職当時よりの問題 李王に於て動かさる決心断然延期其後
既電の如し(後半欠)
14 大正 年 月 日 (宛先不明草稿)先般主人事朝鮮総督拝命の際は御祝の御言葉下し賜り感謝 実よりも御礼
15 昭和二(カ)年 月 日 (覚書)現職の如き位置にあり海外隔離の地に赴くへきものにあらすと信す 故に後任者を得されば
不可なり
16 昭和四年四月 日 (宛先不明草稿)老生退官に際し記念品等御寄贈感謝 一度渡鮮親しく御礼申述べたく存候得共故障相生
じ延期
17 昭和四年五月 日 (宛先不明草稿)老生退官に際し記念品等御寄贈感謝 一度渡鮮親しく御礼申述べたく存候得共故障相生
じ延期
18 昭和五年 月 日 (宛先不明草稿)(新聞時報の裏面に書込)老生の嗣子斉ストックホルム出張の帰途御地に罷出候筈 別紙
為替の金員同人に御交附下されたし
19 昭和六年五月二六日 (宛先不明草稿)十三日卒倒致候節御尋を辱うし深謝 医療の結果軽快に赴き候
20 昭和八年五月一五日 (宛先不明草稿)東北学院創立四十七周年記念日に当り祝意を表し益々文化の向上に貢献せられんこ
とを祈る
21 昭和九年一〇月 日 (宛先不明草稿)仙水会々員より銀製花瓶贈呈難有 書中を以て謝意を表し奉りたし
22 昭和一一年 月 日 (宛先不明草稿)(英文)一月二日付 内大臣就任祝詞に対する御礼 ジョージ五世逝去を悼む 現在より
過去の方が幸福であったと述懐
23 昭和一一年(カ) 月 日 (宛名不明草稿)(英文)ジョージ国王に天皇より授与された勲章を身に付ける認可を受けたし
24 年二月二八日 (宛先不明草稿)戸塚診察 パイキ先生は非常に危篤なる趣を訴へたり如何なる内科の名医も致方なし此上
は健体を主として次の変換を待つのみなりしと云々 あゝ天我海軍に褐を与ふる何の因縁を以て然る哉
25 年三月四日 (宛名不明草稿)(春子と連名)来る十三日拙宅にて廉餐差上たく御案内
26 年 月 日 (覚書)明五日各艦陸戦隊員予定
27 年 月 日 (宛先不明草稿)(英文)R.U.S. Institution 二七巻七〇号送付願上(裏 英文)先日購入の鍵開かず交換願う
28 年 月 日 (宛先不明草稿)松田茂製図修業心願の儀承知 知人ボールスに依頼も乍遺憾不調 クランプ造船所の知人等に相談
相試み可申
29 年 月 日 (宛先不明草稿)神宮司一行過日和盛頓へ御出張の義に付き不都合有之候趣委細御通知下されたし神宮司日本よ
り持参候物品小生御預り仕候処可成早く御届け申上たく存候
30 年 月 日 (宛先不明草稿)政府及中央銀行等の援助を得て貴下が管理せらる銀行の整理案成立 政府側に於て貴下をして尚
銀行に関係せしむるの意向あるならば当初の目的を貫徹すべし
31 年 月 日 (宛先不明草稿)朝鮮慶州の古跡保存に付き朴慶州郡守及諸賀央雄の両氏を派出 御援助下されたし
32 年 月 日 (宛先不明草稿)今般朝鮮新聞社経営を株式組織に改め内鮮人別なく政党政派の別なく開放の趣何卒牧山氏の衷
情を御諒察され御賛助下されたし
33 年 月 日 (宛先不明草稿)沈友燮一昨年より朝鮮辞書を編纂近頃進捗 御都合の節に御引見御引立願
34 年 月 日 (宛先不明草稿)神田正雄・清水留三郎講演是非実行せしめたく希望す
35 年 月 日 (宛先不明電報草稿)道路敷地拡張の儀に付き市役所出頭すべき通知あり 間に合はぬ配慮を乞ふ
36 年 月 日 (宛先不明草稿)新羅旧蹟慶州発堀物等並古社旧跡保存に付き朴慶州郡守及諸鹿央雄氏御地へ罷出候由御配慮願
37 年 月 日 (宛先不明草稿)貴著朝鮮雑記拝読 東上の為め所感申上候暇無之
38 年 月 日 (宛先不明草稿)宮本へ注文したもの列車便にて寺垣中佐迄送られたし
39 年 月 日 (宛先不明草稿)(電報用紙裏面に書込)二十四日帰る予定官民諸君に会見配慮乞う
40 年 月 日 (宛先不明草稿)(電報用紙裏面に書込)十三日官民知人にあいさつしたし配慮乞う
41 年 月 日 (宛先不明草稿) 吉会鉄道問題に関し関係各省次官局長等会同に付き朝鮮総督府政務総監又は鉄道局長を参加せ
しめられ候様御配慮願
42 年 月 日 (宛先不明草稿)本府御在職中は一方ならず御援助を蒙り感謝 土産の器局一箇進呈
43 年 月 日 (宛先不明草稿)北海道の田村顕允氏来訪 家政整理に付き何とか情実御汲取御所理の道無之ものに候哉
44 年 月 日 (宛先不明草稿)新朝鮮内容目次拝見順序論法誠に結構 朝鮮の実状を紹介する無上の好資料たるべし
45 年 月 日 (宛先不明草稿)志賀院長より服部博士の辞意の原因を伝承 夫人及女婿の意見にあるものの如し
46 年 月 日 (宛先不明草稿)小生帰省に付き歓迎準備の報に接し恐懼 展墓を企てたる迄にて歓迎のことは御断り致す
47 年 月 日 (宛先不明草稿)(漢文)ー氏の事総督府総務課長中村寅之助に告げ松村氏の事情を嘱す 先生入京の機あらば中
村氏との会見を望む
48 年 月 日 (宛先不明草稿)季範圭氏著作言辞四書は純諺文を以て通俗的に解説 質実剛健の気風養生の為め適切なる企て各
方面に斡旋普及取計下されたし
49 年 月 日 (覚書)別紙の件は処分調査済 年伐量二六〇〇本余七三〇四尺 左の三件に限り随意契約に依ることを得
50 年 月 日 (宛先不明草稿)馬場進美氏済州島の貝砂が肥料として有益に付き広く搬出したく申出 斯道の権威たる老台の指
導及援助を仰ぎたく御引見御聴取下されたし(後半欠)
51 年 月 日 (宛先不明草稿)語源研究家星健之介氏多年専心研究に従事 懇意の有力者に御紹介下されたし
52 年 月 日 (宛先不明草稿)細井氏等出願の木浦埋立に関し鉄道局及内務局にて研究 線路用地及税関用敷地提供の条件を附
し許可 極秘裡に計画成立必要
53 年 月 日 (宛先不明草稿ヵ)英国艦隊長崎碇泊中ラムトン中将見物旅行希望 長崎の鉄道院官員・官衙へ訓令を煩はしたし
54 年 月 日 (宛先不明草稿)本日追悼会参列不可 精霊に対し敬吊 香料弐拾円電送
55 年 月 日 (宛先不明草稿)協議会に於て老生・菅原氏辞任申出も奥様及田村様考直しを願ふとの仰せ次回上京迄辞表は家
令保管
56 年 月 日 (宛先不明草稿)荷物積込に付き周旋致居候西沢半三郎から小生より御尋致呉候様依頼 書面を以て得貴意候
57 年 月 日 (宛先不明草稿)(英文)小生退任に対し懇切な見舞に接し御礼
二一二八、 斎藤春子
1 昭和二年七月一四日 (Caroline Bridgeman 宛草稿)(英文)御品恵送御礼(付)Caroline Bridgeman 書翰写ヵ 昭和二年
七月一四日付 (英文)御品恵贈
二一二九、 斎藤春子
1 年 月 日 (Mrs. Frampton 宛草稿)(英文)御品恵贈御礼
二一三〇、 斎藤春子
1 年 月 日 (E. Simpson 宛草稿)(英文)貴殿のメモ受取 U.S.S. 巡洋艦ボストンへのローチ氏の招待受諾 (付1)新聞切抜二
点 大統領がHendricks Mountain Fund に寄附 Telegram From J.G. Blaine 招待謝絶の通知(裏 英文)U.S. Naval Instituto 賛
助会員に推挙御礼
二一三一、 斎藤実
1 大正三年一一月五日 (斎藤斉宛)代数及幾何の得点宜しからす 今後は大に勉励努力して良成績を上ることを祈り申候
2 大正四年一二月三一日 (斎藤斉宛)仁礼家より御歳暮帰宅迄預り置候 成績表到達に付き茲に封入 (付)斎藤斉暁星中学校
成績表二枚
3 大正八年五月二日 (斎藤斉宛)豊川隆氏病死通知到来に付き転送 明日直ちに会葬可然 (付)豊川篤太郎・藤川欽哉書翰 大
正八年五月一日付 弟隆儀死去
4 大正八年九月七日 (斎藤斉宛)本月二日不慮の災難我等は無事なりしも多数負傷誠に気の毒 着後は用事多端来訪者頻繁筆
を執る隙もなし
5 大正八年九月一三日 (斎藤斉宛)第一生命保険会社仏込期日につき別紙小切手御渡下されたし 其他諸勘定通知あり次第御
転送下されたし
6 大正八年一一月三〇日 (斎藤斉宛)来月休暇になり次第来遊希望 邦様も除隊になれば御来遊の希望 除隊になりしや報知を
待居候
7 大正九年六月五日 (斎藤斉宛)眼鏡は田辺氏持行たる由御配慮要せす 大学入学の模様如何報知ありたし徴兵猶予の許可状
到達茲に封入
8 大正九(カ)年九月一七日 (斎藤斉宛) 一昨日東京暴風雨との報あり家屋の損害有之候はゝ修理取計はれたし修学の方針
は変りなきことに存候が如何
9 大正一〇年六月一六日 (斎藤斉宛)斎藤操氏宛封書壱同人参り候はゝ御渡し下されたし
10 大正一〇(カ)年一〇月一七日 (斎藤斉宛)病気も殆んと全治 明日より出勤可致考 病気は金剛山に向け出発の前より兆
し居たるやとも推定 リウマチスは慚く昨今痛を感せさるに至れり
11 大正一一年一月一日 (斎藤斉宛)新年御慶目出たく申納候 封中の葉書藤原氏より到来に付き茲に封入
12 大正 年一月七日 (斎藤斉宛)滞在中は何の構も致さず遺憾 御近親に宜布御伝言下されたし 田代よりの書面転送
13 昭和二年五月七日 (斎藤斉宛)四日午後西貢河口に着 九日早朝新嘉坡に向ふ予定
14 昭和二年五月九日 (斎藤斉・静子宛)(英文)サイゴンへ五日碇泊の為めNhatrang へ旅行
15 昭和二年五月一九日 (斎藤斉・静子宛)本日午后四時入港上陸 明朝コロムボに帰り出帆の予定
16 昭和二年五月三〇日 (斎藤斉・静子宛)二十日コロンボ発廿八日より紅海に入り良き航海を続け居候 我等一行幸に無事
17 昭和二年六月八日 (斎藤斉宛)書類等入れたる函一箇送付保管置相成たし
18 昭和二年六月一二日 (斎藤斉・静子宛)九日巴里着 丸山夫人御依托の手紙接手 御申越の書籍は早速購入
19 昭和二年六月一八日 (斎藤斉・静子宛)(英文)昨朝当地着 海軍軍縮会議は二十日朝より開始意見交換まではその成否
はわからず 御所望の本購入
20 昭和二年六月二五日 (斎藤斉・静子宛)六日の郵便接手静さま御快方と承り安心 会議の模様未た見当附兼候 近藤廉之助
君写真御伸致置候 (別啓)計算書に何の支払や当方に心当りなきものあり
21 昭和二年七月一日 (斎藤斉宛)買物御申越の郵便今日に至るも到達せず何れにか紛失と存候間御一報下されたし
22 昭和二年七月二一日 (斎藤斉宛)(春子・各務良幸・朴錫胤・日向紀三と連名)御健康を祈る
23 昭和二年七月二五日 (斎藤斉・静子宛)会議の前途見込不相立 万一不結果に了り候場合には急に帰途に就き候やも難計
其場合英国にて可調達品物等取纏候こと不可能に相成候やも難期
24 昭和二年八月七日 (斎藤斉・静子宛)(春子と連名)明晩巴里着夫より英国に赴く予定
25 昭和二年八月八日 (斎藤斉・静子宛)会議休止に付き六日ジュネヴ発本日巴里着 明日倫敦に渡り二三日滞在ネープルよ
り帰朝の予定
26 昭和二年八月一七日 (斎藤斉・静子宛)フロレンス及羅馬を経てナポリに至り廿二日函根丸に乗込帰朝 皆様に宜布
27 昭和二年八月二一日 (斎藤斉・静子宛)昨夜ナポリに着明朝箱根丸に乗込候積り 箱根丸には多数日本人乗客有之趣
28 昭和三(カ)年六月三日 (斎藤斉宛)明後日自働車を御廻し置き下されたし
29 八年八月八日 (斎藤斉宛)一昨日葉書到達安心 二ノ宮に行き静養とのこと至極適当
30 年四月三日 (斎藤斉宛)学校の方は手続済に候や承りたし 伊東・豊川御婚儀何れよりも通信無之 御夫婦は旅行にても成
され候やと噂
31 年七月九日 (斎藤斉宛)大学の方も決定の由安心 東京の模様も承りたく候間可成速に来城相成候様致したく旅費封入
32 年七月九日 (斎藤斉宛)貴翰接手御快方の段大慶の至 軽井沢行決定の趣静養に適当と存候
33 年八月一八日 (斎藤斉宛)ジャパンタイムズの事何の為め相続税法の適用を受くべきものなるや 芝染太郎氏に問合せた
る上にあらされば事情不明も帰京の上関係を断つ様致したし
34 年一一月一〇日 (斎藤斉宛)廿二日小山の御祖父上様の二十年祭につき客間及食堂等御使用相成候様なさるべし廿三日寺
垣家御婚礼披露あり御出席なさるべく候
二一三二、 斎藤実
1 年一月六日 (斎藤静子宛)恩給受取方は宮崎又は国府田両人の内に御申付下されたく別紙受領証同封
2 年一月二二日 (斎藤静子宛)正子さま其後御経過如何 斉も忙しがりし由閑になったら手紙を書く様御勧め下されたし 久留
米よりの酒樽の中三分の一以上減少
3 年一月三〇日 (斎藤静子宛)斉風気の趣速に快気を祈り申候 久留米の清酒誠に結構 ひげは大分のび申候
二一三三、 斎藤春子
1 明治三一年五月一〇日 (斎藤実宛)御本艦も無事に最早マニラへ御着のことと御察申上 何卒御身御大切に御用心祈上
2 明治三一年五月一六日 (斎藤実宛)暑さにて御困難の事と御察申上宮崎の叔父も昨日上京致し皆安心
3 明治三一年五月二二日 (斎藤実宛)御まへ様の御武運御強きこと御祝ひ申上 此頃毎朝新聞紙を待ち御本艦の香港入港を待
上
4 明治三一年五月三〇日 (斎藤実宛)廿四日香港へ御安着のこと誠に嬉しく御自愛祈上 一昨日運動会御母上様と母と私と
三人で見学
5 明治三一年六月二一日 (斎藤実宛)今朝新聞紙にて御本艦十九日香港へ御安着とのこと又々暑く御難儀の事と御察申上
6 明治三一年八月二三日 (斎藤実宛)新聞紙上にて暴風の由に付き御本艦如何の事やと察し遣り居候処御安心
二一三四、 斎藤春子
1 昭和二年五月一一日 (斎藤斉・静子宛)明朝九時新嘉坡上陸の予定
2 昭和二年五月一三日 (斎藤斉・静子宛)新嘉坡に入港 十時出帆いたす事ゆへ八時頃より上陸学校なと参観し帰船
3 昭和二年五月一九日 (斎藤斉・静子宛)インド洋に入りて波高くかなりゆれ申候 今日コロンボに入港の予定
4 昭和二年五月二八日 (斎藤斉・静子宛)昨日は日本海々戦紀念日 船内にて運動会角力なと御座候 来月二日にはスエズに着
伊太利に着るも最早や二週間の後
5 昭和二年五月 日 (斎藤斉宛)御父上様は元気 幸に一度も雨もなく誠に静な航海
6 昭和二年六月八日 (斎藤斉・静子宛)今朝予定の通りセノア安着 今夜九時発明日午後三時巴里着の予定
7 昭和二年六月一五日 (斎藤斉・静子宛)丸山御奥様手紙持参嬉しく拝見 九日巴里安着ベルサイユ宮殿オペラを見物明朝当
地出立ゼネブへまゐる予定
8 昭和二年六月二四日 (斎藤斉・静子宛)静子さま御病気全快何より 御父様二十日の会議の初会の日に演説私も参観御茶や
午餐晩餐で多忙
9 昭和二年七月九日 (斎藤斉・静子宛)御父様御変りもなく丈夫 御産の支度青山の御母上様に御相談十分になさいませ 李王
殿下巴里に安着 (付)仕掛葉書二枚
10 昭和二年七月二三日 (斎藤斉・静子宛)御父様も一時過きまて皆様御相談にて御心労に入られ一昨夜より少々御なかが御
いたみになりました 李王殿下当地に御出になりました 二日の朝帰る予定
11 昭和二年七月二九日 (斎藤斉・静子宛)有馬様の指輪もおもとめました 二日の朝ジュネーブに着の予定
12 昭和二年八月五日 (斎藤斉・静子宛)英の全権は今朝から御出になり米国は昨夜御出 私共は明朝出立巴里倫敦伊太利を
見物箱根丸に乗船帰国 御父上様の御心労誠に気の毒
13 昭和二年八月一二日 (斎藤斉・静子宛)明日午前十一時発伊太利に両三日滞在 二十二日出帆の箱根丸にて帰る予定
14 昭和二年八月一七日 (斎藤斉・静子宛)九月の末には御目に懸る事楽しみにいたして居ります 有馬様豊川様によろしく
申上げ下されたく御願
15 昭和二年八月二一日(斎藤斉・静子宛)今朝ボンヘイを見物 明日はいよいよナポリ 外国よりの手紙は此か終り
16 昭和二年八月二二日 (斎藤斉・静子宛)いよいよ今日午後五時出帆の箱根丸に乗込
17 年 月 日 (斎藤斉・静子宛)(封筒表に書込)別紙はかきに島村様の御住所を書入御出し下されたし
二一三五、 斎藤春子
1 昭和二年 月 日 (斎藤静子宛)神戸出港後日々天気はよろしく海上は誠に静か 出立前は御手伝下さいまして御つかれなきや
と心配 (付)写真ネガ
2 昭和五年二月四日 (斎藤静子宛)御父上様御元気にあらせられ十二日にも出発の予定
3 年二月一六日 (斎藤静子宛)昨朝はありがとうこざいました 小松様御迎ひにておまに合ひました
4 昭和二年七月一三日 (斎藤静子宛)有馬様より御注文の指輪の大きさ形如何問合
5 昭和二年六月八日 (斎藤静子・斉宛)今朝セノアに無事安着 汽車にて明日午後三時頃巴里着予定
二一三六、 斎藤斉
1 昭和九年八月二八日 (斎藤実宛)朝鮮総督府逓信局「昭和八年度中朝鮮簡易生命保険事業状況」 (付)『東京朝日新聞』
切抜 昭和九年八月二五日付「(社説)国営団保案反対を排す」
二一三七、 青木
1 年五月一二日 御繁多中種々御世話に相成奉謝 小生も明日英国へ向け出発
二一三八、 阿部充家
1 年 月 日 近々満洲西比利亜方面の領事御招集両方面に於ける鮮人問題に関する打合ありとの由(後半欠)
二一三九、 粟野伝之丞
1 年三月一五日 過三月一日の私立学校生徒の万歳騒に付き拙者の監理派学校は無事 各私立学校連合の万歳騒の企図は長老派
を主体となすも一般府民は之を冷視 官立の高等普通学校の同盟休学は試験回避の為との由にて厳重なる処分をなすとの事 鮮
人不正あるときは厳罰を科し反省を促す事最も必要
二一四〇、 大槻直信
1 年三月一日 (前半欠)弐割引と申上候は壱割減の誤り
二一四一、 柿原琢郎
1 大正 年一〇月一七日 出獄の件御指図通り明日正午に取扱ひ申すべし
2 大正 年一〇月一七日 崔南善仮出獄の件は予て御内顧を承り既に一切準備 明十八日正午出獄の手続にて如何時間は御指図に
より如何様に取極候ても宜敷
二一四二、 角谷源之助
1 昭和六年一二月一〇日 「報徳会参拾年史」中の「私の眼に映じたる花田先生」への御寄稿依頼
二一四三、 木村矩晟
1 昭和七年九月一一日 去る一日本新被服廠跡震災紀念堂境内に於て玄米食及玄米コーヒー無料接待施行
二一四四、 佐藤和七郎
1 昭和九年九月 日 神武大帝御東遷二千六百年の大祭奉賛の全国書道大会出品の御願
二一四五、 沢鑑之丞
1 年九月一一日 (前半欠)別紙御覧後返却依頼
2 年九月二五日 (前半欠)一日も早く御沙汰下さるべく御配慮依頼
二一四六、 志賀中佐
1 明治三一年一〇月二四日 昨夜大酔の折柄貴官の給仕に命し煙草頂戴 拝顔の節御詫
二一四七、 柴四朗
1 年一一月一八日 小生近日中に帰朝 昨日Barker 氏に面会
二一四八、 渋沢栄一
1 昭和五年五月一一日 (瓜生喜三郎と連名)修養団全国団員大会の通知(付)寄附振込状
二一四九、 神宮司
1 年七月一一日 無事当府着 明日訪問致したく在宅依頼
二一五〇、 薄益三
1 昭和五年五月一日 伊達順之助君の裁判に付き本日大連地方法院にて過失致死罰金五百円の判決 同君此の機会に真面目に満
蒙問題解決に向ってその一生を捧ぐべく大決心の由
2 昭和五年五月七日 伊達順之助君の事に関し検事は旅順覆審部に控訴 伊達君に殺意無き事は明諒故覆審部にても前審通り再
決と確信
二一五一、 曽祢荒助
1 明治 年三月四日 捕獲船処分の節は御払下の事荒井政太郎氏より昨秋願出 未た御着手相成下候間布候得共御決行の時日決定
相成候時は預報下されたし
2 明治 年一一月一八日 当国平壌無煙炭鉱近々拡張工事施行 就ては貴部下武田秀雄を現職の侭招聘し同所の施設経営上の事を
嘱托致したし
二一五二、 田中耕太郎
1 年一一月七日 今朝東京駅参集の節吉田大佐の依頼により米国海洋高等武官名簿を閣下へ供覧 Register の方は御用済御返し
下されたくList の方は久しく御手許に留め下さりて差支なし
二一五三、 徳富猪一郎
1 明治 年 月二九日 国民新聞主幹阿部充家氏推参に付き接見願
二一五四、 Baba
1 明治二一年七月二三日 (英文電報)日本代表団正午にニューヨークからワシントンへ出発
二一五五、 松本為之助
1 年 月 日 (英文)関係文書書翰綴(一冊)明治一五年ー三五年
二一五六、 Matsuda, Shigeru
1 明治二一年七月二七日 (英文)一昨日フィラデルフィア到着 ニューヨークより道具受け取り次第仕事を開始(付1)斎藤
実書翰草稿 Kenny W. Cramp 宛 明治二一年七月七日付ヵ (英文)機械設計の職斡旋依頼 (付2)Kenny W. Cramp 書翰斎藤
実宛 明治二一年七月一三日付 (英文)職斡旋の件了解 (付3)斎藤実書翰草稿 Kenny W. Cramp 宛 明治二一年七月一五日付
(英文)職斡旋への御礼
二一五七、 金潤昌
1 昭和四年 月 日 (漢文)祝詞補遺 I
二一五八、 海軍時代ー日清戦争ー日清戦争期一般
1 廿七年九月連合艦隊慰問使に関する覚書 伊東連合艦隊司令長官・坪井少将・相浦少将宛 墨書 一枚慰問として酒并に莨下賜
二一五九、 海軍時代ー海軍大臣ー大正期海軍
1 巡洋艦天竜命名式関係書類(1) 横鎮第三二七号の一二 巡洋艦天竜命名式当日心得 横須賀鎮守府 大正七年二月二十二日 活
版 五枚(2) 横須賀鎮守府日令第五四号 名和又八郎 大正七年三月六日 活版 五枚閑院宮載仁親王差遣 当日の次第左の通り定
む
二一六〇、 海軍時代ー海軍一般ーその他
1 軍艦要目表 活版 九枚
二一六一、 海軍時代ー海軍時代資料ー団体
1 芝区兵事義会規則 明治三〇年活版 一枚
二一六二、 朝鮮総督時代ー朝鮮総督ー総督訓示・演説
1 某国殿下歓迎の辞草稿(英文) タイプ 二枚
二一六三、 朝鮮総督時代ー朝鮮産業経済ー産業一般・商業
1 金鉱に関し松永氏覚書 墨書 五枚
二一六四、 朝鮮総督時代ー朝鮮産業経済ー金融
1 朝鮮簡易生命保険事業概況(昭和六年自一月至三月)朝鮮総督府逓信局 活版 一枚
二一六五、 朝鮮総督時代ー朝鮮産業経済ー交通
1 琿春訓戎間軽鉄敷設に関する件(1) 朝保秘第一〇五号 璋春訓戎間軽鉄敷設に石本男の投資に関する件 警務局 拓務省朝鮮
部長宛 昭和六年二月十二日タイプ 二枚(2)朝保秘第一〇七号 琿春訓戎間軽鉄敷設に石本男の投資に関する件追報 警務局 拓
務省朝鮮部長宛 昭和六年二月十三日 タイプ 二枚
二一六六、 朝鮮総督時代ー朝鮮・統治一般ー意見書類
1 建議書 李光洙ヵ 在外朝鮮人に対する緊急の策として左の一件を建議 ペン 原稿用紙 一四枚 (付)修養同盟会規約ペン 原稿
用紙 一二枚
二一六七、 朝鮮総督時代ー朝鮮・統治一般ー朝鮮人履歴・調査書
1 金成燮に関する調査 京城帝大医学部罫紙 一枚 (付1)志賀潔名刺一枚 御見送欠礼 (付2)メモ一枚 田村育英社理事氏名
二一六八、 朝鮮総督時代ー朝鮮・統治一般ー史跡・名所
1 江西古墳小墓壁画実大模写略解 謄写 一綴
二一六九、 伝記資料ーその他
1 斎藤実名刺 活版 一枚
二一七〇、 その他ー新聞記事
1 「在米日本人協議会の上申」 明治三十三年六月ヵ切抜 活版 一枚
2 「斎藤総督の諭告発せらる」『京城日報』 昭和四年九月七日付切抜 活版 一枚
3 「馬の字の変遷」 昭和五年一月五日付切抜 活版 一枚
二一七一、 その他ー雑資料
1 Edwin B. Webster 肖像写真 一葉
2 牧山忠平関係資料 写真影印 一枚
3 昭和四年秋季皇霊祭関係文書 金楽〓 墨書 一枚
4 朝鮮神宮等印判三点 二枚
5 民衆新聞社三月決算報告書 昭和五年三月三十一日 ペン 二枚
6 領収証三七点
二一七二、 その他ーメモ等
1 英文来翰写ヵ七点 鉛筆 二枚Noel 書翰(明治四〇年五月五日付)・Wovglas 書翰(明治四〇年五月二三日付)・Kenny 書
翰(明治四〇年六月六日付)・Roberts 書翰(明治四〇年六月六日付)・Wovglass 書翰(明治四〇年六月五日付)・
Seywour 書翰(六月六日付)・Fisher 書翰(明治四〇年六月八日付)・Lansdown 書翰およびWoodford 書翰(明治四〇年
六月二三日付)
2 電信写二点(英文)ペン 一枚皇后陛下よりの電信・首相Bannerman よりの電信
3 斎藤実書翰草稿ヵ(英文)(侍従封筒裏に書込) Vickers 宛 鉛筆
4 斎藤実覚書(鏑木秀胤封筒に書込) 墨書東京にある証書を返附すること
5 陸揚事業中止及開始の相図に関するメモ 鉛筆 海軍罫紙 一枚
6 大臣旅行予定 大正二年五月ヵ カーボン写 海軍罫紙 一枚
7 賀陽宮殿下御試食願ひたるものメモ ペン 朝鮮総督府罫紙 一枚熱目魚(ヨルモギ)鴨緑江上流に棲息する鮭鱒科の一種にし
て鮮内に増殖を図らんが為め調査中
8 社会局書記官庶務課長成田一郎名刺 活版 一枚
二一七三、 その他ー漢詩
1 舞鶴海軍記念館落成に寄せた漢詩(裏 斎藤実覚書 舞鶴海軍記念館五年一一月二二日送附)
2 李泰浩漢詩 墨書 一枚 偶吟・観博覧会
3 虞世子(李泰浩)漢詩 墨書 絹地 一枚 誕慶歌
4 漢詩 カーボン写 坡州郡罫紙 一枚 光石亭八景
5 松田嘱託ヵ漢詩 墨書 一枚 広寒楼題詩
6 漢詩 墨書 一枚 天皇陛下御題 海辺巌
7 穆堂漢詩ヵ 墨書 一枚
二一七四、 その他ー詩歌等短冊
1 俳句 墨書 短冊 一枚
2 俳句 墨書 短冊 一枚
3 祝御前途返歌 墨書 短冊 一枚
4 聖寿無窮万歳万々歳 墨書 短冊 一枚補遺 II
二一七五、 英文日記 明治三一年一月一日ー一一月一九日 鉛筆 ノート 一冊
二一七六、 米国駐在当時報告書控 明治一九ー二〇年 ペン・鉛筆 ノート 一冊
二一七七、 西郷海軍大臣随行雑誌(英国の部) 明治二〇年八月五日報告 一綴
二一七八、 English Phrases Second Book ペン・鉛筆 ノート 一冊
二一七九、 Manual of Gunnery Book I ペン・鉛筆ノート 一冊
二一八〇、 家譜概略(斎藤家系譜、出生ー朝鮮赴任) ペン 一冊
二一八一、 第二次桂内閣施政方針演説稿 墨書 一巻
二一八二、 選挙粛正中央連盟における演説稿ヵ 墨書 一巻
二一八三、 処世観の一部他 墨書 一巻
二一八四、 演説草稿ヵ(我国の尊崇すべき国体) 明治三一年 墨書 一巻
二一八五、 独大使との懇談内容摘要 墨書 一巻
二一八六、 斎藤実書翰(委細珍田次官に伝達) 山本権兵衛宛 明治三七年一二月三一日 墨書 一巻
二一八七、 自歴譜断簡(町道場同居ー乾行艦乗組) 墨書 一巻
二一八八、 海軍大学校傭英人教師パチソン叙勲・釜山馬山間馬車鉄道敷設案など三件覚書 墨書 一巻
二一八九、 戊申詔書成立経緯回顧覚書 大正一四年ヵ 墨書 一巻
二一九〇、 朝鮮総督就任前後日記(大正八年八月二八日ー九月一三日) 墨書 一巻
二一九一、 学舎の壁の書付別写(君子の心得など) 墨書 一巻
二一九二、 清国海軍兵学校設立に関する覚書 墨書 一巻
二一九三、 欧州大戦と海軍補充問題覚書 墨書 一巻
二一九四、 井上元帥談片(明治八年雲揚当時の談) 墨書 一巻
二一九五、 総括的仲裁条約に関するメモ 墨書 一巻
二一九六、 日露戦後海軍軍備拡充経過覚書 墨書 一巻
二一九七、 海軍建艦案 墨書 一巻
二一九八、 感状 斎藤富五郎宛 明治三年一〇月一二日 一巻
二一九九、 表忠塔模型送附状草稿 明治四五年七月七日 墨書 一巻
二二〇〇、 敏之書翰 川上中将宛(写真影印) 八月八日・三月一五日 墨書 同文二巻
二二〇一、 祝事記録入(来翰・返納金等書類・婚礼関係覚書など三一点)一袋
二二〇二、 海軍兵学校卒業生名簿 複製 一綴
二二〇三、 チリ海軍クラブ名誉会員証 一九一三年三月一八日 一枚 (付)訳文
二二〇四、 退官に際して斎藤実 昭和二年一二月一〇日 活版 一冊
二二〇五、 本会設立の趣旨と事業 故斎藤子爵記念事業会 活版 一冊 (付)設立趣意書草稿
二二〇六、 昭和維新の根本的国策樹立と斎藤挙国内閣の重大使命 此経馨園述 拓殖公論社 昭和八年三月 活版 一冊